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    直撃!日大広報やっぱりヒドかった

     日大アメフト部の「悪質タックル」問題について、内田正人前監督らが会見を開いたが、仕切った「広報マン」の対応に非難が集まった。日大広報部はどういうつもりなのか、iRONNA編集部が直撃取材した。■動画のテーマはこちら

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    「刑事責任逃れ」日大経営陣の矛盾を立証する術は2つある

    高橋知典(弁護士) 今回の日本大アメリカンフットボール部の会見は、宮川泰介選手側の会見に比べ、本当にお粗末なものであった。アメフト部の主張は、部活動でハラスメント問題が起きた際によく見られる典型的な学校側の言い訳でしかない。 実際、内田正人前監督は「私の指示ではございません」と述べ、井上奨(つとむ)前コーチも、「クオーターバック(QB)をつぶしてこい」とは言ったが、「相手のケガを目的としては言っていない」と強調した。これはまさに、言葉の解釈で言い訳して逃れようとする典型例といえるだろう。 大学スポーツの現場は、指導者次第で部内の環境が変わるため、時には常識を超えたものになりやすい。選手たちはみんな若く、監督ら指導者の力を信じて入部するだけでなく、チームのために多大な献身を繰り返し、指示に応じて過酷な練習を繰り返す特殊な環境だからだ。 こうした環境で、選手は監督の指示なら何でも従うのが当然と思い込むようになる。その上、選手として結果を出すには、監督にどうにかして認めてもらい、試合に出させてもらう必要がある。また、スポーツ特待で大学に入学した場合、活躍の場も就職の機会も部活動の大きな影響を受けるため、逃げ出すことが難しいのも事実だ。 その中で、試合などで思い余って起きる不祥事に対し、学校がよく切り出すのが「そんな指示は出しておらず、選手が指示の解釈を誤った」という言い訳である。学生を切り捨てることで、部や監督への責任追及を回避しようとするのである。  そもそも本件の危険タックル行為は世間の批判を集めただけではなく、傷害罪が成立し刑事責任を問われる可能性がある。人を傷つけるような危険行為であっても、スポーツでその行為が許されている理由は、スポーツ中の行為は「正当業務行為」とされ、違法性がないと考えられているからである。関西学院大学との定期戦での反則行為の問題で会見する、日本大学アメリカンフットボール部の内田正人前監督=2018年5月23日、東京都千代田区(松本健吾撮影) 今回のような悪意のあるルール違反については、もはやスポーツの域を越えるただの暴力であり、正当業務行為とはいえない。傷害罪が成立する場合、タックルを行った選手は実行者であることから、刑事責任を回避することは困難だろう。 これに対し、監督ら指導者の刑事責任に関しては、選手にルール違反のタックルを指示して実行させたといったような状況であれば、傷害罪の共謀共同正犯に該当する可能性がある。 ただ、内田前監督は会見で「信じていただけないと思うが、私の指示ではございません」と改めて関与を否定している。その一方で「フィールドで起こったことなので、すべては私の責任です。申し訳ございません」とも言っている。「内部証言」の積み重ね この発言は、「自身の指示」で選手が悪質なタックルをやったのではなく、「選手が勝手に」行ったことを示唆している。 つまり、内田前監督は、刑事責任の問われるような指示については知らないが、法的ではない道義的な責任は負うと述べているのである。 そしてさらに問題を悪化させる要因となるのが、大学側が指導者を守ると一度決めてしまえば、言い訳が通じないような状況になっても、事実を認めることができなくなってしまうことだ。 このような指導者側が責任を認めないケースで言い訳をなくすためには、以下のような二つの方法が考えられる。 一つは、証拠を精密に積み重ねていくことだ。そのためには、反則行為について関与しておらず、指示を出していない監督が通常取る行動と、今回の内田前監督の実際の行動との「ズレ」を想定する必要がある。 もし、何も指示を出していない監督の前で、あのような事態が生じていれば、まず本人にその場でなぜそのような行動を取ったのかと理由を聞くだけでなく、関西学院大側に即謝罪を行うなどの動きがあってしかるべきだ。 ただ、実際の日大と関学大の試合ではこうした行為はなかったという。さらに、内田前監督は会見で「ボールの行方を見ていたので、反則行為は目に入らなかった」と説明している。だが、選手の行動に関して、反則内容やプレーの対応については、監督のもとに情報が随時入るはずだ。ラフプレーが続くようであれば、本来その場で指導が入るべきだろう。 こうした、監督の話と矛盾する事実の積み重ねを、証拠によって適示することができれば、見解を改めさせることができる。 もう一つは、他の部員や関係する指導者たちの「内部証言」を集めることだ。内田前監督らは、焦点となっている「つぶせ」という言葉の意味について、「試合前によく使う言葉であり、『最初のプレーから思い切って当たれ』という意味」と説明している。記者会見を開いた日大アメフト部父母会の会長(手前左)、副会長(同右)=2018年5月24日、東京都港区(鴨川一也撮影) これについて、もし、他の選手が内部事情を証言すれば、監督ら指導者発言の本来の意味が解明されるはずだ。つまり、「抽象的な指示を選手が勝手に解釈した」という状態から、「反則してでも相手選手にダメージを与えてこいという指示を選手が受けた」という状態に変えられる可能性が出てくる。集められた証言が、大きな力を持つことになる。日大広報の黒幕がヒドい 一方で、内田前監督の会見で司会を務めた日大広報部の米倉久邦氏の姿勢についても批判が出ており、適切な対応とは言い難い。米倉氏は「みんな同じ質問、何度も繰り返されても迷惑ですから」「いいですよ、もうしゃべらないでください」などと述べ、記者の質問を遮る場面があった。 報道陣から同じ質問が繰り返されたことに対して、質疑を遮ったようだが、繰り返し質問することは決して無駄ではない。話術を相当訓練している人でもない限り、1回限りの話で言いたいことをすべてまとめて話すことは困難だからだ。むしろ、人は繰り返し話していく中で、言いたいことがまとまることが多い。 同じ話題でも話すたびに、言葉の内容に少しずつ誤差や揺らぎが生まれ、この誤差や揺らぎを確認することで、事の本質やその人の考え方の深いところをのぞけることがある。 そもそも今回の一連の会見は、自分の青春をささげてきたアメフトを「もうやらない」と断言してしまった優秀な選手や、限りある選手生命を治療にあてなければならない被害を受けた選手がいるだけに、世間の注目が集まっていた。 そんな注目度の高い会見で、日大広報は、内田前監督らに余計なことを言わせないようにしたいという思惑をさらけ出してしまったのである。日本大学アメリカンフットボール部の内田正人前監督(右)と井上奨コーチ=23日午後、東京都千代田区の日本大学会館(宮崎瑞穂撮影) また、今回の会見は、発言内容からも法律上の責任を問われないようにする配慮が随所にあり、弁護士による法的な考察を入れて行われたものであることは間違いない。 しかし、学校を守るために必要な法的手当をしている一方で、在学生の不安やアメフト関係者、世間からの疑問や批判に対する手当ができていなかったと言わざるを得ない。 本来、大学は指導者の暴走を収めることのできる「安全弁」であり、学生が信じる指導者の適正性を保証している。そのことを考えれば、時間制限や司会進行についても一歩踏み込んだ会見こそが求められていたはずである。  対照的に、学生側の会見は記者からの疑問にしっかり向き合っていた印象があった。この違いは、今回の会見の意義を、日大経営陣や対応している弁護士がどのように考えていたかをうかがわせる。 これだけ世間から注目を集め、マスコミ対応が重要な結果をもたらすことが予想できたはずだが、こうした結果を招いた日大経営陣は、今まで保護者や学生の声にどう対応してきたのか疑問を抱かざるを得ない。宮川選手が「危険タックル」という反則行為に出なければならなかった気持ちが分かるような気がする。

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    日大はどこで間違ったのか

    「お前らがしっかりしないから!」。ようやくお出ましになった日大学長の記者会見に突如乱入した女性の言葉は、一連の危険タックル騒動を象徴する。遅きに失した日大の対応。日大はどこで間違ったのか。

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    「マジギレ司会者」米倉久邦氏を記者バトルに駆り立てた脳と心の関係

    杉山崇(神奈川大人間科学部教授) 日本大アメリカンフットボール部の反則指示事件を受けて、大学教育のあり方が問われています。ただ、事態は内田正人前監督の反則指示をめぐる記者会見を経て、思わぬ方向に展開してしまいました。内田前監督の会見内容や大学当局の姿勢に、各界から厳しい批判が向けられただけではなく、司会の日大広報部顧問による報道陣への不遜な態度にも非難の声が集まっています。  司会を務めた米倉久邦氏は、会見から1時間半を回ったところから会見の打ち切りに入ったとされています。司会者は会場のタイムテーブルや登壇者の心身の安全に配慮する義務を持っています。会見内容はともあれ、内田前監督や井上奨(つとむ)前コーチの疲労やタイムマネジメントを考えれば、終了を企図することそのものは間違ったことではないでしょう。 しかし、参加者が納得しない形で強制的に打ち切るとなると、話は別です。場が荒れないように配慮する義務も司会者にはあるからです。ところが米倉氏は、井上前コーチが「心の痛みはありませんか?」という質問に答えようと考えている最中に、突然「もうこれで終わりにしたいと思います」と切り出しました。 まだまだ聴きたいことがある記者たちが乱暴な打ち切り方に納得するはずがありません。「会見を続ける、続けない」をめぐって双方が激しい舌戦となり、司会者自らが場を荒らすことになりました。 「会見の主役は司会の米倉氏だった」と皮肉めいた評価も受けています。ここでは、「大学広報部のミッション」「大学風土」「人が不遜になる脳」をキーワードに、心理学的背景からこの問題について考えてみましょう。 米倉氏は元共同通信社の記者で、在職中は経済部長やニュースセンター長、論説委員長といった要職も務めた経歴を持っています。定年退職後は、フリーのジャーナリストとして多くの著書もあります。どのような経緯で日大の職員になったかわかりませんが、「マスコミ対応のプロ」として採用されていると察することができます。日本大アメリカンフットボール部の内田正人前監督の会見後、報道陣に囲まれる司会を務めた広報部の米倉久邦氏=2018年5月23日、東京都千代田区(松本健吾撮影) 本来、大学の広報部は大学のブランドイメージを向上させることが任務です。果たして、米倉氏は日大の期待通り、マスコミ対応のプロとして日大のイメージを守ることができたのでしょうか。 司会者は場で流れる情報をコントロールする役割です。米倉氏は日大広報部所属として司会をしたので、もちろん日大に不利な情報が流れそうな局面は避ける必要があります。あのまま会見を続けると、監督が日大のブランドイメージを大きく損ねる発言をしそうな状況だったら、打ち切りに向けて和やかに場を誘導することは間違ってはいないのです。これこそがまさに広報部の任務です。戦略なき「マスコミ対応のプロ」 ですが、内田前監督も日大当局もすでに激しく批判されている状況です。しかも「心の痛みはありませんか?」という問いだったので、これ以上イメージを悪くする情報が流れるとは考えにくい場面でした。となると、広報部のミッションとして打ち切りに向かう必要があったとも考えにくいところです。 大学のイメージを守るという意味で、米倉氏は「あなたの発言で日大のブランドが落ちるかもしれないんですよ」と心配する記者の声にも「落ちません!」と断言してしまいました。人は確信のある人間に引かれますが、日本は自信過剰な人間が嫌われる「謙遜の文化」です。 したがって、米倉氏の発言は、大学の広報部職員として適切でない、大変リスキーのように思えます。つまり、強引な打ち切り方もその後の舌戦も「大学広報部におけるマスコミ対応のプロ」として戦略のある行動ではなかったと考えられます。  では、何が彼をこのような行動に駆り立てたのでしょうか。私には大学という風土と彼自身の個性が掛け合わされていたように見えます。 まず、企業風土という観点から大学を考えると、一般的には「長期目標を持ち相対的に従業員の自由度が高い」「伝統や慣習に誇りを持って尊重する」という特徴があります。私はこのような風土を「仲良しクラブ型」と呼んでいます。 変化が乏しく仕事にスピード感を求められないのでお互いを気にする余裕があり、仲良くしていないと居心地が悪くなるのです。特に誇り高い企業の場合は、視野も狭くなり「わが社には揺るぎない地位がある」という大企業病のようなマインドが漂うこともあります。東京都千代田区にある日本大学=2018年5月23日(佐藤徳昭撮影) 日大は数々の「時代への挑戦」を打ち出している大学なので企業不全病、いわゆる「大企業病」には陥っていないと思います。ただ、圧倒的な伝統と規模を誇る大学なだけに、病に陥りやすい要素があったかもしれません。 日大全体としては健全だと思いますが、ここまで規模が大きいと、ごく一部には大企業病的なマインドが生まれていたのかもしれません。まさに企業風土の問題の表れだったのが、米倉氏の「落ちません!」発言ではないでしょうか。「上から目線」する脳と心の関係 もう一つ気になるのが、彼が共同通信に在職中から「上から目線の発言をしてしまう」という評判が報じられています。私たちの脳と心の関係を動物に例えて表すと、自己中心的で快楽を好み我慢を嫌う「ワニの脳(脳幹)」、同じく自己中心的で好き嫌いが激しい「ウマの脳(大脳辺縁系)」、自分の立場や評価を気にする「サルの脳(内側前頭前野)」、課題達成や計画性を担う「ヒトの脳(外側前頭前野)」から成り立っています。 立場をわきまえた発言や先を読んだ行動はサルの脳、ヒトの脳の役割です。ただ、人に気を使うのも(感情労働)、難しい課題を解くのも(頭脳労働)、長く続くと疲れますよね。 米倉氏は記者として華々しい経歴と実績を持っているので、彼のサルの脳は大学広報部として記者を迎える立場を認識しながらも、一部では「自分はこの記者たちより上だ」という認識があったかもしれません。また、1時間半も決して穏やかでない会見が続くと疲れてもきます。 感情労働の限界を迎えて、相対的に我慢を嫌うワニの脳が強くなり、自分を上位者と勘違いしたサルの脳と連動して、一連の不遜な態度になったように見えます。現役記者時代の評判を考えると、逆に1時間半もよく我慢できたといえるのかもしれません。 この反則指示事件により、当事者の学生双方が将来に大きな傷を負いかねない事態に追い込まれました。彼らだけでなく、現役の日大生、卒業生も大きく誇りを損なわれた「被害者」といえます。 日大にはその救済や補償を懸命に考えている誠意ある教職員もいるはずですが、悪いことほど面白く取り上げられるものです。この司会者が注目されるのも、こういった現象の一つでしょう。(iStock) まずは、監督や大学当局の責任を追及することが当事者を救うためには不可欠です。同時に、善良な学生や卒業生、そして誠実な教職員にもっと注目してもらえればと思います。 理想論ですが、不遜な態度や慢心の居場所がない大学組織が作れれば、学生も卒業生ももっと幸せになれるでしょう。日本最大規模の日大がそのような大学になることは、きっと日本全体の幸せに貢献するはずです。

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    日大アメフト会見は企業広報にとって「最高の見本」である

    尾関謙一郎(ジャーナリスト、広報アナリスト) 5月23日に行われた日本大アメリカンフットボール部の内田正人前監督らの記者会見を見た企業広報の関係者は異口同音に「あきれた」と語る。広報部の司会者と記者のやりとりについては「記者会見は火消しの意味もあるだろうに、あれでは火に油どころか火にガソリンだ」との声もあった。ある企業では広報責任者が部下の二十数人全員に日大の会見の動画を見るように命じたという。もちろん、反面教師としてである。 日大広報の立ち遅れは目に余る。まず、最初は同月6日に動画サイト「ユ―チューブ」に動画が上がったときに、広報が誰も気が付かなかったことだ。「大学の広報だから迂闊(うかつ)でもやむをえない」という言い訳はできない。日大は学生数8万人弱のマンモス大学である。 次いで、同月12日の関西学院大の鳥内秀晃監督らによる抗議会見などもあり、テレビを中心に大々的に報道されるも、日大側は木で鼻をくくるコメントを出しただけだった。本来であれば、大学法人幹部、学長といわないまでも副学長のいずれかが、素早く会見するのが広報の常道だ。 日大も世間も驚いたのが、同月22日に行われた日大アメフト部、宮川泰介選手の会見だ。通常では選手が矢面に立ち、会見を開くなど考えられない。弁護士もこれまでなら「訴追の恐れあり」として止めるだろう。彼の弁護士はその点、広報マインドがあったと思われる。実名でしかも堂々と記者会見を開かせた。弁護士間に広報マインドが高まることは、広報関係者には朗報である。この会見は今後、見本の一つとなるだろう。記者会見する日大アメリカンフットボール部の内田正人前監督(右)と井上奨コーチ=2018年5月23日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影) 一方、日大は翌日、慌てて内田前監督らの記者会見を開く。司会者の言動や会見の内容から見て「Q&A集(想定問答集)」が詳細に作られた形跡はない。もっぱら、内田前監督側、大学側の訴追を恐れる姿勢がありありと感じられた。弁護士の考え方に沿ったアドバイスはあったのだろうか。 こうした日大の姿勢、会見を開かず、また開いても逃げに徹するという考え方は、過去に田中英壽理事長をめぐる疑惑が報じられた際の日大広報の姿勢が継続されていると見ることができる。広報は「地下にこもって騒ぎが過ぎ去るのを待つ」姿勢だ。これまでの日大だったなら、それでも通用したのかもしれない。しかし、こうした姿勢が今後も通用するとは考えにくい。大学広報のメインは入試広報 大学の広報には企業広報に見ることができない言葉がある。それが「入試広報」だ。受験生をできるだけ集まるために広告を打ち、入試方法などの改革についてメディアにリリースを配り、高校を訪問したり、各種セミナーを開く。大学の広報はこれがすべてだ。カリキュラムや教授の研究を広く知らせる教学広報や、危機管理は二の次である。 産経新聞によると、受験期の18歳人口が大きく減り始める「2018年問題」以前から大学経営を取り巻く環境は厳しさを増している。私立大で入学定員充足率が100%以上の学校数の割合は、平成8年度には96・2%に上ったが、29年度には60・6%に低下。4割程度で定員割れが慢性化しており、入学者数が定員の半数に満たない大学も10校程度ある。 経営難などで他大学と統合するケースも相次いでおり、文科省によると15年度以降、全国で私立大14校が6校に統合され、10校が廃止された。大学がこうした厳しい環境にあるという認識は残念ながら広報部も含め、教職員には共有されていない。「うちの大学だけは大丈夫」という認識だ。 学生や教授の不祥事に大学広報が対応失敗する例が頻発しているにもかかわらず、広報部や広報室をなくす私立大学まである。20年前のバブル崩壊後に「うちだけは大丈夫」と語っていた銀行関係者を思い出す。「入試広報」のみに走り、危機管理を疎かにすると、その入試広報、受験生にも影響する。 今回の日大記者会見で広報部職員の米倉久邦氏が述べた「日大のブランドは落ちない」との言葉は、単なる売り言葉に買い言葉ではない。日頃から「日大は大丈夫だ」という過信があった。今回の広報対応の失敗により来春の受験者数が激減したら責任はだれがとるのか。大学広報にも企業広報の構えが必要である。2018年5月25日、アメフト部の選手による反則タックル問題に関する大塚吉兵衛学長の会見前、日本大学会館に集まった大勢の報道陣(桐山弘太撮影) 私の考える企業広報の条件は①トップと直結②現場の把握③会見では目的は一つ④記者が来る広報⑤マニュアルに頼るなというものだ。 今回、田中理事長は週刊誌の取材に対し、「まったく知らん」と答え、重要コンテンツであるアメフト部で起きたことを広報が把握していない(と見える)。会見では謝罪か言い逃れか、説明なのかはっきりせず、前述した企業広報の条件にことごとく外れている。広報は平社員にして平にあらずなのだ。常になぜ広報が重要なのか、考えないといけない。 また、広報は企業の生命線なので周囲の理解も必要だ。広報部自身の理解はもとより、会社など経営陣の理解、社内の現場の理解、関連会社、外郭団体、フランチャイズ、取引先などが広報の重要性を理解することだ。今回の日大広報の対応を見て、他の大学広報が他山の石として、自らの改革に乗り出せば、日大の失敗も無駄には終わらないだろう。

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    監督、コーチは「実行犯」 組織と呼べない日大首脳陣のバラバラ感

    杉江義浩(ジャーナリスト、放送プロデューサー) 5月6日の試合で日本大アメリカンフットボール部の選手が、悪質な危険行為をした責任をめぐり、23日夜、内田正人前監督と井上奨(つとむ)前コーチの記者会見が行われました。私は始終中継を見ていましたが、この会見の内容がひどすぎて、我が目を疑うほどでした。 ネットでも拡散し、おそらく世間の日大に対する評価も、地に落ちたと思われます。25日に大塚吉兵衛学長も会見しましたが、遅きに失したと言えるでしょう。 もともと私はスポーツにおけるラフプレーには、かなり寛容な方です。アメリカンフットボールのようなフルコンタクト系(選手同士が直接身体でぶつかる)ではなく、サッカーやバスケットのようなセミコンタクト系のスポーツでも、反則ギリギリの接触で有利にプレーするのは、暗黙の了解でもあります。 しかし、今回の対関西学院大戦で、日大の宮川泰介選手が行った危険行為は、「スポーツにおける反則」とは違う次元の、犯罪や暴行に相当する事件でした。 野球で言えば、打席に相手側のエースピッチャーが立ったとき、頭をめがけてデッドボールを投げる行為のようなもの。相撲で言えば勝負がついた後、控え室に戻ろうとする力士に、追いかけていって飛びかかるようなもので、もはや犯罪です。 それだけに23日の日大アメフト部の謝罪会見は、スポーツ界全体からも一般国民からも、大きな注目が集まっていました。そもそも会見を開くのに3週間も日数をかけていること自体、対応のまずさを示していますし、前日の宮川選手本人による誠意を感じさせる会見があって、それを受けるかたちで遅れて会見を開いたというのも段取りが悪すぎます。 記者会見で問題にされる要点は、宮川選手本人が、自らの選手生命を絶つ覚悟までして告白したものです。「クオーターバックをつぶしてきます、と監督に言え。そうしたら試合に出してやる」という指示を受けたこと、そして「試合が始まってから、できませんでした、では通用しないぞ」というプレッシャーを与えられたことです。これは監督、コーチが直接問題の危険行為を指示していた、ということを意味しています。それを明らかにするための記者会見だったのです。日大の田中英壽理事長=2014年5月(小倉元司撮影) しかし、記者会見が始まってみると、「クオーターバックをつぶすくらいの気持ちで、全力で試合に臨めという言葉は激励にすぎなかった」とか「相手選手にけがをさせるようなプレーは指示していません」といった監督自らの保身、責任逃れに終始する、およそスポーツマンらしからぬ異様な展開になっていました。 司会を務めた日大広報部の米倉久邦氏の、とんちんかんな司会進行の声が目立ち、しきりに質問を食い止めようとする姿から、それが逆に記者たちに不信感を植え付けることになりました。  日大の中でも田中英壽理事長、常務理事で実質ナンバー2である内田前監督、そして広報も含めた組織としてのバラバラなコーポレートガバナンスが、その背景にあると思います。組織の力は組織を守る方向で作用します。保身一辺倒になってしまった日大の首脳陣は、スポーツマンとしての健全な思考感覚を完全に失っていました。監督、コーチは「実行犯」 とてもスポーツマンである監督やコーチの記者会見とは思えず、政治家や官僚の言い訳だらけの答弁のように私には見えました。責任者が責任を取ろうとしない。部下や現場に責任を押しつけて、自分は「直接指示した覚えはない」と主張する。この卑劣な手口は国会での答弁で見慣れている気がします。あるいはそれを大学の組織がまねをしているのでしょうか。 責任者が責任を取らない時代へと、いったい日本はいつから落ちぶれてしまったのでしょうか。トップの人間が下の人間、現場の人間にプレッシャーを与えて悪事を働かせておいて、いざそれが表面化すると、自分自身の関与は否定する。現場の人間が「忖度」(そんたく)したのだろう、と開き直る。このような体制においては、トップの責任は永遠にうやむやのままです。 現場に問題があったときに、その管理責任を問われるのが、責任者です。ましてや現場に対して直接指示をしていたともなれば、管理責任だけではなく、命令、指揮の責任を取るのが当然です。 この基本的な原理を失ってしまった組織は、もはや組織とは呼べません。輝かしい伝統を築き上げてきた日大アメフト部ですが、この体制では復活は難しいかもしれません。 また、大学は教育の場でもあります。部活動を通して、強い精神力と豊かな人間性を育むことが、そもそもの狙いであるはずです。その意味でも犯罪とさえ言えるほどの危険行為を故意に行わせたことは、致命的な立場に日大経営陣を追い込むことになるでしょう。 23日の会見では、その重い責任さえ、当事者がまるで意識をしていないかのようでした。重大な危険行為さえ、反則に毛が生えたものという甘い認識を、言葉の節々から感じました。自分たちは熱心に指導しただけで、その思いが適切に選手に伝わっていなかっただけだ、と最後まで言い逃れをしていました。あたかも宮川選手個人に問題があったかのような、不遜な言い分です。 記者会見の場に、責任者がなかなか出てこない。ようやく会見に出てきても、ひたすら保身に走るだけで、自分は現場に指示していない、もしくは現場を動かすような指揮監督は行っていないと関与を否定する。このような風潮が国民の中に蔓延してくると、人々は責任者のわざとらしい言い逃れに、だんだん慣れっこになっていくような気がするのです。私はそれが一番恐ろしいことだと思います。2018年5月25日、日大アメフト部の選手による反則タックル問題に関して会見する日大の大塚吉兵衛学長(桐山弘太撮影) どんなことであろうと、「トカゲの尻尾切り」は絶対に許してはなりません。現場に責任をなすりつけてはいけません。体育会はスポーツマンシップを大切にすると同時に、強い縦社会でもあります。 監督やコーチの言うことは絶対です。その体育会で、悪事を強要された選手が、これに逆らうことはできませんから、今回の日大アメフト部の事件は、監督やコーチが実行犯と言えます。選手は教唆(きょうさ)されたというより、駒に使われたというべきでしょう。 組織は実体をごまかすのではなく、世に開示して、責任の所在をはっきりさせる義務があります。その過程を経ずして、日大のアメフト部を復活させることはできないのではないかと思います。 そして我々国民の側にも、あいまいな責任逃れの言い訳は、絶対に認めないという強い覚悟と、真相を徹底追求する姿勢が、今求められているのではないでしょうか。

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    日大悪質タックル問題 醜聞にまみれた米名門大の「前例」

    なく恵まれた。その経験から今回の問題で、真っ先にNCAAの歴史に汚点を残したペンシルベニア州立大学のスキャンダルを思い出した。 ペンシルベニア州立大学アメリカンフットボール部は「ビッグ10カンファレンス」に所属する強豪であり、2度の全米チャンピオンに輝く名門校だ。陣頭指揮を執るジョー・パターノ監督は46年間もサイドラインに立ち続けたカリスマ的な名将であり、カレッジフットボールの殿堂入りも果たしている。ペンシルベニア州立大のビーバー・スタジアム(iStock) 2011年、その名将の右腕のアシスタントコーチだったジェリー・サンダスキーが15年間に渡り、8人の少年に性的虐待をしていたことが発覚し、全米を震撼させた。大学理事会の対応は迅速だった。事の重大性に鑑みて、元FBI長官のルイス・フリー氏を長とする外部委員会を設置し、調査を依頼。出来上がった報告書によると、「パターノ監督が事件の隠蔽工作を積極的に指揮していた」という衝撃的な事実が明らかになった。 パターノ監督はシーズン終了後の辞任を表明していたが、大学理事会はそれを許さず、伝説的な名将は解任された。と同時に、学長、副学長、体育局長という大学の要職も解任したのだ。さらに、10万6572人を収容するビーバー・スタジアムの前に立つパターノ監督の銅像も重機によって撤去された。日大と世論「乖離」のワケ 統括団体となるNCAAの制裁措置は関係者の予想を上回る徹底したものだった。まずは、パターノ監督が「不祥事を知り得た時点」までさかのぼって、それ以降に記録した111勝は抹消された。これにより409勝の通算勝ち星は298勝となり、「歴代最多勝利監督」という栄誉も剥奪された。また制裁金として、当時のレートで約48億円という巨額の罰金の支払いを命じ、4年間に渡ってプレーオフ進出禁止と毎年10人分の奨学金停止も通達された。 同校のあるペンシルベニア州のステートカレッジは4万人という小さな町であり、ペンシルベニア州立大学フットボール部はおらが町の誇りだった。スキャンダルが与えた経済的損失はもちろんのこと、何よりも名門校が受けたイメージダウンは避けられないものとなった。それでも、ペンシルベニア州立大学は高等教育機関として、ゼロからの出発を選んだ。監督はもちろんのこと、大学トップをも解任して、自らの襟を正す決断をしたのだ。 だからこそ、今回の日本大学とアメリカンフットボール部の対応、そして世論との間にこそ大きな「乖離」があると言わざるを得ない。 立教大学では「RIKKYO ATHLETE HANDBOOK」を作成し、体育会51部56団体に所属する2400人のすべての部員に配布している。この中には、立教大学の体育会活動を支える考え方をまとめた「立教大学体育会憲章」が掲載され、体育会学生であることの心構えが記載されている。学生は内容を習熟することで、スポーツ活動と学業を両立させる文武両道の精神のもとに、人間性を養うことがうたわれている。 その憲章の中にある第7条(監督・コーチとの関係)では、「体育会各部の監督・コーチ(以下「指導者」という。)」は、体育会員に技術を指導し、スポーツを理解せしめ、その心身の健全なる育成を行う」(原文ママ)とある。指導者とは技術指導はもちろんのこと、学生に対してルールに基づいたスポーツの本質を教えることで、社会のためになる人間形成が求められている。 23日夜になって日本大学アメリカンフットボール部の内田正人前監督と井上奨コーチがようやく会見を開いた。だが、該当選手の会見と、内田前監督や井上コーチの会見を聞き比べると、やはり何か釈然としない。また、2人の指導者が質問に対して、的確な回答をせず、どこか他人事であり、全て保身に走る内容という印象が残った。結果、該当選手か、指導者のどちらかが嘘をついていると言わざるを得ない歯切れの悪さが残る会見となった。5月19日に伊丹空港で取材に応じた後、報道陣に背を向ける日大の内田監督 今回の一連の問題で、大学は誰のためにあるのか、指導者は誰を守るのか、という本質論が浮き彫りになった。学生スポーツに関わる大人が、「選手に対して、自分の息子、娘のように考えられるか、どうか」。いま、その姿勢そのものが問われているような気がしてならない。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。ニューヨーク市立大学大学院修士課程スポーツ経営学修。立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材するスポーツジャーナリスト。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、これまで14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグ、スポーツビジネスまで多角的に比較・分析している。関連記事■ 日大アメフト内田前監督は「次の理事長」ともいわれた実力者■ 日大アメフト部の危険タックル試合映像を心理士が解析■ 【アメフット】選手と指導陣の食い違い鮮明に コーチ、「潰せ」発言認めるも負傷させる意図は否定■ 【アメフット】後手の対応“火に油” 内田正人前監督は「裸の王様」■ 『月刊PLAYBOY』人気企画 米名門大の女子学生が…?

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    日大アメフト内田前監督は「次の理事長」ともいわれた実力者

     日本大学アメフト部が起こした悪質タックル事件は、監督を辞任することを表明した内田正人氏(62)が“首謀者”とされたことで、混迷を極めた。問題のプレーは5月6日、関西学院大学との定期戦で起こった。パスを投げ終えて2~3秒後の無防備なQBに、日大選手が背後から猛タックル。倒れた選手は全治3週間のケガを負った。 タックルをした選手は、「“(反則)やるなら(試合に)出してやる”といわれた」と周囲に話していたことが相次いで報じられ、内田氏の指示が疑われている。日大選手は関東学生連盟から処分を受け、内田氏は辞任を表明した会見で「一連の問題は全て私の責任」と語ったが、反則を指示したかについては語らず、関学大側に文書で回答するとしている。 日大は、本誌・週刊ポストの取材に対して「監督についてはラフプレーを指示した事実はありません。ですから、現在は責任を問う状況になっていません」(広報部)と話していたが、結局は辞任に追い込まれた形だ。大学側がそこまで擁護し続けた内田氏とは、どういった人物なのか。 スパルタで知られる日大の名将、故・篠竹幹夫監督のもとでQBとして活躍し、後にコーチとなって支えた。2003年に監督に就任すると、大学日本一を決める甲子園ボウルに5度の出場を果たす。昨年は27年ぶり21度目の日本一に導いた名将である。 監督であると同時に、日大卒業後は大学に就職した職員でもある。保健体育事務局長という役職から、理事を経て、現在は5人しかいない常務理事となっている。日大関係者が明かす。「内田さんは出世街道を歩んできた“日大エリート”です。日大には体育会の入部人数や予算を差配する保健体育審議会があり、その事実上のトップが内田さん。前トップが今の田中英壽理事長で、このポジションは日大の出世コースといわれています。 内田さんは人事部長も兼ねていて人事権も持つ。学内では田中理事長の側近と見られており、“理事長に万一のことがあれば次は内田”といわれている実力者です」2018年5月、アメリカンフットボールの悪質な反則行為問題について、羽田空港で取材に応じ、うつむく日大の内田正人監督 アメフト部の監督は辞任したが、大学の常務理事という立場は続くことになる。関連記事■ 日大アメフト部の危険タックル試合映像を心理士が解析■ アメフトの世界選手権に唯一全大会出場する46歳パナ人事部長■ ポロリ頻発の下着フットボール 元アスリートの本気勝負■ 相撲協会 八角親方を理事長選出で「貴乃花理事長」遠のく■ 相撲協会理事長選 八角理事長が浮動票固め帰趨決したか

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    「醜悪、保身、責任回避」日大広報部のおバカ対応に思う

    小俣一平(武蔵野大学客員教授) 今回の日本大学アメリカンフットボール部、内田正人前監督、井上奨(つとむ)コーチが出席した記者会見を見ていて思ったことがある。2人の記者会見は大人の醜悪さ、保身のための言い繕い、責任回避に終始していた。それは、前日の潔く、真摯(しんし)に記者会見に臨んだ宮川泰介選手の態度とはあまりにかけ離れたものだった。 それだけに、アメフト部だけでなく、日大全体のイメージを失墜させるものだった。くしくも日大は来年、創設130周年を迎える。卒業生114万7千人、在校生7万3千人にとって、日本最大の学園の記念祝典に泥を塗った格好となった。  日大は、どこで重大な間違いを犯してしまったのか。それは初動対応のまずさに他ならない。本来、まずケガをした関西学院大の選手や家族、監督、学校関係者に公式の場で謝罪する。何よりも入院中の選手を見舞い、直接謝り、家族やアメフト部、大学にも同様の対応をすべきであった。つまり「即謝罪」という根本原則を見失って、後回しにしている点にある。 それがとうとう最後まで悪あがきをしたあげく、嫌々謝罪に行ったと多くの人の目には映った。日大側の対応に全く誠意が感じられないと受け止めたのは、関学大関係者ならずとも多くの国民が感じたことだろう。しかも監督、コーチの2人は言い訳に終始するばかりで、心から謝罪をしている姿はただの1度もない。これでは、関学大関係者の神経をさらに逆なでするのは当然であろう。 次に広報部門の対応のまずさである。この間の日大広報部の傲岸(ごうがん)不遜、横柄さ、木で鼻をくくったような対応は、大学のイメージダウンを増幅させるものがあった。とりわけ23日の監督、コーチの会見終盤に突然横やりを入れた日大職員の対応は酷かった。本来、「主役」であるはずの監督、コーチそっちのけで報道陣に逆ギレした対応は「素人広報」の感さえあった。 調べてみると、この傲慢(ごうまん)な広報担当、米倉久邦氏は共同通信社の論説委員長を務めたことのある人物だという。それに引き換え、関学大アメフト部ディレクターは元大手新聞の出身で、そのシャープさ、歯切れの良さ、対応の堅実さ、終始理路整然とした追及、どれをとっても秀逸であった。それだけに日大広報のアラ、ひどさが余計目についた。2018年5月23日、日大アメリカンフットボール部の内田正人前監督らの会見後、報道陣に囲まれる司会を務めた広報部の米倉久邦氏(松本健吾撮影) それにしても、日大は2016年に「危機管理学部」を新設して、こうした案件も対応できそうなはずだが、これが機能していないとすると「紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)」のそしりを免れまい。いや、むしろ「宝の持ち腐れ」なのかもしれない。優秀な教授、准教授陣を結集しているのにもったいない。  さて、私たちは、過去の事例から、こうした後味の悪い対応を幾度となく見てきた。企業の不正行為や隠蔽(いんぺい)が露見したときの対応一つとっても、ずるずる引っ張ってよかったためしはまずないと断言していいだろう。「ゴネ得」狙う筆頭への情けなさ つい先ごろも、セクハラ問題を指摘された東京都狛江市長が知らぬ存ぜぬの一点張りだったが、被害者が実名で現れた途端、万事休すと辞任する始末だ。先般、iRONNAで論じた福田淳一前財務事務次官も同様、こうした事例は枚挙にいとまがない。 どうして素直に謝らないのか、非を認めないのか。孔子の教えに「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」がある。言い繕いやしらばっくれず、過ちを素直に認め、サッサと謝罪してやり直すというのが、日本人の美徳の一つでもあったはずだ。いつから「ゴネ得」を狙う輩が増えたのか。 私たちは今、その典型を日本の総理大臣に見る不幸を共有している。こうした往生際が悪い筆頭が、あろうことか日本の総理大臣というのは情けない。安倍晋三総理が加計学園の獣医学部新設に口利きしていることは、愛媛県の資料公開によって明々白々となった。 利害関係のない愛媛県が、ワザワザ「ウソの報告」を書く必要がどこにあるのか。しかも、前回の愛媛県の資料でも、柳瀬唯夫元総理秘書官のウソが後日覆された事実からして、同様のケースであることは論をまたない。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」の例え通り、いずれ世論に抗しきれず、ウソでは逃げおおせなくなるだろう。 不幸なのは、総理のウソによって有能な日本の官僚たちが、軒並み保身のためとはいえ、ウソの連鎖を繰り返さざるを得なかったことだ。さらに不幸なのは家族である。「お父さんはウソと分かっていても、私たち家族のために(ウソを)ついているのよ」と、母親が子供たちを説得しているのかもしれない。 総理の100倍も1000倍も優秀なお父さんを「嘘つき」にした安倍総理の行為は、家族にとっては犯罪的とも言える。国のトップリーダーであるべきはずの総理大臣が、この1年言い逃れに終始し続けていては、国民もそれをまねてしまう。2018年5月、参院予算委に険しい表情で臨む安倍首相(左)と麻生財務相 これが子供たちにも伝播(でんぱ)して、証拠を並べられてもガンとして嘘を突き通すことが最良、最善の策と思わせてしまうのではないか。かつて「嘘つきは泥棒の始まり」と戒められたものだが、今や…もう止めよう、これ以上は蛇足である。 今真剣に日本の将来を考える若者たちは、ますます政治不信を深めている。どの世界でも、リーダーは引き際が肝心である。内田前監督が大学を去ることと同じように、安倍総理も公約通り国会から去る時期を迎えているのではないか。

