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    「テレビがつまらない」は本当か?

    「地上波テレビ、衝撃の凋落」。脳科学者、茂木健一郎さんのブログ記事に反響が広がっている。オワコン発言でも物議を醸したのは記憶に新しいが、それでもテレビが持つ影響力は今も絶大である。テレビのオワコン化は本当なのか。深層を読む。

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    テレビはオワコン? 「離れの時代」に考える最強メディアの価値

    影山貴彦(同志社女子大メディア創造学科教授) 「これまで社会で人気を誇っていた対象物から、若者が距離を置き始めている。いわば現代社会は『離れの時代』ともいえる」と、数年前から大学の講義のマクラでしゃべることが、定番化しつつある。 私の専門は放送を中心としたメディア研究、メディアエンターテインメントだ。さしずめ専門ジャンルから「離れ」のキーワードを引っ張れば、「テレビ離れ」となるだろう。 DeNAトラベル(現エアトリ)が、「あなたが感じる若者の○○離れについて」10代から70代の男女計1184人に、今年2月にインターネット調査を行った結果がある。 総合順位では、1位・車離れ、2位・新聞離れ、3位・読書離れ、4位・結婚離れ、5位・お酒離れとあり、「テレビ離れ」は6位にランクインしている。ただ、これを年代別に見てみると、20代以下、30代ともに「テレビ離れ」の回答が3位に上昇する(1位と2位は総合順位と同じ)。 ちなみに40代では、「テレビ離れ」は4位、50代以上ではさらに下のランキングとなる。若者と呼ばれる世代、当の本人たちが「テレビ離れ」をより感じているということになる。2018年6月、10代のテレビ離れを説明するインスタグラムのシストロムCEO(共同) と、ここまで書くと、「ほら、やっぱり若者のテレビ離れだよ」とか「ネットに食われてるからね」とか「娯楽が多様化してるもんな~」など、もっともらしいオチをつけて話を締めるケースが世間の定番だ。だが私は、本当に「テレビ離れ」が進んでいるかどうかについては、もう少し時間をかけてじっくりと考察する必要があると思う。 ネット時代といいながら、その中で盛り上がっている話題は、かなりの確率でテレビ・芸能関連のネタであったりする。それに、録画や見逃し配信を加えたいわゆる「総合視聴率」の調査が本格的に始まってから日も浅い。「最近面白い番組がない!」と揶揄(やゆ)されながらも人々の話題を数多く提供しているのは、今もなおテレビではないか、と放送マン出身の私は、いささかひいき目に見てしまうのである。 とはいえ、テレビが現在右肩上がりのメディアかどうかといえば、全く楽観視できない状況であることは否定できまい。今のテレビに魅力を感じていない若者が増えていることは、真摯(しんし)に受け止めなければならない事実だろう。しがみつく「長寿」と「健康」 では、その理由はどこにあるのか。もちろん、原因は一つに集約できるものではなかろうが、私は、今のテレビ番組の多くが、「中高年層」に向けて作られていることが、大きな影を落としているのではないかと思うのだ。 先ほどのランキングで、「○○離れ」の2位となった「新聞」を例に挙げてみよう。みなさんの手元にある新聞を開いて、試しに読者投稿欄をごらんいただきたい。驚くほど投稿している年齢層が高いことに気づかれるはずだ。 50代は若いほうで、60、70代は当たり前、80代以上も決して少なくない。まさにシニア世代が現在の新聞を支えているのである。この傾向は、どの新聞においても大きな差はないはずだ。 また、先ほど紹介したランキングには直接出てはいないが、「ラジオ」についても同様のことがいえるだろう。リスナーの高年齢化はAM、FMを問わず、現在ラジオ各局が抱える大きな問題となっている。 さて、本題のテレビに話を戻そう。週間視聴率ランキングが、新聞などで発表されているので、ごらんになられる方もいるだろう。そこに顔を出す番組の多くが長寿番組である。 そして、それらの番組の主たるターゲットになっている視聴者は、若者ではなく「中高年層」なのである。逆に言えば、若者が普段好んで見ている番組の多くは、そのランキング外にあると表現しても言い過ぎではなかろう。『週刊新潮』の「食べてはいけない『国産食品』実名リスト」と、それを批判した『週刊文春』の「本当に食べてはいけないのか?」 新聞もラジオも、そしてテレビも、顧客として送り手が強く頼りにしているのは、今や確実にシニア層だ。その世代を現在のメディアが大切にしなければならないことはよくわかる。 今、確実に顧客になってくれる世代に訴求するコンテンツを提供することで、なんとか目立った右肩下がりを食い止めようとしているのだ。例えば「健康○○~」的な番組を毎週欠かさず見ている若者が多くいるとは考えにくい。 自分の健康に不安を覚えるのは、たいてい私たちのように年を重ねてからだ。そして今、健康番組はテレビにあふれている。週刊誌も「血圧特集」など健康ネタを組むと部数が伸びるという。年を重ねると「他人のスキャンダルより自分の健康」ということかもしれない。おっさん芸人が「若手」扱い テレビの世界で活躍する人たちの高齢化も進んでいる。政治の世界、一般企業などで「世代交代」が叫ばれ始めて随分たつが、今、テレビこそ「世代交代」が必要なときではないだろうか。 私自身もそうだし、この拙文を読んでくださっている方の多くも、おそらく「中高年層」と推察する。昨日今日この世に出てきたような、稚拙な技術しか備えていない演者たちがたわいもない番組でテレビをにぎわしていることは、少々苦々しいことかもしれない。正直、私も共感するところは多い。 だが、ここでご同輩のみなさんと少しだけ考えてみたい。メディアが「中高年層」に向けての発信を強めれば強めるほど、若者はそっぽを向くことになってゆくのだ。自分が見たい番組が今のテレビにはない、と、彼らはテレビの前に座ることさえしなくなるだろう。 何十年も活躍を続けるベテラン芸人たちが、変わらずテレビに君臨することで、今やすっかりおっさんになっている中堅芸人たちが、いつまでも若手扱いをされることになっている。次世代を担う人間が育ちにくい環境は、テレビが先細っていくことに他ならない。私は年を重ねること自体は悪くないと考えるタイプだが、テレビの世界に年寄りがあふれることは、テレビ総体にとって、決して好ましいことではなかろう。 今、テレビは種をまくときである。種をまかねば芽は出ないし、育つこともなく花を咲かせ実をつけることもない。「テレビはオワコン」だと辛辣(しんらつ)に言う人がいる。果たしてそうだろうか。テレビは、たかだかまだ60年ほどの歴史しか刻んでいない。オワコンと言うには、まだまだ早いのではないか。 何十年もの間変わらず第一線で活躍している人がテレビにいることは、ある意味称賛すべきことではある。だが作り手たちは、同時に新しい人、新しい番組を生み出す努力をこれまで以上にしなければならない時に来ているのだ。「まだイケる」精神は、ある日突然「もう終わり」の時を迎えることになりかねない。 新しいものを生み出すために必要なこと、それは「時間」だと思う。近年、新しいものにそっぽを向きがちな私たちだが、作り手、演者、そして私たち視聴者が、時間をかけてテレビを育んでゆくことで、テレビは再び輝きを取り戻せるはずだ。過去にしがみつき過ぎず、これからを育てることに、「中高年層」の私たちも一役買おうではないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 新しいものを生み、育てるには、どんなジャンルであれ手間暇がかかるものだ。手っ取り早く享受できるものばかりに飛びつかず、もう一度テレビとしっかり向き合ってみてはどうだろう。若者が活躍する意外な掘り出し物、すなわち隠れた名番組に出合えることがあるかもしれない。今の若者たちはかなり優秀だと、日頃教え子たちと接して実感している。 テレビが、今も、そしてこれからも「最強のメディア」であってほしいと、私は願っているのである。

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    消える学園ドラマ、「科捜研の女」が象徴するテレビの中高年依存

    鈴木祐司(次世代メディア研究所代表) 10月クールのドラマが始まったが、初回から「若者のテレビ離れ」を象徴するような視聴率が出た。TBSの火曜夜10時『中学聖日記』が6・0%と、2014年4月に同枠ドラマが始まって以来、最低の数字となってしまった。中学の女性教師と男子中学生を軸にした学園ドラマだが、ここ何年か青春学園ものは視聴率で惨敗している。 この傾向はすでに10年ほど前から顕在化し始めていた。博報堂DYメディアパートナーズは、06年から「メディア定点調査」を実施している。これによると、当時の1人当たり1日平均のテレビ接触時間は172分あった。ところが12年間で28分短くなった(図1)。 一方、パソコン、スマホなどネット接続端末の接触時間は、87分から約2・5倍の200分に急増した。実は両者の関係は14年に逆転している。今や10代から高齢者を含めた国民1人当たりのメディア接触は、テレビよりネット接続端末が圧倒しているのである。 これを性年齢別で見ると、特に若年層のテレビ離れは明確になる。20代男性は、テレビ接触時間は86分で、ネット接続端末は358分を超えている。何と4倍の差がついてしまっている(図2)。 10代男性でも、両者の差は2・5倍以上。50代までネット接続端末が上回り、60代でようやくテレビが勝る。女性の場合も、10~20代では2倍以上の開きがある。そして40代までネット接続端末が勝り、50代以上でようやくテレビが上回るようになる。若年層で著しいが、40代でもテレビを見ない傾向は強まっている。 こうした傾向は、当然ながらテレビ視聴者層の高齢化を意味する。今やテレビ視聴者の半分以上が50代以上と、テレビの「おじさん・おばさん化」、あるいは「じじ・ばば化」が進んでいる。その結果、かつて多数あった学校が舞台で学生や教師が主な登場人物となる青春学園ドラマは、明らかに数が減っているのだ(図3)。 青春学園ドラマはそもそも、60~80年代が黄金期だった。60年代では『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』(いずれも日本テレビ)などがあった。70年代には『おれは男だ!』『飛び出せ!青春』『ゆうひが丘の総理大臣』などの日テレ路線の他、『若い!先生』(TBS)、『愛と誠』(テレビ東京)など、他局も放送し始めた。 そして80年代、『3年B組金八先生』(TBS79~11年)、『スケバン刑事』(フジテレビ85~87年)、『白線流し』(フジ96~05年)、『キッズ・ウォー』(TBS99~03年)など、シリーズ化される話題作が増えた。 ところが、2010年代になると、流れが変わり始める。一つは『マジすか学園』(テレ東10~12年/日テレ15年~)など、深夜帯での放送が増えた点。もう一つは、夜7~11時の「ゴールデン・プレミア帯」(GP帯)の視聴率が一桁に終わるものが増え、放送本数が減った点だ。 10代や「1層」(20~35歳)のテレビ視聴者が減り、「3層」(50歳以上)が今や半分以上を占めるだけに、GP帯では視聴率を保つため、ターゲットが中高年になっている。その結果、青春学園ドラマは深夜帯に追いやられるようになったのである。 そんな状況にあっても、比較的GP帯での放送にこだわっているのがTBSだ。だが、視聴率は芳しくない。寺尾聡が老教師役を演じた『仰げば尊し』(16年夏)こそ視聴率は二桁に乗せたが、14年以降では他11本は全て一桁に終わった。TBSの場合、今回の『中学聖日記』で3クール連続の青春学園ドラマとなるが、視聴率は悪化の一途をたどる。このままではGP帯のテレビは、ますます中高年向けになる恐れがあるが、ドラマはすでにその傾向が進行している。右肩下がりの「月9」 筆頭はテレビ朝日だ。同局のGP帯は3枠あるが、うち2枠(水曜夜9時と木曜夜8時)は刑事ものとミステリーものといった犯罪ドラマに固定されている。また、残る1枠(木曜夜9時)も、『ドクターX』に象徴されるように、シリーズ化あるいはリメークものなどが多い。中高年を確保し視聴率を高くするため、設定やキャスティング、演出が決められているからだ。 今クールも、定番の『相棒』が17シーズン目、『科捜研の女』が18シーズン目に入った。そして残り1枠は、『ドクターX~外科医・大門未知子~』で活躍した米倉涼子を主役にした『リーガルV~元弁護士・小鳥遊翔子~』がスタートした。タイトルの付け方、ストーリーの展開ぶり、キャスティングなど、明らかに『ドクターX』路線となっている。「科捜研の女」放送通算200回を迎え、記者会見した主演の沢口靖子さん 実はテレ朝だけでなく、フジも中高年狙いを強めている。フジのドラマ3枠は、この10年視聴率が右肩下がり傾向だった。特に「月9」(月曜夜9時)は、過去30年間で最大の衰退ぶりだ。 もともと90年代半ばまでは、20%超が普通だった。だが、勢いは次第に衰え、02年に初めて15%を切った。さらに09年以降は15%未満が普通となり、16年からは一桁が当たり前になってしまった。 ところが、今年になって、数字が回復傾向にある。その最大の要因は、テレ朝と同じようにシリーズ化、リメークなどで中高年狙いを強めたからだ。例えば5クールぶりに月9で二桁を回復した『絶対零度』は、シーズン3だった。17クールぶりに「木10」(木曜夜10時)で二桁となった『グッドドクター』は韓国ヒットドラマのリメークだ。 今クールも初回で14・2%となった『SUITS』は、米国ヒットドラマのリメークだ。しかもメインの織田裕二と鈴木保奈美は、91年の大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』の主役たちだ。 木10枠も今クールは『黄昏流星群』。95年から連載されている漫画が原作で、40代以降の中年・熟年・老年で、恋愛を主軸に人生観などを描いた短編漫画集だ。明らかに中高年狙いのドラマと言えよう。 こうした民放各局のドラマ戦略の変化の背景にあるのは、やはり、パソコンやスマホの登場があり、明らかに生活者のメディア接触傾向が変わったからだ。 これにより、テレビの中高年化が急速に進み、視聴率を収入のベースに置いたテレビは、結果として中高年狙いの番組を増やしている。特にドラマはその傾向が強く、複数の局が中高年狙いに走っている。 このままでは悪循環が進み、ますます若年層のテレビ離れが進んでしまうだろう。ビジネスモデルのあり方も含め、根本的な対策が必要と言わざるを得ない。

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    テレビはYouTubeとネット番組に視聴者を奪われたのか

    ったらすぐに手に入るのに、テレビではそれができない。いったん習慣であることを外れてしまったら、こんなメディアがこのままの形で生き残るのは難しいだろう。 ただ、再び誤解のないように断っておくと「最近のテレビは面白くない」という説には私は同意しない。テレビは今でも圧倒的に面白い。テレビが好きな私が言うのだから間違いない。しかし、面白い番組は自分で探すしかないという時代に入っていることは確かである。 私自身はテレビに思い入れがあるから、積極的に楽しむために、全番組録画対応のレコーダーを利用して、過去数週間に地上波で放送されたあらゆる番組をいつでも見られる体制を整えている。そうやって自分から面白いものを探しに行く限りにおいて、テレビは今でも面白いのである。 だが、そうやって手間暇をかけてテレビという大海で「宝探し」に興じているのは、ごく一部のテレビ愛好家だけだろう。ほとんどの人は習慣としてテレビを見続けているか、習慣がなくてテレビを見ていないか、このいずれかである。そして、徐々に後者の割合が多くなっていくことは確実だ。NHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』で主人公の今井福子を演じる安藤サクラ 今、実際に起こっているのは「若者のテレビ離れ」ではなく「中高年のテレビ固執」である。他に特定の趣味や娯楽のない人たちが、テレビを見すぎているのだ。 テレビは特に目立った興味や関心のない「無党派層」を取り込むのが得意なメディアである。特定の趣味がある人は、ケーブルテレビや動画配信サービスを利用して、自分好みのコンテンツを掘り下げて楽しんでいるだろう。そうではない多くの人にとって、テレビは何よりも気軽に楽しめて、何よりも身近な存在なのだ。 最後に「YouTubeやAbemaTVなどのインターネット動画コンテンツとテレビ番組は競合するのか」という点について書き添えておきたい。 結論から言うと、それぞれメディアとしての特性が違うので、競合しているわけではないと思う。これまで述べた通り、テレビは単に不便である上に若者向けのコンテンツが少ないから見られなくなっているだけだ。YouTubeに視聴者を奪われているわけではない。 「YouTubeやAbemaTVがあるからテレビが廃れてきた」というのはそもそも話の順番がおかしい。テレビが勝手に自滅しつつあるから、その間隙(かんげき)を突いて新しい勢力が台頭してきているのだ。 YouTubeではすでに子供や若者などの特定層に圧倒的な支持を誇るユーチューバーが多数存在していて、独自の文化を築いている。一方、AbemaTVは地上波テレビと同じような体制で制作されていて、出ているタレントの顔ぶれも地上波と比べて遜色ない。メディア側から見れば、これらはテレビのライバルと思うかもしれない。 しかし、実態としては、これらはテレビとはそもそも別の形のメディアであり、競争相手ではない。テレビはライバルの活躍によって追いやられているわけではなく、高齢者の習慣視聴という大票田に固執するあまり、マイノリティーに過ぎない若者のニーズをつかみきれていないだけなのである。

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    紅白歌合戦の視聴率が映し出したニッポンの社会と家族

    国民国家は揺れ動いている。英国のEUからの離脱や米国の新大統領にドナルド・トランプ氏が就任するなど、メディアの予測を超えた各国の国民たちの不満と憤りが世界を変えようとしている。大国間のパワーバランスも大きく変化していくことだろう。 日本もまたその外に安住することはできない。人々の不安は解消されない。 歌はそうした感情をいやしてくれる。今回の紅白では、デビュー20周年のPUFFYと来年に20周年を迎えるKinKi Kidsが初出場する。PUFFYは紅白のスペシャル・メドレーを、KinKi Kidsはデビュー曲の「硝子の少年」を歌う。 「失われた20年」を経て、彼らの歌もまた誕生時に人々が抱いた感情を超えて、新たな意味を見出すのではないだろうか。 今年の紅白のテーマは「夢を歌おう」である。2020年東京五輪の前年の19年まで4年間にわたって、このテーマを掲げるという。1969年12月31日、第20回NHK紅白歌合戦で掛け合いを見せる(左から)紅組司会の伊東ゆかり、総合司会の宮田輝アナウンサー、白組司会の坂本九 紅白の視聴率は、1964年東京五輪の前年の第14回に記録した81.4%である。これは過去の視聴率でも群を抜いた第1位である。ちなみに、第2位は東京五輪の女子バレーボール決勝戦「日本×ソ連」(1964年10月23日)の66.8%、第3位は2002年FIFAワールドカップ・グループリーグ「日本×ロシア」(2002年6月9日)の66.1%である。 NHKが紅白にかける意気込みは、前回の東京五輪に向けた熱気の再現にかけているようにみえる。 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズが描いているように、「昭和」は現代と比べて必ずしも暮らしやすい時代ではなかった。この映画のなかで、東京の大気汚染による「スモッグ」や社会の底辺で医療も受けられずに働く女性も多かった。犯罪も現代よりも多い。「昭和」への郷愁 平均寿命も、1960(昭和35)年には男性が65.3歳、女性が70.1歳だった。平成27(2016)年には、それぞれ80.7歳と87.0歳に伸びている。 「昭和」に郷愁を抱いたり、懐かしがったりするのは、まず家族のありようが要因ではないか。平成27(2016)年には、単身世帯と夫婦のみの世帯がそれぞれ全体の約四分の一を占めている。ひとり親と未婚の子どもの世帯も約7%いる。 夫婦と子どもの世帯は約3割、三世代同居は約6%である。 これに対して、1961(昭和36)年は、夫婦と子どもの世帯が4割以上を占めていた。三世代同居も約15%もあった。単身世帯は約18%、夫婦のみの世帯も約14%だった。 「一家4人」の世帯あるいは祖父母も含めて、紅白を見る時代は家族構成の変化をみると、視聴率が低下するのは当然である。 紅白の視聴率の推移をみると、平成17(2006)年の第57回から40%前後である。多チャンネルと有料放送が普及してきた現代においては、この数字でも十分に「お化け番組」である。 このコラムのシリーズは、ドラマやその主人公たちが過去に出演した映画などを背景として、テレビのいまを書き綴ってきた。1968年12月、東京・秋葉原の家電店の白黒テレビ、カラーテレビ売り場 今回の紅白は、映画「ソロモンの偽証」で重要な役をこなした石井杏奈がメンバーである、E-girls、俳優としても評価が高まっている西島隆弘のAAA、「恋ダンス」が社会現象になり、俳優としても活躍する星野源の歌とダンスを楽しもうと思う。たべ・こうき 東日本国際大学客員教授。福島県会津若松市生まれ。幼少時代から大学卒業まで、仙台市で暮らす。朝日新聞記者、朝日ジャーナル編集部員、論説委員などを経て、ソフトバンク広報室長に就任。社内ベンチャーで電子配信会社を設立、取締役会長。2012年春に独立、シンクタンク代表。2015年10月から東日本国際大学客員教授として地域振興政策を研究、同大・地域振興戦略研究所副所長を兼務。

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    「庶民は愚民化切り札のTVにしがみついている」と落合信彦氏

     日本のテレビ報道の劣化が叫ばれているが、「いまのテレビはローマ時代のサーカスと同じで、国家滅亡の前兆である」と厳しく指摘するのは落合信彦氏だ。* * * 私には、いまの日本がかつてのローマ帝国に重なって見えて仕方がない。もちろんローマと日本ではスケールも国力も比べものにならないが、ローマが衰退し、滅んでいった過程は、いまの日本と似ている。 ローマは帝国の巨大化に伴い、兵士の遠征に莫大なカネがかかるようになった。そのカネは、地方にある属州から税金として徴収するようにした。属州からの税金を高くする一方、カネのないローマ市民に対しては多額の援助、つまり「生活保護」を与えるようになった。 これにより、誇り高きローマ人は、昼間から酒を飲んで、ケンカをやって、皇帝を罵るような状態まで堕落してしまったのだ。 これが帝国を脅かす動きにつながることを恐れたローマは、皇帝が国庫から資金を拠出する形で、競技場を作った。後のコロセウムだ。ここで剣闘士同士の殺し合いや剣闘士と猛獣の争いなどを見せる。 このショーでローマの年間予算の3分の1が費やされた。ローマ市民は血が流れれば流れるほどエキサイトしていった。血を見て喜ぶだけの生活で、ローマ市民はどんどん思考停止に陥り、国家全体がニヒリスティックになっていった。かつては誇り高かったローマ市民が怠慢になってしまったのだ。精神のスラム化であった。 これが、ローマ帝国崩壊につながっていったひとつの原因、「パンとサーカス」と呼ばれるものだ。パンとは生活援助、サーカスは競技場を指す。これをいまの日本に当てはめると驚くほどマッチする部分がある。古代ローマ時代のサーカス(ゲッティイメージズ) 政府からの援助金バラ撒きに多くの国民や団体が群がり、一方、庶民は愚民化の切り札とも言えるテレビにしがみついて、ストレスを解決する。これに加えて、ローマでは政治家たちのコラプション(腐敗)が増え、さらにリッチ(富裕層)とプア(貧困層)の格差がとんでもないものになっていった。 一つ日本の国会議員に私が頼みたいのは、古代ローマ史を是非学んでほしい。過去を知らぬ者は未来から突き放される。何も知らないまま、この国は歴史の過ちを繰り返そうとしている。関連記事■ 「ついに、トランプ大統領の精神は崩壊か」と落合信彦氏■ カルザイをアフガン大統領にしたことは「最悪」と落合信彦氏■ 織田信長だったら朝鮮出兵は成功させていたと落合信彦氏指摘■ 「小泉だけが日本のリーダーとして存在感高い」と落合信彦氏■ アメリカの「次の戦争」ターゲットはイランと落合信彦氏指摘

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    音楽特番の編成にも影響、TV関係者を悩ます視聴者の高齢化

    かないでしょう。早い段階で視聴者層の新陳代謝をしていかないと、テレビはそのうち本当に高齢者しか見ないメディアになってしまうのではないでしょうか」関連記事■ 安藤優子フジ新番組 昼帯を情報番組中心の編成に変える布石■ 下町ロケット最終回視聴率どこまで伸びる? 他局編成に注目■ TBSが常識を破る「21時またぎ」の編成を組んだ理由■ 人気番組の枠移動 マツコ対策、流れ重視の編成等TV局の思惑■ 『めちゃイケ』が視聴率低迷 レギュラー陣の高齢化も要因か

