検索ワード:司法制度/19件ヒットしました

  • Thumbnail

    テーマ

    「グルが神になる日」死刑執行秒読みの波紋

    オウム真理教をめぐる一連の事件で、死刑が確定した教祖、麻原彰晃(本名・松本智津夫)ら13人の死刑執行が秒読み段階に入った。執行には慎重論も根強いが、その最たる理由は「教祖麻原の神格化」である。グルが神になる日はやって来るのか。議論の核心を読む。

  • Thumbnail

    記事

    上祐史浩手記、麻原を「不死の救世主」にしてはならない

    上祐史浩(「ひかりの輪」代表) まず、一連のオウム事件の被害者、遺族の方々に、当時の教団の活動に重大な責任を有した者の一人として、改めて深くお詫び申し上げたいと思います。これを踏まえた上で、今回依頼されたテーマである麻原彰晃(本名、松本智津夫)の死刑執行などについて論じたいと思います。 ご存じの通り、麻原の死刑執行が近いとされています。そして、ようやくその時が来たというのが今の私の率直な心境です。 1997年前後、麻原は自分のハルマゲドン予言が外れ、心身に変調をきたし、裁判で不規則発言を始めました。その頃から、私は以前のように、麻原を絶対視することに、徐々に無理を感じるようになりました。その後、悪戦苦闘しつつも、麻原信仰から脱却し、その10年後の2007年に、アレフ(現Aleph・旧オウム真理教)を脱会し、「ひかりの輪」を設立しました。 私が脱会する前のアレフは、当時代表だった私に賛同する者と、麻原の家族(麻原の妻、三女、次女ら)に賛同する者(主流派)に分裂しました。その中で、私たちは、麻原の絶対性を否定し排除している「グル外し」と激しく非難され、教団活動からも排除され、そして幽閉されました。彼らの言う「グル外し」の最たる理由は、私たちが麻原の事件への関与を認めた上に、麻原の刑死を前提とした話をしたという事が含まれていたのです。 その後も主流派は「グル(麻原)の死を前提にした話をするなどとんでもない」と激しく非難を続けました。彼らの主張は「教団は事件に関与していない」という陰謀説や、「最終解脱者のグルが事件をなしたとすれば、それを総括・否定できない」、さらには「グルが(刑死を含めて)死ぬのは弟子がグルを求めないから(帰依しないから)」といったものでした。すなわち、麻原の死自体が、アレフでは「タブー」だったのです。 この背景には、麻原が変調を来す前に、獄中から改めて予言を説き、自分は不死の身体(陽身)を作るといったメッセージを出して、麻原の予言の成就・復活を期待させるような言動をしていたことがあります。麻原は刑死さえしない「不死の救世主」という主張です。 こうした状況の中で、2006年9月に麻原の裁判が終結し、アレフでは現実的かつ合理的、合法的な活動はできないという考えを私たちは強くしました。それが、翌2007年に脱会し新団体「ひかりの輪」を設立して、麻原への依存から脱却する枠組みを作る理由の一つとなりました。 そして、あれから10年以上経った今年、麻原の死刑執行の本格的な検討が始まりました。私たちが10年以上前から考え続け、試行錯誤しながら行動したことがようやく今、現実的な意味を持つようになりました。1996年4月、厳戒態勢のなか東京地裁に向かう麻原彰晃被告を乗せた護送バス=東京拘置所 もちろん、一連の事件後、麻原の死刑執行を望まれてきた被害者、遺族の方々のお気持ちとは比べものになるものではありません。ただ、この間、自分を取り巻く状況が目まぐるしく変わり、麻原の死刑執行について「ようやくだな」というのが率直な思いです。 では、麻原の死刑が執行された場合、アレフはどんな反応を示すのでしょうか。よく一般の方にイエス・キリストが処刑された後に復活し、救世主として神格化されたように、アレフにおいても麻原が死刑によって神格化されることはないのか、と聞かれることがあります。 私はそうした心配はないと思います。なぜかというと、既に「神格化」されているからです。アレフは麻原から物理的に離れて久しく、いつでもどこでも麻原は自らの「超能力」で信者を見守っており、例えばアレフの道場にも、麻原は存在すると説いているそうです。極めて低い報復テロの可能性 さらに、妄想的な信者の中には「麻原の姿を見た」という者もいます。そもそも瞑想(めいそう)を好み、トランス状態に入りやすい人たちが多い教団ですから、そうした話は出てきます。笑い話になりますが、20年ほど前、私が拘置所に拘留されていた際、拘置所の外で私の姿を見たと言う人や、道場に私の姿が現れたという人がいたほどです。 重要なことは、死刑が執行されなければ、逆に本当の意味で神格化される可能性があることです。というのは、麻原は獄中メッセージの中で「不死の身体を得る修行をしている」と主張し、逮捕前の著作で「私はイエスのように負ける(=処刑される)のではなく、ダビデのように(戦いに)勝つ救世主である」と示唆しています。 さらにアレフの幹部信者は、弟子たちが帰依を深めれば、麻原は涅槃(他界・死亡)しないと説いています。実際、2012年前後に平田信、菊地直子、高橋克也の3人が出頭ないし逮捕され、麻原の死刑執行が延期になった際には「自分たちが麻原の帰依を深めていたからである」と説いています。自分たちの帰依が麻原に通じて、麻原の「超能力」によって、平田らが出頭したという話になっているとも聞いたことがあります。 よって、死刑を執行しなければ、信者の多くが麻原の予言通り、イエスを超えた「不死の救世主」となったとか、「自分たちの帰依と麻原の超能力が死刑を止めた」と解釈する可能性があります。その結果、アレフ教団がますます勢いづく可能性は否定できません。 そして、宗教における神格化とは多くの場合、信者が自己の信仰を守り、自尊心を充足させるために行うものであり、時には自己防衛反応によるものだと思います。よって、そうした必要がない心理状態を別に与えない限りは、周囲が過剰に心配しても、何ら良い方向に行かないと思います。 結論は非常にシンプルです。社会が麻原を他の死刑囚と同じように扱い、いかなる意味でも異なる扱いをしないことが、麻原の神格化を最小限にして、アレフを善導することになると思います。逆に、過剰反応して社会が普通と異なる扱いをすれば、結果として教団と社会が悪い意味で「共鳴振動」するかもしれません。 その意味で先日、オウム死刑囚の死刑執行を粛々と行うよう法務大臣に求めた被害者団体の方々の姿勢は、神格化を防ぐ手立てになると思います。法務省や警察関係者は、執行に向けて入念な準備が必要だと思いますが、メディアが過剰に騒ぎ立てれば、アレフの抑制のためには「逆効果」となるのではないでしょうか。記者会見する麻原彰晃死刑囚ら=1990年 さて、一部報道では、死刑執行の際、信者による報復テロなどが起きるのではないかと心配する声がありましたが、私の知る限り、そうした心配もまずないと思います。 なぜならアレフは、自分たちは不殺生の戒律を守り、過去にも殺人やテロは一切やっていないという立場だからです。そもそもオウム事件は「何者かの陰謀である」と布教しており、過去にも未来にも、殺生をする者ではないという意識があるからです。 この背景として、過去の事件に関与した者たちは、拘置所に収監中であり、現在アレフにいる信者は、95年までの教団武装化に関与した主要なメンバーではなく、過去の教団のテロ事件を実体験していないという事情があります。 ただ、麻原は逮捕される直前に、同じ旧上九一色村(現・山梨県富士河口湖町)にいた側近の幹部信者に「自分が逮捕されたらテロを続けろ」とか、「自分を奪還しろ」と焦りのあまり言ったことがあったそうです。麻原と同等ではない6人の子供 しかし、逮捕後はそのようなことをすれば破壊活動防止法(破防法)に抵触する状況から、破壊活動はしないよう指示し、破防法適用申請の弁明手続きの中でも、信者による奪還やテロ行為を明確に否定しています。 そもそも、麻原は逮捕直後、弁護士を通して「一連の事件の関与を認めないのは、外にいる自分の弟子たちの修行を確保する(=教団を維持する)ためだ」と伝えています。奪還やテロは致命的になるため、それを放棄したと考えられます。ましてや、死刑執行後に「報復テロをしろ」という指示は一切ありません。 そして、オウム真理教の教義では、仏教の戒律に反する殺生・殺人などの行為を正当化できるのは、麻原だけであるとされています。これは捜査と担当した警察関係者やオウム専門の弁護士なども確認しています。 しかも、そうする場合は、麻原の指示通りに行う必要があり、「死刑が執行されたならば報復テロをしろ」という麻原の具体的な指示がないにもかかわらず、信者が勝手にそれをやれば、「殺人の悪行によって地獄に落ちる」行為になると解釈されています。 とはいえ、念のために言えば、今から18年前の2000年前後には、ロシア在住のオウム信者のグループが麻原を奪還しようと、日本での爆弾テロを計画した事件があり、当時未成年だった麻原の家族がこれを称賛するなどして波紋を広げました。 しかし、そのグループの中で疑問を感じた者が、グループ外のロシア信者と連絡を取り、ちょうど出所して教団に復帰した私にも連絡が届いたので、私は麻原自身が奪還テロを否定したことを繰り返し伝え、家族にも奪還を否定するメッセージを表明するよう要請しました。 さらに、日本とロシアの捜査当局に告発して、教団信者も捜査に協力したので、彼らはロシアで逮捕され、爆弾テロは未然に防がれました。 これは、外国人の信者と当時未成年だった家族が、あまり事情を理解できていなかった結果だと思います。この事件以降、そうした行為の無意味さを改めて実感した信者は多いと思います。そして、私が知る限りでは、この事例以外に妄想的な願望のレベルではなく、具体的な構想・計画として、奪還を考えた事例があったとは思いません。仙台拘置支所に到着したオウム真理教の死刑囚を乗せたとみられる車両=2018年3月、仙台市若林区 次に、麻原の家族が報復テロなどを指示する可能性を考えてみましょう。まず、麻原と同等に「最終解脱者」と位置付けた6人の子供がいます。そのうち2人が麻原の妻の長男と次男で、他の4人はいわゆる愛人の子供です。しかし、あくまで麻原が根源(開祖)です。よって、麻原自身が違法行為を禁じたことを理解している限り、麻原の指示を子女が覆すとか、子女に指示された幹部信者が、それに従うことは考えにくいと思います。   また、アレフの信者の中に、麻原と同等に麻原の子女を信じている者は、さすがにいないでしょう。さらに、2000年には三女・次女と長女の対立が刑事事件に発展し、2013年末からは、再び家族内で分裂が生じました。そのため、古参信者を中心に家族への求心力は低下し、「やめたいが行き場もないし…」という消極的な形で、教団に残る出家信者が多いという情報もあります。 さらに、多少内部的すぎる話になりますが、破防法弁明手続きでの麻原の考えを厳密に理解するならば、仮に麻原の子女が最終解脱者だとしても、麻原同様に殺人を指示できる者とはしていません。これは、元オウム信者のためにも、念のためにお伝えしておこうと思います。終焉したオウムのテロ 麻原の死刑執行は理論上、オウムの教義上、殺人を指示・正当化できる権能を有する者がいなくなるという意味で「オウムによるテロ事件の終焉(しゅうえん)」だと私は思います。それが今年であるならば、くしくも平成元年(1989年)に、内部信者と弁護士一家の殺害で始まった一連のオウム事件が、ちょうど平成の間に清算の時を迎えることになります。 もちろん、麻原の死刑が執行されれば、実際にアレフなどの信者はかなり精神的ショックを受けると思います。前述したように、アレフの少なくとも一部は「信者がグル(麻原)を必要とし、帰依を深めて、涅槃(他界・死亡)しないように懇願すれば、(その超能力によって)延命する」と説いていますから、一種の挫折感が生じるかもしれません。 これは、逮捕された後も20年間以上、麻原が過去の一連の事件に関与した事実、その予言が現実ではなかった事実、超人ではなかったという事実を受け入れることなく、自分の信仰・思想の過ちを直視して清算することができなかった結果と言わざるを得ません。 逆に言えば、国が何らかの理由で、死刑執行を中止した場合、アレフは教祖とその信仰実践が正しかったと考え、彼らのいわば「宗教的な勝利」と解釈し、信仰と布教を深める可能性があるということです。 他にも、麻原の死刑執行に伴い、「後追い自殺をする信者はいないのか」と聞かれることがあります。私はその可能性は低いとは思いますが、全くないとは言い切れません。 15年以上前の話ですが、麻原の家族の一人が「麻原の後を追っていい」という教えがあるとの解釈をしていました。また、彼女に自殺を求められた幹部信者や他の家族の話も聞きました。とはいえ、これらは随分前の話であって、現在はそうした精神状態ではないと思いますし、そう信じたいと思います。 その意味で本稿でも確認しておきたいことは、麻原とオウム真理教の教義において、「グル(麻原)が死んだら後を追うべきである」という教義はないし、自殺は今生の苦しみから逃げるものと解釈されて、後追いしていいとはされていないのです。 さらに、麻原は逮捕以前に私を含めた当時の高弟に対して「後を追うことは許さない。なぜならば後追うことができないからだ」という趣旨の話をしています。「後を追うことができない」とは、死んだ後に転生しても麻原と同じ世界に転生できないという意味です。 こうした問題の背景には、いまだにアレフが「教団が一連の事件に関与していない」という陰謀説を唱えていることがあります。とはいえ、教団を裏で支配しているとされる麻原の家族の一部やアレフ上層部が、自ら陰謀説を信じているかというと、これまでの経緯を考えればそうではないと思います。 麻原の事件への関与は、多くの弟子たちの証言によって既に多くの裁判で認定され、事実が確定しています。また、麻原は逮捕前、私個人にサリン事件に関して「教団が悪いことをやった」と言いました。 さらに、逮捕後に接見した弁護士にも「死刑を覚悟している」と話しながら、「もし関与を認めても共犯の弟子たちは救われないし、外にいる弟子たちの修行を確保しなければならない」として、事件関与を認めない方針を示しています。この弁護士とのやりとりは、麻原の家族や最高幹部など当時の教団上層部には伝わっています。外国特派員協会で会見するオウム真理教の上祐史浩氏=1995年4月 そして、麻原の妻は、自身が内部信者の殺人現場に同席し、有罪判決を受け、教団の武装化を逮捕以前から知っており、裁判でも麻原の事件関与を認めています。麻原の娘たちやアレフの現在の最高幹部Nなどにも、私は麻原や教団が事件に関与したことを繰り返し伝えました。その件で、彼らが多かれ少なかれ悩んでいたことも知っています。最高幹部のNは、起訴はされませんでしたが、教団武装化には関与していました。 よって、真実は分かりませんが、彼らは麻原や教団の事件関与を理解しながらも、麻原への帰依や信者の維持・獲得などのために一般信者にはそれを隠しているのではないか、と感じざるを得ません。 そして彼らの行動が、私がサリン事件発生当時に麻原の関与を否定する広報活動を行ったことと、重なって見えてしまいます。麻原の逮捕前後の私は焦っていました。逮捕不可避の流れにあらがって必死に広報活動を行いましたが、その愚かな行動の結果は、みなさんがご存じの通りです。 ただし、これもまたあくまで私が感じていることですが、客観的に見れば、通常なら麻原が事件に関与したと推察するに十分な証言や証拠があるのに、それを信じたくないという思いが強かったり、関与は疑わしいと他人に主張している間に、通常の推察ができなくなる現象のようにも思えます。オウムは平成を象徴した宗教 あくまで一般論ですが、人は自覚して嘘をつくよりも、真実だと思い込んでその通りに動く方が楽です。自己を救世主と位置づけた麻原にも、そうした面があったのではないかと感じています。心理学的にも「空想虚言症」という概念があるからです。 ともかく、原因や動機は別にして、アレフは新しい信者に陰謀説を説いて、入信や麻原への抵抗感を弱めています。そして、新しい信者は陰謀説を信じてしまえば、麻原の死刑がひどい冤罪(えんざい)であって、必然的なものとして受け入れられることではなくなってしまうのです。 これらの現状を踏まえれば、今後のアレフには、麻原の死刑執行に加えて今まで避けてきた「過去の清算」として、二つの問題が生じる可能性があります。 一つは、被害者に対する賠償の問題です。長年続いていた被害者団体とアレフの調停が、アレフが拒絶する形で昨年12月に決裂し、今年2月初めに被害者団体が10億円以上の賠償を求めて東京地裁に訴える事態に至りました。基本的にアレフは信者の教化活動において、麻原の事件関与を認めずに陰謀説を説いており、それは賠償と相矛盾する行為です。 今後、アレフが現有資産を流出させて支払いを回避する恐れや、被害者団体が差し押さえの措置を取るか、また裁判がどのくらいのスピードで終了するかが、注目されると思います。 さらに、脱会した信者によると、支払いを逃れるためか、アレフの幹部信者が1年半ほど前から教団の自主解散を検討しているという情報もありました。言い換えれば、こうした水面下の駆け引きが被害者団体とアレフの間で続いてきたということです。 二つ目は、麻原の死刑執行とともにアレフに起こり得ることは、彼らが使用している麻原個人やオウム真理教の著作物に関する著作権問題です。アレフは、麻原やオウム真理教の著作物を使って教団を運営し、収益を上げています。これに対して、被害者団体はオウム真理教の著作権が宗教法人オウム真理教の破産業務の終結とともに、被害者団体に譲渡されており、その使用の停止をアレフに求めてきました。オウム真理教事件をめぐる賠償の状況  これに対して、アレフは「麻原個人の著作物であり、被害者団体に著作権はない」と反論し、事態は膠(こう)着しています。ところが、麻原が死刑になると、これらの著作権は麻原の妻と子供たちに相続されます。 相続者が複数いる場合、すべての相続者が合意しない限り、アレフに著作権の利用を認めることはできず、1人の相続者だけでも単独で、他者が著作物を使用することを差し止め、損害賠償を求める手続きができるようです。  その中で、麻原の四女はメディア上で両親とアレフを繰り返し否定しており、アレフの使用を認めないと思われます。また、三女、次女、長男も「自分たちはアレフとは関係がない」と主張しており、アレフの著作権使用には反対するかもしれません。こうして相続人全体がアレフの使用で合意する見込みは乏しい中で、利用を拒む正当な理由があるか否かが問題となります。そのために、家族間で訴訟が起きる可能性もあります。 仮にアレフの使用が禁じられた場合、それを無視すれば犯罪になる可能性があります。著作物とは、書籍や説法ビデオに限らず、教学用の説法集や瞑想(めいそう)教本、詞章・歌・マントラなどの映像・音響教材の一切を含み、その複製、販売、陳列、上映などが禁止されますから、教団には大きな打撃になると思われます。 こうしてみると、オウム事件は平成元年に始まり、2018年以降平成の時代の終わりとともに、アレフが教祖、教え(教材)、教団組織という、宗教団体の要となる三つの要素すべてにおいて、過去の清算を迫られる重要な時期を迎える可能性があるということになります。 こうした意味でも私は、オウム・アレフが「平成の宗教」だったのではないか、という印象を今強くしています。

