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    崖っぷち『RIZIN』の大博打、格闘技「大晦日特番」は生き残れるか

    るのは確かだ。 それでも、テレビ中継に出演している以上、選手は視聴者と観客の目を意識する必要がある。メディアの質問に「頑張ります」とだけ言って、試合を淡々とこなすだけでは、移り気なユーザーがこのマイナースポーツに興味など示すわけがないことを自覚すべきだ。■「独裁者」山根明を生んだボクシング界の悲哀■日本人には高すぎたミドル級の壁、それでも村田諒太なら超えられる■「ガチンコと品格」を求めたら、相撲になかったことがバレてしまう

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    大晦日はやっぱり『ドラえもん』 世界中で愛される九つの不思議

    横山泰行(富山大名誉教授、ドラえもんアナリスト) ドラえもんは、1969年12月に小学館の学年誌『小学一年生』、『小学二年生』、『小学三年生』、『小学四年生』で連載を開始した漫画である。作者である藤子・F・不二雄氏から、漫画の大好きな日本の子供たちに、素晴らしいクリスマスプレゼントが提供されることとなった。 学年誌などに連載されたドラえもんは、最も多くのファンに愛読された『てんとう虫コミックス短編(第1巻74年8月発行)』、『大長編(第1巻82年12月)』、雑誌『コロコロコミック(77年5月創刊)』に集約して刊行された。79年9月までに第17巻まで刊行されていた『てんとう虫コミックス短編』の累積総販売部数は1500万部に達したと報告されている。 ドラえもんをスーパーアイドルに押し上げ、戦後の代表的な国民的漫画として認知されるに至ったのは、テレビの放映と映画の製作によるといっても過言ではない。 ドラえもんは79年4月から、テレビ朝日系でアニメ放映が始まった。さらに『てんとう虫コミックス大長編第1巻』を原作として、最初の映画『のび太の恐竜』が80年3月に公開された。 このアニメや映画の影響もあり、てんとう虫コミックス短編の累積総販売数は80年2月には、3千万部の大台に乗っている。84年3月には、短編(29巻)、大長編(2巻)の累積総販売数は驚異的な5千万部となった。 また、冬の北海道の一大イベントである「さっぽろ雪まつり」では、80年に雪像の半分をドラえもんのキャラクターが独占した。出版界においても、戦後の日本の社会心理学を牽引してきた一橋大の元教授であった南博氏が『ドラえもん研究』(ブレーン社)を公刊するなど、社会現象になった。 そして、その人気は国外にも拡大する。80年代にアジアを旅行した日本人がいたる場所でドラえもんの姿を見かけるようになり、その事実が新聞やテレビで報道されるようになった。特に、香港、台湾、タイを旅行した人たちに顕著に認められた兆候であった。※写真はゲッティイメージズ アジアで急激にドラえもんが浸透するきかっけになったのは、ドラえもんの漫画の海賊版の横行だったとされる。上記の香港や台湾、タイは日本とともに戦後の豊かさをいち早くアジアで実現した地域でもあったことから、他の国々へドラえもんの流行を促す拠点港になった。 筆者の同僚がタイで調査研究に従事した際、タイでは地図に出ていない小さな村落でさえ、ドラえもんを必ず目にすることができたと、驚きながら語ってくれたことがある。そして世界を飛翔し続けたドラえもんは90年代に中国において、あっという間にディズニーのミッキーマウスをしのぐ人気者になった。中国では一時放映禁止も また、筆者が奉職していた富山大で学んでいた中国・青島出身の女子留学生から次のようなエピソードを聞いた。青島でドラえもんのアニメが放映されると、小学生の間で爆発的な人気になり、長時間ドラえもんのアニメを見るようになったという。 このため、保護者から学校のほか、日本の教育委員会に相当するセクションやテレビ局にも抗議が殺到し、しばらくドラえもんの放映が禁じられる事態に発展した。ところが、結果的には、他のテレビ局が放映を開始したため、失敗に帰したとのことである。 では、なぜドラえもんが日本のみならず、多くの国々の子供たちに支持され、愛されているのだろうか。ここまでドラえもんの歴史や海外で人気を得た過程を見てきたが、本稿の最後に、筆者がこれまでに考察した九つの理由を紹介しよう。 一つ目は、今まで存在しなかった漫画キャラクターであるネコ型ロボットのドラえもんが、日本人の大好きな夏目漱石の『坊っちゃん』や山田洋次監督の映画『寅さん』シリーズに似た個性的な主役像を帯びた点だ。 また、二つ目は、多くの国々で長きにわたってドラえもんが愛されたことに起因するが、時間や空間を超越した普遍的なキャラクター像をドラえもんに盛り込むことに成功した点にある。 三つ目は、理由は定かではないが、ドラえもんが儒教や仏教といった文化的土壌がある国々との親和性が推察でき、これがアジア各国で愛されるゆえんである。その半面、キリスト教の中でもプロテスタントの支配的な国々では逆の結果となっており、あまり支持されていない。 四つ目の視点は、日本の歴史上最も栄華を極めた時期(70~95年)に描かれた作品であることだ。日本だけでなく、アジア地域の中で比較的早く近代化に成功した国々の人々は、近い将来の自分たちの目指す生活をドラえもんに垣間見たようだ。 そして、ドラえもんのほぼ全作品に「ひみつ道具」が登場している点が五つ目だ。ひみつ道具は作品の時間や空間の拡大に貢献し、作品の間口や奥行きの深化に寄与し、ストーリーの多様性を促す結果となった。 また、六つ目としては、ドラえもんがひみつ道具を縦横に駆使して、強きをくじき弱きを助ける存在である点を挙げたい。ネコ型ロボットの世界では、ドラえもんは劣等生であったため、弱者の気持ちを十二分にくみ取り、弱者の立場に立って振舞うキャラクターが共感を呼んだようだ。※写真はゲッティイメージズ 七つ目は、登場人物の関係性だ。のび太を絶えずいじめるジャイアンやスネ夫だが、本当に困ったときには、やさしく手を差し伸べることができる度量の広さをこの2人に持たせたのは、ドラえもんならではないだろうか。 八つ目は、男の子の生活全般の良い点と悪い点が、のび太やジャイアン、スネ夫と準主役の出木杉君によって、リアルに活写されていることだ。ちなみに、女の子の場合、ほとんどしずかちゃん一人の大奮闘によっているため、多様な側面を持った女の子として描かれている。 最後の九つ目は、ドラえもんが漫画の中で、周りの老若男女に愛されている点にある。あの口やかましいスネ夫のママからも「ドラちゃんとだったら安心ざますわ」と、絶大な信頼を獲得しており、その「安心感」も重要な要素だろう。 以上、これらが誕生から半世紀を経てもドラえもんが愛される理由である。■正しく通俗であるがゆえにリアル 「こち亀」が日本人に教えたもの■『少年ジャンプ』伝説編集長が語る「漫画雑誌は一度壊して作り直せ」■さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は永遠の謎である

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    『笑ってはいけない』のベッキーへの尻蹴りが笑えない理由

    位を失った。 「ベッキーは世間から大バッシングを受け、レギュラー番組を全て失いました。最近では多少、メディア露出が増え始めたとはいえ、タレントとしては非常に厳しい状況と言えるでしょう。そんな“強者”から“弱者”になったベッキーを蹴り上げたら、いじめの構図に見えてしまうんです。 笑いは、弱者が強者をいじるところから生まれるのではないでしょうか。たとえば、コント55号は萩本欽一が7歳も年上の坂上二郎を舞台上で追い込んでいった。ボケの二郎さんが突っ込みの欽ちゃんより年上だったから、観客は腹を抱えて笑えた。ビートたけしは欽ちゃんが『視聴率100%男』と言われて権威だった時代に、アットホームな笑いを徹底的に批判しました」(同前)2018年7月、ラジオ番組収録のためエフエム東京を訪れたベッキー(山田俊介撮影) 結果的にたけしは、当時お笑い界の頂点にあった欽ちゃんからその座を奪い、現在もお笑い界のトップに立ち続けている。「下のものが上のものに盾突くから面白いのであって、現在お笑い界の頂上にいると目されているダウンタウンの番組で、人気のなくなったベッキーが蹴り上げられる構図は、世間から見ればいじめに見えてしまいかねない。とても笑っていられる状況ではないと思います。 逆に言えば、現在ビッグ3やダウンタウンに歯向かっていくお笑いタレントはほぼ皆無で、むしろ服従しているようにすら映っている。新たなバラエティ番組のヒットが生まれづらい、いつまでもお笑い界に世代交代が起こらないのは、そこに原因があるのではないでしょうか。オリエンタルラジオの中田敦が昨年、松本人志に意見したことはいつの間にかうやむやになりましたが……。ベッキーへの企画も、誰かが『これは笑えない』と意見できなかったから放送されたわけです」(同前) 昨今のお笑い界が抱える服従構造の延長線上に、ベッキーへの尻キックがあったとも考えられるようだ。関連記事■ ゲス不倫が人間関係に影? ベッキーと上戸彩が共演NGの理由■ 復帰したベッキーはいつまで生娘的なキャラを演じ続けるのか■ 石田ゆり子が3億円豪邸を新築、気になる同居相手■ 小川菜摘 女芸人に浜田の不倫いじられ「前から知ってたわよ」■ 『あさイチ』降板の有働アナ、決定に至るまでの様々な葛藤

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    NHK紅白歌合戦、特別枠に「要らない」と疑問の声出る

     大晦日に放送されるNHK『第69回紅白歌合戦』。北島三郎、サザンオールスターズが出場することも注目を集めているが、彼らは特別枠での出場となる。この特別枠について異論を唱える声が出ている。 紅組、白組で出場する42組の歌手のほかに、北島、サザンの出場は追加で発表された。NHKはこの2組以外にも特別枠でサプライズを狙っているという。 NEWSポストセブンでは20日、「紅白 米津玄師、ドリカム、B’zにギリギリまで交渉か」とのタイトルの記事を配信。ドラマ『アンナチュラル』(TBS系)の主題歌『Lemon』が大ヒットし、一躍時の人となった米津玄師、連続テレビ小説『まんぷく』の主題歌を歌う『DREAMS COME TRUE』、2018年デビュー30周年のB’z側と、交渉を続けているという。 いずれも出場するなら特別枠ということになりそうだ。 ネット上では米津、B'zの出場には可能性は低いとする見方が多く、「いやぁ〜米津さんは出ないと思うな」「少なくともB'zや米津玄師は出場しないでしょ」との声が。ドリカムについてはこれまで何度も出場していることから、「別にドリカムはサプライズにもならない」との書き込みがあった。 特別枠についても否定的な意見が目立った。「特別枠必要? その時間を出演者が一曲フルコーラスで歌える時間に充てて欲しい」「特別枠ばっかりになるんだから、もうそもそも歌合戦というカタチをやめるべきね」 さらには、サザンが大トリ後の最終歌唱を務めることについても「普通に選ばれた方々を差し置いて、特別枠が大トリってどうなんだろう?」との主張もあった。2018年1月、京都競馬場で熱唱する北島三郎 以前は、特別枠はなかったが、その始まりは2008年。美空ひばりさんの生誕70年にあわせて、小椋佳がひばりさんに提供した『愛燦燦』を歌ったのが最初だった。その後、2009年にスーザン・ボイル、矢沢永吉、2011年にレディー・ガガ、2014年に中森明菜、2017年に安室奈美恵さんらが出場している。 こうした特別枠を設ける背景とは?「NHK紅白の“弱体化”と無関係ではないでしょう。年々、影響力が弱くなる紅白は、すでに人気も知名度のあるアーティスト側にとっては、出場するメリットはほとんどないと言っていい。そんななかで、NHKはどうしても出てほしいアーティストに、この特別枠を用意するわけです。“海外からの中継でも”“スタジオからの中継でも”と、出場までのハードルを下げて交渉することもできますからね。また、特別枠は通常の出場歌手を発表してから、本番直前に発表することもできます。サプライズとしてインパクトを与えられますし、ギリギリまで交渉を続けることも可能です。そうした事情を考えると、今後、特別枠で出場する歌手はますます増えていくのではないでしょうか」(芸能関係者) いずれ出場歌手のほとんどが特別枠になったりして?関連記事■ 紅白 米津玄師、ドリカム、B’zにギリギリまで交渉か■ 稲葉浩志、結婚20年の妻と誕生日に銀座デート撮■ 福山雅治の下ネタに吉高「私のオッパイいいでしょ」と返した■ TOKIO城島茂と25才年下恋人との「変装なし」最新2ショット■ 渡辺謙、軽井沢の土地面積1000坪別荘で恋人と新生活

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    漫才道を汚したM-1騒動「敬意なき毒舌」は笑えない

    杉江義浩(ジャーナリスト、放送プロデューサー) お笑い芸人、とろサーモンの久保田かずのぶさんと、スーパーマラドーナの武智正剛さんが、『M-1グランプリ』(ABC、テレビ朝日系)の審査員である上沼恵美子さんに暴言を吐いたとか、上沼さんがそれを受けて謝罪に応じないとか、本当にどうでもいいくだらないニュースを、マスコミが面白げに取り上げました。2018年のくだらないニュース「ナンバー1」に選びたいくらいです。 今のこの時期、マスコミが扱わなければならない重要なニュースは、もっと他にあります。中国の国策IT企業の問題や、わが国の自衛隊が空母を配備する問題、水道民営化や外国人労働者の受け入れ問題など、さまざまな重要な法案が与党による強行採決で進められているのが実態です。これら国民が頭を使わなければならないテーマを、マスコミはもっと取り上げるべきだと思います。 とはいえ、娯楽も国民には必要なもの。芸能界の人々やスポーツ界の人々の言動が、どうしても注目を浴びてしまうだけに、ある意味マスコミの宿命だと言えます。 多くの人に娯楽や感動を与えてくれる、芸能人やスポーツ選手が、くだらない存在だと言うつもりはありません。彼らもまた生活がかかっていて、一芸に秀で、懸命に技を磨き、競争に勝ち残ったものだけが栄誉と報酬を得られる、厳しい世界に生きているのです。 それだけにテレビの有名人には自らの言動が、少なからず国民の興味関心の対象になるという自覚が必要です。それらがマスコミで取り扱われるときには、一般人とは違って大きく紙面を使い、長いワイドショーの時間を使って報道されます。 むろんテレビの有名人の言動が、マスコミで大きく取り扱われるということは、たまには良い意味合いを持つこともあります。今年は元アイドル歌手の女性が起こした、飲酒運転のひき逃げ事件が、一般人より大きく報道されました。 この事件は、飲酒運転、信号無視、ひき逃げ、という道路交通に関する極めて大きな違反が重なっており、われわれ情報の受け手にとっても、交通ルールの重要性を再認識するきっかけになりました。国民に対して、安全運転に対する注意喚起という、一定の役割を果たしていたと思います。 それに対して、今回のお笑い芸人による大御所芸能人への暴言トラブルについては大きな意義を感じません。私も長年テレビ番組を作ってきましたが、この程度の話題がなぜ盛り上がるのか、考えれば考えるほど首をひねります。とろサーモンの久保田かずのぶ=2018年4月、東京・虎ノ門 ただ、今回の騒動で、「芸人」という極めるべき道のあり方について、ベテランと、未熟な芸人の矜持(きょうじ)の違いがハッキリしたことは間違いありません。そもそも芸能界というものは、落語や歌舞伎などもそうですが、その道を極めた人に敬意を払い、芸を見習い、さらに芸を盗んで一人前になるものです。漫才は、落語や歌舞伎などのように明確な師弟関係がない人も多数いますが、漫才についても「漫才道」という一つの道があるように思います。 その中で、今回のとろサーモン、久保田さんらの言動は、師弟関係の厳しい芸能界において、「師匠」に暴言を吐き、しかも技を審査される立場でありながら審査員をけなすという、とんでもなく礼儀をわきまえない行為だったというのは一目瞭然です。まさに漫才道を汚したといっても過言ではありません。仮にスポーツで負けた方が、審判のせいにして暴言を吐けば、これほど見苦しいものはないでしょう。 笑える要素ゼロ その一方で、上沼さんの審査の表現に厳しいものがあるとはいえ、多数いる芸人の中で生き残ってきた大御所だからこそ言える論評であり、そこに説得力が生まれるのではないでしょうか。要は、漫才道の「師匠」としての役割を果たそうとするがゆえの厳しさに他なりません。 象徴的だったのは、上沼さんが久保田さんや武智さんから売られたケンカを買わず、今回の騒動について、「なんとも思っておりません。暴言だなんだって全然結構です。悪いですけど、興味ないです」という程度で、まともに反応していないことです。上沼さんがまともに反論していれば、「どっちもどっち」的な評価で終わっていたでしょうが、上沼さんの対応が、余計に久保田さんや武智さんの評価を落とし、共感する人が少ないゆえんだと思います。 お笑い芸人には反骨精神が必要だという考え方には、確かに一理あります。ビートたけしさんや松本人志さんらも毒舌で知られますが、その「ネタ」には一定の敬意があったように思えます。芸人が表立って発言する以上、それはシャレになるというのが前提です。今回の久保田さんらの暴言には笑える要素が一つもなく、幼稚な反抗にすぎなかったと言えるでしょう。 さらに言えば、これはご本人たち同士の問題であって、周囲からどうのこうのと論評するような話題ではありません。本気で上沼さんが間違っていると思うなら、ネットで拡散するような手段ではなく、内々に抗議するなり、反論すべきレベルのものだったと言えます。炎上すればお笑い芸人にとっては宣伝効果があるかもしれませんが、逆効果になったのは言うまでもありません。 そもそも、こんな話題でも盛り上がれるのは、ネット社会の特徴だと思います。一般のどんな人でもネット上で発言をすれば、一人前のコメンテーター気分を味わえるし、自分が人気お笑い芸人や上沼さんと同レベルで議論に参加しているような、錯覚による興奮を感じることができます。それが面白くて、今回のトラブルに関しても、参加しやすいテーマだと考える人が多かったのでしょう。 そして大手マスコミはネット上で炎上していることに対して、後追いで記事にしてまとめますが、それは単に、ネット上でこんな話題が盛り上がりましたよ、という情報を伝える意味しかないのです。かっぱ寿司のフェア「かっぱのサーモンづくし」スタート記念イベントに出席したとろサーモンの左から村田秀亮、久保田かずのぶ=2018年1月、東京・赤坂 ネット上で議論すべき喫緊のテーマは、他にもたくさんあるはずです。そんな今、お笑い芸人のマナー低下を議論している場合でしょうか。一連の騒動を見ていて、ネット社会の意識レベルの低下の方が、私には深刻に感じられました。 こんな幼稚な話題で盛り上がるのは、これを最後にもうやめましょう。それが今回この話題で盛り上がってしまった方々への、私からのお願いであります。■ やらせへの危機意識を鈍らせた『イッテQ』の芸人依存体質■ 『笑点』政権ネタの炎上騒ぎは起こるべくして起きた■ さすがダウンタウン松本「憲法9条はなめられてる」

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    埼玉新聞に突撃取材「韓国との交流事業中止はネトウヨのせい?」

    に印象操作の意図は本当になかったのか。筆者の取材の限りでは、それは明らかにならなかったが、新聞が公共メディアである以上、明確な裏付けもないままに「ネット右翼、ネトウヨ」などと安易に用いるべきではないと思う。 いずれにせよ、秩父市の職員派遣中止は、筆者の出身地(同県川越市)とも関係するネタであり、特に気になる記事だったことには変わりない。■姑息な言論テロ『竹田恒泰チャンネル』停止祭りの内幕■「ネトウヨ夏のBAN祭り」ヘイト裁きをグーグルに訴える意味■【長谷川幸洋独占手記】異論を封じる東京新聞と私は断固闘う

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    日テレ『イッテQ!』やらせ騒動の本質

    日本テレビの人気バラエティー『世界の果てまでイッテQ!』をめぐり、番組企画のやらせ疑惑が大きな騒動となった。そもそも「存在しない」祭りをでっち上げたのであれば、非難されるのも当然だが、バラエティー番組のやらせと演出の違いについては一考の余地もある。騒動の本質を読む。(番組ロゴは日本テレビ提供)

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    テレビのやらせは必要悪、でも『イッテQ』でっち上げはアウト!

    せん。一方、だからといって即『イッテQ!』がダメな番組だとか、日テレがひどい会社だとか、テレビというメディアがそもそも信頼できないだとか、というインターネットにありがちな論評は、あさっての方向に向かって暴走しているだけなので、私は関与する気はありません。 冒頭で記した通り、テレビ番組が「やらせ」疑惑で糾弾されるのは、今に始まった話ではありません。昔から何度も取り沙汰されては、ひと揉めすることが繰り返されており、もはや定番だとも言えるでしょう。「Nスペ」でもやらせ 少なくとも私が現役時代のNHKでは、1992年に放送されたNHKスペシャル『奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン』が印象に残っています。もう25年以上前ですが、「やらせ」疑惑によって検証番組が作られ、会長の減給6カ月、NHKスペシャル番組部長の減給と解任、そして担当チーフディレクターの停職6カ月という重い処分がなされました。 『ムスタン』の場合どんな「やらせ」があったのか。一つは取材チームが現地に入った際に、スタッフの1人が高山病で倒れた、というシーンがあったこと。実際にはそのスタッフは高山病にはかかっておらず、演技だったということが明らかになりました。 また、現地での雨乞いの様子を撮影したかったので、実際には降雨があったにもかかわらず、雨乞いの儀式を再現してもらった、というものです。いずれも細部の演出であって、番組の本質にかかわるような、根本的な問題ではないと私は個人的に思いました。 この時、第三者委員会が作られ、ノンフィクション作家の立花隆さんを座長に、ジャーナリストの田原総一朗さん、元NHK特別主幹の吉田直哉さん、テレビプロデューサーの今野勉さんといったメンバーが「ドキュメンタリーとは何か」と題し「やらせ」について討論しました。その中で衝撃的だったのは、「やらせ」の一切ないドキュメンタリーなど存在しない、という結論でした。カメラを向けた時点で、すでに演出だからです。 昔は今のように明るいビデオではなく、感度が悪くて1分も回せないフィルムカメラで、ドキュメンタリーを撮影していました。夜行列車で帰郷する男性のインタビューを撮る際にも、車内に煌々(こうこう)と照明をたき、15秒のフィルムにインタビューがちゃんと収まるよう、何度も主人公にリハーサルをし、物々しい雰囲気の中で収録して、あたかも「男性がふとつぶやいた素朴な一言」のように編集して使っていたそうです。 今のカメラでも、放送用の大きいカメラを向けると、ほとんどの人が普段通りの自然な心理状態ではなくなります。カメラを向けた時点で、作為・演出は始まっているのです。街頭インタビューでも、そもそもなぜ隣のおばちゃんじゃなくて、そのおばちゃんにカメラを向けたのか、フレーミングの切り取り方は意図的です。そして20人ほどにインタビューして、その中から「使えそうなもの」2、3人を選んで放送に使います。まさに作為以外のなにものでもありません。 NHK番組『鶴瓶の家族に乾杯』じゃないけど、地方の田舎町にぶっつけ本番で訪ねて行き、地元の庶民の暮らしぶりを取材する、というありがちな企画の番組は、私もいくつか担当しました。たまたま訪ねて行ったご家庭が、地元の伝統産業の職人さんだったり、特産品の農家だったり、また奥さんが地域の伝統料理を台所で作っていたりすると、なかなか面白いアットホームな番組に仕上がります。東京・渋谷のNHK放送センター 農家のご家庭の玄関口にいきなり立って、「NHKですけど、取材させてもらってよろしいですか?」と尋ねると、8割方が「大丈夫ですけど、ちょっと待ってください」と言って奥様がしばらくどこかへ行かれます。 台所で地元の素朴な食材を使って、いつもの家庭料理を作るのどかな風景を撮影したいのですが、その主婦が台所に立ったときには、真っ赤な口紅と念入りなお化粧をしていて、自宅の台所に立つ農家の主婦としては不自然極まりないのです。でも女心ですから文句は言えません。メークが完成したところで、「はじめまして、ちょっと撮影よろしいですか?」とやり直すはめになります。やらせのないテレビはない ささいなことですが、農家の主婦が普段からメークをして台所に立つ、というのは事実ではありません。また、画面では「はじめまして」と言っていますが、本当は初対面ではありません。厳密に言うとこれらも「やらせ」です。これらを私は許される範囲内の「やらせ」だと考えています。テレビ番組はこのような小さな「やらせ」や演出の集合体なのです。 でも、このような紀行番組で、訪れた家庭の奥さんが作った「伝統料理」なるものが、実は存在しなかった、そもそもこの地域にそのような伝統料理はない、ということになったらどうでしょう。番組の根幹に関わる部分で重要な事実関係を偽ったのだから、決して許されないレベルの「やらせ」もしくはデッチ上げということになります。 今回の『イッテQ!』で、問題となったラオスの祭りは、まさにこの決して許されないレベルの「やらせ」だったことは間違いなさそうです。バラエティーだから、娯楽だから甘く見る、というのは先に記した通り、考えられません。フィクションかノンフィクションかの二通りしかないのです。バラエティー番組もノンフィクションであり、スタジオでのタレントのガチなパフォーマンスを、カメラで実況するというドキュメンタリーでもあるのです。 テレビ局のカメラを向けるということ自体が、あるいはテレビ局のスタジオに入れるということ自体が、被写体を日常的な空間ではなくて、非日常的な空間の中へと追いやっている以上、なんの作為もない「真の素のまま」ということはあり得ません。今回のようなデッチ上げは別にしても、常に何らかの演出または作為が加わっていることを差し引いて、テレビの画面は解釈するべきでしょう。『世界の果てまでイッテQ!』のやらせ疑惑に関して謝罪する大久保好男・日本テレビ社長=2018年11月 私はテレビで言っていることを真に受けるな、メディアリテラシー(情報を読み解く力)を磨け、と若い人には言っています。でも、85歳になる私の母親くらいになると、テレビを盲信しています。「だってテレビで言ってたから」と信頼しきっています。公共の電波を使って放送するには、そういった情報弱者を守るべく高い倫理観が求められているはずです。テレビの情報を疑って見ろ、というのは酷な話であり、全幅の信頼を寄せられる存在であるべきです。 厳密には「やらせ」のないテレビは存在しない。そう考える私ですが、今回の文春の指摘はテレビ業界で働く者全てに対して、許されざる「やらせ」とは何かを示し、警鐘を鳴らしているように思います。 いっそのこと『イッテQ!』ほどの番組であれば、自ら検証番組を作り、「われわれはこのようにデッチ上げてしまいました。ごめんなさいスペシャル!」など放送すれば、視聴率も取れるだろうし、贖罪(しょくざい)にもなるのではないでしょうか。

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    『イッテQ』やらせ騒動「名プロデューサー」は週刊文春という皮肉

