「羽生結弦に国民栄誉賞」舛添要一が素直に喜べない理由

『舛添要一』

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舛添要一(前東京都知事)

 平昌五輪フィギュアスケートの金メダリスト、羽生結弦に国民栄誉賞が贈られることが決まった。また、すでに北海道幕別町がスピードスケート女子で金メダルをとった高木菜那、美帆姉妹に栄誉賞を贈り、カーリング女子で銅メダルだったロコ・ソラーレ北見の選手たちにも、北見市が栄誉賞を贈っている。

 平昌五輪での日本人選手の活躍はうれしい限りだし、心から祝福したいが、このような「栄誉賞ラッシュ」、私は素直に喜べない。

 そもそも国民栄誉賞は、プロ野球の本塁打世界記録を達成した巨人の王貞治をたたえるために、1977年に福田赳夫首相によって創設された。その目的は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」にある。対象者は「民間有識者の意見」を聞いて、内閣総理大臣が決める。さらに、対象者の受賞の意思を確認することも前提となっている。

 既存の内閣総理大臣顕彰は学術文化、防災、社会福祉など6分野で全国民の模範となる者が対象でスポーツが含まれていないこと、また当時37歳であった王は叙勲には若すぎたこと、この二つの理由で国民栄誉賞が作られた。

 第一号の1977年から2012年までの受賞者は19人と1団体。安倍政権になってからは、すでに6人にのぼる。これに羽生が加われば7人となり、多すぎるのではないかとの声も上がっている。

 第一の問題は、明確な基準がないことである。「民間有識者」の意見は聞くが、最終的には内閣総理大臣が決めるので、首相個人の意向次第になる。首相とて「神ならぬ身」であり、公平な判断ができるわけがない。

 また、そのときの「空気」、世論の動向に左右される危険性が大きい。それだけに、時の政権によって人気取りの政治的目的に使われるのではないかという疑問が呈されることになる。

 例えば、生存中か死後か、また、現役か引退後かでも大きく変わる。歌手の美空ひばりのように、生きているときに贈るべきだったという批判もあるし、大リーグのイチローは現役中ということで、自ら辞退した。

 さらに、羽生はフィギュアとして66年ぶりとなる五輪連覇が理由といわれるが、五輪連覇以上が基準なら、柔道の野村忠宏、水泳の北島康介、体操の内村航平は、それを満たしているのに受賞していない。この不公平の理由を誰も説明できない。
五輪2連覇達成を祝い行われたパレードで、沿道に集まった大勢の人たちに笑顔で手を振る羽生結弦選手=2018年4月、仙台市
 要は、そのときの大衆のフィーバーの度合い次第であり、それに政治家が便乗するのはポピュリズム(大衆迎合主義)以外の何ものでもない。まさに、「パンとサーカス」の劇場型政治である。パンとサーカスは、為政者が自らの失政を隠し、国民に政治への関心を持たせないようにするための道具である。

 実際に平昌五輪の開催中は、テレビ放映の大半が中継で埋め尽くされており、国会開催中でも、国内政治のことは話題にすらならなかった。終わったとたんに、厚労省や財務省の資料の問題が出てきたのも不思議ではない。

 今回の平昌五輪でも、カーリング女子選手に対する熱狂ぶりは異常であり、同じ銅メダリストのモーグルの原大智(だいち)がかわいそうなくらいである。これがポピュリズムというものである。

 ちなみに、北見市へのふるさと納税が増えているというが、これも変な話だ。北見市へ納税した者が住んでいる自治体は、その分減収となる。自分の財布から寄付金を出すなら大歓迎だ。だが、返礼品も含めて問題が多すぎる。ふるさと納税制度をこのように「悪用」してほしくはない。

 第二の問題は、受賞者にも重荷になるということである。こんな賞をもらうと、国民の模範となるべく品行方正に努めなければならなくなる。特に若いころに受賞すると、その後の人生に「栄誉」を背負っていかねばならなくなる。息苦しい限りだ。プロ野球の盗塁王、福本豊は「立ち小便もできなくなる」と言って辞退したという。

 スポーツ選手にとっては、五輪であれワールドカップであれ、メダルだけで結構だ。どこまで記録を伸ばせるか、世界の一流選手と闘って勝てるか、それが最大の問題で、そのために厳しい練習をする。その結果が歴史に残る記録になる。それだけで十分だ。

 つまり、純粋にスポーツだけで勝負しているのであって、だからこそドーピングを絶対に許してはならないのである。国民栄誉賞をもらおうなどと思って練習に励む者はいない。記録やメダル以外の「不純物」は不要である。

 また、国民に感動を与えるために練習しているのではないし、その過程でけがをしたり、リハビリに励んだりするのは、ひたすら勝つためである。けがを克服したことが国民に感動を与えたなどといわれても、そんな道徳教育の話と勝負の世界は別である。お上に栄誉賞を授けてもらわなくても、国民の喝采があれば、選手には国民が喜んでいることは分かる。スポーツ選手を政治の道具にしてはならない。

 極端な想定をすると、引退後に人生を間違えて犯罪者になろうとも、現役時代の記録は不滅である。下手に国民栄誉賞など受賞していたら、それこそ全人格的に否定されて、金メダルまで剝奪しようという暴論すら出てくるかもしれない。

 若いころ、スポーツ選手だった人間が、年月を経て政治家や経営者になることはあるが、そのような職業には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものである。国民栄誉賞などを背負っていれば、リスクを冒したくないので、政治活動や経営をのびのびと実行することが不可能となろう。つまり、現役引退後の長い人生で、憲法で定められた基本的人権である「職業選択の自由」すらなくなってしまうのである。
フィギュアスケート男子で2連覇を果たし、安倍首相(左、代表撮影)から電話で祝福される羽生結弦選手=2018年2月(共同)
 以上のような問題は、すべての「栄典」について共通して言えることである。中でも勲章については、かねてから賛否両論があるし、実際に辞退する者もいる。しかし、国民栄誉賞と違って、勲章は年を取ってから受章するので、いわば「冥土の土産」であり、その後の人生を左右するといったことはない。

 勲章については、栗原俊雄の『勲章-知られざる素顔』(岩波新書)に詳しいが、この中で「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂・がくどう)の例が紹介されている。尾崎は文部大臣、東京市長、司法大臣などの業績で、1916年7月に勲一等旭日大綬章を受ける。しかし、1942年の翼賛選挙を批判したことから、不敬罪で巣鴨拘置所に留置された。

 戦後、「憲政の神様」として一躍時の人となった尾崎は、1945年12月に宮中に召されたが、その際に「けふ(今日)は御所 きのふ(昨日)は獄舎(ひとや) あすはまた 地獄極楽いづち行くらん」という自作の狂歌を昭和天皇に見せたそうだ。そして、翌年5月には勲章を返上している。

 私は、モロッコ王国より、2008年11月にアラウイ王朝勲章グラントフィシェに、また2016年3月にフランス共和国より、レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールに叙せられている。これらは、モロッコやフランスとの交流に貢献したことが認められたものであり、光栄に思っている。

 ところが、2年前の「舛添バッシング」のとき、この勲章にまでケチをつける者が出てきた。大衆迎合主義(ポピュリズム)の怖さである。五輪で優秀な成績を収めたメダリストたちには、同じような嫌な思いをさせたくない。国民栄誉賞は廃止すべきである。

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