樫山幸夫 (産経新聞前論説委員長)

 平成の犯罪史上最悪といわれるオウム真理教事件の裁判が先日、すべて終了した。今後は元教祖の麻原彰晃(本名、松本智津夫)死刑囚らの刑の執行が焦点になるという。30年近く前、教団の恐ろしさが喧伝され始めたころ、筆者は〝尊師〟麻原にインタビューした。坂本堤弁護士一家殺害事件との関係を問いただしたが、もちろん〝全面否認〟だった。
会見する麻原彰晃ら=1990年
会見する麻原彰晃ら=1990年
 その後、教団は松本サリン事件、13人が犠牲になった地下鉄サリン事件と次々に凶悪なテロを引き起こしていった。ここまで恐ろしいとは当時は想像もできなかった。「執行の検討」というニュースにはやはり感慨を禁じえなかった。

 1990年(平成2年)2月。筆者は東京の政治部で、同月18日に投票が行われた総選挙の取材中だった。オウム真理教が「真理党」という政党を設立、党首の麻原教祖はじめ25人の候補者を擁立した。当時は中選挙区制で、麻原は旧東京4区(渋谷、杉並)から出馬した。

 当時、教団の存在は捜査当局だけでなく、国民の間でも、ようやく関心と警戒が高まってきていた。オウム問題に取り組んでいた坂本弁護士一家3人が1989年に横浜の自宅から行方不明となった事件への関与が疑われていた。選挙取材にかこつけて、麻原教祖にインタビューし、この問題を直接聞いてみようと思い立った。

 教団の広報担当者に取材を申し込むと、あっさりとオーケーが出た。メディアに登場することで、宣伝になると考えたようだ。条件がひとつだけつけられた。「インタビューするときは、教祖のことを必ず、〝尊師〟と呼んでください」というのがそれだった。

 指定された場所は、麻原候補が演説をするJR阿佐ヶ谷駅前。ちょうど先日のように雪が降りしきるたそがれ時、待つこと数刻、一行が選挙カーでやってきた。麻原教祖が演説を終えた後、近くに止めたベンツに案内され、車内インタビューが始まった。

 型通りに主要な公約として掲げていた福祉政策について聞いてみた。自らも目が不自由というだけに、「弱者のための福祉政策」をしきりに強調していた。こちらは聞き流してはいたが……。

 話が一通り終わった。頃合いはよし。ずばり聞いてみた。「坂本弁護士一家事件に教団が関与しているといわれていますが」

 〝尊師〟は怒ったり、声を荒げたりするでもなく、静かに答えた。「そういううわさがあることは知っています。私の不徳の致すところです。私自身まだまだ修行が足りないということです」ー。

 「教団の犯行ではないのですね」

 「十分に修行を積んで尊敬されるようになれば、そういうことをいわれることもないのでしょうがね」と殊勝な言葉を繰り返した。

 30分くらいか。あとで聞いたら「クルタ」と呼ばれるのだそうだが幹部用の服に身を包んだ麻原〝尊師〟からは、凶悪な事件を起こす教団のトップという怖さは全く感じなかった。一方で多くの信者の心をとらえ、崇拝を集めたオーラのようなものも感じられなかった。あの通りの魁偉な人相風体をのぞけば朴訥、物静かな語り口は、風変わりな青年といった印象だった。いま62歳というから当時は30歳半ばに差しかかるころだったろう。

 5年後、死者13人、6000人を超える負傷者を出した地下鉄サリン事件が起きた。その日、95年3月20日は筆者は、政治部デスクで朝刊当番にあたっていた。朝から取材現場、社内は大変な騒ぎだった。深夜になって防衛庁(当時)から送られてきた写真、いまでも鮮明に覚えているが、防護服に身を固めた自衛隊員が地下鉄車両内の洗浄作業を行っている生々しい光景の写真を見て、麻原教祖とのやりとりを思い起こしながら、朝刊最終版締め切りぎりぎりに写真を出稿した。