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    【韓国現地リポート】韓国キリスト教と政治の裏歴史

    韓国のキリスト教徒は国民の3割に上り、「国民的宗教」として浸透している。大衆化した宗教は政治や社会とも密接に関係するだけに、歴代大統領の政策にも多大な影響を与えているようだ。韓国宗教文化研究所所長の李進龜(イ・ジンク)氏が、その歴史と現状をひも解く。■関連テーマはこちら

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    大衆化した韓国キリスト教の正体

    韓国のキリスト教徒は国民のおよそ3割に上る。わが国では1%にも満たないが、隣国では「国家的宗教」として浸透する。むろん、大衆化した宗教は政治や社会とも密接に関係する。なぜ韓国はキリスト教国になったのか。iRONNA韓国リポートの新テーマ「宗教編」をシリーズでお届けする。

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    韓国のキリスト教はいかにして「反日感情」と結びついたか

    つく傾向があり、政治的進歩層のキリスト者たちは進歩系キリスト教と結びつく傾向があります。歴代大統領の宗教をみれば、それは明らかです。セムナン教会でインタビューに応える洛雲海(ナク・ウンヘ)牧師=2018年4月5日、韓国・ソウル(中田真弥撮影) 例えば李明博(イ・ミョンバク)大統領はプロテスタント「長老教会」の長老でした。彼は長老教会の中でも「統合」と呼ばれる中道派に属し、保守から進歩までを含む一番幅が広い教派です。 その後の朴槿恵(パク・クネ)大統領は非常に保守的な政治家でした。父親の朴正煕(パク・チョンヒ)を支持していたキリスト者たちは主として保守的キリスト者たちでしたから、同じような人々が支持していたとみてよいでしょう。 そして進歩派で知られる現在の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、カトリック信徒です。ご存じの通り、廬武鉉(ノ・ムヒョン)と文在寅は親密な同志ですが、彼らを支えているのは同じキリスト教グループです。韓国政府のブレーンは神父 政治的進歩を支えているキリスト者たちは、軍事独裁政権と呼ばれた時代に、民主化闘争のために命を張って戦った人々である、という共通点があります。彼らは多くの保守系キリスト教が体制側に立っているのに対して、弱きものの立場に立ってキリスト教の精神を具現化していくんだと、独裁政治に対抗したのです。中でもカトリックで構成された「正義具現司祭団」というグループが中心的な役割を果たしました。 そして民主化運動が成功し政権交代が果たされた後、金大中(キム・デジュン)、廬武鉉大統領の時には、民主化運動をした神父や牧師たちが政権のブレーンになっていきました。その牧師や神父は政府の中枢部に入って行きブレーンとなっていきました。特に南北関係の核心的なポストに、神父や神学者が入っていったわけです。 韓国政界は、表向きにはあまりキリスト教の存在はわからないでしょうが、国家の決定的なところにキリスト教徒たちが多数入っているのが現実です。 日本のキリスト教徒の人口比率は、1%に満たないと言われています。一方、韓国のキリスト教徒はカトリックやプロテスタントを併せて俗に30%ほどと推測されます。最近は韓国でもキリスト者人口は減ってきていますが、それでも日本とは大きく違いますよね。 すぐお隣の国にも関わらず、なぜ韓国でキリスト教徒が多く、日本では少ないのか。それは、韓国において、本来結びつくはずのないナショナリズムとキリスト教が結びついたことが大きな要因の一つだと、私は見ています。 ナショナリズムとキリスト教の結びつきを象徴する出来事として、「3・1独立運動」をみてみましょう。日本の植民地支配に抵抗して独立を願う人たちが立ち上がり、宣言書が読まれ、デモ行進が行われました。この宣言に民族代表33人が名を連ねたのですが、全員が宗教的指導者でした。日本統治下の時代のキリスト教の会議記録とセムナン教会のメンバーリスト=2018年4月5日、韓国・ソウル(中田真弥撮影) その宗教の内訳をみると、キリスト教指導者が半分以上を占めている。これは注目に値すると思います。日本でキリスト教といえば、むしろ日本を超えた「世界」のことについて訴えているイメージが強いのではないでしょうか。日本のナショナリズムを鼓舞する人の中に、キリスト教徒たちはほとんど目につかないですよね。 韓国では、政治的保守・右翼とキリスト教が結びつくことが多く、それが韓国でキリスト教徒の多い要因ではないかとする見方があります。でも、私の牧師としての立場からすれば、本来ナショナリズムとキリスト教の教えは結びつかないものですし、むしろキリスト教はナショナリズムを克服していくべきものです。 なぜなら、キリスト教では、神の前ではみな平等であると教えるからです。それが基本的人権の思想につながっていくわけですが、理由はそれだけではありません。キリスト教が世界に広がる過程も関係しています。 キリスト教国家が他の発展途上の地域、あるいは非文明的な地域を植民地化しようと入っていくときに、宗教も一緒に入って広められていった歴史があります。入ってこられた側としては、もちろん好意的に受け入れる人たちもいたことでしょうが、当然反発する人たちもいるわけですね。宣教師が反日に動いた理由 侵略を受ける側は、侵略をしてくる側をよく思うはずがないですよね。搾取されていくわけですから、反発が起こります。もちろん、文明の力を取り入れて自らに利しようとする人たちはいるでしょうし、実際いました。織田信長が鉄砲を取り入れて日本を統一していったように、先進技術や文明の力を取り入れて手を組もうとする人たちもいますが、多くは反発します。 そして、侵略者たちが信じている、核心になっているものに対しても反発が起こるのが普通でしょう。例えばキリスト教を信じているという侵略者たちが、口では愛とかなんとか言っておきながら、ものすごい勢いで搾取をして現地の人々を隷属化していく。そういうことが起こってきたときに、志のある人たちは反発しますよね。その反発は、侵略者たちが信じている宗教に対する反発にもなるわけです。 でも、侵略者たちの力があまりにも大きいがゆえに、やがて取り込まれて、そして教化されるようなことが起こります。植民地化された国にキリスト教会が入っていき、現地が搾取され教化されるという形は、世界中のいろいろな国で見ることができるでしょう。 南米でもカトリックの信徒がほとんどで、フィリピンでも同じです。それは、どのような宗教を信奉する国が現地を侵略し、また植民地化するのか、まさにそのことが影響するわけです。 そこで韓国を考えてみましょう。韓国を植民地化した国はどこかといえば、日本です。ところで、日本はキリスト教国家と言えるでしょうか。その当時の帝国日本という国家の基軸となるような宗教があったとすれば、それは「国家神道」です。 植民地化されると感じれば、朝鮮民族としての自負心を強く持っている民族主義者たちは抵抗するでしょうし、実際に抵抗しました。彼らは、自らを搾取し植民化しようとするものたちの背後にあるものにも一緒に反発します。宗教にだって反発するでしょう。そこで神社参拝の問題が特に出てくるわけです。 もしも、日本の背後にある宗教がキリスト教であったなら、彼らはキリスト教に対する反発を持ったのではないでしょうか。しかし朝鮮半島ではそうではなかったわけです。それは「国家神道」でした。 そしてもうひとつ、彼らの民族的な精神、あるいは民族独立の運動を支持する人たちがいました。それがキリスト教の宣教師たちだったわけです。宣教師が韓国の信者に洗礼を施す様子=2018年4月5日、韓国・ソウル(中田真弥撮影) 朝鮮の人々から見れば、日本に無茶苦茶なやり方で入って来られたという思いが強い中で、宣教師たちはそんな彼らをかわいそうに思い、愛をもって助けようと、朝鮮側の立場になったことでしょう。 宣教師たちからすれば、日本は朝鮮の人々の自由を奪っていく、そのような行為はキリスト教の愛の精神に反するわけですから、朝鮮の民族独立運動家と共に反日に動きました。それでナショナリズムとキリスト教が結びついていった、という側面があったのではないでしょうか。靖国参拝は異常な行動に見える ある神学者が唱えた理論で、「帝国日本触媒論」という考え方があります。触媒というのは、Aという物質とBという物質が一緒にいるだけではなんの反応もしないのに、そこに関係のない触媒が介入してくると、触媒自体は変わらないのに、AとBは激しく反応して新しいものを生み出すような役割を果たすものです。 その触媒こそが日本だとする理論です。これは私もなるほどと思います。キリスト教と韓国のナショナリズムというものは本来結びつきようがないものなのに、そこに帝国日本というものが触媒のように入ってきたがゆえに二つは激しく反応して結びつくことになりました。「3・1独立運動」主導者の過半数がキリスト教の指導者たちだったという例は、この結びつきが顕著に表れた例と言えるわけです。 そして日本が負けたおかげで(韓国の民族独立主義者たちの側からみると「おかげ」ですよね)、ついに独立が可能になりました。そこで、これまで韓国で民族のために命を張って抵抗してきた人たちは、その後、国家においてどのような位置を占めると思いますか。当然、国家の指導層に出てくるわけです。 基本的にキリスト教の教えは、愛による和解を願う赦(ゆる)しの宗教です。つまり現代における、「反日」的なメッセージとキリスト教の教えは必ずしも一致しません。しかし、朝鮮半島には、事実日本から痛い目にあったという過去があり、そのために複雑な思いを持った人々がキリスト教徒たちの中にもいます。日本からのさらなる謝罪が必要だと思っている人々も多いことでしょう。 例えば、靖国神社に参拝する日本の政治家がいます。日本のある人々からすれば、参拝は英霊に対する当然の礼儀だと思うかもしれませんが、外国から見れば、それは宗教行為に他ならないでしょう。ある閣僚が、キリスト教信仰を持つ信徒でありながら靖国に参拝するというのは、本来ならありえません。セムナン教会でインタビューに応える洛雲海(ナク・ウンヘ)牧師=2018年4月5日、韓国・ソウル(中田真弥撮影) 少なからぬ日本人からすれば、政治家の靖国参拝は許容範囲というか、礼儀として受け止められるかもしれませんが、外から見ればそれは異常な行為に見えることでしょう。どっちの神を信じているんだと。帝国日本の時代に、宗教行為ではないからと強要された神社参拝に反発して、虐殺までされたキリスト教徒たちがいますから、「政治家の神社参拝」とそれらの出来事が重なって見えることでしょう。 韓国とキリスト教の関係は奥が深いものです。これを理解すれば、韓国という国家を見る視点が変わり、現代に残る強い反日感情の根源などについても、真に理解することにつながるのではないでしょうか。(聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)洛雲海(ナク・ウンヘ) 昭和39年東京生まれ。日本人。韓国政府招請奨学生として長老会神学大学校大学院に留学、博士課程修了(神学博士)。現在、長老会神学大学校助教授(組織神学)、韓国・セムナン教会協力牧師、聖学院大学総合研究所客員教授。

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    なぜ韓国でキリスト教が爆発的に浸透したのか

    島田裕巳(宗教学者) 戦後の韓国社会では、キリスト教の伸びが著しい。米調査機関、ピュー・リサーチ・センターによれば、2010年における韓国のキリスト教徒の割合は29パーセントに達し、仏教を凌駕している。仏教は23パーセントである。 キリスト教徒の割合は、1950年の時点では、まだ8パーセントだった。それが、1970年には18パーセント、85年には21パーセントに増えた。95年で26パーセント、2005年で28パーセントだから、伸びこそ鈍化している。 だが、日本のキリスト教徒の割合が1パーセント程度なのに比べると、韓国でのキリスト教の浸透はすさまじい。実際韓国に行ってみると、親は仏教徒だが、自分はキリスト教徒だという人によく出会う。 そこには、戦後の韓国における経済発展と、急激な都市化がかかわっている。都市化は首都ソウルへの一極集中と言ってもいい。 日本でも、高度経済成長の時代には、産業構造の転換に基いて経済が大きく発展し、それに伴って都市化が著しく進行した。それまで伝統的な村社会に生きていた人々は、都市に信仰を携えてはこなかった。しかも、彼らは家や地域社会のというネットワークから切り離された。そうした人間たちを掬い取ったのが、創価学会をはじめとする新宗教だった。 韓国では、日本の新宗教の代わりをキリスト教が果たした。韓国のキリスト教は、日本のキリスト教とは大きく異なるのである。日本では、キリスト教は、主に富裕層や知識人層に広がった。逆に大衆化は進まなかった。 ところが、韓国では、キリスト教は庶民層に広がった。したがって、日本のキリスト教とは異なり、むしろ日本の新宗教に近い、現世利益や病気治療を中心とするものが受容された。その際には、韓国に伝統的なシャーマニズムがそこに取り込まれ、かなり怪しげなものとなった。なにしろ、説教師が神懸りしたりするのである。韓国のソウルにある汝矣島(ヨイド)純福音教会 必然、韓国のキリスト教徒の中でも、知識人層はそうした土着化したキリスト教を評価せず、「あれはキリスト教ではない」と否定的にとらえている。安延苑(アン・ジョンウォン)青学大准教授と浅見雅一慶大教授との共著に『韓国とキリスト教』(中公新書)という本があるが、そこでは、大衆化したキリスト教についてはほとんど触れられていない。触れたくないというのが、著者たちの本音なのである。 日本では、土着の神道と外来の仏教が融合し、それが新宗教の基盤にもなった。ところが、韓国には神道にあたるものがないし、仏教は、儒教による圧迫も受けてきた。そのことが、キリスト教の受容に結び付いたのである。もう一つの「特徴」 ただ、「漢江の奇跡」と称された経済発展が曲がり角に達し、韓国も低成長の時代に入ると、キリスト教の伸びは前述したように鈍化した。それは、新宗教に近いキリスト教から活力を奪うことにもなった。最近の韓国では、プロテスタントからカトリックに改宗する人間が増えているといわれるが、現世利益や病気治療ではない、社会的にも認知された宗教が求められるようになってきたのであろう。 もう一つ、韓国の宗教の特徴は、経済界と結びつきやすいということがあげられる。韓国は依然として財閥社会で、「10大財閥」が力を持っていると言われるが、財閥が強いということは、経済構造が十分には近代化されていないことを意味する。だからこそ、財閥をめぐってさまざまな事件が起こるのである。 セウォル号事件の際には、この船の実質的なオーナーは、兪炳彦(ユ・ビョンオン)という造船業や海運、遊覧船を経営するセモグループの前会長だとされたが、この人物は、同時に救援派(クウォンパ)という宗教団体の開祖であった。この団体の正式な名称はキリスト教福音浸礼会である。 救援派はキリスト教の異端とも言われるが、プロテスタントの場合、バチカンのような世界的な組織があるわけではなく、正統と異端を区別する仕組みが存在しない。救援派のような新宗教に近いキリスト教の宗派は、韓国にいくらでも存在するのである。 経済活動を実践しつつ、宗教活動も行う組織としては、世界基督教統一神霊協会がよく知られている。いわゆる「統一教会」のことだ。この組織は、世界平和統一家庭連合に名称が変更されている。 日本の統一教会と言えば、勝共連合との結びつきもあり、政治的な宗教団体のイメージが強い。だからこそ、日本共産党やそのシンパと対立してきたわけだ。 しかし、韓国では、むしろ財閥グループとしての性格が強い。経済活動は、宗教活動を支えるための資金集めの範囲には収まらず、むしろそちらの活動の方が中心であるようにも見える。少なくとも、日本の統一教会と韓国の統一教会は、かなり性格が違う組織なのだ。2017年11月、旅客船セウォル号の船体の前で、記者会見する行方不明者の家族ら(聯合=共同) 韓国のキリスト教は、「富者は神の祝福を受けている」と主張することによって、資本主義のイデオロギーを支持する役割を果たしたともいわれる。宗教には、信仰によって人々を結び付ける働きがあり、韓国の財閥や経済グループの中には、その点で宗教を利用してきた勢力もあったことになる。 韓国では、キリスト教が庶民層をも引きつける生きた宗教であるがゆえに、経済や政治と結びついていきやすい。弾劾された朴槿恵元大統領も、キリスト教の影響も受けた新宗教の教祖とその娘と深い結びつきを持ったことが疑惑の一つの焦点になった。 以上のように、韓国社会を見ていく上で、宗教とのかかわりということは、現在でも極めて重要な側面なのである。

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    韓国大統領も逆らえない「天主教司祭団」知られざる実力

    員長を務める。朴神父が統一委員長を務める司祭団は、1974年9月に結成した組織。当初から政治色が強い宗教系社会運動団体としてスタートした。 創立集会ではロウソクを手に持つ神父らが、朴正熙(パク・チョンヒ)政権(1963~79年)の独裁政治を糾弾する「時局宣言」を発表して注目浴びたが、これが韓国現代史上初めてのロウソクデモだったといわれる。朴槿恵前大統領を弾劾に追い込んだ2016年暮れのロウソクデモの伝統をつくったのは「司祭団」だったのだ。北朝鮮擁護の司祭団 そもそも、1987年6月、全斗煥(チョン・ドファン)軍事政権(1980~88年)に対抗して韓国全国で広がりを見せた民主化運動の「6月抗争」の起爆剤となったのは、司祭団がソウル大学の学生の拷問致死事件を暴露したからだとされる。しかし、「朝鮮日報」(2013年11月26日付)によると、「1986年以降、親北(朝鮮)・左派的な傾向を見せるようになった」という。 朝鮮日報はその主な事例として、1989年8月には司祭団所属の神父が秘密裏に平壌入りして「世界青年学生祝典」に参加し、北朝鮮を擁護する姿勢を鮮明にしたことや、2002年11月、米軍装甲車に女子中学生がひかれ死亡する事故が起きた際、「反米時局祈祷会」を開いたことなどを挙げる。 廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権(2003~08年)時代の03年11月、司祭団は北朝鮮の犯行としてすでに結論が出ている「大韓航空機爆破事件(北朝鮮工作機関所属の金賢姫が実行犯という捜査記録がある)」は、当時の韓国政府がデッチあげたものだと主張して再調査を要求した。 また、アメリカ産牛肉輸入再交渉要求して08年4月から数カ月続いたロウソクデモ、済州島の海軍基地建設反対運動など反米・反政府運動、北朝鮮の立場を擁護する活動を展開してきた宗教団体としても名を馳せている。 韓国のカトリック教司祭は4578人いるとされるが、そのうち司祭団に所属する神父は500人程度と推定される。これら司祭たちは信者を結集して韓国の敏感な社会問題につけこみ、時の政局のど真ん中に飛び込むことで政党(とくに左派系の政党)と深い関係をつくる。 朴槿恵政権誕生後、文在寅氏が所属する民主党(当時)主導の下で発足した「国家機関選挙介入真相究明民主憲政秩序回復のための各界連席会議」にも司祭団代表神父が名を連ねていた。 文在寅氏は大統領になる前から司祭団とある種の関係を持っていた。13年9月23日夜、司祭団はソウル市庁広場で「国家情報院解体のための時局祈祷会」を主催するが、この集会に「国情院解体、民主主義回復」の看板を手に持つ文在寅氏(当時議員)の姿が写真に撮られインターネットで話題を呼んだ。朴槿恵政権打倒という政治目標を共有していたからだとみられる。大統領選の街頭演説に臨む「共に民主党」の文在寅氏(当時)=2017年5月、韓国・ソウル(川口良介撮影) それから2カ月後の11月22日、司祭団は全州教区において「朴槿恵大統領退陣を促すミサ」を行うが、その場で司祭の一部は、北朝鮮が韓国領の延坪島(ヨンピョンド)を砲撃したことを擁護する発言をしたとして物議を醸した。 「NL(南北の海の境界線)において韓米が軍事訓練を継続すれば北韓(北朝鮮)としてはどうすべきだろうか? 撃つしかしかないでしょう。それが延坪島砲撃です」と、北朝鮮の砲撃は米韓軍事訓練のせいであり、当たり前かのような発言をした。政党と連携する宗教団体 北朝鮮が延坪島に突然砲撃を浴びせ、犠牲者を出したのは2010年11月23日。米韓軍がNLの南側海域で実施する射撃訓練はいつもある通常の軍事訓練であったが、それを口実に北朝鮮は砲撃し、軍人2人に加え、民間人も死亡した。事件から3周年を迎える日に行われたミサでの発言だった。 韓国国防部は「これは明白な侵略行為であり反人倫的な行為」と断じたが、司祭団のミサでは北朝鮮を擁護したのである。 このような司祭団と同じく、事あるたびに集会を開き、デモを主導、政府に要求を突き付けるための「時局宣言」を行うなど、存在感を誇示する方法で政治勢力化を図り、政党と連携する宗教団体は韓国には多い。 国民の大半が特定宗教を持つ韓国では、国政選挙と大統領選挙に宗教団体の支持は勝負を分ける場合もある。韓国統計庁が実施した調査によれば、韓国人の宗教分布は、おおよそ仏教が22%、プロテスタントが18%、カトリックが11%(年度によって異なる)となっている。 朴槿恵氏が大統領に当選した2012年の選挙を前に、韓国紙「ヘラルド経済」が19歳以上の男女を対象に行った質問調査では、「仏教は朴槿恵候補、基督教(改新教、プロテスタント)は朴槿恵支持者がやや多く、カトリック、無宗教は野党候補(当時は民主党の文在寅氏)を支持する傾向がみられた」としている。ソウルで行われた、朴槿恵大統領退陣を求めるデモ=2017年12月 韓国の専門家は「このような性向から仏教は保守派、プロテスタントは中途・保守、カトリックおよび無宗教層は進歩・左派に分類することができる」と分析する。 ちなみに、文在寅大統領はカトリック信者だ。小学校3年の時から聖堂に通い、洗礼を受けたという。2017年5月に実施された大統領選挙ではカトリック信者の46・6%、プロテスタントの39・3%が文在寅氏に投票したとされる。

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    イスラム教もキリスト教も、なぜ戦後日本でうまく根付かなかったのか

    通じ伝えていく――。出口:お会いできることを楽しみにしていました。いきなり本題に入りますが、人はなぜ宗教を求めるのでしょうか?佐藤:端的に言うと、死ぬからですよね。死んだ先のことがわからないから。でも、もっと重要なのは、近代に生きている人間は、宗教とは自覚していなくても、みんな宗教を信じていると思うんです。出口:どういうことでしょう。佐藤:一番近い宗教は「拝金教」。お金を信じている。出口:お金はあったほうがいい、と。佐藤:ええ。でも、何のためにあったほうがいいかとは、あまり考えません。出口:確かに考えませんね。佐藤:それと、もう一つは「出世教」ですね。とにかく上に行きたい。おそらく、霞が関の中央官庁の課長たちを全員集めて、「年収100万円減らすけれども局長になりたい人いる?」と聞いたら、全員手を挙げると思います。出口:ハハハ。佐藤:出世教と関係しているのは、「受験教」ですね。そのような宗教はたくさんあると思うんだけど、一番重要なのは、宗教という形をとらないと思うんです。出口:というのは?佐藤:戦前において、「国家神道」つまり伊勢神道は宗教ではありませんでした。日本臣民の慣習だった。だからみんなが神社に行かないといけないし、お札も取らなきゃいけない。そういう感じで事実上の国教にしちゃったわけです。 そういう伝統的国家神道とか、拝金教とか、出世教とか、受験教が、日本にはうわ~っと浸透している感じがするんですよね。出口:「戦後の日本で、なぜキリスト教が広がらなかったんですか?」という質問を受けたことがあります。 僕は「戦後は、イスラム教も仏教もそんなに広がっていません。生活が豊かになって、普通にごはんが食べられるようになった。現世のいろいろな楽しいことがあるから、宗教はあまり流行らなかったんじゃないですか」と、いいかげんに答えた記憶があります。佐藤:イスラム教もキリスト教も、戦後の日本でうまく根付かなかったのは、商売につながらないからですよ。実は、明治時代は結構イスラム教徒が多かったんです。なぜならイスラム教徒にはイスラム金融が使えたから。利息とか関係ないんです。 私はいろいろな宗教を見てきましたが、ある程度ビジネスと相性のよい宗教じゃないと残らないんですよね。出口:なるほど。出口治明氏(右)と佐藤優氏佐藤:もう一つの理由は、薩長土肥の中でエリートになれなかった青年たちが、明治維新のときにキリスト教に行っているんです。能力はあっても薩長でなければ、軍でも官僚でも出世しない。新島襄にしても、植村正久にしても、みんな佐幕派なんです。出口:確かにそうですね。佐藤:だから、今の日本のキリスト教は根付かないと同時に、政府に対してちょっと後ろ向きの姿勢を取る。左翼と右翼というよりも、明治維新の恨みがあるわけです。出口:そこに理由があったのですか。佐藤:意外とそういう要素は無視できないと思うんですよ。だから薩長が嫌いなんですね、日本のキリスト教は。出口:じゃあ逆に、なぜキリスト教は、世界的な宗教になることができたかというと……佐藤:いいかげんだからですね(笑)。出口:それは、まったくそうだと思います。佐藤:たとえば、みんなクリスマスのお祝いをするでしょ。出口:セント・ニコラウスですね。佐藤:ええ、そうです。あれは1950年代からなんです。それまでクリスマスなんて祝わなかった。アメリカで、つい最近起きた習慣ですからね。出口:伝統って、だいたいそんなものですよね。佐藤:キリスト教の教義では、神様が一人のはずなんだけど、一方で「父なる神」と「子」と「聖霊なる神」の3つである、というね。出口:「三位一体」は、わかったようでわからない考え方ですね。佐藤:そうでしょう。それから、イエス・キリストが、人間なのか神なのかもよくわからない。真の神と真の人。教義の根本のところが、ものすごくいいかげんなんですよ。出口:不思議ですよね。佐藤:わからない中にも傾向がありまして。正しく理屈で説明できるようになると、それは異端で火あぶりになるんです。 たとえば、父なる神がいたとき子と聖霊はいなくて、子なる神がいるときは父と聖霊がいなくて、子なる神キリストがいなくなったら聖霊になったんだ、という考え方が昔からあるのですが、それは異端でかなりの場合、火あぶりになっているんです。 あるいは、神様がキリストを養子にしたという説もある。これも異端とされました。理屈で説明できるのは、全部ダメなんです。 ビジネスの世界では、論争したとき理屈で正しい人はどれくらい勝ちますか?出口:これは難しい質問ですね。僕はよく「数字、ファクト、ロジック」と言っているのですが、データに基づいて科学的な判断をしたほうが、長い目で見ると勝つと思っています。佐藤:なるほど。大変だという気持ちが勝る出口:ただ、人間は感情の動物なので、常にそうとは限らない。時間軸をロングランでとらえれば、合理性が勝つと思うのですが、そうでないときはやっぱり時の勢いに押されますよね。 僕も経験があるのですが、バブルが崩壊した時は「みんな大変やで!」という風潮でした。当時は、体力のある日本で一番大きな保険会社に勤めていたので、「20年後を考えて世界展開したほうが会社は大きくなる」と主張したのですが、「こんなに大変な時は、世界に出て行くより国内を固めないと」となって、完敗してしまった。 みんなが大変だと思っていると、大変だという気持ちが勝ってしまうんです。歴史においても、長期的に合理的な判断が出来る人が現れればいいですけれど、人間はそんなに賢くないので、ついついその場の雰囲気や時代の空気に流されてしまう気がします。佐藤:私もそう思います。最近の現象だと、総理大臣も官房長官も「北朝鮮が大量のサリンを作っている」と言うでしょ。これは事実だと思うんですよ。でもその先で、「サリンを弾頭に乗せて飛ばすかもしれない、大変だ」とか言っているわけです。だとしたら、記者から質問が出るはずです。出口:どんな質問が?佐藤:高校の化学レベルの話ですが、サリンは熱に弱いんです。生物兵器もそうですが、高熱に弱いんですよね。サリンを大量に作って弾道ミサイルにつけたとしても、着弾したときには全く無力化しているはずなんですよ。出口:打ち上がったときには大変な殺傷力を持っているけれど……。佐藤:爆発した瞬間の熱も、上がったときの摩擦熱もすごい。出口:大気圏から再突入するときも、たいへんな熱が生じますからね。佐藤:だから、毒性はないはずなんです。本来、記者は「総理、サリンは熱に弱いんじゃないですか。それとも弾頭の高熱に耐え得る新しいサリンが開発されたんですか?」と聞かなきゃいけないのですが、みんな「大変だ、大変だ!」ってそれだけです。出口:それは、政治部の記者が化学の知識がないということですね。佐藤:ええ、関係していますね。でもこれは高校レベルまでの化学の知識がいかに重要かってことなんです。出口:みんな忘れちゃうんですね。佐藤:だから忘れないようにリビューしないといけないんです。こういうのが、本当の応用問題ですよ。その先で、安倍さんや菅さんが嘘をつくことはありません。北朝鮮に関してどういう脅威があるかということを、リストアップした防衛省に言ったはずなんです。防衛省も積極的に嘘をつくはずがないですから。出口:知らないんですね。佐藤:シリア問題では、アサド政権の空爆でサリンが使用されたと言われています。おそらくアメリカでは、耐熱性のサリンができているのではないかという仮説を持っているんじゃないでしょうか。出口:なるほど、なるほど。佐藤:それだから、ロシアが関与しているのだ、と言っている。オウム真理教のとき、サリンはビニール袋に入れて傘で突きましたよね。出口:ええ。佐藤:ということは、もしサリンで攻撃するのだったら、複葉機に載せて、低空飛行で、入れ物に入れたサリンを結び付けて、ナイフで切って落とせば効果があるはずなんです。そうじゃなくて、弾頭に入れて高いところから落としたなら、その熱が影響を与えるはずです。出口:なるほど、やっぱりリテラシーって大事ですね。佐藤:ちょっと面白いと思いませんか? 納得いく説明がなかなか難しいですけれど。理屈がわかって、総理のやっていることについて文句を言うと「じゃあお前は、北朝鮮の脅威がないのか」と言われても面倒くさい。だから黙っちゃうんでしょうね。佐藤:リテラシーの大切さでいえば、小保方晴子さんの件です。これは、なぜ理研の人たちが騙されたかという話ともつながってきます。重要なのは、錬金術に関する知識学なんですよ。 古代ギリシアっていうのは、観察がすごく重要だったんですよね。出口:そうですね。佐藤:アリストテレスの著作で、岩波文庫に入らないような雑品集があるんですよ。その中では、たとえば「糞と小便」の研究がある。時間が経過すると糞は臭いが薄れるのに、小便はもっと臭くなる、とか。いろんな理屈をこねているんですね。出口:それが観察ですよね。佐藤:ええ。もう一つ面白いのは、「好色な男性はなぜ髪の毛が薄いのか?」という研究もある。頭の中にはスケベな液体が入っていて、それが加齢と共に頭蓋骨の中にすき間が空いてくるので、頭に染みてきているのだ、と。出口:ハハハ!佐藤:アリストテレスは、延々とそれを論じているんですよ。でも中世になると、観察でガタガタ言うのを嫌ったんです。実験が重要な時代になる。出口:はい、それが錬金術ですね。佐藤優氏佐藤:そうです。錬金術師は必ず研究所を持っていないといけないんですよ。そこで、乾いた道と湿った道、2つの方法で実験します。 この錬金術に注目すると、カール・ユングが『心理学と錬金術』という本を書いています。面白いのは、錬金術はいくつも成功例がある。しかし、非金属が金属に変わるはずないでしょう、という。 なぜ成功するのか。それは、「錬金術師が研究室のメンバーの無意識の領域まで支配したときに完成する」と。出口:なるほど。佐藤:つまりこれは、「みんなは金属の変化のほうに注目しているけれど、そうじゃない。心理を変化させる技法だ」というんです。研究室にいる人が、錬金術師を全面的に信用した場合、「ほら鉛が金になったよ」と言ったら、その部屋にいる人はみんな信用しちゃうんですよ。これ、小保方さんで起きたことと同じですよね。錬金術師的な才能を持っていると、狭い集団の中で磁場を変化させられますから。 私はそういうふうに思っているんです。錬金術というとみんなナンセンスだと思うんだけど、心理学で見るなら正しい。そうなるとやっぱり、錬金術について勉強しておいたほうがいいんです。キリストが世界に広がった理由出口:科学の進歩を考えてみたら、スタートは観察で、その次が実験で、次は人間の目だけではダメだから顕微鏡や望遠鏡などの機械を使って、その次がシミュレーションですよね。佐藤:ええ、そうです。ところが、そこにはタイムラグがあるわけですよ。仮説というのは、化学的な仮説なのか、それとも一種の妄想なのかということは、わかるまでに時間がかかるわけです。そのすき間に小保方さんはうまく入ったな、と。出口:なるほど。それにしても、実験と心理学、錬金術と心理学という佐藤さんの指摘は、すごく面白いですね。佐藤:私というより、カール・ユングですけどね(笑)。彼はそういう意味では上手な形で精神分析という巨大なマーケットを創りだすことに成功したんです。出口:ある意味で、錬金術師として大成功したわけですね。出口:元のテーマに戻ると、僕はキリスト教が世界に広がったのは、寄生階級を組織化していたからではないかと思っているんです。たとえば、イスラム教では、牧師さんはみんな仕事を持っていますよね。八百屋のおじさんとか。佐藤:はい。出口:キリスト教は、ローマ教皇から始まり、寄生階級をたくさん抱え込んでいる。そうするとお布施がなかったら生きていけません。たとえばルターの改革で、ドイツや北ヨーロッパを失ったら、どこかを取り戻さないと自分たちが生きていけない。佐藤:その通りです。取り戻すため、拡大しようとした一つが日本だった。宗教改革がなければ、ザビエルが日本に来ることはなかったですからね。出口:要するにどんどん領土を広げなければ、ごはんが食べられないという構造があったから、世界宗教になったのではないかと。佐藤:その要素は確かにありますね。帝国主義と結びつくことができたのが、キリスト教が広がった大きな理由でしょうね。 あと、カトリック教会は厳しい独身制を敷いていますよね。独身制を敷くというのは、基本、権力があるということなんです。 どういうことかというと、外で子どもを作るかもしれませんけど、自分の子どもはいないことになっている。つまり、子どもに財産や権力を相続できないんです。東洋やイスラム諸国では、独身制を敷く代わりに宦官を置いていたわけですね。去勢しちゃえば物理的に子どもができないので。 ちなみに、日本で近代以降、宦官や独身制と同じ役割を果たしているのが、国家公務員試験じゃないでしょうか。出口:どういうことでしょうか?佐藤:要するに、試験に合格しなければ、いくらお父さんが財務次官だって、息子が次官になれるわけではない。そういった形の一種の去勢です。出口:社会的な去勢、ということですね。佐藤:はい。それは選挙制度や試験制度や独身制など、いろいろな形でできるんですよね。やっぱり権力があるから必要なんです。出口:キリスト教はお金もあって、国家権力もあったから。出口治明氏(右)と佐藤優氏佐藤:意外と知られていないのは、宗教改革が起きたのはドイツですが、ドイツのルター派の牧師は、今も基本的に公務員です。ドイツには教会税というのもある。だから最近は無宗教だと申告する人が多いようです。教会税を取られないために。出口:なるほど。佐藤:それから、ドイツ連邦の文部大臣って聞いたことないでしょう?出口:はい、ありません。佐藤:実は、連邦に教育関連の大臣はいないんです。出口:州でやっているんですよね?佐藤:州の教育大臣っていうのは、牧師出身者や神学出身者が多いんですよ。たとえばメルケルも牧師の子で、ガウク前大統領も牧師。ガウクは現職の牧師でした。国家と宗教がものすごく近いんです。 深井智朗さんが『プロテスタンティズム』という本に書いているのですが、ドイツでは最近ルター派教会に来る人が増えたそうです。出口:なぜですか?佐藤:そこが白人社会だから。白人で、ドイツ語しかしゃべらない。移民がいない場所なんです。そこに来て、みんななんとなくホッとしている。ここに本来のドイツがあるんだ、と。ちょっと危ない要素が入っているんです。出口:へえ。宗教と権力の関係って、面白いんですね。出口:ここまでキリスト教のお話をうかがってきましたが、次はイスラム教のことをお聞きしたいと思います。イスラム教は一般にわかりにくいと言われていますが、教義はキリスト教と同じですよね。佐藤:同じところと、違うところがあります。とりあえず日本では、一神教で手っ取り早くわかるのはキリスト教です。だから、イスラム教を理解するためには、キリスト教に関する標準的な知識があるといい。イスラム教独特のものと言われても、実はキリスト教も同じ部分がたくさんあるから。出口:イスラム教はキリスト教のどのグループと似ているのでしょうか。佐藤:カルヴァン派です。生まれる前に神様から選ばれる人たちと、選ばれない人たちが決まっているという考え方(二重予定説)があります。 似ていると、磁石ってN極とN極で反発するんですよ。実は、トランプはカルヴァン派なんです。出口:えっ、トランプが?!佐藤:ええ。長老派です。20世紀以降、アメリカの大統領でカルヴァン派は3人しかいません。ウィルソン、アイゼンハワー、そしてトランプ。この3人は特徴がありますね。たとえばウィルソンだったら、国民に「何やってるの?」と思われながら、「神様から言われたからやっている」という思いで国際連盟を作りました。結局アメリカ議会の反対で加盟できなかったんですが、そういうエネルギーはカルヴァン派特有です。出口:選ばれたから、頑張るしかないという。佐藤:アイゼンハワーも、ノルマンディー上陸作戦なんて周囲はやらないほうがいいと思っていましたからね。それが、彼のものすごく強いイニシアティブで実現したわけです。やっぱり神がかり的なところがある。出口:なるほど、トランプも神がかりなんですね。佐藤:ええ。だからトランプを理解するには、彼自身が「自分は神によって選ばれている」という理想を持っていることを知ること。不動産業で成功したので、普通に考えればそれだけでいいんだけれど、彼は「世のため人のために大統領になった」と思っているんです。だから面倒くさいんです。出口:何かを信じている人とは、なかなか普通の話ができないですよね。佐藤:もう一つ、クリスチャン・シオニズムという考え方があります。 ユダヤ教とキリスト教はヨーロッパでは仲が悪いんですが、アメリカでは仲がいいんですよ。 イスラエルというのは、選ばれた人によってできた国であると、聖書に書いてある。この世の終わりに最後の審判が起きて、みんなが楽園に入る前にイスラエルが現れる、と。出口:メシアだと。佐藤:そうです。それと同時にわれわれが作ったアメリカも、同じような国だ。だからイスラエルを支持しよう。この考え方がトランプの中で強いですからね。だから、娘がユダヤ教に改宗することを全然気にしなかった。たぶん、富士山に登るのに、山梨から登ろうと、静岡から登ろうと、目指している頂上は一緒、くらいの感覚でしょう。出口:なるほど、そうか。トランプがカルヴァン派だということを知れば理解しやすいんですね。イスラムも近い。佐藤:N極とN極だから、イスラムの国とは非常に相性が悪い。反発し合うんです。でも、似た者同士の反発なので、ある程度相手の考え方はわかります。*後編へ続く