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    『新潮45』最後の編集長、若杉良作さんへ

    福田ますみ(ノンフィクション作家) 2018年9月25日、36年にわたりわが国の言論界の一翼を担った月刊誌が唐突に、あまりにも唐突にその歴史を閉じた。わが国屈指の文芸出版社、新潮社が発行していた『新潮45』である。ほんの1カ月前まで、この事態を想定した者はいなかっただろう。 私は同誌に17年ほど前から寄稿している。初めて執筆したのは、確か自ら企画として持ち込んだ「狂言犯罪」についてのルポルタージュである。このときの担当者が、今回の騒動で心ならずも最後の編集長になってしまった若杉良作氏である。当時は、『新潮45』の一編集者だった。 彼とは、このときからの付き合いである。いつも原稿を丁寧に読み込んでくれ、適切なアドバイスをくれた。今回のことについて、日ごろから若杉氏に近いところにいた者として、思うところを書こうと思う。 同誌8月号で、「生産性」の記述をめぐり、杉田水脈衆院議員の論文が炎上した。確かにマイノリティーを巡る論において、この言葉を使うのはいささか配慮を欠いたとは思う。しかし、だからといって、この「3文字」だけをあえて切り取って、杉田氏を執拗(しつよう)に糾弾、攻撃し、彼女の所属する自民党本部の周りを大勢で取り囲んで「議員を辞めろ」とシュプレヒコールをし、家族への脅迫まで飛び出す事態に至るとは、どう考えても異常である。 批判も反論も、もちろんあっていい。しかし、あくまで言論の場にとどめるべきだ。ここまでの騒ぎになったのは、杉田氏が科学研究費の問題で左派系の教授を追及したり、慰安婦問題でも国連に乗り込んで、いわゆる「クマラスワミ報告」の撤回を訴えるなど、保守派として活発に活動していたことも影響していると思われる。 つまり、日ごろから彼女の活動を苦々しく思ってきた左派界隈(かいわい)が、ここぞとばかり彼女を叩くとともに、安倍政権批判にまで持っていきたかったのではないか。その証拠に、自民党本部前の抗議デモは、最後には「安倍辞めろ」の大合唱になった。 「政治家であるからには、一部の国民をないがしろにするような発言は良くない」という批判もあった。だが政治家だからこそ、少子化という、国家にとってまさに喫緊の課題に取り組む必要があり、どこに支援の重点を置くか、その優先順位を説明するために「生産性」という言葉を使ったのだと思う。休刊した新潮社の月刊誌『新潮45』2018年10月号 しかし、休刊の決定打となったのは、10月号に掲載された反論企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が、杉田論文以上に猛烈な批判を浴びたからである。ゲイの当事者2人を含む7人の論文のうち、大きな物議を醸したのは、文芸評論家の小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という論文であった。次の依頼も来ていた その中に「痴漢の触る権利も認めろ」というくだりがあったと、またこの部分だけ抜き出して猛バッシングが始まったのである。しかし、全文を通して読めば、文芸評論家独特の逆説的で皮肉を効かせた表現であり、問題となった部分ももちろんレトリックにすぎない。小川氏は「『弱者』を盾にして人を黙らせるという風潮に対して、政治家も言論人も、皆非常に臆病になっている」と言う。 LGBTに対しては、この欧米由来の概念がうさんくさいと説く。欧米のキリスト教世界やイスラム世界で、同性愛者は、つい最近まで宗教的異端者とされ、刑事罰の対象であった。あのイスラム国では殺害されていたのである。 対して日本では、歴史上、彼らに対してこのような差別はなく、かなり寛容であった。そのわが国に、欧米のムーブメントをそのまま輸入することの疑問を呈している。 今回の執筆者の一人で、ゲイを公表している元参議院議員の松浦大悟氏によれば、「国際レズビアン・ゲイ協会」は国連に加盟するにあたり、これまでともに活動してきた「米国少年愛者団体」を切り捨てたという。変えられないセクシュアリティを持つという点では、ゲイも少年愛も同じだそうだ。 つまりは、特殊な性的指向のどこまでを公に認めて支援対象にするか、その線引きが恣意(しい)的になされているわけで、LGBTという概念が曖昧(あいまい)なままであることがわかる。 その松浦氏は、論文発表後、朝日新聞の取材に答えて、杉田氏の文章には間違いもあったが、彼女を差別主義者だとは思わないと言っている。また、もう一人、ゲイをカミングアウトしている、かずと氏も杉田氏の主張に反対せず、LGBTのうちTの一部を除いたLGBは社会的弱者ではない、Tの一部以外は社会的支援の必要がないと書いている。 当事者2人がこのような主張をしているのである。「差別だ!」と決めつける人たちが彼らの論文をどう読んだのか、ぜひとも聞いてみたいところである。LGBTに関する論文掲載をめぐり、月刊誌『新潮45』の休刊を発表した新潮社(納冨康撮影) 休刊前後の話に戻る。私はこの10月号が大炎上しても、まさか休刊はないだろうとみていた。もちろん不安にはなったが、『新潮45』の編集者から「休刊も編集長更迭もない」とはっきり告げられており、編集部からは、次の仕事の依頼も来ていたからだ。 ところが9月21日の夕方、事態が動いた。それまで静観の構えだった佐藤隆信社長が、異例の声明を出したからだ。 「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」。ああこれは、編集部ははしごを外されたな。そう思った。そして、3日間の連休を経た25日の夕刻、休刊が決まった。心底雑誌が好きな男 午後5時ごろ、若杉氏直々に、私の携帯に連絡があった。「休刊になりました」。抑揚のない沈んだ声に「今までお疲れさまでした」と、私もただそう返事をするしかなかった。 社長の異例の声明と休刊に至る背景には、新潮社が抱えている作家や文芸評論家たちの、執筆拒否を盾にした抗議があったからである。作家たちは自分たちを、絶対の正義の側にいると見なしているのだろう。結局、同社は彼らの圧力に屈したのだ。 私は若杉氏と長い付き合いとはいえ、彼のプライベートを知らないし、仕事に関しても、編集部内がどうなっているのか、編集方針や企画の立て方などについても知る立場にない。私が語ることができるのはあくまで彼の一部、記事を共同で作り上げる編集者としてだけである。 「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」の7人の執筆者のうちの一人である藤岡信勝氏が、iRONNAで編集者としての彼の仕事ぶりを称賛しているが、これはいつものことである。 彼は、ライターが仕事のしやすいように、極力バックアップを欠かさない。企画が通り、一つのテーマを割り振られると、すぐさま必要な資料を過不足なく用意してくれる。その資料を読み込む中で、さらに「ここのところの資料がないかな」とつぶやくと、すぐにどこからか探し出して届けてくれる。 かなり遠方の地方取材などにも、可能な限り付き添ってくれた。2人で厳寒の秋田で何時間も、北朝鮮のスパイと疑われた人物の張り込みを続けたことは、今となっては貴重な思い出だ。 ああ、この人は心底雑誌が好きなんだな。雑誌の持つパワーを信じている。そう思わせる熱意を感じた。だから、編集実務においても一度としてミスはなかった。彼に任せておけば安心だった。 「なんだこのゴマスリは」。そう思われるかもしれない。だが、いまさら彼にゴマをすったところで何も出てこない。彼はもはや何の力も持っていないのだ。だから私は本当のことを書いている。月刊誌「新潮45」 私は、彼の名前でネット検索をすることはしていないが、今回の事件について調べているといや応なく、同誌で仕事をしていたと思(おぼ)しき人たちが、彼の過去暴きをしているのに出くわす。水に落ちた犬を叩く行為だ。そしてその多くがデマである。 雑誌『噂の真相』の後継をうたう、なんとかいうニュースサイトがある。今回の事件について、いかにもこれが「真相だ」とばかり、新潮社の社員(?)にこう語らせている。若杉良作編集長は、右派思想の持ち主でもなんでもない。上の命令に従順に従うタイプ。最近のネトウヨ路線も、売れ行き不振の挽回策として、担当取締役の酒井逸史氏から命じられていた感じだった。酒井取締役は元『週刊新潮』の編集長でイケイケタイプですからね。10月号の擁護特集も酒井取締役が事前にGOを出している。会社は役員が読んだのは発売当日になってからという意味のことを言っていたが、そんなわけがない。少なくとも酒井取締役は事前にゲラも読んでいると思いますよ。それどころか、『ここで反論すれば売れる』と企画そのものを焚きつけた可能性もある。新潮社の「不文律」 全くのフェイクニュースだ。これでは編集長はロボットかでくの坊である。そもそも新潮社には、互いの編集権には干渉しない不文律があり、各編集部は完全に独立している。役員があれこれ指示することはできないし、第一、編集部は人手不足で、部外者が事前にゲラをチェックする時間的余裕もない。 このニュースサイトは結局、責任は一編集部などにはなくもっと上の方にある。社長以下、社員全員で土下座でもしろということなのだろう。 ここでも触れているが、「16年9月号から若杉編集長が就任以来、『新潮45』は極右路線、過激路線に大きくかじを切った」という批判がある。そしてこの路線を突っ走った揚げ句に、今回の「差別事件」を引き起こしたというのだ。 しかし、新潮社の報道姿勢は本来、いわゆる「新潮ジャーナリズム」という言葉があるくらい、偽善を嫌い、建前の裏に潜むどす黒い本音を抉(えぐ)り出すというものだ。『新潮45』も例外ではない。間違っても、ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)を忠実に守る左派的な優等生雑誌ではなかった。 確かに、部数低迷は深刻な問題だっただろう。しかし、誰が編集長を引き受けても、この状況に歯止めをかけるのは無理だったと思う。 若杉氏がこれをどのくらいプレッシャーと感じていたかはわからない。ただ、あれこれ試行錯誤をした結果、ある程度手応えをつかんだのが朝日新聞批判であり、野党批判だったということだ。もともと、朝日叩きなどは『週刊新潮』のお家芸であり、それが系列雑誌に移行したにすぎない。 若杉氏自身が戦後民主主義に対する懐疑派であり、自身の思想信条を曲げて、売り上げのために「悪魔に魂を売った」なんてことは間違いだ。東京都新宿区の新潮社 ただし彼は、右派も左派もぶっ飛ばすユニークな言論で売り出し中の評論家の古谷経衡氏や、「安倍政権の本質はカルトである」と主張する哲学者の適菜収氏をも重用する柔軟性も持ち合わせている。他の連載執筆陣にもリベラル派がいる。 つまり、読者は、特集で安倍政権を持ち上げる言説を読んだ後、連載執筆陣の安倍叩きを読まされるわけで、極端に走ったといえるほどの紙面構成には実際はなっていない。 それだけ言論に幅があるとも、過激さが中和されるともいえるが、中途半端であることは否めない。その点で、右派論客で固められた『月刊Hanada』や『WiLL』などには売り上げで及ぶべくもなかった。若杉氏にも物申したい また、ある評論家が「かつてはノンフィクション路線の雑誌で取材費もかかったけど今のやり方なら取材費ゼロ」などと訳知り顔で語っているが、もしそうなら、ノンフィクション専門の私など、とうにお払い箱になっている。 若杉氏がノンフィクションにも力を入れる姿勢は全く変わっていなかった。私はつい最近まで、同誌でルポを何本も書いている。時間も金もかかる厄介なテーマだったが、若杉氏は取材費に全く上限を設けず、あらゆるサポートを惜しまなかった。 杉田氏の論文が掲載された8月号にも、福島県における子供の甲状腺ガン「多発」のタブーに切り込んだノンフィクションライターの上條昌史氏による「放射能不安を煽って生まれた福島『甲状腺がん災害』」という良質なルポを掲載している。残念ながら反響はさほどなかったようだが、こうした意欲作さえ、あの「ヘイト雑誌」に載ったというだけで葬り去られるとしたら残念である。 しかし、今回のことで若杉氏に物申したいこともある。結局、『新潮45』は雑誌としてLGBTの問題をどう捉えているのか、編集部の見解を聞く機会がなかったことだ。10月号で、「そんなにおかしいか『杉田水脈論文』を掲載した際、7人の論文の頭に堂々と、「編集部はこう考える」という一文を掲げるべきだったと思う。 私事で恐縮だが、私は若いころから10年ぐらい前まで、よく新宿の2丁目に通っていた。常連の店が何軒もあった。すべて店を仕切っていたのはオカマのママである。彼女(彼?)たちの毒舌を聞くのは刺激的で楽しく、こちらも負けずに舌戦に加わった。でもとても仲が良かった。 今振り返ってみて、彼らは弱者であろうか。支援が必要な差別の被害者であったろうか。もちろん、生きていく上でつらいことも多かったとは思う。しかし彼らはたくましく生き抜いていた。おそらく、自らを弱者だと思ったことはないだろう。結局みな同じ人間ではないか。 ちなみに私も、杉田氏流に言う「生産性がない」人間である。結婚もしない、子供も持たない私は、彼らと飲み交わすうちに、互いの持つ孤独感に似通ったものを感じ、まったく勝手な連帯感を抱いたこともあった。新潮社本館の銘板 杉田氏の論文が「差別文書」として事実上封印されてしまった以上、今後、LGBT支援を巡る自由な意見交換はしにくくなるだろう。誰も「差別者だ」と糾弾されたくないからだ。しかしそういう状況が、LGBTの当事者にとって決して良いこととは思われない。今回の弱者は、たった1万6千部しか発行していない、不当なバッシングに対抗するすべもない『新潮45』と、当事者なのに全く意見を汲み取ってもらえなかった俺ら普通の性的マイノリティーだよ。 こんなツイートが私の目に留まった。私は、『新潮45』で仕事ができたことを誇りに思う。

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    ノーベル賞狂騒曲、もうウンザリです

    ノーベル賞を受賞しただけで、これほどバカ騒ぎする国が他にあるのだろうか。むろん、日本人の受賞は喜ばしいことだが、マスコミは受賞理由などそっちのけで、当人や家族をただ追いかけ回す。本当はすごい研究成果のはずなのに、新聞さえもワイドショーのノリで報じる。ノーベル賞狂想曲、もうウンザリです。

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    「日本人ノーベル賞でお祭り騒ぎ」メディアの思考停止が目に余る

    の意味で、ノーベル賞で科学に偉大な貢献をした方が顕彰されるのはすばらしいことだと思う。 ただ、日本のメディアの報道のあり方には大いに疑問が残る。日本人が受賞するとうれしいというのは素朴な心情として分かる。ノーベル賞の受賞が日本の科学力、技術力の指標になるという思いも分かる。だが、少し度が過ぎていないだろうか。 受賞者に日本人が含まれていたときのメディアスクラム的な喧騒(けんそう)に比較して、含まれていなかったときのベタ記事扱い、短報で済ませる差異が、あまりにも大きすぎる。 人類共通の課題として、科学や技術をとらえるのならば、受賞者に日本人が含まれていなかったときにも、もっと報道してよいはずだ。 新聞やテレビといったレガシーメディアの事大主義、思考停止が、最悪の形で表れているように感じる。結果として、科学リテラシーの向上に貢献せず、ノーベル賞をワイドショーの芸能ニュースと同じような扱いにしてしまっているのである。 以前、スウェーデンのアカデミー関係者が来日したとき、興味深い発言に接した。ノーベル賞は「最も成功したビジネスモデルの一つ」だと言うのである。 権威をただ受け身で有り難がる日本のメディアとは異なる精神性が、そこに感じられたからハッとした。 ノーベル賞が注目される理由は、その選考が徹底して、公正に行われているからである。田中耕一さんが受賞されたとき、学会のインサイダーたちが驚いていたが、ノーベル賞委員会はそれくらい深く徹して関連分野の業績を調べる。日本の賞が、ともすればお手盛り、権威主義、集団主義になるのとは異なる。2002年10月、ノーベル化学賞を受賞し、東京都内で記者会見する田中耕一氏(大西史朗撮影) だからこそ、ノーベル賞は名声を保ってきた。スウェーデンのアカデミーの「最も成功したビジネスモデルの一つ」という発言は、きちんと選考する苦労を背景にしたものとして、重く受け止めた。  そのようにきちんと選考しているノーベル賞だが、日本国内の受け止め方は、お祭り騒ぎで思考停止である。諸外国のメディアと比べても、日本のメディアの「軽薄さ」は目に余る。ノーベル賞を成功させた厳密な実証主義、権威を盲信しないフラットな世界観とは程遠い。 ビジネスモデルとして成功したノーベル賞だが、そのあり方についてさまざまな批判があることも事実である。 例えば、受賞対象になった研究が認められるまでの時間の長さ。アルフレッド・ノーベルの遺言では、「前年」に行われた業績に対して与えられるはずだった。 同時受賞が3人までと決められていること。例えば、生物の研究室では研究室の「ボス」とともに、実際に実験を行う学生やポスドク(博士研究員)も重要な役割を果たすが、受賞対象はたいていの場合「ボス」だけである。純粋に科学的、論理的な視点から、このような慣習を正当化し続けることは難しいように思う。 時代の流れとともに、ノーベル賞という「ビジネスモデル」が古くなってきていることも事実である。 科学分野のノーベル賞の大前提は査読論文という形でその業績が残っていることだが、そのような前提が成り立たなくなってきている。「サトシは女性だ」運動 現代のイノベーションは、査読論文とは別の形で起こる。ビットコインなどの仮想通貨の基礎となったブロックチェーンの原理は、「サトシ・ナカモト」という匿名の人物により、突然ネット上に発表された。体裁は一応、一般の論文と同じ形式を取っており、おそらくは査読論文を書き慣れている人物によるものと思われるが、そこに本質があるのではない。 ちなみに、ノーベル賞の受賞者に女性が少ないこともしばしば問題にされる。日本のメディアは、日本人女性の受賞者が出ることをこそ期待すべきだろう。女性の活躍はもっとあっていい。その意味で、ビットコインを提唱したサトシ・ナカモトが女性である可能性を主張する「サトシは女性だ(Satoshi is female)」という運動は注目されていい。この辺りも、日本のレガシーメディアは報道しない。 話を戻すと、スペースXやテスラなどで目を見張る活躍をしている米国の実業家、イーロン・マスク氏は、減圧したチューブの中を時速1000キロ以上で移動する「ハイパーループ」と呼ばれる交通機関を提案している。ハイパーループの仕様書は、マスク氏によってネット上に突然公開された。もちろん、査読論文ではない。 革新的なロボットを数多く生み出している米ボストンダイナミクス社は、一切論文を書かない。ロボット研究者に聞いても、「細かいところがどうなっているのか分からない」と言う。ボストンダイナミクスの発表の方法は、ユーチューブに動画を掲載することである。動画で見る限り、驚くべき能力を持つロボットを作り続けている。 人工知能の研究は、「ステルス」モードで行われることが多い。大学とも国とも関係のない存在が、ある日突然画期的な「完成品」を発表して時代を変える。 このような「オープンイノベーション」の実態と、その変化のスピード感を見ていると、ノーベル賞が前提としている科学や技術研究のあり方が大きく変化しているように思われる。果たして、ノーベル賞は時代についていけているのだろうか? 人類の知的探求という視点から見ても、ノーベル賞はその一部しか把握していない。 アルバート・アインシュタインは20世紀最大の物理学者だが、彼がノーベル賞を受けたのは「光電効果」についてであった。物理学的により重要な「相対性理論」は、受賞対象にならなかった。 ノーベル賞が、医療や産業などの分野で大きなインパクトを与えた研究、つまりは「実用的」な研究を重視しているのは近年の傾向とも言えるし、アインシュタインの頃から変わらないとも言える。2018年10月1日、ノーベル医学・生理学賞に決まり、会見を行う京大の本庶佑特別教授(永田直也撮影) たまたま、アインシュタインは「光電効果」で引っかかって受賞したが、もし光電効果がなかったら、相対性理論というニュートン以来の革命を成し遂げたのに、ノーベル賞はそれを漏らすという失態を演じていたかもしれない。 実際、ノーベル賞は、20世紀最高の天才の一人と言ってよい、今日のコンピューターの基礎を築いたアラン・チューリングを逃している。「ノイマン型コンピューター」をつくったフォン・ノイマンも受賞していない。 ゲーム理論の基礎を築いたジョン・ナッシュこそ、経済学賞で「拾う」ことができたが、もし逃していたら、ノーベル賞が補足できなかった世紀の天才のリストが一名分長くなるところだった。 文学賞では、より深刻な不整合があり、例えば、誰が見ても20世紀最高の天才文学者の一人であるジェームズ・ジョイスは受賞者ではない。 ジョイスが受賞しないノーベル文学賞は、控えめに言っても、不完全な存在でしかないと言わざるを得ないだろう。 ノーベル賞を思考停止で有り難がっているだけでは、人類の知的探求のど真ん中は見えてこない。自分自身の基準を持つことが大切である。科学研究はサッカーのパス回し 最後に、日本人の素晴らしい資質について触れて、この稿を終えたい。以前、トヨタの工場を訪れたとき、有名な「カイゼン」の提案書についていろいろと聞いて感動した。中卒で入った方から、博士号を持っていらっしゃる方まで、みんなが平等に提案書を書く。 その積み重ねで、トヨタ生産方式は支えられている。誰もスターにしない、みんなが平等である。 提案書一通で、確か数千円の報奨金がもらえるとおっしゃっていた。 それで、画期的な提案をしたら、もっと報奨があるのか、とうかがったら、顔を見合わせた後で「年間で最優秀の何点かに選ばれたら、10万円くらいもらえるよな」とおっしゃっていた。 「そのお金はどうするのですか?」とうかがったら、「みんなで飲んでも、余っちゃうよな」とうれしそうにお答えになったのが印象的だった。 ちょうど、渋谷が「ビットバレー」などとはやされ、ネットバブルが生まれて、若者たちがちょっとしたアイデアで一獲千金を夢見ていた時代だったので、トヨタの社員の方々の笑顔がまぶしく、尊く思われた。 科学研究は、サッカーのパス回しのようなものだと思う。ゴール近くでシュートして得点を決めた人も偉いが、パス回ししてそこまでボールを運んできた人たちも、もちろん偉い。 森でネズミをつかまえたタカは、その狩猟能力を褒めたたえられるべきだが、そのネズミを育んだのはタカではなく、森の豊かな生態系である。 一度に3人までというノーベル賞のルールは、ネズミをつかまえたタカの方ばかりを褒めて、そのネズミを育んだ森の方に光を当てないことになりかねない。 日本人は、もともと、一部のスターや天才が世の中を変えるという「フィクション」ではなく、みんなが力を合わせるという生態学的リアリズムに寄り添って生きてきた。 そんな文化を持つ日本人だからこそ、ノーベル賞を祝いつつ、同時に、ネットワークの方にも目を向けることはできるはずだ。 そこには、ボールをパスしてきた人や、ネズミを育んだ生態系や、また、発明や発見という形で「切り分け」できる問題ではなく、しかし人類にとって大切な課題に黙々と取り組んでいる人たちがいる。トヨタ自動車元町工場の生産ライン=2018年7月、愛知県豊田市 量子力学の観測問題や、時間の非対称性、生命とは何かという大問題、意識の起源、意味論の深淵(しんえん)。これらの課題は、ノーベル賞の対象にはなりにくいが、知的探求全体から見たら、むしろこっちの方が大切である。 少子化の問題や、格差のこと、貧困の問題、介護のこと。教育のこと。これらの現場で直面している問題だって、ノーベル賞対象の研究と同じくらい難しい。 世の中には、さまざまな方々が、さまざまな現場でがんばっている。それらは、皆、等しく尊い。日本人だからこそ、そのようなバランスのもとに、ノーベル賞をめぐるさまざまを眺めることができるはずだ。 一つ救いなのは、相変わらずのメディア・スクラム、お祭り騒ぎの新聞やテレビなどのレガシーメディアに比べて、ネットの反応はより冷静、実証的で、生態学的な豊かさにも目が配られているということだ。 レガシーメディアの方々に、奮起を促す。軽薄なお祭り騒ぎではなく、これからの人類にとって本当に必要なことはなにか、本質を見極めた報道をこそ、期待したい。

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    なぜ日本人は「海外の権威」ノーベル賞に弱いのか

    企業と闘うドラマが人気を集めたのも記憶に新しい。 ノーベル賞の受賞者は当然、並の人間とは違うのだが、メディアでは受賞者の庶民性をとかく強調する。晩餐会や社交ダンスに戸惑う受賞者の姿も、微笑ましく報道される。 雲の上の人が、さらに上の人から賞をもらうのではない。私たちの仲間である「普通の人」が努力を重ね、科学という公平な世界でついに欧米の科学界で認められ、王様にまで褒めてもらえるその姿に、私たち日本人は感動するのである。 「日本人ノーベル賞」の大報道は、日本人に元気を与え、子供たちの学習意欲を高める。子供たちはノーベル賞に憧れるし、科学が好きになる。例えば、化学が不人気でも、日本人がノーベル化学賞を取ると、化学を学ぶ若者が増える。これはとても素晴らしいことだ。 ただ、大人はもう少し冷静さも必要だろう。ノーベル賞をはじめ、海外の受賞歴だけで人を判断するのではなく、私たち日本人自身の「鑑識眼」を磨きたい。 ノーベル賞を取っても取らなくても、偉大な科学者や文学者はいる。海外での受賞を待つまでもなく、メディアも評価してほしいし、紹介してほしい。海外権威を重視するあまり、日本人全体が「権威主義的性格」となり、硬直した思考で海外権威を無批判に受け入れ、他を否定するようでは困る。 また、ノーベル賞を取るためには、たった一人でコツコツ努力を重ねればいいわけではない。自然科学のノーベル賞ですら、獲得のための活動があり、誰が誰を推薦するかが授賞のポイントになる。ましてや、文学賞や平和賞には、政治的な側面などさまざまな力が働く。2018年10月1日、ノーベル医学生理学賞の発表会場に映し出された、本庶佑京都大特別教授(右)と、米テキサス大のジェームズ・アリソン教授=ストックホルムのカロリンスカ研究所(ロイター=共同) 子供たちには、そんな大人の事情を知らせなくても良いだろう。ノーベル賞報道を通して、夢と意欲を育ててほしい。 だが、私たちは大人だ。子供の夢を守るためにも、ノーベル賞を正しく評価し、活用していきたい。

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    「ネタの価値も分からない」ここが変だよ、日本のノーベル賞報道

    田辺功(医療ジャーナリスト) 毎年10月の科学記者の仕事は、何といってもノーベル賞だ。日本人が受賞、と分かると記者は一斉に飛び出し、解説記事、電話対談、座談会の企画、友人や家族の喜びの声などの取材に走り回る。今年も本庶佑・京大特別教授が医学・生理学賞に決まり、わが後輩たちはきりきり舞いの忙しさだったはずだ。 私が第一線記者時代の受賞者は1981年の福井謙一・京大教授(化学賞)、1987年の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授(医学・生理学賞)だった。 まったくの不意打ちだった福井さんの後は毎年、「念のために」と十数人の候補者が挙げられ、そのうちの2、3人は予定原稿が準備されていた。しかし、ほとんどが空振りに終わり、通信社からの電報を翻訳した後は持ち込みのビールで「残念会」をしたものだった。 たまたま取ってあった1986年の連絡メモには、翌年の利根川さんを含め、その後受賞する4人が含まれていた。利根川さんの受賞決定を受け、私たちは新聞に解説記事を載せたが、同じ免疫分野の研究者でライバルだった本庶さんは、利根川さんが研究規制のないスイスにいたからできた仕事と、悔しさをにじませて語ったのを覚えている。がんの治療薬の開発に成功した上での受賞で、本庶さんは追いつき追い越した気分だろうと思う。 利根川さんの後は「日本人」の受賞が途絶えていた科学系ノーベル賞だったが、2000年の白川英樹・筑波大名誉教授(化学賞)から急増した。ストックホルム市内のホテルで会見する白川英樹・筑波大名誉教授=2000年12月 私が新聞社に在籍していたのは2002年の田中耕一・島津製作所フェロー(同)まで。2012年の山中伸弥・京大教授(医学・生理学賞)は16人目、2015年の大村智・北里大特別栄誉教授(同)が21人目、そして本庶さんが23人目になる。他に文学賞、平和賞が4人いる。 ところで、日本人はノーベル賞好きで、騒ぎすぎではないだろうか。私は1980年代からそう感じていた。きっかけは米西部で暮らす日本人研究者と話したことだったと思う。 彼はニューヨークの研究者が受賞したことを知らなかった。当時の米国は全国紙がほとんどなく、東部の研究者の受賞は西部で報道されていなかったからだ。その上、カリフォルニア大学ロサンゼルス校などはたくさんの受賞者がいて、ノーベル賞は珍しくない。いろんな分野でさまざまな賞があり、優劣をつけるものではない、といったような意見にうなずいた。 「騒ぎすぎはマスコミでしょ」と言われたこともある。確かにそうした面は否定できない。ニュースは「初めて」が1番大きく、2番目、3番目となるに従って扱いが小さくなるのが普通なのに、日本のノーベル賞報道はそうなっていない。「ノーベル賞」報道の裏事情 日本人受賞決定時や授賞式の関連記事は数も量もむしろ増えている感じで、専門分野の人しか知らなかった研究者が、次の日からほとんどの人が知る著名人になる。文学賞候補の村上春樹さんに至っては、毎年の残念会も大きく扱われる。もっとも、こうした報道は日本人に限ってであり、外国人受賞者の研究ならせいぜい社会面3段だ。 日本のマスコミは自分で評価せず、権威の評価、意向を絶対視しがちだ。医療報道でも厚生労働省や学界、権威者の受け売りが多い。現役の時に苦労したが、ほめたりけなしたりする記事を編集者は載せたがらない。 「こんな商品がいい」という記事は責任を伴うが、「○○を受賞した」と書くのは簡単だ。お金を出せばもらえる賞、ほとんど日本からの応募しかない国際賞でも受賞したのは、事実だからである。「それではマスコミはダメ」と思うのだが、世の中はなかなか変わらない。 その点、ノーベル賞はどの面から見ても最高度の安全だ。賞金額は最高級だし、かつてはがんの寄生虫説などの間違いもあったが、近年はスウェーデンの学界を挙げての選考に、評価も妥当という感じがする。王室も全面的に協力し、授賞式や晩さん会などを盛り上げ、国全体の宣伝になっている。 第2のノーベル賞を目指して1985年から創設された「日本国際賞」は、国全体の協力態勢が不十分なのか、宣伝力も今ひとつだ。 日本ではノーベル賞候補の呼び声が高まると国内の他の賞を受けやすくなるといわれるし、受賞者はほぼ自動的に文化勲章も贈られる。ノーベル賞はまさに「賞の中の賞」になっている。ノーベル賞受賞を受け会見する本庶佑京都大学特別教授。多数の報道陣が集まった=2018年10月1日午後、京都大学(奥清博撮影) そうした日本での騒ぎが感染したか、賞金額のアップが効いたのか、ノーベル賞の報道は欧米でも増えてきている。また、近年は米国に次いで日本の受賞者が多いことへの対抗意識からか、中国や韓国でもノーベル賞への関心が高まっている、といわれる。 さて、2017年は日本生まれ英国在住の作家、カズオ・イシグロさんが文学賞を受賞した。日本は連日、大騒ぎなのに英国では記事も少なく、ほとんど騒がれなかった、との朝日新聞記事が目についた。日本のマスコミから見ても「騒ぎすぎ感」がないわけでもなさそうだ。 一方で、ノーベル賞のもとは研究者の興味、関心に基づく基礎研究だ。政府はその研究費をどんどん減らしており、このままでは日本人の受賞は激減するとの予測もある。騒ぎたくとも騒げなくなるとの懸念がないわけでもない。

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    LGBT特集『新潮45』休刊は度が過ぎる

    性的マイノリティ―(LGBT)に関する特集企画に批判が集まり、月刊誌『新潮45』の休刊が決まった。「編集上の無理が生じたことは否めない」。社長声明の文面からは出版界が抱えるホンネも垣間見える。35年以上の歴史を持つ老舗雑誌。休刊という最も重い判断は妥当だったのか。

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    小川榮太郎手記「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」

    ると、LGBTの皆さん可哀想。迷惑してると思う。 以下のようなコメントもあった。・TVをはじめとするメディアに集団でクレームをつけコントロールする手法を、言論の活字媒体にも及ばそうとしている。発信者と直接議論することは論破されるからしない。発信する媒体や組織を攻撃して発信者の心を折る戦略でしょう。 ・「LGBTという概念の胡散臭さ」という視点は私にはなく目から鱗でした。そういう意味で「知らない、知りたくもない」なんですね。TはともかくLGBというものに対して異論を唱えることすら許されない現状は非常に気持ち悪いです。小川さん含め、LGBTを否定・抑圧しようと、もしくはストレートになれと考えている人はいない。存在自体は認めるが、「特権」や「税金等支援」が認められないというだけ。先入観や言葉狩りによる批判はLGBTへの理解をより深くする作業の邪魔でしかないと思います。  一方で私への批判も、もちろんある。罪なき被害が存在する痴漢と、好きなもの同士で繋がってるだけのLGBTを同視するのはどう考えてもおかしいでしょ。そういう、普通におかしいことを、政治思想が絡んだら普通に擁護する右寄りの人間はおかしいと思いますよ。 ところがこれは拙文を読んでいないか、読めていない批評である。言うまでもなく、拙文は痴漢とLGBTを同一視していないからだ。しかし、それでもこの投稿には人としての批判の節度がある。ゲイの方から応援も 一方、ゲイの方から、私宛への応援メッセージも何通も寄せられ、公開されているネット上でも次のような議論を拾うことができる。当事者ですが、鈴木先生の意見は全てのLGBTの意見ではないです。政治的イデオロギーをこの問題と結びつけないでほしい。杉田議員は差別してるのではなく、税金の使い方について政治家としての考えを述べてるだけ。 以上をもって世論の全てだと強弁するつもりはない。しかし、当事者を含め、これだけ穏当な支持の言説が多数ある拙文、拙論を理由に、たった1週間で伝統あるオピニオン誌を休刊にするのは、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた」出版社の自殺ではないか。新潮社もリベラル人士も、実は、個々のL(レズビアン)やG(ゲイ)やB(バイセクシャル)やT(トランスジェンダー)の人たちを全く素通りしている。恐ろしく傲慢な事ではあるまいか。 それにしても、なぜここまで事は急激に運ばれたのか。拙文が普及してからでは廃刊クーデターが展開しにくくなるからではないか。それは以上のネットの反応を見れば分かるであろう。さらに『新潮45』の特集全部を読む読者が増えると、拙文以外の6人の議論は穏当であり、なぜこのバランスの取れた特集を雑誌休刊の理由にするのか、到底社会の理解を得られなくなったに違いない。 健全な民主社会を維持する根本は、言論が①ファクトに基づくこと、②言論のプラットフォームであるマスコミや出版社は、公平な媒体であることに徹し、自由な空間を死守することである。ところが、この自由社会の基幹というべき2点が数年、日本ではなし崩しに突き崩されつつある。 あの森友・加計学園問題を報じた朝日新聞による倒閣運動を日本社会は放置した。保守政権叩きでさえあれば、ファクトなど今の日本の大手メディアはもはやどうでもいいとの不文律が、これで出来てしまったと言える。朝日新聞社東京本社=東京都中央区(産経新聞社チャーターヘリから、納冨康撮影) その上、今回の『新潮45』休刊での不可解な動きだ。朝日新聞と新潮社の「あまりに常識を逸脱した」行動で、日本社会はファクトもオピニオンの公平な提供も、全く責務として引き受けようとしない大手メディアによって、完全に覆われることになった。 日本は平成30年9月25日をもって、「言論ファッショ社会」に突入したという事にならぬかどうか―。実に厳しい局面に日本の自由は立たされている。

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    藤岡信勝手記「言論圧力に屈した新潮社よ、恥を知れ」

