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    政治的娯楽「モリカケショー」があまりにバカバカしい

    きや、多くの野党の「疑惑がますます深まった」症候群が加速化しているだけでしかない。 この問題は日本のメディアの低レベルと政治の薄っぺらさを実証する以外に何の成果もないのである。だが、世論調査では、圧倒的多数の人が柳瀬氏の国会での発言に納得していないようだし、テレビのワイドショーの「識者」の発言も同じく批判的だ。 しかし、筆者の考えでは、加計学園問題は一種の政治的な娯楽で消費されているに過ぎず、いわば受け手や作り手の「好き嫌い」しか反映されていないものだと思う。つまり、映画や遊園地で遊んだことについて、お客さんに「満足」か「不満足」かのいずれかを問うものと同じレベルであるということだ。 世論調査では、加計学園問題に関する柳瀬氏の答弁や安倍晋三首相の説明について、世論、いや消費者たちは圧倒的に「不満足」である。彼らは政治的娯楽を「もっともっと」求めているように思える。 多くの野党議員が口にする「疑惑はますます深まった」という言葉も、要するに「次回のモリカケは?」とドラマやアニメの予告編を知らせるせりふでしかない。そこには真実の追求もなければ、政治的な展望もないのである。もはや、政治はワイドショーの「奴隷」のような状況だろう。 ちなみに、柳瀬氏が加計学園の獣医学部新設をめぐり、学園や愛媛県の関係者と面談したことは、事実関係でも単純な論理としても、安倍首相サイドによる優遇には全くつながっていない。一部マスコミの見出しでは、まるで加計学園サイドに「優遇して」面談の機会が与えられたかのような印象報道もある。2018年5月10日、衆院予算委の参考人質疑で答弁する柳瀬唯夫元首相秘書官(松本健吾撮影) でも、あくまで柳瀬氏側と面会の予約をすることができたかどうかの問題でしかないのである。それが何の疑惑の根拠になるのだろうか。真実よりも「好き嫌い」 また、愛媛県の中村時広知事や「反安倍」の識者、マスコミ、野党は、「首相案件」という文言にこだわっている。では、「総理案件」だろうが「首相案件」だろうが、フレーズがいずれであっても、いったい何の疑惑を生み出すものなのだろうか。まるで「疑惑ゆえに疑惑あり」「予告編は面白おかしくていい」というような薄っぺらい印象でしかない。 もう一度簡単に書くが、柳瀬氏と面談すること、そしてそのときのメモ書きに「首相案件」などと書かれていたことが、何か重大な政治的ミス、道義的な重大ミス、あるいは国益を損ねる犯罪などになるのだろうか。 実は、この問いに対し、具体的に答えた人はいまだにいない。国民の多くは、テレビや新聞、インターネットなどから「犯罪映画の予告編」を延々と流され、「なんか怪しそうだ」とあおられているだけである。まさに異常な事態といえるだろう。 筆者はこの異常事態をしばしば「魔女狩りの経済学」という視点で取り上げてきた。冒頭にも書いたように、加計学園と学校法人「森友学園」(大阪市)のいわゆる「モリカケシリーズ」は、報道ではなく娯楽の消費なのである。 すなわち、真実の価値よりも、単に「好き嫌い」や「面白い面白くない」が優先されるのである。そしてメディアは、世論にできるだけ楽に消費してもらえるように、勧善懲悪的な見方や単純な構図、そして一つの話題をなるべく使い回すことを選ぶ。 メディアにとって、真実の追求は「おまけ」でしかなく、かえって真実がゆがめられて報道されている。しかし訴訟を起こされない範囲であれば、この娯楽としての報道にリスクは生じない。特に任期も限られていて、公的な地位が高く、訴訟リスクの低い国会議員などは、娯楽としての報道には最適の道具でしかないからである。 他方で、長期的な「取引関係」にあるといっていい官庁や警察、有力芸能事務所などへの批判は控えめになる。これらのマスコミの「取引先」は大切なお得意さまなのかもしれない。2018年5月8日、閣議後、記者の質問に答える麻生財務相 例えば、財務省で立て続けに明らかになった文書改ざん問題やセクハラ問題は、財務省の体質や制度そのものに起因する悪質なものである。ところが、マスコミの多くは麻生太郎副総理兼財務相の「クビ」しか関心がない。財務省自体に損失を与えると、自らにとっても「マイナス」になるかのように、彼らの批判の矛先は麻生氏に向けられたままだ。「モリカケ問題」今後は? さらにマスコミは、政府が「悪」、それに対抗する勢力は「善」、と勧善懲悪的に描かれる。今回の加計学園問題においても、政府側は悪役であり、くめども尽きない「疑惑の泉」でもある。 筆者の知る人気のサブカルチャー識者の中にも「常に政府に反対するのが正しい」と主張する人もいる。あまりにも薄っぺらい見方だが、国民の一定割合の支持を受けているだけに侮れない。 一方で、ワイドショーをはじめとするテレビ・新聞の報道を真に受けない人たちも増えてきている。これらのマスコミの情報を踏まえながらも、ネットでの代替的・補完的な情報や意見を参考にする人たちである。 もちろんネットの情報には多くの深刻な間違いがある。また、ネット上の意見の多くがマスコミの意見や分析の焼き直しであることも多い。ただ、これらのマイナス面を割り引いても、インターネットの進歩が、既存のメディアが好んで作り出す「娯楽としての報道の危険性」に一定のブレーキをかけていることは間違いない。 ところで、モリカケ問題はこれからどのような動きを見せるのだろうか。真実の追求よりも娯楽の追求が問題の「真相」だとすれば、答えは一つしかない。テレビであれば他の番組にチャンネルが変わること、新聞であれば他の重大問題に一面が変わることである。 つまり、より「楽しい」娯楽が提供されるまでは、この問題に関する「疑惑」は生産され、消費され続けるしかないのである。経済学のゲーム理論を応用すれば、これはゲームのルールが変更されることを待つしかない。悲観的な見方ではあるが、実はそれほど絶望的でもない。娯楽はすぐに飽きられる面もあるからだ。2018年5月10日、柳瀬唯夫元首相秘書官の参考人招致を伝える東京・秋葉原の大型モニター 実際、一部の世論調査では、内閣支持率も下げ止まりをみせて微増に転じているようだ。これは北朝鮮などの外交問題といった違う娯楽を求め始める動きや、消費者の飽きを示すものかもしれない。もちろん、真実を望む多くの人たちの、ネットなどを中心とした言論活動の成果かもしれない。 いずれにせよ、既存のマスコミが真実を追求する報道ではなく、娯楽としての報道を提供する限り、それを国が保護する何の理由もない。今後、マスメディアに対する規制緩和、特に放送法の改正などが重要な課題になっていくであろう。

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    テレビの公平性ってなんだ!?

    た放送制度改革だが、中でも注目されるのが放送局に政治的公平などを義務付けた放送法4条の存廃である。大メディアはなぜ「撤廃」に猛反発するのか。議論の核心を読む。

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    偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった!

    本柱だった。①放送法第4条をはじめとする放送諸規制(番組準則、番組基準の策定、番組審議会の設置、マスメディア集中排除原則、外資規制など)の撤廃②放送におけるハード・ソフト(NHK以外の放送設備部門と番組制作部門)分離の徹底③NHK以外の放送と通信の一元化(一本化) 以上の意味するところは、NHKと民間放送という「二元体制」の終了である。言い換えれば、NHK以外の民放をインターネットなどの通信と同列化し、事実上「放送」ではなくしてしまう。 この「改悪」が貫徹されれば、1950(昭和25)年の電波三法成立・施行から戦後70年近く続いてきた日本の放送制度は、根本的に変わることになる。つまりこれは、安倍首相の大好きな「戦後レジームからの脱却」の放送版なのである。 安倍首相がしばしば口にする「戦後レジームからの脱却」は、本来であれば、先の大戦後に日本にもたらされた戦後体制のうち、戦前体制よりよいものと戦前体制よりよくないものとを峻別(しゅんべつ)し、よくない戦後体制だけを、現体制よりよいものに変えること、であるはずだ。 ところが、安倍首相は、そうした峻別や腑分け作業なしに、アメリカの押しつけや左派・進歩的文化人の推奨が目立つ戦後体制のうち、自分が変えたいと思うものだけについて「戦後レジームからの脱却」と口走ってしまう。だから説得力がなく、歴史観がおかしな歴史修正主義者と見なされることになる。 もちろん日本の現行の放送制度は、政府の手足となり大本営発表しか流さなかった戦前の悪しき放送制度(ラジオ)を反省し、アメリカ(GHQ)の指導下につくられた、まさに「戦後レジーム」そのものである。しかも、戦前体制よりはるかによい戦後体制だ。 しかし、どうやら安倍首相は、自分が言い出した放送制度の「改悪」が、「NHK民放二元体制の崩壊」や「放送とネットの非現実的な融合」を意味し、戦後レジームを根本的に変えてしまう大ごととは、よくわかっていなかったようである。規制改革推進会議であいさつする安倍晋三首相(右)。左隣は大田弘子座長=2017年9月11日、首相官邸(酒巻俊介撮影) その後の各社報道によれば、4月中旬に開かれる内閣府「規制改革推進会議」でこのテーマを取り上げ、安倍首相が方向性を示すとされていた。その後、同会議が5月頃をメドにまとめる答申に放送改革の方針を盛り込み、早ければ18年秋の臨時国会に関連法案を提出。20年以降の施行を目指す、という段取りとみられた。 しかし、68年続いた放送制度を根本的に変えようという大改革にしては、以上のスケジュールは、ばかばかしいほど拙速すぎた。一目、話にならない無理筋である。 民放連(日本民間放送連盟)は3月半ば「放送の価値向上に関する検討会」を立ち上げ、対抗策を練った。同検討会は大久保好男・日本テレビ放送網社長(6月に井上弘・TBSテレビ名誉会長の後を受けて民放連会長に就任予定)が座長、在京キー局役員が主要メンバーとなり、民放挙げて徹底抗戦の構えをとった。 テレビと系列関係の強い大新聞紙も、今度ばかりは受け入れがたいということで、安倍首相いわく「読んどけ新聞」こと読売新聞紙も3月8日に〈安倍「放送」改革に潜む落とし穴〉(政治部からメディア局に移った加藤理一郎記者の署名記事)、17日には〈首相、批判報道に不満か〉という見出し記事を掲載。そのほかの新聞もおおむね「拙速にすぎないか」との論調である。安倍首相の「焦り」 放送を所管する総務省も依然として半信半疑。野党はもちろん、与党にも反対論が根強い。そんな中4月16日に開かれた「規制改革推進会議」が公表した「通信と放送の融合の下での放送のあり方について」では、冒頭①~③の中身は、あっさり削られていた。 同会議が具体的な検討課題として示したのは、(1)通信・放送の融合が進展する下でのビジネスモデルの展開の方向性、(2)より多様で良質なコンテンツの提供とグローバル展開、(3)上記の変革を踏まえた、電波の有効活用に向けた制度のあり方、の3項目。会見で放送制度改革について聞かれた大田弘子・同会議議長も「報道にとまどっている。そうした議論はまったくしていない」と、水面下で検討された放送法4条撤廃問題などの火消しにやっきとなった。 安倍首相は、会議で放送法第4条の「ほ」の字も出さず、「放送と通信の垣根はなくなっており、コンテンツの世界はグローバル競争の時代に突入している。日本のコンテンツは世界で通用しないとあきらめてはダメ」などと発言した。1月の施政方針演説や2月の政府「未来投資会議」で、威勢よく放送の「大胆な見直し」を宣言していたのとは大違いだ。各方面からの反対に加えて、内閣支持率の低迷が響き、自らの軽い思いつきを撤回せざるをえなかったわけである。 それにしても、なぜ安倍首相は、ポシャるに違いないこんな無理筋の話を持ち出してきたのだろうか? 今回のような「放送制度改革案」は、特に目新しいものではない。例えば2006年には、当時の竹中平蔵総務大臣の私的懇談会「通信・放送の在り方に関する懇談会」で、NHK・民放・NTTの改革が議論され、「通信・放送の法体系の抜本的見直し」「マスメディア集中排除原則の緩和」といったキーワードも登場している。 アメリカで、放送のいわゆる「フェアネス・ドクトリン」(公平原則)が撤廃されたのは1987年と、30年も前のこと。放送局が政治的な党派性を掲げてもよいのでは、という議論は、日本でも当時からあった。 今回そんな古い話を出してきた最大の理由は、森友問題(財務省の文書改ざん問題)や安倍昭恵問題にイラ立つ安倍首相の「焦り」だろう、と筆者は見る。将棋に「不利なときは戦線拡大」という格言がある。野党の質問攻勢、マスメディアの政府批判、それに影響された(と首相が思っている)内閣支持率の下落などを受けて、新しい争点を掲げて戦線を拡大し、局面を複雑化したかったわけだ。 そのネタが放送改革ならば、テレビはビビって政権批判に二の足を踏むかもしれない。特に安倍首相は、新聞では朝日新聞、テレビではTBSとテレビ朝日を、昔から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っているから、彼らにダメージを与えることになれば好都合。NHKは基本的に意のままだし、日本テレビとフジテレビは賛成してくれるに違いない、といった判断だっただろう。自分の女房すら満足にコントロールできないくせに、民放番組をコントロールしたいというのもふざけた話だ、と筆者は思うが。閣議を終え会見する野田聖子総務相=2018年2月9日、首相官邸(斎藤良雄撮影) もう一つの理由は、総務省の改革の遅れである。2017年6月に出た安倍政権の経済財政政策は「経済財政運営と改革の基本方針 2017~人材への投資を通じた生産性向上~」で、目玉は「働き方改革」だった。所管は厚生労働省で、同省の労働時間の実態調査データに疑義が生じるなどぎくしゃくし遅れに遅れたものの、3月には働き方改革関連法案の国会提出にメドがついた(4月6日に提出)。 対して総務省は、これはという改革案を出していない。しかも総務大臣は、9月の自民党総裁選をにらんで、超党派「ママパパ議員連盟」の会長に就任、地元で立ち上げた「岐阜女性政治塾」の全国展開といった動きを見せはじめた野田聖子氏。その総務省に改革案をまとめさせ、6月に出す経済財政政策の目玉にしたかったようだ。放送制度「改悪」の何が問題か 官邸の動向に詳しい放送界の事情通は、こうため息をつく。「どうやら安倍さんは、放送法第4条の『政治的に公平』規定さえなくせば、自分を応援してくれるテレビ局や番組が増える、と本気で信じ込んでいたようなのです。放送改革によって、政権の意向を代弁し、礼賛する放送局ができると。でも、自分をもっと厳しく批判する局が番組も増えるだろう、とは思っていなかったんですよ」 事情通は、「蚊帳の外だった総務省は『できるはずがない』という立場だし、国会の総務委員会(旧・逓信委員会)委員たちにも『頭越しになんだ』と不評だった。熱心な政治家は安倍首相だけで、安倍─今井尚哉・首相秘書官(経済産業省出身)─原英史・規制改革推進会議委員(2016年9月~、経済産業省出身、株式会社政策工房社長)のライン以外は、鼻白んでいた」と続けた。 首相本人は、無理筋とは思っていなかったようだが、実現は難しいと思っているスタッフは、大きな花火を打ち上げて国民の耳目を集め、少なからぬ項目のいくつかでも実現に向けて検討が始まればよい、と考えていたのかもしれない。 では、安倍政権が水面下で検討し、結局は引っ込めた放送制度「改悪」の何が問題なのか? まず放送法第4条だが、次のような内容である。(国内放送等の放送番組の編集等)第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。一  公安及び善良な風俗を害しないこと。二  政治的に公平であること。三  報道は事実をまげないですること。四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。2  放送事業者は、テレビジョン放送による国内放送等の放送番組の編集に当たつては、静止し、又は移動する事物の瞬間的影像を視覚障害者に対して説明するための音声その他の音響を聴くことができる放送番組及び音声その他の音響を聴覚障害者に対して説明するための文字又は図形を見ることができる放送番組をできる限り多く設けるようにしなければならない。 『選択』2018年4月号記事〈安倍が画策「放送法改悪」の真相〉によると、安倍首相は3月9日夜に大久保好男・日テレ社長と会食し(今井秘書官と粕谷賢之・日テレ解説委員長も同席)、「4条は現実には守られていないので、この際撤廃するべきだ」と主張したという。日本テレビ放送網の大久保好男社長=2011年11月29日、東京都港区六本木(瀧誠四郎撮影) しかし、「公安及び善良な風俗を害しないこと」が日本の放送で守られていないとは、到底いえない。「政治的に公平であること」については、安倍首相は自分や妻や政権や政府批判ばかりするテレビは「公平でない」と思っているようだが、メディアが権力者や権力を批判するのは当たり前だ、としかいいようがない。 安倍首相は内閣官房副長官だった2001年1月29日、放送前日のETV2001特集『問われる戦時性暴力』に関してNHK幹部らを呼び、内容が明確に偏っているとして番組に注文をつけたことがある。つまり、放送前の番組に政府高官として政治的な介入をし、結果、番組はギリギリドタバタで改変のうえ放送された。 政治家や政府高官が、放送局幹部に会い、放送前で制作中の特定の番組について、明確に偏向した内容と判断したうえで、「~すべきではないか」と意見を述べることを、日本国はじめ民主主義社会では「放送番組に対する干渉」と呼ぶ。そして、政治家や政府高官が放送番組に干渉することを、日本国はじめ民主主義社会では「政治介入する」「政治的圧力をかける」などと言い習わしている。安倍首相は民主主義が分かってない だから、当時の安倍晋三氏がやったことは、放送法の第2章(注:当時は第1章)「放送番組の編集等に関する通則」の「(放送番組編集の自由)第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」という条文に抵触する放送法違反だ。ついでにいえば、日本国憲法「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」にも抵触する憲法違反でもある。 私たちの社会は、北朝鮮や中国でも戦前の日本でもない自由な社会だから、放送局がまだ放送すらしていない番組を政府高官が偏向と決めつけ、ああしろこうしろと注文することが許されるはずがない。ところが、安倍首相は平気でそのような注文をしてしまう。 ようするに、言論報道の自由や民主主義の手続きといったことが、全然わかっていないのだ。 なお、筆者は『問われる戦時性暴力』を極めてエグい内容の番組と考えており、よい番組とはまったく思わない。それでも政府高官の事前介入はダメだ、と主張する。安倍首相は、悪い番組だから政府高官が事前介入するのは当然だ、と考えている。当然、間違いである。それを許せば、政府高官が番組のよし悪しを決めることになるからダメなのだ。 テレビが新聞と違って、放送法で特に「政治的に公平」を求められているのは、限られた者たちが従事する放送局が限られた国民の共有財産である電波を独占的に使い、流す放送番組が直接家庭のテレビ受像機に映し出されて大きな影響力を持つから、である。 突き詰めていけば放送法第4条は、憲法第21条が強くうたう「一切の表現の自由は、これを保障する」と矛盾することになりかねない、実は危うい規定である。万万が一、ヒトラー政権のような独裁政権が登場し、第4条「政治的に公平であること」違反として放送電波を止めるようなことがあれば、独裁者が国民を支配するツールと化してしまう。だからこそ、放送法第4条は一種の倫理規範であり、これを根拠として放送電波を止めることは許されない、と考えられている。これが大方の憲法学者の見解だ。 また、ある個別の番組を見ただけで放送法第4条「政治的に公平であること」違反と決めつける人が少なからずいるが、これも間違い。放送の政治的な公平は、一定期間あるチャンネルを継続して見なければ判断できないというのが、何十年も前から政府の公式見解である。 そして、当のテレビは、実は選挙の時期には政府広報CMを断る、討論番組で政治家の露出時間を公平にする、しつこく両論を併記するなど、視聴者が考える以上に公平や中立に気を配っている。公平規定の撤廃で政権批判が収まるといったバカげたことは考えにくく、撤廃してよいことが増えるとも思えない。家電量販店では解散表明のテレビ画面に来店客が見入っていた=2017年9月25日、横浜市(内藤怜央撮影) 「報道は事実をまげないですること」も、世界的にフェイク・ニュースやヘイトスピーチが横行するいま、なくさなければならない規定ではなかろう。「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」は、日本の放送では全然、守られていない。筆者は2011年以前に、地上デジタル放送の進め方はよくないと主張したが、そのような論点を取り上げる放送局は皆無だった。しかし、守られていないから撤廃すべきとは筆者は思わない。守れ、というほかはない。 安倍首相や規制改革推進会議の委員たちは、以上のような事柄もやっぱりわかっていない、と考えるほかはない。AbenoTVならぬAbemaTV 「マスメディア集中排除原則」「外資規制」の緩和といった経済的・産業的側面については、ある程度、検討する余地があるだろう。 日本ではテレビ放送と大手新聞紙の資本系列が存在しており、すでに集中排除原則が骨抜きとなり、形骸化している事実もある。少子高齢化が進み、地方が疲弊して人口減がさらに深刻になれば、地方局やラジオ局の再編は必至で、この点からも集中排除原則の見直しが求められる恐れが強い。 放送局の資本を100%外資が押さえることは、電波が国際的な取り決めで日本国に割り当てられ、それが各産業や企業に割り当てられていることから、そもそも筋が違う。放送局は重要インフラであって、安全保障など危機管理上も問題だ。ただし、外資規制(現在は国内放送局への外国企業の出資割合が20%未満)をある程度緩和することは、グローバル化の進む現在では避けられないように思われる。 放送事業への新規参入ももっとあってよいし、放送におけるハード・ソフト(放送設備部門と番組制作部門)分離も、放送がよくなるものであれば検討すればよい。筆者は、放送は現状維持するのがもっともよい、などとはまったく考えていない。 もっとも、電力が発電と送電で分離したから、同じように放送や通信もハード・ソフトを分離すべき、といった荒っぽい議論は願い下げだ。電気は誰が発電しても送電線に乗せて送ることができる電気だが、番組は誰が制作しても電波に乗せて送ることができる番組という話にはならない。当たり前である。 産業界・財界の経営者や、経済産業省出身の規制改革推進会議委員あたりには、放送の経済的・産業的側面だけに着目し、同じ四角い画面に表示されるのだから放送と通信(インターネット)は垣根をなくして一本化すればよいと思っている人が結構いる。だが、そんな考え方に筆者は、直ちには賛同しかねる。放送と通信を一緒くたにし、さまざまな事業者に自由にやらせて経済効率を追求すれば、現在の放送も通信もどちらもよくなる、という話にはなりそうもないからだ。規制改革推進会議であいさつする安倍晋三首相(右から2人目)=2017年9月11日午前、首相官邸(酒巻俊介撮影) 第1に、経済効率一辺倒では、放送でも通信でもあまり儲かりそうにない分野が見捨てられていく。例えば、地方に住む少数の視聴者・ユーザー、障害者など絶対数が少ない視聴者・ユーザー、限定的な地域で甚大な災害に見舞われた少数の視聴者・ユーザー、高齢者や若年者・幼児など機械にも情報リテラシーにも弱い視聴者・ユーザーなどを対象とする分野である。放送と通信を一緒くたにすれば、彼らにとって現在よりよい情報が送られるという保証はなく、むしろ切り捨てられる恐れが強い。 例えば、視覚障害者むけの音声放送や聴覚障害者むけの字幕放送はどうなるのか?「AbenoTV」ならぬAbemaTV(2017年の衆院選直前に出演して言いたい放題できたので、安倍首相の大のお気に入り)だのニコ動だのが、どんどん放送事業に入ってくるのはよいとして、彼らはまともな政治報道や災害報道や緊急警報をどこまでやる用意があるのか? 第2に、放送と通信の一元化によって電波からインターネットへの転換が進み、放送に割り当てられた電波に余裕ができ、その利用者をオークション方式で決めるという方向だが、電波からネットへの転換は、一言でいうほど簡単ではない。 そもそも、なぜ放送はラジオを電波で始め、次にテレビを電波で始めたかといえば、電波を使うことが、不特定多数の家庭や事業所に届けるにはもっとも安く、効率的だったからだ。忖度だらけのNHK 現在でも、大規模災害などの発生時はネットは(電話も)つながりにくくなる。ある人がネットを使えるということは、その人(の端末)と事業者が有線であれ無線であれ双方向でつながることだが、大部分の人は大部分の時間、一方通行でよい。だから一方通行の放送に満足している。 これを双方向回線にすれば当然、一方向よりもコスト高になる。このコストは、離島や僻地(へきち)など地域によって大きく違う。規制改革推進会議が、通信事業者によって異なるコストを、どこまでまともに計算したのか、現時点ではよくわからない。ユーザーも、民放だけ見るぶんには無料だったのに対して、通信はインターネットに接続するだけで有料となる。いまネットを使っている人びとはさておき、高齢者や貧困層がそう簡単に納得できる話とは思えない。 第3に、放送のとりわけ報道番組は、通常はあまり儲からないが、いったん事が起こると人々が集中的に注目し、時に人の生死に関わるような重大な選択肢を示すことすらある。ところが、当面は何事も起こっていないから、ある場所に特派員なりクラブ記者なり通信員を配置するのはやめておこう、といった融通がきかないのが報道なのだ。つまり報道には、普段から人もカネもかかる。 放送からさまざまな規制を撤廃し、教養・報道・娯楽など番組ジャンルの調和を求める規定も撤廃して自由にやらせ、儲かりそうにない報道部門が縮小していくと、日本の言論報道空間そのものが縮んでいくことになりかねない。 安倍首相あたりは、報道はコントロールの効くNHKだけに任せればよい、と思っていたようである。というのは、改悪が実現すると、放送法はNHK設置法となり、第3章(目的)「第15条 協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うことを目的とする。」の次あたりに、現・第4条の内容が挿入されると思われたからだ。 現在のNHKの報道を見れば、政権に対して忖度(そんたく)を繰り返し、完全に腰が引けた情けないものになっていることは明らかである。そんなNHKの報道だけでよいのか、と思わない国民は、どう見ても少数派に違いない。インタビューに答えるNHKの上田良一会長=2018年2月5日、東京都渋谷区(飯田英男撮影) NHK内部の声を聞くと、NHKと民放の二元体制が重要と思っているのは、NHK会長と役員(理事)くらい。現場では「民放がなくなるだけならば、うちには関係ない話」と思っているようである。 だが、安倍政権の放送制度「改悪」で、万が一民放がなくなる(大手ネット事業者と区別がつかなくなる)のであれば、民放とバランスを取っている現在のNHKの規模は、見直されて当然だ。すると、毎年の予算規模7000億円といった巨大放送局は必要なくなる。当然、受信料は下がる。月額1000~1200円でもまだ高い、という話になりかねない。もちろんNHK職員の数も減るだろう。 以上のことにNHK職員の大部分が気づかないまま、安倍政権の「放送制度改革」はいったん頓挫した。しかし、いつまた同じようなプランが浮上しないとも限らない。今回は新聞紙が水面下の動きを伝えたところで、派手な打ち上げ花火が消えてしまったから、NHKや民放は問題があったと報道すらしておらず、現場には危機感も薄い。 しかし、繰り返すが、放送は現状維持がもっともよいわけではない。放送関係者は、今回のような問題をもっと切実に、自分たちに突きつけられた問題ととらえ、対応を考える必要があるだろう。

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    テレビが「放送法4条撤廃」のニュースを報道したくない裏事情

    党が番組内容にモノ申すことは言論介入であり、極めて不適切だとするのが大勢の見方なのである。安倍政権もメディア不信を利用する? 驚いたことに、この放送事業見直し案では、テレビ報道を牽制するためにフル活用してきた放送法4条の撤廃も視野に入れている。180度の方向転換である。 米国では1987年、日本の「政治的公平性」に相当する「フェアネス・ドクトリン」(公平原則)が撤廃された。その結果、イデオロギーを前面に押し出して人々の感情に直接訴えかけるような偏った報道が増えた。 次第に米国民の議論は過激なものになり、互いに激しい批判を繰り広げるうちに社会は分裂し、メディアへの信頼も低下した。そんな中、トランプ大統領は主要なテレビ局などをトランプ支持者にとっての「共通の敵」として設定することで政治的求心力を高めようとしている。 日本でも放送法4条を廃止した場合、米国と同様にテレビ報道が分極化を強め、極端な言説やフェイクニュースがあふれかえり、テレビへの不信感が一層強くなる可能性がある。安倍政権は、トランプ大統領のように「メディア不信」を利用して自らの支持基盤を強化することを狙っているのかもしれない。勝手な推測かもしれないが、安倍首相の朝日新聞への批判や、麻生太郎副総理兼財務相の「森友の方がTPP11より重大だと考えているのが日本の新聞のレベル」といった発言などを考慮すると、かなり現実味を帯びてくる。 また、安倍首相は2013年6月、インターネット動画サイト「ニコニコ動画」に出演し、動画を見て書き込みをする層を「保守派が圧倒的ですから」とも発言したという。この発言から考えると、通信事業者が放送に新規参入すれば、現政権の支持者を増やすことができるというしたたかな計算があったのではないか。 放送事業見直し案に関しては、在京民放キー局5社の経営トップが反対姿勢や疑念を示した。しかしながら、この問題に関する現場レベルの反応は鈍く、テレビニュースで積極的に取り上げているようには思えない。 公共性が高い情報なのに、なぜ伝えないのか。テレビ報道の現場社員であれば、こんな言い訳が考えられる。2017年9月、横浜市内の家電量販店では安倍首相の解散表明会見を報じるテレビに来店客が見入っていた 業界構造全体が変わるようなニュースは自分の手に余る。幹部の指示がないと放送できない。指示がないのだから放送しなくても自分の責任は問われないだろう。下手に放送すべきと進言すれば、空気が読めないダメなやつと思われるかもしれない。ひとまず他局の動きを見よう。他局も報道しないならば、このニュースは無視しよう。 私がいまだに現役テレビマンだったとしても、こう考えただろう。財務省の決裁文書改ざん問題で「忖度(そんたく)」の有無について、まるで他人事のように報道しているが、安倍政権の顔色をうかがう体質はテレビ業界も同じだからである。進んで自主規制するテレビマンの弱腰 安倍政権の意向に反したことを放送すれば、政府や自民党から「牽制球」を投げ込まれる。そうなれば、テレビ局によって対応の差はあるものの、社内で対応に苦慮し「面倒なことに巻き込まれる」という恐怖感が番組スタッフや記者の萎縮につながっているのではないだろうか。 放送内容の是非は考慮されず、社内で「面倒なこと」を生じさせた責任を問われる可能性さえある。だから、テレビマンは見て見ぬふりをして自主規制するのである。 例を一つ挙げよう。前述したように、2014年の衆院選の際、自民党は在京のテレビ各局に選挙報道に公正中立の配慮を求める文書を送った。その後、衆院選を伝えるテレビ報道が激減したのである。テレビ番組の内容を分析するエム・データ社によると、2012年の衆院選と比べて放送時間が約3分の1に減っていたという。 テレビ局の「触らぬ神にたたりなし」の「事なかれ主義」がはびこり、自主規制につながった可能性が高い。報道の自由という観点からも、番組内容を牽制する自民党の姿勢は問題だが、それにひるんで自主規制してしまうテレビ局も弱腰すぎてフォローのしようがない。 放送法4条はテレビ各局にとって「もろ刃の剣」である。政府・自民党からの「牽制球」にもなるし、「偏向報道の抑止力」として機能する場合もある。メリットがあればデメリットもある。 だからこそ、4条撤廃は軽々に判断されるべきものではなく、慎重な議論が必要である。撤廃したとして、行政当局が表現を規制をするのか。放送倫理・番組向上機構(BPO)のように表現の自由を確保しながら、苦情や放送倫理上の問題に対応する第三者機関も廃止になるのか。他にも、報道の自由を守るための論点は多い。 にもかかわらず、これまでテレビ報道の現場は「事なかれ主義」で、安倍政権がこれまでにテレビ局を牽制してきたことをほとんど報じていない。だから、多くの視聴者は政府とテレビ局の間で何が起きているのか、さっぱり理解していない。規制改革推進会議の作業部会に臨む民放連やNHKの役員ら(右側)=2018年4月26日、東京都千代田区 放送法4条を撤廃することの重大さを考えると、テレビ局の役員や幹部、現場の報道担当者はここで覚悟を決めて、視聴者にこの問題をきちんと伝えるべきだと思う。各民放の経営トップが放送事業見直し案に反対を表明するだけでは、新規参入業者を拒み既得権益を守ろうとする「オールドメディア」という印象を残してしまうかもしれない。 むしろ、これをきっかけにニュース番組で、これまで安倍政権がテレビ各局にしてきたことをつまびらかにした上で、放送への新規参入や放送法4条撤廃の是非を問うのはどうか。これまでの「事なかれ主義」を打破して、政府とテレビ局のまっとうな関係とはどういうものなのか、今こそ問題提起するタイミングである。