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    韓国大統領はなぜ霊媒師や風水師の言いなりになるのか

     現職大統領による国家機密漏えい事件で大きく揺らぐ韓国社会。朴槿恵大統領はなぜ、怪しげな宗教者の言いなりとなったのか。産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘氏が、韓国社会に浸透する「信仰心」の罠に斬り込む。* * *「朴槿恵─崔順実スキャンダル」は、ネットを中心に“ムーダン疑惑”として嘲笑の対象になっている。ムーダンとは、韓国の伝統的な霊媒・占い師のこと。「朴と崔」の関係は、崔の父・崔太敏が“牧師”と称し、霊媒師紛いの言辞で朴槿恵の心を掴み、その後、一家をあげて彼女に食い込んだことから始まった。 ちなみに韓国でのムーダン文化の一端を紹介すると、筆者の知人の祖母がムーダンの病気治療や人生相談に凝っていて、ある時、ムーダンの言いなりになって300万ウォン(約30万円)を献金したという。「日ごろ子供たちからもらっている小遣いを貯めていて、それをみんなはたいてしまった。ったくもう……」と知人は大いに嘆いていた。 先年、不正経営で逮捕された某大財閥の首脳が、企業投資の展望を専属のムーダンに頼っていたとして話題になっている。それを笑ったところ、別の知人は「日本でも会社や家庭に鳥居や神棚があって拝んでいるそうじゃないですか」と逆襲(?)してきたが。 ところで、「魏志倭人伝」に登場する有名な邪馬台国の女王・卑弥呼は「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とある。「鬼道」とは霊媒・占いのこと。大昔、原始集団において王の支配権を支えたのは、そうした呪術的超能力だった。卑弥呼も朝鮮半島系だったか?2018年8月、車いすに乗ってソウル市内の病院を出る韓国前大統領の朴槿恵被告(聯合=共同) ただ、現在の韓国は正統派のキリスト教が社会的、政治的に大きな影響力をもっている。ムーダンなどの“伝統宗教”は邪教的として表向きは非難、排斥されがちで、現実政治に入り込む余地はない。 現実政治への影響では、日本流に言えば陰陽道である「風水」信仰の方だ。山や川などの自然環境から人や国家の運勢を占うものだが、大統領選をはじめ韓国の政治や社会を左右してきた地域対立には、この風水説があると言われてきた。 地域対立とは簡単に言うと、韓国南西部の全羅道に対する差別意識のことである。全羅道は金大中政権(1998-2003年)誕生で1000年ぶりに権力を握りはしたが、今なお野党勢力の牙城であり、社会的に他地域における差別意識は消えていない。 その差別の背景には高麗朝(10-14世紀)の始祖・王建が残した遺言があるというのだ。「全羅道は人に背く地勢だから権力に近付けてはならない」という、まさに風水説である。今も韓国社会に残る全羅道差別意識の根源は「信用できない、いつかは裏切る」だ。外国人にはなかなか実感できないけれど。関連記事■ 稀勢の里 名医、整体師、霊媒師を紹介されるも効果は微妙■ 韓国大統領選 朴氏勝利でも親日姿勢取りにくいと韓国事情通■ 韓国陸軍元大佐「反日で中国に擦り寄る朴槿恵大統領は愚か」■ 韓国民「朴大統領はMERS対応失敗し妹の管理もできず」と批判■ 「男版・福島みずほ」が韓国大統領になり日本に凄まじい厄災

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    平成の終わりとオウム死刑執行 「第二の麻原彰晃」はもう生まれない

    島田裕巳(宗教学者) オウム真理教の教祖だった麻原彰晃をはじめ、7人の死刑囚の死刑が執行された。死刑制度の是非はあるものの、日本がその制度を堅持している以上、執行は当然のことである。これで、世界を驚愕させたオウム真理教の事件に一つの大きなけじめがついたことは間違いない。 一連のオウム事件で逃亡していた3人が逮捕され、その裁判が終結した以上、いつ死刑が執行されても不思議ではなかった。ただ、宗教団体の教祖を死刑に処するということは、近代の日本社会では初めてのことである。 とはいえ、オウム真理教が「Aleph」(アレフ)や「ひかりの輪」といった形で残存しているため、死刑によってどういうことが起こり得るか、法務省は慎重に検討を進めたようである。 死刑囚の移送が行われ、麻原らの死刑が近づいていると報道された段階で、麻原は法廷で事件の真相を十分に語っていないため、法廷での奇行の原因となった精神的な病を治療し、その上で証言をさせてから、死刑を執行すべきだという見解を示した人たちがいた。麻原が語らなければ事件の真相は明らかにならないというわけである。 だが、麻原は自らの手で犯行に及んだわけではなく、弟子たちに指示してそれを行わせた。そして弟子側は、法廷で事件の経緯について詳しく証言しており、どういった形で事件が起こったかは明らかになっている。 分かっていないのは、地下鉄サリン事件の実行を最終的に誰が決めたかであり、麻原とそれを協議したと思われる教団幹部だった村井秀夫が殺されたことで、その点は明確になっていない。村井がなぜ殺されなければならなかったのかも、謎に包まれている。しかし、その他のことはあらかた明らかにされているのではないだろうか。会見するオウム真理教の教祖、麻原彰晃死刑囚=1990年、静岡県富士宮市 もう一つ、法廷で明らかにされなかったのは、教団の資金力である。事件の背景に、教団が相当な資金力があったことは間違いない。 その点について、最近私は、オウムの元幹部で、現在はひかりの輪の代表である上祐史浩氏と対談する機会があり、以下のような注目すべきことを聞いた。 オウム真理教は1992年にロシアに進出したが、その際、1億円を支払えば、大統領のエリツィンに会えると話をもちかけられ、実際に1億円を支払ったという。大統領には結局会えなかったが、それがロシア進出の大きなきっかけになった。 当時のオウムは、信者からの献金やパソコンの廉価販売で莫大な収入を得ていた。1億円を出すことができたのも、それだけの収入があったからだ。オウムの背景にあったバブル そこには、バブル経済という特殊な時代状況がかかわっていたようだ。信者から多額の献金が集まったのも、金余りの時代風潮があったからだ。また、信者がオウム真理教に興味を持ち、入信していったのも、そうした時代風潮に虚しさを感じ、修行による解脱を目指したからだった。 逆に、今はそうした時代ではない。アレフやひかりの輪という形でオウムの教団が残存していても、それがさほど拡大していかないのも、そのときとは時代が違うからだ。富士山麓にオウム王国を築き、サリンの大量製造を行うための大規模なプラントを作ることができたのも、豊富な資金力があってのことだ。 さらに、現在との時代の違いということでは、「終末観」があげられる。オウムの信者となった人たちは、「オウム世代」とも呼ばれたが、彼らは、1970年代のはじめにはまだ子供で、1999年に世の中が終わるとする「ノストラダムスの予言」を信じた世代である。 その時代には、小松左京の小説『日本沈没』がベストセラーになり、超能力者を称するユリ・ゲラーという人物がブームを巻き起こした。 そのとき、大人になっていた人たちは、そうした事柄を真に受けなかったが、子供たちは違った。1999年までしか人生は続かないと信じていた人たちは、実際かなり存在した。 1999年に世界が終わるという予言は、実際にその年が訪れ、世界が終わらなかったことで効力を失った。そのため、今では、そんなことを信じていた人たちがいたことについて想像力が及ばなくなっているが、それがオウムの事件の背景にあったことは間違いない。解体を前に報道陣に公開された山梨県上九一色村の第7サティアン=1998年9月 そして平成の終わりに、オウムの事件は最終的な決着を迎えようとしているが、そもそもオウムの存在が一般に知られるようになったのは、平成の最初の年だった。 31年続くはずの平成の時代は、その始まりと終わりでは、状況が大きく変化した。その間には、オウムの事件もそうだが、米同時多発テロや、東日本大震災による福島第一原発の爆発事故など、世の終わりを思わせるような事件がいくつも起こった。 逆に、そうした想像もできなかった事件が起こったことで、世の終わりに対する想像力が働きにくくなったという面はある。バブルが過去のことになった今、オウムが起こしたものと同種の事件が、それほど遠くない将来に起こることは考えられないのではないだろうか。

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    「グルが神になる日」死刑執行秒読みの波紋

    オウム真理教をめぐる一連の事件で、死刑が確定した教祖、麻原彰晃(本名・松本智津夫)ら13人の死刑執行が秒読み段階に入った。執行には慎重論も根強いが、その最たる理由は「教祖麻原の神格化」である。グルが神になる日はやって来るのか。議論の核心を読む。

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    上祐史浩手記、麻原を「不死の救世主」にしてはならない

    と解釈する可能性があります。その結果、アレフ教団がますます勢いづく可能性は否定できません。 そして、宗教における神格化とは多くの場合、信者が自己の信仰を守り、自尊心を充足させるために行うものであり、時には自己防衛反応によるものだと思います。よって、そうした必要がない心理状態を別に与えない限りは、周囲が過剰に心配しても、何ら良い方向に行かないと思います。 結論は非常にシンプルです。社会が麻原を他の死刑囚と同じように扱い、いかなる意味でも異なる扱いをしないことが、麻原の神格化を最小限にして、アレフを善導することになると思います。逆に、過剰反応して社会が普通と異なる扱いをすれば、結果として教団と社会が悪い意味で「共鳴振動」するかもしれません。 その意味で先日、オウム死刑囚の死刑執行を粛々と行うよう法務大臣に求めた被害者団体の方々の姿勢は、神格化を防ぐ手立てになると思います。法務省や警察関係者は、執行に向けて入念な準備が必要だと思いますが、メディアが過剰に騒ぎ立てれば、アレフの抑制のためには「逆効果」となるのではないでしょうか。記者会見する麻原彰晃死刑囚ら=1990年 さて、一部報道では、死刑執行の際、信者による報復テロなどが起きるのではないかと心配する声がありましたが、私の知る限り、そうした心配もまずないと思います。 なぜならアレフは、自分たちは不殺生の戒律を守り、過去にも殺人やテロは一切やっていないという立場だからです。そもそもオウム事件は「何者かの陰謀である」と布教しており、過去にも未来にも、殺生をする者ではないという意識があるからです。 この背景として、過去の事件に関与した者たちは、拘置所に収監中であり、現在アレフにいる信者は、95年までの教団武装化に関与した主要なメンバーではなく、過去の教団のテロ事件を実体験していないという事情があります。 ただ、麻原は逮捕される直前に、同じ旧上九一色村(現・山梨県富士河口湖町)にいた側近の幹部信者に「自分が逮捕されたらテロを続けろ」とか、「自分を奪還しろ」と焦りのあまり言ったことがあったそうです。麻原と同等ではない6人の子供 しかし、逮捕後はそのようなことをすれば破壊活動防止法(破防法)に抵触する状況から、破壊活動はしないよう指示し、破防法適用申請の弁明手続きの中でも、信者による奪還やテロ行為を明確に否定しています。 そもそも、麻原は逮捕直後、弁護士を通して「一連の事件の関与を認めないのは、外にいる自分の弟子たちの修行を確保する(=教団を維持する)ためだ」と伝えています。奪還やテロは致命的になるため、それを放棄したと考えられます。ましてや、死刑執行後に「報復テロをしろ」という指示は一切ありません。 そして、オウム真理教の教義では、仏教の戒律に反する殺生・殺人などの行為を正当化できるのは、麻原だけであるとされています。これは捜査と担当した警察関係者やオウム専門の弁護士なども確認しています。 しかも、そうする場合は、麻原の指示通りに行う必要があり、「死刑が執行されたならば報復テロをしろ」という麻原の具体的な指示がないにもかかわらず、信者が勝手にそれをやれば、「殺人の悪行によって地獄に落ちる」行為になると解釈されています。 とはいえ、念のために言えば、今から18年前の2000年前後には、ロシア在住のオウム信者のグループが麻原を奪還しようと、日本での爆弾テロを計画した事件があり、当時未成年だった麻原の家族がこれを称賛するなどして波紋を広げました。 しかし、そのグループの中で疑問を感じた者が、グループ外のロシア信者と連絡を取り、ちょうど出所して教団に復帰した私にも連絡が届いたので、私は麻原自身が奪還テロを否定したことを繰り返し伝え、家族にも奪還を否定するメッセージを表明するよう要請しました。 さらに、日本とロシアの捜査当局に告発して、教団信者も捜査に協力したので、彼らはロシアで逮捕され、爆弾テロは未然に防がれました。 これは、外国人の信者と当時未成年だった家族が、あまり事情を理解できていなかった結果だと思います。この事件以降、そうした行為の無意味さを改めて実感した信者は多いと思います。そして、私が知る限りでは、この事例以外に妄想的な願望のレベルではなく、具体的な構想・計画として、奪還を考えた事例があったとは思いません。仙台拘置支所に到着したオウム真理教の死刑囚を乗せたとみられる車両=2018年3月、仙台市若林区 次に、麻原の家族が報復テロなどを指示する可能性を考えてみましょう。まず、麻原と同等に「最終解脱者」と位置付けた6人の子供がいます。そのうち2人が麻原の妻の長男と次男で、他の4人はいわゆる愛人の子供です。しかし、あくまで麻原が根源(開祖)です。よって、麻原自身が違法行為を禁じたことを理解している限り、麻原の指示を子女が覆すとか、子女に指示された幹部信者が、それに従うことは考えにくいと思います。   また、アレフの信者の中に、麻原と同等に麻原の子女を信じている者は、さすがにいないでしょう。さらに、2000年には三女・次女と長女の対立が刑事事件に発展し、2013年末からは、再び家族内で分裂が生じました。そのため、古参信者を中心に家族への求心力は低下し、「やめたいが行き場もないし…」という消極的な形で、教団に残る出家信者が多いという情報もあります。 さらに、多少内部的すぎる話になりますが、破防法弁明手続きでの麻原の考えを厳密に理解するならば、仮に麻原の子女が最終解脱者だとしても、麻原同様に殺人を指示できる者とはしていません。これは、元オウム信者のためにも、念のためにお伝えしておこうと思います。終焉したオウムのテロ 麻原の死刑執行は理論上、オウムの教義上、殺人を指示・正当化できる権能を有する者がいなくなるという意味で「オウムによるテロ事件の終焉(しゅうえん)」だと私は思います。それが今年であるならば、くしくも平成元年(1989年)に、内部信者と弁護士一家の殺害で始まった一連のオウム事件が、ちょうど平成の間に清算の時を迎えることになります。 もちろん、麻原の死刑が執行されれば、実際にアレフなどの信者はかなり精神的ショックを受けると思います。前述したように、アレフの少なくとも一部は「信者がグル(麻原)を必要とし、帰依を深めて、涅槃(他界・死亡)しないように懇願すれば、(その超能力によって)延命する」と説いていますから、一種の挫折感が生じるかもしれません。 これは、逮捕された後も20年間以上、麻原が過去の一連の事件に関与した事実、その予言が現実ではなかった事実、超人ではなかったという事実を受け入れることなく、自分の信仰・思想の過ちを直視して清算することができなかった結果と言わざるを得ません。 逆に言えば、国が何らかの理由で、死刑執行を中止した場合、アレフは教祖とその信仰実践が正しかったと考え、彼らのいわば「宗教的な勝利」と解釈し、信仰と布教を深める可能性があるということです。 他にも、麻原の死刑執行に伴い、「後追い自殺をする信者はいないのか」と聞かれることがあります。私はその可能性は低いとは思いますが、全くないとは言い切れません。 15年以上前の話ですが、麻原の家族の一人が「麻原の後を追っていい」という教えがあるとの解釈をしていました。また、彼女に自殺を求められた幹部信者や他の家族の話も聞きました。とはいえ、これらは随分前の話であって、現在はそうした精神状態ではないと思いますし、そう信じたいと思います。 その意味で本稿でも確認しておきたいことは、麻原とオウム真理教の教義において、「グル(麻原)が死んだら後を追うべきである」という教義はないし、自殺は今生の苦しみから逃げるものと解釈されて、後追いしていいとはされていないのです。 さらに、麻原は逮捕以前に私を含めた当時の高弟に対して「後を追うことは許さない。なぜならば後追うことができないからだ」という趣旨の話をしています。「後を追うことができない」とは、死んだ後に転生しても麻原と同じ世界に転生できないという意味です。 こうした問題の背景には、いまだにアレフが「教団が一連の事件に関与していない」という陰謀説を唱えていることがあります。とはいえ、教団を裏で支配しているとされる麻原の家族の一部やアレフ上層部が、自ら陰謀説を信じているかというと、これまでの経緯を考えればそうではないと思います。 麻原の事件への関与は、多くの弟子たちの証言によって既に多くの裁判で認定され、事実が確定しています。また、麻原は逮捕前、私個人にサリン事件に関して「教団が悪いことをやった」と言いました。 さらに、逮捕後に接見した弁護士にも「死刑を覚悟している」と話しながら、「もし関与を認めても共犯の弟子たちは救われないし、外にいる弟子たちの修行を確保しなければならない」として、事件関与を認めない方針を示しています。この弁護士とのやりとりは、麻原の家族や最高幹部など当時の教団上層部には伝わっています。外国特派員協会で会見するオウム真理教の上祐史浩氏=1995年4月 そして、麻原の妻は、自身が内部信者の殺人現場に同席し、有罪判決を受け、教団の武装化を逮捕以前から知っており、裁判でも麻原の事件関与を認めています。麻原の娘たちやアレフの現在の最高幹部Nなどにも、私は麻原や教団が事件に関与したことを繰り返し伝えました。その件で、彼らが多かれ少なかれ悩んでいたことも知っています。最高幹部のNは、起訴はされませんでしたが、教団武装化には関与していました。 よって、真実は分かりませんが、彼らは麻原や教団の事件関与を理解しながらも、麻原への帰依や信者の維持・獲得などのために一般信者にはそれを隠しているのではないか、と感じざるを得ません。 そして彼らの行動が、私がサリン事件発生当時に麻原の関与を否定する広報活動を行ったことと、重なって見えてしまいます。麻原の逮捕前後の私は焦っていました。逮捕不可避の流れにあらがって必死に広報活動を行いましたが、その愚かな行動の結果は、みなさんがご存じの通りです。 ただし、これもまたあくまで私が感じていることですが、客観的に見れば、通常なら麻原が事件に関与したと推察するに十分な証言や証拠があるのに、それを信じたくないという思いが強かったり、関与は疑わしいと他人に主張している間に、通常の推察ができなくなる現象のようにも思えます。オウムは平成を象徴した宗教 あくまで一般論ですが、人は自覚して嘘をつくよりも、真実だと思い込んでその通りに動く方が楽です。自己を救世主と位置づけた麻原にも、そうした面があったのではないかと感じています。心理学的にも「空想虚言症」という概念があるからです。 ともかく、原因や動機は別にして、アレフは新しい信者に陰謀説を説いて、入信や麻原への抵抗感を弱めています。そして、新しい信者は陰謀説を信じてしまえば、麻原の死刑がひどい冤罪(えんざい)であって、必然的なものとして受け入れられることではなくなってしまうのです。 これらの現状を踏まえれば、今後のアレフには、麻原の死刑執行に加えて今まで避けてきた「過去の清算」として、二つの問題が生じる可能性があります。 一つは、被害者に対する賠償の問題です。長年続いていた被害者団体とアレフの調停が、アレフが拒絶する形で昨年12月に決裂し、今年2月初めに被害者団体が10億円以上の賠償を求めて東京地裁に訴える事態に至りました。基本的にアレフは信者の教化活動において、麻原の事件関与を認めずに陰謀説を説いており、それは賠償と相矛盾する行為です。 今後、アレフが現有資産を流出させて支払いを回避する恐れや、被害者団体が差し押さえの措置を取るか、また裁判がどのくらいのスピードで終了するかが、注目されると思います。 さらに、脱会した信者によると、支払いを逃れるためか、アレフの幹部信者が1年半ほど前から教団の自主解散を検討しているという情報もありました。言い換えれば、こうした水面下の駆け引きが被害者団体とアレフの間で続いてきたということです。 二つ目は、麻原の死刑執行とともにアレフに起こり得ることは、彼らが使用している麻原個人やオウム真理教の著作物に関する著作権問題です。アレフは、麻原やオウム真理教の著作物を使って教団を運営し、収益を上げています。これに対して、被害者団体はオウム真理教の著作権が宗教法人オウム真理教の破産業務の終結とともに、被害者団体に譲渡されており、その使用の停止をアレフに求めてきました。オウム真理教事件をめぐる賠償の状況  これに対して、アレフは「麻原個人の著作物であり、被害者団体に著作権はない」と反論し、事態は膠(こう)着しています。ところが、麻原が死刑になると、これらの著作権は麻原の妻と子供たちに相続されます。 相続者が複数いる場合、すべての相続者が合意しない限り、アレフに著作権の利用を認めることはできず、1人の相続者だけでも単独で、他者が著作物を使用することを差し止め、損害賠償を求める手続きができるようです。  その中で、麻原の四女はメディア上で両親とアレフを繰り返し否定しており、アレフの使用を認めないと思われます。また、三女、次女、長男も「自分たちはアレフとは関係がない」と主張しており、アレフの著作権使用には反対するかもしれません。こうして相続人全体がアレフの使用で合意する見込みは乏しい中で、利用を拒む正当な理由があるか否かが問題となります。そのために、家族間で訴訟が起きる可能性もあります。 仮にアレフの使用が禁じられた場合、それを無視すれば犯罪になる可能性があります。著作物とは、書籍や説法ビデオに限らず、教学用の説法集や瞑想(めいそう)教本、詞章・歌・マントラなどの映像・音響教材の一切を含み、その複製、販売、陳列、上映などが禁止されますから、教団には大きな打撃になると思われます。 こうしてみると、オウム事件は平成元年に始まり、2018年以降平成の時代の終わりとともに、アレフが教祖、教え(教材)、教団組織という、宗教団体の要となる三つの要素すべてにおいて、過去の清算を迫られる重要な時期を迎える可能性があるということになります。 こうした意味でも私は、オウム・アレフが「平成の宗教」だったのではないか、という印象を今強くしています。

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    死刑執行後「教祖麻原の遺骨」は誰が引き取るのか

    島田裕巳(宗教学者) ここのところ、オウム真理教の教祖であった麻原彰晃(本名、松本智津夫)死刑囚の死刑執行が迫っているのではないかと報じられている。教団のメンバーで死刑が確定している7人が、東京拘置所から別の拘置所に移送されたからだが、法務省は、移送と死刑執行は関係がないとしている。 刑事訴訟法は、死刑判決が確定して以降6カ月以内に執行することを規定している。だが、現実には、そうした例は少なく、100人以上の死刑囚が拘置されている状況がずっと続いている。中には、死刑が執行されず病死する者も少なくない。 同一事件の共犯は同時に執行されることが慣例にもなっているが、オウム真理教の事件の場合、確定死刑囚の数は13人に及んでいる。これを一度に執行することは、これまでの歴史を考えると相当に難しいであろう。 しかも、2019年には現在の天皇の退位と、新天皇の即位が予定されている。20年は、東京五輪が開催される。こうした年に死刑を執行することは、これまでの例からしても考えにくい。実際、前回の東京五輪が行われた1964年には1件も執行されなかったし、90年から92年にかけても執行されていない。となれば、逆に今年中の執行が現実味を帯びてくることになる。 オウム真理教事件は複雑である。しかも、キーパーソンだった教団の科学技術省大臣、村井秀夫元幹部が殺害されたこともあり、サリンの散布を含めた殺人の実行を誰が決定し、指示したのかでははっきりしない部分が少なくない。地下鉄サリン事件でも、最終的な決定は麻原死刑囚と村井元幹部の間で行われた。麻原死刑囚が法廷で事件の詳細について証言しなかったこともあり、実行の決定がどのようになされたのか、決定的なことは分かっていない。 だが、教団がサリンなどの毒ガスを製造して数々の殺人を実行したこと、事件全体の首謀者が麻原死刑囚であることは間違いない。その点で、麻原死刑囚から執行される可能性が高い。では、麻原死刑囚が執行された場合に、それはどのような影響を与えるのだろうか。 麻原死刑囚は、裁判の途中から証言を拒否し、沈黙を貫くようになった。それは、東京拘置所でも変わらないようで、最近の報道では、一日中床に座っていることが多く、食事は独りで食べ、運動には出るものの、家族が面会を求めて東京拘置所にやってきても、それに対しては一切反応しないという。2004年3月、に死刑判決後、東京拘置所に戻ってきた麻原彰晃(本名・松本智津夫)被告を乗せたとみられる護送車(寺河内美奈撮影) したがって、現在の麻原死刑囚が家族や、彼らを介して後継団体「アレフ」など残存している教団に対して何らかの指示を下しているわけではない。2015年には、アレフのメンバーが拘置所までやってきて、壁の前で上を見上げて手を合わせ、何かをつぶやいていると報道されたが、麻原死刑囚とメンバーとの間の交流は一切絶たれているのである。 それゆえ、麻原死刑囚が死刑になることで、アレフなどの教団運営に何らかの具体的な影響が出ることは考えにくい。今でも彼らは麻原死刑囚を宗教的指導者を意味する「グル」として崇拝しているが、麻原死刑囚から新しいメッセージが伝えられる状況にはなっていない。「宗教上有力な武器」が生まれる これは、公安当局が最も危惧していることでもあるようだが、何より問題になってくるのは、死刑が執行された後の遺体をいったい誰が引き取るかである。一般の死刑囚の場合には、遺族が引き取らないケースが多いようだが、教団の教祖となれば、火葬された後の遺骨が崇拝対象になる可能性がある。引き取り手のめどがつくかどうかも、執行の判断に影響するようだ。 現在の日本社会では、100パーセント近い遺体が火葬され、遺族はたいがい墓や納骨堂に遺骨を納め、それを墓参りして拝んでいる。遺骨に故人の魂が宿っているというとらえ方がなされているとも言える。 遺骨に対する崇拝の念が強いのが中世のキリスト教社会で、聖人の遺骨を崇拝し、それによって奇跡が起こることを期待する「聖遺物崇拝」が盛んだった。教会はこの聖遺物を祭るために建てられるもので、現在でも遺骨に対する信仰は受け継がれている。 これが、オウム真理教とも深くかかわる仏教だと、開祖である釈迦(しゃか)の遺骨が「仏舎利」として信仰の対象になってきた。仏舎利を祭るための塔(ストゥーパ)が建てられるようになり、それがやがて寺院へと発展していったのだ。麻原死刑囚の遺骨がそうした形で信仰の対象となり、アレフなどの信仰体制を強化する役割を果たす可能性は十分に考えられる。 さらに、遺骨を所持する人間は権威としてカリスマを帯びることになる。それが麻原死刑囚の家族であれば、麻原死刑囚に代わって教団を率いていく立場にたつことができるのである。 ただ、死刑が執行されたからといって、アレフなどが、かつての事件の二の舞のようなことをくり返すとは考えにくい。当局の監視下にあるわけだし、これまでも麻原死刑囚を奪還するような試みは行われてこなかった。それを実行に移そうとしたのは、ロシアの信者たちだった。彼らは逮捕され、禁錮刑を科されている。インド・クシナガルにある大涅槃寺とストゥーパ。遺跡の上に新しい堂塔が建っている=2011年10月撮影 オウム真理教が、さまざまな事件を起こしたのは、一挙に拡大して多くの信者を抱え、また、バブル経済の影響もあって、布施やパソコン事業などで莫大(ばくだい)な収益を上げたからである。現在のアレフも一定の資産を保有しているものの、その規模はかつてとは比べ物にならない。 だからテロ事件再発の可能性は低いが、教団が教祖の遺骨という宗教上有力な武器を得ることが、これからの拡大に結びつくことはあり得る。しかも、麻原死刑囚は膨大な説法を残しており、独自の修行の方法も確立していた。 現在でもアレフなどに入信していく人間が現れるのも、特異な宗教教団としての体制が整えられているからである。そこに、遺骨という強力な武器が備わったとき、どうなるのか。すぐにそれが教団の爆発的な発展に結びつくこともないだろうが、将来は分からない。 死刑は執行しても、遺骨は家族に渡さない。それは、現在の法律では難しいだろうが、国民の安全を確保するために、国が一定の期間遺骨を預かるといったやり方を検討してもいいのかもしれない。

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    オウム教祖、麻原彰晃の「神格化」を止める手立てはない

