文春で告発が報じられた後、栄和人コーチは報道陣の取材に応じたが、いつもの陽気さや威勢の良さはなく、総じていえば「身に覚えがない」「誤解があったとすれば言葉が足りなかったのかもしれない」といった沈痛な言葉を重ねた。

金メダルを決め日の丸を掲げ記念撮影に臨む伊調馨選手、
栄和人監督=2012年8月8日、英ロンドンのエクセル
金メダルを決め日の丸を掲げ記念撮影に臨む伊調馨選手、 栄和人監督=2012年8月8日、英ロンドンのエクセル
 これだけを見ると、双方の主張には大きな隔たりがある。告発された事実を栄氏はほとんど認めなかった。現時点では栄氏がどんなパワハラをしたのか、そもそもパワハラの事実はなかったのか、断定することはできない。だが、この報道を見て筆者が感じたのは、スポーツ界全体を当たり前に覆っているパワハラ体質の根深さである。「勝つためにはそれが当然だ」とする指導者や組織全体の思い込み、それを改善できない社会的悪癖を今こそ見直すべきだという、切実な問題意識をスポーツ界はどう受け止めているのか。

 今の時代、世間では体罰やパワハラが問題視される一方、オリンピックでメダリストが誕生するたびに、パワハラ体質を持つコーチや指導者たちが「名将」と持ち上げられ、賛美される現実がある。金メダルのお祭り騒ぎが続く中でいつしか「パワハラ」は不問に付され、選手と指導者の二人三脚による努力と根性の軌跡は、むしろ「感動ドラマ」に仕立て上げられる。鬼コーチは昔からスポ根ドラマには欠かせない存在であり、むしろ多くの日本人に愛されるキャラクターでもある。

 スポーツ界のパワハラ体質をいかに是正していくのか。その取り組みの中で最も厄介な問題は、本来パワハラの被害者であるはずの選手や家族、支援者、アシスタントコーチといった「権力的に弱い立場」の当事者たちが、行き過ぎた指導があっても「必要だ」と思い込んでしまうことである。ある種の洗脳にも似た感覚的なものだが、当事者たちはそうしなければ勝てないと思っていたり、将来自分が指導者や組織の長になれば、同じやり方で行き過ぎた指導をするだろう、という歪んだ考えがスポーツ界を支配している気がしてならない。言い換えれば、「同じ穴の狢」が幾重にも連鎖しているのである。

 筆者は過去十年間、少年野球、そして中学硬式野球チームのコーチ、監督を務めてきた。小学生の野球なのに、鉄拳を振るい、跳び蹴りをするコーチの姿を見て仰天したこともあった。今も言葉の暴力と思える言動は日常的に繰り返されている。野球少年の親たちの中には「監督、うちの子どもは殴ってもらって構いませんから」と体罰を容認する人だって決して少なくはない。そうした誤ったスポーツ観、教育観を覆さなければ、スポーツ界全体を巣食うパワハラはこれから先もずっと繰り返され、スポーツが真に文化や芸術の領域まで踏み入れることもないだろう。

 今回の告発をきっかけに、本質的なスポーツ界の大転換が始まり、徹底的に新しい発想をスポーツの根底に据える挑戦をしなければ、2020年に東京オリンピックを迎える意味もない。勝利至上主義、金メダルのお祭り騒ぎ、成果を挙げた選手やコーチのタレント化、それを利用して本質を忘れたスポーツビジネスを持て囃(はや)す日本社会への警鐘だと筆者は感じる。これはスポーツ界だけではなく、日本社会に突き付けらた命題なのである。