ウーマン村本に知ってほしい「沖縄モヤモヤ史観」

『仲村覚』

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仲村覚(日本沖縄政策研究フォーラム理事長)

 お笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔氏が元日、テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』に出演し、「沖縄はもともと中国から取ったんでしょ」などと発言したことで、ネットで炎上し「不見識だ」と多くの批判を浴びた。中国の「琉球(りゅうきゅう)独立工作」に関して警鐘を鳴らし続けてきた筆者に「先頭に立って彼を批判してほしい」との声も出たが、私の感じ方は若干異なる。

 単に沖縄を観光地としてしか見ていない若者と比べれば、沖縄の問題や歴史に関心を持つことは100倍素晴らしいことなのだ。そして、村本氏が沖縄の歴史を誤って認識してしまった原因は、彼にだけあるのではない。現在の沖縄問題と沖縄の歴史に真正面から取り組んでこなかった日本国民全体、特に日本の政治家にこそ大きな責任があると思っているからだ。
 
 村本氏の発言問題のポイントは、明治政府が琉球国を廃して沖縄県を設置したとき、琉球を清(しん)国から奪ったのかどうかである。沖縄県設置前の幕末から明治にかけて、もし琉球が日本に属していたら、沖縄県の設置は国内の措置であり清国から奪ったわけではない。逆に、琉球が清国に属していたら奪ったということになる。ではその点について、日本政府の公式見解はどうなっているのだろうか。

 例えば、外務省ホームページ(HP)の「外交史料 Q&A幕末期」には、黒船で来航したペリー提督が琉球と条約を結んだ琉米条約に関する回答に次のような一文がある。「当時の琉球は、薩摩藩島津氏の統治下に置かれていましたが、他方中国(清国)との朝貢関係も維持するという『両属』の体制にありました」。ここには、琉球が清国に属しているとも日本に属しているとも書いていないが、薩摩と清国の両方に属していると書いている。この外務省の見解によると、当時の琉球は半分清国に属し、半分は薩摩藩に属していたことになる。
外務省飯倉公館(代表撮影)
 そうすると、清国に半分属していた琉球を完全に日本に属するようにした沖縄県設置は、「琉球を清国から奪った」という村本氏の回答は100点満点中50点ということになる。当然「沖縄は中国に属したことはない」と批判する人も50点になるのだ。「1609年に薩摩が琉球を支配してから琉球は日支両属(日清両属)の地位にあった」という認識は何も外務省だけの見解ではない。日本史の教科書、沖縄の歴史の参考書、どれを見てもこの言葉を使っている。いわゆる日本の常識なのだ。つまり、日本の常識では、村本氏の発言は50点だということになる。

 この問題に衆議院で取り組んだ人物がいた。当時衆院議員だった鈴木宗男氏だ。鈴木氏は平成18年11月11日、衆議院に「琉球王国の地位に関する再質問主意書」を提出している。「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか。明確な答弁を求める」という鈴木氏の質問に対して、政府は「沖縄については、いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」と回答した。これが当時の日本政府の沖縄の歴史観だ。

 先ほどの外務省のHPには琉球は日本と支那に両属していたと書かれていたが、この答弁書には沖縄県が設置される前の沖縄は「清国に属していたのか、日本に属していたのか、日清両属だったのかもわからない」ということになる。この政府の公式見解によると、村本氏の発言は0点から100点となる。だから点数のつけようもないのだ。

2017年6月、参院決算委員会で質問する
自民党の山田宏参院議員(斎藤良雄撮影)
 このあいまいな日本政府の沖縄史観は、沖縄の日本からの分断強奪を狙って「琉球の帰属は未定で解決しておらず、日本が明治時代に沖縄県を設置して強奪した」と主張を始めた中国を利することになる。危機感を抱いた筆者は数年がかりでこの政府の認識を改めることに尽力した。陳情要請を受けた山田宏参院議員が2回の国会質問を行い、2度目の平成29年6月5日、安倍晋三首相から「沖縄については、寺島(正則)外務卿が沖縄が数百年前からわが国所属の一地方である旨述べていたことが確認されています。いずれにせよ、沖縄は長年にわたりわが国の領土であり、沖縄がわが国領土であることは、国際法上何ら疑いもないところであります」という答弁を引き出した。それまでの鈴木氏の質問主意書に対する政府見解を修正させることができたのである。

 山田氏に要請するとき、筆者は重要な資料を持参した。それは明治12(1879)年の外交文書だ。実は、政府のあいまいな歴史認識を覆す資料が政府内部に存在していたのである。外務省のHPからダウンロードして入手した、カタカナ漢字交じり、もしくは漢語で書かれている文書の概要は次のようになる。

 明治12年4月4日、沖縄県設置後、その事実に気が付いた清国は沖縄の廃藩置県を停止するよう求めた。続いて5月20日には「廃藩置県はいかなる理由によるものか」と抗議を寄せた。それに対し寺島外務卿は「内政の都合により処分した」と答え、8月2日に、琉球は嘉吉元(1441)年より島津氏に属し、日本は数百年琉球の統治権を行使してきたため今回の措置が当然であることを述べた。さらに、慶長16(1611)年に薩摩の定めた琉球統治の法章15条と尚寧王および三司官の誓文を含む「略説」を送致した。

 すると、清国は8月20日、琉球が清国に属することを主張して廃藩置県に対する公式な抗議を行った。10月8日、新外務卿井上馨は宍戸璣(たまき)駐清公使に、抗議に対する回答書を清国に提出するよう訓令した。その回答書の要点は次の通りだ。「清国が琉球の主権主張の根拠とする朝貢冊封(さくほう)は虚文空名に属するものだ」「日本が琉球を領有する根拠は将軍足利義教がこれを島津忠国に与えたときより確定している」。

