いじめは物理的被害にも増して精神的被害が大きなウエートを占めるといわれています。ところが、被害を受けた児童生徒の性格や環境、力関係など個人差は相当に幅があるため、同じいじめ的言動(特に軽度と思われる冷やかし、無視、からかい、はたきなど)であっても受け止め方はさまざまです。定義では、行為を受けた児童等が心身の苦痛を感じれば、行為の重さや大きさに関係なく「いじめ」になりますから、現実問題として、全く同じ言動がいじめになったり、いじめにならなかったりすることが頻繁に起こるようになるわけです。

 関連して、特に小中学校では、子供たちは日常習慣のごとくお互いにからかい、冷やかし、いたずら、言い合いなどを、よくゲームや遊び感覚で行います。実際、私も学校内でそのような場面を何度も目にしています。やる側の子供はいじめをするつもりではなく、無意識のうちにこれらの行為に及んでいることが多いのです。また、やられる側の子供も全く苦痛ではなく楽しんでいる場合もあって、教師が一見していじめと判断するのが難しい行為が日常的に発生しているのが学校なのです。

 上記のように、子供の行為が実際に「いじめ」に該当するのかどうか、被害者側、加害者側、学校間で見解の相違が生じやすいわけです。ところが、文科省(国)がいじめを法律で定義し明文化してしまったために、被害者本人以上に保護者にとっては「いじめ」と認定されるかどうかは、謝罪や賠償の面からも大きなカギとななるので、納得できずこじれて事が大きくなりがちなのです。

 いじめに限らず「自殺」の原因を特定することは、大人、子供を問わず真実を知る本人から聞き取りができないだけに極めて難しいのが現実です。今回のように不幸にも児童生徒が自殺した場合には、いじめが自殺の原因であったかどうか確かめたくても、いじめの定義は「受けた行為により子供自身が心身の苦痛を感じたかどうか」です。ゆえに本人がこの世にいなければその心情を直接聞くこともできず、残された文章や周りの証言から推定するしかなく、人の命が絡んでいるだけにますます被害者側と加害者側で感情的な対立が起こりやすいのです。

 いじめが法律で防止(禁止)されたことで、大きないじめ被害が起こるたびにマスコミが過熱報道を繰り返し、正義感の塊のような市民がそれに同調する傾向があります。中にはいじめの有無や行為そのものの有無があいまいなケースまで、加害者とされた子供と保護者を会員制交流サイト(SNS)などで犯罪者扱いし糾弾するような傾向もあり、彼らも自殺に追い込まれはしないか危惧されます。

 そういった事態が頻繁に起きるようになれば、マスメディアの自殺報道に影響されて自殺が増える「ウェルテル効果」により同情、後追い自殺する若者や、現在陰湿ないじめを受けている児童生徒たちが、「自分が死ねば家族や世間が加害者に復讐してくれる」といった仕返し手段として「自殺」を選んでしまうという悪循環に陥る危険があります。

 これらは、感情を持つ人間の本質的な言動であり、根絶できないいじめを文科省が「いじめ防止対策推進法」という、まさに法の論理で定義まで決めて防止(根絶)しようと躍起になる一方で、「隠ぺいするな!」と各教育委員会や学校にいじめの報告が増えるように徹底させるという矛盾した施策を続けていけば、最も疲弊するのは当事者である子供たちであり、保護者や先生です。
(iStock)
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 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。