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    テレビが黙殺する「報道の自由」の真実

    する報道の自由度ランキングで、日本は72位に転落した。安倍政権による「報道圧力」を指摘する野党や左派メディアはここぞとばかりに自由の危機を憂いたが、なぜかテレビだけはこの問題にダンマリを決め込む。そこにはテレビ局側の「内」なる事情もあるらしい。

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    批判を恐れて萎縮する日本のテレビが迎えるジャーナリズムの「死」

    安倍宏行(Japan In-depth 編集長) 「日本に報道の自由はない」とか「安倍政権がメディアに圧力をかけている」との批判が活字メディアを中心に頻繁に見られる。論拠によく上がるのが、1.パリに本部を置くNGO「国境なき記者団」が発表した「報道の自由ランキング」で、日本が180ヵ国中、72位2.高市早苗総務大臣の停波発言3.直言キャスターの一斉降板4.国連特別報告者のデービッド・ケイ氏(米カリフォルニア大アーバイン校教授)の調査報告。などだ。 1は正直このNGOの実態がよくわからないので、何故72位なのか不明だが、2から4まではかなり恣意的な要素が入っていると思われる。安倍政権に批判的な勢力が主張しているように見えるのだ。 2013年にテレビ局を辞し、フリーのジャーナリストとして独立して以来、政府の報道に対する圧力はあるか、と幾度となく既存メディア(特に新聞、雑誌)から取材を受けたが、いつも「干渉が全くないかと言うとそんなことはないが、圧力というほどのものは感じたことが無い。それによって自分の記事の内容がゆがめられたこともない。」と答えてきた。21年間の記者生活で「政治の圧力」を感じたことが無いのだから正直にそう答えたまでだ。ついでに言うと「スポンサーの圧力」を指摘する声も多いが、それも一度たりとも感じたことはない。 さて、ではなぜこれほどまで執拗に「日本に報道の自由がない」という言説が跋扈するのか。それはひとえに既存メディアである新聞、テレビの報道姿勢にあると筆者はみている。とりわけ、年が明けてから政治スキャンダルなどのスクープで息を吐いている週刊文春をはじめとする週刊誌ジャーナリズムの元気がいいから、余計に既存メディアの消極的な報道姿勢が目立つ。 特にテレビだ。「自主規制」という言葉がしっくりくるが、テレビの報道姿勢が非常にあいまいになっている印象を持つ。この春、古舘伊知郎(テレ朝系「報道ステーション」)、国谷裕子(NHK「クローズアップ現代」)、岸井成格(TBS系「NEWS23」)が降板したが、これは政府の圧力というより、テレビ局がさまざまな理由から判断して彼らを降ろした、というのが本当のところだろう。各局ともにその理由はさまざまだが、その背景にあるのは局幹部の過剰な「リスク管理」意識、いや「忖度」したといってもいい。「自粛」は言い換えれば「委縮」 筆者の感覚だとここ15年くらい、テレビ局内のこうした「リスク管理」意識は強まる一方だ。背景には、ネット社会を中心に強まって来たテレビ局批判がある。これまで可視化されてこなかった批判が一気に噴出し、それが増幅されてきた歴史がある。時にはいわれない理由でバッシングが起きることもある。フジテレビの韓流押し批判など、その最たるものだが、身に覚えがなくてもいとも簡単に世論は沸騰する。そしてテレビ局の評価は下がる一方だ。 そうした批判にテレビ局自身が鈍感だったことも不幸だった。局員がネットに疎く、時代の流れを読めなかったことが、事態を悪化させた。そして、局内に、「無駄に批判を招くような番組は自粛しよう」という空気が蔓延した。「自粛」は言い換えれば「委縮」と取られる。 現在、筆者はクライシスマネジメントの仕事にも関わることも多いが、企業の「リスク管理」意識は今、大きく変貌している。ネット社会において、企業のレピュテーションは簡単に毀損する。企業は批判や攻撃を防御するだけではなく、「攻め」が必要な時代になっている。テレビ報道は「委縮している」という批判に甘んじたくなければ、「攻めの報道」をしなければだめだ、ということだ。 キャスターの首をすげ替えただけで、批判が消え去ると思ったら大間違いだ。むしろ逆だろう。批判に立ち向かうためには、番組内容を変え、むしろ批判に答えていかねばならない。具体的には、キャスターと番組が一体となり、国民的関心事、例えば憲法改正や原発問題、政治とカネの問題などに対する提言を積極的に放送するとか、継続的に「調査報道」を行う、などがそれにあたる。口先批判などと揶揄できないほどのクオリティと確固たる報道姿勢が前面に出すことが、批判に答える唯一の道だ。 しかし、テレビ局はキャスターを代えたことでお茶を濁し、ニュースのバラエティー化に邁進している。それは「自主規制」や「委縮」というより、「怠慢」に近い。地上波では「ハードなニュースを流しても数字(視聴率)が取れない」などと思っているなら、それは大間違いだろう。現に、硬派の報道番組の代表格であるBSフジ「プライムニュース」などはしっかりと視聴者に支持されているではないか。それはBSだから、という言い訳は、実際に地上波でやってから言ってもらいたい。間違った「リスク管理」の名の下に、何もしない=不作為は、筑紫哲也氏ではないが、報道の死を意味する。 「報道の自由」が毀損している、との批判は、政府の圧力よりも、報道する側の「委縮」と「怠慢」が招いている。その自覚がないとなれば、そうした批判に甘んじて生きるしかないのだろう。

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    「報道の自由」不信を生んだ日本の古きジャーナリズム

    現行政権の報道の自由への介入を声高に、強い口調で非難し、保守派は報告者の人物像と基準の偏り、また左派メディアの過去のさまざまな同種の瑕疵をもとに冷笑する…。 すでに、この対立の構図それ自体を見飽きた気さえしてくるが、大半の生活者はあまり気にしていないか、なんとなくどのメディアに対しても「なんとなく偏っているのではないか」などと漠然とした不信感を抱いている。実態はともかくとして、日本の「報道の自由」に対する閉塞感、不信感については否定できないだろう。 もちろん、両者の言い分には、それぞれ一定の耳を傾けるべき理由があり、また説得力があるが、本稿では、こうした対立の構図を支えるジャーナリズムの課題に目を向けてみることにしたい。 政治とメディアの冗長的な「慣れ親しみ」の関係をもとに形成された「規範のジャーナリズム」が機能不全を起こしているが、その変革に失敗していることである。ここでいう政治とメディアの「慣れ親しみの関係」とは、政治とメディアが、生活者よりも密な関係を形成することである。詳しくは拙著『メディアと自民党』(角川新書)などを見て欲しいが、日本の政治とメディアは、歴史的な発展過程のなかで緊密な関係を形成してきた。そのあり様のことを指している。ネガティブな側面が指摘されることが多いが、後述するように、受け手とメディアのあいだで十分に価値観の共有がなされていた時代には、ポジティブに機能することもあったというのが筆者の認識だ。 「規範のジャーナリズム」とは、このような政治とメディアの関係を踏まえて、大所高所から政治や社会のあり様について、特定の価値観のもとに政治や生活者がどうあるべきかという指針を提示する、やや図式的にいえば「速報、取材、告発」を重視するジャーナリズムのかたちである。情報の受け手とメディアに共有されていた価値観 言うまでもなく、ジャーナリズムの存在理由のひとつは権力監視にある。しかし、日本の政治とメディアでは、佐藤栄作元総理の首席秘書官を勤めた元産経新聞政治部の楠田實や読売新聞主筆の渡邉恒雄の回顧録を引き合いにだすまでもなく、双方に対して間接どころか、ときには直接的な影響力が行使されていたことが知られている。東京ドームで試合を観戦する渡辺恒雄・読売新聞主筆(手前左)、森喜朗元首相(右隣)ら=2015年5月13日午後、東京都文京区の東京ドーム(撮影・大橋純人) それでも、情報の受け手とメディアのあいだに一定の価値観の共通がなされていた時代には、読者はその媒体を「信頼」することができ、その信頼を基盤とした「表現」と「ジャーナリズム」が可能だったと思われる。紙幅の、あるいは放送時間上の強い制約を受けるため、接続詞、主語、目的語、論理などを省略化しようとするし、簡略化した発言が好まれる。 メディアと情報の受け手のあいだの価値観の共有が省略化された前提を、「適切に」補完することで、「規範のジャーナリズム」にも合意できた。合意できない場合には、別のメディアを手に取ればよいのだから、直接的な違和が表明される機会は乏しく、実質的に媒体ごとに特定の価値観共同体が形成されてきた。 しかし、現在では、その基盤が大変脆弱なものとなっている。若年世代は新聞を読む機会をもたず、メディアもコンテンツをばらばらに、自社やニュースポータルを経由してネット配信する。そこでは、従来的な意味での価値観共同体は存在しないが、記事の大半は伝統的な製作方法に由来して作られている。適切なニュアンスの補完は働かないし、前提とした宛先とは異なったコミュニティに届いてしまう「誤配」も生じてしまう。 多くの生活者は、日本の初等中等教育課程における、実効的で実質的な政治教育のカリキュラムの不在や、社会教育の機会の不備によって、メディアが伝える政治や社会問題を読み解く素地を形成できているとは言いがたい状況にあった。こちらも、戦後の日本のメディアの「復興」過程と、現在の教育基本法第14条の政治教育のあり方(かつての、いわゆる「8条問題」)についての歴史的な側面が強く影響している。 簡潔にまとめると、生活者にとって、平易に読み解くための素材(情報)と道具立て(論理やフレームワーク)が乏しいメディア、とくに古典的なマスメディアが提供する情報環境のなかで、大上段の命題と「べき論」中心のコンテンツに慣れ、ときに過剰なメディアへの信頼・不信頼・対立や、社会や政治の問題それ自体から目をそらし続けるという誤った耐性が生まれてしまっている。 また私的生活におけるコストの観点からして、すべての生活者が日常的に権力を監視し続けるというのは、あまり現実的に思われない。政治と生活者が直接対峙するのではなく、やはり第三項としてのメディア、そしてジャーナリズムの役割は大きい。 ただし、日本のメディアメディア環境の変化に対応できていないがゆえに、生活者から、やや過剰に信頼を失い、そのいっぽうで、状況への適応を進める政治との緊張関係のなかで劣勢に、また従属的な地位にはまり込もうとしているように見える。規範から「機能のジャーナリズム」へ 筆者の主張はこうだ。メディア環境の変化を理解し、それらを踏まえ実効的な権力監視の役割を果たす「機能のジャーナリズム」へと変化する必要があるのではないか。あえて対立的に記すと、「整理、分析、啓蒙」を重視する必要があるように思われる。近年、情報量は格段に増えたが、文脈は断片化し、またメディアが前提としてきた価値観共同体も遠くない将来に消え去ることが自明になりつつある。 そのような時代のジャーナリズムは、無数にある情報のなかから価値あるものを取捨選択して整理し、定量的、定性的な分析や比較、解説を加え、生活者がそのコンテンツを受け取るまでのインターフェイスや表現の形式までをデザインすることで現代的な啓蒙を試み、政治との新たな緊張関係を取り戻すことを期待したい。 そのうえで、冒頭のたとえば、「世界報道自由度ランキング」の結果をどのように評価するか、私見を提示しておくことにしたい。2015年に日本は61位という過去最低の順位を記録した。実はランキングの低下はいまに始まったことではない。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故をきっかけにしている。2012年は22位、2013年53位、2014年には59位と順位を下げ続けてきたのだが、2015年にとうとう過去最低の数字を刻んだのである。 比較のために幾つか他国の順位も挙げておくと、1位フィンランド、2位ノルウェー、3位デンマークと最上位には北欧諸国が並んでいる。カナダ8位、ドイツ12位、イギリス34位、フランス38位、アメリカ49位、韓国60位と続く。いずれにせよ、この基準に照らすと日本の報道をめぐる状況は、OECD加盟34カ国のなかでは、もっとも低い水準にあると評価されていることになる。 もちろん「世界報道自由度ランキング」の評価方法についてもこのランキング特有の評価の傾向があるから、「世界報道自由度ランキング」を偏っていると見なすこともできるが、この基準それ自体はさほど大きく変化していない。それを踏まえれば、重視するか否かはさておくとして、日本は民主党政権の時代から、第2次安倍内閣にかけて一貫して順位を下げていることになる。したがって、この間に生じたメディア・イベント、なかでもメディアと政治に関係したメディア・イベントが、日本の報道の自由を引き下げるものであったと対外的には評価されたといえる。 一般にこうした国際ランキングにおいて、低位に甘んじていることが、日本と日本のメディアにとって愉快なはずはないし、メリットが有るとも思えない。だとすれば、政治も、メディアも改善の措置を講じるべきだと思うのだが、どうだろうか。

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    秘密保護で抑圧?国家機密の前にメディアは無力なのか

    、戦後民主主義における日本の方針を大きく転換させる契機となった。これらの法案審議中においては、一部のメディア報道によって反法案キャンペーンが展開され、法案可決阻止を目指した市民によるデモ活動も大規模に発生した。 インテリジェンス活動は秘密工作、情報収集・分析、防諜活動など多様な側面を持つが、現代国家において国家機密の情報保全は極めて重要な基本的な機能である。しかしながらこれまでの日本にはその制度が存在せず、「スパイ天国」と揶揄される時代が続いた。特定秘密保護法の成立過程において、特定秘密指定のプロセスの不透明性や第三者機関によるチェック機能の問題、運用の恣意性の問題などから、メディア報道が抑圧される可能性も指摘された。国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」(World Press Freedom Index)2015年版において日本のランキングが61位に下がり、さらには2016年版において72位にランキングが下がったことの背景として、特定秘密保護法の成立とメディア報道への影響が指摘されている(福田,2015)。情報保全諮問会議であいさつを交わす安倍晋三首相(左)と座長の渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長(右)=4月5日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影) 戦争や紛争に関する安全保障、テロリズムやミサイル事案に対する国民保護、自然災害や原発事故などの災害対策といった社会的危機においては、国家機密の問題に触れる場面が想定されるが、国家機密の問題とは別の次元で、危機的状況においては、政府発表にメディアが依存せざるを得ない状況が発生する。危機において情報源が政府に集中し、記者会見や政府発表の情報をそのままメディアが報道する状態、これが発表ジャーナリズムの問題である。 ここには、危機における政府による情報の統制という危険性だけでなく、危機においてメディアが自力の取材活動や報道の独立を放棄するという危険性も同時に存在している。こうした現象は日本に限られたことではなく、国際的に見られる現象である。安全保障と国家機密…欧米ではどうなのか 安全保障と国家機密にまつわる欧米の制度とメディア報道の関係はどうなっているだろうか。 アメリカにおける情報自由法では、情報公開の例外規定として国家の安全保障に関わる問題が指定されている。9つある例外規定の1番目は、大統領令によって定められた国防、外交における機密である(福田,2010)。ペンタゴン・ペーパー事件やウォータゲート事件など歴史的な事件を経て、アメリカ政府とメディアの対立と緊張関係がもたらすダイナミズムの中で、アメリカの報道の自由は維持されている。 イギリスにおける公務機密法では、国家機密を漏えいしたものに対する処罰が規定され、政府とメディアの間で安全保障をめぐる報道について調整するDAノーティス制度が存在する(福田,2009)。DAノーティス制度においては、イギリス軍の作戦・計画・能力について、イギリスの安全保障・情報機関・特殊部隊についてなど5項目に関連する報道がなされる場合に、事前にDPBACという機関において政府とメディアの代表が報道について検討、審議しなければならない。 アメリカやイギリスのような先進国においても、安全保障やインテリジェンスなどに関する報道については、政府とメディアの間に緊張関係が存在する。安全保障など社会的危機をめぐる政府とメディアの対決と克服によって民主主義が運営されている。 ジャーナリズムの重要な役割のひとつは権力の監視機能である。それは民主主義社会における極めて重要な機能であり、報道の自由や市民の人権と結びついている。著者が所属した日本大学新聞学研究所が実施した「日本のジャーナリスト1000人調査」においても、ジャーナリズムの重要な機能として、日本のジャーナリストに多く挙げられたのが「正確な情報提供」(42%)と「権力の監視」(40.3%)であった。ジャーナリズムの国際比較調査においても、各国のジャーナリストの中でこの権力監視機能の重要性は指摘されている。 しかしながら、その反面で国家の安全保障において国家機密の情報保全も極めて重要な活動である。それは国民の安全・安心を守るために必要不可欠な機能を有している。この「安全・安心」の価値と、「自由・人権」の価値は市民社会において重要な役割を果たしていて、どちらか一方だけが優先され、どちらか一方が破棄されてよいものではない。つまり、報道の自由や人権を守るために国家機密の情報保全に関する法制度が未整備のまま放置されてよいわけではなく、反対に、国家機密の情報保全のために報道の自由や市民の人権が損なわれてよいわけではない。この「安全・安心」の価値と「自由・人権」の価値がバランスよく運用されるための、インテリジェンス、テロ対策、安全保障の制度のあり方を議論する必要がある。 「報道の自由」がどうあるべきか、その問題を考えるひとつのテーマとして、これまで日本では議論がなされてこなかった、この安全保障やインテリジェンス活動とメディア報道の問題について、根本的な議論を始めなくてはならない。【参考文献】福田充(2009)『メディアとテロリズム』(新潮新書)福田充(2010)『テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ』(慶應義塾大学出版会)福田充(2015)『「報道の自由度」ランキング、日本はなぜ61位に後退したのか?』https://thepage.jp/detail/20150304-00000004-wordleaf日本大学新聞学研究所編(2007)『日本のジャーナリスト1000人調査報告書』.Shinji Oi, Mitsuru Fukuda & Shinsuke Sako (2012) The Japanese Journalist in Transition: continuity and change, "The Global Journalist in the 21st Century". David H. Weaver, Lars Willnat(ed.), Routledge.

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    「報道の自由」で一番大切なのは言論人の強い覚悟

    細川珠生(政治ジャーナリスト) 「政権のメディアへの圧力」が国内外で問題視されているようだ。メディアの一端に身を置いて20年超が経つが、仕事を始めた当初からフリーランスで活動してきた私は、報道機関に属す記者等とは、問題意識も多少異なると思っている。正直、「メディア=報道機関」への圧力という点においては実感がないし、本当にあるのかどうかも、私自身はわからない。評論家の細川隆元氏 =昭和57年10月29日 とはいえ、フリーランスで活動しているものが、その対象外であるということもないだろう。フリーランスは自分自身の活動の一回一回が評価の対象になっているという思いで活動しているので、ある意味、「世の中からの圧力」を常に受けているという感覚である。自分が何を、どんな目的を持って伝えていくかことについて、かなり真剣に考えて一つ一つの仕事に取り組んでいる。一回の失敗が命取りになるという意識でいるので、安易な妥協はしない。しかし、「使っていただく身」としては協調も大事であり、自分の思いだけでは仕事は成り立たたないことも、フリーランスの身でありながらも実感することでもある。 さて、私自身の「最初からフリーランス」という経歴は、少し特殊だとは思うが、同じような経歴を持つフリーのジャーナリストの先輩をお手本にしてきた。最も身近で見てきたのは、父の細川隆一郎であり、大叔父の細川隆元である。二人とも、「毒舌」「辛口」などと評されることが多いが、それだけ、政治に対し、政権に対し、また現職の総理大臣に対しても、容赦ない力強い評論活動をしてきた。大叔父の隆元は、TBS開局時に始まった「時事放談」でお茶の間をお騒がせしてきたが、放送内容によっては、局が何らかの勢力(政権ということではなく)に取り囲まれるような騒ぎ、番組への苦情なども多々あったと聞く。しかし、その時には社を上げて、番組を守り、出演者を守ってくれたという強い意志があったと、父・隆一郎から、その様子を聞いたことがある。また父も、特に時の総理大臣に厳しい評論を行っていたが、そのことによって活動が制限をされることは一度もなかったと、娘としても記憶している。二人とも故人となった今、その時々の詳細を確かめることはできないが、言論人として、メディア人としての強い覚悟、それを支える報道機関の信念が感じられるエピソードとして、私自身がこれまでフリーランスで活動する中で、幾度となく思い起こされ、勇気づけられた体験談なのである。「フリーランス」は活動しにくい 「政権からの圧力」以前に、私はフリーランスのジャーナリストが非常に活動しにくいということを常々感じているのだ。記者クラブ制度の外に置かれているのがその最たるものであるが、民主党政権以降は、フリーランスであっても、一定の条件を元に取材が可能となった記者会見も随分増えた。しかし、取材のベースである国会や議員会館、当然官邸なども、記者章がないために、その都度面会票を書かなければ入館できない。しかも、何らかの約束がなければ入館も許可されないので、自由に出入りをして取材をするということは、一切できないのである。報道機関と政治・行政の双方に問題意識がなければ、一向に改善されないことであり、正直、かなり不利な条件の下で活動してきたと感じている。もちろん一定の条件は必要だが、もう少し開かれた世界にならなければ、本当の意味での「報道の自由」が確立できないのではないかと感じるのである。 報道機関に属する人々も、フリーランスで活動する者も、切磋琢磨し、それぞれがよい報道を目指せば、メディアの世界も、言論の世界もより良いものが世の中に提供され、それを目にする視聴者や読者である国民の意識や質も向上していくのではないだろうか。その意味では、政権との関係という以前に、メディア側の閉鎖性という課題も重要であるように思う。 「評論家は正論を言っていくことが大事だ。長く仕事をしていれば、親しい政治家も増えるし、人の気持ちもわかるようになる。でもそこで批判の刃を鈍く切れ味わるくしてしまえば、この仕事は成り立たない。それで壊れる人間関係にならないように、人として信頼される評論家になれ」 仕事を始めたころには、なかなか実感できなかったが、今は、父のこの言葉がとても心に響く。立場の違いを超え、メディアに係わる多くの人にも訴えるものであればと願う。

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    国連特別報告者、反日の系譜

    力や抑圧により危機に瀕している」という趣旨を総括した。 この結論に対し日本政府の外務省などやニュースメディアの一部は「そんな事実はない」という反論をすぐに公表した。日本政府では近くケイ氏への反論を文書にまとめて公表し、国連本部へも伝達するという。「反日」政治活動家と対話する特別報告者 ところが日本側のそうした公式な対応がまだ出ないうちにケイ氏の母校のカリフォルニア大学アーバイン校では「アレクシス・ダデン教授とデービッド・ケイ教授の『日本の言論の自由への脅威』についての対話が5月12日に催される」という通知が流された。この「対話」はアメリカのアジア研究学会の機関誌「アジア研究ジャーナル」の共催とされていた。この機関紙の編集長格のジョージタウン大学のジョーダン・サンド教授はダデン教授とともに慰安婦問題で日本への批判を続けてきた人物である。 ダデン氏は2000年の東京での「女性国際戦犯法廷」という模擬裁判で慰安婦問題を追及し、昭和天皇に有罪判決を出すという活動をはじめとして、日本の歴代政権を糾弾してきた。日本の北方領土や竹島、尖閣諸島の主権主張も「膨張主義的な野心」の結果として批判した事実もある。ダデン氏はとくに安倍晋三氏に対して「悪漢」「軍国主義志向」「裸の王様」などというののしりの言葉も浴びせてきた。その一方、韓国とは親密な関係を保ち、韓国政府の対米政策の相談にも乗ってきた実績がある。 またダデン氏は昨年、欧米の日本研究学者らの多数の署名を得て日本の国民や政府、安倍首相あてに日本の慰安婦問題への態度が不適切だと非難する書簡のまとめ役となった。その際にサンド氏もダデン氏とともに書簡草案の起草や発信の役を担った。 このように「反日」とか「日本叩き」という描写が当てはまる政治活動家的な人物と国連特別報告者としての日本での調査活動を終えたばかりのケイ教授がすでに日本での「言論の自由への脅威」という結論を打ち出しての公開討論をすることは日本にとってまさに不公正だといえる。 そのうえに共催組織の代表のサンド氏も日本糾弾という政治色の濃い履歴を持つ人物なわけだ。だからケイ氏の今回の日本での調査も、すでに最初に結論ありきの安倍政権非難という政治傾向がにじむのだ。 しかしケイ氏の調査結果は本来、国連への報告が主目的なはずである。その過程では「報道の抑圧」を非難された日本政府側がその非難は事実に反するとして、正規の反論をいま準備中なのだ。であるにもかかわらず、ケイ氏は自分だけの結論をアメリカ国内ですでに一方的に広めようとする構えを明らかにした。日本にとってまさに不公正な動きである。 アメリカの学界にもこのケイ氏の今回の動きを不適切だとする意見がある。ウィスコンシン大学の日本歴史研究学者のジェーソン・モーガン博士は次のように述べるのだった。 「ダデン氏はアメリカ学界全体でも最も過激な反日派であり、韓国の利益を推進する政治活動家としても知られる。国連特別報告者の肩書きを持つケイ氏がそのダデン氏との密接な協力を露呈した今回の『対話』はアメリカ学界の安倍叩き、日本叩きの勢力がその政治目的のために国連をも利用している実態を示したといえる。明らかに日本や日本語を知らないケイ氏がわずか1週間の滞在で日本の報道や政治の全容をつかむというのは不可能であり、この種の日本断罪は不公正であり、傲慢だ」 さあ日本側がどう対応するか。日本の報道界も無関心ではいられまい。

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    報道の自由度ランキングはどう偏っているのか

    016)」を発表した。2つのランキングを比較する 国境なき記者団のランキングは日本の多くのニュース・メディアがセンセーショナルに報道したので、ご存知の方は多いと思う。先進国であるはずの日本が報道の自由度で180カ国中72位(前年61位)と低位にランクされたというニュースは、確かにインパクトがあった。 一方、同時期に発表されたフリーダムハウスの報道の自由度については日本ではあまり報道されなかったので、知らない人が多いかもしれない。 Googleトレンドのスコアではフリーダムハウスが国境なき記者団を圧倒するように、グローバルな認知度ではむしろフリーダムハウスの方が高いとも言えるのだが、日本が全体の44位というフリーダムハウスの結果は良くも悪くもない印象で、ニュースとして扱うには平凡に過ぎたのだろう。 フリーダムハウスのランキングは、ツバルやソロモン諸島等の小国を網羅し、国境なき記者団が一まとめに扱う東カリブ諸国機構(OECS)についてもその構成国をそれぞれ別個に評価していることから、実は評価対象が20カ国も多く、両者を比較するにはまずここを調整しなくてはならない。 両者がどちらもカバーする評価対象は179カ国。その中での日本の順位は、フリーダムハウスが33位、国境なき記者団は変わらず72位だ。72位 vs 44位でも印象はかなり違ったが、72位 vs 33位となれば、違いはさらに際立つ。 では、どちらかの「報道の自由度」が偏っているのだろうか?偏りがあるのは当たり前 「報道の自由度(ランキング)」はどちらも偏っているし、そうなるのは当然のことだと言うのが、私の見方だ。こうした定性的な評価に基づく指標には、ランキング作成者の「価値観」が必ず反映されるからだ。 両者の評価手順を比べると、NGO自身が事前に決めた基準に従い専門の分析者が評価するフリーダムハウスに対し、国境なき記者団では当該国の関係者数十名程度のアンケート結果を数式に当てはめて評価値を算出するという違いがある。設定する評価基準や数式をどう決めるか、アンケート回答者として誰を選ぶか等によって、それぞれの組織の価値観が反映される。 評価のプロセスに価値観が反映される以上、そこに相応の偏りが生まれるのは自然なことなのだが、そうした偏りは、両者の評価点の分布によく表れている。 下図では、各国の評価点の平均からの距離を標準偏差の倍率として表し、その分布を比較している。 オレンジ棒が示すフリーダムハウスの評価点は、均一に近い平たい分布だ。基準に従い専門の分析者が評価を行うやり方は、分布を平均的に散らすような調整に向いているのだろう。 他方、青棒が示す国境なき記者団の評価点は、尖度が大きめの分布だ。尖度とは、確率分布の特徴を表す指標の一つで、尖度が大きい分布は中心が鋭く尖る一方、厚く長く伸びた裾を持つ。いわゆるファットテールだ。 左右の非対称性も国境なき記者団の特徴で、低評価方向にのみテールが長く伸びている。多くの国が平均近くに集まる中、一部の低評価の国を特に低く評価した分布だと言えるだろう。平均周辺に多く集中するのは、十分に組織展開できない国ではアンケート協力者を確保しづらい、といった事情があるのかもしれない。国境なき記者団はアジアが嫌い?国境なき記者団はアジアが嫌い? 両ランキングの相対的な偏りがより顕著に表れているのが、地域ごとの扱いの違いだ。国境なき記者団がフリーダムハウスと比べ特に厳しく評価したのは、もちろん日本だけではない。 両者の評価順位の差を相対的な厳しさの指標とすると、国境なき記者団が最も厳しく評価した国はフィリピンで、以下、インド、マリ、インドネシア、ブルガリア、イスラエル、東チモール、モンテネグロ、日本と続く。アジアの国が目立つ印象だ。 実は、二つのランキング順位の差を地域ごとに平均すると、アジア太平洋が断然、国境なき記者団が相対的に厳しい態度をとっていることが分かる。(フリーダムハウスが相対的に優しい。) 逆に、ユーラシア(ロシア等)に対しては、フリーダムハウスの方が相対的に厳しい。(国境なき記者団が相対的に優しい。) 米国のNGOがアジアに相対的に寛大で、フランスのNGOが旧ソ連地域に相対的に寛大だという傾向には、納得できる。政情や歴史的経緯、地政学的な関係等が影響しているのだろう。表:ランキング順位差(国境なき記者団 - フリーダムハウス)の地域別平均ユーラシア       -14.8位(かなり優しい)サブサハラ・アフリカ  -7.7位(優しい)北中南米        +1.4位(ほぼ同程度)中東・北アフリカ    +1.5位(ほぼ同程度)ヨーロッパ       +5.7位(厳しい)アジア太平洋      +13.8位(かなり厳しい)注:()内は、フリーダムハウスと比較した場合の国境なき記者団の相対評価。 とは言え、地域ごとの平均がマイナス14.8位やプラス13.8位だと言われても、それがどの程度の偏りなのか、あまりピンとはこない。 そこで、これを分かりやすく見るため、179カ国の順位差の分布を所与の確率分布と見なし、ランダム抽出による出現確率をシミュレーションにより概算してみた。 結果は、ユーラシア12カ国の平均が-14.8位以下となる確率が約0.26%、アジア太平洋32カ国が+13.8位以上となる確率は約0.034%である。 どちらも、かなり低い確率だ。比較して分かること このように二つの「報道の自由度(ランキング)」を比べることで、どちらが正しいか分かるかというと、そうではない。そもそも、どちらか一方が正しいというようなものではない。 日本に関して明らかに言えるのも、「誰がどのような方法で計測するかによって、同様の指標で72位にもなれば33位にもなる」ということくらいだろう。 だが、身も蓋もない言い方になるが、こうしたランキングに一喜一憂するのが如何に馬鹿らしいかということだけは、分かって頂けるのではないだろうか。【参考記事】■日本が先進国で最下級だという「幸福度」ランクについて、みんなが勘違いしていること。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/48183188-20160325.html■日本代表FW岡崎慎司のレスター優勝で賭け屋が大損した、本当の理由。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/48557339-20160509.html■日本がギリシャより労働生産性が低いのは、当たり前。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/47352836-20151229.html■軽減税率で一番損なのは誰か、分かりやすく解説してみました。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/47171441-20151211.html■映画『マネー・ショート』を見ていて混乱するのは、「空売り」を予習したせいだ。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/48046767-20160310.html

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    自民党勉強会発言 ネトウヨのスポンサー電凸と全く同じ発想