    かるだろう。そのくらいは忖度(そんたく)せよ」ということなのか。口を極めて「忖度政治」を批判してきたメディアが、今度は自ら「忖度言論」を実践している。話にならない。差別やマイノリティーの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。「新潮45」を出版する新潮社の本社前でメッセージを掲げ、無言で抗議活動をする人たち=25日夜、東京都新宿区(共同) 今後は今回の7本の論文のような論旨は、「差別的な表現」として新潮社の出版物からは排除されるという意味にとれる。それは、不当な言論弾圧に屈服し、冒頭で述べていた言論の自由を自ら踏みにじり、特定の勢力に媚(こ)びを売る御用評論だけの世界になる、ということを意味する。これは言論の死だ。新潮社のプライドはどこへ そして9月25日の休刊発表の文書はさらにひどい(「休刊」と言っているのは婉曲用語で、事実上の廃刊であることは誰もが知っているだろう)。ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します。 今度は社の経営問題を言い訳として持ち出している。確かに雑誌を出す出版社は営利企業であり、もうからなければ続けることはできない。しかし、一方で、出版社は言論機関としての社会的責任を負っており、出処進退で何よりも大切なことは、言論の自由を守るという正道に立っているかどうかだ。こういう内部事情と金勘定だけを持ち出して世間の同情を買おうとは、あまりに情けないことだとは思わないのか。会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。これまでご支援・ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと、申し訳ないという思いしかありません。今後は社内の編集体制をいま一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です。 こういう社内事情を理由にするのは恥ずかしい。伝統ある新潮社の看板と矜恃(きょうじ)はどこへいったのだろうか。 今回の問題で、新潮社の決定が社会にもたらした最大の被害は、言論に対しては言論で対抗するという原則を逸脱し、不当な圧力に簡単に屈服して、圧力をかければ雑誌の一つや二つはつぶせる、という自信を一部の勢力に与えたことだ。批判を許さない絶対的な「弱者」をつくり、これに反対する一切の言論を弾圧し封殺する暗黒社会が到来するのに、言論機関が自ら手を貸しているのである。※画像はイメージです(GettyImages) 一部の勢力を勇気づけているのは、アメリカなどでも旋風を巻き起こしたポリティカル・コレクトネスの運動なのだが、これは毛沢東の「造反有理」と同じようなものだ。正義が絶対的に自分たちにあるとしてあらゆる破壊や殺人行為までが許される、としたのが、あの文化大革命をつくり出した理屈である。 また、LGBTと括られる性的マイノリティーの人たちも被害者だ。先にも書いたが、一部の勢力がメディアと結託して作り出したメディアの上での「雰囲気」を、「世論」などと称して正当化の理由にする。しかし、性的マイノリティーの人たちの圧倒的多数は、騒がず、静かに放っておいてもらいたいと思っている人もいるだろう。今度の騒ぎの直接的な犠牲者は、本当は彼らなのかもしれない。

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    『新潮45』が「真っ当な論壇誌」として生まれ変わることを望む

    の中の一本、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」が、見当外れの大バッシングに見舞われた。主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。 筆者は今回の『新潮45』の記事もさることながら、実はこのリードこそが問題にされるべきとも思っている。「真っ当な議論」 「見当外れの大バッシング」「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった」とあるが、「主要メディア」とはどのメディアで、「見当外れ」「戦時下さながら」というのであれば論拠となるべき具体的な記事や論考を示すべきだろう。 ネットメディアやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及による紙雑誌の売り上げ減は、論壇誌だけでなく漫画でも指摘されていることだ。そうした中で新潮社ならずとも、ともすれば「売れさえすれば、何をやっても許される」といった価値観に流されがちである。 今回、新潮社が狙ったものとは全く違う形で「真っ当な議論」が巻き起こり、その流れに対して異議を申し立てることになったのは、皮肉なことである。しかしこれは、今まで行われてきたLGBTに関する地道な活動の成果でもあると思う。 一方で露呈したのは論壇界の人材不足、もしくは未熟なまま、生煮えのままでも「論文」とされ、何らかの価値づけがされていくといった風潮である。それが今回の騒動を巻き起こした一因であるならばなおのこと、今だからこそ「真っ当な」論壇誌の存在が求められているともいえる。 新潮社は2002年から「新潮ドキュメント賞」を創設し、売れ行きが厳しいノンフィクション作家を発掘、育てることに寄与してきた。『新潮45』はその発表誌でもある。新潮社の佐藤隆信社長(右)=2015年10月16日、東京都渋谷区(海老沢類撮影) 「事実上の廃刊」といわれる今回の「休刊」であるが、これを機に社会が求める「論壇誌」として生まれ変わること、もしくは新たに創刊されることを望む。 新潮社にはどのような形にせよ、一連の騒動を検証する記事と、杉田氏の見解を掲載した出版物の発行を心から望む。 ちなみに、その出版物は必ず売れるはず。会社的にもマイナスはないはずである。

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    部数はミニコミ誌以下『新潮45』は遅かれ早かれ命脈尽きた

    んどん減っている。 雑誌販売のメーンは書店である。その書店は、2018年5月現在1万2026店(アルメディア調べ)で、ピーク時の約2万3000店に比べると半減している。 最近のニュースから、雑誌崩壊がいよいよ最終段階に入ったと思わせるのが、JRの駅ナカの「キヨスク」などから雑誌がなくなりかけたことだ。これまでキヨスクに雑誌を卸してきた鉄道弘済会が、雑誌事業から撤退することを決めたのだ。その最大の理由は販売不振で、雑誌の売上額は1993年のピークには874億円あったが、直近では10分の1まで激減していた。 これに慌てた出版業界は、取次大手のトーハンが事業を引き継ぐことで決着したが、大きな問題が残った。それは、駅ナカ向け事業の手数料比率は最大で売上高の10%だということだ。これだと、トーハンは利益が出ない。となると、雑誌を発行している出版社からの支援が必要になる。雑誌によっては売り上げの3割をキヨスクで上げているものもあり、この先どうなるかは不明のままだ。マンガ雑誌が並ぶ大阪市内のコンビニの店内 現在、紙の雑誌が直面している最大の危機は、全国の書店に雑誌を含む出版物を届ける配送業者の経営が危機にひんしていることだ。配送業者の半数が2、3年以内の撤退を考えているといわれ、この状況はますます悪化している。 紙の出版を支えているのは「書籍」「雑誌」「コミック」の三つである。雑誌の低迷は、残りの二つに比べて群を抜いている。前年比で見ていくと、ここ数年、毎年10%近く落ち込んでいる。『新潮45』休刊の真因 雑誌の売り上げを決定的に奪っていったのは、以前はガラケー、いまはスマートフォンである。スマホの1日の平均使用時間は、中学生までは1~2時間とされるが、高校生になると、男子が4時間、女子は7時間という調査結果がある。20代、30代の社会人も3~4時間は使っているはずだから、雑誌など読む時間はない。 「雑誌の死」の記事を書いた2015年、私が注目したのが、LINE上級執行役員(当時)の田端信太郎氏が、「マーケティングテクノロジーフェア」の特別講演で話したことだ。彼は「20代はスマホが本妻、テレビは愛人」という趣旨のことを述べ、「(ユーザーの消費時間の)7%のシェアしかないプリント予算に、いまだに広告主は25%も使っているのはおかしい」と指摘したのである。 雑誌を支えているのは、販売収入よりも広告収入である。広告収入は部数に比例する。田端氏の指摘はその通りであり、毎年、雑誌の広告収入は減り続けている。 『新潮45』のような月刊誌では、広告収入はわずかしかなく、これまで赤字覚悟で発行されてきた。この赤字を少しでも解消するためには、部数増による販売収入の増加が不可欠となるが、そのために何ができるだろうか。 実は、今回の休刊はここに原因がある。つまり、部数増のためにマーケティングを行い、分析結果を実行すれば、必ずこうなるのである。出版社が行うマーケティングとは、読者の分析である。読者カードによるアンケートの回収・分析から、今では書店のPOS(販売時点情報管理)システムなどがある。 これらを見れば、ノンフィクションやオピニオンを基調とする月刊誌の読者が、ほぼ60歳以上の男性であることが分かる。しかも、ここまで書きたくはないが、学歴や職歴などのデータから見ると、それほど教養のない人々である。 前記したように、若い世代は完全に紙離れしている。となると、このような高齢世代が好む言論を載せなければ、雑誌は売れない。新潮社の新刊本の販売をやめると宣言した和歌山市の書店「本屋プラグ」=2018年9月 こうして、多くの月刊誌が極度に右傾化していった。ここで言う右傾化とは、朝日新聞などのリベラルといわれるメディア(本当にリベラルかどうかは置いておく)を叩き、野党と左翼を叩き、北朝鮮や韓国、中国を叩く。場合によっては米国の横暴も叩く。非常に分かりやすい編集方針のことである。 この典型が、『WiLL』や『月刊Hanada』、『正論』などだが、今では『Voice』『SAPIO』までがそうなり、最後発として『新潮45』がそうなったといえるのだ。マーケ通りにやっているだけ 数年前、ある月刊誌の編集長に「なぜ、そんな右がかった原稿ばかり載せるのか? それでは『WiLL』や『正論』と同じではないか?」と聞くと、彼ははっきりとこう言った。「別に私がこういう言論を好きというわけではないんです。ただ、そうしないと部数減が止まらないんです。私はマーケティング通りやっているだけですよ」。 そこで、私はこう聞いた。「でも、毎月、朝日叩き、中国叩きでは、同じことの繰り返しではないか?」「それでいいんです。読者は新しいものなんて求めていません。毎回、同じように叩くからいいんです。『朝日、中国は、やっぱりそうか。だからダメなんだ』。そう思うのが彼らの快感で、それが持続することを望んでいるのです」。なんというマーケティングの成果だろうか。 かつて『新潮45』には、良質なノンフィクションがあった。しかし、そうしたノンフィクションを支えるには、調査報道をするための豊富な取材費が必要だから、それが出せなくなれば、自然と消滅する。今では、日本の月刊誌のほとんどで、綿密な取材を重ねたノンフィクションはなくなった。 ここ半年、『新潮45』は、おなじみの「保守論人」(本当に保守かは分からない)による寄稿のオンパレードとなった。「『反安倍』病につける薬」(2月号)、「『非常識国家』韓国」(3月号)、「『朝日新聞』という病」(4月号)、「問題の本質を直視しないいつわりの『安倍潰し国会』」(5月号)、「朝日の論調ばかりが正義じゃない」(6月号)と続き、8月号で杉田LGBT論文を掲載するに至ったのだ。 今回のことではっきりしたのは、「貧すれば鈍する」ということだろう。創業者、佐藤義亮の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」すら省みられなくなるまで、出版ジャーナリズムは劣化してしまった。 今回のことで、新潮社は「良質な文芸書」を出す出版社という看板を失ってしまった。部数が2万部を切り、それを挽回しようと、マーケティングに従った結果がこれだ。 NTTドコモの電子雑誌読み放題サービス「dマガジン」 今のところ雑誌を救う方法がない。いっとき、電子出版が紙出版を救うとされたが、それは単なる希望的観測であり、今や電子出版も失速している。 2018年上半期(1月~6月)の紙と電子出版物販売金額は7827億円で、前年比5・8%減。そのうち紙出版は6702億円で前年比8・0%減、電子出版は1125億円で同9・3%増となっている(出版科学研究所)。 しかし、電子出版の内訳を見ると、電子コミックが864億円で同11・2%増、電子書籍が153億円で同9・3%増なのに対し、電子雑誌は108億円で、なんと同3・6%減とマイナス成長なのである。これは「読み放題サービス」の会員数の減少が原因で、もはや雑誌は紙でも電子でも見放される状況になっている。このままでは、『新潮45』に続いて、雑誌が次々休刊していくのは避けられないだろう。

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    『新潮45』休刊は、言論の自由を装う「最後の悪あがき」に過ぎない

    松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者) 月刊誌『新潮45』の休刊をめぐってさまざまな議論があるようだ。その中には、いくらLGBTをめぐる論調に深刻な瑕疵(かし)があっても、雑誌の休刊にまで至るような事態は、憲法の言論・表現の自由という観点から問題があるのではという論調もある。 新潮社が出した「休刊のお知らせ」を見ても、「『あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現』(9月21日の佐藤隆信社長の声明)を掲載した」ことへの「深い反省」が述べられている。あたかも自社の言論が休刊の理由であるかのように説明されており、そういう論調を加速させているように思える。 しかし、これは『新潮45』の最後の悪あがきのように見える。ただの商売の失敗にすぎないものを、言論の間違いと関連づけることで、休刊に「崇高」なものがあるかのように見せる詐術のようなものだ。 「休刊のお知らせ」を見れば分かるように、『新潮45』は「ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤」していた。他の少なくない雑誌と同じである。その中で『新潮45』は、よく知られているが、右派雑誌の仲間入りすることを目指した。現在の言論界では、右派言論が主流を占めるようになり、左派雑誌は見る影もなくなっている。だとすれば、そういう選択肢はあり得たと筆者も考える。 だが、もう何十年も前からあまた刊行されてきた右派雑誌の中で、『新潮45』独自の立ち位置をどうするかという点は鮮明でなかったように思える。右派雑誌は雨後の竹の子のように乱立しているだけに、何か独自の路線を持てないと、どんどん埋没していくことになる。 政治の世界を見渡しても、野党路線を嫌って保守路線を選択した「維新の会」が、自民党との違いを打ち出せないで影響力を失っていくのと同じようなものである。同じ右派なら伝統ある自民党には勝てないのだ。「新潮45」の休刊を伝える新潮社の文書(撮影・八田尚彦) その結果、『新潮45』の部数低迷に歯止めはかからなかった。そこから挽回を図るため、求められる独自性を他の右派雑誌よりさらに下劣な所に求めるようになったのが、今回のLGBT企画であったと思われる。 そんな企画で生き残りを図ろうとしたため、必然的に「編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」(休刊のお知らせ)のである。そんな雑誌を読者が手に取るはずがない。新潮社の声明は、LGBT企画に「深い反省」をしているようだが、実は読者離れを食い止められず、商売に失敗したということを言っているにすぎない。 それなのに、「反省」を口にし、LGBTの人や左派の圧力で休刊に追い込まれたと装うことにより、一連の騒動が言論の問題であるかのような構図を描いた。最後の休刊の局面を迎えてさえ、右派に対して左派を攻撃する口実を与えているのである。「最後の悪あがき」と書いたのはそういう意味だ。もし、本当に言論の中身を「反省」しているのなら、どこが間違ったのか、どうすべきだったかを言論で明らかにすることが不可欠であろう。「新編集長」私なら提案できる 筆者は、新潮社と違って全く知られてはいない会社ではあるが、出版業界に属する編集者である。新潮社と異なり、左派的な出版社なので、自分の経験を新潮社にそのまま当てはめようとは思わない。 しかし、右派言論界よりさらに読者層の少ない左派の世界だから、そこでの生き残りは並大抵のことではない。でも、だからこそ自信を持って言えることがある。 例えば、安全保障をめぐっては、自衛隊が存在すると日本は危険になるというのが、左派言論界の常識であった。だが、毎年世界で戦争が頻発し、何十万人もが死亡するという現実の中で、軍隊なしにやっていけるというのは、あまりに常識から外れている。 そんな中で、かつての左派の常識にとらわれていては、やはり生き残ってはいけないのだ。発想を根底から変えていかなければならない。 そこで11年前、『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』という本を刊行した。防衛省の元高官数名が筆者の本である。本の帯文は防衛庁長官を務めたこともある加藤紘一元自民党幹事長に書いてもらい、自衛隊の機関紙である「朝雲」にも広告を出すという異例の本であった。 それまで「護憲」本は販売不振が続いていたが、この本は反響を呼び、かなり売れた。それ以降、この路線を突き進んでいる。その後、自民党政府の官僚であった人の本も出した。近く、自民党の元幹事長や、自衛隊の元幹部に登場願い、安倍晋三首相の「加憲」案にモノ申す本を出す予定もある。2007年3月、陸上自衛隊中央即応集団の編成祝賀式に黒い覆面姿で出席した特殊作戦群隊員 左派的な常識からいうと、自衛隊と憲法9条は対立軸である。けれども、その二つの親和性という現実に目をつむらないことにより、左派業界の中でも新しい読者層を獲得できたというのが、その小さな経験が示すことでもある。 新潮社が『新潮45』をどうしようと考えているのか、筆者には何の情報もない。「廃刊に近い休刊」と会社の幹部が説明しているようだから、そうなるのかもしれない。 しかし、もし言論を大切にする気持ちが残っているなら、右派路線を継続した場合でも、独自性を発揮することは可能だという見地で、ぜひいろいろ試行錯誤をしてほしい。他の右派雑誌の行き過ぎをたしなめ、本物の右派、保守派を目指すという立ち位置である。 その新しい右派の道を進む気持ちがあるなら、筆者には「ぜひこの人を編集長に」という提案がある。新潮社ともつながりの深い人である。その編集長の下で豊かな言論を誇る右派雑誌ができれば、左派の端くれに存在する筆者としても、闘いがいがあるというものだ。そうなれば、右派と左派が罵倒し合うのではなく、建設的に議論できる可能性が広がると思う。 『新潮45』の今後に期待したい。だからこそ、重ねて言う。問題を言論の自由に還元してはならない。

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    杉田水脈議員は「LGBTに税金を投入」について具体的な説明を

    網尾歩(コラムニスト) 何を指して「LGBTのカップルのために税金を使う」と言っているのか、杉田水脈議員の説明がないまま炎上が続いている。このままなし崩し的に、「LGBTが特権扱いされている」かのように語られていいのか。 「新潮45」10月号の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が大炎上。9月21日には新潮社の佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」とコメントを発表するまでに至った。 問題となったもともとの杉田水脈議員の記事、「『LGBT』支援の度が過ぎる」(同誌8月号)を読んだ時点から、筆者には一点の疑問がある。杉田議員の言う、「(LGBTに)税金を投入する」とは、具体的に何のことなのか。 「『LGBT』支援の度が過ぎる」という杉田記事の中で最も批判を集めたのは<彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。>という一文だが、この一文は<そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。>と続く。しかし、「税金を投入」が、具体的に何の取り組みについて、どれほどの税金を投入することなのかについて、この文章内でははっきりとした説明がない。 ただ、この前に子育て支援や不妊治療に<お金を使う>といった文章があることから推測すれば、杉田議員は同性パートナーシップ制度にかかる税金を念頭に置いているのかもしれない。 それでは、同性パートナーシップ制度にはどのぐらいの「税金が投入」されているのだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 「LGBTへの日本の行政支援は『度が過ぎる』のか」(NEWSWEEK/7月28日)では、<同性パートナーシップ制度をいち早く導入した渋谷区の場合、平成30年度の男女平等・LGBT関連予算が1300万円。予算総額938億円の0.01%でしかない。これで『度が過ぎる』と批判するのは度が過ぎる。>という指摘がある。 実は、杉田議員を擁護する側からも同じことが言われている。 「新潮45」10月号の特別企画の中で、「LGBTへの税金投入」の内容について具体的に触れている執筆者は、松浦大悟元参議院議員のみである。LGBT当事者である松浦氏は、<杉田議員はLGBTへの税金投入も問題にしていますが、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算はかかっていません。>と、NEWSWEEK記事と同じ指摘をしている。 松浦氏は続けて、<指摘するならそこではなく、復興庁が旗を振っている「LGBTツーリズム」でしょう。>と言及。海外からLGBTを被災地に招く企画について、LGBTが利用可能な温泉やトイレの改修工事が行われていることについて、<まだまだ生活債権に苦しんでいる人がいるにもかかわらず、このような復興予算の使われ方はやはりおかしい>と述べている。しかし、これは松浦氏自身が触れているように「復興予算の使われ方」の問題として論じられるべきだ。LGBTだけに特化して復興予算が使われているわけではないのだから、これをもってLGBTへの支援もしくは税金投入が「度が過ぎる」と、果たして言えるのか。杉田文章の「功績」 問題なのは、「生産性」の議論にとらわれるあまり、「税金を投入することが果たしていいのかどうか」という、杉田議員の具体性を欠いた雑な問いかけが、あたかも「LGBTに過大な税金が投入されている」事実があるかのごとくに独り歩きしていることだ。ツイッター上で、「差別は良くないけれど、そんなに税金を投入する必要はない」といった内容の投稿が見られることが、杉田文章の「功績」だろう。 杉田議員が「税金投入」を問題視しながら、本当にどれだけの「税金投入」が行われているかについては触れないまま文章を終わらせ、今に至るまで特に言及を行っていないのは、いったいなぜなのか。ぜひ説明を願いたい。「税金を投入」という言葉をいったん持ち出せば、都市伝説的に尾ひれがついて拡散されていくことを知っていたからではないのか。 LGBTに過度な税金投入の事実はないという指摘は、「杉田議員の『LGBT非難』の度が過ぎる LGBT支援も、予算も、じつはほぼ皆無の国で」(BuzzFeed News/8月1日)にもある。杉田議員は、逃げずにきちんと反論してほしい。 上記で松浦大悟氏の指摘について反論もしたが、筆者は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」企画の7人の書き手の文章のうち、杉田議員に目を通してもらいたいものがあるとすれば、松浦氏の文章だけだと思っている。 ゲイであることをカミングアウトした松浦氏は綴る。自身の暮らす秋田県にゲイバーは一軒もなく、その理由は「顔バレ」を恐れて当事者が集まらず、経営が成り立たないからであること。NPO団体が主催する会合も、参加希望者のみに場所が伝えられ、隠されていること。2012年にはトランスジェンダーの男性が焼身自殺したこと。松浦氏自身、同性愛者であることを理由に「代表にふさわしくない」と言われた経験があること。杉田水脈氏=2017年2月24日、山口県下関市%E3%80%80(中村雅和撮影) <LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。><そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、『非国民だ!』という風潮はありません。>と書いた杉田議員は、これを読んで恥ずかしくならないのだろうか。 わからない人にはわからない。気づけない人は気づけない。当事者でない者が知らないままでいたいと思えば知らないでいられる。だから差別は怖いのだ。

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    杉田水脈氏「生産性発言」めぐる論戦にほぼ生産性がない理由

     その主義主張には、きちんとした根拠があるのだろうか? と疑いを抱かずにはいられないような、極端な発言が国会議員や地方自治体の首長などからたびたび飛び出している。そのたびに、ネット上では賛意と反論が激しくぶつかりあっているが、肝心の当事者は置き去りで、なんのために彼らは争っているのかわからなくなる。ライターの森鷹久氏が、国会議員によるLGBTをめぐる偏った主張によって浮かび上がる、貧しい現実をレポートする。 * * * 各界に波紋を広げている、自民党の杉田水脈・衆議院議員による「LGBTには生産性がない」という主張。杉田議員に近しい支援者からは「言い方は過激ながら、言っていることは正論」といった声が聞こえてくるが、右派である筆者の周辺からも戸惑いの声は噴出しており、筆者自身も杉田氏の議員としての資質には疑問を呈せざるを得ない。 そもそも、杉田議員の言う「生産性」とはなんなのか?「子を産むか産まないかが生産性というのなら、杉田議員のボス・安倍首相はどうなのって話。いくら国のために頑張っていようと、子供がいない生産性はゼロの男だということになる。言われた方の気持ちがわからないって、致命的よ」 こう見解を述べるのは、新宿二丁目のゲイバーに勤務する、元男性のサクラさん(仮名)だ。 杉田議員が月刊誌に寄せた文章を読むと、LGBTの人々に「税金を使うべきではない」、「かの方々は病気ではない」、さらに「生産性がない人々への支援に意味があるのか」といった主張がなされていることがわかる。子供を産まない人々について生産性がない、すなわち「価値がない」とも受け取られかねない発言で、「全文を読めば理解してもらえる」(杉田議員)といった反論はまったく弁解になってはいない。※画像はイメージです(GettyImages) ネット上では、神奈川県相模原の障がい者施設で19人を殺めた容疑者が語る「優生思想」そのものという指摘すらある。かつて同じ自民党議員から飛び出した「女性は子を産む機械」発言にも似た、自分以外の人間を認めていない極めて自分勝手で、危険な思考であることは明らかだろう。「杉田議員も子を産む機械なのかしらね。女性という立場で女性をバカにするなんて、本当に理解できない」(サクラさん) 同じ新宿二丁目でLGBT向けの飲食店を経営するレズビアンのまりあさん(仮名・20代)も、杉田議員の主張には違和感を覚える。「病気でないし、支援されなくとも、私たちは私たちで懸命に働き、生活しています。税金だって納めているし……。それを生産性がない、の一言でバッサリ切り捨てる。別に金銭的な支援が必要だとは思っていないし、それは政治家など外野の人たちが勝手に言っている事、大きなお世話。でも、生産性の一言で切り捨てるような考え方にはゾッとするし、共存共栄といいながら、たくさんの人を殺してきた戦前の日本みたい。自分の気に食わない生き方を選択している人々を粛正したいのでしょうか」(まりあさん)純粋な日本人とは何か LGBT当事者の皆さんに今回の「杉田発言」をどう思うか聞いて回ると、確かに報道や反杉田派議員らのテンションとの温度差を感じないわけでもなかった。まりあさんのように過剰な反論には「大きなお世話」という、冷静で落ち着いた見方をしている人が多い印象だ。「子供が産めないことなんて、分かっています。だからゲイやレズビアンの私たちにとっては"だから何"という感じ。それよりもひどいのは、病気や様々な事情で子供ができない、生まれないという人々に、こんな乱暴な言葉がどう受け取られるか、まったく想像していないこと。唯一、杉田議員の主張の中で正しいのは"LGBTは弱者ではない"という部分でしょうか。 同性婚などの制度を拡充し“存在を認めて”とは考えますが、助けてくれとは思わない。ただ、やっぱり上から目線で“甘やかすな”みたいな主張は、現実を全く理解していないことの証左。一方で杉田議員を断罪する人たちの一部は、私たちを必要以上に弱者に仕立て上げようとする。あなたたちも声を上げなさい、弱者でしょ? と。LGBTのパレードにやってきて政治的な批判活動を行う……。結局、私たちは攻撃され利用されて、捨てられるんじゃないの? もうね、本当に放っておいてほしい。私たちで商売をする人たちのいやらしさに吐き気がする」(まりあさん) 杉田発言がマスコミで取りざたされ始めると、各社が杉田議員へアプローチを続けるも「まったく捕まらなかった」(大手紙政治部記者)というが、そのころ当の本人は支援者に向けた講演活動中で北海道にいた。件の主張について全く曲げる姿勢はなく、支援者からも「頑張れ」「間違っていない」といった激励が相次いだという。「マスコミも野党も騒ぎすぎ。どうせ弱者を作り上げて寄生して、安倍政権を潰したいのでしょう。講演会会場に札幌のテレビ局が来たようですがね……追い返しました(笑)。日本は少子化で、子供を産まないと日本は滅びる。純粋な日本人をもっと増やして、反日的な人々を追い出さないといけないんですよ」自民党の杉田水脈衆院議員に抗議する人たち=2018年7月27日午後、札幌市(共同) こう話すのは、かつて筆者が保守系論壇誌に寄稿していた際に、SNSを通じて激励のメッセージをくれた北海道在住の経営者男性(50代)だ。杉田議員の講演の一つに参加していた。筆者は「そういった考えは受け入れられない」と返したが、頑として主張は変えない、と言い切る男性。 純粋な日本人とはどんな存在なのか、反日的な人々とは何をさすのか、問いただしたいことはいろいろあるが、ただ相手を貶め、相手より優位に立てばどんな手段も厭わない議論にとらわれすぎていないか。それはどの思想信条の人にもある傾向で、今回の騒動でも、記事で名指しされたLGBTの人たちは置き去りにされている。左右の政治的議論に巻き込まれ、疲弊し、結局は単なるパフォーマンスの為に消費された後は、誰も関心を寄せない、ということになりはしないか。杉田議員のその後 杉田氏周辺を取材する大手紙記者も不満を呈する。「杉田議員は後に注意を受けることになりましたが、安倍首相をはじめとした上の人々がそもそもこうした問題に関心が低い。なので、事の重大性を理解しようとせず、叱責されない杉田議員本人も“これくらいなら過激な主張をしてもよい”と思っているのでしょう。 左右の政治スタンスに関係なく、この件はあまりにひどすぎるし、糾弾されるべき。杉田議員はマスコミの追及から逃げ回っていますが、主張が正しいと思うのなら、堂々と出てきて話せばよいのです。仲間内では強がっているようですが、騒ぎが大きくなって怖じ気づき、表に出てこずコソコソとしている感が否めません。結局過激なことを言って注目を集めようとするパフォーマンスだったと言われても仕方ないでしょう」 杉田氏は国会議員なので、主張のいびつさは選挙によって国民から審判を受けるだろう。だが、彼女のパフォーマンスに便乗して、当事者を置き去りにした"論戦"を激しく繰り広げている人たちが、みずからを省みる機会はあるのか。いわゆる専門家だけでなく、ネットで強く主張を続ける匿名の人たちも含めると、自分たちはいったい何をしていたのか、それによって何を失ってしまったのかを気づく機会はあるのか。 問題をめぐり、両方に存在する一部の過激派から飛び出す極論によって、議論がされるどころか、口汚く罵り合ったり暴力で相手を屈服させようとしたりして泥沼化する。今は昔と違い、そのやり取りの一部始終をネットで誰でも見られるから、一部の過激派たちの意見や主張がインパクトの有無のみで共有され続け、思想の極端化が増長されやすい。あらゆる問題が政治問題に取り込まれていくことで、悲しむ人々、苦しい人々の気持ちを押しのけて、空虚な思想論争ばかりが繰り広げられる。※画像はイメージです(GettyImages) わが国においては「#MeeToo」運動も、同じような経緯で言葉だけが消費され、再び当事者が声を上げづらい世の中に戻り、取り上げるマスコミも政治家も、ほとんどいなくなってしまった。こうした事態は、大変に悲しくそして情けなく、何か大きな不幸の到来を予感させる。考えることを辞めた人たちが、あまりにも多すぎるのではないかと思うのだ。関連記事■ Excel方眼紙めぐる論争 弊害あるのにやめられない理由とは■ 労働者派遣法改正巡る論戦 現場を知らぬ国会議員のたわごと■ 野田首相 論戦に用意したカンペに7つの【注】が書かれてた■ 「ダラダラ残業も、低い生産性も集団主義のせい」と大学教授■ 小籔千豊「ネットに悪口書くなんて生産性なさすぎて可哀想」

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    なぜ小室圭さんバッシングは止まないのか

    秋篠宮家の長女、眞子さまとの結婚が延期となった小室圭さんをめぐり、週刊誌のバッシングが止まない。実家の金銭トラブルに端を発した一連の報道に小室さんは沈黙を続けるが、留学で渡米した後もその過熱ぶりが変わらないのはなぜか。

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    「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド

    鈴木涼美(社会学者) 「愛なんて美しくなくていい 怖いくらいでもいい」という歌詞をメロディに乗せたのは小室哲哉だが、それにしても日本中がお祝いムードに包まれた婚約報道から、婚約者に関する一連の報道を経て眞子さまが今感じている怖さはどれくらいのものだろうか。 そう言えば最近、高橋一生がミステリアスな彼氏を演じるサスペンス映画が公開されていたが、その映画を上回る勢いで「知り尽くしていたはずの愛する人の素性」が週刊誌をにぎわせた。 眞子さまの心中は私ごときが察せるものではないが、一方で良き大学を出て良き銀行をすぐやめて良き大学院に入り、念願の国際弁護士を目指す米国留学をスタートさせた元「海の王子」の方は、自信と誇りに満ちたエリートへの階段を意気揚々と登っているように見える。 昨年婚約が発表されたとはいえ、週刊誌報道の後に不自然に延期されており、彼はまだ正式な皇室の関係者ですらないような気もするが、元「海の王子」であることは間違いないので、待遇がさながらプリンス並でも当然なのだろう。 いくつかの報道では、彼らの結婚は暗礁に乗り上げてしまったような印象を受けるが、少なくとも彼のこれまでの振る舞いや雰囲気、行動を見ると、その理不尽のようにも思える延期発表や、週刊誌によって一方的につけられる悪印象について必死に抗おうというような態度は見受けられない。 そもそも週刊誌には彼の母親の元婚約者であり、彼の留学資金などを用立てたA氏の声が登場するが、それに対する公の場での反論すら発していない。 母親がどんなつもりでA氏から現金を受け取ったのか、といったことは各自の妄想の域を出ないが、そんな家庭の事情があったとしても、愛する女との結婚に向けて、弁解したり謝ったりしてでも守り抜く、という気概が彼から全然感じられないのだ。 私は正直、母親が「裏ッピキ」(夜の商売をする女の間で、客から直接金銭を受け取る行為を呼ぶ)の天才だったとか、そんな話はどうでもよくて、延期をすんなり受け入れるような、その辺りに彼の不気味さを感じる。米国に出発する小室圭さん(中央)=2018年8月7日、成田空港 本当に眞子さまとの「恋愛結婚」を遂行したいのであれば、公の場で母親をフォローするでもいいし、和泉元彌のように母親の呪縛を振り切ったっていいような気もするのだが、お付きの人などをつけて胸を張って米国のロースクールに通学する様子は、それなりの希望を叶えたというような印象まで醸し出す。 父親を亡くし、低収入の母と2人、時には第三者の助けを借りながらも力強く生きてきた彼のような人を、奮い立たせるものはなんだろうか。決して恵まれた状況にいなくとも、優秀さと気高さを放棄せずに、いかにも恵まれた状況の人が歩むような道を歩むというのは並大抵の覚悟ではできない。「歌舞伎町の王子」 彼とはまた全然関係のない話だが、シングルマザーの元で経済的な苦労をして育った男というのは、夜の世界では毎日のように出会う。彼らの多くは恵まれた状況の人が歩むような道とはまた別の、恵まれた状況にいないからこそ飛び込みやすい世界でやはり巨万の富を得ようとする。 彼らの行いは、ごく一般的に恵まれた、あるいはとても贅沢(ぜいたく)で恵まれた状況にいる私たちから見ると、時に想像を絶するほど卑(いや)しく、非人道的で、酷い。自分の親や相手の親まで巻き込んで女を信じさせ、金銭を奪い、目的が達成されればゴミのように捨てたりもする。 信じやすいような女を見抜き、平気で嘘をつき、弱みにつけ込んで、働きづめにさせて、何百万、何千万円を一人から搾り取ったりもする。別に、彼らは悪人ではない。 昼間のエリートの世界で出会う男たちの何倍も家族思いで、稼げば稼いだ分だけ母親に送金し、初めて売上が100万円を超えた月など、稼ぎのほぼ全てを親に渡すような男は想像の数倍多い。少なくとも私が大学や新聞社で出会った男たちで、母親に毎月現金を送るような男はほとんどいなかった。 別にホストにマザコンが多い、という話ではなく、ある側面から見れば残虐なほど道徳に反した彼らにも、彼らなりの正義とプライドがあるという話である。 そしてその正義は、彼らではない私たちの想像しづらいところにある。それは母親に送る金額を絶対に一度も下げないというようなこともあれば、売上ナンバーワンの写真が載った情報誌を実家に送る、というような場合もある。 米ロースクールで学び出した海の王子と、歌舞伎町の王子たちを並べるのは不毛で失礼だが、私はこの騒動を見て、彼は「歌舞伎町の王子」と同じくらい、あるいはそれ以上の複雑な正義とプライドとともに生きている可能性は大いにあり得ると感じている。 そしてその場合、その正義は私たち大衆が簡単に想像し得るものではない。関係者の紹介でも名家とのお見合いでもない、民間人との「完全な恋愛結婚」であることに不安を感じる宮内庁関係者もいると報じられるが、「完全な恋愛結婚」であることよりも、「完全な恋愛結婚」ではなかった場合の方がゾッとする。 神奈川県藤沢市の観光をPRする「湘南江ノ島海の王子」として活動していた当時の小室圭さん=2010年撮影(提供写真) もし、彼の正義が、愛する女と一緒になることや彼女を守り抜くことを第一の目標としない場合には、儀式延期が決まりVIPとして米国留学をするこの状況は必ずしも彼にとって不都合ではない。米国での彼の様子を伝える週刊誌報道はいかにもそんな想像をかき立てるように綴られている。 ただし、人間は複雑であるが、それほど明確ではないのもまた事実で、平気で嘘をつき、いいように働かせ、金を搾り取った後に、その相手の女を妻として迎え、幸福になったような夜の事例も実はごまんと転がっている。 冒頭で触れた高橋一生のドラマの予告編はこんなコピーで締めくくられる。「愛さえも嘘ですか?」。おそらく国民が案じる2人の今後は、このような問いにかかっている。

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    小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない

    、近衛家へ養子)と1966年に結婚する。近衛氏は日本赤十字社社員として報道されつつ、婚約内定時のマスメディアでは細川家や近衛家の話題も伝えられ、やはりその家柄が強調されている。 その後、崇仁親王の次女、容子(まさこ)内親王は1983年、裏千家15代家元、千宗室氏の長男、千宗之氏(現16代家元)と結婚する。千家は元華族ではないものの、結婚時の報道では「古式ゆかしい」婚姻の形式が強調されており、その家柄が古くから続く伝統的な家であることを印象づけるものとなっている。2018年6月、小山実稚恵さんのコンサートを鑑賞に訪れた黒田慶樹さんと清子さん夫妻 そうした流れに変化を見せたのが、2005年、明仁天皇の長女、紀宮清子内親王の結婚である。婚約内定の相手として報道されたのが、東京都職員の黒田慶樹(よしき)氏であった。 黒田家は親戚(しんせき)筋に元華族・皇族につながる人がいたが、元華族ではない。そうした意味で、同じ内廷の女性皇族の結婚の前例である昭和天皇の娘たちとは異なる。皇族の「恋愛結婚」とは こうした状況から、例えば週刊誌『AERA』2004年11月29日号は「ブランド婚より『わたし流』 紀宮さまの夫選び」とのタイトルを付した記事を掲載し、これまでのように家柄を重視したものではなく、あくまで紀宮が自分の意思で相手を決めた結婚だと捉えられた。 とはいえ、黒田氏は礼宮(後の秋篠宮)文仁親王とは初等科時代からの学友であり、高等科や大学時代は部活やサークルでも同じで、卒業後も交流があった。その意味では、家柄とは言えないまでも、皇族との関係性をすでに有する人物との結婚だとイメージされた。またこれまでも、池田隆政氏や島津久永氏、近衛忠煇氏が学習院出身で、黒田氏も同様であったことから、そうした連なりを意識されたのではないだろうか。 その後、2014年には、高円宮憲仁親王の次女、典子女王が第84代出雲国造(いずもこくそう)で出雲大社宮司の千家尊祐(たかまさ)氏の長男、千家国麿氏と結婚する。出雲大社の宮司を務め、戦前は華族の一員であった千家氏との結婚も、家柄をイメージさせたのではないだろうか。 ここまでくると、秋篠宮文仁親王の長女、眞子内親王の相手である小室圭さんは、これまでの女性皇族の結婚相手の傾向とは異なることが分かる。亡くなった父親は横浜市役所に勤務しており、元華族ではなかった。小室さん自身、眞子内親王と同じように国際基督教大学(ICU)を卒業するなど、学習院つながりで皇族との関係性を有していたわけでもなかった。 これまで私たちは、「恋愛結婚」と言っても、皇族の女性たちのそれは普通の「恋愛」ではなく、家柄など限定された中でのものと意識していたのではないだろうか。戦前とは異なり、戦後は決められたその人とそのまま結婚するのではない、そうした点で天皇制は「民主化」された。2018年2月、延期発表から一夜明け、自宅マンションを出る小室圭さん。心境を尋ねる質問には応じず、タクシーに乗り込んだ そうした思考から「恋愛結婚」であると強調されたのである。しかしその「恋愛」とは、世間のそれとは異なるものであった。あくまで限られた家柄の中での選択とみられていたのである。 ところが、今回の眞子内親王と小室圭さんの場合は異なった。限定された家柄・範囲の中から小室さんが選ばれたわけではなかったのである。小室さんという、今までとは異なる人物の登場であるがゆえに、報道の当初、皇室がより近くなったことを歓迎する声が多数聞かれた。 しかし、それゆえに反発する人々も現れ、現在のような状況となったのではないだろうか。それは「象徴」とは何かを考える違いに起因しているようにも思われるのである。

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    「池上彰MeToo炎上」専門家は使い捨て、テレビの軽さに潜むリスク

    ーバーで政治活動家のKAZUYA氏によれば「謎のMeToo(ミートゥー)運動」が発生した。 池上氏はメディアの取材に対し、「特定の先生が言ったことを自分の意見として言うことはありえない」と全面否定したという。 実は、筆者も2012年初頭、池上氏がメーンキャスターを務めた番組に関わったことがある。そのときの不満も、当時の筆者のツイッターに記録されている。いわば「プレ池上番組MeToo」といえる一人だ。 ただ、八幡氏や他の識者たちの経験とはかなり異なる。そのときの経緯をざっとまとめると、次のようになる。 番組では東日本大震災の復興需要や欧州の経済危機など、当時の経済問題が話題になった。特に復興需要関連のパートで、番組制作の助言者となった。ただし、筆者のクレジットを表記しないということは、制作スタッフから事前に告げられていた。2015年10月、著書『池上彰のそこが知りたい!ロシア』刊行イベントを行った池上彰氏 助言者を引き受けた筆者は、台本を事前に受け取り、それをチェックしていくのだが、残念なことにスタッフの経済に関する知識にひどい偏りがあった。これが大きな摩擦となった。そこで、スタッフと話し合いの機会を設け、筆者の不満をぶつけた上で、このままでは番組の助言者を降りるということを告げた。専門知は「使い捨てツール」 ただ、話し合いのおかげでスタッフとの考えの齟齬(そご)がかなり埋まり、筆者は番組への助言を続けることにした。結果として、復興需要関連で、緊縮財政批判や積極財政や金融緩和の話を番組の中に盛り込むことにつながった。 当時の日本は民主党政権の下で、アベノミクスの「ア」の字の可能性もなく、デフレは深まっていった。しかも、政策の関心といえば、復興増税、そして消費増税という緊縮政策ばかりだった。 この中で、リフレ的な主張を、人気のある池上氏の番組で放送できることは、筆者のクレジットや報酬を度外視しても最優先で行う必要があるように思えた。結果、放送された番組は、制作スタッフとの齟齬を乗り越えた、それなりにましな内容になったと思う。 ただ、後から考えても、この番組の制作スタッフの専門的な知識に対する軽い扱いは、後々も嫌な思いとして残った。筆者が強く主張しなければ、いったいどんな番組になってしまったのだろうか。 今回の池上番組MeToo運動においても、識者たちが自分たちの専門的知見を都合のいいように番組スタッフに利用されているという強い批判は、このときに筆者が感じた番組スタッフの「軽さ」につながるものだろう。 その後、筆者は扱いにくいと思われたのか、この番組とはそれっきりである。ただこの前後で、筆者と似た主張を持つ経済学者やエコノミストたちにも、別の放送内容について依頼がなされていたという。そして、そのたびに何か摩擦めいたことを起こしたとも聞く。さらにここが肝心だが、それ1回きりの付き合いが定番のようである。2016年7月、テレビ東京系「池上彰の参院選ライブ」に出演するジャーナリストの池上彰氏(中央)ら つまり、われわれ専門家はただの「使い捨てツール」でしかない。まさに、専門知を軽んじる態度である。 嘉悦大教授の高橋洋一氏は、池上氏の番組の問題について、専門家の知見を利用した旨のクレジットを入れることを提案している。それはある意味正しいだろう。クレジットじゃ済まないテレビの「実態」 ただ、以前、池上氏の番組とは別のワイドショーに出演したとき、事前の確認なくスタジオに流された映像資料に「田中秀臣氏による」というクレジットが出された。ところが、筆者はそんなことに全く関与していなかった。たまたまスタジオにいたので、その場で「僕が調べたのではなく、番組のスタッフが調べたもの」と急ぎ訂正したことがある。 これは恐ろしいことだな、と思った。自分の関与していないものにクレジットを付されて、それが広範囲に放送されてしまう。その場で訂正できたからいいようなものを、これができなかったらどんなことになっていただろうか。 だから、クレジットをつけることも一案だが、筆者のようなケースもあることは注意を促したい。つまりは、テレビの番組制作において、現場ベースではかなりずさんな実態があるのではないか。 例えば、今回の運動も、番組スタッフだけではなく、番組の中心である池上氏本人がスタッフや専門家とともに一緒に議論する時間を設けたら違う展開にもなるだろう。また助言を求める専門家を使い捨てのように毎回代えるのではなく、長期的な助言者として参画させるのも一案ではないか。 そんなに手間暇をかけられない、というのであれば、今回のようなMeToo運動に似た社会的問題が繰り返されるだろう。それが番組のリスクとして顕在化すれば、手間暇かけるコストなど問題にならなくなる可能性さえも出てくるのではないか。2013年6月、インタビューに応じるジャーナリストの池上彰氏 ちなみに、池上氏自身の経済観、特に日本銀行の金融政策の考え方については、批判すべき点もある。一例だが、彼の『改訂新版 日銀を知れば経済がわかる』(平凡社新書)には注文をつけたい、いや全力で批判したい箇所がかなりある。 例えば、日銀の出口政策のとらえ方を、国債暴落といったあまりにも安易なあおりに結び付けている点などだ。ただ、池上氏の番組と大きく異なるのは、本書にはきちんと主要参考文献が付されていることだ。つまり、クレジットが明記されているのである。 ただ、池上氏の他の膨大な書籍を検証することはできていない。だが、少なくとも池上氏の番組を批判することと、池上氏の考えとの関係をどう見るか、そこは慎重に区別し、その上で議論していく必要があるだろう。

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    ニュースキャスターかくあるべし

    「ニュースキャスターという仕事に明確な定義はない」。NHKキャスター、大越健介氏が自著の中で書いていた。では、キャスターの仕事とは一体何なのか。そんな疑問にわが国を代表する3人のキャスター経験者が答えてくれた。櫻井よしこ氏、池上彰氏、木村太郎氏である。さっそく「金言」に耳を傾けてみよう。

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    櫻井よしこ手記 「ニュース番組までメダカの学校になってどうする」

    局としても許されない。信頼を失えば降板ともなる。その種の職業的な実績は、良きにつけ悪しきにつけ、長くメディア論の中で取り上げられる。 つまり、ニュースの伝え手に問われるのは、何よりも報道のプロとしての質である。ニュース番組はプロのニュースマン、ジャーナリストたちによる、あらゆる意味での競争と闘いの現場なのである。だから海外のニュース番組のキャスターたちは往々にしてそれ程若くはない。 とびきりの美男でも美女でもない。生まれつき美男美女であったとしても、その美しさを意識的に際立たせることはない。かわい子ぶりは絶対にしない。頼りなさ、儚さなどはむしろ退けられる。彼らは視聴者に信頼される成熟した大人として、まっとう果敢に取材し、報じようとする。番組の担い手として、強く大きな太い柱であろうとする。米国を代表するアンカーウーマンのケイティ・クーリック 日本はどうか。前述したように、まず、キャリアを積んだ記者が中心になっている番組が少ない。人気のあるタレントが仕切っている番組と局アナと呼ばれるアナウンサーが仕切るものとに二分される。報道についておよそ素人の彼らは、一体どのようにして、キャスターやコメンテーターの役割を担っているのだろうか。 通常、ニュースのリードやコメントは番組のプロデューサーや記者が書いてくれる。それらはプロンプターで読める。読みの専門家である局アナにとっては得意分野であり、上手に読むことで基本的にニュースキャスターの形は整えられる。そういう仕組みの中で初めて局アナやタレントがキャスターの役割を果たし得ていると言ってよいだろう。『きょうの出来事』キャスター時代 ここでずっと昔の私の体験を語ってもよいだろうか。古い話だが、私はかつてニュース番組のキャスターだった。各ニュース項目のリードは報道局の記者たちが書いた。コメントは記者やプロデューサーが知恵を絞ってまとめたものが、私の手元にきた。 形の上では今と同じである。しかし当時、私はリードやコメントについて、それぞれの担当記者やプロデューサーと、時には嫌になるほど議論をしたり修正を加えたりした。ひとつひとつのニュースの取材に、私自身が直接関わることがないとしても、私はジャーナリストとしての自分の在り方を強く意識していた。周りもそのことを意識し、そして受け入れてくれていた。報道局の兵(つわもの)と私の間には、取材する者としての対等の感覚があったと思う。そのようなプロデューサー及び報道局の記者全員に対する敬意と、自分に対する信頼があって初めて、私の16年間のニュースキャスターとしての仕事が完うされたと思う。 報道にはどうしても、その記者、その番組の価値観が反映される。基本的にどのニュース番組も取捨選択の段階ですでに価値観が反映されているのである。それが昂(こう)じると偏りにつながっていきかねない。 アメリカのCNNは明らかに左に偏っている。だが面白いことに、CNNとは逆の右に偏りがちなFOXニュースも高い視聴率をとっている。左の人はCNNを見て満足し、右の人はFOXで盛り上がる。対極にあるテレビ局同士が互いに逆方向に傾斜することで社会全体の情報供給のバランスがとれていると見ることが可能だ。  対照的なのが日本である。わが国のテレビ局はメダカの学校である。ニュースの報じ方がおよそ一色に染まる。同じ方向にドーッと走る。方向は左系統への偏り一本道である。往々にしてNHKがその先頭を走り、TBS、テレビ朝日、NTV、そしてフジまで含めて同一方向に雪崩を打つ。実に日本の悪しき実態である。アメリカのように対極的な価値観や方針を持つ複数のテレビ局は日本には存在しない。『きょうの出来事』キャスター勇退後の櫻井よしこさん=1996年4月 再び私自身の話で申し訳ないが、ニュースに関して私にも明確な価値観がある。だが現役キャスターだったとき、心掛けていたことが二つあった。報道の基本として大切にしていたことである。 まず事象の一側面だけでなく、全体像を伝えることの重要さだ。全体像を描いて見せることなく部分だけに焦点を当てれば、間違ったメッセージを送ることになりかねない。この1~2年のニュース番組やワイドショーでいえば、その典型的事例が「モリカケ」問題の報道だったと思う。どのテレビ局のどのニュース番組でもワイドショーでも、モリカケ問題の全体像は全くといってよい程伝えられなかったと断じてよいと思う。 事象の一部のみの報道は、結果として歪曲報道になる。社会にも、国民にも、全くためにならない。こんな異常な偏った報道はない。そこで私は自分のネット番組『言論テレビ』で事柄の全体像を大いに発信した。危機はいつでもあり得る 二つ目の大事な点は、立場の弱い側に心を添わせることだ。それは「弱者」を絶対善と見做(みな)したり、過度に大事にすることではない。彼らの抱える問題を、自分のことのように心に感じ、解決を願い、そのために必要なさまざまな情報を伝えることである。表面的な正邪の観念や建前論から離れて、考えを深める最大限の取材と努力が大事なのだ。 もうひとつ、思い出した。日本で女性がニュース番組の柱になったその最初のケースが私だった。私は自分の責務を番組全体に責任を持つことだととらえていた。むろん、それは現実とは異なるのだが。例えば、対外的に番組に責任を持つのはプロデューサーであり報道局、テレビ局そのものである。それは確かにそうなのだが、それでも現場ではすべてが最終的に私にかかってくるのも事実である。 例えば、飛行機がハイジャックされるように、スタジオがハイジャックされた場合はどうなるのか。番組の責任者であるプロデューサーはスタジオの中にはいない。スタジオ全体に目を光らせるサブコントロールルームにいる。従って、スタジオに入ったが最後、全責任を持つのはキャスターの自分であると、私は認識していた。私のジュニアパートナー、お天気情報の担当者、カメラマン、ディレクター、こうした人たち全員を守らなければならないと、いつも私は考えていた。 危機に直面したときは、犯人たちをよく観察して冷静に対処する。決して興奮しない、させない。落ち着いた声と態度で対応する。思想的な話にもよく耳を傾ける。武器を持っている場合、武器に反応して恐れの表情を見せてはならない。反抗はしない。相手の要求には真面目に応える。その上でスタジオ内のスタッフをできるだけ早く、外に出してもらう。※この画像はイメージです(GettyImages) 究極の危機対応としてこんなことを考えていたのは、大げさかもしれない。滑稽に思われるかもしれない。けれども、ニュース番組の担い手として、オンエア中に危機が生じたときには、毅然(きぜん)として筋の通った対処をするのは最低限の責任だ。そのことを、自分の中で確認して、私はスタジオ入りしていた。幸いにも16年間のキャリアの中でそのような経験はなかったが、危機はいつでもあり得ることを忘れていたり、考えなかったりするようでは失格だと、私は認識していた。 そこまで力を入れて臨んだのが『きょうの出来事』という報道番組だった。だからなおさら感じるのである。ワイドショーのニュース報道は本当に的外れで無責任で見ていられない、と。アナウンサーの報じるニュース番組はとても異質だ、と。

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    池上彰「芸能人キャスター不要論」私の真意を教えます

    池上彰(ジャーナリスト) 「芸能人がニュースを伝えることをどう思いますか?」 私が担当するネットの連載で、こういう質問を受け、「違和感を禁じ得ません」と答えたところ、その直後にニュース番組に出演している芸能人のスキャンダルが報じられたことで、思いがけず話題になってしまいました。 このとき私が伝えたかったのは、イギリスのBBCやアメリカのCNNでニュースを伝えるのは現場での取材を積み重ねてきたジャーナリストだということです。 これに対して日本のニュース番組では、過去にニュースの現場にいたこともなければ、それまでニュースに関心がなかったであろう芸能人が、ニュースについてコメントしたり解説したりすることがあります。当然のことながら、コメントが明後日の方角を向いていたり、誰に対して話しているのか不明だったりという内容のものが出てきてしまいます。これが違和感なのです。 とはいえ、これは、その芸能人の責任ではありません。その人を起用した番組の責任者の問題なのです。 かつてアメリカのABCテレビにピーター・ジェニングスというニュースキャスターがいました。彼はハンサム(古い表現ですね。いまならイケメンというべきでしょうか)だったことから、若くしてニュースキャスターに起用されたのですが、経験不足が出て降板させられます。このとき上司は彼に向かって「もっと顔に皺(しわ)を刻んで来い」と言ったといいます。つまり、もっと取材経験を積んで来い、という意味です。 そのアドバイスを受けて現場での取材経験を積み、「顔に皺を刻んだ」彼は再びキャスターに復帰。今度は名キャスターとして知られるようになり、肺がんで亡くなるまで第一線で活躍しました。 とりわけ2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの際、他局のニュースが極めて愛国主義的な報道色を強める中で、冷静な報道を貫きました。「愛国的でない」「反米的だ」などという批判にも動じることはなく、米国内で興奮が冷めた後、彼の報道姿勢は高く評価されました。 もし日本で同じようなことが起きた際、ニュースを伝えていたのが芸能人だったとしたら、どんな反応をすることになるのか、という一抹の不安があるからです。テレビ東京系「池上彰の現代史を歩く」の会見に出席したジャーナリストの池上彰氏(中央)ら=2018年4月 とはいえ、ニュース番組に登場するのが男女ともに「顔に皺を刻んだ」人たちばかりでは、見ている人が面白くないと思うかもしれません。視聴率で苦戦する可能性もあります。テレビ番組は視聴者に見てもらってナンボという世界ですから、視聴者に親しみやすい演出を考え、若い女性や人気タレントを出演させることになるのでしょう。 若い人たちに人気のあるタレントが出演しているニュース番組のディレクターが、私に「彼が出ていることで若い人たちにもニュースを見てもらえるようになるんです」と説明してくれたことがあります。なるほど、そういう効果もあるのかと納得したものです。ニュースステーションの功罪 ここで、「ニュース番組は視聴率を気にする必要があるのか」という、業界内では古くから論争になっている問題に行き当たります。 テレビのニュースは視聴率が取れないもの。たとえ視聴率が低くても、大事なニュースを伝えていればいい。かつては、これがテレビ業界での常識でした。ところが、1985年からテレビ朝日で始まった「ニュースステーション」が高い視聴率を取り、営業的に大成功を収めると、「視聴率の取れるニュース番組をつくれ」というプレッシャーが制作現場にかかるようになります。 その結果、中には露骨に視聴率狙いの番組も出て来るようになったのです。あるいは、視聴率が取れる話題を大々的に取り上げるようになりました。とりわけ夕方の各局のニュース番組を見ると、「行列ができるラーメン店」のような、「これがニュースだろうか」と目を疑うような内容が放送されています。 これではテレビニュースへの信用が低下しても仕方ありません。 日本のニュースでも、もっと報道のプロを大事にすべきだ。こう思うのです。例えばNHKの夜9時のニュースは、伝統的に経験豊富な記者がキャスターを務めるので、安心してみていられます。が、その一方、「ニュースステーション」は、報道のプロではない久米宏氏をキャスターに起用して成功しました。 久米氏はそれまでTBSのアナウンサーで、歌番組の司会をしていました。彼がニュース番組のキャスターになったときには、私も含め多くの人が驚いたものです。彼が評価された理由のひとつは、知ったかぶりをしないことでした。報道のプロの悪いところは、ニュースについて「知らない」とは言えないこと。プライドが許さないのですね。 ところが久米氏は報道のプロではありませんでしたから、常に視聴者の立場から、わからないことを「わからない」と言い続けました。その結果、模型を使うなど、次々と斬新な発想が生まれ、それが番組をわかりやすいものにしたのです。 このように考えてくると、おのずと目指すべきニュースのスタイルが見えてきます。ニュースをよく知らない芸能人と、知ったかぶりをする報道のプロの組み合わせが最悪であるということ。芸能人であろうとなかろうと、視聴者の立場に立って「わからない」と言える人と、「わかっていること」と「わからない」ことをきちんと仕分けして伝えることのできる報道のプロの取り合わせが理想的ではないか、ということです。テレビ朝日「ニュースステーション」左から高成田享、久米宏、小宮悦子=1996年3月  また、どこかのニュース番組が成功した演出をすぐに真似する手法はやめた方がいいですね。そうでないと、「どの番組見ても同じ」という印象を与えてしまうからです。これは、長い目で見て緩慢な自殺行為です。 さらに言えば、ニュースキャスターが意見を言うのも極めて日本的です。少なくともアメリカやイギリスさらには欧州各国でもニュースキャスターは自分の意見を言わないもの。判断は視聴者に任せるべきものだからです。 こう考えると、日本のニュース番組は、まだまだ発展途上なのかもしれません。

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    「キャスターの時代は終わった」木村太郎が読む米ニュース戦争

