自殺の「意志」は現代日本でどう扱われているのか

『月刊Wedge』

読了まで17分

本多カツヒロ (ライター)

『自殺の歴史社会学』 元森絵里子准教授インタビュー

 昨年10月、大手広告代理店である電通に勤務していた高橋まつりさんが、過重労働が原因で自殺したと労災認定され、長時間労働に対し同社へ世間の厳しい目が向けられた。

 また、学校でいじめに合い、自殺に及んでしまったというニュースを耳にすることも度々ある。

 自殺やその背景について、自殺当時は注目されても、その後法廷では何が争われているのかはなかなか聞かない。過労自殺、いじめ自殺の損害賠償請求裁判が、どのような論理で法廷で争われ、社会学の立場からはどのように見ることができるのか。

 『自殺の歴史社会学』(青弓社)の共著者の一人である明治学院大学社会学部の元森絵里子准教授に話を聞いた。

――一時期の年間自殺者3万人超からは下回ったとはいえ、現在でも自殺のニュースを目にすることは多いと感じます。今回、自殺をテーマにした理由とは?

元森:歴史社会学の研究会を共著者である貞包英之さんや野上元さんたちと開くにあたり、共通のテーマを設定して歴史社会学の方法や視角を考えることになりました。私たちの社会は、「人は死にたくないはず」ということを前提に、「人が自ら死を選んでしまう社会は何かがおかしい」と考えがちです。しかし、それは自明でしょうか。自死が美学と考えられた時代もあります。

『自殺の歴史社会学 「意志」のゆくえ』
(貞包英之, 元森絵里子, 野上元 著、青弓社)
 そういった社会と個人の意志の関係性の歴史性、そして近代的個人や主体、社会性といった社会学が取り組んできた問題を改めて考えられるテーマとして「自殺」を選びました。

――元森先生は、今回の本で「過労自殺」と「いじめ自殺」の章を担当しています。昨年も電通の新入社員の自殺をめぐり世論の注目が集まりました。「過労自殺」について考えようと思ったのはどうしてでしょうか?

元森:近代社会では、自殺は自殺者の意志により行われると信じられて来ました。もちろん、その意志は、貧苦や病苦によって生じているという意見も受け入れられてきましたが、司法においては、自殺の意志なるものが想定されてきました。他の原因も関係したかもしれないが、死の責任はそれを選んだ本人にあるとされがちだったのです。

 しかし、過労自殺の歴史的転換点となった電通過労自殺裁判(91年に電通社員の男性が自殺。00年に最高裁で自殺に対する企業の責任が認められた)においては、本人の意志は免責され、過重労働が原因で精神の病に罹患したために自殺した(自殺は当人の意志ではなく、死の責任は企業にある)と法廷では判断されました。

 この電通の過労自殺裁判に触れている慶應義塾大学文学部の北中淳子教授の「「意志的な死」と病理の狭間で」(2003)などの論文では、自殺を個人の意志によるものではなく、精神の病とみなす傾向が現れてきたことが指摘されています。それと同時に、それを法廷で認めさせた過労自殺裁判の目的が過重労働を課す会社・社会を問い正すことだったように、それが社会問題化のうねりとも関係していると書かれていました。

 そこで、現代の自殺を考えるには、個人の意志と精神の病と社会問題という3つの説明の拮抗関係を見る必要があると考え、過労自殺について調べることにしました。

――電通過労自殺裁判が転換点となった背景とは?