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    米山隆一独占手記、知事失格「自責の念」

    米山隆一前知事の辞職に伴う新潟県知事選が告示された。週刊誌が報じた女性スキャンダルが引き金となった米山氏だが、辞職後は沈黙を貫く。その米山氏が自責の念をつづった独占手記をiRONNAに寄稿した。「知事失格」という世間の厳しい目にさらされる米山氏は今、何を思う。

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    スーパーエリート知事「米山辞職劇場」が残した多くの教訓

    山田順(ジャーナリスト) 政治家の下半身スキャンダル発覚は珍しくない。だが、先日辞職した新潟県の米山隆一前知事の場合は、最近の同様のケースと比べて、特筆すべきスキャンダルではないかと思う。ご本人のキャラクターもあるが、あれほどまでに取り乱し、さらに本心をさらけ出したうえ、「涙の辞職」をしたケースは過去になかったと思う。 たいていの場合、政治家は週刊誌報道が出そうだと知った時点で、何より対策を考える。最初に取る行動は、なんとか記事が出ないようにできないかということである。また、相手と金銭解決など示談に持ち込めるかなどを検討する。 しかし、これが無理だとわかると、次の時点で記事内容を確かめ、ダメージが少なくて済む方法は何かと考える。もし、口裏合わせや言い逃れができるなら、そうした対策を採ろうとするだろう。 しかし、米山氏はそうはしなかった。『週刊文春』発売前なのに記者会見を開き、揺れる心を記者に吐露してしまったのである。 したがって今もなお、「辞職までする必要はなかった」という声もあるが、一連の経緯を見て、結果的にはこれでよかったのではないかと思う。この後に発覚した林芳正文部科学相の「キャバクラヨガ」公用車通いの方がはるかに問題は多いのに、辞職に追い込まれていない。「アフター」であろうと、やっていたことはほとんど同じと思えるのに、この違いはなぜか。 それは、「米山ケース」が言い逃れできない証言に基づくものであったのに対し、「林ケース」はいくらでも言い逃れ、つまり否定できたことだ。要するに「林ケース」には告発者がいない。さらに、米山氏は権力基盤が弱く、バックサポートしてくれる組織もなかったからである。 また、「セクハラ辞任」した財務省の福田淳一前事務次官のように、完全否定するという厚顔無恥ぶりも持ち合わせていなかった。なにしろ、米山氏は記者会見で「自由恋愛のつもりだった」と説明したのである。-金品を渡した意図は?「歓心を買おうと思った。それによって、より好きになってもらおうと思っていた」-体の関係を持つために金銭の授受をしたのか?「言いづらいが、好きになるというのは、最終的には多少なりとも肉体関係を持ちたい気持ちと重なる。より好きになってほしいと思っていた」2018年4月18日、自らの女性問題をめぐり記者会見で辞職を表明し、謝罪する新潟県の米山隆一知事 この説明では、これ以上ツッコミようがない。モテない中年独身男性が、ネットの出会い系サイトにコンタクトし、そこで「パパ活」をしていた女子大生に3万円払って関係を持った。それを恋愛と信じようとしていた。これを記者の前、つまりに世間に向かって言ってしまったのである。しかも、その女子大生には彼氏がいた。つまり、問題は、モテない中年独身男性が新潟県知事だったことである。-知事就任後も女性との関係を続けた理由は?「よくわからない。バカだったと思う。(知事に当選後、女性からの)連絡で『すごいですね』と言われて、ちょっとうれしかった」不祥事のたった一つの解決法 これでは「売買春」であろうとなかろうと、辞職するほかないだろう。 米山氏の華麗な経歴から見て、「エリートほど下半身スキャンダルに弱い」「危機管理がなっていない」という意見があるが、これは的を射ていないと思う。最近は、不祥事があるとすぐ「危機管理」が問われるが、そもそも不祥事を起こさないことが大事だ。それに、起こった後の対応について、本当の解決法は一つしかないのである。 それは、ウソをついたり言い逃れしたりせず、正直に話して謝罪することである。しかし、「森友・加計問題」にしても、これだけ長引いているのはウソや言い逃れが横行しているからだ。 ところが、米山氏は正直だった。哀れだが、すがすがしかったことも事実だ。ひょっとして、彼は50歳になるまで、本当の恋愛をしたことはなかったのかもしれない。 米山氏については、いろいろなことが言われている。なんといっても話題になるのは、その華麗なる経歴だ。 灘高から最難関の東大医学部に進み、1992年に医師免許を取得し、97年には司法試験にも合格している。このとき30歳。医師でありながら弁護士であるという「偏差値エリート」の典型的な人物、というよりトップ人材といえる。その後の経歴もまたすごい。 1998年には東大大学院経済学研究科、2000年には東大大学院医学系研究科で、それぞれ単位を取得した後、放射線医学総合研究所やハーバード大学付属マサチューセッツ総合病院に在籍し、03年には、東大から博士号(医学)を取得している。そして、05年からは京大先端科学技術研究センターで特任講師も務めている。 これだけのスーパーエリートなら、女性にモテるはずだ。ところが、なぜかまったくモテなかったと言う。2005年9月、衆院選で長島忠美・旧山古志村長(右)の応援を受ける米山隆一候補(左) それもあったのだろうか、彼はその後、政治家を目指した。最初の立候補は2005年の衆院選、自民党の公認を受けた。このときは無所属の田中眞紀子候補に敗れ、09年に再挑戦するもまたも落選した。そして12年、今度は日本維新の会から立候補したがまた落選。そこで、13年には参院選に出たがこれも落選した。 つまり、ここまでは「万年落選候補者」だったのである。これはエリートとして耐えがたいことだろう。政治家として再起を目指すなら しかし、ここから米山氏に運が巡ってくる。16年、新潟県知事選で現職の泉田裕彦知事が不出馬を表明し、野党が候補者選びに難航していると、米山氏は民進党を離党して無所属で立候補したのである。ちなみに、この時点で維新の党が民主党と合流したため彼は民進党籍だった。 野党候補は、前長岡市長であった森民夫氏だ。相手としては弱い。そこで、米山氏はなんと、持論だったはずの原発再稼働を捨て、「反原発」を訴えたのだ。応援演説に、前原誠司氏、江田憲司氏、蓮舫氏、橋下徹氏などが入ったこともあり、6万票以上という大差をつけて当選した。 私は米山氏を直接知っているわけではない。メディアを通して知っているだけだ。だから、これは言い得ていないかもしれないが、こうした米山氏の経歴から言えるのは、彼が「キャリア・コレクター」ではないかということだ。常に高いキャリアに挑戦し、その資格を得ることを繰り返す。頭のいい人間にとって、これは何にも代えがたい快感だからだ。 しかし、キャリアそのものには、それほど意味がない。問題は、そのキャリアを得て、何をするかだ。残念だが、米山氏にはこれがないように思える。医者として何をするか。弁護士として何をするか。政治家として何をするか。 そのような志(こころざし)、思想、信条に基づいて行動すべきなのに、彼はそうしてこなかったように思える。 知事選での演説を聴いた人によると、演説は上手ではなかったと言う。反原発は言っても、支持者の心をグイグイつかむような話はなかったと言う。そのため、もっとも受けたのは、ミカン箱の上でやった「バック宙返り」だったと言うのだ。2017年9月、プロ野球DeNA-巨人戦の始球式で宙返りをする新潟県の米山隆一知事(左)=横浜スタジアム(吉澤良太撮影) もし、今後、米山氏が政治家として再起を目指すなら、もう「バック宙返り」はやめにしてほしい。それよりも、もっと人間について深く学んでほしい。エリートでない一般の人間がなにを考えて生きているのか。そして、彼が苦手とする女性たちが、何を考えて生きているのか。「人間学」を怖がらずに学んでほしい。 「米山辞職劇場」は、さまざまな「遺産」を残した。ネットの出会い系サイトでは、本当に3万円で交際してくれる女子大生と知り合えること。しかし、もっと高い報酬を要求される「高級クラブ」なら、こんなことは起こらないということ。 また「#MeToo運動」が世界的にトレンドになっている今、女性側から訴えがあったら、どんなことであろうと職を辞さなければ収まらないこと。例外は、ポルノ女優ストーミー・ダニエルズとセックスして口止め料13万ドルを払ったトランプ米大統領だけである。 さらに、反原発運動などと言うのは、それほど深い動機があるわけではないこと。経済的、科学的な理由などどうでもよく、単に「原子力は怖い」という素朴な感情に基づいているということだ。まあ、これ以外にもまだあるが、米山氏の辞職劇は多くの教訓を残し、今あっという間に風化しようとしている。

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    山口達也「TOKIO脱退」が仰々しい

    未成年女性への強制わいせつ容疑で書類送検された人気アイドルグループ、TOKIOの山口達也がジャニーズ事務所を退所した。本人の酒癖と女癖の悪さが仇になったとはいえ、メンバー全員が謝罪会見したり、連日大騒ぎするほどのネタだったのか。iRONNAでは少し冷静に、この問題を掘り下げてみたい。

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    「おっさんアイドル」山口達也の悲哀は私にも分かる

    成馬零一(ライター、ドラマ評論家) 人気アイドルグループ、TOKIOの山口達也が起こした未成年に対する暴行未遂事件が尾を引いている。論点が多いため、性別、職業、社会的な立場によって事件に対する切り口がまったく違うものになってしまうのが、この問題の厄介なところだ。だから、意見を表明するのがとても難しい。 ここまで前置きしたのは、自分がどういう立場で書くのかを、まずはっきりさせたいと思ったからだ。結論から先に言うと、自分は山口達也に対してかなり同情的である。哀れで無様(ぶざま)だなぁと思うと同時に、いつ自分も「ああなるか分からない」という不安を感じている。 最初に事件の内容が報道されたときは、よくあるタイプの淫行事件かと思った。自分がおっさんだと気づかないまま年を取ったイケメン男性アイドルの「失墜劇」としてみると、逆『美女と野獣』とでも言うような顛末(てんまつ)だ。今まで散々いい思いをしてきたのだろうから、正直いい気味だ「ざまぁみろ」とすら思った。 しかし事件のディテールが分かってくるにつれて、こりゃ他人事(ひとごと)ではないなと思うようになった。 報道によれば、山口が未成年の女子高生を呼びつけた日は彼が病院から退院してきた日だったという。肝臓の治療だったということで、すぐにアルコール依存症だと思った。だとすれば、退院したその日に飲んでしまうということは、まったく治っていないということである。 何より、退院明けに酔っ払って呼び出すのが、未成年の女性だったということが哀しい。仮に山口がロリコンで、性欲の赴くままに未成年に手を出していたのなら、そういう事件だとため息をついて切り捨てられるのだが、普通にしていればいくらでもモテるだろう男性アイドルの行動としては、あまりにも幼稚なものに見えてしまう。 事件後の報道をみていると、山口は酒癖と女癖が悪くて有名だったというが、どちらも本当に好きな人の振る舞いには思えず、ある種の不安や恐怖からの逃避のために酒と女に逃げ込んでいたように筆者は感じた。記者会見で涙を流すTOKIOの山口達也メンバー=2018年4月26日、東京都千代田区のホテルニューオータニ(松本健吾撮影) これは山口の年齢が46歳だというのも無関係ではないだろう。私はちょうどその頃、漫画『サルでも描けるまんが教室』(小学館)の原作などで知られる編集家、竹熊健太郎の著書『フリーランス、40歳の壁』(ダイヤモンド社)という本を読んでいた。 この本は「40代になったフリーランスのライターにはなぜ、仕事が来なくなるのか?」という問題を竹熊自身の実体験を元に書いた本であり、40代を境に一緒に仕事する編集者が年下になっていくことや、自身の能力の低下、出版不況のあおりといった時代の変化、そして結婚等によるライフスタイルの変化など、公私にわたるさまざまな原因が書かれているドキュメントタッチのマニュアル書である。 この本が出るきっかけとなったのがプロ・インタビュアーの吉田豪がまとめた『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)という、サブカル系の文化人やタレントが40代に入る頃に鬱病になった理由を聞いているインタビュー集だ。 竹熊は鬱(うつ)になる理由を「フリーランスの壁」だと理解したそうだが、どちらも40代を一つの境目に置いているのが興味深く思った。後戻りできない40代 筆者は現在41歳のフリーライターなのだが、実は37歳ぐらいから、40歳になったらどうしようと真剣に悩んでいた。このままいくと自分は家族を持たないかもしれない。むろん、会社にも所属していない。 所属する場所がないのは自由で気ままだが、まるで自分が幽霊にでもなったかのような不安もある。その不安に自分は耐えられるだろうか? 不安に負けてアルコール依存症になったり、女やギャンブルに走ればすぐに身の破滅だ。そう思い、最終的には「自分の居場所は自分で作るしかない。そのためには自分にしかできない仕事をするしかない」と思い、人間関係や仕事を見直し、書く仕事以外のことについてもそれなりに勉強するようにしてきた。 その時に漠然と思っていたことは、40代になったら今までの蓄積を土台にしてやっていくしかないという不安だ。二度と後戻りできない境目に立っているような気持ちだった。 筆者は1976年生まれで、男性アイドルでいうとSMAPやTOKIOのメンバーとほぼ同世代である。だから、2年前のSMAPの騒動もジャニーズ事務所とのゴタゴタを抜きにすれば、あれも一種の40歳、フリーランスの問題だったのではないか、と今さらながらに思う。  SMAP以降のジャニーズのアイドルグループは、解散をせずに30代を迎えることは当たり前になっていった。TOKIOもそうやって世に出ていったアイドルグループだ。同時に面白かったのは、SMAPの魅力の中心にあるのが中性的な男女兼用のものだったのに対して、TOKIOの方は男子校の部室のような男臭さがあり、それが年々高まっていたことだ。 『池袋ウエストゲートパーク』や『タイガー&ドラゴン』(ともにTBS系)といった宮藤官九郎のドラマで男臭い役を演じる長瀬智也はもちろんのこと、バラエティー番組『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)で見せるグループ間の楽しそうなやりとりは同性からみても魅力的で、同世代がみてもシンパシーを感じるアイドルグループだったといえる。(画像:istock) SMAPもTOKIOもメンバーが30代になった00年代に入っても、その人気は衰えなかった。当時、漠然と思っていたのは、これは新しい男性アイドルの形で、彼らはこのまま40代、50代になっても若々しいアイドルのまま年を取っていく。それが以前の大人たちとは違う、自分たちの世代の成熟の在り方なんだろうと感じていた。 しかし、SMAPの騒動があったときに実感したのは、単純に時間が10年繰り上がっているだけだったという現実だ。 年長世代が30代で直面する問題に、団塊ジュニアは40代になって遅れて直面している。それは「青年がちゃんとした大人のおっさんになれるのか」という昔からあった素朴な疑問である。  では、人はどうやって大人になっていくのか。その答えの一つは前述した社会的立場だろう。 家族ができて子どもを持つこと。会社組織に入り出世して部下を持つこと。守るべきものを持つことで社会的立場を獲得し、その責任を自覚して行動する。これは上辺だけのことかもしれないが、上辺だけでも立派ならそれで十分である。 では、この二つ(家族と会社)という基盤がない人間はどうすればいいのだろうか。TOKIOの完璧さ 家族がいなくてフリーランスの仕事をしている40代。昔だったら少数派だったかもしれないが、こういう立場の人間は確実に増えている。 フリーとはいえ、筆者のようなライターとタレントでは、立場が違うと思う人も多いだろう。しかし、才能と能力で勝負している浮き沈みの激しい世界で生きているため、重なる部分もあると筆者は思っている。 山口の場合は2008年に結婚し二児の父親だが、2016年に離婚している。 仕事面では、ジャニーズ事務所という大手芸能事務所に所属してTOKIOという人気グループのメンバーとして活躍している。その意味では大手企業に所属しているような気持ちもあったのかもしれない。記者会見で山口が「TOKIOに席があるなら戻りたい」と言ってしまう姿は、どこか自分よりも会社やチームに自分のアイデンティティーを置いているようにみえた。 筆者の仕事はドラマレビューが中心なので、俳優として活躍する長瀬智也や松岡昌宏については演技の力量や人気はある程度理解できるのだが、バラエティーを主戦場とする他のメンバーについての分析をするほどの知識は持ち合わせていない。 山口に関しても『ザ!鉄腕!DASH!!』を時々見るくらいで、彼の外見以外の能力についてはよく知らない。多分、世間一般の評価もそんなものなのだろう。おそらく、そのことに一番おびえていたのが山口自身だったのではないだろうか。 30代で自分に何もないと気づいたのなら、音楽や演技の勉強を改めてすることで自分を磨くか、芸能以外の仕事に活路を見いだしてリタイアすることも考えるだろう。だが、山口が不幸だったのはTOKIOとしての人気はとても高かったことだ。 3・11以降は福島農産物のイメージキャラクターとしても活躍しており、社会的信用を得ていたのは事実である。彼の酒癖の悪さや女癖の悪さが生来のものなのか、芸能の仕事をはじめてからなのかは分からないが、どうも報道をみていると、自分自身のタレントとしての現実に直面することから逃げた結果、依存症的に刹那の快楽におぼれ、思考停止してしまったように見えて仕方がない。  一方、記者会見に登場したTOKIOを見たときに思ったのは「全員、見事におっさんになったなぁ」という感想である。会見する(左から)長瀬智也、国分太一、城島茂、松岡昌宏=2018年5月2日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影) 最年少の長瀬智也がすでに39歳で、残り3人は40代なのだから当然といえば当然なのだが、記者会見で見せた山口達也の子どもっぽい姿とはまるで対照的だと思った。 誤解を恐れずに言えば、TOKIOの会見は完璧だったといえる。山口に対する厳しい意見の中に見える仲間として責任を取ろうとする姿勢、何より被害者となった未成年の女性に対する配慮が見事であった。松岡昌宏が山口に対して「あなたは病気です」と指摘した辛辣な発言や、「アルコール依存症の診断が出ていない」という報告はファンならずとも一番知りたかった衝撃の事実だったに違いない。 TOKIOに対する意見に同情的なものが多く、彼らの人気失墜につながっていないのは、この会見があまりに見事だったからだろう。非難されているのは、彼らを会見の場に登壇させたジャニーズ事務所と山口達也に対するものがほとんどである。大企業の謝罪会見ですら、謝罪自体が被害者に対するセカンドレイプになっているかのような無神経なものが多い中で、どこを切り取っても一部の隙もない完璧な会見だったと言える。 しかし、だからこそ思うのは、最終的に山口を追い詰めてしまったものは、この会見で見せたTOKIOの持つ「完璧さ」そのものだったのではないかということだ。おっさんの孤独 あの会見で筆者が何より感動したのは、どれだけ彼らが厳しい意見を言っても、彼らが「山口を見捨てない、何ならアルコール依存症が治るまで責任を持って面倒をみる」と言っているかのよう感じたからだ。 山口が事務所を退所した今となっては、過大評価だったのかもしれないが、いくら厳しいことを言っていても、山口に対しては「俺はお前を見捨てない。だからまずは治療に専念しろ」と言っていたのなら、山口が復帰するかどうかは別にして、チームとしてのTOKIOは完璧だと思う。 だが、あれだけ見事な会見ができたなら、なぜ、山口の問題を事前に察知して「お前、しっかりしろよ」と言えなかったのか。同時に山口もなぜ、他のメンバーに自分の悩みを相談できなかったのか。退院後に山口が本来連絡すべき相手は、未成年の女子高生ではなく、TOKIOのメンバーであるべきだったはずである。 もちろん46歳の大人なんだから、余計なことは言えないという付き合いもあるだろう。だが、そこで踏み越えて思ったことを言い合える関係が山口達也と他のメンバーの間に出来上がっていたら、事件の顛末は違ったものになっていたのではないだろうか。 ここに筆者は40代以上の日本の中年男性の抱える哀しみをみてしまう。彼らには自分の弱い心を吐き出せる相手がいないのだ。 それにしても、これだけたくさんの報道が出ているのに、いまいち像を結ばないのが、山口達也の内面である。結局彼がどういう理由で未成年の女性を呼び出したのか。こうなるまでに彼がどういった心境で生きてきたのか。もっとたくさんの論点があるはずなのに、どれだけ情報が出ても、山口達也という一人の人間のパーソナリティーが浮かび上がってこないまま、周辺の情報だけがどんどん肥大している。そもそも事件を語る多くの人が山口個人について全く関心を持っていないようにみえる。(画像:istock) 山口を「悲劇の主人公」として語ってしまうことで、中年男性が仕事上の立場を利用して未成年の女性に対して行った性的暴力を免罪するようなことがあってはならないという気持ちが、彼の内面に踏み込むことを躊躇(ちゅうちょ)させているのだろう。TOKIOの今後を心配する声と、被害者女性を心配する声の間で、山口達也本人の問題を語る言葉が、どんどんかき消されていっているように感じる。 今、山口の内面にフォーカスを当てるのは時期尚早なのかもしれない。しかし、アイドルとして働く46歳の中年男性が抱えていた不安や恐怖、あるいは孤独の根幹を理解することができなければ、この問題の本質にはたどり着けないのではないか。しかし、世の中で一番どうでもいいものとして扱われているのがおっさんの内面だから、そこが語られることは今後ないのかもしれない。何より不幸なのは、おっさんの不安や孤独を言語化することを一番阻害して、無自覚に封じ込めているのが、当事者であるおっさんたちなのだ。 だから、山口にはいつか自身が抱えていた不安や孤独を自分自身の言葉で語ってほしいと切に思う。

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    山口達也を結果的に追い詰めたジャニーズ「損失回避」の心理

    藤井靖(明星大心理学部准教授、臨床心理士) 4月25日、衝撃のニュースが報じられた。国民的アイドルグループ、TOKIOの山口達也が、警視庁により強制わいせつ容疑で書類送検されたのだ。その後、被害者で番組共演者である女子高生との示談が成立し、被害届が取り下げられたとみられる。5月1日には、検察が双方で示談が成立していることなどをかんがみ、起訴猶予処分とした。 そして5月6日、リーダーの城島茂がメンバーを代表して、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長に対し、山口から託された辞表を提出。二人が協議した結果、TOKIO脱退と事務所からの退所が発表された。その裏には、山口本人からジャニー社長へ直接の意思表明があったとされている。 事務所は同日付のマスコミ向け文書で、社会復帰するために積極的かつ継続的な支援を行っていくことを表明した。その上で、支援のためには本人の強い意志と周囲のサポートが不可欠であるとした。 そもそも今回の事件は、山口による未成年者を対象にした卑劣な犯罪であり、全く擁護できるものではない。しかも、社会的には非常に大きな影響力を持っている存在であることも考慮すると、グループ脱退・事務所退所という厳しい処分は妥当であると考えられる。 しかし、山口本人の会見や残りのメンバー4人だけで行われた会見、さらには所属事務所のファクスによるプレスリリースを含め、脱退までのプロセスには常に一定の疑問が伴う。これは私だけが感じたものではなく、おそらく情報の受け手である日本国民の一定数が共通に抱えた疑問や不同意であり、それが世論として形成されたのである。 事務所の動きは常に世論と警察・検察当局の対応の後手に回ってしまった。さらに総じて言えば、積極的な対処に基づく被害者保護や情報の公表、再発防止策の発信の度合いも考慮に入れると、事件に正面から向き合っている印象を受けにくい。なぜこんな対応をしてしまったのか。2018年4月25日、TOKIO山口達也が強制わいせつ容疑で書類送検されたことで、ジャニーズ事務所前に集まった報道陣(桐山弘太撮影) 感じられるのは「損失回避」の心理だ。人は失うことを極端に恐れる動物である。失うことで受ける心理的なダメージは、何かしらの成功から得られる「利益」より、はるかに大きいと感じられるからだ。 事実、今回の山口の「失敗」は、これまで数十年かけて積み上げてきたものを一瞬にしてゼロにしてしまう破壊力があった。 おそらく、事務所関係者は事件が明るみに出たことのインパクトを肌身に感じながら、それを受け入れることができず、心理的に否認していたと思われる。そのため、特に初期対応で所属タレントの不祥事に向き合うことができず、それがたった2文という最初のプレスリリースにつながったのではないか。誠意なき事務所のコメント報道関係各位お酒を飲んで、被害者の方のお気持ちを考えずにキスをしてしまいましたことを本当に申し訳なく思っております。被害者の方には誠心誠意謝罪し、和解させていただきました。ジャニーズ事務所 組織の危機対応としては、あまりにも簡素で、誠意に欠ける内容と多くの人が感じたことだろう。本来であれば、企業とっては、何よりも初動対応において世論の反応を予測した上で発信することがダメージコントロールの基本である。 特に今回のような未成年を対象にした性的事案については、行動の主体がいくら国民的人気アイドルグループの一員とはいえ、擁護する世論が湧き上がることが皆無に近いことは容易に予想できたはずである。 しかしTOKIOは、事務所の経営陣にとって、あまりにも多くの時間と労力、心血を投資してきた存在だった。大切にコツコツと育ててきた存在ほど執着してしまい、合理的な判断ができなくなるのだ。それがコメントの短さや形式的な事実公表につながってしまった。 この流れはその後も続いた。山口本人の会見に弁護士が同席し、被害者側のコメントが読み上げられたり、自ら今後の芸能活動への希望を述べたのである。改めて会見や質疑を分析しても、事務所レベルで影響性を考慮し、内容を精緻に用意したようには感じられなかった。 またTOKIOメンバー4人の会見にしても、やはり事務所関係者が同席すらしていなかった。これでは、メンバーの心理的混乱と、具体性を欠く事後対応、今後の処遇の不透明さのイメージだけが残っただけに終わった。一部では「同情を買おうとしているのでは」との臆測を生む結果まで伴った。 もちろん、山口を擁護しているとも取れるコメントを発信する有名人や、マスコミの論評もわずかながらあった。TOKIOのファンの中にも、擁護や励ましはもちろんのこと、被害者を批判する向きもあっただろう。山口達也の契約解除に関して、ジャニーズ事務所が報道機関に送った文書 もし、この一部の動きが山口本人や事務所関係者の耳にも入っていたとすれば、多面的影響を考慮した冷静な対応からますます逸脱していく。 人は危機的な状況に陥れば陥るほど、自分に都合の良い情報だけを集める習性がある。この「確証バイアス」により、山口や事務所が損失回避感情をさらに強め、半ば自分の内面では言い訳ばかりが先に立ち、失敗を正面から受け止める心理からは遠ざかっていった可能性がある。 世論による激しい批判にも関わらず、時間をかけて本人の会見、メンバーの会見と段階的に後手後手で対応せざるを得なかった事務所の手法は、最終的に退所の報告まで続くこととなった。「何でもできる」事務所のおごり 退所のファクスには、事務所が山口の今後を支えていくと記載されている。もちろんこれは、事務所を退所するとはいえ、長年育ててきた所属タレントの行く末に責任を持つという意思の表れとも受け取れる。 しかし、この報告は果たして必要だったのか。批判的に見れば、あたかも山口が保護されるべき存在のように印象付けているようにも思われる。そこにはやはり事務所が厳罰を望む世論を正面から受け止め切れていない甘えも感じられる。さらに言えば、事務所幹部のジャニーズに対する過大な自己評価や、「自分たちは何でもできる」というプライドやおごりのようなものも垣間見えさえするのである。 ただ、山口の今後や更生についても、もちろん考えていかねばならない。これは、彼の立場に立った加害者保護のためでも、単なる理想論でもない。何よりも、再犯とそれに伴う新たな被害者が生まれないために必要不可欠な視点である。 そこで、既に多数報じられている「アルコールに関わる問題」が大きな観点となる。そもそも論で言えば、私は事務所を含めた周囲の身近な人間が、山口のそのネガティブな心理や行動上の問題に、長年直面化してこなかった経緯がうかがわれる。 山口本人の会見では「自分はアルコール依存症ではない」と言及していた。一方で、メンバー4人で行った会見では、松岡昌宏が「自分たちは依存症だと思っていたが、複数の病院を受診した結果、診断書には依存症と書かれていない」ことを明らかにした。 しかし、彼らの認識をもって「山口がアルコールに依存的になっているわけではない」と言い切ることはできない。ただ、肝臓の治療のため入院していたことの背景に、過去の多量の飲酒経験があったことは明白である。「依存症ではない」と自分の症状を否認することは、依存状態において典型的な心理でもあるからだ。 さらに言えば、診断書というものは、あくまでも本人や家族の申し出があって書かれるものである。仮に当事者や関係者が記載されたくないことがあれば、主治医がそれを全く考慮しないことは少ない。つまり、医師の症状の見立てが率直に反映された書類かどうかについて検討の余地があるのだ。 ただし、診断基準からみて山口が「アルコール依存症」にあたる症状を有していると推測できるかといえば、そうとは言い切れない部分もある。実は、アルコール依存症の診断のハードルは高い。専門医でなければ診断されなかったり、行動レベルでは依存症と見立てることができても、厳格な基準を当てはめると診断には該当しない例も多数あるからだ。 とはいえ、精神疾患の最新診断基準である「DSM-5」からみると、山口は「アルコール使用障害」にあたると考えるのが自然である。この新しい概念には、依存と乱用の線引きをなくせば、早期介入が役に立つ可能性があることを示唆している。 また、「依存症」という言葉に人格的な偏見がつきまとうのに対して、「使用障害」ならスティグマ(負の烙印)になりにくいというメリットが考慮されてのことでもある。ただし「依存症ではない」とみなされ、ある意味で症状が軽視されるリスクもはらんでいる。「損失回避」の心理 もし、このことが、山口本人が自身の状態を判断したり、事務所幹部が処遇を検討したりする上で影響していたとすれば、山口のアルコールに関わる問題は軽視され過ぎていたと言わざるを得ない。 日本は欧米に比べ、飲酒やそれにまつわる失敗談に寛容な国である。違法薬物のように、摂取自体が違法ではないという事情もあるだろう。ただ、お酒が非常に好きであることが本人の「嗜好(しこう)」として広く認知されていたり、「アルコールによってストレスを解消している」と判断されたりすると、周囲がそれを継続的にとがめたり、断罪することは少ない。 現に、TOKIOのメンバー4人も20年以上の関係性の中で山口の酒癖については十分に理解していたはずだ。それでも、彼の行動を改善できなかったのは寛容性の裏付けでもある。もちろん、いくら親密な関係性であっても、いわゆる「依存状態」に対して専門性を持たない周囲の働きかけが機能するとは限らないので、メンバーでも限界はある。 しかし、タレントを管理する立場の事務所はどうか。城島は4人の会見で、現場に二日酔いの状態で現れたり、アルコール摂取の影響で、収録に支障をきたすこともあったと明らかにしていた。とすれば、事務所がこういったトラブルを把握していなかったことは考えづらい。 山口のアルコール問題を「嗜好」と軽視せずに、周囲が早くから警告して、自分自身と向き合わせたり、場合によっては休養や謹慎をさせて治療に専念させることもできた可能性が十分にあったのである。にもかかわらず、その判断に至らなかったのには、事務所の「事なかれ主義」や、先に挙げた「損失回避の心理」、彼を商品としてみる向きが強すぎたことが、背景にあったのではないだろうか。 今回の「脱退」「退所」という判断がなされたタイミングを見ても、相応の時間を要していたことは明らかであるし、国民的に絶大な人気を誇るTOKIOの会見や状況の推移に対する世論の反応を見て、あわよくばグループへの所属や活動の継続をさせたいと考えていたとも推測できる。2018年5月2日、山口達也の不祥事を受けて会見するTOKIOの(左から)城島茂、松岡昌宏(寺河内美奈撮影) それが逆に本人を心理的に追い込むことになったり、孤立させることになっている現状は、決して望ましい結末とはいえない。生活行動上の問題の改善には、言うまでもなく健全なメンタリティが残されていることが必須である。依存症の治療においても「孤立」は最大の禁忌といえるからだ。 2000年代以降、依存症の心理の中核を占めるのは「自己治療仮説」といって、「依存の背景には生活上、人生上の何らかの苦痛や不安があり、それを自己の行動によって減少・緩和させている」というものだ。孤立は、さらに苦痛を強めることが分かっており、最悪の場合には自死もありうる。 所属事務所の「退所」という判断が、不確実な彼の病理に対する理解と、厳しい世論を100%甘受しない消極的なものだったとすれば、文書で示された「山口の今後への責任」に実効性が伴っているかについては著しい疑問が残る。 つまり、「脱退」「退所」という決断自体は是認されうるものだが、背景の心理やそれに基づく具体的な行動プランが妥当かどうかは、一考を要するものなのだ。事務所の多大な功労者に対する、大きな決断を意味のあるものにするために、経営論理と感情論、偏った状況理解を抜きにした問題への直面化を期待したい。

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    山口達也「アルコール依存とセクハラ」はどれほど深刻だったのか

    斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士) 最近、日本の本丸といえる財務省と、芸能界の本丸といえるジャニーズ事務所が炎上している。いずれも、共通しているのは「男性優位社会」の中で起きたアルコール問題に関連する性暴力(セクハラ)である。 世界保健機関(WHO)は1979年に健康問題、職業問題、事故、家族問題、犯罪を引き起こす飲酒を問題飲酒と定義している通り、問題飲酒と犯罪には古くから親和性があり、これは影山任佐氏の名著『アルコール犯罪研究』(金剛出版)に詳しい。 特に、筆者は性犯罪者の地域社会内での治療を日本で先駆的に実践してきた経験から、アルコールが引き金になる性犯罪のケースを数多く見てきた。本稿では、この「アルコール関連問題」と「性暴力」という二つの観点から、TOKIOのメンバーだった山口達也の件について私論を述べたい。 まず、アルコールに関する治療(恐らく内科治療)目的で約1カ月入院したことを山口本人が明らかにしているため、アルコール依存症の診断基準を見ながら彼の深刻度について考えたい。尚、本稿ではアルコール依存症を「アルコール使用障害」と同等の意味で用いることを最初に断っておく。 そもそもアルコール依存症の定義はさまざまだ。筆者は「酒をやめざるえない状況に追い込まれた人」という、精神科医で評論家だった故なだいなだ氏の定義を用いるが、精神科の依存症治療で使われている最新の診断基準であるDSM-5(精神疾患の分類と診断の手引き)によると、アルコール使用障害は、11ある項目の中で2つ以上が12カ月以内の間に当てはまる場合に診断される。※写真はイメージ(iStock) 以下、参考までに診断基準を掲載する。① アルコールを意図していたよりもしばしば大量に、または長い期間に渡って使用する。② アルコールの使用を減量または制限することに対する、持続的な欲求または努力の不成功がある。③ アルコールを得るために必要な活動、その使用、またはその作用から回復するのに多くの時間が費やされる。④ アルコールの使用に対する渇望・強い欲求または衝動。⑤ アルコールの反復的な使用の結果、職場・学校または家庭における重大な役割の責任を果たすことができなくなる。⑥ アルコールの作用により、持続的あるいは反復的に社会的、対人的問題が起こり、悪化しているにもかかわらずその使用を続ける。⑦ アルコールの使用のために、重要な社会的、職業的または娯楽的活動を放棄、または縮小させていること。⑧ 身体的に危険のある状況においてもアルコールの使用を反復する。⑨ 身体的または精神的問題が、持続的または反復的に起こり、悪化しているらしいと知っているにもかかわらず、アルコール使用を続ける。⑩ 耐性、以下のいずれかによって定義されるものa. 中毒または期待する効果に達するために、著しく増大した量のアルコールが必要。b. 同じ量のアルコールの持続使用で効果が著しく減弱。⑪ 離脱、以下のいずれかによって定義されるものa. 特徴的なアルコール離脱症候群がある(アルコール離脱の基準AとBを参照)。b. 離脱症状を軽減したり回避したりするために、アルコール(またはベンゾジアゼピン等の密接に関連した物質)を摂取する。 以上の全11項目を見る限り、山口には複数の項目が該当するのが分かる。具体的には、山口は飲みすぎて仕事などに支障をきたしており(①に該当)、周囲からアルコール問題を指摘されていた(②に該当)。退院してすぐの大量飲酒(④に該当)。アルコール性肝障害の診断もあり(⑨に該当)、焼酎を相当量飲んでいたということから、以前と同量の飲酒量では酔えない「依存物質への耐性」がみられる(⑩に該当)といったものだ。「イネーブラー」の落とし穴 筆者は精神科医ではないため、診断や処方をすることが仕事ではないが、客観的に見て山口が診断基準を満たしているのは明らかである。ただ、ここで不可解なのは、TOKIOメンバーの松岡昌宏も記者会見で述べていたように、「メンバーから見ても明らかに『アルコール依存症』だと思ったが、どの病院でもそのような診断がされなかった」という点である。 筆者はTOKIOメンバーの一連の発言を聞いてピンときた。アルコール依存症治療の現状として、専門的な治療につながるまで「アルコール依存症」という診断がつかず、内科などの病院から紹介されてくる例が多いからだ。 そのほとんどは、アルコール性肝障害やアルコール性膵(すい)炎、肝機能障害などの内科疾患病名がついている。そして、その多くが長い間内科病院の入退院を繰り返している。つまり、内科医療機関が「イネーブラー」(何らかの依存症にある人物に対して、その依存状態を支えてしまう人)の役割をしてしまっているというパターンだ。 例えば、一般的な医療機関では、仕事を普段通りしている人にアルコール依存症と診断しないことが多い。内科医なら上記の病名で、一般精神科なら「鬱病」「適応障害」「不眠症」になったりすることがある。このようなアルコール問題への適正診断ができない理由は以下の通りである。 まず、アルコールを含む依存症全般について、医師の理解不足が上げられる。内科では、身体疾患や臓器を治すことが中心となり、就労を継続できているならまだ依存症ではないと認識されることが多い。 そこでのアドバイスは「しばらく酒を控えるように」「肝機能の数値がよくなるまで酒はやめてください」という内容が多く、筆者の経験では飲酒する習慣のある医師ほどアルコール問題に寛容な傾向があると感じている。 また、本人が診察で実際の飲酒量や、飲酒に起因する身体的症状を過少申告するため、問題飲酒の正確な実態が明らかになりにくい事情もある。アルコール専門医療機関では、本人が酒をやめなければならない状況に追い込まれているため、かなり進行した状態で家族や関係者が引っ張って受診させることが多く、そこで正確な飲酒実態が明らかになる。何らかの問題が表面化することで本人も問題飲酒を自覚する、つまり治療への説得がしやすくなるのである。※写真はイメージ(iStock) さらに、「アルコール依存症」という診断名をつけてしまうと、昔からある「アル中イメージ(意志が弱い、だらしない)」から、社会的な偏見や不利益を考慮して、内科医がアルコール依存症と診断することに躊躇(ちゅうちょ)してしまい、本来のアルコール問題に介入できないという構造的な課題もある。 このように、援助者がイネーブラーの役割を担ってしまうことを「プロフェッショナル・イネーブラー」と私たちは呼んでいる。本来は、患者の治療やケアのための行為が、実は依存症の実態を知らないために病気の進行のお手伝いをしてしまうという逆説的な状況になる。誰のための支援なのか、ということをわれわれは自戒する必要がある。 以上の点を踏まえれば、山口にアルコール依存症という診断がなされなかったのは間違いないようだ。「酒の席だから」は許されない また、今回の一件で筆者が特に懸念していることがある。それは、この一連の事件が山口のアルコール問題に矮小(わいしょう)化され、飲酒して病的酩酊(めいてい)だったから強制わいせつにあたる行為は仕方ないという論調の報道が一部でみられたからである。 いわゆる「酒の席だから…」という日本古来の発想であり、そこに飲酒者の行為責任や被害者は存在しない。また、男性(上司)からのセクハラ行為に関しても「酒の席だから…」という言い訳が肯定されがちで、翌日問い詰めると飲んでいたから覚えていないというエピソードも多い。 酒席での男性(上司)から女性へのハラスメントは、酒を理由にあたかもその行為が容認されるという価値観がいまだに存在している。これは、女性への性差別の問題とも関連しており、性犯罪を性欲の問題に矮小化することで、性暴力の本質が見えなくなる構造と非常によく似ている。 ここに、この問題の難しさがある。つまり、社会に存在する偏見や歪んだ捉え方(認知の歪み)に同調することで、自らの責任性を追及される恐怖を回避したいという多くの人の願望が集約された心理が読み取れる。 だが、コントロール障害をきたしている要因は飲酒の仕方であり、そこから派生する問題が今回の性暴力であって、同質のものではない。そして、言うまでもなく過剰な病理化は本人の行為責任を隠蔽する機能を持っている。 そもそも、嗜癖モデルには被害と加害のパラダイムはなじみにくい。アルコール依存症という疾病モデル(ケア)と、性犯罪やDV(ドメスティックバイオレンス)の加害者更生という司法モデル(行為責任)を統合した捉え方が必要になるだろう。 つまり、病気のケアという視点に加えて、加害行為に責任を取るという視点が不可欠である。加害者更生プログラムにおける「加害行為に責任をとる」とは、①再発防止責任、②説明責任、③謝罪と贖罪(しょくざい)の3点を含んでいる。これは、企業内のセクハラやその他のハラスメント研修にも応用できる視点である。 本稿では文字数の関係から3点の詳細な説明は避けるが、詳しくは筆者が執筆した日本初の痴漢の実態を明らかにした専門書『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス)を参考にしてもらいたい。 では、上記の3点を踏まえ、山口は「加害行為に責任をとる」ということを前提にこの問題に向き合おうとしているだろうか。また、親であると公言しているジャニーズ事務所は、このような視点を持って今回の問題に対処しようとしているだろうか。答えはすぐに出るものではないが、これから被害者と向き合っていく上で参考にしてもらいたい姿勢である。記者会見する山口達也=2018年4月、東京・紀尾井町 結果的に、山口はTOKIOメンバーと話し合った末、事務所を退所するという選択をした。これ以上、TOKIOの仲間や育ててくれたジャニーズ事務所に迷惑をかけたくないという中での決断だったのだろう。 そこで最後に考えたいのは、果たして山口は事務所を辞める必要があったのかということだ。この質問には賛否両論あるだろうし、外野の筆者がとやかく言うことでもないかもしれない。 ただ、重要なのは、元財務事務次官のセクハラ問題のように「辞職」だけでは加害行為の責任を取ったことにはならない点である。ましてや、本件には未成年の被害者がいる。山口がアルコール依存症かどうか、つまり病気かどうかは被害者にとっては関係ない。今後、山口に求められるのは、本格的なアルコール治療に取り組むことはもちろん、「加害行為に責任をとる」ことに向き合いながら、被害者が納得のいく生き方を模索していくことだろう。

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    「福島がTOKIOを応援する番」ツイッターで賛否両論

    網尾歩(コラムニスト) 9連休だった人もそうでなかった人も、GW中いかがお過ごしでしたでしょうか。GW前後の炎上4件をまとめました。 県知事がコメントを出す事態にまで発展してしまったのがこちら。徳島県徳島市で開かれたアニメイベントで、出演した女性声優を見かけて男性ファンが同じ飲食店に入店。その後、声優がトイレから出てきたタイミングでトイレに入った。さらに、便座を撮影し、「○○さんがさっき座ったトイレにきたw」「○○さんのお尻を触ってる気分になってる」(○○は声優の名前)とツイートした。男性は自ら入店の経緯などをすべてツイートしていた。 一連のツイートについて、男性に批判が殺到。男性は当初、「便座に触ったくらいでゴチャゴチャ言うな」などと言い返していたが、その後アカウントを削除した。 このイベントは市内の公園や商店街なども参加会場に含まれ、県外からの参加者も多い町おこし要素の高いもの。イベントのHPに、運営者らと連名で県知事が「大変残念」「皆様には節度ある行動をお願い致します」などのコメントを載せた。 男女共用トイレに女性の後に続いて入り便器を撮影する行為は、財務大臣風に言えば「便座撮影罪はない」のかもしれないが、顰蹙を買う行為であることは間違いない。男性本人も、声優に知られればまずいことはわかっていたようで「(声優が)エゴサしているようには見えなかったよ」(※エゴサ=エゴサーチ)ともつぶやいていた。 アニメや声優のファンからも「こういうマナー違反があると声優と距離の近いイベントはなくなる」といった批判のほか、「アニオタがキモがられる原因になるからやめてほしい」「声優ファンの一部ではどれだけキモいことを言えるかのチキンレースで盛り上がる風潮はどうなのか」(ツイート内容を要約)といった苦言も見られた(iStock) 過去にはツイート内容や更新頻度から生理周期の分析や自宅室内の推測をするなど、卑猥な内容のリプライを送られ続け、ツイッターを休止した声優もいる。内輪で盛り上がるファンは楽しいのだろうが、傍目には女性が公開セクハラを受けているようにしか見えない。 女性ファンの多い舞台で活躍する20代前半の舞台俳優が、5年ほど前の高校在学中と思われるころにツイートしていた内容を発見され、炎上した。まだ人気のなかった当時から同じアカウントを使い続けていたこと、本人のツイート数がそれほど多くないことから、過去のツイートを遡るのは難しくなかったと思われる。 発掘されているツイートは数多く、その内容は「妊婦さんに膝カックンして絶望させる遊び」「腐女子だけは気持ち悪いから死んで良いよ」「ぶっ殺してぇキモオタ共」など。また、表現が下劣すぎて紹介できないが、某有名テーマパークでの性行為や、電車内での女性への迷惑行為を推測させる内容、妊婦や生理用品への執着を感じさせるツイートも繰り返され、人気商売である芸能人がつぶやく内容とは思えないものばかり。「#今度は福島がTOKIOを応援する番だ」に賛否 さらに、「韓国人ビンタしたんでお金下さい」「韓国人と中国人は見下してる」といった人種差別も。この俳優が活躍する舞台は国外にも女性ファンが多く、ツイートを翻訳した海外ファンからも批判の声が上がった。 俳優は批判するファンをブロックし、これまでコメントを出していないが、舞台降板を望む声も多い。中には「若かったころのことだから」と擁護の声もあるが、ツイッター上のファンには広く知れ渡ってしまったと見られる。 声優ファンの炎上と同じく、内輪ノリで「毒舌」や「下ネタ」を楽しんでいるつもりだったのだろうが、代償は大きい。若気の至りとはいえ、何が彼を、そこまで異様なツイートに駆り立てたのだろう。 4月30日、某有名コピーライターが発したツイートが物議を醸した。内容は、「『人間以上の倫理感』が、いま人間に要求されているのではないか。いま人に要求されている『正しさ』は、ほとんどの歴史的宗教よりも厳しいのではなかろうか」。 前後のツイートとのつながりはなく、その後の本人の説明もないため、何についての言及かは不明だが、時期的に山口達也の強制わいせつ事件や、元財務事務次官のセクハラ問題顛末などを意味しているのではないかと推測されている。 GW中に武田鉄矢が山口の事件について「昨今、世の中の透明度がよくなるのはいいけど、世間の空気に栄養がない」「あまりにもみんな、清潔なものを求めすぎている」と発言したことと意味が近いと並べるツイートも散見する。 本人の言及がない以上、何を念頭に置いてのツイートなのかはわからないが、倫理観は人類の進化とともに磨かれていくものと考えれば、どの時代の宗教よりも正しさを求めているというのは、正解なのかもしれない。ただ、それは否定的に語られることなのだろうか。(iStock) もちろん、自分の感覚をフォロワーにふわっと共有したかっただけなのだろうから、ツッコミも野暮かとは思う。何についてのツイートかの説明がないのに、「そう思います」「その通りです」と追従できるフォロワーたちは、とても敬虔な信者に見えた。 「#今度は福島がTOKIOを応援する番だ」。TOKIOの連帯謝罪会見を見た人たちから生まれたハッシュタグだ。復興のためにTOKIOが尽くしてくれた恩返しに、TOKIOの窮地を救いたい気持ちの表れなのだろう。 長くなったので少しだけ。TOKIOを応援する人の中で好意的に大拡散されている一方で、案の定、ハッシュタグを使った被害者バッシングも行われている。このハッシュタグについて感想を求められたときに非常に慎重な言葉選びを迫られ、困るのはTOKIOなのではないか。被災地に送られ持て余される千羽鶴を見る気持ちになる。

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    山口達也が即解雇にならなかった、本当の理由とは

     強い日差しが大きな窓から差し込み、ムクの木のフローリングに反射してまぶしい。木目調のシックな調度品が並ぶリビングルームには、空調から冷たい風が流れ出ていた。5月6日、GW最終日の東京近郊のある街では、最高気温が30℃を超えた。 部屋のリビングの椅子に座る1人の男性が、震える手で携帯電話を握りしめる。電話の先はジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏(86才)だ。「ご迷惑をおかけしました」 そう声を絞り出したのは、TOKIOの元メンバーの山口達也(46才)だった。100平方メートル近い広さがあるゲストルームは、まるでホテルのスイートルームのようだが、ここは東京近郊にある心療内科専門病院の一室。最寄り駅から車で10分、目の前には田んぼが広がり、その周囲は古い工場や団地に囲まれている。窓の外には大きな木が植えられ、外部との接触を遮断。施設の内外はインターホン付きの扉で厳重に管理されており、部外者は立ち寄れない。 施設にはトレーニングルーム、シアタールームまで完備。スパトリートメントやアロママッサージの施術を受けることもできる。「都心からも離れ、政治家や芸能人が人目を忍んで入院したい時に使われることが多い隠れ家的なVIP病院です。2年前、強姦致傷の疑いで逮捕され(不起訴処分)、釈放された後に高畑裕太(24才)が心身の不調で入院し、母・淳子が連日通いつめた場所でもあります」(医療関係者) その病院の4階の一室で、失意の山口はほとんど外界との接触を絶って極秘入院していた。「後悔」という言葉では言い表せない責め苦。しかし、長年背負ってきた“病の十字架”をやっとおろすことができる―そんな思いも彼の胸に浮かんだのではないか。 山口は6日、病院からジャニー社長に直接電話をして、「TOKIOを辞めたい」と強い辞意を伝えたという。「その日、城島茂さん(47才)がジャニー社長に山口さんの辞表を提出しました。本人の辞意もふまえ山口さんとの契約を解除することが決まり、その日の夜に発表されました」(スポーツ紙記者) 発端は今年2月12日。山口は自身が司会を務める『Rの法則』(NHK Eテレ)で知り合った女子高生2人を自宅マンションに呼び出し、強引にキスを迫ったことに始まる。 その後、女子高生が警視庁に被害届を提出。3月末に刑事が山口宅を訪れて3度の事情聴取をしたが、山口が事務所に報告したのは4月16日だった。4月25日にNHKの報道でようやく事件が明らかとなり、他のメンバーは初めて何が起きたかを知った。TOKIOの山口達也が強制わいせつ容疑との一報を受け、ジャニーズ事務所前には報道陣が集まった=2018年4月25日、東京都港区(桐山弘太撮影) 翌日、山口が謝罪会見を開き、5月2日には、城島、国分太一(43才)、松岡昌宏(41才)、長瀬智也(39才)のメンバー4人が緊急の会見を開いた。  松岡はその場で、「正直、あなたは病気です」と山口に直接伝えたことを明かした一方で、複数の病院で、「アルコール依存症という診断はなかった」と話した。山口達也の本当の病名 この騒動は不可解な点がまだ多く残されている。なぜ山口は肝臓を休めるための入院から退院したその日にすぐに酒を口にしたのか。それなのになぜアルコール依存症ではないのか。山口の酒癖の悪さは業界の一部では有名だったというのに、なぜ手が打たれなかったのか。打てなかったのか。なぜ事務所はすぐに事件を公表し、山口を解雇しなかったのか。なぜ事務所はすぐに辞表を受理せず、少し経ってから、契約解除にしたのか。それらの疑問を解くカギは、山口の「本当の病名」にある。「山口さんはアルコール依存症の疑いがあると報じられていますが、本当の病名は『双極性障害』、いわゆる『躁鬱病』だそうです。マライア・キャリーも先日、17年間も双極性障害に苦しんでいると初告白しました。日本で『鬱病』の患者数は500万人いるといわれています。山口さんももう6〜7年は前から苦しんでいるそうです。この病気のため精神が不安定になったことが、今回のさまざまな出来事の根幹にあります」(音楽業界関係者) メンバーが会見する前々日の4月30日、都内の高級ホテルの一室にTOKIOが勢ぞろいした。事件発覚後、初めてのことだった。「4人が先に集まり、今後のことを協議していたところ、入院中の山口さんが合流して1時間半ほど話し合いました。入院先の病院で情報を遮断されていた山口さんは世間の厳しい声やメンバーの反応を一切知らず、事の重大さを理解できていなかったところもあった。そのことに苛立ちを隠せないメンバーもいたそうです」(芸能関係者) だが、その場でメンバーが必要以上に山口を責めることはなかった。なぜなら、全員が山口が何に苦しんできたかを知っていたからだ。画像はイメージです(iStock)「長年にわたる躁鬱苦で山口さんの精神が弱りきっている上に、今回の事件で彼の心は完全に壊れていた。“自ら命を絶ってしまわないか”と周囲は本気で心配していました。だからメンバーは追及できなかった。事件発覚後すぐ解雇しなかったのも、ショックのあまり突発的なアクシデントが起こることを恐れたからです。そのため、拙速に対応するのではなく、山口さんが辞表を提出してからも時間をかけて、最後に自らの決断で身を引くかたちにしたんです」(前出・芸能関係者)  事務所が幕引きに時間をかけたのは、未成年の被害者に配慮したからでもある。「女子高生の保護者が“誰一人の未来もこの事件によって奪われてほしくない”というコメントを出しました。そこに気を遣ったようです。国民的人気グループのメンバーである山口さんが不本意な形ですぐにクビにされれば被害者の女子高生が責められてしまう風潮になりかねません。実際、ネット上では被害者を特定し、“数千万円の示談金をもらった”との根も葉もない中傷が飛び交っています。風評被害を最小限にするため、山口さんが納得した上で契約解除し、今後も事務所がサポートする方向にすることがベストでした」(前出・スポーツ紙記者)関連記事■ 山口達也 ”VIP病院”への極秘入院姿を撮った■ TOKIOの4人が怒り隠さなかった「山口達也の無責任な行動」■ 二宮和也&伊藤綾子 車中の初ツーショット写真を公開■ 山下智久 Nikiとのハワイ1週間ラブラブバカンスの様子■ チュートリアル徳井、チャラン・ポ・ランタンももと自宅デート

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    TOKIOメンバーによる「自己開示」会見を心理士が分析

     臨床心理士・経営心理コンサルタントの岡村美奈さんが、気になった著名人をピックアップ。記者会見などでの表情や仕草から、その人物の深層心理を推察する「今週の顔」。今回は、TOKIOのメンバー4人による会見の内容を分析。 * * * 画面を通しても張り詰めた空気感が伝わってきたTOKIOのメンバー4人の記者会見。山口達也さんが起こした事件に、4人は「連帯責任」を強調して、「山口の責任はTOKIOの責任」「自分たちでできることを精一杯やる」と揃って謝罪する道を選んだ。会見が終わる頃には、彼らに対する同情と応援する気持ちが強くなったが、同時に多くの人に違和感を抱かせたのも確かだ。 4人は揃って何度も深々と頭を下げ、甘えた感情を見せた山口さんのことを厳しく叱責するという姿勢を貫き、グループとして謝罪の気持ちを強調した。松岡昌宏さんが「聞かれたことは、すべてお答えしようと思っていますので、なんでも聞いてください」と前を向いて言い切ったように、会見は関係者やファンが知りたかったことを、自分たちの言葉できちんと説明する場でもあった。 辞表を託されたというリーダーの城島茂さんは、「辞めてくれと言えない私たちがいた」と眉間や額に大きく深くシワを寄せた。葛藤と苦悩がシワの深さからにじみ出る。甘えたことを言った彼を見て、「さすがに信じられなかった」と大きく息を吸い込むと、「絶対そんなことは言わないタイプ」と自分の胸元に手を持っていく。その瞬間を思い出すだけで心が騒ぐのだろう。話しながら、何度もマイクを握っていた左手のひじを右手でつかんでいた。これは防御や守りの仕草であり、それだけ衝撃が大きかったのだと思われる。 普段の山口さんを「責任感の強いやつ」と言い、「自分の中で自分から辞めろと言わないといけない」と辞表を持ってきた理由を彼なりに考え、「そうだと信じていたいし、信じています」とカメラをまっすぐ見据えた。それは「たぶん、山口も見てると思います」と言っていたように、カメラを通して山口さんに訴えているかのようだった。画像はイメージです(iStock) 国分太一さんも、「ここ数日、複雑です」と口元をぎゅっと結び、疲れ果てた、というより表情が抜け落ちたような顔をカメラに向けた。毎朝、自らがMCを務める情報番組で事件について触れていた彼の精神的負担は、誰よりも大きかったに違いない。「手を差し伸べてしまいそうになることもあります。それはいけないんだとわかっていますが…」と目を伏せる。世間に「甘い」と言われるとわかっているため目を伏せたのだ。「逃げ出したくなることもあった」と、あまりにも淡々と語るその口調が、かえって彼の辛さと憔悴感を印象づけた。山口の「自己開示」は不適切 松岡さんも、「甘ったれたあの意見はどこから出ているのか」と、信じられないというふうに首を横に振った。そして「そんなTOKIOは1日も早くなくしたほうがいい」と厳しい表情で口元を強く結び、涙をこらえるように顎を上げた。信じていた仲間が見せた筋違いの甘えが許せず、見ている側には彼の悔しさだけが伝わってくる。 だが「辞めるのは簡単」と言いながらも一瞬、大きく首を横に振ったことで、本音ではそう思っていないことがわかる。「辞表を初めて見た。30年間、一緒にやってきた男のそんな姿を初めて見た」と舌打ちしたことで、見たくない姿を見てしまった怒り、失望、歯がゆさ、そんな気持ちがあることを想起させた。 会見中、発言しながら何度も身体を前のめりにする。その度に、彼の中にある葛藤や苦悩の強さをイメージさせるこの仕草は、「例示的動作」だ。この動作と、発言が厳しくなればなるほど口元を強く結び、顎を上げて涙をこらえる様子から、見ている側に伝わったのは山口さんへの深い愛情である。 一方、メンバー最年少の長瀬智也さんは、言葉を選ぶように、感情にのみ込まれないよう冷静に話していた。それでも山口さんへの言葉を聞かれ「やっぱり信じてますし、信じていました」と声を震わせたことで、彼の中にある動揺が感じられた。 この会見は、グループとして、感情を吐露するバランスが4人の中で取れていた。全員が松岡さんのように感情を露わにしていたら、“やり過ぎ感”が強くなる。逆に4人ともが長瀬さんのように淡々としていたら、情緒的な物足りなさを感じただろう。それぞれの感情の表し方、出し方がグループとしてうまく調和したことで、一人ひとりの感情の動きが際立っていた。画像はイメージです(iStock) こういう会見で、自分の思いを率直に述べるのは難しい。冷静になっていない時はなおさらだ。プライベートな情報をありのままに伝えることを「自己開示」と呼ぶ。彼らの自己開示は、解散危機に対するダメージを少なくする効果があった。人は自己開示した相手に好意的になり、情緒的に受け入れ、共感や力づけたい、援助したいという感情を持ちやすくなるからだ。もし彼らが「なんでも答える」という姿勢を見せず、感情も露わにせず、謝罪のみの事務的な対応で会見を終わらせていたら、グループを存続させるための打算だと思われていただろう。 ただ皮肉にも、これは山口さんが謝罪会見で行った自己開示が不適切だったことを改めて認識させる結果となった。また彼らにそこまで自己開示をさせたことで、山口さんに自責の念を強めさせたことも否定できない。自身の言動が彼らを苦しめ、さらなる批判のタネを蒔いたのだ。自分の存在が彼らの負担でしかないとなれば、答えは1つしかない。 図らずもこの謝罪会見が、4人としてのTOKIOのスタートとなってしまったのが残念だ。関連記事■ 山口達也 ”VIP病院”への極秘入院姿を撮った■ 山口達也が即解雇にならなかった、本当の理由とは■ TOKIOの4人が怒り隠さなかった「山口達也の無責任な行動」■ 山口達也事件で改めて考える“ガールズ番組”の業界ルール■ チュートリアル徳井、チャラン・ポ・ランタンももと自宅デート

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    山口達也「衝撃キッス」はジャニーズ失墜を象徴する

    ければならないのが「異性」であることも承知の上だろう。ジャニーズの場合は「同性」という相手もいるが、スキャンダルの基本は異性関係である。 とはいえ、アイドルと言えども生身の人間だ。プライベートはガチガチに管理され、世間の目から逃れられない生活はストレスも人一倍大きい。山口達也の行為も理解できないわけではない。 ただ、日ごろから「ご飯、連れて行ってください」「飲みに行きましょう」「お家に遊びに行っていいですか?」といった類の誘いは後を絶たない。年齢を問わず、女性からの誘いもあまたあり、もちろん「すべてOK!」ということではなく、「選別」することもしばしばある。変わり始めたジャニーズ事務所 アイドルはモテるのに、大っぴらには「遊び」ができないだけに、必然的に自宅での飲み会や食事、パーティーといったケースが多くなる。それだけに、自分がスキャンダルの対象にならないよう、常に慎重かつ熟慮しながら行動するのだが、時としてこの予見が大きく裏切られてしまうこともある。良い例が、10代の少女に性的暴行して吉本興業を解雇されたお笑いコンビ「極楽とんぼ」の山本圭壱だろう。 もちろん、いかなる事情があっても違法行為は許されないが、交通違反やちょっとした暴力沙汰なら、多少なりとも取り返しがつく。だが、芸能人の場合、特に危機意識を持たなければならないのは、未成年を巻き込んだスキャンダルである。 4月26日の記者会見で、山口達也は「無期限謹慎処分」でありながら、復帰を望む発言も飛び出したが、筆者の考えでは、女性ファンらの「裏切られた感」は半端なかったと思う。衝撃の大きさを考慮すれば、もはや復帰は不可能に近いだろう。 山口達也に同情の余地はないが、一人の大人として自らが起こした不祥事を「自分一人の責任」として腹をくくったのは、決して悪いことではない。恥も外聞もなく、すぐに親や事務所を頼ろうとする今どきの若い連中に比べると、その責任の取り方は雲泥の差である。 謝罪会見を見る限り、「被害者」へのお詫びの言葉や示談、和解に向けた行動は決して間違っていない。「自分の力で解決できるなら、事務所への報告は要らない」と判断したことをもって、山口達也が「隠蔽」したというのも違うだろう。 ただ、今回の事件をめぐって特筆すべきは、人気グループ「関ジャニ∞」の渋谷すばる脱退の際にも述べたが、ジャニーズ事務所の対応の変化だ。一般企業であれば、社員が起こした不祥事に対し、最大限注力してマスコミ対応するが、なにせ「芸能界の帝王」ジャニーズである。 事件の第一報がメディアに取り上げられた直後、素早く報道各社にファクスを流し、一夜明けて約45分間もの「涙の会見」を行ったことは、芸能マスコミの関係者にとっては「おいしいネタ」になったに違いない。 これまで何があっても「代表が出てこない企業」を貫き、経緯の説明や謝罪の意思を求められても「責任者不在」で押し通すマスコミ対応がジャニーズの常識だった。これは本来、許されるはずもないのだが、マスコミや世間から有無をも言わせない影響力を持っていたのが、ジャニーズだったのである。 今回の場合、レギュラー番組を多数抱えるTOKIOメンバーの不祥事であり、大方の予想通りワイドショーや週刊誌にとっては「数字を稼げる」ネタになった。にもかかわらず、ジャニーズがある意味、申し分ないのメディア対応を徹底したことで、特にテレビでは山口達也やジャニーズへのバッシングよりも、擁護論の方が大きいように感じる。事実、筆者が親しくする芸能記者の多くは、一様に安堵している。記者会見するTOKIOの山口達也メンバー=2018年4月、東京都千代田区(松本健吾撮影) ただ、一連のジャニーズの変化は、逆に言えば事務所の権威で「スキャンダル逃れ」を続けてきた所属アイドルにとって、もう通用しないことを示唆しているとも言える。 そこで注目されるのが、山口達也の最終的な処遇だろう。天下のジャニーズとはいえ、守らなければならない優先順位はあるだけに、「山口切り」も十分有り得るのではないか。結果的に被害者の女子高生が、被害届を取り下げたとしても、今回の事件が社会通念上、許されないことはジャニーズも百も承知だろう。 スポンサーへの配慮だけでなく、NHKや2020東京五輪、被災地の復興支援といった「カネでは解決できない」諸案件を抱える山口達也の処遇については、TOKIOの脱退、いや除名といった厳しい処分しか、ジャニーズ事務所の今後を考えれば、この難局を乗り切る手立てはない気がする。 かつて、筆者は「ジャニーズの危機管理」について事務所幹部に進言したことがあるが、このときはいかなる「難敵」が相手であろうと、「恐るるに足りず」といった強気の姿勢だったと記憶している。だが、その強さが通じない「事件」に見舞われた今、山口達也だけでなく、ジャニーズ事務所はどのような方法でケジメをつけるのか、しっかり見届けたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」と報道倫理

    テレビ朝日の女性記者に対するセクハラ疑惑で、財務省の福田淳一事務次官が辞任した。「セクハラ告発」をめぐっては、官僚の資質や政治家の道義的責任、記者の報道倫理まで、議論はさまざまな方面に飛び火した。今回、iRONNAでは記者経験を持つ識者の論考を集めた。賛否が渦巻くこの議論を正面から考えてみたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる

    鈴木涼美(社会学者、元日経新聞記者) 財務官僚のトップがセクハラ発言で辞任、なんていうニュースをフランス人の友人が見て、未開地の部族のニュースのようだとバカにしていた。 確かに気軽にICレコーダーを使いそうな職業のオンナを目の前に「おっぱい」とか「エロい」とか「うんこ」とか言える感覚は前近代的だ。ユダヤ系米国人女優のナタリー・ポートマンがイスラエルの賞を辞退した、とかそんなソフィスティケイテッドなニュースに比べると、うん、確かに原始人みたいなニュースではある。 週刊新潮に最初に掲載された福田次官と女性記者とのやりとりを読んだときに、ふと思い出したのはとあるおじさんのことだった。 以前とあるトーク番組で、突発的に私が番組のアシスタントMCをすることになった。なんでそんなもっときれいどころ(美人という意味ではなく清廉性のハナシ)がやるべき仕事がワイのところにきたんだ?と不思議に思っていたのだが、当該回のゲストがカリスマAV監督の村西とおるさんだというのを聞いてなんとなく納得した。 村西監督はAV村で愛されるキュートなおじさんなのだけれど、いかんせんそんな村で培養された期間が長いため、会話の端々に「オマンコ」「足の付け根」なんていうちょっとエッチな言葉を挟まずにはいられない。 レギュラーアシスタントであるフリーアナウンサーへの番組側の配慮(つまりゲストがアナウンサーに向かってオマンコきついですか? とか聞くのはどうなのか、という話)として、その回だけは元AV嬢の私を起用したらしい。私としては仕事が増えただけでなんら問題はない。オマンコがきついかどうかはさておき、私もかつてその村にいたのだから。アダルトビデオ監督・村西とおる氏=2005年11月15日(撮影・佐藤雄彦) 監督自身は邪気も悪気も、実際のところはほとんどエロな視点もなく、ほとんど習慣、なんなら彼的にはむしろサービスに近い礼儀でそんなことを言っている。7000人以上のあそこをカメラ越しに見てきたわけだから、もはや1人2人増えようが増えまいがどうでもいいのだろう。 AV業界という動物園にいるぶんには無害で楽しい存在だが、高度に洗練された2010年代の実社会に放たれると、速攻で「#MeToo」委員会に捕獲されかねない危険人物となる。 さて、福田次官のやりとりはAV監督ではなく東大法学部卒司法試験合格のエリートによってなされたためか、「あなたの足の付け根はきっと締めます締めます山手線…」という村西節に比べると面白さでは数段下だ。 しかし、みだらな言葉の入れ込み具合では同レベルで張り合っている。「抱きしめていい?」「おっぱい触っていい?」と同意を得ようとしているぶん、言葉遊び、なんて言う割には遊びに乏しく少々弱気でもある。オンナだって一枚岩ではない 彼らのような男は大変生きづらい世の中になったと思っているに違いない。若い時分にはノーパンしゃぶしゃぶで密談する上司なんかを尻目に、おっぱいの一つももめなきゃ出世なんてできないぜ的価値観を押し付けられ、財務省という海を泳いできて、ここにきて「おっぱい触っていい?」と聞いたら社会での立場も大人としての威厳も全て失う。 かといって別に同情する気にもならないのは、彼が日本のエリートの代名詞のような立場にありながら、そして財務省では鋭い勘を頼りに出世してきたにもかかわらず、時代の空気を読む勘がごっそり抜けていたところが、どうにも間抜けだからだ。どうしてもみだらな言葉を挟み込んで死んでいきたいなら、村西監督よろしく実社会とやや隔たりのある動物園で過ごしていればいいのにというのが率直な感想だ。 しかし、自分の所属するメディアや自分のジャーナリズム精神を使うのではなく、週刊誌に頼ってまでセクハラオヤジを駆除しようとした勇気ある女性記者、ノーパンしゃぶしゃぶの時代から抜けきれずになんとか勝ち抜けようとしたら最後の最後で捕獲されたバブルおやじ、そんなこの時代らしい登場人物に埋もれて声を失っている者がいることについてはあまり考慮されていない。私は一点、まさにそこだけにこの女性暗躍時代、じゃないや女性活躍社会の闇を感じないでもない。 オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日午後、東京都千代田区(桐山弘太撮影) 許可を得ずに録音した本来の取材とは関係のないテープを週刊誌に横流す女性記者をみて、心強いと感じた女性がいるであろう反面、自分を担当している愛想の良い、手練手管の女性記者の取材を急に恐ろしく感じた男もいるであろう。 同時に、いい感じにあほなおやじを手のひらで転がしてうまいことやっていたのに、と舌打ちしているオンナだっている。おじさんに、警戒心と恐怖心を抱かれた時点で自分が女性ならではのやり方で積み上げてきた仕事のやり方が一気に崩壊するからだ。生きづらいのはおじさんだけじゃない オンナを使って出世する、なんていう事態を世間は非常に冷ややかな目で見るが、生理の時には痛み止めを飲んでナプキン変えて、男より人生のうちに仕事に費やせる時間が少ない。 ましてや、もし子供を持とうと思えば長期のインターバルを余儀なくされる女が、会社の中でそれなりに自分の存在意義を認めたいとすれば、女の自分に使えて男のあいつらには使えないものを惜しみなく使い、男以上の価値を発揮するのだって、ある意味ではいじらしい努力である。国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会。女性団体の代表や国会議員、市民が参加した=2018年4月23日 だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから。 もっと次元を落とせば、単に女性としてみられていないと機嫌が悪くなる女だっているし、官僚とのラブロマンスを望んで記者になる女だっているし、容姿に恵まれず殿方と縁がない人生を歩んできたものの、男ばかりの会社で記者になったらこんな私でも女の子扱いしてもらえる、なんて悦に入っている女もいる。胸を見せたくらいでネタが取れるならそんなにラクなことはない、と思っている元AV記者だっている。 そういった女ならではの感情を持たずに生きるのが正しいなんて誰が決めたんだろう、とちょっと思う。 何事にも清廉潔白を求める空回りの正義感によって生きづらくなっているのが、おっぱいもみながら日本経済を支えてきたバブルおやじだけだと思っているならば、それはおじさんの被害妄想だ。 女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易(へきえき)としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない。

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    女性記者の「セクハラ告発」でテレビ朝日が犯した二つの過ち

