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    テレ朝記者「セクハラ告発」と報道倫理

    テレビ朝日の女性記者に対するセクハラ疑惑で、財務省の福田淳一事務次官が辞任した。「セクハラ告発」をめぐっては、官僚の資質や政治家の道義的責任、記者の報道倫理まで、議論はさまざまな方面に飛び火した。今回、iRONNAでは記者経験を持つ識者の論考を集めた。賛否が渦巻くこの議論を正面から考えてみたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる

    社会とやや隔たりのある動物園で過ごしていればいいのにというのが率直な感想だ。 しかし、自分の所属するメディアや自分のジャーナリズム精神を使うのではなく、週刊誌に頼ってまでセクハラオヤジを駆除しようとした勇気ある女性記者、ノーパンしゃぶしゃぶの時代から抜けきれずになんとか勝ち抜けようとしたら最後の最後で捕獲されたバブルおやじ、そんなこの時代らしい登場人物に埋もれて声を失っている者がいることについてはあまり考慮されていない。私は一点、まさにそこだけにこの女性暗躍時代、じゃないや女性活躍社会の闇を感じないでもない。 オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日午後、東京都千代田区(桐山弘太撮影) 許可を得ずに録音した本来の取材とは関係のないテープを週刊誌に横流す女性記者をみて、心強いと感じた女性がいるであろう反面、自分を担当している愛想の良い、手練手管の女性記者の取材を急に恐ろしく感じた男もいるであろう。 同時に、いい感じにあほなおやじを手のひらで転がしてうまいことやっていたのに、と舌打ちしているオンナだっている。おじさんに、警戒心と恐怖心を抱かれた時点で自分が女性ならではのやり方で積み上げてきた仕事のやり方が一気に崩壊するからだ。生きづらいのはおじさんだけじゃない オンナを使って出世する、なんていう事態を世間は非常に冷ややかな目で見るが、生理の時には痛み止めを飲んでナプキン変えて、男より人生のうちに仕事に費やせる時間が少ない。 ましてや、もし子供を持とうと思えば長期のインターバルを余儀なくされる女が、会社の中でそれなりに自分の存在意義を認めたいとすれば、女の自分に使えて男のあいつらには使えないものを惜しみなく使い、男以上の価値を発揮するのだって、ある意味ではいじらしい努力である。国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会。女性団体の代表や国会議員、市民が参加した=2018年4月23日 だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから。 もっと次元を落とせば、単に女性としてみられていないと機嫌が悪くなる女だっているし、官僚とのラブロマンスを望んで記者になる女だっているし、容姿に恵まれず殿方と縁がない人生を歩んできたものの、男ばかりの会社で記者になったらこんな私でも女の子扱いしてもらえる、なんて悦に入っている女もいる。胸を見せたくらいでネタが取れるならそんなにラクなことはない、と思っている元AV記者だっている。 そういった女ならではの感情を持たずに生きるのが正しいなんて誰が決めたんだろう、とちょっと思う。 何事にも清廉潔白を求める空回りの正義感によって生きづらくなっているのが、おっぱいもみながら日本経済を支えてきたバブルおやじだけだと思っているならば、それはおじさんの被害妄想だ。 女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易(へきえき)としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない。

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    女性記者の「セクハラ告発」でテレビ朝日が犯した二つの過ち

    タを週刊誌に持ち込むことはよくある慣習という点だ。新聞社やテレビ局の記者があるネタをつかんだ時、そのメディアの性質上、報道に適していないと判断されたり、取材先との関係を重視して自社では報道できないなどの理由で、報道を断念することがある。 しかし、何らかの方法で世に知られるべきだと思われる場合などに、その記者個人や、時には上司の判断で、週刊誌に情報提供して報道してもらう。報酬が発生するかどうかはケースバイケースのようだが、小遣い稼ぎ感覚の記者もいる。 そこで、取材源まで明かされているかどうかは分からないが、少なくとも大手新聞社やテレビ局の記者が、週刊誌に情報提供するのが普通に行われていることは明らかである。 テレ朝の女性社員は、メディアに身を置くものとして、そのような実態を熟知していたはずだ。なにしろ、財務省事務次官という強大な権力を持つ者による悪質なセクハラ行為が、テレ朝によってなかったことになりかけていたからだ。 それを防ぐために、女性社員が週刊新潮に情報提供したことは自然な思いつきだったであろう。そのことについて、大手メディアに所属する人間が、さも悪であるかのように評価するのはお門違いであるし、偽善である。 大手メディアと週刊誌とのそのような関係は、一般的には知られていない。それにも関わらず、テレ朝が上記のような言い方をしたために、この女性社員がことさらに悪いことをしたように誤って評価され、それがバッシングの一因となった。 テレ朝は、「結果的に取材源の秘匿という問題に不安を抱かせることになったかもしれない。それも全てわが社の対応が悪く、女性社員を追い詰めた結果である。彼女に責任はない」と言って頭を下げるべきだったと思う。2018年4月18日、女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにしたテレビ朝日の記者会見 テレ朝の記者会見後、テレ朝がことさらに悪者のように言われている。しかし、テレ朝だけの問題ではない。テレ朝を悪者にして終わりにしていい話ではない。 新聞社やテレビ局の人であれば、現場の記者がセクハラやパワハラに日常的にさらされていることは常識として知っている。ただ、被害に遭っている記者は、それを言い出すと同僚や上司、会社に迷惑をかけると思っているのであまり口にしない。忙しすぎて、そういうことを相談する時間もない、という現実もある。 誰に相談するのかも迷う。誰を信頼していいのか、その人に相談して対処してくれるのか、という悩みもある。つまり、誰かに相談するというのは、よほど耐えられないと感じた場合が多い。大手マスコミの女性記者たちよ、立ち上がれ そして実際に記者から相談があった場合、会社としてどう対応しているか。相談者の要望としては、取材先に内々で抗議してほしいとか、担当を変えてほしいというのが一般的だろう。会社は、そのくらいの対応はしていると思う。 しかし、今回のように「自社が報道すべきだ」と訴えられた時、その望み通りに報道したメディアはあっただろうか。世間には、「女性社員の望む通りに報道すればよかったのだ」という向きもあるが、今回のケースが自社だった場合、「それは出来ない」と断ったメディアがほとんどだったのではないか。各社の見解を聞きたいところだ。 また、全国的に「その女性記者は誰だ」という注目が集まっている中で、最悪な形でほぼ個人が特定されてしまった。インターネットには、特定した情報が流れているし、取材源の秘匿を守らずに週刊誌にネタを売ったけしからん人間である、と公然と批判する人もいる。 しかし、福田氏の言動がセクハラであり、大多数の女性が不快感を覚えることは明らかであるし、福田氏に共感する男性が少ないこともまた明らかだ。 テレ朝の女性社員は、公表によって自らがバッシングを浴びることを予想していただろう。それでも泣き寝入りしなかった彼女に敬意を表したい。今後は、彼女の尊厳を回復することに全力を注がなければならない。 これまで、セクハラ問題は、告発した女性がバッシングされ、居場所がなくなる現実が多くあった。会社内でセクハラした人が配置転換され、被害者が不利益的な扱いを受けなかったとしても、何年も「あいつのせいで〇〇は飛ばされた」などと後ろ指を指される様子を多くの女性たちが見てきた。 その結果、「あんな目に遭うなら泣き寝入りしよう」ということになり、いつまでもセクハラがなくならない、男性の意識も変わらないという悪循環が続いている。今回もこれまでのところ、全く同じ構造だ。 まず、大手マスコミの女性記者たちに立ち上がってほしい。沈黙はセクハラをしているのと同罪だ。テレ朝の女性社員は、女性記者みんなの声を背負って自分が犠牲となったのだ。最近は女性記者の数も多い。会社の垣根を超えて団結し、どうしたらこのような問題がなくなるのか真剣に考えてほしい。この機会を逃したら改善される機会はなくなるかもしれないのだから。2018年4月23日、国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会 また、セクハラの話になると、男性が全く当事者意識を持てないのも問題だ。問題意識を抱いている男性も多いと思うが、「女性は大変だね。頑張ってね」と他人事で済ましていると感じる。それではこの問題はいつまでたっても終わらない。 セクハラはパワハラとセットになっていることが多い。男性にとっても自分の問題でもあるはずだ。真剣に考えてどうすればいいのか方法を考えてほしい。自分が感じた苦い気持ちを思い出してほしい。 テレ朝の女性社員の二次被害をどう食い止め、彼女の尊厳を回復するか。今となっては非常に難しい。ただ、世の中が少しでも変わるのであれば、それが彼女の被害回復に資すると思う。

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    「福田さん、あんたはエライ!」テレ朝記者セクハラ告発、私の本音

    いるからかもしれない。むしろ、今の人なら、平然とそのまま取材記者を続けるのかもしれない。それができるメディアの世界であってほしいが…。

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    テレビ朝日が「セクハラ被害会見」で守りたかったのは誰?

    していたためそうはさせじ、というのが表向きの理由です。一方で『週刊文春』に“テレ朝説”が書かれるなどメディアの詮索が激しくなっていたため、これ以上黙っているわけにはいかなくなったという判断もあったはず」(テレ朝関係者) 一方で、財務省への“配慮”もうかがえる。「局内には、『今回の件で官僚を敵に回して、記者クラブから爪弾きにされ、情報が取れなくなるような事態は避けたい』という意見もある。次官が辞めてからなら『抗議する相手は財務省じゃなく前次官』という体裁が取れると考えたのではないか」(同前)福田事務次官のセクハラ問題について会見する篠塚浩取締役報道部長(右)と長田明・広報局長=2018年4月19日、東京都港区(撮影・佐藤徳昭) 事を荒立てたくないという本音は、「女性記者を守る」と言いながら、新潮に情報を“リーク”したことに関して「不適切な行為だった」と突き放した点にも透けて見える。スクープしたのは『週刊新潮』なのに週刊誌を排除して会見を開き、自局で生中継すれば話題必至のはずなのにそれすらしない。「記者クラブに向けた会見だったため週刊誌は対象ではなかった。会見の中継については総合的な判断によるものです」(広報課) テレビ朝日が守ろうとしているのは、勇気ある告発をした女性記者か、それとも記者クラブ利権か。関連記事■ 大下容子アナ、足を組み替えるたび現場で「オー」と歓声■ 年上の女性上司に「パワハラ」された男性会社員たちの告白■ 堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行■ 福田元事務次官のセクハラ疑惑会見に心理士がツッコミ

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    堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者

    《週刊誌報道に示されたようなやりとりをした女性記者の方がいらっしゃれば、調査への協力をお願いしたい》 森友学園問題で国会が紛糾する中、渦中の財務省トップに持ち上がった新たな騒動。辞任した福田淳一元事務次官(58才)が複数の女性記者にセクハラ発言を繰り返していたと『週刊新潮』(4月19日号)が報じた。これに対し、福田氏はセクハラを否定した上で、新聞やテレビ局などの記者クラブ加盟各社に、冒頭のような異例の協力要請を出したのだ。 報道各社にとって、“霞が関の中枢”である財務省への取材は超重要。それだけに、エース級の記者がしのぎを削っている。「超堅物の官僚からスクープ情報を取るのは至難の業。そこでテレビ各局は、少しでも印象をよくするためなのか、たまたまなのか、選りすぐりの美人記者を財務省の記者クラブに送り込んでいます。もちろん外見だけでなく、財務官僚と渡り合えるだけの頭脳も必須です」(全国紙記者)『週刊新潮』の記事によると、福田氏に夜中呼び出された女性記者は、パジャマから着替えてバーに駆けつけた。酒席につきあい、森友問題について聞き出すのが彼女らのミッション。福田氏はそんなやり取りの中、「おっぱい触っていい?」「キスしたい」としつこく言い寄ったという。「福田さんはお酒が弱くて、酔って記憶がないなんてことはたまにあるそうです。記事には日頃からセクハラを連発することで有名だったと書かれていましたし、担当の女性記者は呼び出されるたびにビクビクしていたんでしょうね…」(前出・全国紙記者)画像はイメージです(iStock) 小さい時から神童と呼ばれ、東大をトップに近い成績で卒業したスーパーエリートの財務官僚は、ちょっと変わった人ばかり。そんなオジサンたちを相手にしなきゃいけないのだから、彼女たちの苦労は推して知るべし。若手の財務官僚が言う。「省内でも、“あの記者は目を引く”と評判になる人がいつも何人かいます。最近では、テレビ朝日の進優子記者は女子アナと見紛うような美形ですし、フジテレビの石井梨奈恵記者は上智大学から仏パリ政治学院に留学した経験のある才媛。NHKの山田奈々さんは突っ込んだ取材をする優秀な記者だと評判です。ぼくたち若手はほとんど相手にされませんが、一癖も二癖もある幹部たちから直接、携帯で呼び出されるのを見るとホントに大変そうです」 冒頭の通り、財務省は血眼になって報じられた女性記者を探している。「音源を全部聞いたわけではないので状況はわかりません。福田氏の言う通り、クラブでホステスとの会話という可能性がないわけではない。それにしても被害を受けたという記者に“名乗り出て”というのはおかしな話。情報を握るために必死の記者が自ら名乗り出られるはずがないし、セクハラを受けた女性が被害を訴えることに抵抗があるのは当然のこと。誰が相手だとしても、音源があるのだから、福田氏を徹底的に調査すべきです」(前出・全国紙記者) 福田氏は新潮社を名誉棄損で提訴するというが、向かう新潮社も記事に絶対的な自信を見せている。関連記事■ 総理執務室撮影したNHK美人解説委員に局内部から痛烈な批判■ NHK記者 “官邸の最高レベル”スクープを不発弾にされ不満■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相、「昭恵抜きで訪米したい」の打診却下されガックリ■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    小ネタの波状攻撃「安倍政権撲滅キャンペーン」にモノ申す

    いるのだろう。 もちろん、まっとうな政策批判、政権批判は行われるべきだ。だが、安手の政治的扇動がマスメディアを通じて日々増幅され、世論の少なからぬ部分が扇動されているのなら、少なくとも言論人は冷静な反省を求めるのが使命ではないだろうか。だが、筆者が先にいくつか事例を紹介したが、リベラル系の言論人を中心に、むしろ扇動に寄り添う態度を強く示すものが多い。まさに日本は「欺瞞(ぎまん)の言論空間」に覆われつつある。

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    週刊誌「小室圭さんバッシング」報道が意味するもの

    を私たちはどこで知るのだろうか。新聞、雑誌、テレビ、インターネット、まずはその辺りだろうか。そうしたメディアを通じて、私たちは皇室について、天皇や皇后、皇族の動向を知り、そして「象徴天皇」とはこうした姿なのだとイメージする。こうしたあり方は、長い伝統ではない。メディアが発達する前の人々は、このように皇室を知ることはできなかった。近代になって構築された体制だったのである。 明治維新後、日本でも新聞が刊行されるようになり、新聞はこぞって皇室に関する記事も紙面の中に掲載していく。メディアは大衆消費社会が成立する状況の中で、ニュース素材として皇室を取りあげ、人々の興味関心をかき立てていった。 とはいえ、政府と宮内省の下にマスメディアは統制されており、現在の私たちとは異なる形で皇室を見ていたはずである。つまり、どこか触れてはいけない権威として、天皇や皇族を捉えていたのではないか。だからこそ、戦時中には「国体」が強固に人々を拘束していったのである。 しかし敗戦によって、その関係性は変化する。敗戦は、昭和天皇の戦争責任が追及され、天皇制廃止へと向かう可能性も想定される未曾有(みぞう)の危機であった。それを回避するため、宮内省はメディアを通じて世間に天皇への同情心を集め、責任追及の動きを和らげようとする。 昭和21(1946)年1月1日に発布されたいわゆる「人間宣言」は、メディアが新たな天皇像をアピールする機会となった。政府と宮内省はメディアを味方にしつつ、敗戦後の天皇制の危機を脱し、象徴天皇制へと着地させようとしていたのである。 新聞を中心とするメディアは、平和的で家庭的な昭和天皇像を数多く描くことで、人々にそのイメージを定着させた。メディアは政府・宮内庁の期待に応えたともいえる。一方で、象徴天皇のあり方をメディアが規定していったとも考えられる。この時期、両者は最も「蜜月関係」だったといえるかもしれない。1946(昭和21)年2月、戦後の全国巡幸が始まり、戦災者が住む横浜市の稲荷台共同宿舎を訪れた昭和天皇=横浜市西区 その後、昭和33(1958)年11月からの「ミッチーブーム」によって、その関係は変化する。1950年代前半より、メディアは皇太子明仁親王の「お妃候補」を多数登場させ、人々の興味関心を集める記事を掲載していく。この時期、戦後経済は復興を遂げ、『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌、『週刊女性』や『女性自身』といった女性向け週刊誌などが創刊され始めていた。 そうした新興週刊誌は、『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの老舗週刊誌から読者を奪うため、より人々の興味を引きつけるような記事を生み出していく。毎週のように新しい皇太子妃候補の名前が登場し、その人となりが紹介されるような「スクープ合戦」が展開されたのである。そこでは、プライバシーという概念は希薄だった。各雑誌が新しい皇太子妃候補を書き、そしてそうした記事の中で彼女たちは消費されていくことになる。象徴天皇制の内実を築いたテレビ この時、新聞は当初は同様に(とはいえ、雑誌ほど過激ではない)皇太子妃候補を報道していたものの、宮内庁からの求めに応じて協定を締結、正式発表までの報道を自粛する。そして、正田美智子さんに決まったことを最初に伝えたのは、協定の枠外にいた『週刊大衆』『週刊明星』などの新興雑誌であった。 宮内庁の正式発表を待って報道を開始するものの、公的機関からの求めに応じて報道しない新聞の姿勢は、戦時中のメディアを想起させ、人々からの不信を得てしまう。それゆえ、その後の皇室報道の中心は新聞から他のメディアへと移っていく。 では雑誌ばかりになったのかと言うと、そうでもない。ミッチーブームはテレビという新しいメディアが家庭に浸透したことで生み出された現象であったからだ。人々はその後、テレビの中で動く皇太子一家を見ることで、あこがれの存在としての彼らを受容していく。 この時の天皇制とマスメディアの関係は、戦前とも、敗戦直後とも全く異なっていた。宮内庁はメディアの動向をコントロールできず、むしろメディアの方がブームを形作り、象徴天皇制の内実を形成していったのである。 こうしてメディアは、人々の興味関心に基づき、皇室記事を量産していく。そこには、権威的な天皇像を伝えようとする意図も、人間的な天皇像から民主化を伝えようとする意図もなかった。まさに消費する対象として、天皇制を報じていたのである。 平成に入って、メディアは「開かれた皇室」として新しい動向を歓迎するような記事を掲載していった。それは、人々に身近になったと感じさせた象徴天皇制へのメディア側からの「支持表明」とも言えるだろうか。1958(昭和33)年11月27日、皇太子妃になることが正式に決まり、宮内庁で両親とともに記者会見する正田美智子さん 皇太子徳仁親王の「お妃候補」報道も、雑誌を中心としたメディアで大きく展開された。父親の時と同じように、各誌がさまざまなお妃候補を紹介していくあり方である。この時はワイドショーを中心に、テレビでもそうした報道が繰り返された。 小和田雅子さんに決まったとき、男女雇用機会均等法施行後の女性の社会進出を象徴する存在として、彼女に対する期待感にあふれた報道が相次いだ。平成の「新しい皇室」として歓迎する雰囲気が生まれていたのである。ミッチーブームの時ほどでないにせよ、人々の関心は高まったといえる。 もちろん、期待一辺倒だけではなく、『週刊文春』をはじめとする週刊誌を中心に「美智子皇后バッシング」なども展開され、「開かれた皇室」への批判とともに、やはり象徴天皇制を消費的に扱う記事も多かった。 とはいえ、これは昭和天皇時代の天皇制を懐古する勢力から行われた攻撃でもあった。その意味では権威的ともいえる。この報道は、美智子皇后が倒れ失語症になったことをきっかけに大勢が変化し、基本的には平成のあり方を支持する動向が強くなった。「生前退位」報道にものぞかせる権威性 近年、頻発する自然災害の被災者に対して、80歳を超えた天皇、皇后が体育館の床に膝をついて同じ目線で話を聞く姿をメディアは積極的に報じている。そうした二人の人格的な振る舞いを評価するエピソードが、近年のメディアには多数あふれた。 戦争の記憶に触れ、戦没者を慰霊する天皇、皇后の行為も、やはりどこかに道徳的なあり方としてメディアでは紹介されることが多くなった。こうした姿を、テレビや新聞は積極的に伝えている。このような姿勢は、天皇や皇室を、人間的とも消費的とも扱う動向とはまた異なっているように思われる。 どこかにその権威性を見出し、それに現在の日本社会が失いつつある何かを取り戻すためのシンボルとして描いているようにもみえる。けれども、平成の最初に昭和天皇の時代を懐かしんでいた権威とはやや異なるレベルの権威でもありそうである。 しかしながら、週刊誌などの雑誌は少し異なるスタンスのようにも感じる。雅子皇太子妃の病気の問題などを大々的に報じるのは、新聞やテレビではなく、やはり週刊誌である。そこにはどこか、消費的に天皇・皇族を扱う姿勢が見え隠れする。 2016年の「生前退位」報道はNHKというテレビ発の出来事であった。そして、その報道によって方向性が規定され、一挙に退位へと結実することとなった。ただ「象徴天皇制とは何か」といった議論がなされないままに、天皇の「おことば」から、退位以外の選択肢は考えられない雰囲気になってしまった。 その意味では、どこか権威性を天皇から見る動向から始まったものであったかもしれない。本来、こうした象徴天皇制を左右する報道が、一社のスクープから始まったことにはやや疑問を感じる。より広い議論を呼び起こすような展開があり得たようにも思われる。 一方、秋篠宮眞子内親王と小室圭さんとの婚約をめぐる報道は、週刊誌をはじめとする雑誌がリードし続けていた。「美智子皇后バッシング」や雅子皇太子妃の病気について報道するときと同じような形のようにも見える。その意味では消費的な動向とも言えるだろう。2018年2月、報道陣に一礼し、職場を出る小室圭さん=東京都中央区 しかし、小室さんやその家族に対する、ややバッシングにも見える報道の根底には、「皇族の女性はそれなりの家柄の男性と結婚しなければならない」との考え方も見え隠れする。その意味では権威的とも言えるかもしれないが、天皇や皇后をそう見るレベルとは異なっているように思う。むしろ、非常に復古的な流れではないか。 この両者の関係性は今後どうなっていくのだろうか。そして、インターネットという新しいメディアの登場も、まったく別の方向が生まれる可能性を有している。今後の皇室報道のあり方に注目していく必要があるだろう。

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    眞子さま「結婚延期報道」に私も言いたい

    秋篠宮家の長女、眞子さまの結婚延期が発表されてから、はや2カ月。お相手の小室圭さんをめぐり、さまざまな週刊誌報道が飛び交う中、新聞、テレビは相変わらず沈黙を続ける。宮内庁も「週刊誌報道が延期の理由ではない」と火消しに躍起だが、どうも腑に落ちない。眞子さま結婚延期を私たちはどう受け止めるべきか。

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    眞子さまが苦悩する「高貴なる者の責務」とは何か

    子さまのお相手については、現状で十分な将来設計がみえてこないことに加え、ご実家の経済的トラブルも一部メディアに報道されたため、少なからぬ国民の間に疑問が生じてしまっている。 ただ、配偶者となる予定の男性の経済的不安自体は、必ずしも結婚否定の理由にはならない。高度成長期をすぎた日本ではいまや、夫婦ともに生計を担う発想が増えており、専業主婦ならぬ専業主夫という生き方も選択肢となっている。 男女共同参画が奨励される現代社会においては、妻が生計を支えても問題ないのであり、「私もバリバリ働いて、積極的に家計を担います」という姿勢を眞子さまご本人が明確に提示されれば、お相手が勉学中でも、現代の働く女性たちの共感を呼び、素直な祝福を喚起したかもしれない。期待される理想的人物像 しかし、今回の場合、単に一時的に男性の経済力に不安があるのではなく、実家ぐるみで経済的トラブルを過去から抱えてきた疑惑があること、さらに、ご結婚の際に1億円以上という、一般市民にとってはかなり高額な降嫁金が税金から支払われるために、国民の視線が厳しくなっている。 降嫁金のみならず、将来的にも妻の「実家=税金」で結婚生活が維持されるのではないか、それは税金の使途として妥当ではないという批判である。 眞子さまとしては、なにも好んで皇室に生まれてきたわけではないのだから、一般市民と「平等」に「両性の合意」のみにもとづいて結婚したい、と思われているかもしれない。また、欧州の王室は日本の皇室よりはるかに自由であるという議論もままある。 しかし、イギリス王室のように、先祖代々の財政基盤がある王室であれば、ご自由に結婚、離婚してくださいと国民が納得する余地があるものの、日本では、皇族に生まれた以上、税金が主として経費を支えることになるので、恋愛、結婚にも公共性が付随して、当事者が納得すればよいというわけにはいかなくなってくる。 加えて、キリスト教国の王室であれば、神は人間とは別に存在するので、国民は王族に神のような品行方正さを過剰に期待することはない。 ところが、戦前に「現人神」(あらひとがみ)であった日本の天皇は、戦後の「人間宣言」以降も、日本の「象徴」という形で模範的、理想的な人間性を提示することが暗に求められてきた。「普通の人間」としての立場を認められたはずが、「象徴」にふさわしい理想的人物像を提示することが期待されてきたのである。 これを、「国民側の勝手な期待」であり、自分たちは人間なのだから、好きにさせてもらうわ、とする考えもありえるのだが、上記のように、財政基盤が税金にあるため、それにみあう社会的責務を果たしていない人間に税金を投入する意義はない。礼拝に出席するため英サンドリンガムの教会に到着したエリザベス女王=2017年1月 極端にいえば、信頼にたる人間性であることを示し、皇族、または皇族と親戚となるにふさわしい裏づけを提示してもらわないと、もはや、皇室を廃止してもいいのではという意見さえ、ネット上には散見する。 人間の女性として恋愛結婚の自由を求める眞子さま本人には、あるいは理不尽と思われてしまうかもしれない。だが、税金で支えてきた皇族方の結婚相手に、それに足る社会的信頼や人格を求める国民感情に一理あるのは確かであり、もしどんな相手でも自分が選んだ相手と結婚したいと初志貫徹したいのであれば、一億円以上の降嫁金も辞退、まずは皇籍を離脱してから結婚するべきとの議論もある。「高貴なる者の責務」 眞子さま結婚延期の理由について、多くの主流メディアは、宮内庁の発表どおり、結婚の準備が間に合わないという理由を報じているが、ネット上の市民の多くは、お相手の家の金銭トラブルや相手側の将来設計の不安定さ、人としての信頼度を問題にしており、結婚後も皇族との親戚関係が継続する人々への「血税」投入の妥当性を問題視している。 ネット上の情報が広がりはじめた初期には、一般市民の書き込みは信憑性が薄い情報とまともに社会的に評価されない時代もあったが、皇族女性の結婚というセンシティブな話題については、新聞、テレビといった主流メディアよりはむしろ、ネット上の情報のほうに、率直な国民感情があふれているようにみえる。 皇族である前に一女性なのか、それとも、女性である前に皇族なのか―。同じ自由恋愛でも、結婚後も皇室にとどまる男性皇族・秋篠宮さまの場合と眞子さまの結婚では、たとえ親子といえども、同列に論じられないのが現状である。 では、皇族女性のみにのしかかる当事者意識と社会的期待との落差を眞子さまはどう乗り越えることができるのか。 生活費の心配なく成人する皇族女性に、結婚後にいきなり共働きで生計を担えと通告するのはいささか酷かもしれないのだが、似たような試練は、戦後の旧華族、旧皇族や、明治維新期に禄を失った旧士族の多くが乗り越えてきた道である。 海外の王室も自前で生活しているとはいえ、一般市民に受け入れられるために「ノーブレス・オブリージュ」(貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ)という概念で自らを律してきた歴史がある。眞子さまが結婚を実現するには、「金銭トラブル」「経済力」「皇室との信頼関係」の三つの問題解決が必要との指摘もなされている(2018年2月8日 八幡和郎氏コメント)。「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下と女性皇族方=2018年元旦 このように、眞子さまが現在のお相手と国民に祝福される結婚を実現するためには、女性も生計を支えると宣言してジェンダー・フリーな結婚の形を示すか、結婚後は税金に依存せずに経済的に自立できるという将来像を示すことが必要であり、それは、今後ありえる皇族女性の結婚にも必須の条件になると思われる。 この条件を、個人としての恋愛感情とどうすりあわせるか―、これこそが、困難ではあるが、現代の皇族女性に求められる「高貴なる者の責務」といえるだろう。

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    【和田政宗独占手記】森友問題「メディアリンチ」と私は断固戦う

    のあった2日朝の時点で、財務省は書き換えを把握していたのではないかという点である。人間性すら否定するメディアリンチ 2日朝、財務省は参院自民党会派に対し、「本省の指示により文書が書き換えられたとの報道について」と説明したが、朝日新聞の報道は「本省の指示によって書き換えられた」とは一行も書いていない。また、書き換えた人物は理財局内に存在する。財務省が使っている文書管理システムで検索すれば文書が書き換えられていることは一目瞭然であり、検索そのものも簡単にできる。パソコンにログインすれば数クリックで該当文書にたどり着くのである。 以上のことから「太田理財局長は一生懸命答弁してくれているが、そこに一部メディアで切り取られかねない発言も入っている」と懸念を述べた上で、「まさかとは思いますが」と留保をつけ、このままでは財務省に意図的に調査を遅らせているように取られかねない、安倍政権に立ち向かっているとも取られかねない、と説明を求めるための質問だった。 太田理財局長の答弁は、これらを否定するもので、さすがだなと思った。ただ、2日朝の時点で書き換えを把握していたかについては依然、財務省は言葉を濁し、明確な答えを述べない。 昨年2月の森友問題の報道から今回の書き換え疑惑が報道された後も、私は一貫して理財局を守る立場で行動してきたし、理財局の職員とも何度も何度も話してきた。しかし、書き換えを行っていたとは私でも想像だにせず、怒りというより「何でこんなことをしたんだ」という失望の方が大きかった。 財務省には徹底的な調査を求めるとともに、佐川前理財局長が「事後報告を受けたが、私は指示していない」と話しているという毎日新聞などの報道もあることから、佐川前理財局長一人に責任を押しつけることなく、誰がどのような理由で書き換えを指示したのか、また書き換えの事実をいつ把握し、なぜ公表が遅れたのか。財務省はその理由をしっかりと説明すべきである。衆院予算委員会での証人喚問で質問に聞き入る佐川宣寿前国税庁長官=2018年3月27日、国会(納冨康撮影) そして、一連のワイドショーの私に対する一方的な批判であるが、私に取材に来た番組は一つもない。なぜ私があのような質問をしたのかについて、自分の意見や説明も紹介されていない。事実に基づいた批判であれば、政治家として甘んじて受けるが、事実に基づかず人間性すら否定する一方的なコメントは、論評の域を超えた誹謗(ひぼう)と中傷でしかない。 まさに「メディアリンチ」ともいう状態であり、名誉を毀損(きそん)した番組や週刊誌に対しては断固たる措置を取るために、名誉毀損訴訟に強い弁護士と協議に入った。 特に、フジテレビ系情報番組『バイキング』については、私に対する汚い言葉や事実に基づかない誹謗中傷が過ぎており、視聴者からも番組内容について批判が相次いでいる。この番組の司会者に関するWikipedia(ウィキペディア)の書き換えがあったことについて、iRONNA編集部よりコメントを求められているが、私は詳細を知らない。ただ、本人に関わる情報で、知られたくなかったり、公表されたくないものについては配慮がなされるべきであると思う。どんな困難があっても安倍政権を支える こうした中、私に対するメディアリンチに便乗したとみられる人物が、私と家族に対する殺害予告、事務所に対する爆破殺害予告を新聞社2社にメールで送ってきた。 その内容は極めておぞましいものであるし、こうした政治に対するテロは絶対に許されるものではなく、断固として戦わなくてはならない。しかも、このメールは細工が施されており、ただの愉快犯ではなく何らかの組織が便乗して私をバッシングするためにやっている可能性も、決してゼロとは言えない。 そして、ワイドショーなどの一部メディアは、物事の本質を無視した「言葉狩り」になっており、ここ最近のメディアの劣化は著しいと言わざるを得ない。国民の知る権利に寄与するという理念より、むしろ視聴率や部数など利益優先になっているからである。 実は歴史上、過去にも同じようなことがあった。満州事変の際の若槻礼次郎内閣の不拡大方針を「弱腰」と批判し、その姿勢を覆させたのは、新聞主要全紙によるリンチにも近い書きぶりだった。私は、民族独立の観点から満州国建国は重要であったと思うが、関東軍、朝鮮軍の越権行動は当時においても許容されるものでなかった。しかし、それを覆したのは「戦争や事変が起これば新聞が売れる」と自らの利益優先で、事態拡大を後押しする新聞であった。 今こそ過去の歴史に学び、メディアはそのあり方を正しい形に変えるべきである。国民も声を上げなければ、メディアの劣化はさらに進む。参院予算委員会で民進党の大野元裕氏(右手前)の質問に答弁する安倍晋三首相。奥前列左は財務省の太田充理財局長 =2018年3月19日、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影) 安倍政権は、家庭の貧富の差によって教育の格差が生まれないようにする、待機児童は徹底的に解消することなど、極めて国民に優しい政策を打っているのに、これまでメディアはほとんど報道せず、強権との印象を強調して批判を繰り返した。森友学園への国有地取引に首相も首相夫人も関与していないことが明確になっても、さも関与しているのではないかと印象報道を連日続けている。  森友問題の焦点は、財務省がなぜどういった理由で文書の書き換えをしたのか、法令に則っているものの、森友学園側と近畿財務局との国有地取引交渉に何があったのか、である。こうした点をなぜメディアは追わないのか。 安倍政権は、民主党政権時代のどん底の経済状況から、デフレ脱却、国民生活を豊かにするために戦っている。安倍首相の外交は、首脳会談国数、会談数においても歴代首相と比べても圧倒的に多く、世界の外交のトップリーダーとして各国と交渉できることによって日本の平和も守られている。 安倍政権がしっかりと続くことが、ひいては国民の幸せにつながる。どんな困難があっても私はしっかりと安倍政権を支えていく。

