(デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より)

 世界最大を誇った大和型戦艦は、軍縮条約を挟み、実に20年ぶりに建造された戦艦であった。その間の技術的進歩を取り込みながら進められた「新時代の戦艦」の模索は、並大抵のものではなかった。大和型戦艦の計画完成までを追う!

 太平洋戦争開戦と前後して竣工し、終戦を前に失われた「大和」型戦艦は、現存する写真や図面が少ないこともあり、しばしば「謎の戦艦」と呼ばれる。だが実際、その建造経緯や設計の変遷については、比較的史料に恵まれている。

 「大和」型戦艦の設計が公式に開始されたのは、日本海軍がワシントン海軍軍縮条約からの脱退を決めた昭和8(1933)年頃のことである。主力艦建造を縛るこの条約からの脱退によって、日本海軍は制約を受けることなく自由に戦艦建造ができるようになった。

 しかし新型戦艦の建造をにらんだ検討はそれ以前から開始されていた。次期主力艦の主砲を46センチ(18インチ)以上とすることも、パナマ運河の幅の制約により米海軍が46センチ砲戦艦を建造することは困難であるという推測から決定されたものである。

 昭和8年に艦政本部四部部長、藤本喜久雄少将が次期主力艦として提案した戦艦案は、排水量5万トン、50センチ(20インチ)3連装砲塔4基、艦載機12機、速力30ノット以上の高速戦艦であった。この設計は技術的に現実味の薄いものだったが、軍令部が空母や巡洋艦部隊と共働可能な高速力を、新戦艦に要求していたことがわかる。

 しかし、藤本案は短命に終わる。発表と前後して発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故によって、藤本設計に潜む動的復元性不足という欠陥が明らかになったからである。
 藤本のもとで設計に従事していた江崎岩吉造船官により再検討された案では、主砲を46センチ砲9門に縮小する一方で、船体規模を拡大し、復元性向上に配慮がなされている。

 江崎案から、新型戦艦が誕生することになる。福田啓二造船官をトップに、「軍艦設計の神様」といわれた平賀譲予備役造船中将を顧問として再編成された新型戦艦設計チームの最初の提案は、全長294メートル、排水量6万9500トン、46センチ砲9門、速力31ノットのA140であった。