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    ピエール瀧、出演作品の相次ぐ自粛「それでも起用」となぜ言えない

    上で、人気コメディー女優の降板と番組打ち切りを決断した。 一方でバーの謝罪を受け入れ、起用を継続したメディアもあった。海外ではおおむね「ケース・バイ・ケース」で各社が自主判断をしている印象が強い。日本では、逮捕時点で関係する企業が一斉に「右にならえ」で自粛決定をしているように見える。 実のところ、日本人というのは、このケース・バイ・ケースが苦手な民族だ。筆者は日本とマレーシアを拠点として仕事しているが、多民族国家から見る日本人は「清潔でマナーが良く、仕事をきちんとする」と評判が良いが、「マニュアル以外になると臨機応変の対応が苦手」という印象を持たれることが多い。 本来、各自の判断で決めればよいものでも、「みんながそうやっているからウチも」とする風潮があるのは確かだ。だが、裏を返せば、多様な姿勢を認めにくい社会を反映しているともいえる。 そういう意味では、一部報道にあった瀧容疑者の出演映画『麻雀放浪記2020』が出演部分をカットせず、予定通り公開する方向で調整するという判断は興味深い。同じく公開を控えていた映画『居眠り磐音』が代役を立てて登場シーンを撮り直すことを決めている。映画という有料コンテンツである以上、観客である消費者に判断が委ねられるわけで、「収録済みで公開予定の作品」の対照的な「意思」に注目が集まることだろう。2019年3月13日、関東信越厚生局麻薬取締部が入る九段第三合同庁舎から出てくるピエール瀧容疑者(佐藤徳昭撮影) 自粛を決めた日本の各企業も、それぞれ強いメッセージを打ち出したらどうだろう。例えば「わが社は、いかなる種類の犯罪行為も、社会秩序を守る観点から社会的制裁を受けることもあるというメッセージを発信するため、それが被害者のいない犯罪であったり、『推定無罪』の段階であったりしても、著名人による影響の大きさを考えて、苦渋の決断で暫定的に販売中止を決定しました」と発していたら、その決断自体は現在よりも尊重される可能性も高くなる。議論の余地がある話であれば、起用側による意見発信で、判断基準を形成していくことにもつながるのではないだろうか。■なぜASKAは再び覚醒剤を使ってしまったのか■ASKAが覚醒剤から解放されるためのヒント■NHK『トクサツガガガ』私が一瞬、涙目になったワケ

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    「スイッチが入った政治家」安倍晋三のリベンジ

    ャーナリズムを手玉に取って長期政権を実現した。その明暗は鮮烈だ。政治コミュニケーションの観点からは、メディア化した政治に再チャレンジして見事に対応した世界的にもまれなケースだと思われる。 1990年代に入り、「政治のメディア化(mediatization of politics)」という議論が欧州でも登場してきた。政治におけるメディア、特にテレビの影響力が高まってきたという話である。 20世紀後半において、政治の中心は組織や団体にあったが、それらの影響力が弱くなっていく中、人々はメディアを通じて政治的な情報を得るようになっていった。一方、メディアは政府の規制から自由になり、ジャーナリズムや商業主義など自分たちの論理(media logic)で報道するようになった。特に、基幹的なマスメディアに成長したテレビにおいては「絵になる」ことが重要になっていく。 それらの流れが20世紀末に出会うことで、政治におけるメディアの重要性が増し、テレビで政治家がいかに映し出されるかが重要になってきたという議論だ。 イタリアのベルルスコーニ元首相、フランスのサルコジ元大統領、英国のブレア元首相などが「政治のメディア化」に対応した政治家ということになろう。日本においても平成に入り、テレビの政治的な影響力が強くなってきた。 平成の日本政治は消費税導入とリクルート事件から始まり、政治改革が大きなテーマとなったが、そこにはテレビの強い政治的影響力が働いた。日本における「政治のメディア化」の始まりだ。 それに対して、海部俊樹元首相や細川護熙元首相、小泉純一郎元首相などが「政治のメディア化」という状況に対応した首相像を演じた。特に、小泉氏は55年体制的な組織や団体を忌避する世論が強まっていた中で、テレビ上の自身のイメージを巧みに演出して政権を維持した。そういう意味で、小泉氏は「テレビ政治家」の最たる存在であり、日本政治史上「政治のメディア化」に最も巧みに対応した首相であったといえる。2006年9月、両院議員総会で自民党新総裁に決まり、笑顔を見せる安倍晋三官房長官(右)と小泉純一郎首相(大井田裕撮影)  その小泉氏の後を次いで登場したのが安倍氏だ。だが周知のように、2006年からの第1次政権において、安倍氏は世論対策にもマスメディア対策にも失敗した。第1次政権「失敗の理由」 第1次安倍政権は、先代の小泉氏が「個人芸」で対応していた「政治のメディア化」の状況に、ホワイトハウス型のチームで挑もうとした。その象徴が補佐官制度であったが、この試みは内部に軋轢(あつれき)を生じ、結果的に失敗する。 また、政策面でも、安倍氏が重要だと位置付けたさまざまな政策を性急に行おうとしたことも、国民世論との乖離(かいり)を招いた。彼自身、第1次政権の失敗について以下のように振り返る。 「戦後レジームからの脱却」という大きなテーマを掲げ、幸い衆議院の多数がありましたから、やらなければいけないことを今のうちにどんどん進めようという気持ちが強かった。教育基本法の改正、憲法改正のための国民投票、公務員制度改革-。しかし、私がやりたいことと、国民がまずこれをやってくれということが、必ずしも一致していなかった。そのことがしっかり見えていなかった。私が一番反省しているのは、その点です。(中略)私としては、国民の関心の有無にかかわらず、今、自分がやるべきだと思うことをやるのが正しいんだと、そう考えていました。祖父の岸信介は安保改定の意義が十分に理解されていなかったとき、「俺の信念は正しい」と、国会を十重二十重にデモ隊に囲まれようとも貫き通した。私もそうあるべきだと思っていたんです。(中略)でも、大きな政策を実行するには国民の理解を高めていくことが重要ですが、それには時間がかかる。時間がかかることに取り組むためには、まず政権を安定させ、継続させなければならない。これが前回辞めて、初めてわかったことです。「阿川佐和子のこの人に会いたいスペシャル 安倍晋三首相VS.阿川佐和子」『週刊文春』2013年5月2日号 当時はテレビの政治報道も元気な時期だった。2005年の郵政選挙で小泉氏がテレビを利用したことの反作用だったか、テレビも政治をより気軽に扱う「政治のメディア化」が頂点に達していた。 テレビ番組では国会議員たちがちょんまげ姿で政局劇を演じ、芸人たちが議員たちを怒鳴り飛ばしていた。その中で、世論と違うことを行おうとした安倍氏は「KY(空気が読めない)」と揶揄(やゆ)されるようになった。 その後、安倍内閣は年金問題や国会議員のスキャンダル・失言の中で参院選に敗北し、敗北後はマスメディアによる「辞めろ辞めろ」の批判の中、体調を崩して退陣した。昭恵夫人は以下のように当時を振り返る。 2007年の参議院選挙の後からというのは、わたしたちにとって公邸での生活は地獄のような日々だったんです。毎日やらなくてはいけないことがある一方で、主人の体調がどんどん悪くなっていく。そういうなかで批判も多くなるし、外国訪問にも行かなくてはならない」「父のあとを継いで、とんとん拍子に総理にまでなってしまっていたので、持病があったとはいえ、あの辞任は初めての大きな挫折だったと思います。安倍昭恵「妻から見た『素顔の安倍晋三』」『新潮45』2013年9月号 ところが、5年間の雌伏を経て、安倍氏はカムバックする。マスメディアの政治部も含め、ジャーナリズムからはほぼノーマークからの総裁選の出馬と当選、そして首相就任であった。2006年9月、就任会見に臨む安倍晋三首相。右手奥には小池百合子氏など首相補佐官が並んだ(大西史朗撮影) カムバック当時、筆者がマスメディアの記者たちと話していると「また、安倍が出てきたけど、どうせ腹が痛くなってやめるんだろう」とか「オレたちがまた痛い目にあわせてやるぜ」といった雰囲気が強かった。政治学者の多くも安倍政権の「高転び」を予測していたと思う。しかし、その雰囲気はすぐに一変し、安倍氏は戦後最長はもとより、憲政史最長の在任期間を迎えようとしている。挫折を糧に「変わった」 かつて「政治のメディア化」への対応に失敗した安倍氏が、なぜ長期政権を実現できたのか。成功の要因には昭恵氏が指摘するように安倍氏自身が挫折を糧に「変わった」ことが大きい。 人間って、やはりドンと落ちたときに、何かが変わるのではないかと思うんです。主人について、そこで何が変わったか、と言われると、わたしも具体的に言うのは難しいのですが、主人の中で何かスイッチが入ったのは、確かだろうと思います。 前回の辞任以来、人事にしても動き方にしても、自分の中で『こうすればよかった』という思いがある。それを五年間考えてきたようです。(中略)特に野党時代は時間が比較的自由になって、座禅に行ったりランニングなどもしていました。いろんな人にいっぱい会いましたし、たくさん本も読んでいました。この五年間は大きかったようです。安倍昭恵「妻から見た『素顔の安倍晋三』」 それでは、どのように変わったのか。政治コミュニケーションの面で第2次政権以降の変わったところは大きく二つある。 第一は、経済政策の「前景化」だ。2012年の総選挙で政権に復帰した安倍氏は「経済再生」を第一のテーマに掲げた。具体的には、日本銀行の超低金利政策による「アベノミクス」で景気を演出し続ける。 経済という国民の関心の高いものに対して手を打って、株価や失業率の改善など目に見える「結果」を出して政権を安定させ、継続させる。第1次政権の反省がもたらした、再チャレンジ成功の最も基本的な要因である。 加えて、政治コミュニケーションに携わっている人物の構成も長期政権化の大きな要因となっている。第2次政権では、首相官邸の有様は第1次政権のホワイトハウス型から従来型に戻るが、そこに登用された政権のコミュニケーションを支えている人々は安倍氏との深い人間関係で結ばれ、かつ「メディア化した政治」の洗礼を受けた人々である。この間、苦い思いをたっぷり味わってきた。  麻生太郎副総理兼財務大臣は、首相時代に「解散やらないKY」「漢字読めないKY」などとテレビなどで揶揄されて支持率を大きく減らし、衆院選で敗北し民主党に政権を譲った経験を持つ。菅義偉(よしひで)官房長官も第1次安倍政権での総務相を経て、自民党の選挙対策総局長、選挙対策副委員長(福田内閣)、同委員長代理(麻生内閣)として、この間の「政治のメディア化」、特にマスメディアによる選挙時の「攻撃」を責任者としてつぶさに体験している。菅氏の総務相時代にもテレビ番組への行政指導が多数出された。2019年2月、参院本会議で立憲民主党の福山幹事長の質問を聞く(左から)菅官房長官、茂木経済再生相、麻生財務相、安倍首相 また、官邸で政権を支える官僚たちも、第1次政権では事務担当秘書官として広報を担当した今井尚哉(たかや)政務担当首相秘書官を筆頭に、第1次政権での挫折と屈辱を安倍氏とともに味わった者たちが中心である。その点では、現政権は第1次政権で、マスメディアと大衆に傷つけられたエリートたちの「リベンジ政権」だともいえよう。 もちろん、その他の外部環境的な条件も大きい。何と言っても、野党の力が弱く、自民党にも強いライバルがいない。そのため、さまざまな批判はされるものの、「よりどころ」が存在せず、政局には結びつきにくい。地獄から這い上がった「根性」 また、インターネット、中でも会員制交流サイト(SNS)の登場によるメディア環境の変化も、マスメディアの力を相対化している。加えて、マスメディアの政権に対する論調が分かれていることも、メディアの力を削いでいる。また、政権がメディアの報道によって5年で5人も変わるという「政治のメディア化」に対する倦(う)みも国民の間にあるのだろう。 とはいえ、2017年の解散総選挙前に巻き起こって消えた「小池旋風」に見られたように、メディアが政治に強い影響力を与える「政治のメディア化」の状況が終わったわけではない。 そもそも「政治のメディア化」は、団体や組織といったリアルな結びつきが弱体化した中で進行していったのである。事実、労働組合や農協といった55年体制下の中心的な団体の組合員数や自民党の党員数も本格的な回復は見られない。 その点で、ネットを含めてメディアが政治のイメージをどのように伝えるかは、依然重要なポイントである。安倍氏が民主党政権時代を批判し続けたり、「アベノミクス」「三本の矢」「まち・ひと・しごと創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人づくり革命」とさまざまなキャッチフレーズを唱え続け、自らの仕事ぶりをアピールすることも必要性も理解できよう。 これらの言動に対しては「5年もたっているのに民主党を批判し続けるのはおかしい」とか「『やってる感』を演出しているだけ」との批判もある。しかし、メディアによって地獄を見た安倍氏にとっては馬耳東風の批判だろう。 むしろ、問題は、野党または自民党の中に「スイッチが入った」政治家がいないのかということだ。敗北を敗北として捉え、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、次に向けて勉強し、仲間を維持し、(再)チャレンジを試みる。そういう政治家は見つかるのだろうか。 正直、安倍政権の政策や政権運営にはおかしいと思うところも多々ある。しかし、第1次政権末期、テレビや新聞のマスメディアと2ちゃんねる(現5ちゃんねる)などのインターネットが一緒になって、批判や揶揄、嘲笑を行っていた。いわば「一億総軽蔑」ともいえる「地獄」の中で退陣を余儀なくされたところから、5年の充電を経て、一気に政治的頂点に復活した安倍氏の根性は正面から評価されるべきだと思う。2014年9月、「まち・ひと・しごと創生本部事務局」の看板を掲げる(左から)石破茂地方創生担当相、安倍晋三首相、菅義偉官房長官(代表撮影) しかも、政権復帰に伴い、かつての部下などがある意味、退路を断って脇を固め、自分たちの失敗経験を生かしながら長期政権に寄与する。このような人間関係の持ちようも、政権運営術や政治コミュニケーションの観点からは、きちんと評価されるべきだろう。 政治にせよ、政治コミュニケーションにせよ、「天下一人を以て興る」(中野正剛)にせよ、すべて一人でできるわけではない。「ポスト安倍」を準備している「スイッチが入った」者がいるのか、日本の政治コミュニケーションの課題である。

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    「菅長官vs望月記者」バトルの波紋

    東京新聞の望月衣塑子記者と菅義偉官房長官のバトルが続いている。度重なる官邸側からの申し入れにも「報道の自由の侵害だ」と真っ向から反発する。そんな彼女を支える勢力の中には、これを倒閣運動の足掛かりにしたいとの思惑もアリアリだ。それだけに話はややこしくなるばかりである。

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    「今の記者クラブはバカの集まり」官邸vs望月記者、舛添要一の苦言

    舛添要一(前東京都知事、元厚生労働大臣) 記者会見での質問の在り方について、菅義偉(よしひで)官房長官と、東京新聞社会部の望月衣塑子(いそこ)記者、そして彼女が所属する東京新聞との間で応酬が続いている。私も厚生労働大臣、東京都知事として記者会見を行ってきたので、そのときの経験も踏まえながら、今回のバトルについて記してみたい。 第一の論点は、政府の記者会見とはどういうものなのか、また質問とはどういうものなのかという問題である。 官房長官の側に立てば、それは記者の質問に答える場ということになる。言うまでもなく、記者の意見を政府が拝聴する場ではないし、質問する記者が事実誤認をしていれば、そもそも質問そのものが成り立たない。 森友・加計学園問題や、米軍普天間飛行場の移設先である名護市辺野古沿岸部の埋め立て工事問題などをめぐる望月記者の質問に関して、2017年9月1日以来、官邸は繰り返し東京新聞に申し入れを行っている。むろん、東京新聞側もその都度回答している。 そして、昨年12月28日、官邸は上村秀紀報道室長名で内閣記者会に対して文書を出した。「東京新聞側に対し、これまでも累次にわたり、事実に基づかない質問は厳に慎むようにお願いしてきました」として、「当該記者による度重なる問題行為については、総理大臣官邸・内閣広報室として深刻なものと捉えており、このような問題意識の共有をお願い申し上げる」と要請した。2019年2月、首相官邸で開かれた菅官房長官の記者会見で、質問中の東京新聞の望月衣塑子記者(手前)に注意を促す上村秀紀報道室長 これに対しては「取材の自由への侵害」などとして新聞労連が抗議声明を出したり、弁護士やジャーナリストらが文書撤回を要求したりしている。 この点に関して、まずは記者の意見と質問とは混然一体としていることが多く、明確に線引きできるものではないことを指摘したい。例えば、「米朝首脳会談で合意に至らなかったことは失敗だと思うが、その失敗の理由は何だと思うか?」という質問をする記者に対して、「自分の意見を言った」と非難することはできないであろう。 答える側が「自分は失敗だと思わない。その理由は…」と答えれば済む話だからである。したがって「会見は意見を言う場ではない」という主張はあまり説得力がない。質問の「介入」は適切か また、記者の事実誤認については、もしそうであれば、誤りをきちんと指摘し、正しい事実を伝えればよいだけの話である。答える側にすれば、間違った事実を質問されれば、それを利用して正しいことを伝える機会にすることができる。 また、そもそも記者が「事実誤認」などという初歩的ミスをするということは、自分の説明が十分でなかった、あるいは誤解を招くような下手な説明であったと反省する材料にもなる。 以上は一般的なコメントであり、私が望月記者の質問を毎回細かくチェックしているわけではないので、彼女の言動が「度重なる問題行為」に相当するのかどうか判断できない。ただ、官邸がそこまで断言するのには、それなりの根拠があるのかもしれない。 この点で参考になるのが、米国のトランプ大統領の記者会見である。彼は記者の質問に答える以前に、自分と意見の異なる記者からの質問に対しては、「フェイクニュース」と断罪し、次の回からはその記者を指名しない。 もし、日本の政治家が「トランプ流」の受け答えをすれば、非難の嵐となろう。2年前、今村雅弘元復興相が記者に対して「(会見室から)出て行きなさい!」と激高して批判されたが、それが「日本の風土」である。 第二の論点は、望月記者の質問中に、官邸報道室の上村室長が「簡潔にお願いします」「質問に移ってください」などと、何度も質問を遮ったという点だ。この点については、上村室長の介入が適切か、あるいは表現の自由を阻害するような類いの不適切なものか、判断が必要である。 そして、記者については、一定の品位を保った質問をしているか、質問に関連することを十分に調査し、勉強しているか、ということが問われることになる。 東京新聞側から見れば、上村室長の介入は「限度を超えている」という見解であろう。また、官邸側から言えば、望月記者は記者会見で「最低限守るべき礼儀を欠いている」という理屈になる。2019年2月28日、ハノイでの米朝首脳会談を終え、記者会見する米国のトランプ大統領(左)とポンペオ国務長官(共同) ベトナムの首都、ハノイで開催された米朝首脳会談の最中、ワシントンではトランプ大統領の元個人弁護士、マイケル・コーエン被告が下院の公聴会で証言したが、ハノイでこの件について質問した4人の記者が、首脳会談と無関係なことを質問したとして、記者会見への参加を拒否された。これは、ホワイトハウスの権限で行われたものである。官邸側も、できれば望月記者をつまみ出したいというのが本音だろう。記者クラブは「甘えの構造」 第三の論点は、前述した第二の論点にも関連するが、そもそも記者クラブ制度は必要か、そして役所の報道担当(今回は官邸報道室)と記者クラブの関係はどうあるべきか、という問題とも直結する。 以上の3点について、私自身の経験も踏まえて答えると、まず記者クラブ制度は本来果たすべき機能を果たしておらず、存在する意味がなくなっているように思う。品位に欠ける言動や、長すぎる質問時間、何度も同一人物が質問を繰り返すといった行為は、記者クラブがしっかりしていれば、未然に防げるはずである。 望月記者への申し入れは、本来は内閣記者会が行うべきである。定期的に代わるにしても、責任を持つ幹事社が記者クラブ加盟社の中にいるはずである。それができていないというのは、記者クラブが自治能力を失っていることを意味するに等しい。 もともと記者クラブは「甘えの構造」であり、取材先である諸官庁に場所を無償で提供してもらっている。それは、「報道の自由」という「錦の御旗」の威光をかさに着ているからである。 そして、役所側が無償で便宜を供与するのは、その見返りがあるからである。言い換えれば、権力側からの「情報操作」が可能であることを意味する。 国務大臣などの権力者になると番記者がつく。政治家の立場からは、彼らをどう味方につけるかが腕の見せ所となる。官房長官会見を見ていても、明らかに権力側に取り入ろうとする記者が何人かいて、率先して質問する。むろん彼らから見れば、望月記者は異端に映るだろう。2019年2月25日、定例会見に臨む菅義偉官房長官(春名中撮影) 記者の長すぎる質問や事実誤認をその場で注意すべきは、役所内、つまり官邸の報道室長ではなく、記者クラブの幹事社のはずである。だから、報道室長が介入するというのは、記者クラブに自治能力がないことを意味する。 東京都庁の場合、報道担当責任者は「記者クラブ主催ですから、何もできません」と全く関与しない。知事が術後で健康状態が悪いことを知らされていながら、会見時間が3時間に及んでも知らん顔していたこともあった。まさに文革の「紅衛兵」 はっきり言って都庁記者クラブは自治能力がなく、時間管理も質問管理もできない。また、ミニコミ紙やインターネット、フリーの記者と制限なく入室させている。「わが記者クラブは自由ですから」という触れ込みだが、人権尊重の念も、品位も礼儀もなくても、「記者」と称すれば誰でも入れる。まさに、中国の文化大革命の「紅衛兵」と五十歩百歩と言えよう。 また、記者の不勉強も度を超している。税制や予算の説明をしても、質問すら出ない。たまりかねた私は都知事時代、ある全国紙の社会部長に「若い記者にもう少し本を読むように言ったどうですか」と提案したが、「わが社会部は馬鹿の集まりですから、知事さん、無理ですよ」という答えであった。 そこで、記者の勉強の助けにと思って、私が知事になってからは、記者に公表期限付きで事前に資料を説明させるよう職員に指示した。そうでもしない限り、記者会見で重要政策の説明をしても、理解する意欲も能力も欠けているのである。 都庁記者クラブは、社会部記者が仕切っている。ちなみに、望月記者も社会部所属だが、なぜ政治部記者が中心の官房長官会見に毎度顔を出しているのか、正直よく分からない。 私が厚労相の時には、よく勉強する番記者が集まっていて、役所が出さないデータを発掘して質問される機会がよくあった。また、彼らは「夜討ち朝駆け」で早朝から深夜まで自宅に来て、年金記録問題や薬害肝炎訴訟対応などの政策について、繰り返し質問されたものである。 ところが、都庁では記者会見の場でも、一部の例外を除いて、難しい政策課題には質問が出ず、時間を持て余していた。また、都の政策に関する取材で、私の自宅まで来た記者はまずいない。霞が関から新宿に移ったとき、それこそ記者クラブ文化の違いを肌で感じた。2008年8月、福田改造内閣での留任が決まり、記者会見で抱負を述べる舛添要一厚生労働相(飯田英男撮影) いずれにしても、記者クラブの在り方や、クラブと役所の癒着などにメスを入れるべき時期に来ている。日本では司法とマスコミは聖域にように扱われ、まさに「甘えの構造」の根源となっている。 前者は日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告の長期勾留で国際的に批判を浴びており、それが改革のきっかけになる可能性がある。今回の「菅長官vs望月記者」のバトルが、後者の大改革につながることを期待したい。

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    記者会見で失言や醜態を晒した政治家たちの「器量」

    れる。 河野外相が、先日の記者会見での自らの不作法を謝罪した。遅きに失したというべきだが、愚弄されたメディア、憤慨した国民は矛を収めるかもしれない。しかし、一件落着とまでは言い切れまい。北方交渉に関する質問を無視したことが、ロシア側につけ入る隙を与えることにならないか。そうなって国益を損なったとしたら、謝罪では済まない。 今回の騒ぎによって、過去のいくつかの記者会見を想起させられた。いずれも、政治家や政府高官が失言や問題発言、醜態を晒して物議を醸したケースだ。そのせいかどうか、不幸にして、当事者たる政治家たちはその後、いずれも声望を取り戻すことなく、表舞台から消えていった。 今月15日の外相のブログは、11日の記者会見での対応について「お詫びしてあらためる」と陳謝し、「いつものように『お答えは差し控える』と答えるべきだった」と反省の弁を開陳。「交渉に影響が出かねないことについて発言を控えていることをご理解いただきたい」と釈明した。 最初からそうしていれば、記者団を失望させることはあっても、反発、怒りを買うことはなかったろう。 外相はこれまでも、対露関係については、省内でのインタビューや夜回り取材で、聞こえないふりをしたり、とぼけたりすることを繰り返してきたという。今回の態度は予想されたことではあった。韓国と電話会談し、記者団の取材に応じる河野太郎外相=2019年1月、東京・霞が関の外務省(松本健吾撮影) それに加えて、首相官邸主導で進められて領土交渉の「責任者」に、アルゼンチンでの日露首脳会談で急きょ指名されたため、過剰なほどの慎重姿勢を取ったとの見方もささやかれている。 日本政府がこれまでの「4島返還」から「2島返還」に方針を転換したと伝えられていることもあって、交渉がきわめて微妙な時期にきていることはまちがいない。それだけにだけに、氏の態度に関する推測も的外れと言えないかもしれない。 外相が無視した質問は、「(北方領土は)第2次大戦の結果、ロシア領になったと日本は認めるべきだ」というラブロフ外相の発言についてだった。一切言葉を発することなく無視すること4度、「次の質問どうぞ」を繰り返した。日米関係を損なう発言も 北方領土問題での過剰な慮りは、ロシア側に都合のいい解釈をさせることにならないか。今後の交渉の場で、「責任者」の外相がいくら理詰めでわが方の主張を展開しても、「あなたは国民に説明する場で何の反論もしなかった」などと先方が攻勢に出てくる可能性もあろう。牽強付会な解釈を持ち出し、片言隻句をとらえて交渉を紛糾させることが、旧ソ連時代からの常套手段であることを考えれば、取り越し苦労とばかりは言えまい。少なくとも、宣伝材料に利用される恐れはある。 こんどのように国民が驚き呆れた記者会見といえば、比較的高齢の人なら覚えているだろう。1972(昭和47年)6月17日の佐藤栄作首相の退陣会見。佐藤氏はテレビを通じて直接国民にお別れの挨拶をしようとしたところが、首相官邸の会見室に新聞社を含む記者団がいたため、にわかに機嫌を損ねた。「新聞はウソを書くから嫌いだ」と暴言を吐き、追い出してしまった。たったひとり、ガランとした会見室でカメラに語りかける姿は異様に映った。在任中、いやなことまで遠慮会釈なく書き立ててきた新聞への恨みつらみを、最後の最後に押さえきれなくなったようだ。7年8カ月という長期政権、沖縄返還など多くの実績をあげた総理大臣には似つかわしくない児戯に類する態度だった。 もっとも、佐藤会見は個人的な鬱憤晴らし、新聞への侮辱ではあったが、それ自体、国益を損なうものではなかった。 深刻だったのは1981(昭和56)年5月の鈴木善幸首相(当時、故人)のケースだ。 首相は大型連休を訪米してレーガン大統領(同)と会談、5月8日に発表された共同声明に初めて「同盟」という言葉が盛り込まれた。いまでこそ、日米関係の代名詞になっているが、当時としては画期的なことだった。 そのせいでもあるまいが、首相は発表直後の記者会見で、「(同盟という言葉に)軍事的意味合いは全くない」と言い放ち、「自由と民主主義、市場経済体制を守るということだ」と理解不能な説明をして、日米両国をびっくりさせた。 外務省は最初から軍事的側面を含むという立場であったことから、首相との関係がぎくしゃくし、外務省高官が堂々と首相を批判するなど対立が先鋭化した。首相は、会談前に共同声明がとりまとめられるなど、その作成方法をめぐっても不満漏らし、これに抗議した伊東正義外相(同)が辞任する騒ぎに発展した。新聞記者の引き上げた会見場で、テレビカメラに向かって退陣の所信を表明する佐藤栄作首相=1972年6月17日、首相官邸 政府は「軍事的側面をもつことは認めるが、あらたな意味合いを付加したものではない」という統一見解で沈静化を図ったが、米国の当惑は少なくなかった。「〝同盟〟は米国が日本に押しつけたものではない」、「軍事的な側面は含まれるが、ことさら振りかざすつもりはない」などと釈明、当惑を隠せなかった。 米政府は実質よりも形式にこだわる日本の姿勢に失望と強い疑念を抱き、その後長い間にわたって日米間のしこりとなった。天皇を政治利用? 鈴木首相は自ら率いる派閥(宏池会、池田勇人元首相創設)の伝統から〝平和主義〟へ強い憧憬をもっていたといわれ、事務方の手で自らの考えとは異なる方向に進んでいくことに我慢がならなかった、という見方もある。行政府の長として指導力を発揮すればよいものだが、それをできないところに限界があった。 鈴木氏は在任2年の翌年秋、総裁選で再選確実とみられていたにもかかわらず、政権を投げ出す形で突然、退陣を表明した。 天皇まで巻き添えにした失言もあった。1973(昭和48)年5月の増原恵吉防衛庁長官(同)の「内奏問題」がそれだ。 増原長官は5月26日、昭和天皇に「当面の防衛問題」についてご進講。終了後、記者団に対し、あろうことか、陛下とのやりとりを漏らしてしまった。氏によると陛下は「近隣諸国に比べて防衛力が大きいとは思えない。国会でなぜ問題になるのか」と疑問を示された。長官は「おおせの通りでございます。専守防衛であり、野党から批判されるものではありません」とお答えしたという。 陛下と会話を明かすことは、たとえ雑談であっても許されないことだが、ご丁寧にも、当時難航していた防衛2法案(防衛医大設置、自衛隊改組など)の審議に向けて「勇気づけられた」とやったものだから、「天皇を政治的に利用した」と猛烈な批判を浴びた。反論の余地はなく、増原氏は即座に辞任に追い込まれた。昭和天皇も迷惑されたことだろう。 氏は前年夏、岩手県上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突、旅客機の乗客・乗員162人が死亡した事故(雫石事故)当時の防衛庁長官。その責任を取って辞任し、その翌年に返り咲いたものの、自身の不祥事で2度目の辞任を余儀なくされる結果になった。 行政管理庁長官、北海道開発庁長官(当時のポスト、いずれも閣僚)などを歴任したベテラン政治家だったが、その後、入閣することはなかった。 1996(平成8)年暮れから翌年春まで続き、筆者も現地で取材したペルー・リマの日本大使公邸占拠事件。リマを訪れた日本の外務大臣(当時)の狼藉ぶりも忘れられない。日本大使公邸占拠事件。ペルーで会見する池田外相=1997年4月、オリバーツホテル(代表撮影) 外相は11月17日の事件発生直後に到着、解決に向けて指揮を執っていたが、22日の記者会見で、滞在日程などを聞かれたことに激高。会見後、質問した産経新聞記者を呼び出し、「この野郎何で質問した。人命がかかっているんだ」と怒鳴り、やりとりをメモしていた他社の記者のペンを振り払った。大臣とは思えない野蛮な行為だが、日程が犯人グループであるテロリストに知られ、交渉相手に引っ張り出されかもしれないことを恐れたからといわれている。「大人気なかった」と謝罪したが、事件直後、状況もわからぬまま現地に派遣された戸惑い、不安があったとみる向きもある。クリントン氏もウソで窮地に 外相は、首相を経験した有力政治家の女婿。その後も自民党役員などを歴任したものの目立った活躍はできなかった。岳父が創設した派閥の跡目を継ぐこともかなわず、ほどなく議員在職中に亡くなった。 海外のケースでは、不倫・偽証疑惑を真っ向から否定したビル・クリントン元米大統領の会見だ。 自分の娘といくつも年の違わないホワイトハウスの元実習生との不倫関係を暴露された直後の1998年1月26日の記者会見、「私は、あの女性といかなる性的関係ももったことはない。この申し立てはウソだ」と強弁した。ワシントン特派員だった筆者は、テレビで見てすぐに東京に送稿したが、その時のクリントン氏の恐ろしい形相は忘れられない。後ろめたいことがあると、人はあのような表情になるのか。 ウソをついていたのは「あの女性」ではなく、自分であることを認めざるを得なくなり、これも一因となって、米憲政史上2人目の弾劾裁判という不名誉な事態に追い込まれた(1999年2月、上院で無罪票決)。 あの場で不倫の事実を認め、率直に謝罪していたら、その後の厄介な展開はあり得なかったろう。 話を河野外相に戻す。ブログでの発言だけでは、あの時、どういう心境だったのかは、よく理解できない。ムシの居所が悪かっただけなのか、われわれの及ばない深慮遠謀があったのか。はたまた、不勉強、同じ質問を繰り返し、時に居丈高になる記者団に辟易していたのか。それなりの理由があるなら、さらに説明を望みたい。外相は今週水曜日、19日に日本記者クラブで会見する予定で、この場で何らかの発言があるかもしれない。 今回の問題は、記者会見というもののあり方に一石を投じるかもしれない。IT時代の昨今、政治、経済を含む多くのイベントがネット中継され、ビューアーから即時に反応が返ってくる。テレビで放映されず、されても仕事で見られない人たちのために、記者が代表して会見に出席し、読者、視聴者に伝えるという従来のスタイルも変化を迫られている。いま以上に開かれた〝国民会見〟になることも予想される。どのとき、当局はどう対応し、メディアはどういう役割を果たせばいいのか。 新しい時代の会見のあり方を模索する契機になるかもしれない。かしやま・ゆきお 産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

