状況も変わるかもしれないし、人ぞれぞれでよい。政治的なことについてストレートに発言を続け、結果として炎上している多くの方々のことは尊敬しているし、応援している。人は、自分が「こっち」と思う方に行くしかないのだ。そのような多様性こそが社会である。
 
 笑いには期待している。意見が分断しがちなネット状況でコメディの精神をうまく使えば、「日本をもみほぐしたい」という願いが叶うかもしれない。しかし、批評的な笑いは難しい。特に、政治的な問題について笑いを適用するのは難しい。

 コメディアンの目的は笑いであり、社会批評ではない。社会批評をすることで笑いが起こればそれはすばらしいことだが、社会批評をしても笑いが起こらないとすれば、それはコメディアンの仕事ではない。

 以前、英国のBBCで『リトル・ブリテン』というコメディ番組を大ヒットさせたコメディアン、デイヴィッド・ウォリアムスとマット・ルーカスが来日した時、話す機会があった。その時、彼らが言っていたことが忘れられない。英国においては、王室は長年にわたってコメディの対象になってきた。そこには、タブーはなかった。

 ただ、目的はあくまでも笑いであって、王室批評自体がゴールなのではない。ここから先は笑えるか、それとも笑えないか。ぎりぎりの境界をコメディアンたちは探っている。

 デイヴィッドとマットは、「ダイアナ妃の事故の後しばらく、英国でも王室のことを笑いにするのは難しくなった」と言っていた。ネタにしても、聴衆が笑わなくなったというのである。日本における政治ネタも、それで聴衆が笑えばコメディアンの仕事として成立するのだろうが、笑ってもらえなければ、それは社会批評であってもコメディではない。

 もっとも、コメディの「境界」は常にダイナミックに変化するものであって、そのフロンティアを探ってみたいというのが、「コメディ魂」なのであろう。

 そんなコメディアンたちを、私は応援したい。日本では、政治的なコメディは難しいと思われがちだが、日本には、批評的コメディのユニークな可能性があるとも思っている。

 たとえば、漫才。「漫才」は、批評的スタンスを持ち込むのに適したフォーマットの可能性がある。「ボケ」と「ツッコミ」をうまく呼吸させれば、欧米のスタンダップコメディとは違ったかたちで、日本でも政治的コメディを成立させられるかもしれない。

 「ボケ」が過激なことを言い、「ツッコミ」が常識に戻すことでバランスを取る。かつて、ツービートが見事に見せたように、そんなフォーマットならば、難しいと言われがちな地上波テレビでも、放送できる可能性があるのではないか。
「ツービート」のビートたけし(左)とビートきよし
「ツービート」のビートたけし(左)とビートきよし
 さらに、「落語」というフォーマットの可能性。落語は、世界の各地での笑いの文化を見渡した上でも、類まれにユニークなかたちをしている。特に、一人の演者が、多数の「登場人物」を演じ分けるという点。長屋で、くまさん、八っつあん、与太郎、ご隠居などの登場人物たちが、それぞれの思惑、個性で動き、全体としておもしろい調和ができる。