閑話休題。義昭に頼られ、「麟」花押で応える信長。だが道のりは厳しかった。義昭を将軍に就けるためには軍勢を率いて上洛しなければならないが、その道筋の美濃には敵の斎藤龍興が勢力を維持している。信長が犬山城を落とし、美濃中部の諸城を奪ったのは、そんな状況の下だったのである。

 信長は12月5日に「ご命令をいただき次第、その日のうちにでも上洛のお供を致しましょう」と義昭の側近、細川藤孝(のちの幽斎)に書き送っている。

 ただ、そのためには前提条件が一つあった。上洛の道筋にあたる美濃の斎藤龍興である。この織田家にとっての強敵を説得して織田軍を無事に近江から京へと通過できるようにし、留守中の尾張の安全も確保しなければならない。義昭側は龍興にも働きかけて信長と講和休戦するよう求めた。「尾濃和睦」である。龍興もこれに応じる姿勢を見せた。

 この結果、義昭側は永禄9(1566)年7月に奈良で「信長と尾張・三河・美濃・伊勢の軍勢が来月出陣する」と触れ回るなど、すでに上洛が実現間近と喜んだ。しかし、どうも龍興は裏で反織田の策謀を続けていたらしく、信長はやがて上洛を断念してしまう。それどころか、8月29日には美濃の河野島(こうのしま)に攻め込むという挙に出た。

 せっかく上洛戦を敢行し、「麟」花押の目指すところを実現するまであと一歩だったのに、龍興の不穏な動きに邪魔されてあきらめなくてはならなくなったのが悔しくてたまらなかったのだろう。

 「やはり美濃は武力で制圧しなければ、京への道は開くことができぬ」

 信長の美濃侵入はそう思い直した結果であり、また上洛挫折の鬱憤(うっぷん)晴らしでもあったに違いない。

岐阜市歴史博物館内にある織田信長像
 ところが、である。この作戦は失敗に終わる。折からの大雨で木曽川が洪水を起こし、一帯が水浸しとなったために織田・斎藤の両軍ともに身動きできなくなり、やっと水がひいたのは10日後になってのことだった。川を越えて侵入している織田軍は思いも寄らない長陣に兵糧も乏しくなり、疲れきっていたことだろう。結局信長は退却するのだが、増水した川で少しばかり兵が流される損害を受けたらしい。

 こういう場合、敵は「相手は数知れないほど多くの者が川で溺れ死んだ」と宣伝するものだ。斎藤家も、当然そのように世間に吹聴して、信長は義昭の講和斡旋(あっせん)を反故(ほご)にした上に美濃で惨敗を喫したとして

「天下の嘲弄これに過ぎず」

と信長を笑いものにした(「中島文書」)。

 もっとも、信長にとってそんなことよりも無念だったのは、大蛇(龍)の力によって水を味方にすることを心がけてきたにもかかわらず、この一戦では木曽川の水に邪魔をされたことだったろう。