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    先鋭化するトランプ大統領のメディア攻撃

    斎藤彰(ジャーナリスト、元読売新聞アメリカ総局長) 米中間選挙を前に、トランプ・ホワイトハウスのメディア攻撃が先鋭化してきている。政権運営に対する批判を極力封じ込めると同時に、超保守的な支持基盤固めを意図したものだが、新聞社やジャーナリスト個人が一部の過激なトランプ支持者の脅迫電話、メール攻撃にさらされるなど、両者の関係は緊迫の度を高める一方だ。 去る8月30日、FBI(米連邦捜査局)はカリフォルニア州エンチノ在住の68歳の男性を脅迫容疑で緊急逮捕した。男の自宅からは20丁のけん銃、ライフル銃なども押収された。 「ニューヨーカー」誌電子版によると、男は東海岸のボストン・グローブ紙が、最近メディア攻撃を強めつつあるトランプ大統領を糾弾する社説を掲げたことに腹を立て、同社編集局宛ての電話で「お前らは『人民の敵』だ。一人ずつ殺してやる」などと脅迫した。 たまたま同じ日の数時間前には、トランプ氏が自分のツイッターでCNN,NBC両テレビ局の経営者に名指しでかみつき「大半のメディアの不正直な態度はいくら強調してもし過ぎない。いつも私のことについて匿名ソースを使ってでたらめ報道をしている。この中にはフェイク・ブックも含まれる。『人民の敵』だ!」と非難したばかりだった。逮捕された男はそのタイミングからみて、大統領のツイートで触発された可能性を否定できない。 このほか、8月22日には、AP通信ロサンゼルス支局に別の人物から「いずれお前らクソったれどもをぶっ放してやる」といった殺害予告電話が入ったほか、同月初めにはペンシルバニア州ステートカレッジの「ドン」と名乗る男からC-spanテレビ局に電話があり「CNNテレビのドン・レモンとブライアン・シェルターを撃つ」といずれも著名な放送記者を名指しで脅迫してきた。MSNBCの女性キャスター宛てには「あんたがレイプされ殺されるといいのだ」と記した差出人不明の手紙も届いているという。 このようなマスメディアに対する脅迫やいやがらせは、ここ半年の間にとくに増えつつあるが、同じ頃からエスカレートしてきた大統領個人による先鋭化したツイートなどによる攻撃と機を一にしているとみられる。 その特徴は、段階的に3つに分類できよう。 昨年1月ホワイトハウス入りする前後から、トランプ氏がテレビや新聞報道批判に乗り出した当時、もっぱら好んで使われた言葉は「フェイク・ニュース(虚報)」だった。ホワイトハウス内部での人事抗争や大統領個人の内輪の人種差別的発言などがリークされるたびに「マスコミ報道の全部とは言わないが、85%はフェイク・ニュースだ」などと根拠もない数字まで挙げて批判を続けてきた。2018年7月23日、米ホワイトハウスで演説するドナルド・トランプ大統領(AP=共同) とくに主要メディアに対する不信感はその後もエスカレートしてきており、いまや唯一信頼を置いているのは、右翼的体質がめだつFOXニュース放送局のみといっていいほどだ。事実、大統領は毎週のように同テレビ局の人気キャスターとのインタビューに応じ、視聴者向けに「インチキ報道」に反論するかたちで自説を正当化するのが常態化してきている。発言の大半が「フェイク」 では、大統領自身、これまで真実を語って来たかと言えば、実際はまるで異なる。 ワシントン・ポスト紙は社内に特設された「ファクト・チェッカー」と呼ばれる入念な追跡調査で、本人がこれまで記者会見や声明発表、ツイート発信などを通じ「事実とは異なる(false)、あるいは誤解を招く(misleading)発言」を具体的に回数にしてどれだけしてきたかについて興味ある結果を公表している。 去る9月4日付けワシントン・ポストによると、昨年1月20日就任以来、592日間にその数は実に「4713回」に達し、1日平均にすると「8回」になるという。就任後の最初の100日間は「4.9回」だったのと比較すると、虚言回数は急ピッチで増えつつあることを示しており、また、最近の3か月では毎日平均「15.4回」というすさまじいペースだ。 しかも事実と異なる発言ながら、同じ間違いを最低3回は繰り返してきたケースが「113回」もあり、その中には「自分は大統領として史上最大規模の減税を実現した」(実際は史上8番目)との表現を様々な機会に「72回」も使っていた例もあった。ロシアが2016年米大統領選挙に介入した事実はこれまでのあらゆる公的米情報機関調査で明確になっているにもかかわらず、大統領が「ロシア関与説はでたらめ」と言明してきた回数は「53回」に達している。 またつい最近では、昨年プエルトリコに甚大な被害をもたらしたハリケーン「マリア」に関する大統領発言が、物議をかもしている。 ホワイトハウスで記者団を前に大統領は「わが政府が展開したプエルトリコでの災害対策・救援作戦は信じがたいほどの成功を収め、死者も6~8人程度ですんだ」と豪語して見せた。ところが、実際の死者は「推定3000人以上」に達しているだけでなく、島民の半数近くはいまだに水や電気を十分に使えず困窮生活を強いられており、首都サンファン市長はじめ地元側からトランプ発言に対し猛烈な反発を引き起こした。 こうしたことは、マスコミを十把一絡げに「フェイク・ニュース」と一蹴してきた大統領のこれまでの数限りない発言の大半が、実は「フェイク」であったことを如実に示している。 しかし大統領はその後、さらにマスコミ批判を強め「フェイク・ニュース」から攻撃性の濃い「米国人民の敵(enemy of American people)」との表現を使い始めた。偏狭で超保守主義的な一部のトランプ支持層の心情をかきたてることを意識したものだ。 とくにこの言葉が飛び出してきたのは、去る7月、ヘルシンキでの米ロ首脳会談でプーチン大統領に媚を売るような醜態を演じたことが米マスコミで大々的に報じられ、連邦議会共和党幹部たちからも酷評されたことに端を発している。 そしてその後は、大統領が顔を出す地方の政治集会などでは、取材の同行記者団に対し、トランプ支持派の聴衆から「人民の敵」のヤジが浴びせられ、同じ表現のプラカードが報道陣の前に数多く掲げられるケースが増え始めてきた。挑戦受ける国家の存立基盤 大統領のメディア批判はさらにとどまることなく、つい最近ではテレビ局や新聞社の特定の記者たちを名指しで非難するほど先鋭化してきた。“各個撃破”の様相を呈し始めており、報道に携わる関係者たちの間で身辺警護を強める人たちが増えている。各地の報道関係機関の建物も、暴漢の襲撃を警戒し、玄関の出入りチェックを強化する動きも出てきた。 ニューヨーク・タイムズの場合、自社の記者たちに対する脅迫が増加しつつあるため、編集局の入り口に武装警備員まで配置しているという。 これまでに大統領から個人口撃を受けたジャーナリストの中には、ウォーターゲート事件報道でニクソン大統領を追い詰め、ピューリツァー賞を受賞したワシントン・ポスト紙のカール・バーンシュタイン記者も含まれる。 同氏は今年7月、CNNが放映した特ダネ番組の中で、モラー特別検察官が捜査中の「ロシア疑惑」に関連してトランプ氏が、長男トランプ・ジュニアら同陣営とロシア側弁護士との間で行われた秘密会談を事前に知っていたと報じた。これを受けてトランプ氏は最近、バーンシュタイン氏を「お粗末で退化した愚人でアメリカ中で笑いものになっている」などと酷評した。 9月初めには、大統領は、トランプ・ホワイトハウスの混乱ぶりを鋭く描写した話題の本「不安:ホワイトハウスのトランプ」(原題“Fear:Trump in the White House)の著者ボブ・ウッドワード氏を「バカ者」などと容赦なく非難した。 一方、国連人権会議専門委員二人と「汎アメリカ人権委員会」は8月3日、トランプ大統領による最近のメディア攻撃に関連して特別声明を発表、その中で「トランプ氏の言動はジャーナリストが暴力にさらされる危険を増大させているだけでなく、報道の自由と国連人権保護法を蹂躙するものだ」と指摘した。 トランプ政権の対メディア対応は今や米国内にとどまらず、重大な国際的関心事となりつつあることを示している。 アメリカの歴史を振り返ると、もともとイギリスからの独立運動は、圧政に対する北米13植民地の住民たちによる異議申し立てから始まった。言い換えれば、アメリカ合衆国の建国は「言論の自由」の行使によってこそ達成されたといえる。2018年11月、ホワイトハウスでの記者会見で、CNN記者(右)を指さすトランプ大統領(AP=共同) その「言論の自由」が今日、トランプ政権下で執拗な攻撃にさらされつつあるとすれば、アメリカという国家の存立基盤そのものが挑戦を受けていることになる。さいとう・あきら ジャーナリスト、元読売新聞アメリカ総局長。1966年早稲田大学卒業。68年米カリフォルニア州立大学バークレー校大学院修士課程修了、70年読売新聞入社。ワシントン常駐特派員を2度務めた後、アメリカ総局長、東京本社取締役調査研究本部長などを歴任。近著に『中国VSアメリカ』、『アメリカはカムバックする!』(いずれもウェッジ)がある。

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    官房長官vs東京新聞記者の内幕と「がっかり発言」沈静化理由

    んの心労の種になってはいけないという局内の自主判断といっていた。記者D:政権の直接介入が減ったのは、メディア側が自主規制するからじゃないですか。沖縄の基地移設をめぐる県民投票結果を朝日、毎日、東京3紙は2月25日付朝刊で〈辺野古「反対」72%〉(朝日)など1面トップで報じたが、産経新聞のトップ記事は「海自観艦式 韓国招待せず」、読売に至っては「適量ですか 高齢者の薬」という企画ものを1面トップで報じた。政権に不利なことを書かないという自主規制がここまでなされれば、官邸は注文をつける必要もないでしょう。●レポート/武冨薫(ジャーナリスト)関連記事■ トランプ氏にノーベル賞推薦報道、一番驚いたのは安倍首相■ 「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■ 「拉致被害者2名生存情報」今後の日朝関係にどう影響するか■ もし日韓戦わば… 軍事力の差は歴然だった■ 韓国で女児の胸が大きくなる「性早熟症」、囁かれる原因

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    菅長官が東京新聞望月記者に「選挙出れば」挑発オフレコ発言

    に接近を試みており、実際に立憲民主党の山尾志桜里氏や自由党の森ゆうこ氏など、野党の女性政治家が次々とメディアで彼女と対談している。彼女の質問力を国会で発揮してもらえれば、与党を追い込む切り札になるのは間違いない。菅長官もそれを意識しているのかと思った」(野党の議員秘書)経済財政諮問会議に臨む安倍晋三首相(左)と菅義偉官房長官=2017年5月、首相官邸(斎藤良雄撮影) 望月氏本人に、オフレコ発言や出馬の可能性について聞くと、いきなり大笑い。 「そんなこと言っていたんですか! 知りませんでした。すみませんが、これ以上は会社を通してもらわないと……」 発言を気にしている様子はみじんもなかった。情けないのは、国会質問で政府与党を本気で追い込む野党議員が見当たらないという現状である。関連記事■ 東京新聞望月記者「政権の矛盾のしわ寄せを受けるのは官僚」■ 望月衣塑子氏「官房長官ら大物議員は自分さらけ出す覚悟感じる」■ 山尾志桜里氏 望月衣塑子氏に“私と同じ事されてる”の感想■ 東京新聞望月記者 ペジー事件の捜査が政権に及ぶ可能性指摘■ TBS青木アナ「彼はうまくないけど一生懸命」とオフレコ発言

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    テレビ局いじめ? 首相の反撃が始まった

    国民の共有財産である電波利用料の引き上げが決まった。増額は携帯大手が2割、NHKと民放キー局が5割とそれぞれ大幅な負担増となる。これまで利用料は3年ごとに見直されたが、今回は1年前倒しとなった。「テレビ局いじめ」「安倍政権の反撃」といった意見も聞かれる中、公共電波の意味を改めて考えたい。

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    電波利用料5割増が「テレビ局いじめ」と言えない3つの理由

    湧口清隆(相模女子大学教授) わが国では、電波利用料制度は1993年に導入され、2005年に料金体系が大幅に変更されています。しかし、電波利用者が電波利用にかかる共益費用を負担する、いわば受益者負担の制度であるという性格は、導入から四半世紀経過した現在でも変わっていません。ただし、共益費用の範囲や料金体系は時代とともに常に変化し続けています。 私自身は、2005年と2008年の改正の際に総務省の研究会構成員として、改正の議論に参加しました。その立場から申し上げると、2019年の改正は抜本的な見直しとはいえませんが、二つの点で驚きがあります。 まず、通常3年ごとの見直しですので、本来であれば今年は改正年ではなかったはずです。 それにもかかわらず改正をするという背景には、官邸主導の規制改革推進会議から強い要請があったことは事実でしょう。実際、それは2018年6月に発表された「骨太の方針2018」や2017年12月に発表された「新しい経済政策パッケージについて」にみることができます。 その意味で放送業界から声が上がっているように、「改定が1年前倒しされ、放送事業者の多くは予期せぬ『値上げ』を強いられることになる。適用期間の流動化は放送事業者にとって経営上のリスク」(改正に対するパブリック・コメント)になることは事実です。 しかも、これまで「負担額は改定前の2割程度」だった激変緩和措置が、今回5割に拡大されたため、各社の2019年度の予算に億単位の大きな影響が出てきてしまいました。過去にそのような例がないかといえば、人工衛星局のように2005年の改正時には数千倍ものオーダーで値上がりした無線局もありました。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 次に、通信事業者と放送事業者との間で長年繰り広げられた「公共性」論争に、総務省がよく決着をつけたという点です。通信で届けられる内容は「通信の秘密」で守られた私信であり、放送で届けられる内容は「番組調和原則」や集中排除原則で規制された公共性の高い通信であるという論理から、従来は放送には「公共性」を見いだせるが、通信には見いだせないとして、電波利用料を割り引く特性係数は放送のみに適用されていました。 しかし、近年、災害時の救助要請や情報伝達において会員制交流サイト(SNS)の活用が進んでいます。結果、私信だから「公共性」が小さいという議論の根拠が薄れ、携帯電話にも同様の「公共性」を適用すべきだ、という通信事業者や国民からの主張が強くなってきました。 そこで今回、携帯電話事業者へも特性係数を適用することになりました。そのため、電波利用料の歳入全体の約85%を占めていた携帯電話事業者の負担割合が減り、10%弱しか占めていなかった放送事業者の負担割合を大きく増やすことになったのです。しかも、共益費用の範囲や金額が拡大したことから、基幹放送事業者の料金改定は極めて大きな額、大きな変動率になりました。「放送局いじめ」じゃない 以上のように考えていくと、今回の改正は、そうでなくともインターネットのせいで視聴率低下が叫ばれ、経営的に苦しい放送事業者をいじめるものであるように感じられます。しかし、今回の改正内容は、理論的観点からグランドデザインを見れば、放送事業者いじめではなく、理にかなったものになっています。 第1に、地上デジタルテレビ放送と携帯電話との間での周波数をめぐる競合問題が挙げられます。現在、地上デジタル放送用には470~710MHz(メガヘルツ)の周波数が1チャンネル当たり6MHz幅で割り当てられています。一方、米国では、614~698MHzの周波数帯が放送用周波数から「5G」と呼ばれる第5世代移動通信用に再編され、既にオークションで通信事業者に割り当てられています。 わが国では周波数オークションは導入されていませんが、仮に(ただし極めて非現実的ですが)オークションで周波数が割り当てられ、落札者が自由に用途を選べるなら、おそらく同じ周波数資源を使って、放送に比べて十倍以上の売上高のある携帯電話事業にこの周波数を用いるでしょう。その意味では、人為的に特性係数を用いて放送用周波数の料額を安価に設定することは、資源配分上適切とはいえません。 しかも、わが国の地上デジタル放送は技術的にSFN(単一周波数中継)方式を採用しており、理論上はチャンネル数をもっと減らすことが可能です。ただし、混信対策上、東京スカイツリーのような放送用の電波塔を多数建てる必要があり、現在までの電波利用料水準では合理的とはいえませんでした。 しかし、電波利用料が上がるのであれば、電波塔を建設して、不要なチャンネルを返上し、周波数を開放する方が得策になるかもしれません。 今回の改正は、5G時代を前にそのようなインセンティブや認識を放送事業者に与える効果を持っています。米国で実施した半ば強制的な周波数開放とは違い、ソフトな形で漸進的にテレビ放送業界に影響を与えるものです。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 第2に、共益費用の範囲の拡大が挙げられます。新たに、「電波の利用価値の向上につながる事務」(a群)に「5G等の無線システムを支える光ファイバー網の整備」、「電波の適正な利用を確保するために必要な恒常的な事務」(b群)に「安心・安全な電波利用環境の整備」が追加され、総額が年620億円から750億円に増加します。 一見すると、光ファイバー網の整備は無線通信と無関係のように見えます。しかし、現実には携帯電話用の周波数が不足する中で、われわれは携帯電話のネットワークではなく、無線LAN経由で膨大なデータ通信をおこなっています。しかも、かつては音声通信を利用していた通話まで、「LINE電話」などデータ通信を活用しています。 ネットゲームやネット動画の利用などでますます通信量が増える中で、今後も高速でデータ通信が利用できるようにするためには、無線LANを利用する場合でも10GHz(ギガヘルツ)帯以上の高周波数帯の5Gネットワークを利用する場合でも、バックボーンとなる十分に高容量の光ファイバー網が整備されている必要があります。テレビ局のチャンス ところが、現在の個人向け光ファイバーの料金は定額制であることから、通信需要に対応してネットワークを整備しても、光ファイバー事業者にとっては増収にはつながりにくい構造になっています。そのために、インフラ投資が遅れる危険性が危惧されています。 実際、日本の高速固定通信速度が、2015年には経済協力開発機構(OECD)加盟36カ国中7位でしたが、18年には23位に転落したことが日本経済新聞(2月15日付)から発表されました。このように民間で投資が進まないけれど必要な財の整備に、補助金を充てることは公共経済学的には伝統的な手法の一つです。しかも、その財源が受益者負担であることは合理的です。 第3に、多様な伝送手段でコンテンツが配信される中で、ますます放送事業者が制作したコンテンツが無線インターネットでも配信され、放送事業者が販売益を得る可能性は増大しています。放送用に4K、8Kで制作されたコンテンツも通信ネットワークで配信される未来が見えてくる中で、共益事務の範囲が拡大して光ファイバー網の整備が行われることは、巡り巡って放送事業者の収入増につながる可能性があります。 このように考えると、放送事業者がコンテンツ制作面で、放送事業者以外が制作するネット動画などのコンテンツに対して優位性を持つ限り、電波利用料の値上げと同時にインフラ整備や技術開発への使途が拡充する今回の電波利用料の改正は必ずしも悪いものではないといえるでしょう。また、国民的視点に立てば、国民1人当たり年額約100円の支出増で、現在よりもデータ通信速度の低速化を回避できるのであれば、決して悪い選択肢とはいえないのではないでしょうか。 もちろん、むやみに共益事務の範囲を拡大して共益費用を増やしたり、不必要な事業や効果の薄い事業を実施したりすることは絶対避けなければなりません。費用の直接的、間接的負担者と受益者との間でコンセンサスがとれることが大切です。実はそれを担保するために、電波利用料額は電波法の中に直接書かれ、国会で法定される仕組みが採用されています。多くの報道陣が集まった東京拘置所前=2018年12月、東京都葛飾区(納冨康撮影) 近年、欧州を中心に、携帯電話事業者からオークションで高額な免許料を徴収したことが、インフラ整備やサービス展開に遅れをもたらす要因となったという考え方が主流になりつつあります。 そのような意識の中で、例えばフランスのように携帯電話事業の再免許にあたり、オークションをせずに、国や規制当局、事業者との間でインフラへの投資協定を結ぶという事例も出てきたほか、オークションではなく人為的に既存事業者に均等に周波数を配分する方が望ましいという考え方も出現しています。 電波利用料は、市場で直接決定されるものではなく人為的に設定されているため、周波数逼迫(ひっぱく)対策において必ずしもオークションに完全に代替するとはいえません。しかし、周波数の逼迫度や電波利用度合いに応じて電波利用料の区分を精緻(せいち)化する試みは、計画経済の中で少しでも市場価格に近づける試みとして評価できるのではないでしょうか。■テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった!■池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    電波利権「波取り記者」の恐るべき政治力

    の方が秘書官室に訪れ、名刺を配っていく。筆者も秘書官室の一員であるので、名刺を頂いた。それを見ると、メディア関係の方々だ。その中には「波取り記者」と呼ばれる人も含まれていた。 「波取り記者」の「波」とは電波のことだ。「波取り記者」とは、記事を書かずに電波利権確保のために電波行政のロビイングをする人たちだ。こうした人は新聞業界にもいた。ようやく機は熟した 彼らの政治パワーは強力であり、その結果として上に述べたように改革が全く進まなかったのだ。これは、日本の電波・放送行政が先進国で最も遅れた原因である。 本来であれば、10年以上前にやっておくべきであった。それができずに、時間を無駄にしてしまった。 ところが、技術の進展は目覚ましく、インターネットを使っての「放送」は安価に誰でもできるようになった。 筆者も私塾をやっている。かつては講義内容をテキストにして配信していたが、今ではビデオ配信だ。その方がコストも安く、速報性にも優れている。いうなれば、今や電波の希少性を超えて、誰でも「放送」ができるようになったわけだ。 しかし、この「放送」は放送法の範囲外である。放送法では、電波に希少性があるので与えられる対象が少なくならざるを得ない。このため与えられた少数の既得権者は公共のために放送法を順守しなければいけない。 ところが、「電波の希少性」という物理的な制約がなければ、放送法の規制は最小必要限度となり、さまざまな主体の参入を認めて、その競争に委ねるという政策が可能になる。 特に日本では先進国の中で唯一の電波オークションを認めず、放送では新規参入がなく「波取り記者」のような人がいたくらいの「後進国」なのだ。総務省=2018年8月撮影 冒頭で「今の放送業者は、電波を『不当に』安く使っている」と書いたのは、今の電波利用料は役人が決めた水準だからだ。本来であれば、電波という国民共有財産は、入札(オークション)という公明正大な方法で価格を決めなければいけない。今の役人が電波を割り当てして、入札で決められたはずの水準より安いから「不当に」安いと書いたのだ。 ようやく機が熟したといえるだろう。少なくとも今の安倍政権はこうした規制改革に、他の政権より熱心である。その背景として、マスコミに左派傾向があるという意見もあるが、日本のメディアが国際的になるのであればそれは国益に資するだろう。入札が先進国の常識 電波利用料は本来入札で決めなければいけない。この常識は、先進国でまさに常識であり、先進国35カ国の状況を見ると、今では電波オークションではないのは、日本だけになっている。 2017年度の電波利用料は646・8億円。その内訳は、携帯電話550・9億円、テレビ業界60・1億円などである。 同じ2017年度の日本テレビホールディングス(HD)の売上高は4237億円、当期純利益374億円であったが、負担した電波利用料は4・5億円にすぎない。テレビ朝日HDも売上高3025億円、当期純利益158億円に対し、電波利用料は4・4億円だ。 もし、電波オークションが導入されていれば、少なくとも電波利用料は1桁以上大きいはずである。この意味では、放送業界は、電波オークションなしでの既得権者である。 テレビ番組で、公共事業について、入札ではなく随意契約しているので工事単価が高くなり、血税が余分に使われるという批判をよく取り上げる。しかし、それは電波利用料でもいえることだ。 今回の電波法改正にも、今国会に提出予定の興味深い法律改正がある。放送法改正である。その内容は、NHKによる放送番組のインターネット常時同時配信を容認することだ。総務省は、NHKに常時同時配信を認める条件として、受信料の引き下げや民放との連携強化、子会社を含めた統治強化、業務の見直しなどを要求している。 民放の方は、制度上既にインターネット常時同時配信が可能であるが、行うことを躊躇(ちゅうちょ)している。スポンサー離れなどを心配しているようだが、実は、インターネット常時同時配信になると、独自コンテンツを持たず、中央のテレビ局からの配信に依存している地方テレビ局が深刻な経営苦境に陥るというところが本音だろう。地方テレビ局には中央のテレビ局からの天下りが多くおり、そうした人たちの死活問題になる。NHKのロゴマーク(ゲッティイメージズ) そうした状況に、インターネット常時同時配信をやりたがっているNHKを利用するという、「毒には毒を」というえげつない戦略を総務省は採ったのだろう。 民放には大きな試練が訪れている。キー局に対しては5割にもなる電波利用料の引き上げ、電波の割り当て審査に価格競争要素導入(一部オークション化)、NHKによるインターネット常時同時配信と、包囲網がじわりと狭まったようだ。筆者が総務省にいたときから10年以上経って、遅ればせながら、動き出したようだ。■ 偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった!■ テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■ 池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    テレビへの圧力? 電波独占料、負担増に漂う安倍政権のうさん臭さ

