検索ワード:ゲーム/55件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    窮地に追い込まれると強くなる 井山囲碁の「神髄」とは何か

    朴道純(元全日本学生囲碁名人) 「井山裕太の強さの源泉は何か?」というテーマで執筆依頼を受けたとき、真っ先に思い浮かんだのが「発想の豊かさ、斬新さ」だった。他の棋士なら何も気づかずに通り過ぎるような局面で手を止め、検討陣が考えもしなかった着手を放つ場面が1局に1回以上はある。打たれた当初は意図がわからなくても手順が進んでいくと隠れていた意味に気づかされることが多い。 今年の1月21日に行われた第54期十段戦挑戦者決定戦のVS余正麒七段戦での一着、  白1のケイマに黒2とツケたのは驚愕の一手(1図)。もし負ければ七冠達成が一気に遠ざかるという大舞台でも「自分が打ちたい手を打つ」という気迫が伝わってくる。師匠の石井邦生九段が井山に与えた「自由に、元気よく打ちなさい」というアドバイスがそのまま具現化したような手である。 他人が引いたレールをなぞるのではなく、自分自身の力で道を切り開いていくという思想は盤外にも表れている。当時、小学四年生だった井山少年は自分で研究会を作ったのである。理想通りの環境を作るためには既製の研究会に属するのではなく、自分で立ち上げるべきだという事実に10歳の頃から気づいていたのだ。井山研究会にはたくさんの棋士たちが集まり、大成功。井山が少年の頃から実力と人格の両方を兼ね備えていたことがわかる。 「自分が打ちたい手を打つ」とか「自分自身の力で道を切り開く」と口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい。囲碁の対局には勝ちまたは負けと結果がはっきり出るからだ。勝つために日夜努力している棋士にとって対局の棋譜は自分の分身である。その棋譜に敗北というレッテルを張られることは自分自身を全否定されたことに等しい。負けを恐れるあまり、常識に従ったり、他人を模倣するなど、無難な道を選択してしまうことが多い。敗北への恐怖を克服 井山にとって最初の壁はプロ入りを目指す院生の頃に訪れた。自分が打ちたい手を打った結果が勝利に結びつかず、入段予備軍だったAクラスから一つ下のBクラスへ落ちてしまったのである。 井山の母・宏美さんは当時を次のように振り返る。「そのころスランプだったようです。まっくらな自分の部屋で碁盤をポツンと見つめている。このときを思い出すといまでも涙が出ます。小さいのに大きなものを背負っているのだなと。言ってやりました。あなたは宝物。碁が強いから大切なのではない。たとえ強くなくても私たちの子供なんだから……。そしたら裕太ったら大声で泣き出しました」(※1)余正麒七段(手前)を破って十段戦の挑戦権を獲得した井山裕太六冠=1月21日夜、大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影) このとき井山七冠はたとえ負けたとしても絶対に味方になってくれる両親と言う存在を強く意識したのだろう。負けるのは心の底から悔しいが、すべてを否定されるわけではないという事実に気づく。敗北への恐怖を克服した結果、スランプを脱して12歳という若さでプロ入りを果たす。 入段後、井山は周囲の期待通りに成長した。平成17年には阿含桐山杯で優勝し、16歳4か月という史上最年少記録でタイトルを獲得した。翌平成18年には棋聖、名人リーグ入りの最年少記録も塗り替えるなど、目覚ましいスピードで成長していく。初めての名人リーグで挑戦権を獲得した井山は張栩三冠(当時)と激突する。 第1人者である張と期待の新鋭の井山による第33期名人戦七番勝負は一進一退の末、3勝3敗で最終局へもつれこんだ。勝てば名人という大一番は張が貫録を示し防衛。敗れて自室に戻った井山の頬に大粒の涙が流れた。