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    高齢ドライバー対策、ヒントは「ジリ貧教習所」活用にあった!

    志堂寺和則(九州大大学院教授) 東京・池袋で乗用車が暴走し、母子2人が死亡、8人が負傷した事故は、ドライバーが87歳だったために、改めて高齢ドライバーの問題が浮き彫りになった。今後も高齢化がさらに進むと予測されている日本では、緊急の対策が必要な重要課題の一つと言えよう。 公共交通システムの充実や高齢者向け車両の開発と普及など、さまざまな方策が必要であるが、本稿では、高齢ドライバーが起こす事故の状況や現在の免許更新手続きについて確認した上で、免許更新の在り方について考えてみたい。 ここ10年ほど日本の人身事故件数、死亡事故件数はともに減少傾向にある。しかしながら、65歳以上の高齢ドライバーが起こす人身事故件数は多少減少しているものの、死亡事故件数はほぼ横ばい状態である。 その大きな原因は高齢ドライバーの増加にある。警察庁の統計によると、この10年間で免許人口全体ではほとんど増加していない中で、免許を保有する65歳以上の高齢者は1・6倍に増加した。しかもこの増加割合は年齢が上がるに伴って増えており、85歳以上は2・8倍にもなっている。 免許を保有しているからと言って日常的に運転をしているとはかぎらないが、以前と比較すると、道路を走っている高齢ドライバーは確実に増加し、しかも、85歳以上、90歳以上という高年齢のドライバーも運転を継続している。 多くの統計資料における高齢者の定義は65歳以上である。これは、1950年代、60年代に国連や世界保健機関(WHO)が用いた分類が踏襲されているためである。しかし、当時と比較して、健康で活動的な高齢者が増加した現在では、65歳以上を高齢者とすることは現実に合わなくなってきている。 交通事故の発生比率を元にしてドライバーの年齢による危険性を比較すると、75歳くらいまでは特に事故が多いというわけではない。だが、それ以降は加齢とともに次第に事故が増えてくる。原付以上運転者(第1当事者)の免許保有者10万人あたりの交通事故件数で50~54歳と比較すると、70~74歳は1・1倍であるが、75~79歳では1・3倍、80~84歳は1・5倍、85歳以上は1・6倍と増加する。東京・池袋で起きた事故で、現場検証する捜査員ら=2019年4月(佐藤徳昭撮影) そして、免許保有者10万人あたりの死亡事故件数でも同様に50~54歳と比較すると、70~74歳は1・2倍であるが、75~79歳では1・7倍、80~84歳は2・6倍、85歳以上は4・6倍と大きく増加する。高齢ドライバーの事故の場合、事故を起こしたドライバー本人が死亡してしまうケースが多く見られる。 75歳以上のドライバーの死亡事故の場合、60%はドライバー本人の死亡であり、これは、若年ドライバーを除くと他の年齢層の場合の倍の数字である。また、同乗者が亡くなる場合も11%ほどあり、合わせると71%が事故を起こした車内において死亡していることになる。免許取り上げは暴論 また、高齢ドライバーの事故の内容は他の年齢層とは異なる。事故の原因となった違反を見ると、高齢ドライバーの人身事故では、わき見運転や動静不注視の割合が少なく、信号無視や優先通行妨害、一時不停止の割合が多い。事故類型としては、追突事故が少なく、出合い頭事故が多い。 一方、死亡事故では、わき見運転、漫然運転、安全不確認の割合が少なく、運転操作不適、一時不停止の割合が多い。事故類型では、道路横断中の歩行者事故や追突事故は少ないが、出合い頭事故、正面衝突事故、工作物衝突事故が多い。 こうした中、最近の高齢ドライバー事故を伝える報道の影響を受けて、ある年齢に達すると免許を取り上げるべしという意見もあるようだが、これはエイジズム(年齢差別)であり暴論と言えよう。では、どうすれば高齢ドライバーの事故を防ぐことができるだろうか。 政府は1998年に免許更新時の高齢者講習を導入した。その内容は2018年に改正され、現在の高齢者の免許更新の手順は次のようになっている。 70歳以上の高齢者は、免許更新前に指定自動車教習所あるいは警察施設で高齢者講習を受講する。この高齢者講習は合理化講習と呼ばれるもので、双方向型講義30分、運転適性検査(動体視力、夜間視力、水平視野)30分、実車による指導60分の計2時間程度の講習である。実車走行は2、3人一緒に実施するため、実際に運転している時間は15~20分程度であることが多い。実車指導は試験ではないため、運転内容により免許更新ができなくなるようなことはない。 75歳以上になると30分程度の認知機能検査(講習予備検査)が追加となる。この検査は記憶力ならびに判断力の低下具合をみるものであり、検査結果により3つに分類される。認知機能の低下のおそれがみられない第3分類(受講者全体の73%程度)は合理化講習を受けるが、認知機能の低下のおそれがある第2分類(24・5%程度)は、合理化講習に個人指導など60分が追加された計3時間の高度化講習を受講する。 この個人指導は実車走行時のビデオ映像などを見ながら個別に助言を受けるものである。認知症のおそれがある第1分類(2・5%程度)の場合は、認知症の専門医もしくはかかりつけ医による診断を受ける必要がある。認知症と診断されなければ、高度化講習を受けて免許を更新することができるが、認知症と診断されれば、公安委員会が運転免許の取り消しなどの処分を判断することになる。教習所で高齢者講習を受けるドライバーら。シミュレーターを使った反応速度などの確認も行われている=2017年1月、山梨県甲府市 第1分類と判定された高齢者の60%は免許を自主返納したり更新をせずに免許を断念したりしているが、35%は医師の診断を経て運転を継続しており、取り消しなどの処分となるのはわずか5%である。 このように、交通事故防止という視点から考えると、現在の免許更新手続きには大きな問題がある。それは、運転技能の評価を一切行っていない点である。一度、運転免許を取得すると、免許取消処分を受けたり、不適格者となったりしない限りは更新可能である。そこには一度獲得した運転技能は一定レベルが維持されるという想定がある。昭和の時代までは高齢ドライバーの数も少なく、この想定もさほど間違いではなかった。 しかし、現在のように高齢ドライバーの数が増えてくると、この想定は妥当なものとは言えず、想定に基づいた免許更新制度で問題ないと考えることはできなくなってきている。心身能力や運転技能は次第に低下していくものであり、人により早い遅いという違いはあるが、いつかはきちんとした運転ができなくなってしまう。教習所にもメリット そして、人は権利を失うことを嫌う傾向や運転能力を過信する傾向があるため、客観的に運転能力があるかどうかを自分で判断することは難しい。そうであれば、免許更新時に運転技能が維持されているかどうかを確認することは至極当然のことである。 本当は年齢に関係なく免許更新者全員に対して運転技能の確認をすべきであるが、さすがに無駄が多く、現実性に乏しい。このため、加齢の影響が大きくなってきていると思われる年齢に達したときから運転技能の確認をせざるを得ない。 1回の試験で合否を決定するというような形態での実施もまた現実的ではない。高齢者は長らく試験というものから遠ざかっていることもあり、緊張のため普段通りの運転ができない者や体調を崩す者が続出するおそれがある。 免許の有効期限までであれば、何度でも試験(以下では、運転技能の確認)を受けることができるようにしておくのが実施可能で有効な方法であるように思える。そして、レベルに達しなかった高齢者が運転を学び直すことができるようにして、可能な限り運転が継続できるような手段も提供することが必要である。また、判定基準も運転技能の確認向けの判定基準を設ける必要があるであろう。 学び直す場としては、教習のノウハウを持つ自動車教習所が最も適している。ところが、現在、自動車教習所は高齢者講習で苦労している。高齢者講習業務が、免許取得のための教習業務を圧迫するため、高齢者講習を引き受けていない自動車教習所もあるぐらいだ。これは高齢者講習がもうからないためである。 その一方で、少子化の影響で経営の危機に瀕している自動車教習所が増えてきており、年々、自動車教習所の数が減ってきている。高齢者に対する研修などのサービスが自動車教習所の重要な収入源となるような制度設計を施し、高齢ドライバーと自動車教習所がお互いに支え合うような関係を構築できれば「一石二鳥」だ。 現在でも高齢者講習は高いとクレームをつける高齢者がいると聞くが、運転技能の確認や学び直しなどではかなりの経費が必要となる。高齢ドライバーからは大きな反対の声が上がるであろう。しかし、事故を起こす危険性を少しでも下げることができるのであれば、決して高いものではない。低下した運転技能を補償するような運転方法を教えてもらうなど、学び直しは高齢ドライバーにとっては非常に有益な機会となるはずである。自動車保険と同じく、自動車を運転するための必要な出費と考えるべきである。高齢者を対象にした教習で、ポールで狭まれたコースを運転する参加者=堺市 一連の仕組みをうまく機能させるにはいろいろと課題があるが、最初はかなり高い年齢から開始して、徐々に下げていくようにすれば、導入は不可能ではないように思える。そして、その間に自分がその年齢に到達したときにどうするかを考えることもできる。 運転技能の確認や学び直しにかかる時間や経費などを考えて免許返納を決断するのも一つの選択肢であるし、運転継続を選ぶのも自己判断だ。一定のレベルの運転技能を持ち、責任を持てるドライバーのみが運転を行える社会に変えていかなければならない。■強制力がなければ防げない! 高齢者の自動車免許返納を制度化せよ■身近に潜む「あおり運転」危険ドライバーの深層心理■こんなクルマ本当にいるの? 実は誰も望まない「完全」自動運転車

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    元週刊現代編集長の直言「文春でさえ2025年で消える」

    元木昌彦(ジャーナリスト) 「新聞、テレビにできないことをやる」 これが出版社系週刊誌の存在理由である。1956年に『週刊新潮』が出版社初の週刊誌として創刊されてから、多くの編集者、編集長が試行錯誤しながら行き着いたシンプルな結論である。 私は週刊誌の現場に20年以上いた。「たかが週刊誌、されど週刊誌」、そう呟(つぶや)きながら、銀座のクラブから新宿ゴールデン街まで、浴びるほど酒を飲み、野良犬のように新聞、テレビにできないネタを探して毎夜ほっつき歩いた。 『フライデー』、『週刊現代』編集長を7年半ほどやったが、編集部員の案を採用する基準も、これだった。 私が現代の編集長だった1995年は、阪神・淡路大震災が年明け早々に起き、続いてオウム真理教事件が勃発するという騒然とした年であった。 情報を求めて読者は何冊も週刊誌を買い、むさぼるように読んでくれた。今思えば、この頃が週刊誌の黄金時代だったと思う。 週刊誌の部数のピークは1997年から99年にかけてである。それを最後に部数は減り続ける。 週刊誌が読まれなくなった要因はいくつもある。インターネットの普及、ゲームやスマートフォンにカネがかかる、KIOSKなどの売り場の減少などが挙げられるだろう。 だが、一番大きな要因は、週刊誌にしかできないテーマを見失ってしまったことと、週刊誌の最大の読者層であった団塊世代が年齢を重ね、定年、年金生活、高齢者になったことだと、私は思っている。 夕刊紙も同じように苦境に立たされている。『日刊ゲンダイ』の幹部の話では、平日の駅売りはよくないという。売れるのは土曜、日曜の競馬のある日で、コンビニがよく売れるそうだ。経費を節減するために、夕刊フジと流通を一部で協業することを始めたという。 山のように売店に積まれた週刊誌を、満員電車で中づりを見た乗客が次々と買っていく姿は、もう二度と見られないのだ。東京都千代田区にある「文藝春秋」の本館ビル=2016年5月(山崎冬紘撮影) 多くの週刊誌が元気のない中、新谷学編集長率いる『週刊文春』だけがスクープを連発し、気を吐いた。特に、政治家から芸能人まで、これほど多いのかとあきれるほど「不倫」情報が毎週のように誌面に載った。 ジャニーズ事務所、AKB48の情報も文春の一手販売だったが、これには理由がある。講談社や小学館は、少年少女を対象にした雑誌を多く出している。新潮社も10代少女向けの『nicola』がある。 その雑誌に彼ら彼女たちを使いたいから、有名アイドルのスキャンダルは社が嫌がる。30代の頃、現代でジャニー喜多川氏のスキャンダルをやって大騒ぎになり、突然、私を婦人雑誌へ異動させ、講談社はジャニーズ事務所と手打ちにしたことがあった。 AKB48のCDは子会社のキングレコードが発売元である。講談社ではフライデーにAKBスキャンダル禁止令が出たという噂(うわさ)まであった。2025年で消える週刊誌 かつて『噂の真相』という雑誌があった。タレ込んでくるスキャンダル情報はほとんど載せることで有名だった。そうした雑誌に情報は集まる。文春も、スキャンダルをやり続けることで、情報が集まってきたのであろう。 だが、その文春砲にも陰りが出てきた。新谷編集長が交代したこともある。雑誌は編集長のものだから、同じ雑誌でも編集長が替われば中身も変わる。 それに、あれほどスクープを放ったにもかかわらず、部数が減り続けたことである。 2016年7月から12月には約43万部(ABC調査より)あった。だが、2018年1月から6月には約34万部(同)に減ってしまったのだ。 現代と『週刊ポスト』は、元々木曜日校了で月曜日発売のため、生ネタは入れにくい。その上、人員や経費を削減されたから、現代は早々に事件やスクープを追うことを諦めたようだ。 私が現代の編集長だった時、40歳前後だった読者平均が今は60歳前後だろう。その世代にターゲットを絞り、「死ぬまでSEX」「60歳を過ぎたら受けてはいけない手術」「飲んではいけない薬」と、性と健康に絞った企画をやり始めた。 それが一段落すると、次に、団塊世代を親に持つ団塊ジュニアをターゲットにして、40年ぶりに大改正された相続法を詳しく解説する特集を始めた。 それが当たったのだ。今年の新年合併号は前年比130%増という快挙を成し遂げ、相続をテーマにした増刊号も売れているという。 出版界では、柳の下にドジョウが3匹はいるといわれるから、物まねは恥ずかしいことではない。文春、新潮、女性誌までが相続特集をやり始めたのだ。これがローソクの火が消える前の一瞬の輝きでなければいいが。 先日亡くなった作家の橋本治氏が『思いつきで世界は進む』(ちくま新書)で、おやじ系週刊誌は金の話とセックス記事ばかりで、社会で起きていることを伝える記事がほとんどなく、「閉じつつある自分のことしか関心が持てない」と嘆いている。 たしかに今の週刊誌を読んでいると、トランプのアメリカも、中東情勢も、中国で今何が起きているのかも分からない。 芸能人の不倫、女子アナの近況、眞子さまと小室圭さんの結婚問題、相続など、閉じた狭い世界でのことしかない。 なぜこんなに視野狭窄(きょうさく)になってしまったのか。私がいた頃の現代は、政治から事件、国際紛争、風俗からグラビアまで、一冊ですべてが分かる「幕の内弁当」週刊誌といわれたものだった。 現代も、何度かリニューアルしたり、ビジュアル化を試みたり、若い世代を取り込もうとしたが、みな失敗した。『週刊現代』の医療大特集(佐藤徳昭撮影) 結局、団塊世代とともに心中するしかないと思い定めたのであろう。 残念だが、団塊世代がいなくなれば、ほとんどの週刊誌は消えていくことになるのだろう。 文春だけが生き残ったとしても、競合誌のない雑誌は苦戦を強いられる。休刊した雑誌の読者が、他の雑誌へ乗り換えることはない。雑誌とともに読者は消えてしまうのが出版界の常識だからだ。 おやじ系週刊誌に生き残る術はもはやないと思う。団塊世代が全員後期高齢者になる2025年までだろう。だが、消えていく前に、今一度原点に立ち返り、不倫や密愛ではない、週刊誌にしかできないスクープを見せてほしいものである。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    高齢読者が「週刊誌ジャーナリズムの牙を抜く」のウソ

    代」をターゲット読者と想定しているから、実際の読者と乖離してきていることはもはや明白である。つまり、少子高齢化が進む現在、これら週刊誌読者も70代前後の団塊世代が、実は本当の読者であり、一方で若い世代の読者がそれほど増えていない現状が見て取れる。 販売部数データを見てみると、『週刊現代』は2018年上半期に20万9025部となり、前年同期比で5万5千部ほど部数を落とし、『週刊ポスト』の21万1336部に後塵(こうじん)を拝するようになった。読者の高齢化が部数減の一因となっているのだが、いずれの週刊誌も誌面をさらに高齢者向けにシフトさせることに傾注し、若い読者を新たに獲得するという「攻め」の余裕も少ないという状況のようである。東京都新宿区にある新潮社本館ビル=2012年3月撮影 ここ数年、『週刊朝日』が2009年に「終活」という造語を世に広めて以来、他誌でも「完璧な終活」(サンデー毎日)、「食べてはいけない」(週刊新潮)の特集のほか、「不眠を防ぐ住まい」「高血圧新目標値130に専門医が異議あり!」(週刊文春)など、高齢者向けの健康を取り上げる記事が目立つようになってきた。老人介護、認知症などを扱った『週刊朝日』の連載漫画「ヘルプマン」も好調のようである。 さらに2018年末から最近まで、『週刊現代』が「死後の手続き」路線を本格化させた「最期の総力戦」特集を13回続け、『週刊朝日』も2019年1月から「書き込み式 死後の手続き」を7回連続して掲載している。 こうして高齢化に伴うあらゆる変化をみてみると、週刊誌が健康雑誌へとシフトしてくるのも時間の問題だったのであろう。 そして、つい最近、象徴的だったのは、ツイッター上で『週刊ポスト』『週刊現代』の二大誌の新聞広告をみたネットユーザーが、「とうとう政治や社会問題を扱わなくなった。消滅した」との指摘もあり、話題にもなっていた。生き残る2つの方法 このように終活雑誌、健康雑誌と化した週刊誌に、かつてのような権力批判の雑誌ジャーナリズムを担えるのか。高齢者向けのコンテンツでしのぐ週刊誌にジャーナリズムを貫く体力は残っているのだろうか。 実は、健康雑誌化については、今に始まったことではなく、すでに業界誌『創』の2017年座談会で同誌編集長の篠田博之氏が述べていたことでもある。このとき、週刊誌の方向性がはっきりと二つに分かれつつあることが指摘されている。 それは、一つには『週刊文春』のように週刊誌本来のスクープ中心主義で部数を伸ばしていくという考え方であり、これがまだ現実性を持っていたことを証明した点で、同誌の健闘は大きな意味を持っていた。ただし、筆者は芸能人の不倫スクープは、明治期のタブロイド判日刊新聞『萬朝報』(よろずちょうほう)の例からも、「公憤」がなければ読者に飽きられること、単なるセンセーショナリズムは限界が来ることを指摘しておいた(『朝日新聞』2018年2月10日記事「『文春砲』に吹く逆風、その背景は」筆者コメント)。 同紙はスキャンダラスな出来事を他紙よりも長期にわたり、ドラマチックに報道することで部数を伸ばし、一時は30万部と東京一の発行部数となった。そして連載「弊風一斑(へいふういっぱん)蓄妾の実例」では、有名人、無名人の愛人関係を実名住所職業入りで暴露したが、こうしたスキャンダル報道だけでは、やがて大衆に飽きられて売れなくなっていった。まさに『週刊文春』も今その限界に直面しているのではないだろうか。 そして、もう一つの方策は、今回の『週刊現代』が典型的なように、高齢の読者に向けて誌面を絞り込んでいくやり方である。実際、2018年以前から『週刊現代』は医療問題などで特集を掲げ、部数も伸ばしていた。ターゲットを絞ってコストパフォーマンスをよくするという方向である。老人雑誌のようになってしまって、それまでの読者からすれば物足りないかもしれないが、『週刊ポスト』もそうした方向を意識している感はある。 期待したいのは、週刊誌と親和性の高いシニア層、すなわち、スマホも使えるかもしれないが、「アンチ・スマホのシニア層」である。今の若者世代は、知りたいことはスマホで検索だけして済ませる。 しかし、それだけでは情報行動としては不十分で、雑誌を一冊丸々読む習慣を持つシニア層は、思わぬ記事に誌面で巡り合える可能性(セレンディピティ)を知っている。(左上から時計回りに)『週刊ポスト』、『週刊現代』、『週刊文春』、『週刊新潮』(佐藤徳昭撮影) また、昭和の回顧記事も多く掲載されているように、ノスタルジーから政治や社会を語ってもいいかもしれない。これも人生100年時代、精神世界の豊かな者の持てる楽しみではなかろうか。 50代のコアターゲットに属する筆者も、かつては講談社の週刊誌編集部をモデルに女性編集者を描いた漫画『働きマン』(安野モヨコ、2004年)をとても面白く読み、共感してきた。雑誌ジャーナリズムにかける熱気を再び取り戻してほしいと思う同世代読者も多いのではないかと思う。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    「文春よ、お前もか」気まぐれ読者を追いかける週刊誌の断末魔

