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    「金正恩に足元見られた」報ステが言うほど北朝鮮は単純じゃない

    と内政も二択ではない この「対話」か「圧力」か、という形で、問題を単純な構図に落としてしまう手法を、メディアの経済学では「あいまいさへの不寛容」として知られている。つまり、問題の解決策は一つか、せいぜい二つしかない。しかも、二つとも同時に追うような「複雑」なものはメディアでは好まれない。 0か1かの選択が視聴者に好まれるとした上で、それに安易にメディアが乗っかるのである。後藤氏の解釈は「あいまいさへの不寛容」の典型だろう。 もちろん、安倍政権の外交が満点だというわけではないが、そもそも外交は一種のゲーム論的な状況だ。あくまで相手の出方をうかがって、そこで合理的な戦略を採用していく。 ただし、自らも相手も、ともに合理的に行動したとしても、その解答が各国や世界情勢にとって最も望ましいものになるとはかぎらない。自国だけ「よかれ」と思って採用したことも、自国にとって最悪な結末に至ることも多い。 外交におけるゲーム論的な戦略では、なるべくプレーヤー同士が「対話」することが望ましい。意思疎通の経路は複数用意した方がいいのだ。 もちろん、最近の韓国政府が慰安婦問題や「元徴用工」問題などで裏切ったように、事実上の挑発をしてくる国もあるだろう。そのときは、連載で何度も主張しているように「しっぺ返し戦略」を採用することが最善だ。トランプ米大統領との電話会談を終え、取材に応じる安倍晋三首相=2019年5月、首相公邸(鴨川一也撮影) また、安倍政権の外交は、国内問題と切り離して考えるべきではないだろう。つまり、外交と内政もまた二択の問題ではない。それぞれを同時に考えていかなくてはいけない側面がある。 先日、筆者は嘉悦大の高橋洋一教授と対談した(月刊『WiLL』7月号掲載予定)。対談で、高橋氏は日本の経済学者の「文系バカ」ぶりを痛烈に批判し、政策的なセンスの欠如も問題視した。改憲実現のための政治的「コマ」 経済学者である筆者には耳の痛い話だが、高橋氏の痛烈な批判は傾聴に値する。その中で、高橋氏は消費増税について、実行か凍結かの「あるなし」を、この問題だけ孤立して考えてはいけない、と指摘していた。 問題には、さまざまな人間関係、複雑な政治的利得、政治的な直感といった人間臭いファクターや、そして国際要因も絡んでくる。特に最後の点で重要なのが、北朝鮮情勢である。 現状、安倍首相の政治的な目標は、憲法改正を実現することが可能な政治的勢力の達成である。より具体的にいえば、今夏の参院選での「勝利」だろう。最低でも、政権の維持であることは間違いない。 そのために利用できる政治的な「コマ」として、外交と消費税がある。外交はもちろん、拉致問題の解決を中核にした北朝鮮との交渉が最重要課題として存在する。 外交か消費税か、どちらか一つ、あるいは二つとも国民の支持を取り付けることができれば、それは安倍首相にとって有利に働く可能性が高い。言い方を変えれば、金委員長との首脳対談など外交上の成果を出し、世論の支持が高まる中で選挙に臨むことができれば、今秋に予定されている消費税率の10%引き上げもありうることになる。 一方で、外交で成果を挙げる中で、その成果を背景にすれば、消費増税の凍結をさらに打ち出しやすくなるともいえる。要するに、後藤氏のような「あいまいさへの不寛容」とは全く反対の、複雑な問題設定がある。5月4日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が指導した火力打撃訓練の様子(朝鮮中央通信=共同) 選挙が迫っている中では、消費増税問題は、北朝鮮問題など外交政策の成否と切り離せない政治的な位置にあるのだ。しかも、選択の幅はまだかなりあり、こと消費増税に絞ってみても凍結の「あるなし」は、単純な経済指標だけ見て決まるような話ではない、と高橋氏はそう示唆していた。 これからの国内外の情勢は、さらに複雑化していくことは間違いない。ワイドショーのように単純な図式で見てはならないのである。■ 有権者をそそのかす報道ステーション「依存効果」の罠■ 金正恩「クーデター失脚」発言はなぜ黙殺されたか■ 高須クリニック院長が語る「報ステ」スポンサー降板の全真相

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    「がん公表」患者へのエールを歪める心理バイアス

    高濃度ビタミンC、点滴療法といったものに「がん免疫力」の効能を強調した場合は要注意といえるでしょう。メディアを動かす「世間の性」 改めて、今回のテーマについて考察するとき、常に意識しておくべきことがあります。それは、有名人のようにスポットライトを浴びることもなく、厳粛なリアルを受け入れながら、同じがんと明るく向き合っている患者さんが、社会には数え切れないほど多くいることです。 歌舞伎役者、市川海老蔵さんの妻の小林麻央さんが、自身が乳がんであることを公表されたときのエピソードは記憶に新しいことでしょう。治癒の難しいがんを背負いながらも、愛する夫、子供、家族のために、1日でも長く、自分らしく生きたいと希求する表現の数々がブログに綴られました。それらは、同じ病気と日々向き合っている、多くの患者さんたちにとっても、大きな勇気や希望となっていたのは間違いありません。 しかし、残念な問題も生じました。有名人が病気になると、世間には、より詳細なプライバシーを知りたい欲求にかられる性(さが)があります。それががんであれば、なおさらの話です。メディアの方も、世間の欲求に応えようと、必死で情報を先取りすべく行動します。 麻央さんの場合でも、ブログでのがん公表以来、どこの病院でどのような治療を受けているか報じようと、メディアが躍起になって麻央さんや家族を追いかけ回しました。揚げ句には、生命予後を勘ぐるような記事までも出てくる始末です。 結局のところ、有名人のがんを報道するメディア側の深層に、がんへの偏見や先入観があるようにみえます。こうして、がんは「死をイメージさせる暗くて怖い特別な病気」のように映るわけです。 一方で、お茶の間の視聴者も、ワイドショーで報じられる有名人のセンセーショナルながん公表に、感情だけを面白おかしくかき立てられ、思考が停滞しているのではないでしょうか。そうなれば、がんに関する考えも論理的ではなく、半ば直感的にしか及ばないことも少なくありません。そのような「ヒューリスティック」と呼ばれる心理バイアスに巧みにつけ込むことで、有名人ががんで死去した途端、さまざまなエピソードを上手に利用して「がんは放置するに限る」というエセ思想の流布に成功した人物さえいました。妻の小林麻央さんが乳がんで1年8カ月間闘病していることを公表した歌舞伎俳優の市川海老蔵=2016年6月(蔵賢斗撮影) がんは、生涯において2人に1人が罹患するリスクを抱えている「国民病」の様相を呈しています。裏を返せば、がんがそれだけ身近な出来事であることを意味します。何も、昨今増えている有名人のがん公表を特別扱いするような話ではないのです。 ワイドショーから流れてくる有名人の「物語」に、一時的に感情的になるのはもちろん自由です。でも、自身や家族にがんというリアルが訪れた際、どのようなリテラシーを育み、どのように振る舞えるか、そちらの方が重要ではないでしょうか。皆さんには、一人一人ががんのことを真摯(しんし)に考える契機となれば幸いです。■ 池江璃花子「白血病」親切の押し売りが患者を悩ませる■ 小林麻央さんの闘病が共感されても日本で「がん告知」が進まない理由■ がんはいずれ「理想の死に方」になる

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    食道がん併発の堀ちえみ 夫の前向きな対応で公表決意か

     《今度は食道癌です》、《転移でも再発でもないとの事です》。堀ちえみ(52才)が4月15日、「食道がん」にかかっていることをブログで公表した。堀は2月にステージIVの「舌がん」であることを公表、舌の約6割を切除する11時間におよぶ手術を受けたばかり。懸命のリハビリ生活を送るさなか、今度は別のがんにかかっていたという告白に、世間では驚きが広がった。 今回見つかった食道がんは、舌がんからの転移や再発ではなく、2つのがんが、比較的近い場所で併発したという。「前回の人間ドックでは食道に異常はなかったそうです。普通なら見過ごしてしまう位置にあり、早期発見はラッキーだと本人も冷静に受け止めています。周囲のかたからは他の部位には発生していないかなど心配する連絡が届いているようです」(堀の知人) 大腸がんや乳がんなど遺伝性が認められる「がん家系」についてはよく聞かれるが、今回の堀のような併発のケースに因果関係はあるのか。 「堀さんのように転移ではなく2つのがんが見つかることを『ダブルキャンサー』といいます。扁平上皮がんは体の表面や内部が空洞になっている臓器の内側の粘膜から発生するがんです。食道扁平上皮がんも遺伝的要因が指摘されています。簡単にいえば、転移ではなくがんが複数箇所に発生するかたは、がんになりやすい体質といえます。定期的に検査を受け、とにかく早期発見に努めることが大切です」(内科医で医療ガバナンス研究所の上昌広さん)取材に応じる(左から)松本伊代、堀ちえみ、早見優=2016年10月、東京都内 舌がんのリハビリ中での新たながん発覚は身体的にも大きな負担になるはずだが、堀はあくまで前向きだ。「ご主人が“このタイミングで検査を受けて見つかったのは運がよかった”とポジティブな対応をしてくれたことで、一時期は落ち込んでいた堀さん自身も気持ちを転換できて今回の公表に至ったようです」(前出・堀の知人) 堀は食道がんを公表したブログを《また癌が見つかったけど、それでも自分の身体が愛おしいです。いろいろな病気を経験してきましたが、全て無意味ではないと思っています。頑張ります!》と締めくくっている。 舌がん発覚後も、一時は面会謝絶状態ながらカラオケや義母の病院付き添いなど奇跡的な回復を見せていた堀。今回も家族一丸で乗り越えていく。関連記事■アクセス数断トツ! 堀ちえみ「決意のグラビア」未公開写真■5児の母・堀ちえみ 24年ぶり決意のグラビアで魅せた肢体■堀ちえみ 新恋人と出会うため犬を連れてウロウロしていた■頻繁に渡韓の堀ちえみ レーザー整形と舌がんに関係あるか■堀ちえみが82年組同窓会を希望、明菜への連絡係は小泉今日子

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    売れない週刊誌「ジジババ特集」に喝!

    週刊誌ジャーナリズムの一時代を築いた文春砲もすっかり飽きられたのか、最近の特集はもっぱら「健康」と「終活」ばかりである。売れてナンボの世界とはいえ、どの雑誌もジジババがターゲットではさすがにつまらない。週刊誌よ、自らが終活の道に進んでどうする。

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    元週刊現代編集長の直言「文春でさえ2025年で消える」

    密愛ではない、週刊誌にしかできないスクープを見せてほしいものである。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    高齢読者が「週刊誌ジャーナリズムの牙を抜く」のウソ

    吉田則昭(目白大学メディア学部准教授) 一昨年から今年にかけて、週刊誌、とりわけあの『週刊文春』の健康雑誌化が顕著になったという。「文春砲」として2016年の出版界10大ニュースにもなり、大幅な部数増を獲得してきた『週刊文春』だが、編集長交代などもあってか、かつてのスクープの勢いが衰えた感もある。 かつて筆者もメディア団体の職員であったとき、世の中の動向を知るため、『週刊朝日』『サンデー毎日』『週刊ポスト』『週刊現代』『週刊新潮』『週刊文春』などを欠かさず読んでいたが、総合週刊誌の状況がこれほど変わりつつあったとは気づかなかった。 まず、これら雑誌のデータを見直してみたところ、驚いたのは、全読者の4分の1(約25%)が、65歳以上69歳の年齢層に収まっていることであった(出典:日本ABC協会『雑誌発行社レポート』2018年1~6月)。これらのデータはビデオリサーチなど第三者機関が調べたもので客観性は高い。しかし、調査項目の設定上、70歳以上の読者の回答が除外されていることもありうるため、実際の読者の年齢層はさらに上がるものとみられる。 他方、雑誌社側は、「50歳前後のビジネスマン」「60歳以上のプラチナ世代」をターゲット読者と想定しているから、実際の読者と乖離してきていることはもはや明白である。つまり、少子高齢化が進む現在、これら週刊誌読者も70代前後の団塊世代が、実は本当の読者であり、一方で若い世代の読者がそれほど増えていない現状が見て取れる。 販売部数データを見てみると、『週刊現代』は2018年上半期に20万9025部となり、前年同期比で5万5千部ほど部数を落とし、『週刊ポスト』の21万1336部に後塵(こうじん)を拝するようになった。読者の高齢化が部数減の一因となっているのだが、いずれの週刊誌も誌面をさらに高齢者向けにシフトさせることに傾注し、若い読者を新たに獲得するという「攻め」の余裕も少ないという状況のようである。東京都新宿区にある新潮社本館ビル=2012年3月撮影 ここ数年、『週刊朝日』が2009年に「終活」という造語を世に広めて以来、他誌でも「完璧な終活」(サンデー毎日)、「食べてはいけない」(週刊新潮)の特集のほか、「不眠を防ぐ住まい」「高血圧新目標値130に専門医が異議あり!」(週刊文春)など、高齢者向けの健康を取り上げる記事が目立つようになってきた。老人介護、認知症などを扱った『週刊朝日』の連載漫画「ヘルプマン」も好調のようである。 さらに2018年末から最近まで、『週刊現代』が「死後の手続き」路線を本格化させた「最期の総力戦」特集を13回続け、『週刊朝日』も2019年1月から「書き込み式 死後の手続き」を7回連続して掲載している。 こうして高齢化に伴うあらゆる変化をみてみると、週刊誌が健康雑誌へとシフトしてくるのも時間の問題だったのであろう。 そして、つい最近、象徴的だったのは、ツイッター上で『週刊ポスト』『週刊現代』の二大誌の新聞広告をみたネットユーザーが、「とうとう政治や社会問題を扱わなくなった。消滅した」との指摘もあり、話題にもなっていた。生き残る2つの方法 このように終活雑誌、健康雑誌と化した週刊誌に、かつてのような権力批判の雑誌ジャーナリズムを担えるのか。高齢者向けのコンテンツでしのぐ週刊誌にジャーナリズムを貫く体力は残っているのだろうか。 実は、健康雑誌化については、今に始まったことではなく、すでに業界誌『創』の2017年座談会で同誌編集長の篠田博之氏が述べていたことでもある。このとき、週刊誌の方向性がはっきりと二つに分かれつつあることが指摘されている。 それは、一つには『週刊文春』のように週刊誌本来のスクープ中心主義で部数を伸ばしていくという考え方であり、これがまだ現実性を持っていたことを証明した点で、同誌の健闘は大きな意味を持っていた。ただし、筆者は芸能人の不倫スクープは、明治期のタブロイド判日刊新聞『萬朝報』(よろずちょうほう)の例からも、「公憤」がなければ読者に飽きられること、単なるセンセーショナリズムは限界が来ることを指摘しておいた(『朝日新聞』2018年2月10日記事「『文春砲』に吹く逆風、その背景は」筆者コメント)。 同紙はスキャンダラスな出来事を他紙よりも長期にわたり、ドラマチックに報道することで部数を伸ばし、一時は30万部と東京一の発行部数となった。そして連載「弊風一斑(へいふういっぱん)蓄妾の実例」では、有名人、無名人の愛人関係を実名住所職業入りで暴露したが、こうしたスキャンダル報道だけでは、やがて大衆に飽きられて売れなくなっていった。まさに『週刊文春』も今その限界に直面しているのではないだろうか。 そして、もう一つの方策は、今回の『週刊現代』が典型的なように、高齢の読者に向けて誌面を絞り込んでいくやり方である。実際、2018年以前から『週刊現代』は医療問題などで特集を掲げ、部数も伸ばしていた。ターゲットを絞ってコストパフォーマンスをよくするという方向である。老人雑誌のようになってしまって、それまでの読者からすれば物足りないかもしれないが、『週刊ポスト』もそうした方向を意識している感はある。 期待したいのは、週刊誌と親和性の高いシニア層、すなわち、スマホも使えるかもしれないが、「アンチ・スマホのシニア層」である。今の若者世代は、知りたいことはスマホで検索だけして済ませる。 しかし、それだけでは情報行動としては不十分で、雑誌を一冊丸々読む習慣を持つシニア層は、思わぬ記事に誌面で巡り合える可能性(セレンディピティ)を知っている。(左上から時計回りに)『週刊ポスト』、『週刊現代』、『週刊文春』、『週刊新潮』(佐藤徳昭撮影) また、昭和の回顧記事も多く掲載されているように、ノスタルジーから政治や社会を語ってもいいかもしれない。これも人生100年時代、精神世界の豊かな者の持てる楽しみではなかろうか。 50代のコアターゲットに属する筆者も、かつては講談社の週刊誌編集部をモデルに女性編集者を描いた漫画『働きマン』(安野モヨコ、2004年)をとても面白く読み、共感してきた。雑誌ジャーナリズムにかける熱気を再び取り戻してほしいと思う同世代読者も多いのではないかと思う。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    「文春よ、お前もか」気まぐれ読者を追いかける週刊誌の断末魔

    た総合週刊誌は、まさに自身が〝終活〟を始めたような気が私はするのだ。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    ある雑誌を廃刊に導いた「ベンチャー企業礼賛」の理由

    吉田典史(ジャーナリスト・記者・ライター) 今回は、ある雑誌の廃刊の裏側を私が知る範囲で見つめなおし、「使えない上司・使えない部下」について考えたい。この雑誌の廃刊の背景にあるものを探ると、人事のあり方もが透けて見える。読者諸氏は、この事例から何を感じるだろうか。 1年ほど前、ある雑誌が廃刊になった。この出版社の社員数人や退職者5人ほどから聞く限りでは、売れ行きが長年伸び悩んでいたのだという。「使える」と思われている編集長を数年ごとに変えて編集態勢を刷新するものの、大きな変化はなかったようだ。10数年前に創刊し、20~30代の比較的、意識の高い会社員を読者対象にしたものだった。 私は10年ほど前、フリーライターとして関わった。編集者から指示を受け、会社員などにインタビューをして、記事を書いた。そのころから、強い違和感を感じていた。一言でいえば、記事や雑誌全体の内容を創り込みすぎなのではないかと思った。企業社会の実態からかけ離れた内容になっていた。 その象徴が、ベンチャー企業の取り上げ方だった。ほとんどの記事が、「ベンチャー企業は風通しがよく、働きがいがある」「実力主義で、結果を出せば正当に評価される、すばらしい会社」といった内容になっていた。大企業を「終身雇用で、年功序列の古い会社」「20~30代の意識の高い人は結果を出しても、報われない」と暗に揶揄しているように見えた。この大企業の認識は、実態とは相当に異なるものに私には思えた。 しかも、毎回、同じようなベンチャー企業を取材し、記事にしていた。いわゆる、メガベンチャーといわれる10社ほどのほか、知名度の高い30社ほどを加えた40社ほどである。たった40社ほどで、「ベンチャー企業とは…」と語ってしまうのだ。 全国には、無数のベンチャー企業がある。なぜ、40社しか取材しないのか。いわゆる、「バーター(取引)」か、「何らかの癒着」か、それとも、忙しく、時間がないがゆえに、付き合いがあり、取材がしやすい40社だけを取材していたのか…。 ベンチャー企業のほとんどは、中小企業政策における基本的な政策対象の範囲を定めた「原則」に基づくと、「中小企業」の範疇に入る。その「原則」ではたとえば、サービス業では「資本金の額又は出資の総額が5000万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人」を「中小企業」としている。 通常、中小企業は、解雇や賃金不払い、パワハラなどの多発エリアである。厚生労働省や各都道府県の労政事務所などが発表する労使紛争のデータを見ると、それは明らかだ。大企業よりは、労使間のトラブルははるかに多い。 東京都では、都内6カ所の労働相談情報センターにおいて、中小企業の労使双方からの労働相談に応じ、紛争当事者間での自主的解決を援助するあっせんを行っている。2017年は労働相談件数が、5万1294件(前年度比3.3%減)で、5万件を超える状況が続く。このような職場で多くの社員が苦しんでいることを心得ているならば、雑誌としてもっと節度ある姿勢が必要だったのではないだろうか。 私が、廃刊になった雑誌の編集者たちと話し合った限りでは、ベンチャー企業の内情や実態に極めて疎く、不勉強だった。特に労働条件をはじめとした就労環境には何の関心も払わない。私よりもはるかに年齢が若いはずなのだが、おそろしく鈍感だった。 それどころか、ベンチャー企業の経営者や役員、人事部の管理職などが取材時に話すことを無批判に受け入れていた。中には、「〇〇さんは人間的にもできている」と、たった1回の取材でメガベンチャー企業の創業社長を熱狂的に称えていた。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 「取材者としての経験が浅い」と言えばそれまでだが、私はその熱狂から「宗教的なもの」を感じた。こちらが少しでも、メガベンチャー企業の創業社長を否定的にとらえて話すと、「〇〇さんはそんな人じゃない!」と興奮して言い返す編集者もいた。彼女の目に涙がたまっていたことを覚えている。 ほとんどの雑誌には、一定の読者層がいる。この雑誌ならば「20~30代の比較的、意識の高い会社員」なのだろう。そのような会社員たちが求める情報を記事として提供していくことは当然だとは思う。しかし、価値観などがあまりにも多様化し、魂胆とした時代に、特定の企業を繰り返し取り上げ、礼さんするような報道は慎むべきだったのではないだろうか。少なくとも、その印象を与えていたことは否定しがたい。しかれたかん口令 なぜ、この雑誌の編集者たちはたった40社ほどのベンチャー企業を熱狂的に報じ続けたのだろうか。そこには様々な要因が折り重なっていたのだろうが、大きな理由の1つに、この出版社の社内の事情があったのではないかと私は見ている。 一言でいえば、ずさんな人事評価や配置転換、昇進・昇格などに愛想がつき、「隣の芝生は青い」のような思いで、ベンチャー企業をうらやましく見ていたのだと思う。その意識が、記事や雑誌の随所に出ていたのではないだろうか。つまり、ある意味で「悲鳴」であり、「溜息」であり、「あきらめ」の念が雑誌には凝縮していたように私には見えるのだ。 この雑誌を発売する出版社は、比較相対的に高学歴な社員が多いこともあり、20代の頃の意識はある程度は高い。しかし、30代になるとやる気を失い、失速する人が増えてくると退職した元社員5人ほどは語る。社内の人事の仕組み(人事評価や育成、配置転換など)は相当にお粗末で、ほかの業界でいえば、社員数が30人以下の零細企業と大差ないのだという。「まじめに仕事をするほどにむなしくなる」と5人は話していた。 たとえば、廃刊となったこの雑誌編集部では数年前、ある編集者が副編集長(課長級)の経験がないのに、編集長(部長級)になったという。通常、こんな昇格はありえないはずだ。ところが、「抜擢人事」として断交されたそうだ。「使える編集長」を起用し続けたが、その多くが「使えない編集長」とレッテルをはられ、職を離れていたという。 販売不振の起死回生策として、副編集長の経験がない編集者を編集長にしたのだが、案の定、破たんしたらしい。その編集長は経験不足のために、部下である副編集長をはじめ、7人前後の編集者を自らが意図したように動かすことができないようだった。結局、編集長という権力で動かすようになる。ときに強く当たり、ときには大きな声でしかりつける。このことに不満をもった編集者数人が企業内労組に「編集長からのパワハラに遭っている」と訴えたそうだ。 企業内労組の役員が、編集長の上にいる役員などに「組合員(訴えた編集者のこと)から苦情が来た」と伝えた。すると、役員は編集長にそのことを話し、労組に訴えた編集者数人と編集長などを含め、関係者10人ほどで解決に向けての話し合いをした。「パワハラ」は「双方のコミュニケーション不足」で生じたものであり、「編集長にその意識はない」という結論になったのだという。その後の人事異動で関係者たちの一部は、他部署へ異動となったようだ。 この一連の騒動は、関係者の間ではかん口令がしかれ、タブーになったままだという。退職者5人のうちの数人は、「役員は、社外の労組(ユニオン)などに話を持ち出されないようにするための懐柔策として話し合いの場を設け、そこで不満分子の編集者にガス(不満)抜きをさせた。その後、人事異動で態勢をシャッフルし、すべてをシークレットにした」と話す。 私の取材経験をもとにいえば、「パワハラ」はする側、される側それぞれの認識に大きな差があり、どちらの言い分が正しいのか、正確に判断することは難しい。仮に、この一連の騒動がすべて事実であるとすると、20~30代で意識の高い編集者はやり切れぬ思いになるのではないだろうか。 このほかにも、この出版社の人事のあり方には、話を聞く限りでは首を傾げたくなることが多々あった。おそらく、廃刊となった雑誌の編集者たちがベンチャー企業にあそこまで感化され、称え続けたのは、自らが勤務する会社の旧態依然とした人事のあり方に嫌気がさしていたからではないか、と私は思うのだ。 通常、会社員の多くは、人事評価や育成、配置転換、昇進・昇格に異議を申し立てることはなかなかできない。この雑誌の編集者たちも同じく、言えなかったのだろう。そのようなときに、ベンチャー企業をわずかながら取材し、そこが自分たちのうっ積した不満がまったくないような職場に見えたのではないか、と思う。 実は、人事制度や賃金制度は未熟で、人事評価や育成、配置転換などに深刻な問題を抱え込んでいるのだが、そのことに気がつかなかったのだろう。そのような思いでベンチャー企業を取材し、記事にしていたのならば、売れなくなるのは無理もない。 今回のことは、あくまで私が元退職者たちから聞いたものである。現役の社員に連絡をしても、ここまでは答えなかった。私が強調したいのは、何かの商品や製品、サービスが売れなくなるとき、そこには社内の人事にきしみが生じていることが多いことだ。それらを販売しないようにしたところで、問題は残り続けるのではないだろうか。よしだ・のりふみ ジャーナリスト・記者・ライター。1967年、岐阜県大垣市生まれ。2006 年から、フリー。主に、人事・労務分野で取材・執筆・編集を続ける。『悶える職場』(光文社)、『震災死』『あの日、「負け組社員」になった…―他人事ではない“会社の落とし穴”の避け方・埋め方・逃れ方』(ダイヤモンド社)『封印された震災死』(世界文化社)など。

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    「中国産」「添加物」消費者が週刊誌に踊らされなくなっている?