悔しさと自分のだらしなさを責める気持ちを抑えられず、30分ほど泣き続けたそうだ。「敗因はすべての面で張栩さんに及ばなかったからだ」と自分に言い聞かせて気持ちを切り替えた井山は師匠の石井九段に電話で結果を報告する。 石井九段は「よく頑張ったよ。全体を通して堂々としていた」と弟子の健闘をねぎらった後に「次が勝負だよ」と付け加えた。インターネットで1000局近く指導し、常に弟子の成長を願っていた師匠の言葉は井山の胸に深く突き刺さった。「この敗戦を糧にして来期も挑戦する」と気持ちを前向きに切り替え、翌年の名人リーグを全勝で勝ち抜いて再挑戦する。第34期名人戦七番勝負では4勝1敗と張を圧倒し、ビッグタイトルを獲得した。(※2) 「自分が打ちたい手を打つ」とか「自分自身の力で道を切り開く」という理想は家族や師匠による手厚いサポートがあって初めて実現するのだ。目標が高ければ高いほどうまくいかない場面が頻繁にやって来る。井山は周囲の手助けによって困難を切り抜け、第1人者への道を駆け上がっていく。 「井山裕太七冠の強さの源泉は何か?」というテーマを与えられ、次に思い浮かんだのは「劣勢な局面での逆転術」だった。斬新な発想は常に成功するわけではない。常識から外れているがゆえにうまくいかない場合もある。非勢な状況でも安易に土俵を割らず、勝利へのチャンスをつかむのが実にうまい。不利な状況では辛抱して反撃の機会を待つ戦略と勝負手を放って局面を打開するという二つの戦略がある。この硬軟両様の対応策を使い分けるのが秀逸なのだ。 第54期十段戦挑戦者決定戦では1図の後、余が華麗なサバキで対応したため、井山は劣勢に。お膝元の関西総本部の控室でも「逆転は難しい」という声一色になるほど、井山は窮地に追い込まれる。井山だけが身に着けた優れた技術 劣勢を打開したのは2図、黒1、3という勝負手だった。中央で戦っているうちに黒1の一子が絶妙に働き、井山は流れを引き寄せる。差が縮まったあとはじっくりと打ち進めて余の失着を誘い、逆転に成功。持ち前の巧みな逆転術で七冠全冠制覇への最後の砦である十段位への挑戦権を獲得した。 常識にとらわれない自由な発想で打ち進め、優勢になればそのまま逃げ切る。もし不利になった場合は卓越した逆転術で勝機をつかむ。ものすごく単純に説明すればこのような筋書きで井山は勝ち星を積み重ねてきた。最後になぜ井山だけがこのように優れた技術を身に着けることができたかを考えてみたい。 このことを読み解くためのキーワードは「世界一」だと思う。 小学3年生の時、2度目の小学生名人になった井山はインタビューで将来の夢を問われ、「世界一の棋士になりたい」と答えた。慢心することを恐れた石井九段は中国棋院で行われる全国児童囲碁大会に井山を特別参加させる。日本では敵なしの強さを誇っていたはずなのに、中国では5勝4敗という凡庸な成績しか上げられなかったショックは想像以上に大きかった。これ以降、井山は「世界一」を目標に上げることはなくなった。 もちろん「世界一」になることを断念したわけではない。「世界一の棋士になりたい」という理想と「中国では同年代相手に勝ち越すのがやっとだった」という現実のギャップに打ちのめされたのだろう。「世界一の棋士になりたい」と自分自身が胸を張って語るため、井山はさらに囲碁へ打ち込んでいく。「世界一」という高い理想に自分を近づけていこうという熱望が原動力となり、七冠制覇を目前とするほどの強さを身に着けたのだ。 平成23年に博賽杯金佛国際囲碁超覇戦、平成25年にはテレビ囲碁アジア選手権で優勝したものの、井山はまだメジャーな世界タイトルを獲得していない。七冠制覇を達成して日本囲碁界の宝となった井山が世界一となり、さらに光り輝くことを心から望む。参考文献(※1) わが天才棋士・井山裕太(著者・石井邦生、出版社・集英社インターナショナル)(※2) 井山裕太20歳の自戦記~史上最年少名人までの17局(著者・井山裕太、出版社・日本棋院)