  • Thumbnail

    記事

    死刑執行後「教祖麻原の遺骨」は誰が引き取るのか

    島田裕巳(宗教学者) ここのところ、オウム真理教の教祖であった麻原彰晃(本名、松本智津夫)死刑囚の死刑執行が迫っているのではないかと報じられている。教団のメンバーで死刑が確定している7人が、東京拘置所から別の拘置所に移送されたからだが、法務省は、移送と死刑執行は関係がないとしている。 刑事訴訟法は、死刑判決が確定して以降6カ月以内に執行することを規定している。だが、現実には、そうした例は少なく、100人以上の死刑囚が拘置されている状況がずっと続いている。中には、死刑が執行されず病死する者も少なくない。 同一事件の共犯は同時に執行されることが慣例にもなっているが、オウム真理教の事件の場合、確定死刑囚の数は13人に及んでいる。これを一度に執行することは、これまでの歴史を考えると相当に難しいであろう。 しかも、2019年には現在の天皇の退位と、新天皇の即位が予定されている。20年は、東京五輪が開催される。こうした年に死刑を執行することは、これまでの例からしても考えにくい。実際、前回の東京五輪が行われた1964年には1件も執行されなかったし、90年から92年にかけても執行されていない。となれば、逆に今年中の執行が現実味を帯びてくることになる。 オウム真理教事件は複雑である。しかも、キーパーソンだった教団の科学技術省大臣、村井秀夫元幹部が殺害されたこともあり、サリンの散布を含めた殺人の実行を誰が決定し、指示したのかでははっきりしない部分が少なくない。地下鉄サリン事件でも、最終的な決定は麻原死刑囚と村井元幹部の間で行われた。麻原死刑囚が法廷で事件の詳細について証言しなかったこともあり、実行の決定がどのようになされたのか、決定的なことは分かっていない。 だが、教団がサリンなどの毒ガスを製造して数々の殺人を実行したこと、事件全体の首謀者が麻原死刑囚であることは間違いない。その点で、麻原死刑囚から執行される可能性が高い。では、麻原死刑囚が執行された場合に、それはどのような影響を与えるのだろうか。 麻原死刑囚は、裁判の途中から証言を拒否し、沈黙を貫くようになった。それは、東京拘置所でも変わらないようで、最近の報道では、一日中床に座っていることが多く、食事は独りで食べ、運動には出るものの、家族が面会を求めて東京拘置所にやってきても、それに対しては一切反応しないという。2004年3月、に死刑判決後、東京拘置所に戻ってきた麻原彰晃(本名・松本智津夫)被告を乗せたとみられる護送車(寺河内美奈撮影) したがって、現在の麻原死刑囚が家族や、彼らを介して後継団体「アレフ」など残存している教団に対して何らかの指示を下しているわけではない。2015年には、アレフのメンバーが拘置所までやってきて、壁の前で上を見上げて手を合わせ、何かをつぶやいていると報道されたが、麻原死刑囚とメンバーとの間の交流は一切絶たれているのである。 それゆえ、麻原死刑囚が死刑になることで、アレフなどの教団運営に何らかの具体的な影響が出ることは考えにくい。今でも彼らは麻原死刑囚を宗教的指導者を意味する「グル」として崇拝しているが、麻原死刑囚から新しいメッセージが伝えられる状況にはなっていない。「宗教上有力な武器」が生まれる これは、公安当局が最も危惧していることでもあるようだが、何より問題になってくるのは、死刑が執行された後の遺体をいったい誰が引き取るかである。一般の死刑囚の場合には、遺族が引き取らないケースが多いようだが、教団の教祖となれば、火葬された後の遺骨が崇拝対象になる可能性がある。引き取り手のめどがつくかどうかも、執行の判断に影響するようだ。 現在の日本社会では、100パーセント近い遺体が火葬され、遺族はたいがい墓や納骨堂に遺骨を納め、それを墓参りして拝んでいる。遺骨に故人の魂が宿っているというとらえ方がなされているとも言える。 遺骨に対する崇拝の念が強いのが中世のキリスト教社会で、聖人の遺骨を崇拝し、それによって奇跡が起こることを期待する「聖遺物崇拝」が盛んだった。教会はこの聖遺物を祭るために建てられるもので、現在でも遺骨に対する信仰は受け継がれている。 これが、オウム真理教とも深くかかわる仏教だと、開祖である釈迦(しゃか)の遺骨が「仏舎利」として信仰の対象になってきた。仏舎利を祭るための塔(ストゥーパ)が建てられるようになり、それがやがて寺院へと発展していったのだ。麻原死刑囚の遺骨がそうした形で信仰の対象となり、アレフなどの信仰体制を強化する役割を果たす可能性は十分に考えられる。 さらに、遺骨を所持する人間は権威としてカリスマを帯びることになる。それが麻原死刑囚の家族であれば、麻原死刑囚に代わって教団を率いていく立場にたつことができるのである。 ただ、死刑が執行されたからといって、アレフなどが、かつての事件の二の舞のようなことをくり返すとは考えにくい。当局の監視下にあるわけだし、これまでも麻原死刑囚を奪還するような試みは行われてこなかった。それを実行に移そうとしたのは、ロシアの信者たちだった。彼らは逮捕され、禁錮刑を科されている。インド・クシナガルにある大涅槃寺とストゥーパ。遺跡の上に新しい堂塔が建っている=2011年10月撮影 オウム真理教が、さまざまな事件を起こしたのは、一挙に拡大して多くの信者を抱え、また、バブル経済の影響もあって、布施やパソコン事業などで莫大(ばくだい)な収益を上げたからである。現在のアレフも一定の資産を保有しているものの、その規模はかつてとは比べ物にならない。 だからテロ事件再発の可能性は低いが、教団が教祖の遺骨という宗教上有力な武器を得ることが、これからの拡大に結びつくことはあり得る。しかも、麻原死刑囚は膨大な説法を残しており、独自の修行の方法も確立していた。 現在でもアレフなどに入信していく人間が現れるのも、特異な宗教教団としての体制が整えられているからである。そこに、遺骨という強力な武器が備わったとき、どうなるのか。すぐにそれが教団の爆発的な発展に結びつくこともないだろうが、将来は分からない。 死刑は執行しても、遺骨は家族に渡さない。それは、現在の法律では難しいだろうが、国民の安全を確保するために、国が一定の期間遺骨を預かるといったやり方を検討してもいいのかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    オウム教祖、麻原彰晃の「神格化」を止める手立てはない

    小島伸之(上越教育大教授) 今年1月、最高裁がオウム真理教の元信者、高橋克也の上告棄却を決定したことをもって(無期懲役確定)、オウムによる一連の事件(坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件)に関する刑事裁判がすべて終結した。 共犯者全員の裁判が終了し刑が確定してから死刑囚の死刑が執行される慣例があるが、高橋の裁判が終結したことにより、オウム真理教事件における死刑囚の刑の執行が可能となった。 3月14~15日には、教祖麻原彰晃こと松本智津夫をはじめとする13人の死刑囚のうち中川智正・新実智光・林(現:小池)泰男・早川紀代秀・井上嘉浩・横山真人・岡崎(現:宮前)一明の7人が東京拘置所から死刑の執行が可能な大阪・名古屋・仙台・広島・福岡の各拘置所・支所に移送された。 その移送が共犯死刑囚における死刑の同日執行の慣例を前提に、オウム真理教死刑囚の同日執行に備えるものであるという推測から、いよいよ近づいているとの見方が広まっている。  近代以降の日本において法と新宗教の摩擦の例は枚挙にいとまがなく、刑事裁判において有罪判決を受けた宗教者は多数存在するが、宗教の創始者(教祖)の死刑判決及びその執行の例は、ほとんどない。 著名教団創始者の死として、1945年の創価学会創始者、牧口常三郎の獄死を想起する向きもあるかもしれないが、牧口の死は治安維持法違反並びに不敬罪裁判中の栄養失調による獄中死である。 小規模な宗教集団においては、死者6人を出した1995年の福島悪魔祓い殺人事件の主犯とされた祈祷師、江藤幸子の死刑が2012年に執行された例はあるが、一定規模以上に教勢を伸ばして社会的に知られた教団の教祖が死刑判決を受けた例はオウム真理教事件以外には存在しない。無期懲役の判決を言い渡された元オウム真理教信者の高橋克也被告=2015年4月、東京地裁(イラスト・宮崎瑞穂) このことは無差別テロを含むオウム真理教による一連の犯罪が近代史上においても稀有な例であることを示すものでもある。 他の先進国(共産主義国を除く)に目を向けても、教祖の死刑は、アメリカのカルト集団「ファミリー(マンソン・ファミリー)」指導者チャールズ・ミルズ・マンソンが1972年に死刑判決を受けた例(死刑制度廃止により終身刑に減刑後、2017年獄中死)がある。そして、同じくアメリカのモルモン系カルト小集団の教祖ジェフリー・ラングレンが1990年に死刑判決を受けた例(2006年執行)など、少数が目にとまる程度である。近代史上において稀有な死刑 また、1844年に起きた末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の創設者ジョセフ・スミス・ジュニアの死は、反逆罪容疑での収監中に暴徒に襲撃されて死亡したものである。※画像はイメージです(iStock) さらに、第二次世界大戦後に世界を驚かせた宗教集団教祖の衝撃的な死としては、1978年の人民寺院の創設者ジェームズ・ウォーレン・“ジム”・ジョーンズ、1997年の「ヘヴンズ・ゲート」(UFOを信仰するカルト)創設者のマーシャル・アップルホワイトの死などが知られているが、いずれも信者を巻き込んだ集団自殺によるものであった。 1993年のセブンスデー・アドヴェンチスト分派の「ブランチ・ダビディアン」の教祖、デビッド・コレシュ(本名:バーノン・パウエル)の例も教団の武装化に対する強制捜査中の火災による焼死だった。 また、2010年のカナダのカトリック系カルト集団「アント・ヒル・キッズ」の教祖、ロック・タリオの死は、終身刑で服役中に獄中で他の囚人により殺害されたものであり、いずれも死刑によるものではない。 つまり、仮に麻原の死刑が執行された場合、一定規模以上の宗教集団の教祖に対する死刑執行という点で、近代先進諸国の歴史上においても稀有(けう)な機会が到来することになる。 こうしたことから、来るべき麻原の死刑執行が、オウム後継団体などの信者らによる麻原らの神格化をもたらすのではないか、また、報復的テロ活動や死刑執行前の教祖奪還に向けた実力行使が生じるのではないかという懸念の声が上がっている。 たしかに、そのような可能性は否定できないであろう。しかし、そうしたリスクをもって、麻原らの死刑執行を回避するとすれば、つまり「教祖」がゆえに死刑執行を慎重にするならば、逆に「教祖」の死刑執行が宗教集団の指導者であるがゆえに早められるような事態と同様、法の下の平等の観点から問題が生じることになる。 ただ、オウム真理教に関しては、國松孝次警察庁長官狙撃事件など未解決の「謎」も残っている。もし、死刑囚らからそうした「謎」に関する有益な社会的・国家的情報が得られる機会があったとすれば、これまでに高度な政治的・行政的判断として「司法取引的手法」が用いられたかもしれない。問題は麻原が心神喪失か否か しかし、今日に至る、長期にわたる裁判などの経過を踏まえれば、現段階で改めて有用な情報が得られる可能性は高くないように思われる。 また死刑廃止論の観点から、今回の事件を「利用」する論調にも与すべきではない。制度としての死刑廃止の是非は、今回の死刑執行が伴うリスクとは切り離して、立法論的に検討すべきであろう。 再審請求中の死刑囚の権利保護に関する国際法的な視点はひとまず措くとすれば、死刑廃止論を、現行法を前提に振りかざすことは立憲主義(死刑制度は判例上合憲とされている)や法治主義の重視とは相容れない。 残る問題は麻原が心神喪失の状態にあるか否かである。これまで、拘置所における麻原の異常行動が報じられてきたが、それが詐病か否かについて判断する具体的で確かな情報を得る手段は、我々には存在しない。 最終的には法務省の判断によることになるが、仮に麻原が心神喪失の状態にあるとされれば、刑事訴訟法上彼の死刑執行は停止される。13人という共犯死刑囚の多さも関わり、共犯者同時執行の「原則」をこの場合あてはめないとしても、麻原を除外して他の共犯者のみの死刑を執行することが、事件の性質上妥当なのか否かという判断の余地は残る。 麻原が心神喪失状態にないとすれば、オウム死刑囚の死刑執行に対する法的障壁はないことになる。執行に伴って懸念される報復テロや教祖奪還の違法活動の可能性に対しては、警戒警備を厳にすることによって対応するより他ないであろう。会見するオウム真理教の麻原彰晃教祖 ただ、後継団体などの信者による麻原らの死刑執行後の神格化については、それは人間の内心の自由に属する領域に関する事柄であり、神格化を他律的に防ぐ手段はそもそも存在しない。 さらに言えば、麻原らの死刑が仮に今後も執行されず、後に彼が老衰や病気によって獄死したとしても、「殉教者」とされる可能性がゼロになるわけではない。我々の社会が自由な社会であるためには、神格化の可能性とそれに伴う社会的リスクを警戒しつつも許容するしかないのである。(敬称略)