    寄りと判断した報道があると、番組スポンサー企業の「お客様相談窓口」に苦情電話を集中させ、「なぜあんなメディアに広告を出すのか」と圧力をかけるアクションがしばしば起きる。電話で突撃をもじってそれを「スポンサー電凸(でんとつ)」と呼び、これまで朝日新聞やフジテレビなど多くのメディアや番組が標的になってきた。  しかし、一般市民の発言や行動と、政治家に許される言動には厳然と違いがある。百田尚樹氏が講師を務めた勉強会での、「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番。われわれ政治家、ましてや安倍首相にはいえないが、文化人、民間人が経団連に働きかけて欲しい」という大西英男・代議士の“懲らしめ”発言は、ネトウヨの「電凸」と全く同じ発想で、自ら手を汚さないだけ一層卑怯である。 「子供たちに悪い影響を与えている番組ワースト10を発表し、広告を出している企業を列挙すればいい」という井上貴博・代議士の発言も、政権与党が“有害”と認定した番組を排除しようという、メディアへの露骨な恫喝だ。関連記事■ 有田芳生 首相の『民主は息を吐くように嘘をつく』発言紹介■ ネトウヨは変人が徒党組んでる、相手するのバカバカしいの指摘■ 【ネット右翼事件簿】“韓国寄り”企業への不買運動が続々と■ 安倍晋三氏のネトウヨ化を心配する声がネット住民から噴出■ 左寄りの政治姿勢でブレた鳩山元首相に「鳩左ブレ」の渾名

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    政治がTV局に圧力 かつて久米宏のテレ朝やNHKは戦った

    しかし、テレビ局はそれに抵抗してきた。 自民党はスキャンダルで支持率が大きく落ち込んだ森内閣時代に「メディア規制3法案」と呼ばれた個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を推進したが、それに対して民放連、NHK、日本新聞協会、日弁連などがスクラムを組んで反対運動を展開した。 そして安倍氏が幹事長に就任すると、テレビ局と全面的にぶつかった。2003年総選挙で民主党が投票日の5日前に政権を取った場合の閣僚予定名簿を公表すると、テレビ朝日のニュースステーションが大きく報じた。安倍氏はそれを「政治的公平に反する」と批判して同社の選挙特番に党幹部の出演を拒否したのだ。 自民党は当時から、党本部でキー局の番組を録画し、ワイドショーや報道番組での自民党と野党の取り扱い時間を比較して「公正性」をチェックする体制をとって圧力をかけた。それでも、テレビ朝日はキャスターである久米宏氏を降板させることはなかった。久米宏氏 NHKも戦った。第1次安倍内閣時代、総務大臣だった菅義偉・現官房長官がNHKに国際放送(短波)の番組で「拉致問題で日本政府の毅然とした姿勢を示す」という異例の命令を出した。 放送法では国が費用を負担する国際放送について政府の命令を認めているが、政権が具体的な番組内容まで介入したのは初めてだった。このときNHKが加盟する日本新聞協会は「報道・放送の自由を侵すおそれがある」と重大な懸念を表明した。 それがいまやテレビ局は、先の衆院選前に自民党から「報道の公平・中立」を申し入れる圧力文書を突きつけられても「言論弾圧の証拠だ」と公表して反撃することさえできなくなった。 だから自民党からは完全に舐められ、自民党幹部は、古舘、岸井、国谷の3氏の降板も、「こちらがクビを切れといわなくても、各局の上層部が官邸の顔色をうかがって降板させてくれた」と笑っているのだ。 関連記事■ 24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超■ 顎関節症から復帰の日テレ宮崎アナ 妙なところで評価あがる■ 自民党執行部 党内やメディアに厳重な「言論戒厳令」を敷いた■ SAPIO連載・業田良家4コマ漫画【1/2】「勝敗ライン」■ 「TV局を減らせ」と説く元業界人がTV界の現状を描いた書

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    古舘伊知郎と国谷裕子 去りゆく「名」キャスターたちの罪と罰

    昭和45(1970)年、北海道生まれ。豊橋技術科学大学卒業、名古屋大学大学院経済学研究科除籍。ネットメディア「週刊言志人」を主宰。韓国の反日について積極的に発言する。著書に『天晴れ! 筑紫哲也news23』(文春新書)。

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    大竹しのぶ、蛭子能収、朝日新聞…反戦の耐えきれない軽さ

    メディア裏通信簿】 教授 演技は個性派なんですけどねえ…。 編集者 何のお話ですか? 教授 いやね、女優の大竹しのぶさんが「安倍首相の戦争政策を真っ向批判」していたんだそうですよ。インターネットメディアのリテラで読んだのですが、これが戦争反対、憲法改正阻止という紋切り型の薄っぺらい左翼護憲論なんです。個性のカケラもないしね。共産党か何かの政治宣伝に使われる広告塔みたいですよ。 先生 大竹しのぶは昔から、しんぶん赤旗に登場していたコテコテの左翼護憲派だからな。女優の大竹しのぶさん 女史 リテラは、元夫のお笑い芸人、明石家さんまさんの「俺は戦争のためとか、人殺しをアシストするために働いてるんじゃないって。そのために税金を納めてるんじゃないって言いにいったんです」という過去の反戦発言も載せてたね。 先生 芸ではなく、政治談義でコテコテの反戦平和や護憲を語るお笑い芸人は結構いるけど、だいたい、いかに国の安全を守るのか、何も考えはないんだ。本人の意思なのか、テレビ局がしゃべらせてるのか知らないけどさ。あ、吉本の大物でもダウンタウンはちゃんとしてるか…。松本人志は政治を語るけど、単なる左翼と違って独自の視点もあるし。3月25日にフジテレビ系のダウンタウンなうで地方創生担当相の石破茂を「軍事オタク」「鉄道オタク」とイジっていたが、あれも面白かったよ。 編集者 石破大臣にしてみれば、ダウンタウンにからかわれる、度量の大きさがあるところを見せたんでしょうけどね。 先生 前にマスコミが反集団的自衛権で騒いでいた頃、漫画家タレントの蛭子能収も朝日新聞で反対論をぶってたよな。 編集者 ええ、蛭子さんみたいな飄々としたタレントまで、朝日の政治キャンペーンにのせられていたのに驚いて、このメディア裏通信簿でも取り上げましたが。 先生 3月14日のTBS系「私の何がイケないの?」で放送していたが、蛭子は1年前に軽度認知障害と診断されていたんだそうだ。今は回復に向かっているそうだけどな。無論、朝日は認知障害を知らなかったんだろうし、もしかしたら、蛭子も朝日にしゃべった時には症状もなかったのかもしれないが、それにしても朝日にいいように利用されていたよな。 教授 あの時は、一時期、保守派論客として名をはせていた漫画家の小林よしのり氏まで反安保法制に走って、失望させられましたね。そういえば、小林氏はSAPIO5月号の連載漫画で、国連女子差別撤廃委員会が元慰安婦に日本政府は公式謝罪せよとイチャモンをつけた問題を「外圧だ」と非難していたのですが、皇位の男系継承を「女性差別」と文句を付けようと画策していたことは批判せず、むしろ賛同していました。矛盾しています。 編集者 小林さんは以前から女系容認ですからねえ…。国連委員会問題をきっかけに、自分の間違いに気づけば良かったのに。 先生 安保関連法が施行された翌日の3月29日の朝日朝刊はひどかったぜ。「専守防衛を転換」と大ウソ。自国を守るためやむを得ないときだけ、集団的自衛権行使の一部のみ認めたあの法律や閣議決定を、どこからどう読んだら、専守防衛の転換になるんだ。 編集者 あの記事の巧妙なところは見出しで「専守防衛を転換」としておいて、本文を読むと「『専守防衛』の政策を大きく転換した」と書いてあるところだと思います。先生のような方に抗議されたら、「よく読んで下さい。専守防衛を転換してやめたなんて書いていないですよ。専守防衛は変わらないんですが、その政策のあり方を大きく変えた、と言っているだけです」と言い訳できるんです。 教授 見出しと中身が違うんじゃ、往年の東スポと変わらないじゃないですか。 先生 朝日は共産党幹部の「殺し、殺される危険」という言葉も何度も引っぱり出してきて、煽っていたが、自衛隊員が子供から「お父さんは、殺し殺されに行くの」と言われたら、どんな気持ちになるか考えたことあるのかね。朝日、知性派のお株を奪われる朝日、知性派のお株を奪われる 教授 朝日とは月とスッポンで、読売新聞3月30日付朝刊の論点スペシャルはとても良かったですね。「解釈改憲」「立憲主義崩壊」などと言う安保法制批判に対して、憲法学の立場から京都大の大石眞教授と慶応大の山元一教授が「憲法解釈の変更は許されないという議論はありえない」「立憲主義は特定の政策に反対するために使う概念でもない」と冷静に反論していました。まとめの記事では元最高裁判事、藤田宙靖東北大名誉教授の「従来の法制度の『運用』で処理できる場合には、あえて法改正を求めるのではなく、従来の法規の『解釈・運用』によって済ませるという行政手法は、決して珍しくない。そのすべてを『違法』と決めつけることは、ほとんど不可能」という論文も引用して、反安保の憲法学者たちの意見を根底から覆していましたしね。朝日新聞東京本社=東京都中央区 先生 あの記事は最近の安保法制関連で一番、知的だったよな。残念ながら産経新聞にもここまでのクオリティーはなかったな。 編集者 産経新聞も同じことを主張してきたんですよ! 読売ほど知的な書き方はできなかったのかもしれませんが…。 先生 (笑)本来ならこういう知的な記事は、朝日新聞の得意技だったんだぜ。ところが、今じゃ「専守防衛を転換」の大見出しだもんな。落ちたもんだぜ。 教授 藤田名誉教授は読売の取材に「どの党が政権を持っていても通用するような法解釈の議論をしたかった」と述べていました。党利党略で解釈変更を批判した民主党などを暗に批判したのではないですか。 先生 彼らは「安倍政権による解釈変更は許さない」なんて批判してきたけど、どの政権だろうが、許されるものは許されるし、ダメなものはダメなんだ。朝日は社説の見出しも卑怯だったぜ。 《「違憲」の法制、正す議論を》 違憲にカッコをつけてるのは、「僕が『違憲』と言っているんじゃありません。憲法専門家のミナサンが『違憲』と言っているんです」という意味だろ。威勢の良いことを言うフリをして、こっそり責任逃れをしているんだ。そもそも違憲ならば、法制は無効だ。「正す議論」なんか求めずに、堂々と「無効だ」と主張しろっての。 教授 安保法制は世論調査でも、最近は評価する方が多くなってきました。多くの国民も、彼らの反対論がインチキだったと分かっているんです。 女史 北朝鮮の核ミサイル開発や中国の南シナ海とか、色々あったし、国民も気づくよね。左翼は悔しいのか、最近、ネットでは北朝鮮のミサイルも「安倍政権の陰謀だ」なんて書かれてる。(笑) 編集者 すごい妄想ですね。「日本死ね」で名を上げた「日本死ね」で名を上げた 女史 笑えたのは、ネットで読んだ慶応大学教授、金子勝さんのツイッター。日本でもネット検索が中国みたいに、政府に操作されているという妄想に取り憑かれていたんだよね。 《たとえば、「平成28年度予算」とgoogleで検索すると、産経新聞と経産省など政府機関が必ず上位を占めて気持ち悪い。ネットもメディア操作の対象であり、検索順位の操作が行われていることは知られているが、今年初めからgoogle検索ではこうした操作が目立つように思われる》って、書き込んでんの。産経や政府系機関は元号表記を使ってるから「平成28年度予算」で検索したらヒットするの当たり前じゃん。朝日新聞とか、ほとんどのメディアが「2016年度」って西暦表記しているんだからさあ。 教授 ネットと言えば、「保育園落ちた日本死ね」のブログを国会で取り上げ有名になった山尾志桜里代議士は、まだ2期目で民進党の政調会長になりましたね。衆院予算委員会で質問する民主党の山尾志桜里氏=2016年2月29日、国会・衆院第1委員室 女史 「日本死ね」って過激なブログだけど、朝日も持ち上げたからね。冨永格特別編集委員はツイッターで「『保育園落ちた 日本死ね!』以外の表現…では、これほどの伝播力は持ち得ない。尖った言葉が、むき出しの怒りや悲しみを残らず伝えているからこそ、その叫びは全国に響いた」と、つぶやいてた。 編集者 「尖った言葉」「むき出しの怒り」は、ヘイトスピーチの専売特許かと思いましたが、朝日の記者も好きなんですね。 女史 冨永さんって、前にツイッターで、ナチスの旗などを掲げてデモをする人たちの写真を載せて、英語で「東京であった日本の国家主義者のデモ。彼らは安倍首相と保守的な政権を支持している」と書いて、朝日新聞がお詫びする騒ぎを起こしているんだよね。レギュラーのコラム執筆も降ろされちゃったんだって。 編集者 山尾氏は、自分が長を務める政治団体の政治資金収支報告書が、1年間で地球5周分のガソリン代を計上していたことを、週刊新潮に批判されていました。新潮の「『日本死ね』で名を売った弱者の味方!」という見出しは皮肉が効いていましたよ。 教授 彼女は、東大出身で元検事という知的なご経歴の持ち主ですが、「日本死ね」は品性にかけていますね。有権者にウチワを配って法相を辞任した松島みどり衆院議員を彷彿させますよ。あの人も東大出で朝日新聞という、知的なご経歴の持ち主ですから。(笑) 女史 山尾さんは、ガソリン代で秘書の責任を強調しようとしてたけど、彼女って、経済再生担当相を辞任した甘利明さんの不祥事の追及チームで「秘書のやったことについて本人の責任が免れるわけではない」という批判をしてたんだよね。自己矛盾じゃん。 先生 ただ、ガソリン代の地球5周分は官房長官の菅義偉も同じだった。これもダメだろ。 教授 菅氏の場合は事務所やスタッフの活動規模も、山尾氏とは比べものにならないほど大きいから事情が違うと思いますよ。古舘伊知郎が開き直った!古舘伊知郎が開き直った! 女史 先月号で高市早苗総務相の偏向テレビ局に対する「停波」発言について「テレビは放送法の規制を受ける業者だから、偏向すれば停波も当然だ」って話で盛り上がったでしょ。だけど正論常連の潮匡人さんがサンデー毎日4月3日号で「彼女は真の保守ではない」という見出しで批判してたよ。正論が分裂してんじゃん。 編集者 あれはサンデー毎日編集部が見出しと文章の技巧で、潮先生を反高市、反安倍に見せたんですよ。よく読むと、潮先生は「もし安倍さんや高市さんが考え違いをしているなら…」と仮定の話としてコメントしているし、「保守派は言論の自由に鈍感」という考えについて「正統的な保守に対する見方としては明らかに誤解」と言っているだけ。「高市さんは保守ではない」とは言ってない。 先生 編集者は潮をかばいたいんだろうが、結局、彼は左派のサンデー毎日にうまく利用されてるじゃねえか。ところで、高市批判をしていたTBSの金平茂紀が3月31日付で執行役員をやめさせられたの知ってるか。金平はハフィントンポストで理由を聞かれても「会社の人事ですから、その質問をする相手は、僕ではなく、会社でしょう」と、木で鼻をくくったような答えをしていたし、小川榮太郎たちの公開討論の呼びかけにも、会社を通じて「金平氏はお受け致しませんとのことです」と答えるだけ。逃げてばかりだな。 編集者 テレビ朝日系の報道ステーションを降板した古舘伊知郎さんは最後の放送で「情熱を持って番組を作れば、多少は番組は偏るんです」と開き直りともとれる発言をしていましたね。 教授 こういうのをイタチの最後っ屁というのでしょうね。左派系マスコミが、政権の圧力で降板したんじゃないかと騒いでましたが、実際は、ネットで批判を受けたのが最大の原因だと思いますよ。かつてはテレビ局も番組への苦情も聞き流せましたが、現代ではネットで批判が拡散するから、無視できなくなっているんですね。国谷裕子氏 先生 最後といえば、NHKのクローズアップ現代では、キャスター国谷裕子の最後の放送で、SEALDs創設メンバーの奥田愛基をVTR出演させていた。反安保法制で大騒ぎした学生さんで、ラストを締めくくるなんて、番組の本性がよく分かるよ。 教授 国谷さんは左翼論壇誌世界5月号で「最近、ますますそうした同調圧力が強くなってきている気がする。…同調するのが当たり前だ、といった圧力。そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか」と書いていました。左翼がやる「政権の言論弾圧だ」式のもの言いで、彼女自身がどういう考えの持ち主か、よく分かります。 女史 ちなみに、奥田クンは民進党結党大会に出席してスピーチしたんだってね。 先生 「日本死ね」だけで2期目の山尾を政調会長にして、結党大会は学生に頼るんだから、民進党も人材不足なんだなあ。(笑)朝鮮学校は被害者なのか朝鮮学校は被害者なのか 先生 京都大学准教授や東京大学の研究所に勤務経験がある専門家たちが北朝鮮の核・ミサイル開発に協力した可能性があるそうだ。国家基本問題研究所ホームページの「今週の直言」というコーナーで、西岡力が怒っていたよ。もう北朝鮮へ渡航しないように再入国不許可とされているそうだが、大手マスコミも、なんで専門家たちを実名で報じないんだ。 教授 この問題に限らず、国立大学では「国立」なのに、国の方針を無視して勝手なことが行われているという実情があるのです。朝日新聞3月24日付の朝刊には「国旗・国歌、実施じわり 国立大の卒業式ピーク」と、国旗掲揚と国歌斉唱が増えたことを批判する記事が出ていましたが、「国立」ですから、本来、国旗も国歌もあって当然。それをしない大学が多いことが問題なんです。 朝日新聞は、静岡大の笹沼弘志教授に「大学が政権の言うことにただ従っていて、『自分で考えられる人材になれ』と学生に言えるのか」などとコメントさせていましたが、国立大学には多額の国民の税金が投入され、教官も国から給与を得ているんですよ。学生も授業料が安く、私立から見れば、国から給付型奨学金を得ているに等しいんです。なのに、国の意向を無視し、挙げ句の果てには北朝鮮に協力するなら、国立大学である必要はないのです。 先生 俺は笹沼という先生に、こう申し上げたい。「北朝鮮の元帥様に唯々諾々と従う工作員になるより、日本国の政権に従う方が100倍マシです」とね。(笑) 教授 朝日は3月21日付の社説では朝鮮学校への補助金打ち切りに反対し「子どもたちには、核開発や拉致問題の責任はない」と訴えましたが、朝鮮学校に補助金を出せば、結局、朝鮮総連、北朝鮮本国のために使われるんですよ。完全に議論のすり替えですよ。 先生 「子どもたちには、責任はない」というが、少なくとも親は、朝鮮学校がどういう学校か分かったうえで通わせているんだから、責任はある。教室に独裁者の金日成、金正日の写真が飾ってあるような学校だぞ。子供だって高校生にもなれば、拉致問題も知っているだろうし、自分が通う学校がどういうところか分かるだろ。ヒドイ社説だぜ。 教授 朝日は慰安婦問題で批判されたのを忘れ、完全に開き直って従来路線に戻っています。 女史 朝日はヘイトスピーチも、うまく利用してる。在特会と今の保守化の流れを一緒にして、「右傾化」「排外」とか言ってね。ヘイト訴訟で在特会が敗訴確定したから勢いづいてんじゃないの。 編集者 保守をヘイトと同一視させるレッテル貼りだけでなく、ヘイトという悪がはびこるのを利用して朝鮮学校擁護をしているとしたら、とんでもないですね。 教授 朝日の3月27日付朝刊では、このところ、偏向コラムで有名な高橋純子記者が、「反日。国賊。売国奴。いつからか、国によりかかって『異質』な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。…国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう」と書いていましたね。 編集者 どうして「反日」が問題になったかと言えば、どこかの新聞が、ありもしない慰安婦狩りだとか、意図的なウソや誤報を大きな声で流しっぱなしにしてきたからでしょう。「国家を背景に」などと意味のはっきりしない言葉を挿入して、まるで国家権力が排外主義を進めているように印象づけようとしているのでしょうが、それは違うでしょう。 先生 高橋のこのコラムは、何が言いたいか、わざと不明確に書くんだよな。 教授 書き出しからして「全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか」と、何の話をしようとしているか分からないんですね。 編集者 そして最後は「スプリング・ハズ・カム」云々と、またボンヤリと締め括るんですね。 女史 彼女の頭の中が、スプリング・ハズ・カムなんじゃない。(笑)中西輝政「さらば安倍」の衝撃中西輝政「さらば安倍」の衝撃 先生 月刊日本という雑誌があるんだけど、この頃、おかしいんだよ。4月号の表紙には、こんな見出しが並んでいる。《安倍晋三は「保守」ではない 適菜収・山崎行太郎》《嘘だらけ・櫻井よしこの憲法論 小林節》《保守のまがいもの・百田尚樹 西岡研介》 保守派の著名人に「保守ではない」「嘘だらけ」と悪口を言っているわけだけど、当の筆者が保守とは言い難い人たちばかり。俺は「じゃあ、本物の保守は誰ですか」と聞きたいね。まさか、自分たちだと言うんじゃないだろうな。 女史 安倍さん、櫻井さん、百田さんって、みんな朝日とか左翼の標的になっている人ばかりじゃん。「月刊日本」という名前は右っぽいけど、視点は左だよね。 教授 まあ、有名な雑誌ではないから、大きな影響はありませんがね。業界では、なかなか筆者に原稿料が払われない雑誌として知られていましたけど。(笑) 先生 一方、こちらは看過できない。保守系雑誌歴史通5月号で、安倍晋三首相のブレーンとも呼ばれた中西輝政が「さらば、安倍晋三」と決別宣言をしていたぞ。 教授 安倍総理が出した戦後70年談話が、日本の侵略戦争史観になっていて、それに反対する自分の意見を取り上げてもらえなかったから、怒っているように読めますね。しかし、総理は欧米や左派の世論にも配慮して、謝罪外交を断ち切る談話の文言を決めなければならない苦境に立っていたんです。持論が全面採用されなかったから「さらば」は、ちょっと度量が小さいでしょ。 編集者 ただ、中西先生は70年談話の有識者会議のメンバーとして、侵略戦争史観で談話をつくろうとした北岡伸一氏や他のメンバー、外務省側の官僚と闘ったんです。耐え難い思いがあったのではないですか。70年談話をおかしなものにしないために努力したのに、報告書の大勢は北岡氏や外務省側に押し切られ、談話そのものも結局、日本の侵略という史観を否定できなかった。中西先生の悔しさもわかります。中西輝政氏 教授 しかし、彼は昨秋頃まで安倍総理の苦しい立場も理解し、かばってもいたんですよ。それなのに、同じく総理の苦境を慮って談話を擁護してきた他の多くの保守派を、今になって「愚鈍」と非難した。それはないでしょ。 先生 ただ、「元来、私と安倍氏では政治理念も思想も大きく異なっていた」「私の論説や提言を安倍政権が政策として採用した例など皆無だ」とも書かれているし、本来、考えが違ったから、当然の帰結かもしれないがね。 教授 いやいや、安倍政権には、かなり中西氏の考えが反映された部分がありましたよ。 先生 確かに、70年談話のための報告書でも、日本の侵略戦争説を否定する脚注を安倍総理と直談判して付けさせたのは自分だと、中西は去年の月刊正論10月号などでも主張していた。意見は採用されているよな。 亡くなった元駐タイ大使の岡崎久彦から安倍総理が影響を受けていたという理由で、まるで岡崎が諸悪の根源のように批判しているのにも、俺は違和感があるな。 教授 70年談話のとき、岡崎氏はこの世にはいなかったのですからね。まさか岡崎氏が守護霊として甦り、安倍首相を動かしたというわけじゃないでしょう。 先生 70年談話に承伏し難い点があるのは俺も中西と同じだ。雑誌正論も含め保守論壇には反発が少なすぎたとも思うし、保守だからこそ談話や安倍政権の個々の政策を是々非々で批判するのも当然だ。ただ、決別宣言のような形で批判するのは一線を越える。安倍でなければ、誰にすればいいというんだ、って話になるよなあ。 編集者 中西先生の専門分野の一つである歴史に絡む問題だけに、妥協できないという思いもおありだったのでは。70年談話や日韓合意に保守派が誰か異を唱えなければ、すべてを認めることになってしまいますし…。中西先生には、中西先生なりの葛藤と深い考えがあったはずですよ。 先生 ただ、それはこの歴史通を読むだけでは分からんからなあ…。左翼も「右派が内輪モメしてる」と喜んでいるだろうし。 女史 確かに保守が分裂すると、一番喜ぶのは左翼だね。 教授 言論人が自分の意見を通したいと思うのは当然ですが、だからといって、左翼を利するようなことは避けなければ。まして保守ならば、保守政権を潰すようなことは厳に慎むべきではないですか。政治の世界は、政権に就きさえすれば、なんでも自分の理想を実現できるわけではないんです。対立する意見、世論、外圧にさまざま配慮しながら、少しずつ実現に近づけるものですよ。中西氏もそれは分かっているでしょう。さらば、花田WiLL?さらば、花田WiLL? 先生 この歴史通の編集長、立林昭彦は、かつての保守系論壇誌「諸君!」編集長だった時代から、過激な見出しをつけることで有名だから、俺も初め、表紙を見た時は「また、立林が派手な見出しを…」と思ったんだが、読んだら、そのまんまだから驚いたよ。 これを雑誌に載せたということは、立林は今後、反安倍政権で行くということなのかね。彼は、WAC社の内輪もめ騒動でWiLL編集長から飛鳥新社の新雑誌に移った花田紀凱の後任になったわけだろ。基本的に安倍政権支持だった花田WiLLから、大きく方針転換するのかね。「さらば、安倍晋三」の裏に、「さらば、花田と旧WiLLの筆者たち」という意味も込められているのだとすれば、それは安倍批判を雑誌の内輪もめに利用したことにならないか。 編集者 それは穿った見方じゃないですか。立林編集長は、言論に対しては真面目な人だという印象が、私にはありますよ。歴史通も実直な企画が多かったし。 先生 そんな甘いことを言っていると、立林の派手な見出しで正論読者を奪われるぞ。 教授 ま、「さらば、安倍晋三」は見出し通りの内容でしたが。 編集者 私としては、立林さんのWiLLも、花田さんの新雑誌も両方、失敗して、正論だけが売れるのが一番嬉しいんですが…。 女史 それこそ私利私欲じゃないの。一番、度量が小さいのは編集者じゃん。(笑)(文中敬称一部略)

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    良心が暴走する「謝罪社会」を生んだ 文春無双を許すメディアの罪

    あるわけだが。発覚してすぐ謝罪というのは、その覚悟がなかったのかと問いたくもなる。芸能人に関しては、メディアやスポンサー筋との関係もあるわけだ。そういうリスクもわかっていつつ、不倫に走るなら、何かあった時に責任をとる覚悟、あるいは開き直って「これは本当の愛だから」と言うくらいの想いが必要だ。 この春には、CMの打ち切り騒動もあった。表現というものは常に賛否を呼ぶものだ。特に尖った表現などはそうだ。あるCMなどはクレームを受け、簡単に打ち切りが決まってしまった。ただ、言うまでもなく大金を投入したCMである。クレームは折り込み済みだったはずだ。ここは批判を受けようとも、それでもCMを流す意図というものを主張するべきところではなかったか。ただ、それを主張しないということは、このCMを流した企業や、創り手が中途半端だったということだろう。もっとも、打ち切りになることを話題にしようとしていたとしたならば、たちが悪いが。 このように、そもそも、謝らなければならないようなことをするなということを確認しておきたいし、物事には筋の通し方というものがあるのだ。誰が誰に何を謝っているのか?誰が誰に何を謝っているのか? もっとも、一連の謝罪騒動を見ていて不思議に思うことがある。それは「誰が誰に対して謝っているのか?」という問題である。いや、国民の代表として政治に関わっている政治家が謝罪するのはわかりやすい。もっと謝れと言いたくなることもある。 ただ、芸能人やスポーツ選手などの謝罪においては、誰が誰に、何を理由に謝っているのか、わからなくなる瞬間がある。そんな謝り方をされても、申し訳なくなるし、戸惑うだけだ。論点がずれていて、逆に怒りを抱いてしまうことだってある。 例えば、ベッキーの謝罪問題などについては、もう何が何だかわからなくなった。迷惑をかけるのは番組関係者であり、スポンサー筋であり、主人を奪われそうになった川谷の嫁だろう。まあ、たしかに世間を騒がせた案件であったが、メディアを通じた謝罪のあり方としてはどうだろうか。 騒ぎになったからと言って、すぐ謝罪するのも考えものだ。それは、誰が誰に対して、何を謝っているのか。 結局、この手のものは筋の通し方が大事なのである。下手な謝罪は、さらなる怒りを買うことになる。メディアの構造的な問題も ここで、誰が誰に謝らせているのかという問題を考えてみたい。思うにこれは、ウェブ社会の構造的な問題ではないかとも思うのだ。 前段で触れたように、生活者がネットという手段を通じて、主張をする、異議申し立てをできるようになったことは、権利や機会が広がる意味ではよい。しかし、それが良心の暴走とも言える状態になっているのだが、現在の炎上社会と謝罪社会ではないか。 結局、何か問題が起こり、炎上し、謝罪するという出来事があると、それを取り上げるサイトは、PV数を稼ぐことができ、広告収入が入るのである。だから、ネットのまとめサイトや、一部のネットニュースがそうであるが、この手の謝罪ネタをひたすら探している。中には、それほど騒ぐべきことでもないことも、歪められて伝えられ、炎上させられる。この炎上→謝罪の連鎖で我々は踊らされているのではないか。 そして、今年の流行語大賞にノミネートされそうな「センテンススプリング」。文春がやり過ぎなのではなく、他メディアの劣化の結果なのではないかと考える。スクープを連発しているが、他のメディアには取材する体力もなく、後追いになっている。テレビですら文春を後追いする。結果として、皮肉にも文春の独占メディア化というか、影響力がますます増し、他のオルタナティブがない状態になってしまっている。 このように、炎上→謝罪の連鎖するネット社会、センテンススプリングに対抗するメディアの不在、劣化の末に、この謝罪社会は成り立っている。解決策は簡単ではないが、不要な炎上、謝罪を誘発しないためのメディアリテラシーの強化がまずは課題ではないか。また、縁起が悪いが、企業も人も、謝罪リテラシーが必要だ。 というわけで、誤った謝り方、謝らせ方がこれ以上、加速しないことを祈るのである。

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    震災報道「自衛隊」「米軍」を見出しに載せない大手マスコミ

     未曽有の災害を前に、新聞各紙は震災報道に大きなスペースを割いた。しかし、メディアウォッチャーとして知られる高崎経済大学教授の八木秀次氏が、ある疑問点を指摘する。* * * 驚いたのが、「自衛隊」と「米軍」が見出しにならないことです。自衛隊が被災地の復旧や原発事故の対処に大きな力を発揮しているのはもちろんですが、たとえば、3月17日の自衛隊による福島第一原発3号機への放水について、読売は翌18日付朝刊一面で報じていますが、大見出しは『3号機 陸からも放水』で、見出し周りに「自衛隊」という言葉がまったく使われていない。朝日も18日付朝刊一面の大見出しで『原発肉薄 30t放水』と“主語”の抜けたフレーズを採用している。 阪神大震災の頃と比べれば、自衛隊の扱いはずいぶんよくなりましたが、米軍による支援については、報道自体が少ない。米軍も「オペレーション・トモダチ」という作戦名のもと、1万8000人体制で支援をしてくれている。中国からはレスキュー隊15人がやってきて、確かにありがたいことですが、それと米軍の支援を“世界何十か国からの支援”と一緒くたにしてしまうのはいかがなものか。東日本大震災、気仙沼大島から米海軍強襲揚陸艦「エセックス」の艦内ドックに戻ったLCU(汎用上陸艇)=2011年3月27日、三陸沖(古厩正樹撮影) 当初は産経新聞でさえ伝えていなかったので、産経社会部の編集委員の方から電話があったときに「なぜ米軍や自衛隊の活動を載せないのか」と文句をいったら、翌日から紙面に載り、特集まで組まれていた(笑い)。単なる偶然でしょうが。米軍による支援を見れば、日米同盟や在日米軍の存在意義が改めてわかるはずなのに、各紙がそこに言及していないのも問題です。 青森県の三沢基地は、自衛隊との共同活動拠点になっていますが、産経の『「私たちも逃げない」米軍三沢基地 軍人家族、震災孤児ら救済』(3月29日付)によれば、三沢基地の米軍人の家族らが震災孤児らを収容した児童養護施設に食糧を届ける支援をしているのです。 沖縄の米軍基地からも2500人以上もの海兵隊員が災害支援で出動している。自衛隊と共同演習を積んできたからこそ、このような大部隊が連携して動けるのです。もし在日米軍基地がグアムに撤退していたら今ごろどうなっていたか。朝日や毎日は、在日米軍を邪魔者扱いしてきた現政権に対する批判が決定的に足りないですね。 同様に、3月16日に流された天皇陛下のビデオメッセージの扱いについても、各紙の性格の違いを際立たせた。朝日以外は一面で報じましたが、意外にも日経は『苦難の日々 分かち合う』(3月17日付朝刊)の見出しで、お言葉の全文を一面に掲載していた。産経でも全文は三面に移していたので、これには驚きました。日経にいったい何が起きたのでしょうか。関連記事■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む■ 自衛隊OB 入間基地で「一刻も早く菅政権潰し昔の自民党政権に」