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    池上彰『週刊こどもニュース』が直面した政権忖度と放送法の壁

    めるようなことはしてはいけません。 そして一歩間違えれば民衆を洗脳する凶器にもなり得る、テレビというメディアには、しっかりと法律の網をかけておく必要があります。 公序良俗、事実主義、そして何より政治的に公正中立であることは、テレビにしか求めることができない、貴重な社会的ミッションです。そのスタンスがあるからこそ生まれる、民放のニュース解説番組には、池上彰さんの番組など鋭い切り口のものが、いくつかあるように私には思えます。放送法第4条の撤廃は、民放からこれらの良質なジャーナリズムを奪い去ることを意味します。規制改革推進会議であいさつする安倍首相=2018年4月16日、首相官邸 テレビに関わってきた人間として、このようなジャーナリズムを軽んじた法案は、認めるわけにはいきません。NHKをコントロールできるようになった安倍政権は、今度は民放までもコントロールしようとしているのでしょうか。 為政者がマスメディアを独占したときに何が起こるのか。歴史を振り返ってみてください。まさにナチスの状況に近づきつつあると、私には思えてきます。国民が気づいたときには、すでに手遅れになっているかもしれません。

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    大きなアドバンテージが認められたNHKとその責任

    河本秀介 (弁護士) NHKの受信料制度の合憲性などが争われた訴訟で、最高裁は本年12月6日、NHKの受信料制度は憲法に違反しないとする初の判断を含む大法廷判決を下しました。この判決では、受信料制度を合憲だと判断するだけでなく、受信契約を拒否する人との間にいつ、どのような場合に契約が成立するのか、受信料はいつから発生するのかといった点についても判断が示されています。 結論からいえば、最高裁は、①NHKが受信契約を拒否する人に対して訴訟を起こし、NHKの勝訴判決が確定した時点で契約が成立する、②NHKはその人が受信装置(テレビなど)を設置した時点に遡って受信料を徴収できると判断しました。 今回は、この最高裁判決について解説したいと思います。 今回の訴訟は、NHKが原告となって、自宅にテレビを設置しているのに受信契約をしていない被告を相手に、受信料の支払い等を求めた事案です。これに対して被告は「受信契約を締結する義務はないので、受信料を支払う義務はない」などと反論していました。 まず大前提として、なぜNHKは「NHKは見ないので契約しません」と言っている相手に対しても、契約の締結を求めることができるのでしょうか。これについては、放送一般に関する法律である放送法に根拠があります。 放送法は64条1項で「協会(註:NHK)の放送を受信することのできる受信装置(註:テレビなど)を設置した者は、協会とその放送の受信に関する契約をしなければならない。」としています。放送法では「実際にNHKを見ていること」は、契約締結義務の要件とされていません。 すなわち、法律は、たとえNHKを全く見ない人であっても、テレビ(普通はNHK放送を受信できます)を置いているだけで、受信契約を結ぶ必要があるとしているのです。東京・渋谷のNHK放送センター(宮川浩和撮影) 今回の裁判で被告は、この法律の規定に対して、「強制力がある規定ではない」「仮に受信契約の締結を強制されるのであれば、契約の自由などを侵害するので憲法に反する」と主張していました。 この点について最高裁がどう判断したのかですが、まず「契約締結義務を定めた放送法の規定には強制力がある」としました。強制的に契約させるためには訴訟が必要 そして、契約を強制される結果になることが憲法に違反するのではないかという点については、NHKには公共放送として国民の知る権利に応える重要な役割があるとしたうえで、テレビを設置しただけで契約を締結して受信料を徴収できるしくみについても、「NHKに特定の個人、団体又は国家機関などから財政面での支配や影響が及ばないようにするために(つまり公共性を保つために)必要な措置なので合理性がある」などとして、憲法に違反しないと判断しています。 これにより、自宅にNHKが映るテレビを置いている人は、それだけで受信契約を締結する義務があるということが明確になりました。「NHKは見ないので受信契約は締結しません」といって契約を拒否することはできないということがハッキリしたということになります。 さて、今回の判決で興味深いのは、自宅などにテレビを置く人が受信契約の締結を義務付けられるとして、いつ契約が締結されるのか、いつの分からの受信料を請求できるのかについても明らかにされているということです。 まず、いつ契約が締結されるのかについては、判決は「NHKが受信契約を締結していない者に対して訴訟を起こし、受信契約の締結を認める判決が確定したとき」としています。 NHKが契約を拒否する人に対して受信料の支払いを求めるためには、まずはその人に対して訴訟を起こし、「契約が成立した」という内容の判決を確定させなければなりません。つまり、NHKの訪問員が自宅を訪れて「受信契約をしてください」と言っただけでは、受信契約は成立しないということになります。 そうすると中には、「NHKが訴訟を起こしてくるまで契約締結を断り続けよう。契約締結を認める判決が出た後で受信料を支払おう」と考える人も出てくるかもしれません。しかし今回の判決によると、そうもいかないようです。 今回の判決では、NHKがいつの分からの受信料を請求できるのかという点について、「契約が成立したとみなされた時点で、テレビを設置した月に遡って受信料を請求できる」とされているからです。2017年12月、NHKの受信料制度について、合憲の初判断を示した最高裁大法廷(佐藤徳昭撮影) これに対して、被告は「過去の受信料の一部は少なくとも時効により支払う必要がなくなっている」とも主張していたのですが、これに対しても最高裁は、「受信料債権の消滅時効は契約成立の時点から進行する」として、過去分の受信料は時効により消滅しないと判断しています。 例えば、ある人がNHKと20年前に受信契約を締結して、その後ずっと受信料を支払ってこなかったとしましょう。この場合、過去5年より前の受信料は時効により消滅しますので、基本的にNHKは5年分の受信料しか請求できません。アドバンテージの背景にある大きな責任 これに対して、今回の事案のように、テレビを置いてから受信契約をしてこなかった人が訴訟を起こされ、判決の確定で契約締結が認められた場合には、テレビを置いたのが20年前であろうと30年前であろうと、NHKから過去分全ての受信料を請求される可能性があるということになります。 実は、NHKの受信契約(「日本放送協会放送受信規約」)には、契約者が受信契約を締結したのがいつであっても、テレビを設置した月からの受信料を請求できるということになっています。最高裁の理屈は、“受信契約は判決が確定した時点で初めて成立するのだから、過去分の受信料もその時点で初めて発生する”というもののようです。 最高裁が、NHKに対して受信契約が成立した時点で、過去に遡って受信料を請求できることを認めたのは、NHKに対して非常に大きなアドバンテージを認めたといえるでしょう。今後予想される展開として、NHKが受信契約を渋る受信者に対して「いま契約をすると過去分の受信料は請求しませんが、契約をしない場合には訴訟を起こして過去分まで全て請求しますよ」といって受信契約を促すということも考えられそうです。 さて、今回の最高裁判決について、個人的な見解を述べさせて貰うと、契約締結義務に強制力があることを認めたことはさておくとしても、受信契約が成立した時点でテレビを設置した日まで遡って受信料を請求することができ、なおかつ消滅時効にもかからないとした点については、違和感を覚えます。 一般的な民間企業と消費者との間の契約の場合、「契約を締結するより前の代金を請求できる」ことからして考えにくいでしょう。さらに支払トラブルが起こった場合に、「いくらでも過去に遡って代金を請求することができる」というのも、消滅時効の関係でなかなか考えられません。 NHKを一つの企業体として見た場合、そもそも「NHKが映るテレビを置いている全ての人が受信契約を締結しなければならない」という時点で非常に大きな経営上のアドバンテージがあるといえます。さらに、「いくらでも過去に遡って受信料を請求できる」という結論は、いささか大きすぎるアドバンテージを与えているように感じます。 他方で、最高裁がNHKにこれだけのアドバンテージを認め、「合憲である」と判断したのは、ひとえにNHKに公共放送として高い使命と重要性があることを認めたからに他なりません。民放のようにスポンサーから提供で経営する場合、どうしてもスポンサーの批判はしづらいでしょう。(iStock) 税金で運営する場合には、現政権に批判的な報道を控える可能性があります。NHKには、視聴者からの受信料で経営することで「たとえ国家権力にすら肩入れすることなく、公平で客観的な放送を行うことで、国民全体の知る権利に応えること」が期待されています。 NHKには、今回の判決で強力なアドバンテージが認められた背景に公共放送としての高い使命が求められていることを真摯に受け止め、より一層良質な放送が求められているのではないでしょうか。

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    久米宏が語る『ニュースステーション』と日本新党

     テレビが政治を動かし、時代を動かす──そんな番組は、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)以降ない。なぜそれほどの影響力を持ち得たのか、今のテレビとは何が違うのか。初の自伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を刊行した久米宏氏が、自身の半生を振り返りながら、「テレビ論」を語った。* * * 僕は、口では反権力だ反自民だって言っていますけど、『ニュースステーション』に出てきた人たちに損はさせない、視聴者から「この人は素敵な人だ!」と思ってもらえるようにしたいというサービス精神がどこかにあるんですよね。だから、葛藤はありました。 たとえば自民党の国会議員が番組のゲストにやってきて、めちゃくちゃな発言をして僕と大ゲンカになったとしても、その人の魅力や人間性が視聴者に伝わってほしいんです。それはもう本能的なものですね。 僕がショックを受けたのは橋本龍太郎さん。控え室に挨拶に行くと、ヘビースモーカーの橋龍さんがパイプに煙草をさして吸っていて、僕の方をジロリと見て「ああ、これが久米宏か」と珍獣を見るような感じで言った。 生で見る宿敵って感じ。ある意味、認められていたからだろうとは思いますけど。政治をお茶の間に、お茶の間という言葉はもう死語ですけど、政治を、視聴者にとって身近なものにしようという意識は明確にありました。 こちらから近づいたわけですから、政治家に利用されるのはある意味で当然でしょう。そのことを一番感じたのは日本新党の時です。キャスターの久米宏=2014年5月(高橋朋彦撮影) 細川護熙さんが『月刊文藝春秋』にお書きになった論文(「『自由社会連合』結党宣言」1992年6月号)がとても面白くて、すぐに番組のゲストに出ていただきました。視聴率も凄く良かった。まだ日本新党という言葉はない時期です。 以後、妙なパイプができて、大げさに言うと『ニュースステーション』が日本新党を作ったみたいになってしまった。 1993年7月の衆議院総選挙では、僕が名前も知らない人が当選したほど日本新党の人気が爆発して、結局55年体制の崩壊につながった。小池百合子さんもその時に衆院初当選したわけですが、あの時はさすがに深入りし過ぎたというか、これはマズいことになったと思いました。 細川さんは外国に行って、マフラーを巻いた写真を撮ったり、記者会見でボールペンで記者を指名したり、明らかにテレビ映りを気にするようになった。自民党では選挙前に田中真紀子さんがよく出てくれました。細川護煕さんと、田中真紀子さん、そして小泉純一郎さんは、テレビに出ることの意味を本当によくわかっている。『ニュースステーション』も深く研究していたはずです。■聞き手/柳澤健(ノンフィクションライター)関連記事■ 久米宏 ニュース番組で小宮悦子を「悦ちゃん」と呼んだ理由■ 『あさイチ』降板の有働アナ、決定に至るまでの様々な葛藤■ 久米宏 「僕は何があっても貴乃花親方の味方です」■ 久米宏が振り返る「横山やすしと島田紳助」秘話■ 日テレ徳島えりかアナ 「ポストミトちゃん」として急浮上か

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    高須院長がマスコミに注文「先に反日ですと宣言して」

     高須クリニックの高須克弥院長が世の中の様々な話題に対して、自由気ままに提言するシリーズ企画「かっちゃんに訊け!!」。今回は、財務省の決裁文書改ざん問題に関する報道について語っていただきました。* * *──現在、日本国内では森友学園への国有地売却に関する決裁文書改ざん問題が大きく取りざたされています。焦点としては、官邸サイドから財務省へ何らかの働きかけがあったのか、あるいは財務省から政権への忖度があったのか、という部分にあります。高須:もちろん、公文書を改ざんするということは、あってはならないことだよ。どういう経緯で、そして誰の判断で改ざんすることになったかを解明することは必要だと思う。でも、ちょっと気になるのが、一部のマスコミの報道だね。こういった事件は、あくまでも事実のみをベースとして、公平に報じなければいけない。それが報道機関の役割だよ。でも、一部のマスコミは、政権批判の材料として改ざん問題を利用しているわけだ。政権が有利になるような事実は報じずに、政権がすべての元凶であるかのような流れを作って、都合のいい情報だけを垂れ流しているように感じるんだな。少なくとも、そんなことは大手マスコミのするようなことではないと思うね。──文書改ざん問題が発覚してから、安倍内閣の支持率は低下しています。高須:残念だよ。個人的には外交政策もいいと思うし、景気も決して悪くないと思う。そりゃあ完璧な内閣ではないだろうけど、いろいろな批判を浴びながら、ものすごく頑張っている政権だと思う。憲法改正とか消費増税とか、誰もやりたがならないけど、いつかは誰かがやらなければいけないことに率先して取り組んでいるんだから、安倍さんは本当に立派な総理大臣だと思うけどね。そのあたりをしっかり評価するマスコミがもっとあってもいいと思うなあ。──しかし、現在は主に安倍内閣の疑惑を追及するような報道が多いですね。高須クリニックの高須克弥院長(納冨康撮影)高須:特にテレビのニュースに顕著だけど、何か注目の的となるニュースがあると、それに対してあるひとつの結論を仮定して、全体がそこに向けて、報じていくという傾向があると思うんだよ。結論ありきで、そこに導くような情報ばかりを出して、そうではない情報は闇に葬り去られてしまう。別にとても重要なトピックがあったとしても、無視されることさえある。それは健全ではないと思うね。「改ざん問題もいいけど、北朝鮮情勢は忘れていないかい?」って素直に思っちゃうなあ…。 あと、テレビなんかでは安倍首相が関与しているかのような報道も多いけど、SNSなんかをよく見ていると、文書改ざん問題について「政治の関与はありえない」といった意見を発信している専門家は少なくないんだよね。でも、地上波ではあまりそういう意見は使われず、マスコミ側が想定した意見ばかりが使われがち。なんとも気持ち悪い状況だ。安倍政権崩壊で儲かる?──実際問題として、多くのマスコミが“アンチ安倍内閣”なのでしょうか。高須:ご存じの通り、完全にアンチ安倍内閣のマスコミもいるよ(笑い)。でも、ただ単に“今の空気”に乗っているだけのマスコミも多い。「アンチ安倍色を出したほうが視聴率が取れる」という判断なのかもしれないね。とはいっても、正しい意見を発信しても無視されてしまう状況があるのは事実であって、これは本当に由々しき問題だよ。 でも、どうしてマスコミはわざわざアンチ安倍のほうに流れていくのか、それが不思議で仕方ない。だって、ネットを見ていると安倍首相も麻生財務大臣も「辞任しなくていい」という声がけっこう多いし、そもそも安倍政権の支持率は高かったわけだからね。もしも視聴率がほしいのであれば、保守寄りの報道をしたほうがいいと思う。それなのに、アンチ安倍の方向へ進んでいるというのは、なんだか気持ち悪いなあ。誰かが裏で糸を引いているのか? 安倍政権が崩れたら儲かる人でもいるんじゃないの? …って、ちょっと陰謀論めいてきちゃったな。これはいけない(笑い)。 まあ、陰謀論はばかげた冗談だけど、安倍政権に関係ないところでも、不自然に報じられない話題はいくらでもある。例えば、中国政府によるチベット弾圧もそう。深刻な人権侵害なのに、世の中の人権派の皆さんはどうしてそこをもっと取り上げないのか? 疑問しかないよ。 仮に偏った報道をするのであれば、最初に「反安倍です」とか「反日です」とか宣言してから、やってほしいね(笑い)。そうすれば仮におかしな報道があったり、人権侵害する国を擁護するようなことがあったりしても、「偏ってるんだから仕方ないか」って思えるもん(笑い)。もちろん、その逆もしかりだよ。「保守です」って宣言して報じていれば、僕も「なるほど~」って安心しながら見ることができるからね(笑い)。 ただ、そうなったらもう報道ではなく、イデオロギーの発信ということになる。でも、そのほうが双方とも意見をぶつけやすくなって、意外と建設的な議論ができるような気もするなあ。少なくとも、報道という姿を借りて、民衆を愚弄しつつ、おかしな方向へ導こうとする卑怯なまねがまかり通るよりは健全だよ。* * * 公平性・客観性に欠ける一部のマスコミへの不満をぶちまけた高須院長。ネットで様々な情報をキャッチできるこの時代だからこそ、正しい報道が必要となるのはもちろんだが、同時に正しい報道を見極める力も必要となりそうだ。【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。著書に『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子氏との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)、『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)など。関連記事■ 安田浩一氏「ネトウヨの安倍氏支持はマスコミとの対決姿勢」■ 安倍礼賛のマスコミ 報道ダンゴ虫の心象は囚人のジレンマ的■ 韓国マスコミの日本報道 保守系より左派系のまともさ目立つ■ STAP細胞事件 いい大人がやや美人に惑わされたとすら言える■ 室井佑月 雑誌特集の「輝く女」に「私達は蛍光灯じゃない」

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    「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記

    東京MXテレビの情報バラエティー「ニュース女子」の放送が終了した。同番組をめぐっては、放送倫理・番組向上機構(BPO)が放送倫理違反と人権侵害を指摘したことが記憶に新しい。放送終了の背景に何があったのか。番組制作を担ったDHCグループ会長、吉田嘉明氏がついに沈黙を破り、iRONNAに独占手記を寄せた。

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    【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か

    少は移民として受け入れることはあっても、決して大量にこの国に入れてはいけないのです。ましてや、政権やメディアを彼らに牛耳られることは絶対に避けなければなりません。

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    「ニュース女子」打ち切り、朝日のフェイク記事に隠れた意図

    上念司(経済評論家) 新聞には嘘しか書いてない。まさに、このフェイクニュースを見てそう思った。 昨年1月に沖縄の米軍基地反対運動について伝えた東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の「ニュース女子」に批判が出ていた問題で、MXが番組の放送を今春に終えることを決めた。事実上、放送を打ち切ることになる。関係者が朝日新聞の取材に明らかにした。 朝日新聞 2018年3月1日 まるで『ニュース女子』という番組が打ち切りになるかのような書きっぷりだ。しかし、事実は全く違う。もともと、『ニュース女子』はDHCテレビが制作し、全国の地上局に販売、再送信されているコンテンツだ。東京MXテレビはその数ある地方局の1つであって全部ではない。MXでの再送信が終わることと、番組そのものが終わることは全くの別問題だ。 私は出演者の一人だが、4月以降の収録スケジュールも出ている。また、制作会社からの説明によればネットや他の地方局での放送も続くとのことである。 数秒で裏が取れる話をなぜわざわざミスリードするような書き方で記事にしたのか。それほど、この番組で取り上げた沖縄に関する放送内容が、彼らにとっては痛撃だったのだろう。 例えば、地元の穏健な反対運動が県外や海外からの活動家によって過激な方向に引きずられているという指摘がある。放送倫理・番組向上機構(BPO)からの指摘を受けて『ニュース女子』が作成した検証番組には、当初の主張の裏付けとして過激な反対運動の様子を撮影した動画が紹介されている。動画『ニュース女子〜沖縄取材第2弾〜』#101『ニュース女子』より 防衛省職員の周りを取り囲み、顔写真を無理やり撮影している様子が映っている。撮影した顔写真を元に個人情報を特定し、横断幕などに晒(さら)すそうだ。極めて卑劣な行為であると言わざるを得ない。これらの行為を行っていたのが沖縄平和運動センター議長の山城博治氏だ。彼は防衛省職員にけがを負わせた件など4つの罪で逮捕、起訴されている。これ以外にも活動家に資金援助があるとか、抗議活動によって救急車の通行に支障が出るなどの問題を指摘されたことが気に入らなかったのだろう。BPOはダブルスタンダード 確かに、『ニュース女子』は情報バラエティー番組であり、ある程度の「演出」はつきものだ。しかし、安保法制やテロ等準備罪のときに地上波テレビの報道番組が行った演出に比べて、それが著しく過剰であったとは言えない。「放送法遵守を求める視聴者の会」の調査によれば、安保法制において民放の主要ニュースの9割が反対論に占拠されていたという。これが許されて、なぜ『ニュース女子』の演出が許されないのだろうか。BPOは明らかに「ダブルスタンダード(二重基準)」である。 しかも、今回の件を審議したBPOの委員の中には、沖縄の反基地番組に出演している弁護士が含まれている。明らかに中立性を欠く人選だ。なぜMXテレビはこれらについて正式に抗議できなかったのか。むしろ、MXはBPOの側に立って、『ニュース女子』への考査(事実上の検閲)を強めていったという。 BPOは3月8日に放送人権委員会からMXに対して勧告を出した。「のりこえねっと」共同代表の辛淑玉(シン・スゴ)氏に対する名誉毀損の人権侵害があったと認定した。私の知る限りでは、『ニュース女子』側から辛氏に対して再三、出演依頼がなされている。反論の機会を提供するのが目的だ。しかし、辛氏はこれをことごとく断ったという。反基地闘争を率いるリーダーがなぜ絶好の反論の機会を活かさなかったのか。理解に苦しむところだ。 そもそも、辛氏はこの番組で注目されたことによって、過去の講演会で行っていた過激な演説動画までネット上に拡散してしまった。辛氏は講演の中で「若い者には死んでもらう。爺さん婆さんたちは、嫌がらせをして捕まってください」などと過激な言葉を連発し、運動を煽っていたことがうかがえる。本人は冗談のつもりかもしれないが、実際に反対派の暴力動画を見せられた後にこの発言を聞くと笑うに笑えない。つまり、『ニュース女子』が違った角度から沖縄問題に光を当てたことによって、多くの人が関心を持ってネット検索したということだ。それは沖縄の実態とはかけ離れたストーリーの中に押し込めておきたい人々にとっては非常に都合の悪い話だったのだろう。 『ニュース女子』はMXの再送信がなくなるだけで、他の地方局およびネットでの配信は続く。冒頭の朝日新聞の記事をミスリードして番組打ち切りに沸いていた左巻きにとっては残念な結果だったに違いない。しかし、もっとダメージを受けている人がいる。それはMXテレビである。 『ニュース女子』のMXテレビ撤退は、むしろDHCテレビが望んだものだ。MXがあまりに放送内容に介入するので、もう配信を止めたいと思っていたそうだ。しかも、DHCはこれまでMXに出稿していた広告を全てキャンセルしてしまった。一番多い時期でMXの広告収入の2割、現在でも11・5%を占める広告が一瞬にして消滅したのである。普通の会社なら担当者は左遷、担当役員はクビになるだろう。「ニュース女子」について会見する放送倫理・番組向上機構(BPO)の委員ら=2017年12月14日、東京都千代田区 マスコミはノイズしか拾わない。まさに今回の朝日新聞の記事はノイズそのものだった。 なお、岩手めんこいテレビ、奈良テレビなどの地方局で引き続き『ニュース女子』は放映されるそうだ。もちろん、ネットでもアップされる。安心してこの番組をお楽しみいただきたい。

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    沖縄のデマ垂れ流し「ニュース女子」お寒い番組制作に絶句する

    古谷経衡(文筆家) 私が『ニュース女子』への抗議デモを目撃したのは、昨年の某月であった。エフエム東京(TOKYO FM)からの帰り、道路を挟んで隣接する東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ)のビルの方に目をやると、横断幕を持った数十人が東京MXテレビに対して抗議活動をしている。 私はピンときた。これが、例の『ニュース女子』の沖縄報道に対する抗議行動だな、と。当時は放送倫理・番組向上機構(BPO)による同番組放送回への結論が出る前の段階であった。しかしながら、『ニュース女子』は持ち込み番組であり、放送局としての東京MXテレビが制作に関与していないことは、常識である。なぜ『ニュース女子』の制作元である制作会社「DHCテレビジョン」や、その親会社でスポンサーの化粧品大手、ディーエイチシー(DHC)の前で抗議活動をしないのだろうか。 例えばラジオ番組に抗議することを目的としてデモ隊がラジオ局ではなく、ただ電波を発しているからという理由で東京スカイツリーの前で抗議するとしたら、滑稽(こっけい)であろう。このときの私も、漠然としたこのような違和感を、デモ隊に対して感じるのみで終わった。しかし、私の認識は甘かったのである。 昨年12月14日、BPOが『ニュース女子』問題について「重大な放送倫理違反があった」とする結論を下した。私はすぐさま、PDFにて公開された意見書の全てを、目を皿のようにして読み込んだのである。 そこには驚愕(きょうがく)の、番組制作過程に対するお寒い実態が縷々(るる)述べられていたのである。私は驚愕を通り越して唖然(あぜん)としてしまった。『ニュース女子』に対するBPOの裁定は、全く妥当なものであった。 私も、沖縄問題の取材は何度となく現地に行った。那覇での辺野古移設反対運動「オール沖縄」の集会は当然だが、普天間・嘉手納はもちろん、米軍将校住宅(基地区域外住宅)まで、可能な限り見て回ったつもりである(これと、沖縄戦戦跡取材はまた別)。東京MXテレビの番組「ニュース女子」の一場面 名護市辺野古の埋め立て予定地はもちろんのこと、北部訓練場の返還に伴う代替ヘリパッド6個新設問題(高江ヘリパッド問題)では、山林の中に反対派がつくったテント村の中まで入り、反対派から仔細にその反対理由を聞いた。辺野古と高江(東村)は、元来同じ沖縄特別行動委員会(SACO)の合意から始まった米軍施設の返還計画の一環だが、地理的にもその軍事性格的にも同じ問題としてひとくくりにすることはできない。 本土でネット番組だけを見て、現地に行かなければ、危うくこういった沖縄問題に関するデマを信じてしまう危うさがある。私自身、現地に何度も足を運んだのは、ネットに安易に繁茂する沖縄問題に関するデマの真偽を自分の足で確かめる意味合いが少なくなかった。名護市辺野古と高江の反対派は、平時相互にリンクしている。 つまり、高江で大規模な集会があると辺野古は空き、辺野古で大規模な集会があると高江のゲート前はがら空きになる。同じ問題意識を持った人が、この二点を自家用車やバスで移動しているのは紛れもない事実だ。活動資金は年金や貯金 ただ、『ニュース女子』で報じられたように、彼らがどこかの団体や組織から日当を受け取っているとか、韓国人や中国人が紛れ込んでいるという事実は、全く確認できなかった。既存基地や警察官への暴行・傷害事件も、私の取材中は全く確認できなかった。全ての現場で、反対派よりも基地を警備する沖縄県警や、応援できた日本各地の警察官の人数の方が圧していたからである。 反対派の多くは、成田空港建設反対の「三里塚闘争」からデモに参加してきた、などという筋金入りの猛者もいたが、ほとんどが高齢者で、その活動資金は年金や貯金を取り崩した自腹か、それ以外ではほぼ全てを寄付に頼っている。  だから私も、現場で何度も寄付を頼まれたので都合数回、3千円ほど寄付ボックスに野口英世を投入している。が、彼らの活動は組織や法人やまして特定の国家が支援する系統だったものではなく、あくまで個人とその寄付によってまかなわれている。 その点で言えば朴槿恵(パク・クネ)大統領の退陣デモにおいて、韓国全土で数百万人を動員した集会などは、会場にステージを建設してスクリーンをつくり、著名歌手を登場させるという演出まであるのだから、組織力・動員力という意味では沖縄の反基地運動はあまりにも個人的で小ぶりなものである。 また、中国・韓国出身者と思しき参加も確認できなかった。ただ、時期によっては同じ海軍基地問題を抱える韓国の島・済州島と相互に連帯している日本の市民団体の招聘(しょうへい)によって、沖縄~済州島の連絡網が構築されている場合があり、この時のみ韓国人が抗議集会に参加する場合がわずかにあるそうである。だが、抗議の主体は圧倒的な割合で日本人高齢者である。 このような事実を『ニュース女子』はほとんど考慮していないどころか、前提の取材すらほとんど行っていないことがBPOの意見書から判明した。 BPOの決定は政治的左派とか政治的右派といったイデオロギーに拘束されたものではなく、単に放送の事実関係とその取材過程を分析・検証したモノで、右でも左でもなく単に『ニュース女子』当該回で放送された事実が本当か否か、の一点に絞られていた。結果、事実ではないと結論され、「重大な放送倫理違反があった」と判断された。この結論は妥当であると言うほかない。 そして3月8日、BPOは続けて申立人の一人である、「のりこえねっと」共同代表の辛淑玉(シン・スゴ)氏に対して「(沖縄反基地運動家ら)テロリストの黒幕」と『ニュース女子』で名指しされたことは、「名誉毀損の人権侵害が成立する」と結論した。辛淑玉氏に対する名誉回復がどのような形でなされるのか。これは法廷闘争に移行するものと予想される。「ニュース女子」に対し、抗議の記者会見をする「のりこえねっと」の辛淑玉共同代表(右)ら=2017年1月、国会 私は、ごく基本的な言論の姿勢として、その結論が政治的右派に偏向していたとしても、政治的左派に偏向していたとしても、どちらでもよいと思っている。よく「偏向報道」が取り沙汰され、報道や論評の姿勢が右や左に偏っていることが非難の対象となる。 が、人間の目線と思考が介在する以上、真に中立的報道などできようがないのである。例えばパレスチナ問題を報道するとき、報道陣がいくら客観的中立的に務めようとしても、でき上がったビデオや文章は、必ず親パレスチナ・反イスラエルのニュアンスがにじみ出たり、その逆もまたしかりなのである。「報道」を語ってはいけない番組 報道や言論に関わる人間にとって、実は客観性というものはあまり意味はない。ベトナム戦争の地獄を報道している最中に「あ、また一人、ベトコンが死にましたね」という中継はほとんど意味がない。それよりもナパーム弾で焼かれ、裸で街路を泣きながら走ってくる少女らを撮影した、あまりにも有名な一枚の写真(ニック・ウット氏撮影)の方がよほど人々の心を揺さぶる。 ピューリッツァー賞を受賞したこの写真には、強烈な反戦とアメリカ・南ベトナム軍への非道の訴えがにじみ出ている。撮影者が偏っているかいないのかで言えば偏っているが、それがなんだというのだろうか。中立・客観を気取って無機質な数字を羅列する「公正な報道や言論」には、あまり意味があるとは私は思えない。 しかし、このような報道や言論姿勢は、全てその根底に「事実」をベースとしたものがなければならないということだ。ナパーム弾で背中を焼かれたベトナムの少女は、撮影者が捏造したものではなく事実で、ありのままの悲劇を切り取ったものだ。事実を元にした言論や報道なら、その左右偏向は全く許容できる。 このベトナム少女の写真は結局、ベトナム反戦運動を大いに刺激し、アメリカのベトナム撤退の世界的世論を後押ししたが、写真の切り取り方やキャプション、タイトルを変えれば「共産主義の犠牲者」として、全然別のプロパガンダに使えなくもない。 ただそれは全て事実を元にしている、ということが前提である。BPOが指摘した『ニュース女子』の当該番組には、その根底の作法が欠落していた。BPOはそれを指弾したのであり、それ以上でもそれ以下でもない。BPOの結論に瑕疵(かし)を見いだすことはできないだろう。 事実を基にした解釈なら、右であろうと左であろうと容認しなければならない。それこそ表現の自由である。が、事実に基づかない嘘(うそ)やデマを根拠とした言論や報道は、その根底からして間違っているのだから、それを「言論」とか「報道」とか「ニュース」などと呼んではいけないのである。1972年にAP通信のニック・ウット氏が撮影した、ベトナム戦争でナパーム弾攻撃を受けて逃げる少女らを写した「戦争の恐怖」と題された写真 私は前述のように沖縄の基地問題を実際、何度も自分の目で確かめた結果、名護市辺野古沖への基地移設を是認する態度に傾きつつあるが、それは普天間基地があまりにも住宅と隣接して危険であるという事実があるからである。 一方、高江のヘリパッドはすでに代替ヘリパッド6個が建設済みで、これと引き換えに国頭村の大きな部分を占める北部訓練場のかなりの部分は去年の段階で地元に「返還済み」となっており、辺野古の問題とは構造が異なることに注意しなければならない。 何事も事実を前提として、時に人情や義憤が多分に介入した「偏った」目線こそ、言論や表現の要諦である、と私はしみじみ思うのである。