    のであるという推測から、いよいよ近づいているとの見方が広まっている。  近代以降の日本において法と新宗教の摩擦の例は枚挙にいとまがなく、刑事裁判において有罪判決を受けた宗教者は多数存在するが、宗教の創始者(教祖)の死刑判決及びその執行の例は、ほとんどない。 著名教団創始者の死として、1945年の創価学会創始者、牧口常三郎の獄死を想起する向きもあるかもしれないが、牧口の死は治安維持法違反並びに不敬罪裁判中の栄養失調による獄中死である。 小規模な宗教集団においては、死者6人を出した1995年の福島悪魔祓い殺人事件の主犯とされた祈祷師、江藤幸子の死刑が2012年に執行された例はあるが、一定規模以上に教勢を伸ばして社会的に知られた教団の教祖が死刑判決を受けた例はオウム真理教事件以外には存在しない。無期懲役の判決を言い渡された元オウム真理教信者の高橋克也被告=2015年4月、東京地裁(イラスト・宮崎瑞穂) このことは無差別テロを含むオウム真理教による一連の犯罪が近代史上においても稀有な例であることを示すものでもある。 他の先進国(共産主義国を除く)に目を向けても、教祖の死刑は、アメリカのカルト集団「ファミリー(マンソン・ファミリー)」指導者チャールズ・ミルズ・マンソンが1972年に死刑判決を受けた例(死刑制度廃止により終身刑に減刑後、2017年獄中死)がある。そして、同じくアメリカのモルモン系カルト小集団の教祖ジェフリー・ラングレンが1990年に死刑判決を受けた例(2006年執行)など、少数が目にとまる程度である。近代史上において稀有な死刑 また、1844年に起きた末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の創設者ジョセフ・スミス・ジュニアの死は、反逆罪容疑での収監中に暴徒に襲撃されて死亡したものである。※画像はイメージです(iStock) さらに、第二次世界大戦後に世界を驚かせた宗教集団教祖の衝撃的な死としては、1978年の人民寺院の創設者ジェームズ・ウォーレン・“ジム”・ジョーンズ、1997年の「ヘヴンズ・ゲート」(UFOを信仰するカルト)創設者のマーシャル・アップルホワイトの死などが知られているが、いずれも信者を巻き込んだ集団自殺によるものであった。 1993年のセブンスデー・アドヴェンチスト分派の「ブランチ・ダビディアン」の教祖、デビッド・コレシュ(本名:バーノン・パウエル)の例も教団の武装化に対する強制捜査中の火災による焼死だった。 また、2010年のカナダのカトリック系カルト集団「アント・ヒル・キッズ」の教祖、ロック・タリオの死は、終身刑で服役中に獄中で他の囚人により殺害されたものであり、いずれも死刑によるものではない。 つまり、仮に麻原の死刑が執行された場合、一定規模以上の宗教集団の教祖に対する死刑執行という点で、近代先進諸国の歴史上においても稀有(けう)な機会が到来することになる。 こうしたことから、来るべき麻原の死刑執行が、オウム後継団体などの信者らによる麻原らの神格化をもたらすのではないか、また、報復的テロ活動や死刑執行前の教祖奪還に向けた実力行使が生じるのではないかという懸念の声が上がっている。 たしかに、そのような可能性は否定できないであろう。しかし、そうしたリスクをもって、麻原らの死刑執行を回避するとすれば、つまり「教祖」がゆえに死刑執行を慎重にするならば、逆に「教祖」の死刑執行が宗教集団の指導者であるがゆえに早められるような事態と同様、法の下の平等の観点から問題が生じることになる。 ただ、オウム真理教に関しては、國松孝次警察庁長官狙撃事件など未解決の「謎」も残っている。もし、死刑囚らからそうした「謎」に関する有益な社会的・国家的情報が得られる機会があったとすれば、これまでに高度な政治的・行政的判断として「司法取引的手法」が用いられたかもしれない。問題は麻原が心神喪失か否か しかし、今日に至る、長期にわたる裁判などの経過を踏まえれば、現段階で改めて有用な情報が得られる可能性は高くないように思われる。 また死刑廃止論の観点から、今回の事件を「利用」する論調にも与すべきではない。制度としての死刑廃止の是非は、今回の死刑執行が伴うリスクとは切り離して、立法論的に検討すべきであろう。 再審請求中の死刑囚の権利保護に関する国際法的な視点はひとまず措くとすれば、死刑廃止論を、現行法を前提に振りかざすことは立憲主義(死刑制度は判例上合憲とされている)や法治主義の重視とは相容れない。 残る問題は麻原が心神喪失の状態にあるか否かである。これまで、拘置所における麻原の異常行動が報じられてきたが、それが詐病か否かについて判断する具体的で確かな情報を得る手段は、我々には存在しない。 最終的には法務省の判断によることになるが、仮に麻原が心神喪失の状態にあるとされれば、刑事訴訟法上彼の死刑執行は停止される。13人という共犯死刑囚の多さも関わり、共犯者同時執行の「原則」をこの場合あてはめないとしても、麻原を除外して他の共犯者のみの死刑を執行することが、事件の性質上妥当なのか否かという判断の余地は残る。 麻原が心神喪失状態にないとすれば、オウム死刑囚の死刑執行に対する法的障壁はないことになる。執行に伴って懸念される報復テロや教祖奪還の違法活動の可能性に対しては、警戒警備を厳にすることによって対応するより他ないであろう。会見するオウム真理教の麻原彰晃教祖 ただ、後継団体などの信者による麻原らの死刑執行後の神格化については、それは人間の内心の自由に属する領域に関する事柄であり、神格化を他律的に防ぐ手段はそもそも存在しない。 さらに言えば、麻原らの死刑が仮に今後も執行されず、後に彼が老衰や病気によって獄死したとしても、「殉教者」とされる可能性がゼロになるわけではない。我々の社会が自由な社会であるためには、神格化の可能性とそれに伴う社会的リスクを警戒しつつも許容するしかないのである。(敬称略)

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    恐怖感もオーラも感じなかった麻原彰晃、28年前のインタビュー

    樫山幸夫 (産経新聞前論説委員長) 平成の犯罪史上最悪といわれるオウム真理教事件の裁判が先日、すべて終了した。今後は元教祖の麻原彰晃(本名、松本智津夫)死刑囚らの刑の執行が焦点になるという。30年近く前、教団の恐ろしさが喧伝され始めたころ、筆者は〝尊師〟麻原にインタビューした。坂本堤弁護士一家殺害事件との関係を問いただしたが、もちろん〝全面否認〟だった。会見する麻原彰晃ら=1990年 その後、教団は松本サリン事件、13人が犠牲になった地下鉄サリン事件と次々に凶悪なテロを引き起こしていった。ここまで恐ろしいとは当時は想像もできなかった。「執行の検討」というニュースにはやはり感慨を禁じえなかった。 1990年(平成2年)2月。筆者は東京の政治部で、同月18日に投票が行われた総選挙の取材中だった。オウム真理教が「真理党」という政党を設立、党首の麻原教祖はじめ25人の候補者を擁立した。当時は中選挙区制で、麻原は旧東京4区(渋谷、杉並)から出馬した。 当時、教団の存在は捜査当局だけでなく、国民の間でも、ようやく関心と警戒が高まってきていた。オウム問題に取り組んでいた坂本弁護士一家3人が1989年に横浜の自宅から行方不明となった事件への関与が疑われていた。選挙取材にかこつけて、麻原教祖にインタビューし、この問題を直接聞いてみようと思い立った。 教団の広報担当者に取材を申し込むと、あっさりとオーケーが出た。メディアに登場することで、宣伝になると考えたようだ。条件がひとつだけつけられた。「インタビューするときは、教祖のことを必ず、〝尊師〟と呼んでください」というのがそれだった。 指定された場所は、麻原候補が演説をするJR阿佐ヶ谷駅前。ちょうど先日のように雪が降りしきるたそがれ時、待つこと数刻、一行が選挙カーでやってきた。麻原教祖が演説を終えた後、近くに止めたベンツに案内され、車内インタビューが始まった。 型通りに主要な公約として掲げていた福祉政策について聞いてみた。自らも目が不自由というだけに、「弱者のための福祉政策」をしきりに強調していた。こちらは聞き流してはいたが……。 話が一通り終わった。頃合いはよし。ずばり聞いてみた。「坂本弁護士一家事件に教団が関与しているといわれていますが」 〝尊師〟は怒ったり、声を荒げたりするでもなく、静かに答えた。「そういううわさがあることは知っています。私の不徳の致すところです。私自身まだまだ修行が足りないということです」ー。 「教団の犯行ではないのですね」 「十分に修行を積んで尊敬されるようになれば、そういうことをいわれることもないのでしょうがね」と殊勝な言葉を繰り返した。 30分くらいか。あとで聞いたら「クルタ」と呼ばれるのだそうだが幹部用の服に身を包んだ麻原〝尊師〟からは、凶悪な事件を起こす教団のトップという怖さは全く感じなかった。一方で多くの信者の心をとらえ、崇拝を集めたオーラのようなものも感じられなかった。あの通りの魁偉な人相風体をのぞけば朴訥、物静かな語り口は、風変わりな青年といった印象だった。いま62歳というから当時は30歳半ばに差しかかるころだったろう。 5年後、死者13人、6000人を超える負傷者を出した地下鉄サリン事件が起きた。その日、95年3月20日は筆者は、政治部デスクで朝刊当番にあたっていた。朝から取材現場、社内は大変な騒ぎだった。深夜になって防衛庁(当時)から送られてきた写真、いまでも鮮明に覚えているが、防護服に身を固めた自衛隊員が地下鉄車両内の洗浄作業を行っている生々しい光景の写真を見て、麻原教祖とのやりとりを思い起こしながら、朝刊最終版締め切りぎりぎりに写真を出稿した。幻になったインタビュー記事 オウム犯行説は、その日の早い段階、毒物がサリンと断定された時から、メディアの間で広がっていた。早くも、その2日後には、山梨県旧上九一色村(その後、甲府市などと合併)にあった教団本部などを警視庁が別件の容疑で捜索した。 しかし、麻原教祖らが逮捕されるのは、その年の5月16日まで待たなければならなかった。 逮捕当日、社会部に麻原インタビューの記事を出稿できると伝えたが、諸般の事情からインタビュー記事が日の目を見ることはなかった。  地下鉄サリン事件は、日本国内にとどまらず、世界を震撼させた。思えば、新しい時代における新しい脅威を象徴する事件だった。 地下鉄サリン事件が起きた年の秋、米上院政府活動委員会の小委員会が都市型テロ防止に関する公聴会を開いた。筆者は、夏にワシントン特派員として赴任していたので、この公聴会を取材したが、オウム真理教NY支部長らが証言したことから、米国民の関心を引いた。 東京、モスクワなどオウム関連の都市に派遣された議会調査官が取りまとめた報告者が明らかにされ、日本政府からの情報として、オウムは自らへの捜査の手が伸びてきたことから、かく乱するために日米戦争を引き起こすことを画策。この年に11月に大阪で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)を標的にし、クリントン米大統領も攻撃対象になっていたという。 FBI(連邦捜査局)の担当官は、「核や化学兵器による攻撃はテロリストの能力からみて無理とみられていたが、オウムはそれが誤りだったことを証明してしまった」と将来の大量破壊兵器によるテロ攻撃に強い懸念を示した。 このころ、クリントン大統領は、冷戦終結後の新しい脅威として、「国際テロリスト集団の跳梁、国際犯罪組織、国際麻薬組織の非合法活動」などに機会あるごとに言及した。かならず、「トウキョー・サブウェイ・システムへのナーブ(神経)ガス・アタック」という枕詞を冠するのがつねだった。小渕恵三首相と昼食に向かうクリントン大統領=1998年11月20日 米情報機関で構成する国家情報会議が2012年暮れにまとめた「グローバル・トレンド2030」は、近未来の世界で主役を担うものとして非国家、非政府組織などをあげ、多国籍企業、大規模NGO、強大な研究機関などが、環境問題や貧困問題などで世界をリードしていくだろうと予測。これに加えて、テロリスト集団や犯罪者集団もやはり活動を活発させ、世界の安全保障への脅威となると分析した。 2014年ごろからつい最近まで、シリア、イラクに偽似国家を作り上げ、暴虐非道の限りをつくしたイスラム教スンニ派過激派組織、「イスラム国」(IS)の暗躍ぶりをみるにつけ、これらの予測は不幸にして的中したというべきだろう。 オウムはまさに、冷戦後の新たな脅威の象徴ともいうべき存在だった。考えるべき制度の本質 オウム真理教元幹部らの裁判に話を戻す。一連の事件で、起訴されたのは192人。そのうち13人が死刑を言い渡され、無期懲役は5人。全面無罪だったのはわずか2人だったという。 オウム裁判終結を受けて1月20日の各紙は、13人の死刑確定者の執行について法務省が検討を始めるという記事を掲載した。 刑事訴訟法によると、死刑確定後6カ月以内に執行しなければならないと定められている。しかし、実際は執行までには何年も経過するケースがほとんどだ。また、共犯者が逃走中の場合、逮捕、起訴されてその裁判が始まったのち、確定者が証人として出廷することがあるため、執行は中止される。実際、今回のオウム最後の裁判で無期懲役が確定した高橋克也被告の公判では、6人の死刑確定者が証人として喚問された。 1月20日付の読売新聞は、「全員の刑が確定するまで執行できなかった。裁判終結を機に慎重に検討することになるだろう」という法務・検察幹部のコメントを掲載している。  執行までには多くの問題が残されているという。各紙がそのあたりも詳しく分析しているから、多くを繰り返す必要はなかろうが、そもそも検討といっても、何をどう検討するのだろう。 執行については法務省内部で検討し最終的に法務大臣の署名によってゴーサインが出るという。(iStock) オウム真理教は、その後3団体に分派したが、なお麻原教祖への帰依を深めている団体もあるというから、執行によってことさら神格化され、報復のテロが起きる事態も懸念される。テロを恐れて執行を躊躇し、その懸念のないほかの確定者の執行は行うということになれば、法の精神、正義に反するだろう。 麻原教祖は、裁判の当初から異常なふるまい、行動が目立ち、自ら真相を語ることはなかった。自分の家族はどうして命を奪われなければならなかったのか、割り切れぬ思いを抱える遺族たちの立場に立ってみても、麻原教祖から直接思いを聞くことができないというのでは、悔しいだろう。 13人のうち、だれが先に執行されるかという問題もある。1月20日付読売新聞は、「松本智津夫が最初ではないか」という別な法務・検察首脳のコメントを掲載していたが、異様な挙措を繰り返す麻原死刑囚の場合はどうだろう。 刑事訴訟法では心神喪失の場合、執行は見送られる。麻原教祖については、家族が横浜地裁に起こした民事手続きに関して、東京拘置所が2017年5月、「明らかな精神障害は生じていない。面会はかたくなに拒否している」という報告書を提出しているというが、微妙なところだろう。 教祖は先送り、ほかの教団幹部が先ということでは、これまた、物議をかもす。 専門家の見解を聞いてみた。弁護士で刑事事件に明るい法科大学院教授の一人は解説する。   「死刑の執行そのものがどのように検討されているのかは、外からでは全くはうかがい知れない。あれこれ予測することは困難だ。〝執行を検討〟というのも、まったくの憶測記事だろう。政府は重大な国家権力行使である死刑制度についてもっと情報を公開すべきであり、むしろ、これを機会に、死刑制度について、広く考える機会にしてもいいのではないか」ー。 執行はいつか、誰が先かなどを興味本位に論じるのではなく、制度の本質について真剣に考えるべきということだろう。含蓄ある示唆だった。かしやま・ゆきお 産經新聞前論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員などを経て、2015年6月から産経新聞社監査役。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

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    若い熱狂的信者の量産 幸福の科学は新宗教の中でトップクラス

     地下鉄サリン事件から22年が経ち、新宗教の信者数は激減している。有力教団のデータからその傾向は明らかだ。 平成に入ってからの1990年、地下鉄サリン事件後の2000年、最新版の2014年で比べると信者数の推移は以下の通りだ(文化庁・宗教統計調査)。■天理教 183万人→175万人→116万人■立正佼成会 634万人→574万人→282万人■PL教団 125万人→111万人→90万人■霊友会 320万人→170万人→134万人■生長の家 83万人→85万人→52万人 それは現在与党の一角を占める創価学会もまた同様だと宗教学者の島田裕巳さんが指摘する。 「創価学会が公表する会員数は827万世帯で近年は変化がなく、実態はよくわからないが、実際の信者数は、現在250万人ほどと推定されます。今は高度成長期に入信した信者の高齢化が進み、宗教的な活動を行うことが難しくなった。昔ほど人間が移動しなくなって地域に定着したため、各地でゆるい地域共同体ができて宗教に人間関係を求める必要も減っています。創価学会本部別館=2014年8月6日、東京都新宿区(大山実撮影) しかも現在、悩みを持つ若者が頼るのは神ではなく、スマホやネットです。スマホはすぐ答えが返ってくるが、宗教は修行などで時間がかかり、スピード感のなさが若い人には物足りない。実際に米国の研究では、無宗教者とネット利用者の増加に相関関係があることがわかり、『グーグルは神の最大の敵』『神殺しの犯人』といわれています」  かつてと比べて現在は、新宗教の勧誘が難しくなっていると指摘するのは、カルトに詳しい紀藤正樹弁護士だ。 「1995年のオウム真理教事件後、新宗教が駅前などで行う街頭での伝道活動が減りました。新しい信者の獲得が難しくなり、教勢が停滞するようになりました」 新宗教が一斉に冬の時代に入るなか、生き残りを賭けて大きく動いたのが女優・清水富美加(22才)が出家した幸福の科学だった。幸福の科学を長く取材しているフリーライターの藤倉善郎さんが解説する。「幸福の科学は1991年のフライデー事件後、霊言の公表をやめてメディアと対立しなくなったが、2009年ごろから再び活動が活発化しました。政治団体の幸福実現党を結党して大規模な宣伝活動を開始し、大川隆法総裁は霊言を連発するようになり、広報活動の一環としての映画製作件数も多くなりました。2012年の映画『ファイナル・ジャッジメント』は、中国を想起させる国が日本を侵攻し、それを宗教が救うというストーリーです。それまでの宗教的な活動に政治的な意味が加わるようになりました」宗教の役割は終わるのか 新しい信者の獲得が難しくなった幸福の科学は、2世信者の「宗教教育」を徹底するようになったという。「幸福の科学は小中高生向けの教団内学習塾、中学校と高校などを運営しており、2世信者への教化教育を徹底しています。高校生の2世信者の中には、『主(大川教祖)に命を捧げる!』と演説する者もいるほどです。出家後初の公の場に法名の千眼美子として出演し、満面の笑みで手を振る女優・清水富美加=2017年8月2日、東京ドーム (撮影・高橋朋彦) 若い熱狂的信者を量産する点では、幸福の科学は新宗教でもトップクラスです。こうした信者が成人して社会人や教団職員になることで、教団内部の結束がより強固になります。清水富美加さんもまさにそうした2世信者の1人でしょう」(藤倉さん) しかし、國学院大学神道文化学部の井上順孝教授は、今後は親から子への「信仰継承」も難しくなると指摘する。「情報化とグローバルの時代になり、これまでの常識が通用しない世の中になりました。これから先は、“親が信者だったから自分も信者になる”という構図が壊れて、親から子への継承も減ることでしょう。 これは新宗教や伝統宗教に限らず宗教全体に起こっていることで、これまで当たり前とされた先祖供養や葬式のやり方も変わってきているのが一例です。時代の変化に応じて宗教もまた変わっていくんです」 では、このまま宗教は役割を終えてなくなっていくのだろうか。井上さんはいくら時代が変化しても、「変わらないもの」もあると主張する。「それは、“生きている意味”を求める人間の心です。たとえば病気になったら、人間はその病気の原因やメカニズムを知るだけでなく、“どうして私は病気になったのだろう”と意味を考えます。 実際に今、宗教に入信するのは、不幸があったり、困っているのに手を差し伸べてくれる人がいなかったり、難病に苦しんでいたりして、“なぜ私は苦しいのだろう”と考える人ばかり。そういう人は“答え”がほしくて宗教に入信します。こうした深い悩みをスマホやネットで解決するのは難しい。いつの時代も、宗教が苦しんでいる人に“答え”を与えてくれることに変わりはありません」 信仰が人を救うこともある。「東北に元気を」「日本を信じよう」――さまざまな掛け声とともに、人々が心を1つに祈り、犠牲者を悼んだ3.11が今年も間もなくやってくる。 2011年3月11日に東日本を襲った大震災は、1万8000人以上の死者・行方不明者を出し、さらに原発事故で多くの家族が故郷を追われ、分断された。そんななかで宗教は、人々の大きな拠り所の1つになったと作家で僧侶の玄侑宗久さんが語る。「震災で大切な人を亡くした人々は頭では喪失を理解はしていても、心がついていかずに苦しみました。そんな時、仏教の葬儀や儀式の力を再発見することも多かったと思います。深い悲しみにとらわれた人が、祈りの時と場所を得られたことが大きかった。 どんな宗教かを問わず、人は苦しみや悲しみにとらわれた時、“目に見えないものがわれわれを支えている”という宗教的な心を必要とします。今は雇用が不安定だったり、一部で格差も広がっています。先行きが見えず、不安の多い時代だからこそ、現実とは少し違った価値観を提供する宗教の出番があるのです」関連記事■ 幸福の科学、創価学会等 新宗教の信者数最新ランキング紹介■ 新宗教の信者激減 10年後に消滅する教団も■ 創価学会、霊友会、真如苑…世界で支持される日本の新宗教■ 高度成長期に伸びた立正佼成会 過去10年で約240万人信者減■ 聖教新聞 公称550万部で毎日新聞の400万部を上回る数字

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    佐藤優と片山杜秀、オウム真理教「尊師マーチ」への解釈

    詞したり、天理教の中山みきが「お歌」を作ったり、遡れば親鸞の和讃もありますから、教祖が音楽を作るのは宗教の根幹的行為のひとつかもしれません。 けれど交響曲まで作るのは珍しい。交響曲はひとつの世界観の表現として発達した分野ですから。麻原彰晃はゴーストライターを使って、ひとつ極めたわけです。●さとう・まさる/1960年生まれ。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主な著書に『国家の罠』『自壊する帝国』など。共著に『新・リーダー論』『あぶない一神教』など。本誌連載5年分の論考をまとめた『世界観』(小学館新書)が発売中。●かたやま・もりひで/1963年生まれ。慶應大学法学部教授。思想史研究家。慶應大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。近著に『近代天皇論』(島薗進氏との共著)。関連記事■ オウム事件 1週間に40~50時間も各局から報道されていた■ モンテネグロで拘束のオウム信者は東大・京大卒の超エリート■ 麻原彰晃 「三女を含め4~5年誰も面会できていない」の証言■ 麻原彰晃死刑執行なら遺骨を確保した者が後継者になる可能性■ 元オウム女性幹部 NHK特番の放送後、認識の甘さ思い知る

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    ニセ認証も横行するイスラム教「ハラル」ビジネスの落とし穴

    なことがらから復習しておきたい。                     世界には「食物規制」をもつ宗教がある。一神教では、ユダヤ教とイスラム教の食物規制が有名である。一方、キリスト教は、原則として食物規制をもたない。 食物規制は、聖典で決まっている。ユダヤ教は、モーセ五書(モーセの律法)で定められている。イスラム教は、クルアーン(コーラン)、およびスンナ(伝承)で定められている。どちらも、神の命令であり、信徒がそれを守ることは神に対する義務である。よって、宗教法となる。宗教法は、食物規制の他に安息日や服装規定、日常生活のきまりを含む。それを研究するのは、ラビや法学者である。 ユダヤ教純正食品はコシャーといい、イスラム教純正食品はハラル食品という。その根拠は、それぞれの宗教の聖典(タナハ=旧約聖書と、クルアーン)に記された規定による。「豚を食べない」など両者は似通っているが、べつべつのルールだ。 コシャーもハラルも、「食べてよい、いけない」の区別があるのは、動物(の肉)である。植物には規定はない。加えてイスラム教は、アルコールも禁じている。 ムスリム(イスラム教の信徒)は、イスラム法の食物規定に従って、まず正しい食材を用意する。正しい仕方で解体処理された牛や羊や鶏などの食肉を、ムスリムのマーケットで購入する。穀類や、そのほかの食材、調味料も、ムスリムのマーケットで調達する。そして持ち帰り、自宅で調理する。これが基本だ。                     では、外食する場合はどうするのか。 ムスリムは、ムスリムが営業するレストランに入るのが、基本だと思う。中国には大勢のムスリム(数千万人)がいる。漢民族は豚を好んで食べるが、ムスリムは豚を食べない。代わりに羊や鶏を食べる。北京にもたくさんの中国語でイスラム教徒の食堂を意味する「清真食堂」や「穆斯林餐庁(イスラム・レストラン)」が看板を掲げている。入ってみると、新疆ウィグル(中華人民共和国西部の自治区。イスラム教徒が多く居住する)出身と思われる人びとが働いており、中国風のイスラム料理を提供している。ムスリムなら安心して食べられるだろう。ハラル認証の落とし穴 アメリカにも、ムスリムは大勢住んでいる。モスクの近くにはよく、ムスリムのためのスーパーが営業していて、ハラルの鶏肉や羊肉、牛肉そのほかの食材や日用品を売っている。経営者は、もちろんムスリムだ。こういうスーパーで食材を購入すれば安心だ。(iStock) 日本でも「この料理は、ムスリムの方に食べていただいて大丈夫。ハラルです」とレストランがうたう「ハラル認証」を進める動きがあるという。でも本当に大丈夫だろうか? 私が以前勤めていた大学は、イスラム諸国からの留学生も多い。私の研究室にもバングラデシュからの留学生がいた。そこで、大学の食堂(生協食堂)は、国際化に対応して、食材の表示を始めた。鶏、牛、豚、牛豚合いびき、などと材料を表示する。ムスリムの学生の判断の手がかりにしてもらおう、というのだ。 悪くない試みだが、限界があると思う。食材を正しくするだけでなく、フライパンや調理器具、そもそも厨房(ちゅうぼう)を分けなければならない。そこまでしないとハラルではない。一般の顧客に料理を提供するレストランが、ハラルの料理を提供しようとしても無理なのである。 日本料理は総じて、ハラルでないことを知らねばならない。例えば、日本料理にはみりんを使う。みりんにはアルコールが含まれている。しょうゆに添加するうまみ成分も、コシャーやハラルの規制にひっかかるだろう。                     東京オリンピックを機会に、短期滞在のムスリムが、日本を訪れるのに、効果的なサポートはなんだろう。 第一に、ムスリム・コミュニティーが各地に存在して、ハラルの食材、半製品、缶詰やレトルト食品などが容易に手に入ること。第二に、ムスリムの人びとが経営するハラルのレストランが多く営業し、外食に差し支えないこと。これが必要で、かつ、十分だと思われる。 ハラルかどうかまぎらわしい場合に、判断を下すのは誰だろう。それは、イスラム法を専門にする、ムスリムの法学者だ。イスラム法にはいくつも学派があり、微妙に判断が異なる場合がある。旅行先の日本は、特定の学派が支配的な地域ではない。どの学派にもあてはまる、厳しめの基準にそろえるのがよいだろう。国際問題に発展しかねない 以前、インドネシアで味の素の製品の製造工程で豚由来の酵素が使われていたことが明らかになって、大問題になったことがあった。最終製品には含まれないから問題ないと、味の素は思ったようだが、消費者はショックを受けた。そういう判断ができるのは、イスラム法学者である。味の素が権威あるイスラム法学者を顧問とし、製造工程をチェックしてもらっていなかったことは、インドネシアで営業する食品会社として、うかつであったといわなければならない。(iStock) 日本では最近、「ハラル認証をとってあげますよ」と、食品会社やレストランにアプローチしている団体が、いくつもあるらしい。その詳しい実態を私は知らない。そこで一般論として言いうる原則を確認しておく。 第一、認証する権限があるのはイスラム法学者に限られる。それ以外の誰かが認証することはできない。 中国のコンビニでアイスクリームを買って食べた。容器をみると、中国ムスリムなんとか協会が認証した「清真」マークがついていた。中国にはムスリムが多い。加工食品がハラルであるかないかわからないと、ムスリムの消費者が困るので、認証を行う団体が設立されているのである。当然、ムスリムが中心となっていることだろう。 第二、認証する対象はあくまでも個々の食材、半製品、加工食品である。食品会社やレストランそのものを認証することはできない。ムスリムが経営していないレストランにやってきて「認証してあげますよ」という申し出があったら、怪しい。 第三、ハラル認証は宗教的な行為なので、政府や法律は関係できない。厚生労働省などが所管すべきでもないし、監督官庁が存在すべきでもない。「ニセのハラル認証を取り締まる」などという行為もありえない。怪しいハラル認証は、消費者センターの苦情相談窓口に通報するのがせいぜいだ。 第四に、イスラム法学者と関係のない「怪しい」ハラル認証が大手をふって通用し、日本各所にあるレストランの入り口に「ハラル」と書いてあったりすると、国際的な信用に関わる。はなはだしい場合には外交問題になる。「怪しい」ハラル認証を退治するのは、政府の役目である以前に、まず、ジャーナリズムの務めである。この問題に多くの国民が関心をもち、ジャーナリズムにチェックを求めていくことが大切だ。

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    日本人ムスリムに聞く「なぜ食の戒律が大切なの?」

    を知りたいという方が多いでしょう。食に限ったことではありませんが、ハラル、ハラムに関して、国や地域、宗教法人や団体により解釈や指導が違うと感じている方は多いと思います。これは主に下記4つの学派により考え方や解釈が異なることが主な要因といえるでしょう。ハナフィー学派:法解釈をおこなう際、個人的見解に基づく判断を重視する学派。シリアや中央・南アジア、中国に多く分布。マーリク学派:クルアーンとハディースを重視し、自己判断を抑制する学派。北・西アフリカやアラビア半島、クウェート、UAEなどに分布。シャーフィイー学派:クルアーン重視、判断重視の二つを統合し、イスラム法学の基礎を確立した学派で、理詰めの学派でもある。東アフリカや東南アジアに分布。ハンバル学派:クルアーンを忠実に重視する学派。サウジアラビアやカタールなどに分布。 また、イスラムは個人と神(アッラー)との約束の宗教なので、学派にかかわらず「何がハラムで、何がハラルなのか」は最終的には自分の判断で解釈、行動するイスラム教徒たちも多くいます。(iStock) ここから「食のハラル」に関する説明をしたいと思いますが、私が普段仕事をしているマレーシアでの基準や考え方を基本としたものであることを事前にお伝えしておきます。なお、マレーシアでは、国王によって連邦直轄領地域で有効と承認されるシャーフィイー学派をはじめとする4学派によるイスラム法、または、各州の統治者がその州において有効と認めるイスラム法やイスラム当局が承認するファトワ(イスラム教指導者が発する法令)に基づいて解釈しています。 まず、イスラムでは、食物はハラルで「良いもの」(タイイブという)でなければならないとしています。そのため、人々は大地から有益なものを得る権利があり、与えられたその中から良いものを選ばなければならないのです。 当然、大地から得るもの、植物はすべてハラルです。しかし、その中でも不浄なもの、害になるもの、酩酊(めいてい)させるものはハラムです。水にすむ生物に関する規定では、すべてハラルとしていますが、両生類はハラムとすることが多く、浮いている魚に関してはハナフィー学派のみ避けるべきであるとしています。 うろこのない魚、軟体生物、甲殻類、貝類に関しては、地域による慣習で判断されているもので、特にハラル、ハラムを問われることはないようです(一部学派のみ解釈により判断が異なります)。 飲料、微生物、天然ミネラルおよび化学物質は、植物と同じく毒性、中毒性、生命に危険なもの、酩酊させるものを除けばすべてハラルです。ただし、解毒処理された海洋生物や植物、植物から作られたものはハラルになるとしています。遺伝子組み換えはハラル?ハラム? そして現代では避けて通れないものに遺伝子組み換えのものがあります。これは法学者間でも意見が分かれるところではありますが、植物に関しては厳しい自然環境に適応するよう作る必要があり、それにより生命が維持できるとの判断でハラルとする見解が多いように思われます。 しかし、動物の遺伝子組み換えに関しては、クローンを作り出すとのことからハラムとする見解が多いように思います。ただし、「自分の細胞を使う限り良い」とする医療的な立場からの判断もあります。 日本人にとって最も悩ましいのは動物、特に食肉に関するハラルではないでしょうか。陸上生物では草食動物はすべてハラルであり、そこからとれる卵や乳もハラルです、ただ食肉については、シャリーアで定められた屠畜(とちく)方法で屠(ほふ)られていなければ「ハラルミート」とはみなされません。(iStock) ハラムは豚、犬、肉食(捕食するもの)、雑食、鋭い牙や爪を持つものとしています。鳥類でいうならば猛禽(もうきん)類となります。特に豚に関しては、それ自体が不浄なものとされ、豚の体内から抽出した成分や、脂肪や毛皮、毛などすべてをハラムです。また豚や豚由来のものに触れたものも不浄とされるので注意が必要です。また、禁じられたものには、死肉、流れる血、絞殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したものがあります。ただし、とどめを刺したものがムスリムであればハラムではありません。 そもそも食べる習慣がないので判断に難くないと思いますが、害獣、害虫類や不快さ、不潔さを連想させる生物もハラムです。イスラムであやめてはいけないとされるキツツキ、花蜂など有益なものもハラムに含まれます。   「家畜等の飼料はどう判断するべきか?」という質問をよく聞かれます。飼料を仕入れる中で、内容物までに細心の注意を払いきれないということがあるようですし、事実輸入飼料に動物性のものが配合されていることもあります。また放牧していれば、家畜がなにを食べているのかを把握しきれない場合もあります。 これらは悪食動物の改善飼育期間というものに該当し、動物などの種類により定められた期間、清浄な餌を与えられたならば食すことができるとしています。 あらゆる現場で共通し悩ましいのはアルコールの扱いではないでしょうか。基本的見解はハディースにあるように、酩酊するものはすべてハラムとしています。酩酊するものという意味では酒だけでなく、中毒性、酩酊性のある薬なども当然ハラムです。アルコールが使えることもある しかし、医療現場のアルコール消毒や、製造現場での清浄用アルコール、また香料などの抽出時に使用するアルコールすべてにおいては、酩酊作用があるかという観点ですべてをハラムとしているとはいえません。アルコールの種類、何に使用するのかにより判断が分かれます。 日本でもよく使われる酢。これはどうでしょう。日本では酢の使用はダメだという方が多いように思います。しかし、見解をみると自然にハムル(酒)から変化した酢はハラルだとするのが法学者全体の見解です。人為的に製造したものもハナフィー学派やシャーフィイー学派はハラルとしており、これはみそやしょうゆにもいえることで、日本は過剰に反応し過ぎているのかもしれません。確認したところ、国により基準値は異なるようですが、マレーシアではアルコールを添加しておらず、発酵過程で自然発生したもので酩酊作用のない微量であれば問題ないとの見解も出ています。「ハラル料理」を提供する東北初の食堂「ハラル食堂」の一番人気「ハラル定食」=2017年3月、福島県いわき市 非常に数が多く製造工程も複雑になっている添加物や何かから抽出した由来成分に関しては、実に悩ましいところです。ハラムとして禁止されている豚由来成分についても、加工、開発技術の発展した現代においては、食品製造のさまざまな場面で使用されています。使われているすべての成分を判断するのは至難の業です。 個人的な消費者としての立場では、一括表示で判断ができず不安な時はメーカーに問い合わせています。しかし、企業のハラルをサポート、指導するコンサルタントの立場では中途半端な判断をするわけにいかないので、詳しい情報を提出していただき、原産国等を含め厳しくチェックしています。 いかがでしたか。最後はハラル認証についてお話をしたいと思います。ハラル、それ自体は宗教の戒律にのっとったものですから、ただ一つしか存在せず、それ以上でも以下でもなく、ましてやスタンダードなるものもないと考えています。 しかし、「認証」となると話は別です。ハラルを制度化した認証制度には賛否両論ありますが、国や地域、学派により解釈が異なる、あくまでも「その国の基準」だと捉えています。それを踏まえたうえで準拠することが取引の条件であるならば、当然取り組むべきものと考えています。 ただ、日本は非イスラムの国であり、ムスリム人口は10万人程度です。認証に頼りすぎるあまり、知識や理解がないことの方がむしろ問題だと考えています。「相手をもてなす」ということは、「相手を理解する気持ちをもつ」ことから始まると思っていますので、まずは、ハラルについて知ることが大切だと思います。