    杉江義浩(放送プロデューサー、ジャーナリスト)                    政府がテレビ局や携帯通信事業者に課している電波の利用料を、大幅に値上げする案を含めた電波法改正案が閣議決定され、国会に提出されました。NHKや民放キー局5局に対しては、5割増しということで、テレビ局の経営状況に与える影響の大きさは衝撃的なものです。 民放キー局は、収入とCM制作に関しては広告代理店任せ、番組制作に関しては制作プロダクション任せ、となりつつあり、唯一放送局として発言力を持っているのは編成権ぐらいではないかという状況です。 その編成権を裏付けるのが、電波利用権の独占です。各テレビ局は地上波、衛星放送それぞれに、一定の周波数の独占的な利用を政府から認められていて、その対価として電波の利用料を支払います。 科学に強くない人にも誤解を与えないために言っておくと、電波そのものは自然界にもともと存在する物理的な現象であり、誰のものでもないし、特にお金が発生するものでもないのです。ただ、自然界に存在する限りある周波数帯域しかない電波は、使い道を秩序立ててコントロールしなければ大変なことになります。 例えば、同じ地域で地上波テレビと携帯電話が、あるいはラジオと警察無線が、同じ周波数を使ったら、混線してしまって使い物になりません。そんなことが起きないように、周波数帯域が用途別に細かく切り分けられていて、決まった周波数を使うように義務づけられています。 それぞれの放送局には、あらかじめ放送に使ってもよい周波数が割り当てられていて、その周波数を独占的に使います。また、携帯電話に使ってもよい周波数はどこからどこまで、船舶無線に使ってもよい周波数はどこからどこまで、といった具合に細かく定められていて、総務省(かつては郵政省)がルールに従って電波を使うように整理してきました。 電波の利用料というのは本来、その整理やコントロールの事務作業にかかる「手間賃」ぐらいであり、もともと自然界に存在する時点では、電波に値段はありません。 例えば、数十メートルしか電波が飛ばないWi−Fi(ワイファイ)などでは、装置を用意するのにお金はかかりますが、Wi−Fiの電波利用料というのは特にかかりません。免許のいらない小出力のトランシーバーやアマチュア無線にも、電波利用料はかかりません。 ただ、何十キロメートルもの長距離を飛ぶ、テレビやラジオの地上波に関しては、公共の電波を広範囲にわたって一定の周波数を独占することによって収益を得ているという意味から、一定の電波利用料を国に納めるようにした方が良いのではないか、というのが電波法の趣旨です。2018年8月、雷が落ちた東京スカイツリー。NHKや民放キー局のテレビ放送の電波を送信している(宮崎瑞穂撮影) 携帯通信事業者が使う電波に関しても同様です。しかし、もともと無料で自然界に存在する電波ですから、利用料の算出根拠は極めて曖昧(あいまい)です。 電波利用料というより「電波独占料」という方が、しっくり馴染むような気がします。いずれにしても総務省の胸先三寸で決まる、いわば電波の「ショバ代」であって、コストなどの合理的な根拠に基づく金額ではないのです。 適正な電波利用料がいくらかは、算出する根拠がないのですから、政府の言い値でしかありません。「電波を独占して利益を上げているのだから、これくらい払いなさいよ」という非常に漠としたものなのです。 今回の電波法改正案では、将来の5G(次世代無線方式)携帯電話環境の開発、推進に当てる財源として、平成31年度に750億円を見込んでいて、それが「電波利用料の算出根拠である」と政府は説明しています。不明瞭な電波利用料 しかし、私が思うには、本当に5Gのインフラ整備が国民にとって必要なら、税金を使ってやればいいのではないでしょうか。テレビ局に請求するのは、なんだか筋が違っている気がします。 自動車税が高速道路などの建設に使われる、道路特定財源制度のような、受益者負担の合理性は、そこには感じ取れません。新しく携帯電話の通信環境が整備されることによって、テレビ局が何か利益を得るのでしょうか。利益を得るのは国民ではないでしょうか。 だったら税金でまかなうべきです。テレビ局に課すべきではありません。今回の電波法改正案には、そういった根本的な胡散(うさん)臭さが感じられます。 胡散臭さという点から派生したのでしょうか、巷(ちまた)では今回のテレビ局への「5割増し」は、ニュースやワイドショーなどで政権批判を繰り返す、テレビ朝日やTBSへの、牽制(けんせい)措置ではないかという言説も見かけます。 これはまったく的外れだと私は思います。比較的政権に近い報道姿勢を見せるフジテレビや日本テレビ、NHKに対しても、5割増しを同様に課しているのですから、テレビ局への圧力だと勘繰るのは、いささか過敏すぎると言えるでしょう。  もちろん、民間放送は電波を独占することによって直接的に収益を上げ、利潤を追求する私企業であるという一面はありますが、別の側面では公共の電波の独占を許されているが故に、公共の福祉を担う社会的責務を持つ特殊な事業体であると言えます。私は後者の方こそ、今注目しなければならない重要な側面だと考えています。 限られた電波の有効利用という、根本の原則に立ち返ってみましょう。そもそもなぜ特定の放送局だけが、貴重な地上波の相当規模の周波数帯域を独占利用することが認められているのか。 それは放送法に定められた通り、放送局は公共の福祉に資する放送を送信していると認められているからであり、本当に放送局が公共の福祉に貢献しているのなら、極論すれば電波利用料は無料にするのが筋ではないかと私は考えます。逆に言えば、公共の福祉に寄与しないような放送局は、電波を独占する根拠も失ってしかるべきです。 地上波のテレビ局が一つ消えてなくなり、その局が独占していた1チャンネル分の周波数帯域を移動体通信事業で有効に使うことができたなら、かなりの経済的メリットが生まれるはずだと試算した人もいました。テレビと移動体通信事業は、地上波という限られたパイを分け合う敵同士です。どちらが公共の福祉に、あるいは社会の発展に役立っているのか、シビアに比較される時代でもあります。 今は、動画はネットで見る時代かもしれません。ネット発で受信する動画もあれば、テレビ発でネットで受信する動画もあります。しかし「家族でくつろぐお茶の間に入り込む」存在であるテレビには、特有のテレビ文化というものが歴然と存在していて、また確立しています。2018年4月、衆院予算委の集中審議で、疲れた表情を見せる安倍首相 家族そろって楽しめるスポーツ中継、しっかりと作り込まれたドラマやドキュメンタリー、これらはリビングの4K、8Kのテレビ画面で見たいと、私などは思います。ぐらっときた時、すぐに地震速報を見られるのもテレビの心強さです。テレビが興隆しても映画文化は廃れなかったように、ネットが興隆しても、テレビ文化は決して廃れることはないでしょう。 政府には算出根拠の不明瞭な電波利用料などでテレビ局に負担を強いるのではなく、公共の電波を使うテレビならではの、健全な文化を育成するような政策をとってもらいたいものです。■ テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情■ テレ朝、TBS「モリカケ報道」のどこが悪い■ 池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

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    中国並みのトランプ「言論弾圧」ではっきりしたメディアの受難

    樫山幸夫(産經新聞元論説委員長) トランプ米大統領とメディアの対立は来るところまで来たようだ。中間選挙翌日の記者会見で執拗に食い下がったCNNテレビの記者に大統領が激怒、ホワイトハウスの記者通行証を無効にしてしまった。CNNは撤回を求めて提訴、裁判所は訴えを認める決定を下したが、米のメディアを揺るがす騒ぎになっている。 〝言論の不自由〟は中国の専売特許かと思いきや、民主主義のリーダーであるはずの米国で同じことがおきたのだから驚く。 しかし、その一方でメディアが権力者に対抗する手段として、法廷闘争をもってすることが適当かどうか議論のあるところだろう。言論機関はあくまで言論で闘いを挑むべきではないのかという指摘もあろう。 問題がこじれ、トランプ氏とメディアの対立がいっそう激しくなることも予想されるが、「権力とメディア」という、古くて新しいテーマにあらためて一石を投じたといえそうだ。 11月7日の会見で、〝事件〟は起きた。CNNのホワイトハウス詰め、ジム・アコスタ記者が、移民問題やロシア・ゲート事件などについて大統領の見解を質した。答えに納得しない記者は、大統領が次の質問者を指名した後も、マイクを離そうとしなかった。 大統領は「CNNはあなたを雇っていることを恥じるべきだ」「失礼で恐ろしい人だ」「CNNは数多くのフェイク・ニュースを報じてきた。国民の敵だ」などと口を極めて罵倒。この間、ホワイトハウス職員がマイクを取り上げようとして、両者の腕が交錯した。 通行証が無効にされたことを受けて、CNNは11月13日、トランプ氏と政府高官らを相手取り、撤回を求めてワシントンの連邦地裁に提訴。地裁は16日(日本時間17日未明)、CNNの主張を認めて、ホワイトハウスに対し通行証を暫定的に復活にさせるよう命じた。 とりあえずはメディア側の勝利に終わったが、ホワイトハウスがどう出るか、双方の対立はまだまだ続く気配をみせている。 今回の訴えの中でCNNは、「ホワイトハウスの処置は、表現、報道の自由を保障した合衆国憲法修正1条に違反する」と強く非難。ホワイトハウスは「アコスタ記者の行動によって公平で秩序だった記者会見の運営が妨げられた。修正1条は1人の記者が会見場を占領するためにあるのではない」(サンダース報道官)と反論していた。2019年1月、ホワイトハウスの記者会見室に姿を見せたトランプ米大統領(UPI=共同) 速記録を読み、ビデオを見る限り、かなり強引なところはあったものの、アコスタ記者が大統領に対してことさら非礼な態度をとったようには見えなかった。もちろん丁重にも見えなかったが。 アコスタ記者はこれまでも、大統領にきびしい質問を繰り返してきており、大統領と以前から緊張した関係にあったようだが、「CNNは恥じるべきだ」とか「国民の敵」というトランプ氏の言葉には驚いた 「秩序だった記者会見が妨げられた」というホワイトハウスの説明は、もっともらしく聞こえるが、実はおかしなことだ。マイクを独占することの善悪、是非は、記者会側が自らのルール、慣例に則って判断すべき問題であって、政権があれこれ口を出すことではないだろう。大統領は「鉄人」であるべき? 通行証没収、今回の提訴のいずれにおいても、ホワイトハウス記者会は「CNNを強く支持する」という声明を出し、ニューヨーク・タイムズやトランプ支持の傾向の強いFOXニュースまでもが同調しているのだから、政権側の主張は筋違いであることは明白だ。 合衆国大統領は強大な権限を持つ世界一の権力者だ。それだけに不愉快な質問も堂々と受けて立って懇切に自らの立場、主張を説明しなければなるまい。大統領はしばしば、「鉄の男、女」であることが求められる。 どんな状況にもたじろがず、うろたえず、欲望や誘惑にも負けないー。過去の大統領のスキャンダルをみてくると、とうてい望めない求めであることは明白だが、トランプ氏の今回の態度はひどかった。 トランプ氏による今回のメディア攻撃は、はからずも、中国による言論統制を想起させた。 中国の言論、人権弾圧については、世界中で何度となく報じられているので、いまさら触れる必要はなかろうが、わが国も関係するつい最近のケースに触れておきたい。 10月10日、北海道・洞爺湖で開かれた日中与党協議会で、中国の宋濤中央対外連絡部長が発した言葉。「与党は民意と世論をリードする役割を持っている」「真実を報道するよう働きかけ、不正確な報道は訂正してもらう」-。 こんなことを言い出されては日本側も迷惑だったろう。さすがに菅官房長官は「報道の自由は国際社会の普遍的な価値だ」と苦々しくコメントせざるをえなかった。 中国の報道の自由への侵害については、産経新聞社は何度も〝被害〟にあっている。最近の例では、2018年6月、日本記者クラブが訪中記者団を派遣しようとしたところ、産経の記者だけがビザ発給を拒否された。記者クラブ側は抗議の意を示すため、訪中そのものをとりやめた。2018年12月、記者会見する中国外務省の華春瑩副報道局長(共同) 個人のことになるが、1996年11月、当時ワシントン特派員だった筆者は、クリストファー米国務長官(当時)の訪中を取材しようと各国記者と同様にビザを申請したが、筆者だけがやはり発給を拒否された。紙面で事実関係を報じ、ワシントンの中国大使館に説明を求めようとしたが、先方は電話にすら出ようとしなかった。 産経新聞の中国に対する報道姿勢が気にくわないらしいが、手厳しい質問を浴びせた記者の通行証を取り上げるというトランプ大統領の行動は、これと違わない。 考えてみれば、メディアへの弾圧は世界各地でみられる、メディアにとっては受難の時というべきか。 トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館で、自国政府に批判的な報道を続けてきたサウジ人記者が殺害された残虐な事件は論外としても、われわれの身近、日本国内でも報道の自由に対する政府、国民の無理解ぶりを、残念ながら感じることが時にある。微妙な距離感の保ち方 2018年9月、河野太郎外相は、各国外相と会談する際、冒頭から直接英語でやりとりしていることを説明、「霞クラブ(外務省記者クラブ)担当記者は冒頭の英語を理解するくらいの人に所属してほしい」と注文をつけた(9月15日付産経新聞)。小さい見出し、記事も短いものだったが、考えさせられる内容だった。 外相会談については、外務省担当者から記者に対してブリーフィングが行われるのが常であり、英語を解さない記者が、それに基づいて記事を書いてはいけないというのか。外相は自分が英語に堪能であることから、同じ能力を持つ記者を求めて軽い気持で言ったのだろうが、外務大臣が記者を選別しているという印象を与えかねない。メディアが大臣の要求を容れて、メガネにかなった記者を送り込むなどということはあり得ない。 これも筆者個人の経験だが、2014年、当時佳境に入っていたTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉に関して、政府の対策本部高官が、新聞各紙の記事について、いくつかは「誤報」、「うそ」と直截な表現で批判。「書くなとは言わないが慎重な扱いをお願いしたい」と記者側に要請した。 筆者は、「お上の報道干渉か」と半分揶揄、半分懸念を表明するコラムを書いたが、数日後、読者サービス室に寄せられた反応を読んでがっかりした。その読者は「この記者の認識は全くおかしい」と筆者を批判していた。 国益を損なう報道などもってのほかということらしかった。国益はむろん重要であり、各メディアとも国益を損なう記事を躊躇なく掲載しているわけでは決してない。記者会見する河野外相=2018年12月、外務省 国益を尊重しながら、国民の知る権利と両立できるよう独自の取材を重ねているのであって、一連の記事もそうした努力の結晶だった。読者を責めるわけではないが、正直それを批判されたのは残念を言うとかはなかった。  トランプ大統領とCNNの対立に話を戻すと、筆者はどうやら、トランプ政権批判だけに血道をあげてしまったようだ。 大統領に舌鋒鋭く迫った記者の通行証が没収されたからといって、裁判所に訴えて取り消してもらうというのはちょっと情けない気がする。通行証の没収などに動揺することなく、これまで通り厳しい論陣を張ってほしい。 「三権分立」という言葉に表現されるように、裁判所も「権力」の一角だ。ホワイトハウスという権力から不当な扱いを受けたからといって、別な権力に救済を求めるというのはどうだろう。 CNNはトランプ氏に理性的な解決を求めるのは無理と感じ、やむなく法廷に持ち込んだのかもしれないが、言論で生じた対立は、言論をもって闘い、解決するのが本来あるべき姿だろう。口舌で大統領を負かし、記者証没収の撤回と謝罪に追い込んだなら、これこそ視聴者も求めることではないか。  トランプ大統領、ホワイトハウスの対応は驚くほど強硬だったが、大統領のお気に入りの記者によるお気に入りの質問だけ聞かされる会見ては、視聴者、読者も退屈きわまりない。国民が知りたいと思っていることについて明らかにされずに、スムーズに終わっては、それこそまさに国益に反する。 政府とメディアは時に協力、協調し、時に緊張した関係に陥ることもある。微妙な距離感の保ち方は政府、メディ双方にとって重要だが、そのあたりを念頭に置きながらテレビを観て、新聞を読んでいただけると、あらたな興趣もわいてくるだろう。かしやま・ゆきお 産經新聞元論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

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    民放テレビでやけにドラマが増えている理由とは

    25分を「ブレイクマンデー24」として深夜ドラマ枠を新設している。元NHKの番組ディレクターで次世代メディア研究所の鈴木祐司氏が語る。「制作費もキャストのギャラもかかり、コストパフォーマンスの悪いドラマ枠は一時各局で縮小傾向が見られましたが、タイムシフト視聴率を意識して、この1年で復活しました。最近はドラマだけではなく、映画、アニメといった『録画でじっくり見たい番組』を各局の編成担当は増やそうとしています」 最近、テレビを付けると妙にドラマばかりやっている──そんな気分になるのは、気のせいではなかったわけだ。「スポンサーもテレビ局のドラマ偏重を理解しており、その作品に登場する俳優を使ったCMを意図的に流すなど、“録画でも飛ばされにくい”作りを意識しています。昨今、ドラマの続きかと思うようなCMが多いのも、このためです」(元テレビプロデューサーで上智大学文学部教授の碓井広義氏)関連記事■ テレビ局、CM取引新指標「タイムシフト視聴率」導入の深刻度■ 新垣結衣 主演ドラマ「けもなれ」で解禁した「タブー」とは■ 新ドラマ絶好調の米倉涼子、「海老蔵と復縁」説の真相■ 星野源 新垣結衣に「なんでそんなにかわいいの?」と直球質問■ 『逃げ恥』で使われた部屋「家賃13.6万円」騒動の真相

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    安倍首相 メディア幹部と積極会食し巧妙に操縦、その参加者

     安倍晋三・首相は再登板以来、メディアの幹部と積極的に会食し、懐柔の手段としてきた。新聞・テレビの論説委員クラスや政治評論家には、総理との食事に招かれただけでコロッと参ってしまい、政権のスポークスマン役を買って出ている者が少なくない。 安倍首相のメディア対策が歴代首相に比べて効果をあげているのは、大手メディアの社長や会長と個別に宴席を囲む“社長懇”を慣例化したことだ。この1年を見ても、4月2日にパレスホテルの宴会場「桔梗」で渡辺恒雄・読売新聞グループ本社主筆、福山正喜・共同通信社社長(当時)、熊坂隆光・産経新聞社会長らと食事したのをはじめ、日本テレビの大久保好男社長、日経新聞の喜多恒雄会長、岡田直敏社長と個別に会合を持った。 首相の政治指南役とみられている渡辺氏(6回)と日枝久・フジテレビ相談役(2回)は別格にしても、共同の福山社長は3回も食事している。政治アナリストの伊藤惇夫氏が指摘する。「総理が論説委員や各社の官邸キャップとその時々の政治テーマについて懇談するのは歴代内閣で行なわれてきた慣例で、記者にとっては取材活動です。しかし、安倍首相が社長懇を開くようになって、現場の記者は政権を強く批判すると社長に迷惑を掛けると忖度して記事を書くようになった。それが安倍さんのメディア操縦の巧妙なところです」 政治評論家の田崎史郎・元時事通信社特別解説委員(2回)などとくに首相に近いとされる各社の論説委員やOBたちは、首相から会食に誘われた回数で“いかに政権に食い込んでいるか”を競い合っている。2018年3月、プロ野球巨人戦を観戦する安倍晋三首相(左)と渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆(矢島康弘撮影) もちろん、政官財界からマスメディアまで権力に群がるのは今に始まったことではない。だが、安倍首相は性格的に「敵」と「味方」を選別し、待遇に差を付ける。この政権の「お友達政治」の本質は、インナーに入れなければ排除され、政権の便宜も重要な情報も一切得られなくなることだ。 安倍氏にとって、会食やゴルフはそのための踏み絵でもある。「敵」と見なされれば最初から排除される。大手新聞社の経営トップでは、朝日新聞の社長は2013年7月に首相と1回会食しただけで、その後は動静には一切登場しない。関連記事■ 政官財マスコミ 華麗なる安倍人脈大図解■ 進次郎氏の嫁探し 条件の一つは「昭恵さん的な発言をしない」■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相お友達人脈格付け サシの食事→ゴルフ→焼きそば■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    小室圭さんは眞子さまにふさわしいか

    1年前のきょう、秋篠宮家の長女、眞子さまと小室圭さんの婚約延期が発表された。発端は小室さんの母親をめぐる金銭トラブルだったが、小室さん側が突如公表した文書には「解決済み」と記され、再び物議を醸した。お二人の幸せを心底願いたいが、どうもモヤモヤが止まらない。皆さんはどう思いますか?

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    「ZOZO離れ」は他人事じゃない

    への出品を取りやめる「ZOZO離れ」の話題も重なり、ブランドイメージは失墜しつつある。とはいえ、我々メディアにとってもプラットホームビジネスの話は他人事じゃない。さて、どうしたものか。

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    「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ

    があるにもかかわらず、産経デジタルiRONNAから「ファッション通販のZOZO離れのように『ニュースメディアのヤフー離れ』はあるのか」とのお題で寄稿を頼まれるという驚天動地の事案が勃発した。 私がこの立場で「ヤフージャパンは今すぐ滅ぶべき」などと書けるわけもないだろう。なぜならば、もう既にヤフーニュースでそういう趣旨の記事を書いたからである。 「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因(Yahoo!ニュース 個人 2015.10.1) そして、私は産経新聞にも連載を持っている。都合の悪いことに、日曜に私の記事が掲載されたばかりだ。タイトルからして「新聞に喝!」である。 【新聞に喝!】対露官邸外交、メディアの甘さは疑問(産経新聞 2019.1.27) どうしてくれよう。悩んでも仕方がないので、取引があろうが連載していようがまったく気にすることもなく業界の状況を踏まえて読者に私の見解を書くことにしよう。 端的に言えば、2015年にヤフーニュースで書いた上記の記事の通りだが、2019年の今となっても「ヤフージャパン、ヤフーニュースの一人勝ち」の状況に違いはない。「SmartNews」や「LINE NEWS」、あるいは「dマガジン」などのニュース配信系サイト・アプリが興隆している現在でもなお、一つの記事あたりの読者数、掲載された広告あたりの反響数では、他のニュースサイトやアプリを圧倒的に凌駕(りょうが)しているのがヤフーである。 ヤフーがなぜニュースメディアとして成長したのか? それは駅前で配っているチラシ(広告)に、ちり紙がついているようなものである。すなわち、みんなが知りたいニュースを配信している新聞社や通信社、出版社と契約し、配信・新聞記事や週刊誌誌面の内容をヤフーに載せ、そこに広告を貼って多くの人たちに「ヤフーに行けば、あんたの知りたい内容の記事が読めますよ」と成長したのがヤフーに他ならない。PCのポータルサイトとしての立場を確立したヤフーがニュース事業をきちんとやれば、当然のように勝ってしまうのは必然でもある。 時は下り、今や読売も毎日も朝日も自社サイトで読者を囲い込み、もし記事の全部が読みたければ個人情報を全部入れた上でカネを払え、というモデルにしてしまった。ヤフーが人通りの多いポータルサイトという、駅前で配るチラシにちり紙をつける手法で成功した一方、これまでヤフーの「ちり紙」扱いにされていたことに新聞社もようやく気が付いたようだ。日経新聞に至っては、日経グループ全体で電子版にした上で引きこもってしまった。ヤフーの検索サイト=2016年4月 産経はつい最近まで、まるで慈善事業のように赤字覚悟でいろんなところに新聞記事をバラまき、分野ごとに記事をパック売りをして糊口(ここう)をしのいでいたが、昨年11月からようやく会員サービスをスタートさせた。夕刊(東京本社版)を止めるのは早かった割に、有料会員を集めるのに後れを取るとか、産経グループは正直者すぎて商売が下手にも程があるのではないかと思う。 しかし、アプリだけでも「産経ニュース」「産経新聞HD」「産経電子版」「産経プラス」と4つも乱立している上に、配信元は全部産経デジタルになっている。いったい何をしているのだ。いつの間にかアプリの情報サイト「産経アプリスタ」はしめやかに終了していた。産経がどうしたいのか、正直言ってさっぱり分からない。ヤフーが王者である理由 産経のことはいい。問題はヤフーである。ニュース配信を巡る業界環境は、2013年ごろから激変してきた。それまでは出勤前と就寝頃にアクセスのボリュームのあった牧歌的なPCサイトでのネットサーフィン時代であったが、そのような古き良き時代が終わりを告げると、業界は一気にアプリによるニュース配信、また各メディアによる専用アプリ配信時代の幕開けとなった。 それまでのガラケー(ガラパゴス携帯)に対する情報配信よりも閲覧性が上がり、また通信速度の劇的な改善による画像や動画によるニュース配信が進んだ結果、ここ7年ほどで1人当たりのニュース記事閲覧数(1日に1度はニュースをネットでチェックすると回答するユーザーのページビュー中央値)が、1日平均6・7件(2010年)から11・9件(2017年)へと倍増したのである。 ニュースは求められている。これが市場の答えだ。ただし、ニュース記事を閲覧する時間も場所も大きく変容してきた。ガラパゴス携帯からスマートフォンへの移り変わりの中で、起床から通勤時間、昼休み、午後休憩から帰宅途上、晩飯の最中に至るまで、国民はずっとスマホを見ている。女子テニスの大坂なおみが偉業を達成したと言えばニュースを読み、国民的アイドルグループ「嵐」が活動休止したとなればニュースサイトへ行く。おはようからおやすみまでライオンのように人々はニュースを消費し続けているのである。 これらの環境の激変で、一気にPCサイトでのニュース配信のウエートは減った。だが、PCサイトの雄、ヤフーニュースはその覇権を失うことはなかった。2014年、ヤフーニュースは月間100億PV(ページビュー)のうち半分がスマートフォン経由となるが、実はそれ以前からスマホ時代の到来を見越して「スマホファースト」を宣言。これが見事に功を奏し、PC時代で培ったユーザー層の行動をごっそりアプリ経由でも取り込むことに成功したのである。決算会見でスマートフォン決済事業について説明するヤフーの川辺健太郎社長=2018年7月27日、東京都千代田区  絶え間ないUX(ユーザー体験の設計)、UI(ユーザーインターフェース)の改善もあったであろうし(私が驚いたのは朝に新しいアップデートがあったので更新したら、その日の夜には別のUIにするアップデートがあったりした)、大手であるからこそ既存のニュース配信の入り口とのカニバリゼーション(競合)も懸念されただろう。 しかし、結果としてニュースプラットホームの王者となったヤフーニュースは、新興で成長著しい他アプリや、 解約忘れを狙う「レ点商法」など素敵な拡販策で利用者の上積みを続けてきた通信キャリア系のニュース配信プラットホームの追随を許すことなく、おそらく現在ではニュース配信のPVシェアでは6割以上を有しているとみられる。文字通り、一人勝ちである。緩やかな死を迎える新聞社 グーグルやフェイスブック経由でのニュース配信も脅威とされたが、「ニュースのファーストルックはプラットホーム(またはアプリ)経由で」というユーザーの行動が定着した結果、いちいち検索してニュースを探す手間を惜しむほとんどのユーザーはグーグルをそう多くは使わず、フェイスブックのニュースフィードも出口は結局ヤフーニュースという「しょっぱい結果」となった。 何しろ、読売や毎日、朝日、日経はいずれも記事全文は読めない。ならば、雑誌からニュースサイトまで良質な記事を厳選して配信してくれそうなヤフーに利用者の指示が集まるのは当然とも言える。 新聞社の囲い込み戦略に先駆けて、ヤフーニュースは自社制作の記事に力を入れ始め、質の低い情報配信元は有無を言わさずぶった切り、ニュースを読んで脊髄反射で荒れ狂う質の低いヤフーコメントはボタンを押さない限り、表示されないようになった。さらばサイゾー、そのうち記事がかぶりまくり品質も低いニュースサイトだけでなく、煽動的な見出しが眩しいスポーツ紙も用済みとばかりに配信本数を削られていくであろう。 新聞記事からエログロ、イロモノまで雑多なニュースの玉手箱だった時代のヤフーは自社のエンタメ系ニュースサイト「ネタりか」の縮小を象徴として消え去り、今や良質な記事と速報性を兼ね備える「マジ本格的な」スーパーニュースサイトとしての進化を続けている。というか、「ネタりか」のアクセスランキングの上位を「しらべぇ」が占めてるのやめろ。良質な記事の配信元との連携もどんどん強化された今、ヤフーニュースを軽視することはできず、紀尾井町(きおいちょう)に足を向けて寝ることすらできない状況なのだ。 ヤフーニュースはスマホシフトという激動を潜り抜け無事一人勝ちの状況であり、ニュース配信プラットホームとしては鉄板「単勝1・1倍」であり続ける。おそらくは今後、伸びしろのあるニュース動画やオピニオン系、調査報道といった分野にも進出し、もはや東京電力のようなインフラ事業に近い扱いになっていくのではなかろうか。※写真はイメージです(GettyImages) そして、調査報道を担ってきた新聞社や、でかい通信社のどっちか片方は、そろそろ緩やかな死を迎える。正確に言えば、輪転機を止め、不動産部門だけになる日が来るだろう。それは出版文化を支えてきたと自負する老舗中小出版社や大手取り次ぎがコンビニへのエロ本配本中止を突きつけられ、目を白黒させているのと同様、ある日突然やってくる。ジャーナリスト、佐々木俊尚さんが予言した未来が来てしまう。 まるで死んだ我が子の歳をカウントするようだが、既存メディアとネットとは本来対立的なものではなかった。新聞社や通信社、テレビ局、出版社の生み出す本当の価値は、情報があり、その情報を受け手に伝えることである。ラジオ局は知らん。本来は、そういう価値を生み出すのは記者であり、記事であり、番組であった。しかしながら、速報性ではネットに勝てないという理由で、また収益を支えている根幹は自宅配達や駅・コンビニ売りだったからという理由で「ネットファースト」という千載一遇のチャンスに背を向けることとなった。多くの出版社、新聞社、通信社は、自社の売り上げを守りたいばかりに変革のタイミングを逃し、自らの事業を作り変えることができなかった。ヤフーの波乱要素は? ヤフージャパンの場合も、場合によっては新聞社と同じ凋落(ちょうらく)を味わう可能性があったが、彼ら自身が自らを「PCサイト主体の広告事業でメディアにPVを集め稼ぐ」ことから事業転換を果たし、「スマホファースト」の掛け声のもと、社内事業との競合も恐れず事業を改革することで引き続きニュース配信プラットホームの覇権を手放さず、むしろ不動のものとした。普通は儲かったら海外に出て行きたいところ、英語が微妙に下手なトップマネジメントの気後れもあってか、日本市場に特化した戦いに専念したことで、結果として日本国内というドメスティックなスーパーパワーとなったのである。 もはや、ヤフージャパンの波乱要因はビッグブラザーである孫正義さんの育毛力だけである。あの薄毛はヤフージャパンをソフトバンクグループのサブブランドか、お財布ぐらいにしか思ってねえんじゃないかと思うぐらい、雑に扱っている。ぶっちゃけ孫さんはヤフージャパンをどうするつもりなの? そのソフトバンクのサブブランドとしての「ヤフー」を維持できている、重要なリソースの一つがニュース配信への信頼、アクセスであり、その公平なニュース事業の運営により絶大な支持を得ている。 ここが揺らぐとするならば、孫さんがまた変な提携先を引っ張ってきてヤフージャパンにくっつけようとするような、適当な大仕事の犠牲になる場合である。それは目下、大問題となっている公正取引委員会の対「GAFA」(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・コム)+MT(マイクロソフト、ツイッター)対策に他ならない。 そもそもフェイスブックとヤフーはかねてから提携していたはずなのだが、カルチャーが違い過ぎるのか、あまりパッとしたシナジーが生まれているようにも見えないのが残念だ。 なぜならば、いかにヤフージャパンと言えども、ユーザーの遺伝子データは持っておらず、これらの海外プラットホーム事業者が仕掛ける競争には絶えず主導権を奪われざるを得ない立場にあるからだ。しかも、うっかりポイントビジネスで連携してしまった先は、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)社のTポイントだ。おかげで貴重なヤフーIDを捨ててしまった。奥さん、それ虎の子ですよ。いったいどんな判断だ。 すなわち、ヤフージャパンの敵は国内事業者ではなく、業界ゲームのルール変更であり、見えざる新しいイシュー(課題)そのものである。あと孫さん。ダイエーの末期のような、ホークスの呪いを肌で感じる。それもビンビンにだ。誰かやつの口に貼るガムテープ買って来い。そう思わずにはいられない。※写真はイメージです(GettyImages) どうせヤフージャパンに尻尾を振る新聞社などいなくなった今、ニュース配信のソースを確かにするためにも同社が産経新聞社を買ってしまえばいいのである。BuzzFeedはヤフーと一緒にやっているが、そんなものは古田大輔に肉でも食わせてまた太らせて編集長をやらせれば解決する。 もうどうにもならない紙媒体と心中する前に、本当の価値である記者や編集者と記事を守るため何が必要かを徹底して考えなければならない。それがニュースのネット配信を考える上で、何よりも重要なことであることは間違いない。■ ロンブー淳がまた吠えた!「芸能コピペ記事はヤフーにも責任がある」■ カラパゴスすぎるネットメディア「みんなそろってバカになる?」■ 「倍々ゲーム」経営を可能にする孫正義の恐るべき世界人脈

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    「ZOZO離れ」はコストコで韓国製テレビが並ぶのと似ている