  • Thumbnail

    テーマ

    青年市長が絶望した「司法の闇」

    全国最年少の28歳という若さで市長に当選し、その後事前収賄罪などで逮捕、起訴され有罪が確定した岐阜県美濃加茂市の前市長、藤井浩人氏がiRONNAに独占手記を寄せた。一貫して無罪を主張し、出直し市長選でも圧勝した異例づくしの経歴。青年市長はなぜ司法と闘い続けたのか。

  • Thumbnail

    記事

    【前美濃加茂市長独占手記】「それでも私は無実である」

    藤井浩人(前美濃加茂市長) 多くの人が幸せを享受できる現在の世の中を次世代に引き継ぐためには、やるべきことがたくさんあります。一人ひとりの社会への意識を変えることや子供たちへの教育など、現状に満足せず将来に向けて政治家として活動したい。そんな気持ちを原点に政治家を志し、約7年になります。しかし、「冤罪」が平気で生み出される時代であることを、改めて自ら認識し、美濃加茂市長を辞することとなりました。 事件の内容は、一審からずっと共に闘ってくださった郷原信郎弁護士の著書『青年市長は“司法の闇”と闘った 美濃加茂市長事件における驚愕の展開』にある通りですので、ここで多くは記しません。 しかし、やはり現金30万円を2回に分けて、しかもファミリーレストランや大衆居酒屋において第三者がいるにも関わらず「渡した」とするなんの証拠もない作り話を事実だと認定してしまう、なんでもありの警察、検察、裁判所が身近にあるということを、多くの国民のみなさんには知っていただきたい。そしていつか自分や自分の周りの大切な人が冤罪の当事者になってしまう可能性があること、誰も目を向けないと司法を取り巻く環境が変わらないことを考えてもらうために筆を取らせていただきました。最高裁が上告を棄却し、決定を通知する文書を手に記者会見する、岐阜県美濃加茂市長の藤井浩人被告=2017年12月13日(文書の一部を画像加工しています) 12月14日に市長辞職となり、50日以内に行われる市長選挙に向けて美濃加茂市は動き始めています。今回の辞職にあたっての私の最後の役目は、これまで市民や多くの関係者の人たちと築いてきた美濃加茂市政を滞りなく引き継ぐことだとして、休む間もなく東奔西走しております。 私は、岐阜県警の警察官の父、パートタイムで働く母に2人の弟を持つ3人兄弟の長男として育てられてきました。幼い頃は駐在所を転々とし、公務員住宅アパートで小学生までを過ごし、美濃加茂市には中学生から暮らしはじめました。政治家という職業には全く関係がない環境で、趣味のサッカーに撃ち込み、地元の高校、理系の大学と進み、就職活動をはじめました。 そんな最中、学生の間で流行したSNS「mixi」(ミクシィ)や雑誌、テレビの影響を受け、アジア諸国へとバックパッカーに出かけました。 大阪から船に乗り、安宿と安価なバスや電車を利用しながら、中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、タイを約2カ月に渡り移動しました。日本の地方で育ち海外留学等の経験もなかった私は、これまでに見たことのない景色や、触れたことのない生活、活気あふれる人々と交わることができました。おかげで、現在の経済的な豊かさがあっても幸せを実感することのできない日本の価値観、海外の若者たちの目標意識の高さ、東南アジアで暮らす子供たちのハングリーな姿勢と日本に対する羨望のまなざしなど、自分自身の生き方を根本から覆されるような衝撃を受けました。 当時、学習塾でアルバイトをしていた私は、この自分が感じた衝撃を子供たちに伝えたいという気持ちとなり、居てもたってもいられず、大学院を修士論文を残した状態で辞め、アルバイト先の塾で働かせてもらうことになりました。政治家を目指した理由 それから数年、学習塾でのやり甲斐に満ちていた頃、中学生から「先生は、世界のことや世の中のことを色々と話してくれるけど、25歳を過ぎてどうして政治家にならないの」と、何気ない質問を受けました。 その時、私自身は社会や我が国の将来に対する思いがありながらも、批判や文句を吐き出すだけで、正面から何も向き合っていないことを深く反省させられました。そして、間もなく、美濃加茂市議選に出馬し、多くの友人やその家族をはじめとした支援者に支えていただき、26歳でトップ当選をすることができました。平成22年10月のことです。28歳で市長に初当選した藤井浩人被告=2013年6月、岐阜県美濃加茂市 さて、市議時代の活動が、今回の事件容疑となるわけですが、26歳で市議となり、政治家としての基礎がない私は、様々な分野の勉強会や視察に出かけ、資料や本を読みあさり、地域や市民活動にも参加するなど、がむしゃらに行動していました。学びを進めることで、共に切磋琢磨できる地方の若手政治家が全国には何人もいることも知ることができ、その活動範囲は加速しながら拡がっていきました。 逮捕から数日経った取り調べの中で、警察官から「市議ってこんなに勉強するものなのか?専業じゃないんだろ?」と押収した資料の量や中身について話をしたときのことが印象的で、私のスタンスとは異なる地方議員像を警察は私に当てはめていたのだろうと感じました。 議員としての活動が手についてきた頃、23年3月11日。東日本大震災が発災しました。議員としてできることに限界を感じながらも、結果的に役に立てたのかは不明ですが、支援物資を集め、3月中に被災地福島県に届けることができました。その後、何度もボランティアとして現地を訪れましたが、震災復興に対して何ができるのかを考える一方で、美濃加茂市における災害に対する備えの不十分さに強い危機感を持ちました。 災害時の備蓄品や、避難方法、インフラのメンテナンス、情報発信など、災害に対する対応についてほぼ毎回の議会において質問を行い、市の執行部に対して提案を行い、議員としての活動に努めました。 そのような活動を進める中、自然エネルギーに対する資料収集や勉強会を通じて、ある男性と出会うこととなりました。男性は、様々な分野の斬新なアイデアを持っており、私もそれなりの知識を持っていたため会話は弾みました。 そして、再度、話をする機会を設けた際、私に現金を渡したとするN氏が現れました。紹介してもらった男性同席のもと数回の会食を行い、使われなくなった学校プールの水を災害時の生活用水としての利用を目的とした、確かなメーカー元である浄水器の実証実験が市の費用負担ゼロで始まりました。 N氏が融資詐欺を繰り返していた人間だったという事を逮捕により知るわけですが、私としては当時、数十人数百人の人と出会い話をする中でも、N氏の人間性と思惑を見抜けなかったことは反省しています。 そして私は市長就任から約1年を迎えたころ、逮捕されました。26年6月24日早朝、目が覚めると自宅の周りにはおびただしい数の記者。近所迷惑になることは明らかであり、急いで支度を済ませ市役所へ入ると、まもなく愛知県警から携帯電話に連絡が入り、任意動向に応じて警察本部へと連れていかれました。 少し前から、テレビや新聞の記者が家にくることがあり、何事かと警戒はしていましたが、現実に何が起きているのか把握できなかったのが正直な感想です。すぐに帰ってこられると自信を持ちながらも、これだけの騒ぎは簡単におさまらないのではないかと強い不安を感じながら、移動車内でTwitterにメッセージを書き込みました。 私の乗せられた車には、何台ものマスコミの車が追跡していることが窓からもよくわかり、県警本部の入り口ではフラッシュがたかれ、ニュース番組を見ているかのような錯覚に陥りました。必要なのは司法改革 状況が飲み込めない中、何人もの私服警官に周りを固められ、奥に長く続く廊下を歩き、狭い取調室にいれられました。携帯電話や電子機器は全て預けるようにと、言われるがままにすると、席に座るやいなや、事情を聞くと言いながら、「さっさと自首をしろ!」と部屋に響き渡る罵声を浴びせられました。今でも鮮明に思い出されます。 「何の容疑なのか」という質問には一切答えず、「往生際が悪い」「自分の心に聞いてみろ」「こんな若造を市長に選んだ美濃加茂市民の気が知れない」…、2人の警察官が交互に私の耳元で罵声を浴びせ続けました。少しでも自分の知っている限りの話をしても一切耳を傾けることも興味を示すこともなく、机に置かれたバインダーの上の白い紙には何も書かれないまま数時間が過ぎました。 らちが明かないと考え、「市役所に帰らせて欲しい」というと、「市役所に戻ったところでマスコミが取り囲み大変なことになる。まずは早く自白して、こっちで対応した方がいい」と、既に逮捕ありきであることを確信させるようなことを言い出しました。「本日中に逮捕状が出なければ帰る」という条件で、その場に残ることとなりましたが、その夜、私の目の前に逮捕状が届けられました。しかし、「10万円と20万円の2回も」との内容。「は?」というのが正直な心境でした。 どんな容疑をかけられているのか全容が分からない不安と、必ず間違いであると証明され、すぐに帰れるだろうという自信との葛藤。そして何より、美濃加茂市はどうなっているのか。市役所や市民の皆さん、支援者の人たちは大丈夫なのか。そんな中、名古屋で活躍されている弁護士の方々を知り、郷原弁護士とも出会うことができました。 その後と裁判の詳細は著書に譲りますが、「証拠は全てそろっている」と言いながら、恫喝(どうかつ)を繰り返す取り調べや、今回の事件とは直接関係のない、市長選の関係者に厳しい捜査が及んだことを振り返ると、捜査に携わった人たちは果たして「藤井は有罪である」ことに確信を持っていたのか疑問を感じます。 最高裁での判断は上告棄却となり、残された異議申し立てをしましたが、12月26日付でこれも退けました。この先は、再審請求を含めて、民事訴訟なども進めながら今回の事件事実を明らかにする活動を続けていきます。2017年12月13日、上告棄却を受けた記者会見後、支援者(左)に励まされる岐阜県美濃加茂市長の藤井浩人被告 同時に、冤罪事件の当事者として身をもって知ることとなった司法の改革の必要性や、5年間で獲得することができた地方自治体における課題の解決、市民の皆さんをはじめ多くの方々からいただいたご支援に対し恩返しをするためにも、政治家としての再起を念頭に努めていきたいと思います。