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    日本人が知らないイスラムのタブー

    イスラム教の戒律に従うことを意味する「ハラル」に注目が集まっている。日本でも公的機関や飲食店を中心にハラル市場を狙う動きが目立つ。ただ、ニセ認証や便乗商法といった問題も表面化しており、ハラルへの正しい理解が受け入れ側にも求められている。現状を取材した。

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    インドを揺るがす「牛肉のジハード」

    同州ですべての牛の食肉解体が禁止となった。(iStock) さらに9月から年末にかけてインドは様々な宗教の大祭が相次ぎ「祭りの季節」を迎える。それに合わせて牛以外の食肉規制もこれまで以上に強化されそうだ。例えばこの9月半ばには(厳格な菜食主義が基本の)ジャイナ教徒の大祭期間中、北西部の4つの州政府がすべての食肉販売(鶏卵と魚は除く)を禁止した。 こうした食肉規制で最も窮地に陥るのがイスラム教徒だ。イスラム料理には食肉が不可欠だ。豚肉は食べないし、牛肉は必ずしも重要ではない。むしろ羊肉と鶏肉が料理に欠かせない。ところが聖なる牛でもない他の肉にも「動物保護」を名目に規制が強化されている。しかも、インドの食肉解体業者にはイスラム教徒が多い。食肉規制で生業そのものが危機に陥りかねないわけだ。 9月半ばには「聖なる牛」の保護派が暴走し、デリー近郊の村でイスラム教徒が食牛の濡れ衣を着せられ村民たちに殺された。この集団リンチ殺人ではスマホを通じたSNS上の噂が発端となっているようで、「牛を守るために人が殺される」という悲劇を生んだ。目下、インドで進む牛や食肉を禁じる流れで一番問題なのは、政治的な扇動が色濃いことだ。伝統は伝統で守るべきだが、それがいつのまにイスラム教徒への憎しみにすり替えられる。それを政権政党の下部組織であるRSS(民族義勇団)などが中心となって行っているからだ。 インドは家畜数で世界最大の国であると同時に、水牛の食肉輸出では2014年にヴェトナムを抜いて世界最大輸出国となっている。水牛肉の年間輸出額は40億ドル超。いまやコメを抜いてインド最大の輸出農産品だ。人口の約7割を占めるヒンドゥー教徒にとって牛と水牛は宗教的には別物だが、その四肢で田畑を耕し、荷物を運び、乳で健康を恵み、糞は炊事の燃料を作ってくれる家畜としては牛も水牛も同じである。 「聖なる牛」の保護がいつのまにかイスラム教徒への弾圧にすり替えられる昨今の牛様騒動を現地メディアは「牛肉のジハード(聖戦)」と呼ぶ。「寛容と非暴力を美徳とし、多様性と世俗主義(セキュラリズム)を国是とするインド社会の劣化」と批判する市民の声も少なくない。

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    コーランはなぜ豚肉食を禁止したのかなど「豚」を追った書

    スブックで連絡を取り合い、興味のある情報が入ったら、バックパックを担いで出掛ける。学術調査のように、宗教的、文化史的な仮説を立てて旅をするわけではない。それゆえ、新鮮な発見と素朴な驚きに満ちた体験記になっており、それがかえって豚という存在の奥深さを浮き彫りにする。 最初に出掛けたのはイスラム圏であるチュニジア。「豚」のひと言を発しただけで人々は嫌な顔をする。それでも著者はめげず、「豚を食べないのはなぜか」と聞く。「コーランにそう書いてあるから」と人々は答える。けれど「コーランはなぜ豚肉食を禁止したのか」と聞くと、答えは様々だった。豚肉は傷みやすいので病気をもたらす、かつて神様が信仰心を忘れた者への罰として人間を豚に変えた話がある……。結構曖昧だ。(iStock) 本書に「豚の謎」についての理論的な結論はない。その代わり、アラブ、イスラエルから東欧、そしてシベリアと、世界各国を巡って得た具体的な知見が散りばめられている。豚と宗教や革命、詳しくは本書に譲るが、豚と原発事故、豚と共産主義との関係などについても興味深いエピソードを拾い上げている。それらを読むと、人々が翻弄された歴史に、豚もまた翻弄されたことがわかる。〈豚は、その繁殖力の高さと多産性によって、他のどのような家畜よりも、激しく形を変え続けてきた。近親交配や亜種間交配を適用しやすく、急速で複雑な品種改良が繰り返されてきた動物だった。豚は、その優れた環境適応性により、あらゆる食物を消化して、あらゆる場所で生き延びてきた〉 翻弄されつつも、しぶとく、逞しく生き残るまるで人間のように。豚をテーマにした風変わりな旅行記は、他に類を見ないユニークな世界史となっている。関連記事■ 菅総理が10年通う国会議員行きつけの永田町ラーメン■ モサドの強みは世界を敵に回してでも生き残る国是と佐藤優氏■ 吉本ばなな「世界は別に私のためにあるわけじゃない」■ 尖閣、沖ノ鳥島、北方領土、竹島に本籍を置く日本人が増加中■ 日本最東端の南鳥島 父島の雑貨商が遭難・漂着の末に発見

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    食物の禁忌はどうやって生まれたか

    東嶋和子(科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)オトナの教養 週末の一冊『食と文化の謎』 訪日観光客が爆発的に増えるにつれ、日本の食文化に対する称賛のみならず、非難や戸惑いもしばしば耳に入るようになった。 私自身、肉はダメというインドネシアの友人に寿司をごちそうしようとしたら、「生(なま)なんてとんでもない!」と拒絶された苦い経験がある。イスラム教徒の友人にとって豚肉は考えるだけでおぞましいものであり、アメリカの友人には「知能の高いクジラを食べるなんて日本人はどうかしている」と憤慨された。 日本の食慣習を身につけている私にとっては、相手をもてなすつもりが、理不尽な、いわれのない抗議を受けたわけで、ある社会では食べものとされず、忌み嫌われているものが、世界のどこかの社会では食べられ、ときには美味とすらされるのはなぜだろう?と考え込んでしまった。『食と文化の謎』(マーヴィン ハリス 著、板橋 作美 翻訳、岩波書店)  その食と文化の謎に切り込んだのが、本書である。 「インドのヒンドゥー教徒が牛肉を食べず、ユダヤ教徒とイスラム教徒が豚肉を忌み嫌い、アメリカ人が犬のシチューなど考えただけで吐き気を催す」のは、なぜなのか? 何を食べるによいものとするかを決めるポイントは、単なる消化生理学を越えたほかのなにか、――すなわち、民族の料理伝統、食文化である、と著者はいう。 日本人が日本の食慣習を身に染み込ませているのと同様、アメリカ生まれ、アメリカ育ちの者なら、ある種のアメリカ的食慣習を身につけているものであり、「食慣習は、自分のとちがっているというだけの理由で、バカにしたり、非難すべきものではない」。われわれが議論すべきこと、考察すべきことは、「人類の食生活は、なぜ、かくも多様なのか」である、と著者は宣言する。 神様にまつりあげられた牛、食べるどころか触るのも忌み嫌われる豚、ペットになったり食用にされたりする馬や犬、アメリカで人気1位に出世した牛肉、さらには、遺伝的に飲めない人がいるミルク(「ミルク・ゴクゴク派と飲むとゴロゴロ派」)、昆虫、ペット、人肉食にいたるまで、世界の食文化の謎に深く広く分け入った。 著者マーヴィン・ハリスは、本書カバーによると、1927年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学、フロリダ大学で教鞭をとる文化人類学者である。 訳者板橋作美氏によると、「多くの人類学者、とりわけ日本の人類学者にとって、考えただけで吐き気をもよおす、忌むべき、タブー視された、人類学者の部類に入れるなど身の毛のよだつ、いかがわしく、うさんくさく、おぞましい存在」なのだという。 「アメリカではスーパーで山積みされて売られているほどよく読まれているのに」、人類学者からは「読むに適さない」、「買うに適さない」とみなされているらしい。 人類学者コミュニティによる嫌悪の理由は知らないが、私には、本書の論理展開は科学的、論理的であり、一般読者に非常にわかりやすく書かれていると感じられた。 自分のおかれている文化的見地から良し悪しを判断したり、好悪の感情を抱いたりしやすい食文化の問題において、それらの罠に落ちることなく、冷静に、証拠に基づいて一貫した理論を展開してみせた科学的態度には、好感を抱いたほどだ。 それが「最善化採餌理論」である。古典が示す現代の食生活 各章で、ある食物が食べられたり食べられなかったりする理由を、人類学、経済学、医学、栄養学、生物学などの知見を駆使して詳細に検討する。その結果、どの証拠も、「最善化採餌理論」を裏づけることになる。 この理論をおおざっぱにまとめると、「好んで選ばれる(食べるに適している)食物は、忌避される(食べるに適さない)食物より、コスト(代価)に対する実際のベネフィット(利益)の差引勘定のわりがよい食物」だということだ。 栄養上のコストとベネフィットのみならず、つくるための時間と労力、土壌や動植物への影響、その他の環境要因のコストとベネフィットがある。そうしたエコロジカルな制約と条件が地域によって異なることを、著者はその文化の成立時期、あるいは先史時代、ときには人類の先祖の時代にまでさかのぼって検証する。(iStock) たとえば、肉食中心の料理は、比較的低い人口密度、作物栽培に不向きか必要としない土地で広がった。一方、菜食中心の料理は高人口密度に結びついており、地勢、地味と食料生産技術の制約から、食肉用動物を飼育すると、人間が入手できるたんぱく質とカロリーの総量が減ってしまうところで見られる。 <ヒンドゥー教徒のばあい、肉生産はエコロジー的に非実用的で、そのマイナスが肉食の栄養上のプラスをはるかにうわまわっているから、肉は食べないのである――食べるに適していないがゆえに、考えるに適していないのだ。> また、栄養上およびエコロジー上のコストとベネフィットは、貨幣経済上のコストとベネフィットと必ずしも同じではないこと、コストとベネフィットのバランスが一社会の全員に等しくとれているわけではないこと、といった重要な点も見逃さずに指摘する。 食物の取捨選択の根底にある実際のコストとベネフィットを算定するのは容易ではなく、どれも全食料生産体系の一部としてとらえ、短期的・長期的な意味を分けて考えねばならない。さらに、食物は大多数の者には栄養源であると同時に、ごく少数の者にとっては富と権力の源泉でもある、ということを忘れてはならない、と著者は説く。 こうした点をおさえつつ、まるで知恵の輪をするりと解いてみせるかのように、著者は「ほとんど非実用的、非合理的、無益、有害としか思えない、不可解な食物の取捨選択」が、栄養上の、エコロジーの点からの、あるいは金銭的な選択の結果として説明できることを明らかにしてみせた。 食の選択の裏側にある国家、戦争、階級制度、貧困問題、南北問題などにも分け入る広い視野と膨大な情報量には、驚かされた。 原著は1985年に出版された古典ではあるが、現代の食生活にも大いに示唆に富む。 <今という時代は、食慣行は恣意的なシンボルに支配されているなどと考えているときではない。よりよい食事をするには、刻々かわっていくわれわれの食慣行の実際の因果関係について、もっとよく知らねばならない。> “食慣行の実際の因果関係”が手に取るようにわかる出色の文化論といっていい。とうじま・わこ 科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師。元読売新聞科学部記者。フリーランスで環境・エネルギー、医療、生命科学、科学技術分野を中心に、科学と社会のかかわりを取材。主著に『名医が答える「55歳からの健康力」』(文藝春秋)、『人体再生に挑む』(講談社)など。新著に『水も過ぎれば毒になる 新・養生訓』(文春文庫)。

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    現役信者がすべて明かす 「生長の家」は本当に左傾化したのか?

    」という論調が盛んになっています。 ネットだけでなく雑誌『SAPIO』の29年3月号でも、反政権側の宗教もいくつか「保守」に分類しているにもかかわらず、生長の家を「リベラル派」の宗教としていました。 安倍政権を支持する生長の家の別派の中にも、ネット上に「今の生長の家は左傾化した」とか「共産党を支持するようになった」という書き込みをされている方もおられます。私は、生長の家の現役の青年会の会員で、組織内での活動もしています。また、今年の2月から3月にかけて、生長の家宇治別格本山で1カ月間「研修生」として修行していました。 その私からすると、今の生長の家が「左傾化」したという外部からの評価は意外でした。別派の中には私のことも「左翼学生」として名指しにされている方もいますが、どうしてそのような誤解を生むのか納得できない面もあります。  私は、ブログに『大日本帝国憲法』の復原・改正を訴える文章を掲載したり、保守系オピニオンサイトに堕胎や野党共闘に反対する記事を寄稿したりしたこともあります。私の主張は決して「左翼」とはいえず、むしろ「右翼」的なものであると自分では思っています。 宗教団体の教義や活動は外部からは分かりにくい面もあるでしょうから、ここでは内部から見た実態を伝え、本当に生長の家は「左傾化」しているのかを考えていただきたいと思います。 私が生長の家宇治別格本山の研修生であったころ、毎朝「早朝行事」と呼ばれる時間がありました。朝4時45分に起きて「宝蔵神社」という生長の家の神殿に行き、そこで祈りとお経の読誦を行った後、境内の清掃をするというものです。本山の職員と研修生には参加が義務づけられており、一日の始まりの重要な行事として認識されています。 その「早朝行事」では必ず、境内清掃の前に「皇居遥拝(こうきょようはい)」を行います。しかも、生長の家の行事で「最敬礼」を行うのは、「神想観(しんそうかん)」という祈りを行う場合を除くと、この早朝行事での皇居遥拝の時だけなのです。 また、毎日午後1時になると「幽斎殿(ゆうさいでん)」という建物で天照大御神(あまてらすおおみかみ)・住吉大御神(すみよしおおみかみ)・塩椎大御神(しおつちおおみかみ)の三柱の神様を前で神想観という祈りを捧げます。生長の家で天照大御神を祀っているのはここだけなのですが、この幽斎殿で行う神想観は他の場所とは文言が異なる特別な神想観であり、いかにここでの祈りが重要かを示しています。生長の家の教義の原点は「天皇信仰」にある さらに、早朝行事での国旗掲揚と夕食時の国旗降納の際には、国旗に向かって起立し国歌を歌います。夕食では多くの職員・研修生が食堂にいますが、食事中であっても食事を中断して食堂の中から国旗掲揚台のある方角に向かって起立し、「君が代」を歌うのです。一体、これのどこが「共産党を支持する新興宗教」「左傾化した教団」の儀式なのでしょうか? 他にも、大東亜戦争の戦没者に祈りを捧げたり、全国流産児無縁霊供養塔で水子さんたちにお経を読誦したりと、左翼団体の人間には死んでもしたくないであろう儀式がたくさんあります。このような実態を知らずに「生長の家は左傾化した」とか「今の生長の家はエコロジー左翼」などと評価するのは、誤解と無知からくる偏見にすぎません。 今の生長の家が地球環境問題に取り組んでいるのも、生長の家における「天皇信仰」の教義が原点にあります。 生長の家では天皇を天照大御神の化身であると捉えており、そして天照大御神は単なる太陽神であるのみならず、全宇宙を遍く(あまねく)照らす毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)であって、宇宙の大自然と一体にして中心者であるとされています。 したがって、大自然と天皇陛下が一体であるという信仰的立場から地球環境問題に取り組んでいるのであり、決してエコ・フェミニズムなどの左翼思想に染まっているわけではないのです。 事実、神武天皇以来の歴代天皇陛下が天地の大自然の神様に祈りを捧げて来られたことは紛れもない事実であり、ハゼの研究で高名な今上天皇陛下も自然環境に多大な関心を払われていることは広く知られていると思います。 また、昨年、皇后陛下は誕生日のおことばで、「ごく個人的なことですが、いつか一度川の源流から河口までを歩いてみたいと思っていました。今年の7月、その夢がかない、陛下と御一緒に神奈川県小網代の森で、浦の川のほぼ源流から海までを歩くことが出来ました。流域の植物の変化、昆虫の食草等の説明を受け、大層暑い日でしたが、よい思い出になりました。(略)日本のみならず、世界の各地でも自然災害が多く、温暖化の問題も年毎に深刻さを増しています」と述べられ、天皇・皇后両陛下が環境問題に関心を持たれていることを改めて示されました。 このように、環境問題と尊皇愛国の精神とは全く矛盾するものではなく、生長の家が環境問題に精力的に取り組んでいるからと言って「エコロジー左翼」などと評するのはナンセンスです。 むろん、世の中には「右翼」と「左翼」の定義についていろいろな考え方があるのは承知しています。しかし、上記で述べたような今の生長の家の実態を知った上で、本当に生長の家が「左傾化」したといえるのでしょうか? これを読まれた皆様には偏見を持たずに考えていただきたいと思います。

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    小林麻央さんのブログが変えた「日本人の死生観」

    う。 どう死ぬかという問題は、どう生きるかという問題であり、死生観が関わる問題だ。そして死生観には、宗教が絡む。普段は無宗教という人でも、葬儀の時には宗教的なことをする。しかし、世界的に宗教の力は落ちている。日本でも、簡易な家族葬、無宗教の葬儀、そして「直葬」と呼ばれる宗教的葬儀なしに火葬場へ行く方式も増えている。仏教式の葬儀を行っても、以前ほど戒名などにこだわる人は減っているだろう。宗教への熱い信仰があれば、どう生きてどう死ぬかの指針になる。だが、非宗教化した現代社会で、人々は新しい死生観を求めている。 インターネットは、まるで新しい宗教だ。人は確かに生きて日々活動しているのだが、人生とは各自が振り返ってみたこれまでの記憶とも言える。同じような生き方をした人でも、良い記憶でまとめられた人生もあるし、悪い記憶でまとめられた人生もある。人生は、当人の記憶であると同時に、周囲の人々の記憶だ。多くの人々の記憶が、その人の人生を形作る。 神仏を信じていれば、神仏が私の人生を見守る。神仏は私に関する出来事を全て記憶し、私の人生に意味づけをする。心理学の研究によれば、信仰を持っている人の幸福感は高い。神仏的なもの抜きで人生の意味づけをすることは、簡単ではない。 インターネットは、新しい神にもなるのだろう。私の人生を、ネット上で記録できる。世界に発信できる。世界の人々は、ネットを通して私を見て、リツイートしたり、「いいね」したりする。その記録は半永久的に残る。ネット世界でも人は包まれる インターネットの黎明期(れいめいき)から、人生を語る人々はいた。一般の人の中にも、闘病生活を発信した人はいた。まだブログもなく個人ホームページも数少なかった頃、母であり教師であるある一人の女性は、死期が近づく中で、普及し始めた電子メールで配信を始めた。「私は、なぜ病気になったのかではなく、何のために病気になったのかと、考えるようになりました」と。その活動は、多くの友人、知人たちを力づけた。 このような活動は、今や多くの人々に広がっている。ある元校長は末期のガンであることをブログでカミングアウトし、それでも最期まで自然に親しみ、グルメを楽しみ、家族や病院スタッフに感謝する。家族がそれを見守り、友人や知人が応援し、見ず知らずの読者との温かな会話が始まる。同じ病で苦しむ読者とも交流が生まれる。それは、どれほど素晴らしく意味あることだったことだろう。 ネットを通して、記録を残し、思いを伝え、人々とつながる。それは、真剣に命と向き合っている人にとって、かけがえのない活動だ。死期が迫った終末期は、人生の中でもっともコミュニケーションを必要とする時期だ。しかし、しばしば死期が迫っているからこそ、孤独感に襲われることもある。だがネットは、豊かなコミュニケーションを提供する。神仏の腕に包まれるように、ネット世界で人は包まれることもあるだろう。 余命いくばくもない人にとって必要なことは、安易な慰めでもなく、客観的だが悲観的なだけの情報でもない。必要なのは「祈り心」だ。神仏に祈れる人もいる。同じ宗教の信者たちに祈ってもらえる人もいる。健康心理学の研究によれば、祈られている人は病気が治りやすくなる。そして祈り心は特定宗教によらなくてもできる。祈り心とは、客観的には厳しい状況であることを知りつつ、同時に希望を失わない心だ。 東日本大震災の時に、日本は祈りに包まれた。「Pray for Japan」、日本のために祈ろうと、世界が日本の支援に乗り出した。国連はコメントしている。「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する」。 義援金や救助隊員を送ってくれたことはもちろんうれしい。だが金や人だけではなく、その心に熱い想いを感じた人も多かったことだろう。真実の祈りは行動が伴い、真実の行動は祈りが伴う。世界はマスコミ報道により日本の状況を知り、そしてインターネットによってさらに詳細な情報が伝わり、人々はつながっていった。つながりこそが、人間の本質だ。 このようなことは、個人でも起こる。今回は、小林麻央さんというたぐいまれな人格と文才を持った女性が、苦悩と希望を発信してくれたことで、大きな祈りと交流が生まれたといえるだろう。ネットは世界を変えた。ネットは私たちの死生観をも変えるのかもしれない。

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    日本人に無宗教が多いという嘘八百

    他人から「どんな宗教を信仰していますか?」と尋ねられたとき、あなたはどう答えるだろうか。「無宗教です」ときっぱり言い切る人も案外多いはずだ。事実、こうした日本人の宗教観を裏づけるデータも存在する。とはいえ、日本人に無宗教が多いというのは本当なのか。無宗教のウソを考える。

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    なぜ日本人は信仰を聞かれて「無宗教」と答えたがるのか

    島田裕巳(宗教学者) 日本人は自分たちのことを「無宗教」だと考えてきた。 それを裏づける資料もある。アメリカのギャラップ社が2006年から08年にかけて行った世論調査では、日本人のなかで信仰を持っている人間は25%で、対象となった世界143カ国のうち136位という結果が出た。 日本より信仰率が低いのは、香港や北欧諸国などわずか7カ国しかない。たしかに、日本は無宗教の国であるということになる。 しかし、これが果たして正しいのかどうか、実は怪しい。 NHKが1996年に行った「全国県民意識調査」というものがあるが、全国平均では、信仰を持っている日本人の割合は31・2%であった。ギャラップ社の調査よりは高いが、7割近くが無宗教であるということになる。 ところが、都道府県別に考えると、かなりのばらつきがある。最も低いのは沖縄の7・8%で、これが飛び抜けて低いが、次いで千葉県の18・1%である。関東はおしなべて低く、一番高い東京でも27・0%である。東北も低く、すべての県が20%台である。他に20%台は、新潟、山梨、高知である。 反対に、最も高いのが福井の58・0%で、広島も53・7%と半数を超えている。40%台は、富山、石川、長崎、鹿児島、香川である。多くの参拝者が訪れる西本願寺=5月31日、京都市下京区の西本願寺(北崎諒子撮影) 長崎の場合には、キリスト教が5・1%で、このことが信仰率を押し上げているが、他に高い県は、浄土真宗の信仰が強い「真宗地帯」である。鹿児島も浄土真宗は強い。 この点は重要で、浄土真宗の信仰が強いところでは、どこでもかなり信仰率が高いのである。平均してしまうと、この地方による違いが見えなくなる。男女別にみるとさらに興味深い結果が  また、2008年にNHK放送文化研究所も加わっている国際社会調査プログラム(ISSP、International Social Survey Programme)が行った調査では、日本人の信仰率は平均で39%という結果が出たが、この調査では、男女別年齢別に集計しており、興味深いことが明らかになった。春日大社に初詣に訪れた参拝者=2017年1月1日、奈良市 16歳から29歳では、女性が20%で男性が17%とかなり低い。ところが女性の場合には、30歳から39歳で28%、40歳から49歳で39%、50歳から59歳で43%、60歳以上で56%と年齢が上がるにつれて徐々に信仰率が上がっていくのだった。 さらに興味深いのは男性の場合である。30歳から39歳で19%、40歳から49歳でやはり19%と、50歳になるまでは若い頃と変わらず低いのだが、50歳から59歳では41%と急に上昇し、60歳以上では56%と女性と肩を並べるのである。 なぜ男性は50代になると、急に信仰を持つようになるのか。おそらくそこには、定年を意識するようになるということが関係していると思われる。私が今教えている女子大生の父親は、ちょうどこの世代にあたるが、急にお寺参りをするようになったとか、私の本を読んでくれるようになったとか、そう答える学生が多い。 この二つの調査結果を踏まえて考えると、果たして日本人は本当に無宗教といえるのかどうか、そのこと自体がかなり怪しくなってくる。 もしかしたら、無宗教は建前であって、宗教を信仰しているというのが本音なのではないか、そうとさえ思えてくるのである。 自分が無宗教であると標榜(ひょうぼう)するのは、他人から信仰を聞かれたときである。そのときには、自分が信仰を持っているとは答えにくい。それだけで警戒されるかもしれないと思ってしまうからだ。 ところが、世論調査の場合には、こっそりと記入するわけで、調査機関にしかそれは分からない。匿名で記入するのであれば、なおさら、自分がどう答えるかを気にする必要がない。だから、世論調査には本音が出る。そう考えられるのではないだろうか。本音で答えない理由は何か? 世の中で宗教のことが話題になるとき、その対象は新宗教であることが多い。女優の清水富美加が出家したというときにも、出家先は新宗教の幸福の科学だった。 新宗教はかつて「新興宗教」と呼ばれることが多く、そこには布教に熱心で、信仰に凝り固まっているというイメージが伴った。特に、高度経済成長の時代に創価学会や立正佼成会などの日蓮系の教団やパーフェクトリバティー(PL)教団が急成長したときにはそうだった。 そこから、新宗教に対する警戒心が生まれ、自分に信仰があると答えれば、そうした新宗教の信者だと思われるのではないかという意識が生まれた。そこで、聞かれれば無宗教と答えるようになった。そうした面がある。 その点で、日本人の無宗教というとらえ方には、自分は怪しげな新宗教の信者ではないというニュアンスが強くこめられている。女優・清水富美加=2016年9月22日東京・港区(撮影・高橋朋彦) しかし、日本人は無宗教と言いながら、日常的に宗教の世界と深くかかわっている。初詣には大勢の日本人が出掛け、そのなかにはかなりの数の若者が含まれている。葬式離れは進んでいるものの、仏教式で葬られる人はまだ少なくない。 それが真宗地帯ともなれば、「門徒(浄土真宗の信者のこと)」としての自覚は失われていない。四国地方などは、真宗地帯に属する各県に比べれば信仰率は低いが、それは、この地域で根強い真言宗と深くかかわりを持っていても、それを信仰や宗教としては意識していないからだ。 奈良や京都で古寺がいくつも残され、他の地域でも名だたる寺や神社がきっちりと守られてきたのも、日本人には強い信仰があるからだ。無宗教化が進むヨーロッパでは、古いキリスト教の教会でも維持できなくなり、モスクに売られたりしている。 そして、年を重ね、人生の終わりや老後を意識するようになると、日本人ははっきりと自分の信仰を意識するようになる。それしか、死に向かいつつある自己を支える基盤を見いだすことができないからだ。 日本人の本音は無宗教ではない。そのことを踏まえた上で日本人の宗教観を見直す必要があるのではないだろうか。

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    「浄土ってどこにあるの?」日本人の宗教離れはこの問いに隠れている

    。過当競争とも聞くが、「これだけあって、よくメシが食えているな」と、経営努力に頭が下がる。 ところが宗教団体の数はそんなものではない。仏教系単位宗教法人だけで約7万7千、これに神道系やキリスト教系など諸々を合わせれば18万余りが全国に散らばっている。宗教離れが指摘され、「日本人は無宗教」と言われながら、これだけの数が存在していること自体が驚きである。「よくメシが食えているな」という感慨どころか、目をむいてしまう。不謹慎かもしれないが、晩年に至って僧籍を得た私の、これが率直な感想である。 日本人が無宗教であるかどうかはともかく、宗教に対して一定の距離を置いていることは、一般の人でも皮膚感覚でわかるはずだ。 「私は××宗の熱心な信者なんです」 初対面でこう言われれば、 「それはそれは」 と当たり障りのない応対をしながら、「この人、ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなる。 反対に、「人間、死ねば粗大ゴミ」「葬式なんかするわけがないでしょう」「地鎮祭? バカなこと言わないでください」―と鼻で笑う人に対しても、「ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなるだろう。 宗教に対するこの「微妙な間合い感覚」が、現代日本人の「宗教観」ではないか。宗教心について各種調査を見れば、「自分は無宗教だ」と公言する日本人は少なくないが、そのうちの大半が「宗教心は大切だ」と答えている。この矛盾と「精神的なゆらぎ」に、私は現代日本人の実相を見る。 儒教が日本に入ってきたときから、すでに日本人の無宗教化が始まったともされるが、浅学の私に大所高所からの考察はできない。道俗―すなわち、物書き(俗)と僧侶(道)のはざまに立つ「小所低所」から私見を述べたい。 去る4月8日、全国のお寺で「花祭り」(灌仏会[かんぶつえ])が行われた。釈迦(しゃか)の生誕を祝うもので、子供たちがお寺に集い、白い像を引き、稚児行列が行われるのだが、「それは大きなお寺だけですよ。うちなんか、子供の参加者が年々減ってきて、今年は10人足らずでした」と、知人の住職がボヤきながら、子供が「寺離れ」する理由の一つとして、境内を遊び場として提供できなくなったことをあげる。画像は本文と関係ありません 「いまの時代、墓石が倒れて大ケガでもしたら訴訟沙汰になりますからね。本堂の手すりから落っこちてでもすれば管理責任を問われかねない。そんなことを考えると、怖くて『遊び場にしてください』とは言えないんです」 本山は地域と密着する場として、末寺に寺の開放を求めるが、「何でも訴訟」という社会風潮は、お寺をも萎縮させているということになるだろう。幼児が遊びに来なければ若いママも来ない。若いママたちは公園に集まり、公園ママ友になっていく。「境内を交流の場とする境内ママ友なんてことになればいいんですが、現状では無理でしょうね」と、この住職は嘆息する。 若いママが「お寺離れ」すれば当然、両親・祖父母の葬儀は簡素化の一途をたどる。「葬儀はしません。納骨だけお願いします」と檀家(だんか)の嫁さんから電話があり、「うちは霊園じゃねぇ!」と思わず叫びたくなったと、別の住職は自嘲する。「宗教心は大切だ」とアンケートに答えはしても、宗教離れは確実に進行していることが、現場では皮膚感覚としてわかるのだ。それでも宗教はなくならない 日本人が「無宗教」を堂々と口にするようになったのは、先の敗戦が大きく影響しているのではないか。天皇という現人神(あらひとがみ)の「人間宣言」によって価値観が一変。論理と科学に代表される西洋文明が一気に押し寄せた。論理的・科学的に証明されないものを排除し、現代に至ってそれがますます先鋭化してきたように思う。 私が僧侶の立場で浄土往生を説けば、「浄土ってどこにあるのよ」と、必ず意地悪い質問が飛んでくる。 「お浄土は人間界から西方はるか10万億の仏土を隔てたところにあり、阿弥陀如来を教主とし…」 説明を始めるが最後まで聞かず、「それって、証明できるんですか?」とツッコミを入れてくる。科学的に証明できるかどうか、これが価値判断の基準であって、「地獄極楽の存るを問うな。わが心に地獄の棲むを問へ」―という生き方論など「坊さんのたわごと」というわけだ。 それに加えて拝金主義。任俠道という精神性を標榜するヤクザですら、バブルを境に「経済ヤクザ」なるものが登場し、「マネー・イズ・パワー」と嘯(うそぶ)いてはばからない。私は空手道場をやっているが、そういう社会風潮にあって、「清く正しく美しく」と説教しても子供たちに通じない。「縁の下の力持ちになれ」と言えば「そんなの損じゃん」と口をとがらせる。「だます人よりだまされる人になりなさい」と言えばキョトンである。 戦後70年を経て、これが日本の行きついた先であり、現代日本人の「無宗教」は、宗教論として論じるよりも、精神世界を失いつつある結果であると私はとらえている。 その一方、宗教離れを論じるとき、スピリチュアルブームが引き合いに出される。「精神世界を失いつつあると言うが、スピリチュアルはブームになっているではないか」という主張で、これは既存宗教の怠慢であるという批判でもある。画像は本文と関係ありません だが、私はこう考える。人間の意識は常に振り子のように揺れているため、科学万能主義に厭(あ)きてくると精神世界へ回帰していく。既存の宗教に回帰しない理由は、赤ちゃんが玩具に厭きて放り投げるとそれには見向きもせず、新たな興味を引くものに手を伸ばすのと同じである―と、いささか乱暴に考えるのである。 時代がどう変わろうとも、死に対する根元的な恐怖、天変地異、そして日々を生きることの不安と苦悩から私たちが逃れられない以上、死後の救済を説き、心の安逸に資する宗教は決してなくならない。「宗派・教団」には経営努力が求められ、ここにおいて「宗教」は一線を画する。「日本人はなぜ無宗教なのか」という問いに対して「無宗教宗教」と揶揄(やゆ)するのはたやすいが、日本人の少なからざる人が無宗教と公言し、それが戦後の時代風潮のなかで加速してきた現状について、今一度、考えてみるべきではないだろうか。「小所低所」からの私の提言である。 