    木村太郎(フリージャーナリスト) 「トランプ大統領のいわゆるロシア疑惑については、これまで何の証拠も見つかっていません。証拠ゼロです。それなのに(疑惑を捜査している)モラー特別検察官の応援団の民主党関係者は、絶望的になって大統領を貶める材料を必死に探しています」(FOXニュース「ハニティー」ショーン・ハニティー氏)「私の番組がロシア疑惑ばかり取り上げていることに批判があるのは確かですが、昨年の大統領選で当選すべくもない候補者が当選し、その人物がロシアと特別な関係があることが判明した以上、我々はこの問題を集中的にお伝えしなければならないのです」(MSNBC「レイチェル・マドー・ショー」レイチェル・マドー氏) 今年第2四半期で、米国のケーブルテレビ・ニュース視聴者数が1位、2位だった番組(TVニューザー調べ)の司会者の発言である。 トランプ大統領に対する立場は正反対だが、2人の発言は「中立」さや「公平」さとはほど遠い主義主張をむき出しにしたものだ。3位以下の番組の司会者も同様に自分の考えを隠そうともせず押し出している。 肩書きを「司会者」としたが、彼ら彼女らはもはや日本でキャスターと言われる「アンカー」ではない。放送局も「ホスト」、「ホステス」と呼び、役割も全く変わっているからだ。 かつての「アンカー」は、記者やカメラマンが取材しディレクターが編集したニュースをリレーの最終走者アンカーのように視聴者に提供する役割とされ、自分の考えをひけらかすのはタブーだった。 代表的な存在がCBSニュースのウォルター・クロンカイト氏。ベトナム戦争の凄惨な映像にも眉ひとつ動かさず、ニュース番組の最後に「今日はこんなところでした」と締めくくるだけのスタイルが「アンカー」の手本のように言われた。CBSニュースのキャスター、故ウォルター・クロンカイト氏 「アンカー」によるニュースは今もCBS、NBC、ABCの三大ネットワークに引き継がれてはいるが、今やテレビニュースの主役はCNNやFOXニュース、MSNBCなどケーブルテレビの24時間ニュース専門局の番組に取って代わられた。ネットワークニュースの報道が政治を動かすようなインパクトはなくなり「アンカー」たちの存在感も薄れた。 そうなった背景にはいくつかの要素があるが、まず、24時間ニュース専門局の台頭だろう。ドラマは「オンデマンドで見る」ことが主流になったテレビ界では、同時性を生かしたスポーツとニュースが「売り物」になってきた。 特に、米同時多発テロ事件以降、続発するテロや、大統領選挙以来の政治的な混乱が続く中で、何かあれば24時間ニュースをつけっ放しにして情報を集めるのが米国人の生活習慣にもなっている。 ニュース専門局の収益は10年間で280%増加し、昨年は3社合わせて50億ドル(約5500億円)に上った(ピュー・リサーチセンター調べ)。ニュース専門局間の競争も激化していったが、その争いの火に油を注いだのが、米国政府が放送局に課していた「公平の原則」を撤廃したことだ。「悪貨が良貨を駆逐する」 「国民の財産の電波は有限だからその利用には公共性が求められる」というのがその根拠だったが、ケーブルテレビなどの普及で、電波は「有限」ではなくなったという理由で「公平原則」は1986年に撤廃された。 放送で偏った番組を放送しても「公共の活発な意見交換を助する」と許されることになり、ニュース専門局はCNN、MSNBCが民主党系、FOXニュースが共和党系と旗色を鮮明にして視聴者の獲得を競っている。 当然その主張は競争を反映して過激になっていくが、同じ民主党系のCNNとMSNBCの間でも、どちらがより民主党支持者を多く獲得できるかを競って番組の内容もエスカレートしていった。 その競争の主役が「司会者」で、彼ら彼女らの発言が視聴者数を左右し、ひいては放送局の経営をも影響することになるので、保守革新いずれにせよ、その考えを強く主張できる人材が重用されることになる。 冒頭で紹介した視聴者数ナンバーワン番組のハニティー氏も、超保守派の論客として知られ、歯に衣着せぬ発言で敵が多く、常にボディガードが氏の周辺を守っていると言われる。 だが、そのハニティー氏も真っ青になるほど過激な「ホスト」が現れた。その名も「インフォウォー」つまり「情報戦争」という名前のウェブサイトを運営しているアレックス・ジョーンズ氏で、同名のニュース番組をユーチューブで配信し、240万人のチャンネル登録者を抱えるまでになっていた。ユーチューブでニュース配信をしていたアレックス・ジョーンズ氏 「いた」と過去形で書いたのは、ジョーンズ氏の発言は余りにも一方的で「ほとんどの銃乱射事件は国際派への関心を集めようとする陰謀だ」などと信ぴょう性に乏しいので、ユーチューブが「フェイク(偽)ニュース」の発信源として「インフォウォー」を排除してしまったからだ。 しかし、インターネット上の動画配信が日常化していく時代には「悪貨が良貨を駆逐する」ように、新しいネット放送のホストたちがケーブルテレビの先人たちより、さらに過激な放送をするだろうことは容易に想像できる。 翻って日本のテレビニュースだが、今のところはキャスターという肩書きの人たちが「中立」「公平」「公正」さを建前にニュースを司会しているように見える。しかし、ニュースの後に蛇足のようにつけ加える「後説(あとせつ)」で自らの思いを吐露するのが、もはやアンカーに求められる規範を逸脱しているのではないか。 さらに、「政治的な公平性」などを求めた放送法4条の撤廃も論議され始めており、加えて放送法の規制を受けないネットテレビも当然増えることが予想されるので、米国のようにキャスターに代わって「司会者」が幅を利かせる時代が来ると考えた方がよいだろう。

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    トランプとメディアの対立に見るアメリカ民主政治の危機

    学法学部教授) 8月15日、全米で最古参の新聞であるボストン・グローブが社説で、全米の新聞が連帯してメディアの危機に対応しようと呼びかけた。ドナルド・トランプ大統領は「メディアはアメリカ国民の敵」であるとか、伝統的メディアはフェイク・ニュースばかりだという批判を繰り返し、既存メディアに圧力をかけている。 それに対し、メディアが団結してプレスの自由を守ろうというのがその趣旨であり、翌16日、全米で約350のニュース組織が呼びかけに応じた。ワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルはそのような趣旨の社説を掲載しなかったものの、関連する署名入りの記事は掲載している。アメリカの伝統的メディアは独立性を強調する傾向が強く、互いに協力することに対する拒否感が強いことを考えると、多くのメディアが呼びかけに応えたのは注目に値する。 民主政治を意味あるものとする上で、言論の自由やプレスの自由が重要であることは論を俟たない(プレスの自由という場合、単に報道の自由のみならず、出版・取材・編集の自由も含む)。民主政治は、単に国民が代表を選挙で選ぶというだけでは不十分で、政府に対して公的に異議申し立てを行う自由を持つことが必要である。そのためには、言論の自由とプレスの自由は不可欠である。 アメリカの建国者は、大統領がヨーロッパの君主のようにならないようにするために、様々な工夫をした。まず、大統領自身が圧政を布いてはならないという自覚を持つためにも、利己心ではなく公徳心を持って行動することが重要だということが強調された。だが、個人の倫理や規範に期待するだけでは十分でないとの認識に基づき、ジェイムズ・マディソンら建国者たちは、合衆国憲法で様々な制度的な工夫を行った。 そこで作り出された制度が権力分立と呼ばれるもので、そこでは2つの異なる形で大統領職に対する制度的制約が課された。一つはいわゆる三権分立で、大統領、連邦議会、裁判所という三つの機構を分立させて、行政権、立法権、司法権を分有させ、大統領の行動を抑制させた。もう一つが連邦制であり、州政府が連邦政府の行動を抑制できるようにした。 だが、それだけでは権力者の暴走を防ぐうえで不十分ではないかとの疑念が出され、そこで付け加えられたのが、しばしば権利章典とも呼ばれる、合衆国憲法の修正第1条から第10条だった。その第1条で定められているのが、言論とプレスの自由である。 メディアは、時に第4の権力と呼ばれるほどの影響力を持つ。メディアの報道が株価を変動させたり、社会の分断を招いたりすることもある。政治との関係でいえば、メディアによる報道には反政府的、とりわけ、反大統領的なバイアスがかかっていることが多い。メディアは公的機関ではなく営利団体であり、視聴率や購読者数を増大させるためには、耳目を集める必要がある。今日も政治家と役人が真面目に働きました、という記事は読者の関心を集めない。米オハイオ州コロンバスで演説するドナルド・トランプ米大統領=2018年8月 稀にしか起こらない悪いこと、突発的な事件の方が注目を集めるので、報道されやすくなる(犬が人を噛んでも記事にならないが、人が犬を噛むと記事になる)。また、全体で435人もいる連邦下院議員について報道するのは容易ではない。大統領のように目立つ人に注目が集まるのも当然だろう。 これらの結果、メディアによる報道は、人々の政治不信、とりわけ大統領に対する疑念を生む可能性を秘めている。報道されるのは稀にしか起こらない悪い出来事が中心だが、悪い事ばかりが報道される結果として、政治不信が醸成される可能性がある。大統領に注目が集まるということは、メディアに取り上げてもらいたいと考える人にとっては大統領に対して激しい批判をすることが有効な戦略になることを意味するので、大統領にとっては心外なことも多いだろう。報道により、人々の間での政治不信、エリート不信が生まれる可能性が高くなるのである(これは、国民の側にメディア・リテラシーが求められる所以でもある)。「政治化」するニュース番組と「選択的接触」 このように、メディアによる報道が短期的には政治の安定性を損なう可能性があり、その認識は政治エリートの間では一般的である。そのような問題があるとしても、政治エリートが抱える問題を明らかにし、説明責任を負わせ、政治の応答性を高めることが健全な民主政治を営むためには必要だという認識が存在するが故に、言論の自由と併せてプレスの自由を重視すべきとの規範が広く共有されてきたのである。そうであるからこそ、公職者はメディアによる批判を、時に不適切で腹立たしいとは思いつつも、民主政治を健全に運営するためのやむを得ないコストだと考えてきたのである。 ただし、以前と比べると、近年ではニュース番組に顕著な偏りがみられるようになっているのも事実である。アメリカのメディアでは、1949年に、フェアネス・ドクトリンと呼ばれる原則が受け入れられた。政治的立場の異なる見解が表明される場合には、それぞれの立場の人に同じ時間を割り当てねばならないという原則である。だが、ロナルド・レーガン政権期の1987年に、このフェアネス・ドクトリンは廃止された。 それに加えて、トークラジオやケーブルテレビの発達が、ニュース番組の「政治化」を促した。これはとりわけFOXニュースに代表される保守的メディアに顕著だった。伝統的な報道番組は、フェアネス・ドクトリンが廃止された後も客観報道の原則を掲げて中立的な番組作りを心掛けてきた。だが、そのような報道中心の番組は独自性を出しにくい。そこで、トークラジオやケーブルテレビは、「報道番組」ではなく「オピニオン番組」を中心に流すようになった。出演者の見解を示すのが番組の趣旨であるため、公正さや中立さは重視されなくなった。このような保守的メディアの戦略に対応し、リベラル派メディアも同様の番組作りをするようになった。 このような状況が起こる中、視聴者の中でも徐々に、自らの政治的選好に近い見解を示すメディアを好んで視聴するようになっていった。国民が一方の見解のみに触れて他の見解を受け入れなくなる状況が生まれ、それがアメリカ社会の分断につながっていった。 政治エリートがメディアに対する不信をより強く述べるようになった背景には、このような状況がある。とりわけ、視聴者が自らの立場に近いメディアのみに触れる、選択的接触と呼ばれる現象が一般化する中では、時に公正で中立的な報道ですら、バイアスがかかっているように思われるようになってしまうのだ。 今回、伝統的メディアがこのような声明を出した背景には、伝統的メディアの側の強い危機感がある。そして、その危機感を生み出す背景として、客観的で事実に基づく報道を行うのが困難になりつつある現状に対する焦りがあるのではないかと思われる。米FOXニュースのインタビューを受けるトランプ氏 第一に、SNSが発達する中で、新聞やテレビなどは速報性の点で劣るようになっている。プロのメディア関係者ではない一般の人がSNSを通して政治に関する情報を即座に流し、それが人々の注目を集める事態が発生する。他方、メディア関係者は事実関係の裏取りをする必要性もあり、噂レベルの事柄をSNSで流す人のようにはいかない。情報の速報性を求める人々が、伝統的メディアよりもSNSなどを通して情報をとるのが一般的になると、伝統的メディアの人々は自らの在り方を問わざるを得なくなる。 第二に、無料メディアが発達する中で、新聞などが購読料を獲得する必要があるのは、経営上の大問題となる。近年、ニュースについて語る人は増えているが、オリジナルの報道をすることができる人材を獲得するのは困難である。論評をすることはできても、その基礎となるべき事実を集める役割は、やはり新聞などの伝統的メディアに期待される。 正確な事実を集めるのには時間だけでなく費用が掛かり、その費用を維持するのに豊富な資金を持つ一部の人の善意に頼るのは無理があると共に、問題をはらむ(その人に対する忖度が発生する可能性がある)。安定的に購読者を集めるには報道機関に対する信頼を維持することが不可欠だが、トランプ大統領のように、客観的事実とは関係なく、自らにとって好ましくない内容を伝えるニュースをフェイク・ニュースと断じるような事態は、伝統的メディアに危機をもたらす。民主政治の根本について再考するきっかけに 第三に、近年のアメリカ政治では、事実そのものを軽視する傾向が顕著になっているように思われる。2016年大統領選挙に際し、フェイク・ニュースやオールタナティブ・ファクトというような表現が頻繁に用いられたのは、トランプだけに原因があるのではない。 2016年選挙ではFacebookの在り方が問題として論じられたが、近年ではSNSを通して情報を得る人が増えている。その中で、例えばロシアの介入についての疑念が呈されているように、外国勢力がSNSを通して情報を流すことが容易になっている。以前は外国勢力が国内政治に影響を及ぼす方法はエスニック・ロビイングが中心だったが、SNSを使えば容易に活動できるだけでなく、目立ちにくい。特定の意図に基づく情報を流すことが容易になっているのである。フェイスブックのロゴ また、国内の人物であれ外国の人物であれ、政治的意図がないにもかかわらず、政治に関する情報を流す人も増えている。SNSの中には多くのクリックを得ると報酬が得られるシステムがあるが、クリック課金を目的として、人々の耳目を集めるためだけに記事を作り出す人々が登場するようになっている。そのような場合には、情報の正確性はあまり重視されないのである。 このように、真実性に疑問がある情報が流布する中で、2016年大統領選挙時に民主党のヒラリー・クリントン陣営はファクト・チェックを行い、自らに対して行われている批判の多くは事実に反していると発表してきた。だが、そのような試みが政治的には必ずしも賢明でなかったのではないかという反省が、民主党内部からも発されるようになっている。 ファクト・チェックを行って発表したとしても、選択的接触が一般的になっている今日では、そのような情報を見てくれるのはそもそもクリントンに好意的な立場をとっている人だけという可能性がある。多くのコストをかけてファクト・チェックを行うより、Twitterなどを用いて、自分たちを支持してくれる、あるいは他の候補を批判する情報を大量に流す方が効果的ではないかという声が強まっている。 とりわけ、近年ではbotと呼ばれる、自動的に作業を行ってくれるコンピュータの機能を用いて、党派的なハッシュタグがついたTwitter(例えば、#MeTooがついていれば民主党に好意的である)を自動的にリツイートして拡散すれば、民主党に好意的な世論の波を作り出すことができる。 その方が選挙戦術上ははるかに効果的だと考えられるようになっているのである(なお、このような手法は選挙区が大きい大統領選挙では有効性が高いが、選挙区が狭いことの多い連邦下院議員選挙でどれほどの有効性があるかは不明である。アメリカの政党は日本でいうところの党議拘束が弱いことも、この手法の有効性を低くする可能性があるだろう)。 大統領のような権力者が伝統的なメディアに対して公然とフェイク・ニュースだと述べたり、そもそも事実が重視されなかったりというような事態は、言論とプレスの自由のみならず、アメリカの民主政治にとって大きな危機である。 民主政治で討論が重視されるのは、どのような人物であれ真実(truth)を独占することができない、そもそもそれを確定することが不可能(少なくとも困難)だという認識が根底にあるためである。そうであるが故にこそ、複数の見解を突き合わせ、互いに説得力を競い合うことが重要になる。そして、その際に重要なのは、そこで示される見解が、事実(fact)に即しているということである。 事実を確定したうえで、あるべき姿を論じ、その実現に向かって健全な討論や競争を行うことが必要であり、それを可能にする環境をいかに整えるかが民主政治にとっても重要な課題になる。今回の出来事は、このような民主政治の根本について再考するきっかけを与えてくれたといえるだろう。

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    『マスコミ偽善者列伝』著者が分析する宮根、テリー、一茂

     今日もテレビを点ければ、“視聴者の代表”たるコメンテーターたちが、政治から芸能ニュースまで訳知り顔で意見を述べている。 しかし、よくよく聞いてみると、誰でも言えるような耳触りの良いコメントばかり。自分のことは棚に上げて、他人のスキャンダルに正論を吐く者も絶えない。薄型テレビをますます薄っぺらくする「偽善コメンテーター」の問題は大きい。「私は暇な老人ですから、日がなテレビに向かってるわけ。ところが、コメンテーターがまぁ酷い。『許してはいけない犯罪です』とか『今後社会全体で考えていかなければならない』とか、毒にも薬にもならん優等生的な話ばかりしている。 一番許せんのは、“偽善”に満ちた言葉が多いこと。戦争は絶対にダメだ、格差社会是正、性差別反対と、正論を並べ立てるが、話している人間はその問題の当事者でもなく、傍観者にすぎず、真剣に向き合っていない。安物の正義感ほど迷惑な偽善はない。もうこれ以上は我慢できんと思って、こんな本を出したんです」 そう話すのは、大阪大学名誉教授・加地伸行氏。加地氏の近著『マスコミ偽善者列伝』(飛鳥新社刊)は発売早々3万部のベストセラーとなっている。 同書は東洋思想研究の第一人者で保守論壇の大御所でもある加地氏が、空虚な正義感と建前論しか話さないコメンテーターを批判するエッセイである。政治家や評論家を次々と槍玉に挙げ、「そのときだけの絶対反対論者」と手厳しく批判する。〈理想国家作りの夢破れた左筋(ひだりすじ)の連中は、目的、着地点がなくなり、今や、保守政権が繰り出す政策に対して、とにかくなんでもかんでも反対と言うしか生きる道がなくなってきている。(中略)こういうご都合主義を自覚せず、つまりは矛盾に気づかず、その場その場での正義の旗を掲げている。かつては元気だった左筋の成れの果である〉 加地氏が続ける。「安保法案も秘密保護法も、成立まではあれだけ猛反対していたのに、法案通過後は途端にトーンダウンする。反対デモの連中と同じです。一点突破で主張し続ける努力や覚悟もない、高みで見物している野次馬です。 左筋ジャーナリズムは絶滅寸前ですが、その特徴はテレビのキャスターやコメンテーターたちに受け継がれています。地元の大阪では『ミヤネ屋』の宮根誠司が大人気ですが、スタジオのいろんな人に話を振って、最後に愚にも付かないまとめ意見を言うだけ。なんの具体性も説得力もない。持論を語る覚悟がないんです。宮根誠司 テリー伊藤に関しては、人様のスキャンダルについて上段から正論を述べていますが、言いたくはないが自分も過去に不倫を報じられているではありませんか。なぜそれをまるでなかったことにして他人のことは批判できるのでしょうか。 長嶋一茂に至っては、なんの取り柄も知識もない単なる素人にしか見えません。説得力のない『うわべだけの正論』こそ偽善であり独善。テレビを薄っぺらくする原因となっている」 長嶋といえば、『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日系)に出演した際、日本ボクシング連盟の山根明前会長について、「正直言って、僕には悪人に見えないです。泣いたり、お茶目な部分も見え隠れしたりするし」と言いつつ、「役職に残るのは往生際が悪いと思いますよ。何かあったら腹を切ると言ってるんだから、一旦全部辞めないといけない」と責任も追及する。 何か意見を述べているようでいて、実際にはどの立場からもツッコミを受けないようにした「八方美人論評」に聞こえてしまう。関連記事■ 一進一退が続く長嶋茂雄氏 一茂は見舞いに行かずハワイへ■ 江角マキコ 落書き騒動で真っ先に謝った夫と「今も週4回」発言■ 大物二世の一茂と良純 「炎上しない安心感」で爆売れ中■ 高額納税者列伝 69.7億円の元レイク会長や36.9億会社員ら■ 加藤浩次と設楽統 “朝の顔”の適正を顔相専門家が分析する

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    フリーの有働由美子を待ち受ける大物女性キャスター3人

    長野智子キャスター(55才)だ。「長野さんは硬派な報道番組で経験を積んできた実績もあり、米オンラインメディアの『ハフポスト日本版』の編集主幹も務めています。『報道ステーション』などお堅い番組が多いテレ朝では“有働さんより調査報道をやってきた長野さんの方が実力は上”と評価が高いんです」(テレビ朝日関係者) TBSの報道局内では膳場貴子キャスター(43才)の存在感が大きい。「長年、看板番組『NEWS23』のキャスターを務めた膳場さんはNHK出身で有働さんの後輩にあたります。しかし、膳場さんは筑紫哲也さんが、がん治療の時にメインキャスター代理として番組を支え、その後も跡を継いだキャリアやプライドがある。なにより、オジサン視聴者やスポンサーからの支持は絶大です。 有働さんと膳場さんは、NHK時代に『おはよう日本』のキャスターを経験した先輩・後輩の関係です。それが民放の報道キャスターとしては、経験値が逆転しています。2人を社内で“同居”させることは気まずいとわかっているので、TBSは有働さん獲得に後れをとったようです」(TBS関係者) どちらにせよ、アナウンサーというより「ニュースキャスター」と呼んだ方がしっくりくる安藤、長野、膳場の3人の一角に、有働は名乗りをあげたことになる。櫻井翔との絡みも増えるか櫻井翔との絡みも増えるか「唯一、有働さんがやりやすかったのが日テレであり、『ZERO』だった。わざわざNHKを辞めて、大物女性キャスターたちがにらみをきかせる局に行って、ややこしい環境の中に身を置く必要はない。たしかに日テレにも水卜麻美アナ(31才)や『バンキシャ!』でキャスターをやっている夏目三久さん(33才)はいますが、年代やキャラクターが違うため、自分とはカブらないという考えもあったみたいです。 有働さんがNHK時代に“『ZERO』ならばやってもいい”と漏らしていたのも、ある種の計算があったからだと思いますよ。 ただし、この選択で女性キャスター陣から“目をつけられた”のは間違いありません。すでに“バラエティーの司会を選んだ方がよかったのでは”という声も上がっていますから勝負所でしょう」(前出・テレビ局関係者) とはいえ、有働アナのキャスター就任は大きな話題を呼び、視聴者からの期待が大きいのは間違いない。「有働体制になったら、カルチャーコーナーを取り入れるなど工夫を重ねてきた『ZERO』のポップな路線がさらに際立つでしょう。『ZERO』の顔でもある櫻井翔さん(36才)の出番を多くして、有働さんとの掛け合いを増やそうという話も浮上しているようですよ」(テレビ誌記者) 有働アナが目指すのはジャーナリストなのか、キャスターなのか、はたまた女優なのか──不穏な視線に負けず新境地で活躍してほしい。関連記事■ 有働由美子アナのZERO起用で官邸との関係はどうなるか■ NHK有働由美子アナがひた隠す年下実業家との「続行愛」■ 有働由美子アナ 所属事務所のギャラ取り分は破格■ 「女子アナも被害」証言 テレ朝の社内セクハラ問題■ テレビ朝日内部資料「女性社員の56%がセクハラ被害」の衝撃

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    NHKはチコちゃんに叱られよ

    「ボーっと生きてんじゃねえよ!」のツッコミで人気のNHK雑学バラエティー『チコちゃんに叱られる!』が、放送批評懇談会が選定する「ギャラクシー賞月間賞」を受賞した。NHKにとっては何とも喜ばしい話題かもしれないが、そもそもチコちゃんに叱られるべきは、NHK自身なんじゃないですか?

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    「NHKが映らないテレビ」でネット受信料の義務化は阻止できるか

     実際、放送用電波の周波数帯の利用権を競争入札にかける「電波オークション」導入など、メインストリームメディア(MSM、既存のテレビ局など)に不利となる放送法改正の議論は常につぶされてきた。これと同じ手法をインターネット受信料義務化実現のためにNHKが駆使する可能性は否定できない。 こうしたMSMの横暴を止められるかどうかは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が今後どのくらい政治的な力を持てるかにかかっている。MSMとSNSの戦いはすでに米国で盛り上がっている。 その一例だが、現在米国では、「RedPillBlack」や「#WalkAway」といったリベラル派がリベラルとの決別を主張する運動が広がっている。前者のリーダーは黒人女性のキャンディス・オーウェンズ、後者のリーダーはゲイ男性のブランドン・ストラカである。 黒人やゲイといったマイノリティは、これまでリベラルで民主党支持というのが常であったが、彼らが次々そこから離れていっているのである。彼らは、リベラルが実は自分たちの味方ではないことに気づいたと主張している。その見解を要約すると次のようになる。 オバマが黒人初の大統領になったことを喜んだが、彼は黒人のために何もしてくれなかった。黒人に職を与えず福祉依存症の状態をつくった。福祉を受ける条件として離婚を勧め、その結果、黒人の子供の75%の家庭に父親がいない。トランプが大統領になって黒人は職が得られるようになり黒人の失業率は過去最低になった。これは民主党にとって不都合である。黒人が福祉に依存しなくなり、自分たちに投票しなくなるからである。民主党は黒人を豊かにすることに税金を使わず、不法移民を増やすためにお金を使ってきた。なぜなら、福祉に依存する人が増えれば増えるほど自分たちに好都合だからだ。そもそもリベラルは多様性や寛容を掲げるが、自分たちと意見の違う人に対して敵意をむき出しにする。黒人やゲイが弱者として振る舞ううちは味方になるが、少しでも保守的な発言をすると激しい嫌がらせを始める。今のリベラルは言論の自由を認めない勢力だ。 ご存じの通り、米国のMSMはFOXなどごく一部を除いてリベラル左派である。一方、#WalkAway運動はSNSを中心に広がっており、多くの人が自分もリベラル左派と決別するとの主張を次々とユーチューブにアップしている。アンドリュー空軍基地に降り立ち、手を振るオバマ前大統領(左)とミシェル夫人=2017年1月、米メリーランド州 米国ではこうした運動が政治的に無視できない力を持ちつつある。その証拠に、これまで9割以上が民主党に投票すると言われてきた黒人層において、トランプ大統領の支持率が4割近くまで上昇しているのである。11月の中間選挙で共和党が大勝したならば、それは政治的影響力においてSNSがMSMを完全に逆転したことを意味する。 日本でもツイッターなどを中心にMSMへの不満は多く語られているが、米国と違って政治系ユーチューバーはまだまだ少ない。米国同様、SNSがMSMより政治的に大きな力を持つようになれば、NHKのネット受信料義務化の動きを阻止することも可能になるかもしれない。今後の米国および日本における政治系SNSの動きに要注目である。

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    「見たくない人は払わない」受信料義務化、NHKとかく戦えり

    原則に反しないのは、道路財源を一般化しても不公平が生じないのと同じである。 私は現在、大学教授の傍らメディア報道研究政策センターなる一般社団法人の理事長を務め、NHK受信料不払い運動の先頭に立っている。私自身の経験も含めて、1000余人の会員から寄せられるさまざまな情報によると、NHKの恫喝(どうかつ)・甘言・詐欺まがいの嘘、認知症の独居老人や老人ホームを狙い撃ちする契約詐欺など、受信料取り立てに係る彼らの執念には並々ならぬものがある。 まず彼らに放送法4条違反に関する弁明を求めること、先の最高裁判決の真実を告げること、そして何よりも組織的対応をもって法廷闘争を辞さない構えを具備すること、これがNHKに対抗する要点である。NHKの上田良一会長(左)に答申を手渡す受信料制度等検討委員会座長の安藤英義・専修大教授=2017年7月25日、東京都渋谷区(伴龍二撮影) さらに今日、近い将来インターネット配信にも受信料が課されると危惧されている。これに対しては、NHKが技術的にやればすぐにでもできるスクランブル放送を実施し、受信料不払い者には映らないサービスを提供するよう、要求を強めていく必要がある。 スマホなどからの強制徴収が実現すれば、天文学的な数字になるNHKの受信料収入。しかし私は、この桁外れな彼らの強欲こそ、「見たくない人は払わない、払わないから映らない」という、当たり前の市場原理と消費者主権を実現する、契機となるに違いないと考えている。 

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    芸能人キャスターのどや顔がムカつく

    テレビをつければ、どの局も代わり映えのない情報番組ばかりである。しかも、キャスターに起用されたアイドルや芸人らが、ニュースに関してどや顔でコメントする場面に出くわすこともある。そこに深みもなければ、説得力もない。ただの感想である。そもそもニュースを扱う情報番組に「芸能人キャスター」なんて要るのか。

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    「客観報道よりツッコミ」芸能人キャスターへの違和感はここにある

    飯田豊(立命館大学産業社会学部准教授) 今年4月、日本テレビ系の情報番組『ZIP!』でメーンパーソナリティーを務めていたTOKIOのメンバー、山口達也の不祥事が発覚し、出演を自粛したことは記憶に新しい。もっとも、その翌日以降も番組は何事もなかったかのように放送され、彼は復帰を果たすことなく静かに降板した。 メーンパーソナリティーとは、一体何だろうか。出演者の個性(=パーソナリティー)が番組のテイストに大きく投影されるラジオとは異なり、テレビの情報番組は、多数のスタッフによる複雑な分業と協働によって成り立っている。 この番組では、華のある芸能人がスタジオでいかに存在感を放っていても、あくまでチームの一員にすぎない。メーンパーソナリティー(=芸能人)とニュースキャスター(=アナウンサー)とは役割が区別されていて、制作者による綿密な采配のもと、軽妙なチームプレイによって番組が成り立っている。 そもそも「情報番組」とは、90年代までは「ワイドショー」と呼ばれていたジャンルで、報道に特化した「ニュース番組(報道番組)」とは明確に区別される。多くの情報番組は「報道フロアからの中継」という演出を用いて、報道局との境界を示している。近年は「情報バラエティー」や「情報エンターテインメント」を自称している番組も多い。 言うまでもなく、ワイドショーの司会に芸能人が起用されるのは、最近になって始まったことではない。良いか悪いかはともかく、日本のテレビ文化の伝統といえるだろう。 ところが、2000年代に入るとワイドショーのみならず、ニュース番組のキャスターに芸能人が起用される機会が格段に増え、視聴者から見ると、双方の境界が分かりにくくなっている。 かつては、経験を積んだジャーナリストやアナウンサーがニュース番組のキャスターとして個性を発揮し、芸能人が活躍するワイドショーとのすみ分けができていたが、今ではジャンルの区別がほとんどなくなってしまった。 このような近年のニュース番組において、取材内容を報道する役割を担い、制作者の意図や主張を伝達する責任を負っているのは、多くの場合、メーンキャスターではない。それはアシスタントのアナウンサー、あるいはスタジオに入れ代わり登場するリポーターなどの仕事である。会見で被害者に対して謝罪をするTOKIO・山口達也=2018年4月26日午後、東京都千代田区のホテルニューオータニ(撮影・大橋純人) それに対し、キャスターに課せられた仕事は、決して権威的に振る舞うことなく、スタジオで無難に話題を循環させることである。言い換えれば、コミュニケーションの「場」の機能を守ることに他ならない。そもそも、アメリカのニュース番組で定着している、熟練のジャーナリストなどが取材・編集・構成に大きく関与する「ニュースアンカー」とは、期待されている役割が全く異なっている。新しい「ニュース番組」の見方 「客観報道」という理念に支えられたジャーナリズムが健全に作動していた時代には、ニュースアンカーが日本でも広い支持を集めることができた。しかし、現在はテレビによって延命してきた日本人の「総中流意識」が完全に崩壊し、多様な情報環境のもとで言論が細分化している。これまでと同じ報道姿勢では、人々の政治意識や生活感覚の多様性に十分な目配りができなくなってしまった。 情報の内容を担うリポーターとは対照的に、番組の形式を維持するのがキャスターの役割であると考えれば、これに芸能人を起用するのは、安易だという批判は避けられないとしても、極めて合理的な選択といえる。 スタジオの「空気」を読み、あるべき話の流れを察する「コミュニケーション能力」、そして世の中にあふれかえる情報に対する「ツッコミ的視線」は、芸能人の中でも、とりわけお笑い芸人に要求される資質と相性が良い。 したがって、芸能人がキャスターを務めることの是非は、テレビジャーナリズムの危機的状況によって起きている「ニュース番組のフォーマット自体の変化」を批判的に捉えることと切り離して考えることはできない。このような趨勢(すうせい)を抜本的に見直し、古き良きニュースアンカーの復権を目指すことが理想的かもしれないが、既に述べた理由から、その道のりは困難を極めるだろう。 行き詰まってしまったが、消去法的な現状肯定で終わっては読後感が悪いだろうから、少し見方を変えてみよう。 冒頭で触れたように、テレビ制作の集団的性格を踏まえるならば、出演者個人の資質を問うだけでは、ニュース番組の良し悪しを評価することはできない。 思い返せば、NHKで1994年から16年間続いた『週刊こどもニュース』の進行役は、マスコットキャラクターだった。ブタの「スクープくん」、メガネザルの「ピントくん」が進行し、時に子供たちが取材に出向くこともあった。NHKの「週刊こどもニュース」でお父さん役を卒業した同局の鎌田靖解説委員(左端)と岩本裕解説委員(後列右)=2009年3月28日(篠田哉撮影) これが「ニュースごっこ」に甘んじることなく、大人も楽しめる良質なニュース番組たり得たのは、アンカーに相当する「お父さん」役の安定感は言うまでもないが、出演者と制作者のチームプレイによるところが大きかった。 例えばサッカー観戦において、各選手の技能や持ち味だけでなく、チームの戦略や戦術を読み解きながら楽しむように、ニュース番組を視聴する際、チームとしてのフォーメーション、そして制作者の采配にも厳しく目を向けてみてはどうだろう。 アナウンサーやリポーターが何を主張していて、キャスターやコメンテーターはそれをアシストできているだろうか。その一連のコミュニケーションの中には、テレビジャーナリズムの困難に向き合い、それを乗り越えようとする制作者の創意工夫がみられるだろうか。キャスターやコメンテーターが芸能人であることが、その一助になっているだろうか。 こうしてニュース番組のフォーマット自体を批評しあうことが、翻って、これからの時代に求められるキャスターのあり方を新たに見いだしていくことにもつながるかもしれない。参考文献・水島久光『「情報バラエティー」のダイクシスとアドレス 制作者と視聴者が交錯する言説場の検証』(石田英敬、小森陽一編『社会の言語態』東京大学出版会、2002年)・太田省一『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書、2016年)・池上彰『これが「週刊こどもニュース」だ』(集英社文庫、2000年)