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    「国民の知る権利を奪った」BPOに放送倫理を語る資格なし

    武田邦彦(中部大学特任教授) 『ニュース女子』はテレビ番組制作会社が作ったものを放送局が購入し、放映している番組である。多くのニュース番組が事実の一部をそのまま放映するのに対して、『ニュース女子』は女性と識者のやり取りを中心として、事実の核心にできるだけ迫ることを目的にしている。 そもそも、地上波テレビ番組の多くが「事実の核心部分の報道を避けている」と視聴者からよく指摘される。それは、本当に知りたい核心部分が常に曖昧だからだ。一方、放送を視聴する側にとっては「当たり障りのないこと」は既に知っており、むしろ「核心部分があやふやではなく、批判を受けやすい裏側」を知りたいのである。この矛盾を解消するために、放送局内部に「番組審議会」などを設置し、ギリギリの内容でも放送ができるようにしている。それが本来の存在理由であろう。 従来、多くのマスコミが沖縄を中心として「基地反対運動は善、米軍や自衛隊は悪」という報道スタンスを続けてきた。それに対して、『ニュース女子』では忌憚(きたん)のない意見交換の材料として、制作会社がロケを行った。実際、数人の方が「顔も名前も隠さず」に取材を受け、「基地反対運動で暴力が振るわれ、比較的大勢の人が知っている」という趣旨のコーナーを放映したのである。 この放送について、放送倫理・番組向上機構(BPO)は、視聴者から指摘があったとして、放送倫理検証委員会で審議入りした結果、番組内容に「重大な倫理違反があった」と認めた。その判断は番組内容そのものが事実かどうかより、番組を放送した地上波テレビ局が「チェックを怠った」というものであり、かつ放送界内部の資料ではなく、社会に対して事案を公表した。また、自身の名誉を毀損(きそん)されたとして、市民団体の共同代表も「人権侵害」を訴え、BPOの放送人権委員会が審理を行い、人権侵害があったと結論づけた。 その後、朝日新聞が「『ニュース女子』打ち切りへ」というフェイクニュースを流し、筆者もこの報道に振り回された。事実は、番組を購入していた約30の放送局のうち、何局かが購入をやめたということであった。本論評は上記の事実に対して、主として倫理面から考察を加えたものである。沖縄県名護市辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前で、工事に反対して座り込む人たちと排除しようとする機動隊員=2018年4月 まず、現代社会で共通して守るべきものは法律であり、これは国民を代表する国会で決まる。放送に関しては放送法があり、その第4条では番組を編集するにあたって、「公安及び善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」「報道は事実を曲げないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と、具体的に4つの規制を明記している。 筆者が自著『正しいとはなにか?』(小学館)で示したように、法律を守ることは「倫理」とは無関係なので、BPOの放送倫理検証委員会は法律で決めていないことを審査することになる。そのとき、審査が恣意(しい)的にならないために倫理規定、つまり「放送倫理基本綱領」を定めなければならない。 倫理綱領は1996年9月19日に定められているが、この倫理綱領は、あくまで放送局側の特定の検討機関において恣意的に決定されたものであり、放送によって知る権利を得る視聴者の参加がない。したがって、倫理綱領の成立過程自体が「非倫理的」なのである。 特に、倫理綱領では放送法第4条で定められていること以外の思想や行動などが記されている。だが、国民が定めた放送法を超える基準を、放送局側だけで決めることができるという理論は示されていない。「倫理」に基づかないBPO もともと「倫理」の「倫」というのは「相手」という意味であり、相手(倫)のことわり(理)を守ることが基本である。倫理の黄金律の一つに「相手のしてほしいことをしなさい」というのがあるが、まさにそれを示している。 したがって、BPOは『ニュース女子』の問題に対して視聴者にアンケートなどの調査を行い、視聴者(倫)が求めるものと異なったことを放送したかどうかを審査することしか許されないはずである。それに、審査に当たった委員が、視聴者より際立って「倫理的に優れている」という証明もなされていない。 第二に、今回の沖縄基地反対デモに関しての報道で人権侵害を訴え、審査で認められた市民団体の共同代表は外国人である。外国人の日本国における「人権」の中に「日本の国防に関する行動の権利」が与えられているか、それが法律的に与えられているのか、倫理的に与えられているかを明確にしなければならない。 もし、法律において、外国人が日本国内で反日的な言動をすることが許されていなければ、法律に基づき処罰されるはずである。法律的に許されている場合は「倫理的に許されるか」検討が必要だが、今回の決定にそれは含まれていない。 また、今回の審査に当たった委員の中に弁護士や、特に倫理的な活動で社会の評価を受けた人(例えば、学術論文、倫理関係の受賞、著作)が少ないことも問題である。先述の通り、もともと「倫理」とは、「法律」と全く異なるものである。だから、法曹関係者は、一般的に倫理について全くの「門外漢」である。法に触れるなら法で処理すべきであり、法に触れないなら法曹関係者は無知であろう。 また、BPOは第三者機関とはいえ、NHKと民放各局など放送関係機関が設立した「内部組織」であり、外部の承認などを得ているわけではない。したがって、審査内容などを積極的に外部に公表する必要はなく、あくまで内部での参考にとどめるべきである。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会の記念シンポジウムに登壇する委員ら=2017年3月 以上の点で、現在のBPOは「倫理」という名前を含んでいるものの、倫理とは全く異なる組織である。規定に基づく審査方法は倫理に反し、委員の選任も恣意的であり、審査結果の公表自体も趣旨に合致していない。倫理とは基本的に論理的でなければならず、『ニュース女子』の審議のように、情緒的なやり方が続けば、わが国の報道に悪影響を与えるだろう。仮にも「倫理」を標榜(ひょうぼう)するなら、関係者は自己批判を行い、辞任すべきである。 放送は特定の権利を与えられている機関が、地上波や衛星波などを通じて独占的に実施している。ところが現在、視聴者である国民が最も困っているのは、地上波が当たり障りのない放送、保身的な報道に終始して「国民の知る権利を奪っている」ことだ。 BPOの勧告を受けた『ニュース女子』が、番組で取り上げた対象はあくまで「デモ行為」であって「個人」ではない。「デモ行為」の事実や、正当性などが個人に及んでいないにもかかわらず、人権問題として取り上げられ、放送の受益者たる視聴者の権利が一切検討されていないことは大きな問題である。 したがって、『ニュース女子』をめぐるBPOの放送倫理の審査が「放送局の論理、保身、社会に対する隠れみの」として実施されたことを考えれば、BPOは倫理的に解散が必要である。いや、自主解散する以外にないと思う。

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    MXテレビに編集権なし、完パケ配信「ニュース女子」のしくじり

    安倍宏行(Japan In-depth編集長) 事の顛末(てんまつ)は他の記事に詳しいだろうからそちらを参照していただく。今回は元テレビ局の記者として考えたことを記す。 東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ)の番組『ニュース女子』は、制作主体が化粧品大手、ディーエイチシー(DHC)傘下の「DHCテレビジョン」だ。東京MXテレビはDHCテレビジョンから納品された編集済みの映像、いわゆる「完パケ」を番組で流していた。制作に関わっていない放送局は、番組で流す映像の中身を放送前に検証できない。ただ放送するだけになってしまう。 フジテレビの報道局に21年在籍した筆者からすれば、ニュース番組のスポンサーが自ら映像を制作し、それを番組内で放送する、というのは聞いたことがない。報道局は社内でも独立しており、営業の人間が直接報道局に接触してくることはない。 また、報道と営業の間には編成局の担当者がいるが、それはスポンサーの意向を番組に反映させるためにいるのではない。むしろ、スポンサーの不祥事がニュースになった場合、その会社のCMを番組内で放送するのかしないかを調整したり、突発的なニュースが飛び込んで報道番組が他の番組に食い込む場合のCMの調整などをするためにいるのだ。 報道番組である以上、スポンサーの意向を反映するなどということがあってはならない。だからこそ番組の内容の根幹をなす、映像制作をスポンサーに任せることなどありえないのである。 そこで、東京MXテレビの有価証券報告書(第24期:平成28年4月1日~平成29年3月31日)で販売実績を見てみると、DHCが約21億円で全体の11・5%を占めている。大手スポンサーの意向がどのように番組に反映されたかは東京MXテレビのみぞ知るが、いわれなき批判を避けるためにも番組制作は自局で行い、編集権をしっかり担保しておくべきだった。 次に、番組で流す映像のチェック体制について考えてみる。東京MXテレビ以外の地上波テレビ局、ローカル局、BS局も、すべての番組を自社制作しているわけではない。多くの場合は制作会社に外注している。しかし、それらの局の報道番組・情報番組で、映像のチェックが事前に入らないことはまずない。政治ニュースでチェックは必須(iStock) 通常、第一段階として、映像をラフにつないだだけのものを局の番組担当者がチェックする。その段階で、取材が足りないと思われるところや、映像のつなぎが不自然なところ、インタビューがバランスを欠いているところなどがチェックされ、必要があれば追加取材や再編集が制作者に指示されるのが普通だ。その後、第2段階としてさらに上の番組責任者が最終チェックを行い、そこでOKが出てようやく「完パケ」になるのだ。 そこまでやっても制作者が悪意を持って局側をだまそうとしていたら、なかなか見抜くことは難しい。基本、「性善説」にのっとっているのだ。とにかく、キー局などではそのくらいのチェックは当たり前に行われている。特に政治にかかわるニュースの場合、危なっかしくてチェックなしではとても放送できない。 なにしろ、放送法というものがあり、テレビ放送は政治的に公平でなければならないからだ。多様な意見を視聴者に紹介することが義務付けられている。局側はそうした観点から放送する映像をチェックする。当然のことだ。もしチェックがされていないとしたら、放送局としてやるべきことをやっていないということになる。 報道系情報番組のルーツは、テレビ朝日系の『朝まで生テレビ!』だろう。もともとのコンセプトは、ニュースをわかりやすくお茶の間に届けよう、ということだったと推察する。実際、『朝生!』は放送開始から視聴率を稼ぎ続け、長寿番組として現在も続いている。 『朝生!』は硬派寄りで、政治家も多く出演している。ただ、何しろ出演者が多いので、お互いの主張をぶつけ合っても、どうすれば問題が解決するのか、という所までたどり着かないことがある。 一方で、同じくテレビ朝日系『ビートたけしのTVタックル』やTBS系『サンデー・ジャポン』、関西でいえば、読売テレビ『そこまで言って委員会NP』など、報道バラエティーともいうべき番組も人気を博している。地上波テレビこそいい教訓 そうした中、『ニュース女子』は、いろいろなテーマを深く掘り下げようという制作意図があったように見える。今回問題となった沖縄基地問題も、地上波で取り上げるにはハードルが高い問題の一つだろう。ハードルが高いというのは、意見が国民の間で割れており、放送すると炎上する可能性が高い、という意味である。 報道なのだから本来炎上が怖くてその問題に触れない、などということがあってはならない。しかし、実際の制作現場では、やはり面倒なテーマは扱いたくない、という気持ちになるのも仕方ないだろう。そういう状況の中で、こうした難しいテーマをあえて取り上げた『ニュース女子』を本来なら褒めるべきなのかもしれない。 しかし、結果として、放送倫理・番組向上機構(BPO)から放送倫理違反や人権侵害の勧告を受けるに至ったのは残念としか言いようがない。放送前に映像を十分にチェックし、その上で番組内でのトークを展開すべきだった。 揚げ句の果てに番組は、東京MXテレビでは打ち切りとなり、東京MXテレビ本体のレピュテレーション(評判)も損傷(きそん)することになった。DHCからの営業収入がどうなるかわからないが、万が一それらが大幅に減少すれば営業リスクも大きくなる。企業のリスク管理の観点からもあってはならない事例だろう。 今回の事例は、他の地上波テレビにもいい教訓になったといえよう。他局は東京MXテレビが厄介な問題を引き起こしてくれた、と苦虫をかみつぶしているかもしれない。だが、もし沖縄基地問題など議論が割れているようなテーマを今後避けるようになってしまったら、それは本末転倒だ。むしろ、これまで以上に積極的に取り上げてもらいたい。確かに公平公正に放送するのは神経を使うが、それこそ長年のテレビ局のノウハウと知恵の見せ所のはずだ。 結果的に『ニュース女子』は3月26日の放送を持って東京MXテレビでの放送を終えた。4月2日からは、YouTubeライブ、ニコニコ生放送、Fresh!などインターネット媒体で毎週月曜22時にライブ配信を続けている。また、衛星放送や地方局での放送も継続するとしている。2017年6月、DHCテレビが制作する「虎ノ門ニュース」を放映するスタジオに向かって行進すデモ隊を先導するトラック 筆者もネットで『Japan In-depthチャンネル』を放送しているが、じっくり時間をかけて一つのテーマを掘り下げるには、ネット放送の方が適していると感じる。地上波が「難しい」と感じるテーマを避け続けるなら、報道系番組の視聴者離れは加速するだろう。テレビにとって、『ニュース女子』問題を「他山の石」とできるかどうかが問われている。

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    「フクシマ」思い込みの虚構を繰り返した報道による言葉の暴力

    者不在の外から与えられたネガティブな物語」として使われたことが容易に見て取れる実例です。震災後に中央メディアでしばしば使われてきたカタカナ表記の「フクシマ」は、いつもこうした文脈と共に使われてきたのです。時計の針を止めたままにするのはやめよう 予告時点で多数の批判が寄せられた結果、番組HPからはその後何の告知も無く「フクシマの未来予想図」などの文言が突然消されていました。 報道によると「誤解を生じかねないと考え削除することにした」とのコメントのみが出されており、謝罪や何故このようなサブタイトルを付けたかなどの説明は、テレビ朝日側からは一切ありませんでした。この件は福島の地元紙福島民友新聞でも社説で批判的に言及されています。 すでに書いたように、福島では世界での一般的な生活の平均を超えるような大量被ばくをした人は誰もいません。震災後に何度も繰り返されてきたこの手の仄めかし報道による印象操作には「量の概念」も無く、こうした事実へと真摯に向き合う姿勢がいつも欠けているのです。 これがたとえば宗教ならば、論理を超えた絶対解のなかで全ての判断がなされることもあるでしょう。しかし、放射性物質は断じて神ではありません。あくまでも科学や現実からの知見で論理的に判断されるべきです。 原発事故が起こった=大量に被曝したに違いない、という思い込みのまま現実の調査結果や復興の実績を無視したり、放射性物質や「フクシマ」をまるで「タタリ神」であるかのように神話・宗教化させ、忌み嫌い、ただ恐れるだけで6年以上現実からは目を背けたままでは、科学的な態度とは言えないのではないでしょうか。 福島での原発事故よりも遙かに以前から放射性物質や放射線の影響について判っていることは多く、少なくとも現在の福島では避難区域外で普通に生活したり出荷された食品を食べ続けることへの「安全」は、もう随分前から充分に示されています。何も判らずにただ恐れ、忌み嫌うだけの「神話の時代」は本来、とっくに終わっているのです。テレビ朝日本社 しかし今までお話しましたような日本の状況下では、「安全」を「安心」へと変えていくことは被害の当事者たちだけの努力では非常に難しいと言えます。 特に原発はもともとが極めて政治問題化しやすい存在であったために、その事故を政治的に利用しようとした人たちが、被災地へのデマや差別を振りまいて事実の共有を妨げてきました。それでも、本来ノイジーマイノリティである彼らの悪意を上回る社会からの圧倒的な善意や支援によって福島の復興が次第に進み、彼らの手段が次第に通用しなくなってきました。 そうした中で、今回お話した「トリチウム」と「甲状腺がん」の二つの問題は、彼らにとって、いわば最後の砦になっています。必死でそれにしがみつき、これからも恐怖を煽るメディアや講演会などで、デマやそれに限りなく近い仄めかしを繰り返してくることでしょう。 被災地はこれまで、自分たちが出来ることについては充分過ぎるほどの努力を重ねてきました。ですから未解決の問題のほとんどが、処理水問題でもお話したような、すでにバトンが現地ではなく社会の手に渡っているものばかりです。 どうかこれを解決していくために、社会が時計の針をきちんと現実に合わせていくために、出来るだけ多くの方が妨害や煽りに負けずに正しい事実や情報の更新を続け、託されたバトンを手にとって問題解決のために共に関心を寄せて頂ければ幸いです。

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    番組制作現場やTV局上層部にBPOへの恐怖心が蔓延

     視聴率競争に鎬を削るテレビ局の“お目付役”として知られているのが「BPO(放送倫理・番組向上機構)」である。NHKと民放連が出資して設立された“身内”とのバトルに、テレビ局側は「逃げの一手」のようだ。 7月8日、BPOの放送倫理検証委員会がTBS系の『ピラミッド・ダービー』(6月19日放送分)について、「審議入り」することを決めた。同番組では、実際は最後まで解答した出演者を、映像を加工して途中で脱落したことにして放送。「出演していた人をいないことにしたということで、簡単に消すと判断を下した人がいたことに驚いた」 という意見が委員から出され、制作体制などを検証する「審議入り」の判断が下された。テレビ局側とBPOのバトルは、事実上、審議入り時点で終わる。キー局の情報番組スタッフが明かす。「審議の結果、“お咎めなし”のケースは少なくないが、『審議入り』するだけで番組のイメージが悪くなりスポンサーが逃げてしまう。それに、審議のために大量の資料作りをしなければならなくなり、業務に著しく支障を来す。だから、審議入りが決まった時点で“負け”だ」 民放連の井上弘会長がトップを務めるTBSの広報部は「BPOは自主的・自律的な第三者機関であり、公権力の関与によらずに放送の質を保つための優れた仕組みだと考えています」と“優等生的回答”をする。 が、テレビ局スタッフの本音は、「審議入りしないための番組作りが何より重要。それをみんなが気にしているから、『BPOのせいで現場が萎縮している』という声も多い」(別のキー局ディレクター)というものだ。(iStock)「現場で『これ、BPOに引っかかって番組が飛ぶかも』なんて冗談は言えない。BPOへの恐怖心は上層部をはじめ、現場にも蔓延しているのでそんなことを言ったら大問題。『BPO』という言葉は現場ではタブー」(バラエティー番組スタッフ)という声も聞こえる。 BPOは表向き「コメントは差し控える」というが、あるBPO関係者は「現場の萎縮につながっているという指摘があることは把握している」と語る。 もちろん視聴者を騙すような演出は批判されてしかるべきだが、政権の顔色をうかがい、そのうえBPOとのバトルも避けて勝負しない放送ばかりを続けていれば、テレビ局は国民から見捨てられるのではないか。関連記事■ 「TV局を減らせ」と説く元業界人がTV界の現状を描いた書■ TV局員 子供は録画でアニメ、妻はDVD三昧で放送見ないと嘆く■ 24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超■ BPOで問題になった番組 朝ズバ、バンキシャ!、明日ママなど■ 視聴率最高記録は『第14回NHK紅白歌合戦』の81.4%

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    保育園で「この、ハゲーーー!」流行 悪いのはテレビなのか

     豊田真由子衆議院議員による秘書への暴行・暴言が週刊新潮によって報じられ、その音源が公開されてから約3週間。まずYouTubeで公開され、その後、テレビでも何度も引用された「この、ハゲーーー!」という叫び声は、いまや全国各地で知られるようになった。あまりに印象が強いこの叫び声は、大人だけでなく子供にも大きな影響をおよぼしている。敗北を受け、支持者の前に姿を見せた埼玉4区の無所属、豊田真由子氏=2017年10月22日午後10時55分、埼玉県新座市(草下健夫撮影)「いきなり叫ばれて、びっくりしました」と話すのは、保育園年長さんの娘がいる30代会社員女性。先日、慌ただしく出かける準備をしていたところ、娘が楽しそうに「この、ハゲーーー!」と叫んだ。「朝、時計のかわりに民放の情報番組をつけっぱなしにしているのですが、そこで繰り返し放送されるのを聞いて、覚えてしまったようです。新しいギャグか何かだと思っているのか、叫んだあとケタケタ笑っています。人をののしる言葉だと理解していないぶん気が楽になりましたが、通りすがりに耳にした大人は気分悪いですよね。なので、言わないように注意はしましたが、理由については理解できないようで……。保育園でも、流行っているみたいです」 豊田議員の口調を真似して娘が叫んだ日の夜、夫婦で話し合い、朝の情報番組はしばらくNHKにしておこうと決めた。NHKだけは、この暴言の音声をそのまま放送していなかったからだ。「本当は、そういう言葉遣いをしてはいけないときちんと説明できたらよいのですが、『ハゲ』とは何か、どうしてその言葉が人をののしる意味を持ってしまうのかを年長さんにきちんと説明できる自信がありません。もう少し大きくなったら、『ハゲ』は決して差別語にしてはいけないことも含めて話せる日がくると思います」(前出の30代会社員女性) さらに、こんな情報を提供する姿勢を疑えと訴える人たちもいる。放送倫理・番組向上機構(BPO)に意見を寄せる人たちだ。BPOのHPで公表されている「2017年6月に視聴者から寄せられた意見」をみると、「バラエティー番組で、女性国会議員の元秘書に対する暴言・暴行の問題について面白おかしく取り上げ、笑いにしている。ふざけ過ぎる内容を元にいじめを行う子どももいると思う。取り上げるからには真剣に報道してほしい」 とある。BPOといえば、倫理や人権、青少年に対して問題ある報道や番組制作について、視聴者からもモノを申せる窓口になっている。深刻なケースでは審議が行われ、その報告書は、テレビ番組制作に係わる人間ならば必ず目を通すようにと命じられるものだ。豊田議員にまつわる放送についての意見を、テレビ番組制作の現場では、どのようにとらえているのか。テレビ制作現場の本音「視聴者からの意見はありがたくいただきますが、なんでもテレビにせいにしてほしくないという本音もあります。大きな声では言いづらいですが、いじめちゃダメだと周囲の大人が教えればいいだけの話じゃないですか。こういうことを言うと、ますます風当たりが強くなるので黙っています。いまは、テレビが嫌われ役を引き受けないと行けないのだろうと諦めています」(在京テレビ局ディレクター)※写真はイメージです(iStock) 2017年2月のR1グランプリで優勝したことをきっかけに、テレビ番組出演が増えたアキラ100%に対し、全裸をお盆ひとつで隠す芸に批判が集まった。やはりBPOにも「子供が真似をして大変不快」という意見が寄せられている。ところが、この件についてはテレビを責めるだけが解決の糸口ではないという意見も公表されている。「テレビをつまらなくしないでほしい。『裸芸』を見て真似る子がどれだけいるだろうか。たぶん、ほとんどいないと思う。テレビの影響は悪いものばかりでなく、良いこと悪いことを判断する力を養う役目もあるはずだ。テレビを見ながら会話して、何をやってはいけないかを教えるのが親の役目だ」(BPOの公式HPより) 前出のディレクターは「こういう冷静な人もいるから、視聴者からの意見が楽しみ」という。「テレビで放送することの影響力は確かに大きいです。だから、僕らも真剣に制作しています。まったく間違いを犯さないわけではないので、そのへんは厳しく見てもらいたいです。でも、たかがテレビなんですよ。子どもの周囲にいる大人は、テレビへモノをいうより先に、子どもへ働きかけて話し合うなどしてほしいです」 もうすぐ夏休みが始まるが、現実の子供たちが安全に夏を過ごせるよう、リアルな大人の対応力が求められるだろう。関連記事■ 「このハゲーーー!」豊田真由子氏に自民「ハゲ議連」の見解■ 豊田真由子議員の同級生が告白「本当の姿知ってほしい」■ 豊田議員の夫「子供にこんな母親は見せられない」と出ていく■ 夫が押す車椅子に乗る松田聖子、羽田空港での姿■ 愛子さま「激やせからの15キロ増」に周囲は心配の声

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    テレ朝記者「セクハラ告発」と報道倫理

    テレビ朝日の女性記者に対するセクハラ疑惑で、財務省の福田淳一事務次官が辞任した。「セクハラ告発」をめぐっては、官僚の資質や政治家の道義的責任、記者の報道倫理まで、議論はさまざまな方面に飛び火した。今回、iRONNAでは記者経験を持つ識者の論考を集めた。賛否が渦巻くこの議論を正面から考えてみたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる

    社会とやや隔たりのある動物園で過ごしていればいいのにというのが率直な感想だ。 しかし、自分の所属するメディアや自分のジャーナリズム精神を使うのではなく、週刊誌に頼ってまでセクハラオヤジを駆除しようとした勇気ある女性記者、ノーパンしゃぶしゃぶの時代から抜けきれずになんとか勝ち抜けようとしたら最後の最後で捕獲されたバブルおやじ、そんなこの時代らしい登場人物に埋もれて声を失っている者がいることについてはあまり考慮されていない。私は一点、まさにそこだけにこの女性暗躍時代、じゃないや女性活躍社会の闇を感じないでもない。 オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日午後、東京都千代田区(桐山弘太撮影) 許可を得ずに録音した本来の取材とは関係のないテープを週刊誌に横流す女性記者をみて、心強いと感じた女性がいるであろう反面、自分を担当している愛想の良い、手練手管の女性記者の取材を急に恐ろしく感じた男もいるであろう。 同時に、いい感じにあほなおやじを手のひらで転がしてうまいことやっていたのに、と舌打ちしているオンナだっている。おじさんに、警戒心と恐怖心を抱かれた時点で自分が女性ならではのやり方で積み上げてきた仕事のやり方が一気に崩壊するからだ。生きづらいのはおじさんだけじゃない オンナを使って出世する、なんていう事態を世間は非常に冷ややかな目で見るが、生理の時には痛み止めを飲んでナプキン変えて、男より人生のうちに仕事に費やせる時間が少ない。 ましてや、もし子供を持とうと思えば長期のインターバルを余儀なくされる女が、会社の中でそれなりに自分の存在意義を認めたいとすれば、女の自分に使えて男のあいつらには使えないものを惜しみなく使い、男以上の価値を発揮するのだって、ある意味ではいじらしい努力である。国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会。女性団体の代表や国会議員、市民が参加した=2018年4月23日 だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから。 もっと次元を落とせば、単に女性としてみられていないと機嫌が悪くなる女だっているし、官僚とのラブロマンスを望んで記者になる女だっているし、容姿に恵まれず殿方と縁がない人生を歩んできたものの、男ばかりの会社で記者になったらこんな私でも女の子扱いしてもらえる、なんて悦に入っている女もいる。胸を見せたくらいでネタが取れるならそんなにラクなことはない、と思っている元AV記者だっている。 そういった女ならではの感情を持たずに生きるのが正しいなんて誰が決めたんだろう、とちょっと思う。 何事にも清廉潔白を求める空回りの正義感によって生きづらくなっているのが、おっぱいもみながら日本経済を支えてきたバブルおやじだけだと思っているならば、それはおじさんの被害妄想だ。 女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易(へきえき)としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない。

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    女性記者の「セクハラ告発」でテレビ朝日が犯した二つの過ち

    タを週刊誌に持ち込むことはよくある慣習という点だ。新聞社やテレビ局の記者があるネタをつかんだ時、そのメディアの性質上、報道に適していないと判断されたり、取材先との関係を重視して自社では報道できないなどの理由で、報道を断念することがある。 しかし、何らかの方法で世に知られるべきだと思われる場合などに、その記者個人や、時には上司の判断で、週刊誌に情報提供して報道してもらう。報酬が発生するかどうかはケースバイケースのようだが、小遣い稼ぎ感覚の記者もいる。 そこで、取材源まで明かされているかどうかは分からないが、少なくとも大手新聞社やテレビ局の記者が、週刊誌に情報提供するのが普通に行われていることは明らかである。 テレ朝の女性社員は、メディアに身を置くものとして、そのような実態を熟知していたはずだ。なにしろ、財務省事務次官という強大な権力を持つ者による悪質なセクハラ行為が、テレ朝によってなかったことになりかけていたからだ。 それを防ぐために、女性社員が週刊新潮に情報提供したことは自然な思いつきだったであろう。そのことについて、大手メディアに所属する人間が、さも悪であるかのように評価するのはお門違いであるし、偽善である。 大手メディアと週刊誌とのそのような関係は、一般的には知られていない。それにも関わらず、テレ朝が上記のような言い方をしたために、この女性社員がことさらに悪いことをしたように誤って評価され、それがバッシングの一因となった。 テレ朝は、「結果的に取材源の秘匿という問題に不安を抱かせることになったかもしれない。それも全てわが社の対応が悪く、女性社員を追い詰めた結果である。彼女に責任はない」と言って頭を下げるべきだったと思う。2018年4月18日、女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにしたテレビ朝日の記者会見 テレ朝の記者会見後、テレ朝がことさらに悪者のように言われている。しかし、テレ朝だけの問題ではない。テレ朝を悪者にして終わりにしていい話ではない。 新聞社やテレビ局の人であれば、現場の記者がセクハラやパワハラに日常的にさらされていることは常識として知っている。ただ、被害に遭っている記者は、それを言い出すと同僚や上司、会社に迷惑をかけると思っているのであまり口にしない。忙しすぎて、そういうことを相談する時間もない、という現実もある。 誰に相談するのかも迷う。誰を信頼していいのか、その人に相談して対処してくれるのか、という悩みもある。つまり、誰かに相談するというのは、よほど耐えられないと感じた場合が多い。大手マスコミの女性記者たちよ、立ち上がれ そして実際に記者から相談があった場合、会社としてどう対応しているか。相談者の要望としては、取材先に内々で抗議してほしいとか、担当を変えてほしいというのが一般的だろう。会社は、そのくらいの対応はしていると思う。 しかし、今回のように「自社が報道すべきだ」と訴えられた時、その望み通りに報道したメディアはあっただろうか。世間には、「女性社員の望む通りに報道すればよかったのだ」という向きもあるが、今回のケースが自社だった場合、「それは出来ない」と断ったメディアがほとんどだったのではないか。各社の見解を聞きたいところだ。 また、全国的に「その女性記者は誰だ」という注目が集まっている中で、最悪な形でほぼ個人が特定されてしまった。インターネットには、特定した情報が流れているし、取材源の秘匿を守らずに週刊誌にネタを売ったけしからん人間である、と公然と批判する人もいる。 しかし、福田氏の言動がセクハラであり、大多数の女性が不快感を覚えることは明らかであるし、福田氏に共感する男性が少ないこともまた明らかだ。 テレ朝の女性社員は、公表によって自らがバッシングを浴びることを予想していただろう。それでも泣き寝入りしなかった彼女に敬意を表したい。今後は、彼女の尊厳を回復することに全力を注がなければならない。 これまで、セクハラ問題は、告発した女性がバッシングされ、居場所がなくなる現実が多くあった。会社内でセクハラした人が配置転換され、被害者が不利益的な扱いを受けなかったとしても、何年も「あいつのせいで〇〇は飛ばされた」などと後ろ指を指される様子を多くの女性たちが見てきた。 その結果、「あんな目に遭うなら泣き寝入りしよう」ということになり、いつまでもセクハラがなくならない、男性の意識も変わらないという悪循環が続いている。今回もこれまでのところ、全く同じ構造だ。 まず、大手マスコミの女性記者たちに立ち上がってほしい。沈黙はセクハラをしているのと同罪だ。テレ朝の女性社員は、女性記者みんなの声を背負って自分が犠牲となったのだ。最近は女性記者の数も多い。会社の垣根を超えて団結し、どうしたらこのような問題がなくなるのか真剣に考えてほしい。この機会を逃したら改善される機会はなくなるかもしれないのだから。2018年4月23日、国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会 また、セクハラの話になると、男性が全く当事者意識を持てないのも問題だ。問題意識を抱いている男性も多いと思うが、「女性は大変だね。頑張ってね」と他人事で済ましていると感じる。それではこの問題はいつまでたっても終わらない。 セクハラはパワハラとセットになっていることが多い。男性にとっても自分の問題でもあるはずだ。真剣に考えてどうすればいいのか方法を考えてほしい。自分が感じた苦い気持ちを思い出してほしい。 テレ朝の女性社員の二次被害をどう食い止め、彼女の尊厳を回復するか。今となっては非常に難しい。ただ、世の中が少しでも変わるのであれば、それが彼女の被害回復に資すると思う。

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    「福田さん、あんたはエライ!」テレ朝記者セクハラ告発、私の本音

    いるからかもしれない。むしろ、今の人なら、平然とそのまま取材記者を続けるのかもしれない。それができるメディアの世界であってほしいが…。

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    テレビ朝日が「セクハラ被害会見」で守りたかったのは誰?

