時間の経過とともに増幅されてきた不協和音が、ベルギーの地で修復不可能な状態となるまでチームをむしばんだ。田嶋会長の会見を総括すれば、歴史に残る更迭劇の理由はこの一点に集約され、最終的には監督よりも選手を取ったことになる。

 しかし、ここで疑問として残るのは、指揮官と選手たちの間に入るべき技術委員会は何をしてきたのか、という点だ。時に監督をサポートし、またある時には選手たちをフォローするなど、潤滑油となる役割も担わなければいけなかったが、結果として組織は瓦解(がかい)寸前の状態に陥った。

 いかに技術委員会が機能していなかったのかが分かったー会見でこう指摘された田嶋会長は、メディアに対して「全くそんなことはありません」と言下に否定している。

 「(協会として)さまざまな選手たちと、話し合いの場を持つなどしてきました。本来は協会ではなく技術委員会や代表スタッフがやるべきこと、というのは誰もがわかっています。ただ、(代表チーム運営が)監督主導だったように見えていたと思いますが、技術委員会もハリルホジッチ監督をサポートしながら、どのように改善していくのかを必死にやってきたのを私も見ていますので」

 史上初の外国人監督、オランダ人のハンス・オフト氏が代表監督に就任した1992年3月から、JFA内の技術委員会という組織が時には強化委員会という名称で、歴代の代表監督をサポートし、そして評価する役目を担って表舞台に登場するようになった。

 歴代の代表チームで最も緊迫した、要は一触即発の関係にあったのは2002年の日韓共催大会。2度目のワールドカップ挑戦にして初勝利を上げ、さらにはベスト16進出を果たして日本中を熱狂させたトルシエジャパンだった。

 エキセントリックかつ傍若無人な立ち居振る舞いで周囲を何度も辟易(へきえき)させてきた、フランス人のフィリップ・トルシエ監督に対して堪忍袋の緒が切れたのか。技術委員会の大仁邦彌委員長(JFA前会長)が「もうアイツとは関わりたくない!」とさじを投げたのは、トルシエ監督の就任から約10カ月が経った1999年7月だった。
2002サッカーW杯で会見を行ったフィリップ・トルシエ監督(左)と岡野俊一郎・日本サッカー協会会長=2002年5月21日(奈須稔撮影)
2002サッカーW杯に関して会見を行ったフィリップ・トルシエ監督(左)と岡野俊一郎・日本サッカー協会会長=2002年5月21日(奈須稔撮影)
 代替となる組織として急遽発足したのが、JFAの釜本邦茂副会長を本部長に据えた2002年強化推進本部だった。しかし、こわもての釜本本部長をしてもトルシエ監督のわがままぶりをもて余した。丁々発止のやり取りは日常茶飯事で、怒鳴り合いに発展することも珍しくなかった。