    ンであれば出版社や配送業者と、ヤフーニュースなどのニュースサイトであれば、配信料の低下に苦しむ配信元メディアとの間で衝突が見られる。 そもそも、プラットホームビジネスとは、サプライチェーン(部品の調達・供給網)の各段階を複数の企業が分業する中で、プラットホームを握った企業がそのサプライチェーン全体を牛耳るというものだ。必然的に、企業間でせめぎ合いの状況になるのは織り込み済みのはずである。 しかし、プラットホームビジネスの中には、プラットホーム企業とプラットホームに製品を提供する企業の双方が「Win-Win」の関係になっている場合もある。米半導体大手のインテルとIT大手のマイクロソフトがハード、ソフト双方のプラットホームを提供し、エレクトロニクス各社がその他のデバイスを開発するパソコン(PC)ビジネスは、まさに代表的な例だろう。プラットホームビジネスだから、常にこのような軋轢(あつれき)が生じているというわけではない。 問題は、プラットホーム企業が顧客と直接向かい合う流通プラットホームを担っていることに起因しているのではないだろうか。売る側は少しでも高く売りたい一方で、買う側は少しでもいい商品を、常に安く、あわよくば無料で手に入れたいと考える。 プラットホーム企業は、プラットホームを牛耳っているからこそ、商品やサービスの提供企業よりも強い立場にいる。そんな強いプラットホームを支えるのは顧客からの支持であり、いつも安く購入したいと考える顧客に対しては下手に出ざるを得ない。アマゾンの宅配用ダンボール箱(ゲッティイメージズ) また、プラットホーム企業は、顧客に高く売る努力をするよりも、商品提供企業にプレッシャーをかけて価格を引き下げる方が容易である。つまり、短期的なビジネスだけを考えれば、商品提供企業を泣かせて安く販売させる方がよいということになる。 価格を引き下げる要因は他にもある。強力な流通プラットホームが構造的に製品差別化しにくいことだ。これらZOZOやアマゾンに共通して言えるのが、大量の商品の中から簡単に最も安い商品を見つけられる、すなわちユーザビリティ(使い勝手)の高いウェブサイトを構築していることだ。 大量の商品の中から簡単に選べるということは、一つひとつの商品情報が「最小化」され、最小限の商品情報と価格だけが分かりやすく比較できることを意味する。ところが、企業は自社製品の優位性を顧客に伝えなければ、高価格でも納得して買ってはもらえない。製品差別化は、企業にとって商品の価格下落に対抗する重要な手段なのである。メーカーは泣き寝入り? そもそも、商品情報が十分に伝えられない販路では、製品差別化など不可能である。価格だけが購買の決定要因になれば、コモディティ(汎用=はんよう=品)化が進み、際限のない価格競争に陥るのは目に見えている。つまり、今日の優れた通販サイトは、そもそもコモディティ化を促進する「メーカー泣かせ」の構造を内在しているのである。 最小限の商品情報と価格比較のせいで、メーカーが泣かされるケースはウェブに限ったことではない。家電量販業界では、2000年ごろからヤマダ電機などの郊外型大規模店舗を持つ量販店が台頭してきた。これらの店舗でも、商品の説明要員を最小限に抑える代わりに、比較の容易な価格表示がなされるようになり、顧客が主に価格のみで購買決定をするようになった。 海外でも同じような流れはあった。米国でも、2000年ごろから、販売員に歩合給を出して丁寧な商品説明を促すような量販店は衰え始め、歩合給のない最小限の販売員と大量展示で安さを強調する「ベスト・バイ」という量販店が勢力を伸ばしていった。 コストコのような会員制ホールセール(大量販売)クラブが、家電の取扱量を増やしたのもこのころである。コストコは、メーカーにとっては「最後の手段」ともいえる販路である。なぜなら、顧客が自分でカートに乗せてレジに持っていく販売形態のために、顧客がテレビなどの家電を食品やトイレットペーパー同様の日用品(コモディティ)感覚で購入するようになり、製品差別化の入り込む余地などないからである。 メーカーもそれを承知しているから、コストコではあまり売りたくない。確かに、パナソニックやシャープのテレビが米国のコストコに大量に並んでいたこともあったが、それは両社の経営がかなり苦しかったころの話だ。現在、日本のコストコに並んでいるテレビは、日本市場に参入しながらなかなかシェアを上げられない韓国メーカーの製品である。 つまり、ウェブであろうと実際の店舗であろうと、「商品説明のない販路に、製品差別化は不可能」ということである。では、メーカーはどうすればよいのか。やはりカギは商品説明にあるのではないか。ヨドバシカメラやビックカメラなどのカメラ系量販店は、現在でも比較的手厚く説明員を配置して製品差別化を行い、家電量販業界で上位のシェアを築いている。ビックカメラ新宿東口駅前店(ゲッティイメージズ) また、テレビショッピングも有効な販路だろう。時には大量仕入れや安価な大量販売を行うため「もろ刃の剣」ではあるが、番組中でじっくり商品を説明してくれる。電子辞書のように、顧客が説明をしっかり聞いて、納得した上で購入するような製品には、非常に良い販路となっている。 当たり前の話だが、対面であろうとなかろうと、しっかり商品の良さを訴求することが、コモディティ(汎用品)化を防ぐ手段であり、ウェブの販路でも今後の課題となるであろう。現在のウェブ・プラットホームでストレスなく大量の商品情報を顧客に提供するのは難しいかもしれない。 それでも、5G(第5世代移動通信方式)の通信インフラが整えば、提供できる情報量が飛躍的に増加する。後はどのように顧客に飽きられずに商品情報をウェブ上で見せるか、知恵を絞ることが求められる。 長期的な視点に立てば、流通プラットホームがメーカーを泣かせてビジネスが成り立っているような状況は、市場として健全ではない。顧客だけでなく、プラットホーム企業、メーカーの三者が「Win-Win」になる状況を作り出すことが、今後の流通プラットホーム企業の課題となるであろう。■ 巨人アマゾンの罠にまんまとハマったヤマト運輸の「豊作貧乏」■ 拝啓、ZOZO前澤友作様「1億円バラマキ、本当に下品です」■ 悪役かヒーローか、アマゾンが変える宅配業界とネット通販

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    週刊SPA!「ヤレる女子大」騒動への疑問

    『週刊SPA!』(扶桑社)が掲載した「ヤレる女子大RANKING」に批判が相次ぎ、編集部側が謝罪する事態に発展した。「女性をモノ扱いした」「女性蔑視」との指摘は理解できるが、この手の記事は同誌に限らず昔からよくあった。なぜここまで炎上したのか。騒動の核心を読む。

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    『週刊SPA!』を謝罪させた女たちは一体何にムカついているのか

    鈴木涼美(社会学者) 『週刊SPA!』というのは不思議な雑誌で、いかにもサブカル系だったり、アラサー女性に人気だったりする漫画の連載があるかと思えば、「あなたのおっぱい見せてください」みたいな写真特集が突如出てくる。さらに、手を替え品を替えセックスと収入とか、セックスと学歴とか、セックスと場所とかの相関関係をひも解く記事が結構なページを割(さ)き、貧困や老後などに関する特集も多い。 基本的には若手〜中年の男性をターゲットにしているわけだが、カルチャーに関してはかなり高度に文化系でもある。大衆とアングラ、下世話とブンカが混在していて、私としてはそこが面白いのだけど、当然熱心に読んでいるページによって雑誌のイメージは違うだろうし、おそらく作り手側の持っている雑誌アイデンティティーと一般的な読者の印象にも齟齬(そご)がある。 私自身も連載を持っているし、そのほかでも何かと付き合いがあるので、編集者を何人も知っているのだけど、いかにも文学少女っぽい人がいたり、サブカル男子っぽい人がいたり、フェミニズムにこだわる男性がいたり、チャラそうなおじさんがいたりと多様で、文学少女がおっぱい特集なんかを手伝っている、割と面白い光景が見られることもある。 新年早々、その『週刊SPA!』が女子大生とのギャラ飲み特集という割と「お家芸」っぽい記事について世間から大変厳しい追及を受けている。 中心となっているのは海外経験豊富そうな現役大学生の女性で、ワイドショーなども相次いで彼女にインタビューしたり、記事を紹介したりと大ごとだ。編集部も早々に謝罪した。狭い村のような無法が許されているアングラ誌であったら、運動家の大学生の目にもネット住民やコメンテーターたちの目にもそれほど入らなかったかもしれない。少なくとも、「下品な週刊誌がまたバカなことをやっているけど、この雑誌はこういうもんだからしょうがない」というような見逃しは、『週刊SPA!』クラスの雑誌にはもう許されないということがよく分かった。 若者の雑誌離れが顕著なのは事実で、週刊誌を見慣れている大人からすれば見飽きてしまってスルーしてしまう類(たぐ)いのものでも、普段こういった雑誌に触れることがない学生が見れば、その見出しや内容は余計に前時代的かつショッキングに思えるという温度差も大きいだろう。 今回の炎上について、当初は米国かぶれの学生による自己実現に似た運動と思って冷笑的に見ていた人も多かろう。たとえきっかけがそういったものであったとしても、テレビなどで取り上げられる時に示されるのは「なるほど、これは問題だ」「もう、こういう時代じゃない」という反応であって、一向に雑誌擁護の声は聞こえないことを思うと、そう簡単に片付けてしまえる話でもない。『週刊SPA!』が掲載した「ヤレる女子大学生RANKING」=一部画像処理しています 大衆の言葉が必ずしも正しいとは思わないが、時代の空気というものを無視して生きることはできないし、空気の読み間違えや危機感のなさは罪となり得る場合もあることを思えば、こうした声を無視することは危険である。 さて、問題となっているのは、『週刊SPA!』が特集した「ヤレるギャラ飲み」の中で、「ヤレる女子大学生RANKING」として実践女子大や大妻女子大などの具体名を挙げて独自のランキングを作成したことであり、騒動の発端となったのは署名サイト「change.org」内の呼びかけである。彼女たちやそれに賛同する人たちは、一体何に怒っているのだろうか。そしてその怒りは妥当なのだろうか。何が嫌なのか 署名サイトの声明文中で叫ばれているのは、同記事が女性差別・女性軽視だといういかにも空虚な言葉で、時代との相性がいいという以外に、これではほとんど何も言っていないに等しい。 安く見られているのが嫌なのか、貞淑ではないイメージを植え付けられたのが嫌なのか、「ヤレる」という言葉の男性主導的な響きが嫌なのか、女子学生だけがランキングの対象にされているのが嫌なのか。 差別だという主張では男性向け雑誌が女性のランキングをするのに倣(なら)って女性誌が逆転版のランキングを作れば良い、あるいは『週刊SPA!』自身が言い逃れ的に「ヤリチン生息数ランキング」でも掲載すれば済んでしまう。 当然、女性側に大してその需要がないし、男性らがそれに怒ることはあまり考えられない。もしくは女性だけを食い物にするのが許しがたいのであれば、ゲイ向けにヤラせてくれる美男子が多い大学ランキングも作ればいいのだろうか。ほとんど冗談でそんなことを言ったら、私の友人のゲイのおじさんは「ぜひそのランキングを作りたい」とやる気に燃えていたが、それで今回の女性たちの怒りを沈められるとも思えない。 また声明文では、長々と女性の性犯罪被害についても書かれている。むろん性犯罪が許しがたいと思うのは当然だ。ただ、今回の記事に限って言えば、ギャラ飲みという狩り場で後腐れのないセックスをできる、ということを「ヤレる」と呼んでいるのであって、むしろレイプや相手の同意のないわいせつ行為をせずに遊ぶための指南のような気もする。少なくとも、レイプしても黙っていてくれる女のランキングではなく、ギャラ飲みおじさんの巧みな誘い文句に乗ってくれる女のランキングである以上、性犯罪と結びつけるのも無理がある。 起点となったこの主張が空虚であるがゆえに、連なるようになされた批判や大学側の主張、あるいはテレビで取り上げられた際のコメントは趣旨が微妙に違う。 ランキングに科学的根拠が一切ないこと、大学の実名を出したこと、記事が低俗であること、ヤレるという言葉が配慮に欠けることなどを問題視する声が上がり、コメンテーターの発言で多かったのが、時代感覚のなさや新しい時代のルールをインストールしていない週刊誌のあり方を指摘するものだった。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 「時代に追いついていない」「今の時代の空気を理解していない」というのは全くそうなのだけど、そういったことは怒るというよりバカにする、という行為がなされるものだ。しかも「この時代には通用しないよ」というコメントには、僕は別に悪いと思わないけど、という本音も見え隠れするので、実際みんな何が悪いのか、絶対的な悪がそこにあるのかはピンときていないのだろう。 ランキングが個人的感覚によるものであって事実と違う、それによって名誉を傷つけられた、といった大学側の怒りも理解はできるが、その論理で反論するのであれば極論を言うと自分の大学の生徒がいかに貞淑であるか科学的アプローチで証拠を作る、といったことになってしまう。それはそれで時代錯誤であって、女性が貞淑でなくてはならない、といった前時代的な価値観が透けて見えるのだ。どこの大学でも同じ また、大学の実名を出さずに例えば今回の記事がイニシャルで掲載されていたとしたら、むしろ「ヤリマン」や「ヤレる」というイメージが著しく女性の名誉を傷つけるために配慮した、ということになるので、あるいはそちらの方が女性にある種のイメージを押し付けるもののような気もする。 「ヤレる」というのは不思議な言葉で、直接的にはセックスができるということなのだが、そういう意味では別に東大だろうが理科大だろうが芸大だろうが日体大だろうが、男も女もそれ相応の手続きを踏めばヤレる。それはどちらかといえば誘われる側の属性よりも誘う側の手腕や魅力が問われるところであって、セクシュアリティーや趣味趣向に合った相手とタイミングが合えばセックスの合意を得ることは別に普通にある。 「ヤリマン」「ヤリチン」というともう少し範囲は狭まるが、一般的なイメージでは恋人でなくとも場合によってはセックスする、不特定多数の人とセックスをする人ということであって、セックスが好きな人やセックスした人数自慢をしたい人というのも別にどこの大学にもいる。男でも女でも、ヤッた人数を自らの価値だと見紛う人もいれば、セックスをする相手が常にいることで承認欲求が満たされる人もおり、またセックスをスポーツに近い趣味と考える人も、一人と何回もではなく日々新しい相手と肌を合わせることに楽しみを感じる人もいる。 そう考えるとヤリチンやプレイボーイが呆(あき)れられながらも同性間ではある種の称賛や名誉を持って発せられる言葉でありながら、「尻軽」「スラット」となると分かりやすい蔑(さげす)みの言葉になる。そのこと自体が、男女平等を叫びたい人からすれば大変アンフェアであって、ヤリマンが蔑まれないような社会こそ目指すべき指標ということになる。果たしてそうなのか?  ちなみに、私は90年代の終わりに高校生になったのだが、私たちギャル世代は割とその男女非対称性というのを無自覚にも無効化していた。雑誌『egg』では若い女の子のエロに特化したエピソードページがあって、ヤリマン・ヤリチンという言葉を融合して男も女もセックスに積極的な人は「ウテウテ」と呼んでその自由さやノリの良さを愛でていたのである。 かといってギャルたちの、その無意識な態度が全体に波及したかと問われれば甚だ疑問で、世間どころかかつてのギャルたちも今やすっかり貞淑なふりをして旧態依然とした社会に迎合している。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 自らの楽しさを第一の優先事項とした子供の頃に比べて、男性の好みや社会に歓迎される態度を優先せざるを得なくなったと解釈することも可能ではある。だが、男のようにサルや野獣になることを、女性自身が選ばなかった、平たく言うと男のバカな夢を女は特に共有しようとしなかった、と取る方が自然だろうと思う。 女の人たちの多くは、たとえ仕事を持って偉くなってお金持ちになったところで、複数の美男子を両脇に抱えてハーレムを作り、オープンカーの助手席に新進気鋭のモデルを乗せて葉巻を蒸すようなことにはそれほど食指が動かないし、美しい本夫の他に何人もの愛人宅を忙しく回る日常にもそんなに魅力を感じない。秘書にテーブルの下で性器を舐めさせる妄想もしないし、義弟が夜中にいきなりエロくなったら引くし、家庭教師が急に性器を見せてくるシチュエーションは不気味であって魅力を感じることはない。 男子だけが良い教育を受ける機会を与えられ、男性だけが選挙権を持ち、男性だけが出世していく世の中を見て、この権利や機会を欲しいと思った女性らの活動によって現在の女性の自由の礎は築かれたが、AVを見て、男性だけに与えられるこのような自由を得たいと夢見る女性は大変少ない。むしろ、男って本当にテーノー(低脳)だな、とか、男ってバカだな、と思う。「呆れる」程度のもの 身体的な非対称性は別としても、権利や機会で平等を目指すといったって、当然、いや別にそこはいらない、という個所はあって、特に身体を使うセックス関係の分野はまさにそういった個所が集中的に点在している。 私はそこが、男女公平の限界値だと思うのだけど、ギャラ飲みでヤリたいと夢見るおじさん向けの記事に対して、「日本にも女性に権利を」という文言で締められる「change.org」の声明文を読むと一体どこを目指すのかがよく分からなくなる。 記事に問題点があるとしたら、ギャラ飲みなんていう明らかに知り合いから芋づる式に女の子が集まるような、しかも開催場所によって大学に偏りが出るに決まっているような場で、大学名と持ち帰り率に相関性があると信じる男のバカさ加減や、女子大生からすればご飯を食べてお小遣いをくれるチョロい男とのおいしい場であるにもかかわらず、自分らに彼女たちを選ぶチャンスがあると夢見るおめでたさが透けて見えているところだ。そもそも、そこに男が選ぶ側であるという意識があるとしたら、それこそが男性のファンタジーであって、AVで秘書にフェラチオされるシーンにヨダレを垂らしている姿とあまり何も変わらない。 女性が軽視されているどころか、ギャラ飲みで軽視されているのはおじさんのくだらない純情であって、搾取されている側のおじさんがヤレるヤレると妄想を膨らませているその光景は「呆れる」ことであっても「戦う」ところではない。女の子の気まぐれでセックスにありつけることもあるかもしれないが、それは幸運にもキャバクラ嬢を抱けた客が、さらなる営業の餌食として認定されていることも気づかずに、あそこのキャバはちょろいもんだぜと言っているようなアホらしさこそあれ、そこに男性優位な構造はない。 そして重要なのは、本当は貞淑なのにヤレるなんて言われて傷ついた、とかいう主張はおじさんの妄想の方に加担してしまうことだ。女は男が妄想する以上に邪悪なものであって、ヤレると思わせてうまく逃げる女子たちの前に、実はおじさんたちは結構無力である。するのであればその構造への勘違いを正す指摘をするべきだが、妄想してくれているおかげで札束が飛ぶ現場にあって、その暴露を望む女子は少ないだろう。今回の炎上で、当事者のギャラ飲み女子が割と沈黙しているのはそのせいだ。 怒っている炎上の原告たち、「これはもう通用しないよ」なんてのんきに言っているコメンテーター、憤慨する大学も含めて、ギャラ飲みでおじさんを搾取している当の女の子たちからすれば、その構造に気づかない大変おめでたいものなのだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) この記事は女性の尊厳を傷つけるものではない。傷つくものがあるとしたら、この女子大とのギャラ飲みならきっと今夜はセックスにありつける、と期待に胸を膨らましてお札を握りしめて出かけていって、うまいこと女子に煙に巻かれて一人で侘しくラーメンをすすって帰るおじさんくらいで、そういった賢くたくましい女子たちのいる大学の尊厳もまた、別に傷つくことはないだろう。 男のバカさ加減に「いい加減にしろ」と怒る気持ちは分かるが、女性が差別されていると怒るのだとしたらもう少し目を配るべき場所はあって、おじさんのおめでたいファンタジーが詰まったここは、そのエネルギーの向けられるべき場所ではない。■なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理■コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス■「LGBTなんて言葉なくなればいい」元女子高生の僕が伝えたいこと

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    『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判

    ました……。――今、『週刊SPA!』の実売部数は?渡部 5万部……それを切っているかもしれません。他メディア、特にウェブ・メディアに対抗して焦りがあり、感覚をまひ劣化させ、扇情的な記事がエスカレートしてしまいました。それは素直に認めなければいけないと思います。――部数を落とさないために、会社経営陣からああいう記事もやむなし、掲載すべしという指示があったりもする?渡部 それはないです。それは強く否定させていただきます。――逆に社内でああいう記事にブレーキをかける動きは? 扶桑社は防衛省のオフィシャルマガジン『MAMORU』も出版し、扶桑社の関連会社である育鵬社は歴史や公民の教科書を出版しているわけだから。渡部 私の主観的な見解ですが、苦々しく思っている社内の方はいると思います。それ以上のことは、私の職務外の領域なので話すことはできませんが。――今、編集部員は何人?渡部 35人ぐらいです。――僕が編集長のころとだいたい同じだね。女性は?渡部 3人。――それは少なすぎるね。僕がやってたころは3割は女性編集者だった。それが今回の記事を生んだ一因では?。渡部 それはツルシさんの判断に委ねるしかないです。――今回の記事に女性編集者はかかわっている?渡部 かかわっていませんが、フリーの女性ライターが1人かかわっています。――読者ターゲットは?渡部 今は45歳男性がコア・ターゲットです。――僕がやってたころのコア・ターゲットは28歳の男女だったかな。話し合いに訪れた女子学生たちは、超からすれば子供の世代の年齢だね。彼女たちからも「こういう記事を目にしたら、自分の子供がどう思うか」という視点からの発言があったけど。渡部 感性が劣化していたというしか、説明のしようがありません。※画像は本文と関係ありません(GettyImages)――感性とか感覚とかあいまいなものではなく、個人の尊厳や人権侵害に対する意識が明らかに欠落していた。人権にかかわる問題だという認識は?渡部 あります……。――モラルの劣化の長年の蓄積が、今回のことにつながったと僕は考えている。『週刊SPA!』に四半世紀もかかわり続けている超の責任は重いのでは?渡部 それはツルシさんのクリティカル(批判的)な分析ということで。私自身にはそういう思いはありませんが。雑誌の未来は誰にもわからない――「大宅壮一文庫」(雑誌の専門図書館)で最近の『週刊SPA!』のバックナンバーにざっと目を通してきたんだけど、よくもまあ、ここまで変貌したものだなというある種の感慨を持ちました。大宅文庫で『週刊SPA!』を閲覧しているのが恥ずかしかった。『週刊SPA!』が扇情的な路線の急坂を転げ落ちていった分岐点は、いつごろだったんだろうか?渡部 私にはその実感がありません。私にも責任があるといわれるのであれば、その評価は甘んじて受けます。――編集部は会社から自由に雑誌をつくらせてもらっているというけれど、実売部数は僕が編集長のころの6分の1に落ち、部数が落ちないように扇情路線に走り、そして今回の抗議。自由につくらせた結果、編集部が勝手に暴走したというのでは、社会的責任を負っている会社としては、あまりに無責任ではないかと思う。4人の女性たちは、抗議の対象を編集部だけではなく、フジ・メディア・ホールディングスも含めているけれど、当然だと思う。社内には『新潮45』のように廃刊にするという意見は?渡部 経営判断ですので……。私自身は廃刊はまったく考えていませんが。――僕も廃刊という対処は最低最悪だと思う。廃刊によって、今回提起された問題が風化してしまうから。これは『週刊SPA!』のみならず、劣化の一途をたどる日本のメディア全体の問題だという視点でとらえないといけない。編集部OBとして長く続けてほしいとも思う。『週刊SPA!』は『週刊サンケイ』のリニューアル雑誌として創刊され、『週刊サンケイ』創刊(1952年)から数えると、その歴史は今年で68年。それを発展的に継承してほしい。女性たちの抗議を生かし、『週刊SPA!』は画期的なリニューアルを成し遂げた、そんな評価がされるような。渡部 社会から大きな批判を浴びましたから、新方針を打ち出し、批判されないものをやっていくしかないです。雑誌の未来は誰にもわからないですけれど……。 ――僕だったら、話し合いに訪れた彼女たちも、まったく違和感なく読めるような雑誌にするかな、思い切って。それしか未来はないというか、雑誌業界の現状も含めて、僕は社会は不動の仕組みではなく、人間の働きかけによって変えられると僕は考えていますから。ところで、『週刊SPA!』の巻頭カラー連載は「みうらじゅん×リリー・フランキーのグラビアン魂」。僕が編集長のときには、ああいう巻頭カラー連載をもってくるという発想はなかった。禁じ手にしていた。雑誌が性を扱ってはいけないとはまったく思わないし、僕が『週刊SPA!』の編集者だったころも、性に関する多様な視点からの記事を掲載していたけど。あの連載が始まったとき、これでいいのかなという危惧を持っていたんだけど。超はどう思っている? 渡部 それはツルシさんの主観ですよね。「グラビアン魂」は、現在の『週刊SPA!』が胸を張って誇れる連載だと僕は思っています。『週刊SPA!』(扶桑社)2018年12月25日号 『週刊SPA!』12月25日号が出る前に、「ランキング」記事に違和感を持った超が、編集長に意見しなかったのはなぜか。彼はその理由を明確に答えなかった。残念だったが、十数年ぶりに会い、取材に応じてくれた彼には「お疲れの中、ありがとう」と言いたい。 1月15日、『週刊SPA!』に「ゴーマニズム宣言」を連載している漫画家・小林よしのり氏が、自身のブログに「SPA!に抗議に来た女子大生は危険だ」というタイトルの持論を記した。こうした反響を含めて今後、SPA!編集部がどう対応していくのか。注目したい。■医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実■同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論「LGBT杉田論文の度が過ぎる」■古い「男らしさ」の呪縛から抜け出せない日本男児に告ぐ!

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    週刊SPA!「ヤレる女」騒動にフェミニストの私がモヤモヤした理由

    ろくでなし子(漫画家、芸術家) まんにちは。まんこアーティストのろくでなし子です。つい先日、『週刊SPA!』の特集記事「ヤレる女子大学生RANKING」がネット上で女性蔑視として問題となり、国際基督教大(ICU)学生らが抗議の署名活動をしたことが話題になりました。 同じ女子大生として不名誉に感じたのであれば、抗議する自由や権利は当然あります。「ヤレる女」という言葉に、女性をモノのように考える男側のさげすみを感じます。「ヤるかどうかはワイが決めるわ!」と、わたしでさえ言いたくなります。 ただ、その署名活動は謝罪要求にとどまらず、出版取り下げや「週刊誌および出版社による、女性の差別用語、軽視する発言を今後一切やめる」こととあり、あまりに短絡的に感じました。さらに、この署名活動にフェミニストを名乗る人たちが少なからず賛同していたことに、同じフェミニストであるわたしは非常にモヤモヤとしました。 昨今は性暴力被害を告発する「#MeToo(私も)」運動が世界的に盛んです。つい最近も、国内で人権派ジャーナリストの性暴力が発覚しました。 フェミニストが女性差別や性暴力に敏感となり、抗議が活発化するのは分かります。 しかし最近の彼女たちは、少しでも性の臭いがするものに対し拒絶反応を示し、女性を「性嫌悪」へ導く活動家のようにも見えます。 本人たちがフェミニストを自称している限りわたしは否定しませんが、「女は貞淑であれ」「ふしだらな女はよくない」とする男性社会の古い価値観に中指を突き立てて来たのが我々フェミニストのはずじゃなかったの…?と疑問に思うのです。 「ヤレる女」といえば、まんこアーティストのわたしこそ、そんなイメージを世のおじさんたちから持たれ続けてきました。 当のわたしはまんこをモチーフにはしていても、バカバカしくて笑える作品や、まんこをいやらしいモノのように見るおじさんたちのちんこを萎えさせる代物を作って来たので、甚だ心外です。 しかし、まんこをデコったりジオラマを乗っけたり、ボートにして川でこいでみても、まんこがいやらしいイメージのまま思考停止している人には「いやらしい事をしている女」→「ヤリマン」となる訳です。 わたしが実際に特定多数の異性と性行為をする「ヤリマン」かと言えば、むしろ「まんこまんこ」言う変な女はドン引かれ、好意を寄せる人からはことごとくセックスをお断りされるマンでしたが、それはさておき、まんこアートを即セックスに絡められる事に、当時はいちいち腹が立ったものでした。 しかしそんな時、ある人に「まんこをセックスと結びつけて何が悪いの」と言われてはっとしたのです。 確かに、セックスはまんこを使ってするものだから結びつけられて当然なのに、なぜわたしはこうも屈辱に感じるのか? それは、わたしが心の底ではセックスを汚らわしい事、良くない事だと思っているからでは…? つまり、「ふしだらな女はよくない」とし、女性を性嫌悪へと導く男性社会の価値観に、女でありフェミニストのわたしがまんまと乗っかってしまっていたわけです。裁判の閉廷後の会見に臨むろくでなし子氏=2016年5月、東京都千代田区 それに気づいてからは、わたしを「ヤリマン」と思って近づいて来る人には、「バカな人だなぁ…」と思いこそすれ、怒ることはなくなりました。 だってわたしがヤリマンであろうがなかろうが、わたしは男の物差しでは生きていないからです。 そんな訳で、あの署名活動に賛同するフェミニストたちには、かつての自分のようだからか、すごくモヤモヤしたのです。表現を奪う活動に賛同せず もちろん冒頭でも触れた通り、「ヤレる女」という言い方が女性をモノ扱いしていて不愉快だ、という意見には同意です。あるフェミニストが「ヤリマンを否定しているのではない、ヤルかどうかは女性本人が主体的に決めるべきなのに勝手に男性に決められることに抗議している」とわたしに言ってきました。 それはフェミニストの主張としては一見、正しく見えます。ですが、それなら「抱かれたい男ランキング」にも、「女が男に『抱かれる』など、女性を受け身的に捉えて主体性を奪う言い方で不愉快だ!『ヤリたい男』と言い換えろ!」と怒るべきだと思うのですが、そんな声が上がったのを今まで聞いたことがありません。 それに、「私は自分でヤリたい人を選んで決める、誰にでも股(また)を開く女ではない!」と主張することは、誰にでも股を開いてしまうヤリマンを低く見ていることになりませんか? なぜ、女性が主体性なく股を開いたらダメなのでしょうか? 「そんなセックスは後悔する、男に利用されてはダメだ」と言うフェミニストもいますが、それは女性を弱くてかわいそうな存在とみなして「ふしだらな女になるな」と呪いをかけることになりませんか? そう言うと、「性病がマン延するし、望まない妊娠で傷つくのは女性だ」と返ってきそうですが、だからこそ、まんこをタブーにせず、子供達から性を遠ざけコンドームの使い方すらろくに教えて来なかった日本の性教育を変えるべきではありませんか? フェミニストなら、主体的なヤリマンだろうが、流されやすいヤリマンだろうが、女性がセックスに奔放なことを世間が見下す風潮そのものに「NO(ノー)」を突きつけるべきではないのでしょうか? 大体、女性をモノ扱いする表現ばかりがやり玉に挙げられますが、女性が男性をモノ扱いする表現も、世の中にはたくさんあります。 父親や配偶者をバカにする女性や、無職や低収入の男性をバカにする女性を実にたくさん見かけます。 男性をATM(現金自動預払機)扱いするような下世話な女性向け雑誌もコンビニでよく見かけます。ツイッターでは「金玉潰してやる」など、過激なツイートをする自称フェミニストも、つい最近までいました。わたしだって、まんこアートに怒るおじさんや警察をバカにして漫画にもしました。つまり、お互い様でしょう。 誰かにとって不快な表現が消されていく世界になったら、フェミニストが男性の悪口を堂々と言う事も許されなくなります。 わたしはこれからもまんこアートに怒るおじさんたちをからかう作品を作りたいし、言いたいことを言いたい。上のお口も下のお口も誰かに封じられたくありません。 繰り返しますが、あのランキング記事に怒りたい女性は好きなだけ怒ればいいと思います。「ふしだらな女」を不名誉に思う人の自由や権利も当然あります。 ですが、フェミニストであるわたしは、出版取り下げなど表現の自由の範囲まで過剰に要求するあの署名活動には賛同しません。 わたしなら、「男に利用されるな」と言って女性の自由を制限せず、「女がヤリマンで何が悪いのか」と声を上げ、性表現やセックスを楽しむ女性に不利益が生じた時には一緒に怒って抗議します。そして、子供達と真面目に性の話ができる社会を、上のお口も下のお口も封じ合わずに誰もが言いたいことを言える社会を目指します。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) ちなみに、この件で興味深いのは、このようなフェミニスト批判をツイートしていると、件(くだん)の署名活動に賛同しているフェミニストからの反論があるのはもちろんですが、なぜか日頃フェミニストを嫌うおじさんたちからも批判を多く受ける事でした。 わたしが批判するフェミニストたちは、やはり「ふしだらな女」を許せない、おじさんたちと気が合うのかもしれませんね。■医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実■同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論「LGBT杉田論文の度が過ぎる」■古い「男らしさ」の呪縛から抜け出せない日本男児に告ぐ!