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    「ポンキッキ、やめるのやめた!」と言えないフジテレビの苦悩

    影山貴彦(同志社女子大メディア創造学科教授) 『ポンキッキ』が終わってしまった。「ガチャピンやムックにもう会えないのか?」と一瞬不安になったが、版権はフジテレビが今後も所有するということで、イベントやCMを通して、これからも姿は見られるようだ。 ただ、私は同番組の放送終了について強く反対である。何より視聴者のため、そして今後のフジテレビのためにも、番組としての『ポンキッキーズ』の看板を残すべきだと思う。 フジの看板番組として長く続いた『めちゃ×2イケてるッ!』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』をこの春で幕引きしたことと、『ポンキッキーズ』の件を同列で語るべきではなかろう。むろん、『めちゃイケ』や『みなさん』についても、その終了を惜しむ声は多く聞かれる。 私自身、両番組を楽しんできた視聴者の一人であるし、自らの青春時代を懐かしく思い出したりもする。だが、そうした感情とともに、新しい時代を創り出すために幕を引く必要性の強いものがある。また、その一方で時代を超えて守り続けることが組織にとって何より大切なこともある。『めちゃイケ』と『みなさん』は前者、『ポンキッキーズ』は後者であろう。『ポンキッキ』の人気キャラ、ガチャピン(左)とムック=2014年4月撮影 ここで、筆者のプロデューサー時代のささやかな経験を少しお話ししたい。かつて仕事柄、何人もの出演者に「卒業」を打診した。「卒業通知」といえば響きはいいが、「降板通告」である。プロデューサーの仕事として最もつらいのは、出演者やスタッフのクビを切ることだ。その際、常に心掛けていたことがあった。マネジャーと話すだけではなく、必ず本人と向き合う時間を設けてきた。大多数が素直に受け止めてくれたが、時に不平不満や嫌味なことを言う人、ひたすら涙を流す人もいた。 随分前の話になるが、あるタレントに「降板通告」した数日後、「夜道を歩くときは気ぃつけろと、ダンナに言うとけっ!」と脅迫まがいの電話が自宅にかかってきたことがあった。このとき私は不在だったが、電話に出た妻は放送、芸能の世界と全く関係ない人間ということもあり、少し動揺していた。「大丈夫やからっ!」と少々大きめの声を出し、心配する妻を安心させたことを今でもよく覚えている。本来の仕事から「逃げる」プロデューサー 幸い、その電話以降何事もなかった。「降板通告」したタレントが所属する事務所関係者が電話してきたのか、全く関係のないイタズラ電話だったのか、今となっては定かではない。出来の悪いプロデューサーだったが、厄介なことから「逃げ」なかったという少しばかりの自負はある。2014年11月、東京・大手町のイベントで、「スパリゾートハワイアンズ」からやってきたフラガールズと一緒にフラダンスを披露したガチャピン(寺河内美奈撮影) タレントたちとあまり密なコミュニケーションを取らない局の社員プロデューサーが、昨今テレビ界に少なからずいるという。それが事実であるならば、今後は一層、一部のプロダクションの人間や放送作家のみが大物タレントと密な関係を持つことになりかねない。それはフジテレビに限らず、テレビ局全体にとって決して好ましいことではない。 局のプロデューサーでありながら、出演者や芸能事務所との人間関係も希薄となれば、大物出演者を切ったり、番組を終了させる作業もスムーズに進まない。ただ、言うまでもなく、出演者や番組は杓子(しゃくし)定規に変えればいいというものではない。 演者やスタッフたちとしっかり人間関係を構築した人間が、その局にどれほどいるかによって番組作りはうまく流れてゆく。作り手と演者がなれ合いになってしまうことと、人間関係を構築させることとは異質のことだ。もちろん、大物タレントの「イエスマン」でしかない局プロデューサーも時にはいる。それは仕事をしているのではない。本来の仕事から「逃げ」ているのである。 さて、フジテレビである。フジが少々長めの苦戦を強いられている理由はいくつかあるだろうが、その一つは番組改編のタイミングを誤ってきたからであろう。「まだいける」「もう少し大丈夫」というファジーな思い込みと、波風を立てたくないという消極的な「逃げ」の姿勢が重なり合い、傷が深くなってしまった感は否めない。 時代を先取り、流行を作り上げたイケてるテレビ局だったはずが、いつの間にか多くの人々から、時代の空気を読むことが苦手で、ブームの後追いをする局というイメージが色濃くついてしまった感がある。テレビに限らず、組織にとってイメージは驚くほど重要である。「分からないから、やらない」からの転換 今、優秀な若手社員たちの「攻めたい姿勢」に対し、トップが「ストップ」をかけてはいないか気になっている。攻めの姿勢で成果を上げ続けた人が、地位を得た途端に保身に走るという単純な図式ではないかもしれない。でも、社会の経済状況やコンプライアンスを隠れみのに、冒険を好まなくなってはいないだろうか。口先では「新しいことにチャレンジしろ!」と言いながら、若手からの企画・提案を受け止められずにいるのではないか。体力のみならず、感性も年老いたことを認めたがらない上層部が少なくないのではないか。 もうお気づきだろうが、これらもフジだけの話ではない。実は各局に当てはまることだ。「分からないから、やらない」ではなく、「自分が分からないからこそ、面白そう」と発想を転換させることが今、テレビのトップに求められる資質だろう。 最後に話を冒頭の『ポンキッキ』に戻す。なぜ『ポンキッキ』は終了させるべきではなかったのか。それは現在の視聴者たちの反応を見て分かるように、「文化」の色合いが極めて強いからである。フジテレビにとって同番組は、ランドマークのような存在なのである。 正直なところ、今この文章を読んでいる人の多くも、ここしばらく日常的に『ポンキッキ』を見ていた人は多くないかもしれない。それでも、番組終了を耳にし、この上ない喪失感を抱いていることだろう。「文化」とはそういうものだ。前述の通り、フジテレビがいま最も大切にしなければならないのは、ステーションイメージだ。コストカットのみを優先し、イメージを落としては元も子もないし、ガチャピンもムックも報われまい。守ることでイメージを維持し、アップさせられることもある。 今からでも間に合う。『ポンキッキ』は放送終了ではなく、しばらくの休止扱いとすべきである。そして、秋辺りからフジテレビ制作陣が力を結集し、『ポンキッキーズ』を地上波で復活させてはどうだろう。視聴者のニーズとの乖離(かいり)が進み、苦戦を強いられているフジテレビだが、こうした状況がこれほど長く続くほど脆弱(ぜいじゃく)なステーションではないはずだ。メディアの世界にかかわる人間の中には、「フジテレビに元気でいてもらわないと!」とエールを送る人々が数多い。フジの苦しみは、他局にも通じている。2017年3月、神戸市消防局の特別隊長に任命されたガチャピン あっと驚くことを成し遂げるのが同局の持ち味だったはずだ。「ポンキッキーズ、やめるのやめました!」そんな元来のフジらしい発表を筆者は心待ちにしている。

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    『コロコロコミック』販売中止、サヨクに屈した外務省は恥を知れ

    中宮崇(サヨクウォッチャー)ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった私は共産主義者ではなかったから社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった私は社会民主主義ではなかったから彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった私は労働組合員ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった 反ナチス運動指導者マルティン・ニーメラーの有名な詩である。今まさに日本で、ナチスならぬサヨクから、共産主義者ならぬ漫画がそうした攻撃を受けている。 小学館の子供漫画雑誌『コロコロコミック』におけるチンギス・ハーン落書き事件に関して、主にサヨク諸氏からの言論弾圧、いや中国顔負けの人権抑圧が目に余る。もっとも、しばき隊、SEALDsなど、彼らサヨクが「人間じゃねぇ! たたっ斬る!」と本屋に押しかけ、気に入らない本を「焚書(ふんしょ)」するという姿を普段から散々見せられている者としては、当然の反応と言うべきか。 彼らは人権等の正義を騙(かた)る、その実ただの中国政府そっくりな弾圧者にすぎない。「やりすぎイタズラくん」が掲載されている月刊コロコロコミック3月号 しかし、そういったエセ左翼にすぎない人々と違い、まじめな左翼は今回の事件に関してまっとうな見解を表明している。例えば「『丸山眞男』をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争」で知られる赤木智弘氏は「チンギスハン揶揄は守られるべき」と題した論考を発表し、この問題を主に人権面から丁寧に分析している。左右を問わず、まともな人権感覚をもつ現代人であれば、文句のつけようのない内容であろう。 ところが、このようなまともな人権感覚を持たないのが一部のサヨクである。 彼らは戦後一貫して現在に至るまで「外患誘致」「告げ口プロパガンダ」戦法がお得意である。反日のためにフェイクニュースを垂れ流し、息を吐くように嘘をつく「ならず者」をまともに相手にする日本人なんてそうそういない。一線を越えた外務省 そのことは彼ら自身がよく分かっているので、海外の非政府組織(NGO)やマスコミ、国連、そして中国や韓国、北朝鮮などの人権抑圧国家を利用し、「世界市民様は愚かな日本人どもをこう言って批判しておられますぞ!」という錦の御旗、いやフェイクニュースをクリエイトし、それを口実にして日本人を攻撃し、寄付を集め活動資金とする。 慰安婦問題などはその典型であるし、最近では「秋葉原には児童ポルノや児童買春があふれている」というデタラメを海外に垂れ流して国連組織などを悪用し、漫画規制や言論弾圧を図る団体も話題になった。 こうした事実からすると、今回の事件のポイントは、外務省の対応である。朝日新聞の報道をみる限り、外務省は「日本国民の権利を擁護する」という職責を放棄し、海外政府の出先機関、いや手先機関に堕したとしか言いようがない。 記事によれば、日本外務省によると、来日中のモンゴル外相と日本の国会議員による23日の会合に同行した外務省職員に対してモンゴル側から抗議があり、同省は小学館に連絡した。 朝日新聞 2018年2月23日 と言うのだ。なんと外国の政府による一民間組織に対する「抗議」に対し、外務省は「うちは自由と民主主義の国なんで、そんな筋の通らんこと言われても知りまへんで」とはねつけるどころか、唯々諾々(いいだくだく)としてその抗議を小学館に伝え、いわば言論弾圧に加担したということらしい。小学館前で「月刊コロコロコミック」にチンギスハンを侮辱する漫画を載せたとして、抗議する在日モンゴル人ら 2018年2月26日、東京都千代田区 どこの国に、そんな手先機関の役所が存在するというのか。考えてみれば、外務省はこれまでもそうであった。特に「チャイナスクール」(外務省の中国語研修組出身者)と呼ばれる中国シンパの存在は、かつて慰安婦問題や南京大虐殺、政府開発援助(ODA)などにおいて日本の国益をむしばみ、中国や北朝鮮などの利益のために活動してきた外務省の象徴という批判もあった。 かつて外務省アジア大洋州局長だった槙田邦彦氏が拉致問題に対して「たった10人のことで国交正常化が止まっていいのか」と発言し、問題になっただけではない。左翼はチャンスを見逃さない 2002年に中国で発生した「瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件」、いわゆる「ハンミちゃん事件」においては、中国武装警察がウィーン条約を無視して日本領事館に押し込み、ハンミちゃん一家を乱暴に連れ去ったのに対し、なんと外務省職員は抗議するどころか武装警察の帽子を拾い、媚(こび)を売るような姿が放映されて批判を受けた。 こんな組織であるから、中国や韓国政府等がこれまで日本の「右派」を名指しで弾圧してきた際にも、日本人の生命や権利を擁護するどころか、冷淡極まりない態度に終止した例が多数見られた。そこに今回の「抗議口添え」である。 外務省は一線を越えた。これまでも十分、日本人のことなど眼中にない、結構とんでもない組織であったが、完全に常軌を逸したのだ。従来から海外に「告げ口プロパガンダ」をしてきた一部のサヨクは、このチャンスを見逃さないであろう。彼らは自分たちの気に入らない「ネトウヨ」「右翼」を弾圧するために、中国や韓国を焚き付けて日本の外務省に「抗議」させ、今回のような出版中止等の営業妨害に悪用するかもしれない。いや、このままでは必ずそうなる。 もし、こんな人権侵害が許されるというなら、立場を置き換えて考えて見るとよい。 日本も韓国外務省に対し「日本大使館前に慰安婦像を設置するなど言語道断だ!」として抗議し、それを韓国外務省が突っぱねず、ソウル市や韓国挺身隊問題対策協議会に唯々諾々と伝えたらどうなるか。ただでさえ反日で有名な韓国のこと、必ずや日本人の生命財産が危険にさらされることになるだろう。そして、もし10人の日本人が殺されても、日本の外務省はそれを冷淡に「たった10人のこと」と言い放つのかもしれない。外務省庁舎=東京・霞が関 われわれ日本人が今回の問題を看過し、外務省の体質を改めずにサヨクの横暴を放置すれば、将来必ずこんな詩が囁(ささや)かれることになるであろう。サヨクが漫画家を攻撃したとき、私は声をあげなかった私は漫画家ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

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    「朝日新聞と安倍首相の一騎打ち」森友文書改ざん、勝者はどっちだ

    、なんてことはあるはずがない、と感じていました。 では3月2日の段階で、なぜ朝日新聞という一介のマスメディアが、一国の首相と『一騎打ち』という状態だったのか。もちろん朝日新聞以外のすべてのメディアが、この森友問題に決定打となる証拠をまだ入手していなかったからですが、私はそこにマスメディアがマスメディアである本質、国家権力と向かい合う時のダイナミズムを垣間見た気がします。朝日新聞東京本社=東京都中央区(産経新聞チャーターヘリから、桐原正道撮影) マスメディアにはいかなる権力からの圧力にも屈せず真実を追求し、庶民の目となり耳となり、国家権力の暴走を防ぐ監視役となる、重要な任務があります。しかし、その前提として、自社の綿密な取材に基づき、事実を検証可能な根拠とともに正確に把握し、正しい情報を発信するという基本が守られなければなりません。特に今回のように、時の政権の存続を左右する重要な問題の場合、慎重を極めた事実確認が要求されます。安倍一強の「おごり」 朝日新聞以外の新聞各社、NHKや民放は、自社の独自取材に基づく限りにおいて、首相の関与が疑われるレベルの公文書の改ざんが、財務省内部で行われていたという確固たる証拠にたどり着けていませんでした。確信がないから報道しないというのも、それはそれで一つの矜持(きょうじ)だったと言えます。 朝日新聞といえば2014年に、従軍慰安婦問題に関する、捏造にも近い誤報を続けていたことが発覚し、大バッシングを受けました。当時の社長が謝罪して辞任する騒ぎになったことは、記憶にも新しいかと思います。二度とあのような事態は起こしたくない、誤報は命取りになると痛感しているはずです。 そんな慎重な体勢の中で、今回の安倍首相を相手取るスクープ記事を発表したのは、大英断だったと言えるでしょう。相当入念な取材と事前準備による確信があったと思われます。おそらく朝日新聞は、公文書記録を改ざんした物的証拠を複数手に入れ、森友問題を捜査中の大阪地検特捜部にも協力者を得て、財務省にも証言してもらえるよう根回しをしたうえで、慎重に記事にしたのではないでしょうか。 3月2日の朝日新聞のスクープにやや遅れて3月8日、今度は毎日新聞が独自取材に基づいて、森友学園に関する「別の決裁文書」にも「学園に価格提示を行う」といった文言が含まれていたことを報道しました。 さらに、3月9日には、財務省近畿財務局の担当部署で対応に当たった男性職員が神戸市の自宅で死亡していたとの報道があり、一連の問題に関連した自殺と見られて大きく騒がれました。同日、これまで国会で証言してきた財務省の元理財局長で国税庁長官の佐川宣寿氏が辞任したとの報道があり、わずか一週間で森友学園問題は大きく動き、12日の報告につながったのです。近畿財務局などが入る大阪合同庁舎第4号館。足早に入庁する人も=2018年3月12日、大阪市中央区(前川純一郎撮影) 一方で朝日新聞と『一騎打ち』となった相手、安倍首相はどうだったでしょうか。国会における自民党の絶対多数と、長期にわたる安倍一強の政権によって、あたかも独裁者のような「おごり」が、その言動から見て取れます。 例えば野党を無視するような、強行採決を繰り返す国会運営です。安倍首相には「行政府の長」のみならず、本人が口をすべらせたように「立法府の長」も兼ねているという意識があり、それがあのような独裁的な手法を取らせているのだと思われます。 また最高裁判事も総理大臣が任命する日本の議院内閣制は、もともと三権分立にはなっておらず、与党の長が立法、行政、司法を独裁する仕組みになっています。安倍政権はその権限を最大限に行使して、内閣法制局長の首をすげ替えて違憲立法を通したり、検察を手足のように動かして森友問題のキーパーソンである元学園理事長の籠池泰典氏を長期拘留したり、好き放題にしてきました。長期政権でたまった「膿」 そもそも森友学園問題とは何だったのか。それは森友学園が国有地を取得する際に、同学園が経営する「塚本幼稚園」に安倍昭恵夫人が関わっていて、安倍首相が便宜を図ったのではないか、という疑惑です。それは直接的なものであったか、間接的なもの(忖度)であったかに関わらず、首相として問題がある行為です。 ましてや問題を隠蔽(いんぺい)するために、財務省や検察に圧力をかけていたとしたら、それは「独裁者」以外の何者でもありません。私企業に便宜を図ったことよりも、それを隠蔽するために国家権力を私物化して、ウソで塗り固めようとしたことの方が、はるかに政権として危険だと思います。そのあたりが今後の国会で明らかになれば、国民の見方も変わってくるでしょう。 国会では佐川氏の証人喚問や、昭恵夫人の証人喚問が要求されるでしょう。当然それらは行われるべきだと考えます。そして、安倍首相は国会でこう明言したはずです。「(森友学園問題に)私や私の妻が関わっているようなことがあるならば、私は議員も総理も辞職します」。キッパリとした発言でした。もしかしたら、その約束を守るべき日が近づいているのかもしれない、そんな気さえしてくる最近の情勢です。 少なくとも財務省の文書書き換えに対する責任は、麻生太郎副総理兼財務大臣に押しつけることなく、安倍首相が自ら説明責任を引き受けるべきではないでしょうか。疑惑のそもそもの発端は、安倍首相自身にあるのですから。 また現在の自民党が安定多数を決めた、昨年10月の衆院選そのものも、森友問題が復活した今となっては、あらためて国民に問い直さなければならないかもしれません。なぜならば当時の国会は、森友学園問題が紛糾していて、それに対する国民の信を問う、という流れで衆議院解散となったわけです。安倍首相は自民党の総裁として「森友問題は解決済み」と断言し、それを信じた国民の票を自民党は集めました。衆院選で演説する安倍晋三首相=2017年10月、東京・秋葉原 しかし実は「森友問題は解決済みではなかった」ということになると、自民党が選挙の時に国民にした説明自体が、ウソであったということになります。「森友問題は解決済み、と信じて投票した私の票を返してくれ」と抗議されてしかるべきです。あの選挙はなんだったのか…。抗議される自民党議員も気の毒ですが、自分が安倍首相を総裁に選んだ因果です。 このように日本の民主主義の根幹に関わるレベルの、重要な問題提起が、朝日新聞の記事をきっかけになされました。マスメディアの本来の任務である「権力の見張り番」としての役割が、きちんと果たされた一例として、私たちは記憶にとどめたいと思います。 今回の森友学園問題は、氷山の一角です。これをきっかけに、長期政権の間にたまった膿(うみ)を、すべて出し尽くすべきです。マスメディアは政治を監視し、不正を白日の下にさらすことはできますが、政治を動かすことはできません。政治を動かすことができるのは、主権者である国民ひとり一人です。 私も一人の国民として、この問題がトカゲの尻尾切りでごまかされないよう、しっかりと目を見開いて今後の推移に注目し、本質を見失わないように分析を続けたいと思います。

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    誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない

    舛添要一(前東京都知事) 『週刊文春』に自らの不倫疑惑を報道されたことで、「責任を取って」小室哲哉氏が音楽界からの引退を表明した。これに対して、引退を惜しむファンをはじめとして多くの人々から、文春批判の声が上がっている。会見場に入る小室哲哉氏=2018年1月19日、 エイベックスビル(撮影・佐藤雄彦) 今回の件以外にも、これまでさまざまな有名人の不倫報道が週刊誌で流されて大きな話題となり、渦中の人物が世間のバッシングにさらされ、人生を大きく狂わせられる事態が続いてきた。世の中に「魔女狩り」のような空気が漂い、閉塞(へいそく)状態になっているのは愉快な話ではない。 第一に、有名人であれ無名人であれ、不倫といったプライベートなことは、配偶者や家族との間の問題である。他人が容喙(ようかい)してとやかく言う話ではない。妻の介護を含め家庭内の事情を、他人が詮索しても意味のないことである。 不倫などというものは、人間が生物である以上、古今東西どこにでもある話である。そうでなければ、文学作品の多くは成立すらしないであろう。かつては、芸人の浮気などは「芸の肥やし」だと、当然視する風潮が支配的であった。 何人かの国会議員もこの問題で指弾されたが、かつて三木武吉は「妾(めかけ)」に関する立会演説会でのヤジに対して「実は、4人ではなく5人おるのであります」と切り返して喝采を浴びたという。また、フランスでは、ミッテラン大統領が愛人との間に生まれた娘について質問されたとき、「それがどうした」と答え、質問した記者のほうが社会から批判を浴びた。浮気や家族など私的な事項についての質問を記者がすると、「それはあなたには関係ない話だ」と逆襲されて終わるのが常であった。 しかし、日本はもちろん、「大人の国」フランスでも、もはやそのような応対が許されるような時代ではなくなっている。アメリカの悪しき影響なのか、「非寛容社会」が到来したと言ってもよい。 第二に、このような時代風潮の背景には、いつまでも続くデフレ、そして格差の拡大がある。所得が増えれば、それは自分の欲する財やサービスの購入に向かい、他人の私事を詮索するような余裕などなくなる。しかし、今や消費に向かうべき熱情は鬱積(うっせき)してしまい、そのはけ口が有名人のバッシングに向かっている。格差は、貧しい者の豊かな者に対する怨嗟(えんさ)の情を生む。 戦後の高度経済成長時代には、人々は物質的豊かさを求めて全速力で走り、他人の生きざまをコメントする暇はなかったし、仰ぎ見るのはスターダムに登っていく芸能人や野球選手などの晴れ姿であった。そういう右肩上がりの繁栄の時代は終わり、低迷する経済に対する怨念が鎌首を持ち上げてきたのである。文春記者は「日陰者」である 第三に、格の違いが整合化された時代ではなくなったという点を指摘しておきたい。野球でも、1軍と2軍、プロ野球と草野球の違いは歴然としている。繁栄の時代には、週刊誌はマスコミの中では二流であり、いわば「日陰者」の立場にあった。堅気の人間は、そこに掲載された記事など信用せず、話題に上らせることすら恥だとされた。ところが、その週刊誌記事が大マスコミ以上に世の中を動かす時代になり、全国紙もテレビもその後追いに走るという奇妙な状況になってしまった。 テレビのワイドショーは、不況で制作費が不足しているのか、週刊誌報道を元ネタにして番組を作り、不倫スキャンダルを全国に広める役回りになり下がった。世間の人も、週刊誌を買えば400円程度の出費になるが、テレビは無料である。 「日陰者」が日の当たるところに出て、大手を振って公道を歩くような時代は尋常ではない。たとえは悪いが、極道がマスコミに出て自らの仁義を開陳するようなことがあれば、それはもはや極道ではない。 その点では、不倫疑惑を報じる週刊誌などはパパラッチと同じである。大義や正義があるわけではない。読者や視聴者の好奇心を刺激して金もうけをたくらんでいるだけの話である。しかも、パパラッチ以上に始末に負えないのは、検察官であるかのように正義を振りかざし、不倫の当事者を断罪しようとすることである。 取材した記者は、実名を公開し、顔を全国にさらすわけでもない。陰に隠れて書いている。だから「日陰者」なのであり、そう言われるのが嫌ならば、正々堂々とテレビの画面に顔を出し、名を名乗ればよいだけの話である。自分が他人を断罪できるほど、品行方正な道徳人とでも思っているのであろうか。 第四は、ネット社会の到来である。みんなが元気に前を向いて進んでいた高度経済成長時代には、インターネットは存在していなかった。今のツイッターと異なり、つぶやいても周りの数人にしか届かない。むろん、発信者が誰かもすぐ分かる。会見で芸能界引退を表明した小室哲哉氏=2018年1月19日、エイベックスビル しかし、今はネット全盛時代である。匿名でツイートする個人的意見や、偏向どころか嘘の情報が大手を振って世間に流れていく。そして、その真偽も確かめられないまま、世論形成に一定の影響力を持ってくる。フェイクニュースの大御所、トランプ米大統領が「フェイクニュース大賞」を発表するという皮肉な時代である。 今回の小室報道は、「文春砲」の成功に酔いしれた週刊文春が、大衆の反発を招き、逆噴射して自らに襲いかかったものである。小室氏の引退表明がなければ、そうはならなかったかもしれないが、週刊誌の居丈高な臆測記事でひとつの才能が消されていくことに、大衆は大きな怒りを感じたのである。金もうけ目当ての、この程度の不倫記事で優秀な人材が活躍の場を失われるような非生産的なことは、「もうやめたらどうか」という思いが、世の中の主流となってきているとすれば、それは健全な流れであろう。 第五に、日本は法治国家ではなく、相変わらず「空気」に支配される国だということである。日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めてある。姦通(かんつう)罪があった時代ならいざ知らず、小室氏とその「愛人」は刑法を犯したわけでもない。それにもかかわらず、「法律の定める手続き」ではなく、週刊誌が作り出す空気や世論によって断罪されるとすれば、日本は法治国家の資格がない。 今回の騒動が、憲法が国民に保証する基本的人権の大切さをみんなに知らせたことの意義は大きい。

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    「文春砲」が許せない

    有名人の不倫スキャンダルを数々報じた『週刊文春』が逆風に立たされている。きっかけとなったのは、音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫報道だった。「他人の不倫を暴いて誰が得するの?」「もう廃刊しろ」。スクープ連発で話題を集めた「文春砲」はなぜ批判の的へと一変したのか。その深層を読む。

