検索ワード:メディア/478件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    ステマ問題は燻るネット規制の口実になってしまうのか

    る“黒幕”たちの存在http://diamond.jp/articles/-/76611日本のウェブメディア「ステルスマーケティング」事情http://www.nippon.com/ja/currents/d00199/「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20151001-00050069/ 軽くおさらいをしますと、ステマがなぜいけないかは単純で、あるメディアがクライアントから資金や取材の便宜を図ってもらっているにもかかわらず、それを「広告」「PR」などと明記せず、客観的な記事を装いますと読み手は「これは中立な記事で、そのメディアが責任もって良いと思って取り上げているのだな」と誤認するようになります。これは、景品表示法上の優良誤認を導くものであって、ただちに違法である摘発の対象だというわけではありませんが、メディアを運営する上での倫理規定という観点では重要な問題であると言えます。 なかでも、最悪のケースは一部の法曹界や消費者団体が主張するようにアメリカFTC法第5条に該当するような「不公正又は欺瞞的慣行を規制するもの」に対する規制を敷くべきだという議論が現実化してしまうことであります。そこには日本の公正取引委員会の権限強化や集団訴訟(クラスアクション)の制定など、いままで我が国が取り組んでこなかった消費者保護のアプローチについてかなり踏み込んで話を進めようということになります。単純に、これらは消費者保護の観点から言えば大幅な規制強化であり、物議を醸すことは必須です。 あるいは、広告業界や通販業界が震撼していた「広告は勧誘か?」の議論もまた、最近の商法改正を踏み越えて大きくネット広告や取引の規制に類するものとなり、これも問題になり得ます。幸いにして、昨今の議論は「それはやりすぎでしょう」ということで少し冷静になったようにも感じますが、仮に広告は勧誘行為なのだとするならば、問題取引を広告に載せて消費者を騙す業者自体が損害賠償などの責任を負わされることはもちろん、その広告を仲介した広告代理店や、広告を掲載したメディア、場所を提供した業者などもクーリングオフ制度を乗り越えて賠償する義務を持つという、かなり強烈なアイデアです。「広告は勧誘」ならば掲載した責任はどこにある 例えば、過去に金融事案で「いつかはゆかし」や「毎月5万円で1億円を貯められる」などとして行政処分を受けたアブラハム・ホールディングス(当時)は、大量の交通広告で著名な俳優を起用して話題を喚起し、多くの顧客を集めることに成功しました。しかしながら、適法とはいえない金融商品を販売したかどで営業停止などの行政処分を受けることになってしまいました。これは、いままでは悪質な販売を行った業者の問題であって、その業者が起用した俳優や、広告代理店、あるいは掲載された電車や街頭のポスターなどの設置場所に責任を負わされることは原則としてありませんでした。 新聞社やテレビ局などでは、その公的な役割と大きな影響力の観点から、掲載するクライアントが自社メディアにとって望ましい存在かを審査するための広告考課というハードルがあります。本来であれば、悪質な業者が広告を掲載出来てしまうメディアは、結果的に広告掲載料を稼げたとしても消費者被害が多数発生するとその広告を掲載したことでメディアの価値を落としてしまうことになります。したがって、多くの人の目に触れる広告を掲載するにあたっては、クライアントをしっかりと調べ、選別する責任がメディアの側にはあることは、いままではメディアとしての職業倫理上の問題でした。 しかしながら、広告は勧誘、すなわち顧客を誘引する責任を法的に負う可能性があるとなると話は別です。また、先にも述べた米FTC第5条では、日本にはない「欺瞞的取引に対する広い解釈での認定」と、問題業者に対する高額な「懲罰的罰金」さらには認定された場合の消費者団体などからによる巨額の「集団訴訟」に直面することになります。 実例として分かり易いのは、米大手通信会社AT&Tが顧客獲得のために「速度無制限」などとして虚偽の広告で顧客を集めたとして問題となり、米FCC(連邦通信委員会)はAT&Tに対し懲罰的罰金を課すことになりました。【米国】「速度無制限」が嘘だとして通信会社に130億円の懲罰的罰金http://dailynewsonline.jp/article/982278/ また、米FTC第5条は、アメリカに存在しない個人情報保護規定とは別に、企業が収拾した消費者の個人に関する情報を、規約上の許可なく第三者に流用した場合、これを「欺瞞的取引」であるとして強く制裁する権限を米FTCに持たせています。 2012年8月、検索エンジン大手のGoogle社は、米Apple社の提供するブラウザsafariのサードパーティーcookie拒否の初期設定というベーシックな個人情報収集拒絶プロセスを回避して行動履歴を収拾していたとして、米FTCから総額2,250万ドルの懲罰的罰金の裁定をされています。他にもFACEBOOKやTwitterなど大手ICT企業だけではなく、バンクオブアメリカやHSBCなど金融業界、さらには米自動車メーカーやディーラー、タバコ会社、環境汚染を引き起こした海運会社など、さまざまな業界が対象となっていることが分かります。欺瞞的取引の宝庫「レ点商法」 日本の場合はICT業界、とりわけ、スマートフォンやインターネット上で運用される、広告あるいはポイントサービスなどでの個人に関する情報が非常に注目されます。簡単な話、ユーザーには確かめる術が乏しく、分かったころにはごっそり個人に関する情報を抜かれて広告に活用されたり、ターゲティングメール(ダイレクトメール)などに活用されてしまうことになり、広範囲に個人に関する情報がばら撒かれてしまうからです。しかも、リテラシーの低いユーザーが多数ネットを利用している実態があるため、気がつかないうちに個人に関する情報を大量に取得し丸裸にするアプローチで利鞘を稼ぐ悪質なICT企業は後を絶ちません。 極めつけは、俗に言う「レ点商法」といわれる月額固定支払いのサブスクリプション・サービスで不当な消費者被害が蔓延していることで、これは携帯電話のメガキャリア3社が「入会初月は無料ですから」などと契約者に持ちかけ、月額数百円ほどかかる不要不急のコンテンツサービスなどを本人の認識なく入会させてしまうことです。 消費者契約法上は、仮に契約時に本人確認を行っていたとしても、本人に入会したという意志がなければ場合によってはこれは無効の取引となり、遡及して返金の対象となる、法的リスクの高いビジネスです。ところが、大手キャリアにおいてはビデオ、マガジン、パスなどと銘打って欺瞞的取引の宝庫となっており、これらのモラルなき取引を繰り返し、消費者の無知に付け込むようなビジネスを大手企業が横行させている現状は厳しく考えていかなければなりません。 つまり、お金を貰っているのに中立なフリをして記事を読ませ、読者を騙す形で稼いでいる一部のメディアと同様に、今後問題となるのは「欺瞞的取引とは何か」というテーマでしょう。まさにステマはこの欺瞞的取引の入り口であり、基本となるべき詐欺行為に他なりません。それはゆくゆくはネットに対する重大な規制論に立ち入ってしまうことになり、いまネットに無知な消費者をカモることで利益を上げている企業ほど、問題に気づかされた消費者の怒りと共に過剰な規制を敷かれてしまうリスクを軽視しているように思えてなりません。 それは、一夜の春を謳歌した消費者金融が、悪意の受益者として遡及効が認められ、過去に遡っての過払い請求が認められて突然のグレーゾーン金利返還訴訟で灰燼に帰した事例を考えずにはいられません。 そして、これらの行政罰は国内事業者にしか及びません。消費者保護は大事だが、やりすぎればサービス事業者はリスクを回避するために海外に事業の拠点を移してしまいます。まさに、考えるべきことは事業者と消費者の按配をうまく調整する行政の機微にあるのだ、といっても過言ではありません。 誰もがネットを使えるようになったからこそ、安全なネット利用環境を整えることは、サイバー攻撃・犯罪へ対処する技術的、当局的アプローチもさることながら、消費者行政も基本に立ち返ってしっかりと議論を積み重ねて行くべきであろうと強く考える次第です。

  • Thumbnail

    記事

    「自著を語る」や「商品テストの優良結果」はステマか? 

    高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)(メディアゴンより転載) 言論をなす世界の片隅にいる一人として、「広告ステマ」(ステルス・マーケティング)は、強欲資本主義が招くものであるということを考えてみたい。 ステルス・マーケティング(Stealth Marketing)とは、消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることだと定義される。しかし、この定義だけで足りるのか。それを考えるのが本稿の目的である。 略称はステマ。アンダーカバー・マーケティング(Undercover Marketing)とも呼ばれる。 「墨衣の僧衣の下から銀鈍色の甲冑が覗いているようなものだ」と言えば平清盛の逸話を知っている人はわかりやすいだろうか。 上述の定義に沿ってみて行くと、昔から週刊誌や夕刊紙ではステマと判断されるものがあった。記者が体験して書いたような体裁の健康食品や観光地の記事。批判は当然あって、こう言う記事は、本文記事と活字を変え、冒頭に、小さな字で(PR)とつくようになった。 読んでから「だまされた」と気づく気持ちの痛手は大きかったが、これなどは注意して読めば分かる範囲であった。 ネット上では、誰もが自由に映画やテレビ評、書評を書けるようになった。これもステマと紛らわしいこともあるのが実態だ。ただし、評論は立派な文化的行為だからこれを安易にステマとは呼べない。 当該評論と作者著者・提供会社に利害関係が無いことが必要なのか。そうとばかりは言い切れまい。例えば、著者が「自作を語る」というような原稿を書いた時は、ステマだろうか? テレビにもステマ的行為はある。情報番組などで芸能人が出演して番組宣伝をすることはどうか。これをステマと判断されるのは番組にとっては得ではないので、最近は「番宣です」と、はっきり言う対応を取ることが多くなった。これはこれで良い傾向だ。 この「番宣」をCM総量の規制に数えるかどうかの問題はあるが、良い傾向だ。ここから分かるのは広告であることがステルス(隠されている)と言うことが問題だという認識だ。 ドラマなどの旅館観光地のロケタイアップはどうか。業界には「アゴ・アシ・マクラ」という隠語があってこれはロケ先の旅館、観光協会などが「アゴ=飲み食い・アシ=旅費・マクラ=宿泊代」を全部負担してくれることを言う。この場合は、タイアップだとをはっきり表示することが望ましいだろう。 隠す方法は巧妙だ。政治家のお説拝聴を唯々諾々と垂れ流すニュース番組。ドラマの中でイケメン俳優が何気なく使っている時計やアクセサリー。セットのインテリア。これらがステマではないとは言い切れない。 「けなしてある評論/批判的な批評」は「ステマではない」かといえば、必ずしもそうではないだろう。褒めようがけなそうが作品の認知度は上がる。実際には購入していないのに購入したと偽って書くレビューは完全にステマだが、これを見抜くのはなかなか難しい。 筆者は家庭向け総合雑誌「暮しの手帖」の愛読者だが、ここで行われる商品テストはどうだろうか? 商品は編集部が自ら購入し、細心の注意を払っているこのテストは、勿論ステマではないが、このなかで「成績の良かった商品」には大きな宣伝効果があることは明らかだ。この手法を悪意をもって利用する人がいないとも限らない。 ミシュランガイドは覆面調査員が調べるというが、他に多くあるグルメ雑誌はどうだろう。ネット上のグルメ情報サイトからは掲載料月に3万円を取られていると、ある料理店主から聞いた。 色々と考えを進めてゆくと、ステマというものは「広告であることを隠してやっている宣伝行為のこと」ではあるが、おこには精神的な側面が大きいことが分かる。その陰に潜んでいるには「これで儲けてやろう」という強欲資本主義だ。 いづにれにせよ、ステマが広告と商品自体の価値を貶めるとんでもない詐欺的行為と言うことだけは確かだ。

  • Thumbnail

    記事

    広告、ヘイトコメント問題に横たわる感情

    劣化すると考えたヤフーはついに契約解除をしたという。その後もヤフーは類似した手法を取っている他の契約メディアにも水面下で警告を出している。サーチナの契約解除とは別に、ヤフーはニュースに対するコメント機能のあり方について、ブログで説明をしている(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/yjnews_comment.html)。 ヤフーニュースにはコメントがつけられるが、中にはヘイトコメントも多いのも事実であるが、それでも「みんなの意見」を重視して、24時間体制で巡回しているとのこと。その上でブログでは、ヘイトコメントにはより厳しくした基準であたっていくと宣言している。 ネット署名を求めるHP とはいえ、問題は簡単ではない。「不快な用語」「偏見に基づく人種差別」「極端で乱暴な言動によるレッテル張り」といったコメントに対する厳しい基準は必須であるが、線引きが難しいのも事実である。9月上旬にシリア難民に対する揶揄を目的としたイラストが大きな議論を呼んだ。Facebookに当該イラストを投稿した漫画家のはすみとしこ氏に対して、Facebookの規定(人種や民族、出身に対する差別発言を削除する)を根拠に、はすみ氏のアカウントの削除を求めるネット署名が行われているが、Facebookが削除に消極的な態度であることも、上記の問題が関係している。感情市場を今一度認識しなければならない感情市場を今一度認識しなければならない こうした明らかなヘイト発言が言論の自由として対処されないためには、法や企業の基準だけでなく、我々の感情と理性による価値への合意形成が必要となる。その時、我々は理性を使用しながらも、感情的な言説に意識的、無意識的に(少なくとも瞬間的には)反応してしまうことを理解しなければならない。さらに厄介なことに、ネイティブ広告もヘイトコメントも、ネットの発達とともにより容易にその内容の伝播を可能にする。 我々は我々自身が感情的な生き物であることを改めて認識しなければならない。そしてその際、「我々がより理性的になればいい」といった類の紋切り型の言説を繰り返すだけでは不十分である。感情には感情。ないしは感情があらゆる空間においてキーポイントであることを踏まえた上で制度設計をしなければならないのだ。こうした視点は以前もこの連載で取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4508)。 本稿は事実の主として確認に多くの紙面を割いてしまった。これらの問題から、ネット上における我々の感情とその設計を論じるために、稿を改めてこの問題について広く考察したい。つかごし・けんじ 学習院大学非常勤講師。1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』月曜ニュースクリップ担当としてレギュラー出演中。

  • Thumbnail

    記事

    ステマ騒動で業界が揺れる中、ウェブメディア編集長が考えていること

    長、ファイナンシャルプランナー) 先日からステルスマーケティング、いわゆるステマに関する騒動がウェブメディア業界で続いている。 7月30日、ヤフー!ニュースのスタッフブログが記事のフリをしたノンクレジット広告、つまり「ステマ」の排除を明確に打ち出した(編集コンテンツと誤認させて広告を届ける行為(ステルスマーケティング、いわゆるステマ)に対する考え ) また、9月1日にはウェブメディアのハフィントンポストが同じくステマと疑われる記事の排除をするために調査・管理チームを立ち上げた。そして過去の記事でステマ、もしくはPRを目的とすることが疑われる記事を削除したこと報告した(ハフポスト読者の皆様へ 2015/09/01)。 ステマ排除の動きは、ネット広告に関する業界団体のJIAAによるガイドライン策定ですでに固まりつつあったが、月間100億PVを超える日本最大のニュースサイト・ヤフーニュースや、大手ウェブメディアのハフィントンポストが明確に排除に乗り出したことを表明して、この動きを決定づけたと言える。 ただ、現状ではステマという言葉が一人歩きをしてしまい、そもそもステマとは何か? そしてステマの何が問題なのか?という事すら置き去りにされ、魔女狩りの様相すら呈している。 シェアーズカフェ・オンラインというウェブメディアを運営する編集長として、そして一人の書き手として、この問題を論じてみたい。ステマはなぜいけないのか 現在、ステマという言葉は本来の意味だけではなく、つまらない記事を批判する差別用語のような使われ方になっており、なんとも異常・異様な状況に見える。 当初、ステマとして問題視されたものはペニオク(ぺニーオークション)の詐欺事件による芸能人のやらせ(こんなに安く買えました!とブログに書き込むなど)や、一部口コミサイトで行われた、店舗運営者による自作自演の書き込みだった。ステマの本質である「広告であることを隠した広告」という問題のみならず、ペニオク事件では手数料を払わされるだけで実際には買えないという問題も重なり、大きな騒動に発展した。 ウェブメディアでステマを禁止する背景には、景品表示法など消費者を保護する法律が根拠になっている。つまり、広告で「この商品は質が良い」と読者・消費者に伝えることと、記事の中で同じ内容を伝えることには大きな違いがあり、より良い商品だと誤解させる可能性がある。これを「優良誤認」という。 法律を持ち出すまでもなくステマがろくでもない行為である事は言うまでもないが、これらの問題が起きた当時、消費者庁の資料では「関係性の明示」がうたわれている(第7回インターネット消費者取引連絡会・口コミサイトに関する課題より 2012/12/5)。口コミサイトにユーザーが期待する「利用者の声」が「店舗運営者による宣伝広告(つまり自作自演)」として偽装されていれば、消費者に不利益が発生するため許されない、という事になる。 現在はこの問題が口コミサイトからウェブメディアに舞台を変えて、店舗運営者が広告主や代理店・PR会社に姿を変えて、全く同じ問題が繰り返されているように見える。ステマ排除のガイドラインのつくりかたステマ排除のガイドラインのつくりかた さて、ではステマを排除するためにはどうしたらよいのか。これはウェブメディア編集長として中々頭が痛い。 シェアーズカフェ・オンラインは外部の書き手が投稿する記事で成り立っているため、書き手に対するガイドラインはサイトの運営上、生命線となる。昨年末頃に作成して少しずつ改定しているが現時点のガイドライン・倫理規定は以下の通りで、公表もしている。1.記事内で取り上げる企業・個人から金品の受け取ること。2.三親等以内の親族が経営・勤務する企業を取り上げること。3.企業・個人などから報酬の有無を問わず、依頼されて記事を作成すること。4.執筆した記事を公開前にインタビュー相手や記事内で取り上げた企業に見せること。5.自身・自社の取引先を記事内で取り上げること(消費者としての取引は除く)。6.出資・株の保有・融資など、利害関係がある企業・個人およびその商品・サービスを記事内で取り上げる事。7.告知ページ以外で自身の扱う商品・セミナーを紹介・宣伝・売り込みを行うこと。8.関連リンクで自身・他者を問わず商品・サービスのページにリンクを張ること。●利用規約・広告表記について http://sharescafe.net/archives/31971848.html 一部例外などもあるが、上記のとおりかなり細かく規定している。一言で表現すれば「利害関係のある企業・個人を記事で取り上げること」を禁止している。特に3は通常のメディアが様々な企業やPR会社とつながりがある状況と比べれば、ありえないほど厳しい。 ただ、シェアーズカフェ・オンラインは主に士業や大学教授、経営者など専門家がマネー・ビジネス・経済等の情報発信をするメディアとして運営している。自分の経験から考えても専門家が記事を書く際に企業やPR会社、広告代理店との付き合いは一切必要ない。場合によっては有害ですらある。したがって、これらのルールはステマ防止であると同時に記事の品質を担保するためでもある。 例えばこのお店のおもてなしは素晴らしい、という記事は問題ないが、そのお店の経営者が書き手の親族や顧問先だったらどうか。この企業の経営手法は素晴らしい、という記事は問題ないが、もし書き手がその企業の株を保有していたらどうか。直接的に金品のやり取りが無くとも、到底客観的な記事とは言えない。 また、IT系のメディアならばメーカーから機器を借りてレビュー記事を書くことは普通にあると思うが、ウチのサイトの基準ではアウトだ。専門家が記事を書くために、企業から何かを借りる必要は無い。唯一献本による書評のみ特例で認めているが、これも献本である事を明記する必要があり、利害関係のある筆者の本は不可としている。 誤解を恐れずに言えば、記事の内容が中立・公正・公平である必要は無い。しかし客観性が無くなれば、それは有害な情報でしかない。各種メディアや報道機関、金融機関、上場企業等で働く人には、業務上に限らず日常生活であってもある程度の制限がかかる。それらを参考にした結果、こういったガイドラインになった。アマチュアリズムがステマを排除する メディアによって必要なガイドラインは異なると思うが、何をどのレベルまで禁止すれば良いか判断がつかないサイトには参考になる部分もあるだろう。そしてこのガイドラインの根っこにある考えは、「書き手以外の意思を記事に入り込ませない」ということになる。※なお、上記ガイドラインは配信先の要請で作ったものでは無く自主的に作成したものであり、配信先の規約・ガイドライン・契約とも一切関係ない。アマチュアリズムがステマを排除する 編集長である自分は、元々個人ブログを書き始めたことがウェブメディアへのかかわりのスタートとなる。「ブロガー上がりの編集長」という事で、他のメディア関係者とは出自がかなり異なる。なぜそんな人間が編集長をやれているのかと言うと、元々アマチュアであることがプラスに働いていると、最近になって気づいた。 個人でブログを書く際、何を書くか、どのように書くか、いつ書くか。これらは全て自分ひとりで決める。つまり記事に他人の意思が入り込む余地が無い。 個人ブログで蓄積したノウハウを元に立ち上げたシェアーズカフェ・オンラインも同じように運営している。書き手はガイドラインと編集長である自分の指示に従う限りは、何を書こうと自由だ。つまり、書き手には「書き手以外の意思」を記事には含めないように指導してきた。具体的にそのような表現でアドバイスをしたことは無いが、執筆指導や添削など、アドバイスの根っこには常にそういう考え方が無意識にあった。 この無意識を意識したのが、書き手がインタビュー記事を書いた時だ。どのように書いているのかと思っていたら、書き手から「インタビューの相手に記事が問題無いか事前に確認をしてもらったところ、NGを受けた箇所があったので書き直している」という報告があった。この報告を受けた際、極めて強い違和感、もっと言えば不快感を覚えた。なぜ公開前の記事を見せる必要があるのか?と。 メディアによって、インタビュー記事を確認させるかどうかは異なる。どちらが正しいという事は無い。ただ、自分の「ブログ道」から考えると、相手にNGを受けて書き直す事は他者の意見が記事に反映される事に他ならない。これが行くところまでいけばインタビュー相手にとって都合の良いことだけが書かれた宣伝記事になりかねない(この件は書き手が悪いのではなく、ガイドラインの整備不足が原因)。「俺のブログ道」という編集方針「俺のブログ道」という編集方針 記事に他人の意思が入り込むという状況を考えてもいなかった自分にとっては想定外の出来事だったため、この件を境に記事が広告にならないようにガイドラインを含めた倫理規定を作らねば、と考えるようになった。その結果出来上がったのが上で示したガイドラインだ。 つまりステマ騒動を受けてガイドラインを作ったのではなく「俺のブログ道」から外れる書き方は許さん、という極めて個人的な編集方針が結果的にステマ排除のガイドラインのベースになっている。ましてやお金を受け取った広告主の意思が記事に入り込むなどありえない、という事だ。この点を理解できない書き手は即刻クビにしている。 ステマと聞くとお金を受け取って記事を書いている、それを通常の記事として大手メディア等に配信している、というのが多くの人の理解だと思うが、やろうと思えば他にいくらでもやりようがある。より広く考えれば「読者のために書かれていない記事」を排除するには、ガイドラインや倫理規定としてここまで決めないといけないという事だ。 こういったガイドラインや編集方針が他のメディアや読者からどのように見えるかは分からないが、ステマは確実に排除できる。事細かに書いてあるので厳しいように見えるかもしれないが、自分にとっては当たり前の事しか書いていない。ステマは禁止です、と伝えても書き手が60人もいると正確に伝わらないため丁寧に書いているというだけのことだ。以下の記事も参考にされたい。■グーグルはなぜ新入社員に1800万円の給料を払うのか?http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43503648.html■ライザップと行列ができる本屋の共通点 ~平凡な商品がバカ売れする理由~http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43405362.html■KDDIがナタリーを買った理由。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/40251898.html■就職活動を始めた大学生はNHKのお天気お姉さん・井田寛子さんに学べ。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/34559984.html■就職活動中の女子大生のために、ゾゾタウンの企業研究を徹底的にやってみた。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/37409548.html 何かを褒める記事を書くと、必ずと言って良いほど「金でも貰ってんのか?」「ステマ乙」といったうっとうしいコメントがSNSで書き込まれる。これは単純にそういった書き込みを行う人が自分自身の(お金でも貰わないと他人を褒めないという)価値観を表明しているだけなのだが、ステマを実際に行うメディアや企業、代理店があることも当然原因の一つだ。真面目に運営をしているメディアや書き手まで疑われる状況は、明らかに異常だ。早期にステマが無くなり浄化される事を望みたい。なかじま・よしふみ ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長。1979年生まれ。2011年開業、翌年に開設した「シェアーズカフェのブログ」はFPとしてアクセス数日本一を誇る。現在は日経DUAL、アゴラ、ハフィントンポスト等で執筆中。その他新聞雑誌など多数の媒体で情報発信を行う。対面では住宅購入のアドバイスを得意とする。生命保険の販売や住宅ローンの仲介等を一切行わず、FP本来のスタイルで営業中。現在は各種士業や大学教授など、多数の専門家が書き手として参加するウェブメディアを編集長として運営。シェアーズ・カフェ:http://sharescafe.com/

  • Thumbnail

    記事

    ネイティブ広告の指針が機能しないと「隠れ記事広告」が業界の普通になる

    徳力基彦(アジャイルメディア・ネットワークCMO、ブロガー) 先月、JIAAのネイティブアド研究会のガイドラインが発表されて、各所で話題になっていましたが、昨日それに関連してCNETにネイティブアド研究会の長澤さんと長崎さんの長文インタビューが公開されました。■「ネイティブ広告」定義の真意–JIAAが語るこれからのメディアの在り方 長文のインタビュー記事ですが、ポイントが良くまとまっており、ネイティブアドの関係者の方はもちろん、メディアの記者やブロガーなど情報発信に携わられている方やネット広告に関係する方にとっては必読のインタビューだと思います。 個人的には長澤さんとはadtechのパネルディスカッションや書籍の対談など、何度もご一緒させて頂いているので、長澤さんがネット広告を本当に心の底から愛していて、一方でステマややらせがなかなか無くならない実態から、ネット広告の未来を心の底から憂いている方だというのは良く知っているので、以前からネイティブアド研究会の活動についてもお聞きしておりずっと影ながら応援しているのですが。 ネイティブアド研究会のガイドラインが発表されたタイミングでは、いろいろと曲解していたり、勘違いして反発している人達も多かったように見ています。 ネイティブアドについては以前に「「騙された気分」にさせないネイティブアドのポイントとは」というコラムを宣伝会議に寄稿したこともあるのですが、Facebookのスレッドにいろいろコメントをもらったこともあり、自分なりの考え方をまとめてみることにします。 そもそも「ネイティブアド」という概念自体が、元々は「コンテンツ」と「アド」は全く別のモノとして明確に分離されているべきであるという編集と広告の分離の常識に対して、コンテンツ部分にアドを出す、つまり編集部分に広告を混じらせてしまうという構造になっているので、当然、読者や視聴者からすると文脈的にステマややらせに近い構造の印象になるわけです。 だって、今まで広告が入るわけがない、と思っていた場所に広告を入れようという話なわけですから、ユーザー目線ですると精神的に気持ちが良いはずな話なわけはないですよね。 インターネット広告推進協議会という名称の組織であるJIAAが、ネイティブアドのガイドラインを作る、と聞くと、ネット広告業界の人たちが自分達に都合の良いネイティブアドをもっと売りやすくしようとしてるんでしょ、と誤解する人達が出てきても仕方が無い構造にある気はします。でも、実はこれ違うんですよね。ネイティブアドを推進したい一番のプレイヤーは実はメディア側。何しろネット広告の代表であるバナー枠がその地位を確実に失いつつあるわけです。 そもそもバナー広告のクリック率って年々低下していて平均で0.2%以下とからしく■参考:第2回:今の『ディスプレイ広告』の枠ってクズだよね!ワイルドな広告枠開発の提案だぜぇ~?! そもそも多くの人がバナー広告を無視する技術を体得してきているという話もあり。■参考: 「バナー広告には誰も関心を払わない」という科学的証明■参考:調査報告:インターネット広告は63%の人に無視されている さらにはアドネットワークの台頭でメディアが獲得できるアドの単価は下落する一方。アドテクノロジーの進化やリターゲティングの普及で、バナー広告が「誰に見せるか」を重視するようになったこともあり、メディアの質の重要性が薄くなっていることも影響は結構大きいようです。もはや企業メディアが、バナー広告枠の収入では生きていけなくなってきているわけです。ブログメディアで編集記事と見分けがつきにくい記事広告 そんな中、ネイティブアドが流行る前から日本のメディアで重宝されるようになっていたのが「記事広告」や「タイアップ」と呼ばれる手法。記事広告であれば、媒体の読者がどういう人かというメディアの質が改めて重要になりますし、記事広告を各媒体側の編集力で差別化できます。  自社にしかできないユニークな広告メニューと言うことで、バナー広告に比べるとある程度金額も維持できますし、コンテンツ価値も踏まえてCTRやCPAだけ重視する料金設定の罠から抜け出せる可能性もあります。 従来は記事広告は編集記事とは全く別の場所に掲載されることが多く、今でも大手メディアサイトはその方式ですが、Gizmodoのようなブログ系の媒体では普通に記事一覧の中に記事広告を混ぜるのが普通になってきて、だんだんと編集記事と記事広告の見分けがつきにくいパターンが増えてくるようになってきました。 で、ここに、「記事広告と明示しないで欲しい」という圧力がかかってくるケースが多いのが問題になるわけです。 広告の一般的な常識で言えば、広告は広告であることが明示されるのが必須というのは常識です。テレビCM枠は番組とは明確に切り替わったことがわかるように配慮されていますし、新聞の広告と記事欄は明確に分離されています。雑誌の記事広告においてもPRやADの表記は必須です。そういう意味では、ネット上の記事広告においても広告表記は必須なはずなんですが、何故か日本では広告表記をしないでくれというリクエストがまだまだ横行しています。 結局広告表示をすると反応が悪くなる、読者の印象が悪くなる、という思い込みがあるからそういうリクエストになるようなんですが。でも、これってある意味読者に対する背信行為ですし、言葉を選ばずに言うと読者に対する犯罪行為なんですよね。完全犯罪が成り立つ「隠れ記事広告」 でも、上述したようにメディア側もそういった圧力とは無縁のはずのバナー広告では生きていけないので、選択の余地がないケースもあるようで。企業側に広告明示をするなと言われて発注されて受けざるを得なくなったり。それで味をしめてメニュー化してしまったりと。残念ながらこうした「隠れ記事広告」が横行している背景があるようです。 さらにこうした「隠れ記事広告」で問題なのが、その発見の難しさ。一時期ステマ騒動として問題になった食べログのようなクチコミサイトへのやらせ投稿のような、サービスやサイトのユーザーがやらせ投稿をするケースと異なり。メディアやサービス自体が記事広告を記事広告と明示せずに記事のように素知らぬふりで投稿すると、関係者以外には判別のできない完全犯罪が成り立ちます。 そういう意味ではクチコミサイトへのやらせ投稿事業者なんてカワイイものです。メディア自体の隠れ記事広告は組織ぐるみの構造ですからね。内部告発でも無い限り発見不可能です。例えば、昨年10月にGunosyがおそらく広告として配信していたであろう記事を全く広告と明記せずに配信していたことが明らかになって炎上した事例がありましたが■この記事はまずいくらSNSでシェアされてもGunosyには掲載されないだろうな。Gunosyのiemoのバイラル記事がウザすぎる件。 こんな分かりやすくURLにタグらしきものが残っていて広告配信らしい行為が見えてしまうケースの方がむしろ希で、この記事の後にGunosyが仕組みを変えてこの怪しい配信が無かったことにしたように(もちろんGunosy側は無言を貫いているので実際に広告だったのかどうかの真実は闇の中ですが)、証拠が残らないように普通の記事の振りをして配信していれば外部の人間には一切証拠を見つけようがないわけです。 芸能人ブログのステマ投稿なんかも分かりやすい例ですよね。まぁ、ペニーオークションとかは明らかに使ってないだろ、というのが明確なのでステマなのが分かりやすいですが、実際問題芸能人が黙ってステマをしていても、どの記事がステマでどれが本音なのか読者からは判別できません。 この辺は鳴海さんが自らネタ(多分)として広告明記のないネイティブアドのメニューを販売していて「限りなく記事に近い形で読者に広告と悟られることなく出稿できます。」と明記しているように、バイラルメディアとかブログで個人でも簡単に実践できます。■ネイティブアド | @narumiストア だって金もらって記事書いてても、それを言わなければ誰にも分からないわけですからね。残念ながら企業運営メディアの記事広告ではなく「記事」の料金表が出回っているという噂もそこここで耳にしたりします。 こうなってしまうと、読者側もメディアの記事も何も信じられない未来になってしまうわけです。実際問題、すでにステマ騒動やネイティブアド周辺で様々なトラブルがあったこともあり、何かあったらすぐに「ステマだろ」とネタ突っ込みするのがすっかり普通になってしまいましたよね。 で、こうした「隠れ記事広告」が業界の普通になってしまうと、広告を広告明示すること自体の必要性すら分からなくなってしまう人が出てきてしまうわけです。 象徴的なのがこのブログ記事■ネイティブアドよ、死語になれ。 | CINRA, Inc. 杉浦太一のブログ この記事はCINRAという会社の社長さんのブログのようですが、おもいっきり自社のサイトであるCINRA.NETは90%がタイアップでお金もらって書いてるんだけど、広告ですと明示するとすべて台なしになっちゃうから、明示しませんという趣旨のことをカミングアウトしちゃってるんですよね。 ある意味CINRA.NETは90%の記事が「隠れ記事広告」でステマですというカミングアウトなんですが、この人からするとその価値観に何の疑いも感じていない模様。  お金をもらって記事を書くことは「記事広告」なのに、それを記事広告と読者に明示するジャーナリズムとしての責任を放棄することに一抹の罪悪感も感じてないわけです。結構オシャレでしっかりした製作会社さんみたいなんですけどね。インタビュー記事も別にちゃんとしてるから、胸張って「タイアップ」です、と言えば良いと思うんですけどね。自らの手で業界を無法地帯にしたいのか 実際ちゃんと記事広告明示している媒体においては、記事広告だから読まれないとか全然無いのが証明されつつあるんですけどね。あんなブログ書いちゃうと、インタビュー記事に載っている人が読者からすると広告としてインタビューされたのにそれを明示したくない人達に見えてしまう話になっちゃったりするんですけどね。残念です。 でも、さらに残念なことに実は、広告業界関係者の中にはこうした価値観の方が実はまだまだたくさんいるのが実態なので、この人が別に特殊だとも言えないわけです。■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない この二つの背景だけ考えたら、まぁ記事広告を広告明示するのなんて誰も求めてないように見えて馬鹿らしいですよね。そういう意味で、タイアップ記事で広告明示をしないことの何が悪いの?と本気で議論になってしまう相手が、この業界には結構たくさんいることに、私もこの業界に入って正直一番ショックを受けました。 でも、ここの境界線をルーズにした瞬間に、読者からすると全てが信じられない世界になってしまうわけで。自らの手で自らが生きている業界を、無法地帯にして価値を下げてしまうんですよね。 まぁ、そもそもネットの情報は全部ウソだと思っている人もいれば、別にテレビだって全部やらせだろ、と思っている人もいるわけで、結局そういうことでしょ、と達観してしまうことは簡単かもしれないですが。これってあまりに悲しい未来だと思うわけで。 そういう意味で、ネイティブアド研究会がやっている啓蒙活動は、ネイティブアドの信頼性云々のレベルではなく、ネット広告やネットマーケティング、ひいてはインターネットにおけるコンテンツの信頼性を担保するための必須の活動だと思います。  その辺の私の価値観の話は。昔「ステルスマーケティングで短期的に儲かったところで、結局長い目で見ると自らの首を絞めているダイナマイト漁みたいなものだという話。」という記事でも書きましたが。 案外こういうことが未だにネットの信頼性があがってこない日本のネット業界において一番重要な活動だと思ったりします。 ちなみに、先程上に上げた■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない のうち、後者については実はメディア側の勝手な思い込みであって、本当に面白い記事であれば広告と明示しても、読者はそんなに気にせず楽しんで読んでくれることがデータで証明されつつあります。 だから、あとはクライアント側が記事広告の広告明示をしないというのはユーザーに対する犯罪行為である、ということを理解してくれれば済むわけです。記事広告の広告明示をしない企画を提案するような広告代理店やPR代理店やメディアを出入り禁止にするようにしてくれれば、広告代理店やPR代理店側もそんなメニュー提案する必然性がなくなるわけで。 やらせがばれて炎上するリスクを考えたら、隠れ記事広告を使うメリットなんてたいして無いと思って頂けると思うわけです。  現在のネイティブアドの一般認識や、アングラ化しているステマ行為の実態についての噂を聞く限り、未来を楽観視できないのは正直なところですが。是非ネイティブアド研究会の皆さんには啓蒙を頑張って頂きたいと心の底から思います。(ブログ『tokuriki.com』より2015年4月9日分より転載)とくりき・もとひこ アジャイルメディア・ネットワーク取締役最高マーケティング責任者(CMO)。1972年生まれ。名古屋大学法学部卒。NTTで法人営業やIR活動に従事した後、2006年にアジャイルメディア・ネットワークの設立に参画。代表取締役社長を経て、14年から現職。WOMマーケティング協議会の事例共有委員会委員長などを務める。

  • Thumbnail

    記事

    政治色を強めていくのか 岐路に立つ流行語大賞

    新田哲史(「アゴラ」編集長、ソーシャルアナリスト) どうも新田です。わーい、ついに拙著のアマゾンにレビュー、それも分かりやすい敵意丸出しで書いていただきました。文面から某選挙の某陣営の内情に詳しい方のようで、大嫌いな私のためにお金を払っていただき、さらにブログの話題も提供いただき、ありがとうございました。本を持って来れば御礼にサインして差し上げますよー。ところで、早いものであすから師走。そういうわけで、毎年恒例の流行語大賞の発表が近づいてまいりました。 といっても、今年のノミネート語は先日も書きましたように、50語のうち4割近くを政治関連で占めたのが異例でした。「戦争法案」が候補に?流行語大賞、感じ悪いよねhttp://agora-web.jp/archives/1660561.html さすがにマスコミにも注目されまして、ノミネートから10日ほどして朝日でも取り上げていました。存立危機・早く質問しろよ… 国会発、流行語候補が続々(朝日新聞デジタル)http://www.asahi.com/articles/ASHCL5HDFHCLUTFK00F.html もちろん、私と朝日では考え方が対極的です。「安保法案」を「戦争法案」とレッテル貼りする等、安倍政権への批判・disりが目立ったことに私や松本さん等、アゴラ執筆陣は批判的。朝日は淡々と事実を書くことに徹しているようで、「戦争法案」の名付け親である福島センセの談話を取っており、沖縄知事に批判された菅長官の「上から目線」について記述を割いておりまして、まあ本当は「戦争法案」なり、「SEALDs」あたりの受賞を期待しているのでしょう。 選考委員会は、姜尚中(東京大学名誉教授)、俵万智(歌人)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、室井滋(女優・エッセイスト)、やくみつる(漫画家)、箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)、清水均(『現代用語の基礎知識』編集長)で構成される。 (流行語大賞公式サイトより) まあ、ネット上でも散々指摘されておりますが、選考委員の面々から推して知るべしなわけです。記念撮影に応じる新語・流行語大賞の受賞者ら=12月1日、東京・帝国ホテル (撮影・桐山弘太) 実は昨年も、「集団的自衛権」が選ばれた時点で、産経新聞に大賞の「政治利用」を懸念する記事が出ておりました。去年の大賞はエレキテル連合の「ダメよ~ダメダメ」だったわけですが、このくだりが秀逸。 選考委員の漫画家、やくみつるさんは表彰式で「審査は中立的な立場で行ったが、大賞となった2つの言葉が並ぶと一定の意味をなす。興味深い」と指摘した。集団的自衛権の行使容認を閣議決定した首相に対し、「ダメよ~ダメダメ」と返す意味がふくまれている、とでもいいたかったのだろうか。 いやー、記者の村上サン。この皮肉を込めた書き方、一般紙のお堅い政治部記者とは思えない遊び心のある筆致がさえております。 流行語大賞のイベント運営の実態など興味もないので想像の域のことですが、受賞者のブッキングの調整時間を考えると、大賞は内定、あるいは少なくても大賞になる最終候補までは絞り込まれているはず。果たして、SEALDsがドヤ顔で出てきて一定層に違和感を残すのか、それとも五郎丸選手登場で国民の多数が納得の大円団になるのか。 展開によってはネットから「もうユーキャンの通信教育やめてケイコとマナブに乗り換える!」なんて運動につながったりしないのか、いろいろと今後の展開を読むところはございますが、これ以上、政治色を強めるのかどうか、岐路に立つ流行語大賞の成り行きを生温かく見守りたいと思います。(「新田哲史のWrite Like Talking」より2015年11月30日分を転載)

  • Thumbnail

    テーマ

    流行語大賞、今年も感じ悪いよね

    今年の世相を反映した「2015新語・流行語大賞」が発表され、「トリプルスリー」と「爆買い」が年間大賞に選ばれた。候補となった言葉をみると、今年も相変わらず「政治的マイナスワード」のオンパレードだったが、もういっそのこと「サヨク大賞」とでも名前を変えてみてはいかが?

