報道や言論に関わる人間にとって、実は客観性というものはあまり意味はない。ベトナム戦争の地獄を報道している最中に「あ、また一人、ベトコンが死にましたね」という中継はほとんど意味がない。それよりもナパーム弾で焼かれ、裸で街路を泣きながら走ってくる少女らを撮影した、あまりにも有名な一枚の写真(ニック・ウット氏撮影)の方がよほど人々の心を揺さぶる。

 ピューリッツァー賞を受賞したこの写真には、強烈な反戦とアメリカ・南ベトナム軍への非道の訴えがにじみ出ている。撮影者が偏っているかいないのかで言えば偏っているが、それがなんだというのだろうか。中立・客観を気取って無機質な数字を羅列する「公正な報道や言論」には、あまり意味があるとは私は思えない。

 しかし、このような報道や言論姿勢は、全てその根底に「事実」をベースとしたものがなければならないということだ。ナパーム弾で背中を焼かれたベトナムの少女は、撮影者が捏造したものではなく事実で、ありのままの悲劇を切り取ったものだ。事実を元にした言論や報道なら、その左右偏向は全く許容できる。

 このベトナム少女の写真は結局、ベトナム反戦運動を大いに刺激し、アメリカのベトナム撤退の世界的世論を後押ししたが、写真の切り取り方やキャプション、タイトルを変えれば「共産主義の犠牲者」として、全然別のプロパガンダに使えなくもない。

 ただそれは全て事実を元にしている、ということが前提である。BPOが指摘した『ニュース女子』の当該番組には、その根底の作法が欠落していた。BPOはそれを指弾したのであり、それ以上でもそれ以下でもない。BPOの結論に瑕疵(かし)を見いだすことはできないだろう。

 事実を基にした解釈なら、右であろうと左であろうと容認しなければならない。それこそ表現の自由である。が、事実に基づかない嘘(うそ)やデマを根拠とした言論や報道は、その根底からして間違っているのだから、それを「言論」とか「報道」とか「ニュース」などと呼んではいけないのである。
1972年にAP通信のニック・ウット氏が撮影した、ベトナム戦争でナパーム弾攻撃を受けて逃げる少女らを写した「戦争の恐怖」と題された写真
1972年にAP通信のニック・ウット氏が撮影した、ベトナム戦争でナパーム弾攻撃を受けて逃げる少女らを写した「戦争の恐怖」と題された写真
 私は前述のように沖縄の基地問題を実際、何度も自分の目で確かめた結果、名護市辺野古沖への基地移設を是認する態度に傾きつつあるが、それは普天間基地があまりにも住宅と隣接して危険であるという事実があるからである。

 一方、高江のヘリパッドはすでに代替ヘリパッド6個が建設済みで、これと引き換えに国頭村の大きな部分を占める北部訓練場のかなりの部分は去年の段階で地元に「返還済み」となっており、辺野古の問題とは構造が異なることに注意しなければならない。

 何事も事実を前提として、時に人情や義憤が多分に介入した「偏った」目線こそ、言論や表現の要諦である、と私はしみじみ思うのである。