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    『週刊文春』が完全に悪者扱いされるのは残念です

    佐々木博之(芸能ジャーナリスト) メディア批判というのは昔からあることです。これまで週刊誌が報じた不倫疑惑はかなりの件数になりますが、私の記憶では、今回の小室氏のように週刊誌側が非難されるケースはなかったように思います。 「なぜ他のタレントや政治家と違って今回の週刊文春の報道は批判を集めたか」といえば、端的に言うなら小室氏が引退したからです。それにより、小室氏が世間の同情を集め、かわいそうだ、となったからだと思います。  「妻はくも膜下出血で倒れた後、脳に障害が残ってしまい、その介護で大変な生活を送っている。才能が枯渇し、満足のいくような作曲ができなくなった。そういう中で、往診してくれる看護師に相談相手、話し相手になってもらっているだけ。何年も前から男性機能は働かず、肝炎を患い闘病中だった。肉体関係などあるわけがない。だけど騒動になった責任をとって、引退します」会見場に入る小室哲哉=2018年1月19日、東京(撮影・佐藤雄彦) この話が事実なら、彼を哀れまない人はまずいないでしょう。100%事実ならばですが、すべてのウラを取ることは難しいし、憔悴(しょうすい)しきった姿を見たら、「本当ですか?」と聞ける人は少ないでしょう。 「濡れ衣ではあるが、誤解されたのは不徳の致すところ。責任をとり引退します」 なんと潔い。濡れ衣を着せられ、言い訳せずに切腹したといわれている幕末の志士、田中新兵衛を思い浮かべてしまいます。実際は濡れ衣ではなかったという話もありますが、日本人はこういう話に弱いんです。 だから、「『週刊文春』はひどい! ありもしない不倫をでっち上げ、日本の音楽界に欠かすことはできない才能あふれる小室氏を引退に追い込んだ。許せない」「日本の大事なアーティストを引退に追いやった大罪は、どんな言い訳をしてもぬぐえるものではない」 などと『文春』バッシングが始まったのです。彼が引退せずに、釈明と謝罪だけならこんなことにはならなかったでしょう。 しかし、『文春』は小室氏に引退を迫ったわけじゃなく、何かペナルティーを与えたわけでもありません。不倫疑惑を報じただけです。報道によって引退に追い込まれた、という人もいるでしょうが、会見を思い出してください。 「曲作りに限界を感じた。前から引退を考えていた」と語っていました。となると、今回の報道が原因で引退するわけではないということです。 「謝罪会見のついでに…」という気持ちもあったのではないかと思いますが、彼のあざとさを指摘する声もあります。そこまでは考えたくないのですが、妻の病状、自身の病気を明らかにし、窮状を訴えた上で、潔く重罰を受けたように見せることで、同情を集め、バッシングを避けようとしたのではないか、と考える人がいるのも事実です。「文春が引退させた」に異議あり そもそも小室氏は不倫を否定したのだから、責任を取る必要もないだろうし、世間を騒がせた責任だとしても、引退までする必要はないと思うのは私だけではないでしょう。引退そのものは騒動のせいじゃないのに、世論がいつの間にか「『文春』が引退させた」と思うようになってしまったのは、納得がいきません。 また『文春』の記事には、小室氏と看護師が2人きりでお互いの家で長時間過ごしたり、腕を組んで歩いていたという描写があり、写真も撮られています。このことについては否定していないわけです。それが不倫行為、あるいは不貞を働いたといえるのか難しいところですが、たとえ肉体関係がなかったとしても、妻の留守中に自宅に女性を招き入れるというのはどうなんでしょうか。多くの女性は眉をひそめるだろうと思います。寝室で一緒に寝たとなると、「それくらいなら、許せる」という人はどれくらいいるのか。妻が正常な判断を下せない状態にあるのなら、なおのことやってはいけないことではないでしょうか。 それらも全てなかったことのように、『文春』が完全に悪者に見られているのは残念なことです。ただ、結果として小室氏の会見は大成功だったということになります。見事に不倫疑惑を払拭(ふっしょく)、世論を味方につけてしまったわけですから。これまでなされた、不倫疑惑釈明・謝罪会見のなかで、これほどうまくいった会見は記憶にありません。『文春』はまさかこんな事態になるとは考えてもいなかったでしょう。 あくまで芸能ニュースに限ってのことですが、週刊誌が不倫報道をするのは、その根底に「大衆は常に、芸能人の裏の顔を見たいと思っているはずだ」という妄想かもしれない、確信があるからです。普段テレビなどで見る姿とかけ離れた姿をとらえて報じることで、その大衆の要求に応えよう、すなわちその人たちに本を買ってもらおうという意図があるのです。普段の姿からは考えられないといえば、タレントのベッキーはその顕著な例でした。川谷絵音とのスキャンダルについての会見を終え退室するよう事務所関係者に促されるベッキー=2016年1月6日、東京(撮影・山田俊介)  あるいは、悪行とまではいかなくとも、芸能人のけしからんと思える行為を報じることによって、その芸能人が糾弾されたりすれば、極端な話、記者はまるで自分が悪を懲らしめる仕置き人にでもなったかのような「ちょっとしたヒロイズム」に浸れることがあるのも事実です。 小室氏の場合は「奥さんが大変なときに何をやっているんだ」と非難の声が上がり、「『文春』はよくやった!」となるはずだったんでしょうが、そのもくろみは見事に外れました。砲弾が逆にはね返されたという見方もできますが、とどのつまり「小室氏の方が一枚上手だった」ということじゃないでしょうか。不倫報道を続ける意義 さて、「不倫報道を週刊誌が続ける意義」についてですが、ちょっと曖昧な言い方になりますが、意義の位置づけによって異なるのではないかと思います。  結論から言えば、不倫報道は週刊誌的には意義があると思います。しかし社会的にはほぼないと思います。「ほぼ」というのは、ときどき意義がある場合もあるからです。  しかし、それを言ったら芸能ニュースなんてほとんど意義のないものばかりです。芸能ニュースではありませんが、テレビのニュースでときどき流れる、「中国の奥地で、子どもが壁の穴に首を突っ込み、抜けなくなったため、レスキュー隊が出動し、壁を壊して救出」といったたぐいのニュースも意義があるとは思えないのですが…。 だからといって、不倫報道を止めてしまえというのは賛成できません。その先に「報道の自由」が奪われてしまう危険性も感じてしまうからです  週刊誌は雑誌です。いろいろなジャンルの記事が掲載されていて、芸能記事はその一部です。芸能記事はスキャンダルばかりではありませんが、前述のように「芸能人の裏の顔」を報じたいとなれば、必然的にスキャンダルが多くなります。もちろん芸能人のスキャンダルを一切扱わない週刊誌もありますが、不倫をはじめ芸能人のスキャンダルを報道するのは、週刊誌の持つ性質上不可欠なことなのだと思います。 また、週刊誌はいわゆる商業誌です。売れなければ意味がありません。売れるためには読者が興味を持つ記事を掲載しなければなりません。三省堂書店神保町本店の雑誌売り場=2013年2月8日、東京都千代田区(山田泰弘撮影) 「不倫報道を続けることで部数を伸ばそうとしている」と指摘した方がいましたが、芸能人の不倫を報じたくらいで販売部数が極端に増え、売り上げが伸びるなんてことは、今の時代では有り得ません。確かにベッキーのときは売れたようですが、本当にまれなケースだと思います。 今、週刊誌を購入して読む人は少ないです。昔に比べたら売れなくなっています。芸能人の熱愛や不倫を報じても、それほど部数に影響しないということは、どの週刊誌も写真誌もとうの昔に気づいています。 ですから、今はどの週刊誌もウェブに活路を見いだしているわけで、そこにテレビが関わってきました。週刊誌はウェブ配信用に動画を撮影するようになり、その動画をワイドショーが買って流すようになりました。不倫報道でペナルティーを与えなければいい 今、ワイドショーが芸能スキャンダルを独自にスクープすることはほとんどありません。週刊誌報道を紹介するのみです。たまに当事者を取材するときもありますが、それも週刊誌報道が元になっているわけですから、ワイドショーが週刊誌に依存する割合はかなり大きいといえます。週刊文春に不倫疑惑を書かれたことを受けて開いた会見で芸能界引退を表明した小室哲哉=2018年1月19日、東京都(撮影・佐藤雄彦)  しかも自前で取材、撮影するよりはるかに低いコストで手間もかからずに映像を入手することができ、視聴率も上がるとなったら、こんなありがたいことはありません。週刊誌にとっても、本体が売れなくなった分をそこでカバーできているわけです。 もし、テレビが週刊誌の記事を紹介しなければどうなるでしょうか。最近の若者は芸能ニュースにそれほど興味がないし、週刊誌も読みません。ネットで芸能ニュースをチェックする年配の人も少ないと思います。となると、週刊誌の不倫報道を知るには電車の中吊り広告か新聞広告になります。報道の拡散は格段に狭くなるだろうと思います。 また、ワイドショーで芸能人の不倫疑惑が扱われるとき、コメンテーターが「不倫は当事者の問題だから他人がとやかくいうことではない」とコメントするのをよく耳にします。でしたら、最初から扱わなければいいだろうということにならないでしょうか。  話はそれますが、「不倫や浮気は犯罪じゃないんだから、そんなにたたくことはないだろう」という人もいます。その通りです。ですから、ペナルティーを与えることをやめればいい。小室氏は「引退は自分に与えた罰」みたいなことを語っていましたが、不倫したからといって、番組を降板したり、CMを中止したりするのをやめればいいんです。 考えてみてください。仮にベッキーが冷凍食品のCMに出演していたとします。彼女が不倫したからといって、それまでその食品を食べていた人が買うのをやめると思いますか? キャラクターの不倫で本当に商品のイメージダウンなどあるのでしょうか。 「テレビが不倫報道をしなくなったら日本が変わる!」なんて言っていた人がいましたが、そんな大げさなことではないでしょう。そもそも芸能人の不倫なんて、そんなに大騒ぎするほどの話ではないと思います。当事者以外には関係のないことですから、周りは1週間もたてば飽きてしまうし、その時にはまた新しい話題が出ますから。世の中、そんなものです。 テレビで不倫報道を扱わなければ、週刊誌も注目されず、大きな騒動にもならないと思います。『文春』を批判する人たちも、雑誌を買わなきゃいいし、読まなきゃいいんです。そうなって本が売れなくなったら、自然と芸能人の不倫が記事になることもなくなるでしょうね。 しかし、下世話な話に興味がある大衆がいる以上、そうなるとは思いません。バッシングを受けたくらいで『文春』は砲撃をやめることはないと思いますし、それで腰が引けてしまうほどやわじゃないです。それが週刊誌の矜持(きょうじ)だと思うのですが。

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    「不倫は社会悪」自分を良識派とみなす週刊誌と読者の薄っぺらさ

    佐伯順子(同志社大大学院教授、女性文化史研究家) 小室哲哉氏の引退会見がメディアで波紋を広げている。妻の介護に向き合う中、大人のコミュニケーションが取れる女性として担当看護師と親しくなり、これを「不倫」とする報道を受けて、引退会見へと発展した。小室氏以外にも、芸能界や政界の「不倫」報道によって売り上げ部数を伸ばした雑誌に対し、今回は逆に、報道側への批判が目立ち、編集側も想定外の逆風にとまどっているようだ。 なぜ、過去の「不倫」報道を受け入れた読者たちが、今回は一転して報道批判に回ったのか。その大きな理由の一つは、当事者が生活事情として「介護」を挙げた点にあろう。確かに、「介護」をどうするかは、現代日本において大きな社会的課題の一つである。ゆえに、会見に対する反響も、「不倫」よりもむしろ「介護」に関心が高まった傾向がみられ、私生活の背景を理解して、世間は情状酌量の余地を与えた。結婚外恋愛の報道の是非を問うよりも、介護や高次脳機能障害をめぐる議論が高まるという点で、これまでとは異なる展開をみせているのだ。 だが、ここではき違えてはいけないのは、「介護」や「障害」の有無と「不倫」の是非は、そもそも別問題であるということである。当事者が重なったために議論が錯綜(さくそう)しているが、私生活の苦労には、「介護」以外にも様々あり、「介護」や生活の苦労があるから、その癒しとしてなら「不倫」は正当化できるという風潮が生まれてしまうとしたら、明らかに間違っている。すべての既婚介護者が、それを理由に不倫をしているわけではないし、不倫どころか余暇の余裕もなしに介護に努めている女性、男性も少なくないのだ。 ただし、会見の締めくくり「なにか響けばいいな」に象徴されるように、彼の発言に社会的意義があるとすれば、彼が男性介護者であること、そしてその当事者の立場から、自身の介護体験を公的に赤裸々に語ったことである。その素直さは、少なからぬ男性が妻などの女性に介護を丸投げしがちな現状にあって、実にあっぱれである。記者会見で引退を表明し、涙を拭う小室哲哉さん=2018年1月、東京都港区 介護やケア役割は、日本の現状において、嫁や娘という女性に任せられがちであり、男性介護の当事者の「声」を幅広く共有できる機会は少ないだけに、大きな社会的意義がある。介護が女性役割とみなされがちなことは、それ自体も問題だが、男性にとってもまた問題であり、現状少数派の男性介護者は、気のおけない男同士で相談することもできず、孤立しがちである。 しかも、一部の医療従事者や薄情なタイプの家族であれば、「介護は苦労だし、本人も、心身が不自由で生きているくらいなら死んだほうがましですよね」という判断を下す危険性さえあるので、〈介護する/される〉〈ケアする/される〉行為の尊厳、そこから初めて見いだされる家族、あるいは人間同士の絆(まさに小室氏のいう「無償の愛」)の尊さをふみにじる例もある。小室氏が見いだした人間の絆 「女の子」のようになった妻に、むしろこれまでにない愛を見いだしたという小室氏は、家族のケア役割を担うことでしかわからない人間の絆を見いだしたのであるが、その思いを共有できる男性の友人を探すのは難しかった可能性が高い。 だからこそ、小室氏は、ケア自体を職掌とする女性看護師と思いを共有できたのであろうし、それが妻への思いとは別の精神的絆になったということは、他人の痛みに敏感な人間なら、十分理解できるはずである。 音楽という芸術活動の一部に関わってきた感受性の高い小室氏だからこそ、会見の中でその思いを、音楽ではないが、せめて言葉で表現したいという欲求にかられたのであろう。 昨今の地域社会には、高次脳機能障害の家族の交流機会や公的支援もあるが、職場と自宅との往復で、地域社会に溶け込む傾向も薄い(多くの)男性は、地域コミュニティーで悩みを共有するという解決手段を求めにくい。このため、仕事の忙しさを口実に家族のケアを怠り、それゆえに家族間の絆も薄れ、介護される側の命の尊厳を軽視する男性もままあるわけだ。 だが、小室氏が男性介護者としての役割を引き受け続けているのは、彼が仕事との両立の困難を口にしながらも、いわゆる自由業であり、日本社会の主流的ジェンダー観や組織的働き方から、比較的距離を置くことができる柔軟な立場にあったからであろう。音楽活動に取り組む小室哲哉氏 京都大のジェンダー研究者のグループで、まだ若い女性研究者が「乳母車を押すかわりに母の車椅子を押す人生でもいい」とつぶやいたので、感銘を受けた覚えがあるが、実際、赤子か老人かで体の大きさに違いがあるものの、自分で何もできず、心が子供のようになった身内をケアする営みは子育てに似ている。 子供の成長がうれしいように、心身が衰えた家族が、リハビリで文字通り一歩ずつでもよくなる姿を目にするのは、家族としてかけがえのない喜びである。高次脳機能障害の母を7年近く介護してきた筆者自身、そうなって初めてわかる人間の絆を切実に理解できる。 だが、このせちがらい世の中、介護を単純に負担としか考えない論調や、寝たきりでは生きている甲斐がないと決めつける、命の尊厳に対するきわめて薄っぺらい理解しかない浅はかな医療従事者(こうした発想は、根底では、障害者施設での殺人にも通じる、命に優劣をつける極めて危険な思想であり、偶然にも、期を一にして議論されている、強制不妊手術にも通じる問題である)も存在するので、小室氏の発言はその意味でも、介護という行為自体の尊厳を男性の側から世に問う重要なメッセージ性があったといえる。 会見からは、妻が音楽への興味を失ったことが小室氏にとっての失意をもたらしたことも伝わってきたが、音楽活動を共有してきた「同志」としての、結婚以前からのKEIKOさんとの関係の尊重は、妻の「価値」を家事・育児分担者としてしか認めない傾向が強い日本の(少なからぬ)夫たちの結婚観に比べれば、ジェンダー平等の観点からも、評価できる見解といえる。彼の発言から、妻の認知機能の低下により家事をしてくれなくなったから、「不倫」に走ったという実利的見解は、一切聞かれなかったのである。事例による報道の妥当性 さらに、「不倫」報道についていえば、倫理に反するとされる人間の行為には、殺人、窃盗など、姦通以外にも生死に関わる多くの犯罪、凶悪行為がある中、セクシュアリティに関わる結婚外恋愛のみが、「倫理にあらざること」=「不倫」とされるのは、立ち止まって考えればかなり極端な表現といえる。 江戸以前には不義密通と呼ばれていた姦通が、「不倫」と呼ばれるようになったのは、明治の「文明開化」期に、キリスト者や文明開化論者によって、一婦一夫が「人倫」の根本であると説かれたからであり、歴史的には決して古い言葉ではない。しかし、この表現に引きずられ、日本のメディアや世論がことさら強く「不倫」を非道徳的と認識している傾向は否めない。 歴史に照らせば、江戸時代以前の大名に側室がいたのは周知であり、経済的に余裕がある男性が妾を囲う現象は、明治期の尾崎紅葉の新聞連載小説『三人妻』、宮尾登美子の『櫂』、円地文子の『女坂』など、一夫一婦制が提唱された近代以降も描かれ続けている。 これらの事例で描かれる夫たちは、当然のごとく配偶者以外の女性と関係しており、一方で妻たちは耐える立場においやられているので、「不倫」に対する批判的報道は、こうした性についての二重基準を是正し、男女ともに配偶者に忠実であるべきという共通認識を提示する上では、一定の意義があると思われる。 ただし、私生活に過剰に介入する報道も、問題含みであることは確かである。夫婦関係に限らず、日本社会では戸籍が社会生活において重要な役割を果たしており、入籍=夫婦という枠組みが強固であるため、欧州のように、事実婚の出産に対しても寛容という世相にはない。 ゆえに、戸籍上の夫婦関係に対する背信行為については、メディアも一般市民も、必要以上に神経質になる傾向があり、情報の送り手も受け手も、自分たちの品行は差し置いて、「『不倫』は社会悪ですよね」と確認し、自分たちは「良識派」とみなして自己満足する、メディアと読者の共謀による「偽善の共同体」が形成されてしまいがちなのではないか。 振り返れば90年代には、『マディソン郡の橋』や『失楽園』のヒットで、逆に、不倫=純愛であるかのような風潮が蔓延したことがあった。こうした、「不倫」の過剰な美化については賛成できかねるし、配偶者への背信は、決して奨励されるべき行為ではない。愛人との旅行に公費が使われるような危険性に対しては、メディアは糾弾するのが妥当であるし、公人であれば私生活にわたる報道も覚悟せねばならない。 だが、過剰に私生活に干渉する報道もまた適切ではないので、事例によって報道の妥当性を、個別、慎重に見極める姿勢がメディアには求められる。 小室氏の例では、公費横領などの社会的不善を犯したわけではないので、当事者の小室氏自身は、男性介護者としての責務(女性なら多くの場合当然のように引き受けてきた任務)を粛々とまっとうされ、メディアもこれ以上騒がないことが、報道する側、される側、双方にとっての「人としての道」であると思われる。

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    芸能ゴシップ好き日本人にみる「文春逆炎上」の正体

    の声も少なからずあり、これはそれまでの文春砲の対象に向けられる視線と遜色ない。 私自身は、これまで別メディアで小室氏自身の心理にも言及してきたが、加えてお相手とされる看護師の女性には苦言を呈したい。看護師や、われわれのような臨床心理士もそうだが、医療や相談、カウンセリングに関わる対人援助職の多くは、患者やクライアントが悩みや不安を抱えたり、心身が弱っているときに仕事を通して接することがほとんどである。 そのような関係性の中では、患者からの好意を持たれやすいことはプロフェッショナルならば誰もが認識しているはずだ。そこには一線を引いて対応しなければならないというのは基本中の基本であり、常に留意しておかなければいけないところでもある。 もちろん、プライベートな関係性につながる人と人との出会いにもなりうることは否定しない。しかし、もし仮に看護師自身が患者に好意を抱いてしまったならば、担当を外れることが定石であり、それができなかった彼女は「プロ失格」と言われても反論の余地はないであろう。小室哲哉が「大好き」な日本人 少し話はそれたが、今回なぜ小室氏に対する批判が少なく、結果的に文春に対する風当たりが強くなったのか、それは日本国民における小室氏の存在の大きさに起因していることに他ならない。 小室哲哉氏はいうまでもなく1990年代にJ-POPを牽引(けんいん)した音楽プロデューサーであり、空前のヒットを生んだTRF、安室奈美恵、華原朋美、鈴木あみ、篠原涼子、globe、H jungle with tらを手がけ、間違いなく時代を体現する存在であった。関連CDの総売り上げは1億7000万枚以上を記録し、1996年にはオリコンシングルチャートのトップ5を独占したこともあった。 つまり、それだけ日本人は小室氏が「大好き」なのである。年代の差はあれど、生み出した曲の知名度や手がけた有名アーティストの人数からしても存在は絶大であり、他の文春砲をくらった芸能人・有名人とは、支持者の多さからみても格が違うともいえる。また、一般的な心理的傾向として過去の思い出は実態以上に美化される傾向があり、今回の件を通じて改めてノスタルジーに浸った日本人も多いはずだ。1996年11月、小室哲哉がプロデュースしたglobe、安室奈美恵の小室ファミリーが集結し、ライブを行った 米国の心理学者であるレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という概念がある。これは、人が矛盾する認知(考え方)を同時に抱えた状態を指すが、そもそも人は誰しも言動の整合性を保とうとする心性があり、矛盾や葛藤を抱えた状態はストレスにつながる。要するに、自己が一貫性を維持できていない状態は非常に「気持ちが悪い」のだ。 前述のように、小室氏を「大好き」な日本人が「小室氏の不倫」という嫌悪し攻撃に値するネガティブな事柄に向き合ったらどうなるか。「大好きな人を批判し攻撃する」というのは基本的に矛盾した言動である。たとえそれが自分の地位を相対的に高めるものだったとしても、潜在的にモヤモヤするのが普通なのである。 今回の場合、そのような認知的不協和を解消する方法は二つある。まず一つは、矛盾する二つの考えや行動のどちらかを変えることだ。つまり「小室氏を嫌いになって批判する」か、「小室氏を好きなまま批判しないことにする」のどちらかになることだ。前者の場合は、「嫌いな人を批判する」となり矛盾はなくなり、後者の場合も「好きな人を批判しない」となりモヤモヤすることはない。だが、小室氏は、前者を選ぶには世間にとって偉大すぎる存在なのだろう。今回の「文春逆炎上」の正体 もう一つは、「大好き」と「批判したい」という二つの矛盾する認知を両立することであり、これが今回の「文春逆炎上」の正体である。すなわち、「小室氏に対して好意的な感情を持ったまま、批判する感情は表出したい」、その気持ちの行き着く先が文春砲だったのだ。そして、介護に疲れた同情すべき、「大好き」な小室氏の助け舟にもなりうる批判を、憎むべき文春に向ける、という個人の一貫性・整合性を保った心理的ストーリーが完成したのである。 過去に文春砲にさらされたロックバンド、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音氏は、この機に際してツイッターで「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」と投稿している。これが小室氏の騒動に関連したものだとすれば、「音楽業界の偉大な先人である小室氏は批判したくない、でも文春を攻撃するのは過去の自分を正当化しているとも取られかねない」という葛藤した心理が働いた末、第3の攻撃対象を見いだしたのかもしれない。2017年5月、約5カ月ぶりに活動を再開して行った復活ライブを終え、マスクをして会場を後にするゲスの極み乙女。の川谷絵音(撮影・早坂洋祐) またタレントのヒロミ氏も、フジテレビの番組内で「文春が悪いとは思わない」としたうえで、「世の中がスポンサーに言うとかして、(スキャンダルを報じられた芸能人が)テレビに出づらくなくなる。世の中の人たちでしょ、そうやって葬り去ってるのは」と言及しており、小室氏も文春も批判したくない矛盾した心理をこの発言で解消しているようにも見受けられる。 一部には「不倫報道にはもう飽きた」という声があるものの、文春砲に対する批判は小室氏に特異的なものであり、継続的な影響は限定的であると考えるのが自然だ。次の不倫報道が出た際には、これまで通り批判しやすい炎上芸能人・有名人が現れてくることだろう。また仮に、多少矛先がそれたとしても、どこかの誰かに対する批判は永遠になくならない、ということは明らかなことである。そうして人は一定程度の健全な自己を保っていくものなのだ。 しかし一時的であるにせよ、プライベートの報道のあり方や倫理観に一石を投じた小室氏の会見やその存在は、一つの問題提起として意義のあるものであった。また、先の見えない高次脳機能障害の家族に対する介護の現実や大変さについて身をもって世の中に伝えたことは、同じく壮絶な介護を過去に経験したり、そのただ中にいる人たちの思いを世間に代弁することにもなりうるという意味で、介護者として生きていくことを決めた彼の新たな功績と位置付けられるべきではないだろうか。

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    小室哲哉不倫報道論争 逃げ場を残すのは報じる側の矜持

    が行われたが、小室さんのケースほど“拒否反応”が強かったものはなかった。上智大学教授の碓井広義さん(メディア文化論)の話。「一昨年の1月のベッキーさんの騒動以来、不倫報道が急増したのは、週刊誌という活字メディアがネタを作り、テレビはそれを追いかけるだけでラクに視聴率が取れたから。一昔前なら“不倫は下世話”と躊躇したはずが、視聴率を稼げるコンテンツと見たテレビはワイドショーのみならず報道番組でも扱うようになった。この2年間は、“不倫報道バブル”といえる状況でした。しかし、小室さんの件で、このバブルも天井にさしかかり、冷静になりつつあるように感じます」KEIKOの気持ちは誰にもわからないKEIKOの気持ちは誰にもわからない「KEIKOさんはホッとしてるかもわからないよ」。情報番組でそう語ったのは演出家のテリー伊藤だ。 小室さんの妻で、『globe』のボーカル・KEIKO(45才)は、2011年10月にくも膜下出血で倒れ、現在もリハビリ中。小室さんは会見で、KEIKOが音楽に関心を持たず、小学4年生の漢字ドリルを楽しんでいる様子や、会話や集中力が続かないことなどを明かし、介護で心身ともに疲れ果てていると告白した。 テリー伊藤はこう続けた。「奥さんが倒れたとか、ご主人が倒れたとか、その時に旦那がまだ若いから“ちょっと他の人と遊んでもいいわよ”という気持ちを持っている可能性もありますよ。(中略)私、倒れているから、あなた浮気していいわよ、みたいなね(中略)それはもう、その夫婦にしかわからない」小室哲哉、KEIKO夫妻=2008年05月撮影 小室さんは今回の騒動をKEIKOに説明したが、どれだけ理解できているかわからないと語った。夫ですらそうなのだから、KEIKOが今思っていること、感じていることは、他人の誰にとっても想像にしかすぎない。「不倫」とは結局、夫婦の問題だ。もし他人やメディアが不倫を糾弾できるとしたら、それは“夫(妻)の立場に立つ”という建て前があってはじめて、“不倫は許せない!”と怒ることができるはずだ。 たとえば、渡辺謙(58才)の妻・南果歩(54才)は、発覚から半年以上経っても怒り心頭で夫に自宅の敷居をまたがせていない。上原多香子(35才)の夫・TENNさんは妻の不倫を知って自死を選んだ。夫婦の信頼を裏切った──それが周囲が不倫を追及する根拠だったのだ。 しかし、今回の場合はテリー伊藤が言うように、KEIKOの気持ちは誰にもわからない。小室さんへの信頼も揺らいでいないかもしれない。文春が「裏切り」と書いても、“裏切っているかどうか”は誰にもわからないところに、今回の不倫騒動の特徴がある。 ロンブー淳も自身のラジオ番組でこう話している。「KEIKOさんの今の気持ちを誰も推し量れないことを考えたら、他人が人の不倫をいいとか悪いとかジャッジを下すのはどうなのか」 ジャーナリストで、元週刊文春記者の中村竜太郎さんが指摘する。「日本で介護が必要な人は現在640万人で、小室さんと同じような立場の家族やお世話をする人はその何倍にもなります。だから、小室さんの苦労も、KEIKOさんの置かれた状況も身に染みてわかる。もしKEIKOさんに判断能力があって、小室さんと大人同士の会話ができる状態であれば、ここまで“報道が悪い”とならなかったのではないでしょうか」 小室さんが早々に引退したことも、他の不倫騒動とは一線を画す。ベッキーは最初の会見で“不倫していない”と嘘をついたし、今井絵理子議員(34才)は「一線を越えていない」という言い訳をして炎上した。「小室さん自身が会見で、60才を手前に音楽活動の限界を感じていたと話しているのだから、不倫疑惑だけが引退の理由ではない。しかし、小室さんの引退があまりにショッキングだったので、短絡的に“週刊誌が追い込んだ”となってしまっているところがある」(前出・中村さん)最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持 フリーアナウンサーの高橋真麻は情報番組でこう問うた。「『もう書かなくていいのに、かわいそうだよ』という感情がこんなに出たのは久しぶり。税金で暮らしているとかじゃないから、政治家の汚職ならちゃんと暴いてほしいけど、芸能人の不倫をここまで書いちゃってどうなのかな」 宮崎謙介元議員(37才)や山尾志桜里議員(43才)、今井議員など、人格まで含めて有権者から判断されるべき公職の政治家と、複雑な恋愛事情さえ、時に“芸の肥やし”になるようなアーティストを同列に並べて断罪することに疑問を投げかける声も多い。 もちろん、小室さんに厳しい意見もあり、テレビでは、「介護疲れをしてたら不倫していいとは絶対ならない」(ジャーナリスト・木村太郎さん)、「引退がすべてのけじめにならないと思う」(坂上忍)という声も上がった。『週刊現代』元編集長の元木昌彦氏『週刊現代』元編集長の元木昌彦さんはこう言う。「週刊誌は創刊以来、不倫を含む『スキャンダル』と『メディア批判』は大きな柱。けしからんという声は昔からあるが、そこは揺るがない。文春だって引退させたいと思っていたわけではないだろうし、多少の批判で撤退するほど週刊誌はやわじゃない。これだけ不倫報道が注目されるニュースならば、今後も情報が手に入れば不倫報道は続くだろう」 とはいえ、週刊誌のスキャンダル報道にも“一線”があるはずだ。介護で追い詰められた小室さんの精神状態は、行き場をなくし、引退に至った。人間臭いスキャンダルを追うからこそ、人間の気持ちを理解し、最後の逃げ場は残しておく──それも報じる側の矜持だ。 高橋みなみの次のコメントが多くの人の心情を代弁するのかもしれない。「小室さんの会見を見てたら涙が出てきた。誰がこの会見を見て言葉を聞いて、責められるのだろうか。何が正義なのかわからない」関連記事■ globe・KEIKO ゆず・北川悠仁と本気で結婚したがっていた■ 記憶を取り戻したKEIKO 小室哲哉の呼びかけにglobe歌う■ 小室哲哉「不倫引退」への同情をどう滲ませるべきなのか■ 秋元優里アナも? 真面目な人ほど「車内」にハマる傾向■ 高岡早紀 ハワイ留学した17才次男のとんでもない問題に直面

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    なぜ週刊文春はLINEと組んだのか?