  • Thumbnail

    記事

    流行語を捏造して大衆に押し付けるサヨクの病理

     「現代用語のクソ知識」なる言葉がある。人気お笑い芸人の有吉弘行によって書かれた本のタイトルだ。言うまでもなく、「現代用語の基礎知識」のもじりである。ところが、今や「現代用語の基礎知識」の内容そのものが「現代用語のクソ知識」と化している。何しろ執筆陣の顔ぶれが異常すぎる。まるで反日サヨク活動家リストそのものなのだ。 例えば2016年度版の執筆陣を見てみよう。SEALDs(「反戦争法」国会前デモを行った団体)姜尚中(北朝鮮による拉致犯罪を「北朝鮮に動機はない」と否定した在日韓国人二世)谷川俊太郎(60年安保反対派詩人)森達也(「従軍慰安婦」の「強制連行」を認める映画監督)木村草太(安保法制を憲法違反とする法学者)鳥越俊太郎(安保法制を憲法違反とするジャーナリスト)内田樹(安倍政権を「独裁」と批判する武道家)高橋哲哉(護憲派組織「九条の会・さいたま」呼びかけ人)湯川れい子(「日本を捨てる」と発言する「マスコミ九条の会」呼びかけ人)現代用語の基礎知識とは(現代用語の基礎知識 特設サイト) 頭がくらくらしてくる。ここまで異様な人選では、もはや「現代用語の基礎知識」ではなく「変態サヨクのクソ知識」とでも言う他あるまい。 そんな「現代用語の基礎知識」の読者アンケートを元に毎年行われているのが、「ユーキャン新語・流行語大賞」なのだから、その実態たるや反日サヨクによるプロパガンダに過ぎぬであろうということも想像に難くはなかろう。そもそも選考委員が前述の姜尚中、鳥越俊太郎などの息を吐くように嘘をつくことも厭わず北朝鮮による拉致犯罪まで擁護する反日サヨク人士連中だと言うのだから、選考基準に公平もクソも無いのは当然と言える。 例年のノミネートや大賞を見ても「どこで流行していたの?」と首を傾げざるを得ない物が多い。2013年には「ヘイトスピーチ」「特定秘密保護法」が選ばれているし、2014年は「集団的自衛権」が大賞に選ばれた上に「ダメよ〜ダメダメ」という日本エレキテル連合なるお笑いコンビのギャグ?と合わせ「集団的自衛権ダメよ〜ダメダメ」と宣伝された。選考委員の鳥越俊太郎に至っては悪びれた風もなく堂々と、「特定秘密保護法から始まってアベノミクス、集団的自衛権、原発再稼働も、国民が反対しているにもかかわらず政府は少しずつ推し進めた。それに対して国民の気持ちを最もよく表すのが『ダメよ~ダメダメ』」と高らかに反日プロパガンダの勝利を宣言する始末だ。 この直後、これに呼応するようにサヨク勢力は一斉にこの反日プロパガンダの拡大のために決起した。北朝鮮による拉致犯罪を「拉致は創作」と主張し擁護してきた社民党の福島瑞穂は「今年の流行語大賞に『ダメよ~ダメダメ』『集団的自衛権』。これを合わせて『ダメよ~ダメダメ、集団的自衛権』。どう考えてもダメです。ダメなものはダメ」とツイッターにおいて発言。 民主党所属議員で北朝鮮との繋がりが深い有田芳生も「この並べ方がサイコー!『集団的自衛権』『ダメよ~ダメダメ』が大賞」と嬉々として述べた。使い古された反日プロパガンダ戦略 流行でも何でもない反日フレーズを「これこそ流行でござい!」と捏造し権威付け大衆に押し付けるサヨクによるこうした卑劣な手法は、流行語大賞だけに限ったことではない。彼ら息を吐くように嘘をつく連中のごく一般的な反日プロパガンダ戦略であり、過去にもいくらでも前科がある使い古されたものだ。 例えば朝日新聞は、そうした「流行捏造」の常習犯であり、捏造することを意味する「アサヒる」という言葉が存在している程だ。 ことの発端は、07年9月25日付の朝日新聞が辞任を表明した安倍総理について 「『アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露だ。そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ」と書き立てたことであった。グーグルで検索してもさっぱりヒットしない「アベする」という言葉を「流行語」としてでっち上げた朝日の悪質な行為は各方面で厳しい検証と批判を受け、結果「アサヒる」という言葉が生まれることになった。 ところが朝日は「反省」という概念を持たぬらしく、2010年4月6日には再びこのように書き立て流行を捏造した。 「若い世代は新語を造るのがうまい。「与謝野(よさの)る」というのがあって、寝癖などで髪が乱れているのを指すそうだ。晶子の歌集「みだれ髪」に由来し、女生徒同士で「すごく与謝野ってるよ」などと言う」「その「与謝野る」に、仲間から抜けるという第2の意味が加わるかもしれない。晶子のお孫さんの与謝野馨元財務相が、自民党に離党届を出した。近く新党を立ち上げるそうだ。政治の閉塞(へいそく)を破る勢力をめざすという。その意気や良し」 このように、「流行」という「権威」を捏造し、大衆に対し自らの歪んだ思い込みを押し付けるというのは、サヨクの本能とでも言うべき一般的な病理なのである。 サヨクによるこうした流行の捏造には、アンケートもよく悪用される。その一つの例が、03年11月に当時の石原慎太郎都知事の再選を妨害する目的で行われたと言われても仕方がない、TBSサンデーモーニングによる「石原発言捏造テロップ事件」と連携して行われたサヨクによる「アンケート」である。当時の石原都知事の「日韓併合を100%正当化するつもりはない」という発言を捏造し「100%正当化するつもりだ」とのテロップを付けたこの驚くべき犯罪には実は続きがある。翌年4月には、サンデーモーニングの反日コメンテーターとして有名なばかりか司会の関口宏の経営するサンデーモーニング制作会社から仕事を受注する等で深い繋がりのある佐高信(評論家)、辛淑玉(人材育成コンサルタント)が主宰す る「プレ東京都知事選挙」なるホームページが開設された。更に付け加えれば、辛淑玉の所属するのは、朝鮮人経営というだけではなく、拉致犯罪の発覚以前か ら北朝鮮への闇送金が疑われているような組織のグループ企業なのだ。 表向きは、来るべき都知事選を予想する「ネット投票」を装ってはいるが、その実体は、明らかに、石原都知事再選の妨害工作であった。何しろ候補者に、立候補さえしていない元べ平連活動屋で作家の小田実なんてものまでノミネートされていたのだから、お里が知れるというものだ。 このホームページは当初、在日朝鮮人のメーリングリストや反日活動家、プロ市民の掲示板などでのみ宣伝された。ホームページに「投票結果は11日夜に最終集計し、マスコミ各社に流します」と書かれていたことからもわかるように、反石原グループだけで投票をして、都合の良い結果を出し、マスコミに流すつもりだったのである。実際、当初は、本選挙では石原に惨敗した樋口恵子がトップであった。流行を捏造する極めて単純なパターン ところが、この企みはネット投票開始直後に漏れ、2ちゃんねるなどのインターネット掲示板で宣伝された結果、反石原活動家以外にも多くの一般市民が投票し、樋口をたちまち引き離し、石原がトップに踊りでた。「プレ東京都知事選挙」の主催者は慌て、石原票のカウントを停止したり、石原の得票数を0に差し戻したり、ここでも捏造に躍起となっていたが、結局対応しきれず、ホームページは投票日前に閉鎖された。 ここまでお読みになられた読者は、こうしたサヨクによる流行捏造には極めて単純なパターンが存在することがわかるであろう。・自分だけの思い込みを「流行である」と平気で嘘をつく。・ずさんな嘘や捏造のため、簡単にその悪巧みがバレる。・嘘がバレても謝罪どころか反省さえせず言い逃れに終止し、懲りずに何度も同じ悪事を繰り返す。 サヨク連中というのはオツムの構造が単細胞で皆クローンのように同じらしく、実に見事なほどにこれらの症状を共有している。 これまでも何度も同じことを指摘してきたが、私は以前、本誌において、サヨクどもが「サイコパス」だと言える数々の症例http://ironna.jp/article/2184という記事を書いたことがある。そこでも引用したロバート・D.ヘア『診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち』(早川書房)という本には、次のような記述がある。 「サイコパスはナルシスティックで、自分の価値や重要性に関してひどく慢心したものの見かたをする。まったく驚くべき自己中心性と権利感覚の持ち主だ。彼らは、自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思っている」  「嘘つきで、ずるく、ごまかしがうまいのは、サイコパスの生まれもった才能だと言える。  想像力が貧困なのか、それとも自分のことしか考えていないためか、サイコパスは自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着か、見破られないと確信をもっているかに見える。嘘を見破られたり、真実味を疑われたりしても、めったにまごついたり気おくれしたりしない。あっさり話題を変えたり、真実をつくりかえて嘘のうわ塗りをする」 「サヨク」とは政治的イデオロギーではない、症状だ 「サヨク」とは政治的イデオロギーではなく、症状なのであると言わざるを得ない。彼らは自らの歪んだ思い込みを「グローバルスタンダード」と思い込み、それを認めようとせぬ敵をポルポトや毛沢東のように「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」と差別・殺害宣告し虐殺粛清をためらわぬ連中なのだ。 2003年にスペースシャトルコロンビア号の空中分解事故で乗組員7名全員が死亡した際、佐高信が編集委員を務めるサヨク雑誌の「週刊金曜日」がこのような呆れた記事を掲載したことがある。 「地球上の約半数以上の人が「ザマアミロ、 天罰だ!」と喜んだに違いないが、誰もこんなハシタナイことは言わない。私だけが公言して憚らない」「イラクから見れば、アラーの祟りそのものなのである」 サヨクどもが「人権」だの「反差別」だのを普段偉そうに喚くくせに、平気で人の死を「ザマアミロ」と大喜びする人でなしの二枚舌であるというのは今更驚くべきことではない。ここで問題なのは、彼らサヨクが「地球上の約半数以上の人」も自分たち同様の人でなしであると思い込んでいるという信じられぬ厚顔無恥さである。本気でそう思い込んでいるなら、世間知らずの愚か者であるし、そうでないなら息を吐くように嘘をつく卑劣漢だ。いずれにせよ真面目に耳を傾けるべき輩ではない。 この週刊金曜日に見られるサヨク連中の卑劣さは特殊な物ではなく、911アメリカ同時多発テロにおいても、社民党議員原陽子が次のような発言を行っている。 「「ざまーみろっ」って思っている国だってきっとある、と思いませんか?」 品性下劣なサヨク連中が、人が死ぬのを「ざまーみろ」と思うのは自由だ。しかし連中の卑劣さは、無根拠に「オレサマだけでなくみんなだってそう思っているのだ!」と喚き散らし自らを正当化する点にある。流行語大賞を悪用した「流行語捏造」もそうしたサヨクに共通する邪悪な本能が具現化されたものの一つに過ぎない。 偉そうに「反差別」と喚きつつ人の死を「ざまーみろ」と大喜びし、敵を平気で「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」卑劣なサヨクにとっては、イスラム教徒がどうなろうと知ったことではない。自らの欲望を実現するために利用する駒に過ぎない。「イスラム教徒はアメリカ人の死をざまーみろと祝っている」というサヨクの嘘を真に受けたアメリカ人が、無実のイスラム教徒に対し報復をしてしまう危険性などサヨクにとってはどうでも良いことなのだ。 現代サヨクのクソ知識と流行語大賞。サヨクどもが戦後数十年にわたり延々と積み上げてきた蛮行の集大成であるこの恒例行事が今後どのような捏造を重ねて行くか、目を離すことはできない。

  • Thumbnail

    記事

    流行語大賞「政治的キーワード多すぎ問題」を読み解く

    集長の清水均氏にインタビューをしたことがある。私自身、この賞を毎年楽しみにしつつ、一方で「所詮、マスメディアの陰謀ではないか?」「そもそも、流行っていたのか、本当に?」「知らないよ、そんな言葉」という印象を抱いたことがよくあったからだ。 1984年にこの賞が始まった時に、自由国民社の若手社員だった清水氏は「何も流行ってないよ!なのに流行語を決めるの?」と、いまいちノリきれない気分だったという。第1回で流行語部門・金賞を「◯金・◯ビ」という言葉が受賞した。確かに世間で話題にはなっていたが、彼はそれを「流行語」だとは思えなかったのだという。昭和40年代には「誰もが流行語だと思える強烈な言葉」が存在したが、そんなものが存在しているようには思えなかったと彼は語った。圧倒的な流行語を思春期に体感してからこそ、相対的に流行語であるとは思えなかったわけだ。まず、この「流行語大賞」は「国民的流行」というものが存在しない時代に始まったという事実を直視しなくてはならない。 はじめは取材にテレビカメラが1台もこなかったし、新聞関係の取材陣も現在の3分の1以下という状態だったという。潮目が変わったのは10年後の1994年くらいからだった。話題の受賞者、言葉があったこともあるが、特にお金をかけたわけでもないのに、盛り上がっていったという。賞の相対的な価値が増していったというわけだ。 そして、この賞自体、昔も今も、あくまで審査員が選ぶ賞なのだ。だから、生活者の実感値とずれることもあるだろう。ただ、単に検索された言葉ランキングと流行語は違うわけだ。そもそも、ここで扱っている言葉が本当に「新語」「流行語」なのかという点についても疑問が残るだろう。それは、この賞の性質によるものなのだ。 なお、この賞に選ばれるには、その年の『現代用語の基礎知識』に載っていることが条件だ。暮れにかけて盛り上がった言葉は選ばれないし、年初に盛り上がった言葉は選ばれづらいなどの傾向はある。 それこそ、これは芥川賞・直木賞やミシュランガイドに似ていると思う。もともと個別の営利企業が話題作りのために始めた賞が、だんだん権威を持ち、神格化されていった過程だ。だから、これらの賞やガイドにも選考結果に疑問を持つことがあることだろう。ただ、もともとの成立過程を抑えると印象は変わるのではないだろうか。 というわけで、一民間企業の賞が影響力を持ってしまったという問題が本質なのではないか。政治が多すぎるという声があったわけだが、たしかに日経MJのヒット番付などを見ても、他に入れるべき言葉はあったかどうかも疑問だ。逆にこれに対する抗議の声も含め、この賞の影響力と、国民の政治への関心が高まっているということのなのではないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    とにかく明るい安村のネタ中BGM 制作の裏側を作曲者明かす

     ふくよかな体に肌色のパンツ一丁の姿、コミカルな音楽にのって全裸に見える際どいポーズを決め、「安心してください、穿いてますよ」で和ませる、とにかく明るい安村(33才)のネタ。今年の流行語大賞にノミネートされるなど大人気だ。このネタ中に、効果的に使われているのが音楽だ。テンポのいいリズムがネタをより面白くしている。いったいどんな経緯で、この曲が生まれたのか?『とにかく明るい安村全裸に見えるポーズソング』を手掛けた作曲家・藤井りょうはん氏(41才)に直撃した。――安村さんの曲を手掛けた経緯を教えてください。「安心して下さい、穿いてますよ」がトップテン入り。壇上で全裸?を披露するとにかく明るい安村=12月1日午後、東京都千代田区の帝国ホテル(撮影・大橋純人)藤井:ヤス(安村のこと)がコンビのアームストロングを解散してピン芸人になったあと、全裸に見えるポーズのネタを、ぼくに持ってきたんです。テレビでも言っていますけど、まゆゆ(AKB48)の写真集を見て思いついたと。それで「仕事や生活の動作で、パンツ1枚で全裸に見えるポーズをネタにしたいんだけど、それに音をつけてほしい」って。 最初ぼくはピンとこなくて。実際にやってもらって、納得したんです。すぐに2人で、ぼくの家にある作業部屋に行って、その場で一緒に作り上げたんです。コンピューターで打ち込みながら。――仕上がるまでの時間は、どれくらいでしたか?藤井:ひらめくまでは5、6分くらいなんですけど、バランスとか計算して、最終的には3日くらいかかりました。「カモン」からのシンキングタイムのリズムは、コミカルな感じと現代っぽいエレクトロを使いたい。でも耳に残るような感じにしたいなと思ったときに、シンプルが一番だろうねと。それでシンセサイザーの今の音に行きついたんです。――悩んだところはありますか?藤井:最後の決めの「ヘイ!」は、最後は締まる感じがいいよねって。パンツが隠れた時に決めた感じがいいと、最初はシンバルとかの音だったんですけど、なにか締まらないなとなった時に、言葉にしようって。 それでアメリカなどの方々にも分かり易いように狙って、2人で、「ナイス!」「イエス!」「オウ!」とか言って(笑い)。でもしっくりこなかった。でもヤスがライブをすぐやりたいと言っていたので、ベタなんだけど、「ヘイ!」という声を、とりあえず繋ぎとして入れたんです。 そうしたらライブで好評だったらしくて、それで浸透していって、そのままになったんです。本当は仮の音だから、もっとこだわろうと思っていたんですけど(笑い)。――二人三脚で作り上げたんですね。藤井:そうです。だからヤスのネタは、ぼくの大切な曲です。もちろんヤスのアイディアが一番ですけど、ぼくもアシストできたのは光栄です。ただ注文されただけじゃなくて、ばかばかしい、くだらなさも考えながら、アーティスティックな感じで作り上げたんです。 本当はもっと長かったんですけど、短い方がいいんじゃないかとか。番組のディレクターが、「安心してください」が一番、面白くて腹が立つんじゃないかって、作りながら決まりました(笑い)。 その言葉も、初めはスギちゃんみたいに、ワイルド系で言っていたんです。でも、もっと謙虚な感じの言葉にした方がいいって。スギちゃんとか秋山さん(ロバート)にかぶらないようにと考えましたね。芸人さんだと、小島よしおさんは天才的な音楽ですよ。――お笑いのリズムネタも聞くんですか?藤井:聞きます。ぼくは短い尺で完結するものを得意としているので。だから芸人さんのバックサウンドなどは自信があります。清人(バッドボーイズ)のピンライブの音楽とかナレーションとか、よくうちで録るんです。ぼくが自宅でパッケージにするから、スタジオ代もかからなくて(笑い)。――安村さんと仲良しなんですね。そもそもの出会いは?藤井:家族ぐるみの付き合いなんですよ。奥さんと子供だけでもよく来ます。そもそもは、『オロナミンCキモチスイッチCMバトル』で音楽を担当させていただいたときに、アームストロング時代のヤスに出会ったんです。 アームストロングは当時、あまり有名じゃなかったんですけど、ぼくと演出の人間とアームストロングでCMを作って、それで優勝したんです。アームストロングは優勝賞金200万円を受け取って、その賞金の一部をぼくにくれたんです。ヤスと相方の栗(山)ちゃんで15万円ずつ、計30万円くれて。義理堅いですよね。それが2007年で、10年近い関係ですね。――安村さんとのジョイントは、今後もありますか?藤井:実はヤスと、“球児”というバンドをする予定です。あいつは甲子園に出場している高校球児だったので。プロ野球選手を夢見て、今は叶わなくてサラリーマンや家業を継いだ人、学生時代に球児として頑張っていた人たちに対してアピールできるような、青春ソングになる予定です。 ギターとボーカルはヤス、ぼくはギターとプロデュース。4人グループにしようかなと思っていますが、まだ2人しか決まっていないんです。ヤスはずっとバンドをやりたいと言っていて、ギターがうまいんですよ。リズム感もあるし、声も張るし、感情豊かな声を出せるんですよね。面白いバンドができるんじゃないかなって。 あと2人のうち、ベースは心当たりがあるので、ドラムを募集中です。音楽的な技術より、優しくてハートがある人。ぜひ、ぼくのtwitterまでご連絡ください(笑い)。【藤井りょうはん】1974年8月28日生まれ。秋田県出身。作曲家、レコーディングミキサー。ABSC名義で『コレクション』などのシングルをリリース。『リンカーン』(TBS系)発の『どんだけぇ~の歌』(やす子&フジモン&新宿2丁目オールスターズ)の作詞作曲を手掛けるなど、主にバラエティー番組で活躍。乾布摩擦の動きと、安村の全裸ポーズが融合した『とにかく明るい乾布摩擦レッツダンス』を、YouTubeにて12月頃配信予定。関連記事■ とにかく明るい安村 裸芸ウケた背景に体型、オリジナル音楽■ 大沢樹生の親子じゃない訴訟 父子確率0%鑑定でも難しい裁判■ 福島みずほ氏「2016カレンダー」30円也 値段の意味は何か?■ キラキラネーム頭打ちか 古風な「子」や「太郎」に回帰傾向■ 西村賢太氏 ブスはコスプレするな騒動に「どうとも思わん」■ 第1子妊娠中のSHELLY コント番組登場で「胎教にもいい」■ 膨大な量の注釈も収録 33年後のなんとなく、クリスタル■ 木村拓哉 松たか子がひつまぶし平らげる姿に「この感じ久々」■ 千賀健永 Snow Man渡辺と週2会い、服の半分貸し出し中■ 嵐・相葉雅紀「弟の子を見てると家族を持ちたいなって思う」

  • Thumbnail

    記事

    「流行語大賞」にもはや意味は無い

    れを毎年公開することに何の意味があるのか、私にはわからない。 多様化する社会の中にあって、もはやマスメディア主導型の「流行語」という概念そのものが陳腐化した、とまでは言うつもりはない。方やネット空間で使われる言葉の多くは、マスメディアが使用するフレーズを転写したものだからだ。マスメディアの力が社会に対して有意に低下したとは思えない。 とはいえ、2015年の「流行語」ノミネートをみても瞭然だが、この「流行語」にはやはり特有の「自閉性」を感じる。私が感じる違和感とはまさにこのことだ。なぜ「ISIL」はノミネートされていないのか 例えば世界中を騒がせた(震撼させ続けている)、「ISIL(いわゆるイスラム国)」がノミネートの中にすら入っていないのは何故だろうか。ちなみにこの言葉は2014年にはノミネートされていたが、続く今年には消えていた。当然だが「ISIL」の問題は2015年に入って消えたわけではない。手厳しく論評するのなら、実に刹那的で軽いノミネートだ。 国際的にトルコとロシアの緊張と西欧圏への大量の難民流入、そしてパリに続く新たなテロの脅威が連日報道されているのに、そういった単語もノミネートすらされていない。「日本の新語」というのだから日本国内に限ったものだという抗弁があるかも知れないが、ISILや露軍機撃墜は日本とは全く関係のない他人ごとと言い切れる人間が居るのだろうか?毎年12月に感じる「日本の閉塞感」 「流行語大賞」には、そうした特有の「自閉性」を感じる。グローバル、という言葉が日本国内でお題目のように唱えられていながら、毎年年末になると、そういった世界と遮断した内々だけの「流行語」を恒例行事として発表するその自閉的感覚に一抹の嫌悪感を感じる。清水寺で発表される「今年の漢字」や、紅白歌合戦に誰が出るとか出ないとかという話題は、安全で誰も不幸にさせない代わりに何の問題提起も有用な議論も生まれない。ただ、一定程度の多幸的な人々の溜飲を下げるために機能しているだけの存在のように感じる。爆破され、煙を上げるシリア中部パルミラ遺跡のバール・シャミン神殿。過激派組織「イスラム国」が8月25日、画像を公開した(共同) 作家の村上龍は、「イスラエルとヒズボラの戦闘が始まり、世界中のメディアが報道していた時、NHKの7時のトップ・ニュースは桜の開花を伝えていた」というニュアンスで、日本のマスメディアの異常性を指摘している。一方、先日パリで起こった凄惨なテロ事件も、特に日本のマスメディアは当初ほとんど具体的な報道をせず、NHKは相変わらずその日の相撲を報道していた。この感覚の鈍さは異常だと思う。私はその間、自室でずっとCNNを付けるより他になかった。こういった問題では、日本のマスメディアは明らかに国際水準から後れを取っている。毎年12月に感じる「日本の閉塞感」 マスメディアを糾弾しているのではないし、もっと日本国外の動きに敏感になれ、と言っているつもりもない。ただ私達の社会の中で、年末恒例行事として展開される各種の「行事」に対し、もっと懐疑的になっても良いと思う。私達は「流行語大賞発表」や「紅白歌合戦」を自明のこととして受け入れているが、そこに「鈍感さ」を感じる。想像力を失っているのではないか、と思う。こたつの中で紅白歌合戦を観ている最中にも、貧困やいじめで自殺する日本人が居る、という想像力が、「恒例行事」の洗礼の中で鈍感になっているように感じる。 「お前たち(韓国人)がマクドナルドのハンバーガーを食っている時、北の人民は飢えて死んでいる」とは、映画『シュリ』に登場する北朝鮮の特殊工作員が放つセリフだ。世界の悲惨さと冷酷さに敏感になるべきだ、と言うつもりはない。ハロウィンの馬鹿騒ぎを法律で規制しろ、と言うつもりもない。ただ、「なんとなく漠然と毎年年末になると行われる行事」に対して、無批判ではいけないと思う。人を安心させたり、溜飲を下げさせるだけの恒例行事には、もはや何の意味もない。 安心は向上心や危機への反応速度をスポイルさせると思う。「日本の閉塞感」というフレーズが定着して久しいが、真の意味での「日本の閉塞感」を感じるのは毎年12月だ。それとも単に、私の心がひねくれているだけなのだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    「1億総活躍社会」は今年の流行語大賞に絶対なって欲しくない言葉?

    高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)(メディアゴンより転載) 「1億総活躍社会」というのは官僚が考えそうな、そして、「それいいね」と、安倍首相が言いそうな、実にセンスのないスローガンである。 「プロパガンダは娯楽の顔をしてやってくるもの」であるが、娯楽の顔さえ装っていない生硬な言葉である。毎年この時期、「流行語大賞」のノミネートが話題になり始めると、絶対に大賞を取って欲しくない言葉というのが見つかる。 例えば、1998年おっぱいが売りの笑いのコンビらしき女子コンビ・パイレーツの「だっちゅーの」であった。他の芸人がこれ以上の言葉を生み出せなかったのも情けない。 「これがすごい!」と思われるのも笑いを業とする者が馬鹿にされたようで不愉快だった。でも結局、大賞を取った。大賞を獲るとテレビで繰り返し放送されるからそれがまた腹立たしさを増殖する。 今年はどうか。「五郎丸ポーズ」であろう。にわかラグビーファンが蔓延して、どこの忘年会でもこのポーズをしている上司に拍手をする・・・といったお追従を見せられるかと思うと今年の年末は酒を飲みに行くのやめようかとさえ思う。 では、「1億総活躍社会」はどうか。安倍首相が会場に賞状をもらいに来るという確約があるなら是非大賞をあげて欲しい。安倍首相(右から2人目)と加藤1億総活躍担当相(右)に、一人ひとりが輝き活躍できる社会の実現に向けて申し入れをする公明党の石田政調会長(左から2人目)ら=11月24日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影) 「1億総活躍社会」は当初すぐに「一億玉砕」や「一億火の玉」が連想される言葉だとして、糾弾された。テレビを見ていると「一億総白痴」になると言われたりしたし、日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える1970年代の「一億総中流」というのもあった。 中流とはお手伝いさんを常時ひとりは雇っておける家庭のことを言うのだという反論もあった。「一億総中流」は、人並みと言うくらいの意味で使われた。 「1億総活躍社会」について、11月10日の朝日新聞「わたしの紙面批評」で湯浅誠氏(2008年・年越し派遣村の村長という説明が一番わかりやすいだろう)が、興味深い論考を書いている。(以下、引用)「(『1億総活躍社会』について)安倍総理は『若者も高齢者も、男性も女性も、困難な問題を抱えている人も、また難病や障害を持った人々もみんなにとってチャンスのある世界をつくっていく』と訓示した。個人をターゲットに『さらにがんばってもらう』とは言っていない。(略)朝日はこの部分を翌日の朝刊で報じなかった。私はそのことに違和感を覚えた。権力監視はジャーナリズムの主要任務だが、それはただクサすこととはちがうだろう」(以上、引用) 湯浅氏の論考は「1億総活躍社会」において安倍首相が言葉通りのことをやっていくかどうかこれからマスコミは注視していくべきである。と言う意味を含むと筆者は理解した。 この「1億総活躍社会」を共生という言葉で実現しようとしている人々もいる。 人種も、性別も、性同一性障害の人々も、障害者も、宗教の違いも、金持ちも、貧困な者も、政治信条の違いもすべて乗り越えて、共に生きていこうとする社会が共生だ。英語ではインクルージョン(Inclusion)という。 筆者は少なくとも「1億総活躍社会」が安倍首相のいう意味と同じなら『共生』と言う言葉の方が好きである。言葉としてのインパクトは全然無いけど、真実には大抵インパクトは求められない。 以下、蛇足としての戯れ言としてお読みいただきたい。「1億総活躍社会」の中の言葉を入れ替えていろいろな言葉をつくってみた。・出演者総活躍番組・精神科医総活躍日本・官僚総活躍省庁・仁義総活躍任侠・AKBだけ総活躍テレビ・派遣社員総活躍大企業・米軍総活躍琉球・薬メーカー総活躍病院・モンサント総活躍TPP・国民の代表総活躍国会 あなたはどれを望みますか。

  • Thumbnail

    記事

    新語・流行語に見る2015年の 日本経済

    、地元に及ぶ経済効果は相対的に大きなものになる。今までは地域としてのまとまりにも欠けていたが、今年はメディアで「北陸」と呼ばれる機会が一気に増えた。北陸経済にとっては、数十年に一度の画期的な年であったことは間違いないだろう。つくづくツーリズムは「地方創生」の切り札的存在なのである。中国の「新常態」に振り回される中国の「新常態」に振り回される 今週16日に発表された7-9月期のGDP速報値は、予想通り▲0.2%(年率▲0.8%)と2期連続のマイナス成長であった。ただし、思ったほど悪い内容ではなかった。足を引っ張ったのは在庫投資の増加であって、その分を差し引けばプラスになる。前期はマイナスだった個人消費も+0.5%と大きめのプラスに転じている。この調子であれば、足元の10-12月期は再びプラスに戻ってくれそうだ。 そうだとすると、「1-3月期はプラス、4-6月期と7-9月期はマイナス、10-12月期になって再びプラス」と昨年と同じパターンを繰り返すことになる。つまり日本経済は、春から夏にかけてマイナスとなり、秋から冬にかけてはプラス成長なのである。 なぜそんなことになってしまうのか。昨年の場合は4月の消費増税後の反動で、夏場に在庫が積み上がり、それを捌くのに苦労することになった。今年は春以降の輸出の伸びが期待外れで、再び夏場に在庫が増えてしまったようである。円安、石油安の追い風があったとはいえ、製造業にとっては受難の年だったようだ。○実質/名目GDPの推移(内閣府) 思い起こせば、双日の社内でも春頃から急に「中国がおかしい」という声が飛び交ったものである。今年の春から夏にかけての「足踏み状態」は、中国経済の「新常態」(New Normal)が主犯であると見て良いのではないか。今の中国経済は、高速道路を時速120キロくらいで飛ばしていたクルマが、一般道に降りて80キロくらいで走行するようになったものである。ある意味、当然のことが起きているわけだが、車内も車外も大幅な減速に伴う異和感に戸惑いを隠せないでいる。 今年、中国が経済と外交の両面から打ち出した戦略が「一帯一路」であり、「AIIB(アジアインフラ投資銀行)」であった。後者については本誌でも何度も取り上げた通り、日米主導の「TPP」とともに今後のアジア外交に一石を投じるものとなった。 しかしこれらの政策は、つまるところ「投資を増やす」ことによって、中国国内の過剰生産力を解消することを目指している。いわばアクセルを踏んで、「時速100キロくらいに戻そう」としているようなものである。それでは、「中国経済を個人消費中心の健全な姿に近づける」という大目標からは遠ざかってしまう。 来年も、中国経済が「景気回復か、構造改革か」のどちらに向かうかによって、周囲が振り回される年となりそうである。日本型組織の病理~「白紙撤回」は可能か?日本型組織の病理~「白紙撤回」は可能か? 前号でも詳述した通り、日本企業は好業績にあっても賃上げや設備投資に向かわない、という「長期悲観」ムードに包まれている。雇用者数は確実に増えて、今年9月時点で5667万人と史上最高水準にある。しかるに雇用増は非正規社員が中心であって、「中高年社員の再雇用」が全体の増加に貢献しているようである。 そんな中で発覚したのが、「傾斜マンション」の問題である。日本企業の強さは本来「現場重視」にあったはずなのだが、建築工事の杭打ちでデータ改ざんが行われていたとあっては情けない話である。近年の日本の組織は過度に「セキュリティ重視」になっていて、そのためのペーパーワークが増え過ぎ、結果として現場を軽視する傾向にあるのではないか。あるいは団塊世代の熟練工が職場を「卒業」するにつれて、企業から貴重な暗黙知が失われつつあるのではないだろうか。 企業不祥事として話題となった東芝の不正会計処理事件では、各部門の業績改善を要請する「チャレンジ」なる言葉が話題になった。これまた純粋に、ホワイトカラー社員が「紙の上」で行った不正行為であったという点に病理があるように思える。もっとも製造業たるもの、VW社のディーゼル車のように「商品の偽装」を手掛けるよりはまだ罪が軽い、という見方もできるだろうが。 日本型組織が自縄自縛に陥って苦しむことは、別段、新しい話ではない。むしろ昔から延々と繰り返されてきたことである。この夏、「戦後70年」を機にリメイクされた映画『日本のいちばん長い日』は、太平洋戦争の最終局面をドラマ化している[4]。終戦の詔勅の一言一句をめぐって、閣僚たちが延々と議論を繰り返して時間を浪費するシーンは、今日の日本の組織を知るものとしてもまったく他人事ではない。「これと同じようなことを、自分もどこかでやったよな」などと感じた次第である。 一度決めたことをなかなか変えられない、あるいは撤退戦や被害の最小化が不得手、というのは日本の組織にありがちな短所である。その点で今年、新国立競技場や東京五輪のエンブレムが「白紙撤回」になったことは鮮烈な印象があった。安倍首相としては、新安保法制を通すための「見切り千両」であったのだろうが、政治的なダメージコントロールとしては成功と言えるだろう。 この手の決断は、ほかの分野でも可能なのかどうか。例えば高速増殖炉「もんじゅ」は、原子力規制委員会から運営主体変更の勧告を受けている。どういう対応をするのか、来年に向けての課題と言えるだろう。W杯の大番狂わせを演出した「Japan Way」W杯の大番狂わせを演出した「Japan Way」 2015年最大のポジティブサプライズは、ラグビーW杯における「ブレイブ・ブロッサムズ」(ジャパン)の快進撃であろう。特にスプリングボクス(南ア代表)から、ラストプレーの劇的な逆転で挙げた勝利は、現地でも「W杯史上もっとも衝撃的な結果」と報じられた。その結果、日本における多くのラグビーファンを覚醒させることとなった。南アフリカに向け羽田空港を出発するエディー・ジョーンズ前HC=11月4日午前 特に五郎丸歩選手が脚光を浴びていて、流行語大賞の候補には「五郎丸ポーズ」や「ルーティン」が入っている。しかし五郎丸氏本人が語っている通り、ここは「Japan Way」を入れるべきだっただろう[5]。エディ・ジョーンズ監督が提唱する「日本人の俊敏性や勤勉性を活かしたラグビー」のことである。と言っても、特段に新しいコンセプトではない。日本サッカーの代表チームが好調なときも、似たような試合ぶりを見せてくれる。 ところがラグビーの場合は、日本代表チームは顔つきからして多国籍なのである。なにしろキャプテンが、ニュージーランド生まれのリーチ・マイケル選手である(現在は日本国籍)。そのことに驚いた人は少なくなかっただろう。 移民や難民の問題をいつも避けているように見えながら、いつの間にかグローバル化しているのが日本社会である。大相撲の上位には日本人力士が居なくなって久しく、甲子園でもハーフの選手が活躍する時代である。 リーチ・マイケル選手に関するトリビアをご紹介しておこう。彼は今年7月から、東京都府中市でニュージーランドスタイルのカフェを経営している。店名は「+64」。この数字は、国際電話におけるニュージーランドの国番号である。きっと高校生で日本に留学して以来、何度も何度も家族に電話をかけたのであろう。 月日は流れ、Michel Leitch君は日本人リーチ・マイケル氏になった。その結果として、ブレイブ・ブロッサムズの勝利がある。まことに「日本式」ではないか。 ということで、本誌は「Japan Way」に2015年の新語・流行語大賞を進呈したい。[1] http://singo.jiyu.co.jp/[2] 昨年の大賞は「ダメよ~ダメダメ」だが、日本エレキテル連合をテレビで見かけなくなって久しい。今思い返しても、「今でしょ!」「お・も・て・な・し」「じぇじぇじぇ」「倍返し」の4作が同時受賞となった2013年は流行語大豊作の年であった。[3] エッセイストの酒井順子氏によれば、今年は「福山ロス」で傷ついた女性たちは、五郎丸選手の登場によって癒されたのだそうである(と、言われても筆者には確かめようがないのであるが…)。[4] あいにくだが、新作ではなくて1967年の白黒作品(岡本喜八監督)の方を見た。今の若い俳優さんたちが、あの時代を演じることは無理があると思う。終戦から22年目に作られたこの映画からは、時代の空気とともに痛切な反省の念が感じられました。[5] 11月19日、「GQメン・オブ・ザ・イヤー2015」の授賞式席上で、五郎丸選手が「違和感がある。ラグビー日本代表が4年間かかげてきた『Japan Way』が入ってほしかった」と語っている。

  • Thumbnail

    テーマ

    テレビは放送法を守れ!

