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    「天皇が歴史から消えた」時代があった

    「幕府」や「藩」「朝廷」といえば、おなじみの日本史用語だろう。当たり前のように使われているこれらの言葉は、いずれも幕末以降、とある政治的意図をもって広められていたという。それだけではない。実は「天皇が歴史から消えた」時代も約850年間存在したのである。

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    「天皇」と「幕府」2つの呼称に隠された陰謀の歴史観

    中村武生(京都女子大非常勤講師) この連載で、筆者は「幕府」や「藩」、「天皇」「朝廷」などといった言葉の使用を避けている。別の言葉に言い換えてしまうと、読者はどうしても奇異に感じられるかもしれない。そこで、先学の成果に導かれながら、これらの言葉を使わない理由を述べておきたい。 現在、一般に「幕府」といえば、「征夷大将軍」を頂く武家政権の意として使用される。しかし18世紀後半以前、「幕府」が徳川将軍の政権(政府)を示す言葉として使用された例は極めて少なかった。では、どのような語が使われていたか。 直轄の学術機関、昌平坂学問所の儒者で「寛政の三博士」の一人として知られる尾藤二洲の著書『称謂私言』(寛政12(1800)年)では、徳川将軍による政府の適切な呼称として「大朝」「府朝」「大府」「征夷府」「王府」が挙げられている。これらは全て「日本国王の政府」を意味する言葉といえる。だが、この中に「幕府」は入っていない。 もちろん、歴史用語として、必ずしも同時代に使われた語句を使用しなくてはならない、ということはない。徳川将軍を「公方(くぼう)様」と呼ぶべきだと筆者も思ってはいない。 しかし、「幕府」という言葉は、ある政治的意図をもって積極的に使用され、その後、本来の意図を離れて広まったものなのである。 当時、古典研究の分野である国学が流行した結果、「天皇」の存在が強く意識されるようになっていた。「天皇」が存在するのに、どうして江戸の徳川将軍が政治の中心にあるのか、と問われるようになったのである。 この動向を受けて、18世紀後半以後、後期水戸学者で儒者の藤田幽谷(ゆうこく)とその弟子たちが、徳川将軍の正当性を主張するために、積極的に使用し始めたのが「幕府」なのである。皇居・東御苑にある旧江戸城の櫓「富士見櫓」。江戸時代から残る遺構で、三層構造になっている 藤田幽谷の著書『正名論』には、以下のような記述がある。「幕府が皇室を尊(たっと)べば、すなわち諸侯も幕府を尊び、諸侯が幕府を尊べば、すなわち卿や大夫(公家)は諸侯を敬す。その結果、上下の関係は保たれ、世の中全てが協和す」(筆者意訳、寛政3(1791)年)。 つまり、「徳川将軍は『天皇』から政権を任されている、だから正当なのだ」と主張するのである。この考えは「大政委任」と呼ばれる。そのため、いわば「天皇」に遠慮して、日本政府を意味する「王府」などの語を使用せず、本来「出征中の将軍の陣営」(『日本国語大辞典』)という意味であった「幕府」を用いだした。これが19世紀半ば以後、徳川家の地位を低く扱いたい者によって利用され、「幕府」の語は広まっていったといえる。 もちろん「大政委任」は事実に反する。確かに慶長8(1603)年、徳川家康は「天皇」から征夷大将軍に任ぜられたが、それは名義上のことにすぎない。豊臣秀吉の死後、圧倒的な軍事力を背景に実力で諸侯を従えたのであって、「天皇」から政権を委ねられたわけではないのである。「幕府」「朝廷」の替わりは? しかし、寛政年間以降は、事実を無視するかのように徳川将軍の求心力が低下しつつあった。それゆえに必要とされた名分といえる。