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 日本テレビのバラエティー番組『世界の果てまでイッテQ!』で放送されたラオスの「橋祭り」企画をめぐり、週刊文春が報じた「やらせ疑惑」が大きな問題となっている。近年のテレビでは度々、やらせや捏造(ねつぞう)が発覚し問題となっているが、今回は国民的人気番組であるだけに、より大きな騒動となって関心を集めている。 テレビにおけるやらせや捏造は古くからある。かつてはテレビ朝日『川口浩探検隊シリーズ』(1978~1985年放送)などのように、真剣な探検を装いながらも、多くが「演出」によって彩られていた人気番組は決して少なくない。むろん、視聴者の側も「やらせをやらせ」と理解しつつ、「もしかしたら…」というギリギリのリアリティーを楽しむ。そこにはエンターテインメントへの寛容な感性があったのである。 フェイクドキュメンタリーやリアリティーショーの魅力は、ドラマでも報道でもなく、それでいて見る者にリアルなハラハラ、ドキドキを感じさせる技術と表現にある。そして、視聴者の側にも当然、それを理解できる寛容さが求められる。作り手と視聴者の「共犯関係」で楽しむフェイクドキュメンタリー、リアリティーショーは今日でも名作、人気作品が世界的に多い。 しかしながら、日本では近年、メディア業界のコンプライアンス(法令順守)意識の高まりに伴い、そのような表現の問題点が指摘されるようになり、少なくとも『川口浩探検隊』のような作品はもう二度と作られないとさえ言われる。やらせと演出の「境界線」に関する議論が、ニュースになることも多い。 フェイクや台本、演出がある以上、それをドキュメンタリーや記録映像のように描いてはならない、視聴者に誤解を与えてしまうような表現は許されないという前提は今日、テレビ放送全てに当てはめられる傾向にある。報道と天気予報以外のほとんどのテレビ番組が創作物であるにもかかわらず、だ。 そうなれば、自ずと「前人未到のジャングル探検」もできないし、「UFOと米軍の密約」や「秘密組織による超能力兵器開発の証拠」も出すことはできなくなる。その結果、テレビ番組の表現にも制約がかかるし、もちろんつまらなくもなる。2018年11月、東京・渋谷で行われたイベントの後に『世界の果てまでイッテQ!』のやらせ疑惑について謝罪する宮川大輔 「第三の権力」であるメディアに誠実さを求めるという近年の流れには、筆者も大いに賛同するが、その一方で視聴者がテレビのエンターテインメント性に対して過敏になりすぎていることに違和感を覚える。ここで言う「視聴者」とは、主要な接触メディアがテレビであるという高齢者層ではなく、自ら情報発信する会員制共有サイト(SNS)なども使いつつテレビに接触する層を指す。 今回の『イッテQ!』やらせ騒動では、民放とはいえ、公共の電波を利用しているテレビが、事実とは異なる表現をしたことに不信感を持つことはやぶさかではない。しかしその一方で、『イッテQ!』の今回の番組作りをひたすら批判し、糾弾する状況に違和感を持っている人は何も筆者だけではあるまい。バラエティーに求める信頼性って? 「『イッテQ!』は単なるバラエティーでしょう?」。そうした番組本来の位置づけを忘れている人があまりにも多いように感じる。もっと言えば、そもそもバラエティー番組に公正さや正確さを厳密に求める風潮に対しては「エンターテインメントを楽しむことができる知性」の欠如も感じる。 コンプライアンス意識の高まりも重要であるし、SNSで頑張る「モノを言う視聴者=インディーズ評論家」の存在も悪いわけではない。しかし、『イッテQ!』は誰がどう見てもバラエティー番組である。記録映像や教育ドキュメンタリーのような作りにはなっていない。視聴者も真剣に応援したり、ハラハラ、ドキドキを感じていたとは思うが、最終的にはバラエティーとして楽しんでいたはずである。同じエベレスト登山の番組にしても、『イッテQ!』でお笑い芸人のイモトアヤコが登る時と、「記録映画」で冒険家の植村直己を見る時とでは、視聴者の見方も感じ方も全く違うはずだ。そもそも視聴者だって異なるだろう。 ただし、『イッテQ!』はバラエティー番組であるが、出演者(挑戦者)たちの「ガチンコ勝負」を標榜(ひょうぼう)している。出された課題に真剣に取り組んでいる出演者たちは、それが何であれ真剣勝負であっただろう。多少の誇大表現やテレビ映えする芸としての「演出」はあったにせよ、挑戦それ自体に嘘があったとは思えない。それは見ている側にも十分に伝わる。その意味では『イッテQ!』という番組自体が「やらせ番組」「捏造番組」とのそしりを受けるほどの騒動とは思えない。 例えば、格闘技などの試合中継を見ると、「ブラジル最強の男」とか「世界最速のキックを持つ男」などさまざまなうたい文句が登場する。選手の特徴や強さを分かりやすく表現するためのキャッチコピーである。それらは当然、科学的に「ブラジル最強」や「世界最速のキック」を検証したわけではないだろう。しかし、一部の例外を除けば、試合自体は真剣勝負であり、選手も観客もそこに疑いはない。キャッチコピーが正確さを欠いていたり、誇張表現だとしても、試合の真剣勝負をやらせとは思わないことと同義である。 「橋祭り」が以前からラオスに存在していたイベントであったのかどうか、という一点において、番組自体を「やらせ番組」「捏造番組」であると決めつけて糾弾し、ともすれば番組終了にまで追い込むような風潮は、今後ますますテレビ番組、特にバラエティー番組をつまらなくするのではないか。糾弾する人たちはテレビの将来に何を見ているのか。メディアの信頼性の問題といえばそれまでかもしれないが、バラエティーに求める信頼性とは一体何なのか。出演者の誠実さ以外、少なくとも筆者には思い浮かばない。 SNS時代の今日、従来であれば発覚しなかったような不正やごまかしも容易に指摘・検証され、発覚してしまう。そういう時代だからこそ、作り手にはより強い慎重さが求められる。視聴率という「甘い汁」に惑わされた日本テレビにも、そういう認識への甘さがあったことは明白だ。しかしながら、視聴者の側にもバラエティー番組をどのように楽しむか、楽しめるのかという、いわば「エンターテインメント・リテラシー(読解力)」が求められる時代になっているとも感じている。 今回の「橋祭り」の企画が実際にはどのような経緯で成立したかは当事者しか知りようがないが、個人的にはラオスの伝統を蹂躙(じゅうりん)したり、その文化風習を捏造した作りになっているようには思えない。強いて言えば、海外のテレビ番組が、ハロウィーン当夜の渋谷に若者たちがコスプレ姿で殺到して乱痴気騒ぎをする光景を「日本のハロウィーン文化」のように紹介しているケースに近い。これを「日本の文化」とされてしまうのはちょっと違う。日本政府だって「渋谷で大人たちがコスプレをして騒ぐことが日本のハロウィーン文化ですか?」と聞かれれば、きっと「ノー」と答えるだろう。ハロウィーンに対して「日本文化の捏造である」と目くじらを立てて怒る日本人がそんなにいるとも思えない。ハロウィーンの日の東京・渋谷(ゲッティイメージズ) 今までバラエティー番組として楽しんでおきながら、急にバラエティーには本来求められていない正確さや客観性の欠陥を発見したら、鬼の首でも取ったかのように「やらせだ、捏造だ」と騒ぎ立てることに何の意味があるのか。視聴者の側も改めて考えてほしい。そこには、ゴシップやスキャンダルを楽しむというエンターテインメント以上の意味を見いだすことはできないはずだ。 筆者は、今回の『イッテQ!』のいかにもバラエティー番組然とした作り(「筋肉バラエティー」にありがちな鉄骨のセットや巨大なボールの障害物など)を見て、それがラオスに古来伝わる伝統的な祭りであるとは思わなかった。「内輪でやっているゲームでしょ?」程度の感想だ。そもそも伝統的な行事に巨大なボールなど出てくるはずもない。そんなことは誰でも分かるのではないか。新たな「総合エンターテインメント」 しかし、その一方で、水上の狭くて粗末な橋を自転車で渡る、というアトラクションを見て「何かラオスの文化にゆかりがありそうだな」とも感じた。なぜなら、ラオスを代表する観光地、メコン川流域にある世界遺産ルアン・パバンという街では、川にかかる幅1メートルにも満たない竹でできた粗末な橋「バンブーブリッジ」もまた、「インスタ映え」する名物スポットであったからだ。 ラオスの世界遺産は、このルアン・パバンとワット・プーの二つしかないので、ラオスを訪れる年間300万人超の外国人観光客にとって「バンブーブリッジ」は決して無名な場所ではない。安全性に難のあるような「不安定な橋を渡る」という行為は、ラオス観光では比較的知られた「天然のアトラクション」であり、少なくとも筆者はそこに「橋祭り」企画との関連性を感じた。 番組を象徴するイモトの体を張ったバラエティーを超えた出演が、一見すると、ドキュメンタリーや記録映像のように誤解・錯覚をさせてしまったこともあるだろう。だとしても、「完全なバラエティーである」という前提を忘れてはならない。むしろ、「エンターテインメント・リテラシー(読解力)」を欠如しつつ、インディーズ評論家化した視聴者が一方的にリアリティーを求めすぎていているだけのようにも見える。 エンターテインメントの世界では、ジャングルはいつでも「前人未到の密林」であるし、出される資料は必ず「トップシークレット」である。男女間のもつれで犯罪を行う女性の多く「美人毒婦」であるし、来日する格闘家は常に「地上最強」である。ごく普通の一般人でも「内部事情に詳しい関係者」なのだ。それを「やらせ」「捏造」と捉えるか、「エンターテインメント手法の一つ」と捉えるかは、見る側の知性と感性、そして寛容さにかかる。 エンターテインメントの在り方が今、大きく変容している。この事実もまた忘れずに付記しておきたい。 バラエティー番組であるという前提を考慮に入れず、テレビ番組の中での過剰な演出や誇大表現などを「やらせだ、捏造だ」と糾弾し、それをネット民たちが騒ぎ、拡散し、テレビのニュースとなり、ひいてはテレビ局の社長や放送倫理・番組向上機構(BPO)、時には政治家などをも巻き込んだ大騒動へと発展する。その一連の騒動自体が、視聴者やネット民を楽しませる、見事にネットとテレビが融合した「総合エンターテインメント」になっているように思えてならない。 今回の件でも「ラオス政府が動き出した」とか「ラオス政府関係者によれば」といった報道も散見されるが、ニュースソースはどこなのか。ラオス政府関係者とはいったい誰なのか。『イッテQ!』のやらせ疑惑以上に「疑惑」がある。それもまた「総合エンターテインメント」を彩る演出の一つになっている。ラオスの世界遺産ルアン・パバンにある「バンブーブリッジ」(ゲッティイメージズ) 週刊文春は、そういった「総合エンターテインメント」における主役であり、視聴者を楽しませる名プロデューサーでもある。ネット上に無数に存在するSNS民たちは細かい検証をしたり、コンテンツを作ったり、拡散にいそしむ「敏腕ディレクター」であり、小回りのきく機敏な「アシスタント・ディレクター(AD)」だ。テレビ局幹部や有名タレントという豪華な「エキストラ」もいい味を出している。さらには、元テレビ局員を称する文化人や大学教授などまでが登場し、「現場を知る」という立ち位置で自分のかつての職場に対して無責任な断罪をしてトドメを刺そうとする。 「娯楽の王様」の座から陥落したテレビに代わって消費者を楽しませる「総合エンターテインメント」の中で、名プロデューサー、敏腕ディレクターたちに踊らされている視聴者もテレビ関係者たちも、そろそろこの新しいエンターテインメントの構造に気が付いた方が良いのではないか。

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    やらせへの危機意識を鈍らせた『イッテQ』の芸人依存体質

    飯田豊(立命館大産業社会学部准教授) バラエティー番組の「演出」については、報道番組やドキュメンタリー番組における「情報」の捏造(ねつぞう)や改竄(かいざん)などとは異なる次元で、これまで繰り返し「やらせ」との境界が問われてきた。 もっとも、1980年代にはテレビ全体の「バラエティー化」が指摘されるようになり、お笑い番組に限らず、多くの報道番組や情報番組、音楽番組やトーク番組などが、少なからず共通した演出技法に基づいて制作されるようになった。その結果、現在では「情報バラエティー」や「音楽バラエティー」、「トークバラエティー」といった、ハイブリッドな番組ジャンルが定着している。 『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系、2007年〜)は、いわゆる「ドキュメントバラエティー」の系譜に位置づけられる。ドキュメンタリー番組や紀行番組の特徴を兼ね備えているからこそ、バラエティー番組といえども、過度な演出は許されないという意見が根強い。 ドキュメントバラエティーの技法は、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ、1985〜96年)が先鞭(せんべん)をつけ、1990年代に洗練された。『進め!電波少年』(日本テレビ、1992〜98年)、『ASAYAN』(テレビ東京、1995〜2002年)、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ、1996〜2002年)などが代表的だ。 『進め!電波少年』では、1996年にお笑いコンビの猿岩石がユーラシア大陸横断ヒッチハイクを達成したが、飛行機を使って紛争地域などを回避していた事実が後になって発覚し、(極めて賢明な判断でありながら)番組内で伝えていなかったことが厳しく批判された。 その一方、『ウンナンのホントコ!』(TBS、1998〜2002年)内で人気を集めた「未来日記」シリーズ、あるいは『あいのり』(フジテレビ、1999〜2009年)のように、主として一般人を起用したドキュメントバラエティーも人気を博した。※写真はイメージです(GettyImages) これらの番組はいずれも、あくまで脚本に沿って演出された「物語」に乗せて、出演者の喜怒哀楽を表現していた。過剰な演出や不自然な演技を含めて楽しむ(=テレビが「やらせ」なのは当たり前!)という冷めた視聴態度を育んでいった半面、インターネット上の電子掲示板などでは、これを全面的に敵視する見方(=テレビなんて「やらせ」だから嫌い!)も目立つようになる。 ドキュメントバラエティーに限らず、例えば『さんまのSUPERからくりTV』(TBS、1992〜2014年)に代表される、一般人の言動が笑いを誘う番組には、大抵「やらせ疑惑」がつきまとう。インターネットの普及に伴い、テレビに対する敵意が可視化されたことに加えて、番組に出演した一般人、ロケの協力者や目撃者などによって、制作の手の内がバラされやすくなったことも無視できない。番組制作者の甘え 結果的に2000年代以降、バラエティー番組の中で一般人が大きな役割を担う機会は格段に減っていき、ドキュメントバラエティーもお笑い芸人を中心にキャスティングされるようになっている。  『「テレビリアリティ」の時代』を著した大見崇晴は、『ぷらちなロンドンブーツ』(テレビ朝日、1997〜2002年)の変化に着目している。この番組は、浮気をしている(と思われる)女性に対する捜査を、恋人の男性が依頼する「ガサ入れ」コーナーをはじめ、一般人を起用したコーナーで人気を獲得したが、当初から週刊誌などで「やらせ疑惑」が報じられていた。そこで番組は次第に、芸能人たちの心理戦に焦点をあてたゲーム企画に比重を移していった。 大見が指摘するように、「芸人たちは『お笑い』というゲームのプレーヤーとして自己を演じることに巧みになり、視聴者たちはプレーヤー(を演じる芸人)の心理を、評論家的立場から楽しむというスタンスに移行する」(前掲書、304頁)。この変化こそが『アメトーーク!』(テレビ朝日、2003年~)や『ロンドンハーツ』(テレビ朝日、1999年~)の成功につながっていく。 『アメトーーク!』について、お笑い評論家のラリー遠田は近著の中で、「ひな壇芸人」「先輩・後輩ハッキリさせようSP」といった企画を通じて、芸人たちの知られざる「職人的な世界」を視聴者が学んでしまったこと、いわば「ドキュメンタリー」の様相を呈していることが画期的な点であったと考察している。 したがって、90年代のドキュメントバラエティーに比べると、「ドキュメンタリー」と「バラエティー」は現在、芸人たちの「コミュニケーション能力」や「空気を読む力」――その無双ぶりを社会学者の太田省一は「芸人万能社会」と呼んでいる――に支えられ、より自然で、安全な形で結びついているといえるだろう。※写真はイメージです(GettyImages) しかし、裏を返せば、冒頭で述べたように、こうして番組のジャンルが融解しているからこそ、バラエティーであるという理由だけで、過剰な演出が免責されることはない。その代わり、そもそもドキュメンタリーだからといって、一切の演出や脚色が許されないわけでもない。 皮肉なことだが、芸人たちの「空気を読む力」や「ソツのなさ」が卓越しているからこそ、いつしかそれに番組制作者が甘えてしまい、演出という行為につきまとう危うさに対して、感性が鈍ってしまっている恐れはないだろうか。※参考文献・高野光平『テレビと動画 ―ネットがテレビを乗り越えるまで』(高野光平、加島卓、飯田豊編著『現代文化への社会学 ―90年代と「いま」を比較する』北樹出版、2018年)・ラリー遠田『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり ―〈ポスト平成〉のテレビバラエティー論』(イースト新書、2018年)・大見崇晴『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)・太田省一『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書、2016年)

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    「バラエティーだからセーフ?」やらせ疑惑『イッテQ』の盲点

    ラリー遠田(お笑い評論家、ライター) 『週刊文春』で報じられた『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)のでっち上げ疑惑が話題になっている。文春(11月15日号)では、番組側が実際には存在しないラオスの「橋祭り」を捏造(ねつぞう)したのではないかと疑問が投げかけられた。 日本テレビは、これに対し「現地では初めて行われる祭りだったと判明した」と誤りを一部認めるような文書を発表した。その後の文春(11月22日号)には、続報として過去の放送で紹介されたタイの「カリフラワー祭り」も実在しないのではないかという記事が掲載された。日本テレビはこれを受けて謝罪のコメントを発表し、「祭り企画」は当面の間休止することとなった。 この問題を考えるには、そもそも「やらせ」とは何なのか、ということをはっきりさせなくてはいけない。だが、これがなかなか難しい。テレビ制作者の間でも細かい点について意見が食い違う部分がある上に、制作者と視聴者の間にもかなりの認識のズレがあると思われるからだ。 私自身は過去にテレビ制作会社でアシスタントディレクター(AD)やディレクターとして番組制作に携わったことがある。その経験も踏まえて、やらせというものをどう考えればいいのか、自分なりの見解を示すことにしたい。 「やらせ」を辞書で引くと「テレビのドキュメンタリーなどで、事実らしく見せながら、実際には演技されたものであること」(『デジタル大辞泉』より)とある。つまり、事実ではないことを事実であるように誤認させるような行為が、やらせの定義ということになる。※写真はイメージです(GettyImages) これを現場の感覚に即して分かりやすく言い換えるなら、「0を1にするのがやらせ。1を2や3にするのが演出」ということになる。この定義自体には多くの制作者が同意するのではないかと思う。もともと存在しないものをあるように見せるのは明らかに行き過ぎた行為だが、存在するものを少し加工して面白さや分かりやすさを付け足すのはある程度までなら問題はないと考えられているのだ。 私はドキュメンタリーの制作に携わっていたこともあるが、実在する人物や実際の事件を題材にするドキュメンタリーですら、取材対象をありのままに撮るだけで番組ができる、ということはまずない。そもそもどういう企画なのか、そのために何をどうやって撮るのか、それをどうやって編集するのか、ということを考えるのが制作者の仕事である。何の意図も演出もなく、ただ撮っただけの映像を並べても、面白い番組にはならない。制作者と視聴者のズレ テレビ業界で撮影された映像のことを「素材」と呼ぶのもそのためだ。映像は番組作りのための素材である。これは料理で言うところの食材にあたる。食材としての野菜や肉を冷蔵庫から取り出して並べるだけでは料理が完成しないのは明らかだろう。焼いたり、煮たり、調味料を加えたり、といった手間を加えることで料理ができる。テレビ番組もそういう風に作られている。 ないものをあるように見せたり、明らかな嘘をついたりするのはルール違反である。ただ、番組を面白くしたり、分かりやすくしたりするために、巧妙にやらせを回避しながらギリギリのところを狙うのは演出の一部として許容されている。 例えば、嘘をつくのは問題だが、あえて都合の悪い情報を伏せておくのは間違いとはいえない。取材対象を取り上げるにあたって、どの部分をどういう風に扱うかというのは演出の範囲だと考えられるからだ。これが「1を2や3にする」という部分である。 ただ、この点に関しては、制作者と視聴者の間でかなりの認識のズレがあるのではないかと思う。テレビ業界で仕事をした経験のある私の目から見ると、視聴者の多くはテレビをあまりにも純粋に見ているのではないか、と感じることが多い。テレビで報じられていることは、そのまま真実であるかのように何の疑いもなく盲信している人が結構な割合で存在している気がする。 仮に、制作者がこっそりやっている「演出」をすべて白日の下にさらしたら、恐らく多くの視聴者は「だまされた! あれは『やらせ』だったのか!」と感じるのではないかと思う。立ち上がって謝罪する大久保好男日本テレビ社長=2018年11月、東京都(森岡真一郎 撮影) 制作者が「1を2にしているだけ」と考えていることでも、視聴者からは「それは0を1にしているのと同じじゃないか!」というように見える場合はある。そのぐらい制作者と視聴者の間には感覚的な違いがある。 今回の『イッテQ!』の騒動に関しては「バラエティーなんだからそんなに目くじらを立てる必要はない」という擁護論もあった。だが、私はこれには異論を唱えたい。テレビはテレビであり、バラエティーにだけ何らかの特権が与えられたり、例外が許されたりしているわけではない。「やらせは絶対に許されない」という基本的なルールは同じだ。「致命的」なやらせなのか? ただ、バラエティーでは見る側の意識が違うのである。報道番組ではそこで報じられるニュースの一語一句が間違いのないように作り込まれているのに対して、バラエティーではそこまで厳密に考えられていない場合もある。 なぜなら、視聴者の間にそれを演出の一部として許容する感覚があるからだ。番組が面白ければ、そして番組の核となる部分に嘘や間違いがなければ、特に問題はないと思う人が大半だろう。 今回の『イッテQ!』の騒動で番組側を擁護する意見が目立っていたのは、文春で指摘された「祭り捏造疑惑」が、視聴者の多くにとっては特に核心的な問題だとは感じられていなかったからだろう。 『イッテQ!』の面白さは、宮川大輔、イモトアヤコなどのタレントが海外ロケで体を張って過激な企画に挑戦するところにある。現地で実際に祭りが存在するかどうかは特に重要だと思われていなかった。だから見逃されたのである。 例えば、今回の疑惑が「イモトアヤコは本当はキリマンジャロに登っていなかった!」といった内容だったとしたら、間違いなくもっと大きい騒動になっていたはずだ。なぜなら、制作者が最もこだわっている「挑戦」の過程そのものに嘘があったとしたら、それはこの番組の核心にかかわる致命的なやらせであるということになるからだ。お笑い芸人、宮川大輔=2010年10月、東京ビッグサイト(撮影・千村安雄) ただ、今回はたまたま多くの視聴者がやらせを問題視しなかっただけであり、やらせが悪くないわけではない。外国の文化について誤った情報を発信したことは事実であり、その責任は決して軽くはない。日本テレビも本件については事実を認めて謝罪している。 ここまで述べたように、やらせと演出の違いは曖昧なものである。このため、制作者は無意識のうちに境界を踏み越えてやらせと呼ばれるような行為に手を染めてしまうことがある。それがどれほど深刻なものであるかということは「バラエティーならセーフ」「視聴者が気にしなければセーフ」といった大ざっぱな一般論に頼るのではなく、あくまでも個別に考えて判断していくしかないだろう。

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    『イッテQ』やらせ報道で今後の視聴率への影響は?

     日本テレビの人気番組『世界の果てまでイッテQ!』が窮地に追い込まれている。11月8日発売の『週刊文春』が、同番組で5月20日に放送された「橋祭りinラオス」のやらせ疑惑を報道。日テレ側は「番組サイドで企画したり、セットなどを設置した事実はなく、また番組から参加者に賞金を渡した事実もございません」と否定していたが、大久保好男社長が15日の会見でその見解が誤りであると認めた。 同日発売の『週刊文春』は、「カリフラワー祭りinタイ」のやらせ疑惑も報道。大久保社長は一連の騒動を謝罪するとともに、祭り企画を当面休止することも発表した。 日テレ看板番組のやらせ騒動は視聴率にどう影響を与えるのか。8日の報道直後の11日放送分は16.6%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)と相変わらずの高視聴率を記録した。テレビ局関係者が話す。「問題発覚後の初回から大きな下落はまずありません。視聴習慣が根づいているし、話題になっていることもありますからね。それよりも、数か月後どうなっているかに注目すべきです」(以下同) テレビとやらせの問題は今に始まったことではない。代表的な例を挙げれば、1985年の『アフターヌーンショー』(テレビ朝日系)、1999年の『愛する二人別れる二人』、2007年の『発掘!あるある大事典II』、2013年の『ほこ×たて』(いずれもフジテレビ系)という人気番組でやらせが発覚し、終了に追い込まれている。 一方で、“やらせ疑惑”が報じられた後も続いた番組もある。『イッテQ』と同じように日曜のゴールデン帯で、ファミリー層に人気の高かった『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)は1992年から放送され、1990年代後半にはコンスタントに視聴率20%台を記録していた。しかし、2000年3月13日、18日発売の『週刊ポスト』が2号連続で〈さんま超人気番組「からくりTV」の街頭インタビューはヤラセだった!〉〈さんま「からくりTV」“酔っ払いサラリーマン”もヤラセ俳優だった〉と疑惑を投げ掛けた。21日発売の『週刊女性』にも〈さんまどうする『からくりTV』やらせ告発〉の文字が踊った。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「一般通行人を呼び止めてセイン・カミュがインタビューする『からくりファニエスト・イングリッシュ』や『サラリーマン早調べクイズ』のコーナーで、エキストラ会社などから人を集めて、オーディションを行ない、合格者を出演させていることが発覚したのです。 これは演出か、やらせか判断の分かれる所でもあり、番組は継続することになりましたが、視聴者が拒否反応を示したことは、数字が物語っています。 疑惑前である2月6日から3月5日まで、『からくりTV』は5週連続で19%以上を獲っていました。それが『週刊ポスト』の新聞広告が掲載された3月12日に17%となり、13日、18日と疑惑報道が続いた後の19日の放送では16.8%と落ちていた。もちろん、これを報道の影響と一口で済ますには安易ですし、充分な高視聴率です。 ただ、12日、19日とも裏番組の『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)に敗北。この年初めての出来事でした。この同時間帯のライバル関係は、現在の日テレ『イッテQ』とテレ朝『ポツンと一軒家』に似ています」看板番組にも陰り? 日曜ゴールデン帯が日本テレビの一人勝ち状態だった数か月前と違い、昨年10月から不定期放送していたテレビ朝日の『ポツンと一軒家』が今年10月からレギュラー化され、全て2ケタ視聴率を記録。11日、19時からの2時間スペシャルでは最高の15.4%を獲得。『イッテQ』には1.2%及ばなかったが、日テレの19時台『鉄腕DASH』の14.6%を上回っている。「2時間番組と1時間番組を単純に比較はできませんが、日テレにとって脅威であることは間違いない。『からくりTV』と『鉄腕DASH』の例を振り返ると、当時4月以降は巨人戦があったため2番組の直接対決は減りましたが、4月から7月までは2勝2敗の五分。7月2日、14.4%の『からくりTV』は20.1%の『鉄腕DASH』に大きく引き離されました。 翌週の『からくりTV』は12.9%とやらせ疑惑発覚前では考えられない数字に落ち込みます。これも含め7月、8月で12%台、13%台を各2回ずつ叩き出し、下落が顕著になりました。やらせ報道が全てとは言い切れないが、影響があったのは確かでしょう」 野球シーズンの終わった10~12月、2番組の直接対決では『鉄腕DASH』が7勝2敗と圧倒した。 「やらせ疑惑の出る番組は珍しくないですが、『イッテQ』は『からくりTV』と同じく日曜ゴールデン帯という時間帯、家族みんなで観られるという特性を持っている。そのため、いずれ数字に影響が出るでしょう。まして、テレ朝に人気番組が出てきたため、視聴者は乗り換える選択肢ができた。『イッテQ』に救いがあるとすれば、最近のテレビ局は長時間のスペシャル番組を連発して、視聴習慣を身につけさせられていないこと。テレ朝の日曜の編成もその傾向が強かった。その反省からなのか、『ポツンと一軒家』は10月7日の開始以来、毎週放送してきました。しかし、11月18日は休止に。 テレ朝がスペシャル番組の乱発から脱して、毎週日曜20時に『ポツンと一軒家』を放送し続ければ、『イッテQ』を抜く日も遠くないかもしれません」 相次ぐ疑惑が表面化した『イッテQ』。4年連続視聴率3冠王を続けている日テレにとって、単なる一番組の問題に留まらない影響を及ぼすかもしれない。関連記事■ 『イッテQ!』の全祭りを検証、11個が存在を確認できず■ 『イッテQ!』ヤラセ疑惑を大特集するフジに「鬱憤晴らしか」■ 広瀬すず&アリス 「彼氏できても仕事優先」と相互監視■ 親友同士だった満島ひかりと安藤サクラが絶縁状態になるまで■ 長谷川博己、鈴木京香との結婚Xデーは? 休日おひとり撮

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    大間の「若手No.1」漁師 マグロ番組ヤラセ疑惑に余裕の反論

     「ネットでヤラセじゃないかって指摘されてるの見たけど、このシロートが! って思ったね」 そう憤るのは、青森県・大間のマグロ漁師・南芳和さん(33)だ。彼が出演したドキュメンタリー『マグロに賭けた男たち』(テレビ朝日系、2月18日放送)で、釣り上げた直後の映像に不自然な点があるとネット上で指摘が出たのだ。 同番組は、2003年から続く青森県・大間に住むマグロ漁師を追った2時間枠の人気ドキュメンタリー。2月18日に放送された回では、大間で「若手ナンバーワン」と紹介された南さんが弟とともに兄弟船でマグロを釣り上げる場面に密着している。 指摘されたのは次のような内容だ。 「釣り上げたばかりのマグロの眉間に神経締めをしたような跡があるが、この細かい作業を海中で処理することは不可能なため、ヤラセの可能性が高いのではないか」 神経締めとは、魚の眉間に細い穴を開けて針金を通すことで“脳死状態”にさせ、鮮度を保つという技法。一般的には魚を船上に釣り上げてから行なわれるため、釣ったばかりのマグロに神経締めの跡があるのは不自然というのだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 実際はどうなのか。真相を確かめるべく、記者は大間まで飛んだ。 漁を終えて仲買人の事務所の畳スペースで仲間たち4~5人とくつろいでいた南さん。体重100キロ超と思しき巨漢で、首には金色のネックレスをかけており、一見すると強面だ。思い切って本題を切り出した。──釣ったばかりのマグロに、すでに神経締めの跡があったことから、ヤラセではないかと言われていますが、実際はどうなのですか? 「ああ、あれはさ、わい(俺)はマグロにカギをひっかけてクレーンでぶら下げた状態で神経締めしているけえ、甲板さ上がったときにはもう穴が空いとるんだ。普通は甲板の上でマグロば押さえつけて神経締めするけど、わいは少しでも鮮度を良くして美味いマグロば届けたいけえ、そうしとるんよ。研究した結果じゃけえ、ヤラセは絶対にないよ」あまり言いたくなかった理由 その後、放ったのが冒頭の一言だ。南さんが続ける。 「わいは役者じゃないけえ、カメラの前で芝居みたいなことしたら、ぎこちなくなってしまう。でも、神経締めの跡があるからおかしいとか、ずいぶん細かいところまで見てるんだなあと感心したわ」 また、漁の“こだわり”についても語ってくれた。「お客さんがせっかく大間のマグロさ食ったのに、思ったより美味くないなんてことがあったら申し訳ないけえ、鮮度には一番こだわってる。クレーンで吊り上げた状態で神経締めしているっていうのは、真似されたくないからあまり言いたくなかったけど、疑惑があるならちゃんと答えたいからね」 クレーンで吊った状態で神経締めしているシーンはテレビでは放送されなかったため、誤解を招いてしまったというわけだ。テレビ朝日もこの件について、次のように答えた。 「マグロは船に引き揚げる直前にクレーンで吊るした状態で神経締めをしており、やらせというご指摘は全くあたりません」(宣伝部) 南さんは、「こんなふうにネットで叩かれるのが面倒だからテレビに出たくなかったんだけど……でも、大間のマグロのことを多くの人に知ってもらえたなら、出て良かったよ」と笑っていた。◆取材・文/西谷格(ジャーナリスト)関連記事■ 1.5億マグロ釣った漁師 父も過去に最高額マグロ釣り上げた■ 止まると死ぬといわれるマグロ 実際は止まっても死なない■ 1.5億マグロ釣った漁師 やっかみの声やいたずら電話に悩む■ 大間のマグロ漁船のTV取材 一回につき10万円弱の謝礼が相場に■ 一攫千金狙って若い漁師が奮起 マグロ出荷増加し初競り暴落

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    「テレビがつまらない」は本当か?