    スマホやタブレットでニュースを見る割合が格段に増え、スマホで見ることを前提にしたITベンチャー系新興メディアによるニュースアプリが相次いで登場、若者層の支持を得て急成長している。しかし、玉石混淆とも言えるニュースアプリが乱立する中で、ニュースを見る読者の目も肥えてきている。「質」が伴わないとアクセスは稼げなくなることは必定で、いかに他社にない独自性を出すかにかかっている。 「経済情報で、世界を変える」という目標を掲げて15年4月にスタートしたソーシャル機能を兼ね備えた、経済ニュースプラットフォームのニューズピックス「NewsPicks」。梅田優祐社長は「現在、会員ユーザー数(有料と無料の合計)は約200万人(昨年12月末)、その中で約3万人が有料課金ユーザー。1、2年後にはこの有料ユーザーを10万人に増やしたい」と強気の見通し。コンテンツについては「広告モデルのニュースサイトである限りは広告を意識せざるを得ないから、ジャーナリズムは成り立たない。広告やPVに左右されない有料コンテンツ(1日10本程度)の配信を重視していきたい」と話す。 同社は約90以上の国内外の経済メディアなどからの記事の提供を受けると同時に、東洋経済新報社出身の編集長を起用するなど編集スタッフを充実させている。これを生かして「NewsPicks」編集部が独自に取材する旬のトピックスなどの記事も配信、記事に対してその分野に詳しいユーザーがコメントを掲載する。また月曜日の朝に6回続きの話題のテーマや人物についての連載記事の予告を流す。ここまでは無料で読めるが、本編は有料。予告を流すことで有料購読を促す仕掛けだ。本編は昼休み時と帰宅後に読む時間がある9時ごろの時間帯に流す。ソフトバンクの孫正義氏がクローズアップされると、すぐに専門のライターに孫氏にフォーカスした長文の読み応えのある記事を書かせるなど、タイミングを逃さない。記事、図表、写真のスタイル、デザインはスマホの画面で見やすいように加工している。購読料は月額1500円(税込み)。購読を決めるスマホの手続きは1回か2回クリックするだけで完了、新聞社系サイトと比べると煩わしさがない。LINE株式会社のオフィスにある「LINE」のロゴ=東京都新宿区 LINEは、150社のメディアからニュースの提供を受け、「プッシュ型」で広告モデルを中心にラインニュース「LINE NEWS」を提供している。SNSブームを背景に「LINE NEWS」を見るアクティブユーザー数が10歳代から40歳代を中心に、月間利用者数が4600万人(昨年12月末)と急激に伸びている。 「やさしいニュース」というコンセプトの無料ニュースサイトだが、昨年12月に「週刊文春」と提携、今年1月から「文春砲」と呼ばれる特ダネを「文春」発売日の朝7時にLINEの有料サイトにアップするサービスを始めた。「文春砲」は昨年、芸能ニュースのスクープだけでなく、甘利明・前経済再生担当相や舛添要一・前東京都知事の「首」を取るなど、マスコミ界を揺るがせる報道ぶりが光った。LINEにとってはスクープ記事でサイトへのアクセス数が稼げ、「文春」はLINEのサイトに先行させて話題作りができる。週刊誌とSNSサイトの共同作戦といえる。 12年にスタートしたスマートニュース「SmartNews」は新聞、通信、雑誌など2000以上からニュース提供を受けているニュースアプリ。高速でカテゴリーごとの表示ができるなどスマホでの使い勝手の良さから、幅広く読者層を増やしている。広告モデルを展開、記事の提供先に読者を誘導し、広告収入をスマートニュースと提供先が分け合う形だ。スタッフに編集経験者は少ない。何千という記事の中からAI(人工知能)も使った機械がプログラムで記事を選ぶ仕組みだ。新谷学編集長に聞いた 松岡洋平マーケティング・ディレクターは「大量で多様な記事の中から人間が記事を選ぶ時間はない。有料無料を問わず、『よりたくさんの記事の中から、読者の反応などを見ながら機械が選んだ』記事を求める読者も多い。ニュースの見方もいろいろあり、スマホを使って短時間で心地よく見たいというニーズに答え、読者をさらに増やしたい」と話す。ITを使うことで、同じような内容に記事がダブった形でアップされることを防ぐことができるという。社員の6割以上がITエンジニアで、まさにエンジニアによって作られるニュースアプリだ。しかし、人権、差別問題と言った編集上の微妙な判断が求められる記事をAIが判断するのは難しい。大量の記事を機械がさばきながら、編集の質をいかに確保するかが、ここでも問われている。 ニュースサイトがどれくらい見られているかを示す数字として、ページビュー(PV)やアクセス数がよく使われる。しかし、実際に利用者が閲覧する回数よりも多めに表示されることも多く、注意する必要がある。PVの計算方法は、同じ人が10回閲覧しても、10人が1回ずつ閲覧してもページビューが10増えたように表示される。一方で、ユーザーが同一人物の場合には複数回閲覧しても1として数える手法もあり、ユニークユーザー数とも呼ばれる。LINEが言う月間アクティブユーザー数というのは、1カ月の期間内で同じ人が複数回アクセスしても1として数えるユニークユーザー方式で、「アクティブ」と付くのは、1カ月に1回以上利用していれば「アクティブに利用しているユーザー」とみなすという意味だ。 その場合でも、職場のパソコンでニュースを読んで、帰宅してから自宅のパソコンで同じニュースの続きを読んだ場合は、読んだ人間は同じでもアクセス数は2回にカウントされる。読む人は同じでも、パソコンやタブレット、スマホなど異なる端末からアクセスできる時代になっているため、厳密な意味での別人が何回アクセスしたかを調べるのは難しい。 また、検索エンジンが各サイトを巡回する際の機械的なアクセスや、ニュースアプリから自動的にコンテンツを拾ってきて何らかの処理をする人工知能のようなプログラムなども1人としてユーザー数に含まれる。このような、人間の代わりに自律的に動いてくれるプログラムを一般的にbot(ボット)と呼ぶ。有料サイトであれば契約数という確実な指標があるが、無料サイトの場合、botと人間を区別することが難しいため、正確な利用者数を把握するのは難しいのが現状だ。このため、月間アクティブユーザー数はサイトの規模を表す一定の指標にはなるが、算出方法の厳密な決まりがあるわけでなく、サイトによって計算方法がまちまちなことが多い。悪質な業者は、botを使って自社サイトの閲覧数を水増しすることで広告料を稼いでいる例もあるようだ。『週刊文春』 ニュースサイト間の競争がし烈になる中で、LINEとの提携に踏み切った「週刊文春」の新谷学編集長(52歳)にその狙いについてインタビューした。Q 「週刊文春」がネット(LINE)にスクープ記事を提供する理由はA 新谷編集長 昨年はスクープが多く出たので「週刊文春」は前年比較で10%伸びたが、私が編集長になった12年からみると、徐々に減ってきている。これまで予告記事はヤフーなどの無料サイトに提供してきたが、「文春」ブランドに注目が集まる中、新たな読者を増やしたいので、有料でスクープ記事を全文提供することにした。新規読者の開拓にはデジタルが最も有効だと考えた。Q LINEと提携した理由はA 提携先をどこにするかヤフーとLINEの両社と協議した。最終的にはLINEの方が「熱意」が感じられ、決断が速かった。20歳代から40歳代の女性が多いLINEの読者層はマーケットとしても魅力的だった。Q 有料で提供する狙いはA 無料のニュースコンテンツからは良質な記事は生まれない。いままでは、ヤフーなどプラットフォーマーがコンテンツを提供する側よりも力関係が上だったが、良いコンテンツを作れば向こうから「お金を払ってもいいから掲載させてほしい」と言って来るはず。これからは良質なコンテンツを武器にプラットフォーマーとの関係を正常化させたい。そうすれば取材費、人件費をかけたクオリティの高いコンテンツを提供し続けることができる。Q  LINEで見る料金を1回240円にした根拠はA 雑誌の価格が400円で、ネットの場合は印刷代や紙代が掛からないこと、特集しか読めないことなどを考えて決めた。コンテンツビジネスにおいては適正な価格設定が重要だ。Q 文春は自社のサイト「文春オンライン」を立ち上げたそうだがA 1月25日に開設した。当初は「月刊文藝春秋」「週刊文春」などのコンテンツの一部を無料で掲載するが、近い将来は課金ができるサイトを目指すべきだ。なかにし・とおる  経済ジャーナリスト  1948年岡山県生まれ。1972年共同通信社に入社、経済分野を取材し編集委員などを経て2010年に退職し、現在は経済ジャーナリスト。【訂正】BuzzFeed Japanに関する記事および、古田大輔・創刊編集長へのインタビューにつきまして、多数の間違いがありましたので、当該カ所につきまして、削除させていただきます。

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    共同通信「松吉」署名ツイートと山中教授「印象操作」の根深い病理

    、記事を読んだものに偏見(バイアス)が生じる可能性が高いものをいう。共同通信社が入る東京・港区の汐留メディアタワー=2009年5月撮影 共同通信が1月25日に配信し、当初は「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事が問題の「印象操作」である。ネット世界でもこの報道は批判の対象として論じられ、また一部の報道でも「印象操作」とするものがあった。なぜこの記事が「印象操作」かを、以下で簡単に説明したい。 京大iPS細胞研究所に所属する助教が作成し、専門雑誌に掲載された論文に不正が発見された。当初は外部からの通報から始まり、委員会を立ち上げて調査し、その不正を確かめた。研究所の所長である山中氏は記者会見の席上で謝罪したが、それは社会通念上からは妥当だったろう。 現在、大学を含む研究機関では研究者が不正を行わないことを厳しく求める研究者倫理の研修も行われている。ただし、単に研究者倫理だけを声高に求めても、研究者側に動機付けがないと問題の解消にはならない。例えば、期限付きの研究職の採用だと、その期限内で一定の研究成果を厳しく求められているケースが多いだろう。もし、その成果のハードルが研究環境や研究者の能力を超えるものであったならば、今回のような不正行為が生まれる可能性がある。今回の不正がどのような動機付けで行われたかは不明だが、論文不正は研究者倫理だけの問題ではない。 記者会見では、山中所長の責任や辞任の可能性について質問する記者がいて、そのことも報道で広まっていた。その中で今回の共同通信の報道があった。だが、筆者は記事を読んだときに、いったい何が問題なのかさっぱりわからなかった。 「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」の「科学誌」とはその不正論文が掲載された専門雑誌のことを指す。記事からの印象では、あたかも山中氏がその雑誌の創刊にかかわったことで「何か問題をはらむ」かのような印象をもたらすものだった。このような印象に誘導された人は筆者だけではない。多くの人たちが同様の印象を持った。 もちろん専門雑誌の創刊にかかわることと、今回の不正論文がその専門雑誌に掲載されたことには、全く関係がない。特に不正にかかわる因果関係もなんらない。だが、記事はそのような注記もなく、なにか問題があるかのように「匂わせた」のである。まさに「印象操作」といっていいだろう。「謝ったら死ぬ病」に感染したマスコミ この「印象操作」はネットを中心にして専門家や識者、そして一般の人たちから猛烈な批判を浴びた。一部報道によれば、共同通信側が「新たな要素を加えて記事を差し替えました。編集上、必要と判断しました」とのことで、ネット配信の記事のURLは同じまま、内容を大幅に書き換えた。この行為はおそらく多くの読者に不信を引き起こしただろう。また共同通信の配信を利用している地方紙では「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と見出しがそのままに大きく取り上げられた。ネット上の批判を知らない人たちにとって「印象操作」は放置されたままである。 だが、共同通信は今回の件で反省もなければ、もちろん山中氏や読者への謝罪もないままだ。経済評論家の上念司氏は今回の問題をうけて次のように指摘している。共同通信の山中教授を巡る印象操作記事で分かったこと。マスコミは「謝ったら死ぬ病」に罹っている。しかも、記事で批判する対象にも「絶対に間違えない」ことを強要し、謝罪、訂正はむしろ叩きまくり。まさに「謝ったら死ぬ病」の感染源だな。お前はアンブレラ社かと。上念司氏の公式ツイッター 実際に、共同通信が「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事は、上念氏が指摘するように、記者会見で謝罪した山中氏をさらに「叩く」要素があることは誰の目にも明瞭だろう。対して自社の記事については誤りを率直に認めない姿勢も今回はっきりしている。ちなみに「アンブレラ社」とは映画やゲームの『バイオハザード』シリーズで、ゾンビを生み出す根源となった企業名である。ゾンビものが好きな上念氏らしい表現といえる。京都市内で講演する京都大iPS細胞研究所の山中伸弥所長=2018年1月24日 もちろん「絶対に間違えない」「謝ったら死ぬ病」で表されるメディアの無謬(むびゅう)性へのこだわりは、なにも今回の共同通信の件だけではない。新聞やテレビなどのマスメディアでも陥りやすいだろうし、筆者を含め識者たちも陥りやすい罠ともいえる。今回の共同通信の件はその意味でも、公に意見を表明する者が深く教訓とすべきだろう。 前述のように、共同通信からはまだ何の反省の声もない。このことに関して、筑波大学の前田敦司教授が興味深い指摘をしている。共同通信といえば、こんな事件もあった。電通からカネをもらって特定の薬を持ち上げる記事を(広告とせず)配信していた。証拠を突きつけられるまでは否定。前田敦司氏のツイッター加計問題でもうかがえた「印象操作」 これは前田氏も参照している記事に詳細に書かれているのでそれをまず参照してほしい。記事を読めば、いかに共同通信の無謬性へのこだわりが強いかが少なくともわかるだろう。もし、報道記事がある程度の客観性を持つことを要求されるならば、無謬性はもっとも否定しなければならない態度である。常に反証可能性に開かれた態度でいなければならない。 筆者はこの山中氏に関する記事を共同通信の公式ツイッターで見た。そのツイートには「松吉」という署名があった。「松吉」はイニシャルなのか本名なのかはっきりしない。ただ、「松吉」の署名が記載されたツイートが参照している記事は多くなく、その意味では特に強調したい記事にこの署名が利用されているのだろう。 この「松吉」の署名記事で興味深い特徴があったので、加計学園問題を例として取り上げる。共同通信の記事から、具体的な加計学園問題の、そもそも「問題」が具体的に指摘されたことはないだろう。いままでも論点として提示されたものの根拠は、前川喜平前文部科学事務次官の証言だけである。「松吉」の署名ツイートでは、一貫して加計学園問題について徹底的に追求する姿勢が綴られ、また前川氏に関しては「官邸からすさまじいプレッシャーを受けながら、逆境をはね返した前川氏の内面の強さ、心の原点にスポットを当てた」とされる他の記者の署名記事を参照するものがあった。共同通信の公式ツイッターで、「松吉」署名のツイート 「官邸からプレッシャーを受けたとされながらも、『捨て身』の証言を行った前川氏。6月23日の日本記者クラブでの会見にそのヒントが隠されていました。(松吉)」というが、そのような前川氏の内面の「強さ」を報じることは、彼を政権批判の英雄として祭りあげることになりはしないだろうか。実際にこの記事が公表された前後は、前川氏をそのような政権批判のヒーローとして扱う人たちもいた。 そもそも「官邸からのプレッシャー」が本当にあったかなかったかも問題の大きな論点であろう。これが実際あったかなかったかでも大きく報道の「印象」は変わる。だが、その種の検証をこのツイッターの投稿も記事自体も行ってはいない。その意味で、この記事もまた「印象操作」に堕しているといっていいだろう。 今回の山中氏に関する報道は「印象操作」の氷山の一角なのだろうか。その点はより地道な検証が必要だろう。だが、ぜひ共同通信、またそれに限らずマスメディアはネットを含む世論の批判を柔軟に聞く耳を持つべきである。今回の山中氏についての報道とその後の対応は、その意味であまりにも頑迷だからである。

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    ウーマン村本よ、国民を「愚民視」しているのは誰か

    井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授) 2018年元旦に放映された「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」(以下「元旦朝生」と略記)の中での、憲法9条と安全保障問題に関するウーマンラッシュアワー村本大輔の発言が、その後、ネット上で物議をかもしているということで、同じ番組に出演した私がオピニオンサイトiRONNAからコメントの寄稿を求められた。 ネットの「炎上」は無視するのが私の基本方針である。しかし、村本は番組後、ツイッターで「元旦朝生」での私の発言についてデマを流布し、それが発火剤となって「東大教授の井上が偉そうに庶民をばかにしている」という類の井上バッシングも高まっていることを人づてで知らされた。これは憲法9条問題に関する私の立場に対しての完全な誤解・曲解であり、これを放置することは、私の名誉が傷つくということ以上に、憲法改正問題に対する国民の的確な理解を妨げることになるので、一言、コメントを寄せることにした。 村本のデマとは彼のツイッターでの次の発言である。村本大輔(ウーマンラッシュアワー)ツイッターより井上達夫さんには、君は愚民だ、と。小林よしのりさんにも、愚民思想だ、と。そして高須先生には国賊だ、と言われた。ぜひ3人におれの愚民国賊根性を叩き直してほしい。――村本大輔(ウーマンラッシュアワー)‏@WRHMURAMOTO  私は村本に「君は愚民だ」などとは言っていない。「愚民」ではなく「愚民観」という言葉を私は使ったが、それは番組の終わり近くで私が村本に対して話した、次の発言においてである。村本君の発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。国民はよく分からないからとか。君は一見、国民の目線に立っているようだけど、実は、上から目線で見ている。(自衛隊・安保の存在が、戦力の保有・行使を禁じた憲法9条2項に反することは)ちゃんと説明すれば小学生でも分かる。これ(愚民観)は護憲派と同じ。(護憲派は)憲法改正プロセスはなんとしても発動させたくない。なんとなれば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる、日本は軍国主義に走る、と。日本の国民を信用していない。 上の発言から明らかなように、私は「村本は愚民だ」と言ったのではなく、まさに真逆のこと、「村本は国民の目線に立つふりをしているが、実は、国民に憲法のことなどよくわかるはずがないと、上から目線で国民を愚民視している」と言ったのである。 そして、より重要なことだが、憲法改正プロセスを発動させて、自衛隊・安保の現実と9条との矛盾の抜本的解決につき、国民投票で国民の審判を仰ぐ機会を国民に提供することをかたくなに拒否し続けてきた護憲派論客こそが、まさにこのような愚民観に立って、国民の憲法改正権力の発動を封じ込めてきたことを指摘したのである。彼ら護憲派は、愚民である国民に国民投票などさせたら、ひどいことになるぞ、9条だけが愚民たる国民が軍国主義へと暴走することの歯止めになっているのだ、と主張している。村本が「愚民観」を吐露した2点 私は『憲法の涙』(毎日新聞出版、2016年)、『ザ・議論!リベラル対保守究極対決』(小林よしのりとの共著、毎日新聞出版、2016年)、『憲法の裏側 明日の日本は……』(香山リカとの共著、ぷねうま舎、2017年)など、一般市民に向けた一連の著書や、テレビ討論で、このような護憲派の愚民観を、これまで繰り返し批判してきた。東京大学大学院法学政治学研究科教授の井上達夫氏 最近の一例を挙げよう。昨年6月13日のBSフジ「プライムニュース」で私と議論した、代表的な護憲派憲法学者の1人である石川健治(東大教授)は、私に対し、「でも、9条をなくしたら、日本は軍国主義に戻ります。そうしたら、表現の自由、政治的言論の自由も弾圧される。井上さんは好き勝手な言論ができてるけど、それは憲法9条があるおかげですよ」という趣旨のことを述べたが、これに対し、私は最近著で次のようにコメントしている。9条が何かしら重しになって、魑魅魍魎を、悪魔、デーモンを抑えつけている、と。そのデーモンとは何者か。もし、デーモンが出てくるとしたら、日本は民主国家なのだから、それは軍国主義に狂い暴走する国民自身でしょう。しかし、いまの日本国民が9条変えたら狂うはずだなどという愚民観を偉そうに説く石川は何様のつもりなのか。国民に憲法価値を発展させる能力などないから、「賢明なる憲法学者」のご託宣に従えという彼は、プラトン的哲人王でも気取っているのか。彼は国民を責任ある政冶主体としては認めていない。(前掲『憲法の裏側』164頁) 護憲派学者が愚民観をもつという私の主張を「元旦朝生」で村本が理解できたかどうかは分からない。しかし、この番組の中で、結果的に彼が、護憲派学者が喜びそうな愚民観を吐露したことは事実である。これに関し、2点、触れておこう。 第1に、村本が「自衛隊がなんで違憲なんですか」と質問したのに対し、私が「君は憲法9条2項を読んだことがあるのか」と聞くと、「ありません」と答えたので、私が「自分の無知を恥じなさい」と言った。これに対し、村本は、自分は普通の庶民の声を代弁しているのだとし、自分への批判をかわそうとした。これは実に卑劣な論点回避であるだけでなく、彼が庶民を愚民視していることを暴露するものである。村本の卑劣な「論点そらし」 村本は政冶漫才で「これの問題は何か知っているか」と、お笑いによる庶民の政治的啓蒙(けいもう)活動をしている。昨年末のテレビのお笑い番組「ザ・漫才」で日本の原発など重要な問題について、なかなか切れ味のある突っ込みギャクで聴衆を笑わせた。私もこれを見たので、「元旦朝生」の放映前の打ち合わせで私の隣に座った彼に、「あれ面白かったよ」と感想を述べた。こういう漫才による政治的啓蒙をやっている村本が、改憲論議の焦点になっている9条2項を読んだことがないと居直ったので、私はあぜんとして「自分の無知を恥じなさい」と戒めたのである。私は、いっぱしの啓蒙家を気取る村本個人が当然有すべき最小限の基本知識を欠くことを𠮟ったのであって、庶民の無知を侮蔑したのではない。しかし、彼は卑劣にも、自分個人が矢面に立たされるのを避けるために、庶民は9条2項など読んだことがないと論点をそらしたのである。お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔=2015年8月10日、東京・豊洲(今井正人撮影) しかも、この論点そらし自体が庶民をばかにしたものである。戦後憲法の柱の一つである戦力放棄を定めた憲法9条については、例外はあるかもしれないが、普通の庶民も、神学論争などといわれる学者・政治家の解釈論争のことは知らなくても、その条文くらいは中学・高校の社会科の教科書や授業で一度ならず読んだはずである。憲法論議が再燃している近年、テレビのお茶の間向けワイド・ショー番組やニュース番組でも、頻繁に、9条1項・2項の条文はフリップ・ボードで聴衆に見せられている。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という2項の条文を虚心坦懐(たんかい)に読み、これを自衛隊・安保という軍事的現実と比較するなら、学者・政治家などのエリートの詭弁(きべん)に毒されていない庶民は当然「何かおかしい」と思うはずである。 私はこの庶民の感覚こそが正しい、間違っているのは自衛隊・安保の現実と9条との矛盾を隠蔽してきたエリートたちの詭弁の方であると主張してきた。ところが、村本は庶民感覚から発せられるべき「なんで自衛隊が合憲なんですか」という問いを発せず、「なんで自衛隊が違憲なんですか」とエリートの詭弁に媚びた問いを発し、さらに、「9条の条文も読んだことのない庶民」というイメージを一般国民に重ねた。これは国民に対し失礼なだけではない。9条問題につき憲法改正国民投票で国民の審判を仰ぐことを拒否したい護憲派の憲法学者・知識人たちは、村本のこの庶民像を歓迎し、「そら見たことか、9条の条文すら読んだことのない国民に憲法改正国民投票などさせていいわけがない」と主張するだろう。「国民投票=愚民誘導」論を振りかざす村本 第2に、憲法改正国民投票が政治的アジェンダにのぼり、国民が主権者としての選択を迫られる立場に置かれると、それまで無関心だった人々ですら、真剣に自分たちで問題を考え議論するようになるということを、これまで世界中で行われてきた2500件以上の国民投票についてのデータを網羅的に収集し解説した最近の文献(今井一・他編著『国民投票の総て』[国民投票/住民投票]情報室、2017年)に基づいて私は指摘した。これに対し、なんと村本は「英国のEU離脱国民投票は、国民が離脱派のフェイク・ニュースにだまされてやったんでしょう」と言ったが、これは「国民投票は危険なポピュリズムの温床になるから、やめろ」と主張する護憲派エリート学者がよく行うのと同じ反論である。(iStock) 英国国民投票では投票前に、多数の国民が参加した公開討論やテレビ広告などで離脱派のEU分担金などに関する偽情報は徹底的に批判され、EU残留と離脱とのコストと便益に関する適切な情報が提供された上で、EU離脱派が勝利したこと、離脱派のフェイク・ニュースに国民がだまされたという主張の方が、負けた残留派が国民投票の後に流布させたフェイク・ニュースであることを前掲文献の調査報告に基づいて私は指摘した。EU離脱英国国民投票が離脱派による「愚民誘導」の結果だとする虚偽の情報を日本で流布させているのは、国民投票を危険なポピュリズムとして否定することで、9条をめぐる憲法改正国民投票の機会を国民から剥奪しようとしている護憲派学者たち、国民を愚民視する「エリート知識人」たちである。村本は、エリート知識人ぶって、「国民投票=愚民誘導」論を恥ずかしげもなく振りかざしている。国民を愚民視しているのは私ではなく、彼である。 国民を愚民視する護憲派のエリート主義を批判し、村本にもかかる愚民観があることを指摘した私を、愚民観に立つ権威主義者としてネット上で批判する村本は、私の発言と反対のデマを流して自己保身を図るデマゴーグである。しかし、残念なのは、ネットで動画投稿されている「元旦朝生」すら見ずに、あるいは見たとしても、議論内容を自分で理解しようとせずに、村本のデマを信じて私に反発するネット追従者たちである。もう村本の漫才をきいても笑えない 彼らは、反発する相手を間違えている。しかし、彼らの倒錯した井上バッシングは、護憲派にとっては、自分たちの欺瞞を暴露する「井上達夫という邪魔な存在」のメッセージに対して国民の耳をふさいでくれる、ありがたい現象だろう。私をネット上でバッシングしている輩の中にはこの種の護憲派もいるかもしれない。村本のネット追従者たちが、国民がエリートに誘導されるのではなく、自分たちで主体的に憲法問題を考え解決する民主的討議実践を促進したいと本当に望んでいるのなら、彼らがたたくべき相手は、私ではなく、護憲派知識人や、村本のような「庶民のふりして庶民を愚民視する政冶漫才師」である。お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワー・村本大輔=2014年7月2日、大阪市中央区の吉本興業本社(撮影・山下香) 昨年末の『THE MANZAI』(フジテレビ系)でお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の漫才を初めて聴き、「これは面白い、この村本という男、なかなか才能がある」と思ったが、これからは村本の漫才を聴いても笑えなくなるだろう。残念至極である。 村本問題を越えて、9条と安全保障問題に関する私見にも簡単に触れておく。私は右の改憲派と護憲派双方の欺瞞を批判してきたが、護憲を標榜(ひょうぼう)しながら、政治的ご都合主義で憲法9条を歪曲(わいきょく)蹂躙(じゅうりん)してきた護憲派は、立憲主義に対する裏切りという点で、より罪が深いことを指摘してきた。護憲派の学者・政治家たちが、いかなる詭弁で憲法を蹂躙し、国民をだましてきたか、この欺瞞を是正する方途が何かについては、テレビのニュースや討論番組でも、一般国民に訴えてきたが、所詮、これらの媒体では断片的な発言しかできない。私の議論を十分理解してもらうためには、一般市民に向けて書いた前掲の一連の拙著を読んでいただきたい。 国民がエリートにばかにされ、誘導されないためには、テレビやネット上での「識者」や「タレント」の発言に短絡的に反応するのではなく、さまざまな立場の主張内容と論拠を十分理解した上で、批判的に検討し、自分の頭で熟慮する経験を積むことが必要だと私は考えている。 学界や論壇の中で研究活動・言論活動をしてきた私が60歳を過ぎて、一般市民を名宛て人にした上記のような著作を刊行するようになったのは、国民が「統治の客体」ではなく「統治の主体」になるための政治的自己啓発を支援したいという思いからである。政界・官界・司法界のみならず言論界でも日本のエリートたちは欺瞞化し堕落しており、国民自身が統治の責任主体として自己を成熟させない限り、日本はまともな立憲民主主義国家になれないという危機感が根底にある。憲法学者によるクーデターが起こっている 実際、立憲民主主義の擁護を標榜する護憲派の政治家・知識人たちが、国民の憲法改正権力の発動を封印することで民主主義を蹂躙しているだけでなく、憲法9条死文化に加担して立憲主義も蹂躙しているのである。護憲派はいまでは専守防衛・個別的自衛権の枠内では戦力の保有・行使を容認している。しかし、私が原理主義的護憲派と呼ぶ立場は、この枠内なら自衛隊・安保は違憲だけど政治的にOKだから違憲のまま凍結させろと主張する。違憲状態凍結が護憲だなどというのはカフカの不条理小説も顔負けの倒錯である。第3回中央委員会総会後に記者会見する共産党の志位和夫委員長=2017年12月3日午後、東京都渋谷区の党本部(川口良介撮影) この立場に立つ共産党の志位和夫委員長は、自衛隊は違憲だが、日本国民の圧倒的多数が、自衛隊がなくても大丈夫と思う日がくるまでは、これを存続させると公言している。日本人に多少とも現実感覚があるなら、こういう日はこないだろう。来るとは信じ難い日が来るまで自衛隊を存続させるということは、いつまでも存続させるということである。しかも違憲の烙印を押し続けたままで。こんな欺瞞がありえようか。 修正主義的護憲派と私が呼ぶ立場は、専守防衛・個別的自衛権の枠内なら自衛隊・安保は戦力の保有・行使を禁じる憲法9条2項に反しないから合憲だと主張する。世界4位か5位の武装組織である自衛隊が戦力でない、世界最強の戦力である米軍と日米安保の下で共同遂行する防衛行動が交戦権の行使ではないというのはあからさまな解釈改憲である。集団的自衛権行使を容認した安倍政権の解釈改憲を批判する資格は彼らにはない。 最近では、さらに度を越した解釈改憲論も木村草太のような護憲派憲法学者から出ている。それによれば、自衛隊・安保は存在そのものが9条2項違反であるが、国民の生命・自由・幸福追求権の保障をうたった憲法13条が、戦力の保有・行使に対する9条2項の禁止を専守防衛・個別的自衛権の枠内で例外的に解除しているという。戦力という最も危険な国家暴力に対する憲法的禁止の例外的解除を、戦力に一切ふれていない憲法13条に勝手に読み込むのは法解釈の枠を超えた妄説で、国民の憲法改正権力を簒奪(さんだつ)する憲法学者によるクーデターと言ってもよい。 しかも、これは護憲派の自滅を意味する。同じ理屈で安保法制支持者が集団的自衛権解禁を擁護することも可能だというだけではない。専守防衛・個別的自衛権の枠内なら戦力としての自衛隊も、自衛のための戦力行使も合憲であるとするこの13条代用論は、自衛隊に違憲の烙印(らくいん)を押し続けるという原理主義的護憲派の「封印」も、自衛隊は戦力(フルスペックの軍隊)ではないという従来の修正主義的護憲派の「封印」も破るものである。安倍政権も平和ボケしている 本来ならこんな13条代用論には護憲派から激しい批判が出てきて当然だが、新手の論法として黙認ないし是認されている。9条を変えないという結論さえ保持できれば、従来の護憲派が欺瞞的にせよ維持しようとしてきた「封印」ですら破っても、お構いなしなのである。護憲派が実は憲法破壊勢力だということの、これほど歴然とした証拠はない。 問題は護憲派だけではない。北朝鮮の核ミサイル問題がこれほど緊迫しているのに、安倍首相は、9条2項を残したまま3項で自衛隊を認知するという実に中途半端な安倍改憲案を提示した。2項が生きるということは、3項で承認された自衛隊は2項が禁止する戦力ではなく、2項が禁止する交戦権の行使もできないという現在の欺瞞と矛盾がそのまま残されるということである。日本も軍事衝突にいつ巻き込まれるかもしれない状況下で、こんなのんきな改憲案を首相が示唆する安倍政権は、護憲派と同様、平和ボケに陥っている。その根底には、「大丈夫、一朝事があれば、アメリカが日本を守ってくれる」という米国に対する幼児的願望思考がある。自民党新年仕事始めで挨拶する安倍晋三首相=2018年1月5日、東京(斎藤良雄撮影) 護憲派は、いかに死文化されようと9条があれば日本は守られると信じ、安倍政権とその支持者たちは、トランプのような危険で不安定な大統領を抱えていても米国に追従していれば日本は守られると信じている。 私は日本国民に言いたい。左右の政治家・知識人・運動家・ジャーナリスト・タレントたちのこんな嘘に従うのはもうやめよう。9条も米国も、日本と世界の平和を守れない。こんな幻想の保護膜から抜け出て、憲法と安全保障の問題を国民一人一人が自分たちの頭で考え、自分たちの手で立憲民主主義を発展させない限り、日本は自己を守ることも、世界秩序構築において主体的役割を果たすこともできない。国民を愚民視するエリートを信じてはいけない。しかしまた、己の無知に開き直らず、自己を批判し啓発する他者との議論から学び続けよう。そして憲法と現実の矛盾をいかに解決するか、その判断の権限だけでなく責任も国民自身にあることを自覚しよう。(文中敬称略)

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    ウーマン村本「炎上騒動」の内幕

    「尖閣を侵略されたら、白旗を挙げて投降する」。元旦に放送されたテレビ朝日系討論番組『朝まで生テレビ!』に出演したお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」村本大輔氏の発言が波紋を広げた。トンデモ発言はなぜ飛び出したのか。番組共演者が初めて明かすウーマン村本「炎上騒動」の全内幕!