元森:そもそも長時間労働の末に自殺したとしても、労災認定が下りる見込みは非常に低かったんです。労災認定は業務を通じた健康上の損害を補償する制度です。そのため、業務起因性が明白な事故や怪我と違い、過労による死が業務上の損害とみなせるかが問題となってしまいます。

 ただ、労災認定については1960年代から、例えば過労により脳・心臓疾患を患うことは徐々に認められるようになりました。しかし、自殺では、最後に死を選んだのは本人の意志ではないかという問題が、ここに加わります。

 そこで、労災認定が望めない中、企業の責任を問うために提訴された電通裁判で、弁護団は、「過労で脳・心臓疾患を患う」のと同様に、過労で精神障害を患い自殺した(当人の意志ではない)という、当時としては大変インパクトのあるレトリックを採用し勝訴しました。

 背景には、自殺とうつ病などの精神疾患の関係についての研究が進んだことがあげられます。自殺者の大半がうつ病などの精神疾患に罹患しているという精神医学の知見があり、WHO(世界保健機関)の「自殺予防・医療者のための資料」では、先進国、途上国ともに、自殺者の80~100パーセントが精神障害だったとされています。
2006年5月、自殺対策基本法の制定を求め、JR新宿駅西口で署名運動をする人たち
 こうしたエビデンスにより、自殺は精神病理として扱われ、自殺の「精神医療化」と説明したくなるほどになりました。つまり、自殺を図ったということは、精神障害に罹患していた可能性が高い、となったのです。ただ、では実際に精神医療化といえるほどの事態が進んだかというと、そうでもありません。

 この法理が定着し、労災認定制度にも反映された結果、労災認定や損害賠償請求裁判では、自殺した人が実際に精神障害に罹患していたかは、あまり問われなくなっています。代わりに、精神障害に罹患してもおかしくない労働状況だったかが問題となります。実務の場では、精神の病説と社会問題説がこう拮抗しているのです。

――「精神疾患→自殺」というレトリックが採用されるようになった00年以降、過労自殺の損害賠償請求裁判で、遺族側が勝てるようになったのでしょうか?

元森:過労自殺の場合、世間が注目するのは、自殺の責任を企業側に認めるかです。その意味では、電通裁判判決以降、労働時間などの条件が整えば、企業の責任が認定される道が開かれました。ただ、認められた場合、過失相殺(編注:被害者自身や遺族等にも過失が認められる場合、賠償額からその分を考慮し減額すること)の議論に進むことがほとんどです。

 電通過労自殺裁判では、過失相殺が0でした。過失相殺が0でないケースでは、精神障害に罹患したのは、会社の責任なのか、それとも本人や家族にも責任があるのかが、結局もう1度問われていることになります。最終的な賠償額は50~80%減額されているそうです。

――昨年10月に電通社員だった高橋まつりさんの自殺が労災認定され、電通本社にも東京労働局が立入調査に入るなど、注目を集めています。奇しくも新たな電通社員の死がさらなる歴史的転換点となる可能性は高いのでしょうか?

元森:民事裁判では上記のように訴え方が固まってきており、労災認定も下りやすくなっています。ただ、だからといって、過重労働については歯止めが掛かっていません。その意味で、労働法上の刑事責任が問われる意義は大きいでしょうね。

 また、今回、初の『過労死等防止対策白書』が公表された日に、遺族が厚生労働省で記者会見をしたことに、新しい社会問題化のうねりを感じます。

 2000年代に入ると、日本社会で自殺対策が進みました。「自殺対策基本法」が2006年に制定され、2007年には「自殺総合対策大綱」が閣議決定されます。この自殺対策の中では、うつ病に罹患し、自殺しないようメンタルヘルス対策の重要性が謳われる傾向があります。労働現場でも、社員をうつにしない社会にしましょうと、15年12月から従業員50人以上の事業所でストレスチェックが義務付けられました。
2017年10月、高橋まつりさんの写真を前に会見に臨む母、幸美さん(川口良介撮影)
 しかし、労働時間の短縮につながるかと言えば、そこは曖昧なままだったんです。そもそも、電通の裁判などで使われた精神障害に罹患し自殺したというのは、あくまで裁判に勝ち、企業側の責任を認めさせるためのレトリックだったはずです。メンタルヘルスばかりが強調されて、過重労働削減の方向へ進まないのでは意味がありません。

 むしろ、メンタルヘルスを管理できない本人の責任問題が回避してしまう可能性すらあります。自殺は、精神の病か、社会の問題か、本人の意志の問題かという点は、未だ拮抗しているのです。

