河西秀哉(神戸女学院大学准教授)

 皇室に関係する情報を私たちはどこで知るのだろうか。新聞、雑誌、テレビ、インターネット、まずはその辺りだろうか。そうしたメディアを通じて、私たちは皇室について、天皇や皇后、皇族の動向を知り、そして「象徴天皇」とはこうした姿なのだとイメージする。こうしたあり方は、長い伝統ではない。メディアが発達する前の人々は、このように皇室を知ることはできなかった。近代になって構築された体制だったのである。

 明治維新後、日本でも新聞が刊行されるようになり、新聞はこぞって皇室に関する記事も紙面の中に掲載していく。メディアは大衆消費社会が成立する状況の中で、ニュース素材として皇室を取りあげ、人々の興味関心をかき立てていった。

 とはいえ、政府と宮内省の下にマスメディアは統制されており、現在の私たちとは異なる形で皇室を見ていたはずである。つまり、どこか触れてはいけない権威として、天皇や皇族を捉えていたのではないか。だからこそ、戦時中には「国体」が強固に人々を拘束していったのである。

 しかし敗戦によって、その関係性は変化する。敗戦は、昭和天皇の戦争責任が追及され、天皇制廃止へと向かう可能性も想定される未曾有(みぞう)の危機であった。それを回避するため、宮内省はメディアを通じて世間に天皇への同情心を集め、責任追及の動きを和らげようとする。

 昭和21(1946)年1月1日に発布されたいわゆる「人間宣言」は、メディアが新たな天皇像をアピールする機会となった。政府と宮内省はメディアを味方にしつつ、敗戦後の天皇制の危機を脱し、象徴天皇制へと着地させようとしていたのである。

 新聞を中心とするメディアは、平和的で家庭的な昭和天皇像を数多く描くことで、人々にそのイメージを定着させた。メディアは政府・宮内庁の期待に応えたともいえる。一方で、象徴天皇のあり方をメディアが規定していったとも考えられる。この時期、両者は最も「蜜月関係」だったといえるかもしれない。
1946(昭和21)年2月、戦後の全国巡幸が始まり、戦災者が住む横浜市の稲荷台共同宿舎を訪れた昭和天皇=横浜市西区
1946(昭和21)年2月、戦後の全国巡幸が始まり、戦災者が住む横浜市の稲荷台共同宿舎を訪れた昭和天皇=横浜市西区
 その後、昭和33(1958)年11月からの「ミッチーブーム」によって、その関係は変化する。1950年代前半より、メディアは皇太子明仁親王の「お妃候補」を多数登場させ、人々の興味関心を集める記事を掲載していく。この時期、戦後経済は復興を遂げ、『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌、『週刊女性』や『女性自身』といった女性向け週刊誌などが創刊され始めていた。

 そうした新興週刊誌は、『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの老舗週刊誌から読者を奪うため、より人々の興味を引きつけるような記事を生み出していく。毎週のように新しい皇太子妃候補の名前が登場し、その人となりが紹介されるような「スクープ合戦」が展開されたのである。そこでは、プライバシーという概念は希薄だった。各雑誌が新しい皇太子妃候補を書き、そしてそうした記事の中で彼女たちは消費されていくことになる。