「横綱は神様だ」という言葉をよく耳にする。自身を律する意味で自らそう発言した横綱も過去にはいた。相撲は神事が起源であることや、真摯(しんし)に相撲道を追求し69連勝という金字塔を打ち立てた昭和戦前の大横綱双葉山が、今も理想の力士像と位置づけられていることなどがその根拠だと思われる。しかし、横綱といえども聖人君子でもなければ、何もかもが完璧であるわけではない。当の双葉山本人が「横綱とは他の力士より、ちょっと強いだけで偉くも何ともないんだ」という言葉を残したとも伝わる。

 角界に入門した新弟子はまず半年間、国技館内にある相撲教習所に通う。そこでは基本となる実技や教養を身につけるのだが、真っ先に教わるのが「相撲は礼に始まり、礼に終わる」という教えである。土俵に入るときは相手と向かい合って立礼を行い、勝負が決した後も互いに礼をして土俵を下りる。礼は相手や土俵に向けた敬意を表す。どんなに強くても相手がいなければ勝つこともできなければ、そもそも勝負は成り立たない。土俵があるからこそ、相撲が取れる。力士なら誰もが決して忘れてはならない心構えだ。そこを踏み外さなければ「品格」もおのずと備わってくるだろう。

 昨年末、横綱審議委員会の北村正任委員長が横綱白鵬の取り口について「張り手、かち上げは横綱相撲とは到底言えない。美しくない。見たくない」といった多数の投書が自身や委員会宛てに来たことを明かし、その取り口を痛烈に批判した。これに対し「張り手やかち上げもルールでは認められている」「だめなら禁止にすればいい」といった反論もテレビのワイドショーなどでは、少なからず沸き起こった。
相撲冬巡業・沖縄場所 横綱土俵入りを披露する白鵬 =2017年12月16日、沖縄・宜野湾市の沖縄コンベンションセンター(共同)1
相撲冬巡業・沖縄場所 横綱土俵入りを披露する白鵬 =2017年12月16日、沖縄・宜野湾市の沖縄コンベンションセンター(共同)1
 相撲を取材する立場から言わせてもらえれば、白鵬のかち上げは本来のそれとは似て非なるものである。現に大関髙安のかち上げは批判の対象にはなっていない。かち上げとは相手の胸から顎の下あたりを突き上げて上体を起こす攻め方を言う。相手の顔面を狙う白鵬のそれはプロレス技のエルボーに近く、過去には相手を失神させたり、眼窩(がんか)底骨折に追い込んだりしたこともあった。言うまでもなく、これは危険極まりない行為だ。

 そこに相手への敬意はあるのか。張り手、かち上げ(エルボー)を「封印」された白鵬だが適応力抜群の横綱のこと、試行錯誤を経て新たな立ち合いを編み出すことだろう。ただし、そこには「礼に始まり、礼に終わる」という相撲道の基本精神が宿ってなくてはならない。数々の大記録を更新できたのも、対戦相手がいたからこそなのだから。