 2014年に過労死等防止対策推進法が制定され、過労自殺は自殺問題とは別に、労働・社会問題であることが再確認されました。今回の電通事件をめぐる関係者の動きや報道を見れば、過労自殺をめぐって、社会の理解が再度変わっていく可能性はあると思っています。

――次にもう1つの章である「いじめ自殺」の話題に移りたいと思います。いじめ自殺もよく耳にします。

元森:いじめ自殺で毎年多くの子どもを失っているというイメージを多くの人が抱いているかもしれませんが、実際には統計史上最多でも2013年の9件です。こうしたいじめ自殺がどうメディアで語られるかについては、教育社会学などの研究の蓄積があります。 

 子どもという存在が自殺をするというのは、世間一般的にも受け入れづらい出来事だと思います。そこで、子どもの死が社会でどのような決着をつけられているかを調べてみようと、いじめ自殺をめぐる裁判の論理に注目しました。

――よく話題になる論点として、生徒がいじめられている事実を学校は知っていたのか、そしてその責任はどこまで負うべきかというのがあります。判例を調べる限り、そのあたりはどうでしょうか?

元森:今回、調べた限り、電通裁判以来趨勢が変わった過労自殺とは異なり、いじめ自殺に対する学校の責任を認めた判例は非常に少ないことがわかりました。 

 裁判では、いじめの結果、心身の傷や自殺に対する学校の責任が認められるには、そのような結果を学校が予見できたはずだということが必要になります。そこで、いじめ自殺の裁判では、自殺という結果まで予見できたとみなせるかが、問題となってきました。

 最初期は、自殺は生徒の意志によるものであり、学校は自殺の意志までを予見して予防することはできなくても仕方がないと判断されました。

 しかしその後、東京都の中野富士見中学でのいじめ自殺事件の判例が、現在まで続くスタンダードとなっていきます。そのポイントは4点あります。1点目にいじめの事実認定、2点目に学校側の安全配慮義務違反の認定、3点目に損害賠償範囲の認定。ここで予見可能性が問われ、自殺までの責任を認めるかどうかが問われます。

 自殺までの責任が認められた場合は、4点目に過失相殺の認定に進みます。これらの4点について詳細な検討を行い、一つひとつ判断していく判例が定着しています。
(iStock)
 その結果、いじめの事実が認定されなかったり、学校は義務を果たしていたとされたり、いじめを止められず生徒に心身の傷を負わせた責任は認めても、自殺までの責任はないとされたりすることが多く、いじめ自殺までの学校の責任は認められにくいのです。ただ、自殺の予見可能性を問うときに、当人の意志という観点で考えない判例も増えてくるなど、変化は見られます。

 なお、自殺までの学校の責任を認めた判例は少ないのですが、そこだけにとらわれるのではなく、自殺までの責任はないけれどいじめを止めることが出来なかった責任は認めるという判例にも注目する必要があると思いました。

 自殺までの責任を認めた判例は、すべて過失相殺に進んでいます。その結果、ひどいいじめを止められなかった責任のみを認定したケースと、自殺までの責任を認めたケースとで、認められた賠償額がほとんど変わらなかったり、ときには逆転していたりすることがあります。仮に金額を責任の重さとみなせば、いじめを止められなかった責任は十分痛烈に問われているとも言えます。

――どうしても過労自殺裁判といじめ自殺裁判を比べてしまうのですが。

元森:一般的に、長時間労働を強いた企業と、いじめを止めることが出来なかった学校、そして自殺に至った社員と生徒とは、同じような構造に見えるかもしれません。ただ、加害者を見ていくと、過労自殺で長時間労働を強いたのは上司と会社、いじめ自殺ではいじめた生徒なんです。止めることが出来なかった教師や学校は、直接の加害者とは、また違うポジションにいることになります。

 また、自殺するほどの長時間労働となると、会社以外での時間がほとんどないような状況になりますが、いじめの場合は、いじめられた子には、学校外での時間もたくさんあります。こういった中で、学校にむやみに自殺まで責任をとれと責め立てていくことが建設的なのかは、もっと社会的に議論していく必要があると思います。

――ということは、過労自殺裁判といじめ自殺裁判では、法廷で争う論理が違ってくるわけですね?

