橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 龍の力を手に入れるべく本拠地を小牧山に移転すると決定した信長。その工事は、永禄6(1563)年2月に開始された。その城は「火車輪城(かしゃりんじょう)」と名付けられる(『定光寺年代記』)。火の車輪の城とはなんともビジュアル的な想像を刺激されるネーミングだが、一体この名前はどういう由来によるものなのだろうか。

 「火車」「火車輪」という言葉は、仏教で地獄に落ちた罪人を縛り付けて拷問する、火のついた車輪を意味し、それがのちに地獄から罪人を迎えにくる車輪に転じた。『宇治拾遺物語』にも、昔、寺の米を5斗(1/2石)ほど借りたままにしていた老僧の臨終に際し、地獄の鬼が炎をあげて燃える火車をひいて連れ去りに来るというエピソードが納められており、あまりにも恐ろしいそのイメージは妖怪としての存在に変容していく。

 つまり、信長は小牧山城とその主である自身を「正義の象徴」と規定し、逆らう者は悪であり火車輪=織田軍が出動し地獄へ送ってやるぞ、とアピールしたのではないか。昼には日の光を反射してキラキラと輝く石垣が、夜には無数のかがり火が常に敵の視界に入り、いつ何時地獄の使者として織田軍が攻め寄せて来るかと神経をさいなみ続けるのだ。実によくできた演出方法というほかはない。

 彼はその後永禄8(1565)年(永禄7年説もあり)に犬山城を包囲して陥落させるのだが、それ以前、犬山城を防衛する支城だった黒田城の和田新助と小口城の中島豊後守が、丹羽長秀の調略によって信長に寝返っている。

 特に小口城は小牧山城と犬山城のちょうど中間に位置しており、連日「火車輪」のプレッシャーにさらされ続けたあげく、信清の家老である中島豊後守は降伏の道を選んだのだろう。

 身を守る盾を失った格好の犬山城は文字通り「生(はだ)か城」(=裸城)となり(『信長公記』)、二重三重の柵の中に閉じ込められて抵抗のすべもなく開城するのである。
小牧山城跡模擬天守
小牧山城跡模擬天守
 ところで。

 先に紹介した『宇治拾遺物語』の火車の話だが、これは非常に興味深い内容を含んでいるので、ここで取り上げておこう。巻第四ノ三「薬師寺別当の事」という項がそれである。

 かつて米を少し流用したばかりに地獄に召されかけた老僧は「そんなことで火車に乗せられてはたまらぬ」と慌てて弟子たちに贖罪(しょくざい)の経を唱えさせ、なんとか極楽からのお迎えを受けることができた。

 話は「さばかり程の物遣ひたるにだに火の車迎へに来たる、況(ま)して寺物を心のままに遣ひたる諸寺の別当の地獄の迎ひこそ思ひやらるれ」で終わる。この程度の着服ですら火車が迎えに来るのだから、いわんや寺の資財を自儘に使っている今の寺々の寺務長の高僧たちは、皆火車が地獄からお迎えに来ないわけがないだろうよ、というわけだ。