    くの時間を割いて報道します。以前なら、週刊誌記事を受けてテレビやラジオ等でも食の話題が取り上げられ、メディアミックスで「食べてはいけない」情報が広がったけれど、今はたまたまそういう状況にない、という説です。(6)問い合わせや抗議をするほどの余裕が、消費者にはもうない 汲々とした生活の中で、食費も切り詰めている人が増えているのが現実です。市販の食品は概ね安全、品質もまあまあ、と信じないと暮らしていけない、という人が多いのかもしれません。 大丈夫です。農薬や食品添加物等についてはほぼ、問題がありません。たとえばトランス脂肪酸が気になるとしても、バランスのよい食事をし、菓子や菓子パンを毎日食べる、というような偏食はしない、という「常識」で十分です。 特定の食品の良し悪しにはこだわらず、野菜やくだものたっぷりのバランスの良い食事をすることで、がんや心臓疾患等のリスクが大きく下がる、という科学的根拠があります。 おそらく、消費者が踊らされない要因は、これらがいくつも組み合わされた複合的なものでしょう。 いずれにせよ、惑わされないリテラシーが大事です。この点で、消費者は少しずつ成長しているのではないか、と思いたい。 今回の騒動を受けて食品企業等をかなり取材しました。私から見れば名誉毀損ものの酷いことを書かれたメーカーが「自分たちもまだ努力が足りないことを思い知った。これからさらに努力したい」と言い、「記事に書かれているような中国の問題が、我が社の取引工場で起きていないか再点検して、ないことを確認した」という商社もありました。 日本企業の多くも、そして、中国の生産者や加工業者の多くも、頑張っています。まつなが・わき 科学ジャーナリスト。1963年生まれ。89年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了(農芸化学専攻)。毎日新聞社に記者として10年間勤めたのち、フリーの科学ジャーナリストに。主な著書は『踊る「食の安全」 農薬から見える日本の食卓』(家の光協会)、『食の安全と環境 「気分のエコ」にはだまされない』(日本評論社)、『効かない健康食品 危ない天然・自然』(光文社新書)など。『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(同)で科学ジャーナリスト賞受賞。「第三者委員会報告書格付け委員会」にも加わり、企業の第三者報告書にも目を光らせている。

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    週刊文春に「NO」が突き付けられた日

    」と続けた。 人のプライベートに土足で足を突っ込む週刊誌、そしてその騒ぎを大きくするマスコミやネットメディアは批判されてしかるべきだが、その批判からはそれを面白がってきた視聴者も免れない。これはウーマンラッシュアワーのネタと同じ示唆である。 ネットで誰もが発信できる時代、大手メディアは以前ほど絶対的な存在ではない。今回の文春バッシングのように、受け取り手である「大衆」は、「No」をメディアに突き付けることができる。ただしそのバッシングが権力ではなく、ただ不倫をしただけの有名人に向けられてきた過去について、どのように考えている人が多いのだろう。今後の不倫報道はあるのか、またそれについての反応を注視したい。

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    朝日新聞の次なる標的は「アイヌ侵略」で間違いない

    山岡鉄秀(AJCN代表) 2018年、私はケント・ギルバートさんとともに朝日新聞を追及し、その結果を『朝日新聞との対決全記録』という一冊の本にまとめた。 われわれが当初追及したのは、朝日新聞が英語版でひそかに続ける「慰安婦強制連行プロパガンダ」だった。2014年8月、朝日は吉田清治証言に基づく「虚報」を撤回して謝罪した。ところが、iRONNAでも指摘したように、英語版では「強制連行と性奴隷化」を想起させる表現を使い続けていたからだ。(Comfort women, who were forced to provide sex to Japanese soldiers before and during World War II. 第二次世界大戦前と最中、日本兵に性行為を強要された慰安婦) 朝日新聞はわれわれの問いかけに対し、「慰安婦とされた女性の訴えは人によって、あるいは時期や場所、戦況によって大きなばらつきがあり、個々の状況全体を総合して具体的に説明するのは困難です」と回答した。「慰安婦の多様性」を認めながらも、前述の画一的な表現を改めることは拒否したのである。 その後、同様の表現を使用していた英字紙ジャパン・タイムズが編集方針を改め、そのような表現を今後は使用しないと宣言した。しかし、朝日新聞はわれわれとの交信で自己矛盾を露呈しながらも、方針変更についてはかたくなに拒否した。 そんな朝日新聞は、まるでウルトラセブンに追い詰められ、隠密行動を放棄した宇宙人が巨大化して街を破壊するような行為に打って出てきた。いよいよその暴力性を隠す気も無くしたようだ。最新の例を二つ挙げよう。 韓国が慰安婦に関する日韓合意を事実上破棄したことを受けて、朝日新聞は「慰安婦財団、残したものは」という記事を掲載した。これは日韓合意を受けて韓国側が設立した「和解・癒やし財団」の活動を振り返る記事だが、慰安婦に関する説明が添えられている。そこには次のような記述がある。 戦時中、日本軍の関与の下でつくられた慰安所で、朝鮮半島出身の女性が将兵の性の相手を強いられた。(筆者注:強いられた=forced to provide sex)「慰安婦財団、残したものは」2019.01.28 朝日新聞東京本社版朝刊 6ページ われわれの追及の過程で、朝日新聞が虚報を撤回したことを認めた記事を、利用者が特定のウェブページを訪問することを防ぐようにする「メタタグ」などを使用して検索できないようにしていたことが発覚した。朝日新聞は慰安婦問題に関してはもはや逃げ隠れせず、日本語の世界でも「強制性」を事実として流布することを決めたようである。どんなことをしてでも、日本と日本人を貶(おとし)めたい朝日新聞の執念が感じ取れる。朝日新聞東京本社ビル=2018年10月(宮崎瑞穂撮影) しかし、日本語版では無難な記事を書きながら、英語版で徹底的に日本を貶めるという、朝日新聞の作戦は終了していない。先般閣議決定された、いわゆる「アイヌ新法案」をめぐる記事の日本語版と英語版の齟齬(そご)には驚きを禁じ得なかった。日本語と英語「凄まじい違い」 ここで、2019年2月18日に朝日新聞デジタルで配信された日本語記事を紹介する。先住民族の明記評価 自治体「格差」懸念もアイヌ新法案 閣議決定 国のアイヌ政策の基本となるアイヌ新法案が15日、閣議決定された。アイヌ民族を「先住民族」と明記し、差別禁止やアイヌ文化にかかわる特例措置などを盛り込んだ。法案を評価する声が聞かれる一方、自治体により「格差」が生じると心配する声もある。政府は今国会の成立を目指す。 次に英語版を見てみよう。英語表記と和訳を併記する。こちらは一足早く2月6日に配信されている。Bill finally recognizes Ainu as indigenous people of Japan(法案はついにアイヌを日本の先住民だと認める)After more than a century of forced assimilation and discrimination that nearly blotted out their culture, the Ainu are finally to be recognized as indigenous under legislation to be submitted to the ordinary Diet session. (アイヌの文化をほぼ壊滅させた1世紀以上にも及ぶ強制的な同化政策と差別の果てに、ついにアイヌ民族を法的に先住民族と認める法案が通常国会に提出される) このすさまじい違いは何を意味するか。 この表現では、日本政府が今回の「アイヌ新法」でアイヌを先住民と正式に認めることが、「アイヌ侵略史観」まで公式に認めたと受け取られかねない。「そんなつもりはない」と日本政府が言っても、明確に説明(立論)しなければ、自動的にそうなる。これに朝日新聞が食らいつかないはずがない。それが前述の英語記事につながるわけだ。 日本政府は、アイヌを正式に先住民と認め、さらに手厚く支援することで国際社会の心証が良くなることを期待しているのだろうか。ひょっとしたら、人気漫画『ゴールデンカムイ』のイメージを利用して観光資源になることまで考えているのかもしれない。 2018年12月末、いつの間にか「アイヌ担当大臣」という新たなポストが設置され、公明党の石井啓一国土交通相が指名されたことを知らない人も多いだろう。そして2020年4月には北海道白老町の8600平方メートルの敷地に国立アイヌ民族博物館と国立民族共生公園がオープンする予定だ。このように、東京五輪に合わせて海外向けの情報発信が急ピッチで進んでいることもあまり知られていない。2018年12月、北海道庁赤れんが庁舎の外壁に浮かび上がる、アイヌ文化を紹介する「プロジェクションマッピング」 日本政府は、この政策によって「南京大虐殺」「慰安婦強制連行」「徴用工」などに続いて、「アイヌ侵略」が日本政府公認の歴史的犯罪として世界に拡散される危険性を理解していない。慰安婦に関する日韓合意によって、「慰安婦性奴隷説」は世界で定着した。今後、前述の朝日のような「日本人の犯罪としてのアイヌ侵略」を強調する英語記事が世界中にますますあふれてしまえば、日本人は永遠に税金を使って償い続けることを余儀なくされるだろう。 政府は慰安婦問題で、あれほど日本の名誉を貶められ、国益を損ねながら、またもや進んで情報戦の餌食になってしまった。ここぞとばかり牙をむく朝日新聞の高笑いが聞こえてきそうである。■「慰安婦は誰が強制したのか」曖昧な英文記事、朝日のヘリクツ■慰安婦を「ゲスな演出」でアピールする韓国に反論してもムダである■慰安婦問題で韓国に「無条件降伏」し続ける外務省のホームページ

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    ユーチューバーがつまらなくなった

    が、再生回数を意識する余り、過激さを売りにする動画も珍しくはなくなった。今や炎上ユーチューバーが既存メディアの格好のネタになる時代である。たまには夢を壊しかねない現実も語ってみよう。(写真は共同)

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    「YouTuber」を日本人の価値観で考える方が変、そう思いません?

    チューバー)」と呼ばれる人たちが子供たちの憧れの職業になったりしているわけですが、自分が普段見ているメディアに出ている人たちに憧れるってのも、昔からあることなんですよね。 「銀幕のスター」という言葉がありますが、映画が人気のあるメディアだった頃は、映画に出ることがステータスでした。当時は格下のテレビに出るのを嫌がる人たちもいたわけです。 ちなみに、アメリカは映画に出る役者の方が、テレビに出る役者よりも格が上だったりしますが、日本はテレビの方が上になっていますよね。 ラジオDJに憧れる人がいたり、広告代理店のコピーライターに憧れる人がいたりと、新しい職業に憧れる人がいるのはいつの時代もそうですよね…と。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) んで、「将来子供にYouTuberになりたいと言われたらいやだ…」みたいな話を聞きますが、有名YouTuberに憧れる子供がいたら、やらせてみたらいいと思うんですよね。 動画の企画を考えて、カット割りを考えて撮影をして、編集にしても、テロップを入れて、効果音を入れて、動画の長さを考えたり、画質をきれいにするために動画エンコードの方法を考えたりってのを毎日やっている人たちが、有名YouTuberとして名をはせてる人たちだったりするわけです。 動画を1本作るぐらいだったら、頑張ればできますけど、毎日、これだけの作業をたんたんと続けることができるのって、ある種の才能だと思います。YouTuberに憧れる子供がいたら、ゴールデンウィークの間、毎日、動画を1個ずつ作るのに挑戦させてみたらいかがでしょうか? また、YouTuberに憧れる社会人も多いわけですが、動画の企画を考える中で、他の人がやってないこととなると、ほかの人がやらなかった理由のあることがほとんどなんですよね。大抵の企画は既に誰かがやっている世の中だったりします。 ってことで、他の人がやらなかったことで過激なことを、目立つためにやり出す人たちが現れてきました。これは日本に限らず世界的な潮流ですけどね…。日本の倫理観じゃムリ アメリカだと、「お腹に電話帳を入れて、銃で撃ってみた」という動画を撮影しようとして、夫のお腹に向けて銃を撃ったら、電話帳を貫通して、夫を殺しちゃって、刑務所に入った妻もいたりします。アメリカの有名YouTuberが富士の樹海で自殺者を見つけてしまって、その遺体を撮影してYouTubeにアップロードしたことで、世界的なニュースになったこともありました。 さてさて、YouTubeはGoogleの子会社ですが、基本的には広告で売上を上げている会社だったりします。YouTubeは広告を売るために、クリエイターに動画を作ってアップロードしてもらっているわけです。なので、広告主が嫌がりそうな動画は要らないのです。 ただ、YouTubeに広告を出しているスポンサーは、膨大な数の動画の中で、実際にどういう動画に広告が出ているか、全部チェックすることができないわけです。 YouTubeの指針を信頼して「大丈夫だろう」と思って広告を出していたら、宗教的にやばい動画だったりとか、児童に悪影響を及ぼしそうな動画とかにも大手企業の広告が出ていることが分かったりしちゃいました。 そこで、2017年の終わりぐらいから、大手企業がYouTubeの広告から撤退を発表し始めたのですね。 それを受けて、YouTube側もよろしくない動画に広告が表示されないようにしたり、よろしくない動画が自動的に見えなくなったりするような仕組みとかを導入し始めたわけです。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) こんな流れでYouTubeの規制が厳しくなってきたのですが、社会とか法とかじゃなくて、単に広告主が広告を出したくなるようなサイトにするために変えたってだけなんですけど、世の中の識者と言われる人たちは「社会的意義」とか「モラル」とかなんだか分からん御託を並べて説明しようとしたりするんですよね。 そんなわけで、広告主が戻って来なければ、規制はもっと厳しくなるし、戻ってくるんだったら、ここらへんで規制強化は止まると思います。 テレビや他マスメディアは倫理チェックする機関があるけれど、YouTubeにはないみたいな話もありますが、世界中で見られる動画の倫理を誰が判断するんですかね? 日本では、アイドルと呼ばれる女子がお金をもらってお客さんと握手したりする仕事をしていますが、欧州やアメリカの州によっては児童労働とみなされる違法行為だったりします。 なので、日本の価値観で「海外の会社」の「海外のサービス」の倫理を問うこと自体がおかしなことだと思ったりしているオイラです。 そんなわけで「大金を使う系動画はどうなの?」とか、「若い子が肌を出しているのはどうなの?」とかは、「アメリカや欧州の大企業がその動画に広告出したいと思う?」って基準で考えると自ずと答えは出てくるんじゃないかと思います。■「2ちゃんねるのどこが社会悪?」ひろゆきが振り返る平成ネット史■2ch創設者ひろゆき提言「キモくて金ないおっさんにウサギを配ろう」■「ネトウヨ夏のBAN祭り」ヘイト裁きをグーグルに訴える意味

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    「過激ユーチューバー」を抑えつけるカラクリ

    久保田康介(弁護士YouTuber) 私は弁護士登録をする以前、司法試験対策の講師として活動していました。その際、自分のユーチューブ(YouTube)チャンネルでサンプル講義をアップロードしていました。そうした講義をアップロードする中で、「弁護士がユーチューブで日々のニュース等を法律的に解説する動画をアップロードすれば、需要があるのではないか」と常々考えておりました。 そして、とある事件をきっかけに弁護士登録をすることになり、同時に「弁護士ユーチューバー(YouTuber)」としての活動を開始しました。 ユーチューブの広告収入は、動画の広告が表示・再生されることにより発生する仕組みとなっています。現在では、チャンネル登録者数1000人およびチャンネル全体の動画再生4000時間という基準をクリアしないと収益化することができません。つまり。この基準を満たさなければ入ってくるお金はゼロなのです。 私がユーチューブから受け取る広告収入は、月によって変動がありますが、おおよそ全国の新卒社員の平均額程度です。「弁護士ユーチューバー」として活動を始めた頃は、弁護士会費用(月額5万円ほど)を捻出できれば十分だと考えていたので、それを思うと結構な額をいただいている印象を受けます。 広告収入が多い日は(≒動画がたくさん再生された日は)、一日で10万円を超える収益が発生することもあります。その日が突然やってくることもあるわけですから、これはユーチューブドリームと言っても過言ではないでしょう。 ユーチューブにおいて、より多くの広告収入を得るためには、動画の再生回数を増やし、その動画内の広告の表示・再生回数を増やす必要があります。そうすると、注目を集めるために過激な動画を制作するユーチューバーが現れます。そうした過激な動画が、法律に違反していたり、モラル的に許容し難いものであれば、ユーチューブのコメント欄や他のSNS(会員制交流サイト)投稿などで多くの批判・批評を集めることになります。いわゆる「炎上」ですね。 例えば、「白い粉ドッキリ」という刑事裁判になっているケースがあります。これは、ユーチューバーが警察官の前でわざと白い粉を落として、慌てた様子でそれを拾い、全力で逃走することで、違法薬物だと考えた警察官がユーチューバーを追いかけるのですが、その様子をユーチューバーの関係者が撮影したという映像を動画としてアップロードしたものです。 この動画は、アップロードされた当日に約100万回ほど再生されたはずですが、上記ユーチューバーは逮捕され、上述のように現在は刑事裁判中です。 他方で、意図せずに炎上してしまうケースもあります。例えば、とある有名ユーチューバーが軽犯罪法に違反することを知らずに違反行為をしてしまったケースがあります。このケースでは、そのユーチューバーは数カ月間活動を自粛するに至りました。 炎上すると、コメント欄やSNS投稿を通じてさまざまな意見が飛び交います。中には、意見と誹謗(ひぼう)中傷を織り交ぜたようなコメントや、誹謗中傷するだけのコメントも大量に投稿されます。ユーチューバーが驚愕した事件 炎上中に動画投稿活動を行うと、さらに炎上が拡大することもあることから、炎上中のユーチューバーは謝罪動画をアップロードしたり、活動を休止することが多いです。 炎上をきっかけに、実被害をもたらすケースもあります。過去には、氏名・住所等の個人情報が特定・拡散されたり、過去のプライベートな内容を掘り起こされたり、勝手にユーチューバーの住所を宛先に着払いで物を注文されたりといった例があります。ひどい場合には、炎上したユーチューバーの実家を特定し、物を壊すなどといったケースもあったようです。 過激な動画には一定の需要があり、そうした動画を望む声もないわけではありません。現に、私は過激な動画について法律的な見解を示す動画を制作することがありますが、その動画に「ユーチューブがテレビみたいになってつまらなくなるからやめろ」といったコメントがつけられることがあります。 しかしながら、ユーチューブは規制強化に踏み切りました。近時のコミュニティーガイドラインの変更では、例えば、危険なチャレンジ・いたずらを内容とする動画が禁止されました。禁止の内容に興味をお持ちの方は以下のページをご覧ください。よくある質問:危険なチャレンジやいたずらに対するガイドライン変更に関して ユーチューバーのみならずユーチューブ自体も広告で収益を上げていることから、広告主の意向に背くことはできません。では、広告主が自らの広告を過激な動画につけてほしいかと言われれば、答えは「No」でしょう。結局、ユーチューブもテレビと同様に規制強化へと舵(かじ)をとらざるを得ないことは既定路線だったと言っても過言ではありません。YouTube本社=カリフォルニア州サンブルーノ(GettyImages) 数カ月前に、ユーチューブのコミュニティーガイドライン違反を理由として、とある有名ユーチューバーのユーチューブアカウントが削除されるという事件がありました。その事件は多くのユーチューバーを驚愕(きょうがく)させました。 その事件を受けてなのか、それとも規制強化を受けてなのかは分かりませんが、ユーチューブ全体の傾向として、現在は以前よりも過激な動画が減少しているとの印象を受けます。今後も、健全化とのお題目の下で規制強化が図られることは避けられないと思いますので、私もいちユーチューバーとして、たびたびコミュニティーガイドラインを確認することで自らを省みる必要があると感じています。■ 「ネトウヨ夏のBAN祭り」ヘイト裁きをグーグルに訴える意味■ 「#韓国人になりたい」インスタ女子はなぜ急増したのか■ テレビはYouTubeとネット番組に視聴者を奪われたのか

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    刺激とカネ「なりたい職業」ユーチューバーのジレンマ

    唐澤貴洋(弁護士) ソニー生命が2017年に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」の「中高生が将来なりたい職業」に、「動画投稿者」が男女ともにトップ10入りした。アンケートが示すように、YouTuber(ユーチューバー)や、ライブ配信アプリを利用する「17ライバー」といった動画配信を職業や生活の支えとする人々は、ここ数年で目立って多くなっている。 そのためには動画への広告設置が必要だが、YouTube(ユーチューブ)では、配信者が「パートナープログラム」に参加して、動画再生回数など一定条件をクリアしなければならない。その広告動画の再生を通じて、初めて広告収入を得られるようになる。 日本では、チャンネル登録者数が100万人を超えるユーチューバーが100を超えた。つまり、延べ1億人を超えるユーザーに対して、「トップユーチューバー」の影響力が及んでいるといえる。 そのようなユーチューバーは影響力の大きさから「インフルエンサー」とも評されている。場合によっては、テレビを通して影響力を持っていた「芸能人」よりも、若年層からの認知度が高く、多大な影響力を与える者が出てきている。 動画機材や企画構成、出演者、編集を自前で用意するという条件さえクリアできれば、ユーチューバーになれる可能性がある。ユーチューバーになっても、金を稼ぐには配信動画の質への是非や評価が求められるとはいえ、「芸能人」のようにどうすればなれるのかもわからない不透明な存在よりも、「なりたい職業」として認識されることも理解できないことではない。 しかし、ユーチューバーの中には、再生数の増加に応じた広告収入の増加を求めて、違法や有害な動画を掲載する者が後を絶たない。名誉毀損(きそん)行為やプライバシー侵害行為、人々の不安をあおる陰謀論、卑猥(ひわい)な表現、事実に基づかないフェイクニュース、暴力表現と、内容を挙げればきりがない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 果ては、動画の内容とユーチューブ上で表示されるサムネイル(縮小画像)の内容が異なるにもかかわらず、サムネイルで過激・過剰な表現を用いて視聴者を引き付けようとする、いわゆる「サムネイル詐欺」まである。地上波に肉薄「ネット広告費」 また、既に多数の登録者数を獲得しているユーチューバーが、その影響力を利用して、マッチングサイトの広告、怪しげな金融商品や情報商材の広告、投資の勧誘広告を行っている事実も見受けられる。「ユーチューブでは何をやっても再生数さえ稼げればいい」という誤った風潮がまん延し、違法・有害なコンテンツがユーチューブ上で氾濫してしまったという現実が存在する。 このような状況を生んだ要因の一つに、ユーチューブがテレビやラジオと異なり、放送基準の適用がないことが挙げられる。上記の動画は、既存のテレビやラジオでは到底放送することのできない内容である。事実、違法・有害動画の撮影中の行為で、刑事事件として立件された事例もあった。 ユーチューブの運営側もこの手の批判を知ってか知らずか、最近は違法・有害動画対策として、コミュニティーガイドラインの厳格化を図っているようだ。実際、違法・有害動画を投稿して、アカウントを停止されたユーチューバーもいる。 しかし、現在のユーチューブを見てみると、上記のような違法・有害コンテンツがいまだ多数存在しているのが現状である。たとえコミュニティーガイドラインが厳格化されても、ガイドライン通りに厳格運用される体制を整えていなければ、厳格化の意味がない。 このごろ、テレビの視聴率低下とネット動画配信の隆盛に伴って「テレビがつまらない」という意見をよく目にする。テレビは、これまでのさまざまな経験をもとに培われてきた放送ルールに従い、多くの人に害なく見られるコンテンツを作ってきた。 それゆえ、視聴者にとっては、表現としての刺激が物足りなく感じることもある。特に、違法・有害なコンテンツをネットで簡単に見ることができる現状の下では、テレビとの比較で、その物足りなさが際立ってしまっているところから生まれてきた表現であろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) その影響は広告費にも表れている。電通が発表した「2018年日本の広告費」によれば、地上波テレビの広告費が1兆7848億円で前年を下回った。一方で、インターネット広告費は1兆7589億円で5年連続の2桁成長を続け、地上波テレビの広告費に肉薄している。 つまり、ネットでのコンテンツ配信が利益になるというのは、もう否定できない事実である。この事実を前提として、コンテンツ配信者にどのように適切な配信に対する基準や倫理を持ってもらうかが、今後さらに問われている。「流行り廃り」じゃない だが、個人・法人を含めコンテンツ配信者を統括するような団体は見られない。このような現状では、コンテンツ配信のウェブ・プラットホーム(基盤)を運営する事業者(プラットフォーマー)による「自主基準」を頼りにせざるをえない。 しかし、プラットフォーマーにとっては、自主基準を厳しくした上で、その基準通りの運用を行えば、凡庸なコンテンツが増え、視聴者数や再生回数を稼ぐことができず、広告媒体としての価値の低下につながってしまう。自主基準の厳格化と企業収益の「緊張関係」をどう調節するかが、プラットフォーマーの「永遠の課題」となっていくのだろう。 ネット配信の収益化で忘れていけないのが、広告主や広告代理店の存在だ。昨年問題となった、差別的言動を掲載したまとめサイトや、海賊版サイト「漫画村」に対しても、広告掲載を行ったのはあくまで広告代理店である。 だが、このようなサイトで広告を掲載されることは、広告主からすれば本位ではないだろう。それでも、広告配信可能な媒体を抱えるアドネットワークサービスを利用して出稿している広告主において、自社広告がどこに掲載されているかを全て把握している企業がどれほどいるのか。 アドネットワークは、広告配信可能な媒体を多く抱えることで、より多くのインターネット利用者にリーチすることが可能となり、広告主から報酬を受け取ることができる。プラットフォーマーと同じジレンマを抱えるアドネットワークに自主規制を求めることには、おのずと限界がある。 だからこそ、広告主としては、自社のコンプライアンス(法令順守)に従った広告出稿先の選定、チェックを行うことが求められていく。違法なコンテンツに収益を提供し、権利侵害を拡大させるようなことは、当然企業倫理からして許されるものではないからだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) ユーチューバーを取り巻く問題は単に「流行り廃り」の話題ではない。根底には、コンテンツ配信の適正化と広告の問題が存在しており、今後も注視していかなければならない問題なのである。■ 「ネトウヨ夏のBAN祭り」ヘイト裁きをグーグルに訴える意味■ 「#韓国人になりたい」インスタ女子はなぜ急増したのか■ テレビはYouTubeとネット番組に視聴者を奪われたのか

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    ピエール瀧、出演作品の相次ぐ自粛「それでも起用」となぜ言えない

    上で、人気コメディー女優の降板と番組打ち切りを決断した。 一方でバーの謝罪を受け入れ、起用を継続したメディアもあった。海外ではおおむね「ケース・バイ・ケース」で各社が自主判断をしている印象が強い。日本では、逮捕時点で関係する企業が一斉に「右にならえ」で自粛決定をしているように見える。 実のところ、日本人というのは、このケース・バイ・ケースが苦手な民族だ。筆者は日本とマレーシアを拠点として仕事しているが、多民族国家から見る日本人は「清潔でマナーが良く、仕事をきちんとする」と評判が良いが、「マニュアル以外になると臨機応変の対応が苦手」という印象を持たれることが多い。 本来、各自の判断で決めればよいものでも、「みんながそうやっているからウチも」とする風潮があるのは確かだ。だが、裏を返せば、多様な姿勢を認めにくい社会を反映しているともいえる。 そういう意味では、一部報道にあった瀧容疑者の出演映画『麻雀放浪記2020』が出演部分をカットせず、予定通り公開する方向で調整するという判断は興味深い。同じく公開を控えていた映画『居眠り磐音』が代役を立てて登場シーンを撮り直すことを決めている。映画という有料コンテンツである以上、観客である消費者に判断が委ねられるわけで、「収録済みで公開予定の作品」の対照的な「意思」に注目が集まることだろう。2019年3月13日、関東信越厚生局麻薬取締部が入る九段第三合同庁舎から出てくるピエール瀧容疑者(佐藤徳昭撮影) 自粛を決めた日本の各企業も、それぞれ強いメッセージを打ち出したらどうだろう。例えば「わが社は、いかなる種類の犯罪行為も、社会秩序を守る観点から社会的制裁を受けることもあるというメッセージを発信するため、それが被害者のいない犯罪であったり、『推定無罪』の段階であったりしても、著名人による影響の大きさを考えて、苦渋の決断で暫定的に販売中止を決定しました」と発していたら、その決断自体は現在よりも尊重される可能性も高くなる。議論の余地がある話であれば、起用側による意見発信で、判断基準を形成していくことにもつながるのではないだろうか。■なぜASKAは再び覚醒剤を使ってしまったのか■ASKAが覚醒剤から解放されるためのヒント■NHK『トクサツガガガ』私が一瞬、涙目になったワケ

