貴乃花親方が戦う「真の敵」をモンゴル人横綱は理解できまい

『野々村直通』

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野々村直通(開星高校前野球部監督、教育評論家)

 「我、いまだ木鶏たりえず」
 大横綱、双葉山が69連勝で敗れたときの言葉である。木鶏(もっけい)とは木彫りの鶏である。普段は落ち着きなく動き回る鶏が何があっても微動だにしない様(さま)を木彫りに例えたものである。これは人として悟りを開いた境地を言う。

 双葉山はこの敗戦を自らの未熟さとして、この言葉で自戒したのである。何と見事な振る舞いであろうか。強さだけではなく、この崇高な精神性が双葉山を神格化せしめるのである。

 同じく昭和の大横綱、大鵬は戸田に敗れ、連勝記録が途絶えた。しかし、この敗戦は実は「世紀の大誤審」と呼ばれる一番だったのだが、大鵬は「横綱が物言いのつくような相撲を取ったことが恥ずかしい」と自らを責めたのである。

土俵入りする横綱・大鵬幸喜=両国国技館
 この大誤審がきっかけとなり、後にビデオ判定が導入される。日本中が大鵬に同情し、悲運の横綱として社会現象を巻き起こす。凡人であればこの国民的熱狂に便乗し、「私は勝っていた。誤審がなければ連勝記録はまだ続いていた。私は犠牲になった」と声高に叫び続けたことだろう。大鵬もまた、高潔な精神を備えていたのである。

 相撲の取り口で理想とされるのは「後(ご)の先(せん)」と呼ばれる。相手より遅れて立って攻めさせる。しかし、その後の攻防で先に立つ。これが横綱相撲と呼ばれた。しっかり相手を受け止めてから自分のペースに持ち込む。決して立ち合いで逃げたり、先制攻撃をしたりはしない。それは弱者の戦法である。横綱相撲が取れなくなった横綱は引退する。ここに大相撲の横綱としての矜持(きょうじ)がある。

 そもそも大相撲は神事である。天皇の前で取り組む「天覧相撲」は最高の名誉である。その最高位に位置する横綱は「四手(しで)」を垂らした「注連縄(しめなわ)」を腰に巻く。神の化身である。どんな身分の者であろうと横綱になれば帯刀が許された。取り組む前には水で口を漱(すす)ぎ、塩を撒(ま)く。土俵を神聖な場所として清めるためである。農耕民族の命である土地の中の邪悪な悪霊を追い出すために「四股(しこ)」を踏む。すべて神事に則って行われる儀式的格闘技である。
 
 今、相撲はインターナショナルなものになりつつあるが、それはあくまでも「SUMO」であって大相撲とは似て非なるものである。SUMOはスポーツであるのに対し、大相撲は神事である。このことを強く認識し、本来の伝統を堅持しようと真剣に取り組んでいるのは、貴乃花親方の他にその存在を見いだすことはできない。その全身全霊を傾ける姿には感銘を受ける。

 彼は言う。
 「大相撲の紋章には桜があしらわれています。桜は日本人の心の象徴で『大和心』を意味しています。だから大和心の正直さ、謙虚さ、勇敢さでもって大相撲に命懸けで取り組まなければなりません」

 相撲道をとことん極めようとする彼の生き方は、厳しい修行に打ち込む求道者にも似たものがある。

 昨今の大相撲を取り巻く事件や醜聞が日本中を席巻している。マスコミはおもしろおかしく報道し、相撲協会と貴乃花親方との対立、不和を煽っている。しかし、私見ではあるが、これは貴乃花親方と相撲協会との確執ではなく、対白鵬に向けられた「追放儀式」と思えてならない。

 前段で述べてきた大相撲の神聖性や格式に於(お)いて、その欠片(かけら)も見られない白鵬の言動に業を煮やした貴乃花親方が仕掛けた大相撲維新であり、復古戦である。白鵬は日本の文化と伝統を内在する大相撲に於ける最高位たる横綱には不適格者である。遊牧民族のモンゴル人は「力こそ正義である」と信じて疑わない。厳しい大自然の中でそれと対峙(たいじ)し、闘い続ける力を持つ者が最も立派であり、尊敬される。最も評価されるのは「力」であり、年齢や階層には重きを置かない。

 白鵬は、横綱の品格とは何かと問われ、「勝つことが品格だ」と答えている。負けた一番について「小さな子どもでも分かる判定ミスだ」と嘘ぶく。直近の例では、敗れた直後の土俵で、実は「待った」だったと手を挙げて抗議し、土俵に上がろうとしなかった。千秋楽の優勝インタビューでは観衆に萬歳(ばんざい)三唱を強要する。このような下劣な言動は何なのか。まるで「傍若無人の独裁横綱」である。大相撲は日本国籍を有しないと親方にはなれない。しかし、彼はモンゴル籍のままで自分だけは親方になれる特例を求めていたという。やりたい放題である。

厳しい表情で年寄総会に臨む貴乃花親方 =2017年12月27日、東京・両国国技館
 これは妄想だが、モンゴル出身力士の中で唯一、思い通りにならない貴乃花部屋の貴ノ岩が日馬富士に殴られたのも、実は白鵬が黒幕だったのではないか。照ノ富士は致命的なケガを膝に負っているにもかかわらず、正座を強要されたという。あの鳥取の夜、貴ノ岩が殴られたのは、説教の度を超えた白鵬の命令を素直に受け入れなかったからではないか、とさえ思えてくる。繰り返すが、これはあくまで筆者の妄想である。

 大和民族は大自然と共生することを目的にそれを徳とし、この自然界のありとあらゆるものを神として崇(あが)め、拝み、その恵(めぐみ)に感謝し、貝塚を作り、その小さな生命(いのち)を頂いたことにも慰霊する。この気高き精神の輝きは、自然界を勝手に食い散らかしてきた他の民族には到底理解できないだろう。

 貴乃花親方が真に戦う相手は、相撲協会ではなく、その地位や名誉でもなく、ただ相撲道を汚す許し難い横綱に対してのものなのである。

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貴乃花親方を阻む不倶戴天の敵

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