    放送法第4条には、「政治的に公平」「事実を曲げない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。しかし、最近の報道番組は、コメンテーターの意見を押し付け、「公平・公正」とはほど遠い内容だ。関係者に、猛省を促したい。

  • Thumbnail

    記事

    商売人に過ぎない護憲派メディアは必ず消滅する

    渡辺龍太(フリーニュースディレクター) 今年の9月に成立した安全保障関連法に関する報道で、護憲派メディアは真骨頂を発揮し、やれ『戦争法案だ!』とか、はたまた『徴兵制になる!』と大騒ぎしていました。そういった、政治に関して無知な読者・視聴者を、過剰に感情的にあおる様な報道に対し、強い疑問を持った人も多くいた事でしょう。中には、日本中の護憲派メディアは連携し、安保関連法を潰そうという意思を持っていた様にすら感じた人もいるかもしれません。しかし、本当はそうではなく、マスコミは政治の事には関心がなく、商売繁盛を願っているだけなのです。 さて、新聞やテレビというと、権力を監視するための正義の味方というイメージを持っている人が多いかもしれません。確かに、私もニュース番組制作の仕事をする以前は、メディアの存在の第一目的は、『多くの人々が知るべき事の真実を伝える』という事だと思っていました。しかし、実際に現場で働き始めて、そうではない事に気付きました。結局は、メディアも商売なんです。だから、一番大事なのは、『売上拡大』なのです。シンプルに言えば、メディアというのは、1人でも多くの顧客(視聴者・読者)が関心を持つ記事や番組を作り、それで売上を1円でも多くあげるという事をひたすら熱心に行っているだけの集団なのです。では、なぜ安保関連法を『戦争法案だ!』と大騒ぎする事が、メディアの商売繁盛につながるのでしょうか。その理由は安保関連法が多くの人にとって理解するには複雑すぎる内容で、かつ、読者・視聴者を感情的にあおる演出を加えやすく、簡単に多くの人に関心を持ってもらえる記事や番組を作りやすいトピックだからです。 実は、人は自分の良く知らない事に対して、積極的に理解しようという意欲を持っていません。そして、そういう自分の理解できない事を、感情的にだけ理解させてくれるコンテンツに、非常に強い興味を持つ性質があります。例えば、肩こりの湿布のテレビCMで『インドメタシン配合』と言われて、どれだけの人がネットでインドメタシンについて調べるでしょうか。おそらく、ほとんどの人は良くわからないまま、きっと肩こりに効く成分なんだろうと受け入れると思います。そして、CMに登場する今まで肩こりで暗い顔をしていた人が、肩に湿布を貼って『インドメタシンだから効果抜群!』と急にニコニコと元気になってしまうのを見たらどうでしょう。きっと、薬品や化学に対する知識がない人ほど、『インドメタシンっていう、肩こりに効くすごい成分があるらしい!』とワクワクして熱狂的に湿布の購買意欲がそそられるはずです。感情だけに訴えるニュースの演出方法は安上がり 護憲派メディアの安保関連法の報道も、この湿布のCMと全く同じ仕組みです。安保関連法について、抑止力とは何かというところから細かく解説しても、興味を持ってくれる人はわずかです。しかし、安保関連法案というのをインドメタシンの様な謎の言葉のままにしておきながら、『戦争につながる危険なものなんだ!』と感情的に強烈に訴えるとどうでしょう。それには、政治や外交に関する知識のない人であればある程、非常に強く安保関連法に関するニュースに食いついてしまうのです。また、この細かい事を伝えずに、感情だけに訴えるというニュースの演出方法は、とにかく安上がりなんです。やはり、安保関連法案の様な複雑な事を、分かりやすく解説しようとしたら、色々な事を調べるために時間とエネルギーがかなり必要で人件費がかさみます。でも、『安保法案は戦争につながる!』と感情的に騒ぐだけなら、圧倒的に簡単に手間いらずなのは想像に難くないはずです。お金をかけて、キチっとした報道をすればするほど儲からないとあれば、手を抜いて感情的な演出して儲けようと考えるのは、商売の鉄則から考ると自然な流れと言えるでしょう。 だからといって、金儲け主義の報道は良くないとメディアを責めたり、何らかの規制を作ろうとしても、護憲派メディアに象徴されるイイカゲンな報道がなくなる事は無いでしょう。あくまで、護憲派メディアも、世の中に需要があるから安保関連法案に異常に反対する報道を行ったにすぎません。言い換えれば、現在の多くの日本人の政治や外交に関する知識が、感情的な護憲派メディアの報道にしか食いつかないようなレベルでしかないという事なのです。しかし、人間は詳しくなるという方向にしか進みません。なので、時が経てば日本人の政治や外交に関する知識は上がり、護憲派メディアも自然消滅するはずです。 それが分かる例として、左翼メディアの権化といっても良い朝日新聞の1959年の天声人語があります。そこには『池のコイや金魚に残飯ばかりやっていると、ブヨブヨの生き腐れみたいになる。パンクズを与えていれば元気だ。米の偏食が悪いことの見本である。』とありました。現在の我々が読むと、ビックリする位に低レベルでインチキで、米を主食とする日本人の危機感をあおるだけの内容が書かれています。一方で、現在の朝日新聞は、ここまでヒドイ文章は決して書きません。では、この記事が書かれた約55年前と現在の間に、いったい何があったのでしょうか。朝日新聞自体には、特に何も変化はなかったはずです。ですが、日本人の栄養に関する知識が上がり、こんないい加減な記事に誰も興味を持たない世の中となったのです。これと同じように、長い歳月が必要かもしれませんが、多くの日本人が政治や外交についてより理解すれば、単なる商売人にすぎない護憲派メディアは需要が無くなって消滅するはずです。わたなべ・りゅうた 1984年大阪生まれ。高校を卒業後に渡米。映像制作や台本構成などを学ぶ。その後、帰国しNHKや民放で、海外向けの英語放送から国内向け 放送 まで、様々なニュース番組の制作に関わる。現在はそれらに加え、ネットニュース、書籍、有名タレントのメルマガやブログの企画プロデュースなどを 行い、商業メディアのマーケティングや売り上げと日々格闘している。また、ブログが各種サイトに転載され、ブログランキングで上位に入っている。

  • Thumbnail

    記事

    「サンモニ」「NEWS23」 護憲派テレビの何が気持ち悪いのか

    潮匡人(評論家)朝日の虚報は今日も続く 先日『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)を上梓した。おかげさまで売れ行きは好調。発売早々、異例の大増刷となった。一般読者のあいだで護憲派メディアへの疑問や反発が高まっている証左でもあろう。拙著の主題は平和安全法制。いわゆる安保法案である。院内での乱闘騒ぎの末、9月19日に可決成立。同月末に公布された。今後、半年以内に施行される。 この法案をめぐり昨年来、護憲派マスコミが誤報や世論誘導を続けてきた。たとえば『朝日新聞』は朝刊1面のトップ記事でこう書いた。「自衛隊員は自らや近くの人を守るためにしか武器を使えなかったが、法改正で任務を妨害する勢力の排除や住民の安全確保にも使用が可能になった」(9月24日付) これでは「法改正」(平和安全法制整備)の意味が伝わらない。訂正しておこう。あえて記事を活かせばこうなる。 「自衛官は自己を守るためにしか武器を使えなかったが、法改正で近くの他人を守るためにも使用が可能になった(以下略)」 護憲派が信奉する新聞の1面トップにしてこの始末。9月22日付朝刊記事「安保法 自衛官OBの懸念」でも冒頭こう書いた。 「成立した安全保障関連法により、日本は集団的自衛権の行使が可能となるほか、海外に自衛隊を派遣して常時、他国軍を後方支援できるようになる。自衛官OBの中には、米国の戦争に巻き込まれる懸念や、リスクの増加を指摘する声がある」 法改正により「行使が可能となる」集団的自衛権は「存立危機事態」に限られる。きわめて限定的である。記事がそう明記しない理由は何か。同様に次の「常時」も針小棒大。最後に至っては論外。もし「自衛官OBの中に」そうした「懸念」や「声がある」としても、そうでない声も多数ある。実際にOBや現場の声を拾いながら「リスクの増加を指摘する」なら、記事の「集団的自衛権の行使」や「後方支援」ではなく、国連PKO(における安全確保業務)を例示すべきである。どう考えても、後者のほうがリスクは高い。事実ほぼ毎年、3桁の犠牲者を出している。 だが『朝日新聞』の「報道」は違う。法案の可決成立を受けた9月20日付朝刊1面のトップ記事でもこう書いた。「歴代政権が認めてこなかった集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって容認したことに加え、自衛隊が他国軍を後方支援する際、自衛隊の活動地域をこれまでより拡大させることで、自衛隊のリスクが一層高まるとの指摘もある」 本気でこう勘違いしているなら、ジャーナリズムとして恥ずかしい。そうでなく意図的なら、じつに罪深い。国連PKOへの自衛隊派遣は、いまや国民世論の大半が理解し、賛成している。他方、集団的自衛権行使への理解は少ない。だからPKOを避け、集団的自衛権を指弾した。そういう意図であろう。ならば、本心から「自衛隊のリスク」を心配しているわけではない。 近い将来、自衛官は避け難いリスクに直面すると思う。先般「自衛官OB」として出演した番組でもそう明言した。ただし、私がOBとして(加えていえば、いまも防衛大学校生の父親として)「懸念」するリスクは「憲法解釈の変更」とは関係ない。本来ならいうまでもないが、集団的自衛権より個別的自衛権行使のほうが桁違いにリスクは高い。 護憲派が何でもかんでも「集団的自衛権」のせいにしたり、「戦争法案」とレッテルを貼ったり、「徴兵制の不安」を煽ったりしたせいで、実際の問題点が見えなくなってしまった。現場が抱くリアルな懸念や、実務上のリスクが伝わらなかった。いまなお現場の思いは国民に届いていない。暴走するテレビの演出暴走するテレビの演出 大学入試問題の出題率NO.1を誇る『朝日新聞』の「報道」にして連日この始末。テレビ報道はさらに酷い。とくにTBSが目立った。最近の報道に限り検証しよう。 9月13日放送の「サンデーモーニング」は、姜尚中(東京大学名誉教授)が「近代の歴史にも暴君征伐論があった。君主が酷いことをやったら、ひっくり返していい」と総理を「暴君」に例え「征伐」を奨励した。何の釈明もなく同席していた青木理(ジャーナリスト)が「立憲主義を無視する政権をこのまま存続させるべきなのか。その判断を僕らの側がする」と追従した。 さらに岸井成格コメンテーターが「集団的自衛権という言葉が悪い。一緒になって自衛することだと思っている(国民がいる)が、違うんですね。他国(防衛)なんです。撤回か廃案にするべき」と暴論を振りまいた。念のため付言すれば「集団的自衛権」は国連憲章にも(英語等の公用語で)書かれた世界共通の言葉であり、岸井のコメントは外国語に翻訳不可能である。国際法や世界の常識に反している。「悪い」のは「集団的自衛権という言葉」ではなく、彼の知力であろう。善悪を判断する知性を欠いている。 9月16の「ニュース23」も、藤原帰一(東京大学教授)が「瑕疵がある」と政府与党を批判。ここでも岸井コメンテーターが「審議不十分」と批判した。さらに石川健治(東京大学教授)が「法学的にはクーデター」と断じ「専制主義、非立憲」と断罪。岸井が「日本の民主主義は暗い」と総括した。すべて彼らの主義主張にすぎない。「暗い」のは日本の民主主義ではなく、彼らのコメントであろう。 法案の可決成立を受けた9月19日放送の「報道特集」では金平茂紀キャスター(TBS執行役員)が「過半数の国民が反対するなか、戦後70年『専守防衛』を貫いてきた安全保障政策が大転換しました。立憲主義と国のあり方はどう変わっていくのか。徹底検証しました」と導入した。正しくは政府が説明するとおり、今後も「専守防衛」が続く。べつに「大転換」でも何でもないが、彼らには馬耳東風。 番組は「自衛隊員家族 募る不安」と題し専用ホットラインへの「相談件数は2日間で35件に上った」と紹介した。「現役自衛隊員の両親」が「本当に引き戻したい。ほとんどの親はそうですね」とも語ったが、実態を反映していない。「ほとんどの親」は「引き戻したい」とまでは思っていない。もしTBSが報じたとおりなら、相談件数が2日間で35件に留まるはずがない。現役だけで24万人、両親はその倍もいるのだから。 自衛官と家族が感じているのは、こうした「報道」への反発である。国民の理解や支持なく派遣されることへの不安であり、乱闘騒ぎを起こした政治への不信である。それなのに、番組では山崎拓(元自民党副総裁)が「禍根を残した」が「政権交代すれば修復可能。解釈が戻る」とコメントした。こんな人物が自民党政権下の防衛庁長官だったのだ。正直、皆ウンザリしている。現場には平和安全法制への不満もあるが、誰も「政権交代」は望んでいない。民主党政権を懐かしむ隊員など一人もいまい。 翌20日放送の「サンデーモーニング」も凄かった。まずテロップで「安保法成立 海外で武力行使可能に」。だが、その可能性はまずない。なぜなら「例外なく事前の国会承認」となるからだ。そう与野党で合意され、閣議決定された経緯を無視した断定である(『夕刊フジ』10月第2週連載拙稿参照)。 まず司会者(関口宏)が「平和主義を空洞化させる動き」と導入。寺島実郎(多摩大学学長)が「国民の支持も理解もない法案」、田中優子(法政大学総長)が「長いあいだ議論したというが議論していない」と断じた。いずれも独断ないし偏見である。有名大学の学長や総長が何といおうが、事実は違う。第1次安倍政権以来議論してきたのだ。昨年7月1日の閣議決定以降だけでも1年以上かけた。これでも、まだ足りないのか。「自衛官のリスク」という口実「自衛官のリスク」という口実 さらに半田滋(『東京新聞』論説兼編集委員)が「憲法の制約が取り払われて、ほぼオールマイティで何でもできる。それは抑止力になるかもしれませんが、普通の国としてそのようなことをやるのは、憲法の要請するところなのか。立憲主義国家としていかがなのかと感じざるをえない」と批判した。「ほぼオールマイティで何でもできる」というが、自衛権行使要件は世界一厳しい。「普通の国として」というが、新法制下も日本は「普通の国」になっていない。ザックリいって半分以下である(論拠は月刊『正論』12月号拙稿)。 続けて2004年の「派遣された陸上自衛隊の内部映像」が流れ、元小隊長が「もう一歩踏み込んだ審議をやってもらわないと、派遣された自衛官はほとんど負傷するか戦死するか、どちらかだと思う」と語った。なぜ審議をしたら「戦死」がなくなるのか。意味不明である。ここでも半田が「南スーダンの自衛隊が武器をもって日本人NGOを救出できることになる。安保法案では合法だが、刑法の殺人罪や傷害致死罪で裁かれる可能性がゼロではない」と語った。本気でそう心配するなら、刑法や憲法の改正を主張すべきであろう。自衛隊を軍隊とし、軍法会議を設置すべきと訴えてはどうか。安保法案を批判するのは本末転倒の倒錯である。 さらに細川護熙(元首相)、小林よしのり(漫画家)、小林節(慶應義塾大学名誉教授)、「ママの会」、「シールズ」、佐高信(評論家)ら護憲派が次々登場。最後に岸井がこう締めた。「これが後悔になっちゃいけないなと思うことは、メディアが法制の本質や危険性をちゃんと国民に伝えているのかなと。いまだに政府与党のいうとおり日本のためだと思い込んでいる人たちがまだまだいるんですよ。この法制ってそうじゃないんですよ。他国のためなんです。紛争を解決するためなんです。それだけ自衛隊のリスクが高まっていく(以下略)」 岸井にいわせると、これでもまだ批判報道が足りないらしい。右は法案が「存立危機事態」の要件を明記した経緯を無視した独善である。外国語に翻訳不能な暴論である。もし彼が本気で「自衛隊のリスク」を心配するなら、前述のとおり別のコメントになるはずだ。たとえば国連PKO活動拡大の「本質や危険性をちゃんと国民に伝えて」ほしい。それが直接的には日本自身のためでなく「他国のため」「紛争を解決するため」であり「それだけ自衛隊のリスクが高まっていく」と視聴者に訴えてはどうか。だが護憲派は決してそうはしない。国民がPKOの自衛隊派遣を評価しているからである。受けない論点を避け、「集団的自衛権」や「後方支援」だけを咎める。自らは安全な場所にいながら、「危険(リスク)を顧みず」と誓約した「自衛官のリスク」を安倍批判で用いる。じつに卑怯な論法ではないか。 10月11日の「サンデーモーニング」も司会者が「しっかり議論されないまま法案が通っちゃったという感じですよね」と導入。田中秀征(福山大学客員教授)が「軍事力で貢献しなくてもノーベル賞でこれだけ貢献しているじゃないですか」「あれ(法制)は、はっきり撤回しないといけない。このまま実施なんか、できないですよ」。目加田説子(中央大教授)が「(オバマ大統領が「誤爆」と謝罪したのに)誤爆ではなく無差別攻撃。戦争犯罪に近い」と決めつけ米軍を誹謗し「秀征さんがおっしゃったように、そこに今後、日本が加担していく」「この法案は通ってしまったわけですけど、使ってはいけない。変えていかなければいけないと強く思います」。 日米の制服組(軍人)を犯罪者のごとく評する感覚は正常ではない。法案が与野党による賛成多数で可決された経緯も黙殺する。いったい何様のつもりなのか。 萱野稔人(津田塾大学教授)に続き、金子勝(慶應義塾大学教授)が「いまのご意見と同じ」「平和憲法を使って、したたかに外交を展開しないと日本の国益は守れない」と政権を批判。岸井が「平和国家のイメージが損なわれるだけじゃなくて日本自身が紛争当事国になる」「テロのターゲットになるリスクも抱え込む」と不安を煽って番組は終了した。「TBSは公平・公正」なのか「TBSは公平・公正」なのか 百歩譲って、そのリスクがあるとしよう。ならば聞く。リスクは欧米諸国に負担させ、自らは決して背負わない。そんな卑怯な「平和憲法」とやらに価値があるのか。「したたかな外交」とやらで守れる「国益」など、高が知れている。要するにカネで買えるものであろう。そこに死活的な意味はない。護憲派の説く「平和主義」は美しくない。不潔である。腐臭が漂う。 10月17日放送の「報道特集」は米軍普天間飛行場の辺野古移設を批判的に取り上げ、成蹊大学の教授に「安保法案に続いて、また非常に強引に政府が民意を無視するような形で政策を進めることになる。アメリカを含めた民主主義の先進国から見て『日本は本当に民主国家なのか』という疑問を投げつけられる」(武田真一郎)と真顔でコメントさせた。バカらしいので反論は略す。 後半の特集では、佐世保を「旧海軍の街の特異性」が残り「奇異に映る」街として沖縄と対照させた。翌18日放送の「時事放談」でも浜矩子(同志社大学教授)が安倍政権の「法廷闘争」を「ゴリ押しでいこうという発想自体そもそも政策運営をする資格はない」と毒づいた。同日の「サンデーモーニング」でも前夜の「報道特集」と同じ米総領事への「単独インタビュー」を使いながら日米両政府を批判。姜尚中が「沖縄は呻き声を上げている」。田中優子が「人権問題」。涌井雅之が「興味深く総領事の発言を聞いた」と皮肉を語り、岸井が「民意を無視して強行するのは、ありえない無理筋」と批判した。ならば、普天間問題をどう解決するのか。 以上すべてTBSの看板番組である(他は前掲拙著に譲る)。9月30日、武田信二社長が「『一方に偏っていた』という指摘があることも知っているが、公平・公正に報道していると思っている」と会見した。社長は自局の番組を見ているのだろうか。以上を「公平・公正」とするのは「民意」を無視した「ゴリ押し」であろう。放送事業に当たる資格がない。平和憲法を守れと訴える前に、テレビは「政治的に公平」「事実を曲げない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めた放送法を順守してほしい。 この秋、北朝鮮は弾道ミサイルを発射するであろう。核開発も止まらない。10月3日には、中国が新型弾道ミサイルを軍事パレードで披露。いわゆる「A2/AD(接近阻止・領域拒否)」能力と「対米核抑止力」を誇示した。だが、護憲派の視界は海外まで及ばない。北朝鮮でも中国でもなく、安倍政権を非難する。総理を「バカ」呼ばわりし、「早く病院に行って辞めたほうがいい」とわめく。学生を教え諭すべき教授(山口二郎・法政大)が「おまえ(首相)は人間じゃない、たたき斬ってやる」と叫ぶ。学生が「安倍を暗殺するしかない」とネット投稿する。「良識の府」が聞いて呆れる「良識の府」が聞いて呆れる 護憲派は学生らを持ち上げたが、いずれも侮辱罪(拘留又は科料)や脅迫罪(3年以下の懲役)に当たる違法な暴言である。 発言内容以前に法律上「何人も、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域において、当該地域の静穏を害するような方法で拡声機を使用してはならない」(法第5条)。民間人に例外として許されるのは選挙運動や災害時の使用だけ(同前)。警察官は「当該違反を是正するために必要な措置をとるべきことを命ずることができる」(第6条)。「警察官の命令に違反した者は、6月以下の懲役又は20万円以下の罰金」が科せられる(第7条)。決して軽い罪ではない。 憲法を守れと叫ぶ前に、法律を遵守してほしい。私も被害者だ。ネット上の「ゴー宣道場」(小林よしのり代表師範)が「潮匡人って男は、見かけはサルだが中身はサル以下!!」と書いた。名誉毀損罪(3年以下の懲役)ないし侮辱罪が成立する。安倍政権や「保守」への批判なら、誰が何をしても許されるのか。 野党議員も例外でない。「平和主義」を語る前に、平和的に審議してほしい。ドサクサに紛れて自民党の大沼みずほ議員を引きずり倒し、投げ飛ばすなど論外。傷害罪(15年以下の懲役)ないし暴行罪(2年以下の懲役)が成立する。その罪は重い。動画で確認できた範囲で、自民党の吉川ゆうみ参議院議員以外、誰も助けようとも、制止しようともしなかった。本人の謝罪もなく両党幹部が“手打ち”。「良識の府」が聞いて呆れる。 民主主義を殺したのは安倍政権ではない。暴力や卑劣な実力(セクハラ作戦)を行使した野党である。安倍批判を合唱したマスコミである。 護憲派メディアの罪は重い。法案や与野党合意を報じるべき時間を割き、学生団体シールズらの絶叫を繰り返し放送した。女子高生の絶叫も垂れ流した。そもそも選挙権すらもたない高校生や10代の大学生らの無内容な連呼に報道価値があったのか。シールズの発起人はマスコミの寵児となったが、彼らに被選挙権はない。国会議員となる法的資格を欠く若造を国会に参考人として呼ぶ政党がある。テレビ番組に出演させる放送局がある。なんとも不思議な感覚ではないか。 もし、護憲派に知性や良識があれば、こうはならなかった。拙著も企画されなかった。もっと理性的な議論が交わされ、法案は継続審議や大幅修正を迫られたはずだ。悲しいかな、彼らはまだ気付いていない。自分たちの間違いに。愚かで幼稚な過ちを犯したことに。なんとも救い難い。 はたして、護憲派の辞書に「悔悟」や「懺悔」の文字はあるのだろうか。(文中敬称略)うしお・まさと 1960年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。第304飛行隊、大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、航空総隊司令部、長官官房勤務等を経て3等空佐で退官。聖学院大学政治経済学部専任講師、防衛庁広報誌編集長、帝京大学人間文化学科准教授等を歴任。拓殖大学(日本文化研究所)客員教授。公益財団法人「国家基本問題研究所」客員研究員。NPO法人「岡崎研究所」特別研究員。「民間憲法臨調」代表委員。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)、『ウソが栄えりゃ、国が亡びる』(ベストセラーズ)など著書多数。最新刊は『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)。関連記事■ 「反米論」は百害あって一利なし■ 急がれる「安保関連法案」の成立~憲法学者の変節と無責任を問う■ 元統合幕僚長・折木良一が語る いま行われるべき安全保障論議とは■ 中国は本気で「核戦争」を考えている■ 激しく変化する東アジアの安全保障情勢を読み解くには

  • Thumbnail

    記事

    「1億総活躍社会」支持率38%は低い? ミスリードするメディアの罠

    藤本貴之(東洋大学総合情報学部准教授、メディア学者) 筆者が大学で担当する「メディアはデータをどのように伝えるのか?」をテーマにした授業がある。そこで「データは見せ方/見え方」でその印象が大きく異なる、といった「当然」の話をすると、意外にも驚く大学生が多い。  ネットメディアの台頭により、接触する情報源やメディアが多様化する中で、テレビや新聞などのいわゆる「既存メディア」「主要メディア」の影響力が低下している。 その一方で、メディアへの不信感や疑義を持つ層が増えているとはいえ、まだまだメディアを介して伝えられるデータに一定の客観性や信頼性を感じている層が少なくないことを実感する。  特に現在の大学生世代の若者層は、既存メディアへの不信感を強く持っているアラフォー以降世代(高校・大学時代に急激にネットメディアが拡大して世代)とは対照的に、意外にも情報を鵜呑みにしやすいのではないか、感じる瞬間は少なくない。もちろん、若さや経験不足なども加味した上でも、だ。  その背景にあるのは、現在の大学生世代がアラフォー以降世代よりも、コンピュータやインターネットとの「距離が遠い」という部分にあるように感じている。意外に思うかもしれないが、現在の10代、20代のコンピュータのリテラシー能力は予想以上に低い。  大学に入学してきた新入生たちと面談などをしていると、「自分の専用のパソコンを保有していない」と答える学生は意外と多い。むしろ「学校の授業ではやっている」、「家族で共有のパソコンが一台あって、親が使っていない時に利用できる」など、生活の中で接触する機会は必ず設けられているが、個人的にコントロールできているかと問われればそうではない、という印象だ。  もちろん、スマートフォンを中心としたネットに接続されたIT機器が生活の中に自然の浸透していったことで、「ネット利用を意識させることなく、ネット利用ができる生活環境」が構築されている、という現実はある。 かつてはパソコンでしかできなかったほとんどのことが、小なスマホ一つで全て事足りてしまう。しかも、現在の大学生世代は「初めても保有する携帯電話がスマホ」となる世代だ。パソコン保有を飛ばして、いきなり「モバイルコンピュータ(スマホ)の保有」になっているのだ。これでコンピュータのリテラシー能力が高まるはずはない。若者層の情報を検索し、検証する能力は社会の情報環境の変化とは裏腹に、驚くべきほど低い。 そういう現状に日々、直面しつつ感じることは、ジャーナリズムのあるべき姿の重要性だ。局部的であったり、偏った情報・データの提供や、ミスリードを誘導するような恣意的な表現などを見ると、現在の若者たちの生態を利用して「何かブーム」「社会の動き」を創作しているのではないか? と感じることもある。 未成熟な若者とその現在的な生態を利用した情報戦略には、いささか「情けなさ」を感じる。「メディアの矜持(きょうじ)」はいづこへ、だろうか。ミスリードの実例 もちろん、露骨な偏向報道やわかりやすいミスリードなら、むしろ話としては簡単だ。しかし、日本語という言語は、接続詞の使い方一つで、その印象を大きく変えてしまうことが問題をわかりづらくしている。  例えば、昨年財務省が求めて不採用になった公立小学校1年生での「35人学級」の見直し問題を事例にして大学生に考えてもらったことがある。 「財務省は、1学級40人体制に戻すことで教職員数が約4000人減り、人件費の国負担分を年間約86億円も削減できると試算」という報道と、 「財務省は、1学級40人体制に戻しても教職員数は約4000人しか減らず、人件費も年間約86億円しか削減ができないと試算」とではどう感じるか? 文字数は全く同じだ。もちろん使っている言葉もほぼ同一だ。違うのはわずかな言い回しだけだろう。 さらに付け加えれば、 「日本の小学校教諭の数は約42万人、2014年度の文部科学省文教予算は4兆964億円」 というひとつの客観情報を提供するだけで、その印象は更に変化する。前提となる情報の有無によってもその印象は更に異なる。 もう一つの例で考えてみる。 時事通信が11月実施した世論調査によれば(全国成年男女2000人・個別面接方式)、安倍内閣が重要政策とする「1億総活躍社会」の支持率は、「支持する・38.0%」、「支持しない・37.5%」であるという。 これを「賛否がほぼ拮抗」と伝えた。 さて、ここで不思議な感覚を覚える人は多いかもしれない。 「1億総活躍社会」というキーワードが発表された当初、メディアでは「理解できない」「曖昧」「意味不明」「全体主義的」「戦時中の玉砕をイメージ」などの批判が続出した。 ことさらに「具体的な策を持たない安倍政権が適当なキーワードでごまかしている。意味不明な総理大臣だ」という印象が持つた人は少なくないはずだ。実際、そのように報道されることも多いのだから、当然といえば当然だ。 しかし、結果として「拮抗」とはいえ、支持(38.0%)が不支持(37.5%)を超えている。これがデータから読み取れる客観的な事実だ。あの騒ぎは一体何だったのか。 表現という点からも見ても、「支持(38.0%)、不支持(37.5%)」を「拮抗」と表現するか、それとも「およそ4割の国民が支持」と表現するか、あるいは「支持率、4割に満たず」と表現するかによって印象を大きく変えることができる。 一般的には、政策の一つの支持率「およそ4割」という数値は決して批判されるほど低さではないように思う。もちろん、残り6割が全て不支持であればまた判断も異なるがそうではない。逆に言えば「4割近くが不支持」という表現もできる。 しかしながら、あそこまで大きな話題(?)となり、当初はかなりネガティブに揶揄されていたはずの「1億総活躍社会」の支持が4割という事実を考えると、発表当初のメディアの批判的な論調とその盛り上がりには違和感を持ってしまう。 逆に、かなり多くの反対があったはずの安保法制。こちらは安倍政権への不信任として国民的な政権批判・不信をも生み出し、安倍内閣否定が始まった・・・かに見えたが、まったくそんなことにはならなかった。 一時は不支持が支持を上回ったものの、現在の状態を見れば、安倍政権の支持・不支持の逆転も解消し、支持率も回復基調だと見られている。 安保法制を「戦争法案」と命名して騒いでいたあの盛り上がりを考えれば、安倍内閣は、「消費税並み」として史上最低の支持率だった2001年の森喜朗内閣ぐらいになってもおかしくなかったはずが、そうはなっていない。 これが意味していることは極めて単純だ。メディアによって報道されている「内容」が、現在進行形の「事実」や「世論」を、必ずしも正確に表現しているわけではない、ということだ。 メディアはその機能特性上、「ひとつの事実」あるいは「ひとつのトピック」を抽出し、拡大してゆくことで、マスとしての表現力と影響力を高める。そのため、話題になる(視聴率が取れそう、部数が伸びそう)「ひとつの事実」だけに大きな注目を集め、そこから全体が論じざるを得ない。しかし、視聴者や読者としては、大きく扱われる「ひとつの事実」が全てに写ってしまう。 ただ、ここでの問題は、抽出され、拡大された「ひとつの事実」が必ずしも「全体の事実」ではない、ということだ。 「キャベツが異常に値上がりした」ことで、キャベツ産業界隈で大きな問題が発生してからといって、それがすなわち日本全体の「生鮮市場が崩壊」になったり、「生活費の圧迫」や「食生活の危機」になるわけではないからだ。 これは「偏向報道」か否か、「悪意ある誘導」か否か、という問題ではなく、メディアが持つやむを得ぬ特性である。全ての情報を量質ともにフラットに並べることなどはできないからだ。 しかし、何を選択し、どれを拡大し、どう表現するか、はそのメディアの社風なり、経営戦略などから決定される。そこから、今自分たちが大きく表現すべき「ひとつの事実」を選択するのである。 発信されるメディアによって、それぞれその表現は微妙に(あるいは大きく)異なるが、多くの大学生(に限らず一般消費者)が、複数のメディア、複数の情報源からニュースを入手し、「確からしさ」の検証や「裏取り」をしているような人はほとんどいないだろう。 そうなると、自分が日常的に接しているメディアかの情報が圧倒的多数を占めるだろうし、その情報を(多少の疑いを持つにせよ)信じてしまう場合が圧倒的多数だ。 本来、メディアに期待される役割は「誘導」ではなく、「開示」だ。一般庶民では探知や収集の難しい様々な情報を、生活者に変わって収集し、分かりやすく提示(時に解説)をしてくれる機能・メカニズムがメディアであるはずだ。多くの視聴者がそのように理解するからこそ、「テレビ(or新聞)で紹介(or報道)されているのだから、間違いではないだろう」という認識にもなってきた。 近年、メディアやジャーナリズムのあり方が問われることが多い。最近では、「護憲派メディア」などという言葉も生まれ、その偏りを指摘されたり揶揄されることは多い。 しかし、その要因にあるのは、メディアの思想性というよりは、矜持(プライド)を失っていた戦略を選択しつつあるメディアへの不信感であるように思う。

  • Thumbnail

    記事

    本当のタブーは政党批判より支持 前田武彦や高橋ジョージら

     テレビでの失言が世間で問題になるのはよくあること。そのなかには、世間的常識ではなく、あくまでテレビ独特のルールに反したということで、失言扱いされたものも少なくない。たとえば、政党批判はテレビの「タブー」だと言われている。政党批判がタブー扱いされるのは、放送法で「不偏不党」が定められており、政党からそれをもとに攻撃される危険性があるからだ。前田武彦氏 2000年6月の衆議院選挙特番『選挙ステーション2000』(テレビ朝日系)で司会の久米宏が、森喜朗首相(当時)の「無党派層は寝ていて欲しい」を受けて「投票に行かないと自民党が勝っちゃいますよ」と発言したことが、放送法違反ではないかと問題視された。この発言は次回2003年11月の衆院選で自民党幹部が同番組への出演拒否する事態にまでつながった。 とはいえ、このことで久米がテレビから消されたかといえば、そんなことはない。実は、テレビの世界で本当に問題視されるのは、このように政党を批判するよりも、むしろ褒めることなのだ。放送法の「不偏不党」は、特定の政党支持を表明した時のほうが問題視されやすいというのが、テレビ村の「掟」である。 タレント・司会者の「マエタケ」こと前田武彦は、1973年6月の参院選の補選で応援演説した共産党の候補者が当選した暁には、自身が司会する『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で「バンザイ」すると公約し、当選後に決行。それが特定の政党を支持しているとしてフジサンケイグループ内で問題となり、前田は同年9月に番組を「勇退」する事態に追い込まれ、その後他局も含めて出演番組の大半を降板することになった。 同様に、タレント・歌手の高橋ジョージは2010年3月、ニュースバラエティ番組『サンデージャポン』(TBS系)の生放送中に、「俺は公明党支持」と発言。翌週で「卒業」することになった。 本当のタブーは、政党批判よりも政党支持なのである。関連記事■ 「NHK次期会長本命は東芝相談役だった」とジャーナリスト■ 国政政党14になりNHKが悲鳴 「夜は政見放送ばかりになる」■ 視聴率最高記録は『第14回NHK紅白歌合戦』の81.4%■ 「紅白ストリップ合戦」など画期的企画送り出した『11PM』■ 24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超

  • Thumbnail

    記事

    リベラル論客 TVで干されたのではなくこれまでの偏重が異常

    数」だった一般国民が、インターネット、とりわけSNSの普及によって自らの意見を表明する手段を獲得し、メディアを批判するようになった。メディアが一番恐れているのはそうした一般国民の声であり、それと対峙する勇気はない。だから、メディアに「お願い」する政権を批判しているにすぎない。関連記事■ 自民政権が50年間達成できず民主政権が2年で達成できたこと■ オウム事件 1週間に40~50時間も各局から報道されていた■ 『報道ステーション』来春打ち切り説広がる 古舘降板発言も■ 皇太子ご成婚で白黒TV1000万台売り受信契約者200万人突破■ 三菱銀行人質事件 犯人射殺までの42時間視聴率42.3%

  • Thumbnail

    記事

    ツイッターで自滅する人間をどうすればよいのか

    を呟き、釈明・陳謝する事態になっている。ツイッター空間の中では「良くある」誹謗中傷を社会的地位のあるメディアの人間が行っていることが判明し批判が相次いだ。上越支社の報道部長は、「酔っていた」と陳謝したが、過去のつぶやきを総覧すると、その釈明も怪しくなる。つい先日には、自らの職権を利用して「ヘイト的」と見なされているアマチュアイラストレーターの投稿図版にFB上で「いいね」を押した人々の個人情報を不法に開示したとして、ある関係者に批判が集中し、物議をかもした。 なぜ彼らが、ツイッター空間でのみ「暴走」するのかの解明は、容易ではない。「匿名の空間だと、人は本性をむき出しにする」というのが有り体な説明だが、匿名であることと誹謗中傷の展開には、応分の相関関係はあるとは思うが、それが全てを説明していることにはならない。なぜなら、ネット上で実名を用い、他者を誹謗中傷した結果、訴えられたり逮捕されたりするユーザーの事例もまた、近年あとを絶たないからである。 結局のところ、ツイッター上で展開される誹謗中傷や罵詈雑言の解消のために、その理由を解明しようとする試みは不毛のように思える。この世界には一定程度、他者に対してどす黒い敵意を持っている人間が存在し、彼ら(或いは彼女ら)がたまたまツイッターという発信機を手にしていた、というのが、その理由の真実であろう。そういう連中には、ポジティブな意味での解決策というものは存在しない。なぜなら繰り返すように、この世界には他者に対して決して寛容になれず、他者を呪詛することに一定のカタルシスを見い出す「変人」が、ある程度の数、存在しており、それは多分時代が変わっても普遍的なものだろうからだ。結論としては、自滅を待つしか無い。ツイッターをどう使えばよいのか さてツイッターでの罵詈雑言や誹謗中傷を抑制することに画期的な解決方法はないにしても、なるべくそういった「騒動」から遠く、巻き込まれないように「自衛」する方策はある。もっとも簡単な方法は、ツイッターを辞める(アカウント削除)ことだ。この至極簡単な方法に多くの人々が気づいて、ツイッターアカウントを削除する人も、私の周辺にもいる。単純明快な自衛策だ。 かくいう私も、近年この方針に近づきつつある。とはいっても、ツイッターが退潮傾向にあると感じられるにせよ、いまだ国内で数千万のユーザーを保有している以上、宣伝や拡散のツールとしては重宝する人々も少なくはないのが実態だ。溜まりに溜まったポイントカードを簡単に棄てることの出来る人は、そんなに多くない。 そこで、ツイッターを快適に使う自衛策として、発信者がつぶやく際に、特に意識し、遵守すべき点を、私なりに提示したい。1) 猫と犬の話題(特に猫)2) 観たアニメ・映画・ドラマ、読んだ本や漫画の感想(ただし全否定はいけない)3) 今晩の夕食とランチの話題(ただし豪華であってはいけない)4) 商品やコンテンツの宣伝(ただしこれは宣伝である、と明示した上で行う) ツイートの内容として、この四項目を遵守する限りにおいて、自衛策は完全に機能する。他者に対しどす黒い敵意を持ったユーザーも、850円のハンバーグ・ランチと猫の写真に対してはイチャモンを付けることは出来ないし、発信者も「火達磨」になることもない。 ツイッターユーザーのすべてがこの四項目を守れば、罵詈雑言も誹謗中傷も存在しなくなるだろう。ただしそれが魅力的な空間であるか否かは別問題だが。