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    「中傷ツイートは職員の責任」理論は炎上が加速するだけ

    るために放火したに等しいのだから。ふじもと・たかゆき 東洋大学総合情報学部・准教授(情報デザイン論・メディア構造論)/北陸先端科学技術大学院大学・教育連携客員准教授/藤本情報デザイン事務所・執行役員/JAGDA正会員/最先端のメディア研究・メディア技術の知見から、アカデミズムの枠を超え、企業や自治体などを対象としたメディア設計や情報発信戦略など、数々の実践的なプロジェクトを手がけている。主な著書に『情報デザインの想像力』『脳にアイデアを思いつかせる技術(講談社)』『映像メディアのプロになる!(河出書房新社)』など、多数。(2016年4月17日「メディアゴン」より転載)

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    過剰な自粛規制で同情しているフリがバレる

    長谷川豊(フリーアナウンサー) 堀江貴文氏や本田圭佑氏が「過剰な自主規制」に対して苦言を呈していました。 堀江氏の件に関していえば、堀江氏が出演予定だった「ネットTV」のマージャン番組が取りやめになってしまったそうです。 これはさすがに堀江氏の意見が正しく、地上波テレビでもなんでもない「ネットテレビ局」が、今回の地震発生に際して放送をやめることはさすがに適切とは言いにくい部分があります。堀江氏のようにスケジュールを押さえられていた人間もいたでしょうし、その当人が苦言を呈したくなるのは当然のことだと思います。 逆に、地上波のテレビ局はその多大な影響力を行使できる観点からいくつもの制約があり、それらは「放送法」にまとめられています。「放送を公共の福祉に適合するように規律すること」「放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること」などはその「放送法」の大前提の部分に記されていて…難しく書いてありますが、要は「日本の、国民のために役立ちなさい」ってことだと思っておいてください。当たり前ですね。 なので、地上波放送が今回のような大災害が発生したときに、かなりの放送時間を割いて災害報道一色になることは当然の責務です。「九州の話ばっかりやってないで、他の放送もしてくれよ~」って意見もとてもよく分かりますが、そこは一応、地上波放送の役目だったりするんです。 さて、では問題となっているのが「過剰な自主規制」に対して、です。私は、これは2種類に分かれると思います。 一点目に「適切な自主規制」。もう一点は「ノイジーマイノリティがうるさそうだし面倒だから、いったん全部辞めちゃえ」的自主規制。 堀江氏や本田氏が指摘しているのは後者の方ですね。実を言うと、今現在行われているほとんどのCMや番組の自主規制は後者となります。なので、批判されることは当然な気もします。 「適切な自主規制」に関していうと、東日本大震災が起きた直後に、あるテレビ局が大きな津波が襲い掛かってくるシーンが含まれるアメリカ映画を流す予定となっていたのですが、これを取りやめたことがありました。 東日本大震災では、多くの方々が被災し、また津波によって多数の尊い命が失われました。ご遺族の心情、察するに余りあります。その傷も全く癒えていないタイミングで、ふとした瞬間にテレビをつけて、津波が襲い掛かってくるシーンが流れたら、ご遺族はどんな気持ちになるでしょうか?テレビには二つの大きな力がある 今回の地震では、まだ余震が続いています。この状況の中で、一番守られるべきなのは被災者の方々であり、失われた命の周囲にいたご遺族の方々のお気持ちです。彼らを傷つけるような放送…または傷つけてしまう可能性のわずかでもある放送は、私は地上波では取りやめて、いったん先に送るべきだろうと考えます。テレビ局はあまりに強い力と影響力がありますから、出来る限り「優しく」「思いやりを持って」放送にあたるべきでしょう。 なので、単にゲラゲラ笑いながら、人を馬鹿にして笑いものにしたり、おフザケをするだけの放送も果たして…どうなのかなぁ…と考えてしまいます。 しかし、同時にテレビには、二つの大きな力があることを忘れてはいけません。一つは「情報を多くの方々に届ける力」。もう一つは「バラエティー番組などで多くの方々を笑顔にする力」。 ニュース番組や情報番組の多くのスタッフは、現在現地に飛んで必死に情報収集に当たっていることでしょう。どうか、日本全国に多くの情報が届けられるように、今まで通り頑張ってほしいと思います。 と、同時に、バラエティー番組やドラマなど、「娯楽的要素」の強いテレビ番組も、今こそ必要とされるべき時です。今は多くの方々が癒しや笑顔を求めています。24時間、報道番組に付き合う必要もありません。人間である以上、気分転換はとても必要な行為です。 私のレギュラー出演している上沼恵美子さんと高田純次さんが司会を務める「クギズケ!」という番組も、今日のお昼に「通常放送」をいたしました。 司会の上沼恵美子さんが、「とっても本当はやりにくいんですよ?でも、笑顔も必要でしょうから、私たちはいつも通りにやろうと思っています」と番組冒頭で宣言。私たち、専門家チームも遠慮せずに、いつも通りの放送を心掛けました。 毎週、13%~16%という大変な視聴率を誇る同番組ですが、今週も多くの笑いと笑顔を届けることができたことでしょう。私もその一員に加わっていられることに誇りを感じます。もちろん、同放送に対して何らかのクレームが来た、苦情が来た、などという情報は今のところ、全くありません。これからも来ないでしょう。 地震報道が一段落したら「ノイジーマイノリティ」について、当コラムでも少し記そうと考えていますが「苦情」や「クレーム」は時としてとても役に立ち、自分を裸の王様にせずにすむ素晴らしい助言者となりえます。 しかし「ノイジーマイノリティ」の声は「ただのイチャモン」であるために「無視しなければ逆にダメージとなってしまう」可能性が生じます。 え?あんな連中の言ってること、真に受けるくらいバカなんだ?と受け止められてしまうんですね。昔、ウーマンリブ活動が盛んだったときに「過剰な男女平等」が謳われ、海外のある国では「女性用の立ちション便器」が登場して世界の失笑を買ったことがあったそうですが、聞くべき苦情と「ただのイチャモン」は別です。 今回のように大災害が起きたときも同じように、冷静に「正確な判断」が求められます。本当に災害現場を慮って、入れてきているクレームなのか? それとも「災害現場を心配している自分が大好きで酔っているだけのノイジーマイノリティ」なのか? CMの自主規制も同じです。私は、現在行われている過剰なCMの自主規制の大半がカッコ悪くてしょうがないと感じています。その大半は「別にそのCMによって被災者の方々が傷つくとは思えないCM」のはずだからです。そうやって「考えなしに」自主規制しているポーズだけを取っていると、あぁ、あの企業ってこういう時にカッコだけつけて「乗っかる」バカな企業なんだな~とバレてしまいます。「同情をしているフリ」をしているだけってのがネット社会ではバレてしまうんですね。 もともと、自社の製品が多くの方々のために役に立ち、多くの方々を幸せにしているんだ、と自信を持っていれば、現在の状況でCMの自主規制が行われることは「不自然」な状況でしかありません。企業の皆さんも、あまり表面上だけの「ポーズ」は控えられた方がいいような気がします。 現在の状況では、多く言われている通りで、素人が勝手に物資を届けても、ボランティアと称して押し寄せても邪魔なだけでしょう。私はふるさと納税を含む3か所ほどの機関に心ばかりの寄付をさせていただきました。結局、お金が一番、汎用性が効くだろうと判断したためです。 心配し、何かできることを考えることは大切ですが、出来ないことを見極めることも大切です。被災された多くの方に、一刻も早い安心が戻ることを願います。(長谷川豊公式ブログ「本気論 本音論」より2016年4月18日分を転載)

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    本田圭佑選手の問題提起で考える「支援」と「自粛」の間にある選択肢

    徳力基彦(アジャイルメディア・ネットワークCMO、ブロガー) 14日の夜に始まった一連の熊本地震から、丸4日がたとうとしています。 14日のそれは「前震」であり、本震が16日という形になったこともあり、実際には本震から数えるのが正しい表現かもしれませんが、いずれにしても私自身、東日本大震災の時もそうでしたが、こういう事態にいたると思考停止に陥ってしまうところがあり、今日までソーシャルメディア上も含めてたいして情報発信ができていませんでした。 いまも避難所で過ごされている被災地の方々の不安は、想像を絶するものがあると思いますし、あらためてこういう時に自分ができることの小ささを痛感させられる日々です。 ただ、ネット上のニュースを見ていて、どうしても気になることがあったので。自分ができる数少ないことの一つとして、筆をとることにしました。SNS投稿を不謹慎と指摘され削除する芸能人達 私が気になったのがこちらのニュース■芸能人はいま「笑顔」だけで「不謹慎」なのか SNS投稿が次々削除という異常な「震災反応」 長澤まさみさんや、西内まりやさんが、インスタグラムやツイッターの投稿が不謹慎ではないかと指摘されて、投稿を削除したり謝罪したりしているという話があるそうです。 実際には記事を読む限り削除されたのが確認されたケースはこの二人だけのようですし、もう一つの事例の菜々緒さんのケースもコメント欄で論争が続いているというわりには、コメントの数は過去の普段の写真とそれほど変わらないようなので、正直記事タイトルの「次々削除」というのはちょっと飛ばし記事気味ではあります。 ただ、少なくとも二人が投稿を削除したのは事実のようですので、何らかの批判が出て削除したというのは間違いないのでしょう。 こうした批判を受けるのは芸能人だけでなく、企業も同様の模様。 特にテレビCMのように強制的に表示される広告は視聴者からすると「こんな時に広告なんてするな」という批判の対象になりやすいようで、テレビCMをACに差し替えた企業が複数いるようです。 その関係で、こんな記事も出てくる状態になっています。■テレビCM、また「ACだらけ」に 「5年前を思い出し、つらい」「やめてほしい」 こういうニュースを見れば見るほど、芸能人だけではなく多くの人々が自分達も「自粛」した方が良いのかな、と思うことは想像に難くありません。自粛ムードを「間違っている」と問題提起した本田圭佑選手本田圭佑選手は、自粛ムードを「間違っている」と問題提起 これらの記事を見て私が思い出したのが、週末に話題になっていたこちらの記事です。■本田圭佑「間違っている」震災による自粛ムード一蹴 本田圭佑選手が、4月16日にいち早くイタリアからメッセージを送ってくれているのですが、その中で明確に自粛ムードに対する反対の意思を表明しているのです。練習後、ファンの子供を抱いて記念撮影に応じる本田圭佑=2015年1月21日、シドニー(撮影・中井誠) 該当部分を引用するとこんな感じ。 一方で、様々な分野で自粛のニュースを目にしますが僕は自粛するのは間違ってると思います。 こういう時だからこそ、各々に与えられた役割を行動に移すことが求められているんじゃないでしょうか。 それなのに、多くのケースの場合は被災者の為ではなく 「商品が売れなくなる」、「批判をされるから」という理由で自粛してるのなら、それはありえない。 本当に被災者らのことを思うなら、自粛どころか積極的にやるべきでそれを通じて何ができるかを考えたほうが良いんじゃないでしょうか。出典:本田圭佑オフィシャルWEBサイト もちろん、この問題提起には賛否両論あるのではないかと思います。 こういう時だから明確に自粛すべきこと、というのは当然あるでしょう。 例えばこういうのは論外ですね。■熊本地震の取材中にテレビ中継車が給油待ちの列に割り込んだと判明し関西テレビ謝罪 ただ、だからといって本田選手が問題提起するように、何もかもとりあえず様子見で自粛すればいい、という話ではないというのも事実だと思います。私たちができるのは「支援」と「自粛」の二択なのか 特に個人的に気になるのは、芸能人や企業の担当者がこういう状況に直面した際に選択する思考回路が「支援」か「自粛」の二択になってしまっているのではないかという点です。 募金活動やボランティアなど、当然我々一人一人が被災地を「支援」できることを考えて実際に支援の行動を起こすというのは非常に重要なことだと思います。 問題は、その次に考えるのが「自粛」になってしまわないかという点です。 熊本地震のような災害が発生した場合、芸能人の情報発信や企業の宣伝活動など多くの人目にさらされる人達の「支援」以外の活動は、全て批判されるリスクを負うことになります。長澤まさみさんは、普段同様の笑顔の写真をアップしたら批判されました。西内まりやさんも、普段同様の自撮りの写真をアップしたら批判されました。菜々緒さんも、普段同様の自分らしい写真をアップしたらコメント欄で論争が起こりました。 そうした批判を元に、全ての活動を「自粛」するのは簡単な話です。 ただ、本当にそれで良いのでしょうか? それが本当に被災地の方々が、私たちに求めている行動なのでしょうか?東日本大震災から私たちが学んだはずのこと東日本大震災から私たちが学んだはずのこと 5年前の東日本大震災直後、関東で放送される全てのテレビCMがACに差し替えられるという異常事態が発生しました。 あの未曾有の大惨事において、当時はそれも当然だと思っている自分もいましたが、来る日も来る日も同じACのCM素材を見るのは正直辛かったのを良く覚えていますし、徐々に普通のテレビCMが復活したときに、視聴者が歓迎の声を上げたのも良く覚えています。 当然、最初にテレビCMを復活することにした企業は、不謹慎だと批判されるリスクを覚悟してその選択をしてくれたはずです。 でも、あの時の私たちにとっては、普通のテレビCMが普通に放送されるという、いつもと変わらない「普通」の状態こそが一番求めていたものだったわけです。 実は「支援」と「自粛」の選択肢の間には、本田圭佑選手が言うようにいつも通りのことを「普通」にやる、いやむしろ普段より積極的にやる、という選択肢があります。 その「普通」の行動は一見不謹慎に見えるリスクがあるかもしれませんが、実際には「自粛」よりもはるかに間接的に「支援」につながるケースもあるわけです。 今回の芸能人の方々の投稿は、批判も生んでしまったかもしれませんが、実は被災地の方々の中には、いつも通りの「普通」の芸能人の方々の笑顔に癒やされている人も多くいるはずですし、実際にそういったコメントも多数ついているのを拝見しました。 当然、批判があって投稿を削除したというのは、何かしら反映すべき点があったと感じたからだと思いますが。 今回の騒動によって、自分達の活動自体を全て自粛してしまうのではなく、いつも通りの自分でいることこそが、自分が笑顔でいることこそが、自分ができる支援の一つだと、批判者に対して胸を張ってお返事できる、そんな自分なりのやり方を探して頂くのが良いのではないかと。 そんなことを本田圭佑選手の問題提起は教えてくれているように思うわけです。■熊本、九州の皆様へ|西内まりやオフィシャルブログ まぁ、実際、西内まりやさんは、謝罪騒動後も地道な情報発信を続けられているようですから、全く心配は無用なのかもしれません。自粛したはずの九州新幹線開通記念CMが生んだ感動 東日本大震災において、私たちを感動させてくれ、勇気をくれた動画の一つは、企業がこぞって自粛したはずのテレビCMとして作成された九州新幹線の開通記念CMでした。 このテレビCMは、放映開始の2日後に東日本大震災によって放映中止を余儀なくされたものですが、ネット上で口コミで感動を呼び、全国的に話題になった結果、4月に入ってテレビでの放送が再開されたという非常に象徴的なCMです。 さらには世界的な広告賞であるカンヌ国際広告賞で金賞も受賞したことでも有名です。 今でも、この動画を見ると当時の感動がよみがえってきますし、このCMを通じて当時九州の方々がくれた勇気のお礼をしたいと改めて感じる方も少なくないはずです。(個人的には、是非九州新幹線復旧の暁にはこのCMをアレンジしたものを再放送をして頂きたいと強く願っています。) 私たちが災害時にできることは、何も災害に関する情報を拡散したり、直接的な支援をすることだけではありません。 笑顔の力で人々をいやしたり、コミュニケーションの力で勇気を分け合うこともできるはず。 一人でも多くの人が、本田圭佑選手の問題提起を参考に、過度の「自粛」をしすぎずに、自分ができることを小さいながらも改めてちゃんと考え実行し続けることが、実は意外に大事なのかもしれません。(『Yahoo!ニュース個人』より2016年4月19日分より転載)とくりき・もとひこ アジャイルメディア・ネットワーク取締役最高マーケティング責任者(CMO)。1972年生まれ。名古屋大学法学部卒。NTTで法人営業やIR活動に従事した後、2006年にアジャイルメディア・ネットワークの設立に参画。代表取締役社長を経て、14年から現職。WOMマーケティング協議会の事例共有委員会委員長などを務める。

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    「頑張れ」がテレビの放送禁止用語に? 震災機に自粛ムード

     「テレビで新しい放送禁止用語ができている」──そんな噂が、インターネット上を飛び交っている。対象となる言葉はなんと「頑張れ」。発端はニュースサイト・トカナが掲載した記事で、「頑張れ」という言葉が、テレビ局によって放送禁止用語に指定されようとしているというのだ。 いくら自由にものがいえなくなっているテレビであっても、まさか「頑張れ」まで放送禁止だなんて……実際にこの記事を見たテレビ局社員の間では「そんなことあり得ない」と笑いものになっているという。だが、下請けの制作会社からは、違う事情が聞こえてきた。 「放送禁止などという大仰なレベルでは全くないが、敏感になっているのは確か。たとえばスポーツ関連の番組で選手にいう『頑張ってください』なんかも、いまは無責任じゃないかというクレームを気にして控えるようにしている」(制作会社のスタッフ) そうした「頑張れ」自粛ムードは、東日本大震災を機に強まったという。当時、テレビから被災者に向けられた「頑張れ」という声、「頑張ろう東北」といったスローガンが、被災者に対して無配慮だという批判が巻き起こったのだ。情報番組などを担当する制作会社のディレクターはいう。「震災以降、東北の人たちには無神経に『頑張れ』とはいえなくなった。それ以外の取材現場でも、『頑張れない』人や、すでに『頑張っている』人たちに『頑張れ』ということは失礼で、余計なプレッシャーを与えてしまうのかもしれない、というのを取材者側が必要以上に配慮するようになっています」15周年を迎えるUSJの“Re-born”大使に松岡修造さんが就任。ステージに登場した松岡さん=2月2日午後、大阪市此花区(前川純一郎撮影) テレビ局よりも制作会社の現場レベルで、密かに「頑張れ」の自主規制が進んでいたのだ。しかし、そうした配慮が実際にどれだけ必要なのかは、疑問である。「松岡修造のような許されるキャラクターの人が『頑張れ!』と叫んでも、何の問題にもなりませんからね(笑い)」(別の制作会社ディレクター)関連記事■ 民放 著作権収益確保のため系列外制作会社の完パケを認めず■ 日本テレビの夕方ニュース枠拡大 制作会社競争激化の側面も■ ADの薄給は時給換算で約333円 東京都の最低時給の半額以下■ デヴィ夫人平手打ち騒動 TBS出禁説に異議、演出側こそ問題■ 忌野清志郎に身近で接したマネージャーが忌野の逸話を綴った本

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    なぜマスコミの過熱取材は嫌われるのか

    、今度は毎日放送の男性アナが取材中に調達した弁当をツイッターに投稿し、「配慮に欠く」と非難を浴びた。メディアスクラムはどうして嫌われるのか。

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    被災地には「邪魔」な存在でも、メディア抜きでは「救済」できない

    山田順(ジャーナリスト) 4月14日に発生した熊本大地震の報道を巡って、主にネット住民による「メディア批判」が繰り返されている。その背景には、現場に殺到したメディアの“過熱報道”があるが、これまで巻き起こったメディア批判には、納得できるものもあれば、「それは違うだろう」と納得できないものもある。 そこで、「iRONNA編集部」の要請に応じて、これらの批判をチェックし、改めてメディアの役割、使命を考えてみたい。活かされなかった「阪神・淡路」の教訓 まず、メディア批判のなかで、これはどうしようもないと思えたのが、「関西テレビの中継車によるガソリンスタンド割り込み」事件だ。これは、4月18日、熊本県内のガソリンスタンドで、給油待ちをしていた車の列に同社の中継車が割り込んで給油していたという、信じがたい事件だ。 地元のツイッターユーザーが、「ガソリン入れるために朝早くからたくさんの人が並んでたのに横入りされた」と、中継車の写真付きでツイートしたため、大拡散した。 このツイートは、このように訴えていた。“母が「後ろに他の人もいるので並んで下さい」て言ったのにも関わらず無視して我先にとガソリン入れてました。 テレビ局だからいいんですか?? もう少し考えて欲しい” たしかにその通りである。これは災害現場という状況とは関係なく、どこであろうと許されない行為だ。慌てた関西テレビは、すぐに「あってはならない行為」として、公式に謝罪したのは言うまでもない。 それにしても、不思議なのは、なぜこんな割り込みができたのか?ということだ。給油のためガソリンスタンドに並ぶ車=4月16日午前、熊本市東区 関西テレビと聞いて私が思い出すのは、1995年の阪神・淡路大震災のとき、関西テレビの取材クルーが大活躍したことだ。当時、関西テレビでは全社員の約3分の1にあたる200人が地震による家屋倒壊などの被害を受け、報道局員の約4分の1は被災者だった。にもかかわらず、彼らは混乱のなか、視聴者、被災者のための現場報道を続けた。このときの教訓がなぜ活かされなかったのだろうか?ヘリ騒音、過剰取材…次々批判の的に ガソリンスタンド事件に続いて批判されたのが、「報道ヘリの騒音」「現場クルーの過剰取材」への批判である。日本テレビは4月18日の午後17時半ごろから、倒壊した家屋内に閉じ込められた被災者を救済する模様を実況中継した。緊迫した現場の模様がお茶の間に流れた。 しかし、ツイッターでは、「報道ヘリの音で、助けを求める声がかき消されたらどうするんだ」という声が拡散した。さらに、「救助した人をブルーシートで覆いながら歩かざるをえないのは、報道ヘリが空から撮影してるからでしょ。 助けを求める声を掻き消すし、救助作業の能率だって下げてる」「報道ヘリのせいでブルーシートたくさん使わなきゃいけないし、そうなると人手がたくさんいるし、迷惑だってわからないの?」などいうツイートもあり、ここでは「報道ヘリ」と現場の「撮影クルー」が、完全な悪者、邪魔者にされてしまった。 さらに、4月18日のNHK「あさイチ」では、有働由美子アナが、ある視聴者からのFAXを読み上げた。このFAXの主は熊本に住んでいる友人から聞いたと言って、次のようにメディアを批判していた。「余震で崩れそうなお宅の前でテレビ局がずっと待機しているのだそうです。どこの局かはわかりませんが、ご当人にとってはすごく失礼なことではないでしょうか?」メディアを抜きにして被災者救済はできないメディアを抜きにして被災者救済はできない 「報道ヘリ」の騒音批判に関しては、阪神・淡路大震災のときにも同じようなことがあった。現場で瓦礫の下の生存者の救済に当たっている作業員から、「生存者の声がヘリの音がうるさくて聞こえない」という不満の声が上がったからだ。 しかし、当時の神戸上空には報道ヘリだけが飛んでいたわけではない。自衛隊をはじめ多数のヘリが飛んでいた。それなのに、なぜか報道ヘリだけが視聴者の槍玉にあがり、「ヘリで取材するひまがあったら救援物資を落とせ」など、ヒステリックに批判された。 しかし、これらの批判は、みなテレビ報道を見た一般視聴者が、正義感にかられてメディアを批判したもので、きわめて感情的なものである。 今回の熊本でのツイッターやFAXでの批判も、ほぼあのときと同じだ。自分たちは安全なところで見ていて、現場の救援作業が進まない苛立ちを誰かを悪者(つまりメディア)にすることで解消しているに過ぎない。 私は、ツイッターが災害や事件に対して大きな効力を発揮することに異論はない。しかし、それは現場にいる人間や当事者が発するツイッターであり、外野が発するツイッターではない。メディアに向かって「被災者にとってメディアは迷惑な存在だと自覚せよ」などという“正論”をぶつツイッターユーザーには、「そんなに言うなら、あなた自身が現場に行って被災者を助けてみろ」と言いたい。 それなのに、今回もまたメディア側の人間までも、「報道ヘリを1社に限定するようにできないか」「救助は初動72時間が勝負。せめて72時間は報道ヘリが飛ばないよう法制化を」などと言い出したのにはあきれた。 報道ヘリも現場クルーも、ある意味で、“使命感”に基づいて取材をしている。メディアはともかく伝えるということが、最大の使命で、それだけは果たしている。 被災者にとって、メディアは邪魔者かもしれないが、全国の人々にとっては、空撮や現場報道によって伝えないかぎり、その災害の全容はわからない。たとえ一時的に邪魔に思えても、メディアを抜きにしては、被災者の救済はできないと、私自身の経験から思う。梨元勝氏が深く反省したメディアの暴走 話は古くなるが、芸能リポーターの故・梨元勝氏がいちばん悔んでいたのは、「報道ヘリ」で大変な間違いをしでかしたことだった。「あれは本当に間違いだった。いまも悔んでいる」と、私は梨元氏から何度も聞いた。 1986年11月、伊豆大島の三原山が大噴火を起こし、島民が船で緊急避難するという大災害が起こった。このときも、テレビをはじめとするメディアは報道合戦を繰り広げ、ワイドショーも連日、大島と避難した人々の状況を伝えた。 そんな最中、梨元氏はある歌手から両親が大島に住んでいて、かわいがっていた目の悪い老犬を置き去りにして避難してきたという話を聞いた。それで、大島への取材が解禁されたとき、報道ヘリに乗って、その老犬を救出に向かったのである。カメラは報道ヘリの離陸から回され、大島で老犬を発見して東京に戻って来るという一部始終がワイドショーで放映されると、視聴者から猛烈な抗議が殺到した。「苦しんでいる被災者がいるというのに、犬1匹のためにヘリを飛ばすとはなにごとだ」 これは、視聴者の言う通りだった。梨元氏は深く反省し、視聴者に謝罪した。 「ともかく視聴率。そのために感動的なシーンを撮れればと後先を考えずに突っ走ってしまった」と、梨元氏はうなだれた。 これはメディアの暴走の最たる例だが、現在のテレビ報道はここまでひどくはないだろう。最悪のとき、人間は言葉を失う最悪のとき、人間は言葉を失う いずれにせよ、被災地は一種の戦場である。被災した人々の悲しみ、苦しみははかりしれなく、どんなメディアであろうと、それを正確に伝えることなどできない。 ところが、メディアは、時としてその使命を逸脱し、「お涙ちょうだい」報道をしたがる。また「大変だ、大変だ」と騒ぎたがる。そのため、被災者の悲しみや苦しみを増幅して伝えたいがために、マイクを向け、「大変なことになりましたね」「いまなにが必要ですか?」「なにが足りませんか?」などと、聞きまくる。 しかし、本当に悲しんでいる人間、苦しんでいる人間は、これに答える余裕などない。最悪の状況のとき、人間は言葉を失う。 したがって、「水が足りません」「食料がもらえない」「夜、眠れません」などと答えられる人間は、被災者のなかでも、失礼を顧みずに言えば、まだマシな方々である。それなのに、現場を知らないツイッターユーザーは、被災者の心の痛みがわかっていないとメディアを批判する。物資が届かず休業するコンビニエンスストアが多い中、開いている店舗には飲み物など少ない商品を求め買い物客が長蛇の列を作ることが多く見られた=4月16日午後、熊本市東区(鳥越瑞絵撮影) 余談かもしれないが、熊本の私の知人は、こういったことがバカらしくて、被災地から福岡に逃げてホテル暮らしを始めた。 「メディアも被災者も一体になって、モノが足りないなどと言っているが、車でも電車でもちょっと走れば佐賀や福岡に行ける。水がない、食料がないなんて言っているが、そんなに欲しいなら自分から動けばいいではないか。 本当に被災して困り果てている方たちは別だが、ここは日本だ。コンビニはどこにでもある」硬直したシステムを批判せよ 今回も、地震から数日たって、被災地に救援物資が届いていないことが明るみになった。役所には企業や団体から届いた食料や毛布などが山積みになっているのに、被災地の現場には届けられていない。 これは、ほぼ役人のせいである。役人は誰かの命令があり、またそれが規則通りでないと動かない。誰も自分から動こうなどとしないのである。 私は、世界で地震や災害が起こるたびにボランティア活動をしているあるキリスト教団体の代表(アメリカ人)と付き合いがあるが、彼はいつもこのことをこぼしている。「神戸のときも東日本のときも、真っ先にメンバーと駆けつけましたが、役所に行くと“なにしに来た”です。まだなにも決まっていないからやることはないと言われます。外には苦しんでいる人がいっぱいいるのに、彼らは届いた救援物資の仕分けをしていたり、会議を延々としていたりしているのです。そんなことをするより、すぐ目の前にある災害に立ち向かうべきです。 欧米ではこんなことはありえません。ボランティアで行くと、よく来てくれた、すぐにこれをやってくれと言われます」 ツイッターなどのSNSユーザーは、メディア批判する余裕があるなら、むしろ、こうした日本の硬直したシステムを批判すべきだろう。ホリエモンが批判した自主性のなさホリエモンが批判した自主性のなさ ところで、今回の熊本大地震で、ホリエモンこと堀江貴文氏と尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が、ネット上で火花を散らした。 地震発生後から、テレビメディアなどは、いつもの伝で番組などを自粛した。これに対し、ホリエモンは「熊本の地震への支援は粛々とすべきだが、バラエティ番組の放送延期は全く関係無い馬鹿げた行為。人のスケジュールを押さえといて勝手に何も言わずキャンセルするとはね。アホな放送局だ」とツイートしたのである。 これは別の意味でのメディア批判である。 ホリエモンは「単に『こんな時に馬鹿な番組やりやがって』というノイジーマイノリティの苦情を受けるのが嫌なだけ」と、メディアの自主性のなさを批判した。 ところが、尾木氏は「番組自粛はごく自然な人間らしい判断」とのタイトルでブログを更新。「水も食料もなく避難所にも入れないで グランドで寒さのなか身を寄せあっておられるたくさんの被災者の皆さん さておいて普段通りの楽しい番組構成にブレーキかかるのあまりにも当然!人間らしい共感能力あれば自粛して工夫しようとするのはあまりにも当然!」だとしたのである。さらに、「自粛するテレビをバカにするのはとんでもない鈍重と言わざるを得ません…」と、間接的に堀江氏に反論した。 これは、どちらの言い分が正しいか正しくないかの問題ではない。自粛しようとしまいと、それはそのメディアの判断だからだ。したがって、尾木氏のように被災者に同情して「自粛すべき。それが当然」という考えは、一種の“欺瞞”であり、単一の価値観の押し付けである点で、私は賛同できない。 この世の中には、どんな価値観があってもよく、それが多様なほど社会は豊かになるからだ。メディアの判断で立ち向かえ 最後に、日本の放送法は、災害などの報道でなにを規定しているのかを書いておきたい。 放送法「第6条の2・災害の場合の放送」は、このように述べている。「放送事業者は、暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生し、又は発生するおそれがある場台には、その発生を予防し、又はその被害を軽減するために役立つ放送をするようにしなければならない」 また、災害対策基本法の第6条では、指定公共機関(NHK)及び指定地方公共機関(民放)は、その業務を通じて防災に寄与しなければならないと規定されている。 要するに、災害時にはこのようなガイドラインに基づいて報道すべきということだが、その判断は報道機関に任されている。メディアは自身の判断で、災害報道に立ち向かえばいい。

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    被災地の「不都合な事実」は一切報じない だからマスコミは嫌われる