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    無神論者は「ならず者」? 外国人には理解できない日本人の宗教

    あるようだが、あくまで大人のジョークの世界である。現実的な問題となりうるのは、「Religion」(宗教)の欄にどう書くべきか、ということである。 日本的な普段の感覚をもとに「なし(None)」とか、辞書を引いて「無神論(Atheist)」と書くことは避けるべきとされている。なぜなら、それによって冷笑されたり、不審がられることがあるからである。SNSプロフィールの宗教の欄や、直接の会話で「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたときも同様であり、私的な人間関係において「無神論者」は露骨に敬遠・警戒される場合がある。 宗教文化にもよるが多くの外国人から見て、無神論者は、他者の信仰を含めてあらゆる神を認めることを積極的に拒否する者とみなされ、宗教こそが倫理や道徳の基礎となってきた宗教文化圏においては、無神論者は自らを日本語における「無法者」「ならず者」であると宣言する存在と見られる可能性がある。 したがって、こだわりがなければ「仏教者(Buddhist)」と書け、「神道者(Shintoist)」でもよい、本人の自覚はさておきそうするのが無難とのアドバイスが旅行者に対して事前にされることもある。 むろん日本人にとっては、特定の信仰の有無と倫理意識・道徳意識の高さが直結しているという意識は薄く、「無宗教」の人物がすなわち「無法者」「ならず者」であるという感覚はない。 むしろ、阪神大震災や東日本大震災による混乱に際しても、火事場泥棒はあれども大規模な暴動や略奪が生じなかったことを外国人が不思議がったように、日本人の倫理観・道徳観は国際比較の観点から相対的にかなり高いともいわれている。 ここには、相対的に高いとされる倫理観・道徳観が特定の宗教と無関係であることが、少なからぬ外国人には理解しがたいというカルチャーギャップが存在しているのである。 このカルチャーギャップは歴史的にもきわめて大きな問題であった。幕末以降日本が国際社会に積極的に再参加するに際し、非キリスト教国である日本が「文明国」であるということを当時の列強諸国(キリスト教諸国)に理解してもらうことが必要となったからである。 かつて明治期に新渡戸稲造が「武士道」という概念を用いて(『BUSHIDO The Soul of Japan』1899年)、また穂積陳重が「祖先教」という概念を用いて(『Ancestor-Worship and Japanese Law』1901年)、キリスト教国ではない日本も、倫理的・道徳的な「文明国」であるという説明を欧米で試みたのも、まさにこのギャップを埋めるためであった。 ちなみに、伊藤博文は、「帝国憲法制定の由来」(大隈重信撰・副島八十六編『開国五十年史』上、開国50年史発行所、1907年)で近世以来の日本社会の「文明性」を主張しているが、そこで展開される日本社会論の説明には「郷党社会」というキーワードが用いられ、日本社会の特徴は神道や仏教などの宗教とは関連付けられていない。総人口を超える「信者数」 さて、特定の信仰を有しないと考えている日本人は今日確かに多く、このことは社会調査によっても裏付けられている。近年の調査結果を見てみるならば、統計数理研究所による「日本人の国民性調査」(第13次調査、平成25年)では信仰や信心を「もっている、信じている」と答えた人の割合は28%だった。 また、読売新聞による「全国世論調査」(第10回、平成20年)では「何か宗教を信じている」と答えた人の割合は26.1%。國學院大日本文化研究所による「学生宗教意識調査」(第12回、平成27年度)では「現在、信仰を持っている」と答えた大学生の割合は10.2%であり、いずれも信仰を有していると答えている割合は少ないことがわかる。 ところが逆に信者ではなく教団側の視点から見てみると、日本人の宗教信者数はむしろ極めて多いことにもなる。宗教法人をほぼ悉皆的に対象とした文化庁の調査によれば、平成26年12月31日現在のわが国の宗教団体の「信者数」は、神道系9216万8614人、仏教系8712万6192人、キリスト教系195万1381人、諸教897万3675人の計1億9021万9862人である(文化庁編『宗教年鑑 平成27年版』)。 総務省による平成26年10月1日現在の日本の総人口推計は1億2708万3千人であり、文化庁の調査による日本の宗教団体の信者数は日本の総人口をはるかに超えている。この一見奇妙な信者数に関する調査結果は、まず、信者の定義自体が調査対象の宗教団体にゆだねられた自己申告による数字であることによる。 同年鑑は、「信者は、各宗教団体が、それぞれ氏子、檀徒、教徒、信者、会員、同志、崇敬者、 修道者、道人、同人などと称するものの全てを含んでいる。信者の定義、資格 などはそれぞれの宗教団体で定められ、その数え方もおのおの独自の方法がとられています」と説明している。宗教団体によっては、実際の信者数よりもかなり「水増し」した信者数を申告することも少なくない。 しかし、人口を超える信者数については「水増し」申告だけに還元できない要因もある。「家の宗教」および多元的・重層的な日本の宗教文化という要因である。個人的にある宗教の信者であるという自覚がなくても、属する家には宗教があることが多い。 江戸時代の寺檀制度などの歴史的経緯から、家は地域の神社の氏子として、また先祖の墓のある檀那寺の檀家として、それぞれ位置づけられていることが一般的である。つまり、日本人の多くは、本人が自覚的であるか否かに関わらず、地域の神社の氏子であると同時に家の檀那寺の檀家であることが多い。 何らかのきっかけでそれを自覚したとき積極的信仰に目覚めることは少なくとも、そうした位置づけられ方を積極的に拒否する人も少ない。こうして、日本人の多くは、「家の宗教」と多元的・重層的な宗教文化によって、地域の住人=氏子、家の一員である=檀家とみなされ、一人が神道の信者でもあり仏教の信者でもあるということになる。人口を上回る信者数は、こうした要因にもよるのである。日本人はいい加減で無節操? さらに、特定の宗教・教団(宗教組織)への自覚的所属意識にかかわらず、宗教的行動は盛んに行っていたり、宗教的感性は大切に思っていたりすることも日本人の特徴である。先に引いた調査においても、既成宗教に関わりなく「宗教的な心」は大切だと思う人の割合は66%(前記「日本人の国民性調査」)、盆や彼岸などにお墓参りをする人の割合は78.3%、正月に初詣でに行く人の割合は73.1%(前記「全国世論調査」)、「去年のお盆の墓参り」に行った学生の割合は56.4%、「今年の初詣」に行った学生の割合は61.4%(前記「学生宗教意識調査」)と、信仰を有していると答えた人の割合に比してそれぞれかなり高い割合となっている。 お盆や正月の帰省ラッシュの存在は、家族と再会する機会という世俗的目的と宗教的目的が相まって生じている現象なのである。 以上のように、総体的にみて今日の日本人と宗教のかかわりは、①主観的に特定宗教の信仰を有していると自覚する者は少なく、②一方で「形式的に」教団に所属しているとされる人数は多く、③特定の宗教・教団への所属意識がなくとも宗教的感性を有し宗教的行動は行う、というものである。 こうした日本人の在り方が無神論とは異なるとしても、「無宗教」であるといえるか否か。そもそも、大半の日本人が「無宗教」であるか否かという論点について、論理的に考えるならば、「宗教」ないし「無宗教」の定義によって、その結論が決まることになる。 しかし、「宗教」の定義自体が容易な問題でない。『宗教の定義をめぐる諸問題』(文部省調査局宗務課、昭和36年)には、104人の研究者による104通りの異なる定義が収録されているほどである。「宗教」の定義が容易でなければ、「無宗教」の定義も容易ではなかろう。容易に定まらない多様な定義のいずれに依るかにより、日本人は「無宗教」であるともないとも言い得ることになる。 少なくとも、すでに述べたように、こうした日本人と宗教のかかわりは国際比較的にかなりユニークなものであり、戦前から説明が試みられてきたものであるが、戦後においても例えば山本七平や小室直樹の「日本教」論(『日本教の社会学』1981年、講談社[2016年復刻、ビジネス社]など)や阿満敏麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)、最近では松島公望・川島大輔・西脇良『宗教を心理学する データから見えてくる日本人の宗教性』(誠信書房、2016年)などがそれぞれ多様なアプローチによってこの問題を考察している。 この問題は、個人的レベル(海外旅行)や国家的レベル(外交)の実践的問題であるにとどまらず「われわれ日本人とはいかなる存在なのか」、というアイデンティティの探求にかかわっているため、時代を超えて関心を引き続けるのであろう。 なお、「特定の宗教を信じているわけではないが『宗教性』は大切だと思っている」という人を、「Agnostic(不可知論者)」と表するのが英語の意味的には一番実態と表現のずれが少ないという。 しかし、実際に書類に記入したりする場合「Agnostic」はよくわからないから、面倒くさいので「Buddhist」でいいや、というのがおそらく大方の日本人の心情であろう。これをおおらかで寛容と評するも、いい加減で無節操と評するも、立場によって可能である。

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    神様はどこにいる? 人は宗教なしで生きられるのか

    はカント、ヘーゲルと並ぶくらい重要な人物で、「近代プロテスタント神学の父」とも称されています。彼は、宗教の本質は直観と感情だと言った。つまり、神様は心のなかにいると考えたんです。――シュライエルマッハーによって、神様の場所は天から心へと移ったわけですか。「上 先生と私」「中 家族と私」「下 先生と遺書」の三部からなる夏目漱石の代表作。本書タイトルもこれにちなんでいる。佐藤 そうです。でも、神様が心にいるという考えは非常に危ういんですよ。なぜかというと、神様が心にいるとなると、自分の主観的な心理作用と神様を区別できなくなってしまうからです。この延長上に、神様なんて自分の心の作用にすぎないという無神論も出てくるんです。 この心の神様という問題を、日本で最初に正面から考えた人は夏目漱石だと思います。とりわけ『こころ』がその問題を扱っています。 下宿先のお嬢さんのことが好きだとKに告白された「先生」は、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」とかつてKに言われた言葉を繰り返して、Kにダメージを与えるわけですよね。 「先生」のほうは、Kの告白を聞いてからお嬢さんを欲しくなり、「娘さんをください」と抜け駆けをする。そして、Kは自殺してしまう。 結婚しても「先生」は罪の意識を抱えてずっと悩んでいきますが、最後に明治の時代とともに自分が自殺するという形で処理をする。 キリスト教の神様は自殺を禁止しています。自殺はなぜいけないと言えば、いけないからいけないというトートロジーになります。でも、Kにも「先生」にも超越的な神はいないんですね。その意味で、心のなかに神を移動してしまった近代人たちの行き詰まりを漱石はすごく上手に描いています。 神様の場所を心のなかにあると考えると行き詰まってしまう。そうすると、もう一度上を見なければならなくなりますよね。第一次世界大戦が無神論を崩壊させた――でも、地動説によって上には神様がいないわけですよね。佐藤 そうです。神学的には、シュライエルマッハーが唱えた「神様は心のなかにいる」という説を打ち破ったのが現代神学の父、カール・バルトです。バルトは、上にはいないということをわかりながら、上にいる神様を見つけないといけない、と言います。人間は神様ではないから、神様について知ることは一切できない。語ることもできない。しかし説教をする牧師は神について語らなくてはならない。だから、神学というのは「不可能の可能性」に挑むことなのだと主張したんです。 私自身、きわめていかがわしいものですけれど、神様はいると思っています。われわれはいつまでたっても、神様の感覚から離れることができないんですよ。これもカール・バルトが言ったことですが、人間は原理的には宗教なしで生きるけれども、現実的には無理なんです。なぜか。簡単に言えば、死ぬからですよ。死ぬというのは一方通行ですから、戻ってきた人は一人もいない。となると、どういう世界かわからない。わからない世界については不安になるから、神様とか仏様が必要になるんです。第一次世界大戦が無神論を崩壊させた――佐藤さんは他の著作で、無神論を研究したくて同志社大学神学部を選んだと書いています。今現在、無神論についてはどうお考えですか。佐藤 無神論が崩壊したと思っています。じゃあいつ崩壊したのか。ちょうど今年は無神論崩壊100年にあたるんです。つまり1914年に無神論は崩壊した。 1914年というのは第一次世界大戦が始まった年です。今年は第一次世界大戦から100年という重要な年なのに、なぜ大きな特集をどこの媒体もやらないのか不思議ですが、この第一次世界大戦によって無神論は終わりました。 イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、フランス革命が始まる1789年から第一次世界大戦が勃発する1914年までの時代を「長い19世紀」と呼んでいます。この長い19世紀とは、要するに啓蒙の時代です。ロマン主義的な反動がヨーロッパの一部にあったにしても、基本的には科学技術と人間の理性に頼ることによって、理想的な社会を作ることができると考えられていました。――それが無神論の時代でもあるわけですね。佐藤 そう。神がいなくても、理性を正しく使って合理的に考えれば、世界は進歩すると考えたんです。ところが1914年から1945年までの二つの世界大戦による大量殺人と大量破壊は、理性と無神論からなる啓蒙の時代を木っ端みじんに吹き飛ばしました。ですから、無神論の時代、すなわち啓蒙の時代は1914年で終わり、それと同時に「不可能の可能性として神」について語るようになったのが1914年からだと思うのです。頭がよくて自由で輝いていた、あの頃の早大生頭がよくて自由で輝いていた、あの頃の早大生――神様の話はたっぷりうかがったので、ここからはまた『先生と私』に話を戻します。 本の終盤部では、浦和高校合格後に行った北海道への一人旅が詳細に描かれています。ユースホステルに行くと、とにかく大学生とよく出会っているところが当時の雰囲気がよく出ていてとてもおもしろい。とりわけ、大学生がやたらと井上陽水の「東へ西へ」を歌ってばかりいるのがユーモラスでした。佐藤 今でもよく覚えているけど、とにかく大学生が集まれば「東へ西へ」なんですよ。 北海道はユースホステルの数が多いし、いわゆるバックパッカーのカニ族も多かった。当時の大学生にとっては、北海道に行って全部突端を制覇するのがとにかく通過儀礼なんですよ。大学生のときに北海道に何カ月か行って、宗谷岬、襟裳岬、納沙布岬といった突端に行くのが通過儀礼だった。その後東京に戻って髪の毛を切り、就職活動を始める。そういう時代だったんですよね。佐藤優氏=2015年5月(西山瑞穂撮影)――北海道が通過儀礼のメッカだったんですね。佐藤 そう、まだ海外には行っていない。それから5年くらい経つと北海道旅行がぐっと減って、海外に出るようになりますね。――当時、大学生を見てどう思われましたか。佐藤 大人だと思いました。難しい話をして、電車のなかでもユースホステルでも本ばかり読んでいるんです。当時は大学進学率は3割もない時代だったから、今と比べると相当絞り込まれていたことは間違いない。あと、北海道における早稲田大学の圧倒的な存在力を感じました(笑)。 とにかく早稲田の学生は頭がいいし活動的に見えたんです。早稲田大学というと、ユースホステルで明らかに一目置かれる最大派閥なんですよ。あの当時の早稲田大学の雰囲気は自由で自立性がある。そういう早稲田大学の存在感だったり、当時のユースホステルの雰囲気やカニ族のことも、この作品で記録しておきたいことでした。ソ連を訪れた「15の夏」に学んだこと――この本は、浦和高校の入学するところで終わっていますが、いよいよこの年の夏に、東ヨーロッパとソ連に旅行に行くわけですね。いったんインタビューを終了し、サイン本をつくっていただいている間も、おもしろいお話が続きます。佐藤 今ちょうど、幻冬舎のPR誌「ポンツーン」で連載していますが、この旅行記だけでも相当長くなりそうなんですよ。 でも、高校1年生でソ連に行けたのは大きかった。行ってみた先のソ連は意外に自由でいい国でした。直に触れているから、その後、ソ連に対して偏見を持たなくなるんです。だから、秘密警察とか権力によって牛耳られているからあの帝国は絶対に瓦解しないといった図式的な見方にひっかからずに済みました。ソ連でも東欧でも、普通の人間たちが普通に生活している。普通の人間たちが不満を持てば、国家というのは滅びるんだと。そういう感覚を外交官になって持てたのは、15歳のときの経験がすごく役に立ちました。――その後には、浦和高校時代のことをお書きになるんですか。佐藤 その先のことはまだ決まってないんです。高校時代のことを書くか、予備校時代を書きたくなるか。それは書き上げてみないとわからない。でも、浦和高校について書くのと外務省のことを書くのは大体一緒なんです。――おもしろいじゃないですか。佐藤 生徒がお互い「ですます」調で話して、成績の話と進学の話は絶対にしないと。それは過剰に意識していることの裏返しなんですよ。 その成績や進学をモノサシとする世界が嫌になって、逃げる人たちもいます。だけど、私は完全に逃げることもできなくて、当時はその中途半端な感じが嫌でした。完全にドロップアウトしていたら、もっとおもしろかったかもしれないけど、そこまでは行かなかったんです。――そのどっちつかずの感覚は共感を呼ぶんじゃないでしょうか。続刊を楽しみにしています。(インタビュー・構成 斎藤哲也)関連記事■ なぜ「今上天皇一代限りの特例法」の結論先にありきなのか?>■ 日本のイルカ飼育は世界より何十年も遅れている■ <経済政策大全>第2回 なぜ専門家の政策提言は経済を悪くするのか

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    神社本庁総長「若い人ほど参拝の作法をきちんと守っている」

    の接点がなくなるなかで何を伝えるべきか。田中:神社神道は明確な教義を持たない、いまでは世界的に珍しい宗教です。日本人の信仰心は生活のなかで培われ、親から子へ子から孫へと自然に伝えられてきました。平素は意識しないけれども、信仰は心のなかにあり、何かがあれば自然な形で現れる。 教義がないがゆえに神職がこう信心しなければならないと能動的に語りかけることはありません。参拝する方の思いにまかせると言ってもよいでしょう。神社には様々な立場の方々が様々な思いから参拝に来られます。多様な参拝者と神様の仲を取り持つ神職の役割は、より大きくなっています。言葉で説明はしない神道─参拝した人には何か伝わるのだろうが、参拝者が減ったらそれも難しい。田中:平成25年には式年遷宮があったこともあり、例年500万~600万人だった伊勢神宮の年間参拝者が1420万人にも達し、その翌年も1000万人を超えました。増えた参拝者の多くは若い人たちです。これはとてもよいことだと思います。驚いたのは、若い人ほど、参拝の作法をきちんと守られていたことです。事前に雑誌や公式ホームページを見て勉強されていたようです。──神職が能動的に語りかけることはしないと話していたが、作法などについては伝えるようにしている。田中:神道では言挙げ(神道を言葉で説明すること)はしてきませんでした。生活に溶け込み、家庭で伝えられてきたので、その必要がなかったのです。 しかし、いまの情報社会の中では間違った知識が広まることがあるのです。そこで、神道の歴史・伝統について言挙げすることも必要となってきました。神道は儀式の宗教で、形を重視します。形を正して神のもとに詣でて、感謝の思いを捧げる。神道を正しく伝える責任を感じています。●たなか・つねきよ/1944年、京都府生まれ。國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜、禰宜、権宮司を経て、2001年、石清水八幡宮宮司に就任。10年、神社本庁総長に就任。神仏霊場会会長、全国八幡宮連合総本部長、世界連邦日本宗教委員会会長なども務める。●神社本庁/1946年2月設立。戦前は国家機関・内務省神社局(神祇院)があったが、戦後にGHQが「神道指令」で、神社の国家からの分離を命じたため、神社界は宗教法人の神社本庁を設立。約8万の神社を包括し、神職約2万2000人、信者約8000万人を擁す。「神社本庁憲章」に基づき、名誉を象徴し表彰を行う「総裁」は池田厚子氏。同憲章に基づき、神社本庁を総理し代表する「統理」は北白川道久氏。宗教法人としての代表役員が総長。●聞き手/山川徹(フリーライター)関連記事■ 駐日外交団長が「日本が世界から尊敬される理由」を語る一冊■ 神社本庁総長 神社界が政治にどうかかわるべきか語る■ 神社本庁の集金システム 全国約8万の神社から10億円の収入■ 神社本庁 職員に被災地用米配布理由「職員苦労してたから」■ 安倍首相 伊勢志摩サミットは神道系団体への最高の選挙PR

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    末期がんの医師・僧侶による仏陀の「信仰を捨てよ」の解釈

    シシリー・ソンダースが目標にした「死にゆく人の尊厳」です。自分の死を超えた価値、それこそがその人の「宗教」です。宗教の自由が保障されるべきで、信仰の押し付けは禁じられます。 明治時代に西洋の言葉の翻訳語として「宗教」が使われて「信仰」と誤解されるようになりました。「信」と漢訳されたサンスクリットは4つありますが、ヒンドゥー教で神への信仰を意味するバクティは仏典には出てきません。梵天勧請説話でもサッダです。サッダはサンスクリットではシュラッダーで信頼を意味します。 お釈迦様が説法を決意した当時、インドには婆羅門と沙門の2種類の宗教者達がいました。このうち沙門はインドの神々を認めない出家修行者です。彼らは「不死」を求めてヨーガの修行をしていました。お釈迦様は婆羅門にではなく沙門に対して説法を決意したので「バクティを捨てよ」とは言わなかったのです。 他に、信解と漢訳され理解するという意味のアディムクティ、浄信と漢訳され偏見をもたないという意味のプラサーダがあります。偏見を持たずに、お釈迦様が説法された四諦(第1~6回参照)を理解するのが仏教の「信心」なのです。●たなか・まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に生まれる。東京慈恵会医科大学卒業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医として勤務。1990年に西明寺境内に入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医、僧侶として患者と向き合う。2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月と自覚している。関連記事■ 末期癌の医師・僧侶が語る空海「六塵悉く文字なり」の解釈■ 乳がんを機に捨てる快感に目覚めた女性の捨て暮らし描いた本■ 古くから信仰集める出羽三山 今も修験者や参拝者が来訪■ 末期癌の医師・僧侶が語る空海「阿字本不生」の解釈■ 末期癌の医師・僧侶 仏陀が説く「苦」の意味を解説

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    大川隆法の「イイシラセ」清水富美加に感じたシンパシーの遠因

    島田裕巳(宗教学者) 女優の清水富美加さんが、芸能界を引退し、幸福の科学に出家するということで大きな騒ぎになっている。「幸福の科学」に出家した清水富美加 幸福の科学は、宗教のなかでは一般に「新宗教」に分類されている。新宗教をいったいいかなる宗教集団としてとらえるかについては、学界でも議論があり、一時幸福の科学は新宗教よりもさらに新しい「新新宗教」に分類されていたこともあった。 新新宗教とは、戦後の高度経済成長が終わり、オイルショックを景気に低成長、安定成長の時代に入ったことを象徴する宗教のことである。 従来の新宗教が病気治しや「現世利益」の実現を約束するのに対して、終末論やそうした事態を乗り越えるための超能力の獲得を宗教活動の中心に据えるものが新新宗教であるととらえられてきた。 そうした新新宗教のなかで、1980年代後半からのバブルの時代に台頭したのが、幸福の科学であり、当時はそのライバルと言われることも多かったオウム真理教である。 幸福の科学が社会的に注目されたのは、1991(平成3)年のことである。その年の7月7日には、教団の総裁である大川隆法氏の誕生日を祝う「ご誕生祭」が東京ドームで開かれ、事前にテレビで相当に派手な宣伝が行われた。私も、実際にこの祭典を取材に出かけたが、急成長する教団の存在を社会に向かって強くアピールしようとするような内容になっていた。 ただ、その一方で、講談社の出版物が教団とその信者の名誉を甚だしく毀損する記事を掲載したとして、当時信者であった作家の景山民夫氏や女優の小川知子氏などが被害者の会を結成し、講談社に対して強硬な抗議活動を行ったことでも、この教団は注目されることとなった。 講談社に対しては、膨大な抗議のファックスが送られ、また、教団や信者が講談社などに対して億単位の訴訟が行われた。ちょうとこの時期は、オウム真理教が進出した地域で住民とトラブルになっており、両者あいまって、社会的な注目を集めざるを得なかった。麻原彰晃とは対象的な「育ち方」 おそらく、幸福の科学の存在が一般の人々に強く印象づけられたのは、この時期のことだろう。ただ、それ以降は、幸福の科学に関連してそれほど大きな話題や出来事はなかったので、若い世代になれば、今回のことが起こるまで、幸福の科学の存在自体を認識していなかったという人も少なくないのではないだろうか。 幸福の科学がオウム真理教と同じ時期に注目を集めたからといって、そのあり方や宗教としての中身は大きく隔たっている。ともに仏教教団であると称している点では共通するが、仏教に対するとらえ方も大きく異なるし、幸福の科学の特徴である大川氏の「霊言」のようなものはオウム真理教にはない。逆に、オウム真理教の最大の特徴であるヨーガの実践も、幸福の科学では行われていない。 オウム真理教が1984年という象徴的な年(ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』や村上春樹の『1Q84』が思い起こされる)に誕生したのに対して、幸福の科学はその2年後の86年に誕生している。 総裁の大川氏は、東京大学の法学部を出たエリートで、その点でも盲学校しか出ていない麻原彰晃とは対象的である。ただ、大川氏の父親は宗教家であり、大川氏はその影響を強く受けながら成長した。その点で彼は、「教祖二世」なのである。 東大を卒業した大川氏は、大手総合商社のトーメン(現在の豊田通商)に入社するが、入社直前の1981年には、宗教体験をしている。それは、鎌倉時代の宗教家、日蓮の弟子の一人、日興の霊が降り、大川氏の手が勝手に動いて、「イイシラセ、イイシラセ」と書きはじめたというものである。 その後も、彼はさまざまな霊と交信を行ったとされるが、ここで注目されるのは、まず日興の教えを受け継ぐものは日蓮宗のなかで富士門流と呼ばれ、創価学会が、それこそ幸福の科学とオウム真理教のことが社会的に注目される1991年まで信奉してきた日蓮正宗につながるということである。 また、「イイシラセ」とは、キリスト教で言えば「福音」のことである。ここには、幸福の科学が、創価学会やキリスト教などの既存の宗教からさまざまに影響を受けていることが示されている。さらに、生長の家やGLAの影響もある。なぜ「覚悟」を求めたのか 大川氏自身は自らのことを「再誕の仏陀」ととらえているが、その再誕の仏陀は、幸福の科学の本尊である「エル・カンターレ」とも重ね合わされている。エル・カンターレに最初に言及したのは、GLAの開祖である高橋信次であった。幸福の科学の大川隆法総裁=2012年12月撮影 結局のところ、大川氏はトーメンを退社し、その後宗教家としての道を歩みはじめるわけだが、大川氏に降ったとされる各種の著名人の霊言ということが教団活動の中心に位置づけられている。 現在では、「守護霊インタビュー」と呼ばれ、信者に対して公開で行われている。それは、信者ならインターネットを通しても見ることができるし、追って書籍化され、一般の人間でもそれを読むことができる。 霊言や守護霊と言うと、一般にはおどろおどろしいものを感じさせたりするが、幸福の科学の霊言は、守護霊が本人の本音を語るというようなもので、公開の場では、守護霊の正体を聞き手となった教団の人間が追求していくというところがやま場になっている。それは、信者にとっての楽しみであり、守護霊インタビューはエンターテイメントの要素をもっている。 今回の騒動では、『女優清水富美加の可能性』という守護霊インタビューがクローズアップされたが、この本の前書きでは、大川氏自身が清水さん本人に対して「覚悟」を求めるメッセージを発しており、また、引退騒動に教団の幹部や弁護士が直接乗り出してきたことでも異例の展開を示している。 教団が、一信者のためにそれだけ積極的に出てきたのは、統一教会の合同結婚式をめぐって、元新体操の選手、山崎浩子氏の脱会騒動があったときくらいではないだろうか。 なぜ大川氏は、清水さんに覚悟を求めたのか。おそらくそこに、この騒動の根本的な原因があるのだろうが、清水さんも信者としては二世であり、その点で教祖二世の大川氏と重なる。そして、父親の影響が色濃いという点でも似ている。あるいはそこに、大川氏が彼女に対して強いシンパシーを感じた遠因があるのかもしれない。

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    清水富美加「出家騒動」を考えまする。

    女優、清水富美加が突然、宗教団体「幸福の科学」に出家した騒動をめぐり、波紋が広がっている。「今日、出家しまする。」と記した暴露本は飛ぶように売れ、これがさらなる火付けになった感は否めない。芸能界を震撼させた宗教スキャンダル。iRONNAが総力特集でお届けする。

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    【上祐史浩緊急寄稿】清水富美加が幸福の科学に「プチ出家」した意味