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    「スイッチが入った政治家」安倍晋三のリベンジ

    ャーナリズムを手玉に取って長期政権を実現した。その明暗は鮮烈だ。政治コミュニケーションの観点からは、メディア化した政治に再チャレンジして見事に対応した世界的にもまれなケースだと思われる。 1990年代に入り、「政治のメディア化(mediatization of politics)」という議論が欧州でも登場してきた。政治におけるメディア、特にテレビの影響力が高まってきたという話である。 20世紀後半において、政治の中心は組織や団体にあったが、それらの影響力が弱くなっていく中、人々はメディアを通じて政治的な情報を得るようになっていった。一方、メディアは政府の規制から自由になり、ジャーナリズムや商業主義など自分たちの論理(media logic)で報道するようになった。特に、基幹的なマスメディアに成長したテレビにおいては「絵になる」ことが重要になっていく。 それらの流れが20世紀末に出会うことで、政治におけるメディアの重要性が増し、テレビで政治家がいかに映し出されるかが重要になってきたという議論だ。 イタリアのベルルスコーニ元首相、フランスのサルコジ元大統領、英国のブレア元首相などが「政治のメディア化」に対応した政治家ということになろう。日本においても平成に入り、テレビの政治的な影響力が強くなってきた。 平成の日本政治は消費税導入とリクルート事件から始まり、政治改革が大きなテーマとなったが、そこにはテレビの強い政治的影響力が働いた。日本における「政治のメディア化」の始まりだ。 それに対して、海部俊樹元首相や細川護熙元首相、小泉純一郎元首相などが「政治のメディア化」という状況に対応した首相像を演じた。特に、小泉氏は55年体制的な組織や団体を忌避する世論が強まっていた中で、テレビ上の自身のイメージを巧みに演出して政権を維持した。そういう意味で、小泉氏は「テレビ政治家」の最たる存在であり、日本政治史上「政治のメディア化」に最も巧みに対応した首相であったといえる。2006年9月、両院議員総会で自民党新総裁に決まり、笑顔を見せる安倍晋三官房長官(右)と小泉純一郎首相(大井田裕撮影)  その小泉氏の後を次いで登場したのが安倍氏だ。だが周知のように、2006年からの第1次政権において、安倍氏は世論対策にもマスメディア対策にも失敗した。第1次政権「失敗の理由」 第1次安倍政権は、先代の小泉氏が「個人芸」で対応していた「政治のメディア化」の状況に、ホワイトハウス型のチームで挑もうとした。その象徴が補佐官制度であったが、この試みは内部に軋轢(あつれき)を生じ、結果的に失敗する。 また、政策面でも、安倍氏が重要だと位置付けたさまざまな政策を性急に行おうとしたことも、国民世論との乖離(かいり)を招いた。彼自身、第1次政権の失敗について以下のように振り返る。 「戦後レジームからの脱却」という大きなテーマを掲げ、幸い衆議院の多数がありましたから、やらなければいけないことを今のうちにどんどん進めようという気持ちが強かった。教育基本法の改正、憲法改正のための国民投票、公務員制度改革-。しかし、私がやりたいことと、国民がまずこれをやってくれということが、必ずしも一致していなかった。そのことがしっかり見えていなかった。私が一番反省しているのは、その点です。(中略)私としては、国民の関心の有無にかかわらず、今、自分がやるべきだと思うことをやるのが正しいんだと、そう考えていました。祖父の岸信介は安保改定の意義が十分に理解されていなかったとき、「俺の信念は正しい」と、国会を十重二十重にデモ隊に囲まれようとも貫き通した。私もそうあるべきだと思っていたんです。(中略)でも、大きな政策を実行するには国民の理解を高めていくことが重要ですが、それには時間がかかる。時間がかかることに取り組むためには、まず政権を安定させ、継続させなければならない。これが前回辞めて、初めてわかったことです。「阿川佐和子のこの人に会いたいスペシャル 安倍晋三首相VS.阿川佐和子」『週刊文春』2013年5月2日号 当時はテレビの政治報道も元気な時期だった。2005年の郵政選挙で小泉氏がテレビを利用したことの反作用だったか、テレビも政治をより気軽に扱う「政治のメディア化」が頂点に達していた。 テレビ番組では国会議員たちがちょんまげ姿で政局劇を演じ、芸人たちが議員たちを怒鳴り飛ばしていた。その中で、世論と違うことを行おうとした安倍氏は「KY(空気が読めない)」と揶揄(やゆ)されるようになった。 その後、安倍内閣は年金問題や国会議員のスキャンダル・失言の中で参院選に敗北し、敗北後はマスメディアによる「辞めろ辞めろ」の批判の中、体調を崩して退陣した。昭恵夫人は以下のように当時を振り返る。 2007年の参議院選挙の後からというのは、わたしたちにとって公邸での生活は地獄のような日々だったんです。毎日やらなくてはいけないことがある一方で、主人の体調がどんどん悪くなっていく。そういうなかで批判も多くなるし、外国訪問にも行かなくてはならない」「父のあとを継いで、とんとん拍子に総理にまでなってしまっていたので、持病があったとはいえ、あの辞任は初めての大きな挫折だったと思います。安倍昭恵「妻から見た『素顔の安倍晋三』」『新潮45』2013年9月号 ところが、5年間の雌伏を経て、安倍氏はカムバックする。マスメディアの政治部も含め、ジャーナリズムからはほぼノーマークからの総裁選の出馬と当選、そして首相就任であった。2006年9月、就任会見に臨む安倍晋三首相。右手奥には小池百合子氏など首相補佐官が並んだ(大西史朗撮影) カムバック当時、筆者がマスメディアの記者たちと話していると「また、安倍が出てきたけど、どうせ腹が痛くなってやめるんだろう」とか「オレたちがまた痛い目にあわせてやるぜ」といった雰囲気が強かった。政治学者の多くも安倍政権の「高転び」を予測していたと思う。しかし、その雰囲気はすぐに一変し、安倍氏は戦後最長はもとより、憲政史最長の在任期間を迎えようとしている。挫折を糧に「変わった」 かつて「政治のメディア化」への対応に失敗した安倍氏が、なぜ長期政権を実現できたのか。成功の要因には昭恵氏が指摘するように安倍氏自身が挫折を糧に「変わった」ことが大きい。 人間って、やはりドンと落ちたときに、何かが変わるのではないかと思うんです。主人について、そこで何が変わったか、と言われると、わたしも具体的に言うのは難しいのですが、主人の中で何かスイッチが入ったのは、確かだろうと思います。 前回の辞任以来、人事にしても動き方にしても、自分の中で『こうすればよかった』という思いがある。それを五年間考えてきたようです。(中略)特に野党時代は時間が比較的自由になって、座禅に行ったりランニングなどもしていました。いろんな人にいっぱい会いましたし、たくさん本も読んでいました。この五年間は大きかったようです。安倍昭恵「妻から見た『素顔の安倍晋三』」 それでは、どのように変わったのか。政治コミュニケーションの面で第2次政権以降の変わったところは大きく二つある。 第一は、経済政策の「前景化」だ。2012年の総選挙で政権に復帰した安倍氏は「経済再生」を第一のテーマに掲げた。具体的には、日本銀行の超低金利政策による「アベノミクス」で景気を演出し続ける。 経済という国民の関心の高いものに対して手を打って、株価や失業率の改善など目に見える「結果」を出して政権を安定させ、継続させる。第1次政権の反省がもたらした、再チャレンジ成功の最も基本的な要因である。 加えて、政治コミュニケーションに携わっている人物の構成も長期政権化の大きな要因となっている。第2次政権では、首相官邸の有様は第1次政権のホワイトハウス型から従来型に戻るが、そこに登用された政権のコミュニケーションを支えている人々は安倍氏との深い人間関係で結ばれ、かつ「メディア化した政治」の洗礼を受けた人々である。この間、苦い思いをたっぷり味わってきた。  麻生太郎副総理兼財務大臣は、首相時代に「解散やらないKY」「漢字読めないKY」などとテレビなどで揶揄されて支持率を大きく減らし、衆院選で敗北し民主党に政権を譲った経験を持つ。菅義偉(よしひで)官房長官も第1次安倍政権での総務相を経て、自民党の選挙対策総局長、選挙対策副委員長(福田内閣)、同委員長代理(麻生内閣)として、この間の「政治のメディア化」、特にマスメディアによる選挙時の「攻撃」を責任者としてつぶさに体験している。菅氏の総務相時代にもテレビ番組への行政指導が多数出された。2019年2月、参院本会議で立憲民主党の福山幹事長の質問を聞く(左から)菅官房長官、茂木経済再生相、麻生財務相、安倍首相 また、官邸で政権を支える官僚たちも、第1次政権では事務担当秘書官として広報を担当した今井尚哉(たかや)政務担当首相秘書官を筆頭に、第1次政権での挫折と屈辱を安倍氏とともに味わった者たちが中心である。その点では、現政権は第1次政権で、マスメディアと大衆に傷つけられたエリートたちの「リベンジ政権」だともいえよう。 もちろん、その他の外部環境的な条件も大きい。何と言っても、野党の力が弱く、自民党にも強いライバルがいない。そのため、さまざまな批判はされるものの、「よりどころ」が存在せず、政局には結びつきにくい。地獄から這い上がった「根性」 また、インターネット、中でも会員制交流サイト(SNS)の登場によるメディア環境の変化も、マスメディアの力を相対化している。加えて、マスメディアの政権に対する論調が分かれていることも、メディアの力を削いでいる。また、政権がメディアの報道によって5年で5人も変わるという「政治のメディア化」に対する倦(う)みも国民の間にあるのだろう。 とはいえ、2017年の解散総選挙前に巻き起こって消えた「小池旋風」に見られたように、メディアが政治に強い影響力を与える「政治のメディア化」の状況が終わったわけではない。 そもそも「政治のメディア化」は、団体や組織といったリアルな結びつきが弱体化した中で進行していったのである。事実、労働組合や農協といった55年体制下の中心的な団体の組合員数や自民党の党員数も本格的な回復は見られない。 その点で、ネットを含めてメディアが政治のイメージをどのように伝えるかは、依然重要なポイントである。安倍氏が民主党政権時代を批判し続けたり、「アベノミクス」「三本の矢」「まち・ひと・しごと創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人づくり革命」とさまざまなキャッチフレーズを唱え続け、自らの仕事ぶりをアピールすることも必要性も理解できよう。 これらの言動に対しては「5年もたっているのに民主党を批判し続けるのはおかしい」とか「『やってる感』を演出しているだけ」との批判もある。しかし、メディアによって地獄を見た安倍氏にとっては馬耳東風の批判だろう。 むしろ、問題は、野党または自民党の中に「スイッチが入った」政治家がいないのかということだ。敗北を敗北として捉え、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、次に向けて勉強し、仲間を維持し、(再)チャレンジを試みる。そういう政治家は見つかるのだろうか。 正直、安倍政権の政策や政権運営にはおかしいと思うところも多々ある。しかし、第1次政権末期、テレビや新聞のマスメディアと2ちゃんねる(現5ちゃんねる)などのインターネットが一緒になって、批判や揶揄、嘲笑を行っていた。いわば「一億総軽蔑」ともいえる「地獄」の中で退陣を余儀なくされたところから、5年の充電を経て、一気に政治的頂点に復活した安倍氏の根性は正面から評価されるべきだと思う。2014年9月、「まち・ひと・しごと創生本部事務局」の看板を掲げる(左から)石破茂地方創生担当相、安倍晋三首相、菅義偉官房長官(代表撮影) しかも、政権復帰に伴い、かつての部下などがある意味、退路を断って脇を固め、自分たちの失敗経験を生かしながら長期政権に寄与する。このような人間関係の持ちようも、政権運営術や政治コミュニケーションの観点からは、きちんと評価されるべきだろう。 政治にせよ、政治コミュニケーションにせよ、「天下一人を以て興る」(中野正剛)にせよ、すべて一人でできるわけではない。「ポスト安倍」を準備している「スイッチが入った」者がいるのか、日本の政治コミュニケーションの課題である。

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    「菅長官vs望月記者」バトルの波紋

    東京新聞の望月衣塑子記者と菅義偉官房長官のバトルが続いている。度重なる官邸側からの申し入れにも「報道の自由の侵害だ」と真っ向から反発する。そんな彼女を支える勢力の中には、これを倒閣運動の足掛かりにしたいとの思惑もアリアリだ。それだけに話はややこしくなるばかりである。

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    「今の記者クラブはバカの集まり」官邸vs望月記者、舛添要一の苦言

    舛添要一(前東京都知事、元厚生労働大臣) 記者会見での質問の在り方について、菅義偉(よしひで)官房長官と、東京新聞社会部の望月衣塑子(いそこ)記者、そして彼女が所属する東京新聞との間で応酬が続いている。私も厚生労働大臣、東京都知事として記者会見を行ってきたので、そのときの経験も踏まえながら、今回のバトルについて記してみたい。 第一の論点は、政府の記者会見とはどういうものなのか、また質問とはどういうものなのかという問題である。 官房長官の側に立てば、それは記者の質問に答える場ということになる。言うまでもなく、記者の意見を政府が拝聴する場ではないし、質問する記者が事実誤認をしていれば、そもそも質問そのものが成り立たない。 森友・加計学園問題や、米軍普天間飛行場の移設先である名護市辺野古沿岸部の埋め立て工事問題などをめぐる望月記者の質問に関して、2017年9月1日以来、官邸は繰り返し東京新聞に申し入れを行っている。むろん、東京新聞側もその都度回答している。 そして、昨年12月28日、官邸は上村秀紀報道室長名で内閣記者会に対して文書を出した。「東京新聞側に対し、これまでも累次にわたり、事実に基づかない質問は厳に慎むようにお願いしてきました」として、「当該記者による度重なる問題行為については、総理大臣官邸・内閣広報室として深刻なものと捉えており、このような問題意識の共有をお願い申し上げる」と要請した。2019年2月、首相官邸で開かれた菅官房長官の記者会見で、質問中の東京新聞の望月衣塑子記者(手前)に注意を促す上村秀紀報道室長 これに対しては「取材の自由への侵害」などとして新聞労連が抗議声明を出したり、弁護士やジャーナリストらが文書撤回を要求したりしている。 この点に関して、まずは記者の意見と質問とは混然一体としていることが多く、明確に線引きできるものではないことを指摘したい。例えば、「米朝首脳会談で合意に至らなかったことは失敗だと思うが、その失敗の理由は何だと思うか?」という質問をする記者に対して、「自分の意見を言った」と非難することはできないであろう。 答える側が「自分は失敗だと思わない。その理由は…」と答えれば済む話だからである。したがって「会見は意見を言う場ではない」という主張はあまり説得力がない。質問の「介入」は適切か また、記者の事実誤認については、もしそうであれば、誤りをきちんと指摘し、正しい事実を伝えればよいだけの話である。答える側にすれば、間違った事実を質問されれば、それを利用して正しいことを伝える機会にすることができる。 また、そもそも記者が「事実誤認」などという初歩的ミスをするということは、自分の説明が十分でなかった、あるいは誤解を招くような下手な説明であったと反省する材料にもなる。 以上は一般的なコメントであり、私が望月記者の質問を毎回細かくチェックしているわけではないので、彼女の言動が「度重なる問題行為」に相当するのかどうか判断できない。ただ、官邸がそこまで断言するのには、それなりの根拠があるのかもしれない。 この点で参考になるのが、米国のトランプ大統領の記者会見である。彼は記者の質問に答える以前に、自分と意見の異なる記者からの質問に対しては、「フェイクニュース」と断罪し、次の回からはその記者を指名しない。 もし、日本の政治家が「トランプ流」の受け答えをすれば、非難の嵐となろう。2年前、今村雅弘元復興相が記者に対して「(会見室から)出て行きなさい!」と激高して批判されたが、それが「日本の風土」である。 第二の論点は、望月記者の質問中に、官邸報道室の上村室長が「簡潔にお願いします」「質問に移ってください」などと、何度も質問を遮ったという点だ。この点については、上村室長の介入が適切か、あるいは表現の自由を阻害するような類いの不適切なものか、判断が必要である。 そして、記者については、一定の品位を保った質問をしているか、質問に関連することを十分に調査し、勉強しているか、ということが問われることになる。 東京新聞側から見れば、上村室長の介入は「限度を超えている」という見解であろう。また、官邸側から言えば、望月記者は記者会見で「最低限守るべき礼儀を欠いている」という理屈になる。2019年2月28日、ハノイでの米朝首脳会談を終え、記者会見する米国のトランプ大統領(左)とポンペオ国務長官(共同) ベトナムの首都、ハノイで開催された米朝首脳会談の最中、ワシントンではトランプ大統領の元個人弁護士、マイケル・コーエン被告が下院の公聴会で証言したが、ハノイでこの件について質問した4人の記者が、首脳会談と無関係なことを質問したとして、記者会見への参加を拒否された。これは、ホワイトハウスの権限で行われたものである。官邸側も、できれば望月記者をつまみ出したいというのが本音だろう。記者クラブは「甘えの構造」 第三の論点は、前述した第二の論点にも関連するが、そもそも記者クラブ制度は必要か、そして役所の報道担当(今回は官邸報道室)と記者クラブの関係はどうあるべきか、という問題とも直結する。 以上の3点について、私自身の経験も踏まえて答えると、まず記者クラブ制度は本来果たすべき機能を果たしておらず、存在する意味がなくなっているように思う。品位に欠ける言動や、長すぎる質問時間、何度も同一人物が質問を繰り返すといった行為は、記者クラブがしっかりしていれば、未然に防げるはずである。 望月記者への申し入れは、本来は内閣記者会が行うべきである。定期的に代わるにしても、責任を持つ幹事社が記者クラブ加盟社の中にいるはずである。それができていないというのは、記者クラブが自治能力を失っていることを意味するに等しい。 もともと記者クラブは「甘えの構造」であり、取材先である諸官庁に場所を無償で提供してもらっている。それは、「報道の自由」という「錦の御旗」の威光をかさに着ているからである。 そして、役所側が無償で便宜を供与するのは、その見返りがあるからである。言い換えれば、権力側からの「情報操作」が可能であることを意味する。 国務大臣などの権力者になると番記者がつく。政治家の立場からは、彼らをどう味方につけるかが腕の見せ所となる。官房長官会見を見ていても、明らかに権力側に取り入ろうとする記者が何人かいて、率先して質問する。むろん彼らから見れば、望月記者は異端に映るだろう。2019年2月25日、定例会見に臨む菅義偉官房長官(春名中撮影) 記者の長すぎる質問や事実誤認をその場で注意すべきは、役所内、つまり官邸の報道室長ではなく、記者クラブの幹事社のはずである。だから、報道室長が介入するというのは、記者クラブに自治能力がないことを意味する。 東京都庁の場合、報道担当責任者は「記者クラブ主催ですから、何もできません」と全く関与しない。知事が術後で健康状態が悪いことを知らされていながら、会見時間が3時間に及んでも知らん顔していたこともあった。まさに文革の「紅衛兵」 はっきり言って都庁記者クラブは自治能力がなく、時間管理も質問管理もできない。また、ミニコミ紙やインターネット、フリーの記者と制限なく入室させている。「わが記者クラブは自由ですから」という触れ込みだが、人権尊重の念も、品位も礼儀もなくても、「記者」と称すれば誰でも入れる。まさに、中国の文化大革命の「紅衛兵」と五十歩百歩と言えよう。 また、記者の不勉強も度を超している。税制や予算の説明をしても、質問すら出ない。たまりかねた私は都知事時代、ある全国紙の社会部長に「若い記者にもう少し本を読むように言ったどうですか」と提案したが、「わが社会部は馬鹿の集まりですから、知事さん、無理ですよ」という答えであった。 そこで、記者の勉強の助けにと思って、私が知事になってからは、記者に公表期限付きで事前に資料を説明させるよう職員に指示した。そうでもしない限り、記者会見で重要政策の説明をしても、理解する意欲も能力も欠けているのである。 都庁記者クラブは、社会部記者が仕切っている。ちなみに、望月記者も社会部所属だが、なぜ政治部記者が中心の官房長官会見に毎度顔を出しているのか、正直よく分からない。 私が厚労相の時には、よく勉強する番記者が集まっていて、役所が出さないデータを発掘して質問される機会がよくあった。また、彼らは「夜討ち朝駆け」で早朝から深夜まで自宅に来て、年金記録問題や薬害肝炎訴訟対応などの政策について、繰り返し質問されたものである。 ところが、都庁では記者会見の場でも、一部の例外を除いて、難しい政策課題には質問が出ず、時間を持て余していた。また、都の政策に関する取材で、私の自宅まで来た記者はまずいない。霞が関から新宿に移ったとき、それこそ記者クラブ文化の違いを肌で感じた。2008年8月、福田改造内閣での留任が決まり、記者会見で抱負を述べる舛添要一厚生労働相(飯田英男撮影) いずれにしても、記者クラブの在り方や、クラブと役所の癒着などにメスを入れるべき時期に来ている。日本では司法とマスコミは聖域にように扱われ、まさに「甘えの構造」の根源となっている。 前者は日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告の長期勾留で国際的に批判を浴びており、それが改革のきっかけになる可能性がある。今回の「菅長官vs望月記者」のバトルが、後者の大改革につながることを期待したい。

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    記者会見で失言や醜態を晒した政治家たちの「器量」

    れる。 河野外相が、先日の記者会見での自らの不作法を謝罪した。遅きに失したというべきだが、愚弄されたメディア、憤慨した国民は矛を収めるかもしれない。しかし、一件落着とまでは言い切れまい。北方交渉に関する質問を無視したことが、ロシア側につけ入る隙を与えることにならないか。そうなって国益を損なったとしたら、謝罪では済まない。 今回の騒ぎによって、過去のいくつかの記者会見を想起させられた。いずれも、政治家や政府高官が失言や問題発言、醜態を晒して物議を醸したケースだ。そのせいかどうか、不幸にして、当事者たる政治家たちはその後、いずれも声望を取り戻すことなく、表舞台から消えていった。 今月15日の外相のブログは、11日の記者会見での対応について「お詫びしてあらためる」と陳謝し、「いつものように『お答えは差し控える』と答えるべきだった」と反省の弁を開陳。「交渉に影響が出かねないことについて発言を控えていることをご理解いただきたい」と釈明した。 最初からそうしていれば、記者団を失望させることはあっても、反発、怒りを買うことはなかったろう。 外相はこれまでも、対露関係については、省内でのインタビューや夜回り取材で、聞こえないふりをしたり、とぼけたりすることを繰り返してきたという。今回の態度は予想されたことではあった。韓国と電話会談し、記者団の取材に応じる河野太郎外相=2019年1月、東京・霞が関の外務省(松本健吾撮影) それに加えて、首相官邸主導で進められて領土交渉の「責任者」に、アルゼンチンでの日露首脳会談で急きょ指名されたため、過剰なほどの慎重姿勢を取ったとの見方もささやかれている。 日本政府がこれまでの「4島返還」から「2島返還」に方針を転換したと伝えられていることもあって、交渉がきわめて微妙な時期にきていることはまちがいない。それだけにだけに、氏の態度に関する推測も的外れと言えないかもしれない。 外相が無視した質問は、「(北方領土は)第2次大戦の結果、ロシア領になったと日本は認めるべきだ」というラブロフ外相の発言についてだった。一切言葉を発することなく無視すること4度、「次の質問どうぞ」を繰り返した。日米関係を損なう発言も 北方領土問題での過剰な慮りは、ロシア側に都合のいい解釈をさせることにならないか。今後の交渉の場で、「責任者」の外相がいくら理詰めでわが方の主張を展開しても、「あなたは国民に説明する場で何の反論もしなかった」などと先方が攻勢に出てくる可能性もあろう。牽強付会な解釈を持ち出し、片言隻句をとらえて交渉を紛糾させることが、旧ソ連時代からの常套手段であることを考えれば、取り越し苦労とばかりは言えまい。少なくとも、宣伝材料に利用される恐れはある。 こんどのように国民が驚き呆れた記者会見といえば、比較的高齢の人なら覚えているだろう。1972(昭和47年)6月17日の佐藤栄作首相の退陣会見。佐藤氏はテレビを通じて直接国民にお別れの挨拶をしようとしたところが、首相官邸の会見室に新聞社を含む記者団がいたため、にわかに機嫌を損ねた。「新聞はウソを書くから嫌いだ」と暴言を吐き、追い出してしまった。たったひとり、ガランとした会見室でカメラに語りかける姿は異様に映った。在任中、いやなことまで遠慮会釈なく書き立ててきた新聞への恨みつらみを、最後の最後に押さえきれなくなったようだ。7年8カ月という長期政権、沖縄返還など多くの実績をあげた総理大臣には似つかわしくない児戯に類する態度だった。 もっとも、佐藤会見は個人的な鬱憤晴らし、新聞への侮辱ではあったが、それ自体、国益を損なうものではなかった。 深刻だったのは1981(昭和56)年5月の鈴木善幸首相(当時、故人)のケースだ。 首相は大型連休を訪米してレーガン大統領(同)と会談、5月8日に発表された共同声明に初めて「同盟」という言葉が盛り込まれた。いまでこそ、日米関係の代名詞になっているが、当時としては画期的なことだった。 そのせいでもあるまいが、首相は発表直後の記者会見で、「(同盟という言葉に)軍事的意味合いは全くない」と言い放ち、「自由と民主主義、市場経済体制を守るということだ」と理解不能な説明をして、日米両国をびっくりさせた。 外務省は最初から軍事的側面を含むという立場であったことから、首相との関係がぎくしゃくし、外務省高官が堂々と首相を批判するなど対立が先鋭化した。首相は、会談前に共同声明がとりまとめられるなど、その作成方法をめぐっても不満漏らし、これに抗議した伊東正義外相(同)が辞任する騒ぎに発展した。新聞記者の引き上げた会見場で、テレビカメラに向かって退陣の所信を表明する佐藤栄作首相=1972年6月17日、首相官邸 政府は「軍事的側面をもつことは認めるが、あらたな意味合いを付加したものではない」という統一見解で沈静化を図ったが、米国の当惑は少なくなかった。「〝同盟〟は米国が日本に押しつけたものではない」、「軍事的な側面は含まれるが、ことさら振りかざすつもりはない」などと釈明、当惑を隠せなかった。 米政府は実質よりも形式にこだわる日本の姿勢に失望と強い疑念を抱き、その後長い間にわたって日米間のしこりとなった。天皇を政治利用? 鈴木首相は自ら率いる派閥(宏池会、池田勇人元首相創設)の伝統から〝平和主義〟へ強い憧憬をもっていたといわれ、事務方の手で自らの考えとは異なる方向に進んでいくことに我慢がならなかった、という見方もある。行政府の長として指導力を発揮すればよいものだが、それをできないところに限界があった。 鈴木氏は在任2年の翌年秋、総裁選で再選確実とみられていたにもかかわらず、政権を投げ出す形で突然、退陣を表明した。 天皇まで巻き添えにした失言もあった。1973(昭和48)年5月の増原恵吉防衛庁長官(同)の「内奏問題」がそれだ。 増原長官は5月26日、昭和天皇に「当面の防衛問題」についてご進講。終了後、記者団に対し、あろうことか、陛下とのやりとりを漏らしてしまった。氏によると陛下は「近隣諸国に比べて防衛力が大きいとは思えない。国会でなぜ問題になるのか」と疑問を示された。長官は「おおせの通りでございます。専守防衛であり、野党から批判されるものではありません」とお答えしたという。 陛下と会話を明かすことは、たとえ雑談であっても許されないことだが、ご丁寧にも、当時難航していた防衛2法案(防衛医大設置、自衛隊改組など)の審議に向けて「勇気づけられた」とやったものだから、「天皇を政治的に利用した」と猛烈な批判を浴びた。反論の余地はなく、増原氏は即座に辞任に追い込まれた。昭和天皇も迷惑されたことだろう。 氏は前年夏、岩手県上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突、旅客機の乗客・乗員162人が死亡した事故(雫石事故)当時の防衛庁長官。その責任を取って辞任し、その翌年に返り咲いたものの、自身の不祥事で2度目の辞任を余儀なくされる結果になった。 行政管理庁長官、北海道開発庁長官(当時のポスト、いずれも閣僚)などを歴任したベテラン政治家だったが、その後、入閣することはなかった。 1996(平成8)年暮れから翌年春まで続き、筆者も現地で取材したペルー・リマの日本大使公邸占拠事件。リマを訪れた日本の外務大臣(当時)の狼藉ぶりも忘れられない。日本大使公邸占拠事件。ペルーで会見する池田外相=1997年4月、オリバーツホテル(代表撮影) 外相は11月17日の事件発生直後に到着、解決に向けて指揮を執っていたが、22日の記者会見で、滞在日程などを聞かれたことに激高。会見後、質問した産経新聞記者を呼び出し、「この野郎何で質問した。人命がかかっているんだ」と怒鳴り、やりとりをメモしていた他社の記者のペンを振り払った。大臣とは思えない野蛮な行為だが、日程が犯人グループであるテロリストに知られ、交渉相手に引っ張り出されかもしれないことを恐れたからといわれている。「大人気なかった」と謝罪したが、事件直後、状況もわからぬまま現地に派遣された戸惑い、不安があったとみる向きもある。クリントン氏もウソで窮地に 外相は、首相を経験した有力政治家の女婿。その後も自民党役員などを歴任したものの目立った活躍はできなかった。岳父が創設した派閥の跡目を継ぐこともかなわず、ほどなく議員在職中に亡くなった。 海外のケースでは、不倫・偽証疑惑を真っ向から否定したビル・クリントン元米大統領の会見だ。 自分の娘といくつも年の違わないホワイトハウスの元実習生との不倫関係を暴露された直後の1998年1月26日の記者会見、「私は、あの女性といかなる性的関係ももったことはない。この申し立てはウソだ」と強弁した。ワシントン特派員だった筆者は、テレビで見てすぐに東京に送稿したが、その時のクリントン氏の恐ろしい形相は忘れられない。後ろめたいことがあると、人はあのような表情になるのか。 ウソをついていたのは「あの女性」ではなく、自分であることを認めざるを得なくなり、これも一因となって、米憲政史上2人目の弾劾裁判という不名誉な事態に追い込まれた(1999年2月、上院で無罪票決)。 あの場で不倫の事実を認め、率直に謝罪していたら、その後の厄介な展開はあり得なかったろう。 話を河野外相に戻す。ブログでの発言だけでは、あの時、どういう心境だったのかは、よく理解できない。ムシの居所が悪かっただけなのか、われわれの及ばない深慮遠謀があったのか。はたまた、不勉強、同じ質問を繰り返し、時に居丈高になる記者団に辟易していたのか。それなりの理由があるなら、さらに説明を望みたい。外相は今週水曜日、19日に日本記者クラブで会見する予定で、この場で何らかの発言があるかもしれない。 今回の問題は、記者会見というもののあり方に一石を投じるかもしれない。IT時代の昨今、政治、経済を含む多くのイベントがネット中継され、ビューアーから即時に反応が返ってくる。テレビで放映されず、されても仕事で見られない人たちのために、記者が代表して会見に出席し、読者、視聴者に伝えるという従来のスタイルも変化を迫られている。いま以上に開かれた〝国民会見〟になることも予想される。どのとき、当局はどう対応し、メディアはどういう役割を果たせばいいのか。 新しい時代の会見のあり方を模索する契機になるかもしれない。かしやま・ゆきお 産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