これが明治以後、「天皇」こそ有史以来の唯一の正統な政権担当者である、という考えに支えられ、学校教育の力を借りて「幕府」という言葉が定着した。「幕府」とは、天皇中心の歴史観(皇国史観)の産物といえるのである。 この語を使用していては、17世紀から19世紀にかけて、京都と江戸の関係が大きく変化した事実を見えにくくしてしまう。そのため、「幕府」から派生した用語である、「幕政」「幕臣」「幕吏」「幕閣」「幕末」「討幕(倒幕)」なども使用を避けたほうがよいように思う。 それでは「幕府」が不適切なら、どのような用語を使えばいいのか。東大の渡辺浩名誉教授は、当時最も一般的に使用された語として、「公儀」を提案している。「徳川公儀」である。筆者もそれに従っている。 ちなみに「朝廷」の語も同様である。現在、「天皇」を中心とした京都の組織を「朝廷」と呼んでいるが、実は当時、徳川将軍の政府を表す言葉として使用されていた。「朝廷」は、もともと「君主が政治を行う場所」を意味したからである。 ここに後期水戸学の代表者、藤田東湖らが嘆いた。そして京都を「朝廷」と呼ぶようになったのである。そういうわけで、「京都の『朝廷』と江戸の『幕府』」という表現は後期水戸学者たちの発想にすぎず、彼らを特に支持するわけでない現代人が使用する必要はない。 徳川時代、「天皇」や公家たちの組織は「禁裏」や「禁中」などと呼ばれた。だから、筆者は「幕府」と「朝廷」ではなく、「公儀」と「禁裏」と言い換えたい。江戸時代、東京都港区にはに薩摩藩邸が置かれていた。当時蔵屋敷があった三菱自動車本社前には、江戸城無血開城の会見地の石碑がある=2018年1月 なお、大名家の政府を指す語として使われる「藩」は、「藩屛(はんぺい)」の略語である。藩屏は一般に「被い防ぐ垣根。守りの屏(塀)」(『日本国語大辞典』)という意味である。18世紀前半、6代将軍家宣や7代将軍家継に仕え、「正徳の治」を推進した儒者、新井白石の著書『藩翰譜(はんかんふ)』のように、大名(諸侯)が徳川家を守る存在として使用された場合があるが、決してこの時期から広く使われていた言葉ではなかった。 それが19世紀になって広まったのは、徳川家を否定的にとらえる勢力によって利用されたからである。白石とは違って、将軍ではなく「天皇」を守る存在として「藩」を使用し始めたのである。 「幕府」が「天皇」から委任されたと考えれば、大名は「天皇」の臣下を主張する限り、徳川家と対等になりえる。これで、大名は徳川家の臣下ではない、という主張が可能になる。要するに、「徳川専制体制」に異を唱える目的で使われた用語だから、これを18世紀以前の大名政府を意味する語として使用するのは適切ではない。 派生語である「何々藩」「藩主」「藩士」「藩政」「藩邸」なども同様といえる。これらの言葉については、「何々家」「何々家当主」「何々城主」「何々家臣」「何々家屋敷」と呼ぶのが適切ではないだろうか。約850年「天皇」はいなかった 最後に「天皇」についても触れておかなければならない。ここまで便宜的に「天皇」を使用してきたが、実は18世紀末までの約850年「天皇」はいなかったのである。そこまで奇をてらう必要はないと思われるかもしれないが、そうではない。 もともと「天皇」という称号は死後に贈られるものであって、生前に使用されることはなかった。生前には「禁裏」「禁中」「天子」「主上」「帝(みかど)」「当今」などと呼ばれた。退位後は「太上天皇(上皇)」と呼ばれる場合もあるが、多くは「仙洞(せんとう)」「本院」「新院」などである。 では、死後にはどう呼ばれていたのか。平安時代、康保4(967)年に崩御した天子成明(なりあきら)が「村上天皇」を贈られたのを最後に、「天皇」の称号は贈られなくなったのである。事情についてはわかっていない。 「天皇」に替わって、贈られた称号が「院」である。