    向谷匡史(作家、ジャーナリスト) 「あんなの、週刊誌じゃねぇよ」。辣腕で鳴らした総合週刊誌の元デスクが酎ハイをグイとあおれば、 「同感」と、フリーのベテラン記者がうなずいて、 「あの食品がダメ、この薬がアブナイ、はてまた死ぬ前の手続きがどうしたなんて大特集を毎週読まされたんじゃ、気が滅入っちゃうよ」 「まさにその通り」。女性週刊誌で「鬼」と呼ばれた元編集長が引き取って、「週刊誌はスキャンダルが勝負。斬った張ったで俺たちはメシを食ってきた。健康ネタ、終活ネタは、新書かムックのテーマだ」 一同、大きくうなずき、それぞれのグラスで氷がカラコロと音を立てた。今年初め、気の置けない仲間と一杯やったときのことだった。 私は総合週刊誌の記者として十余年を過ごした。現役批判はOBの常とは言え、総合週刊誌の全盛時代を知る彼らだけに、一杯やると必ず批判や苦言が飛び出す。 「誌面に勢いがない」「現場を踏まなくなった」「企画に工夫が足りない」 だが、こうした批判や苦言は、週刊誌ジャーナリズムという大枠でのこと。誌面づくりは時代によって変化はしても、「ニュース&スキャンダル」という基本は変わらない。クルマにたとえればマイナーチェンジのようなものだった。 ところが最近になって、いきなりフルモデルチェンジ。しかもセダンがワンボックスカーになったようなもので、元辣腕デスクが「あんなの、週刊誌じゃない」と憤慨するほどの変わりようなのである。 週刊誌の変化ぶりは、電車の吊り広告や表紙を見れば一目瞭然だ。目玉の特集記事が「健康」と「終活」になってきた。私の手元にある週刊誌の見出しを拾うだけでも、「食べてはいけない『外食チェーン』」(週刊新潮)、「専門医10人『私は絶対に飲まない薬』」(週刊ポスト)、「間違いだらけの『死後の手続き』」(週刊現代)、「30の症状に効く『最強食』」(週刊文春)…。 タイトルこそ扇情的な週刊誌タッチだが、これらは「実用記事=ためになる記事」であって、週刊誌が王道としてきた「ニュース&スキャンダル」、すなわち「ためにならない記事」の対極に位置するものなのである。 むろん週刊誌に「健康」「終活」の特集があってかまわない。必要な情報でもある。だが、このテーマが毎週、しかもメジャー誌がこぞって掲載するとなると、これはもう「週刊誌のフルモデルチェンジ」である。先に述べたが、クルマにたとえれば一車種だけのモデルチェンジではなく、クルマ業界全体が、売れ行き不振のセダンからワンボックスカーに右へならえしたのと同じということになる。 「健康ネタ」をメーンで打ち出したのは、『週刊現代』が最初だったと記憶する。大胆な変身に戸惑いはしたものの、高血圧の薬を長年服用している私は、「高血圧の薬は不要」といった見出しに目が吸い寄せられた。週刊文春の企画「減らせる薬11『症状別』リスト」 これまで総合週刊誌には見向きもしなかった愚妻も、「あら、血圧の話?」と言いながら、そばからのぞき込んでいる。健康は大いなる関心事なのだ。 さらに「終活」が「健康」の延長線上にあることから特集がこれに向かうのは必然で、辛気くさいテーマではあるが、実年・熟年が興味を引かれることは確かだ。幕の内弁当とビュッフェ 「あんなの、週刊誌じゃねぇよ」と、OBが毒づいたところで、数字は正直。週刊現代は「健康」と「終活」を両輪として部数を伸ばし、2019年1月の雑誌月間売上冊数で、『週刊文春』を抑えて10位に躍進(日販調べ)。「文春砲」を炸裂させても、週刊現代の「健康&終活ガイド」には部数では勝てなかったということになる。 かくして、総合週刊誌は雪崩を打つようにして「健康&終活ガイド」に走り、いまも走り続けているということになる。 私に言わせれば、総合週刊誌は「幕の内弁当」である。スキャンダルがメーンのおかずで、「海老フライ」や「鶏の唐揚げ」がそれに当たる。ニュースやハウツーがサブメーンの「卵焼き」「焼き魚」「天ぷら」で、連載小説やコラムが「煮物」「漬け物」といった添え物ということになる。 細々と何種類もおかずが詰めてあるのは、人によって好き嫌いがあるからだ。言い換えれば、好き嫌いにかかわらず、幕の内弁当は、そのすべてを購入しなければならない。 「私はニンジンが嫌いだから、それを外して卵焼きを増やして」というわけにはいかない。ここがウナギ弁当やアナゴ飯、イカ飯といった単品弁当と違うところで、幕の内弁当が総合週刊誌なら、これらは専門雑誌ということになる。 さらに、インターネットで閲覧する記事はビュッフェである。嫌いなものはスルーして、欲しい食べ物を欲しいだけ皿に取る。「ニンジンが嫌いだから、それを外して卵焼きを増やす」ということが、いくらでもできる。ITの進展、価値観の多様化、そしてそれを認める社会は、生活のすべてにおいて「ビュッフェ時代」になったと言っていいだろう。 こう考えると、幕の内弁当の総合週刊誌は、おかずに何を詰めるかは頭の痛い問題になってきた。ビュッフェ時代にあっては、いくらおかずの品数を増やそうと、従来の「押しつけ」では多くの読者を引きつけるのは難しく、部数はじり貧である。売れ筋だったスキャンダル砲をブッ放してみても、テレビのワイドショーが素早くそれを横取りする。リアルタイムで面白おかしく放送するため、たちまち霞(かす)んでしまう。 実際、ある総合週刊誌の編集長は、「ニュースもスキャンダルも、テレビとインターネットには太刀打ちできない。読ませるものに活路を見いだすしかない」と言い切る。 週刊現代が「健康テーマ」を打ち出したとき、「老人雑誌化」したと業界で陰口を叩かれたが、超高齢時代を背景に大当たり。弁当にたとえれば、「海老フライ」や「鶏の唐揚げ」といった脂っこい総菜を引っ込め、「ヘルシー&栄養」を謳(うた)ったおかずをメーンにしたら大いに売れたということになる。 つまり、総花的な幕の内弁当に、売れ筋の単品弁当をメーンに組み込んだのが、最近の総合週刊誌ということになる。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 売れてナンボとなれば、総合週刊誌も読者のニーズに応じて変わっていかなければならない。だが、読者は気まぐれだ。気まぐれを相手にするのは、決して追いつくことのない影を追うようなもので、必ず息切れする。 これから総合週刊誌はどこへ向かうのか。かつて大部数を誇った『週刊明星』、『週刊平凡』は時代の変化の中で消えていった。スキャンダル砲の健闘を期待しつつも、「健康&終活テーマ」に舵を切った総合週刊誌は、まさに自身が〝終活〟を始めたような気が私はするのだ。■ 「ヤフーニュース一人勝ち」紙メディアよ、死を迎える前に現実を見ろ■ 『週刊SPA!』はなぜ劣化したのか? 元編集長が古巣を徹底批判■ 平成のスクープ誌『週刊文春』でも部数減が止まらない理由

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    「子供部屋おじさん」61万人はニッポンの恥ずべき現象なのか

    荻野達史(静岡大学教授) 内閣府が3月末に公表した調査によると、40~64歳までの「ひきこもり人口」は61万人を超えるという。このことは多々報道され、既にさまざまな反応が示されているが、われわれはこの調査結果のどこにひとまず注目すべきなのだろうか。ひきこもり支援現場での調査を15年以上続けてきた一研究者として思うところを述べてみたい。 半年以上、身体的な病気というわけではないが、社会的交流からかなり遠ざかっている場合、この調査では「広義のひきこもり」とカウントされた。具体的には、趣味のときだけ出かける、近所のコンビニなどには出かける、さらには自宅・自室からほとんど出ないといった場合である。それに該当する人が47人で、これを全国推計数に計算すると61万人になるというわけだ。 この調査結果が報道されると、男性がほぼ75%ということもあり、ネット上では「子供部屋おじさん」という表現も散見された。こうした言葉が即座に用いられるところにも、私には61万人が意味する問題が現れているように思われる。それについては最後に論じよう。 また、47人について5歳刻みの年齢区分で見てみると、40~44歳(12人、26%)、45~49歳(6人、13%)、50~54歳(7人、15%)、55~59歳(10人、21%)、60~64歳(12人、26%)となっている(内閣府ホームページに掲載された報告書を参照)。 これは定年退職後の問題もあるのではないかと思われる。つまり、もっぱら趣味を楽しんでいるという人(あるいは退職してからすっかり孤立した人?)もある程度いるのではという見方もありえたが、その年齢層が多数派というわけではない。 この調査結果を受けて、根本匠厚生労働相が「大人のひきこもりは新しい社会問題だ」と述べたと報じられている。しかし、支援体制や方法が不十分であるがゆえに「取り残されてきた問題」という側面もあるのではないだろうか。詳細な分析が待たれるところだが、報告書の集計値からもその点は伺われる。私が注目するべきと考えるのはこの点だ。参院本会議で答弁する根本匠厚生労働相=2019年1月(春名中撮影) 例えば、「初めて現在の状態になったのは何歳頃か」という質問に対して、40~44歳の層では、30代までにと答えている人の合計は実に83%(20代までは67%)、45~49歳では50%(20代までは33%)である。 30代ということは、10~15年前の期間である。つまり、ひきこもりに関わる支援政策が開始されて以降の時期と重なるのだ。このことの意味は重い。政策的取り組みが開始されたのは2000年からであり、旧ガイドラインは03年に発表され、地域精神保健の中にひきこもり支援を位置づけることが明記された。ひきこもりの「死角」 そして2006年には就労支援機関として地域若者サポートステーション(以下、サポステ)が設置されはじめ、現在では全国170カ所以上ある。09年には厚労省がひきこもり対策推進事業としてひきこもり地域支援センターを都道府県、政令指定都市に設置を開始し、翌年には新ガイドラインも発表された。 つまり、ひきこもりになった40代がまだまだ「若者」として支援対象となりうる年齢にありながら、支援とつながらなかったか、あるいはつながっても相応の効果が得られないまま今日に至るということになる。 実際、相談経験についても質問されており、47人の中で「相談する意思はもっている」と答えた36人について見ても、その半数以上は「関係機関に相談したことはない」と答えている。40代前半の11人については相談経験有りが7人と60%を超えるのだが、その中で利用されたのは病院・診療所が主であり、その他の支援機関を利用したのは1人のみである。 もとより「ひきこもり」該当者50人足らずの中で、さらに年齢層で分ければごくごく少ないケースとなり、それに依拠して全体の傾向を推測するには無理もある。その限界は踏まえなければならない。 とはいえ、大方は30代までに現在の状態が始まったという40代前半の層で、サポステも含め、ひきこもり支援を掲げて設置されてきた機関や相談窓口が、あまり機能してこなかった可能性を示唆する結果であろう(ただし、利用という点では親など同居者の相談経験にも注目すべきではある)。 私はある支援機関で2001年からいわば定点観測をしてきたことになるが、当初は10年以上ひきこもってようやく支援機関につながったという人はまったく珍しくなかった。しかし、近年では、ひきこもりが始まった後、親が支援機関にアプローチするまでの時間は短くなり、本人が20代までである場合などは、ひきこもっていた期間もせいぜい数年というパターンが多くなっているようだ。そして本人が出てくるのも、その後の展開(さまざまな活動への取り組み)も早くなっている。橋本市「若者サポートステーションきのかわ」開設に向けた打ち合わせをするサポステきのかわのスタッフ=2013年9月、橋本市(成瀬欣央撮影) 特に親自身が30~40代ぐらいであれば、ネットなども使った情報収集能力が高くなっていることも伺え、個人的には、ひきこもり支援についての情報がそれなりに浸透してきたことの効果は生じているとも感じてきた。しかし、それは甘すぎる認識であったと反省せざるを得ない。サポステの設計ミス 調査の40~50歳代について見ると、ひきこもり継続期間が5年以上という人が6割程度にもなる。ひきこもりには、長期化することで、往々にして家族全体が疲弊し、援助を求める力がさらに低下する側面がある。親や兄弟が高齢化すればなおさらだ。支援現場では確かに懸命な取り組みが行われてきたのではあるが、政策的には多くの人を取り残してきてしまったというよりない。この点ついては、どのあたりに問題があるのだろうか。 まず、支援資源について地域格差が非常に大きいことが指摘できよう。ひきこもり地域支援センターは都道府県と政令指定都市のレベルに設置されるものであり、誰でも通える範囲にあるわけではない。 また、相談やカウンセリングだけでなく、家族や本人が継続的に通うことができ、社会的交流を取り戻していく場が、ひきこもり支援には不可欠である。 だが、そうした実質的な受け皿が存在する地域は決して多くない。不登校支援以来の集積がある大都市部や、地方都市ではあるが一定の経験と規模を備え、さまざまな支援メニューをそろえた民間支援団体が存在するようなところは、比較的資源に恵まれた地域といえる。あとは、地域の保健所や社会福祉協議会が極めて積極的になんらかの取り組みを行っている場合でもない限り、支援につながることは物理的にも難しい。 また、支援方法や予算配分のあり方にも見直しが必要であろう。サポステは全国170カ所以上と相対的に多い機関である。2006年から10年ほどは、ひきこもり支援も期待され、彼ら彼女らも含めた就労困難層を受け止めるために、受託団体によっては持ち出しで「居場所」を用意することなども行ってきた。広島市で開かれた「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」の全国大会=2018年11月(共同) しかし、特に2015年度以降、短期的に一般就労に結びつきそうな層に対象が限定され、現在ではひきこもりは対象外とされている。当然のことではあるが、あくまでも就労支援が中心課題となる機関である以上、少なくともひきこもり状態にある本人や家族を支援する機能には大きな限界があった。サポステについては、「積み過ぎた箱舟」と表現されたこともあったが、そもそも設計上、「積み残された」層もまた大きかったことが、この度明らかになったということであろう。ひきこもり政策は失敗だった こうした現状について、大阪の支援実践者としても経験の長い田中俊英氏が、「サポステは失敗だった」と題する記事をweb上に発表している(3月30日 ヤフー個人)。サポステが一定の役割を果たしてきたことは認めつつも、まだ就労には踏み出せないと感じた若者たちは、サポステに数回通った後に離脱し、潜在化してしまう。ならば、「日常生活支援」を経験すべき段階にある多くの人々をすくい上げるために、サポステを縮小し、その分の予算を「居場所」の設置や運営に投入すべきであると、明瞭に論じている。卓見である。 ひきこもりとは、本人に出会うことそのものが困難であり、また、その背景が非常に多様で、より時間をかけて当人や家族の困難を把握していく必要性の高い問題である。すぐには変わらない状態においても、家族や本人をつなぎ止め、もろもろの回復や生きる場の探索に、伴走的に支援していくことが求められる。いずれ就労に結びつく場合でも、その前にそれとはまた異なる方法と経験を備えた支援の場や過程が必要だ。単に現行支援機関の利用年齢制限を取り外せば済むというものではない。 以上のように支援政策について、早急に問い直すべきことが、この調査結果から読み取るべき課題であると思われる。しかし、政策のあり方だけが、こうした長期化した中高年のひきこもりを生み出してきたわけではなかろう。冒頭でも触れたが、今回の報道後、中高年のひきこもり者を「子供部屋おじさん」と呼ぶ書き込みがネット上で散見された。 「子供部屋おじさん」という表現は、中立的に解釈すれば、実家から離れることなく自室を使い続けながら暮らしている中年男性ということになろう。そうした「離家」がなされないことについては、一人暮らしがしたくてもできない経済的理由も大きいことが、社会調査の結果として既に明らかにされている。そしてこうした状況にある中年男性が、すべからく「ひきこもり」的生活をしているわけではないことはいうまでもない。 しかし、問題は「子供部屋おじさん」という表現が、決して中立的なものではなく、蔑称であることだ。「いい年をして子供のように実家に寄生する中年男」といった侮蔑(ぶべつ)的な意味が込められていることは、その使われ方をみれば明らかであろう。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) ある雑誌記事では、働かず、人を避け、アニメに浸りながら、高齢の親には暴君として振る舞い年金を巻き上げる、そんな事例が「子供部屋おじさん」として紹介されていた。長期のひきこもり者が時にこうした暴君となってしまうケースもあることは、関係専門家や支援者は知るところであり、私もこうした人などいないといった反論をするつもりはない(ただ、もちろんこうした人が多いという根拠もないことは確認しておきたい)。「ひきこもりが許せない」 とはいえ、一定年齢を過ぎても実家で暮らしているという一事をもって、あるいはたとえそうした暴君であれ、なぜそのようになったのか、なぜそのようにしか生きられなかったのか、問うことも想像することもないまま、侮蔑の言葉やまなざしを投げかけるとすれば、それは問題であろう。 調査結果で、就職氷河期世代にあたる40代前半の層では、20代前半にひきこもり始めた人が33%と突出して多い。40代後半では17%、バブル世代といわれる50代前半では0%である。もちろん他の要因も検討されるべきであろうが、社会的な状況や個々人のさまざまな事情が折り重なって、ひきこもりという状態が生み出されることは繰り返し確認すべきところである。 そして、そうした背景や事情をなんら考慮しない「子供部屋おじさん」といった言葉が、当人とその家族をさらに孤立させることは容易に想像できよう。一方的に「恥ずべき存在」として侮られ批判されることが十分に予測できてしまう。そして実際にそうした経験もしやすい社会の中で、自分や自分たちの苦境を明らかにしながら支援を求めることは非常に困難だ。支援に結びつくこともなく、事態が悪化していくことをもたらしたのは、世の中のこうした悪意ある言葉やまなざしも影響してのことではないだろうか。 そうした言葉やまなざしを投げつける人々は、もとより当事者を孤立させることこそ望んでいるようにすら見えてしまう。ひきこもり中年やその家族が支援されることなく、苦境に陥っていくことこそ望んでいるのかもしれない。その暗い期待にもそれなりの背景があるようにも思われる。 私が講義でひきこもり支援の話をした際、「いじめや周囲からの暴言にも耐えてここまできた自分と、逃げて自室にひきこもった人間が、同じようにこの世で生きていけるなど許せない」というコメントを寄せた学生がいた。出口無しの感も否めない。 しかし、この学生が激しい痛みを経験したときに、適当な避難場所があったのであれば、違っていたのではないか。この学生を受け止め、ともにその状況に向き合ってくれる存在がいたのであれば、他者への想像力や公的支援についての見方もまた異なるものになりえたのではないだろうか。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) ひきこもり問題に限らず、自分や家族だけではどうにも対応できない状況について、より抵抗なく相談でき必要な支援も受けられる社会を求めるか、一度歯車が狂ったら最後、一人でもがき続けるしかない社会を是とするか。後者のイメージも強い日本社会から、前者の社会への転換は、コンセンサスを形成すること自体、困難ではあろう。当面は、各種問題への局所的取り組みや部分的制度変更を通じて、人々の人生や社会についての体験のされ方が変わっていくことに希望をつなぎたい。■老老介護は「セカンドハネムーン」という考え方■「人生100年時代」はっきり言って、そんなの無理です!■NHK「老人漂流社会」プロデューサーが見た親子共倒れの現実

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    「移民法案」このままで大丈夫か

    外国人労働者の受け入れ拡大を図る出入国管理法改正案が衆院を通過した。法案はこれまで認めなかった単純労働を容認し、実質的に外国人の永住に道を開く内容である。事実上の「移民法案」とも揶揄され、将来に禍根を残しかねない。労働市場の人手不足が大義名分とはいえ、なぜ急ぐ必要があるのか。