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    先鋭化するトランプ大統領のメディア攻撃

    斎藤彰(ジャーナリスト、元読売新聞アメリカ総局長) 米中間選挙を前に、トランプ・ホワイトハウスのメディア攻撃が先鋭化してきている。政権運営に対する批判を極力封じ込めると同時に、超保守的な支持基盤固めを意図したものだが、新聞社やジャーナリスト個人が一部の過激なトランプ支持者の脅迫電話、メール攻撃にさらされるなど、両者の関係は緊迫の度を高める一方だ。 去る8月30日、FBI(米連邦捜査局)はカリフォルニア州エンチノ在住の68歳の男性を脅迫容疑で緊急逮捕した。男の自宅からは20丁のけん銃、ライフル銃なども押収された。 「ニューヨーカー」誌電子版によると、男は東海岸のボストン・グローブ紙が、最近メディア攻撃を強めつつあるトランプ大統領を糾弾する社説を掲げたことに腹を立て、同社編集局宛ての電話で「お前らは『人民の敵』だ。一人ずつ殺してやる」などと脅迫した。 たまたま同じ日の数時間前には、トランプ氏が自分のツイッターでCNN,NBC両テレビ局の経営者に名指しでかみつき「大半のメディアの不正直な態度はいくら強調してもし過ぎない。いつも私のことについて匿名ソースを使ってでたらめ報道をしている。この中にはフェイク・ブックも含まれる。『人民の敵』だ!」と非難したばかりだった。逮捕された男はそのタイミングからみて、大統領のツイートで触発された可能性を否定できない。 このほか、8月22日には、AP通信ロサンゼルス支局に別の人物から「いずれお前らクソったれどもをぶっ放してやる」といった殺害予告電話が入ったほか、同月初めにはペンシルバニア州ステートカレッジの「ドン」と名乗る男からC-spanテレビ局に電話があり「CNNテレビのドン・レモンとブライアン・シェルターを撃つ」といずれも著名な放送記者を名指しで脅迫してきた。MSNBCの女性キャスター宛てには「あんたがレイプされ殺されるといいのだ」と記した差出人不明の手紙も届いているという。 このようなマスメディアに対する脅迫やいやがらせは、ここ半年の間にとくに増えつつあるが、同じ頃からエスカレートしてきた大統領個人による先鋭化したツイートなどによる攻撃と機を一にしているとみられる。 その特徴は、段階的に3つに分類できよう。 昨年1月ホワイトハウス入りする前後から、トランプ氏がテレビや新聞報道批判に乗り出した当時、もっぱら好んで使われた言葉は「フェイク・ニュース(虚報)」だった。ホワイトハウス内部での人事抗争や大統領個人の内輪の人種差別的発言などがリークされるたびに「マスコミ報道の全部とは言わないが、85%はフェイク・ニュースだ」などと根拠もない数字まで挙げて批判を続けてきた。2018年7月23日、米ホワイトハウスで演説するドナルド・トランプ大統領(AP=共同) とくに主要メディアに対する不信感はその後もエスカレートしてきており、いまや唯一信頼を置いているのは、右翼的体質がめだつFOXニュース放送局のみといっていいほどだ。事実、大統領は毎週のように同テレビ局の人気キャスターとのインタビューに応じ、視聴者向けに「インチキ報道」に反論するかたちで自説を正当化するのが常態化してきている。発言の大半が「フェイク」 では、大統領自身、これまで真実を語って来たかと言えば、実際はまるで異なる。 ワシントン・ポスト紙は社内に特設された「ファクト・チェッカー」と呼ばれる入念な追跡調査で、本人がこれまで記者会見や声明発表、ツイート発信などを通じ「事実とは異なる(false)、あるいは誤解を招く(misleading)発言」を具体的に回数にしてどれだけしてきたかについて興味ある結果を公表している。 去る9月4日付けワシントン・ポストによると、昨年1月20日就任以来、592日間にその数は実に「4713回」に達し、1日平均にすると「8回」になるという。就任後の最初の100日間は「4.9回」だったのと比較すると、虚言回数は急ピッチで増えつつあることを示しており、また、最近の3か月では毎日平均「15.4回」というすさまじいペースだ。 しかも事実と異なる発言ながら、同じ間違いを最低3回は繰り返してきたケースが「113回」もあり、その中には「自分は大統領として史上最大規模の減税を実現した」(実際は史上8番目)との表現を様々な機会に「72回」も使っていた例もあった。ロシアが2016年米大統領選挙に介入した事実はこれまでのあらゆる公的米情報機関調査で明確になっているにもかかわらず、大統領が「ロシア関与説はでたらめ」と言明してきた回数は「53回」に達している。 またつい最近では、昨年プエルトリコに甚大な被害をもたらしたハリケーン「マリア」に関する大統領発言が、物議をかもしている。 ホワイトハウスで記者団を前に大統領は「わが政府が展開したプエルトリコでの災害対策・救援作戦は信じがたいほどの成功を収め、死者も6~8人程度ですんだ」と豪語して見せた。ところが、実際の死者は「推定3000人以上」に達しているだけでなく、島民の半数近くはいまだに水や電気を十分に使えず困窮生活を強いられており、首都サンファン市長はじめ地元側からトランプ発言に対し猛烈な反発を引き起こした。 こうしたことは、マスコミを十把一絡げに「フェイク・ニュース」と一蹴してきた大統領のこれまでの数限りない発言の大半が、実は「フェイク」であったことを如実に示している。 しかし大統領はその後、さらにマスコミ批判を強め「フェイク・ニュース」から攻撃性の濃い「米国人民の敵(enemy of American people)」との表現を使い始めた。偏狭で超保守主義的な一部のトランプ支持層の心情をかきたてることを意識したものだ。 とくにこの言葉が飛び出してきたのは、去る7月、ヘルシンキでの米ロ首脳会談でプーチン大統領に媚を売るような醜態を演じたことが米マスコミで大々的に報じられ、連邦議会共和党幹部たちからも酷評されたことに端を発している。 そしてその後は、大統領が顔を出す地方の政治集会などでは、取材の同行記者団に対し、トランプ支持派の聴衆から「人民の敵」のヤジが浴びせられ、同じ表現のプラカードが報道陣の前に数多く掲げられるケースが増え始めてきた。挑戦受ける国家の存立基盤 大統領のメディア批判はさらにとどまることなく、つい最近ではテレビ局や新聞社の特定の記者たちを名指しで非難するほど先鋭化してきた。“各個撃破”の様相を呈し始めており、報道に携わる関係者たちの間で身辺警護を強める人たちが増えている。各地の報道関係機関の建物も、暴漢の襲撃を警戒し、玄関の出入りチェックを強化する動きも出てきた。 ニューヨーク・タイムズの場合、自社の記者たちに対する脅迫が増加しつつあるため、編集局の入り口に武装警備員まで配置しているという。 これまでに大統領から個人口撃を受けたジャーナリストの中には、ウォーターゲート事件報道でニクソン大統領を追い詰め、ピューリツァー賞を受賞したワシントン・ポスト紙のカール・バーンシュタイン記者も含まれる。 同氏は今年7月、CNNが放映した特ダネ番組の中で、モラー特別検察官が捜査中の「ロシア疑惑」に関連してトランプ氏が、長男トランプ・ジュニアら同陣営とロシア側弁護士との間で行われた秘密会談を事前に知っていたと報じた。これを受けてトランプ氏は最近、バーンシュタイン氏を「お粗末で退化した愚人でアメリカ中で笑いものになっている」などと酷評した。 9月初めには、大統領は、トランプ・ホワイトハウスの混乱ぶりを鋭く描写した話題の本「不安:ホワイトハウスのトランプ」(原題“Fear:Trump in the White House)の著者ボブ・ウッドワード氏を「バカ者」などと容赦なく非難した。 一方、国連人権会議専門委員二人と「汎アメリカ人権委員会」は8月3日、トランプ大統領による最近のメディア攻撃に関連して特別声明を発表、その中で「トランプ氏の言動はジャーナリストが暴力にさらされる危険を増大させているだけでなく、報道の自由と国連人権保護法を蹂躙するものだ」と指摘した。 トランプ政権の対メディア対応は今や米国内にとどまらず、重大な国際的関心事となりつつあることを示している。 アメリカの歴史を振り返ると、もともとイギリスからの独立運動は、圧政に対する北米13植民地の住民たちによる異議申し立てから始まった。言い換えれば、アメリカ合衆国の建国は「言論の自由」の行使によってこそ達成されたといえる。2018年11月、ホワイトハウスでの記者会見で、CNN記者(右)を指さすトランプ大統領(AP=共同) その「言論の自由」が今日、トランプ政権下で執拗な攻撃にさらされつつあるとすれば、アメリカという国家の存立基盤そのものが挑戦を受けていることになる。さいとう・あきら ジャーナリスト、元読売新聞アメリカ総局長。1966年早稲田大学卒業。68年米カリフォルニア州立大学バークレー校大学院修士課程修了、70年読売新聞入社。ワシントン常駐特派員を2度務めた後、アメリカ総局長、東京本社取締役調査研究本部長などを歴任。近著に『中国VSアメリカ』、『アメリカはカムバックする!』(いずれもウェッジ)がある。

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    官房長官vs東京新聞記者の内幕と「がっかり発言」沈静化理由

    んの心労の種になってはいけないという局内の自主判断といっていた。記者D:政権の直接介入が減ったのは、メディア側が自主規制するからじゃないですか。沖縄の基地移設をめぐる県民投票結果を朝日、毎日、東京3紙は2月25日付朝刊で〈辺野古「反対」72%〉(朝日)など1面トップで報じたが、産経新聞のトップ記事は「海自観艦式 韓国招待せず」、読売に至っては「適量ですか 高齢者の薬」という企画ものを1面トップで報じた。政権に不利なことを書かないという自主規制がここまでなされれば、官邸は注文をつける必要もないでしょう。●レポート/武冨薫(ジャーナリスト)関連記事■ トランプ氏にノーベル賞推薦報道、一番驚いたのは安倍首相■ 「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■ 「拉致被害者2名生存情報」今後の日朝関係にどう影響するか■ もし日韓戦わば… 軍事力の差は歴然だった■ 韓国で女児の胸が大きくなる「性早熟症」、囁かれる原因

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    菅長官が東京新聞望月記者に「選挙出れば」挑発オフレコ発言

    に接近を試みており、実際に立憲民主党の山尾志桜里氏や自由党の森ゆうこ氏など、野党の女性政治家が次々とメディアで彼女と対談している。彼女の質問力を国会で発揮してもらえれば、与党を追い込む切り札になるのは間違いない。菅長官もそれを意識しているのかと思った」(野党の議員秘書)経済財政諮問会議に臨む安倍晋三首相(左)と菅義偉官房長官=2017年5月、首相官邸(斎藤良雄撮影) 望月氏本人に、オフレコ発言や出馬の可能性について聞くと、いきなり大笑い。 「そんなこと言っていたんですか! 知りませんでした。すみませんが、これ以上は会社を通してもらわないと……」 発言を気にしている様子はみじんもなかった。情けないのは、国会質問で政府与党を本気で追い込む野党議員が見当たらないという現状である。関連記事■ 東京新聞望月記者「政権の矛盾のしわ寄せを受けるのは官僚」■ 望月衣塑子氏「官房長官ら大物議員は自分さらけ出す覚悟感じる」■ 山尾志桜里氏 望月衣塑子氏に“私と同じ事されてる”の感想■ 東京新聞望月記者 ペジー事件の捜査が政権に及ぶ可能性指摘■ TBS青木アナ「彼はうまくないけど一生懸命」とオフレコ発言

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    テレビ局いじめ? 首相の反撃が始まった

    国民の共有財産である電波利用料の引き上げが決まった。増額は携帯大手が2割、NHKと民放キー局が5割とそれぞれ大幅な負担増となる。これまで利用料は3年ごとに見直されたが、今回は1年前倒しとなった。「テレビ局いじめ」「安倍政権の反撃」といった意見も聞かれる中、公共電波の意味を改めて考えたい。

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    電波利用料5割増が「テレビ局いじめ」と言えない3つの理由

    湧口清隆(相模女子大学教授) わが国では、電波利用料制度は1993年に導入され、2005年に料金体系が大幅に変更されています。しかし、電波利用者が電波利用にかかる共益費用を負担する、いわば受益者負担の制度であるという性格は、導入から四半世紀経過した現在でも変わっていません。ただし、共益費用の範囲や料金体系は時代とともに常に変化し続けています。 私自身は、2005年と2008年の改正の際に総務省の研究会構成員として、改正の議論に参加しました。その立場から申し上げると、2019年の改正は抜本的な見直しとはいえませんが、二つの点で驚きがあります。 まず、通常3年ごとの見直しですので、本来であれば今年は改正年ではなかったはずです。 それにもかかわらず改正をするという背景には、官邸主導の規制改革推進会議から強い要請があったことは事実でしょう。実際、それは2018年6月に発表された「骨太の方針2018」や2017年12月に発表された「新しい経済政策パッケージについて」にみることができます。 その意味で放送業界から声が上がっているように、「改定が1年前倒しされ、放送事業者の多くは予期せぬ『値上げ』を強いられることになる。適用期間の流動化は放送事業者にとって経営上のリスク」(改正に対するパブリック・コメント)になることは事実です。 しかも、これまで「負担額は改定前の2割程度」だった激変緩和措置が、今回5割に拡大されたため、各社の2019年度の予算に億単位の大きな影響が出てきてしまいました。過去にそのような例がないかといえば、人工衛星局のように2005年の改正時には数千倍ものオーダーで値上がりした無線局もありました。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 次に、通信事業者と放送事業者との間で長年繰り広げられた「公共性」論争に、総務省がよく決着をつけたという点です。通信で届けられる内容は「通信の秘密」で守られた私信であり、放送で届けられる内容は「番組調和原則」や集中排除原則で規制された公共性の高い通信であるという論理から、従来は放送には「公共性」を見いだせるが、通信には見いだせないとして、電波利用料を割り引く特性係数は放送のみに適用されていました。 しかし、近年、災害時の救助要請や情報伝達において会員制交流サイト(SNS)の活用が進んでいます。結果、私信だから「公共性」が小さいという議論の根拠が薄れ、携帯電話にも同様の「公共性」を適用すべきだ、という通信事業者や国民からの主張が強くなってきました。 そこで今回、携帯電話事業者へも特性係数を適用することになりました。そのため、電波利用料の歳入全体の約85%を占めていた携帯電話事業者の負担割合が減り、10%弱しか占めていなかった放送事業者の負担割合を大きく増やすことになったのです。しかも、共益費用の範囲や金額が拡大したことから、基幹放送事業者の料金改定は極めて大きな額、大きな変動率になりました。「放送局いじめ」じゃない 以上のように考えていくと、今回の改正は、そうでなくともインターネットのせいで視聴率低下が叫ばれ、経営的に苦しい放送事業者をいじめるものであるように感じられます。しかし、今回の改正内容は、理論的観点からグランドデザインを見れば、放送事業者いじめではなく、理にかなったものになっています。 第1に、地上デジタルテレビ放送と携帯電話との間での周波数をめぐる競合問題が挙げられます。現在、地上デジタル放送用には470~710MHz(メガヘルツ)の周波数が1チャンネル当たり6MHz幅で割り当てられています。一方、米国では、614~698MHzの周波数帯が放送用周波数から「5G」と呼ばれる第5世代移動通信用に再編され、既にオークションで通信事業者に割り当てられています。 わが国では周波数オークションは導入されていませんが、仮に(ただし極めて非現実的ですが)オークションで周波数が割り当てられ、落札者が自由に用途を選べるなら、おそらく同じ周波数資源を使って、放送に比べて十倍以上の売上高のある携帯電話事業にこの周波数を用いるでしょう。その意味では、人為的に特性係数を用いて放送用周波数の料額を安価に設定することは、資源配分上適切とはいえません。 しかも、わが国の地上デジタル放送は技術的にSFN(単一周波数中継)方式を採用しており、理論上はチャンネル数をもっと減らすことが可能です。ただし、混信対策上、東京スカイツリーのような放送用の電波塔を多数建てる必要があり、現在までの電波利用料水準では合理的とはいえませんでした。 しかし、電波利用料が上がるのであれば、電波塔を建設して、不要なチャンネルを返上し、周波数を開放する方が得策になるかもしれません。 今回の改正は、5G時代を前にそのようなインセンティブや認識を放送事業者に与える効果を持っています。米国で実施した半ば強制的な周波数開放とは違い、ソフトな形で漸進的にテレビ放送業界に影響を与えるものです。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 第2に、共益費用の範囲の拡大が挙げられます。新たに、「電波の利用価値の向上につながる事務」(a群)に「5G等の無線システムを支える光ファイバー網の整備」、「電波の適正な利用を確保するために必要な恒常的な事務」(b群)に「安心・安全な電波利用環境の整備」が追加され、総額が年620億円から750億円に増加します。 一見すると、光ファイバー網の整備は無線通信と無関係のように見えます。しかし、現実には携帯電話用の周波数が不足する中で、われわれは携帯電話のネットワークではなく、無線LAN経由で膨大なデータ通信をおこなっています。しかも、かつては音声通信を利用していた通話まで、「LINE電話」などデータ通信を活用しています。 ネットゲームやネット動画の利用などでますます通信量が増える中で、今後も高速でデータ通信が利用できるようにするためには、無線LANを利用する場合でも10GHz(ギガヘルツ)帯以上の高周波数帯の5Gネットワークを利用する場合でも、バックボーンとなる十分に高容量の光ファイバー網が整備されている必要があります。テレビ局のチャンス ところが、現在の個人向け光ファイバーの料金は定額制であることから、通信需要に対応してネットワークを整備しても、光ファイバー事業者にとっては増収にはつながりにくい構造になっています。そのために、インフラ投資が遅れる危険性が危惧されています。 実際、日本の高速固定通信速度が、2015年には経済協力開発機構(OECD)加盟36カ国中7位でしたが、18年には23位に転落したことが日本経済新聞(2月15日付)から発表されました。このように民間で投資が進まないけれど必要な財の整備に、補助金を充てることは公共経済学的には伝統的な手法の一つです。しかも、その財源が受益者負担であることは合理的です。 第3に、多様な伝送手段でコンテンツが配信される中で、ますます放送事業者が制作したコンテンツが無線インターネットでも配信され、放送事業者が販売益を得る可能性は増大しています。放送用に4K、8Kで制作されたコンテンツも通信ネットワークで配信される未来が見えてくる中で、共益事務の範囲が拡大して光ファイバー網の整備が行われることは、巡り巡って放送事業者の収入増につながる可能性があります。 このように考えると、放送事業者がコンテンツ制作面で、放送事業者以外が制作するネット動画などのコンテンツに対して優位性を持つ限り、電波利用料の値上げと同時にインフラ整備や技術開発への使途が拡充する今回の電波利用料の改正は必ずしも悪いものではないといえるでしょう。また、国民的視点に立てば、国民1人当たり年額約100円の支出増で、現在よりもデータ通信速度の低速化を回避できるのであれば、決して悪い選択肢とはいえないのではないでしょうか。 もちろん、むやみに共益事務の範囲を拡大して共益費用を増やしたり、不必要な事業や効果の薄い事業を実施したりすることは絶対避けなければなりません。費用の直接的、間接的負担者と受益者との間でコンセンサスがとれることが大切です。実はそれを担保するために、電波利用料額は電波法の中に直接書かれ、国会で法定される仕組みが採用されています。多くの報道陣が集まった東京拘置所前=2018年12月、東京都葛飾区(納冨康撮影) 近年、欧州を中心に、携帯電話事業者からオークションで高額な免許料を徴収したことが、インフラ整備やサービス展開に遅れをもたらす要因となったという考え方が主流になりつつあります。 そのような意識の中で、例えばフランスのように携帯電話事業の再免許にあたり、オークションをせずに、国や規制当局、事業者との間でインフラへの投資協定を結ぶという事例も出てきたほか、オークションではなく人為的に既存事業者に均等に周波数を配分する方が望ましいという考え方も出現しています。 電波利用料は、市場で直接決定されるものではなく人為的に設定されているため、周波数逼迫(ひっぱく)対策において必ずしもオークションに完全に代替するとはいえません。しかし、周波数の逼迫度や電波利用度合いに応じて電波利用料の区分を精緻(せいち)化する試みは、計画経済の中で少しでも市場価格に近づける試みとして評価できるのではないでしょうか。■テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった!■池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    電波利権「波取り記者」の恐るべき政治力

    の方が秘書官室に訪れ、名刺を配っていく。筆者も秘書官室の一員であるので、名刺を頂いた。それを見ると、メディア関係の方々だ。その中には「波取り記者」と呼ばれる人も含まれていた。 「波取り記者」の「波」とは電波のことだ。「波取り記者」とは、記事を書かずに電波利権確保のために電波行政のロビイングをする人たちだ。こうした人は新聞業界にもいた。ようやく機は熟した 彼らの政治パワーは強力であり、その結果として上に述べたように改革が全く進まなかったのだ。これは、日本の電波・放送行政が先進国で最も遅れた原因である。 本来であれば、10年以上前にやっておくべきであった。それができずに、時間を無駄にしてしまった。 ところが、技術の進展は目覚ましく、インターネットを使っての「放送」は安価に誰でもできるようになった。 筆者も私塾をやっている。かつては講義内容をテキストにして配信していたが、今ではビデオ配信だ。その方がコストも安く、速報性にも優れている。いうなれば、今や電波の希少性を超えて、誰でも「放送」ができるようになったわけだ。 しかし、この「放送」は放送法の範囲外である。放送法では、電波に希少性があるので与えられる対象が少なくならざるを得ない。このため与えられた少数の既得権者は公共のために放送法を順守しなければいけない。 ところが、「電波の希少性」という物理的な制約がなければ、放送法の規制は最小必要限度となり、さまざまな主体の参入を認めて、その競争に委ねるという政策が可能になる。 特に日本では先進国の中で唯一の電波オークションを認めず、放送では新規参入がなく「波取り記者」のような人がいたくらいの「後進国」なのだ。総務省=2018年8月撮影 冒頭で「今の放送業者は、電波を『不当に』安く使っている」と書いたのは、今の電波利用料は役人が決めた水準だからだ。本来であれば、電波という国民共有財産は、入札(オークション)という公明正大な方法で価格を決めなければいけない。今の役人が電波を割り当てして、入札で決められたはずの水準より安いから「不当に」安いと書いたのだ。 ようやく機が熟したといえるだろう。少なくとも今の安倍政権はこうした規制改革に、他の政権より熱心である。その背景として、マスコミに左派傾向があるという意見もあるが、日本のメディアが国際的になるのであればそれは国益に資するだろう。入札が先進国の常識 電波利用料は本来入札で決めなければいけない。この常識は、先進国でまさに常識であり、先進国35カ国の状況を見ると、今では電波オークションではないのは、日本だけになっている。 2017年度の電波利用料は646・8億円。その内訳は、携帯電話550・9億円、テレビ業界60・1億円などである。 同じ2017年度の日本テレビホールディングス(HD)の売上高は4237億円、当期純利益374億円であったが、負担した電波利用料は4・5億円にすぎない。テレビ朝日HDも売上高3025億円、当期純利益158億円に対し、電波利用料は4・4億円だ。 もし、電波オークションが導入されていれば、少なくとも電波利用料は1桁以上大きいはずである。この意味では、放送業界は、電波オークションなしでの既得権者である。 テレビ番組で、公共事業について、入札ではなく随意契約しているので工事単価が高くなり、血税が余分に使われるという批判をよく取り上げる。しかし、それは電波利用料でもいえることだ。 今回の電波法改正にも、今国会に提出予定の興味深い法律改正がある。放送法改正である。その内容は、NHKによる放送番組のインターネット常時同時配信を容認することだ。総務省は、NHKに常時同時配信を認める条件として、受信料の引き下げや民放との連携強化、子会社を含めた統治強化、業務の見直しなどを要求している。 民放の方は、制度上既にインターネット常時同時配信が可能であるが、行うことを躊躇(ちゅうちょ)している。スポンサー離れなどを心配しているようだが、実は、インターネット常時同時配信になると、独自コンテンツを持たず、中央のテレビ局からの配信に依存している地方テレビ局が深刻な経営苦境に陥るというところが本音だろう。地方テレビ局には中央のテレビ局からの天下りが多くおり、そうした人たちの死活問題になる。NHKのロゴマーク(ゲッティイメージズ) そうした状況に、インターネット常時同時配信をやりたがっているNHKを利用するという、「毒には毒を」というえげつない戦略を総務省は採ったのだろう。 民放には大きな試練が訪れている。キー局に対しては5割にもなる電波利用料の引き上げ、電波の割り当て審査に価格競争要素導入(一部オークション化)、NHKによるインターネット常時同時配信と、包囲網がじわりと狭まったようだ。筆者が総務省にいたときから10年以上経って、遅ればせながら、動き出したようだ。■ 偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった!■ テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■ 池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    テレビへの圧力? 電波独占料、負担増に漂う安倍政権のうさん臭さ