  • Thumbnail

    記事

    エフセキュア問題は我が国の課題の縮図だ

    体に懐疑的になっています。2 左派(共産党や社民党などの主張に共産する人達)のレッテル貼りはメジャーメディアで報道されるが、右派がレッテル貼りは無視される はすみとしこ氏に限らず在日コリアンに批判的な人達に「レイシスト」のレッテルを貼ったのは左派も市民団体でした。私は特定の人達に対するステレオタイプの非難=レイシズムには一切与しません。しかし、今レイシストの烙印を押される人達が活動する前から今に至るまで、韓国本国はもちろん在日コリアンによる日本人全体への民族差別発言が繰り返されています。また、左派により自衛官や警察官に対する職業差別発言も堂々と行われています。こういった発言こそレイシズムだと思いますが、それを「レイシズム」として報道するマスメディアはほとんどありません。 また、安保関連法案制定時には安倍総理を「叩き切る」と表現した著名人や「安倍しね」というプラカードを掲げた人達に右派が「テロリスト」というレッテルを貼りましたが、それもまったく報道されていません。3 左派が違法不当な手法で敵を攻撃するときは黙認され、右派が同様の手法を取る時には厳しく糾弾される 右派が今回のK氏と同様の手法。例えば「安倍しね」プラカードにフェイスブックで「いいね」を押した人の「氏名」「学歴」「勤務先」などの個人情報をリスト化し、勤務先への通報を推奨したら、新聞やテレビは大騒ぎをするでしょう。しかし、K氏の行動は今のところMXTVを除き、まったく報道されていません。報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている4 報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている 多くの報道機関は民間企業ですから企業活動の自由として、何を報道するかについては自主決定できます。しかし、メジャーメディアの談合体質が酷すぎるために、全社が報道しないという暗黙の空気に包まれると、まるでその事件がなかったかのようになります。今回のエフセキュア問題がまさにそれです。 これは先進国のメディアの在り方として明らかに異常です。5 公共団体のソフト部門に「赤い利権」が食い込んでいる 利権と聞くと大多数の人は、保守政治家と役人及びゼネコンといった構図を思い浮かべるでしょう。そういう一面はありますが、ソフト部門、例えば「人権」「男女平等」といった部門では、明らかに思想的に左派の人達が、独占的に官公庁から受注しています。 エフセキュアはIT企業ですから本来、思想信条とは無縁のはずですが、今回の行動から見る限り、特定の思想に支配されている危険性を払拭できません。6 機密情報に対する国家意識が希薄 国家としてはともかく、国民感情として「韓国人」は日本を仮想敵国とみなしています。その韓国人や韓国系企業に我が国の機密情報や日本人の個人情報を見せ、触らせることは非常に危険です。ところが、韓国系企業との癒着が懸念されるエフセキュアが、防衛省関連やマイナンバー関連の仕事をしていることが判明しました。 また、マイナンバーが公布されれば多くの自治体で働いている在日コリアンも個人のマイナンバーに触れることが可能になります。 以上、これ以外にも様々な課題を提示してくれたエフセキュア問題。今後も注視していきたいと思います。 最後に、これに危機感を覚えた方は、是非、ご自身が住む自治体がITセキュリティをエフセキュア社に委託していないかチェックしてください。公文書の公開を求めれば、どんな人にもチェックが可能です。そして、万一エフセキュア社が受託していれば、それを議会で質問するよう保守系議員に働きかけてください。 私たち個人ができることは沢山あるのです。(『森口朗公式ブログ』より2015年11月10日分を転載)

  • Thumbnail

    テーマ

    新潟日報記者の中傷ツイート全内幕

    新潟日報上越支社の報道部長が、匿名ツイートで弁護士を誹謗中傷する書き込みを繰り返していたことが発覚した。報道人にあるまじき卑劣な行為は決して許されるものではないが、一方でその思想信条や背後関係にも関心が集まっている。ネットの匿名性を悪用したこの手の「事件」はなぜ繰り返されるのか。

  • Thumbnail

    記事

    身内びいきの新潟日報よ、中傷ツイート記者の処分が甘すぎる

    お読みください。ただ、それを述べるにあたって、私には言わねばならぬことがある。新潟日報の新本社ビル「メディアシップ」=新潟市 その大きな理由は、私が政治家であるという点に集約される。かつてのように保守活動家として言論活動を行うのであれば、私はしばき隊を軸として責めただろう。実際、横串をさして論じたほうが楽だ。話もわかりやすい。エフセキュアの件にせよ、web上でも激しいものだと分類されるだろうし、実効性の面においても高い効果を発揮したと思う。とは言え、実は、現在まで私が論じた話は、しばき隊ゆえ、という攻め方はしていない。 問うべきは、社としての責任であり、その中身は「社会的・道義的な責任」である。横串となる言葉は、コンプライアンス、CSR、ガバナンスである。この点は、政治家として徹底的に追及し続けたい。それは「しばき隊」として責めることとは、大きく異なる立場だ。敗走中の彼らを、私は政治家としては責めない。社としてのみを、その責任を問い続ける。保守活動家の目線 政治家として問うべきは「社としての責任」であり、社会的・道義的な責任であることは事実だ。しかし、保守活動家として述べさせて頂くなら、しばき隊として「撃たない理由」は異なる。本心を一言で表せば「なんてことをしてくれる!」という怒りだ、しばき隊側への怒りだ。ひどい言い方になるが、勝手に沈んでる場合じゃないぞ、と。私は、彼らとの公開討論を約束していた。恥ずかしながら、健康上の理由で当時からかなり体調が悪く、結果的には入院・手術となり、これは叶わなかった。 ネット上の左派系、対峙する陣営の指揮官クラスであると私は認めてきた。さあ、今から撃ちあおう、そういうタイミングである。双方が宣戦を布告し、戦端が開かれようとしていた。イメージなるが、海戦を行うべく、駆逐艦「小坪しんや」は、決闘の海域に進出していた。敵艦隊の名は、しばき隊。だが、待てど暮せど、敵艦が来ない。途中で機雷に接触し、勝手に沈んだという。私からすれば「おい待て!!」と文句も言いたくなる。 私は、今回、しばき隊を責めない。しばきたくないからだ。リスクを背負いつつ、現場を張ってきた自負がある。経験則になるが、気分の乗らぬ案件は手を出すべきではない。これは獣のカンに近いものだし、私の美学でもある。憲法は変えるべきだと思うが、憲法を破ろうとも思っていない。よって、憲法九条をも私は順守したい。赤旗の問題を取り上げた際も、徳永克子(共産党・行橋市議)から一年以上に渡り、延々と責められたという原因がある。九条をも遵守する以上、私は撃たれてから「ちょっと考えて」撃ち返す。私は、個人としてはしばき隊に撃たれていない。撃たれていない以上、私は撃つことは許されない。 ここで相手が落ち目の時に、時流に乗って叩くことは、私の美学に反する。しかも私が撃たれていないのに、だ。大破炎上中、機関も出力が上がらない敵艦がいたとしよう、私は、やはり撃てない。ドックに入渠して頂き、しっかりと修して頂きたい。完全な状態に戻って頂き、本調子を取り戻した上で、全力の彼らと撃ちあいたいのだ。その際、当然、撃沈されるのは私なのかも知れない。それでもいい。退却中の敵艦を後ろから撃つのは、私は嫌だ。 明らかに敵陣なのだが、エールを送りたい。赤壁の戦いでも曹操は敗走したが、なんとか落ち延びた。私は、是非、落ち延びて頂きたいと思う。そして、しっかりと名を明かした上で、平場で撃ちあおう。正々堂々と、だ。私は今までそうしてきた。議員になる以前より名を明かし、住所を明示し、ロビー活動に従事してきた。今度は、こちらと同じルール、土俵でやりあいたい。 とは言え、落ち延びることも楽ではないだろう。私は撃たぬと言ったし、実害を受けていない者は撃つべきではないと主張もするが、彼らは敵も多すぎる。例えば公開されたリストに記載されていた方々。彼らは正当に撃つべき権利を有する。私はこれを止める気はない。また、リスト記載者を「守る」という部分においては、本件に介入してきた。今回も同様に、政治家として「社としての責任を問う」立場だ。事実、そうしている。 保守の追っ手を彼らは果たして振り切れるのか。赤壁の曹操と同じぐらいに、状況は厳しいだろう。だが、是非、逃げて頂きたい。関羽気取りかと(双方の陣営から)怒られそうだ。乗っているのは赤兎馬ではなく車高の低いスカイラインだが。落ち延び、体制を整え、復活して頂きたい。名を明かした、対峙する陣営のロビイストとして、誇りある指揮官として。その際には、こちらも全力で行かせていただく。私が、自らの手で沈めたいと思っていたのだ、勝手に沈むんじゃない。なんとか生き残れ、そして同じ土俵で撃ちあおう。決闘の舞台で、私は待っている。 修羅の国と福岡は揶揄される。この名が適切かは評価する立場にないが、また自ら名乗ることもどうかとは思うが、仕方ない部分もあるのかな、とは思う。私は、修羅の国から来た普通の修羅だ。新聞でも大きく報じられたため、自らの自治体の恥をさらすが、一年ほど前に行われた行橋市長選においては、対立陣営の御兄弟より実弾320発、武器庫認定を受けて大問題になった。また先の九月議会、ほんの数か月前だが、工藤会にお金を渡すためという理由で、ゼネコンより数千万の工事をゆすった事件があり、しかも市発注の事業であったため委員会での審査となった。私は、所管委員会(総務委員会)の所属であるため、当該業者の指名停止を委員として求めた。 かつては走り屋であり、ネットで言うところの「いわゆるDQN」であったことを私は公開している。九州ということで、半島系の方も多い。日常的にもめてきており、そして議員になった今も決して安全な職場ではない。こんなことを言うと、保守からもしばき隊からも怒られそうだが、しばき隊よりも遥かに激しい連中が常に目の前におり、それが私の世界観なのだ。よくないことだとは思うが、なぜか彼らの写真を見て、どことなくシンパシーすら感じてしまった。普通においしく酒でも飲めそうだ、と。私は、もっと面倒な難処理案件だらけだ。  そんなわけで、彼らが「ある程度、激しい」からと言って、だからどうしたんだと常々思っていた。私は、行橋市議としても死ぬ危険性はあると思っている、サヨクの過激派の手以外で、だ。この町で、市民の側に徹底的に立つことは、容易な覚悟ではできない。福岡では発砲事件もよくニュースになる、あれももう慣れた。少なくともしばき隊は、銃火器は使わない。だったら「話せばわかる」層だろうと、そんな風に思っていた。対峙する陣営ではあるものの、その指揮官クラスとして遇し、直接やりあいたいと、そう思っていたのだ、修羅の国から来た普通の修羅としては。これがヘイトでなくて何がヘイトか 最後になる。社としての責任だ。これは「社会的・道義的な責任」である。この点は強く追及させて頂く。一気に論調が変わるが、この点は追及する必要がある。新潟日報社の件だが、上越支社の報道部長だ。これは許されて良いものではない。 安倍首相が学校を訪問している際の写真だろうか、それをTweetする際、「美少女に迫る異常者」である。これは首相の対するヘイトだ。また稲田議員に対しては「英霊の慰安婦こと、稲田朋美!」(原文ママ)と呼び、片山議員には「片山は自分からすすんでネトウヨの慰安婦になった!」(原文ママ)と侮辱。また「高市早苗 所属政党 ナチス」(原文ママ)とtweet。高市早苗「総務大臣」の所属政党は、自由民主党です。 もちろん、これが一般人の発言であっても許されるべきではない。左派はヘイトヘイトと口癖のように言うが、これがヘイトでなくて何がヘイトなのだろうか。彼らはよく自己批判とか総括とか言うが、是非、自己批判して総括して頂きたい。 問題なのは、新潟日報社の上越支社報道部長という役にあったことであろう。これは社としての報道方針を決め得る立場と、対外的にも理解されるポジションだ。これらは新潟日報社の公式見解なのだろうか。特に現職の総務大臣に対し「所属政党ナチス」は、報道に携わる者として如何なものかと思う。 特に許せないのは、民間人に対してのTweet。以下は、子を持つ母親に向けられた発言だ。『想像しろ。お前が本能に任せて性行為した、クズみたいな男と娼婦のお前の間に生まれた薄汚いガキ!明らかに人種差別主義者の子どもであり、生きてる価値はない!最大限の尊厳を与えてやる。それは、豚のエサになることだ!』 『(前略)このブス!お前の赤ん坊は豚のえさにするんだから…。で、お前とダンナが、その豚を喜んで食べるのな。そりや美味しいよ。お前の子ども食った豚だもん!お前とダンナ?うなぎの餌。あんたの頬から胸に抜ける。目玉から肛門に抜ける(笑)』 『豚って、なんでも食うらしいよ。野菜でも、人間でも(笑)。赤ん坊は柔らかいだろうね。』 以上発言は、いずれも原文ママ、である。私も子を持つ親であるが、「新潟日報社」は、上越支社報道部長の言動に対し、どのように対応をとられるおつもりか。これを民間人に対して吐いたことは、社会的・道義的責任が追及されるべきであると、政治家として述べさせて頂く。責任は、人事処分をもって公開されるのが筋だろう。詳細:新潟日報社(上越支社報道部長)坂本秀樹氏は、パブリックに批判されるべきだ。(小坪しんやのBlog)左派の責任、メディアの責任左派の責任、メディアの責任 左派こそ、これを徹底的に糾弾すべきだ。それができぬなら、無暗に憲法がどうだ等と述べるのはやめたほうがいい。話が軽くなり、意見自体が意見として認識されなくなるからだ。これは、一般人・民間人への威圧を持っての言論弾圧としか言えず、これを自らの陣営に対しては責めることができぬとなると、何が護憲かと指摘されるからだ。憲法を護るのは結構なことだし、私自身も遵守しようと思っているが(同じく改正したいと思っているが)護憲を掲げるならば、他者の憲法で保障された自由・権利に対しても配慮すべきだ。でなければ、その旗は降ろせ。憲法がかわいそうだ。 メディアに対しても思うことがある。テレビでも報道されたという。ただし、これらの、私が紹介したTweetは報じられていない。酔って弁護士に絡んだ程度の報道であり、その実態を報じているとは言い難い。身内びいきもここまでくると、ちょっとあり得ないと思う。 私には、これを述べる「権利」がある。かつて、SEALDsの皆様へと題してシリーズを報じたところ、メディアはスクラムを組んで私を叩いてくれたな? 随分と扱いが違うじゃないか。「同じ扱い」を求めているのみだ。私には、これを言う権利がある。 三菱樹脂事件の最高裁判例を踏まえ、学生が政治活動に参加する際に気を付けるべき点をまとめたものであった。徹底的に学生側に立った書き方を心がけ、かつ判例(三権分立のため政治分野が介入できない)があることを伝え、「過激派など、反社会的勢力」との混同を避けるように訴えたものだ。安保法制の是非には触れておらず、意見の誘導も行わぬよう配慮した。 まとめサイトを始め好意的に取り上げられ、炎上はしなかった。しかしながら、結果として、取材「攻」勢が多発。東京新聞、毎日、朝日もあったかな。西日本からも取材を受けた。弁護士ドットコム(これは日弁連だろうか)、J-castなどは取材すらせず全くの誤報を足れながす。yahooのヘッドラインに掲載され大きく名誉を傷つけられた。 報道状況を見るに「私とは随分と違う」のだ。私の場合は、言ってもいないことまで書かれ(しかも意図を真逆にとられて、だ)誰も謝罪すらしなかった。新潟日報社については、言ったことすら報じていない。詳細:SEALDsは共産党や中核派と混同されても仕方ない(iRONNA) 現在の報道状況は、身内びいきが過ぎると感じる。酔って言ってしまった程度の報道では足りぬ。先ほどの、実際のTweet内容を見て、世論がこれを許すと思うのか。メディアこそは常に政治に問い続けてきたではないか。だからこそ、ネット保守論壇からも言わせて頂こう。この程度の処分、異動程度で「世論が納得するのだろうか」と。 そして冒頭の繰り返しになるが、しばき隊は落ち延びて頂き、実名での活動に出てきて頂きたい。体制を整えた上で、正面から撃ち合おう。勝手に沈むんじゃない。

  • Thumbnail

    記事

    「赤ん坊を、豚のエサにしてやる」新潟日報サヨク記者の本性

    中宮崇(サヨクウオッチャー) またか。「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」「こいつを自殺させるのが、当面の希望」などとサヨク活動屋がツイッターへ書き込みをしていることを知った時の第一印象である。 サヨクはよく「ネトウヨは卑劣にも匿名で差別やヘイトスピーチを行っている!」と喚き散らしているが、そのサヨク自身が赤ん坊を殺すなどという差別どころか凶暴な脅迫を匿名で行っているわけだから、まさにブーメラン、「お前が言うな」としか言いようがない。 この赤ん坊殺しのサヨクはツイッター上で「壇宿六(闇のキャンディーズ)」を名乗り、 国会前で「反戦争法デモ」と称する騒乱を引き起こしているSEALDs、レイシストしばき隊(現在はC.R.A.C.と改名)の関係者であることをかねてより表明していた人物だ。デモに動員された際に日当が支払われていた(しかしまだ自分には振り込まれていない)という喜びのツイートを行ったこともあり、プロフィールには「レイシスト、ファシスト排除!戦争法をぶっ潰せ!安倍はやめろ!自民党は民主主義の敵!日本に本当の民主主義を!」と、ご大層なことを掲げている真性のサヨクである。 サヨク連中が「反差別」だの「ヘイトスピーチ反対」だのと偉そうに叫びつつ、自分は平気で赤ん坊を殺せだのハゲだのブスだのと、ヘイトスピーチなどという横文字を使うこともおこがましい幼児レベルの差別を平気で行うこと自体も、「またか」である。自分の卑劣な差別性や暴力衝動を満たし正当化するために「人権」だの「平和」だのといった正義を騙り、他者を脅迫し、暴力行為で逮捕されるという症状は、こうしたサヨクに共通するものであるという事実はこれまでも指摘してきた通りだ。 しかし、この「赤ん坊殺し」のサヨクはとことん愚かであった。なんと間抜けにも、その実名がバレてしまったのである。 かねてよりサヨク報道で知られていたローカル紙「新潟日報」の報道部長という要職にある坂本秀樹記者こそが、匿名で「殺す」だのと日常的に敵を脅しまくっていた卑劣漢の正体だったのである。サヨクを気取る「闇のキャンディーズ」 きっかけは、あろうことか朝鮮総連の顧問弁護士という経歴を持つばりばりの人権派としても知られる高島彰弁護士に、サヨクを気取る「闇のキャンディーズ」が、「高島彰はネトウヨ!」「ハゲ!はよ弁護士やめろ」「今死ね!毒飲め!」「こいつを自殺させる」などと、執拗にツイッター等で脅迫したことだった。 なにしろ「反戦争法デモ」と称する国会前騒乱で敵を「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」と白昼堂々「殺害宣告」するような連中である。インターネット上で気に入らぬ敵を「ネトウヨ」「反知性主義」などと恣意的にレッテルを貼り脅迫を行うことは、彼らにとっては日常的な「正義」の行為だ。そのため、まさか反撃を食らうとは想像もしていなかったのであろう。本来、お仲間であるはずの、しかもバリバリの武闘派弁護士を脅迫しておいて反撃を予想していないということだけでも十分間抜けである。 その上、赤ん坊殺しの闇のキャンディーズこと坂本秀樹記者は、高島弁護士についての情報を新潟日報記者としての職権を利用し入手していたばかりか、マスコミ関係者以外には入手することが困難なその情報を不用意にもツイッターに書き込んでしまっていたのだ。そのことに気付いた高島弁護士の調査により、卑劣な匿名脅迫者の正体がSEALDs、しばき隊から日当をもらっていたと自慢し、国会前デモを自紙で礼賛してきた新潟日報報道部長だという事実がバレてしまったのである。 既に主要全国紙の全てで大々的に報じられた事件なので、詳しい経緯については、以下をご覧頂きたい。「クソ馬鹿やろう」「弁護士やめれば」…新潟日報上越支社の報道部長、匿名ツイッターで弁護士に誹謗中傷繰り返す(産経新聞11月24日付)「しばき隊」構成員(実は新潟日報上越支局長)が新潟水俣病弁護団長に暴言→身元を割られ謝罪文を書かされる(ガジェット通信11月24付) 坂本秀樹記者の卑劣さは、その厚顔無恥な自作自演の書き込みにも見て取れる。なにしろ昨年7月4日には匿名で「新潟日報という新聞が、集団的自衛権行使に関し、反対の論陣を明確にして『地方から反対の声を!』と、社長名で訴えたらしい。もはや、地方から声を上げよう!」などとツイートしているのだ。自分が報道部長を務める新聞社の記事を、匿名で第三者のふりをしてヨイショするのだから、これは自作自演としか言いようがない。既に削除し証拠隠滅済みの彼のツイートの数々から考えると、今回に限らず、坂本記者は日常的にマスコミの職権を悪用し、このような卑劣な反日サヨク活動を行っていたと言わざるを得ない。  さて、ここで再び「またか」である。「反差別」を騙るサヨクが敵を平気で差別し脅迫するという行為自体、ありふれた症状なので「またか」なのではあるが、匿名でそのような卑劣な行為を行っておいて、間抜けにも実名や自作自演の事実がバレてしまうというのも、サヨクのオツムの弱さ故に頻繁に見られる症状であり、「またか」なのである。 例えば、今月だけでも、しばき隊関係者とみられる人物が匿名で「ネトウヨ」の個人情報を収集、ブラックリストを作成しネット上に公開したが、坂本記者同様にうっかりから逆にK氏という実名と身元が判明してしまう事件があったばかりだ。数百人の個人情報を“公表”したセキュリティー企業社員「本人の意思で退社」(産経アプリスタ11月6日付 つくづく「またか」である。このしばき隊関係者が勤務していたセキュリティー大手のF-Secure(エフセキュア)は、マイナンバー制度等に関連する個人情報を扱う仕事を受注している企業である。「F-Secureは『エフセキュアの社内のお客様情報や業務上知りえた個人情報が外部に漏えいしたという事実はありません』と噂を否定した」とあるが、ろくな社内調査も行ったとは思えず、到底信用に値しない言い逃れだ。「しばき隊関係者が職権を乱用し個人情報を不正に盗み取りネット上にばらまいた」という疑惑を払拭することはできない。 そればかりか、しばき隊は反省するどころか「幸いなことに、F-secureを辞めさせられたのはK氏だけでその他は全員無事。ほとぼりが冷めるのを待って、残留組が差別主義のネトウヨどもをしばき倒してくれるはず。今度は非公開で処刑する」と犯行予告&脅迫ツイートまで行い、他にも反日サヨク工作員がF-Secure社内に潜伏していることを示唆する始末だ。一部では、会社ぐるみの犯行であるとの憶測まである。まるでどこかで聞いたような話ではないか? そう、前述の新潟日報、坂本秀樹記者のケースと瓜二つなのだ。まさにK氏と坂本秀樹記者そのもの私は以前iRONNAで、サヨクどもが「サイコパス」だと言える数々の症例という記事を書いたことがある。そこから引用してみよう。 「サヨクがインターネット上の匿名性を悪用し、複数のアカウントを取得し、自分の投稿した手前勝手な主張に対して別アカウントで「凄いですね!感動しました!」などと自作自演で礼賛するというのは、極めてよく見られる症状だ。しかしそこは「想像力が貧困」なため、極めて簡単に自作自演がバレる」 まさにK氏と坂本秀樹記者そのものである。例えば、産経新聞記者が職権を乱用し敵の個人情報を盗み取り、卑劣にも身分を隠し匿名でネット上にそれをばら撒き、その上間抜けにも身元がバレてしまったという事件がこれまであったであろうか? 保守陣営や「ネトウヨ」には見られぬ、そうした厚顔無恥な事件が、サヨク陣営には極めて頻繁に見られる。その上、犯罪発覚後も問題を叱責するどころか「幸いなことに」などと擁護するような連中なのだから、ことはサヨクの一部の不届き者による特殊な蛮行と言うようなものではなく、サヨクそのものが持つ病的な本性と見るべきである。 特にこの2つの事件で重大なのは、サヨクは自らが信ずる歪んだ正義のためなら平気で職権を乱用し、個人情報を盗み取りばら撒くことをためらわない。しかも、お仲間もそれを批判するどころか礼賛し擁護するという事実だ。ここは、保守陣営が在特会のような「ネトウヨ」の蛮行に忠告や批判を加えることが多いという事実と全く対照的だ。サヨクには「自浄能力」という概念自体がなく、存在そのものが反社会的勢力であると言うしかない。 サヨクの自浄能力の無さは、反日マスコミとして名高い朝日新聞の数々の前科を見るだけでも明らかだ。1989年に記者自ら貴重なサンゴを破壊し「サンゴ汚したK・Yってだれだ」という自作自演の記事を書き散らした「珊瑚記事捏造事件」を筆頭に、朝日新聞関係者による自作自演事件は後を絶たない。09年には朝日新聞の校閲センター員が匿名でネット上に精神障害者差別や部落差別書き込みを行い、またもや間抜けにも身元がバレてしまうという同じような事件を引き起こしている。 ここで、ロバート・D. ヘア「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」(早川書房)から引用してみよう。 「サイコパスはナルシスティックで、自分の価値や重要性に関してひどく慢心したものの見かたをする。まったく驚くべき自己中心性と権利感覚の持ち主だ。彼らは、自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思っている」  「嘘つきで、ずるく、ごまかしがうまいのは、サイコパスの生まれもった才能だと言える。 想像力が貧困なのか、それとも自分のことしか考えていないためか、サイコパスは自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着か、見破られないと確信をもっているかに見える。嘘を見破られたり、真実味を疑われたりしても、めったにまごついたり気おくれしたりしない。あっさり話題を変えたり、真実をつくりかえて嘘のうわ塗りをする」 まさに、新潟日報の坂本記者らと同じサヨクそのものである。「自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思って」いて「自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着」であるからこそ、身分を偽り平気で卑劣な自作自演や脅迫を繰り返し、自らの間抜けさ故に簡単に身元がバレてしまう。 サヨクの一部が犯罪を犯しているのではない。サヨクそのものが犯罪的であり病的なのである。そして、自らの差別性や暴力性を満たすために「反差別」などの正義を騙る病的なサヨクを、高島章弁護士のような地道に活動を行っている真面目な左翼と混同するべきではないのだ。

  • Thumbnail

    テーマ

    春画なんかで騒ぐんじゃない!

    江戸期の浮世絵「春画」の記事掲載をめぐり、文芸春秋が週刊文春編集長を3カ月間休養させた対応に波紋が広がった。春画は芸術か、それともワイセツなのかー。日本初の展覧会でにわかに注目を集める春画ブームを契機に、この問題を改めて考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    江戸時代の男たちはおっぱいに興味なかった?!

     「謙虚を美徳としてきた日本人が、どうして男性器には見えを張るのでしょう? しかも局部をこれでもかと描き込んでいるのに、女性のおっぱいが雑なのはなぜ?」 永青文庫(東京都文京区)で開催中の日本初の本格的春画展と並行し、銀座の永井画廊でも春画展が開かれているが、そのオープニングパーティーで作家の岩井志麻子さんがこんな疑問を投げかけていた。「富久寿楚宇」葛飾北斎(部分)ミカエル・フォーニッツコレクション 見えを張ったのかどうかは別として、中世以降の絵巻物などで既に「大きさ比べ」をする様子が見られたりと、日本では性器を誇張して描くのが伝統だったようだ。かつて浮世絵春画を見た欧米人が、日本人男性の“ウタマロ”に驚嘆、長く誤解していたのは有名な話。 では女性の胸は―。改めて見てみると、局部にはとことん執着しているのに、胸はずいぶんあっさり描いている。乳首はポチッと描かれているだけで乳輪もない。海女に大蛸(おおだこ)が絡みつく、有名な北斎の春画「喜能会之故真通(きのえのこまつ)」でも、蛸の足は女性の乳首にクルッと巻き付いているが、肝心の胸は微妙に垂れていて、まるでセクシーでない。 岩井さんの疑問に対し、銀座春画展監修者である国際日本文化研究センター特任助教の石上阿希さんもこう答える。「この時代の人々はおっぱいには無関心なんです。明治時代くらいにならないと、乳首に色はつかないようです」。江戸の男は笑福亭鶴光さんのように、乳輪の色に注目しなかったようだ。 江戸文化に詳しく、このほど『春画入門』(文春文庫)を刊行した時代小説家、車浮代さんも「江戸の男は胸よりもヒップでしょう」と話す。「夏になれば女性の胸なんか透けて見えますし、風呂も混浴だからお互い見慣れてるんですよ」。結局、人は秘めたるものだからこそ、興味をひかれ、興奮するのだろう。 車さんによれば江戸時代、着衣の美人画こそ盛んに描かれたが、女性単体のヌードはめったにないという。「歌麿の肉筆画に、お風呂にひとりで入ろうとする女性の後ろ姿はありますが…」。これも美人画の一種であり、現代における「ヌードグラビア」的目的で描かれたものではないらしい。江戸時代の人々は、春画で異性の裸を愛でるというより、交わりのおかしな様子に笑ったりして楽しんでいたのだろう。 月亭可朝さんの有名な歌ではないが、江戸時代の女性の胸は、お父さんよりも赤ちゃんのためにあったようだ。(黒沢綾子)

  • Thumbnail

    記事

    春画の週刊誌掲載「ポストはいいが文春なら問題」と呉智英氏

    られる場所は制限があってしかるべきです。 春画は表現物ですから、基本的には行政が介入すべきではない、メディアの側がそれを考えるべきでしょう。 その意味では、『週刊文春』はこれまで、過激なグラビアを掲載せず、穏健派の誌面づくりをしていた。その点が『週刊ポスト』とは大きく異なる。『ポスト』はずっとヌード、つまりポルノを掲載してきたわけですから、春画を掲載しても違和感はないでしょうが、『文春』は違う。一部の読者は家に持って帰れないと困惑したことでしょう。関連記事■ 仏文学者の鹿島茂氏「春画は時代を経て立派な芸術になった」■ スペインで国民的人気のポルノ男優 逮捕5日前の衝撃的な写真■ 春画は芸術かわいせつか? 週刊誌に掲載するのは是か非か?■ ポルノ産業1人あたり売り上げ 韓国が世界一、日本は2位■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月

  • Thumbnail

    記事

    春画掲載の週刊誌で編集長が休養 ろくでなし子氏の見解は?

    性差別が隠されているのは明らかで、私が受ける海外からの取材では必ずその点を取り上げられるのに、日本のメディアはほとんど問題にしようとしません。 私が逮捕された時も、「あんなに風俗が発展して街中には性的なものがあふれてるセックス大国なのに、こんなことで逮捕する日本って、バカなの?」と、海外では面白おかしく報道されましたよ。今回の騒ぎも、海外メディアからすれば格好の“珍日本”ネタになりそうですね!関連記事■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月■ ろくでなし子氏は「わいせつの3要件満たしてない」と弁護士■ ろくでなし子氏の逮捕 新たなる技術・3Dプリンターが原因か■ 女性器モチーフ作品をわいせつとするのは「日本の恥」と識者■ 仏文学者の鹿島茂氏「春画は時代を経て立派な芸術になった」

  • Thumbnail

    記事

    春画に文化的価値があるかどうかは警察が判断します

    園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)  はじめに 春画は、直接的な性表現がなされていることから、刑法175条に該当する「わいせつ図画」であるとされたこともありました(最高裁昭和48年4月12日判決〈国貞事件〉)。しかし、永青文庫で開催されている「春画展」が大好評であることもあって、マスコミで「春画特集」が取り上げられる機会が多くなっています。 喜びおおらか、春画展に来場者続々 永青文庫で国内初 そんな中、春画を掲載した週刊誌が警察から「指導」を受けるということがありました。 「春画」芸術か、わいせつか… 雑誌指導も微妙な“線引き” 芸術かわいせつか…「春画」の微妙な線引き 警視庁が、8~9月に口頭指導を行ったのは、「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊大衆」(双葉社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の4誌ですが、捜査関係者は、この「指導」について次のように述べています。警視庁保安課によると、指導した4誌は春画とは別に、ヌードや下着姿の女性のグラビア写真などを掲載していた。・・・「ヌード写真などもある誌上での掲載であり、(春画の)わいせつ性が強調されていると判断した」としている。捜査関係者は、今回の指導は、春画単体での評価ではないことを強調し、「春画は国際的な評価も高く、文化的・芸術的価値がある。春画そのものを問題にする気は全くない」と言い切る。・・・捜査幹部は「春画を描き写しただけのイラストでも、文化的価値がないと判断すれば、わいせつ物と判断する可能性もある。著名な画家の作品かなど総合的に考慮する」と話している。(太字は筆者)出典:産経新聞10月19日文化的価値があるかどうかは〈警察〉が判断する 文化的価値、すなわち作品の芸術性とわいせつ性の関係が最高裁で最初に問題になったのは、翻訳小説のわいせつ性が争われた〈チャタレー事件〉です。最高裁は、芸術性とわいせつ性は次元の異なる問題だから、芸術作品であってもわいせつだと判断してもよいとして、有罪にしました(最高裁昭和32年3月13日判決)。いかに文学的価値が高いものであっても、裁判所がわいせつだと判断することは構わないのだという趣旨です。 その後もこの方針は維持されますが、〈悪徳の栄え事件〉では、最高裁は、高い芸術性によってわいせつ性が薄まる(昇華される)ことはあるということを認めています(最高裁昭和44年10月15日判決)。ただし、この作品はわいせつだとしています。 作品の中にわいせつな箇所が少しでもあると、作品全体がわいせつだと判断されてしまうということはいかにも不合理ですから、芸術性の高さをわいせつ性の判断において考慮すべきであるという考えは妥当なように思えます。しかし、問題は、それを誰が判断するのかということです。最終的には裁判官の判断ですが、事件化するかどうかは警察官の判断であり、警察官が、当該作品が芸術かどうか、文化的価値があるかどうかを判定することになります。しかし、これは戦前の〈検閲制度〉につながるおそれのある発想であり、やはり問題ではないかと思います。 明治の初年から終戦まで、出版物はすべて事前に内務省(地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った中央官庁)に納本し、〈検閲〉を受けることになっていました。そして、政府にとって都合の悪い出版物は、削除や発売禁止の処分(発禁処分)を受けていたのです。言論や思想だけではなく、公序良俗を乱すものも対象とされ、春画の売買も禁止されました。日本の近代化という命題のもと、西洋文化を意識して日本国内の風俗の矯正が行われ、「性は恥ずかしいもの」という考えが広まっていったと思われるのです。この頃、人力車夫の裸さえも禁止されました。 今回の雑誌社に対する「指導」は、もちろん〈検閲〉ではありません(憲法21条2項で検閲は禁止されています)。しかし、継続して毎週定期的に出版される週刊誌ですから、このような警察の「指導」が将来の編集方針に何らかの影響を与えるおそれはないのかということを一読者としては心配するしだいです。 とくに、警察が文化的価値がないと認めれば、犯罪だと判断することもある、という点には、何か不気味なものすら感じるのです。掲載方法によって、春画はわいせつになる 次に、今回の警察の「指導」で注目すべきは、「ヌード写真などもある誌上での掲載であり、(春画の)わいせつ性が強調されていると判断した」としている点です。 このような考え方は、「相対的わいせつ概念」と呼ばれています。これは、当該作品の販売や広告方法、具体的な掲載方法、対象読者層など、作品が置かれている文脈が作品のわいせつ性に影響を与えるとする考え方です。 これも、一見、妥当なように見えますが、特定の人に対してだけ性的刺激・興奮を与えるようなものが逆に犯罪性を帯びる可能性があり、わいせつ概念が拡大的に適用されるおそれがあります。たとえば、成人には問題のないアダルトビデオであっても、未成年にとって性的刺激が強ければわいせつだと判断される可能性があります。ミロのビーナスも、それを見て欲情する人に見せれば、わいせつ物だとされてしまいます。わいせつは時代によって変わりますが(判例もそれは認めています)、それは一般の社会意識の変化が問題になっているのであって、読者に対する性的刺激度や印象によってわいせつを判断するという方法は、処罰の拡大につながる可能性があるのです。今回の警察の「指導」についても、以前から芸術雑誌には無修正の春画が掲載されており、それについて「指導」があったということは聞いていませんが、週刊誌への掲載はダメというのはどうなんでしょうか?(了) 園田寿「性表現について不快感を示す人びとの存在 ー春画展に寄せてー」そのだ ひさし 1952年生まれ。関西大学大学院修了後、関西大学法学部講師、助教授をへて、関西大学法学部教授。2004年からは、甲南大学法科大学院教授(弁護士)。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、青少年有害情報規制などが主な研究テーマ。現在、兵庫県公文書公開審査会委員や大阪府青少年健全育成審議会委員、モバイルコンテンツ審査・運用監視機構(EMA)諮問委員会委員長などをつとめる。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『インターネットの法律問題-理論と実務-』(2013年新日本法規出版、共著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)など。趣味は、囲碁とジャズ。

  • Thumbnail

    記事

    一流の職人らが見せる超絶技巧 春画は浮世絵最高峰の「総合芸術」

    時代小説家、江戸料理研究家) 9月中旬に『春画入門』(文藝春秋)という新書を上梓して以降、さまざまなメディアから「春画」に関するインタビューの依頼をいただくようになった。 著書を読んでから質問をしてくださる方ばかりではないので、「春画というのは江戸時代のエロ本ですか?」と尋ねられて、困惑することがある。 確かに、エロティックな図を扱っているという点に於いては、木版画によって制作された春画(ここでは艶本も含む)は「エロ本」に当たるのかも知れない。しかしそもそも、現代と江戸時代では性に対する認識と倫理観が違うため、決してイコールではない。歌川国貞筆「金瓶梅」(手前)など、鮮やかな肉筆春画の名品が並ぶ永青文庫で開かれている春画展=東京都文京区 明治になって、西洋的倫理観を上書きされるまでは、日本人は性に対して、今よりずっとおおらかな国だった。聖母マリアの処女性を尊ぶ欧米に対し、伊耶那岐命と伊耶那美命が交わることによって誕生したとされる我が国は、太古から「男女和合」を子孫繁栄につながる“目出度い”行為だと考えていた。よって春画における性器は、顔と同じサイズにまで誇張されており、春画の大多数の図柄は、さまざまなシチュエーションとバリエーションで、男女ともに活き活きと性を謳歌している。女性に性欲があることも当然と考えられていたため、女性がむし返し(複数回の性交)を迫る……といった図も多く残っている。   二〇〇五年に、世界一のコンドームブランドである英国のDurex社が調査発表した「世界各国のセックス頻度と性生活満足度(四十一カ国)」によれば、セックス頻度における世界の年間平均は百三回で、日本人は四十位・シンガポールの七十三回から大きく引き離されての最下位で、四十五回という結果だった(十年前のデータなので、現在はもっと少ないのではないかと推測される)。この結果は、江戸時代の人々からすれば禁欲生活を強いられているようなものである。断っておくが、私は何も、現代人に性を謳歌しようと推奨しているわけではない。性に対して、どちらかというと後ろめたさを持つ現代人の感覚で、江戸の性は推し量れないということを示しただけだ。 また春画は、大名までもが娘の嫁入り道具として持たせるなど、性の指南書としての役割ばかりか、「笑い絵」「勝ち絵」などとも呼ばれ、仲間内で見せ合って笑い楽しむものであったり、戦の弾除けに甲冑に仕込むものであったり、長持ちに入れて虫除けにしたり、蔵に置いて火事避けにしたり……といった用途も担っていた。余談だが、火災が起こった時、ただ一つ燃え残った蔵の中から、上方の浮世絵師・月岡雪鼎(せってい)の春画が出て来たからと、以降、雪鼎の春画には十倍の値がついたという記述が残っている。 さらに、春画における技術と名誉について、特筆せねばなるまい。 八代将軍・徳川吉宗により、享保の改革の一環として発布された「好色本禁止令」以降、春画は秘密裏に売買されるようになった。公に販売されている浮世絵版画は、検閲を通さずに販売できないため、図案や摺り色の数などが制限されてしまうが、最初から表に出さない春画は、いわば贅沢のし放題であった。二十色以上摺り色を重ねようが、金・銀・雲母(きら)などの高価な絵具(えぐ)を使おうが、どれほど精緻に版木を彫ろうがお構いなしである。 また、当時の錦絵(にしきえ)(多色摺り浮世絵版画)一枚の価格が十六文~四十八文(一文を二十五円で換算すると四百円~千二百円)だったことに対し、春画の価格は十倍以上もした。 つまり版元が豪華で高価な春画を売るには、有名絵師の絵でなければ顧客がつかず、それらの凝りに凝った彫摺(ちょうしゅう)は、一流の職人でないと対応できない。逆に言えば、絵師も彫師も摺師も“春画を依頼されてこそ一流”とみなされたわけだ。それが証拠に、名だたる絵師たちは、わずか十ヵ月弱の制作期間で消えた写楽を除いて、もれなく全員が春画を手がけている上、錦絵は現代の木版画職人によって再現できても、爛熟期の春画の再現は不可能と言われている。 このあたりの感覚が今と大きく違うところで、現代では、エロティックな商業印刷物は低俗と見られがちなことに対し、春画はいわば、当時の印刷物の頂点にあった。持っていることがステイタスで、自慢の種になったのだ。 浮世絵に関する講演会などをさせていただいた折に、私は必ず「春画を観ずして、浮世絵の本当の凄さは語れない」と訴えてきた。例を挙げるなら、美人画の髪の生え際などで確認できる、一ミリの間に髪の毛三本を彫り、目詰まりさせずに摺る技術。エッチングなどの凹版印刷ならまだしも、凸版印刷である木版画でこれを可能にするだけでも超絶技巧だが、春画ではさらに、あの不規則に曲がりくねったアンダーヘアでそれを実現させているのだから、驚嘆に値する。 技術面に特化すれば、『三源氏』と呼ばれる歌川國貞(三代豊国)の艶本の代表作『艶紫娯拾余帖(えんしごじゅうよじょう)』『吾妻源氏(あずまげんじ)』、『正冩相生源氏(しょううつしあいおいげんじ)』を、機会があれば是非ご覧いただきたい。そこに施された彫りの細かさやグラデーションの美しさ、高価な絵具を惜しみなく使った贅沢さ、よく見ると浮き上がって見えるエンボス加工等、重要文化財級の匠の技が注ぎ込まれている。 これはもはや、総合芸術品である。   