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    青山繁晴手記「総理、足元の声をお聴きですか」

    青山繁晴(参議院議員、作家) 諫言(かんげん)などという格好の良いこと、偉そうなことは、できませぬ。しかし、かりそめにも日本の唯一の主人公である有権者から負託されたからには、お聞きせざるを得ません。 総理、どうなさいましたか、と。声をお聴きになっていますか、と。 いや、安倍晋三総理も総理官邸の人々も、国民の声を聴いているおつもりなのだ。 すなわち世論調査では、「モリカケ」という悪質な冤罪によって安倍総理を追い詰めたオールドメディアの行う世論調査であっても、最近では安倍政権の支持率は上がり、不支持率は下がっている。いずれも振り幅は小さいが、ほぼすべての調査に共通する傾向だ。 そして外国の国民を労働者として急に増やすこと、実質的に永住させることを盛り込んだ入管法(出入国管理・難民認定法)改正案も支持が不支持を上回っている。さらに消費増税も支持が不支持を上回る傾向だ。 安倍改造内閣の押し進める政策で、はっきり不支持が多いのは軽減税率やプレミアム付き商品券、ポイント還元制度といった分かりにくい増税対策だけである。しかし消費増税そのものは「やむを得ない」と受け止める国民が多いことになっている。 もちろん世論調査によって色合いは異なるが、なべて言えば、現在こうだ。落とし穴の一つは、実に、ここにある。 かつてはタウンミーティングのように国民の声を直接に聴く場も、ほんの少しはあった。だがこれもやらせ疑惑が出るなどして中止。長くても残り3年弱、来夏の国政選挙で敗北すれば短くてあと8カ月強の「最期の安倍政権」は世論調査しか、耳を持たないのだ。2018年11月、参院予算委で答弁を行う安倍晋三首相(春名中撮影) オールドメディアのそれ以外に、政府与党も長年のノウハウと蓄積データを持つ世論調査を非公開でやる。こちらはオールドメディアほどには質問に仕掛けを作らないので、客観性は高い。だがこの調査も結果は同じ傾向だ。 そのために安倍総理には「保守色の強い支持層には入管法改正や消費増税が不評でも、広範な国民には支持がむしろ回復している」という安心感が生まれている。さらに「これまでも保守政権だからこそやれるという不人気政策をあえて実行してきた。路線が変わったわけじゃない」と政権みずから納得している。「なぜ妊婦をいじめるの」 だが世論調査は、特に安倍政権には間違いの元になる。なぜか。再登板後の安倍政権は、歴代の自由民主党中心の歴代政権とはまったく違う特色を持つからだ。 それは、選挙権を得たばかりの18歳や19歳に支持が高く、50代以上の世代にまったく人気が無いことだ。 世論調査は、回答者が特定の世代に偏らないようノウハウを持って各世代に万遍なく電話で質問していく。ところが法改正でせっかく有権者となった18歳、19歳はほとんど答えない。この世代の回答率は何と、およそ1%である。100人のうち1人答えるか答えないか。したがって世論調査は、安倍政権の本来の支持層が「たった今の政策」をどう考えているかをほとんど反映しない。一方、高齢世代は「日本はすべて悪かった」という教育を受けて育ち、インターネット上の情報の活用もまだまだ少ない。この世代は安倍総理が日本の敗戦後の歩みを変えることを強く警戒してきたから「この頃の現実路線には安心感がある」(70代の元教員)となる。 安倍総理はまずは、足元の党内の声を聴くべきではないか。 例えば、参議院の厚生労働委員会である。わたしはこの委員会に属していない。しかし1回生議員として「雑巾がけ」を積極的にやると決めているから、出席できない議員の差し替えを務めていた。すると野党議員が「妊婦加算」について「おかしいではないか」と問うた。病院で妊婦と分かれば治療費を余計に払えという制度が4月から始まっている。わたしの周りの自由民主党席には医師でもある女性議員が複数いる。その議員らから「人手が足りないから無理にでも外国人を入れようとしているのに、なぜ妊婦を苛(いじ)めるの」という秘めた声が幾つも聞こえた。 わたしは議事の邪魔にならないよう他には聞こえない声で「レントゲン一つとっても医師の負担増は分かりますよね。しかしそれは妊婦ではなく国が負担すべきです。人手不足は人口減で起きているのだから、妊婦こそ国の宝ですね」と応じた。そして野党議員が質問を終えるとき、男女を問わず自由民主党席から自然に大きな拍手が起きた。 この厚労委では、水道法改正案の趣旨説明も行われた。水道事業がこれも人口減で行き詰まりを見せ、老朽化した施設を更新できないでいる。だから自治体が水道の運営権を民間に売れるようにする法改正で、すでに前国会で衆院を通過している。この運営権にフランスの水メジャーと中国が強い関心を持っているとされるが、命の水、ことに日本は水の邦(くに)でもある。少なくとも外資規制を掛けるべきだ。青山繁晴参院議員=2018年9月(仲道裕司撮影) 厚労委で自由民主党のあるベテラン議員は、わたしに「安倍総理は何を考えている。水道法も妊婦加算も入管法改正も人口減への対処が間違ってるよ」と小声で言い、「(自由民主党本部で開かれた)法務部会で青山さんがずっと入管法改正に反対していたあの主張、全く正しいよ。俺(おれ)は立場上、言えないけどね。地元でもみな、そう言っているよ。このままじゃ選挙に負ける。頑張ってほしい」とわたしの眼を覗き込んだ。 その法務部会では、「業界から頼まれてきた。早く外国人が欲しい」と正直に、あるいは露骨に発言した議員もいらっしゃった。ある意味、ミッション(使命、作戦)を帯びた反対論潰しの試みがあったわけだ。ところが部会の外では閣僚経験者や党の重鎮までが党本部のエレベーターや国会議事堂の廊下で「入管法改正反対は正しい。主張を続けてください」と仰る。「反対論はおかしい」という声は部会の外では、皆無だ。総理の真意はどこに おのれに都合のいい声だけを取り上げているのではない。 例えば、選挙の足腰を支える地方の女性党員はどうか。わたしは今、党女性局の史上初の男性事務局長を務めている。配偶者が日本女性で初めて大型船の船長資格を取り、現在も研究調査船に乗船してメタンハイドレートや熱水鉱床といった日本が建国以来初めて抱擁する自前資源の探索にあたり、彼女が幼い子二人を残して遠洋航海に出た時は、忙しい政治記者だったわたしが子育てをした、そんな事実が影響しているのかもしれない。 その女性局事務局長の務めとして参加した地方のブロック会議で、公式会議が終わると地方議員の女性が複数、寄ってこられ「妊婦に金銭負担やストレスを与え、何より大事な水を売り渡し、日本の女性や中高齢者を雇わずに外国人を、総理が国会で答弁なさっていることと違って、実際には多くは低賃金で雇う。総理はいったい何なの。これで来年、選挙をやれと言うの」とわたしに厳しく問うた。 では総理の真意はどこにあるのか。 再登板後の安倍総理は現実主義者である。不肖わたしも長年、安全保障・危機管理を民間から担う実務者であったから、現実を常に見ている。ところがお話ししていると総理には、はっとさせられるほどリアルな現実把握、みごとな現実認識がある。 安倍総理がたった今、冷徹に把握している現実は、後継者がいない事実だ。日韓合意以来、わたしと安倍総理は意見の違うことばかりだが「安倍総理の後継総理は国家観、歴史観が共通する人でないと、苦闘の果てに積み上げてきた平和安全法制や特定秘密保護法という敗戦後の日本の在り方見直しが無に帰する怖れがある」という認識では一致している。 だから総理は今、「一定の仕上げを自分でやっておかないと」という危機意識でいっぱいだ。そのために「人手不足倒産をとりあえず解消しないとアベノミクスが続かない。水道をはじめインフラの更新をとりあえずできるようにしないといけない」となる。 前者には「最大でも35万人の外国人だから、あくまで労働者だ。移民じゃない」、後者には「水道の管理責任はあくまで公(おおやけ)、自治体にある」という自己弁明が付く。そして妊婦加算は、国会で答弁を求められるまではおそらくあまりご存じなかった。 これらは不肖わたしの推測だが、もとより単なる推測ではない。総理側と交渉をするなかで明瞭に伝わってきた総理の真意である。 わたしは一回生議員に過ぎない。入管法改正の廃案を叫び、ただ反対するだけなら一回生議員にもできる。だが叫ぶだけだ。おのれの支持者の喝采を待ち、結果には責任を持たない、一つの保身である。内政だけでもズレがある まだ後輩議員もいない身も顧みず、やらねばならないのは政府原案修正の実現だ。入管法改正案はこのままでは、ぼくらの祖国を見知らぬ国にしてしまう。日本国民の中高齢者、女性、そして引き籠もりや鬱によって就職できずにいた若者の就労を実現する、あるいは外国の国民が日本の社会保障を悪用しないと同時に、日本国民と同じ人権が守られる。そのための法案修正に与野党が合意するよう、勝手に、非力のまま水面下で動いている。 そのとき、もっともしっかり確認しておかねばならないのが総理の意思だ。 修正は議員間で行われる。しかし特定秘密保護法も、安倍総理と渡辺喜美・みんなの党代表(当時)の秘密合意があったから、議員間修正が実現した。入管法改正についても「修正OK」という総理の意志が背景にないと修正が進まない。それを確かめる過程で、わたしなりに総理の危機意識を把握したのだった。 その危機感を知りつつ、あえて総理にお尋ねしたい。長年、選挙への出馬要請を断ってきたわたしがついに決断したのは、西暦2016年6月の参院選公示が迫るなか、突然に掛かってきた総理からの電話がきっかけだった。 「青山さんが国会に来れば、外務省が変わる。あと経産省も変わるな。それから部会で発言すれば自民党の議員も変わる」。これは順に、拉致被害者帰還交渉の難渋、メタンハイドレートをはじめ自前資源の意図的な放置、党の利権構造、それらを変えたいという安倍晋三総理の強い願いの表れであり、現場で協力してほしいという要請に他ならなかった。 総理は忙しさでお忘れかもしれないが、これほど印象深い電話も、半生にない。記憶はまことに鮮明だ。そして法務部会で熱心にわたしの反対を聞いてくれた自由民主党代議士のひとり、行政経験の豊かな神谷昇・元泉大津市長は、わたしが講演でこのエピソードを話したとき、「変わった、変わった。確かに議員が変わった」と明るい声で叫ばれた。 総理、まずは足元の党内の声を聴き、それぞれの地元の有権者の声を集めることを急ぎ、なさってくださいませんか。それ無しでは、来年、仮に衆参ダブル選挙に打って出ても、野党の選挙協力の成否にかかわらず大敗し、政権を失いかねません。ロシアのプーチン大統領と会談後、取材に応じる安倍首相=2018年11月、シンガポール(共同) 本稿では訪中、北方領土交渉という最近の安倍外交には、字数の制約もあり、あえて言及しなかった。だが内政だけでこれだけの足元の声とのズレがある。改憲と拉致被害者の全員救出、この再登板後の安倍政権の本来の目的のためにも、ここではわたしが僭越ながら、こころの電話をお掛けします。「批判されても仕上げを急ぎたい真意を受け止めたうえで、総理、日本を取り戻すためという再登板の志に戻りましょう」と。

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    「外国人労働者は移民ではない」日本はドイツの失敗を直視せよ

    雨宮紫苑(ドイツ在住フリーライター) 日本に一時帰国するたびに、働いている外国人を見かける回数が明らかに増えている。 羽田空港国際線の免税店では、資生堂の販売員も、酒類の販売員も、レジ係も、みんな外国人だった。銀座のアップルショップでも対応してくれたのは外国人販売員。居酒屋やコンビニ、スーパーや回転寿司といった場所でも、言葉のイントネーションや見た目、名前から、外国人と思われる人と日常的に遭遇した。 外国人労働者数を調べてみると、10年前の2008年は約49万人だったが、17年は約128万人と年々増加しているらしい。外国人を見かけることが多くなったのも、当然といえば当然である。 しかし不思議なのが、日本で語られるのは主に「外国人労働者」についてであって、「移民」については全くといっていいほど言及されていないことだ。 国連広報センターによると、「国際(国境を越えた)移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、本来の居住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意」しているのだそうだ。ちなみに移民の移動の形として、移住労働者や出稼ぎなどを例として含めている。 つまり、居住地を海外に変更し、変更先に一定期間住んでいれば、現地で仕事をしていようが留学していようが『移民』と認識できるわけだ。 一方、日本の定義は違う。自民党は「『移民』とは、入国の時点でいわゆる永住権を有する者であり、就労目的の在留資格による受け入れは『移民』には当たらない」としている。2018年10月の自民党厚労部会がまとめた外国人受け入れに関する決議の内容を法務部会で説明する小泉進次郎部会長。左は長谷川法務部会長(春名中撮影) しかし、このまま「外国人労働者は移民ではない」と言い張っていいのだろうか。日本が戦後ドイツの歴史をなぞっているように思えて、どうしても危機感を覚えてしまう。「手遅れ」となったドイツ ドイツが現在、移民と難民問題で揺れているのは周知の事実だ。2018年10月、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)は南部バイエルン州と西部ヘッセン州の地方選で得票率を大きく落とし、メルケル首相は21年に政界を引退することを発表した。難民政策の失敗が大きく影響しているのは、言うまでもない。移民や難民の受け入れは、ドイツにおいて最も関心度が高い政治テーマの一つだ。 とはいえ、ドイツの外国人受け入れについてのニュースが日本で大々的に報じられるようになったのは15年の難民危機以降である。もしかしたら、「それまではうまくやっていたのに一度に大量の難民が押し寄せてきたからパンクしたんだろう」と思っている人もいるかもしれない。 しかし、歴史を振り返ってみれば、決してそういうわけではないことが分かる。ドイツの外国人受け入れ政策の失敗の一つに「外国人労働者を移民と認めなかったこと」が挙げられるからだ。 旧西ドイツは、戦後の人口増加が緩やかだった上に、戦死者が多く、経済成長に伴い人手不足に陥った。労働時間短縮や有給休暇制度の改善を求める権利闘争が盛んになったこともあり、外国人を「ガストアルバイター」として受け入れ始める。ガスト=ゲスト、アルバイター=ワーカー。分かりやすく訳せば、助っ人外国人である。 彼らは安く雇用できる上に、本国に仕送りするためによく働いてくれるし、ドイツ人がやりたくない仕事もやってくれる。便利も便利、超便利である。 ガストアルバイターはあくまで「一定期間ドイツに出稼ぎに来ている人」だから、1960年代はまだ「ドイツは移民国家ではない」というのが共通認識だった。しかし、ドイツの予想を裏切り、ガストアルバイターの多くは家族を呼び寄せたり現地で結婚したりして、ドイツに定住することになる。 1973年に一度外国人労働者の受け入れを停止するが、その後再び人手不足に陥り、受け入れを再開。2000年、ドイツの総労働力人口における外国人の割合は8・8%で、人口の7・3%が外国人という状況だった。 21世紀になって少ししてから、ドイツはやっと「移民国家」としての舵を切る。ドイツ語教育やドイツの社会、歴史などを学ぶ市民教育を統合講習として受講を義務化し、移民の社会統合を目指し始めたのだ。2018年10月、ベルリンで記者会見するドイツのメルケル首相(ゲッティ=共同) しかし、時すでに遅し。すでにドイツ人と外国人(移民背景がある人たち)の収入格差や学歴格差、言語の壁や宗教問題など、課題は山積みになっていた。 15年に大量の難民を受け入れたことで、ドイツが混乱したのは事実だが、それはあくまできっかけにすぎない。移民とそうでない人との間にある火種は、15年に突然生まれたものではなく、それよりも前にくすぶっていたのだ。ドイツと同じ轍を踏む? しかし興味深いのは、これほど多くの外国人を受け入れたのに、ドイツは2018年10月、欧州連合(EU)域外から専門的資格とドイツ語能力を持つ人を呼ぶための新移民法を制定したことである。 スイスの国際ビジネス教育・研究機関IMDによる「World Talent Ranking 2017」で「高度外国人材にとっての魅力度」が世界16位であり(ちなみに日本は51位でアジア最下位)、これだけ多くの外国人を受け入れているのにもかかわらず、新たに法を制定しなくてはならないほど高度人材が足りていないのだ。 こういったドイツの事情を踏まえて、改めて日本について考えてみよう。 日本は現在、深刻な人手不足に陥っている。中小企業を中心にバブル期並みの人手不足となっており、45%もの企業で常用労働者が足りていない。だから「移民ではない」という建前で外国人労働者をどんどん受け入れているわけだが、このままでは「気づいたら移民が増えていたので対策します」というドイツの二の舞になってしまいそうだ。 ドイツと同じ轍を踏まないために、外国人労働者の受け入れは移民政策の一貫として、戦略的に行う必要性があるのではないだろうか。 「移民」という言葉に抵抗感がある人も多いだろうが、「移民国家」を認めたことで起こる反発より、それを認めずに実質移民国家となり「日本人vs外国人」と対立するほうが、私にはよっぽど恐ろしく思える。 そもそも、日本で働いている人の多くは既に「移民」と呼べるし、そうでなくとも定住する可能性のある移民予備軍なのだから、「移民」という言葉にだけ反対していても意味がない。 では、必要とされる移民政策とは、例えばどういうことをいうのか。ドイツ・ベルリンのアラブ人街を歩く男女=2018年6月(共同) まずは、外国人の経済的安定が不可欠である。ドイツ連邦雇用庁によると、16年の失業率は、ドイツ人が5・0%、外国人は14・6%。収入にも格差があり、15年のフルタイム労働者の収入は、ドイツ人とそうでない人で21・5%もの差があった。社会保障費を減らすという点でも、外国人が経済的に不利にならないよう予防することは必要である。 また、過労死がすでに多くの国で報じられている日本で、外国人搾取が続き、それが公になれば、国際的なイメージに影響することも理解しておかないといけないだろう。「事前対策」現場だけでは限界 次に教育だ。家庭内の第一言語がドイツ語でないためドイツ語を話せないという小学1年生が増加し、現在ドイツでは教育レベルの低下が懸念されている。言語的ハンデが低学歴につながり、学歴格差がさらに収入格差として現れるのも問題である。 日本は私立の高校、大学が多いため、経済的に不利な外国人家庭の子供が進学を断念したり、公立高校に殺到したりするかもしれない。そうならないためにどうするか。 他にも宗教の問題がある。日本は比較的宗教に寛容とはいえ、勤務中の礼拝をどう扱うか、学校の修学旅行が京都・清水寺でいいか、半袖の制服着用を義務化していいか、といったことも考えていかなくてはいけない。職場飲み会もNGになるかもしれないし、社食では牛や豚を使わないメニューを用意する必要があるかもしれない。宗教において「ここは日本だから合わせろ」は通用しない。 これらは、外国人を受け入れる以上、起こり得る想定内の課題である。それならば当然、事前対策を求められる。多くの国が移民問題に揺れているのだから、「移民国家じゃないので対策しません」というのは、あまりにお粗末だ。 それぞれの自治体や学校、職場で社会統合に向けての個別努力は行われているが、現場だけでは限界があるだろう。 もうさっさと移民を受け入れていると認めて、横断的に受け入れ政策を担当する省庁、ドイツでいう連邦移民難民庁(BAMF)のような公的機関を用意した方がいいのではないだろうか。移民を認めず社会統合のスタートでつまずいたドイツと、わざわざ同じ道をたどる必要はない。 「外国人労働者を受け入れるべきか否か」という議論も大事ではあるが、既に「移民」と向き合うべき段階になっているんじゃないかと思う。求められているのは、「移民かどうか」という言葉遊びではなく、受け入れた外国人と共存・共栄するための議論だろう。 そして最後に言いたい。人手不足解消のために、引きこもりの社会復帰促進や、闘病中・介護中・育児中の人の就職支援など、国内でできることはまだまだたくさんある。政府は高度外国人材を呼び込むために最短1年で永住権を認めることにしたが、日本にだって優秀な人はいるのだから、修士以上の高学歴者の優遇や研究費の支援なども検討すべきだ。 外から人を呼ぶのは一つの選択肢だが、国内の「自給自足」も忘れないでいてほしい。

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    256万人の「移民予備軍」に口ごもる自民党の矛盾