    上谷さくら(弁護士、元毎日新聞記者) 財務省の福田淳一事務次官によるテレビ朝日の女性社員へのセクハラ問題は、福田氏が辞任表明したことで、テレ朝の対応や女性社員の個人情報に関心が集まるようになった。私は大学卒業後、毎日新聞社で記者をしており、刑事事件から行政、選挙の取材などを一通り経験した。その後、弁護士となって犯罪被害者支援をライフワークとし、性犯罪被害の相談を多く手掛けている。その経験を踏まえ、テレ朝の問題点や同社女性社員の保護について考えたい。 テレ朝の記者会見によると、女性社員からセクハラ相談を受け、自社で報道してほしいとの要望を聞いた上司は、報道すると女性社員が特定されて二次被害に遭うので報道しない、と答えたという。 詳細は不明だが、「報道しない」と回答するだけで終わったのだろうか。もし、そうだとすれば、女性社員のセクハラ被害を放置し、結果的に福田氏のセクハラ行為を継続させたテレ朝の責任はあまりにも重い。 確かに、自社で報道すると個人が特定されやすく、被害者が二次被害に遭う恐れは十分にある。女性社員が報道を望んでいたとはいえ、覚悟のうえの申し出だろうから二次被害に遭っても構わないというのは、あまりにも短絡的であり、この上司が女性社員の二次被害を心配したこと自体は評価されるべきである。 その際、具体的にどのような二次被害が想定されるのか、福田氏が全面否認した場合はどうするのか、今後も女性社員は財務省の取材を続けたいという希望があるのかなど、十分な話し合いがなされたのであろうか。 このような相談がなされ、相談者が明確に「こうしたい」という希望を持っている場合でも、その希望自体がそもそも無理な場合や、希望が実現するとかえって相談者が傷つく結果を招くケースは多い。 ゆえに、相談者の希望とは少し異なる方法だが、相談者にとってメリットが大きく、被害回復に資する手段をいくつか考えて提案し、どの方法を選ぶのがいいのか一緒に考えるプロセスが重要である。 今回の場合、女性社員があくまで自社による報道にこだわり、それ以外の選択肢については断ったのかもしれない。だが、例えば、テレ朝として財務省か福田氏個人に抗議したり、女性社員を福田氏の担当から外したりする方法もあっただろう。2018年4月16日、財務省を出る福田淳一事務次官(中央)。女性記者へのセクハラ疑惑を否定した マスコミ各社は多くの場合、このような手段を取っているはずで、そんなことでは女性記者が置かれた劣悪な労働環境は改善されないが、一定の歯止めにはなるはずだ。会社が「何もしない」ことは「被害者を見捨てた」も同然で、被害者を傷つけることは間違いない。一緒に考えて手を尽くすこと自体が、被害回復にとって非常に重要なのである。 テレ朝が記者会見で、女性社員が『週刊新潮』に今回の事件のことを持ち込んだことについて「遺憾である」と表明した。私は、この一言が一部の人たちから女性社員が激しくバッシングされる流れを決定づけたと思っている。テレ朝はこのようなことを絶対に言うべきではなかった。その理由は二点ある。 一点目は、この期に及んでテレ朝が女性社員を守る視点に欠けていたことである。女性社員が週刊新潮に情報を持ち込んだのは、テレ朝が女性社員の訴えにきちんと対応せず、このままでは福田氏のセクハラ行為や同じような立場に置かれた女性記者の苦しみが続いてしまうと考えたための苦肉の策であろう。新聞・テレビの「よくある慣習」 つまり、やるべきことをやらなかったテレ朝の態度が、女性記者にそのような行動を取らせたのである。それを「遺憾」と言い放ったのは、今回は例外的なことであって、テレ朝の他の記者はそんなことはしないから安心してほしい、という対外的なアピールだったと思う。全力で女性社員を守らなければならないテレ朝が、そのことよりも会社としての体面や取材先との関係を優先した結果、被害者の傷を深くしたのではないか。 二点目は、大手新聞社やテレビ局が、ネタを週刊誌に持ち込むことはよくある慣習という点だ。新聞社やテレビ局の記者があるネタをつかんだ時、そのメディアの性質上、報道に適していないと判断されたり、取材先との関係を重視して自社では報道できないなどの理由で、報道を断念することがある。 しかし、何らかの方法で世に知られるべきだと思われる場合などに、その記者個人や、時には上司の判断で、週刊誌に情報提供して報道してもらう。報酬が発生するかどうかはケースバイケースのようだが、小遣い稼ぎ感覚の記者もいる。 そこで、取材源まで明かされているかどうかは分からないが、少なくとも大手新聞社やテレビ局の記者が、週刊誌に情報提供するのが普通に行われていることは明らかである。 テレ朝の女性社員は、メディアに身を置くものとして、そのような実態を熟知していたはずだ。なにしろ、財務省事務次官という強大な権力を持つ者による悪質なセクハラ行為が、テレ朝によってなかったことになりかけていたからだ。 それを防ぐために、女性社員が週刊新潮に情報提供したことは自然な思いつきだったであろう。そのことについて、大手メディアに所属する人間が、さも悪であるかのように評価するのはお門違いであるし、偽善である。 大手メディアと週刊誌とのそのような関係は、一般的には知られていない。それにも関わらず、テレ朝が上記のような言い方をしたために、この女性社員がことさらに悪いことをしたように誤って評価され、それがバッシングの一因となった。 テレ朝は、「結果的に取材源の秘匿という問題に不安を抱かせることになったかもしれない。それも全てわが社の対応が悪く、女性社員を追い詰めた結果である。彼女に責任はない」と言って頭を下げるべきだったと思う。2018年4月18日、女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにしたテレビ朝日の記者会見 テレ朝の記者会見後、テレ朝がことさらに悪者のように言われている。しかし、テレ朝だけの問題ではない。テレ朝を悪者にして終わりにしていい話ではない。 新聞社やテレビ局の人であれば、現場の記者がセクハラやパワハラに日常的にさらされていることは常識として知っている。ただ、被害に遭っている記者は、それを言い出すと同僚や上司、会社に迷惑をかけると思っているのであまり口にしない。忙しすぎて、そういうことを相談する時間もない、という現実もある。 誰に相談するのかも迷う。誰を信頼していいのか、その人に相談して対処してくれるのか、という悩みもある。つまり、誰かに相談するというのは、よほど耐えられないと感じた場合が多い。大手マスコミの女性記者たちよ、立ち上がれ そして実際に記者から相談があった場合、会社としてどう対応しているか。相談者の要望としては、取材先に内々で抗議してほしいとか、担当を変えてほしいというのが一般的だろう。会社は、そのくらいの対応はしていると思う。 しかし、今回のように「自社が報道すべきだ」と訴えられた時、その望み通りに報道したメディアはあっただろうか。世間には、「女性社員の望む通りに報道すればよかったのだ」という向きもあるが、今回のケースが自社だった場合、「それは出来ない」と断ったメディアがほとんどだったのではないか。各社の見解を聞きたいところだ。 また、全国的に「その女性記者は誰だ」という注目が集まっている中で、最悪な形でほぼ個人が特定されてしまった。インターネットには、特定した情報が流れているし、取材源の秘匿を守らずに週刊誌にネタを売ったけしからん人間である、と公然と批判する人もいる。 しかし、福田氏の言動がセクハラであり、大多数の女性が不快感を覚えることは明らかであるし、福田氏に共感する男性が少ないこともまた明らかだ。 テレ朝の女性社員は、公表によって自らがバッシングを浴びることを予想していただろう。それでも泣き寝入りしなかった彼女に敬意を表したい。今後は、彼女の尊厳を回復することに全力を注がなければならない。 これまで、セクハラ問題は、告発した女性がバッシングされ、居場所がなくなる現実が多くあった。会社内でセクハラした人が配置転換され、被害者が不利益的な扱いを受けなかったとしても、何年も「あいつのせいで〇〇は飛ばされた」などと後ろ指を指される様子を多くの女性たちが見てきた。 その結果、「あんな目に遭うなら泣き寝入りしよう」ということになり、いつまでもセクハラがなくならない、男性の意識も変わらないという悪循環が続いている。今回もこれまでのところ、全く同じ構造だ。 まず、大手マスコミの女性記者たちに立ち上がってほしい。沈黙はセクハラをしているのと同罪だ。テレ朝の女性社員は、女性記者みんなの声を背負って自分が犠牲となったのだ。最近は女性記者の数も多い。会社の垣根を超えて団結し、どうしたらこのような問題がなくなるのか真剣に考えてほしい。この機会を逃したら改善される機会はなくなるかもしれないのだから。2018年4月23日、国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会 また、セクハラの話になると、男性が全く当事者意識を持てないのも問題だ。問題意識を抱いている男性も多いと思うが、「女性は大変だね。頑張ってね」と他人事で済ましていると感じる。それではこの問題はいつまでたっても終わらない。 セクハラはパワハラとセットになっていることが多い。男性にとっても自分の問題でもあるはずだ。真剣に考えてどうすればいいのか方法を考えてほしい。自分が感じた苦い気持ちを思い出してほしい。 テレ朝の女性社員の二次被害をどう食い止め、彼女の尊厳を回復するか。今となっては非常に難しい。ただ、世の中が少しでも変わるのであれば、それが彼女の被害回復に資すると思う。

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    「福田さん、あんたはエライ!」テレ朝記者セクハラ告発、私の本音

    小俣一平(武蔵野大学客員教授、元NHK社会部記者) 「福田さん、あんたはエライ!」と思わず口に出た。福田淳一さんが財務次官の辞任を表明した翌朝のテレビのインタビューを見ていて、「そういうことはない」とテレビ朝日の女性記者へのセクハラを再び否定したからだ。さすが、日本の最高学府東京大学出身、大蔵省入省トップ、エリート街道を驀進(ばくしん)して、財務省事務次官に上り詰めただけのことはある。全省庁を代表する財務官僚の「体質」が骨の髄まで染み込んでいる。 財務省といえば、「捏造(ねつぞう)」「隠蔽(いんぺい)」「虚偽答弁」「真っ赤な嘘だらけ」、いわば「嘘のデパート官庁」であることは、この1年余りの森友・加計問題で、国民の大多数が知るところとなった。その事務方の頂点に立つのが福田さんである。 彼こそ偉大な官僚である。まるで、去りゆく日まで、後輩たちに「嘘をついたら突き通せ、恥も外聞も関係ない。痛痒(つうよう)を感じる必要はない。知らぬ存ぜぬ、木で鼻をくくったような対応をせよ。良心の呵責(かしゃく)にさいなまれるな。時がたてば沈静化する」と教えているようだ。これぞ財務省の「一番星の一番星」たるゆえんだろう。やっぱり「福田さん、あんたはエライ!」 こういう精神構造の人について考えるとき、彼は本気で「セクハラをやっていない」と信じ込んでいるのではないかと思ってしまう。つまり、彼の「セクハラ」の定義は世間一般と大きく隔たりがあるのではないか。 彼にとって、「縛っていい?」「おっぱい触っていい?」は日常会話の延長で、女性にこうした発言をすることが「セクハラ」と捉えていないのだろう。これまでも省内の女性に同様の発言を繰り返してきて誰もとがめることなく、それが通用してきたのではないか。 彼の「セクハラ」は、実際にタオルやベルトで相手を縛って無抵抗にしたり、嫌がる相手にキスをしたり、無理やりおっぱいをわしづかみしたり、触ったりしたときに、初めて成立すると思っているのではないか。私はテレビに映し出されたアップの顔を眺めながら、そう思えてきた。 今回、福田さんの問題がクローズアップされているが、実は、日本の社会には日常的にこうした「セクハラ」がまかり通っている。私も多くの男性と同様、きれいな、かわいい、癒やされる女性と一緒にいれば、心弾むし、二人っきりなら福田さんと同じ気持ちになることもあるだろう。 いや、私のように「下心」がスーツを着ているような男は、こういう思いが実際に何百、何千とあった。しかし、許容範囲を予測できるから、相手に「危険だから録音しておこう」とまで思わせることはなかったから、どうにかこの年までやってこられた。2018年4月18日、辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官(春名中撮影) 今年は「明治150年」と言われているが、日本男性の「男尊女卑」観は、明治維新でも大正デモクラシーを経ても改革されず、先の敗戦を経てようやく「男女同権」がうたわれるようになった。福田さんをかばう麻生太郎財務相も発言を聞く限り、明治的な「男尊女卑」感覚がいまも息づいているのではないだろうか。 福田さん、いや日本の官僚の中でもタチが悪い人間は、この「男尊女卑」に加えて「官尊民卑」の明治以来の伝統のごとく、傲岸(ごうがん)不遜、理不尽、高圧的、尊大、横柄、居丈高、高飛車、威圧的、上から目線の官僚体質が染みこんでいる。だから、「何をやっても許される」「嘘は突き通せ」「俺たちが日本を動かしている」という傲慢(ごうまん)な自負があるのではないか。堪忍袋の緒を切ったら生きていけない 一方で、深刻なのは福田さんのセクハラを告発したテレビ朝日の女性記者のほうだ。彼女が告発に踏み切った理由は、テレ朝の篠塚浩報道局長の会見でおおむね分かった。彼女について、少なくとも三つの点について考えてみたい。 まず、自分が告発したことについては、堂々と「私がやらずに誰がやる!」くらいに構えておけばよい。公開中の映画『ペンタゴン・ペーパーズ』では、ベトナム戦争を分析した極秘文書をスクープしたニューヨーク・タイムズが発行停止になると、すぐさまワシントン・ポストが書き始めた。ポストも発行停止になると、今度はシカゴ・サン・タイムス、ロサンゼルス・タイムズなどが続々と後を追う。 今回のケースでいえば、「私も被害を受けました」と他の女性記者たちが次々と名乗りを上げるのが健全な姿だと思う。だが、それは日本では望むべくもないのかもしれない。「各社の思惑もあって難しいだろう」と考えるのは、私が古いのかもしれない。 ただ、このニュースを知ったとき、最初に頭に浮かんだことは「この女性記者は、これから大変だな」という思いだった。まずは、秘匿である取材源を明らかにしたことから、今後「記者」としてやっていくのは難しいだろうということである。 私が学生時代、毎日新聞の西山太吉記者による、沖縄返還の日米「密約」に関する外務省の機密文書漏えい事件、いわゆる「西山事件」が起きた。そして、西山氏は女性事務官とともに国家公務員法違反で逮捕された。この問題について、毎日新聞記者だった父は「相手(の女性)が認めても、記者のほうは明かしちゃいかんな」と残念そうに言ったのをよく覚えている。 今回の場合、テレビ朝日の会見から察するに、女性記者と福田さんが、彼の主計局長時代からサシで飲めて話が聞ける関係だとわかる。財務省担当になったことがないので想像するしかないが、官庁のトップやナンバー2とそこまで懇意にできることは、なかなか難しいのではないか。 私が記者当時に在籍していた司法記者クラブでも、トップの検事総長やナンバー2の東京高検検事長とサシで飲める女性記者は皆無だったと思う。それほど難しいことであり、変な表現になるが「身に余る光栄」とも言える。「明治の尻尾」が残る私などは、もしセクハラ相談を受けたら、「本当にキスしたり、触ったりするんじゃないのなら、聞き流してネタをとれ!」とハッパをかけてしまいそうだ。2014年7月、沖縄密約訴訟の上告審判決で、原告側の上告が棄却され敗訴が確定。記者会見する元毎日新聞記者で原告の西山太吉氏(手前、大里直也撮影) しかし、彼女は我慢に我慢を重ねて1年半、堪忍袋の緒が切れたのだろう。ただし、堪忍袋の緒を切った以上、非難を承知で言えば、記者を続けることは厳しいと思う。「取材源は自分から明かしてはいけない」ことは、記者の鉄則だと思う。 私は怪文書や月刊誌『噂の真相』に、よく「NHK司法キャップOのネタ元は誰々」と名指しやイニシャルで書かれたことがある。しかし、そういう場合は涼しい顔をして笑って無視した。 中には、特捜部長自ら「小俣ちゃんのネタ元は○○だろう。俺にだけ明かしてくれよ」と迫られたこともある。こんな場合も常に「そんな馬鹿な。名前は知っているけど、話したこともないのに、誰がそんなこと言うんですか」と徹底して否定し続けた。だから、ネタ元のヒラ検事は、笑いながら「お前は大丈夫だから」と言ってくれた。ジャーナリズムは綺麗事の世界じゃない たとえ、ズバリ言われても、自分から認めない限りは、しょせん「噂話」にすぎない。記者を長く続けていれば、こんなことは日常茶飯事だ。それどころか、至る所に「落とし穴」まで仕掛けられている。だいたい、他社が耳打ちしてネタ元をつぶそうとするために動くからだ。それほど取材源を確保し、維持し続けることは難しく、厳しいのである。 それを分かった上で、女性記者が告発した以上、たとえ「記者」を続けても、他の記者クラブに行けば「あれが次官を葬った女性記者だ」とライバル社が告げ口するだろう。遊軍記者になっても、今度は「テレ朝には、取材源を平気で売るような記者がいる」と悪意の干渉が行われる恐れがある。もちろん、女性記者にとっては、悩みに悩んだあげくの行動なのだが、他社はそうは言わない。ジャーナリズムというのは、綺麗事の世界ではないのである。 次いで、テレ朝ではなく『週刊新潮』に持ち込んだことについての問題がある。意見の分かれるところだが、私は大いに結構だと思っている。実は、私もNHKで使ってもらえないネタは、『文藝春秋』に持ち込んで記事にしてもらったことが何度もある。 もちろん、彼女同様、取材協力謝礼をもらったことはない。散々怪文書で「司馬遼太郎より文春から金をもらっている」と書かれたことがあるが、とんでもない話だ。さすがに辟易(へきえき)したけれど、考えは変わらなかった。 では、なぜ他に持ち込むかといえば、自分が獲ってきたネタを大事にしないと、ネタ元から「小俣にせっかく教えてやっても意味がない」と思われるからである。また、とにかく世の中に明らかにしなくては「事実が埋もれてしまう」という思いも強かったからだ。特に、女性記者とはその点で合致していると思う。 それにNHKの場合、政治家絡みの事件では、ネタがなかなか日の目を見ることが少ない。中にはとんでもないデスクがいて、「ネタ元を明らかにしろ。その人が信頼できるかどうかで出す出さないを判断するから」と、ロクな取材もしてこなかったような先輩に問いただされたものだ。そういう場合の発信場所を文藝春秋に求めていたのである。その時の「相方」は、いまや社長や常務になったが、この2人の編集者なら絶対の信頼が置けたからだ。だから、私は2人と当時の編集長以外、文藝春秋の編集者をほとんど知らない。 おそらく、女性記者も同じ気持ちだったのだろう。会社の上司にセクハラを報告しても相手にしてくれないのなら、他の媒体に持ち込む方法しかないと思うのは自明の理である。むしろ、彼女をここまで追い詰めたテレ朝の上司や幹部は、反省や遺憾の意を表すどころではなく、厳しく処分されるべきである。「お前ら涼しい顔して逃げるんじゃねぇ」と私が怒鳴りつけたい気分だ。2018年4月、福田財務次官のセクハラ問題について会見に臨むテレビ朝日の篠塚浩報道局長(右)と長田明広報局長(佐藤徳昭撮影) 最後は女性記者に対する今後の処遇の問題である。一つ目でも触れたように、彼女が望もうが、記者としては残念だが活動しづらいと思う。綺麗事で言えば「正義のセ」なのだから、何ら臆(おく)することはないのだろう。しかし、現実に戻れば、そう簡単にはいくまい。 だからこそ、社を挙げて彼女を守ることが重要なのである。年齢を問わず、こうした過酷な事態の渦中にあって、精神的にボロボロになっているはずだ。彼女が「よくやった」ことは動かぬ事実であり、称賛すべきことだと思う。それだけに、代償が大きすぎてはいけない。 余計なお世話だが、彼女には、ぜひ人権や弱き側の心をくみ取ったドキュメンタリーを作れるようなディレクターに新天地を見つけてほしい。こういう発想が、まだまだ私に「明治の尻尾」が残っているからかもしれない。むしろ、今の人なら、平然とそのまま取材記者を続けるのかもしれない。それができるメディアの世界であってほしいが…。

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    「財務官僚が不祥事連発する理由」を竹中平蔵が斬る!

    竹中平蔵(東洋大学教授)ムーギー・キム(投資家)18日夕、週刊新潮が報じた「セクハラ疑惑」を受け、麻生太郎財務大臣より福田淳一事務次官の辞職が発表された。このところ、不祥事が連発している財務省。書類隠ぺいに書き換え、果てはセクハラ疑惑による次官辞職まで-。世間を大いに騒がせ、「官僚体質」が大問題となった大蔵省接待汚職事件(通称ノーパンしゃぶしゃぶ事件)から早20年が経過。その間さまざまな「省庁改革」が断行されたはずだが、そこに来て今回の一連の不祥事。官僚制度の何がこのような事態を招いているのか?竹中平蔵×ムーギー・キムの新刊『最強の生産性革命 時代遅れのルールに縛られない38の教訓』から、昨今話題の“変わらない官僚体質”の本質を抜粋。元大臣として官僚を知り尽くした竹中氏と、「グローバル・エリート」ことムーギー・キム氏が徹底解説する。(冒頭 ムーギー・キム)寝ても覚めても財務官僚の不祥事問題で話題が持ちきりの最近だが、はたして官僚はなぜ、国民から程遠く離れた不祥事を繰り返してしまうのか? 私には立派な尊敬する官僚の友人も複数いるので全部がそうだということはできないが、それでも「官僚的」「官僚体質」という単語の由来になるくらいだから、官僚組織には特定の行動を運命づけられる制度的問題点があるのである。 そこで以下では、「不祥事隠ぺいでバレる!!官僚組織の本質的問題点」を『最強の生産革命 時代遅れのルールにしばられない38の教訓』から抜粋し、官僚組織との戦いと改革に取り込んでこられた竹中平蔵氏に、超わかりやすく、解説していただこう。竹中 政治がなかなか変われない最大の理由は、政策が官僚終身雇用制度の上で作られているからだと思います。キム どういうことですか。竹中 官僚は政権が代わろうがどうしようが、クビになりません。公務員なので、不利益処分を受けるときはいろいろ条件がつく。公務員には団結権がないので、ストをしてはいけないことになっている。その分、しっかり守られているんですよ。 それに、官僚は終身雇用制で、東大を何番で卒業して公務員試験に何番で受かったか、そしてどういうキャリアを積んだかがずっとついて回る。そういう人たちが、政府の政策をずっと継続させているわけです。 だから業界団体等としては、ある時点でお上の言うことを聞いていれば、次も安心なんです。逆に逆らったりすると、その時点ではうまくいったとしても次で仕返しを食らう。「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉がありますが、それを官僚たちはやるんです。だからお上はすごい力を持っている。その力の最大の要因が、終身雇用・年功序列なんですよ。事実上更迭され、記者の質問に答える財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日キム 官僚には終身雇用と年功序列が保障されているため、そういう人に一度でも逆らうと、ずっと恨まれてどこかで復讐されると。だから国民や業界団体は省庁に対して恐れを持っていて逆らえないということですか?竹中 そうです。経団連をはじめとする業界団体は、みんなそれをわかっています。だから経団連の事務局というのは、同じく年功序列で霞が関理論に追従する官僚的組織になっているわけです。いわば「民僚」です。誰かがお上に逆らって改革をやろうとしても、だいたい裏切るのは経団連なんですよ。上からの近代化も時代遅れキム つまり財界は官僚に従い、官僚は議員に「先生、先生」と擦り寄り、議員は財界からお金を恵んでもらう。そういうトライアングルになっているわけですね。竹中 そのとおり。その鉄のトライアングルは強力で、お互いにもたれ合う仕組みになっている。官僚は国会議員の先生に自分たちが作った法案を通してもらわなきゃいけない。議員先生は財界からお金をもらわなきゃいけない。財界は官僚に支配される立場にあるから、いろいろお伺いを立てなきゃいけない。そういうジャンケンのような形になっているんです。 このトライアングルはすごいですよね。アメリカだとコインの裏と表だから、勝つか負けるかなんだけど、日本はジャンケンだから明確な強者がいないんですよ。 ついでに言うとね、これまでの官僚制度というのは、要するにエリートの促成栽培制度なんですよ。国家公務員の上級試験というのがありますよね。しかし、その試験を通っただけで高級官僚になれるというのは、どう考えてもおかしいでしょ。そんな大した試験じゃないんだから。キム そうですよね。こんな試験で「真の公僕」に必要な能力を測れるんですかっていう感じです。竹中 近代国家を作るとき、とにかく誰かをエリート官僚にしなきゃいけなかった。だから促成栽培制度を作ったんですよ。それが今日でも残っている。 大学入試というのも、促成栽培の一環のようなものですよね。あんなもので人間の能力を測れるわけがない。結局、ものすごく安上がりな制度なんです。竹中平蔵・慶応大学教授=2014年12月5日 (野村成次撮影)竹中 実はこの原点は明治維新後の大久保利通に遡ると思います。明治新政府の発足早々、大久保は岩倉使節団の副使節団長としてアメリカとヨーロッパを回っています。 実はそのとき、ドイツでビスマルク首相の自宅に招かれているんです。そこでビスマルクは、大久保たちを相手に熱弁をふるったと言われている。曰く、ドイツというのは、小国プロイセンを中心としてようやく統一された国家であるわけです。 しかしヨーロッパではイギリスとフランスが先行している。ドイツが彼らに追い付くためには、上からの近代化じゃないとダメだ、と。 つまりイギリスやフランスでは、ブルジョアジーが育ち、啓蒙思想が育ち、それで市民革命が起きて近代化が進んだわけです。しかしドイツとしては、そんなプロセスを待っていられないと。そこで上からの近代化が必要と説いたんです。 大久保は、ビスマルクの話にすっかり感化されたらしい。帰国後に内務省を作って初代の内務卿に就任すると、殖産興業を徹底しながら上からの近代化を強引に推し進めていくわけです。 そのために内務省の中には警察も入れました。時には警察権力を使ってでも、国民に言うことを聞かせようとしたんですね。 だから大久保は日本の近代化にたいへん貢献したことは間違いありませんが、庶民からはすごく恨まれたそうです。それで結局、47歳の若さで6人の士族にめった刺しにされた。これがいわゆる「紀尾井坂の変」です。いかに恨みを買っていたかということでしょう。「組織を護ること」が至上命題(ムーギー・キム)以上では、『最強の生産革命 時代遅れのルールに縛られない38の教訓』から、官僚組織の問題点に関して論じられている部分を一部抜粋して紹介した。ところで私は重ね重ね立派な官僚の皆さんがたくさんいらっしゃるのは知っているし、めったやたらな批判はできない。財務省の外観・看板=2018年3月26日、東京・霞が関(桐原正道撮影) ただそんな優秀な官僚の皆さんと「なぜ官僚組織は官僚的なのか」という議論をしていると必ず指摘される弊害が、「一度省庁に入ったら、他の省庁に移れないので、省庁の権益確保が至上命題になってしまう」という悲しい二流な時代遅れの人事システムである。 とある上級官僚に今後の組織改革の方向性を聴いたら、「もっと官僚も民間に出て、相互に中途採用の交流をはかるべき」だというし、他の省庁へのキャリアパスを用意することの大切さを語っておられた。確かに、今時どこの民間企業でも終身雇用は崩壊しているのに、官庁だけ「一度入ったらその省庁で一生出世を目指す」というコースしかなければ、どうなるだろうか? 国や社会のための全体最適ではなく、所属する省庁の利益の最大化と、そこでの出世という、「極めて視野の狭いキャリアパス」しか描けない。そうすると、「出世の鍵を握る官邸を忖度することでしか上に登れない二流の官僚」が、官邸ズブズブ官僚として、政官のもたれあいを強めることは避けられないのである。 そういえば私の友人も某省庁での官僚歴が長いが、「なぜこの人が」という尊敬できない人に限って出世していくのがいたたまれない、と語っていたものである。「官僚の無謬(むびゅう)性」への拘泥(こうでい)が問題視されて久しい。よくコーポレートガバナンスの改革をなどと政官が唱えているが、まずその前に、自分の組織のガバナンス改革から始めなければならないのは、一連の官僚不祥事が次期首相に課した最大の課題の一つなのである。(本記事は『最強の生産性革命 時代遅れのルールに縛られない38の生き方』より一部を抜粋し、加筆のうえ編集したものです)たけなか・へいぞう 東洋大学教授・慶應義塾大学名誉教授。1951年、和歌山県生まれ。1973年、一橋大学経済学部卒。2001年、経済財政担当大臣に就任。以後、金融担当大臣、総務大臣などを歴任する。2013年、安倍政権で産業競争力会議有識者委員に就任。著書に、『竹中流「世界人」のススメ』(PHPビジネス新書)ほか多数。ムーギー・キム 投資家、『最強の働き方』『一流の育て方』著者。1977年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。INSEADにてMBA(経営学修士)取得。大学卒業後、外資系金融機関の投資銀行部門にて、日本企業の上場および資金調達に従事。その後、大手グローバル・コンサルティングファームにて企業の戦略立案を担当し、多くの国際的なコンサルティングプロジェクトに参画。2005年より世界最大級の外資系資産運用会社にてバイサイドアナリストとして株式調査業務を担当したのち、香港に移住してプライベート・エクイティ・ファンドへの投資業務に転身。ベストセラー作家としても知られ、近著に、『最強の健康法―世界レベルの名医の本音を全部まとめてみた』(SBクリエイティブ)と、『最強のディズニーレッスン―世界中のグローバルエリートがディズニーで学んだ、50箇条の魔法の仕事術』(三五館シンシャ)がある。関連記事■竹中平蔵 × ムーギー・キム 大企業エリート信仰は時代遅れ■竹中平蔵 × ムーギー・キム 日本の政治が変わらない理由■高橋洋一 前川喜平氏の「大活躍」

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    テレビ朝日が「セクハラ被害会見」で守りたかったのは誰?

    『週刊新潮』でセクハラ問題を報じられた福田淳一・財務事務次官の辞任発表を受け、4月19日未明から急遽開かれたテレビ朝日の記者会見。急ぎ駆けつけた本誌・週刊ポスト記者を待っていたのは意外な事実だった。「今回はお世話になっている新聞社とテレビ局の方のみに来ていただいております。すみません」 受付の男性にバツの悪そうな表情で“週刊誌立ち入り禁止”を通告されたのである。 会見では、1年半ほど前から福田氏によるセクハラ被害を受けていた女性記者が上司に報道することを提案。本人特定による“二次被害”のおそれから「報道は難しい」と判断され、この女性記者は『週刊新潮』に音声データを提供したという経緯が説明された。 しかし、この会見には不可解な点が多すぎた。まず、なぜ発表は次官が辞めたあとだったのか。「福田氏がセクハラを否定したまま辞任し、この問題の幕引きを図ろうとしていたためそうはさせじ、というのが表向きの理由です。一方で『週刊文春』に“テレ朝説”が書かれるなどメディアの詮索が激しくなっていたため、これ以上黙っているわけにはいかなくなったという判断もあったはず」(テレ朝関係者) 一方で、財務省への“配慮”もうかがえる。「局内には、『今回の件で官僚を敵に回して、記者クラブから爪弾きにされ、情報が取れなくなるような事態は避けたい』という意見もある。次官が辞めてからなら『抗議する相手は財務省じゃなく前次官』という体裁が取れると考えたのではないか」(同前)福田事務次官のセクハラ問題について会見する篠塚浩取締役報道部長(右)と長田明・広報局長=2018年4月19日、東京都港区(撮影・佐藤徳昭) 事を荒立てたくないという本音は、「女性記者を守る」と言いながら、新潮に情報を“リーク”したことに関して「不適切な行為だった」と突き放した点にも透けて見える。スクープしたのは『週刊新潮』なのに週刊誌を排除して会見を開き、自局で生中継すれば話題必至のはずなのにそれすらしない。「記者クラブに向けた会見だったため週刊誌は対象ではなかった。会見の中継については総合的な判断によるものです」(広報課) テレビ朝日が守ろうとしているのは、勇気ある告発をした女性記者か、それとも記者クラブ利権か。関連記事■ 大下容子アナ、足を組み替えるたび現場で「オー」と歓声■ 年上の女性上司に「パワハラ」された男性会社員たちの告白■ 堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行■ 福田元事務次官のセクハラ疑惑会見に心理士がツッコミ

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    堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者

    《週刊誌報道に示されたようなやりとりをした女性記者の方がいらっしゃれば、調査への協力をお願いしたい》 森友学園問題で国会が紛糾する中、渦中の財務省トップに持ち上がった新たな騒動。辞任した福田淳一元事務次官(58才)が複数の女性記者にセクハラ発言を繰り返していたと『週刊新潮』(4月19日号)が報じた。これに対し、福田氏はセクハラを否定した上で、新聞やテレビ局などの記者クラブ加盟各社に、冒頭のような異例の協力要請を出したのだ。 報道各社にとって、“霞が関の中枢”である財務省への取材は超重要。それだけに、エース級の記者がしのぎを削っている。「超堅物の官僚からスクープ情報を取るのは至難の業。そこでテレビ各局は、少しでも印象をよくするためなのか、たまたまなのか、選りすぐりの美人記者を財務省の記者クラブに送り込んでいます。もちろん外見だけでなく、財務官僚と渡り合えるだけの頭脳も必須です」(全国紙記者)『週刊新潮』の記事によると、福田氏に夜中呼び出された女性記者は、パジャマから着替えてバーに駆けつけた。酒席につきあい、森友問題について聞き出すのが彼女らのミッション。福田氏はそんなやり取りの中、「おっぱい触っていい?」「キスしたい」としつこく言い寄ったという。「福田さんはお酒が弱くて、酔って記憶がないなんてことはたまにあるそうです。記事には日頃からセクハラを連発することで有名だったと書かれていましたし、担当の女性記者は呼び出されるたびにビクビクしていたんでしょうね…」(前出・全国紙記者)画像はイメージです(iStock) 小さい時から神童と呼ばれ、東大をトップに近い成績で卒業したスーパーエリートの財務官僚は、ちょっと変わった人ばかり。そんなオジサンたちを相手にしなきゃいけないのだから、彼女たちの苦労は推して知るべし。若手の財務官僚が言う。「省内でも、“あの記者は目を引く”と評判になる人がいつも何人かいます。最近では、テレビ朝日の進優子記者は女子アナと見紛うような美形ですし、フジテレビの石井梨奈恵記者は上智大学から仏パリ政治学院に留学した経験のある才媛。NHKの山田奈々さんは突っ込んだ取材をする優秀な記者だと評判です。ぼくたち若手はほとんど相手にされませんが、一癖も二癖もある幹部たちから直接、携帯で呼び出されるのを見るとホントに大変そうです」 冒頭の通り、財務省は血眼になって報じられた女性記者を探している。「音源を全部聞いたわけではないので状況はわかりません。福田氏の言う通り、クラブでホステスとの会話という可能性がないわけではない。それにしても被害を受けたという記者に“名乗り出て”というのはおかしな話。情報を握るために必死の記者が自ら名乗り出られるはずがないし、セクハラを受けた女性が被害を訴えることに抵抗があるのは当然のこと。誰が相手だとしても、音源があるのだから、福田氏を徹底的に調査すべきです」(前出・全国紙記者) 福田氏は新潮社を名誉棄損で提訴するというが、向かう新潮社も記事に絶対的な自信を見せている。関連記事■ 総理執務室撮影したNHK美人解説委員に局内部から痛烈な批判■ NHK記者 “官邸の最高レベル”スクープを不発弾にされ不満■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相、「昭恵抜きで訪米したい」の打診却下されガックリ■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    財務次官セクハラ疑惑 「被害者」テレ朝記者の行動も問題である

    は、財務省であり官僚であって、政治家ではない」というイメージを世間に拡散させるには、次官のセクハラ・スキャンダルは格好の材料になるからである。佐川国税庁長官(前理財局長)が辞め、今度は次官がやり玉に挙がるとすれば、「財務省悪玉論」が定着する。森友・加計問題も、政治家の関与などはなく、すべて悪いのは官僚だというイメージ操作に有力な材料を与えるであろう。 知ってか知らずか、野党は鬼の首でも取ったかのように、政権批判に「大はしゃぎ」している。自らの調査でもなく、マスコミ報道に依拠して追及しているだけで、政権奪取の気概も何もない。国会では、国民のために必要な法案を審議するなど、他にやることが山積しているのではないのか。テレビ朝日の女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにする同社の篠塚浩報道局長=2018年4月19日未明 権力闘争に明け暮れる一方で、解散総選挙を恐れる戦略の無さは、政党支持率が低迷し、一向に改善しないことにも現れている。野党の無策に、国民も閉口していることに気づくべきである。財務省の行為は万死に値する しかしながら、安倍政権にとっても、事態は決して楽観できるような状況ではない。NNNが4月13~15日に実施した世論調査では、内閣支持率はこれまで最低の26・7%、不支持率はこれまで最高の53・4%になった。ついに支持率が2割台に下落し、不支持率は支持率の2倍となった。これは政権維持に黄信号が灯りはじめたことを意味する。 同じ週末に行われた共同通信の世論調査では、内閣支持率は5・4ポイント減の37・0%、不支持率は52・6%であり、女性の支持率は29・1%と初めて30%を割っている。朝日新聞の調査でも、支持率31%、不支持率52%と、支持率の下落・低迷の傾向は変わっていない。 このような結果になったのは、財務省の役人による公文書の改ざんが明らかになったときに、組織のトップである麻生太郎財務相が責任を取って辞任しなかったからである。公文書は絶対に改ざんしてはならない。それは、官僚の職務規律であり、民主主義の基礎である。そのルールがいとも簡単に破られたことは、国権の最高機関である国会に対する反逆であり、万死に値する。 しかも、それは財務省という組織ぐるみの行為であり、このような場合には、組織のトップが引責辞任するのが筋である。その組織存続の基本が守られなかったことが、財務省にもろに跳ね返ってきたのである。そして、それは安倍首相批判の声をさらに高めることにつながった。 安倍政権は、安倍首相、麻生副総理兼財務相、菅義偉(よしひで)官房長官のトロイカ体制で安定しており、派閥の力学もそれを軸に形成されていた。それだけに、麻生氏の辞任だけは何としても避けたいというのが、政権側の意向であった。麻生氏は19、20両日にワシントンDCで行われる20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議に出席のため訪米し、22日に帰国する。 安倍首相は、フロリダでの日米首脳会談を終えて、間もなく帰国の途につく。帰国後、総理自身が国内政局をどう判断するかによるが、「麻生更迭」という苦渋の決断を迫られる可能性がある。麻生氏帰国後の「初仕事」が財務大臣辞任ということになるかもしれないのである。財務省をバックに、セクハラ疑惑が報じられた同省の福田淳一事務次官(奥)と、麻生太郎財務相(左)安倍晋三首相(右) 日米首脳会談では拉致問題で一定の成果を上げたが、そのことが内閣支持率の回復に寄与することはあまり期待できない。野党の抵抗が続いて国会が正常化できないならば、予算を人質にとられたリクルート事件の際の竹下登内閣と同様な雰囲気になるだろう。「空気」が支配する日本で、それに抵抗して政権を維持していくのは、不可能に近いと言わざるをえない。