    家者が守るべき戒律を授かり、俗世・家庭生活から離れて、修行と布教に専念するというものではなく、いわば宗教法人幸福の科学の専属職員となることなのです。 教団の表現では、「見た目は普通の社会人と変わらない。家族と暮らし、自宅から通う者もいれば(中略)、服装も常識の範囲内で各自に任されている。普通の仕事との違いは、中略(幸福の科学の)「法」によって人々の魂を救う仕事に専念していること」だそうです。そうした方は約2千人いるとされ、「僧職給として日々の生計の糧を支給する」そうで、その金額の水準は非公開だそうです(おそらくそれほど多くはないと思います)。清水富美加さん=2013年4月5日、東京・銀座 私のように、初期仏教型の出家を経験した者からすれば、「出家」と言うよりは、「転職」と表現すべきかなとも思います。さらに言えば、清水さんのご両親が、幸福の科学の信者であり、その影響で彼女が信者となった経緯を考えると、オウム真理教でも注目された若者が親から離れるという出家ではなくて、その逆に、むしろ芸能界から親の元に戻ったという意味で「入家」なのかもしれません。 この幸福の科学独自の「出家」制度は、1991年にオウム真理教と幸福の科学が、新新宗教として共に話題を集めた時から、私は聞いていました。そして、これが、出家に限らず、幸福の科学の特徴全体を象徴するものだと思います。つまり、オウム真理教は、いい意味でも悪い意味でも、初期仏教的に、ストイックで真面目「すぎる」のですが、幸福の科学は、オウムよりも「ゆるい」のが、特徴だと思います。そして、歴史上の様々な宗教が戦争やテロに至る場合にそうであるように、オウムは、真面目過ぎて、それが逆に災いして、事件を起こした結果となったというのが、私が田原総一朗氏とオウム真理教を振り返った共著の結論でもあります。 もちろん、これは、オウム真理教との比較の問題であり、幸福の科学も、社会に対して攻撃的な部分はありました。1991年には、教団を批判する記事を掲載した講談社への信者多数によるファックス攻撃が話題になりました。2009年に幸福実現党として選挙に出た際の教祖の言動には、マスコミが自分たちの候補者を具体的な根拠もなく不当に泡沫候補扱いしていると批判する言動があったと聞いています。また、知り合いの宗教学者によれば、数年前の時点でも、教祖の妄想的な陰謀論的な言説があったと聞いています。 しかし、大局的に見れば、教団は高齢化し、昔とは変わって、大分オープンになったという宗教学者の見解もあります。実際、宗教も、その他の運動も、若者が多い時には過激であっても、高齢化とともに穏便になっていくのが常だと思いますし、幸福の科学も例外ではないのではないかと思います。「悟り世代」と宗教 なお、清水さんは両親の影響で、若いころから信者として熱心に活動してきました。しかし、私がオウム真理教で経験したところでは、幼い時に、両親の影響で信仰を行い、反社会的な思想を一時的に形成したとしても、清水さんのように、一般の学校での友人とのふれあいや、芸能活動などの社会生活の経験が確保される限りは、本人の意思で、その影響は、解消され得ると思います。その意味で、清水さんは、親の影響で信者になったにしても、今現在も信者であり続けている以上、本人の性格や性質が、(善悪は別として)信仰に向いていたのだろうと思います。女優の清水富美加さん =2016年9月22日、東京都港区(撮影・高橋朋彦) さて、世間一般では、清水さんに対して、宗教自体を否定する視点から「洗脳から目を覚ましてほしい」という意見や、また、突然辞めて仕事を途中で放り出し迷惑をかけるという視点から「無責任である」である、という批判がなされていると思います。しかし、これに対して、一部の人からは、「批判しかできない人たち」「清水さんの気持ちを理解していない」といった反発もあるようです。これは、今日の同世代の若者のメンタリティが複雑であることを示しているように思います。 まず、1994年に生まれた清水富美加さんの世代とは、何の因縁か、ちょうどオウム真理教事件とも重なる世代です。彼らは、高度成長が終わり、オウム真理教の事件とその教団の崩壊と時期をほぼ同じくして、日本のバブル経済の崩壊が始まった頃に生まれ、その後のデフレの時代に育ちました。そして、一部には、ワーキングプアーという言葉から、最近は物欲が乏しい「悟り世代」という表現もあるようです。 よって、お金や名誉を求める従来の価値観が、必ずしも自分が生きる価値にならない若者が増えているのではないかと思います。すると、はなから主流の価値観が正しく、宗教を洗脳と断じる視点で批判すれば、望ましくない分裂が生じるかもしれません。実際、清水さんのコメントには、長年の葛藤があったことや、洗脳と思われることを予期しつつ決断したことが述べられています。 次に、突然辞める無責任さに関しては、私自身が、宇宙開発事業団の職員でありながら、オウム真理教に出家した時に経験があるので、その経験に基づいて考えると、おそらく彼女は、芸能事務所には、いくら話しても理解してもらえない中で、仕事の整理をつける一定期間、それに耐えることが、非常に辛く感じられたのだと思います。私の場合は、初期の研修期間中にやめてしまったので、整理すべき残った仕事がありませんでしたから、彼女のような問題はなかったのですが、相当辛いだろうなとは思います。 もちろん、その自分の弱さと闘うことが責任ある行動なのですが、本人としては耐えられなかったのではないでしょうか。彼女の告白の中に、嫌な仕事を断ると干されるのが怖くて断れなかったという趣旨のものがあります。芸能人として多くの人に愛されることを長らく求めてきた彼女だからこそ、それが一転して否定・批判の目に晒されることは、非常に辛く感じられたのかもしれません。いわゆるナイーブというか、辛口な表現をすれば、自己愛ということでしょうか。清水富美加は幸福の科学の高齢化対策に効果あり? そうした中で、私は、今回富美加さんができなかったことが、将来再び彼女にとって問題にならないかを心配します。なお、今回の問題に関して、一部の人は、芸能人も自分一人で事務所と対峙するのは難しいだろうから、芸能人も組合を作ったらどうかという意見を出していますが、宗教団体では、組合はできないだろうし、宗教的な奉仕の面が強く、労働基準法も有効ではないでしょう。  私の経験では、家族・仕事場に迷惑をかけて突然出家し、その後幹部にもなったのに、その後、教団に迷惑をかける形で、突然に飛び出す人がいました。また、自分がそうならなくても、自分の友人の出家者(専属社員)が、自分たちにひどく迷惑をかける形で、突然辞める行動に出るかもしれません。そうした時、彼女は、そうした友人を過去の自分の投影と見て許せるだろうか。私は、こうした経験があるため、遠くからではありますが、今後の彼女の動向を見守りたいと本当に思っています。女優の清水富美加さん=2013年4月5日、中央区銀座 なお、これに関連しているかはわかりませんが、最近の若者には、突然、切れたように仕事をやめる人がいると聞きました。清水さんの場合は、やめたい思いが募る中で、一人で切れてやめたのではなく、それを教団が後押しした形になったのでしょう。これは、もちろん望ましくないのですが、切れる側もしたくでそうするわけではないでしょう。そして、そうした現象が社会全体で目立ってきているのであれば、単に無責任を批判するだけでなく、その背景の心理的な要因を理解することが、企業にも必要な時代になってきたのかもしれません。  次に、今回の件で、清水さんが教団に広告塔に使われているのでは、という見方について考えてみたいと思います。実は、私が今回の件で、最も違和感を感じたのも、この点でした。芸能活動からは引退するにせよ、教団が関与せずに、本人とその家族が独力で実行できなかったのか。教団は、本人の意思に添わない内容の活動を薄給の下で強いられ、ドクターストップがかかるまで精神的に追い詰められたとしているが、それを救済するのが、なぜ幸福の科学教団(への出家)であり、教団の広報担当や弁護士が記者会見して、瞬く間に教団出版社から告白本が発刊されるのか。やはり、教団が彼女を広告塔としようとした感が否めません。 その背景には、一部の宗教学者の方が指摘しているように、幸福の科学の信者が既に高齢化しており、教団としては、若い世代の獲得に苦労している状況があると思います。私は先日、某所でのトークイベントで清水さんと同世代の宗教に関心のある若者から話を聞きましたが、「教団が若者を入信させようと盛んに活動しているが、若者の方の反応は鈍いと思う。清水さんは親が信者だから幸福の科学だったのだろうが、今の若者の多くは、ああしたタイプのカリスマ型教祖の教団に入るとは思えない」と言っていました。今年はオウム、幸福の科学からちょうど30年 こうしてみると、教団は、苦しい中で手持ちの中の最高のカードを切ったのかもしれません。しかし、今回の件が、さほど状況を変化させるかは疑問です。清水さんは、「自らの天命が『暗黒の海を照らす灯台の光となり、一人でも多くの人を救済していく』ことにあると確信し、『魂の救済のために24時間を捧げる』宗教者となるべく、出家を決意」したとコメントしています。しかし、実際の清水さんは、「緊急救済の観点から受け入れを決めた」と教団が言うように、自分で問題を解決できず、精神的に参ってしまい、教団に保護されたわけです。 これは、強靭な精神で悟りと布教にまい進する出家僧というよりは、オウム真理教の出家の際にも一部で言われたように、「駆け込み寺」に入った信者のようにも見えます。清水さんと同じように、仕事で苦しかったら、幸福の科学に駆け込んでね、というアピールにはなるのでしょうが、1990年代に統一教会の合同結婚式に参加した芸能人やオウム真理教の出家した芸能人と比較しても、本当の意味で、教団に利益をもたらす広告塔としてスタートと切ったとは言えないのではないでしょうか。そして、こうしたことは教団も分かっていると思います。しかし、なおかつ、それをやったということから、教団がおかれた状況を推察できるようにも思います。 さて、最後になりますが、今回の件と関連して、一つ気になることを述べたいと思います。それは、私には、今回の清水富美加さんの件が、単なる単発の現象ではないように感じられる部分があることです。もちろん、それは、彼女を追って、幸福の科学への若者の出家が続発すると言うことではありません。 しかし、前に述べたように、清水さんと同じ、今現在、20代前半の人には、生まれる前に、既に高度成長が終わり、デフレ時代を生きてきました。そのため、彼らは、お金や競争の勝利といったものが、自分の生きる価値にはなりにくい世代ではないでしょうか。そうした彼らが、今後、精神面で、何か新しい時代を求めて、作っていくように思うのです。それが、どういう形になるのは、分かりません。しかし、もしかすると、今年2017年が、後から見ると、その始まりだったと思われる年になるかもしれないと思います。 ちょうど今から、30年前の1987年にオウム真理教、1986年に幸福の科学が設立されました。そして、2年後の1989年には昭和天皇が崩御され、平成の時代が始まりました。その直後、世界は米ソ冷戦が終結し、共産主義が後退し、世界は、科学合理主義が浸透するかと思いきや、1990年代になると、宗教の復活が目立ってきました。たとえば、イスラム世界でのイスラム原理主義、米国でのキリスト教保守主義、南米・アフリカではカトリック教会が強まりました。日本でも1991年に、オウム真理教・幸福の科学といった新新宗教ブームが注目を集めました。オウム真理教での失敗の教訓 そして、今時代は、色々な意味で似たような変化の時にあるように思います。あと数年のうちには今上天皇の退位で平成が終わる見通しとなっています。世界の政治も、トランプ大統領の登場、英国のEU離脱、欧州の極右政党の台頭など、冷戦後一貫して進められてきた市場原理主義・グローバル経済の流れに対して、大きな変化が生じています。冷戦終結によって後退した共産主義に続いて、今回は、資本主義の行き詰まりとポスト資本主義の思想を唱える識者も出てきました。そうした中で、人々の意識は、お金・物質的な利益に限らず、精神的な幸福を求める流れが強まる可能性があるのではないでしょうか。そして、今年前後から始まる新しい精神的な流れが、2020年代には、世の中に知られる大きな流れになるのかもしれません。外国特派員協会で会見するオウム真理教の上祐史浩外報部長(当時) =1995年4月3日 この現象を好ましくない視点から見るならば、日本社会における若者を中心とした極端な思想・宗教の動きは、30~40年代の国家神道の戦争、60~70年代の極左共産主義の学生運動、90年代のオウム真理教などと、数十年の間隔で繰り返されてきた歴史的な事実があります。ほども述べましたが、90年代も統一教会の合同結婚式やオウム真理教への出家で話題を集めた芸能人がいました。そして、私は、鈴木邦男氏などとの共著「終わらないオウム」などの中で、これらが、一見して異なるようで、本質的には似た性質をもった精神的な現象の周期的な繰り返しではないかと述べました。 さらに言えば、それは、一種の精神的な感染現象ではないかと考えています。感染症は、その菌に対する抗体を持っていない人が増えると、ワクチンによる予防をしていなければ、再び広がることを繰り返します。そして、私は、極端な思想・宗教の拡大というのは、一種の精神的な感染症だと思うのです。例えば、カルト宗教の事例で言えば、私は、冷静な教祖が、信者を巧みに洗脳するという世間の見方は間違っていると思います。カルト宗教を専門とするジャーナリストの有田芳生氏(民主党参院議員)と対談した時にも確認しましたが、カルト宗教の専門家であれば、教祖がまず自分を救世主だと思う盲信に自ら陥り、救世主を待望する傾向のある人たちが、教祖の盲信に感染する(幻想を共有する)ことを知っています。 だからこそ、歴史から学ばぬ者は歴史を繰り返すと言うのだと思います。そこで私は今、私のオウム真理教での失敗の教訓が、今後の若者が作り出す、次の精神的・宗教的な現象において、似たような感染を予防するワクチンになればと思って活動しています。そして、30年前とは比較にならないほど、ネットなどによって、オウム真理教の情報が提供されているとこともあって、今度こそ、同じことの繰り返しはないだろうと思いますし、そのようになるように微力ながら自分なりに努めています。 こうして、近代日本において繰り返されてきた数十年単位の政治・経済・社会の変化と連動した、若者の思想的・宗教的な大きな波が、今度こそ、これまでのものとは異なり、一皮むけた、真に有意義なものとなることを信じています。それが、2020年代以降に現れてくるならば、次なる日本の年号と、その前後の開催される東京五輪という「平和の祭典」とシンクロしたものになるのかもしれません。そうなったら素晴らしいだろうなと思います。

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    前世はベガ星人? ハイパー教団で出家した清水富美加に残る一抹の不安

    首相=昭和58年10月 「霊言」とは「守護霊」インタビューと同様に大川総裁の口を借りて、神的存在や大宗教家が「語る」もので、これまで、イエス・キリスト、大天使ガブリエル、ノア、モーセ、ユダ、釈迦、舎利弗、ヤショーダラ、文殊菩薩、天照大神、大国主命、卑弥呼、神武天皇、ムハンマド、カリフ・アリー、孔子、朱子、荘子、ゼウス、アポロン、ガイア、艮の金神、天台智顗、空海、親鸞、一遍、日蓮、安倍晴明、中山みき、出口なお、谷口雅春、戸田城聖、庭野日敬、ノストラダムスなどなど、これまでに多数の「霊言本」が刊行されている。 以上からも推察できるように、幸福の科学はキリスト教、神道、イスラム教、仏教、儒教、ギリシャ神話、日本の諸新宗教など多種多様な宗教文化を、自在に摂取した宗教的世界観を有している。こうした、属する社会の宗教伝統との関係が希薄で異文化宗教の要素をハイブリッド的に自由に取り込んだタイプのポスト近代的宗教を、宗教学者の井上順孝は「ハイパー宗教」と呼んでいる。 幸福の科学は、一定規模以上の新宗教教団としては、最も新しい教団である(1986年10月教団設立)。幸福の科学は既存の新宗教の分派教団ではなく、独自に創立されたものといえるが、GLA(創設者:高橋信次、1969年設立)と生長の家(創設者:谷口雅治、1930年設立)という二つ教団の影響を強く受けている。 大川総裁とともに教団を設立した大川の父善川三郎(本名:中川忠義)はGLAへの入信経験を有する。宗教学者の井上順孝や塚田穂高は、霊界観や転生観の点ではGLAの、出版物の講読を中心とした活動・布教の面においては生長の家の影響が強いとしている。 GLAと生長の家は、心霊主義的特徴と世界の諸宗教を総合的・統合的に取り扱う「万教帰一」的な特徴の両者を共通して有しているが、近代日本における新宗教運動の展開の系譜からいえば、その源流はかつて大正デモクラシー期の一大オカルトブームとともに教勢を伸ばした大本(創設者:出口なお・出口王仁三郎、1900年前身組織設立)にある。大本は、心霊主義や国際主義的な「万教帰一」的性格を有した近代日本における「ハイパー宗教」の先駆けであった。オカルトと世界観が共通する幸福の科学 現在の幸福の科学に至る宗教運動の対外的活動の端緒は、1985年7月『日蓮聖人の霊言―今、一切の宗派を超えて』(潮文社)の出版である。翌年の教団発足後、幸福の科学は教勢を一気に拡大、1990年代初頭においてオウム真理教とともに宗教ブーム再到来の代表格として社会的注目を集めた。 幸福の科学設立やその教義の背景には、1970年代から断続的に継続し90年代半ばにオウム真理教事件を契機として終息するまで続いたオカルトブームがある。社会的なオカルトブームと教勢の急速な伸びという関係において、大正期の大本との共通性が指摘できるであろう。講演するグループ創始者兼総裁の大川隆法氏=2014年8日 1973年に五島勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)がベストセラーとなり、翌年にはユリ・ゲラーの「フォーク曲げ」が『木曜スペシャル』(日本テレビ)で放送され、「超能力の実在」として全国に衝撃を与えた。オカルトブームの雰囲気は、70年生まれの私とってはちょうど幼少期のことであり、強く鮮明な記憶として残っている。 当時、心霊・超能力・UFO・超自然現象などは日常的話題としてそこかしこで語られるものであった。真昼間からテレビで流れるドキュメンタリー形式の心霊番組「あなたの知らない世界」(日本テレビ)は小学生の私にとってはまさに「ドキュメンタリー」であったし、小学校4年生の時全国を席巻した「口裂け女」の噂話が私の学校にも伝わると、掌に「しせいどう」(「ポマード」ではなかった)とマジックで書き(そうすれば口裂け女から逃れられるとされた)心底震えながら振り返り振り返り登下校した。 こうした70年代オカルトブーム時代の状況は、若い世代には想像し難いかもしれない。初見健一は当時を「各メディアのコンテンツの「王道」に、オカルトなネタがデーンとのさばって、大人も子どもも、もっと言えばお年寄りから幼児までが、ごく自然に「お茶の間の娯楽」として享受」するような「イカレた時代」であったと総括している(『ぼくらの昭和オカルト大百科―70年代オカルトブーム再考』大空出版、2012年)。 これらのブームの火付け役の一つ、つのだじろうによる心霊マンガ「うしろの百太郎」(1973年連載開始、『週刊少年マガジン』・『月刊少年マガジン』)は「霊界」「守護霊」「前世」といった概念を少年少女たちに一般化した。少女マンガにおいても、現代日本に転生した前世が異星人である主人公たちという設定の日渡早紀「ぼくの地球を守って」(1986年連載開始、『花とゆめ』)が大ヒットしている。 当時の「前世」の普及ぶりを示す例として、「転生戦士」や「前世少女」の出現を挙げることができる。「転生戦士」・「前世少女」とは、オカルトブームを象徴するメディアといえる雑誌『ムー』(学習研究社、1979創刊)の読者投稿コーナーに1983年頃から見られるようになった、「戦士、巫女、天使、妖精、金星人、竜族の民の方、是非お手紙ください」とか、「前世アトランティスの戦士だった方、石の塔の戦いを覚えている方、最終戦士の方、エリア・ジェイ・マイナ・ライジャ・カルラの名を知っている方などと」とか、「前世が古代エジプトの王の人」とか、「前世(前生)でヴィシュヌ神、シバ神、インドラ神、ミカエル大天使、アポロンなどと一緒に行動していたと思われる方」などのメッセージを掲載して文通相手(ペンパル)募集していた中高生を中心とした人々である。 現在、ホームページ「バーチャルアイドルちゆ12歳」内の「「ムー」の前世少女」にこれらのメッセージが時系列的にまとめられているが、1970年代以降のオカルトブームと、幸福の科学に共通する世界観を看取することができるであろう。 1989年の夏、「前世仲間」による集団自殺ごっこ事件が生じたことを踏まえ、日渡早紀は『ぼくの地球を守って』第8巻(白泉社)のコラムにおいて、読者に自らの「前世」マンガがフィクションであり現実ではないことを、ためらいながらもはっきりと説いた。 「前世」ブームの過熱化は、「前世」マンガの作者自身に、ファンへの鎮静化を呼び掛ける行為を強いたのである。それを読んだ日渡の読者が「洗脳されて上等」と反論したかどうかは、詳らかにしない。

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    やっぱり幸福の科学「炎上商法」のネタにされた清水富美加

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 女優の清水富美加さんと宗教団体「幸福の科学」に関する報道が続いている。これまでの仕事を辞めて幸福の科学に「出家」するという清水さんに対して、多くの芸能関係者が苦言を呈している。芸能人としては、関係者一同に多大の迷惑をかける掟破りの行動ということだろう。しかし、私たちには信教の自由があり、職業選択の自由がある。ただそれでも、清水富美加さんの行動には様々な疑問があることも事実だろう。(写真はイメージです) 宗教が批判的に扱われるときに使われる言葉として、まず「新興宗教」がある。新興宗教は伝統宗教に対して新しいという意味で、本来は善悪の価値は含まない。ただ一般的には、新興宗教というと怪しげなイメージが伴うだろう。 ある宗教団体を非難するときに、「異端」と言われることもある。異端は、「正統」とは異なる教義を主張するものである。その新しい宗教の中で、釈迦やキリストが登場することがよくあるが、伝統的な正当の仏教やキリスト教から見れば、異端だろう。しかしこれは、その宗教の中の話であり、外の人間にとってはあまり関係のないことも多い。ただ、その新興宗教が「新しい真実が示された」などと主張しても、宗教家や宗教学者から見れば稚拙で誤りだらけと評価されることが多いことは、私たちも知っていて良いだろう。 「カルト」と言われて宗教が非難されることもある。カルトの本来の意味は、少数の熱烈な信奉者のことであり、カルト映画、カルトクイズなどと使われることもある。この場合は、強いこだわりを持つ「オタク」「マニアック」の意味に近いだろう。だから、カルトは変わり者かもしれないが、悪いことではない。 しかし現代では、カルトは悪い意味で使われることが多い。「カルト宗教」は危険な宗教という意味で使われている。そこで研究者らは悪い意味で使うときには「破壊的カルト」と表現することもあるが、一般的には「カルト宗教」「カルト団体」などと表現されている。またカルト集団が大きくなるともはや少数とは言えないという意味で、「セクト」と呼ばれることもある。 私たちには信教の自由がある、どんなに奇妙な少数派の教えでも、信仰する自由がある。しかし、悪い意味のカルト(破壊的カルト)は社会に害を与え、個人の人生を破壊する。宗教だからという理由だけで、全てが許されるわけではない。 悪い意味のカルト集団とは、マインドコントロールなどの悪質な手法で信者を獲得し、本人や家族や社会全体に害を与える集団である。 フランスのセクト(カルト)構成要件によれば、カルトの特徴として、精神の不安定化、法外な金銭的要求、住み慣れた生活環境からの断絶、反社会的な言説などが挙げられている。ただし、各団体がカルトなのかどうかは微妙な部分があり、意見が分かれることも多い。かつてのオウム真理教はカルトだが、当時マスコミに登場した信者は、自信にあふれ明るく元気に見えたことだろう。「幸福の科学」を支える秀逸なメディア戦略 「幸福の科学」は1986年に発足した後に急成長し、現在公称1200万人の信者を抱える巨大新興宗教だ。そのメディア戦略は秀逸であり、幸福実現党による政治活動や、多くの映画や出版物がある。 教祖大川隆法氏は、有名人の「守護霊」を呼び出すことができるとされ、守護霊へのインタビューが「霊言本」として次々と出版されている。宮崎駿、前田敦子、星野源、スティーブ・ジョブズ、ウォルト・ディズニー、明治天皇、昭和天皇、ガンジー、マザー・テレサ、トランプ大統領、時代も分野も様々な有名人が登場する。 本の表紙には、各人の名前や顔写真が大きく載るので、よく知らない人が見れば、本人の本にも見えるだろう。幸福の科学が『ニュースキャスター膳場貴子のスピリチュアル政治対話』を2013年に出版した際の本の帯には、「私が考えるマスコミの正義。マスコミ人だから言えること」とあった。あたかも本人が語っているようである。そのため、当時出演していたTBS「ニュース23」のホームページ上で、次のような注意が掲載された。 「幸福の科学出版から出版される『ニュースキャスター膳場貴子のスピリチュアル政治対話』という書籍については、当番組ならびに当番組の膳場貴子キャスターとは一切関係ありません。膳場貴子キャスターの肖像を使用することも許諾しておりませんし、内容的にも全く関知しておりません」。 手塚治虫に関する『手塚治虫の霊言』が昨年2016年に出版されたときには、「こんな言いぶりするわけない」と遺族が困惑しているとも報道されている。ただし、どんなに本人や遺族が不快に思う内容だったとしても、名誉毀損などで法的に問題にすることは、難しいらしい。 今回話題になっている清水富美加さんの霊言本も今月2月3日出版された。『女優・清水富美加の可能性:守護霊インタビュー』である。内容を見ると、前半は普通の芸能インタビューのように見える。彼女の女優としての思いが語られる形になっている。後半になると、「タレント・清水富美加の過去世に迫る」など、宗教的な話になる。 この本によれば、清水さんは清水富美加として生まれる前から歴史上で大活躍し、今も「千手観音」のようなみんなを救う特別な使命を与えられているとされている。終始ほめているので、信者である清水さんが読めば、感動的な内容だろう。ファンが読んでも、不快感がない人もいるだろう。 芸能人で宗教活動を行なっている人は、少なくない。浮き沈みの激しい芸能界で生きていく上で、何かの支えが欲しいと感じる人は多いようだ。それが、宗教になる人もいるだろう。「炎上商法」か「成り行き任せ」か 宗教団体、特に新宗教、新興宗教にとって、有名人芸能人の存在意義は大きい。いわゆる広告塔として教団内外に強い影響力を与えることができる。そこで、宗教団体としては入信した芸能人を大切にする。たとえば、普通の信者なら直接会うこともできない教祖と直接対面し、言葉をかけてもらえる。 仮に芸能界での人気が落ちてきたとしても、その宗教団体の中では、相変わらず特別扱いを受け、教祖からも信者からも大切にされ続けることもある。 さらにどんなに売れていても、芸能活動に強いストレスや虚しさや疑問を感じている芸能人にとっては、教祖が語る正義、真実、世界の救済といった言葉は、一般の人以上に魅力的に映るだろう。清水富美加さんも、仕事に心が追いつかなかった、死にたい気持ちだったと語っている。 今回の騒動に関して、何が起きたのか。想像するしかないが、幸福の科学による一種の炎上商法と言う人もいる。一方、清水富美加さんを活用しようとはしていただろうが、今回の騒動は想定外だったろうと推測する人もいる。 先日、あるメディアから幸福の科学の関係者を含めた数人による対談の企画について打診を受けた。結果的には、幸福の科学側との折衝がうまくいかず実現しなかったと聞いている。今回、幸福の科学側の動きが素早いと感じる部分と、とまどいや準備不足を感じる部分がある。 霊言本で誰を取り上げるのをどのように決めているのかも、外部の人間には計り知れない。教祖が一人で決めているかもしれないし、幹部による相談で決めているのかもしれない。 今回も、全てが準備された上で『女優・清水富美加の可能性:守護霊インタビュー』が出版され、本人も予定通りの行動をとったのかもしれない。本人執筆の本『全部、言っちゃうね。:本名・清水富美加、今日、出家しまする。』も、出家者としての千眼美子の名前で、実に素早く2月17日に幸福の科学から出版された。幸福の科学出版の書店では清水富美加の告白本「全部、言っちゃうね。」が売り切れとなった=東京・赤坂 あるいは、教祖一人の思いによって霊言本が出版され、本人が思いの外に迅速な行動をとってしまったのかもしれない。その場合、教祖が否定すれば本人も翻意するだろうが、教祖が肯定すれば、教団としても後を追っていくしかなくなるだろう。今回の芸能人としての常識や、契約などの法的に見て問題の多い行動が、どこまで計画されていたのかはわからない。 カルト研究者によれば、一般的に破壊的カルトのような悪い宗教には次のような特徴があるとされる。 完全主義で他の考えを認めない。批判的な考えは否定され、批判能力が脅かされる。これまでの人間関係や大切な過去を否定する。全体として調和していない。経済的、精神的に教団から搾取される。 一方、破壊的カルトではない良い宗教には、次のような特徴がある。 信仰のシステムは開放的で、他の思想にも耳を傾ける。批判能力はそのままか、強められる。自主性はそのままか、強められる。価値観や生活や目標が、信仰と一体化し、調和している。 今後、清水富美加さんがどのような活動を行い、どのような人生を歩んでいくのか。幸福の科学の活動と共に注目していきたい。

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    「洗脳上等だよ」清水富美加と能年玲奈を救えなかった傲慢レプロの罪

    平本淳也(元ジャニーズ所属タレント) オマエんち宗教どこ? うち創価学会だよ、そーなんだ? 南無妙法蓮華経、言える? すげーじゃん! オレはクリスチャンだよ! 食事前とか祈るの? へぇ~。 思えばジャニーズ内でこんな会話もめずらしくなかった。タレントとはいえ、一般的な宗教に関わっていることは不思議ではないが、基本的に「親が」「家が」というのが通例だった。 この場合、信仰心とまでは言い難いレベルだが、中には熱心な信者もいて布教にも似た活動をしている同僚もいた。だが、それは稀なケースで、活動が露骨だと友達が離れていくことがわかっているだけに、巻き込んだり、あるいは迷惑をかけたりするようなことはしていない。 今、その宗教問題で注目されているのが清水富美加だ。彼女を否定して業界を擁護するわけではないが、本人が「迷惑をかけた」と発信しているのは確かであり、わざわざ「大迷惑」をかけてまで問題にしたのはどんな意図があったのか。 世間を騒がせている相手は「幸福の科学」である。人気女優の清水が出家(宣告)した有名な宗教団体だが、問題は幸福の科学という宗教団体ではなく突然の「出家」がクローズアップされているようだ。講演する大川隆法総裁 それがなぜ、今なのか。この辞め方には大きな疑問をいくつも残している。人気女優であり、多くの仕事を中断してまで急がなければならなかったのか。ただ、結果的には事務所を辞めて幸福の科学に出家という形で「移籍」したということがうかがえる。 いずれにせよ今回の事態は異例尽くしなのだ。収入や仕事の内容に対する不満について「ギリギリ状態」という清水だが、それを理由に「辞めます」、「辞めました」って一方的な都合放棄は理解し難く、それを容易に受け入れる幸福の科学側の対応にも違和感がある。 いわゆる「引き抜き」にも似た今回の騒動は他に例がない。洗脳されて連れていかれたといった類なら時折見られるが、本人から発信されたメッセージと関係双方が会見まで開いて言い分を発表するのは異例のことで、「宗教団体VS芸能プロダクション」という構図もめずらしい。 ただ、芸能人の宗教に関する問題は少なくない。「統一教会」の合同結婚式に参加し、世間の注目を集めた歌手の桜田淳子や、自らが広告塔になり世にも広く知らしめた幸福の科学の小川知子あたりは有名な話であろう。 しかし、プロダクションとの対立は表面化されておらず、あくまで本人の主張と行動によるものだ。清水の場合は所属事務所に対する不満を公にして、それを理由に出家という行動を取ったのは、何らか意図があったと考えざるを得ない。 故意に問題を大きくしているとしか思えないのだ。問題を起こして話題を作りメディアを使った宣伝なのか、少なくてもこのやり方で幸福の科学側に「メリット」が生じたようにみえる。 一方、攻撃されたレプロエンタテインメント側にはメリットなどあるはずもなく、騒ぎを止めたいレプロは「(清水)本人を尊重する」というコメントを出し、折れる姿勢を打ち出した。これはスポンサーや業界内に向けたメッセージであることもうかがえる。能年玲奈と共通する事務所への不満 能年玲奈の洗脳-退社、マギーの不倫、そして清水と、短期間に多くのスキャンダルを連発していることから事務所としての立場や評判をこれ以上悪くしたくない思いが強く、まだ隠された真実や表面化されると困る何かが露呈する前に収めたかったのだろう。 能年と清水の発言は、薄給が共通しているうえ、仕事の選択においても自由が奪われていることも含め「助けてくれた」のは事務所ではなく他の何かを指しており、事務所に信用も信頼もないということを表現している。 だが、行動として裏切ったのは清水のほうだ。事務所的には問題を大きくしたくないだけに、当初は真っ向勝負の姿勢だったが、「優しさ溢れる善い人」に転換したようだ。とはいえ、世間的な印象は「事務所=悪」が浸透している。女優ののん 信仰の自由は当然であり、その気持ちや考えを否定したり愚弄することは決してしてはならないし、それを誰も責めたりしないが、幸福の科学側が宣戦布告的な姿勢で挑むのは違和感を覚える。まさに「喧嘩上等!」といった雰囲気にも思えるし、もはや幸福どころではない。 そもそも信仰心を持つタレントは少なくなく、それを隠すこともしていない。しかし、宗教色が強くなるとイメージ的な問題や役柄にも問われる面が多々あるので仕事に影響しない程度として常識の範囲を認識している。それに政治も絡むと面倒なのでタレントとしてはその色を出したくないのだ。 また、タレント同士で宗教の話題がのぼることはあまりなく、勧誘することもほとんどない。だが、「相手が興味を示したらすかさず誘い込む」技は多くが持ち合わせている。というのも「心底信じている宗教だからその魅力は伝えやすい」ので爽やかに「今度、一緒に行ってみる?」なんて美味しいものを食べに行く感覚で誘われたら「イヤ」と答える友人は少ないだろう。 表立った布教という活動を熱心にやらないし、無理な勧誘もない。言い方を変えれば「趣味への誘い」的な軽い感覚ならそんな悪い気はしない。誘われた方は、例え断っても嫌な顔もされず、むしろ断る方が気を遣うだろう。ただ断り方が酷いと断絶されることもあるが、芸能人は基本的に自分の立場を理解しているところがある。 それ以前に自分が「どこぞの信者です」的なアピールはあまりしない。諸外国と違って信仰心の薄い日本では多少なりともこの手の会話が流行ることはないだろうし、皆を誘って日曜日の活動を熱心に行うタレントも多くはない。友達相手に特定宗教団体の新聞の勧誘さえしないのが一般的なレベルだ。 それだけに清水の場合は、「騙されている」とか「洗脳されている」といった言葉を頭ごなしに投げつけられ、物凄い拒否反応を示したのではないか。信じているものを疑われたときの怒りは計り知れない。清水の信仰心を妨げる何かが生じたのだろうと考えれば、その反抗姿勢から今回の騒動に至ったのも頷ける。やっかいな宗教団体との対立 しかし、対宗教団体という芸能プロダクションの立場は想像以上にやっかいなものになる。レプロに対する同情の声も多く聞かれるが、最もトラブルを起こしたくない相手とも言え、タレントの扱いにも慎重さが増して疲弊する。今後、こういった問題も出てくるのかと思うとタレントの扱いには相当の慎重さを要することになる。清水富美加さん 欧米ではプロフィール欄に信仰・宗教を明記する場所があり、タレントに限らず一般企業においても重要視している。氏名や性別と合わせて宗教までを性格として認識して受け入れるのが筋であり、また同胞同盟や仲間、友人関係から婚姻に至るまでそれは強く関係してくる。 身近なところでは世界的なSNS『Facebook』にもその欄はあり、世界の多くはこれを重要と捉えているが、日本では馴染みが薄い。性別にしても「性同一障害」というしっかりとした言葉と病名があり、日本でもようやく認識した程度でこの手の話題や活動も極端に少ない。 つまり、日本人には信仰する宗教や性差、個性といったものを受け入れる十分な器量がなく、これらを重視しない習慣が今回のようなトラブルを引き起こす要因となっている。レプロの「清水を尊重する」といったコメントは「宗教に対する誤解」を改善したいという強い決意かとも感じた。 思えば、SMAPの解散騒動のとき海外メディアからの取材も受けたが、その質問の多くはSMAPに関することよりも「日本の芸能界」と「芸能(タレント)プロダクション」の体質に関することだった。 日本の芸能界は海外、特に欧米から見て特殊で「タレント<プロダクション」という構図に映るらしい。タレントから自由を奪って「奴隷」的に扱っている日本の芸能界は「オカシイ」と認識しているのである。 昨今ではSNSの影響もあって、多くの問題が個人から直接発信されてニュースになっているが、こういった事情から芸能界やプロダクションのあり方、あるいは古い体質が否定され、改善に向けて動くことも期待されているように感じる。今回の騒動をきっかけに、職業としての「タレント」の価値が見直され、向上していくことを切に願う。

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    清水富美加 両親の離婚で父子家庭、父の会社は倒産

     宗教法人『幸福の科学』に出家した女優の清水富美加(22才)。レギュラー番組やCM契約があり、数本の出演映画の公開を控えていたということもあり、芸能界に衝撃が走っている。 1994年に三姉妹の末っ子として都内で生まれた清水は、自ら希望して芸能界の門を叩いた。2008年、事務所主催のオーディションを受けてグッドキャラクター賞を受賞しデビュー。当時14才だった彼女は、その後、女子小中学生向けファッション誌の専属モデルなどを務めた。2010年に「ミス少年マガジン」に選ばれると、翌2011年に福士蒼汰(23才)主演の『仮面ライダーフォーゼ』(テレビ朝日系)に出演。2015年にはNHK連続テレビ小説『まれ』でヒロイン・津村希(土屋太鳳、22才)の同級生・蔵本一子役を好演し、一躍ブレークを果たした。「順風満帆な仕事とは裏腹に、プライベートでは難しいこともありました。もともと、富美加ちゃんの両親もお姉さんたちも『幸福の科学』の熱心な信者で仲のいい一家だったんですが、彼女の仕事が軌道に乗り始めた高校1年生のときに両親が離婚。三姉妹の親権はお父さんに渡ったそうですが、お姉さんたちはお母さんと暮らし、富美加ちゃんはお父さんとの“父子家庭”になったんです」(清水の知人) だが、母親や姉とは断絶状態に陥ったわけではなく、頻繁に連絡を取り合い母親が暮らす家を訪れることも多くあったという。「今から2年くらい前でしょうか、お母さんが再婚することになったって明るく話していました。でも、お父さんのことを考えるといろいろ思うところもあったんじゃないですかね」(前出・清水の知人) 女優・モデルとして頭角を現し始めていた清水はそのときすでに父親の元を離れ、事務所が用意した寮での生活を始めていた。三姉妹の中で自分だけが父親の元に残ったことで、自分が父親を支えるという気持ちがより強くなっていったのかもしれない。 清水の父親は、ホームページやパソコンのソフトウエア開発、また輸入雑貨の販売などを行う会社を経営していた。「他に従業員はいなくて、富美加ちゃんのお父さんがひとりで切り盛りしていたんですが、あまり順調とはいえなかったようです。借金も5000万円ほどまでに膨らんでしまったこともあったようで、それは富美加ちゃんもかなり心配していたそうです。その後、富美加ちゃんも協力して借金を減らしたんですけど、どうにもならなかったみたいで」(前出・清水の知人) 父親の経営する会社は昨年11月16日に破産。父親は多額の負債を抱えたという。清水がブレークしてからも、一家の信仰は表に出てこなかった。ところが、熱心な信者である父の会社の倒産から2か月後、突然行われた「守護霊インタビュー」と本の出版、そして娘の出家──父娘に一体何があったのか。 宗教団体にとって出版事業は大きな収入源の1つだ。実際、大川総裁の著作は計約2000点で、一説には総発行部数が4500万部にものぼるという。今回、清水にまつわる本は発行部数が数万部とされる。多くの信者が大川総裁の著作を購入し、さらに騒動が話題を呼んでいる現状では、かなりの売上が見込めるだろう。関連記事■ 幸福の科学 清水富美加の5万円は「月給」、年収は把握せず■ 清水富美加 仕事打ち合わせ3日後、教団側弁護士登場で急転■ 元お天気お姉さん・小松美咲、陽だまりの中の妖艶ビキニ姿■ 久松郁実 太陽の下で輝くFカップ絶景ボディ■ 名門女子中進学の芦田愛菜 中高6年は休業状態か