    坂東忠信(外国人犯罪対策講師、作家) 日本経済新聞によると、2017年半ばまでの段階で、技能実習生の失踪は既に年間7千人を超えている。受け入れ企業側も実習させてやる程度の賃金で、ろくな実習もないままに単純労働をさせているケースもある。 今や実習生は情報端末を駆使しながら、日本各地で働く同国人や友人のネットワークで、待遇や賃金がより良い職場を求め脱走するが、在留資格が更新できずに不法滞在者となる。新たな職場の雇用側も人手不足のため、そこに働く外国人従業員のツテで受け入れる。 しかし、彼らも人間である。働いている時間以外にも休み、遊び、恋をして、子供をつくる。さらなる収入を得たいし、楽もしたいし、苦しくなれば犯罪に走ることもある。 外国人の「道徳格差」はインターネット上で明確に認識されている。だが、国際的規模に膨れたカネのうなる大企業を広告主とするオールドメディアは、スポンサーの海外でのイメージを守るため、問題の核を「文化の違い」と表現し、道徳レベルの差から発生する国内外国人問題の核心に迫ろうとしない。 こうした問題を放置し、改善することなく、さらなる労働力を呼び込むために、出入国管理法が改正されようとしている。自民党は、票や政治献金を生み出す企業や団体の要求を拒むことができないからだ。 改正の目玉は「特定技能1号・2号」という在留資格の追加だ。改正案は、1号に「相当程度の知識または経験」、2号に「熟練した技能」を要求し、外国人材を受け入れるとしているが、各号の求める具体的水準は不明だ。 その資格の詳細に関する説明は他に譲るが、改正案に対して、自民党法務部会では発言議員の9割が反対を表明したという。しかし、残る1割が賛成側に立ち、現実の倒産要因にまでなっている「人手不足解消」の大義名分を掲げて押しまくった。2018年10月、自民党法務部会であいさつする長谷川岳部会長(奥中央) 反対の議員も「具体的に何人が何年必要なのか」「要らなくなったら『帰れ』でいいのか?」と押し返すなど激しいせめぎ合いを展開した。各業界団体のヒアリングも交えた討議の結果、安易な枠の拡大や基準の引き下げで移民政策にならないよう、法務部会と厚生労働部会で具体的なハードルを設定した部会決議を法案に付した。国民も外国人も不幸にする しかし「与党グセ」がついている自民党は、いつまた野党に落ちて、このハードルが取り払われるかなど考えていない。まるで「玄関」は開放されたと言いつつも、上がり口を高さ2メートルにし、天井下30センチしかない隙間をくぐって入る客だけを歓迎するかのようだ。 でも「家」の中を見渡せば、窓にはスパイ防止法という「網戸」さえなく開けっ放しで、泥棒がよく入る上に、「家庭崩壊」寸前で「だからレベルの高い外国人メイドが必要」というオヤジをあなたは信用できるか。私たちはそんな国「家」の家族なのだ。 たとえ実習生が高度プロフェッショナル人材であっても、帯同する家族も歓迎すべき人材とは限らない。また、実習生本人も歓迎に値する人材で有り続けることを期待したり、矯正することはできない。 そして、本人が労働意欲を失ったり、何らかの理由で評価に値する技能を発揮することが不可能になっても、企業は面倒を見てくれない。収入に困った彼らによる犯罪やその被害回復の責任がどこに帰するのかも不明だ。まさに、国民も外国人も不幸にする改正法案である。 おまけ、国別の枠の割り当てもないため、隣国の中国や韓国の人材が多くなるのは必定だ。滞在中に母国崩壊が発生すれば、彼らは日本に居ながらにして難民になる。 実際に米国が進める「米中経済戦争」は政権転覆や社会の混乱、つまり国外脱出者が現れるレベルを目指し、締め上げにかかっている。そうして、難民発生の際には、国際社会が日本に対して国庫を傾けるほどの保護を求めてくるに違いない。 一方、単純労働者を求める労働市場では、難民を含む外国人材の雇用で、大企業の上層だけが潤い、収入格差は広がるばかりだ。彼らへの厚生や福祉で不可避となった消費増税がデフレを加速し、日本人は疲弊する。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 今でさえ円安路線を維持した日本は既に国際的デフレ国家であり、日本人の賃金は先進国内で驚くべき低レベルだ。外国人旅行客の目には、サービス最高の「おもてなし激安国家」と映るのだから、オーバーステイしたくなる気持ちも理解できる。 そもそも、問題は「労働力不足」である。ニートが高齢化しても、シングルマザーになっても生きていけるほどの社会制度が、きしみながらこれを支え、今やその福祉制度が外国人に食われるほど、生きる力と競争する意欲を失った日本人が問題なのだ。批判覚悟の「提案」 そこで、批判を覚悟の上で提案したい。海外展開を行っている大企業はアベノミクスの恩恵を受け、株価も上昇している。ところが、今の経営陣はバブル崩壊の経験者であるため、内部留保を積み上げ、賃上げによる支出を恐れ、さらなる安価な労働力を外国人に求める。そこで、労働基準法にでも「企業トップと末端の賃金格差は○倍まで」と定めれば、さっぱり進まない賃上げもトップから進めざるを得なくなり、社会問題である収入格差も緩和、労働意欲も上がるのではないか。 また、企業が大卒や新卒にこだわらず、独自の採用基準で若い人材を求めれば、就職のためのカタパルト(射出機)と化した意味無き大学は淘汰(とうた)され、大学全体のレベルも向上して洗練されるだろう。 こうして、企業が学歴偏重の採用基準を変えれば、親は借金してまで子供を大学に送る必要がなくなり、その資金を老後に回せる。子供は10代から社会に出ていれば、20代後半にはベテランの域に達するので、結婚資金も貯(た)まる。短期的には成婚率が、中期的には出産率と出産人口が、長期的には労働人口も上がるのではないか。 そのためには企業トップの意見を尊重する自民党の他に、勤労者のための、健全で主体性のある野党が必要だ。本来であれば、企業に君臨する「ブルジョア階級」の収入を規制し、「プロレタリア」の賃金を底上げする政策については、日本共産党あたりに期待したいところではある。また、「自民あっての反自民」を貫く立憲民主党は、今回の実質的移民政策にも反対するのだろうか。 安倍晋三内閣は「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太方針)に「移民政策を採らない」としているが、自民党議員は移民の定義を知らないか、口にできない。国連人口部の定義によれば、移民とは「主権のある母国を1年以上離れて外国に暮らす人」を指す。そして、この移民の概念には、密入国者や不法滞在者、帰化した初代が含まれる。 既に日本には、留学生を始めとする移民と「移民予備軍」が256万人以上も存在するが、自民党議員がこれを口にすることは骨太方針の矛盾をさらけ出すことになる。だから「移民」という言葉に異を唱え、改善できる議員はいないのだ。 そもそも、議員の仕事は理想の発表や世論啓発ではなく、法の立案や審議である。法改正案に部会決議文で歯止めを盛り込んだ党内の反対議員も、議論に参加し論議を尽くした以上は、組織としての決定に文句をつけることはできない。それを期待するのが酷であることは、何らかの組織に属する社会人ならわかるはずだ。自民党本部=2018年9月(納冨康撮影) だが、読者諸兄は昨年の流行語をお忘れか。そう、ここに「忖度」が必要である。発言議員の9割ほどいた反対議員は心の中で、決議文を付けても力が及ばず手を離れたこの法改正案を誰かに潰してほしいのだ、と私は「忖度」した。 国民の政治参加は選挙のみにあらず。世論を大いに盛り上げ、燃え上がらせて法案を灰にするよう、ともに声を上げようではないか。

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    留学生受け入れは「親日」育てる目的なのに“嫌日”が急増中

     日本の専門学校や日本語学校に在籍する外国人留学生が急増している。独立行政法人「日本学生支援機構」によれば、専門学校に在籍する留学生の数は2017年度には5万8711人と、5年間で3万人以上も増えている。「日本語学校」にも、2017年度には8万人近い留学生が在籍し、5年間で専門学校を上回る5万人以上の急増ぶりだ。 本誌SAPIO7・8月号で触れたように、その大半は勉強よりも出稼ぎが目的の“偽装留学生”たちだ。留学生に認められる「週28時間以内」のアルバイトに目をつけ、留学を装い出稼ぎ目的で来日する若者が急増しているのである。本来、留学ビザは「母国から仕送りが見込め、アルバイトなしで留学生活を送れる外国人」に限り発給されるため、新興国からの留学生の多くが借金をしてブローカーに手数料などを払い、親の年収や預金残高などをでっち上げている。 その彼らが、今度は就職して事実上の「移民」となる。法務省によれば、2017年に日本で就職した外国人留学生は過去最高の2万2419人に達した。前年からは約3000人、2012年からは2倍の増加である。その数は将来、飛躍的に増える可能性がある。早ければ2019年春にも、留学生の就職条件が緩和されるからだ。 現状では、留学生は大学や専門学校で専攻した分野に近い仕事で、技術者を含めたホワイトカラーの職種にしか就職できない。それが大学卒の場合は専攻に関係なく就職でき、専門学校卒も「クールジャパン」に関連する仕事であれば就職できるようになる。「単純労働への就職」も可能に 就職条件の緩和に関し、法務省は「優秀な外国人材の国内定着の推進」が目的だとしている。だが、“偽装留学生”が大量に受け入れられた現状を見ても、大学や専門学校を卒業したというだけで「優秀な外国人材」と定義してよいのだろうか。※写真と本文は関係ありません(ゲッティイメージズ) この時期を狙い、政府が留学生の就職条件緩和に踏み切ったのには理由がある。2012年頃から急増し始めた留学生たちが、日本語学校から専門学校、大学を経て、これから続々と卒業、就職の時期を迎えるのだ。 大学を卒業した留学生の就職には、「年収300万円以上の仕事」という制限だけが残る。つまり、現状では認めていない「単純労働」への就職も可能となる。留学制度をめぐる「闇」 専門学校の卒業生には「クールジャパン」関連という条件こそあるが、具体的な職種までは定義されていない。「日本の弁当文化を学びたい」「牛丼を母国で広めたい」といった理由で、弁当工場や牛丼チェーンに就職できる可能性もある。そうなれば、留学生としてアルバイトで働いていた現場で、今度は社員となって仕事もできる。政府は「優秀な外国人材」という詭弁を使い、これまで通り“偽装留学生”を単純労働者として活用したいのかもしれない。そもそも外国人労働者を最も欲しているのはホワイトカラーの職種ではなく、単純労働の現場なのだ。 ひとたび留学生が就職すれば、ビザの更新は難しくはない。就職緩和策は“偽装留学生”の「移民化」にも通じる。だが、日本語が不自由な彼らにはキャリアアップも望めず、移民となっても社会の底辺に固定されかねない。人手不足が緩和されれば、最初に職を失うのも彼らだろう。治安にも影響しかねない。 その兆候はすでにある。外国人の不法残留は今年1月1日時点で6万6498人を数え、4年連続で増加した。うちベトナム人は前年から30%以上も増加して6760人、元留学生の不法残留者も4100人に及ぶ。外国人犯罪の検挙件数も2017年には1万7006件と、前年から約20%増加した。とりわけベトナム人は約3割の5140件に関わり、国籍別に中国を抜いてトップとなった。こうした不法残留や犯罪の増加には、明らかに“偽装留学生”の急増が影響している。 留学生の受け入れは、日本の言葉や文化に親しみ、“親日”となる外国人を育てるのが目的のはずだ。しかし、現状は逆に“嫌日”外国人を増やしている。事実、筆者は過去5年間の取材を通じ、日本に憧れ入国しながら、この国で暮らすうち、“嫌日”となった留学生たちと数多く出会ってきた。日本語学校や専門学校、大学、そしてアルバイト先となる企業に都合よく利用された末のことである。 “偽装留学生”の流入は止まる気配がない。受け入れ先となる学校、そして人手不足の産業界には好都合である。とはいえ、留学生を自国民の嫌がる仕事の担い手として受け入れ、しかも「移民」にまで仕立て上げようとする国など、世界を見回しても存在しない。政府は留学制度をめぐる「闇」をいつまで放置するつもりなのだろうか。取材・文/出井康博(ジャーナリスト)【PROFILE】いでい・やすひろ/1965年岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙「ザ・ニッケイ・ウィークリー」記者、米シンクタンクの研究員等を経てフリーに。著書に、日本の外国人労働者の現実を取材した『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社刊)などがある。関連記事■ 「外国人留学生増加で授業の質低下、日本人さらに減る」現実■ 偽装留学生こそ学校にとって「金のなる木」 大学でも増加中■ 日本人女性との偽装結婚を検討した中国人不法就労者の告白■ ベトナム人留学生の犯罪が増加 なぜ彼らは犯罪に走るのか■ 検挙件数が中国人抜き1位、在日ベトナム人「犯罪SNS」潜入

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    「高齢者時給500円」移民反対論をなくすにはこれしかない

    まず、日本が長年脱却できないデフレの原因は何だと思うだろうか。諸説あるが、一番イメージしやすいのが、少子高齢化である。ところが、経済学的には、先進国はどこも少子高齢化であり、日本だけがデフレの理由にはならないという視点が必要だ。これは、先進国で日本だけが移民を受け入れていないという点で説明がつく。 ついでに言えば、日本の少子化対策について、欧州の出生率が上がったから日本も女性が働きやすい環境整備をしろという声もあるが、欧州は婚外子を認めたからだ。また、アメリカは女性が働く環境整備がなくても、出生率が上がった。なぜなら、自国民の出生率は低いままだが、移民の出生率が全体を底上げしたのだ。 本来、出生率は、低所得者や難民、地方の生活者ほど高く、都市化とともに減少する。日本も少子化が問題視されているが、地方はさほど少子化は進んではいない。人口は減っているが、都市部に吸い取られているだけだ。同じことは、中国でも起きており、一人っ子政策を緩和しても都市部では2人目は作らない家庭が多く、増えていない。 そこで本題に戻るが、国内で根強い移民反対論にメスを入れるにはどうすればいいだろうか。 そもそも、企業側は労働力不足をカバーしたいので、賃金の安い外国人労働者を増やしたいのが本音だ。経営的側面が移民規制緩和論の根底にあり、主導しているのは経団連だ。だからこそ移民緩和論が台頭しているのだ。 では、企業側が望む時給とはいくらかご存じだろうか。筆者が全国の企業経営者らの講演会で毎回リサーチしているが、500~700円程度である(ちなみに東京都の最低賃金は985円)。しかし、今は労働力が不足し、最低賃金で募集してもどこも人が集まらない。だから、最低賃金で働いてくれる技能実習制度の外国人を受け入れたがるのだ。 こうした経済的側面、経営的側面で見ると外国人労働者の受け入れはメリットが大きいが、なぜ、これほど批判されるのか。それは昨今起きている、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ現象、世界の排他主義の台頭、すべては、移民がテロや犯罪の温床になり治安が悪化するとされているからだ。そして最も大きな理由は、移民労働者によって自国民の雇用が奪われ、自分たちの生活が苦しくなることへの懸念だろう。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) そこで、まず、最低賃金以下の労働力を確保したい企業の視点から考察する。高齢者3500万人について、国は段階的に年金支給開始年齢を70歳に引き上げたいのが本音で、理想は75歳である。 ところが、働かそうにも企業側の文化が高齢者に向いていない。これをまずは生かせるようにするため、年金受給者の最低賃金を短時間においてのみ限定的に解禁する。 例えば、高齢者を4時間限定の労働なら時給500円で雇用できるとしたらどうか。若者一人ではなく、高齢者2人のシフトを組めば、高齢者であることのハンデと天秤にかけてどちら選ぶだろうか。筆者が経営者らの講演会で挙手を求めるとほぼ、100%この案に賛成である。 つまり、高齢者の雇用促進を加速させる制度をとり、それでも足りない差分が判明したところで、初めて外国人労働者の受け入れと総量を議論すればいい。望むのは富裕層の「移民特区」 かつて、この論を提唱した際、「時給500円で働く人なんかいない」と炎上したが、仮に、500円で働き手がいなければ、自然と時給は上がるはずで、これができなければ、移民もやむなしという世論が形成され、晴れて反対論はほぼなくなる。 最低賃金とは、いわば、イデオロギーと票田稼ぎの思惑が強く、極論かもしれないが、筆者はそもそも、労働規制改革の本丸は最低賃金法の廃止だとも思っている。 また、外国人労働者をどのような方法で受け入れるかについても、最低でも経済連携協定(EPA)締結国に限定すべきだ。これだけでも、労働意欲が薄く、テロのリスクが高いとされる国からの移民にブレーキをかけることができる。 さらに、筆者が大々的に解禁してほしい移民の分野が二つある。一つは富裕層で、もう一つが、起業家である。 海外でもリタイアメントビザ(退職者向けのビザ)を取得できる制度はたくさんある。海外の退職後の富裕層が日本に移住すれば、不動産などの売買も活発になり、不動産価格も上がり、税収も増えるだろう。富裕層なら治安悪化の恐れも少なくて済む。富裕層が日本に永住しやすい環境を「移民特区」で提供すれば、地方の活性化にもつながる。 ただし、たびたび議論される外国人参政権による政治の浸食、住民投票権の外国人付与につながらないよう、細心の注意を払う必要はある。これらの規制を強化できず、富裕層の資金力であらゆるものが買収されては、移民の脅威の解決策ではなくなってしまうからだ。 もう一つが起業家だ。アメリカのシリコンバレーの半数は外国人である。そもそも、起業は勉学ができるだけでうまくいくものではない。ハングリー精神も必要であり、草食系が多いとされる日本の若者から優秀な経営者が多数生まれるとは思えない。 日本も「2025年経営者問題」があり、経済産業省は今ある法人がこのままだと経営者の高齢化や後継者難で、国内総生産(GDP)の22兆円分が失われると警鐘を鳴らしている。ゆえに新陳代謝を促す上でも若者の起業率を上げるより、外国人起業家を日本で展開しやすくする方が経済のすそ野を広げる上で重要だと考える。 最後に、なぜ移民反対派であろう安倍首相が移民法を推進し、移民受け入れ賛成派であるはずのリベラル、左系野党が反対するかについて説明しておく。衆院予算委員会で外国人受け入れ問題について答弁を行う安倍晋三首相=2018年11月、国会(春名中撮影) 安倍首相の入管法改正案は、最低賃金が上昇し続けていることを踏まえ、経団連のガス抜き的な意味合いが強い。現状のような骨抜きの方がかえって、実績を出さなくても文句も出ないし逃げ道を作っておくことができるからだ。様子見しながら方針転換ができるようにしているとしか思えない。 一方、野党を見ていると、安倍政権の「移民法案」に反対なだけで、本音は賛成なのに相も変わらずのパフォーマンスと責任逃れをしているだけだ。本来なら、野党は移民を促進し、外国人参政権を解禁し、夫婦別姓で婚外子の促進が狙いだが、今、欧米で起きていることを体現しようとするなら無責任としか言いようがない。

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    日本人女性との偽装結婚を検討した中国人不法就労者の告白

     2018年6月現在、在日中国人の総数は74万人。うち不法滞在者は9500人ほどとされ、彼らの大部分が「黒工」(ヘイゴン)と呼ばれる不法就労者となっている。もっとも日中間の経済格差が縮小した昨今、当初から不法就労を目的に来日する中国人はほとんどいない。 黒工たちの多くは、劣悪な労働環境や低賃金が指摘されている外国人技能実習生が就業先から逃亡したパターンか、留学生がオーバーステイしたパターンである。日本人の目には決して見えてこない、在日中国人社会の最末端にうごめく人々の姿をルポライター・安田峰俊氏がお伝えする。* * * オーバーステイの元留学生が不法就労者になった例を紹介しよう。福建省福清市出身の王晨(仮名、23歳)は、高校卒業後の2014年に来日した。最初は神奈川県内の日本語学校、次に大学の日本語別科に籍を置き、事実上の偽装留学生としてバイトに明け暮れていたという。 王はその後、年度が変わり学籍がなくなってからも日本に残り、黒工として3か月間働いていた。「通常、留学生のバイトは週28時間以内と決まっているが、それに違反して長時間勤務をしても月収は20万円少し。学費は年間78万円かかるし、さらに生活費を差し引けば貯金はできない。学費の負担がない黒工のほうが稼げるのではないかと思った」 まだ在留資格が残っていた今年3月に都内の居酒屋の面接を受け、採用された。職場の日本人経営者は、採用後は在留資格をチェックしなかったので、彼が不法就労者とは最後まで気付かなかったという。「月収は増えたが、東京五輪を前に不法滞在者への取り締まりが厳しくなり、街を歩くたび不安だった。日本にいるために日本人女性との偽装結婚も検討したが、毎年70万~80万円をブローカーに支払うと聞き、(偽装)留学生と出費が変わらないので諦めた」 黒工はトラブルに巻き込まれて入管施設への収容や強制送還に遭うことを非常に恐れており、ケンカや交通違反は「絶対にできない」。他の在日中国人から詐欺に遭ったり、職場で危険な業務を強要されたりしても、告発は不可能だ。「僕自身、中国人の友人に貸した20万円を踏み倒されて泣き寝入りした。いくら日本で働けても、黒工のリスクは大きすぎる」 1か月ほど悩んだが、最終的に帰国を決めた。入管に出頭したところ、収容を受けることもなくあっさりと帰国できた。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「日本は街が清潔で気に入っていた。地元の福清市で働けば、月収は2000~4000元程度(約3.2万~6.4万円)にすぎない。合法的に滞在できたなら、日本でもう少し働きたかったな」 懲りない男である。【PROFILE】安田峰俊●1982年滋賀県生まれ。ルポライター。立命館大学文学部卒業後、広島大学大学院文学研究科修了。最新刊に『さいはての中国』(小学館新書)がある。関連記事■ 中国人技能実習生が逃亡し不法就労者「黒工」になるまで■ 不動産会社社員 仕事のため4回偽装結婚、相手の一人は70歳■ 中国の結婚詐欺 14歳の娘に「三重婚」させる手口まで発覚■ 在日中国人向けフリーペーパー「1週間以内入籍可」の広告■ 運び屋に仕立てられる「ラブコネクション」 出会い系経由が増

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    「労働生産性はゼロ成長」人手不足、解決のヒントはここにある

    悩みからきていることになります。 数字でもう一つ注目したいのは、2000年から2010年にかけては、少子高齢化、生産年齢人口の減少に伴って就業者数も減っていたのですが、その後は少しずつですが就業者数は増えています。これは女性や高齢者が就業するようになり、彼らの「労働参加率」が高まったことと、外国人労働者が増えてきたことによると見られます。そしてこうした「限界労働力」の増加が人件費を抑えるとともに、また生産性上昇を抑制している面も否めません。外国人に頼るのは最後の最後 このようにみると、人手不足、低賃金を解消する有力な方法が労働生産性の引き上げで、それを実現するために必要なのは、民間企業の設備投資拡大であり、研究開発投資の拡大となります。産業ロボットや人工知能(AI)などを取り込んだ設備投資の拡大によって、省力化が進み、生産性が上がれば、従業員の給与引き上げも可能になり、人手不足と低賃金解決の「一石二鳥」です。 その点、ただ設備を増やすだけでは、いずれ設備過剰となってストック調整を余儀なくされることがあるので、新技術につながるような研究開発投資が重要です。日本は主要国に比べてこの分野での政府支援が遅れています。官民協力して研究開発を進め、日本のアップル、グーグル誕生のタネをまきたいものです。 このように、人手不足の原因として大きいのは、人口の減少というよりも企業の生産性努力が後退して効率が悪くなっていることが大きく、ここに対策を打つのが先決で、外国人労働力に頼るのは最後の最後で、限界的な対応策としてみる必要があります。 欧米では移民難民問題で国が割れるなど、これが大きな問題になり、ドイツなど、政権を揺るがす状態にある国もあります。米国でも中米からの難民キャラバンに対して、軍隊を用意してまで入国を阻止しようとするトランプ政権のやり方に賛否が分かれています。 日本は地理的な特性もあって、ここまでは移民難民の問題はほとんど経験がなく、難民受け入れも主要国の中では非常に遅れているとの批判もあります。それだけここまでは移民難民問題に慎重に対処してきた日本が、人手不足のために、こうした問題をスキップして外国人労働力の受け入れに急旋回しています。 それも、熟練技能労働者のみならず、上司の指示に従って仕事ができる程度の未熟練労働も受け入れる方向で、最終的にどれくらいの規模になるのか、当局も十分把握していないまま、拙速で話が進んでいます。人件費の安い非正規雇用の次は、やはり人件費の安い外国人の単純労働力を、という安易な動きとも言えなくもありません。その結果として、移民を受け入れる判断をしたのと変わらなくなります。 多民族同居に慣れていない国柄であるため、外国人は新大久保や群馬などに「外国人街」を作りがちで、必ずしも日本社会に十分溶け込んではいません。 そんな中で、労働力として大規模な外国人を受け入れると、それが3年であれ5年であれ、家族も含めると大規模な外国人が日本社会に突然暮らすようになりますが、その社会インフラは整っていません。5年過ぎたら追い返すのか、社会保障は日本人と同様に扱うのか、その負担はどうするのか。まずは日本人が移民難民の受け入れをどう考えているのかも把握する必要があります。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) その上で受け入れ態勢が整うまでは、外国人労働力の受け入れは十分慎重に、徐々に進める必要があります。受け入れ態勢が整わないまま外国人を大量に受け入れ、彼らに不自由、不便な思いをさせ、社会と軋轢(あつれき)を起こすようなら、国際社会から日本の姿勢が非難され、国際的な信用を失います。 人手不足問題に対しては、まず企業の研究開発、技術開発、設備投資による生産性向上努力に注力し、その間安心して子育て就労ができる体制を整え、結婚、出産しやすい環境を作るなど少子化に歯止めをかけるのが先で、その間に外国人労働力、移民受け入れ態勢を法体系も含めて整備する必要があります。それでも必要なら外国人労働に助けてもらう、というのが筋ではないでしょうか。