村上天皇以後は、一部の例外を除いて、「円融院」(正暦2(991)年)「花山院」(寛弘5(1008)年)「一条院」(寛弘8(1011)年)「冷泉院」(同年)「三条院」(寛仁元(1017)年)と贈られた。繰り返しになるが、「天皇」は一切使用されなくなってしまったのである。 それが突然復活したのは約850年後、天保11(1840)年の「光格天皇」からのことである。復活のきっかけは儒学者からの意見であった。例えば、大坂の町人学校として名高い「懐徳堂(かいとくどう)」の責任者であった中井竹山が、当時の老中、松平定信の諮問に応じて提出した『草茅危言(そうぼうきげん)』(寛政元(1789)年)に「天皇の文字が廃されたことを嘆く」と記している。 実は、「院」という称号は、大名や裕福な庶民でも使用しているものなのである。これでは「極尊」である立場の方への称号としてふさわしくない。天子も徳川将軍も庶民も「院」で呼ばれるなら、死後は同列になってしまうからだ。そうではなく、特別な存在であることを示すために「天皇」の称号が求められたわけである。2018年4月、報道陣に公開された京都御所・紫宸殿(ししんでん、寺口純平撮影) 「天皇」復活が、先に述べた「大政委任」論の定着し始めた時期にあたるのは偶然ではない。もちろん、復活は禁裏が一方的に決めたことではない。徳川公儀も承認してのことである。その後も崩御した天子には相次いで「天皇」が贈られるようになって、仁孝天皇、孝明天皇と続いたのである。明治維新後はさらに変化して、生前から「天皇」が使用されるようになった。 その結果、歴代「極尊」の中に、「天皇」と「院」という両方の称号が混在することになった。これが問題視され、全員に「天皇」が贈られることになった。ただし、いったん「円融院天皇」のように、「院」に「天皇」を連ねることにしたが、語意の重複を指摘され、「院」が取り除かれることになった。それが大正14(1925)年のことである。つまり「円融天皇」「花山天皇」「一条天皇」「冷泉天皇」「三条天皇」と現在のような称号になって、まだ100年もたっていないのである。 それでは、歴史用語として、「天皇」に替えてどのような呼称がよいのか。渡辺氏は「禁裏」を使用しておられるが、組織や建物と混同してしまうおそれがある。そこで仏教大の青山忠正教授に従い、「天子」を使用したいと思う。「天子統仁(おさひと)」という感じである。しかし、このままでは誰を示しているか、読者にはわかりにくいと思うので、(孝明天皇)と併記しながら、今後の話を進めていきたいと思う。【主な参考文献】藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年)渡辺浩『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、1997年)青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)

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    「新選組」坂本龍馬はなぜ有り得たか、禁断の幕末史には根拠がある

    中村武生(京都女子大非常勤講師) 「坂本龍馬は新選組に入ったかもしれない」。こう言うと、この筆者はなんと奇をてらっているのかと、読者の方は思われるかもしれない。 新選組は京都で龍馬の命を狙った組織の一つである。言わずもがな、龍馬は徳川公儀(幕府)を倒そうと東奔西走し、新選組は公儀を維持しようと尽力した。全くの水と油の関係である。その組織に龍馬が入るはずがない、と思うのも無理はない。 だが近年、明治維新政治史は飛躍的に実証研究が進んでいる。その成果は従来のわれわれの常識を小気味よく裏切りつづけている。