しかし、そのまま何もしないでいれば、前線の織田方拠点は次々と攻め落とされ、信長を見限った家来たちから、今川軍に寝返る者も出てくる。やがては清洲城も内部から崩壊し、尾張は義元に蹂躙(じゅうりん)され、伊勢湾の支配権も今川家の手に落ちるだろう。

 なんとしても生き残りたい! 信長は押し殺した表情でのんきに振る舞いながら、若いころ肌身離さず身につけていたひょうたんや火燧(ひうち)袋、三五縄などの魔除けグッズを出してひそかに祈りをささげていたのではないだろうか。

 そんな信長のもとへ、19日未明になってまた前線からの使者が飛び込んできた。

「今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻め掛かりました!」

 ふたつの砦は今川方の鳴海城と大高城を監視するためのものだったが、義元はこの目障りな砦を手始めに陥れようというのだ。

 これを聞いた信長は、前回紹介した「敦盛」の幸若舞を舞った。

「人間(じんかん)50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生(しょう)を得て滅せぬ者のあるべきか」。
桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像=名古屋市緑区
桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像=名古屋市緑区
 勝算はなくとも、今このとき抵抗する姿勢を示さなければどのみち部下たちから見放されて滅びてしまう。ましてや相手も人間。天の味方を得ることができれば、逆に滅ぼすことも可能だろう。短い舞の中で、信長は一か八かの賭けに出ることを決意したのだ。

 舞い終わった信長は、「ホラ貝を吹け! 甲冑(かっちゅう)を持ってこい!」と叫び、立ちながら腹ごしらえを済ませると、出された昆布と勝栗を口にした(『道家祖看記』)。これはこの時代に広くおこなわれていた必勝のまじないで、「勝ってよろこぶ」というものだ。ここでもやはり、信長は迷信に忠実である。

 そして彼は5人の小姓を従えただけで城を飛び出し、熱田まで3里(12キロあまり)の道のりを馬で一気に駆ける。時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。今の熱田神宮は当時熱田社と呼ばれていたが、彼がその摂社の源大夫殿宮(現在の上知我麻(かみちかま)神社)の前から東方を遠望すると、すでに鷲津・丸根両砦が攻め落とされたとみえ、煙が立ち上っている。このころには、後から慌てて信長の跡を追いかけた一行の数は200ほどに増えていた。