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    眞子さまが「ゴシップ報道」小室圭さんを選んでも別に不思議じゃない

    谷本真由美(コンサルタント兼著述家) 秋篠宮家の長女、眞子さまと小室圭さんの結婚延期が話題になっていますね。当初は小室さんのイケメンぶりが話題になっていたわけですが、実家周辺のゴシップが報道されるようになると状況が大きく変わりました。 今般の延期の原因は、一言で言うと小室さんのパラリーガルとしての収入があまりにも低く、はっきり言ってワーキングプアレベルなので、眞子さまの実家である皇室との付き合いを考えると将来性がまったくないこと、それと週刊誌でたびたび報じられた実家の借金問題が背景にあったのでしょう。 若いカップルの縁談が、お金の問題で混乱するというのは大変残念な話ではありますが、しかしこの縁談については、まるでどこかで聞いたような話ではありませんか。 小室さんの職業や実家の借金がこんなに騒がれるというのは、メディアの中の人々も世間一般の人々も、口では延期を否定するようなことを言っていても、根本的な考え方は結構保守的で、大半の人にとっては周辺の状況が許せないわけです。 世の中の現実を考えてみると、パラリーガルの年収で将来のキャリアの下地がしっかりしていない旦那が、日本一の旧家である嫁の実家と揉めるのは目に見えています。自分が親だったら「こんな縁談はやめなさい!」と即刻口を挟むケースです。 金の切れ目は縁の切れ目ですから、いくら惚れた、好きだといっても、金がなければ関係は割と早く悪化しますし、そこに年寄りが入ってくると、殴る蹴るの争いになるのが目に見えています。 ところで話は変わりますが、私の実家周辺というのは、京浜工業地帯の中にありまして、大半の人は20歳前後で結婚して子供は3人から4人、旦那は生コンミキサー車の運転手や産業廃棄物処理場勤務、妻がコンビニやスーパーのパートというのが一般的です。「湘南江の島海の王子」として活動する小室圭さん =2010年、神奈川県藤沢市 大体この手の家では、妻や夫の実家が激しく貧乏で、相手方の実家に金を無心するということが珍しくありません。ちょっと図々しい家だと、実家に押しかけて「住むところがないから、今日から同居させてほしい」といった事まで起こったりします。 しかも、夫はと言うと、稼ぎが芳(かんば)しくない上に遊びに熱心で、稼ぎを家にあまり入れず、妻の実家が激怒して「家から出て行け!」と殴り合いになったりするケースがしばしばあります。借金を抱えた実家が夜逃げするということもよくありますので、地元ではそういう事態へのノウハウが広く知られています。 私が知る限り、こんなことが神奈川県の県央や湘南地区ではよくあることなのですが、小室さんは湘南地方出身だということを伺っておりまして、週刊誌などで実家の騒動を読んでいると、県央庶民のDNAを強烈に感じ、なんとなく親近感があります。小室さんはこじゃれた懐石料理よりも、きっと『すき家』や回転ずしが好きに違いありません。そして、あの工業地帯独特の雰囲気に何となくノスタルジーを感じているはずです。英王室との共通点 ところで、こういう「マイルドヤンキー(地元志向の強い若者)」的な小室さんに眞子さまが惹かれたというのは、なんだかとても現代的な気がするのです。 今日の日本では国民の大半というのはこのマイルドヤンキーの世界に住んでいるわけで、「自称中流」であっても、その実態はワープア(ワーキングプア)に近かったり、下流なんだと思います。バブルの頃やその余韻が残っていた頃は、海外旅行やブランド品など贅沢(ぜいたく)を楽しんでいたわけですが、少子高齢化で日本が沈没していくにしたがって、その実生活のレベルというのもどんどん下がっていきました。 斜陽化した日本の象徴のような小室さんが皇室の配偶者に選ばれるというのは、ある意味世の中の流れを反映しているのではないでしょうか。 ちなみにイギリスの王室の場合も日本とよく似ていて、皇室の配偶者選びというのは世の中の流れを反映しています。 例えば、チャールズ皇太子の場合はダイアナ妃を選びましたが、80年代のセレブカルチャーを反映したような妻でした。王室はもはや神聖な存在でも知性が要求される存在でもなく、モデルや芸能人と同じ立ち位置であり、ダイアナ妃の不倫告白は書籍やゴシップ紙の売り上げに大貢献しました。 ウィリアム王子の妻、キャサリン妃は、炭鉱作業員を先祖に持つ成り上がり労働者階級です。企業家精神にあふれていた両親は、クリスマスには年利4千%のサラ金から借金して浪費してしまうような労働者階級に、ゴミのようなパーティーグッズを売りつけて大金持ちになりました。キャサリン妃はそのお金で有名私立に行き、大学のファッションショーでミカンの編みのようなスケスケドレスを着て王子を魅了しました。 裸体になるのが大変好きらしく、休暇中にはほぼ全裸に近い格好で日光浴していたのをゴシップ雑誌にスッパ抜かれて全世界に写真をばらまかれていますが、警備の人や召し使いが周りにいることは気にならないようです。イギリスの90年代の起業系新興階級を絵に描いたような背景です。メディアに手を振るヘンリー英王子(左)と婚約者の米女優メーガン・マークルさん=2017年11月、ロンドン ハリー(ヘンリー)王子の妻になるメーガンさんは、アメリカ人でしかも母親はアフリカ系ですが、捨てるほどお金があるのに、メキシコの寒村で隠居生活を送る父親や親戚には全然金を渡さないので非難されています。さらに、昔書いた恥ずかしいブログが発掘され、全世界に晒(さら)されるという、SNS(会員制交流サイト)世代的なプリンセスであります。ハリー王子は全裸写真やナチ装束をネットで全世界に中継されるという、これまたSNS的な王子様です。 日英のロイヤルファミリーの結婚騒動をみていると、結婚のあり方や形式というのは、なんだかんだいって世相を反映しているのです。そして、結婚という制度は古いだの、なんだのとい言われていても、まだまだ関心の高い事柄であり、いつの時代も本人や外野が気にするポイントは変わらないということなのでしょう。

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    貴乃花親方が戦う「真の敵」をモンゴル人横綱は理解できまい

    野々村直通(開星高校前野球部監督、教育評論家) 「我、いまだ木鶏たりえず」 大横綱、双葉山が69連勝で敗れたときの言葉である。木鶏(もっけい)とは木彫りの鶏である。普段は落ち着きなく動き回る鶏が何があっても微動だにしない様(さま)を木彫りに例えたものである。これは人として悟りを開いた境地を言う。 双葉山はこの敗戦を自らの未熟さとして、この言葉で自戒したのである。何と見事な振る舞いであろうか。強さだけではなく、この崇高な精神性が双葉山を神格化せしめるのである。 同じく昭和の大横綱、大鵬は戸田に敗れ、連勝記録が途絶えた。しかし、この敗戦は実は「世紀の大誤審」と呼ばれる一番だったのだが、大鵬は「横綱が物言いのつくような相撲を取ったことが恥ずかしい」と自らを責めたのである。土俵入りする横綱・大鵬幸喜=両国国技館 この大誤審がきっかけとなり、後にビデオ判定が導入される。日本中が大鵬に同情し、悲運の横綱として社会現象を巻き起こす。凡人であればこの国民的熱狂に便乗し、「私は勝っていた。誤審がなければ連勝記録はまだ続いていた。私は犠牲になった」と声高に叫び続けたことだろう。大鵬もまた、高潔な精神を備えていたのである。 相撲の取り口で理想とされるのは「後(ご)の先(せん)」と呼ばれる。相手より遅れて立って攻めさせる。しかし、その後の攻防で先に立つ。これが横綱相撲と呼ばれた。しっかり相手を受け止めてから自分のペースに持ち込む。決して立ち合いで逃げたり、先制攻撃をしたりはしない。それは弱者の戦法である。横綱相撲が取れなくなった横綱は引退する。ここに大相撲の横綱としての矜持(きょうじ)がある。 そもそも大相撲は神事である。天皇の前で取り組む「天覧相撲」は最高の名誉である。その最高位に位置する横綱は「四手(しで)」を垂らした「注連縄(しめなわ)」を腰に巻く。神の化身である。どんな身分の者であろうと横綱になれば帯刀が許された。取り組む前には水で口を漱(すす)ぎ、塩を撒(ま)く。土俵を神聖な場所として清めるためである。農耕民族の命である土地の中の邪悪な悪霊を追い出すために「四股(しこ)」を踏む。すべて神事に則って行われる儀式的格闘技である。  今、相撲はインターナショナルなものになりつつあるが、それはあくまでも「SUMO」であって大相撲とは似て非なるものである。SUMOはスポーツであるのに対し、大相撲は神事である。このことを強く認識し、本来の伝統を堅持しようと真剣に取り組んでいるのは、貴乃花親方の他にその存在を見いだすことはできない。その全身全霊を傾ける姿には感銘を受ける。 彼は言う。 「大相撲の紋章には桜があしらわれています。桜は日本人の心の象徴で『大和心』を意味しています。だから大和心の正直さ、謙虚さ、勇敢さでもって大相撲に命懸けで取り組まなければなりません」 相撲道をとことん極めようとする彼の生き方は、厳しい修行に打ち込む求道者にも似たものがある。他の民族には理解できない 昨今の大相撲を取り巻く事件や醜聞が日本中を席巻している。マスコミはおもしろおかしく報道し、相撲協会と貴乃花親方との対立、不和を煽っている。しかし、私見ではあるが、これは貴乃花親方と相撲協会との確執ではなく、対白鵬に向けられた「追放儀式」と思えてならない。 前段で述べてきた大相撲の神聖性や格式に於(お)いて、その欠片(かけら)も見られない白鵬の言動に業を煮やした貴乃花親方が仕掛けた大相撲維新であり、復古戦である。白鵬は日本の文化と伝統を内在する大相撲に於ける最高位たる横綱には不適格者である。遊牧民族のモンゴル人は「力こそ正義である」と信じて疑わない。厳しい大自然の中でそれと対峙(たいじ)し、闘い続ける力を持つ者が最も立派であり、尊敬される。最も評価されるのは「力」であり、年齢や階層には重きを置かない。 白鵬は、横綱の品格とは何かと問われ、「勝つことが品格だ」と答えている。負けた一番について「小さな子どもでも分かる判定ミスだ」と嘘ぶく。直近の例では、敗れた直後の土俵で、実は「待った」だったと手を挙げて抗議し、土俵に上がろうとしなかった。千秋楽の優勝インタビューでは観衆に萬歳(ばんざい)三唱を強要する。このような下劣な言動は何なのか。まるで「傍若無人の独裁横綱」である。大相撲は日本国籍を有しないと親方にはなれない。しかし、彼はモンゴル籍のままで自分だけは親方になれる特例を求めていたという。やりたい放題である。厳しい表情で年寄総会に臨む貴乃花親方 =2017年12月27日、東京・両国国技館 これは妄想だが、モンゴル出身力士の中で唯一、思い通りにならない貴乃花部屋の貴ノ岩が日馬富士に殴られたのも、実は白鵬が黒幕だったのではないか。照ノ富士は致命的なケガを膝に負っているにもかかわらず、正座を強要されたという。あの鳥取の夜、貴ノ岩が殴られたのは、説教の度を超えた白鵬の命令を素直に受け入れなかったからではないか、とさえ思えてくる。繰り返すが、これはあくまで筆者の妄想である。 大和民族は大自然と共生することを目的にそれを徳とし、この自然界のありとあらゆるものを神として崇(あが)め、拝み、その恵(めぐみ)に感謝し、貝塚を作り、その小さな生命(いのち)を頂いたことにも慰霊する。この気高き精神の輝きは、自然界を勝手に食い散らかしてきた他の民族には到底理解できないだろう。 貴乃花親方が真に戦う相手は、相撲協会ではなく、その地位や名誉でもなく、ただ相撲道を汚す許し難い横綱に対してのものなのである。

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    貴乃花親方を阻む不倶戴天の敵

    「不倶戴天」。貴乃花親方の心中を察したとき、ふとこの言葉が思い浮かんだ。「同じ天の下には生かしておけない」。相撲協会の理事候補選挙で落選した親方は何と闘っていたのだろう。相撲道を追求する理念はもっともだが、それを阻む「真の敵」が誰か、どうも見えにくい。この騒動の核心を読む。

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    「白鵬を切れ」貴乃花親方が許せなかった相撲協会の及び腰

    大橋純人撮影) そもそも貴乃花親方の理事降格処分によって問題が「一件落着」となり、立行司式守伊之助のスキャンダルがあったにもかかわらず、初場所は行われた。初場所は白鵬の相撲ぶりに注目が集まったが、私は、立ち合いの張り手やかち上げによる荒い相撲を控えている白鵬に対して、「さすが大横綱だ」といった評価が出てくるたびに、今回の問題の本質が隠されてしまうと懸念していた。しかし、白鵬は平幕相手に連日金星を献上したうえ、古傷の右足親指を痛め、早々と休場してしまった。 今回の問題については、貴乃花親方が意図したかどうかはさておき、親方の言動がメディアの注目を集めて事態を大きくし、広く社会的議論が生じているのは事実である。そのことによって問題の本質が見えかけてきた面もあるのに、興行を優先することによって、本質をうやむやにしてしまっては、相撲協会の改革などおぼつかない。一部の相撲ファンが感じ始めていても、関係者や識者は誰もそれを言わない。だからこそ、私がそれを指摘したい。 まず、昨年12月20日の横綱審議委員会(横審)後の北村正任委員長の説明で、貴乃花親方への非難が「委員会の総意」として示されたことは象徴的である。逆に親方の言動がやむを得ないものであったことを、改めて示したものであろう。横審の「通常の組織ではありえない言動」という見解こそ全く本質を外している。まず相撲協会は「通常の組織」ではないからだ。そしてその組織を抜本的に改革することが、貴乃花親方が意図してきたことである。改革を志す親方を非難することが改革を潰すことと同じであることに横審は気づいていないのだろうか。 相撲協会の「御用機関」である横審が改革を論じる立場にないことが、ほかならぬ北村委員長の説明ではっきりした。しかも、北村氏は付け足しのように白鵬の相撲に対して大相撲ファンから「美しくない」「見たくない」と言った批判が寄せられていると報告した。そのうえで協会に対して改善のために「何らかの工夫・努力をしてほしい」と述べたのである。 言うまでもなく、白鵬に物申す必要があった場合、その第一の役割は横審にある。それにより、相撲協会に対して改善の実行を迫る立場にあるはずである。その役割を放棄して協会に工夫・努力を委ねるようでは責任の放棄といわざるをえない。白鵬に対して八角理事長が及び腰であるのは、横審も知っているだろう。北村氏の苦言は、白鵬に対して厳しい処分ができない協会の意向を踏まえたうえで、軽すぎる処分に対する後ろめたさを埋め合わせようとしたのではないだろうか。 ただ、初場所の白鵬の相撲を見ると、横審の苦言が効果を上げたように見える。しかしながら、苦言を出すのがあまりに遅かったため、苦言に御用機関として協会幹部の意向を忖度(そんたく)する不適切な姿勢も現れている。そもそも、横審の控えめな苦言を出すまでの無策ぶりが、白鵬をあまりにも増長させてしまったのである。そのことに対する反省がなければ、今後の改革に期待が持てない。 また、白鵬の相撲が変わったのは、白鵬自身が自分の非を認識し立場が悪いことを感じているからである。それに対して、変化をほめたたえるだけではいけないだろう。白鵬がそのように認識しているのは、この間の騒動を通じて、世論が問題の本質と協会改革の必要性をうすうす感じるようになってきたからであろう。白鵬に「情報操作」された報告書 一方、日馬富士の暴行問題について12月20日に危機管理委員会の高野利雄委員長が公表した報告書は、いつ誰が何を言って何が起こったのかを、極めて具体的かつ明確に説明しているが、白鵬が「情報操作」したとみられる部分がいくつかある。このうち2カ所だけ指摘しよう。臨時理事会終了後に記者会見する日本相撲協会の八角理事長(中央)。左は鏡山危機管理部長、右は危機管理委員会の高野俊夫委員長=2017年12月、東京・両国国技館(斎藤浩一撮影) 一つは、10月25日の食事会(1次会)に、照ノ富士や貴ノ岩が出席することを白鵬は知らなかったというが、あり得ない話だ。食事会は巡業が行われていた島根県の高校で学んだ照ノ富士と貴ノ岩のために、地元関係者が一席設けたものである。主催者として横綱にも同席してもらいたいと考えるのは不自然ではない。特に照ノ富士の伊勢ケ浜部屋での兄弟子である日馬富士が同席するのは自然である。しかし、報告で日馬富士は「食事会の当日頃、白鵬において、…日馬富士を誘い…」とあるように、白鵬に誘われて同席することにしたのである。 もう一つは、2次会で日馬富士が貴ノ岩に暴力をふるった際、白鵬が止めに入ったタイミングが曖昧にされている。日馬富士がボトルを振り上げたが、手が滑って取り落とし、その後リモコンで殴りだした。これを「一連の動作」と表現することで、肝心の白鵬が止めに入ったタイミングがわからなくなっている。白鵬は「物は持たないようにしましょう」と声をかけたそうだが、それはいつ言ったのだろうか。その後日馬富士はリモコンで殴りだしたが、白鵬がようやく止めに入ったのはいつなのかはっきりしない。 これらの点について、危機管理委は白鵬から聞き取り「白鵬がそう言った」ということを報告しているだけなのである。高野委員長は後日、貴乃花親方から聞き取りをした際に元検事らしく厳しく「取り調べ」をしたようだが、白鵬にはこれらの発言を問い詰め、裏を取ることはしなかったのだろうか。 しかも、貴乃花親方から聴取した危機管理委の報告は、相撲協会側の見方で固まってしまっている。これでは、相撲協会から相撲記者クラブを通じてリークされる情報に基づき、貴乃花親方の責任を問う印象操作に加担している大手メディアと同じだ。報道からではまだ私が知りえないことがあるが、その限りにおいても危機管理委の「偏向」は明らかである。その偏向姿勢についても二つ指摘したい。 一つは、貴乃花親方の報告義務に関してだ。高野委員長の報告では「(親方は)10月26日に事件発生を知り、その後、県警に被害届を提出するに至る同月29日までの間、結局、何らの事情も把握できないまま事態を放置し、このことが本件をここまで長期化させ、深刻化させた大きな原因の一つとなった」という。これは裏を返せば、親方が事件を速やかに協会に報告していたならば、短期に解決できたと示唆していることになる。つまり、日馬富士の傷害事件は深刻化しなかったはずだと言っているに等しい。実際は、貴乃花親方の言動によってメディアによる騒ぎが大きくなり、協会は問題をうやむやのうちに収めることができなくなってしまった。日馬富士は白鵬の意向を受けた「下手人」 貴ノ岩の最初の「説明」を受けて、すぐに協会に一報すべきだったとする高野委員長の見解は、私には言いがかりのように聞こえる。鳥取県警に被害届を出した際、協会にも連絡をするよう親方が求めたことは妥当である。また貴乃花親方が、加害者側の伊勢ケ浜親方から協会に報告すべきと考えた、というのも事実だろう。この間の貴乃花親方の行動は、親方の協会不信を考えるならば当然というべきである。今回の問題を協会が興行上の配慮からうやむやにされる懸念を抱いたならば、貴乃花親方の言動は適切だったと理解できるからだ。 もう一つは、協会が鳥取県警からの連絡を受けて開いた11月11日の臨時理事会での対応だ。貴乃花親方が依頼したとおり、協会には県警から連絡があり、八角理事長以下の協会執行部に報告された。先の高野委員長の報告では、執行部が臨時理事会で「緊急に対応すべき案件とは認識していなかったため、報告はされ」なかったという。その際、理事会終了後に、鏡山危機管理部長が貴乃花親方と伊勢ケ浜親方に対して当事者同士で話し合うように要請したとある。内々で収めて解決したことにして、翌日に控えた九州場所を滞りなく興行させることを明らかに優先したのである。この重要な点について、危機管理委の報告は曖昧であり詰めが甘いと言わざるを得ない。 このように危機管理委の対応も不適切だが、そもそも日馬富士の暴行については、白鵬の言動に問題があった。当初、白鵬は貴ノ岩の言動を問題視し、「説教」を始めたところ、態度が悪い貴ノ岩を日馬富士が「制裁」を加えたのだ。白鵬ははじめ静観していたが、流血の事態になるに及んで、ようやく日馬富士を止めたようだ。まるで日馬富士は白鵬の意向を受けた「下手人」だ。どう見ても、一番悪いのは白鵬である。その白鵬が力士界を代表しておわびをし、「膿(うみ)を出し切る」と善人面で公言したのである。 要は白鵬が自分の非を感じていることは明らかである。九州場所の嘉風戦で、行司の裁きに不満を示して批判を浴びたことも併せて、自分の立場の危うさを感じたことは想像に難くない。それが千秋楽の優勝インタビューで、観客に万歳三唱を提案するという挙に出たに違いない。批判をかわすため「大相撲ファンは自分の味方だ」ということを演出したかったのだろう。2014年4月、靖国神社で奉納相撲が行われ、土俵入りした(左から)日馬富士、白鵬、鶴竜のモンゴル3横綱=東京都千代田区 ただ、白鵬が貴ノ岩を「教育」しようとしたのには、当然前提がある。モンゴル力士たちが自分の「支配」のもとで協調しているのに対して、貴ノ岩が従わないからに違いない。この考え方がそもそも間違っている。大相撲は相撲部屋を中心として運営されている。その上に一門があり連合げいこをすることもあるが、それ以外の徒党を組むことは悪い意味での「なれ合い」やひいては八百長を助長しかねないので、望ましくないのである。白鵬の二重三重の「しきたり破り」 稽古土俵での「かわいがり」は当たり前のことであり、これは出稽古に来たほかの部屋の力士に対しても同じだ。しかし、土俵外で他部屋の力士への「指導」は禁じ手であり、暴力以前の話である。確かに、上位力士が個人的に目をかけているほかの部屋の力士の面倒をみることはある。実際日馬富士は自分と境遇が似ている貴ノ岩に目をかけていたようだ。とはいえ、たとえ横綱でも、他の部屋の親方を差し置いてその所属力士を「教育」することは越権行為である。白鵬の場合、相撲協会における自分の立場を強化するために、モンゴル力士で徒党を組み、ほかの部屋の力士を「教育」しようとしたのである。 このように、白鵬は二重三重に相撲界の「しきたり破り」をしている。これは今回の事件に限ったことではなく、根が深い。相撲界の規律に厳しく、また現役時代から自らを律してきた貴乃花親方が白鵬の日ごろの言動を不快に思っていたことは、想像に難くない。しかし立場上、白鵬批判をするわけにはいかない。だからこそ、自らが仕切る部屋の力士に対する教育によって相撲界の規律を貫き、貴ノ岩はその指導を忠実に守ってきたのである。それに対して公然と反抗したのが、今回の白鵬であり、意に反して片棒を担がされたのが日馬富士である。 今回の問題には伏線があり、以前、白鵬が日本国籍を取得せずに親方になれるかどうか議論された際、私は次のように論じた。 白鵬は、勝ち負けに対する意識が非常に強いと私は感じる。記録という数字に対して、強いこだわりがあるのだと思う。それが数々の偉大な記録につながってきたのであろうが、勝負や数字に対するこだわりのために、立ち合いの駆け引きが目立ち、ときとしてダメ押しをしてしまう。常々素行の悪さを指摘されていた朝青龍が、事実上追放されたことは、白鵬の記録へのこだわりを生んだきっかけではないか。その傾向は、朝青龍の優勝回数に近づいたころから目立つようになった。記録で目にものを見せて、例外の存在を認める世論の盛り上がりを期待してきたのだと私は思う。毎日新聞『論点:大相撲の親方と日本国籍』(2015.03.20) そして白鵬の相撲ぶりや土俵態度については、すでに2011年ごろから問題を指摘されていた。また、2013年に朝青龍の優勝回数を超えたころから、徐々に張り手やかち上げが目立つようになった。2017年11月、大相撲九州場所12日目、御嶽海に張り手を見舞う白鵬=福岡国際センター(仲道裕司撮影) この白鵬の取り組みに関する評議員会の対応も問題がある。年明けの1月4日の評議員会では、貴乃花親方の2階級降格が決まったが、その際、池坊保子議長は貴乃花親方について「著しく礼を欠いていた」と厳しく批判した。その後池坊氏は、張り手はルール違反ではないと白鵬を擁護した。さらに「(モンゴル人は)狩猟民族だからね。勝ってもダメ押ししないと殺されちゃう。良い悪いは別にして、DNAかもしれない」と述べたと伝えられる。大相撲に対する見識のなさをさらけ出したと言ってよい。ダメ押しと「礼」、池坊議長の矛盾 ダメ押しがモンゴル文化に起因するというならば、日本の伝統文化の重要な一部である大相撲の精神として「それでよいのか」と問わねばならない。池坊氏のダメ押しについての見解は、貴乃花親方を批判した際、相撲は「礼に始まり礼に終わる」と言ったことと矛盾しているが、このことにご本人は気付いていないようだ。 池坊氏の言葉からも、協会の意向に合わせる姿勢がうかがえる。そもそもこのように大相撲に対して見識のない人間が、理事の承認や解任に責任を持つ評議員会の議長に就くのはなぜなのだろうか。相撲協会の改革のために、外部委員を入れて設置された評議員会の人選は、誰がいかなる基準で行っているのだろうか。2018年1月、日本相撲協会の臨時評議員会後、記者会見に応じる評議員会の池坊保子議長(加藤圭祐撮影) このように一連の問題で明らかになった日本相撲協会の本質は、多くの人が指摘するように、問題が生じた際に内々でうやむやに収めようとする「閉鎖性」だ。また、外部批判をかわし内部告発を押さえ込もうとする「興行優先」の姿勢だ。この姿勢が、親方や力士の不適切な言動に対して、自浄機能が働かず悪を助長してしまうのであろう。 こうした体質を象徴する例として、私は半世紀近く前の横綱玉の海の急逝を思い出す。死に至る経緯について私はさまざまな疑問を抱き、入院先の虎の門病院の大失態との意見もあったが、結局真相は報道されず「虫垂炎の手術は成功したが、肺血栓によって死亡した」との説明がいつの間にか定着してしまった。力士の虫垂炎の場合、術後の対応にことのほか気を付けなくてはならないことは、当時でも医者の間では知られていたはずだ。肺血栓は明らかに合併症であり、「虫垂炎の手術は成功した」とは言えないだろう。大病院と相撲協会との間に、何らかの裏取引があったのではないか、と私は勘繰っている。 そして今回新たに発覚した春日野部屋の暴力問題は、相撲協会の閉鎖性や自浄能力のなさといった問題の根深さだけでなく、協会と大手メディアや官僚機構に代表される日本社会、さらには世間一般との奇妙な関係をも垣間見させている。貴乃花親方の不可解に思える言動にも、それなりの深い理由があることを感じさせる。貴乃花親方が目指した「抜本的改革」とは ならば、貴乃花親方が目指す「抜本的改革」とは何だろうか。それは心技体を鍛え上げた力士が、堂々とぶつかり合って相撲の美を示すことができるよう、相撲部屋と一門の体制を強化し、いい意味での特権階級としての力士の意識をたたき込むことではないか。そして相撲部屋が機能しないときは、日本の伝統を守る特殊社会としての意識をもって協会が強い指導力を発揮することである。 北の湖前理事長は常に「土俵の充実」を掲げていた。八角理事長も今回の問題を受けて、初場所で同じ言葉を掲げ、稽古の重要性を強調した。確かにその通りだが、掛け声だけでは実現しない。大相撲の伝統においては、あくまで相撲部屋が基本なのである。その重要性を私は著書『大相撲の心技体』で以下のように論じた。 第1に、相撲部屋は、力士が鍛え抜かれた体と精神を持ち、すぐれた技芸を実現するための鍛錬の場である。第2に、相撲界特有の規範意識は、相撲部屋において親方の指導の下で身に付けるのが、最も効果的で意味がある。猛稽古を通じて勝ち取る特権階級の資格の意味及びそれに伴う社会的責任を力士に植え付けるのも、基本的に相撲部屋の役割であろう。第3に、相撲界と一般大衆との接点は、相撲部屋によって最も実質的に広げることができるはずである。『大相撲の心技体』(幻冬舎ルネッサンス) 心技体を鍛え上げた力士同士によるガチンコ勝負が、大相撲の基本であり魅力である。一方で大相撲には「儀礼文化」としての側面もあり、相撲ファンの期待、場所の状況や相手力士の調子、さらには相撲人生の流れによって、ときとして「なれあう」ことも大相撲に固有の一面である。古語の「なれやふ」とはひとつにする、互いに情が通じ合う、といった中立的な意味であり、共謀とも悪事とも無縁だったという。 鍛えぬいた力士同士のガチンコ勝負が基本としてあったうえで、「なれあい」の技芸は伝統芸能としての大相撲の興行を支える一面といえる。ガチンコ勝負となれあいとのバランスは、各力士が自らの責任において取るべきことである。このようないわば「心の勘定」を、「金の勘定」によって置き換えてしまうのが、世間でいう八百長である。 大相撲の世界は、世界のどのスポーツにも引けを取らない猛稽古によって支えられている特殊世界である。その中で強い精神と肉体を作り上げ、すぐれた技芸を身に付けた者が関取となる。関取は特権階級であり、さまざまな有形・無形の特典を享受するとともに、日本の伝統の重要な一部である大相撲を支え継承する社会的責任を持つ。 力士であっても社会的常識がなくてはいけないのは当然のことである。その一環として「暴力はいけない」というのは、本来力士に対して言わずもがなのことなのである。心技体を鍛え上げた力士は、社会に対して範を示すべき存在であり、「暴力はいけない」といった世間並みの説教によって力士をおとしめてはいけない。改革に反するモンゴル力士の「交流」 私は大相撲改革はまず自覚の問題だと思う。相撲協会としての姿勢、理事長や理事による親方の指導、親方による力士の指導、そのための意識改革と、相撲部屋と一門を中心とした協会の構造改革が必要である。相撲界という特殊世界に対する一般大衆による適切な認識は、意識改革に伴ってついてくるものであろう。 結局、このような改革に反するのが、一部モンゴル力士による部屋と一門を越えた「交流」だったのではないだろうか。その頂点にある白鵬に対して、協会はなすすべなく、美しくない相撲と不適切な言動を許してきた。今回の問題で明らかになったのは、白鵬の増長に象徴される国技の危機であり、その背景にある協会の長年にわたって解決されない問題であり、横審も危機管理委も協会の御用機関に留まっている。短期的な興行上の配慮によって、危機に対して気付かぬふりをしてはならないのである。 だが、私は外国出身力士が大相撲を豊かにしていると感じている。特に、モンゴル出身の白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱が大相撲の伝統をつないでくれたことをありがたいことと思っている。伝統芸能を支え神事を体現する横綱ならば、ぜひとも日本の国籍を取って、引退後も協会に残って大相撲の継承・発展に貢献してほしいと願ってきた。 大相撲の伝統を守るにふさわしい力士といえる、日馬富士が引退に追い込まれ、貴ノ岩は被害者として大きなダメージを受けた。最近の美しくない相撲と不適切な言動によって、大相撲の伝統をおとしめ辱めてきた白鵬に対して、興行上の配慮から協会は及び腰である。ではどうしたらよいのだろうか。 貴乃花親方は立場上「白鵬を切れ」とは言えない。白鵬が大相撲に対する大変な功労者であることは否定できないからだ。白鵬は相撲協会における自らの立場を強化するために、モンゴル力士を糾合するまでもない。長年第一人者として大相撲を支えてきた白鵬の貢献は大きく、相撲協会に対する影響力が大きいことは、誰でもわかっているだろう。だからこそ、白鵬には大相撲への高い見識を求めたい。そのためには白鵬に対して強い指導力を発揮する者が必要である。それが誰であるか、私の目には明らかである。2012年1月、土俵祭りに出席した貴乃花親方(手前)と横綱白鵬=両国国技館(今井正人撮影) 日馬富士は、幕内最軽量でありながら、厳しい鍛錬によって小よく大を制すという、大相撲の醍醐(だいご)味を味わわせてくれた立派な横綱だった。その「全身全霊をかけて」という大相撲への取り組みは、大きな称賛に値する。暴力をふるってしまったので引退は仕方ないとはいえ、大相撲への多大な貢献にかんがみ、いつか復権してほしいと心より願っている。 戦後の大相撲は、あの大横綱双葉山の時津風理事長の時代、栃錦の春日野親方を若乃花の二子山親方が支え「第二の栃若時代」と言われた春日野理事長の時代、そして若貴フィーバーによって空前の大相撲ブームを巻き起こした出羽海理事長(のち境川理事長)の時代を経ながら、発展してきた。これらの時代を知るものとして、大相撲の現状と今後について強い懸念を持っている。 北の湖前理事長以降、開かれた日本相撲協会としての体裁を整える中で、協会とともに「国技」が軽くなってきた印象はぬぐえない。これからの大相撲と協会について、また協会と大手メディアや世間一般との関係について、あるべき姿をもう一度考え直す必要がある。そのための契機になるならば、今回の問題によるさまざまな犠牲も意味があったのかもしれない。

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    私が聞いた「モンゴル互助会」と相撲協会の黒い噂

    山岡俊介(ジャーナリスト) 貴乃花親方が日馬富士の暴行事件の報告を怠ったとして解任されてわずか1カ月ほどにも関わらず、今回、理事候補選に出馬したことに違和感を持たれる読者もいるかもしれない。 しかし、貴乃花親方は、横綱日馬富士(当時)による弟子の貴ノ岩に対する傷害事件の本質は、モンゴル人力士による「モンゴル互助会」からの八百長の依頼を断ったことに対する報復としての「集団リンチ」とみている。 ここに来て、昨年末の臨時理事会に提出したが無視された、貴乃花親方が貴ノ岩に聞き取りなどして自らの主張をまとめた通称「貴文書」が流出。暴行時、日馬富士はビール瓶どころかアイスピックを手に「殺してやろうか!」と言ったというし、同席していた白鵬の対応も、協会の報告書とは大きく異なっている。 私は貴乃花親方と事件後も交流のある関係者から、暴行の始まる前、「日馬富士は『八百長をOKすれば、お前を横綱にだってしてやる』といわれ、貴ノ岩は『そこまでして横綱になりたくありません』と答えた」とも聞いている。 貴ノ岩は本場所で白鵬に勝った(昨年初場所)が、白鵬はそのかなり前から貴ノ岩は地力があるとみて警戒し、関係者が貴ノ岩に何度も連絡して来ていて、貴乃花親方は、それを八百長への誘いとみて断らせていたそうだ。鳥取県警の再聴取を受けるため、鳥取に向け出発する元横綱日馬富士関=2017年12月、羽田空港 ところが、日本相撲協会にしてみれば、その事件の本質が表に出れば、日馬富士だけでなく、現場で傍観していた白鵬、鶴竜と横綱3人が一挙に辞任を余儀なくされ、そうなると興行そのものが成り立たなくなることから、高野利雄危機管理委員長(元名古屋高検検事長)と一緒になって逆に事件の隠蔽(いんぺい)に走り、協会への報告義務などを怠ったとの理由で自分を解任したとみているそうだ。 貴乃花親方にしてみれば、自分の属する組織に自浄作用がないから警察に頼ったまでであり、自分にはまったく非はないと考えている。 それどころか、相撲を愛する貴乃花親方は、そうした組織は一刻も早く改革しなければならない、それも内部からということで、そのためには発言力を付ける必要があるから時を置かず、理事候補選に出たわけであり、それに何の矛盾もない。八角理事長の恐怖政治に怯える親方たち もっとも、今回、貴乃花一門から貴乃花親方、それに阿武松親方(元関脇・益荒雄)の2人が出馬したことに対し、貴乃花親方のこの間の協会への徹底した非協力的な態度に一門内でも「分裂」した結果との見方もあるが、そんなことはない。 候補者を2人立てた理由は二つあり、一つは、たとえ貴乃花親方が当選しても、協会とつるむ評議員会(元文科副大臣の池坊保子議長)が認可しない可能性が十分あり得るとみていたからだ。本当にそうなっても、阿武松親方が当選すれば、彼を通じて貴乃花親方の意向を反映できるように「保険」を掛けたわけだ。 もう一つの理由は、貴乃花一門が2人立てなかったら、理事は定員10人のところ、10人しか立候補者はなく、無風選挙になるところだった。各一門、相変わらず「談合」で出馬を決めており、2010年2月、貴乃花親方が二所ノ関一門を離脱して立候補し、無風選挙の慣例を破った「貴ノ乱」以降、4期連続選挙になっているわけで、何としても再び無風選挙にしたくないという思いもあってのことではないか。 もっとも、貴乃花一門の確定票数は昨年末、無所属になった錣山親方(元関脇・寺尾)ら3人を入れても11票。当選には1人あたり9~10票必要であることを思えば、2人当選は非常に厳しいとの見方が専らだった。しかし、若手を中心に改革を目指す貴乃花親方を密かに支持する親方は一門外に相当数おり、理事候補選が実施されるまでは、勝算があると考えたからこそ2人立てたのだろう。 ただし、1人しか当選しない場合は阿武松親方の方が通らないと評議員会の未承認があり得る。結果的に貴乃花親方は2票にとどまり落選したが、一門内では当初、阿武松親方6票、貴乃花親方5票で調整していたのだろう。 最後に、貴乃花親方がどのような改革を目指しているかについてだが、八百長一掃のために現在の年6回の本場所回数を減らすほか、負傷の場合、翌場所も同じ地位にとどまることができる「公傷制度」の復活なども視野に入れていると聞く。 それから、こんな八角理事長体制に多くの親方が従うのは、「正論」を貫く貴乃花親方を徹底してイジメ抜く、恐怖政治に怯えてのことだろうが、その一方で、一部の幹部や取り巻きは「利権」に預かっているからでもある。2016年3月の横綱審議委員会に出席した八角理事長(右から3人目)、貴乃花理事(同2人目)ら=両国国技館(今野顕撮影) 貴乃花親方はその利権について、余剰金、親方の退職慰労金など総額200億円ともいわれている協会資金の流用疑惑といった不正の可能性があるとみており、それにメスを入れて行くつもりもあるようだ。