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    「男性誌に純潔を求めてどうする」週刊SPA!大炎上のここがヘン

    水島新太郎(同志社大学嘱託講師) 誌名に「世相をスパッと斬る」などの意味を込めたとされる『週刊SPA!』(扶桑社)が、2018年12月25日号で「ヤレる女子大学生RANKING」を掲載し、物議を醸した。世相を斬り損ねたのか、思わぬ騒動に発展したこの問題について考えたい。 同誌では「カリスマ女子大学生とセレブたちとのギャラ飲みを開催」と題した特集が組まれ、「ヤレる」(性交渉を持てる)可能性の高い女子大生の出身校が実名で記載され、髪形やメーク、服装などの特徴が事細かに紹介されている。 この記事に不快感を持った女子大生たちは署名収集を目的としたサイト「Change.org」や、会員制交流サイト(SNS)で記事の内容に抗議し、想像を超える数の署名が寄せられ、世間を騒がせた。 記事で使われている「ギャラ飲み」は、男性が女性に金銭的援助をする見返りに食事の席などに同席し、あわよくば性交渉を期待することを意味しているそうだが、記事に抗議している女子大生たちは何に対して憤慨しているのだろうか。 言うまでもなく、彼女たちは、自分たちが金で簡単に体を許す女性であるかのように男性目線で一般化されたことに憤りを感じているのだ。今回の問題は、男女間におけるジェンダー観の違いを浮き彫りにした一例であるといえよう。 周知の通り、当初『週刊SPA!』側は、記事に不適切な表現があったことを謝罪している。だが、表現による問題というよりは、読み手が書き手の組んだ企画、そこで使われている文章表現をどう受け取るかに深く関係した問題であるように思えてならない。 くだけた表現が丁寧な表現に書き換えられるように、書き手の企画構成力、文章力で読み手の意識も大きく変わるだろうし、そこに説得力があれば普通では許されないようなことも見過ごされてしまうケースがある。 説得力がなくとも、『週刊SPA!』がターゲットとする読者が主に男性であることを考えると、そこで語られる内容が男性読者のニーズに合ってさえいれば、彼らはそれを無条件に受け入れるだろう。また、当該記事が「女子大生」に的を絞る形で書かれている点を考えても、女子大生に該当しない女性たちの中には、男性との出会いに無縁な私には関係のない話だ、と他人事を決め込む者も少なからずいるはずだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) しかし、インターネットによる情報共有が一般化された今日、従来男性読者の間だけで共有されてきた話題も、それを読んだ人間がネットで内容を一言つぶやいただけで大多数の知るところとなり、内容によっては、今回のように大きな波紋を呼ぶ問題へと発展する。これは、個人が意見を発信することのできる現代のネット社会の良い面でもある。単純すぎる「欲望の論理」 SNS上でセクハラ体験などを告白するために利用され、今ではその言葉が象徴となった「#MeToo(私も)」運動や、大学の医学部入試における女性差別問題など、現代社会は女性差別に対して非常に敏感である。このことを踏まえれば今後、表現の自由という点で、男性週刊誌で語られる女性にまつわる記事は主な読者である男性だけでなく、女性読者も意識する形で書かれていくことになるかもしれない。 果たして、週刊誌にそこまでの純潔性を求めてよいのだろうか。表現の自由を大義名分に人を傷つけることは間違っているが、記事の検閲による言論統制よりも、今回声を上げた女子大生たちのように、読者側が正しい情報リテラシー(活用能力)をもって能動的に行動することこそ、ネット社会を生きる私たちへの課題なのではないだろうか。 ただ、男性週刊誌は決して男性読者だけを意識し、彼らが喜ぶ記事だけを書いているわけではない。筆者は『週刊SPA!』2017年5月30日号に掲載された「男性記者が実体験-オンナは大変だった!」と題した企画に識者として参加し記事を書いた経験がある。その際、男性記者が女性側をもっと理解しようと恥を忍んで女装や脱毛体験をするなど、取材を通して編集部の熱い思いは十分感じられた。 男性の妊娠体験を扱ったこの記事を読んだ筆者の周囲の反応は、性別や年齢によって意見は分かれるものの、女性の反応が年齢を問わず好意的であったことを今でも覚えている。また、筆者を取材した記者が女性であったことを考えると、男性週刊誌の作り手が必ずしも男性であるとは限らないことも忘れてはならない。 男性が男の沽券(こけん)を捨てて女性体験をする話には好感が持て、男性が因習的な立場から女性を見下す類いの話には反感しか持てない、といった風潮の行きつく先は、味方以外はすべて敵とみなす分裂社会である。 筆者は、本稿を書く上で、「ヤレる女子大生」と一緒にされた女性たちの悲痛な思いは十分理解している。また、彼女たちの抗議が社会の在り方を変えていくとも信じている。 ただ、『週刊SPA!』はグラビア写真やセックスに関する記事を扱う男性週刊誌であり、男性の真情を吐露するという点において、必ずしも女性差別的な姿勢を貫く週刊誌ではないことも忘れてはならない。むしろ、女性を性的な対象として見る男性側の「欲望の論理」がいかに単純で、時として偏狭的であるかという自明の事実を、「ヤレる女子大生」記事は改めて示してくれているのではないだろうか。 男性側からの本音によって傷つけられた女子大生側に立ち、女性差別という名の下、男性批判を展開する世論の声は、「男性たちよ、表面的でいいから女性を優遇し守る姿勢を持とうよ」と、見せかけだけの女性擁護へとつながりかねない。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) さらに、日本の男性学をけん引する大正大心理社会学部の田中俊之准教授がしばしば用いる「男がつらいよ」という言葉が象徴するように、男性受難の時代を訴える「プロ・フェミニスト」男性たちの間から、「なぜ男性というだけで、女性を蔑視する者であると決めつけられなくてはならないのか」といった反発の声が上がる可能性もある。結果、それは逆差別問題へと発展し、男女の間の溝は深まるばかりである。 今回の「ヤレる女子大学生RANKING」で、ヤレる女性の特徴として、髪形やメーク、服装が事細かに挙げられていたが、『週刊SPA!』ではしばしば、「ヤレる統計学」といった、女性との性体験が豊富な男性たちの実体験をもとに特集が組まれることがある。そこでは、男性が惹(ひ)かれる女性の身体的特徴として、髪形や服装といった「記号」で女性たちがカテゴライズされている。言い訳ばかりする生き物 例えば、先に述べた筆者も参加した2017年5月30日号では、「押せばオチる女300人の服装」と題した記事が6ページにわたって掲載され、服装や髪形以外に、学歴や所持品など幅広い項目がパーセンテージ化され、オチる女性たちが分析されていた。 ここで、女性の存在を記号化することが女性蔑視へとつながるメカニズムについて論じた面白い研究を二つ紹介したい。一つは日本のフェミニズム研究の先駆者である上野千鶴子氏の著書『女ぎらい-ニッポンのミソジニー』(朝日新聞出版)である。この著書の中で上野氏は、女性を性的対象としてみる女好きの男性ほど「女ぎらい」であると興味深い主張を展開している。 上野氏は、「女ぎらい」という言葉は、裸やミニスカートといった女性らしさの記号に反応する、女好きな男性の在り様を形容する言葉であると考えているのだ。つまり、無類の女好きな男性は全て「女ぎらい」であり、女性蔑視者であるとする論だ。嫌悪と蔑視が結びつけられた形容詞であると考えてもらえばいいだろう。 これに似た議論を、早稲田大人間科学部の森岡正博教授が男性の立場から、著書『感じない男』(筑摩書房)の中で展開している。森岡氏は、男性たちの多くが、たとえ男性の足であってもそれが女性の足であると聞かされた上で見せられると、その足に対して性的に反応してしまうことを、自身の体験をもとに述べている。 つまり、男性たちの多くは女性そのものに対してではなく、ミニスカートから見える美しい足といった女性を連想させる記号に反応しているということだ。同じことが、ニューハーフバーに通う妻子持ちのサラリーマン男性たちにも言えるだろう。彼らは、生物学上は男性であるニューハーフ女性たちの纏(まと)う女らしさという記号に欲情しているのだ。アニメなど2次元の女性キャラクターに萌えるオタク男性たちも同じだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) 男性週刊誌がセクシーな女性のグラビアを掲載し、女性の髪形や服装といった記号的部分に着目する形で「ヤレる女」と称した記事を企画・紹介していることからも分かるように、女好きな男性の関心は多くの場合、表面的な女性という記号にあると言える。 かつて男性中心社会の陰に埋没してきた女性たちは、男性と同等の権利を得るために必死に努力してきた。男女雇用均等法以降、男性と肩を並べて競争する生き方が女性たちにとっていかに難しかったことか。妊娠や出産を機に男性と同じような長時間労働が困難になった女性たちの多くは思っただろう。均等法は依然、男性に有利な競争原理だ、と。 そして、女性たちは男性が思う以上に、男性のことを「エロ目線」ではなく、もっと深い視点でしっかりと見ている。どうしたら男性と対等な立場に立って生きていけるのか、そもそも男性はなぜ自発的に変わろうとしないのか。きっと、記事に抗議した女子大生たちの中にはこのように考える者が多数いるだろう。 女性は男性のことをどう思っているのか、軽い気持ちで知ってみたい方は、尾崎衣良(いら)氏の漫画『深夜のダメ恋図鑑』(小学館)をぜひとも読んでいただきたい。男性がいかに弱く、不完全で、自発的に変わろうとしない言い訳ばかりする生き物であるかが分かるだろう。しかし、従来の男性の役割から自己解放を果たし、女性と手を取り合って新たな人生を歩もうと努力する男性も多くいることを併せて言っておきたい。■なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理■コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス■「LGBTなんて言葉なくなればいい」元女子高生の僕が伝えたいこと

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    週刊誌隅々まで読む山田詠美、男性週刊誌はツッコミ所満載

     日常の折々の出来事を俎上にのせて毎週綴る女性セブンの連載「日々甘露苦露」をまとめた山田詠美さんのエッセイ集が発売早々話題になっている。タイトルは『吉祥寺デイズ うまうま食べもの・うしうしゴシップ』。 美味なる食べもののことや夫婦のことから、折々のニュースについてまで、人生で味わう甘露と苦露をすくいとったエッセイ集だ。「目指すは甘くて苦くて無銭だけど優雅な日々」という詠美さんに書評家・倉本さおりさんがロングインタビュー。 山田さんは、週刊誌を端から端まで読むという。ひとくちに週刊誌といっても、女性週刊誌と男性週刊誌ではだいぶ毛色が異なる。「いかにも男性週刊誌的」な感覚にはツッコミどころも多い様子。 「よく、生々しいヌードや際どい下着姿がばーんとアップになったグラビアの後に、食べ物のグラビアをこれみよがしに持ってくるでしょ? しかも、よりによってお寿司とか生ものの写真を載せたりする(苦笑い)。ああいう身も蓋もない感じの嗜好は女にはないよな、と思いますね。 そういえば、『ノーパンしゃぶしゃぶ』なんていうものが日本にあった頃、男性の管理職が接待に使う、と当時の記事に書いてあったんですよ。それを女の子同士で読みながら『どうしてスカートの中身を見ながらしゃぶしゃぶを食べられるんだろう?』って笑い合っていました」 山田さん自身、食と性が交差する瞬間を緻密に描写してきた作家だ。例えば、『風味絶佳』という作品集の中では、口元をだらしなく伝う西瓜の汁を拭われる情景が、一方的に甘やかされるセックスの象徴として差し挟まれる。 また、女が男に食べさせるために拵えるさまざまな料理は、肉体をすみずみまで支配することの暗示でもある。いずれの表現も鮮やかで濃密な感情を呼び起こすものの、けっして安直なポルノには陥らない。創刊間もないころの『SPA!』(右)=海老沢類撮影 「性的なことと食べ物のことを結びつけて文学に持っていくには、きちんとテクニックを用いる必要があると思うんです。すくなくとも、直接結びつけて成立するものではない。ところが男性週刊誌の世界では、いまだにそこを勘違いしたまま訳知り顔でただ並べて、しかも悦に入っているところがあるから辟易しちゃう」 男のロマン、とはよく言ったもの。自分たちで作り上げた城の中に安住するうち、それを醒めた目で眺める女性たちの姿をはじめ、現実がすっかり見えなくなってしまうことも多いようだ。 「『死ぬまでセックス』特集なんかも、気持ちはわかるけど、はっきり言って方向が間違っていますよね。妻を含め、世の中の女の人たちの気持ちを知りたいんだったら、むしろ『女性セブン』を上から下まで読んでみればいいのにって思います(笑い)」関連記事■ 北野武が「道徳」の教材はツッコミどころ満載と喝破する書籍■ ビートたけし 「『1億総活躍』はツッコミどころ満載」■ 堀井雄二に山田詠美も……。早稲田vs明治 漫研OB対決!■ いがらしみきお、山田詠美、田口トモロヲ エロ漫画家経験も■ 市原悦子を語り手にイメージして書かれた山田詠美さんの新刊

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    平成は「閉塞の時代」だったか

    し、未曽有の自然災害が頻発、オウム真理教によるサリン事件も社会を震撼させ、インターネットという新たなメディアも台頭した。閉塞感が漂う時代の中で日本人の価値観はどう変わったのか。

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    平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

    篠田博之(月刊『創』編集長) メディア批評が仕事の一つなので、もう30年近く、毎週、ほとんどの週刊誌に目を通している。週刊誌は、雑誌ジャーナリズムの代表であり、新聞やテレビと異なる立場から言論・報道の世界で大きな役割を果たしてきた。ところが、この数年ほど、手に取って思わずため息が出てしまうことが多い。 スキャンダルと事件報道が週刊誌の基本だったはずなのだが、部数減に悩まされ、コスト削減の狙いもあって、大事件が起きても競って現場取材にしのぎを削るということが少なくなった。『週刊現代』『週刊ポスト』は以前から、そしてこの2年ほど『週刊朝日』も大きく舵を切って、「高齢者向け実用情報誌」とでも言うべき誌面になっている。年金、健康、医療といった実用情報が誌面の多くを占めるようになったのだ。 各誌とも創刊からの長い歴史を経て、読者の高齢化が指摘されているのだが、そのコアな読者層に誌面をよりシフトさせることで、部数を安定させようという作戦だ。新しい読者を開拓するのでなく、手堅く守りに徹しようという方針だから、あまり明るい話でないのだが、そうせざるをえないほど追いつめられつつあるというのが実情だ。 一つには、政治スキャンダルなどでスクープを放っても、それが部数増にはつながらなくなったという事情がある。2016年に「文春砲」と呼ばれるスクープを次々と放って部数を押し上げた『週刊文春』も、その後スクープ路線を続けているにもかかわらず、かなり部数を落としている。いまだに週刊誌界のトップではあるのだが、18年前半には予想以上に部数を落として業界で話題になった。 逆に18年前半に部数を落とした『週刊現代』が後半少し持ち直したと言われるのは、高齢者向けシフトをより強めたからだ。昨年12月に入って反響が大きかった特集は「あなたの人世『最後の総力戦』」。いわゆる「終活」の話だ。第1弾で反響を得て、連続掲載しているのだが、これは高齢者向け雑誌の究極の特集と言える。 18年前半は週刊誌各誌とも部数を落とす中で、唯一微増だったのは『週刊新潮』だが、これも何が要因だったかというと、6月頃にキャンペーンを張った「食べてはいけない国産食品」特集が実売を押し上げたのだ。同誌は事件報道と政治スキャンダルを得意としてきた週刊誌だから、何週にもわたって実用ものの特集を掲げたことは、業界で驚きをもって迎えられた。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 つまり、事件や政治スキャンダルよりも健康などの実用情報の方が部数につながるという傾向がますます加速しているのだ。これは週刊誌の読者構造によるものだろう。それでもニュースに力を入れる、と『週刊文春』は宣言しているし、『週刊新潮』も基本路線は変えていない。その結果、週刊誌界は、実用情報誌に大きくシフトしている雑誌と、従来の方針を続ける雑誌とに大きく二極分化しつつあると言える。皇室と因縁深い週刊誌 ただ、週刊誌は各誌とも、一方でウェブに力を入れており、例えば『週刊朝日』でこれまで事件や政治を追っていた記者は、「アエラドット」というウェブサイトに記事を書いている。メディアの特性に応じて、紙とウェブを使い分けていこうという戦略だ。だから紙の雑誌だけをとって嘆いても仕方ないのだが、長い間読み続けてきた読者からすると、この2年ほどの週刊誌の動向には寂しさを感じざるをえないだろう。 現在のような週刊誌の市場ができあがったのは1956年創刊の『週刊新潮』を草分けとして大手出版社が次々と週刊誌を創刊した1950年代後半だった。それまで週刊誌といえば、『週刊朝日』『サンデー毎日』の二大誌を中心とした新聞社が発行する雑誌を指す時代が続いていた。 そこに新たな市場を切り開いた出版社系週刊誌が、なぜその後新聞社系を凌駕していったかというと、新聞やテレビにできないことを意識して誌面化していったからだ。例えば政治家などの下半身スキャンダル、あるいはタレントの不倫などのスキャンダルだ。大きな事件があれば総力取材で特集を組むのも週刊誌の特徴だった。「新聞、テレビが書かない○○」というキャッチコピーが週刊誌の大命題になった。 そういう週刊誌が、平成の終わりとともに大きな岐路に立たされているのは偶然ではないのかもしれない。実は週刊誌の歴史と皇室は因縁が深い。1950年代後半、誕生したばかりの週刊誌が大いに存在意義を発揮したのは、ミッチーブームと言われた今上天皇と皇后の結婚の話題だった。「菊のカーテン」と言われる宮内庁の秘密主義を突き破るべく活躍したのが、記者クラブに属しない週刊誌だった。宮内記者会の縛りが厳しいため、新聞やテレビの場合、宮内庁の発表以外の報道はなかなかできない。それゆえに皇室問題は週刊誌の大きなテーマになってきた。 この1年余で言えば、週刊誌各誌とも読者の反応が良かったテーマは、秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭氏の結婚騒動だった。新聞・テレビが宮内庁発表以上の報道をしないため、実は背後でどんな動きがあるのか、週刊誌は毎週のように取り上げてきた。宮内庁がホームページで、事実に基づかない報道が多いと苦情を漏らすほど、真偽取り混ぜた報道ではあるのだが、読者の食いつきが良いと各誌とも大きく報じてきた。ご婚約が内定し、記者会見された際の眞子さまと小室圭氏=2017年9月、東京・元赤坂の赤坂東邸 確かに眞子さまと小室圭氏の騒動については、週刊誌を読まないと背後で何が起きているのか事情がわからない。宮内庁が結婚延期を発表した時も、週刊誌は、実はこれは延期でなく破談への序章だと書き立てた。その真偽はともかく、わかりにくい宮内庁発表を週刊誌が舞台裏を暴く形で説明するというパターンが続いている。 新聞では、発表ものでない独自取材によるテーマの掘り起こしによる報道を「調査報道」と呼んでいるが、もともと記者クラブに属していない雑誌ジャーナリズムの場合は、ほとんどが発表に頼らない「調査報道」だ。迫られるビジネス転換 皇室報道のように新聞やテレビではなかなか背後事情まで踏み込めないテーマについては、週刊誌が真骨頂を発揮してきた。ほかにも大相撲の八百長疑惑といった、発表がないと新聞などが書けない話にも週刊誌は取り組んできた。 そういう雑誌ジャーナリズムの果たしてきた意義を考えると、昨今の週刊誌の現状は、ある意味では由々しきことと言えるだろう。 戦後一貫して右肩上がりだった出版市場は、1990年代半ばをピークに下降に転じた。その後の、特に雑誌市場の落ち込みはかなりの勢いだ。いわば週刊誌は、ミッチーブームで大きく市場を拡大し、平成の時代に大きな曲がり角を迎えたと言える。 特にこの10年ほどは、ジャーナリズムの分野に限らず雑誌というメディアそのものが大きな岐路に立たされている。例えばスマホの影響で、20代向けの女性誌市場は、深刻な勢いで縮小していった。一時は壊滅的とも言えるほどの勢いだった。 それに対してこの1~2年、大手出版社が何をしたかと言えば、雑誌のブランド力をベースに、ウェブやイベントなどを連動させ、新たなビジネスモデルを作り上げることだった。そして2018年に入って、各社のそうした取り組みが少しずつ功を奏しつつある。 かつてはウェブが紙の雑誌を侵食すると考えられていた時代もあったが、今はそうでなく、両者の連動によってどんなビジネスモデルを作り上げるかという発想が一般的になりつつある。例えば『女性自身』や『女性セブン』などの女性週刊誌は、芸能ネタがウェブ上で大きなアクセスを稼ぐという事情もあって、ウェブ上でかなり広告収入を伸ばしつつある。ネット記事で広告収入を増やしている女性週刊誌 恐らく平成の次の時代においては、週刊誌は新たなビジネスモデルへの転換を迫られることになるのだろう。この何年かはその過渡期と言えるのかもしれない。週刊誌を手にするたびにため息をつくという私の体験も、ぜひ次の時代には変わっていくことを期待したい。■誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない■「不倫は社会悪」自分を良識派とみなす週刊誌と読者の薄っぺらさ■【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと

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    百田尚樹『日本国紀』をどう読むか

    作家、百田尚樹氏の新刊『日本国紀』の売り上げが好調だ。同書の副読本も発売されるなど話題は尽きないが、その一方でSNSではコピペ騒動などが持ち上がり、批判も渦巻いた。強烈キャラで知られる百田氏だけに好き嫌いが分かれるとはいえ、『日本国紀』をどう読むべきか、改めて考えたい。

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    百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない

    個所も多い。例えば織田信長については、初稿では「今でいう無神論者に近い」となっていた。これは例えば、メディアでも人気の歴史学者である本郷和人氏の近刊『東大教授がおしえるやばい日本史』(監修)『戦国武将の精神分析』(対談)でも描かれている歴史観なので、少なくとも学者からも袋叩きに遭うことはない。 しかし、筆者は自らの史料調査や寺社取材により、信長が無神論者どころか神仏を篤(あつ)く崇敬し、天皇を支える勤皇の武将であったと相応の根拠をもって確信している。「革命児」「無神論者」「天皇や将軍を蔑(ないがし)ろにした」と評価されるようになったのは戦後のことであり、この点筆者も呉座氏の「日本人の歴史観は歴史学界での議論ではなく有名作家による歴史本によって形成されてきた」(12月18日付朝日新聞)という主張に同意である。 とりあえず伊勢の神宮はじめ、さまざまな神社仏閣を復興したことなどを具体的に指摘したところ、発刊時には修正されていた。要するに、歴史学者諸氏が指摘したいような論点のうち主要なものは、すでに校正段階において監修者との間で議論が行われ、また著者の頭の中でもさまざまに検討されてきたということである。筆者自身、「諸説の存在を分かったうえでお書きとは思いますが…」と前置きしながら種々の指摘を行ったものである。 「百田氏は知らないだろうから教えてあげよう」という類いの論評の多くが、これまでに蓄積された膨大な教養を駆使して歴史を叙述する百田氏への真摯な忠告ではなく、『日本国紀』50万部の読者を利用した自己アピールに見えてしまうのは筆者だけであろうか。講演する百田尚樹氏=2018年3月2日、大阪市中央区の松下IMPホール(永田直也撮影) ともかく『日本国紀』とは、著者―編集者―監修者の間でかなりの議論を経て生み出されたのである。各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分については、読者も百田氏のそれなりのこだわりを感じて読むことになろう。「学界の通説」にかなっているか否かの判断だけでなく、こうした歴史書の著者が掲げた問題意識や仮説に応えられているかを自省できる歴史学界であってほしいと、学界の末席から願う次第である。■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    箱根駅伝は日本陸上界にとって「正義」か「悪」か

    問題だろう。不思議なことに、陸上競技の日本選手権よりも、関東学生のローカル大会である箱根駅伝の方が、メディアの取材は殺到する。しかも、大会が始まるずっと前から、「箱根取材」は始まっている。バカ騒ぎに便乗しない男たち 5月の関東学生対校選手権(関東インカレ)、9月の日本学生対校選手権(日本インカレ)では男子長距離種目になると、記者の取材エリアであるミックスゾーンが大混雑する。入賞すらできなかった学生ランナーにまで、カメラを向けてインタビューをしている有り様である。しかも選手たちに「箱根」のことを聞いている。熱心と言えばそれまでだが、記者の多くは長距離種目以外は見向きもしない。はっきり言えば、こんな過熱報道が選手たちを勘違いさせる。事実、大した実力もないのに「スター気取り」という選手も少なくない。 箱根駅伝は「正義」か「悪」か。日本のマラソン界が低迷すると、そんな議論が決まって持ち上がる。強豪大学のある監督は「箱根は陸上界にとって悪ですよ」と本音を漏らしたことがある。それは「世界」につながらないという意味だ。学生長距離界は「箱根至上主義」に傾き、世界に羽ばたくための準備が中途半端になっている。大学側もオリンピック選手を輩出するより、箱根駅伝に出場する方が、かえって学校のPRになると思っている節がある。 将来を見据えて学生ランナーを指導する別の監督も「あの距離のレースは五輪や世界選手権の種目にありませんし、極端な上りを競うこともないわけです。箱根で何かを成し遂げたとしても、マラソンにつながることもないような気がします。全く異質な種目をやっているわけですから。それに私自身、大学から指導者としての給料をいただいているからには、箱根の優勝を是が非でも目指していかなければいけません」と苦悩を話す。 ただ、最近は大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)、設楽悠太(ホンダ)、井上大仁(MHPS)、服部勇馬(トヨタ自動車)など、箱根駅伝を経由して、マラソンで活躍する選手も出てきている。彼らに共通するのは「バカ騒ぎ」に便乗するような愚か者ではない、ということである。特に大迫と服部は学生時代から箱根駅伝の「先」を見つめて、行動を起こしてきた。 昨年、フルマラソンで2時間5分50秒の日本記録を樹立した大迫は、学生時代から箱根駅伝に向けたトレーニングではなく、トラック(5千メートル、1万メートル)のタイム短縮を目指してスピードを磨いた。福岡国際マラソンで14年ぶりの日本人Vに輝いた服部は大学在学中からマラソンに挑戦。ターゲットである2020年東京五輪から逆算する形で取り組んできた。二人とも自分なりの目標を見据えた中での箱根駅伝だったわけだ。 むろん、五輪という高い目標を掲げる選手がいる一方で、箱根駅伝が夢という学生もいる。求めるレベルが異なる者たちが同じ集団で混じり合うのも学生スポーツの魅力である。2011年1月2日、第87回箱根駅伝1区、区間賞の走りで独走を続けた早大・大迫傑(斎藤浩一撮影) 以前、大迫を取材したときに、箱根駅伝が選手として成長する上で役立っているのか、と聞いたことがある。彼の答えはちょっと意外なものだった。「僕の走りに関しては特にありません。でも、大学を卒業してからも付き合っていける友人を見つけられたことは、すごく良かったと思います」と話してくれたのである。 大迫の感覚は「学生スポーツ」を考える上で、ヒントになるような気がする。筆者は大学を卒業して20年近くなるが、大学1年のときに「俺たちが4年のときには箱根で優勝するぞ!」と仲間と熱い言葉を交わしたのを覚えている。実際は予選会すら突破できなかったのだが、今でも大学時代の仲間とは強い絆で結ばれている。 視聴者が抱くようなイメージである「美しい姿」。学生スポーツはそれぐらいがちょうどいい。1月3日の昼過ぎ、ゴールの東京・大手町にこだまする歓喜の声は、いつまでも学生ランナーたちのものであってほしい、と切に願う。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    箱根駅伝「完全生中継」から見えてくる日テレの功罪