 前者については「自らを世界の王と称し、朝貢冊封を振り回して主権を主張するのは支那古来の慣法であり、日本の足利義満や豊臣秀吉への冊封、魏源の著『聖武記』にはイタリアや英国も指すとある。このようなことをもって日本やイタリア、英国が中国皇帝に臣服するとすれば、その虚喝も甚だしく、今清国が沖縄に関与しようというのもこのような虚妄にすぎない」という趣旨を述べたのだ。現在の日本政府の「媚中外交」とは異なり、なんと論理的で痛烈な反論であろう。

 ところで「沖縄県民は日本人か?」と質問すると99・99%の日本国民が「日本人だ」と答えるだろう。では、「沖縄はいつから日本になったのか?」と聞かれると「明治かなあ、江戸時代はどうだったっけ?」とはっきり答えられる人は少ない。

 ところが、「日本は沖縄を侵略したのか」と聞くと、なぜか沖縄の米軍基地に反対している人は「侵略した」と大きな声で主張し、保守的な人は「侵略していない」と主張する人が多い。私がここで指摘したいのは「侵略していない」と回答する人たちだ。「侵略していない」というからには、沖縄が昔から日本であり、昔から日本人でなければならない。それ以外に、集団帰化したという可能性も考えられるが、そのような事実はない。結局、「日本は琉球を侵略していない」と認識する人の沖縄の歴史観は次のようになるのではないだろうか。

 「日本とは異なる『琉球国』という独立国は存在した。明治12年に沖縄県になった。しかし、日本が侵略したわけでもなく琉球人が日本に集団帰化したわけでもなくいつの間に日本人になった。もしかしたら強制併合かもしれないが、今は同じ日本人だから、いまさら問題にすべきでない」

 この考えは、曖昧思考の日本人にはかなりの確率で通用する。しかし、一歩国外に出ると全く通用しないのだ。ある独立国が、ある瞬間日本の一地方になったけれども、侵略も強制併合もしていないという歴史はいくら説明しても嘘としか思われないのだ。日本が琉球を侵略していないと言うなら、沖縄は最低でも江戸時代には日本に帰属していなければならないのだ。
2017年4月、札幌市内のセミナーであいさつする新党大地の鈴木宗男代表
 しかし、筆者が指摘するまで、鈴木氏への答弁書の危険性をどの政治家も全く気が付かなかったのである。これが筆者が冒頭で指摘した「村本氏が沖縄の歴史を誤って認識してしまった」理由である。幸い現在は、山田氏が安倍首相から引き出した答弁により、国家的リスクを回避できたかわりに、村本氏の発言は0点になってしまった。

 以上、村本氏の発言のポイントである沖縄県設置の位置づけを確認するため、沖縄県設置前の沖縄の地位について確認してきた。明治12年の外交文書にあるように、江戸時代の沖縄は薩摩の統治が隅々にまでおよび、江戸幕府の幕藩体制下にあった。しかし、幕府と薩摩藩の外交貿易戦略として、琉球を明や清との貿易拠点として活用するため、独立国の体裁をあえて保っていたのだ。朝貢や冊封はそれを行うための外交儀礼にすぎなかった。明国もそれを知っていたが黙認していたことも明らかになっている。

 でも、それは日本国が力で統治しているだけで、当の琉球の人たちは、本当は日本人でなかったかもしれないと思う方がいるかもしれない。しかし、実は沖縄の人たちが「日本人の中の日本人」であることを雄弁に物語る沖縄の歴史がある。それは、敗戦後の沖縄県「祖国復帰」の歴史だ。サンフランシスコ講和条約で日本の放棄した領土には、朝鮮半島、台湾、奄美、沖縄、小笠原諸島がある。その中で、祖国復帰運動が起きたのは奄美と沖縄だけである。もし、奄美や沖縄の人たちが日本人でないのなら、日本から独立するチャンスとして、復帰運動ではなく「独立運動」が起きたはずである。

1972年5月、沖縄県の新知事として佐藤栄作首相に
あいさつする屋良朝苗氏
 その沖縄県祖国復帰運動の最初から最後までリーダー的存在だった人物に、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏がいる。屋良氏は戦前、台北で師範学校の教師をしていた。戦後は米軍統治下の沖縄で、群島政府の文教部長を務めた。日本政府でいう文部科学大臣である。しかし、戦争でほとんどの校舎が焼け、米軍による復興支援も不十分なため、教育に困難を感じるようになった。そこで、サンフランシスコ講和条約が公布された翌年、戦災校舎復興支援を求めて全国行脚を始めた。その時に衆院文部委員会に参考人として招致された屋良氏は、戦災校舎の復興支援を訴えるはずの場で沖縄県の祖国復帰を求めたのである。

 その心は、沖縄の子供たちに日本人としての教育を施したい。日本人としての教育をするからこそ、子供たちはすくすくと真っすぐ育つのだ。それをかなえるには沖縄が祖国日本に復帰するしかないというものだ。筆者が国会の議事録から発掘したこの演説は、今まで埋もれたままで全く世に出ていなかった。日本人が日本人としてあり続けるために、何が必要かを私たちに教えてくれる演説だ。

 この名演説を味わい、沖縄県祖国復帰の歴史の意義を感じ取っていただきたい。沖縄問題に関心を持ってくれた村本氏にもこの演説文をプレゼントする。どこかで、屋良氏の祖国復帰への身命を賭(と)した情熱をネタに使っていただければ幸甚である。

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