どうか以下の話をお読みいただきたい。 文久2年6月(1862年7月)、薩摩の実力者、島津久光が勅使を奉じ、約1000の兵を率いて江戸城に乗り込み、政治改革を推し進めた。一般に文久の改革とよばれる。この流れの中で、亡き大老井伊直弼の数年前に行った政策の多くが否定された。その一つが安政の大獄である。井伊の政治に反対して多数処罰された者たちが罪を許され、社会復帰を始めたのである。 将軍後継候補だった一橋(徳川)慶喜や、越前松平家当主を隠居させられた松平慶永(春嶽)らがそれである。彼らはそれぞれ将軍後見職、事実上の大老である政事総裁職となり、徳川政治の中枢にのぼった。新しい政治の風が吹こうとしていたのである。 これに反応したのが出羽庄内出身で、江戸神田御玉ケ池で剣術師範をしていた清河八郎である。同年閏(うるう)8月、清川は逃亡生活中だった。前年の文久元年5月、ささいなことで町人を殺害したからである。 清河の見解はこうだ。いまだ大赦が広く行われていない。慶喜や春嶽ら身分の高い者に限らず、速やかに身分の低い者も対象にすべきである。この実行が今日の急務である。そうすれば、全国の人々はみなその恩を感じ、天子(天皇)の徳は天地に広がり、徳川将軍家の威光も四方に輝くだろう。もっとも、大赦の対象となる者の中には、清河自身や仲間が含まれると考えているのであるが。 清河の考えに賛同したのが旗本の松平忠敏である。忠敏は新設の軍事学校、講武所で剣術教授方を務めていた。同じく教授方世話役で、清河と親しかった山岡鉄太郎(鉄舟)からこれを知らされた。新選組が壬生で旗揚げし、最初に屯所を置いた八木邸=2016年12月、京都市中京区 折しも、米国など5カ国と通商条約を結んでからというもの、国内では浪士による要人や外国人へのテロが相次いでいた。例えば、井伊直弼が殺された桜田門外の変、英国公使を襲った東禅寺事件が起きた。また本来なら政治発言を許されない立場の浪士が、禁裏(朝廷)にも意見を述べるなど混乱が広がっていたのである。 忠敏はこの状況を改善するため、浪士の取り立てには意味があると判断した。そこで江戸近郊の浪士のリーダーを選び、翌春に予定されている将軍家茂の上洛(じょうらく)に供奉(ぐぶ)させると主張した。天子(孝明天皇)が将軍に対して通商条約破棄(攘夷/じょうい)の期日を求めていた。その返事のために将軍は上洛する。龍馬を気に入った春嶽 忠敏の計画案に目付の杉浦正一郎(梅潭)や春嶽が賛同した。その結果、同年12月9日、浪士取立が正式に決定する。松平忠敏が浪士取扱に任じられた。 その直後の13日に忠敏から杉浦に対して浪士の名簿が提出される。一覧には取り立てるべき候補者として、12人挙がっていた。先頭に清河、続いて池田徳太郎、石坂宗順と並ぶ。当時獄中にあった清河の盟友である。続いて内藤文七郎や堀江芳之助、杉浦直三郎、倖塚行蔵などの水戸浪士をはじめ、磯新蔵(筑前)、大久保杢之助(常陸土浦)、村上俊五郎(阿波)が連ねる。他にも北方探索で知られる松浦武四郎の名があり、興味深い。 しかし、それ以上に注目すべきは、坂本龍馬の名前があったことである。もうお分かりだろうか。この浪士取立計画の延長で浪士組が結成され、その中から新選組が生まれるのである。その新選組と敵対する人物が、近藤勇や土方歳三が関わる前に、その母体の構成員候補だったわけである。すなわち「坂本龍馬は新選組に入ったかもしれない」わけである。 この名簿は、清河八郎から得た情報に基づいて作成されたと考えられる。清河と龍馬はともに北辰(ほくしん)一刀流で剣術修行していたので、清河は龍馬を知っていた可能性がある。それだけではない、一つ気になることがある。それはこの名簿が提出される直前、龍馬が松平春嶽を訪ねていたことである。 同年12月4日、龍馬は江戸城常磐橋の邸宅を訪れ、春嶽への拝謁(はいえつ)を願った。