    杉江義浩(放送プロデューサー、ジャーナリスト)                    政府がテレビ局や携帯通信事業者に課している電波の利用料を、大幅に値上げする案を含めた電波法改正案が閣議決定され、国会に提出されました。NHKや民放キー局5局に対しては、5割増しということで、テレビ局の経営状況に与える影響の大きさは衝撃的なものです。 民放キー局は、収入とCM制作に関しては広告代理店任せ、番組制作に関しては制作プロダクション任せ、となりつつあり、唯一放送局として発言力を持っているのは編成権ぐらいではないかという状況です。 その編成権を裏付けるのが、電波利用権の独占です。各テレビ局は地上波、衛星放送それぞれに、一定の周波数の独占的な利用を政府から認められていて、その対価として電波の利用料を支払います。 科学に強くない人にも誤解を与えないために言っておくと、電波そのものは自然界にもともと存在する物理的な現象であり、誰のものでもないし、特にお金が発生するものでもないのです。ただ、自然界に存在する限りある周波数帯域しかない電波は、使い道を秩序立ててコントロールしなければ大変なことになります。 例えば、同じ地域で地上波テレビと携帯電話が、あるいはラジオと警察無線が、同じ周波数を使ったら、混線してしまって使い物になりません。そんなことが起きないように、周波数帯域が用途別に細かく切り分けられていて、決まった周波数を使うように義務づけられています。 それぞれの放送局には、あらかじめ放送に使ってもよい周波数が割り当てられていて、その周波数を独占的に使います。また、携帯電話に使ってもよい周波数はどこからどこまで、船舶無線に使ってもよい周波数はどこからどこまで、といった具合に細かく定められていて、総務省(かつては郵政省)がルールに従って電波を使うように整理してきました。 電波の利用料というのは本来、その整理やコントロールの事務作業にかかる「手間賃」ぐらいであり、もともと自然界に存在する時点では、電波に値段はありません。 例えば、数十メートルしか電波が飛ばないWi−Fi(ワイファイ)などでは、装置を用意するのにお金はかかりますが、Wi−Fiの電波利用料というのは特にかかりません。また、免許のいらない小出力のトランシーバーなどにも電波利用料はかかりません。 ただ、何十キロメートルもの長距離を飛ぶ、テレビやラジオの地上波に関しては、公共の電波を広範囲にわたって一定の周波数を独占することによって収益を得ているという意味から、一定の電波利用料を国に納めるようにした方が良いのではないか、というのが電波法の趣旨です。2018年8月、雷が落ちた東京スカイツリー。NHKや民放キー局のテレビ放送の電波を送信している(宮崎瑞穂撮影) 携帯通信事業者が使う電波に関しても同様です。しかし、もともと無料で自然界に存在する電波ですから、利用料の算出根拠は極めて曖昧(あいまい)です。 電波利用料というより「電波独占料」という方が、しっくり馴染むような気がします。いずれにしても総務省の胸先三寸で決まる、いわば電波の「ショバ代」であって、コストなどの合理的な根拠に基づく金額ではないのです。 適正な電波利用料がいくらかは、算出する根拠がないのですから、政府の言い値でしかありません。「電波を独占して利益を上げているのだから、これくらい払いなさいよ」という非常に漠としたものなのです。 今回の電波法改正案では、将来の5G(次世代無線方式)携帯電話環境の開発、推進に当てる財源として、平成31年度に750億円を見込んでいて、それが「電波利用料の算出根拠である」と政府は説明しています。不明瞭な電波利用料 しかし、私が思うには、本当に5Gのインフラ整備が国民にとって必要なら、税金を使ってやればいいのではないでしょうか。テレビ局に請求するのは、なんだか筋が違っている気がします。 自動車税が高速道路などの建設に使われる、道路特定財源制度のような、受益者負担の合理性は、そこには感じ取れません。新しく携帯電話の通信環境が整備されることによって、テレビ局が何か利益を得るのでしょうか。利益を得るのは国民ではないでしょうか。 だったら税金でまかなうべきです。テレビ局に課すべきではありません。今回の電波法改正案には、そういった根本的な胡散(うさん)臭さが感じられます。 胡散臭さという点から派生したのでしょうか、巷(ちまた)では今回のテレビ局への「5割増し」は、ニュースやワイドショーなどで政権批判を繰り返す、テレビ朝日やTBSへの、牽制(けんせい)措置ではないかという言説も見かけます。 これはまったく的外れだと私は思います。比較的政権に近い報道姿勢を見せるフジテレビや日本テレビ、NHKに対しても、5割増しを同様に課しているのですから、テレビ局への圧力だと勘繰るのは、いささか過敏すぎると言えるでしょう。  もちろん、民間放送は電波を独占することによって直接的に収益を上げ、利潤を追求する私企業であるという一面はありますが、別の側面では公共の電波の独占を許されているが故に、公共の福祉を担う社会的責務を持つ特殊な事業体であると言えます。私は後者の方こそ、今注目しなければならない重要な側面だと考えています。 限られた電波の有効利用という、根本の原則に立ち返ってみましょう。そもそもなぜ特定の放送局だけが、貴重な地上波の相当規模の周波数帯域を独占利用することが認められているのか。 それは放送法に定められた通り、放送局は公共の福祉に資する放送を送信していると認められているからであり、本当に放送局が公共の福祉に貢献しているのなら、極論すれば電波利用料は無料にするのが筋ではないかと私は考えます。逆に言えば、公共の福祉に寄与しないような放送局は、電波を独占する根拠も失ってしかるべきです。 地上波のテレビ局が一つ消えてなくなり、その局が独占していた1チャンネル分の周波数帯域を移動体通信事業で有効に使うことができたなら、かなりの経済的メリットが生まれるはずだと試算した人もいました。テレビと移動体通信事業は、地上波という限られたパイを分け合う敵同士です。どちらが公共の福祉に、あるいは社会の発展に役立っているのか、シビアに比較される時代でもあります。 今は、動画はネットで見る時代かもしれません。ネット発で受信する動画もあれば、テレビ発でネットで受信する動画もあります。しかし「家族でくつろぐお茶の間に入り込む」存在であるテレビには、特有のテレビ文化というものが歴然と存在していて、また確立しています。2018年4月、衆院予算委の集中審議で、疲れた表情を見せる安倍首相 家族そろって楽しめるスポーツ中継、しっかりと作り込まれたドラマやドキュメンタリー、これらはリビングの4K、8Kのテレビ画面で見たいと、私などは思います。ぐらっときた時、すぐに地震速報を見られるのもテレビの心強さです。テレビが興隆しても映画文化は廃れなかったように、ネットが興隆しても、テレビ文化は決して廃れることはないでしょう。 政府には算出根拠の不明瞭な電波利用料などでテレビ局に負担を強いるのではなく、公共の電波を使うテレビならではの、健全な文化を育成するような政策をとってもらいたいものです。【編集部より一部訂正について】 記事公開時に「免許のいらない小出力のトランシーバーやアマチュア無線にも、電波利用料はかかりません」としていた部分は、アマチュア無線にも電波利用料が課せられており、誤りでしたので、訂正しています。■ テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■ テレ朝、TBS「モリカケ報道」のどこが悪い■ 池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    中国並みのトランプ「言論弾圧」ではっきりしたメディアの受難

    樫山幸夫(産經新聞元論説委員長) トランプ米大統領とメディアの対立は来るところまで来たようだ。中間選挙翌日の記者会見で執拗に食い下がったCNNテレビの記者に大統領が激怒、ホワイトハウスの記者通行証を無効にしてしまった。CNNは撤回を求めて提訴、裁判所は訴えを認める決定を下したが、米のメディアを揺るがす騒ぎになっている。 〝言論の不自由〟は中国の専売特許かと思いきや、民主主義のリーダーであるはずの米国で同じことがおきたのだから驚く。 しかし、その一方でメディアが権力者に対抗する手段として、法廷闘争をもってすることが適当かどうか議論のあるところだろう。言論機関はあくまで言論で闘いを挑むべきではないのかという指摘もあろう。 問題がこじれ、トランプ氏とメディアの対立がいっそう激しくなることも予想されるが、「権力とメディア」という、古くて新しいテーマにあらためて一石を投じたといえそうだ。 11月7日の会見で、〝事件〟は起きた。CNNのホワイトハウス詰め、ジム・アコスタ記者が、移民問題やロシア・ゲート事件などについて大統領の見解を質した。答えに納得しない記者は、大統領が次の質問者を指名した後も、マイクを離そうとしなかった。 大統領は「CNNはあなたを雇っていることを恥じるべきだ」「失礼で恐ろしい人だ」「CNNは数多くのフェイク・ニュースを報じてきた。国民の敵だ」などと口を極めて罵倒。この間、ホワイトハウス職員がマイクを取り上げようとして、両者の腕が交錯した。 通行証が無効にされたことを受けて、CNNは11月13日、トランプ氏と政府高官らを相手取り、撤回を求めてワシントンの連邦地裁に提訴。地裁は16日(日本時間17日未明)、CNNの主張を認めて、ホワイトハウスに対し通行証を暫定的に復活にさせるよう命じた。 とりあえずはメディア側の勝利に終わったが、ホワイトハウスがどう出るか、双方の対立はまだまだ続く気配をみせている。 今回の訴えの中でCNNは、「ホワイトハウスの処置は、表現、報道の自由を保障した合衆国憲法修正1条に違反する」と強く非難。ホワイトハウスは「アコスタ記者の行動によって公平で秩序だった記者会見の運営が妨げられた。修正1条は1人の記者が会見場を占領するためにあるのではない」(サンダース報道官)と反論していた。2019年1月、ホワイトハウスの記者会見室に姿を見せたトランプ米大統領(UPI=共同) 速記録を読み、ビデオを見る限り、かなり強引なところはあったものの、アコスタ記者が大統領に対してことさら非礼な態度をとったようには見えなかった。もちろん丁重にも見えなかったが。 アコスタ記者はこれまでも、大統領にきびしい質問を繰り返してきており、大統領と以前から緊張した関係にあったようだが、「CNNは恥じるべきだ」とか「国民の敵」というトランプ氏の言葉には驚いた 「秩序だった記者会見が妨げられた」というホワイトハウスの説明は、もっともらしく聞こえるが、実はおかしなことだ。マイクを独占することの善悪、是非は、記者会側が自らのルール、慣例に則って判断すべき問題であって、政権があれこれ口を出すことではないだろう。大統領は「鉄人」であるべき? 通行証没収、今回の提訴のいずれにおいても、ホワイトハウス記者会は「CNNを強く支持する」という声明を出し、ニューヨーク・タイムズやトランプ支持の傾向の強いFOXニュースまでもが同調しているのだから、政権側の主張は筋違いであることは明白だ。 合衆国大統領は強大な権限を持つ世界一の権力者だ。それだけに不愉快な質問も堂々と受けて立って懇切に自らの立場、主張を説明しなければなるまい。大統領はしばしば、「鉄の男、女」であることが求められる。 どんな状況にもたじろがず、うろたえず、欲望や誘惑にも負けないー。過去の大統領のスキャンダルをみてくると、とうてい望めない求めであることは明白だが、トランプ氏の今回の態度はひどかった。 トランプ氏による今回のメディア攻撃は、はからずも、中国による言論統制を想起させた。 中国の言論、人権弾圧については、世界中で何度となく報じられているので、いまさら触れる必要はなかろうが、わが国も関係するつい最近のケースに触れておきたい。 10月10日、北海道・洞爺湖で開かれた日中与党協議会で、中国の宋濤中央対外連絡部長が発した言葉。「与党は民意と世論をリードする役割を持っている」「真実を報道するよう働きかけ、不正確な報道は訂正してもらう」-。 こんなことを言い出されては日本側も迷惑だったろう。さすがに菅官房長官は「報道の自由は国際社会の普遍的な価値だ」と苦々しくコメントせざるをえなかった。 中国の報道の自由への侵害については、産経新聞社は何度も〝被害〟にあっている。最近の例では、2018年6月、日本記者クラブが訪中記者団を派遣しようとしたところ、産経の記者だけがビザ発給を拒否された。記者クラブ側は抗議の意を示すため、訪中そのものをとりやめた。2018年12月、記者会見する中国外務省の華春瑩副報道局長(共同) 個人のことになるが、1996年11月、当時ワシントン特派員だった筆者は、クリストファー米国務長官(当時)の訪中を取材しようと各国記者と同様にビザを申請したが、筆者だけがやはり発給を拒否された。紙面で事実関係を報じ、ワシントンの中国大使館に説明を求めようとしたが、先方は電話にすら出ようとしなかった。 産経新聞の中国に対する報道姿勢が気にくわないらしいが、手厳しい質問を浴びせた記者の通行証を取り上げるというトランプ大統領の行動は、これと違わない。 考えてみれば、メディアへの弾圧は世界各地でみられる、メディアにとっては受難の時というべきか。 トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館で、自国政府に批判的な報道を続けてきたサウジ人記者が殺害された残虐な事件は論外としても、われわれの身近、日本国内でも報道の自由に対する政府、国民の無理解ぶりを、残念ながら感じることが時にある。微妙な距離感の保ち方 2018年9月、河野太郎外相は、各国外相と会談する際、冒頭から直接英語でやりとりしていることを説明、「霞クラブ(外務省記者クラブ)担当記者は冒頭の英語を理解するくらいの人に所属してほしい」と注文をつけた(9月15日付産経新聞)。小さい見出し、記事も短いものだったが、考えさせられる内容だった。 外相会談については、外務省担当者から記者に対してブリーフィングが行われるのが常であり、英語を解さない記者が、それに基づいて記事を書いてはいけないというのか。外相は自分が英語に堪能であることから、同じ能力を持つ記者を求めて軽い気持で言ったのだろうが、外務大臣が記者を選別しているという印象を与えかねない。メディアが大臣の要求を容れて、メガネにかなった記者を送り込むなどということはあり得ない。 これも筆者個人の経験だが、2014年、当時佳境に入っていたTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉に関して、政府の対策本部高官が、新聞各紙の記事について、いくつかは「誤報」、「うそ」と直截な表現で批判。「書くなとは言わないが慎重な扱いをお願いしたい」と記者側に要請した。 筆者は、「お上の報道干渉か」と半分揶揄、半分懸念を表明するコラムを書いたが、数日後、読者サービス室に寄せられた反応を読んでがっかりした。その読者は「この記者の認識は全くおかしい」と筆者を批判していた。 国益を損なう報道などもってのほかということらしかった。国益はむろん重要であり、各メディアとも国益を損なう記事を躊躇なく掲載しているわけでは決してない。記者会見する河野外相=2018年12月、外務省 国益を尊重しながら、国民の知る権利と両立できるよう独自の取材を重ねているのであって、一連の記事もそうした努力の結晶だった。読者を責めるわけではないが、正直それを批判されたのは残念を言うとかはなかった。  トランプ大統領とCNNの対立に話を戻すと、筆者はどうやら、トランプ政権批判だけに血道をあげてしまったようだ。 大統領に舌鋒鋭く迫った記者の通行証が没収されたからといって、裁判所に訴えて取り消してもらうというのはちょっと情けない気がする。通行証の没収などに動揺することなく、これまで通り厳しい論陣を張ってほしい。 「三権分立」という言葉に表現されるように、裁判所も「権力」の一角だ。ホワイトハウスという権力から不当な扱いを受けたからといって、別な権力に救済を求めるというのはどうだろう。 CNNはトランプ氏に理性的な解決を求めるのは無理と感じ、やむなく法廷に持ち込んだのかもしれないが、言論で生じた対立は、言論をもって闘い、解決するのが本来あるべき姿だろう。口舌で大統領を負かし、記者証没収の撤回と謝罪に追い込んだなら、これこそ視聴者も求めることではないか。  トランプ大統領、ホワイトハウスの対応は驚くほど強硬だったが、大統領のお気に入りの記者によるお気に入りの質問だけ聞かされる会見ては、視聴者、読者も退屈きわまりない。国民が知りたいと思っていることについて明らかにされずに、スムーズに終わっては、それこそまさに国益に反する。 政府とメディアは時に協力、協調し、時に緊張した関係に陥ることもある。微妙な距離感の保ち方は政府、メディ双方にとって重要だが、そのあたりを念頭に置きながらテレビを観て、新聞を読んでいただけると、あらたな興趣もわいてくるだろう。かしやま・ゆきお 産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

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    安倍首相 メディア幹部と積極会食し巧妙に操縦、その参加者

     安倍晋三・首相は再登板以来、メディアの幹部と積極的に会食し、懐柔の手段としてきた。新聞・テレビの論説委員クラスや政治評論家には、総理との食事に招かれただけでコロッと参ってしまい、政権のスポークスマン役を買って出ている者が少なくない。 安倍首相のメディア対策が歴代首相に比べて効果をあげているのは、大手メディアの社長や会長と個別に宴席を囲む“社長懇”を慣例化したことだ。この1年を見ても、4月2日にパレスホテルの宴会場「桔梗」で渡辺恒雄・読売新聞グループ本社主筆、福山正喜・共同通信社社長(当時)、熊坂隆光・産経新聞社会長らと食事したのをはじめ、日本テレビの大久保好男社長、日経新聞の喜多恒雄会長、岡田直敏社長と個別に会合を持った。 首相の政治指南役とみられている渡辺氏(6回)と日枝久・フジテレビ相談役(2回)は別格にしても、共同の福山社長は3回も食事している。政治アナリストの伊藤惇夫氏が指摘する。「総理が論説委員や各社の官邸キャップとその時々の政治テーマについて懇談するのは歴代内閣で行なわれてきた慣例で、記者にとっては取材活動です。しかし、安倍首相が社長懇を開くようになって、現場の記者は政権を強く批判すると社長に迷惑を掛けると忖度して記事を書くようになった。それが安倍さんのメディア操縦の巧妙なところです」 政治評論家の田崎史郎・元時事通信社特別解説委員(2回)などとくに首相に近いとされる各社の論説委員やOBたちは、首相から会食に誘われた回数で“いかに政権に食い込んでいるか”を競い合っている。2018年3月、プロ野球巨人戦を観戦する安倍晋三首相(左)と渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆(矢島康弘撮影) もちろん、政官財界からマスメディアまで権力に群がるのは今に始まったことではない。だが、安倍首相は性格的に「敵」と「味方」を選別し、待遇に差を付ける。この政権の「お友達政治」の本質は、インナーに入れなければ排除され、政権の便宜も重要な情報も一切得られなくなることだ。 安倍氏にとって、会食やゴルフはそのための踏み絵でもある。「敵」と見なされれば最初から排除される。大手新聞社の経営トップでは、朝日新聞の社長は2013年7月に首相と1回会食しただけで、その後は動静には一切登場しない。関連記事■ 政官財マスコミ 華麗なる安倍人脈大図解■ 進次郎氏の嫁探し 条件の一つは「昭恵さん的な発言をしない」■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相お友達人脈格付け サシの食事→ゴルフ→焼きそば■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    民放テレビでやけにドラマが増えている理由とは

    25分を「ブレイクマンデー24」として深夜ドラマ枠を新設している。元NHKの番組ディレクターで次世代メディア研究所の鈴木祐司氏が語る。「制作費もキャストのギャラもかかり、コストパフォーマンスの悪いドラマ枠は一時各局で縮小傾向が見られましたが、タイムシフト視聴率を意識して、この1年で復活しました。最近はドラマだけではなく、映画、アニメといった『録画でじっくり見たい番組』を各局の編成担当は増やそうとしています」 最近、テレビを付けると妙にドラマばかりやっている──そんな気分になるのは、気のせいではなかったわけだ。「スポンサーもテレビ局のドラマ偏重を理解しており、その作品に登場する俳優を使ったCMを意図的に流すなど、“録画でも飛ばされにくい”作りを意識しています。昨今、ドラマの続きかと思うようなCMが多いのも、このためです」(元テレビプロデューサーで上智大学文学部教授の碓井広義氏)関連記事■ テレビ局、CM取引新指標「タイムシフト視聴率」導入の深刻度■ 新垣結衣 主演ドラマ「けもなれ」で解禁した「タブー」とは■ 新ドラマ絶好調の米倉涼子、「海老蔵と復縁」説の真相■ 星野源 新垣結衣に「なんでそんなにかわいいの?」と直球質問■ 『逃げ恥』で使われた部屋「家賃13.6万円」騒動の真相

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    小室圭さんは眞子さまにふさわしいか

    1年前のきょう、秋篠宮家の長女、眞子さまと小室圭さんの婚約延期が発表された。発端は小室さんの母親をめぐる金銭トラブルだったが、小室さん側が突如公表した文書には「解決済み」と記され、再び物議を醸した。お二人の幸せを心底願いたいが、どうもモヤモヤが止まらない。皆さんはどう思いますか?

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    「ZOZO離れ」は他人事じゃない

    への出品を取りやめる「ZOZO離れ」の話題も重なり、ブランドイメージは失墜しつつある。とはいえ、我々メディアにとってもプラットホームビジネスの話は他人事じゃない。さて、どうしたものか。

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    「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ

    があるにもかかわらず、産経デジタルiRONNAから「ファッション通販のZOZO離れのように『ニュースメディアのヤフー離れ』はあるのか」とのお題で寄稿を頼まれるという驚天動地の事案が勃発した。 私がこの立場で「ヤフージャパンは今すぐ滅ぶべき」などと書けるわけもないだろう。なぜならば、もう既にヤフーニュースでそういう趣旨の記事を書いたからである。 「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因(Yahoo!ニュース 個人 2015.10.1) そして、私は産経新聞にも連載を持っている。都合の悪いことに、日曜に私の記事が掲載されたばかりだ。タイトルからして「新聞に喝!」である。 【新聞に喝!】対露官邸外交、メディアの甘さは疑問(産経新聞 2019.1.27) どうしてくれよう。悩んでも仕方がないので、取引があろうが連載していようがまったく気にすることもなく業界の状況を踏まえて読者に私の見解を書くことにしよう。 端的に言えば、2015年にヤフーニュースで書いた上記の記事の通りだが、2019年の今となっても「ヤフージャパン、ヤフーニュースの一人勝ち」の状況に違いはない。「SmartNews」や「LINE NEWS」、あるいは「dマガジン」などのニュース配信系サイト・アプリが興隆している現在でもなお、一つの記事あたりの読者数、掲載された広告あたりの反響数では、他のニュースサイトやアプリを圧倒的に凌駕(りょうが)しているのがヤフーである。 ヤフーがなぜニュースメディアとして成長したのか? それは駅前で配っているチラシ(広告)に、ちり紙がついているようなものである。すなわち、みんなが知りたいニュースを配信している新聞社や通信社、出版社と契約し、配信・新聞記事や週刊誌誌面の内容をヤフーに載せ、そこに広告を貼って多くの人たちに「ヤフーに行けば、あんたの知りたい内容の記事が読めますよ」と成長したのがヤフーに他ならない。PCのポータルサイトとしての立場を確立したヤフーがニュース事業をきちんとやれば、当然のように勝ってしまうのは必然でもある。 時は下り、今や読売も毎日も朝日も自社サイトで読者を囲い込み、もし記事の全部が読みたければ個人情報を全部入れた上でカネを払え、というモデルにしてしまった。ヤフーが人通りの多いポータルサイトという、駅前で配るチラシにちり紙をつける手法で成功した一方、これまでヤフーの「ちり紙」扱いにされていたことに新聞社もようやく気が付いたようだ。日経新聞に至っては、日経グループ全体で電子版にした上で引きこもってしまった。ヤフーの検索サイト=2016年4月 産経はつい最近まで、まるで慈善事業のように赤字覚悟でいろんなところに新聞記事をバラまき、分野ごとに記事をパック売りをして糊口(ここう)をしのいでいたが、昨年11月からようやく会員サービスをスタートさせた。夕刊(東京本社版)を止めるのは早かった割に、有料会員を集めるのに後れを取るとか、産経グループは正直者すぎて商売が下手にも程があるのではないかと思う。 しかし、アプリだけでも「産経ニュース」「産経新聞HD」「産経電子版」「産経プラス」と4つも乱立している上に、配信元は全部産経デジタルになっている。いったい何をしているのだ。いつの間にかアプリの情報サイト「産経アプリスタ」はしめやかに終了していた。産経がどうしたいのか、正直言ってさっぱり分からない。ヤフーが王者である理由 産経のことはいい。問題はヤフーである。ニュース配信を巡る業界環境は、2013年ごろから激変してきた。それまでは出勤前と就寝頃にアクセスのボリュームのあった牧歌的なPCサイトでのネットサーフィン時代であったが、そのような古き良き時代が終わりを告げると、業界は一気にアプリによるニュース配信、また各メディアによる専用アプリ配信時代の幕開けとなった。 それまでのガラケー(ガラパゴス携帯)に対する情報配信よりも閲覧性が上がり、また通信速度の劇的な改善による画像や動画によるニュース配信が進んだ結果、ここ7年ほどで1人当たりのニュース記事閲覧数(1日に1度はニュースをネットでチェックすると回答するユーザーのページビュー中央値)が、1日平均6・7件(2010年)から11・9件(2017年)へと倍増したのである。 ニュースは求められている。これが市場の答えだ。ただし、ニュース記事を閲覧する時間も場所も大きく変容してきた。ガラパゴス携帯からスマートフォンへの移り変わりの中で、起床から通勤時間、昼休み、午後休憩から帰宅途上、晩飯の最中に至るまで、国民はずっとスマホを見ている。女子テニスの大坂なおみが偉業を達成したと言えばニュースを読み、国民的アイドルグループ「嵐」が活動休止したとなればニュースサイトへ行く。おはようからおやすみまでライオンのように人々はニュースを消費し続けているのである。 これらの環境の激変で、一気にPCサイトでのニュース配信のウエートは減った。だが、PCサイトの雄、ヤフーニュースはその覇権を失うことはなかった。2014年、ヤフーニュースは月間100億PV(ページビュー)のうち半分がスマートフォン経由となるが、実はそれ以前からスマホ時代の到来を見越して「スマホファースト」を宣言。これが見事に功を奏し、PC時代で培ったユーザー層の行動をごっそりアプリ経由でも取り込むことに成功したのである。決算会見でスマートフォン決済事業について説明するヤフーの川辺健太郎社長=2018年7月27日、東京都千代田区  絶え間ないUX(ユーザー体験の設計)、UI(ユーザーインターフェース)の改善もあったであろうし(私が驚いたのは朝に新しいアップデートがあったので更新したら、その日の夜には別のUIにするアップデートがあったりした)、大手であるからこそ既存のニュース配信の入り口とのカニバリゼーション(競合)も懸念されただろう。 しかし、結果としてニュースプラットホームの王者となったヤフーニュースは、新興で成長著しい他アプリや、 解約忘れを狙う「レ点商法」など素敵な拡販策で利用者の上積みを続けてきた通信キャリア系のニュース配信プラットホームの追随を許すことなく、おそらく現在ではニュース配信のPVシェアでは6割以上を有しているとみられる。文字通り、一人勝ちである。緩やかな死を迎える新聞社 グーグルやフェイスブック経由でのニュース配信も脅威とされたが、「ニュースのファーストルックはプラットホーム(またはアプリ)経由で」というユーザーの行動が定着した結果、いちいち検索してニュースを探す手間を惜しむほとんどのユーザーはグーグルをそう多くは使わず、フェイスブックのニュースフィードも出口は結局ヤフーニュースという「しょっぱい結果」となった。 何しろ、読売や毎日、朝日、日経はいずれも記事全文は読めない。ならば、雑誌からニュースサイトまで良質な記事を厳選して配信してくれそうなヤフーに利用者の指示が集まるのは当然とも言える。 新聞社の囲い込み戦略に先駆けて、ヤフーニュースは自社制作の記事に力を入れ始め、質の低い情報配信元は有無を言わさずぶった切り、ニュースを読んで脊髄反射で荒れ狂う質の低いヤフーコメントはボタンを押さない限り、表示されないようになった。さらばサイゾー、そのうち記事がかぶりまくり品質も低いニュースサイトだけでなく、煽動的な見出しが眩しいスポーツ紙も用済みとばかりに配信本数を削られていくであろう。 新聞記事からエログロ、イロモノまで雑多なニュースの玉手箱だった時代のヤフーは自社のエンタメ系ニュースサイト「ネタりか」の縮小を象徴として消え去り、今や良質な記事と速報性を兼ね備える「マジ本格的な」スーパーニュースサイトとしての進化を続けている。というか、「ネタりか」のアクセスランキングの上位を「しらべぇ」が占めてるのやめろ。良質な記事の配信元との連携もどんどん強化された今、ヤフーニュースを軽視することはできず、紀尾井町(きおいちょう)に足を向けて寝ることすらできない状況なのだ。 ヤフーニュースはスマホシフトという激動を潜り抜け無事一人勝ちの状況であり、ニュース配信プラットホームとしては鉄板「単勝1・1倍」であり続ける。おそらくは今後、伸びしろのあるニュース動画やオピニオン系、調査報道といった分野にも進出し、もはや東京電力のようなインフラ事業に近い扱いになっていくのではなかろうか。※写真はイメージです(GettyImages) そして、調査報道を担ってきた新聞社や、でかい通信社のどっちか片方は、そろそろ緩やかな死を迎える。正確に言えば、輪転機を止め、不動産部門だけになる日が来るだろう。それは出版文化を支えてきたと自負する老舗中小出版社や大手取り次ぎがコンビニへのエロ本配本中止を突きつけられ、目を白黒させているのと同様、ある日突然やってくる。ジャーナリスト、佐々木俊尚さんが予言した未来が来てしまう。 まるで死んだ我が子の歳をカウントするようだが、既存メディアとネットとは本来対立的なものではなかった。新聞社や通信社、テレビ局、出版社の生み出す本当の価値は、情報があり、その情報を受け手に伝えることである。ラジオ局は知らん。本来は、そういう価値を生み出すのは記者であり、記事であり、番組であった。しかしながら、速報性ではネットに勝てないという理由で、また収益を支えている根幹は自宅配達や駅・コンビニ売りだったからという理由で「ネットファースト」という千載一遇のチャンスに背を向けることとなった。多くの出版社、新聞社、通信社は、自社の売り上げを守りたいばかりに変革のタイミングを逃し、自らの事業を作り変えることができなかった。ヤフーの波乱要素は? ヤフージャパンの場合も、場合によっては新聞社と同じ凋落(ちょうらく)を味わう可能性があったが、彼ら自身が自らを「PCサイト主体の広告事業でメディアにPVを集め稼ぐ」ことから事業転換を果たし、「スマホファースト」の掛け声のもと、社内事業との競合も恐れず事業を改革することで引き続きニュース配信プラットホームの覇権を手放さず、むしろ不動のものとした。普通は儲かったら海外に出て行きたいところ、英語が微妙に下手なトップマネジメントの気後れもあってか、日本市場に特化した戦いに専念したことで、結果として日本国内というドメスティックなスーパーパワーとなったのである。 もはや、ヤフージャパンの波乱要因はビッグブラザーである孫正義さんの育毛力だけである。あの薄毛はヤフージャパンをソフトバンクグループのサブブランドか、お財布ぐらいにしか思ってねえんじゃないかと思うぐらい、雑に扱っている。ぶっちゃけ孫さんはヤフージャパンをどうするつもりなの? そのソフトバンクのサブブランドとしての「ヤフー」を維持できている、重要なリソースの一つがニュース配信への信頼、アクセスであり、その公平なニュース事業の運営により絶大な支持を得ている。 ここが揺らぐとするならば、孫さんがまた変な提携先を引っ張ってきてヤフージャパンにくっつけようとするような、適当な大仕事の犠牲になる場合である。それは目下、大問題となっている公正取引委員会の対「GAFA」(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・コム)+MT(マイクロソフト、ツイッター)対策に他ならない。 そもそもフェイスブックとヤフーはかねてから提携していたはずなのだが、カルチャーが違い過ぎるのか、あまりパッとしたシナジーが生まれているようにも見えないのが残念だ。 なぜならば、いかにヤフージャパンと言えども、ユーザーの遺伝子データは持っておらず、これらの海外プラットホーム事業者が仕掛ける競争には絶えず主導権を奪われざるを得ない立場にあるからだ。しかも、うっかりポイントビジネスで連携してしまった先は、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)社のTポイントだ。おかげで貴重なヤフーIDを捨ててしまった。奥さん、それ虎の子ですよ。いったいどんな判断だ。 すなわち、ヤフージャパンの敵は国内事業者ではなく、業界ゲームのルール変更であり、見えざる新しいイシュー(課題)そのものである。あと孫さん。ダイエーの末期のような、ホークスの呪いを肌で感じる。それもビンビンにだ。誰かやつの口に貼るガムテープ買って来い。そう思わずにはいられない。※写真はイメージです(GettyImages) どうせヤフージャパンに尻尾を振る新聞社などいなくなった今、ニュース配信のソースを確かにするためにも同社が産経新聞社を買ってしまえばいいのである。BuzzFeedはヤフーと一緒にやっているが、そんなものは古田大輔に肉でも食わせてまた太らせて編集長をやらせれば解決する。 もうどうにもならない紙媒体と心中する前に、本当の価値である記者や編集者と記事を守るため何が必要かを徹底して考えなければならない。それがニュースのネット配信を考える上で、何よりも重要なことであることは間違いない。■ ロンブー淳がまた吠えた!「芸能コピペ記事はヤフーにも責任がある」■ カラパゴスすぎるネットメディア「みんなそろってバカになる?」■ 「倍々ゲーム」経営を可能にする孫正義の恐るべき世界人脈