  • Thumbnail

    記事

    美濃加茂市長事件で露呈した「日本版司法取引」の危険性

    郷原信郎(弁護士) 藤井浩人前美濃加茂市長は、現職市長であった2014年6月、市議時代に業者から合計30万円の賄賂を受け取った収賄の容疑で逮捕され、起訴された。藤井氏は「現金授受の事実は一切ない」と一貫して訴え続けてきた。金銭の授受を裏付ける明確な物証はなく、藤井氏に現金を渡したという業者の証言が唯一の証拠だった。 一審の名古屋地裁は、贈賄供述者を含めた多くの証人の証言を直接聞き、被告人である藤井氏の言葉を聞き、その供述態度も踏まえて供述の信用性を判断した結果、贈賄供述者の証言が信用できないとして、藤井氏に無罪判決を言い渡した。 控訴審の名古屋高裁は、職権で贈賄供述者の証人尋問を再度行ったが、元弁護人による露骨な尋問妨害行為がなされたにもかかわらず、それを不問に付して証人尋問を「なかったこと」にし、新たな証拠がないにもかかわらず、一審裁判所が供述態度から信用できないとして採用しなかった証人の証言を採用し、毎回出廷していた藤井氏には一言も発言の機会すら与えないまま「信用できない」として、逆転有罪判決を言い渡した。 その不当極まりない控訴審判決を、最高裁がそのまま是認し、藤井氏の有罪が確定することなどあり得ないと信じていた。 ところが、12月11日、最高裁の上告棄却決定が出された。それは、この事件の捜査段階から上告趣意書提出までの経過を詳細に述べ、明らかな冤罪(えんざい)であることを訴えた『青年市長は“司法の闇”と闘った 美濃加茂市長事件における驚愕の展開』(KADOKAWA)が発売された8日金曜日から週末を挟んだ翌月曜日のことだった。最高裁決定への異議申し立て後、記者会見する前岐阜県美濃加茂市長の藤井浩人被告(左)。右は主任弁護人の郷原信郎弁護士=2017年12月18日、東京・霞が関の司法記者クラブ 上告棄却決定の理由は、 弁護人郷原信郎ほかの上告趣意のうち、判例違反をいう点は、事案を異にする判例を引用するものであって、本件に適切でなく、その余は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。というものだった。そのわずか3行半の決定文すら、弁護人の上告趣意の内容に対応していない。上告趣意の内容を把握し検討した上で出された決定とは到底思えないものだった。 刑事訴訟法では、上告理由は、405条で(1)「憲法違反」、(2)「判例違反」に限定されている。そして、411条で(3)「上告理由がない場合でも、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるときは、判決で原判決を破棄することができる」とされている(職権破棄)。「三行半」の上告棄却決定 上告趣意書では、二つの「判例違反」の主張と、「重大な事実誤認」の職権破棄を求める主張を行った。弁護団で検討した結果、「判例違反」と「重大な事実誤認」で十分に破棄が期待できる事案なので、「憲法違反」の主張をする必要はないと判断し、「憲法違反」の主張はあえてしなかった。ところが、上告棄却決定では、「憲法違反をいう点を含め」と書かれており、主張していない「憲法違反」を主張したことにされている。 しかも、「判例違反」の主張について「事案を異にする判例を引用するものであって、本件に適切でなく」としているが、上告趣意で主張する「判例違反」のうち、平成24年の「チョコレート缶事件判決」は、本件と同様に、一審の無罪判決が控訴審判決で覆った事件についてのもので、本件と「事案を異にする判例」などとは絶対に言えない。 そして、上告趣意書でも特に全力を挙げて主張したのが、「控訴審判決が贈賄供述の信用性を認めたことが事実誤認だ」ということであり、それは、刑訴法405条の上告理由には当たらないが、「著しく正義に反する重大な事実誤認」なので判決に影響を及ぼす、として、刑訴法411条による「職権破棄」を求めたものだ。 ところが、決定では「単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない」と述べている。もちろん、職権調査は上告審の裁量なので、職権破棄を求める主張をした場合に、それに何も触れないまま例文で棄却されることもある。しかし、重大な事件であれば、職権破棄を求める主張に対して、破棄しない場合には、「所論に鑑み記録を精査しても、411条を適用すべきものとは認められない」などと記載される場合も多い。本件は、人口5万6千人の美濃加茂市の現職市長が逮捕・起訴され、被告人でありながら、市長職にとどまっており、有罪が確定すれば失職するという事件であり、重大な事件ではないなどとは決して言えないはずだ。職権調査をしたともしないとも言わず「上告理由に当たらない」というのは、上告趣意にまともに答えているとは思えない。  名古屋地裁の一審判決は、多くの証人を直接取り調べ、被告人質問で藤井氏の話も直接聞き、丁寧な審理を行った心証に基づき、無罪を言い渡した。ところが、控訴審では、贈賄供述者の取り調べ警察官の証人尋問以外に新たな証拠もなく、毎回欠かさず控訴審の公判に出廷していた藤井氏には発言の機会すら与えることなく、一審判決を破棄して、驚愕(きょうがく)の「逆転有罪判決」を言い渡した。上告趣意が真摯(しんし)に受け止められ、検討されていたら、このような不当極まりない控訴審判決を、そのまま是認し、有罪が確定することなどあり得ない。最高裁は、上告趣意をほとんど検討もせず、最初から結論を決めてかかって、上告趣意の内容とはかみ合わない「三行半」の例文で上告棄却決定を出したとしか思えない。2016年11月、名古屋高裁(後方)で逆転有罪の控訴審判決を受けた、岐阜県美濃加茂市長の藤井浩人被告 最高裁が最初から有罪方向で異論のない事件のように結論を決めてかかったとすれば、それはなぜか。その理由として考えられるのは、贈賄供述者が既に自らの贈賄と融資詐欺の事実を全面的に認め、早期に有罪判決が確定していることだ。贈賄者と収賄者とで事実認定が異なるのは司法判断の統一性を害するとの配慮から、最高裁には本件を無罪方向への見直しを行う気は最初からなかったということが考えられる。確かに、過去30年余りさかのぼって記事検索をしても、贈賄事件での有罪判決の認定と正面から相反する収賄事件での無罪判決が出された例は、藤井氏の一審無罪判決以外にない。「日本版司法取引」の最大の問題 藤井氏の事件では、業者が藤井氏への贈賄供述を始めた段階では2100万円の融資詐欺しか立件されていない段階で、贈賄者が合計3億円以上の悪質な融資詐欺を自白していたのに、その後、余罪は不問に付された。弁護人がそれらの事実を告発したことで、検察官が8カ月も放置していた4千万円の融資詐欺事実を追起訴せざるを得なくなったことなどを重視した一審裁判所は、「闇取引」自体は否定したものの、贈賄証言の信用性を否定する背景事実として「虚偽供述の動機が存在した可能性」を指摘して、藤井氏に無罪判決を言い渡した。 この事件のように、贈賄者に意図的な虚偽供述の動機がある場合にも、贈賄者の事件での有罪判決が確定したことが、収賄事件の無罪判決を妨げる決定的な要因になるとすると、収賄事件で起訴された被告人・弁護人にとって、賄賂授受を全面否認して無罪判決を獲得することは絶望的となる。 2018年6月までには改正刑事訴訟法が施行され、被疑者・被告人が他人の犯罪事実を明らかにするための捜査・公判協力を行う見返りに、検察官がその裁量の範囲内で一定の処分または量刑上の恩典を提供することを合意する「捜査公判協力型協議・合意制度」が導入される。 この「日本版司法取引」の最大の問題は、自分の罪を免れ、あるいは軽減してもらう目的で行われる「虚偽供述」によって、無実の人間の「引き込み」による冤罪の危険が生じることである。最高裁判所(寺河内美奈撮影) 虚偽の贈賄供述で合意にこぎつけ、自分の罪の軽減などの恩典を得た者は、藤井氏の事件の贈賄供述者と同様に、自らの裁判ではその罪を全面的に認めて早期に有罪が確定する。それによって、身に覚えのない収賄の疑いをかけられた側は、絶望的な裁判に追い込まれることになる。 藤井氏は、警察・検察、そして控訴審裁判所という「司法の闇」と闘い続けてきた。しかし、その先にある、最高裁を頂点とする日本の刑事司法自体が、実は「真っ暗闇」だということが、今回の上告棄却決定で明らかになった。「日本版司法取引」が導入されることで、その「闇」は一層深くなることになりかねない。

  • Thumbnail

    記事

    美濃加茂市長事件に思う「みそぎ選挙ってなんだ?」

    川上和久(国際医療福祉大学教授) 「禊(みそぎ)」とは、元来、身体に罪や穢(けが)れのあるときに、川や海の水につかり、身体を洗い清めて清浄な状態にすることを指し、神話の世界で、イザナギノミコトが黄泉(よみ)国から帰ったとき、筑紫日向の水の流れで禊をしたのが始まりとされている。 神話の世界に起源が求められるくらい、人間にとって、罪や穢れを洗い清める必然性が昔からあったわけだが、政治の世界ではなおさら罪や穢れがついて回る。そして、困ったことに、選挙でそれを洗い清めるとする「みそぎ選挙」などという言葉もいつしか使われるようになった。 「みそぎ選挙」といわれて選挙に臨む立候補者は、自身がスキャンダルの渦中にあって選挙活動を行い、勝利することで民意からの信任が得られた、汚名がそそがれたと主張する。秘書を「このハゲー!」と怒鳴り散らして暴行を加えたり、不倫疑惑が報道されたりした候補が、そういったスキャンダルによってこうむったダメージを当選によってはね返す、という理屈は分からないではないが、法に触れて裁判で争っている最中に、選挙で自分が有罪になるのはおかしいとばかりに「みそぎ」だというのは、誰しも違和感を抱くだろう。 一般の国民は法を犯して起訴され、裁判となれば、裁判の中で自らの主張を行うのが普通だ。もちろん、支援者も含めて自らの正当性を訴えることができる場合もあるが、裁判で有罪が確定すれば、それに対して異議を申し立てる方法は極めて限られる。 被選挙権があれば公職に立候補するのは自由で、「自分がやっている裁判で自分は無実だ」と訴えて立候補することはできるものの、そんな候補を有権者は相手にしないだろう。現実には、現役の政治家だけが、自らの潔白をアピールする方法として、選挙という手段を利用できるという不公平感が、違和感につながっているのではないだろうか。 「みそぎ選挙」と言われた選挙は枚挙にいとまがないが、首相にまで登りつめた田中角栄氏の「みそぎ選挙」が多くの人たちの記憶に残っているだろう。米ロッキード社による日本への航空機売り込みのために30億円をこえる資金が投じられ、この詳細が1976年2月に米国で発覚した。1983年10月、ロッキード事件で懲役4年、追徴5億円の実刑判決を受けて東京地裁を出る田中角栄元首相 田中元首相は、商社の丸紅を通して5億円を収受、これが受託収賄にあたるとして、同年7月に逮捕された。その後の裁判は、実に長きにわたった。逮捕から7年近くを経て、83年10月に一審の東京地裁が受託収賄で田中元首相に懲役4年、追徴5億円の実刑判決を言い渡した。そして87年7月、二審の東京高裁判決で田中元首相の控訴は棄却された。最高裁に上告された公訴は93年12月、田中元首相の死亡により棄却されたが、実に17年以上の年月がかかったことになる。ゆるぎなかった田中元首相への支持 その間、田中元首相は無罪を主張し続け、76年12月5日に行われた第34回衆院選では中選挙区制下の新潟3区で16万8522票を獲得。ロッキード事件で逮捕されても、地元の田中元首相への支持はゆるぎないことを見せつけた。 一審で実刑判決が出た後の83年12月18日に行われた第37回衆院選では、22万761票という驚異的な得票でトップ当選。4万8324票で2位の村山達雄候補の4倍以上の得票で、定数5の新潟3区での得票率は、実に46・6%に達した。 ロッキード事件による逮捕、一審判決という節目での選挙で、選挙区の有権者から圧倒的な支持を受けたということが、職業裁判官の審理に影響を与えていいはずもなく、それがみそぎになる、ということでもあるまいが、実際「みそぎ選挙」として注目を集め、有権者の強固な支持が政治的アピールとなって、田中派の結束の維持などにつながった側面は否定できまい。 2010年に美濃加茂市議会議員となり、13年6月に当時28歳で全国最年少市長となった藤井浩人氏。だが、1年後の14年6月、「受託収賄」「事前収賄」などの疑いで逮捕された。贈収賄事件に揺れた岐阜県美濃加茂市役所 「受託収賄」の疑いは、基本的には田中角栄元首相と同じで、その立場を利用した収賄容疑だ。藤井氏は、市議会議員だった13年3月、経営コンサルタント会社の経営者から、市内の中学校に浄水プラントを設置したいとの依頼を受けて、市議会で提案した見返りに現金10万円を受け取った「受託収賄」の疑いがかけられた。 同時に「事前収賄」というのは聞きなれない言葉だが、公職に就くのを前提として、その立場に就いた場合に便宜を図ることを依頼されての収賄が事前収賄だ。藤井氏の場合、市長選への出馬の意思を固めた13年4月、市長に就任したら有利な取り計らいをするように同じ経営者から依頼され、現金20万円を受け取った疑いもかけられた。 藤井氏は一貫して容疑を否認し続けたが、判決のほうは変遷を続けた。15年3月、一審で名古屋地裁は無罪の判決を下したが、16年11月の二審名古屋高裁判決は逆転有罪となった。裁判では現金を渡したとする経営者の供述が信用できるかが争点となったが、名古屋地裁では経営者の供述が変遷しており、曖昧で不自然だとして、現金授受は認められないと判断したものの、名古屋高裁では、経営者の供述が信用できると判断し、有罪判決を言い渡した。 そして、17年12月、最高裁第三小法廷は被告の上告を棄却する決定をし、懲役1年6カ月、執行猶予3年、追徴金30万円とした二審の逆転有罪判決が確定した。藤井氏は12月14日付で市長を辞職した。公職選挙法第11条では、公職にある間に犯した収賄罪等により刑に処せられた者は、その執行猶予期間においては選挙権・被選挙権を有しないとされるので、藤井氏は3年間、公職に立候補できないこととなった。あの選挙はなんだったのか? この最高裁の決定について、藤井氏本人は「無実の人間を平気で罪に陥れる、冤罪(えんざい)が存在することを知ることができた」と記者会見で司法を批判し、異議申し立てなど必要な手段を講じたが、申し立ては退けられた。もちろん、さまざまな言い分はあろうが、職業裁判官が下した決定に対して、当事者以外が論評することは控えねばならないだろうし、判決が確定した以上、藤井氏が受託収賄・事前収賄で計30万円を受け取った、という裁判所の決定が正しかったことを前提とせざるを得まい。 ここでは裁判所の決定に対する論評ではなく、「政治と司法」という視点から問題点を指摘しておきたい。 実は藤井氏は、16年11月の二審名古屋高裁で逆転有罪となった後の16年12月19日、出直し選のため美濃加茂市長を辞職している。そして、17年1月29日の出直し市長選で再選されている。さらに同年5月には任期満了に伴う市長選が行われ、藤井氏が無投票で選ばれている。2017年1月、岐阜県美濃加茂市の出直し市長選が告示され、支援者らに手を振る藤井浩人前市長 裁判が進行中であるにもかかわらず、自らの無実を訴えて出直し市長選を行うことには当時も異論があった。選挙はさまざまな争点を掲げて行われるものだが、首長が自らの無実を訴えて選挙をするにも、市長選レベルであれば、人口によって異なるものの、選挙運動費の公費負担や掲示板などの設営費用、人件費などの執行のための費用も合わせれば、投じられる公費は数千万円単位ともなる。 5月に任期満了となる自らの市長としての残任任期のために辞職して市長選を行う必要があったのか。有罪判決が確定した中で、美濃加茂市民の間に「あの選挙はなんだったのか?」という思いが去来しているのではないだろうか。 裁判は裁判として自らの無実を訴え続けながら、市長の任期は全うする、という方法はとれなかったのか。裁判における被告の主張と選挙の争点がオーバーラップするという意味では、ロッキード事件の裁判と田中元首相がその間戦ってきた衆院選もそうだった。 一般人の有罪判決が確定したら、刑期を終えたり、執行猶予期間を満了することが「みそぎ」となる。政治の世界だけが選挙という手段で民意を問い、正当性をアピールすることができるというのは、制度上それが違法ではないということを割り引いても、望ましいこととは思われないのではあるまいか。 有権者は、司法がありながら選挙で政治家を洗い清めることができる存在なのか。政治の世界で「みそぎ」とは何なのか。これからも解くことができない課題であり続けるのかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    人気小説家が逮捕・拘留で身にしみた「司法の現実」