    していたためそうはさせじ、というのが表向きの理由です。一方で『週刊文春』に“テレ朝説”が書かれるなどメディアの詮索が激しくなっていたため、これ以上黙っているわけにはいかなくなったという判断もあったはず」(テレ朝関係者) 一方で、財務省への“配慮”もうかがえる。「局内には、『今回の件で官僚を敵に回して、記者クラブから爪弾きにされ、情報が取れなくなるような事態は避けたい』という意見もある。次官が辞めてからなら『抗議する相手は財務省じゃなく前次官』という体裁が取れると考えたのではないか」(同前)福田事務次官のセクハラ問題について会見する篠塚浩取締役報道部長(右)と長田明・広報局長=2018年4月19日、東京都港区(撮影・佐藤徳昭) 事を荒立てたくないという本音は、「女性記者を守る」と言いながら、新潮に情報を“リーク”したことに関して「不適切な行為だった」と突き放した点にも透けて見える。スクープしたのは『週刊新潮』なのに週刊誌を排除して会見を開き、自局で生中継すれば話題必至のはずなのにそれすらしない。「記者クラブに向けた会見だったため週刊誌は対象ではなかった。会見の中継については総合的な判断によるものです」(広報課) テレビ朝日が守ろうとしているのは、勇気ある告発をした女性記者か、それとも記者クラブ利権か。関連記事■ 大下容子アナ、足を組み替えるたび現場で「オー」と歓声■ 年上の女性上司に「パワハラ」された男性会社員たちの告白■ 堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行■ 福田元事務次官のセクハラ疑惑会見に心理士がツッコミ

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    堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者

    《週刊誌報道に示されたようなやりとりをした女性記者の方がいらっしゃれば、調査への協力をお願いしたい》 森友学園問題で国会が紛糾する中、渦中の財務省トップに持ち上がった新たな騒動。辞任した福田淳一元事務次官(58才)が複数の女性記者にセクハラ発言を繰り返していたと『週刊新潮』(4月19日号)が報じた。これに対し、福田氏はセクハラを否定した上で、新聞やテレビ局などの記者クラブ加盟各社に、冒頭のような異例の協力要請を出したのだ。 報道各社にとって、“霞が関の中枢”である財務省への取材は超重要。それだけに、エース級の記者がしのぎを削っている。「超堅物の官僚からスクープ情報を取るのは至難の業。そこでテレビ各局は、少しでも印象をよくするためなのか、たまたまなのか、選りすぐりの美人記者を財務省の記者クラブに送り込んでいます。もちろん外見だけでなく、財務官僚と渡り合えるだけの頭脳も必須です」(全国紙記者)『週刊新潮』の記事によると、福田氏に夜中呼び出された女性記者は、パジャマから着替えてバーに駆けつけた。酒席につきあい、森友問題について聞き出すのが彼女らのミッション。福田氏はそんなやり取りの中、「おっぱい触っていい?」「キスしたい」としつこく言い寄ったという。「福田さんはお酒が弱くて、酔って記憶がないなんてことはたまにあるそうです。記事には日頃からセクハラを連発することで有名だったと書かれていましたし、担当の女性記者は呼び出されるたびにビクビクしていたんでしょうね…」(前出・全国紙記者)画像はイメージです(iStock) 小さい時から神童と呼ばれ、東大をトップに近い成績で卒業したスーパーエリートの財務官僚は、ちょっと変わった人ばかり。そんなオジサンたちを相手にしなきゃいけないのだから、彼女たちの苦労は推して知るべし。若手の財務官僚が言う。「省内でも、“あの記者は目を引く”と評判になる人がいつも何人かいます。最近では、テレビ朝日の進優子記者は女子アナと見紛うような美形ですし、フジテレビの石井梨奈恵記者は上智大学から仏パリ政治学院に留学した経験のある才媛。NHKの山田奈々さんは突っ込んだ取材をする優秀な記者だと評判です。ぼくたち若手はほとんど相手にされませんが、一癖も二癖もある幹部たちから直接、携帯で呼び出されるのを見るとホントに大変そうです」 冒頭の通り、財務省は血眼になって報じられた女性記者を探している。「音源を全部聞いたわけではないので状況はわかりません。福田氏の言う通り、クラブでホステスとの会話という可能性がないわけではない。それにしても被害を受けたという記者に“名乗り出て”というのはおかしな話。情報を握るために必死の記者が自ら名乗り出られるはずがないし、セクハラを受けた女性が被害を訴えることに抵抗があるのは当然のこと。誰が相手だとしても、音源があるのだから、福田氏を徹底的に調査すべきです」(前出・全国紙記者) 福田氏は新潮社を名誉棄損で提訴するというが、向かう新潮社も記事に絶対的な自信を見せている。関連記事■ 総理執務室撮影したNHK美人解説委員に局内部から痛烈な批判■ NHK記者 “官邸の最高レベル”スクープを不発弾にされ不満■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相、「昭恵抜きで訪米したい」の打診却下されガックリ■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    小ネタの波状攻撃「安倍政権撲滅キャンペーン」にモノ申す

    いるのだろう。 もちろん、まっとうな政策批判、政権批判は行われるべきだ。だが、安手の政治的扇動がマスメディアを通じて日々増幅され、世論の少なからぬ部分が扇動されているのなら、少なくとも言論人は冷静な反省を求めるのが使命ではないだろうか。だが、筆者が先にいくつか事例を紹介したが、リベラル系の言論人を中心に、むしろ扇動に寄り添う態度を強く示すものが多い。まさに日本は「欺瞞(ぎまん)の言論空間」に覆われつつある。

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    眞子さま「結婚延期報道」に私も言いたい

    秋篠宮家の長女、眞子さまの結婚延期が発表されてから、はや2カ月。お相手の小室圭さんをめぐり、さまざまな週刊誌報道が飛び交う中、新聞、テレビは相変わらず沈黙を続ける。宮内庁も「週刊誌報道が延期の理由ではない」と火消しに躍起だが、どうも腑に落ちない。眞子さま結婚延期を私たちはどう受け止めるべきか。

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    週刊誌「小室圭さんバッシング」報道が意味するもの

    を私たちはどこで知るのだろうか。新聞、雑誌、テレビ、インターネット、まずはその辺りだろうか。そうしたメディアを通じて、私たちは皇室について、天皇や皇后、皇族の動向を知り、そして「象徴天皇」とはこうした姿なのだとイメージする。こうしたあり方は、長い伝統ではない。メディアが発達する前の人々は、このように皇室を知ることはできなかった。近代になって構築された体制だったのである。 明治維新後、日本でも新聞が刊行されるようになり、新聞はこぞって皇室に関する記事も紙面の中に掲載していく。メディアは大衆消費社会が成立する状況の中で、ニュース素材として皇室を取りあげ、人々の興味関心をかき立てていった。 とはいえ、政府と宮内省の下にマスメディアは統制されており、現在の私たちとは異なる形で皇室を見ていたはずである。つまり、どこか触れてはいけない権威として、天皇や皇族を捉えていたのではないか。だからこそ、戦時中には「国体」が強固に人々を拘束していったのである。 しかし敗戦によって、その関係性は変化する。敗戦は、昭和天皇の戦争責任が追及され、天皇制廃止へと向かう可能性も想定される未曾有(みぞう)の危機であった。それを回避するため、宮内省はメディアを通じて世間に天皇への同情心を集め、責任追及の動きを和らげようとする。 昭和21(1946)年1月1日に発布されたいわゆる「人間宣言」は、メディアが新たな天皇像をアピールする機会となった。政府と宮内省はメディアを味方にしつつ、敗戦後の天皇制の危機を脱し、象徴天皇制へと着地させようとしていたのである。 新聞を中心とするメディアは、平和的で家庭的な昭和天皇像を数多く描くことで、人々にそのイメージを定着させた。メディアは政府・宮内庁の期待に応えたともいえる。一方で、象徴天皇のあり方をメディアが規定していったとも考えられる。この時期、両者は最も「蜜月関係」だったといえるかもしれない。1946(昭和21)年2月、戦後の全国巡幸が始まり、戦災者が住む横浜市の稲荷台共同宿舎を訪れた昭和天皇=横浜市西区 その後、昭和33(1958)年11月からの「ミッチーブーム」によって、その関係は変化する。1950年代前半より、メディアは皇太子明仁親王の「お妃候補」を多数登場させ、人々の興味関心を集める記事を掲載していく。この時期、戦後経済は復興を遂げ、『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌、『週刊女性』や『女性自身』といった女性向け週刊誌などが創刊され始めていた。 そうした新興週刊誌は、『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの老舗週刊誌から読者を奪うため、より人々の興味を引きつけるような記事を生み出していく。毎週のように新しい皇太子妃候補の名前が登場し、その人となりが紹介されるような「スクープ合戦」が展開されたのである。そこでは、プライバシーという概念は希薄だった。各雑誌が新しい皇太子妃候補を書き、そしてそうした記事の中で彼女たちは消費されていくことになる。象徴天皇制の内実を築いたテレビ この時、新聞は当初は同様に(とはいえ、雑誌ほど過激ではない)皇太子妃候補を報道していたものの、宮内庁からの求めに応じて協定を締結、正式発表までの報道を自粛する。そして、正田美智子さんに決まったことを最初に伝えたのは、協定の枠外にいた『週刊大衆』『週刊明星』などの新興雑誌であった。 宮内庁の正式発表を待って報道を開始するものの、公的機関からの求めに応じて報道しない新聞の姿勢は、戦時中のメディアを想起させ、人々からの不信を得てしまう。それゆえ、その後の皇室報道の中心は新聞から他のメディアへと移っていく。 では雑誌ばかりになったのかと言うと、そうでもない。ミッチーブームはテレビという新しいメディアが家庭に浸透したことで生み出された現象であったからだ。人々はその後、テレビの中で動く皇太子一家を見ることで、あこがれの存在としての彼らを受容していく。 この時の天皇制とマスメディアの関係は、戦前とも、敗戦直後とも全く異なっていた。宮内庁はメディアの動向をコントロールできず、むしろメディアの方がブームを形作り、象徴天皇制の内実を形成していったのである。 こうしてメディアは、人々の興味関心に基づき、皇室記事を量産していく。そこには、権威的な天皇像を伝えようとする意図も、人間的な天皇像から民主化を伝えようとする意図もなかった。まさに消費する対象として、天皇制を報じていたのである。 平成に入って、メディアは「開かれた皇室」として新しい動向を歓迎するような記事を掲載していった。それは、人々に身近になったと感じさせた象徴天皇制へのメディア側からの「支持表明」とも言えるだろうか。1958(昭和33)年11月27日、皇太子妃になることが正式に決まり、宮内庁で両親とともに記者会見する正田美智子さん 皇太子徳仁親王の「お妃候補」報道も、雑誌を中心としたメディアで大きく展開された。父親の時と同じように、各誌がさまざまなお妃候補を紹介していくあり方である。この時はワイドショーを中心に、テレビでもそうした報道が繰り返された。 小和田雅子さんに決まったとき、男女雇用機会均等法施行後の女性の社会進出を象徴する存在として、彼女に対する期待感にあふれた報道が相次いだ。平成の「新しい皇室」として歓迎する雰囲気が生まれていたのである。ミッチーブームの時ほどでないにせよ、人々の関心は高まったといえる。 もちろん、期待一辺倒だけではなく、『週刊文春』をはじめとする週刊誌を中心に「美智子皇后バッシング」なども展開され、「開かれた皇室」への批判とともに、やはり象徴天皇制を消費的に扱う記事も多かった。 とはいえ、これは昭和天皇時代の天皇制を懐古する勢力から行われた攻撃でもあった。その意味では権威的ともいえる。この報道は、美智子皇后が倒れ失語症になったことをきっかけに大勢が変化し、基本的には平成のあり方を支持する動向が強くなった。「生前退位」報道にものぞかせる権威性 近年、頻発する自然災害の被災者に対して、80歳を超えた天皇、皇后が体育館の床に膝をついて同じ目線で話を聞く姿をメディアは積極的に報じている。そうした二人の人格的な振る舞いを評価するエピソードが、近年のメディアには多数あふれた。 戦争の記憶に触れ、戦没者を慰霊する天皇、皇后の行為も、やはりどこかに道徳的なあり方としてメディアでは紹介されることが多くなった。こうした姿を、テレビや新聞は積極的に伝えている。このような姿勢は、天皇や皇室を、人間的とも消費的とも扱う動向とはまた異なっているように思われる。 どこかにその権威性を見出し、それに現在の日本社会が失いつつある何かを取り戻すためのシンボルとして描いているようにもみえる。けれども、平成の最初に昭和天皇の時代を懐かしんでいた権威とはやや異なるレベルの権威でもありそうである。 しかしながら、週刊誌などの雑誌は少し異なるスタンスのようにも感じる。雅子皇太子妃の病気の問題などを大々的に報じるのは、新聞やテレビではなく、やはり週刊誌である。そこにはどこか、消費的に天皇・皇族を扱う姿勢が見え隠れする。 2016年の「生前退位」報道はNHKというテレビ発の出来事であった。そして、その報道によって方向性が規定され、一挙に退位へと結実することとなった。ただ「象徴天皇制とは何か」といった議論がなされないままに、天皇の「おことば」から、退位以外の選択肢は考えられない雰囲気になってしまった。 その意味では、どこか権威性を天皇から見る動向から始まったものであったかもしれない。本来、こうした象徴天皇制を左右する報道が、一社のスクープから始まったことにはやや疑問を感じる。より広い議論を呼び起こすような展開があり得たようにも思われる。 一方、秋篠宮眞子内親王と小室圭さんとの婚約をめぐる報道は、週刊誌をはじめとする雑誌がリードし続けていた。「美智子皇后バッシング」や雅子皇太子妃の病気について報道するときと同じような形のようにも見える。その意味では消費的な動向とも言えるだろう。2018年2月、報道陣に一礼し、職場を出る小室圭さん=東京都中央区 しかし、小室さんやその家族に対する、ややバッシングにも見える報道の根底には、「皇族の女性はそれなりの家柄の男性と結婚しなければならない」との考え方も見え隠れする。その意味では権威的とも言えるかもしれないが、天皇や皇后をそう見るレベルとは異なっているように思う。むしろ、非常に復古的な流れではないか。 この両者の関係性は今後どうなっていくのだろうか。そして、インターネットという新しいメディアの登場も、まったく別の方向が生まれる可能性を有している。今後の皇室報道のあり方に注目していく必要があるだろう。

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    眞子さまが苦悩する「高貴なる者の責務」とは何か

    子さまのお相手については、現状で十分な将来設計がみえてこないことに加え、ご実家の経済的トラブルも一部メディアに報道されたため、少なからぬ国民の間に疑問が生じてしまっている。 ただ、配偶者となる予定の男性の経済的不安自体は、必ずしも結婚否定の理由にはならない。高度成長期をすぎた日本ではいまや、夫婦ともに生計を担う発想が増えており、専業主婦ならぬ専業主夫という生き方も選択肢となっている。 男女共同参画が奨励される現代社会においては、妻が生計を支えても問題ないのであり、「私もバリバリ働いて、積極的に家計を担います」という姿勢を眞子さまご本人が明確に提示されれば、お相手が勉学中でも、現代の働く女性たちの共感を呼び、素直な祝福を喚起したかもしれない。期待される理想的人物像 しかし、今回の場合、単に一時的に男性の経済力に不安があるのではなく、実家ぐるみで経済的トラブルを過去から抱えてきた疑惑があること、さらに、ご結婚の際に1億円以上という、一般市民にとってはかなり高額な降嫁金が税金から支払われるために、国民の視線が厳しくなっている。 降嫁金のみならず、将来的にも妻の「実家=税金」で結婚生活が維持されるのではないか、それは税金の使途として妥当ではないという批判である。 眞子さまとしては、なにも好んで皇室に生まれてきたわけではないのだから、一般市民と「平等」に「両性の合意」のみにもとづいて結婚したい、と思われているかもしれない。また、欧州の王室は日本の皇室よりはるかに自由であるという議論もままある。 しかし、イギリス王室のように、先祖代々の財政基盤がある王室であれば、ご自由に結婚、離婚してくださいと国民が納得する余地があるものの、日本では、皇族に生まれた以上、税金が主として経費を支えることになるので、恋愛、結婚にも公共性が付随して、当事者が納得すればよいというわけにはいかなくなってくる。 加えて、キリスト教国の王室であれば、神は人間とは別に存在するので、国民は王族に神のような品行方正さを過剰に期待することはない。 ところが、戦前に「現人神」(あらひとがみ)であった日本の天皇は、戦後の「人間宣言」以降も、日本の「象徴」という形で模範的、理想的な人間性を提示することが暗に求められてきた。「普通の人間」としての立場を認められたはずが、「象徴」にふさわしい理想的人物像を提示することが期待されてきたのである。 これを、「国民側の勝手な期待」であり、自分たちは人間なのだから、好きにさせてもらうわ、とする考えもありえるのだが、上記のように、財政基盤が税金にあるため、それにみあう社会的責務を果たしていない人間に税金を投入する意義はない。礼拝に出席するため英サンドリンガムの教会に到着したエリザベス女王=2017年1月 極端にいえば、信頼にたる人間性であることを示し、皇族、または皇族と親戚となるにふさわしい裏づけを提示してもらわないと、もはや、皇室を廃止してもいいのではという意見さえ、ネット上には散見する。 人間の女性として恋愛結婚の自由を求める眞子さま本人には、あるいは理不尽と思われてしまうかもしれない。だが、税金で支えてきた皇族方の結婚相手に、それに足る社会的信頼や人格を求める国民感情に一理あるのは確かであり、もしどんな相手でも自分が選んだ相手と結婚したいと初志貫徹したいのであれば、一億円以上の降嫁金も辞退、まずは皇籍を離脱してから結婚するべきとの議論もある。「高貴なる者の責務」 眞子さま結婚延期の理由について、多くの主流メディアは、宮内庁の発表どおり、結婚の準備が間に合わないという理由を報じているが、ネット上の市民の多くは、お相手の家の金銭トラブルや相手側の将来設計の不安定さ、人としての信頼度を問題にしており、結婚後も皇族との親戚関係が継続する人々への「血税」投入の妥当性を問題視している。 ネット上の情報が広がりはじめた初期には、一般市民の書き込みは信憑性が薄い情報とまともに社会的に評価されない時代もあったが、皇族女性の結婚というセンシティブな話題については、新聞、テレビといった主流メディアよりはむしろ、ネット上の情報のほうに、率直な国民感情があふれているようにみえる。 皇族である前に一女性なのか、それとも、女性である前に皇族なのか―。同じ自由恋愛でも、結婚後も皇室にとどまる男性皇族・秋篠宮さまの場合と眞子さまの結婚では、たとえ親子といえども、同列に論じられないのが現状である。 では、皇族女性のみにのしかかる当事者意識と社会的期待との落差を眞子さまはどう乗り越えることができるのか。 生活費の心配なく成人する皇族女性に、結婚後にいきなり共働きで生計を担えと通告するのはいささか酷かもしれないのだが、似たような試練は、戦後の旧華族、旧皇族や、明治維新期に禄を失った旧士族の多くが乗り越えてきた道である。 海外の王室も自前で生活しているとはいえ、一般市民に受け入れられるために「ノーブレス・オブリージュ」(貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ)という概念で自らを律してきた歴史がある。眞子さまが結婚を実現するには、「金銭トラブル」「経済力」「皇室との信頼関係」の三つの問題解決が必要との指摘もなされている(2018年2月8日 八幡和郎氏コメント)。「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下と女性皇族方=2018年元旦 このように、眞子さまが現在のお相手と国民に祝福される結婚を実現するためには、女性も生計を支えると宣言してジェンダー・フリーな結婚の形を示すか、結婚後は税金に依存せずに経済的に自立できるという将来像を示すことが必要であり、それは、今後ありえる皇族女性の結婚にも必須の条件になると思われる。 この条件を、個人としての恋愛感情とどうすりあわせるか―、これこそが、困難ではあるが、現代の皇族女性に求められる「高貴なる者の責務」といえるだろう。

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    【和田政宗独占手記】森友問題「メディアリンチ」と私は断固戦う

    のあった2日朝の時点で、財務省は書き換えを把握していたのではないかという点である。人間性すら否定するメディアリンチ 2日朝、財務省は参院自民党会派に対し、「本省の指示により文書が書き換えられたとの報道について」と説明したが、朝日新聞の報道は「本省の指示によって書き換えられた」とは一行も書いていない。また、書き換えた人物は理財局内に存在する。財務省が使っている文書管理システムで検索すれば文書が書き換えられていることは一目瞭然であり、検索そのものも簡単にできる。パソコンにログインすれば数クリックで該当文書にたどり着くのである。 以上のことから「太田理財局長は一生懸命答弁してくれているが、そこに一部メディアで切り取られかねない発言も入っている」と懸念を述べた上で、「まさかとは思いますが」と留保をつけ、このままでは財務省に意図的に調査を遅らせているように取られかねない、安倍政権に立ち向かっているとも取られかねない、と説明を求めるための質問だった。 太田理財局長の答弁は、これらを否定するもので、さすがだなと思った。ただ、2日朝の時点で書き換えを把握していたかについては依然、財務省は言葉を濁し、明確な答えを述べない。 昨年2月の森友問題の報道から今回の書き換え疑惑が報道された後も、私は一貫して理財局を守る立場で行動してきたし、理財局の職員とも何度も何度も話してきた。しかし、書き換えを行っていたとは私でも想像だにせず、怒りというより「何でこんなことをしたんだ」という失望の方が大きかった。 財務省には徹底的な調査を求めるとともに、佐川前理財局長が「事後報告を受けたが、私は指示していない」と話しているという毎日新聞などの報道もあることから、佐川前理財局長一人に責任を押しつけることなく、誰がどのような理由で書き換えを指示したのか、また書き換えの事実をいつ把握し、なぜ公表が遅れたのか。財務省はその理由をしっかりと説明すべきである。衆院予算委員会での証人喚問で質問に聞き入る佐川宣寿前国税庁長官=2018年3月27日、国会(納冨康撮影) そして、一連のワイドショーの私に対する一方的な批判であるが、私に取材に来た番組は一つもない。なぜ私があのような質問をしたのかについて、自分の意見や説明も紹介されていない。事実に基づいた批判であれば、政治家として甘んじて受けるが、事実に基づかず人間性すら否定する一方的なコメントは、論評の域を超えた誹謗(ひぼう)と中傷でしかない。 まさに「メディアリンチ」ともいう状態であり、名誉を毀損(きそん)した番組や週刊誌に対しては断固たる措置を取るために、名誉毀損訴訟に強い弁護士と協議に入った。 特に、フジテレビ系情報番組『バイキング』については、私に対する汚い言葉や事実に基づかない誹謗中傷が過ぎており、視聴者からも番組内容について批判が相次いでいる。この番組の司会者に関するWikipedia(ウィキペディア)の書き換えがあったことについて、iRONNA編集部よりコメントを求められているが、私は詳細を知らない。ただ、本人に関わる情報で、知られたくなかったり、公表されたくないものについては配慮がなされるべきであると思う。どんな困難があっても安倍政権を支える こうした中、私に対するメディアリンチに便乗したとみられる人物が、私と家族に対する殺害予告、事務所に対する爆破殺害予告を新聞社2社にメールで送ってきた。 その内容は極めておぞましいものであるし、こうした政治に対するテロは絶対に許されるものではなく、断固として戦わなくてはならない。しかも、このメールは細工が施されており、ただの愉快犯ではなく何らかの組織が便乗して私をバッシングするためにやっている可能性も、決してゼロとは言えない。 そして、ワイドショーなどの一部メディアは、物事の本質を無視した「言葉狩り」になっており、ここ最近のメディアの劣化は著しいと言わざるを得ない。国民の知る権利に寄与するという理念より、むしろ視聴率や部数など利益優先になっているからである。 実は歴史上、過去にも同じようなことがあった。満州事変の際の若槻礼次郎内閣の不拡大方針を「弱腰」と批判し、その姿勢を覆させたのは、新聞主要全紙によるリンチにも近い書きぶりだった。私は、民族独立の観点から満州国建国は重要であったと思うが、関東軍、朝鮮軍の越権行動は当時においても許容されるものでなかった。しかし、それを覆したのは「戦争や事変が起これば新聞が売れる」と自らの利益優先で、事態拡大を後押しする新聞であった。 今こそ過去の歴史に学び、メディアはそのあり方を正しい形に変えるべきである。国民も声を上げなければ、メディアの劣化はさらに進む。参院予算委員会で民進党の大野元裕氏(右手前)の質問に答弁する安倍晋三首相。奥前列左は財務省の太田充理財局長 =2018年3月19日、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影) 安倍政権は、家庭の貧富の差によって教育の格差が生まれないようにする、待機児童は徹底的に解消することなど、極めて国民に優しい政策を打っているのに、これまでメディアはほとんど報道せず、強権との印象を強調して批判を繰り返した。森友学園への国有地取引に首相も首相夫人も関与していないことが明確になっても、さも関与しているのではないかと印象報道を連日続けている。  森友問題の焦点は、財務省がなぜどういった理由で文書の書き換えをしたのか、法令に則っているものの、森友学園側と近畿財務局との国有地取引交渉に何があったのか、である。こうした点をなぜメディアは追わないのか。 安倍政権は、民主党政権時代のどん底の経済状況から、デフレ脱却、国民生活を豊かにするために戦っている。安倍首相の外交は、首脳会談国数、会談数においても歴代首相と比べても圧倒的に多く、世界の外交のトップリーダーとして各国と交渉できることによって日本の平和も守られている。 安倍政権がしっかりと続くことが、ひいては国民の幸せにつながる。どんな困難があっても私はしっかりと安倍政権を支えていく。

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    「ポンキッキ、やめるのやめた!」と言えないフジテレビの苦悩