    少なくとも似ている気がしている…。20数年前の自宅が半壊し、避難所にいたことを想い出しながら…。マスメディアのtwitter写真獲得合戦 あれから20数年経過するが、メディアの報道ぶりに変化はないようだ。いや、むしろ震災の時の報道体制に慣れすぎてきたような気さえする。テレビを見ていて感じるのが、震災翌日から報道がたくさん入り、熊本城の上空からのショットや石垣の崩壊を見せつける。夜とちがって朝になって被害が露見してくるのだ。さらに各局がこぞって被害の一番大きなところへと向かう。これはメディアの習性なのでしかたがない。 twitter上では、「写真の使用許可をお願いしたいので、DM(ダイレクトメッセージ)を送らせていただきますので、フォローしてください」というやり取りが、震災の写真をアップした人に対して、メディアのtwitter担当者から大挙して送られている…。「ライオンが逃げた」というデマに対しても写真の使用許可を願うものまで現れる。最低限のウラ取りは必要だ。ネットでの空中戦と現場の地上戦とではまったく温度差がある。被災者と同様に疲弊するメディア カメラマンは、常にインパクトのある映像を撮影するようにプロとしてトレーニングされている。時に写真は大嘘をつく…。また、レポーターは粛々と被災された人にインタビューを繰りかえす。当然、震災の規模が大きければ大きいほどたくさんのコメントが取れるので、各局によって重なるコメントは少ない。これは個人個人のコメントがバラバラでも全体として、俯瞰していくとどんな状況かが徐々にわかるようになってきた良い傾向だ。 また、近年では防災アプリがテレビの警報よりも数秒早く、警鐘を鳴らすので、ほぼリアルタイムにこれから来るであろう地震に対して準備することができるようになった。映像にもアプリの警報音でカメラを回すという体制にもなりつつある。しかし、なぜかテレビの画面を見ていて、違和感を覚えるのが、そこの中でレポートする側のレポーターがインタビュアー化していることだ。強い地震でホテルのロビーに集まり、テレビを見つめる宿泊客=4月16日午前、熊本市内のホテル 大変そうな人に「大変ですねぇ…」「大変です…」「今何が一番…?」「うーん、何も頭に浮かびません…」というような受け答えが延々と続く…。そう、震災直後で家を失い、慣れない避難所に集い、余震が続いている状況で、人に何を聞いても答えはないのだ。 家がない、家に戻れない、家に入れない。そんな苦労を知っている日本人はそんなにもいない。 日々、戦争が日常化している国の人たちと完全に日本は違うからだ。 それが突如として何万人もが同時に、「ホームレス」を体験するのだ。当然、1日目より2日目、2日目よりも3日目というように経験値はあがっていくが、同時に疲労困憊度は蓄積していく。普通に、食事があって、何でも買えて、ベッドがあって、安眠できる暮らしが突如なくなるのだ。普通の日本的な国民としての暮らしが、ある日を境に、ホームタウンは被災地、自分たちは突然、被災者の方々と呼ばれる日がスタートするのだ。避難所報道に欠ける「当事者感覚」 最初は被災地にも被災者にも実感がない…。日に日に被災している実感といつまでこの生活が続くのかという不安に駆られるのだ。いっそ、他の場所へと避難したいと思うが、そこにいないと「情報」が入らないという見えない鎖で避難所の呪縛に覆われてしまう。 筆者は少しでも、避難所の暮らしから離れて、普通の暮らしができる環境を国をあげて提供できるようにすべきだと心から願う。避難所では、最初は遠慮から始まり、それが蓄積し、集団ヒステリーにもなりやすく、幾度もの衝突を乗り越えて初めて、同志的な結合が生まれる。最初から過酷な団体生活に慣れている人なんていないから仕方がない。避難所報道に欠ける「当事者感覚」 それは現場のメディアも同様で、当然のように疲弊してくる。現場のメディアが避難所で寝るわけにはいかないからロケのクルマで仮眠を取るような生活が強いられる。たとえ交代のシフトを組んだとしても、報道すること以外何もできない自分たちの業に、業を煮やすのだ。レポーターを見ていると、震災を報道してきた人かどうかがすぐにわかる。大多数の震災報道経験者は被災者にこっぴどく叱咤された経験があるから、被災者の神経をさかなでない報道を心がける。しかし、最初に震災報道を経験する記者は、疲労困憊の時に、マイクとカメラを向けてドヤされる。きっとこれは、戦時中の従軍記者も同様だったのだろう。しかし、従軍記者には敵と味方が明確だ。でも自然災害には敵味方がいない。誰もが誰にも、怒りをぶちまけられない感情を持ったままだ。メディアには怒りをぶつけやすいのだ。だからメディアは嫌われているように見える。しかし、その状況は当然のことながらメディアの放送には流れない。一番心を痛めているのはメディアだ。仕事として頑張れば頑張るほど嫌われるからだ。避難所となっている小学校で給水を受ける住民=4月19日午前7時4分、熊本市西区の花園小 ただ、一番メディアに欠けているマインドは、被災地に存在する自分の感情だ。被災地に訪れたよそ者だから嫌われ、いじめられるのだ。報道の立場でありながらも、被災者と同じ視点に立ったレポーターやカメラマンは違う。震災報道の場合、客観報道よりも被災者のためになる情報を届ける主観報道のほうが本当は価値があると思う。一番情報を欲しているのが被災者だからだ。そうすると、全国の皆様ではなく、隣の避難所でテレビを見ている被災者にとっての有益な情報を提供するべきだ。避難所においてのチップスとか、簡単なゲームとか、安眠する方法とか、マッサージ技術とか、知らない人とのアイスブレイクとか、いろんな情報番組は作れるはずだ。被災者もメディアの前では被災者を演じてしまう 20数年前、筆者も阪神大震災で被災した経験を持つ。震災から3日目の頃、自衛隊の定期的な炊き出しがおこなわれる前、おにぎりだけが唯一の食事であった。しかし、おにぎりばかり、三食もおにぎりだけを食べていると、喉を通るものではなくなってくる。味噌汁も漬物もないまま、おにぎりばかり、毎日食べられたものではない。テレビ取材のインタビューで何が一番食べたいですか? と避難所で聞かれ、正直に「焼き肉、寿司、天ぷら」と答えたが、採用されなかった…。謙虚なおばあちゃんの涙ながらの「おにぎりがあれば十分です」のひとことで、翌日も翌々日も大量のおにぎりが届けられる…。もう、おにぎりは完全に喉を通らず、避難所で廃棄されることとなった。当然そんな都合の悪いことは報道されない。 被災地での問題は、美談ばかりを報道することだ。もちろん、熊本でも空き巣被害が報道されていたが、神戸では非常時のパニック状態も手伝って、開店していた店に食料を求めて略奪行為があったのを何度も目撃した。普通の市民がコンビニの食べ物を強奪しているのだ。集団パニック状態だ。しかし、そんなことは一切報道されない。避難所のトイレに関しても、コンビニ袋2枚を持って用を足せば、水の流れない避難所でも汚れることがないが、我先にトイレで用を足した避難所では目も当てられない光景となっている。しかし、メディアはそんな避難所での一番困っていることを報道しない。いや、できないのだ。そう、報道のお客さまは、避難所以外の人々だからだ。震災報道は誰が為のメディアであるべきか?震災報道は誰が為のメディアであるべきか? そこで、ひとつの提案だ。メディアが苦労をしてきて被災地で報道していることは何なのだろうか? そう、それは、汚い言葉を使わせてもらうならば、被災地以外で、何不自由なく普通にぬくぬくと暮らしている人々の被災地を知りたい満足の為だけでしかないのだ。そこに向けて報道することにどれだけのジャーナリズム的な価値があるのだろうか? しかも、不都合な事や、事実は、一切何にも報道していない。 被災地がんばっています。義援金の寄付をぜひ! とアピールする。しかし、いくら寄付をされても被災地で本当に困っている人の銀行口座に届くのは、半年から一年もあとなのだ。なぜならば、家屋が「全壊」「半壊」「一部損壊」の三種類の罹災証明をもらって公平に分配されるルールが決まり、家屋が調査された後でしかないからだ。 何よりも寄付金や義援金のルールは公平に分配するという決まりがあるからだ。いやそれは違うと思う。多少の不公平があったとしても、今、今日、現在、被災地にいる人にお見舞い一時金をひとりあたり10万円くらい渡してあげるべきだと思う。それだけで、数日、いや数週間ほど家族で避難所を離れることができるからだ。ボランティアが大量にくる前に避難所暮らしを1人でも減らすべきなのだ。避難所の小学校では夕食の分配を待つ人で長い行列ができた=4月18日午後、熊本県益城町の広安小学校(鳥越瑞絵撮影) それがあるとたとえ避難所にいても、家族を持っている人にとっては、精神的、金銭的に安らぐ時間があることだろう。その拠出した金額をあとから義援金で補填してもよいはずだ。今、避難所にいる人を計算して10万倍すればよいのだ。5万人が避難所暮らしならば、たかだか50億円だ。国会議員の一ヶ月分の給与を全部寄付にまわせば10億円。残りは40億円。政党交付金320億円の1/8を回せばクリアできる金額だ。 どうせ、選挙の票を集める為のお金なんだから有効に使おう! それぞれのお見舞い金に自民党やら、民進党の“のし”をつけてあげればよいのだ。きっと一生涯感謝されるから安いものだ。それも国民ひとりあたり250円、赤ちゃんからも徴収されている金なんだから…。 極論かもしれないが、半年後、一年後に家屋の撤去に修理に何百万円もかかり、それをたとえ、震災特例により無利子で銀行から貸し付けられた時に、1人10万円の義援金が渡されても何の感謝の念を被災者は抱かない。寄付のお金は心から被災者に感謝される時期に渡してはじめて本当の寄付なのだ。このことをマスメディアが伝えないかぎり、嘘偽りの震災報道を演じるゲームだけが永遠と続く…。今すぐ、避難所にゲンナマを配布すべきとなぜメディアは言わないのか?

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    熊本地震でも繰り返されるメディアの「マッチポンプ」報道

    武田邦彦(中部大特任教授) 熊本地震ではメディアの横暴が度を超していて、熊本県の人に強い違和感を与えている。たとえば、関西テレビの車が、朝早くからガソリンスタンドに並んでいる人たちの列に割り込み、テレビ局が謝罪した。倒壊の恐れが高まり、立ち入れなくなっている熊本県宇土市役所庁舎=4月18日午前 確かに、著者が見ていた地震当日のNHKの中継は眉をひそめるものが多く、ネットでも厳しく指摘されている。阪神・淡路大震災の時に、故・筑紫哲也が倒壊した民家の上に立って「温泉街の風景だ」などと人の苦しみをまったく感じていない中継をして顰蹙を買ったのとほぼ同じようなものだ。 でも、このようなことは人の神経を逆なではするものの、地震被害を増大させているメディアの罪のうちほんの一部である。実は、長い間、メディアは「防災」と言いながら、実はマッチポンプのように「自ら災害を大きくする原因を作り、実際に災害が起きるとその悲惨さを大々的に報道する」ということを続けて、視聴率をあげる作戦にでている。それを事実で整理してみたい。 1978年に「大規模地震対策特別措置法(大震法)」に基づく地震予知体制が出来て以来、メディアは「東海に地震が来る」、「東南海に来る」と「政府の言うとおりに」報道を続けた。まともな神経を持っていれば、それから38年間、東日本大震災、阪神淡路大震災を始め死者が10人以上の地震や噴火が9件、震度4以上の地震に至っては無数と言ってよいほどなのに一つも地震を予測できなかったのだから、正常な判断力をもつ報道機関ならおかしいと思うはずだ。((注)地震予知がはじまってから10人以上の死者を出した地震は、日本海中部、北海道南西、阪神淡路、新潟中越、新潟中越沖、岩手宮城内陸、東日本、熊本、それに御嶽山の噴火も同様) つまり、「地震予測が理論、発生した地震がデータ」という関係だから、「理論で予測した結果はデータとまったく違う」ことが38年間も続いているのに、同じ理論で計算した結果を今も報道している。その結果、今回も含め地震が起きた地方の対策は大きく遅れて被害を増大させている。 熊本地震では倒壊家屋などが多かったし、前震と本震を間違えて、さらに圧死者を出した。 このように長年にわたるデータ無視というのは著者のような科学者の理解を超える。そこで著者は数日前、ある心理学者を訪ねて「理論の予測が38年間、一件も合致しないのに、その理論で計算した結果を公表し報道するという心理はどういうものか?」と聞いてみたら、「それは、利得によって価値基準を変えるという異常心理の一つ」と説明された。 つまり、「自分は科学者や記者である」、「理論とデータが違えば、本来は理論を疑う」、「この手段を失うと利得を失う」、「地震は儲かる」という矛盾した状態の中にいて、どれでも選択できると説明された。実質的には過失致死罪に近い倫理的問題点 たとえば2000万円の国費研究費を受け取り、東京の立川に活断層があると2013年に断言した東大教授が、後にその活断層は単にコンクリートパイルなどであることが分かり、「見たいものを見てしまった」、「私は催眠術にかかっていた」と説明したのがその典型例である。ちなみにこの教授は現在でも在職し、マスコミに登場、さらに研究費の返還を求められてもいない。 「催眠術」という言い訳もたいしたものだが、「見たいもの」という言葉の中に、先の心理学者が解説してくれた真髄がある。つまり、地震学者は防災のために地震学を研究しているのでは無く、地震が起こり被害が大きくなることを心の中で希望していると考えられる。「焼け太り」である。 メディアも予測を報道することが不適切であることを38年間の取材でよく知っているのに、それを続け予測とは違う地震で大きな被害が出ると、地震報道で大きく収益を上げている。 法律的な責任を問われる可能性は低いが、実質的には過失致死罪に近い倫理的問題点を含んでいる。 地震学者が地震の研究を「学者」として地道に行い、学会で発表する分には学問の自由が認められるし、失敗も許される。しかし、「専門家」となり、社会に積極的に働きかけるとなると、その活動には制限が加わり、間違えば時に制裁が加わる。記者会見する加藤照之日本地震学会長(右)ら防災関連の学会関係者=4月18日午後、東京都新宿区 学問の自由は「内的、精神的なこと」に限定されるからであり、報道の自由も完全に制約なくメディアに与えられるのでは無く、その正確性、普遍性が求められ、報道によって国民に大きな被害を与えてもよいなどは報道の自由に入らない。 その意味では、阪神・淡路大震災の前に「東海地震が先」と報道したマスコミ(この場合は完全にメディアの先行だった)、東日本大震災の前に「東海、東南海、南海地震が先」と社会や審議会で発言した学者などは報道の自由、電波法の特権や学問の自由を失い、職を追われるのが近代国家の専門職というものである。 地震で無念の死を遂げた人たちのためにも、誇りある日本のために一刻も早く、地震学者、メディアが「事実をみる勇気」をもってもらいたい。

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    民放テレビ 被災者を泣かせる過剰演出はもう止めての声出る

     「NHKは必要だが民放は要らない」という声をよく聞く震災報道。作家・五感生活研究所の山下柚実氏がメディアの語源からテレビ報道の在り方を問う。* * * 被災現場でどれだけメディア、とりわけテレビ局は現場の方たちの力になれているのでしょうか。被災者たちの未だ多くが、「連絡がとれない」「安否確認ができない」と不安の声を挙げています。 しかしたとえば、ある民放番組では、アナウンサーが被災現場に入って、亡くなった家族のことを被災者から聞き出しては泣かせる、といった現場レポートをしていました。今回の激甚災害の過酷さを、視聴者はすでに直感的に理解しています。これ以上、余分な強調や増幅はいりません。被災者に水をむけて泣かせようというのは、テレビ局自身のための演出行為に見えてしまいます。 その一方で、やはり民放ですが、被災者にボードを渡してメッセージを書いてもらい、それを映しながらマイクで言いたいことを話してもらう、という番組もありました。 いわば、テレビが、被災者同士をつなぐ「広域伝言板」に徹しています。「メディア」の語源は「ミディアム」=「間に入る」「媒介」という意味です。まさしく「媒介」役を果たしていました。電話などの通信網が寸断されている今こそ、原点に立ち返るなら、自ずとメディアの果たすべき役割が見えてくる気がします。関連記事■ 若者に“TVはネットよりつまらない”の意識浸透と上智教授■ 「TV局を減らせ」と説く元業界人がTV界の現状を描いた書■ 日テレ「面白い」発言、フジ「笑えてきた」発言とNHKの差■ 共に大震災に直面した台湾・李登輝氏と菅総理の初期対応の差■ 吉川晃司「エンターテイメントは無力」と被災地でボランティア

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    マスコミは被災地の邪魔者か?

    きな被害を受けているのか。被災地一帯は一体どのような状況なのか。そうした街全体のリポートはやはり報道メディアの技術には及ばない。 また、ヘリコプターによる空撮も、被害の大きさを知るためにはとても分かりやすい映像である。マスコミの存在は、九州から離れた我々が、被災地で実際にどのようなことが起きているのかを知るために、必要不可欠といえる。地震被害を受けた熊本県南阿蘇村で、屋外に避難した人たち=16日午前6時37分(共同通信社ヘリから) しかし、当の被災地に居ると思わしき人たちから、SNSなどを通して伝えられるマスコミの評判はすこぶる悪い。 よく聞かれるのが「マスコミのヘリの音がうるさくて、埋もれた人の声が聴こえない」という話だ。他にも「コンビニの食料をマスコミが買い占めた」とか「カメラクルーが現地で写真を取ろうとして人々の邪魔をしている」という話だ。 まず「マスコミのヘリの音がうるさい」という話。ぼくはこれは眉唾であると考えている。そもそも被災地で飛んでいるヘリは、決してマスコミのヘリだけではない。被災地を飛ぶヘリの多くは、消防や自衛隊といった災害対応にあたるヘリコプターである。また、物資輸送のために、民間のヘリコプターが飛ぶケースも多いという。 一方で、憎まれている報道ヘリは、昔はどうかは知らないが、今は低い高度を飛ぶことはない。なぜなら、空撮映像には広い視野で被害の全体像をつかむ映像が求められるので、低い高度を飛ぶ意味が無いからだ。また、阪神淡路大震災で批判を受け、ある程度の高度を保つように要請されているとも聞く。いずれにせよ地表に音が響くような低い場所を飛んでいない。 象徴的な出来事が、去年に起きた茨城県西部で発生した鬼怒川の決壊による洪水で発生している。 NHKがヘリで自衛隊の活動などを空撮していたところ、自衛隊機に極めて近いところをテレビ朝日の報道ヘリが飛んでいるような映像が捉えられ放送されたのである。これに対してネット上の正義の人たちが憤怒。「テレビ朝日は自衛隊の邪魔をするな!」というツイートがあふれた。(*1)  しかし、実際には自衛隊機とテレビ朝日のヘリの距離は全く近くなかった。NHKの空撮が極めて高い場所から超望遠のレンズで撮影しているために、遠近法により絵の距離感がおかしくなり、さも近い場所に両機がいるような絵になってしまったというだけの話だったのである。 こうした状況で「報道ヘリがうるさい」という意見が出るのは、プレイステーション4だろうがWiiUだろうが、知らない人が「ファミコン」と言ってしまうのと同じ理屈だ。航空機ファンでもなければ地上から見てヘリの違いなどわからない。ヘリの音だけを聞いて十把一絡げに「報道ヘリが!」と思い込んでしまうのだろう。 ちなみに「報道ヘリも人や物資を運べ」などと言っている人もいるが、報道ヘリが現場に降りるほうがよほどレスキューや自衛隊の邪魔になることは言うまでもないだろう。他には変えられない被災地報道の役割 「コンビニの食料をマスコミが買い占めた」は、ほとんど嘘であると断じられる。現地で暮らす被災者の人数と、取材に訪れるマスコミの人数を考えれば、被災者が買い占めたと考えるほかはない。 コンビニの棚というのは、商品が溢れているように見えるが、狭い店舗でも品物の種類を増やすために一点あたりの品数は意外と少ないのである。 例えば震災時に求められるであろう2リットルの水は、1単位(ダンボール1箱あたり)6本なので、客が少ない店なら6本。普通の店なら12本くらいしかストックしていない。南アルプスの天然水と、自社のPB商品で、あってせいぜい24本である。 それでもほとんど品切れをしないのは、店舗裏に大きな倉庫があるからではなく、普段の売上を見ながら、最小限の数を毎日発注し、それがコンビニ本社が各地に持つ配送センターから毎日届けられるからだ。無くなりそうになっても、すぐに次の商品が届くから、コンビニの棚はいつも商品が溢れているように見えるのである。 だから、こうした震災が発生し、普段では考えられない客が殺到しするようなときには、すぐに必要とされる商品は無くなってしまう。もちろん道路なども被災しているから、次の商品が普段通りに届くとも限らない。石垣などが崩れた熊本城=4月17日、熊本市(産経新聞社ヘリから、三尾郁恵撮影) そうしたことを知らずに、商品がなくなったコンビニの棚を見ると「普段はたくさんあるのに、今日はない。マスコミが買い占めたに違いない」と、短絡的に考えてしまうのだろう。 最後に「カメラクルーなどが邪魔」というのは、そのとおりなのだろうと思う。 実際、ぼくも歩いていて取材をしているクルーなどを見かけることがあるが、彼らは数人でまとまって、比較的長い時間、同じ場所をうろうろしているので邪魔である。 1つのクルーだけでも邪魔なのに、それが何社も訪れればとんでもなく邪魔だろう。ましてや震災で精神状態が平常ではない時だから、クルーに怒りが集まるのは理解できるし、それを否定する気はない。 しかしながら、取材クルーは決して邪魔をするためだけに取材をしているのではない、取材によってメディアで被害が報じられ、関心が集まることによって、多くの支援物資や寄付金などが集めやすいという状況を生み出しているという役割を果たしていることが挙げられるだろう。 東日本大震災が発生した翌日、長野県北部の栄村でも震度6強の地震が発生し、家屋の倒壊や土砂崩れ、道路の寸断などが発生した。 本来であれば、マスコミが駆けつけ、その被害状況をつぶさに報じたのだろうが、マスコミの大半は東北の津波被害や原発事故の取材に追われ、栄村の情報はほとんど取り上げられることはなかったし、わずかに取り上げられても、人々の記憶からはすぐに消えていった。 被災当初は役場もうまく機能せず、情報発信もままならなかったと聞く。この時にマスコミにもっと人手があれば、役所の代わりに栄村の情報を、首都圏の人たちにもっと届けることができたはずである。 マスコミが積極的に取材をし、それを報じなければ、いかに苛烈な震災が発生したとしても、その土地と関係ない人が被害の程を知るすべがなく、支援の手が届きにくくなってしまうのである。 たとえ現地の人たちにとって、マスコミが邪魔に見えたとしても、その土地と関係のない多くの人たちは、マスコミが報じることではじめて問題を知ることになる。その情報拡散能力があってはじめて、多くの人が遠く離れた地域の被災に関心を持つのである。たとえ一時的に邪魔に思えても、マスコミが被災地報道で果たす役割は、他には変えられない重要なものであるといえる。 被災地の方々には本当に申し訳ないし、震災というどうにもならない状況で怒りをどこかにぶつけたい状況であるのも理解はするが、マスコミが殺到しているという状況を見ても、けっして邪魔をしに来ているだけではないのだということを、頭の片隅に入れておいていただければと思う。*1:【速報】テレ朝/日テレのヘリが自衛隊の洪水救助を妨害!? #NHK で放映され撃ち落とせと炎上【反日】(Togetterまとめ)(2016年04月17日 「BLOGOS」より転載)

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    行方不明の母親を捜す子供に密着するテレビ報道の意義とは?

    フジテレビに「半袖禁止令」が出る■ 小林麻耶の報道番組大コケ以降ゴールデンでバラエティ激増 ■ 韓国メディアによる「日本沈没」報道に韓国人「下劣」と批判

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    メディア災害報道に批判集中 ネット時代の取材ガイドライン作れ

    に人間は無力だと改めて感ぜずにはいられない。 そうした中、今に始まったことではないが、ネット上では、メディアの取材手法に批判が集まっている。広島の土砂災害の時だけでなく、生き埋めになった人を捜索している時に各社が報道ヘリを飛ばすことは捜索を妨害するとの声が上がっている。また、被害現場近くまで取材クルーやリポーターが大挙して押しよせることも批判の的だ。広島土砂災害で最も被害が大きかった安佐南区で、住宅街に流れ込んだ土砂=2014年8月20日午前、広島市(森田達也撮影) 今回の御嶽山の噴火では、噴火直前にツイートしていた人に、多くのメディアが情報を得ようとツイッターでコンタクトを取ろうと試みたが、噴火で安否がわからない人に群がるハイエナのようだ、とネット上で厳しく糾弾された。 メディアが速報を競い、時として過熱気味に取材攻勢に走ることを戒める声は日増しに強くなっている。実は、新聞・テレビ、それぞれ自主規制ガイドラインを決めている。(注1)どちらも2001年に制定されているにもかかわらず、今も批判に晒されていることをメディアは真摯に受け止めねばならない。 特に、SNSを使っての取材は東日本大震災後、急速に普及してきた感がある。SNSを学生時代から当たり前のように使ってきた記者が増えていることも関係しているが、二つの点で気を付けるべきだ。 一つは、ネット上の情報の信頼性だ。そもそも裏が取れている情報なのかどうか、不確かである。うっかり引用しようものならとんでもないやけどをする可能性がある。また、情報が投稿された時間もよく調べないと危険だ。本人の投稿と他人によるリツイートやシェアなどが混在しているからだ。既存のメディアは速報スピードでもはやSNSには勝てない 二つ目は、ネットを使っての取材手法の問題だ。ツイッターやフェイスブックを使って取材する記者が増えている。広く情報提供を呼びかけるパターンと、直接取材対象を絞ってその人にコンタクトを取るパターンがあるが、特に後者は今回の御嶽山のケースのように、一歩間違うと批判の対象となり易い。今後はSNSを使った取材がどのような問題を引き起こすのかを想定した新たなガイドライン作成が必要であろう。 さて、既存のメディアは速報の速さでもはやSNSには勝てないことが分かっている。無論、情報を早く伝達する努力を放棄すべきではないが、事件・事故・災害が起きた場合、その原因を特定し、対策を提示することもメディアの大切な役割だろう。 先日NHKが、群馬県下仁田町の防災の取り組みについて特集を組んでいた。過去幾度となく土石流などの被害を受けてきたこの町は、行政に頼らず、住民自ら自然を日常的に観察し、異常値を検知したら自主避難を住民に勧告するシステムを構築している、という内容だった。 沢などの水の流れの目視や、自家製のコップ型雨量検知器を使っての雨量の測定を通じ、異変を感じたら係りの人が自治会長にすぐ連絡し、自治会長が各地区のリーダーに避難を呼びかけるという。又、過去どの場所でどんな災害が起きたかが詳細に記載されている防災マップも作成し、各戸に配布している。まさしく、「自助」「共助」の参考となる例であろう。 こうした地域の優れた取り組みを紹介することが、各自治体の防災意識を喚起することになり、将来の災害時の被害を減じることにつながると思う。とても有意義な放送だった。 災害時の報道で、メディアは1次情報の提供だけでなく、災害が起きた原因を分析し、被害を最小限に止める為に今後私たちはどうしたらいいか、具体的に提案をしていくことがこれまで以上に求められている。注1)日本新聞協会 集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解http://www.pressnet.or.jp/statement/report/011206_66.html民間放送連盟 集団的過熱取材(メディア・スクラム)問題に関する民放連の対応についてhttp://www.j-ba.or.jp/category/topics/jba100553(「Japan In-depth『編集長の眼』」より2014年9月29日分を転載)

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    熊本地震翌朝の各局情報番組 TBSが一歩リードか

     放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、熊本地震報道に見る各局の情報番組を分析。* * * 熊本地震で被災された皆様に御見舞を申し上げます。 14日夜9時26分頃、熊本県内で震度7の地震が発生して以来、テレビ各局では報道局が主導となり、緊急特番となった。 もともと『ニュースウォッチ9』枠だったNHKが第一報からリードしていたものの、現場はかなり混乱。着の身着のままで避難してきた方達に「NHKですが…」とマイクを向けていたことも少々気になった。 また、スタジオのアナウンサーの脇で指示するディレクターの声がずっとオンエアにのってしまっていた。東日本大震災のとき、内輪の会話がマイクにのってしまい、結果、被災者の方や視聴者の皆さんに不快な思いをさせてしまった在京局が2局あったことを思い出す。NHKのディレクターが不謹慎な発言をしていたわけではないのだが、オンエア的に聞きづらかったことは否めない。 民放局に目をやると、今週月曜日、メインキャスターに就任したばかりの『報道ステーション』(テレビ朝日系)の富川悠太アナウンサーは、さすがに全国を取材しているだけあり、現場との連携が見事だったし、終始落ち着いていた。強い地震により一階部分が押しつぶされた歯科医院の建物=4月16日午前4時、熊本市中央区安政町 その後スタートした『NEWS ZERO』(日本テレビ系)は、レギュラー陣が、いつものスタジオではなく報道フロアに集まり、座りではなく立ちで乗り切った。こちらも新メンバーを加えての座組だったが、日頃のチームワークの良さで乗り切ったように思う。 気になったのは翌朝の民放局だった。『めざましテレビ』(フジテレビ系)や追随する『ZIP!』(日本テレビ系)の成功により、それまでF3、M3に強かったテレビ朝日までがターゲットの年齢層を下げてきている昨今。日頃、いわゆるエンタメ情報やトレンド情報を扱いすぎているせいで、全体的に“報道の顔”をしていない番組ばかりなのである。 『めざまし~』の三宅正治アナはベテランだが、専門はスポーツ。なので、最新のニュースは報道局から奥寺健アナと斉藤舞子アナが担当していた。 『ZIP!』も、座組は通常どおりだったので、北乃きいや鈴木杏樹、ZIP!ファミリーの女子らが笑顔でワイプにおさまるコーナーもありつつ、桝太一アナが懸命に進行していた。それでも、速水もこみちをロケに出していたコーナーを始め、この日に出さなければならない“縛り”があると推察できる企画はそのままオンエア。結果、やや浮いた作りになってしまっていたように感じた。 その点、この4月、「思い切ったリニューアルをした」と他局も注目している『あさチャン!』(TBS系)は、白シャツに黒スーツという出で立ちの夏目三久をメインに、ずっと地震関連のニュースを扱っていた。 『あさチャン!』がなぜ「思い切ったリニューアルをした」と言われているかというと、番組全編がほぼニュースになったからなのである。 NHKを除く民放の横並びがどんどん若者向けにシフトしていくなか、みのもんたの『朝ズバッ』の流れを汲む『あさチャン!』には、F3(50才以上の女性)、M3(同・男性)の視聴者が付いていた。 以前は、テレビ朝日の早朝枠もF3、M3に強いと言われていたが、『グッド!モーニング』は明らかにF2やM2にシフト。在宅率が高く、人数も多いF3、M3層をNHKとTBSが分け合うこととなっていた。腹をくくった夏目三久 が、みのから夏目に変えた時点では、もう少し若い層を狙っていたのも事実。およそ女子アナっぽくないモード系ファッションで、ストッキングではなくソックスで登場した夏目は、女子アナのヘアメイクとは一線を画す“尖った見た目”でもあったせいか、番組開始当時、おばさんやおじさんに好まれなかったものだ。 当然のことながら視聴率は芳しくなかったのだが、ネット局を中心に最近、数字が上向いている『あさチャン!』。夏目の見た目も徐々に年配視聴者に好まれるようなものに改善され、4月からレギュラー陣を一新し、ニュースを伝える番組にシフトした。お天気キャスターに『ニュースウォッチ9』(NHK)の井田寛子気象予報士を据えたのも、F3、M3対策の一つだ。 3月で『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日系)を卒業した夏目は、『真相報道バンキシャ!』(日本テレビ系)と『あさチャン!』により、ニュースキャスター・夏目三久として、腹をくくったようだ。 もともと出版社志望だったという彼女が新入社員のとき、『恋のから騒ぎ』(同)の説教部屋セットに現れ、明石家さんまからの質問に堂々と答えているのを見たのは9年前のことだ(オンエアはせず、入社式で流された)。 大阪出身なので、お笑いが好きだという彼女に対し、「芸人で好きなのは?」と聞いた明石家さんまに、「チュートリアルの徳井さん」と答え、さんまさんからピコピコハンマーで何度も叩かれていた夏目。 大型新人アナとして、入社半年で『おもいッきりイイ!!テレビ』のアシスタントに抜擢されるも、11年1月に退社。大型レギュラーをもたせてもらっても、勘違いするようなタイプではなかったし、後輩女子アナの面倒もよく見ていた。編集者志望だったからだろうか、裏方仕事もよくやっていた気がする。 だが、写真誌の一件で日本テレビを追われ、フリーに。果たして、この年代の局アナ出身の女子アナで唯一、帯番組のレギュラーをもっているのが夏目である。 熊本地震の報道に話を戻す。テレビ局では、阪神淡路大震災の経験が東日本大震災に活かされなかったことが大きな課題になっていた。地震の報道や、その後の報道について、身をもって体験していた在阪局のディレクターや記者、アナウンサーらの知識は専門的なことを含め、とても深かった。 が、それが在京局にももたらされなかったのは、直後に地下鉄サリン事件が起きたからだと言われている。阪神淡路大震災報道にまつわるさまざまな教訓は、在阪局だけのものになってしまったと彼らは嘆く。地震で損傷した熊本城の戌亥櫓と石垣=熊本市 思えば夏目は大阪出身なので阪神淡路大震災を経験している。TBSでは、『あさチャン!』に続く、『白熱ライブ ビビット』の真矢ミキも宝塚歌劇団の花組トップに就任した年、阪神淡路大震災に遭っている。そしてTOKIO国分太一は、『ザ!鉄腕!DASH!!!』(日本テレビ系)で東日本大震災の被災地・福島県への強い思い入れがあるタレントだ。 偶然ではあるが、こうした出演者の経験に基づくコメントが並んだTBSの番組がリードした熊本地震の翌朝だった。 当然だが、午後は、阪神淡路大震災の現場を朝日放送の局アナとして連日取材して回った宮根誠司の『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ・日本テレビ系)が群を抜いていた。が、その読売テレビでも、阪神淡路大震災の取材を経験している局アナは半数にも満たなくなってしまっている。そこで同局では、先輩アナが中心となって、後輩たちへのセミナーを行っているという。 在京局のテレビ局は、被災者の皆さんの心に寄り添うことがどれほど大事なことか、改めて系列局との情報を“共有”してほしいものだ。関連記事■ TVの言葉が「語り」から「喋り」に移った理由を解説した本■ 夏目三久アナ 年収3億円説飛び出し女子アナ界新女王の声も■ お泊りデート報じられた松尾由美子アナ パンツスーツ姿多い■ 日テレ『NEWS ZERO』 山岸舞彩アナ抜擢でほぼ決まりとの声■ 大江麻理子アナ 会見時の所作に「気遣いのできるいい女」評

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    共産党の候補者選びは、自民党とココが違う!