    冲方丁(小説家・アニメ脚本家)―本書『冲方丁のこち留』は、冲方さんが身に覚えのない妻へのDV(ドメスティック・バイオレンス)容疑で逮捕され、渋谷警察署内の留置場に9日間も閉じ込められた挙げ句、無罪放免になるまでの顛末が“喜劇調”で綴られています。妻がほんとうに被害届を出していたのか、最後まではっきりせず、まさに理不尽の極み。これが日本の司法の現実かと思うと、寒けを覚えました。冲方:警察が逮捕状で私が妻にDVをしたという「作文」を行なうと、検察や裁判所はそれに従って有罪の判決を導くというストーリーが出来上がっている。たとえ前後の事実関係に矛盾があっても、一度逮捕されてしまうとなかったことにされてしまう。警察の取り調べとは、当事者から事実関係を聞き出して捜査の参考にするのではありません。あらかじめ用意された筋書きに当てはまる自白を被疑者にさせ、それを調書に記録する作業のことをいうのです。いわゆる自白主義。ほんとうに怖いと思いました。―逮捕状には「妻の顔を右手拳で一発殴って前歯破損の疑い」という文言があったそうですが、それほどの勢いで殴れば、自分の拳にも当然、傷が残るはずです。取り調べの刑事には手を見せたのでしょうか?冲方:鑑識の人にお願いして、証拠として写真を撮らせました。彼は「いちおう撮っておかないとね」と思い出したようにいっていましたが。そもそも被疑者の側から訴えなければ、調べようとしないことがおかしい。事実は彼らにとってはどうでもいいということなのか、と痛感しました。作家・冲方丁さん=2016年9月29日、東京都渋谷区(山崎冬紘撮影)―取り調べ中、刑事は冲方さんの拳か手にした何かが偶然、妻に当たってしまったのではないかというロジック(?)を持ち出して罪を認めさせようとしたそうです。あまりにも筋立てに無理があるというか、ここまで来ると、たしかに喜劇。もはや笑うしかないですね。冲方:刑事にしてみれば、たとえ机上の空論でも、調書の文面の辻褄が合っていればいい。裁判官のほうも「いつもの書き方」になっていれば、それでかまわないのでしょう。―本書を読むと、取り調べの様子というのは、テレビなどでよく見る光景とはかなり違いますね。老練な刑事が優しげに話しかけてくるなんてことはなく、いきなり手錠をはめられ、ロープでスチールパイプの椅子に縛り付けられる。驚愕します。冲方:彼らも最初から「逮捕する」とはいわないんですよ。警察に対する信頼を逆手に取って、「署に着いたらお話しします」といって、いきなり取調室に入れる。密室にして逃げられなくしたうえで、「規則ですので、財布や携帯電話をお預かりします」といって身の回りの物を取り上げる。完全に外部との連絡を遮断したうえで、「逮捕状が出ています」と攻めてくるわけです。司法組織の悪しき体質―留置場に入れられてからも、壮絶な経験をされましたね。「留置場弁当」の食材は質素で味付けは薄い。なるべく被疑者に糖分と塩分を摂らせないことで、集中力と抵抗力を奪い、自白に追い込むためだと推察されています。就寝中にも照明を消してくれず、手で目を覆ったりすると、注意されるという。(拷問の禁止を定めている)憲法無視も甚だしいと感じました。冲方:拉致、監禁、拷問。いわれのない罪で留置場に放り込まれた人も、その瞬間から、人権から逸脱した世界をさ迷う羽目になるわけです。たとえば、布団のたたみ方には模範とされる例があり、それが写真で示されている。少しでも向きが違ったりすると、布団が没収され、冷たい地べたで寝ることを強要される。―いちおう先進国と呼ばれる日本において、そのような人権無視が平然と行なわれているとは……。冲方:留置場で一緒になった外国人が「こんな所は初めて見た」といって驚いていました。その方は5カ国で刑務所に入った経験があるそうですが(笑)、「日本の留置場は最悪だ」といっていました。(iStock)―冲方さんは9日間にわたって留置場に閉じ込められた挙げ句、釈放、不起訴処分となりました。このような誤認逮捕や冤罪を生み出しかねない「司法組織の悪しき体質」を告発することが、本書執筆の動機の1つであると思います。それを防止するには結局、密室での「自白の強要」を迫るような取り調べの方法をやめるしかないと思うのですが。冲方:そうですね。さらに大事なのは、国民がそうした「司法組織の悪しき体質」についてもっと知ることでしょう。国民が知ろうとしないから、警察の捜査方法もどんどん密室のなかに閉じこもってしまう。司法組織に対する国民の無関心は、日本がこれまで平和であったことの裏返しなのかもしれません。 また、危ないものは危ない所に押し込めてしまおうとする日本独特の“地政学”も、司法や警察の実態から一般の目を遠ざけています。たとえば東京なら、新宿の歌舞伎町にいかがわしい店は全部集約させてしまう。普通の国民は、それを取り締まる警察の実態について何も知らずに生活を送ることができるわけです。警察はいつ、誰に牙を剥くかわからない―普通の人は、警察官と話すのは、落とし物をしたときか、交通違反をしたときぐらいですからね……。冲方:もともと日本という国は、お上に任せておけば大丈夫だ、しっかりやっているはずだという根拠のない信頼がある。こうした姿勢が結局、警察の暴走につながっている。江戸時代以来の身分制度をいまだに引きずっている国というしかありません。しかし、どんな組織であれ、放っておけば腐敗するのは当然ではないでしょうか。 2007年に周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』が公開され、痴漢冤罪の問題が大きく注目されました。あのときに、多くの人が「なんで?」と不思議に受け止めたと思います。もともと日本には国民が警察組織を監視する習慣がないため、冤罪の問題が起こっていること自体を知らなかった。 これは周防監督に直接、聞いた話ですが、ある被疑者が裁判所の判決に対して「なんでこんな裁判が許されるんだ」と激怒したうえ、自分の弁護士にも「あなたは何をやっているんだ」と叫んだ。するとその弁護士は、「あなたたち国民が放置してきたことだ」と返したそうです。―司法に対する国民の無関心のなかで、弁護士も絶望を感じながら、仕事をしているわけですね。冲方:そうです。警察はいつ、誰に牙を剥くかわからない。「いつでもやられる可能性がある」と国民が思わないかぎり、取り調べや司法の正常化は図れないでしょう。さらに国民の側に向けていうべきことは、警察に逮捕された時点ではその人は「罪人」ではない、ということです。「悪いやつはいくら酷い目に遭わせてもかまわない」という意識が私たち国民自身にあるからこそ、司法や警察が暴走するんです。作家・冲方丁さん=2016年9月29日、東京都渋谷区(山崎冬紘撮影)―最後に、一連の事件を総括して、冲方さんにとってどんな意味があったとお考えですか。冲方:作家としては大きな糧を得ました。ロープに縛られて骨がきしむ音の様子など、監禁された人間の描写が普通にできるようになった(笑)。また国民という観点からすると、それこそ揺りかごの中から出てきたような、目覚めさせられた気分です。 司法は私1人ではとても観察しきれない大きな組織なので、テレビや雑誌がもっと積極的に警察や検察という「面白い組織」をネタにしてくれないか、と。一般の国民も、1日留置場体験をしてみるとよいかもしれません。客観的に留置場をみれば、まさにアメージングワールド。日常生活では絶対に出会わないタイプの人に出会えます(笑)。うぶかた・とう 小説家・アニメ脚本家。1977年生まれ。岐阜県出身。96年に『黒い季節』(角川書店)で第1回スニーカー大賞金賞を受賞し、デビュー。2003年に『マルドゥック・スクランブル』(講談社)で第24回日本SF大賞を受賞。10年に『天地明察』(角川書店)で第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞、第4回舟橋聖一文学賞、第7回北東文芸賞を受賞。12年に『光圀伝』(同)で第3回山田風太郎賞を受賞。近著に、『十二人の死にたい子供たち』(文藝春秋)などがある。関連記事■ 冤罪を防ぐための「検察憲章」私案■ 新海誠 「日本の風景」で世界を驚かせたい■ https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3752

  • Thumbnail

    記事

    日本の刑事裁判の有罪率は99.9%超 北朝鮮や中国並みの体制

     袴田事件の再審が決定したが、その決定において捜査当局による証拠の捏造も指摘された。 袴田事件だけでなく、後に無罪となった足利事件など、重大事件でも多くの冤罪が発覚しているが、それでも世間には「それらはごく一部のこと」と見る空気がいまだ強い。再審開始決定の報告集会に参加した袴田巌さん(左)と姉の秀子さん=2014年4月14日、東京都千代田区(鴨川一也撮影) 果たしてそうだろうか。疑う最大の理由は捜査当局の「見込み捜査」と正義感の問題である。日本の警察はいまだに“刑事のカン”で動き、しかも強固な官僚組織で上司の「見立て」に逆らえない風潮が残っている。そのため、ベテラン刑事などの見立てで捜査が主導され、そうでない可能性を潰してゆくという大事な過程が疎かにされて真相解明を妨げる傾向がある。 こうした警察当局を増長させたのが司法である。日本の刑事裁判の有罪率が99.9%を超えていることは異常だ。先進諸国では7~8割程度であり、日本では「起訴されたら有罪確定」と考えて間違いない。それだけ無実の罪で服役する(あるいは死刑になる)者も多いはずだ。 裁判所は検察の言い分はよく聞くが、被告の主張はほとんど退ける。裁判員裁判が始まって以降も、裁判官だけで審理する上級審では、裁判員が「疑わしきは被告人の利益に」と無罪にしたものを逆転有罪にする判決が目立つ。 もっともこれには司法サイドに言い訳があって、日本では検察が起訴と不起訴を峻別しているから、有罪の確証があるケースだけが起訴されているというロジックだ。が、それこそ勘違いも甚だしい。検察は有罪、無罪を決める場ではない。 このロジックに従えば、つまり検察は捜査当局であり、司法まで担うというわけだ。それでは北朝鮮か中国である。同様の病巣が警察の検挙率にもあって、かつて日本では警察が告訴や告発を門前払いするケースが多く(夫婦間のレイプや暴行、親族間の窃盗・詐欺、ストーカーなどは「話し合って解決しなさい」などと言って相談に乗らないケースが少なくない)、それが犯罪件数を低く見せていただけで、実際の犯罪発生数はもっと多く、従って検挙率はもっと低いとする説もある。 最後に、マスメディアの責任も見逃すわけにはいかない。袴田事件や足利事件でも、新聞やテレビなど記者クラブ・メディアは警察、検察に張り付いてそのリークを報じるばかりで、独自取材で捜査やDNA鑑定を検証する姿勢は乏しかった。司法記者クラブが裁判を批判することもまずない。われわれ雑誌メディアは権力べったりではないが、そのかわり猟奇事件などではワイドショー的な興味本位の描写に走りがちだ。 すべての関係者が、無実の市民が受けた(あるいは今も受けている)苦痛に真摯に向き合い、反省すべきは反省する勇気を持たなければならない。関連記事■ 奥田英朗のサスペンス大作『オリンピックの身代金』が文庫化■ 遠隔操作ウイルス事件に“強盗殺人犯級”な300万円の懸賞金■ 検察による有罪率「99.9%」と裁判官退職金「8千万円」の関係■ 大阪府警財務捜査官が経済系組織犯罪の現場や真相を記した本■ 鈴木宗男 自身の逮捕は「ムネオハウスかと思ったらやまりん」