  • Thumbnail

    記事

    230人と同時に対局、世界一の多面打ち名人 囲碁棋士・白江治彦

    (THE PAGEより転載) 「多面打ち」という言葉をご存知だろうか。囲碁で1人の指導者が、複数の人と同時に対局する打ち方のことだ。通常は、指導者1人が3人または4人の方の相手をすることが多いが、今回紹介する棋士は、1人で230人と同時に対局した、多面打ちの名人である。 囲碁棋士・白江治彦。78歳。大きな声でたくさん話し、とにかくよく笑う。囲碁棋士というより、大物司会者のような雰囲気だ。だがそんな白江も少年時代は無口でシャイな子供だった。実力をカン違いして上京 「囲碁を始めたのは、小6くらいの頃だったかな。プロにしては始めるのが遅かったんだよね。もっと早くからやっていたら、私がタイトルを独占できていたのに」 そう言って大きな声で笑う。 白江が育ったのは石川県小松市。男ばかりの4人兄弟の2番目として生まれた。 「父は兄弟全員に囲碁を教えてね。長男が一番強かったんだけど、夏休みにみんな水泳に夢中になっちゃって、いつの間にか自分だけに。内気な子どもだったから、かえって夢中になったのかもね」  その後、白江少年は良き指導者にも出逢い、囲碁の魅力にハマっていく。 「当時は囲碁を打つ子供がいなかったから、みんな相手は大人でね。子供って大人に勝てるとめちゃくちゃ嬉しいんだよね。大人が悩んでくれるのも嬉しい。だからどんどん勉強したんだ。それと通っていた碁会所が良かったかな。いつも僕より少しだけ強い人を探して打たせてくれて、まずその人に勝つことを目標にする。そしてその人に勝ったら、また少しだけ強い人と打つ。そうやって小さなハードルを設定してくれることで、自分でも強くなったことがわかるし、達成感も感じられた。今思うとすごく手のかかることをしてくれたよね」 地元で天才少年と評判になった白江。当時は政財界の大物に囲碁ファンが多い時代で、新聞社や市長、大学の学長、知事に至るまで、白江をバックアップし、東京でプロを目指すことになった。 「今から思うと、年齢的にも無理だし、実力もそれほど強くなかった。周りに乗せられて錯覚していたんだよね」「あなたは絶対プロになれませんよ」「あなたは絶対プロになれませんよ」 昭和30年、高校を中退し、17歳で上京。院生(※1)になるための試験を受けた。現在は14歳までに試験を受けなければ入れない院生制度。当時のルールは少し緩かったとはいえ、18歳で卒業しなければいけない院生に17歳で入るのは、誰に聞いても遅いというだろう。 「院生師範の杉内雅男先生が、『君にはチャンスが1回しかないし、実力も話にならないから、国に帰りなさい』と言うの。でも私も東京に出てくるときに餞別をもらったり、みんなに応援してもらっているから、そう簡単に帰れない。なんとかお願いして試験碁(※2)を打たせてもらってね」 対戦相手は当時院生で、子供ながら大人の大会でも優勝する実力があった小西泰三八段。一方の白江は、石川県で5番目くらいの実力だった。 「みんな私が勝つなんて思っていなくてね。ところがラッキーパンチが入ったんです(笑)。一応形としては勝ったから、なんとか院生になれました。杉内先生も、どうせ私は1年しかいられないから、すぐに出ていくだろうと思って許してくれてね。先生には『あなたは絶対プロになれませんよ』とも言われて、悔しいけどそれが逆に良かったみたい」 少しでも可能性があると言われたら、それに甘えてしまったかもしれない。だが全く可能性がないと言われたことで、白江少年にはある種の決意が生まれた。1年という短い時間。どうせプロになれないのなら、この時間を懸命に生きるしかない、と。 「1日10時間位かな。下宿先でひたすら碁の勉強をしました。気が付くと碁盤の上で寝ちゃうこともあったな。神保町に行って、少ないお小遣いの中から、囲碁の全集を買って並べてね。寝ている時間以外は全て囲碁漬けでした」神様がご褒美をくれた 白江少年が修業時代にもう1つ行っていたこと。それは誰よりも早く来て、碁盤と碁石、を準備することだった。 「院生の幹事が5、6人はいたけど、みんな院生研修が始まるギリギリにしか来ない。