どうも、信長は「美濃の国の領地持ちの武士たちは、みな義龍方となった」(『太田牛一雑記』)という情勢に勝ち目なしとみて、戦意を喪失してしまったらしい。そしてサボタージュをごまかすために築城工事にかかり、その工程で無数の銭を掘り出してしまったわけだ。

 さて「地中から銭が出てきました」と報告を受けた信長は、その後どうしたのだろうか。同書はいう。

 「銭をつながせ御覧候」 

 銭をひもでつながせて、それを見物したのだ。銭をひもでつなぐというのには、2つのケースが考えられる。1つは100文単位、1000文単位などで銭の穴に縄を通してまとめる「鎈(ぜにさし)」を行ったケース。

 当時、銭を保管したり取引に用いたりする際、まとまった単位の鎈がよく用いられたから、それを行わせたのだろうか。

 しかし、境内の至るところから出てきた無数の銭を、いちいち計数して単位ごとにつながせ、それを検分するなど、自分の戦意のなさを部下の兵たちや敵のスパイにも見透かされてしまうような振る舞いを信長がするだろうか。

 そこで、もう1つのケースが有力となってくる。今でも名古屋とその周辺では5円玉12枚に麻ひもを通し、それを赤ちゃんの産着に結びつける風習が残っている。これは「紐銭(ひもせん)」「帯銭(おびせん)」の一種と考えられ、関西で祝儀袋を結びつけるのと同様、お金に困らないようにというまじないの意味を持つ。信長もこのまじないを実行したのではないか。

 かつて中国には「厭勝銭」(えんしょうせん、あっしょうせん)というまじない用の非流通銭があり、日本でも室町時代から盛んに行われた。銭の形には呪術(じゅじゅつ)的な力があると信じられていたのだ。信長も銭の霊験を信じ、地元に伝わる紐銭のまじないを実行して幸運を祈念したのではないだろうか。それならば、部下たちの士気も下げず、敵にも足元を見られずに済むというものだ。

幸若舞『敦盛』を舞うからくり人形の信長=2017年12月2日、名古屋市の万松寺(中田真弥撮影)
名古屋市の万松寺にある幸若舞『敦盛』を舞うからくり人形の信長(中田真弥撮影)
 このようにして信長が模様眺めをしながら、まじないにふけっているうちに道三を破った義龍の軍勢が大良にも攻め寄せてきた。信長はこれにひと当てした後、自ら木曽川の舟の上で殿軍(しんがり)を務めて配下の兵たちを尾張へと引き揚げさせる。後には、信長の援軍をあてにしていた道三がその交換条件として出した「美濃一国の譲り状」が残った。「(美濃国は)織田上総介信長存分に任すべき」という、有名な内容の書状だ(『妙覚寺文書』)。

 信長のまじないは、義龍との不利な戦いを避けるために役立ち、後に彼が美濃に侵攻する際の大義名分までもたらしてくれたのだった。世話になった舅をあっさりと見捨てた信長だが、乱世を生き抜くためには舅でも利用し、都合が悪くなれば見切ることを躊躇(ちゅうちょ)しないという合理主義は、彼の中で厄除けや蛇神にさえ頼るという思想と矛盾しないのだろう。