  • Thumbnail

    記事

    死刑批判で「バカは私」 寂聴さんが教えてくれた因果の道理

    高橋幸夫(「あすの会」幹事、医師) 日本弁護士連合会(日弁連)は人権擁護大会で「死刑廃止」を宣言した。その大会で、瀬戸内寂聴さんが作家として、出家者として「殺したがるバカども」とビデオメッセージで発言し、大きな話題となっている。私は、その大会に出席しており一部始終、見聞していた。私は14年前、妻を拉致誘拐され犯人が自殺、妻は行方不明のままとなった夫であり、この事件をきっかけに死刑制度に関心を持つようになった精神科医である。48年間の医療経験を重ね合わせて、日弁連や瀬戸内寂聴さんの件に感想を述べようと思う。 私の願いはただ一つ、失われた命を取り戻すことは出来ないが、悲惨な事件が繰り返されぬよう、社会ルールを堅持し、社会に安心、安全を取り戻すことである。そのためにも死刑制度は必要と考えている。 瀬戸内寂聴さんのビデオメッセージに批判の声が多く寄せられ、寂聴さんは、そのメッセージを否定する「バカは私」発言を再びなさった。この一連の流れから察するに、僧侶になろうとも、人の本心は変わらぬことを物語っている。出家し袈裟をかぶり体裁を整え、修行して徳を積み、人様に説教して廻り、傍目には「さすが僧侶」と見えた。しかし、それは表面的なものであり、本心は変わらぬことを自ら、我々に示したのである。瀬戸内寂聴氏 人間は生来持って生まれる生物学的性質と生活環境が、縄のごとくあざなって成長するものである。生活環境とともに、基本の生物学的に規定された性格(DNAレベル)要因が大きく左右し、人格形成がなされてくるのである。いくら良い環境で育とうとも、生物的に規定された性質によっては「反社会性人格障害者」が生まれてくることがある。生まれながらに犯罪(反社会的行為)傾向の強い人と言ってもよい。 これら一部の人たちは、適切な働きかけをしても、本人は反社会的行為だと気づかず、罪を悔いることもなく、残虐な犯罪を繰り返す人たちであり、更生や矯正治療によっても変わり得ないのである。すなわち治療反応性の極めて乏しい人たちである。この事実は、われわれ精神科医が日々痛感するところである。 統計数字から見ても、一般的な再犯率は40%~60%とも言われている。すなわち約半数の者は更生しないし矯正出来てないとも言える。殺人事犯では100人中1~2人は、再び殺人を犯すと言われている。再犯者には、暴力団関係者が目立ち、劣悪な生育環境下にいた者は少なく、相手を殺害するほどの事情がないにもかかわらず、その場の激情や興奮に単純に支配され凶行に及んでいるとの報告がある。 これは、感情が激越的に爆発しやすい性格であり、衝動的に反社会的行為を起こしやすいからである。このような人格障害者の矯正や更生は、とうてい望み難い。死刑廃止論者は、犯罪は社会環境のせいだとするが、社会環境が悪いだけではない。自己責任部分も多いにある。医学的観察や統計数字からみて、全ての人間が人の心の痛みを知り、更生できるとの考え方は、勉強不足というものである。虎も猫も子供のころはみな、かわいい。「冤罪」という課題 しかし、成長するにつれ同じ環境下でも猫は猫、虎は虎に育つものである。死刑廃止論者は、教育すれば、みな牙をむかぬ猫や虎に育つと考えているようであるが、勉強不足も甚だしい。加害者弁護人は「更生の可能性あり」「反省している」との理由づけをするが、その根拠は極めて乏しいものである。再び罪を犯す者が半数いることが、その証左であろう。これは明らかに彼らの誤った判断である。 しかしながら、弁護人や裁判官から、今までこれらの現象についての反省を聞いたことがない。「更生の可能性あり」「反省している」との根拠をどこに求めて判断しているのだろうか。無責任と言う他はない。誤判ともいえるこの現象を、検証することもなく放置し今日に至っている。この風調が、弁護人や裁判官に対して信頼を失ってきている。早く正すべきであろう。理想像や望みを語るだけでは社会秩序は保てない。「バカは私」及び「日弁連の思考」から、思い起こすは「三つ子の魂 百まで」の諺である。 「死刑は執行したら取り返しがつかない刑罰だ。必ず間違いは起きるから死刑制度を廃止しろ」との主張には無理がある。冤罪は死刑制度だけの問題ではない。すべての裁判で起こる可能性はある。冤罪をなくさなければならないのは当然である。だが一方、全く疑う余地のない犯罪もあるのだ。 日弁連は、常套句の如く「免田栄さんのような冤罪事件があるから死刑は廃止だ」と言う。しかし、彼らが冤罪と言っている事件は、半世紀も前の事件である。現在の進歩した科学的捜査手法では起こり得ないことだ。日弁連の主張は、まるで「昔の天気予報は不正確で社会的損失が生じた。だから現在の天気予報を廃止しろ!」と言っているのに等しい。時代錯誤の言いがかりとしか思えない。冤罪を防ぐには、最近の科学的捜査手法と共に「疑わしくは罰せず」を守れば良いだけの話である。死刑廃止の宣言案をめぐり激しい議論が展開された人権擁護大会=10月7日、福井市 すなわち冤罪は、捜査段階での手法や運用の問題であり、死刑制度そのものの欠陥ではない。死刑廃止論者は、「運用の問題」と「制度の問題」を、ごっちゃ混ぜにした勉強不足からのものに他ならない。問題をすり替えようとしているのである。 罪の重さと罰の重さは、常に等しくなければならないにも関わらず、日弁連は「罪刑均衡の原則」には触れようとしない。死刑廃止論に不都合が生じるからであろう。人の命の重さは平等であるというならば、犯人の命を重んずると同等に被害者の命についても語るべきであろう。なぜ日弁連は避けるのか説明がない。このように偏った見方しか出来ない日弁連は極めて危険である。死刑廃止は本当に世界の潮流か 被害者が死刑を求めるのは、復讐心に燃えてのことだと、死刑廃止論者は決めつけている。しかし、そんな単純なものではない。遺族は愛する家族が生きて帰ってくれることを、まず望んでいるのである。事件当初は犯人に死刑をなど思ってもない。犯人を死刑に処しても、愛する家族が生きかえることがないことは、重々承知している。にもかかわらず、なぜ死刑を求めるかは、愛する者の命を犯人の命より軽く扱われることに怒りを感じるからである。 やられたから、やり返すと言う単純な復讐感情だけではない。犯人に死刑を求めるのは、被害者の命を粗末に扱う社会的不平等に対する怒りからであり、愛する家族を供養するきっかけ作りなのである。遺族は死者を供養しながら、再び頑張って生きていこうとする気力を取り戻すのである。それは、赤穂浪士が吉良上野介を討った直後、主君の墓参りをしたのと同じ「供養」の心なのである。 このことで命の平等性が保たれる社会に安心し、理不尽なことなく安全で秩序ある社会維持に繋がるのである。こうした社会秩序維持のための応報感情から、死刑を求めているのである。弱肉強食社会は決して許されるものではない。社会秩序の維持を願ってのことなのである。死刑は遺族に供養の時を与え、遺族の心を支え、遺族の社会復帰に必要な行事なのである。死刑は犯罪への復讐感情にとどまらず、遺族の社会復帰と社会秩序維持のために必要な行事なのである。日弁連は復讐感情と、応報感情の区別も出来ない残念な集団である。 今回の日弁連の宣言は、2020年に日本で刑事司法の専門家が集う国連会議があるため、急きょ用意した外交辞令からのものであり、日本国民を思ってのことではない。日弁連は、数年前から死刑問題について、全社会的議論をしようと提案してきた。しかし集まるのは死刑廃止論者がほとんどで、形式的なものに終わっている。大会出席者の発言からも明らかで、本来の全社会的議論には至っていない。日本国民の多くはそんな議論すら知らない。しかし日弁連執行部は、全社会的議論を行ったことにして、今回「死刑廃止」を決定したのである。それもこれも対外的面子を重んじてのことであろう。 今回の人権大会の決定は、真にお粗末であった。弁護士総数3万7千余人のうち、出席者はたった2%(786人)に過ぎず、その内の賛成者は69%(546人)、反対12%(96人)、棄権18%(144人)であった。たった2%の出席者でもって、日弁連は全総意として決定したのである。余りにも乱暴で無茶苦茶な団体である。驚くほかはない。このような乱暴な団体が、他に有るであろうか?お粗末な限りである。これが民主主義を唱える日弁連の姿であり、警戒せざるを得ない。死刑制度はコストの問題ではない 日弁連には、このような無茶なゴリ押しが他にもある。「死刑廃止は世界の潮流である」との呪縛的文言である。「死刑廃止国が140カ国ある」「日本だけが取り残され後進国になる」「世界の潮流は、今や死刑廃止にあり!日本も遅れてはならぬ」「廃止へ向けて、それ突き進め!」とけしかけ、脅迫じみたものを感じる。 しかしながら、わが国では、国民の8割以上が死刑制度を支持している。当然だが、死刑制度は国民の総意により決めるものであり、他国から強制されるものではない。他国が日本国を安心安全な国にしてくれる訳ではない。死刑廃止国が多いといっても、世界人口の7割は死刑存置国に住んでいるのである。また死刑廃止国の殺人件数は、存置国の数倍も多いと言われている。EU諸国(死刑廃止国)を日本と比べても、日本の2~3倍も治安が悪いのである。「死刑廃止宣言」が採択された後、記者会見する日弁連の幹部ら=10月7日、福井市 EUに入るには、死刑制度を廃止しなければならない。その連合に加わっていた英国は脱退を決めている。その理由は、いろいろ有るのだろうが、移民問題、民族の融和問題、治安問題が含まれている。そうした国の駐日公使を講演者として招き、死刑廃止を説いていた。脱退までしようとしている治安の悪い国が、治安の良い国を指導するとは噴飯ものである。 また、「死刑制度はコストがかかる、執行する薬物入手も困難だ、だから死刑を廃止しろ!」との乱暴な意見を述べる講師もいた。死刑制度はコストの問題ではあるまい。安楽に死刑執行する薬物はいくらでもある。少なくとも麻酔科医や精神科医で知らない者はいない。手に入れることも十分可能である。昔からある極めて安価な薬物でもある。しかし、そんなこととはつゆ知らず、講演される講師がいた。余りにもお粗末であった。 日本は、他国より飛びぬけて治安の良い国であり、殺人事件は減少傾向にある。これは現行制度がうまく機能しているからに他ならない。誇りを持って現状を維持し、さらに治安の良い、安心安全で住みやすい国へと、まい進すればよいのである。お粗末な講演者や他国に惑わされて、制度変更する必要性は全くない。むしろ世界をリードし、世界に安心安全をもたらす役割を負うべきである。 最近、中近東の戦争から欧州へ移民が多くなり、種々の問題が生じている。経済問題、異宗教間問題、民族融和問題、テロ問題など、EU諸国に変化が見られ治安問題に繋がってきている。いわゆる潮目が変わっているのである。日弁連は世界の潮流と言いつつ、潮目を見逃している。それを見抜けぬ日弁連に日本を託すのは将来に禍根を残すだけである。被害者の理解と支援 日弁連は「被害者遺族の厳しい感情は自然であり、被害者支援は社会全体の責務であり、何より心を致さねばならないのは、最愛の人を亡くした遺族の存在だ」と述べるものの、なぜ被害者や遺族を落胆させ、追い打ちをかけるようなことをするのだろうか。被害者の尊厳を無視して被害者支援もあるまい。 死刑を求めるのは、犯人への単なる復讐感情にとどまらず、社会秩序を維持する応報感情から来るもので、遺族は社会秩序の維持を願いながら社会復帰しているのである。犯人を死刑に処することで、遺族は供養の時を得、自らの心を支え、社会復帰しようと努力できるのである。それを支援するのが被害者支援ではないのか。しかし、それを否定するように、日弁連は「死刑廃止」を決めた。瀬戸内寂聴氏 これでは被害者支援どころか、被害者いじめである。犯罪被害に遭っていないからであろう。ならば被害者の声に耳を傾けるのが普通の人間であろう。なぜ無視し逆撫でするのだろうか。私は時に、死刑廃止論者の家族が殺害されることを願う時がある。それで初めて、彼らは被害者の理解と支援策が浮かぶのであろうと思うからである。それは非常に哀しく残念なことである。 「バカども」発言のビデオメッセージに対して、寂聴さんは「日弁連から頼まれ、私は即、収録に応じた発言の流れから、被害者のことではないと聞けるはずである、老体に似合わぬみっともない舌禍事件を起こしてしまった、深く反省している、言葉に敏感な弁護士達は、そのまま流すはずはないだろう」と語っている。しかし話の流れは日弁連の依頼を受けた時から始まっており、文学者なら行間に意を込め表現するのが普通である。読者はその行間を読んで感動してきたのである。 想定外とは言い逃れであり、読者を欺く情けない発言である。僧侶としてもいかがなものか。読者が行間を読んだ事柄が、寂聴さんの本心であり、読者は怒りを覚えたのである。寂聴さんが「言葉に敏感な日弁連は、そのまま流すはずはないだろう」と考え行動するのは、読者を欺くことであり、欺かれたと感じた聴衆が怒るのも当然である。 日弁連は寂聴さんの隙に付け入り、利用したのである。率直な寂聴さんゆえに、狡猾な日弁連に利用されたのであろう。僧侶でも何でもかまわない。利用できるものは何でも利用する達人たちである。寂聴さんは油断しその犠牲者となり気の毒と思う。凶悪犯罪者に更生は望めない これまで文学者として、出家者として被害者のためにも論じ、行動してこられたことは、誰しも知るところである。「耄碌のせいだなどと私は逃げない」「みっともない舌禍事件を起こした」「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」などと陳謝する姿に、被害者は日弁連に利用されたばかりにと、お気の毒だとも思うのである。 しかし、バカども発言で「今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった」が気にかかる。国家や政府は国民の総意で成り立っていることはご存知であろう。その国民の8割は死刑存置を希望しているのである。それへの御発言も頂きたいものである。また、命を奪われた被害者への声掛けは、いかになさるのかもお聞きしたいものである。「過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」とのことで調べさせていただいた。 ところが「別れの辛さに馴れることは決してありません。別れは辛く苦しいものです」の言葉と「人間に与えられた恩寵に‟忘却”がある」「たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず」「忘れなければ生きていけない」等の言葉とがうまくかみ合わない。出家され、徳を積まれ、尊敬される僧侶寂聴さんですら、みっともない本心が残っていたのである。「人は皆変わることが出来る」とは言えないことを94歳になって身をもって示されたのである。 寂聴さんから教わるに「人間は本来持っている思いや思考、性格は変わり得ない」と言うことである。いわんや、凶悪な反社会性人格障害者がいかほど謝罪、贖罪、更生しようとも、我々一般市民が望むような更生は不可能なのである。

  • Thumbnail

    テーマ

    瀬戸内寂聴「バカども」発言の波紋

    「殺したがるバカどもと戦ってください」。日本弁護士連合会のシンポジウムに寄せた瀬戸内寂聴氏の死刑批判メッセージに波紋が広がった。死刑制度の存廃をめぐる議論は何も今に始まったことではない。ただ、世界的に廃止が主流になりつつある今、物議を醸した寂聴発言を機にその是非について考えてみたい。

  • Thumbnail

    記事

    お詫びで済まない上から目線 寂聴「バカども」発言の傲慢を問う

    杉本吉史(弁護士) 「殺したがるバカどもと戦ってください」 これは、10月6日に福井市内で開かれた日本弁護士連合会(日弁連)主催のシンポジウムで流された瀬戸内寂聴氏のビデオメッセージの一節である。瀬戸内氏は死刑制度を批判した上で、死刑制度廃止を進めようとする開催者を激励するため、このような発言をしたものである。 シンポジウムは、翌日に同市で開催された日弁連第59回人権擁護大会での「2020(平成32)年までに死刑制度の廃止を目指す」とする決議採択に先立って実施されたもので、人権擁護大会での死刑廃止をめざす決議を危惧する犯罪被害者や、その支援に関わる弁護士も多数参加していた。日弁連が開いた人権擁護大会の会場入り口で「死刑制度絶対必要」などと書かれたビラを配る全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーら=10月7日、福井市(宮沢宗士郎撮影) 犯罪被害者らは、メッセージの瀬戸内氏の発言を聞いて激怒し、発言は新聞にも大きく取り上げられ、SNSでも同氏への批判が相次いだ。 日弁連は翌日の人権大会決議後の記者会見で、「犯罪被害者への配慮がなかったとすれば、おわび申し上げる」とし、「犯罪被害者の方の声にしっかりと耳を傾ける」と謝罪した。 また瀬戸内氏自身も朝日新聞に連載中のエッセーで、メッセージは「今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった」としながら、自身を「誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者」であり、「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」との謝罪の言葉を掲載した。 日弁連の会見担当者や瀬戸内氏らとしては、犯罪被害者らが怒るのは誤解であり、そのような事態を招いたことにつき謝罪をしたのであるから、もはや過ぎ去ったことであるとでもいうのであろうか。 しかしながら、これらの出来事については、犯罪被害者やその支援をする弁護士にとっては単なる「誤解」とは思えない経過がある。 今回の人権大会決議の採択理由では、犯罪被害者等基本法を引用して、犯罪被害者はその尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するとし、犯罪被害者・遺族の支援は重要な課題であるという。 ところがその一方で日弁連は、平成27年10月に会内資料として作成した「死刑事件の弁護のために」と題する手引で、被害感情が法廷に満ちあふれることが裁判員、裁判官をして死刑への判断へ傾かせる可能性があることを認識し、少なくとも否認事件については被害者参加の申し出には反対の意見を述べるよう指導しているのである。 被害者参加制度は、裁判員裁判の6カ月前に導入された犯罪被害者が念願してできた制度である。しかし、日弁連はこの制度に導入当時から反対し続け、導入後も被害者の裁判参加を拒み続ける姿勢を変えていない。 そして、日弁連が犯罪被害者の支援として必要であると決議で掲げているのは、精神的な支援、犯罪被害者等給付金の拡充に限られているのである。 確かに犯罪被害者や遺族にとって、現行の不十分な経済的支援の拡充を望む声は強い。しかしながら、日弁連がいう支援の拡充は、いわば被害者・遺族には金をあてがって黙らせろ、としか聞こえないであろう。死刑判決はほんの一握り 日弁連は平成23年10月に実施された人権擁護大会で、死刑廃止についての全社会的議論を呼びかける宣言を決議し、その決議を受けて多くの単位弁護士会では検討を進めるための委員会やプロジェクトチームが設置された。 しかし、それからの5年間で、日弁連が言うような死刑問題の廃止に向けた全社会的な議論が進んだとは到底言えない。平成32年に世界の国連犯罪防止刑事司法会議が日本で開催されることとなったことを好機とみて、刑罰制度が再び人権大会のテーマに選ばれ、その決議として死刑廃止問題が取り上げられたにすぎない。 しかしながら、平成21年から裁判員裁判が導入され、市民が裁判に関与するようになってからも、内閣府が実施した世論調査においては、死刑制度を容認する市民は約8割を占めている。 他方、裁判員裁判で1審段階で死刑判決が宣告された被告人は、制度導入から平成28年5月末時点で27人、死刑判決が確定した事件は13人。 殺人被告事件などで、多くの遺族らが死刑判決を希望しても、その中で死刑判決が下されるのはほんの一握りなのである。 そのような今の死刑制度の運用の実態や世論の動向、刑事裁判に関わる当事者であるはずの犯罪被害者・遺族の思いを離れて、ただ死刑廃止をめざすと宣言したところで、それがどれだけの説得力を持つと廃止を推進しようとする者は考えているのだろうか。それはただ弁護士と犯罪被害者・遺族との距離をさらに広げる結果しか生まないのではないだろうか。 人権擁護大会決議に先立って東京で開催された日弁連のシンポジウムに、地下鉄サリン事件の遺族である高橋シズヱさんがパネラーで呼ばれた。高橋さんは「死刑制度に反対している人は、何の落ち度もない遺族がどのように暮らしているか、考えたことはあるのでしょうか」と発言し、会見でも「死刑存廃をめぐる議論の中で、被害者遺族が重要な位置を占めていない」と述べられたと報道されているが、決議に先立ってこの発言はどのように扱われたというのであろうか。「上から目線」の傲慢さ 私が共同代表を務める「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」は、全国の犯罪被害者支援に関わる弁護士の有志で作った組織である。 フォーラムは、今回の人権大会決議に先立って、日弁連に対し決議には反対である旨の声明を発表した。 その理由は、(1)強制加入団体である日弁連が、死刑制度の是非について、一方の立場から宣言を採択することは、強制加入団体として行うべきではないこと、(2)犯罪被害者の人権や尊厳への配慮がまったくないこと、(3)死刑制度を維持するかどうかは国民の一人一人が、自分の人生観、思想、信条等にしたがって決めるべきこと、の三点である。 そのような声明の存在を認識しながら、瀬戸内氏のメッセージをあえて流すこと自体が、日弁連内の死刑廃止を推し進めようとする勢力にとって、犯罪被害者は目の上のこぶであり、ただ煩わしい存在としか考えていないことを露呈したものと言うほかない。 フォーラムがその声明を発表した際に、会員である弁護士が発言した「偏った正義感の押しつけ」とのフレーズが新聞の見出しで大きく取り上げられたのも、これまでの日弁連の死刑廃止問題についての「上から目線」の傲慢さを感じてのことと思われる。 瀬戸内氏は、謝罪のエッセーの最後に「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」との釈迦の言葉を引用した。他方で人権大会決議の理由書の中では「罪を犯した人が犯罪被害者の心の痛みを知り、自らの行為のもたらした結果の重大さを認識することは、自らが尊重される体験を通じて培うよりほかないのである」とまでいう。 犯罪被害者や遺族に恨みを忘れるように説き、被害者の痛みを分かってもらうために加害者を「尊重」する社会が望ましいという発言する彼らは、およそ犯罪の被害についての想像力が欠如しているものと言わざるを得ないであろう。 犯罪という悪に対して、その被害に遭ったものが正義を求めることを禁じられたとき、犯罪被害者はこの社会への信頼を永遠に取り戻すことができないのではないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    死刑をなくせば殺人もなくなる? 常識の押し付けでは何も解決しない

