舛添要一(前東京都知事)

 西部邁(すすむ)さんが1月21日、多摩川に入水自殺した。その後、警察の捜査で自殺幇助(ほうじょ)の容疑で、東京MXテレビの番組『西部邁ゼミナール』の担当者と、西部さんが主宰していた「表現者塾」の元塾頭の2人が逮捕された。2人は西部さんのいわば「信者」で、「先生の死生観を尊重して力になりたかった」と供述している。

 また、2人は昨年から周到に準備したと言うが、刑法202条の規定により、自殺幇助は6月以上7年以下の懲役または禁錮となる。西部さんに頼まれたとしても、彼の承諾・同意が違法性阻却事由とはならない。

 西部さんも「信者」の2人も、自殺幇助が刑法上の犯罪に当たることは知っていたと思う。そのために多摩川へ向かうときに防犯カメラの設置されている幹線道路を避けたのであろう。本人は自殺願望を遂げたとしても、何となく後味の悪い結末となってしまった。

 1987年から89年にかけての教官採用人事をめぐる「東大駒場騒動」では、村上泰亮教授、公文俊平教授、西部さん、それに助教授だった私の4人が辞表を出して大学を去った。このときは、新進気鋭の文化人類学者、中沢新一・東京外国語大助手を、駒場キャンパスにある教養学部の助教授に採用しようとしたが、それを推薦したのが西部さんだった。ところが、反対する「守旧派」は正当な手続きさえ踏みにじり、この提案は葬り去られてしまった。

 西部さんが辞表を出した最大の理由は、この人事を進めた村上教授や佐藤誠三郎教授に多大の迷惑をかけたというものであった。つまり、他人に迷惑をかけるのを嫌った人だったので、自殺幇助で2人に迷惑をかけることは躊躇(ためら)ったはずである。

 しかし、それでも実行したのは、奥さんに先立たれ、手も不自由になって、生きる気力を失ったのであろう。また、今日の日本社会の状況にも絶望し、一日も早く死にたいという思いが募ったのかもしれない。

1997年11月、国際政治学者として
活躍していたころの舛添要一氏
 西部さんは「60年安保」当時、全日本学生自治会総連合(全学連)中央執行委員として指導的役割を果たしたが、その後転向し、保守の思想へかじを切る。そのときに、彼に浴びせかけられた冷ややかな大衆の目が、彼の大衆への懐疑を生んだものと思われる。

 そして、東大教養学部の教授会は、ルールを無視し、多数の横暴によって人民裁判的に一定の結論に導こうとする大衆社会の危うさを再認識させたものと思われる。駒場時代には、政治学と経済学という専門の違いはあっても、よく昼食時などに議論を戦わせたものである。

 特に話題にしたのが、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』(1930年)だった。2人で大衆がいかに信用ならないかを確認し合ったものである。彼は、その考えを『大衆への反逆』(1983年)という評論集にまとめ、保守主義者として世間の注目を集めた。

 当時は、本を出版すると同僚教授たちに献呈するのが常であった。西部さんは「お礼を言われるどころか、本が売れてもうかっていいなと嫌みを言われる。だから、もう本をあげるのは止めるよ」と苦笑していたことを思い出す。大学のキャンパスは、嫉妬の渦巻く閉鎖社会であった。