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    人手不足「移民に頼らない」妙案がある

    世の中、どこも人手が足りないらしい。少子高齢化と人口減少が進むわが国にとって、深刻な事態である。その解決策の一手として外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法改正の議論も始まった。とはいえ、昨今の人手不足感、どこまで本当なのか。すべてを疑って、一から考えてみよう。

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    労働人口は過去最大なのに「人手不足感」が広がるナゾ

    黒葛原歩(弁護士) 人手不足と言われて久しい。日本は既に人口減少社会となっているので、そう言われるのも無理からぬことかもしれない。大卒求人倍率は2倍近くに上り、求人誌には大量の募集が並ぶ。新聞を読めば、人手不足解消のための外国人材受け入れの記事が毎日のように紙面を賑(にぎ)わせているが、氷河期世代のど真ん中、昭和52年生まれの私からすれば、もはや異次元・別世界の風景である。 ここでは、労働力に関する統計数値を参照しながら、日本の人手不足が、具体的にどのような形で生じているのか、解説してみたい。 まず、日本の労働力人口(15歳以上人口のうち、労働の意思と能力をもつ人の数)の推移を見てみよう。参照しているのは、平成29年労働力調査(総務省統計局)のデータである。 意外なことに日本の労働力人口は、実は減っていない。いや、減っていないどころか、史上最大と言っても過言ではないほどに増えている。 労働力人口は、平成年間に入った平成元年には約6200万人であった。ちょうどバブルの絶頂期のことである。その後平成9年~10年にかけて約6800万人に達しピークを迎えた。その後は微減が続き、平成24年には6565万人と、いったん底を打っている。 ところが、そこから再び増加に転じて、以後一貫して増え続けており、平成30年9月にはなんと6877万人に至った。これは昭和28年以降の労働力調査の統計史上、最大の数値である。 このような状態となった要因は、「シニア」(高齢者)と「女性」の労働者数の増加である。※画像はイメージです(GettyImages) まず、「シニア」について、細かく統計を読み解いてみよう。65歳以上の高齢者の労働力人口は、平成24年には約610万人にとどまっていたが、平成29年には822万人にまで増えており、5年間で200万人以上という爆発的な増加を示している。 日本における健康寿命(介護等を受けず日常生活を送れる期間)は男性72・14歳、女性74・79歳と、国際的にも極めて高い水準にあり、日本の労働者は「高齢になっても健康である」という社会背景の下で、高齢期に入った後も長期間にわたり働き続けようとする傾向が見られる。 また、「女性」についてみると、女性の労働力人口は、平成24年には2769万人だったが、平成29年には2937万人となっており、この5年間で約170万人増加している。この要因としては、待機児童対策の進展や、女性の未婚化・晩婚化といったことを指摘することができる。 このように、幾つかの社会要因が重なり、今や日本の労働力人口は統計史上最高レベルである。この統計数値をそのまま見れば、人手不足という現状認識そのものにクエスチョンを付けざるを得ない。それなのに冒頭で述べたように、世間では人手不足と言われている。なぜなのか。鍵は「世代」と「職種」 その謎を解くカギは、労働力の内訳にある。改めて、労働力調査の数値を細かく読み解いてみよう。ここでのポイントは「世代」と「職種」である。 全体の労働力人口は確かに大幅に増加している。しかし、その中において、顕著な減少を示している部分がある。それは、35~44歳の労働力人口である。この世代の労働力人口は、平成23年に1582万人となって以降、人口減少そのものの影響を強く受けて、じわじわ減り続けている。 平成29年におけるこの世代の労働力人口は1497万人であり、6年で100万人近く減っている(ちなみに、その下の25~34歳の労働力人口も減り続けている)。この傾向は人口減少の影響なので今後も止めようがない。 この世代はいわば「働き盛り」の年代で、さまざまな労働の現場で中核となることが期待される層である。この世代の労働力が減少するということは、「体力と一定の経験を兼ね備えた中堅のスペシャリスト」がいなくなることを意味する。 しかも、現在のこの世代は、平成10年代初頭の「就職氷河期」の影響をまともに受けている人が多く、経験値の高い人材の絶対数はより少ない。結果として、こうした人材は不足することになる。 また、職種による差も大きい。先に述べたように、日本の労働力人口増の要因となっているのは、高齢労働者と女性労働者の増加である。この層の労働者に若年・中年の男性労働者ほどの体力はないから、いわゆる現場系の仕事を全面的に代替することは難しい。ハローワークの統計(平成30年9月)によると、現在有効求人倍率が極めて高いのは「保安」(8・65倍)、「建設・採掘」(4・99倍)、「サービス」(3・56倍)といった職種である。「事務的職業」の有効求人倍率が0・49倍と、人余りの状況を呈していることと比べると、非常に対照的である。※画像はイメージです(GettyImages) このように、労働力人口自体は増えているが、職種によって、求める人材像と大きなギャップが生じており、そのことが「人手不足感」をもたらしていることが分かる。 では、こうした状況にどのように対応すれば良いのか。 国全体として労働力そのものは増えているというのであれば、人手不足の職種への移動を促すというのが、望ましい方法ということになるだろう。近年、増加傾向にある労働者層の多くは非正規労働者なので、もともと流動性が高いといえる。人手不足なのに「派遣切り」 とはいえ、人手不足の職種には、やはりそうであるだけの理由がある。仕事が複雑多岐で覚えにくい、体力的について行けない、仕事をする上で何らかの資格が必要―などといったものだ。 このようなギャップをなくすための工夫が必要である。業務の簡素化やIT化を進めることで、非熟練の人材でも新たに入りやすい職場の形成が求められよう。高負担の業務を見直してワークシェアリング(仕事の分割・分かち合い)を推進することも必要である。 もし、会社内で仕事や負担が集中してしまっている人がいたら、その仕事の中身を分析して、他の人で代われそうな部分を抽出し分業を推進するべきだ。会社の中心としてバリバリ働くのは難しくても、その手伝いだったらできるという労働者は多い。こういった分業の工夫は過重労働の防止になるし、高齢労働者などの活躍の場を増やす上でも有意義である。 また、職場内でのスキルアップ・キャリアアップの機会を増やし、事業者自らが求めているような人材を育成することも期待されよう。非正規労働者を正規に転換するのは、立派な「人手不足対策」である。そこで、平成24年に改正された労働契約法では「5年無期転換ルール」が定められた。これは、有期労働契約が5年を超えて更新された場合、労働者側からの申し込みにより、無期雇用に転換できるというものである。  また、派遣社員の雇用を安定させるために平成27年に労働者派遣法が改正され、いわゆる「3年ルール」が定められた。派遣社員は同一部署で働く期間を一律「3年」と定められ、それ以降は派遣元の派遣会社は派遣先に対してその派遣社員の直接雇用を依頼するなど、派遣社員の雇用を安定化させる措置を採らなければならない。 そもそもこれらの有期雇用の無期転換や、派遣社員の直接雇用というのは、スキルアップや人材育成の実現を意図して導入された制度である。非正規であっても5年や3年という長期間にわたり同じ仕事を続けていたのであれば、きっと仕事の現場において不可欠な存在になっているだろう。だからこそ、その実態と整合するように無期雇用・直接雇用に転換してもらおうということで、こういう制度を作ったのである。 しかし残念なことに、実際には規制逃れの事例が少なくない。無期雇用や直接雇用を期待できるかと思いきや、期限を前に契約終了を言い渡される人が少なくない。人手不足が叫ばれるこの世の中において再び「派遣切り」ともいえるような状況が起こっているとは、いかにも不条理なことである。厳しい雇用環境の中、ハローワークで職を探す求職者=2009年2月、大阪市港区のハローワーク大阪西(桐山弘太撮影)) 有期契約社員や派遣社員の代わりはいくらでもいると思われているのかもしれないが、一つの職場で経験を積み技能を蓄積した従業員の代えはそう簡単に効くものではないし、何でもやってくれる優秀な正社員はそんなに簡単に採用できない。 安易な有期の雇い止めや派遣切りに走る前に、一度立ち止まって「この人材は、本当は会社に必要なのではないか」と冷静に考える姿勢を求めたいところである。

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    人手不足、埋もれた社員の「企業間トレード」も特効薬になる

    田岡春幸(労働問題コンサルタント、元厚生労働官僚) 厚生労働省によると、2018年9月の有効求人倍率は1・64倍となった。1974年1月(1・64倍)以来の高水準で、人手不足感が強い状況が続いている。一方、今まで働いていなかった人の就労も進み、総務省が同日発表した9月の完全失業率は改善し2・3%だった。要は就職しやすい売り手市場になっているのだ。 ただ、これに伴い、企業側もしっかり調べず安易に人材を採用し、かえって採用基準が下がる恐れもある。いわゆる「ブラック社員」のことだが、最近はこうした問題社員を採用するケースが増えている。言うまでもなく、これは企業にとって大きなリスクであり、人手不足になっても安易な採用は控えるべきである。 採用できる企業はまだいいが、近年、人手不足に伴う倒産も増加している。人手不足は残業増加を生み、企業そのものも「ブラック企業」化する。実際、現状のブラック企業は、人手不足が一因になっていることもある。これも企業評価にかかわり、日本経済停滞の一因になり得る。 こうした現状の解決策として、今臨時国会で議論されているのが、外国人労働者の受け入れ拡大である。外国人労働者数は、2017年10月時点の厚労省の調査によると、127万人である。 「出入国管理及び難民認定法」(入管法)改正と「技能実習法」改正による人手不足が深刻な建設や農業、介護など14業種での受け入れが検討されている。これらの業界の特徴は、劣悪な労働条件の企業が多いとされる。 ここで改正案を確認しておこう。改正案は、就労目的の在留資格「特定技能」を2段階で設ける。一定の技能が必要な「特定技能1号」は、最長5年の技能実習を終了するか、技能試験と日本語試験の合格を条件とする。在留期間は通算5年で家族の帯同は認めない。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) さらに高度な試験に合格し、熟練の技術を持つ外国人は「特定技能2号」の資格を得られる。配偶者と子供の帯同を認め、更新時の審査など条件を満たせば永住への道も開ける。両資格とも同じ分野であれば転職も可能となる。 受け入れは、日本人と同等以上の報酬を支払うなど雇用契約で一定の基準を満たすことを条件とする。直接雇用が原則だが、分野によっては派遣も認めるため、派遣法で禁止されている分野との整合性を図る必要が出てくる。 そもそも、技能実習制度の目的・趣旨は、わが国で培われた技能、技術又は知識の開発途上地域などへの移転を図り、当該開発途上地域の経済発展を担う「人づくり」に寄与することである。 だが、実質的には日本の人手不足を補う低賃金の労働者拡充が目的になる可能性が高く、こうした現状でよいはずがない。本来ならば、高度な人材が日本に来て働き、税金を納めてくれるような制度設計にすべきである。そのためには、まず入り口でどのような外国人労働者が日本にとって必要か明確にしておくべきだ。 技能実習法では「労働力の需給の調整の手段として行われてはならない」(第3条第2項)と定めている。だが、政府は人手不足の状況に応じて外国人の受け入れ人数を調節するとしており、原則外国人を雇用の調整弁にすることは法の趣旨にそぐわない。 一方、外国人労働者の雇用拡大をめぐっては、「雇用が不安定になった場合に治安が悪化しないか」「国内の労働者の給与低下や待遇悪化につながりかねない」との懸念もある。欧州の教訓を生かせ 外国人労働者の拡大は、90年代後半から2000年代初頭の欧州がとってきた政策である。この結果、欧州はどうなったか。自国の若者の失業率が増え、治安が悪化し、ここ1、2年の間、欧州はそれを見直そうとする動きが出てきている。この例を見ると明らかに、治安の悪化と日本人の雇用への影響は避けられないだろう。 そもそも、外国人労働者を多数受け入れるとしても、社会保障などの整備といった問題が山積である。本来、社会保障は当該国家との相互制度が基本だが、日本は厚労省の通達があるにもかかわらず、外国人にも生活保護が認められるケースがある。 低賃金の外国人の流入はこの生活保護の問題と密接なかかわりを持ってくるだけに、早急な対応が求められる。困窮した外国人が在留期限を過ぎても居座り、生活保護を受けるということは大いに考えられる。また、不法滞在になった者が日本人と結婚して在留資格を得てしまうこともある。 さらに、健康保険制度との密接なかかわりもある。日本人には皆保険制度を維持し、外国人には審査の上、保険を適用することも考える必要がある。子弟の就学や医療などを含め、生活支援策も必要になる。これを日本の納税者が賄うのは考えものだ。 また、外国人労働者によって、日本の技術流出が起こることも十分考えられる。そして、一人でも加入できるユニオンなどの労働組合とともに、不当な要求などが相次げば、企業存続の根幹を揺るがしかねない。実際、建設現場で働いている外国人労働者を勧誘しているユニオンが既に存在しており、こうしたリスクを回避すべく体制を担保してから慎重に進めるべきであろう。 では、外国人活用以外の策はないのだろうか。まず、企業の残業ありきの人員資本政策を見直す必要がある。どこもギリギリで人員を考えているので、いざという時に対応できない。ゆえに、人手不足は企業単位でなく、業界全体で取り組むべきだ。 人手不足の業界は、労働条件が悪いことが根底にあるだけに、業界全体で労働条件の向上や働きやすい職場作りを進めていく必要がある。業界全体で慣行や構造の転換を図り、業界内で横のつながりを持ち、場合によっては「人材の貸し借り」という経営判断があっても良いのではないか。 また、雇用の流動化の観点から、一つの職場に縛り付けておくのではなく、企業から見れば解雇しやすい、労働者から見れば転職しやすい制度を構築すべきである。要は、過去の労働判例から確立された4つの要件である「整理解雇4要件」(①人員整理の必要性 ②解雇回避努力義務の履行 ③被解雇者選定の合理性 ④解雇手続の妥当性)の見直しを急ぐべきだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) これにより、ある企業では埋もれた人材が、他企業に転職した場合、活躍する事例(プロ野球のトライアウトやトレードによる選手の入れ替え)も増えていくのではないだろうか。そのためには「解雇」=「悪」=「クビ切り」=「無能」といったレッテルを変えていくことが重要であり、企業間同士の人材交流を積極的に行っていくべきである。 人手不足は、日本の根幹を揺るがす喫緊の課題であることに間違いない。それだけに官民の力を合わせての対策が求められる。ただ単に外国人労働者の受け入れ拡大ではなく、様々な政策パッケージを行ってほしい。外国人雇用政策はあくまでも、人手不足の特効薬であるとの認識を持つべきである。

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    「人生100年時代」はいいことばかりじゃない

    うフレーズがしっくりこない理由である。なぜなら、日本では人生100年時代が「到来しようがしまいが」、少子高齢化とそれに伴う人口減少が驚異的なスピードで進んできたからである。もちろん今後もハイペースで進んでいくだろう。 100年の人生で「どう働くか」「どう学ぶか」「どう生きるか」は、寿命が延びるにつれて変化するわけで、必然的に見直さざるを得ない「ライフデザイン上の問題」である。日本の少子高齢化に伴う人口減少問題とは、少し隔たりがある気がしてならないのである。英ロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授。安倍政権の看板政策「人づくり革命」を検討する「人生100年時代構想会議」の有識者議員を務める(宮川浩和撮影) 前述のグラットン氏によれば、人生100年時代においては、これまでの「教育」「勤労」「引退」の3ステージの人生からマルチステージの人生へと変化するという。確かに、人生におけるステージが多様になり、そのステージが変化する契機においては「学び直し」も求められるだろう。結果としてそれが個々のスキルを向上させ、高齢化社会における生産力と成長力を上げることにつながっていくことは十分に理解できる。 だが、日本における急激な人口減少と人生100年時代とを関連付けてしまうと、本来、緊急的手当てが必要な少子化対策への意識が希薄になりはしないだろうか。繰り返すが、実際に寿命が延びて人生100年時代が「やってきても」「やってこなくても」日本の少子高齢化は進み、それに伴う人口減少が加速していくのである。 人口減少は国内市場の縮小を生み、国内市場の縮小は投資先としての「魅力の低下」を生んでいく。「学び直し」による個々のスキルアップは生産力と成長力を向上させるかもしれないが、それは急激に進む人口減少から派生するさまざまな弊害を本当に補正しきれるほどのものなのだろうか。「過去の人口に戻る」だけじゃない では、実際に人口減少がこのまま進めばどうなるのか。さまざまな意見があるが、シンプルに考えれば、国土交通省のホームページ(人口減少が地方のまち・生活に与える影響)で指摘している主たる問題が、将来の「都市」についても当てはまるのではないかと思う。以下がその主な問題点とされるものだ。(1)生活関連サービス(小売・飲食・娯楽・医療機関等)の縮小(2)税収減による行政サービス水準の低下(3)地域公共交通の撤退・縮小(4)空き家、空き店舗、工場跡地、耕作放棄地等の増加(5)地域コミュニティーの機能低下 むろん、これらがすべて都市部の人口減少時に引き起こされるわけではないし、影響や程度も地域ごとの特性によるところが大きい。しかし、少なくとも、五つの問題点のうち、(1)(2)(4)は地方・都市部問わず、いずれの地域においても共通して起こり得るものではないだろうか。 これとは逆に、人口減少を肯定的に捉える声も散見される。その中でも多く聞かれるのが、今後人口減少が進んでも「過去の日本の人口に戻るだけ」「イノベーションや働き方改革こそが生産性と成長力を向上させる」といった意見だ。 では、過去の日本の人口と将来の推計人口の中身を比較してみよう。総務省統計局「人口の推移と将来人口」を見ると、1965年の日本の人口は約9920万9000人である。この数字に近い将来推計人口を見てみると、65年から90年後となる2055年の約9744万1000人である。 この数字だけを見れば、確かに「過去の日本の人口に戻るだけ」かもしれない。しかし、その年齢別構成比を見ると明らかに「過去の日本の人口に戻るだけ」が誤った認識だと分かる。1965年の生産人口(15~64歳)割合は68%、老年人口(65歳以上)割合は6・3%であるのに対し、2055年の推計では生産人口割合が51・6%まで減少する一方で、老年人口割合は38%まで上昇するのである。 さらに何よりも重要な点は、今後イノベーションや働き方改革によって生産力や成長力が向上したとしても、上記の人口割合と総人口の減少がこれからの日本ではそれぞれ「一方向」にしか進まないということである。つまり「高スキルの高齢者人口」さえ減少を続けるのだ。2017年11月、自民党の人生100年時代戦略本部の提言を首相官邸で安倍晋三首相(右)に手渡す本部長の岸田文雄政調会長(斎藤良雄撮影) 人生100年時代を見据え、そのための備えをさまざまな観点から官民一体となり提言し、個々がそれに向き合うことは日本のみならず世界にとっての潮流でもあるだろう。しかし、日本のように急激な人口減少が続く場合、まずはそれに歯止めをかけなければならないのではないだろうか。 もちろんその歯止めとは「増加」ではなく、「減少幅」や「減少速度」の縮小で構わない。100年の人生においてそのスキルを個々が磨き続けることにより、生産人口年齢が75歳もしくはさらにその上まで引き上げられたとしても、このままでは「どの年代の人口層すべてが絶え間なく減少」していくのである。そこに触れずに「人生100年時代」を語るのは、やはりしっくりこないのである。