    影山貴彦(同志社女子大メディア創造学科教授) 『ポンキッキ』が終わってしまった。「ガチャピンやムックにもう会えないのか?」と一瞬不安になったが、版権はフジテレビが今後も所有するということで、イベントやCMを通して、これからも姿は見られるようだ。 ただ、私は同番組の放送終了について強く反対である。何より視聴者のため、そして今後のフジテレビのためにも、番組としての『ポンキッキーズ』の看板を残すべきだと思う。 フジの看板番組として長く続いた『めちゃ×2イケてるッ!』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』をこの春で幕引きしたことと、『ポンキッキーズ』の件を同列で語るべきではなかろう。むろん、『めちゃイケ』や『みなさん』についても、その終了を惜しむ声は多く聞かれる。 私自身、両番組を楽しんできた視聴者の一人であるし、自らの青春時代を懐かしく思い出したりもする。だが、そうした感情とともに、新しい時代を創り出すために幕を引く必要性の強いものがある。また、その一方で時代を超えて守り続けることが組織にとって何より大切なこともある。『めちゃイケ』と『みなさん』は前者、『ポンキッキーズ』は後者であろう。『ポンキッキ』の人気キャラ、ガチャピン(左)とムック=2014年4月撮影 ここで、筆者のプロデューサー時代のささやかな経験を少しお話ししたい。かつて仕事柄、何人もの出演者に「卒業」を打診した。「卒業通知」といえば響きはいいが、「降板通告」である。プロデューサーの仕事として最もつらいのは、出演者やスタッフのクビを切ることだ。その際、常に心掛けていたことがあった。マネジャーと話すだけではなく、必ず本人と向き合う時間を設けてきた。大多数が素直に受け止めてくれたが、時に不平不満や嫌味なことを言う人、ひたすら涙を流す人もいた。 随分前の話になるが、あるタレントに「降板通告」した数日後、「夜道を歩くときは気ぃつけろと、ダンナに言うとけっ!」と脅迫まがいの電話が自宅にかかってきたことがあった。このとき私は不在だったが、電話に出た妻は放送、芸能の世界と全く関係ない人間ということもあり、少し動揺していた。「大丈夫やからっ!」と少々大きめの声を出し、心配する妻を安心させたことを今でもよく覚えている。本来の仕事から「逃げる」プロデューサー 幸い、その電話以降何事もなかった。「降板通告」したタレントが所属する事務所関係者が電話してきたのか、全く関係のないイタズラ電話だったのか、今となっては定かではない。出来の悪いプロデューサーだったが、厄介なことから「逃げ」なかったという少しばかりの自負はある。2014年11月、東京・大手町のイベントで、「スパリゾートハワイアンズ」からやってきたフラガールズと一緒にフラダンスを披露したガチャピン(寺河内美奈撮影) タレントたちとあまり密なコミュニケーションを取らない局の社員プロデューサーが、昨今テレビ界に少なからずいるという。それが事実であるならば、今後は一層、一部のプロダクションの人間や放送作家のみが大物タレントと密な関係を持つことになりかねない。それはフジテレビに限らず、テレビ局全体にとって決して好ましいことではない。 局のプロデューサーでありながら、出演者や芸能事務所との人間関係も希薄となれば、大物出演者を切ったり、番組を終了させる作業もスムーズに進まない。ただ、言うまでもなく、出演者や番組は杓子(しゃくし)定規に変えればいいというものではない。 演者やスタッフたちとしっかり人間関係を構築した人間が、その局にどれほどいるかによって番組作りはうまく流れてゆく。作り手と演者がなれ合いになってしまうことと、人間関係を構築させることとは異質のことだ。もちろん、大物タレントの「イエスマン」でしかない局プロデューサーも時にはいる。それは仕事をしているのではない。本来の仕事から「逃げ」ているのである。 さて、フジテレビである。フジが少々長めの苦戦を強いられている理由はいくつかあるだろうが、その一つは番組改編のタイミングを誤ってきたからであろう。「まだいける」「もう少し大丈夫」というファジーな思い込みと、波風を立てたくないという消極的な「逃げ」の姿勢が重なり合い、傷が深くなってしまった感は否めない。 時代を先取り、流行を作り上げたイケてるテレビ局だったはずが、いつの間にか多くの人々から、時代の空気を読むことが苦手で、ブームの後追いをする局というイメージが色濃くついてしまった感がある。テレビに限らず、組織にとってイメージは驚くほど重要である。「分からないから、やらない」からの転換 今、優秀な若手社員たちの「攻めたい姿勢」に対し、トップが「ストップ」をかけてはいないか気になっている。攻めの姿勢で成果を上げ続けた人が、地位を得た途端に保身に走るという単純な図式ではないかもしれない。でも、社会の経済状況やコンプライアンスを隠れみのに、冒険を好まなくなってはいないだろうか。口先では「新しいことにチャレンジしろ!」と言いながら、若手からの企画・提案を受け止められずにいるのではないか。体力のみならず、感性も年老いたことを認めたがらない上層部が少なくないのではないか。 もうお気づきだろうが、これらもフジだけの話ではない。実は各局に当てはまることだ。「分からないから、やらない」ではなく、「自分が分からないからこそ、面白そう」と発想を転換させることが今、テレビのトップに求められる資質だろう。 最後に話を冒頭の『ポンキッキ』に戻す。なぜ『ポンキッキ』は終了させるべきではなかったのか。それは現在の視聴者たちの反応を見て分かるように、「文化」の色合いが極めて強いからである。フジテレビにとって同番組は、ランドマークのような存在なのである。 正直なところ、今この文章を読んでいる人の多くも、ここしばらく日常的に『ポンキッキ』を見ていた人は多くないかもしれない。それでも、番組終了を耳にし、この上ない喪失感を抱いていることだろう。「文化」とはそういうものだ。前述の通り、フジテレビがいま最も大切にしなければならないのは、ステーションイメージだ。コストカットのみを優先し、イメージを落としては元も子もないし、ガチャピンもムックも報われまい。守ることでイメージを維持し、アップさせられることもある。 今からでも間に合う。『ポンキッキ』は放送終了ではなく、しばらくの休止扱いとすべきである。そして、秋辺りからフジテレビ制作陣が力を結集し、『ポンキッキーズ』を地上波で復活させてはどうだろう。視聴者のニーズとの乖離(かいり)が進み、苦戦を強いられているフジテレビだが、こうした状況がこれほど長く続くほど脆弱(ぜいじゃく)なステーションではないはずだ。メディアの世界にかかわる人間の中には、「フジテレビに元気でいてもらわないと!」とエールを送る人々が数多い。フジの苦しみは、他局にも通じている。2017年3月、神戸市消防局の特別隊長に任命されたガチャピン あっと驚くことを成し遂げるのが同局の持ち味だったはずだ。「ポンキッキーズ、やめるのやめました!」そんな元来のフジらしい発表を筆者は心待ちにしている。

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    『コロコロコミック』販売中止、サヨクに屈した外務省は恥を知れ

    中宮崇(サヨクウォッチャー)ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった私は共産主義者ではなかったから社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった私は社会民主主義ではなかったから彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった私は労働組合員ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった 反ナチス運動指導者マルティン・ニーメラーの有名な詩である。今まさに日本で、ナチスならぬサヨクから、共産主義者ならぬ漫画がそうした攻撃を受けている。 小学館の子供漫画雑誌『コロコロコミック』におけるチンギス・ハーン落書き事件に関して、主にサヨク諸氏からの言論弾圧、いや中国顔負けの人権抑圧が目に余る。もっとも、しばき隊、SEALDsなど、彼らサヨクが「人間じゃねぇ! たたっ斬る!」と本屋に押しかけ、気に入らない本を「焚書(ふんしょ)」するという姿を普段から散々見せられている者としては、当然の反応と言うべきか。 彼らは人権等の正義を騙(かた)る、その実ただの中国政府そっくりな弾圧者にすぎない。「やりすぎイタズラくん」が掲載されている月刊コロコロコミック3月号 しかし、そういったエセ左翼にすぎない人々と違い、まじめな左翼は今回の事件に関してまっとうな見解を表明している。例えば「『丸山眞男』をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争」で知られる赤木智弘氏は「チンギスハン揶揄は守られるべき」と題した論考を発表し、この問題を主に人権面から丁寧に分析している。左右を問わず、まともな人権感覚をもつ現代人であれば、文句のつけようのない内容であろう。 ところが、このようなまともな人権感覚を持たないのが一部のサヨクである。 彼らは戦後一貫して現在に至るまで「外患誘致」「告げ口プロパガンダ」戦法がお得意である。反日のためにフェイクニュースを垂れ流し、息を吐くように嘘をつく「ならず者」をまともに相手にする日本人なんてそうそういない。一線を越えた外務省 そのことは彼ら自身がよく分かっているので、海外の非政府組織(NGO)やマスコミ、国連、そして中国や韓国、北朝鮮などの人権抑圧国家を利用し、「世界市民様は愚かな日本人どもをこう言って批判しておられますぞ!」という錦の御旗、いやフェイクニュースをクリエイトし、それを口実にして日本人を攻撃し、寄付を集め活動資金とする。 慰安婦問題などはその典型であるし、最近では「秋葉原には児童ポルノや児童買春があふれている」というデタラメを海外に垂れ流して国連組織などを悪用し、漫画規制や言論弾圧を図る団体も話題になった。 こうした事実からすると、今回の事件のポイントは、外務省の対応である。朝日新聞の報道をみる限り、外務省は「日本国民の権利を擁護する」という職責を放棄し、海外政府の出先機関、いや手先機関に堕したとしか言いようがない。 記事によれば、日本外務省によると、来日中のモンゴル外相と日本の国会議員による23日の会合に同行した外務省職員に対してモンゴル側から抗議があり、同省は小学館に連絡した。 朝日新聞 2018年2月23日 と言うのだ。なんと外国の政府による一民間組織に対する「抗議」に対し、外務省は「うちは自由と民主主義の国なんで、そんな筋の通らんこと言われても知りまへんで」とはねつけるどころか、唯々諾々(いいだくだく)としてその抗議を小学館に伝え、いわば言論弾圧に加担したということらしい。小学館前で「月刊コロコロコミック」にチンギスハンを侮辱する漫画を載せたとして、抗議する在日モンゴル人ら 2018年2月26日、東京都千代田区 どこの国に、そんな手先機関の役所が存在するというのか。考えてみれば、外務省はこれまでもそうであった。特に「チャイナスクール」(外務省の中国語研修組出身者)と呼ばれる中国シンパの存在は、かつて慰安婦問題や南京大虐殺、政府開発援助(ODA)などにおいて日本の国益をむしばみ、中国や北朝鮮などの利益のために活動してきた外務省の象徴という批判もあった。 かつて外務省アジア大洋州局長だった槙田邦彦氏が拉致問題に対して「たった10人のことで国交正常化が止まっていいのか」と発言し、問題になっただけではない。左翼はチャンスを見逃さない 2002年に中国で発生した「瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件」、いわゆる「ハンミちゃん事件」においては、中国武装警察がウィーン条約を無視して日本領事館に押し込み、ハンミちゃん一家を乱暴に連れ去ったのに対し、なんと外務省職員は抗議するどころか武装警察の帽子を拾い、媚(こび)を売るような姿が放映されて批判を受けた。 こんな組織であるから、中国や韓国政府等がこれまで日本の「右派」を名指しで弾圧してきた際にも、日本人の生命や権利を擁護するどころか、冷淡極まりない態度に終止した例が多数見られた。そこに今回の「抗議口添え」である。 外務省は一線を越えた。これまでも十分、日本人のことなど眼中にない、結構とんでもない組織であったが、完全に常軌を逸したのだ。従来から海外に「告げ口プロパガンダ」をしてきた一部のサヨクは、このチャンスを見逃さないであろう。彼らは自分たちの気に入らない「ネトウヨ」「右翼」を弾圧するために、中国や韓国を焚き付けて日本の外務省に「抗議」させ、今回のような出版中止等の営業妨害に悪用するかもしれない。いや、このままでは必ずそうなる。 もし、こんな人権侵害が許されるというなら、立場を置き換えて考えて見るとよい。 日本も韓国外務省に対し「日本大使館前に慰安婦像を設置するなど言語道断だ!」として抗議し、それを韓国外務省が突っぱねず、ソウル市や韓国挺身隊問題対策協議会に唯々諾々と伝えたらどうなるか。ただでさえ反日で有名な韓国のこと、必ずや日本人の生命財産が危険にさらされることになるだろう。そして、もし10人の日本人が殺されても、日本の外務省はそれを冷淡に「たった10人のこと」と言い放つのかもしれない。外務省庁舎=東京・霞が関 われわれ日本人が今回の問題を看過し、外務省の体質を改めずにサヨクの横暴を放置すれば、将来必ずこんな詩が囁(ささや)かれることになるであろう。サヨクが漫画家を攻撃したとき、私は声をあげなかった私は漫画家ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

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    「朝日新聞と安倍首相の一騎打ち」森友文書改ざん、勝者はどっちだ

    、なんてことはあるはずがない、と感じていました。 では3月2日の段階で、なぜ朝日新聞という一介のマスメディアが、一国の首相と『一騎打ち』という状態だったのか。もちろん朝日新聞以外のすべてのメディアが、この森友問題に決定打となる証拠をまだ入手していなかったからですが、私はそこにマスメディアがマスメディアである本質、国家権力と向かい合う時のダイナミズムを垣間見た気がします。朝日新聞東京本社=東京都中央区(産経新聞チャーターヘリから、桐原正道撮影) マスメディアにはいかなる権力からの圧力にも屈せず真実を追求し、庶民の目となり耳となり、国家権力の暴走を防ぐ監視役となる、重要な任務があります。しかし、その前提として、自社の綿密な取材に基づき、事実を検証可能な根拠とともに正確に把握し、正しい情報を発信するという基本が守られなければなりません。特に今回のように、時の政権の存続を左右する重要な問題の場合、慎重を極めた事実確認が要求されます。安倍一強の「おごり」 朝日新聞以外の新聞各社、NHKや民放は、自社の独自取材に基づく限りにおいて、首相の関与が疑われるレベルの公文書の改ざんが、財務省内部で行われていたという確固たる証拠にたどり着けていませんでした。確信がないから報道しないというのも、それはそれで一つの矜持(きょうじ)だったと言えます。 朝日新聞といえば2014年に、従軍慰安婦問題に関する、捏造にも近い誤報を続けていたことが発覚し、大バッシングを受けました。当時の社長が謝罪して辞任する騒ぎになったことは、記憶にも新しいかと思います。二度とあのような事態は起こしたくない、誤報は命取りになると痛感しているはずです。 そんな慎重な体勢の中で、今回の安倍首相を相手取るスクープ記事を発表したのは、大英断だったと言えるでしょう。相当入念な取材と事前準備による確信があったと思われます。おそらく朝日新聞は、公文書記録を改ざんした物的証拠を複数手に入れ、森友問題を捜査中の大阪地検特捜部にも協力者を得て、財務省にも証言してもらえるよう根回しをしたうえで、慎重に記事にしたのではないでしょうか。 3月2日の朝日新聞のスクープにやや遅れて3月8日、今度は毎日新聞が独自取材に基づいて、森友学園に関する「別の決裁文書」にも「学園に価格提示を行う」といった文言が含まれていたことを報道しました。 さらに、3月9日には、財務省近畿財務局の担当部署で対応に当たった男性職員が神戸市の自宅で死亡していたとの報道があり、一連の問題に関連した自殺と見られて大きく騒がれました。同日、これまで国会で証言してきた財務省の元理財局長で国税庁長官の佐川宣寿氏が辞任したとの報道があり、わずか一週間で森友学園問題は大きく動き、12日の報告につながったのです。近畿財務局などが入る大阪合同庁舎第4号館。足早に入庁する人も=2018年3月12日、大阪市中央区(前川純一郎撮影) 一方で朝日新聞と『一騎打ち』となった相手、安倍首相はどうだったでしょうか。国会における自民党の絶対多数と、長期にわたる安倍一強の政権によって、あたかも独裁者のような「おごり」が、その言動から見て取れます。 例えば野党を無視するような、強行採決を繰り返す国会運営です。安倍首相には「行政府の長」のみならず、本人が口をすべらせたように「立法府の長」も兼ねているという意識があり、それがあのような独裁的な手法を取らせているのだと思われます。 また最高裁判事も総理大臣が任命する日本の議院内閣制は、もともと三権分立にはなっておらず、与党の長が立法、行政、司法を独裁する仕組みになっています。安倍政権はその権限を最大限に行使して、内閣法制局長の首をすげ替えて違憲立法を通したり、検察を手足のように動かして森友問題のキーパーソンである元学園理事長の籠池泰典氏を長期拘留したり、好き放題にしてきました。長期政権でたまった「膿」 そもそも森友学園問題とは何だったのか。それは森友学園が国有地を取得する際に、同学園が経営する「塚本幼稚園」に安倍昭恵夫人が関わっていて、安倍首相が便宜を図ったのではないか、という疑惑です。それは直接的なものであったか、間接的なもの(忖度)であったかに関わらず、首相として問題がある行為です。 ましてや問題を隠蔽(いんぺい)するために、財務省や検察に圧力をかけていたとしたら、それは「独裁者」以外の何者でもありません。私企業に便宜を図ったことよりも、それを隠蔽するために国家権力を私物化して、ウソで塗り固めようとしたことの方が、はるかに政権として危険だと思います。そのあたりが今後の国会で明らかになれば、国民の見方も変わってくるでしょう。 国会では佐川氏の証人喚問や、昭恵夫人の証人喚問が要求されるでしょう。当然それらは行われるべきだと考えます。そして、安倍首相は国会でこう明言したはずです。「(森友学園問題に)私や私の妻が関わっているようなことがあるならば、私は議員も総理も辞職します」。キッパリとした発言でした。もしかしたら、その約束を守るべき日が近づいているのかもしれない、そんな気さえしてくる最近の情勢です。 少なくとも財務省の文書書き換えに対する責任は、麻生太郎副総理兼財務大臣に押しつけることなく、安倍首相が自ら説明責任を引き受けるべきではないでしょうか。疑惑のそもそもの発端は、安倍首相自身にあるのですから。 また現在の自民党が安定多数を決めた、昨年10月の衆院選そのものも、森友問題が復活した今となっては、あらためて国民に問い直さなければならないかもしれません。なぜならば当時の国会は、森友学園問題が紛糾していて、それに対する国民の信を問う、という流れで衆議院解散となったわけです。安倍首相は自民党の総裁として「森友問題は解決済み」と断言し、それを信じた国民の票を自民党は集めました。衆院選で演説する安倍晋三首相=2017年10月、東京・秋葉原 しかし実は「森友問題は解決済みではなかった」ということになると、自民党が選挙の時に国民にした説明自体が、ウソであったということになります。「森友問題は解決済み、と信じて投票した私の票を返してくれ」と抗議されてしかるべきです。あの選挙はなんだったのか…。抗議される自民党議員も気の毒ですが、自分が安倍首相を総裁に選んだ因果です。 このように日本の民主主義の根幹に関わるレベルの、重要な問題提起が、朝日新聞の記事をきっかけになされました。マスメディアの本来の任務である「権力の見張り番」としての役割が、きちんと果たされた一例として、私たちは記憶にとどめたいと思います。 今回の森友学園問題は、氷山の一角です。これをきっかけに、長期政権の間にたまった膿(うみ)を、すべて出し尽くすべきです。マスメディアは政治を監視し、不正を白日の下にさらすことはできますが、政治を動かすことはできません。政治を動かすことができるのは、主権者である国民ひとり一人です。 私も一人の国民として、この問題がトカゲの尻尾切りでごまかされないよう、しっかりと目を見開いて今後の推移に注目し、本質を見失わないように分析を続けたいと思います。

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    「文春砲」が許せない

    有名人の不倫スキャンダルを数々報じた『週刊文春』が逆風に立たされている。きっかけとなったのは、音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫報道だった。「他人の不倫を暴いて誰が得するの?」「もう廃刊しろ」。スクープ連発で話題を集めた「文春砲」はなぜ批判の的へと一変したのか。その深層を読む。

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    誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない

    舛添要一(前東京都知事) 『週刊文春』に自らの不倫疑惑を報道されたことで、「責任を取って」小室哲哉氏が音楽界からの引退を表明した。これに対して、引退を惜しむファンをはじめとして多くの人々から、文春批判の声が上がっている。会見場に入る小室哲哉氏=2018年1月19日、 エイベックスビル(撮影・佐藤雄彦) 今回の件以外にも、これまでさまざまな有名人の不倫報道が週刊誌で流されて大きな話題となり、渦中の人物が世間のバッシングにさらされ、人生を大きく狂わせられる事態が続いてきた。世の中に「魔女狩り」のような空気が漂い、閉塞(へいそく)状態になっているのは愉快な話ではない。 第一に、有名人であれ無名人であれ、不倫といったプライベートなことは、配偶者や家族との間の問題である。他人が容喙(ようかい)してとやかく言う話ではない。妻の介護を含め家庭内の事情を、他人が詮索しても意味のないことである。 不倫などというものは、人間が生物である以上、古今東西どこにでもある話である。そうでなければ、文学作品の多くは成立すらしないであろう。かつては、芸人の浮気などは「芸の肥やし」だと、当然視する風潮が支配的であった。 何人かの国会議員もこの問題で指弾されたが、かつて三木武吉は「妾(めかけ)」に関する立会演説会でのヤジに対して「実は、4人ではなく5人おるのであります」と切り返して喝采を浴びたという。また、フランスでは、ミッテラン大統領が愛人との間に生まれた娘について質問されたとき、「それがどうした」と答え、質問した記者のほうが社会から批判を浴びた。浮気や家族など私的な事項についての質問を記者がすると、「それはあなたには関係ない話だ」と逆襲されて終わるのが常であった。 しかし、日本はもちろん、「大人の国」フランスでも、もはやそのような応対が許されるような時代ではなくなっている。アメリカの悪しき影響なのか、「非寛容社会」が到来したと言ってもよい。 第二に、このような時代風潮の背景には、いつまでも続くデフレ、そして格差の拡大がある。所得が増えれば、それは自分の欲する財やサービスの購入に向かい、他人の私事を詮索するような余裕などなくなる。しかし、今や消費に向かうべき熱情は鬱積(うっせき)してしまい、そのはけ口が有名人のバッシングに向かっている。格差は、貧しい者の豊かな者に対する怨嗟(えんさ)の情を生む。 戦後の高度経済成長時代には、人々は物質的豊かさを求めて全速力で走り、他人の生きざまをコメントする暇はなかったし、仰ぎ見るのはスターダムに登っていく芸能人や野球選手などの晴れ姿であった。そういう右肩上がりの繁栄の時代は終わり、低迷する経済に対する怨念が鎌首を持ち上げてきたのである。文春記者は「日陰者」である 第三に、格の違いが整合化された時代ではなくなったという点を指摘しておきたい。野球でも、1軍と2軍、プロ野球と草野球の違いは歴然としている。繁栄の時代には、週刊誌はマスコミの中では二流であり、いわば「日陰者」の立場にあった。堅気の人間は、そこに掲載された記事など信用せず、話題に上らせることすら恥だとされた。ところが、その週刊誌記事が大マスコミ以上に世の中を動かす時代になり、全国紙もテレビもその後追いに走るという奇妙な状況になってしまった。 テレビのワイドショーは、不況で制作費が不足しているのか、週刊誌報道を元ネタにして番組を作り、不倫スキャンダルを全国に広める役回りになり下がった。世間の人も、週刊誌を買えば400円程度の出費になるが、テレビは無料である。 「日陰者」が日の当たるところに出て、大手を振って公道を歩くような時代は尋常ではない。たとえは悪いが、極道がマスコミに出て自らの仁義を開陳するようなことがあれば、それはもはや極道ではない。 その点では、不倫疑惑を報じる週刊誌などはパパラッチと同じである。大義や正義があるわけではない。読者や視聴者の好奇心を刺激して金もうけをたくらんでいるだけの話である。しかも、パパラッチ以上に始末に負えないのは、検察官であるかのように正義を振りかざし、不倫の当事者を断罪しようとすることである。 取材した記者は、実名を公開し、顔を全国にさらすわけでもない。陰に隠れて書いている。だから「日陰者」なのであり、そう言われるのが嫌ならば、正々堂々とテレビの画面に顔を出し、名を名乗ればよいだけの話である。自分が他人を断罪できるほど、品行方正な道徳人とでも思っているのであろうか。 第四は、ネット社会の到来である。みんなが元気に前を向いて進んでいた高度経済成長時代には、インターネットは存在していなかった。今のツイッターと異なり、つぶやいても周りの数人にしか届かない。むろん、発信者が誰かもすぐ分かる。会見で芸能界引退を表明した小室哲哉氏=2018年1月19日、エイベックスビル しかし、今はネット全盛時代である。匿名でツイートする個人的意見や、偏向どころか嘘の情報が大手を振って世間に流れていく。そして、その真偽も確かめられないまま、世論形成に一定の影響力を持ってくる。フェイクニュースの大御所、トランプ米大統領が「フェイクニュース大賞」を発表するという皮肉な時代である。 今回の小室報道は、「文春砲」の成功に酔いしれた週刊文春が、大衆の反発を招き、逆噴射して自らに襲いかかったものである。小室氏の引退表明がなければ、そうはならなかったかもしれないが、週刊誌の居丈高な臆測記事でひとつの才能が消されていくことに、大衆は大きな怒りを感じたのである。金もうけ目当ての、この程度の不倫記事で優秀な人材が活躍の場を失われるような非生産的なことは、「もうやめたらどうか」という思いが、世の中の主流となってきているとすれば、それは健全な流れであろう。 第五に、日本は法治国家ではなく、相変わらず「空気」に支配される国だということである。日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めてある。姦通(かんつう)罪があった時代ならいざ知らず、小室氏とその「愛人」は刑法を犯したわけでもない。それにもかかわらず、「法律の定める手続き」ではなく、週刊誌が作り出す空気や世論によって断罪されるとすれば、日本は法治国家の資格がない。 今回の騒動が、憲法が国民に保証する基本的人権の大切さをみんなに知らせたことの意義は大きい。

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    『週刊文春』が完全に悪者扱いされるのは残念です

    佐々木博之(芸能ジャーナリスト) メディア批判というのは昔からあることです。これまで週刊誌が報じた不倫疑惑はかなりの件数になりますが、私の記憶では、今回の小室氏のように週刊誌側が非難されるケースはなかったように思います。 「なぜ他のタレントや政治家と違って今回の週刊文春の報道は批判を集めたか」といえば、端的に言うなら小室氏が引退したからです。それにより、小室氏が世間の同情を集め、かわいそうだ、となったからだと思います。  「妻はくも膜下出血で倒れた後、脳に障害が残ってしまい、その介護で大変な生活を送っている。才能が枯渇し、満足のいくような作曲ができなくなった。そういう中で、往診してくれる看護師に相談相手、話し相手になってもらっているだけ。何年も前から男性機能は働かず、肝炎を患い闘病中だった。肉体関係などあるわけがない。だけど騒動になった責任をとって、引退します」会見場に入る小室哲哉=2018年1月19日、東京(撮影・佐藤雄彦) この話が事実なら、彼を哀れまない人はまずいないでしょう。100%事実ならばですが、すべてのウラを取ることは難しいし、憔悴(しょうすい)しきった姿を見たら、「本当ですか?」と聞ける人は少ないでしょう。 「濡れ衣ではあるが、誤解されたのは不徳の致すところ。責任をとり引退します」 なんと潔い。濡れ衣を着せられ、言い訳せずに切腹したといわれている幕末の志士、田中新兵衛を思い浮かべてしまいます。実際は濡れ衣ではなかったという話もありますが、日本人はこういう話に弱いんです。 だから、「『週刊文春』はひどい! ありもしない不倫をでっち上げ、日本の音楽界に欠かすことはできない才能あふれる小室氏を引退に追い込んだ。許せない」「日本の大事なアーティストを引退に追いやった大罪は、どんな言い訳をしてもぬぐえるものではない」 などと『文春』バッシングが始まったのです。彼が引退せずに、釈明と謝罪だけならこんなことにはならなかったでしょう。 しかし、『文春』は小室氏に引退を迫ったわけじゃなく、何かペナルティーを与えたわけでもありません。不倫疑惑を報じただけです。報道によって引退に追い込まれた、という人もいるでしょうが、会見を思い出してください。 「曲作りに限界を感じた。前から引退を考えていた」と語っていました。となると、今回の報道が原因で引退するわけではないということです。 「謝罪会見のついでに…」という気持ちもあったのではないかと思いますが、彼のあざとさを指摘する声もあります。そこまでは考えたくないのですが、妻の病状、自身の病気を明らかにし、窮状を訴えた上で、潔く重罰を受けたように見せることで、同情を集め、バッシングを避けようとしたのではないか、と考える人がいるのも事実です。「文春が引退させた」に異議あり そもそも小室氏は不倫を否定したのだから、責任を取る必要もないだろうし、世間を騒がせた責任だとしても、引退までする必要はないと思うのは私だけではないでしょう。引退そのものは騒動のせいじゃないのに、世論がいつの間にか「『文春』が引退させた」と思うようになってしまったのは、納得がいきません。 また『文春』の記事には、小室氏と看護師が2人きりでお互いの家で長時間過ごしたり、腕を組んで歩いていたという描写があり、写真も撮られています。このことについては否定していないわけです。それが不倫行為、あるいは不貞を働いたといえるのか難しいところですが、たとえ肉体関係がなかったとしても、妻の留守中に自宅に女性を招き入れるというのはどうなんでしょうか。多くの女性は眉をひそめるだろうと思います。寝室で一緒に寝たとなると、「それくらいなら、許せる」という人はどれくらいいるのか。妻が正常な判断を下せない状態にあるのなら、なおのことやってはいけないことではないでしょうか。 それらも全てなかったことのように、『文春』が完全に悪者に見られているのは残念なことです。ただ、結果として小室氏の会見は大成功だったということになります。見事に不倫疑惑を払拭(ふっしょく)、世論を味方につけてしまったわけですから。これまでなされた、不倫疑惑釈明・謝罪会見のなかで、これほどうまくいった会見は記憶にありません。『文春』はまさかこんな事態になるとは考えてもいなかったでしょう。 あくまで芸能ニュースに限ってのことですが、週刊誌が不倫報道をするのは、その根底に「大衆は常に、芸能人の裏の顔を見たいと思っているはずだ」という妄想かもしれない、確信があるからです。普段テレビなどで見る姿とかけ離れた姿をとらえて報じることで、その大衆の要求に応えよう、すなわちその人たちに本を買ってもらおうという意図があるのです。普段の姿からは考えられないといえば、タレントのベッキーはその顕著な例でした。川谷絵音とのスキャンダルについての会見を終え退室するよう事務所関係者に促されるベッキー=2016年1月6日、東京(撮影・山田俊介)  あるいは、悪行とまではいかなくとも、芸能人のけしからんと思える行為を報じることによって、その芸能人が糾弾されたりすれば、極端な話、記者はまるで自分が悪を懲らしめる仕置き人にでもなったかのような「ちょっとしたヒロイズム」に浸れることがあるのも事実です。 小室氏の場合は「奥さんが大変なときに何をやっているんだ」と非難の声が上がり、「『文春』はよくやった!」となるはずだったんでしょうが、そのもくろみは見事に外れました。砲弾が逆にはね返されたという見方もできますが、とどのつまり「小室氏の方が一枚上手だった」ということじゃないでしょうか。不倫報道を続ける意義 さて、「不倫報道を週刊誌が続ける意義」についてですが、ちょっと曖昧な言い方になりますが、意義の位置づけによって異なるのではないかと思います。  結論から言えば、不倫報道は週刊誌的には意義があると思います。しかし社会的にはほぼないと思います。「ほぼ」というのは、ときどき意義がある場合もあるからです。  しかし、それを言ったら芸能ニュースなんてほとんど意義のないものばかりです。芸能ニュースではありませんが、テレビのニュースでときどき流れる、「中国の奥地で、子どもが壁の穴に首を突っ込み、抜けなくなったため、レスキュー隊が出動し、壁を壊して救出」といったたぐいのニュースも意義があるとは思えないのですが…。 だからといって、不倫報道を止めてしまえというのは賛成できません。その先に「報道の自由」が奪われてしまう危険性も感じてしまうからです  週刊誌は雑誌です。いろいろなジャンルの記事が掲載されていて、芸能記事はその一部です。芸能記事はスキャンダルばかりではありませんが、前述のように「芸能人の裏の顔」を報じたいとなれば、必然的にスキャンダルが多くなります。もちろん芸能人のスキャンダルを一切扱わない週刊誌もありますが、不倫をはじめ芸能人のスキャンダルを報道するのは、週刊誌の持つ性質上不可欠なことなのだと思います。 また、週刊誌はいわゆる商業誌です。売れなければ意味がありません。売れるためには読者が興味を持つ記事を掲載しなければなりません。三省堂書店神保町本店の雑誌売り場=2013年2月8日、東京都千代田区(山田泰弘撮影) 「不倫報道を続けることで部数を伸ばそうとしている」と指摘した方がいましたが、芸能人の不倫を報じたくらいで販売部数が極端に増え、売り上げが伸びるなんてことは、今の時代では有り得ません。確かにベッキーのときは売れたようですが、本当にまれなケースだと思います。 今、週刊誌を購入して読む人は少ないです。昔に比べたら売れなくなっています。芸能人の熱愛や不倫を報じても、それほど部数に影響しないということは、どの週刊誌も写真誌もとうの昔に気づいています。 ですから、今はどの週刊誌もウェブに活路を見いだしているわけで、そこにテレビが関わってきました。週刊誌はウェブ配信用に動画を撮影するようになり、その動画をワイドショーが買って流すようになりました。不倫報道でペナルティーを与えなければいい 今、ワイドショーが芸能スキャンダルを独自にスクープすることはほとんどありません。週刊誌報道を紹介するのみです。たまに当事者を取材するときもありますが、それも週刊誌報道が元になっているわけですから、ワイドショーが週刊誌に依存する割合はかなり大きいといえます。週刊文春に不倫疑惑を書かれたことを受けて開いた会見で芸能界引退を表明した小室哲哉=2018年1月19日、東京都(撮影・佐藤雄彦)  しかも自前で取材、撮影するよりはるかに低いコストで手間もかからずに映像を入手することができ、視聴率も上がるとなったら、こんなありがたいことはありません。週刊誌にとっても、本体が売れなくなった分をそこでカバーできているわけです。 もし、テレビが週刊誌の記事を紹介しなければどうなるでしょうか。最近の若者は芸能ニュースにそれほど興味がないし、週刊誌も読みません。ネットで芸能ニュースをチェックする年配の人も少ないと思います。となると、週刊誌の不倫報道を知るには電車の中吊り広告か新聞広告になります。報道の拡散は格段に狭くなるだろうと思います。 また、ワイドショーで芸能人の不倫疑惑が扱われるとき、コメンテーターが「不倫は当事者の問題だから他人がとやかくいうことではない」とコメントするのをよく耳にします。でしたら、最初から扱わなければいいだろうということにならないでしょうか。  話はそれますが、「不倫や浮気は犯罪じゃないんだから、そんなにたたくことはないだろう」という人もいます。その通りです。ですから、ペナルティーを与えることをやめればいい。小室氏は「引退は自分に与えた罰」みたいなことを語っていましたが、不倫したからといって、番組を降板したり、CMを中止したりするのをやめればいいんです。 考えてみてください。仮にベッキーが冷凍食品のCMに出演していたとします。彼女が不倫したからといって、それまでその食品を食べていた人が買うのをやめると思いますか? キャラクターの不倫で本当に商品のイメージダウンなどあるのでしょうか。 「テレビが不倫報道をしなくなったら日本が変わる!」なんて言っていた人がいましたが、そんな大げさなことではないでしょう。そもそも芸能人の不倫なんて、そんなに大騒ぎするほどの話ではないと思います。当事者以外には関係のないことですから、周りは1週間もたてば飽きてしまうし、その時にはまた新しい話題が出ますから。世の中、そんなものです。 テレビで不倫報道を扱わなければ、週刊誌も注目されず、大きな騒動にもならないと思います。『文春』を批判する人たちも、雑誌を買わなきゃいいし、読まなきゃいいんです。そうなって本が売れなくなったら、自然と芸能人の不倫が記事になることもなくなるでしょうね。 しかし、下世話な話に興味がある大衆がいる以上、そうなるとは思いません。バッシングを受けたくらいで『文春』は砲撃をやめることはないと思いますし、それで腰が引けてしまうほどやわじゃないです。それが週刊誌の矜持(きょうじ)だと思うのですが。

