依存症は脳の病気である。これには、依存症の発症は患者の責任ではないという考え方を伴う。しかし、依存症からの回復は患者の責任である。患者には、発症はさておき、回復への責任や、回復に伴うもろもろの問題への責任がある。病気なのだから責任はなく、何もしなくていいというわけでは決してない。

 ギャンブルについては、患者にはもちろん、利益を上げている胴元にも、依存症の予防・回復への責任があるだろう。ギャンブル産業は大きな利益が上がる。しかしその半面、ギャンブル依存症を生むことになる。合法的ギャンブルが増えるほどギャンブル依存症者は増えるというのは事実である。とすれば、依存症への対策は、胴元の必須事項といえよう。

 その観点からすると、今回の入場制限には一定の評価ができるものだ。とはいえ、当該措置に果たしてどの程度の効果があるか、疑問も残る。与党の合意によると、IR実施法案で、日本人のカジノ入場は週3回、月10回までに制限されるという。

 しかし、ギャンブル依存症かどうかの診断においては、ギャンブルの回数はそれほど重視されない。そこではギャンブルを中断することによりいらだちが起きたり、ギャンブルをすることやその結果について人に嘘をついたり、ギャンブルがらみで借金をしたりする、といった付随的な行動をもとに依存症の判断がなされる。

 週3回であろうが借金してまで通っているのであれば依存症であるし、毎日通っていても借金もせず嘘もつかず「健全な遊び方」をしていれば依存症ではないのだ。回数のみに着目した制限は違和感を覚える。

 『快感回路』では興味深い指摘がなされている。それは資本主義と依存症との関係性だ。資本主義における経営主体の努力は、より多くの顧客を獲得しようとする努力である。それは言い換えれば、自らに依存してくれるユーザーを得ようとする努力である。より多くの「依存症ユーザー」の獲得に成功した企業が資本主義における勝ち組である。

 資本主義は必然的に依存症を生み出すのだ、と。依存症はギャンブルだけの問題ではない。資本主義が高度化するにつれ、今後もさまざまな依存症が増えることが予想される。カジノ解禁に伴いギャンブル依存症対策を採るというのであれば、これを機に依存症全体のことを考えてもいいかもしれない。
(iStock)
(iStock)
 カジノは賭博である。賭博について、法律はとかく臭いものにフタをしておけばいいというやり方を取っている。現行刑法にはいまだ賭博罪が存在する。しかしその「犯罪行為」を国家が経済施策として進めるのだという。賭博は悪なのか、そうでないのか。賭博は依存症を生むから悪いのだというならば、それは明らかに違う。

 酒は依存症を生む。高カロリーの食事も、高額なバッグも、発達した資本主義社会における過剰サービスの多くが依存症の原因となる。魅力と依存症は表裏一体の関係にあるのだ。カジノ解禁には、ギャンブル依存症の温床となるという批判が根強い。これへのパフォーマンスとして安易な措置を取るだけは問題の本質的な部分を逃すのではないか。