  • Thumbnail

    記事

    二元論では語れない春画が持つわいせつと芸術

    鈴木堅弘(京都精華大学非常勤講師) 絵画の認識において二元論的解釈は成り立たない  昨今、世の中が「春画は芸術か、猥褻か」の議論で騒がしい。事の発端は、東京の永青文庫で開催されている春画展をめぐる記事である。週刊文春の編集長が、同誌への春画記事の掲載により、編集上の配慮を欠いたとして三カ月休養の処分を受けた。また、警視庁が週刊誌四社に風紀を乱す恐れがある記事を自粛するように勧告するにいたった。こうした事態により、再び「芸術―猥褻」の二元論が加熱したのである(刑法では「わいせつ」表記)。 もっとも日本において、「芸術か、猥褻か」の議論は、近代以降、いつの時代でも途絶えることはなかった。「チャタレイ事件」(昭和二十八年)、「サド裁判」(昭和三十四年)、「国貞裁判」(昭和四十八年)と、作品への「芸術―猥褻」の解釈をめぐる裁判はくり返され、いずれも明確な答えが見出せないままに終わっている。 それもそのはずで、そもそも各個人の文化事物への認識は、このような相対的二元論の解釈に落とし込むことができない。この真理は、言語学者ソシュールの「言語記号は恣意的である」の言葉に象徴されるように、すでに文化記号論などによって理論的に実証されている。 たとえば、このことを単純化して言うならば、同じ絵画を複数の人が同時に見ても、その絵から読み取る意味は、各個人で異なる。あるいは、ある一人の人が、同じ絵画を過去と現在で二度見たとしても、その時々の状況や経験によって、絵画から受け取る〈意味〉が変わってしまうことはよくある。ピカソの絵を前にして、ある人はこれを芸術だと言い、別の人は落書きにしか見えないと言う。このような経験を、誰もが一度はしたことがあるであろう。 つまり各個人は、絵画を見る際、個々の経験や知識にしたがって、それぞれ異なった〈意味〉を読み取っていくのである。これはどのような絵画であれ、一枚の絵に描かれた表象はどれも記号表現の集積であり、観者がどの部分(記号)に焦点を絞るかは、基本的には各々の判断に委ねられることを前提とするからである。高い芸術性で注目を集めている「春画展」=東京都文京区の永青文庫 この理屈を春画で例えるならば、一枚の春画を目の前にして、ある人は、裸体のふちを流れるように引かれた線(ライン)の美しさに取り憑かれるかもしれないし、また別の人は、あからさまな性表現に気恥ずかしさを感じるかもしれない。また性器の表象が描かれていたからといって、それを「淫猥」と認識するのか、あるいは「笑い」と認識するのかは、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも変わる。つまり誰しもが春画から芸術の意味を読み取るわけではないし、あるいはまた誰もが猥褻の意味を読み取るわけではない。 これは絵画をはじめ、文学、詩、映画など様々な作品は、そもそも記号の多層性によって多義的な意味を伝える原則にしたがって成り立っているからである。そして観者は、作品を目の前にしてそれら記号の多層性から、いかようにも意味を引き出してくることができるからである。 このように考えれば、誰もが、ある作品解釈を一つの認識のみに落とし込むことはできない。となれば当然、誰も、「春画は芸術か、猥褻か」の問いに明瞭な答えを見出すことはできない。春画は、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも判断できるからである。かりに、この二元論的な落とし穴にはまった人がいるとするならば、その人は解釈の対岸を行き来する堂々めぐりをくり返すだけであろう。明治時代における美術と猥褻 そもそも、日本の春画を「美術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」とみなす二元論的視座は、コインの表と裏のように同根表裏の関係にある。いうならば、〈美術〉という概念がその場に立ち現れなければ、相対的に〈猥褻〉という概念も立ち上がらない。そうなると、日本におけるこうした二元論の成り立ちは、〈美術〉の概念の成立史と綿密に重なっていることが推測できよう。 そこで、日本における〈美術〉の概念の成り立ちに着目するならば、「美術」という言葉は、明治六年(一八七三)頃、日本がウィーン万国博覧会への参加の際に、翻訳語としてはじめてつくられた。それ以降、美術の概念すら定まらないなかで、官僚機構を中心とした殖産興業と古器旧物の保護に関する美術政策が進められていき、官僚によって組織された最初の美術団体である竜池会が設立された。また明治十三年には内務省博物局により官展「観古美術会」が開催され、この美術展は視覚表現(絵画)のみを展示する初めての展覧会であった。こうした時代の流れのなかで、明治期の日本に〈美術〉への認識が徐々に浸透していったのである。 ところが、この美術概念の成立と浸透の歴史に春画が巻き込まれることになる。その最たる出来事が、明治二十年代から三十年代にかけて繰り広げられた「裸体画論争」である。いわゆる「西洋裸体画は芸術か、猥褻か」を問う画壇論争である。こうした論争は、江戸時代より続く旧来の文化的価値と、西欧から移植した新来の価値観が衝突するなかで引き起こされた。明治二十二年の山田美妙による「裸胡蝶論争」に始まり、明治二十八年の「黒田清輝の『朝妝』裸体画問題」、そしてこれらの論争に呼応するかたちで、新聞ジャーナリズムや美術雑誌において「裸体画は芸術か、猥褻か」の論争がしきりにくりかえされていった。 ところが、これらの論争は、どれも一見、裸体画における社会道徳上の問題を取り扱うように見せながら、実はその本意は「裸体画」から〈猥褻〉の認識を引き離すところにあった。この時期にこうした主張がくり返されたのも、日本の洋画家たちが、西洋裸体画を〈猥褻〉な表現とは一線を画す美術作品としていち早く世に認めさせる必要に迫られていたからである。それはまさに〈美術〉と〈猥褻〉を明確に区別し、前者に裸体画を結びつけ、確固たる美術概念を世の中に植え付けることを狙いとした。しかもそこには裸体画から猥褻の価値認識を引き離す際の相対的事物として、春画が利用されたのである。このことは、明治の洋画家中村不折の言葉からも、明確に知ることができる。 元来當局者がかく裸体に対して厳しい制限を設けるのは、春画と裸体画とを混同して居るのに原因すると思ふ。春画は猥褻を主としたもの、一方は神聖な目的の為めに書いたものを、味噌も糞も一所にするに到つては、殆ど何と評しやうもない。(中村不折『畫界漫語』〈明治三十九年〉) つまり、裸体画を新来の西欧の芸術表現として世に認知させるためには、旧来の日本の世俗表現である春画を猥褻の彼岸へと追いやる必要があったのだ。裸体画の芸術的な至高性をより強調するためには、相対的に春画をその地位へ落とし込まなければならなかったといえよう。こうして明治二十年代から三十年代にかけての時代に、春画は猥褻画と見なされるようになった。いわば、春画を猥褻の概念で捉える社会的慣習がつくられたのである。このようにみていけば、「美術か、猥褻か」という議論自体が、美術という近代概念(モダニズム)がその場に移入されてはじめて起こりうる問題である。言い換えるなら、〈美術〉という概念がその場に入ってこなければ、〈猥褻〉という概念もまたその場には立ち上がらない。くり返すが、双方の概念は表裏一体の関係にある。つまりこの議論自体が、すでに極めてモダニズム的な発想に基づいており、春画が盛行した江戸時代にはない考え方である。 展示とオリエンタリズムの亡霊 ところが現在の日本では、このモダニズム的な発想が、さらにねじれを起こしつつある。春画を〈美術(アート)〉の概念と結び付ける社会的慣習が形成されはじめている。その要因の一つとなったのが、二〇一三年にイギリスの大英博物館で開催された春画展であろう。同展覧会では、そのタイトル「Shunga sex and pleasure in Japanese art」が示すように、日本の春画を明確に美術作品と見なしている。ところが、考えてみれば、そもそも「アート」は、ヨーロッパという場でつくられた西洋概念である。しかも、その概念を西欧においては「他者」である日本の、前近代の産物である春画に当てはめる考え方に少なからず違和感を抱かざるを得ない。春画がアートであるのか、ないのかという議論はひとまず棚上げしたとしても、なぜ大英博物館の春画展において日本の春画が「アート」の範疇に組み込まれたのかという疑点は看過できない。 たとえば同展覧会では、日本の春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の項目を立てた。にもかかわらず、その全体の枠組みとしては、春画を日本美術のなかに収めている。 ごく素朴に考えて、日本人が認識する美術作品のなかで、「検閲」の対象になったものがあるだろうか。それこそ黒田清輝の油絵『朝妝』であろう。しかしこの作品も、結局は美術作品として世相に認められた。また別の観点に準ずるならば、春画を検閲の対象として捉える行為そのものが、先験的に春画を猥褻と見なす眼差しを発端としているのではなかろうか。一方、パロディという考え方も、西欧からの借り物であるにもかかわらず、そうした見方を日本の美術作品にどれだけ当てはめて考えることができるだろうか。結局、春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の見方を用いれば用いるほど、西欧が作り出した「美術(アート)」の範疇から遠ざかる。 大英博物館の春画展が示したこの矛盾を、いったい我々はどのように処理したらよいのであろうか。その疑問は尽きないが、一点、言えることは、西洋にとって他者である日本の春画が、ヨーロッパの主要博物館の「場」で、「アート」の範疇に組み込まれた背景には、西洋が東洋に抱く「オリエンタリズム」の亡霊を見ざるを得ない。「オリエンタリズム」とは、ずいぶんと使い古された言葉である。ただそこには、東方の珍奇でめずらしい事物に対する西欧が抱く好奇のまなざしがあり、その裏には、東洋の事物や価値観を自前の概念範疇に取り込む欲望が秘められている。このバイアスこそが、日本の春画を容易に「アート」の概念と結びつけさせ、自明の理の内に矛盾や違和感を隠し込んだにちがいない。しかもその他者への眼差しは、「芸術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」の問いさえも立てることができない境地へと春画を引き上げた。 もっとも現在、西洋の主要な美術館や博物館は、諸地域の文化を地球規模の普遍的視座のもとに均一(グローバル)化する文化平行主義を展示に取り入れることで、従来のオリエンタリズム的思考を乗り越えようと試みている。ところが、この行為がかえって西欧において「オリエント」への見方を浮き上がらせてしまい、異質なもの、他者であるものを展示した美術館や博物館の革新性や中心性を指示することで終わってしまう。このことは、日本の春画展のキャッチフレーズ「世界が、先に驚いた。」からも明確に知ることができる。もっともこの皮肉は、そもそも諸地域の文化事物に対する認識は、境界や辺境を越えて均一化できるものではないことを前提とするがゆえに引き起こされる。つまり展示される諸地域の文化物は、それぞれの歴史や風土に依拠した文化的差異に基づき、けっしてグローバルかつ西洋的な概念範疇に閉じ込めることはできないのである。 その点で、大英博物館での春画展と、日本での春画展は、同じ展示という行為ながら、その意義は大きく異なる。日本での春画展示は、文化の当事者であるがゆえに、オリエンタリズムというバイアスの助けをかりることができない。われわれは面と向かって自らの過去の歴史と向き合わなければならず、もしその認識に矛盾点や違和感があれば、自己崩壊を招きかねない。つまり日本社会にとって春画は、「他者」ではないのだ。そのため当然、自らの歴史に潜む魅惑の秘め事に直面したときに、その文化を直視することへの躊躇と自問自答をくり返さざるを得ない。昨今の日本社会における「春画は芸術か、猥褻か」の問いは、そうした当事者ゆえの苦闘を端的に示しているのではなかろうか。 もちろん、この問いに答えを見出すことはできない。おそらく永青文庫は、そのことを百も承知で春画展を実施したであろう。彼らは日本社会が自らの歴史や文化に直面したときに生じる躊躇や戸惑いを乗り越える勇気をもって、春画の展示に踏み切ったにちがいない。その英断と実行は、他者である大英博物館の春画展とは、本質的に異なる。 最後に、この二元論的な問いに明確な答えを見出せないならば、われわれ自身が自らの目で、おのれの経験や知識を通じて、春画の本質を見定めなければならない。この愚問に、足もとをすくわれている時間(ひま)などないのだ。展覧会には期限がある。春画の実物を自らの目で見定めるチャンスは、限られている。そのことを忘れてはならない。

  • Thumbnail

    記事

    “顎クイ”のキスより進んでいる春画のやんごとない世界

    佐伯順子(女性文化史研究家) 三味線音楽や邦舞、浮世絵等の江戸文化は、歌舞伎や遊廓と密接な関係をもちながら発展してきた。遊廓は、芸能や茶、香、花を楽しむ、江戸の文化センターでもあったが、そこには男女の営みが含まれ、歌舞伎にも、男色という性の楽しみが背後に存在した。春画が隆盛を極めたのも、様々なエンタテインメントの底に性があったという、江戸文化の特色のひとつといえるかもしれない。 ただ、であれば美人画のように、遊女や遊廓を素材にした春画が多いかと思いきや、事実は逆に、妻や娘といった素人の女性が春画に多く登場するのも興味深い。江戸時代の女性といえば、窮屈な儒教道徳に縛られ、浮気をすれば厳しい処罰を受けるという一般的なイメージがあるかもしれないが、それは近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎が描く一部のイメージにすぎない。もちろん、夫に管理される不自由な妻たちも存在したことは一面の事実であるが、芝居や浄瑠璃にとりあげられる女性たちは、武士の妻や裕福な町人など、限られた女性たちであり、江戸の市井の女性たちの多くは、パートナーと、またはイケメンの少年役者と、自由に逢引きを楽しんでいたことを、春画の表現は伝えてくれる。 江戸時代の女性たちの性生活は、その積極性によって特徴づけられるといわれる(田中優子『張型』)ように、春画には、自然な表情で悦びにひたる満足げな女性たちの姿が随所にみられる。遊女のように、金銭を媒介にして必ずしも好きではない相手と交わるのであれば、不本意な忍耐や抑圧の悲しみが払拭できない。だが、商売をぬきにして主体的に快楽を求める女性たちの悦びの姿を描くところにこそ、春画の真骨頂がある。人間の性愛を描いた春画を国内で初めて本格的に紹介する「春画展」=東京都文京区の永青文庫 春画の主題の多くが夫婦の交わりであることは、誰はばかることなく、こころと身体のコミュニケーションを満喫できる間柄であるからだろう。女性が微笑みながら男性に覆いかぶさっていたり、男性の顎に手をあてて接吻したりしている図のように、女性のリードがみられる絵柄もあり、男性優位の性関係ではない多様な逢引きのありさまが描きわけられている。現代の、男性主導のいわゆる“顎クイ”のキスよりも”進んでいる“(?)とさえいえるかもしれない。 春画の前書きでは、イザナミとイザナギの夫婦の交わりが引き合いに出され、人間の男女の交渉のむこうには、神々の姿が想定されている。そもそも日本の国土は、イザナミ・イザナギの神々の交合によって生まれたのであり、日本神話の源には、性の営みを神聖な行為として崇める「聖なる性」の信仰がある。 日本の宗教儀礼には今でも、男女の生殖器をご神体として担ぐ祭礼(愛知県・田縣神社など)や、男女の交わりを実演として含む芸能(奈良県・飛鳥坐神社など)が残されており、日本の信仰世界において、男女の仲をことほぐ心性は連綿と受け継がれている。これらの祭礼で崇められる生殖器は、県神社の男根のように巨大なものもあるが、春画に描かれる男女の秘部が人体に比して大きく、顔と同じくらいの大きさにデフォルメされている例があるのも、生殖器に聖なるパワーを期待する心性の表現ではなかろうか。 春画という用語は当時、一般的なものではなく、「笑い絵」と称されていたが、笑いにも民俗学的には招福の意味があり、江戸期の春画が、魔除けや戦勝祈願という、おまじない的な意味をもっていたのも、性のパワーが幸福を招くパワーにつながると信じられたからであろう。実際、天真爛漫に逢引きを楽しんでいる春画の男女の姿をながめると、つい微笑んでしまいたくなることもあり、幸福感がのりうつるような感情にかられることもある。 命を産む性の営みを神聖なものとみなし、豊穣への祈りと結び付ける発想は、イギリスの社会人類学者のフレイザーが『金枝篇』で紹介する「類感呪術」にも通じ、海外にもみられる心性である。そのような視点で眺めれば、春画もどことなく、やんごとないものに見えてくるのではあるまいか。やんごとない世界であるからこそ、美しい調度品や着物といった、凝った意匠で飾り立て、目にも美しい作品として世に送りだされたのである。有名な、タコと交わっている女性の姿も、エロチックでありつつ、タコの腕や足の曲線の造形が巧みであり、デザイン的にも秀逸である。愛する人との一夜をロマンチックに演出したいと思う気持ちは、江戸の男女も現代の恋人にも変わりはないと思われるが、現代の恋愛映画などのいわゆるベッド・シーンは、往々にして雰囲気の描写にとどめているのに対し、露骨な交合の場面を色彩豊かな図像にとどめた江戸の絵師たちの才能には感服するしかない。 十二枚一組という春画の形式が、一年十二か月の風物にのっとったものであり、四季おりおりの風情が豊かにおりこまれていると紹介されるように(山本ゆかり『春画を旅する』)、床の間の紅梅や戸外のホトトギスの声など、日本ならではの自然の彩が、男女の逢引きに興を添える。視覚的な美しさのみならず、薫りや鳥の音までをも伝える春画の表現は、まさに日本美術の粋のひとつであり、まぎれもなく、猥褻ではなく芸術なのである。

  • Thumbnail

    記事

    もういい加減「芸術かワイセツか」はやめようよ

    ない。あるいは、どうにでも答えられる問いである。書くのならそのことを書こうと思ってお引き受けした。 メディアは盛んにこの問いを口にするが、春画を目にして、いったい誰がこの問いを思い浮かべるだろうか。永青文庫を訪れて、歌麿なり北斎なりの絵の前に立って、「うーん、これは芸術だな、こっちはワイセツだな、するとあれはどっちだろう」などと悩んでいる人がいたらお目にかかりたいものだ。大英博物館「Shunga:sex and pleasure in Japanese art」(撮影 木下直之) そうではなく、「ワイセツかそうではないか」と考えながら見ている人はいるかもしれない。もし会場でそんな人を見かけたら、間違いなくそれは刑法175条と照らし合わせながら眺めている警察関係者だ。おそらく彼あるいは彼女の頭に、「芸術か否か」という問いはない。そんなことまで考え出したら、ますます判断に窮するからだ。もっと即物的に、性器が見えているか見えていないか、大きいかちょうどいいかなどと判断する。ちょうど昨年夏に、愛知県美術館の「これからの写真」展会場から鷹野隆大の作品撤去を命じた愛知県警のように。 わたしは若い頃に『美術という見世物』(今は講談社学術文庫で読んでいただける)という本を書いたくらいだから、それが「美術」であるとも「芸術」であるともそう簡単には判断しない。いや、できない。ある時代のある地域の人々がある造形表現を「美術」だとか「芸術」だとか判定してきたにすぎないと思うからだ。 一方の「ワイセツ」はもっと曖昧でもっと厄介だ。iRONNAがそれをカタカナで表記するのはなぜだろう。刑法は「わいせつ」とひらがなで表記している。編集部がひらがなでは猥褻感が足りないと思ったからかな。 それはある意味で正しい。ひらがなの「わいせつ」には、猥褻な感じがまるでないからだ。昔は刑法も「猥褻」と漢字で書いた。猥褻犯と書けば、いかにもいやらしい。それがひらがなに変えたのは、刑法の口語化の一環である。つい近年のことだ。 世の中わかりやすく、わかりやすくという方向に流れ、行政はやたらとひらがなの表記を好み、ひらがなの市町村までつぎつぎと登場、結果として猥褻まで何であるのかがわからなくなってしまった。警察が「わいせつ」というひらがな表記の概念を頭に浮かべながら、おそらくはマニュアルどおりにわいせつ物を取り締るのは喜劇としかいいようがない。「好色」を「猥褻」に変えたもの ここからは、「猥褻」と断然漢字で表記する。江戸時代には、つまり春画の全盛期にはこの言葉は使われていない。「みだら」とか「みだりがわしい」という表現はあったが(猥や淫はそこに登場)、春画・春本に対しては「好色」と呼ぶことが一般的だった。井原西鶴『好色一代男』のあの「好色」で、主人公世之介は話の最後に、好色丸を仕立て、たくさんの「枕絵(春画のこと。笑絵とも呼ばれた)」を積み込み、女護島に向かって船出する。 では、「好色」を「猥褻」に変えたのは誰の仕業だろうか。明治政府による法整備の段階で、「猥褻」は登場する。刑法(1880年制定の旧刑法)はフランス刑法をモデルにつくられたから、フランス語のobscéneの翻訳語として「猥褻」があてられた。ところが、明治になってもこの言葉は一般的に使われるものではなかった。中国語ではむしろ「淫猥」を使うと同僚の中国研究者から教えられた。つまり、文明開化の時代に、過去との断絶を強く意識して、「猥褻」なる言葉が選ばれたのだという。それが日本社会のルールとしてしっかりと根付き、今なお、猥褻をめぐる大騒ぎ(たとえばろくでなし子裁判)を繰り広げている。 余談だが、ろくでなし子さんの逮捕と起訴は不当だと思う。春になって公判が始まった時、思わず「税金の無駄遣いじゃのお」という菅原文太の台詞(「仁義なき戦い 頂上作戦」1973年)が思い浮かんだが、サド裁判を体験した澁澤龍彦が第1審最終意見陳述を「一言で申しますと、本裁判は、税金の無駄づかい以外の何ものでもないのではないかという、大へん空しい感じを受けるわけです。」という発言で始めていたことを知った(東京地方裁判所第17回公判、1962年8月2日)。 そんなわけで、去年から開講している「近代日本の性表現」という授業で、受講者にはまず「猥褻」の字が書けることを求めている。猥褻を論じるのなら、せめて漢字で論じようよ。 さて、「芸術」も「猥褻」も言葉が存在する以上、それらが指し示すものは当然ある。もちろん主観的にだが。問題はこれを二者択一の問いで済ませてよいのかだ。すぐにわかることだが、両者にはほかの組み合わせだってあるからだ。「芸術だから猥褻」、「猥褻だから芸術」、「芸術でありかつ猥褻」、「芸術でもなければ猥褻でもない」等々。かつて、愛のコリーダ裁判を経験した大島渚は、「ワイセツで何が悪い」と主張、二者択一は誤りと喝破した。 また、「わいせつコミック裁判」で知られる松文館裁判では、第1審で、「浮世絵ないし江戸時代や明治時代の春画は、それぞれに、著名な浮世絵作家の作品として、あるいは懐古一趣味に応える歴史的文物として、興味を抱かせるものであり、性行為の指導書も、夫婦を中心とする男女の性生活の充実に資するものであるなど、本件漫画本とは、読者が興味の対象とする目的及び内容を異にしており、専ら読者の好色的興味に訴えるものとはいえない。」(東京地方裁判所判決、2004年1月13日)という判決が出されている。こうした戦後の猥褻裁判をめぐる数々の議論を振り返れば、まるで振り出しに戻ったかのように、今さら「芸術か猥褻か」を持ち出すことは安直としかいいようがない。広く享受された芸術性 ところで、永青文庫での春画展が春画の芸術的な側面に強い光を当てていることは間違いない。とりわけ、永青文庫が旧熊本藩細川家に伝来した宝物を受け継ぐ博物館であることから、旧大名家に伝わる肉筆の絵巻を揃えた。そして、それら蔵の中に眠っていたものを明るみに出したことの意義は大きい。春画が庶民のものばかりでなく、上流階級のものでもあり、幅広い層に享受されたことを教えてくれるからだ。 肉筆の絵巻となれば一流の絵師に発注した贅を尽くしたものである。庶民向けに複数生産された版画とでは表現の質に雲泥の差がある。とはいえ、版画も選りすぐりの上質なものを集めている。鳥居清長の「袖の巻」や喜多川歌麿の「歌満くら」などを目にすれば、その絵画表現の高さに息をのむばかりだ。「春画の名品」を集めた本展は「世界に誇るべき美の世界」(リーフレットの案内文)をこれでもかこれでもかと見せてくれる。 展覧会場を訪れ、春画にはそのような実態があった。猥褻や卑猥などという表現で簡単に片付けられないものだということを知る一方で、そこに強い光を照射しているのは現代人の価値観によるのだということも自覚しなければならない。 こうも言い換えることができる。春画は女性にも喜ばれたという実態がある。それは近年の研究が明らかにした(たとえばアンドリュー・ガーストル『江戸をんなの春画本』平凡社新書、2011)。一方、それを「女子」のための春画ととらえることはあくまでも現在の評価である(たとえば「特集 恋する春画」『芸術新潮』2010年12月号や「女子のための入門 特集春画」『美術手帖』2015年10月号)。 何であれ光を当てれば陰に回るものがある。春画の芸術性が強調されればされるほど、美しいとはいえないもの、低俗なもの、低級なもの、下品なものが見えなくなる。貸本屋の手でぐるぐる流通し、結果的にぼろぼろになってまで読まれた春本もある。それらもひっくるめて春画の世界が広がっていたことも忘れてはならない。本物を見ることの意義 本展に先行して2013年秋にロンドンの大英博物館で開かれた春画展は、英語のタイトルをShunga:sex and pleasure in Japanese artとうたった以上、これまた「芸術」もしくは「美術」という枠組みの中に春画を収めた。しかし、それだけでは不十分と考えた企画者は、「春画と近代世界 Shunga and the modern world」というコーナーを展示室の最後に設け、春画を模した写真(ポルノグラフィーと呼んでよいだろう)や日本の兵隊がロシアの兵隊を犯しているようなあんまり趣味のよくない春画までをも展示した。永青文庫の春画展はこうした視野に欠けるが、会場のキャパシティという現実問題があるわけだから、それは仕方がない。これを突破口に、新たな観点から新たな春画の世界に光を当てる第2、第3の春画展が各地の博物館・美術館で開催されることを期待したい。福岡市美術館「肉筆浮世絵の世界・・・美人画、風俗画、そして春画展」(撮影 木下直之) もちろん、今の日本でそれが容易に実現するとは思えないものの、今年の夏に「肉筆浮世絵の世界・・・美人画、風俗画、そして春画展」を開催した福岡市美術館はひとつのモデルとなるだろう。会場の一隅に春画展示室を設け、力まずに淡々と、春画を見ずに浮世絵の世界を知るなかれと主張していた。公立美術館が春画を公開展示したという点では、永青文庫の春画展よりも画期的な出来事だった。 長い間、春画そのものが日陰の存在だった。1990年代に入って、出版物で春画が無修正で見られるようになっても、日本国内では本物を見る機会は極端に限られていた。閉ざされた扉を研究者が徐々に切り開いた。大英博物館の春画展は、日英合同の研究プロジェクトチームによって周到に準備された。研究に裏打ちされてこそ、春画の多様な世界が見えてくる。 本物を見ることの意義は表現の精度にふれるばかりでなく、形態を知ることにもある。かたちはそれがどのように享受されていたかを示すからだ。印刷物の図版ではなかなかわからない。 それを掲載したことで文藝春秋の社長が激怒し、『週刊文春』編集長に3ケ月の「休養」を命じたと伝わる北斎の「海女とタコ」の絵は、実は絵本(春本、艶本ともいう)なのである。紙面をびっしりと埋める詞書を読むと(もちろん研究者の助けを借りて)、海女がタコに一方的に犯されているのではなく、対等に張り合っていることもわかる。社長も、本物を見て海女とタコのバカバカしい会話に耳を傾けたうえで、それから激怒してほしかった。

  • Thumbnail

    記事

    「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察してみる

    木走正水 固い時事ネタが続きましたので、今日は軽めなコラムということで、肩の力を抜いて読み流していただければ幸いです。 BLOGOSの記事で、作家の村上春樹さんが「原子力発電所ではなく、核発電所と呼びませんか?」とネットで呼びかけていることを知りました。川名 ゆうじ2015年04月06日 12:01「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? 村上春樹さんが呼びかけhttp://blogos.com/article/109523/ ソースはこちらのサイトですね。村上さんのところこれから「核発電所」と呼びませんか?http://www.welluneednt.com/entry/2015/04/03/173000 なるほど、確かに提案されていますです。これから「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? その方が、それに反対する人々の主張もより明確になると思うのですが。それが僕からのささやかな提案です。 まあ、確かに「原子力発電所」は英語で"Nuclear power plant"ですから直訳すれば「核力発電所」ですから、「核発電所」を呼称としてもよろしいかもですが、そんなこといったら、広島や長崎に投下された「原爆」も「原子爆弾」="Atomic bomb"でありますが、よりリアルに「核爆弾」="nuclear bomb"でもよろしいのかとなります。 でも、日本語では「原子力発電所」のほうが略して「原発」ですから「原爆」に語呂があってよりおどろおどろしいと思うのですが、いかがでしょう。 さてBLOGOSのコメント欄でも批判的意見が大半なのですが、最初のコメントで「こうして村上も大江化するわけだ」との指摘があり、思わず我が意を得たりと、膝を叩いて、お茶吹いてしまいました(苦笑) 今回はこのコメントをパクらせていただき、この深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察したいのであります。 ・・・ 実は当ブログでは「村上春樹の大江健三郎化」は6年前から注目していたのであります。脱原発法制定全国ネットワーク設立記者会見で発言する作家で代表世話人の大江健三郎さん=2012年8月22日、衆院第1議員会館 思えば「村上春樹の大江健三郎化」ですが、ここ最近顕著なのでありますが、ひとつのきっかけは、六年前の村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチに見ることができます。 少なからずの批判や反対を押してわざわざイスラエルの授賞式に参加した村上氏は、当時イスラエルのおこしたガザ攻撃への批判をおこなうのです。 この村上春樹さんのエルサレムスピーチでありますがタイトルは「壁と卵」、もちろん、当時国際的批判を浴びていたイスラエルのガザ攻撃を暗喩しているのであります、さすがノーベル証候補と噂される世界的人気作家であります、美味い表現をいたします。 村上氏は「私は常に卵側に立つ」、「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と、強者より弱者の立場に立つことを強調されています。 それまであまり政治的主張を公(おおやけ)にしてこなかった村上氏の政治的主張を自ら発信するという「大江健三郎化」の始まりであります。(参考当ブログ過去エントリー)2009-02-23「壁(システム)と卵(人間)の共生」~村上春樹氏「壁と卵」スピーチからの一愚考http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090223  帰国すると、村上氏は『文藝春秋』2009年4月号で、独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を掲載、そこで村上氏が「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖い」と強烈なネット批判をかまします、そして「あの村上春樹がネット批判」とネットがざわついたのであります。 「人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失ってい」くと村上氏はいいます。 そして、シオニズムにせよイスラム原理主義にせよオウム真理教にせよ、それが宗教であれイデオロギーであれ、ある種の「原理主義」に魂を委譲してしまう人たちは、「原理原則の命じるままに動くようになる」ために、極めて扱いづらい危険な存在となっていくというのです。 「ネット空間にはびこる正論原理主義」について、村上氏は1960年代の学生運動を持ち出して「おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまった」と述べておられます。 村上氏がいう「ネット空間にはびこる正論原理主義」とは、「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されて」しまうというわけです。(参考当ブログ過去エントリー)2009-03-15 ネット日和見主義者~当日記はD層(穏健右派)でありますhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090315 このあたりまでは、しかし、大江健三郎氏のような「九条を守れ」とか「原発即刻全面廃止」とか政治的自己主張をむき出しにはしていません、村上氏らしいオブラードのように文学的修辞をも忘れていませんです。 あれって思ったのは3年前です。 当時、日本政府と中国政府が尖閣を巡って厳しい外交宣伝戦を国連において展開しているそのときに、日本政府の背後から、銃弾が炸裂するように、思い切り国益に反する発言が続けざまになされていました。 その論陣に大江健三郎氏らに交じって村上氏が参戦していたので驚いたのであります。「韓国、中国が、もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中で日本が領有した」(大江健三郎氏ら識者)「領土問題が国民感情の領域に踏み込んでくると、出口のない危険な状況を出現させる」(村上春樹氏)「自分たちに問題がなくても相手が問題と言っていることを解決するのがトップの役割。そのようなことは言ってもらいたくない」(経団連の米倉弘昌会長) 当時、当ブログでは「この3者に共通しているのは、日本社会の構成員でありながら日本社会を批判することを厭わない無責任なアウトサイダーだということ」と批判しています。(参考当ブログ過去エントリー)2012-09-30「利(益)は中国に有り」~尖閣で日本政府批判をする無責任なアウトサイダーたちhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20120930 そして今回の「これから原子力発電所ではなく、核発電所と呼びませんか?」発言です。 もともとリベラル的立ち位置ではあったのですが、穏健リベラル派から正論原理主義的強硬リベラル派へと脱皮しようとしているのであります。(※ここでは「リベラル」を厳密なその言葉の定義ではなく日本で一般化している左派の同義語として使用します) 「村上春樹の大江健三郎化」であります。 ・・・ さて、左派にしろ右派にしろ、強硬派「正論原理主義」つまり「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間」(村上氏)と穏便派「日和見主義」つまり「自分の言葉で誠実に語ろうとする人々」(村上氏)に分けることが可能です。 保守・リベラル、強硬派・穏健派の関係を下の図式のように整理してみます。■図1:イデオロギーと心情の分類 4つの層ですが、A層はリベラル強硬派、B層は保守強硬派、C層はリベラル穏健派、D層は保守穏健派と分類できます。 過激でときに攻撃的な正論原理主義者はA層(リベラル強硬派)とB層(保守強硬派)になり、穏健派はC層(リベラル派)とD層(保守派)になります。 ちなみに当ブログの自己評価はC層に近いD層(保守穏健派)かなと考えてます。 でこの表でおもしろいと思うのは、著者自身はD層(保守穏健派)と自己認識していますが、当然ながら隣接するB層(保守強硬派)とC層(穏健リベラル)とは、親和性があり、議論によっては隣の層の立場を取ることもしばしばながら、B層よりはC層の論説や考え方がすっきりくることが多いのです。 つまりこの表の左右の移動はそれほど心理的ハードルは高くないことを自覚しています。 いっぽう上下の移動はこれは心理的ハードルが高いのです。 ところで、正論原理主義は「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす」のが得意な傾向があり、実はA層とB層も親和性があって、ちょっとしたきっかけでウヨがサヨになったりあるいは逆が起こったりするようです。 村上氏の指摘とおりバリバリの学生運動闘士がバリバリの企業戦士に転向したり、読売主幹のナベツネさんのように学生のとき共産党員だったバリバリリベラルが大新聞会長としてバリバリ保守論説を展開したりと、表の横方向のリベラルと保守のハードルは人にもよるのでしょうが、意外と高くない感じがします。 ・・・ さて、「村上春樹の大江健三郎化」であります。 明らかに村上氏は「C層リベラル穏健派」から大江健三郎氏が属する「A層リベラル強硬派」への道を歩んでいます。 上下の移動はこれは心理的ハードルが高いはずなのですが、村上氏はおそらく心理的にはかなり無理して自らの大江健三郎化を企てているように思えます。 村上春樹はなぜ政治的立ち位置で大江健三郎を目指すのでしょうか。 なぜか? 当ブログはその答えを、ズバリ「ノーベル文学賞」獲得にあると邪推しております。 これは当ブログだけの邪推ではありません。 評論家で作家の小谷野敦氏は、過去になぜ大江がノーベル賞を受賞できて村上が毎回落選するのか、その理由の一つに作家の「政治的な立ち位置」を挙げています。 「ノーベル賞委員会は、少し左寄りである」のだそうです。  さらに政治的な立ち位置も関係している。小谷野に言わせると「ノーベル賞委員会は、少し左寄りである」という。たとえば、アメリカで初めてノーベル文学賞を獲ったシンクレア・ルイスや、授与されたが辞退したサルトルも、社会主義的だった。日本では保守派と見られる川端康成も「その辺はぬかりなく、戦後は平和主義の仮面をかぶり続けた。ノーベル賞をとってしまうと地金が出て、(略)以後日本ペンクラブは右寄りに」なったという。 当時大江健三郎はペンクラブを一度退会しているのだが、その後またペンクラブが左寄りに戻ると、戻ってきて理事になっている。そして「1984年には反核声明を出すなどしているし、大江は原爆、沖縄などを問題視する平和主義者としてふるまい、ノーベル賞にこぎつけた」(参考記事)今年も落選!村上春樹はそもそもノーベル文学賞候補ではないとの説が!?http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/ ・・・ 大江健三郎化を目論む村上春樹の狙いはズバリ、ノーベル文学賞獲得のためだと、当ブログは考えます。 今回は 深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察させていただきました。 え? どうでもいいって? 長文失礼しました(汗 ふう。(木走まさみず)

  • Thumbnail

    テーマ

    ニッポンの左翼マスコミに告ぐ!