私は早起きだったので、7時半に行って、まず足つきの碁盤を50面並べる。押入れから出しては並べ、出しては並べ、ってね。それが終わったら碁石、そして時計、時計を置く台と、一生懸命やって、みんなが来る9時くらいになる、という感じだったかな」 この作業をほぼ1年間、プロ試験を受ける頃までやり続けた。決して囲碁の実力に繋がるわけではない地味な作業をコツコツと。白江の決意のようなものが伝わるエピソードだ。そして神様はそんな白江にご褒美をくれた。最初にして最後の入段試験で合格したのだ。 「絶対プロになれないと言われたのに、予選から合わせて55勝4敗という好成績を上げてしまってね。自分でも信じられなかったなあ。実力だけではないものを感じたよね」「対局」と「普及」は棋士の両輪「対局」と「普及」は棋士の両輪 奇跡の入段。そして白江は棋士としての自分の生き方も考えるようになる。 「棋士には2つの使命があって、1つは碁の勉強をしてタイトルを目指すこと。もう1つは囲碁の普及をすること。この2つは両輪でね。どちらが欠けてもダメなんです。碁というものがなくなってしまったら、棋士という職業は成立しないけど、棋士がいなくても、碁は成立するんです。囲碁の良さをたくさんの人に知ってもらって、そのおかげで棋士が棋士としていられるのに、時々みんな忘れてしまうんだよね。自分の勉強だけしていれば良いと思っている。普及という仕事をしていると、棋士の本分を全うしていないようなことを言われることがあるけど、それは全然違うんです」 白江がこう熱く語るのには理由がある。若い頃から、先輩棋士の教室を手伝い、その講義の面白さが買われてテレビ講座にも多数出演し、大人気となった。その一方で、対局を疎かにしているのではないかという心無い言葉もかけられることがあったのだ。 「昔は囲碁を打つ方が多くてね、夜の教室なんて、定員100人くらいがあっという間に埋まった。そんな良い時代を知っているからこそ、普及が大事だと強く思うんだ。棋士は生活のために指導碁をするのではなく、普及活動自体が棋士の本分だし、求められる場があるのなら、喜んで伺うべきなんです」多面打ちの名人 1人でもファンの方に喜んでもらいたい。そんな白江の発想から生まれたのが多面打ちだ。同時に沢山のお客さまを満足させるにはどうしたら良いか。当時最強の棋士だった呉清源九段がヒントをくれた。 「呉先生がアマ高段者の方を、3人くらい同時に打っていてね。先生は両利きだったので、左右で打っていた。それが蝶のようでカッコ良くてね。これだ!と思って、どんどん多面打ちの面数も増やしてやり始めました。呉先生からは『多面打ちの名人だね』と言われて嬉しかったのを覚えています」 1人が大勢を相手にする多面打ちは見ているだけでも圧巻だ。囲碁普及という意味からも、人を寄せ付けるイベントとなり、10面、20面とどんどん増えて行く。そして平成3年には、フランス・パリで102面打ち、平成10年には日本棋院で230面打ちを行うなど、「多面打ちの白江」が印象付けられることになった。 実は多面打ちというのは、立ち仕事での移動、そして腰を曲げての着手など、体力的にキツい仕事でもある。だが白江は、78歳になった今も、10面打ちなどの多面打ちを続けている。碁はすばらしいもの 「たくさんの人に喜んでもらうのは、棋士として何よりのやりがいなんです。同じ時間を過ごすなら少しでも楽しんでほしいし、体力的には全然大丈夫」と笑顔で語る。 ファンへのサービス精神から生まれた多面打ちは、今では様々なイベントで取り入れられている。「碁はすばらしいもの。末永~く楽しんでほしいです。僕は教えている方にも、こういうことをやりなさい、とは一切言わない。面白いことをたくさんやって、お迎えがくるまで、ずっと一緒に囲碁を楽しみましょうね」と。※1 プロになるための養成機関のこと※2 院生になるための試験対局のこと王 真有子(おう まゆこ) ライター・囲碁インストラクター。囲碁雑誌・囲碁書籍の執筆多数。『囲碁手筋・基本のキ』(マイナビ出版)『囲碁スピード入門』(ユーキャン)などの構成を担当。インストラクターとしても、初心者や級位者から絶大な支持を集めている。吉原由香里・王唯任・万波佳奈の囲碁教室講師。

