と、ここで状況に変化が生じる。にわかに空がかき曇ったかと思うと、大雨が降り始めたのだ。雨は「石氷を投げ打つ様に」(『信長公記』)敵の正面に降りかかった。雹(ひょう)をともなった西向きの強い雨風の強さはすさまじく、沓掛のあたりにあった直径1~1・5メートルもあるようなクスの大木2、3本が東へ吹き倒されてしまうありさまだったという。

 時期は現在の暦で6月12日。現代でいう「ゲリラ豪雨」だが、筆者は以前からこの気象現象を「ダウンバースト」だろうと指摘してきた。これは積雲や積乱雲(入道雲)からの冷たい下降気流が地面にぶつかって猛烈な突風を起こすもので、雹や霰(あられ)を伴うことが多い。その局地的なものはマイクロバーストと呼ばれ、一層破壊的な風雨をもたらすのだ。当然、この大風雨が起こる以前、西の空には入道雲が現れ、東に向けて動いていただろう。

幕末の浮世絵師、月岡芳年が描いた今川義元の最期
(静岡県立中央図書館蔵)
 信長が桶狭間に向かう道すがら、それを目撃していたことは間違いない。当時、武将には必ず「軍配者(軍師)」と呼ばれる専門技術者が仕えていた。彼らは常に気象状況をチェックし、雲の色形や流れなどで合戦の吉凶を占う。つまり、これから天候がどう変わるかは、地元の利もあってこの軍配者がかなりの正確さで判断し、信長に上申していたはずだ。

 その情報を得た信長は、雲に合わせて東に進み、ちょうどバーストが始まる直前に戦闘態勢を整えたというわけだ。 

 そして、大風雨が一帯を襲う。信長は、それが自分の頭上から東へ進むのを確かめると大音声をあげる。午後2時ごろのことだった。

「空が晴れるのをご覧になって、すわかかれ、かかれ!と突撃命令を下された」。

 ちょうどバーストに襲われたばかりの義元本陣は、信長勢の姿すら見ることができない。桶狭間一帯は、小丘陵群とその合間の「深田足入れ」と表現される低湿地が広がっている。本陣の前の山々に布陣していた先鋒(せんぽう)部隊は、通過した風雨の影響で「深田」がさらにたちの悪い泥沼と化してしまったため、本陣の急を知っても駆け付けることすらできない。

 こうして、信長と義元の戦いはほぼ同数の一騎打ちとなった。敵へろくに顔も向けられず目も開けられない義元本陣の将兵は、またたくうちに信長勢に切り立てられてしまう。義元の300人ほどの旗本も中心の義元を守って円陣を組み戦っていたが、これも次第に討ち減らされていく。義元が討ち取られたのは、それから間もなくのことだった。