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    清水富美加 仕事打ち合わせ3日後、教団側弁護士登場で急転

    《私、清水富美加は幸福の科学という宗教に出家しました》。一際大きく綴られたその文字が、目に飛び込んでくる。2月12日、清水富美加(22才)は《ファンの皆様・報道関係者の皆様へ》と題した手書きの文書で芸能界から姿を消すことを明かした。清水富美加の出家騒動について見解を示す、所属事務所の顧問弁護士の山縣敦彦氏(左)と塩川泰子氏=東京・目黒 4月に立て続けに公開される映画『暗黒女子』と『笑う招き猫』ではどちらも主演。さらに人気コミックを実写化した今夏公開予定の『東京喰種 トーキョーグール』でヒロイン。『にじいろジーン』(フジテレビ系)と『シブヤノオト』(NHK)でレギュラーを務め、コスモ石油と花王『NIVEAニベア』のCMを抱える彼女の突然の“退場”劇に、テレビや映画、広告代理店業界は大混乱に陥っている。「レギュラー番組は降板の方向です。公開前の映画3本すべて主役級なので、舞台挨拶や、テレビ番組や雑誌での宣伝プロモーションに引っ張りだこの予定でしたが、すべてキャンセルせざるを得ない」(広告代理店関係者) 13日には、花王の公式サイトから清水の写真と動画が削除された。騒動の発端は1月19日、『幸福の科学』の公式サイトに1本のインタビュー動画がアップされたことだった。「大川隆法総裁はこれまで、対象人物の守護霊を呼び出し、自身の口から語る『守護霊インタビュー』を行ってきました。過去にはビートたけし(70才)や安倍晋三首相(62才)といった著名人のほか、“STAP細胞”の小保方晴子氏(33才)やドナルド・トランプ米大統領(70才)、さらにはアインシュタインや西郷隆盛といった歴史上の人物の名も並びます。その人の潜在意識にアクセスし“本心”が語られると説明されています」(全国紙記者) 清水の“守護霊”が赤裸々に語る97分にも及ぶ動画は、当然清水の所属事務所関係者の目に触れることになった。「清水さん本人に動画のことを尋ねると、父親が『幸福の科学』の信者であると同時に、“私も信者なんです”と明かしたそうです。もちろん事務所としてはタレントの信教を咎める理由はありません。清水さん自身も総裁に守護霊インタビューをしてもらえることは大変に幸せなことなんだと周囲に話していたそうです。その場では特に変わった様子はなく、翌日以降もいつも通り仕事をこなしていました」(芸能関係者) この時はまだ仕事の打ち合わせに姿を見せると「もっと頑張ります」と前向きな姿勢を見せていたという。「仕事が楽しい、こんな仕事をしたい、と現場で口にすることもありました」(テレビ局関係者) 長期的な仕事のオファーが届いていることに、喜びの表情を見せていたという。だが、それからたった3日後、事態は急変する。突如現れた2人の教団弁護士と、清水が流した涙突如現れた2人の教団弁護士と、清水が流した涙 1月28日、仕事を終えた清水は女性マネジャーと共に都内のホテルにいた。ロビーで合流したのは、『幸福の科学』の名刺を持つ弁護士2人だった。同ホテルの一室で、清水の口から衝撃の言葉が発せられた。「“仕事を辞めて出家します。『幸福の科学』のために働きたい”と話したそうです。続けて弁護士が“事務所との契約を終了したい”と告げたそうです。マネジャーはどのような宗教を信じても、出家しても構わないが、仕事は辞めなくてもいいだろう、宗教と仕事を両立する方法はないのかと提案したそうです。でも、弁護士は“両立はできない”と言い切りました」(前出・芸能関係者) 同時に弁護士は、契約に関する一切の内容に関して、清水本人と交渉しないよう注文したという。「そのマネジャーは、ブレーク前から清水さんを親身になって支えてきた存在でした。最後に清水さんに“これまでの努力や、トップ女優になるという夢はウソだったの?”と問いかけた。すると清水さんは“ウソじゃない…。だけど、それよりも大切なものができた”と涙を流したそうです」(前出・芸能関係者) 関係者によると、翌日以降も、清水は普段の様子で仕事現場に姿を現し、屈託のない笑顔を見せていたという。2月3日には前述の『守護霊インタビュー』がまとめられた本が出版された。そして、6日に仕事をこなした後、一切の連絡がつかなくなったという。予定されていた仕事は体調不良やインフルエンザなどを理由にキャンセル。実際には、事務所は清水がどこで何をしているかも把握できない状態だったという。「事務所側は“すでに入っている仕事はしっかりとやってもらい、新しい仕事は入れない”というソフトランディングの方法を模索していたそうです。ですが、2月12日、『幸福の科学』が急きょ会見を開いたことでその道も絶たれてしまった」(前出・芸能関係者)関連記事■ 幸福の科学 清水富美加の5万円は「月給」、年収は把握せず■ 石田純一が明かす、元妻・松原千明「死にたい」発言の真相■ 名門女子中進学の芦田愛菜 中高6年は休業状態か■ トランプ氏の守護霊インタビュー動画「OK, OK. Not so bad」■ 久松郁実 太陽の下で輝くFカップ絶景ボディ

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    芸能界と新興宗教のただならぬ関係

    iRONNAでは前回、新年最初のテーマで「人はなぜ宗教に狂うのか」をお届けした。宗教と信仰の関係性を総論的に読み解き、宗教にすがる人間の本質に迫るのが最大の狙いだった。そして、シリーズ第二弾は芸能界と新興宗教。なぜ芸能人は深みにハマりやすいのか。その理由と背景に焦点を当ててみる。

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    「現世利益」を求める芸能界と新宗教の持ちつ持たれつの関係性

    ル/ローグ・ネイション」のワールドプレミア会場に現れたトム・クルーズ(ロイター) これまでも芸能人と宗教の関係はしばしばメディアに取り上げられてきた。戦後日本において主として取り上げられてきた教団は、創価学会、真如苑、霊友会、統一教会(家庭連合)、幸福の科学、モルモン教などである。 むろん芸能人の中には、伝統宗教の信仰を有する者もいると考えられるが、それらは社会的な関心がほぼ寄せられない。『新宗教事典』(弘文堂)は、マスコミが新宗教に関心を寄せる理由として、その社会的影響力の大きさと「事件性」の二つを挙げ、「マスコミが新宗教に抱く興味のあり方は、けっして宗教文化への関心といったような類のものではない。実態が不明瞭な集団に対する覗き趣味的な関心とでもいったものが主流を占める」と述べているが、芸能人と宗教の関係に寄せられる人々の関心には、確かにこうした傾向が認められる。 一方、事件や社会的問題にかかわる出来事が生じ、それに宗教が関係する場合、メディアが関心を寄せることは自然なことである。教団の側が芸能人を「広告塔」として積極的に利用する場合もある。 新宗教と有名人(広義の芸能人)との関係が戦後初めて取り上げられたのは、璽宇と元横綱の双葉山、名人棋士(囲碁)の呉清源の関係であるが、その契機は1946年に璽宇が東京の破滅予言をしたことによる。 1991年には講談社『フライデー』に対する幸福の科学の大規模な抗議運動(フライデー事件)が生じ、同教団と作家の影山民夫、女優の小川知子の関係が取り上げられた。1992年には、統一教会の合同結婚式に、歌手の桜田淳子、元新体操選手の山崎浩子、元バドミントン選手の徳田敦子が参加したことが話題となった。 オウム真理教の坂本堤弁護士一家「失踪」事件以降の疑惑報道においては、歌手の鹿島とも子が1994年に「芸能界引退・オウム出家」記者会見を開いたことが社会の注目を集めている。 このような状況に際して、しばしば「なぜ芸能人が(新)宗教にハマるのか?」というテーマが語られるが、芸能人がそうでない人々と比べ(新)宗教にハマりやすい傾向があるということは学術的には裏付けられていない。 一般的に、新宗教への入信の動機は、古くは「貧・病・争」(貧困・病気・人間関係のトラブル)のような剥奪状況で説明され、オイルショック期以降においてはそれに近代物質文明・合理主義に対する反発や「自分探し」のような説明も加わる。ファンと芸能人は信仰関係の一種 芸能人もそうでない人と同様、社会に生きる人間であることに変わりはなく、個人の状況によって新宗教に心惹かれ、入信する者もいれば、そうでない者もいるであろう。以上はいわゆる一世信者としての入信に関することであるが、新宗教の中には成立後一定以上の時間を経過している教団も多く、生まれたときからの信者(二世)が芸能人となることもある。つまり、芸能人が新宗教にハマるという状況を、そうでない人のケースと分けて考えられるか否か自体、明らかとは言えない。 それを前提に、あえて芸能人が新宗教に入信する、そうでない人とは異なる特殊要因を仮説的に考えてみるならば、まず芸能界での実力や成功は人気や運というつかみどころのないものに影響される部分が大きいと考えられており、成功に至る方法論・手続き論がその他の職業に比して不明瞭であることがあげられよう。 演技力や歌唱力やルックスが良いからと言って、売れるわけではないのが芸能界である。新宗教の特徴の一つは現世利益の強調であり、「どうすれば成功するのかわからない」状況にいる芸能人に対して、信仰に励めばよい結果が出るという新宗教の提示するオルタナティブな方法論が魅力的に映ることはありうる。 また、当該新宗教がすでに大きな規模を有している場合、新宗教共同体のネットワークが、芸能人をサポートできるファン層や芸能界内のツテ・コネを提供する世俗的ネットワークとなり得ることも芸能人と新宗教を接近させる要因の一つと考えられる。 以上のような仮説が一定の説明として成り立つことは、逆に、「あの芸能人がなぜ売れたのだ」という問いに対して、○○の信者だからだ、という説明が(実態はともかく)一定の説得力を持つことを同時に意味する。 アイドルという言葉がもともと「偶像」「崇拝される人や物」という意味を持つように、ファンと芸能人の関係は、信仰関係の一種ともいえる。芸能人はメディアを通じて我々の日常に近しくかかわりつつ、一方でその人物のすべてがわれわれに晒されることはなく、常に秘密を孕む存在である。近しくかかわりながら秘密を有する存在について、もっと詳しく知りたいと思うことは、人間の本能であろう。 そして本能によってもたらされる知りたいという人々の欲求に答えることは、メディアの本性である。インターネットの発達によって、マスメディアに依らない芸能人に関する情報が流通しやすくなった状況もある。 個人の信仰は基本的にプライバシーの領域に含まれるが、芸能人という存在は自らの公開性を飯のタネにすることによって成り立っているため、プライバシーの境界についての取り扱いが難しい。一般人の信仰が事件とのかかわりでもない限りほとんど社会的関心を呼ばないことに対して、芸能人の信仰が「事件性」とのかかわりがなくても人々の関心を呼び続けるのは、このような理由によるのである。

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    プリンスもMJも救いを求めた新宗教はいずれ「消滅」する

    島田裕巳(宗教学者) 芸能人が新宗教に多く入っているというのは、よく聞かれる話である。インターネットを検索してみると、そのリストを掲げているようなものもある。 これは、何も日本にだけ限られた現象ではなく、アメリカでも見られることである。 たとえば、2016年4月に急死したカリスマ的なロック・ミュージシャンであるプリンスの場合には、「エホバの証人」の信者になっていた。エホバの証人は、「ものみの塔」とも呼ばれるが、家庭を廻って伝道活動を行うことで知られている。2015年11月、音楽賞「アメリカン・ミュージック・アワード」の式典に参加したプリンス(AP=共同) プリンスは、鎮痛剤であるフェンタニルの過剰投与によって中毒死したという検視報告書が出されているが、彼は深刻な股関節の疾患を抱えていたとされる。ところが、エホバの証人では、よく知られているように、輸血を禁じているため、プリンスは鎮痛剤に頼らざるを得なかったのである。 ほかに、エホバの証人であったミュージシャンとしては、マイケル・ジャクソンのことがよく知られている。彼は途中で教団を離れるが、それ以前には、顔を隠して布教活動にあたっていた。 他に、SF作家であるL・ロン・ハバードが創始した「サイエントロジー」には、ハリウッド・スターのトム・クルーズやジョン・トラボルタが信者になっているとされる。 ただ、アメリカは、最近になって衰退の兆しも見えているが、一般的なキリスト教の信仰が広まっており、キリスト教の信仰をもつ芸能人は無数に存在する。ミュージシャンの場合には、神について歌うことも少なくない。 ロックの世界でも、神について歌うミュージシャンが少なくない。代表的なのは、ロックンロールの開拓者、エルビス・プレスリーで、彼は、ゴスペル・ソングをこよなく愛していた。エルビスは3度グラミー賞を獲得しているものの、すべてゴスペル部門においてである。売れっ子でも宗教に救いを求める理由 ロック・ミュージシャンの場合には、子どもの頃に音楽の才能を示すと、教会の聖歌隊やオルガン弾きにスカウトされ、そこでゴスペルに浸る。 後に、ヒット曲を飛ばして、スターにのし上がると、世界的にも有名になり、巨額の富を手にすることができるが、その地位を保つことは難しく、精神的に不安定になって、アルコールや薬物に依存することが多くなる。2006年11月、来日公演で華麗なギターテクニックを見せるエリック・クラプトン=大阪城ホール(河田一成撮影) そのとき、依存症から立ち直るきっかけを与えるのがキリスト教の信仰で、自らの罪深さを自覚することで、神の存在を改めて自覚し、子どもの頃に親しんだゴスペルの世界に回帰していく。 それが、一つのパターンになっており、一例をあげれば、演劇的なステージを展開するアリス・クーパーや、一時、「ディスコ・クイーン」として名を馳せたドナ・サマーなどが、このパターンをたどった。イギリスのミュージシャンだが、エリック・クラプトンも、その道をたどった。 さしずめ、覚醒剤の使用容疑で逮捕されたASKAが、日本ではなくアメリカで生まれていれば、この道をたどることで、薬物依存から立ち直ることができるかもしれない。 日本の場合には、キリスト教が社会的に広まっていないため、神のことを歌うミュージシャンはいないが、アメリカでは、「クリスチャン・ロック」が一つの分野として確立されている。 日本の芸能人が、宗教に救いを求めようとするのは、やはり、その立場が不安定だからである。今は売れっ子でも、いつか人気を失い、仕事もなくなるかもしれない。売れっ子になって、一度いい目にあっていれば、かえって不安は増大していく。 しかも、日本の場合には、組織社会であり、多くの人たちがなんらかの組織に所属し、そこに、経済的な基盤を求めるだけではなく、心の拠り所を求めている。 ところが、芸能人には、この組織が存在しない。芸能事務所は、マネジメントを担ってくれるだけで、通常の組織とは異なる。芸能事務所は、なんとか仕事をとってこようとするが、それも、その芸能人に売る価値がある間のことで、それを失ってしまえば、積極的には仕事を開拓してはくれなくなる。創価学会に「隠れ信者」は存在しない 戦後、日本で新宗教が爆発的に伸びたのは、高度経済成長によって、地方から都市部への大規模な人口の移動が起こり、都市部には、地方にはあった人間関係のネットワークを外れた人間が大量に生まれたからである。そうした人間たちを、新宗教は組織の力で救ったのである。 現在の企業は大きく変容し、非正規雇用も増えてきたが、昔は、終身雇用、年功序列を基本とする「日本的経営」が特徴で、社員の冠婚葬祭までもになっていた。つまり、企業は一つの「村」だったわけである。 地方の村から出てきた人間が、企業という村に組み込まれれば、安心感を得ることができたが、芸能人にはその村がなかった。そこで、新宗教に村を求めたのである。 ただ、最近ではたいぶ様相が変わってきている。 たしかに、今でも新宗教に入っている芸能人はいるし、創価学会に所属するタレントが多く出演しているテレビ番組などもある。 だが、最近では、新宗教に入っている芸能人のリストなども更新されなくなったし、若い芸能人が入信しているという話も聞かなくなった。 それは隠れているだけだと言う人もいるかもしれないが、たとえば、創価学会の場合、支部の集まりなどに出て公然とした活動を展開しなければ、入信している意味がなく、周囲の信者からも仲間とは見なされない。「隠れ信者」など存在しないのだ。 そこには、私が『宗教消滅』(SB新書)でも指摘したように、新宗教の全般的な衰退という事態が関係している。新宗教の教団は軒並み信者数を減らし、この20年間で半減しているところが少なくない。 創価学会にしても、高齢化が進んでいるし、若い会員は年配の会員に比べて、熱心には活動しない傾向がある。 唯一、新宗教のなかで伸びているのは真如苑だが、ここは、組織としての活動が弱く、従来の新宗教と同列に扱うことができない。 その点で、芸能人も、現在では宗教にすがらなくなっていると言えよう。新宗教は組織活動の場を提供することで、心の拠り所となってきたが、現代の人間は、組織活動を嫌う。芸能人なら、なおさらその傾向が強い。新宗教の時代は、基本的に終焉に向かっているのである。

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    「おまえの生き方が悪い!」ストイックな教義に芸能人がハマる理由

    に直結しないということにおいて、常に不安と二人三脚でもあるということだ。芸能人やミュージシャンが新興宗教や自己啓発セミナーなどにハマり、世間の耳目を集めたりするのは、彼らが置かれた立場を考えれば理解できる。 これまでのそうした経験を踏まえ、以下、私の「体験的新興宗教論」である。新興宗教の定義はさまざまあり、真摯に活動している教団も少なくないが、私が論じる新興宗教とは、「神・仏・霊」を引き合いにする「カルト的・ビジネス的教団」の総称であることをお断りしておく。 まず、いかにして信者を獲得するか。心理術から見た事例からご紹介しよう。 東日本某県の仏教系霊能教団で、こんな光景を目にした。線香の匂いが立ちこめる薄暗い一室で、中年女性が男性教祖に切々と夫の浮気について悩みを訴えていたときのことだ。黙って聞いていた教祖がスーッと腕をかざしたかと思うと、女性をピタリと指さして、「その肩に水子が二体!」凛とした声に、女性がハッと息を呑む。図星だったのだろう。すがりつくような目で、相談者が教祖を見た。 この教祖は相談者が女性の場合、「水子が二体!」をやる。外れたら相談者はあきれて二度と来ないが、もし当たったら虜になる。ズバリと言い切るのがポイントで、繰り返していれば何人かは当たる。その上で「供養すれば、あなたは救われる」と展開していくのだ。 あるいは、都内の神道系新興教団でのことだ。子供の病気相談に来た女性に、初老の女性教祖は神前に手を合わせてから、厳かに告げる。「5代前のご先祖が、不成仏霊になってさまよっています」 相談者の顔に安堵の色が浮かんだ。 ポイントは、病気の原因は「不成仏霊」であって、「あなたは悪くない」にある。「これに相談者は救われるんです」――とは、元広告代理店で働いていたという教団の参謀役の弁である。 ブラジルはカソリック大国として知られるが、ここに進出した新興教団は「よりよいカソリック教徒になるために」という〝大義〟を掲げて布教した――と、現地に赴いた私に旧知のメディア幹部はあきれてみせた。「ここまでやるか」ではなく、ここまでやるからビジネスとして成立するということになる。 このほか、「おまえの生き方が悪い!」と罵倒する教祖もいる。〝ストイックな教義〟で精神的に追い込むため、信者を「落とす」(退会)ことが少なくないが、ハマれば熱烈な信者になる。不確かな不安の正体 一方、新興宗教にのめり込む側はどうか。 「明日は不確かなものである」という〝人生の真理〟を生きる私たちは、常に不安がつきまとう。雇用をめぐる諸問題から子育て、年金、健康……等々、不安だらけだが、その正体をつきつめていけば、「明日」という不確かな近未来に対する漠然とした不安であることがわかる。だが、どんな苦しみも、「一年後に解放される」とわかっていれば何とか耐えることができる。すなわち、苦しみの正体は「現在の苦」にあるのではなく、「この苦しみがいつまで続くのか」という「不確かな明日」にあるのだ。 不安から逃れる方法の一つは「努力」だ。スポーツ選手は練習に練習を重ね、「これほど苦しい練習をしてきたのだ」と自分に言い聞かせることで不安をねじ伏せようとする。ルーチンという儀式を通じて、気持ちを平静に保とうとする選手もいる。ビジネスパーソンであれば、努力してスキルを磨き、上司との人間関係に心を砕くだろう。 苦しいのは芸能人だ。「一夜明ければシンデレラ」という僥倖に恵まれるということは、スポーツ選手やビジネスパーソンのように、目標に向かって階段をよじ登っていくような努力が通じにくいということでもある。暖簾に拳を打ち込むようなもので、努力が実感を伴う成果としてハネ返ってこない。スターになれたとしても、人気という不確かなものに支えられている以上、不安から解放されることはない。 週刊誌記者時代、有名力士と女性人気歌手の対談を私が担当したとき、歌手はこんなことを言った。「お相撲さんはいいですね。稽古して強くなれば勝てるんですから。芸能界はそうじゃない。努力したからといって勝てる世界じゃないんです。それが苦しい」 だから芸能人は新興宗教に走る――と言えば短絡に過ぎるが、不安を努力で打ち消すことができない立場や状況に置かれれば、神・仏・霊といった新興宗教に救いを求めたくなる気持ちは理解できるだろう。すなわち、芸能人が抱えるであろう不安は、私たちが苛まれる不安の象徴であると、私自身は捉えている。 いま韓国は「崔順実スキャンダル」に揺れている。母親を狙撃事件で亡くした傷心の朴槿恵に、崔順実の父・崔太敏が「私の霊的能力を通じて母親に会うことができる」と言って篭絡したと伝えられる。「人の心の弱さ」は、一国の大統領も、芸能人も、そしてこの私たちも等しく抱えるものであることに、あらためて気づかされる。 明日に不安を感じ、新興宗教の〝救い〟に気持ちが動いたとき、「心の弱さを、わが身に問いなさい」と私は説法で言う。心の弱さを認めることこそ、心を強くする唯一の方法であると、逆説的に考えるのだ。

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    山本リンダ、久本雅美らが大幹部 創価学会芸術部の存在意義

    仰体験を語り、学会理解の輪を大きく広げている〉と、彼らが学会内部で果たす役割について触れている。  宗教学者の島田裕巳氏は、タレント学会員を「内向きの存在」とみる。「かつては芸能人信者を教勢拡大のための“広告塔”と見る向きがあったが、現在ではあまりそうした効果はない。創価学会に限らず、新宗教はどこでも信者数が伸び悩んでいる。 そうした中で、学会のタレント信者はむしろ、身内の学会員を激励する役割を果たしている。たとえば学会のプロスポーツ選手が活躍すれば、聖教新聞などで大きく取り上げられる。仲間の活躍は学会員にとって誇らしいこと。一般の学会員を勇気づけるだろう。組織全体が内向きになっていると見たほうがいい」(島田氏)※SAPIO2015年1月号■ 参道・鳥居の“真ん中”は神様の通る道なので歩いてはダメ■ 金沢の「トイレの神様人形」 良縁にご利益あると女性に人気■ 関ジャニ∞ 丸山は嘘つきの神、安田はトイレの神様との談■ 母娘確執を乗り超えた 松田聖子、辺見えみり、泰葉のいま■ 植村花菜 「祖母との思い出」が名曲『トイレの神様』を生んだ

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    ベッキーは「無宗教」だから図太い? 干される恐怖と芸能人の信仰心

    半年ほど前、以前から取材者として何度も顔を合わせている女性タレントと食事する機会があった。彼女は新興宗教団体の信者ながら世間ではそのことがほとんど知られていないため、思いきってその話題を出してみた。 「あ、知っていましたか…この仕事をしてなかったら隠すこともないんですけど…」と答えた彼女が何を信じようがそれは自由だが、その宗教団体は「良いことが起きるのは信仰のおかげで、悪いことが起きるのは信仰が足りなかったせい」というような教義を説いており、意地悪な見方をすれば都合の良い後付けの論理とも思えるため、その見解を聞いてみた。 「いやいや片岡さん、理屈じゃなくて体験が先なんですよ。ここ触れた直後にすごい体験をしたんです」と彼女。それが具体的に何かは教えてもらえなかったが、「理屈じゃなく」と言うのは、なぜその「すごい体験」が起こったかは考えない思考停止という風にも見える。 事実、この女性タレントは宗教の歴史はおろか、神社と寺の区別もついていないような人で、キリスト教や仏教の基本的なことも何も知らなかった。選択の余地なく入信しているわけだが、「他の宗教行事に参加してはいけない」とされている教義に反して他宗派の神社に初詣に行くなど矛盾もある。「信者がいい人たちばかりなの!」と目を輝かす彼女の宗教活動は信仰というよりサークルのようなものにも見えた。 ただ、彼女が特別におかしな感覚だとも思わない。過去、国内の新興宗教を多数取材してきたが、多くの信者は彼女同様、宗教に無知だった。仏教系の団体に属して多額の寄付までしているのに、大乗仏教と上座部仏教の違いも知らなかったりした。本来であれば宗教団体こそが活動の中でそういったものを学ばせるべきではないかと思うが、信者を広く募集する団体の多くはそれ自体が目的であるため、奇跡体験とか信仰の効果ばかりを伝える。これが日本の宗教に対する不信を生み、世間では「宗教活動をしている」というだけで異様な目で見られる。 しかし、世界で見れば人類の約3割はキリスト教信者で、2割ほどがイスラム教、ヒンドゥー教や仏教、その他の宗教を合わせた信仰人口は9割近いとされる。海外に出ても宗教の色を感じずに出歩くことはまず不可能で、世界遺産の建造物から紛争の原因に至るまで宗教は人類に根付いている。 日本では団体側の申告数を鵜呑みにすると信者が2億人を超えてしまうので信者数を誇張しているのが一目瞭然だが、体感的には「私は信者です」と名乗って過ごす人は1割以下だろう。世論調査でも約8割の人が「宗教を信じていない」と回答しているほど。一方、「私は無宗教です」と言いながら、初詣など参拝もするし祭りも参加、お守りを買うという習慣的な宗教行事をしていて、神仏混合の歴史もある日本の特殊な宗教環境があるといえる。 全国各地で山とか海、古木や太陽や海産物や建築物にまで「神様がいる」という言い伝えがあったり、八百万の神なんて伝説もあるから、次々に登場する新興宗教もまた、七福神の仲間に加える程度の感覚があるのかもしれない。そのあたり筆者は宗教の専門学者ではないから正しい学説は専門家に任せるが、宗教観に緩い国民性に付け込んでいるのが一部の新興宗教団体であるのは間違いなく、巨額の霊感商法やマインドコントロールで信者を散財させるカルト団体も少なくない。その反発で国民の間には宗教そのものへの嫌悪感があるのも事実だ。 本来、信仰は人々が苦難の人生を生きていく上で、その気を楽にするための方法論でもあり、何を信じようがそれで当人が健やかに過ごせるのなら良く、「神様なんていない」と思っていても、大ピンチに陥れば神頼みをしたくなるのが人間というもの。亡くなった大切な人が死後の世界から自分を見守ってくれているんじゃないか、と思う方が救われる。気の迷いから悪いことをしてしまったアメリカ人が教会に行って「神よ、お許しください」と懺悔するのも、実のところ罪悪感を薄めるための気休めであるように見える。 そんな視点から見れば、信仰心は悪質なカルト団体に付け入るスキを与えるほどに、心の弱さの克服や依存心でもあるわけだが、日本の芸能人にやたら信者が多いのは、彼らが弱いからなのだろうか。一見して芸能人は誰よりもド派手な舞台で煌びやかに振舞う勝ち組の象徴みたいな存在だ。そこそこ成功すれば一般的な勤め人ではとても手にできない大きな報酬を手にすることができる。一方、その立場の危うさに満ちているのが芸能界でもある。足を引っ張りあうから寄り添う仲間が欠かせない2016年10月、ラジオの生放送のためにTOKYO FMに入り、報道陣に一言あいさつするベッキー(蔵賢斗撮影) 日本の芸能界はもともと芸能プロが暴力団組織の直属にあった背景から、タレントが所属事務所との力関係で隷属的になっている。どんなに売れっ子でも、業界の有力者を敵にすればすぐに「干される」異様な世界。一般社会ではありえないような「業界追放」は、タレントたちをもっとも恐れさせるものだ。それは「売れている」のではなく「売れさせてもらっている」からでもある。 バラエティ番組の収録現場ではスタッフが身の回りの世話を焼いてくれ、送迎やヘアメイクまでケア、収録はおよそ非現実的な金ピカのステージに上げてもらいスター扱いしてくれる。筆者のような無名ジャーナリストでもテレビ出演時は丁重に扱われるのだから「こりゃ勘違いする人が増えるの当然だわ」と思ったりする。 しかし、そんなステージに上がっても実際には自分のスキルが急にアップしているなんてことはない。各ゲスト出演者は程よくコメントさせる司会者の手腕と、ディレクターが書いた台本に乗せられているだけである。その世界で確かな成功をするのは、チャンスを得た間に浮かれずスキルアップできた一部の人だけで、多くは大成功した錯覚に陥って浮かれてしまい、次の瞬間にはお役目終了となっている。その浮き沈みの激しさを体感すれば戸惑いを持たない方がおかしい。 一般社会でなら「ひとりでも営業をこなせるようになったぞ」とか「やっと一人前の仕事がこなせるようになった私」とか、仕事で身に着けたスキルの成果を自覚できるが、芸能人の場合はその目安を把握するのが難しく、ピコ太郎のように急に世界的スターになったタレントも、自分の実力と評価のアンバランスさに驚いている。こんな世界でまったく病みもせず続けられる人は、相当に図太い神経の持ち主。世間に犯罪者のごとくバッシングを受けてもメディアの前にニコニコ顔で出てこられるベッキーのような人種は、むしろ信仰なんぞ不必要な話で、実際に彼女は過去、無宗教を公言していた。 梅沢富美男は先日、情報番組で「芸能界に友達なんていない。みんな足を引っ張りあってますから。人を蹴落としてでも自分が出るのが芸能界」と言い切っていたが、そのとおりだ。番組内で和気あいあいやっているのはあくまで収録時だけ。終わった途端、軽い会釈だけしてスタジオからさっさと消えていくタレントの方が圧倒多数だ。 そんなわけで、宗教に依存するタレントたちを怪訝な目で見る人も多いだろうが、そのタレントたちはむしろ我々一般人に近い心の弱さを持っている人々といえる。おそらくは宗教にもさほど詳しくはないはず。組織に属さなくても信仰はできるところ団体活動をしているのは、寄り添う仲間が欠かせない弱者的スタンスがあるといえるかもしれない。

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    辺見マリが騙された「洗脳詐欺」 安心させる3つのテクニック

     「この中で、私は絶対に洗脳なんてされないと思っている人いる? その人はもう洗脳の入り口にいます。危険よ」──。9月14日放送の『しくじり先生』(テレビ朝日系)に出演した辺見マリ(64才)は、『あなたが洗脳されて人生を棒に振らない授業』というテーマに“先生役”として臨み、開口一番こう言い放った。 辺見が過去の「洗脳詐欺騒動」についてテレビで洗いざらいしゃべるのは、これが初めてのことだった。彼女が奪われた金は実に5億円。いまだに1円も戻ってきていないという。離婚会見をする辺見マリ=東京・赤坂・TBS 1969年に歌手としてデビューした辺見は1972年に西郷輝彦(68才)と結婚。長男と長女・えみり(38才)をもうけるも、1981年に離婚した。 慰謝料はなく仕事も激減するなか、周囲からの「辺見マリってもう古くない?」という声に落ち込み、精神不安が長く続いた。 そんな辺見にマネジャーがかけた言葉が彼女の人生を一変させた。「ぼくの知り合いで神様と話せる人がいるんですけど、会ってみませんか」。1988年、辺見が37才の時のことだった。 辺見が紹介されたのは、祈祷や霊視などで人の悩みを解決する「拝み屋」のKという女性だった。指定された都内ホテルに赴いた辺見を、Kは夫と子供と共に家族で出迎えたという。「Kは当時42才くらい。普通のおばさんでした。私は構えていました。壺を買わされる? お札を買わされる? でも、実際は違いました」この時、Kは神様のことは一切口に出さず、辺見の悩みや不安に黙って耳を傾けた。安心した辺見はKに頻繁に相談するようになっていった。感謝の気持ちとしてお金を渡そうとしても、Kは拒否し続けたという。・家族を帯同する・神様の話をしない・悩みを否定せず聞く これらはすべて相手を安心させるためのKのテクニックだったのだが、当時の辺見が見抜けるはずもなかった。 ある日、いつものように相談に訪れた辺見にKはいきなり「神様の声が聞こえました。娘さんの目が見えなくなりますよ」と言ったという。帰宅後、辺見がえみりの視力を測ると1.5から0.1に低下していた。他にも家族しか知らない話を次々と言いあてられた辺見は、徐々に「本当に神様の声が聞こえているのかもしれない」と思い込むようになった。 この時を境にKの金銭要求が始まった。「他ならぬ神様がお金を欲している」──。相談のたびに1万~2万円を払わされるようになり、いつしか要求される金額も跳ね上がっていった。「このままだと子供がグレる。10万円払えば救える」と言われれば、あっさり支払うほど心酔していた。日本脱カルト協会代表理事で、霊感商法に詳しい立正大学心理学部の西田公昭教授が語る。「家族のことを次々と当てていったのは、近い人物からあらかじめ情報を入手していたと考えられます。最初から彼女をだますつもりだったんでしょう。しっかり者で現実主義的な人ほど、予言の的中といった不思議な出来事に遭遇すると、普通の人以上に動揺し、一気にのめり込んでしまうんです」 辺見はいつしか100万円単位の金を渡すようになっていったという。※女性セブン2015年10月8日号■ 参道・鳥居の“真ん中”は神様の通る道なので歩いてはダメ■ 金沢の「トイレの神様人形」 良縁にご利益あると女性に人気■ 関ジャニ∞ 丸山は嘘つきの神、安田はトイレの神様との談■ 母娘確執を乗り超えた 松田聖子、辺見えみり、泰葉のいま■ 植村花菜 「祖母との思い出」が名曲『トイレの神様』を生んだ