    「地上波テレビ、衝撃の凋落」。脳科学者、茂木健一郎さんのブログ記事に反響が広がっている。オワコン発言でも物議を醸したのは記憶に新しいが、それでもテレビが持つ影響力は今も絶大である。テレビのオワコン化は本当なのか。深層を読む。

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    テレビはオワコン? 「離れの時代」に考える最強メディアの価値

    影山貴彦(同志社女子大メディア創造学科教授) 「これまで社会で人気を誇っていた対象物から、若者が距離を置き始めている。いわば現代社会は『離れの時代』ともいえる」と、数年前から大学の講義のマクラでしゃべることが、定番化しつつある。 私の専門は放送を中心としたメディア研究、メディアエンターテインメントだ。さしずめ専門ジャンルから「離れ」のキーワードを引っ張れば、「テレビ離れ」となるだろう。 DeNAトラベル(現エアトリ)が、「あなたが感じる若者の○○離れについて」10代から70代の男女計1184人に、今年2月にインターネット調査を行った結果がある。 総合順位では、1位・車離れ、2位・新聞離れ、3位・読書離れ、4位・結婚離れ、5位・お酒離れとあり、「テレビ離れ」は6位にランクインしている。ただ、これを年代別に見てみると、20代以下、30代ともに「テレビ離れ」の回答が3位に上昇する(1位と2位は総合順位と同じ)。 ちなみに40代では、「テレビ離れ」は4位、50代以上ではさらに下のランキングとなる。若者と呼ばれる世代、当の本人たちが「テレビ離れ」をより感じているということになる。2018年6月、10代のテレビ離れを説明するインスタグラムのシストロムCEO(共同) と、ここまで書くと、「ほら、やっぱり若者のテレビ離れだよ」とか「ネットに食われてるからね」とか「娯楽が多様化してるもんな~」など、もっともらしいオチをつけて話を締めるケースが世間の定番だ。だが私は、本当に「テレビ離れ」が進んでいるかどうかについては、もう少し時間をかけてじっくりと考察する必要があると思う。 ネット時代といいながら、その中で盛り上がっている話題は、かなりの確率でテレビ・芸能関連のネタであったりする。それに、録画や見逃し配信を加えたいわゆる「総合視聴率」の調査が本格的に始まってから日も浅い。「最近面白い番組がない!」と揶揄(やゆ)されながらも人々の話題を数多く提供しているのは、今もなおテレビではないか、と放送マン出身の私は、いささかひいき目に見てしまうのである。 とはいえ、テレビが現在右肩上がりのメディアかどうかといえば、全く楽観視できない状況であることは否定できまい。今のテレビに魅力を感じていない若者が増えていることは、真摯(しんし)に受け止めなければならない事実だろう。しがみつく「長寿」と「健康」 では、その理由はどこにあるのか。もちろん、原因は一つに集約できるものではなかろうが、私は、今のテレビ番組の多くが、「中高年層」に向けて作られていることが、大きな影を落としているのではないかと思うのだ。 先ほどのランキングで、「○○離れ」の2位となった「新聞」を例に挙げてみよう。みなさんの手元にある新聞を開いて、試しに読者投稿欄をごらんいただきたい。驚くほど投稿している年齢層が高いことに気づかれるはずだ。 50代は若いほうで、60、70代は当たり前、80代以上も決して少なくない。まさにシニア世代が現在の新聞を支えているのである。この傾向は、どの新聞においても大きな差はないはずだ。 また、先ほど紹介したランキングには直接出てはいないが、「ラジオ」についても同様のことがいえるだろう。リスナーの高年齢化はAM、FMを問わず、現在ラジオ各局が抱える大きな問題となっている。 さて、本題のテレビに話を戻そう。週間視聴率ランキングが、新聞などで発表されているので、ごらんになられる方もいるだろう。そこに顔を出す番組の多くが長寿番組である。 そして、それらの番組の主たるターゲットになっている視聴者は、若者ではなく「中高年層」なのである。逆に言えば、若者が普段好んで見ている番組の多くは、そのランキング外にあると表現しても言い過ぎではなかろう。『週刊新潮』の「食べてはいけない『国産食品』実名リスト」と、それを批判した『週刊文春』の「本当に食べてはいけないのか?」 新聞もラジオも、そしてテレビも、顧客として送り手が強く頼りにしているのは、今や確実にシニア層だ。その世代を現在のメディアが大切にしなければならないことはよくわかる。 今、確実に顧客になってくれる世代に訴求するコンテンツを提供することで、なんとか目立った右肩下がりを食い止めようとしているのだ。例えば「健康○○~」的な番組を毎週欠かさず見ている若者が多くいるとは考えにくい。 自分の健康に不安を覚えるのは、たいてい私たちのように年を重ねてからだ。そして今、健康番組はテレビにあふれている。週刊誌も「血圧特集」など健康ネタを組むと部数が伸びるという。年を重ねると「他人のスキャンダルより自分の健康」ということかもしれない。おっさん芸人が「若手」扱い テレビの世界で活躍する人たちの高齢化も進んでいる。政治の世界、一般企業などで「世代交代」が叫ばれ始めて随分たつが、今、テレビこそ「世代交代」が必要なときではないだろうか。 私自身もそうだし、この拙文を読んでくださっている方の多くも、おそらく「中高年層」と推察する。昨日今日この世に出てきたような、稚拙な技術しか備えていない演者たちがたわいもない番組でテレビをにぎわしていることは、少々苦々しいことかもしれない。正直、私も共感するところは多い。 だが、ここでご同輩のみなさんと少しだけ考えてみたい。メディアが「中高年層」に向けての発信を強めれば強めるほど、若者はそっぽを向くことになってゆくのだ。自分が見たい番組が今のテレビにはない、と、彼らはテレビの前に座ることさえしなくなるだろう。 何十年も活躍を続けるベテラン芸人たちが、変わらずテレビに君臨することで、今やすっかりおっさんになっている中堅芸人たちが、いつまでも若手扱いをされることになっている。次世代を担う人間が育ちにくい環境は、テレビが先細っていくことに他ならない。私は年を重ねること自体は悪くないと考えるタイプだが、テレビの世界に年寄りがあふれることは、テレビ総体にとって、決して好ましいことではなかろう。 今、テレビは種をまくときである。種をまかねば芽は出ないし、育つこともなく花を咲かせ実をつけることもない。「テレビはオワコン」だと辛辣(しんらつ)に言う人がいる。果たしてそうだろうか。テレビは、たかだかまだ60年ほどの歴史しか刻んでいない。オワコンと言うには、まだまだ早いのではないか。 何十年もの間変わらず第一線で活躍している人がテレビにいることは、ある意味称賛すべきことではある。だが作り手たちは、同時に新しい人、新しい番組を生み出す努力をこれまで以上にしなければならない時に来ているのだ。「まだイケる」精神は、ある日突然「もう終わり」の時を迎えることになりかねない。 新しいものを生み出すために必要なこと、それは「時間」だと思う。近年、新しいものにそっぽを向きがちな私たちだが、作り手、演者、そして私たち視聴者が、時間をかけてテレビを育んでゆくことで、テレビは再び輝きを取り戻せるはずだ。過去にしがみつき過ぎず、これからを育てることに、「中高年層」の私たちも一役買おうではないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 新しいものを生み、育てるには、どんなジャンルであれ手間暇がかかるものだ。手っ取り早く享受できるものばかりに飛びつかず、もう一度テレビとしっかり向き合ってみてはどうだろう。若者が活躍する意外な掘り出し物、すなわち隠れた名番組に出合えることがあるかもしれない。今の若者たちはかなり優秀だと、日頃教え子たちと接して実感している。 テレビが、今も、そしてこれからも「最強のメディア」であってほしいと、私は願っているのである。

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    消える学園ドラマ、「科捜研の女」が象徴するテレビの中高年依存

    鈴木祐司(次世代メディア研究所代表) 10月クールのドラマが始まったが、初回から「若者のテレビ離れ」を象徴するような視聴率が出た。TBSの火曜夜10時『中学聖日記』が6・0%と、2014年4月に同枠ドラマが始まって以来、最低の数字となってしまった。中学の女性教師と男子中学生を軸にした学園ドラマだが、ここ何年か青春学園ものは視聴率で惨敗している。 この傾向はすでに10年ほど前から顕在化し始めていた。博報堂DYメディアパートナーズは、06年から「メディア定点調査」を実施している。これによると、当時の1人当たり1日平均のテレビ接触時間は172分あった。ところが12年間で28分短くなった(図1)。 一方、パソコン、スマホなどネット接続端末の接触時間は、87分から約2・5倍の200分に急増した。実は両者の関係は14年に逆転している。今や10代から高齢者を含めた国民1人当たりのメディア接触は、テレビよりネット接続端末が圧倒しているのである。 これを性年齢別で見ると、特に若年層のテレビ離れは明確になる。20代男性は、テレビ接触時間は86分で、ネット接続端末は358分を超えている。何と4倍の差がついてしまっている(図2)。 10代男性でも、両者の差は2・5倍以上。50代までネット接続端末が上回り、60代でようやくテレビが勝る。女性の場合も、10~20代では2倍以上の開きがある。そして40代までネット接続端末が勝り、50代以上でようやくテレビが上回るようになる。若年層で著しいが、40代でもテレビを見ない傾向は強まっている。 こうした傾向は、当然ながらテレビ視聴者層の高齢化を意味する。今やテレビ視聴者の半分以上が50代以上と、テレビの「おじさん・おばさん化」、あるいは「じじ・ばば化」が進んでいる。その結果、かつて多数あった学校が舞台で学生や教師が主な登場人物となる青春学園ドラマは、明らかに数が減っているのだ(図3)。 青春学園ドラマはそもそも、60~80年代が黄金期だった。60年代では『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』(いずれも日本テレビ)などがあった。70年代には『おれは男だ!』『飛び出せ!青春』『ゆうひが丘の総理大臣』などの日テレ路線の他、『若い!先生』(TBS)、『愛と誠』(テレビ東京)など、他局も放送し始めた。 そして80年代、『3年B組金八先生』(TBS79~11年)、『スケバン刑事』(フジテレビ85~87年)、『白線流し』(フジ96~05年)、『キッズ・ウォー』(TBS99~03年)など、シリーズ化される話題作が増えた。 ところが、2010年代になると、流れが変わり始める。一つは『マジすか学園』(テレ東10~12年/日テレ15年~)など、深夜帯での放送が増えた点。もう一つは、夜7~11時の「ゴールデン・プレミア帯」(GP帯)の視聴率が一桁に終わるものが増え、放送本数が減った点だ。 10代や「1層」(20~35歳)のテレビ視聴者が減り、「3層」(50歳以上)が今や半分以上を占めるだけに、GP帯では視聴率を保つため、ターゲットが中高年になっている。その結果、青春学園ドラマは深夜帯に追いやられるようになったのである。 そんな状況にあっても、比較的GP帯での放送にこだわっているのがTBSだ。だが、視聴率は芳しくない。寺尾聡が老教師役を演じた『仰げば尊し』(16年夏)こそ視聴率は二桁に乗せたが、14年以降では他11本は全て一桁に終わった。TBSの場合、今回の『中学聖日記』で3クール連続の青春学園ドラマとなるが、視聴率は悪化の一途をたどる。このままではGP帯のテレビは、ますます中高年向けになる恐れがあるが、ドラマはすでにその傾向が進行している。右肩下がりの「月9」 筆頭はテレビ朝日だ。同局のGP帯は3枠あるが、うち2枠(水曜夜9時と木曜夜8時)は刑事ものとミステリーものといった犯罪ドラマに固定されている。また、残る1枠(木曜夜9時)も、『ドクターX』に象徴されるように、シリーズ化あるいはリメークものなどが多い。中高年を確保し視聴率を高くするため、設定やキャスティング、演出が決められているからだ。 今クールも、定番の『相棒』が17シーズン目、『科捜研の女』が18シーズン目に入った。そして残り1枠は、『ドクターX~外科医・大門未知子~』で活躍した米倉涼子を主役にした『リーガルV~元弁護士・小鳥遊翔子~』がスタートした。タイトルの付け方、ストーリーの展開ぶり、キャスティングなど、明らかに『ドクターX』路線となっている。「科捜研の女」放送通算200回を迎え、記者会見した主演の沢口靖子さん 実はテレ朝だけでなく、フジも中高年狙いを強めている。フジのドラマ3枠は、この10年視聴率が右肩下がり傾向だった。特に「月9」(月曜夜9時)は、過去30年間で最大の衰退ぶりだ。 もともと90年代半ばまでは、20%超が普通だった。だが、勢いは次第に衰え、02年に初めて15%を切った。さらに09年以降は15%未満が普通となり、16年からは一桁が当たり前になってしまった。 ところが、今年になって、数字が回復傾向にある。その最大の要因は、テレ朝と同じようにシリーズ化、リメークなどで中高年狙いを強めたからだ。例えば5クールぶりに月9で二桁を回復した『絶対零度』は、シーズン3だった。17クールぶりに「木10」(木曜夜10時)で二桁となった『グッドドクター』は韓国ヒットドラマのリメークだ。 今クールも初回で14・2%となった『SUITS』は、米国ヒットドラマのリメークだ。しかもメインの織田裕二と鈴木保奈美は、91年の大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』の主役たちだ。 木10枠も今クールは『黄昏流星群』。95年から連載されている漫画が原作で、40代以降の中年・熟年・老年で、恋愛を主軸に人生観などを描いた短編漫画集だ。明らかに中高年狙いのドラマと言えよう。 こうした民放各局のドラマ戦略の変化の背景にあるのは、やはり、パソコンやスマホの登場があり、明らかに生活者のメディア接触傾向が変わったからだ。 これにより、テレビの中高年化が急速に進み、視聴率を収入のベースに置いたテレビは、結果として中高年狙いの番組を増やしている。特にドラマはその傾向が強く、複数の局が中高年狙いに走っている。 このままでは悪循環が進み、ますます若年層のテレビ離れが進んでしまうだろう。ビジネスモデルのあり方も含め、根本的な対策が必要と言わざるを得ない。

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    テレビはYouTubeとネット番組に視聴者を奪われたのか

    ったらすぐに手に入るのに、テレビではそれができない。いったん習慣であることを外れてしまったら、こんなメディアがこのままの形で生き残るのは難しいだろう。 ただ、再び誤解のないように断っておくと「最近のテレビは面白くない」という説には私は同意しない。テレビは今でも圧倒的に面白い。テレビが好きな私が言うのだから間違いない。しかし、面白い番組は自分で探すしかないという時代に入っていることは確かである。 私自身はテレビに思い入れがあるから、積極的に楽しむために、全番組録画対応のレコーダーを利用して、過去数週間に地上波で放送されたあらゆる番組をいつでも見られる体制を整えている。そうやって自分から面白いものを探しに行く限りにおいて、テレビは今でも面白いのである。 だが、そうやって手間暇をかけてテレビという大海で「宝探し」に興じているのは、ごく一部のテレビ愛好家だけだろう。ほとんどの人は習慣としてテレビを見続けているか、習慣がなくてテレビを見ていないか、このいずれかである。そして、徐々に後者の割合が多くなっていくことは確実だ。NHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』で主人公の今井福子を演じる安藤サクラ 今、実際に起こっているのは「若者のテレビ離れ」ではなく「中高年のテレビ固執」である。他に特定の趣味や娯楽のない人たちが、テレビを見すぎているのだ。 テレビは特に目立った興味や関心のない「無党派層」を取り込むのが得意なメディアである。特定の趣味がある人は、ケーブルテレビや動画配信サービスを利用して、自分好みのコンテンツを掘り下げて楽しんでいるだろう。そうではない多くの人にとって、テレビは何よりも気軽に楽しめて、何よりも身近な存在なのだ。 最後に「YouTubeやAbemaTVなどのインターネット動画コンテンツとテレビ番組は競合するのか」という点について書き添えておきたい。 結論から言うと、それぞれメディアとしての特性が違うので、競合しているわけではないと思う。これまで述べた通り、テレビは単に不便である上に若者向けのコンテンツが少ないから見られなくなっているだけだ。YouTubeに視聴者を奪われているわけではない。 「YouTubeやAbemaTVがあるからテレビが廃れてきた」というのはそもそも話の順番がおかしい。テレビが勝手に自滅しつつあるから、その間隙(かんげき)を突いて新しい勢力が台頭してきているのだ。 YouTubeではすでに子供や若者などの特定層に圧倒的な支持を誇るユーチューバーが多数存在していて、独自の文化を築いている。一方、AbemaTVは地上波テレビと同じような体制で制作されていて、出ているタレントの顔ぶれも地上波と比べて遜色ない。メディア側から見れば、これらはテレビのライバルと思うかもしれない。 しかし、実態としては、これらはテレビとはそもそも別の形のメディアであり、競争相手ではない。テレビはライバルの活躍によって追いやられているわけではなく、高齢者の習慣視聴という大票田に固執するあまり、マイノリティーに過ぎない若者のニーズをつかみきれていないだけなのである。

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    紅白歌合戦の視聴率が映し出したニッポンの社会と家族

    国民国家は揺れ動いている。英国のEUからの離脱や米国の新大統領にドナルド・トランプ氏が就任するなど、メディアの予測を超えた各国の国民たちの不満と憤りが世界を変えようとしている。大国間のパワーバランスも大きく変化していくことだろう。 日本もまたその外に安住することはできない。人々の不安は解消されない。 歌はそうした感情をいやしてくれる。今回の紅白では、デビュー20周年のPUFFYと来年に20周年を迎えるKinKi Kidsが初出場する。PUFFYは紅白のスペシャル・メドレーを、KinKi Kidsはデビュー曲の「硝子の少年」を歌う。 「失われた20年」を経て、彼らの歌もまた誕生時に人々が抱いた感情を超えて、新たな意味を見出すのではないだろうか。 今年の紅白のテーマは「夢を歌おう」である。2020年東京五輪の前年の19年まで4年間にわたって、このテーマを掲げるという。1969年12月31日、第20回NHK紅白歌合戦で掛け合いを見せる(左から)紅組司会の伊東ゆかり、総合司会の宮田輝アナウンサー、白組司会の坂本九 紅白の視聴率は、1964年東京五輪の前年の第14回に記録した81.4%である。これは過去の視聴率でも群を抜いた第1位である。ちなみに、第2位は東京五輪の女子バレーボール決勝戦「日本×ソ連」(1964年10月23日)の66.8%、第3位は2002年FIFAワールドカップ・グループリーグ「日本×ロシア」(2002年6月9日)の66.1%である。 NHKが紅白にかける意気込みは、前回の東京五輪に向けた熱気の再現にかけているようにみえる。 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズが描いているように、「昭和」は現代と比べて必ずしも暮らしやすい時代ではなかった。この映画のなかで、東京の大気汚染による「スモッグ」や社会の底辺で医療も受けられずに働く女性も多かった。犯罪も現代よりも多い。「昭和」への郷愁 平均寿命も、1960(昭和35)年には男性が65.3歳、女性が70.1歳だった。平成27(2016)年には、それぞれ80.7歳と87.0歳に伸びている。 「昭和」に郷愁を抱いたり、懐かしがったりするのは、まず家族のありようが要因ではないか。平成27(2016)年には、単身世帯と夫婦のみの世帯がそれぞれ全体の約四分の一を占めている。ひとり親と未婚の子どもの世帯も約7%いる。 夫婦と子どもの世帯は約3割、三世代同居は約6%である。 これに対して、1961(昭和36)年は、夫婦と子どもの世帯が4割以上を占めていた。三世代同居も約15%もあった。単身世帯は約18%、夫婦のみの世帯も約14%だった。 「一家4人」の世帯あるいは祖父母も含めて、紅白を見る時代は家族構成の変化をみると、視聴率が低下するのは当然である。 紅白の視聴率の推移をみると、平成17(2006)年の第57回から40%前後である。多チャンネルと有料放送が普及してきた現代においては、この数字でも十分に「お化け番組」である。 このコラムのシリーズは、ドラマやその主人公たちが過去に出演した映画などを背景として、テレビのいまを書き綴ってきた。1968年12月、東京・秋葉原の家電店の白黒テレビ、カラーテレビ売り場 今回の紅白は、映画「ソロモンの偽証」で重要な役をこなした石井杏奈がメンバーである、E-girls、俳優としても評価が高まっている西島隆弘のAAA、「恋ダンス」が社会現象になり、俳優としても活躍する星野源の歌とダンスを楽しもうと思う。たべ・こうき 東日本国際大学客員教授。福島県会津若松市生まれ。幼少時代から大学卒業まで、仙台市で暮らす。朝日新聞記者、朝日ジャーナル編集部員、論説委員などを経て、ソフトバンク広報室長に就任。社内ベンチャーで電子配信会社を設立、取締役会長。2012年春に独立、シンクタンク代表。2015年10月から東日本国際大学客員教授として地域振興政策を研究、同大・地域振興戦略研究所副所長を兼務。

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    「庶民は愚民化切り札のTVにしがみついている」と落合信彦氏

     日本のテレビ報道の劣化が叫ばれているが、「いまのテレビはローマ時代のサーカスと同じで、国家滅亡の前兆である」と厳しく指摘するのは落合信彦氏だ。* * * 私には、いまの日本がかつてのローマ帝国に重なって見えて仕方がない。もちろんローマと日本ではスケールも国力も比べものにならないが、ローマが衰退し、滅んでいった過程は、いまの日本と似ている。 ローマは帝国の巨大化に伴い、兵士の遠征に莫大なカネがかかるようになった。そのカネは、地方にある属州から税金として徴収するようにした。属州からの税金を高くする一方、カネのないローマ市民に対しては多額の援助、つまり「生活保護」を与えるようになった。 これにより、誇り高きローマ人は、昼間から酒を飲んで、ケンカをやって、皇帝を罵るような状態まで堕落してしまったのだ。 これが帝国を脅かす動きにつながることを恐れたローマは、皇帝が国庫から資金を拠出する形で、競技場を作った。後のコロセウムだ。ここで剣闘士同士の殺し合いや剣闘士と猛獣の争いなどを見せる。 このショーでローマの年間予算の3分の1が費やされた。ローマ市民は血が流れれば流れるほどエキサイトしていった。血を見て喜ぶだけの生活で、ローマ市民はどんどん思考停止に陥り、国家全体がニヒリスティックになっていった。かつては誇り高かったローマ市民が怠慢になってしまったのだ。精神のスラム化であった。 これが、ローマ帝国崩壊につながっていったひとつの原因、「パンとサーカス」と呼ばれるものだ。パンとは生活援助、サーカスは競技場を指す。これをいまの日本に当てはめると驚くほどマッチする部分がある。古代ローマ時代のサーカス(ゲッティイメージズ) 政府からの援助金バラ撒きに多くの国民や団体が群がり、一方、庶民は愚民化の切り札とも言えるテレビにしがみついて、ストレスを解決する。これに加えて、ローマでは政治家たちのコラプション(腐敗)が増え、さらにリッチ(富裕層)とプア(貧困層)の格差がとんでもないものになっていった。 一つ日本の国会議員に私が頼みたいのは、古代ローマ史を是非学んでほしい。過去を知らぬ者は未来から突き放される。何も知らないまま、この国は歴史の過ちを繰り返そうとしている。関連記事■ 「ついに、トランプ大統領の精神は崩壊か」と落合信彦氏■ カルザイをアフガン大統領にしたことは「最悪」と落合信彦氏■ 織田信長だったら朝鮮出兵は成功させていたと落合信彦氏指摘■ 「小泉だけが日本のリーダーとして存在感高い」と落合信彦氏■ アメリカの「次の戦争」ターゲットはイランと落合信彦氏指摘

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    音楽特番の編成にも影響、TV関係者を悩ます視聴者の高齢化

    かないでしょう。早い段階で視聴者層の新陳代謝をしていかないと、テレビはそのうち本当に高齢者しか見ないメディアになってしまうのではないでしょうか」関連記事■ 安藤優子フジ新番組 昼帯を情報番組中心の編成に変える布石■ 下町ロケット最終回視聴率どこまで伸びる? 他局編成に注目■ TBSが常識を破る「21時またぎ」の編成を組んだ理由■ 人気番組の枠移動 マツコ対策、流れ重視の編成等TV局の思惑■ 『めちゃイケ』が視聴率低迷 レギュラー陣の高齢化も要因か