    筆坂秀世(政治評論家、元共産党政策委員長) いわゆる議員の「身体検査」というのは共産党には特にないと思う。プライバシーを調べて「おまえ、ああだろう、こうだろう」っていうのはたぶんない。たまたま耳に入ってくる話があれば別だろうけど、組織として「身体検査」をするというような習慣はまずない。共産党の場合、「私、立候補したいです」とか「選挙に出たいです」って、自分から言って立候補する制度というか習慣がそもそもないんです。あくまでもそれは全部、党が決定するんです。 たとえば、新宿区の区議会議員の場合、地区委員会の委員長を筆頭に常任委員がいます。「今度Aさんっていう人が引退するので、後の候補者に誰を立てようか。教師にいいのがいるが、教師をやめさせて落ちたらどうしよう。これは家庭の問題もあるから教師をやめさせてまで立てるわけにいかない」となった場合、「地域で熱心に活動してて地域に人望のある人がいる。この人に立候補してもうらおう」となって、この人に立候補の話をすることになる。つまり、いろんな党員の日常的な活動を目にして立候補者を決めているというわけです。 僕は最初、参議院の比例代表の候補者になったんですが、当時は党の国会議員の秘書をしていた。そのころ共産党は比例で当選するとしたらせいぜい5人ぐらいのもので、そこにたとえば25人立てるとすると、落ちても構わない人を指名するわけ。僕なんかもともと秘書だったわけだから落っこちたらまた秘書に戻して党本部の勤務にすればいいだけの話。立候補は、ある日選対局長に呼ばれて「今度選挙に出てくれ。心配しなくても絶対当選することないから」って具合だった(笑)。そのあと、「次は衆議院の東京1区から出てみてくれるか」ということになって、衆院選東京1区から3回出馬して3回とも落選。それで「10年ぐらいやったんで、もういいでしょう。もう充分御奉公したでしょう」と降りたんです。そしたら今度は「次の参院選でまた比例で出てくれ、今度は順位が上の方で、当選する可能性がある順位で」となって、ついに当選した(笑)。参院決算委員会で質問に立つ共産党の吉良佳子氏=参院第1委員会室 東京で吉良佳子って子が参議院で当選しましたが、彼女もそれまで都議選に出て落っこちてるんですよ。たぶん当時の東京都委員会の選対局長や都委員長が「なかなかいいじゃないか。今度、東京選挙区から参議院選挙に出そう」となって、本人に立候補の話をしたんでしょう。そうやって共産党は上が候補者を決めてくんです。普段の活動を見ていて「これなら話も演説もうまいじゃないか」とかね。池内沙織って子も参院選に出たり総選挙に出たりして、4回目で当選しましたよね。いま議員をやっている人だって、結構、落選経験を持ってます。書記局長の山下(芳生)君だってそう。落選してないのは志位(和夫・党委員長)さんくらいじゃないかな。 公募議員というのは共産党では考えられないよね。最近はどうか知らないけど、昔の共産党だったら公募なんてありえない(笑)。共産党に入党するのは、議員になる道として入る人はまず一人もいないんですよ。党員としての活動において、別に議員が偉いというわけではなくて、たとえば区議会議員より地区委員の方が偉い。昔だったら宮本顕治(元中央委員会議長)さんがバッジ着けてないときだって、宮本さんが一番偉かった。国会議員は宮本さんの指導下で動いていたし、そういう組織だからね。そもそも共産党というのは。公募議員はチルドレンと変わらない記者会見で議員辞職する意向を表明し、頭を下げる自民党の宮崎謙介衆院議員=2月12日午前、国会 自民候補とうわさされていた乙武(洋匡)さんの一件が話題になってますが、ちょっと騒ぎすぎかなという気がするけどね。ただ自民党にとっては参院選の目玉になるはずだったわけだから。もう出ないでしょう。あれで出るようだと大した度胸だと思うけど。共産党にももちろん不倫でやられた人はいますよ。それは男と女の社会だからね。ただ、あんまりそういう確率は低いよね。不倫で辞職した宮崎(謙介・前衆院)議員なんか「キジも鳴かずば撃たれまい」みたいな、育休で目立っちゃったからね。だから僕は文春にタレこみがあったんだと思うよ。何が育休だと(笑)。 公募議員っていうのは政党としてどうかと思う。民主党が党名を決めるのに世論調査をやって民進党になったけど、自民党もこれをあんまり馬鹿にできないと思う。だって大政党の自民党だったら、候補者ぐらい自前でつくれ、政権政党何十年やってるんだよと。人材を抱える企業とだって、役所とだって付き合いがあるわけだから。公募なんて議員にはある意味卑しさを感じる。選んでもらえれば、いまの自民党だったら勝てるというね。 国会議員になることを前提に政治のことを勉強していいわけがない。会社を立ち上げて成功した、金も結構ありますという人が公募で選ばれて、本当に国会議員になっちゃうわけでしょ。そもそも自由民主党になんで入りたいのか。自由民主党に入るのは国会議員になりたいから入るわけでしょ。たぶん国会議員落選したらすぐ抜けてますよ。党費なんて払う人もいない。要するに自分のことしか考えていないということではないのか。 自民党で選挙が強い人だって、やっぱり最初の頃はうんと苦労しているわけです。中選挙区で自民党とも、野党とも戦い、みんな這いつくばって地元を開拓して、自分の地盤を作り上げてきた。しかし、いまの小選挙区だったらそんなことしなくったって、自民党公認という金看板さえあれば、ほとんど勝てる。だから公募議員ってコツコツ努力していないもの。 金銭トラブルで自民を離党した武藤(貴也・衆院)議員も、宮崎議員も落下傘候補だった。地元で苦労したわけでも何でもないんだよ。政治家にとってドブ板というのはやっぱり大事なんだ。この街のことなら何でも知ってる、タクシーの運転手より詳しいんだというぐらいコツコツ歩く、そういう苦労をしていない。小選挙区とはもう党で決まっちゃう、そういう選挙制度なんだよ。「小沢ガールズ」だって民主党の看板さえあればだれでも当選出来た。ガーンと政権交代のような大きな変化があると、そういうチルドレンしか残らないわけ。今の自民党の公募議員っていうのはそれと変わらないんだよ。チルドレンとは呼ばれていないけど。なりたいからといって候補者にはなれない 共産党では自分でなりたいからといっても絶対、候補者になれないんです。「俺、今度参議選に出るから公認してほしい」って手を挙げたら「ちょっとこいつは変わりもんやな」となる。個人の希望でなんて絶対ありえない。共産党にとって、議員であるか、党本部の勤務員であるか、党本部の選対局にいるか、あるいは赤旗の記者やるかというのは、それぞれの任務分担なんです。党員として何らかの仕事をしなければいけないわけで、ある人は選対局の任務を与えられ、ある人は赤旗編集局で記者の仕事、ある人は国会議員の秘書、ある人は候補者になりなさいと言われる。それはあくまでも党内での党員の任務分担なんです。任務分担として議員をやってるわけです。未公開株をめぐる金銭トラブルを週刊誌に報じられ、記者会見する武藤貴也衆院議員=2015年8月26日午後、衆院第2議員会館 決めるのは党本部だけど、国会議員クラスになれば実際にはトップとかナンバー2が決めている。今なら委員長、書記局長クラスでしょう。僕らなんかでもだれを候補者にするかなんて相談は受けたことがない。共産党の人事というのはそんなものなんだよ。 例えば常任幹部会って最高の幹部が集まる会議があるんだけども、そこで「A候補にしようか、B候補にしようか」っていう議論はありません。選対局から提案があって東京は誰々、大阪は誰々と会議で発表される。それは委員長、書記局長が了承しているものだから。参議院の選挙区なんかは都道府県で勝手に決めるわけです。ただし、東京とか大阪とか京都とか、絶対獲りたいところはもちろんこれでいいかどうかって討議をするんだけれども、青森でだれ、石川で誰を立てるかってことは県任せですよ。 基本的に共産党員になれた時点で身体検査云々って話にはならないってこと。僕らが共産党に入った半世紀前はいきなり党員にはなれなかったんです。党員候補期間っていうのがあって、入党申込書に権力関係の有無とか、事件の前科であるとか全部書いて、長い入党の決意表明文を書いて、それが審査を通ったら、やっと党員候補になれた。労働者の場合は3カ月のお試し期間があって、正式の党員になる。 当時、僕がAという人を口説いて入党を決意させ党の会議に持っていくと、ほかの党員から「彼はまだ意識が弱い」「まだ共産党員のレベルに達していない」「もうちょっと鍛えてからにしよう」と。こういうことをホントにやっていた(笑)。なんたって革命運動の前衛政党、労働者階級の前衛が共産党だから。革命の司令部だからそんなの誰でも入れないんですよ。それが革命政党の本当の姿だと思いますよ。今は、共産党に入りたいといったら「喜んでー」って入れるかもしれないけどね(笑)。(聞き手/iRONNA編集部、溝川好男)

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    乙武さん不倫で思った政治家の「身体検査」

    今夏の参院選で自民党の目玉候補の一人として擁立が取り沙汰された作家、乙武洋匡さんが不倫について謝罪しました。それにしても、今年は週刊誌発のスキャンダルが絶えませんね。ふと思ったんですが、政治家になろうとする人やテレビに出る人たちの「身体検査」って、どうなってるんでしょうか。

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    杉村太蔵だから分かる 「公募で不倫を見抜けるわけがない!」

    杉村太蔵(元衆院議員、タレント) 自民党の候補者公募の審査や面接って、正直言って皆さんが想像しているような変わったことは何もないんですよ。私は2005年8月の郵政解散選挙で自民党のホームページを見て候補者を公募しているのを知り、応募しました。そう、小泉純一郎元首相が郵政民営化反対派への「刺客」として、たくさんの「小泉チルドレン」が誕生した、あの国政選挙です。公募の一次審査の際には、戸籍謄本や住民票、中退した筑波大学の在学証明といった最低限必要な書類はもちろん、私が高校時代に国体の少年男子ダブルスで優勝したときの表彰状まで、まとめて揃えて提出しました。 一次審査では課題論文もあったんですが、いざ面接になると、総選挙の争点が郵政民営化の是非だったこともあり、面接担当の自民党議員の方からは真っ先に郵政民営化と小泉構造改革についてどう考えているのかと聞かれたのを覚えています。あのときは自分なりに考えをまとめて意見を述べたんですが、私自身もともと郵政民営化には強い関心があり、小泉さんが「完全民営化」を謳っていても、ユニバーサルサービスの維持を法律で義務付けていることに問題があるのではとも思っていました。だから、面接では「東京・赤坂にある郵便局と、地方の過疎地にある郵便局が本当に一律のサービスでいいのか。これは非常に疑問だし、どうせ民営化するのなら極力縛りをかけない方がいいと思っています」みたいなことをお伝えしました。国会に初登院し、名札のスイッチを押す杉村太蔵氏=2005年9月21日(宮川浩和撮影) 郵政民営化に関しては、私も当時は証券会社に勤めていたので、かつて同僚や上司らと議論した経験を元にとうとうとしゃべりました。いま思えば、自分が金融業界で働いていたことも評価されたのかなと思っています。その他にも、面接官からは「議員になったら郵政民営化以外で何をしたいか?」という質問もありました。大学を中退し、新卒採用の壁に阻まれ、しばらくは派遣社員も経験したことがあったので、「いったんフリーターになると、正規雇用に這い上がるのが難しい。ここには構造的な問題があるんじゃないかと考えています。だから、私は国会議員になって若者たちの雇用環境を改善したい。当選した暁には、ぜひ厚生労働委員会に所属したいです」と結構、具体的に説明したんですよ。あのとき、もし自分が「教育改革をやりたいです!」みたいなことを話していたら、きっと候補者選びで不合格になっていたと思います(笑)。 公募に合格するまでには5回も面接審査があって、結構大変だったんですよ。面接では、安倍さんや武部さんといった当時の自民党執行部のそうそうたる顔ぶれもありましたね。私が受けた面接審査の中で、もう一つ印象に残っているのが「憲法」に関する質問でした。私は自由民主党の公認候補者として出馬を目指していたわけですから、結党以来の党是である憲法について聞かれるのは当たり前だし、公認候補が党是に従うのは当然です。もし郵政民営化には賛成の立場でも、憲法改正について否定的な完全護憲派では、自民党の国会議員は務まりません。面接の質疑応答では、憲法に関する意見もたくさん求められた記憶があります。ズバリ直球で女性関係を聞かれることなんてない 自民党から公認を得て国会議員になる場合、もっとも多い事例といえば、地方議会で活動していて地元の党支部や支援者たちからの推薦を受けて立候補するパターンと、党本部が公募して候補者を選定し擁立するパターンの2つがありますよね。例えば、前者のパターンに多くみられますが、党のTPP推進方針に反して、自分が出馬する小選挙区では「反対」を訴え、党の方針に反して当選する議員もいたりします。ただ、自民党というのは、いろんな意見を吸収できる度量の広い党ですから、必ずしも党の方針に反対したらダメだといっているわけではないんです。個別の政策であれば、党内でいろいろな意見があったとしても、ある程度は許容の範囲内なんです。  でも、憲法のように綱領で掲げる政策については違います。憲法改正について優先度の低い政治家はいるかもしれませんが、改憲に否定的な政治家が自民党議員として活動するのは有り得ない。だから、僕のときもそうでしたが、公募の面接で党の綱領や、立党宣言について聞かれるというのは、公認候補者としての最低限の確認レベルみたいなものなんじゃないですかね。いま、こうして当時を振り返ってみると、党が候補者を選定する際には、個々の政治理念をとにかく重視し、しっかり選んでいただけたんだなと思います。 よく国会議員が不祥事を起こすと、政治家の「身体検査」が問題になることがあります。でも、面接のときにズバリ直球で女性関係のことを聞かれることなんてないです。そんなこと有り得ないです。だって、一般企業の面接のときに「あなた不倫してますか?」なんてことを聞く採用担当者なんていますか。いくら清廉潔白が求められる政治家にだって、そんな非常識なことを面接で聞くことなんてあるわけがない。面接で聞かれることは、ごくごく常識的な質問ばかりです。まずは自民党の公認候補者として相応しい政治理念を持っているかどうか、面接の9割がそこへの関心です。あのときの公募は、たった2週間という短い期間でしたが、それでも党の執行部までフル回転して、より良い人材を発掘しようという熱意が伝わりました。僕みたいな人間でも、情熱があれば政治への道をつくってあげようという、そんな雰囲気もありましたね。 一般的に政治家になるためには、国会議員の二世・三世や議員秘書、官僚出身といった経歴がなければ、なかなか難しいといった印象がありますよね。裁判官や検事、弁護士であれば司法試験に合格すればなれるし、官僚であれば国家公務員試験といった入り口があります。でも、国権の最高機関である立法府に入るには、選挙で有権者の支持を得なければならない。一般人が党の公認を得て国政選挙に出馬するルートというのは、実は不明確なんですよね。だからこそ、どの政党も国民に対しては政治家になるための「門戸」を開いておいてほしいと思っています。誰だって政治家になるチャンスはあるという意識を根付かせることも重要だと思う。 そういえば、乙武洋匡さんの不倫騒動が話題になってますけど、それでも乙武さんが出馬するかどうかという質問については、今は「ノーコメント」とさせてください。時事的なことに関しては毎週日曜日の「サンデージャポン」(TBS系)が終った後に話すことにしているんですよ。私が国会議員を辞めて、人生最大のピンチを救ってくれたのは「サンジャポ」ですし、一番恩義を感じているんですから(笑)。(聞き手、iRONNA編集部・松田穣)すぎむら・たいぞう 1979年8月13日生まれ、北海道旭川市出身。筑波大体育専門学群中退。外資系証券会社に在職中の2005年に自民党の候補者公募に合格し、同年9月の衆院選に出馬し当選。10年7月の衆院選では同党から公認されず出馬を断念した。09年7月の参院選にたちあがれ日本から出馬したが落選。同年10月からTBS系「サンデージャポン」(日曜前10・0)に出演するなど、タレントとして活動中。血液型O。

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    ショーンK「学歴詐称」に見るテレビの責任

    ・」 正直な感想である。ショーンKなる人気コメンテーターの学歴・経歴詐称問題のことだ。複数のレガシーメディアでコメンテーターや番組ナビゲーターなどを務めていた人物のスキャンダルだけに、世間はこの話題で持ちきりだ。 例によって、メディアは「池に落ちた犬は叩け」、とばかりにバッシングを繰り広げているが、実際、番組コメンテーターとして彼を出していたテレビはどうなんだ?と思わざるを得ない。彼を出演させていた責任はないのか?という素朴な疑問だ。「やっちまったか」という感想は、ショーンK氏に対して発したものではなく、彼を持ち上げ、番組に出し続けたテレビ局に対してのものだ。ショーン・マクアードル川上氏 そもそも有識者、文化人などのカテゴリーから選ばれる情報番組(ワイドショー)のコメンテーターはどのようにして選ばれているのか?ルールとか基準とかあるのだろうか?疑問に思う人もいるだろう。局によって違いはあるだろうが、基本は番組の責任者に権限がある。つまり、プロデューサーや編集長と呼ばれる人たちだ。 情報番組は毎日様々な分野のニュースを取り上げる。事件・事故などの社会部系ニュースから、政治関連ニュース、国際ニュース、経済関係ニュース、そして芸能人や政治家のスキャンダルなど、ありとあらゆるジャンルを網羅する。したがって、それらジャンル別にコメンテーターを用意する必要がある。まずは、レギュラーコメンテーターだ。番組によって同じ顔触れを毎日固定する場合もあるし、曜日ごとに変える場合もある。それに加え、日々の話題によって、スポットでコメンテーターを選び、番組に呼ぶのだ。 レギュラーコメンテーターの選出には、番組プロデューサー・編集長に権限がある。特に改編期などの入れ替え時期には入念に顔ぶれを決めるのが通例だ。番組スタッフ内で候補者を選び、何人かに絞る。最終的に、報道局内でオーソライズし、決定する。番組のキャスターともなると、視聴率にもかかわってくるので、社内における根回しが必要となってくる。編成局、営業局など他の部署の合意も必要だ。しかし、コメンテーターを選ぶ際にはそこまでの社内調整は必要とされないことが多い。「コメンテーターの経歴は調べないのか?」という疑問 レギュラーコメンテーターを選ぶにあたり必要とされる資質とは何か。経歴・学歴などのバックグラウンドはもちろんの事、知名度、権威、個性に加え、清新さ、話のうまさ、ルックスなどが上げられる。要は誰が見ても、「この人のコメントは心配ないだろう」という人が選ばれるのが普通だ。 一方、日々のニュースに関して呼ばれるコメンテーターについては、上記のようなことは言っていられない。何しろニュースは待ってくれない。あらゆるニュースが飛び込んでくる。そのニュースに関してコメントしてくれる人は誰なのか、担当ディレクターは電話をかけまくったり、ネットで検索しまくったりして、人を探すのだ。必死である。なにせ時間との勝負なのだ。見つかりませんでした、は許されない。時には社内の専門記者や解説委員にアドバイスを仰いだりする。一見の人を呼ぶより、社内の人間の“お墨付き”がある方が安心だし、パイプがあれば出演交渉もスムーズになるからだ。 さて、話をショーンK氏に戻そう。彼がどのような経緯でレギュラーコメンテーターに選ばれたのか小生は知らない。気づいたときはいつの間にか画面の常連になっていた。正直、知名度がある人ではなかったので、初めて彼を見た時は「誰?」という素朴な疑問を抱いたのは事実だ。番組として、他の情報番組の常連ではない、斬新でユニークな人を選ぼう、という意思が番組内で働いたものと思われる。 そうした時には、プロデューサーの声が大きい。何といっても番組のヒトモノカネを握っている権力者なわけで、彼がNoといったものはNoだし、YesといったものはYesなのだ。したがって、学歴・経歴詐称を行った人間をレギュラーコメンテーターに決定した責任は番組プロデューサーにある、と私は考える。 次の読者の疑問は、「コメンテーターの経歴は調べないのか?」というものだろう。答えは、Noだ。自己申告、もしくはネット上の情報以外に独自にその人の経歴を洗い直すことは通常しない。ある意味性善説にのっとっていると言ってもいいだろう。実は小生も経験がある。自分の担当する番組で準レギュラーとしてとある識者を推薦したのだ。立派な肩書・経歴だったし、疑う余地はなかった。当然、誰も異を唱えることはなかったし、プロデューサー含め反対はなかった。その人物のコメントは切れ味も鋭く、なるほど、と思うものが多かった。期待以上の仕事をしてくれたのだ。しかし、しばらくして突然、その人物の学歴詐称問題がネット上に出現した。結局、編集会議でその人物の出演は見合わせることを決定した。テレビに出るコメンテーターの学歴・経歴についてはこれまで精査されてこなかったのだ。自分も含め、この点は大いに反省しなければならないし、システムそのものを見直さなければいけない、と思う。 いずれにしても、これだけ大っぴらに詐称が行われていたことを見ると、今後、報道番組や情報番組に出演する人は全て、経歴や学歴にうそがないか、チェックする必要が出てきた。さもないと、テレビ局はとんでもないレピュテーションリスク(信頼性を毀損するリスク)を負うことになる。まるで、閣僚任命前の“身体検査”のようだが、仕方がない。 ニュースの中身を正しく理解し、深い洞察に基づいて視聴者に新たな視点を提供するようなコメンテーターがベストだ。急逝したジャーナリスト竹田圭吾氏のような人だが、そういう人は少ない。見てくれや喋りのうまさ、その時その時で話題になっているというだけで選ばれた人がコメンテーターとして画面に出ているのが実態だ。 情報番組はこれまで「視聴者の目線に沿った」人をコメンテーターとして選んできた。一般市民の目線でコメントしてくれる人を視聴者も受け入れ、楽しんできた側面は否めない。私たちはそこに「深さ」を求めてこなかった。しかし、現代はネット上に様々な情報が溢れている。誰もが瞬時に情報を入手できる今、視聴者の意識は大きく変化した。コメンテーターの発する言葉は瞬時に評価され、その評価はネット上に拡散されていく。適当なことを“喋くり倒して”いれば良い、という時代ではない。毎秒毎秒、“真剣勝負の世界”だと知るべきである。さもないと視聴者を愚弄することになりかねない。テレビ局が思っている以上に視聴者は情報を持っており、賢いのだ。 ショーンK氏が何故学歴・経歴を詐称するに至ったかについては筆者は知る由もない。しかし、彼を選び、番組に出し続けたメディアの責任は重い。彼を起用していたテレビ局やラジオ局がどのようなコメントを出すのか、視聴者は見ている。

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    乙武君を「ゲス不倫議員」と一緒にしてはいけない

    鈴木哲夫(政治ジャーナリスト) ここ最近、自民党議員の不祥事が続き、メディアなんかでも「自民党の『身体検査』が甘いのではないか」という指摘があります。ですが、公党の「身体検査」と乙武洋匡君の不倫スキャンダルをごちゃ混ぜにした議論は、本質的に間違っています。 『週刊新潮』が最新号で報じた乙武君の不倫スキャンダルは、彼が今夏の参院選でどの党から出馬するのか、公認をめぐるいざこざ、恨み辛みから編集部にリークされたのがきっかけだったと聞いています。乙武洋匡さん=2月29日午後、東京都新宿区(荻窪佳撮影) というのも、乙武君にはもともと前回の新宿区長選に出馬するという話があったのですが、ある理由で断念しました。 実は彼には国政の舞台で活躍したいという気持ちの方が強かった。だから、直近の国政選挙である参院選の出馬を決意したのですが、政治団体「日本を元気にする会」代表の松田公太氏と仲が良いこともあって、出馬するときは「元気にする会」からという覚書を松田氏と交わしていました。松田氏自身も改選でしたから、いまの状況では自身の選挙も厳しいのは当然分かっていた。だから、乙武君が出れば、知名度の高い彼とも選挙運動が連動できるし、乙武君自身も最初はそれでいいと考えていたようです。 ところが、事態は変わりました。第一次安倍政権の秘書官を務めた井上義行衆院議員が、松田氏のやり方に反発して離党したんです。それから「元気にする会」がゴタゴタしてしまって、乙武君も不安に思い始めたようなんです。 そこに、自民党が目をつけた。ある自民党議員が、乙武君の引き抜きのために積極的に動いたそうです。そして昨年12月7日、乙武君と菅義偉官房長官が会談し、今年4月に乙武君が東京選挙区から自民党公認候補として出馬会見するという段取りが正式に決まったんです。実を言うと、私もその情報は把握していました。自民党は乙武君を徹底的に調べていた そんなわけで、自民党は乙武君について昨年暮れから目をつけていたわけですから、彼の「身体検査」というか、彼の経歴については徹底的に調べています。では、彼の何を調べていたのかといえば、新宿区長選への立候補が取り沙汰されたとき、彼の周辺では金銭トラブルが起きたんです。これは乙武君自身の問題ではなく、仕事先とのちょっとしたトラブルでした。そういう情報も事前にキャッチして、官邸や自民党都連が中心になって彼の身辺を徹底的に調べ上げ、金銭トラブルは問題ないという結論になった。でも、不倫と言うのは、金銭トラブルとは趣が随分異なる。そもそも本人が隠してやっているわけですから、表に出にくい。それ以外の彼のいろんな噂については調べ上げていたんでしょうが、不倫の事実までは掴むことができなかったようです。 しかも、今回の不倫スキャンダルは乙武君のかなり個人的なことまで知っている人からのリークですから、自民党の「身体検査」が甘かったからというのはちょっと違うと思います。それでも一つ言えるのは、いまの自民党の調査能力は昔に比べると相当弱くなっていると思います。 自民党には「2012年問題」というのがあって、2012年に初当選した公募議員の顔触れをみれば分かりますが、『週刊文春』が報じた不倫疑惑で辞職した宮崎謙介元議員や、週刊新潮がセクハラ疑惑を報じた石崎徹議員らがいて、政治家としての資質や劣化が問題視される議員がゴロゴロいます。 自民党の歴史を振り返ってみると、候補者の公募というのは小選挙区制が導入されたことをきっかけに始まりました。党内には「ピカピカの履歴書」という隠語があるんですが、これは候補を誰にしようかと選んでいるときに、華々しい履歴書とか、有名大学を出たとか、アメリカの大学で資格をとったとか、商社勤務だったとか、そういう「ピカピカ」の経歴を持つ人物にころっと騙されてしまうんです。あと、忘れてはならない隠語が「イケメン」。小選挙区では当然1人しか通りませんから、万人に受けるイケメンがいい。もちろん、彼らの身体検査もしているんですが、それでもピカピカの履歴書とイケメンに目を奪われて「女に多少モテるのは仕方がない」と審査が甘くなる向きがあるんです。ましてや、奥さんも子供もいるような人物だったら、たとえイケメンでもそれなら安心だろうと、ますます調査が甘くなっているようです。飯島勲元秘書官の「身体検査」は凄い でも、中選挙区制の時は違いました。党の公認がほしければ自分で後援会をつくり、選挙資金をつくって無所属から這い上がらなければいけない。もし現職を落として当選したら、その後公認してやるっていうのが自民党の歴史だった。 議員一人ひとりが地域活動や選挙活動を一生懸命やって、這い上がっていくわけです。だから、地域の人も「あの人は頑張り屋さんだ」とか、「資金集めばかりをやっていて汚い人間だ」とか、「あいつは女にだらしないところがある」といった噂が自然と広がり、いつしか党本部の耳にも入る。叩き上げの候補者が公認を掴み取るというやり方だったからこそ、ごく自然な流れで「身体検査」ができていたわけです。 かつては派閥ごとに候補を育てていて、目が行き届いていました。小選挙区になり、公認の権限を党の執行部が握るようになると、派閥が弱体化し、チェックも甘くなる。そういったことが複合的に重なり、「身体検査」や候補者本人を見極める力が弱くなっていったわけです。飯島勲内閣官房参与(元首相秘書官)= 2014年4月14日、首相官邸(酒巻俊介撮影) 小泉(純一郎)総理を支えた飯島勲元秘書官は、情報収集やメディア戦略に長けていたことで知られています。まず第一に、飯島さんはエリート官僚だけでなく、現場で働くノンキャリアに対しても、分け隔てなく大事にしたからノンキャリアにもいっぱい人脈がある。キャリア官僚は政策に関しては優秀だけれど、「あの先生は自分の地元支援者から裏でお金をもらっている」といったブラック情報は必ずといっていいほど、子飼いのノンキャリアが仕入れてくるんです。 第二に、飯島さんは警察や公安調査庁とか、捜査能力のある役所にも強かった。 そして第三として、マスコミ、それも週刊誌やスポーツ紙にも強かった。普通は週刊誌の記者が議員会館を回っても「週刊誌は嫌いだ」とか、「すぐ悪口を書く」とか言って、国会議員や秘書官も相手にしないわけですね。でも飯島さんは、小泉さんが総理になる前から週刊誌の記者も事務所に招き入れ、一緒に酒を飲んだりして付き合いを深めていった。 ここ2、3年、安倍内閣のスキャンダルはほとんど週刊誌が発端だった。週刊誌はアングラな情報、男と女の話とか、噂の類といった情報には圧倒的に強い。こういった情報が飯島さんは自然に入ってくる人脈を築いていたんです。だから「身体検査」にも強かった。 いまの安倍首相の秘書官を飯島さんと比較すると、情報収集能力では明らかに劣っていますよね。安倍さんはどうしても大新聞社やテレビ局と付き合いがちになる。そうなると、なかなかアングラ情報は入ってこない。官邸の中で、週刊誌との付き合いがあるのは、官房長官の菅さんだけなんじゃないかな? そういう意味では、飯島さんは群を抜いて情報収集能力に長けた秘書官だったと思います。自民党の反撃 スキャンダルというのは、その時の政治状況によって全然変わってくるんです。政治家が同じスキャンダルを起こしても、辞める人と辞めない人がいるのはそのせいなんです。宮崎元議員は憲政史上初の不倫を理由に辞職した国会議員とか言われてますけど、彼がなぜ辞めなければならなかったのかは、安倍政権の施政方針をみれば一目瞭然です。安倍政権にとって女性の活躍は柱なんです。宮崎元議員は「イクメン議員」として注目されていたし、夏に国政選挙も控える中では「早く切った方がいい」という官邸の判断だったんでしょう。これは政権の危機管理であって、クビを切るべき時に切らずに広がれば、政権に大きなダメージを与える可能性もある。いまは週刊誌のスクープ合戦が続き、より危機意識を高める必要になったということでしょう。 今年に入り、甘利さんや宮崎元議員の問題が次々と表面化し、予算審議などへの影響もあって、自民党の国対(国会対策委員会)はとても苦労していた。そんなときに自民党は何をやったかというと、他党のスキャンダル探しをしていたんです。特に民主党のスキャンダル、金や女の話はないかって。でも、それは天に唾する話で、民主党のスキャンダルを見つけたところで、民主党はおとなしくなるかもしれないけど、世論は許さない。トータルで政治不信になって、自民と民主の支持率が落ちるのは間違いない。結局、表には出ませんでしたけどね。 乙武君の話に戻ると、彼は退路を断っていますし、いまも参院選にチャレンジしたいという気持ちを持っていると思う。だからこそ、色々批判はあると思うが、奥さんと共にコメントを発表した。 自民党は彼を最後の「目玉候補」と考えていた。ほぼ参院選の候補が決まり、4月に記者会見をするという流れをつくってきたのに、こんなことになってしまったから、目玉どころか彼が足を引っ張ってしまう「危険候補」として微妙な立場に変わってしまった。 乙武君だけ票が減るならいいけど、例えば東京選挙区から出馬するとして、同じ選挙区から中川雅治君が出ることが決まっていますから、二人の票の配分も変わってくる。どちらかが落選してしまうとか、乙武君の勝ち負けだけの問題では済まなくなるんです。 現時点では、乙武君の出馬が吉と出るか凶と出るのか、自民党にとっては難しい判断になるでしょうね。 参院選は、衆院選とは異なり選挙区が広いから、通常なら選挙の1年くらい前には候補者名を出さないと浸透しないのですが、彼の場合は知名度がありますから、出馬表明はギリギリでもいいわけです。当然、自民党は世論の動向を見極めながら決断するでしょうから、4月24日に行われる北海道補欠選挙の結果も考慮してから判断するのではないでしょうか。(聞き手/iRONNA編集部、川畑希望)すずき・てつお 1958年生まれ。早稲田大学法学部卒。ジャーナリスト。テレビ西日本報道部、フジテレビ報道センター政治部、日本BS放送報道局長などを経て、2013年6月からフリージャーナリストとして活動。20年以上にわたって永田町を取材し、与野党問わず豊富な人脈を持つ。テレビ、ラジオの報道番組でコメンテーターとしても活躍中