    先の通常国会で成立した安保法制をめぐる日本メディアの報道を振り返ってみると、左翼マスコミの偏向ぶりは本当に酷いものでした。「戦争への道」などと荒唐無稽な言説で煽り続けた新聞やテレビがいったいどれだけあったでしょうか。私たちはこれからも「ペンの暴走」を監視しなければなりません!

  • Thumbnail

    記事

    朝日と毎日の論調が地方選挙をダメにする

    として、安保法制を掲げるのはそんなものかと思いますが、そういう当事者間の刺し合いで過熱するからこそ、メディアというものは中立性を発揮して、そういう永田町文脈からは一歩引いて、その地域の有権者が直面する課題を深く考えてもらい、投票率が上がっていくようにするのが本分ではないかと思います。 しかし、たとえば今回の市長選を取り上げた毎日新聞の記事はこんな調子です。山形市長選:まるで地方版「安保対決」の様相(15年9月6日) 6日に告示された山形市長選。参院で審議が進む安全保障関連法案の与野党対立がそのまま持ち込まれ、選挙戦は、さながら「安保対決」の様相だ。 遠藤利明・五輪担当相(衆院山形1区)の地元でもあり、野党側は「安倍政権を追い込める選挙」と結束。1966年以来続く革新・非自民陣営からの市政奪還を目指す自民は、法案賛成を前面に出さず争点化を避けたい考えだが、防戦に追われている。 そして朝日もこんな感じ。安保、市長選争点に 山形、与野党の対立軸(15年9月10日) 国会での審議が大詰めを迎える安全保障関連法案が、山形市長選で主要争点のひとつになっている。国会での与野党対決の構図を映した無所属新顔の2人を軸にした戦い。野党が推す候補が「選挙結果は法案の行方を左右する。山形から反対の民意を示そう」と訴えれば、対立候補の陣営は「地方選と外交・安保は関係ない」と主張する。投開票は13日だ。 両紙とも、さすがに地元の山形版は、市政担当記者が書いた定番の市政の課題連載は一応やっているわけですが、後者の朝日の記事は第二社会面(東京本社管内)に掲載されていて、本社の息がかかってくると、永田町文脈が介入してくるわけですよ。朝日も毎日も野党に“加担”している 沖縄の県知事選のように、県政の争点がイコール基地問題のようになっている場合は例外的に国政とリンクした報道になるのはやむを得ないでしょう。しかし中国が攻めてくるわけでもない山形市で安保法制を“主要争点”扱いとしようとすること自体、朝日も毎日もメディアの中立性を踏み越えて、安倍政権を倒したくてたまらない本音を微妙ににじませつつ、安保法制を争点化したい野党に実質的に“加担”しているわけです。 日本新聞協会が綱領で「報道は正確かつ公正でなければならない」と示す建前論の影で、朝日新聞は昨年の第三者委員会の調査で「角度をつける報道」をやっていたのが暴露されたわけですが、永田町文脈を安易に持ち込む全国紙の地方選挙報道が、不毛な対立を招いたり、政策論議の空洞化につながっていたりするんじゃないでしょうかね。むしろ国政マターを安易に持ち込もうとする中央政党を戒めるような論調をすべきじゃないでしょうかね。別に争点化を避けたかった自民党の肩を持つつもりも全くないけど、政治関連の仕事をしていると、つくづくそう思います。 とりあえず、山形市長選に勝って「安倍政権の打倒へ弾み」なーんてFacebookでシェアしようと思っていたSEALDsクラスタの皆さん、空振りに終わってご愁傷様でした。逆に自民党の皆さんも調子に乗らないことですね。「安保法制が支持された」なんて言わないで粛々と国政と地方のことは切り分けて仕事していただきたいと思います。ではでは。(「新田哲史のWrite Like Talking」より2015年9月14日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    日本の新聞によるデマや誤報が中国の攻撃材料に利用される状況

    参拝した際も中国からの批判は皆無だった。当初は“炎上作戦”は失敗に終わったのだ。だが、繰り返し日本のメディアが靖国参拝を問題視する報道を続け、「靖国」は外交問題に発展していく。戦後70年の節目の年として靖国神社で行なわれた「みらいとてらす」=2015年9月25日(三尾郁恵撮影) 状況が大きく変わったのは、中曽根康弘・首相が公人としての靖国参拝を明言した1985年だった。この時、朝日新聞は再び「反靖国」の一大キャンペーンを始めた。〈靖国神社は戦前、戦中を通じて国家神道のかなめに位置していた。(略)軍国主義日本のシンボルだったことも見逃すことのできない歴史的事実である〉(1985年8月4日付)〈靖国問題が今「愛国心」のかなめとして再び登場してきたことを、中国は厳しい視線で凝視している〉(1985年8月7日付) それでも中国政府は、終戦記念日に中曽根首相が靖国を参拝しても目立った反応をしなかった。畳みかけるように8月末には社会党訪中団が北京に飛び、「中曽根内閣は軍事大国をめざしている」と「告げ口外交」に勤しんだ。 朝日新聞と左派政党の「ご注進」に釣られた中国の要人やメディアはここから靖国参拝批判を開始。中曽根首相は同年秋の例大祭での靖国参拝を断念せざるを得なくなった。つまり中国が靖国で騒ぎ出したのはここ30年の話なのだ。こう見ると、靖国参拝が中国の外交カードとなったことに果たした朝日の“役割”が大きいことがよくわかる。 朝日だけではない。1982年6月には、教科書検定中の文部省が高校日本史の教科書にあった日本軍の「侵略」という文言を「進出」に書き換えさせたと日本のメディアが一斉に報じた。〈日本の中国に対する「侵略」は「進出」である、といった変更を求めるのは、歴史を正しく認識させる上で、決してプラスにはなるまい〉(読売新聞・1982年6月26日付社説) 実際は、書き換えの事実はなく、日本テレビ記者の勘違いが生んだ明らかな誤報を新聞各紙が広げたのだった。しかし中韓はその(虚偽)報道をもとに日本に激しく抗議した。 当時の鈴木善幸内閣は中韓に配慮し、宮澤喜一・官房長官が「政府の責任で教科書の記述を是正する」と約束した。その結果、教科書を作成する際、近隣のアジア諸国に必要な配慮をするという「近隣諸国条項」が設けられた。関連記事■ 櫻井よしこ氏 首相の靖国参拝妨害者の存在はおかしいと指摘■ 渡辺恒雄氏 安倍首相靖国参拝に「オレも失望した」と話す■ 韓国紙デスク 韓国メディアが朝日新聞を大好きな理由を解説■ 中国 ソ連の脅威消滅で靖国利用し日本に圧力と櫻井よしこ氏■ 神社本庁、新宗連、幸福の科学等首相の靖国参拝への見解紹介

  • Thumbnail

    記事

    日本の未来への障害となっているのは中韓を煽るメディア

    スピーチに引けをとらないものであり、実にわかりやすく、印象的なものだったと言える。安倍政権を倒したいメディアでも、さすがにケチをつけにくいのではないか、と私はテレビの画面を見ながら、思ったものである。 しかし、翌日の新聞紙面を見て、私は、溜息が出た。読売新聞や産経新聞を除いて、むしろこの談話を非難するものが「圧倒的」だったのだ。 朝日新聞は、その中でも急先鋒だった。1面で〈引用・間接表現目立つ〉、2・3面も〈主語「私は」使わず〉〈おわび 最後は踏襲〉と攻撃一色で、社説に至っては、〈戦後70年の安倍談話 何のために出したのか〉と題して、徹底した批判を加えた。 それによれば、〈侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワード〉は盛り込まれたが、〈日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされ〉、談話は〈極めて不十分な内容〉であったというのである。 そして、社説子は、〈この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う〉と主張し、〈その責めは、首相自身が負わねばならない〉と締めくくった。 私は、正直、呆れてしまった。それは、いつまで経っても、中国や韓国に「日本攻撃」をするように「仕向ける」報道手法がとられ、これからもそれに添って、中国や韓国が延々と「日本を攻撃していく」という“未来”がわかったからである。 それは同時に、ここまで中国や韓国との間の友好関係が「誰によって破壊されてきたのか」を明確に指し示すものでもあった。 私たちの子や孫の世代、すなわち「未来」に向かって障害となっているのは「誰」なのか、という問いには、自ずと答えが出てくるはずである。それは日本のマスコミが、絶対に日本と中国・韓国との和解と真の友好への発展は「許さない」ということだ。 私は、今から30年前の1985(昭和60)年の夏を思い出す。「戦後40年」を迎えた夏だ。あの時、巷では「戦後政治の総決算」を唱えた当時の中曽根康弘首相を打倒すべく、朝日新聞をはじめ“反中曽根”メディアが激しい攻撃を繰り広げていた。それは、“打倒安倍政権”に邁進している今のメディア状況と酷似している。 この時、中曽根首相の「靖国参拝」を阻止するために大キャンペーンを張っていた朝日新聞が、「人民日報」を担ぎ出し、ついに中国共産党機関紙である同紙に、靖国参拝批判を書かせることに成功するのである。 文化大革命でも明らかなように、中国は「壁新聞」の国である。人民は、“お上”の意向を知るために、北京市の長安街通りの西単(シータン)というところに貼りだされている新聞を読み、上の“意向”に添って行動し、あの文革で権力抗争の一翼を担ったのはご承知の通りだ。 そんな国で、人民日報が取り上げて以降の「靖国参拝問題」がどうなっていったかは、あらためて説明の必要もないだろう。A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは1978(昭和53)年であり、それが明らかになったのは、翌年のことだ。その後、この時まで日本の首相は計21回も靖国に参拝しているのに、どの国からも、たった一度も、問題にされたことはなかった。 しかし、朝日が反靖国参拝キャンペーンを繰り広げ、人民日報がこれに追随したこの昭和60年以降、靖国神社は中国や韓国で「軍国主義の象徴」となり、「A級戦犯を讃える施設」とされていった。 靖国神社が、吉田松陰や坂本龍馬を含む、およそ250万人もの幕末以来の「国事殉難者」を祀った神社であることは、どこかへ「消し飛んだ」のである。靖国参拝を完全に「外交問題化」「政治問題化」することに成功した朝日新聞は、より反靖国キャンペーンを強め、中国は日本に対する大きな“外交カード”を手に入れたのである。 慰安婦問題については、これまで当ブログで何度も取り上げ、しかも、昨年、朝日新聞による訂正・撤回問題に発展したので、ここでは触れない。しかし、この問題も朝日新聞によって「外交問題化」「政治問題化」していったことは周知の通りだ。 今回の安倍談話でも、中・韓に怒りを呼び起こすように記事化し、「これでもか」とばかりに一方的な紙面をつくり上げた朝日新聞をはじめとする日本のメディア。私は、溜息をつきながら、これらの記事をこの夏、読んだのである。 折も折、フランスの「ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)」がその2日後の8月17日、興味深い報道をおこなった。同ラジオは、フランス外務省の予算で運営されている国際放送サービスだ。 この放送の中国語版が安倍談話を取り上げ、これを報じた『レコード・チャイナ』によれば、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」「日本は中国への反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」「永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓は、あまりにも遅れている」と論評した。 その内容は、常識的、かつ中立的なものと言える。敗戦国も「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」ものであり、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈したのである。 さらには、「平和主義、民主主義を掲げる日本が、軍事拡張路線、権威主義の中国に屈することはない」と主張し、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めていることは、同じ敗戦国である「ドイツやイタリアでは見られない事態」だというのである。 その報道は、最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめられている。だが、RFIが報じたこの内容は、日本のメディアには、ほとんど無視された。 70年もの間、平和国家としての実績を積み上げてきた日本が、「力による現状変更」で、今や世界中の脅威となっている中国に対して「謝り方が足りない」と当の日本のメディアによって主張されていることを、私たちはどう判断すればいいのだろうか。 私には、代々の日本の首相などが表明してきた謝罪や談話の末に「戦後50年」の節目に出された村山談話で、日本と中・韓との関係は、どうなったかが、想起される。 朝日新聞をはじめ日本のメディアが歓迎したあの村山談話の「謝罪と反省」によって、両国との関係は、むしろ「それまで」より悪化していった。村山談話以降の歳月は、両国との関係が“最悪”に向かって突っ走っていった20年だったのである。 どんなに反省し、謝罪しようが、彼らを“煽る”日本のメディアはあとを絶たず、日本への怒りを中・韓に決して「収まらせはしない」のである。そして、この「戦後70年」夏の報道でもわかった通り、それは「今後もつづく」のである。 どんなことがあっても、日本の未来への“障害”となりつづける日本のマスコミ。私たちの子や孫の世代に大きな重荷を負わせるそんな日本の媒体が、なぜいつまでも存続できているのか、私にはわからない。

  • Thumbnail

    記事

    古舘伊知郎が泣いた朝日新聞ジョン・ダワー記事を検証する

    うなのですが、従軍慰安婦問題などで顕著である事実とは異なる誇張された間違った捏造された「虚構」が一部メディアや反日的な国で拡散していることにに対しては、厳しく反証すべきなのですが、その事実にはまったくふれていません。憲法記念日に開かれた憲法集会に参加する人々=5月3日、横浜市西区 さらに「アジアにおける安全保障政策は確かに難題」との認識も「米軍と一体化するのが最善とは思えません」という危惧を提示しています。 「尖閣諸島や南シナ海をめぐる中国の振る舞いに緊張が高まっている今、アジアにおける安全保障政策は確かに難題です。民主党の鳩山政権は『東アジア共同体』構想を唱えましたが、それに見合う力量はなく、米国によって完全につぶされました」 「だからといって、米軍と一体化するのが最善とは思えません。冷戦後の米国は、世界のどんな地域でも米軍が優位に立ち続けるべきだと考えています。中国近海を含んだすべての沿岸海域を米国が管理するという考えです。これを米国は防衛と呼び、中国は挑発と見なす。米中のパワーゲームに日本が取り込まれています。ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべきです」 ここで決定的な護憲派のテンプレが登場します。「ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべき」とジョン・ダワー氏は提言しているのですが、「日本のソフトパワー」って何かと問われた彼はこう説明しています。ここ核心部分ですので、少し長いですがそのまま引用。――では、日本のソフトパワーで何ができるでしょうか。 「福島で原発事故が起き、さらに憲法がひねり潰されそうになっている今、過去のように国民から大きな声が上がるかどうかが問題でしょう。今の政策に国民は疑問を感じています。安倍首相は自らの信念を貫くために法治主義をゆがめ、解釈によって憲法違反に踏み込もうとしている。そこで、多くの国民が『ちょっと待って』と言い始めたように見えます」 「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から湧き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」 「本当に偉大な国は、自分たちの過去も批判しなければなりません。日本も、そして米国も、戦争中に多くの恥ずべき行為をしており、それは自ら批判しなければならない。郷土を愛することを英語でパトリオティズムと言います。狭量で不寛容なナショナリズムとは異なり、これは正当な思いです。すべての国は称賛され、尊敬されるべきものを持っている。そして自国を愛するからこそ、人々は過去を反省し、変革を起こそうとするのです」 迫りくる中国の軍事的脅威に対して、日本のソフトパワーによって解決せよ、と言います。それは、世論を盛り上げて安倍政権に反対して『平和憲法』を守り、また自分たちの過去もしっかり反省することだと、要はこのように言っているわけです。 でました。ここなのです。護憲派の主張の典型です。 目の前の安全保障上の脅威に対して具体的な策がまったく示されないのです。「憲法第9条だけ唱えていれば、日本だけは平和になる」、まるでこのように主張しているようなものです。 この冷徹な現実を前に日本だけが「九条」を念仏のように唱えれば平和が確保できるなどそれこそ平和ボケ外交音痴な戯言(ざれごと)です。 この状況下で、防衛、外交方針を具体的に打ち出す保守派に対して、護憲派は数十年前から更新されない言葉で教条的かつ精神論的な憲法9条擁護論を繰り返すだけで、現実に存在する国民の不安に対応しようとしません。 多くの護憲派メディアおよび論者は「戦争法案反対、憲法を守れ」と安倍首相をバカにするわけですが、こうした指摘自体が一歩譲って仮に妥当だったとしても、護憲派勢力はこうして相手をバカにするだけで自分たちは具体的な、現実的な処方箋を出せていません。 これで国民の支持を得れるはずがありません。 護憲派は国家に軍事力が必要であることも、中国の軍事的膨張の脅威や近隣諸国の反日ナショナリズムの問題も一通り認めなければなりません、その上で、保守派の掲げる論以外の現実的な選択肢を提示することこそすべきなのです。 保守派の主張以外の手段を講じた方が、国防に結びつくというアピールがまったくないのです。 もっとも問題なのは、護憲派勢力のある種の大衆蔑視ともいえる自己陶酔です。 保守派は現実に起こっている変化に何とか対応しようと具体的に政策を打ち出しますが、護憲派は教条的憲法擁護論に拘泥し、自らの主張に酔い反対意見を机上で論破することのみに執着し、現実の日本を取り巻く状況に対して何ら具体的政策を国民に訴えることを放棄して、そこで自己満足しているのです。 現実に社民や共産などの護憲政党の長期凋落傾向を持ち出すまでもなく、護憲派リベラルの浮世離れした教条的憲法擁護論だけでは、すでに国民の支持を失っていることを強く自覚すべきでしょう。 冷徹な現実を見つめよ、ということです。(ブログ「木走日記」より2015年8月7日分を掲載)

  • Thumbnail

    記事

    左翼キャスター・コメンテーター 進歩的文化人の後裔は限りなく軽い

    、衆議院議長(89)、大臣(89)よりも高かった。いまでも卒業式のシーズンには、東京大学総長の言葉はメディアで報道されているが、スピーチの内容はかなりはしょられている。季語のような儀礼的報道である。進歩的文化人が闊歩していた時代には、「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」(1964年3月の大河内一男東大総長の卒業式式辞。ただしこの言は、原稿にはあったが式場では省かれた)のように、東大総長の式辞は時代の指針の言葉のように詳しく報道され、社会的話題にもなった。大河内総長自身が押しも押されぬ進歩的文化人だった。 そんな時代だから唯の大学教授でもスコアは83で医師(77)をはるかに離し、大会社の社長(82)よりも高い評価だったのである。であれば、芸術家や作家の威信も高かったはずである。もちろんこの時代の大学教員数と今の大学教員数を比べれば、5万人(1960年)から18万人と3倍以上も膨張した。大学教授のインフレは威信の低下――95年調査では、医師90、大会社の社長87、裁判官87、大学教授84――に影響しているが数の膨張だけが原因ではない。かつての大学教授の威信の高さは、戦後の無い無いづくしの中で生まれた文化国家という目標と人々の学歴志向とが連動しながら、大衆インテリが増産されるなかで学者文化人への畏敬の念が強まったことが大きな要因だった。 中でも進歩的文化人は、大学教授の中の大物であるから、その威光は格別である。だからかつての進歩的文化人はいまのキャスターやコメンテーターの発言などとは比べ物にならない影響力を行使したのである。当時は、ネットはないし、テレビは萌芽期で普及したときでも娯楽を主とした二流メディアにすぎなかった。活字の印刷媒体こそが権威メディアであったから、進歩的文化人は論壇誌や著書、そして講演、声明活動などで啓蒙活動にいそしんだのである。そう、進歩的文化人の時代というものがあったのである。戦後70年を考えるときに、敗戦後四半世紀以上にもわたって大きな影響力をふるった進歩的文化人群は忘れてはならない社会集団である。進歩的文化人の巣だった『世界』 この進歩的文化人の誕生地となり、原型となったものは何か。岩波書店世界編集部の吉野源三郎が音頭取りとなって、共産党員ではない文化人を糾合した平和問題懇談会である。平和問題談話会は1948年12月に平和問題討議会として発足し、「多数講和」(とりあえず米英をはじめとする西側諸国と講和条約を結ぶ)に反対し、米ソを含むすべての連合国と同時に講和条約を結ぶべきとする全面講和、中立不可侵、軍事基地反対を唱える声明を『世界』に発表した。談話会は年長世代の安部能成や大内兵衛などをかつぎながらも、実質的には清水幾太郎・丸山眞男・久野収などが仕切った。かくて『世界』と岩波は、進歩的文化人の本拠地となった。こうしたことから岩波と言うと、進歩的文化人の牙城とおもわれてきたが、それは、1946年1月の『世界』創刊号からはじまったわけではないことに注意したい。岩波書店創始者である岩波茂雄存命のときの『世界』は進歩的文化人の雑誌ではなかった。『世界』は、津田左右吉の皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」論文(1946年4月号)を掲載したように、オールドリベラリスト(安倍能成や小泉信三など戦前からの自由主義者)系の穏健な雑誌として出発した。そのころは、『前衛』(日本共産党中央機関誌)はもとより、『人民評論』『民主評論』『社会評論』『世界評論』『潮流』など左翼系雑誌が目白押しだった。『改造』は「ブルジョア左翼雑誌」とみなされ、『中央公論』は「微温的」といわれた時代である。したがって岩波茂雄存命時代の『世界』は、左派からは、ブルジョア左翼にも達しない「金ボタンの秀才の雑誌」といわれていた。日本共産党機関誌『前衛』の雑誌評では、『世界』は「保守的なくさみが強い」とされてさえいた。 あまつさえ、『アカハタ』(1948年3月5日)で岩波書店が叩かれるこんな事件もあった。岩波書店が、割り当てられたインディアン・ペーパー(辞典用紙)を煙草巻紙用に横流ししたという記事(「摘発した物を再割当」)である。経済安定本部顧問会議に岩波書店の吉野源三郎が出席していて、長官の和田博雄(農政官僚、のちに社会党副委員長)と示し合せての仕業という記事である。のちにこの記事について事実無根の訂正がなされたが、日本共産党が『世界』を含めた岩波書店を同伴者ともおもっていなかったからこそ、ウラを取った気配の感じられない、醜聞記事を載せたといえる。 『世界』や岩波の刊行物が左旋回したのは、岩波茂雄没(1946年4月25日)後数年たち、平和問題談話会ができたあたりからである。『世界』は平和問題談話会の声明発表場所となり、かれらの論稿を掲載する場となった。『思想』や「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする岩波書店の刊行物は相互に同種の傾向(進歩的文化)をもつものが多くなった。1949年4月には、岩波新書が表紙デザインは戦前と同じだったが色を赤色から青色に変え(青版)、『解放思想史の人々』(大塚金之助)などで再出発させた。このときに付された「岩波新書の再出発に際して」には、「平和にして自立的な民主主義日本の建設」「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせ」る、と言明されている。『世界』の平和問題談話会路線とその軌を一にした言明である。刊行物ミックス(併読)効果によって、岩波文化を進歩的文化人と進歩的文化の牙城にしたのである。進歩派を活気づけるに終わった福田恆存の批判論文進歩派を活気づけるに終わった福田恆存の批判論文 『世界』を舞台に平和問題談話会に蝟集した岩波進歩的文化人を完膚なきまで批判したのが、今では戦後の名論文とされる福田恆存の『「平和論の進め方についての疑問」(『中央公論』1954年12月号)である。 福田のつけた題名は、「平和論に対する疑問」だったのが、編集部が配慮して、つまりトーンダウンさせて「平和論の進め方についての疑問」にした。さらに、福田論文掲載号の編集後記は、「ただこういう論旨が現状肯定派に歪曲され悪用されることは警戒しなければならぬと思います」と、腰がひけたというより、ひけすぎたものである。しかし、こういう編集後記を添えざるを得なかった当時の論壇の空気を思い浮かべるべきであろう。飛ぶ鳥を落とす勢いの平和問題談話会を代表とする進歩的文化人を論難することがいかにむずかしかったかがわかるものである。「平和論の進め方についての疑問」は、一時代を画する論文で、よく知られているが、その内容をかいつまんで紹介しておこう。福田は、平和論者の平和論よりもまずは、そうした論をとなえる「文化人」の思惟様式や行為様式の批判からはじめている。文化人とは事件や問題がおき、ジャーナリズムに意見を聞かれれば、どこかに適当な原因をみいだしてなにごとにも一家言を提供する人種で、「運がなかつた」からだとか「自分にはよくわからない」などとはいわない人々であるとし、「自分にとつてもつとも切実なことにだけ口をだすといふ習慣を身につけたらどうでせうか」という。いまのコメンテーターにもそのまま送りたい揶揄であるが、福田はこのように文化人批判をしてから、平和論をめぐる岩波進歩的文化人の思惟様式批判に入る。 日本の平和論は正月などに使う「屠蘇の杯」だという。屠蘇の杯は「小さな杯は順次により大きな杯の上にのつかつてゐる」。平和問題論者は、基地における教育問題(風儀の乱れと猥雑さ)を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらない。統一戦線とか民主戦線とかいうのは、こうした拡大主義から生まれてくる。現地解決主義ではなく、無制限な拡大をなす。そのことで本末転倒がなされ、基地における教育問題などのもとの問題を忘れさせてしまう。最後に、福田はこういう。平和論者は、二つの世界の共存をどういう根拠で信じているのか、日本のような小国は強大な国家と協力しなければやってはいけないはず、と。 「平和論の進め方についての疑問」は、『中央公論』の巻頭論文ということもあって、蜂の巣をつついたような騒ぎをもたらした。絶賛した記事もあったが、九牛の一毛。しかも匿名記事にすぎない。ほとんどは猛反発だった。「平和論の進め方についての疑問」が発表された『中央公論』の翌月号(1955年1月号)には、平野義太郎「福田恆在氏の疑問に答える」が掲載される。「ダレスという猿まわしに曳きまわされながら、小ざかしくも踊つているのではないか、という疑いをもちました」という激しい論調になっている。福田は平野論文への応答「ふたたび平和論者に送る」を『中央公論』(同年2月号)に発表する。 ここで福田論文と反撥論文をめぐる読者の反響の大きさを掲載号の『中央公論』の購読数でみよう。たしかに、福田論文が掲載された12月号の実売数が7万6000で前月より4千部ほど多かった。それなりの反響がうかがえる。しかし反響の大きさは平野の反論のほうである。1月号は前年の福田論文の12月号よりもさらに、1万部も増え8万7000となる。福田の反論がでた2月号は平野の1月号ほどではなく、8万2000。3月号には向坂逸郎(経済学者、1897~1985)や中島健三などのあらたな福田への反論が掲載される。この3月号は福田が反論した2月号よりも1000部強多い。福田論文がむしろ進歩的文化人側を活気づける塩梅になったことに、当時のインテリ界の空気がいかなるものかが表されている。朝日新聞を「権威」づけたもたれ合い 進歩的文化人は、その誕生地と活躍舞台を「岩波書店」にしたが、もうひとつ「朝日新聞」という舞台がくわわった。「朝日新聞」の論壇時評が『世界』掲載論文や進歩的文化人の論文をいかに多くとりあげたかについては、社会学者辻村明による労作「朝日新聞の仮面」(『諸君!』1982年1月号)がくわしい。それによると、1951年10月から80年12月までに朝日新聞論壇時評で言及された論者の頻度数では、1位中野好夫、2位小田実、3位清水幾太郎、4位加藤周一、5位坂本義和である。上位26人のほとんどを、『世界』の常連執筆者である岩波文化人が占める。『中央公論』は取り上げても、『諸君!』や『正論』などの保守系論壇誌掲載論文をとりあげることは少なく、とりあげても否定的言及が多かった。 こうして進歩的教授(文化人)・岩波書店・朝日新聞はもたれあいの鉄の三角形を形成した。もたれあいと言うのは、そもそも進歩的教授にしてもジャーナリズムにしても、みずからの権威(正統性)を自前で生み出すことはできない。他者の認証あっての権威である。したがって、権威を貸与しあったり、借用しあったりのキャッチボールによって権威が確立する。進歩的教授・文化人は自らの権威の正統化のために岩波書店や朝日新聞によりかかった。岩波のほうは進歩的教授・文化人の著作を出版することで、権威をもつことができた。一方、朝日は著名な岩波文化人=進歩的教授・文化人を紙面に登場させることで、クオリティ紙やインテリの新聞のブランドを得、岩波文化人=進歩的教授・文化人を読者=大衆へ橋渡しすることで、その権威を浸透させ、大衆の支持を獲得する役目をになった。岩波文化も進歩的教授・文化人も朝日の紙面によって大衆的正統化を獲得することができた。 「朝日新聞」はこうした大衆的正統化を後ろ盾にしていただけに、岩波文化人・進歩的教授(文化人)の論説を薄めた朝日的なるものは戦後日本のたてまえとなった。護憲、非武装平和主義などがこれである。そうであればこそ、自民党の政治家や財界人の中にこのたてまえを考慮するハト派がうまれた。この鉄の三角形から進歩的文化人と朝日文化人と岩波文化人はイコールになった。岩波族や朝日族である読者たちは桟敷席にいる観衆であるが、岩波文化・朝日新聞・進歩的教授(文化人)を言祝ぐことで進歩的インテリとして聖別化される功徳を得るという構造(図参照)ができたのである。大衆化した後裔たちの茶番劇覇権的地位からの転落 かくて大学キャンパスやメディア産業従事者の間では、進歩的文化人のイデオロギーこそが支配思想であり、進歩的文化人が支配階級となった。その時代、進歩的文化人の言説と真逆の物言いをする学者がどんな反応を呼び込んだか…。60年安保の翌年大学に入学したわたしには、ありありと思いだされる。当時、京都大学法学部に大石義雄教授がいた。法学部だけでなく、教養課程の日本国憲法も教えていた。日本国憲法は教職免状を取得するための必須科目であるから、大石教授は法学部以外の学生の間にもよく知られていた。大石教授は、日本国憲法を占領軍による押し付け憲法論として、憲法改正論を展開し、自衛隊については現行憲法でも合憲として、そのことを授業でも開陳していた。だから、典型的な「保守反動教授」とみなされていたが、それだけでおわらなかった。なにかの話で「大石さん」が出てくると、その途端に笑いがおこる、変人・バカ教授扱いだった。誰も反動的文化人になりたくないから、人気を気にする教授連は、反動的文化人とだけはいわれないような立ち位置をとった。左翼に媚びているとおもわれる教授もいた。 いや他人事ではない。私自身が嘲笑されたことがある。私が大学院生の1968年の冬ごろだった。さすがにこのころは、全共闘の時代で進歩的文化人の株価は猛烈に下がり、丸山眞男(進歩的文化人)の時代から吉本隆明(進歩的文化人批判の左派知識人)の時代になっていたが、それでも保守反動知識人は論外だった。 当時、福田恆存が面白いなどと仲間の学生に語りかける雰囲気ではないことはわかっていた。だから友人たちにしゃべることはなかった。ところが…あるとき数人の仲間が友人の下宿に集まって談話することがあった。吉本隆明のなんとかがどうしたこうしたというような当時のありふれた会話がつづいた。わたしは、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、二人は似ているんだな」といった。 恥ずかしいことだが、そのとき二人の女子学生がいたので、彼女たちにいいところをみせたいという邪心が働いたのであろう。しかし、「似ているんだな」といいだしたあたりから、呆れた物言いだということがありありとわかる表情を全員から投げ返された。そのあとをつづける勇気はなく、「うんまあ…いいけど」で終わってしまった。「いいなら、いうなよ」と追い討ちまでかけられた。いいところをみせるどころか、すっかり面目を失ってしまった。 このことがあってから、その場に居合わせた吉本隆明の女子学生は、わたしを誰かに紹介するときはかならず「この人ウヨクよ」と添えたものである。福田恆存をよいというだけで「ウヨク」扱いを受けた時代なのである。このときのウヨクは「右翼」ではなく「バカ」に近い意味だった。 大学や文化産業においてでは、左派は、中国における共産党のようなもの、つまり体制だった。にもかかわらず、自分たちは反体制だとのみ思っているところや、自分たちこそ正義や知性やヒューマン価値の担い手の「意識高い」系であるとする臆面のなさがなんとも鼻についた。進歩的文化人やそのシンパの進歩的大衆インテリがいやだったのは、かれらのイデオロギーもさることながら、鈍感な自己意識から繰り出される啓蒙という名の特権的で抑圧・排除型の支配だった。 しかし、進歩的文化人の覇権は、全共闘によって打ち砕かれる。進歩的文化人の鬼子による親殺しがおこなわれたのである。糾弾の論理は、東大全共闘会議議長山本義隆によってかかれた論文(「東京大学 その無責任の底に流れるもの」『現代の眼』1969年6月号)に要約されている。山本義隆は、この論文で、教授会の無責任構造を非難し、丸山の『日本の思想』をとりあげ、引用しながら、丸山が剔抉した日本社会の病理は大河内一男総長体制下の東大評議会・教授会そのものである、何故丸山は東京大学の体制そのものを批判しないのか、と激しく非難した。進歩的教授は、日本社会論のような総論では忌憚のない見立てを展開するが、各論それも大学や知識人集団の仲間集団のこととなると、口をつぐむか打って変わって仲間擁護の甘い見立てになる、と講壇安全左翼の不徹底性が糾弾されたのである。山本義隆は、日大全共闘との対談では、進歩的教授についてつぎのように批判をしている。 一体進歩的文化人といわれる教授たちは何をやってきたか。彼らはいまやきわめて反動的な役割を果たしているか、困ってしまって無言を重ねているか、そのいずれかではないか。進歩的文化人といわれ、平和と民主主義を説いて、高度成長の経済社会では欺瞞的に教授という位置を与えられ、その範囲内で毒にも薬にもならぬ平和・民主主義論を説くことを許容されていた、それ以外の何ものでもなかったことを示している(「権威と腐敗に抗して」『中央公論』1969年1月号)。 当時の大学自治で守られた大学という安全地帯のなかでのかれらの反体制的言説をウソくさいと全共闘が糾弾したのである。いざとなったら、職場を守り、文部官僚や政府権力と結託し、全共闘学生を機動隊に渡す大学教育官僚にすぎない、と。こうして進歩的教授や進歩的文化人という呼称から発した光輪が消え、呼称そのものが消滅した。進歩的文化人・岩波文化・朝日新聞の鉄の三角形の一角が瓦解した。権威の借用・貸与によって存立した鉄の三角形が形骸化しはじめた。大衆化した後裔たちの茶番劇 ところが、小型化し軽量化された大衆的進歩的文化人がキャスターやコメンテーターの姿であらわれた。それは、「堅気(保守)的大衆」よりも、権利と自己主張に急な「(疑似)進歩的大衆」がせり出したことと相関している。どっこい進歩的文化人は生きているという思いをもった。だとすれば、全共闘的なるものがあらわれるはず、と思わぬでもなかった。 案の定、といっても思いもかけない形でそれはあらわれた。今年3月27日のテレ朝「報道ステーション」の冒頭のあの事件である。新聞や雑誌でも報道されたから、よく知られているが、かいつまんでふれておこう。古舘キャスターがコメンテーターの古賀茂明氏に中東情勢についてのコメントを求めると、古賀氏はこう言い始めた。「テレビ朝日の早河会長と古舘プロジェクトの佐藤会長のご意向で今日が最後ということなんです」。つづいて古賀氏は、菅官房長官の名前も出して、官邸から「ものすごいバッシングを受けました」と言った。古舘氏が慌てて、今の話は「私としては承服できません」と言うと、それを受けて、古賀氏は爆弾発言をした。テレビ局幹部と官邸の意向による「更迭」について、古舘さんは「自分は何もできなかった。本当に申し訳ないと言いましたね」。古舘さんとの「やりとり」は録音しているから「全部出させてもらう」、とまで言い放った。 古賀氏の自爆テロとも言われたが、私は、これはどこかで見た光景の再現に見えた。機動隊が全共闘学生をけちらかすことに進歩的教授は手を貸したと糾弾する全共闘学生に古賀氏が、そのように糾弾される進歩的教授に古舘氏が、二重写しで見えてきたのである。酷な言い方にはなるが、いざとなると、大学の秩序ならぬテレ朝と古舘プロ、そして自己の延命にまわるあたりも、その昔の進歩的教授と相似である。 歴史上の事件については、一度目は悲劇で、二度目は茶番としてあらわれるといわれるが、たしかに古賀事件は茶番劇だった。そうなったのも、二度目の軽量進歩的文化人の存在そのものが茶番であるからだ。いまや、ヤンチャ系であるはずの芸能人もスポーツ選手もテレビカメラが向けられると、かつての進歩的文化人のような物言いをするが、そうした化身事が猿芝居であるからだ。たけうち・よう 昭和17(1942)年、新潟県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科教授、関西大学人間健康学部長を経て現職。『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)で2012年度読売・吉野作造賞。著書に『教養主義の没落』(中公新書)、『知識人とファシズム』(共訳、柏書房)など多数。近著は『大衆の幻像』(中央公論新社)。 