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    『新潮45』最後の編集長、若杉良作さんへ

    福田ますみ(ノンフィクション作家) 2018年9月25日、36年にわたりわが国の言論界の一翼を担った月刊誌が唐突に、あまりにも唐突にその歴史を閉じた。わが国屈指の文芸出版社、新潮社が発行していた『新潮45』である。ほんの1カ月前まで、この事態を想定した者はいなかっただろう。 私は同誌に17年ほど前から寄稿している。初めて執筆したのは、確か自ら企画として持ち込んだ「狂言犯罪」についてのルポルタージュである。このときの担当者が、今回の騒動で心ならずも最後の編集長になってしまった若杉良作氏である。当時は、『新潮45』の一編集者だった。 彼とは、このときからの付き合いである。いつも原稿を丁寧に読み込んでくれ、適切なアドバイスをくれた。今回のことについて、日ごろから若杉氏に近いところにいた者として、思うところを書こうと思う。 同誌8月号で、「生産性」の記述をめぐり、杉田水脈衆院議員の論文が炎上した。確かにマイノリティーを巡る論において、この言葉を使うのはいささか配慮を欠いたとは思う。しかし、だからといって、この「3文字」だけをあえて切り取って、杉田氏を執拗(しつよう)に糾弾、攻撃し、彼女の所属する自民党本部の周りを大勢で取り囲んで「議員を辞めろ」とシュプレヒコールをし、家族への脅迫まで飛び出す事態に至るとは、どう考えても異常である。 批判も反論も、もちろんあっていい。しかし、あくまで言論の場にとどめるべきだ。ここまでの騒ぎになったのは、杉田氏が科学研究費の問題で左派系の教授を追及したり、慰安婦問題でも国連に乗り込んで、いわゆる「クマラスワミ報告」の撤回を訴えるなど、保守派として活発に活動していたことも影響していると思われる。 つまり、日ごろから彼女の活動を苦々しく思ってきた左派界隈(かいわい)が、ここぞとばかり彼女を叩くとともに、安倍政権批判にまで持っていきたかったのではないか。その証拠に、自民党本部前の抗議デモは、最後には「安倍辞めろ」の大合唱になった。 「政治家であるからには、一部の国民をないがしろにするような発言は良くない」という批判もあった。だが政治家だからこそ、少子化という、国家にとってまさに喫緊の課題に取り組む必要があり、どこに支援の重点を置くか、その優先順位を説明するために「生産性」という言葉を使ったのだと思う。休刊した新潮社の月刊誌『新潮45』2018年10月号 しかし、休刊の決定打となったのは、10月号に掲載された反論企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が、杉田論文以上に猛烈な批判を浴びたからである。ゲイの当事者2人を含む7人の論文のうち、大きな物議を醸したのは、文芸評論家の小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という論文であった。次の依頼も来ていた その中に「痴漢の触る権利も認めろ」というくだりがあったと、またこの部分だけ抜き出して猛バッシングが始まったのである。しかし、全文を通して読めば、文芸評論家独特の逆説的で皮肉を効かせた表現であり、問題となった部分ももちろんレトリックにすぎない。小川氏は「『弱者』を盾にして人を黙らせるという風潮に対して、政治家も言論人も、皆非常に臆病になっている」と言う。 LGBTに対しては、この欧米由来の概念がうさんくさいと説く。欧米のキリスト教世界やイスラム世界で、同性愛者は、つい最近まで宗教的異端者とされ、刑事罰の対象であった。あのイスラム国では殺害されていたのである。 対して日本では、歴史上、彼らに対してこのような差別はなく、かなり寛容であった。そのわが国に、欧米のムーブメントをそのまま輸入することの疑問を呈している。 今回の執筆者の一人で、ゲイを公表している元参議院議員の松浦大悟氏によれば、「国際レズビアン・ゲイ協会」は国連に加盟するにあたり、これまでともに活動してきた「米国少年愛者団体」を切り捨てたという。変えられないセクシュアリティを持つという点では、ゲイも少年愛も同じだそうだ。 つまりは、特殊な性的指向のどこまでを公に認めて支援対象にするか、その線引きが恣意(しい)的になされているわけで、LGBTという概念が曖昧(あいまい)なままであることがわかる。 その松浦氏は、論文発表後、朝日新聞の取材に答えて、杉田氏の文章には間違いもあったが、彼女を差別主義者だとは思わないと言っている。また、もう一人、ゲイをカミングアウトしている、かずと氏も杉田氏の主張に反対せず、LGBTのうちTの一部を除いたLGBは社会的弱者ではない、Tの一部以外は社会的支援の必要がないと書いている。 当事者2人がこのような主張をしているのである。「差別だ!」と決めつける人たちが彼らの論文をどう読んだのか、ぜひとも聞いてみたいところである。LGBTに関する論文掲載をめぐり、月刊誌『新潮45』の休刊を発表した新潮社(納冨康撮影) 休刊前後の話に戻る。私はこの10月号が大炎上しても、まさか休刊はないだろうとみていた。もちろん不安にはなったが、『新潮45』の編集者から「休刊も編集長更迭もない」とはっきり告げられており、編集部からは、次の仕事の依頼も来ていたからだ。 ところが9月21日の夕方、事態が動いた。それまで静観の構えだった佐藤隆信社長が、異例の声明を出したからだ。 「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」。ああこれは、編集部ははしごを外されたな。そう思った。そして、3日間の連休を経た25日の夕刻、休刊が決まった。心底雑誌が好きな男 午後5時ごろ、若杉氏直々に、私の携帯に連絡があった。「休刊になりました」。抑揚のない沈んだ声に「今までお疲れさまでした」と、私もただそう返事をするしかなかった。 社長の異例の声明と休刊に至る背景には、新潮社が抱えている作家や文芸評論家たちの、執筆拒否を盾にした抗議があったからである。作家たちは自分たちを、絶対の正義の側にいると見なしているのだろう。結局、同社は彼らの圧力に屈したのだ。 私は若杉氏と長い付き合いとはいえ、彼のプライベートを知らないし、仕事に関しても、編集部内がどうなっているのか、編集方針や企画の立て方などについても知る立場にない。私が語ることができるのはあくまで彼の一部、記事を共同で作り上げる編集者としてだけである。 「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」の7人の執筆者のうちの一人である藤岡信勝氏が、iRONNAで編集者としての彼の仕事ぶりを称賛しているが、これはいつものことである。 彼は、ライターが仕事のしやすいように、極力バックアップを欠かさない。企画が通り、一つのテーマを割り振られると、すぐさま必要な資料を過不足なく用意してくれる。その資料を読み込む中で、さらに「ここのところの資料がないかな」とつぶやくと、すぐにどこからか探し出して届けてくれる。 かなり遠方の地方取材などにも、可能な限り付き添ってくれた。2人で厳寒の秋田で何時間も、北朝鮮のスパイと疑われた人物の張り込みを続けたことは、今となっては貴重な思い出だ。 ああ、この人は心底雑誌が好きなんだな。雑誌の持つパワーを信じている。そう思わせる熱意を感じた。だから、編集実務においても一度としてミスはなかった。彼に任せておけば安心だった。 「なんだこのゴマスリは」。そう思われるかもしれない。だが、いまさら彼にゴマをすったところで何も出てこない。彼はもはや何の力も持っていないのだ。だから私は本当のことを書いている。月刊誌「新潮45」 私は、彼の名前でネット検索をすることはしていないが、今回の事件について調べているといや応なく、同誌で仕事をしていたと思(おぼ)しき人たちが、彼の過去暴きをしているのに出くわす。水に落ちた犬を叩く行為だ。そしてその多くがデマである。 雑誌『噂の真相』の後継をうたう、なんとかいうニュースサイトがある。今回の事件について、いかにもこれが「真相だ」とばかり、新潮社の社員(?)にこう語らせている。若杉良作編集長は、右派思想の持ち主でもなんでもない。上の命令に従順に従うタイプ。最近のネトウヨ路線も、売れ行き不振の挽回策として、担当取締役の酒井逸史氏から命じられていた感じだった。酒井取締役は元『週刊新潮』の編集長でイケイケタイプですからね。10月号の擁護特集も酒井取締役が事前にGOを出している。会社は役員が読んだのは発売当日になってからという意味のことを言っていたが、そんなわけがない。少なくとも酒井取締役は事前にゲラも読んでいると思いますよ。それどころか、『ここで反論すれば売れる』と企画そのものを焚きつけた可能性もある。新潮社の「不文律」 全くのフェイクニュースだ。これでは編集長はロボットかでくの坊である。そもそも新潮社には、互いの編集権には干渉しない不文律があり、各編集部は完全に独立している。役員があれこれ指示することはできないし、第一、編集部は人手不足で、部外者が事前にゲラをチェックする時間的余裕もない。 このニュースサイトは結局、責任は一編集部などにはなくもっと上の方にある。社長以下、社員全員で土下座でもしろということなのだろう。 ここでも触れているが、「16年9月号から若杉編集長が就任以来、『新潮45』は極右路線、過激路線に大きくかじを切った」という批判がある。そしてこの路線を突っ走った揚げ句に、今回の「差別事件」を引き起こしたというのだ。 しかし、新潮社の報道姿勢は本来、いわゆる「新潮ジャーナリズム」という言葉があるくらい、偽善を嫌い、建前の裏に潜むどす黒い本音を抉(えぐ)り出すというものだ。『新潮45』も例外ではない。間違っても、ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)を忠実に守る左派的な優等生雑誌ではなかった。 確かに、部数低迷は深刻な問題だっただろう。しかし、誰が編集長を引き受けても、この状況に歯止めをかけるのは無理だったと思う。 若杉氏がこれをどのくらいプレッシャーと感じていたかはわからない。ただ、あれこれ試行錯誤をした結果、ある程度手応えをつかんだのが朝日新聞批判であり、野党批判だったということだ。もともと、朝日叩きなどは『週刊新潮』のお家芸であり、それが系列雑誌に移行したにすぎない。 若杉氏自身が戦後民主主義に対する懐疑派であり、自身の思想信条を曲げて、売り上げのために「悪魔に魂を売った」なんてことは間違いだ。東京都新宿区の新潮社 ただし彼は、右派も左派もぶっ飛ばすユニークな言論で売り出し中の評論家の古谷経衡氏や、「安倍政権の本質はカルトである」と主張する哲学者の適菜収氏をも重用する柔軟性も持ち合わせている。他の連載執筆陣にもリベラル派がいる。 つまり、読者は、特集で安倍政権を持ち上げる言説を読んだ後、連載執筆陣の安倍叩きを読まされるわけで、極端に走ったといえるほどの紙面構成には実際はなっていない。 それだけ言論に幅があるとも、過激さが中和されるともいえるが、中途半端であることは否めない。その点で、右派論客で固められた『月刊Hanada』や『WiLL』などには売り上げで及ぶべくもなかった。若杉氏にも物申したい また、ある評論家が「かつてはノンフィクション路線の雑誌で取材費もかかったけど今のやり方なら取材費ゼロ」などと訳知り顔で語っているが、もしそうなら、ノンフィクション専門の私など、とうにお払い箱になっている。 若杉氏がノンフィクションにも力を入れる姿勢は全く変わっていなかった。私はつい最近まで、同誌でルポを何本も書いている。時間も金もかかる厄介なテーマだったが、若杉氏は取材費に全く上限を設けず、あらゆるサポートを惜しまなかった。 杉田氏の論文が掲載された8月号にも、福島県における子供の甲状腺ガン「多発」のタブーに切り込んだノンフィクションライターの上條昌史氏による「放射能不安を煽って生まれた福島『甲状腺がん災害』」という良質なルポを掲載している。残念ながら反響はさほどなかったようだが、こうした意欲作さえ、あの「ヘイト雑誌」に載ったというだけで葬り去られるとしたら残念である。 しかし、今回のことで若杉氏に物申したいこともある。結局、『新潮45』は雑誌としてLGBTの問題をどう捉えているのか、編集部の見解を聞く機会がなかったことだ。10月号で、「そんなにおかしいか『杉田水脈論文』を掲載した際、7人の論文の頭に堂々と、「編集部はこう考える」という一文を掲げるべきだったと思う。 私事で恐縮だが、私は若いころから10年ぐらい前まで、よく新宿の2丁目に通っていた。常連の店が何軒もあった。すべて店を仕切っていたのはオカマのママである。彼女(彼?)たちの毒舌を聞くのは刺激的で楽しく、こちらも負けずに舌戦に加わった。でもとても仲が良かった。 今振り返ってみて、彼らは弱者であろうか。支援が必要な差別の被害者であったろうか。もちろん、生きていく上でつらいことも多かったとは思う。しかし彼らはたくましく生き抜いていた。おそらく、自らを弱者だと思ったことはないだろう。結局みな同じ人間ではないか。 ちなみに私も、杉田氏流に言う「生産性がない」人間である。結婚もしない、子供も持たない私は、彼らと飲み交わすうちに、互いの持つ孤独感に似通ったものを感じ、まったく勝手な連帯感を抱いたこともあった。新潮社本館の銘板 杉田氏の論文が「差別文書」として事実上封印されてしまった以上、今後、LGBT支援を巡る自由な意見交換はしにくくなるだろう。誰も「差別者だ」と糾弾されたくないからだ。しかしそういう状況が、LGBTの当事者にとって決して良いこととは思われない。今回の弱者は、たった1万6千部しか発行していない、不当なバッシングに対抗するすべもない『新潮45』と、当事者なのに全く意見を汲み取ってもらえなかった俺ら普通の性的マイノリティーだよ。 こんなツイートが私の目に留まった。私は、『新潮45』で仕事ができたことを誇りに思う。

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    ノーベル賞狂騒曲、もうウンザリです

    ノーベル賞を受賞しただけで、これほどバカ騒ぎする国が他にあるのだろうか。むろん、日本人の受賞は喜ばしいことだが、マスコミは受賞理由などそっちのけで、当人や家族をただ追いかけ回す。本当はすごい研究成果のはずなのに、新聞さえもワイドショーのノリで報じる。ノーベル賞狂想曲、もうウンザリです。

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    「日本人ノーベル賞でお祭り騒ぎ」メディアの思考停止が目に余る

    の意味で、ノーベル賞で科学に偉大な貢献をした方が顕彰されるのはすばらしいことだと思う。 ただ、日本のメディアの報道のあり方には大いに疑問が残る。日本人が受賞するとうれしいというのは素朴な心情として分かる。ノーベル賞の受賞が日本の科学力、技術力の指標になるという思いも分かる。だが、少し度が過ぎていないだろうか。 受賞者に日本人が含まれていたときのメディアスクラム的な喧騒(けんそう)に比較して、含まれていなかったときのベタ記事扱い、短報で済ませる差異が、あまりにも大きすぎる。 人類共通の課題として、科学や技術をとらえるのならば、受賞者に日本人が含まれていなかったときにも、もっと報道してよいはずだ。 新聞やテレビといったレガシーメディアの事大主義、思考停止が、最悪の形で表れているように感じる。結果として、科学リテラシーの向上に貢献せず、ノーベル賞をワイドショーの芸能ニュースと同じような扱いにしてしまっているのである。 以前、スウェーデンのアカデミー関係者が来日したとき、興味深い発言に接した。ノーベル賞は「最も成功したビジネスモデルの一つ」だと言うのである。 権威をただ受け身で有り難がる日本のメディアとは異なる精神性が、そこに感じられたからハッとした。 ノーベル賞が注目される理由は、その選考が徹底して、公正に行われているからである。田中耕一さんが受賞されたとき、学会のインサイダーたちが驚いていたが、ノーベル賞委員会はそれくらい深く徹して関連分野の業績を調べる。日本の賞が、ともすればお手盛り、権威主義、集団主義になるのとは異なる。2002年10月、ノーベル化学賞を受賞し、東京都内で記者会見する田中耕一氏(大西史朗撮影) だからこそ、ノーベル賞は名声を保ってきた。スウェーデンのアカデミーの「最も成功したビジネスモデルの一つ」という発言は、きちんと選考する苦労を背景にしたものとして、重く受け止めた。  そのようにきちんと選考しているノーベル賞だが、日本国内の受け止め方は、お祭り騒ぎで思考停止である。諸外国のメディアと比べても、日本のメディアの「軽薄さ」は目に余る。ノーベル賞を成功させた厳密な実証主義、権威を盲信しないフラットな世界観とは程遠い。 ビジネスモデルとして成功したノーベル賞だが、そのあり方についてさまざまな批判があることも事実である。 例えば、受賞対象になった研究が認められるまでの時間の長さ。アルフレッド・ノーベルの遺言では、「前年」に行われた業績に対して与えられるはずだった。 同時受賞が3人までと決められていること。例えば、生物の研究室では研究室の「ボス」とともに、実際に実験を行う学生やポスドク(博士研究員)も重要な役割を果たすが、受賞対象はたいていの場合「ボス」だけである。純粋に科学的、論理的な視点から、このような慣習を正当化し続けることは難しいように思う。 時代の流れとともに、ノーベル賞という「ビジネスモデル」が古くなってきていることも事実である。 科学分野のノーベル賞の大前提は査読論文という形でその業績が残っていることだが、そのような前提が成り立たなくなってきている。「サトシは女性だ」運動 現代のイノベーションは、査読論文とは別の形で起こる。ビットコインなどの仮想通貨の基礎となったブロックチェーンの原理は、「サトシ・ナカモト」という匿名の人物により、突然ネット上に発表された。体裁は一応、一般の論文と同じ形式を取っており、おそらくは査読論文を書き慣れている人物によるものと思われるが、そこに本質があるのではない。 ちなみに、ノーベル賞の受賞者に女性が少ないこともしばしば問題にされる。日本のメディアは、日本人女性の受賞者が出ることをこそ期待すべきだろう。女性の活躍はもっとあっていい。その意味で、ビットコインを提唱したサトシ・ナカモトが女性である可能性を主張する「サトシは女性だ(Satoshi is female)」という運動は注目されていい。この辺りも、日本のレガシーメディアは報道しない。 話を戻すと、スペースXやテスラなどで目を見張る活躍をしている米国の実業家、イーロン・マスク氏は、減圧したチューブの中を時速1000キロ以上で移動する「ハイパーループ」と呼ばれる交通機関を提案している。ハイパーループの仕様書は、マスク氏によってネット上に突然公開された。もちろん、査読論文ではない。 革新的なロボットを数多く生み出している米ボストンダイナミクス社は、一切論文を書かない。ロボット研究者に聞いても、「細かいところがどうなっているのか分からない」と言う。ボストンダイナミクスの発表の方法は、ユーチューブに動画を掲載することである。動画で見る限り、驚くべき能力を持つロボットを作り続けている。 人工知能の研究は、「ステルス」モードで行われることが多い。大学とも国とも関係のない存在が、ある日突然画期的な「完成品」を発表して時代を変える。 このような「オープンイノベーション」の実態と、その変化のスピード感を見ていると、ノーベル賞が前提としている科学や技術研究のあり方が大きく変化しているように思われる。果たして、ノーベル賞は時代についていけているのだろうか? 人類の知的探求という視点から見ても、ノーベル賞はその一部しか把握していない。 アルバート・アインシュタインは20世紀最大の物理学者だが、彼がノーベル賞を受けたのは「光電効果」についてであった。物理学的により重要な「相対性理論」は、受賞対象にならなかった。 ノーベル賞が、医療や産業などの分野で大きなインパクトを与えた研究、つまりは「実用的」な研究を重視しているのは近年の傾向とも言えるし、アインシュタインの頃から変わらないとも言える。2018年10月1日、ノーベル医学・生理学賞に決まり、会見を行う京大の本庶佑特別教授(永田直也撮影) たまたま、アインシュタインは「光電効果」で引っかかって受賞したが、もし光電効果がなかったら、相対性理論というニュートン以来の革命を成し遂げたのに、ノーベル賞はそれを漏らすという失態を演じていたかもしれない。 実際、ノーベル賞は、20世紀最高の天才の一人と言ってよい、今日のコンピューターの基礎を築いたアラン・チューリングを逃している。「ノイマン型コンピューター」をつくったフォン・ノイマンも受賞していない。 ゲーム理論の基礎を築いたジョン・ナッシュこそ、経済学賞で「拾う」ことができたが、もし逃していたら、ノーベル賞が補足できなかった世紀の天才のリストが一名分長くなるところだった。 文学賞では、より深刻な不整合があり、例えば、誰が見ても20世紀最高の天才文学者の一人であるジェームズ・ジョイスは受賞者ではない。 ジョイスが受賞しないノーベル文学賞は、控えめに言っても、不完全な存在でしかないと言わざるを得ないだろう。 ノーベル賞を思考停止で有り難がっているだけでは、人類の知的探求のど真ん中は見えてこない。自分自身の基準を持つことが大切である。科学研究はサッカーのパス回し 最後に、日本人の素晴らしい資質について触れて、この稿を終えたい。以前、トヨタの工場を訪れたとき、有名な「カイゼン」の提案書についていろいろと聞いて感動した。中卒で入った方から、博士号を持っていらっしゃる方まで、みんなが平等に提案書を書く。 その積み重ねで、トヨタ生産方式は支えられている。誰もスターにしない、みんなが平等である。 提案書一通で、確か数千円の報奨金がもらえるとおっしゃっていた。 それで、画期的な提案をしたら、もっと報奨があるのか、とうかがったら、顔を見合わせた後で「年間で最優秀の何点かに選ばれたら、10万円くらいもらえるよな」とおっしゃっていた。 「そのお金はどうするのですか?」とうかがったら、「みんなで飲んでも、余っちゃうよな」とうれしそうにお答えになったのが印象的だった。 ちょうど、渋谷が「ビットバレー」などとはやされ、ネットバブルが生まれて、若者たちがちょっとしたアイデアで一獲千金を夢見ていた時代だったので、トヨタの社員の方々の笑顔がまぶしく、尊く思われた。 科学研究は、サッカーのパス回しのようなものだと思う。ゴール近くでシュートして得点を決めた人も偉いが、パス回ししてそこまでボールを運んできた人たちも、もちろん偉い。 森でネズミをつかまえたタカは、その狩猟能力を褒めたたえられるべきだが、そのネズミを育んだのはタカではなく、森の豊かな生態系である。 一度に3人までというノーベル賞のルールは、ネズミをつかまえたタカの方ばかりを褒めて、そのネズミを育んだ森の方に光を当てないことになりかねない。 日本人は、もともと、一部のスターや天才が世の中を変えるという「フィクション」ではなく、みんなが力を合わせるという生態学的リアリズムに寄り添って生きてきた。 そんな文化を持つ日本人だからこそ、ノーベル賞を祝いつつ、同時に、ネットワークの方にも目を向けることはできるはずだ。 そこには、ボールをパスしてきた人や、ネズミを育んだ生態系や、また、発明や発見という形で「切り分け」できる問題ではなく、しかし人類にとって大切な課題に黙々と取り組んでいる人たちがいる。トヨタ自動車元町工場の生産ライン=2018年7月、愛知県豊田市 量子力学の観測問題や、時間の非対称性、生命とは何かという大問題、意識の起源、意味論の深淵(しんえん)。これらの課題は、ノーベル賞の対象にはなりにくいが、知的探求全体から見たら、むしろこっちの方が大切である。 少子化の問題や、格差のこと、貧困の問題、介護のこと。教育のこと。これらの現場で直面している問題だって、ノーベル賞対象の研究と同じくらい難しい。 世の中には、さまざまな方々が、さまざまな現場でがんばっている。それらは、皆、等しく尊い。日本人だからこそ、そのようなバランスのもとに、ノーベル賞をめぐるさまざまを眺めることができるはずだ。 一つ救いなのは、相変わらずのメディア・スクラム、お祭り騒ぎの新聞やテレビなどのレガシーメディアに比べて、ネットの反応はより冷静、実証的で、生態学的な豊かさにも目が配られているということだ。 レガシーメディアの方々に、奮起を促す。軽薄なお祭り騒ぎではなく、これからの人類にとって本当に必要なことはなにか、本質を見極めた報道をこそ、期待したい。

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    なぜ日本人は「海外の権威」ノーベル賞に弱いのか

    企業と闘うドラマが人気を集めたのも記憶に新しい。 ノーベル賞の受賞者は当然、並の人間とは違うのだが、メディアでは受賞者の庶民性をとかく強調する。晩餐会や社交ダンスに戸惑う受賞者の姿も、微笑ましく報道される。 雲の上の人が、さらに上の人から賞をもらうのではない。私たちの仲間である「普通の人」が努力を重ね、科学という公平な世界でついに欧米の科学界で認められ、王様にまで褒めてもらえるその姿に、私たち日本人は感動するのである。 「日本人ノーベル賞」の大報道は、日本人に元気を与え、子供たちの学習意欲を高める。子供たちはノーベル賞に憧れるし、科学が好きになる。例えば、化学が不人気でも、日本人がノーベル化学賞を取ると、化学を学ぶ若者が増える。これはとても素晴らしいことだ。 ただ、大人はもう少し冷静さも必要だろう。ノーベル賞をはじめ、海外の受賞歴だけで人を判断するのではなく、私たち日本人自身の「鑑識眼」を磨きたい。 ノーベル賞を取っても取らなくても、偉大な科学者や文学者はいる。海外での受賞を待つまでもなく、メディアも評価してほしいし、紹介してほしい。海外権威を重視するあまり、日本人全体が「権威主義的性格」となり、硬直した思考で海外権威を無批判に受け入れ、他を否定するようでは困る。 また、ノーベル賞を取るためには、たった一人でコツコツ努力を重ねればいいわけではない。自然科学のノーベル賞ですら、獲得のための活動があり、誰が誰を推薦するかが授賞のポイントになる。ましてや、文学賞や平和賞には、政治的な側面などさまざまな力が働く。2018年10月1日、ノーベル医学生理学賞の発表会場に映し出された、本庶佑京都大特別教授(右)と、米テキサス大のジェームズ・アリソン教授=ストックホルムのカロリンスカ研究所(ロイター=共同) 子供たちには、そんな大人の事情を知らせなくても良いだろう。ノーベル賞報道を通して、夢と意欲を育ててほしい。 だが、私たちは大人だ。子供の夢を守るためにも、ノーベル賞を正しく評価し、活用していきたい。

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    「ネタの価値も分からない」ここが変だよ、日本のノーベル賞報道