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    「ZOZO離れ」はコストコで韓国製テレビが並ぶのと似ている

    ンであれば出版社や配送業者と、ヤフーニュースなどのニュースサイトであれば、配信料の低下に苦しむ配信元メディアとの間で衝突が見られる。 そもそも、プラットホームビジネスとは、サプライチェーン(部品の調達・供給網)の各段階を複数の企業が分業する中で、プラットホームを握った企業がそのサプライチェーン全体を牛耳るというものだ。必然的に、企業間でせめぎ合いの状況になるのは織り込み済みのはずである。 しかし、プラットホームビジネスの中には、プラットホーム企業とプラットホームに製品を提供する企業の双方が「Win-Win」の関係になっている場合もある。米半導体大手のインテルとIT大手のマイクロソフトがハード、ソフト双方のプラットホームを提供し、エレクトロニクス各社がその他のデバイスを開発するパソコン(PC)ビジネスは、まさに代表的な例だろう。プラットホームビジネスだから、常にこのような軋轢(あつれき)が生じているというわけではない。 問題は、プラットホーム企業が顧客と直接向かい合う流通プラットホームを担っていることに起因しているのではないだろうか。売る側は少しでも高く売りたい一方で、買う側は少しでもいい商品を、常に安く、あわよくば無料で手に入れたいと考える。 プラットホーム企業は、プラットホームを牛耳っているからこそ、商品やサービスの提供企業よりも強い立場にいる。そんな強いプラットホームを支えるのは顧客からの支持であり、いつも安く購入したいと考える顧客に対しては下手に出ざるを得ない。アマゾンの宅配用ダンボール箱(ゲッティイメージズ) また、プラットホーム企業は、顧客に高く売る努力をするよりも、商品提供企業にプレッシャーをかけて価格を引き下げる方が容易である。つまり、短期的なビジネスだけを考えれば、商品提供企業を泣かせて安く販売させる方がよいということになる。 価格を引き下げる要因は他にもある。強力な流通プラットホームが構造的に製品差別化しにくいことだ。これらZOZOやアマゾンに共通して言えるのが、大量の商品の中から簡単に最も安い商品を見つけられる、すなわちユーザビリティ(使い勝手)の高いウェブサイトを構築していることだ。 大量の商品の中から簡単に選べるということは、一つひとつの商品情報が「最小化」され、最小限の商品情報と価格だけが分かりやすく比較できることを意味する。ところが、企業は自社製品の優位性を顧客に伝えなければ、高価格でも納得して買ってはもらえない。製品差別化は、企業にとって商品の価格下落に対抗する重要な手段なのである。メーカーは泣き寝入り? そもそも、商品情報が十分に伝えられない販路では、製品差別化など不可能である。価格だけが購買の決定要因になれば、コモディティ(汎用=はんよう=品)化が進み、際限のない価格競争に陥るのは目に見えている。つまり、今日の優れた通販サイトは、そもそもコモディティ化を促進する「メーカー泣かせ」の構造を内在しているのである。 最小限の商品情報と価格比較のせいで、メーカーが泣かされるケースはウェブに限ったことではない。家電量販業界では、2000年ごろからヤマダ電機などの郊外型大規模店舗を持つ量販店が台頭してきた。これらの店舗でも、商品の説明要員を最小限に抑える代わりに、比較の容易な価格表示がなされるようになり、顧客が主に価格のみで購買決定をするようになった。 海外でも同じような流れはあった。米国でも、2000年ごろから、販売員に歩合給を出して丁寧な商品説明を促すような量販店は衰え始め、歩合給のない最小限の販売員と大量展示で安さを強調する「ベスト・バイ」という量販店が勢力を伸ばしていった。 コストコのような会員制ホールセール(大量販売)クラブが、家電の取扱量を増やしたのもこのころである。コストコは、メーカーにとっては「最後の手段」ともいえる販路である。なぜなら、顧客が自分でカートに乗せてレジに持っていく販売形態のために、顧客がテレビなどの家電を食品やトイレットペーパー同様の日用品(コモディティ)感覚で購入するようになり、製品差別化の入り込む余地などないからである。 メーカーもそれを承知しているから、コストコではあまり売りたくない。確かに、パナソニックやシャープのテレビが米国のコストコに大量に並んでいたこともあったが、それは両社の経営がかなり苦しかったころの話だ。現在、日本のコストコに並んでいるテレビは、日本市場に参入しながらなかなかシェアを上げられない韓国メーカーの製品である。 つまり、ウェブであろうと実際の店舗であろうと、「商品説明のない販路に、製品差別化は不可能」ということである。では、メーカーはどうすればよいのか。やはりカギは商品説明にあるのではないか。ヨドバシカメラやビックカメラなどのカメラ系量販店は、現在でも比較的手厚く説明員を配置して製品差別化を行い、家電量販業界で上位のシェアを築いている。ビックカメラ新宿東口駅前店(ゲッティイメージズ) また、テレビショッピングも有効な販路だろう。時には大量仕入れや安価な大量販売を行うため「もろ刃の剣」ではあるが、番組中でじっくり商品を説明してくれる。電子辞書のように、顧客が説明をしっかり聞いて、納得した上で購入するような製品には、非常に良い販路となっている。 当たり前の話だが、対面であろうとなかろうと、しっかり商品の良さを訴求することが、コモディティ(汎用品)化を防ぐ手段であり、ウェブの販路でも今後の課題となるであろう。現在のウェブ・プラットホームでストレスなく大量の商品情報を顧客に提供するのは難しいかもしれない。 それでも、5G(第5世代移動通信方式)の通信インフラが整えば、提供できる情報量が飛躍的に増加する。後はどのように顧客に飽きられずに商品情報をウェブ上で見せるか、知恵を絞ることが求められる。 長期的な視点に立てば、流通プラットホームがメーカーを泣かせてビジネスが成り立っているような状況は、市場として健全ではない。顧客だけでなく、プラットホーム企業、メーカーの三者が「Win-Win」になる状況を作り出すことが、今後の流通プラットホーム企業の課題となるであろう。■ 巨人アマゾンの罠にまんまとハマったヤマト運輸の「豊作貧乏」■ 拝啓、ZOZO前澤友作様「1億円バラマキ、本当に下品です」■ 悪役かヒーローか、アマゾンが変える宅配業界とネット通販

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    週刊SPA!「ヤレる女子大」騒動への疑問

    『週刊SPA!』(扶桑社)が掲載した「ヤレる女子大RANKING」に批判が相次ぎ、編集部側が謝罪する事態に発展した。「女性をモノ扱いした」「女性蔑視」との指摘は理解できるが、この手の記事は同誌に限らず昔からよくあった。なぜここまで炎上したのか。騒動の核心を読む。

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    『週刊SPA!』を謝罪させた女たちは一体何にムカついているのか

    鈴木涼美(社会学者) 『週刊SPA!』というのは不思議な雑誌で、いかにもサブカル系だったり、アラサー女性に人気だったりする漫画の連載があるかと思えば、「あなたのおっぱい見せてください」みたいな写真特集が突如出てくる。さらに、手を替え品を替えセックスと収入とか、セックスと学歴とか、セックスと場所とかの相関関係をひも解く記事が結構なページを割(さ)き、貧困や老後などに関する特集も多い。 基本的には若手〜中年の男性をターゲットにしているわけだが、カルチャーに関してはかなり高度に文化系でもある。大衆とアングラ、下世話とブンカが混在していて、私としてはそこが面白いのだけど、当然熱心に読んでいるページによって雑誌のイメージは違うだろうし、おそらく作り手側の持っている雑誌アイデンティティーと一般的な読者の印象にも齟齬(そご)がある。 私自身も連載を持っているし、そのほかでも何かと付き合いがあるので、編集者を何人も知っているのだけど、いかにも文学少女っぽい人がいたり、サブカル男子っぽい人がいたり、フェミニズムにこだわる男性がいたり、チャラそうなおじさんがいたりと多様で、文学少女がおっぱい特集なんかを手伝っている、割と面白い光景が見られることもある。 新年早々、その『週刊SPA!』が女子大生とのギャラ飲み特集という割と「お家芸」っぽい記事について世間から大変厳しい追及を受けている。 中心となっているのは海外経験豊富そうな現役大学生の女性で、ワイドショーなども相次いで彼女にインタビューしたり、記事を紹介したりと大ごとだ。編集部も早々に謝罪した。狭い村のような無法が許されているアングラ誌であったら、運動家の大学生の目にもネット住民やコメンテーターたちの目にもそれほど入らなかったかもしれない。少なくとも、「下品な週刊誌がまたバカなことをやっているけど、この雑誌はこういうもんだからしょうがない」というような見逃しは、『週刊SPA!』クラスの雑誌にはもう許されないということがよく分かった。 若者の雑誌離れが顕著なのは事実で、週刊誌を見慣れている大人からすれば見飽きてしまってスルーしてしまう類(たぐ)いのものでも、普段こういった雑誌に触れることがない学生が見れば、その見出しや内容は余計に前時代的かつショッキングに思えるという温度差も大きいだろう。 今回の炎上について、当初は米国かぶれの学生による自己実現に似た運動と思って冷笑的に見ていた人も多かろう。たとえきっかけがそういったものであったとしても、テレビなどで取り上げられる時に示されるのは「なるほど、これは問題だ」「もう、こういう時代じゃない」という反応であって、一向に雑誌擁護の声は聞こえないことを思うと、そう簡単に片付けてしまえる話でもない。『週刊SPA!』が掲載した「ヤレる女子大学生RANKING」=一部画像処理しています 大衆の言葉が必ずしも正しいとは思わないが、時代の空気というものを無視して生きることはできないし、空気の読み間違えや危機感のなさは罪となり得る場合もあることを思えば、こうした声を無視することは危険である。 さて、問題となっているのは、『週刊SPA!』が特集した「ヤレるギャラ飲み」の中で、「ヤレる女子大学生RANKING」として実践女子大や大妻女子大などの具体名を挙げて独自のランキングを作成したことであり、騒動の発端となったのは署名サイト「change.org」内の呼びかけである。彼女たちやそれに賛同する人たちは、一体何に怒っているのだろうか。そしてその怒りは妥当なのだろうか。何が嫌なのか 署名サイトの声明文中で叫ばれているのは、同記事が女性差別・女性軽視だといういかにも空虚な言葉で、時代との相性がいいという以外に、これではほとんど何も言っていないに等しい。 安く見られているのが嫌なのか、貞淑ではないイメージを植え付けられたのが嫌なのか、「ヤレる」という言葉の男性主導的な響きが嫌なのか、女子学生だけがランキングの対象にされているのが嫌なのか。 差別だという主張では男性向け雑誌が女性のランキングをするのに倣(なら)って女性誌が逆転版のランキングを作れば良い、あるいは『週刊SPA!』自身が言い逃れ的に「ヤリチン生息数ランキング」でも掲載すれば済んでしまう。 当然、女性側に大してその需要がないし、男性らがそれに怒ることはあまり考えられない。もしくは女性だけを食い物にするのが許しがたいのであれば、ゲイ向けにヤラせてくれる美男子が多い大学ランキングも作ればいいのだろうか。ほとんど冗談でそんなことを言ったら、私の友人のゲイのおじさんは「ぜひそのランキングを作りたい」とやる気に燃えていたが、それで今回の女性たちの怒りを沈められるとも思えない。 また声明文では、長々と女性の性犯罪被害についても書かれている。むろん性犯罪が許しがたいと思うのは当然だ。ただ、今回の記事に限って言えば、ギャラ飲みという狩り場で後腐れのないセックスをできる、ということを「ヤレる」と呼んでいるのであって、むしろレイプや相手の同意のないわいせつ行為をせずに遊ぶための指南のような気もする。少なくとも、レイプしても黙っていてくれる女のランキングではなく、ギャラ飲みおじさんの巧みな誘い文句に乗ってくれる女のランキングである以上、性犯罪と結びつけるのも無理がある。 起点となったこの主張が空虚であるがゆえに、連なるようになされた批判や大学側の主張、あるいはテレビで取り上げられた際のコメントは趣旨が微妙に違う。 ランキングに科学的根拠が一切ないこと、大学の実名を出したこと、記事が低俗であること、ヤレるという言葉が配慮に欠けることなどを問題視する声が上がり、コメンテーターの発言で多かったのが、時代感覚のなさや新しい時代のルールをインストールしていない週刊誌のあり方を指摘するものだった。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 「時代に追いついていない」「今の時代の空気を理解していない」というのは全くそうなのだけど、そういったことは怒るというよりバカにする、という行為がなされるものだ。しかも「この時代には通用しないよ」というコメントには、僕は別に悪いと思わないけど、という本音も見え隠れするので、実際みんな何が悪いのか、絶対的な悪がそこにあるのかはピンときていないのだろう。 ランキングが個人的感覚によるものであって事実と違う、それによって名誉を傷つけられた、といった大学側の怒りも理解はできるが、その論理で反論するのであれば極論を言うと自分の大学の生徒がいかに貞淑であるか科学的アプローチで証拠を作る、といったことになってしまう。それはそれで時代錯誤であって、女性が貞淑でなくてはならない、といった前時代的な価値観が透けて見えるのだ。どこの大学でも同じ また、大学の実名を出さずに例えば今回の記事がイニシャルで掲載されていたとしたら、むしろ「ヤリマン」や「ヤレる」というイメージが著しく女性の名誉を傷つけるために配慮した、ということになるので、あるいはそちらの方が女性にある種のイメージを押し付けるもののような気もする。 「ヤレる」というのは不思議な言葉で、直接的にはセックスができるということなのだが、そういう意味では別に東大だろうが理科大だろうが芸大だろうが日体大だろうが、男も女もそれ相応の手続きを踏めばヤレる。それはどちらかといえば誘われる側の属性よりも誘う側の手腕や魅力が問われるところであって、セクシュアリティーや趣味趣向に合った相手とタイミングが合えばセックスの合意を得ることは別に普通にある。 「ヤリマン」「ヤリチン」というともう少し範囲は狭まるが、一般的なイメージでは恋人でなくとも場合によってはセックスする、不特定多数の人とセックスをする人ということであって、セックスが好きな人やセックスした人数自慢をしたい人というのも別にどこの大学にもいる。男でも女でも、ヤッた人数を自らの価値だと見紛う人もいれば、セックスをする相手が常にいることで承認欲求が満たされる人もおり、またセックスをスポーツに近い趣味と考える人も、一人と何回もではなく日々新しい相手と肌を合わせることに楽しみを感じる人もいる。 そう考えるとヤリチンやプレイボーイが呆(あき)れられながらも同性間ではある種の称賛や名誉を持って発せられる言葉でありながら、「尻軽」「スラット」となると分かりやすい蔑(さげす)みの言葉になる。そのこと自体が、男女平等を叫びたい人からすれば大変アンフェアであって、ヤリマンが蔑まれないような社会こそ目指すべき指標ということになる。果たしてそうなのか?  ちなみに、私は90年代の終わりに高校生になったのだが、私たちギャル世代は割とその男女非対称性というのを無自覚にも無効化していた。雑誌『egg』では若い女の子のエロに特化したエピソードページがあって、ヤリマン・ヤリチンという言葉を融合して男も女もセックスに積極的な人は「ウテウテ」と呼んでその自由さやノリの良さを愛でていたのである。 かといってギャルたちの、その無意識な態度が全体に波及したかと問われれば甚だ疑問で、世間どころかかつてのギャルたちも今やすっかり貞淑なふりをして旧態依然とした社会に迎合している。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 自らの楽しさを第一の優先事項とした子供の頃に比べて、男性の好みや社会に歓迎される態度を優先せざるを得なくなったと解釈することも可能ではある。だが、男のようにサルや野獣になることを、女性自身が選ばなかった、平たく言うと男のバカな夢を女は特に共有しようとしなかった、と取る方が自然だろうと思う。 女の人たちの多くは、たとえ仕事を持って偉くなってお金持ちになったところで、複数の美男子を両脇に抱えてハーレムを作り、オープンカーの助手席に新進気鋭のモデルを乗せて葉巻を蒸すようなことにはそれほど食指が動かないし、美しい本夫の他に何人もの愛人宅を忙しく回る日常にもそんなに魅力を感じない。秘書にテーブルの下で性器を舐めさせる妄想もしないし、義弟が夜中にいきなりエロくなったら引くし、家庭教師が急に性器を見せてくるシチュエーションは不気味であって魅力を感じることはない。 男子だけが良い教育を受ける機会を与えられ、男性だけが選挙権を持ち、男性だけが出世していく世の中を見て、この権利や機会を欲しいと思った女性らの活動によって現在の女性の自由の礎は築かれたが、AVを見て、男性だけに与えられるこのような自由を得たいと夢見る女性は大変少ない。むしろ、男って本当にテーノー(低脳)だな、とか、男ってバカだな、と思う。「呆れる」程度のもの 身体的な非対称性は別としても、権利や機会で平等を目指すといったって、当然、いや別にそこはいらない、という個所はあって、特に身体を使うセックス関係の分野はまさにそういった個所が集中的に点在している。 私はそこが、男女公平の限界値だと思うのだけど、ギャラ飲みでヤリたいと夢見るおじさん向けの記事に対して、「日本にも女性に権利を」という文言で締められる「change.org」の声明文を読むと一体どこを目指すのかがよく分からなくなる。 記事に問題点があるとしたら、ギャラ飲みなんていう明らかに知り合いから芋づる式に女の子が集まるような、しかも開催場所によって大学に偏りが出るに決まっているような場で、大学名と持ち帰り率に相関性があると信じる男のバカさ加減や、女子大生からすればご飯を食べてお小遣いをくれるチョロい男とのおいしい場であるにもかかわらず、自分らに彼女たちを選ぶチャンスがあると夢見るおめでたさが透けて見えているところだ。そもそも、そこに男が選ぶ側であるという意識があるとしたら、それこそが男性のファンタジーであって、AVで秘書にフェラチオされるシーンにヨダレを垂らしている姿とあまり何も変わらない。 女性が軽視されているどころか、ギャラ飲みで軽視されているのはおじさんのくだらない純情であって、搾取されている側のおじさんがヤレるヤレると妄想を膨らませているその光景は「呆れる」ことであっても「戦う」ところではない。女の子の気まぐれでセックスにありつけることもあるかもしれないが、それは幸運にもキャバクラ嬢を抱けた客が、さらなる営業の餌食として認定されていることも気づかずに、あそこのキャバはちょろいもんだぜと言っているようなアホらしさこそあれ、そこに男性優位な構造はない。 そして重要なのは、本当は貞淑なのにヤレるなんて言われて傷ついた、とかいう主張はおじさんの妄想の方に加担してしまうことだ。女は男が妄想する以上に邪悪なものであって、ヤレると思わせてうまく逃げる女子たちの前に、実はおじさんたちは結構無力である。するのであればその構造への勘違いを正す指摘をするべきだが、妄想してくれているおかげで札束が飛ぶ現場にあって、その暴露を望む女子は少ないだろう。今回の炎上で、当事者のギャラ飲み女子が割と沈黙しているのはそのせいだ。 怒っている炎上の原告たち、「これはもう通用しないよ」なんてのんきに言っているコメンテーター、憤慨する大学も含めて、ギャラ飲みでおじさんを搾取している当の女の子たちからすれば、その構造に気づかない大変おめでたいものなのだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) この記事は女性の尊厳を傷つけるものではない。傷つくものがあるとしたら、この女子大とのギャラ飲みならきっと今夜はセックスにありつける、と期待に胸を膨らましてお札を握りしめて出かけていって、うまいこと女子に煙に巻かれて一人で侘しくラーメンをすすって帰るおじさんくらいで、そういった賢くたくましい女子たちのいる大学の尊厳もまた、別に傷つくことはないだろう。 男のバカさ加減に「いい加減にしろ」と怒る気持ちは分かるが、女性が差別されていると怒るのだとしたらもう少し目を配るべき場所はあって、おじさんのおめでたいファンタジーが詰まったここは、そのエネルギーの向けられるべき場所ではない。■なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理■コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス■「LGBTなんて言葉なくなればいい」元女子高生の僕が伝えたいこと

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    『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判

    ました……。――今、『週刊SPA!』の実売部数は?渡部 5万部……それを切っているかもしれません。他メディア、特にウェブ・メディアに対抗して焦りがあり、感覚をまひ劣化させ、扇情的な記事がエスカレートしてしまいました。それは素直に認めなければいけないと思います。――部数を落とさないために、会社経営陣からああいう記事もやむなし、掲載すべしという指示があったりもする?渡部 それはないです。それは強く否定させていただきます。――逆に社内でああいう記事にブレーキをかける動きは? 扶桑社は防衛省のオフィシャルマガジン『MAMORU』も出版し、扶桑社の関連会社である育鵬社は歴史や公民の教科書を出版しているわけだから。渡部 私の主観的な見解ですが、苦々しく思っている社内の方はいると思います。それ以上のことは、私の職務外の領域なので話すことはできませんが。――今、編集部員は何人?渡部 35人ぐらいです。――僕が編集長のころとだいたい同じだね。女性は?渡部 3人。――それは少なすぎるね。僕がやってたころは3割は女性編集者だった。それが今回の記事を生んだ一因では?。渡部 それはツルシさんの判断に委ねるしかないです。――今回の記事に女性編集者はかかわっている?渡部 かかわっていませんが、フリーの女性ライターが1人かかわっています。――読者ターゲットは?渡部 今は45歳男性がコア・ターゲットです。――僕がやってたころのコア・ターゲットは28歳の男女だったかな。話し合いに訪れた女子学生たちは、超からすれば子供の世代の年齢だね。彼女たちからも「こういう記事を目にしたら、自分の子供がどう思うか」という視点からの発言があったけど。渡部 感性が劣化していたというしか、説明のしようがありません。※画像は本文と関係ありません(GettyImages)――感性とか感覚とかあいまいなものではなく、個人の尊厳や人権侵害に対する意識が明らかに欠落していた。人権にかかわる問題だという認識は?渡部 あります……。――モラルの劣化の長年の蓄積が、今回のことにつながったと僕は考えている。『週刊SPA!』に四半世紀もかかわり続けている超の責任は重いのでは?渡部 それはツルシさんのクリティカル(批判的)な分析ということで。私自身にはそういう思いはありませんが。雑誌の未来は誰にもわからない――「大宅壮一文庫」(雑誌の専門図書館)で最近の『週刊SPA!』のバックナンバーにざっと目を通してきたんだけど、よくもまあ、ここまで変貌したものだなというある種の感慨を持ちました。大宅文庫で『週刊SPA!』を閲覧しているのが恥ずかしかった。『週刊SPA!』が扇情的な路線の急坂を転げ落ちていった分岐点は、いつごろだったんだろうか?渡部 私にはその実感がありません。私にも責任があるといわれるのであれば、その評価は甘んじて受けます。――編集部は会社から自由に雑誌をつくらせてもらっているというけれど、実売部数は僕が編集長のころの6分の1に落ち、部数が落ちないように扇情路線に走り、そして今回の抗議。自由につくらせた結果、編集部が勝手に暴走したというのでは、社会的責任を負っている会社としては、あまりに無責任ではないかと思う。4人の女性たちは、抗議の対象を編集部だけではなく、フジ・メディア・ホールディングスも含めているけれど、当然だと思う。社内には『新潮45』のように廃刊にするという意見は?渡部 経営判断ですので……。私自身は廃刊はまったく考えていませんが。――僕も廃刊という対処は最低最悪だと思う。廃刊によって、今回提起された問題が風化してしまうから。これは『週刊SPA!』のみならず、劣化の一途をたどる日本のメディア全体の問題だという視点でとらえないといけない。編集部OBとして長く続けてほしいとも思う。『週刊SPA!』は『週刊サンケイ』のリニューアル雑誌として創刊され、『週刊サンケイ』創刊(1952年)から数えると、その歴史は今年で68年。それを発展的に継承してほしい。女性たちの抗議を生かし、『週刊SPA!』は画期的なリニューアルを成し遂げた、そんな評価がされるような。渡部 社会から大きな批判を浴びましたから、新方針を打ち出し、批判されないものをやっていくしかないです。雑誌の未来は誰にもわからないですけれど……。 ――僕だったら、話し合いに訪れた彼女たちも、まったく違和感なく読めるような雑誌にするかな、思い切って。それしか未来はないというか、雑誌業界の現状も含めて、僕は社会は不動の仕組みではなく、人間の働きかけによって変えられると僕は考えていますから。ところで、『週刊SPA!』の巻頭カラー連載は「みうらじゅん×リリー・フランキーのグラビアン魂」。僕が編集長のときには、ああいう巻頭カラー連載をもってくるという発想はなかった。禁じ手にしていた。雑誌が性を扱ってはいけないとはまったく思わないし、僕が『週刊SPA!』の編集者だったころも、性に関する多様な視点からの記事を掲載していたけど。あの連載が始まったとき、これでいいのかなという危惧を持っていたんだけど。超はどう思っている? 渡部 それはツルシさんの主観ですよね。「グラビアン魂」は、現在の『週刊SPA!』が胸を張って誇れる連載だと僕は思っています。『週刊SPA!』(扶桑社)2018年12月25日号 『週刊SPA!』12月25日号が出る前に、「ランキング」記事に違和感を持った超が、編集長に意見しなかったのはなぜか。彼はその理由を明確に答えなかった。残念だったが、十数年ぶりに会い、取材に応じてくれた彼には「お疲れの中、ありがとう」と言いたい。 1月15日、『週刊SPA!』に「ゴーマニズム宣言」を連載している漫画家・小林よしのり氏が、自身のブログに「SPA!に抗議に来た女子大生は危険だ」というタイトルの持論を記した。こうした反響を含めて今後、SPA!編集部がどう対応していくのか。注目したい。■医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実■同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論「LGBT杉田論文の度が過ぎる」■古い「男らしさ」の呪縛から抜け出せない日本男児に告ぐ!