    」あるいは「正月の風物詩」としてテレビで楽しまれるようになったのは、それほど昔のことではない。「マスメディアに媒介されたイベント」として箱根駅伝を捉えるならば、目まぐるしい変化の積み重ねによって、革新が伝統を創造してきたと言っても過言ではない状況が見えてくる。 大会の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。報知新聞社が主催する「四大校対抗駅伝競走」として1920年に始まっているので、およそ100年の歴史がある。今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公で、日本マラソンの祖とされる金栗四三たちが、欧米の選手と肩を並べて活躍できる長距離ランナーの育成を目的に、東京箱根間の大学対抗駅伝の開催を思い立ち、報知新聞社に企画を持ちかけた。 1920年の第1回大会は、往路が2月14日、復路が15日という日程で、選手は午前中に大学の授業を受けた後、13時にスタートした。箱根の山中を走る頃には日が暮れるので、地元青年団がたいまつをかざして選手を誘導したという有名な余話がある。 駅伝は日本発祥の陸上競技種目であり、江戸時代に交通や通信の手段として整備された「宿駅伝馬制度」に由来する。読売新聞社の協賛記念事業として1917年、京都から東京まで23区間をリレーする「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されたのが、駅伝の始まりとされる。 朝日新聞社が主催する「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」の前身にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開かれたのが1915年のことだ。このような大会を新聞社が主導してきたのは日本独特のことであり、各社が新聞読者を獲得するための事業戦略のせめぎ合いから、箱根駅伝は生まれたとも言える。 そして戦時下、言論統制を目的とする新聞統合(一県一紙制度)によって報知新聞社と読売新聞社が合併し、箱根駅伝は戦後、読売新聞社が関東学生陸上競技連盟と共催する事業として発展することになる。 それに対して、日本テレビによる完全生中継が始まったのは1987年のことであり、実は全国的な注目を集めるようになってから30年余りに過ぎないのである。第63回箱根駅伝=1987年1月2日 箱根駅伝は戦後まで、ラジオで中継を聞くこともできなかった。NHKがラジオ放送に乗り出したのは1953年1月のことだが、現在は文化放送とアール・エフ・ラジオ日本もラジオ中継を行っている。 1979年から1986年までは、テレビ東京(1981年まで東京12チャンネル)がダイジェスト番組を放送し、最終10区のみを生中継していた。NHKは年末年始恒例の中継番組が立て込んでいたので、放送機材を箱根駅伝のために集めるのが難しかった上に、箱根駅伝そのものが関東のローカル大会であったことも重なり、全国放送を躊躇(ちゅうちょ)させたのである。日テレは乗り気じゃなかった また、読売新聞との関係を踏まえれば、日本テレビが放送するのは自然な流れだったが、当時は乗り気ではなかったという(杉山茂「「ラジオ・スポーツ」から「テレビの華」へ ―放送技術を結集させた箱根駅伝」『箱根駅伝の正体を探る』創文企画、2016年)。 というのも、箱根の山岳中継は過酷を極めるためだ。日本テレビは80年代、全区間生放送に備えて中継が可能な場所を徹底的に調査し、中継車の大改造も行ったという。長年にわたって箱根駅伝を手掛けた日本テレビの黒岩直樹氏によれば、第一回の中継では、踏切で1号車が先頭ランナーに抜かれてしまったり、箱根での宿泊や食事の手配が間に合わなかったりと、ハプニングが続出したらしい。 それでもお笑い中心の「おせち番組」(=年末に撮りだめして、新年に放送される番組)に飽きていた視聴者には支持され、予想を上回る平均18%の視聴率を記録した(黒岩直樹「わたし流番組論49 たすきの瞬間のドラマ ―箱根駅伝を撮る」『月間民放』2000年3月号)。 そして1989年に初めて、全区間の完全生中継が可能になった。その一方で、日本テレビは事前収録したVTRを効果的に挟んで、注目選手やその人間ドラマを丁寧に紹介した。黒岩氏によれば、箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではなく、「スポーツ・ドキュメンタリー生中継」を基本コンセプトとしてきたという(同上)。 1988年には箱根を全国大会にする提案も持ち上がったが、初代プロデューサーの坂田信久氏は、テレビ中継を行うことで箱根駅伝を変えてはいけないという考えから、これを断ったという。長年の番組スポンサーも、企業名を露出することよりも、大会を共催して支えようという考えの方が強いらしい(『週刊東洋経済』2008年1月26日号)。第95回箱根駅伝、2区の川澄(右)へたすきをつなぎ、倒れ込む大東大1区走者の新井康平=2019年1月2日、横浜市・鶴見中継所(斎藤浩一撮影) 日本においては、マスメディア企業体が主催し、自ら積極的に報道する「メディア・イベント」は枚挙にいとまがないが、複数の新聞社や放送局によって今日まで育まれてきたところに、箱根駅伝の特異性がある。 それでも、日本テレビによる中継が始まったことで、箱根駅伝を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、従来は1月中旬に開催されていた「全日本大学駅伝対校選手権大会」が88年度から11月に変更され、全国大会が地区大会の前哨戦に位置づけられるという「逆転」が生じた。 また90年代に入ると、箱根駅伝で上位に入った大学は全国的に知名度が高まり、受験志願者が増える傾向がみられるようになった。これに大学経営陣も敏感に反応した。テレビ中継の開始後に選手育成を強化し、優勝を経験した大学も少なくない(生島淳「大学全入時代がもたらした箱根駅伝の「経済戦争」」『エコノミスト』2010年1月5日号)。テレビ中継の功罪 その結果、才能のある高校生が強豪校から熱心に勧誘され、優れた選手が関東に遍在するという事態が一層進んだ。さらに、優秀な選手が箱根駅伝を区切りに競技生活を終える「箱根駅伝燃え尽き症候群」も、ますます問題視されるようになった。 これらの問題に対しては、まったく異なる見方もできる。スポーツ人類学に取り組む瀬戸邦弘氏は箱根駅伝を、国際スポーツの価値体系とは必ずしも折り合いがつかない、地域独自の文脈に根差した固有の価値体系を有する「エスニック・スポーツ」として捉えている。 瀬戸氏の指摘で興味深いのは、日本テレビが当初、箱根山中の電波状態が脆弱(ぜいじゃく)であることを踏まえて、生中継が中断したときの予備映像、いわば「つなぎ」のコンテンツとして制作した「箱根駅伝今昔物語」が、思わぬ形で果たした役割である。 箱根駅伝を支えてきた人々に焦点を当て、そのライフヒストリーを紹介しながら、大会の歴史を伝える名物コーナーだが、瀬戸氏はこれによって「箱根駅伝という番組自体が90年を超える時空間を自由に行き来する歴史的でありながら、共時的なバーチャル空間として成立することになった」という。 要するに、各大学の競走部(陸上部)の中で集団の記憶として受け継がれていた伝統重視の価値観が、番組を通じてクリアに可視化され、視聴者との間で広く共有されることになったのである。 明治期以降に成立した体育会運動部文化の延長線上にあると捉えれば、箱根駅伝の創設理念には反するが、オリンピックを頂点とする国際スポーツ文化の価値体系とは容易に馴染(なじ)まない。「箱根駅伝燃え尽き症候群」を嘆くのは、あくまで国際スポーツ文化の価値体系に基づく見方である(瀬戸邦弘『エスニック・スポーツとしての「箱根駅伝」』『文化人類学研究』14巻、2013年)。第94回東京箱根間往復大学駅伝、転倒する国学院大9区・熊耳智貴さん=2018年1月、神奈川県横浜市(撮影・斎藤浩一) 箱根駅伝で活躍した選手に対して、次は国際的な大舞台で結果を残すことに期待をかけるのも、逆に体育会運動部の伝統的な価値観を再生産しているのも、いずれもマスメディアに他ならない。この乖離を調停することは、箱根駅伝に関わる新聞社や放送局の使命ではないだろうか。 そしてこの議論こそが、選手に対する安全配慮のあり方を反省的に見直すことにも直結するだろう。持久力をつけるために長距離をひたすら走り込むという練習法によって、国際的な舞台で活躍できるスピードが身につかないという「箱根駅伝有害論」は戦前から指摘されていた(1938年には早稲田大と慶應義塾大が出場を辞退している)が、それどころか選手生命に関わる故障につながりかねないリスクを伴っていることも、現在では広く知られている。 テレビ放送の高視聴率、すなわち「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としての定着が、次なる変革に対する足止めになるのは望ましいことではない。冒頭で述べたように、箱根駅伝の伝統を裏打ちしているのは、メディア・イベントとしての革新に他ならないのだから。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    大晦日だよ、テレビ特番考

    かつて大晦日のお茶の間は、NHK『紅白歌合戦』の一択だった。時代が変わり、ライフスタイルも激変した今、「テレビ離れ」は平成を象徴する言葉となった。お笑いや格闘技、ドラえもんといった定番化が進む年末特番の何が変わり、変わっていないのか。各局テレビ番組を考察する。(写真は日本テレビ提供)

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    『NHK紅白歌合戦』男女対抗に固執する意味がどこにある

    うのも、テレビ視聴率の低下は、紅白歌合戦に限ったことではなく、今やインターネットの発達をはじめとするメディア環境の大幅な変化によって、メディア接触時間が媒体によって多大な変容を遂げているからである。 巷間(こうかん)言われる「若者のテレビ離れ」は数値としても明らかであり、2017年の調査結果によれば、10代から20代のインターネットの利用時間はテレビ視聴時間より上回る(総務省「平成29年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」)。 逆に40代、50代、60代ではテレビ視聴の時間がインターネット接触時間より長く、30代で拮抗し、10代、20代で逆転しているので、テレビのオーディエンスの中心は中高年という見解は、統計的には正しい。 しかし、だからといって、テレビというメディア自体に将来がないという判断も早計である。前述のように「テレビ離れ」と言われている状況でも、視聴率1%をほぼ100万人と換算すれば、たとえば、紅白歌合戦という特定の番組が40%近い視聴率を獲得していることは、あなどれない数値であり、現代の若者と言われる世代が、高齢になってテレビを見ないという保証はないからだ。第37回NHK紅白歌合戦のオープニング=1986年12月、NHKホール そして紅白歌合戦の視聴率低下の背景には、メディア環境の変化以外にも、ライフスタイルや「幸福」観の変容という、より大きな時代の流れがある。まず、昭和の高度成長期には、日本が敗戦の焼け跡から立ち上がり、「国民」一丸となって戦後復興を目指すという共通の目標があった。つまり、「国民」という連帯感、一体感が求められる時代背景があった。 テレビというメディアもまた、この機運とともに発展した。東京オリンピック(1964年)、新幹線開通(同年)という高度成長期の象徴的イベントとともに、家庭用テレビが普及し、戦後の復興を実感する娯楽生活において、エンタテインメントとしても重要な位置を占めていた。幸福モデルだった主婦 この時代は、「近代家族」の「幸せ」観がピークに達する時代でもあった。戦後の高度経済成長を成し遂げるため、お父さんは会社で必死に働き、女性は妻、母として企業戦士として外で働く男性を内助の功で支えるライフスタイルが理想化された。 女性は生活費を稼ぐ心配をすることなく、家で専業主婦として家事、育児に専念できることが、女性にとっても「幸福モデル」となり、NHK、民放4社によるカラーの本放送開始とともに、家庭を「守る」主婦にとっての「三種の神器」と言われるようになったものが、まさにテレビ、冷蔵庫、洗濯機の家電製品であった。 近代化以前の社会では、日本以外にも多くの世界の地域において、女性は生計労働のために働いていたが(女性も生計労働をしないと、一般市民の多くは生活が成り立たなかったため、第一次産業の多くの分野では女性も働くのが常識だった)、社会が近代化し、経済も豊かになると、夫一人の収入で家族全体が生活できる「男性一人稼ぎ手モデル」が主流化する。 それが夫=生計労働、妻=家事育児と、男女の性別役割が明確化した「近代家族」の特徴であり、郊外の一戸建てに定収入のある夫と専業主婦の妻が住み、子供とともにその「近代家族」の幸せをかみしめる「だんらん」の時間こそが、日本においては、年末に家族そろって、一家に一台のテレビで同じ番組、つまり紅白歌合戦を視聴するという、年越しのあり方だったのである。 しかし今や、テレビは一家に一台の「貴重品」ではなくなり、スマホなど個別の端末で、家族成員のみならず、個人個人が自分の嗜好(しこう)に応じたコンテンツを個別に視聴する時代になっている。娯楽も個人化し、年末年始の過ごし方も多様化しているのである。 同時に、「家族だんらん」=幸せの象徴、という感覚も変容している。非婚化が進み、若者世代が、結婚はコスパが悪い、「オワコン」(終わったコンテンツ)ではないかと疑問視するようになり、結婚=幸せという価値観も絶対ではなくなった。 紅白視聴=家族の幸せという前提が崩壊している以上、紅白の視聴率が低下するのも必然であり、紅白という番組自体のコンテンツ力がなくなったと一概には断言できないのである。 ただし、紅白のコンテンツとしての性格も、時代に即していない面は生じていると思われる。まずは、「男女対抗」という形式である。 昭和期にテレビとともに育った世代としては、紅白の男女対抗という構図を「そんなものだ」と受け入れていたが、そもそも、なぜ年末年始という節目に、男女が戦う姿を見せられねばならないのか、成長するにつれて疑問に思うようになった。男女は「敵同士」ではないのに、という不可解な思いが、個人的には募るばかりである。第37回NHK紅白歌合戦のフィナーレ。白組の勝利に悔しそうな斉藤由貴(左)と白組キャプテンの加山雄三=1986年12月、東京・渋谷のNHKホール とはいえ、紅白歌合戦に限らず、女性は女性同士、男性は男性同士で絆を結ぶという傾向は、日本社会の特質ではある。 歌舞伎は男性のみ、宝塚歌劇は女性のみで、明治になって、それはいかにも「不自然」であると、当時の知識人が「男女合同」の演劇を提唱したにもかかわらず、歌舞伎は伝統芸能として残り、宝塚歌劇は大正期(1914年)になって新たに誕生した上に、一時存在した男子部がなくなり、女性だけの劇団に落ち着いたという経緯がある。変容のバロメーター こうした日本社会の歴史をみれば、男女対抗という形式こそが、紅白への共感、すなわち高視聴率を支えてきたという見方もできる。 しかし、性の多様性についての議論も高まる中で、さすがにこの形式はジェンダー平等に反しているのではと思われる。しかも、この形式に共感する限りは、先進国としては異常なほど低い日本の男女格差指数の改善は望めない(主要144カ国中、2017年114位、18年110位)のではと考える。 併せて、出演者の歌の内容についても、時代の心性とのズレが生じている。紅白のトリといえば、昭和期には演歌の大御所の定位置であり、演歌歌手は歌唱力が高いので、その意味では年末番組を飾る歌手としての実力を有している。 しかし、演歌の内容は、いわゆる水商売の女性の寂しさや、報われない恋といった、悲劇的なトーンのものが多く、この内容も昭和期には一定のリアリティーがあったが、女性の人生の選択肢が広がっている現在では共感を得にくいのではないかと思われる。 欧米社会の新年では、クリスマスに既に家族だんらんを済ませていることもあり、若者同士で派手に大騒ぎという年越しがみられるのに、日本ではなぜ悲しい歌を耳にしながら年越しをするのか、新しい年を迎えるのだから、陽気に騒ぐ方が自然なのではないか。海外での年越しを経験した筆者個人の素朴な疑問でもある。 日本の大みそかは、除夜の鐘で粛々と迎えるという習慣があるため、陽気な音楽よりもしみじみした楽曲の方がマッチしているということもあるのだろうが、「歌は世につれ世は歌につれ」という言い回しも、現状の日本社会にあまりそぐわなくなっているのかもしれない。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) とはいえ、視聴率が数%レベルに落ち込んでいるのならともかく、紅白歌合戦はいまだテレビ番組全体の中では健闘しているコンテンツである。「下火だよね」と否定的に見るのではなく、上記のように、日本社会の幸せ感や家族観の変化の反映ととらえるのであれば、視聴率の低下もまた「国民」の生活変化の象徴であり、その意味で確かに「国民的番組」である。 年末年始の多様な過ごし方の一つとしては、紅白歌合戦も依然、一定の位置を占めており、今後の変化もまた日本社会の変容を考えるバロメーターとして注目されるのである。■松田聖子と安室奈美恵、昭和と平成のトップアイドルはここが違う■「革新的アイドル」西城秀樹は理屈じゃ語れない■「特別枠」を乱発しすぎた紅白歌合戦の苦悩と違和感

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    崖っぷち『RIZIN』の大博打、格闘技「大晦日特番」は生き残れるか

    るのは確かだ。 それでも、テレビ中継に出演している以上、選手は視聴者と観客の目を意識する必要がある。メディアの質問に「頑張ります」とだけ言って、試合を淡々とこなすだけでは、移り気なユーザーがこのマイナースポーツに興味など示すわけがないことを自覚すべきだ。■「独裁者」山根明を生んだボクシング界の悲哀■日本人には高すぎたミドル級の壁、それでも村田諒太なら超えられる■「ガチンコと品格」を求めたら、相撲になかったことがバレてしまう

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    大晦日はやっぱり『ドラえもん』 世界中で愛される九つの不思議

    横山泰行(富山大名誉教授、ドラえもんアナリスト) ドラえもんは、1969年12月に小学館の学年誌『小学一年生』、『小学二年生』、『小学三年生』、『小学四年生』で連載を開始した漫画である。作者である藤子・F・不二雄氏から、漫画の大好きな日本の子供たちに、素晴らしいクリスマスプレゼントが提供されることとなった。 学年誌などに連載されたドラえもんは、最も多くのファンに愛読された『てんとう虫コミックス短編(第1巻74年8月発行)』、『大長編(第1巻82年12月)』、雑誌『コロコロコミック(77年5月創刊)』に集約して刊行された。79年9月までに第17巻まで刊行されていた『てんとう虫コミックス短編』の累積総販売部数は1500万部に達したと報告されている。 ドラえもんをスーパーアイドルに押し上げ、戦後の代表的な国民的漫画として認知されるに至ったのは、テレビの放映と映画の製作によるといっても過言ではない。 ドラえもんは79年4月から、テレビ朝日系でアニメ放映が始まった。さらに『てんとう虫コミックス大長編第1巻』を原作として、最初の映画『のび太の恐竜』が80年3月に公開された。 このアニメや映画の影響もあり、てんとう虫コミックス短編の累積総販売数は80年2月には、3千万部の大台に乗っている。84年3月には、短編(29巻)、大長編(2巻)の累積総販売数は驚異的な5千万部となった。 また、冬の北海道の一大イベントである「さっぽろ雪まつり」では、80年に雪像の半分をドラえもんのキャラクターが独占した。出版界においても、戦後の日本の社会心理学を牽引してきた一橋大の元教授であった南博氏が『ドラえもん研究』(ブレーン社)を公刊するなど、社会現象になった。 そして、その人気は国外にも拡大する。80年代にアジアを旅行した日本人がいたる場所でドラえもんの姿を見かけるようになり、その事実が新聞やテレビで報道されるようになった。特に、香港、台湾、タイを旅行した人たちに顕著に認められた兆候であった。※写真はゲッティイメージズ アジアで急激にドラえもんが浸透するきかっけになったのは、ドラえもんの漫画の海賊版の横行だったとされる。上記の香港や台湾、タイは日本とともに戦後の豊かさをいち早くアジアで実現した地域でもあったことから、他の国々へドラえもんの流行を促す拠点港になった。 筆者の同僚がタイで調査研究に従事した際、タイでは地図に出ていない小さな村落でさえ、ドラえもんを必ず目にすることができたと、驚きながら語ってくれたことがある。そして世界を飛翔し続けたドラえもんは90年代に中国において、あっという間にディズニーのミッキーマウスをしのぐ人気者になった。中国では一時放映禁止も また、筆者が奉職していた富山大で学んでいた中国・青島出身の女子留学生から次のようなエピソードを聞いた。青島でドラえもんのアニメが放映されると、小学生の間で爆発的な人気になり、長時間ドラえもんのアニメを見るようになったという。 このため、保護者から学校のほか、日本の教育委員会に相当するセクションやテレビ局にも抗議が殺到し、しばらくドラえもんの放映が禁じられる事態に発展した。ところが、結果的には、他のテレビ局が放映を開始したため、失敗に帰したとのことである。 では、なぜドラえもんが日本のみならず、多くの国々の子供たちに支持され、愛されているのだろうか。ここまでドラえもんの歴史や海外で人気を得た過程を見てきたが、本稿の最後に、筆者がこれまでに考察した九つの理由を紹介しよう。 一つ目は、今まで存在しなかった漫画キャラクターであるネコ型ロボットのドラえもんが、日本人の大好きな夏目漱石の『坊っちゃん』や山田洋次監督の映画『寅さん』シリーズに似た個性的な主役像を帯びた点だ。 また、二つ目は、多くの国々で長きにわたってドラえもんが愛されたことに起因するが、時間や空間を超越した普遍的なキャラクター像をドラえもんに盛り込むことに成功した点にある。 三つ目は、理由は定かではないが、ドラえもんが儒教や仏教といった文化的土壌がある国々との親和性が推察でき、これがアジア各国で愛されるゆえんである。その半面、キリスト教の中でもプロテスタントの支配的な国々では逆の結果となっており、あまり支持されていない。 四つ目の視点は、日本の歴史上最も栄華を極めた時期(70~95年)に描かれた作品であることだ。日本だけでなく、アジア地域の中で比較的早く近代化に成功した国々の人々は、近い将来の自分たちの目指す生活をドラえもんに垣間見たようだ。 そして、ドラえもんのほぼ全作品に「ひみつ道具」が登場している点が五つ目だ。ひみつ道具は作品の時間や空間の拡大に貢献し、作品の間口や奥行きの深化に寄与し、ストーリーの多様性を促す結果となった。 また、六つ目としては、ドラえもんがひみつ道具を縦横に駆使して、強きをくじき弱きを助ける存在である点を挙げたい。ネコ型ロボットの世界では、ドラえもんは劣等生であったため、弱者の気持ちを十二分にくみ取り、弱者の立場に立って振舞うキャラクターが共感を呼んだようだ。※写真はゲッティイメージズ 七つ目は、登場人物の関係性だ。のび太を絶えずいじめるジャイアンやスネ夫だが、本当に困ったときには、やさしく手を差し伸べることができる度量の広さをこの2人に持たせたのは、ドラえもんならではないだろうか。 八つ目は、男の子の生活全般の良い点と悪い点が、のび太やジャイアン、スネ夫と準主役の出木杉君によって、リアルに活写されていることだ。ちなみに、女の子の場合、ほとんどしずかちゃん一人の大奮闘によっているため、多様な側面を持った女の子として描かれている。 最後の九つ目は、ドラえもんが漫画の中で、周りの老若男女に愛されている点にある。あの口やかましいスネ夫のママからも「ドラちゃんとだったら安心ざますわ」と、絶大な信頼を獲得しており、その「安心感」も重要な要素だろう。 以上、これらが誕生から半世紀を経てもドラえもんが愛される理由である。■正しく通俗であるがゆえにリアル 「こち亀」が日本人に教えたもの■『少年ジャンプ』伝説編集長が語る「漫画雑誌は一度壊して作り直せ」■さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は永遠の謎である

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    『笑ってはいけない』のベッキーへの尻蹴りが笑えない理由

    位を失った。 「ベッキーは世間から大バッシングを受け、レギュラー番組を全て失いました。最近では多少、メディア露出が増え始めたとはいえ、タレントとしては非常に厳しい状況と言えるでしょう。そんな“強者”から“弱者”になったベッキーを蹴り上げたら、いじめの構図に見えてしまうんです。 笑いは、弱者が強者をいじるところから生まれるのではないでしょうか。たとえば、コント55号は萩本欽一が7歳も年上の坂上二郎を舞台上で追い込んでいった。ボケの二郎さんが突っ込みの欽ちゃんより年上だったから、観客は腹を抱えて笑えた。ビートたけしは欽ちゃんが『視聴率100%男』と言われて権威だった時代に、アットホームな笑いを徹底的に批判しました」(同前)2018年7月、ラジオ番組収録のためエフエム東京を訪れたベッキー(山田俊介撮影) 結果的にたけしは、当時お笑い界の頂点にあった欽ちゃんからその座を奪い、現在もお笑い界のトップに立ち続けている。「下のものが上のものに盾突くから面白いのであって、現在お笑い界の頂上にいると目されているダウンタウンの番組で、人気のなくなったベッキーが蹴り上げられる構図は、世間から見ればいじめに見えてしまいかねない。とても笑っていられる状況ではないと思います。 逆に言えば、現在ビッグ3やダウンタウンに歯向かっていくお笑いタレントはほぼ皆無で、むしろ服従しているようにすら映っている。新たなバラエティ番組のヒットが生まれづらい、いつまでもお笑い界に世代交代が起こらないのは、そこに原因があるのではないでしょうか。オリエンタルラジオの中田敦が昨年、松本人志に意見したことはいつの間にかうやむやになりましたが……。ベッキーへの企画も、誰かが『これは笑えない』と意見できなかったから放送されたわけです」(同前) 昨今のお笑い界が抱える服従構造の延長線上に、ベッキーへの尻キックがあったとも考えられるようだ。関連記事■ ゲス不倫が人間関係に影? ベッキーと上戸彩が共演NGの理由■ 復帰したベッキーはいつまで生娘的なキャラを演じ続けるのか■ 石田ゆり子が3億円豪邸を新築、気になる同居相手■ 小川菜摘 女芸人に浜田の不倫いじられ「前から知ってたわよ」■ 『あさイチ』降板の有働アナ、決定に至るまでの様々な葛藤

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    NHK紅白歌合戦、特別枠に「要らない」と疑問の声出る

     大晦日に放送されるNHK『第69回紅白歌合戦』。北島三郎、サザンオールスターズが出場することも注目を集めているが、彼らは特別枠での出場となる。この特別枠について異論を唱える声が出ている。 紅組、白組で出場する42組の歌手のほかに、北島、サザンの出場は追加で発表された。NHKはこの2組以外にも特別枠でサプライズを狙っているという。 NEWSポストセブンでは20日、「紅白 米津玄師、ドリカム、B’zにギリギリまで交渉か」とのタイトルの記事を配信。ドラマ『アンナチュラル』(TBS系)の主題歌『Lemon』が大ヒットし、一躍時の人となった米津玄師、連続テレビ小説『まんぷく』の主題歌を歌う『DREAMS COME TRUE』、2018年デビュー30周年のB’z側と、交渉を続けているという。 いずれも出場するなら特別枠ということになりそうだ。 ネット上では米津、B'zの出場には可能性は低いとする見方が多く、「いやぁ〜米津さんは出ないと思うな」「少なくともB'zや米津玄師は出場しないでしょ」との声が。ドリカムについてはこれまで何度も出場していることから、「別にドリカムはサプライズにもならない」との書き込みがあった。 特別枠についても否定的な意見が目立った。「特別枠必要? その時間を出演者が一曲フルコーラスで歌える時間に充てて欲しい」「特別枠ばっかりになるんだから、もうそもそも歌合戦というカタチをやめるべきね」 さらには、サザンが大トリ後の最終歌唱を務めることについても「普通に選ばれた方々を差し置いて、特別枠が大トリってどうなんだろう?」との主張もあった。2018年1月、京都競馬場で熱唱する北島三郎 以前は、特別枠はなかったが、その始まりは2008年。美空ひばりさんの生誕70年にあわせて、小椋佳がひばりさんに提供した『愛燦燦』を歌ったのが最初だった。その後、2009年にスーザン・ボイル、矢沢永吉、2011年にレディー・ガガ、2014年に中森明菜、2017年に安室奈美恵さんらが出場している。 こうした特別枠を設ける背景とは?「NHK紅白の“弱体化”と無関係ではないでしょう。年々、影響力が弱くなる紅白は、すでに人気も知名度のあるアーティスト側にとっては、出場するメリットはほとんどないと言っていい。そんななかで、NHKはどうしても出てほしいアーティストに、この特別枠を用意するわけです。“海外からの中継でも”“スタジオからの中継でも”と、出場までのハードルを下げて交渉することもできますからね。また、特別枠は通常の出場歌手を発表してから、本番直前に発表することもできます。サプライズとしてインパクトを与えられますし、ギリギリまで交渉を続けることも可能です。そうした事情を考えると、今後、特別枠で出場する歌手はますます増えていくのではないでしょうか」(芸能関係者) いずれ出場歌手のほとんどが特別枠になったりして?関連記事■ 紅白 米津玄師、ドリカム、B’zにギリギリまで交渉か■ 稲葉浩志、結婚20年の妻と誕生日に銀座デート撮■ 福山雅治の下ネタに吉高「私のオッパイいいでしょ」と返した■ TOKIO城島茂と25才年下恋人との「変装なし」最新2ショット■ 渡辺謙、軽井沢の土地面積1000坪別荘で恋人と新生活

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    漫才道を汚したM-1騒動「敬意なき毒舌」は笑えない