    田辺功(医療ジャーナリスト) 毎年10月の科学記者の仕事は、何といってもノーベル賞だ。日本人が受賞、と分かると記者は一斉に飛び出し、解説記事、電話対談、座談会の企画、友人や家族の喜びの声などの取材に走り回る。今年も本庶佑・京大特別教授が医学・生理学賞に決まり、わが後輩たちはきりきり舞いの忙しさだったはずだ。 私が第一線記者時代の受賞者は1981年の福井謙一・京大教授(化学賞)、1987年の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授(医学・生理学賞)だった。 まったくの不意打ちだった福井さんの後は毎年、「念のために」と十数人の候補者が挙げられ、そのうちの2、3人は予定原稿が準備されていた。しかし、ほとんどが空振りに終わり、通信社からの電報を翻訳した後は持ち込みのビールで「残念会」をしたものだった。 たまたま取ってあった1986年の連絡メモには、翌年の利根川さんを含め、その後受賞する4人が含まれていた。利根川さんの受賞決定を受け、私たちは新聞に解説記事を載せたが、同じ免疫分野の研究者でライバルだった本庶さんは、利根川さんが研究規制のないスイスにいたからできた仕事と、悔しさをにじませて語ったのを覚えている。がんの治療薬の開発に成功した上での受賞で、本庶さんは追いつき追い越した気分だろうと思う。 利根川さんの後は「日本人」の受賞が途絶えていた科学系ノーベル賞だったが、2000年の白川英樹・筑波大名誉教授(化学賞)から急増した。ストックホルム市内のホテルで会見する白川英樹・筑波大名誉教授=2000年12月 私が新聞社に在籍していたのは2002年の田中耕一・島津製作所フェロー(同)まで。2012年の山中伸弥・京大教授(医学・生理学賞)は16人目、2015年の大村智・北里大特別栄誉教授(同)が21人目、そして本庶さんが23人目になる。他に文学賞、平和賞が4人いる。 ところで、日本人はノーベル賞好きで、騒ぎすぎではないだろうか。私は1980年代からそう感じていた。きっかけは米西部で暮らす日本人研究者と話したことだったと思う。 彼はニューヨークの研究者が受賞したことを知らなかった。当時の米国は全国紙がほとんどなく、東部の研究者の受賞は西部で報道されていなかったからだ。その上、カリフォルニア大学ロサンゼルス校などはたくさんの受賞者がいて、ノーベル賞は珍しくない。いろんな分野でさまざまな賞があり、優劣をつけるものではない、といったような意見にうなずいた。 「騒ぎすぎはマスコミでしょ」と言われたこともある。確かにそうした面は否定できない。ニュースは「初めて」が1番大きく、2番目、3番目となるに従って扱いが小さくなるのが普通なのに、日本のノーベル賞報道はそうなっていない。「ノーベル賞」報道の裏事情 日本人受賞決定時や授賞式の関連記事は数も量もむしろ増えている感じで、専門分野の人しか知らなかった研究者が、次の日からほとんどの人が知る著名人になる。文学賞候補の村上春樹さんに至っては、毎年の残念会も大きく扱われる。もっとも、こうした報道は日本人に限ってであり、外国人受賞者の研究ならせいぜい社会面3段だ。 日本のマスコミは自分で評価せず、権威の評価、意向を絶対視しがちだ。医療報道でも厚生労働省や学界、権威者の受け売りが多い。現役の時に苦労したが、ほめたりけなしたりする記事を編集者は載せたがらない。 「こんな商品がいい」という記事は責任を伴うが、「○○を受賞した」と書くのは簡単だ。お金を出せばもらえる賞、ほとんど日本からの応募しかない国際賞でも受賞したのは、事実だからである。「それではマスコミはダメ」と思うのだが、世の中はなかなか変わらない。 その点、ノーベル賞はどの面から見ても最高度の安全だ。賞金額は最高級だし、かつてはがんの寄生虫説などの間違いもあったが、近年はスウェーデンの学界を挙げての選考に、評価も妥当という感じがする。王室も全面的に協力し、授賞式や晩さん会などを盛り上げ、国全体の宣伝になっている。 第2のノーベル賞を目指して1985年から創設された「日本国際賞」は、国全体の協力態勢が不十分なのか、宣伝力も今ひとつだ。 日本ではノーベル賞候補の呼び声が高まると国内の他の賞を受けやすくなるといわれるし、受賞者はほぼ自動的に文化勲章も贈られる。ノーベル賞はまさに「賞の中の賞」になっている。ノーベル賞受賞を受け会見する本庶佑京都大学特別教授。多数の報道陣が集まった=2018年10月1日午後、京都大学(奥清博撮影) そうした日本での騒ぎが感染したか、賞金額のアップが効いたのか、ノーベル賞の報道は欧米でも増えてきている。また、近年は米国に次いで日本の受賞者が多いことへの対抗意識からか、中国や韓国でもノーベル賞への関心が高まっている、といわれる。 さて、2017年は日本生まれ英国在住の作家、カズオ・イシグロさんが文学賞を受賞した。日本は連日、大騒ぎなのに英国では記事も少なく、ほとんど騒がれなかった、との朝日新聞記事が目についた。日本のマスコミから見ても「騒ぎすぎ感」がないわけでもなさそうだ。 一方で、ノーベル賞のもとは研究者の興味、関心に基づく基礎研究だ。政府はその研究費をどんどん減らしており、このままでは日本人の受賞は激減するとの予測もある。騒ぎたくとも騒げなくなるとの懸念がないわけでもない。

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    LGBT特集『新潮45』休刊は度が過ぎる

    性的マイノリティ―(LGBT)に関する特集企画に批判が集まり、月刊誌『新潮45』の休刊が決まった。「編集上の無理が生じたことは否めない」。社長声明の文面からは出版界が抱えるホンネも垣間見える。35年以上の歴史を持つ老舗雑誌。休刊という最も重い判断は妥当だったのか。

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    小川榮太郎手記「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」

    ると、LGBTの皆さん可哀想。迷惑してると思う。 以下のようなコメントもあった。・TVをはじめとするメディアに集団でクレームをつけコントロールする手法を、言論の活字媒体にも及ばそうとしている。発信者と直接議論することは論破されるからしない。発信する媒体や組織を攻撃して発信者の心を折る戦略でしょう。 ・「LGBTという概念の胡散臭さ」という視点は私にはなく目から鱗でした。そういう意味で「知らない、知りたくもない」なんですね。TはともかくLGBというものに対して異論を唱えることすら許されない現状は非常に気持ち悪いです。小川さん含め、LGBTを否定・抑圧しようと、もしくはストレートになれと考えている人はいない。存在自体は認めるが、「特権」や「税金等支援」が認められないというだけ。先入観や言葉狩りによる批判はLGBTへの理解をより深くする作業の邪魔でしかないと思います。  一方で私への批判も、もちろんある。罪なき被害が存在する痴漢と、好きなもの同士で繋がってるだけのLGBTを同視するのはどう考えてもおかしいでしょ。そういう、普通におかしいことを、政治思想が絡んだら普通に擁護する右寄りの人間はおかしいと思いますよ。 ところがこれは拙文を読んでいないか、読めていない批評である。言うまでもなく、拙文は痴漢とLGBTを同一視していないからだ。しかし、それでもこの投稿には人としての批判の節度がある。ゲイの方から応援も 一方、ゲイの方から、私宛への応援メッセージも何通も寄せられ、公開されているネット上でも次のような議論を拾うことができる。当事者ですが、鈴木先生の意見は全てのLGBTの意見ではないです。政治的イデオロギーをこの問題と結びつけないでほしい。杉田議員は差別してるのではなく、税金の使い方について政治家としての考えを述べてるだけ。 以上をもって世論の全てだと強弁するつもりはない。しかし、当事者を含め、これだけ穏当な支持の言説が多数ある拙文、拙論を理由に、たった1週間で伝統あるオピニオン誌を休刊にするのは、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた」出版社の自殺ではないか。新潮社もリベラル人士も、実は、個々のL(レズビアン)やG(ゲイ)やB(バイセクシャル)やT(トランスジェンダー)の人たちを全く素通りしている。恐ろしく傲慢な事ではあるまいか。 それにしても、なぜここまで事は急激に運ばれたのか。拙文が普及してからでは廃刊クーデターが展開しにくくなるからではないか。それは以上のネットの反応を見れば分かるであろう。さらに『新潮45』の特集全部を読む読者が増えると、拙文以外の6人の議論は穏当であり、なぜこのバランスの取れた特集を雑誌休刊の理由にするのか、到底社会の理解を得られなくなったに違いない。 健全な民主社会を維持する根本は、言論が①ファクトに基づくこと、②言論のプラットフォームであるマスコミや出版社は、公平な媒体であることに徹し、自由な空間を死守することである。ところが、この自由社会の基幹というべき2点が数年、日本ではなし崩しに突き崩されつつある。 あの森友・加計学園問題を報じた朝日新聞による倒閣運動を日本社会は放置した。保守政権叩きでさえあれば、ファクトなど今の日本の大手メディアはもはやどうでもいいとの不文律が、これで出来てしまったと言える。朝日新聞社東京本社=東京都中央区(産経新聞社チャーターヘリから、納冨康撮影) その上、今回の『新潮45』休刊での不可解な動きだ。朝日新聞と新潮社の「あまりに常識を逸脱した」行動で、日本社会はファクトもオピニオンの公平な提供も、全く責務として引き受けようとしない大手メディアによって、完全に覆われることになった。 日本は平成30年9月25日をもって、「言論ファッショ社会」に突入したという事にならぬかどうか―。実に厳しい局面に日本の自由は立たされている。

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    藤岡信勝手記「言論圧力に屈した新潮社よ、恥を知れ」

    かるだろう。そのくらいは忖度(そんたく)せよ」ということなのか。口を極めて「忖度政治」を批判してきたメディアが、今度は自ら「忖度言論」を実践している。話にならない。差別やマイノリティーの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。「新潮45」を出版する新潮社の本社前でメッセージを掲げ、無言で抗議活動をする人たち=25日夜、東京都新宿区(共同) 今後は今回の7本の論文のような論旨は、「差別的な表現」として新潮社の出版物からは排除されるという意味にとれる。それは、不当な言論弾圧に屈服し、冒頭で述べていた言論の自由を自ら踏みにじり、特定の勢力に媚(こ)びを売る御用評論だけの世界になる、ということを意味する。これは言論の死だ。新潮社のプライドはどこへ そして9月25日の休刊発表の文書はさらにひどい(「休刊」と言っているのは婉曲用語で、事実上の廃刊であることは誰もが知っているだろう)。ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します。 今度は社の経営問題を言い訳として持ち出している。確かに雑誌を出す出版社は営利企業であり、もうからなければ続けることはできない。しかし、一方で、出版社は言論機関としての社会的責任を負っており、出処進退で何よりも大切なことは、言論の自由を守るという正道に立っているかどうかだ。こういう内部事情と金勘定だけを持ち出して世間の同情を買おうとは、あまりに情けないことだとは思わないのか。会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。これまでご支援・ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと、申し訳ないという思いしかありません。今後は社内の編集体制をいま一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です。 こういう社内事情を理由にするのは恥ずかしい。伝統ある新潮社の看板と矜恃(きょうじ)はどこへいったのだろうか。 今回の問題で、新潮社の決定が社会にもたらした最大の被害は、言論に対しては言論で対抗するという原則を逸脱し、不当な圧力に簡単に屈服して、圧力をかければ雑誌の一つや二つはつぶせる、という自信を一部の勢力に与えたことだ。批判を許さない絶対的な「弱者」をつくり、これに反対する一切の言論を弾圧し封殺する暗黒社会が到来するのに、言論機関が自ら手を貸しているのである。※画像はイメージです(GettyImages) 一部の勢力を勇気づけているのは、アメリカなどでも旋風を巻き起こしたポリティカル・コレクトネスの運動なのだが、これは毛沢東の「造反有理」と同じようなものだ。正義が絶対的に自分たちにあるとしてあらゆる破壊や殺人行為までが許される、としたのが、あの文化大革命をつくり出した理屈である。 また、LGBTと括られる性的マイノリティーの人たちも被害者だ。先にも書いたが、一部の勢力がメディアと結託して作り出したメディアの上での「雰囲気」を、「世論」などと称して正当化の理由にする。しかし、性的マイノリティーの人たちの圧倒的多数は、騒がず、静かに放っておいてもらいたいと思っている人もいるだろう。今度の騒ぎの直接的な犠牲者は、本当は彼らなのかもしれない。

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    『新潮45』が「真っ当な論壇誌」として生まれ変わることを望む

    の中の一本、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」が、見当外れの大バッシングに見舞われた。主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。 筆者は今回の『新潮45』の記事もさることながら、実はこのリードこそが問題にされるべきとも思っている。「真っ当な議論」 「見当外れの大バッシング」「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった」とあるが、「主要メディア」とはどのメディアで、「見当外れ」「戦時下さながら」というのであれば論拠となるべき具体的な記事や論考を示すべきだろう。 ネットメディアやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及による紙雑誌の売り上げ減は、論壇誌だけでなく漫画でも指摘されていることだ。そうした中で新潮社ならずとも、ともすれば「売れさえすれば、何をやっても許される」といった価値観に流されがちである。 今回、新潮社が狙ったものとは全く違う形で「真っ当な議論」が巻き起こり、その流れに対して異議を申し立てることになったのは、皮肉なことである。しかしこれは、今まで行われてきたLGBTに関する地道な活動の成果でもあると思う。 一方で露呈したのは論壇界の人材不足、もしくは未熟なまま、生煮えのままでも「論文」とされ、何らかの価値づけがされていくといった風潮である。それが今回の騒動を巻き起こした一因であるならばなおのこと、今だからこそ「真っ当な」論壇誌の存在が求められているともいえる。 新潮社は2002年から「新潮ドキュメント賞」を創設し、売れ行きが厳しいノンフィクション作家を発掘、育てることに寄与してきた。『新潮45』はその発表誌でもある。新潮社の佐藤隆信社長(右)=2015年10月16日、東京都渋谷区(海老沢類撮影) 「事実上の廃刊」といわれる今回の「休刊」であるが、これを機に社会が求める「論壇誌」として生まれ変わること、もしくは新たに創刊されることを望む。 新潮社にはどのような形にせよ、一連の騒動を検証する記事と、杉田氏の見解を掲載した出版物の発行を心から望む。 ちなみに、その出版物は必ず売れるはず。会社的にもマイナスはないはずである。

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    部数はミニコミ誌以下『新潮45』は遅かれ早かれ命脈尽きた

    んどん減っている。 雑誌販売のメーンは書店である。その書店は、2018年5月現在1万2026店(アルメディア調べ)で、ピーク時の約2万3000店に比べると半減している。 最近のニュースから、雑誌崩壊がいよいよ最終段階に入ったと思わせるのが、JRの駅ナカの「キヨスク」などから雑誌がなくなりかけたことだ。これまでキヨスクに雑誌を卸してきた鉄道弘済会が、雑誌事業から撤退することを決めたのだ。その最大の理由は販売不振で、雑誌の売上額は1993年のピークには874億円あったが、直近では10分の1まで激減していた。 これに慌てた出版業界は、取次大手のトーハンが事業を引き継ぐことで決着したが、大きな問題が残った。それは、駅ナカ向け事業の手数料比率は最大で売上高の10%だということだ。これだと、トーハンは利益が出ない。となると、雑誌を発行している出版社からの支援が必要になる。雑誌によっては売り上げの3割をキヨスクで上げているものもあり、この先どうなるかは不明のままだ。マンガ雑誌が並ぶ大阪市内のコンビニの店内 現在、紙の雑誌が直面している最大の危機は、全国の書店に雑誌を含む出版物を届ける配送業者の経営が危機にひんしていることだ。配送業者の半数が2、3年以内の撤退を考えているといわれ、この状況はますます悪化している。 紙の出版を支えているのは「書籍」「雑誌」「コミック」の三つである。雑誌の低迷は、残りの二つに比べて群を抜いている。前年比で見ていくと、ここ数年、毎年10%近く落ち込んでいる。『新潮45』休刊の真因 雑誌の売り上げを決定的に奪っていったのは、以前はガラケー、いまはスマートフォンである。スマホの1日の平均使用時間は、中学生までは1~2時間とされるが、高校生になると、男子が4時間、女子は7時間という調査結果がある。20代、30代の社会人も3~4時間は使っているはずだから、雑誌など読む時間はない。 「雑誌の死」の記事を書いた2015年、私が注目したのが、LINE上級執行役員(当時)の田端信太郎氏が、「マーケティングテクノロジーフェア」の特別講演で話したことだ。彼は「20代はスマホが本妻、テレビは愛人」という趣旨のことを述べ、「(ユーザーの消費時間の)7%のシェアしかないプリント予算に、いまだに広告主は25%も使っているのはおかしい」と指摘したのである。 雑誌を支えているのは、販売収入よりも広告収入である。広告収入は部数に比例する。田端氏の指摘はその通りであり、毎年、雑誌の広告収入は減り続けている。 『新潮45』のような月刊誌では、広告収入はわずかしかなく、これまで赤字覚悟で発行されてきた。この赤字を少しでも解消するためには、部数増による販売収入の増加が不可欠となるが、そのために何ができるだろうか。 実は、今回の休刊はここに原因がある。つまり、部数増のためにマーケティングを行い、分析結果を実行すれば、必ずこうなるのである。出版社が行うマーケティングとは、読者の分析である。読者カードによるアンケートの回収・分析から、今では書店のPOS(販売時点情報管理)システムなどがある。 これらを見れば、ノンフィクションやオピニオンを基調とする月刊誌の読者が、ほぼ60歳以上の男性であることが分かる。しかも、ここまで書きたくはないが、学歴や職歴などのデータから見ると、それほど教養のない人々である。 前記したように、若い世代は完全に紙離れしている。となると、このような高齢世代が好む言論を載せなければ、雑誌は売れない。新潮社の新刊本の販売をやめると宣言した和歌山市の書店「本屋プラグ」=2018年9月 こうして、多くの月刊誌が極度に右傾化していった。ここで言う右傾化とは、朝日新聞などのリベラルといわれるメディア(本当にリベラルかどうかは置いておく)を叩き、野党と左翼を叩き、北朝鮮や韓国、中国を叩く。場合によっては米国の横暴も叩く。非常に分かりやすい編集方針のことである。 この典型が、『WiLL』や『月刊Hanada』、『正論』などだが、今では『Voice』『SAPIO』までがそうなり、最後発として『新潮45』がそうなったといえるのだ。マーケ通りにやっているだけ 数年前、ある月刊誌の編集長に「なぜ、そんな右がかった原稿ばかり載せるのか? それでは『WiLL』や『正論』と同じではないか?」と聞くと、彼ははっきりとこう言った。「別に私がこういう言論を好きというわけではないんです。ただ、そうしないと部数減が止まらないんです。私はマーケティング通りやっているだけですよ」。 そこで、私はこう聞いた。「でも、毎月、朝日叩き、中国叩きでは、同じことの繰り返しではないか?」「それでいいんです。読者は新しいものなんて求めていません。毎回、同じように叩くからいいんです。『朝日、中国は、やっぱりそうか。だからダメなんだ』。そう思うのが彼らの快感で、それが持続することを望んでいるのです」。なんというマーケティングの成果だろうか。 かつて『新潮45』には、良質なノンフィクションがあった。しかし、そうしたノンフィクションを支えるには、調査報道をするための豊富な取材費が必要だから、それが出せなくなれば、自然と消滅する。今では、日本の月刊誌のほとんどで、綿密な取材を重ねたノンフィクションはなくなった。 ここ半年、『新潮45』は、おなじみの「保守論人」(本当に保守かは分からない)による寄稿のオンパレードとなった。「『反安倍』病につける薬」(2月号)、「『非常識国家』韓国」(3月号)、「『朝日新聞』という病」(4月号)、「問題の本質を直視しないいつわりの『安倍潰し国会』」(5月号)、「朝日の論調ばかりが正義じゃない」(6月号)と続き、8月号で杉田LGBT論文を掲載するに至ったのだ。 今回のことではっきりしたのは、「貧すれば鈍する」ということだろう。創業者、佐藤義亮の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」すら省みられなくなるまで、出版ジャーナリズムは劣化してしまった。 今回のことで、新潮社は「良質な文芸書」を出す出版社という看板を失ってしまった。部数が2万部を切り、それを挽回しようと、マーケティングに従った結果がこれだ。 NTTドコモの電子雑誌読み放題サービス「dマガジン」 今のところ雑誌を救う方法がない。いっとき、電子出版が紙出版を救うとされたが、それは単なる希望的観測であり、今や電子出版も失速している。 2018年上半期(1月~6月)の紙と電子出版物販売金額は7827億円で、前年比5・8%減。そのうち紙出版は6702億円で前年比8・0%減、電子出版は1125億円で同9・3%増となっている(出版科学研究所)。 しかし、電子出版の内訳を見ると、電子コミックが864億円で同11・2%増、電子書籍が153億円で同9・3%増なのに対し、電子雑誌は108億円で、なんと同3・6%減とマイナス成長なのである。これは「読み放題サービス」の会員数の減少が原因で、もはや雑誌は紙でも電子でも見放される状況になっている。このままでは、『新潮45』に続いて、雑誌が次々休刊していくのは避けられないだろう。

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    『新潮45』休刊は、言論の自由を装う「最後の悪あがき」に過ぎない

    松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者) 月刊誌『新潮45』の休刊をめぐってさまざまな議論があるようだ。その中には、いくらLGBTをめぐる論調に深刻な瑕疵(かし)があっても、雑誌の休刊にまで至るような事態は、憲法の言論・表現の自由という観点から問題があるのではという論調もある。 新潮社が出した「休刊のお知らせ」を見ても、「『あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現』(9月21日の佐藤隆信社長の声明)を掲載した」ことへの「深い反省」が述べられている。あたかも自社の言論が休刊の理由であるかのように説明されており、そういう論調を加速させているように思える。 しかし、これは『新潮45』の最後の悪あがきのように見える。ただの商売の失敗にすぎないものを、言論の間違いと関連づけることで、休刊に「崇高」なものがあるかのように見せる詐術のようなものだ。 「休刊のお知らせ」を見れば分かるように、『新潮45』は「ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤」していた。他の少なくない雑誌と同じである。その中で『新潮45』は、よく知られているが、右派雑誌の仲間入りすることを目指した。現在の言論界では、右派言論が主流を占めるようになり、左派雑誌は見る影もなくなっている。だとすれば、そういう選択肢はあり得たと筆者も考える。 だが、もう何十年も前からあまた刊行されてきた右派雑誌の中で、『新潮45』独自の立ち位置をどうするかという点は鮮明でなかったように思える。右派雑誌は雨後の竹の子のように乱立しているだけに、何か独自の路線を持てないと、どんどん埋没していくことになる。 政治の世界を見渡しても、野党路線を嫌って保守路線を選択した「維新の会」が、自民党との違いを打ち出せないで影響力を失っていくのと同じようなものである。同じ右派なら伝統ある自民党には勝てないのだ。「新潮45」の休刊を伝える新潮社の文書(撮影・八田尚彦) その結果、『新潮45』の部数低迷に歯止めはかからなかった。そこから挽回を図るため、求められる独自性を他の右派雑誌よりさらに下劣な所に求めるようになったのが、今回のLGBT企画であったと思われる。 そんな企画で生き残りを図ろうとしたため、必然的に「編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」(休刊のお知らせ)のである。そんな雑誌を読者が手に取るはずがない。新潮社の声明は、LGBT企画に「深い反省」をしているようだが、実は読者離れを食い止められず、商売に失敗したということを言っているにすぎない。 それなのに、「反省」を口にし、LGBTの人や左派の圧力で休刊に追い込まれたと装うことにより、一連の騒動が言論の問題であるかのような構図を描いた。最後の休刊の局面を迎えてさえ、右派に対して左派を攻撃する口実を与えているのである。「最後の悪あがき」と書いたのはそういう意味だ。もし、本当に言論の中身を「反省」しているのなら、どこが間違ったのか、どうすべきだったかを言論で明らかにすることが不可欠であろう。「新編集長」私なら提案できる 筆者は、新潮社と違って全く知られてはいない会社ではあるが、出版業界に属する編集者である。新潮社と異なり、左派的な出版社なので、自分の経験を新潮社にそのまま当てはめようとは思わない。 しかし、右派言論界よりさらに読者層の少ない左派の世界だから、そこでの生き残りは並大抵のことではない。でも、だからこそ自信を持って言えることがある。 例えば、安全保障をめぐっては、自衛隊が存在すると日本は危険になるというのが、左派言論界の常識であった。だが、毎年世界で戦争が頻発し、何十万人もが死亡するという現実の中で、軍隊なしにやっていけるというのは、あまりに常識から外れている。 そんな中で、かつての左派の常識にとらわれていては、やはり生き残ってはいけないのだ。発想を根底から変えていかなければならない。 そこで11年前、『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』という本を刊行した。防衛省の元高官数名が筆者の本である。本の帯文は防衛庁長官を務めたこともある加藤紘一元自民党幹事長に書いてもらい、自衛隊の機関紙である「朝雲」にも広告を出すという異例の本であった。 それまで「護憲」本は販売不振が続いていたが、この本は反響を呼び、かなり売れた。それ以降、この路線を突き進んでいる。その後、自民党政府の官僚であった人の本も出した。近く、自民党の元幹事長や、自衛隊の元幹部に登場願い、安倍晋三首相の「加憲」案にモノ申す本を出す予定もある。2007年3月、陸上自衛隊中央即応集団の編成祝賀式に黒い覆面姿で出席した特殊作戦群隊員 左派的な常識からいうと、自衛隊と憲法9条は対立軸である。けれども、その二つの親和性という現実に目をつむらないことにより、左派業界の中でも新しい読者層を獲得できたというのが、その小さな経験が示すことでもある。 新潮社が『新潮45』をどうしようと考えているのか、筆者には何の情報もない。「廃刊に近い休刊」と会社の幹部が説明しているようだから、そうなるのかもしれない。 しかし、もし言論を大切にする気持ちが残っているなら、右派路線を継続した場合でも、独自性を発揮することは可能だという見地で、ぜひいろいろ試行錯誤をしてほしい。他の右派雑誌の行き過ぎをたしなめ、本物の右派、保守派を目指すという立ち位置である。 その新しい右派の道を進む気持ちがあるなら、筆者には「ぜひこの人を編集長に」という提案がある。新潮社ともつながりの深い人である。その編集長の下で豊かな言論を誇る右派雑誌ができれば、左派の端くれに存在する筆者としても、闘いがいがあるというものだ。そうなれば、右派と左派が罵倒し合うのではなく、建設的に議論できる可能性が広がると思う。 『新潮45』の今後に期待したい。だからこそ、重ねて言う。問題を言論の自由に還元してはならない。

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    杉田水脈議員は「LGBTに税金を投入」について具体的な説明を

    網尾歩(コラムニスト) 何を指して「LGBTのカップルのために税金を使う」と言っているのか、杉田水脈議員の説明がないまま炎上が続いている。このままなし崩し的に、「LGBTが特権扱いされている」かのように語られていいのか。 「新潮45」10月号の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が大炎上。9月21日には新潮社の佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」とコメントを発表するまでに至った。 問題となったもともとの杉田水脈議員の記事、「『LGBT』支援の度が過ぎる」(同誌8月号)を読んだ時点から、筆者には一点の疑問がある。杉田議員の言う、「(LGBTに)税金を投入する」とは、具体的に何のことなのか。 「『LGBT』支援の度が過ぎる」という杉田記事の中で最も批判を集めたのは<彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。>という一文だが、この一文は<そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。>と続く。しかし、「税金を投入」が、具体的に何の取り組みについて、どれほどの税金を投入することなのかについて、この文章内でははっきりとした説明がない。 ただ、この前に子育て支援や不妊治療に<お金を使う>といった文章があることから推測すれば、杉田議員は同性パートナーシップ制度にかかる税金を念頭に置いているのかもしれない。 それでは、同性パートナーシップ制度にはどのぐらいの「税金が投入」されているのだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 「LGBTへの日本の行政支援は『度が過ぎる』のか」(NEWSWEEK/7月28日)では、<同性パートナーシップ制度をいち早く導入した渋谷区の場合、平成30年度の男女平等・LGBT関連予算が1300万円。予算総額938億円の0.01%でしかない。これで『度が過ぎる』と批判するのは度が過ぎる。>という指摘がある。 実は、杉田議員を擁護する側からも同じことが言われている。 「新潮45」10月号の特別企画の中で、「LGBTへの税金投入」の内容について具体的に触れている執筆者は、松浦大悟元参議院議員のみである。LGBT当事者である松浦氏は、<杉田議員はLGBTへの税金投入も問題にしていますが、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算はかかっていません。>と、NEWSWEEK記事と同じ指摘をしている。 松浦氏は続けて、<指摘するならそこではなく、復興庁が旗を振っている「LGBTツーリズム」でしょう。>と言及。海外からLGBTを被災地に招く企画について、LGBTが利用可能な温泉やトイレの改修工事が行われていることについて、<まだまだ生活債権に苦しんでいる人がいるにもかかわらず、このような復興予算の使われ方はやはりおかしい>と述べている。しかし、これは松浦氏自身が触れているように「復興予算の使われ方」の問題として論じられるべきだ。LGBTだけに特化して復興予算が使われているわけではないのだから、これをもってLGBTへの支援もしくは税金投入が「度が過ぎる」と、果たして言えるのか。杉田文章の「功績」 問題なのは、「生産性」の議論にとらわれるあまり、「税金を投入することが果たしていいのかどうか」という、杉田議員の具体性を欠いた雑な問いかけが、あたかも「LGBTに過大な税金が投入されている」事実があるかのごとくに独り歩きしていることだ。ツイッター上で、「差別は良くないけれど、そんなに税金を投入する必要はない」といった内容の投稿が見られることが、杉田文章の「功績」だろう。 杉田議員が「税金投入」を問題視しながら、本当にどれだけの「税金投入」が行われているかについては触れないまま文章を終わらせ、今に至るまで特に言及を行っていないのは、いったいなぜなのか。ぜひ説明を願いたい。「税金を投入」という言葉をいったん持ち出せば、都市伝説的に尾ひれがついて拡散されていくことを知っていたからではないのか。 LGBTに過度な税金投入の事実はないという指摘は、「杉田議員の『LGBT非難』の度が過ぎる LGBT支援も、予算も、じつはほぼ皆無の国で」(BuzzFeed News/8月1日)にもある。杉田議員は、逃げずにきちんと反論してほしい。 上記で松浦大悟氏の指摘について反論もしたが、筆者は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」企画の7人の書き手の文章のうち、杉田議員に目を通してもらいたいものがあるとすれば、松浦氏の文章だけだと思っている。 ゲイであることをカミングアウトした松浦氏は綴る。自身の暮らす秋田県にゲイバーは一軒もなく、その理由は「顔バレ」を恐れて当事者が集まらず、経営が成り立たないからであること。NPO団体が主催する会合も、参加希望者のみに場所が伝えられ、隠されていること。2012年にはトランスジェンダーの男性が焼身自殺したこと。松浦氏自身、同性愛者であることを理由に「代表にふさわしくない」と言われた経験があること。杉田水脈氏=2017年2月24日、山口県下関市%E3%80%80(中村雅和撮影) <LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。><そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、『非国民だ!』という風潮はありません。>と書いた杉田議員は、これを読んで恥ずかしくならないのだろうか。 わからない人にはわからない。気づけない人は気づけない。当事者でない者が知らないままでいたいと思えば知らないでいられる。だから差別は怖いのだ。

