西条昇(アイドル・お笑い評論家、江戸川大教授)

 歌手の西城秀樹さんが16日に亡くなったと知り、すぐに頭の中に浮かんだのは、ヒデキが一躍、男性アイドルのトップに上り詰めていく1974年にテレビ番組で披露されたワイルドでダイナミックなパフォーマンスの数々だった。

 同年2月発売の「薔薇の鎖」での軽量化した特注スタンドマイクを振り回してポーズを決めてみせるアクションには強烈なインパクトがあった。これはイギリスのロック歌手であるロッド・スチュワートの来日公演を見に行き、実際にスタンドマイクに触らせてもらった結果、自分の曲に取り入れることを思いついたという。

 また、同年5月発売の「激しい恋」では、「♪やめろと言われても」という歌詞の後で、両手の親指を胸のほうに向けつつ左足を上げてみせる振付がウケ、多くの人がまねをした。また、181センチの長身で高くジャンプしてはうずくまるように着地するなどの激しいアクションには画面からはみ出すような迫力が感じられたものだ。

 そして、同年8月発売の「傷だらけのローラ」では、シャウトやビブラートを多用したヒデキの〝絶唱〟ぶりが遺憾なく発揮され、間奏で長髪を振り乱して「ローラ!」と繰り返し絶叫するたびに観客が熱狂した。

 「激しい恋」と「傷だらけのローラ」はともに馬飼野康二が作曲したもので、ヒデキのハスキーな声と歌い方には、馬飼野の大げさなほどにドラマチックな曲調が良く似合った。

  TBSのドラマ「寺内貫太郎一家」で貫太郎役の小林亜星と体を張ったけんかのシーンを毎回演じたのも、ハウスバーモントカレーのCMに出演するようになったのも、74年のことだった。

 当時9~10歳だった筆者は、教室で同級生の男子たちとモップやホウキをスタンドマイク替わりにして「薔薇の鎖」を歌ったり、「激しい恋」の振付をまねたりしていた。同級生や上級生の女子たちの中にはヒデキのファンも少なくなかった。アニメ「ちびまる子ちゃん」のまる子のお姉ちゃんはヒデキの熱狂的なファンだが、ちょうど、時代設定がその頃だからだろう。
派手なステージを展開した西城秀樹=1981年11月、日本武道館
派手なステージを展開した西城秀樹=1981年11月、日本武道館
 日本のショービジネスの殿堂であった日本劇場で58年から定期的に開催されていた「日劇ウエスタン・カーニバル」では、初期の「ロカビリー三人男」(平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス)、60年代後半のザ・スパイダースやザ・タイガースをはじめとしたグループ・サウンズ(GS)など、若い女性ファンに支持された人気者を数多く生み出してきたが、「アイドル誕生」とのサブタイトルがつけられた72年5月の公演には、デビュー間もないヒデキも出演している。

 73年に入ると、ヒデキは中性的な歌声で王子様的イメージの郷ひろみ、ヤング叙情ソング路線の野口五郎とともに「新御三家」として男性アイドルの象徴的存在になった。

 現在、男性アイドルといえばジャニーズのアイドルを連想する人が多いと思われるが、実は日本の男性アイドル像が確立される中で最も大きな役割を果たした一人が、ジャニーズではなく、芸映プロダクションに所属していたヒデキだったのだ。

 新御三家の中では、唯一、郷ひろみがジャニーズ事務所の所属だったが、75年には別の事務所へ移籍。ジャニーズ事務所は5年近い低迷期を迎えている。その間、ヒデキが20歳だった76年2月発売の「君よ抱かれて熱くなれ」から、23歳となっていた78年5月発売の「ブルースカイブルー」までのシングル曲の作詞を阿久悠が担当し、大人になったアイドルとしてのヒデキの魅力を引き出すことに成功した。

 そして、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーした79年2月発売の「YOUNG MAN (Y.M.C.A)」がヒデキ自身にとって最大のヒット曲になった。両手でアルファベットの文字を作るポーズは72年11月発売の「チャンスは一度」以来、ヒデキの振付を手掛けていた振付師の一宮はじめとともに考案したとのことだ。