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    貴乃花親方の理念はどうすれば実現できるか

    春日良一(スポーツコンサルタント) 2月2日に行われた公益財団法人日本相撲協会の理事候補選挙は、注目を一身に集めた貴乃花親方が落選した。苦戦が予想されていたとはいえ、貴乃花親方の投じた一石が実らなければ、大相撲の未来はそれほど明るいものにはならないだろう。2018年1月、新十両昇進を決めた貴公俊の記者会見に臨む貴乃花親方=東京・両国国技館 元横綱日馬富士の暴行事件に始まる一連の流れを冷静に見れば、大相撲の抱えているガバナンス(組織統治)の欠陥に貴乃花親方が挑んでいたことだけは確かである。愛(まな)弟子が暴行を受けたとすれば、それを訴えるのは当然だが、そのような「事件」をうやむやにする体質が相撲協会にはあり、それを十分知り尽くしている貴乃花親方が法的処置を優先し、警察を通して相撲協会に報告が届く戦術を取ったのも、その証左であろう。 巡業部長が事件を報告しなければならないと同時に、愛弟子を守る親方としての倫理的行動が優先されるのは当然といえば当然である。なぜなら、相撲協会のルールは協会内部を統括する規定であり、暴行事件はそれよりも大きな社会、つまり和集合における問題であるからだ。 貴乃花親方が理事会に提出した報告書(貴乃花文書)の内容が明らかになり、そこには八角理事長や尾車、鏡山、春日野の各理事から「内々で済む話だろう」と被害届の取り下げを貴乃花親方に執拗(しつよう)に要請した事実が記載されている。これまでも相撲協会は社会的問題になりそうなトラブルが起これば、理事会がその都度、内々に「事なかれ」にしてきたことが推察できる。 それは私自身の経験からも、肌感覚で分かる問題である。かつて私は、日本体育協会という公益財団法人(当時は財団法人)の職員であった。1989年に日本体育協会から日本オリンピック委員会(JOC)が独立し、オリンピック運動推進と競技力向上を二本柱としてスタートするまでの十数年、協会に籍を置いた。ちなみに、JOCに日本体育協会(体協)から完全移籍したのは91年のことである。 体協は「みんなのスポーツ」運動を推進するが、この両団体ともスポーツ振興法(現スポーツ基本法)に定められたスポーツ界、唯二の特定公益増進法人であり、スポーツに関する寄付金の免税を享受できる希少団体であった。その二つの公益財団法人に身を尽くした経験から相撲協会の混迷がリアルに想像できるのである。 体協からJOCが独立するきっかけは、88年ソウル五輪の日本代表の低迷であった。金メダルが4つという厳しい結果にスポーツ界が声を上げ、「国民体育振興」を標榜する体協から独立して選手強化に集中するという建前だったが、実はJOCの本音はそうではなかった。 それは80年のモスクワ五輪不参加という、嘉納治五郎初代体協会長(講道館創始者)が築いた日本のオリンピック運動への不名誉に対する呵責(かしゃく)にあった。「オリンピックは参加することに意義がある」という理念を裏切った歴史的教訓を生かすために、当時の体協若手理事らが独立後のJOCの構想を練り、時を待っていたのである。それは日本のスポーツ史に残る「革命」とも言っていい出来事であった。スポーツ団体に派閥ができるワケ 80年当時のJOCは、体協の一組織という地位でありながら、国内唯一のオリンピック委員会として、日本代表の顔も持つアンビバレンツ(二律背反)な存在であった。体協は、当時会長だった河野謙三元参院議長が政治的パワーを駆使し、スポーツへの国庫補助金を増大させた実績を持つ組織だった。 1979年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するという名目で、時のカーター米大統領がモスクワ五輪ボイコットを自由主義圏に要請した。日米同盟を重視する大平正芳内閣は、伊東正義官房長官を体協理事会に派遣し、JOCがモスクワ五輪の不参加を表明するよう圧力をかけたのである。このとき、志あるJOC役員らは強硬に参加を主張したが、「君たちはもう日本のスポーツ界に金はいらん、というのか」という河野会長の恫喝(どうかつ)にひるみ、結果として不参加を決めた。この問題はマスコミにも大きく取り上げられたが、時のJOC体制派は世論に耳を傾けることよりも、大平政権の意向に従うべく調整を図る方向に動いたのである。 当時の若手理事の筆頭には、堤義明氏(コクド社長、アイスホッケー、スキー)や岡野俊一郎氏(サッカー)、古橋広之進氏(水泳)、笹原正三氏(レスリング)、松平康隆氏(バレー)、上田宗良氏(ホッケー)など、日本のスポーツ界を牽引した顔触れがそろっていた。むろん、彼らも五輪参加の志はあったが、体制派の前では本心を隠し、沈黙せざるを得なかった。1980年5月、JOC臨時総会後、モスクワ五輪の不参加を発表する柴田勝治委員長(中央)。右は岡野俊一郎氏=東京・渋谷の岸記念体育館 つまり、89年に誕生した新生JOCは「スポーツの自律」を守るという、五輪精神を体現する意味もあったのである。これは貴乃花親方が日馬富士暴行事件以来、相撲協会という旧態依然の組織と対峙して改革を訴えたのと重なる。 どういうわけか、スポーツ団体には必ず「派閥」が生まれる。それは、各スポーツで頂点を争った競技者たちが、そのスポーツとともに一生を遂げたいという心が遠因であるような気がしてならない。スポーツの世界では現役を引退すれば、それぞれ第二の人生を歩む。そして、ある程度の年齢になると、競技団体から役員就任の声が掛かり、自らが切磋琢磨(せっさたくま)したスポーツの振興に尽くそうとする。しかし多くの場合、役員は無報酬であり、いわば「手弁当」で団体運営を支える。濃淡はあれど、個々の思いで団体に関わり続けるのである。 競技団体は、選手強化や競技普及という目的を実現する「機能集団」であると同時に、ボランティア精神が支える「共同体社会」にもなる。そして、人の好き嫌い、相性の良し悪しでグループができ、いつしか組織のトップに立つという野心が芽生える。すると、そのグループは次第に結束を強め、「派閥」を形成していくのである。 スポーツ団体の役員改選は、2年に一度行われるのが通例である。むろん、どんな組織でも同じだが、その都度トップの座に誰が座るのか、役員同士の駆け引きが始まり、そこに派閥が絡んでいく。多くの場合、現体制を受け継ぐか、それに対抗する反体制派かで大きく分かれるが、仮に複数の派閥が絡んでいたとすれば、派閥同士の勢力バランスを意識しながら、役員改選が行われる。それはJOCも同じであり、過去には会長人事をめぐる「派閥抗争」が表面化したこともあった。結局好きか嫌いか 以上のことから鑑(かんが)みるに、今回の相撲協会理事選挙も同じように派閥抗争があったようである。体制派の筆頭である八角理事長に、反旗を翻した貴乃花親方という構図は分かりやすいが、水面下ではさまざまな駆け引きがあったことは想像に難くない。 むろん派閥同士の争いは、メディア操作も意識する。かつては怪文書が主流だったが、今の時代はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)もある。どのようにメディアを利用するか、その戦術も頭にはあっただろう。春日野部屋の暴行事件隠蔽(いんぺい)も、なぜこのタイミングだったのか、誰もが思うところはあったのではないか。 こうした暴露合戦は、スポーツ団体では起こりやすい。JOCの場合、理事選出の際にはプロジェクトチームが組まれて、ある意味大っぴらに「根回し」が行われるが、大相撲にはこうしたプロセスがないので、メディアを利用した暴露合戦が散見される。テレビのワイドショーなどでは、理事が立候補演説などで自分の施策を述べれば、投票がしやすいという趣旨の発言をするコメンテーターもいたが、スポーツ界は「論理」よりも「好きか嫌いか」で左右される世界である。2018年1月、報道陣に囲まれる大砂嵐(右から2人目)=東京・両国国技館 「貴乃花親方の理念についていく!」ではなく、それが正しいかどうかでもなく、結局は親方が好きだから投票するのである。それがスポーツ界の派閥が形成される「第一原理」であるとも言える。大相撲全体のことを考えれば、必ずしもライバルの弱点を暴露することが良い方向に行くとは思わないが、この派閥争いに勝つための手段として、好きな親方のために悪手を選ばざるを得ない場合もあるのだろう。 混迷を深める大相撲であるが、もっと大きな問題はこれだけ不祥事があっても満員御礼が続いているという事実である。つまり、どんなに不祥事が発覚しようと、相撲は大多数の国民に受け入れられている。だから「事なかれ」でいいという結論になってしまう。とはいえ、健全なスポーツとして大相撲を普及させるという観点からみれば、今の状況が望ましいとは言えない。 この問題の核心は管理運営(アドミニストレーション)に対するプロフェッショナリズムの欠如にあると言える。大相撲の運営は、ある意味スポーツの理想形かもしれないが、引退した力士(年寄)が協会の仕事に就いて運営する形式である。確かに相撲のプロではあったかもしれないが、実際の運営能力についてはどうであろうか。  五輪関係組織の場合、役員と職員のバランスを保つことが肝心となる。例えば、体協職員は日本のスポーツ振興を担う唯一無二の組織であり、プロフェッショナルとしてその実務に使命をもって臨まなければならない。JOC職員はオリンピック運動普及を担う唯一無二のプロフェッショナルとして邁進(まいしん)しなければならない。それぞれの役員は、プロである職員の用意したシナリオを理解し、それを実行すべく会議で発言し、公の場で行動に移していく。使命を果たす気なければ「ただのサロン」 JOCであれば、オリンピック運動のための施策を役員が示し、それに職員がこれまでの知識、経験、情報を基に議論し、行動計画を策定して実行に移すプロセスが最も理想的な関係である。私の場合、最もうまく機能したのが、荻村伊智朗JOC国際委員長(国際卓球連盟会長)の時であり、彼との蜜月関係が長野冬季五輪招致の成功やアジアスポーツ界の分裂回避、そして東アジア会議創設などにつながった。 しかし、このような成功例は一方で、役職員がその使命を果たそうと思わなければ、それは「ただのサロンの集まり」と化す危険性もはらんでいる。言い換えれば、地位にさえ安住していれば、そこで起きたトラブルは、仲間同士でうまく解決することを優先してしまう。つまり、事が起こること自体を回避するのが目的となってしまう。今の大相撲はまさにこの悪循環ではないだろうか。 日本相撲協会は役員もかなりの高額報酬を得ていると聞く。報道によれば、理事で年収2100万円。お金も名誉も手に入れれば、そこに安住したくなるのが人情というものである。今後は、真摯(しんし)に「相撲道」を追求するという協会の目標に向かって、無報酬でも取り組む人材で理事会を構成し、事務局強化に資金を投じることを考えるべきではないだろうか。大相撲初場所を終え、横綱審議委員会に臨む八角理事長(右から2人目)ら日本相撲協会執行部=両国国技館(田村亮介撮影) また、相撲協会の定款には「目的」の一つに「国際親善活動」が明記されている。この活動にもっと精力的に取り組めば、世界への普及という新たな視野が開け、密室的な相撲協会の体質改善になるだろう。外国人力士が増えてきた今こそ、彼らを大相撲アンバサダーとして海外に派遣し、相撲の普及を図り、日本の精神を世界に広める活動に力を注ぐべきである。 言うまでもないが、JOCの場合、オリンピック競技大会が「世界平和構築」運動という理念の場に参加するのが目的である。そこに参加する各競技の選手役員は、自身の競技だけではない「次元を超えた体験」をし、その意志を目覚めさせる。 大相撲は日本の伝統的国技であり神事でもあるが、一方でスポーツとしての価値も追求すべきだろう。詳しくはまた別の機会をいただきたいが、かつて私は世界の格闘技を研究し、相撲ほど格闘技の粋を圧縮したものはないと思っている。「総合格闘技の頂点」として、大相撲のあり方も相撲協会再生のヒントになれば幸甚である。大相撲を救うのは、世界への視野と行動しかないのかもしれない。

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    「栃ノ心優勝」を喜ぶ前に必要な相撲界の大手術

    赤坂英一(スポーツライター) 大相撲初場所は西前頭3枚目の栃ノ心が初優勝を飾った。ジョージア出身の力士としてはもちろん初めてで、平幕優勝は1場所15日制が定着した1949年夏場所以降、2012年夏場所の西前頭7枚目・旭天鵬以来6年ぶり。栃ノ心が所属する春日野部屋では1972年初場所の初代・栃東以来、実に46年ぶりのことで、歴史的快挙と言ってもいい優勝だった。初場所優勝から一夜明け、笑顔の栃ノ心=2018年1月29日、東京・墨田区の春日野部屋(撮影・田村亮介) 青い目を潤ませながら「きょうは最高の日です。うれしいです」と語った栃ノ心の優勝インタビューを見て、胸が熱くなったテレビ桟敷のファンも多いだろう。2006年春の入門から12年目、手塩にかけて育て上げた春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が感涙にむせんでいたのも無理はない。が、愛弟子がこれほど感動的な優勝を飾ったいまだからこそ、一般社会に対してはっきり説明しておかなければならないことが、この親方にはあるはずだ。 初場所の最中、過去に春日野部屋で力士による暴行事件が発生していた事実が明らかになった。2014年、兄弟子(現在は引退)が弟弟子の矢作嵐さん(22歳)に殴る蹴るの暴行を加え、顎を骨折させるなど全治1年6カ月の重傷を負わせたものである。病院で治療を受けたいと言う矢作さんに対し、春日野親方は「冷やしておけば治る」などと言って部屋のかかりつけの整体治療院へ行くよう指示。その後、矢作さんが病院で診察を受けると、即座に手術を受けるようにとの診断が下り、現在も味覚障害などの後遺症が残っているという。 矢作さんは約1カ月後、兄弟子を傷害容疑、春日野親方を保護責任者遺棄容疑でそれぞれ刑事告訴。兄弟子は16年に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決が確定し、春日野親方は不起訴処分になった。春日野親方は相撲協会理事長・北の湖親方、危機管理部長・貴乃花親方、広報部長・出来山親方(いずれも当時)には報告したと話しているが、協会は一連の事実を一切公表していない。こうした対応に納得できなかった矢作さんは、17年3月22日付で、春日野親方と兄弟子に3000万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。 当然のことながら、同じ春日野部屋にいる栃ノ心もこの事件を知っていたはずだ。それ以前に、栃ノ心自身、春日野親方に手ひどい暴行を受けているのである。矢作さんの事件より3年前の2011年、親方は栃ノ心ら3人の弟子を拳に加え、ゴルフのアイアンで殴打。部屋に警視庁本所署の捜査が入り、グリップの折れたアイアンが発見された。親方は任意の事情聴取に、「外出の際に着物を着るよう何度も注意したが、言うことを聞かないので殴った」と証言。記者会見にも応じ、「正直、やり過ぎたと反省しています。弟子たちには、もうげんこつは入れないと言いました」と、殊勝にコメントしていたものだ。相撲協会に必要な大手術とは この事件は、栃ノ心らが被害届を出さなかったため、これで沙汰止みになった。被害者のひとり、栃矢鋪は本所署の事情聴取に対し、「自分たちが悪かったのだから被害届は出しません」と語ったと報じられたが、果たして真相はどうだったのか。それから僅か3年後に矢作さんが兄弟子に顎の骨が折れるほどの暴行を受けたことを考えると、春日野部屋では依然として恒常的に暴力が振るわれていた可能性もある。 相撲界では2007年、時津風部屋で斉藤俊(当時17歳、四股名:時太山)が時津風親方や兄弟子の暴行によって死亡。親方をはじめ加害者4人が傷害致死容疑で逮捕され、親方には懲役5年の実刑判決が下った。この事件のあと、北の湖親方は自ら文科省に出向いて謝罪し、「再発防止委員会」を設立。協会を挙げて暴力や体罰の根絶に取り組んでいたはず。時津風部屋では金属バットが凶器に使われていたことから、竹刀や木刀を持って指導に当たっていた親方たちには、そのような凶器になる物を稽古場に持ち込まないようにとのお達しも下った。 しかし、現実には4年後の11年、バットではなくアイアンで、春日野親方が栃ノ心らを殴っていたのだ。その3年後の14年、今度は矢作さんが兄弟子の拳骨で顎を骨折させられていた。原因も状況も異なるとはいえ、貴ノ岩が日馬富士にカラオケのリモコンで、頭が割れるほど殴られた事件も、そうした過激な暴力を容認している角界独特の雰囲気が生み出したような気がしてならない。会見に臨む春日野広報部長=2018年2月1日、両国国技館(撮影・山田俊介) 栃ノ心の優勝は確かに感動的だった。が、それでは、感動したファンが、自分の子供が相撲取りに憧れているからといって、春日野部屋に入れたいと思うだろうか。相撲協会は遅まきながら、文科省の指示を受け、全力士から暴力問題に関する聞き取りを行うというが、どこまで徹底した調査が行われるのか。これまで相次いだ不祥事の事後処理を見る限り、甚だ疑問と言わざるを得ない。 同じ公益財団法人の全柔連は2013年、セクハラ、パワハラ、金銭問題などで理事が総辞職した。相撲協会も同じくらいの〝大手術〟が必要なときに来ているように思う。あかさか・えいいち スポーツライター。1963年、広島県生まれ。86年に法政大学文学部卒。日刊現代・スポーツ編集部記者を経て2006年独立。毎週金曜朝8時、TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!日本全国8時です」にレギュラー出演中。『すごい!広島カープ 蘇る赤ヘル』(PHP文庫、『広島カープ論』増補改訂版)が重版出来で2万部突破。ノンフィクション『失われた甲子園――記憶をなくしたエースと1989年の球児たち』(講談社)が第15回新潮ドキュメント賞にノミネートされた。ほかに『プロ野球「第二の人生」 輝きは一瞬、栄光の時間は瞬く間に過ぎ去っていった』(講談社)、『最後のクジラ――大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』(講談社)、『プロ野球コンバート論』(PHP研究所)など。

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    「文春砲」が許せない

    有名人の不倫スキャンダルを数々報じた『週刊文春』が逆風に立たされている。きっかけとなったのは、音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫報道だった。「他人の不倫を暴いて誰が得するの?」「もう廃刊しろ」。スクープ連発で話題を集めた「文春砲」はなぜ批判の的へと一変したのか。その深層を読む。

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    誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない

    。 テレビのワイドショーは、不況で制作費が不足しているのか、週刊誌報道を元ネタにして番組を作り、不倫スキャンダルを全国に広める役回りになり下がった。世間の人も、週刊誌を買えば400円程度の出費になるが、テレビは無料である。 「日陰者」が日の当たるところに出て、大手を振って公道を歩くような時代は尋常ではない。たとえは悪いが、極道がマスコミに出て自らの仁義を開陳するようなことがあれば、それはもはや極道ではない。 その点では、不倫疑惑を報じる週刊誌などはパパラッチと同じである。大義や正義があるわけではない。読者や視聴者の好奇心を刺激して金もうけをたくらんでいるだけの話である。しかも、パパラッチ以上に始末に負えないのは、検察官であるかのように正義を振りかざし、不倫の当事者を断罪しようとすることである。 取材した記者は、実名を公開し、顔を全国にさらすわけでもない。陰に隠れて書いている。だから「日陰者」なのであり、そう言われるのが嫌ならば、正々堂々とテレビの画面に顔を出し、名を名乗ればよいだけの話である。自分が他人を断罪できるほど、品行方正な道徳人とでも思っているのであろうか。 第四は、ネット社会の到来である。みんなが元気に前を向いて進んでいた高度経済成長時代には、インターネットは存在していなかった。今のツイッターと異なり、つぶやいても周りの数人にしか届かない。むろん、発信者が誰かもすぐ分かる。会見で芸能界引退を表明した小室哲哉氏=2018年1月19日、エイベックスビル しかし、今はネット全盛時代である。匿名でツイートする個人的意見や、偏向どころか嘘の情報が大手を振って世間に流れていく。そして、その真偽も確かめられないまま、世論形成に一定の影響力を持ってくる。フェイクニュースの大御所、トランプ米大統領が「フェイクニュース大賞」を発表するという皮肉な時代である。 今回の小室報道は、「文春砲」の成功に酔いしれた週刊文春が、大衆の反発を招き、逆噴射して自らに襲いかかったものである。小室氏の引退表明がなければ、そうはならなかったかもしれないが、週刊誌の居丈高な臆測記事でひとつの才能が消されていくことに、大衆は大きな怒りを感じたのである。金もうけ目当ての、この程度の不倫記事で優秀な人材が活躍の場を失われるような非生産的なことは、「もうやめたらどうか」という思いが、世の中の主流となってきているとすれば、それは健全な流れであろう。 第五に、日本は法治国家ではなく、相変わらず「空気」に支配される国だということである。日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めてある。姦通(かんつう)罪があった時代ならいざ知らず、小室氏とその「愛人」は刑法を犯したわけでもない。それにもかかわらず、「法律の定める手続き」ではなく、週刊誌が作り出す空気や世論によって断罪されるとすれば、日本は法治国家の資格がない。 今回の騒動が、憲法が国民に保証する基本的人権の大切さをみんなに知らせたことの意義は大きい。

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    『週刊文春』が完全に悪者扱いされるのは残念です

    あるのです。普段の姿からは考えられないといえば、タレントのベッキーはその顕著な例でした。川谷絵音とのスキャンダルについての会見を終え退室するよう事務所関係者に促されるベッキー=2016年1月6日、東京(撮影・山田俊介)  あるいは、悪行とまではいかなくとも、芸能人のけしからんと思える行為を報じることによって、その芸能人が糾弾されたりすれば、極端な話、記者はまるで自分が悪を懲らしめる仕置き人にでもなったかのような「ちょっとしたヒロイズム」に浸れることがあるのも事実です。 小室氏の場合は「奥さんが大変なときに何をやっているんだ」と非難の声が上がり、「『文春』はよくやった!」となるはずだったんでしょうが、そのもくろみは見事に外れました。砲弾が逆にはね返されたという見方もできますが、とどのつまり「小室氏の方が一枚上手だった」ということじゃないでしょうか。不倫報道を続ける意義 さて、「不倫報道を週刊誌が続ける意義」についてですが、ちょっと曖昧な言い方になりますが、意義の位置づけによって異なるのではないかと思います。  結論から言えば、不倫報道は週刊誌的には意義があると思います。しかし社会的にはほぼないと思います。「ほぼ」というのは、ときどき意義がある場合もあるからです。  しかし、それを言ったら芸能ニュースなんてほとんど意義のないものばかりです。芸能ニュースではありませんが、テレビのニュースでときどき流れる、「中国の奥地で、子どもが壁の穴に首を突っ込み、抜けなくなったため、レスキュー隊が出動し、壁を壊して救出」といったたぐいのニュースも意義があるとは思えないのですが…。 だからといって、不倫報道を止めてしまえというのは賛成できません。その先に「報道の自由」が奪われてしまう危険性も感じてしまうからです  週刊誌は雑誌です。いろいろなジャンルの記事が掲載されていて、芸能記事はその一部です。芸能記事はスキャンダルばかりではありませんが、前述のように「芸能人の裏の顔」を報じたいとなれば、必然的にスキャンダルが多くなります。もちろん芸能人のスキャンダルを一切扱わない週刊誌もありますが、不倫をはじめ芸能人のスキャンダルを報道するのは、週刊誌の持つ性質上不可欠なことなのだと思います。 また、週刊誌はいわゆる商業誌です。売れなければ意味がありません。売れるためには読者が興味を持つ記事を掲載しなければなりません。三省堂書店神保町本店の雑誌売り場=2013年2月8日、東京都千代田区(山田泰弘撮影) 「不倫報道を続けることで部数を伸ばそうとしている」と指摘した方がいましたが、芸能人の不倫を報じたくらいで販売部数が極端に増え、売り上げが伸びるなんてことは、今の時代では有り得ません。確かにベッキーのときは売れたようですが、本当にまれなケースだと思います。 今、週刊誌を購入して読む人は少ないです。昔に比べたら売れなくなっています。芸能人の熱愛や不倫を報じても、それほど部数に影響しないということは、どの週刊誌も写真誌もとうの昔に気づいています。 ですから、今はどの週刊誌もウェブに活路を見いだしているわけで、そこにテレビが関わってきました。週刊誌はウェブ配信用に動画を撮影するようになり、その動画をワイドショーが買って流すようになりました。不倫報道でペナルティーを与えなければいい 今、ワイドショーが芸能スキャンダルを独自にスクープすることはほとんどありません。週刊誌報道を紹介するのみです。たまに当事者を取材するときもありますが、それも週刊誌報道が元になっているわけですから、ワイドショーが週刊誌に依存する割合はかなり大きいといえます。週刊文春に不倫疑惑を書かれたことを受けて開いた会見で芸能界引退を表明した小室哲哉=2018年1月19日、東京都(撮影・佐藤雄彦)  しかも自前で取材、撮影するよりはるかに低いコストで手間もかからずに映像を入手することができ、視聴率も上がるとなったら、こんなありがたいことはありません。週刊誌にとっても、本体が売れなくなった分をそこでカバーできているわけです。 もし、テレビが週刊誌の記事を紹介しなければどうなるでしょうか。最近の若者は芸能ニュースにそれほど興味がないし、週刊誌も読みません。ネットで芸能ニュースをチェックする年配の人も少ないと思います。となると、週刊誌の不倫報道を知るには電車の中吊り広告か新聞広告になります。報道の拡散は格段に狭くなるだろうと思います。 また、ワイドショーで芸能人の不倫疑惑が扱われるとき、コメンテーターが「不倫は当事者の問題だから他人がとやかくいうことではない」とコメントするのをよく耳にします。でしたら、最初から扱わなければいいだろうということにならないでしょうか。  話はそれますが、「不倫や浮気は犯罪じゃないんだから、そんなにたたくことはないだろう」という人もいます。その通りです。ですから、ペナルティーを与えることをやめればいい。小室氏は「引退は自分に与えた罰」みたいなことを語っていましたが、不倫したからといって、番組を降板したり、CMを中止したりするのをやめればいいんです。 考えてみてください。仮にベッキーが冷凍食品のCMに出演していたとします。彼女が不倫したからといって、それまでその食品を食べていた人が買うのをやめると思いますか? キャラクターの不倫で本当に商品のイメージダウンなどあるのでしょうか。 「テレビが不倫報道をしなくなったら日本が変わる!」なんて言っていた人がいましたが、そんな大げさなことではないでしょう。そもそも芸能人の不倫なんて、そんなに大騒ぎするほどの話ではないと思います。当事者以外には関係のないことですから、周りは1週間もたてば飽きてしまうし、その時にはまた新しい話題が出ますから。世の中、そんなものです。 テレビで不倫報道を扱わなければ、週刊誌も注目されず、大きな騒動にもならないと思います。『文春』を批判する人たちも、雑誌を買わなきゃいいし、読まなきゃいいんです。そうなって本が売れなくなったら、自然と芸能人の不倫が記事になることもなくなるでしょうね。 しかし、下世話な話に興味がある大衆がいる以上、そうなるとは思いません。バッシングを受けたくらいで『文春』は砲撃をやめることはないと思いますし、それで腰が引けてしまうほどやわじゃないです。それが週刊誌の矜持(きょうじ)だと思うのですが。

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    芸能ゴシップ好き日本人にみる「文春逆炎上」の正体

    藤井靖(明星大心理学部准教授、臨床心理士) インターネット、紙媒体問わず、芸能人や有名人のスキャンダル、ゴシップ記事が世の中をにぎわさない日はない。その背景には需要、つまりそれらのニュースを求める世間が存在している。日本人は、特にスキャンダルが好きな民族だといわれている。テレビ番組を見ても、いまだにワイドショーでは芸能ゴシップが話題の中心であり、これは他の先進諸国では見られない光景だ。記者会見を終え、引き揚げる音楽プロデューサーの小室哲哉=2018年1月19日、東京都港区 ではなぜ、日本人はスキャンダルが好きなのか。しばしば「芸能人へのねたみ」や「羨望(せんぼう)」がその背景にあると指摘されることがある。あるいは、誰しもが持つ「秘密を知りたい」といういわゆる「のぞき趣味」の心理も無関係ではない。全てに共通しているのは、日本人がいかに他人を意識して生きているか、ということだ。 他人を意識せざるを得ないのは、自分の人生への満足度が低いことと関連している。人は誰しも、自分の理想とする自分になれたり、自分が立てた目標を達成することを志向している。現実の自分と理想の自分が一致することを心理学では「自己実現」というが、それは人生において究極の目標であり、ゴールでもある。しかし、多くの人がそれを成し遂げられているかというと、そうではない。さらに言えば、現実と理想が乖離(かいり)すればするほど、人は苦しむ。 そんな中で、スキャンダルというある種の人の不幸にフォーカスする心理は、自分を慰める行為にほかならない。「あれだけ成功している人でもこんな失敗をするんだ」とか「あんな立派な人でも倫理観は低いんだ」と他者を低く見積もり、そして攻撃することで、相対的に自分の位置付けを高めて安心しているのである。 つまり、理想通りとはいえない現状の自分や、思い通りにいかない日常を肯定する一つの材料にしているのだ。逆にいえば、スキャンダルに見向きもしない人は、「自分の人生への満足度が高い人」である。数字で測れない側面を評価する日本 このような心理は決して不健康なことではない。心理学では自己肯定感や自尊感情を保つことが重要であるといわれているが、自分を守る行為は日々心身ともに健康に生きていくためには必要な営みだ。むしろ日本人は、世界的に見ても自己評価が圧倒的に低い傾向にあるので、心理的な課題といってもよい。2015年の国立青少年教育振興機構の調査によると「自分はダメな人間だと思うことがあるか?」という問いに対して実に7割から8割の高校生が「そう思う」と答えているほどだ。 本来は、絶対評価、つまり自分の中だけで自分を肯定的に評価できるのが理想である。他人がどうあれ、「自分はこれだけできた」、「自分のこの部分は誰にも負けない」と感じられればよいのだが、そもそも自己評価が相対評価にならざるを得ない理由は、日本の社会文化的背景に起因している面がある。 良くも悪くも、日本は実力主義にはなりきれないところがある。例えばそれは教育にもよく表れていて、過去の詰め込み型教育への反省から、知識や技術の高さだけではなく、数字では測れない人間の側面を評価しすぎる面があるのだ。 例えばそれは「学習態度」であったり、物事に対する「意欲」であったり、課題に向き合う「姿勢」であったりする。実はこれらは全てテストの点数のような客観指標ではなく、「○○君は○○さんよりも授業の態度がよい」といったように、他者との比較で評価されるものなのである。その結果、子供たちは異様に他者を意識するようになったとも指摘されている。 そして大人になり、社会人になり、自身のアイデンティティーが確立すればするほど、自分の価値を意識せざるを得ない場面が増えてくる。職業人として、家庭人としてなど、複雑でさまざまな役割を同時にこなす日々の中で、次第に明確な自分との比較対象を見いだしにくくなる。その中で、「問題を起こした芸能人・有名人」は、たとえ一時的にでも「自分より充実した人生を送れていない他人」として、格好のターゲットになるのだ。週刊誌が並ぶJR東日本の駅売店「キオスク」=2005年2月撮影 本質的には、自己肯定感は相対評価の中では高められにくい。幼少のころから育まれてきた他人との比較の中でかりそめの安心感を得る行為が、他の対象において見いだせない限り、スキャンダル報道への心理的な需要はなくならないのかもしれない。お相手とされる女性への苦言 日本ではスキャンダル報道の対象が炎上することはあっても、報道機関や組織に批判の目が向けられることは少なかった。しかし、今回の小室哲哉氏「不倫疑惑報道」に際して、1月17日に『週刊文春』の公式ツイッターアカウント「文春砲」から投稿されたエントリーに対しては、4000件以上のリプライがあり、その多くが「廃刊しろ」「心がない」「ほんとに不愉快」「調子に乗りすぎ」といった批判で占められた。さらにツイッター上では、「#文春不買運動」「#文春を許さない」「#文春廃刊」などのハッシュタグまで登場し、バッシングの波が起きている。 表面的にみれば、今回の小室氏の騒動が他の文春砲と違うのは・不倫疑惑の裏にある介護の大変さが明らかになったこと・小室氏の会見が発言内容も含めてふびんに見えたこと・対象となっている小室氏が「引退」という形で引責したことに起因して、同情や共感を買いやすい対象になったことである。文藝春秋の本館ビル(山崎冬紘撮影) 「小室氏は批判に値する対象だ」という認識は少なくなり、世間の攻撃先は文春に向けられた。攻撃はネット上での批判という形で具現化され、時にストレスのはけ口となったり、「かわいそうな小室さん」を擁護する正義感の表れとなったり、前述のように自分を慰めたり、不安を下げることにつながっている。 しかし一方で、「介護しているからといって不倫してよいわけではない」とか「芸能活動『引退』といってもこれまでと何が変わるかが分からない」とか「会見で同情を買おうとしている」などといった小室氏に対する批判の声も少なからずあり、これはそれまでの文春砲の対象に向けられる視線と遜色ない。 私自身は、これまで別メディアで小室氏自身の心理にも言及してきたが、加えてお相手とされる看護師の女性には苦言を呈したい。看護師や、われわれのような臨床心理士もそうだが、医療や相談、カウンセリングに関わる対人援助職の多くは、患者やクライアントが悩みや不安を抱えたり、心身が弱っているときに仕事を通して接することがほとんどである。 そのような関係性の中では、患者からの好意を持たれやすいことはプロフェッショナルならば誰もが認識しているはずだ。そこには一線を引いて対応しなければならないというのは基本中の基本であり、常に留意しておかなければいけないところでもある。 もちろん、プライベートな関係性につながる人と人との出会いにもなりうることは否定しない。しかし、もし仮に看護師自身が患者に好意を抱いてしまったならば、担当を外れることが定石であり、それができなかった彼女は「プロ失格」と言われても反論の余地はないであろう。小室哲哉が「大好き」な日本人 少し話はそれたが、今回なぜ小室氏に対する批判が少なく、結果的に文春に対する風当たりが強くなったのか、それは日本国民における小室氏の存在の大きさに起因していることに他ならない。 小室哲哉氏はいうまでもなく1990年代にJ-POPを牽引(けんいん)した音楽プロデューサーであり、空前のヒットを生んだTRF、安室奈美恵、華原朋美、鈴木あみ、篠原涼子、globe、H jungle with tらを手がけ、間違いなく時代を体現する存在であった。関連CDの総売り上げは1億7000万枚以上を記録し、1996年にはオリコンシングルチャートのトップ5を独占したこともあった。 つまり、それだけ日本人は小室氏が「大好き」なのである。年代の差はあれど、生み出した曲の知名度や手がけた有名アーティストの人数からしても存在は絶大であり、他の文春砲をくらった芸能人・有名人とは、支持者の多さからみても格が違うともいえる。また、一般的な心理的傾向として過去の思い出は実態以上に美化される傾向があり、今回の件を通じて改めてノスタルジーに浸った日本人も多いはずだ。1996年11月、小室哲哉がプロデュースしたglobe、安室奈美恵の小室ファミリーが集結し、ライブを行った 米国の心理学者であるレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という概念がある。これは、人が矛盾する認知(考え方)を同時に抱えた状態を指すが、そもそも人は誰しも言動の整合性を保とうとする心性があり、矛盾や葛藤を抱えた状態はストレスにつながる。要するに、自己が一貫性を維持できていない状態は非常に「気持ちが悪い」のだ。 前述のように、小室氏を「大好き」な日本人が「小室氏の不倫」という嫌悪し攻撃に値するネガティブな事柄に向き合ったらどうなるか。「大好きな人を批判し攻撃する」というのは基本的に矛盾した言動である。たとえそれが自分の地位を相対的に高めるものだったとしても、潜在的にモヤモヤするのが普通なのである。 今回の場合、そのような認知的不協和を解消する方法は二つある。まず一つは、矛盾する二つの考えや行動のどちらかを変えることだ。つまり「小室氏を嫌いになって批判する」か、「小室氏を好きなまま批判しないことにする」のどちらかになることだ。前者の場合は、「嫌いな人を批判する」となり矛盾はなくなり、後者の場合も「好きな人を批判しない」となりモヤモヤすることはない。だが、小室氏は、前者を選ぶには世間にとって偉大すぎる存在なのだろう。今回の「文春逆炎上」の正体 もう一つは、「大好き」と「批判したい」という二つの矛盾する認知を両立することであり、これが今回の「文春逆炎上」の正体である。すなわち、「小室氏に対して好意的な感情を持ったまま、批判する感情は表出したい」、その気持ちの行き着く先が文春砲だったのだ。そして、介護に疲れた同情すべき、「大好き」な小室氏の助け舟にもなりうる批判を、憎むべき文春に向ける、という個人の一貫性・整合性を保った心理的ストーリーが完成したのである。 過去に文春砲にさらされたロックバンド、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音氏は、この機に際してツイッターで「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」と投稿している。これが小室氏の騒動に関連したものだとすれば、「音楽業界の偉大な先人である小室氏は批判したくない、でも文春を攻撃するのは過去の自分を正当化しているとも取られかねない」という葛藤した心理が働いた末、第3の攻撃対象を見いだしたのかもしれない。2017年5月、約5カ月ぶりに活動を再開して行った復活ライブを終え、マスクをして会場を後にするゲスの極み乙女。の川谷絵音(撮影・早坂洋祐) またタレントのヒロミ氏も、フジテレビの番組内で「文春が悪いとは思わない」としたうえで、「世の中がスポンサーに言うとかして、(スキャンダルを報じられた芸能人が)テレビに出づらくなくなる。世の中の人たちでしょ、そうやって葬り去ってるのは」と言及しており、小室氏も文春も批判したくない矛盾した心理をこの発言で解消しているようにも見受けられる。 一部には「不倫報道にはもう飽きた」という声があるものの、文春砲に対する批判は小室氏に特異的なものであり、継続的な影響は限定的であると考えるのが自然だ。次の不倫報道が出た際には、これまで通り批判しやすい炎上芸能人・有名人が現れてくることだろう。また仮に、多少矛先がそれたとしても、どこかの誰かに対する批判は永遠になくならない、ということは明らかなことである。そうして人は一定程度の健全な自己を保っていくものなのだ。 しかし一時的であるにせよ、プライベートの報道のあり方や倫理観に一石を投じた小室氏の会見やその存在は、一つの問題提起として意義のあるものであった。また、先の見えない高次脳機能障害の家族に対する介護の現実や大変さについて身をもって世の中に伝えたことは、同じく壮絶な介護を過去に経験したり、そのただ中にいる人たちの思いを世間に代弁することにもなりうるという意味で、介護者として生きていくことを決めた彼の新たな功績と位置付けられるべきではないだろうか。