    杉江義浩(ジャーナリスト、放送プロデューサー) お笑い芸人、とろサーモンの久保田かずのぶさんと、スーパーマラドーナの武智正剛さんが、『M-1グランプリ』(ABC、テレビ朝日系)の審査員である上沼恵美子さんに暴言を吐いたとか、上沼さんがそれを受けて謝罪に応じないとか、本当にどうでもいいくだらないニュースを、マスコミが面白げに取り上げました。2018年のくだらないニュース「ナンバー1」に選びたいくらいです。 今のこの時期、マスコミが扱わなければならない重要なニュースは、もっと他にあります。中国の国策IT企業の問題や、わが国の自衛隊が空母を配備する問題、水道民営化や外国人労働者の受け入れ問題など、さまざまな重要な法案が与党による強行採決で進められているのが実態です。これら国民が頭を使わなければならないテーマを、マスコミはもっと取り上げるべきだと思います。 とはいえ、娯楽も国民には必要なもの。芸能界の人々やスポーツ界の人々の言動が、どうしても注目を浴びてしまうだけに、ある意味マスコミの宿命だと言えます。 多くの人に娯楽や感動を与えてくれる、芸能人やスポーツ選手が、くだらない存在だと言うつもりはありません。彼らもまた生活がかかっていて、一芸に秀で、懸命に技を磨き、競争に勝ち残ったものだけが栄誉と報酬を得られる、厳しい世界に生きているのです。 それだけにテレビの有名人には自らの言動が、少なからず国民の興味関心の対象になるという自覚が必要です。それらがマスコミで取り扱われるときには、一般人とは違って大きく紙面を使い、長いワイドショーの時間を使って報道されます。 むろんテレビの有名人の言動が、マスコミで大きく取り扱われるということは、たまには良い意味合いを持つこともあります。今年は元アイドル歌手の女性が起こした、飲酒運転のひき逃げ事件が、一般人より大きく報道されました。 この事件は、飲酒運転、信号無視、ひき逃げ、という道路交通に関する極めて大きな違反が重なっており、われわれ情報の受け手にとっても、交通ルールの重要性を再認識するきっかけになりました。国民に対して、安全運転に対する注意喚起という、一定の役割を果たしていたと思います。 それに対して、今回のお笑い芸人による大御所芸能人への暴言トラブルについては大きな意義を感じません。私も長年テレビ番組を作ってきましたが、この程度の話題がなぜ盛り上がるのか、考えれば考えるほど首をひねります。とろサーモンの久保田かずのぶ=2018年4月、東京・虎ノ門 ただ、今回の騒動で、「芸人」という極めるべき道のあり方について、ベテランと、未熟な芸人の矜持(きょうじ)の違いがハッキリしたことは間違いありません。そもそも芸能界というものは、落語や歌舞伎などもそうですが、その道を極めた人に敬意を払い、芸を見習い、さらに芸を盗んで一人前になるものです。漫才は、落語や歌舞伎などのように明確な師弟関係がない人も多数いますが、漫才についても「漫才道」という一つの道があるように思います。 その中で、今回のとろサーモン、久保田さんらの言動は、師弟関係の厳しい芸能界において、「師匠」に暴言を吐き、しかも技を審査される立場でありながら審査員をけなすという、とんでもなく礼儀をわきまえない行為だったというのは一目瞭然です。まさに漫才道を汚したといっても過言ではありません。仮にスポーツで負けた方が、審判のせいにして暴言を吐けば、これほど見苦しいものはないでしょう。 笑える要素ゼロ その一方で、上沼さんの審査の表現に厳しいものがあるとはいえ、多数いる芸人の中で生き残ってきた大御所だからこそ言える論評であり、そこに説得力が生まれるのではないでしょうか。要は、漫才道の「師匠」としての役割を果たそうとするがゆえの厳しさに他なりません。 象徴的だったのは、上沼さんが久保田さんや武智さんから売られたケンカを買わず、今回の騒動について、「なんとも思っておりません。暴言だなんだって全然結構です。悪いですけど、興味ないです」という程度で、まともに反応していないことです。上沼さんがまともに反論していれば、「どっちもどっち」的な評価で終わっていたでしょうが、上沼さんの対応が、余計に久保田さんや武智さんの評価を落とし、共感する人が少ないゆえんだと思います。 お笑い芸人には反骨精神が必要だという考え方には、確かに一理あります。ビートたけしさんや松本人志さんらも毒舌で知られますが、その「ネタ」には一定の敬意があったように思えます。芸人が表立って発言する以上、それはシャレになるというのが前提です。今回の久保田さんらの暴言には笑える要素が一つもなく、幼稚な反抗にすぎなかったと言えるでしょう。 さらに言えば、これはご本人たち同士の問題であって、周囲からどうのこうのと論評するような話題ではありません。本気で上沼さんが間違っていると思うなら、ネットで拡散するような手段ではなく、内々に抗議するなり、反論すべきレベルのものだったと言えます。炎上すればお笑い芸人にとっては宣伝効果があるかもしれませんが、逆効果になったのは言うまでもありません。 そもそも、こんな話題でも盛り上がれるのは、ネット社会の特徴だと思います。一般のどんな人でもネット上で発言をすれば、一人前のコメンテーター気分を味わえるし、自分が人気お笑い芸人や上沼さんと同レベルで議論に参加しているような、錯覚による興奮を感じることができます。それが面白くて、今回のトラブルに関しても、参加しやすいテーマだと考える人が多かったのでしょう。 そして大手マスコミはネット上で炎上していることに対して、後追いで記事にしてまとめますが、それは単に、ネット上でこんな話題が盛り上がりましたよ、という情報を伝える意味しかないのです。かっぱ寿司のフェア「かっぱのサーモンづくし」スタート記念イベントに出席したとろサーモンの左から村田秀亮、久保田かずのぶ=2018年1月、東京・赤坂 ネット上で議論すべき喫緊のテーマは、他にもたくさんあるはずです。そんな今、お笑い芸人のマナー低下を議論している場合でしょうか。一連の騒動を見ていて、ネット社会の意識レベルの低下の方が、私には深刻に感じられました。 こんな幼稚な話題で盛り上がるのは、これを最後にもうやめましょう。それが今回この話題で盛り上がってしまった方々への、私からのお願いであります。■ やらせへの危機意識を鈍らせた『イッテQ』の芸人依存体質■ 『笑点』政権ネタの炎上騒ぎは起こるべくして起きた■ さすがダウンタウン松本「憲法9条はなめられてる」

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    埼玉新聞に突撃取材「韓国との交流事業中止はネトウヨのせい?」

    に印象操作の意図は本当になかったのか。筆者の取材の限りでは、それは明らかにならなかったが、新聞が公共メディアである以上、明確な裏付けもないままに「ネット右翼、ネトウヨ」などと安易に用いるべきではないと思う。 いずれにせよ、秩父市の職員派遣中止は、筆者の出身地(同県川越市)とも関係するネタであり、特に気になる記事だったことには変わりない。■姑息な言論テロ『竹田恒泰チャンネル』停止祭りの内幕■「ネトウヨ夏のBAN祭り」ヘイト裁きをグーグルに訴える意味■【長谷川幸洋独占手記】異論を封じる東京新聞と私は断固闘う

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    日テレ『イッテQ!』やらせ騒動の本質

    日本テレビの人気バラエティー『世界の果てまでイッテQ!』をめぐり、番組企画のやらせ疑惑が大きな騒動となった。そもそも「存在しない」祭りをでっち上げたのであれば、非難されるのも当然だが、バラエティー番組のやらせと演出の違いについては一考の余地もある。騒動の本質を読む。(番組ロゴは日本テレビ提供)

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    『イッテQ』やらせ騒動「名プロデューサー」は週刊文春という皮肉

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 日本テレビのバラエティー番組『世界の果てまでイッテQ!』で放送されたラオスの「橋祭り」企画をめぐり、週刊文春が報じた「やらせ疑惑」が大きな問題となっている。近年のテレビでは度々、やらせや捏造(ねつぞう)が発覚し問題となっているが、今回は国民的人気番組であるだけに、より大きな騒動となって関心を集めている。 テレビにおけるやらせや捏造は古くからある。かつてはテレビ朝日『川口浩探検隊シリーズ』(1978~1985年放送)などのように、真剣な探検を装いながらも、多くが「演出」によって彩られていた人気番組は決して少なくない。むろん、視聴者の側も「やらせをやらせ」と理解しつつ、「もしかしたら…」というギリギリのリアリティーを楽しむ。そこにはエンターテインメントへの寛容な感性があったのである。 フェイクドキュメンタリーやリアリティーショーの魅力は、ドラマでも報道でもなく、それでいて見る者にリアルなハラハラ、ドキドキを感じさせる技術と表現にある。そして、視聴者の側にも当然、それを理解できる寛容さが求められる。作り手と視聴者の「共犯関係」で楽しむフェイクドキュメンタリー、リアリティーショーは今日でも名作、人気作品が世界的に多い。 しかしながら、日本では近年、メディア業界のコンプライアンス(法令順守)意識の高まりに伴い、そのような表現の問題点が指摘されるようになり、少なくとも『川口浩探検隊』のような作品はもう二度と作られないとさえ言われる。やらせと演出の「境界線」に関する議論が、ニュースになることも多い。 フェイクや台本、演出がある以上、それをドキュメンタリーや記録映像のように描いてはならない、視聴者に誤解を与えてしまうような表現は許されないという前提は今日、テレビ放送全てに当てはめられる傾向にある。報道と天気予報以外のほとんどのテレビ番組が創作物であるにもかかわらず、だ。 そうなれば、自ずと「前人未到のジャングル探検」もできないし、「UFOと米軍の密約」や「秘密組織による超能力兵器開発の証拠」も出すことはできなくなる。その結果、テレビ番組の表現にも制約がかかるし、もちろんつまらなくもなる。2018年11月、東京・渋谷で行われたイベントの後に『世界の果てまでイッテQ!』のやらせ疑惑について謝罪する宮川大輔 「第三の権力」であるメディアに誠実さを求めるという近年の流れには、筆者も大いに賛同するが、その一方で視聴者がテレビのエンターテインメント性に対して過敏になりすぎていることに違和感を覚える。ここで言う「視聴者」とは、主要な接触メディアがテレビであるという高齢者層ではなく、自ら情報発信する会員制共有サイト(SNS)なども使いつつテレビに接触する層を指す。 今回の『イッテQ!』やらせ騒動では、民放とはいえ、公共の電波を利用しているテレビが、事実とは異なる表現をしたことに不信感を持つことはやぶさかではない。しかしその一方で、『イッテQ!』の今回の番組作りをひたすら批判し、糾弾する状況に違和感を持っている人は何も筆者だけではあるまい。バラエティーに求める信頼性って? 「『イッテQ!』は単なるバラエティーでしょう?」。そうした番組本来の位置づけを忘れている人があまりにも多いように感じる。もっと言えば、そもそもバラエティー番組に公正さや正確さを厳密に求める風潮に対しては「エンターテインメントを楽しむことができる知性」の欠如も感じる。 コンプライアンス意識の高まりも重要であるし、SNSで頑張る「モノを言う視聴者=インディーズ評論家」の存在も悪いわけではない。しかし、『イッテQ!』は誰がどう見てもバラエティー番組である。記録映像や教育ドキュメンタリーのような作りにはなっていない。視聴者も真剣に応援したり、ハラハラ、ドキドキを感じていたとは思うが、最終的にはバラエティーとして楽しんでいたはずである。同じエベレスト登山の番組にしても、『イッテQ!』でお笑い芸人のイモトアヤコが登る時と、「記録映画」で冒険家の植村直己を見る時とでは、視聴者の見方も感じ方も全く違うはずだ。そもそも視聴者だって異なるだろう。 ただし、『イッテQ!』はバラエティー番組であるが、出演者(挑戦者)たちの「ガチンコ勝負」を標榜(ひょうぼう)している。出された課題に真剣に取り組んでいる出演者たちは、それが何であれ真剣勝負であっただろう。多少の誇大表現やテレビ映えする芸としての「演出」はあったにせよ、挑戦それ自体に嘘があったとは思えない。それは見ている側にも十分に伝わる。その意味では『イッテQ!』という番組自体が「やらせ番組」「捏造番組」とのそしりを受けるほどの騒動とは思えない。 例えば、格闘技などの試合中継を見ると、「ブラジル最強の男」とか「世界最速のキックを持つ男」などさまざまなうたい文句が登場する。選手の特徴や強さを分かりやすく表現するためのキャッチコピーである。それらは当然、科学的に「ブラジル最強」や「世界最速のキック」を検証したわけではないだろう。しかし、一部の例外を除けば、試合自体は真剣勝負であり、選手も観客もそこに疑いはない。キャッチコピーが正確さを欠いていたり、誇張表現だとしても、試合の真剣勝負をやらせとは思わないことと同義である。 「橋祭り」が以前からラオスに存在していたイベントであったのかどうか、という一点において、番組自体を「やらせ番組」「捏造番組」であると決めつけて糾弾し、ともすれば番組終了にまで追い込むような風潮は、今後ますますテレビ番組、特にバラエティー番組をつまらなくするのではないか。糾弾する人たちはテレビの将来に何を見ているのか。メディアの信頼性の問題といえばそれまでかもしれないが、バラエティーに求める信頼性とは一体何なのか。出演者の誠実さ以外、少なくとも筆者には思い浮かばない。 SNS時代の今日、従来であれば発覚しなかったような不正やごまかしも容易に指摘・検証され、発覚してしまう。そういう時代だからこそ、作り手にはより強い慎重さが求められる。視聴率という「甘い汁」に惑わされた日本テレビにも、そういう認識への甘さがあったことは明白だ。しかしながら、視聴者の側にもバラエティー番組をどのように楽しむか、楽しめるのかという、いわば「エンターテインメント・リテラシー(読解力)」が求められる時代になっているとも感じている。 今回の「橋祭り」の企画が実際にはどのような経緯で成立したかは当事者しか知りようがないが、個人的にはラオスの伝統を蹂躙(じゅうりん)したり、その文化風習を捏造した作りになっているようには思えない。強いて言えば、海外のテレビ番組が、ハロウィーン当夜の渋谷に若者たちがコスプレ姿で殺到して乱痴気騒ぎをする光景を「日本のハロウィーン文化」のように紹介しているケースに近い。これを「日本の文化」とされてしまうのはちょっと違う。日本政府だって「渋谷で大人たちがコスプレをして騒ぐことが日本のハロウィーン文化ですか?」と聞かれれば、きっと「ノー」と答えるだろう。ハロウィーンに対して「日本文化の捏造である」と目くじらを立てて怒る日本人がそんなにいるとも思えない。ハロウィーンの日の東京・渋谷(ゲッティイメージズ) 今までバラエティー番組として楽しんでおきながら、急にバラエティーには本来求められていない正確さや客観性の欠陥を発見したら、鬼の首でも取ったかのように「やらせだ、捏造だ」と騒ぎ立てることに何の意味があるのか。視聴者の側も改めて考えてほしい。そこには、ゴシップやスキャンダルを楽しむというエンターテインメント以上の意味を見いだすことはできないはずだ。 筆者は、今回の『イッテQ!』のいかにもバラエティー番組然とした作り(「筋肉バラエティー」にありがちな鉄骨のセットや巨大なボールの障害物など)を見て、それがラオスに古来伝わる伝統的な祭りであるとは思わなかった。「内輪でやっているゲームでしょ?」程度の感想だ。そもそも伝統的な行事に巨大なボールなど出てくるはずもない。そんなことは誰でも分かるのではないか。新たな「総合エンターテインメント」 しかし、その一方で、水上の狭くて粗末な橋を自転車で渡る、というアトラクションを見て「何かラオスの文化にゆかりがありそうだな」とも感じた。なぜなら、ラオスを代表する観光地、メコン川流域にある世界遺産ルアン・パバンという街では、川にかかる幅1メートルにも満たない竹でできた粗末な橋「バンブーブリッジ」もまた、「インスタ映え」する名物スポットであったからだ。 ラオスの世界遺産は、このルアン・パバンとワット・プーの二つしかないので、ラオスを訪れる年間300万人超の外国人観光客にとって「バンブーブリッジ」は決して無名な場所ではない。安全性に難のあるような「不安定な橋を渡る」という行為は、ラオス観光では比較的知られた「天然のアトラクション」であり、少なくとも筆者はそこに「橋祭り」企画との関連性を感じた。 番組を象徴するイモトの体を張ったバラエティーを超えた出演が、一見すると、ドキュメンタリーや記録映像のように誤解・錯覚をさせてしまったこともあるだろう。だとしても、「完全なバラエティーである」という前提を忘れてはならない。むしろ、「エンターテインメント・リテラシー(読解力)」を欠如しつつ、インディーズ評論家化した視聴者が一方的にリアリティーを求めすぎていているだけのようにも見える。 エンターテインメントの世界では、ジャングルはいつでも「前人未到の密林」であるし、出される資料は必ず「トップシークレット」である。男女間のもつれで犯罪を行う女性の多く「美人毒婦」であるし、来日する格闘家は常に「地上最強」である。ごく普通の一般人でも「内部事情に詳しい関係者」なのだ。それを「やらせ」「捏造」と捉えるか、「エンターテインメント手法の一つ」と捉えるかは、見る側の知性と感性、そして寛容さにかかる。 エンターテインメントの在り方が今、大きく変容している。この事実もまた忘れずに付記しておきたい。 バラエティー番組であるという前提を考慮に入れず、テレビ番組の中での過剰な演出や誇大表現などを「やらせだ、捏造だ」と糾弾し、それをネット民たちが騒ぎ、拡散し、テレビのニュースとなり、ひいてはテレビ局の社長や放送倫理・番組向上機構(BPO)、時には政治家などをも巻き込んだ大騒動へと発展する。その一連の騒動自体が、視聴者やネット民を楽しませる、見事にネットとテレビが融合した「総合エンターテインメント」になっているように思えてならない。 今回の件でも「ラオス政府が動き出した」とか「ラオス政府関係者によれば」といった報道も散見されるが、ニュースソースはどこなのか。ラオス政府関係者とはいったい誰なのか。『イッテQ!』のやらせ疑惑以上に「疑惑」がある。それもまた「総合エンターテインメント」を彩る演出の一つになっている。ラオスの世界遺産ルアン・パバンにある「バンブーブリッジ」(ゲッティイメージズ) 週刊文春は、そういった「総合エンターテインメント」における主役であり、視聴者を楽しませる名プロデューサーでもある。ネット上に無数に存在するSNS民たちは細かい検証をしたり、コンテンツを作ったり、拡散にいそしむ「敏腕ディレクター」であり、小回りのきく機敏な「アシスタント・ディレクター(AD)」だ。テレビ局幹部や有名タレントという豪華な「エキストラ」もいい味を出している。さらには、元テレビ局員を称する文化人や大学教授などまでが登場し、「現場を知る」という立ち位置で自分のかつての職場に対して無責任な断罪をしてトドメを刺そうとする。 「娯楽の王様」の座から陥落したテレビに代わって消費者を楽しませる「総合エンターテインメント」の中で、名プロデューサー、敏腕ディレクターたちに踊らされている視聴者もテレビ関係者たちも、そろそろこの新しいエンターテインメントの構造に気が付いた方が良いのではないか。

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    テレビのやらせは必要悪、でも『イッテQ』でっち上げはアウト!

    せん。一方、だからといって即『イッテQ!』がダメな番組だとか、日テレがひどい会社だとか、テレビというメディアがそもそも信頼できないだとか、というインターネットにありがちな論評は、あさっての方向に向かって暴走しているだけなので、私は関与する気はありません。 冒頭で記した通り、テレビ番組が「やらせ」疑惑で糾弾されるのは、今に始まった話ではありません。昔から何度も取り沙汰されては、ひと揉めすることが繰り返されており、もはや定番だとも言えるでしょう。「Nスペ」でもやらせ 少なくとも私が現役時代のNHKでは、1992年に放送されたNHKスペシャル『奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン』が印象に残っています。もう25年以上前ですが、「やらせ」疑惑によって検証番組が作られ、会長の減給6カ月、NHKスペシャル番組部長の減給と解任、そして担当チーフディレクターの停職6カ月という重い処分がなされました。 『ムスタン』の場合どんな「やらせ」があったのか。一つは取材チームが現地に入った際に、スタッフの1人が高山病で倒れた、というシーンがあったこと。実際にはそのスタッフは高山病にはかかっておらず、演技だったということが明らかになりました。 また、現地での雨乞いの様子を撮影したかったので、実際には降雨があったにもかかわらず、雨乞いの儀式を再現してもらった、というものです。いずれも細部の演出であって、番組の本質にかかわるような、根本的な問題ではないと私は個人的に思いました。 この時、第三者委員会が作られ、ノンフィクション作家の立花隆さんを座長に、ジャーナリストの田原総一朗さん、元NHK特別主幹の吉田直哉さん、テレビプロデューサーの今野勉さんといったメンバーが「ドキュメンタリーとは何か」と題し「やらせ」について討論しました。その中で衝撃的だったのは、「やらせ」の一切ないドキュメンタリーなど存在しない、という結論でした。カメラを向けた時点で、すでに演出だからです。 昔は今のように明るいビデオではなく、感度が悪くて1分も回せないフィルムカメラで、ドキュメンタリーを撮影していました。夜行列車で帰郷する男性のインタビューを撮る際にも、車内に煌々(こうこう)と照明をたき、15秒のフィルムにインタビューがちゃんと収まるよう、何度も主人公にリハーサルをし、物々しい雰囲気の中で収録して、あたかも「男性がふとつぶやいた素朴な一言」のように編集して使っていたそうです。 今のカメラでも、放送用の大きいカメラを向けると、ほとんどの人が普段通りの自然な心理状態ではなくなります。カメラを向けた時点で、作為・演出は始まっているのです。街頭インタビューでも、そもそもなぜ隣のおばちゃんじゃなくて、そのおばちゃんにカメラを向けたのか、フレーミングの切り取り方は意図的です。そして20人ほどにインタビューして、その中から「使えそうなもの」2、3人を選んで放送に使います。まさに作為以外のなにものでもありません。 NHK番組『鶴瓶の家族に乾杯』じゃないけど、地方の田舎町にぶっつけ本番で訪ねて行き、地元の庶民の暮らしぶりを取材する、というありがちな企画の番組は、私もいくつか担当しました。たまたま訪ねて行ったご家庭が、地元の伝統産業の職人さんだったり、特産品の農家だったり、また奥さんが地域の伝統料理を台所で作っていたりすると、なかなか面白いアットホームな番組に仕上がります。東京・渋谷のNHK放送センター 農家のご家庭の玄関口にいきなり立って、「NHKですけど、取材させてもらってよろしいですか?」と尋ねると、8割方が「大丈夫ですけど、ちょっと待ってください」と言って奥様がしばらくどこかへ行かれます。 台所で地元の素朴な食材を使って、いつもの家庭料理を作るのどかな風景を撮影したいのですが、その主婦が台所に立ったときには、真っ赤な口紅と念入りなお化粧をしていて、自宅の台所に立つ農家の主婦としては不自然極まりないのです。でも女心ですから文句は言えません。メークが完成したところで、「はじめまして、ちょっと撮影よろしいですか?」とやり直すはめになります。やらせのないテレビはない ささいなことですが、農家の主婦が普段からメークをして台所に立つ、というのは事実ではありません。また、画面では「はじめまして」と言っていますが、本当は初対面ではありません。厳密に言うとこれらも「やらせ」です。これらを私は許される範囲内の「やらせ」だと考えています。テレビ番組はこのような小さな「やらせ」や演出の集合体なのです。 でも、このような紀行番組で、訪れた家庭の奥さんが作った「伝統料理」なるものが、実は存在しなかった、そもそもこの地域にそのような伝統料理はない、ということになったらどうでしょう。番組の根幹に関わる部分で重要な事実関係を偽ったのだから、決して許されないレベルの「やらせ」もしくはデッチ上げということになります。 今回の『イッテQ!』で、問題となったラオスの祭りは、まさにこの決して許されないレベルの「やらせ」だったことは間違いなさそうです。バラエティーだから、娯楽だから甘く見る、というのは先に記した通り、考えられません。フィクションかノンフィクションかの二通りしかないのです。バラエティー番組もノンフィクションであり、スタジオでのタレントのガチなパフォーマンスを、カメラで実況するというドキュメンタリーでもあるのです。 テレビ局のカメラを向けるということ自体が、あるいはテレビ局のスタジオに入れるということ自体が、被写体を日常的な空間ではなくて、非日常的な空間の中へと追いやっている以上、なんの作為もない「真の素のまま」ということはあり得ません。今回のようなデッチ上げは別にしても、常に何らかの演出または作為が加わっていることを差し引いて、テレビの画面は解釈するべきでしょう。『世界の果てまでイッテQ!』のやらせ疑惑に関して謝罪する大久保好男・日本テレビ社長=2018年11月 私はテレビで言っていることを真に受けるな、メディアリテラシー(情報を読み解く力)を磨け、と若い人には言っています。でも、85歳になる私の母親くらいになると、テレビを盲信しています。「だってテレビで言ってたから」と信頼しきっています。公共の電波を使って放送するには、そういった情報弱者を守るべく高い倫理観が求められているはずです。テレビの情報を疑って見ろ、というのは酷な話であり、全幅の信頼を寄せられる存在であるべきです。 厳密には「やらせ」のないテレビは存在しない。そう考える私ですが、今回の文春の指摘はテレビ業界で働く者全てに対して、許されざる「やらせ」とは何かを示し、警鐘を鳴らしているように思います。 いっそのこと『イッテQ!』ほどの番組であれば、自ら検証番組を作り、「われわれはこのようにデッチ上げてしまいました。ごめんなさいスペシャル!」など放送すれば、視聴率も取れるだろうし、贖罪(しょくざい)にもなるのではないでしょうか。

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    やらせへの危機意識を鈍らせた『イッテQ』の芸人依存体質

    飯田豊(立命館大産業社会学部准教授) バラエティー番組の「演出」については、報道番組やドキュメンタリー番組における「情報」の捏造(ねつぞう)や改竄(かいざん)などとは異なる次元で、これまで繰り返し「やらせ」との境界が問われてきた。 もっとも、1980年代にはテレビ全体の「バラエティー化」が指摘されるようになり、お笑い番組に限らず、多くの報道番組や情報番組、音楽番組やトーク番組などが、少なからず共通した演出技法に基づいて制作されるようになった。その結果、現在では「情報バラエティー」や「音楽バラエティー」、「トークバラエティー」といった、ハイブリッドな番組ジャンルが定着している。 『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系、2007年〜)は、いわゆる「ドキュメントバラエティー」の系譜に位置づけられる。ドキュメンタリー番組や紀行番組の特徴を兼ね備えているからこそ、バラエティー番組といえども、過度な演出は許されないという意見が根強い。 ドキュメントバラエティーの技法は、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ、1985〜96年)が先鞭(せんべん)をつけ、1990年代に洗練された。『進め!電波少年』(日本テレビ、1992〜98年)、『ASAYAN』(テレビ東京、1995〜2002年)、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ、1996〜2002年)などが代表的だ。 『進め!電波少年』では、1996年にお笑いコンビの猿岩石がユーラシア大陸横断ヒッチハイクを達成したが、飛行機を使って紛争地域などを回避していた事実が後になって発覚し、(極めて賢明な判断でありながら)番組内で伝えていなかったことが厳しく批判された。 その一方、『ウンナンのホントコ!』(TBS、1998〜2002年)内で人気を集めた「未来日記」シリーズ、あるいは『あいのり』(フジテレビ、1999〜2009年)のように、主として一般人を起用したドキュメントバラエティーも人気を博した。※写真はイメージです(GettyImages) これらの番組はいずれも、あくまで脚本に沿って演出された「物語」に乗せて、出演者の喜怒哀楽を表現していた。過剰な演出や不自然な演技を含めて楽しむ(=テレビが「やらせ」なのは当たり前!)という冷めた視聴態度を育んでいった半面、インターネット上の電子掲示板などでは、これを全面的に敵視する見方(=テレビなんて「やらせ」だから嫌い!)も目立つようになる。 ドキュメントバラエティーに限らず、例えば『さんまのSUPERからくりTV』(TBS、1992〜2014年)に代表される、一般人の言動が笑いを誘う番組には、大抵「やらせ疑惑」がつきまとう。インターネットの普及に伴い、テレビに対する敵意が可視化されたことに加えて、番組に出演した一般人、ロケの協力者や目撃者などによって、制作の手の内がバラされやすくなったことも無視できない。番組制作者の甘え 結果的に2000年代以降、バラエティー番組の中で一般人が大きな役割を担う機会は格段に減っていき、ドキュメントバラエティーもお笑い芸人を中心にキャスティングされるようになっている。  『「テレビリアリティ」の時代』を著した大見崇晴は、『ぷらちなロンドンブーツ』(テレビ朝日、1997〜2002年)の変化に着目している。この番組は、浮気をしている(と思われる)女性に対する捜査を、恋人の男性が依頼する「ガサ入れ」コーナーをはじめ、一般人を起用したコーナーで人気を獲得したが、当初から週刊誌などで「やらせ疑惑」が報じられていた。そこで番組は次第に、芸能人たちの心理戦に焦点をあてたゲーム企画に比重を移していった。 大見が指摘するように、「芸人たちは『お笑い』というゲームのプレーヤーとして自己を演じることに巧みになり、視聴者たちはプレーヤー(を演じる芸人)の心理を、評論家的立場から楽しむというスタンスに移行する」(前掲書、304頁)。この変化こそが『アメトーーク!』(テレビ朝日、2003年~)や『ロンドンハーツ』(テレビ朝日、1999年~)の成功につながっていく。 『アメトーーク!』について、お笑い評論家のラリー遠田は近著の中で、「ひな壇芸人」「先輩・後輩ハッキリさせようSP」といった企画を通じて、芸人たちの知られざる「職人的な世界」を視聴者が学んでしまったこと、いわば「ドキュメンタリー」の様相を呈していることが画期的な点であったと考察している。 したがって、90年代のドキュメントバラエティーに比べると、「ドキュメンタリー」と「バラエティー」は現在、芸人たちの「コミュニケーション能力」や「空気を読む力」――その無双ぶりを社会学者の太田省一は「芸人万能社会」と呼んでいる――に支えられ、より自然で、安全な形で結びついているといえるだろう。※写真はイメージです(GettyImages) しかし、裏を返せば、冒頭で述べたように、こうして番組のジャンルが融解しているからこそ、バラエティーであるという理由だけで、過剰な演出が免責されることはない。その代わり、そもそもドキュメンタリーだからといって、一切の演出や脚色が許されないわけでもない。 皮肉なことだが、芸人たちの「空気を読む力」や「ソツのなさ」が卓越しているからこそ、いつしかそれに番組制作者が甘えてしまい、演出という行為につきまとう危うさに対して、感性が鈍ってしまっている恐れはないだろうか。※参考文献・高野光平『テレビと動画 ―ネットがテレビを乗り越えるまで』(高野光平、加島卓、飯田豊編著『現代文化への社会学 ―90年代と「いま」を比較する』北樹出版、2018年)・ラリー遠田『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり ―〈ポスト平成〉のテレビバラエティー論』(イースト新書、2018年)・大見崇晴『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)・太田省一『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書、2016年)

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    「バラエティーだからセーフ?」やらせ疑惑『イッテQ』の盲点

    ラリー遠田(お笑い評論家、ライター) 『週刊文春』で報じられた『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)のでっち上げ疑惑が話題になっている。文春(11月15日号)では、番組側が実際には存在しないラオスの「橋祭り」を捏造(ねつぞう)したのではないかと疑問が投げかけられた。 日本テレビは、これに対し「現地では初めて行われる祭りだったと判明した」と誤りを一部認めるような文書を発表した。その後の文春(11月22日号)には、続報として過去の放送で紹介されたタイの「カリフラワー祭り」も実在しないのではないかという記事が掲載された。日本テレビはこれを受けて謝罪のコメントを発表し、「祭り企画」は当面の間休止することとなった。 この問題を考えるには、そもそも「やらせ」とは何なのか、ということをはっきりさせなくてはいけない。だが、これがなかなか難しい。テレビ制作者の間でも細かい点について意見が食い違う部分がある上に、制作者と視聴者の間にもかなりの認識のズレがあると思われるからだ。 私自身は過去にテレビ制作会社でアシスタントディレクター(AD)やディレクターとして番組制作に携わったことがある。その経験も踏まえて、やらせというものをどう考えればいいのか、自分なりの見解を示すことにしたい。 「やらせ」を辞書で引くと「テレビのドキュメンタリーなどで、事実らしく見せながら、実際には演技されたものであること」(『デジタル大辞泉』より)とある。つまり、事実ではないことを事実であるように誤認させるような行為が、やらせの定義ということになる。※写真はイメージです(GettyImages) これを現場の感覚に即して分かりやすく言い換えるなら、「0を1にするのがやらせ。1を2や3にするのが演出」ということになる。この定義自体には多くの制作者が同意するのではないかと思う。もともと存在しないものをあるように見せるのは明らかに行き過ぎた行為だが、存在するものを少し加工して面白さや分かりやすさを付け足すのはある程度までなら問題はないと考えられているのだ。 私はドキュメンタリーの制作に携わっていたこともあるが、実在する人物や実際の事件を題材にするドキュメンタリーですら、取材対象をありのままに撮るだけで番組ができる、ということはまずない。そもそもどういう企画なのか、そのために何をどうやって撮るのか、それをどうやって編集するのか、ということを考えるのが制作者の仕事である。何の意図も演出もなく、ただ撮っただけの映像を並べても、面白い番組にはならない。制作者と視聴者のズレ テレビ業界で撮影された映像のことを「素材」と呼ぶのもそのためだ。映像は番組作りのための素材である。これは料理で言うところの食材にあたる。食材としての野菜や肉を冷蔵庫から取り出して並べるだけでは料理が完成しないのは明らかだろう。焼いたり、煮たり、調味料を加えたり、といった手間を加えることで料理ができる。テレビ番組もそういう風に作られている。 ないものをあるように見せたり、明らかな嘘をついたりするのはルール違反である。ただ、番組を面白くしたり、分かりやすくしたりするために、巧妙にやらせを回避しながらギリギリのところを狙うのは演出の一部として許容されている。 例えば、嘘をつくのは問題だが、あえて都合の悪い情報を伏せておくのは間違いとはいえない。取材対象を取り上げるにあたって、どの部分をどういう風に扱うかというのは演出の範囲だと考えられるからだ。これが「1を2や3にする」という部分である。 ただ、この点に関しては、制作者と視聴者の間でかなりの認識のズレがあるのではないかと思う。テレビ業界で仕事をした経験のある私の目から見ると、視聴者の多くはテレビをあまりにも純粋に見ているのではないか、と感じることが多い。テレビで報じられていることは、そのまま真実であるかのように何の疑いもなく盲信している人が結構な割合で存在している気がする。 仮に、制作者がこっそりやっている「演出」をすべて白日の下にさらしたら、恐らく多くの視聴者は「だまされた! あれは『やらせ』だったのか!」と感じるのではないかと思う。立ち上がって謝罪する大久保好男日本テレビ社長=2018年11月、東京都(森岡真一郎 撮影) 制作者が「1を2にしているだけ」と考えていることでも、視聴者からは「それは0を1にしているのと同じじゃないか!」というように見える場合はある。そのぐらい制作者と視聴者の間には感覚的な違いがある。 今回の『イッテQ!』の騒動に関しては「バラエティーなんだからそんなに目くじらを立てる必要はない」という擁護論もあった。だが、私はこれには異論を唱えたい。テレビはテレビであり、バラエティーにだけ何らかの特権が与えられたり、例外が許されたりしているわけではない。「やらせは絶対に許されない」という基本的なルールは同じだ。「致命的」なやらせなのか? ただ、バラエティーでは見る側の意識が違うのである。報道番組ではそこで報じられるニュースの一語一句が間違いのないように作り込まれているのに対して、バラエティーではそこまで厳密に考えられていない場合もある。 なぜなら、視聴者の間にそれを演出の一部として許容する感覚があるからだ。番組が面白ければ、そして番組の核となる部分に嘘や間違いがなければ、特に問題はないと思う人が大半だろう。 今回の『イッテQ!』の騒動で番組側を擁護する意見が目立っていたのは、文春で指摘された「祭り捏造疑惑」が、視聴者の多くにとっては特に核心的な問題だとは感じられていなかったからだろう。 『イッテQ!』の面白さは、宮川大輔、イモトアヤコなどのタレントが海外ロケで体を張って過激な企画に挑戦するところにある。現地で実際に祭りが存在するかどうかは特に重要だと思われていなかった。だから見逃されたのである。 例えば、今回の疑惑が「イモトアヤコは本当はキリマンジャロに登っていなかった!」といった内容だったとしたら、間違いなくもっと大きい騒動になっていたはずだ。なぜなら、制作者が最もこだわっている「挑戦」の過程そのものに嘘があったとしたら、それはこの番組の核心にかかわる致命的なやらせであるということになるからだ。お笑い芸人、宮川大輔=2010年10月、東京ビッグサイト(撮影・千村安雄) ただ、今回はたまたま多くの視聴者がやらせを問題視しなかっただけであり、やらせが悪くないわけではない。外国の文化について誤った情報を発信したことは事実であり、その責任は決して軽くはない。日本テレビも本件については事実を認めて謝罪している。 ここまで述べたように、やらせと演出の違いは曖昧なものである。このため、制作者は無意識のうちに境界を踏み越えてやらせと呼ばれるような行為に手を染めてしまうことがある。それがどれほど深刻なものであるかということは「バラエティーならセーフ」「視聴者が気にしなければセーフ」といった大ざっぱな一般論に頼るのではなく、あくまでも個別に考えて判断していくしかないだろう。

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    『イッテQ』やらせ報道で今後の視聴率への影響は?