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    日本の少子化対策はここが間違っている

    は今、北朝鮮のミサイルや核開発をきっかけに安全保障問題がクローズアップされている。それだけではなく、少子高齢化や医療、介護、年金といった社会保障、教育、エネルギーなど緊急を要する課題が山積している。それぞれ、優先順位をつけがたい切実な問題であることは言うまでもないが、少子化問題こそ最優先されるべきだと私は考える。 そもそも少子化問題は「少子高齢化」とひとくくりにされがちだ。とりわけ「高齢化」の方に関心が集まってしまうために、「少子化」の逼迫(ひっぱく)性について国民の認識が全く進んでいないと感じる。 確かに「高齢化」は社会保障に直結する。その上、高齢者層をターゲットとした各種産業における新製品やサービスの開発や、近年頻発する高齢者特有の交通事故など、経済的にも社会的にも注目が集まるのは自然なことだろう。それに比べて、少子化問題は一見すると緊急性は低いかもしれない。しかし、国の存続をおびやかす重大な危険をはらんでいる点があることを、一体どれだけの国民が意識しているだろうか。 この問題は、国家予算をいくら投じたところで一気に解決することなど決してない。では、国が現在行っている政策が果たして有効なものといえるだろうか。私はむしろ悪い方向に進んでいる気がしてならない。 その理由は、全ての政策が表面的でしかなく、子育てや家族のあり方といった「少子化」が内包する根本的な問題をあまりにも軽視し過ぎているとしか言えないからだ。一言でいえば、合理性を重視するばかりで「哲学」がないと言うことだ。 今、行われている政策はこうだ。まず個人所得を上げて、結婚や出産がしやすい環境をつくる。保育園を増やして、夫婦共働き家族を増やす。そして、女性の社会進出を推進する。 しかし、そこには「なぜ男女は結婚するのか、そして子供をつくるのか」ということや「子供を保育園に預けることで、親が子供に愛情を注ぎ、育児、しつけを行う時間が少なくなってもよいのか」、「子供の将来にとって望ましい家族の姿とは」という、当然であり最も根本的な部分を見落としている。少子化などの影響で人口が伸び悩み、閑散とする六甲アイランドの中心部=神戸市東灘区(小松大騎撮影) 種族保存の本能とまで言わずとも、多くの人は成人してまもなく自分の子供が欲しくなるものであり、また、異性と結婚して家族を持ちたいと思うものだ。将来を思えば、育ててくれた親は自分よりも先に亡くなり、その後一人で生きていくよりも、若いうちに家族をつくりたいと思うのが一般的であろう。そして、子供が多く欲しければ、各人がそれなりに婚期を考える。 多様性が尊ばれる現在であるが、この点は国策を考える上で基本的に持っておかねばならない共通認識である。不満が募る日本社会の「現実」 しかし、近年は単身者が増加している現実がある。厚生労働省が平成28年に行った調査では、年齢は限定してないものの、単身者が全世帯に占める割合として、昭和61年に18・2%だったが、平成28年には26・9%まで増えている。全国の4世帯に1世帯が単身世帯となっているのである。 子供や身内がいれば社会はあまり関与せずに済むが、単身者は最後に社会が関与しなければならない。国家財政の面でも、単身世帯の増加は大きな影響が生じてくる。 そして、最近は、子供がいても社会の助けを受ける高齢者も多い。以前、子供がいるにもかかわらず単身者として生活し、子供の助けを受けずに国から生活保護を受けていたという矛盾するエピソードを、お笑い芸人が明かしたことで世間の非難を浴びたこともあった。 これは一見、子供が薄情なようだが、必ずしもそうとは限らない。なぜなら、少し前からの風潮か、親が子供に世話をかけたくない、という話をよく耳にするからだ。他人同士ならわからないでもないが、親が生活に支障をきたせば、子が世話するのは当然のことではないのか。 仮に、子供がいる高齢者でも当たり前のように社会の世話になる世の中となれば、国家財政上だけの問題ではなく、もはや倫理上の問題である。家族とは一体何なのか、改めて考えさせられる話である。 現在、国内で起きている問題の多くは、希薄となった家族関係に要因があると考えている。少子化対策を考える上では、まず家族のあり方という点から考えることが求められる。(iStock) 私は単純に家族というものを社会の縮図と考える。多くの家族が不和であるならば、その集合体である日本社会が円満であるわけがない。 裏を返せば、全ての家族が円満であれば、社会も平和となるだろう。全ての社会問題を家族に置き換えて考えてみようというのだ。それも核家族ではない、三世代、四世代といった大家族が分かりやすい。「歴史観」が欠如する少子化対策 大家族となると、関係を平穏に保つために、さまざまな努力と忍耐、辛抱が必要だ。しかし、その結果得られる果実にはとてつもなく大きなものがある。 家族でも夫婦でも親子でも、人が寄ればさまざまな人間関係が生まれ、そこには摩擦と協調や妥協があり、対立や協力関係が生まれる。摩擦には辛抱が求められ、協力関係は強い団結力となる。辛抱できる力と家族の協力関係は、子供が将来大人になって遭遇する数々の障害に対して大きな強みとなるだろう。人間関係が人を成長させるといってもいいだろう。 そして、良好な家族関係から犯罪抑止力や道徳力が自然と育つという点も大きい。自分の過ちのせいで家族に迷惑をかけてはいけないと思うようになるからだ。こうして、家族の中での存在意義や責任感を見いだし、人は健全化していく。さらに、子供や孫という存在と過ごすことで、物の見方や考え方の時間軸も長くなり、心も穏やかになりやすいものである。 今の政策が少子化対策と相反するのは、社会福祉を充実させるというやり方である。まるで「子供は産まなくてもいいですよ。苦労して産み育てることは必要ありません」と太鼓判を押したかのようだ。さらに「あなた個人は自由気ままに生きていくことが最も幸せなんです。あなた個人の老後を日本社会が保証します」というに等しい。 果たして、今の政策立案者は「家族」をどのようにとらえているのだろうか。そこに哲学が存在するのか甚(はなは)だ疑問である。おそらく家族といったところで、核家族と呼ばれる程度のものとしてしか考えていないのだろう。三代、四代、そして永遠に続く家族観を到底考慮には入れているとは思えない。人間関係の縦のつながり、すなわち「歴史観」が欠如しているのである。 むしろ、日本の伝統的家族を顧みることで、少子化問題を解決する糸口がきっと見つかるはずである。そこで、現在行われているわが国の社会保障費の大幅削減を、少子化対策として提案したい。(iStock) それぞれの個人や家族の責任で行うべき事柄に、政治が関与し過ぎている現状をいったん白紙に戻して見直す必要があるのではないだろうか。高齢化に伴い、さすがに高齢者の医療負担は増えるようだが、医療や介護、生活保護にとどまらず、「子供一人当たり何万円の負担」といった福祉制度を見直すべきだ。 国からの補助を削減することで、個人や家族の自助精神を育てる。赤字財政が続き、国の借金が膨らむ中で、少しでも子供の将来を考えてあげる必要があるだろう。何よりも個人、家族の自助精神が高まることによって、各人が自分の将来を考えれば、結婚し、子供を産み、賢くて親孝行な大人に育てることがどれだけ大切なことであるかが理解でき、自然と人口減少に歯止めがかかると信じている。

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    武田邦彦が一刀両断! 生物としての人間に「老後」なんてありません

    武田邦彦(中部大学特任教授)(『科学者が解く「老人」のウソ』「はじめに」より抜粋) 今、人生100年時代と言われています。 しかし、「高齢社会」「高齢者」「後期高齢者」「定年」「老後」という言葉が世の中には溢れています。 かつて、あるテレビ番組では「定年後でも元気な人をどうするか?」などいうことが語られていました。 どうも、「年を取ったら定年がくる」という先入観に縛られているように思います。 日本国憲法には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と書かれています。憲法改正の議論が高まっていますが、法の下の平等については、日本だけではなく世界中で、異論がないところでしょう。 差別は禁止されているのですから、たとえ年を取ってやや疲れ気味になっているとしても、それによって一律の定年を決めるというのはおかしいのではないでしょうか。これでは女性差別ならぬ「年齢差別」です。 でも、このような「年齢差別」とも言える言葉が出てきたのも、人生100年時代というものを迎えて、初めての事態にどう対処すればいいのか、その概念がないからだと思います。つまり、人生100年時代の人生哲学がないのです。2017年11月、政府の看板政策「人づくり革命」を議論する「人生100年時代構想会議」であいさつする安倍晋三首相(中央、斎藤良雄撮影) 私は50歳以上の男性に「生きている意味はない」と言ってきました。「あなたこそ、年齢差別をしているのでは?」 こう疑問に思う人もいるでしょうが、私の真意は違います。50歳以上の男性は、「生物として生きている意味」がないということなのです。 それはどういうことか。 後に詳述しますが、女性で考えると、成長して結婚し、子供を産み、育てるというのはほぼ50歳までに終えます。 男性も同じで、昔は若い人には兵役や徴兵というものがありました。年を取って、体力が落ちて、弱いものを守るために戦えなくなり、肉体労働もできなくなってくるのが50歳くらいだったのです。 つまり、50歳で生物としての人間が終わると私は考えます。その後の人生は“別の理由”で生きる別の人生です。 私たちは、人生は1度だけだと思っています。しかし、それは誤解で、実は、人生は2度あるのです。 生まれてから50歳までの「第1の人生」と、50歳以降の「第2の人生」の2つの人生が1人の人間にはある。その境目が50歳なのです。 私は科学者ですから、「50歳」という年齢に、なにか断層のようなものを感じます。たとえば、糸魚川と静岡の中央構造線(フォッサマグナ)のような断層を感じるくらい、50歳で人生が一区切りされているのがわかります。 ここで強調しておきたいのは、平均寿命が50歳であっても、80歳でも、100歳でも、人生は50歳で大きく変わるということです。人生100年時代がきた 日本人の平均寿命は今では大きく延びていますが、100年ほど前、1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42・1歳、女性は43・2歳で、明治、大正期の日本人の寿命は、おおむね40歳代でした。 なぜ、こんなに平均寿命が短かったのか。 当時の女性は、子供を10人産むことも珍しくなかったので、お産だけでも疲れ果ててしまいました。しかも、お産では出血したり、感染症にかかったり、産後の肥立ちが悪かったりと、命にかかわる危険が多くありました。お産をしたあとには、赤ちゃんに数時間ごとの授乳をし、おしめを替えたりしながら、家族の食事の用意や洗濯などの家事もするのですから、それは重労働でした。当時の一般家庭は貧しかったので、人を雇って家事をまかせることはありませんので、お母さんが1人でやらなければなりません。だから、疲れ切ってしまうのです。 また、その頃の男性は、農業や漁業、林業などの第一次産業や、鉱業や建設業に従事して、クワやツルハシをふるうような肉体労働で身を立てている人が大多数でした。 だから男性は、40歳を超えるくらいになると、腰を悪くしたりして、体はボロボロになり、短命で終わったのです。 そういう事情もあって、戦前は日本人の平均寿命は50年くらいだと思われてきました。(写真はイメージです) 戦後、日本人の平均寿命はどんどん長くなりました。医学の進歩があり、日本人の栄養状態も良くなりましたし、第一次産業も機械化が進んだからです。 2016年の日本人の平均寿命(厚生労働省調査)は、女性は87・14歳、男性は80・98歳で、これは、大きな国の中では共に世界第1位です。前年の調査と比較して、女性は0・15歳、男性は0・23歳延びて、いずれも過去最高となりました。 日本人の死因で多いのはガンや心疾患、脳血管疾患ですから、もし、これらの病気で亡くなる人がいなくなれば、平均寿命は現状よりもさらに延びると推定されています。厚生労働省(厚労省)の試算では、2016年生まれの人が、ガンや心疾患、脳血管疾患で死亡する確率は女性46・5%、男性51・2%で、これらの病気による死亡がゼロになったと仮定すると、平均寿命は女性で5・74歳、男性で6・95歳延びるとしています。 日本のお医者さんの医療技術は世界でもトップクラスですから、今後も平均寿命は延びる可能性があります。日本人の平均寿命は、90歳を超え、100歳に近づくでしょう。人生100年時代の到来です。そうなれば、50年だった人生のあとに、もう1回50年近い人生が繰り返されることになります。50歳からの人生の準備 人生は2度ある。それを若いうちから意識しておかなければいけません。ところが、今の若い人は、哲学や文学をあまり読まないこともあり、人生が2度あるとはっきり意識している人はそんなに多くないと思います。 人生が2度あるなら、50歳までの人生の準備と、50歳以降の人生の準備は、それぞれ別に考える必要があります。 私たちは、訪れる未来に対して常に準備をしています。朝、起きて意識がはっきりしてくると、起き上がってカーテンを開けたりします。顔を洗い、歯を磨いて、1日が始まる準備をします。それが、毎日毎日、1年365日、一生続きますからものすごい回数になります。人間の代謝速度が遅ければ洗顔や洗髪、入浴は1週間に1度でいいかもしれませんが、そうはいかないので、どんなに時間がなくても日々の暮らしの準備が必要になります。 その準備を、第1の人生(50歳まで)という長いスパンの中で考えてみましょう。 自分が家庭を持って子供を作りたいと思うと、この準備は大変です。私の場合は男性ですから男性の場合で考えてみると、まず相手を探さなければいけません。職場にふさわしい女性がいればいいけれども、誰もが配偶者を探すための恵まれた環境にあるわけではありません。女性の友達も少ないかもしれない。さあ、どうしたらいいか……。そういうところから始めて、いろいろと作戦を練ったり、誰かと試しに付き合ってみたり、お見合いをしたりします。 うまく相手が見つかって結婚式を挙げるとなると、さらに大変です。そのあと、子供を持つに至るまでには、多種多様の準備が必要です。 私自身も、なぜこんなにたくさんの準備をしなければならないのかと思うことがありました。考えてみれば、人生というものは準備の連続なのです。 そして第1の人生よりもさらに難しい準備が必要なのが、50歳から始まる第2の人生です。 最も大切な準備は何かといえば、やはりそれは「生き方の準備」だと思います。人生をどのように生きるかは、人間にとって長期にわたる大きなテーマだからです。奈良市の薬師寺で、写経をして先祖をしのぶ参拝者たち=2016年8月 また、その「人生の生き方の準備」では、自分1人だけ、個人の人生だけを考えていては実は準備ができません。自分の人生を考える時には、常に先輩やご先祖がいて、そして自分がいて、子孫がいることに気づかされると思います。たとえば、「自分だけの人生」から「日本人としての自分の人生」というふうに視野を広げると、日本人の先祖がいて、その伝統・文化などの結果として自分がいる、日本人の子孫についても考えなくてはならないということに気づきます。何歳からが老人か 現在、「老後」という言葉が世の中ではよく使われます。何歳からが老人か、というような議論もなされています。しかし、人生は2度あるのですから、「第2の人生」は「老後」ではありません。「老後」と考えるから様々な問題が発生するのです。 「第2の人生」はまったく価値観が異なる別の人生だと思ってください。つまり、「老後」なんてものはありません。そう考えれば、50歳以降の生き方も病気への対処法もすべて納得して準備することができます。 人生が2度あると考えれば、すべてうまくいくのです。 50歳以上の第2の人生においてもっとも影響が大きく、多くの人がもっている錯覚は「私は“老後”を生きている」と思っていることです。 1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42・1歳、女性は43・2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳ぐらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を超えたら確実に「老後」でした。 戦後になって50歳や55歳以上の人生を「老後」と呼ぶようになったので、今でも「老後」や「高齢者」、もっとひどいものでは「後期高齢者」という言葉さえあります。 この言葉の威力は絶大で、50歳を超えると「俺もそろそろ老後だ」と自分で思ったり、定年を過ぎると「高齢者扱い」を受けたりします。女性も50歳を超えると閉経を迎える時期でもあり、物忘れなどすると、つい「あたしも年取ったわね」とつぶやいたりします。(iStock) 人間は大脳に支配される動物ですから、毎日のように、自分を老人、高齢者、物忘れで年を取った……などと考えたり言ったりしていると、大脳から体の各部分にその指令がいって、本当に老化していきます。 筋肉を増強する方法の1つに、強く筋肉を圧迫することがありますが、これには2つの意味があります。「筋肉を圧迫することによって、筋肉繊維を伸ばし、成長させる」という物理的意味と、筋肉に痛みを与え、その痛みが脳に伝わって、脳が「あそこの筋肉は強くしなければならない」という指令を出す意味を持っています。 このように人間の体は、物質的な変化と、大脳の指令の2つでできていますから、「老後」という概念を持つことは第2の人生にとってとても危険なことです。 仮に「老後」という概念をもって第2の人生を送ると、毎日、確実に「老化」します。足が弱くなる、目がかすんでくる、記憶力が弱くなる……。さらに、血圧降下剤を飲みたくなる、油のものを避けるようになる……。何か不都合なことが起こると年齢のせいにする……と病状が進んできます。 反対に、「老後」という概念を捨て去ると、私はいま75歳ですが、75歳までまったく40歳ぐらいの時と変わりません。 足はかえって強くなりました。これは72歳でゴルフを卒業して、人生で初めてテニスを始めたからです。「テニスからゴルフへ」という普通の流れの逆を行き、ゴルフからテニスに変えてみました。最初は72歳でテニスをするのか? と私自身もやや引いた感じでしたが、アキレス腱のケアや準備体操を十分にして臨みました。 最初の半年は疲れ切って2週間に1回しかテニスができませんでしたし、テニスの後は疲れて寝ていました。でも3年を経た今では週にゆうゆう3回は楽しめ、激しいトレーニングも可能になり、疲れないのでそのまま次の仕事をしたりしています。 70歳を超えてテニス? と思うことが足腰を弱めます。第2の人生は第1の人生より激しく 私の目は強度の近眼と乱視で若い頃から苦労してきましたし、加えて57歳で左目を失い、大手術をして、今は半分は人工の目なのですが、細かい字も平気で読むことができます。日本酒をあまり大量に毎日飲んでいると、若干、目がかすんでくることがありますが、その他は大丈夫です。 瞬発力や記憶力は、さらに磨くように積極的に努力しています。瞬発力は、テレビ番組『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ)に出演しているときに、司会の明石家さんまさんとの掛け合いに耐えられるよう、日常生活でも、返事や対応を早くして瞬発力をつけるようにしています。 記憶力では、専門の物理や材料、原子力といったものだけではなく、歴史、国際政治、経済などを積極的に学び、書籍も書き、批判も受け、知識を増やすようにしています。 国際政治を学ぶときには、ある国、たとえばサウジアラビアのことを本で読んだり、ネットで聞いたりして集中的に学び、ときに国際政治の専門家の方にお会いすると、どんどん質問してさらに覚えるようにしています。 また、ビットコインのような暗号通貨(一般的に言われる仮想通貨)の場合、「わからない」と諦めずに、なんとかして親しみを持つようにいろいろな方法で勉強します。暗号通貨の仕組みである「ブロックチェーン」についてもかなり複雑なのですが、「習うより慣れろ」で何回も読んだり、聞いたりしていると親しむことができます。 このような場合も、「老後だから」というのを捨てて、むしろ「若い頃はできなかったが今はできる」という逆転の発想でやっています。 女性との付き合いも積極的です。第1の人生では結婚や恋愛が目的ですが、今の私の第2の人生では、仕事の付き合いで女性と大いに話をします。そうすると、私の頭も柔らかくなりますし、第2の人生になってからの異性との食事や話はとても快適なものです。フジテレビ系番組『ホンマでっか!?TV』に出演する筆者(一番右)。前列中央は司会の明石家さんま(フジテレビ提供) 食事ではさらに年齢を超えるようにしています。 もともと、肉が好きだったのですが、年を取ってくるとお寿司なども好きになりました。そこで、焼き肉も食べる、寿司も食べるという食事をしています。血圧は年齢に合わせて、(年齢+90)でコントロールしています。そうすると血の循環が良いので元気です。若いときと同じようにお酒を飲み、深夜になると(夜の)クラブ活動に出かけ、11時過ぎに帰るという生活もしています。 お酒は産業医の研究結果に沿って、「酒と女性は2合(号)まで、休肝日2日」などという老化を促進するキャンペーンを疑い、「酒4合、休肝日なし」で暮らしています。酒ばかりではないのですが、「酒を飲むと健康に悪い」のではなく、「健康がすぐれないと酒がまずい」のだと思っています。 幸い、油っぽいものも平気で、天ぷら、ウナギ、三枚肉、カルビなど、オールOKで、「おいしい」と思うとおいしいものです。 総じていえば、「第2の人生では、第1の人生より激しく」ということでしょう。つまり、第1の人生でゴルフをしていたら、第2の人生は私のようにテニスとキックボクシングとか、第1の人生では物理が専門でも、第2の人生では「なんでも来い」というスタンスです。 私は、1週間に4回、テレビ出演しています。講演は年間150回、著作は年に5冊は出版しています。もちろん、大学での教授としての研究や教育も現役です。 私は、生まれつき病弱で、病気に苦しんできましたし、今も体は強いほうではありません。それでもこれほど若い人たち以上に元気いっぱいに活動できるのは、やはり第2の人生の準備を常にしてきたからです。そうして、私は50歳直前で転職をしました。第2の人生を過ごすために、会社員から芝浦工業大学の教授になったのです。「老後」ではない「第2の人生」をよりよく過ごし、よりよく生きるためには、概念的にも、経済面、健康面でも、準備が必要です。 今や人生100年に近づこうとしています。人間の歴史において、「生物として生きている意味がない」50年をどう生きるのか。そういう初めての事態に我々は直面しています。 『科学者が解く「老人」のウソ』(産経新聞出版)では、50歳を境に始まる「第2の人生」を生きる準備、あるいはその意味、生き方について科学的に考え、少し大袈裟に言えば、人類で初めてその概念を明らかにし、さらに踏み込んで具体的に考えてみたいと思います。たけだ・くにひこ 中部大総合工学研究所特任教授。昭和18年、東京都生まれ。日本エネルギー学会賞など受賞多数。環境問題に対して定説と異なる主張を展開して注目を集め、テレビでコメンテーターとしても活躍する。著書に『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)『NHKが日本をダメにした』(詩想社新書)など多数。近著に『科学者が解く 「老人」のウソ』(産経新聞出版)。

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    「不老社会」が正直しんどい

    「人生100年時代」がブームである。世界一の超長寿国である日本では、この言葉が明るい未来を暗示するキーワードとしてビジネスや政治など、さまざまな場面で使われている。定年後は年金で悠々自適という理想はどこへやら。「不老社会」の現実は、やっぱり死ぬまで働け?