    中村幸嗣(元自衛隊医官) また痛ましい事故が起きました。(釧路通り魔1人刺殺、3人けが 殺人未遂容疑で本紙配達員を逮捕)被害者にお悔やみ申し上げます。今回の事件を元に考えていきたいことがあります。6月21日、男が女性4人を包丁で刺す事件が起きた「イオンモール釧路昭和」。1人死亡、3人が負傷した 犯人は精神疾患(統合失調症?)を患い通院中。普段は新聞配達、以前は食堂でしっかり仕事もされていたようです。原因は家族との口論というネット記事もありました。最初名前は出ていませんでしたが途中から実名で報道されています。 『とくダネ!』でデーブさんがアメリカ銃撃事件を例に出し解説した後、小倉さんが「勝手に死ねばいいのに」と発言されていました。私も疾患がどうあれ被害者のことを考えると本当そう思いますし、刑法を改正することも検討すべきだと思います。人権派弁護士は当然反対でしょうが。 それでもこういう事件でよくある動機が以下の発言です。「僕の人生を終わらせたくて、殺人が一番死刑になると思って、人を刺した」。 深澤真紀コメンテーターが「死刑制度が問題、死刑制度があるからこのような無差別殺人が起きる」と発言されていました。殺しても死刑にはならないとなれば、死刑を受ける目的での殺人がなくなるという発想です。まあ平和な方ですね。 「殺人をしても死刑にはなりませんよ。だから殺人はやめましょう」と言って殺人をやめるような人なら、最初から殺人はしないでしょうに。まして罰が軽ければ、別の殺人が増えるでしょうに。 まず精神疾患の程度はどうであったのか。それこそ淡路で起きたように服薬ができていなかったことはないのかなども問題としてでてきます。(治療を受けない自由;加害者の人権と被害者の人権 精神科医療と情報)でも正直病のコントロールは難しく、(それこそこの間書いたキラーストレスの影響もあるでしょうが)しっかり服薬していても個別の突然の悪化を防ぐことはほとんど不可能です。 では周りのサポートはというと、家族も行方がわからなって心配してすぐに捜索していたとのことですので、今回の事案は正直防ぐことが難しい一つの思想のないテロ事案と考えていいと思います。そうするとソフトターゲットのテロ防止みたいに、外国のようにモールに入るのに金属探知機が必要でしょうか。(それでも包丁でしたからこの被害者の人数ですが)警備員の配置をもっと増やすべきでしょうか。新幹線事案と問題は共通です。(新幹線炎上自殺 防ぐことは可能?) ISの時、常識が通用しない人に倫理を求めても意味がないと書いてきました。彼らにとってジハードは聖なる行為であり、西洋の常識の押し付けに防御効果はありません。また本日北朝鮮が2発ミサイルを打ち上げました。世界の常識が通用しない国にいくら倫理を求めてもやめてくれません。 もう一度言います。常識は各国、各地域、各人で異なりその中で世界があるわけです。自分たちの常識の押し付けで他国、他人を制御することは基本できません。ました常識が通用しない人に他の常識を持ってきても何の解決にもなりません。ただ常識を共有化できれば本当に社会の安全は担保できます。それが今までの日本でした。 自分たちが相手を傷つけなければ相手も傷つけたりしない、戦争しなければ他国も戦争しなくなるという憲法9条の理想と現実と少し似ていると思っています。(「中村ゆきつぐのブログ」より2016年6月22日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    朝日新聞の「死刑廃止」社説 弁護士団体の批判こそ言論封じだ

    猪野亨(弁護士)朝日新聞朝刊の10月9日付社説 日弁連が先の人権擁護大会でようやく死刑廃止に向けた宣言を採択しました。被害者遺族の代理人を自負する弁護士たちからは種々の批判がありましたが、どれも感情にまかせただけの到底、法曹としての主張としては聞くに堪えないものばかりでした。この宣言に対し、各種マスコミでも社説を掲載していますが、死刑制度の議論に一石を投じたという趣旨のものがよく目に付きました。 ところで、朝日新聞の社説に対し、犯罪被害者遺族への配慮が足りないと批判している弁護士たちがいます。朝日新聞の社説はこちらです。「(社説)死刑廃止宣言 日弁連が投じた一石」(朝日新聞2016年10月9日) 私は、朝日新聞の社説を読んだとき、非常に真っ当な主張だと思いました。これこそ死刑廃止に向けたごく当たり前のものだからです。 しかし、上記「弁護士団体」は違ったようで、弁護士ドットコム記事によると次のように主張しています。 同フォーラム事務局長の高橋正人弁護士は、弁護士ドットコムニュースの取材に対し「朝日新聞は死刑廃止を当然の前提としているように見えます。あれを読んだ被害者や遺族がどんな気持ちになるかなんて、考えていないのではないでしょうか。被害者側としては、『何で私たちが死刑を望むようになってしまったのか』という心情を理解して欲しいのに、デリカシーがなさすぎます」と、批判した。(中略)「私たちは支援のあり方を散々提言して、被害者参加や損害賠償命令制度などを実現させてきました。朝日新聞はちゃんと取材したのでしょうか。『ただ批判するだけ』なのは、朝日新聞の方ではないでしょうか」(高橋弁護士)朝日新聞「死刑廃止社説」に弁護士団体が猛反論「『ただ批判するだけ』なのは朝日」(弁護士ドットコム) 被害者遺族の気持ちだ、というキーワードを用いているのは言論封じがしたいからなのでしょうか。被害者参加制度を実現させたと言いますが、同制度の導入こそが刑事裁判の在り方を根本的に変えてしまった問題のある制度です。 それはともかくとしても、朝日新聞に対する次の質問には違和感しかありません(前掲弁護士ドットコムより)。・「ただ批判する」とは、犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らが何ら根拠なく、感情的に反対しているとの趣旨か・犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らが、既に、被害者支援のため、現状や施策につき具体的提案をし続けていることを知っているのか・(社説中の)「死刑廃止を目指すのであれば」とは、凶悪犯罪で家族を殺された被害者遺族や、それを支援する弁護士も、死刑廃止をめざすのが当然という趣旨か。そのような趣旨だとして、なぜ、被害者遺族や支援する弁護士も、死刑廃止を目指さなければならないのか。その理由は何か。・被害者遺族も死刑廃止を目指すべきだと言われて、被害者遺族がどのような気持ちになるか、考えなかったのか この質問の趣旨には当然に犯罪被害者の遺族は死刑を求めているということを前提にしており、死刑の廃止の主張など被害者感情を逆なでするからけしからんと言わんばかりものです。言うべきときは言わなければならない 死刑廃止に向けて、全ての人たちに訴えかけるのは当然のことです。その中には犯罪被害者遺族も含まれています。私は死刑廃止論者であり、ブログ上などでも表明していますが、これに対する批判として「遺族の前でもいえるか」というものがあります。要は面と向かって言えるのかということなのですが、本当にずれた批判です。 言うべきときは言わなければならないのではないですか。それがまさに朝日新聞の社説であり、日弁連の宣言です。物理的に面と向かって言うかどうかというのは、その場で感情を逆なでできるのかというレベルのもので、主張の問題と個別の対話の問題をすり替えただけの暴論でしかありません。朝日新聞の社説はしごく真っ当です。 ところで、日弁連が死刑廃止の宣言を採択したことについて、さっそくFNNが世論調査をしています。 日本弁護士連合会が「死刑廃止」を求める宣言を採択したことに関して尋ねたところ、死刑廃止に「賛成」と答えた人は2割(20.5%)、死刑廃止に「反対」の人は7割(73.3%)を超えた。7割超が死刑制度廃止に「反対」 FNN世論調査(FNN2016年10月17日) 政府の行っている調査とも遠からずということにはなりますが、単に死刑制度に関して聞けばこのような結果になります。しかし、死刑制度については質問の仕方によって、死刑賛成も意味の異なるものになります。エ 将来も死刑存置か 死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか,それとも,状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよいと思うか聞いたところ,「将来も死刑を廃止しない」と答えた者の割合が57.5%,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合が40.5%となっている。「基本的法制度に関する世論調査」2.死刑制度に対する意識(平成26年度 内閣府大臣官房政府広報室)(3) 終身刑を導入した場合の死刑制度の存廃 仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば,死刑を廃止する方がよいと思うか,それとも,終身刑が導入されても,死刑を廃止しない方がよいと思うか聞いたところ,「死刑を廃止する方がよい」と答えた者の割合が37.7%,「死刑を廃止しない方がよい」と答えた者の割合が51.5%となっている。なお,「わからない・一概には言えない」と答えた者の割合が10.8%となっている。「基本的法制度に関する世論調査」2.死刑制度に対する意識(平成26年度 内閣府大臣官房政府広報室) 死刑制度が当然だという発想は、仇討ちを彷彿させるだけで前近代的と言わざるを得ません。感情として仇を取りたいというのはやむを得ないとしてもそれを死刑制度として存続させることの是非とは全く別です。 廃止に向けた行程を考えることは当然のことであり、その中に犯罪被害者遺族が含まれることも自明のことであり、朝日新聞が社説において呼び掛けたこと自体をまかりならぬというのは、言論封じのための暴論でしかありません。(『弁護士 猪野亨のブログ』より2016年10月19日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    肯定論者の弁護士が問う死刑制度の「本質」

    いただくほかないのですが、ここで死刑冤罪の問題についてだけ、補足して述べたいと思います。 日本の刑事司法制度は、有罪率が極めて高く、有罪率99.9%前後という極端な抑圧的状況を30年以上も続けてきました。このような刑事司法のもとでは、冤罪が正しく救済されることを期待しても、土台無理なことです。だから、死刑冤罪だけをガタガタ言っても、始まらない。われわれは、冤罪で死刑にされたり、無期懲役にされることを覚悟するほかないのですね。裁判所に期待しても99.9%ダメなのですから、それなら、裁判所自体を批判して死んでいったほうがましです。その覚悟ができれば、死刑肯定の立場になり得るし、その覚悟がないのに死刑肯定を言うのは、とんでもないことです。今回の本で提供したような死刑制度についての考え方の材料を全てオープンにし、死刑を根本までさかのぼり判断すれば、死刑を良しと判断する人は非常に少なくなるとは思います。死刑肯定論の確たる根拠はいくつもあるわけではないですから。 実際、裁判員制度が始まってから死刑判決は平均で年4件程度しか出ていない。それがたとえば、毎年0件か1件と数年続けば、死刑廃止の方向になりうる。というのは、裁判員の判断は、この問題に直面して考えた場合の具体的な民意と言えるので、世論調査の結果がどうであれそういう方向にもなりうると思うのです。――死刑を肯定する論拠として、我々はつい被害者感情を考えてしまいがちです。森:それは議論する材料が少ないだけだと思います。私が不満に思っているのは、思想哲学の世界で、死刑についてまともに取り上げてもらえないことです。法律学、特に刑法学は、思想哲学の下位の学問ですから、思想哲学で論じられたことを前提として組み立てられている。もしかしたら、思想哲学の世界では、死刑制度は法律の世界の問題だとなっているのかもしれません。あるいは、死刑廃止論の中に閉じこもっているのかもしれません。――思想哲学を専門する方々の他に、どんな人たちに関心を持ってもらいたいでしょうか?森:本来ならば多くの人たちに関心を持っていただくのが一番ですが、なかなか今の状況では期待できません。ですから刑事弁護を専門にしている弁護士に、裁判員裁判に参考になるなと思ってもらえるといいですね。繰り返しになりますが、裁判員裁判は死刑制度があることを前提に判断されていますが、それでは本当はまずいのです。死刑の根拠がどこにあるのかどうかという制度論まで議論を深めてもらえればと思います。

