現在、官庁のオフィスの机の上には大きなデスクトップ・パソコンがのり、官僚たちは必死の形相でモニターとにらめっこして、マウスを動かしキーボードをたたいている。彼らはそのデスクトップに使われ、奉仕させられているようにさえ見える。モニターの向こう側には、公僕としての彼らの主人である「公権力」が連なっているからだ。

財務省が参院予算委員会理事会に提出した、「森友学園」への国有地売却問題を巡る決裁文書の原本の写し
財務省が参院予算委員会理事会に提出した、「森友学園」への国有地売却問題を巡る決裁文書の原本の写し
 一方、このサイトを運営する会社など、ネット系企業の社員は、平均的に年齢が若く、ラフな私服で、生き生きとノートパソコンを持ち歩いて仕事しているように見える。

 紙文書時代のツワモノは、電子データ時代のツワモノではないようだ。

 かつてコンピューターがメインフレームからパーソナルへとシフトしたとき、IBMの社員と、マイクロソフトやアップルの社員たちは「背広とジーンズ」に例えられた。日本の官僚たちは、紙文書が電子データへと転換しても、背広をジーンズに着替えるわけにはいかない。つまり時代に合わせた文化転換ができず、古い文化と新しい文化の相克に苦しんでいる。紙文書から電子データへの転換は、大宝律令以来の、日本の官僚文化そのものの大転換なのだ。そこに現政権からの圧力がかかる。その力に乗る者と抵抗する者とのあいだに強い軋轢が生じる。

 長いあいだ、論文の指導と審査にたずさわってきたが、近年の若い人の研究の傾向として、膨大なデータとそのコンピューター処理とその結論が、研究者本人の中で、うまく筋立てられていないことが気になっていた。

 そのデータがどういう条件で抽出されているのか、コンピューター処理のプロセスはどういう数学的アルゴリズムにのっているのか、その結果が示す傾向の学術的意味はどのようなものか、という理系の論文に求められる基本的な問いかけに答えられないのだ。

 われわれが教えられてきた科学的再現性、推論の整合性、帰納と演繹といった基礎的条件が等閑視され、データから結論までがコンピューターというエスカレーターに乗ったように導かれている。そこには、一つ一つ考えながら階段を上るという手順が見えてこない。

 理化学研究所のSTAP細胞問題、京大iPS細胞研究所のデータ捏造問題なども、研究を総括指導する者が、そのプロセスを確認できないことから起こったのだ。

 もちろんこれは研究者の資質に大きな問題があるのだが、論文の数や引用数や受賞歴などによってのみ評価され、専門家もその研究の本当の質を評価することができない状況である。

 情報社会といわれて久しい。厳密な理想条件を設定する自然科学の現場でさえ、急速に肥大する情報(データ)に、研究プロセスの確認検証が追いつかなくなっているのだ。

 建築士が構造計算書を偽造した問題、杭打ち業者のデータ改ざん問題、自動車会社の燃費データ改ざん問題、無資格者検査問題、製鋼会社のデータ改ざん問題、新幹線の台車亀裂問題などは、日本が得意であったはずの、ものづくりの現場にさえ、基本となるデータと技術の関係を軽く扱う風潮が蔓延していることを感じさせる。明治以来、日本のものづくりを支えてきた東芝のような企業でさえ粉飾決算によってその企業存続が危うくなっている。

 こういった問題の根底には、情報社会と管理社会の進行による中枢の管理者と現場の技術者の意識の乖離が横たわっている。「データ・情報・管理」による意思決定が、生身の人間の脳と眼と手の力を奪っているのだ。ものづくりの現場から人間力が消えていく。