小田部雄次(静岡福祉大教授)

 古代社会において、皇族女子の結婚相手は主に皇族であり、律令(りつりょう)の継嗣令では、内親王(天皇より五世未満の女子)の相手は、天皇もしくは五世未満の皇族(皇親)とした。時代を経る中で、皇族以外の男子と結婚する事例もみられるようになる。江戸幕府の14代将軍、徳川家茂に嫁いだ和宮親子内親王のように、嫁いでも皇族の身分や称号は保持された。

 一方、皇族男子の相手は、皇族のほか有力豪族の娘などの場合もあった。近代になっても、明治の旧皇室典範第39条には「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とあり、皇族男子の結婚相手は皇族か特定の華族(旧公家や旧武家の上流階層)に限定されていた。こうした伝統と法令により、明治天皇と大正天皇はそれぞれ旧公家の一条、九条、昭和天皇は皇族の久邇宮(くにのみや)の女子を皇后とした。

 また、明治天皇の成人した4人の内親王の嫁ぎ先も、みな皇族であった。大正天皇に女子はなく、昭和天皇には4人の成人女子がいた。

 昭和天皇の長女の成子内親王は、戦前に結婚し、皇族の東久邇宮に嫁いだ。次女以下は戦後の結婚となり、新憲法や新皇室典範のもと、皇族ではないが、それぞれ旧華族につながる鷹司家、池田家、島津家に嫁いだ。中でも四女の貴子内親王は昭和35(1960)年に結婚する若い戦後世代であり、結婚直前の誕生日会見で語った「私の選んだ人」は流行語になった。

 当時はまだ見合い結婚が一般的であり、自由恋愛はどちらかといえば「ふしだら」とみられがちなころで、皇族女子が新時代の結婚のあり方をリードした形となった。貴子さんは戦後の自由な社会を体現した皇族女子の代表的存在であったが、誘拐されて身代金を要求された事件もあり、皇族が一般社会に溶け込む難しさの一面もみせた。

 昭和天皇の長男である今上天皇の結婚も大きな話題となった。将来の皇后たるべき女子は皇族あるいは旧華族上流の出身であるべきことという慣行とは異なり、新興財閥の令嬢を皇太子妃としたからである。このため旧上層階層の一部では反発する動きもあったが、民間からは歓迎された。この結婚も、大衆化する日本社会を一歩リードする形となった。
1963年10月、共同募金で街頭に立つ(左から)島津貴子さん、秩父宮妃殿下=東京・渋谷の東急文化会館前
1963年10月、共同募金で街頭に立つ(左から)島津貴子さん、秩父宮妃殿下=東京・渋谷の東急文化会館前
 その後、今上天皇の次男の文仁親王が大学教授の長女である川嶋紀子さんと、長男の徳仁親王が外交官の長女である小和田雅子さんと結婚するなど、天皇家の男子の婚姻相手はいわゆる旧上層階層の家柄に限定されなくなった。今上天皇の長女である紀宮清子内親王も地方公務員の妻となるなど、天皇の女子が民間に嫁ぐ道も開かれた。

 現在、未婚の内親王は皇太子家の愛子内親王、秋篠宮家の眞子内親王、佳子内親王の3人、女王は三笠宮家の彬子女王、瑶子女王、高円宮家の承子女王、絢子女王の4人の計7人である。今回の眞子内親王の結婚延期は、これらの皇族女子の今後の結婚のあり方にいくつか課題を投げかけたともいえる。