  • Thumbnail

    記事

    囲碁と野球と電車が頭の9割 愛されるトップ棋士、結城聡九段

    (THE PAGEより転載) 人は追い詰められると、焦ったり、判断を誤ったりすることが多い。しかし囲碁の世界には、追い詰められるほどに判断力が鋭くなり、勝利を手にしている棋士がいる。囲碁棋士、結城聡(ゆうき・さとし)九段がその人だ。 中学時代から30年間ほぼ変わらないという坊主頭の髪型、180センチを超える長身。一見すると怖そうな人にも見えるが、そんな外見とは対照的に、鉄道を愛し、マイ時刻表を作る“時刻表鉄”でもある。さらに関西人らしく、阪神とオリックスの試合結果に一喜一憂し、カラオケでは工藤静香を歌う、愛されキャラだ。そんな結城九段の知られざる一面に迫った。気が付いたらプロになっていた「父の公式発表によると、囲碁を始めたのは8歳の誕生日。ただそのときに7級くらいの実力があったので、父が並べているのを見たりして覚えていたのでしょうね」と語る。 家の近くに碁会所がオープンしたことも後押しとなり、すぐに囲碁に夢中になった。本来は友達と遊びたい盛りのはずの小学生。あまりに囲碁ばかりやっているので、担任の先生が心配して、もっと友達と遊ぶようにと言ってきたこともあった。 結城の才能はすぐに開花し、プロを目指すため院生に。そして本人が意識しないまま“気が付いたらプロになっていた”という。「周りに薦められて院生になったのですが、自分では楽しく碁を打っているだけで、プレッシャーも特にありませんでした。入段リーグで、勝ったほうがプロになれる、という場面でも全く緊張しませんでしたね」 関西棋院(※1)では最年少の12歳1ヶ月でプロ棋士に。多くの棋士は、入段試験を突破したときのことや、その対局についての思いが強くあるが、結城は入段のハードルを軽々と越えてしまった。そのため二段に昇段したときのほうが強く印象に残っているという。追い込まれるほど判断力が冴える 独特の戦闘派の棋風(※2)で知られる結城は、15歳で非公式戦ながら初優勝、その後も着実に実績を重ねた。当時を振り返って“柔軟性がゼロ”だったと語る若い頃は、自分が信じた手を、道を、とにかく真っ直ぐに突き進む子供だった。そんな結城少年に、当時のトップ棋士・藤沢秀行が「お前はそのままでいいんだよ」と言ってくれたことが、何よりの自信になったという。 そんな結城が苦しんだのが18歳の頃。棋士が目標とする1つに「リーグ入り」というのがある。大きな棋戦のリーグ戦に入ることだ。リーグ入りの決勝に3年連続進んだものの、すべて破れた。どうしたらリーグに入れるのか、試行錯誤したものの、一生懸命勉強する以外に考えが至らなかった。そして4年目の決勝でやっとリーグ入りを勝ち取った。 その後は、天元や十段のタイトル獲得。テレビ棋戦のNHK杯で5回優勝するなど、素晴らしい実績を残し、現在もトッププロとして活躍している。 結城の強さの特徴に「早碁に強い」というのがある。早碁とは、持ち時間が少ない対局のこと。囲碁には、最長で1人8時間の持ち時間がある対局から、10分しかない対局まで、幅広い種類の試合があるが、結城は追い込まれれば追い込まれるほど、判断力が研ぎ澄まされるタイプなのだ。「若い頃から、早碁の成績は良かったですね。僕は本来、結構着手で悩んでしまうタイプなのですが、早碁だと候補手を捨てざるを得ない。最初に浮かんだ手や、ある程度感覚的に信じられる手を打ち進めるしかなくて、それが良い結果につながっているようです。本当は3時間の対局でも、最初から秒読みをしてほしいくらいなんです。追い込まれれば、早くいらない手が捨てられそうで(笑)」MY時刻表で仮想旅行MY時刻表で仮想旅行 繊細で、気持ちの切り替えが苦手な結城。迷いだすと止まらなくなる自分も知っている。対局の振り返りをする“検討”も苦手で、負けた碁は一刻も早く忘れたい、頭の中から消し去りたい。だが時間があればつい囲碁のことを考えてしまう。そんな結城が気分転換に楽しむのが“電車”なのである。「電車は、乗るのも見るのも好きですが、特に時刻表を読み解くのが好きです。頭の中で仮想旅行をしたり、自分でダイヤを作って、『この駅に急行を止めよう』などと考えながらオリジナルのダイヤを作成したりします。やり始めると止まらなくなってしまうので、最近は少し制限していますが(笑)」 子どもの頃は、囲碁棋士にならなかったら、電車の運転士か野球選手になりたかったという結城。野球の方では関西棋院の野球部に所属し、2014年には、大ファンのオリックスの試合で始球式も務めた。 一方の電車は、ローカル線好き。若い頃は青春18きっぷで大阪から広島、山陰まで旅をしたり、当時大好きだった、WINKのコンサートツアーを追いかけながら四国まで旅をしたこともある。 現在は4人の子どもの父親である結城。最近では、長男・次男を連れて電車の趣味を楽しんでいる。「関西の電車は、子供たちとほとんど乗りました。残念ながら長女はあまり相手にしてくれませんが(笑)、男の子たちとは電車という趣味を一緒に楽しんでいます」最近見つけた弱点「高所恐怖症」 最近、子供たちと電車を楽しんでいるうちに、結城は自分のある弱点を見つけた。「廃線になる予定の鉄橋を歩いて渡ろうという企画があって、子供たちと参加しました。貨物列車を見て楽しむところまでは良かったのですが、鉄橋を歩きだしたら、怖くて足が踏み出せなくなって。昔は平気だったのに、いつの間にか高所恐怖症になっていたんです」 その後、自分が高所恐怖症になったことを忘れて子どもと遊園地に行き、観覧車に乗ったとたんに、高所恐怖症を思い出したという結城。観覧車の中で眼を瞑りながらやりすごしたのは言うまでもない。 結城聡は今年で44歳になった。若い頃は戦い一辺倒の打ち方で勝利を手にしてきたが、年を重ねるにつれ、打ち方もだんだん変化してきたという。「年齢を重ねると読みの力が落ちてしまうので、経験を生かした、大きな視点で戦うことを心がけています。ただ頑張りすぎてバランスが悪くなってしまったり、今でも試行錯誤していますね」  結城の頭の中は、「囲碁」「野球」「電車」の3つで9割を占められているという。それは小学生の頃からずっと変わらないらしい。30年変わらない髪型も、頭の中を占める3つの要素も、ちょっと不器用なのにものすごく決断力が早いそのギャップも、カラオケで淡々と工藤静香を歌うことも、その全てが、棋士・結城聡が愛される理由なのだろう。いくつになっても活躍していたい今後の目標を尋ねると、「もちろん対局を頑張って、いくつになっても活躍していたいです。あとはファンの方ともっと交流して、囲碁の裾野も広げたいですね。自分が育ててもらった囲碁界の役に立ちたいので」 囲碁棋士・結城聡はこれからもファンに愛され、活躍の幅をさらに広げていくに違いない。※1 関西にある囲碁の組織※2 囲碁の戦い方のタイプ王 真有子(おう まゆこ) ライター・囲碁インストラクター。フリーペーパー『碁的』元編集長。囲碁雑誌・囲碁書籍の執筆多数。『囲碁手筋・基本のキ』(マイナビ出版)『囲碁スピード入門』(ユーキャン)などの構成を担当。インストラクターとしても、初心者や級位者から絶大な支持を集めている。吉原由香里・王唯任・万波佳奈の囲碁教室講師。