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    「無知だからテレビに出すな」ウーマン村本批判のこれは間違っている

    よほど関心を持って学問している人を除けば平均的な若者の質問にしばしば見られる現象だ。また、それを公にメディアを通じて質問することは勇気がいるに違いない。 従って、彼の質問に全く不快感をもたなかったし、これにどう答え、どのように考えるべきかを指摘するのは、われわれ専門家の責任であると思い接したつもりだ。その点で井上達夫教授や自分が村本氏に真剣に向き合ったことは、良かったのではないかと思う。特に、井上教授の指摘は適切で大変感心した。 ただ、村本氏はもっと大人だから、さらに勉強しておいてもよいと思うが、大学生でも入学当初の素養はある程度のことが多いと思うし、「あんな無知な質問をする人をテレビに出すな」という考えは全く間違っている。年齢に関係なく、どれほどの日本人が正しい知識を持っているかを考えたとき、多くはメディアの影響を受けたり、雑誌の知識だったり、他人からの耳学問だったりして本当のことをわかっていないことが多い。村本氏への注文 試しに高等学校教科書「日本史」や「政治」「安全保障」「憲法」に関する本を買って読んでみるがよい。どれくらい、そこに載っていることをわれわれ日本人が知っているのか。それを知らずして外国人の振る舞いを指摘したり、外国人に日本のことを説明したりすることの方が恐ろしい。 もし、村本氏に注文があるとすれば、少なくともメディアで活動している人なのだから、「朝生」がどんな番組であるかを知り、番組テーマについて少しは事前に勉強してくる姿勢は必要だろう。自分の意見が訂正されたら、どこがおかしいのかについて考えてから発言するくらいに配慮も必要だ。反省の余地は十分にあると思うが、自分の意見を堂々と主張して専門家に挑戦してくる姿勢は大いに評価できる。 この問題の本質は、われわれが、日本の「近現代史」や「政治」「安全保障」について正しく理解せずに物事を論じたり判断したりしていることにある。だから、学校教育に頼らず、社会教育をもっと盛んにして自分で勉強することが必要だ。 歴史や物事を知らないからテレビに出すな、時間の無駄だというのは暴言である。言論の自由を封じてはならない。特に、「朝生」にタブーはなく、本質的に取り組んできたところに特色がある。米映画「ドローン・オブ・ウォー」のトークショーを行った田原総一朗氏(左)と 森本敏氏 現世の人は日本の伝統文化、歴史、風習を正しく後世に引き継ぐことが必要であり、そのためには、日本人がアジアで何をしたかを知り、知ったうえで日本が果たすべき役割を考えつつ、過去の過ちを犯さないようアジアの人々に率直に向かい合う勇気も必要だ。 すべての人にとってバランスのとれたイデオロギー、思想信条、博愛主義、おもてなしの心を持つことが重要で、それが、日本人の良さにつながっていく。平和で安定した国家社会をつくるため努力することは現世に生きる人間の責任であると自覚すること、それに尽きるのではないかと思う。 若い人はもっと学んでほしい。その上で勇気をもって発言してほしい。人間は、社会のどんな地位に就き、豊かになるのではなく、いかに正しく人生を全うするのかを死の寸前まで考え、悩み、生きていくべきものである。

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    村本大輔さんへ「むやみに白旗を挙げてはいけません」

    の家の前の道路を勝手に封鎖してそこを通ろうとする人々から通行料を取ろうとした住人がいましたね。日本のメディアでも大きくとりあげましたが、その住人は、通行料を払おうとしない人に暴力まで振るいました。 平和に慣れている日本人の多くは、この場合その家の前を避けて通りますね。そうすれば平和は保てますから。しかし、その住人の隣の家の人はどうでしょう。生活しにくいはずです。もしも隣の住人が、自分の家の道路まで占領しようとしたらどうすればよろしいでしょうか。日本は法治国家ですから、警察に助けを求めたり、法に訴えたりすることはできます。 また、こんな場合はどうでしょう。村本さんがとても高価な腕時計をはめて街に出たところ強盗が時計を出せと威嚇(いかく)したとしましょう。こういうときも警察がいたら守ってくれるでしょう。 しかし、国際社会には、大ざっぱに言えば「警察」のない世界です。国際社会はルールがあるようでない世界。国際連合という機関が一応ありますが、まとまりもよくない上、自分独自の警察や軍隊をもたない。最近では、多国籍軍(いろんな国から寄せ集めた軍部隊からなる)からなる「国連軍」を組織して紛争に介入することはありますが、すべてをカバーできるわけでもなく、力もありません。スイスが武装している意味 もちろん、国際社会にも一応法律(各種国際条約など)というものはあります。海に関する取り決めといえば、基線(海岸線)から12海里(約22・2キロ)までは、誰も勝手に侵犯してはならない国の権利(主権)の及ぶ水域(領海)であると決めたりします。 しかし、このような法律をすべての国が守っているわけでもなく、ルールを破ったとしてそれを制止できる「力のある」機関がないですね。アメリカが「国際警察」のようにふるまうこともありますが、限界があります。 記憶に新しいと思いますが、2014年、ロシア軍はウクライナ南部のクリミア自治共和国を侵攻しました。しかし、国際社会は「制裁」を科すだけで何もできなかった。制裁に加わったのも一部の国です。 平和な世界は誰もが否定しないと思います。ただ、争いが嫌だから沖縄を隣の国にあげたとしましょう。そうすると、沖縄の領海に日本の船は勝手に入れません。それも平和のために避けて通るとしましょう。今度は、領海近くを通る日本の船に通行料を要求したらどうしましょうか。 それも紛争がいやだから「通行料」を払うとしましよう。今度は、通行止めにしたらどうするのか。命にかかわる食糧を運搬する船が足止めになったとしたらどうするのか。選択肢は二つしかないですね。奴隷になるか、飢えて死ぬかです。残念ながら、いまだに国際社会、国際政治では「力」がものをいう世界です。力があるからとしてルールや秩序を変えようとする国もいます。朝鮮半島問題を考える講演会で、基調講演する李相哲・龍谷大教授=2017年8月、大阪市北区(前川純一郎撮影) ですから、日本は軍隊を持たなくても、最低限、自分を守るための自衛隊を持つことにしました。しかし、自衛隊では日本の島々や我々の生活基盤を守れないことも考えられます。 そこで、互いに利益を共有できる相手、例えばアメリカのような国と同盟を組みました。このように「力」を備えておかないと、遠くにある島を取られるだけでなく、自分の暮らしを守れない可能性もあります。我々の日常生活に必要なエネルギーの供給路が絶たれてしまうことも考えられます。 つまり、現実世界、特に国際社会の現実というのは、綺麗事だけでは通用しないと思います。元旦の『朝生』では、「非武装中立論」についても語られましたが、非武装では中立は守れません。スイスという国が永世中立国としていられるのは世界でもっとも勇敢な民族であり(勇敢な民族としての伝統をもつ)全国民が自分を守ることのできる「武装」をしており、平和のためなら決然戦う意思を持っているからです。 村本さん、私の主張に納得いかない部分があったら忌憚(きたん)なく、ご指摘ください。

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    『朝まで生テレビ!』30年、若手論客が非常に頼もしい

    田原総一朗(政治評論家) 1987年にスタートした「朝まで生テレビ!」が、今年、30周年を迎えた。番組を始めた当時、冷戦の時代が終わるという気配がすでにあった。実際、2年後の89年、ベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が消滅している。 そのころ、僕は、左の人も右の人も同じテーブルで一緒に長時間、本気の討論をする番組をやったら、おもしろいんじゃないかと考えていた。「無制限一本勝負」の討論である。おまけに深夜番組は予算が少なく、出演者が始発で帰れるのも都合がいい。こうして「朝生」が誕生した。ジャーナリストの田原総一朗氏 「朝生」は、さまざまなテーマを扱ってきた。タブーはない。原発、部落、右翼、天皇論……。今はずいぶん語られるようになってきたが、以前はテレビで口にすることすらできないテーマばかりだった。 いちばん印象に残っているのは、88年9月の「朝生」だ。その頃、昭和天皇が体調を崩されいたため、日本中が「自粛ムード」におおわれていた。こんなときだからこそ、僕は「天皇論」をテーマに討論をしようと考えた。 当時のテレビ朝日の編成局長は小田久栄門さんだった。小田さんは番組のよき理解者だったが、その小田さんでも、「天皇論」をやることには猛反対した。僕は3回交渉して、3回とも断られた。 では「オリンピックと日本人」ならどうだと、僕は提案をした。ちょうど同じ月にソウルオリンピックが始まるからだ。小田さんは「いい企画だ」と応じてくれた。しかし、もちろん僕は最初から、そんなテーマをやるつもりはなかった。若手論客が頼もしい 「朝まで生テレビ!」は生放送だ。僕が「始まるのは夜中の1時過ぎですし、小田さんは寝ていますよね」と言うと、小田さんが「俺をだますのか」となった。そういう話し合いを4回やった。そして最後は、小田さんもだまされることを承知でOKしてくれた。 番組が人気を呼んだのは、大島渚さん、野坂昭如さんら、「無制限一本勝負」を、僕と一緒に本気で闘ってくれる出演者がいたからだろう。 そのひとりが、渡部昇一さんだ。70~80年代というのは、左翼、リベラルの論客全盛の時代だった。そんな時代に、渡部さんは保守であることを堂々と名乗って、番組にも何度も出演しくれた。彼の存在には畏敬の念を持っていた。 4月17日、渡部さんの訃報が飛び込んできた。渡部さんが亡くなられて非常に寂しい。ひとつの時代が終わったと僕は感じる。 しかし、時代は変わるものである。朝生30周年パーティーには、三浦瑠麗さん、駒崎弘樹さん、津田大介さん、荻上チキさん、古市憲寿さん…。若い論客たちがたくさん集まってくれた。彼らにはリベラル、保守、右、左であるといった色分けが、いい意味であまりない気がする。番組開始当初とは大違いだ。 考え方が柔軟だし、やるべきことをやろうという意欲も強い。彼ら若手の論客をたいへん頼もしく感じる。大島さん、野坂さん、渡部さんらは、旅立ってしまった。けれど、新しい論客たちとともに、これからも「朝生」をどんどんおもしろくしていきたいと思う。(2017年4月28日「田原総一朗公式サイト」より転載)

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    拡散は「誰が言ったか」、炎上は「何を言ったか」である

    網尾歩 (ライター)  筒井康隆氏にツイッターを勧めたのは誰なのだろう。こうなることはわかっていたはずだ。 今に始まったことではないかもしれないが、ネット上ではしばしば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」と言われることがある。 例をいくつか挙げよう。たとえば人気のあるアイドルやタレントが一言「お腹空いた」とつぶやいただけで、そのツイートが何千、何万とリツイートされることがある。テレビによく出るメジャーなタレントであればまだわかる。(iStock) ツイッター上には人気のある一般人も多くいる。そのツイートのセンスから何万人もフォロワーのいる匿名の発信者がたまに存在する。一回「この人はセンスがある」と思われることに成功すると、あるフェーズからは何でもかんでもやたらリツイートされ始める。「春はウキウキするけどこの季節に頑張りすぎると疲れちゃう人もいるからほどほどにした方がいいって電車で隣に座った小学生が言ってた」「こんなに天気がいいのに彼が会社のお花見に行くって言うからスネてたんだけど必死で謝ってる顔がかわいくてすぐ許した……って夢を見た」「すぐおいしい、すごくおいしいってコピー、よく考えると深い」などといった他愛もないツイートが何千、何万とリツイートされているのを見かけたことはないだろうか。※例に挙げたのは架空のツイート。 リツイート回数が半端ないから面白いツイートなのだ。そう思ってリツイートする人もいるのだろうし、同じようにフォロワー数が多い人だから面白いと思ってフォローする人もいるだろう。だからリツイート数やフォロワー数というのは、いったん増え始めると加速度的に増える。 ブロガーや一部のライター、もしくはIT企業の若手たちの飲み会ではしばしば、「まず何者かにならなければ」「自分が何者かを世に認識してもらわなければ」という焦りの声が聞かれることもある。確かに一面で見れば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界がそこにはある。 筆者もこれまで、基本的にネット上は「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界だと思っていた。インターネットやSNSは新しいもののように思われているが、実は結局、構造としては旧来通りなのではないかと。書き手の時代ではなく、受け取り手の時代 しかし、今回の筒井康隆氏の炎上を見て、違う感想を持った。 筒井氏は4月5日にツイッター上でこうつぶやいた。「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」。これは、筒井氏のブログ「偽文士日碌」の一文だ。筒井氏は炎上後にツイートは削除したが、ブログの記述は残ったままだ。作家の筒井康隆氏 韓国では出版社が筒井氏の著作について販売中止を決定するなど影響が出ているが、本人は朝日新聞の取材に対し、「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」と語ったという。 ツイッター上では筒井氏のファンと思われる複数のユーザーが、「これで騒いでいるのは筒井康隆を読んだことのない人たち」といったつぶやきをしていた。筒井氏の「ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」という発言と同様の内容だが、これは反論する方にしてみれば、過去にどんな作品を作っていようが「ダメなものはダメ」「面白くないものは面白くない」だろう。批判者の全てが筒井氏の作品を読んでないという決めつけも乱暴な言い方。 また、筒井氏の読みが甘いのではないかと感じる部分がある。奢りと言ってもいいかもしれない。 前述した通り、ツイッター上の好意的な拡散に関しては「何を言ったかではなく、誰が言ったか」なのだが、反対にツイッター上の炎上に関しては「誰が言ったかではなく、何を言ったか」である。いくら筒井氏が過去にブラックユーモアにあふれた不謹慎な作品、もしくは反権威的な作品を書いていたところで関係ない。言い換えれば、発信者が「何を伝えたかったか」よりも、受け取り手が「どう受け取ったか」が重要である。このことが良いか悪いかはさておき、今現在、ツイッター上にこの空気があることは確かだ。 今や受け取り手の方が強いのだ。一昔前のように、作家の権威が通用しづらい。(そもそも今の10代は、ユーチューバーよりも作家に権威がある時代があったことを知っている人の方が少ないかもしれない)。余談ではあるが、だから多くの作家はツイッターをやらないし、やっても知名度に比べフォロワー数が多くないのではないかと感じている。 ちなみに、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」でツイートが拡散される場面は他にもう一つある。デマツイートである。震災時などのデマは、発信者が誰だかわからなくても、大量に拡散されてしまうことがある。たいがいの場合、デマを指摘するツイートよりも、デマの方が多数拡散されてしまう。 「誰が言ったか」にしろ、「何を言ったか」にしろ、それだけ判断される風潮を嘆くのは容易い。「誰が何を言ったか」で判断される時代ではないことを知り、有象無象からどう叩かれても書くモチベーションを持つものだけが生き残れる時代だと感じる。モチベーションと言えば聞こえはいいが、図太さと鈍感さがあればそこそこ生き残れるのだとしたら、これほど悲しいことはない。

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    高須院長 ウーマン村本に「自分のツイッター見てるようだ」

    の高須克弥院長が世の中の様々な話題に提言するシリーズ企画「かっちゃんに訊け!!」。今回、2017年のメディア出演やネットで話題のウーマンラッシュアワーの漫才などについてお話をうかがいました。* * *──さて、2017年もそろそろ終わりますが、今年はどんな1年でしたか?高須:今年も快調な1年だったね。メディアに出ることがちょっと多くなったかな。ツイッターでワーワー喚いているもんだから、面白がる人が増えたのかも(笑い)。高須クリニックの高須克弥院長(納冨康撮影)──フジテレビ系『ワイドナショー』にも出演されていましたし、読売テレビの『そこまで言って委員会NP』にもたくさん出ていらっしゃいますね。高須:普通のテレビ番組には「この話題はやめてくれ」とか、「あの人の話はしないでくれ」とか、そういうタブーもあるようだけど、僕の場合は完全に好きなことを話しちゃってる。自分でも「こんなツイ廃老人を公共の電波に乗せて大丈夫なのか?」って思うくらいだもんな(笑い)。でも、変な規制をすることなく、自由にやらせてくれるのは、すごいよ。僕が出ている番組の制作サイドは、本当に筋が通っているな。まあ僕なんかを面白がるっていうのは、ネジが外れちゃってるのかもしれないけどね(笑い)。──テレビのタブーというと、最近はフジテレビ系『THE MANZAI』(12月17日放送)でウーマンラッシュアワーが披露した漫才がネットでも話題になっていました。ボケの村本大輔が、原発や安倍政権、小池百合子都知事、沖縄問題、北朝鮮問題などをイジる内容でした。高須:あれは僕も見たけど、面白かったね。そんなに難しいことを言っているわけではないけど、世の中のいろんな問題について気になったことを素直に言っているという感じなのかな。お笑い番組だと、言いたくても言えないこともあるんだろうけど、あの漫才ではそんなことを気にせずに、自由に自分の考えを発信していてよかったなあ。なんだか自分のツイッターを見ているみたいだったね(笑い)。自分が正しいと思うことを、好きなように話しているのはやっぱり面白い。──あの漫才は現在の政治に対する批判が含まれていると思うのですが、安倍政権を支持する立場の高須院長とは考えの相違もあると思います。彼が言っていたことは間違ってはいない高須:そうだね。でも、彼が言っていたことは間違ってはいないと思う。すごくフラットな意見だったと感じたよ。イデオロギーありきのものではなかったんじゃないかな。 僕はイデオロギーで戦いたいわけではないんだよ。政権を批判することが目的となっている意見に面白みは感じないけど、素直な意見であれば面白いと思う。彼が正しいと思ったことをそのまま発信することは、とても素晴らしいことだ。決して、安倍政権を倒したいという目的ありきで、発言したものではない。だからこそ、耳を傾けなければいけない意見なんだろうね。 僕だって、安倍政権の政策のすべてを支持するわけではないからね。おかしいと思ったら、素直にそう言う。自分のポジションを決めて、それに従ってものを言ってるわけではないからね。──院長は最近だと医療報酬の引き下げに対してツイッターで異論を唱えていましたね。高須:そう。高齢化で社会保障費が増え続けているのはわかるけど、2年連続で診療報酬が引き下げられるというじゃないか。主に医薬品などの「薬価」部分の引き下げで、人件費は引き上げられるみたいだけど、現状を見ている限りだと、近いうちに人件費の引き下げもありえそう。仮に人件費が微増しても、結局医療にかけられるお金は減るんだから、由々しき問題だよ。この傾向が続いたら、医者がボランティアになる時代がきてしまうかもしれない。そうなったら、日本人の健康は根底から崩れていくだろうね。 そもそも診療報酬を引き下げるということ自体が間違っている。ほかの予算を削ってでも、診療報酬はしっかり確保しなくてはいけないはず。医者の報酬を下げる前に、削るべきものはいくらでもあるよ。それこそ、役人と政治家の報酬を引き下げるべきだと思うね。そうだよ、役人と政治家の金を回して国民の健康を維持するべきだよ。 僕は前から言っているんだけど、もう参議院は廃止して貴族院を復活させたほうがいいと思うね。もちろん、貴族院の議員はボランティア。報酬が目的ではない人々だからこそ、私利私欲に溺れることのない正しい政策を作り出せる。何が目的で議員になったかわからない人々よりも、金持ち老人のほうが正しいはずだからね(笑い)。* * * ポジショントークではなく、自分の信念に従って“正しい意見”を発信する高須院長。もし貴族院ができたのであれば、ぜひとも議員になっていただきたいものです!【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)など。最新刊は『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)。

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    31歳で過労死、佐戸未和さんの命を奪ったNHKに未来はあるか

    墜落事故 実は、私が運営しているNPO法人8bitNewsでは毎年大学生のインターンたちが就職でマスメディアに記者やディレクター、カメラマンなどとして就職していきます。今回の件もありNHKの地域局に配属されたインターンのことが心配になり先日メールでやり取りをしました。「大丈夫かい? 働きすぎていないかな? 身体あっての取材だから」と質問を送ると、元気な様子でこう返ってきました。「ありがたいことに、とても勤務時間など配慮してもらえているので、のびのび健康に仕事をしています」 本当に大切にしてほしいです。やる気に満ちた、思いのある職員たちがしっかり報道人としての使命を果たし続けることができる職場であってほしいと強く願います。 先日、亡くなった未和さんを学生時代から知る方にお話を伺いました。 未和さんは一橋大学に通っていた学生時代に、学生ラジオ局「BSアカデミア」のニュース班に所属していました。TBSキャスターとして活躍してきた下村健一さんなどが指導にあたったといいます。当時は大学4年生。下村さんはこう振り返っています。毎回僕のダメ出しを受けては悔しがり、うまくいくと満面の笑みを浮かべていた佐戸“みわっち”。念願叶ってNHK記者になってからも、取材相手からの信頼はとても厚かった。 出典:下村健一さんtwitterより 下村さんは2017年7月、メディアリテラシーを伝えるため絵本を出版しました。挿絵には現場から子どもたちにニュースを伝える女性が描かれています。笑顔でマイクを握るこの女性こそ佐戸未和さんです。「みわっちの報道に対する真摯な姿勢を次の世代に伝えたい」。下村さんの絵本には若くして命を落とした彼女への強い思いが込められています。米軍ヘリコプターが墜落した沖縄国際大学で消火作業する消防士ら=2004年8月、沖縄県宜野湾市 そうした中、この10月、沖縄県東村高江集落で米軍の大型輸送ヘリコプターCH53が炎上する事故が発生しました。実は未和さんは2004年8月に沖縄県の沖縄国際大学に墜落した米軍ヘリの事故について現場で取材しリポートを製作しています。「彼女が生きていたら、今回の事故をどのような目線で取材し発信していたのだろうか。きっと伝えたいことがたくさんあったに違いない」下村さんはかつて指導した元学生たちと共に当時のリポートを再び社会に発信することを決めました。BSアカデミアが解散されてからはお蔵入りになっていた貴重な映像です。 下村さんは、私が仲間と運営するニュースメディア「GARDEN」に当時の動画とそれに合わせた記事を寄稿してくれました。こちらに転載します。ぜひ見てみてください。未和さんが丁寧な取材で沖縄の米軍基地の問題を多角的な目線で発信しています。彼女の想いを再び今に。多くの人々に届くことを願っています。

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    全国の社会部記者に教えたい「サボりのススメ」

    暇を取って旅行に行くことだった。2日、3日休みを取ることすらはばかられる「空気」があった日本のマス・メディアでは、考えられないことのように思えた。 二つ目は、社会部警視庁担当になってからの「365日夜回り美徳」の「空気」だ。「あいつ、盆も正月も(刑事の家)回ってるんですよ」が褒め言葉になり、キャップやサブ・キャップの覚えがめでたくなる。ところが、大きな事件が起きた。 これが三つ目になるのだが、金沢局から転勤してきたばかりの司法キャップが、過労で倒れ、そのまま亡くなってしまったのだ。ロッキード事件の一審判決を控え、取材やテレビ中継の準備、打ち合わせが連日行われ、その都度反省会と称する酒席が続いていたと聞いた。実は亡くなった当日の未明に、つまり元気な姿で彼を野川に近いNHK寮に送り届けたのが私だった。午前2時過ぎに警視庁からハイヤーに乗り込んだ直後にはもう爆睡していて、到着してもなかなか起きてくれなかった。異動疲れなんだろうなとその時思った。(iStock) 当時のNHKの異動は、年1回の大イベントで、連日名目を変えて、あるいはグループ別に送別会が行われ、しかも局外からもお呼びがかかる。上京してきたら、今度は待ってましたとばかり連夜の歓迎会で、身体的に過労のピークに達している。これが毎年繰り返されてきた。この事件を切っ掛けに、NHKでは異動時期の歓送迎会の自粛が言い渡され、実際に「今回は止めておこう」という「空気」が各局、各部署に流れ実行された。 私は、埼玉県新座市の寮に住んでいたが、夜回り報告で警視庁や渋谷の社会部に上がると毎晩午前1時を回っていた。その頃の社会部は、新聞社の締め切りの午前1時半が過ぎると泊まりのデスクや記者たち、夜回りから上がってきた記者たちが車座になって宴会が始まる。各自で出し合った金で一番下っ端が、局近くの酒屋に買い出しに出て、酒とつまみを買ってくる。酒を飲みながら先輩たちの活躍した取材話に耳を傾けるのはワクワクして愉しいものだった。これは自分を鼓舞する上でも、大いに役立った。だがこんなことを続けていては、あの司法キャップの二の舞になるとひそかに危惧した私は、究極の「事故管理」に乗り出すことにした。「記者の評価は特ダネ」 というのも、先の三つの教訓を精査してみた結果、「記者の評価は特ダネであり、取材の過程ではない」と考えるようになった。そこで誰にも知られず、休息の場を確保することにした。まず取材拠点の霞ヶ関、渋谷の放送センターにも近い場所に「アジト」を構築することにしたのだ。そこでいくつかの不動産屋を周り、一番安い物件を恵比寿の駒沢通りに近い東京恩寵教会付近に見つけた。 当時2万5千円の4畳半一間、ガス台一つ分の台所、バスなし(すぐ側に銭湯があった)、トイレ共同、戦後すぐに建てられたようなバラックのアパートだった。そこは隣の酒屋さんの所有で、表通りからは、酒の箱を山積みしていたり、ビールやカップ酒、ジュースの自動販売機がずらりと並んでいたりして、全く奥が見えない、まさに「アジト」だった。中古のエアコンを買うと夏でも熟睡できるようになった。ここでの暮らしが、その後思いがけない副産物を生むことになるのだが、とにかく「疲れたら眠る」を徹底した。2017年12月、リニア中央新幹線建設工事の入札不正事件で鹿島建設の家宅捜索に入る東京地検特捜部の係官ら(桐山弘太撮影) 3年目になると東京地検特捜部の担当になり、検事の官舎が恵比寿南の、それもアジトから2分の所にあり、副部長の石川達紘さんたちから、「小俣君は夜回りで午前1時過ぎまで張っていて、朝は7時前には自宅前に来ているけど、(健康の方は)大丈夫かね」と心配されたほどだ。地下鉄で霞ヶ関まで11分。まさに天国だった。 アジトは紆余(うよ)曲折があって、その後同じ恵比寿南のマンション、ジョギングができる駒澤大学近く、宮益坂裏の渋谷2丁目、目黒三田、西麻布と変遷を遂げた。とにかく他人の目は、気にしない。他人が責任を取ってくれるわけではないのだから。 夏休みはボブ・ウッドワードの(仕事はとにかく、休暇の取り方)を真似をして、車で北海道一周の旅をしたり、四万十川に遊んだり、京都大原や長野の木崎湖で過ごしてきた。潜水艦「なだしお」の海難事故の時は長野の大町温泉郷にいて、いまさら帰ってもスタートで遅れているんだからタイミングを見て…とばかり洞ヶ峠を決め込んだ。よく寝る記者は良い記者だ 後輩の中には、私が脱帽する優秀な記者がいて、いまはNHK編成の最高幹部になっているが、彼は強制捜査の最中でも、検察幹部に電話をかけて「今どこをガサ(家宅捜索)してるんですか」「逮捕容疑は、①特背(特別背任)? ②背任? ③別の容疑ですか」と平然と聞き、また「①に決まってる!」との回答をつかんでいた。一事が万事そうだったわけではないが、記者クラブで見ている限り、「大胆な奴っちゃなぁ」と私を震撼(しんかん)させた。つまり『パブロフの犬』のように電話をかければ、相手が応じてしまう習慣をつけさせることを後輩の彼から学んだ。 以後私も、取材先には「他社に夜回りしているところを見られるとまずいので、これからは電話にさせてください」と懇願した。顔が見えない分、声の抑揚で緊迫度をつかむ方法を体得した。その分移動せずに、取材先が帰ってきた頃を見計らって夜や朝に電話した。NHKの上田良一会長(宮川浩和撮影) 管理職になると、後輩たちに「サボる」ことを推奨した。渋谷の放送センター地下にある社会部の機材置き場にベッドを持ち込み、昼間でも寝に行った。後輩たちは、私の姿が見えないと「地下部屋だろう」と電話をしてきたし、彼らにベッドを取られると折り畳み式のビニールチェアを買ってきてそれでよく寝た。「よく寝る記者は、良い記者だ」という風潮を作りたかったからだ。 これを許してくれたのが、司法キャップであり、社会部長であり、編集主幹であり、報道局長だった井手上伸一さんだった。だから風邪をひいている記者が、取材に行けないように、配車係に電話して、ハイヤーのストップをお願いしたり、「風邪で来るヤツは(他人に風邪をうつすから)傷害致死だ!」と怒鳴ったりして、局やクラブに来づらくしたものだ。 さて長々とサボってばかりの生活を強調してしまったようだが、「サボる」ためには、批判されないように、仕事をするときは真剣、効率を考えて、工夫しながらよくやった。つまりやるべき時は集中してやる。ダラダラ続けない。「見切り千両」が口癖でもあった。手を抜くときは徹底してサボる、つまり「腹をくくる」ことだ。 結論は、仕事に緩急をつける。キャップやデスク、管理職は率先して「サボり方」を指南する。私のモットー<がんばりすぎない。ちょっとがんばる>ことが、記者生活を健康で、有意義なものにするはずだ。

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    記者はなぜ働きすぎるのか

    記者の現場にも「働き方改革」が押し寄せている。NHK女性記者の過労死は痛ましいが、世の中で起きる事象やネタは待ってくれない。そもそも相手があってこその取材記者。ライバル社を出し抜こうと思えば時間など気にしていられないのも事実である。はたして記者の働き方に正解はあるのか。

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    ネタのためなら24時間、取材記者に「働き方」はナンセンス

    なことだ。 過労死があっていいはずがなく、電通女子社員、NHK女性記者と相次ぐ若い世代の過労死には、メディアを仕事の場とする一人として言葉もない。 かつて高度経済成長時代、ビジネスを戦場に見立て、サラリーマンは「企業戦士」と呼ばれた。身体を壊す者、精神を病む者と〝戦場〟は死屍累々と化した。安倍晋三総理は「モーレツ社員という考え方自体が否定される日本にしていきたい」と発言しているが、これも大いに結構なことだ。 だが、「長時間労働=悪」という一律的、短絡的な考え方に、私は反対である。過労死したNHK女性記者は大変お気の毒だが、ことにジャーナリズムにおいて労働時間を長短で線引きすることは不可能だ。取材対象に〝夜討ち〟をかける途中で、「あっ、時間だ」と、Uターンしていたのでは仕事にはならない。 人に会って話を聞くというのがジャーナリストの基本的な仕事である以上、必然的に「相手の都合」に合わせなければならないし、取材を避けている渦中の人物を直撃するには、深夜早朝の張り込みは必須である。〝夜討ち朝駆け〟は取材の基本であり、「労働時間」に縛られていたのでは仕事にならないのだ。事情聴取を終えた日馬富士の車に殺到する報道陣=2017年11月、両国国技館 (大橋純人撮影) 40余年前、私が新卒で、のちに休刊したナイガイスポーツ新聞社に就職したとき、編集局長からこう言われた。 「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」。記事は取材した当人しか書けないものであり、試合は当該選手しか出場できないということから、記者としての責任と自覚を持って仕事をせよ―という檄(げき)である。 若かった私は、そんなものかと聞き流したが、同社を半年で退社し、週刊ポストで10余年を専属記者として過ごしてフリーになってからのこと。「母危篤(きとく)」の知らせを受けるのだが、翌日、締め切りの原稿があり、郷里の広島へすぐに帰ることができなかった。 現在なら、新幹線の中で書いてメールで送ればすむが、当時はそんな時代ではない。徹夜で仕上げ、原稿を渡して新幹線に飛び乗ったが、数時間の差で死に目にはあえなかった。このとき「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」という局長の言葉が脳裡(のうり)をよぎったことを覚えている。 ジャーナリズムとは、そういう職種であり、この考え方は40余年がたった今も変わらない。 思い返せば週刊ポスト記者時代は、それこそ24時間が仕事だった。張り込みは日常の取材活動で、芸能関係者はもとより政治家、スポーツ選手、評論家…、事件の渦中にある人たちを追いかけ、張り込み、取材を試みる。時間になったからそこで打ち切るようでは仕事にならない。もちろん締め切り時間のデッドラインまでトライする。労働時間は「自己裁量」 コメントを取るため、寝台列車に飛び乗って取材もする。 内部告発者を説得するため、未明から自宅近くに待機しておいて、早朝散歩のタイミングを狙って同行し、これを何日も繰り返す。反社会勢力の人間を取材するときは酒がつきもので、朝まで付き合って人間関係を構築する。 「あっ、時間だ」と言って席を立てば、相手は青筋を立てて怒り、取材にはならない。 1行のコメント、核心をつくコメントを取るために24時間を費やすのが記者の仕事であると同時に、手抜きして「無理でした」「不在でした」「取材拒否です」と言えば、それでも通る。 労働時間は「自己の裁量」に委ねられるのがジャーナリストという仕事であり、私は自己の経験から、一律に労働時間に上限を設けることに反対する。※iStock かの自民党筆頭副幹事長、小泉進次郎氏が4年前、こんな発言をしている。 東大の学園祭である五月祭で、投資家の瀧本哲史氏との対談イベントのあと、聴衆から「政治家を目指しているが、大切なモノは何か」と問われたときのこと。「体力が一番必要です」と笑顔で応じてから、こう答えている。 「『ウチの会社は週1日しか休みがないブラック企業だ』なんて話を聞きますが、政治家はもっとブラック(笑)。休みなんてない。なおかつ、衆議院には解散総選挙という抜き打ちテストもある。ある意味で非正規職の立場です。そういうリスクを納得して、政治の世界に入らないといけない。僕も政治家の家系だから想定しうる部分はありましたが、入ってみて、予想以上の大変さに日々襲われています。でも結局、自分で決めたことなんだから」(「週刊現代」2014・6・7号) 政治家をジャーナリストに置き換えれば、労働時間の長短で計れない職業であることがおわかりいただけるだろう。  現代社会は多様化の時代だ。性的マイノリティーの存在を認め、「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩を引きながらも、「働き方改革」となると、「みんな同じで、みんないい」という大合唱になる。 多様性が叫ばれる一方、なぜ「労働時間」だけが一律に長短で論議されるのか。なぜ「みんなちがって、みんないい」という発想をしないのか。0か1かというデジタル時代が、物事の価値観を画一化しているように私には思えてならないのだ。