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    「ニュースを伝える怖さ」に気づいた柴田理恵は立派だった

    を間違えると、番組自体が大変なことになってしまいます。さらに言えば番組自体と言うよりも、テレビというメディア自体が大変なことになると、私は思っています。 今年4月に明らかになったTOKIOの元メンバー、山口達也さんの強制わいせつ事件を受けて、『ビビット』(TBS系)でニュースキャスターを務める同メンバー、国分太一さんが番組冒頭で謝罪をする光景に、私は強い違和感を覚えました。『ビビット』を見たのは、その時が初めてでしたが、国分さんに対して「なんで君がニュースキャスターをやっているの?」という違和感でした。 国分さんとはお仕事をご一緒させてもらったこともあり、実に魅力的な好青年だと感じていましたが、そもそも報道番組でニュースを伝えるのは「ニュースの素人」にはできるわけがないと私は考えています。彼らは歌ったり踊ったり、人を楽しませることのプロであり、ニュースのプロではありません。ニュースのプロでなければ、ニュース解説の聞き手役になることはあっても、ニュースを伝える側には立つべきではないのです。 6月に同じジャニーズのアイドルグループ、NEWSの小山慶一郎さんと加藤シゲアキさんが、未成年の女性に酒の一気飲みを煽っていたという事実が週刊文春の報道で明らかになり、大きく騒がれました。このときにも小山さんが『news every.』(日テレ系)のメーンキャスターを務めていたこと、加藤さんが『ビビット』にコメンテーターとして出演していたということで、問題が大きくなりました。 私は『news every.』も『ビビット』もあまり見ていませんでしたが、これほどまでにニュースキャスターという仕事を、畑違いのアイドルやお笑いタレントに任せている、最近の民放各局のやり方に、危機感を募らせました。視聴率を稼ぎたいのは分かるけど、報道機関としてやっていいことと悪いことがあり、その一線を越えてしまったのが、素人にニュースを扱わせるという、昨今の民放の「ニュース情報バラエティー」の傾向だと思うのです。 別にどんな芸能人がどんな不祥事を起こそうと、私は個人的に何の興味も関心もありませんが、日本の報道番組がその作り方からしておかしな状況に陥っているのだとすると、テレビ屋の一人として黙っているわけにはいきません。元NHKキャスターの池上彰氏 最近の日本の報道番組は、記者が書いたニュース原稿をアナウンサーが読み上げるだけの「ストレートニュース」よりも、ニュースを伝えた上で、それをより分かりやすく解説し、興味深くなるようワイドショーに仕立てた「ニュース情報バラエティー」の方が増えています。それ自体は決して悪い傾向ではないと思います。芸能人やタレントが参加することにより、ニュースがより身近で親しみやすいものに感じられるからです。 私自身もかつてNHKでジャーナリストの池上彰さんと苦楽を共にして『週刊こどもニュース』という、ニュースと子供向けバラエティーを合体したような番組を開発し、8年間にわたって担当した経験があります。初代お母さん役を女優の柴田理恵さんにお願いし、お父さん役の池上彰さんが家族にニュースをかみ砕いて、興味深く解説するという、当時としては斬新なスタイルだったと思います。 ストレートニュースの部分は、豚のアニメキャラクターが伝える形でしたが、ナレーションはNHK報道局から正式に上がってきたニュース原稿を使いました。それをNHK報道局のベテラン記者がリライトした、オリジナルのニュース原稿に仕上げ、声優の龍田直樹さんが正確に読み上げる、という手法をとりました。柴田理恵さんも苦戦 NHK内部では、ニュースとは報道局の記者が書いた原稿をアナウンサーが読み上げる、または記者自身が読み上げるもの、という伝統がありましたから、アニメキャラクターがニュースを伝えるなどもってのほか、と上層部からの猛反対に遭ったこともあります。しかし、ベテラン記者が書いた原稿を一字一句違わず読み上げる、ということでニュースとしての正確性を担保し、番組名には「ニュース」の4文字を入れることが何とか許されました。 また、番組にはニュースを受けて、その解説や家族同士の会話をするコーナーがあり、ここで交わされる芸能人のフリートークをどう扱うかも問題になりました。私たちの場合は、お父さん役の池上彰さんが現役記者であったため、お母さん役が女優でも、子役が勝手にしゃべろうとも、そのコーナーはあくまでも池上彰さんによる記者解説の変形であるということで、NHK上層部を説得しました。 今では多く見られる「ニュース情報バラエティー」の走りのような番組でしたが、あくまでもニュースを伝えるのは、ニュースのプロである記者、そして芸能人たちはニュースの受け手の役割、と明確に立場が決められており、その関係性の中で成り立っていたという点で、最近多く見られる芸能人がニュースを伝える番組とは異なります。 ちなみに、池上彰さんと試みた『週刊こどもニュース』も、家族の会話という演出を長く続けるうちに、「ジェンダーイクオリティ」の問題に気がつきました。いつも物知りなのは男性である父親で、女性である母親は教えてもらう立場、という演出はジェンダーの観点からしていかがなものか、という問題です。 池上さんの提案で「たまには母親がニュースを解説する側になる日もあって良いのではないか」という話になり、さっそくそのような演出を試みました。お母さん役の柴田理恵さんを解説役とし、生放送の進行表は私が書きました。柴田さんは、一週間かけてみっちりとその週のニュースについて勉強し、池上さんからニュースの背景や問題点についてレクチャーを受け、万全の体制で生放送に備えたのです。 ディレクターの私から見ていても、気の毒になるくらい熱心に、柴田さんは勉強していましたが、いざ生放送の本番を迎えると、結果はボロボロでした。実を言うと、この試みは一回限りでおしまい。柴田さんからは「二度とニュースを伝える役などやらせないで欲しい」と哀願されました。それほどまでに、テレビでニュースの生放送を伝えるという仕事のプレッシャーは大きく、インテリ女優でも押しつぶされるほど重い責任があったのです。女優でタレントの柴田理恵さん 今のアイドルやお笑いタレントで、平然とニュースキャスターを引き受ける人たちは、この重責を感じていないのだろうかと、私から見ると逆に不思議に思います。画面に映らないところで出されるカンペ(カンニングペーパー)を「ただ読み上げていれば良い」と言われているのでしょうか。自分の言葉で解説したり、感想をコメントしたりするときに、十分なニュースの知識を持って語れているのでしょうか。 「ニュース情報バラエティー」という番組のジャンルは、『週刊こどもニュース』のような番組を、どう分類したら良いのだろう、と後になって私が考え、定義したジャンルに過ぎません。しかし、このような報道番組からワイドショーまで含めた、ニュースに関する番組を作る上で、メーンキャスターはカンペを読むのではなく、自分の頭で考えた、自分の言葉でニュースを語らなければ、番組として成立しないと思います。 『週刊こどもニュース』以前にもニュースキャスターが、分かりやすくニュースを解説する番組はありました。『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の久米宏さん。『NEWS23』(TBS系)の筑紫哲也さん。それぞれアナウンサー出身、新聞記者出身と経歴は異なりますが、どちらも報道機関で揉まれてきた、たたき上げのジャーナリストであり、ニュースのプロでした。古舘伊知郎さんも、ご本人はニュースのプロではないと謙遜されているようですが、ニュースについて極めて深く突っ込んだ取材をされた上で、自分の言葉で伝えていました。信頼感が抜群の池上彰 こういった人たちから伝えられるニュースは、ずっしりと重みがあり、信頼感があり、また視聴者が考えさせられる深みを持っていました。私たちが優れた「ニュース情報バラエティー」をテレビで見て楽しむとき、そのニュースの背景について考え、そのニュースの真相について自分なりに考える、というように知的好奇心をフル回転することによって、世の中の出来事をより深く知る喜びを味わっているのです。 視聴者の知的好奇心がいかに満たされるのか、そのレベルはニュースを伝えるメーンキャスターが、そのニュースについていかに深く知識を持っているのか、によって自ずと決まってきます。メーンキャスターの知識が軽く薄っぺらなものであれば、視聴者の論考も軽く薄っぺらなものにしかなりません。跳んだりはねたり、踊ったり歌ったりする訓練しか受けていないアイドルや、人を笑わせることが本業のタレントが、カンペを読んで伝えるニュースには、厚みも信頼感もなく、視聴者に論考を促すレベルには至りません。 いまだに池上彰さんの解説する「ニュース情報バラエティー」が、飛び抜けて大きな信頼度と、高い視聴率を保っている理由は、彼自身の中に蓄積されたニュースに関する膨大な知識と、それを裏打ちする長年の取材経験があるからです。 誰もが池上さんのレベルにならなければニュースキャスターを務められない、という訳ではありませんが、十分な取材経験と知識を持ったニュースのプロが他にもいるはずです。そういった人がメーンキャスターを務める、大人の「ニュース情報バラエティー」をもっと見てみたいと、私は常々思っています。アイドルや芸能人は聞き手であったり、質問者であったり、といったニュースの素人の代表として出演してくれればいいのです。 大好きなアイドルがメーンキャスターを務めているから、という単純な理由だけでニュース番組を見ていると、日本人はどんどん思考力を失っていくことでしょう。そうして世の中の真相を深く知ることもせず、様々な事象について表面的で浅薄な知識しか持たず、自分自身の頭を使って自分の意見を語ることもできない愚衆が増えることになり、為政者にとっては御しやすい国になるかもしれません。「ここがポイント‼池上彰解説塾」(テレビ朝日系)の収録後会見した池上彰氏=2014年4月 しかし、国民がニュースを見て自分なりに論考を深め、自分なりの意見を持つ訓練を普段からしておかなければ、真の民主主義を実現することはできません。テレビというメディアが何のためにあるのか、エンターテイメント以外の重要な使命とは何なのか。それは報道機関として、世の中で起きている事実を的確に伝え、批判すべき所は批判できるように、主権者たる国民に深い論考を促し、鋭い判断の材料を届けることです。 アメリカではCBS、NBC、ABCの三大ネットワークで、夕方に放送する全国ニュースに限っては、アンカー(ニュースキャスター)1人で進行します。彼らは国民から高い信頼を寄せられており、「大統領が勝手なことを言えない者がこの国に3人だけいる。三大ネットのアンカーだ」という格言まであります。 日本でもそれくらい信頼感のある、骨太な本物のジャーナリストに活躍してもらいたいものです。少なくとも、踊ったり歌ったりするアイドルではなく、本職としてニュースの経験を積んできたニュースのプロが、ニュースキャスターの役割を務める、まっとうな報道番組のあり方を、今こそ取り戻すべき時ではないでしょうか。

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    ニュースは「職人の世界」覚悟があるなら櫻井翔でも構わない

    小俣一平(武蔵野大学客員教授) こんなことを書くと笑われるか呆れられてしまいそうだが、世の65歳以上の老人で、元TOKIOメンバーの山口達也さんはともかく、同じジャニーズ事務所のアイドルグループ、NEWSのメンバー、小山慶一郎さんが何者なのかスラスラ出てくる人は、相当な芸能通ではなかろうか。 山口さんは、バラエティー番組『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)の人気コーナー「DASH島」での無人島開拓で何度か見たことがある。芸能人とは思えないほど、腰の軽い、気さくな性格が番組の随所に見られて、好印象を持っていたから、女子高生への強制わいせつ事件を聞いて、いささか驚いた。 ただ、山口さんが日テレ朝の情報番組『ZIP!』でメーンパーソナリティーをしていたことは、チャンネルを動かしていて、スーツにネクタイという意外な姿だったことから記憶にはある。だからと言って、別に彼の「ニュース情報番組」を見たいと思ったことはない。 ましてや、後者のアイドルは顔も名前も全く知らなかった。つまり、私にとっては、どの人が芸能人ニュースキャスターなのかを識別する術はほとんどない。プロであろうが芸能人であろうが、ニュースの伝え方、捌(さば)き方、コメント力で判断するしかないのである。 だから、「芸能人がキャスターをやることについて」というテーマ自体にも、私は違和感を覚える。つまり、「芸能人」というくくりに、発言者や識者の意識の中に「芸能人ごときが」という見下した臭いを嗅ぎ取ってしまうからである。 それは、私自身が差別や排除に過敏なのかもしれない。世に言う立派なジャーナリストから見たら、「シロウトが芸能のノリでやって欲しくない」という思いがあるのだろう。 今回のことに限らず、討論番組や情報番組で芸能人による政治や社会の問題についての発言に関して、よく思い出したのは、学生時代に読んだ吉本隆明さんの『情況』(河出書房)の「芸能の論理」だった。私の記憶に鮮明に残っているくだりは次の箇所だ。 ふだん政治的冗談や芸人的冗談を売りものにしているような男が、『まじめ』くさった顔をしてなんかいうときは、嘘をついているにきまっているのだ。文芸評論家の吉本隆明さん=1999年6月撮影 私には、この呪縛があるためか、長きにわたって芸能人を売り物にしたニュースや情報番組は、意識することなくスルーしてきたのかもしれない。しかし、<嘘をついているにきまっている>という指摘には、違和感があった。もちろん、吉本さん流の辛辣な表現で、「プロの世界は生齧りのヤツで無く、その道のプロに任せろ」という思いがあったからだとも推察できる。 確かに、現役の新聞記者や放送記者、そのOBの中にも、「芸能人がニュースキャスターやコメンテーターをやるなんて…」と眉をひそめる向きも少なくない。2002、3年のころだったか、作家の本田靖春さんと千葉県流山市内の病院横の川沿いで、2人してたばこをくゆらせながら、四方山(よもやま)話をしたことがあった。かくいう本田さんも、芸能人やタレントが「コメンテーターもどき」をすることに対して、かなり厳しく批判していた。「芸能人だから」起こしたのか 主旨としては、一見チャラチャラした芸人が、専門外の安全保障や外交、環境問題などを「芸能のノリで語るな」というようなものだった。それは普段の本田さんにしては、珍しく語気が強かったのでよく覚えている。吉本さんと本田さんの共通点は、当時のニュースキャスターやコメンテーターが「ニュースの職人」としての力量も技量も矜持も持っていた時代のことだと思う。 先般の山口さんの事件をきっかけに「芸能人キャスター」の是非を問うのなら、私は諸手を挙げて賛成はしないけれど、あっても構わないと考えている。それには理由が二つある。 一つは、破廉恥事件を起こしてしまったのは「芸能人だから」なのか、を考慮する必要があるからだ。これまでだって、放送局のアナウンサーであろうが、新聞社から出向してきた記者のコメンテーターだろうが、似たような事件で画面から消えた例は少なくない。 第一、つい先ごろも民放の元ワシントン支局長が、現役記者時代に若いマスコミ志望の女性に酒を飲ませて、ホテルに連れ込みレイプして、準強姦容疑で逮捕状まで準備されながら、それをもみ消したとの報道もあったではないか。 彼はフリーになるや、民放各局に出ずっぱりで、「政権の番犬」よろしく「ヨイショ」コメントを繰り返したり、ヨイショ本を出したりしていた。つまり「芸能人」はダメで、経験豊富な「ジャーナリスト」だったら安心だという設定は、既に崩壊しているに等しい。 もう一つは、伝え方や捌き方、コメントに難がある「芸能人」は自然淘汰されていくはずだからである。わが家は、家人と高校3年生の娘の3人だが、3人ともドラマ『喰いタン』や『必殺仕事人』のファンだったから、役者として立派な東山紀之さんが、キャスターを務める朝の情報番組を実は2回見たことがある。 私は「仕事人」の東山さんが、世の悪とどう斬り結ぶかに少し興味を持っていた。こう見えて私も実はミーハーなのである。だが、「名探偵」も「仕事人」も、ことニュース情報番組となるとどう捌いて、どう仕掛ければいいのか、馴染めなさそうな、場違いな雰囲気を画面から感じた。 それは、むしろ気の毒に思えたほどであり、その後見る機会はなくなった。そこには、東山さんにはドラマで活躍してもらえば良いという気持ちがあるからに違いない。東山さんの起用も山口さんも、芸能事務所とテレビ局のレベルの低い、質の悪い幹部の安易な視聴率稼ぎの被害者のようにも映った。テレビ朝日『ニュースステーション』のキャスターを務めた久米宏(左)と小宮悦子=1996年3月撮影 事ほど左様に、「悪貨は良貨を駆逐する」前に「金メッキは所詮メッキ、いずれ剥げる」と思えば、その道の職人でない人がニュースを伝えようが、先は見えている。それは芸能人に限らず、プロを自認するキャスターや記者にしても、日々研鑽しなければ同様であろう。  そもそも、ニュース番組に民放が力を入れるようになったのはいつのころからだろうか。黒柳徹子さんとのコンビで大人気だったTBSの伝説的歌番組『ザ・ベストテン』の司会者だった久米宏さんが、テレビ朝日の『ニュースステーション』を始めた1985年ごろからではなかったか。ニュースは職人の世界 その前に御巣鷹山の日航機墜落事故があり、生存者がいたという奇跡の報道をフジテレビが独占生中継した。生き残った少女をヘリコプターにつり上げる場面を大々的に放送し、「民放やるじゃん!」と社会的評価は一気に高まった。これまでNHKの独壇場、金城湯池と思われてきたニュースの世界に民放も参戦してきたように、同じ時代を筆者も放送記者として過ごしただけによく分かる。 当時の民放は、ニュース捌きの良いアナウンサーやキャスターに力を入れていた。テレビ朝日の久米さんに対抗して、TBSは筑紫哲也さん、フジテレビは露木茂さんや安藤優子さん、日本テレビは徳光和夫さんだっただろうか。 その影響は記者たちにも見られるようになった。「見られるニュース」に触発されてか、日が落ちるとネオン街に消えていった民放記者たちが、本気で夜討ち朝駆け取材するようになったのもこのころからではなかったか。日テレやテレビ東京の女性記者たちも、検察官舎やガサ入れ先に張り込んでいる姿を目の当たりにして、「ニュース戦争勃発」を肌で感じた。 しかし、90年代に入ってからか、恐らくフジテレビが先鞭をつけたという印象が強いのだが、タレントや芸能人とあまり変わらない大学ミスコンテスト入賞の美人アナウンサーをドンドン投入し始めて、ニュースショーなのか美人コンテストなのか区別が付きにくくなった。 とにかく、内容よりも外見で視聴率を稼ごうというテレビ局の魂胆が見え見えだった。美人でかわいいアナウンサーを見るのは嫌いではないし、否定するつもりはないが「学芸会の延長」のような異様な感じであることに変わりはない。その流れが今日のタレント起用に繋がっているのだと思う。 考え方はさまざまで、嵐の櫻井翔さんのファンが、彼がニュース番組をやることで、これまで興味のなかった報道に関心を持つようになると善意に解釈することもできる。私だって、もし韓国のアイドルグループ「少女時代」のユナちゃんが出演する番組があったら、ニュースであろうが何であろうが、きっと何度もうなずきながらで見ているだろう(すみませんミーハーで)。 その一方で、従来通りのニュースを見たい層は、NHKの桜井洋子さんや森田美由紀さん、民放では小宮悦子さん、安藤優子さんが出る「正当派のニュース」に、自然とチャンネルを合わせるに違いない。TBS系 『筑紫哲也 NEWS23』でキャスターを務めた筑紫哲也さん=1993年7月撮影 今、わが家ではテレビ朝日『グッド!モーニング』を、朝5時半からつけっぱなしにしている。メーンの坪井直樹アナウンサーを取り巻く松尾由美子アナウンサーら「4人娘」がそつなく自然と視聴者に溶け込んでいて、実に巧みだと思う。女子大生の福田成美さんも最初は素人むき出しでハラハラさせるところがあったが、今ではしっかりしてきた。 つまり、ニュースとは「職人の世界」なのである。職人は作った(出した)物で勝負する。記者は埋もれたネタを掘り起こし、ディレクターは分かりやすく視聴者に届ける工夫をし、アンカーはそれを自信を持って視聴者に伝える。 報道の世界に入って通用する、勝負ができるのなら、芸能人でもスポーツ選手でも女子大生でも、「この道50年」というような伝統工芸の職人さんや看護婦さんというのもよいではないか。後輩記者たちに言い続けてきた「目線は低く、志は高く」。これが私の40年来の持論である。

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    「アイドルがニュースを伝える」日本の特殊事情はこうして始まった

    西条昇(アイドル・お笑い評論家、江戸川大教授) 今年4月、当時TOKIOのメンバーだった山口達也が、女子高生への強制わいせつ容疑で書類送検された件で、メンバーの国分太一が司会を務める『ビビット』(TBS系)で山口に成り代わって謝罪し、世間の注目を集めた。 また、ジャニーズ事務所に所属するタレントたちもそれぞれキャスターや司会を務める番組で次々に厳しいコメントを口にした。 『サンデーLIVE!!』(テレビ朝日系)の東山紀之(少年隊)、『NEWS ZERO』(日テレ系)の櫻井翔(嵐)、『news every.』(日テレ系)の小山慶一郎(NEWS)らに加え、山口自身も直前まで『ZIP!』(日テレ系)の司会をしていたこともあって、ジャニーズアイドルの「キャスター路線」の進行度合いを多くの人が再認識する結果となった。 続いて、6月に小山が未成年女性との飲酒により『news every.』への出演を自粛すると、一部で批判的な声が強まった。NHKの元キャスター、池上彰氏は文春オンラインの記事(6月6日)で「芸能人がニュースを伝えるのは国際的に見て日本ならではの奇観です」と語っている。 確かに、ポップミュージシャンのジャスティン・ビーバーがニュース番組のキャスターを務める姿は想像もできない。日本でも70~80年代まで、フォーリーブスや光GENJIのメンバーのキャスター進出などは考えられないことだった。 では、どうして現在のような状況に至ったのか。まず、80年代に起こった「MANZAIブーム」でお笑い芸人の活躍の場が広がったことが要因の一つだろう。89年に島田紳助の総合司会による報道・政治討論番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)がスタートし、『ビートたけしのTVタックル』(同)が始まったのも同年のことだ。 一方で、88年にフジテレビにアナウンサーとして入社した有賀さつき、河野景子、八木亜希子の活躍で「女子アナ」という言葉が定着して以降、ルックス重視の傾向が強まったことで女子アナのタレント化とアイドル化が進んでいる。フジテレビの新人女子アナ3人組(当時)。左から河野景子さん、八木亜希子さん、有賀さつきさん ジャニーズアイドルの在り方も、90年代に入って大きく変わり始めた。SMAPが91年にCDデビューを果たすもののヒットに結びつかず、バラエティー番組とドラマに本格的に挑戦するようになった。 このため、それまでの10代の女性ファンを対象とした存在から、老若男女に親しまれる国民的アイドルへと成長を遂げたのだ。彼らの後に多くの後輩グループが続き、30代、40代になってもアイドルで居続けられる状況ができあがっていった。 バラエティーの司会ができる所属タレントが増えた次の段階として、事務所がニュース番組への進出を考えるのも当然の流れと言えた。キャスター路線の口火を切ったのは、2006年から『NEWS ZERO』の月曜日のキャスターを務める嵐の櫻井である。高学歴化するアイドル その翌年に、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏は、NEWSの小山に「YOUはアナウンサーに向いてるよ」と言ったと伝えられている。これらの背景には、慶応大卒の櫻井や明治大卒の小山の他、『ビビット』レギュラーで青山学院大卒の加藤シゲアキ(NEWS)、『めざましテレビ』レギュラーで明大卒の伊野尾慧(Hey!Say!JUMP)など、ジャニーズアイドルの高学歴化の影響もあったと思われる。 高学歴化の傾向は女性アイドルの場合も同様で、元おはガールで慶応大卒の平井理央と元モーニング娘。で同じく慶応大卒の紺野あさ美はテレビ東京、元乃木坂46の市來玲奈は日本テレビにアナウンサーとして入社した。 他にも、元AKB48の小林茉里奈は福岡放送のアナウンサーに、元NMB48の村上文香はNHK大津放送局の契約キャスターに、元SKE48の柴田阿弥はセント・フォース所属のフリーアナとなるなど、アイドルから女子アナへの転身が後を絶たない状況である。 そもそも、女子アナという存在が日本独自のものである上に、ニュース番組に芸能人キャスターが増えている状況は、池上氏の言うように世界的な「奇観」であるのは間違いない。  しかし、それを言うなら、ニュース番組だけに限らず、朝から晩まで一日中これだけ多くのアイドルやお笑い芸人がテレビに出ている国は世界で日本だけではないか。つまり、それだけ、日本のテレビの視聴者は「容姿端麗で華のある人」や「瞬時に面白いことの言える人」が大好きなのだ。 70年代のテレビから歌の上手さを上回る魅力的なルックスと個性を持ったアイドル歌手が次々に生まれた。現代につながる日本独自のアイドル文化が花開いたのも、寄席での名人に比べて上手さや芸を感じさせないが、テレビで笑わせることのできる若手お笑い芸人のブームが起きたのも、そうした視聴者の好みが根底にあったからだろう。TOKIOの山口達也メンバーが強制わいせつ容疑との一報を受け、警備員が配置されたジャニーズ事務所=2018年4月、東京都港区(桐山弘太撮影) 実力より魅力が評価されがちな日本のテレビ界を批判するのは簡単だが、そこから独自の新しい面白さが生まれるケースがあることも確かであり、筆者は芸能人キャスターの増加が悪いことだとは思っていない。 フジテレビでは新しいニュース番組のキャスターとして出演予定だった人の週刊誌報道などが原因でのスタート寸前の降板が続いたが、今までに増して慎重なキャスターの選定と出演者の自覚を持った行動が求められていくのは言うまでもないことだ。

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    大物二世の一茂と良純 「炎上しない安心感」で爆売れ中

    だが、どこかにくめないところがあって、視聴者からの支持を広く集めている。上智大学教授の碓井広義さん(メディア文化論)の分析。「一茂さんと良純さんのファンは、比較的年齢層が高い印象です。それこそ、ミスターや慎太郎さん、叔父の石原裕次郎さん(享年52)の活躍を知っている世代が、“やんちゃ坊主”を見るような気持ちで応援しています。怖いものなしで好き勝手に物申す姿が、むしろかわいらしく映ってウケているんでしょう」 突拍子のない発言が多い“天然系”の2人だが、テレビスタッフたちは困らないのだろうか。「“育ちがいい”というか、“金持ちけんかせず”というか、他人を悪くこき下ろすような発言はしないという安心感があります。毒舌がウケる人は、たまにアクセルを踏みすぎてしまうことがあってハラハラしますが、この2人の場合には、ちょっと天然も入っているから、“炎上”には繋がらないだろうと、安心して起用できるんです」(テレビ局関係者)「大物二世」のタレント、長嶋一茂(左)と石原良純がテレビで引っ張りだこだという その証拠が、冒頭のテレビ出演回数なのだろう。最近では、キャラがカブる2人の“セット売り”も多く、今年2月に『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に並んでゲスト出演。5月の『今夜くらべてみました』(日本テレビ系)では神奈川・湘南に男2人旅に赴き、6月15日の『ぴったんこカン・カン』(TBS系)では、一茂の個人事務所が入るビルの屋上でバーベキューパーティーを開いた。関連記事■ 江角マキコ 長嶋一茂宅落書き騒動でCM打ち切りの可能性検討■ 江角マキコ 落書き騒動で真っ先に謝った夫と「今も週4回」発言■ 木村拓哉長女と次女Koki、ハワイ旅行での「美人姉妹」写真■ 木村拓哉次女Koki 超スレンダーな母娘2ショット写真■ 小栗旬、娘とデレデレ手つなぎ幼稚園お迎えショット

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    米朝首脳会談報道に見る各局キャスターの悲喜こもごも