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    杉田水脈氏「生産性発言」めぐる論戦にほぼ生産性がない理由

     その主義主張には、きちんとした根拠があるのだろうか? と疑いを抱かずにはいられないような、極端な発言が国会議員や地方自治体の首長などからたびたび飛び出している。そのたびに、ネット上では賛意と反論が激しくぶつかりあっているが、肝心の当事者は置き去りで、なんのために彼らは争っているのかわからなくなる。ライターの森鷹久氏が、国会議員によるLGBTをめぐる偏った主張によって浮かび上がる、貧しい現実をレポートする。 * * * 各界に波紋を広げている、自民党の杉田水脈・衆議院議員による「LGBTには生産性がない」という主張。杉田議員に近しい支援者からは「言い方は過激ながら、言っていることは正論」といった声が聞こえてくるが、右派である筆者の周辺からも戸惑いの声は噴出しており、筆者自身も杉田氏の議員としての資質には疑問を呈せざるを得ない。 そもそも、杉田議員の言う「生産性」とはなんなのか?「子を産むか産まないかが生産性というのなら、杉田議員のボス・安倍首相はどうなのって話。いくら国のために頑張っていようと、子供がいない生産性はゼロの男だということになる。言われた方の気持ちがわからないって、致命的よ」 こう見解を述べるのは、新宿二丁目のゲイバーに勤務する、元男性のサクラさん(仮名)だ。 杉田議員が月刊誌に寄せた文章を読むと、LGBTの人々に「税金を使うべきではない」、「かの方々は病気ではない」、さらに「生産性がない人々への支援に意味があるのか」といった主張がなされていることがわかる。子供を産まない人々について生産性がない、すなわち「価値がない」とも受け取られかねない発言で、「全文を読めば理解してもらえる」(杉田議員)といった反論はまったく弁解になってはいない。※画像はイメージです(GettyImages) ネット上では、神奈川県相模原の障がい者施設で19人を殺めた容疑者が語る「優生思想」そのものという指摘すらある。かつて同じ自民党議員から飛び出した「女性は子を産む機械」発言にも似た、自分以外の人間を認めていない極めて自分勝手で、危険な思考であることは明らかだろう。「杉田議員も子を産む機械なのかしらね。女性という立場で女性をバカにするなんて、本当に理解できない」(サクラさん) 同じ新宿二丁目でLGBT向けの飲食店を経営するレズビアンのまりあさん(仮名・20代)も、杉田議員の主張には違和感を覚える。「病気でないし、支援されなくとも、私たちは私たちで懸命に働き、生活しています。税金だって納めているし……。それを生産性がない、の一言でバッサリ切り捨てる。別に金銭的な支援が必要だとは思っていないし、それは政治家など外野の人たちが勝手に言っている事、大きなお世話。でも、生産性の一言で切り捨てるような考え方にはゾッとするし、共存共栄といいながら、たくさんの人を殺してきた戦前の日本みたい。自分の気に食わない生き方を選択している人々を粛正したいのでしょうか」(まりあさん)純粋な日本人とは何か LGBT当事者の皆さんに今回の「杉田発言」をどう思うか聞いて回ると、確かに報道や反杉田派議員らのテンションとの温度差を感じないわけでもなかった。まりあさんのように過剰な反論には「大きなお世話」という、冷静で落ち着いた見方をしている人が多い印象だ。「子供が産めないことなんて、分かっています。だからゲイやレズビアンの私たちにとっては"だから何"という感じ。それよりもひどいのは、病気や様々な事情で子供ができない、生まれないという人々に、こんな乱暴な言葉がどう受け取られるか、まったく想像していないこと。唯一、杉田議員の主張の中で正しいのは"LGBTは弱者ではない"という部分でしょうか。 同性婚などの制度を拡充し“存在を認めて”とは考えますが、助けてくれとは思わない。ただ、やっぱり上から目線で“甘やかすな”みたいな主張は、現実を全く理解していないことの証左。一方で杉田議員を断罪する人たちの一部は、私たちを必要以上に弱者に仕立て上げようとする。あなたたちも声を上げなさい、弱者でしょ? と。LGBTのパレードにやってきて政治的な批判活動を行う……。結局、私たちは攻撃され利用されて、捨てられるんじゃないの? もうね、本当に放っておいてほしい。私たちで商売をする人たちのいやらしさに吐き気がする」(まりあさん) 杉田発言がマスコミで取りざたされ始めると、各社が杉田議員へアプローチを続けるも「まったく捕まらなかった」(大手紙政治部記者)というが、そのころ当の本人は支援者に向けた講演活動中で北海道にいた。件の主張について全く曲げる姿勢はなく、支援者からも「頑張れ」「間違っていない」といった激励が相次いだという。「マスコミも野党も騒ぎすぎ。どうせ弱者を作り上げて寄生して、安倍政権を潰したいのでしょう。講演会会場に札幌のテレビ局が来たようですがね……追い返しました(笑)。日本は少子化で、子供を産まないと日本は滅びる。純粋な日本人をもっと増やして、反日的な人々を追い出さないといけないんですよ」自民党の杉田水脈衆院議員に抗議する人たち=2018年7月27日午後、札幌市(共同) こう話すのは、かつて筆者が保守系論壇誌に寄稿していた際に、SNSを通じて激励のメッセージをくれた北海道在住の経営者男性(50代)だ。杉田議員の講演の一つに参加していた。筆者は「そういった考えは受け入れられない」と返したが、頑として主張は変えない、と言い切る男性。 純粋な日本人とはどんな存在なのか、反日的な人々とは何をさすのか、問いただしたいことはいろいろあるが、ただ相手を貶め、相手より優位に立てばどんな手段も厭わない議論にとらわれすぎていないか。それはどの思想信条の人にもある傾向で、今回の騒動でも、記事で名指しされたLGBTの人たちは置き去りにされている。左右の政治的議論に巻き込まれ、疲弊し、結局は単なるパフォーマンスの為に消費された後は、誰も関心を寄せない、ということになりはしないか。杉田議員のその後 杉田氏周辺を取材する大手紙記者も不満を呈する。「杉田議員は後に注意を受けることになりましたが、安倍首相をはじめとした上の人々がそもそもこうした問題に関心が低い。なので、事の重大性を理解しようとせず、叱責されない杉田議員本人も“これくらいなら過激な主張をしてもよい”と思っているのでしょう。 左右の政治スタンスに関係なく、この件はあまりにひどすぎるし、糾弾されるべき。杉田議員はマスコミの追及から逃げ回っていますが、主張が正しいと思うのなら、堂々と出てきて話せばよいのです。仲間内では強がっているようですが、騒ぎが大きくなって怖じ気づき、表に出てこずコソコソとしている感が否めません。結局過激なことを言って注目を集めようとするパフォーマンスだったと言われても仕方ないでしょう」 杉田氏は国会議員なので、主張のいびつさは選挙によって国民から審判を受けるだろう。だが、彼女のパフォーマンスに便乗して、当事者を置き去りにした"論戦"を激しく繰り広げている人たちが、みずからを省みる機会はあるのか。いわゆる専門家だけでなく、ネットで強く主張を続ける匿名の人たちも含めると、自分たちはいったい何をしていたのか、それによって何を失ってしまったのかを気づく機会はあるのか。 問題をめぐり、両方に存在する一部の過激派から飛び出す極論によって、議論がされるどころか、口汚く罵り合ったり暴力で相手を屈服させようとしたりして泥沼化する。今は昔と違い、そのやり取りの一部始終をネットで誰でも見られるから、一部の過激派たちの意見や主張がインパクトの有無のみで共有され続け、思想の極端化が増長されやすい。あらゆる問題が政治問題に取り込まれていくことで、悲しむ人々、苦しい人々の気持ちを押しのけて、空虚な思想論争ばかりが繰り広げられる。※画像はイメージです(GettyImages) わが国においては「#MeeToo」運動も、同じような経緯で言葉だけが消費され、再び当事者が声を上げづらい世の中に戻り、取り上げるマスコミも政治家も、ほとんどいなくなってしまった。こうした事態は、大変に悲しくそして情けなく、何か大きな不幸の到来を予感させる。考えることを辞めた人たちが、あまりにも多すぎるのではないかと思うのだ。関連記事■ Excel方眼紙めぐる論争 弊害あるのにやめられない理由とは■ 労働者派遣法改正巡る論戦 現場を知らぬ国会議員のたわごと■ 野田首相 論戦に用意したカンペに7つの【注】が書かれてた■ 「ダラダラ残業も、低い生産性も集団主義のせい」と大学教授■ 小籔千豊「ネットに悪口書くなんて生産性なさすぎて可哀想」

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    なぜ小室圭さんバッシングは止まないのか

    秋篠宮家の長女、眞子さまとの結婚が延期となった小室圭さんをめぐり、週刊誌のバッシングが止まない。実家の金銭トラブルに端を発した一連の報道に小室さんは沈黙を続けるが、留学で渡米した後もその過熱ぶりが変わらないのはなぜか。

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    「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド

    鈴木涼美(社会学者) 「愛なんて美しくなくていい 怖いくらいでもいい」という歌詞をメロディに乗せたのは小室哲哉だが、それにしても日本中がお祝いムードに包まれた婚約報道から、婚約者に関する一連の報道を経て眞子さまが今感じている怖さはどれくらいのものだろうか。 そう言えば最近、高橋一生がミステリアスな彼氏を演じるサスペンス映画が公開されていたが、その映画を上回る勢いで「知り尽くしていたはずの愛する人の素性」が週刊誌をにぎわせた。 眞子さまの心中は私ごときが察せるものではないが、一方で良き大学を出て良き銀行をすぐやめて良き大学院に入り、念願の国際弁護士を目指す米国留学をスタートさせた元「海の王子」の方は、自信と誇りに満ちたエリートへの階段を意気揚々と登っているように見える。 昨年婚約が発表されたとはいえ、週刊誌報道の後に不自然に延期されており、彼はまだ正式な皇室の関係者ですらないような気もするが、元「海の王子」であることは間違いないので、待遇がさながらプリンス並でも当然なのだろう。 いくつかの報道では、彼らの結婚は暗礁に乗り上げてしまったような印象を受けるが、少なくとも彼のこれまでの振る舞いや雰囲気、行動を見ると、その理不尽のようにも思える延期発表や、週刊誌によって一方的につけられる悪印象について必死に抗おうというような態度は見受けられない。 そもそも週刊誌には彼の母親の元婚約者であり、彼の留学資金などを用立てたA氏の声が登場するが、それに対する公の場での反論すら発していない。 母親がどんなつもりでA氏から現金を受け取ったのか、といったことは各自の妄想の域を出ないが、そんな家庭の事情があったとしても、愛する女との結婚に向けて、弁解したり謝ったりしてでも守り抜く、という気概が彼から全然感じられないのだ。 私は正直、母親が「裏ッピキ」(夜の商売をする女の間で、客から直接金銭を受け取る行為を呼ぶ)の天才だったとか、そんな話はどうでもよくて、延期をすんなり受け入れるような、その辺りに彼の不気味さを感じる。米国に出発する小室圭さん(中央)=2018年8月7日、成田空港 本当に眞子さまとの「恋愛結婚」を遂行したいのであれば、公の場で母親をフォローするでもいいし、和泉元彌のように母親の呪縛を振り切ったっていいような気もするのだが、お付きの人などをつけて胸を張って米国のロースクールに通学する様子は、それなりの希望を叶えたというような印象まで醸し出す。 父親を亡くし、低収入の母と2人、時には第三者の助けを借りながらも力強く生きてきた彼のような人を、奮い立たせるものはなんだろうか。決して恵まれた状況にいなくとも、優秀さと気高さを放棄せずに、いかにも恵まれた状況の人が歩むような道を歩むというのは並大抵の覚悟ではできない。「歌舞伎町の王子」 彼とはまた全然関係のない話だが、シングルマザーの元で経済的な苦労をして育った男というのは、夜の世界では毎日のように出会う。彼らの多くは恵まれた状況の人が歩むような道とはまた別の、恵まれた状況にいないからこそ飛び込みやすい世界でやはり巨万の富を得ようとする。 彼らの行いは、ごく一般的に恵まれた、あるいはとても贅沢(ぜいたく)で恵まれた状況にいる私たちから見ると、時に想像を絶するほど卑(いや)しく、非人道的で、酷い。自分の親や相手の親まで巻き込んで女を信じさせ、金銭を奪い、目的が達成されればゴミのように捨てたりもする。 信じやすいような女を見抜き、平気で嘘をつき、弱みにつけ込んで、働きづめにさせて、何百万、何千万円を一人から搾り取ったりもする。別に、彼らは悪人ではない。 昼間のエリートの世界で出会う男たちの何倍も家族思いで、稼げば稼いだ分だけ母親に送金し、初めて売上が100万円を超えた月など、稼ぎのほぼ全てを親に渡すような男は想像の数倍多い。少なくとも私が大学や新聞社で出会った男たちで、母親に毎月現金を送るような男はほとんどいなかった。 別にホストにマザコンが多い、という話ではなく、ある側面から見れば残虐なほど道徳に反した彼らにも、彼らなりの正義とプライドがあるという話である。 そしてその正義は、彼らではない私たちの想像しづらいところにある。それは母親に送る金額を絶対に一度も下げないというようなこともあれば、売上ナンバーワンの写真が載った情報誌を実家に送る、というような場合もある。 米ロースクールで学び出した海の王子と、歌舞伎町の王子たちを並べるのは不毛で失礼だが、私はこの騒動を見て、彼は「歌舞伎町の王子」と同じくらい、あるいはそれ以上の複雑な正義とプライドとともに生きている可能性は大いにあり得ると感じている。 そしてその場合、その正義は私たち大衆が簡単に想像し得るものではない。関係者の紹介でも名家とのお見合いでもない、民間人との「完全な恋愛結婚」であることに不安を感じる宮内庁関係者もいると報じられるが、「完全な恋愛結婚」であることよりも、「完全な恋愛結婚」ではなかった場合の方がゾッとする。 神奈川県藤沢市の観光をPRする「湘南江ノ島海の王子」として活動していた当時の小室圭さん=2010年撮影(提供写真) もし、彼の正義が、愛する女と一緒になることや彼女を守り抜くことを第一の目標としない場合には、儀式延期が決まりVIPとして米国留学をするこの状況は必ずしも彼にとって不都合ではない。米国での彼の様子を伝える週刊誌報道はいかにもそんな想像をかき立てるように綴られている。 ただし、人間は複雑であるが、それほど明確ではないのもまた事実で、平気で嘘をつき、いいように働かせ、金を搾り取った後に、その相手の女を妻として迎え、幸福になったような夜の事例も実はごまんと転がっている。 冒頭で触れた高橋一生のドラマの予告編はこんなコピーで締めくくられる。「愛さえも嘘ですか?」。おそらく国民が案じる2人の今後は、このような問いにかかっている。

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    小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない

    、近衛家へ養子)と1966年に結婚する。近衛氏は日本赤十字社社員として報道されつつ、婚約内定時のマスメディアでは細川家や近衛家の話題も伝えられ、やはりその家柄が強調されている。 その後、崇仁親王の次女、容子(まさこ)内親王は1983年、裏千家15代家元、千宗室氏の長男、千宗之氏(現16代家元)と結婚する。千家は元華族ではないものの、結婚時の報道では「古式ゆかしい」婚姻の形式が強調されており、その家柄が古くから続く伝統的な家であることを印象づけるものとなっている。2018年6月、小山実稚恵さんのコンサートを鑑賞に訪れた黒田慶樹さんと清子さん夫妻 そうした流れに変化を見せたのが、2005年、明仁天皇の長女、紀宮清子内親王の結婚である。婚約内定の相手として報道されたのが、東京都職員の黒田慶樹(よしき)氏であった。 黒田家は親戚(しんせき)筋に元華族・皇族につながる人がいたが、元華族ではない。そうした意味で、同じ内廷の女性皇族の結婚の前例である昭和天皇の娘たちとは異なる。皇族の「恋愛結婚」とは こうした状況から、例えば週刊誌『AERA』2004年11月29日号は「ブランド婚より『わたし流』 紀宮さまの夫選び」とのタイトルを付した記事を掲載し、これまでのように家柄を重視したものではなく、あくまで紀宮が自分の意思で相手を決めた結婚だと捉えられた。 とはいえ、黒田氏は礼宮(後の秋篠宮)文仁親王とは初等科時代からの学友であり、高等科や大学時代は部活やサークルでも同じで、卒業後も交流があった。その意味では、家柄とは言えないまでも、皇族との関係性をすでに有する人物との結婚だとイメージされた。またこれまでも、池田隆政氏や島津久永氏、近衛忠煇氏が学習院出身で、黒田氏も同様であったことから、そうした連なりを意識されたのではないだろうか。 その後、2014年には、高円宮憲仁親王の次女、典子女王が第84代出雲国造(いずもこくそう)で出雲大社宮司の千家尊祐(たかまさ)氏の長男、千家国麿氏と結婚する。出雲大社の宮司を務め、戦前は華族の一員であった千家氏との結婚も、家柄をイメージさせたのではないだろうか。 ここまでくると、秋篠宮文仁親王の長女、眞子内親王の相手である小室圭さんは、これまでの女性皇族の結婚相手の傾向とは異なることが分かる。亡くなった父親は横浜市役所に勤務しており、元華族ではなかった。小室さん自身、眞子内親王と同じように国際基督教大学(ICU)を卒業するなど、学習院つながりで皇族との関係性を有していたわけでもなかった。 これまで私たちは、「恋愛結婚」と言っても、皇族の女性たちのそれは普通の「恋愛」ではなく、家柄など限定された中でのものと意識していたのではないだろうか。戦前とは異なり、戦後は決められたその人とそのまま結婚するのではない、そうした点で天皇制は「民主化」された。2018年2月、延期発表から一夜明け、自宅マンションを出る小室圭さん。心境を尋ねる質問には応じず、タクシーに乗り込んだ そうした思考から「恋愛結婚」であると強調されたのである。しかしその「恋愛」とは、世間のそれとは異なるものであった。あくまで限られた家柄の中での選択とみられていたのである。 ところが、今回の眞子内親王と小室圭さんの場合は異なった。限定された家柄・範囲の中から小室さんが選ばれたわけではなかったのである。小室さんという、今までとは異なる人物の登場であるがゆえに、報道の当初、皇室がより近くなったことを歓迎する声が多数聞かれた。 しかし、それゆえに反発する人々も現れ、現在のような状況となったのではないだろうか。それは「象徴」とは何かを考える違いに起因しているようにも思われるのである。

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    「池上彰MeToo炎上」専門家は使い捨て、テレビの軽さに潜むリスク

    ーバーで政治活動家のKAZUYA氏によれば「謎のMeToo(ミートゥー)運動」が発生した。 池上氏はメディアの取材に対し、「特定の先生が言ったことを自分の意見として言うことはありえない」と全面否定したという。 実は、筆者も2012年初頭、池上氏がメーンキャスターを務めた番組に関わったことがある。そのときの不満も、当時の筆者のツイッターに記録されている。いわば「プレ池上番組MeToo」といえる一人だ。 ただ、八幡氏や他の識者たちの経験とはかなり異なる。そのときの経緯をざっとまとめると、次のようになる。 番組では東日本大震災の復興需要や欧州の経済危機など、当時の経済問題が話題になった。特に復興需要関連のパートで、番組制作の助言者となった。ただし、筆者のクレジットを表記しないということは、制作スタッフから事前に告げられていた。2015年10月、著書『池上彰のそこが知りたい!ロシア』刊行イベントを行った池上彰氏 助言者を引き受けた筆者は、台本を事前に受け取り、それをチェックしていくのだが、残念なことにスタッフの経済に関する知識にひどい偏りがあった。これが大きな摩擦となった。そこで、スタッフと話し合いの機会を設け、筆者の不満をぶつけた上で、このままでは番組の助言者を降りるということを告げた。専門知は「使い捨てツール」 ただ、話し合いのおかげでスタッフとの考えの齟齬(そご)がかなり埋まり、筆者は番組への助言を続けることにした。結果として、復興需要関連で、緊縮財政批判や積極財政や金融緩和の話を番組の中に盛り込むことにつながった。 当時の日本は民主党政権の下で、アベノミクスの「ア」の字の可能性もなく、デフレは深まっていった。しかも、政策の関心といえば、復興増税、そして消費増税という緊縮政策ばかりだった。 この中で、リフレ的な主張を、人気のある池上氏の番組で放送できることは、筆者のクレジットや報酬を度外視しても最優先で行う必要があるように思えた。結果、放送された番組は、制作スタッフとの齟齬を乗り越えた、それなりにましな内容になったと思う。 ただ、後から考えても、この番組の制作スタッフの専門的な知識に対する軽い扱いは、後々も嫌な思いとして残った。筆者が強く主張しなければ、いったいどんな番組になってしまったのだろうか。 今回の池上番組MeToo運動においても、識者たちが自分たちの専門的知見を都合のいいように番組スタッフに利用されているという強い批判は、このときに筆者が感じた番組スタッフの「軽さ」につながるものだろう。 その後、筆者は扱いにくいと思われたのか、この番組とはそれっきりである。ただこの前後で、筆者と似た主張を持つ経済学者やエコノミストたちにも、別の放送内容について依頼がなされていたという。そして、そのたびに何か摩擦めいたことを起こしたとも聞く。さらにここが肝心だが、それ1回きりの付き合いが定番のようである。2016年7月、テレビ東京系「池上彰の参院選ライブ」に出演するジャーナリストの池上彰氏(中央)ら つまり、われわれ専門家はただの「使い捨てツール」でしかない。まさに、専門知を軽んじる態度である。 嘉悦大教授の高橋洋一氏は、池上氏の番組の問題について、専門家の知見を利用した旨のクレジットを入れることを提案している。それはある意味正しいだろう。クレジットじゃ済まないテレビの「実態」 ただ、以前、池上氏の番組とは別のワイドショーに出演したとき、事前の確認なくスタジオに流された映像資料に「田中秀臣氏による」というクレジットが出された。ところが、筆者はそんなことに全く関与していなかった。たまたまスタジオにいたので、その場で「僕が調べたのではなく、番組のスタッフが調べたもの」と急ぎ訂正したことがある。 これは恐ろしいことだな、と思った。自分の関与していないものにクレジットを付されて、それが広範囲に放送されてしまう。その場で訂正できたからいいようなものを、これができなかったらどんなことになっていただろうか。 だから、クレジットをつけることも一案だが、筆者のようなケースもあることは注意を促したい。つまりは、テレビの番組制作において、現場ベースではかなりずさんな実態があるのではないか。 例えば、今回の運動も、番組スタッフだけではなく、番組の中心である池上氏本人がスタッフや専門家とともに一緒に議論する時間を設けたら違う展開にもなるだろう。また助言を求める専門家を使い捨てのように毎回代えるのではなく、長期的な助言者として参画させるのも一案ではないか。 そんなに手間暇をかけられない、というのであれば、今回のようなMeToo運動に似た社会的問題が繰り返されるだろう。それが番組のリスクとして顕在化すれば、手間暇かけるコストなど問題にならなくなる可能性さえも出てくるのではないか。2013年6月、インタビューに応じるジャーナリストの池上彰氏 ちなみに、池上氏自身の経済観、特に日本銀行の金融政策の考え方については、批判すべき点もある。一例だが、彼の『改訂新版 日銀を知れば経済がわかる』(平凡社新書)には注文をつけたい、いや全力で批判したい箇所がかなりある。 例えば、日銀の出口政策のとらえ方を、国債暴落といったあまりにも安易なあおりに結び付けている点などだ。ただ、池上氏の番組と大きく異なるのは、本書にはきちんと主要参考文献が付されていることだ。つまり、クレジットが明記されているのである。 ただ、池上氏の他の膨大な書籍を検証することはできていない。だが、少なくとも池上氏の番組を批判することと、池上氏の考えとの関係をどう見るか、そこは慎重に区別し、その上で議論していく必要があるだろう。

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    ニュースキャスターかくあるべし

    「ニュースキャスターという仕事に明確な定義はない」。NHKキャスター、大越健介氏が自著の中で書いていた。では、キャスターの仕事とは一体何なのか。そんな疑問にわが国を代表する3人のキャスター経験者が答えてくれた。櫻井よしこ氏、池上彰氏、木村太郎氏である。さっそく「金言」に耳を傾けてみよう。

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    櫻井よしこ手記 「ニュース番組までメダカの学校になってどうする」