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    「日本の借金1108兆円」NHKの歪んだ報道が国民をさらに惑わす

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) たまたまNHKを見ていて非常に懸念を抱いたニュースがあった。「来年度予算案 1100兆円の借金 財政の先行き一段と不透明に」という記事で、インターネットでも読める。 簡単に要旨を書くと、政府予算案の規模が大きく、歳出が増加する一方で歳入では国債の発行額が3分の1を占めるのが問題と指摘する。そして、来年度末には国と地方を合わせた「借金」が1108兆円に上り、「先進国中最悪」になることに警鐘を鳴らすものである。報道は、このような財政状況が若い世代に将来不安をもたらしていると結んでいる。筆者から見れば、このようなNHKの報道こそが、財政状況へのゆがんだ認識を広めることで、若い世代に不安を与えていると思う。東京都渋谷区のNHK放送センター まず、どこがゆがんでいるのだろうか。それは政府の「1108兆円の借金」という見方である。単純に、日本の財政は借金=負債だけが存在するのではなく、資産も存在している。政府の持つ資産と負債を比較して、その上で事実上の「借金」を特定すべきである。負債の方が資産を上回っていれば、それを「純債務」と名付けよう。ただし、この純債務の大小だけがわかっても財政状況はまだ判断できない。だが、ここまでの議論を「政府のバランスシート問題」と名付けておく。 たとえ借金の方が資産よりも多くても、将来それが返済可能であれば問題はない。つまり返済できる金額と返済しなければいけない金額を比較して、それがほどほどのバランスであればまず問題はない。以下ではこの点を「政府のバランスシート問題」の観点から検討する。 政府の資産と負債を比較できるバランスシートを見る重要性は繰り返し指摘されてきている。今回のNHKニュースに代表されるような「政府の借金(負債)」の大きさだけに注目するのは全く妥当ではない。これでは国民が財政再建、増税路線、緊縮政策といった特定の政策に誘導されてしまうだろう。実際NHKニュースでも、いまのところ再来年に実施される消費増税が、教育無償化などに使われることよりも、むしろ国債償還という「借金」返済に使われるべきだとの趣旨として読むことができる。だが、そのような誘導はもちろん真実への誘導ではない。誤解への誘導である。「政府+日銀」の保有を無視するのか 政府のバランスシートの最新版は以下の通りである。 これを見ると平成27年度末で、政府の純債務はマイナス520兆円である。前年度よりも30兆円近く増えているし、ここ数年でもその傾向はある。だが他方で、この純債務と日本の名目国内総生産(GDP)を比較すると、名目GDPが同年度で531兆円なので約98%である。 さらに政府の概念をより広げてみよう。特に日本銀行との関係が重要である。数年前に日本経済新聞の紙上で、コロンビア大学のデイビット・ワインスタイン教授は、日銀の金融緩和政策を好意的に評価したうえで、日銀はその保有する国債を永久に所持できる(実際には償還期限がきたものから日銀のバランスシートから剥落)と指摘している。この考え方を採用すると、広義の政府、つまり統合政府は「政府+日銀」となる。両者のバランスシートのうち国債保有の関係だけをみると、日銀は現状で国債を438兆円保有している(営業毎旬報告12月20日)。参照:財務省 政府部門の最新のものは、2015年3月末までなので類推しなければいけない。いま年度ごとの純負債の増加額が、毎年度約30兆円としておくと、現時点の政府と政府関連機関の純債務は571兆円と考えられる。対して日銀の現時点の国債保有額が438兆円なのでこれを571兆円から引き算すると、統合政府の純債務は現状では、133兆円である。名目GDPは約540兆円としておこう。すると名目GDPと純債務の比率は、約25%になる。これは同様の推計をした2014年末の比率では、約41%なので大きな縮小である。 このような統合政府からみた見解を、どうもNHKは無視したいようである。NHKがなぜ無視したがるのか、記事には載っていないのでわからない。だがしばしば国の借金だけを強調する論者や政治家たち、マスコミが指摘しているのは「日本銀行のバランスシートを組み込んで、そのような財政膨張を弁護してもやはり財政の信認が失われる」というものだ。日銀の国債保有の「メリット」 この論点については、経済金融アナリストの吉松崇氏が論説「中央銀行のバランスシート拡大と財政への信認」(原田泰・片岡剛士・吉松崇編著『アベノミクスは進化する』中央経済社)で集中的に検討している。簡単に要旨だけ書く。日銀が「質的量的金融緩和」で多くの国債を保有している。日銀の保有する国債からは金利収入が発生する。他方で日銀当座預金には0・1%の金利がつき、この部分は民間銀行に支払われる(実際の日銀当座預金への金利適用は複雑だがここでは単純化する)。だから金利収入からこの0・1%を引いたものが、日銀の得る通貨発行益(シニョレッジ)となる。 吉松氏の解説の通り、この通貨発行益は、日銀の収益であると同時に、国庫に納付するため事実上の国の収益である。つまり通貨発行益がプラスで推移していくことは、日銀の国債保有が政府にとってもメリットがあり、狭い意味での政府の財政を安定化させることに寄与しているということだ。 なお、日銀の説明ではもっと単純に「日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益」としている。2017年12月、記者会見する日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) 日銀の公式の説明通りだと、昨年度だと国債の利息収入(貸出金の利息収入は小規模なので無視する)は、1兆1800億円超である。今年度はそれ以上のペースで増加しているようだ。もちろん吉松氏が指摘している通り、この金額は財政の安定に寄与している。 さらに、日銀の国債保有は「インフレ税」の面でも政府の財政安定化に寄与している。もし日銀がインフレ目標を実現すれば、その実現の過程ないし実現後に、固定利回りの国債やその他の債券を保有している人たちは、名目金利が上昇し債券価格が低下することで「課税」されたことと同じ現象が生じる。これをインフレ税という。もちろん政府はこの分だけ、インフレになったことで国債の償還の負担が軽減される。このインフレ税の増加はもちろん政府の財政安定化に貢献するだろう。 ただし吉松氏も指摘しているように、通貨発行益もインフレ税も日本が事実上のデフレの間や、インフレ目標が達成され、しばらく金融緩和基調が続く間だけの「一時的な財政安定化」の効果しかもたない。もちろんそれでも大きな効果だ。ただし、さらに恒久的な財政の安定化は、インフレ目標の達成により経済成長が安定化し、税収が増えていくことで実現されていく。 要するに、日本の財政の維持可能性、つまり日本の財政危機は、きちんとした政府と日銀のマクロ経済政策の成功か失敗かに依存しているのである。今回のNHKに代表される「政府の借金」論の偏った報道こそが、この正しい政策の見方を誤らせ、ただの増税主義へ国民を誘導しかねないだろう。

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    日本人医師の快挙を黙殺 「報道しない自由」はなぜ行使されたか

    に権威のある雑誌『ネイチャー』が主催するジョン・マドックス賞を受賞したニュースから、改めて日本のマスメディアの特異な現象を目の当たりにした。いわゆる「報道しない自由」ともネットなどで批判される態度である。 ジョン・マドックス賞は、公益に資する正しい科学や根拠を、困難や敵意に直面しながらも、人々に広める努力をした人に与えられるものである。ジョン・マドックスは『ネイチャー』の編集長を長期間務めたことで有名で、その功績を記念して2012年から続いている賞である。ジョン・マドックス賞が日本人に与えられるのは初めてであり、『ネイチャー』のもつ権威と国際的な知名度からも、村中氏の受賞は報道の価値が極めて高いものだったろう。 だが、現時点で、新聞では産経新聞と北海道新聞のみが伝えただけである。テレビ媒体は筆者の知る範囲ではまったくない。他方で各種のネット媒体では広く関心を呼び、大きく取り上げられていて、何人もの識者やネット利用者たちが話題にしている。ただし産経以外では、新聞やテレビ系列のネット媒体に記載はない。 当の村中氏はこの機会に自身の貢献を、あらためてネットを中心に訴えているところだ。だがマスメディアの代表であるテレビと新聞の大半は沈黙したままである。まさに「報道しない自由」が行使されているといっていいだろう。 そもそも村中氏の貢献は何だったのだろうか。ジョン・マドックス賞のホームページによれば、子宮頸(けい)がんワクチン(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン)について、科学的に正しい証拠に基づき多数の記事を書いたそのジャーナリストとしての功績に与えられている。(iStock) 子宮頸がんワクチンについては、世界保健機関(WHO)や医学界でその効果が認められているにもかかわらず、誤情報に基づく国民的キャンペーンによって、日本の同ワクチンの接種率は70%から1%に急減してしまった。村中氏は訴訟に遭遇し、また自身の社会的立場への恫喝(どうかつ)などに抗して、子宮頸がんワクチンの安全性の啓蒙(けいもう)に努めたことが直接の受賞理由である。村中氏は訴訟を含めてどのような困難に遭遇してきたかは、Buzzfeed Newsの記事が詳しい。また村中氏自身も受賞スピーチの中でその活動を伝えている。「報道しない自由」というコーディネーションゲーム 子宮頸がんそのものの情報は、国立がん研究センターの情報がわかりやすい。この情報によれば、年間の罹患(りかん)者数は1万人を超え、死亡者数も年間3千人近い。「年齢別にみた子宮頸がんの罹患率は、20歳代後半から40歳前後まで高くなった後横ばいになります。近年、罹患率、死亡率ともに若年層で増加傾向にあります」と記述にあることは注意すべきだろう。 子宮頸がんワクチンは、2013年に定期接種化されたが、痛み、記憶障害、運動障害を訴える人たちが現れたのを契機にして、新聞やテレビなどの大メディアではワクチン接種へのネガティブキャンペーンが生じた。これをうけて厚生労働省はワクチンの接種勧奨をとりやめたという経緯がある。 この事態に対しては、WHOは警鐘を鳴らし、また日本産科婦人科学会でも何度も接種勧奨の再開を表明している。つまり専門家集団ではワクチンの接種についてはその有効性について共通の理解があるようだ。スイス・ジュネーブにある世界保健機関(WHO)本部(IStock) 経済学者の高橋洋一嘉悦大教授は、ワクチンの接種には副作用があることを指摘しつつ、ただし「どのようなワクチンにも副作用があるが、それを上回るような効用がある場合、接種が許される。子宮頸がんワクチンの場合にはデータがあるので、副作用がデータから逸脱していたかどうかを、厚労省はより慎重にチェックすべきであった」と主張している。これはひとつの合理的な態度だといえるだろう。 ただし、ここではなぜ新聞やテレビで「報道しない自由」が生じたのかを考えたい。産経や道新だけが例外であった。道新は村中氏が北海道出身なので取り上げたともいわれているが、続報はない。これは一種のコーディネーション(協調)ゲームといえるだろう。 コーディネーションゲームとは、ゲームに参加するプレーヤーがみんな同じことをすることが全員のメリットになることをいう。ゲームとは、遊戯を指すのではなく、人のあらゆる相互作用、あらゆる社会的行動を指すことができる社会科学で主に利用されているワードだ。この場合のゲームは村中氏の受賞を伝えるか伝えないかのゲームである。そしてプレーヤーは、新聞やテレビということになる。ネット媒体はこのケースではゲーム外のプレーヤーともいえ、いわばマスメディアとネット言論は分断されているともいえる。典型的だった「VHS対ベータ」 コーディネーションゲームを考えるときに、しばしば持ち出される日本の事例としては「VHS対ベータ戦争」の帰結がある。VHSとベータとは、家庭用ビデオデッキの再生機器の名称だ。1980年代にどちらの規格がいいかで経済「戦争」が生じた。結果として国内ではVHS派が勝利し、ベータ派は負けた。だが、ベータの方が性能はいいとの評価は当時からあった。だがそのような評価は、みんながVHSを選ぶ前では意味を失っていた。(iStock) 確かに、みんながVHSの規格を選ぶと、それ以外の少数の規格をもつ人は友人同士のビデオの貸し借りでも不便だろう。レンタルビデオショップでも最初は両方あったが、次第にVHSのみが置かれるようになり、ベータ派はここでも不利だった。 このようにプレーヤー全員が同じ戦略を選ぶことで、その戦略の帰結が本当に社会的に望ましいか否かに関係なく、このコーディネーション(協調)が安定化してしまうことになる。例えば、日本では長く経済停滞が続いたが、それを打破しようという政策当事者はいまも少数派である。大多数はメディアも含めて、経済成長否定やただの財政再建論者のたぐいである。例えば、NHKの「日曜討論」などのテレビ番組に、デフレ脱却論者がでるケースはまれである。 むしろ、国際的にはデフレ脱却論が優勢で事実としても政策の有効性が認められているのに、テレビや新聞ではデフレ志向の論陣の方が圧倒的である。これは多数の前では多数に従うという、物事の良しあしを無視した現象の一例だろう。例えば、私の知人にも某経済系メディアに務める知人がいるが、彼は筆者の文化関係のつぶやきはリツイートやお気に入りをするのだが、立場上なのか経済政策の話題にはまったく反応しない。Twitterは私的な活動のはずだし、特に経済問題で意見の違いがあるわけではないのにも関わらずである。空気を読むとはそういうことなのかもしれない。 さて社会的帰結が望ましいにも関わらず、そうでない協調行動がとられてしまうと物事は厄介である。その安定性を突き崩すことはプレーヤーの数が多ければ多いほど難しいとされている。産経新聞も大メディアだし、ネット世論も今日かなりの威力をもつ。また海外からの今回の声もあるが、それらは「報道しない自由」というコーディネーションゲームの安定性を変更するほどではない。現時点では。 私見では、子宮頸がんワクチン接種反対派の意見も含めて、今回の村中氏の受賞や海外の事例を紹介することは、報道の多様性と意見の自由を担保とする観点からも重要だと思う。いまの新聞やテレビは、報道しない自由という悪いコーディネーションゲームに陥っている。 この悪い均衡、つまり「報道しない自由」を打ち破るには、ゲームのルール自体を変える必要がある。日本のマスメディアは率直にいって官庁の広報団体的な側面が強い。お上の意見に従う傾向が強いのだ。ならば、このあしき均衡はおそらく政治側からしか変更はできないだろう。それはそれでメディアの在り方として情けないことは確かだ。それでも、今回の一種の「外圧」は、この政治側のアクションを引き起こすひとつの契機かもしれない。

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    倉持麟太郎手記「週刊誌のレゾンデートル」

    「報道はレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい」。週刊文春に山尾志桜里衆院議員との「不倫疑惑」を報じられた弁護士、倉持麟太郎氏がiRONNAに独占手記を寄せた。あの騒動以来、沈黙を貫く倉持氏が初めて綴った「反論手記」。週刊誌ジャーナリズム、そして安倍改憲論への危機感とは。

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    【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと

    倉持麟太郎(弁護士) ジャーナリズム、報道の根拠たる表現の自由(憲法21条)には、一私人の表現行為とは異なり、あえて憲法が報道主体=マスコミに与えた特殊な役割がある。表現の自由の「公共的使用」の観点である。 一つは、権力を監視し、現権力に対する絶え間なき批判的吟味を繰り返し続けることにより、権力による正統性調達の再生産を常に促すことである。権力は、我々国民から正統性を付与されるために努力せねばならないのだ。我々一人一人には、日々の生活があり、権力に張り付いて常に監視し適切に情報を得ることはできない。だからこそ、国民が負託した権力を適切に運用しているかどうかを国民の代わりに常に監視する責務を課されたのが、マスコミが享有する表現の自由の内実の一つである。 もう一つが、あらゆる価値観が公的空間にあふれるべく、多様な情報を流通させることである。多様な情報があまねく社会に行き渡ることによって、我々は自分自身の善き生の構想をより「善く」する材料を得る。ひいては、民主主義的決定の際の人々の熟議と熟慮の一助となることで、その特定の社会の民主主義を円熟させる。公共空間をより豊か(rich)にするために、マスコミには表現の自由の行使にあたって厳しい自己規律が要求される。国会で報道陣に囲まれる山尾志桜里氏=2017年9月 そしてこれらマスコミの役割に通底しているのが、「公共性」という要素であり、だからこそマスコミの表現行為には、権力や民主主義という公共性に奉仕する専門職能集団として、特に憲法上の保護が及んでいるのである。 果たして、近時の新聞やテレビワイドショー及び週刊誌報道は、憲法が期待した目的に適っているのか。報道の自由の名の下に、まるで公共性を持たない報道を一方的、一面的に流し続けるさまは、自らを支える「報道の自由」と「公共性」を掘り崩し、自壊的であることにすら無自覚であることに恐怖すら覚える。 また、政府広報に堕している一部新聞・テレビは、憲法がマスコミに特に与えた公共的使用の責務に応えておらず、憲法典が課した表現の自由の公共的使用という責任からすれば、完全な「任務懈怠(けたい)」である。政府にも正規の広報はいるので、そのようなマスコミはぜひ心配せずに、今すぐ表現の自由の本意を理解し、権力監視に勤しんでもらいたい。 これから来る憲法改正論議についても、マスコミやジャーナリズムによる適切な情報の流通と共有が極めて重要となる。戦後日本社会を形作ったという意味でも最も「公共的」な議論の対象たる「憲法」について、報道はぜひそのレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい。改憲=憲法「典」改正ではない さて、話題はその憲法自体の改正議論に移りたい。 憲法という法規範は、本来、全く相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るという、二律背反を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、ひとたび憲法が議論の対象になると、激しい思想的分断を生んでしまう。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長してしまっていたといっても過言ではないのである。 これからの憲法論議は、この分断を超える、分断を治癒する、誰も置き去りにしない憲法論議を涵養(かんよう)すべきである。 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値である。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という大命題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。 今までの「改憲/護憲」の議論は、「日本国憲法」という特定の憲法「典」を改正するか否かに問題が矮小化され、いわゆる「改憲」VS「護憲」という教条主義的二項対立に膠着(こうちゃく)してしまう。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。 すなわち、憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れなどの情念や、詩的・抒情(じょじょう)的な創作意欲などで改正の是非を議論すべきでないのはいうまでもない。国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段のビジョンが欠かせない。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年11月、国会(松本健吾撮影) 憲法はこの社会とは独立して真空状態では存在しえず、この社会を構想し規律する法規範である。憲法改正論議も、現代の生ける社会が抱える権利衝突や社会的病理現象に対して、憲法がどのような応答ができるのかという巨視的な視点から、個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。この、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。 この、①政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、②そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上(そじょう)に上り、③挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から④具体的な条文案へと落とし込まれる。 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」である。憲法は固有の役割を果たしているか 憲法を取り巻く公論が、憲法の役割や存在意義そっちのけの教条的二項対立に分断されている間に、憲法が保障する権利の網の目からこぼれている個人はいないか、この憲法が権力を縛った鎖は錆びていないか、我々の声を国家統治に通す「民主主義」という名のパイプは詰まり気味あるいは歪(いびつ)な形になっていないか。残念ながら、これらには悲観的な回答をせざるを得ないと考えている。 9条は交戦権と戦力を否定しながら、自衛隊を保有し、政府解釈でかろうじて縮減している“とされてきた”自衛権も、その政府解釈によって集団的自衛権の行使まで容認された。この点、国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別である。「島嶼作戦」の訓練を披露する自衛隊員たち=2017年11月、那覇駐屯地 規律された要件の下で行われた武力行使が国際法上どのように評価されるか、それだけのことだ。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。国際法至上主義の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。  さて、国家最大の暴力たる軍について「無き者」にされている憲法では、軍について規律することはできない。軍を前提とした法秩序を前提としていないからである。軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。そして、9条の魂は「軍縮」なのだから、立法技術的視点は措(お)いても、その魂を刻み込むべきだ。 軍事こそ、統治の技術の粋を集めて規律すべき最優先最重要課題であり、これを放置しては「立憲主義」に悖(もと)る。 また、憲法の規定はいわば刑法でいう構成要件であり、合憲か違憲かの判断基準を提供する。しかし、判断基準だけでは、違憲の状態を是正できない。つまり、大事なのは基準違反の是正を担保する「実行力・執行力」である(民事では強制執行、刑事では刑の執行により担保されている)。これが伴ってこそ、法規範の実効性が生まれる。今までは、日本国憲法は、まさに「公正と信義」に信頼して運用されてきたため、細かく規定しなくてもその「行間」を「抜け穴」として行動する為政者は幸いにも現れなかった。 しかし、安倍政権の登場により、「行間」は「抜け穴」と読み替えられ、そのエアポケットで権力者は縦横無尽にふるまっている。「行間」の番人であった内閣法制局も今や人事を通じて骨抜き状態で機能していない。 現憲法ですら「違憲」と判断されうることにお構いなしなのだから、「違憲」のハードルを下げた(違憲と判断しやすくする)ところで、守られないという点では変わりない。すなわち、これを強制的に是正する「仕組み」が必要である。 具体的には、憲法裁判所の創設によって憲法の規範性・強制力を担保すべきである。司法官僚組織とは独立した憲法裁判所の創設は、最高裁改革にも着手することを意味し、ここに真の司法制度改革がスタートするだろう。最高裁と政権与党の間の、“法律に違憲判断をしない代わりに最高裁には手をつっこまない”という緩やかな「共謀」は、司法権の独立と権力統制機能を画餅にしつつある。このような改革案は、野党こそ提起できるものではないか。安倍改憲論は小手先 その他、「個人の権利保障の拡充」というテーマでは、その実行力の担保として今見た憲法裁判所の創設が挙げられるが、プライバシーや知る権利、LGBT(性的少数者)の権利についても議論すべきだ。「権力統制・権力均衡の回復」としては、9条を筆頭に、国会権能の強化と行政府の統制も議論せねばならない。先般問題となった委員会での質問時間の配分問題も、規則レベルだが、「改憲論議」の枠内で行うべきである。議会の不文律で重要なものは明文化すべきだ。2008年フランスの改憲議論や、近時のドイツでの議会改革の改憲論議でも規則改正や明文化の議論が活発に行われている。 また、日本固有の「権威と権力」の均衡を担う皇室制度についても、改憲論議の中心的課題であり、女性宮家の創設及び女性・女系天皇について皇室典範の改正論議は、改憲構想の中で語られるべきである。「熟議民主主義の再興」では、参議院改革、地方自治制度、選挙制度、国民投票制度(国民投票法含む)の再考、外国人の地方参政権など、多様な民意の反映のための制度構築の見直しをしなければならない。 また、「主権の回復」として、日米地位協定の改定も9条改正とセットで改憲論議に含まれるだろう。  以上は、憲法の保障する普遍的な価値や立憲主義を強化する改憲提案の一部でしかない。 これらから逃げた「改憲論議」は、小手先のまやかしであるし、安倍改憲(加憲)論はまさに小手先のコンセンサス重視の「欲望充足改憲」であり、まったくビジョンも一貫性も胆力もない(個別の問題点の指摘はすでに大幅にオーバーした紙幅の関係上別稿に譲る)。安倍加憲や立憲主義的改憲に対する態度決定は、「改憲派」や「立憲主義」を名乗る人々にとってのよきリトマス試験紙となるだろう。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年9月(宮川浩和撮影) 戦後70年の日本の歩みを肯定的に振り返りながら、安倍政権が登場した現代社会において、憲法を権力統制規範として甦らせ多様な価値観を奉ずる個人の権利をすべて抱擁する寛容な法規範として再定位するべきだ。改憲についての「政治的状況」や「タイミング」を重視する“護憲”的な言説ほど憲法を貶(おとし)めてはいないか。今だからこそ、運動論ではなく理論で戦うべきときではないのだろうか。 憲法の根源的な価値は「あなたがあなたであるということだけで尊重される」ということであり、人は誰しもがどこかを切り取れば少数者である。すなわち、誰もが憲法の当事者であることからすれば、改憲論議もすべて我々一人一人のものである。政治、市民、専門家、すべての知性を結集して、誰もが当事者の憲法改正を語れるプラットフォームの醸成をしていきたい。

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    「一億総ゲス社会」にどっぷりつかった日本人は地に堕ちた

    ーマ法王と故カストロ国家評議会議長(当時)の初会談だ。全世界の注目も集まろうというものだ。とりわけ米メディアの力の入れようったらなかった。CNNの人気アンカー、クリスティアン・アマンプール氏はぞろぞろと10数人はいようかという「おつき」を引き連れ闊歩(かっぽ)しているし、abcの重鎮アンカー、故ピーター・ジェニングス氏の姿も。アメリカキーテレビ局のキャスターは勢ぞろいだった。 それが、だ。クリントン大統領のスキャンダルが勃発(ぼっぱつ)した途端、米メディアの引き際がすごかった。一瞬のうちにハバナ市内から消え去り、アメリカへと戻っていったのだった。残された?われわれ日本メディアはその後淡々と法王のキューバ訪問を取材したのは言うまでもない。 結局、クリントン大統領は弾劾されなかった。とはいうものの、その権威と信頼は大きく傷ついた。そして、ルインスキー氏が失ったものも大きく、さまざまなバッシングも受けその後の人生設計は大きく狂ってしまった。代償はあまりにも大きかったのだ。不倫に寛容になった日本社会 さて、翻って日本だが、こんなに一部メディアがバンバン「不倫報道」に血道をあげているわりに、実は本人たちも周りの人も大して気にしていないんじゃないか?と思うようになってきた。芸能人なんてすぐ「禊(みそぎ)」が済んであっという間に画面に復帰するし。 政治家だって、先のイケメン(現在はイクメン)議員、すなわち宮崎謙介元衆院議員だが、ふとテレビをつけたらバラエティー番組のコメンテーターとして番組に出てしゃべっているではないか。 山尾志桜里衆院議員だって、本人は不倫を否定しているわけだし、ちゃんと選挙も勝ちました。ですので、その不倫相手と報じられている弁護士を政策顧問にしたってなんの問題もないでしょ、という態度だ。世間も、なんとなくなし崩し的にまあそうだよな、という感じになっている。人の噂も七十五日。こちらも風化するのは時間の問題という気がする。 何が言いたいかというと、実は日本人は騒いでいる割に意外と「不倫」を気にしていないのではないか、ということだ。単に興味本位で他人の私生活をのぞき見し、楽しんでいるだけなのではないか。実は日本社会は「不倫」に寛容なんじゃないか、と思い始めている自分がいる。 去年、ベッキー騒動の時、私はJapan In-depthにこう書いた。 ただ単に人の過ちを冷笑し、貶め、叩くだけ叩くという今のこの現状。テレビのワイドショーを見て、喜んでいるのは私達自身だ。「ゲス不倫!」と人を罵る前に、自分たちのゲスさ加減に気づくべきだ。「一億総ゲス社会」 人の不幸は蜜の味。そんな社会に私たちはどっぷりとつかっている。 確かに「一億総ゲス化」は着実にパワーアップし、かつ進化を遂げている。政治家の「不倫」はもはや道義的にどうこういう問題ですらなくなった。ただのエンターテインメントの一部でしかないのだ。エンタメというと聞こえがいいが、要は「芸能」。「政治家」は「芸能人」とほぼ同義語となり、その政治家がどのような政治信条を持っているのか、これまでにどのような政策を進めてきたのかなどということには誰も興味がないのだ。 興味があるのはスキャンダルだけ。現代人の欲求不満のはけ口を提供しているにすぎない。そんな存在に政治家は堕ちた、ということだ。それにテレビのワイドショーや政治バラエティーが加担している。2017年9月、愛知県尾張旭市での支援者を集めた会合を終え、報道陣に囲まれる山尾志桜里氏 こうした状況に甘んじている政治家も問題だが、しかし、だ。よーく考えてみたら、その政治家を選んでいるのは私たち有権者だし、ワイドショーを熱心に見て視聴率を上げているのも、私たち自身なのだった。 結局、ツケは自分たちに返ってくる。そう気づいたら暗澹(あんたん)たる気持ちを通り越して滑稽さすら感じる。嗚呼(ああ)、因果応報とはこのことか。

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    多額の取材謝礼を払っている? 週刊誌の嘘とホント

