その翌年、信勝を排除した信長は、永禄2(1559)年に尾張上四郡守護代家、岩倉城の織田信賢を下して国内をほぼ平定する。明くる年にはいよいよ彼の一世一代の大勝負、「桶狭間の戦い」へと突入していくのだが、その前にこの頃の彼の日常に触れておこう。

 天永寺というのは清洲城から前回紹介した蛇池を越えてさらに東に進んだ味鋺(名古屋市北区楠味鋺)の寺で、現在も天永寺護国院という名で同地にある。その寺の天沢(てんたく)という学識豊かな僧侶が、関東に下る途中で甲斐を通り、武田信玄に招かれて信長について述べている。

 その中でよく知られているのが、

 「幸若舞の『敦盛』がお好きで、『人間50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり』と口ずさまれながら舞われます。舞はこの一曲のみです。また、小唄では『死のうは一定(いちじょう)、忍び草には何をしよぞ、一定かたり起こすよの』をよく唄われます」

という部分だ。信長を描くドラマでもしばしば紹介されているので、ご存じの方は多いだろう。

建勲神社にある「敦盛」の句が刻まれた石碑=2017年12月1日、京都(中田真弥撮影)
建勲神社にある「敦盛」の句が刻まれた石碑=2017年12月1日、京都(中田真弥撮影)
 この幸若舞『敦盛』に出てくる「下天」というのは何かというと、天上界(天界)の最下層の「他化自在天」を意味する。その下天でさえ、時の流れは一日一夜が人間界(俗界)の1600年にあたるという気の遠くなるような長いものであり、人間界に生きるわれわれの50年の人生など一瞬にすぎない、と喝破しているのだ。

 信長はこの舞で限られた時間を自覚し、続いて小唄で「短い人生、人はどうせ必ず死ぬのだから、必ずや何事かを仕遂げ、後世の語り草にしてやる」と意欲を燃やす。人生のクライマックスを間近に控え、何が何でも運命を切り開いていこうという決意がうかがえるではないか。

 このほかにも信長のやり方を根掘り葉掘り天沢からヒアリングした信玄は「信長が軍事にたけているのも無理はないな」とつぶやき、苦虫をかみつぶしたような顔をしていたという。恐るべき奴が尾張に出てきた、と恐れを抱いたのだ。そして、彼のこの嫌な予感は、この時期から20年あまり後に武田家が信長に滅ぼされることによって的中する。

 ところで、この「下天=他化自在天」、もうひとつ別の呼び方を「第六天」という。天上界の下部に位置し、上から四大王衆天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天と続く最後、6番目の天だから第六天、というわけだ。この第六天は今後のキーワードとなるので、心に留めておいていただきたい。

 この甲斐での出来事は、その後帰国した天沢によって織田家に伝えられたらしく、太田牛一は『信長公記』に収めた。言うまでもなく、信長の耳にも入っただろう。信長はこれを強烈に覚えていたものと見えて、後に信玄との外交的なやりとりの中でもこの話を伏線として文言に含ませるのだが、それはまたいずれ解説しよう。

 次回はいよいよ、桶狭間の戦いで信長のオカルト趣味が炸裂(さくれつ)する。