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    人はなぜ宗教に狂うのか

    は元旦にあり。新年を迎えると、神社仏閣に参拝してその年の幸福を願うのは日本古来の習わしである。それは宗教が日本人の生活に深く根づいた表れとも言えるが、時に宗教は人を惑わせ、狂わせる。なぜ人は宗教にのめり込むのか。2017年、iRONNAはこのテーマと真正面から向き合う。

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    創価学会信者を虜にする池田大作の「話術」と支配力

    島田裕巳(宗教学者) 信仰をもたない一般の人間からすれば、なぜあれほど多くの信者が新宗教に引きつけられ、熱心に活動し、さらには多額の献金をするのか、それが理解できない。 そのために、新宗教の信者は「洗脳」されているのだという憶測も生まれる。新宗教の教団には、それまで信仰を持っていなかった人間を信者に変える特別なテクニックが存在しているというわけである。 そうした憶測が生まれるのは、一つには、外部の人間には新宗教の内側でどういったことが行われているのか、それが分からないからである。信者に勧誘されたときに、それに乗って、教団の本部でも訪れてみれば、その一端にふれることができるかもしれないが、なかなかその勇気は湧いてこない。 信者を引きつけるのは、なんといっても新宗教の開祖、教祖の「話術」である。 たとえば、日本最大の新宗教の教団、創価学会の池田大作氏の場合には、まだ元気で会員の前に姿をあらわしていた時代には、本部幹部会で講演するのが習わしになっていた。その様子は衛星中継され、会員はそれぞれの支部でそれを視聴した。そうした中継は、学会内部では「同報」と呼ばれる。2008年5月8日、創価学会の池田大作名誉会長(左)を迎える、中国の胡錦濤国家主席 私も、同報を見たことがあるが、1994年に見たときには、池田氏が発揮するカリスマ性にふれたように思った。 まず、池田氏は幹部会に途中から登場するのだが、そのとき、幹部会の空気も、それを見ている支部の会館の空気も一気に変わる。テンションが急に高まるのだ。 その上で、池田氏は話をはじめるが、まずは芸能人が多く加入している「芸術部」のメンバーをいじくる。 「歌いたいなら、歌いなさい」と、冗談めかして、いささか投げやりに促すと、芸術部のメンバーは喜々として歌い出す。 これによって緊張感は溶け、場の雰囲気が和む。池田氏は、その場の空気を支配しているのだ。 そして、話のなかで、人材は逆境や障害のなかでこそ生まれると言った後、突然、「創価学会には、一人もいない」と真顔で言い放った。 壇上の池田氏の横には、当時の秋谷会長をはじめ幹部が並んでいる。池田氏の発言は、そうした幹部であっても、決して有為な人材としては認められないと言っているようなものである。 こうした幹部批判は、いつもくり返されていることで、会長など相当激しく池田氏から批判されることがあったらしい。 要は、一般の会員に対する「ガス抜き」でもあるが、それは池田氏がいかに会員のこころをつかむ力を持っているかを示している。 あるいは、九州に善隣教(かつては善隣会)という中規模の新宗教がある。その初代教祖である力久辰斎とその息子で二代目を継いだ力久隆積氏については、かつてNHKがドキュメンタリー番組を制作している。「踊る宗教」女性教組の痛快な「歌説法」 この善隣教の講習会では、信者が教祖におすがりをして、病気が治ったことをその場で発表することがクライマックスになっている。その前後には教祖が講習会に集まった人間たちに教えを説くのだが、なかなかの名調子で、話の内容はとても分かりやすい。 善隣教の場合には、初代と二代目の教祖は、煉瓦を背負って歩き続けるとか、護摩を寝ずに焚き続けるといった厳しい修行を実践してきている。それが裏づけになり、信者は教祖の力に全幅の信頼を置いているのだ。 創価学会の池田氏の場合にも、大阪での参議院選挙の折には選挙違反で逮捕されたり、「言論出版妨害事件」の際には、世間からの厳しいバッシングを受けるなど、修羅場をくぐり抜けている。それが、幹部たちに厳しいことばを投げつけても、反目を買わない原因になっている。天照皇大神宮教の教祖、北村サヨ ほかにも、戦後「踊る宗教」として注目された天照皇大神宮教の北村サヨの場合には、男物の背広を着て、やはり浪花節調で「歌説法」なるものを延々とやった。これは、世相を厳しく批判するもので、戦後生活苦にあえいでいた庶民には痛快なものに響いた。 逆に、創価学会とはライバル関係にあった立正佼成会の庭野日敬の場合には、穏やかに教えを説き、その点で池田氏とは対照的だが、土地の売買をめぐって教団に批判的な報道を行った読売新聞を「菩薩」ととらえ、自分たちの戒めとしたところには、バッシングを逆に活用する巧みさが示されていた。 どの教祖にしても、常人には考えられないほど精力的である。池田氏は全国を、さらには全世界を駆け回り、会って話した会員のことはしっかりと記憶していたという。 北村サヨの場合にも、海外布教に出て行ったが、ハワイに着いたときには、着くやいなや波止場で歌説法をはじめた。 新宗教としては歴史の古い岡山の金光教の場合には、教祖は代々、365日、神殿で朝の3時半から信者の願い事を聞く「取次」を実践している。 新宗教の教祖になれば、金儲けができると思っている人も少なくないかもしれない。 だが、一度教祖になれば、365日24時間教祖でいなければならないわけで、自由は大幅に制限される。 すべてを教団のため、信者のために費やす。その覚悟がなければ、新宗教の教祖にはなれないし、話術で信者を魅了することもできないのである。

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    宗教団体の政治進出は何を「警戒」すべきか

    づく他国依存ではない外交戦略の構築が欠かせないだろう。 国内に目を転じれば、一昨年と昨年、塚田穂高『宗教と政治の転轍点』(花伝社)、青木理『日本会議の正体』(平凡社新書)、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)などの著作が相次いで刊行され、現内閣と日本会議との関係が耳目を集めている。 特に青木や菅野は日本会議の影響力の増大状況を民主主義の危機としてとらえている点で特徴的であるが、その主張は論理的に難があるようにも思われる。確かに日本会議の主張は反「戦後民主主義」的であるが、それが「地道な草の根運動」や民主制の回路を通じて拡大したとするならば、その状況も民主主義的にもたらされたものといえるからである。 もっとも、現政権の経済政策、家族・女性政策、外交政策、「移民」政策などを見る限り、日本会議的価値観の影響は限定的であるように思われるのだが。 鑑みれば、戦後の日本において、1955年の地方選と翌年の参院選創価学会の政治進出、1990年のオウム真理教の真理党の結成、2009年の幸福の科学による幸福実現党の結成などが社会的に注目を集めてきた。目指すところは政治も宗教も同じ 宗教団体の政治進出には、しばしば懐疑の目が向けられるが、自由民主主義社会の原理から言えば、どのような(宗教的理念に基づいた)政治的主張といえども、原則としてそれを主張する機会の平等は与えられるべき、ということになる。 仮に、ある信仰を有した者の政治参加(被選挙権)や、ある(宗教的理念に基づいた)政治的主張を政治から排除することを是とするならば、それは宗教(信仰)に基づく差別の肯定を意味するからである。集団参拝を終えた「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の尾辻秀久会長(中央手前)ら=東京・九段北 先進諸国の中で最も厳格な政教分離国とされるフランスにおいても、カトリックの国教化を主張する政党や、キリスト教民主主義政党は存在する。「政教分離国」とされるアメリカにおいても、いわゆる宗教右派の政治的影響力の強さは近年よく知られるようになってきている。 フランスに次いで厳格な政教分離を規定したと評される日本国憲法も、宗教団体の政治活動を禁じてはいないし、その下でクリスチャン首相も複数誕生している。 もっとも、自由民主的社会において宗教の政治進出が許容すべき前提であるとしても、社会がそれに対して無警戒でよいということではない。宗教集団は一般的に真理の独占を前提とし、そのドミナントストーリーの共有を拡大しようとする。それが独善性や排他性に連なっていることも珍しくない。 国家権力が、そのような独善的・排他的理念に基づいて行使される危険性は、自由民主的社会の観点から当然警戒されなければならない(日本国憲法は、宗教団体が国家権力を行使することは禁止している)。その警戒を、どの段階でいかなる手段で行っていくべきか。基本的に「思想言論の自由市場」にゆだねるべきか。  ここで念のため確認すべきは、独善的で排他的な理念に基づく権力行使に対する警戒は、宗教的なものに対してではなく、政治的な思想に対しても同様に必要である点である。イデオロギーを狭義に解すれば政治的思想を意味するが、広義に解すれば宗教的思想も包含する。民主主義を否定する自由を認めないという戦後ドイツの「戦う民主主義」が抱え込む自由と民主の相克というアポリアは身近なわれわれの問題である。 政治と宗教のかかわりは、一般に考えられているよりは深くて強い。アリストテレスは「人間はポリス的動物である」と定義したが、それは、人間は善く生きるために共同体をつくる本質的性格を有する存在という意味である。 政治も宗教も「われわれ」が「善く生きる」ための考え方をともに提示し、それへの同調・参加を求める点で共通する。そうである以上、両者は様々な局面で結びつき時に衝突する。政治と宗教のかかわりは、人間の本質的性格に根差す必然的なものなのである。

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    【独占インタビュー】謎多き宗教家、深見東州とは何者か

    深見東州(ワールドメイト代表) 宗教というのは暗くて地味なものではなく、特に神道は明るく、楽しい、面白いものだということを皆さんに知ってもらいたいんです。宗教が暗くて閉鎖的で反社会的というイメージは、本当の宗教を知らない無知な人の観念なんですよ。 我々の宗教法人「ワールドメイト」が各地の支部を「バッチバッチグー・千葉エリア本部」、「宇宙戦艦トヤマ支部」なんて名前にしたり、私自身がコスプレをやったり、至る所にギャグをちりばめているのも、暗い閉鎖的なイメージを払拭したいという強い思いが理由の一つです。日本ではこうした偏見が強い傾向がありますから、そのアンチテーゼなんですよ。「神道は明るく、楽しい、面白いものだということを知ってもらいたい」と語る深見東州氏 今日の宗教というのは国際的で、自由経済の一端を担い、民主的なものになってきています。こうした宗教がこれからの時代の宗教なんですよということを少しずつでも知ってもらうために、時間をかけてさまざまな活動をしてきました。 例えばビジネス。予備校運営は38年、高級時計の輸入販売も36年、今、オーストラリアの観光会社、ヨットのマリーナと牧場も持っています。さらに、イギリスにホテルと観光会社もありますよ。日本にももちろん観光会社と出版社、ファーマシーと公益財団などがあり、計13社ぐらいの社長をしています。 それゆえにビジネスの範囲は限りなく広がり、国際的な活動も何でもできる基盤ができた。カンボジアには大学も作りましたからね。さらに、テレビ局とラジオ局を持っています。病院もあります。そういう基盤っていうのは日本人の誰もができるわけではないからこそ、宗教的世界の日本代表としてやれているわけです。 では、なぜビジネスに取り組むかというと、その時代、時代の優れた宗教者は人々と共に生き、その苦しみや悲しみを共有してその中から救済の法を説きました。現代は、武家社会の鎌倉時代でもなく、貴族社会の平安時代でもありません。労働者の8割がサラリーマン、OLの時代だからこそ、自らビジネスの世界に身を置くわけです。無論、これは歴代の宗祖たちと同じように、天啓によって行っているのです。 そうすることで金銭の尊さを日々実感しているんです。ビジネス社会で、人々が何を大切にし、何に苦しんでるのか。それを、いつも肌で感じるからこそ、多くの著作に説得力を持たせ、人々に共感してもらえるのではないでしょうか。宗教とビジネスは矛盾するものではない宗教とビジネスは矛盾するものではない 時代は変わり、社会は変わっても、人々と同じ立場に身を置き、痛みを実感し、 説く教えの大切さは変わりません。そして、時代を反映すると同時に、時代を超えた普遍性があるのが、本当の宗教者であり、そこから生まれる教えが、本当に生きた教えだと思っています。 とはいえ、 これらのビジネスを信仰と混同することはありません。ワールドメイトが予備校を布教に使うこともない。それは「聖と俗を区別して共存させる」という、神道古来の特質に由来しているからです。宗教とビジネスについて語る深見氏 著名なカリスマ経営者は普遍的な神仏への信仰を持ち、ビジネスと区別して共存させているじゃないですか。出光興産創業者の出光佐三氏は宗像大社の熱心な崇敬者です。 西武グループ創始者の堤康次郎氏は箱根神社の熱心な崇敬者。「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助氏は会社の敷地内に「根源の社」を建立し、 自身は辮天宗の総代も務めていましたよ。東芝の社長・会長を歴任した土光敏夫氏は、熱心な法華経崇敬者でした。 また、京セラ創業者の稲盛和夫氏や、協和発酵の創業者である加藤絣三郎氏、エスエス製薬の創業者の泰道照山氏も、熱心な仏教者ですね。特に泰道照山は、 天台宗の僧侶で、出家得度した人物として知られます。そして「Canon」(キャノン)が「観音」から来てることは、あまりにも有名でしょう。角川書店の社長だった角川春樹氏は、群馬に宗教法人「明日香宮」を創設した教祖で、宮司でありながら、角川書店の社長もしていた。 どの経営者も、信仰を自身の拠り所としつつ、信仰と経営を混同させず、はっきり区別して共存させたのです。これらは、聖と俗を区別して共存させる好例なんです。ですから、宗教とビジネスは矛盾するものではありません。 また、こうした活動をすることによって、さまざまな雑誌などのメディアに取り上げられるようになり、私がやっていることを知る人が多くなったのは良いことだと思っているんです。雑誌や本を見て我々のワールドメイトに入りたいという人はそれでいいし、嫌だと思う人は他の宗教に行けばいい。 ワールドメイトは、神道がベースです。神道の思想は、神社を見れば分かりますが、「来る者拒まず、去る者追わず」で、本来強制がない。だから、ワールドメイトも神道の伝統に則り、社会性を大切にするわけです。ワールドメイトに合う人だけ来ればいい信仰がないよりはある方がベター  「新日本宗教団体連合会」(新宗連)というのがあって、アンチ創価学会でつくった立正佼成会が中心となった新興宗教の集まりがあります。現在60団体ぐらいが加盟している。その新宗連には4つの柱があります。 一つは政教分離。これは創価学会へのアンチテーゼで、宗教と政治を分離すると憲法にありますから。それから信教の自由。あとは宗教協力。宗教団体が協力して世界平和を実現しなければならない。もちろんWCRP(世界宗教者平和会議)もそうなんです。WCRPは、現在「Religions for Peace」に名称変更してますが。最後は、「国民皆信仰」という考え方です。「ワールドメイトがいいなと思う人だけ来ればいい」と語る深見氏 その国民皆信仰という概念が、新宗連の4番目の柱ですが、我々も国民皆信仰に賛同しています。どんな考え方かというと、一つの宗教団体がすべての人を賄うことはできないということなんです。日本人といってもたくさんいますから、一つの宗教団体が、すべての日本国民を変えることはできないと考えるのです。 ならば、どこかの宗教団体に入って、それが嫌ならどこか別の宗教団体に移ればいい。要は自分に合うところに行けばいい。無神論で信仰を持たないよりは、どこか信仰を持っていた方が、信仰がないよりはベターだという考え方、これが国民皆信仰です。信仰がまったくない人間よりも信仰がある人間の方が、孤独とか不安に強くなり、安心立命が得られる。つまり、最終的に自分の力で自分を救っていく力があるわけです。それが、宗教の持つ社会的役割でしょう。 ワールドメイトもそうなんです。だから、はっきりと宗教団体としてのカラーを打ち出して、それでいいなという人が来てくれたらいいわけです。どの道、カラーに合わない人は辞めますから。入退会は自由、強制もしない。 もちろん、暗くて閉鎖的でまじめな宗教がいいという人は、そういうところへいけばいい。日本だけでもたくさん宗教団体があるので、創価学会へ行ってもいいし、立正佼成会に行ってもいい。ワールドメイトだけで全てのニーズは賄いきれませんから。だから、ワールドメイトに合う人だけ来ればいいし、嫌なら辞めたらいいんです。 この考え方は運営している予備校「みすず学苑」も同じ精神です。はっきり言うと、合う人だけ来たらいい。予備校は予備校らしくあらねばならないという人は、そういう予備校に行けばいいわけなんです。新興宗教は閉鎖的?だからこそ逆を行く新興宗教は閉鎖的?だからこそ逆を行く 新宗連の4本目の柱の「国民皆信仰」という概念は、非常に重要だと感じています。それが、今の新しいこの時代の宗教性だと思っているからです。私は新新宗教の御三家と言われたんです。それはワールドメイトの私と大川隆法氏、オウム真理教の麻原彰晃氏です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原彰晃と深見東州は平成の宗教改革者だと言っています。 ただし、「あまり社会の軋礫を恐れすぎたら伸びないですよ」っていうような ことを、皮肉っぽく書かれています。でも、まあおっしゃった通りになりましたよ。かたや死刑囚、かたやこのように世間の軋礫を恐れず、明るく楽しくやる神道ですから。島田氏はそれだけ宗教のことを研究しているので、島田氏にいくら言われても全然うれしいですね。宗教のことをよく知っている人ですからね。 オウム事件なんかがあって、特に新興宗教は先ほども触れたように、閉鎖的で排他的で怪しいというイメージが先行しているんです。テレビなんかは宗教団体が撮影してはダメだとかいうところを、意図的に撮ろうとして怪しい雰囲気を醸し出すものです。 だからこそ、我々ワールドメイトはその逆を行くんです。テレビが来たら、もう何でも取材してもらう。どうぞどうぞって。フレンドリーで明るくて、そんな場面ばっかりだったら、面白くないからテレビは放映しないんです。 ワールドメイトも、かつて「ビジネスと宗教が一緒になってるのではないか」と疑われて、マルサが来たこともありました。でも、結局何の問題もなかったことが証明され、かえって私たちの活動の正しさを知らしめることができたんです。反社会的でも閉鎖的でもなく、要は叩かれようがないんです。元は神道、生業と家とコミュニティーを繁栄させる精神や教えですからね。マルサの強制捜査を受け、七福神のコスプレで記者会見を行う深見氏(左から3人目)ら=平成6年10月8日 時代を超えた、普遍的な宗教性を貫くことは、旧態依然とした活動を続けることではありません。社会が変容してる以上、その時代の、社会に即した救済方法が必要だと思っています。それは、旧時代から見れば、異端や革新的に見えるものです。  やはり、強調したいのは普遍的宗教性ですね。これがないものは、やっぱり閉鎖的になりがちです。宗教の殻に閉じこもっているわけですから。宗教は神の一部なのに、宗教家が一番神の事を知っていると思う傲慢さがある。 宗教宗教にしかできない役割と働きがあります。しかし、「美」の要素の芸術も、神の一部だし、「真」である科学も神の一局面ですね。経営も社会科学ですからね。そして、「善」は宗教そのものであり、教育や福祉、スポーツもそうです。それだから、「真・善・美」を全部やってるわけです。真善美を全部やって、初めて神を正しく受け取れるし、神を正しく実行できると思っているんです。 だからこそ、私は宗教やビジネスだけでなく、作詞や作曲、文芸全般、絵画、オペラ、ジャズ、ロック、能楽、京劇、パントマイム、演劇など、あらゆる芸術文化に積極的に取り組んでるわけです。感性の極みである芸術が、最も神に近いと思うからです。信者じゃない人から敬われてこそ本当の宗教家信者じゃない人から敬われてこそ本当の宗教家 宗教団体というのは、そこの宗教に入っている人にとっては、派手な着物を着たおばさんの教祖なんかに額衝(ぬかず)くでしょ。外から見たら、このおばさん何を言ってんだってことにしかならない。重要なのは、その宗教の信者じゃない人からも、敬われるのが本物だということです。 お釈迦様って別に仏教徒じゃなくても、皆尊敬するでしょ。イエス・キリストもクリスチャンじゃなくても尊敬する。マホメットも、マホメットの価値はイスラム教徒でなくても認めますよね。孔子とか老子とかも、別に儒者や道教の信奉者でなくても学びますよね。 信者じゃなくても尊敬するし、生きるヒントにするわけです。それが、やっぱり普遍的な本当の宗教性を持ってる人と言えます。だから、その信者は敬うけども、信者じゃない人からは変な目で見られ、全く相手にされないっていうのはダメなんですよ。  信者からも敬われ、信者じゃない人からも敬われてこそ、本当の宗教家だと思うわけです。要するに、普遍性が大切なのです。真理とは何かと考えたら、いろいろと定義はあるでしょうが、普遍性というふうに置き換えられると思っています。 だからこそ、ワールドメイトの活動は、どこよりも斬新で現代的である一方で、その中には宗派や宗教の枠を越えた、普遍的な宗教性を持たせようとしている。そして、あらゆる誤解を乗り越えて、会員の幸せを第一に考え、法的にも人道的にも、社会的にも信頼に足る宗教団体をめざしているのです。(聞き手、iRONNA編集部・溝川好男、松田穣)ふかみ・とうしゅう 本名は半田晴久。1951年、兵庫県生まれ。同志社大学経済学部卒。武蔵野音楽大学特修科(マスタークラス)声楽専攻卒業。西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院修了(MA)。中国国立清華大学美術学院美術学学科博士課程修了(Ph.D)。中国国立浙江大学大学院中文学部博士課程修了(Ph.D)。現在は神道系宗教法人「ワールドメイト」(静岡県伊豆の国市)の代表を務める傍ら、企業経営や芸術、福祉活動などに取り組んでいる。

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    明るくて楽しい「宗教」って何だ? 深見東州を私なりに考えてみた

    いのか、どう理解していいのか、分からなかった。 有名な人だから昔から名前は知っていた。ただ、変わった宗教の代表。というくらいの認識だった。僕の友人にワールドメイトに入っている人がいた。また、深見氏の本を愛読している人もいた。「これは面白い」「楽しい本だ」と言われても、正直、関心がなかった。「明るく楽しい宗教」というのが信じられなかったからだ。マスコミに大きく取り上げられるのも胡散臭いと思っていた。宗教家ならば、もっと深刻な顔をして山の中で苦行しているはずだ。「明るく楽しい」なんて、おかしい。そう思い込んでいた。 でも、新聞を見ても、電車に座っても深見氏の情報が目につく。こっちは関心がないのに、どこまでも追っかけてくる。そんな感じだった。宗教家だと思ったが、どうもそんな枠は飛び越えているようだ。絵を描き、書を描き、オペラまでやる。と思うと世界の大政治家たちを呼んで、一緒になって世界平和を論じている。一体、この人は何なんだと思った。僕の理解なんか、とっくに超えている。まあ、いいや。どうせ僕には理解できない人だ。遠い世界の人だと思っていた。どうせ接点などないんだし。と思っていた。 ところが、この小さなすずめが巨大な大鳥に出会ったのだ。今から6年前の2010年(平成22年)の1月14日、僕が属している一水会の勉強会(一水会フォーラム)に深見氏が来た。ワールドメイトリーダーの深見東州が講師で、演題は「中村武彦とワールドメイト。そして人生の本義」だった。これにはビックリした。一水会は新右翼と呼ばれることが多い。だから一水会フォーラムも講師は右翼的な先生や政治運動をしている人が多い。それなのに何故、ワールドメイトなのか。何故、深見氏なのか。「世界の一水会」になった 一水会は1972年、右翼の学生運動をしていた人間が中心になってつくられた。僕もその創設メンバーの一人だった。だが、最年長というだけで代表にされた。一水会代表は1972年から1999年まで30年近くも続いた。ただ、余りに勝手なことを言い、勝手なことをやるので右系の内外から顰蹙を買い、大変なバッシングを受けた。それで、一水会は組織を一変し、生まれ変わりを計った。 木村三浩氏を新代表にし、僕は顧問に退いた。2000年から木村新体制がスタートした。21世紀の右翼・民族派運動だ。僕と違い、木村氏は国際的な視野を持ち、世界中を回り、各国のナショナリストとの連帯も拡げていった。反グローバリズム、反米の闘いも進め、イラクには何度も行った。僕も初めて行った。現地で反戦集会、反戦デモに参加した。 2003年、木村氏が団長になり36人でイラクへ行った。でも、ここに参加したのは右翼だけではない。元赤軍派議長の塩見孝也さん。ミュージシャンのPANTAさん。お笑い芸人の大川豊さんらも参加していた。この1カ月後の3月18日~21日は、木村氏に連れられてフランスのニースに行った。フランス国民戦線30周年大会に木村氏が招待され、僕もついて行ったのだ。 この年はタイや北朝鮮にも行った。1970年に日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った人々とはぜひ会ってみたいと思い、それが実現した。「よど号」グループの一人・田中義三さんはひそかにカンボジアに脱出し、日本帰国への資金作りをしていた。しかし逮捕され、タイで裁判を受けていた。タイでニセ米ドルを使ったという容疑だった。「これは冤罪だ。田中を釈放しろ」という運動が宮崎学さんたちを中心に起こり、僕も何回かタイに行き、田中さんにも面会した。 木村氏が代表になって一水会は急に「世界の一水会」になった。おかげで僕も海外に出る機会が増えた。木村氏はほかにも、ロシア、インドなど世界をまわり、世界のナショナリストとの連帯を深めていた。僕も、必死に勉強し、なんとかついていこうとした。そんな国際化の中で、深見氏の講演会は行われた。深見氏も木村氏も日本を飛び出して世界で活躍している。その中で二人は知り合ったのだろうか。「新右翼」とワールドメイトの接点は? また、一水会幹部の中に、以前ワールドメイトに入って運動していた人もいる。その関係で来てくれたのか、僕も不思議に思っていた。当日集まった満員の人々も面くらっていたようだった。「新右翼」とワールドメイト、深見東州氏、まったく接点はない。でも、どんな関係があるのか、なぜ一水会は深見氏を呼ぶのか。この何故、何故があって、推理小説を読むような気分で来た人も多かったようだ。僕自身もそうだ。歌唱中の深見氏=2015年7月5日   深見氏の講演会が始まると、まずはじめに歌をうたう。皆の度肝を抜く。うまい、凄い声量だ。オペラを歌い、さらに、何と「君が代」を歌う。実に感動的だった。よくサッカーなどの国際試合が始まる前に歌手が君が代を歌う。しかし、みんなうまくない。それだけ「君が代」は難しい歌なのだ。それなのに堂々と歌う。うまい。多芸多才な人なんだと思った。深見氏の演題の「中村先生」はもう亡くなられたが、右翼の先生だ。僕らも大変お世話になった。一水会を作るずっと前から知っていて、お世話になっている。その中村先生に、深見氏もお世話になったという。中村先生の集まりにもよく行っていたという。だとしたら、その頃、僕らは会っていたのだ。あれ、こんなに近いところにいたのか、と思った。我々は中村先生の「教え子」だ。その点では同じ「弟子」だ。昔の同級生に会ったような気がした。木村氏は深見氏とはいろんな分野で会い、お世話になっているようだった。   深見氏は「中村先生にはとてもお世話になった。その恩返しをしたい」という。でも、中村先生は亡くなっているし、だから同じ中村先生の弟子たちにご恩を返すという。一水会や、そこに集まる人たちは(古い人は)、皆中村先生の教え子であり、弟子だ。その人たちが今、頑張っているので、お手伝いしたいという。それからしばらくして、「伝統と革新」という雑誌が、たちばな出版から出された。今の右派の人たちが書いて主張する場をつくったのだ。 一水会フォーラムで深見氏が講演してから7カ月後、誰もがアッと驚くイベントが行われた。(2010年)8月12、13日に東京のフォーシーズンズホテル椿山荘国際会議場で行われた「世界平和をもたらす愛国者の集い」だ。来日したのはフランス、イギリス、スペインなど欧州8ヶ国。20人の国会議員、欧州議員だ。これには本当に驚いた。僕が一水会代表をやっていた時なら全く考えられなかったことだ。それに20人の議員を外国から呼んで会議を開くなんて、いくら頑張ってもできないことだ。それも、右派議員だけが集まって話し合っているのではない。どうしたら戦争のない世界をつくることができるか、それを話し合うのだ。この大会には莫大な金がかかったらしい。深見氏にもスポンサーの一人になってもらったという。こんな奇抜なことを考えるなんて、多分、このプラン自体から相談してたのだろう。そうじゃないととても出来ない。遊就館を訪れて それに、宗教的なものを感じたからだ。集まった20人の議員は、ほとんどがキリスト教徒だ。だからEUを作ったり、欧州議会を作る時にも共通の基盤として、それがプラスに作用したのだろう。宗教があることによって対立するのではなく、寛容になり、対立を乗り越えるバネになっている。そんなことを感じて、8月12、13日の全体会議の時にもそれを感じたが、終わった後に特に感じた。14日に靖国神社参拝、15日は明治神宮参拝、そして16日からは京都、奈良を回り、京都御所も訪れた。 靖国神社は日本側からは何も言ってない。日本人が参拝しただけで外国から抗議がくるぐらいだから、日程には入ってない。ところが外人議員の方から、ぜひ靖国神社に行きたいという強い要望があって実現したのだ。中まで入り、昇殿参拝もした。宮司さんから、参拝の方法を聞き、それを厳守して参拝していた。ほとんどの人がキリスト教徒なのに…と驚いた。 この日は日本のマスコミも大勢取材に来ていた。フランス、イギリスなど、さきの大戦での「戦勝国」だ。それなのになぜ、敵国の神社に参拝するのか。それにここはA級戦犯が祀られているのに…という質問があった。これに対し、フランス国民戦線のルペン氏はこう答えていた。「国のために亡くなった人に敬意を示すのは当然ではないか」と。どこの国に行っても、その国のやり方に従って、敬意を表している。ユダヤ教の国ではユダヤ教のやり方で、イスラム教の国ではイスラム教のやり方で敬意を表し、慰霊しているという。これには驚いた。日本人でも宗教が違うからとか、理由をつけて靖国神社に行かない人はいる。それなのに「戦勝国」のキリスト教の議員たちが参拝してくれた。 さらに遊就館に案内した。ここはかなりイデオロギー的な説明が多い。フランスやイギリスなど西欧列強はアジアを侵略し、それに危機感をもって日本は自衛のため、アジア解放のために立ち上がって戦争したと書かれている。英文の説明もあるし、英語でも説明していた。この説明や時代背景は「戦勝国」の議員にとっては愉快ではないはずだ。「歴史の偽造だ!」「とり外せ」と文句を言われても仕方ない。ところが彼らは「そう思われても仕方ない」「そんな面もあった」「我々がアジアを侵略したのは事実だし」と言う。日本人よりも彼らのほうがずっと寛容だ。宗教か右派運動か また、会議の中ではEUに対する不満やグローバリズムへの危機感などが話し合われた。移民によって自国の文化がなくなるのでは…という心配もあった。愛国者の人たちがまず、これを考え、そして他国と話し合う。それが戦争を防ぐものになる。だって戦争が起こる時、「国難」に対してまず愛国者が声を上げ、立ち上がる。そしてメディアが応援し、戦争が始まる。誤った判断や情報に基づいて、戦争になることも多い。 普段から「愛国者」同士が連絡をとっていれば、こうした誤った情報に基づく戦争を阻止することができる。では愛国者の努力にかかわらず戦争が始まった場合、どうなるのか。この話も出た。「その時は国のために闘う」「いや、非国民と言われてもいいから戦争に反対する」と。もし戦争を阻止できなかったら、「国と国」という全面戦争にしないで、「愛国者」と「愛国者」の戦いにとどめることを考えてもいいのではないか。という人もいた。これは凄いと思った。「愛国者」というと、各国の中で最も戦闘的で、いつも戦争をアジっていると思っていたが、違うのだ。それに、この集会は「愛国者の大会」ではない。「世界平和をもたらす」愛国者の大会だ。随分と取材も来ていた。「これは愛国者インターナショナルだ」とか「反戦平和の集会だ」と書いたところが多かった。これはかなり前の段階から深見氏の理想や哲学が入っているのではないか、と思ったほどだ。2015年3月に開催した個展でテープカットする深見氏(写真中央)   初めに「宗教団体」ありきで、そこに集まる数多くの人と多くの資金がある。その上で深見氏は、オペラ、ゴルフコンペ、政治家とのトーク、などをやってきたのだろうと思っていた。でも、この考えは間違っていた。しょせん「燕雀」の考えに過ぎなかった。むしろ、「深見東州」という才能がまずあって、そこからいろんな動きが生まれてきた。 ライブやトークや出版や、その一つとして「宗教」もある。だからそこに集まった人からの金でいろんな活動をしているわけではない。そのことが分かった。いろんな人たちに聞いて分かったのだ。だから、「宗教部門」はなくとも構わないのだろう。そして思った。そうか、そういう方法があったのか、と。 学生時代、僕は「生長の家」の運動をしていた。それを基にして右派学生運動をつくった。大学を卒業してから、プロ的な活動家になるか、あるいは「生長の家」の本部に入り宗教活動をするか、迷った。宗教活動にもひかれたが、「自分」を出せない。すでにある「教義」を人々に知らせることに専念し、自分の解釈や自分の考えを出してはいけない。それでは、自分の生きる意味もないと思った。だから、少しでも自分の考え、自分を出せる右派運動の方を選んだ。 でも、今、考えると、そうか、この方法があったのかと思ったのだ。深見氏のやり方を見て、同じように悔しがっている人は多いと思う。もちろん、これも「燕雀」の考えだ。深見氏はその余りある才能があったので初めてできた。それなのに「もしかしたら俺たちだって出来たのかもしれない」などと一瞬でも考えた自分が愚かだったと思う。ただ、深見氏に対する理解が少しだけ進んだような気がする。