碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)

 1972年、西城秀樹さんは16歳でデビューした。グアム島で元日本兵の横井庄一さんが発見され、連合赤軍によるあさま山荘事件が発生した年だ。

 1945年に終戦を迎えた日本は、街に浮浪児があふれていた。そのような時代から「もはや戦後ではない」(『経済白書』1956年)とばかりに1950年代の高度成長時代に突入する。そんな中、西城さんは1955年に生まれた。彼が物心つき始めた1960年代は池田勇人内閣の「所得倍増計画」で、日本が計画以上の経済成長を成し遂げる。

 60年代は、当初高価だった子供用自転車も一気に普及する。昔は子供用自転車など存在していなかった。高校進学率も60パーセント程度から80パーセントに急上昇した。余裕ができた日本の家庭は、子供を大切にし、お金をかけ始めたのである。

 東京タワーの完成は1958年。東京オリンピックは1964年。ビートルズ来日が1966年。アポロ月着陸が1969年、そして1970年の大阪万博と続いていく。

 カルチャーの面では早熟だった西城さんは、小学生(1960年代)で洋楽に目覚め、中学ではバンド活動を始め、70年代の高校時代にはジャズ喫茶で演奏している。

 60年代から70年代、街には子供が大勢いた。子供番組はゴールデンタイムに放送されていた。次々と新しいことが起きる。科学はどんどん進んでいく。日本にも子供たちにも、夢と希望と元気があった時代だ。西城さんもそんな時代を生きてきたのだ。

 60年代は学園紛争の時代である。政治も揺れていた。だが、70年代に入ると、若者は「しらけ世代」(政治的無関心)と呼ばれるようになる。悪く言えば、「三無主義」(無気力、無関心、無責任)の時代で、そんな若者の姿勢が批判されたものである。だが、よく言えば、肩の力が抜けて日本のポップカルチャーが花開いた時代ともいえるだろう。サイケ、ヒッピー、長髪。みんなが自由を叫び始めた時代なのだ。
1975年11月、「日本歌謡大賞」のノミネート歌手発表会で熱唱する西城秀樹さん
1975年11月、「日本歌謡大賞」のノミネート歌手発表会で熱唱する西城秀樹さん
 70年代は、現代日本文化のプロトタイプ(原型)が作られた時代だ。郊外にはニュータウンができ、「ニューファミリー」たちが生活を始める。ニューファミリーは、両親は戦後生まれで若く、夫婦と子供の核家族のことだ。当然「大家族時代」の古い価値観からはかけ離れている。彼らは、友達同士のような夫婦関係を築き、マイホーム志向でファッションや流行に敏感に反応し、新しもの好きで消費も旺盛だ。

 70年代には、ファストフード文化も作られる。マクドナルドやケンタッキーフライドチキンが日本にもできて、立ったまま食事をしてもOKになるようになる。昔の日本なら「不作法だ」と注意されていただろう。日清食品の「カップヌードル」が生まれたのも1971年だ。ファミレスができたのも、スーパーやコンビニが広がったのも、この時代だった。アニメ『ドラえもん』だってコンピューターゲームだって70年代生まれなのである。

 2011年に休刊した情報誌『ぴあ』の創刊は1972年のことだ。学生起業によって作られた雑誌だ。音楽、映画、演劇などの公演情報が小さな文字でびっしり書かれていた。1959年生まれの私も、『ぴあ』を片手に東京の街を歩き、山ほどあった「名画座」(旧作映画を主体に上映する映画館)通いをしていた。そんな自分が好きだった。

 西城さんは、この時代とともに活躍していく。デビュー翌年の1973年には、オリコンチャートで初めてベストテン入りした。郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれ、スターダムを駆け上っていく。1974年にはNHK『紅白歌合戦』に初出場。それから、西城さんは国民的番組に11年連続出場を果たし、1975年には、日本人のソロ歌手として初めて、日本武道館でのリサイタルを開いた。