さらに視点を変え、ウラ社会から森友問題を見ればどうか。「籠池被告は昭恵夫人をうまく引っかけた」ということになる。不謹慎な言い方だが、それがウラ社会の視点から見た本質だ。

 トラの威を借りるのはウラ社会の常套(じょうとう)手段で、借りられるものであれば、トラだろうがゾウだろうがワニだろうが何でも借りる。威を借り、相手を威圧して意を通す。籠池被告にそういう意図があったかどうか私は知らないし、実際にそうしたどうかも知らない。ただ、ウラ社会の視点から森友問題と昭恵夫人の関係を見れば、そう読み解けるということなのである。

 そして留意すべきは、非は「威」にあるのではなく、それを利用した人間にあるということを見落としてはなるまい。

 では、財務省はどうか。麻生太郎財務相が、決裁文書の改ざんは「一部の職員が行った」と繰り返し発言したことで、メディアは財務省に責任をかぶせるものだと批判した。さらに、さわやかイメージの小泉進次郎筆頭副幹事長が「自民党という組織は、官僚のみなさんだけに責任を押しつけるような政党じゃない」と述べたことで、財務官僚が「被害者」であるかの印象を世間に与えた。

 だが、それは違う。事情がどうあれ、財務官僚が行った忖度の本質は、相手のためでなく、わが身可愛(かわ)いさのものであって、彼らは決して被害者ではない。そうした処し方に葛藤し、苦悩した官僚が、気の毒にも自ら命を断つケースにつながっていくことを思えば、財務官僚の行為について是非を問うまでもあるまい。

 そもそも森友問題の特徴は、これに関わるすべての人間に「言い分」があることだ。籠池被告は「私は理想の学校づくりに邁進(まいしん)しただけ」と主張するだろうし、昭恵夫人は「私はその理念に賛同しただけ」と言うだろう。

 財務官僚は公言できないにしても、「総理夫人の案件として、土地払い下げに忖度するのは当たり前」という思いがあるだろうし、野党は「安倍政権の驕(おご)りである」「民主主義の根幹を揺るがす大問題だ」「内閣総辞職すべし」と当然ながら攻撃する。

 そしてメディアは「国政批判は使命である」と進軍ラッパを吹き、国民は玉石混交のメディア情報によって「昭恵夫人を証人喚問せよ」という世論を形作っていく。自民党の安倍サイドは、揚げ足取りによる倒閣を懸念して、昭恵夫人の証人喚問を突っぱねる。みんな「言い分」があり、それぞれにおいてこの言い分は「正義」なのだ。

 そこで、昭恵夫人の証人喚問である。昭恵夫人から直接的な働きかけがなく、森友問題が財務官僚の忖度に起因するものであるとするなら、昭恵夫人を証人喚問しても、「隠された事実」が出でくることは考えられない。
講演する安倍昭恵氏=2016年6月、福岡市博多区
講演する安倍昭恵氏=2016年6月、福岡市博多区
 「私が真実を知りたいって本当に思います。何にも関わっていないんです」と、福岡で語った昭恵夫人の発言が批判的に報道されたが、第三者がこの発言をどう解釈するかということとは無関係に、昭恵夫人が本当にそう思っているのだとすれば、証人喚問されても「語るべき話」がないと当惑するのは当然だろう。

 「昭恵夫人が全否定しても、否定する姿をみれば国民はわかる」と、したり顔で言う意見もある。だが、証人喚問して得られるものがそんな情緒的で不確かな推測でしかないとしたら、まったく無意味であり、これほどの茶番はあるまい。

 「昭恵カード」は政局に利用され、野党議員のパフォーマンスに利用され、メディアのバッシングに利用され、財務省の批判かわしに利用され、茶の間の慰みにされるとしたら、証人喚問とはいったい何なのだろうか。

 喚問する理屈をどれだけみつくろうとも、私の目には寄ってたかって「魔女狩り」を楽しんでいるようにしか見えないのである。