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    自民党の候補者ネット公募 スキャンダル探し大会の怖れ

     今夏の参議院選挙では自民党の選挙戦略に大きな狂いが生じている。最大の誤算は本誌が報じた参院選の目玉候補、SPEED・今井絵理子氏の「婚約者の逮捕歴」問題だ。婚約者が昨年3月、児童福祉法違反で那覇署に逮捕され、処分保留で不起訴になっていたのだ。さらには、前回の総選挙における公認候補・武藤貴也氏や宮崎謙介氏らのスキャンダルも登場している。 これから参院選の本番を迎えると、候補者のスキャンダルがさらにクローズアップされる可能性が高い。 それというのも、自民党は今回、若者にアピールする狙いで初めてネットで参院選の候補者を募集し、ネット投票で最終的な公認を決める「オープンエントリー」を実施しているからだ。 公募条件は「日本の将来と私」「自分のまわりの1億総活躍社会」のいずれかのテーマで原稿用紙わずか1枚の論文提出。すでに受け付けを締め切り、内部審査で党大会前日の3月12日にファイナリスト約10人が発表され、それからPR活動を行なって5月のネット投票で上位の者が正式に参院選の候補者となる予定だ。ネット選挙の専門家が危険性をこう指摘する。第83回自民党大会で参院選必勝祈願のバンザイを行う安倍晋三総裁(中央)ら=3月13日、東京都港区(撮影・春名中)「これまでの自民党の公募に応募するには、自民党関係者の紹介が必要だったから事前にどんな人物なのかある程度はわかった。しかし、今回のネットのオープンエントリーには紹介は必要ない。中にはどこの馬の骨かわからない人も入ってくる。これまで以上に候補者の人物チェックができない仕組みなわけです」 そしてネット上で起きる異常事態をこう予測する。「一番心配なのは、ファイナリストが発表された後、ネット上ではほぼ間違いなく“あの候補は以前、民主党の公募に応募していた”とか、“こんな発言をした”といった粗探しが盛り上がること。公選法の規制は受けないから書きたい放題になる。 自民党の内部選考段階の身体検査には限界があるから、ファイナリスト全員が炎上するような事態になれば、せっかくの試みが自民党候補のスキャンダル探し大会と化す恐れがあります」 衆院議長経験者の大ベテラン、自民党の伊吹文明氏は二階派の総会で、若手議員の教育について、「10万票をもらって国会に出てきた人に、新たに人間教育をしなければいけないなんて言い出したら、日本の恥だ」と嘆いてみせた。 それはその通りなのだが、そんな「日本の恥」の国会議員を生み出し続ける候補者選びの杜撰さ、ザルすぎる候補者の身体検査を自民党はまず恥じるべきではないのか。関連記事■ マスコミが報じない参院選・ネット選挙の真相に迫った1冊■ 宮崎、武藤氏ら2012年組が誤算 自民党候補者公募の問題点は■ 衆院落選議員 参院へ鞍替え図るのは借金苦から逃れる側面も■ 嶋大輔が参院選候補者に浮上で加速する自民党の「ヤンキー化」■ 7月参院選 自民尋常なる上げ潮で野党が消える日になるか

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    参院選出馬の今井絵理子氏 自民党は身体検査したのか

     7月の参議院選挙まで約半年あるにもかかわらず、早くも自民党の“目玉候補”として立候補を表明した今井絵理子氏(32)。人気音楽グループSPEEDのボーカルとして活躍する一方、聴覚障害のある長男(11)を持つシングルマザーとしても知られる彼女は、若い子育て世代を取り込む逸材として期待されている。 2月9日に自民党本部で開かれた出馬会見では、茂木敏充・選挙対策委員長が自ら「きょうは白い服で、『White Love』の通りではないか」とSPEEDのヒット曲に引っかけて彼女を紹介する異例の好待遇。そこで彼女は、「障害を持っている子供たち、そのお母さんたちが、より明るい希望を持てる社会作りをしたいなと思いました」 と出馬の理由を語り、「私は、政治は希望だと思います」と力強く表明した。第83回自民党大会で参院選候補者の今井絵理子氏(左)を握手で迎える安倍晋三総裁=3月13日、東京都港区(撮影・春名中) 甘利明・前経済再生相の辞任を皮切りに相次ぐ党内スキャンダルや失言連発で逆風が吹き始めた安倍自民にとって、今井氏の出馬は起死回生の一手といえよう。そんな今井氏は出馬直後、別の形でも騒がれた。「シングルマザー」という触れ込みの彼女には、実は交際相手がいたと複数の週刊誌で報じられたのである。そのお相手は俳優・徳重聡似の「イケメン」と評される、今井氏の地元・沖縄の同級生A氏だ。 沖縄県那覇市にある歓楽街、松山で飲食店のキャッチをしている男性に週刊誌を見せるとびっくり仰天。「あれ、Aじゃないですか。実物のほうがイケメンですけどね。顔がカッコいいだけじゃなくて、ゆっくりとした優しい口調で喋る人なんで、モテてました。今井絵理子と付き合って内地にいるとは知らなかったな」 A氏はこの界隈ではちょっとした有名人だったのである。というのも彼は、この地でほんの1年前まで、「風俗店」を経営していたからだ。同じ松山で飲食店を経営する古い友人が語る。「少女3人にみだらな行為をさせた」「Aは今井さんと同じ地元の学校を出てからLED電球を売る会社を立ち上げて社長になり、『俺はこのビッグビジネスの波に乗って儲ける』といっていたけどすぐ潰れた。それで風俗業界に詳しい人間と2人で数年前に松山で風俗店を始めたんです。店舗型のピンサロのような形態ですね。 その後、今井さんと同窓会で再会して、付き合いはじめたそう。今井さんはAが風俗店をしているのが嫌で、『自分と一緒に本土で暮らそう』といっていたらしく、頻繁に内地に行っては、働き先として福祉施設を紹介されたりしたらしい」 同じく松山でデリヘルを経営する彼の知人もいう。「Aに『地元の同窓会があるから、みんなで遊びに行く車が要る』といわれて、いつも女の子の送迎に使っているレンタカー屋で車を手配してあげたら、『今井絵理子が来ていて、親しくなってよくメールが来るんだ』と嬉しそうにいっていた。そのうちAは、『今井が内地に引っ越すようにいっている』というようになって、たびたび内地に行くのに渡航費を工面してやった。そのくせ、『今井に外車を買ってもらった』と自慢もしてきた(笑い)」「少女3人にみだらな行為をさせた」 しかし、今井氏と付き合って以降も、A氏は風俗店の経営から手を引くことはなかった。2015年3月、中学生を含む少女3人にみだらな行為をさせたとして、店員の男性と2人で風営法・児童福祉法違反の容疑で那覇署に逮捕されたのだ。当時の地元紙・沖縄タイムスにはこう報じられている。〈那覇市松山のテナントビルの一室で、14歳の女子中学生と16歳と17歳の無職少女2人を雇い、男性客相手にみだらな行為をさせた疑い〉 実際にその風俗店で働いていた元店員の男性は本誌の取材に、「中学生を雇っていたのは事実で、自分が逮捕されなかったのは本当に幸運だった」と振り返る。 釈放されたA氏は、ただちに風俗店を畳んだ。「今井さんがAを絶対連れて行くと強く決めたようで、昨年5月に沖縄から出て行く直前、Aが挨拶に来た。『これからはまじめになる』が最後の言葉だった」(前出・デリヘル経営者) A氏が「まじめ」になったなら何よりかもしれないが、それですべてチャラになったわけではない。彼は沖縄で風俗店のほかに、飲食店や貸金業にも手を出しており、そのために方々からカネを集めていた。その借金は、いまだに返されていない。前出の飲食店経営者は「裏切られた」と憤る。「貸金業でいいカモの客を握っているから、ガンガン儲かるといわれてAに100万円ほどを貸したところそのまま、内地に行って連絡先も変えてしまったから取り戻せない」 同じくデリヘル経営者もそれ以上の金額をA氏に提供したままだというが、彼の場合、「Aは優しすぎて失敗を重ねただけで、嫌いにはなれない」と同情的である。なるほど、人からモテる才能があることだけは間違いない。 東京に住む今井氏を訪ね、子供が出かけたことを確認してからインターフォン越しに話を聞いた。 ──Aさんが昨年3月に逮捕されたとの情報がある。「すみません。プライベートなことなので、事務所のほうに確認していただいて」──知っていたのか?「(しばらく沈黙の後)事務所に聞いてもらえますか?」 その後、今井氏の所属事務所から回答があった。「今井に確認したところ、『経営を譲渡した店で事件が起こったが、本人は不起訴になったと聞いています。それ以上の詳しいことは判らないです』とのことでした。また、本人のプライベートな問題については、回答を控えさせて頂きます」 沖縄にある今井氏の実家に住む父親は、「本人からAさんとの話は聞いている」というが、逮捕の過去については「えっ!? 初めて聞きました」と驚きを隠さず、記者に詳細を尋ねた。動揺した様子だったが、最後には「本人たちの問題でしょう」と述べていた。 もちろん、A氏と今井氏が「まじめ」に交際すること自体を否定するつもりはない。だが、今井氏が「シングルマザー」として子育て世代からの集票を見込んで出馬する以上、中学生を風俗店で働かせていたA氏の過去が、影響を与える可能性は高い。 そもそも自民党は、この“目玉候補”の交際関係について、しっかり「身体検査」(過去の発言や周辺関係も含めたスキャンダルなどの調査)をしたのだろうか。スキャンダル続出でイメージ回復に躍起になり、「SPEED出馬」させたのが裏目に出ているのかもしれない。関連記事■ 今井雅之さん 親友・中居のカラオケ中、トイレに逃げたことも■ 今井絵理子氏 逮捕された恋人のビジネス現場を訪れていた■ 自民候補・今井絵理子の恋人に児童福祉法違反で逮捕歴報道■ 松井秀喜氏の今年の抱負は「進」 バイクにまたがる姿も披露■ 今井雅之「どうしても出たい」と中居正広と最後の共演果たす

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    出版不況、書店業界を救う手立てはないのだろうか

    酒井威津善(フィナンシャル・ノート代表 ビジネスモデルアナリスト) 先日、都内近郊に10店舗展開する芳林堂が自己破産した。2月5日に自主廃業した出版取次老舗の大洋社自主廃業による影響が大きいとのことだ。昨年起きた出版取次4位の栗田出版倒産など、数年前から出版関連企業が次々と閉鎖や廃業に追い込まれている。出版・書店業界はこのまま手を拱くしかないのだろうか?気がつけば街中から消えてしまった米屋や八百屋、酒屋と同じ運命をたどるしかないのだろうか?出版市場の現状 改めて確認すると、出版不況の文字通り、書店、出版社、取次など出版関連企業は極めて厳しい状況に置かれている。出版科学研究所によると、書籍の流通量を示す2015年の出版販売額は、1兆6,000億円を割り込み、前年比5.3%の減の1兆5,220億円にまで減少。1950年に調査開始以来、過去最大の落落ち込みとなっている。 現在の出版不況を引き起こしている原因や背景には、ネット通販や電子書籍の普及、活字離れ、人口減少(特に地方)などあると言われており、さらには、出版業界特有の慣習(再販価格維持制度や取次によるパターン配送など)が、その本来持っていた機能が裏目になりつつあり、結果刃が逆になって持ち主を傷つけ始めている背景もある。 こうした状況に対して、できるだけ短期的に改善する策はないのだろうか?出版不況を招く原因のうち、活字離れや人口減少、および業界慣習については残念ながら今すぐどうにかできそうにないが、顧客との接点がある書店に絞って何がしか手がないか考えてみたい。 ネットへのシフトという点で、同じような状況に追い込まれている業界がある。CD不況と言われ、窮地に立たされている音楽業界である。CDは、ネット配信や動画再生サイトにとって替わられ、日本レコード協会の統計情報によると、CD全体(シングル、アルバムの合計)は、2006年の2億9020万枚をピークに、昨年2015年では1億6783万枚と約42%も落としている。 音楽業界が取った対策は、動画サイトに専用のチャンネルを作り、そこへファンを集め、ライブへと誘導することだった。一般社団法人コンサート・プロモーターズ協会によると、2014年での公園回数は27,581回(前年比125.5%)、動員数は4261万人(同109.7%)となり、一定程度成果をあげている。 CDと同じ情報媒体である書籍も似たような手立ては考えられるだろうか?残念ながら、否である。書籍は音楽と違い、直接アーティストの歌声を聴きたいといった副次的な欲求対象がない。あえて言うなら、映画化やテレビのドラマ化があるが、それでは書籍流通の世界を出てしまうからだ。 音楽業界での取り組みが成果を上げているのは、動画サイトで繰り返し見たユーザーが、「臨場感のあるライブで歌声を聴きたい」「他の曲も聞いてみたい」という気持ちを抱かせることができたからに他ならない。つまり、顧客がその商品と触れる時間を大きく増やしたことに要因がある。 音楽と同様の手法は取れないにしても、書籍について顧客との接触時間を増やす手立てはないのだろうか?例えば、すでに存在するケースでは、カフェなどを書店に併設する仕組みがある。事例として蔦屋書店の代官山店が有名だ。リアル書店ならではの「強み」 書籍スペースを中心にして、周辺に飲食店やグッズ販売店を置き、店舗エリア全体でエンターテイメント性を打ち出す。顧客は、カフェスペースでコーヒーを飲みながら購入した本を読むことができる価値を提供し、本との接触時間を増やすことに成功している。 しかし、この方法には大きな問題がある。カフェやその他施設を併設するための資金だ。ツタヤのような大企業ならいざしらず、地方都市にあるような小さな書店では到底マネできない。書店単体で接触時間を伸ばす方法を考えなければならない。本との接触時間にはやはり、取り扱いタイトルを増やすしかないだろう。 もちろん、単純にタイトル数を増やすことはできない。営業面積は限られている。そこで、既存の店舗のまま取り扱いタイトルを増やす方法として、在庫保管用に使われているスペースを再利用できないだろうか。 例えば、書店のショールーミング化はどうだろうか?これはファッションの世界でゾゾタウンが試みたケースが有名だ。店舗に見本の服を置き、試着して気に入った顧客がWEBサイトで購入するという仕組みだった。驚きの方法だったが、インストアの売上に対して家賃などを課金している百貨店サイドからの抵抗に合い、うまく進んでいない。もちろん、書店でもエキナカや百貨店といったインストアの場合は難しいが、店舗として独立しているのであれば、そのような縛りはない。 書店でのイメージはこうだ。タイトルごとに1冊だけ見本としておいておき、立ち読みし、購入したいと思った顧客が、その見本をレジへ持っていく。レジでは、ISBNコードなどを利用して、購入者の自宅へ配送する。受け取りはネット通販同様に自宅でもコンビニでも選べるようにしておくといった流れだ。この仕組みによって得られるメリットは、在庫を削減した分だけ取り扱いタイトルが増やせるほか、出版社への在庫返品の手間が減ることなどもメリットとして考えられる。 しかしながら、この方法も現実的ではない。リアルの書籍ならではの「購入後すぐ読める」という価値を失うほか、「特定の書籍をアピールする平積み」ができない。さらには立ち読みしたあと、そのままスマホ経由で購入されてしまい、ネット通販の売上に自殺点を入れてしまう格好になる恐れも想像できるからだ。リアル書店ならではの「強み」 ここまで、本と似た性質を持つ音楽業界からのヒントや、カフェなどの併設、さらには在庫スペースを利用した取り扱いタイトルの増加などを洗い出してみたが、どれも現実的には難しい。 とはいえ、電子書籍との比較にはなるが「現物としての書籍」特有の価値は間違いなくあるはずである。それは「紙であること」だ。当たり前だが、ネット通販で扱われる書籍は手に取ることができない。数ページを読むことができる「立ち読み機能」が付いているときもあるが、書店でパラパラとめくるほうが、現時点では使い勝手が良いのは紛れもない事実だ。 またネット通販には、中身の確認を補完するためにカスタマーレビューもあるが、一時期問題として巷を賑わしたように、ステルスマーケティング(ステマ)による賛同レビューはいまだ散見され、全幅の信頼がおけない状況もまだ完全に解消されていない。紙ならでは強みがあるのは、現にアマゾンがリアル店舗を出していることもその証左だ。 残念ながらこうした強みを活かした手段はまだ見いだせていない。しかし、無類の本好きの一人として、これ以上書店が減り続けるニュースは聞くに堪えない。微力ながら引き続き打開策を模索していきたい。参考記事【就活で銀行を選ぶな!】 銀行のビジネスモデルが終焉を迎える日 (酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47617542-20160125.htmlワタミが劇的な復活を遂げる可能性が低い理由 (酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47314916-20151224.htmlネットフリックスに見るビジネスの視点(酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47055631-20151129.htmlモノを売らずに、「センス」を売る新しいビジネスとは(酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/44389389-20150422.htmlユニクロがゾゾタウンを買収すべき理由。(中嶋よしふみ SCOL編集長)http://sharescafe.net/46947284-20151119.html

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    週刊文春に負けっぱなしの大メディア

    ベッキーの「禁断愛」に始まり、甘利大臣秘書の口利き疑惑、イクメン議員の不倫、そして最新号はショーンKの学歴詐称疑惑…。今年に入り、世間に衝撃を与えるスクープを飛ばしまくる『週刊文春』。新聞、テレビも後追いばかりの「文春砲」は流行語になりつつある。なぜ文春だけが「一人勝ち」するのか。

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    狂牛病化するメディア

    新井克弥(関東学院大学文学部教授) メディア(マスメディア)の劣化が酷い。いうならば狂牛病(狂メディア病?)=中身スカスカ状態だ。まあ、その原因はいくつかあるだろうが、インターネットの普及がその最たる要因であることは異論を挟まないだろう。ネット社会の出現によって、これまで普及していた諸メディアのコンテンツや機能が、ネットに奪われ、にっちもさっちもいかなくなっている。もはや一般人は新聞を読もうという気も、雑誌を買おうとする気も、ラジオを聴こうとする気も、テレビを見ようとする気も、どんどんと失せている。これらに積極的にアクセスするのは、インターネットリテラシーの低い高齢者だけだ。そこで、いわば「オールドメディア」は、苦し紛れに、こういった安定した視聴者、読者、リスナー層を確保し続けようと、コンテンツをどんどん高齢者向けにしていく。ただし、高齢者がいかに見続けてくれても、この世から真っ先に去って行く世代。そして、この高齢者層でさえも次第にインターネットリテラシーをそれなりに上げていく。だから、こんな「悪あがき」をやっていってもオールドメディアはジリ貧であることに変わりはない。 そして、このジリ貧が現在負のスパイラルを展開する要因にもなっている。客が取れないから実入りが減る→制作予算が低下する→制作費や給与が引き下げられる→優秀な人材がネット産業などに流れる→コンテンツの質の低下を招く→さらに客が取れないから実入りが減る→高齢者に依存する→尻すぼみになるといった具合に、とんでもない悪循環が続いているのだ。 で、ここで特に注目したいのがコンテンツの質の低下だ。もがくあまり、単なるスキャンダリズム、つまりイエロージャーナリズムや、第三者、もっというと素人による情報の流用という手段に出ていくのだ。で、とにかく儲かりゃ何でもやるというのが、今のメディアの図式なのだ。そして、ここにもネットの陰がちらつく。 至近の例を見てみよう。その1:甘利明内閣府特命担当大臣の辞任URへの口利き疑惑によって甘利は大臣辞任に追い込まれる。この授受が存在したこと自体は事実なのだが、問題は、この事実がスッパ抜かれるタイミングだ。金銭の授受があったのは2013年のこと。それを文春が報道したのが今年の一月。これはメディアがよくやる手で、こういったスキャンダルネタを寝かしておいて、大臣になった瞬間報道する。このほうが明らかに注目度が高い。言い換えれば、注目を浴びるのでオイシイからだ。大臣になった瞬間、政治資金不正疑惑が出るのは、こういったイエロージャーナリズム的な心性に基づいている。大臣になって権力を獲得したから、突然「悪代官」に豹変したわけではない。で、今回文春が、これ以上に悪辣なのが、すっぱ抜きがTPPの最中であったことだ。ご存じのように甘利はTPP旗振りの重要人物。ここで、甘利を引きずり下ろしたら、当然、TPPに大きな影響が出ることは確実(代わりが石原伸晃なら、なおさらか?)。これが、かつてのジャーナリズムだったら、さすがにこのへんは空気を読んでいたはずだ。つまり、TPPが一段落つくまでは報道を控える。いいかえれば、そんな余裕すらないほど、メディアは切羽詰まって自己中になっているということなんだろう。つまりメディアの劣化。そしてメディアは狂牛病化するその2:ベッキー問題 これは、他のところでも指摘されていることだが、この報道のアブナイところが全くスルーされている。言うまでもなくベッキーとゲス極の川谷絵音のトークが漏れていることだ(LINE開始当初のイメージキャラクターがベッキーだったのは、なんとも皮肉)。あたりまえの話だが、LINEのトーク内容を外部の人間が第三者が閲覧することは原則不可能だ。可能だとすればパスワード(ディバイス(スマホ、タブレット、PC等)のものと、LINEのもの)を知っている必要がある。どうして、そんなモノをスッパ抜いた文春が知っているのか?可能性としてウワサされているのが、川谷妻が文春にリークしたというものだが(まあ、可能性としてはいちばん、考えられる)、だとすれば、これはほとんどリベンジポルノと同じ構造になってしまう。しかもその場合、片棒を担ぐのが文春という図式になる。そしてプライバシーの侵害。倫理もへったくれもないわけで、やはりこれまたメディアの劣化。その3:SMAP問題 これはすでに以前、ブログに書いたこと(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/65983320.html)なので簡潔に説明しておくが、要するにメディアはSMAPを窮地に陥れたメリー喜多川をほとんど非難しなかった。理由は簡単で、ジャニーズの実質女王であり、メディア(とりわけテレビ)に絶大なる威力を持つ喜多川を攻撃したら、ジャニーズから恩恵を受け入れられなくなってしまうと恐れたからだ。カネのためなら権力にも平気で媚びるというジャーナリズムの風上にも置けないことを平気でやる。つまり「強きをくじき弱気を助く」の逆の図式。これまたメディアの劣化。その4:ネット依存Aーネット住民への無警戒 予算の低下、人材の質の低下が招いたのがメディアによるネット依存だ。一般人がアップした情報を取り上げ、これをメディアに掲載する。かつてコンビニの冷蔵庫にバイトが潜り込んだ事件やペヤングソース焼きそばやマックのハンバーガーへの異物混入などはその典型。これは摘発というものでもなく、個人が気がついてアップしたもの。かつてなら表に出ることはなかったものだ。これ自体は、まあ問題と言えば問題だが、結局これを拡散するのはメディアなのだ。そしてペヤングやマックいじめが始まる。 オリンピックのエンブレム問題も同様だ。この時、エンブレム自体は疑惑があったとしても証拠はない。これをネット住民(この場合、騒ぎたい一部の人間のことだが)が、一斉に非難を浴びせる。そして、これをメディアが拡散する。ネット上で収まっていれば大したことにはならないのだが、メディアは要するにマスメディア。不特定多数にプッシュ的に拡散するシステムを持つ。これによって、問題は一大事となる。この時、いわば魔女裁判+公開処刑が始まるのだ。結局、何の証拠もない状態で佐野研二郎のエンブレムは使用禁止になった。もし、仮にこのエンブレムが使えるモノか使えないモノかをメディアが議論するなら、エンブレム疑惑を騒ぐネット住民の片棒を担ぐのではなく、自らの足と頭を使って、確固たる証拠を示すべきなのだ。ところが、そんなことはやららない。カネはないし、頭もないし、時間もないから。 そして、その際に専らネタとして引用されるのがソーシャルメディア、とりわけ匿名によるモノだ。これらのほとんどは根拠に乏しい。匿名だから何書いても原則オッケーだからだ。そして、これについてもメディアは言質を採らず、スキャンダリズム、イエロージャーナリズムに基づいて、これを大々的に取り上げてしまう。つまり、メディアの劣化。 ちなみに天に唾するようだがBLOGOSなどのブログとりまとめサイトのエントリーをそのまま引用したりするのも、この「省エネ」「横流し」の典型的な手法の1つだ。ちなみに、ぼくが「天に唾する」と言ったのは、このブログをメディアがチェックして、僕にコメントを求めてきたりすることを指している。まあ、ブロガーのブログを引用したり、ブロガーにコメントや執筆を求めてきたりするのはよいけれど、その前に自ら勉強して、こちらからは「参考意見を聞く」ぐらいのことはやってほしい。ヘタすると丸ごと掲載したり、こっちの説明を全面的に採用するなんて輩も存在するのだ(そのまた逆で、自分が初めから表現したいことがあり、それに適合することをブロガーにたずねてくるなんてパターンもある。これもジャーナリズムからはほど遠いところにある営為と言えるだろう)。 そういえば、コメントを求めてきた局スタッフや記者に、思わず説教を垂れたなんてこともあったっけな?こんなことをやる僕を「ウルサイオヤジ」くらいに一蹴するパワーがあれば、まだいいのだけれど、素直に聞いてこっちが言ったことをそのまま掲載したり、何を言っているのかわからないらしく、困った顔をして目を白黒させたり。その5:ネット依存Bーネットコンテンツのコピペ ネットからのコピペも非常に多い。典型的なパターンがTVによるYouTubeの動画からの流用だ。この中から面白そうな、いや、閲覧数の多い動画(「面白い」の基準がわかっていないので、専ら閲覧数に頼っている?)をそのままコンテンツにしてしまうのだ。これを十数本程度取り上げ、スタジオ(会場)にひな壇を設けてタレントをならべ、適当にコメントさせれば、廉価、省エネ、簡単企画な、お手軽90分スペシャルの一丁上がりとなる。つまり、何の工夫もやっていない。コンテンツをネットに丸投げしているだけ。ただし、YouTubeをよく閲覧するネットユーザーは、その多くをすでにチェック済みなので、原則、こう言ったコンテンツはスルーする。そう、やっぱりメディアの劣化。そしてメディアは狂牛病化する なんでこんなことになるんだろうか? 実はこれ、構造的な問題だろうと、僕は踏んでいる。メディアに従事する人間は実のところ、こういうふうにとんでもないことをやっていることに気づいていない。「周りがあたりまえのようにやっているから、自分もやっているだけ」。経費が削られて仕事に忙殺させられるようになったのだろうか?仕事の処理、仕事をこなすことだけに追われる状況に追い込まれたメディア関係者は思考を停止させる。そして気がつけばカネの隷となっている。つまり経済原理がプライオリティーファーストとなってコンテンツ作りを推進するようになっている こうなると収益の悪化→ネット依存→コンテンツの劣化という負のスパイラルは無限の連鎖を発生させ、気がつけばマスメディアというシステムの脳はスカスカのスポンジ状に、つまり狂牛病ならぬ「狂メディア病」化するかもしれない。というか、そういった事態はとっくに始まっていると考えるべきなんだろうが。つまり既製の使い古された形式に情報を流し込むだけの作業がひたすら続く。 おそらく、というか、ほぼ確実にこれらオールドメディアはネットというニューメディア=ブラックホールに吸い込まれていくのだろう。いいかえればスカスカになった脳が今度はそのセル=形式それ自体も崩壊させていく……その日はそんなに遠くないと、僕は読んでいる。(ブログ「勝手にメディア社会論」より2016年2月15日分を転載)

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    巨人・高木京介の球団会見の裏に駆け引きと御用メディアの存在

    プ記事が出る前に当事者側が発表して、本が出る頃にはインパクトが薄れてしまうことはよくある。これは、他メディアでの報道のされ方にも関わってくるからだ。スポーツ紙記者が語る。 「文春の発売日は木曜日ですが、前日の水曜日には“早刷り”がマスコミに出回ります。これを入手した後の会見だと我々は『文春の報道で』と書かざるを得ない。しかし火曜の夜であれば“自発的に”発表したものだから、文春が~と書く必要性は最小限になる」 しかも球団の会見が行なわれた夜7時頃は文春側にとって校了(記事を仕上げて印刷所に入れること)ギリギリのタイミングだった。前出・スポーツ紙記者が語る。 「高木の賭博関与について文春が巨人側に取材をし、回答(*注)があって約8時間後に巨人が会見することがわかった。文春側もこのタイミングで会見されるとは思っていなかったはず」【*注:その回答は「現在、調査中であり、事実関係が確定できていないため、球団所属選手の氏名等は慎重に扱うようお願いします」というものだった】 その結果、週刊誌に先んじて新聞・テレビは大きく報じ、雑誌発売前に一連のニュースが消費し尽くされることになった。 もちろん巨人とすれば、調査をした結果、事実が判明し、責任者の処分を含めていち早く発表するため、この日の会見となったとの立場だろうが、週刊誌に追及されてやむなく事実を認めたのではなく、自浄作用が働いたという印象を強めるため、タイミングをはかったとも見れる。一般読者(視聴者)には、ニュースの裏でこのような駆け引きと、それと知りつつ利用される御用メディアがあることを知ってほしい。関連記事■ 「江夏の21球」や「巨人はロッテより弱い」発言の真相描く書■ 解任騒動の元巨人・清武英利氏が野球への思い綴った本が登場■ 清武氏 日本S直前の会見は渡辺氏に指示撤回してもらうため■ 巨人OB・広岡達朗氏 高橋由伸監督擁立に「軽率で言語道断」■ 内川、多田野、一場、長野…2000年代ドラフトの事件振り返り

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    週刊文春パクリのニュースが急増!フジもテレ朝も…テレビは大丈夫?