  • Thumbnail

    記事

    死刑存廃めぐる日弁連バトル! 寂聴「バカども」発言が炎上したワケ

    篠田博之(月刊「創」編集長) 10月6日、日本弁護士連合会(日弁連)が人権擁護大会前日のシンポジウム会場で流した瀬戸内寂聴さんのメッセージビデオが思わぬ騒動になった。死刑廃止を訴えるなかで、「殺したがるバカどもと戦ってください」と語ったのが問題になったのだが、ご本人は10月14日付の朝日新聞で真意を説明して謝罪した。この騒動、何が問題だったのか検証しておこう。 私は日本ペンクラブの言論表現委員会副委員長を務めており、そのペンクラブ主催の瀬戸内さんの講演に関わったこともあるが、その時に感心したのは瀬戸内さんの、まさに「法話」で鍛えられた話術だった。講演もさることながら、その後の会場との質疑応答がなかなかすごい。批判的な質問が出ても、それに絶妙に答えて笑いも取り、会場全体を熱気にまきこんでいくのだ。 だから、今回の死刑に関するメッセージも、会場で直接話していたら、その場の空気を読み取りながらフォローし、どぎつい表現を笑いで包んで喝采を浴びたかもしれない。ただ、実際には、94歳の高齢ゆえに、事前にビデオ収録を行ってのメッセージとなった。しかも当日、ビデオを前半・後半とふたつに分けて流したというから、全体の真意がうまく伝わらない恐れがあった。瀬戸内寂聴氏 瀬戸内さん自身は事前にどのくらい説明を受けていたかわからないが、実は福井市で開催されたその大会での死刑をめぐる取り組みは、日弁連にとっても歴史的なものだった。大会の場で「死刑廃止宣言」を打ち出す予定にしており、それが事前に報道され話題にもなったために、その方針に反対する弁護士も会場につめかけるなど、緊迫した状況だったのだ。企画した側は、死刑廃止へ向けた瀬戸内さんのスピーチを追い風にしたいと思ったのだろうが、賛成反対双方がピリピリしたムードでいる中で、「殺したがるバカども」発言が飛び出すという、ちょっと危ないシチュエーションになってしまったのだった。 実行委員会も収録されたビデオを大会前に見て、たぶんちょっと不安は感じたと思う。しかし、瀬戸内さんという大御所の作家の発言を一部カットするなどありえない。だからそのまま流したのだが、案の定、会場から反発が出ることになった。猛烈に批判した犯罪被害者団体 大会前日の6日の段階から会場には報道陣も詰め掛けており、瀬戸内さんのメッセージの波紋を7日朝にいち早く報道したのが産経新聞と、ネットニュースの産経WESTだった。このネットの配信記事が大きな反響を呼んだようだ。(http://www.sankei.com/west/news/161007/wst1610070012-n1.html)札幌地裁の法廷 正確さを期すために、記事の後半を引用しよう。 《日弁連は7日に同市内で開く人権擁護大会で「平成32年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を提出する。この日のシンポジウムでは、国内外の研究者らが死刑の存廃をめぐる国際的潮流について報告。瀬戸内さんのビデオメッセージはプログラムの冒頭と終盤の2回にわたって流された。この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた》 そして記事は最後に、全国犯罪被害者の会「あすの会」顧問の岡村勲弁護士のコメントで結んでいた。 《瀬戸内さんの発言について、あすの会顧問の岡村勲弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている。そのどこが悪いのか。ばか呼ばわりされるいわれはない」と話した。》 「死刑廃止宣言」をめぐって激論が予想されていた7日朝の報道だから、大会実行委員会側からすれば、バトルが始まる前に戦闘モードに火をつけた記事と映ったろう。案の定、「死刑廃止宣言」に反対する犯罪被害者支援に関わる複数の弁護士から瀬戸内発言に言及がなされ、その場で実行委員長の加毛修弁護士から、瀬戸内さんの発言は、決して犯罪被害者を指して言ったものではないという趣旨の説明が行われる事態となった。 ちなみに10月7日の人権擁護大会は議論するテーマが3つあり、死刑廃止問題は3番目だったが、最も時間がさかれることになった。採決は既に報道されている通り、「死刑廃止宣言」が786人の参加者の7割弱にあたる546人の賛成で可決したのだが、反対が96人、棄権が144人もいた。8日の新聞報道も「『死刑は人権侵害』廃止宣言『遺族の気持ちは』 大会紛糾 やじ飛び交う」(産経新聞)、「死刑廃止 日弁連にも溝 賛否激論144人棄権」(毎日新聞)などと激論の模様を伝えていた。死刑廃止は世界の流れ 前述のように、その後、瀬戸内さんは10月14日付け朝日新聞に掲載された「寂聴残された日々17」の中で「バカは私 恨みを繰り返さぬために」と題して、自ら真意の説明と謝罪をしたためた。一部引用しよう。 《私の気持ちは、殺したがっているのは、今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。常日頃、書いたり、口にしたりしている私の死刑制度反対の考えから、当然、今も世界の趨勢(すうせい)に遅れ、死刑制度をつづけている我が国の政府に対して、人権擁護の立場から発した意見であった。バカという言葉は94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省しているものの、発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。》 《でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。それを私が犯罪被害者たちをバカ呼ばわりしたととられ、ネットで炎上して、私への非難が燃え上がっているという。秘書から炎上を知らされた時、真っ先に浮かんだのは「もの言えば唇寒し秋の風」であり、「だから長生きは厭(いや)なんだ」であった。そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌(もうろく)のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします。「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」という釈迦の言葉を忘れないままに》 率直でわかりやすい説明だ。これで一応、一件落着といってよいだろう。「殺したがるバカども」は確かに際どい表現とはいえ、大騒動になったのは、背景に死刑、あるいは日弁連の「死刑廃止宣言」をめぐるいろいろな意見の対立があったからだろう。 世界全体を見ると死刑廃止の流れは大きな趨勢なのだが、日本では先進国のなかでは例外的に、世論調査で8割が死刑制度維持を表明している。そういう状況の中で、日弁連としては死刑廃止へ向けて鮮明な姿勢を打ち出して、状況を打開したいと考えたのではないか。ただ廃止賛成の意見が多数を占めるとは言え、そうでない意見も少なくない。そうした中で明確な「死刑廃止宣言」を出したわけだから、ある意味で画期的と言えるかもしれない。 ただ日弁連は強制加入の組織だから、当然、内部には宣言を出すことに反発する弁護士もいる。しかも、被害者支援を訴えるそうした弁護士たちも、日弁連でそれなりの影響力を持っている。今回の宣言は、そういう中で出されたものだ。死刑が罪を償えるか疑問 私自身は、どちらかといえば将来的に死刑はなくしてもよいという考えだから、日弁連の今回の方針を、大変な状況の中でよく決断したと受け止めている。ただ一方で、この問題が、賛成か反対かといった単純な二者択一では片付かないとも思っている。何よりも、死刑や死刑囚の実態がほとんど社会に知られていない。今は死刑執行がなされた場合は法務大臣が直接公表しているが、以前は執行が行われたこと自体、公表されてはいなかった。 私自身は賛否について「どちらかというと…」という少し曖昧な答えになるのだが、二者択一の議論にはいつも違和感を抱いてきた。具体的な死刑囚とつきあいもあって思うのだが、彼らは社会と遮断され、その実情は世間にはなかなか知らされていない。 連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)とは12年間つきあい、面会も何度も行った。和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも事件当時からの十数年のつきあいだ。奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)とも約1年間だったが、毎月顔を合わせていた。そのほかにも冤罪で死刑台から生還した松山事件の斎藤幸夫さん(既に死去)始め、取材で知り合った死刑囚は何人もいる。幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚 死刑になるために殺人を犯したという土浦事件の金川真大死刑囚(既に執行)や、死刑を望むと法廷で一貫して訴えていた小林薫死刑囚らと接して、死刑が世間で思われているように罪を償うことになるのかについては、疑問も感じてきた。個々の事件、個々の死刑囚において事情は全く違うし、そういう具体的な死刑囚の実情から離れて死刑制度の賛否が論じられることには常に違和感を抱いてきた。 今回の瀬戸内さんの発言にしろ、日弁連の「死刑廃止宣言」にしろ、それが死刑問題について議論するきっかけになればよいと思う。

  • Thumbnail

    記事

    国民の8割が支持する死刑制度と被害者感情について

     わが国は先進国でも珍しく死刑制度を維持している。国民の支持も高い。なぜなのか。死刑制度反対論者のコラムニスト・オバタカズユキ氏が考える。* * * 自分の妻子が何の罪もなく誰かに殺されたらどうするか。凶悪事件や無差別殺人事件がおきたとき、よくそんなことを考える。 妻子を殺した殺人犯は逮捕された。裁判で死刑がくだされた。実際に刑も執行された。さて、それで自分の暴れる感情はおさまるだろうか……。 先日、日本弁護士連合会(日弁連)が死刑制度の廃止を掲げることを決めた。10月の「人権擁護大会」にて、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言案」を提出する。日弁連はかねてより死刑制度に批判的だったが、明確に廃止を打ち出すのは初めてのことらしい。 私は死刑廃止論者だ。けれども、日弁連の動きには唐突を感じる。相次ぐ冤罪や世界的潮流を受けて、ということだが、冤罪はそんなに増えている? 世界的にそうだから自分たちもそうする? もっと分からないのは、宣言案の勝算をどう見積もっているかだ。死刑制度存続の声がまったく減っていない日本で、どう説得的に廃止の同意を得ようというのか。日弁連だけが国民の中で浮いてやしないか。 死刑制度の是非について、大規模に行われた調査に、平成26年度の「基本的法制度に関する世論調査」(内閣府)がある。それによると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合が80.3%、「死刑は廃止すべきである」は9.7%。「やむを得ない」という消極的選択肢は、「すべきである」という積極的選択肢よりも選びやすい。その問題があるにしても、8:1の差はすごい。他の調査でも、この国の死刑制度は一貫して支持されている。 冤罪の怖さや、殺人事件が増えていないデータや、死刑制度がたいして殺人の抑止効果をもたない現実などを、死刑廃止論者がいくら訴えても、存続支持の世論は揺らいだことがなかった。 先進国では死刑制度を廃止した国のほうが多いのに、なぜ日本では支持が強いのか。これも「基本的法制度に関する世論調査」が調べている。 死刑制度に関して、「死刑もやむを得ない」と答えた者にその理由を聞いたところ、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」が52.9%(複数回答可)。被害者遺族はどうしたらいいのか 命を奪った者は命をもって償え、より少しだけ、被害者家族感情のために、という理由のほうが多い。そう答えた人たちの少なからずはおそらく、私のように「もし自分の家族が殺されたら」と想像したのではないか。そして、「家族が殺されたのに、殺した犯人が生かされている」状態が頭の中に見えた瞬間、「冗談じゃない、死刑にしてくれ!」と思ったのではないか。 私の頭はちょっとネジが外れているので、犯人が死刑になるくらいでは気が済まない。死刑判決が出て、死刑が執行されたら、逆に「なに勝手に法律ごときが俺の大問題に決着つけてんだよ!」と怒りを増幅させるだろう。 ならば、自ら犯人に復讐すれば気が済むのか。自分が殺人犯となって牢屋に入ることくらいは構わない。しかし、妻子を殺めた者を私が殺めても、自分の妻子が生き返るわけじゃない。私は、天国の存在を信じられないので、妻子がお空の上で「仕返しをしてくれてありがとう」と微笑む絵を描けない。「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」という理由で死刑存続を支持する人だって、自分の家族を殺めた犯人が死刑になることで救われるわけでもないだろう。「良かったね」と墓前に報告して事がおさまるほど、人間の感情は簡単か。そういかないから、殺人は「取り返しのつかない犯罪」なのだ。 では、被害者遺族はいったいどうしたらいいのだろう。ここで一冊の本を紹介したい。今年の6月に出版されたアントワーヌ・レリス著の『ぼくは君たちを憎まないことにした』。去年の11月13日の夜、パリ同時多発テロで妻をなくした男が著した本だ。 男は、〈妻が事件に巻き込まれたことを知った時から、行方を捜し、亡骸とむきあい、葬儀を行い、最後に息子と二人でお墓にいく日まで〉の二週間を綴った。職業はジャーナリスト。客観的事実と、自分の内面を、暴れる感情を抑えつつ、冷静に記そうとしている。 男の妻を殺した犯人グループの3人は、フランス国家警察の特殊部隊によって1人が射殺され、2人が自爆により死亡した。が、これは組織的犯行なので、3人を指揮した者がいる。妻を殺めた者たちは、過激派組織ISとして、今も世界中で誰かの命を狙っている。男が「憎まないことにした」。その思い けれども、男は「君たちを憎まないことにした」。その思いは、こうだ。パリ同時多発テロで妻をなくしたアントワーヌ・レリスさんのフェイスブック〈もちろん、非難すべき相手がいること、怒りをぶつける相手がいることで、半開きになったドアからすり抜けるように、苦悩を少しでもかわすことができるかもしれない。犯罪がおぞましいものであればあるほど、罪人は完璧な悪人となり、憎しみはより正当なものになる。人は自分自身から考えをそらすために、犯人のことを考え、自分の人生を嫌悪しないため、犯人を憎む。犯人の死だけを喜んで、残された人々に微笑みかけることを忘れる〉〈だから、ぼくは君たちに憎しみを贈ることはしない。君たちはそれが目的なのかもしれないが、憎悪に怒りで応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、君たちの負けだ。ぼくたちは今までどおりの暮らしを続ける〉〈息子とぼくは二人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう君たちに関わっている時間はないんだ。昼寝から覚める息子のところへ行かなければならない。メルヴィルはまだやっと十七カ月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことで、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみも手に入れることはできないのだから〉 さて、どうお感じだろう。男は高い知性の持ち主である。犯人と同じ土俵にのぼらないことが、犯人を負かす唯一の道とし、それを実践しようとしている。最大のテーマは、自分の中にある憎しみの感情との戦いだ。憎しみにかられて、現実を見失ってはいけない。 そう自身に言い聞かせる、自身を説き伏せる文章が、薄い一冊の中に詰まっている。知的苦悩の軌跡をまとめた本ともいえよう。 一読を薦めたい好著だが、でも、私たちはみんなこれほど知的でいられるか。男には、妻との間にできた一歳五か月の息子が残された。ママ、パパ、まんま。まだ三つの言葉しか言えない保育園児。男には、その世話の役割がある。ママがやっていた育児を自分が代わりにやらなければならない。それは重い責任だが、男にとっての幸いでもある。 なぜって、もし妻だけでなく息子も殺されていたら、この男はもう〈今までどおりの暮らしを続ける〉ことができないから。自分一人だけ残されたとしたら、この男だって過激派組織ISと戦う別の過激派になっていてもおかしくない。あるいは心を病む。高い知性もその位には頼りないものだと思う。 日弁連の「宣言案」では、被害者支援の重要さも説くという。そこはなにより重要だ。とってつけじゃない支援の方法を提示してほしい。支援しきれない被害者感情があることも踏まえてほしい。その上で、死刑廃止の議論を喚起してもらいたい。関連記事■ 殺人事件で死刑判決受けた元少年らに取材 死刑を考える本■ 赤軍、オウム、林真須美ら死刑囚78人の肉筆を週刊誌が掲載■ 安倍内閣がかたずを呑む「谷垣法相で麻原死刑執行」の決断■ 死刑囚との対話や執行立ち会い等の体験描くノンフィクション■ ビートたけし無差別殺傷事件を語る 死刑=最高刑はもう古い

  • Thumbnail

    記事

    日本で採用の絞首刑 執行現場の様子を元刑務官が重い口開く

     死刑執行数が、自民党政権に移って1年余で8人とハイペースになっている。オウム真理教元幹部・平田信被告の裁判に同じく幹部だった死刑囚たちが証言を行うなどしたこともあり、死刑制度への関心が高まっているが、日本の死刑に関する基本的な事項をおさらいしておこう。 死刑が行なわれるのは刑務所ではない。高松を除く全国7か所の高裁所在地の拘置所内に刑場が設けられており、そこで死刑執行が行なわれる。高松には死刑台はなく、大阪拘置所で執行される。 死刑囚は、死そのものが刑であるため、執行までは拘置所に収容されており、懲役囚のような刑務作業はない。死刑が確定すると例外なく単独房に拘禁され、他の収容者との接触は許されない。冒頭に述べた平田信被告の裁判には3人の死刑囚が出廷したわけだが、それが異例だったことから大きな話題になった。 死刑執行は法務大臣が署名捺印した執行命令書によって行なわれる。拘置所長には約1か月前から死刑執行に関する内々の情報が入るが、一般刑務官には数日前、本人には当日直前まで知らされない。 執行に関わった経験を持つ西日本の元刑務官が重い口を開いてこういう。「執行前に死刑囚の身長と体重を測り、同じ体重の砂袋を作って何回も実験します。踏み板からドンと落ちた瞬間に衝撃で首が30センチくらい伸びる。それを考慮して、ロープの長さなどをセッティングしておくわけです。先輩刑務官からは、首が締まって死ぬのではなく脊髄が一気に切れるから、痛みを感じずに死ねるんだと教えられました」 別の刑務官はこんな証言をする。「首を吊ると失禁するといわれているが、私はそういうケースに当たったことがない。ただ、高齢でない男の場合、射精することは少なくない。やっぱり人間の本能なんだろう」 世界を見渡すと、絞首刑を採用する国は減っている。「そもそも死刑自体を存続しているOECD加盟国は日本とアメリカだけです。しかも米国では3分の1の州で死刑を法律で廃止している。ヨーロッパを見ると、死刑廃止はEUの加盟条件でもある。2012年の日本の死刑執行数は世界ワースト10位という多さです」(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長の若林秀樹氏) アムネスティの資料によれば、絞首刑を採用しているのはアフガニスタン、バングラデシュ、ボツワナ、スーダンなど決して先進国とはいえない国ばかり。アメリカで死刑を存置している州でも絞首刑は廃止され、致死薬注射が一般的だ。関連記事■ 死刑囚との対話や執行立ち会い等の体験描くノンフィクション■ 麻原彰晃死刑囚の「Xデー」 法務省のメンツで年内に来るか■ 赤軍、オウム、林真須美ら死刑囚78人の肉筆を週刊誌が掲載■ 殺人事件で死刑判決受けた元少年らに取材 死刑を考える本■ 安倍内閣がかたずを呑む「谷垣法相で麻原死刑執行」の決断