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    「不倫は社会悪」自分を良識派とみなす週刊誌と読者の薄っぺらさ

    佐伯順子(同志社大大学院教授、女性文化史研究家) 小室哲哉氏の引退会見がメディアで波紋を広げている。妻の介護に向き合う中、大人のコミュニケーションが取れる女性として担当看護師と親しくなり、これを「不倫」とする報道を受けて、引退会見へと発展した。小室氏以外にも、芸能界や政界の「不倫」報道によって売り上げ部数を伸ばした雑誌に対し、今回は逆に、報道側への批判が目立ち、編集側も想定外の逆風にとまどっているようだ。 なぜ、過去の「不倫」報道を受け入れた読者たちが、今回は一転して報道批判に回ったのか。その大きな理由の一つは、当事者が生活事情として「介護」を挙げた点にあろう。確かに、「介護」をどうするかは、現代日本において大きな社会的課題の一つである。ゆえに、会見に対する反響も、「不倫」よりもむしろ「介護」に関心が高まった傾向がみられ、私生活の背景を理解して、世間は情状酌量の余地を与えた。結婚外恋愛の報道の是非を問うよりも、介護や高次脳機能障害をめぐる議論が高まるという点で、これまでとは異なる展開をみせているのだ。 だが、ここではき違えてはいけないのは、「介護」や「障害」の有無と「不倫」の是非は、そもそも別問題であるということである。当事者が重なったために議論が錯綜(さくそう)しているが、私生活の苦労には、「介護」以外にも様々あり、「介護」や生活の苦労があるから、その癒しとしてなら「不倫」は正当化できるという風潮が生まれてしまうとしたら、明らかに間違っている。すべての既婚介護者が、それを理由に不倫をしているわけではないし、不倫どころか余暇の余裕もなしに介護に努めている女性、男性も少なくないのだ。 ただし、会見の締めくくり「なにか響けばいいな」に象徴されるように、彼の発言に社会的意義があるとすれば、彼が男性介護者であること、そしてその当事者の立場から、自身の介護体験を公的に赤裸々に語ったことである。その素直さは、少なからぬ男性が妻などの女性に介護を丸投げしがちな現状にあって、実にあっぱれである。記者会見で引退を表明し、涙を拭う小室哲哉さん=2018年1月、東京都港区 介護やケア役割は、日本の現状において、嫁や娘という女性に任せられがちであり、男性介護の当事者の「声」を幅広く共有できる機会は少ないだけに、大きな社会的意義がある。介護が女性役割とみなされがちなことは、それ自体も問題だが、男性にとってもまた問題であり、現状少数派の男性介護者は、気のおけない男同士で相談することもできず、孤立しがちである。 しかも、一部の医療従事者や薄情なタイプの家族であれば、「介護は苦労だし、本人も、心身が不自由で生きているくらいなら死んだほうがましですよね」という判断を下す危険性さえあるので、〈介護する/される〉〈ケアする/される〉行為の尊厳、そこから初めて見いだされる家族、あるいは人間同士の絆(まさに小室氏のいう「無償の愛」)の尊さをふみにじる例もある。小室氏が見いだした人間の絆 「女の子」のようになった妻に、むしろこれまでにない愛を見いだしたという小室氏は、家族のケア役割を担うことでしかわからない人間の絆を見いだしたのであるが、その思いを共有できる男性の友人を探すのは難しかった可能性が高い。 だからこそ、小室氏は、ケア自体を職掌とする女性看護師と思いを共有できたのであろうし、それが妻への思いとは別の精神的絆になったということは、他人の痛みに敏感な人間なら、十分理解できるはずである。 音楽という芸術活動の一部に関わってきた感受性の高い小室氏だからこそ、会見の中でその思いを、音楽ではないが、せめて言葉で表現したいという欲求にかられたのであろう。 昨今の地域社会には、高次脳機能障害の家族の交流機会や公的支援もあるが、職場と自宅との往復で、地域社会に溶け込む傾向も薄い(多くの)男性は、地域コミュニティーで悩みを共有するという解決手段を求めにくい。このため、仕事の忙しさを口実に家族のケアを怠り、それゆえに家族間の絆も薄れ、介護される側の命の尊厳を軽視する男性もままあるわけだ。 だが、小室氏が男性介護者としての役割を引き受け続けているのは、彼が仕事との両立の困難を口にしながらも、いわゆる自由業であり、日本社会の主流的ジェンダー観や組織的働き方から、比較的距離を置くことができる柔軟な立場にあったからであろう。音楽活動に取り組む小室哲哉氏 京都大のジェンダー研究者のグループで、まだ若い女性研究者が「乳母車を押すかわりに母の車椅子を押す人生でもいい」とつぶやいたので、感銘を受けた覚えがあるが、実際、赤子か老人かで体の大きさに違いがあるものの、自分で何もできず、心が子供のようになった身内をケアする営みは子育てに似ている。 子供の成長がうれしいように、心身が衰えた家族が、リハビリで文字通り一歩ずつでもよくなる姿を目にするのは、家族としてかけがえのない喜びである。高次脳機能障害の母を7年近く介護してきた筆者自身、そうなって初めてわかる人間の絆を切実に理解できる。 だが、このせちがらい世の中、介護を単純に負担としか考えない論調や、寝たきりでは生きている甲斐がないと決めつける、命の尊厳に対するきわめて薄っぺらい理解しかない浅はかな医療従事者(こうした発想は、根底では、障害者施設での殺人にも通じる、命に優劣をつける極めて危険な思想であり、偶然にも、期を一にして議論されている、強制不妊手術にも通じる問題である)も存在するので、小室氏の発言はその意味でも、介護という行為自体の尊厳を男性の側から世に問う重要なメッセージ性があったといえる。 会見からは、妻が音楽への興味を失ったことが小室氏にとっての失意をもたらしたことも伝わってきたが、音楽活動を共有してきた「同志」としての、結婚以前からのKEIKOさんとの関係の尊重は、妻の「価値」を家事・育児分担者としてしか認めない傾向が強い日本の(少なからぬ)夫たちの結婚観に比べれば、ジェンダー平等の観点からも、評価できる見解といえる。彼の発言から、妻の認知機能の低下により家事をしてくれなくなったから、「不倫」に走ったという実利的見解は、一切聞かれなかったのである。事例による報道の妥当性 さらに、「不倫」報道についていえば、倫理に反するとされる人間の行為には、殺人、窃盗など、姦通以外にも生死に関わる多くの犯罪、凶悪行為がある中、セクシュアリティに関わる結婚外恋愛のみが、「倫理にあらざること」=「不倫」とされるのは、立ち止まって考えればかなり極端な表現といえる。 江戸以前には不義密通と呼ばれていた姦通が、「不倫」と呼ばれるようになったのは、明治の「文明開化」期に、キリスト者や文明開化論者によって、一婦一夫が「人倫」の根本であると説かれたからであり、歴史的には決して古い言葉ではない。しかし、この表現に引きずられ、日本のメディアや世論がことさら強く「不倫」を非道徳的と認識している傾向は否めない。 歴史に照らせば、江戸時代以前の大名に側室がいたのは周知であり、経済的に余裕がある男性が妾を囲う現象は、明治期の尾崎紅葉の新聞連載小説『三人妻』、宮尾登美子の『櫂』、円地文子の『女坂』など、一夫一婦制が提唱された近代以降も描かれ続けている。 これらの事例で描かれる夫たちは、当然のごとく配偶者以外の女性と関係しており、一方で妻たちは耐える立場においやられているので、「不倫」に対する批判的報道は、こうした性についての二重基準を是正し、男女ともに配偶者に忠実であるべきという共通認識を提示する上では、一定の意義があると思われる。 ただし、私生活に過剰に介入する報道も、問題含みであることは確かである。夫婦関係に限らず、日本社会では戸籍が社会生活において重要な役割を果たしており、入籍=夫婦という枠組みが強固であるため、欧州のように、事実婚の出産に対しても寛容という世相にはない。 ゆえに、戸籍上の夫婦関係に対する背信行為については、メディアも一般市民も、必要以上に神経質になる傾向があり、情報の送り手も受け手も、自分たちの品行は差し置いて、「『不倫』は社会悪ですよね」と確認し、自分たちは「良識派」とみなして自己満足する、メディアと読者の共謀による「偽善の共同体」が形成されてしまいがちなのではないか。 振り返れば90年代には、『マディソン郡の橋』や『失楽園』のヒットで、逆に、不倫=純愛であるかのような風潮が蔓延したことがあった。こうした、「不倫」の過剰な美化については賛成できかねるし、配偶者への背信は、決して奨励されるべき行為ではない。愛人との旅行に公費が使われるような危険性に対しては、メディアは糾弾するのが妥当であるし、公人であれば私生活にわたる報道も覚悟せねばならない。 だが、過剰に私生活に干渉する報道もまた適切ではないので、事例によって報道の妥当性を、個別、慎重に見極める姿勢がメディアには求められる。 小室氏の例では、公費横領などの社会的不善を犯したわけではないので、当事者の小室氏自身は、男性介護者としての責務(女性なら多くの場合当然のように引き受けてきた任務)を粛々とまっとうされ、メディアもこれ以上騒がないことが、報道する側、される側、双方にとっての「人としての道」であると思われる。

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    芸能ゴシップ好き日本人にみる「文春逆炎上」の正体

    の声も少なからずあり、これはそれまでの文春砲の対象に向けられる視線と遜色ない。 私自身は、これまで別メディアで小室氏自身の心理にも言及してきたが、加えてお相手とされる看護師の女性には苦言を呈したい。看護師や、われわれのような臨床心理士もそうだが、医療や相談、カウンセリングに関わる対人援助職の多くは、患者やクライアントが悩みや不安を抱えたり、心身が弱っているときに仕事を通して接することがほとんどである。 そのような関係性の中では、患者からの好意を持たれやすいことはプロフェッショナルならば誰もが認識しているはずだ。そこには一線を引いて対応しなければならないというのは基本中の基本であり、常に留意しておかなければいけないところでもある。 もちろん、プライベートな関係性につながる人と人との出会いにもなりうることは否定しない。しかし、もし仮に看護師自身が患者に好意を抱いてしまったならば、担当を外れることが定石であり、それができなかった彼女は「プロ失格」と言われても反論の余地はないであろう。小室哲哉が「大好き」な日本人 少し話はそれたが、今回なぜ小室氏に対する批判が少なく、結果的に文春に対する風当たりが強くなったのか、それは日本国民における小室氏の存在の大きさに起因していることに他ならない。 小室哲哉氏はいうまでもなく1990年代にJ-POPを牽引(けんいん)した音楽プロデューサーであり、空前のヒットを生んだTRF、安室奈美恵、華原朋美、鈴木あみ、篠原涼子、globe、H jungle with tらを手がけ、間違いなく時代を体現する存在であった。関連CDの総売り上げは1億7000万枚以上を記録し、1996年にはオリコンシングルチャートのトップ5を独占したこともあった。 つまり、それだけ日本人は小室氏が「大好き」なのである。年代の差はあれど、生み出した曲の知名度や手がけた有名アーティストの人数からしても存在は絶大であり、他の文春砲をくらった芸能人・有名人とは、支持者の多さからみても格が違うともいえる。また、一般的な心理的傾向として過去の思い出は実態以上に美化される傾向があり、今回の件を通じて改めてノスタルジーに浸った日本人も多いはずだ。1996年11月、小室哲哉がプロデュースしたglobe、安室奈美恵の小室ファミリーが集結し、ライブを行った 米国の心理学者であるレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という概念がある。これは、人が矛盾する認知(考え方)を同時に抱えた状態を指すが、そもそも人は誰しも言動の整合性を保とうとする心性があり、矛盾や葛藤を抱えた状態はストレスにつながる。要するに、自己が一貫性を維持できていない状態は非常に「気持ちが悪い」のだ。 前述のように、小室氏を「大好き」な日本人が「小室氏の不倫」という嫌悪し攻撃に値するネガティブな事柄に向き合ったらどうなるか。「大好きな人を批判し攻撃する」というのは基本的に矛盾した言動である。たとえそれが自分の地位を相対的に高めるものだったとしても、潜在的にモヤモヤするのが普通なのである。 今回の場合、そのような認知的不協和を解消する方法は二つある。まず一つは、矛盾する二つの考えや行動のどちらかを変えることだ。つまり「小室氏を嫌いになって批判する」か、「小室氏を好きなまま批判しないことにする」のどちらかになることだ。前者の場合は、「嫌いな人を批判する」となり矛盾はなくなり、後者の場合も「好きな人を批判しない」となりモヤモヤすることはない。だが、小室氏は、前者を選ぶには世間にとって偉大すぎる存在なのだろう。今回の「文春逆炎上」の正体 もう一つは、「大好き」と「批判したい」という二つの矛盾する認知を両立することであり、これが今回の「文春逆炎上」の正体である。すなわち、「小室氏に対して好意的な感情を持ったまま、批判する感情は表出したい」、その気持ちの行き着く先が文春砲だったのだ。そして、介護に疲れた同情すべき、「大好き」な小室氏の助け舟にもなりうる批判を、憎むべき文春に向ける、という個人の一貫性・整合性を保った心理的ストーリーが完成したのである。 過去に文春砲にさらされたロックバンド、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音氏は、この機に際してツイッターで「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」と投稿している。これが小室氏の騒動に関連したものだとすれば、「音楽業界の偉大な先人である小室氏は批判したくない、でも文春を攻撃するのは過去の自分を正当化しているとも取られかねない」という葛藤した心理が働いた末、第3の攻撃対象を見いだしたのかもしれない。2017年5月、約5カ月ぶりに活動を再開して行った復活ライブを終え、マスクをして会場を後にするゲスの極み乙女。の川谷絵音(撮影・早坂洋祐) またタレントのヒロミ氏も、フジテレビの番組内で「文春が悪いとは思わない」としたうえで、「世の中がスポンサーに言うとかして、(スキャンダルを報じられた芸能人が)テレビに出づらくなくなる。世の中の人たちでしょ、そうやって葬り去ってるのは」と言及しており、小室氏も文春も批判したくない矛盾した心理をこの発言で解消しているようにも見受けられる。 一部には「不倫報道にはもう飽きた」という声があるものの、文春砲に対する批判は小室氏に特異的なものであり、継続的な影響は限定的であると考えるのが自然だ。次の不倫報道が出た際には、これまで通り批判しやすい炎上芸能人・有名人が現れてくることだろう。また仮に、多少矛先がそれたとしても、どこかの誰かに対する批判は永遠になくならない、ということは明らかなことである。そうして人は一定程度の健全な自己を保っていくものなのだ。 しかし一時的であるにせよ、プライベートの報道のあり方や倫理観に一石を投じた小室氏の会見やその存在は、一つの問題提起として意義のあるものであった。また、先の見えない高次脳機能障害の家族に対する介護の現実や大変さについて身をもって世の中に伝えたことは、同じく壮絶な介護を過去に経験したり、そのただ中にいる人たちの思いを世間に代弁することにもなりうるという意味で、介護者として生きていくことを決めた彼の新たな功績と位置付けられるべきではないだろうか。

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    なぜ週刊文春はLINEと組んだのか?

    スマホやタブレットでニュースを見る割合が格段に増え、スマホで見ることを前提にしたITベンチャー系新興メディアによるニュースアプリが相次いで登場、若者層の支持を得て急成長している。しかし、玉石混淆とも言えるニュースアプリが乱立する中で、ニュースを見る読者の目も肥えてきている。「質」が伴わないとアクセスは稼げなくなることは必定で、いかに他社にない独自性を出すかにかかっている。 「経済情報で、世界を変える」という目標を掲げて15年4月にスタートしたソーシャル機能を兼ね備えた、経済ニュースプラットフォームのニューズピックス「NewsPicks」。梅田優祐社長は「現在、会員ユーザー数(有料と無料の合計)は約200万人(昨年12月末)、その中で約3万人が有料課金ユーザー。1、2年後にはこの有料ユーザーを10万人に増やしたい」と強気の見通し。コンテンツについては「広告モデルのニュースサイトである限りは広告を意識せざるを得ないから、ジャーナリズムは成り立たない。広告やPVに左右されない有料コンテンツ(1日10本程度)の配信を重視していきたい」と話す。 同社は約90以上の国内外の経済メディアなどからの記事の提供を受けると同時に、東洋経済新報社出身の編集長を起用するなど編集スタッフを充実させている。これを生かして「NewsPicks」編集部が独自に取材する旬のトピックスなどの記事も配信、記事に対してその分野に詳しいユーザーがコメントを掲載する。また月曜日の朝に6回続きの話題のテーマや人物についての連載記事の予告を流す。ここまでは無料で読めるが、本編は有料。予告を流すことで有料購読を促す仕掛けだ。本編は昼休み時と帰宅後に読む時間がある9時ごろの時間帯に流す。ソフトバンクの孫正義氏がクローズアップされると、すぐに専門のライターに孫氏にフォーカスした長文の読み応えのある記事を書かせるなど、タイミングを逃さない。記事、図表、写真のスタイル、デザインはスマホの画面で見やすいように加工している。購読料は月額1500円(税込み)。購読を決めるスマホの手続きは1回か2回クリックするだけで完了、新聞社系サイトと比べると煩わしさがない。LINE株式会社のオフィスにある「LINE」のロゴ=東京都新宿区 LINEは、150社のメディアからニュースの提供を受け、「プッシュ型」で広告モデルを中心にラインニュース「LINE NEWS」を提供している。SNSブームを背景に「LINE NEWS」を見るアクティブユーザー数が10歳代から40歳代を中心に、月間利用者数が4600万人(昨年12月末)と急激に伸びている。 「やさしいニュース」というコンセプトの無料ニュースサイトだが、昨年12月に「週刊文春」と提携、今年1月から「文春砲」と呼ばれる特ダネを「文春」発売日の朝7時にLINEの有料サイトにアップするサービスを始めた。「文春砲」は昨年、芸能ニュースのスクープだけでなく、甘利明・前経済再生担当相や舛添要一・前東京都知事の「首」を取るなど、マスコミ界を揺るがせる報道ぶりが光った。LINEにとってはスクープ記事でサイトへのアクセス数が稼げ、「文春」はLINEのサイトに先行させて話題作りができる。週刊誌とSNSサイトの共同作戦といえる。 12年にスタートしたスマートニュース「SmartNews」は新聞、通信、雑誌など2000以上からニュース提供を受けているニュースアプリ。高速でカテゴリーごとの表示ができるなどスマホでの使い勝手の良さから、幅広く読者層を増やしている。広告モデルを展開、記事の提供先に読者を誘導し、広告収入をスマートニュースと提供先が分け合う形だ。スタッフに編集経験者は少ない。何千という記事の中からAI(人工知能)も使った機械がプログラムで記事を選ぶ仕組みだ。新谷学編集長に聞いた 松岡洋平マーケティング・ディレクターは「大量で多様な記事の中から人間が記事を選ぶ時間はない。有料無料を問わず、『よりたくさんの記事の中から、読者の反応などを見ながら機械が選んだ』記事を求める読者も多い。ニュースの見方もいろいろあり、スマホを使って短時間で心地よく見たいというニーズに答え、読者をさらに増やしたい」と話す。ITを使うことで、同じような内容に記事がダブった形でアップされることを防ぐことができるという。社員の6割以上がITエンジニアで、まさにエンジニアによって作られるニュースアプリだ。しかし、人権、差別問題と言った編集上の微妙な判断が求められる記事をAIが判断するのは難しい。大量の記事を機械がさばきながら、編集の質をいかに確保するかが、ここでも問われている。 ニュースサイトがどれくらい見られているかを示す数字として、ページビュー(PV)やアクセス数がよく使われる。しかし、実際に利用者が閲覧する回数よりも多めに表示されることも多く、注意する必要がある。PVの計算方法は、同じ人が10回閲覧しても、10人が1回ずつ閲覧してもページビューが10増えたように表示される。一方で、ユーザーが同一人物の場合には複数回閲覧しても1として数える手法もあり、ユニークユーザー数とも呼ばれる。LINEが言う月間アクティブユーザー数というのは、1カ月の期間内で同じ人が複数回アクセスしても1として数えるユニークユーザー方式で、「アクティブ」と付くのは、1カ月に1回以上利用していれば「アクティブに利用しているユーザー」とみなすという意味だ。 その場合でも、職場のパソコンでニュースを読んで、帰宅してから自宅のパソコンで同じニュースの続きを読んだ場合は、読んだ人間は同じでもアクセス数は2回にカウントされる。読む人は同じでも、パソコンやタブレット、スマホなど異なる端末からアクセスできる時代になっているため、厳密な意味での別人が何回アクセスしたかを調べるのは難しい。 また、検索エンジンが各サイトを巡回する際の機械的なアクセスや、ニュースアプリから自動的にコンテンツを拾ってきて何らかの処理をする人工知能のようなプログラムなども1人としてユーザー数に含まれる。このような、人間の代わりに自律的に動いてくれるプログラムを一般的にbot(ボット)と呼ぶ。有料サイトであれば契約数という確実な指標があるが、無料サイトの場合、botと人間を区別することが難しいため、正確な利用者数を把握するのは難しいのが現状だ。このため、月間アクティブユーザー数はサイトの規模を表す一定の指標にはなるが、算出方法の厳密な決まりがあるわけでなく、サイトによって計算方法がまちまちなことが多い。悪質な業者は、botを使って自社サイトの閲覧数を水増しすることで広告料を稼いでいる例もあるようだ。『週刊文春』 ニュースサイト間の競争がし烈になる中で、LINEとの提携に踏み切った「週刊文春」の新谷学編集長(52歳)にその狙いについてインタビューした。Q 「週刊文春」がネット(LINE)にスクープ記事を提供する理由はA 新谷編集長 昨年はスクープが多く出たので「週刊文春」は前年比較で10%伸びたが、私が編集長になった12年からみると、徐々に減ってきている。これまで予告記事はヤフーなどの無料サイトに提供してきたが、「文春」ブランドに注目が集まる中、新たな読者を増やしたいので、有料でスクープ記事を全文提供することにした。新規読者の開拓にはデジタルが最も有効だと考えた。Q LINEと提携した理由はA 提携先をどこにするかヤフーとLINEの両社と協議した。最終的にはLINEの方が「熱意」が感じられ、決断が速かった。20歳代から40歳代の女性が多いLINEの読者層はマーケットとしても魅力的だった。Q 有料で提供する狙いはA 無料のニュースコンテンツからは良質な記事は生まれない。いままでは、ヤフーなどプラットフォーマーがコンテンツを提供する側よりも力関係が上だったが、良いコンテンツを作れば向こうから「お金を払ってもいいから掲載させてほしい」と言って来るはず。これからは良質なコンテンツを武器にプラットフォーマーとの関係を正常化させたい。そうすれば取材費、人件費をかけたクオリティの高いコンテンツを提供し続けることができる。Q  LINEで見る料金を1回240円にした根拠はA 雑誌の価格が400円で、ネットの場合は印刷代や紙代が掛からないこと、特集しか読めないことなどを考えて決めた。コンテンツビジネスにおいては適正な価格設定が重要だ。Q 文春は自社のサイト「文春オンライン」を立ち上げたそうだがA 1月25日に開設した。当初は「月刊文藝春秋」「週刊文春」などのコンテンツの一部を無料で掲載するが、近い将来は課金ができるサイトを目指すべきだ。なかにし・とおる  経済ジャーナリスト  1948年岡山県生まれ。1972年共同通信社に入社、経済分野を取材し編集委員などを経て2010年に退職し、現在は経済ジャーナリスト。【訂正】BuzzFeed Japanに関する記事および、古田大輔・創刊編集長へのインタビューにつきまして、多数の間違いがありましたので、当該カ所につきまして、削除させていただきます。

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    小室哲哉不倫報道論争 逃げ場を残すのは報じる側の矜持

    が行われたが、小室さんのケースほど“拒否反応”が強かったものはなかった。上智大学教授の碓井広義さん(メディア文化論)の話。「一昨年の1月のベッキーさんの騒動以来、不倫報道が急増したのは、週刊誌という活字メディアがネタを作り、テレビはそれを追いかけるだけでラクに視聴率が取れたから。一昔前なら“不倫は下世話”と躊躇したはずが、視聴率を稼げるコンテンツと見たテレビはワイドショーのみならず報道番組でも扱うようになった。この2年間は、“不倫報道バブル”といえる状況でした。しかし、小室さんの件で、このバブルも天井にさしかかり、冷静になりつつあるように感じます」KEIKOの気持ちは誰にもわからないKEIKOの気持ちは誰にもわからない「KEIKOさんはホッとしてるかもわからないよ」。情報番組でそう語ったのは演出家のテリー伊藤だ。 小室さんの妻で、『globe』のボーカル・KEIKO(45才)は、2011年10月にくも膜下出血で倒れ、現在もリハビリ中。小室さんは会見で、KEIKOが音楽に関心を持たず、小学4年生の漢字ドリルを楽しんでいる様子や、会話や集中力が続かないことなどを明かし、介護で心身ともに疲れ果てていると告白した。 テリー伊藤はこう続けた。「奥さんが倒れたとか、ご主人が倒れたとか、その時に旦那がまだ若いから“ちょっと他の人と遊んでもいいわよ”という気持ちを持っている可能性もありますよ。(中略)私、倒れているから、あなた浮気していいわよ、みたいなね(中略)それはもう、その夫婦にしかわからない」小室哲哉、KEIKO夫妻=2008年05月撮影 小室さんは今回の騒動をKEIKOに説明したが、どれだけ理解できているかわからないと語った。夫ですらそうなのだから、KEIKOが今思っていること、感じていることは、他人の誰にとっても想像にしかすぎない。「不倫」とは結局、夫婦の問題だ。もし他人やメディアが不倫を糾弾できるとしたら、それは“夫(妻)の立場に立つ”という建て前があってはじめて、“不倫は許せない!”と怒ることができるはずだ。 たとえば、渡辺謙(58才)の妻・南果歩(54才)は、発覚から半年以上経っても怒り心頭で夫に自宅の敷居をまたがせていない。上原多香子(35才)の夫・TENNさんは妻の不倫を知って自死を選んだ。夫婦の信頼を裏切った──それが周囲が不倫を追及する根拠だったのだ。 しかし、今回の場合はテリー伊藤が言うように、KEIKOの気持ちは誰にもわからない。小室さんへの信頼も揺らいでいないかもしれない。文春が「裏切り」と書いても、“裏切っているかどうか”は誰にもわからないところに、今回の不倫騒動の特徴がある。 ロンブー淳も自身のラジオ番組でこう話している。「KEIKOさんの今の気持ちを誰も推し量れないことを考えたら、他人が人の不倫をいいとか悪いとかジャッジを下すのはどうなのか」 ジャーナリストで、元週刊文春記者の中村竜太郎さんが指摘する。「日本で介護が必要な人は現在640万人で、小室さんと同じような立場の家族やお世話をする人はその何倍にもなります。だから、小室さんの苦労も、KEIKOさんの置かれた状況も身に染みてわかる。もしKEIKOさんに判断能力があって、小室さんと大人同士の会話ができる状態であれば、ここまで“報道が悪い”とならなかったのではないでしょうか」 小室さんが早々に引退したことも、他の不倫騒動とは一線を画す。ベッキーは最初の会見で“不倫していない”と嘘をついたし、今井絵理子議員(34才)は「一線を越えていない」という言い訳をして炎上した。「小室さん自身が会見で、60才を手前に音楽活動の限界を感じていたと話しているのだから、不倫疑惑だけが引退の理由ではない。しかし、小室さんの引退があまりにショッキングだったので、短絡的に“週刊誌が追い込んだ”となってしまっているところがある」(前出・中村さん)最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持 フリーアナウンサーの高橋真麻は情報番組でこう問うた。「『もう書かなくていいのに、かわいそうだよ』という感情がこんなに出たのは久しぶり。税金で暮らしているとかじゃないから、政治家の汚職ならちゃんと暴いてほしいけど、芸能人の不倫をここまで書いちゃってどうなのかな」 宮崎謙介元議員(37才)や山尾志桜里議員(43才)、今井議員など、人格まで含めて有権者から判断されるべき公職の政治家と、複雑な恋愛事情さえ、時に“芸の肥やし”になるようなアーティストを同列に並べて断罪することに疑問を投げかける声も多い。 もちろん、小室さんに厳しい意見もあり、テレビでは、「介護疲れをしてたら不倫していいとは絶対ならない」(ジャーナリスト・木村太郎さん)、「引退がすべてのけじめにならないと思う」(坂上忍)という声も上がった。『週刊現代』元編集長の元木昌彦氏『週刊現代』元編集長の元木昌彦さんはこう言う。「週刊誌は創刊以来、不倫を含む『スキャンダル』と『メディア批判』は大きな柱。けしからんという声は昔からあるが、そこは揺るがない。文春だって引退させたいと思っていたわけではないだろうし、多少の批判で撤退するほど週刊誌はやわじゃない。これだけ不倫報道が注目されるニュースならば、今後も情報が手に入れば不倫報道は続くだろう」 とはいえ、週刊誌のスキャンダル報道にも“一線”があるはずだ。介護で追い詰められた小室さんの精神状態は、行き場をなくし、引退に至った。人間臭いスキャンダルを追うからこそ、人間の気持ちを理解し、最後の逃げ場は残しておく──それも報じる側の矜持だ。 高橋みなみの次のコメントが多くの人の心情を代弁するのかもしれない。「小室さんの会見を見てたら涙が出てきた。誰がこの会見を見て言葉を聞いて、責められるのだろうか。何が正義なのかわからない」関連記事■ globe・KEIKO ゆず・北川悠仁と本気で結婚したがっていた■ 記憶を取り戻したKEIKO 小室哲哉の呼びかけにglobe歌う■ 小室哲哉「不倫引退」への同情をどう滲ませるべきなのか■ 秋元優里アナも? 真面目な人ほど「車内」にハマる傾向■ 高岡早紀 ハワイ留学した17才次男のとんでもない問題に直面