    ュースを見た時に私が思った疑問は「フジテレビは独自にウラを取ったのだろうか? もし取ってなければ他のメディアのパクリではないか?」というものだった。宮崎議員の「不倫」の事実についてウラを取った、というのであれば、他のメディアを引用せずに「宮埼議員が不倫していたことがFNNの取材でわかりました」と堂々とニュースにすればいい。それをやらなかったのは本当に自社でウラを取ったのかどうかあやしい。 想像するにフジテレビ報道局としては、ニュース原稿の「宮崎議員は周辺に対して女性との不適切な関係を認めているということです」が、自分の社で取材した内容でウラを取ったのだ、というかもしれない。しかし「周辺」という不明確な表現は「関係者」というのと同じで、一般的にかなり根拠としては薄弱なものである。「党の幹部」でも「派閥の幹部」でもない。これはテレビニュースの原稿の書き方としても根拠を明言できない、かなりいい加減な部類の原稿の書き方だということができる。 フジテレビはこの「FNNスピーク」の他にも朝の「めざましテレビ」のニュースコーナー、夕方の「みんなのニュース」、深夜の「あしたのニュース」とニュースのたびに同様のニュースを繰り返した。直撃したというだけの取材で「スクープ」 夕方の「みんなのニュース」では、もっともテレビ各社がしのぎを削る18時少し前の時間帯で放送した。 しかもこの時の見出しは、 フジ「みんなのニュース」タイトル「妻への裏切り…スクープ直撃 “育休議員”タレントと不倫報道」(2月9日) となっている。他のメディアの記事を元に議員を直撃したというだけの取材で「スクープ」という言葉を入れてしまうところがフジらしい。軽いというのか、謙虚さを知らないというのか・・・。 しかもお昼では不倫の内容については「スポーツニッポン」を引用していたのに、夕方以降はネットに公表された「週刊文春WEB」の内容を引用している。「みんなのニュース」のニュース原稿では、「週刊文春WEB」の「育休国会議員の“ゲス不倫” お相手は女性タレント」という文字をアップで映し、その見出しを原稿で読み上げ、「明日発売の週刊文春が報じた“衝撃の見出し”。臨月を迎えた妻がいるにもかかわらず、他の女性と密会。不倫疑惑が浮上しました」と続けた。「相手は34歳の女性タレントで宮崎議員は周辺に対してこの女性との不適切な関係を認めているといいます」。フジは宮崎議員、金子議員の夫婦を出産前に密着取材した映像を持っていて、その映像をふんだんに使っていた。宮崎議員が2月2日に育児セット一式をアカチャンホンポで買ってきた後で妻の金子議員に見せる場面や宮崎議員が台所で料理して横になる妻に渡す場面も映し出された。相手の女性タレントが身長168センチだということ(週刊誌の記事に書いてあった事実)などを加えた他、金子議員の出産直後に赤ん坊との対面を果たした後の宮崎議員の喜びの声など、フジテレビだけしか持っていない映像をこれでもかというほど見せつけた。 ただ、この段階では本人が公式に認めていないので「不倫疑惑」でしかない。それを週刊誌の記事に依拠した形では「ウラ取り」した、といえる状態での報道だったのだろうか。NHK、日テレを始めとする他のテレビ局は週刊誌などの報道があるという状態だけでは「ウラが取れていない」という判断をしたのだろう。結果的に報道したのは本人が記者会見で事実を認めて辞職を表明した3日後だった。 2月12日(金)、宮崎議員本人が記者会見して不倫の事実を認めて謝罪して、議員辞職を表明した。 結果として、フジテレビの報道は間違っていなかったことが証明されたわけだが、だからといってこれで良し、としていいわけではない。 今回のフジテレビの報道、そして他人の威を借りたような「スクープ」と表明するはしゃぎっぷりに「危うさ」を感じてしまった。 「ウラを取る」。 その基本を忘れるといつか足元をすくわれる。そんな印象を持った育休議員の不倫報道の「ニュース」だった。 「ウラを取る」のが原則のテレビニュースで「週刊誌をなぞっただけの報道」が最近、目立つ。週刊誌のパクリ報道をテレビがやってしまっている。自社で事実関係をウラ取りが十分できていない段階で報道しているケースはフジテレビだけではない。 フジテレビは情報の引用先を明示しているだけにまだマシともいえる。記者集団のプライドはどこへ テレビ朝日はもっとひどい。 きちんと明示しないままで引用しているのだ。 甘利明・経済再生TPP担当大臣(当時)の「政治とカネ」での実名告発を、まだ甘利大臣本人が謝罪辞任会見を行う1月28日の前にテレビ朝日「報道ステーション」は頻繁に週刊文春の記事をなぞりながら、報道した(1月20、21、25、26日放送)。特に1月20日の「報道ステーション」は、「あす発売の週刊誌 『甘利明大臣事務所に賄賂1200万円を渡した』」と字幕で説明し、ナレーションで「千葉県白井市にある建設会社の総務担当者が実米で告発。甘利大臣本人や事務所秘書が口利きのお礼として多額のカネを受け取ったという内容だ。一部の資金提供は甘利氏の収支報告書に載っていないという」と報道した。明らかに週刊文春の報道内容をくわしく引用しているのに週刊文春という表現はいっさいなかった。 後追い取材であってもテレビでくわしく伝えようとした意気込みはわかるものの、情報の出どころを隠しているのであれば、世間でいうところのパクリであることは間違いない。 テレ朝は、週刊文春の許可なく無断で引用したらしい。 また翌1月21日も週刊文春とは表記せず、「週刊誌」とだけ表現して同じ内容を報道した。 このことで週刊文春はテレビ朝日に対して抗議している。  「週刊文春WEB」にはその文章が掲載されている。 「週刊文春」が甘利大臣報道で「報ステ」に抗議「週刊文春」編集部は、1月20日・21日の甘利明大臣に関する放送に対し、22日、「報道ステーション」に抗議文を送った。「報道ステーション」では、1月20日、発売前の「週刊文春」記事「TPP立役者に重大疑惑 甘利明大臣事務所に賄賂1200万円を渡した」の内容を許可なく使用し報道。「週刊文春」記事である旨のクレジット、ナレーションは一切なかった。同日、NHKや民放各局も同内容を報じたが、番組内で表紙、記事を写した上で、クレジットの表記、ナレーションで明示していた。さらに1月21日には、番組トップで約15分にわたり、「週刊文春」記事を基にした甘利大臣の疑惑を詳細に報じたが、放送中、一度も「週刊文春」と明示することなく、「週刊誌」とだけ報じた。著作権法上、報道目的のための「引用」であれば許可は必要ないが、引用先を明示することが著作権法第48条に定められている。また、報道に携わる者の倫理として、視聴者に正確な情報を伝えるという観点からも、引用先を明示することが求められる。放送を受け、「週刊文春」編集部は、番組責任者の秦聖浩氏あてに抗議文を送り、謝罪と再発防止などを求めた。「週刊文春」編集部は、今後も甘利大臣に関する疑惑報道が予想されることから、1月26日午後5時までに回答を求めている。出典:週刊文春WEB テレビ朝日「報道ステーション」では、告発した建設会社の総務担当者・一色武氏の自宅をレポーターがたびたび訪問したものの、自宅には不在が続き、肝心の疑惑部分については週刊誌記事をなぞっただけの報道を繰り返した。 それにしても、フジテレビににしてもテレビ朝日にしても、「自分でウラを取る」というのが原則のはずのニュース報道の現場で、週刊誌記事をパクって、「ニュース番組」の中の「ニュース」を作っていく。しかもテレ朝などは引用先を明示せずに・・・ これは一体どうしたことだろう? 自分たちが「事実」を追い求める報道の仕事をする記者集団だというプライドも何もあったものではない。 世の中にはテレビなんかしょせんはそんなものだろうと想像している人が多いかもしれないが、実はかつてはこんな状態ではなかった。 テレビ局の中でも情報局などのセクションが管轄し、ゲリラ部隊として時に強引な取材も厭わないワイドショーならばそういう放送が多かった時代もあるが、そうした時代でも放送局の中の正規軍である報道局が管轄する「ニュース」では「ウラを取らないニュース」なんてありえなかった。 ところが最近は、正規軍であるはずの「ニュース」の中に、週刊誌情報まる写しの原稿が登場する。 これはネットニュースにウラを取っていないニュース原稿が蔓延しているせいなのか、「ウラを取る」のが習い性だったテレビも、現場では「ウラを取らない」場合も出てきた、ということなのだろうか。 だとしたら、これはとても危険な兆候だ。 今回は、甘利大臣も金銭の受け取りなどの事実を認めた上で辞任。 宮崎議員も不倫の事実を認めた上で辞職。 結果オーライという幕引きになった。 それでも「自分でウラを取らない」という報道のあり方は本来のものではない。 過去にはテレビ局が週刊誌など他メディアの報道等を信用し、自分でウラ取りを十分にせずに突っ走った結果、苦汁をなめることになった例がある。 1980年代の「ロス疑惑」をめぐる三浦和義氏をめぐるワイドショーの報道が典型だが、裁判の結果、多くのテレビ局の番組が名誉毀損の責任を問われることになった。 今回のケースを結果オーライで終わらせてはならない。 「自社でウラを取る」という原則。 これをないがしろにすると、また誤報や人権侵害などを引き起こしかねない。 テレビ局のデスクらは記者たちに問いただしてほしい。 「ウラは取ったのか?」と。(Yahoo!ニュース個人より2016年2月19日分を転載)

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    「ベッキー」スキャンダル報道、本当にこれでよいのか?

    それがそのまま公開されたらとんでもないことになりかねない発言をしているものだが、これまではそれが公のメディアに載るという場合には、記者や編集者によるある種の判断のふるいにかけられた。今回の『週刊文春』も、LINE上のやりとりを誌面にどの範囲でどう出すか、検討はしたに違いない。そして、今回の場合はプライバシーが流出したからといってベッキーや川谷が法的手段に訴えるといった状況になる可能性はほとんどないと判断したのだろう。慄然とする「私的会話がそのまま公開」 ここで思い出されるのは、1980年代半ばに写真週刊誌が大ブームになって、毎週のようにタレントのプライバシーがさらされていた時代、読者はそれを眺めて拍手を送っていたのだが、時代を経て次第にそのことに眉をひそめるようになっていったという歴史的経緯だ。30年前は読者が他人事として面白がって見ていたものが、そのうちにこんなふうにプライバシーが侵害されるのを許しているとそれがいつか自分の身にもふりかかりはしないかと、もう一方の側にも身を置いて考えるようになった。30年の歴史を経たその経過を私はある種の市民社会の成熟だと捉えているのだが、それにならって言うと、今回のLINE流出を市民が面白がって眺めていてよいのかと思わざるをえないのだ。 たぶん今回は、ひどい目にあった妻に同情するという市民感情が加わったために、そこまでやって復讐するのかという疑問が薄められてしまったのだろう。でも、よく考えてみれば、携帯でやりとりした私的会話がそのままこんなふうに公開されるということ自体、慄然とする事柄ではないだろうか。 ではそういう方法はどういう状況なら許され、どういう場合は許されないかというと、ジャーナリズムの世界では、その目的が権力者の不正を暴くといったものならOK、そうでない場合はまずい、という線引きがなされている。その意味では、『週刊文春』が最近放った甘利大臣スキャンダルの場合は、昨年10月から尾行や盗撮といった方法で取材を行っていたけれど、それは巨悪を暴くためとして当然容認される。しかし、ベッキースキャンダルの場合は、少し違う。何をやっても報道目的を考えれば容認されるというケースではないわけだ。 だからこのベッキースキャンダルにおけるLINE暴露については、もう少し異論が出され、議論が行われてしかるべきだと思う。なぜそれが見逃されてしまうかというと、ネット社会が拡大する過程で、プライベートと公の区別が曖昧になりつつあるからだろう。 本当はこのベッキースキャンダル報道をめぐっては、考えてみなければいけないいろいろな問題が提起されているように思える。現実には、なかなかそういう議論がなされないのが残念だ。 それからもうひとつ、芸能人のスキャンダルを報じるにあたって、週刊誌やワイドショーが、不倫問題となると、異様にいきりたち、正義や倫理を振りかざしてこれでよいのかという論調を張るのも、どうにも違和感を感じる。プライバシーに踏み込む危ない報道をする場合にも、「不倫はいけない」と声高に非難する「茶の間の倫理」がふりかざされることで全て正当化されような雰囲気になってしまう。ワイドショーは主な視聴者層が主婦だから、最後は「茶の間の倫理」を落としどころにしないといけないというのは業界でよく言われることだが、今回のスキャンダル報道にもそういう匂いを感じざるをえない。(Yahoo!個人 2016年2月5日分を転載)

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    「日経記者はAV女優だった!」 私が受けた文春砲の洗礼

    鈴木涼美(社会学者) 週刊誌的洗礼、というのがあって、誰しも初めてはなかなか度肝を抜かれる。それは、それなりに慎重でそれなりに脇の甘い、フツウの一般社会人が「そんなことはさすがにしないであろう」とごくフツウの感覚で考えることをいとも簡単に飛び越え、少しでも見えた脇の甘さからこぼれ出るものを、サラッと攫っていく根性にある。(瀧誠四郎撮影) 以前、週刊文春出身の勝谷誠彦氏が週刊朝日の橋下徹氏に関する記事に対する意見を求められ「週刊誌記者としての訓練」という言葉を使っておられた。要は新聞記者になくて、週刊誌記者にあるものについて示唆していたのだと思うのだが、当時、大手新聞社記者というある意味では温室育ちの立場にあった私は、何故か甚くその言葉に感化され、それは一体何であるのか考えた。 当時の私のぬるい脳みそでは、危険なこともちょっと飛ばして書くくらいの度胸や、危険すれすれを見極める眼力くらいにしか想像力が及ばなかったが、今から再考するに、おそらくそれは一部に、或いは多くに嫌われることへの尋常ではない腹積もりなのではないかと思っている。これ、別に罵詈雑言めいた記事を書いて公人に嫌われるとか、書かないで欲しいプライベートに踏み込んで芸能人に嫌われるとかいうことだけじゃなく。 私が自分の身体をもって週刊誌的洗礼を受けたといえば、新聞社を退社した直後、週刊文春に「日経新聞記者はAV女優だった!」との見出しで経歴を書かれた時であろうか。私は雑誌発売のつい数日前に(というかもう明日校了です、という状態の時に)、同誌編集者と記者から直接電話がかかってきて、逃げ惑うに逃げられず取材を受けたのだが、当時はその強引な取材方法に、品のいい新聞記者としてはちょっと驚きもした。 まず、文春の文芸誌にいる付き合いのある編集者から、「文藝春秋」誌の編集に連絡先を教えていいか、という連絡があり(後で分かったのだが、その編集者さん自体もちょっとハメられていたようで)、月刊誌から連絡があると思い込んでいたところに週刊誌記者より電話。まるでフツウの日常会話のように「そういえば日経やめたんですね〜」「元AVだったんですよね?たしか」と会話が進み、気づけば掴まれていた事実の裏とり作業につきあっていた。「AVがバレて会社をクビになったんですか?」 記事が出ることが止められない状況であるならば、せめて事実確認をと思い、悩んだ末、歌舞伎町のバーガーキングで記者と合流し、自分的になんとなく差し支えない程度まで話した。うまいな、巧みだな、と思うのは、おそらくすでにそれなりの事実は十分掴んでいたのにも関わらず(記者クラブ仲間や友人のところへの取材で)、あえて事実と違うことをぶつけてきて、それは間違っている、という風にこちらが話を返してしまう環境をつくっていることだった。画像はイメージです こちらは、あきらかに嘘が記事になったらなんとなく困る気がして、必死に否定してしまう。「AVがバレて会社をクビになったんですか?」「いえいえ、とんでもないですよ」「そもそも整理部移動も過去がバレたせい?」「めちゃめちゃ自分の希望ですがな」「風俗でも働いたことあるんですか?」「それはさすがにないっす」と。それに、周辺取材の抜け目なさも見事だった。「都庁記者クラブでキャバ嬢ってアダ名でしたか?」「記者会見向うときにとく『ご出勤?』て言われてたんですか?」「電卓やICレコーダーをラインストーンでデコってましたか?」「そもそも◯◯テレビの◯◯記者と付き合ってましたか?」など。 でもまぁ、取材テクニックなどというものはそれこそ「週刊誌記者としての訓練」を経て身につけられるものであろうし、それこそ先輩編集や記者から受け継がれる技術もあるであろう。私は私なりに、新聞記者としての訓練は受けていたし、それがある程度は感覚で、ある程度はマニュアル的な伝統で習得できるものだという実感はあった。そんなことより驚いたのはその後の世間的な反応だった。 同記事は見出しこそちょっと古びたセンセーショナルめいていたが、中身は極めて抑制的で、綿密な取材に基づいた事実がほとんどだった。当然、一応の誠意をもって取材に応えた私や私の家族の懸命さも一役買ってはいたし、社長の不倫と情実人事報道の裁判以降、なんとなしにいがみ合っていたと思われる日経と文春の関係を思えばその記者の取材の執念もわからないではないが、株価を左右するほどでも、歴史に残るほどでもない記事でも綿密に取材する姿勢は基本的には記者としてはわりと共感できるものであった。嫌われる覚悟 にも関わらず、世間は「AV女優が新聞記者をするなんてけしからん」と言う以上に、「こんな下世話な記事を載せるなんて前近代的でけしからん」と文春に蔑視に近いような感想を述べてくれた。そして、そういうことを言うために同記事は結構な場所でとりあげられ、引用された。世間を騒がすほどのことではなかったけれど、反応を注意深く見ていた私は、そのとてもわかりやすく週刊誌的であり世間迎合的な記事を載せたことで、極めて週刊誌的で下世話であるという眼差しを甘んじて受けている文春が、やはりとても嫌われることを腹積もっているように見たのである。私や、私の家族や、日経社員にだけではなく、週刊誌的見出しに食い付き、雑誌を喜んで買う読者たちにである。 取材先や、記事が大枠として含んでいる対象に嫌われる覚悟は、記者になくてはならない素質ではあるが、時に読者にすら嫌われる覚悟を、どれだけの記者たちが心に止めているだろうか、と私はその時に思った。そして、その覚悟の代わりに彼らがもっている拠り所はなんなのだろう、と。 おそらくそれは、世間にある欲望を肩代わりしている自負なのではないだろうか。優等生的タレントの陰部を見てみたい、生真面目な政治家に黒さがほしい、といった、世間一般がむしろ胸中にもっている週刊誌的下世話な欲望を、あえて外から出して見せることで、世間は自分のそのような欲望を満たしながら、否定できる。週刊誌が代わりに体現しているその下世話さを、嫌いながら楽しめるのである。最近の文春の鮮やかなスクープ連発を見て、私は取材力やタレコミの多さ以上に、そういった週刊誌の宿命と命題のようなものが徹底された姿勢に、甚く感心している。

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    「猟犬の如し」伝説の記者、大下英治が語る文春魂

    大下英治(作家) わたしは「週刊文春」の特派記者、いわゆるトップ屋を十三年間続けた。そのわたしから見て、最近の新谷学編集長率いる「週刊文春」のスクープの連発は、目を見張らされる。 わたしが行きつけのクラブで飲んでいると、わたしがかつて「週刊文春」の記者であったことを知っていて、何人もがまるで探りを入れてくるかのように訊いてくる。 「来週の『週刊文春』のスクープは、何なの?」 それほど、毎週、世間をアッといわせる記事を連発している。 わたしの「週刊文春」時代も、これほどスクープ記事を連発したことはない。 現在「WiLL」の編集長をしている花田紀凱さんがデスク時代、土井たか子と北朝鮮問題などヒットすると、第二弾、第三弾…となんと十弾くらい続けることはあった。 田中健五編集長時代のことで、今だから打ち明けるが、田中編集長の家に銃弾が打ち込まれたことがあった。それも、田中編集長の寝ている頭上三十センチをかすめたのである。実に、スクープ記事も命がけなのだ。1978年12月29日付サンケイスポーツ1面 田宮二郎猟銃自殺 「白い巨塔」放送中の悲劇  わたしについていえば、昭和五十三年六月一日号『例のM資金にのせられた“クール・ガイ”田宮二郎の誤算』という記事も、話題をよんだ。田宮氏が、いわゆるM資金詐欺にひっかかっているというのだ。  M資金詐欺にひっかかる者は、後を絶たない。ロッキード事件に関連した大庭哲夫全日空前社長の他、富士製鉄、東急、TBSなど一流企業のトップがこの正体不明のM資金に踊らされている。田宮氏は、二千億円を無利子で借りられるというので、すでに大手商社に勤めていた兄弟を辞めさせ、いっしょに事業をやるというのだ。 わたしは田宮氏に会うと、五十億円かけて、世界の俳優の人形館をつくる、セメントの輸出など田宮コングロマリットをつくると声をはずませた。 実は、このネタ元は、田宮家の関係者からのものであった。このまま放っておくと、膨大な借金を背負い、田宮家が破滅する、とおそれ、記事になることで田宮氏が目を覚まし、傷が浅くてすむだろうということであった。 ところが、この記事が掲載された半年後の年の暮れ、田宮氏は猟銃自殺を遂げた。三越の岡田茂と愛人の関係を暴いた わたしは、三越の岡田茂と愛人のアクセサリーデザイナー竹久みちとの関係を暴いた。実は、この記事の発端は、昭和四十六年九月二日号の『岡田専務をめぐるとかくの噂』であった。 わたしはネタ探しのため、業界紙の編集と飲んでいると、ささやかれた。 「実は、三越の岡田茂専務が、パリ三越のオープンに愛人の竹久みちを連れて行った。ゴマスリ業者たちは、竹久におべっかを使っている。そのことが問題になり、労組で岡田専務をつるし上げた。それが外部に漏れ、いまや総会屋やブラックジャーナリズムが三越に推しかけ大騒ぎさ。それを『週刊A誌』が追ったが、結局、潰されてしまった。『週刊A誌』は女性誌を出しているから、三越の広告が出なくなるのを恐れたのさ」 わたしは、このネタを追い、記事にした。三越の岡田茂前社長が特別背任容疑で警視庁に出頭。被害を三越に与えたとして愛人の納入業者とともに起訴され、実刑判決を受けたが、最高裁上告中に死去。 それ以降、岡田茂氏については追い続けた。「週刊文春」昭和五十六年十二月三日号の『竹久みち邸の信也の密室パーティ』、さらに、岡田氏に海外に飛ばされた幹部の妻からの情報を元にした記事と何年にもわたって通い続けた。 岡田氏は、そのスキャンダルにもめげず、ついに社長に登りつめた。 その後、花田氏が「週刊文春」から「月刊文藝春秋」に移ってからも、昭和五十七年九月号に『竹久みちの野望と金脈』を発表。この記事は反響を呼び、岡田茂社長の退陣へとつながった。 さらに「月刊文藝春秋」昭和五十七年十一月号の『九月二十二日「三越岡田社長」取締役会』で、岡田社長が、幹部のクーデターで失脚する場面を克明に書いた。 「何故だ?!」 その瞬間、岡田社長の発した言葉は、流行語になったほどだ。 「週刊文春」昭和五十七年十月十四日号でも、『香港カトリーヌ』という記事を載せた。 岡田社長と竹久みちは、ついに逮捕された。 その他にも、『佐良直美とキャッシー、レズビアン報道』をはじめとするいくつかのスクープはあった。  が、現在の新谷編集長の「週刊文春」のように連発はなかった。 ということは、新谷編集長は、意図して、毎週かならず一本は、目玉になる右トップのスクープ記事をモノにしてみせる、という執念を抱いているからであろう。 わたしが、なかでも最も興味を抱いた新谷「週刊文春」のスクープ記事は、平成二十四年六月二十一日号の『小沢一郎「妻からの離縁状」』であった。わたしは、小沢一郎氏について九冊の単行本を出している。政治家の単行本では、もっとも多く描いた政治家でもある。 また、小沢夫人のコメントは、それまでわたしだけが記事にしていた。和子夫人との接触も何度かあった。 その和子夫人の離縁状が載るというのだ。これは、ニセモノかもしれない… そのスクープ記事の発表される前日のコピー記事が、ある人からわたしの手元に届いた。 「この小沢夫人の手記が本物かニセモノか、判断してほしい」 わたしは、そのコピーを読みはじめ、半分近くまで進み、思った。 〈これは、ニセモノかもしれない…〉 わたしの脳裏に浮かんだのは、「週刊新潮」平成二十一年二月五日号から四回にもわたっての『実名告白手記・私は朝日新聞阪神支局を襲撃した』の記事であった。まったくのガセネタで、伝統ある「週刊新潮」にあるまじきことで、驚いた。 〈わがふるさとともいうべき「週刊文春」が、まさか二の舞を…〉 芸能ネタと違って、天下の小沢一郎に関する記事でニセモノだとすると、「週刊文春」のダメージははかりしれない。 わたしがニセモノではないかと疑ったのは、小沢夫人の手記の運びがあまりに上手すぎたからだ。こんなに出だしから読者を惹きつけ読ませる手記が書けるのでは、週刊誌の記者はお手上げではないか、とすら思ったのだ。 この運びは、あきらかにプロの手によるものだったからである。 わたしの脳裏に、小沢一郎を叩き続けているライターの名が浮かんだ。 のちこの記事について、民主党の議員は、「和子夫人の手書きの一筆が載っているが、あきらかに筆跡が違う」とある週刊誌に書いていたほどである。 が、わたしは、さらに記事を読み進めるうちに、確信した。 〈これは、まぎれもなく本物だ〉 というのは、後半には、外部からの取材では決して掴めぬ、小沢夫人でなければ知りえないディティールがいくつもあったからだ。 では、前半にニセモノではないかと感じたこととの矛盾はどうなるのか。 わたしは、こう推理した。 仕掛け人が、小沢夫人に何度か執拗に接し、信頼させ、持ちかけた。 「あなたが、直接小沢さんを撃つかたちには決してしません。あなたが夫・小沢さんに対する不満を、わたしに話して下さい。それを、記事になるようにわたしがまとめます。ただし、記事ということでなく、あくまで小沢さんの地元の岩手のあなたの親しい人たち何人かへの私信の手紙として出すのです。おばあちゃんが死んで間もないおじいちゃんには、『おばあちゃんが死んでさびしいでしょう』と書き、お孫さんが生まれたばかりの家には、『初孫はかわいいでしょうね。わたしも早く見たく思います。ところで、わたしのことですが…』と愚痴めいて、本文に入れればいい。それだと、あくまで私的な愚痴で、小沢さんを奥さん自らの手で告発したことにはなりません。そのスタイルの手紙を、わたしが書きますから、奥さんが自分の字で写して下さい。その十人くらいに出した手紙を、もらった人の一人から『週刊文春』が手に入れた、というかたちを取ります。そうするかぎり、奥さんが直接に夫を告発したことにはなりません」描写が細かすぎる 小沢夫人が、その話に乗り、あの記事が成立した。何も筆跡を似せた手記などではない。あくまで本人の筆跡であろう。 最近の『宮崎謙介議員のゲス不倫』の二回目の記事に、かつてつきあっていた女性のコメントが、直接でなく、その友人が語るスタイルがとられていた。わたしはかつて自分がやってきたことと重ね合わせ、苦笑を禁じえなかった。 女性の友人のコメントにしては、下駄箱にあった別の女性のハイヒールなど、いくつかの描写が細かすぎるのだ。 本人が「わたしが直接コメントするのはいや」と言い張るので、「あくまで、あなたの友人が勝手にしゃべったことにします」という話し合いのもとに書かれたのであろう。 それにしても、手法はさておき、書かれている内容に間違いはないのだ。 その苦労は、並大抵ではあるまい。 わたしの行きつけのクラブで「週刊文春」のトップ屋の後輩と飲んでいるとき、その記者がポロリと漏らした。 「明後日、政界の大スクープがある…」 「標的は誰だ?」 「いえない」 「おい、先輩のオレにいえないのか。閣僚か?」 「そうだ」 「水臭いぞ、名前を言えよ」 「それは難しい」 「おい」 「白髪の多い人だ」 「じゃ、甘利じゃないか。内容は?」 「それはわたしの担当じゃないから、詳しくはわからない。その担当グループしかわからなくて、他の記事を追っている者には、編集部内でも、決してもらさないシステムになっているのだ」 編集部内でも、秘密はしっかり守られているようだ。  これだけの連発が続くには、「週刊文春」が記者をその気にさせ、働きがいを与えているからであろう。 わたしは、「週刊文春」のいわゆるトップ屋であった。「週刊文春」には、半分は社員記者、半分はわたしがそうであったように契約記者がいる。「首輪のない猟犬」と呼ばれ 実は、週刊誌の記者は、民事で告訴されるだけでなく、刑事で告訴される可能性もある。刑事で告訴される場合は、前科がつく。前科がつくと、のちのち社長になれないかもしれない。そういうリスクを回避するためにも、わたしがそうであったように、契約記者を半分入れておく必要もある。「首輪のない猟犬」などと呼ばれたものだ。 わたしは、むしろそれを誇りとしていた。それゆえ企画会議にネタを出すとき、自分に言いきかせたものだ。 「社員ではないのだから、総会屋であろうと、ブラックジャーナリストであろうと、そういう相手にも近寄り、日頃から飲み、危険スレスレの生ネタを取って来よう。新聞に出ている記事をひねくりまわした企画など出しはしないぞ」  「週刊文春」の連発されるスクープの陰には、わたしがかってそうであったようなトップ屋を働きやすくイキイキさせているからであろう。(瀧誠四郎撮影) わたしも、かつて、他の週刊誌から、金銭的には有利にするからと、何度か誘いがあったが、「週刊文春」から離れようとは思わなかった。 「『週刊文春』を離れるときは、プロの作家になる時だ」と思っていた。 それほど「週刊文春」は居心地が良かった。 最近、ある写真週刊誌の記者が、別の週刊誌に移った。その記者とは月に一回は飲んでいたが、その記者がわたしにこぼした。 「大下さん、すまない。週刊誌に移って、取材費がケチられるようになり、一緒に飲めなくなった」  わたしは、「週刊文春」にいたとき、ネタ元とのびのび飲めた。 いま、わたしは「週刊文春」の後輩のトップ屋とよく飲むが、その取材費の点でも、ケチられてはいないという。 スクープを連発し、完売がつづくと、取材費にも影響し、また新たなスクープにつながっていくのであろう。 わたしが「週刊文春」にいるころは、部数において「週刊新潮」を抜けなくて悔しかったが、いまや「週刊文春」はトップをひた走っている。この出版不況のなか、さらに部数を伸ばすことであろう。 時間をかけて執念深く追い続け、いざやれるとなると、五、六人でも人員を投入できる体制が整っているのであろう。 最近の週刊誌記者たちの中には、パソコンで「2ちゃんねる」などを見てネタとして拾ってきて、直接にネタ元に会わないことがある、と耳にしていた。 オーケストラの指揮者はあくまで、新谷編集長だが、走りまわるのは記者だ。その記者たちのネタの拾い方にも、「週刊文春」の記者は優れているのであろう。猟犬のたくましさは失われていないようだ。  わがふるさと「週刊文春」よガンバレ!

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    ジャーナリズムの危機を救う『週刊文春』をもっとリスペクトせよ!