    によれば……」と文春の記事をそのまま流している。自社でウラも取らずに文春の記事を放送することについてメディアとしていかがなものかと批判するむきもあるが、どだい民放のマンパワーでは独自のウラ取りなんてとても無理である。 民放各局にも報道局という部署があって記者がいるが、これは正午前や夕方、さらに晩のニュース番組のための取材や原稿書きをするためにいるのであって、午前中や午後の情報番組のための人員ではない。文春が書いてくれ、ある程度、社会的に認知された記事であれば、一も二もなく飛びついてしまうのである。 文春側もしたたかなもので、最近ではテレビ各社に対して、「週刊文春によると」とのクレジットをしっかりつけるよう求めるだけでなく、画像や記事の使用料を取るようになったという。少なくない経費をかけて取材をしたわけだから、テレビ各局にタダ取りされてはかなわないということだろう。 ネットには「なぜ文春はスクープを連発するのか」という類いの記事が多く掲載されるようになった。週刊誌の記者による取材や制作過程に関心が高くなっていると思うと、たいへん喜ばしいことだが、一般に広がっているイメージのなかには誤りも多いので、この機会に指摘してみたい。①多額の取材謝礼を支払っている のっけからカネの話で恐縮だが、この誤解に対してはきちんと言っておきたい。文春がなぜ強いのかと書いたネット記事のなかにこう書いているものがあったからだ。 文春にかぎらず週刊誌はネタ元に対して多額の謝礼を支払っているとのイメージが世間では強いようだ。なかでも文春は他社よりも高額であると。だから、多くのネタが集まってくるのだという理屈だ。 私が知るかぎり、かつてある大手出版社の某週刊誌が大物芸能人と暴力団幹部が一緒に写った写真を入手するのに、百万円を超える謝礼を払ったことがある。担当編集者にオリジナルの写真を見せてもらいながらその額を教えてもらった時に、驚いた記憶がある。 ただし、これは今ではかなりレアなケースだと思う。第一、ネタをカネで買ってくれと言ってくるような人物は信用ならないことが多い。カネ欲しさに話をでっち上げるようなことだってするからだ。 かつてインタビューを受けてくれた相手から多額の報酬を請求されたことがあったが、きっぱり断ったことがある。そんな額、どうやっても経理の担当者が認めるわけがないし、そもそもインタビューが掲載されることであなたが主張したいことが一般読者にも伝わることになり、あなたにとってもプラスの影響が出るはずだ、そう説明した。相手も最後は納得してくれた(と思う)。繰り返しになるが、多額の取材謝礼を支払うなんてあり得ない。多くは我々記者が足で稼いだ成果だ。週刊誌はカネや圧力で記事を引っ込めるのか②週刊誌の記事は信用ならない 残念でならないが、一般にこう思われているのも事実だろう。たしかに週刊誌のなかには事実かどうかよりも、耳目をひく見出しで読者に読んでもらう、買ってもらうことが目的と化したようなひどい飛ばし記事も目立つ。ただ、文春には週刊誌業界では定評がある取材力の高い記者が多く、こうしたひどい記事を書かずとも記事になっていると思う。 一方で、文春も含む週刊誌は新聞やテレビに比べて、記事に書かれた側から訴えられることが多く、裁判所も取材する側に厳しく接することが多いために、敗訴することが少なくない。 だが、これは新聞やテレビが際どいネタを取材しなくなったことの裏返しでもあると思う。もちろん取材には万全を尽くすべきだが、格好のネタがあるのに取材をしようともしないというのでは話にもならない。 甘利氏の秘書らに金銭を渡していたと自ら名乗り出た告発者の場合、文春の記者に接触する以前に大手新聞社の社会部記者に同じ話をしていたことは我々の業界ではよく知られた話だ。この記者は告発者から話を聞いておきながら、それを上司に報告することもなく、そのまま放置していたという。同じ社の別の記者によると、どうもその記者は、告発者から話を聞いてピンと来ず、むしろ怪しいヤツと思ったからとも、どうせ社内でネタを潰されると思ったからとも説明しているそうだが、どちらにしても社会部記者としてかなり問題である。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 告発者の素性に疑問を持ったとしても、金銭授受の事実があったのであれば、それを調べてみるのが社会部記者たる者の最優先すべき仕事のはず。政治家がからむ案件で潰されるかも知れないと心配するのはそのあとだ。 その意味では、このネタに食らいつき、記事化までに半年もかけて取材を重ねた文春の記者は見事だというより他ない。週刊誌が信用ならない記事を書くのではなく、新聞やテレビが際どい記事をやりたがらないだけだ。③週刊誌はカネや圧力次第で記事を出したり引っ込めたりする これも多くの人から、「週刊誌ってそうなんでしょ?」と聞かれることだ。そのたびに「今どきそんなことする雑誌なんてありませんよ」とムキになって反論するが、なかなか信じてもらえない。 だが、こんなことをやってはおしまい。週刊誌だってメディアの端くれ、報じる意義がある、世間が求めている、だから報じるのであってカネや圧力で記事にする、しないを決めるなんてありえない。 新聞各紙は、毎年、元旦に特ダネを掲載するのが習わしになっている。今年も某大手紙が、中国でスパイと疑われ拘束されている日本人の動向についてスクープを打ってくるとの情報が事前に流れたが、実際には掲載されなかった。これをめぐってその新聞社の社内で政治部が社会部に圧力をかけたために掲載されなかったんだという、まことしやかな噂も聞こえてきたが、さすがにそんなことはないだろう。そんなことをすればメディアにとって自殺行為だからだ。 週刊誌だって同じ。そんな心構えでやっているつもりなのだが。

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    「首相の関与」は無理筋だった? 森友問題で一変した朝日新聞の責任論

    籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていたのではないか。メディアのミスリードにハマった国民 だが、実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流すことに貢献したことは明白である。 例えば、朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。森友学園問題を取り上げた2017年4月2日付の朝日新聞社説 もちろん、朝日新聞はこの一方の当事者の発言を事実検証もせずに垂れ流した責任を取る気はさらさらない。むしろ最近では、どうも安倍首相への「忖度」が無理筋だと思ってきたのか、社説などでは、財務省のミスを追及する責任が首相にある、と論調を変化させている。 例えば、12月1日の社説「森友問題審議 無責任すぎる政府答弁」では、「責任は財務官僚にあり、自分は報告を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、行政府トップとして無責任な発言というほかない」と書いている。これは以下のように書き換えることができるだろう。 「責任は籠池泰典氏にあり、自社(=朝日新聞)は発言を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、言論の府としての新聞として無責任な発言というほかない」 実は朝日新聞と似たような報道を毎日新聞もしている。以下は毎日新聞の公式ツイッターでの発言である。「首相がすべきなのは、自身の関与がなかったとしても周辺に『そんたく』がなかったか徹底調査すること」。加計・森友問題の報道に関わってきた記者は指摘します。毎日新聞公式ツイッター(2017年11月16日) これまで散々「首相の関与」をあおってきた末のこの発言にはあきれるしかない。 だが、無責任な報道姿勢が改まることはないだろう。例えば、自民党の和田政宗議員が12月1日朝のブログで、「新しいメモ」でもないものをいかにも森友学園の不正を追及する新資料が発見された、といわんばかりの記事を掲載していると批判している。これはささいな問題に思えるかもしれないが、この種のミスリードの蓄積が「安倍首相は謙虚ではない」「安倍首相は人格的に好ましくない」といった印象へと導いていくのかもしれない。森友学園問題も加計学園問題についても、首相から発生する問題はいまだみじんも明らかになっていないのにである。「安倍擁護」の批判に応える 「われわれは知らず知らずに心の中で魔女裁判を行っているのではないか?」。このようなことを書くと毎度出てくるのが、安倍擁護をしているという批判である。経済政策や安全保障を含めて重大な問題がある中で、あくまで責任が全く明示されていない問題に過度にこだわることの愚かさを指摘しているのである。朝日新聞や毎日新聞に代表されるような無責任なマスコミの報道姿勢を追及することは、政権の政策ベースでの批判と矛盾することはない。実際に安倍政権の経済政策だけでも、前回の論考で消費税増税シフトを批判したように問題はある。報道によってミスリードされている世論の「魔女裁判」的状況の解消を願っているだけなのである。2017年11月、参院予算委で答弁する安倍首相 このようなマスコミの無責任な報道姿勢は、森友学園問題だけではない。朝日新聞がいまでも自社の誇り、もしくは売りにしているものに「天声人語」がある。いまでも入試のための必読アイテムだとか、文章の見本などと宣伝されていることがある。実際にはそんなものではない。 日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判していた。まさに同意である。今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と十分に論じることなく、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく。そのような朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。 岩田氏は、当時話題になっていた大相撲力士の野球賭博問題を絡めて以下のように書いている。 多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである。 つまり法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

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    日馬富士騒動に便乗したワイドショーの「場外乱闘」がみっともない

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 「日馬富士暴行問題」をめぐる一連の報道の中でひときわ目を引くのは、第三者の発言を借りた「臆測報道」の乱用だろう。 「関係者」「周辺」「元力士」「友人」「相撲に詳しい~」「~をよく知る」「相撲取材歴○○年」などと称する人たち(以下「関係者」)が、自分たちの立ち位置で、自分たちなりの発言をする。そして、当事者でもないのに、お互いの発言からさらなる推測をしたり、批判したり議論をする…という不可思議な構造である。ここぞとばかりに「関係者」が登場しては、さまざまに食い違う「真実」を語り出す。 騒動後、姿を見せない被害者、貴ノ岩関に対して「外傷とその後の騒動から、PTSD(外傷後ストレス障害)の可能性もあるから表に出ない」という見立てまでする医師さえ登場している。担当医でもないのに、いい加減にも過ぎる。 常識的な感覚があれば、この状況で貴ノ岩が精神的なストレスを抱えていることは、誰だって想像できる。騒動に便乗して、専門家風のスタンスで中身のないコメントをする意味がどこにあるのか。 貴乃花親方の心境に思いを馳(は)せたり、相撲協会理事たちの考えを代弁したり、貴ノ岩関の居場所についてまで推測し、それをテレビという公共の電波で臆面(おくめん)もなく語る相撲リポーターの姿にも辟易(へきえき)とさせられる。 自民党の伊吹文明元衆院議長まで「大横綱だからなんでもできると思い上がっているんじゃないか」と持論を展開する始末だ。政治家がコメンテーターのまねをしてマスコミの前で意見する問題ではない。  極めつけは、モンゴル出身の旭鷲山(元小結)が各局の情報番組で発言した騒動へのコメントと、それに対して繰り出された同じくモンゴル出身の朝青龍(元横綱)による批判だ。公私混同、目的不詳の「場外乱闘」としかいいようがない。もちろん、2人とも騒動の部外者であり、貴乃花親方や貴ノ岩関の本当の胸の内など知るよしもないだろう。記者会見する元小結旭鷲山、ダバー・バトバヤル氏=2017年11月、モンゴル・ウランバートル(共同) 貴乃花親方が鳥取県警の捜査を優先し、相撲協会からの聴取に協力的ではないということを批判したり、断片的にしか知りようのない貴乃花親方の挙動に意見する「関係者」たちの発言なども異様だ。明らかになっている事実は、暴行に対して被害届が出された、ということだけである。少なくともやり取りの是非について、第三者が勝手に臆測をめぐらせ、さも客観的意見であるかのように公言するものではない。 もちろん、貴乃花親方には監督責任者として相撲協会にも報告する義務はあろうが、そもそもそういった細かい議論こそ、貴乃花親方と相撲協会との間で部外者の理解を超えたナイーブな話があることは想像に難くない。どれも「関係者」たちが臆測で発言できるような類いのものではないはずだ。ジャニーズと協会の共通点 「関係者」と称する無関係な第三者たちの発言によって構成された「臆測報道」。このような異常状態を横行させる背景にあるのは、皮肉にも大相撲力士のコンテンツ力の高さがゆえだ。 例えば、最新の週間視聴率ランキング(11月20日~11月26日)を見ても、「大相撲九州場所12日目」は、関東地区で17.2%とスポーツ分野で堂々の1位だ。この数字は、全番組の中でも「笑点」に次ぐ5位である。 テレビ離れが進む今日にあってもなお、大相撲中継は、高位安定の「鉄板コンテンツ」であることに間違いない。中継技術も完成しているだろうから、番組制作にあたり改めて新しいアイデアを考え出す必要もなく、労力もかからない。近年、消滅しつつある「ながら視聴」にもまだまだ耐え得る貴重なコンテンツでもある。 大相撲中継が「本編」だとすれば、バラエティー番組や情報番組で扱われる大相撲ネタはいわば「スピンオフ」だが、このスピンオフでさえも本編に伍(ご)するほどのコンテンツ力を誇っていることは言うまでもない。力士を登場させるバラエティーやワイドショー番組は数多い。 エンターテインメントという観点から見ても、大相撲や力士は分かりやすく、扱いやすい素材だ。何より「相撲レスラー」のキャラクター性が明確であり、相撲に詳しくない人でも、力士がテレビに出てくれば、「あっ、この人はお相撲さんなんだ」とすぐに分かる説明不要のコンテンツなのである。2017年11月29日、引退会見を終え頭を下げる日馬富士=福岡県の太宰府天満宮(撮影・仲道裕司) 日馬富士や貴ノ岩含め、登場する力士や親方の名前を今回の騒動で初めて知った若い人は少なくないだろう。しかし、普段、大相撲中継などを見ておらず、個別の力士に興味がない人でも、相撲界全体の話題やスキャンダルには思わず関心を持ってしまう。われわれ日本人の中に、大相撲、力士というコンテンツへの関心が潜在的に刷り込まれている証左と言える。 この高いコンテンツ力が故に、無関係な「関係者」の臆測や場外乱闘でさえも、ワイドショーや情報番組にとっては決して小さくないニーズが生まれる。当事者からの情報が出てこない今回のようなケースであればなおさらだ。 もちろん「関係者」たちの無法地帯が生まれる理由は他にもある。 メディアにとって、大相撲のコンテンツ力の高さは、相撲協会に対する弱みにもなっている。ジャニーズ事務所のような大手芸能プロダクションとの関係にも似ているが、批判的な立場はとりづらいはずだ。コンテンツ力の高い相手に対しては、常に顔色を窺わざるを得ないのが今のテレビの宿命である。それがとりわけ閉鎖性が強いといわれ、他に代替がきかない相撲協会であれば過剰な「忖度(そんたく)」は必至だ。 それでも、スキャンダルであればあるほど関心が高まる大相撲ネタであるだけに、今回のような騒動は、テレビのワイドショーや情報番組ではあれば、多少のリスクを冒してでも扱いたいトピックだろう。 そこで利用されるのが「関係者」たちである。 「関係者」をカメラの前に座らせて、「よく知る第三者」として発言させることで、メディアとしての直接的な責任を回避しつつ、話題性の高い情報を発信できる。相撲協会にとって不都合であったり、気に食わない内容があったとしても、その責任は「関係者」にあるのだから、差別発言や放送禁止用語などを口にしない限り、番組自体が責任追及の対象にはなりづらい。 テレビは責任の外に置かれ、「関係者の発言」だけが、番組のスクープ、新事実として無責任に一人歩きをしてゆく。要するに無責任でスキャンダラスな発言を「関係者」と称する、出たがりの第三者に代弁させているだけではないか。それどころか、真偽不詳で臆測だらけで炎上発言をしてしまう「関係者」もまた、ワイドショーにとっては力士同様に便利なコンテンツなのかもしれない。国技でもないのに品格を求められ 日本の「国技」として認識される相撲ではあるが、他の伝統文化の業界に比べ、報じられるスキャンダルや問題は多い。親方の暴行による力士の死亡事故を含め、暴力問題、八百長疑惑などは枚挙にいとまがない。日本相撲協会も事あるごとに「力士の品格」を口にしては所属力士たちを律するが、そんなものどこ吹く風で、品格のない事件や騒動は後を絶たない。 その要因は、意外に思われるかもしれないが「相撲は日本の国技ではない」という事実にあると筆者は感じている。 より正確に表現すれば、相撲は、国旗国歌法のように法律で「国技」であると定められているわけではない。演芸や工芸でもないので、文化財保護法における「重要無形文化財」でもない。菊の紋章のように、慣例的に「日本の国章」になっている類いのものでもない。 つまり、大相撲を頂点とした相撲文化が、日本の「国技」であることを示す法的な根拠はないのである。2017年9月、両国国技館で行われた土俵祭(撮影・加藤圭祐) 一方で、多くの日本人は相撲が日本を代表する武道であり、わが国の象徴的な「伝統文化=国技」であるとして受け入れることにやぶさかではない。多くの国民から「国技」であるとイメージされ、そこで活躍する力士たちも、日本の伝統文化を継承する人気者であるにもかかわらず、「国技の継承者」としては明確に定められていないという矛盾がある。 国民からの「国技の継承者=国の代表」としての認識は、力士たちと相撲協会に大きな収益や知名度といった特権を与えている。対外的にも「国技」としての役割も存分に担わされているにもかかわらず、日本相撲協会という民間団体だけによってコントロールされているのが実態だ。  メディアにとっては検証や批判がしづらい大相撲の高いコンテンツ力。「国技」としてのイメージを担わされ、特別な立場を享受している事実。しかし、実は単なる民間の競技団体でしかないという大相撲の実態。この相容れない3つの重なりが生み出す矛盾にこそ、日本の伝統文化にもかかわらず、品格なき事件を生み出す要因があるのではないだろうか。 もっとかみ砕いて言えば、大相撲で活躍するモンゴル人力士たちの中に、日本の「国技」を支えてきた、という自負が生まれ、それが品格なき「増長」をも許してしまうのではないか。 連日過熱する日馬富士騒動だが、ワイドショーを中心としたマスコミは「関係者」たちによる臆測報道ばかりで、こういった問題に対して言及することはあまりない。相撲界を正常化させ、より発展させるために期待される役割は決して小さくない。 無関係な人たちによる無責任な想像力を楽しむことも節度を守れば必ずしも悪いとは言い切れないが、それよりもメディアが取り組むべき魅力的なテーマは、他にいくらでもあるだろう。

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    日馬富士騒動、ワイドショーの悪ノリが痛い

    テレビをつければ、連日連夜くだんの日馬富士騒動だが、各局のワイドショーは軒並み高視聴率だという。騒動とは無関係の元モンゴル人力士が「場外乱闘」まで繰り広げ、ワイドショーの悪ノリもここまで来るともはや「公害」である。このバカ騒ぎの元凶はテレビなのか、それとも視聴者か。

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    「若貴の母」藤田紀子のワイドショー発言だけは価値ある情報だった

    性と子供を甘くみる偏見を含んでいるが)向けの情報と低くみられかねないが、確かに「そこまで本気で公共のメディアで時間を使うべきものですか?」という話題について無駄に議論する例も少なくない。タレントの不倫問題について、延々と議論するのは最たる例である。 最近の例でいえば、日馬富士の暴行問題が一様に注目のテーマであった。国技として社会的な注目度も高い相撲界で起こった出来事だけに、ワイドショーが盛り上がるのも理解はできるが、どの局も同じような映像を使い、相撲ジャーナリストとタレントの組み合わせという、類似のメンバーで横並びの情報を流すことに果たして意義があるのかはオーディエンスの多くが疑問に思うところであろう。報道陣に囲まれる貴乃花親方=2017年11月、東京都江東区 ただ、ワイドショーの存在自体が無意味かというと、そうとは言いきれない。現在の多様化したメディアにおいては、かつては録画しなければその場限りの言動で消えて行った司会者やコメンテーターの発言が、ネット上に記事として再掲され、放送時間にテレビの前に座っていなくても、ワイドショーでの議論に接することができ、記録にも残るようになった。 つまり、ワイドショーの司会者やコメンテーターが「オピニオンリーダー的な位置づけ」で扱われる現象が、ネット環境の発達により高まっているのだ。ワイドショーをみているのは「どうせ女子供」という前提は通用しなくなり、より幅広い一般市民、老若男女に、ワイドショーの議論が影響を与える可能性が増えたのである。 また、ワイドショーには、専門家やジャーナリストを中心に構成される夕方から深夜にかけてのニュース番組にはない特徴がある。コメンテーターの顔ぶれには、市民目線を意識したいわゆる「ど素人」的なメンバーも含まれるので、コメントは玉石混交ではあるが、時に素人ならではの新鮮な疑問が飛び出し、いわゆる学識経験者らによる真面目な大新聞の社説よりも的を射た意見だと納得させられる場合もある。意外と有意義な「社会勉強」の場 今般の日馬富士騒動の例では、「貴乃花、若乃花を育てた母」というテロップとともに、ニュースの当事者である貴乃花親方の母親でもあり、相撲部屋の女将でもあった藤田紀子氏の、元女将の立場、母親の立場を絶妙に使い分けながらのコメントには、ユニークなものがあった。女優の藤田紀子(左)と息子でタレントの花田虎上 通常、メディア学においては、新聞や雑誌に頻出する「〇〇の母、妻」という肩書を、女性個人の主体性を尊重するのではなく、男性(夫や子供)の従属者とみなす呼称として批判するのであるが、今回の暴行問題においては、元相撲部屋の女将であるという藤田氏の独自の立場を認識させるために、必ずしもマイナスではなかったといえる。そして、母親という私的立場を併せ持つ独自の立場からの意見を引き出したワイドショーには一定の意義があった。 貴乃花部屋を謝罪に訪れた伊勢ケ浜親方と日馬富士を車の中で無視して走り去った貴乃花の態度は、大人げないと批判されるが、親方衆は場所中は会場に詰めているのだから、いつでも謝罪の機会はある、あれはむしろ伊勢ケ浜親方側のパフォーマンスだ、というコメントには、あからさまではないが、正論を主張しつつも母としての愛情がこめられていたように見えた。過去に自分自身も、息子たちの現役時代の家族関係を取りざたされ、まさにワイドショーを賑わせただけに、ワイドショーのネタとなった経験者の発言としても興味深いものであった。 テレビ局のコンテンツ制作力が低下したため、ワイドショーでお茶を濁しているという見方もあり、より大きく扱うべき北朝鮮との外交問題、福島原発の今後、震災復興などの深刻な社会問題を隠蔽しているという批判もあるが、素人の素朴な疑問から、専門的な知見まで、多様な意見をいい意味で取捨選択せずに(つまり、製作者側のバイアスがかかる可能性を減らして)流すことができるのは、ワイドショーの利点でもあろう。いわば、ネット情報に近いゲリラ性を有するのが、ワイドショーの言論である。 専門家や現役の業界関係者が、一般視聴者の目に見えぬ利害関係に縛られて教科書的、建前的な良識だけしか述べず、本音が別のところにある可能性も高いため、良い意味での井戸端会議的な談論風発で、社会通念や専門家の盲点をつく「正論」がワイドショーという場で引き出される可能性もある。 ただ、経歴詐称で姿を消すコメンテーターの例もあったように、コメンテーターが果たして本当に信頼できる人物なのか、専門家としての意見を述べているのか、専門外の立場から発言しているのかをオーディエンスはきちんと見極める必要がある。ワイドショーのコメンテーターがたとえ、その場限りのハチャメチャな意見を述べたとしても、それを批判し、良質な意見をそこから腑分けできるような、情報を読み解く力、高いメディアリテラシーがオーディエンスには求められる。 それさえ意識していれば、一見軽く見えるやりとりの中から、珠玉のコメントを自分なりに発見し、そこから社会を読み解くヒントをくみ取る場として、ワイドショーは意外と有意義な「社会勉強」の場となり得るのである。

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    「マスゴミの象徴」ワイドショーはどこへ行く

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) テレビは娯楽だ。民放で言えば、コマーシャルを見てもらう代わりに、楽しいテレビ番組を提供しているとも言える。大昔の言葉で、テレビは「電子紙芝居」だなという表現もあったが、子どもたちが紙芝居に集まったように、人々はテレビの前に集まる。街頭テレビに群がる大勢の人々 ドラマあり、スポーツあり、お笑い番組あり。大勢の人がテレビの前に集まり、戦後のスタープロレス選手、力道山を応援し、オリンピックの日本チームに声援を送ってきた。試合会場に行かなくても、寄席に行かなくても、テレビなら全国どこでも気軽に楽しめる。 かつて「楽しくなければテレビじゃない」と豪語したテレビ局もあった。みんながテレビばかり見ていると、国民みんなが愚かになってしまうと「一億総白痴化」などと言って警鐘を鳴らした評論家もいた。 テレビはまた情報伝達ツールだ。テレビの発明は、グーテンベルクの印刷機の発明に匹敵する、人類史上の大発明だ。大量の情報やニュースが毎日流されている。情報伝達ツールの先輩にあたるのは新聞だ。ただし、新聞はテレビよりも格調高い。新聞の1面トップを飾るのは、ほとんどが政治経済ネタである。 政治経済の話なので、大見出しで書かれていることでも、庶民にはよくわからないこともある。最近は新聞を購読する人も減ってはいるが、かつてみんなが新聞を読んでいたときも、1面トップの難しい記事は読まず、まずテレビ欄を見たり、社会面やスポーツ欄から見たりする人も多かったことだろう。4コママンガを楽しみにしている人もいるだろう。その人たちももちろん新聞を購入した。 しかし、テレビはもっと自由だ。そしてシビアだ。番組冒頭から、難しい話題を難しい言葉で話す必要はない。やわらかい表現を使ってもいいし、やわらかい話題から入ってもいい。それに、番組の最初から面白くない話などされたら、視聴者はすぐに番組を変えてしまう。面白い興味深い話題になるまで待ってなどくれないのだ。 テレビは視聴者をつかむためにさまざまな番組を作ってきた。その中で生まれたのが「ワイドショー」だ。ワイドショーは、とても自由だ。ワイドショーを変えた「ワイドショー」 ワイドショーは1960年代に始まっている。放送時間はゴールデンタイムなど高視聴率が狙える時間帯ではない。むしろ、平日昼間のすきま時間とも言えるような視聴率が取りにくい時間帯に、ワイドショーは置かれた。だが、ワイドショーは次々大成功していく。スタジオ生番組、そして2時間程度の長時間、バラエティーに富んだ話題をスタジオトークでつないでいくワイドショーは、視聴者の心をつかんだのだ。 かつてのワイドショーといえば、芸能ニュースやゴシップネタが中心だったろう。だが、世の中は変わっていく。テレビも変わっていく。今までのいわゆるワイドショーでは、満足しない人々が出てくる。 その変化を生んだ番組の一つは、1999年に始まったフジテレビの『情報プレゼンター とくダネ!』だろう。「ワイドショーを超えたワイドショー」と銘打って、豊富な話題を取り上げていく。平日昼間に家にいる主婦なら、この程度の話題をこの程度に扱えばよいだろう。番組スタッフはそんなふうには考えず、今までのワイドショーを越えたいと考えたのだろう。フジテレビ系「とくダネ!」番組開始時に司会を務めた(左から)笠井信輔アナウンサー、メーン司会の小倉智昭キャスター、佐々木恭子アナウンサー=1999年 このコンセプトを視聴者は受け入れた。2001年にはこの時間帯の視聴率トップにおどり出る。その後10年近くは、視聴率トップの座を維持してきた。しかし、成功すれば他局もまねをし、またNHKの『あさイチ』が登場してきたことで、首位の座は明け渡していく。 いずれにせよ、視聴者はワイドショーに堅い話題も求めてはいる。しかし、そうは言ってもやはり娯楽性は無視できない。そして、テレビは自由だ。視聴者が求める話題、視聴率が取れる話題を求めるのは当然だ。そして時に、すべての話題がワイドショー化していく。 例えば、力士の暴力事件が大きな話題になり、人々の関心の的になれば、もちろんワイドショーはその話題を取り上げる。ニュース番組も新聞も同じ話題を取り上げるが、取り上げ方が違う。ワイドショーならジャンルを問わず、一番の話題として、最も関心度が高いテーマを取り上げることができる。 週刊誌も、読者が最も読みたがる話題を自由に取り上げられるが、さすがに雑誌のページの半分がその話題で占められることはないだろう。だが、ワイドショーならそれも可能だ。番組の始まりから力士暴力事件など一番話題のテーマを取り上げ、間で少し他のニュースやコーナーを行い、また力士暴力事件に戻ることも、しばしばある。ワイドショーこそ、テレビそのもの 各局で視聴率争いを行い、1分刻みの視聴率の変化に一喜一憂する。それがテレビだ。だから、うっかりすると、どのチャンネルのワイドショーもみんな同じテーマを取り上げることになる。しかも、今日も明日もあさってもだ。よほどその話題に関心を持つ人でないならば、うんざりすることもあるだろう。だが、別の話題にして視聴率が下がるようであれば、やはりこの話題を取り上げ続けるだろう。2017年11月、大相撲九州場所が行われている福岡国際センターで、役員室へ向かう貴乃花親方 ともかく話題を提供し続けなければならない。視聴率を取らなければならない。そうなると、同じような出演者(専門家)が、各局のワイドショーをはしごして出演することもある。少しでも他局のワイドショーより目立とうと思えば、センセーショナルな表現を取ってしまうこともある。 容疑者段階の人間を完全に犯人扱いし、ひどく侮辱することもある。おどろおどろしい表現で、必要以上に危機感をあおることもある。自殺の現場を生々しく撮影し、詳しい自殺方法を伝えてしまうこともある。これは、自殺予防の観点からすると大きな問題だ。 また少しでも新しい話題を提供しようと思えば、友人や知人、近所の人など雑多な人々にインタビューし、またスタジオに招くこともある。そこで価値ある情報が得られればよいが、不正確な情報を流してしまい、視聴者をミスリードする危険性もあるだろう。時には、内容が薄くなってしまうこともあるだろう。 テレビにとっては、わかりやすさは最重要事項の一つだ。わからないものは面白くない。わからなければ意味はない。テレビは、小学校4年生にもわかるように作ると語った人がいるが、確かにおじいちゃんも小学生も孫も一緒に楽しめるのがテレビだ。わかりやすいことは確かに大切だ。わかりやすく、そして意味あることが大切だ。時には、テレビで長々と放送されたものを見てもよくわからなかったものが、新聞記事を読んでわかることもある。ただし、集中してじっくり読まなければならないが。 マスコミのことを「マスゴミ」などと言って揶揄(やゆ)する人がいる。ワイドショーをばかにする人もいる。同じ放送局の中にも、事件現場に最初にワイドショーが入ってインタビューをすると「現場が荒らされる」と嘆く報道スタッフもいる。そういうこともあるのだろう。視聴率争いは激烈なのだから。 しかし、ワイドショーのスタッフたちも、心ある人々はもちろんよい番組作りを願っている。事件現場で、心のこもった思いやりあるインタビューをしようとしているリポーターのことも、私は知っている。 自由で楽しくてわかりやすい生放送。ワイドショーこそ、テレビそのものなのかもしれない。ワイドショーはどこに行くのか。それがテレビの未来像なのだ。

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    『スッキリ』阿部祐二「リポーターとは相手に拒絶される仕事」