  • Thumbnail

    記事

    櫻井よしこが問う 朝日新聞が導く「戦争への道」に惑わされるな

    官会見と防衛相答弁をなぜ報じなかったのか 中国による急速なガス田開発を国民に知らせないという点では、メディアの責任も大きい。特に朝日新聞の報道には疑問を抱かざるを得ない。 私は7月6日の産経新聞でこの東シナ海の新たなガス田開発問題を報じたのだが、同日、菅義偉官房長官は定例記者会見で、「一方的な開発を進めていることに対し、中国側に繰り返し抗議すると同時に、作業の中止を求めている」と語った。プラットホームの数など具体的情報は明らかにしなかったが、中国が一方的に新たな開発を進めていることを認めたものだ。 7月10日には、中谷元・防衛相が衆院平和安全特別委員会で、海洋プラットホームが軍事拠点化される可能性に関して、「プラットホームにレーダーを配備する可能性がある」「東シナ海における中国の監視、警戒能力が向上し、自衛隊の活動がこれまでより把握される可能性があると考えている」と述べた。国民の知らない内に中国が東シナ海を一方的に開発し、日本の安全保障に深刻な脅威を与える状況が生まれていたとの認識であろう。 産経新聞と読売新聞は防衛相答弁を翌11日付朝刊の一面トップで報じた。中谷氏の答弁は、中国の脅威増大と密接にからむ新安保法制の審議中というタイミングからいっても、大きく報じる価値があるはずである。 しかし、朝日新聞は、このいずれのタイミングでも中国の新たなガス田開発について報道しなかった。朝日が報じたのは、7日の自民党国防部会が、本年度の国防白書にガス田開発の記述がほとんどないとして了承を見送ったこと(八日付朝刊)と、衆院平和安全特別委員会で安全保障関連法案を可決した16日、自民党国防部会が改めてこの国防白書を了承したことだけである(同日付夕刊)。 8日の記事では、「中国の東シナ海でのガス田開発についての記述がほとんどなく、安全保障法制に影響する」という部会長の佐藤正久議員のコメントはあるが、いつ、どんな開発がなされていたのかまったく不明である。16日になってようやく、中国は「13年6月以降…新たな海洋プラットホームの建設作業などを進めている」と書いたが、中谷氏も「日本の安全保障にとって新たな脅威になる」と指摘したプラットホームが持つ危険性には触れていない。これでは、朝日しか読まない人々は、東シナ海で起きていることやその脅威について全く知ることはできないのではないか。 安全保障関連法は7月15日に衆院特別委で採決されたが、翌16日付の朝日新聞は朝刊一面で、「安保採決 自公が強行」というトップの記事の下に立松朗・政治部長が、「熟議 置き去りにした政権」とコラムで書いた。 「熟議」は、あらゆる必要な情報が与野党双方に認識されていなければできないはずである。日本の安全、日本の空と海と陸をどう守るのか。国民の財産と安全をどう守るのか。日本国の安全保障を論じるとき、隣国が係争の海である東シナ海で進めている蛮行を考慮せずに、如何にして、まともな形の議論が可能なのだろうか。 朝日が熟議に必要な情報を報道したとは到底、言えないのだ。南シナ海の軍事拠点づくりで世界中を震撼させた中国の脅威が東シナ海でも急速に増大していることを報じようとしない朝日新聞は、メディアとして、報じるべきことを報じてから「熟議」を求めるべきではないのか。大局面で判断を誤り続けたのは大局面で判断を誤り続けたのは 立松氏のコラムはさらに、安倍首相が「日米安保条約改定や国連平和維持活動(PKO)協力法もメディアが批判し、反対の世論が強いなかで実現させ、今ではみんな賛成している」と主張したとして、「『どうせ理解されないし、時が解決する』と言わんばかりの態度は、政治の責任に無自覚だ」と批判している。 しかし、そのときは国民の理解を得られなくても、本当に国家に必要なことを為し、その評価を歴史の審判に委ねる姿勢は政治家の崇高な義務感の表れでもある。 逆に、朝日新聞に問いたい。朝日は日米安保条約改定やPKO協力法に反対してきた。それは歴史の審判に堪えられる見解だったのか。答えは明らかに「ノー」であろう。日米安保も自衛隊のPKO活動もいまでは国民の大多数が必要だと考え、支持している。 それだけではない。サンフランシスコ講和条約締結時における「単独講和」反対論、自衛隊を白い眼でみる論調。国家の命運をかけた重要な選択や、国家の土台である安全保障について、朝日新聞はことごとく間違ってきた。自衛隊は、いまや国民の九割の信頼を集めている。 重要課題でこれほど間違いを重ねてきた新聞は、世界でも珍しいのではないか。朝日は安倍首相を批判するよりも、自らの不明を恥じ反省することが先ではないか。 わが国の眼前に迫り来る脅威は報じずに、日本の抑止力を高めるための法整備に、「戦争法案」「戦争への道」「徴兵制」「殺し殺される国」といった情緒的なレッテルを、デモ参加者や野党議員らのコメントを利用して書き立て、反対を煽る。こうした報道姿勢は、自分たちのイデオロギーに沿わない安倍首相を敵視する「反安倍キャンペーン」だと言ってもよいもので、国の針路を誤らせかねない。中国の脅威にいま対処して抑止力を高めなければ、それこそ逆に「戦争への道」に追い込まれる危険が増大するのではないか。 そして、7月22日、政府が15点の写真と共に、中国の東シナ海でのガス田開発情報を公開した。23日付「産経」も「読売」も一面トップ扱いである。「朝日」も遂に報道したが、一面の左カタと二面を割いての報道である。政府の情報公開は遅きに失しているが、公開自体は評価したい。朝日の読者もようやくこれで中国の蛮行について知ることができたといえる。日本と安倍政権の使命 中国は、アメリカが内向き思考のオバマ政権下にある間に、中国式の世界秩序をつくろうとしているのではないか。かなりの部分、それが成功しつつあると思われる。軍事しかり、アジア投資銀行(AIIB)に象徴される金融しかり、中国語教育機関を名乗る思想宣伝機関の孔子学院の世界展開しかり、である。 7月1日には中国の全国人民代表大会が「国家安全法」を採択し、即日施行された。領土と海洋権益の防衛、テロや暴動、少数民族などの国内治安維持に加えて、宇宙やサイバー空間での安全保障、資源確保などが担保されなければならないとする内容だ。そのうえで、国家主権と領土保全の維持は「香港、マカオ、台湾の住民を含む中国人民の共同義務」とされた(産経新聞7月4日付)。 共産党批判や民主派の活動を封じ込める狙いがあるとみられるが、その対象になんと台湾人も含めたのである。反中国デモに参加したことのある台湾人が、その後に旅行や仕事などで中国を訪れるだけで、逮捕または拘留されることもあり得るのだ。中国が横暴な拡張主義を法律面でも強めている具体例である。 こうした中国の強硬策を見て、アメリカの対中姿勢が硬化しつつある。長くアメリカの外交政策をリードし、親中路線の旗振り役でもあった有力研究所「外交問題評議会」(CFR)は今年3月の特別報告書で、「現在の最大かつ最も深刻なアメリカへの戦略的挑戦は中国の強大化である」として「国防予算の削減を止めて軍備を増強し、中国包囲網を構築すべき」と提言した。国務省でさえ南シナ海の人工島を認めないとし、ハリー・ハリス太平洋軍司令官は「砂の万里の長城である」と非難した。極めつけは、統合参謀本部が七月一日に公表した「国家軍事戦略」である。中国をロシア、北朝鮮、そしてイランと並ぶ「潜在的な敵性国家」に初めて位置づけ、国際秩序を脅かす「リビジョニスト国家」とも呼んだのである。 ただ、肝心のホワイトハウスは中国の脅威を正面から受け止めかねているかのようだ。世界はいま、そのことを半ば恐怖の目で見ている。アメリカの内向き姿勢はオバマ政権だけのものではなく、国民意識の変化の表れで、今後も続くのではないかという懸念も捨てきれない。国際情勢がアメリカを中心軸とする秩序から中国の覇権を中心軸とする体制へと移行しつつあるのかもしれないとの見方が広がっている。 そんな中で、中国の脅威をリアルに実感している国際社会、特にアジア諸国の、日本への期待感が強まっている。日本の憲法改正を求め、軍事的プレゼンスも求める声は少なくない。中国の横暴に対するカウンターバランスとしての日本の存在への期待といってよい。 日本の力は、アメリカの軍事力とは比べるべくもないが、日本は自由、法の支配、人権といった善き価値観を多くの国々と共有する。加えて民族の宗教、文化、言語を大事にする非常におだやかな文明を有する。各民族がお互いを尊重しながら共存する国際社会の実現を目指している。こうした価値観や文明は中国とは対極にある。 また一方で、日本は高水準の産業・科学技術を有する。中国や韓国はもちろん、アメリカでさえ、さまざまな分野で日本の技術に支えられている面は少なくない。優れた技術、おだやかな文明と価値観を前面に掲げ、軍事的力も強化できれば日本の強さはよりよい世界の構築に貢献するはずだ。 戦後の呪縛を解き、自立国家として再生し、中国の脅威に抑止力を発揮していくのが、現在の日本国の責務であろう。その意思と能力を期待できるのが安倍首相ではないか。 にも拘らず、東シナ海のガス田の開発を隠し続けてきた。安保法制に関連して、北朝鮮の脅威には言及しながら、中国の脅威にはほとんど触れない。なぜだろう。首相には大局的な観点から、その考えを示してほしい。 終戦70年の節目に、国際情勢は大きく変化しつつある。私たちはその変化を適切に認識し、偏ったメディアや政治勢力の主張に惑わされることなく、国家の針路を考えていかねばならない。さくらい・よしこ ハワイ州立大学歴史学部卒業。「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙東京支局員、日本テレビ・ニュースキャスターを経て、フリーでジャーナリスト活動を開始。第26回大宅壮一ノンフィクション賞、第46回菊池寛賞を受賞。平成19年、国家基本問題研究所を設立し理事長に就任。著書に『日本よ、「歴史力」を磨け』(文藝春秋)、『異形の大国 中国』(新潮社)など多数。近著に『新アメリカ論』(共著、産経新聞出版)、『戦後七〇年 国家の岐路』(ダイヤモンド社)。

  • Thumbnail

    記事

    SEALDs大規模デモ 主催者に利用され続けたメディア

    れは中核派など反社会的勢力を含む日本全国の様々な反政府組織や団体などが連携して行ったものである。一部メディアなどは「反政府学生組織SEALDs」を中心に取り上げているが、実態としては共産党や労組による組織動員がメインであり、学生運動世代が中心となって行ったものであるといえよう。 また、今回のデモにおいては、その報道のあり方に大きな疑問符が付けられるものであったともいえる。メディアを通じて、嘘が全国や世界に垂れ流された側面があり、悪質な宣伝活動に加担したメディアの存在が明確化したものであったともいえる。今回のデモの参加者人数であるが、主催者は12万人、SEALDsはTwitterで35万人、警察は3万人としているわけだが、主催者発表だけを報じていたメディアが多数存在したのである。 国会前の広場は公開空間であり、劇場のように出入口が決まっていないため、明確な人数を測ることは難しい。しかし、実は面積からおおよその収容限度を計算することが出来るのである。国会前の広場の面積は約4万平米。そこから池や樹木など人が立てない部分を除くと3割程度になり1.2万平米が有効面積であるといえる。この1.2万平米に平米あたりの収容人数をかければ自ずから収容限度が導き出されるのである。国会前で行われた安保法案反対デモ=8月30日、東京都千代田区の国会前(早坂洋祐撮影) 収容限度は部屋や電車など壁のある密閉空間と公開空間で計算基準が大きく異なるわけだが、警察などが用いる公開空間の算定基準では混雑で平米1.2人であり、平米3人を超えると行列が止まりだし、将棋倒しなどの危険が生じるとされている。このため、混雑状態では回転が期待できるがそれを超えると回転しなくなるという構造であるため、精々3-4万人が国会前の物理的収容限度であるといえる。 つまり、4万人を大きく超える数字は科学的に嘘であるといえるのだ。1リットルのペットボトルに3リットルの水は入らない。これは子供でもわかることである。主催者発表だけを垂れ流す報道は1リットルのペットボトルに3リットルの水が入ると宣伝しているようなものなのである。 そして、メディアの問題はこれだけにどどまらない。今回のデモであるが、その主催者と責任が不明確であり、この点に関して疑問を呈したメディアが存在しなかったことは大きな問題である。どんなイベントでも主催者には、善管注意義務や安全管理義務などの責任が存在する。そして、事故が起きた時などの責任の所在を明らかにする義務がある。またカンパなど資金集めを行っているため、その資金の透明性と会計の責任を明示する必要もある。これは任意団体だから許されるものではない。今回のデモの主催者は「総がかり行動実行委員会」とされているものの、HPを見る限り、複数の任意団体の集合体であり、ガバナンス体制などが全くわからないのである。 また、今回のデモに対して、反社会的勢力でありテロ組織である中核派がHPなどを通じて参加を呼びかけていたこともわかっている。このような危険を排除するのは主催者の義務であり、これが不完全であることを報じるのが本来のメディアの役割であるといえる。今回、これに関する報道は皆無であったと言っても良いだろう。 また、本質的な問題として、デモの日時や場所について疑問を呈さないのも大きな問題である。基本的に日曜の国会にいるのは、僅かな数の見学者と国会を守る衛視さんぐらいのものである。国会周辺にはデパート等商業施設はなく、図書館があるぐらいでほとんど人は居ない。また、日曜は審議がないため、国会議員はいないに等しい。知られていない問題や自らの意見を社会の知らしめるという本来のデモの意味からすれば、日曜に国会前でデモを行うことは単なる自己満足に過ぎず間違っているといえよう。 しかし、彼らはこのデモに意味を持たすことが出来た。何故ならば、メディアを利用することを前提に考えていたとおもわれるからである。これは呼びかけ団体の一つである共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のHPを見れば一目瞭然であり、事前報道も含め国内外のメディアの取り上げ方を大きく報じており、一つの実績として宣伝しているからである。 これに関しては、記者や報道機関が自ら連携したのかそれとも単に利用されただけなのかわからないが、このような行為は本来の報道の役割を大きく逸脱したものであり、これを批判する報道がないことが日本の大きな問題であると思われる。 すでに、インターネットにより報道のあり方も変わらざる得ない時代が訪れているのも事実である。今回のデモに関して、空撮写真から国会前の人数を数えた人がおり、あくまでも瞬間的な数字でしかないがほぼピーク時でも4500人程度しかいなかったということが明らかにされている。そして、この事実が証拠写真とともにTwitterにより拡散され、主催者と一部メディアへの嘲笑の対象になっているのである。すでに、情報は一部のメディアの独占物ではなくなり、嘘が簡単に暴かれる時代になっているのである。そして、この傾向はどんどん強まってゆくだろう。 最後に、子供の頃、祖父から繰り返し言われた言葉で締めたいと思う。 「嘘付きは泥棒の始まり、お天道さまはいつも見ている」

  • Thumbnail

    記事

    地元メディアの「暴走」 米軍ヘイト報道が奪う沖縄の未来

    ばならないとしたら、私はためらうことなく後者を選ぶだろう」という名言で知られている。しかし彼は同時にメディアの無責任さにも気づいており、「何も読まない者は、新聞しか読まない者よりも教養が上である」「新聞で最も正しい部分は広告である」といった辛辣な言葉も残している。ジェファーソンの時代と異なり、私たちの周りには新聞以外に様々なメディアが存在する。情報を深く広く収集できるメディアは今でも必要だが、彼らが時々起こす過失や無責任さといったものを無条件に見逃すべきではない。 では誰がメディアを監視しているのだろう。私自身を含め、日本国民はメディアを過信してきたのではないだろうか。今や自らの過ちを認めない、自浄作用のないメディアをチェックすべきだという意思は世界中に生まれ、特にインターネットを通じ、一般市民の間に一種の協力体制が確立されつつある。 メディアの自浄作用といえば、日本新聞協会は2000年6月21日、44年ぶりに改定した『新聞倫理綱領』を採択した。これによれば「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」とあるが、特に沖縄関係の報道では、多くのメディア関係者はその規定を守っていない。こうした報道の実態は日本のメディア全体の課題でもあるが、アジア太平洋地域全体の安全保障に影響する沖縄県が直面している大きな問題だ。さらに沖縄問題の報道にしばしば見られる「意図的な誤報」は、なにも沖縄県出身者や日本人記者だけによるものではなく、活動家まがいの外国人メディア関係者にも大きな責任がある。彼らの生み出す偏向報道は、多くの摩擦や間違った認識を生じさせている。 本稿は、沖縄問題をめぐる最近の報道を検証することを目的にしている。いくつかの事例を取り上げることによって、報道がどのような誤解を招き、最終的にどのような摩擦や憎しみという結果を生むのかを考えて頂ければ幸いだ。地元紙の「暴走」 今年2月22日のキャンプ・シュワブでの活動家らの拘束劇、なぜ私がその一部始終が撮影された映像を外部に提供したかなどについては「正論」7月号掲載のインタビューの通りである。今号ではその後の地元紙の「見出し」を通じて、事件後のメディアの暴走ぶりを紹介してみたい。 読み返してみてもっとも滑稽なのは「『境界線越えてない』と抗議」(2月24日・沖縄タイムス)という見出しである。3月4日に私が外部に提供した映像からわかる通り、基地反対活動家らは越えてはいけない黄色い線を、自ら何度も越えている。これは動かせない事実だ。沖縄タイムスの読者としては、この「誤報」に対してだけでも訂正を出すべきだと思っているのだが、いまだに「お詫びと訂正」の記事を見ていない。 「拘束は米軍独断の見方も」(同)という見出しもおかしい。米軍の基地施設管理権には警察権まで含まれる。そもそも一般市民とて自宅に不法侵入者がいれば、「独断」でそれなりの対応を取るだろう。 また「辺野古集会の直前拘束」(2月23日・沖縄タイムス)という見出しは、ことさら米軍側が基地反対集会つぶしを企図し、タイミングを計って活動家を拘束したように読ませたいように見えるが、買いかぶりすぎである。今回の件にそのような政治的意図はない。たまたまその日、定められたルールを逸脱した「侵入者」がいたので、ルールに従ってこれを拘束せざるを得なくなっただけだ。 各紙の見出しの中でも特に理解しがたいのは「『背後から無通告』不当」(2月24日・沖縄タイムス)というものである。いきなり無抵抗の者を拘束したように読ませたいのだろう。事件の一方の当事者だった日本人警備員の名誉とプロフェッショナリズムのために特に強調しておくが、ゲート警備にあたる者は、礼節ある態度で基地訪問者に接しているし、そうあることを求められる。ここに書かれたように、基地警備員は本当に「背後から」「無通告」で拘束したのか、私が外部に提供した映像でもう一度確認してみてほしい。 映像の提供から3カ月以上経過しても、彼らにとっては事件は終わっていなかったようだ。6月18日付琉球新報が掲載した「海兵隊解雇に不満」「昇格期待していた」との記事に、同紙の並々ならぬ関心がうかがえる。 琉球新報の記事は、映像提供を理由に海兵隊を4月に解雇されたことについて、私が本誌7月号のインタビュー記事で、「(映像提供で)昇格を期待していたくらいだ」と処分への不満を漏らしている、と伝えている。 実際はどうなのか。読者のみなさんには、本誌のインタビューで私がどんなニュアンスで「昇格を期待していたくらいです」と発言したか、お読みいただいたうえで、琉球新報記事について考えていただきたい(ネットで閲覧可能)。私は狙われていた~地元紙と英字紙の「連携」 地元紙の見出しから十分に恣意性は感じられたと思うが、状況はこれだけにとどまらない。海兵隊司令部で米軍と県民や日本国民との相互理解、交流を積極的に推進してきた私は、それを望まない者のターゲットにされていた節がある。ロバート・D・エルドリッヂ氏 今年1月上旬、日本で発行されている英字紙「ジャパン・タイムス」に、新設されたシンクタンク「新外交イニシアチブ(ND)」を絶賛する記事が掲載された。私は専門家としてその記事の信ぴょう性に疑問をもち、これに対する投稿を送った。同紙には30回以上寄稿しており、今回も問題なく掲載されるだろうと考えていたが、掲載可否を確認してもはっきりした答えがない。実は一昨年、知人の研究者も沖縄の問題点を紹介する英文原稿の掲載を断られている。いずれもやや不自然な却下の仕方だった。 「ジャパン・タイムス」の編集長からは「webのコメント欄に書いてください」と言われたので2月10日にそのようにした。するとそれを受ける形で、2月13日付の沖縄タイムスで「米軍幹部が研究所批判/安保政策の異議紹介記事に投稿/『騒音・不協和音』と表現」と題する記事が掲載されたのだが、紙面での扱いは1面のトップ・顔写真入りと大きなものだった。 この2月13日付の記事は今もネット上で読めるが、私は沖縄を巡る「状況」を「騒音と不協和音」と比喩的に表現したのであって、新設されたこのシンクタンクおよびその活動をそう評したわけではない。このシンクタンク「ND」に対しては「理事たちの沖縄問題に対する視点の変化のなさ」を指摘し、「研究は重要だが、(中略)事実に基づいて客観的、建設的にすべきだ」と書いたにすぎない。 記事内では「『外部の社会問題への発言の自由は保障されている』と説明。(中略)処罰対象にならないとの見方を示した」という海兵隊報道部のコメントも紹介されている。どんな質問をすればこのコメントを引き出せるのか、読者諸氏も記者になったつもりで想像してみてほしい。おそらくそれは「今回の件で彼は処分されないのか?」だっただろう。もしそうだとしたら、軍隊内ですら一定の範囲内で保障されている「言論の自由」という権利を行使した件に関する質問としては大げさすぎる。私はそれほど大物ではないが、映像提供の件で解雇される前からターゲットにされていたのかもしれないと思う一件だ。さて単なる意見表明は、新聞の1面を飾るほどの重大事件だろうか。私は被害妄想、あるいは被包囲心理が強すぎるのだろうか。 ちなみに「ジャパン・タイムス」からは、毎日のように普天間飛行場近くで海兵隊員に汚い言葉を投げつける「プロ市民」の実態を指摘したことで、なぜか個人攻撃を受けたこともある。同紙は英字紙であるので「正論」読者諸氏には馴染みが薄いかもしれないが、在日外国人に非常に影響力のある媒体で、日本語を読めない外国人たちにとっては日本の情報の窓口である。もちろん同紙に真面目な記者はいるのだが、この件に関わったのは外国人ライター。活動家のような書き手もいるということだ。 問題なのは、誤った情報を同紙から得た外国人読者が、その間違った情報に基づいて国外で話すことになる点だ。このままでは海外に拡散した報道が、伝染病のように国内に入り込み、日本人も「外から」影響されてしまうことになりかねない。沖縄を巡るこのような構図は、従軍慰安婦問題のそれと極めて似通っている。翁長県知事の成果なき訪米(揶揄ではない。彼らの予定通りだったと思う)が終わった今、次の「戦場」は海外へと移っていくだろう。こうした共通性が明らかになるにつれ、沖縄問題や地元紙の偏向報道の背後にある「何か」が浮かび上がってくるはずだ。 「正論」7月号でも言ったように、私は他者の「何かに反対する権利」「何かを主張する権利」を否定しない。ただその抗議や主張のやり方に問題がある、あるいは事実誤認があると指摘しただけで、個人攻撃に近い報道まで行った両紙には失望せざるを得ない。いずれにせよこれは「ペンの暴力」とでも呼ぶべきものだろう。人命救助さえ報道しない沖縄紙人命救助さえ報道しない沖縄紙 今年の1月14日、筆者は地元高齢男性の命を救った一人の米海兵隊員を称える式典に出席した。男性は昨年12月23日、沖縄県北部・金武町の国道で自転車から転落したが、キャンプ・ハンセンに向かう途中のジェイコブ・バウマン軍曹(25)が安全な場所に移動させ、蘇生させたものだ。式典は司令部で行われ、彼の上司や同僚、そして彼の若き妻が同席した。司令官のランス・マクダニエル大佐は、他の運転者が行わなかったバウマン軍曹の行動を賞賛したが、軍曹はこの行動について、他者を助けるという考えから行った、と短く答えた。 報道関係者も招待されていたが、地元住民の命が救われたにもかかわらず、日頃から「命どぅ宝」と訴えている「琉球新報」「沖縄タイムス」がいなかったことは大変残念だった。なぜ取材がなかったのか、理由は定かではない。「招待を耳にしなかった」といった言い訳をよく聞いたが、この式典に関してはそのような主張は通用しない。式典のかなり前に案内はされていたからだ。若者の将来より、己の主張 もう一つ例を挙げたい。在沖米総領事館が主催したあるパーティーで、長年親交のあった地元メディアの人に「より多くの県内の学生がその機会を捉えられるよう、海兵隊政務外交部でのインターンシップ制度の紹介をお願いしていたのですが」と話しかけてみた。「それは目新しいものじゃないから」という反応だったが、大阪大学在職時の経験から、インターンシップ制度は大学側も受け入れ企業側もアレンジに相当苦労することを伝えた上で「米軍が日本の学生に対してこういう機会を提供したことはあまりない。特に海兵隊司令部内では初めてでニュースバリューもあるはずだ」と再度お願いしてみた。すると彼は「基地問題がある限り、米軍にとっていいことは書かない」と本音を吐いた。これは米軍への憎しみのあらわれというだけではなく、沖縄の子供たちの将来を大人の都合で犠牲にし、教育や体験の機会を奪っていることに他ならない。元教育者として絶対に許せない。 幸いなことに、それでも10名の日本人学生が海兵隊でのインターンシップを体験した。そのうち沖縄出身は3名。彼らは地元メディア、米軍からの案内を学生に周知しない県内の大学からではなく、別ルートから情報を得たという。こうした形でも、沖縄の閉鎖的な教育界とメディアが沖縄の将来を損なっている。 これらは私が海兵隊在職中、何千件と経験したよくあるケースのうちの一つに過ぎない。地元メディアは日米両政府どちらかにとってマイナスの印象となる情報は積極的に掲載する一方、プラスの印象を読者に与えるものは載せない(あるいはそもそも取材しない)傾向がある。私はなにも米軍による犯罪の報道をするなと主張したいのではない。人道的行為、青少年育成といったよき側面を持つ話も、等しく県民に伝えるべきだといいたいのだ。知事訪米にあわせた米紙への寄稿 最近の翁長知事訪米の際、「沖縄の知られざるもう一つの側面」と題した私の論文が「ワシントン・タイムス」に掲載され、大きな反響を呼んだ。 同紙を寄稿先に選んだのは、昨年11月の沖縄県知事選の際、革新系といわれ同紙のライバルでもある「ワシントン・ポスト」に掲載された間違いだらけの記事に対し、それを指摘する原稿を送付したが、沖縄の地元メディア同様、黙殺された経緯があったからだ。冒頭で述べた通り、メディアは国民からの監視、あるいは明らかな間違いの指摘といったものに対して真摯に対応する姿勢が必要だと思う。 さて沖縄のメディアから派遣された記者は、翁長知事訪米団と一緒に行動し、その動きを紹介していた。ちなみに沖縄の地元紙は沖縄問題について海外の研究者、活動家、メディアなどが発信する時、必ずといっていいほど記事にして紹介する。最近だとネパールの被災地に派遣されたオスプレイの性能に批判的な現地新聞の記事まで引用した「報道」が記憶に新しい(「オスプレイ『役立たず』 ネパール支援で地元紙」/5月8日・琉球新報)。 今回の「ワシントン・タイムス」への寄稿は沖縄のメディアには取り上げられなかったが、訪米団をはじめ、同行する記者らはこれを読んでいないはずがない(もしも現地で見ていないのであれば、特派員としてはもちろん、記者としての資質を疑わざるを得ない)。彼らの主張の妨げになりかねないこの文章が沖縄のメディアで紹介されなかったことそれ自体、一種の情報操作と結論づけてもおかしくはない。おわりに 偏向報道はアメリカでも昔からある問題だ。例えば50年以上前、あのジョン・F・ケネディ大統領もメディアには悩まされていた。普及し始めたテレビでの生放送でインタビューに臨んだ彼は、親友で「ニュースウィーク」誌のライターでもあったベン・ブラドリーに対して「新聞や雑誌経由ではなく、テレビを通じて直接語る際に、アメリカ国民の理解と支持が得られるのだ」と皮肉っぽく語っている。日本政府もケネディ同様の事情に悩んでいたに違いない。だからこそ安倍政権は昨年12月の衆議員選挙において、メディアに対して公正な報道するよう呼びかけざるを得なかったのだろう(案の定、その行為は批判された)。在沖縄米軍海兵隊が宮城県気仙沼市大島でのがれき撤去作業を6日で終了。島を離れる前に上陸用舟艇(LCU)に乗り込む隊員らに、住民がハイタッチするなどして感謝を表した=2011年4月6日(大西史朗撮影) この原稿の執筆にあたり、地元メディアの報道を改めて精査してみたが、米軍に好意的な報道はほぼ存在せず、とてもみじめで悲しい気持ちを思い出すことになった。例えば2006年に私が発案と実施とに深く関わった「トモダチ作戦」は、東日本大震災時の実際の運用で、在日米軍が災害時にどのような協力ができるのかのモデルケースになったと思うが、被災地での支援活動すら地元紙には「どのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設はもういらない」(2011年3月18日・琉球新報)、「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」(2011年3月22日・沖縄タイムス)と、意地悪く評された。震災直後の被災地で苦しむ人、それを助けようと真剣に任務に取り組む者がいた時期の論評とは思えない。よくもまあこういうことが書けたものだと思う。 約600名の海兵隊員が復興支援に従事した大島(宮城県気仙沼市)の島民とは特に深い信頼関係が生まれた。「燃えるゴミと燃えないゴミを混ぜちゃダメ!」と、あふれかえる瓦礫の撤去を急ぐ屈強な海兵隊員たちを叱りつけて回っていた島の子供のことを、うっすらと涙を浮かべて楽しそうに話す隊員がいまだにいるくらい、その想いと絆は深い。しかし私が作った、沖縄の海兵隊員たちの家に東北の子供たちをホームステイさせるプログラムのこと、島民と隊員たちとの心温まる交流の継続といった事実もまた、沖縄で報道されることはまれである。「しまぬくくる」(沖縄、沖縄人のこころ)の美しさを説く一方、ここまでの悪意を他者に向け続け、自分と異なるものを排除しようとする地元紙の「ちむぐくる」(まごころ)は一体どこにあるのだろう。 紹介してきたように恣意的なメディアの存在は民主主義の破壊のみならず、個人の人権まで損なうようになる。今、沖縄の報道は健全な状況にない。日米両政府と沖縄県にも課題はあるが、沖縄問題を煽っている最大の責任は、沖縄メディアとその報道にある。ロバート・D・エルドリッヂ氏 1968年、米国ニュージャージー州生まれ。99年に神戸大学法学研究科博士課程後期課程修了。政治学博士号を取得。2001年より大阪大学大学院国際公共政策研究科助教授。09年9月より在沖縄海兵隊政務外交部(G―7)次長に就任。基地監視カメラ映像を不適切に公開したとして同職解任。近著に「尖閣問題の起源」(名古屋大学出版会)。日本人の鼓動が響く フジサンケイグループのオピニオン誌「正論」日本が日本でなくならぬよう、誇るべき歴史、受け継いできた志を正しく伝えたい。昭和48年の創刊以来の思いをこれからも変わることなく、一つ一つ紡いでいきます。定期ご購読はこちらから

  • Thumbnail

    テーマ

    百田発言のどこが悪い

    沖縄二紙について、百田尚樹氏の「つぶさなあかん」発言が槍玉に上げられている。沖縄二紙は会見まで開き、被害者面して言論の自由を訴えた。ならば、これまでの沖縄二紙の報道を徹底検証してみようではないか。