    局としても許されない。信頼を失えば降板ともなる。その種の職業的な実績は、良きにつけ悪しきにつけ、長くメディア論の中で取り上げられる。 つまり、ニュースの伝え手に問われるのは、何よりも報道のプロとしての質である。ニュース番組はプロのニュースマン、ジャーナリストたちによる、あらゆる意味での競争と闘いの現場なのである。だから海外のニュース番組のキャスターたちは往々にしてそれ程若くはない。 とびきりの美男でも美女でもない。生まれつき美男美女であったとしても、その美しさを意識的に際立たせることはない。かわい子ぶりは絶対にしない。頼りなさ、儚さなどはむしろ退けられる。彼らは視聴者に信頼される成熟した大人として、まっとう果敢に取材し、報じようとする。番組の担い手として、強く大きな太い柱であろうとする。米国を代表するアンカーウーマンのケイティ・クーリック 日本はどうか。前述したように、まず、キャリアを積んだ記者が中心になっている番組が少ない。人気のあるタレントが仕切っている番組と局アナと呼ばれるアナウンサーが仕切るものとに二分される。報道についておよそ素人の彼らは、一体どのようにして、キャスターやコメンテーターの役割を担っているのだろうか。 通常、ニュースのリードやコメントは番組のプロデューサーや記者が書いてくれる。それらはプロンプターで読める。読みの専門家である局アナにとっては得意分野であり、上手に読むことで基本的にニュースキャスターの形は整えられる。そういう仕組みの中で初めて局アナやタレントがキャスターの役割を果たし得ていると言ってよいだろう。『きょうの出来事』キャスター時代 ここでずっと昔の私の体験を語ってもよいだろうか。古い話だが、私はかつてニュース番組のキャスターだった。各ニュース項目のリードは報道局の記者たちが書いた。コメントは記者やプロデューサーが知恵を絞ってまとめたものが、私の手元にきた。 形の上では今と同じである。しかし当時、私はリードやコメントについて、それぞれの担当記者やプロデューサーと、時には嫌になるほど議論をしたり修正を加えたりした。ひとつひとつのニュースの取材に、私自身が直接関わることがないとしても、私はジャーナリストとしての自分の在り方を強く意識していた。周りもそのことを意識し、そして受け入れてくれていた。報道局の兵(つわもの)と私の間には、取材する者としての対等の感覚があったと思う。そのようなプロデューサー及び報道局の記者全員に対する敬意と、自分に対する信頼があって初めて、私の16年間のニュースキャスターとしての仕事が完うされたと思う。 報道にはどうしても、その記者、その番組の価値観が反映される。基本的にどのニュース番組も取捨選択の段階ですでに価値観が反映されているのである。それが昂(こう)じると偏りにつながっていきかねない。 アメリカのCNNは明らかに左に偏っている。だが面白いことに、CNNとは逆の右に偏りがちなFOXニュースも高い視聴率をとっている。左の人はCNNを見て満足し、右の人はFOXで盛り上がる。対極にあるテレビ局同士が互いに逆方向に傾斜することで社会全体の情報供給のバランスがとれていると見ることが可能だ。  対照的なのが日本である。わが国のテレビ局はメダカの学校である。ニュースの報じ方がおよそ一色に染まる。同じ方向にドーッと走る。方向は左系統への偏り一本道である。往々にしてNHKがその先頭を走り、TBS、テレビ朝日、NTV、そしてフジまで含めて同一方向に雪崩を打つ。実に日本の悪しき実態である。アメリカのように対極的な価値観や方針を持つ複数のテレビ局は日本には存在しない。『きょうの出来事』キャスター勇退後の櫻井よしこさん=1996年4月 再び私自身の話で申し訳ないが、ニュースに関して私にも明確な価値観がある。だが現役キャスターだったとき、心掛けていたことが二つあった。報道の基本として大切にしていたことである。 まず事象の一側面だけでなく、全体像を伝えることの重要さだ。全体像を描いて見せることなく部分だけに焦点を当てれば、間違ったメッセージを送ることになりかねない。この1~2年のニュース番組やワイドショーでいえば、その典型的事例が「モリカケ」問題の報道だったと思う。どのテレビ局のどのニュース番組でもワイドショーでも、モリカケ問題の全体像は全くといってよい程伝えられなかったと断じてよいと思う。 事象の一部のみの報道は、結果として歪曲報道になる。社会にも、国民にも、全くためにならない。こんな異常な偏った報道はない。そこで私は自分のネット番組『言論テレビ』で事柄の全体像を大いに発信した。危機はいつでもあり得る 二つ目の大事な点は、立場の弱い側に心を添わせることだ。それは「弱者」を絶対善と見做(みな)したり、過度に大事にすることではない。彼らの抱える問題を、自分のことのように心に感じ、解決を願い、そのために必要なさまざまな情報を伝えることである。表面的な正邪の観念や建前論から離れて、考えを深める最大限の取材と努力が大事なのだ。 もうひとつ、思い出した。日本で女性がニュース番組の柱になったその最初のケースが私だった。私は自分の責務を番組全体に責任を持つことだととらえていた。むろん、それは現実とは異なるのだが。例えば、対外的に番組に責任を持つのはプロデューサーであり報道局、テレビ局そのものである。それは確かにそうなのだが、それでも現場ではすべてが最終的に私にかかってくるのも事実である。 例えば、飛行機がハイジャックされるように、スタジオがハイジャックされた場合はどうなるのか。番組の責任者であるプロデューサーはスタジオの中にはいない。スタジオ全体に目を光らせるサブコントロールルームにいる。従って、スタジオに入ったが最後、全責任を持つのはキャスターの自分であると、私は認識していた。私のジュニアパートナー、お天気情報の担当者、カメラマン、ディレクター、こうした人たち全員を守らなければならないと、いつも私は考えていた。 危機に直面したときは、犯人たちをよく観察して冷静に対処する。決して興奮しない、させない。落ち着いた声と態度で対応する。思想的な話にもよく耳を傾ける。武器を持っている場合、武器に反応して恐れの表情を見せてはならない。反抗はしない。相手の要求には真面目に応える。その上でスタジオ内のスタッフをできるだけ早く、外に出してもらう。※この画像はイメージです(GettyImages) 究極の危機対応としてこんなことを考えていたのは、大げさかもしれない。滑稽に思われるかもしれない。けれども、ニュース番組の担い手として、オンエア中に危機が生じたときには、毅然(きぜん)として筋の通った対処をするのは最低限の責任だ。そのことを、自分の中で確認して、私はスタジオ入りしていた。幸いにも16年間のキャリアの中でそのような経験はなかったが、危機はいつでもあり得ることを忘れていたり、考えなかったりするようでは失格だと、私は認識していた。 そこまで力を入れて臨んだのが『きょうの出来事』という報道番組だった。だからなおさら感じるのである。ワイドショーのニュース報道は本当に的外れで無責任で見ていられない、と。アナウンサーの報じるニュース番組はとても異質だ、と。

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    池上彰「芸能人キャスター不要論」私の真意を教えます

    池上彰(ジャーナリスト) 「芸能人がニュースを伝えることをどう思いますか?」 私が担当するネットの連載で、こういう質問を受け、「違和感を禁じ得ません」と答えたところ、その直後にニュース番組に出演している芸能人のスキャンダルが報じられたことで、思いがけず話題になってしまいました。 このとき私が伝えたかったのは、イギリスのBBCやアメリカのCNNでニュースを伝えるのは現場での取材を積み重ねてきたジャーナリストだということです。 これに対して日本のニュース番組では、過去にニュースの現場にいたこともなければ、それまでニュースに関心がなかったであろう芸能人が、ニュースについてコメントしたり解説したりすることがあります。当然のことながら、コメントが明後日の方角を向いていたり、誰に対して話しているのか不明だったりという内容のものが出てきてしまいます。これが違和感なのです。 とはいえ、これは、その芸能人の責任ではありません。その人を起用した番組の責任者の問題なのです。 かつてアメリカのABCテレビにピーター・ジェニングスというニュースキャスターがいました。彼はハンサム(古い表現ですね。いまならイケメンというべきでしょうか)だったことから、若くしてニュースキャスターに起用されたのですが、経験不足が出て降板させられます。このとき上司は彼に向かって「もっと顔に皺(しわ)を刻んで来い」と言ったといいます。つまり、もっと取材経験を積んで来い、という意味です。 そのアドバイスを受けて現場での取材経験を積み、「顔に皺を刻んだ」彼は再びキャスターに復帰。今度は名キャスターとして知られるようになり、肺がんで亡くなるまで第一線で活躍しました。 とりわけ2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの際、他局のニュースが極めて愛国主義的な報道色を強める中で、冷静な報道を貫きました。「愛国的でない」「反米的だ」などという批判にも動じることはなく、米国内で興奮が冷めた後、彼の報道姿勢は高く評価されました。 もし日本で同じようなことが起きた際、ニュースを伝えていたのが芸能人だったとしたら、どんな反応をすることになるのか、という一抹の不安があるからです。テレビ東京系「池上彰の現代史を歩く」の会見に出席したジャーナリストの池上彰氏(中央)ら=2018年4月 とはいえ、ニュース番組に登場するのが男女ともに「顔に皺を刻んだ」人たちばかりでは、見ている人が面白くないと思うかもしれません。視聴率で苦戦する可能性もあります。テレビ番組は視聴者に見てもらってナンボという世界ですから、視聴者に親しみやすい演出を考え、若い女性や人気タレントを出演させることになるのでしょう。 若い人たちに人気のあるタレントが出演しているニュース番組のディレクターが、私に「彼が出ていることで若い人たちにもニュースを見てもらえるようになるんです」と説明してくれたことがあります。なるほど、そういう効果もあるのかと納得したものです。ニュースステーションの功罪 ここで、「ニュース番組は視聴率を気にする必要があるのか」という、業界内では古くから論争になっている問題に行き当たります。 テレビのニュースは視聴率が取れないもの。たとえ視聴率が低くても、大事なニュースを伝えていればいい。かつては、これがテレビ業界での常識でした。ところが、1985年からテレビ朝日で始まった「ニュースステーション」が高い視聴率を取り、営業的に大成功を収めると、「視聴率の取れるニュース番組をつくれ」というプレッシャーが制作現場にかかるようになります。 その結果、中には露骨に視聴率狙いの番組も出て来るようになったのです。あるいは、視聴率が取れる話題を大々的に取り上げるようになりました。とりわけ夕方の各局のニュース番組を見ると、「行列ができるラーメン店」のような、「これがニュースだろうか」と目を疑うような内容が放送されています。 これではテレビニュースへの信用が低下しても仕方ありません。 日本のニュースでも、もっと報道のプロを大事にすべきだ。こう思うのです。例えばNHKの夜9時のニュースは、伝統的に経験豊富な記者がキャスターを務めるので、安心してみていられます。が、その一方、「ニュースステーション」は、報道のプロではない久米宏氏をキャスターに起用して成功しました。 久米氏はそれまでTBSのアナウンサーで、歌番組の司会をしていました。彼がニュース番組のキャスターになったときには、私も含め多くの人が驚いたものです。彼が評価された理由のひとつは、知ったかぶりをしないことでした。報道のプロの悪いところは、ニュースについて「知らない」とは言えないこと。プライドが許さないのですね。 ところが久米氏は報道のプロではありませんでしたから、常に視聴者の立場から、わからないことを「わからない」と言い続けました。その結果、模型を使うなど、次々と斬新な発想が生まれ、それが番組をわかりやすいものにしたのです。 このように考えてくると、おのずと目指すべきニュースのスタイルが見えてきます。ニュースをよく知らない芸能人と、知ったかぶりをする報道のプロの組み合わせが最悪であるということ。芸能人であろうとなかろうと、視聴者の立場に立って「わからない」と言える人と、「わかっていること」と「わからない」ことをきちんと仕分けして伝えることのできる報道のプロの取り合わせが理想的ではないか、ということです。テレビ朝日「ニュースステーション」左から高成田享、久米宏、小宮悦子=1996年3月  また、どこかのニュース番組が成功した演出をすぐに真似する手法はやめた方がいいですね。そうでないと、「どの番組見ても同じ」という印象を与えてしまうからです。これは、長い目で見て緩慢な自殺行為です。 さらに言えば、ニュースキャスターが意見を言うのも極めて日本的です。少なくともアメリカやイギリスさらには欧州各国でもニュースキャスターは自分の意見を言わないもの。判断は視聴者に任せるべきものだからです。 こう考えると、日本のニュース番組は、まだまだ発展途上なのかもしれません。

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    「キャスターの時代は終わった」木村太郎が読む米ニュース戦争

    木村太郎(フリージャーナリスト) 「トランプ大統領のいわゆるロシア疑惑については、これまで何の証拠も見つかっていません。証拠ゼロです。それなのに(疑惑を捜査している)モラー特別検察官の応援団の民主党関係者は、絶望的になって大統領を貶める材料を必死に探しています」(FOXニュース「ハニティー」ショーン・ハニティー氏)「私の番組がロシア疑惑ばかり取り上げていることに批判があるのは確かですが、昨年の大統領選で当選すべくもない候補者が当選し、その人物がロシアと特別な関係があることが判明した以上、我々はこの問題を集中的にお伝えしなければならないのです」(MSNBC「レイチェル・マドー・ショー」レイチェル・マドー氏) 今年第2四半期で、米国のケーブルテレビ・ニュース視聴者数が1位、2位だった番組(TVニューザー調べ)の司会者の発言である。 トランプ大統領に対する立場は正反対だが、2人の発言は「中立」さや「公平」さとはほど遠い主義主張をむき出しにしたものだ。3位以下の番組の司会者も同様に自分の考えを隠そうともせず押し出している。 肩書きを「司会者」としたが、彼ら彼女らはもはや日本でキャスターと言われる「アンカー」ではない。放送局も「ホスト」、「ホステス」と呼び、役割も全く変わっているからだ。 かつての「アンカー」は、記者やカメラマンが取材しディレクターが編集したニュースをリレーの最終走者アンカーのように視聴者に提供する役割とされ、自分の考えをひけらかすのはタブーだった。 代表的な存在がCBSニュースのウォルター・クロンカイト氏。ベトナム戦争の凄惨な映像にも眉ひとつ動かさず、ニュース番組の最後に「今日はこんなところでした」と締めくくるだけのスタイルが「アンカー」の手本のように言われた。CBSニュースのキャスター、故ウォルター・クロンカイト氏 「アンカー」によるニュースは今もCBS、NBC、ABCの三大ネットワークに引き継がれてはいるが、今やテレビニュースの主役はCNNやFOXニュース、MSNBCなどケーブルテレビの24時間ニュース専門局の番組に取って代わられた。ネットワークニュースの報道が政治を動かすようなインパクトはなくなり「アンカー」たちの存在感も薄れた。 そうなった背景にはいくつかの要素があるが、まず、24時間ニュース専門局の台頭だろう。ドラマは「オンデマンドで見る」ことが主流になったテレビ界では、同時性を生かしたスポーツとニュースが「売り物」になってきた。 特に、米同時多発テロ事件以降、続発するテロや、大統領選挙以来の政治的な混乱が続く中で、何かあれば24時間ニュースをつけっ放しにして情報を集めるのが米国人の生活習慣にもなっている。 ニュース専門局の収益は10年間で280%増加し、昨年は3社合わせて50億ドル(約5500億円)に上った(ピュー・リサーチセンター調べ)。ニュース専門局間の競争も激化していったが、その争いの火に油を注いだのが、米国政府が放送局に課していた「公平の原則」を撤廃したことだ。「悪貨が良貨を駆逐する」 「国民の財産の電波は有限だからその利用には公共性が求められる」というのがその根拠だったが、ケーブルテレビなどの普及で、電波は「有限」ではなくなったという理由で「公平原則」は1986年に撤廃された。 放送で偏った番組を放送しても「公共の活発な意見交換を助する」と許されることになり、ニュース専門局はCNN、MSNBCが民主党系、FOXニュースが共和党系と旗色を鮮明にして視聴者の獲得を競っている。 当然その主張は競争を反映して過激になっていくが、同じ民主党系のCNNとMSNBCの間でも、どちらがより民主党支持者を多く獲得できるかを競って番組の内容もエスカレートしていった。 その競争の主役が「司会者」で、彼ら彼女らの発言が視聴者数を左右し、ひいては放送局の経営をも影響することになるので、保守革新いずれにせよ、その考えを強く主張できる人材が重用されることになる。 冒頭で紹介した視聴者数ナンバーワン番組のハニティー氏も、超保守派の論客として知られ、歯に衣着せぬ発言で敵が多く、常にボディガードが氏の周辺を守っていると言われる。 だが、そのハニティー氏も真っ青になるほど過激な「ホスト」が現れた。その名も「インフォウォー」つまり「情報戦争」という名前のウェブサイトを運営しているアレックス・ジョーンズ氏で、同名のニュース番組をユーチューブで配信し、240万人のチャンネル登録者を抱えるまでになっていた。ユーチューブでニュース配信をしていたアレックス・ジョーンズ氏 「いた」と過去形で書いたのは、ジョーンズ氏の発言は余りにも一方的で「ほとんどの銃乱射事件は国際派への関心を集めようとする陰謀だ」などと信ぴょう性に乏しいので、ユーチューブが「フェイク(偽)ニュース」の発信源として「インフォウォー」を排除してしまったからだ。 しかし、インターネット上の動画配信が日常化していく時代には「悪貨が良貨を駆逐する」ように、新しいネット放送のホストたちがケーブルテレビの先人たちより、さらに過激な放送をするだろうことは容易に想像できる。 翻って日本のテレビニュースだが、今のところはキャスターという肩書きの人たちが「中立」「公平」「公正」さを建前にニュースを司会しているように見える。しかし、ニュースの後に蛇足のようにつけ加える「後説(あとせつ)」で自らの思いを吐露するのが、もはやアンカーに求められる規範を逸脱しているのではないか。 さらに、「政治的な公平性」などを求めた放送法4条の撤廃も論議され始めており、加えて放送法の規制を受けないネットテレビも当然増えることが予想されるので、米国のようにキャスターに代わって「司会者」が幅を利かせる時代が来ると考えた方がよいだろう。

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    トランプとメディアの対立に見るアメリカ民主政治の危機

    学法学部教授) 8月15日、全米で最古参の新聞であるボストン・グローブが社説で、全米の新聞が連帯してメディアの危機に対応しようと呼びかけた。ドナルド・トランプ大統領は「メディアはアメリカ国民の敵」であるとか、伝統的メディアはフェイク・ニュースばかりだという批判を繰り返し、既存メディアに圧力をかけている。 それに対し、メディアが団結してプレスの自由を守ろうというのがその趣旨であり、翌16日、全米で約350のニュース組織が呼びかけに応じた。ワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルはそのような趣旨の社説を掲載しなかったものの、関連する署名入りの記事は掲載している。アメリカの伝統的メディアは独立性を強調する傾向が強く、互いに協力することに対する拒否感が強いことを考えると、多くのメディアが呼びかけに応えたのは注目に値する。 民主政治を意味あるものとする上で、言論の自由やプレスの自由が重要であることは論を俟たない(プレスの自由という場合、単に報道の自由のみならず、出版・取材・編集の自由も含む)。民主政治は、単に国民が代表を選挙で選ぶというだけでは不十分で、政府に対して公的に異議申し立てを行う自由を持つことが必要である。そのためには、言論の自由とプレスの自由は不可欠である。 アメリカの建国者は、大統領がヨーロッパの君主のようにならないようにするために、様々な工夫をした。まず、大統領自身が圧政を布いてはならないという自覚を持つためにも、利己心ではなく公徳心を持って行動することが重要だということが強調された。だが、個人の倫理や規範に期待するだけでは十分でないとの認識に基づき、ジェイムズ・マディソンら建国者たちは、合衆国憲法で様々な制度的な工夫を行った。 そこで作り出された制度が権力分立と呼ばれるもので、そこでは2つの異なる形で大統領職に対する制度的制約が課された。一つはいわゆる三権分立で、大統領、連邦議会、裁判所という三つの機構を分立させて、行政権、立法権、司法権を分有させ、大統領の行動を抑制させた。もう一つが連邦制であり、州政府が連邦政府の行動を抑制できるようにした。 だが、それだけでは権力者の暴走を防ぐうえで不十分ではないかとの疑念が出され、そこで付け加えられたのが、しばしば権利章典とも呼ばれる、合衆国憲法の修正第1条から第10条だった。その第1条で定められているのが、言論とプレスの自由である。 メディアは、時に第4の権力と呼ばれるほどの影響力を持つ。メディアの報道が株価を変動させたり、社会の分断を招いたりすることもある。政治との関係でいえば、メディアによる報道には反政府的、とりわけ、反大統領的なバイアスがかかっていることが多い。メディアは公的機関ではなく営利団体であり、視聴率や購読者数を増大させるためには、耳目を集める必要がある。今日も政治家と役人が真面目に働きました、という記事は読者の関心を集めない。米オハイオ州コロンバスで演説するドナルド・トランプ米大統領=2018年8月 稀にしか起こらない悪いこと、突発的な事件の方が注目を集めるので、報道されやすくなる(犬が人を噛んでも記事にならないが、人が犬を噛むと記事になる)。また、全体で435人もいる連邦下院議員について報道するのは容易ではない。大統領のように目立つ人に注目が集まるのも当然だろう。 これらの結果、メディアによる報道は、人々の政治不信、とりわけ大統領に対する疑念を生む可能性を秘めている。報道されるのは稀にしか起こらない悪い出来事が中心だが、悪い事ばかりが報道される結果として、政治不信が醸成される可能性がある。大統領に注目が集まるということは、メディアに取り上げてもらいたいと考える人にとっては大統領に対して激しい批判をすることが有効な戦略になることを意味するので、大統領にとっては心外なことも多いだろう。報道により、人々の間での政治不信、エリート不信が生まれる可能性が高くなるのである(これは、国民の側にメディア・リテラシーが求められる所以でもある)。「政治化」するニュース番組と「選択的接触」 このように、メディアによる報道が短期的には政治の安定性を損なう可能性があり、その認識は政治エリートの間では一般的である。そのような問題があるとしても、政治エリートが抱える問題を明らかにし、説明責任を負わせ、政治の応答性を高めることが健全な民主政治を営むためには必要だという認識が存在するが故に、言論の自由と併せてプレスの自由を重視すべきとの規範が広く共有されてきたのである。そうであるからこそ、公職者はメディアによる批判を、時に不適切で腹立たしいとは思いつつも、民主政治を健全に運営するためのやむを得ないコストだと考えてきたのである。 ただし、以前と比べると、近年ではニュース番組に顕著な偏りがみられるようになっているのも事実である。アメリカのメディアでは、1949年に、フェアネス・ドクトリンと呼ばれる原則が受け入れられた。政治的立場の異なる見解が表明される場合には、それぞれの立場の人に同じ時間を割り当てねばならないという原則である。だが、ロナルド・レーガン政権期の1987年に、このフェアネス・ドクトリンは廃止された。 それに加えて、トークラジオやケーブルテレビの発達が、ニュース番組の「政治化」を促した。これはとりわけFOXニュースに代表される保守的メディアに顕著だった。伝統的な報道番組は、フェアネス・ドクトリンが廃止された後も客観報道の原則を掲げて中立的な番組作りを心掛けてきた。だが、そのような報道中心の番組は独自性を出しにくい。そこで、トークラジオやケーブルテレビは、「報道番組」ではなく「オピニオン番組」を中心に流すようになった。出演者の見解を示すのが番組の趣旨であるため、公正さや中立さは重視されなくなった。このような保守的メディアの戦略に対応し、リベラル派メディアも同様の番組作りをするようになった。 このような状況が起こる中、視聴者の中でも徐々に、自らの政治的選好に近い見解を示すメディアを好んで視聴するようになっていった。国民が一方の見解のみに触れて他の見解を受け入れなくなる状況が生まれ、それがアメリカ社会の分断につながっていった。 政治エリートがメディアに対する不信をより強く述べるようになった背景には、このような状況がある。とりわけ、視聴者が自らの立場に近いメディアのみに触れる、選択的接触と呼ばれる現象が一般化する中では、時に公正で中立的な報道ですら、バイアスがかかっているように思われるようになってしまうのだ。 今回、伝統的メディアがこのような声明を出した背景には、伝統的メディアの側の強い危機感がある。そして、その危機感を生み出す背景として、客観的で事実に基づく報道を行うのが困難になりつつある現状に対する焦りがあるのではないかと思われる。米FOXニュースのインタビューを受けるトランプ氏 第一に、SNSが発達する中で、新聞やテレビなどは速報性の点で劣るようになっている。プロのメディア関係者ではない一般の人がSNSを通して政治に関する情報を即座に流し、それが人々の注目を集める事態が発生する。他方、メディア関係者は事実関係の裏取りをする必要性もあり、噂レベルの事柄をSNSで流す人のようにはいかない。情報の速報性を求める人々が、伝統的メディアよりもSNSなどを通して情報をとるのが一般的になると、伝統的メディアの人々は自らの在り方を問わざるを得なくなる。 第二に、無料メディアが発達する中で、新聞などが購読料を獲得する必要があるのは、経営上の大問題となる。近年、ニュースについて語る人は増えているが、オリジナルの報道をすることができる人材を獲得するのは困難である。論評をすることはできても、その基礎となるべき事実を集める役割は、やはり新聞などの伝統的メディアに期待される。 正確な事実を集めるのには時間だけでなく費用が掛かり、その費用を維持するのに豊富な資金を持つ一部の人の善意に頼るのは無理があると共に、問題をはらむ(その人に対する忖度が発生する可能性がある)。安定的に購読者を集めるには報道機関に対する信頼を維持することが不可欠だが、トランプ大統領のように、客観的事実とは関係なく、自らにとって好ましくない内容を伝えるニュースをフェイク・ニュースと断じるような事態は、伝統的メディアに危機をもたらす。民主政治の根本について再考するきっかけに 第三に、近年のアメリカ政治では、事実そのものを軽視する傾向が顕著になっているように思われる。2016年大統領選挙に際し、フェイク・ニュースやオールタナティブ・ファクトというような表現が頻繁に用いられたのは、トランプだけに原因があるのではない。 2016年選挙ではFacebookの在り方が問題として論じられたが、近年ではSNSを通して情報を得る人が増えている。その中で、例えばロシアの介入についての疑念が呈されているように、外国勢力がSNSを通して情報を流すことが容易になっている。以前は外国勢力が国内政治に影響を及ぼす方法はエスニック・ロビイングが中心だったが、SNSを使えば容易に活動できるだけでなく、目立ちにくい。特定の意図に基づく情報を流すことが容易になっているのである。フェイスブックのロゴ また、国内の人物であれ外国の人物であれ、政治的意図がないにもかかわらず、政治に関する情報を流す人も増えている。SNSの中には多くのクリックを得ると報酬が得られるシステムがあるが、クリック課金を目的として、人々の耳目を集めるためだけに記事を作り出す人々が登場するようになっている。そのような場合には、情報の正確性はあまり重視されないのである。 このように、真実性に疑問がある情報が流布する中で、2016年大統領選挙時に民主党のヒラリー・クリントン陣営はファクト・チェックを行い、自らに対して行われている批判の多くは事実に反していると発表してきた。だが、そのような試みが政治的には必ずしも賢明でなかったのではないかという反省が、民主党内部からも発されるようになっている。 ファクト・チェックを行って発表したとしても、選択的接触が一般的になっている今日では、そのような情報を見てくれるのはそもそもクリントンに好意的な立場をとっている人だけという可能性がある。多くのコストをかけてファクト・チェックを行うより、Twitterなどを用いて、自分たちを支持してくれる、あるいは他の候補を批判する情報を大量に流す方が効果的ではないかという声が強まっている。 とりわけ、近年ではbotと呼ばれる、自動的に作業を行ってくれるコンピュータの機能を用いて、党派的なハッシュタグがついたTwitter(例えば、#MeTooがついていれば民主党に好意的である)を自動的にリツイートして拡散すれば、民主党に好意的な世論の波を作り出すことができる。 その方が選挙戦術上ははるかに効果的だと考えられるようになっているのである(なお、このような手法は選挙区が大きい大統領選挙では有効性が高いが、選挙区が狭いことの多い連邦下院議員選挙でどれほどの有効性があるかは不明である。アメリカの政党は日本でいうところの党議拘束が弱いことも、この手法の有効性を低くする可能性があるだろう)。 大統領のような権力者が伝統的なメディアに対して公然とフェイク・ニュースだと述べたり、そもそも事実が重視されなかったりというような事態は、言論とプレスの自由のみならず、アメリカの民主政治にとって大きな危機である。 民主政治で討論が重視されるのは、どのような人物であれ真実(truth)を独占することができない、そもそもそれを確定することが不可能(少なくとも困難)だという認識が根底にあるためである。そうであるが故にこそ、複数の見解を突き合わせ、互いに説得力を競い合うことが重要になる。そして、その際に重要なのは、そこで示される見解が、事実(fact)に即しているということである。 事実を確定したうえで、あるべき姿を論じ、その実現に向かって健全な討論や競争を行うことが必要であり、それを可能にする環境をいかに整えるかが民主政治にとっても重要な課題になる。今回の出来事は、このような民主政治の根本について再考するきっかけを与えてくれたといえるだろう。

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    『マスコミ偽善者列伝』著者が分析する宮根、テリー、一茂