  • Thumbnail

    記事

    世界一こそ次世代を導く 井山裕太「23歳の戴冠」

    い転げているんです」。ともに勝負の世界に生きる2人は負けず嫌い。将棋だけでなく神経衰弱などのトランプゲームもやるが、強いのはいつも室田で、井山は自分が勝つまで続けたがるという。 ○  ●  室田だけでなく、親しい知人が語る井山像は、みな「普通の人」だ。井山が主宰する研究会の後輩、初段の吉川(きっかわ)一(はじめ)(22)は「よく話すのは、『ダウンタウンの松本(人志)はおもろい』とか、メジャーリーグとかですね」。 研究会が開かれる火曜日、吉川は野球好きの井山のキャッチボールの相手を務めることが多い。「野球をやっていると、リラックスするみたいです」 だが、このようなありふれた日常こそが、井山の原動力になっているのだという。 対局で全国を転戦する中、井山は半日でも時間ができると自宅に戻る。室田は「緊張の連続だから、オフの時間が大事なんでしょうね」とおもんぱかる。井山の母、宏美(50)によると、結婚前も、大阪府東大阪市の実家でのんびりするのが何より好きだったという。 対局だけを考えれば東京に移った方が有利にもかかわらず、井山が生まれ育った大阪を拠点にし続けている理由もここにある。井山はこう語る。 「ホームタウンということは強く意識しますね。力をもらっている、という気がするんですよ。妻に家族、お世話になった方々。そしてファンの皆さんに」型破り 千に及ぶ師弟対局 椅子に座ると碁盤に手が届かないため、立ったまま碁石を次々と打ち込む。そんな6歳の園児が読売テレビの囲碁番組「ミニ碁一番勝負」に登場したのは、平成8年冬のことだった。 園児は、とてつもない才能を秘めていた。大人たちを次々と打ち負かし、5人抜きでチャンピオンになってしまう。後に囲碁初の6冠を成し遂げる井山裕太は、このときから関西の囲碁ファンの間で知られる存在になった。 井山は元号が平成に改まって4カ月余り後、共働き夫婦の一人っ子として、大阪府東大阪市で生まれた。幼い頃から身近にあったのは、ゲームとインターネット。井山という〝天才少年〟を育んだのも、この2つだった。○  ● 「好きなことには、とことん熱中する子でした」。井山の父、裕(ゆたか)(50)と母、宏美は口をそろえる。史上初の6冠保持者となった井山裕太さん 3歳のときはテレビの相撲中継に熱中し、幕下から横綱まで全力士の顔はもちろん、漢字を読めないのに字の形でしこ名も覚えた。この頃、裕が考案したのが、車で出かける際に前の車のナンバープレートの数字を足したらいくつになるか、という「足し算ゲーム」。夢中になった井山はすぐ3桁、4桁の計算ができるようになった。「ただ、足し算だけで、引き算はできませんでしたが…」 そんな井山が5歳になると興味を持ったのが囲碁だった。きっかけは裕が買ってきたテレビゲーム。2、3週間でルールを覚え、3カ月後には父を負かすように。アマチュア六段の祖父、鐵文(故人)が指導に乗り出すと、めきめき腕を上げた。 そこで腕試しに応募した「ミニ碁―」は、井山に運命的な出会いをもたらす。後に師匠となる日本棋院関西総本部所属の九段、石井邦生(71)が番組の解説者を務めていたのだ。○  ● 「アマ三段の腕前と聞いてばかなと思ったが、すぐに不明を恥じました。手が早く、しかも、ここで考えなければいけないというところでは、ぴたっと手が止まるんです」 才能にほれ込んだ石井は、井山が小学生になると弟子にする。石井はこの弟子に、囲碁界では型破りといえる指導を行った。 通常、師匠が弟子と対局するのは1回、場合によっては2回だけ。入門時と、見込みがないと判断して引導を渡すときだという。だが石井は「打って打って打ちまくって育てよう」と考えた。そこで目をつけたのが、普及し始めていたネット対局。まだ幼く、住み込みの内弟子も通いの弟子も難しい井山にはうってつけだった。 「ネットだと師匠が怖い顔をしても見えないから、伸び伸び打てる。