むしろ、「やむにやまれず」「自分たちが何とかしなければ本懐が遂げられない」との逡巡(しゅんじゅん)、葛藤、苦悩から来る行動だったのではないだろうか。「いくら西部先生からの頼みとはいえ、断るのが普通だ」という意見も側聞されている。

 だが、主従関係の問題ではなく、優しさや人情の問題であり、自分自身を勘定に入れない振る舞いの意識の発露だろう。ややもすると、法律に抵触するかもしれないことを前提にしても、そう簡単にドライに割り切れないのが、人間関係の厄介なところだ。

 それにしても、警察は2人を逮捕しなければ、事実を解明できなかったのであろうか。西部先生の遺体の口に劇薬が入った瓶が差し込まれていたことや、防犯カメラの映像などから窪田氏、青山氏の関与が浮上したのはわかるが、2人とも捜査に協力していたうえ、任意の取り調べにも全面的に応じていた。逃亡する意思も見えず、否認もしていない。

 したがって、警察が逮捕、勾留したことについては、疑問と違和感をおぼえる。さらに、テレビや新聞などの連日の報道は、窪田、青山両氏の映像や写真を大々的に流し、窪田氏が護送車で移送されるシーンは繰り返し流された。まだ起訴もされていない段階から、「周到に計画していた」などと、彼らを「悪人」のように扱う印象操作にも、激しい違和感を禁じ得ない。

 西部先生に忠誠を誓い、葛藤しながらも手助けをした両氏やその家族まで巻き込み、皆がある意味で本意でない展開になってしまったことは、西部先生自身が予想したものでもなかったはずだ。いま現在の私の心境を語れば、「残念」という言葉で片付けられる問題ではないが、本当に悔しい。

 振り返れば、西部先生はもう15年以上前から「自裁したい」と私にも語っており、年齢を重ねるにつれ、ここ数年は「自分の意思もわからない状態で看取られるのは耐えられない」、「もうそろそろ限界だ」とも言っていた。

 そこで私が、「ちょっと待ってください、まだまだですよ。この腐り切った日本に喝を入れていかなければなりません」と、気持ちを翻意させようとすると、西部先生は「もう覚悟はできているんだ。君のほうこそ覚悟を決めて受け入れてくれよ」と真面目な顔で、やや凄むように言ったこともあった。
奈良「正論」懇話会で講演をする評論家の西部邁氏=2010年3月、奈良市
奈良「正論」懇話会で講演をする評論家の西部邁氏=2010年3月、奈良市
 実は、自裁する5日前、西部先生と私は駐日ロシア大使館を表敬訪問していた。日本とロシアの友好について、ロシア代理大使と意見交換を行い、その後はテレビ局のスタッフを交えて、夜半まで酒をごちそうになった。翌日にお礼の電話をしたとき、西部先生は「昨日は会えて楽しかったよ。でも、もう会えないからね」と私に言った。

 そして1月21日、西部先生の言葉は現実になった。訃報を聞いて思わず涙がこぼれてしまい、しばらくは心が重苦しい日々が続いた。数日後、渋谷区幡ヶ谷の代々幡斎場に遺体が棺に納められて安置され、最後のお別れをさせていただいた。

 西部先生の顔を撫でることなど生前は想像だにしていなかったが、お別れと思ってお顔に手を当てたらひんやりと冷たかった。まるですべてを成し遂げた後のような美しい表情であった。火葬にも参列させていただき、出棺前には、先生が好んで歌われた「蒙古放浪歌」を、僭越(せんえつ)ながら花向けに高唱し、棺の中に歌詞が書かれた歌集を納めた。その後、ご遺族、近親者の方々とともに、骨揚げもさせていただいた。

 私にとって印象深いのは、西部先生が抱いていた憂いだ。亡くなる前、西部先生は、安倍政権が次々に進める対米隷属政策に対して、「日本は独立の気概を失ったのか。まさに『JAP.COM』だな。ざまあみろ」と、嘆いていた。「JAP.COM」とは、西部先生の最後の著書『保守の遺言』(平凡社新書)にあるように、日本人のほとんどが会社員の振る舞いのように、目先の利害に反応して右、左へと喋々(ちょうちょう)していることを指している。

 いま、私は西部先生のこの言葉を自分なりに反芻(はんすう)している。西部先生は、保守という言葉の意味を理解しようとしない人ばかりであるとも嘆いていた。

 西部先生が旨としていたことを集約すると、「公正、節度、寛容、義俠」を大切にしていたのではないかと思う。西部先生は、これらの精神を失うことなく、自身の知識や教養を積み重ね、客観的評価にも堪え得る説得力を持っていたのであろう。

 西部先生には長年にわたり、公私ともにお世話になった。力不足かもしれないが、先生の言霊(ことだま)をしっかり胸に刻み込んで、その意志を自分なりに体得していきたいと思っている。心より、ご冥福をお祈り申し上げる。