早速翌5日夜の約束がかない、同郷の間崎哲馬、近藤長次郎(のち上杉宗次郎)とともに訪問し、春嶽に大坂湾周辺の海防策を申し立てた。すなわち「京都防衛策」にほかならない。龍馬の策に春嶽が共感した。2017年10月、京都市の酢屋で坂本龍馬の肖像画が初めて公開され、大勢の見物客が訪れた(寺口純平撮影) 龍馬は海岸線の防衛、つまり「海防」への関心が非常に高かった。たまたま江戸に剣術修行に来ていた嘉永(かえい)6(1853)年、ペリー来航に出会う。故郷の父八平へ「外国船がところどころにやってきているらしいので、戦争も近いうちに起こると思います。そのときは外国人の首を打ち取り、帰国いたします」と手紙を送っていたことでも、興味のほどがうかがえる。 龍馬は同年12月、砲術家の松代家臣、佐久間象山に入門している。帰国後の安政2(1855)年11月1日、土佐山内家の砲術家徳永弘蔵の西洋砲術操練にも参加している。翌年4月には入門も果たしたようだ。土佐も沿岸の国である。海岸線でいかに日本を守るか、その思いを持ち続け、海防の見解を春嶽に述べたといえる。 先の訪問の4日後、近藤長次郎とともに三たび常磐橋邸を訪問した龍馬は、春嶽に建白書を提出した。建白書には「摂海之図」が添付されていた。図は現存しないが、「摂海」は大坂湾と同義語なので、直接に春嶽に述べた「大坂近海の海防策」を具体的に示したものであろう。その4日後、松平忠敏は最初の浪士名簿を提出したのである。春嶽は龍馬らの大坂海防策に共感できたわけだから、意に留めたことであろう。龍馬は「土佐勤王党」から嫌われていない武市半平太の自画像 ちなみに春嶽の回想によれば、このとき龍馬は勝海舟などへの紹介を依頼したという。春嶽がこれに応じ、龍馬は勝の門に入る。それほど春嶽は龍馬を信用した。その際、春嶽から松平忠敏に龍馬の情報が及んだ可能性を指摘しておきたい。 なお、言うまでもないが、龍馬は勝に海軍技術を学んだ。ここまでの流れでおわかりいただけると思うが、国防のためには砲術だけではなく、軍艦を操る技術の習得が不可欠なのである。その最高クラスの教養人である勝に学ぶのは当然である。だから「勝の弟子になった龍馬は『開国論』に転じた」とか、「徳川家の走狗になった」と土佐の領袖(りょうしゅう)武市半平太ら、いわゆる「土佐勤王党」メンバーから嫌悪されたというのはあたらない。 むしろ「土佐勤王党」メンバーの多くは勝に近づいている。例えば、のちに天誅(てんちゅう)組の挙兵を指導する吉村虎太郎が訪ねたことがあるし、「人斬り」で知られる岡田以蔵も、ある時期門人であった。新選組が襲撃した池田屋事件で落命する望月亀弥太は勝の弟子としても知られている一人だ。長州毛利家に付属して禁門の変(元治甲子戦争)に参加した安岡金馬(平安佐輔)も出陣前に勝にあいさつに来ている。門人だったからである。 それどころか、前述の間崎哲馬は、清河に宛てて「最近の勢いは、『尊攘(尊王攘夷)』のことも実現できそうです。なるべく『幕府』を補助し、『天朝(天子)』を推戴(すいたい)して『公武合体』となるよう、全国心を一つにして外国人から侮られないようにしたいと思います」と述べている。ここで注意してほしいのは、「土佐勤王党」の主要メンバーが「公武合体」を望んでいることである。 実は、当時のほとんど全ての人がこの国の防衛体制を心配し、「公武合体」を望んでいたのである。というのも、「公武合体」は「尊王攘夷」の対立用語ではなく、国論を統一するという意味で使われたからである。当時、徳川家が決めたことを京都の禁裏が平気で覆していた。これを「政令二途」という。これを「一途」にしなくてはならないと考えるのは当然である。これが「公武合体」である。 「尊王攘夷」も天子を尊び、外敵から国を守ることだから、これまた特別な思想でもなく、当時の日本人のごく一般的意識といえる。