     放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、米朝首脳会談当日の各局の報道体制に注目。* * * 史上初となる米朝首脳会談がシンガポール南部のセントーサ島にて行われた12日午前。 現地に取材記者を送り込み、LIVE映像と共に中継したり、東京のスタジオに専門家を招いたりと、在京テレビ各局は対応に追われた。「歴史的な一日」を「現地でリポート」というのは、報道に携わる者なら当たり前の願望だと思うが、朝8時台の帯番組でメインキャスターが現地に行っていたところは私が見た限りゼロだった。 日本テレビの『スッキリ』は、「加藤さん!事件です」でおなじみの阿部祐二リポーターが担当。阿部氏は語学が堪能で海外の現場でも物怖じしないという特徴はある。が、前のめりな取材姿勢と大げさな伝え方が良くも悪くもワイドショー的なので、今回ばかりは、やや浮いていたように感じた。 TBSは、『ビビット』と夕方の『Nスタ』を合体させたイレギュラー体制。LIVE映像の向かって左側のワイプには『Nスタ』の井上貴博アナとホラン千秋が、右側のワイプには『ビビット』の国分太一や真矢ミキが映るという、TBSが『ビビット』に忖度したような画面となった。思い切って報道特番にしてしまっても、視聴者の多くは納得したのではないか。 そんななか、昨春に『Nスタ』から『ビビット』に異動した堀尾正明キャスターが口を真一文字に結んでいたのが印象的だった。井上アナよりずっと先輩で、NHK時代は『ニュース10』のメインキャスターを務めていた堀尾氏。シンガポールに行きたくてウズウズしていたとしても不思議はないし、『ビビット』のスタジオを仕切りたかったのではないか。 そしてフジテレビの『とくダネ!』は、今春、夕方の『みんなのニュース』から異動してきた伊藤利尋アナが、ここぞとばかりにスタジオを仕切っていた。 伊藤アナは、どちらかといったら報道よりは情報の人であり、完璧な進行と、わかりやすい解説で視聴者ウケがひじょうにいい、フジテレビの男子アナの中では、トップと言ってもいいMC力の持ち主だ。『ノンストップ!』には荷が重い『みんなのニュース』時代も、伊藤アナの明るさで現場もスタッフももっていたように見えていたし、「報道の伊藤アナ」の評価はなぜか自局より他局で高かったものである。本人もやっと報道に慣れてきて、番組としてもいい具合に進化しつつあったところで『プライムニュース イブニング』に変わったことに落胆していた人は多いものだ。 が、とにかく同局のトップは『プライムニュース』に思い入れがあることは、これまでにもさまざま伝えられてきた。それは、12日の『とくダネ!』終了後、『プライムニュース イブニング』の反町理キャスターと島田彩夏アナ、そして、長年、北朝鮮取材をしてきた同局の女性記者をメインに特別番組を編成してきたことでもわかろう。 そのため休止になったのは『ノンストップ!』。確かに、生活情報番組であり、バナナマンの設楽統が仕切るなか、芸人のゲストが目立つ同番組で米朝首脳会談というのは荷が重い。 テレビ朝日は『羽鳥慎一モーニングショー』で通常通り。日頃から北朝鮮問題を長尺で扱っているだけに、手慣れたものだった。そしてテレビ東京はもちろん、生活情報番組『なないろ日和』をいつも通りのタイムスケジュールでオンエアしていた。 ──と、メインキャスターが現地・シンガポールには行っていなかった朝帯の番組である。 かといって、かの池上彰氏が指摘するように、現在、午前中の生番組の大半はタレントがMCをしているため、今回のように歴史的会談が行われたりすると、それぞれ、そこかしこに弱さが露呈してしまうのは事実だ。フジテレビ『プライムニュース イブニング』キャスターの反町理・フジテレビ報道局解説委員長(佐藤徳昭撮影) 少々驚いたのは、『スッキリ』を通常通り10時25分までオンエアし、米朝首脳会談をメインで扱うも、その後の『PON!』や『ヒルナンデス!』がほぼ通常通りだった日本テレビだ。 日本テレビの平日は『ヒルナンデス!』後も、読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』だし、女性の報道記者が読んでいた「東京からのニュース」は、先週から日本テレビの女子アナに代わったばかり。午前中から午後にかけては、日本テレビの報道記者の出番がほとんどなかったということになる。 ちなみに、『ミヤネ屋』がシンガポールに送り出していたのは同局の報道局解説委員長、春川正明氏。これは、視聴者も納得の人選だろう。『スーパーニュース』の安藤優子再び 昼間は、TBSが『ひるおび』、テレビ朝日が『ワイド!スクランブル』を通常通りオンエアしながら、いつものコメンテーターに加えて専門家を招いて米朝首脳会談オンリーといってもいいなか、フジテレビは、バラエティー班制作の『バイキング』。大半を日大問題に割いていた。果たして数字は、どう出るだろう。 最後に『直撃LIVEグッディ!』の安藤優子氏だ。前日、「もう間に合わない」と満面の笑みを浮かべながら、いきなりMC席から立ちあがった安藤氏。トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の類似性について、2回、叫んだ後、コメンテーターの尾木直樹氏に「どう思います?」と尋ねたのだが、尾木ママは安藤さんのハイテンションについていけていけなかったのか無言に。安藤さんの心は既にシンガポール…という雰囲気丸出しだった。 メインの高橋克実が舞台出演のため11日から7月27日まで番組を休むなか、八嶋智人がピンチヒッターを務め始めた初日の番組中盤の出来事。安藤氏はシンガポールに旅立ったのである。 これまでにも高橋克実の長期欠席はあって、それは恐らく番組オファーを引き受けるときの“条件”だったのだと思われる。俳優の高橋が、いくら「歴史的な一日」と言われても、本業のスケジュールを優先するのは当たり前のこと。 だが、それが理由でシンガポールに行けない…ということは安藤さんの中にはなかったということだ。 さて、これまでにも『グッディ!』での安藤氏の“据わりの悪さ”は度々視聴者の間で取沙汰されてきた。「よくぞ言った」という意味でネットニュースにあがるのはサブキャスターの三田友梨佳アナの発言ばかり。昨年来、松居一代ネタや日大問題などを長尺で扱い、ライバル『ミヤネ屋』に視聴率で肉薄するも、「私の専門はこれではない」と言いたげで、どこか居心地悪そうにしていた安藤氏のことがひじょうに気になっていた。フジテレビ『直撃LIVEグッディ!』キャスターの安藤優子(野村成次撮影) が、12日の番組冒頭、『グッディ!』の東京のスタジオではほとんど着ることがなかった白のインナーに紺のジャケットといういでたちで、“『スーパーニュース』の安藤優子再び”…という雰囲気でプレスセンターから中継した安藤氏のイキイキしていたことといったら…。 何度か入った中継においても、なぜかスタンバイ中の音声が聞こえてきてしまったのだけれど、「はい!」「わかりました」と現場スタッフに対し、てきぱき対応している安藤さんの様子が伝わってきた。 私はかねてから、安藤さんがもっともイキイキしているのはヘリコプターに乗って中継しているときだと書いてきた。キャスターにも向き不向きというものがあり、安藤さんは、やはりワイドショー的な『グッディ!』ではなく、報道番組のほうが見ているほうにも、しっくる。そして、スタジオよりも現場が似合う人なのである。関連記事■ さまよい続ける田中みな実 狙うべきは女性層か!?■ フリーアナ思いのTBS 『はやドキ!』は人材の宝庫■ 横澤夏子 女芸人としてレアケースな活躍ぶりの理由■ 時々やってくる「ジャニーズの異端児」風間俊介ブーム■ 山口達也事件で改めて考える“ガールズ番組”の業界ルール

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    「女の子と付き合ったら変わるんじゃない?」大御所の残念な偏見

    網尾歩(コラムニスト) 女優の室井滋さんが、テレビ番組で紹介された男性の同性愛者に「女の子と付き合ったら変わっちゃうんじゃない?」と発言したことが、「差別発言」として話題になっている。LGBTへの世論は、ここ数年で大きく変わったように感じるが、その認識にテレビがついていけていないようにも感じる一件だ。 8月3日に放送された「チマタの噺」(テレビ東京)というバラエティ番組。笑福亭鶴瓶さんとゲストが一般の人の“噺”をネタにトークを展開する番組で、この日のゲストは室井滋さんだった。炎上の的となったのは、VTRで最初に登場した兄弟に関するコメントだ。 弟がゲイであり、兄もそのことを知っている20代の兄弟。弟が女性と付き合ったことはあるかと聞かれ「ないです」と答えたことを受け、室井さんは「いい兄弟ですよね」と言いつつ、その後で「案外さ、女の子と付き合ったら変わっちゃうんじゃない? この人。今、男の人しか知らないって言ってたから」と発言したのだ。 鶴瓶さんはこの発言について特にコメントせず、「あの兄貴いいよね」と、人のよさそうな兄を感心したようにほめていた。 室井さんの発言について、ネット上では「(室井さんは)異性愛者だと思うけど、『女の子と付き合ってみたら変わるかも』と言われたら、という想像すらできないのか」「こういうのはきちんと差別発言、ヘイトスピーチと呼ぶべき」といった批判が巻き起こった。 先週末に報道されて大きな話題となった、一橋大学で同性愛者の男子学生が自殺し、遺族が裁判を起こした件についてのことか、「同性愛者が自殺してしまう日本らしい発言」とコメントする人もいた。女優の室井滋 室井さんは早稲田大学社会科学部中退の経歴を持ち、女優の傍らエッセイストとしても人気だ。ざっくばらんに発言する「知性派」というイメージが強いことから、なおさらこの発言について残念に感じた人が多かったのではないかと推察される。時代の感覚と離れていく“大御所”たち 実際の放送を見ると、この発言はこれ以上掘り下げられておらず、このVTR自体にもそれほど時間が割かれていない。どういった意図で室井さんがこの発言をしたか、これ以上はわからないのだが、それでもこの一言は「認識が甘い」と思われても仕方ない。それほど典型的な、よくある同性愛者に対する偏見だ。 さて、有名人が炎上した際には2つの対応がある。1つはネット上での謝罪や言及であり、もう1つは無視である。 謝罪が行われるのは、多くの場合その有名人が普段からブログかツイッターを行っている場合だ。逆に、その有名人が普段からネット上での発信を行っていない場合は、なんの対応も行われないことが多い。 たとえばテリー伊藤さんは、たびたびその発言が顰蹙を買い、ネット上で批判されている。最近でも、情報番組で女性の陣痛に対しての「大げさじゃないか」という発言や、高知東生容疑者が逮捕された際に発した言葉に対するコメントが物議をかもした。だが恐らく、テリーさんはネット上での自分の批判をほとんど目にしてはいないのではないか。 以前、曽野綾子さんがネット上の批判に対して「私はエレキ使わないから」と発言したことが話題になったが、インターネットから情報を入手しない人、SNSを使わない人はやはりいる。さらに、ある程度の“大御所”の方たちは、一般人からの批判を鼻にもかけない節がある。 室井滋さんが、この発言に関してどのように対応するかはわからないが、彼女はブログやツイッターをやっておらず(手がけた絵本の販促用ブログとツイッターはあるが、2014年から更新されていない)、ネット上での発信がそれほど好きなわけではないのだろう。演出家のテリー伊藤 ただ、だからこそ、ネット上の「世論」とは異なる発言をしてしまったのではないか、という気もするのである。

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    LGBT問題 このままでは当事者たちの居心地は更に悪くなる

     少数者(マイノリティ)への差別や偏見はよくない。現代社会なら、誰もがうなずく基本的な考え方だろう。彼らの人権を守るため、当事者やその支援者たちは様々に活動している。とくにLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の人権問題は、婚姻を法的に認める国や、パートナー制度を認める日本の自治体が増えるなか、世間の耳目を集めているテーマだ。ライターの森鷹久氏が、LGBTが注目を集めることによって起きる摩擦と、当事者の危機感について、考えた。* * * 東京・新宿の飲食店でユウトさん(20代)が記者と"偶然"出会ったのは、昨年の夏前頃。パートナーの男性と一緒に酒を飲んでいたところ、仲間に入れてくれ、といって間に入ってきたのは大手新聞社の記者を名乗る女性だった。「酔った様子もなく、店に入ってきてからすぐ、僕らのところにやってきたので"アレ?"とは思いましたが……」 そこは、ゲイの人たちが多く集うことで知られてはいるものの、異性愛者や女性も受け入れる店だったため、誰でも観光気分で楽しみにくることでも有名な場所だった。とはいえ、知人でもないゲイカップルにずかずかと近づく女性客は珍しい。ところがその女性記者は初対面にもかかわらず、どんどん酒を勧めてきて、二人に関することを根掘り葉掘り聞いてきた。互いに秘密にしていること、あえて聞かずにいたことなど、問われることで気まずい雰囲気になっていることもお構いなしに質問を浴びせつけてくる。そして最後に、こう言って笑い飛ばしたのだ。「LGBTいいですよね、と言ったんです。レズビアンやゲイが"いい"とはどういうことなのか、僕らはポカーンとしちゃいましたが、その時は"理解者だ"と思って、彼女のことを受け入れました。しかし……」 この女性記者の「いいですね」発言の真意は、その直後にいやでもわかることとなった。(ゲッティイメージズ)「その後すぐ、ゲイカップルとして取材を受けてくれないかと、電話が来ました。気は乗らなかったですが、パートナーにも相談して……と返すと、二時間くらいでしょうか"あなたたちが声を上げないから国が良くならない"みたいなことを延々と説得されました。なんか、僕たちが悪者扱いされているようで不快でした……」 結局、ユウトさんはこの女性記者からの申し出を断ったが、何度も受けた「説得」はもはや、脅迫ともいえるような高圧的なもので、とてもユウトさんたちのような性的少数者に「寄り添う」モノではなかったと回想する。「多様性は重要だけど…」「"いいですね"というのは、取材対象として、またネタになる存在としていい、ということだったんでしょう。取材を受けない、と言った途端にパタッと連絡は止みました。しばらくしてまた連絡が入り"顔出しの取材"を受けてくれる人を紹介してくれ、としつこく言われました。最後は"顔出しでしゃべらないと意味がない"とか"(取材を受けないと)いつまでたっても社会に理解されない"とまで……」 ユウトさんはゲイではあるが、自身がゲイであることを、自分が直接、関わりがないすべての人にも理解されたいとまでは考えていないし、自分がそうであることを声高に訴えようとも思わない。ただ、ゲイやレズビアンといった「人々」の存在がある、ということを知ってほしいだけだ。「性的少数者の中には、自分の存在を訴えたい、受け入れてほしいと強く願う人だっているでしょう。でも、僕たちはそうではない。心配なのは、僕たちの存在を政治的な運動に取り込もうとする人たちがいること」 LGBTという言葉はもともと、そういう性自認や指向を持っているということを指しているだけであって、何かの運動に参加することを示しているわけではない。そもそも、性指向や自認は、その人がどのような人生を送るのか、どんな生活をしたいのかに深く関わる、実に個人的な問題だ。だからLGBTであることを公言するのか、秘密にするのかは本人が決めることだ。 自分がゲイであると同じ性指向を持つ者とだけ分かち合うのか、異性愛者の友人にも話すのか。自分の職場で理解してもらうだけでなく、見ず知らずの人も含めた社会に広く知ってもらうのかは、人それぞれだ。それは当事者本人が決めることであって、社会的意義があるからと他人が決定することではない。飲食店でパートナーと仲むつまじくしているからといって、社会運動にも積極的なゲイだと考えるのは短絡的すぎる。 LGBTに限らず、最近はマイノリティの存在と権利を訴える動きが盛んだ。ユウトさんも、人権を守り、偏見や差別をなくそうという思いはもちろんある。だが、マイノリティと呼ばれる当事者には、一人ひとり異なる思いがあり、問題への取り組み方も人によって違うのに、声の大きな人が自分の運動の仕方に無理に巻き込もうとする動きが強くなっていることが、かえって世間の反感を買うのではないかと不安を抱いている。「性的少数者だけでなく、ニューカマーの外国人問題だってそうです。多様性は重要だけど、そのことを利用して自分とどう関わりがあるのかよくわからないデモへの動員をかけたり、インタビューを受けさせられて、政治家への不満を答えさせたりするパターンが多い。そこでは、なぜか顔出しや自身のプロフィールをさらけ出せ、と半ば強いるように求められる。記者が僕たちに寄り添い、話を聞いてくれて、匿名の同性愛者の声として記事を書いてくれれば、それだけで嬉しいと思ったはずです。でもそこには必ず顔出しなどの"前提"がある。これがわからないんです。結局あなたたちは何がしたいのか? いいように使おうとしてませんか? と」 前出の女性記者は、自分の記事を特ダネにしたいという欲望のために、マイノリティの人権のために戦うべきだという理屈を振りかざしてきたと感じたユウトさん。ユウトさんは断ることが出来たが、しつこく食い下がられて断り切れず、不本意な形で世間に向けてカミングアウトさせられた人がいる可能性もある。なかには、考えてもいなかった政権批判に結びつけられた記事に利用された人もいるかもしれない。(ゲッティイメージズ) 政治的な活動すべてが非難されるべきものではない。本来の、当事者の人権を守り、偏見と差別をなくすためには有意義な方法だからだ。だがマスコミへの露出やロビーイングなど政治的活動をとる場合に忘れてならないのは、偏見と差別にさらされている当事者が考え、決定し、主体的に行動することが大前提だということである。LGBTまで「政争の具」 ところが、社会的弱者の存在が明らかになった瞬間に、彼ら、彼女らに寄り添うふりをして利用し、当事者が求めるのとは違うテーマに関連させて政治問題化しようとする試みをする者が、いつの時代にも存在する。これはLGBT問題に限ったことではない。「LGBT問題だって、今のように何でもかんでも社会や政権への不満と結びつけるような雑な話ばかりさせられていたら、いつの間にか議論さえされなくなると思います。それは、僕らが"政争の具"足りえないと判断されれば明日からだって無視されるんだと思います。怖いのは、政争の具とされたことで、僕らという存在がこれまで以上に色眼鏡で見られかねないことです。日本はLGBT問題、性差別問題において認識が甘い、と世界中で指摘されていますが、それを使って別の政治をしようとするから、余計に悪くなる」 ユウトさんは、自分のような性的少数者が今まさに「消費されている」と日々痛感している。「LGBT」だと告白すれば、大変だね、そうは見えないね、といった答えが返ってくる場合がほとんどだが、別に大変でもないし、変わっているとも思わない。この落差こそが、実際に性的マイノリティーの人々が、すでに社会から「かわいそう」とか「気の毒だ」と思われ始めている証拠ではないか、とも受け止めているという。「とある番組に出たゲイの知人が話していたんです。"こういった人たちがいるのだ"で終われば済む話が、マスコミへの出方、報じられ方によって必要以上にセンシティブで腫物のような存在として社会に認識されてしまい、やはり打ち明けるべきではなかった、やはり社会は私たちを受け入れてくれなかったと、間もなく絶望しなければならないかもしれない、と」 ユウトさんの知人は、某番組の出演前に、ディレクターから「オネエな感じを強調して」「白い目で見られたエピソードを多めに話して」などとアドバイスを受けていた。「私はゲイです」だけでは弱く、そこにドラマティックで、かつ虐げられているようなエッセンスを取り入れないと、番組が成り立たない、そう間接的に説明されたのだ。「LGBTを知ろう、受け入れようという動きは、どちらかと言えば歓迎すべきこと。でも、LGBTであることを白状させようとか、政治家に文句を言うべき、国のダメさを訴えろ、と強要してくるようなことになってはいないか。それでは結局、性的少数者は以前より居心地が悪くなってしまいそうですね」(ゲッティイメージズ) ユウトさんの一言は、我々マスコミ人にとっても、社会活動家にとっても重く突き刺さるものであることは間違いない。いいことをしている、社会のため、といって取材しモノを書き、発表することは簡単だ。この問題の本質とは何か、少数者や弱者が何を望み、社会がどう動いていくことが、社会の幸福につながっていくのか。うわべだけの言葉を用いていては、声や思いは、誰にも届かない。関連記事■ 九州でエイズ急増 中国若年層の患者激増との符合■ 中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化■ 地下アイドルの「いじめ体験率」はなぜ一般人の約5倍なのか■ LGBT恋活パーティー 参加者が打ち明けた「それぞれの事情」■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行

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    「豪雨報道」がなんだかおかしい

    西日本を襲った豪雨災害は、平成史に残る甚大な被害をもたらした。これほどの大災害だったにもかかわらず、被災当初のテレビの報道ぶりに違和感を覚えた人も多かったのではないだろうか。「赤坂自民亭」もさることながら、テレビの豪雨報道もなんだかおかしい、そう思いませんか?

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    「赤坂自民亭」より不謹慎? エンタメ化したテレビの災害報道を憂う

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 西日本を襲った数十年に一度という豪雨被害とはいえ、首都圏にいるとその実感は薄い。日々、豪雨による壊滅的状況がメディアを通して報道されても、当該地域以外、特に首都圏には物理的なダメージはないからだ。 現場に行ったり、被害を体感することのできない側の人間が、同じ日本人(あるいは日本に住む人間)として状況のリアルを知り、痛みを共有し、地域を超えて問題意識や危機感を持つためには、正しく客観的な報道から情報を得るしかない。 それこそが「公共の電波」を使ったメディアであるテレビ本来の役割であり、細分化・個別化されたネット情報が苦手な、巨大メディアに期待されることである。バラエティー番組などは、テレビというメディアがその本来の役割を、いつでも100%、採算度外視で稼働させるための「資金集め」だと個人的には考えている。 しかしながら、今日のテレビを見れば、ニュースを報道する多くの番組が「報道番組」ではなく「情報番組」、すなわちエンターテインメント化した「報道もどき」な情報番組ばかりというのが現状だ。もちろん、自分たちの感覚の範囲で客観性や公共性に努めてはいるのであろう。 とはいえ、お笑い芸人やタレントの司会者が、同じように芸能人に災害に関するコメントなどを求めている場面を見れば、それが「報道番組」ではなく、あくまでも「情報バラエティー番組」であることを痛感させられる。 また、東日本大震災や熊本地震などの時でも多発したように、テレビメディアが「震災報道」と称して、単なる「スクープ」「衝撃映像」「独占入手」を求めているだけのような動きをしたり、何を勘違いしたのか、取材クルーが単なる被災地の迷惑になっているだけの場合も少なくない。今回の豪雨被害でも、濁流に流される被災者の救助を助けることなく撮影し続けた様子が「見殺しだ」という批判が高まった。同じような主従逆転の事例は数限りない。 筆者は7月8日から11日まで、役員を務める鳥取県米子市で開催されていた国際学会に出席していたが、その際に改めて現在のテレビ報道がいかに不十分な報道メディアであるか、ということに気づかされ、反省もした。具体的には、東京に在住する筆者は、被災地の隣県・近県にある鳥取県に行って、初めてその被災のリアルを知ることができたからだ。被災地に向けて出発する、鳥取県米子市にある西部消防局の緊急消防援助隊員(山根忠幸撮影) そもそも、首都圏にいる以上、西日本豪雨による物理的なダメージや不都合を感じることは難しい。例えば、多少の影響はあるにせよ、羽田空港から米子鬼太郎空港までは問題なく飛行機は運航している。到着した米子も多少の雨模様とはいえ、基本的には「いい天気」だった。しかし、会場に到着してみれば、海外の研究者も含め、多くの参加者が遅延あるいは欠席の連絡が相次いでいた。ここで、初めて被害状況を理解できたことになる。 駅前にある大型スーパーなども営業こそしていたが、生鮮食品を中心に十分な在庫はなく、品ぞろえも悪い。ロジスティクス(物流)が停滞していたのである。だが、一見しただけでは、街は特に大きな障害もなく動いているようにも見える。隣県・近県が未曾有(みぞう)の豪雨災害に見舞われているとは到底思えない。しかし、表に見えてこない部分では確実に不都合が発生しているのである。コンビニでは品薄状態が続き、朝から現金自動預払機(ATM)には長蛇の列ができていた。 役員として会場に待機していた筆者の元に、国内外から続々と情報が届いてきた。多くの参加者が会場である米子に到達できなかったからである。まず、海外からの訪問者で米子まで到着できなかった人たちの多くが、岡山や大阪などから米子へ向かう経路が確保できず、足止めをされていた。 米子鬼太郎空港はいわゆる「国際空港」ではないので、海外からの直行便はほとんどない。よって、近県の大きな国際空港から陸路や鉄路で米子に向かう方法が採られる。しかし、隣県・近県をつなぐ主要な陸路や鉄路が遮断されており、近くまで来ているにも関わらず、米子に到達できないという現象が起きていたわけである。ショッキング映像ばかり もちろん、それは国内からの参加者も同様であった。東京など東日本から米子に向かう場合、空路利用が多いので、そこまで移動経路が遮断されているとは到底実感できない。一方で、西日本からの参加者は、あらゆる手段が寸断・遮断され、にっちもさっちも行かない…という状況になっていた。 だから、到着した参加者の多くが、いったん西日本から空路で東京の羽田空港へ向かい、そこからまた空路で米子に行くという信じられないような大回りで、どうにかして到着していた。 大きな迂回(うかい)経路を利用するということは、数万円の交通費を新たに消費するということも意味する。しかし、学会参加による出張では、参加できなければ出張旅費が支出できなかったり、国によってはめったに海外出張が許されない大事な機会であることが少なくない。また、座長などの役職者であれば、自分が到着しなければ学会が始められない…といった抜き差しならぬ事情を抱えることが多く、相当無理をして到着してきた参加者も少なくなかった。 この時に痛感したことは、被災地の現地以外の居住者に向けられたテレビで放送される情報の多くが、「しょせん全国放送向け」の薄い情報や、大衆的な興味を喚起できる、すなわち視聴率を獲得できそうなショッキングな情報ばかりであるという現実だ。 一方で、学会の会場にどうにかして到達した「猛者」たちの全てが、ネットで細かい情報を入手していた人ばかりであった。テレビが繰り返し映し出す「独占スクープ」の悲惨映像などは何の役にも立たない。つまり、テレビなどの主要メディアは「ショッキングな映像」以外に有用な情報はほとんど提供しきれていなかった。「公共の電波」と言いつつも、全く公共的には機能していなかったわけである。 しかしながら、テレビには主要キー局だけではなく、それにネットワークを形成する多くの地方局を抱えている。当然、それら地方局や放送網を効果的に利用すれば、さまざまな情報の収集や発信が可能であろう。2018年7月7日、冠水した岡山県倉敷市真備町で、ヘリコプターで救助される人(産経新聞社ヘリから) もちろん、被災地の地方局では、現地ならではの細かい情報を発信していたであろうが、それはあくまでもローカル局が現地に向けて制作したローカル番組でしかない。そのような番組が東京のキー局に届き、全国に発信されたような事例は多くないだろう。 地方局がリアルな「情報センター」として機能していたとしても、その情報が他に届かなければ、われわれは被災地の現実を知りようもないし、対策もできない。キー局による全国ネットの「情報バラエティー番組」は、視聴者の目を引くようなスクープ映像や同情する以外に視聴者には何もしようがないショッキング映像ばかりだ。それにコメントするタレントの喜怒哀楽を映し出すことが、公共の電波の役割ではあるまい。糾弾すべきは安倍首相よりテレビ もちろん、テレビに対して四六時中、細かい災害情報ばかりを放送せよ、と言っているわけではない。しかし、いわゆる「視聴率稼ぎ」の立ち位置からばかりではなく、公共の電波という意識と責任を強く持ち、テレビ局の放送網やリソース(資源)をもっと有効に利用すれば、中央と地方の報道格差を埋め、日本国として一丸となった情報共有もできるはずである。それが引いては効果的な避難情報や救援情報の提供も可能にするのではないか。 タレントたちが神妙な顔つきで「豪雨で大きな被害を受けたショッキングな映像」ばかりを紹介する情報番組が終われば、いつもの通りのバラエティー番組が放送される。もちろん、多少の自粛や方向修正はあるのかもしれないが、いつもと同じものばかりだ。それをとがめる人もいなければ、悪びれることもない。今のテレビ放送の存在はどう考えても「不謹慎」だ。 一方で、7月5日に自民党の国会議員が安倍晋三首相との宴会に出席し、同席していた兵庫県選出の西村康稔官房副長官がその写真をツイッターに投稿した、ということが「不謹慎だ」と非難が集まった。もちろん、兵庫県内でも10万人以上の避難勧告が出ていたので、地元選出の政治家としては緊張感を持って対応してほしいと願うのは当然だ。タイミングや対応の悪さはあったとは思う。 しかし、宴会やパーティーに出席したり、懇親会の類いに参加することも政治家の仕事の一部という側面もある。時には断ることのできない懇親会だってあるだろう。特に、首相も同席した宴会となればなおさらだ。 むしろ、それを不謹慎だと糾弾するエネルギーがあるのであれば、情報バラエティー番組で「独占映像」などと称してショッキングな映像を繰り返し流して視聴率を稼いだり、いつものようにバラエティー番組を放送したり、「報道もどき番組」で災害をコンテンツ化するテレビの存在の方こそ、はるかに糾弾されるべきものがあるように思う。2018年7月13日、宇和島市役所で行われた愛媛県の中村時広知事(右)との意見交換を終え、取材に応じる安倍首相(代表撮影) 公共の電波であるテレビは、こういった大きな災害時にこそ、あらゆる私欲を捨て、情報センターとしての役割を果たすべきであるように思う。テレビをつければ、公共性の失われた情報ばかりに埋め尽くされている。何のために大きな権力を与えられた「公共の電波」なのか、改めて考えるべきではないだろうか。

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    嫌われるマスコミの災害報道は「オーダーメイド取材」で一変する