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    小室哲哉不倫報道論争 逃げ場を残すのは報じる側の矜持

    』元編集長の元木昌彦氏『週刊現代』元編集長の元木昌彦さんはこう言う。「週刊誌は創刊以来、不倫を含む『スキャンダル』と『メディア批判』は大きな柱。けしからんという声は昔からあるが、そこは揺るがない。文春だって引退させたいと思っていたわけではないだろうし、多少の批判で撤退するほど週刊誌はやわじゃない。これだけ不倫報道が注目されるニュースならば、今後も情報が手に入れば不倫報道は続くだろう」 とはいえ、週刊誌のスキャンダル報道にも“一線”があるはずだ。介護で追い詰められた小室さんの精神状態は、行き場をなくし、引退に至った。人間臭いスキャンダルを追うからこそ、人間の気持ちを理解し、最後の逃げ場は残しておく──それも報じる側の矜持だ。 高橋みなみの次のコメントが多くの人の心情を代弁するのかもしれない。「小室さんの会見を見てたら涙が出てきた。誰がこの会見を見て言葉を聞いて、責められるのだろうか。何が正義なのかわからない」関連記事■ globe・KEIKO ゆず・北川悠仁と本気で結婚したがっていた■ 記憶を取り戻したKEIKO 小室哲哉の呼びかけにglobe歌う■ 小室哲哉「不倫引退」への同情をどう滲ませるべきなのか■ 秋元優里アナも? 真面目な人ほど「車内」にハマる傾向■ 高岡早紀 ハワイ留学した17才次男のとんでもない問題に直面

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    「ガチンコと品格」を求めたら、相撲になかったことがバレてしまう

    山田順(ジャーナリスト) 横綱日馬富士による暴行事件が発覚してから、iRONNAをはじめ、これまで何本か論評を書いてきた。大手メディアがおおっぴらに言えない「ガチンコ」vs「注射」の問題が背景にあるので、その歴史やメカニズムについて言及した。すると、どうしてもこれを肯定的に捉えることになり、「正義」という見地からしかものを見ないネット民から嵐のようなブーイングを浴びた。以下、その代表的なものを記す。「あなたは注射(八百長)を容認している。それを伝統文化であるとし、国技だとしている。そんな国技ならないほうがマシだ。相撲協会は公益財団法人を返上すべきだ。なぜ擁護するのか」「これでは相撲はプロレスと同じだ。それなら、協会はそれを認めるべきだ。なぜそのように書かないのか」「ガチンコだと力士の身体が持たないと言うなら、年間の場所数や巡業を減らすなり工夫すればいい。そのような建設的な提案をすべきではないか」「あなたは結果的に相撲協会を擁護している。注射という不正行為が行われているなら、それを告発するのがジャーナリストとしての正しい態度ではないか」 2017年5月、大相撲夏場所12日目の立合いで栃煌山(左)にかち上げをする白鵬=両国国技館(山田俊介撮影) これらのどれにも私は反論できない。最後の「ジャーナリストとしての正しい態度ではないか」には、「そうですね。申し訳ない」と言うほかない。たしかに、正義を追求しなければジャーナリストではない。春日野部屋の暴行傷害事件隠蔽(いんぺい)が発覚したいまとなれば、私の姿勢は間違っていたと言うしかない。 すでに2007年の時点で、時津風部屋は17歳の力士を暴行死させている。このとき日本相撲協会は、再発防止を固く約束した。そして、2011年には八百長が発覚して裁判にもなったが、司法からお目こぼしをしてもらい、事なきを得ている。こんな経緯があるのに、結局協会はなにも変わっていない。もはや、注射がどうのなどと言っていられない。 ただし、言い訳を言わせてもらえば、私はジャーナリストとして論評したのではなく、相撲を絶えずウォッチングしてきた一ファンとして論評した。「清濁併せのむ」という言葉があるが、水をすべて清くてしまえば、魚は死んでしまう。表向きはスポーツだが、裏では談合が行われ、金銭のやり取りもある。ガチンコと注射が同時に行われる「格闘技ショー」が相撲である。 だから、清いスポーツだけになった途端、これまでの相撲は相撲ではなくなり、歴史も伝統も国技もすべて吹っ飛んでしまう。「大横綱」大鵬の優勝32回も、「国民栄誉賞横綱」千代の富士の53連勝も、白鵬の最多優勝40回と63連勝も、全部吹っ飛んでしまう。すべて注射なしでは成りたたなかった記録だからだ。したがって、「それでいいのだろうか?」という気持ちがまだかすかにある。新興宗教に洗脳された殉教者 ガチンコで22回優勝した貴乃花親方が、ガチンコを貫いたからこそ「相撲道」を追求し、相撲はどこまでもフェアでなければいけないと考えるのは十分に理解できる。しかし、どんなに歴史をさかのぼっても、相撲に「道」など存在しない。あるとすれば、それぞれの力士のなかにそれぞれ別個に存在しているだけだ。そして、それらは多くの場合、単に相撲はこうあらねばならないと洗脳された結果だ。 貴乃花親方は、「偉大なる阿闍梨(あじゃり)」池口恵観法師に送ったメールに《“観るものを魅了する”大相撲の起源を取り戻すべくの現世への生まれ変わりの私の天命があると心得ており、毘沙門天(炎)を心にしたため己に克つをを実践しております》(原文ママ、『週刊朝日』2017年12月12日号)と書いているので、「張り手&カチ上げ横綱」としてもっと稼ごうとしている白鵬より、はるかに志が高い。しかし、相撲教習所に掲げられている「角道の精華」を信じているので、こうなるとまるで新興宗教に洗脳された殉教者だ。 「相撲道」=「角道」という以上、「相撲とはなにか?」を具体的に定義しなければならない。そうして初めて「道」として語れる。では、相撲とはなんだろうか。これに関しては、私に忘れられない思い出がある。以下、その思い出のもとになる『週刊文春』のコラム記事を引用する。“縄好調”千代の富士に英国賭博会社の大ボヤキ 千代の富士の意外な(?)絶好調に青ざめているのがダイノサイト社。おなじみ英国政府公認の賭博会社だ。 九州場所の優勝力士当てで、病み上がりの千代の富士に5倍のオッズをつけたら投票が殺到。10万円単位で勝負してくる客がいたりで、最終オッズは2.2に下がってしまう。「しかし、オッズ5倍のときに買った客は5倍の配当が支払われるため、千代が優勝したら胴元は大赤字です」(関係者) 旭富士は胴元のつけた2.8倍のままで、北勝海は3.5倍→3.8倍、霧島は4倍→3.4倍と大きな変動がなかったのを見ても、千代に大量投票が集まったのは明らかだ。「胴元、日本シリーズのMVP当てでも、デストラーデに40倍をつけて3千万円近い赤字を出した。『日本人は遊びを知らない、本気で大金を賭けてくる』とボヤいてます」(同) エコノミック・アニマルをナメたらいかんぜよ。『週刊文春』1990年11月29日号 とのことなのだが、この後、英ブックメーカーは本当に青ざめることになった。千代の富士が優勝してしまったからだ。これで多大な損失をかぶったうえ、さらに富山県在住の日本人会員に任意の2力士のマッチベットに大金を賭けられてこれも当てられ、なんと2500万円もの配当(リターン)を払わなければならなかったからだ。1989年7月、大相撲名古屋場所千秋楽の優勝決定戦、上手投げで北勝海を下す千代の富士。奥は審判をする北の湖親方 このとき、知り合いの日本在住の英国人記者が、私に聞いてきた。彼はブックメーカーが本命にした横綱旭富士を買って外していた。相撲は『フェアリープレー』だな 「なんで千代の富士にあんな大金を賭けられるのか教えてほしい。千代の富士は休み明けだ。競馬だったら、絶対にこない。だからブックメーカーもオッズを5倍にしたのに」。彼の質問はもっともだった。場所前、千代の富士は休場明けで稽古も足りていないとスポーツ紙は報道していた。それに比べて、夏場所と秋場所を連覇してきた旭富士は絶好調だと伝えられていた。私の答えは書くまでもない。「相撲はフェアプレーではないからね。力士たちは土俵の外で星(勝敗)の売り買いをしているんだ」「まさか」「知らなかったのか?」「ああ。となると、相撲はフェアプレーではなくて『フェアリープレー』だな」 さすがに英国人。ジョークがきつかった。フェアリーとは「fairy」で「妖精」のこと。フェアリーテールは「おとぎ話」だから、フェアリープレーはさしずめ「おとぎ遊び」になるだろう。相撲はフェアリープレー。この言葉はその後、ずっと私の頭の中に残った。 ところで、「相撲道」と言われて思うのは「横綱の品格」である。こちらもなんだかわからない。定義がない。 1992年、千代の富士が引退後の土俵で、横綱昇進間違いなしの成績を残した大関小錦は、横綱審議委員会(横審)で推挙もされなかった。それで、米紙ニューヨーク・タイムズは「小錦が横綱になれないのは人種差別のせい」という記事を載せた。要するに、外国人は品格が理解できないとして不当に差別されていると言うのだ。2010年2月、大相撲初場所中に起こした泥酔暴行問題の責任を取り、引退表明した横綱朝青龍=両国国技館(千村安雄撮影) 当時、作家の児島襄氏が『文藝春秋』に「『外人横綱』は要らない」という論文を寄稿していた。そこには、「国技である相撲は、守礼を基本とする日本の精神文化そのものであり、歴史や言語の違う外国人には理解できない」とあり、明らかに「横綱の品格」は日本人だけしか持ち合わせないものになっていた。 しかし、その後、曙、武蔵丸、朝青龍と、外国人横綱が次々誕生した。なんのことはない、外国人にも「品格」があることになってしまったのである。そのため、白鵬の「あれは待っただイチャモン」と「千秋楽みんなでバンザイ」が問題視されることになった。 このようにすべてはいい加減、そのときのムード、風潮、空気で決まる。この空気で物事が決まるというのは日本独特の文化だから、相撲はその意味で日本の伝統文化といえる。ただし、空気は存在するが、それを証明することはできない。 朝青龍は「品格」について悩んでいたという話がある。NHKの刈屋富士雄アナウンサーが相撲中継の折に、一つのエピソードとして語ったところによると、朝青龍は刈屋アナに品格とはなにかと何度も聞いてきたという。それで、刈屋アナは「人よりも自分に厳しいこと。人よりも努力をすること。そして、人に対して優しくあること」を挙げたという。朝青龍はこれを聞いてうなずいたそうだが、「それよりも勝つことのほうが大事なんじゃないか」と言ったという。道を究める必要などない どう見ても、これは朝青龍の認識のほうが正しい。このウルトラ現実主義ゆえに、朝青龍は巡業をサボって「草サッカー」をやって追放されてしまった。 日本ではどんなものにでも「道」をつけて、精神的なものに仕立てあげる。そして、入門してきた弟子たちに、精神を磨かせ、精進して道を究めさせるということになっている。「華道」「茶道」「書道」「剣道」「合気道」―みなしかりだ。 しかし、「華道」は花を活(い)けること、「茶道」はお茶をいれること、「書道」は筆で文字を書くことである。いずれも精神性などなくともできる。例えば、○○の花は茎を何センチに切って、角度は何十度に活けるなどとやれば、「華道の精神(心)」などなくても作品はでき、できた作品には心が宿っているように見えるだろう。 しかし、実際にはそうは言わない。「いまこの季節を感じさせるように、心込めて、このように、こうして剣山に1本ずつ差していきます」などと言うだけだ。これでは、入門して自分の目で確かめなければなにもできない。 そう考えると、日本の「道」は、本当はマニュアル化できてしまうのに、わざとそれをつくらずに、ない心をあるように見せかけているだけのように思える。まさに、ものすごいビジネスの知恵である。いまは、3Dプリンターでなんでもできる時代だ。かつて匠の技とされたものは、分解再生すれば、単なる複雑な工程にすぎない。どこに、道を究める必要があるだろうか。 相撲道も同じだ。マニュアル化、定義化したら、ないことがバレてしまうので、精神性にすり替えている。ルールブックを整備し、フェアプレーだけにしてしまうと、「道」も「品格」もなくなってしまうだろう。2010年7月、各部屋の力士が持ち帰る、解雇された元大関琴光喜の名前が入った大相撲名古屋場所の番付表=愛知県体育館 しかし、いまだに騒動が続く相撲界を見て思うのは、ここまで事態が泥沼化したというのに、なぜ誰もハッキリと真実を言い、私にクレームした「正義の使者」たちのような提言をしないのだろうか。相撲は虚構の上に成り立っているのだから、スポーツから外しましょうと。 いまだに相撲は新聞ではスポーツ欄に載り、テレビではスポーツニュースとして報道される。NHKは全国に生放送して、「一番一番」を垂れ流している。注射力士たちがトクをして、ガチンコ力士がソンをしているなどと、一度も言ったことがない。 それにつけても思うのは、角界を去っていった力士たちが、この状況をどう見ているのだろうかということだ。ばくちで負け続けて借金がかさみ、朝青龍に27連敗した元大関琴光喜はなにを思っているだろうか。2011年の八百長事件で、八百長を認めざるを得なくなった恵那司、春日錦、千代白鵬の3人は、どうしているだろうか。「立ち合いは強く当たって流れでお願いします」とメールした清瀬海はどうしているだろうか。 テレビ局よ、できればこうした元力士たちを生出演させて、思い切り語らせてほしい。このままでは、この騒動に千秋楽は訪れないだろう。

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    「相撲の品位」とはなんぞや

    次ぐ不祥事である。神事を起源とする相撲は、わが国の国技として古くから愛される伝統文化のはずだが、なぜスキャンダルがこうも後を絶たないのか。

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    貴乃花親方が「狂信的なカルト信者」に思えてきた

    杉江義浩(ジャーナリスト) 相撲が日本の国技であり神事でもある、という考え方には異論をはさむ人も、もしかしたらいるかもしれません。別に法律でそう定められているわけではなく、日本相撲協会が定款でそう名乗っているだけだからです。 一方で相撲をレスリングやボクシングのような、フルコンタクト系格闘技の一つとして、単にスポーツであると位置づけるのはもっと無理があります。古事記に由来する相撲の歴史をひもとくまでもなく、相撲が神道に基づくものであり、世界に類を見ない日本独自の重要な伝統文化であることは、誰の目にもあきらかでしょう。 私は相撲を一つの美学だと考えています。美学であるからこそ横綱には品格が求められます。また良い一番だった、良くない取組だったという、勝敗とは別の要素で評価をされることもしばしばあります。ルールブックのみに基づくのではなく、礼儀・所作をより重視したマナーの観点がそこにはあります。「大相撲beyond2020場所」で三段構えを披露する白鵬関(左)と稀勢の里関=2017年10月、両国国技館(代表撮影) 最近では横綱白鵬が「張り差し」や、「肘(ひじ)打ち」とも見られる「カチアゲ」といった打撃系の技を多用し、横綱らしい取り口ではない、と非難されるケースが多く見られました。相撲の禁じ手には「肘打ち」は含まれませんから、白鵬がスポーツとしてルール違反をしたわけではありません。 しかし顔面や頭部への「肘打ち」は深刻なダメージをもたらすため、ほとんどの格闘技においては禁止されています。私もこの技を見て危険だと思うだけではなく、相撲として美しくないと感じました。 もちろん禁じ手でなければどんな攻め方をしてもルール上はよいわけです。ローキックさえも許されます。でもはたして観客は、掌底(しょうてい)による張り手やローキックの応酬による、キックボクシングみたいな取り口の相撲を見たいと思うでしょうか。 考えてみれば相撲をスポーツとして捉えると、ルール自体は意外と曖昧で、それ以前にあうんの呼吸やしきたりで成り立っている、というべきかも知れません。もっとも重要な試合開始の瞬間さえも、互いの力士があうんの呼吸で決めているわけです。 「ゴングが鳴らない唯一の格闘技」とイギリス人の生物学者、ライアル・ワトソンは述べていますが、立ち会いの瞬間は行事が決めるのではありません。両方の力士が互いに目を合わせ、腰を下げて気迫が十分に満ち満ちたと思った瞬間が試合開始です。 その際には両者が左右の手を完全に下まで降ろしていることが、正しい立ち会いとされていますが、実際には努力目標といったところでしょう。両手が地面につかずとも、両者合意で立ち会い成功に至るケースは、しばしば見かけることがあります。重要なのは「あうん」の呼吸 立ち会いまでの、仕切りと呼ばれる時間の制限についても、NHKが中継をするようになって決められましたが、かつては両方の力士の呼吸が合うまで、好きなだけ時間を使って仕切り直しをすることができました。なんとも日本的な、あうんの呼吸で重要なことを決める、独特のシステムではないでしょうか。 さらに暗黙のマナーとして、横綱や大関が格下の力士に対して小細工を弄(ろう)するような技、関節技などを用いるべきではない、というもの。取り組み前に、滑らないように胸や腹の汗は拭っておくこと、など基本的な約束事が道徳としてあると言われています。 かつて角界のプリンスと言われた貴乃花親方は、「力士道に忠実に向き合い日々の精進努力を絶やさぬ事」に始まる10カ条の訓辞を掲げています。力士道と「道」の文字を使っていることから、親方が弟子の道徳教育に熱心であったことは、たしかにうかがい知れます。  昨年貴ノ岩が暴行を受けた事件で、親方が日本相撲協会の危機管理委員会に非協力的だったのも、その弟子を思う熱心さゆえに、組織との信頼関係が築けなかったのが原因だったのだと言う意見も、多く聞かされました。理事会に出席した貴乃花親方(左)=2017年12月、東京・両国国技館(桐原正道撮影) しかし実態はどうでしょうか。貴乃花親方の目指す相撲の姿、伝統美と厳密なガチンコ相撲を両立させようとする理想像は、致命的な矛盾をはらんでおり、無理があります。これこそが相撲協会に受け入れられない真の理由だと私は考えます。伝統美の継承と、厳密なガチンコの二兎を追うことは、そもそも混乱を招くだけではないかと、私は常々思ってきました。 厳密な意味でのガチンコというのは存在しない、と私は考えています。理由は簡単。そんなことをすれば、お相撲さんが死んでしまうからです。究極のガチンコとは、立ち会いの瞬間に互いに頭と頭でぶつかり合うことです。新弟子の朝稽古では必ず最初にやらされます。しかしたちまち脳震盪(のうしんとう)を起こすので、まもなく左右どちらかの肩にぶつかる、安全なスタイルに切り替えられるのです。 その時点でもうガチンコではありません。大相撲は6場所15日間、大きなケガをせずに力士たちに土俵に上がってもらい、美しい相撲を観客に披露するのが第一の使命です。もし単なる格闘技、スポーツとして厳密なガチンコを追求すれば、ケガで休場する力士が続出するでしょう。頭突きや打撃系の技で、血まみれになった土俵を、はたして美しいと感じられるでしょうか。 二律背反である伝統美とガチンコを、両立できると信じている貴乃花親方は、もはや科学的にはありえない「神風が吹く」といった思想の域に達していると感じます。狂信的なカルト宗教の信者なのでは、とさえ私には思えるくらいです。現実的に伝統文化の継承を目指す日本相撲協会と貴乃花親方とでは、描いている理想像が異なるのが当然だと言えるでしょう。横綱は神の「依り代」 公然と星のやりとりをする八百長はいけませんが、全力でぶつかりながらも自分がケガをしない、相手にケガをさせない、といったあうんの呼吸による調整は絶対必要です。そういった曖昧な部分も含めての、限りなくガチンコに近い全力試合をする、というのが、いかにも日本的な相撲道の本質だと思います。 ちなみに日本の国技であり、神事でもある大相撲ですが、その担い手は、今やご存じのようにモンゴル人をはじめとする外国人力士たちに頼らざるを得ない状況です。その前は高見山、小錦、武蔵丸といったハワイ系アメリカ人に頼っていました。  私が相撲に関するニュースで最もショックだったのは、2007年の名古屋場所における、新弟子検査の受検者がゼロであったという、小さな新聞の囲み記事でした。おりしも時津風部屋力士暴行致死事件も発覚し、もはや日本人の若者で、力士を目指すものはいないのではないか、と暗澹(あんたん)たる気持ちになったのを覚えています。 大相撲では番付が十両に上がって、ようやく年収1600万円の報酬があるというものの、年間6場所15日、その間の地方巡業など長期にわたる拘束日数を考えると、他のプロスポーツ選手に比べて、決して割のいい商売とは言えない側面があるのは否めない事実です。明治神宮で奉納土俵入りをする横綱白鵬(右)=2018年1月、東京都渋谷区(宮崎瑞穂撮影) 恵まれた肉体を持った小中学生男子が、将来はお相撲さんよりはプロ野球選手に、あるいはプロサッカー選手になりたいと希望するのも、無理はない気がします。伝統文化という重たい職責を背負わされて、前近代的とも思われる厳しい稽古に耐えるには、それ相応の魅力がなければなりません。 最高のフィジカル・エリートとしてのプライドを持てること同時に、幕下からそれなりの報酬が保証され、横綱になれば億単位の報酬が得られるという金銭的なインセンティブが必要でしょう。それを裏付けるには、観戦料を高くしなければなりませんが、私にはそれはやむを得ないことのように思えます。 相撲は他のスポーツのようにシューズメーカーからウェアメーカーまで国際的なスポンサーがつく業界とは違って、あくまでも日本に来てもらい、観戦料を払って伝統文化に触れてもらう、典型的なインバウンド業界です。そこに日本の伝統美を感じてもらい、その精神を楽しんでもらうことができるなら、力士の国籍に関係なく熱狂的なファンをつかむことができるはずです。 求められているのは、勝敗よりも美意識です。あくまでも日本の文化として相撲の美学を貫くことによってこそ、知日派の外国人にも訴求できるはずです。例えばフランスのサルコジ元大統領は相撲を嫌ったが、シラク元大統領は大の相撲ファンだったというのは有名な話です。単なる格闘技、スポーツであれば、そこまで人を引きつけることはできなかったでしょう。 そこに相撲道という哲学がある限り、相撲は世界中の人に愛され親しまれていく可能性を十分に秘めている、日本の誇るべき伝統文化だといえます。それだけに力士たち、とりわけ綱を身につけ神の「依り代」となる横綱には、日本の美学を代表する存在として、誰からも尊敬される精神の高みを担う、特別な覚悟を持って日々を送ってもらいたいものです。

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    「相撲は力ではなく流れ」白鵬が語った横綱論

    赤坂英一 (スポーツライター) 私が初めて白鵬にインタビューしたのは、横綱昇進から2年しかたっていない2009年6月のある日だった。当時、まだ24歳だった白鵬の印象を一言で表すとすれば、「好青年」に尽きる。いつも明るく、周囲に気を遣い、インタビューではこちらの質問の意図を即座に読み取って、明確かつ具体的なコメントをしてくれた。 その中でもとくに印象に残っているのは、白鵬自身の考える「横綱相撲」とはどういうものか、である。日本人の相撲ファンは往年の大鵬や貴乃花のように、相手の相撲をがっちり受け止め、堂々と寄り切る相撲を「横綱相撲」と認識しているが、白鵬は丁寧に言葉を選びながらこう言った。 「まあ、やっぱり、寄り切りで、一番安全な相撲ですね。こう、押していけばそうなる。相撲には流れがありますから、流れるときは流れて、こっちから出るときは出る。それで勝つのが昔ながらの横綱相撲じゃないかと、ぼくの中では思うわけですよ」 「ただ、それ(横綱相撲)、最近の(ファンの)人たちにはわからないんじゃないかな。奥が深い相撲はね。見ていても、全然面白くないでしょう。やっぱり、(観戦に)来てるお客さんたちは、激しく豪快な相撲を見たいわけですから」 その「激しく豪快な相撲」の好例として、白鵬は意外にも、当時のライバルだった朝青龍の相撲を挙げた。「いま、(ファンやマスコミの)みなさんが好きなのはああいう相撲だよね。これまでになかったスタイルの相撲だから」と言うのである。寄り倒しで横綱・朝青龍(左)を破り、全勝優勝を阻んだ大関・白鵬 =2006年7月23日、名古屋市(共同) 白鵬はいま、相撲が横綱らしくない、取り口が汚い、などと批判されている。が、白鵬は白鵬なりに、「昔ながらの横綱相撲」とは何かを理解していた。実際に、土俵でもそれをやって見せていた。にもかかわらず、客席が沸くのは常に天衣無縫に暴れ回る朝青龍のほうだったのだ。そんなジレンマに加えて、いつまでも〝優等生〟を演じることに我慢がならず、もっと好きなように相撲を取りたい、と思うようになったのではないか。白鵬の哲学「相撲は力ではなく流れ」 最近、よくタイミングをずらす、張り差しが多い、と批判されている立ち合いについても、白鵬は当時から自分なりの哲学を持っていた。そもそも「立ち合い自体が相撲にしかない独特のものだから」と、こう言うのだ。 「ああいう始め方をするのは相撲だけです。ボクシングならゴングが鳴るし、柔道は審判が〝始め!〟と言うし。陸上でも球技でも、選手は別の人に〝ヨーイドン!〟と言われて始めるでしょう」 「相撲は相手との間合いというか、お互いに呼吸を合わせて始まる。その立ち合いが成立したところで、行司が軍配を返してね。そういう意味で、相撲は力じゃない。相撲は流れなんですよ。流れがあって、その流れがちょっとでもズレたら負ける。いくら横綱でも」 相撲ならではの流れを読み、ときには流れに任せ、ときには流れを支配し、最後に勝つ。それが白鵬の考える「横綱相撲」だとすれば、現在のような立ち合いに変わったのも当然かもしれない。それが、貴乃花親方や日本人のファンの目にどう映ろうとも、だ。明治神宮で奉納土俵入りをする横綱、白鵬=2018年1月9日午後、東京都(宮崎瑞穂撮影) ちなみに、仕切りで手を着くルールが厳格に適用されるようになったのは割と最近で、2008年のことである。いまは手を着いてないと行司に仕切り直しを命じられるが、昔は手を着いた力士のほうが逆に、「奇襲に出た」などと言われた。これについて、白鵬の意見はこうである。 「仕切りって面白いよね。昭和の初めのころは、ちゃんと手を着いてたんだ。その後は、もう、手を着かない。(昭和時代の相撲の)映像を見ても、全然、着いてない。いまじゃルール違反ですけど、当時はそれでよかったんだよね」 「だから、どういう時代の横綱が一番強いかというのは、難しいでしょう。どの時代の人が強いかは、相撲も違うし、やってみた人にしかわからないんだから。昔の時代と、いまの時代と、実際にやってみたらどっちが強いかというのも、難しいですよ」 現在進行中の日馬富士暴行問題にまつわる言動はともかくとして、24歳の白鵬は極めてまっとうな「相撲論」を語っていた。ボクシングや柔道に様々なタイプの王者がいるように、大相撲にもいろいろな個性を持つ横綱がいてもいいはずである。貴乃花親方の説く相撲道は確かに正論だが、だから白鵬が間違っているとは、私には言えない。あかさか・えいいち スポーツライター。1963年、広島県生まれ。86年に法政大学文学部卒。日刊現代・スポーツ編集部記者を経て2006年独立。毎週金曜朝8時、TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!日本全国8時です」にレギュラー出演中。『すごい!広島カープ 蘇る赤ヘル』(PHP文庫、『広島カープ論』増補改訂版)が重版出来で2万部突破。ノンフィクション『失われた甲子園――記憶をなくしたエースと1989年の球児たち』(講談社)が第15回新潮ドキュメント賞にノミネートされた。ほかに『プロ野球「第二の人生」 輝きは一瞬、栄光の時間は瞬く間に過ぎ去っていった』(講談社)、『最後のクジラ――大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』(講談社)、『プロ野球コンバート論』(PHP研究所)など。

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    「芸能人VS記者」番組急増 ワイドショーの芸能ネタ変化も影響

    と詰め寄る場面も。こうした番組は年明けも続いた。1月8日『あるある議事堂SP』(テレビ朝日系)では、スキャンダルをすっぱ抜かれたタレントが、それをスクープした記者本人から撮影したときの裏側を明かされて驚いていた。 もちろん今までこのような番組がなかったわけではない。2000年前後も『壮絶バトル!花の芸能界』(日本テレビ系)や『芸能界激突デスマッチ ワイドショーの主役』(テレビ朝日系)といったワイドショー系の特番が何度も放送、いずれもタレントと記者との対決が話題を呼んでいた。 しかし、当時スクープを提供していたのは梨元勝氏(2010年死去)や井上公造氏、城下尊之氏、石川敏男氏といったワイドショーのレポーターがメイン。現在の芸能ワイドショー特番では、週刊誌やスポーツ紙の記者が多いのが特徴だ。 その背景としてはやはり、ここ最近の『週刊文春』を始めとする雑誌メディアの報道合戦が大きいだろう。スクープを連発する記者たちがどんな人間なのか、何を思っているのか、裏方を表舞台に出して聞き出そうという狙いからオファーが絶えないのだ。 また、プロフェッショナルと芸能人と戦わせるという形式はトークバトルとしては定石だ。例えば『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)も、もともとは2000年に放送された『絶対に訴えてやるぞ!!芸能人VS弁護士軍団・大爆笑!法律バトル』というスペシャル番組が原型となっている。またこれまでも「VS占い師軍団」、「VS美容家軍団」、「VS結婚カウンセラー軍団」など、さまざまな組み合わせがあったが、「VS芸能記者」もその延長線上にある。 そうしたトークバトルは、パッケージさえ作っておけばシリーズ化も可能。また予算の多くは出演者のギャランティーだけで済むのでコストパフォーマンスが良い。芸能レポーターの役割はなくなった? さて、先に述べたとおり、最近の芸能記者とタレントのトークバトルには芸能レポーターがあまり出演していない傾向があるが、それはワイドショーの芸能コーナーの均一化と無関係ではない。 かつてのワイドショーでは番組ごとに専属のレポーターを雇っていたが、制作費削減の今ではそれが難しくなっており、自然と、独自のネタを入手することもできない状態になっている。また個人情報保護法(2005年完全施行)によるプライバシー重視の風潮や、新たに叫ばれるようになったコンプライアンスという名のもと、過度な取材を自主規制するようになり、相対的にスポーツ紙や雑誌の情報を紹介する機会が増えている。  熾烈なスクープ合戦を繰り広げていた当時は、芸能プロダクションに対しても強気の姿勢を見せていたが、有力芸能プロダクションがドラマからバラエティーまでテレビメディアに大きな影響力を持っている今、ワイドショーでもそうしたプロダクションとも平和的につき合うようになり、軋轢を生むような報道はほとんどなくなった。 さらにこれまでは記者会見を通して発表されていた結婚などのニュースも、今や所属事務所からのFAX1枚で通達されるか、もしくはタレント本人のTwitterやブログなどで知らされるのみ。芸能レポーターの本来の役目はなくなり、現在、スタジオで、芸能情報をわかりやすく解説する“翻訳者”になってしまっているのだ。(iStock) そうした流れのなかで、バラエティーを制作する側が、芸能レポーターに出演してもらうより“生”の情報に日頃から接している週刊誌やスポーツ紙の記者に出てもらったほうが面白い番組ができる、と考えるのは自然だろう。もちろん、現役記者が出るからといって、芸能人のスキャンダルを徹底追及するような形には制作サイドもしないのだが、最前線の記者から明かされるスクープの裏側や芸能人の意外な一面、それにリアクションを見せる取材対象者という構図は、独自のスクープがなくてもバラエティーの“ショー”としては十二分に視聴者を惹きつけることができる。 ワイドショーで扱う芸能情報の“弱体化”が、結果的に新たなバラエティーを生み出すキッカケだとしたら皮肉なことだが、これだけ量産が続いているということは、テレビ局にとっては有力コンテンツのひとつであることは間違いない。「芸能人VS芸能記者」という図式の番組はこれからも増えていきそうだ。(芸能ライター・飯山みつる)関連記事■ オウム事件 1週間に40~50時間も各局から報道されていた■ 芸能リポーター東海林のり子 子供が不憫と言われ悔しがった■ 日曜朝10時のサンジャポ、ワイドナショーそれぞれの魅力とは?■ 「真麻に頼ってるようじゃ」とフジ新番組に局内から不安の声■ 小倉智昭「大物の名借り自分大きく見せる典型的小人物」との評

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    多額の取材謝礼を払っている? 週刊誌の嘘とホント

