小林信也(作家、スポーツライター)

 衣笠祥雄さんが亡くなり、野球界だけでなく多くの分野から惜しむ声が寄せられている。現役時代のフルスイング、野性味あふれる躍動ぶりとは対照的に、ちょっとハスキーながら穏やかな語り口と柔らかな物腰、野球選手の中では異彩を放つ紳士的な雰囲気が印象に残っている。その姿には、ひとりの男の人生の到達地点を見る思いがした。

 プロ入り当初、衣笠さんは紳士でも一目置かれる存在でもなかった。野球によって社会に認められて自信を抱き、誇りを持って生きる人生を手に入れたようだった。あのころの野球はそれを可能にする世界であったと、遠い憧れのような熱い気持ちが湧き上がってくる。

 少年時代に僕が見た衣笠さんは、ヤンチャそうな負けん気あふれる若者だった。私が田舎(新潟)で観ていた巨人戦のテレビ中継に衣笠さんが登場し始めたのは、衣笠さんが入団4年目でレギュラーの座を奪った1968年、ちょうど私が中学に上がった年だった。翌年に大卒で入団し、すぐに活躍を始めるチームメイトの山本浩二、阪神の田渕幸一らはどこかおっとりとしていて、ホームランこそ飛ばすが荒々しさは感じなかった。ところが衣笠は、目の前の自分より大きな動物に下から飛びかかろうとするような猛々(たけだけ)しい気迫を感じさせた。

 それが、日本人である母とアフリカ系米国人の父の子に生まれたハーフの身の上、幼いころの心ないバッシングやいじめによって形成された心の奥の思いのためだったのかどうかはわからない。だが、明らかに衣笠さんは常に戦いを求めていたし、まるでボクシングで相手と殴り合っているような雰囲気で野球をしていたように感じていた。

 ところが、そんなイメージとは裏腹に、当時から野球選手としては紳士的であった。死球を受けても、静かに一塁に向かう衣笠の姿がいまでも目に浮かぶ。衣笠は通算161個もの死球を受けており、清原、竹之内雅史に次ぐ歴代3位の記録だ。無事これ名馬というが、衣笠さんは死球をたくさん受けながら、休まず試合に出続けたのだ。

 衣笠さんといえば、2215試合の連続試合出場記録が真っ先に語られるが、「鉄人」たるゆえんはそれだけにとどまらない。

 衣笠さんは長嶋茂雄よりたくさんのホームランを打っており、その数は504本にのぼる。王貞治、野村克也、門田博光、山本浩二、清原和博、落合博満に続く歴代7位。張本勲と同数だ。実は田渕幸一、金本知憲、中村紀洋らのホームラン打者よりも多い。

 盗塁も通算266を記録している。1976年、盗塁王にも一度輝いている。500本塁打以上では張本勲(319)に続く数字。長打力と機動力を兼ね備えた強打者だった。
広島の衣笠祥雄選手(当時)=1968年6月
広島の衣笠祥雄選手(当時)=1968年6月 
 ゲッツー(併殺)と言えば、現役終盤のミスター巨人、長嶋の代名詞のように感じるが、ミスター鉄人はゲッツーでも長嶋をしのいでいた。併殺打の歴代1位は野村克也で378。これは鈍足ゆえもあるだろう。野村に続くのが衣笠で267。次いで大杉勝男が266、長嶋と中村紀洋は257で4位だ。三振を恐れないフルスイングの衣笠のスタイルがゲッツーの数に表れている。三振は意外と少なく、歴代9位の1587。1位清原(1955)、5位金本(1703)、6位中村(1691)らがはるかに上を行っている。

 衣笠さんは、平安高校で春夏二度甲子園に出場したエリートではあるが、注目度はさほど高くはなかった。ドラフト会議は1965年から始まっているが、衣笠は「自由競争」の最後の年、1964年のオフに広島と契約を交わしている。6球団から誘いを受け、自らの意志で広島カープを選んだと語っている。当時の広島は新人たちがひしめいていた。何しろ、翌65年の第1回ドラフト会議で、広島は18人もの選手を指名している。このうち8人は入団拒否、入ったのは10人だが、衣笠が一軍に上がり、試合に出るには、大変な競争を勝ち抜く必要があった。