80年当時のJOCは、体協の一組織という地位でありながら、国内唯一のオリンピック委員会として、日本代表の顔も持つアンビバレンツ(二律背反)な存在であった。体協は、当時会長だった河野謙三元参院議長が政治的パワーを駆使し、スポーツへの国庫補助金を増大させた実績を持つ組織だった。

 1979年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するという名目で、時のカーター米大統領がモスクワ五輪ボイコットを自由主義圏に要請した。日米同盟を重視する大平正芳内閣は、伊東正義官房長官を体協理事会に派遣し、JOCがモスクワ五輪の不参加を表明するよう圧力をかけたのである。このとき、志あるJOC役員らは強硬に参加を主張したが、「君たちはもう日本のスポーツ界に金はいらん、というのか」という河野会長の恫喝(どうかつ)にひるみ、結果として不参加を決めた。この問題はマスコミにも大きく取り上げられたが、時のJOC体制派は世論に耳を傾けることよりも、大平政権の意向に従うべく調整を図る方向に動いたのである。

 当時の若手理事の筆頭には、堤義明氏(コクド社長、アイスホッケー、スキー)や岡野俊一郎氏(サッカー)、古橋広之進氏(水泳)、笹原正三氏(レスリング)、松平康隆氏(バレー)、上田宗良氏(ホッケー)など、日本のスポーツ界を牽引した顔触れがそろっていた。むろん、彼らも五輪参加の志はあったが、体制派の前では本心を隠し、沈黙せざるを得なかった。
1980年5月、JOC臨時総会後、モスクワ五輪の不参加を発表する柴田勝治委員長(中央)。右は岡野俊一郎氏=東京・渋谷の岸記念体育館
1980年5月、JOC臨時総会後、モスクワ五輪の不参加を発表する柴田勝治委員長(中央)。右は岡野俊一郎氏=東京・渋谷の岸記念体育館
 つまり、89年に誕生した新生JOCは「スポーツの自律」を守るという、五輪精神を体現する意味もあったのである。これは貴乃花親方が日馬富士暴行事件以来、相撲協会という旧態依然の組織と対峙して改革を訴えたのと重なる。

 どういうわけか、スポーツ団体には必ず「派閥」が生まれる。それは、各スポーツで頂点を争った競技者たちが、そのスポーツとともに一生を遂げたいという心が遠因であるような気がしてならない。スポーツの世界では現役を引退すれば、それぞれ第二の人生を歩む。そして、ある程度の年齢になると、競技団体から役員就任の声が掛かり、自らが切磋琢磨(せっさたくま)したスポーツの振興に尽くそうとする。しかし多くの場合、役員は無報酬であり、いわば「手弁当」で団体運営を支える。濃淡はあれど、個々の思いで団体に関わり続けるのである。

 競技団体は、選手強化や競技普及という目的を実現する「機能集団」であると同時に、ボランティア精神が支える「共同体社会」にもなる。そして、人の好き嫌い、相性の良し悪しでグループができ、いつしか組織のトップに立つという野心が芽生える。すると、そのグループは次第に結束を強め、「派閥」を形成していくのである。

 スポーツ団体の役員改選は、2年に一度行われるのが通例である。むろん、どんな組織でも同じだが、その都度トップの座に誰が座るのか、役員同士の駆け引きが始まり、そこに派閥が絡んでいく。多くの場合、現体制を受け継ぐか、それに対抗する反体制派かで大きく分かれるが、仮に複数の派閥が絡んでいたとすれば、派閥同士の勢力バランスを意識しながら、役員改選が行われる。それはJOCも同じであり、過去には会長人事をめぐる「派閥抗争」が表面化したこともあった。