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    共同通信「松吉」署名ツイートと山中教授「印象操作」の根深い病理

    、記事を読んだものに偏見(バイアス)が生じる可能性が高いものをいう。共同通信社が入る東京・港区の汐留メディアタワー=2009年5月撮影 共同通信が1月25日に配信し、当初は「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事が問題の「印象操作」である。ネット世界でもこの報道は批判の対象として論じられ、また一部の報道でも「印象操作」とするものがあった。なぜこの記事が「印象操作」かを、以下で簡単に説明したい。 京大iPS細胞研究所に所属する助教が作成し、専門雑誌に掲載された論文に不正が発見された。当初は外部からの通報から始まり、委員会を立ち上げて調査し、その不正を確かめた。研究所の所長である山中氏は記者会見の席上で謝罪したが、それは社会通念上からは妥当だったろう。 現在、大学を含む研究機関では研究者が不正を行わないことを厳しく求める研究者倫理の研修も行われている。ただし、単に研究者倫理だけを声高に求めても、研究者側に動機付けがないと問題の解消にはならない。例えば、期限付きの研究職の採用だと、その期限内で一定の研究成果を厳しく求められているケースが多いだろう。もし、その成果のハードルが研究環境や研究者の能力を超えるものであったならば、今回のような不正行為が生まれる可能性がある。今回の不正がどのような動機付けで行われたかは不明だが、論文不正は研究者倫理だけの問題ではない。 記者会見では、山中所長の責任や辞任の可能性について質問する記者がいて、そのことも報道で広まっていた。その中で今回の共同通信の報道があった。だが、筆者は記事を読んだときに、いったい何が問題なのかさっぱりわからなかった。 「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」の「科学誌」とはその不正論文が掲載された専門雑誌のことを指す。記事からの印象では、あたかも山中氏がその雑誌の創刊にかかわったことで「何か問題をはらむ」かのような印象をもたらすものだった。このような印象に誘導された人は筆者だけではない。多くの人たちが同様の印象を持った。 もちろん専門雑誌の創刊にかかわることと、今回の不正論文がその専門雑誌に掲載されたことには、全く関係がない。特に不正にかかわる因果関係もなんらない。だが、記事はそのような注記もなく、なにか問題があるかのように「匂わせた」のである。まさに「印象操作」といっていいだろう。「謝ったら死ぬ病」に感染したマスコミ この「印象操作」はネットを中心にして専門家や識者、そして一般の人たちから猛烈な批判を浴びた。一部報道によれば、共同通信側が「新たな要素を加えて記事を差し替えました。編集上、必要と判断しました」とのことで、ネット配信の記事のURLは同じまま、内容を大幅に書き換えた。この行為はおそらく多くの読者に不信を引き起こしただろう。また共同通信の配信を利用している地方紙では「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と見出しがそのままに大きく取り上げられた。ネット上の批判を知らない人たちにとって「印象操作」は放置されたままである。 だが、共同通信は今回の件で反省もなければ、もちろん山中氏や読者への謝罪もないままだ。経済評論家の上念司氏は今回の問題をうけて次のように指摘している。共同通信の山中教授を巡る印象操作記事で分かったこと。マスコミは「謝ったら死ぬ病」に罹っている。しかも、記事で批判する対象にも「絶対に間違えない」ことを強要し、謝罪、訂正はむしろ叩きまくり。まさに「謝ったら死ぬ病」の感染源だな。お前はアンブレラ社かと。上念司氏の公式ツイッター 実際に、共同通信が「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事は、上念氏が指摘するように、記者会見で謝罪した山中氏をさらに「叩く」要素があることは誰の目にも明瞭だろう。対して自社の記事については誤りを率直に認めない姿勢も今回はっきりしている。ちなみに「アンブレラ社」とは映画やゲームの『バイオハザード』シリーズで、ゾンビを生み出す根源となった企業名である。ゾンビものが好きな上念氏らしい表現といえる。京都市内で講演する京都大iPS細胞研究所の山中伸弥所長=2018年1月24日 もちろん「絶対に間違えない」「謝ったら死ぬ病」で表されるメディアの無謬(むびゅう)性へのこだわりは、なにも今回の共同通信の件だけではない。新聞やテレビなどのマスメディアでも陥りやすいだろうし、筆者を含め識者たちも陥りやすい罠ともいえる。今回の共同通信の件はその意味でも、公に意見を表明する者が深く教訓とすべきだろう。 前述のように、共同通信からはまだ何の反省の声もない。このことに関して、筑波大学の前田敦司教授が興味深い指摘をしている。共同通信といえば、こんな事件もあった。電通からカネをもらって特定の薬を持ち上げる記事を(広告とせず)配信していた。証拠を突きつけられるまでは否定。前田敦司氏のツイッター加計問題でもうかがえた「印象操作」 これは前田氏も参照している記事に詳細に書かれているのでそれをまず参照してほしい。記事を読めば、いかに共同通信の無謬性へのこだわりが強いかが少なくともわかるだろう。もし、報道記事がある程度の客観性を持つことを要求されるならば、無謬性はもっとも否定しなければならない態度である。常に反証可能性に開かれた態度でいなければならない。 筆者はこの山中氏に関する記事を共同通信の公式ツイッターで見た。そのツイートには「松吉」という署名があった。「松吉」はイニシャルなのか本名なのかはっきりしない。ただ、「松吉」の署名が記載されたツイートが参照している記事は多くなく、その意味では特に強調したい記事にこの署名が利用されているのだろう。 この「松吉」の署名記事で興味深い特徴があったので、加計学園問題を例として取り上げる。共同通信の記事から、具体的な加計学園問題の、そもそも「問題」が具体的に指摘されたことはないだろう。いままでも論点として提示されたものの根拠は、前川喜平前文部科学事務次官の証言だけである。「松吉」の署名ツイートでは、一貫して加計学園問題について徹底的に追求する姿勢が綴られ、また前川氏に関しては「官邸からすさまじいプレッシャーを受けながら、逆境をはね返した前川氏の内面の強さ、心の原点にスポットを当てた」とされる他の記者の署名記事を参照するものがあった。共同通信の公式ツイッターで、「松吉」署名のツイート 「官邸からプレッシャーを受けたとされながらも、『捨て身』の証言を行った前川氏。6月23日の日本記者クラブでの会見にそのヒントが隠されていました。(松吉)」というが、そのような前川氏の内面の「強さ」を報じることは、彼を政権批判の英雄として祭りあげることになりはしないだろうか。実際にこの記事が公表された前後は、前川氏をそのような政権批判のヒーローとして扱う人たちもいた。 そもそも「官邸からのプレッシャー」が本当にあったかなかったかも問題の大きな論点であろう。これが実際あったかなかったかでも大きく報道の「印象」は変わる。だが、その種の検証をこのツイッターの投稿も記事自体も行ってはいない。その意味で、この記事もまた「印象操作」に堕しているといっていいだろう。 今回の山中氏に関する報道は「印象操作」の氷山の一角なのだろうか。その点はより地道な検証が必要だろう。だが、ぜひ共同通信、またそれに限らずマスメディアはネットを含む世論の批判を柔軟に聞く耳を持つべきである。今回の山中氏についての報道とその後の対応は、その意味であまりにも頑迷だからである。

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    ウーマン村本よ、国民を「愚民視」しているのは誰か

    井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授) 2018年元旦に放映された「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」(以下「元旦朝生」と略記)の中での、憲法9条と安全保障問題に関するウーマンラッシュアワー村本大輔の発言が、その後、ネット上で物議をかもしているということで、同じ番組に出演した私がオピニオンサイトiRONNAからコメントの寄稿を求められた。 ネットの「炎上」は無視するのが私の基本方針である。しかし、村本は番組後、ツイッターで「元旦朝生」での私の発言についてデマを流布し、それが発火剤となって「東大教授の井上が偉そうに庶民をばかにしている」という類の井上バッシングも高まっていることを人づてで知らされた。これは憲法9条問題に関する私の立場に対しての完全な誤解・曲解であり、これを放置することは、私の名誉が傷つくということ以上に、憲法改正問題に対する国民の的確な理解を妨げることになるので、一言、コメントを寄せることにした。 村本のデマとは彼のツイッターでの次の発言である。村本大輔(ウーマンラッシュアワー)ツイッターより井上達夫さんには、君は愚民だ、と。小林よしのりさんにも、愚民思想だ、と。そして高須先生には国賊だ、と言われた。ぜひ3人におれの愚民国賊根性を叩き直してほしい。――村本大輔(ウーマンラッシュアワー)‏@WRHMURAMOTO  私は村本に「君は愚民だ」などとは言っていない。「愚民」ではなく「愚民観」という言葉を私は使ったが、それは番組の終わり近くで私が村本に対して話した、次の発言においてである。村本君の発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。国民はよく分からないからとか。君は一見、国民の目線に立っているようだけど、実は、上から目線で見ている。(自衛隊・安保の存在が、戦力の保有・行使を禁じた憲法9条2項に反することは)ちゃんと説明すれば小学生でも分かる。これ(愚民観)は護憲派と同じ。(護憲派は)憲法改正プロセスはなんとしても発動させたくない。なんとなれば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる、日本は軍国主義に走る、と。日本の国民を信用していない。 上の発言から明らかなように、私は「村本は愚民だ」と言ったのではなく、まさに真逆のこと、「村本は国民の目線に立つふりをしているが、実は、国民に憲法のことなどよくわかるはずがないと、上から目線で国民を愚民視している」と言ったのである。 そして、より重要なことだが、憲法改正プロセスを発動させて、自衛隊・安保の現実と9条との矛盾の抜本的解決につき、国民投票で国民の審判を仰ぐ機会を国民に提供することをかたくなに拒否し続けてきた護憲派論客こそが、まさにこのような愚民観に立って、国民の憲法改正権力の発動を封じ込めてきたことを指摘したのである。彼ら護憲派は、愚民である国民に国民投票などさせたら、ひどいことになるぞ、9条だけが愚民たる国民が軍国主義へと暴走することの歯止めになっているのだ、と主張している。村本が「愚民観」を吐露した2点 私は『憲法の涙』(毎日新聞出版、2016年)、『ザ・議論!リベラル対保守究極対決』(小林よしのりとの共著、毎日新聞出版、2016年)、『憲法の裏側 明日の日本は……』(香山リカとの共著、ぷねうま舎、2017年)など、一般市民に向けた一連の著書や、テレビ討論で、このような護憲派の愚民観を、これまで繰り返し批判してきた。東京大学大学院法学政治学研究科教授の井上達夫氏 最近の一例を挙げよう。昨年6月13日のBSフジ「プライムニュース」で私と議論した、代表的な護憲派憲法学者の1人である石川健治(東大教授)は、私に対し、「でも、9条をなくしたら、日本は軍国主義に戻ります。そうしたら、表現の自由、政治的言論の自由も弾圧される。井上さんは好き勝手な言論ができてるけど、それは憲法9条があるおかげですよ」という趣旨のことを述べたが、これに対し、私は最近著で次のようにコメントしている。9条が何かしら重しになって、魑魅魍魎を、悪魔、デーモンを抑えつけている、と。そのデーモンとは何者か。もし、デーモンが出てくるとしたら、日本は民主国家なのだから、それは軍国主義に狂い暴走する国民自身でしょう。しかし、いまの日本国民が9条変えたら狂うはずだなどという愚民観を偉そうに説く石川は何様のつもりなのか。国民に憲法価値を発展させる能力などないから、「賢明なる憲法学者」のご託宣に従えという彼は、プラトン的哲人王でも気取っているのか。彼は国民を責任ある政冶主体としては認めていない。(前掲『憲法の裏側』164頁) 護憲派学者が愚民観をもつという私の主張を「元旦朝生」で村本が理解できたかどうかは分からない。しかし、この番組の中で、結果的に彼が、護憲派学者が喜びそうな愚民観を吐露したことは事実である。これに関し、2点、触れておこう。 第1に、村本が「自衛隊がなんで違憲なんですか」と質問したのに対し、私が「君は憲法9条2項を読んだことがあるのか」と聞くと、「ありません」と答えたので、私が「自分の無知を恥じなさい」と言った。これに対し、村本は、自分は普通の庶民の声を代弁しているのだとし、自分への批判をかわそうとした。これは実に卑劣な論点回避であるだけでなく、彼が庶民を愚民視していることを暴露するものである。村本の卑劣な「論点そらし」 村本は政冶漫才で「これの問題は何か知っているか」と、お笑いによる庶民の政治的啓蒙(けいもう)活動をしている。昨年末のテレビのお笑い番組「ザ・漫才」で日本の原発など重要な問題について、なかなか切れ味のある突っ込みギャクで聴衆を笑わせた。私もこれを見たので、「元旦朝生」の放映前の打ち合わせで私の隣に座った彼に、「あれ面白かったよ」と感想を述べた。こういう漫才による政治的啓蒙をやっている村本が、改憲論議の焦点になっている9条2項を読んだことがないと居直ったので、私はあぜんとして「自分の無知を恥じなさい」と戒めたのである。私は、いっぱしの啓蒙家を気取る村本個人が当然有すべき最小限の基本知識を欠くことを𠮟ったのであって、庶民の無知を侮蔑したのではない。しかし、彼は卑劣にも、自分個人が矢面に立たされるのを避けるために、庶民は9条2項など読んだことがないと論点をそらしたのである。お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔=2015年8月10日、東京・豊洲(今井正人撮影) しかも、この論点そらし自体が庶民をばかにしたものである。戦後憲法の柱の一つである戦力放棄を定めた憲法9条については、例外はあるかもしれないが、普通の庶民も、神学論争などといわれる学者・政治家の解釈論争のことは知らなくても、その条文くらいは中学・高校の社会科の教科書や授業で一度ならず読んだはずである。憲法論議が再燃している近年、テレビのお茶の間向けワイド・ショー番組やニュース番組でも、頻繁に、9条1項・2項の条文はフリップ・ボードで聴衆に見せられている。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という2項の条文を虚心坦懐(たんかい)に読み、これを自衛隊・安保という軍事的現実と比較するなら、学者・政治家などのエリートの詭弁(きべん)に毒されていない庶民は当然「何かおかしい」と思うはずである。 私はこの庶民の感覚こそが正しい、間違っているのは自衛隊・安保の現実と9条との矛盾を隠蔽してきたエリートたちの詭弁の方であると主張してきた。ところが、村本は庶民感覚から発せられるべき「なんで自衛隊が合憲なんですか」という問いを発せず、「なんで自衛隊が違憲なんですか」とエリートの詭弁に媚びた問いを発し、さらに、「9条の条文も読んだことのない庶民」というイメージを一般国民に重ねた。これは国民に対し失礼なだけではない。9条問題につき憲法改正国民投票で国民の審判を仰ぐことを拒否したい護憲派の憲法学者・知識人たちは、村本のこの庶民像を歓迎し、「そら見たことか、9条の条文すら読んだことのない国民に憲法改正国民投票などさせていいわけがない」と主張するだろう。「国民投票=愚民誘導」論を振りかざす村本 第2に、憲法改正国民投票が政治的アジェンダにのぼり、国民が主権者としての選択を迫られる立場に置かれると、それまで無関心だった人々ですら、真剣に自分たちで問題を考え議論するようになるということを、これまで世界中で行われてきた2500件以上の国民投票についてのデータを網羅的に収集し解説した最近の文献(今井一・他編著『国民投票の総て』[国民投票/住民投票]情報室、2017年)に基づいて私は指摘した。これに対し、なんと村本は「英国のEU離脱国民投票は、国民が離脱派のフェイク・ニュースにだまされてやったんでしょう」と言ったが、これは「国民投票は危険なポピュリズムの温床になるから、やめろ」と主張する護憲派エリート学者がよく行うのと同じ反論である。(iStock) 英国国民投票では投票前に、多数の国民が参加した公開討論やテレビ広告などで離脱派のEU分担金などに関する偽情報は徹底的に批判され、EU残留と離脱とのコストと便益に関する適切な情報が提供された上で、EU離脱派が勝利したこと、離脱派のフェイク・ニュースに国民がだまされたという主張の方が、負けた残留派が国民投票の後に流布させたフェイク・ニュースであることを前掲文献の調査報告に基づいて私は指摘した。EU離脱英国国民投票が離脱派による「愚民誘導」の結果だとする虚偽の情報を日本で流布させているのは、国民投票を危険なポピュリズムとして否定することで、9条をめぐる憲法改正国民投票の機会を国民から剥奪しようとしている護憲派学者たち、国民を愚民視する「エリート知識人」たちである。村本は、エリート知識人ぶって、「国民投票=愚民誘導」論を恥ずかしげもなく振りかざしている。国民を愚民視しているのは私ではなく、彼である。 国民を愚民視する護憲派のエリート主義を批判し、村本にもかかる愚民観があることを指摘した私を、愚民観に立つ権威主義者としてネット上で批判する村本は、私の発言と反対のデマを流して自己保身を図るデマゴーグである。しかし、残念なのは、ネットで動画投稿されている「元旦朝生」すら見ずに、あるいは見たとしても、議論内容を自分で理解しようとせずに、村本のデマを信じて私に反発するネット追従者たちである。もう村本の漫才をきいても笑えない 彼らは、反発する相手を間違えている。しかし、彼らの倒錯した井上バッシングは、護憲派にとっては、自分たちの欺瞞を暴露する「井上達夫という邪魔な存在」のメッセージに対して国民の耳をふさいでくれる、ありがたい現象だろう。私をネット上でバッシングしている輩の中にはこの種の護憲派もいるかもしれない。村本のネット追従者たちが、国民がエリートに誘導されるのではなく、自分たちで主体的に憲法問題を考え解決する民主的討議実践を促進したいと本当に望んでいるのなら、彼らがたたくべき相手は、私ではなく、護憲派知識人や、村本のような「庶民のふりして庶民を愚民視する政冶漫才師」である。お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワー・村本大輔=2014年7月2日、大阪市中央区の吉本興業本社(撮影・山下香) 昨年末の『THE MANZAI』(フジテレビ系)でお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の漫才を初めて聴き、「これは面白い、この村本という男、なかなか才能がある」と思ったが、これからは村本の漫才を聴いても笑えなくなるだろう。残念至極である。 村本問題を越えて、9条と安全保障問題に関する私見にも簡単に触れておく。私は右の改憲派と護憲派双方の欺瞞を批判してきたが、護憲を標榜(ひょうぼう)しながら、政治的ご都合主義で憲法9条を歪曲(わいきょく)蹂躙(じゅうりん)してきた護憲派は、立憲主義に対する裏切りという点で、より罪が深いことを指摘してきた。護憲派の学者・政治家たちが、いかなる詭弁で憲法を蹂躙し、国民をだましてきたか、この欺瞞を是正する方途が何かについては、テレビのニュースや討論番組でも、一般国民に訴えてきたが、所詮、これらの媒体では断片的な発言しかできない。私の議論を十分理解してもらうためには、一般市民に向けて書いた前掲の一連の拙著を読んでいただきたい。 国民がエリートにばかにされ、誘導されないためには、テレビやネット上での「識者」や「タレント」の発言に短絡的に反応するのではなく、さまざまな立場の主張内容と論拠を十分理解した上で、批判的に検討し、自分の頭で熟慮する経験を積むことが必要だと私は考えている。 学界や論壇の中で研究活動・言論活動をしてきた私が60歳を過ぎて、一般市民を名宛て人にした上記のような著作を刊行するようになったのは、国民が「統治の客体」ではなく「統治の主体」になるための政治的自己啓発を支援したいという思いからである。政界・官界・司法界のみならず言論界でも日本のエリートたちは欺瞞化し堕落しており、国民自身が統治の責任主体として自己を成熟させない限り、日本はまともな立憲民主主義国家になれないという危機感が根底にある。憲法学者によるクーデターが起こっている 実際、立憲民主主義の擁護を標榜する護憲派の政治家・知識人たちが、国民の憲法改正権力の発動を封印することで民主主義を蹂躙しているだけでなく、憲法9条死文化に加担して立憲主義も蹂躙しているのである。護憲派はいまでは専守防衛・個別的自衛権の枠内では戦力の保有・行使を容認している。しかし、私が原理主義的護憲派と呼ぶ立場は、この枠内なら自衛隊・安保は違憲だけど政治的にOKだから違憲のまま凍結させろと主張する。違憲状態凍結が護憲だなどというのはカフカの不条理小説も顔負けの倒錯である。第3回中央委員会総会後に記者会見する共産党の志位和夫委員長=2017年12月3日午後、東京都渋谷区の党本部(川口良介撮影) この立場に立つ共産党の志位和夫委員長は、自衛隊は違憲だが、日本国民の圧倒的多数が、自衛隊がなくても大丈夫と思う日がくるまでは、これを存続させると公言している。日本人に多少とも現実感覚があるなら、こういう日はこないだろう。来るとは信じ難い日が来るまで自衛隊を存続させるということは、いつまでも存続させるということである。しかも違憲の烙印を押し続けたままで。こんな欺瞞がありえようか。 修正主義的護憲派と私が呼ぶ立場は、専守防衛・個別的自衛権の枠内なら自衛隊・安保は戦力の保有・行使を禁じる憲法9条2項に反しないから合憲だと主張する。世界4位か5位の武装組織である自衛隊が戦力でない、世界最強の戦力である米軍と日米安保の下で共同遂行する防衛行動が交戦権の行使ではないというのはあからさまな解釈改憲である。集団的自衛権行使を容認した安倍政権の解釈改憲を批判する資格は彼らにはない。 最近では、さらに度を越した解釈改憲論も木村草太のような護憲派憲法学者から出ている。それによれば、自衛隊・安保は存在そのものが9条2項違反であるが、国民の生命・自由・幸福追求権の保障をうたった憲法13条が、戦力の保有・行使に対する9条2項の禁止を専守防衛・個別的自衛権の枠内で例外的に解除しているという。戦力という最も危険な国家暴力に対する憲法的禁止の例外的解除を、戦力に一切ふれていない憲法13条に勝手に読み込むのは法解釈の枠を超えた妄説で、国民の憲法改正権力を簒奪(さんだつ)する憲法学者によるクーデターと言ってもよい。 しかも、これは護憲派の自滅を意味する。同じ理屈で安保法制支持者が集団的自衛権解禁を擁護することも可能だというだけではない。専守防衛・個別的自衛権の枠内なら戦力としての自衛隊も、自衛のための戦力行使も合憲であるとするこの13条代用論は、自衛隊に違憲の烙印(らくいん)を押し続けるという原理主義的護憲派の「封印」も、自衛隊は戦力(フルスペックの軍隊)ではないという従来の修正主義的護憲派の「封印」も破るものである。安倍政権も平和ボケしている 本来ならこんな13条代用論には護憲派から激しい批判が出てきて当然だが、新手の論法として黙認ないし是認されている。9条を変えないという結論さえ保持できれば、従来の護憲派が欺瞞的にせよ維持しようとしてきた「封印」ですら破っても、お構いなしなのである。護憲派が実は憲法破壊勢力だということの、これほど歴然とした証拠はない。 問題は護憲派だけではない。北朝鮮の核ミサイル問題がこれほど緊迫しているのに、安倍首相は、9条2項を残したまま3項で自衛隊を認知するという実に中途半端な安倍改憲案を提示した。2項が生きるということは、3項で承認された自衛隊は2項が禁止する戦力ではなく、2項が禁止する交戦権の行使もできないという現在の欺瞞と矛盾がそのまま残されるということである。日本も軍事衝突にいつ巻き込まれるかもしれない状況下で、こんなのんきな改憲案を首相が示唆する安倍政権は、護憲派と同様、平和ボケに陥っている。その根底には、「大丈夫、一朝事があれば、アメリカが日本を守ってくれる」という米国に対する幼児的願望思考がある。自民党新年仕事始めで挨拶する安倍晋三首相=2018年1月5日、東京(斎藤良雄撮影) 護憲派は、いかに死文化されようと9条があれば日本は守られると信じ、安倍政権とその支持者たちは、トランプのような危険で不安定な大統領を抱えていても米国に追従していれば日本は守られると信じている。 私は日本国民に言いたい。左右の政治家・知識人・運動家・ジャーナリスト・タレントたちのこんな嘘に従うのはもうやめよう。9条も米国も、日本と世界の平和を守れない。こんな幻想の保護膜から抜け出て、憲法と安全保障の問題を国民一人一人が自分たちの頭で考え、自分たちの手で立憲民主主義を発展させない限り、日本は自己を守ることも、世界秩序構築において主体的役割を果たすこともできない。国民を愚民視するエリートを信じてはいけない。しかしまた、己の無知に開き直らず、自己を批判し啓発する他者との議論から学び続けよう。そして憲法と現実の矛盾をいかに解決するか、その判断の権限だけでなく責任も国民自身にあることを自覚しよう。(文中敬称略)

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    ウーマン村本「炎上騒動」の内幕

    「尖閣を侵略されたら、白旗を挙げて投降する」。元旦に放送されたテレビ朝日系討論番組『朝まで生テレビ!』に出演したお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」村本大輔氏の発言が波紋を広げた。トンデモ発言はなぜ飛び出したのか。番組共演者が初めて明かすウーマン村本「炎上騒動」の全内幕!