そういう元気な碁が彼の最大の持ち味でしたから」。月に何回かの直接盤を挟んでの指導を含め、井山との対局は千にも及んだ。やがて井山はハンディなしで師匠を負かすようになり、石井はその後、自分の孫に接するように精神面でのアドバイスに重きを置くようになった。 井山が6冠をかけて棋聖戦第6局に臨んでいた14日午後、石井も対局中だった。対局を終えて快挙を知った石井は「身内のようにうれしい。感無量です」と話した。その表情は、まるで孫を思いやる祖父のようだった。 「世界一」こそ次世代導く「世界一」こそ次世代導く 20代の名人などあり得ない―。昭和最強棋士の一人とされる故・坂田栄男(えいお)二十三世本因坊は昭和40年、全盛を誇った45歳のときに、こう語ったことがある。 だが、井山裕太は弱冠20歳4カ月で名人を獲得し、3年半後には6冠に上り詰めた。井山が台頭する以前、覇を競い合った張栩(ちょうう)(33)、山下敬吾(34)ら「平成の四天王」も、20代でタイトルを獲得した。 このような若手の活躍の要因の一つとして、近年の持ち時間の短縮が指摘されている。長考より脳の〝瞬発力〟が要求されるようになり、若手に有利に働いたという説だ。井山の強さもまさに、この速さにある。 「井山さんは天才。予想もしなかった手ばかりがくる」。井山が目標とし、最大のライバルでもある張はこう述懐する。打つべき手を複数の選択肢から検討し、千手まで読むという井山。だが、意外にも対局相手を悶絶(もんぜつ)させる妙手は、「〝第一感〟という最初の直感によるものが多い」(井山)のだという。 井山は右利きだが、囲碁だけは左手で打つ。祖父の鐵文(故人)が「右脳を刺激するように」と指導したからだ。定石を超えた井山の棋風は、祖父の薫陶のたまものともいえる。○  ● 順風満帆に見える井山の囲碁人生だが、挫折がなかったわけではない。 その一つが、9歳のときに特別参加した中国の児童囲碁大会。6歳で大人を打ち負かした囲碁番組「ミニ碁一番勝負」や、小学2年で上級生相手に優勝した全国少年少女囲碁大会のように、年上相手に勝利を重ねてきた井山は初めて年下に負けた。29位に終わり、幼心に中国の囲碁界の層の厚さを実感したという。壇上で笑顔を見せる井山裕太棋士=2013年5月13日、大阪市北区(大塚聡彦撮影) ここ十数年、日本の棋士は中国、韓国を相手になかなか勝てない状況が続く。6冠を果たした井山が会見で今後の目標を問われ、誰もが期待する「7冠」だけでなく「国際棋戦での優勝」も挙げたのは、9歳のときのリベンジの思いもあるのだろう。 サッカーの香川真司、体操の内村航平、テニスの錦織(にしこり)圭…。若くして世界のひのき舞台で活躍するこれらのスポーツ選手は、井山と同じ1989年生まれだ。 スポーツジャーナリストの二宮清純は「子供の頃から衛星放送で海外サッカーやメジャーリーグに親しんできた世代。彼らにとって世界という壁は低かったはずだ」と指摘する。95年に野茂英雄(44)がメジャーに渡り、98年には日本がサッカーのワールドカップに初出場した。「日本選手の世界での活躍は、競技やジャンルが違っても影響したと思う。若くしてなかなか評価されることの少ない芸術の分野でも、将来、彼らの世代から国際的な人材が現れるかもしれない」○  ● 子供の頃から野球好きの井山も、メジャーリーガーのイチロー(39)のファンで、その姿勢に大きな影響を受けてきた。井山の国際棋戦への意気込みは、同世代のスポーツ選手と共通するものがある。 もし、日本の囲碁界の頂点に立った井山が国際棋戦でも活躍したら―。 井山の下の世代には、人気漫画「ヒカルの碁」がきっかけで囲碁を始めた〝棋士予備軍〟が大勢控えている。底辺が広がれば、頂点も高くなる可能性が高い。海外でも活躍する井山に刺激を受けた後輩たちが、井山がうかうかしていられないほど日本の囲碁のレベルを向上させるかもしれない。野茂の活躍がイチローや松井秀喜(38)、ダルビッシュ有(26)を導いたように。(敬称略)