    と思いますね」 スペクター氏に指摘されるまでもなく、今年になってからの『週刊文春』のスクープは、他のメディアを圧倒している。ベッキーとゲスの極み乙女のボーカル・川谷絵音との「不倫」、甘利明前経済再生担当大臣の「贈収賄」、“育休宣言オトコ”宮崎謙介議員の「不倫」と、立て続けにA級ネタが炸裂しているので、他のメディアが霞んで見える。不倫疑惑問題についての会見後に退席する宮崎謙介衆院議員=2016年2月12日午前、東京・永田町の衆院第2議員会館 この状況に、「文春のおかげで週刊誌が活気づいている」「文春はよく売れている」と言う人がいるが、私の見方はまったく逆だ。なぜなら、いまの文春の活況は、週刊誌ジャーナリズムの危機的状況を現しているからだ。 「文春の一人勝ち」の立役者は、言うまでもなく新谷学編集長である。彼が編集長になってからの『週刊文春』は、週刊誌の本来の使命、スクープ・スキャンダル報道を精力的に行ってきた。その結果、一般週刊誌(男性週刊誌4誌)のなかで部数トップを独走してきた。 しかし、週刊誌全体では、女性週刊誌も含めて部数減は止まらない。一口に「出版不況」と言うが、この直撃をもっとも受けているのは雑誌で、とくに週刊誌はここ数年大きく部数を落としている。 2015年の1年間に国内で出版された書籍と雑誌の売上高は1兆5000億円台まで落ち込み、32年前の水準に逆戻りしてしまった。市場規模がピークだった1996年の2兆6563億円の6割にも達していない。とくに雑誌は前年比8.2%減で、週刊誌に至っては同13.4%減と、もはや部数減に歯止めがからなくなっている。 したがって、このままいけば「やがてどこかが脱落(休刊)し、いずれ週刊誌はなくなるかもしれない」まで言われるようになった。 こうした部数減の原因は、誰もが指摘するように、ネットやスマホによる情報空間の変質で、読者の紙離れが進んだからである。いまや情報は、紙で仕入れるものではなく、ネット(デジタル)で仕入れる時代になった。しかも、ネットにおいては「情報はタダ」というフリーミアム文化が定着してしまっている。 となると、いくら週刊誌がスクープ・スキャンダル報道を続けても、部数は伸びず、リターンは得られない。もちろん、週刊誌を含めた紙メディアは、このリターン減をカバーするためにデジタル化にシフトするとともに、ネットのプラットフォームやニュース配信アプリなどへの記事の提供を行っている。しかし、そこから得られるリターンは微々たるものでしかない。 その結果、文春以外の週刊誌はスクープ・スキャンダル報道からほぼ撤退し、最近は企画記事ばかりになってしまった。張り込み、裏取り、ドブ板調査、直撃など、スクープ・スキャンダル報道は、企画記事よりはるかにコスト(お金)がかかるからだ。 しかし、本当の危機は部数減によって収益が減り、やがて週刊誌ビジネスが成り立たたなくなることではない。「週刊誌や新聞などの紙メディアがなくなっても、ネットがそれを代行してくれるから問題はないではないか」という意見もあるが、そんな単純な話ではない。 なぜなら、現在のネットメディアには、新聞や週刊誌などの紙メディアの機能を代行する力がないからだ。つまり、本当の危機は、週刊誌に限って言えば、週刊誌がなくなることではなく、週刊誌が培ってきたジャーナリズムが失われることだ。文春にひっくり返された!若き日の苦い経験 では、週刊誌が培ってきたジャーナリズム機能とはなんだろうか? 私はかつて約20年間、週刊誌の現場にいたが、そこで学んだことは多い。週刊誌ジャーナリズムは、一般大衆の限りない好奇心に基盤を置いて成立している。人間がいちばん好奇心を抱くのは他ならぬ人間自身であり、他人がなにをしているかが週刊誌ジャーナリズムの出発点だ。たとえば、この世の中には、美談や感動ストーリーが数多くある。しかし、それは本当だろうか? と疑いを持つところから、週刊誌の取材は始まる。この世の中のどんな事象、そして人間にも「ウラ」と「オモテ」があり、「ウラ」を暴いた時に、スクープやスキャンダルは成立する。  そして、それによって初めて一般大衆は本当のことを知る。つまり大きく言えば、市民の知る権利を週刊誌ジャーナリズムは代行している。 週刊誌ジャーナリズムを「イエロージャーナリズム」と呼んで非難する向きもあるが、たとえば文春報道がなければ、甘利前大臣はどうしていただろうか? 議員辞職した宮崎議員はどうしていただろうか? それ以前にも、中川郁子農水政務官が門博文議員との「ディープキス不倫」や「上西小百合議員の秘書同行“疑惑”旅行」など、みな週刊誌ジャーナリズムが機能していたから、明るみになった。衆院本会議を終え、記者団の質問に答える無所属の上西小百合氏=2015年4月7日午後、国会内 週刊誌の黄金時代は、1980年代である。この時代には写真週刊誌もあって、週刊誌同士がスクープ合戦を繰り広げていた。私もその渦中にいたので、毎日を「疑惑」「汚職」「熱愛」「不倫」「未婚の母」などのオンパレードなかで息つく暇もなく過ごした。 じつは私には、このときに苦い経験がある。当時、世間をさわがせた「ロス疑惑」事件というのがあった。私は『女性自身』編集部でデスクをしていたので、故・三浦和義を取材して記事にしたことがある。 1982年のことで、このとき、「ロサンゼルスで妻を暴漢に銃撃され半身不随にされたかわいそうな青年実業家がいる」という新聞報道があった。その青年実業家が帰国し、それにともないロスの病院に入っていた妻を日本の病院に移送することになったという。 それで私は、その移送先の神奈川県秦野市にある東海大学病院に彼を訪ねた。三浦和義は記事にしたいと言うとすぐOKしてくれ、「それならこれから東京に戻るので、クルマの助手席に乗ってインタビューしてくれませんか?」と言った。 いまでもよく覚えているが、このとき彼は切々と「いかに妻を愛してきたか」「いまは悲しみのどん底です」「なんとか助かってほしい」と、涙を流しながら語るので、私もついもらい泣きをした。ただ、聞きながら気が気ではなかった。感情を昂ぶらせて、運転を誤ったらどうしようと思ったからだ。それでも、テープとメモを取り、編集部に帰って記事を書いた。 その記事のタイトルは「この愛いつまでも」である。 この記事は女性読者にうけ、読者アンケートでも最上位に来た。三浦和義は「悲劇の愛妻家」となった。記事を書いた後に帰宅したとき、妻に「今日はほんとうにいい取材をした」と言った覚えがある。 ところが、1984年の正月、『週刊文春』を見て驚いた。目が点になった。「疑惑の銃弾」という特集記事で、事件は三浦和義の自作自演ではないかということが、徹底した取材で書かれていたからだ。この後、「ロス疑惑」は、あらゆるメディアで取り上げられ、美談はひっくり返ってしまったのである。 『週刊文春』のジャーナリズムは、いまもこのときの伝統を維持している。もちろん、この後、私も彼を追及する側になり、何本も「ロス疑惑」の記事を書いたが、最初のインタビュー記事が美談だったことがいつも引っかかった。彼にまんまと騙されたからだ。私は本当に若かった。 前記したように、この世の中にある美談の多くには「ウラ」がある。それを暴かなければ、ジャーナリズムとは言えない。その後、私も何本かスクープ、スキャンダル記事をやった。あるとき、財界の大物の愛人の存在をつかんで記事化しようとしたこともあったが、これは大手広告代理店によって潰された。文春「一人勝ち」の末に待ち受けるもの 私が最後にやったのは、松田聖子のNY不倫記事で、このときはNYに行き、相手のジェフ・ニコルスの告白に基づく記事を3週間連続で書いた。ただ、それ以後は異動になったこともあって、スクープ・スキャンダル報道からは遠ざかった。 しかし、いまやこれをやっているのは『週刊文春』だけだ。他の週刊誌はこの路線から降り、新聞もほとんどやらない。まして、テレビは一次報道をしなくなった。とすれば、これこそが、ジャーナリズムの本当の危機ではないだろうか? ところで、なにがスクープやスキャンダルかを決めるのは、週刊誌などのメディア側ではなく、大衆自身だ。かつて「不倫」は絶対に許されないことだったが、石田純一さんが「不倫は文化だ」と言ったために、いつの間にか「不倫」はカタカナの「フリン」になって、スキャンダル性が低下してしまった。ベッキーを大衆が許さなかったのは「不倫」ではなく、会見で「お友達」と嘘をついたことだ。「オモテ」と「ウラ」の顔の落差がありすぎた。女性からサイン攻めに会う俳優・石田純一(左)。長谷川理恵との不倫騒動に「許されないことです?」 さらに言えば、かつては「未婚の母」はスキャンダルだったが、いまは「シングルマザー」となって、むしろ同情を買うようになった。さらに、「同性愛」はスキャンダルではなくなり、「カミングアウト」しても、いまやほとんど関心を持たれられなくなった。 それでも、この世の中からはスキャンダルはなくならない。社会にはタブーが存在し続けている。そのタブーに果敢に挑戦することで週刊誌ジャーナリズムは、メディアの世界で重要な役割を果たしてきた。 私の経験から言うと、日本のジャーナリズムは、かつて新聞、テレビ(放送)、週刊誌(雑誌)の3者で成り立っていた。この3者は補完関係にあった。新聞が記者クラブの制約などによって書けないことを、週刊誌がスクープ・スキャンダル報道で補い、それをテレビが大きく取り上げて後追いすることで、事件や人物の全容が明らかになることが多かった。 だから、週刊誌の記者は、周囲から煙たがれ、ときにはガセネタをつかまされることがあっても、なんとか報われた。しかし、いまやどの週刊誌も、彼らの活躍に見合うギャラを払えなくなった。『週刊文春』だけが、部数トップの座にあるからなんとかこれを賄え、ネタも集められて「一人勝ち」している。 いまは、新聞、テレビ、週刊誌の3者にネットも加わって、メディアは4者になった。しかし、ネットは旧来のメディア3者に対して、なにを補完しているだろうか? ソーシャルメディアの普及で、誰でも情報発信できるようになったと言われている。それは事実だが、誰もが記者になれるわけではない。まして、週刊誌ジャーナリズムの機能をネットは代替できていない。 記者としての教育も受けず経験もないどこかの誰かが、スクープ・スキャンダル報道をできるだろうか? ネタがあれば、その裏取りのために関係者をあたらなければならない。本人を張り込み調査しなければならない。全国各地に足を運び、また、何日も何週間も取材に費やさなければならない。この費用を個人は賄えるわけがないし、ページビュー第一主義のネットメディアも賄う気はない。 もちろん、ネットの監視機能が発揮されて真実が明かされたことはある。「STAP細胞捏造疑惑」や「五輪エンブレム盗作疑惑」がその典型だが、それはデジタル上で検索された結果にすぎない。 このまま行けば、やがて新谷編集長と『週刊文春』は疲弊するだけになるだろう。文春に続く週刊誌、他メディアがないのだから、やがて疲れ切るのは目に見えている。 私は新谷編集長を知っているだけに、このことがもっとも心配だ。世の中にはスキャンダル、スクープはいくらでもあるが、その全部を1誌でカバーできるわけがない。 さらに、新谷編集長がいなくなり、週刊文春がおとなしくなってしまったら、どうなるかを考えてみてほしい。「彼がいる間はおとなしくしたほうがいいと思いますね」と言うスペクター氏のアドバイスを真に受けて“おとなしく”していた人は、“おとなしく”しなくなるだろう。しかし、それを報じるメディアはもうない。大きく言えば、社会から監視機能が失われる。 結果的に新聞やテレビも活況を失い、スペクター氏がテレビ番組で絶妙なコメントをする機会も減るだろう。この影響をもっとも受けるのは、私たち自身である。真実は暴かれなくなる。 最後に、ベッキーは文春を「センテンススプリング」と言ったが、文春の「文」は「文芸」の文で「文章」の文ではない。ベッキーも含めて、他メディアも私たちももっと文春をリスペクトすべきだ。『週刊文春』を「一部週刊誌」などと言うのは論外だ。

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    元少年Aの「Xデー」はあるのか

    は賛否があったとはいえ、自己顕示欲がむき出しの彼の奇行からは、更生とはほど遠い一面もうかがえる。一部メディアでは「逮捕情報」まで飛び交う元少年A。Xデーはあるのか。

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    表現の場が理不尽に奪われたとき、元少年Aの「Xデー」はやってくる

    」(2月25日号)の記事「元少年Aを直撃」はネットでも話題となった。さすがに目を伏せてはいたものの、メディアで初めて、元少年Aの近影を晒した。近影はこれまで、自身が開設したホームページ「存在の耐えられない透明さ」で、顔を隠した格好で公開してきた。第三者による撮影では初めてだったのではないだろうか。ちなみに、この原稿を書いている3月2日現在、彼は、週刊文春の記事に関して、ホームページ上では何も語っていない。 本物だったのかどうかはわからないが、週刊文春記者の直撃では、「元少年A」だということを否定している。その上で、当人は「命がけできてんだろ。なあ。命がけできてんだよな。お前、そうだろう!」と答えている。本物ではないと見ることもできるが、仮に本物だとして、メディアの取材にこう答えてしまうのは「ネタ」を提供するようなものだ。不意打ちだったから、咄嗟に答えてしまったのかもしれない。しかし、「どう見られているのか?」を意識せざるを得ない注目の人物の言動とすれば、浅はかさを露呈してしまった。 そもそも、彼が再び猟奇的な殺人をする「Xデー」があり得るのかを考えると、現段階では可能性は低いと私は考えている。彼は『絶歌』(太田出版)で「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの『生きる道』でした」(P.294)と述べている。つまり、彼には、出版という表現手段を得て、「元少年A」という表現者として、世間に登場したことになる。東京都内の書店に並べられた、神戸連続児童殺傷事件の加害男性が「元少年A」の名前でつづった手記「絶歌」 彼にとっては「書くこと」は「生きる道」だ。もちろん、『絶歌』の出版は賛否両論がある。事件の舞台となった神戸市の図書館では取り扱わないとの方針まで出た。出版という手段だったことも手伝って、表現したことがバッシングがなされた。出版への反対意見が強まれば、「書くこと」が制限され、「生きる道」を閉ざされる心配はあった。 しかし、「週刊文春」や「週刊新潮」、「女性セブン」に資料を送りつけてまで、彼自身はホームページの存在を知らしめた。表現の場を確保したことをアピールしたのだ。さらには有料のブロマガまで発行しようとした。私がメールで取材依頼をしたことへの返答もこのブロマガでなされた。表現するほどの欲求がないのかもしれない さすがに有料での情報発信は、『絶歌』への批判が消えていないタイミングでもあるため、批判が多かった。私は有料かどうかではなく、取材依頼をメールを断りなく、掲載されたことについて、少なくとも事前に公開することは教えて欲しかった。結局、サービス元が彼のブロマガの発行停止をした。 ただ、彼の「書く」場がなくなったわけではない。ホームページも当初から見ると、改良されており、更新されている形跡がある。ただし、『絶歌』出版に感じていた「書くこと」が「生きる道」といったほど、表現欲求に枯渇しているようには見えない。例えば、昨年12月25日のブログのエントリーがそれを物語っている。というのも、7月に美術館に行った話を12月にアップしているのだ。 そのエントリーには、こう書かれている。 物造りを生業とする人にとって、利き手が自由に使えないことはどれほどの恐怖だったろう…… たとえ手足を捥がれようと、常に何かを造らずにはいられない表現者という生き物の業に身震いがした。 彼なりに表現者への理解を示している。「常に何かを造らずにはいられない表現者」というのは、まさに『絶歌』を出版し、ホームページを作った彼自身の欲求に似ている。しかし、なぜ、5ヶ月前の話を書いたのか。想像すると、何かを表現したいという気持ちがないわけではないだろうが、「ネタ」が何もないのではないか。あるいは、表現するほどの欲求がないのかもしれない。 最新のエントリーも1月だ。しかも、読者の質問に答えつつも、12月に行った絵画展のことが書かれている。なぜ、12月に書かなかったのか。少なくとも、現段階では、表現欲求がそれほど高くはない。そして、読者の悩みについて、こう書いている。 あなたも僕と同じ表現者の端くれであるならば、今回のように辛く苦しく理不尽な事態に直面した時に、自らの苦悩の表出を他者に委ねるようなことはせずに、今こそ「チャンス」であると捉えてほしいのです。 自らの苦境を表現することで満たせていくことをアドバイスしている。もし、真にそう感じるのであれば、まさに、彼自身が『週刊文春』にされた行為に対して、「自らの苦悩を表出」すればいいはずだ。しかし、その場では乱暴に振舞っているが、表現欲求が揺さぶられているようには思えない。 彼はかつて、殺害した男児の首を校門に置いていた。彼にとってはそれが表現の手段だったかのような書き方を『絶歌』で書いている。彼の表現欲求が高まるときは、世間を騒がせたい欲求と似ている。だとすれば、ホームページなどで、表現しても表現しきれなくなったときにこそ、あるいは、表現しようとしてもその場が理不尽な奪われ方をしたときにこそ、「Xデー」がやってくるのではないかと思える。少なくとも今は、そこまで表出する何かを感じることができない。

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    週刊文春の直撃に元少年Aが「命がけで来てんだな」と威嚇した意味

    篠田博之 (月刊『創』編集長)   スクープ連発で部数を伸ばしている『週刊文春』には最近敬意を表しているのだが、2月25日号(2月17日発売)の記事「元少年Aを直撃」については、疑問も含めていろいろ考えさせられる。 『週刊文春』のその記事は、神戸連続児童殺傷事件の元少年Aを直撃して、目伏せをした顔写真を公開したものだ。元少年Aの近影が公開されるのはこれが初めてだ。 元少年Aについては、昨年、『女性セブン』も直撃を行っているが、相手が否定しているから、それが本当に元少年Aなのかどうか曖昧だった。しかし今回の記事は、昨年の『絶歌』発売前後から250日にわたって彼を追跡してきたという経緯が詳細に書かれており、印象としては本物と考えてよいだろう。 記事によると、元少年Aは昨年9月末までは神奈川県のアパートに住んでいたが、突如そこをバッグひとつで慌てて退去。ウイークリーマンションで数週間過ごした後、12月に都内のアパートに入居した。ここを1月26日に『週刊文春』が直撃したのだが、そこも数日後に退去したという。マスコミの動きを含め周囲に何か気配を感じるとすぐに転居するということを繰り返しているらしい。 『週刊文春』は取材に応じてほしいという手紙を渡すために記者が直撃したようなのだが、相手は自分が元少年Aであることを否定。さらに記者が食い下がると、乗っていた自転車を地面に叩きつけて、こう言ったという。 「命がけで来てんだろ、なあ。命がけで来てんだよな、お前。そうだろ!」 自身がマスコミ報道によって身の危険にさらされるのだからお前も命がけで来てるんだろうな、と記者に詰め寄ったというのだ。これはなかなか象徴的だ。今回の『週刊文春』の記事を読んで思うのは、直撃して顔写真を載せるという行為をするにあたっての報道機関としての大義名分は果たして何なのだろうか、ということだ。それなしに、ただ犯罪を犯した人間を追い回しているだけでは、単なる「報道の暴力」だからだ。 いまの元少年Aというのは、少年法の精神によって更生を図るというのは具体的にどういうことなのか、身をもって示している実例だ。神戸児童殺傷事件について知っている者は誰だって被害者に同情し、犯人に怒りを覚えている。それにもかかわらず刑罰を科さず、元少年が更生することを保証するという試みが少年法で、それは現実社会において果たして有効なのかどうか。彼は刑事罰を免れる代わりに、その少年法の有効性を証明してみせる責任を負っている存在だ。 元少年Aが住居を転々として逃げ回るのは、へたをすると自分が集団リンチにさらされ、抹殺されかねないということを知っているからだろう。正直言うと、彼の怯え方はやや度を越しているようにも思えるのだが、そういう恐怖心を抱くのは決して杞憂ではない。一歩間違えればそうなる危険性はたぶんにあるといえよう。 そんなふうに元少年Aを社会がおいつめ、更生の機会を奪ってしまうのを少年法は戒めている。今回の『週刊文春』は敢えてその危険な領域にまで踏み込んでいるといえるのだが、それゆえにこそ、それなりの「報道する理由」は必要だ。 今回の『週刊文春』の記事においては、そういう問題があることを自覚して、いろいろと「なぜ報道するか」を説明しているのだが、それがどの程度説得力を持っているかについては、若干の懸念は感じざるをえない。たぶん同誌としては、今回、満を持して対象に直撃を行ったのだから、その当面の成果だけでも誌面化したいと思ったのだろう。何を何のために報道するのか 正月以来、連続してスクープを放っている『週刊文春』の進撃ぶりには敬意を表したいが、たぶんいつまでそれを続けられるのか、若干のプレッシャーを編集部は感じていることだろう。そこから、多少無理をしてでも話題性のある記事をという心理状態に陥ることは避けなければならない。 報道機関は、その報道が本当に重要だと思ったら、相手が傷つくのを知っていても敢えて記事にするという覚悟が必要だ。しかし、そのためには、いったい何を何のために報道するのかという自問は重要だ。 元少年Aは出版の話を持ち掛けた幻冬舎の見城徹社長への手紙の中で、本を出すひとつの理由を〈精神をトップギアに入れ、命を加速させ、脇目もふらずに死に物狂いで「一番肝心な」三十代を疾走してやろうと決めたのです〉と書いていた。 ただ現実には『絶歌』出版もさることながら、ブログの公開内容などを見ていると、『週刊文春』が今回書いているように、周囲に相談する人もおらず「糸の切れた凧」状態にあるように見える。死に物狂いで疾走していったいどこへ向かおうとしているのか確かに気になるのだが、だからといって放置すると危険だから追い詰めろという理屈が妥当性を持つとは思えない。 今回の『週刊文春』がひとつの問題提起を行ったという意図は認めたい。ただ元少年Aの「命がけで来てんだろうな」という問いに、今回の報道が応えることができているのかどうか。同誌編集部には自問してほしいし、我々も考えてみるべきだと思う。(2016年2月20日「Yahoo!ニュース」より転載)

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    「東京目線」で福島を語るなかれ

    ていう合言葉があるんです」。福島の詩人がこの言葉に込めた意味とは何だったのか。東日本大震災から5年。メディアは日本を襲った未曽有の大災害とどう向き合い、何を伝えたのか。

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    遺体は撮るのか、撮らないのか? 東日本大震災と被災者家族の記録

    。 あの人たちはいま、どうしているだろうか・・・。普段はまったく違うジャンルの番組をつくっているが、メディアに生きるものとして、少しでも被災地のことを風化させずに伝えられればと、今回寄稿させていただいた。 戦争と震災・・・ふたつの大きな災いを経て、もうすぐ82歳となる母・武澤順子は、最近日記にこう綴っている。 「今度は『被災者』としてではなく、自分自身が、誰かのお役にたてるよう立ち上がらなければいけないと思う。それが震災で受けた多くの御恩に報いる道であり、『被災者としての誇り』でもある」*BS日テレにて「生きてやろうじゃないの!母と僕の震災日記」が放送決定*3月13日(日)11時55分から13時25分(90分)(メディアゴン 2016年3月11日分を転載)

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    地震と放射能を道連れに 明けない夜は無い

    目線ですね。物語の鋳型に当て嵌めないで、リアルタイムで実際に起きている本当のことを分かち合えるようなメディアであってほしい。最初の祭りは去ったのかもしれません。取材に来るメディアも減って、どんどん静かになって来ているし、5年という節目が過ぎると、さらに静かになっていくんでしょうね。今後はもっと内側から何か風を起こすというか、我々が自分達の力で発信していく努力をしていかなければならないと思います。  僕は詩人として福島のために言葉を見つけたいと思う。福島を語る言葉だったり、福島の人の想いを象徴する言葉だったり、トゲが抜ける言葉だったり、言葉を見つけたい。それをみんなと分かち合いたい。そういう文化を発信していきたいです。(聞き手・iRONNA編集部 川畑希望)わごう・りょういち 昭和43年、福島県生まれ。詩人、県立高校国語教諭。『AFTER』で中原中也賞。ほかの著書に『詩の礫』『ふるさとをあきらめない-フクシマ、25人の証言』『詩の寺子屋』など。3月9日に新刊『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)が発売された。

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    南支那海での振る舞いを「侵略」と呼ばない媚中報道の罪

    が、読者の間から聞こえてきそうだ。安全保障関連法への反対の声がそうだったように。国民を平和ボケさせるメディア国民を平和ボケさせるメディア そうした一国平和主義者達の特徴は、中国の脅威を見て見ぬ振りをすること。そうすれば日本は安泰でいられると思い込んでいる(思い込みたがっている)ようだが、そもそもそうした思潮を作り上げた元凶の一つが、中国の寛大な(中国に迎合した)毎日新聞を含むマスメディアである。 これらが拡大一方の中国の脅威の深刻さを明確に伝えていないため、国民はいつまで経っても平和ボケから覚醒できないでいるのだ。南シナ海・スプラトリー(中国名・南沙)諸島のファイアリークロス(中国名・永暑)礁を埋め立てて建設した飛行場で、着陸した中国の航空機の前で記念写真に納まる関係者ら=1月6日 では中国の脅威の「深刻さ」をいかに報じればいいのか。実はこれは簡単なことである。 たとえば今回の「なるほドリ」は「中国は南シナ海のほぼ全体の領有権を主張しており」とは伝えているが、それに加えて「領有権の主張」は虚偽であることを国際法の観点(歴史的経緯も含め)から解説すればいい。 そして「岩礁を一方的に埋め立てて『人工島』建設を進めました」との説明で終わるのでなく、それがアジア全体の平和を脅かす危険で不法な領土拡張、侵略の動きだと指摘すればいいのである。 そのようにすれば読者は、より問題の深刻さを理解することができることだろう。中国の島の接収の不当性を指摘しなければ意味なし もっとも毎日は、実はそうしたことをまったくやっていないわけではない。 十一月二十五日に掲載のコラム「木語」は次のように書き、中国が南支那海の島々の領有宣言を行ったのは戦後のことであると伝えている。中国が「南沙」の実測地図を作ったのは戦後、1947年以後だ。蒋介石政権が日本軍の占領していたパラセル(中国名・西沙)諸島や、日本領「新南群島」(スプラトリーの日本名)に軍艦を派遣して接収した。初めてこの地の島々を測量して南沙と命名した。主要な島には軍艦の名前から「太平島」「中業島」など中国名をつけた。このころ、南シナ海全域に「十一段線」(後に九段線)という線引きをして領有宣言した。 これであれば、中国側の「南海諸島(パラセル、スプラトリー諸島など)は古来中国領土であり、先祖が残したものであり、いかなる者であれ中国の主権や関連権益を犯そうとしても中国人民は承諾しない」(習近平主席)といった類の主張に対する反論にはなりに得る。 しかし、それでもまだ不十分なのだ。戦後の中国による「接収」が領有権の根拠たり得ないことを書かなければ、何の意味もないのである。自国を「侵略国」と断罪しても中国へは物言えないメディア 中国はもちろん「接収」は合法だと主張する。たとえば王毅外交部長は次のように説明する。 「中国はカイロ宣言、ポツダム宣言を根拠に、日本に不法に占領された南沙、西沙諸島を回収した」 要するに日本は「中国から盗取した領土を返還すべし」と謳うカイロ宣言の履行をポツダム宣言の受諾を通じて誓約したことで、これらの島々は中国領土に復帰したと、いう国際法上の主張である。 中国は台湾についても全く同じ主張をしているわけだが、しかしいずれも捏造宣伝だ。 事実を言えば日本は、スプラトリー諸島にしても台湾にしても、中国へは「返還」(割譲)していないのだ。実際には一九五二年に発効のサンフランシスコ講和条約に基づいてそれらを放棄しただけであり、その後の新たな帰属先は確定されなかったのである。 マスメディアは、この事実を明確にすればいいのである。ただそれだけで中国の「主張」は完全な作り話であることが実証されよう。 しかし、日本のメディアはそれができないのである。 なぜなら中国は、台湾とともに南支那海もまた「核心的利益」だと位置付け、それら問題に各国が容喙することを断じて許さない構えだ。そのような中国の怒りを恐れる日本メディアは、従来台湾に対してそうだったように、南支那海の島々についても「中国の領土ではない」と明言できないのだろう。 日本の過去の戦争については、自衛戦争という側面を無視して「侵略」と断罪したがるメディアだが、中国が現実に行っている領土拡張の動きに対しては、以上のような理由で「侵略」と報じないのだから有害極まりない。(「台湾は日本の生命線!」2015年12月22日分を転載)

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    国防も国益も頭になし 南シナ海「報道・発言」狂騒曲

    による賛成多数で可決成立した。「強行」でもなんでもない。「説明不足」と言うが、政府は何度も答弁した。メディアでも説明した。私は聞き飽きた。立野は五月二十六日放送の同番組でも同様のコメントを述べたが、南シナ海問題は「安保法制」と直接関係しない。そう拙著『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)で指弾したが、彼の眼には留まらなかったようである。是非に及ばず。みたび朝日記事を借りよう。「現在でも自衛隊の護衛艦や航空機の警戒監視活動の範囲に法的制約はなく、南シナ海でも可能だ」。もう拙著はいいから、せめて朝日新聞くらいキチンと読んでほしい。「アメリカは世界の警察官ではない」――二〇一三年九月十日、オバマ大統領がシリア問題に関する米国民へのテレビ演説でこう明言して以降、中国による埋め立てが急ピッチで進んだ。ロシアもクリミア併合に踏み切った。もはや取り返しがつかない。 菅義偉官房長官は十一月五日「米軍の航行の自由作戦に自衛隊が参加する予定はない」と述べる一方、南シナ海での自衛隊の活動について「今後検討していくべき課題だ」と警戒監視活動の可能性を示唆した。 日本はどうすべきか。何ができるのか。前出朝日記事は「南シナ海まで行く余力も利点もない」と語る自衛隊幹部のコメントを援用しつつ「仮にP3C(海自哨戒機)が沖縄の基地から南シナ海に向かうとすると、飛行時間は片道約4時間。P3Cの平均的な航続時間は8~10時間で、現地での飛行は数時間に限られる」と書いた。事実その通りだが、後継機の最新哨戒機P1は航続時間や巡航速度が大幅に向上している。さらに言えば、東南アジアに給油ポイントをつくれば問題は解決する。十一月六日付朝日朝刊記事も借りよう。「海自が保有する護衛艦は47隻。一見、多いようだが、海自艦艇は尖閣諸島周辺の警戒、ロシアの動向の監視、北朝鮮のミサイル対応に加えインド洋・ソマリア沖の海賊対処も行う。訓練や定期修理もあり、やりくりに苦慮しているのが実態だ。/それでも海自は、現有の装備や能力で、米国の要請に精いっぱい応えようとしている。ソマリア沖で海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機が日本と往復する際や、練習艦隊が定期的な遠洋航海に出向く際などに南シナ海に入り、自衛隊の存在感を示したり哨戒活動をしたりする。海上幕僚監部は、そんな案を検討している」 そのとおり。右の案は私も提案してきた。南シナ海を航行する際、わざとスピードを落とす。あるいは警戒監視に当たる米艦と併走する。せめてそれくらいしてほしい。 さらに停船や徘徊。日米共同軍事演習。あるいはヘリ搭載型護衛艦から哨戒機を発艦させる。もちろん「人工島」の12カイリ内で。そう実行できれば、名実とも海自版「航行の自由」作戦となる。 いずれも実施しないのなら、日本国はみたび「卑怯な商人国家」と堕する。「美しい国」とは程遠い。海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機は南シナ海を通る。今後「人工島」12カイリ内を通航しないのなら、誰の目にもあえて避けたと映る。それでは中国の領有権を認めたに等しい。 現場の事情はそれなりに承知しているつもりだが、朝日の記者に泣き言を語るのは止めてほしい。工夫し努力して「余力」をつくるのが仕事であろう。「利点」がなくとも任務を遂行するのが使命ではないのか。 海は一つ。南シナ海で起こることは東シナ海でも起こる。日本政府は事態を傍観すべきでない。海自が南シナ海で活動すれば、間違いなく中国軍は対抗措置をとる。中国海空軍の高官が私にそう明言した。中国軍は自衛隊の動向を注視している。だからこそ、中国と世界の目に見える活動をすべきなのだ。今やらなければ、取り返しがつかない。 うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒業。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。早大大学院研修(法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)など著書多数。