     今日もテレビを点ければ、“視聴者の代表”たるコメンテーターたちが、政治から芸能ニュースまで訳知り顔で意見を述べている。 しかし、よくよく聞いてみると、誰でも言えるような耳触りの良いコメントばかり。自分のことは棚に上げて、他人のスキャンダルに正論を吐く者も絶えない。薄型テレビをますます薄っぺらくする「偽善コメンテーター」の問題は大きい。「私は暇な老人ですから、日がなテレビに向かってるわけ。ところが、コメンテーターがまぁ酷い。『許してはいけない犯罪です』とか『今後社会全体で考えていかなければならない』とか、毒にも薬にもならん優等生的な話ばかりしている。 一番許せんのは、“偽善”に満ちた言葉が多いこと。戦争は絶対にダメだ、格差社会是正、性差別反対と、正論を並べ立てるが、話している人間はその問題の当事者でもなく、傍観者にすぎず、真剣に向き合っていない。安物の正義感ほど迷惑な偽善はない。もうこれ以上は我慢できんと思って、こんな本を出したんです」 そう話すのは、大阪大学名誉教授・加地伸行氏。加地氏の近著『マスコミ偽善者列伝』(飛鳥新社刊)は発売早々3万部のベストセラーとなっている。 同書は東洋思想研究の第一人者で保守論壇の大御所でもある加地氏が、空虚な正義感と建前論しか話さないコメンテーターを批判するエッセイである。政治家や評論家を次々と槍玉に挙げ、「そのときだけの絶対反対論者」と手厳しく批判する。〈理想国家作りの夢破れた左筋(ひだりすじ)の連中は、目的、着地点がなくなり、今や、保守政権が繰り出す政策に対して、とにかくなんでもかんでも反対と言うしか生きる道がなくなってきている。(中略)こういうご都合主義を自覚せず、つまりは矛盾に気づかず、その場その場での正義の旗を掲げている。かつては元気だった左筋の成れの果である〉 加地氏が続ける。「安保法案も秘密保護法も、成立まではあれだけ猛反対していたのに、法案通過後は途端にトーンダウンする。反対デモの連中と同じです。一点突破で主張し続ける努力や覚悟もない、高みで見物している野次馬です。 左筋ジャーナリズムは絶滅寸前ですが、その特徴はテレビのキャスターやコメンテーターたちに受け継がれています。地元の大阪では『ミヤネ屋』の宮根誠司が大人気ですが、スタジオのいろんな人に話を振って、最後に愚にも付かないまとめ意見を言うだけ。なんの具体性も説得力もない。持論を語る覚悟がないんです。宮根誠司 テリー伊藤に関しては、人様のスキャンダルについて上段から正論を述べていますが、言いたくはないが自分も過去に不倫を報じられているではありませんか。なぜそれをまるでなかったことにして他人のことは批判できるのでしょうか。 長嶋一茂に至っては、なんの取り柄も知識もない単なる素人にしか見えません。説得力のない『うわべだけの正論』こそ偽善であり独善。テレビを薄っぺらくする原因となっている」 長嶋といえば、『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日系)に出演した際、日本ボクシング連盟の山根明前会長について、「正直言って、僕には悪人に見えないです。泣いたり、お茶目な部分も見え隠れしたりするし」と言いつつ、「役職に残るのは往生際が悪いと思いますよ。何かあったら腹を切ると言ってるんだから、一旦全部辞めないといけない」と責任も追及する。 何か意見を述べているようでいて、実際にはどの立場からもツッコミを受けないようにした「八方美人論評」に聞こえてしまう。関連記事■ 一進一退が続く長嶋茂雄氏 一茂は見舞いに行かずハワイへ■ 江角マキコ 落書き騒動で真っ先に謝った夫と「今も週4回」発言■ 大物二世の一茂と良純 「炎上しない安心感」で爆売れ中■ 高額納税者列伝 69.7億円の元レイク会長や36.9億会社員ら■ 加藤浩次と設楽統 “朝の顔”の適正を顔相専門家が分析する

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    フリーの有働由美子を待ち受ける大物女性キャスター3人

    長野智子キャスター(55才)だ。「長野さんは硬派な報道番組で経験を積んできた実績もあり、米オンラインメディアの『ハフポスト日本版』の編集主幹も務めています。『報道ステーション』などお堅い番組が多いテレ朝では“有働さんより調査報道をやってきた長野さんの方が実力は上”と評価が高いんです」(テレビ朝日関係者) TBSの報道局内では膳場貴子キャスター(43才)の存在感が大きい。「長年、看板番組『NEWS23』のキャスターを務めた膳場さんはNHK出身で有働さんの後輩にあたります。しかし、膳場さんは筑紫哲也さんが、がん治療の時にメインキャスター代理として番組を支え、その後も跡を継いだキャリアやプライドがある。なにより、オジサン視聴者やスポンサーからの支持は絶大です。 有働さんと膳場さんは、NHK時代に『おはよう日本』のキャスターを経験した先輩・後輩の関係です。それが民放の報道キャスターとしては、経験値が逆転しています。2人を社内で“同居”させることは気まずいとわかっているので、TBSは有働さん獲得に後れをとったようです」(TBS関係者) どちらにせよ、アナウンサーというより「ニュースキャスター」と呼んだ方がしっくりくる安藤、長野、膳場の3人の一角に、有働は名乗りをあげたことになる。櫻井翔との絡みも増えるか櫻井翔との絡みも増えるか「唯一、有働さんがやりやすかったのが日テレであり、『ZERO』だった。わざわざNHKを辞めて、大物女性キャスターたちがにらみをきかせる局に行って、ややこしい環境の中に身を置く必要はない。たしかに日テレにも水卜麻美アナ(31才)や『バンキシャ!』でキャスターをやっている夏目三久さん(33才)はいますが、年代やキャラクターが違うため、自分とはカブらないという考えもあったみたいです。 有働さんがNHK時代に“『ZERO』ならばやってもいい”と漏らしていたのも、ある種の計算があったからだと思いますよ。 ただし、この選択で女性キャスター陣から“目をつけられた”のは間違いありません。すでに“バラエティーの司会を選んだ方がよかったのでは”という声も上がっていますから勝負所でしょう」(前出・テレビ局関係者) とはいえ、有働アナのキャスター就任は大きな話題を呼び、視聴者からの期待が大きいのは間違いない。「有働体制になったら、カルチャーコーナーを取り入れるなど工夫を重ねてきた『ZERO』のポップな路線がさらに際立つでしょう。『ZERO』の顔でもある櫻井翔さん(36才)の出番を多くして、有働さんとの掛け合いを増やそうという話も浮上しているようですよ」(テレビ誌記者) 有働アナが目指すのはジャーナリストなのか、キャスターなのか、はたまた女優なのか──不穏な視線に負けず新境地で活躍してほしい。関連記事■ 有働由美子アナのZERO起用で官邸との関係はどうなるか■ NHK有働由美子アナがひた隠す年下実業家との「続行愛」■ 有働由美子アナ 所属事務所のギャラ取り分は破格■ 「女子アナも被害」証言 テレ朝の社内セクハラ問題■ テレビ朝日内部資料「女性社員の56%がセクハラ被害」の衝撃

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    NHKはチコちゃんに叱られよ

    「ボーっと生きてんじゃねえよ!」のツッコミで人気のNHK雑学バラエティー『チコちゃんに叱られる!』が、放送批評懇談会が選定する「ギャラクシー賞月間賞」を受賞した。NHKにとっては何とも喜ばしい話題かもしれないが、そもそもチコちゃんに叱られるべきは、NHK自身なんじゃないですか?

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    「NHKが映らないテレビ」でネット受信料の義務化は阻止できるか

     実際、放送用電波の周波数帯の利用権を競争入札にかける「電波オークション」導入など、メインストリームメディア(MSM、既存のテレビ局など)に不利となる放送法改正の議論は常につぶされてきた。これと同じ手法をインターネット受信料義務化実現のためにNHKが駆使する可能性は否定できない。 こうしたMSMの横暴を止められるかどうかは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が今後どのくらい政治的な力を持てるかにかかっている。MSMとSNSの戦いはすでに米国で盛り上がっている。 その一例だが、現在米国では、「RedPillBlack」や「#WalkAway」といったリベラル派がリベラルとの決別を主張する運動が広がっている。前者のリーダーは黒人女性のキャンディス・オーウェンズ、後者のリーダーはゲイ男性のブランドン・ストラカである。 黒人やゲイといったマイノリティは、これまでリベラルで民主党支持というのが常であったが、彼らが次々そこから離れていっているのである。彼らは、リベラルが実は自分たちの味方ではないことに気づいたと主張している。その見解を要約すると次のようになる。 オバマが黒人初の大統領になったことを喜んだが、彼は黒人のために何もしてくれなかった。黒人に職を与えず福祉依存症の状態をつくった。福祉を受ける条件として離婚を勧め、その結果、黒人の子供の75%の家庭に父親がいない。トランプが大統領になって黒人は職が得られるようになり黒人の失業率は過去最低になった。これは民主党にとって不都合である。黒人が福祉に依存しなくなり、自分たちに投票しなくなるからである。民主党は黒人を豊かにすることに税金を使わず、不法移民を増やすためにお金を使ってきた。なぜなら、福祉に依存する人が増えれば増えるほど自分たちに好都合だからだ。そもそもリベラルは多様性や寛容を掲げるが、自分たちと意見の違う人に対して敵意をむき出しにする。黒人やゲイが弱者として振る舞ううちは味方になるが、少しでも保守的な発言をすると激しい嫌がらせを始める。今のリベラルは言論の自由を認めない勢力だ。 ご存じの通り、米国のMSMはFOXなどごく一部を除いてリベラル左派である。一方、#WalkAway運動はSNSを中心に広がっており、多くの人が自分もリベラル左派と決別するとの主張を次々とユーチューブにアップしている。アンドリュー空軍基地に降り立ち、手を振るオバマ前大統領(左)とミシェル夫人=2017年1月、米メリーランド州 米国ではこうした運動が政治的に無視できない力を持ちつつある。その証拠に、これまで9割以上が民主党に投票すると言われてきた黒人層において、トランプ大統領の支持率が4割近くまで上昇しているのである。11月の中間選挙で共和党が大勝したならば、それは政治的影響力においてSNSがMSMを完全に逆転したことを意味する。 日本でもツイッターなどを中心にMSMへの不満は多く語られているが、米国と違って政治系ユーチューバーはまだまだ少ない。米国同様、SNSがMSMより政治的に大きな力を持つようになれば、NHKのネット受信料義務化の動きを阻止することも可能になるかもしれない。今後の米国および日本における政治系SNSの動きに要注目である。

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    「見たくない人は払わない」受信料義務化、NHKとかく戦えり

    原則に反しないのは、道路財源を一般化しても不公平が生じないのと同じである。 私は現在、大学教授の傍らメディア報道研究政策センターなる一般社団法人の理事長を務め、NHK受信料不払い運動の先頭に立っている。私自身の経験も含めて、1000余人の会員から寄せられるさまざまな情報によると、NHKの恫喝(どうかつ)・甘言・詐欺まがいの嘘、認知症の独居老人や老人ホームを狙い撃ちする契約詐欺など、受信料取り立てに係る彼らの執念には並々ならぬものがある。 まず彼らに放送法4条違反に関する弁明を求めること、先の最高裁判決の真実を告げること、そして何よりも組織的対応をもって法廷闘争を辞さない構えを具備すること、これがNHKに対抗する要点である。NHKの上田良一会長(左)に答申を手渡す受信料制度等検討委員会座長の安藤英義・専修大教授=2017年7月25日、東京都渋谷区(伴龍二撮影) さらに今日、近い将来インターネット配信にも受信料が課されると危惧されている。これに対しては、NHKが技術的にやればすぐにでもできるスクランブル放送を実施し、受信料不払い者には映らないサービスを提供するよう、要求を強めていく必要がある。 スマホなどからの強制徴収が実現すれば、天文学的な数字になるNHKの受信料収入。しかし私は、この桁外れな彼らの強欲こそ、「見たくない人は払わない、払わないから映らない」という、当たり前の市場原理と消費者主権を実現する、契機となるに違いないと考えている。 

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    芸能人キャスターのどや顔がムカつく

    テレビをつければ、どの局も代わり映えのない情報番組ばかりである。しかも、キャスターに起用されたアイドルや芸人らが、ニュースに関してどや顔でコメントする場面に出くわすこともある。そこに深みもなければ、説得力もない。ただの感想である。そもそもニュースを扱う情報番組に「芸能人キャスター」なんて要るのか。

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    「客観報道よりツッコミ」芸能人キャスターへの違和感はここにある

    飯田豊(立命館大学産業社会学部准教授) 今年4月、日本テレビ系の情報番組『ZIP!』でメーンパーソナリティーを務めていたTOKIOのメンバー、山口達也の不祥事が発覚し、出演を自粛したことは記憶に新しい。もっとも、その翌日以降も番組は何事もなかったかのように放送され、彼は復帰を果たすことなく静かに降板した。 メーンパーソナリティーとは、一体何だろうか。出演者の個性(=パーソナリティー)が番組のテイストに大きく投影されるラジオとは異なり、テレビの情報番組は、多数のスタッフによる複雑な分業と協働によって成り立っている。 この番組では、華のある芸能人がスタジオでいかに存在感を放っていても、あくまでチームの一員にすぎない。メーンパーソナリティー(=芸能人)とニュースキャスター(=アナウンサー)とは役割が区別されていて、制作者による綿密な采配のもと、軽妙なチームプレイによって番組が成り立っている。 そもそも「情報番組」とは、90年代までは「ワイドショー」と呼ばれていたジャンルで、報道に特化した「ニュース番組(報道番組)」とは明確に区別される。多くの情報番組は「報道フロアからの中継」という演出を用いて、報道局との境界を示している。近年は「情報バラエティー」や「情報エンターテインメント」を自称している番組も多い。 言うまでもなく、ワイドショーの司会に芸能人が起用されるのは、最近になって始まったことではない。良いか悪いかはともかく、日本のテレビ文化の伝統といえるだろう。 ところが、2000年代に入るとワイドショーのみならず、ニュース番組のキャスターに芸能人が起用される機会が格段に増え、視聴者から見ると、双方の境界が分かりにくくなっている。 かつては、経験を積んだジャーナリストやアナウンサーがニュース番組のキャスターとして個性を発揮し、芸能人が活躍するワイドショーとのすみ分けができていたが、今ではジャンルの区別がほとんどなくなってしまった。 このような近年のニュース番組において、取材内容を報道する役割を担い、制作者の意図や主張を伝達する責任を負っているのは、多くの場合、メーンキャスターではない。それはアシスタントのアナウンサー、あるいはスタジオに入れ代わり登場するリポーターなどの仕事である。会見で被害者に対して謝罪をするTOKIO・山口達也=2018年4月26日午後、東京都千代田区のホテルニューオータニ(撮影・大橋純人) それに対し、キャスターに課せられた仕事は、決して権威的に振る舞うことなく、スタジオで無難に話題を循環させることである。言い換えれば、コミュニケーションの「場」の機能を守ることに他ならない。そもそも、アメリカのニュース番組で定着している、熟練のジャーナリストなどが取材・編集・構成に大きく関与する「ニュースアンカー」とは、期待されている役割が全く異なっている。新しい「ニュース番組」の見方 「客観報道」という理念に支えられたジャーナリズムが健全に作動していた時代には、ニュースアンカーが日本でも広い支持を集めることができた。しかし、現在はテレビによって延命してきた日本人の「総中流意識」が完全に崩壊し、多様な情報環境のもとで言論が細分化している。これまでと同じ報道姿勢では、人々の政治意識や生活感覚の多様性に十分な目配りができなくなってしまった。 情報の内容を担うリポーターとは対照的に、番組の形式を維持するのがキャスターの役割であると考えれば、これに芸能人を起用するのは、安易だという批判は避けられないとしても、極めて合理的な選択といえる。 スタジオの「空気」を読み、あるべき話の流れを察する「コミュニケーション能力」、そして世の中にあふれかえる情報に対する「ツッコミ的視線」は、芸能人の中でも、とりわけお笑い芸人に要求される資質と相性が良い。 したがって、芸能人がキャスターを務めることの是非は、テレビジャーナリズムの危機的状況によって起きている「ニュース番組のフォーマット自体の変化」を批判的に捉えることと切り離して考えることはできない。このような趨勢(すうせい)を抜本的に見直し、古き良きニュースアンカーの復権を目指すことが理想的かもしれないが、既に述べた理由から、その道のりは困難を極めるだろう。 行き詰まってしまったが、消去法的な現状肯定で終わっては読後感が悪いだろうから、少し見方を変えてみよう。 冒頭で触れたように、テレビ制作の集団的性格を踏まえるならば、出演者個人の資質を問うだけでは、ニュース番組の良し悪しを評価することはできない。 思い返せば、NHKで1994年から16年間続いた『週刊こどもニュース』の進行役は、マスコットキャラクターだった。ブタの「スクープくん」、メガネザルの「ピントくん」が進行し、時に子供たちが取材に出向くこともあった。NHKの「週刊こどもニュース」でお父さん役を卒業した同局の鎌田靖解説委員(左端)と岩本裕解説委員(後列右)=2009年3月28日(篠田哉撮影) これが「ニュースごっこ」に甘んじることなく、大人も楽しめる良質なニュース番組たり得たのは、アンカーに相当する「お父さん」役の安定感は言うまでもないが、出演者と制作者のチームプレイによるところが大きかった。 例えばサッカー観戦において、各選手の技能や持ち味だけでなく、チームの戦略や戦術を読み解きながら楽しむように、ニュース番組を視聴する際、チームとしてのフォーメーション、そして制作者の采配にも厳しく目を向けてみてはどうだろう。 アナウンサーやリポーターが何を主張していて、キャスターやコメンテーターはそれをアシストできているだろうか。その一連のコミュニケーションの中には、テレビジャーナリズムの困難に向き合い、それを乗り越えようとする制作者の創意工夫がみられるだろうか。キャスターやコメンテーターが芸能人であることが、その一助になっているだろうか。 こうしてニュース番組のフォーマット自体を批評しあうことが、翻って、これからの時代に求められるキャスターのあり方を新たに見いだしていくことにもつながるかもしれない。参考文献・水島久光『「情報バラエティー」のダイクシスとアドレス 制作者と視聴者が交錯する言説場の検証』(石田英敬、小森陽一編『社会の言語態』東京大学出版会、2002年)・太田省一『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書、2016年)・池上彰『これが「週刊こどもニュース」だ』(集英社文庫、2000年)

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    「ニュースを伝える怖さ」に気づいた柴田理恵は立派だった

    を間違えると、番組自体が大変なことになってしまいます。さらに言えば番組自体と言うよりも、テレビというメディア自体が大変なことになると、私は思っています。 今年4月に明らかになったTOKIOの元メンバー、山口達也さんの強制わいせつ事件を受けて、『ビビット』(TBS系)でニュースキャスターを務める同メンバー、国分太一さんが番組冒頭で謝罪をする光景に、私は強い違和感を覚えました。『ビビット』を見たのは、その時が初めてでしたが、国分さんに対して「なんで君がニュースキャスターをやっているの?」という違和感でした。 国分さんとはお仕事をご一緒させてもらったこともあり、実に魅力的な好青年だと感じていましたが、そもそも報道番組でニュースを伝えるのは「ニュースの素人」にはできるわけがないと私は考えています。彼らは歌ったり踊ったり、人を楽しませることのプロであり、ニュースのプロではありません。ニュースのプロでなければ、ニュース解説の聞き手役になることはあっても、ニュースを伝える側には立つべきではないのです。 6月に同じジャニーズのアイドルグループ、NEWSの小山慶一郎さんと加藤シゲアキさんが、未成年の女性に酒の一気飲みを煽っていたという事実が週刊文春の報道で明らかになり、大きく騒がれました。このときにも小山さんが『news every.』(日テレ系)のメーンキャスターを務めていたこと、加藤さんが『ビビット』にコメンテーターとして出演していたということで、問題が大きくなりました。 私は『news every.』も『ビビット』もあまり見ていませんでしたが、これほどまでにニュースキャスターという仕事を、畑違いのアイドルやお笑いタレントに任せている、最近の民放各局のやり方に、危機感を募らせました。視聴率を稼ぎたいのは分かるけど、報道機関としてやっていいことと悪いことがあり、その一線を越えてしまったのが、素人にニュースを扱わせるという、昨今の民放の「ニュース情報バラエティー」の傾向だと思うのです。 別にどんな芸能人がどんな不祥事を起こそうと、私は個人的に何の興味も関心もありませんが、日本の報道番組がその作り方からしておかしな状況に陥っているのだとすると、テレビ屋の一人として黙っているわけにはいきません。元NHKキャスターの池上彰氏 最近の日本の報道番組は、記者が書いたニュース原稿をアナウンサーが読み上げるだけの「ストレートニュース」よりも、ニュースを伝えた上で、それをより分かりやすく解説し、興味深くなるようワイドショーに仕立てた「ニュース情報バラエティー」の方が増えています。それ自体は決して悪い傾向ではないと思います。芸能人やタレントが参加することにより、ニュースがより身近で親しみやすいものに感じられるからです。 私自身もかつてNHKでジャーナリストの池上彰さんと苦楽を共にして『週刊こどもニュース』という、ニュースと子供向けバラエティーを合体したような番組を開発し、8年間にわたって担当した経験があります。初代お母さん役を女優の柴田理恵さんにお願いし、お父さん役の池上彰さんが家族にニュースをかみ砕いて、興味深く解説するという、当時としては斬新なスタイルだったと思います。 ストレートニュースの部分は、豚のアニメキャラクターが伝える形でしたが、ナレーションはNHK報道局から正式に上がってきたニュース原稿を使いました。それをNHK報道局のベテラン記者がリライトした、オリジナルのニュース原稿に仕上げ、声優の龍田直樹さんが正確に読み上げる、という手法をとりました。柴田理恵さんも苦戦 NHK内部では、ニュースとは報道局の記者が書いた原稿をアナウンサーが読み上げる、または記者自身が読み上げるもの、という伝統がありましたから、アニメキャラクターがニュースを伝えるなどもってのほか、と上層部からの猛反対に遭ったこともあります。しかし、ベテラン記者が書いた原稿を一字一句違わず読み上げる、ということでニュースとしての正確性を担保し、番組名には「ニュース」の4文字を入れることが何とか許されました。 また、番組にはニュースを受けて、その解説や家族同士の会話をするコーナーがあり、ここで交わされる芸能人のフリートークをどう扱うかも問題になりました。私たちの場合は、お父さん役の池上彰さんが現役記者であったため、お母さん役が女優でも、子役が勝手にしゃべろうとも、そのコーナーはあくまでも池上彰さんによる記者解説の変形であるということで、NHK上層部を説得しました。 今では多く見られる「ニュース情報バラエティー」の走りのような番組でしたが、あくまでもニュースを伝えるのは、ニュースのプロである記者、そして芸能人たちはニュースの受け手の役割、と明確に立場が決められており、その関係性の中で成り立っていたという点で、最近多く見られる芸能人がニュースを伝える番組とは異なります。 ちなみに、池上彰さんと試みた『週刊こどもニュース』も、家族の会話という演出を長く続けるうちに、「ジェンダーイクオリティ」の問題に気がつきました。いつも物知りなのは男性である父親で、女性である母親は教えてもらう立場、という演出はジェンダーの観点からしていかがなものか、という問題です。 池上さんの提案で「たまには母親がニュースを解説する側になる日もあって良いのではないか」という話になり、さっそくそのような演出を試みました。お母さん役の柴田理恵さんを解説役とし、生放送の進行表は私が書きました。柴田さんは、一週間かけてみっちりとその週のニュースについて勉強し、池上さんからニュースの背景や問題点についてレクチャーを受け、万全の体制で生放送に備えたのです。 ディレクターの私から見ていても、気の毒になるくらい熱心に、柴田さんは勉強していましたが、いざ生放送の本番を迎えると、結果はボロボロでした。実を言うと、この試みは一回限りでおしまい。柴田さんからは「二度とニュースを伝える役などやらせないで欲しい」と哀願されました。それほどまでに、テレビでニュースの生放送を伝えるという仕事のプレッシャーは大きく、インテリ女優でも押しつぶされるほど重い責任があったのです。女優でタレントの柴田理恵さん 今のアイドルやお笑いタレントで、平然とニュースキャスターを引き受ける人たちは、この重責を感じていないのだろうかと、私から見ると逆に不思議に思います。画面に映らないところで出されるカンペ(カンニングペーパー)を「ただ読み上げていれば良い」と言われているのでしょうか。自分の言葉で解説したり、感想をコメントしたりするときに、十分なニュースの知識を持って語れているのでしょうか。 「ニュース情報バラエティー」という番組のジャンルは、『週刊こどもニュース』のような番組を、どう分類したら良いのだろう、と後になって私が考え、定義したジャンルに過ぎません。しかし、このような報道番組からワイドショーまで含めた、ニュースに関する番組を作る上で、メーンキャスターはカンペを読むのではなく、自分の頭で考えた、自分の言葉でニュースを語らなければ、番組として成立しないと思います。 『週刊こどもニュース』以前にもニュースキャスターが、分かりやすくニュースを解説する番組はありました。『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の久米宏さん。『NEWS23』(TBS系)の筑紫哲也さん。それぞれアナウンサー出身、新聞記者出身と経歴は異なりますが、どちらも報道機関で揉まれてきた、たたき上げのジャーナリストであり、ニュースのプロでした。古舘伊知郎さんも、ご本人はニュースのプロではないと謙遜されているようですが、ニュースについて極めて深く突っ込んだ取材をされた上で、自分の言葉で伝えていました。信頼感が抜群の池上彰 こういった人たちから伝えられるニュースは、ずっしりと重みがあり、信頼感があり、また視聴者が考えさせられる深みを持っていました。私たちが優れた「ニュース情報バラエティー」をテレビで見て楽しむとき、そのニュースの背景について考え、そのニュースの真相について自分なりに考える、というように知的好奇心をフル回転することによって、世の中の出来事をより深く知る喜びを味わっているのです。 視聴者の知的好奇心がいかに満たされるのか、そのレベルはニュースを伝えるメーンキャスターが、そのニュースについていかに深く知識を持っているのか、によって自ずと決まってきます。メーンキャスターの知識が軽く薄っぺらなものであれば、視聴者の論考も軽く薄っぺらなものにしかなりません。跳んだりはねたり、踊ったり歌ったりする訓練しか受けていないアイドルや、人を笑わせることが本業のタレントが、カンペを読んで伝えるニュースには、厚みも信頼感もなく、視聴者に論考を促すレベルには至りません。 いまだに池上彰さんの解説する「ニュース情報バラエティー」が、飛び抜けて大きな信頼度と、高い視聴率を保っている理由は、彼自身の中に蓄積されたニュースに関する膨大な知識と、それを裏打ちする長年の取材経験があるからです。 誰もが池上さんのレベルにならなければニュースキャスターを務められない、という訳ではありませんが、十分な取材経験と知識を持ったニュースのプロが他にもいるはずです。そういった人がメーンキャスターを務める、大人の「ニュース情報バラエティー」をもっと見てみたいと、私は常々思っています。アイドルや芸能人は聞き手であったり、質問者であったり、といったニュースの素人の代表として出演してくれればいいのです。 大好きなアイドルがメーンキャスターを務めているから、という単純な理由だけでニュース番組を見ていると、日本人はどんどん思考力を失っていくことでしょう。そうして世の中の真相を深く知ることもせず、様々な事象について表面的で浅薄な知識しか持たず、自分自身の頭を使って自分の意見を語ることもできない愚衆が増えることになり、為政者にとっては御しやすい国になるかもしれません。「ここがポイント‼池上彰解説塾」(テレビ朝日系)の収録後会見した池上彰氏=2014年4月 しかし、国民がニュースを見て自分なりに論考を深め、自分なりの意見を持つ訓練を普段からしておかなければ、真の民主主義を実現することはできません。テレビというメディアが何のためにあるのか、エンターテイメント以外の重要な使命とは何なのか。それは報道機関として、世の中で起きている事実を的確に伝え、批判すべき所は批判できるように、主権者たる国民に深い論考を促し、鋭い判断の材料を届けることです。 アメリカではCBS、NBC、ABCの三大ネットワークで、夕方に放送する全国ニュースに限っては、アンカー(ニュースキャスター)1人で進行します。彼らは国民から高い信頼を寄せられており、「大統領が勝手なことを言えない者がこの国に3人だけいる。三大ネットのアンカーだ」という格言まであります。 日本でもそれくらい信頼感のある、骨太な本物のジャーナリストに活躍してもらいたいものです。少なくとも、踊ったり歌ったりするアイドルではなく、本職としてニュースの経験を積んできたニュースのプロが、ニュースキャスターの役割を務める、まっとうな報道番組のあり方を、今こそ取り戻すべき時ではないでしょうか。