中村武生(京都女子大非常勤講師)

 この連載で、筆者は「幕府」や「藩」、「天皇」「朝廷」などといった言葉の使用を避けている。別の言葉に言い換えてしまうと、読者はどうしても奇異に感じられるかもしれない。そこで、先学の成果に導かれながら、これらの言葉を使わない理由を述べておきたい。

 現在、一般に「幕府」といえば、「征夷大将軍」を頂く武家政権の意として使用される。しかし18世紀後半以前、「幕府」が徳川将軍の政権(政府)を示す言葉として使用された例は極めて少なかった。では、どのような語が使われていたか。

 直轄の学術機関、昌平坂学問所の儒者で「寛政の三博士」の一人として知られる尾藤二洲の著書『称謂私言』(寛政12(1800)年)では、徳川将軍による政府の適切な呼称として「大朝」「府朝」「大府」「征夷府」「王府」が挙げられている。これらは全て「日本国王の政府」を意味する言葉といえる。だが、この中に「幕府」は入っていない。

 もちろん、歴史用語として、必ずしも同時代に使われた語句を使用しなくてはならない、ということはない。徳川将軍を「公方(くぼう)様」と呼ぶべきだと筆者も思ってはいない。

 しかし、「幕府」という言葉は、ある政治的意図をもって積極的に使用され、その後、本来の意図を離れて広まったものなのである。

 当時、古典研究の分野である国学が流行した結果、「天皇」の存在が強く意識されるようになっていた。「天皇」が存在するのに、どうして江戸の徳川将軍が政治の中心にあるのか、と問われるようになったのである。

 この動向を受けて、18世紀後半以後、後期水戸学者で儒者の藤田幽谷(ゆうこく)とその弟子たちが、徳川将軍の正当性を主張するために、積極的に使用し始めたのが「幕府」なのである。
皇居・東御苑にある旧江戸城の櫓「富士見櫓」。江戸時代から残る遺構で、三層構造になっている
皇居・東御苑にある旧江戸城の櫓「富士見櫓」。江戸時代から残る遺構で、三層構造になっている
 藤田幽谷の著書『正名論』には、以下のような記述がある。「幕府が皇室を尊(たっと)べば、すなわち諸侯も幕府を尊び、諸侯が幕府を尊べば、すなわち卿や大夫(公家)は諸侯を敬す。その結果、上下の関係は保たれ、世の中全てが協和す」(筆者意訳、寛政3(1791)年)。

 つまり、「徳川将軍は『天皇』から政権を任されている、だから正当なのだ」と主張するのである。この考えは「大政委任」と呼ばれる。そのため、いわば「天皇」に遠慮して、日本政府を意味する「王府」などの語を使用せず、本来「出征中の将軍の陣営」(『日本国語大辞典』)という意味であった「幕府」を用いだした。これが19世紀半ば以後、徳川家の地位を低く扱いたい者によって利用され、「幕府」の語は広まっていったといえる。

 もちろん「大政委任」は事実に反する。確かに慶長8(1603)年、徳川家康は「天皇」から征夷大将軍に任ぜられたが、それは名義上のことにすぎない。豊臣秀吉の死後、圧倒的な軍事力を背景に実力で諸侯を従えたのであって、「天皇」から政権を委ねられたわけではないのである。