渡辺努(東京大学大学院教授)

 日銀の黒田総裁による異次元金融緩和の開始から間もなく5年になる。日銀は2%の消費者物価上昇を目標として掲げ大規模な量的緩和やマイナス金利政策を実施してきたが、現状、消費者物価上昇率(除く生鮮食品、エネルギー)は前年比0.3%(2017年12月)であり、デフレからの脱却を果たせていない。しかし5年間の緩和を通じ、デフレ発生の仕組みについて新たに見えてきたことは少なくなく、デフレ脱却に向けて今後何をすべきかも明らかになった。以下では企業の価格設定行動の視点から物価の現状を整理する。

金融政策決定会合後の記者会見場を後にする日銀の黒田東彦総裁
=2016年 6月16日、東京都中央区の日銀本店
金融政策決定会合後の記者会見場を後にする日銀の黒田東彦総裁 =2016年 6月16日、東京都中央区の日銀本店
 デフレ脱却のカギは何か。異次元緩和が始まった5年前にこの質問を何度も受けた。質問者の多くは、需要の不足がデフレの原因であり、需要さえ喚起できればデフレ脱却できる、問題は金融緩和で十分な需要喚起ができるかどうかだと考えていた。しかし物価は需要だけで決まるものではない。供給サイド、つまり価格を決める人たちの行動が物価のもう一つの決定要因だ。当時の日本で需要が不足していたのは間違いないが、それ以上に深刻なのは値決めをする人たちの行動だと筆者は考えていた。当時この認識は異端であったが、今では日銀を始め政策担当者の多くが共有する認識となっている。

 筆者が供給サイドに注目したきっかけは、フィリップス曲線の変化である。物価上昇率と失業率の間には、失業率が下がる(上がる)と物価上昇率が上がる(下がる)という負の相関があり、フィリップス曲線と呼ばれている。日本でもかつては物価と失業率の間に負の関係が観察されていた。しかし2000年以降、その関係が非常に弱くなり、失業率が変化しても物価はごくわずかしか変化しないというように変わってしまった。例えば、リーマンショック直後には、需要が弱くなって失業率が大きく増えたが、物価はさほど下がらなかった。異次元緩和の5年間はこの逆で、失業率が足元3%を切るところまで改善したにもかかわらず、物価は上がっていない。

 物価の反応が鈍くなったのはなぜか。その背景には価格の硬直化がある。消費者物価指数は典型的な消費者が購入する約600の品目(例えば「シャンプー」「理髪料」など)から構成されている。各品目について前年比の変化率を算出した上で、その値がゼロの近傍にある品目の消費金額が全体のどれだけに相当するかを計算した(図1を参照)。
 ゼロ近傍の品目は価格が硬直的な品目ということだから、そうした品目がどの程度の割合を占めるかは価格硬直性の尺度だ。1990年代末から価格の硬直性が高まり、ゼロ近傍の割合は5割に達した。その状態が2013年4月の異次元緩和開始後も基本的には続いている。17年半ば以降、ゼロ近傍の割合が低下の方向にあるが、改善のピッチは緩やかであり、今なお半数近くの品目がゼロ近傍にある。

 価格硬直化の原因の一つは趨勢(すうせい)的なインフレ率の低下である。インフレ率が趨勢的に高い国で、ある企業が価格を据え置くとすると、ライバル企業に比べて価格が安すぎて損をしてしまう。従ってそういう国では企業は価格を据え置くことはせず、頻繁に価格を改定する。これに対して趨勢インフレがゼロに近い日本のような国では、価格を据え置いたとしてもそれで損を被ることはないので、多くの企業が価格据え置きを選択する。この理由で価格が硬直化しているのであれば、趨勢インフレさえ元に戻れば硬直化も自動的に解消されるので問題ない。

 しかし、日本の価格硬直化の理由はこれだけではない。日米を含む先進8か国の品目別価格データを用いて筆者らが行った国際比較によれば、日本の価格硬直性は米国などと比較して図抜けて高く、しかも、日本の趨勢インフレが低い分を調整してもなお高い。