     日本テレビの人気番組『世界の果てまでイッテQ!』が窮地に追い込まれている。11月8日発売の『週刊文春』が、同番組で5月20日に放送された「橋祭りinラオス」のやらせ疑惑を報道。日テレ側は「番組サイドで企画したり、セットなどを設置した事実はなく、また番組から参加者に賞金を渡した事実もございません」と否定していたが、大久保好男社長が15日の会見でその見解が誤りであると認めた。 同日発売の『週刊文春』は、「カリフラワー祭りinタイ」のやらせ疑惑も報道。大久保社長は一連の騒動を謝罪するとともに、祭り企画を当面休止することも発表した。 日テレ看板番組のやらせ騒動は視聴率にどう影響を与えるのか。8日の報道直後の11日放送分は16.6%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)と相変わらずの高視聴率を記録した。テレビ局関係者が話す。「問題発覚後の初回から大きな下落はまずありません。視聴習慣が根づいているし、話題になっていることもありますからね。それよりも、数か月後どうなっているかに注目すべきです」(以下同) テレビとやらせの問題は今に始まったことではない。代表的な例を挙げれば、1985年の『アフターヌーンショー』(テレビ朝日系)、1999年の『愛する二人別れる二人』、2007年の『発掘!あるある大事典II』、2013年の『ほこ×たて』(いずれもフジテレビ系)という人気番組でやらせが発覚し、終了に追い込まれている。 一方で、“やらせ疑惑”が報じられた後も続いた番組もある。『イッテQ』と同じように日曜のゴールデン帯で、ファミリー層に人気の高かった『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)は1992年から放送され、1990年代後半にはコンスタントに視聴率20%台を記録していた。しかし、2000年3月13日、18日発売の『週刊ポスト』が2号連続で〈さんま超人気番組「からくりTV」の街頭インタビューはヤラセだった!〉〈さんま「からくりTV」“酔っ払いサラリーマン”もヤラセ俳優だった〉と疑惑を投げ掛けた。21日発売の『週刊女性』にも〈さんまどうする『からくりTV』やらせ告発〉の文字が踊った。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「一般通行人を呼び止めてセイン・カミュがインタビューする『からくりファニエスト・イングリッシュ』や『サラリーマン早調べクイズ』のコーナーで、エキストラ会社などから人を集めて、オーディションを行ない、合格者を出演させていることが発覚したのです。 これは演出か、やらせか判断の分かれる所でもあり、番組は継続することになりましたが、視聴者が拒否反応を示したことは、数字が物語っています。 疑惑前である2月6日から3月5日まで、『からくりTV』は5週連続で19%以上を獲っていました。それが『週刊ポスト』の新聞広告が掲載された3月12日に17%となり、13日、18日と疑惑報道が続いた後の19日の放送では16.8%と落ちていた。もちろん、これを報道の影響と一口で済ますには安易ですし、充分な高視聴率です。 ただ、12日、19日とも裏番組の『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)に敗北。この年初めての出来事でした。この同時間帯のライバル関係は、現在の日テレ『イッテQ』とテレ朝『ポツンと一軒家』に似ています」看板番組にも陰り? 日曜ゴールデン帯が日本テレビの一人勝ち状態だった数か月前と違い、昨年10月から不定期放送していたテレビ朝日の『ポツンと一軒家』が今年10月からレギュラー化され、全て2ケタ視聴率を記録。11日、19時からの2時間スペシャルでは最高の15.4%を獲得。『イッテQ』には1.2%及ばなかったが、日テレの19時台『鉄腕DASH』の14.6%を上回っている。「2時間番組と1時間番組を単純に比較はできませんが、日テレにとって脅威であることは間違いない。『からくりTV』と『鉄腕DASH』の例を振り返ると、当時4月以降は巨人戦があったため2番組の直接対決は減りましたが、4月から7月までは2勝2敗の五分。7月2日、14.4%の『からくりTV』は20.1%の『鉄腕DASH』に大きく引き離されました。 翌週の『からくりTV』は12.9%とやらせ疑惑発覚前では考えられない数字に落ち込みます。これも含め7月、8月で12%台、13%台を各2回ずつ叩き出し、下落が顕著になりました。やらせ報道が全てとは言い切れないが、影響があったのは確かでしょう」 野球シーズンの終わった10~12月、2番組の直接対決では『鉄腕DASH』が7勝2敗と圧倒した。 「やらせ疑惑の出る番組は珍しくないですが、『イッテQ』は『からくりTV』と同じく日曜ゴールデン帯という時間帯、家族みんなで観られるという特性を持っている。そのため、いずれ数字に影響が出るでしょう。まして、テレ朝に人気番組が出てきたため、視聴者は乗り換える選択肢ができた。『イッテQ』に救いがあるとすれば、最近のテレビ局は長時間のスペシャル番組を連発して、視聴習慣を身につけさせられていないこと。テレ朝の日曜の編成もその傾向が強かった。その反省からなのか、『ポツンと一軒家』は10月7日の開始以来、毎週放送してきました。しかし、11月18日は休止に。 テレ朝がスペシャル番組の乱発から脱して、毎週日曜20時に『ポツンと一軒家』を放送し続ければ、『イッテQ』を抜く日も遠くないかもしれません」 相次ぐ疑惑が表面化した『イッテQ』。4年連続視聴率3冠王を続けている日テレにとって、単なる一番組の問題に留まらない影響を及ぼすかもしれない。関連記事■ 『イッテQ!』の全祭りを検証、11個が存在を確認できず■ 『イッテQ!』ヤラセ疑惑を大特集するフジに「鬱憤晴らしか」■ 広瀬すず&アリス 「彼氏できても仕事優先」と相互監視■ 親友同士だった満島ひかりと安藤サクラが絶縁状態になるまで■ 長谷川博己、鈴木京香との結婚Xデーは? 休日おひとり撮

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    大間の「若手No.1」漁師 マグロ番組ヤラセ疑惑に余裕の反論

     「ネットでヤラセじゃないかって指摘されてるの見たけど、このシロートが! って思ったね」 そう憤るのは、青森県・大間のマグロ漁師・南芳和さん(33)だ。彼が出演したドキュメンタリー『マグロに賭けた男たち』(テレビ朝日系、2月18日放送)で、釣り上げた直後の映像に不自然な点があるとネット上で指摘が出たのだ。 同番組は、2003年から続く青森県・大間に住むマグロ漁師を追った2時間枠の人気ドキュメンタリー。2月18日に放送された回では、大間で「若手ナンバーワン」と紹介された南さんが弟とともに兄弟船でマグロを釣り上げる場面に密着している。 指摘されたのは次のような内容だ。 「釣り上げたばかりのマグロの眉間に神経締めをしたような跡があるが、この細かい作業を海中で処理することは不可能なため、ヤラセの可能性が高いのではないか」 神経締めとは、魚の眉間に細い穴を開けて針金を通すことで“脳死状態”にさせ、鮮度を保つという技法。一般的には魚を船上に釣り上げてから行なわれるため、釣ったばかりのマグロに神経締めの跡があるのは不自然というのだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 実際はどうなのか。真相を確かめるべく、記者は大間まで飛んだ。 漁を終えて仲買人の事務所の畳スペースで仲間たち4~5人とくつろいでいた南さん。体重100キロ超と思しき巨漢で、首には金色のネックレスをかけており、一見すると強面だ。思い切って本題を切り出した。──釣ったばかりのマグロに、すでに神経締めの跡があったことから、ヤラセではないかと言われていますが、実際はどうなのですか? 「ああ、あれはさ、わい(俺)はマグロにカギをひっかけてクレーンでぶら下げた状態で神経締めしているけえ、甲板さ上がったときにはもう穴が空いとるんだ。普通は甲板の上でマグロば押さえつけて神経締めするけど、わいは少しでも鮮度を良くして美味いマグロば届けたいけえ、そうしとるんよ。研究した結果じゃけえ、ヤラセは絶対にないよ」あまり言いたくなかった理由 その後、放ったのが冒頭の一言だ。南さんが続ける。 「わいは役者じゃないけえ、カメラの前で芝居みたいなことしたら、ぎこちなくなってしまう。でも、神経締めの跡があるからおかしいとか、ずいぶん細かいところまで見てるんだなあと感心したわ」 また、漁の“こだわり”についても語ってくれた。「お客さんがせっかく大間のマグロさ食ったのに、思ったより美味くないなんてことがあったら申し訳ないけえ、鮮度には一番こだわってる。クレーンで吊り上げた状態で神経締めしているっていうのは、真似されたくないからあまり言いたくなかったけど、疑惑があるならちゃんと答えたいからね」 クレーンで吊った状態で神経締めしているシーンはテレビでは放送されなかったため、誤解を招いてしまったというわけだ。テレビ朝日もこの件について、次のように答えた。 「マグロは船に引き揚げる直前にクレーンで吊るした状態で神経締めをしており、やらせというご指摘は全くあたりません」(宣伝部) 南さんは、「こんなふうにネットで叩かれるのが面倒だからテレビに出たくなかったんだけど……でも、大間のマグロのことを多くの人に知ってもらえたなら、出て良かったよ」と笑っていた。◆取材・文/西谷格(ジャーナリスト)関連記事■ 1.5億マグロ釣った漁師 父も過去に最高額マグロ釣り上げた■ 止まると死ぬといわれるマグロ 実際は止まっても死なない■ 1.5億マグロ釣った漁師 やっかみの声やいたずら電話に悩む■ 大間のマグロ漁船のTV取材 一回につき10万円弱の謝礼が相場に■ 一攫千金狙って若い漁師が奮起 マグロ出荷増加し初競り暴落

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    「テレビがつまらない」は本当か?

    「地上波テレビ、衝撃の凋落」。脳科学者、茂木健一郎さんのブログ記事に反響が広がっている。オワコン発言でも物議を醸したのは記憶に新しいが、それでもテレビが持つ影響力は今も絶大である。テレビのオワコン化は本当なのか。深層を読む。

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    テレビはオワコン? 「離れの時代」に考える最強メディアの価値

    影山貴彦(同志社女子大メディア創造学科教授) 「これまで社会で人気を誇っていた対象物から、若者が距離を置き始めている。いわば現代社会は『離れの時代』ともいえる」と、数年前から大学の講義のマクラでしゃべることが、定番化しつつある。 私の専門は放送を中心としたメディア研究、メディアエンターテインメントだ。さしずめ専門ジャンルから「離れ」のキーワードを引っ張れば、「テレビ離れ」となるだろう。 DeNAトラベル(現エアトリ)が、「あなたが感じる若者の○○離れについて」10代から70代の男女計1184人に、今年2月にインターネット調査を行った結果がある。 総合順位では、1位・車離れ、2位・新聞離れ、3位・読書離れ、4位・結婚離れ、5位・お酒離れとあり、「テレビ離れ」は6位にランクインしている。ただ、これを年代別に見てみると、20代以下、30代ともに「テレビ離れ」の回答が3位に上昇する(1位と2位は総合順位と同じ)。 ちなみに40代では、「テレビ離れ」は4位、50代以上ではさらに下のランキングとなる。若者と呼ばれる世代、当の本人たちが「テレビ離れ」をより感じているということになる。2018年6月、10代のテレビ離れを説明するインスタグラムのシストロムCEO(共同) と、ここまで書くと、「ほら、やっぱり若者のテレビ離れだよ」とか「ネットに食われてるからね」とか「娯楽が多様化してるもんな~」など、もっともらしいオチをつけて話を締めるケースが世間の定番だ。だが私は、本当に「テレビ離れ」が進んでいるかどうかについては、もう少し時間をかけてじっくりと考察する必要があると思う。 ネット時代といいながら、その中で盛り上がっている話題は、かなりの確率でテレビ・芸能関連のネタであったりする。それに、録画や見逃し配信を加えたいわゆる「総合視聴率」の調査が本格的に始まってから日も浅い。「最近面白い番組がない!」と揶揄(やゆ)されながらも人々の話題を数多く提供しているのは、今もなおテレビではないか、と放送マン出身の私は、いささかひいき目に見てしまうのである。 とはいえ、テレビが現在右肩上がりのメディアかどうかといえば、全く楽観視できない状況であることは否定できまい。今のテレビに魅力を感じていない若者が増えていることは、真摯(しんし)に受け止めなければならない事実だろう。しがみつく「長寿」と「健康」 では、その理由はどこにあるのか。もちろん、原因は一つに集約できるものではなかろうが、私は、今のテレビ番組の多くが、「中高年層」に向けて作られていることが、大きな影を落としているのではないかと思うのだ。 先ほどのランキングで、「○○離れ」の2位となった「新聞」を例に挙げてみよう。みなさんの手元にある新聞を開いて、試しに読者投稿欄をごらんいただきたい。驚くほど投稿している年齢層が高いことに気づかれるはずだ。 50代は若いほうで、60、70代は当たり前、80代以上も決して少なくない。まさにシニア世代が現在の新聞を支えているのである。この傾向は、どの新聞においても大きな差はないはずだ。 また、先ほど紹介したランキングには直接出てはいないが、「ラジオ」についても同様のことがいえるだろう。リスナーの高年齢化はAM、FMを問わず、現在ラジオ各局が抱える大きな問題となっている。 さて、本題のテレビに話を戻そう。週間視聴率ランキングが、新聞などで発表されているので、ごらんになられる方もいるだろう。そこに顔を出す番組の多くが長寿番組である。 そして、それらの番組の主たるターゲットになっている視聴者は、若者ではなく「中高年層」なのである。逆に言えば、若者が普段好んで見ている番組の多くは、そのランキング外にあると表現しても言い過ぎではなかろう。『週刊新潮』の「食べてはいけない『国産食品』実名リスト」と、それを批判した『週刊文春』の「本当に食べてはいけないのか?」 新聞もラジオも、そしてテレビも、顧客として送り手が強く頼りにしているのは、今や確実にシニア層だ。その世代を現在のメディアが大切にしなければならないことはよくわかる。 今、確実に顧客になってくれる世代に訴求するコンテンツを提供することで、なんとか目立った右肩下がりを食い止めようとしているのだ。例えば「健康○○~」的な番組を毎週欠かさず見ている若者が多くいるとは考えにくい。 自分の健康に不安を覚えるのは、たいてい私たちのように年を重ねてからだ。そして今、健康番組はテレビにあふれている。週刊誌も「血圧特集」など健康ネタを組むと部数が伸びるという。年を重ねると「他人のスキャンダルより自分の健康」ということかもしれない。おっさん芸人が「若手」扱い テレビの世界で活躍する人たちの高齢化も進んでいる。政治の世界、一般企業などで「世代交代」が叫ばれ始めて随分たつが、今、テレビこそ「世代交代」が必要なときではないだろうか。 私自身もそうだし、この拙文を読んでくださっている方の多くも、おそらく「中高年層」と推察する。昨日今日この世に出てきたような、稚拙な技術しか備えていない演者たちがたわいもない番組でテレビをにぎわしていることは、少々苦々しいことかもしれない。正直、私も共感するところは多い。 だが、ここでご同輩のみなさんと少しだけ考えてみたい。メディアが「中高年層」に向けての発信を強めれば強めるほど、若者はそっぽを向くことになってゆくのだ。自分が見たい番組が今のテレビにはない、と、彼らはテレビの前に座ることさえしなくなるだろう。 何十年も活躍を続けるベテラン芸人たちが、変わらずテレビに君臨することで、今やすっかりおっさんになっている中堅芸人たちが、いつまでも若手扱いをされることになっている。次世代を担う人間が育ちにくい環境は、テレビが先細っていくことに他ならない。私は年を重ねること自体は悪くないと考えるタイプだが、テレビの世界に年寄りがあふれることは、テレビ総体にとって、決して好ましいことではなかろう。 今、テレビは種をまくときである。種をまかねば芽は出ないし、育つこともなく花を咲かせ実をつけることもない。「テレビはオワコン」だと辛辣(しんらつ)に言う人がいる。果たしてそうだろうか。テレビは、たかだかまだ60年ほどの歴史しか刻んでいない。オワコンと言うには、まだまだ早いのではないか。 何十年もの間変わらず第一線で活躍している人がテレビにいることは、ある意味称賛すべきことではある。だが作り手たちは、同時に新しい人、新しい番組を生み出す努力をこれまで以上にしなければならない時に来ているのだ。「まだイケる」精神は、ある日突然「もう終わり」の時を迎えることになりかねない。 新しいものを生み出すために必要なこと、それは「時間」だと思う。近年、新しいものにそっぽを向きがちな私たちだが、作り手、演者、そして私たち視聴者が、時間をかけてテレビを育んでゆくことで、テレビは再び輝きを取り戻せるはずだ。過去にしがみつき過ぎず、これからを育てることに、「中高年層」の私たちも一役買おうではないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 新しいものを生み、育てるには、どんなジャンルであれ手間暇がかかるものだ。手っ取り早く享受できるものばかりに飛びつかず、もう一度テレビとしっかり向き合ってみてはどうだろう。若者が活躍する意外な掘り出し物、すなわち隠れた名番組に出合えることがあるかもしれない。今の若者たちはかなり優秀だと、日頃教え子たちと接して実感している。 テレビが、今も、そしてこれからも「最強のメディア」であってほしいと、私は願っているのである。

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    消える学園ドラマ、「科捜研の女」が象徴するテレビの中高年依存

    鈴木祐司(次世代メディア研究所代表) 10月クールのドラマが始まったが、初回から「若者のテレビ離れ」を象徴するような視聴率が出た。TBSの火曜夜10時『中学聖日記』が6・0%と、2014年4月に同枠ドラマが始まって以来、最低の数字となってしまった。中学の女性教師と男子中学生を軸にした学園ドラマだが、ここ何年か青春学園ものは視聴率で惨敗している。 この傾向はすでに10年ほど前から顕在化し始めていた。博報堂DYメディアパートナーズは、06年から「メディア定点調査」を実施している。これによると、当時の1人当たり1日平均のテレビ接触時間は172分あった。ところが12年間で28分短くなった(図1)。 一方、パソコン、スマホなどネット接続端末の接触時間は、87分から約2・5倍の200分に急増した。実は両者の関係は14年に逆転している。今や10代から高齢者を含めた国民1人当たりのメディア接触は、テレビよりネット接続端末が圧倒しているのである。 これを性年齢別で見ると、特に若年層のテレビ離れは明確になる。20代男性は、テレビ接触時間は86分で、ネット接続端末は358分を超えている。何と4倍の差がついてしまっている(図2)。 10代男性でも、両者の差は2・5倍以上。50代までネット接続端末が上回り、60代でようやくテレビが勝る。女性の場合も、10~20代では2倍以上の開きがある。そして40代までネット接続端末が勝り、50代以上でようやくテレビが上回るようになる。若年層で著しいが、40代でもテレビを見ない傾向は強まっている。 こうした傾向は、当然ながらテレビ視聴者層の高齢化を意味する。今やテレビ視聴者の半分以上が50代以上と、テレビの「おじさん・おばさん化」、あるいは「じじ・ばば化」が進んでいる。その結果、かつて多数あった学校が舞台で学生や教師が主な登場人物となる青春学園ドラマは、明らかに数が減っているのだ(図3)。 青春学園ドラマはそもそも、60~80年代が黄金期だった。60年代では『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』(いずれも日本テレビ)などがあった。70年代には『おれは男だ!』『飛び出せ!青春』『ゆうひが丘の総理大臣』などの日テレ路線の他、『若い!先生』(TBS)、『愛と誠』(テレビ東京)など、他局も放送し始めた。 そして80年代、『3年B組金八先生』(TBS79~11年)、『スケバン刑事』(フジテレビ85~87年)、『白線流し』(フジ96~05年)、『キッズ・ウォー』(TBS99~03年)など、シリーズ化される話題作が増えた。 ところが、2010年代になると、流れが変わり始める。一つは『マジすか学園』(テレ東10~12年/日テレ15年~)など、深夜帯での放送が増えた点。もう一つは、夜7~11時の「ゴールデン・プレミア帯」(GP帯)の視聴率が一桁に終わるものが増え、放送本数が減った点だ。 10代や「1層」(20~35歳)のテレビ視聴者が減り、「3層」(50歳以上)が今や半分以上を占めるだけに、GP帯では視聴率を保つため、ターゲットが中高年になっている。その結果、青春学園ドラマは深夜帯に追いやられるようになったのである。 そんな状況にあっても、比較的GP帯での放送にこだわっているのがTBSだ。だが、視聴率は芳しくない。寺尾聡が老教師役を演じた『仰げば尊し』(16年夏)こそ視聴率は二桁に乗せたが、14年以降では他11本は全て一桁に終わった。TBSの場合、今回の『中学聖日記』で3クール連続の青春学園ドラマとなるが、視聴率は悪化の一途をたどる。このままではGP帯のテレビは、ますます中高年向けになる恐れがあるが、ドラマはすでにその傾向が進行している。右肩下がりの「月9」 筆頭はテレビ朝日だ。同局のGP帯は3枠あるが、うち2枠(水曜夜9時と木曜夜8時)は刑事ものとミステリーものといった犯罪ドラマに固定されている。また、残る1枠(木曜夜9時)も、『ドクターX』に象徴されるように、シリーズ化あるいはリメークものなどが多い。中高年を確保し視聴率を高くするため、設定やキャスティング、演出が決められているからだ。 今クールも、定番の『相棒』が17シーズン目、『科捜研の女』が18シーズン目に入った。そして残り1枠は、『ドクターX~外科医・大門未知子~』で活躍した米倉涼子を主役にした『リーガルV~元弁護士・小鳥遊翔子~』がスタートした。タイトルの付け方、ストーリーの展開ぶり、キャスティングなど、明らかに『ドクターX』路線となっている。「科捜研の女」放送通算200回を迎え、記者会見した主演の沢口靖子さん 実はテレ朝だけでなく、フジも中高年狙いを強めている。フジのドラマ3枠は、この10年視聴率が右肩下がり傾向だった。特に「月9」(月曜夜9時)は、過去30年間で最大の衰退ぶりだ。 もともと90年代半ばまでは、20%超が普通だった。だが、勢いは次第に衰え、02年に初めて15%を切った。さらに09年以降は15%未満が普通となり、16年からは一桁が当たり前になってしまった。 ところが、今年になって、数字が回復傾向にある。その最大の要因は、テレ朝と同じようにシリーズ化、リメークなどで中高年狙いを強めたからだ。例えば5クールぶりに月9で二桁を回復した『絶対零度』は、シーズン3だった。17クールぶりに「木10」(木曜夜10時)で二桁となった『グッドドクター』は韓国ヒットドラマのリメークだ。 今クールも初回で14・2%となった『SUITS』は、米国ヒットドラマのリメークだ。しかもメインの織田裕二と鈴木保奈美は、91年の大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』の主役たちだ。 木10枠も今クールは『黄昏流星群』。95年から連載されている漫画が原作で、40代以降の中年・熟年・老年で、恋愛を主軸に人生観などを描いた短編漫画集だ。明らかに中高年狙いのドラマと言えよう。 こうした民放各局のドラマ戦略の変化の背景にあるのは、やはり、パソコンやスマホの登場があり、明らかに生活者のメディア接触傾向が変わったからだ。 これにより、テレビの中高年化が急速に進み、視聴率を収入のベースに置いたテレビは、結果として中高年狙いの番組を増やしている。特にドラマはその傾向が強く、複数の局が中高年狙いに走っている。 このままでは悪循環が進み、ますます若年層のテレビ離れが進んでしまうだろう。ビジネスモデルのあり方も含め、根本的な対策が必要と言わざるを得ない。

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    テレビはYouTubeとネット番組に視聴者を奪われたのか

    ったらすぐに手に入るのに、テレビではそれができない。いったん習慣であることを外れてしまったら、こんなメディアがこのままの形で生き残るのは難しいだろう。 ただ、再び誤解のないように断っておくと「最近のテレビは面白くない」という説には私は同意しない。テレビは今でも圧倒的に面白い。テレビが好きな私が言うのだから間違いない。しかし、面白い番組は自分で探すしかないという時代に入っていることは確かである。 私自身はテレビに思い入れがあるから、積極的に楽しむために、全番組録画対応のレコーダーを利用して、過去数週間に地上波で放送されたあらゆる番組をいつでも見られる体制を整えている。そうやって自分から面白いものを探しに行く限りにおいて、テレビは今でも面白いのである。 だが、そうやって手間暇をかけてテレビという大海で「宝探し」に興じているのは、ごく一部のテレビ愛好家だけだろう。ほとんどの人は習慣としてテレビを見続けているか、習慣がなくてテレビを見ていないか、このいずれかである。そして、徐々に後者の割合が多くなっていくことは確実だ。NHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』で主人公の今井福子を演じる安藤サクラ 今、実際に起こっているのは「若者のテレビ離れ」ではなく「中高年のテレビ固執」である。他に特定の趣味や娯楽のない人たちが、テレビを見すぎているのだ。 テレビは特に目立った興味や関心のない「無党派層」を取り込むのが得意なメディアである。特定の趣味がある人は、ケーブルテレビや動画配信サービスを利用して、自分好みのコンテンツを掘り下げて楽しんでいるだろう。そうではない多くの人にとって、テレビは何よりも気軽に楽しめて、何よりも身近な存在なのだ。 最後に「YouTubeやAbemaTVなどのインターネット動画コンテンツとテレビ番組は競合するのか」という点について書き添えておきたい。 結論から言うと、それぞれメディアとしての特性が違うので、競合しているわけではないと思う。これまで述べた通り、テレビは単に不便である上に若者向けのコンテンツが少ないから見られなくなっているだけだ。YouTubeに視聴者を奪われているわけではない。 「YouTubeやAbemaTVがあるからテレビが廃れてきた」というのはそもそも話の順番がおかしい。テレビが勝手に自滅しつつあるから、その間隙(かんげき)を突いて新しい勢力が台頭してきているのだ。 YouTubeではすでに子供や若者などの特定層に圧倒的な支持を誇るユーチューバーが多数存在していて、独自の文化を築いている。一方、AbemaTVは地上波テレビと同じような体制で制作されていて、出ているタレントの顔ぶれも地上波と比べて遜色ない。メディア側から見れば、これらはテレビのライバルと思うかもしれない。 しかし、実態としては、これらはテレビとはそもそも別の形のメディアであり、競争相手ではない。テレビはライバルの活躍によって追いやられているわけではなく、高齢者の習慣視聴という大票田に固執するあまり、マイノリティーに過ぎない若者のニーズをつかみきれていないだけなのである。