  • Thumbnail

    記事

    囲碁AIの勝利でさらに注目? 今年の将棋「電王戦」は“頂上決戦”

    (THE PAGEより転載) 将棋のプロ棋士とコンピューターソフトが対決する「第1期電王戦」(主催・ドワンゴ、日本将棋連盟)が4月9日に開幕します。今年は、過去3年間行われた団体戦形式に代わり、第1期叡王戦を勝ち抜いた山崎隆之叡王(八段)と第 3 回電王トーナメント優勝ソフト「PONANZA」による優勝者同士がぶつかる頂上決戦の形になりました。お隣の囲碁界では囲碁AI(人工知能)「アルファ碁」がトッププロ棋士イ・セドル氏(韓国)を破り、AIの進歩が大きなニュースになったばかりで、今回の将棋電王戦も注目されそうです。山崎隆之八段vs. 「PONANZA」 「第1期電王戦」は、第1局が4月9日、10日に関山中尊寺(岩手県西磐井郡)で、第2局が5月21 日、22 日に比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に開催。「2番勝負」形式になっており、一勝一敗の場合、引き分けで終了することになります。持ち時間各8時間の二日制は、棋界最高賞金大会の竜王戦と同じで、タイトル戦並みの対局といえます。米長邦雄永世棋聖(中央)もコンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と戦い、敗れた=2012年1月14日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館(古厩正樹撮影) 電王戦は2012年に第一回が行われ、翌年からは3年連続でプロ5人対5ソフトという団体戦で開催。2013、2014年とソフト側が団体戦勝利し、衝撃を与えましたが、2015年は3勝2敗でプロ棋士側が勝ち越し、人間側が巻き返しました。 「叡王戦」は2016年の電王戦に出場するプロ棋士を決める新棋戦として昨年創設されました。参加は自由エントリー方式とし、羽生善治名人、渡辺明棋王は参加しなかったものの、現役タイトル保持者である郷田真隆王将を含む154人のプロ棋士がエントリー。山崎八段が郷田王将を決勝で下し、電王戦登場を決めました。山崎八段は35歳。2009年に王座戦のタイトルに挑戦したほか、NHK杯戦でも優勝経験を持っており、序盤巧者として知られます。 一方、「PONANZA」は、山本一成氏、下山晃氏の共同開発で、2013年の電王戦で佐藤慎一四段(当時)を破り、初めて現役プロ棋士にハンデなしで勝利したソフトとして有名。過去3回の団体戦ですべて勝利しており、第3回将棋電王トーナメントも優勝して、代表の座を得ました。プロ棋士間での評価も高く、記者会見で山崎八段も「コンピューター将棋の実力が自分の認識よりもはっきりと先にあることは感じている」と警戒しています。対するPONANZA開発者の山本氏は「挑むからには勝ちたい。自信はあります」と話しました。コンピューターの弱点を探る戦いコンピューターの弱点を探る戦い コンピューター将棋に詳しい大阪商業大学・アミューズメント産業研究所主任研究員の古作登氏(元週刊将棋編集長)は勝敗について、PONANZAの強さを認めた上でも「一勝一敗と見たい」と予想。「山崎さんは定跡にとらわれない棋風で破天荒な面もあり、ソフトと対照的とも言え、面白い対決になった。持ち時間も長くてじっくり考えられるのも大きい。山崎さん側からすると、局面をリードし、作戦局面に誘導しやすい先手番を第2局に残しているので、初戦も思い切って戦えるのではないか」とみています。 昨年の団体戦の電王戦では2勝2敗で迎えた第5局、「阿久津主税 八段 vs ソフト・AWAKE」で、阿久津八段が、同ソフトにアマ棋士が以前勝利した局面を目指し、開発者が短手数で投了を選択したことが賛否を呼びました。また第2局でもプロ側があえて「角行」を不成(ならず)と指した手に対し、ソフトが認識できず反則負けの形になる場面もありました。 古作氏は「人間同士の対戦でも相手の得意戦法を調べて対策を練るように、対コンピューターでもそれ用の対策を検討するのは当然。ソフトは現局面から数手先まで読むのは完璧になりつつあるが、数10手先に落とし穴があるが、その局面を探索、評価するのは完全とは言えない状況だろう。阿久津さんの選択は悪くない」とし、コンピューターの弱点を探るのは人間対コンピューターならではの戦いとみています。囲碁でもAIがトップ棋士を破る 米グーグル社の研究部門が開発した囲碁AI「アルファ碁」はAIが自ら学習を繰り返す技術を採用し、一気に進化しました。古作氏は「昨年10月、別のプロ棋士に勝利した時点と比べ、雲泥の差があるほど進化していてイ・セドルさんも困惑したのではないか。その中で第4局はイさんの常識外の妙着がアルファ碁をおかしくさせ勝利を奪ったのは注目される」と分析。「若手将棋棋士の中にはコンピューターが示した手に影響を受け、学んでいる人が増えている。ソフトやAIのよいところを取り入れ、自分の成長のためのツールとして使うのは有用ではないか」と話しています。 囲碁AIの分野ではグーグル社だけでなく、フェイスブック社も参入するなどAI開発競争は世界的関心になりつつあります。AIは自動運転車だけでなく、さまざまな分野の仕事で人間にとって代わるという予測もあり、将棋ソフトの開発者が突然世界的企業に引き抜かれるといったニュースもいずれ聞かれるかもしれません。