    織田重明 (ジャーナリスト) 週刊文春が絶好調だと言われる。 甘利経済再生担当大臣やタレントのベッキー、さらには“イクメン議員”だったはずの宮崎謙介衆議院議員と、次々と文春のターゲットにされ、撃沈していった。今年に入ってから、完売はすでに3回。これより前に文春が完売したのは3年も前というが、出版不況にあえぐ雑誌業界にあって3回立て続けの完売は驚異的なことである。辞任を発表し、悔しそうな表情を見せる甘利明・経済再生担当相(当時)=2016年1月28日、東京都(斎藤良雄撮影) 民放テレビ各局の情報番組では、「週刊文春によれば……」と文春の記事をそのまま流している。自社でウラも取らずに文春の記事を放送することについてメディアとしていかがなものかと批判するむきもあるが、どだい民放のマンパワーでは独自のウラ取りなんてとても無理である。 民放各局にも報道局という部署があって記者がいるが、これは正午前や夕方、さらに晩のニュース番組のための取材や原稿書きをするためにいるのであって、午前中や午後の情報番組のための人員ではない。文春が書いてくれ、ある程度、社会的に認知された記事であれば、一も二もなく飛びついてしまうのである。 文春側もしたたかなもので、最近ではテレビ各社に対して、「週刊文春によると」とのクレジットをしっかりつけるよう求めるだけでなく、画像や記事の使用料を取るようになったという。少なくない経費をかけて取材をしたわけだから、テレビ各局にタダ取りされてはかなわないということだろう。 ネットには「なぜ文春はスクープを連発するのか」という類いの記事が多く掲載されるようになった。週刊誌の記者による取材や制作過程に関心が高くなっていると思うと、たいへん喜ばしいことだが、一般に広がっているイメージのなかには誤りも多いので、この機会に指摘してみたい。①多額の取材謝礼を支払っている のっけからカネの話で恐縮だが、この誤解に対してはきちんと言っておきたい。文春がなぜ強いのかと書いたネット記事のなかにこう書いているものがあったからだ。 文春にかぎらず週刊誌はネタ元に対して多額の謝礼を支払っているとのイメージが世間では強いようだ。なかでも文春は他社よりも高額であると。だから、多くのネタが集まってくるのだという理屈だ。 私が知るかぎり、かつてある大手出版社の某週刊誌が大物芸能人と暴力団幹部が一緒に写った写真を入手するのに、百万円を超える謝礼を払ったことがある。担当編集者にオリジナルの写真を見せてもらいながらその額を教えてもらった時に、驚いた記憶がある。 ただし、これは今ではかなりレアなケースだと思う。第一、ネタをカネで買ってくれと言ってくるような人物は信用ならないことが多い。カネ欲しさに話をでっち上げるようなことだってするからだ。 かつてインタビューを受けてくれた相手から多額の報酬を請求されたことがあったが、きっぱり断ったことがある。そんな額、どうやっても経理の担当者が認めるわけがないし、そもそもインタビューが掲載されることであなたが主張したいことが一般読者にも伝わることになり、あなたにとってもプラスの影響が出るはずだ、そう説明した。相手も最後は納得してくれた(と思う)。繰り返しになるが、多額の取材謝礼を支払うなんてあり得ない。多くは我々記者が足で稼いだ成果だ。週刊誌はカネや圧力で記事を引っ込めるのか②週刊誌の記事は信用ならない 残念でならないが、一般にこう思われているのも事実だろう。たしかに週刊誌のなかには事実かどうかよりも、耳目をひく見出しで読者に読んでもらう、買ってもらうことが目的と化したようなひどい飛ばし記事も目立つ。ただ、文春には週刊誌業界では定評がある取材力の高い記者が多く、こうしたひどい記事を書かずとも記事になっていると思う。 一方で、文春も含む週刊誌は新聞やテレビに比べて、記事に書かれた側から訴えられることが多く、裁判所も取材する側に厳しく接することが多いために、敗訴することが少なくない。 だが、これは新聞やテレビが際どいネタを取材しなくなったことの裏返しでもあると思う。もちろん取材には万全を尽くすべきだが、格好のネタがあるのに取材をしようともしないというのでは話にもならない。 甘利氏の秘書らに金銭を渡していたと自ら名乗り出た告発者の場合、文春の記者に接触する以前に大手新聞社の社会部記者に同じ話をしていたことは我々の業界ではよく知られた話だ。この記者は告発者から話を聞いておきながら、それを上司に報告することもなく、そのまま放置していたという。同じ社の別の記者によると、どうもその記者は、告発者から話を聞いてピンと来ず、むしろ怪しいヤツと思ったからとも、どうせ社内でネタを潰されると思ったからとも説明しているそうだが、どちらにしても社会部記者としてかなり問題である。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 告発者の素性に疑問を持ったとしても、金銭授受の事実があったのであれば、それを調べてみるのが社会部記者たる者の最優先すべき仕事のはず。政治家がからむ案件で潰されるかも知れないと心配するのはそのあとだ。 その意味では、このネタに食らいつき、記事化までに半年もかけて取材を重ねた文春の記者は見事だというより他ない。週刊誌が信用ならない記事を書くのではなく、新聞やテレビが際どい記事をやりたがらないだけだ。③週刊誌はカネや圧力次第で記事を出したり引っ込めたりする これも多くの人から、「週刊誌ってそうなんでしょ?」と聞かれることだ。そのたびに「今どきそんなことする雑誌なんてありませんよ」とムキになって反論するが、なかなか信じてもらえない。 だが、こんなことをやってはおしまい。週刊誌だってメディアの端くれ、報じる意義がある、世間が求めている、だから報じるのであってカネや圧力で記事にする、しないを決めるなんてありえない。 新聞各紙は、毎年、元旦に特ダネを掲載するのが習わしになっている。今年も某大手紙が、中国でスパイと疑われ拘束されている日本人の動向についてスクープを打ってくるとの情報が事前に流れたが、実際には掲載されなかった。これをめぐってその新聞社の社内で政治部が社会部に圧力をかけたために掲載されなかったんだという、まことしやかな噂も聞こえてきたが、さすがにそんなことはないだろう。そんなことをすればメディアにとって自殺行為だからだ。 週刊誌だって同じ。そんな心構えでやっているつもりなのだが。

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    『スッキリ』阿部祐二「リポーターとは相手に拒絶される仕事」

    阿部祐二(テレビリポーター) 朝の情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍中の阿部祐二さん。どんな相手にもズバリと切り込む姿勢が臨場感のあるリポートにつながっているが、聞きにくいことを尋ねるストレスはないのだろうか。驚いたことに、「ストレスはほとんどない」と語る阿部さんの、ストレスとの向き合い方をうかがった。《取材・構成=林加愛、写真撮影=長谷川博一》 「事件です!」の決めゼリフとともにお茶の間に届けられる、迫力あるリポート。情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍する阿部祐二さんの取材は、エネルギッシュな臨場感に満ちている。日々全国を駆け巡るハードな仕事への姿勢も、どこまでも前向きでアクティブだ。「疲れたりストレスを感じたりすることはほとんどありません。周囲の仲間はよく、『次の休みが楽しみだ』と言うのですが、僕にはその気持ちがわからない(笑)。いつも仕事をしていたいし、動いていたいですね」 とはいえ、悲惨な事件や事故の関係者に話を聞くのは神経を使うはずだ。そうした場面でストレスを感じることはないのだろうか。「確かに、犯罪被害者など、苦しみの中にいる方々にとって、リポーターは『来てほしくない存在』です。怒りをぶつけられることも多々あります。しかし私たちは、その方々の言葉を伝えなくてはならない。ここで必要なのは、『本当の思い』に迫ることです。本当にそっとしておいてほしいのなら、それ以上は踏み込みません。でも、少しでも言いたい事がありそうならば問いかけます。表情やしぐさを見極めて、正しく気持ちをすくい取る。それができれば、必ず心を開いてくださいます」 確かに、対人関係のストレスは、相手の心が読めれば軽減できる。経験を積んだ今はどんな現場でも、相手の思いをほぼ正確に読み取れるという。「良いコメントを取れたときには、強い達成感があります。とくに、何人もの記者がすでに訪ねた取材先で、それまで誰も引き出せなかった言葉を引き出せたときは嬉しいですね。誰よりも真実に肉薄したコメントを取ろう、『阿部の取材は他とは違う』と言わせよう。そんな心意気で臨んでいます」最初は現場でうまく話せず落ち込んだ そんな阿部さんも、22年前にリポーターを始めた当時は、インタビューの「いろは」もわかっていなかった、と振り返る。「36歳で俳優からリポーターに転身したのですが、台本のない現場で何をしゃべっていいのか、当初はまるでわかりませんでした。初めての中継では、現場となった家の前で立ち往生。まったく言葉が思いつかず、その家の犬の名前を12回も呼んでしまう始末でした。当然、周囲には馬鹿にされました。『向いてないんじゃないの?』『俳優やってりゃいいのに』などなど、陰口もさんざん叩かれました」 しかし、そこで落ち込むかわりに、闘志を燃やしたのだ。「見返してやろう、と思いましたね。だから人の二倍も三倍も努力しました。自分に足りないのは情景描写の力だと思ったので、細かな描写にすぐれた小説を朗読。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を、何度も声に出して読みました。ほかにも新聞を5紙読んで知識をつけたり、インタビュー術の専門書を読んだりと、24時間すべてをスキル向上に注ぎ込みました」 課題を見つけ出し、努力して改善する。これが結局のところ、最も単純で有効なストレス解消法だ、と語る。「うまくできないこと、人に悪く言われること、納得できないことはいずれもストレスフル。ならばその原因を克服すればいい。昔も今も、そうして突き進んでいます。今年で58歳になりますが、今もまだまだ伸ばせるところは伸ばしたい。新聞記事の朗読や発声練習は日々欠かしません。最近は、時間を見つけて中国語と韓国語のレッスンもしています。英語でインタビューできるリポーターは僕のほかにもいるかもしれませんが、中国語と韓国語も、となるとどうでしょう。僕がいち早く身につければ、強い武器になるはずです」ストレスは「避ける」ではなく「超える」もの 走ることをやめず、ストレスは反骨心ひとつで「ねじ伏せる」。そんな阿部さんの目には、下の世代は「ヤワ」に映ることも多いという。「物事を無難に収めようとする人が多いですね。番組後の反省会を終えた若いスタッフがよく、『とくに問題ありませんでした』と報告してくるのですが、それこそ問題です。10人が10人、そこそこ賛同する番組なんてつまらない。批判的な意見もある中、何人かが熱烈に支持するような番組こそが面白いはずです。だから僕は『問題ナシで良しとするな!』と言うのですが、『阿部さんにはついていけません』なんて言われてしまう。彼らは衝突するのが嫌なのでしょう。でも、意見の食い違いや感情のぶつけ合いがあってこそ生まれるものもある。ストレスを避けてばかりいたら、その先には行けませんよ」 今は世の中全体が、ストレスを避け過ぎる傾向にある、と阿部さんは指摘する。「自分が傷つかないこと、人を傷つけないことばかり気にして、表立っては何も言わない。一見優しいように見えますが、憂うべき時代だと思います。そうしたコミュニケーションの中では、メンタルは弱くなります。褒められれば舞い上がり、叱られれば過剰に傷つく人がどんどん増えていくのです。つまりは皆、人の目ばかり気にしているのです。自分の評判に一喜一憂し、見た目を整えようとし、形から入ろうとする。やたらオシャレで小綺麗だけれど、中身が伴っていない人が増えている気がします」 阿部さんの価値観はその正反対だ。叱られることをいとわず、外見よりも中身を重視する。「僕は叱られると嬉しい、と感じます。問題点に気づかせてもらえないと、向上できませんから。若い人にも遠慮なく指摘してくれ、と頼んでいます。一方で外見には無頓着で、スタジオ入りの際のメイクもしません。見た目より、取材内容に注目してほしいからです。これはどんな仕事でも同じでしょう。大事なのは自分がどう見られるかより、どんな成果を提供するか、ということなのです」 こうして仕事の中身に注力することが、「どう見られるか」から生まれる不安やストレスを振り切る力となる、と阿部さん。「それには大前提として、仕事にやりがいを持ち、意義を感じていなくてはなりません。『この会社ならカッコよさそう』といったブランド志向だけで就職した人は、後々苦しい思いをするでしょう。それでも軌道修正は可能です。今いるところで必死にやりがいを探すか、見つからなければ転職してでも、自分のしたい仕事のできる場所に向かうことです。その場所でなら、ストレスを『避ける』のではなく、ストレスを『超える』モチベーションを持てるでしょう」 自身もそうしてキャリアを形成してきた。ここまでの道のりに、まったく悔いはないと語る。「僕は、仮に明日が来ないとしても後悔しないくらいの気持ちで仕事をして、日々全力を尽くしています。その毎日が、結果として明日へ前進する力の源になっています」あべ・ゆうじ テレビリポーター、俳優。1958年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中にモデル、俳優デビュー。芸能活動のかたわら、家庭教師派遣会社も経営。96年にテレビリポーターに転身。数々のニュース番組やワイドショーに出演。情報バラエティ『スッキリ?』(日本テレビ系)レギュラーリポーターとして活躍中。英語が堪能で、海外取材や海外の著名人のインタビュー時には、通訳を介さず英語で会話する。関連記事■ 難局とは「経験値を上げるためのチャンス」だ!■ 今の日本が「ストレス社会」になった理由とは?■ 話題の家電ベンチャー起業家の「ストレス源をかわす処世術」

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    「八角理事長、許すまじ」貴乃花のガチンコ相撲道

    山田順(ジャーナリスト) いったいなぜ、横綱日馬富士は、格下の平幕力士貴ノ岩を暴行したのだろうか。当初、単なるモンゴル人力士同士の飲み会での乱行と思われていた事件は、不可解な経緯をめぐってメディアが大騒ぎしたため、意外な様相を見せるようになった。ただ、これまでの報道を見ていると、あまりにもピント外れなことが多いので、ここで、きちんと整理しておきたい。 まず、今回の事件をきっかけに「モンゴル人力士は日本の相撲を理解していない。横綱の品格がない」などという批判がもっともピント外れである。また、「もともと日馬富士は酒癖が悪かった」などと、個人的な問題に矮小(わいしょう)化してしまうのも、事件の本質を捉えていない。さらに、殴ったのがビール瓶であるかどうかも実は本質的な問題ではない。 ただ、この事件の背景に、貴ノ岩の師匠の貴乃花親方(元横綱)と日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)との間の「確執」があったというのは的を射ている。なぜなら、もしそうでなければ、貴乃花親方は相撲協会への報告をすっ飛ばして鳥取県警に被害届を出したりしないはずだし、伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の「わび」を受け入れていたはずだからだ。 今回の事件のキーポイントは、その後に判明し、事件の伏線となった9月25日の「錦糸町ナイト」での貴ノ岩の発言だ。 このとき、酒に酔っていた貴ノ岩はモンゴル出身の若い衆に説教をしていた。彼には説教癖があるのか、時々声を荒らげるので、同席していたモンゴル出身の元幕内力士や元十両力士(いずれも現在は引退)らが「ほかにお客さんもいる」と注意したが止めなかったという。そのうち、矛先は注意した元力士やそのとき来日して同席していたという白鵬の友人らに代わり、「オレは白鵬に勝った」「あなたたちの時代は終わった」「これからはオレたちの時代」などと言い放ったのだという。2016年の秋場所で対戦した横綱日馬富士(左)と貴ノ岩=両国国技館 この話を初めて耳にしたとき、私は、正直、貴ノ岩は、日本の相撲というものを何もわかっていないと思った。ここでいう相撲とは勝負のことではなく、一つの「日本的な組織体」としての相撲である。これを全く理解していないから、こんな言葉が飛び出すのである。スポーツではない相撲のシステム 「あなたたちの時代は終わった」「これからはオレたちの時代」などといえば、言われた側はカチンとくる。相撲界であろうとなかろうと、自分の力をひけらかすのは、日本では控えるべきこととされている。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があるくらいだ。したがって、横綱・白鵬に1回勝ったぐらいでこんなことを言ったら、「いい加減にしろ」となるのは当然だ。 ところが、貴ノ岩は相撲をスポーツだと考えていたようだ。スポーツなら実力、勝敗がすべてである。勝者が絶対の世界だ。しかし、日本の相撲は実力勝負とはいえ、その秩序は実力だけで成り立っているのではない。相撲の一番、一番は「注射」と「ガチンコ」で成り立っていて、これが「談合」と「カネ」で微妙に采配されることにより、横綱以下の序列が決まるようになっている。2017年1月、大相撲初場所14日目で貴ノ岩(手前)に寄り切られて敗れ、険しい表情の白鵬=両国国技館 だから、相撲にはテニスやゴルフのような、明確な実力ランキングは存在しない。スポーツならチャンピオンは1人だが、相撲の横綱は何人もいる。実際、現在は異例とも思える4横綱の時代である。しかも、力士(プレーヤー)は部屋に所属し、同部屋対戦がないので、本場所はトーナメントでもリーグ戦でもない。 これが、相撲という組織体のシステムであり、日本のほとんどの組織は、みなこのような原理で動いている。したがって、単に横綱に「ガチンコ」で勝ったぐらいで、「オレたちの時代」は訪れない。  貴ノ岩はモンゴル人だから、そんなことは知らないでいいではないかという見方もできる。しかし、彼の先輩のモンゴル力士たちは、みなこのシステムを受け入れ、日本人力士以上に相撲という「美しき伝統文化」を継承してきたのである。 はっきり書くが、もしモンゴル人力士がすべて「ガチンコ」だったら、いまの相撲界はまったく違ったものになっていただろう。モンゴル人力士の草分けである旭鷲山、そしてモンゴル出身で初の横綱になった朝青龍などがいたから、いまの相撲界がある。さらに、貴ノ岩を殴った日馬富士、大横綱の白鵬などが、このシステムを理解・実践してきたから、伝統文化は守られたのだ。「全部ガチンコなら体がもたない」 「注射」による相撲を八百長と呼ぶメディアがあるが、それでは理解が浅すぎる。 「注射文化」は江戸時代からあったという。しかし、戦後、相撲が大衆娯楽としての地位を得たことで花開いた。最初の大々的な「注射相撲」は、1955年3月場所の栃錦・若乃花の両横綱による全勝対決とされる。 このとき、若乃花は2場所前に栃錦に星を貸していたので、それを返してもらって優勝する絵図を描いた。しかし、栃錦も自分も全勝優勝したいと譲らず、両部屋の話し合いになったのである。当時を知る中島克治氏(元幕内力士の大ノ海の息子で、自身も1967年から4年間、花籠部屋所属力士)の証言(『週刊現代』2011年2月26日号)によると、栃錦が転ぶことを了承し、取り組みの細部まで突っ込んだ打ち合わせがあったという。  時代は下って、衝撃の「八百長告白」を行って謎の死をとげた大鳴戸親方(元高鉄山)によると、「八百長の全盛期のきっかけを作ったのは柏戸さんで、確立したのは北の富士だといえるんじゃないでしょうか」(『週刊ポスト』1996年2月2日号)という。さらに、このシステムを盤石にしたのが、先ごろ相次いで亡くなった名横綱千代の富士(九重親方)と、北の湖(第9代、第12代相撲協会理事長)だった。 そしていま、こうした伝統を受け継いで、土俵を盛り上げているのが、一大勢力となったモンゴル人力士たちなのである。  ところが、貴乃花親方は誰もが証言するように、「注射」は「相撲道」ではない、まして伝統文化などではないと考えている。それは、自身が現役時代、かたくなに「ガチンコ」を貫いてきたからだろう。「ガチンコ一直線」で来ると、フェアプレーでない取り組みが許せなくなる。なぜなら、スポーツの最高の価値はフェアプレーにあるからだ。2001年の大相撲夏場所、武蔵丸との優勝決定戦で仕切り中の横綱貴乃花=両国国技館 かつて週刊誌で編集者をやっていたとき、私はある現役力士に「なぜ『注射』をするのか?」と聞いたことがある。そのときの答えをいまも鮮やかに覚えている。「全部『ガチンコ』でやったら体が持ちませんよ。だから、最初はガチンコでも、勝ち進んで幕内に上がると『注射』の魅力に勝てなくなるんです。ただ、『注射』といっても『ガチンコ』で強くないとできません。はなから勝てる相手に誰も『注射』など持ちかけてきませんからね」 相撲の勝負は、言い換えれば巨体が全力で激突することである。それを15日間続ければ、体力は消耗し、場合によっては故障してしまう。「注射」はそれを避けるための知恵でもある。「もし、15日間全部『ガチンコ』でやれば、半分の力士が故障します。そうなったら、場所が成り立ちませんよ」 実際、無気力相撲や八百長相撲がメディアで問題化し、協会が対策に乗り出した後の場所では、故障・休場力士が続出している。貴乃花親方が許せない「相手」 今回の事件の背景には、貴乃花親方の協会執行部、特に八角理事長に対する根強い不信感があるとされる。貴乃花親方と八角理事長は、昨年の理事長選で対決し、6対2で貴乃花親方が敗れている。貴乃花親方の「正論」、つまり「改革」(ガチンコ改革)についていける親方衆はほぼいないからだ。2007年に時津風部屋で新弟子が暴行で死亡する事件が起きたときも、貴乃花親方は相撲界の改革を訴え、協会の透明化を主張した。相撲をスポーツにしようとしたのだ。 そんな貴乃花親方だから、現役時代の八角親方の生き方が許せるはずがない。現役時代の八角親方、つまり横綱・北勝海は、同部屋(九重部屋)の大横綱・千代の富士に次ぐ2番手の横綱として、千代の富士からの星回しで8回、優勝している。しかし、これは典型的な「注射システム」による優勝だった。次は、北勝海が優勝した8回の成績を、千代の富士の成績と比較したものだ。 見ればわかるように、千代の富士が優勝を捨てるか、あるいは休場した場所でしか北勝海は優勝していない。これは、千代の富士が優勝を捨てた場所では、千代の富士は下位力士に星を売り、その見返りに下位力士は北勝海に負けるというパターンが繰り返されたからである。こうすると千代の富士の黒星は白星となって北勝海に集まり、北勝海が優勝できることになる。そして、次の場所でこの逆をやれば、今度は千代の富士が楽に優勝できるというわけだ。実際、北勝海は千代の富士の引退後、1回も優勝していない。 前述したように、国民栄誉賞を受賞した名横綱・千代の富士の時代は「注射システム」が全盛の時代だった。そのとき、「注射」を「中盆」(仲介人)として仕切った板井圭介氏(元小結板井)を、私が所属する日本外国特派員協会が呼んで、記者会見を開いたことがあった。 2000年1月のことで、このとき、板井氏は現役時代の「注射」を認め、「注射」にかかわった20人の力士の実名を公表した。慌てた相撲協会は板井氏に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑(しんぴょう)性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない」という玉虫決着で、この問題は終息した。 千代の富士や北勝海の「注射時代」を終わらせたのは、ほかならぬ貴乃花親方である。いまでも語り継がれるその出来事は、1991年の5月場所の初日で起こった。このとき、18歳9カ月の貴花田(当時)は、千代の富士を真っ向勝負で一気に寄り切ったのである。初挑戦での金星だっただけに、千代の富士のショックは相当なものだった。しかも、この18歳9カ月という金星は、若秩父の記録を破る最年少金星なのだから、角界も相撲ファンも世代交代の流れをハッキリと意識した。案の定、千代の富士はこの敗戦から2日後に引退を表明している。 貴花田はその後、相撲界の期待のヒーローとなり、翌年の初場所で最年少優勝を果たして横綱に昇進した。そして、引退するまで「ガチンコ」で11回優勝した。言うまでもないが、この優勝は北勝海の優勝とは中身が違うものだ。最近の「注射相撲」は本当につまらない 「注射」と「ガチンコ」。この二つは切っても切り離せないもので、これがある限り、相撲は観戦していて面白い。なぜなら、「注射」か「ガチンコ」かのどちらかになるまでに、さまざまな背景、人間関係、そのときの場所のムードなどが複雑に絡んでくるからだ。大相撲九州場所14日目、福岡国際センターを通って、東京へ出発する故北の湖理事長を乗せた霊きゅう車を見送った八角親方(右)と貴乃花親方=2015年11月(中川春佳撮影) 相撲を単にどちらの力士が強いかという見方で観戦してしまうと、日本の伝統文化に触れることはできない。 ところが、最近の「注射相撲」は本当につまらなくなった。かつてのように、綿密な事前打ち合わせなしで行われることが多いからだろう。 かつて私は、1年間の幕内の全取組の決まり手を調べ、それをランキングしたことがある。そうした結果、「寄り切り」「押し出し」「はたき込み」の三つの決まり手が上位を独占していることがわかった。現在、「注射」のほとんどは、この三つの決まり手のどれかで行われているとみていい。 なぜ、こうなるかといえば、力士がよほどの場合をのぞいて、複雑なシナリオを嫌うからだ。力士が一番嫌うのが、投げ飛ばされるなどして身体に砂がつくことだ。また、下手な倒れ方をしてケガをしてしまうこと。こんなことになったら、「注射」した意味がなくなってしまうからだ。となると、やはり「ガチンコ相撲」のほうが面白いとなるが、果たしてそれでいいのだろうか。 さて、モンゴル人力士たちが引き継いだ日本の伝統文化だが、師匠・貴乃花の教えで「ガチンコ」を貫く貴ノ岩のような力士の出現で、大きく揺らぐことになった。また、モンゴル人力士が増えすぎたため、同じモンゴル人力士のなかで「派閥」ができてしまったことも、伝統文化を脅かしている。 よく知られているように、傷害事件を起こして事実上協会から追放された朝青龍は、一大派閥を形成していた。反朝青龍の先鋒(せんぽう)は旭鷲山で、現役時代、風呂場で口論となった後、朝青龍は旭鷲山の車のサイドミラーを壊す騒動を起こしたのは有名だ。  現在の大横綱白鵬は、朝青龍の派閥を引き継いで、モンゴル人力士たちのまとめ役となっている。2006年5月場所で優勝したとき、白鵬は朝青龍から「注射」により300万円で星を買ったという(『週刊現代』2007年6月9日号)。以来、白鵬は朝青龍の派閥に組み込まれ、日馬富士も朝青龍の忠実な配下になったといわれている。 今回の事件でも、朝青龍は「本当の事聞きたくないか?お前ら」、「ビールびんありえない話し」などと、ツイッターに連日投稿している。  というわけで、今後、この事件がどういう展開になっていくのかは、私にはわからない。日馬富士が「傷害罪」で書類送検されるという話があるが、そうなれば、引退を余儀なくされ、モンゴルネットワークの一角が崩れるだろう。注射は土俵の上では効くが、カラオケ店のような「場外」では効かないのだ。 かといって、貴乃花以来の「ガチンコ一直線」の日本人横綱稀勢の里は満身創痍(そうい)である。「ガチンコ」と「注射」。これは、相撲を相撲たらしめている根本文化である。「ガチンコ」だけの相撲など成り立たないし、また、面白くもなんともない。 来年、2018年の初場所が本当に楽しみだ。

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    山尾志桜里、どういうつもりや!

    また、この人である。週刊誌に不倫疑惑を報じられた山尾志桜里衆院議員が、不倫相手とされるイケメン弁護士を政策顧問に起用したことが報じられ、再び炎上した。「むき出しの好奇心」への抵抗なのか、それともただの開き直りなのか。山尾さん、一体どういうおつもりなんですか?

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    哀しいラブストーリー、山尾志桜里の「自爆一直線」に同情する

    いのだろうか。彼女のこれまでの言動を批判するのは簡単だが、こうまで「自爆一直線」だと、かつて週刊誌でスキャンダル報道をやってきた私としては、逆に同情してしまう。なにかこう、「もの哀しさ」を感じてしまう。 そんなことまで言わなくていいのに、なぜ、そこまで言ってしまうのかと思い、彼女の中にある「満たされない想い」に行き当たって、本当に哀しくなってくる。 政治家や芸能人といった、いわゆる有名人の多くがメディアをあまり好まない。あるときは持ち上げられ、あるときはたたかれるのが、なぜか分かっていない。自分は少しも変わっていないのに、メディアの方がおかしいと考える。そうしてメディアを選別し、「味方」のメディアと「敵」のメディアに分けて付き合うようになった有名人に大物はいない。いや、本物はいない。 山尾氏は今回、自分の味方をしてくれると思った地方紙の神奈川新聞に、思いの丈をペラペラと全部しゃべってしまった。哀しいとしか言いようがない。壇上の山尾志桜里候補=2017年10月23日、愛知県長(安元雄太撮影) 政治家も芸能人も、一般大衆の支持によって成り立っている。だから、はっきり言い切ってしまえば、そもそもプライバシーなど持っていない。それなのに、プライバシーを主張するなら、政治家などになってはいけない。しかも、メディアの究極の役割とは世間に知られていない事実を暴くことだ。 このメカニズムを分かっていない有名人は、本当に不幸である。そういう人間に限って、「むき出しの好奇心」などという言葉を使う。好奇心というのは、人間誰もが持つ最も健全な感情だ。これをメディアが代表している。それを否定することは、自分自身を否定するのと同じことだ。 元宮崎県知事の東国原英夫氏は、ツイッターで「老婆心ながら週刊誌報道を舐めないほうがよい」と忠告し、俳優の坂上忍氏は倉持氏にも「この状況で請けるか?」と批判した。また、お笑い芸人のカンニング竹山氏はフジテレビ系『直撃LIVE グッディ!』で「何もないなら、政治家だから週刊誌なり何かを訴えなきゃいけない。けじめとそれをやらないと、1票入れた人も納得がいかない」と切って捨てた。どれもこれも、健全な感情を持った人間としての、当たり前の批判だ。何を守ろうとしているのか 今年は議員の不倫スキャンダルが炸裂(さくれつ)している。しかし、不倫は犯罪ではない。生き方、モラルが問われるだけだ。それなのに「一線を越えていない」(元SPEED・今井絵理子参院議員)という例に倣(なら)って、山尾氏は「ホテルについては私一人で宿泊をいたしました。倉持弁護士と男女の関係はありません」と関係を強く否定した。 そしてお決まりの「誤解を生じさせるような行動でさまざまな方々にご迷惑をおかけしましたことを深く反省し、おわび申し上げます」と付け加えた。 こういう言い方は何も語っていないに等しい。なぜ、素直に自分の気持ちを言わないのだろうか。もし本当に不倫関係にあり、それも恋愛関係にあるなら、それを吐露してしまった方が、はるかに結果はよかった。 世間は、利口で政策遂行にたけた政治家よりも、人間らしい政治家の方が好きだ。「人間らしい」ということは間違いも犯すことがあるということだ。 もし、彼女が一途な恋をしているとしたら、そしてそれを守るために、関係を否定したとしたら、それは本当に哀しいことだ。山尾氏は何かを履き違えている。「女性政治家であるがゆえにプライバシーに土足で踏み込まれる」などという言葉で、彼女はいったい何を守ろうとしているのか。 別に不倫相手を政策顧問に迎えたとしても、モラル以外の問題はない。もし、本当に愛し合っているのであれば、二人は「最強のタッグ」である。だから、彼女が言うように「改憲論議に真っ向から首相案をはねのける」ことも可能かもしれない。2017年10月10日、衆院選が公示され、有権者に支持を訴える山尾志桜里氏=愛知県尾張旭市 「愛の力」で改憲阻止。こんな「素晴らしいこと」はないではないか。 しかし、もし倉持氏をつなぎ止めるために政策顧問にしたとしたら、どうだろうか。こうなると、今日までのことは「哀しいラブストーリー」に変わってしまう。 いずれにしても、当事者である本人が自分の感情を殺して、インタビューで「お利口答弁」しかしない以上、真相は分からない。単に「好きなんです。大好きなんです。一緒に仕事をしたいんです」というようなことを、彼女は言えない性格だと思うしかない。 神奈川新聞の記事を読むと、不倫報道があってから2カ月間、奇跡の当選を果たすまで、彼女は悩み抜いてきたという。そして、《悩み抜いた末の結論は、公の政治家としての私は、政策や政治哲学、姿勢についてはできる限り率直に答えるが、一方で「私」の部分に一定のラインを引くことに変わりはないということだった。直後の記者会見などで私は「男女の関係はない」と答えたが、そうしたことを答える必要さえなかったと今は思う》と言うのだ。 公私に線を引いて、公の部分だけは答え、私の部分は答えないという政治家を、あなたは信頼できるだろうか。そもそも、人間の活動を公私ではっきりと分けることができるだろうか。 公私両面で、国家と国民のために尽くしてこそ、真の政治家ではないだろうか。

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    山尾志桜里「不倫疑惑」を世のオンナたちはなぜ許してしまうのか

    谷本真由美(コンサルタント兼著述家)  ガソリーヌ、いえ、パコリーヌ山尾さまが再び炎上しておりますね。 『週刊文春』でイケメン弁護士の倉持麟太郎氏とのダブル不倫疑惑をスッパ抜かれ、「男女の関係はない」と猛反発しておりましたが、さらなる文春砲で、起業家の夫氏との家庭内格差が原因で夫婦関係は破綻同然と報道されてしまいました。 倉持氏の妻はテレビ朝日系の情報番組「モーニングショー」で2人が密会したとされる日に夫の勧めで脳梗塞療養のため実家に帰っていたといっていますが、これが本当であればまさにゲス中のゲスです。 さて、そんな騒動があった山尾氏は、事務所の政策顧問に倉持氏を就任させています。 山尾氏も弁護士の倉持氏も、安全保障の専門家を自称しているわけですが、不倫疑惑をくぐり抜けてやっと選挙に勝ったというのに、なぜこのタイミングで火に油を注いでしまうのか? 安全保障というのは海千山千どころか、諜報(ちょうほう)活動にスパイ作戦と何でもありの世界です。相手にするのは近隣諸国だけではなく、武器商人から公安機関と、相当老練な政治家でも手を焼くわけで、放射性物質で暗殺を企てられる可能性だってあるわけです。不倫スッパ抜きどころじゃありませんよ。 そんな世界の専門家を自称する人間が、週刊誌ごときに密会の写真を撮られるばかりか、家族や周辺の人間もべらべら喋(しゃべ)ってしまっている。その上で、疑惑を再燃させるようなことをする。選挙後初の登院で議員バッジを受け取る山尾志桜里議員=2017年11月1日、国会 こんなオツムユルユルの人間が、中国やロシアやアメリカやイランや北朝鮮を相手にできるわけがありません。 ちょっと注意深い人であれば、誤解されるような行動は避けます。これはその辺の会社員だって同じで、会社で不倫じゃないかと疑われるような部下や同僚と二人っきりの出張や、密室での会合は避けますよね。 不倫じゃないとはしても、疑いがかかったら仕事がやりにくくなりますし、プロばかりの仕事場というのは倫理が緩い人間、注意しない人間というのには重要案件は任せませんし。 オツムの弱い人間は機密情報の入ったPCや携帯をなくしたり、顧客やディールの情報をエレベーターや喫茶店でポロッと話してしまったりしますからね。 そんなオツムユルユルの山尾氏、しかし疑惑報道後の選挙では当選しています。有権者は不倫を気にしなかった、ということですね。 他人の不倫は厳しく追及するけど、自分は適当に流す。さらに、保育所の増設は訴えるが、ご自身の子供は放置、家庭は実のところ崩壊という矛盾。 こんな他人に厳しく自分に甘い矛盾大魔王さまがなぜ当選したのか。特に女性の支持が高かったと聞きます。 その理由は、少なからぬ女性にとって、山尾氏はキラキラと輝く憧れの存在なのです。すべてを手にした山尾氏 多くの女性は時給780円のパートで、旦那は年収350万円の非正規。東京にすら出る機会もなく、高卒や専門卒で、月1回の回転ずしが贅沢。しまむらの服でイオンに行く日常。車は軽ワゴン。 特に地方都市はそんな感じですよね。 そんな人たちには、才色兼備で負け知らず、しかも年下の男と不倫してる(かもしれない)、夫も捨てかねない山尾氏は「本当なら私だってそういう生活ができたのに」というあこがれの対象なんですよ。 不倫だってしたいんです。 だって自分の旦那は高校の同級生で、イケメンでも東京の弁護士でもなくて、パートで疲れて帰ってきてるのに「飯を作れ」と命令するクソメンだから。 夫が稼ぎも地位もないから自分はパートに出なくちゃならないのに「えばってるんじゃねえよ!」と日々不満を溜めている。 でも、山尾氏のような学歴も資格も稼ぎもないから、離婚はできないんです。本当はお金があったら別れたい。不倫もしたい。きれいな服だって着たい。嫌味な義母からも逃げたい。 貧乏で、低学歴で、特技もなくて、ブサイクな自分は、生まれ変わったら山尾氏になりたいんです。 そんな憧れが集会場やら回って「待機児童をどうにかします!」と声をかけてくれる。 テレビのあの人が、憧れの人が、しまむらの服の自分の生活を考えてくれるんだ、あんなすごい人だって同じ母親なんだよね、と。 問題は不倫だけであって、民進党のホンネは「残ってほしい」という感じでしたし、山尾氏はなんだかんだいってキレイですよね。見た目が。元芸能人ですから。豊田真由子女史は落選しましたが、もしマユタンが「絶世の美女」だったら多分暴言も許されてたんですよ。でも、赤塚不二夫先生のキャラみたいな顔だから同情は得られなかった。 結局、女も男も見た目がキレイな人には甘いんです。 しかし私が疑問なのは、山尾氏はなぜ幹事長就任のタイミングで疑惑を呼ぶような密会をし、夫とは関係が破綻しているのにマスコミには完璧な家族を擬態し、さらにこれだけ叩かれているのに倉持氏を「政策アドバイザー」に指名してしまうのか、という彼女の面の厚さと空気の読めなさです。 そして、マスコミに対しても相当強気です。不倫疑惑の件は横に置いといて、私の政策を見ろとしつこく言っている。 なんでこんなに上から目線なのか。 それは山尾氏が負け知らずのエリートだからです。街頭演説で女性と握手する山尾志桜里氏 =2017年10月1日、愛知県豊明市 山尾氏は子どものころに「アニー」というミュージカルの主役になっています。あの多数の応募者の中から子役として選抜されるというのはすごいことで、そのまま芸能界に残ってもおかしくない実績です。 さらに、東大に進学し、司法試験に合格して、検察官。そして衆議院議員になって、野党第一党の幹事長にまで内定したのです。 容姿端麗で子供にも恵まれ、夫は東大を出ていて、会社はライブドアに買収された実績がある。 すべてを手にした山尾氏には、何かを失う恐怖はありません。 子供を置き去りにしようが、夫を捨てようが、若いツバメと何をしようが、子供のころから完璧な「勝ち組」だった自分を引きずり下ろすことなど不可能だと思い込んでいるからこそ、マスコミにも強気なのです。 しかし、こんなタイミングで不倫疑惑の相手を政策アドバイザーにするような山尾氏は決して「自由の象徴」ではなく、「虚栄心と傲慢(ごうまん)の塊」に過ぎない、ということに、時給780円のパートだって徐々に気がつきはじめていますよ。