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    高齢者活躍が「迷惑」と言えないニッポンが生きづらい

    日沖健(経営コンサルタント) 世の中には、正面から反論しにくい主張がある。例えば「家族愛を大切にしよう」と言われたら、「家族愛なんて大切じゃない」と反論するのは困難だ。しかし、家族愛を強調しすぎると、個人の自立が妨げられたり、家族がいない単身者が否定されるといった悪影響が生じるかもしれない。戦前の「大東亜共栄圏」でもないが、一見反論しにくい主張を持ち出されたときほど、悪影響や隠れた論点がないかどうか、注意深く考える必要がある。 「人生100年時代」を迎え、高齢者の働き方が国家的な課題になっている。政府が2月に公表した政策指針「高齢社会対策大綱」では、「年齢によらず意欲・能力に応じて働き続けるエージレス社会の構築」がうたわれている。意欲や能力があっても60歳、65歳で強制的に解雇される定年制は理不尽な仕組みだ。米国など諸外国では、定年制は年齢による差別にあたり、違法である。「高齢者が元気に活躍できる社会を!」と言われると、やはり反論しにくいものである。 このように、絶対的に善だと思われがちな高齢者活躍について、改めて問題点を考えてみよう。 高齢者といっても生活や健康の状態など、実に多様だ。無収入のボランティア・ワーカーを除く高齢労働者は、大きく2種類に分かれる。<タイプA>現役時代から低スキルで、家計を維持するために低収入の単純労働に従事。いわゆる「下流老人」<タイプB>現役時代から高スキルで、経済的余裕があり、社会参加のために専門労働に従事。「中上流老人」 まず、タイプAが好ましくないことは論を待たないだろう。年金受給開始まで収入が足りない、あるいは受給開始後も年金だけでは生活できないという理由で嫌々働くのは、不幸なことだ。 特に体力が落ち、病気がちの高齢者が無理を押して働いている姿を見ると、胸が痛む。東京しごとセンター多摩で開かれたシニア向け再就職対策講座 = 2015年 3月11日、東京都国分寺市 「本人の自己責任」という意見もあるようだが、国のずさんな年金・健保行政の犠牲者という側面もあるはずで、政府の「エージレス社会」という掛け声が空虚に響く。 問題はタイプBだ。「エージレス社会」や「高齢者活躍」の議論で想定されるのはタイプBであろう。政府だけでなく国民も、現役時代に培ったスキルを生かし、社会に貢献しようとして働くのは、絶対的に良いことだと信じている。悪貨は良貨を駆逐する しかし、タイプBにも大きな問題がある。問題とは、タイプBの高齢者がまさに「現役時代に培ったスキルを生かし、社会に貢献しようとして働く」ことだ。 高齢者が「現役時代に培ったスキルを生かそう」とするとき、体力・気力の衰えから、自分で手足を動かすよりも、教育係、コンサルタント、相談役、社外取締役といった立場で働こうとする。私は15年前にコンサルタントとして独立開業し、そこそこ成功しているせいか、近年ほぼ毎月のように定年前後の中小企業診断士から「コンサルタントとして活動したいのだが、どうすれば良いか」という相談をいただく。コンサルタントや社外取締役は、スキル・経験を生かせる上、体力も軍資金も必要なく、タイプBが理想とする職業のようだ。 コンサルタントや社外取締役として活躍するタイプBの本人は、充実した老後で大満足だろう。しかし、彼らから経験に基づく指導を受ける現役世代は大迷惑だ。高齢者が過去の成功体験を持ち出して「俺たちはこんな風に頑張って成功したんだ」と言っても、過去を否定して新しい挑戦をしなければならない現役世代には退屈な昔話である。自分が安全地帯に身を置いていることを忘れて「リスクを取って死ぬ気でやれ」と𠮟咤(しった)しても、今まさにリスクを取ってグローバル競争を戦っている現役世代の心には響かない。(画像:istock) さらに、高齢者が「社会に貢献しよう」と考えることも問題だ。すでに安定した生活基盤を持つBタイプが何とか仕事にありつきたいと願うと、常識ではありえないダンピング価格を提示する。私の知り合いの40歳代の研修講師は、ある企業の研修案件を「2日間40万円」でほぼ受注が決まりかけていたが、後から「3日間12万円」という安値を提示した60歳代後半の研修講師にさらわれた。コンサルティングや企業研修の世界では、この手の話をよく耳にする。 高齢者のダンピングのおかげで、資金力の乏しい中小企業・零細企業でも気軽にコンサルティングや教育研修を利用できるのは、確かに社会貢献だ。しかし、30~50歳代の独立開業希望者からは、よく「報酬が安すぎて、独立しても食べていけそうにない」という不安を耳にする。教育・コンサルティングといったサービス分野では、高齢者が活躍するほど市場全体が低価格化して優秀な若手が市場参入を躊躇(ちゅうちょ)し、結果的に市場の発達が妨げられる。悪貨は良貨を駆逐するのである。高齢者が働かない選択肢を尊重せよ 成功体験を振りかざす高齢者や、「安かろう悪かろう」の高齢者は、「現役世代の評判が悪いから、すぐに淘汰(とうた)されるのでは?」と思うかもしれない。しかし、意外とそうでもない。日本では、コンサルタント・社外取締役・研修講師の起用を決定する経営者や幹部社員の多くが高齢であり、自分も近い将来そういう立場になりたいと考えているから、彼らに対してとてもフレンドリーだ。特に、社外取締役は、東証が社外取締役の導入を上場企業に事実上義務付けたことを契機に、高齢の経営者同士がお互いにポストを融通し合う「老人互助会」というべき状況になりつつある。 はっきり言って、タイプAもタイプBも好ましくない。ならば、高齢者はどう働くべきか。 まず、高齢者が「働かない」という選択肢をもっと尊重するべきである。最近、国を挙げて高齢者が働くことを勧めているが、現役時代にしっかり働き、経済的な余裕を確保し、ゆっくり老後を楽しむというのは、王侯貴族か先進国の成功者にしか許されない恵まれた生き方だ。戦後日本経済の成功の証しと言って良い。「高齢者でも働くことができる」という反論の余地のない主張が「高齢者も働かなくてはならない」に転化してしまうことがないよう、注意したいものである。 もし高齢者が働くなら、第三の働き方としてタイプCを提唱したい。<タイプC>高スキルで、イノベーションを生み出すことを目的に、知識労働やマネジメントに従事する。 タイプCは、高スキルという点はタイプBと同じだが、社会参加を目的とするのではなく、イノベーションの創造を目指して働くというのが特徴だ。イノベーションとは、新商品・新技術・新事業など、何らかの新規性のある事柄を指す。イタリア人指揮者と語り合うクオンタムリープの出井伸之代表取締役(右) =2017年5月、東京都港区のイタリア大使公邸 ブックオフの創業者、坂本孝氏は引退後70歳を超えてレストラン事業を始め、「俺の」をヒットさせた。ソニーの社長・会長だった出井伸之氏は、引退後はソニーを離れてクオンタムリープを創業し、イノベーションの創造に尽力している。二人は、社会貢献とは言わず、真剣勝負でビジネスに取り組んでいる。真剣勝負の中からイノベーションを生み出し、世の中に新しい価値をもたらし、結果として社会に貢献しているわけだ。 マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、プロテスタントが禁欲的に労働に励み、利潤追求を目指したことが、結果として資本主義を生み出したことを明らかにした。自分の仕事が社会貢献になるかどうかは、結果として分かること、社会が判断することである。高齢者活躍が本当に社会にとって良いことなのか、高齢者の社会貢献とは何なのか、改めて考えるべきだろう。

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    「人生100年時代」はっきり言って、そんなの無理です!

    古川雅子(ジャーナリスト) 世の中、「不老」ブームである。発端は、世界的なベストセラーになった著書『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著)だ。テーマは「100年時代の人生戦略」。著者の一人、リンダ・グラットンさんは、日本政府の「人生100年時代構想会議」に有識者議員として起用されている。 かつての不老ブームといえば、できるだけ長く健康な状態を保つという意味合いだった。「ピンピンコロリ」を目指そう! などと叫ばれた。これは、長寿国日本の「寝たきり大国」を揶揄(やゆ)した言葉で、「不健康長寿国」になるのを防止するためのスローガンだった。長くベッドに横たわる「ネンネンコロリ」に陥らないようにと。病床数が増えすぎた、日本の医療事情を是正するためのテーマでもあった。 それに対し、今回の「不老」は「長く働ける」という意味合いだ。なにせ、ブームの端緒になった本の著者は、英ロンドンビジネススクール教授のグラットンさんと、その同僚で経済学の権威、アンドリュー・スコットさん。そのメッセージはズバリ、人生100年時代という「長すぎる老後」にどう備えるか-。仕事やお金を中心としたライフプランの再考を促すものだ。 私も、この著書は読んだ。40代で特にマネープランを立てることもなく生活に追われている私自身、「うわっ、将来どうなっちゃうの?」と不安になった。一人の生活者が長期的な視野に立ち、生活や人生の設計を見直すという意味で、大事なテーマだとは思う。個人が時代のうねりに対応していこうとする動きに、なんら異論はない。 だが、一方で引っ掛かりも感じた。私は仕事柄、がんや認知症の人、難病で苦しむ人にインタビューを重ねてきた。一年一年を生きていくことに必死であり、働きたいのに働き続けられない。そんな、もがきの声を聞き取ってきた。だからこそ、政府も含め、社会全体がこのブームに「乗っかって」、人生の後半を築き上げるのは「自助努力」や「自己責任」だと押しつける動きには違和感を覚える。それは長く働けない人にとっては「社会圧」と映る。私は、長く働きたい人は応援しつつも、長く働けない人であっても排除されない社会をつくるという視点での発信も、もっと増やしていくべきだと考える。日本年金機構本部=2010年10月撮影 政府は2月16日の閣議で、中長期的な高齢者施策の指針となる「高齢社会対策大綱」を決定した。そこで、65歳以上を一律に「高齢者」と見なすのを改め、将来的には公的年金の受給開始を70歳超でも可能とする制度改正を検討することも盛り込んだ。60~64歳の就業率についても、2016年が63・6%なのに対し、20年に67・0%まで引き上げるという目標も織り込まれた。拙速なギアチェンジによぎる不安 安倍晋三首相は、閣議に先立ち開かれた高齢社会対策会議で、「高齢者を含めた全ての世代の方が能力を生かし、幅広く活躍できる社会をつくることが重要だ」と述べている。マスコミでは先を見据え、「75歳現役社会」なるキーワードがちらほら目につくようになってきた。 労働力不足を補う上でも、高齢者の労働力で不足分をカバーする「高齢者現役社会」の推進は、世の流れだ。「人生100年時代ブーム」の到来は、その動きを加速しようとしている政府にとって追い風でもある。いや、ブームの「火付け役」を買って出ているのかもしれない。昨年9月から毎月開催されている会議の名は、「人生100年時代構想会議」。その目的を「一億総活躍社会の実現」「人づくり」「人生100年時代を見据えた経済社会の在り方を構想」としている。 私は特に、時代の流れを見越して、誰もがいくつになっても学び直しが出来、どの時点からでも新しいチャレンジが可能な社会を構築するための「人づくり」に注目している。マスコミは今後、長生きリスク的な「脅し」ではなく、「柔軟にチャレンジできる社会づくり」にフォーカスした発信を増やしていけばいいと思う。 先日、長年のがん闘病で、わが子のように大事に思っていた会社をやむなく売却したという40代の男性にインタビューした。創業者でもある彼は、誰よりも仕事を愛した。会社を手放したくないという思いは人一倍強かったはずだ。それでも、長期にわたるがん闘病で体力は衰え、フルタイムでの仕事復帰はかなわなかった。「僕の場合、強制的に定年になったようなもの」という発言には、言葉にならない悔しさが滲んでいた。3度目のがん闘病では、骨髄移植の治療で死の淵(ふち)をさまよった。 厳しい治療から「生還」したタイミングで「人生100年時代」のブームが来たという。かつての仕事仲間の薦めもあり、彼もこの本を手に取った。率直な感想として、「100年後のことを考えろといっても無理です。再発する可能性だってある。発熱とか、胃腸の調子が悪いとか、毎日戦いながら、1日1日乗り越えていくのに精いっぱいです」。世の中が急速に「人生100年時代」に舵を切っていることに、一抹の不安を感じていた。 高齢になっても、長く働くのが「善」とするような拙速なギアチェンジにより、「人生100年時代」と連呼される社会は、一年一年をどう生き延びようかと必死な立場の人にとって居心地が悪い。それと同様に、100年時代を生き抜くような自活の能力を身につけろと強いられるプレッシャーもまた、おそらく多くの「普通のサラリーマン」にとっては酷だろうとも思う。2018年2月16日、高齢社会対策会議であいさつする安倍首相 日々、目の前の仕事に必死であり、「働き方改革」という錦の御旗もむなしく、実態は隠れ残業で長時間労働を強いられているような彼らが、さらに自分磨きまで強要されたら…。「そんなの無理!」というのが本音ではないだろうか。 長期的視野に立つ人生設計から不老社会を説く発信は、今後も増えていくだろう。ただし、「個の啓蒙(けいもう)」と「国づくり(社会保障の制度設計)」とでは目的が異なる。だからこそ、この先「人生100年時代」という用語を目にしたら、「その発信主体は誰か」と注意深く確認することをお勧めする。

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    「老人を鞭打つ」ニッポンの働き方はここが変

    中岡望(東洋英和女学院大客員教授、ジャーナリスト) 少子高齢化は先進国の共通の問題になっている。特に日本の高齢化は顕著である。国連の調査(『世界人口予測―2013年版』)によれば、日本の全人口に占める65歳以上の比率は、2010年の23・0%から2050年には36・5%にまで増えると予想されている。 実は隣国である韓国の高齢化は、日本より急速に進んでおり、40年間に日本は13ポイント、韓国は24ポイントも上昇しているが、それでも2050年に65歳以上の人口が占める比率は34・9%と日本よりは低い。 そもそも人口の高齢化はさまざまな社会的、経済的な問題を引き起こす。まず、高齢人口の増加によって社会的な活力が喪失することは間違いない。さらに、高齢化に伴う生産年齢人口(15~64歳)の減少は国内総生産(GDP)の減少をもたらす。 それに対処するには、生産性の向上、女性の労働市場への参画の促進、65歳以上の非生産年齢層の動員、あるいは移民の受け入れしかない。最近、政府が保育園などの拡充を訴えているのは女性の就業を促進し、労働力を確保する意味合いもある。ちなみに2015年の女性の就業率は64・6%で、男性の81・8%を大きく下回っている。 また、高齢者の労働力化は別な意味でも喫緊の課題となっている。それは、高齢化は政府の財政負担の増加を招くからだ。高齢化によって政府の年金負担、健康保険負担は確実に増加し、財政赤字の拡大、財政の自由度が喪失することになる。高齢化に直面した国の政府は一様に退職年齢や年金支給年齢の引き上げなどの政策を打ち出している。※写真はイメージ(iStock) 安倍晋三政権の「一億総活躍社会構想」や「人生100年時代構想」も、高齢者が健康に働き続ける「不老社会」の実現を目指しているが、同時に財政問題に対処する政策の色合いが濃い。  言い換えれば、政府は高齢者にもっと長期間働き、もっと所得税を収め、それによって政府の年金負担や健康保険負担を軽減させようとしているわけである。老後の悠々自適は夢物語 では、日本の高齢者は現在、どのように働いているのだろうか。65歳以上の労働力率を見ると、日本の高齢者は海外の高齢者に比べると多く働いている。2015年の日本の高齢者の労働化率は31・1%であるが、アメリカは23・4%、カナダは18・0%、ドイツはわずか8・6%に過ぎない。 また、日本の高齢者が置かれている状況は、人生を充実させるために働くというよりは、働かなければ食べていけない状況を反映しているともいえる。例えば、高齢者の生活費に占める収入源を見ると、年金は66・3%と全体の半分以上占めるが、同時に仕事による収入比率も24・3%占めている。一方で、アメリカは、労働収入の比率は20・1%、ドイツとフランスはいずれも9・5%に過ぎない。 この統計から判断する限り、日本の高齢者は一部の富裕層を除き、働き続けなければならない状況に置かれているのである。年金で悠々自適の生活は夢物語であり、収入の不足分は何らかの形で働くか、消費水準を切り下げる以外に道はない。 だが、労働者の長く働きたいという思いとは逆に、日本では厳格な定年制が維持されている。多くの企業では60歳定年が普通で、場合によっては定年後に65歳まで再雇用という制度を採用している企業も多い。とはいえ65歳定年制を採用している企業は多くはない。 他の先進国を見ると、アメリカでは年齢を理由に雇用を制限することは禁止されている。カナダやオーストラリアも同様に禁止しており、イギリスでも2011年から定年制を廃止した。それは経済的理由というよりも、「働く権利」として定年制を禁止している面が強い。※写真はイメージ(iStock) ただ、定年を延期し、年金受給年齢を遅らせることで、高齢者が働かなければならない状況を作ることはできるかもしれないが、それは好ましい方法とはいえないだろう。 なぜなら、すでに述べたように、多くの企業が採用する再雇用制度は高齢者の労働意欲を高め、生産性向上につながるとは思えない。定年前の収入の半分で、かつての部下の下で働くというのは決して精神衛生上好ましいとは言えないからだ。こうした制度の背景には、日本の労働市場の硬直性があると思われる。 アメリカでは、年金受給資格を得たら、今の会社を辞めて、他の会社に移るか、自分で起業するのは当たり前である。先に触れたが、アメリカには定年制がなく、自分の維持で退社を決めることができる。転職も難しくなく、転職で大幅に収入を減らす必要もない。筆者の知人のアメリカ人も、年金受給資格を得たらさっさと会社を辞め、自分でIT関係の会社を設立し、現在でも活躍している。理想は「ソーシャル・ビジネス」 筆者はアメリカの大学で教鞭(きょうべん)を取っていたが、仕事を持った中年の学生が何人もいた。彼らは会社内での昇進や転職のために修士号の資格を取ろうとしていた。アメリカではミッド・キャリア(35~65歳)が会社を辞めて経営大学院に戻り、新たな仕事にチャレンジすることは普通に見られる。 アメリカの労働市場は極めて流動的で、年齢による雇用制限はなく、能力があれば仕事を得ることは難しくない。これも失業したアメリカ人の知人の例だが、彼は再就職についてまったく心配していないと言っていた。事実、すぐに次の職を得た。 年齢に関係なく、能力さえあれば、仕事があるというのがアメリカの労働市場の常識である。極めて流動性が高いだけに、高齢者でも大きな社会的ストレスを感じることなく転職でき、意欲さえあれば働き続けることができる。 こうした自由な労働市場は、逆に個人の自己啓発を促すことになる。会社と大学の間を行き来することで能力を高め、労働市場での価値を高めることができるのである。日本の大学と海外の大学を比べて堅調な違いが一つある。 それは25歳以上の大学入学者の比率である。日本はわずか2・5%だが、経済協力開発機構(OECD)平均では16・6%とはるかに高い水準である。ちなみにスイスでは29・7%に達している。オーストラリアは21・7%、ドイツでも14・8%と高い。 こうした事が可能なのは、労働市場の流動性が高く、高齢でも大学に行くだけの見返りがあるからだ。高齢なって大学や大学院で勉強し、知識を身に付ければ、企業は採用してくれるし、起業する道も開かれてくる。だが、日本のように新卒採用が主体で、中途採用も限られ、ましてや高齢者の採用が見込めない労働市場では、大学院に戻るメリットは極めて低い。※写真はイメージ(iStock) 日本では定年後、大学や市民講座に通う人も増えているが、その多くは趣味の域を出るものではない。あるいは健康を保つのが目的かもしれない。だが、「不老社会」で必要なのは高齢者と社会との結びつきである。多くの日本人にとって働くことは単に収入を得るだけでなく、「自己実現」の道でもある。 その意味で、「不老社会」の一つのあるべき姿は、単に企業で働くだけでなく、高齢者は自分の経験を生かし、さまざまな社会活動を行う「ソーシャル・ビジネス」に携わっていくことである。「不老社会」は、高齢者が自分で人生を選択する可能性のある社会でなければならない。