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    週刊SPA!「ヤレる女」騒動にフェミニストの私がモヤモヤした理由

    ろくでなし子(漫画家、芸術家) まんにちは。まんこアーティストのろくでなし子です。つい先日、『週刊SPA!』の特集記事「ヤレる女子大学生RANKING」がネット上で女性蔑視として問題となり、国際基督教大(ICU)学生らが抗議の署名活動をしたことが話題になりました。 同じ女子大生として不名誉に感じたのであれば、抗議する自由や権利は当然あります。「ヤレる女」という言葉に、女性をモノのように考える男側のさげすみを感じます。「ヤるかどうかはワイが決めるわ!」と、わたしでさえ言いたくなります。 ただ、その署名活動は謝罪要求にとどまらず、出版取り下げや「週刊誌および出版社による、女性の差別用語、軽視する発言を今後一切やめる」こととあり、あまりに短絡的に感じました。さらに、この署名活動にフェミニストを名乗る人たちが少なからず賛同していたことに、同じフェミニストであるわたしは非常にモヤモヤとしました。 昨今は性暴力被害を告発する「#MeToo(私も)」運動が世界的に盛んです。つい最近も、国内で人権派ジャーナリストの性暴力が発覚しました。 フェミニストが女性差別や性暴力に敏感となり、抗議が活発化するのは分かります。 しかし最近の彼女たちは、少しでも性の臭いがするものに対し拒絶反応を示し、女性を「性嫌悪」へ導く活動家のようにも見えます。 本人たちがフェミニストを自称している限りわたしは否定しませんが、「女は貞淑であれ」「ふしだらな女はよくない」とする男性社会の古い価値観に中指を突き立てて来たのが我々フェミニストのはずじゃなかったの…?と疑問に思うのです。 「ヤレる女」といえば、まんこアーティストのわたしこそ、そんなイメージを世のおじさんたちから持たれ続けてきました。 当のわたしはまんこをモチーフにはしていても、バカバカしくて笑える作品や、まんこをいやらしいモノのように見るおじさんたちのちんこを萎えさせる代物を作って来たので、甚だ心外です。 しかし、まんこをデコったりジオラマを乗っけたり、ボートにして川でこいでみても、まんこがいやらしいイメージのまま思考停止している人には「いやらしい事をしている女」→「ヤリマン」となる訳です。 わたしが実際に特定多数の異性と性行為をする「ヤリマン」かと言えば、むしろ「まんこまんこ」言う変な女はドン引かれ、好意を寄せる人からはことごとくセックスをお断りされるマンでしたが、それはさておき、まんこアートを即セックスに絡められる事に、当時はいちいち腹が立ったものでした。 しかしそんな時、ある人に「まんこをセックスと結びつけて何が悪いの」と言われてはっとしたのです。 確かに、セックスはまんこを使ってするものだから結びつけられて当然なのに、なぜわたしはこうも屈辱に感じるのか? それは、わたしが心の底ではセックスを汚らわしい事、良くない事だと思っているからでは…? つまり、「ふしだらな女はよくない」とし、女性を性嫌悪へと導く男性社会の価値観に、女でありフェミニストのわたしがまんまと乗っかってしまっていたわけです。裁判の閉廷後の会見に臨むろくでなし子氏=2016年5月、東京都千代田区 それに気づいてからは、わたしを「ヤリマン」と思って近づいて来る人には、「バカな人だなぁ…」と思いこそすれ、怒ることはなくなりました。 だってわたしがヤリマンであろうがなかろうが、わたしは男の物差しでは生きていないからです。 そんな訳で、あの署名活動に賛同するフェミニストたちには、かつての自分のようだからか、すごくモヤモヤしたのです。表現を奪う活動に賛同せず もちろん冒頭でも触れた通り、「ヤレる女」という言い方が女性をモノ扱いしていて不愉快だ、という意見には同意です。あるフェミニストが「ヤリマンを否定しているのではない、ヤルかどうかは女性本人が主体的に決めるべきなのに勝手に男性に決められることに抗議している」とわたしに言ってきました。 それはフェミニストの主張としては一見、正しく見えます。ですが、それなら「抱かれたい男ランキング」にも、「女が男に『抱かれる』など、女性を受け身的に捉えて主体性を奪う言い方で不愉快だ!『ヤリたい男』と言い換えろ!」と怒るべきだと思うのですが、そんな声が上がったのを今まで聞いたことがありません。 それに、「私は自分でヤリたい人を選んで決める、誰にでも股(また)を開く女ではない!」と主張することは、誰にでも股を開いてしまうヤリマンを低く見ていることになりませんか? なぜ、女性が主体性なく股を開いたらダメなのでしょうか? 「そんなセックスは後悔する、男に利用されてはダメだ」と言うフェミニストもいますが、それは女性を弱くてかわいそうな存在とみなして「ふしだらな女になるな」と呪いをかけることになりませんか? そう言うと、「性病がマン延するし、望まない妊娠で傷つくのは女性だ」と返ってきそうですが、だからこそ、まんこをタブーにせず、子供達から性を遠ざけコンドームの使い方すらろくに教えて来なかった日本の性教育を変えるべきではありませんか? フェミニストなら、主体的なヤリマンだろうが、流されやすいヤリマンだろうが、女性がセックスに奔放なことを世間が見下す風潮そのものに「NO(ノー)」を突きつけるべきではないのでしょうか? 大体、女性をモノ扱いする表現ばかりがやり玉に挙げられますが、女性が男性をモノ扱いする表現も、世の中にはたくさんあります。 父親や配偶者をバカにする女性や、無職や低収入の男性をバカにする女性を実にたくさん見かけます。 男性をATM(現金自動預払機)扱いするような下世話な女性向け雑誌もコンビニでよく見かけます。ツイッターでは「金玉潰してやる」など、過激なツイートをする自称フェミニストも、つい最近までいました。わたしだって、まんこアートに怒るおじさんや警察をバカにして漫画にもしました。つまり、お互い様でしょう。 誰かにとって不快な表現が消されていく世界になったら、フェミニストが男性の悪口を堂々と言う事も許されなくなります。 わたしはこれからもまんこアートに怒るおじさんたちをからかう作品を作りたいし、言いたいことを言いたい。上のお口も下のお口も誰かに封じられたくありません。 繰り返しますが、あのランキング記事に怒りたい女性は好きなだけ怒ればいいと思います。「ふしだらな女」を不名誉に思う人の自由や権利も当然あります。 ですが、フェミニストであるわたしは、出版取り下げなど表現の自由の範囲まで過剰に要求するあの署名活動には賛同しません。 わたしなら、「男に利用されるな」と言って女性の自由を制限せず、「女がヤリマンで何が悪いのか」と声を上げ、性表現やセックスを楽しむ女性に不利益が生じた時には一緒に怒って抗議します。そして、子供達と真面目に性の話ができる社会を、上のお口も下のお口も封じ合わずに誰もが言いたいことを言える社会を目指します。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) ちなみに、この件で興味深いのは、このようなフェミニスト批判をツイートしていると、件(くだん)の署名活動に賛同しているフェミニストからの反論があるのはもちろんですが、なぜか日頃フェミニストを嫌うおじさんたちからも批判を多く受ける事でした。 わたしが批判するフェミニストたちは、やはり「ふしだらな女」を許せない、おじさんたちと気が合うのかもしれませんね。■医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実■同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論「LGBT杉田論文の度が過ぎる」■古い「男らしさ」の呪縛から抜け出せない日本男児に告ぐ!

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    「男性誌に純潔を求めてどうする」週刊SPA!大炎上のここがヘン

    水島新太郎(同志社大学嘱託講師) 誌名に「世相をスパッと斬る」などの意味を込めたとされる『週刊SPA!』(扶桑社)が、2018年12月25日号で「ヤレる女子大学生RANKING」を掲載し、物議を醸した。世相を斬り損ねたのか、思わぬ騒動に発展したこの問題について考えたい。 同誌では「カリスマ女子大学生とセレブたちとのギャラ飲みを開催」と題した特集が組まれ、「ヤレる」(性交渉を持てる)可能性の高い女子大生の出身校が実名で記載され、髪形やメーク、服装などの特徴が事細かに紹介されている。 この記事に不快感を持った女子大生たちは署名収集を目的としたサイト「Change.org」や、会員制交流サイト(SNS)で記事の内容に抗議し、想像を超える数の署名が寄せられ、世間を騒がせた。 記事で使われている「ギャラ飲み」は、男性が女性に金銭的援助をする見返りに食事の席などに同席し、あわよくば性交渉を期待することを意味しているそうだが、記事に抗議している女子大生たちは何に対して憤慨しているのだろうか。 言うまでもなく、彼女たちは、自分たちが金で簡単に体を許す女性であるかのように男性目線で一般化されたことに憤りを感じているのだ。今回の問題は、男女間におけるジェンダー観の違いを浮き彫りにした一例であるといえよう。 周知の通り、当初『週刊SPA!』側は、記事に不適切な表現があったことを謝罪している。だが、表現による問題というよりは、読み手が書き手の組んだ企画、そこで使われている文章表現をどう受け取るかに深く関係した問題であるように思えてならない。 くだけた表現が丁寧な表現に書き換えられるように、書き手の企画構成力、文章力で読み手の意識も大きく変わるだろうし、そこに説得力があれば普通では許されないようなことも見過ごされてしまうケースがある。 説得力がなくとも、『週刊SPA!』がターゲットとする読者が主に男性であることを考えると、そこで語られる内容が男性読者のニーズに合ってさえいれば、彼らはそれを無条件に受け入れるだろう。また、当該記事が「女子大生」に的を絞る形で書かれている点を考えても、女子大生に該当しない女性たちの中には、男性との出会いに無縁な私には関係のない話だ、と他人事を決め込む者も少なからずいるはずだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) しかし、インターネットによる情報共有が一般化された今日、従来男性読者の間だけで共有されてきた話題も、それを読んだ人間がネットで内容を一言つぶやいただけで大多数の知るところとなり、内容によっては、今回のように大きな波紋を呼ぶ問題へと発展する。これは、個人が意見を発信することのできる現代のネット社会の良い面でもある。単純すぎる「欲望の論理」 SNS上でセクハラ体験などを告白するために利用され、今ではその言葉が象徴となった「#MeToo(私も)」運動や、大学の医学部入試における女性差別問題など、現代社会は女性差別に対して非常に敏感である。このことを踏まえれば今後、表現の自由という点で、男性週刊誌で語られる女性にまつわる記事は主な読者である男性だけでなく、女性読者も意識する形で書かれていくことになるかもしれない。 果たして、週刊誌にそこまでの純潔性を求めてよいのだろうか。表現の自由を大義名分に人を傷つけることは間違っているが、記事の検閲による言論統制よりも、今回声を上げた女子大生たちのように、読者側が正しい情報リテラシー(活用能力)をもって能動的に行動することこそ、ネット社会を生きる私たちへの課題なのではないだろうか。 ただ、男性週刊誌は決して男性読者だけを意識し、彼らが喜ぶ記事だけを書いているわけではない。筆者は『週刊SPA!』2017年5月30日号に掲載された「男性記者が実体験-オンナは大変だった!」と題した企画に識者として参加し記事を書いた経験がある。その際、男性記者が女性側をもっと理解しようと恥を忍んで女装や脱毛体験をするなど、取材を通して編集部の熱い思いは十分感じられた。 男性の妊娠体験を扱ったこの記事を読んだ筆者の周囲の反応は、性別や年齢によって意見は分かれるものの、女性の反応が年齢を問わず好意的であったことを今でも覚えている。また、筆者を取材した記者が女性であったことを考えると、男性週刊誌の作り手が必ずしも男性であるとは限らないことも忘れてはならない。 男性が男の沽券(こけん)を捨てて女性体験をする話には好感が持て、男性が因習的な立場から女性を見下す類いの話には反感しか持てない、といった風潮の行きつく先は、味方以外はすべて敵とみなす分裂社会である。 筆者は、本稿を書く上で、「ヤレる女子大生」と一緒にされた女性たちの悲痛な思いは十分理解している。また、彼女たちの抗議が社会の在り方を変えていくとも信じている。 ただ、『週刊SPA!』はグラビア写真やセックスに関する記事を扱う男性週刊誌であり、男性の真情を吐露するという点において、必ずしも女性差別的な姿勢を貫く週刊誌ではないことも忘れてはならない。むしろ、女性を性的な対象として見る男性側の「欲望の論理」がいかに単純で、時として偏狭的であるかという自明の事実を、「ヤレる女子大生」記事は改めて示してくれているのではないだろうか。 男性側からの本音によって傷つけられた女子大生側に立ち、女性差別という名の下、男性批判を展開する世論の声は、「男性たちよ、表面的でいいから女性を優遇し守る姿勢を持とうよ」と、見せかけだけの女性擁護へとつながりかねない。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) さらに、日本の男性学をけん引する大正大心理社会学部の田中俊之准教授がしばしば用いる「男がつらいよ」という言葉が象徴するように、男性受難の時代を訴える「プロ・フェミニスト」男性たちの間から、「なぜ男性というだけで、女性を蔑視する者であると決めつけられなくてはならないのか」といった反発の声が上がる可能性もある。結果、それは逆差別問題へと発展し、男女の間の溝は深まるばかりである。 今回の「ヤレる女子大学生RANKING」で、ヤレる女性の特徴として、髪形やメーク、服装が事細かに挙げられていたが、『週刊SPA!』ではしばしば、「ヤレる統計学」といった、女性との性体験が豊富な男性たちの実体験をもとに特集が組まれることがある。そこでは、男性が惹(ひ)かれる女性の身体的特徴として、髪形や服装といった「記号」で女性たちがカテゴライズされている。言い訳ばかりする生き物 例えば、先に述べた筆者も参加した2017年5月30日号では、「押せばオチる女300人の服装」と題した記事が6ページにわたって掲載され、服装や髪形以外に、学歴や所持品など幅広い項目がパーセンテージ化され、オチる女性たちが分析されていた。 ここで、女性の存在を記号化することが女性蔑視へとつながるメカニズムについて論じた面白い研究を二つ紹介したい。一つは日本のフェミニズム研究の先駆者である上野千鶴子氏の著書『女ぎらい-ニッポンのミソジニー』(朝日新聞出版)である。この著書の中で上野氏は、女性を性的対象としてみる女好きの男性ほど「女ぎらい」であると興味深い主張を展開している。 上野氏は、「女ぎらい」という言葉は、裸やミニスカートといった女性らしさの記号に反応する、女好きな男性の在り様を形容する言葉であると考えているのだ。つまり、無類の女好きな男性は全て「女ぎらい」であり、女性蔑視者であるとする論だ。嫌悪と蔑視が結びつけられた形容詞であると考えてもらえばいいだろう。 これに似た議論を、早稲田大人間科学部の森岡正博教授が男性の立場から、著書『感じない男』(筑摩書房)の中で展開している。森岡氏は、男性たちの多くが、たとえ男性の足であってもそれが女性の足であると聞かされた上で見せられると、その足に対して性的に反応してしまうことを、自身の体験をもとに述べている。 つまり、男性たちの多くは女性そのものに対してではなく、ミニスカートから見える美しい足といった女性を連想させる記号に反応しているということだ。同じことが、ニューハーフバーに通う妻子持ちのサラリーマン男性たちにも言えるだろう。彼らは、生物学上は男性であるニューハーフ女性たちの纏(まと)う女らしさという記号に欲情しているのだ。アニメなど2次元の女性キャラクターに萌えるオタク男性たちも同じだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 男性週刊誌がセクシーな女性のグラビアを掲載し、女性の髪形や服装といった記号的部分に着目する形で「ヤレる女」と称した記事を企画・紹介していることからも分かるように、女好きな男性の関心は多くの場合、表面的な女性という記号にあると言える。 かつて男性中心社会の陰に埋没してきた女性たちは、男性と同等の権利を得るために必死に努力してきた。男女雇用均等法以降、男性と肩を並べて競争する生き方が女性たちにとっていかに難しかったことか。妊娠や出産を機に男性と同じような長時間労働が困難になった女性たちの多くは思っただろう。均等法は依然、男性に有利な競争原理だ、と。 そして、女性たちは男性が思う以上に、男性のことを「エロ目線」ではなく、もっと深い視点でしっかりと見ている。どうしたら男性と対等な立場に立って生きていけるのか、そもそも男性はなぜ自発的に変わろうとしないのか。きっと、記事に抗議した女子大生たちの中にはこのように考える者が多数いるだろう。 女性は男性のことをどう思っているのか、軽い気持ちで知ってみたい方は、尾崎衣良(いら)氏の漫画『深夜のダメ恋図鑑』(小学館)をぜひとも読んでいただきたい。男性がいかに弱く、不完全で、自発的に変わろうとしない言い訳ばかりする生き物であるかが分かるだろう。しかし、従来の男性の役割から自己解放を果たし、女性と手を取り合って新たな人生を歩もうと努力する男性も多くいることを併せて言っておきたい。■なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理■コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス■「LGBTなんて言葉なくなればいい」元女子高生の僕が伝えたいこと

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    週刊誌隅々まで読む山田詠美、男性週刊誌はツッコミ所満載

     日常の折々の出来事を俎上にのせて毎週綴る女性セブンの連載「日々甘露苦露」をまとめた山田詠美さんのエッセイ集が発売早々話題になっている。タイトルは『吉祥寺デイズ うまうま食べもの・うしうしゴシップ』。 美味なる食べもののことや夫婦のことから、折々のニュースについてまで、人生で味わう甘露と苦露をすくいとったエッセイ集だ。「目指すは甘くて苦くて無銭だけど優雅な日々」という詠美さんに書評家・倉本さおりさんがロングインタビュー。 山田さんは、週刊誌を端から端まで読むという。ひとくちに週刊誌といっても、女性週刊誌と男性週刊誌ではだいぶ毛色が異なる。「いかにも男性週刊誌的」な感覚にはツッコミどころも多い様子。 「よく、生々しいヌードや際どい下着姿がばーんとアップになったグラビアの後に、食べ物のグラビアをこれみよがしに持ってくるでしょ? しかも、よりによってお寿司とか生ものの写真を載せたりする(苦笑い)。ああいう身も蓋もない感じの嗜好は女にはないよな、と思いますね。 そういえば、『ノーパンしゃぶしゃぶ』なんていうものが日本にあった頃、男性の管理職が接待に使う、と当時の記事に書いてあったんですよ。それを女の子同士で読みながら『どうしてスカートの中身を見ながらしゃぶしゃぶを食べられるんだろう?』って笑い合っていました」 山田さん自身、食と性が交差する瞬間を緻密に描写してきた作家だ。例えば、『風味絶佳』という作品集の中では、口元をだらしなく伝う西瓜の汁を拭われる情景が、一方的に甘やかされるセックスの象徴として差し挟まれる。 また、女が男に食べさせるために拵えるさまざまな料理は、肉体をすみずみまで支配することの暗示でもある。いずれの表現も鮮やかで濃密な感情を呼び起こすものの、けっして安直なポルノには陥らない。創刊間もないころの『SPA!』(右)=海老沢類撮影 「性的なことと食べ物のことを結びつけて文学に持っていくには、きちんとテクニックを用いる必要があると思うんです。すくなくとも、直接結びつけて成立するものではない。ところが男性週刊誌の世界では、いまだにそこを勘違いしたまま訳知り顔でただ並べて、しかも悦に入っているところがあるから辟易しちゃう」 男のロマン、とはよく言ったもの。自分たちで作り上げた城の中に安住するうち、それを醒めた目で眺める女性たちの姿をはじめ、現実がすっかり見えなくなってしまうことも多いようだ。 「『死ぬまでセックス』特集なんかも、気持ちはわかるけど、はっきり言って方向が間違っていますよね。妻を含め、世の中の女の人たちの気持ちを知りたいんだったら、むしろ『女性セブン』を上から下まで読んでみればいいのにって思います(笑い)」関連記事■ 北野武が「道徳」の教材はツッコミどころ満載と喝破する書籍■ ビートたけし 「『1億総活躍』はツッコミどころ満載」■ 堀井雄二に山田詠美も……。早稲田vs明治 漫研OB対決!■ いがらしみきお、山田詠美、田口トモロヲ エロ漫画家経験も■ 市原悦子を語り手にイメージして書かれた山田詠美さんの新刊

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    平成は「閉塞の時代」だったか

    し、未曽有の自然災害が頻発、オウム真理教によるサリン事件も社会を震撼させ、インターネットという新たなメディアも台頭した。閉塞感が漂う時代の中で日本人の価値観はどう変わったのか。

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    平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

    篠田博之(月刊『創』編集長) メディア批評が仕事の一つなので、もう30年近く、毎週、ほとんどの週刊誌に目を通している。週刊誌は、雑誌ジャーナリズムの代表であり、新聞やテレビと異なる立場から言論・報道の世界で大きな役割を果たしてきた。ところが、この数年ほど、手に取って思わずため息が出てしまうことが多い。 スキャンダルと事件報道が週刊誌の基本だったはずなのだが、部数減に悩まされ、コスト削減の狙いもあって、大事件が起きても競って現場取材にしのぎを削るということが少なくなった。『週刊現代』『週刊ポスト』は以前から、そしてこの2年ほど『週刊朝日』も大きく舵を切って、「高齢者向け実用情報誌」とでも言うべき誌面になっている。年金、健康、医療といった実用情報が誌面の多くを占めるようになったのだ。 各誌とも創刊からの長い歴史を経て、読者の高齢化が指摘されているのだが、そのコアな読者層に誌面をよりシフトさせることで、部数を安定させようという作戦だ。新しい読者を開拓するのでなく、手堅く守りに徹しようという方針だから、あまり明るい話でないのだが、そうせざるをえないほど追いつめられつつあるというのが実情だ。 一つには、政治スキャンダルなどでスクープを放っても、それが部数増にはつながらなくなったという事情がある。2016年に「文春砲」と呼ばれるスクープを次々と放って部数を押し上げた『週刊文春』も、その後スクープ路線を続けているにもかかわらず、かなり部数を落としている。いまだに週刊誌界のトップではあるのだが、18年前半には予想以上に部数を落として業界で話題になった。 逆に18年前半に部数を落とした『週刊現代』が後半少し持ち直したと言われるのは、高齢者向けシフトをより強めたからだ。昨年12月に入って反響が大きかった特集は「あなたの人世『最後の総力戦』」。いわゆる「終活」の話だ。第1弾で反響を得て、連続掲載しているのだが、これは高齢者向け雑誌の究極の特集と言える。 18年前半は週刊誌各誌とも部数を落とす中で、唯一微増だったのは『週刊新潮』だが、これも何が要因だったかというと、6月頃にキャンペーンを張った「食べてはいけない国産食品」特集が実売を押し上げたのだ。同誌は事件報道と政治スキャンダルを得意としてきた週刊誌だから、何週にもわたって実用ものの特集を掲げたことは、業界で驚きをもって迎えられた。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 つまり、事件や政治スキャンダルよりも健康などの実用情報の方が部数につながるという傾向がますます加速しているのだ。これは週刊誌の読者構造によるものだろう。それでもニュースに力を入れる、と『週刊文春』は宣言しているし、『週刊新潮』も基本路線は変えていない。その結果、週刊誌界は、実用情報誌に大きくシフトしている雑誌と、従来の方針を続ける雑誌とに大きく二極分化しつつあると言える。皇室と因縁深い週刊誌 ただ、週刊誌は各誌とも、一方でウェブに力を入れており、例えば『週刊朝日』でこれまで事件や政治を追っていた記者は、「アエラドット」というウェブサイトに記事を書いている。メディアの特性に応じて、紙とウェブを使い分けていこうという戦略だ。だから紙の雑誌だけをとって嘆いても仕方ないのだが、長い間読み続けてきた読者からすると、この2年ほどの週刊誌の動向には寂しさを感じざるをえないだろう。 現在のような週刊誌の市場ができあがったのは1956年創刊の『週刊新潮』を草分けとして大手出版社が次々と週刊誌を創刊した1950年代後半だった。それまで週刊誌といえば、『週刊朝日』『サンデー毎日』の二大誌を中心とした新聞社が発行する雑誌を指す時代が続いていた。 そこに新たな市場を切り開いた出版社系週刊誌が、なぜその後新聞社系を凌駕していったかというと、新聞やテレビにできないことを意識して誌面化していったからだ。例えば政治家などの下半身スキャンダル、あるいはタレントの不倫などのスキャンダルだ。大きな事件があれば総力取材で特集を組むのも週刊誌の特徴だった。「新聞、テレビが書かない○○」というキャッチコピーが週刊誌の大命題になった。 そういう週刊誌が、平成の終わりとともに大きな岐路に立たされているのは偶然ではないのかもしれない。実は週刊誌の歴史と皇室は因縁が深い。1950年代後半、誕生したばかりの週刊誌が大いに存在意義を発揮したのは、ミッチーブームと言われた今上天皇と皇后の結婚の話題だった。「菊のカーテン」と言われる宮内庁の秘密主義を突き破るべく活躍したのが、記者クラブに属しない週刊誌だった。宮内記者会の縛りが厳しいため、新聞やテレビの場合、宮内庁の発表以外の報道はなかなかできない。それゆえに皇室問題は週刊誌の大きなテーマになってきた。 この1年余で言えば、週刊誌各誌とも読者の反応が良かったテーマは、秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭氏の結婚騒動だった。新聞・テレビが宮内庁発表以上の報道をしないため、実は背後でどんな動きがあるのか、週刊誌は毎週のように取り上げてきた。宮内庁がホームページで、事実に基づかない報道が多いと苦情を漏らすほど、真偽取り混ぜた報道ではあるのだが、読者の食いつきが良いと各誌とも大きく報じてきた。ご婚約が内定し、記者会見された際の眞子さまと小室圭氏=2017年9月、東京・元赤坂の赤坂東邸 確かに眞子さまと小室圭氏の騒動については、週刊誌を読まないと背後で何が起きているのか事情がわからない。宮内庁が結婚延期を発表した時も、週刊誌は、実はこれは延期でなく破談への序章だと書き立てた。その真偽はともかく、わかりにくい宮内庁発表を週刊誌が舞台裏を暴く形で説明するというパターンが続いている。 新聞では、発表ものでない独自取材によるテーマの掘り起こしによる報道を「調査報道」と呼んでいるが、もともと記者クラブに属していない雑誌ジャーナリズムの場合は、ほとんどが発表に頼らない「調査報道」だ。迫られるビジネス転換 皇室報道のように新聞やテレビではなかなか背後事情まで踏み込めないテーマについては、週刊誌が真骨頂を発揮してきた。ほかにも大相撲の八百長疑惑といった、発表がないと新聞などが書けない話にも週刊誌は取り組んできた。 そういう雑誌ジャーナリズムの果たしてきた意義を考えると、昨今の週刊誌の現状は、ある意味では由々しきことと言えるだろう。 戦後一貫して右肩上がりだった出版市場は、1990年代半ばをピークに下降に転じた。その後の、特に雑誌市場の落ち込みはかなりの勢いだ。いわば週刊誌は、ミッチーブームで大きく市場を拡大し、平成の時代に大きな曲がり角を迎えたと言える。 特にこの10年ほどは、ジャーナリズムの分野に限らず雑誌というメディアそのものが大きな岐路に立たされている。例えばスマホの影響で、20代向けの女性誌市場は、深刻な勢いで縮小していった。一時は壊滅的とも言えるほどの勢いだった。 それに対してこの1~2年、大手出版社が何をしたかと言えば、雑誌のブランド力をベースに、ウェブやイベントなどを連動させ、新たなビジネスモデルを作り上げることだった。そして2018年に入って、各社のそうした取り組みが少しずつ功を奏しつつある。 かつてはウェブが紙の雑誌を侵食すると考えられていた時代もあったが、今はそうでなく、両者の連動によってどんなビジネスモデルを作り上げるかという発想が一般的になりつつある。例えば『女性自身』や『女性セブン』などの女性週刊誌は、芸能ネタがウェブ上で大きなアクセスを稼ぐという事情もあって、ウェブ上でかなり広告収入を伸ばしつつある。ネット記事で広告収入を増やしている女性週刊誌 恐らく平成の次の時代においては、週刊誌は新たなビジネスモデルへの転換を迫られることになるのだろう。この何年かはその過渡期と言えるのかもしれない。週刊誌を手にするたびにため息をつくという私の体験も、ぜひ次の時代には変わっていくことを期待したい。■誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない■「不倫は社会悪」自分を良識派とみなす週刊誌と読者の薄っぺらさ■【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと

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    百田尚樹『日本国紀』をどう読むか

    作家、百田尚樹氏の新刊『日本国紀』の売り上げが好調だ。同書の副読本も発売されるなど話題は尽きないが、その一方でSNSではコピペ騒動などが持ち上がり、批判も渦巻いた。強烈キャラで知られる百田氏だけに好き嫌いが分かれるとはいえ、『日本国紀』をどう読むべきか、改めて考えたい。

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    百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない

