二軍時代のやんちゃな逸話はよく知られている。契約金で買った高級外車を乗り回し、しばしば事故を起こした。深夜まで飲みに出て帰らない衣笠を合宿所で深夜3時まで待ち続け、それから朝までバットを振らせたコーチ関根潤三の逸話も有名だ。

 入団3年目、監督に就任したのが根本陸夫だ。その後、西武、ダイエーの監督を歴任、フロントでも辣腕(らつわん)を振るった伝説の人物だ。

 「ひと目見た時から、この人には逆らえないと感じました。人生のタガは外しちゃいけないと教えられた」と、後に語っている。その時のコーチが関根だ。

 古き良き時代の指導者と、その熱血指導で才能を伸ばした選手。まだ発展途上だったプロ野球を隆盛に導き、日本中を野球の熱気で元気づけていた時代が遠ざかっていく実感がある。

 パワハラ問題で揺れる世相の下、野球の指導姿勢も問われ、揺らいでいる。私自身、もはやスパルタ指導は違うと思うし、やらされる指導がプロ野球でも幅を利かせた時代は過去の遺物と思う。しかし、まだ成熟前の野球界で、少しでも世間の関心と好感と尊敬を得ようと必死になって野球に情熱を注いでいた当時の熱さは、子ども心に懐かしく感じられる。

 思えば、衣笠がいなければ、いま当たり前になっている本拠地チームを熱く応援するムーブメントの礎も築かれなかったかもしれない。

 関西のファンが阪神タイガースを熱烈に応援し、名古屋のファンが中日ドラゴンズを、広島のファンが広島カープを応援するのは当然のように思うファンが少なくないだろうが、赤ヘル旋風(せんぷう)が巻き起こる前は、関西でも名古屋でも日本じゅうで「半分は巨人ファン」というのが語られざる現実だった。

 Bクラスが定位置の広島も例外ではなかったが、山本浩二とともに衣笠がカープを押し上げ、1975年には初のリーグ制覇するに至って、広島の誇りは勢いを持った。

 Jリーグのホームタウン制が先駆けになったとはいえ、カープ優勝の感激を日本が体験していなければ、プロ野球にも本拠地チーム支持の伝統が今日のように定着するにはもっと時間がかかった可能性がある。その意味で衣笠祥雄は、日本のプロ野球に新たな生きる道を与え、次の夢をもたらした功労者と言えるだろう。
衣笠祥雄氏の背番号「3」を掲げる広島ファン=2018年4月24日、横浜スタジアム(撮影・斎藤浩一)
衣笠祥雄氏の背番号「3」を掲げる広島ファン=2018年4月24日、横浜スタジアム(撮影・斎藤浩一)
 惜しまれるのは、衣笠祥雄ほどの人物が、一度もコーチ、監督として後進の指導にあたる機会がなかったこと。なぜ引退後ユニホームを着なかったのか、これには諸説ある。いわく「球団との折り合いがよくなかった」「指導に興味も自信もなかった」「国民栄誉賞を受賞したために指導者として失敗が許されないと感じていた」といった逸話である。

 特徴的な声、博識、歯に衣(きぬ)着せぬ発言も聞く者の心に響いた。評論家としての才覚が指導者への道を阻んだのかもしれない。

 指導する「自信はない」と言う一方で、「60歳になったら子どもと一緒に野球をやりたい。全国を回って、そういう機会が持てれば」とも語っていた。プロ野球の指導者でなくても、小学生や中学生のグラウンドに衣笠が立ったら、どんな野球を演出しただろうか。それを思うと、衣笠のもう一つの夢が実現せずに終わったことを残念に思う。

 他方で、広島カープ一途に歩み、1979年には悲願の日本一の立役者だった大先輩、衣笠祥雄に、2年連続リーグ優勝という「カープ黄金時代の再来」とも言える隆盛を見せた現監督、選手たちに敬意を表したい。

 87年に当時の世界記録2131試合連続出場を達成し、本場アメリカにも日本野球の気高さを伝え、野球界発展に大きなエネルギーを与えてくれた衣笠祥雄さんのご冥福を心からお祈りします。