  • Thumbnail

    記事

    沖縄二紙の偏向報道と世論操作

    での世論形成の実情を報告し、その背景を探れればと思う。 丸4年間の沖縄生活で常に驚かされたのは、地元メディアの時には目を覆いたくなるばかりの報道ぶりだった。地元紙二紙「琉球新報」「沖縄タイムス」の紙面には、1年を通して米軍基地反対を訴える記事が載らない日はない。ほかにもニュースはあるだろうに……と注文をつけたくなるほどだった。 しかも、イデオロギーに支配されているのではないかと疑いたくなる記事がいかに多いことか。東京時代、一部新聞の偏向報道に辟易したこともあったが、それ以上だった。偏向報道というより恣意的な世論操作ではないか──という印象すら持った。 私が沖縄に赴任したのは、民主党政権が発足した直後の平成21年10月。当時、沖縄が抱えていた最大の課題は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題だった。民主党政権になり、鳩山由紀夫首相(当時)が移設先を「国外、少なくとも県外」と宣言したことから、県内移設反対論が激化。 全てのメディアは、この反対論調を支持、県外移設こそが沖縄県民130万人(当時)の総意だと伝えていた。私自身、最初はその報道を信じて疑わなかった。 赴任して一週間後、移設予定先の名護市辺野古を訪ねた。 米軍基地のキャンプシュワブと接する海岸にはテントが張られ、普天間飛行場の移設に反対している人たちが屯していた。話を聞くと、全員が「移設反対」だという。報道は間違っていなかった──と納得し、辺野古の集落に向かった。 普天間飛行場が移設されると、騒音問題などさまざまな問題と対峙することになる住民の声を直接聞こうと思ったからだ。報じられない地元民の声 ある民家に飛び込んだ。家主の男性に名刺を差し出しながら「普天間飛行場の移設のことでお話を聞かせていただきたいのですが……」と切り出すと、怪訝な顔をするのだ。理由を尋ねると、「新聞記者が話を聞きに来たのはあなたが初めてだ」。 一瞬、耳を疑った。同席したタクシー運転手も「エーッ」と声を上げた。 「ほとんどの名護市民は普天間飛行場の辺野古移設に反対だと伝えられているが、メディアは取材に来ないのか」沖縄県名護市辺野古地区の米軍普天間基地移設予定地・大浦湾には、ボーリング調査を行う台船が浮かんでいる。奥の陸地は米軍キャンプ・シュワブの敷地=6月22日午後、沖縄県名護市(川口良介撮影) 再度尋ねると、 「いろいろな新聞社やテレビ局は来るが、みんな反対派が集まっているテント村にだけ行って、我々の声なんか聞こうともしない。最初から反対ありきなのです」 真偽を確かめようと、20人ぐらいの住民と話をしたが、予想に反して9割近くが条件付きながらも移設容認だった。 ある住民はこう嘆いていた。 「普天間が移設されると、海兵隊と実際に付き合うことになるのは我々、辺野古の住民だ。その住民が受け入れると言っているのだから問題はないはず。それに普天間の危険性が除去されるじゃないか。ところが、そうした我々の声は一切、報じられない」 米軍基地を抱えて生活する住民の思いは、他の地域に住む者には予想できない。基地は嫌だが、地域の経済活性化のためには基地経済に頼らざるを得ない。20人は複雑な思いをぶちまけた。 「一番心配なのは、ある日突然、キャンプシュワブがなくなったらどうしようかということだ。アメリカのことだから突然、撤退を決めかねない。キャンプシュワブがなくなったら我々はどうすればいいんだ。ホームレスになってしまう」 「アメリカがかつて、フィリピンから撤退したらすぐに、南沙諸島に中国が出張ってきた。日本と沖縄は尖閣諸島を抱えているが、日本に軍隊がない以上、もし沖縄から米軍がいなくなったらどういうことになるか。火を見るよりはっきりしている」 いずれも、50歳代から60歳代の男性の声だが、こうした意見が沖縄のメディアに報じられたことはなかった。 辺野古地区はこれといった産業がなく、過疎化が進む一方だという。普天間飛行場の危険性除去という大義名分のもと、振興策を目当てに経済活性化への望みを繋いだのが、移設受け入れ容認の理由だった。 過去には移設を受け入れる条件で、北部振興策として名護市など北部の市町村に1千億円に上る補助金が投下された。その一部で公民館の改築や国立高専の建設、IT産業の誘致などを展開、地域は普天間飛行場を受け入れることで経済活性化を模索する途中にあった。 ところが鳩山発言で、地元メディアを含む基地反対勢力は勢いづき、条件付きとはいえ移設受け入れの意思を明確にしていた住民の思いは一蹴され、反米軍基地を訴えるイデオロギー闘争が展開されたのだ。 私は、紙面で辺野古住民の思いをまとめたところ、「よく書いてくれた」という声の反面、非通知の無言電話が数日間かかってきた。一人の男性と話をしたが、彼は関西弁だった。電話の主は最初、静かに話していたが、突然、「ゴキブリ野郎」と声を荒らげると、そのまま電話を切った。私はいまでもその声を忘れない。県民大会の異常な“盛況” 今年の7月はじめに、約2年ぶりに辺野古を訪ねた。一人の主婦が、「いまでも辺野古の住民が移設反対と報道されるので困っている。我々の気持ちは変わっていない」と語気を荒らげた。名護市辺野古の住民の多くは、いまも条件付きながらも受け入れ容認の姿勢を崩していないのである。 こうした容認派の声を無視できなくなったのか、最近になって申し訳程度に取り上げられるようになった。だが、なぜこうも住民の本音を無視してまで、沖縄県民全員が反対であるような世論が独り歩きし続けるのか? そこには、沖縄二紙を中心にしたメディアの作為を否定できない。 沖縄では県民大会なるものがしばしば開かれる。沖縄の民意を全国に発信するのが狙いだそうだ。平成22年4月25日に沖縄県・読谷村で、普天間飛行場の県内移設に反対する県民大会が開かれた。沖縄二紙や全国紙は、この県民大会に9万人以上(主催者発表)が参加したとして、「県内移設反対」は県民の総意だと発信し続けた。 だが、本当にこれが県民の総意なのだろうか。私自身、この県民大会を取材して強い違和感を覚えた。 会場に着くと人の多さに圧倒されたが、それ以上に驚いたのは、立錐の余地がないほど活動家組織の旗がたなびいていたことだ。一般の県民は何人いるのだろうと疑うぐらいの“盛況”ぶりだった。 あとで学校関係者から聞いた話だが、高校の教員が理由を言わずに女子高生2人をドライブに誘い、途中で会場に連れて行ったり、高校の新聞部の部員を取材と称して会場に“派遣”したりするケースなどもあったという。集会参加人数を“水増し”集会参加人数を“水増し” “異変”は、県民大会が始まると同時に表れた。開会の辞の直後、地元二紙が「県内移設反対決議」という号外を配布し始めた。県民大会は始まったばかり、まだ何も決議されていないのに、である。参加者からは我が意を得たり、と大きな歓声と拍手が上がった。 さらに大会が半ばまで進むと、主催者側が突然、「旗を降ろしてください」と注意を促した。一斉に旗が消えた。県民大会後、地元紙が写真集を発行したが、そこには活動家のかざす旗はほとんど写っていなかった。 事情を知らない人や大会に参加しなかった人には、これほど多くの県民が反対しているのだ、反対は県民の総意だ──と映るのは当然だった。主催者の狙いは的中した。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する集会で、沖縄県の翁長雄志知事(左手前)の話を聞く大勢の人たち=5月17日午後、那覇市 参加人数も不可解だった。閉会直前、主催者側が発表した参加人数は9万人あまり。だが、その日の夜、警察、情報関係者の間では「参加者数は多くても3万人前後」という情報が飛び交った。なかには2万人という数字を出した機関もあった。 1平方メートル当たりの人数を計算すると、せいぜい3万人程度だった。しかも活動家グループが大半を占め、一般県民の実数は正確には掌握できなかったという。 それでも、翌日の各紙朝刊には「沖縄県民の民意、県外・国外移設で一致」という文言が躍った。 どうだろう。客観的に見ると、県内移設反対グループと地元紙が反対闘争に県民大会を利用、世論を創り上げたことは否定しようがない。結果、思惑は的中、「県民の総意=反対」という創られた世論が独り歩きを始めてしまったのだ。 こうした環境が構築されると、本音を伝える以前に本音を話せなくなってしまう。本音が封印されてしまうのだ。辺野古の移設容認派の一般住民は、実名が報道されるのを嫌った。地方議員も創られた世論に歯向かえない。 ある保守系地方議員は、「米軍基地の受け入れ容認発言をすると地元メディアに叩かれ、当選するのが難しくなる。だから反対派に回るほかない」と愚痴をこぼした。 またある首長は、「沖縄では、本音を言うとネガティブキャンペーンに結びつくので本音を言えない。本土の選挙運動が羨ましい。でも、そんな実情を本土の政治家は分かろうともしない」と怒りを露わにしていた。 そもそも、危険性の除去から早期移設が叫ばれている普天間飛行場の周辺住民の真意も疑わしい。60歳代の軍用地主は匿名を条件に、こう漏らした。 「本音は、普天間はいまのままがいい。決まった軍用地料が毎年入ってくるから。仮に返還されたとして、再利用、再開発するのに20年以上はかかる。でも、メディアのインタビューに正直に答えると反対派の反発を受けるから、ついつい『基地反対』と言ってしまう」 この男性と同様、軍用地主や基地雇用者、そして基地の恩恵を受けている自治体は、なかなか「基地容認」を口に出せないのが現実だ。「金で沖縄を売っている」と批判の的にされるからだ。支援活動は報じない 平成23年暮れ、沖縄防衛局が普天間飛行場移設事業に対する環境アセスメントの評価書を沖縄県に提出した。沖縄二紙をはじめメディアは提出を阻もうと、県庁の敷地内や県庁舎内に座り込み、反対を叫ぶ反対派の姿を通し、大々的に「県民の総意は反対」と伝えた。 だが、実情はどうだったか。一歩、県庁の敷地内から外に出ると、いたって平穏。まるで何事も起きていないような静けさで普段と変わらない町並みだったが、その様子は伝えられることはなかった。これも世論創りの一つだ。 偏向報道とも思える事象は、普天間飛行場の移設報道に関してだけではなく、随所で散見した。もう少し事例を紹介しよう。 平成23年3月に東日本大震災が発生し、在日米軍による大規模な救援活動が繰り広げられた際、地元紙は在沖海兵隊員の支援活動内容を詳細に伝えようとはしなかった。 3月11日から4月5日までに掲載された米軍の写真は、「琉球新報」が3枚で「沖縄タイムス」は2枚。実際に支援活動をしている海兵隊の写真は1枚も掲載されなかった。 そればかりか、「琉球新報」は3月17日付朝刊で「在沖海兵隊が震災支援 普天間の有用性強調 県内移設理解狙い 不謹慎批判上がる」という見出しで、在日米軍が普天間飛行場の地理的優位性や在沖海兵隊の存在感などをアピールしているとしたうえで、「援助活動を利用し、県内移設への理解を日本国内で深めようとする姿勢が色濃くにじむ」と主張した。 加えて、「在沖米海兵隊の出動までに地震発生から三日かかった。一、二時間を争うかのように海兵隊の対応が強調されているが、迅速性について普天間飛行場の場所が決定的に重要でないことが逆に証明された」という大学教授のコメントを引用、疑問を投げかけた。 さらに翌18日付の社説では、「在日米軍が普天間飛行場の地理的優位性や在沖海兵隊の存在意義などをアピールしている。強い違和感を覚える」「地震発生から三日経ての出動なのに即応でもあるまい」とし、「米軍がどのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にはいらない」と締め括っている。 一方、「沖縄タイムス」も3月22日付の社説で「災害支援を理由に現施設規模を維持する必要性を主張する。普天間移設問題が日米間の重要な懸案であることを承知しながら、米軍当局が震災の政治利用を画策しているのなら、文民統制の観点から見逃せない」とし、「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」と断じ、支援活動の評価は一切なかった。 被災地はもちろん、多くの国民が国家的な災害に対する米軍の救援活動に感謝の気持ちを表明しているにもかかわらず、二紙にはそうした発想がない。それどころか、米軍による支援活動が政治利用されかねないと主張すること自体、二紙自身に政治的な思惑があることを示している。 テレビの全国ニュースで、在沖海兵隊の支援活動の実態を知ったという知人の1人は、「海兵隊が何をしているのか、初めて分かった。沖縄のメディアはそういうニュースは伝えないから何も知らなかった」と話していた。沖縄県民の六つの立場 偏向報道と見紛う報道姿勢は挙げればきりがない。 沖縄の米軍基地問題を考える場合、米軍に軍用地を貸して賃貸収入を得ている軍用地主の立場、米軍基地に雇用されている住民の立場、基地関連収入のある自治体の立場、真に米軍基地の撤退を願っている住民の立場、無関心な県民の立場、そして基地問題を反米イデオロギー闘争の手段に使っている活動家グループらの立場──の六つの視点から見つめないと、沖縄県民の本音はなかなか見えてこない。ところが、クローズアップされるのは米軍基地反対派の声ばかり。 客観的にみると、反米軍基地闘争、そして米軍基地が沖縄に駐留することを容認している日本政府に対する反抗のために、世論が創り上げられているのは明明白白だ。 すべての情報が意図的に伝えられず、情報統制が敷かれ、真の情報から隔離されているとすれば、どこかの国と同じで、県民に公正な判断ができるはずがない。 地元メディアがこうして創り上げた“沖縄の声”に寄り添って、本土のメディアが「沖縄はいつも被害者で怒っている」とステレオタイプに拡散していくのだ。沖縄の実情と、本土に伝わる沖縄発の情報との間に大きなギャップが生じるのは当然の結果だ。本土ではなく「祖国」復帰本土ではなく「祖国」復帰 ただ、ここに根本的な問題が横たわっている。沖縄二紙が偏向報道を展開したとしても、実際に数十万人の県民に読まれているという現実である。実態に気づいている県民も少なくはないが、多くの読者は偏向報道に気づいていないのだ。 他の情報と接して比較する術が少なく、事実を知る機会が閉ざされていることが大きな要因だが、それ以前に、根本的に本土に対する不信感と対抗意識があるからだ。では、なぜそうした感情が蔓延しているのか? それを解明するには、一つには43年前の本土復帰の時点に遡らなければならない。 沖縄の本土復帰運動の先頭に立ったのは、教職員が結成した「沖縄教職員会」(前身は「沖縄教育連合会」で昭和27年に改称)だった。この教職員会は、昭和35年に愛唱歌集を作成している。 そのなかの一つ、「祖国への歌」は次のような詩だ。 「この空は 祖国に続く/この海は祖国に続く/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中に日本の歴史が流れてる/日本の心が 生きている」 「此の山も 祖国と同じ/この川も祖国と同じ/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中で日本の若さがほとばしる/日本の未来が こだまする」 「この道は 祖国に通ず/この歌も祖国にひびく/母なる祖国 わが日本/きけ一億の はらからよ/この血の中は日本の命でもえている/復帰の悲願で もえている」 「本土復帰」ではなく「祖国復帰」。その切実な思いが伝わってくる。 だが、民族的悲願としての祖国復帰を掲げる初期の復帰運動は、昭和35年に「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成されると恒常的な運動が展開されるようになり、38年頃から安保闘争の高まりが沖縄にも波及し、「沖縄を階級闘争の拠点に」と訴える活動家が参入。 教職員会が率先して進めていた復帰優先の運動は、安保や米軍基地問題を焦点とする運動へと形を変えていった。 元県議は、「それまでオール沖縄の闘争だったのが徐々に階級闘争が展開されるようになった」と振り返った。日の丸は戦争に突入したシンボルだとし、反体制派の活動家や学者、マスコミが「沖縄を最後の砦に」を合言葉に沖縄に押し寄せた。いまなお続く反日教育 祖国愛教育を実践していた教職員会も、その余波で徐々に変質。愛唱歌の一つだった『前進歌』の四番の歌詞、「友よ仰げ日の丸の旗/地軸ゆるがせわれらの前進歌/前進前進前進前進輝く前進だ/足並みがひとりでに自然に揃う/だれも皆心から楽しいからだ」も削除された。「仰げ日の丸の旗」は許されない歌詞になってしまったのだ。 「反安保、非武装という思想を持った教員がどんどん入って来て、日の丸は罪悪だとして日の丸を掲揚しないようにと指示がきた。我々が推し進めていた純粋な復帰運動は、完全に日米両政府に対する階級闘争に変貌してしまった」 と元教職員会のメンバーは振り返った。 復帰協のなかにあって、教職員会は本土復帰前年の46年9月30日、沖縄県教職員組合(沖教組)に姿を変え、47年5月の沖縄の本土復帰を経て49年、米軍基地の撤去などを求める闘争を全国的に展開するため日教組に正式に加盟、組織的に反米軍基地闘争や反日運動を開始した。並行して、子供たちにも反日教育を徹底するようになった。 前出の元教職員会のメンバーは、 「シューベルトの『軍隊行進曲』は軍隊を煽り、自衛隊を軍隊にする歌だから生徒に歌わせてはいけない。『海』の詩にある『行ってきたいなよその国』の部分は侵略を意味するからだめ──と沖教組から指示された」 と言う。こうした反日教育が戦後70年、復帰43年を経たいまも続いているのである。 たとえば沖縄では毎年、6月23日の「慰霊の日」が近づくと、県内の各小中学校で昭和20年の沖縄地上戦を題材にした平和教育の特別授業が行われる。 だが、その内容について元教員はこう言った。 「戦争の悲惨さというより、ビデオなどで日本兵がどれだけ悪かったか、沖縄の民が皇民化を強いられたなかでいかに苦しんで死んでいったかを教える。すべて日本軍が悪だと強調する。 普天間の問題についても、また沖縄は日本の犠牲になるんだと。しかも、沖縄戦以外のことは教えない。沖縄が中心で、沖縄だけが本当の戦争被害者だと教えることも多い」「本土vs沖縄」の構図 沖縄二紙も毎年、慰霊の日が近づくと、平和についての連載を展開する。だが、学校での平和教育と足並みを揃えて旧日本軍批判に終始、旧日本軍を犯罪者扱いする記事が溢れる。その主張はほぼ毎年、同じだ。 年がら年中、そうした記事ばかりに接していると、戦争体験がない無関心層も、心の底にある種の思想が刷り込まれてしまうのは当然だ。 ある50代の男性は、 「当時は国歌を聞くとぞっとした。国旗を見るとどきっとした。『君が代』はだめ、日の丸もだめと言われ続けたので、生理的に拒否反応を示すようになっていた。平和教育の名の下で、『日本軍=悪い人間』という認識を持つようになっていた」 と自身の小中高時代を振り返った。誤った歴史認識が、教育現場とメディアを通して県民に刷り込まれてきたのである。 やはり元沖教組の関係者だが、彼はこう指摘する。 「沖教組は闘争の主導的役割を果たしているだけでなくて、地元メディアと協力し合って世論誘導にもかかわっている。沖縄を闘争場所に利用しているだけだ。原点にあるのは戦後教育の歪みだ」 戦争を経験していない県民や復帰後に生まれた若者の間では、被害者意識が薄れつつある。だが、沖教組や地元メディアにとって、それは薄れては困るのである。 だから、悲惨な地上戦を経験した県民の心の奥底に潜む被害者意識を煽って大日本帝国の被害者なんだ、そしていまも米軍基地を押しつけられて被害者の立場は続いているのだ、だから日本に屈してはいけない……と反日・反米闘争に利用しているのである。 沖縄在任中、何度となく、「沖縄に謝罪しろ」という言葉を耳にした。今回の騒動でも、「沖縄に謝れ」といった言葉が飛び交った。根底に日本本土vs沖縄という創られた構図があるからで、どことなく韓国の対日感情と似ている。 同じ日本国民でありながら、沖縄と本土の間には大きな壁があり、一つの国家として意識を共有できないでいるのではないか──と感じる。だから二紙が必要とされ、読まれるのだ。「対策」ではなく「政策」を ではこれに対して、日本本土の長年にわたる沖縄観はどうだろう。 「沖縄は大変だなあとか、可哀相だなあとか、同情の声はよく耳にするが、具体的にどうしようという声は一切出てこない」 と知事経験者がぼやいたことがあるが、たしかに本土に住む日本人は、どこまで「沖縄は同じ日本だ」という立場に立って沖縄を見ているのだろうか、と疑問に思うことがある。 私事だが、先日、沖縄地上戦で壮絶な戦いを展開した護郷隊を描いた本、『少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか──沖縄護郷隊の戦い』(KADOKAWA)を出版した。ところが、ほとんどの日本人はこの護郷隊の存在すら知らなかった。沖縄を知り尽くしているような発言をする本土の日本人(私も含めて)は実のところ、それほど知らないのではないか。知らないから、メディアにいいように翻弄されているのではないかと思う。 シンガーソングライターの佐渡山豊さんが作詞・作曲した楽曲に、『ドゥチュイムニー』(ひとり言)という作品がある。 「唐ぬ世から大和ぬ世/大和ぬ世から/アメリカ世/アメリカ世から/また大和ぬ世/ひるまさ変わゆる くぬ沖縄」 中国から日本へ、そしてアメリカからまた日本へ──と支配者はどんどん変わったが、自分たち市民は何も変わらない、変わるのは統治者ばかり──。 沖縄の歴史は複雑だ。この詩は、大国に翻弄され続けてきた沖縄の歴史を端的に表している。 そうした歴史を持つ沖縄に対して、戦後70年、復帰して43年という歳月のなかで、日本政府は経済振興に終始する沖縄対策は講じたが、はたして沖縄政策が講じられてきたのだろうか。実は、それを欠いたがゆえに、教育現場と沖縄メディアの“暴走”を許してしまったのではないか。 沖縄メディアがいとも安易に、かつ当然のように偏向報道を続けるが、一面、日本に「沖縄は日本のものではなく、日本である」という認識のもと、沖縄政策の有り様を改めて問いかけている気がする。  

  • Thumbnail

    記事

    自民党勉強会中止の小林よしのり氏 「意見違うなら議論せよ」

     自民党の「文化芸術懇話会」で言論弾圧すべしとの暴言が飛び出す一方で、同日開催される予定だったリベラル派の勉強会は党によって中止に追い込まれた。このリベラル派による勉強会にゲストとして出席予定だった漫画家・小林よしのり氏が、言論の自由を奪おうとする安倍自民の正体を喝破する。* * * ゲストとして招かれていた「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」が、「国会が空転しているから」という理由で開催2日前に急遽中止となった。自民党のリベラル系若手議員による勉強会「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」の会合で、講演を前に挨拶する御厨貴東大客員教授=7月1日午後、衆院第1議員会館(酒巻俊介撮影) しかし、実際に安保法制の国会審議が始まったのは勉強会の翌日の6月26日からだ。しかも同日には同じ自民党内で「文化芸術懇話会」なる安倍支持派の勉強会が開かれている。出席した議員から「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい」などという暴言が飛び出し、ゲストの百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞社は絶対に潰さなあかん」と発言した勉強会だ。 向こうがやれて、こっちがやれないなんて話があるものか。負けたな、と思った。「分厚い保守政治の会」は自民党リベラル派が中心となって立ち上げ、すでに4回の会合を開いていた。そこへ対抗するように作られ、初会合を同日にぶつけてきたのが「文化芸術懇話会」だ。産経新聞(6月24日付)にはメンバーとなっている議員の「首相の再選を阻む“邪魔者”の排除が懇話会の役割」という発言が載っていた。 リベラル派は排除されたのだろう。今、自民党は皆が同じ方向を向くよう強いられ全体主義に陥っている。 朝日新聞電子版(6月26日付)によれば、自民党幹部は「小林氏を呼べば、政権批判をされ、憲法学者が法案を違憲だと指摘した二の舞いになる」と打ち明けたという。 わしと意見が違うならば議論すればよいではないか。わしは当初、「歴史を学んだ保守政治家とはいかなるものか」を話すつもりでいた。もちろん、質疑応答などで安保法制の話が議員側から出れば、その話もするつもりだったし、わしと違う立場のタカ派議員も勉強会に来ればいいと思っていた。だが自民党は幅広い意見を聞いて議論することより党の方針に反する声を封殺することを選んだ。 26日深夜の『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系。テーマは「激論!若手政治家が日本を変える?!」)に出演予定だった自民党議員は急遽キャンセルし、歩調を合わせるように公明党議員も出演しなかったため、野党議員だけで番組が進められた。要は若手議員には一切話させないということだ。 総理がいった「国民に丁寧に説明」する場があるのだから出てくればいい。だが彼らは説明できない。自信がない。だから党内に箝口令を敷き、言論統制を行なうのだ。関連記事■ 細川氏出馬宣言に自民党色の緑ネクタイで臨んだ小泉氏の真意■ 野田聖子、高市早苗ら女性議員が要職占める自民党で女の争い■ 丸川珠代 三原じゅん子の自民党内での台頭に愚痴をこぼす■ 民主党 宗教団体との連携強化のため宗教票が次の総理決める■ 稲田朋美行革相のブログ 「ご地元」など文章の敬語おかしい

  • Thumbnail

    記事

    「言論・表現の自由を再生、強化する機会に」沖縄二紙編集局長

    になるのか不可思議」と述べた。 また、この問題では、党執行部が木原稔衆院議員を会長から更迭したほか、メディアや両紙を批判する発言などをしたとして大西英男、長尾敬、井上貴博の3衆院議員を厳重注意処分にしているが、潮平氏は「なぜ問題の発覚後すぐに国権の最高機関である国会で陳謝しなかったのか、あるいは1億2千万の国民の前で、目に見える形で陳謝しなかったのか、甚だ疑問」と、安倍首相が謝罪を行わないことに対して疑問を呈した。 質疑応答では「在京メディアは政権と近すぎるのではないか」という指摘に対し、潮平氏は「在京のメディアは確かに政権与党批判、政府批判を真正面からやることは少なくなった」との認識を示し、「東京のメディアの常識が、日本のメディアの常識ではない」と、地方紙の主張にも目を向けてほしいと訴えた。武富和彦・沖縄タイムス編集局長の冒頭発言 今日はこういう機会を与えて頂き感謝しています。 沖縄の新聞社として県内で発行していて、沖縄の民衆の声に関して、県内では思い切り発信している自負はあるんですが、なかなかそれが日本本土には伝わっていない現状があり、ジレンマを感じている中、今回の「沖縄の二紙を潰さないといけない」という百田氏の言葉には非常に憤りを感じています。 琉球新報さんと出させていただいた共同抗議声明にも書かせていただいたおとり、政権の意にそわない新聞報道は許さないんだという言論弾圧の発想に関しては民主主義の根幹である表現の自由、言論の自由を否定する暴論だと受けとめています。7月2日、日本記者クラブで記者会見する沖縄タイムスの武富和彦編集局長(左)と琉球新報の潮平芳和編集局長 また一番の問題だと感じているのは、百田さんの言葉を引き出した自民党の国会議員だというふうに思っています。「沖縄の世論が歪んでいる」として、「正しい方向にもっていくにはどうすればいいのか」という質問は、沖縄県民を非常に愚弄するものであり、大変失礼だと思います。 新聞社に対して「潰さないといけない」という以上に、「沖縄の世論が歪んでいる」ということは、沖縄県民を馬鹿にしているということであり、憤りを感じております。 沖縄の民意は明確です。去年の選挙、県知事選や名護市長選など、全て自民党が応援する候補が負けました。ある意味そういう結果で、「沖縄の民意が歪んでいるんだ」と言いたいんでしょうけれど、そういう民主主義において最も尊重すべき選挙結果を否定することは、民主主義の否定に他ならないと感じています 安倍政権は昨年11月に当選した翁長知事と長らく会おうとしませんでした。やっと今年の4月になってからです。私たちは「辺野古新基地建設」と呼んでいますけれど、これまで安倍さんは「普天間飛行場の移設に関しては、辺野古が唯一だ」という言葉を繰り返すだけです。 菅官房長官や中谷防衛大臣に至っては、「この期に及んで」だとか「粛々と」という言葉を使って、威圧するような形で沖縄と向き合ってきました。翁長知事から「上から目線で」と指摘され最近ではこういう言葉を使わなくなりましたが、本音の部分では何も変わっていないと思います。そういう安倍政権の姿勢が今回の国会議員の発言に現れたと思っています。 ここ数年、沖縄のメディアに対する自民党の攻撃的姿勢が目立っています。沖縄が政権の意のままにならないことをメディアのせいにしている形ですけれど、「メディアが世論を操っている」と、そういう風な見方に凝り固まっていると、問題の本質を見誤ると思います。 国土の0.6%しかない土地に74%もの米軍専用施設が、基地があるがゆえに、米軍機が自由に爆音をまき散らして上空を飛び交い、道路も軍用車両が走る。事件・事故が多発する。戦後70年、沖縄はそういう苦しみを背負わされてきました。今日に至って、これ以上の苦しみはいやだ、と声を上げたのに聞いてもらえない。 現在世論調査をしても、政府が普天間基地の移設だと称する辺野古への新基地建設については6割以上の反対があります、もちろん賛成派も居ますが、2割前後です。そういう意味で、住民の意思は堅いものがあります。にも関わらず、その意思を捉えて「世論は歪んでいる」と言い放つのは、あまりにも無神経ではないでしょうか。 戦後、沖縄には10以上の新聞社がありましたが、今日まで残っているのは、沖縄タイムスと琉球新報の二つだけです。米軍の圧政下であっても、常に民衆の側に立ったというのが支持されて、今日に至っています。民衆の支持がないと、新聞というのは存続できないと思います。新聞社が世論をコントロールしているのではなくて、世論に突き動かされて新聞社の報道があると思っています。為政者にとって都合が悪い報道だとしても、民衆の意見、民意をしっかり受け止めるべきだと思います。 繰り返しになりますが、「潰さないといけない」とターゲットにされたのは沖縄の二紙ですけれど、その発言を引き出したのは自民党の議員たちです。彼らは「マスコミを懲らしめる」と言いました。自分たちの気に入らない報道、論説は許さないという、まさに報道の自由、表現の自由を否定する思考が根底にあります。この思想は、沖縄にとどまらず、いずれ全てのメディアに向けられる恐れがあると思います。 「マスコミを懲らしめるには広告料収入が無くなるのが一番だ」と、広告を通して報道に圧力をかける発言があったために、日頃は主義主張の違うメディアも「言論封殺は許さない」と行動を共にしています。これまで日本に漂っていた、戦争につながりかねない危険な空気が、実は今回の国会議員の発言で、国民の目や耳に触れる形で表面化したことは大きいと思います。名指しされたのは沖縄の新聞ですが、全国共通の問題が横たわっていることが認識できたかと思います。 沖縄タイムスは1948年に創刊されました。戦前の新聞人が、戦争に加担したという罪の意識を抱えながら、戦犯的な意識を持ちつつ、戦後、二度と戦争のためにはペンを執らないんだと、平和な暮らしを守り、作るというのが出発点になりました。この姿勢は今日にも継承されており、今後も変わることはないと確信しています。 琉球新報もそうですけれど、「偏向報道」という批判もあります。しかし沖縄タイムスの創刊メンバーの一人がこういうことを言っています。「一方で圧倒的な権力を持つ、一方には基本的人権も守られない住民がいる。そういう力の不均衡がある場合に、客観・公正を保つには、力の無い側に立って少しでも均衡を取り戻すのが大事なんだ」と。この言葉は本土復帰の前ですけれど、沖縄の状況は今も変わらないものがあります。今に通ずるものがあると思います。 普天間飛行場の成り立ちとか、基地の地主が金持ちだとか、そういう事実誤認に基づく百田さんの発言にも色々と言いたいことはありますが、それについては社会的に大きな影響力を持つ作家が事実関係も歴史的な経緯も知らずに 発言するのは謹んで欲しい、ということだけを述べて、最後に、外国のメディアの皆様に期待というか、お願いをして締めたいと思います。 外国のメディアの皆さんには、辺野古への新基地建設問題を契機に、沖縄取材を頻繁にやっていただいています。そのことに関しては非常に感謝しております。日本は民主主義国家なのか、しっかり見て、報道してほしいと思います 選挙結果に従うというのが、民主主義の基本だと認識していますが、今の政府の対応というのは民主主義だと言えるのでしょうか。今、沖縄で起きていることは、日本の他の地域でも今後起こりうることだし、米軍が駐留している他の国でも起こるかもしれない出来事です。 米軍基地の問題では、もう一方の当事者であり、民主主義国家だと信じていたアメリカへの期待も非常に大きいものがありました。しかし今のところ、日本において沖縄が置かれている差別的状況、選挙で民意を示しても一顧だにされない沖縄のことが、アメリカに十分伝わっているとは言いがたい状況があるんではないかと思っています。 沖縄タイムスは、折に触れて英語訳を付けた特集を発行しています。6月23日、沖縄における組織的戦闘が終わったとされる日の新聞には、例年だけだと日本語だけで発行しますが、今年は英訳をつけました。5月には県民大会がありました。それも英訳を付けました。以前にはケネディ駐日大使が沖縄にいらしゃったときに、英語の社説を一面に掲げたこともあります。 日本国内で差別的扱いを受けている認識がありますが、日本政府に事態を改めるよう求めてもなかなか改善される兆しがない中、一種の外圧に頼る必要もあると考えています。当事国のアメリカをはじめ、より多くの方々が沖縄の方の声を聞いて、沖縄の実態を肌で感じて、それぞれの国に向けて、沖縄の今、県民の今を伝えてほしいと思います。以上です。ありがとうございました。潮平・琉球新報編集局長「民主主義、表現の自由、言論の自由は危機的な状況にある」潮平芳和・琉球新報編集局長の冒頭発言 今日は本当に、ここにお集まりの海外特派員の皆さま、市民の知る権利とジャーナリズムの発展のために日々戦っている皆さまと貴重な時間を共有できることを嬉しく思います。こういう場を設けていただいたことに感謝申し上げます。 武富さんが本当に沖縄県民の怒り、苛立ち、悲しい思い、全ての思いを喋り尽くしたので、このまま連名で会見を済ませてしまおうかという気がしないでもないですが(笑)、武富さんとかぶらない形で意見を述べさせていただきたいと思います。 記者会見と言えば、良いことをしたか、あるいは悪いことをしたかのどちらかの場合に記者会見する場合が多いのだと思いますけれども、琉球新報も沖縄タイムスも、権力を監視するという当たり前の活動をしていてこういう場で記者会見をせざるをえない。このことは何を意味するのでしょうか。ここにお集まりのジャーナリストの皆さまが心の中で思っている、民主主義、表現の自由、言論の自由は、やはり危機的な状況にあるのではないかと思います。 今朝の紙面を沖縄から持ってまいりました。共同電ですけれど、昨日、安倍首相が公明党の山口代表に対して今回の報道圧力問題を陳謝したというこの記事、これが一面を飾っております。 安倍首相が懇談会で陳謝したことは半歩前進と言えなくもないですが、私はタイミングと場所を間違っていると思います。なぜ問題の発覚後すぐに国権の最高機関である国会で陳謝しなかったのか、あるいは1億2千万の国民の前で、目に見える形で陳謝しなかったのか、甚だ疑問であります。何か知事選挙への影響を考慮してそういう陳謝したという話も伝わってきますが自分の党の議員が報道機関へ圧力をかけたことについて反省は二の次なのか、そういう意味で大いに疑問であります。 今回の自民党勉強会における一連の報道圧力発言は、事実に基づかない無責任な暴論であり、許せないという思いでいっぱいであります。 議員の一人が、「マスコミを懲らしめるには広告料が無くなるのが一番だ」、そして「文化人や民間人が経団連に働きかけてほしい」と求めた発言は、政権の意に沿わないメディアは兵糧攻めにして経営難に陥らせ、言論の自由、表現の自由を取り上げる。これはもう言論弾圧そのものだと考えます。 このような言説を目の当たりにすると、この国はもはや民主主義国家をやめ、全体主義の国に一歩一歩進んでいるのか、そういう懸念を持たざるを得ません。「マスコミを懲らしめる」という発想自体が、日本国憲法の尊重、遵守義務にも違反し、二重、三重の意味で憲法違反だと考えます。 別の議員が「沖縄の二紙が沖縄の世論を歪めている」「世論が左翼勢力に乗っ取られている」という発言したようですけども、沖縄の新聞がもし世論を弄ぶような思い上がった新聞だったら、とっくに県民の支持を失い、地域社会から退場勧告を受けていたことでしょう。地域住民、読者の支持無くして新聞は成り立ちません。持続可能な平和と環境を創造する新聞、社会的弱者に寄り添う新聞が、驕り高ぶることなどあろうはずがありません。紙面を手に記者会見する琉球新報の潮平芳和編集局長(右)と、沖縄タイムスの武富和彦編集局長=7月2日、日本記者クラブ 少しだけ歴史の話をさせて頂きます。1940年に、沖縄では3つの新聞が統一し、「沖縄新報」という 沖縄新報は国家権力の戦争遂行に協力し、県民の戦意を高揚させる役割を果たしました。そのことによって、夥しい数の住民が犠牲となりました。沖縄の新聞にとって、そのような悲惨な末路を招いたことは痛恨の極みであります。 皆さまの手元の共同抗議声明の中にもあるとおり、戦後、沖縄の新聞は、戦争に加担した新聞人の反省から出発し、戦争につながるような報道は二度としないというのが報道姿勢のベースにあります。 琉球新報について言えば、一貫して戦争に反対するとともに、過酷な沖縄戦や人権を脅かされ続けた戦後の米軍支配の経験も踏まえ、沖縄にも自由、民主主義、基本的人権尊重、法の支配といった普遍的な価値を、日米両国民と同じように適用してほしい、平和憲法の恩恵を沖縄にももたらしてほしい、そういった主張、論説を続けておりますし、その精神で日々の紙面も作っております。 また、軍事偏重の日米関係ではなく、国民の信頼と国際協調の精神に根差した持続可能な日米関係を目指すべきだと主張しています。こうした主張をすることが、どうして世論を歪めていることになるのか不可思議ですし、沖縄二紙が「偏向」呼ばわりされるのは極めて遺憾です。 結論的なことを一言申し上げれば、今回の報道圧力問題が、この国の民主主義の"終わりの始まり"ではなく、この国の言論の自由、表現の自由を再生・強化する再出発の機会になればと考えています。そのためにも、海外メディアの皆様も一緒に戦ってくれたら幸いであります。予定よりもはしょりますけれども、以上です。質疑応答 -安倍首相が国民全体に謝罪すべきだと思っているのでしょうか。また、日本社会において、メディアと政府の信頼関係が揺るがされたと思うのですが、そもそも日本のメディアの方々は政府と近すぎると思いますか。(フランスの記者)潮平氏:まさに謝罪すべきだと思います。たしかに安倍首相は総理大臣の立場ですけれども、同時に自民党総裁でもあるわけですから、都合のいいときは自民党総裁で、都合の悪い時は語らないというのはやるべきではないと思います。誰が見ても自民党の議員が問題発言をしたわけですから、そういうことは問題だという意識があるのであれば諌めるのが党の総裁としての責任なる態度ではないかと思います。 政府とメディアが近すぎるのではないかという質問ですが、皆さんもお感じになっていることだと思いますので、私からあらめて言うことではないのかもしれませんが、ちょっと違った視点で申し上げれば、最近、在京のメディアは確かに政権与党批判、政府批判を真正面からやることは少なくなったと私も感じます。 集団的自衛権の問題、TPPの問題、あるいは原発政策の問題、在京のメディアを見ると賛否が真っ二つという風に見えます。しかしここで私たちが強調したいんですが東京のメディアの常識が、日本のメディアの常識ではないということです。日本には50以上の地方新聞、地方紙、ブロック紙がありますけれども、その仲間たちのスタンスは集団的自衛権の問題にしろTPPの問題にしろ原発政策にしろ、大半が批判的です。 これ以上は申し上げませんが、海外のメディアの皆さまには、東京の視点だけで日本の政府や政党を評価するということは、今日を機会に改めていただければなと考えています。 -もっと地方紙を読むべきだということですが、二紙のサイトを見ても、英語の記事が少ないと思います。私たちは全てを翻訳することは出来ませんので、もっと他の言語で載せてほしいと思います。 さて、国会議員が広告料収入について言及しましたが、広告出稿を控えられるという心配はありますか。また、こうした発言をした議員への献金をやめてください、というような反撃のキャンペーンを張ることは考えていますか。(中東のメディア)武富氏:反応で言うと、少なくとも沖縄の企業からは自民党の国会議員が言うようにスポンサー降りるとか広告収入で圧力をかけるという動きはありません。 さきほど空港でたまたま沖縄県内で比較的大きな企業の社長さんと待合室で一緒でしたけれど、頑張れ、潰されるな、かえるなと、むしろ激励の言葉をもらいました。冗談で「潰さないでくさいよ」と言うんですけれど(笑)、「それは任せとけ」と、少なくとも今日あった経営者の方はそういう反応です。 会社の方にはメール、電話、FAX等でいろいろな反応があります。普段から反応はありますが、やはり今回の百田発言、国会議員発言を受けまして、反応が増えました。その7〜8割は激励です。もちろん「売国奴」とか「非国民」とか「日本から出て行け」という、「潰れろ」に近いメールもありますけれども、それは前から一定程度ありましたので、そういう声が急に増えたということはなく、むしろ応援する声が増えたということです。 一昨日には、神戸の方がわざわざ飛行機に乗って訪ねてこられました。「こういう無知な先生が未だにいるのに驚いている。そういう無知だけじゃないぞ」と、商店街で沖縄の新聞を購読するということで、数十部分の購読申し込み書類を届けてくださいました。 そういう意味では、かなり威圧するような攻撃的な過激な声もあるんですが、現時点での沖縄県内での受け止め方、読者の方々の反応でいうと、百田さんや一部の国会議員の方々の思惑とは反対の方向に動いているのではないかという印象です。 -昨年、政府が報道機関に中立な報道をという依頼をしたことが問題になりましたが、沖縄のメディアにもそういう依頼は来ているのでしょうか。(オーストリアの記者)潮平氏:先だって、沖縄の地方組織幹部が、辺野古新基地建設について、賛成と反対半々と言わないまでも、もっと賛成の意見を載せて欲しいという指摘をしておりました。その点については、我々も真摯に受け止めたいと思っております。必ずしも半々載せるのが公正中立ということではなくて、世論の8割が反対をしていて、各種選挙では反対派が全勝するという状況の中で、社会を映すというような観点に立った場合、紙面で反対意見が多めになるのは仕方がないと思います。だからと言って、賛成意見を無視する、軽視するという立場は取りません。可能なかぎり、声なき声、少数意見も救い上げるような、そういう新聞でありたいと思っております。

  • Thumbnail

    記事

    異論認めぬ沖縄二紙の画一的報道 当事者証言も黙殺

    聞やテレビは、私のような体験談や意見は全く流さない」と、知念氏は指摘する。 取材を受けないまま、地元メディアに一方的な記事を書かれた点では、戦後の琉球政府で旧軍人軍属資格審査員として軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄氏(83)も同様だ。 照屋氏は2006年8月、産経新聞の取材に対し、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類をつくった」と証言し、当事者として軍命令説を否定した。 それに対し、沖縄タイムスは2007年5月26日付朝刊で、慶良間諸島の集団自決をめぐり、当時の隊長らが作家の大江健三郎氏らに損害賠償などを求めている裁判での被告側主張を引用。「『捏造(ねつぞう)』証言の元援護課職員 国の方針決定時 担当外 人事記録で指摘」などと、4段見出しで大きく報じた。証言を否定する趣旨の記事で、名指しこそしていないが、すぐに照屋氏だと分かる書き方だ。 しかし、照屋氏は当時の琉球政府辞令、関係書類などをきちんと保管している。被告側が提示した記録について、照屋氏は「人名の上にあるべき職名が伏せられていたり、全員、庶務係となっていたり不自然だ」と指摘するが、こうした反論は地元メディアには取り上げられない。 照屋氏は渡嘉敷島に1週間滞在して住民の聞き取り調査を実施しており、「隊長命令があったと言った人は1人もいない。これは断言する」と述べている。「捏造」と決めつけた沖縄タイムスから謝罪や訂正の申し入れは一切ないという。「集団自決を削除」と誤解 「この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を経験したおじい、おばあがウソをついていると言いたいのか」 「次の世代の子供たちに真実を伝えたい」教科書検定意見撤回を求める県民大会。沖縄地元2紙は主催者発表の参加者数「11万人」を繰り返し掲載した=2007年9月27日 9月29日の県民大会で、高校3年生の2人が集団自決に関する教科書検定を批判するシーンは、繰り返しテレビ各局で放映された。 また、同日付の沖縄タイムスは「県議会の意見書が指摘するように『日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実』である」、30日付の琉球新報は「いかなる改竄(かいざん)、隠蔽(いんぺい)工作が行われたにしても、真実の姿を必死に伝えようとする県民の意志をくじくことはできない」と、それぞれ社説で主張している。 だが、検定意見は「軍が(自決を)命令したかどうかは明らかといえない」と指摘したにすぎない。 また、検定決定後の記述でも、軍の関与自体はそのまま残っている。 甲南大、熊本大などの学生有志が11月、沖縄県で実施した興味深いアンケート調査(723人回答)結果がある。 それによると、検定意見がついた背景に、元琉球政府職員の照屋昇雄氏らの新証言があったことを知っていたのはわずか17%。8割の人が「知らない」と答えた。県民大会に「参加した」または「参加したかった」と答えた人にその理由を聞くと、「集団自決を伝えたい」が48・1%に上り、「軍命令を記述してほしい」は25・7%にとどまった。 「多数の県民は報道を通じ、集団自決そのものが抹消されたと誤解している。地元紙は、検定対象が軍命令の有無であることをストレートに報道してこなかった」 歴史評論家、恵忠久氏(82)はこう指摘する。恵氏らは県民大会の場で、「検定意見では、集団自決の記述は従前どおりであり、変更はない」「沖縄の新聞などの異常な報道ぶりは、誤報でしかない」などと訴えるビラを配布した。すると翌日から「これは事実か」と約100件の問い合わせ電話があったほか、「本当のことを聞かせてほしい」と直接訪ねてきた人も数人いたという。 ただ、沖縄ではこうした意見を表立って論じにくい空気がある。元宜野湾市議の宮城義男氏(83)は「軍命令はなかったという話をすると、『非県民』扱いされる。だから本当のことは言えない」と語る。『鉄の暴風』と軍命令説 沖縄戦の集団自決を日本軍の「命令」と最初に書いたのは、沖縄タイムス社編『鉄の暴風-沖縄戦記』(朝日新聞社刊、昭和25年)だ。この本の記述がノーベル賞作家の大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波書店)などさまざまな書籍に孫引きされ、「軍命令説」が広く流布されていった。「鉄の暴風」は渡嘉敷島での集団自決についてこう書いている。 《恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである》 赤松とは、慶良間列島・渡嘉敷島守備隊長だった赤松嘉次氏(故人)のことだ。大江氏は『沖縄ノート』で赤松氏らを念頭に「慶良間の集団自決の責任者は罪の巨塊」と断罪している。これに対し、赤松氏の弟、秀一氏らは平成17年8月、「誤った記述で多くの読者に非道な人物と認識される」として、大江氏と岩波書店に、出版差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こしたが、23年4月に最高裁が原告側の上告を退け、大江氏側勝訴の判決が確定している。

  • Thumbnail

    記事

    閉ざされた言論空間 沖縄メディアが報道しない「移設」賛成の声

    ともかく、表現の自由の範囲内だと思う。新聞社が自社への批判を封じ込めてはいけない。 そもそも、沖縄のメディアには、県内外から批判が出ている。 沖縄県石垣市を拠点とする八重山日報の仲新城誠編集長は今月半ば、夕刊フジでの連載「沖縄が危ない!」で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題に触れて、以下のように指摘していた。 《現在の沖縄では「移設」を「新基地」と言い換えるなど、反基地活動家の「造語」がマスコミを中心に氾濫している。県民感情を反基地へと導く印象操作の役割を担っている》《マスコミは辺野古(移設)容認の政治家を厳しく批判する一方、辺野古反対の政治家は厚遇する》翁長知事は対案を提示すべきではないのか 同県の翁長雄志知事は「辺野古に基地は造らせない」と公言している。多くの沖縄メディアは「反基地派」と一体化したような報道をしている。「権力のチェック」「多様な意見の反映」といったメディアの使命はどうなっているのか。 実は、沖縄には「辺野古移転に賛成」という県民もいるが、そうした声は沖縄メディアでは、まず報道されない。閉ざされた言論空間に対し、沖縄出身のジャーナリスト、我那覇真子(がなは・まさこ)さんは「沖縄のガンはメディアだ」と声をあげている。期待をもって注目したい。 辺野古移設は「世界一危険」といわれる普天間飛行場の危険性を除去し、沖縄の基地負担を減らすための、日米両政府の合意事項である。これができなければ、日本は「政府間合意を実現できない国」となり、その信用は失墜する。 翁長氏は、元自民党県連幹事長まで務めた政治家である。辺野古移転に反対するなら、実現可能な代替案を提示すべきだ。沖縄の地政学的重要性を無視して、ただ、「反基地」を連呼して、移設を妨害する権限を行使するなら、「活動家が知事になった」といわれても仕方ない。 中国は1990年代以降、国防費を毎年10%前後増加させている。日本領空に接近した中国軍機に対する航空自衛隊機のスクランブル回数は2014年度、過去最多の464回になった。沖縄西方の東シナ海にある中国の海洋プラットホームは、この1年間で2倍の12カ所に急増し、軍事基地化が懸念されている。 沖縄メディアも、翁長氏も、中国の軍事的脅威を冷静かつ深刻に受け止めるべきではないか。(取材・構成 藤田裕行)

  • Thumbnail

    テーマ

    テレビは生き残れるか

    ようやく、というべきか。テレビ局がいよいよインターネット戦略に本腰を入れ始めた。2015年はテレビにとって「ネット戦略元年」として記録されるだろう。「巨人」ネットフリックスの日本参入で生き残りへと動き出した民放キー局。この先視聴者が選ぶのは一体誰なのか。