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    「無知だからテレビに出すな」ウーマン村本批判のこれは間違っている

    よほど関心を持って学問している人を除けば平均的な若者の質問にしばしば見られる現象だ。また、それを公にメディアを通じて質問することは勇気がいるに違いない。 従って、彼の質問に全く不快感をもたなかったし、これにどう答え、どのように考えるべきかを指摘するのは、われわれ専門家の責任であると思い接したつもりだ。その点で井上達夫教授や自分が村本氏に真剣に向き合ったことは、良かったのではないかと思う。特に、井上教授の指摘は適切で大変感心した。 ただ、村本氏はもっと大人だから、さらに勉強しておいてもよいと思うが、大学生でも入学当初の素養はある程度のことが多いと思うし、「あんな無知な質問をする人をテレビに出すな」という考えは全く間違っている。年齢に関係なく、どれほどの日本人が正しい知識を持っているかを考えたとき、多くはメディアの影響を受けたり、雑誌の知識だったり、他人からの耳学問だったりして本当のことをわかっていないことが多い。村本氏への注文 試しに高等学校教科書「日本史」や「政治」「安全保障」「憲法」に関する本を買って読んでみるがよい。どれくらい、そこに載っていることをわれわれ日本人が知っているのか。それを知らずして外国人の振る舞いを指摘したり、外国人に日本のことを説明したりすることの方が恐ろしい。 もし、村本氏に注文があるとすれば、少なくともメディアで活動している人なのだから、「朝生」がどんな番組であるかを知り、番組テーマについて少しは事前に勉強してくる姿勢は必要だろう。自分の意見が訂正されたら、どこがおかしいのかについて考えてから発言するくらいに配慮も必要だ。反省の余地は十分にあると思うが、自分の意見を堂々と主張して専門家に挑戦してくる姿勢は大いに評価できる。 この問題の本質は、われわれが、日本の「近現代史」や「政治」「安全保障」について正しく理解せずに物事を論じたり判断したりしていることにある。だから、学校教育に頼らず、社会教育をもっと盛んにして自分で勉強することが必要だ。 歴史や物事を知らないからテレビに出すな、時間の無駄だというのは暴言である。言論の自由を封じてはならない。特に、「朝生」にタブーはなく、本質的に取り組んできたところに特色がある。米映画「ドローン・オブ・ウォー」のトークショーを行った田原総一朗氏(左)と 森本敏氏 現世の人は日本の伝統文化、歴史、風習を正しく後世に引き継ぐことが必要であり、そのためには、日本人がアジアで何をしたかを知り、知ったうえで日本が果たすべき役割を考えつつ、過去の過ちを犯さないようアジアの人々に率直に向かい合う勇気も必要だ。 すべての人にとってバランスのとれたイデオロギー、思想信条、博愛主義、おもてなしの心を持つことが重要で、それが、日本人の良さにつながっていく。平和で安定した国家社会をつくるため努力することは現世に生きる人間の責任であると自覚すること、それに尽きるのではないかと思う。 若い人はもっと学んでほしい。その上で勇気をもって発言してほしい。人間は、社会のどんな地位に就き、豊かになるのではなく、いかに正しく人生を全うするのかを死の寸前まで考え、悩み、生きていくべきものである。

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    村本大輔さんへ「むやみに白旗を挙げてはいけません」

    の家の前の道路を勝手に封鎖してそこを通ろうとする人々から通行料を取ろうとした住人がいましたね。日本のメディアでも大きくとりあげましたが、その住人は、通行料を払おうとしない人に暴力まで振るいました。 平和に慣れている日本人の多くは、この場合その家の前を避けて通りますね。そうすれば平和は保てますから。しかし、その住人の隣の家の人はどうでしょう。生活しにくいはずです。もしも隣の住人が、自分の家の道路まで占領しようとしたらどうすればよろしいでしょうか。日本は法治国家ですから、警察に助けを求めたり、法に訴えたりすることはできます。 また、こんな場合はどうでしょう。村本さんがとても高価な腕時計をはめて街に出たところ強盗が時計を出せと威嚇(いかく)したとしましょう。こういうときも警察がいたら守ってくれるでしょう。 しかし、国際社会には、大ざっぱに言えば「警察」のない世界です。国際社会はルールがあるようでない世界。国際連合という機関が一応ありますが、まとまりもよくない上、自分独自の警察や軍隊をもたない。最近では、多国籍軍(いろんな国から寄せ集めた軍部隊からなる)からなる「国連軍」を組織して紛争に介入することはありますが、すべてをカバーできるわけでもなく、力もありません。スイスが武装している意味 もちろん、国際社会にも一応法律(各種国際条約など)というものはあります。海に関する取り決めといえば、基線(海岸線)から12海里(約22・2キロ)までは、誰も勝手に侵犯してはならない国の権利(主権)の及ぶ水域(領海)であると決めたりします。 しかし、このような法律をすべての国が守っているわけでもなく、ルールを破ったとしてそれを制止できる「力のある」機関がないですね。アメリカが「国際警察」のようにふるまうこともありますが、限界があります。 記憶に新しいと思いますが、2014年、ロシア軍はウクライナ南部のクリミア自治共和国を侵攻しました。しかし、国際社会は「制裁」を科すだけで何もできなかった。制裁に加わったのも一部の国です。 平和な世界は誰もが否定しないと思います。ただ、争いが嫌だから沖縄を隣の国にあげたとしましょう。そうすると、沖縄の領海に日本の船は勝手に入れません。それも平和のために避けて通るとしましょう。今度は、領海近くを通る日本の船に通行料を要求したらどうしましょうか。 それも紛争がいやだから「通行料」を払うとしましよう。今度は、通行止めにしたらどうするのか。命にかかわる食糧を運搬する船が足止めになったとしたらどうするのか。選択肢は二つしかないですね。奴隷になるか、飢えて死ぬかです。残念ながら、いまだに国際社会、国際政治では「力」がものをいう世界です。力があるからとしてルールや秩序を変えようとする国もいます。朝鮮半島問題を考える講演会で、基調講演する李相哲・龍谷大教授=2017年8月、大阪市北区(前川純一郎撮影) ですから、日本は軍隊を持たなくても、最低限、自分を守るための自衛隊を持つことにしました。しかし、自衛隊では日本の島々や我々の生活基盤を守れないことも考えられます。 そこで、互いに利益を共有できる相手、例えばアメリカのような国と同盟を組みました。このように「力」を備えておかないと、遠くにある島を取られるだけでなく、自分の暮らしを守れない可能性もあります。我々の日常生活に必要なエネルギーの供給路が絶たれてしまうことも考えられます。 つまり、現実世界、特に国際社会の現実というのは、綺麗事だけでは通用しないと思います。元旦の『朝生』では、「非武装中立論」についても語られましたが、非武装では中立は守れません。スイスという国が永世中立国としていられるのは世界でもっとも勇敢な民族であり(勇敢な民族としての伝統をもつ)全国民が自分を守ることのできる「武装」をしており、平和のためなら決然戦う意思を持っているからです。 村本さん、私の主張に納得いかない部分があったら忌憚(きたん)なく、ご指摘ください。

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    高須院長 ウーマン村本に「自分のツイッター見てるようだ」

    の高須克弥院長が世の中の様々な話題に提言するシリーズ企画「かっちゃんに訊け!!」。今回、2017年のメディア出演やネットで話題のウーマンラッシュアワーの漫才などについてお話をうかがいました。* * *──さて、2017年もそろそろ終わりますが、今年はどんな1年でしたか?高須:今年も快調な1年だったね。メディアに出ることがちょっと多くなったかな。ツイッターでワーワー喚いているもんだから、面白がる人が増えたのかも(笑い)。高須クリニックの高須克弥院長(納冨康撮影)──フジテレビ系『ワイドナショー』にも出演されていましたし、読売テレビの『そこまで言って委員会NP』にもたくさん出ていらっしゃいますね。高須:普通のテレビ番組には「この話題はやめてくれ」とか、「あの人の話はしないでくれ」とか、そういうタブーもあるようだけど、僕の場合は完全に好きなことを話しちゃってる。自分でも「こんなツイ廃老人を公共の電波に乗せて大丈夫なのか?」って思うくらいだもんな(笑い)。でも、変な規制をすることなく、自由にやらせてくれるのは、すごいよ。僕が出ている番組の制作サイドは、本当に筋が通っているな。まあ僕なんかを面白がるっていうのは、ネジが外れちゃってるのかもしれないけどね(笑い)。──テレビのタブーというと、最近はフジテレビ系『THE MANZAI』(12月17日放送)でウーマンラッシュアワーが披露した漫才がネットでも話題になっていました。ボケの村本大輔が、原発や安倍政権、小池百合子都知事、沖縄問題、北朝鮮問題などをイジる内容でした。高須:あれは僕も見たけど、面白かったね。そんなに難しいことを言っているわけではないけど、世の中のいろんな問題について気になったことを素直に言っているという感じなのかな。お笑い番組だと、言いたくても言えないこともあるんだろうけど、あの漫才ではそんなことを気にせずに、自由に自分の考えを発信していてよかったなあ。なんだか自分のツイッターを見ているみたいだったね(笑い)。自分が正しいと思うことを、好きなように話しているのはやっぱり面白い。──あの漫才は現在の政治に対する批判が含まれていると思うのですが、安倍政権を支持する立場の高須院長とは考えの相違もあると思います。彼が言っていたことは間違ってはいない高須:そうだね。でも、彼が言っていたことは間違ってはいないと思う。すごくフラットな意見だったと感じたよ。イデオロギーありきのものではなかったんじゃないかな。 僕はイデオロギーで戦いたいわけではないんだよ。政権を批判することが目的となっている意見に面白みは感じないけど、素直な意見であれば面白いと思う。彼が正しいと思ったことをそのまま発信することは、とても素晴らしいことだ。決して、安倍政権を倒したいという目的ありきで、発言したものではない。だからこそ、耳を傾けなければいけない意見なんだろうね。 僕だって、安倍政権の政策のすべてを支持するわけではないからね。おかしいと思ったら、素直にそう言う。自分のポジションを決めて、それに従ってものを言ってるわけではないからね。──院長は最近だと医療報酬の引き下げに対してツイッターで異論を唱えていましたね。高須:そう。高齢化で社会保障費が増え続けているのはわかるけど、2年連続で診療報酬が引き下げられるというじゃないか。主に医薬品などの「薬価」部分の引き下げで、人件費は引き上げられるみたいだけど、現状を見ている限りだと、近いうちに人件費の引き下げもありえそう。仮に人件費が微増しても、結局医療にかけられるお金は減るんだから、由々しき問題だよ。この傾向が続いたら、医者がボランティアになる時代がきてしまうかもしれない。そうなったら、日本人の健康は根底から崩れていくだろうね。 そもそも診療報酬を引き下げるということ自体が間違っている。ほかの予算を削ってでも、診療報酬はしっかり確保しなくてはいけないはず。医者の報酬を下げる前に、削るべきものはいくらでもあるよ。それこそ、役人と政治家の報酬を引き下げるべきだと思うね。そうだよ、役人と政治家の金を回して国民の健康を維持するべきだよ。 僕は前から言っているんだけど、もう参議院は廃止して貴族院を復活させたほうがいいと思うね。もちろん、貴族院の議員はボランティア。報酬が目的ではない人々だからこそ、私利私欲に溺れることのない正しい政策を作り出せる。何が目的で議員になったかわからない人々よりも、金持ち老人のほうが正しいはずだからね(笑い)。* * * ポジショントークではなく、自分の信念に従って“正しい意見”を発信する高須院長。もし貴族院ができたのであれば、ぜひとも議員になっていただきたいものです!【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)など。最新刊は『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)。

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    拡散は「誰が言ったか」、炎上は「何を言ったか」である

    網尾歩 (ライター)  筒井康隆氏にツイッターを勧めたのは誰なのだろう。こうなることはわかっていたはずだ。 今に始まったことではないかもしれないが、ネット上ではしばしば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」と言われることがある。 例をいくつか挙げよう。たとえば人気のあるアイドルやタレントが一言「お腹空いた」とつぶやいただけで、そのツイートが何千、何万とリツイートされることがある。テレビによく出るメジャーなタレントであればまだわかる。(iStock) ツイッター上には人気のある一般人も多くいる。そのツイートのセンスから何万人もフォロワーのいる匿名の発信者がたまに存在する。一回「この人はセンスがある」と思われることに成功すると、あるフェーズからは何でもかんでもやたらリツイートされ始める。「春はウキウキするけどこの季節に頑張りすぎると疲れちゃう人もいるからほどほどにした方がいいって電車で隣に座った小学生が言ってた」「こんなに天気がいいのに彼が会社のお花見に行くって言うからスネてたんだけど必死で謝ってる顔がかわいくてすぐ許した……って夢を見た」「すぐおいしい、すごくおいしいってコピー、よく考えると深い」などといった他愛もないツイートが何千、何万とリツイートされているのを見かけたことはないだろうか。※例に挙げたのは架空のツイート。 リツイート回数が半端ないから面白いツイートなのだ。そう思ってリツイートする人もいるのだろうし、同じようにフォロワー数が多い人だから面白いと思ってフォローする人もいるだろう。だからリツイート数やフォロワー数というのは、いったん増え始めると加速度的に増える。 ブロガーや一部のライター、もしくはIT企業の若手たちの飲み会ではしばしば、「まず何者かにならなければ」「自分が何者かを世に認識してもらわなければ」という焦りの声が聞かれることもある。確かに一面で見れば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界がそこにはある。 筆者もこれまで、基本的にネット上は「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界だと思っていた。インターネットやSNSは新しいもののように思われているが、実は結局、構造としては旧来通りなのではないかと。書き手の時代ではなく、受け取り手の時代 しかし、今回の筒井康隆氏の炎上を見て、違う感想を持った。 筒井氏は4月5日にツイッター上でこうつぶやいた。「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」。これは、筒井氏のブログ「偽文士日碌」の一文だ。筒井氏は炎上後にツイートは削除したが、ブログの記述は残ったままだ。作家の筒井康隆氏 韓国では出版社が筒井氏の著作について販売中止を決定するなど影響が出ているが、本人は朝日新聞の取材に対し、「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」と語ったという。 ツイッター上では筒井氏のファンと思われる複数のユーザーが、「これで騒いでいるのは筒井康隆を読んだことのない人たち」といったつぶやきをしていた。筒井氏の「ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」という発言と同様の内容だが、これは反論する方にしてみれば、過去にどんな作品を作っていようが「ダメなものはダメ」「面白くないものは面白くない」だろう。批判者の全てが筒井氏の作品を読んでないという決めつけも乱暴な言い方。 また、筒井氏の読みが甘いのではないかと感じる部分がある。奢りと言ってもいいかもしれない。 前述した通り、ツイッター上の好意的な拡散に関しては「何を言ったかではなく、誰が言ったか」なのだが、反対にツイッター上の炎上に関しては「誰が言ったかではなく、何を言ったか」である。いくら筒井氏が過去にブラックユーモアにあふれた不謹慎な作品、もしくは反権威的な作品を書いていたところで関係ない。言い換えれば、発信者が「何を伝えたかったか」よりも、受け取り手が「どう受け取ったか」が重要である。このことが良いか悪いかはさておき、今現在、ツイッター上にこの空気があることは確かだ。 今や受け取り手の方が強いのだ。一昔前のように、作家の権威が通用しづらい。(そもそも今の10代は、ユーチューバーよりも作家に権威がある時代があったことを知っている人の方が少ないかもしれない)。余談ではあるが、だから多くの作家はツイッターをやらないし、やっても知名度に比べフォロワー数が多くないのではないかと感じている。 ちなみに、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」でツイートが拡散される場面は他にもう一つある。デマツイートである。震災時などのデマは、発信者が誰だかわからなくても、大量に拡散されてしまうことがある。たいがいの場合、デマを指摘するツイートよりも、デマの方が多数拡散されてしまう。 「誰が言ったか」にしろ、「何を言ったか」にしろ、それだけ判断される風潮を嘆くのは容易い。「誰が何を言ったか」で判断される時代ではないことを知り、有象無象からどう叩かれても書くモチベーションを持つものだけが生き残れる時代だと感じる。モチベーションと言えば聞こえはいいが、図太さと鈍感さがあればそこそこ生き残れるのだとしたら、これほど悲しいことはない。

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    『朝まで生テレビ!』30年、若手論客が非常に頼もしい

    田原総一朗(政治評論家) 1987年にスタートした「朝まで生テレビ!」が、今年、30周年を迎えた。番組を始めた当時、冷戦の時代が終わるという気配がすでにあった。実際、2年後の89年、ベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が消滅している。 そのころ、僕は、左の人も右の人も同じテーブルで一緒に長時間、本気の討論をする番組をやったら、おもしろいんじゃないかと考えていた。「無制限一本勝負」の討論である。おまけに深夜番組は予算が少なく、出演者が始発で帰れるのも都合がいい。こうして「朝生」が誕生した。ジャーナリストの田原総一朗氏 「朝生」は、さまざまなテーマを扱ってきた。タブーはない。原発、部落、右翼、天皇論……。今はずいぶん語られるようになってきたが、以前はテレビで口にすることすらできないテーマばかりだった。 いちばん印象に残っているのは、88年9月の「朝生」だ。その頃、昭和天皇が体調を崩されいたため、日本中が「自粛ムード」におおわれていた。こんなときだからこそ、僕は「天皇論」をテーマに討論をしようと考えた。 当時のテレビ朝日の編成局長は小田久栄門さんだった。小田さんは番組のよき理解者だったが、その小田さんでも、「天皇論」をやることには猛反対した。僕は3回交渉して、3回とも断られた。 では「オリンピックと日本人」ならどうだと、僕は提案をした。ちょうど同じ月にソウルオリンピックが始まるからだ。小田さんは「いい企画だ」と応じてくれた。しかし、もちろん僕は最初から、そんなテーマをやるつもりはなかった。若手論客が頼もしい 「朝まで生テレビ!」は生放送だ。僕が「始まるのは夜中の1時過ぎですし、小田さんは寝ていますよね」と言うと、小田さんが「俺をだますのか」となった。そういう話し合いを4回やった。そして最後は、小田さんもだまされることを承知でOKしてくれた。 番組が人気を呼んだのは、大島渚さん、野坂昭如さんら、「無制限一本勝負」を、僕と一緒に本気で闘ってくれる出演者がいたからだろう。 そのひとりが、渡部昇一さんだ。70~80年代というのは、左翼、リベラルの論客全盛の時代だった。そんな時代に、渡部さんは保守であることを堂々と名乗って、番組にも何度も出演しくれた。彼の存在には畏敬の念を持っていた。 4月17日、渡部さんの訃報が飛び込んできた。渡部さんが亡くなられて非常に寂しい。ひとつの時代が終わったと僕は感じる。 しかし、時代は変わるものである。朝生30周年パーティーには、三浦瑠麗さん、駒崎弘樹さん、津田大介さん、荻上チキさん、古市憲寿さん…。若い論客たちがたくさん集まってくれた。彼らにはリベラル、保守、右、左であるといった色分けが、いい意味であまりない気がする。番組開始当初とは大違いだ。 考え方が柔軟だし、やるべきことをやろうという意欲も強い。彼ら若手の論客をたいへん頼もしく感じる。大島さん、野坂さん、渡部さんらは、旅立ってしまった。けれど、新しい論客たちとともに、これからも「朝生」をどんどんおもしろくしていきたいと思う。(2017年4月28日「田原総一朗公式サイト」より転載)

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    全国の社会部記者に教えたい「サボりのススメ」

    暇を取って旅行に行くことだった。2日、3日休みを取ることすらはばかられる「空気」があった日本のマス・メディアでは、考えられないことのように思えた。 二つ目は、社会部警視庁担当になってからの「365日夜回り美徳」の「空気」だ。「あいつ、盆も正月も(刑事の家)回ってるんですよ」が褒め言葉になり、キャップやサブ・キャップの覚えがめでたくなる。ところが、大きな事件が起きた。 これが三つ目になるのだが、金沢局から転勤してきたばかりの司法キャップが、過労で倒れ、そのまま亡くなってしまったのだ。ロッキード事件の一審判決を控え、取材やテレビ中継の準備、打ち合わせが連日行われ、その都度反省会と称する酒席が続いていたと聞いた。実は亡くなった当日の未明に、つまり元気な姿で彼を野川に近いNHK寮に送り届けたのが私だった。午前2時過ぎに警視庁からハイヤーに乗り込んだ直後にはもう爆睡していて、到着してもなかなか起きてくれなかった。異動疲れなんだろうなとその時思った。(iStock) 当時のNHKの異動は、年1回の大イベントで、連日名目を変えて、あるいはグループ別に送別会が行われ、しかも局外からもお呼びがかかる。上京してきたら、今度は待ってましたとばかり連夜の歓迎会で、身体的に過労のピークに達している。これが毎年繰り返されてきた。この事件を切っ掛けに、NHKでは異動時期の歓送迎会の自粛が言い渡され、実際に「今回は止めておこう」という「空気」が各局、各部署に流れ実行された。 私は、埼玉県新座市の寮に住んでいたが、夜回り報告で警視庁や渋谷の社会部に上がると毎晩午前1時を回っていた。その頃の社会部は、新聞社の締め切りの午前1時半が過ぎると泊まりのデスクや記者たち、夜回りから上がってきた記者たちが車座になって宴会が始まる。各自で出し合った金で一番下っ端が、局近くの酒屋に買い出しに出て、酒とつまみを買ってくる。酒を飲みながら先輩たちの活躍した取材話に耳を傾けるのはワクワクして愉しいものだった。これは自分を鼓舞する上でも、大いに役立った。だがこんなことを続けていては、あの司法キャップの二の舞になるとひそかに危惧した私は、究極の「事故管理」に乗り出すことにした。「記者の評価は特ダネ」 というのも、先の三つの教訓を精査してみた結果、「記者の評価は特ダネであり、取材の過程ではない」と考えるようになった。そこで誰にも知られず、休息の場を確保することにした。まず取材拠点の霞ヶ関、渋谷の放送センターにも近い場所に「アジト」を構築することにしたのだ。そこでいくつかの不動産屋を周り、一番安い物件を恵比寿の駒沢通りに近い東京恩寵教会付近に見つけた。 当時2万5千円の4畳半一間、ガス台一つ分の台所、バスなし(すぐ側に銭湯があった)、トイレ共同、戦後すぐに建てられたようなバラックのアパートだった。そこは隣の酒屋さんの所有で、表通りからは、酒の箱を山積みしていたり、ビールやカップ酒、ジュースの自動販売機がずらりと並んでいたりして、全く奥が見えない、まさに「アジト」だった。中古のエアコンを買うと夏でも熟睡できるようになった。ここでの暮らしが、その後思いがけない副産物を生むことになるのだが、とにかく「疲れたら眠る」を徹底した。2017年12月、リニア中央新幹線建設工事の入札不正事件で鹿島建設の家宅捜索に入る東京地検特捜部の係官ら(桐山弘太撮影) 3年目になると東京地検特捜部の担当になり、検事の官舎が恵比寿南の、それもアジトから2分の所にあり、副部長の石川達紘さんたちから、「小俣君は夜回りで午前1時過ぎまで張っていて、朝は7時前には自宅前に来ているけど、(健康の方は)大丈夫かね」と心配されたほどだ。地下鉄で霞ヶ関まで11分。まさに天国だった。 アジトは紆余(うよ)曲折があって、その後同じ恵比寿南のマンション、ジョギングができる駒澤大学近く、宮益坂裏の渋谷2丁目、目黒三田、西麻布と変遷を遂げた。とにかく他人の目は、気にしない。他人が責任を取ってくれるわけではないのだから。 夏休みはボブ・ウッドワードの(仕事はとにかく、休暇の取り方)を真似をして、車で北海道一周の旅をしたり、四万十川に遊んだり、京都大原や長野の木崎湖で過ごしてきた。潜水艦「なだしお」の海難事故の時は長野の大町温泉郷にいて、いまさら帰ってもスタートで遅れているんだからタイミングを見て…とばかり洞ヶ峠を決め込んだ。よく寝る記者は良い記者だ 後輩の中には、私が脱帽する優秀な記者がいて、いまはNHK編成の最高幹部になっているが、彼は強制捜査の最中でも、検察幹部に電話をかけて「今どこをガサ(家宅捜索)してるんですか」「逮捕容疑は、①特背(特別背任)? ②背任? ③別の容疑ですか」と平然と聞き、また「①に決まってる!」との回答をつかんでいた。一事が万事そうだったわけではないが、記者クラブで見ている限り、「大胆な奴っちゃなぁ」と私を震撼(しんかん)させた。つまり『パブロフの犬』のように電話をかければ、相手が応じてしまう習慣をつけさせることを後輩の彼から学んだ。 以後私も、取材先には「他社に夜回りしているところを見られるとまずいので、これからは電話にさせてください」と懇願した。顔が見えない分、声の抑揚で緊迫度をつかむ方法を体得した。その分移動せずに、取材先が帰ってきた頃を見計らって夜や朝に電話した。NHKの上田良一会長(宮川浩和撮影) 管理職になると、後輩たちに「サボる」ことを推奨した。渋谷の放送センター地下にある社会部の機材置き場にベッドを持ち込み、昼間でも寝に行った。後輩たちは、私の姿が見えないと「地下部屋だろう」と電話をしてきたし、彼らにベッドを取られると折り畳み式のビニールチェアを買ってきてそれでよく寝た。「よく寝る記者は、良い記者だ」という風潮を作りたかったからだ。 これを許してくれたのが、司法キャップであり、社会部長であり、編集主幹であり、報道局長だった井手上伸一さんだった。だから風邪をひいている記者が、取材に行けないように、配車係に電話して、ハイヤーのストップをお願いしたり、「風邪で来るヤツは(他人に風邪をうつすから)傷害致死だ!」と怒鳴ったりして、局やクラブに来づらくしたものだ。 さて長々とサボってばかりの生活を強調してしまったようだが、「サボる」ためには、批判されないように、仕事をするときは真剣、効率を考えて、工夫しながらよくやった。つまりやるべき時は集中してやる。ダラダラ続けない。「見切り千両」が口癖でもあった。手を抜くときは徹底してサボる、つまり「腹をくくる」ことだ。 結論は、仕事に緩急をつける。キャップやデスク、管理職は率先して「サボり方」を指南する。私のモットー<がんばりすぎない。ちょっとがんばる>ことが、記者生活を健康で、有意義なものにするはずだ。

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    記者はなぜ働きすぎるのか

    記者の現場にも「働き方改革」が押し寄せている。NHK女性記者の過労死は痛ましいが、世の中で起きる事象やネタは待ってくれない。そもそも相手があってこその取材記者。ライバル社を出し抜こうと思えば時間など気にしていられないのも事実である。はたして記者の働き方に正解はあるのか。

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    31歳で過労死、佐戸未和さんの命を奪ったNHKに未来はあるか

    墜落事故 実は、私が運営しているNPO法人8bitNewsでは毎年大学生のインターンたちが就職でマスメディアに記者やディレクター、カメラマンなどとして就職していきます。今回の件もありNHKの地域局に配属されたインターンのことが心配になり先日メールでやり取りをしました。「大丈夫かい? 働きすぎていないかな? 身体あっての取材だから」と質問を送ると、元気な様子でこう返ってきました。「ありがたいことに、とても勤務時間など配慮してもらえているので、のびのび健康に仕事をしています」 本当に大切にしてほしいです。やる気に満ちた、思いのある職員たちがしっかり報道人としての使命を果たし続けることができる職場であってほしいと強く願います。 先日、亡くなった未和さんを学生時代から知る方にお話を伺いました。 未和さんは一橋大学に通っていた学生時代に、学生ラジオ局「BSアカデミア」のニュース班に所属していました。TBSキャスターとして活躍してきた下村健一さんなどが指導にあたったといいます。当時は大学4年生。下村さんはこう振り返っています。毎回僕のダメ出しを受けては悔しがり、うまくいくと満面の笑みを浮かべていた佐戸“みわっち”。念願叶ってNHK記者になってからも、取材相手からの信頼はとても厚かった。 出典:下村健一さんtwitterより 下村さんは2017年7月、メディアリテラシーを伝えるため絵本を出版しました。挿絵には現場から子どもたちにニュースを伝える女性が描かれています。笑顔でマイクを握るこの女性こそ佐戸未和さんです。「みわっちの報道に対する真摯な姿勢を次の世代に伝えたい」。下村さんの絵本には若くして命を落とした彼女への強い思いが込められています。米軍ヘリコプターが墜落した沖縄国際大学で消火作業する消防士ら=2004年8月、沖縄県宜野湾市 そうした中、この10月、沖縄県東村高江集落で米軍の大型輸送ヘリコプターCH53が炎上する事故が発生しました。実は未和さんは2004年8月に沖縄県の沖縄国際大学に墜落した米軍ヘリの事故について現場で取材しリポートを製作しています。「彼女が生きていたら、今回の事故をどのような目線で取材し発信していたのだろうか。きっと伝えたいことがたくさんあったに違いない」下村さんはかつて指導した元学生たちと共に当時のリポートを再び社会に発信することを決めました。BSアカデミアが解散されてからはお蔵入りになっていた貴重な映像です。 下村さんは、私が仲間と運営するニュースメディア「GARDEN」に当時の動画とそれに合わせた記事を寄稿してくれました。こちらに転載します。ぜひ見てみてください。未和さんが丁寧な取材で沖縄の米軍基地の問題を多角的な目線で発信しています。彼女の想いを再び今に。多くの人々に届くことを願っています。

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    ネタのためなら24時間、取材記者に「働き方」はナンセンス

    なことだ。 過労死があっていいはずがなく、電通女子社員、NHK女性記者と相次ぐ若い世代の過労死には、メディアを仕事の場とする一人として言葉もない。 かつて高度経済成長時代、ビジネスを戦場に見立て、サラリーマンは「企業戦士」と呼ばれた。身体を壊す者、精神を病む者と〝戦場〟は死屍累々と化した。安倍晋三総理は「モーレツ社員という考え方自体が否定される日本にしていきたい」と発言しているが、これも大いに結構なことだ。 だが、「長時間労働=悪」という一律的、短絡的な考え方に、私は反対である。過労死したNHK女性記者は大変お気の毒だが、ことにジャーナリズムにおいて労働時間を長短で線引きすることは不可能だ。取材対象に〝夜討ち〟をかける途中で、「あっ、時間だ」と、Uターンしていたのでは仕事にはならない。 人に会って話を聞くというのがジャーナリストの基本的な仕事である以上、必然的に「相手の都合」に合わせなければならないし、取材を避けている渦中の人物を直撃するには、深夜早朝の張り込みは必須である。〝夜討ち朝駆け〟は取材の基本であり、「労働時間」に縛られていたのでは仕事にならないのだ。事情聴取を終えた日馬富士の車に殺到する報道陣=2017年11月、両国国技館 (大橋純人撮影) 40余年前、私が新卒で、のちに休刊したナイガイスポーツ新聞社に就職したとき、編集局長からこう言われた。 「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」。記事は取材した当人しか書けないものであり、試合は当該選手しか出場できないということから、記者としての責任と自覚を持って仕事をせよ―という檄(げき)である。 若かった私は、そんなものかと聞き流したが、同社を半年で退社し、週刊ポストで10余年を専属記者として過ごしてフリーになってからのこと。「母危篤(きとく)」の知らせを受けるのだが、翌日、締め切りの原稿があり、郷里の広島へすぐに帰ることができなかった。 現在なら、新幹線の中で書いてメールで送ればすむが、当時はそんな時代ではない。徹夜で仕上げ、原稿を渡して新幹線に飛び乗ったが、数時間の差で死に目にはあえなかった。このとき「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」という局長の言葉が脳裡(のうり)をよぎったことを覚えている。 ジャーナリズムとは、そういう職種であり、この考え方は40余年がたった今も変わらない。 思い返せば週刊ポスト記者時代は、それこそ24時間が仕事だった。張り込みは日常の取材活動で、芸能関係者はもとより政治家、スポーツ選手、評論家…、事件の渦中にある人たちを追いかけ、張り込み、取材を試みる。時間になったからそこで打ち切るようでは仕事にならない。もちろん締め切り時間のデッドラインまでトライする。労働時間は「自己裁量」 コメントを取るため、寝台列車に飛び乗って取材もする。 内部告発者を説得するため、未明から自宅近くに待機しておいて、早朝散歩のタイミングを狙って同行し、これを何日も繰り返す。反社会勢力の人間を取材するときは酒がつきもので、朝まで付き合って人間関係を構築する。 「あっ、時間だ」と言って席を立てば、相手は青筋を立てて怒り、取材にはならない。 1行のコメント、核心をつくコメントを取るために24時間を費やすのが記者の仕事であると同時に、手抜きして「無理でした」「不在でした」「取材拒否です」と言えば、それでも通る。 労働時間は「自己の裁量」に委ねられるのがジャーナリストという仕事であり、私は自己の経験から、一律に労働時間に上限を設けることに反対する。※iStock かの自民党筆頭副幹事長、小泉進次郎氏が4年前、こんな発言をしている。 東大の学園祭である五月祭で、投資家の瀧本哲史氏との対談イベントのあと、聴衆から「政治家を目指しているが、大切なモノは何か」と問われたときのこと。「体力が一番必要です」と笑顔で応じてから、こう答えている。 「『ウチの会社は週1日しか休みがないブラック企業だ』なんて話を聞きますが、政治家はもっとブラック(笑)。休みなんてない。なおかつ、衆議院には解散総選挙という抜き打ちテストもある。ある意味で非正規職の立場です。そういうリスクを納得して、政治の世界に入らないといけない。僕も政治家の家系だから想定しうる部分はありましたが、入ってみて、予想以上の大変さに日々襲われています。でも結局、自分で決めたことなんだから」(「週刊現代」2014・6・7号) 政治家をジャーナリストに置き換えれば、労働時間の長短で計れない職業であることがおわかりいただけるだろう。  現代社会は多様化の時代だ。性的マイノリティーの存在を認め、「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩を引きながらも、「働き方改革」となると、「みんな同じで、みんないい」という大合唱になる。 多様性が叫ばれる一方、なぜ「労働時間」だけが一律に長短で論議されるのか。なぜ「みんなちがって、みんないい」という発想をしないのか。0か1かというデジタル時代が、物事の価値観を画一化しているように私には思えてならないのだ。