平野国臣や真木和泉など、一部の特異な考えの志士を除いて、文久年間(1861~64)に「倒幕(討幕)」を本気で考えた者などほとんどいなかったといってよい。 さて、浪士の人選に話を戻そう。目付杉浦正一郎のもとには、その後も松平忠敏から引き続き「浪士姓名」一覧が届けられている。翌文久3年初頭のものはとりわけ目を引く。龍馬のほか、平野、真木、田中河内介、藤本鉄石、原道太、水郡(にごり)善之祐、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らが挙がっているのである。「浪士」を結ぶたった一つの共通点 久坂のような長州の家臣や、平野、真木など後に「親長州」浪士といっていい人物が多数いる。しかも、西郷吉之助(隆盛)まで含まれている。いずれも新選組を含む会津若松城主松平容保がのちに追討の対象とする人物たちである。宮部鼎蔵にいたっては池田屋事件での戦死者として知られる。いったいどういうことなのか。 ここまでの選抜者には一つだけ共通点がある。あくまで清河と交流のあった人間ばかりなのである。選ばれた側が浪士取立についてどのように思っていたか、分かる数少ない史料がある。京都国立博物館蔵「坂本龍馬関係資料」に含まれた「龍馬乃遺墨雄魂姓名録」である。これは龍馬の手記と長く信じられてきたが、最近では龍馬のおいで、同じく勝の門人であった高松太郎(小野淳助、坂本直)のものと理解されている。 この手記には「浪人頭清河八郎(略)、この人は浪人頭を命じられ、浪士がやってきたときは二人扶持(ふち)に加えて金十両を徳川政府より下されると聞いた。わずかの間に浪人が45人やってきたらしい。この浪人は将軍(「幕府」)上京のときにやってくると勝先生から夜聞いた。これは『春嶽公、大失策也(なり)』。『幕』も大いに勢いが無くなったと知るべきだ。『一笑、一笑』」とある。書かれたのは文久3(1863)年の1月22日夜である。 「大失策」と判断する理由はよくわからないだが、勝や龍馬に最も近い人物の見解として興味深い。勝も同じころ、日記に「江戸城に参上した。杉浦正(一郎)へ『偽浪人』の事を議す」と述べる。勝も杉浦と浪士取立について論じたことがあったのだ。「偽浪人」とはいかにも含みがありそうだ。 なお、龍馬も同じ時期、杉浦と軍艦順動丸に乗り合わせている。勝が順動丸を動かし、春嶽らを上方へ移送するためである。1月23日に品川を発した船は、兵庫を経て、29日大坂に着く。その順動丸にどこからか不明だが、龍馬は乗っていた。杉浦の日記に「順動丸艦中で坂本龍馬に初めて会った。歓話を尽くした」とある。具体的な中身はわからないが、どうやら会話が弾んだようである。「英名浪士」として当初から選抜されていた龍馬を杉浦は注目したことだろう。壬生寺にある近藤勇の胸像 しかしながら、龍馬をはじめ、ピックアップされた浪士たちは、結局浪士組に参加することはなかった。少なくとも江戸で松平忠敏が候補者に打診した形跡もみられない。どうなったのか。実は清河とその盟友たちを除き、浪士は一覧から選ばれず、改めて広く公募されたのだ。それに反応した者の中に、のちの新選組首脳となる近藤勇や土方歳三が含まれていたのである。こうして近藤や土方と、龍馬は同じ組織に入ることはなくなってしまった、というわけである。 もし、当初ピックアップされた人物たちが浪士組に入っていたなら、そして彼らが京都守衛に関わり新選組になっていたなら、維新史はまったく異なったものになっていたはずである。その可能性は全くなかったとはいえない。【主な参考文献】三野行徳「幕府浪士取立計画の総合的検討」(大石学編『一九世紀の政権交代と社会変動』所収、東京堂出版、2009年)町田明広『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)