    堀潤(ジャーナリスト、キャスター) 西日本を襲った豪雨災害は、200人以上の方々が亡くなり、現在も20人以上の方の安否がわかっていません。私は7月7日以降、豪雨被害が大きかった岡山県や広島県の各被災地を回り、被災された方々に今必要な支援が何かを聞いて回りました。 やはり被災者の第一声は水です。飲み水ではありません。生活用水です。トイレや風呂、手や顔を洗う水だけではなく、泥かきをしたり汚れを拭いたりする時に必要な水です。飲料水は支援物資や自衛隊からの給水などでなんとか賄えているのですが、生活用水を確保するのは至難の技です。 広島県三原市では井戸水を利用している世帯が少なくなく、水をくみ上げるモーターを修理し、使用できるようになった水を近所の人たちと共有し、助け合って復旧、復興に取り組んでいました。ただ、課題もあります。地元三原市の社会福祉協議会の方々に話を聞くと、犠牲になった方々の多くが自力で2階に上がることができない知り合いの方々でした。 足の不自由な50歳代の人、90歳を超え一人暮らしだった女性は「近所の誰かが大丈夫か?と訪ねてくれてさえいれば…」と唇を噛み締め、悔しそうに話をされていました。浸水被害がひどかった地域は比較的商業施設などが集まる中心部でした。新しく移り住んできた人も多く、地域の町内会の加入率が年々下がっていることが地元の方々の悩みでした。 女性はさらに「災害が起きると実感するはずです。地域のつながりがどれだけ大切か。普段から顔見知りだったら井戸の水だって借りやすいだろうに。命だって守ることになるんですから」とも語っていました。 実感したのはハザードマップの正確さです。各地を取材した際の共通の質問が「ハザードマップではこの地域はどのような状況でしたか?」です。地元の方々が改めて驚くほど、災害被害は起こるべくして起こるんだということを実感させられました。水害や土砂災害、地震、火災など災害ごとにハザードマップが作られているのをご存じでしょうか。それが何を意味するのかというと、避難先が変わってくるということです。 今回の豪雨災害でも地震などを想定した避難場所が浸水していたケースがありました。自治体からは防災無線を通じて別の高台の避難所の案内をしていましたが、馴染みのない場所で戸惑いが広がったという声も聞きました。災害が起きてからの対応では遅いのです。当たり前のことですが、平時のアクションが自分の大切な人と自分の命と財産を守るための防災です。 そもそも、私たち日本人は災害が発生しやすい国土で生活しています。地震、津波、台風、集中豪雨、そして火山。2011年3月11日に東北沖でマグニチュード(M)9・0の巨大地震が発生した東日本大震災では、10メートルを超える巨大な津波にも襲われ福島県にある東京電力福島第一原発がメルトダウンを起こす大規模な事故を起こしました。放射性物質に汚染された土地を取り戻すためには半世紀近くの時間が必要だとも言われ、私たち日本人は自然災害だけではなく、原子力災害も経験しています。炎天下の被災地を歩く男性。大量の土砂で下部が埋まった車や標識が放置されたままになっている= 2018年7月13日、広島県坂町(鴨川一也撮影) 地震は地中の岩盤同士がぶつかり合いズレることで地表に揺れを引き起こすわけですが、日本には今後もそうしたズレが起きる可能性が高い「活断層」が2千以上あります。世界中の地震の約10回に1回は日本やその周辺で起きているとあって、実は私たちの暮らす地面はとても揺れやすいのです。 特に東日本大震災以降は地震活動が活発で、政府は今後30年以内に東京や神奈川など首都圏でM7級の直下型地震が起きる可能性は70%と予測。東海から九州にかけてM8級の揺れが想定される東海、東南海、南海大地震も88%〜60%と、こちらも高い確率です。いつ起こるのかは分かりませんが、いつ起きてもおかしくないのです。家族4人が車で生活 また、日本は「火山列島」とも呼ばれ、噴火する可能性のある「活火山」が全国に110もあります。実は、あの富士山も活火山です。いつ噴火してもおかしくはありません。山梨県、静岡県、神奈川県では富士山噴火に備えた避難訓練が行われたりしています。富士山が噴火すると当然東京などにも影響が出ます。火山灰が降り積もり、新幹線や高速道路など交通網がマヒ。灰の影響で水道や電気、ガスが長期間ストップ。ジェット機も飛び立てなくなり、東京が陸の孤島になり混乱することも予想されています。 「これだけ色々な予測がされているのであれば備えも万全だろう」と思いがちですが、冒頭述べた通り、災害には「想定外」がつきものです。例えば、国は熊本地震のように震度7の地震が連続して起きることは想定していなかったと言います。災害発生時の対応をまとめた全国の自治体の防災計画の多くで「想定外」だったということも報道機関の調べで分かりました。 熊本の地震では1度目の震度7の地震で避難所に避難した人に加えて、さらに規模の大きな揺れに襲われ「もうダメだ」と思った人たちが一気に避難所に向かいました。最大で20万人とも言われる避難者の数、小学校や中学校の体育館には収まりきらず、校庭や渡り廊下といった屋外で野宿をせざるをえない人たちも大勢いました。 一方、そうして人があふれた避難所をあきらめ、仕方がなく自分の車の中で寝泊まりする人たちも少なくありませんでした。「赤ん坊が泣いて迷惑になるといけないから」「持病があって硬い床で寝られないから」「余震が怖くて建物の中にいたくないから」など理由は様々です。西日本豪雨被害の避難所でうちわをあおいで暑さをしのぐ人たち=2018年7月8日、岡山県倉敷市真備町の岡田小学校(永田直也撮影) 私が取材をしていた家族は親と子供の4人で3週間以上車で避難生活を続けました。避難所ではないので食料の配給も受けられず自力で調達。狭い車内で同じ姿勢のまま過ごすことで体調を壊す人もいます。「エコノミー症候群」と言って血のめぐりが悪くなり血管が詰まるなどして、最悪、死にいたる症状です。絶えず体を動かしたり、血のめぐりが良くなるようにマッサージをしたり工夫が必要でした。 食料の確保が大変だったのは、車中避難の人たちばかりではありません。避難所でも圧倒的に食料が足りずに苦労した人たちもいました。災害時の対応などを定めた法律「災害対策基本法」の中には「指定緊急避難場所」と「指定避難所」という言葉が出てきます。前者は地震や津波からいち早く身を守るために逃げ込むことができる高台や公園などにある安全な場所や施設。後者はそこに留まって食糧支援などを受けながら避難生活を送ることができる施設を指します。 災害による影響が比較的少ない場所であることや生活物資の運搬がしやすい環境であることなど、法律によって条件が定められています。ですから、すべての小・中学校などの避難所がこの「指定避難所」ではありません。 熊本地震では、避難した人が身を寄せた避難所が「指定避難所」なのかどうかで状況が大きく異なりました。指定避難所の小学校に避難した人は自治体からの物資や自衛隊からの支援を優先的に受けられました。しかし、同じ区内の小学校でも「指定避難所」ではなかった場合は、避難した人たちが自力で食料を調達しなくてはならず、大変苦労したのです。 10カ月の赤ん坊を抱えたお母さんは避難した体育館で「ここは指定避難所ではないので、食料は届きません。自力で調達が必要です」と言われた時には目の前が真っ暗になったと言っていました。そうした避難所ではインターネットを使うなどして全国からの直接支援でなんとか水や食べ物をかき集め、なんとか凌(しの)いだという状況でした。「何のための地元局か」 今回の西日本豪雨や熊本地震のように、首都圏が被災地にならない場合、相対的にテレビの報道量が減っていくのが体感として分かります。台風などは顕著な例であり、首都圏に上陸が予想される場合とその他の地域の場合とでは中継体制の力の入れように温度差があるのは明らかです。全国ネットの放送は東京一極集中であり、首都機能や交通、物流などに与える影響の大きさを考えると、首都圏の情報に重きを置くテレビ局の判断も分からなくはありません。 西日本豪雨の被害の大きさを考えると、首都圏が台風を迎え撃つ時のように事前の特番体制で報じるべきだったという声が上がるのは必然です。ただ、進路や速度などをもとに被害予測をたてやすい台風と短期間で変化に富む集中豪雨災害とでは勝手が違ったのかもしれません。 岡山県に住む方からこんなメールをいただきました。 6日夜、県の広い範囲に避難指示が出されていたにもかかわらず、ニュースでずっと報道していたのは、NHKのみでした。11時半過ぎ、地震かと思うような揺れがあり、家族がツイートやLINEで情報収集すると、浸水で避難途中の真備の友人から、工場爆発との知らせがありました。ツイートを見ると、津山でも揺れ、県内騒然とするなか、民放は、警報のテロップだけで、通販番組とか、いつもの放送内容でした…。日付がかわり7日のNHKニュースの総社市長のコメントで、爆発だと知った人もたくさんいたと思います。豪雨の犠牲者は、お年寄りばかり。岡山県も高齢化が進み、頼りの情報源はラジオTVという一人暮らしのお年寄りもたくさんいると思います。何のための地元局か、と怒りが。 お怒りはごもっともです。逆に、NHKの責任の重さも感じます。個人的には、被害の大きさを量で測るのには抵抗があり、ましてや1人の命も、100人の命もそれぞれ同じ重さであると思いたいものです。 私がNHKを辞め、自由な発信の場を求めた理由の一つが災害報道のあり方に疑問を感じたからです。今年でフリーになって5年になりますが、その間発生したさまざまな災害報道では常にそこで暮らす一人一人の生活者の皆さんとの連携を第一に掲げてきました。 2年前の熊本地震以降、大きな災害が発生すると私はまず自分のLINE IDをツイッターやフェイスブックで公開し、被災者の方とつながりながら、現場が最も必要としている発信を支援する取り組みを始めています。拡散した災害情報 災害時の会員制交流サイト(SNS)には悪意あるデマのみならず、古い情報がそのままリツイートされ誤解を生んだり、伝言ゲームで不正確な表現となり結果としてデマになってしまうケースなど、まさに玉石混交、さまざまな情報が流布します。そうした中に、被災者本人の本当のSOSが埋もれていってしまうことがあります。 フォロワー数の少ない個人が発信するよりもより強い拡散力を持つアカウントから発信してもらった方が多くの人にSOSが届く可能性が高まります。情報を精査、検証する力やより多くの人たちに短い時間で情報を届けるノウハウが求められますが、私のようなSNS使いのテレビマンにとっては何か役に立てそうだと思い、熱心に取り組んでいる支援の一つです。 例えば、今回の西日本豪雨では私が公開したLINE IDには愛媛県西予市野村、広島県呉市天応西条、岡山県総社市下原などで孤立したり、救援が必要な住民の皆さんやそのご家族、約20名の方から切実な連絡が入りました。 8日午前、広島県呉市天応西条3丁目の36歳の男性からのSOSは、20名から30名が今も川の決壊で孤立したままだという内容でした。1歳と12歳のお子さんがいるとのことで、そのうち持病のある12歳のお子さんの薬が明日までしかなく、発作が起きるのが心配だというのです。せめて薬だけでも届けてもらえないかと、男性は私に発信の支援を求めてきたのです。男性がLINEに送ってきてくれた動画を見ると、家の目の前の道路が崩壊し目の前を茶色く濁った泥水がものすごい勢いで流れていく様子でした。 撮影は8日早朝です。男性の身元の確認や映像の検証などをこちらで行い、ツイッターや各SNSで発信したところ、瞬く間に50万を超えるアカウントからのアクセスがあり拡散されていきました。そして、それから5時間後。「堀さん!お力を貸してくれたみなさん。どうもありがとうこざいます。無事救助連絡、そして子供の薬も5日分もらえました!本当に心から感謝します。救助ヘリも何機かきてもらい、具合が悪い方の救助もしてもらえました!断水状態も続きまだ不安定ですが、頑張ります」と男性から連絡が入ったのです。土砂崩れ現場で行方不明者を捜索する消防隊員ら=2018年7月7日、広島県東広島市 情報が途絶え、孤立した状況が続く中、SNSに寄せられる人々の声が男性やその家族を励ましたと言います。このように情報を寄せてくださった方々の元にはその後一人一人直接会いに行きます。今日の時点で岡山や広島から連絡をくれた人たちを直接訪ね、さらなる追加取材を行っています。オーダーメイド型の取材で被災者の切迫したニーズを満たす、これも新しい時代の報道の在り方なのではと思っています。

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    「五感で伝えない」民放テレビの災害報道は役に立たない

    たことがうかがえる。2018年7月6日、激しい雨が降る中、JR博多駅前を行き交う人たち テレビというメディアは、視聴者の五感に訴えかける。ニュース番組に出演している人の話の内容、すなわち「言語情報」だけでなく、話すときの表情、声色、しぐさのほかスタジオの雰囲気やBGMなどによる視覚情報、聴覚情報などの「非言語情報」が大きな意味をもつ。 豪雨の初期段階でのニュース番組から発信された情報に当てはめて考えてみると、「言語情報」では豪雨による被害拡大の危険性が高いことを強調していながら、視覚情報や聴覚情報から、あまりそのリアリティーが伝わってこなかったことが問題である。「言語情報」と「非言語情報」にギャップがあったように思う。リアリティーに欠けた「東京発」 テレビ局側は災害マニュアルに沿った教科書通りの放送をしていたため、「落ち度はなかった」と反論するかもしれない。確かに、「言語情報」において落ち度はなかったのかもしれないが、「非言語情報」から伝わる緊張感が弱かったために、「伝えるべきことが伝わらなかった」のではないか。 実際、福岡市に住む私にとって、「東京発」のニュース番組は、若干リアリティーに欠けたものに映った。というのも、私が住んでいる福岡市の「一部」に対して、この時点で避難準備情報が発令されていたことがL字画面で確認できたが、「一部」に自分が住んでいる場所が含まれているかが分からなかったのだ。 このため、テレビの災害情報が、避難の準備をするかどうかの判断材料には全くならなかった。結局、福岡市のホームページを見て、避難準備地域から外れていたことが確認できた。 また、番組で「土砂災害」や「河川の氾濫」の恐れがあるというコメントは何度も耳にしたが、自分が住む場所にどの程度のリスクがあるかが、テレビの情報では分からず、やはり福岡市の「浸水ハザードマップ」「土砂災害ハザードマップ」で改めて確認せざるを得なかった。そのサイトでは、刻一刻と変わる近所の川の水位も把握することができた。 東京発のニュース番組からは、大雨が降り続く地域の住民にとって必要な具体的情報が十分にあったとは言えない。しかも、繰り返された注意喚起も紋切り型で、大災害が現実に発生する恐れが本当にあるとは受け止められるような作りではなかった。 せめて、大雨が降り続く地域には、地方自治体のホームページにアクセスすれば、地域別の詳細な災害リスクが分かることを伝えて、視聴者を誘導してもよかったのではないか。私の場合、必要な情報は東京発のテレビにはなく、福岡市のホームページにあったのである。 今回のテレビ報道を見て、大災害にもリアルに対応できる災害マニュアルの再検討が必要ではないだろうか。迅速でスムーズな報道対応のためには、決められた流れで作業を進めるためのマニュアルが欠かせない。愛媛県大洲市の豪雨で、路上に横転したままの車両=2018年7月8日午前 具体的には、どのように情報発信すれば注意喚起のリアリティーが伝わるのかを「言語情報」と「非言語情報」の二つの側面からアプローチしなければならない。そのほか、被災地の人々が望む詳細な情報にいかに誘導するのか、という問題についても検討が必要だろう。 想定外の自然災害がこれからも発生する可能性はある。まずは、今回の被災地の人々がテレビの情報をどのように受け止めたかを丁寧に検証することから始めたらどうだろうか。

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    豪雨報道より『鶴瓶の乾杯』を優先した首都圏NHKが嘆かわしい

    によってしか実感を持って知ることができなかった。NHKはそれをリアルタイムで伝えることのできる唯一のメディアなのだ。 民放の場合、視聴者に「豪雨のニュースもう飽きたよ」と言われればおしまいだ。豪雨のニュース映像も最初はショッキングだが、何日も続くと飽きっぽい視聴者の興味をそそらなくなる。 そうなると別の娯楽番組を用意して、視聴者を満足させなければならない。そうしないと視聴率が落ちて、スポンサーからの収入が減ってしまうからだ。スポンサーによって経営が成り立っている民放の宿命である。 受信料で運営され、視聴率も絶対指標ではないNHKの場合、そこまで民放各局のように視聴者におもねる必要はないはずである。確かに『半分、青い。』も『鶴瓶の家族に乾杯』も視聴率の高い人気番組だ。そして番組本編の画面を小さくするL字画面は、視聴者にすこぶる評判が悪い。 実際に人気番組の放送時には、L字画面が邪魔だからやめてくれ、というクレームの電話が、視聴者ふれあいセンターへ相次ぐ。特に今回のように長期間にわたってL字画面が続いた時は、なおさらそうだろう。とはいえ、これはなんとかご理解いただくしかない。 また、NHKにも災害報道ばかり見せられるとウンザリする、という視聴者からの意見はある。「気分が落ち込む」、「何か楽しい番組で気分を晴れさせてくれ」という声もある。各避難所には特設テレビが置かれているが、それを見ている避難者の方々からさえ、災害の映像は見たくないから面白い番組を見せてくれ、というリクエストが上がってきたりする。ヘリで救助された住民=2018年7月7日、岡山県倉敷市(永田直也撮影) そういった事情を解決する苦肉の策として、災害報道をしつつ同時に一般の番組を見せる、L字画面という手法が取り入れられたのだろう。 あまりスマートなやり方とは言えないL字画面だが、テレビというメディアの使命をNHKが果たすためには、やむを得ない手段なのかもしれない。エンターテイメントのみに走って、災害報道のミッションを忘れては、NHKの存在理由そのものが問われてしまうからだ。東京目線のNHK その意味で『鶴瓶の家族に乾杯』を見せるのに、今まさに死者や安否不明者が増えつつある段階で、あえてL字画面をはずす必要があったのか。それを見て、あたかも災害が去ったかのように、笑うことができたのか。甚だ疑問である。L字画面があったほうが、むしろ安心して楽しめたかもしれない。 良くできた娯楽番組であったがゆえに、裏で続けられている捜索活動が気がかりで、私の目には番組自体が浮いて見えてしまい、素直には笑えなかった。番組にとっても気の毒である。そこには晴れた初夏の風そよぐ東京で、エンターテイメント優先に番組を編成している、東京目線のNHKの姿勢が垣間見えてしまったのである。広島県熊野町の土砂崩れ現場で続く捜索活動=2018年7月13日 さまざまな要望があるだろうが、やはりNHKの目線は被災地目線でなければならない。豪雨の被災地の方々には、翌日から猛暑という厳しい気候が容赦なく襲いかかる。エアコンの十分に行き届かない避難所で、熱中症の危険にさらされるはめになる。停電し、断水する。ボランティアなど支援活動もこれからだ。水没した家の再建を考えると、気の遠くなるような長い闘いが待っている。 今回のような未曾有の豪雨という大災害は、一過性のハプニングではなく、復旧と復興に長い期間と資金を必要とする国難だということを、しっかり認識して報道するべきだろう。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではダメなのである。 特別警戒警報が出たから臨時ニュースにする。警報が解除されたらニュースをやめる。こうした気象庁の発表のみに頼った報道姿勢では、NHKは視聴者の信頼に応えることはできない。警報や避難指示は、もちろん直ちに報道しなければならないが、NHKはあくまでも被災者の目線に立った自主的な取材で、長期的に災害報道にあたるべきだ。 地域に密着した取材網を持ち、視聴率に左右されないNHKならではの災害報道でこそ、その存在意義を示すことができる。金で買えるワールドカップの放映権で満足するのではなく、公共放送としての強みがどこにあるのか、その本質を見失わないでもらいたい。

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    NHK「災害報道」は熊本地震で3・11の教訓を活かせたか

    田部康喜(東日本国際大学客員教授) ジャーナリズムを大きな側面から分類すれば、報道と解説、そして評論となる。熊本県を中心として発生した広域の連続地震は、その影響がいまだに現在進行形であるから、報道機関は現地の報道すなわちルポと、地震の原因とこれからの広がりを含めた解説に力を注いでいる。 今回の地震を考えるうえで、NHKスペシャルが4月3日に東日本大震災後の地震研究の成果を振り返った「巨大災害 日本に迫る脅威~地震列島 見えてきた新たなリスク」が、災害報道の重要な試金石になったことに触れたい。 東日本大震災から5年を経て、日本の研究者の新たな挑戦をとりあげるとともに、東海地方から九州の太平洋岸に甚大な被害をもたらすことが想定されている「南海トラフ」地震がどのようなメカニズムで発生するのかという問題意識だった。 京都大学防災研究所の西村卓也・准教授は、GPS(全地球測位システム)の観測を活用することによって、地殻の変動を数値化して、地震発生のメカニズムを解明するとともに、次に巨大地震がどこで起きるのかを探ろうとしている。 巨大地震の発生は、プレートテクニクス理論によって説明されてきた。海側のプレートが陸のプレートに沈み込んでいくときに、徐々にひずみができてそれが耐えられない圧力となったときに、ずれが生じて地震が発生する。 日本の西日本の陸はひとつのプレートであるとされてきた。このプレートに海側のフィリピンプレートが沈み込むことによって、南海トラフ地震が発生すると推定されてきた。2016年4月17日、大きく亀裂が入った熊本県益城町の畑。地震で地表に現れた断層とみられる(本社ヘリから) 西村准教授は、GPSの数値よって、陸のプレートがひとつではなく、九州は4つのプレートに分かれていると分析している。それぞれの分かれたプレートは違った方向に向かっているのである。大分地方は西へ、長崎と佐賀は南東へ、南部は南に動いている。 こうしたプレートは表面的なものではなく、地下30㎞付近まで壁のようになっている。この帯状の壁が境目となっている地帯は、過去の地震の震源、震度の帯と一致する。それは活断層である。今回の地震が発生した、布田川断層と日奈久断層はまさにこの活断層である。 西村准教授は、こうした陸のプレートの境目に地震が起きる可能性があると指摘して、警戒を呼びかけていた。 NHKは4月16日にNHKスペシャル「緊急報告 熊本地震『活断層の脅威』」を、放送した。14日夜にマグニチュード6.5の地震が発生した28時間後に、マグニチュード7.3の大地震が起きたことを受けたものだった。気象庁は、最初の地震を前震とし、大地震を本震とした。 本震発生前の15日の取材とことわったうえで、先の西村准教授の冷静な判断が紹介される。 「プレートのブロックの境目に、ひずみがたまって地震になる可能性が高い」と。マントルの動きが大地震もたらす可能性 番組では、キャスターのほかに、NHK災害担当の菅井賢治と、東京大学地震研究所の平田直教授を加えて、さらに分析を進めていく。 震災地に入った研究者により、活断層のあとと推定される、地面の割れなどが発見されている。 平田教授は指摘する。 「地震の震源は地下10㎞から20㎞にある。この深さのひずみによって、岩石が耐えられなくなって破壊され、小さな地震が多数起きている」 地形の模型を使って、表面の地表の部分を取り除いて、地下に震源が集中している様子をわかりやすくみせている。地震は、まず比較的揺れの小さなP波が起きて、その後に大きな揺れを引き起こすS波が起きる。直下型地震では2の波の間隔が短く、緊急地震速報を出すP波の直後にS波がくるので、室内にいても避難の余裕がない。 4月3日放送のNHKスペシャルに戻る。東日本大震災後の東北の沿岸部で異常な現象がいま起きている。地震によっていったんは1mほど沈下した地盤が、隆起しているのである。 東日本大震災前から、海底などに水圧の測定機器を配置してきた、東北大学地震・噴火予知研究観測センターの日野亮太教授は、「想定と異なる別の地震の可能性」を指摘している。 大震災前には、東北の陸と太平洋側の海のプレートは、西方向に移動していた。震災後は陸のプレートが東に向かうと推定されていた。しかし、この1年間のデータを分析すると、陸のプレートが西に向かっている。これが、地盤の隆起につながっていると、日野教授は推定している。 これまで、ほとんど陸のプレート移動がなかった、ロシアの沿海州と中国の地盤も東にゆっくりと動き始めている。 こうした現象の原因として、日野教授は東日本大震災によって急激に動いたプレートの下に対流しているマントルに原因がある、と考えている。マントルはゆっくりともとにもどる粘弾性を持っている。プレートの動きについていけずにゆっくりと動いているのではないか、というのである。2016年7月、熊本地震から約3カ月が経ったが、熊本県益城町には倒壊した住宅が今なお多く残る(村本聡撮影) 地盤を隆起させるマントルの動きは、これまでとはまったく異なる大地震を引き起こす可能性もある。 東日本大震災とその後の地震研究を、定期的にシリーズ化することによって、突発的な自然災害において視聴者に的確な情報を提供する底力を、組織ジャーナリストにつけている。たべ・こうき 東日本国際大学客員教授。福島県会津若松市生まれ。幼少時代から大学卒業まで、仙台市で暮らす。朝日新聞記者、朝日ジャーナル編集部員、論説委員などを経て、ソフトバンク広報室長に就任。社内ベンチャーで電子配信会社を設立、取締役会長。2012年春に独立、シンクタンク代表。2015年10月から東日本国際大学客員教授として地域振興政策を研究、同大・地域振興戦略研究所副所長を兼務。

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    在京テレビ局 大阪北部地震報道に温度差がある?

     放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、6月18日朝に発生した大阪北部地震に見る、災害の報道体制について。* * * 大阪北部地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。 18日朝、震度6弱という大きな揺れの地震が発生した瞬間、私は東京の自宅に居たのだが、リビングの吊すタイプの照明がユラユラ揺れていて驚いた。後から、東京にも「震度1」を表示した地図を見て、改めて、広い範囲で揺れたことを知った。 昼過ぎ、私は大阪に本社がある某社での東京広報の人たちとのミーティングに参加していたのだが、「東海道新幹線に閉じ込められている同僚がいる」「会議の時間や参加するはずのメンバーの予定が大幅に狂っている」などと聞いた。普段から大阪と東京を行き来している人たちが青ざめた顔で対応に追われている様子を目の当たりにし、大変なことが起こっているのだと改めて感じた。 午後3時過ぎに一度帰宅し、テレビをつけた。まずは大阪の読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系)で、その被害の大きさに愕然とした。 司会の宮根誠司氏は、日曜の夜、東京のフジテレビで『Mr.サンデー』に生出演しているため、月曜日は朝、飛行機で大阪入りする。 通常なら9時羽田発の飛行機で伊丹空港までスムーズに移動できるはずが、この日は20分遅れで飛行機に乗れたものの、伊丹空港の点検のため、2時間、機内で足止めを食ったという。伊丹空港に着いてからも、大阪市内が大渋滞で、結果、30分遅れでの出演になった宮根氏だったが、氏自身も朝日放送の局アナ時代に、そして読売テレビの記者やスタッフの多くが阪神淡路大震災の報道に携わっているだけあって、何を優先し、どう伝えればいいのか熟知しているため、番組はもちろん、地震ニュースに特化した内容だった。 その後、日本テレビでは通常なら東京のスタジオから『news every.』の時間になるが、読売テレビのローカル番組『かんさい情報ネットten。』のオンエアをしばらくの時間、流していた。2018年6月18日、大阪北部地震の発生で、伊丹空港のタクシー乗り場(手前)とバス乗り場には長蛇の列ができた(山田喜貴撮影) TBSも『Nスタ』の時間を早め、15時前から特番体制になっていたが、驚いたのは名古屋のCBC制作の『ゴゴスマ』や、フジテレビの『直撃LIVEグッディ!』が、早々に地震のニュースを切り上げていたことだ。 大阪の読売テレビの生放送を全国ネットしている日本テレビに対し、『~グッディ!』は、番組開始と共に、系列の関西テレビの生ワイド『ハピくるっ!』を終了させている。「ウワサの芸能ワイドショー」とサブタイトルがついていた番組ながら、もしもまだ続いていたなら、関テレからの生放送に切り替えたこともできただろうに。 TBSも、系列の毎日放送『ちちんぷいぷい』とは無関係と言ってもよく、名古屋発の『ゴゴスマ』を14時台はやっていたのだが、15時台は、さすがに報道に切り替わった。 いま、ワイドショーで数字がとれるのは、いわゆる“紀州のドンファン”と、日大のアメフト問題だと言われている。 そして、大阪での地震は、在京局にとっては“対岸の火事”に近いものがあるのだろうか?活きる阪神大震災の経験 実は私は、東日本大震災が発生した日、『情報ライブ ミヤネ屋』に生出演していた。阪神淡路大震災を経験している社員やスタッフが多い読売テレビでは、地震報道に関するマニュアルが完璧で、当時、アシスタントをしていた森若佐紀子アナが「早く、津波情報を」と言い続けていたことをいまでも覚えている。 だが、直後、東京のスタジオからのニュースカメラが映していたのは、お台場付近のビルから煙が上がっている様子だった。フジテレビの近くだから…と感じたのは私だけだろうか。 そして2年前の鳥取県中部地震のときも、私は『~ミヤネ屋』に生出演していた。発生が番組開始12分後のことで、後半は地震特番に切り替わった。 それはやはり、読売テレビの報道スタッフたちが阪神淡路大震災を経験しているからに他ならない。 だが、それから23年が経ち、読売テレビのアナウンサーも半数以上が「阪神大震災の報道を知らない世代」だという。 3年前、読売テレビでは、トークライブ企画「アナウンサーが語り継ぐ『阪神淡路大震災20年』」を開催、若手アナを聞き手に、先輩アナらが体験をトークし、「命に係わる重大なテーマ」でのインタビュー力について説いた。 参加アナの中には、阪神淡路大震災を機に、防災士の資格を取得している者もいて、被災者のもっとも近くで寄り添ってきた彼らならではの、ためになる話が多数あったと聞いた。阪神大震災の被災者向けの公営住宅=2004年1月、神戸市灘区 その中心メンバーで、いまは同局を退社した脇浜紀子アナ(当時)が言っていたのは、「阪神淡路大震災の2か月後、東京で地下鉄サリン事件が起きたことで、在京局制作の番組では、阪神大震災のニュースが激減してしまいました。まだまだ伝えたいことはたくさんありました」と。 阪神淡路大震災にまつわるニュースや新聞記事は、東京では1月中旬に集中しており、東日本大震災のニュースでさえ、3月初旬に集中しているように思える。 3年前、阪神大震災について扱った『クローズアップ現代』(NHK)で、「街は復興したけれど、暮らしや心の復興は半分」と、当時、働き盛りだった方々が異口同音に言っておられたのが忘れられない。 こうして偉そうに書いているが、大地震の日、生番組に出演していた私でさえ、正直、忘れてしまうことがある。震災の記憶を確かなものにしたり、消え去らないようにしたりするのが報道の役目なのではないか。 在京テレビ局はもう少し、被災地のテレビ局から学ぶべきではないだろうか。関連記事■ 米朝首脳会談報道に見る各局キャスターの悲喜こもごも■ さまよい続ける田中みな実 狙うべきは女性層か!?■ 時々やってくる「ジャニーズの異端児」風間俊介ブーム■ フリーアナ思いのTBS 『はやドキ!』は人材の宝庫■ 横澤夏子 女芸人としてレアケースな活躍ぶりの理由