元森:過労自殺などは、精神障害に罹患していたために自殺をしたという論理で企業の責任を問うという方向性になっていますが、今まで述べてきたように、子どもの自殺ではそうはなっていません。

 いじめ自殺の民事裁判を担当された弁護士に取材した際に、過労自殺では「過労→精神疾患→自殺」というレトリックで戦って企業責任が認められてきているが、いじめ自殺も「いじめ→精神疾患→自殺」という訴え方をしようとは思わないのかとたずねてみました。そうすれば、いじめを止められなかった責任さえ認められれば、事実上、自殺までの責任が問えるという形に持ち込めるのではないかと。
2016年12月、会見終了後、頭を下げる電通の石井直社長(中央)ら(菊本和人撮影)
 ところが、それは考えていなかったという回答でした。子どもが精神疾患に罹患するという発想がなかったとのことでした。スクールカウンセラーが学校に導入されるなど、別の場面では子どもがうつ病を始めとする精神疾患に罹患することが強調されているのですが。

――過労自殺と同じようなレトリックで裁判を戦っている事例はないのでしょうか?

元森:判例を読んだ中で、いじめで精神障害に罹患したという訴え方をしているケースは3つありました。神奈川県立野庭高校で高1の女子生徒が自殺した事件、栃木県鹿沼市の中学校で中3の男子生徒が自殺した事件、そして名古屋経済大学附属市邨中学校で中1時にいじめられた女子生徒が、転校後に自殺した事件です。このうち、野庭高校と名古屋経済大附属のケースは、実際に精神疾患という医師の診断が出ていましたから、訴状にもその旨書かれているだけです。

 唯一、鹿沼の件は、精神疾患の診断がなかったにもかかわらず、いじめられてうつ病に罹患した末に自殺したと、二審では過労自殺と同じレトリックで訴えています。一審では、精神疾患については触れなかったらしいのですが、担当した弁護士が子ども事案を専門とする方でなかったから柔軟に考えられたのか、過労自殺を参考にして同じようなレトリックを組み立てたのだそうです。

 裁判というのは、訴えた論理でしか判断されません。原告側が、自殺に至ったのはこういった経緯で、それがこの法律の問題に抵触しますと論理を組み立て、裏付ける証拠を添えて訴えます。裁判所は、本当にそのような経緯だったか(事実認定)、それが本当にその法律に違反しているのかを判断します。結果として、鹿沼の事件では、裁判所は「いじめ→精神障害→自殺」という原告側の論理構成には異議を挟まず、それに沿った判断を行いました。

 ただ、うつ病に罹患したと推定される時期が、いじめにあった時点から離れすぎているとして、「いじめ→精神障害」という事実認定がされませんでした。もし、この裁判で勝訴していれば、いじめ自殺の電通過労自殺裁判になったかもしれません。

 なお、本書の観点から見れば、これだけ自殺の原因は精神障害という論調が強まる中で、子どもが精神障害になるというレトリックで訴えようと思わないということ自体が、私たちの個人や意志、大人や子どもという想定の一端を表しているようで興味深いです。

――最後に、あえてこんな人に本書を読んで欲しいというのはありますか?

元森:自殺はよくないことと思ってしまいがちですが、安楽死の議論があるように、最終的に自らの意志で死を選ぶ権利はあってもいい気がしませんか?その両方に引き裂かれ、スッキリしない気持ちについて考えてみたいという人に、是非読んでほしいですね。また、個人と社会の関係性を様々な形で社会学として問いたいと考えているので、方法論的な含意も汲んでいただければ嬉しいですね。
(iStock)
 厭世自殺と生命保険自殺を扱った貞包英之さんの章、警察やメディアなどの現場の対応を扱った野上元さんの章も、是非読んでいただきたいです。

この記事の関連テーマ

タグ

西部邁「自殺の死生観」の罪と罰

このテーマを見る