    阿部祐二(テレビリポーター) 朝の情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍中の阿部祐二さん。どんな相手にもズバリと切り込む姿勢が臨場感のあるリポートにつながっているが、聞きにくいことを尋ねるストレスはないのだろうか。驚いたことに、「ストレスはほとんどない」と語る阿部さんの、ストレスとの向き合い方をうかがった。《取材・構成=林加愛、写真撮影=長谷川博一》 「事件です!」の決めゼリフとともにお茶の間に届けられる、迫力あるリポート。情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍する阿部祐二さんの取材は、エネルギッシュな臨場感に満ちている。日々全国を駆け巡るハードな仕事への姿勢も、どこまでも前向きでアクティブだ。「疲れたりストレスを感じたりすることはほとんどありません。周囲の仲間はよく、『次の休みが楽しみだ』と言うのですが、僕にはその気持ちがわからない(笑)。いつも仕事をしていたいし、動いていたいですね」 とはいえ、悲惨な事件や事故の関係者に話を聞くのは神経を使うはずだ。そうした場面でストレスを感じることはないのだろうか。「確かに、犯罪被害者など、苦しみの中にいる方々にとって、リポーターは『来てほしくない存在』です。怒りをぶつけられることも多々あります。しかし私たちは、その方々の言葉を伝えなくてはならない。ここで必要なのは、『本当の思い』に迫ることです。本当にそっとしておいてほしいのなら、それ以上は踏み込みません。でも、少しでも言いたい事がありそうならば問いかけます。表情やしぐさを見極めて、正しく気持ちをすくい取る。それができれば、必ず心を開いてくださいます」 確かに、対人関係のストレスは、相手の心が読めれば軽減できる。経験を積んだ今はどんな現場でも、相手の思いをほぼ正確に読み取れるという。「良いコメントを取れたときには、強い達成感があります。とくに、何人もの記者がすでに訪ねた取材先で、それまで誰も引き出せなかった言葉を引き出せたときは嬉しいですね。誰よりも真実に肉薄したコメントを取ろう、『阿部の取材は他とは違う』と言わせよう。そんな心意気で臨んでいます」最初は現場でうまく話せず落ち込んだ そんな阿部さんも、22年前にリポーターを始めた当時は、インタビューの「いろは」もわかっていなかった、と振り返る。「36歳で俳優からリポーターに転身したのですが、台本のない現場で何をしゃべっていいのか、当初はまるでわかりませんでした。初めての中継では、現場となった家の前で立ち往生。まったく言葉が思いつかず、その家の犬の名前を12回も呼んでしまう始末でした。当然、周囲には馬鹿にされました。『向いてないんじゃないの?』『俳優やってりゃいいのに』などなど、陰口もさんざん叩かれました」 しかし、そこで落ち込むかわりに、闘志を燃やしたのだ。「見返してやろう、と思いましたね。だから人の二倍も三倍も努力しました。自分に足りないのは情景描写の力だと思ったので、細かな描写にすぐれた小説を朗読。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を、何度も声に出して読みました。ほかにも新聞を5紙読んで知識をつけたり、インタビュー術の専門書を読んだりと、24時間すべてをスキル向上に注ぎ込みました」 課題を見つけ出し、努力して改善する。これが結局のところ、最も単純で有効なストレス解消法だ、と語る。「うまくできないこと、人に悪く言われること、納得できないことはいずれもストレスフル。ならばその原因を克服すればいい。昔も今も、そうして突き進んでいます。今年で58歳になりますが、今もまだまだ伸ばせるところは伸ばしたい。新聞記事の朗読や発声練習は日々欠かしません。最近は、時間を見つけて中国語と韓国語のレッスンもしています。英語でインタビューできるリポーターは僕のほかにもいるかもしれませんが、中国語と韓国語も、となるとどうでしょう。僕がいち早く身につければ、強い武器になるはずです」ストレスは「避ける」ではなく「超える」もの 走ることをやめず、ストレスは反骨心ひとつで「ねじ伏せる」。そんな阿部さんの目には、下の世代は「ヤワ」に映ることも多いという。「物事を無難に収めようとする人が多いですね。番組後の反省会を終えた若いスタッフがよく、『とくに問題ありませんでした』と報告してくるのですが、それこそ問題です。10人が10人、そこそこ賛同する番組なんてつまらない。批判的な意見もある中、何人かが熱烈に支持するような番組こそが面白いはずです。だから僕は『問題ナシで良しとするな!』と言うのですが、『阿部さんにはついていけません』なんて言われてしまう。彼らは衝突するのが嫌なのでしょう。でも、意見の食い違いや感情のぶつけ合いがあってこそ生まれるものもある。ストレスを避けてばかりいたら、その先には行けませんよ」 今は世の中全体が、ストレスを避け過ぎる傾向にある、と阿部さんは指摘する。「自分が傷つかないこと、人を傷つけないことばかり気にして、表立っては何も言わない。一見優しいように見えますが、憂うべき時代だと思います。そうしたコミュニケーションの中では、メンタルは弱くなります。褒められれば舞い上がり、叱られれば過剰に傷つく人がどんどん増えていくのです。つまりは皆、人の目ばかり気にしているのです。自分の評判に一喜一憂し、見た目を整えようとし、形から入ろうとする。やたらオシャレで小綺麗だけれど、中身が伴っていない人が増えている気がします」 阿部さんの価値観はその正反対だ。叱られることをいとわず、外見よりも中身を重視する。「僕は叱られると嬉しい、と感じます。問題点に気づかせてもらえないと、向上できませんから。若い人にも遠慮なく指摘してくれ、と頼んでいます。一方で外見には無頓着で、スタジオ入りの際のメイクもしません。見た目より、取材内容に注目してほしいからです。これはどんな仕事でも同じでしょう。大事なのは自分がどう見られるかより、どんな成果を提供するか、ということなのです」 こうして仕事の中身に注力することが、「どう見られるか」から生まれる不安やストレスを振り切る力となる、と阿部さん。「それには大前提として、仕事にやりがいを持ち、意義を感じていなくてはなりません。『この会社ならカッコよさそう』といったブランド志向だけで就職した人は、後々苦しい思いをするでしょう。それでも軌道修正は可能です。今いるところで必死にやりがいを探すか、見つからなければ転職してでも、自分のしたい仕事のできる場所に向かうことです。その場所でなら、ストレスを『避ける』のではなく、ストレスを『超える』モチベーションを持てるでしょう」 自身もそうしてキャリアを形成してきた。ここまでの道のりに、まったく悔いはないと語る。「僕は、仮に明日が来ないとしても後悔しないくらいの気持ちで仕事をして、日々全力を尽くしています。その毎日が、結果として明日へ前進する力の源になっています」あべ・ゆうじ テレビリポーター、俳優。1958年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中にモデル、俳優デビュー。芸能活動のかたわら、家庭教師派遣会社も経営。96年にテレビリポーターに転身。数々のニュース番組やワイドショーに出演。情報バラエティ『スッキリ?』(日本テレビ系)レギュラーリポーターとして活躍中。英語が堪能で、海外取材や海外の著名人のインタビュー時には、通訳を介さず英語で会話する。関連記事■ 難局とは「経験値を上げるためのチャンス」だ!■ 今の日本が「ストレス社会」になった理由とは?■ 話題の家電ベンチャー起業家の「ストレス源をかわす処世術」

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    日馬富士暴行疑惑に見る角界文化と世間の常識の埋まらぬ溝

    日目から休場。福岡と東京を往復するなどせわしなく動き、身体を小さく縮めるようにうつむいて歩く姿を追うメディアでは、連日、様々な情報が飛び交っている。それにしても、次々と出てくるのは日馬富士の酒癖の悪さだ。 人によってお酒の酔い方は様々だが、量によって急性の症状が現れることを酩酊といい、その代表的な酩酊分類に「ビンダーの分類」というのがある。この酩酊分類によると、お酒を飲むと人が変わったように暴力的になって興奮してしまうのを、複雑酩酊と呼ぶ。酔ってくると抑制がはずれて気分が刺激されやすく、激しい興奮が起こり、それが抑えきれず、ちょっとしたことにでも過剰に短絡的に反応する状態だ。この時は、その人が抱えている複雑な感情意識が現れやすいといわれる。この状態の持続時間は長いが、状況に対する理解や意識は保たれている。日馬富士自身も酒癖の悪さは自覚していたはずだ。 稽古後に待ち構えたレポーターたちに囲まれた横綱は、「親方が…」と言うと、硬い表情のまま前を向き、口をつぐんで歩き出すが、「反論することは?」と聞かれると視線を下に落とした。それは、自分がやってしまったことへの罪の意識だけでなく、手を出したという事実があったからだろう。 九州場所について聞かれると、手を腰の辺りに回して足を止めた。この行動は、覚悟を決めここで口を開くしかないと思ったからかもしれない。だが同時に、自分がやってしまったこととはいえ、報道陣にあまり騒がれたくないという気持ちもあったのだと思う。 貴ノ岩のケガについてポツポツと切れ切れな言葉を絞り出すようにして、謝罪の言葉を口にした日馬富士。関係者に迷惑をかけているという思いが強いのだ。だが、そこに貴ノ岩に対する直接的な謝罪はなかった。自分が一方的に悪いのではない、そんな思いがどこかにあるのだろうか。「これ以上のことは…」と言葉を濁すと、口をしっかりと閉じた。再び歩き出した日馬富士だが、うつむいたまま口の端を噛んでいた。自分の酒癖の悪さとやってしまったことを悔やんでいるのだろう。 その後、伊勢ケ浜親方と一緒に貴乃花部屋に謝罪に出向いた日馬富士の足取りは重かった。うつむいたまま厳しい表情を見せて親方の後ろを歩く横綱。その前を顔色のない辛そうな顔で歩く親方は、部屋の前に停まっていた車に近付いていく。車の中には貴乃花親方が乗っていた。車の横に立った伊勢ケ浜親方が中を見ながら手を差し出そうとしたが、親方に構うことなく車はそのまま出てしまった。 去っていく車を見ながら茫然とする二人。「行っちゃったよ」「(貴乃花親方が)いたな」と言いながら、手首を触って、無意識に自分をなだめる伊勢ケ浜親方と、茫然と立ちすくむ日馬富士。すれ違いだったのは、親方が謝罪に行くと連絡していなかったためもあるが、なんとも不思議な光景だった。日馬富士の心の底に浮かんだ「諦め」 その後、伊勢ケ浜親方は電話や緊急理事会を含め、すでに3度、貴乃花親方に謝罪していたという報道が出た。だが、貴乃花親方は被害届を取り下げる気がなく、全面対決の構えだ。貴乃花親方が、伊勢ケ浜親方が車に近寄ったのに窓を開けることもなく発車させたのも、伊勢ケ浜親方が車に近寄っていく足取りが重かったのもそのためだが、貴乃花親方の対応にもいささか首を傾げしまう。 日馬富士はというと、走り去る車を目で追うことなく前を向いていたが、一瞬、貴乃花部屋の方に視線を送り、伊勢ケ浜親方の後についていった。車を目で追わなかったのは、諦めに似た感情が心の底に浮かんでいたように思える。また貴乃花親方の車ではなく、部屋の方に目を向けたところをみると、貴ノ岩の状態が気になっているのだろう。 ビール瓶で殴り、素手で数十発殴ったと報道されている日馬富士。ビール瓶で殴ったと聞けば、普通はそれだけで驚いてしまうし、どんな状況でも暴行は許されることではない。しかし、元相撲取りにこの問題について聞いてみると、こんな返事が返ってきた。「空のビール瓶で頭を殴るくらいの衝撃は、ガチンコで頭と頭がぶつかることに比べれば大したことはない」。また、さらに過激な発言だが「2週間のケガなんてケガのうちに入らない」とも言っていた。 相手は横綱で同じモンゴル出身ということもあるが、貴ノ岩も事を荒立てたくなかったのだろう。貴乃花親方には当初、転んだと伝えていたというし、翌日の巡業では土俵に上がり相撲を取っていた。日馬富士と握手して、一度は和解していたという証言もある。さらに、この問題について貴ノ岩から一任されている親方の行動が不可解すぎるという報道がある。貴乃花親方は今後、どう出るのだろうか。 横綱白鵬からは、ビール瓶では殴っていないという新たな証言も出てきて、日馬富士への任意の事情聴取も開始された今、果たして彼自身は真実をどう語るのか? そして貴ノ岩の今の状態、本意はどうなのか? 私たちが普段うかがい知れない、角界というある種特殊な社会の文化が、今回だけはちょっぴり明らかになるのかもしれない。関連記事■ 横綱昇進の日馬富士 素行の悪さで“ミニ朝青龍”と呼ばれる■ 秋場所で躍進の若手力士はいずれもガチンコ貴乃花グループ■ 白鵬が日本国籍取得を決意、これまでの波乱の経緯■ 貴乃花長男の結婚相手 清爽な雰囲気の黒髪美女の写真■ 「長男結婚」報道の貴乃花 理事長の座に現実味

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    トランプ“グルメ報道”合戦が象徴する新聞・TVの凋落

    日間(11月5日~7日)、NHKから民放全局、新聞紙面までジャックしたトランプ報道狂騒曲によって、大メディアの実態が浮き彫りになった。 「首脳会談の中身なんてどうでもいいんだ。トランプが食べたハンバーガーの店をすぐ突き止めろ!」 民放各局ではディレクターからそんな指示が飛び、テレビクルーは芸能人のように2人の首脳の姿を追いかけ、食べた料理と値段を報じ続けた。視聴率は正直だった。民放キー局の情報番組プロデューサーが語る。2017年11月、夕食会で安倍首相(右)と乾杯したトランプ米大統領=東京・元赤坂の迎賓館(AP=共同)「どの局もあのトランプならネタ満載だろうと特需を期待して番組を組んだが、ワイドショーは軒並み視聴率ダウン。夜のニュースも『報道ステーション』(テレビ朝日系)は1桁台、『NEWS23』(TBS系)は3%台でいつもより悪かった。“こんなはずじゃなかった”と、各局の制作部門はいま反省会をやってますよ」 “グルメ報道”合戦は新聞にも伝染した。読売新聞が、〈ニクい「おもてなし」 トランプ氏が親指立てて喜ぶ〉(7日付、夕刊)とハンバーガーに米国産アンガス牛が使われたことを報じると、朝日新聞は〈佐賀牛「トランプ特需」来る? 問い合わせ続々〉(8日付、デジタル)の見出しで、迎賓館での歓迎晩餐会で振る舞われた佐賀牛のステーキを記事化した。 いくら首脳会談の中身が乏しかったとはいえ、これでは読者や視聴者が“食傷”してしまう。 情報媒体としての新聞・テレビの著しい凋落は数字にはっきり表われている。日本新聞協会のデータによると、全国紙と地方紙を合わせた一般紙の総発行部数は2007年の4696万部から2016年は3982万部へとこの10年間で714万部もの急落。第2次安倍政権発足後の2013年からは毎年100万部前後のペースで部数が落ちている。凋落著しい朝日新聞 とりわけ凋落著しいのが朝日新聞だ。「慰安婦報道」の誤報問題(*注1)で批判を浴びた2014年度の1年間に64万部の激減に見舞われ、その後も部数減に歯止めがかからない。【*注1/朝日新聞が1982年から従軍慰安婦をめぐり「強制連行」があったとする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事について、2014年に「誤報」であったことを認めて記事16本を取り消した】 2013年4月には760万部あった朝刊部数はいまや624万部(2017年4月)。安倍政権下の4年間に136万部も落ち込んだ(日本ABC協会調査)。 危機的な部数激減は「反アベ」の朝日だけではない。憲法改正や安保政策で安倍政権と足並みを揃える論調を取ってきた読売も同じ4年間に986万部から881万部へと105万部の大幅な部数減となり、毎日、日経、産経を加えた有力5紙は「親アベ」「反アベ」の報道スタンスにかかわらず、減少傾向に歯止めがかからない。 当然、経営の屋台骨である広告収入は減る。朝日の2017年3月期決算(連結)は売り上げが4009億円で4年前から686億円落ち込み、営業利益は前期比41%ダウン。読売新聞東京本社も4期連続の減益となっている(東京商工リサーチ調べ)。 テレビ離れも確実に進んでいる。テレビ全体の総世帯視聴率(*注2)は「全日」(6時~24時)が2007年度の43.3%から2017年度上半期には40.3%に3ポイントのダウン。最も視聴者が多い「ゴールデンタイム」(19時~22時)の総世帯視聴率は同じ10年間で65.8%から59.9%へと5.9ポイントも下がった。平日の視聴時間(1日)はこの5年で184分から168分へと1日あたり20分近く減っている(総務省の調査による)。【*注2/調査対象の世帯で、どのくらいの世帯がテレビ放送を放送と同時に視聴していたのかという割合】 民放キー局の視聴率戦争はフジテレビの凋落が著しく、「健闘」とされる日本テレビも横ばいだ。 安倍晋三・首相は首相に返り咲いて以来、メディア対策を重視して新聞・テレビの経営トップと相次いで会食を重ねてきたが、大メディアと政権が接近するにつれて読者・視聴者が離れているのである。関連記事■ 朝日新聞「社外秘」資料入手 「3年で500億円減収」の衝撃■ 昭恵夫人の「パール接待」 メラニア夫人は何も購入せず■ イヴァンカ氏接待での“昭恵氏隠し”の意図は?■ 高須院長 元慰安婦同席の韓国に「日米にケンカ売る行為」■ しんぶん赤旗 部数が産経を超える日も近いとの見方

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    「そんなもんスよ、日本なんて」あの朝日社説に感じた異質な疑問

    渡辺龍太(フリーニュースディレクター) 朝日新聞が慰安婦記事の誤報を認めてから、世間の朝日新聞に対する監視の目は厳しくなっています。それにも関わらず、朝日新聞は「記事に角度をつける」という演出をやめません。実際、多くの人によって朝日新聞の記事がファクトチェックされ、印象操作ではないかと指摘される事が、今も頻繁にあります。やはり、戦前から脈々と伝わる、事実を自社の主張に合わせてねじ曲げる記事の演出テクニックは今も健在なようです。それに加え、最近、あえてファクトチェックできないようなスタイルで書いたのではないかと感じさせられる異質な社説が、11月5日に掲載されていました。朝日新聞東京本社=東京・築地(産経新聞チャーターヘリから、桐原正道撮影) 問題の社説は、「政治の可能性 『そんなもん』を超えて」というタイトルです。 そこから、すでに曖昧でポエム調な雰囲気を醸し出していて、一流新聞の社説として違和感を覚えます。内容は学生らが民主主義などについて語る「Bottom Up Democracy」というイベントを見てきた朝日の記者が、記憶に基づいて感じた事だけを書いたエッセーです。 この社説は冒頭で、このイベントについて、次のように説明していました。 呼びかけ人に名を連ねたのは、2年前、安全保障法制への反対運動を展開した元SEALDs(シールズ)のメンバーや弁護士ら。高校生や大学生が次々と脚立にのぼり、民主主義や選挙についてそれぞれの思いを語る。投票に行こうと呼びかける。 この文章を読んだら、その後に続く内容が、「(左寄りの)若者が語る民主主義や選挙の大切さ」という内容なのだろうと感じる人がほとんどだと思います。しかし、そうではありません。この後に登場するのは、このイベントに登壇する立憲民主党の政治家たちのスピーチと、それを聞く若者たちの様子が書かれています。 普段、新聞を一字一句のレベルで精読している人は少数派です。多くの人は、流し読みに近い形で、テンポよく読んでいるはずです。そうなると、おそらく多くの人は、この文章を冒頭のイベント内容の説明の先入観から、政治に声を上げる若者たちの姿が書かれているのだろうと思いながら読んでいるだろうと推測できます。そのため、どれが政党の主張で、どれが若者の声なのか、読者に誤解を与える可能性のある文章の作りだと私には感じられました。誤解が生じないようにするには、引用した文章の最後に、記者としては、特に立憲民主党の政治家の話を聞く若者が印象に残ったという事を書くべきだと思いました。記者が勝手に推測した部分 では、立憲民主党の政治家の話を聞く若者について、書かれている部分も引用します。 主役はみなさん 結党1週間、立憲民主党の枝野幸男代表もマイクを持った。 草の根から声をあげていく、本当の民主主義をつくりましょう、主役はみなさんです――。 何事かと立ち止まる人。顔をしかめて通り過ぎる人。会場に背を向けて横断歩道の両端に立ち、渡ってくる人を見据えている若い男性2人組はおそらく、スカウトマン。派手めの女性にだけススッと近寄り、声をかけている。 ○○さん。後輩スカウトマンがふいに、先輩の名を呼んだ。「あいつ『主役はみなさん』とか言いながら、俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」 へえ。聞いていたのか。「草」「根」の語感から、下に見られたように感じたのだろう。「そんなもんスよ、日本なんて」 後輩の憤怒を受け流していた先輩は、枝野氏に続き脚立に乗った同党の福山哲郎幹事長が「まだ働かれているみなさんも、この大きなうねりにおつきあいを」と呼びかけると心なしかうれしそうな表情を見せた。 後輩よりも仕事熱心、声をかけ、無視され、肩でため息をつきつつ定位置に戻る先輩の右手にはなぜか、最低賃金1500円への引き上げを求めるグループが配っていたパンフレット「働き方改革のひみつ」がずっと、握られていた。 どんな言葉なら、彼らに届くのだろう。果たして政治は、そんな言葉を持っているか。いや、それ以前に、彼らのことがちゃんと見えているだろうか。 この文章に書かれている男性2人の情報を、整理してみましょう。まずは、事実と確定できる部分を見ていきます。記者が本人に確認したわけではありませんが、2人の行動から職業はスカウトマンと言えるでしょう。後輩らしき人物は、「草の根」という単語が分からない学力で、日本の政治家には失望しているような発言をしていました。先輩らしき人物は、後輩よりも仕事熱心な人物で、手には働き方改革のパンフレットが握られていました。 こうやって、事実だけに注目してみると、あまり政治色が強くない、よくいる歌舞伎町の若者のように見えなくもありません。例えば、街を歩いていると、必ずしも、自分の興味のあるパンフレットだけを受け取るわけではありません。絶妙なタイミングで渡されたら、思わず手にとって、しばらく、持ったままになってしまう事もよくあるはずです。 次に、記者が勝手に推測した事を見ていきましょう。後輩は草の根という言葉の語感から、政治家から下に見られたように感じて怒っているのではないかと推測しています。そして、先輩は立憲民主党の福山幹事長のスピーチに対して、うれしそうな表情を見せたと記者は主観で書いています。この文章から、記者は先輩が、立憲民主党に対して、何らかの希望を抱いているのではないかと推測しています。記者はなぜ取材しなかった? この記者の推測を事実に加えると、男性2人は、非常に政治に興味があるようにしか見えなくなります。それだけでなく、スカウトマンという職業の2人が、学力や収入が少ない「弱者」という立場に置かれている人たちに見えてきます。その結果、その弱者の若者が、現状の政治(自民党政治)に不満を持ち、立憲民主党に期待しているように見えてきます。 確かに、この社説は、記者が見て感じた事を書いただけの文章ですから、一般の記事のようにファクトの根拠が正確に求められる事はありません。しかし、積極的に意見を述べてはいない若者が、イベントの概要説明の冒頭部分からの文章構成と記者の推測により、明確な意見を持っているように読者に見せていることには問題があります。100歩譲って文章構成は偶然だとしても、記者の臆測を文章から排除したければ、スカウトマンと思われる2人組に記者が話を聞いて取材すればよかっただけです。(画像:iStock)  それをしなかったのには、ファクトチェックのしようがない状態を保ちつつ、「立憲民主党が、スカウトマンの若者に希望を託されている」という記事を書きたかっただけのように思えます。そうすれば、立憲民主党の支持者が多そうな読者に意外性とうれしさなどを感じさせる事ができ、記事の反応が良い事が容易に想像でき、動機も明快に見えてしまいます。 そうやって、記者に対する信頼を無くした上で、改めて社説を読み返すと、スカウトマンの2人の会話も実際に起こった出来事なのか疑問に感じられてしまいます。なぜなら、「俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」と言う後輩は、「草の根=俺ら」という事を理解する国語力があるわけです。その能力がある人が、草の根の意味が分からないという事があるでしょうか。草の根の意味が分からない人は、「草の根から声をあげていく」という言葉を聞いても、それが「俺ら」である事も分からないのが自然なのではないでしょうか。 また、スカウトマンが、あたかも最低時給が1500円に上昇する事に興味があるような雰囲気で文章が書かれていますが、非常に強い違和感を覚えます。なぜなら、スカウトマンという職業は、一獲千金を夢見て、稼ぎたいような若者がする職業だと思われるからです。普通のアルバイトよりも稼ぎたいとスカウトマンになる若者が、飲食やコンビニのアルバイトスタッフのように、最低時給に興味があるのでしょうか。大いに疑問です。 さて、この記事は、ツイッターで有田芳生議員がコメントするように、朝日新聞のコアなファンには非常に受けが良い文章のようです。(社説)政治の可能性 「そんなもん」を超えて:朝日新聞http://www.asahi.com/articles/DA3S13214074.html … 読みごたえがある政治家必読の論説です。路上の声をよく聞き取っているこの社説子は「きっとあの記者だろう」と推測してしまいました。とてもユニークです。 (有田芳生氏ツイッターより) 私は、これに対しても、非常に強い違和感を覚えました。それは、私は放送作家やニュース番組のディレクターとして取材をしてきましたが、ここまで絵に描いたように、記事的に都合の良い事は、なかなか起こらないからです。表情を記者が「憶測」で解釈 その観点から見ると、特に、この記事に登場するのが、一般的な若者でなく、政治に興味を持つだけで意外性のあるスカウトマンというのが、非常に出来すぎている気がします。しかも、今の20、30代は自民党支持者が多く、立憲民主党は割と高齢な人に支持されているのに、そのスカウトマンが立憲民主党に期待しているのです。このように、2重に意外な事が実際に起きたとは私には思えません。ですから、スカウトマンの「草の根と俺らの事をディスられた」という会話を、記者が本当に聞いたのか、私の感性では、どうしても疑いたくなってしまいます。 こうやって書くと、私こそ朝日新聞に憶測でイチャモンを付けていると感じる人もいるかもしれません、しかし、朝日には記事に角度をつけて演出してきた歴史があるので、私は正当な指摘をしていると思っています。 例えば、過去には慰安婦の記事だけでなく、朝日新聞のカメラマンが、自分の書きたい事が、都合よく起きないために、サンゴに自ら落書きをして、それを記事にした事件があった事もありました。福島市内での第一声で地元住民が握ったおにぎりを食べる自民党の安倍晋三首相=2017年10月10日、福島市佐原(松本健吾撮影) そういった過去の出来事に加えて、最近も、朝日新聞の印象操作ではないかと指摘された記事は、多々あります。例えば、福島産のおにぎりを食べる安倍総理の表情がこわばっていたという記事があります。実際に、総理がおにぎりを食べている映像を見ると、決して、こわばっていたようには見えません。偶然なのか、同じ手法で書いたのかわかりませんが、今回の社説にもスカウトマンの表情を記者が憶測で解釈する部分もありますし、非常に角度の付いている文章と感じられると言われても仕方ないと思います。 朝日新聞が慰安婦報道の誤報を認めて以来、数多くの人が、朝日新聞のファクトチェックを行なっています。ですが、もう、それだけでは十分で無いように感じます。 今回のような、ファクトの確認できない記事にも、なぜファクトが明示できない記事を新聞が書くのかと追求するべきです。そうしなければ、記者が頭の中で、あらゆる事を創作して書いたにも関わらず、ファクトチェックすらされない記事が世の中に流通してしまいます。その結果、事実では無い事を、事実だと思ってしまう国民が大量発生してしまうでしょう。以後、再びポエムだかエッセイだかよく分からない、ファクトが曖昧な記事が、朝日新聞に登場しない事を心から期待したいです。

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    朝日新聞と嘘ニュース

    先の総選挙が終わってはや一カ月。政権与党に対する朝日新聞の論調は相変わらずである。「数におごることなかれ」「謙虚というなら行動で」…。安倍憎しがウリとはいえ、選挙の民意をこうまで否定されると、さすがに「嘘ニュースでは?」と疑念を持つ人もいるのではないでしょうか?

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    突出した朝日新聞のモリカケ報道「1172行」が意味するもの

    2016年の米大統領選では、共和党の大統領候補となったドナルド・トランプ氏が有権者の耳目を引こうと、メディアにニュース価値を提供するポピュリズム選挙を展開した。真偽のほどが不明な発言を連発、ネット上でも真偽不明なフェイクニュースがあふれ、共和・民主両陣営入り乱れて、世論操作に狂奔した。メディアによるフェイクニュース トランプ氏は、共和党予備選段階の討論会ではその過激な言動がテレビやSNSで拡散したが、民間のウェブサイト「ポリティファクト」によるファクトチェックでは、トランプ氏の発言7割程度が事実と異なるとされている。 情報発信者たる政治リーダーが、自ら真偽不明な情報を発してポピュリズムをあおり、ネット上でも真偽不明のニュースがあふれる現状の中で、権力を監視し、正確な情報を受け手に届ける責務を担ったマスメディアがファクトチェックの意義を重視したのは、自然な流れだったろう。公人による公的な場での発言には説明責任が伴う。その内容の真偽をデータに基づいて確かめていくのは、メディアの責務でもある。 しかし、日本では、メディアが流すニュース自体を「ファクトチェック」する必要がありそうだ。 衆院選では、希望の党の小池百合子代表が昨年7月の都知事選、今年7月の都議選で吹かせた「ポピュリズム」の風が吹くかに見えたがあえなく失速、都知事に専念するとしてあっけなく代表を辞任した。「ユリノミクス」をはじめとするカタカナ言葉も虚空に消えた。しかし、看過できないのは、政治リーダーによるフェイクニュースではなく、メディアによるフェイクニュースとも見まがうような情報操作だ。 もともと、米国では大統領選で、特定の候補を社説で支持したりする。「エンドースメント」と言われ、19世紀から続いている伝統で、ニュース部門とは別の編集委員会が決める。2016年の大統領選では、リベラルな論調で知られるニューヨーク・タイムズが社説で民主党のヒラリー・クリントン候補を支持した。ニューヨーク・タイムズ社 だが、日本では米国と違い、特定の政党を社説で支持するような「エンドースメント」は行われていない。「公正中立」「不偏不党」を標榜(ひょうぼう)して、新聞は記事を作成している。その意味で「日本の新聞はどれも似たような論調で、いったい有権者の判断基準になるのか」と米国の政治学者に言われたこともある。だが、今回の衆院選に関しては様相が違っていた。新聞による報道姿勢の違いがあまりに鮮明だったからだ。 突出した報道でネット上でも問題になったのが朝日新聞だ。安倍晋三首相も朝日新聞の突出ぶりを指摘した。10月8日に行われた党首討論会で、朝日新聞を名指しして、加戸守行・前愛媛県知事の証言について「次の日には全く(報道)していない」と指摘、「胸を張って(報道)しているといえますか」「国民はよくファクトチェックをしてほしい」と、わざわざ「ファクトチェック」という言葉を使って語気を強めた。 「全く」というのは言い過ぎた部分があったにせよ、前川氏の発言が大きく扱われ、加戸氏の発言を小さく扱っていたのは事実だ。「不偏不党」を標榜する朝日 朝日新聞が、森友・加計問題に執心していたことは、10月26日付の産経新聞「森友・加計問題 朝日は執念の断トツ1172行も…投票で重視は有権者8%」で明らかにされている。産経新聞による「ファクトチェック」だ。 産経新聞によれば、10月11日付~22日付の朝刊で、森友・加計問題に関する衆院選の記事は、毎日新聞が483行(1・2ページ分)、日本経済新聞が378行(0・6ページ分)、読売新聞が48行(0・1ページ分)だったのに対し、朝日新聞は1172行(2・2ページ分)と突出していた。 一方で、産経新聞はNHKが投開票日の22日に実施し、27万3千人以上が回答した出口調査で、森友・加計問題を投票で重視したとの回答は8%で、最も高かった「消費税率の引き上げへの対応」(29%)の約4分の1にとどまっていたことも指摘している。 読者が「これは反安倍のエンドースメントなんだ」と納得して朝日新聞の記事を読んでいれば、それはそれでいいだろう。記事に一定の方向性を盛り込むことを「角度をつける」というが、「角度をつけています」と言わずに、「公正中立」「不偏不党」を標榜しながら角度がついているというのは、メディアの矩(のり)を超えた情報操作のそしりをまぬかれまい。 もっとも、朝日新聞は角度をつけた世紀のフェイクニュース、いわゆる従軍慰安婦問題の「前科」があり、今日に至るまで国益を損なうような大誤報で「誤報ではないか」とずっと指摘され続けながら、そのファクトチェックを怠り、慰安婦問題は日韓関係の「トゲ」となって、歴代政権のくびきとなっている。それが狙いだったとしたならば、狙い通りなのかもしれないが、世界に対して「慰安婦の自社の報道をファクトチェックしたところ、虚偽でした」と、韓国のプロパガンダ攻勢で半ば歴史的事実にされようとしている慰安婦問題を、当事者として火消しに回るのが筋だろう。特集「慰安婦問題を考える」を2014年8月5、6両日付の朝刊に掲載した朝日新聞 メディアには権力を監視する機能も期待されているが、「エンドースメント」と「ストレートニュース」を分離しない、ということであれば、メディア同士で「角度がついた報道」をクロスチェックするしかないだろう。 「フェイクニュース」も「ファクトチェック」も、「権威を装ったニセモノ」と見透かされて、政治のはやり物として消え去っていくかもしれないが、政治家もメディアも「信頼」というもっとも大事な財産を失わないように、有権者は自戒を求め続けるしかあるまい。