    個所も多い。例えば織田信長については、初稿では「今でいう無神論者に近い」となっていた。これは例えば、メディアでも人気の歴史学者である本郷和人氏の近刊『東大教授がおしえるやばい日本史』(監修)『戦国武将の精神分析』(対談)でも描かれている歴史観なので、少なくとも学者からも袋叩きに遭うことはない。 しかし、筆者は自らの史料調査や寺社取材により、信長が無神論者どころか神仏を篤(あつ)く崇敬し、天皇を支える勤皇の武将であったと相応の根拠をもって確信している。「革命児」「無神論者」「天皇や将軍を蔑(ないがし)ろにした」と評価されるようになったのは戦後のことであり、この点筆者も呉座氏の「日本人の歴史観は歴史学界での議論ではなく有名作家による歴史本によって形成されてきた」(12月18日付朝日新聞)という主張に同意である。 とりあえず伊勢の神宮はじめ、さまざまな神社仏閣を復興したことなどを具体的に指摘したところ、発刊時には修正されていた。要するに、歴史学者諸氏が指摘したいような論点のうち主要なものは、すでに校正段階において監修者との間で議論が行われ、また著者の頭の中でもさまざまに検討されてきたということである。筆者自身、「諸説の存在を分かったうえでお書きとは思いますが…」と前置きしながら種々の指摘を行ったものである。 「百田氏は知らないだろうから教えてあげよう」という類いの論評の多くが、これまでに蓄積された膨大な教養を駆使して歴史を叙述する百田氏への真摯な忠告ではなく、『日本国紀』50万部の読者を利用した自己アピールに見えてしまうのは筆者だけであろうか。講演する百田尚樹氏=2018年3月2日、大阪市中央区の松下IMPホール(永田直也撮影) ともかく『日本国紀』とは、著者―編集者―監修者の間でかなりの議論を経て生み出されたのである。各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分については、読者も百田氏のそれなりのこだわりを感じて読むことになろう。「学界の通説」にかなっているか否かの判断だけでなく、こうした歴史書の著者が掲げた問題意識や仮説に応えられているかを自省できる歴史学界であってほしいと、学界の末席から願う次第である。■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    箱根駅伝は日本陸上界にとって「正義」か「悪」か

    問題だろう。不思議なことに、陸上競技の日本選手権よりも、関東学生のローカル大会である箱根駅伝の方が、メディアの取材は殺到する。しかも、大会が始まるずっと前から、「箱根取材」は始まっている。バカ騒ぎに便乗しない男たち 5月の関東学生対校選手権(関東インカレ)、9月の日本学生対校選手権(日本インカレ)では男子長距離種目になると、記者の取材エリアであるミックスゾーンが大混雑する。入賞すらできなかった学生ランナーにまで、カメラを向けてインタビューをしている有り様である。しかも選手たちに「箱根」のことを聞いている。熱心と言えばそれまでだが、記者の多くは長距離種目以外は見向きもしない。はっきり言えば、こんな過熱報道が選手たちを勘違いさせる。事実、大した実力もないのに「スター気取り」という選手も少なくない。 箱根駅伝は「正義」か「悪」か。日本のマラソン界が低迷すると、そんな議論が決まって持ち上がる。強豪大学のある監督は「箱根は陸上界にとって悪ですよ」と本音を漏らしたことがある。それは「世界」につながらないという意味だ。学生長距離界は「箱根至上主義」に傾き、世界に羽ばたくための準備が中途半端になっている。大学側もオリンピック選手を輩出するより、箱根駅伝に出場する方が、かえって学校のPRになると思っている節がある。 将来を見据えて学生ランナーを指導する別の監督も「あの距離のレースは五輪や世界選手権の種目にありませんし、極端な上りを競うこともないわけです。箱根で何かを成し遂げたとしても、マラソンにつながることもないような気がします。全く異質な種目をやっているわけですから。それに私自身、大学から指導者としての給料をいただいているからには、箱根の優勝を是が非でも目指していかなければいけません」と苦悩を話す。 ただ、最近は大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)、設楽悠太(ホンダ)、井上大仁(MHPS)、服部勇馬(トヨタ自動車)など、箱根駅伝を経由して、マラソンで活躍する選手も出てきている。彼らに共通するのは「バカ騒ぎ」に便乗するような愚か者ではない、ということである。特に大迫と服部は学生時代から箱根駅伝の「先」を見つめて、行動を起こしてきた。 昨年、フルマラソンで2時間5分50秒の日本記録を樹立した大迫は、学生時代から箱根駅伝に向けたトレーニングではなく、トラック(5千メートル、1万メートル)のタイム短縮を目指してスピードを磨いた。福岡国際マラソンで14年ぶりの日本人Vに輝いた服部は大学在学中からマラソンに挑戦。ターゲットである2020年東京五輪から逆算する形で取り組んできた。二人とも自分なりの目標を見据えた中での箱根駅伝だったわけだ。 むろん、五輪という高い目標を掲げる選手がいる一方で、箱根駅伝が夢という学生もいる。求めるレベルが異なる者たちが同じ集団で混じり合うのも学生スポーツの魅力である。2011年1月2日、第87回箱根駅伝1区、区間賞の走りで独走を続けた早大・大迫傑(斎藤浩一撮影) 以前、大迫を取材したときに、箱根駅伝が選手として成長する上で役立っているのか、と聞いたことがある。彼の答えはちょっと意外なものだった。「僕の走りに関しては特にありません。でも、大学を卒業してからも付き合っていける友人を見つけられたことは、すごく良かったと思います」と話してくれたのである。 大迫の感覚は「学生スポーツ」を考える上で、ヒントになるような気がする。筆者は大学を卒業して20年近くなるが、大学1年のときに「俺たちが4年のときには箱根で優勝するぞ!」と仲間と熱い言葉を交わしたのを覚えている。実際は予選会すら突破できなかったのだが、今でも大学時代の仲間とは強い絆で結ばれている。 視聴者が抱くようなイメージである「美しい姿」。学生スポーツはそれぐらいがちょうどいい。1月3日の昼過ぎ、ゴールの東京・大手町にこだまする歓喜の声は、いつまでも学生ランナーたちのものであってほしい、と切に願う。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    箱根駅伝「完全生中継」から見えてくる日テレの功罪

    」あるいは「正月の風物詩」としてテレビで楽しまれるようになったのは、それほど昔のことではない。「マスメディアに媒介されたイベント」として箱根駅伝を捉えるならば、目まぐるしい変化の積み重ねによって、革新が伝統を創造してきたと言っても過言ではない状況が見えてくる。 大会の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。報知新聞社が主催する「四大校対抗駅伝競走」として1920年に始まっているので、およそ100年の歴史がある。今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公で、日本マラソンの祖とされる金栗四三たちが、欧米の選手と肩を並べて活躍できる長距離ランナーの育成を目的に、東京箱根間の大学対抗駅伝の開催を思い立ち、報知新聞社に企画を持ちかけた。 1920年の第1回大会は、往路が2月14日、復路が15日という日程で、選手は午前中に大学の授業を受けた後、13時にスタートした。箱根の山中を走る頃には日が暮れるので、地元青年団がたいまつをかざして選手を誘導したという有名な余話がある。 駅伝は日本発祥の陸上競技種目であり、江戸時代に交通や通信の手段として整備された「宿駅伝馬制度」に由来する。読売新聞社の協賛記念事業として1917年、京都から東京まで23区間をリレーする「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されたのが、駅伝の始まりとされる。 朝日新聞社が主催する「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」の前身にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開かれたのが1915年のことだ。このような大会を新聞社が主導してきたのは日本独特のことであり、各社が新聞読者を獲得するための事業戦略のせめぎ合いから、箱根駅伝は生まれたとも言える。 そして戦時下、言論統制を目的とする新聞統合(一県一紙制度)によって報知新聞社と読売新聞社が合併し、箱根駅伝は戦後、読売新聞社が関東学生陸上競技連盟と共催する事業として発展することになる。 それに対して、日本テレビによる完全生中継が始まったのは1987年のことであり、実は全国的な注目を集めるようになってから30年余りに過ぎないのである。第63回箱根駅伝=1987年1月2日 箱根駅伝は戦後まで、ラジオで中継を聞くこともできなかった。NHKがラジオ放送に乗り出したのは1953年1月のことだが、現在は文化放送とアール・エフ・ラジオ日本もラジオ中継を行っている。 1979年から1986年までは、テレビ東京(1981年まで東京12チャンネル)がダイジェスト番組を放送し、最終10区のみを生中継していた。NHKは年末年始恒例の中継番組が立て込んでいたので、放送機材を箱根駅伝のために集めるのが難しかった上に、箱根駅伝そのものが関東のローカル大会であったことも重なり、全国放送を躊躇(ちゅうちょ)させたのである。日テレは乗り気じゃなかった また、読売新聞との関係を踏まえれば、日本テレビが放送するのは自然な流れだったが、当時は乗り気ではなかったという(杉山茂「「ラジオ・スポーツ」から「テレビの華」へ ―放送技術を結集させた箱根駅伝」『箱根駅伝の正体を探る』創文企画、2016年)。 というのも、箱根の山岳中継は過酷を極めるためだ。日本テレビは80年代、全区間生放送に備えて中継が可能な場所を徹底的に調査し、中継車の大改造も行ったという。長年にわたって箱根駅伝を手掛けた日本テレビの黒岩直樹氏によれば、第一回の中継では、踏切で1号車が先頭ランナーに抜かれてしまったり、箱根での宿泊や食事の手配が間に合わなかったりと、ハプニングが続出したらしい。 それでもお笑い中心の「おせち番組」(=年末に撮りだめして、新年に放送される番組)に飽きていた視聴者には支持され、予想を上回る平均18%の視聴率を記録した(黒岩直樹「わたし流番組論49 たすきの瞬間のドラマ ―箱根駅伝を撮る」『月間民放』2000年3月号)。 そして1989年に初めて、全区間の完全生中継が可能になった。その一方で、日本テレビは事前収録したVTRを効果的に挟んで、注目選手やその人間ドラマを丁寧に紹介した。黒岩氏によれば、箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではなく、「スポーツ・ドキュメンタリー生中継」を基本コンセプトとしてきたという(同上)。 1988年には箱根を全国大会にする提案も持ち上がったが、初代プロデューサーの坂田信久氏は、テレビ中継を行うことで箱根駅伝を変えてはいけないという考えから、これを断ったという。長年の番組スポンサーも、企業名を露出することよりも、大会を共催して支えようという考えの方が強いらしい(『週刊東洋経済』2008年1月26日号)。第95回箱根駅伝、2区の川澄(右)へたすきをつなぎ、倒れ込む大東大1区走者の新井康平=2019年1月2日、横浜市・鶴見中継所(斎藤浩一撮影) 日本においては、マスメディア企業体が主催し、自ら積極的に報道する「メディア・イベント」は枚挙にいとまがないが、複数の新聞社や放送局によって今日まで育まれてきたところに、箱根駅伝の特異性がある。 それでも、日本テレビによる中継が始まったことで、箱根駅伝を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、従来は1月中旬に開催されていた「全日本大学駅伝対校選手権大会」が88年度から11月に変更され、全国大会が地区大会の前哨戦に位置づけられるという「逆転」が生じた。 また90年代に入ると、箱根駅伝で上位に入った大学は全国的に知名度が高まり、受験志願者が増える傾向がみられるようになった。これに大学経営陣も敏感に反応した。テレビ中継の開始後に選手育成を強化し、優勝を経験した大学も少なくない(生島淳「大学全入時代がもたらした箱根駅伝の「経済戦争」」『エコノミスト』2010年1月5日号)。テレビ中継の功罪 その結果、才能のある高校生が強豪校から熱心に勧誘され、優れた選手が関東に遍在するという事態が一層進んだ。さらに、優秀な選手が箱根駅伝を区切りに競技生活を終える「箱根駅伝燃え尽き症候群」も、ますます問題視されるようになった。 これらの問題に対しては、まったく異なる見方もできる。スポーツ人類学に取り組む瀬戸邦弘氏は箱根駅伝を、国際スポーツの価値体系とは必ずしも折り合いがつかない、地域独自の文脈に根差した固有の価値体系を有する「エスニック・スポーツ」として捉えている。 瀬戸氏の指摘で興味深いのは、日本テレビが当初、箱根山中の電波状態が脆弱(ぜいじゃく)であることを踏まえて、生中継が中断したときの予備映像、いわば「つなぎ」のコンテンツとして制作した「箱根駅伝今昔物語」が、思わぬ形で果たした役割である。 箱根駅伝を支えてきた人々に焦点を当て、そのライフヒストリーを紹介しながら、大会の歴史を伝える名物コーナーだが、瀬戸氏はこれによって「箱根駅伝という番組自体が90年を超える時空間を自由に行き来する歴史的でありながら、共時的なバーチャル空間として成立することになった」という。 要するに、各大学の競走部(陸上部)の中で集団の記憶として受け継がれていた伝統重視の価値観が、番組を通じてクリアに可視化され、視聴者との間で広く共有されることになったのである。 明治期以降に成立した体育会運動部文化の延長線上にあると捉えれば、箱根駅伝の創設理念には反するが、オリンピックを頂点とする国際スポーツ文化の価値体系とは容易に馴染(なじ)まない。「箱根駅伝燃え尽き症候群」を嘆くのは、あくまで国際スポーツ文化の価値体系に基づく見方である(瀬戸邦弘『エスニック・スポーツとしての「箱根駅伝」』『文化人類学研究』14巻、2013年)。第94回東京箱根間往復大学駅伝、転倒する国学院大9区・熊耳智貴さん=2018年1月、神奈川県横浜市(撮影・斎藤浩一) 箱根駅伝で活躍した選手に対して、次は国際的な大舞台で結果を残すことに期待をかけるのも、逆に体育会運動部の伝統的な価値観を再生産しているのも、いずれもマスメディアに他ならない。この乖離を調停することは、箱根駅伝に関わる新聞社や放送局の使命ではないだろうか。 そしてこの議論こそが、選手に対する安全配慮のあり方を反省的に見直すことにも直結するだろう。持久力をつけるために長距離をひたすら走り込むという練習法によって、国際的な舞台で活躍できるスピードが身につかないという「箱根駅伝有害論」は戦前から指摘されていた(1938年には早稲田大と慶應義塾大が出場を辞退している)が、それどころか選手生命に関わる故障につながりかねないリスクを伴っていることも、現在では広く知られている。 テレビ放送の高視聴率、すなわち「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としての定着が、次なる変革に対する足止めになるのは望ましいことではない。冒頭で述べたように、箱根駅伝の伝統を裏打ちしているのは、メディア・イベントとしての革新に他ならないのだから。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    大晦日だよ、テレビ特番考

    かつて大晦日のお茶の間は、NHK『紅白歌合戦』の一択だった。時代が変わり、ライフスタイルも激変した今、「テレビ離れ」は平成を象徴する言葉となった。お笑いや格闘技、ドラえもんといった定番化が進む年末特番の何が変わり、変わっていないのか。各局テレビ番組を考察する。(写真は日本テレビ提供)

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    『NHK紅白歌合戦』男女対抗に固執する意味がどこにある

    うのも、テレビ視聴率の低下は、紅白歌合戦に限ったことではなく、今やインターネットの発達をはじめとするメディア環境の大幅な変化によって、メディア接触時間が媒体によって多大な変容を遂げているからである。 巷間(こうかん)言われる「若者のテレビ離れ」は数値としても明らかであり、2017年の調査結果によれば、10代から20代のインターネットの利用時間はテレビ視聴時間より上回る(総務省「平成29年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」)。 逆に40代、50代、60代ではテレビ視聴の時間がインターネット接触時間より長く、30代で拮抗し、10代、20代で逆転しているので、テレビのオーディエンスの中心は中高年という見解は、統計的には正しい。 しかし、だからといって、テレビというメディア自体に将来がないという判断も早計である。前述のように「テレビ離れ」と言われている状況でも、視聴率1%をほぼ100万人と換算すれば、たとえば、紅白歌合戦という特定の番組が40%近い視聴率を獲得していることは、あなどれない数値であり、現代の若者と言われる世代が、高齢になってテレビを見ないという保証はないからだ。第37回NHK紅白歌合戦のオープニング=1986年12月、NHKホール そして紅白歌合戦の視聴率低下の背景には、メディア環境の変化以外にも、ライフスタイルや「幸福」観の変容という、より大きな時代の流れがある。まず、昭和の高度成長期には、日本が敗戦の焼け跡から立ち上がり、「国民」一丸となって戦後復興を目指すという共通の目標があった。つまり、「国民」という連帯感、一体感が求められる時代背景があった。 テレビというメディアもまた、この機運とともに発展した。東京オリンピック(1964年)、新幹線開通(同年)という高度成長期の象徴的イベントとともに、家庭用テレビが普及し、戦後の復興を実感する娯楽生活において、エンタテインメントとしても重要な位置を占めていた。幸福モデルだった主婦 この時代は、「近代家族」の「幸せ」観がピークに達する時代でもあった。戦後の高度経済成長を成し遂げるため、お父さんは会社で必死に働き、女性は妻、母として企業戦士として外で働く男性を内助の功で支えるライフスタイルが理想化された。 女性は生活費を稼ぐ心配をすることなく、家で専業主婦として家事、育児に専念できることが、女性にとっても「幸福モデル」となり、NHK、民放4社によるカラーの本放送開始とともに、家庭を「守る」主婦にとっての「三種の神器」と言われるようになったものが、まさにテレビ、冷蔵庫、洗濯機の家電製品であった。 近代化以前の社会では、日本以外にも多くの世界の地域において、女性は生計労働のために働いていたが(女性も生計労働をしないと、一般市民の多くは生活が成り立たなかったため、第一次産業の多くの分野では女性も働くのが常識だった)、社会が近代化し、経済も豊かになると、夫一人の収入で家族全体が生活できる「男性一人稼ぎ手モデル」が主流化する。 それが夫=生計労働、妻=家事育児と、男女の性別役割が明確化した「近代家族」の特徴であり、郊外の一戸建てに定収入のある夫と専業主婦の妻が住み、子供とともにその「近代家族」の幸せをかみしめる「だんらん」の時間こそが、日本においては、年末に家族そろって、一家に一台のテレビで同じ番組、つまり紅白歌合戦を視聴するという、年越しのあり方だったのである。 しかし今や、テレビは一家に一台の「貴重品」ではなくなり、スマホなど個別の端末で、家族成員のみならず、個人個人が自分の嗜好(しこう)に応じたコンテンツを個別に視聴する時代になっている。娯楽も個人化し、年末年始の過ごし方も多様化しているのである。 同時に、「家族だんらん」=幸せの象徴、という感覚も変容している。非婚化が進み、若者世代が、結婚はコスパが悪い、「オワコン」(終わったコンテンツ)ではないかと疑問視するようになり、結婚=幸せという価値観も絶対ではなくなった。 紅白視聴=家族の幸せという前提が崩壊している以上、紅白の視聴率が低下するのも必然であり、紅白という番組自体のコンテンツ力がなくなったと一概には断言できないのである。 ただし、紅白のコンテンツとしての性格も、時代に即していない面は生じていると思われる。まずは、「男女対抗」という形式である。 昭和期にテレビとともに育った世代としては、紅白の男女対抗という構図を「そんなものだ」と受け入れていたが、そもそも、なぜ年末年始という節目に、男女が戦う姿を見せられねばならないのか、成長するにつれて疑問に思うようになった。男女は「敵同士」ではないのに、という不可解な思いが、個人的には募るばかりである。第37回NHK紅白歌合戦のフィナーレ。白組の勝利に悔しそうな斉藤由貴(左)と白組キャプテンの加山雄三=1986年12月、東京・渋谷のNHKホール とはいえ、紅白歌合戦に限らず、女性は女性同士、男性は男性同士で絆を結ぶという傾向は、日本社会の特質ではある。 歌舞伎は男性のみ、宝塚歌劇は女性のみで、明治になって、それはいかにも「不自然」であると、当時の知識人が「男女合同」の演劇を提唱したにもかかわらず、歌舞伎は伝統芸能として残り、宝塚歌劇は大正期(1914年)になって新たに誕生した上に、一時存在した男子部がなくなり、女性だけの劇団に落ち着いたという経緯がある。変容のバロメーター こうした日本社会の歴史をみれば、男女対抗という形式こそが、紅白への共感、すなわち高視聴率を支えてきたという見方もできる。 しかし、性の多様性についての議論も高まる中で、さすがにこの形式はジェンダー平等に反しているのではと思われる。しかも、この形式に共感する限りは、先進国としては異常なほど低い日本の男女格差指数の改善は望めない(主要144カ国中、2017年114位、18年110位)のではと考える。 併せて、出演者の歌の内容についても、時代の心性とのズレが生じている。紅白のトリといえば、昭和期には演歌の大御所の定位置であり、演歌歌手は歌唱力が高いので、その意味では年末番組を飾る歌手としての実力を有している。 しかし、演歌の内容は、いわゆる水商売の女性の寂しさや、報われない恋といった、悲劇的なトーンのものが多く、この内容も昭和期には一定のリアリティーがあったが、女性の人生の選択肢が広がっている現在では共感を得にくいのではないかと思われる。 欧米社会の新年では、クリスマスに既に家族だんらんを済ませていることもあり、若者同士で派手に大騒ぎという年越しがみられるのに、日本ではなぜ悲しい歌を耳にしながら年越しをするのか、新しい年を迎えるのだから、陽気に騒ぐ方が自然なのではないか。海外での年越しを経験した筆者個人の素朴な疑問でもある。 日本の大みそかは、除夜の鐘で粛々と迎えるという習慣があるため、陽気な音楽よりもしみじみした楽曲の方がマッチしているということもあるのだろうが、「歌は世につれ世は歌につれ」という言い回しも、現状の日本社会にあまりそぐわなくなっているのかもしれない。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) とはいえ、視聴率が数%レベルに落ち込んでいるのならともかく、紅白歌合戦はいまだテレビ番組全体の中では健闘しているコンテンツである。「下火だよね」と否定的に見るのではなく、上記のように、日本社会の幸せ感や家族観の変化の反映ととらえるのであれば、視聴率の低下もまた「国民」の生活変化の象徴であり、その意味で確かに「国民的番組」である。 年末年始の多様な過ごし方の一つとしては、紅白歌合戦も依然、一定の位置を占めており、今後の変化もまた日本社会の変容を考えるバロメーターとして注目されるのである。■松田聖子と安室奈美恵、昭和と平成のトップアイドルはここが違う■「革新的アイドル」西城秀樹は理屈じゃ語れない■「特別枠」を乱発しすぎた紅白歌合戦の苦悩と違和感

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    崖っぷち『RIZIN』の大博打、格闘技「大晦日特番」は生き残れるか

    るのは確かだ。 それでも、テレビ中継に出演している以上、選手は視聴者と観客の目を意識する必要がある。メディアの質問に「頑張ります」とだけ言って、試合を淡々とこなすだけでは、移り気なユーザーがこのマイナースポーツに興味など示すわけがないことを自覚すべきだ。■「独裁者」山根明を生んだボクシング界の悲哀■日本人には高すぎたミドル級の壁、それでも村田諒太なら超えられる■「ガチンコと品格」を求めたら、相撲になかったことがバレてしまう

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    大晦日はやっぱり『ドラえもん』 世界中で愛される九つの不思議

    横山泰行(富山大名誉教授、ドラえもんアナリスト) ドラえもんは、1969年12月に小学館の学年誌『小学一年生』、『小学二年生』、『小学三年生』、『小学四年生』で連載を開始した漫画である。作者である藤子・F・不二雄氏から、漫画の大好きな日本の子供たちに、素晴らしいクリスマスプレゼントが提供されることとなった。 学年誌などに連載されたドラえもんは、最も多くのファンに愛読された『てんとう虫コミックス短編(第1巻74年8月発行)』、『大長編(第1巻82年12月)』、雑誌『コロコロコミック(77年5月創刊)』に集約して刊行された。79年9月までに第17巻まで刊行されていた『てんとう虫コミックス短編』の累積総販売部数は1500万部に達したと報告されている。 ドラえもんをスーパーアイドルに押し上げ、戦後の代表的な国民的漫画として認知されるに至ったのは、テレビの放映と映画の製作によるといっても過言ではない。 ドラえもんは79年4月から、テレビ朝日系でアニメ放映が始まった。さらに『てんとう虫コミックス大長編第1巻』を原作として、最初の映画『のび太の恐竜』が80年3月に公開された。 このアニメや映画の影響もあり、てんとう虫コミックス短編の累積総販売数は80年2月には、3千万部の大台に乗っている。84年3月には、短編(29巻)、大長編(2巻)の累積総販売数は驚異的な5千万部となった。 また、冬の北海道の一大イベントである「さっぽろ雪まつり」では、80年に雪像の半分をドラえもんのキャラクターが独占した。出版界においても、戦後の日本の社会心理学を牽引してきた一橋大の元教授であった南博氏が『ドラえもん研究』(ブレーン社)を公刊するなど、社会現象になった。 そして、その人気は国外にも拡大する。80年代にアジアを旅行した日本人がいたる場所でドラえもんの姿を見かけるようになり、その事実が新聞やテレビで報道されるようになった。特に、香港、台湾、タイを旅行した人たちに顕著に認められた兆候であった。※写真はゲッティイメージズ アジアで急激にドラえもんが浸透するきかっけになったのは、ドラえもんの漫画の海賊版の横行だったとされる。上記の香港や台湾、タイは日本とともに戦後の豊かさをいち早くアジアで実現した地域でもあったことから、他の国々へドラえもんの流行を促す拠点港になった。 筆者の同僚がタイで調査研究に従事した際、タイでは地図に出ていない小さな村落でさえ、ドラえもんを必ず目にすることができたと、驚きながら語ってくれたことがある。そして世界を飛翔し続けたドラえもんは90年代に中国において、あっという間にディズニーのミッキーマウスをしのぐ人気者になった。中国では一時放映禁止も また、筆者が奉職していた富山大で学んでいた中国・青島出身の女子留学生から次のようなエピソードを聞いた。青島でドラえもんのアニメが放映されると、小学生の間で爆発的な人気になり、長時間ドラえもんのアニメを見るようになったという。 このため、保護者から学校のほか、日本の教育委員会に相当するセクションやテレビ局にも抗議が殺到し、しばらくドラえもんの放映が禁じられる事態に発展した。ところが、結果的には、他のテレビ局が放映を開始したため、失敗に帰したとのことである。 では、なぜドラえもんが日本のみならず、多くの国々の子供たちに支持され、愛されているのだろうか。ここまでドラえもんの歴史や海外で人気を得た過程を見てきたが、本稿の最後に、筆者がこれまでに考察した九つの理由を紹介しよう。 一つ目は、今まで存在しなかった漫画キャラクターであるネコ型ロボットのドラえもんが、日本人の大好きな夏目漱石の『坊っちゃん』や山田洋次監督の映画『寅さん』シリーズに似た個性的な主役像を帯びた点だ。 また、二つ目は、多くの国々で長きにわたってドラえもんが愛されたことに起因するが、時間や空間を超越した普遍的なキャラクター像をドラえもんに盛り込むことに成功した点にある。 三つ目は、理由は定かではないが、ドラえもんが儒教や仏教といった文化的土壌がある国々との親和性が推察でき、これがアジア各国で愛されるゆえんである。その半面、キリスト教の中でもプロテスタントの支配的な国々では逆の結果となっており、あまり支持されていない。 四つ目の視点は、日本の歴史上最も栄華を極めた時期(70~95年)に描かれた作品であることだ。日本だけでなく、アジア地域の中で比較的早く近代化に成功した国々の人々は、近い将来の自分たちの目指す生活をドラえもんに垣間見たようだ。 そして、ドラえもんのほぼ全作品に「ひみつ道具」が登場している点が五つ目だ。ひみつ道具は作品の時間や空間の拡大に貢献し、作品の間口や奥行きの深化に寄与し、ストーリーの多様性を促す結果となった。 また、六つ目としては、ドラえもんがひみつ道具を縦横に駆使して、強きをくじき弱きを助ける存在である点を挙げたい。ネコ型ロボットの世界では、ドラえもんは劣等生であったため、弱者の気持ちを十二分にくみ取り、弱者の立場に立って振舞うキャラクターが共感を呼んだようだ。※写真はゲッティイメージズ 七つ目は、登場人物の関係性だ。のび太を絶えずいじめるジャイアンやスネ夫だが、本当に困ったときには、やさしく手を差し伸べることができる度量の広さをこの2人に持たせたのは、ドラえもんならではないだろうか。 八つ目は、男の子の生活全般の良い点と悪い点が、のび太やジャイアン、スネ夫と準主役の出木杉君によって、リアルに活写されていることだ。ちなみに、女の子の場合、ほとんどしずかちゃん一人の大奮闘によっているため、多様な側面を持った女の子として描かれている。 最後の九つ目は、ドラえもんが漫画の中で、周りの老若男女に愛されている点にある。あの口やかましいスネ夫のママからも「ドラちゃんとだったら安心ざますわ」と、絶大な信頼を獲得しており、その「安心感」も重要な要素だろう。 以上、これらが誕生から半世紀を経てもドラえもんが愛される理由である。■正しく通俗であるがゆえにリアル 「こち亀」が日本人に教えたもの■『少年ジャンプ』伝説編集長が語る「漫画雑誌は一度壊して作り直せ」■さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は永遠の謎である