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    元生保マンが70歳で起業、定年退職者60万人の受け皿作る

    中西享 (経済ジャーナリスト) 毎年大企業の退職者数は約60万人。在職中は優れた技術やノウハウを持ちながら、退職すると生かす場所が見つからず、貴重な人材が埋もれてしまう。ここに目を付けて、仕事がしたいOB人材と、優秀な人材がほしい企業側との人材のマッチング(引き合わせ)に生きがいを見出し、これまでにない官民の知恵を集めた人材活用プロジェクトを創ろうとしている人物がいる。2月に一般社団法人「新現役交流会サポート(SKS)」を立ち上げた保田邦雄代表(71歳)だ。 企業OBの中には、ゴルフや海外旅行だけでは満足できず、世の中のために自分の持っている経験と能力を生かしたいと思っている人材が多くいる。内閣府が2013年に行った「高齢者の地域社会への参加に関する意識調査」によると、65歳以上の人のうち6割以上が働きたいと思っている。にもかかわらず、60歳以上の就業希望者のうち、1割程度しか職につけていないという。7割の高齢者が特に活動をせずに、日がなテレビを見て過ごしている状態だ。ハローワークやシルバー人材センターでは、能力を持っている大企業をリタイヤした彼ら(「新現役」と呼ぶ)にふさわしい仕事は見つけられない。 筆者も退職した際に東京都内のハローワークのパソコンで仕事を検索したことがあるが、60歳以上となると経験を生かせるような仕事はまったく見つからない。あるのは飲食業関連のパートや夜勤務の警備関連の仕事くらいしかない。 保田代表は中小企業庁などが進めている人材マッチング事業が、政策の掛け声倒れで単年度主義のため成果を出していない点に着目、生命保険に勤務していた時に金融機関とのつながりがあったことを生かして、地元の信用金庫を巻き込んで、2009年から手弁当で「交流会」を東京都内で試みてみた。「仕事をしたい企業OBに信用金庫、信用組合など地域金融機関と連携し取引先である求人側の中小企業とを引き合わせる『交流会』という手法で、そのOBの能力を活用できる場所を効率的に見つけ出せる」と力説する。 東京都北区、葛飾区で始めた最初のころは、あまり相手にされなかったが、「交流会」の実績が知れ渡るにつれて参加する企業と金融機関が増え続け、参加した企業は昨年末までで実に2695社にのぼり、支援が成立した件数(マッチング成功率)は50%を超す1378社に達している。人材のマッチング、中でも高齢者の場合は成功率が低くなりがちだが、当事者同士が対面してじっくり話し合える「交流会」があるため、成功率が驚くほど高くなっている。保田邦雄(やすだ・くにお)氏 「交流会」を実施している地域は、いまでは東京都全域から、さらに名古屋、関西、北部九州にまで広がり、「交流会」を開催した金融機関数は71の信用金庫を含む76金融機関にまで増えている。今年に入ってからは、信用組合の幹部もこの「交流会」の評判を聞きつけて、信用組合全体としてもこの「交流会」を積極的に活用し始め今年度開催決定を含めると84金融機関に拡大中だ。中小企業庁の担当者も信用金庫など地域の金融機関を仲介にした「交流会」を使ったマッチングを高く評価している。保田代表はこれまで自分でパソコンを使って資料を作るなど、マッチングの肝になる「交流会」の仕掛け作りに東奔西走してきたが、今後は組織的に手掛けたいとして社団法人を設立することを決意した。 「交流会」の最大のポイントは、仕事を求める企業OB、課題解決ができる人材がほしい中小企業のトップ、中小企業と取引関係のある信用金庫、信用組合など地域金融機関による「3者面談」による本音のやり取りだ。企業OBが人材データベース(DB)への登録に基づいて人材を求める会社と面談して、要望が合致すれば、「新現役」としての仕事を得ることができる。「交流会」の場には求人する側の社長らトップが出席するため、企業OBも仕事内容について遠慮なく聞ける。このため、ハローワークなどに多い実際に働いて見て、こんなはずではなかったというミスマッチングになる事例はほとんどないという。信用組合が注目 仲介する金融機関の担当者は、「交流会」に立ち会うことで、取引先の実情、課題や事業の将来性、可能性についてトップから直接に話を聞ける。新しい人材が加わったことで融資先の中小企業の業績が好転すれば、地域金融機関としてはのどから手が出るほどほしい新規融資の拡大にもつながる。「交流会」は中小企業、企業OB、地域金融機関をハッピーにさせる「一石三鳥」の効果がある。 仕事を得た企業OBは、体調も考慮して週に2~3回マイペースで働けばよい。中小企業庁で予算がついていれば、最初の支援3回分は補助金が支払われる。企業側がこのOBの能力を評価し、OBとも意思が合致すれば、新たに雇用や業務委託契約関係を結んで「再就職」につながるケースもあり、企業OBはまさに「無尽蔵の人材の宝庫」(保田代表)と言える。 中小企業に対する経営指導と言うと、中小企業診断士という国家資格者やコンサルタントがあり、それらのアドバイスを受けている中小企業は多い。だが、その多くは実際の実務経験のない座学に基づくものが多く、中小企業経営者からは「診断を受けても期待外れ」という声が聞かれる。「交流会」に参加する「新現役」の多くは、診断士の資格はなくても得意とする分野に関しては誰にも負けないほどの技量を持った人材が多い。 東京都信用組合協会の八木秀男専務理事は「お金を貸すだけの地域金融機関から、中小企業を『育てる』金融機関への役割の変更が求められている時代の流れの中で、『交流会』は取引先のニーズに答えられるものだ。信用組合の職員も『交流会』で取引先企業のトップから経営課題を直接聞くことができて貴重な勉強の場になっている。これを是非とも定着させていきたい」と、高く評価する。9月21日には都内の主要な6信組と、60企業が参加する大規模な「交流会」の準備が進められており、その成果が注目される。 東京都内に支店網を持っている大東京信用組合の品川支店は昨年11月に開催した「新現役交流会」へ、取引先であるスーパー「平野屋」を経営する堀江新三社長に参加を呼び掛けた。堀江社長はあまり気が進まなかったが渋々参加して、「新現役」8人と面談した。その中から三菱商事をリタイヤして小規模なスーパーの顧問をしている71歳の「新現役」に経営指導に来てもらうことにし、3回にわたりアドバイスを受けた。大東京信用組合で行われたマッチングフェア 厳しく指摘されたのが、店内での部門同士のコミュニケーションが十分でないことだった。堀江社長は地元商店街の仕事などが忙しくて、店の経営を店長などに任せてきた結果、責任体制が明確になっていなかった。家族主義的な経営手法から、社長自らが社員に対してきちんと指示を出すべきだと直言された。堀江社長はこれまでコンサルタントなどに実務に基づかない指導が嫌いなため、部外者からアドバイスを受けなかった。しかし、近くにできた有力スーパーに客を奪われたこともあって、この数年間は売上が落ち込んでおり、「この減少を何とか食い止めなければと思っていたので、貴重な指導を受けて大いに参考になった。長年続けてきた家族主義的なやり方を急に変えるのは難しいが、指摘されたことを少しずつ実践しようと思う」とアクションを取ろうとしている。 「交流会」に同席した大東京信用組合の菊島健二・品川支店長は「社長の話を通じて取引先の現場と中身を知ることができて、デスクワークだけでは分からない店の実態を理解できた」と話す。思いもかけない人材 「交流会」を契機に予想外の海外展開に手掛かりを得られた中小企業がある。品川区にある「フェラーリ」「フィアット」などイタリア車の自動車部品を取り扱う「ビオリー」(従業員20人)の久地岡正義社長が地元の信用組合の紹介で「交流会」に出てみたところ、イタリアの航空会社アリタリアに38年間勤務して退職した「新現役」の宅間武雄さん(68歳)に遭遇した。ローマにも駐在経験があり、現地での交友関係が広いことが分かり、3回の無料支援のあと早速、雇用契約を締結した。 久地岡社長は「『交流会』は思っても見ない素晴らしい人材との出会いだった。これまで国内仕入では困難な古い車等の部品調達やその輸送コスト軽減を考えていたところだったので、4月に宅間さんにイタリアに飛んでもらい、部品の卸企業と交渉した」と話す。部品の発注はこれまでは、日本の大手部品会社を通して発注していたが、宅間さんのおかげで、イタリアの卸会社と直接購入できるルートが開拓できた。これにより、「ビオリー」の顧客に対する信頼性が増し、社長の念願である増収増益にもつながる可能性がある。 仲介した大東京信用組合の柳沢祥二理事長は「取引先の企業を手助けするために『交流会』は役立っている。地域の取引先にも『交流会』の良さを分かってもらうために動画を作成する」と、この手法にほれ込んでいる。 保田代表は「各地で開催される『交流会』では、こうした思いもかけないような『宝の人材』に出会えることが数え切れないほどある」という。 東京都板橋区で理美容師向けにハサミなどを手作りで製造している「ヒカリ」の高橋一芳社長は、12年に地元の滝野川信用金庫に誘われて仕方なしに「交流会」に参加したところ、ホンダを定年退職したエンジニアで、現役時代には2足走行ロボット「アシモ」の開発に携わった西川正雄さんと出会った。経済産業省総合庁舎。中小企業庁は別館に入っている=2001年5月 30人の職人が働く同社は、繊細な手作業が求められるプロ向けのハサミが作れるようになる技術の習得は経験と勘に頼っていたため10年も掛かっていた。それを西川さんが開発した道具を使うとわずか1週間でできるようになり、高橋社長は「『交流会』に参加したことで、思っても見なかった貴重な人材にめぐり会えた」と手放しの喜びよう。80歳になる西川さんは現在も週に1回ほど技術面のサポートをするため顧問として出社、ハサミを製造する機械の開発に携わるなど同社に取ってなくてはならない存在だという。 保田代表が起業した最大目的は、「無尽蔵」にある企業OBという人材の「宝の山」を「交流会」を介して民間企業にマッチングするための全国レベルでのシステム作りだ。そのために必要なことは、「どこからでもアクセスできる新現役データベース(DB)を構築して、登録者数を増やすこと。できれば3年以内に10万人以上にしたい。求人企業数も1万社が目標だ。これだけのDBが整備できれば、このDBと『交流会』を組み合わせることで、年間5千人以上の『新現役』とのマッチングを生み出し、人材難の中小企業に対して力強いサポートが可能になる」と期待している。 「新現役」を登録するDBの制度は2003年に中小企業庁が作りクチコミで全国の企業OB約1万2000人が登録した。しかし、民主党政権の10年にこの制度は十分な新現役の活用手法や課題をもつ中小企業がシステム的に発掘できなかったこともあり「事業仕分け」で消滅してしまった。その後、保田代表の呼び掛けなどにより関東経済産業局管内で再び企業OBの登録制度と地域金融機関との交流会を開始、約1500人が登録した。しかし、人材登録制度が機能するためには地域金融機関とシステム的な連携と、交流会のような仕組みしかけ、多様な職種、能力を持った豊富な人材の登録数が求められる。地域金融機関との連携強化 このため、「1500人程度の登録人数では、地方で交流会開催を希望する金融機関や企業、新現役のニーズを満たすことはできない。また、地方都市は大都市に集中している、経験、技術、知識、知恵、人脈を持つ人材を必要としており、加えて中小企業の海外展開には、JETRO(日本貿易振興機構)、JICA(国際協力機構)だけでは地方のニーズはまかなうことが難しい。全国レベルでの人材の行き来が可能なシステムが地方創生にも不可欠である」と主張する。 現在は約4100人の企業OBが登録しているが、保田代表は「これではまだ不十分で、DBの裾野を拡大することで、より広範囲の人材マッチングが可能になる。そのためにも、中小企業庁など国が主体の全国レベルで人材登録ができるようなDBを作ってほしい」と訴えかける。  もう一つのキーワードはこれまで築いてきた地域金融機関との連携だ。これまで、信用金庫、信用組合と連携してきたが、保田代表は「今後はさらに連携の範囲を広げて、第二地方銀行なども含めた、いまの3倍以上の250以上の金融機関との連携を目指したい」という。「交流会」を通じて地域金融機関が中小企業と深いつながりができれば、担保を取って貸し出すという従来の融資方式から、金融庁の森信親長官が掲げている「融資先の事業性評価」にも役立つ可能性がある。融資先の開拓に苦労してきた地域の金融機関にとって、伸びる可能性のある有望企業の発掘にもつながる。 中小企業庁は、13年に中小企業・小規模事業者の未来をサポートするためのサイト「ミラサポ」を創設した。中小企業に関する相談窓口を想定、このサイトを通じて中小企業者の経営相談、情報交換の場を目指してきた。 しかし、同庁が当初想定していた活用には、発展していないようである。新現役の登録数(DB)を増やすことと金融機関と連携した交流会で、中小企業が支援を受ける仕組みを活性化させ、ミラサポとの連携で双方の活性化が図れないかと中小企業庁の担当者と活用方法について話し合っている。保田代表は「国が作った制度を利用すれば信用力があるので、『ミラサポ』との連携を模索したい」と意気込んでいる。2013年12月、中小企業支援サイト「ミラサポ」の活用について、活発な意見交換が行われた大阪市内でのパネルディスカッション 厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が4月10日に発表した「将来推計人口」によると、働き手に当たる15歳から64歳までの生産年齢人口は、いまの7728万人から50年後には4529万人と4割も落ち込む。人口の5人に2人が65歳以上の高齢者になる勘定で、この人口構成の元で日本経済が底割れしないためには、どうしても高齢者の労働パワーを活用していかざるを得ない。 人口減少時代を迎えて、あらゆる業種で深刻な人手不足の続く日本経済。定年でリタイヤしたとはいえ、60~65歳という年齢はまだ十分働ける年代だ。 実際「交流会」で活躍している新現役の中心層は、65才~75才でありこの人材を定年で区切って埋もらせておくのはもったいない。 陰りが見える日本経済を蘇らせるために大企業の業績を回復させることも必要だが、全国に380万社ある中小企業(このうち325万社が小規模企業者、16年版中小企業白書)を元気にさせない限りは、安倍政権が掲げる地方創生は実現しない。そのためには、まだまだ元気で働ける大企業をリタイヤした「新現役」を積極活用することを国策として推進すべきだ。経産省、中小企業庁、金融庁、総務省など「霞が関」の中央政策官庁は、縄張り意識を捨てて、誰でも登録ができる「人材DB」を構築し、「交流会」というマッチング手法と「地域金融機関」をフルに活用して、企業OBのサポートにより日本全体を底辺から再生させてほしい。

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    1億総活躍社会 高齢者は劣悪な労働環境に放り出される

     2015年9月の自民党総裁選で無投票再選し、「一強」の称号をほしいままにしていた安倍首相が打ち出したのが「ニッポン一億総活躍プラン」だった。その正体は、“年寄りを働かせて税金も保険料も納めさせるプラン”である。 自民党・一億総活躍推進本部の「65歳以上のシニアの働き方・選択の自由度改革PT」は〈高齢者〉の基準を見直すべきとの提言をまとめた。 そこでは、〈65歳までは「完全現役」、70歳までは「ほぼ現役」、65歳~74歳までは「シルバー世代」として、本人が希望する限りフルに働ける環境を国・地方・産業界挙げて整備し、「支え手」に回っていただける社会の構築を目指す〉と本音を隠そうともしない。 問題は、“年寄りももっと働け”と煽り立てる一方、その労働環境整備が後回しになっていることだ。 60歳以上で働く人の圧倒的多数は非正規雇用だ。中小企業では、「定年前とほとんど同じ仕事をしているのに、雇用形態は嘱託になり賃金は半減した」(都内に住む60代男性)といった批判が後を絶たない。松山1億総活躍相(左から2人目)=2018年1月 本当に60歳以上の労働力を活用したいなら、年齢にかかわらず能力が給料に反映される「同一労働同一賃金」の導入が不可欠だが、その歩みは立ち後れている。 昨年12月に政府が公表した「同一労働同一賃金ガイドライン(指針)案」では、正社員と定年後の再雇用者の仕事内容が同じ場合に賃金差を認めるのか否かについて、「検討を行う」とするだけで、肝心なところを曖昧にした。 安倍政権はこの秋の臨時国会に、労働契約法改正案などの働き方改革関連法案を提出する予定だという。しかし改革が中途半端に終われば、“年寄りは現役時代から激減した賃金のまま働き続けろ”という状態で放り出されることを意味するのだ。【関連記事】■ 働く高齢者から収奪した在職老齢年金1兆円が政府の埋蔵金に■ 定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要■ 小泉進次郎氏 子育て財源のため「年金返上を」と言い出した■ 貧困高齢者 介護費捻出のため熟年離婚ならぬ“晩年離婚”も■ 公務員に65歳完全定年制導入で生涯賃金4000万円増

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    年金支給先延ばし 働いた場合手取りは2・6万円低い試算

     年金支給を75歳に引き上げる検討が始まっている。元々「定年後は年金をもらい、贅沢はせずとも時に預貯金を取り崩して旅行をするなど人間らしい生活をしたい」などといったビジョンを持っていた人も方針転換を強いられる。定年後も74歳までは働く必要が出てくることだろう。高齢者が従来もらえていた年金額と同じ月額22万円を稼ぐことができても、給料明細を見てショックを受けることになる。社会保険労務士・蒲島竜也氏の指摘だ。 「収入の額面は同額でも年金と給料では手取りが大きく違うからです」 夫婦ともに65歳以上で合わせて月額22万円の年金を受給する標準モデル世帯の場合、所得税、住民税が原則非課税になる。年金収入には給与所得にはない公的年金控除(65歳以上は1人につき120万円)が認められるからだ。医療保険料は自治体によって金額が違うが、東京都世田谷区の居住者なら年金から国民健康保険料と介護保険料で月額約1万9400円天引きされ、手取りは20万円ほどになる。 ところが、蒲島氏の試算では、同じ世田谷区に住んで65歳以降に月額22万円の給料を得るケースでは、所得税・住民税や健康保険・介護保険料に年金保険料まで加えた約4万6000円が源泉徴収されて手取りは17万4000円になる。年金収入の時よりなんと2万6000円も低い。 政府は働き方改革で「元気な高齢者は働いて年金の担い手になってくれ」と推奨しているが、74歳まで働けば年金保険料を払わされるばかりか、年金生活なら取られない税金までしっかり負担させられ、高齢者が働けば働くほど奪われる仕組みなのだ。蒲島氏が語る。 「ハッピーリタイアをあきらめて年金と同額を働いて稼いでも、従来の年金生活の水準は維持できない。もっと切り詰めなければならなくなるのです」【関連記事】■ 年金75歳支給時代、貯金5000万円あっても足りない■ 人づくり革命 真の狙いは高齢者を働かせ年金給付回避■ 老人も働け!時代、孫世代の若者に使われ精神的にもキツい■ 社会保障カットの決まり文句「子や孫にツケ回さない」の欺瞞■ 年金支給年齢引き上げ 働けば働くほど高い医療費払わされる

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    漂流するニッポンの「土地神話」

    利用価値や資産価値のない土地が捨てられはじめている。こうした土地は相続未登記や相続放棄などで所有者不明となり、日本各地で行き場を失った土地が放置されているという。漂流するニッポンの「土地神話」。人口減少時代の象徴ともいえるこの問題に解決の糸口はあるのか。

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    土地も家も、なぜ所有者不明になるのか

    吉原祥子(東京財団研究員兼政策プロデューサー)  人口減少と高齢化が進む中、相続を契機に故郷の土地の所有者となり、戸惑う人が増えている。 「田舎の土地を相続したが、自分たち夫婦には子供がいない。自分の代で手放したいが、買い手も寄付先も見つからず困っている」「いずれ実家の土地を相続する予定だが、東京に暮らす自分は父親が所有する山林には行ったことがなく、どこにあるのかもわからない」こうした声を周囲で耳にするようになった。司法書士などによる法律相談や不動産会社による相続対策セミナーが活況を呈し、相続対策を取り上げた書籍や雑誌も目立つ。 そうした声と時を同じくして、近年、問題として認識されつつあるのが「所有者不明土地」である。所有者の居所や生死が直ちに判明しない、いわゆる「所有者不明」の土地が災害復旧や耕作放棄地の解消、空き家対策など地域の公益上の支障となる例が各地で報告されている。国土交通省の調査では私有地の約2割が所有者の所在の把握が難しい土地だと考えられるという。(iStock) 個人の相続と、土地の所有者不明化。一見関係ないかに見える両者だが、実はその間には土地の権利と管理をどのように次世代に引き継いでいくのか、という大きな課題が横たわっている。 本稿では、近年、マスコミでも取り上げられることの増えてきた土地の「所有者不明化」問題について、相続という多くの人々にとって切実な問題からひもといていく。そして、問題の背景にある制度の課題と、今後必要な対策について、3回に分けて考えてみたい。 所有者の特定に時間を要し、地域の土地利用や円滑な売買の支障となる「所有者不明土地」。 土地とは、本来、個人の財産であると同時に、私たちの暮らしの土台であり、生産基盤であり、さらにいえば国の主権を行使すべき国土そのものだ。 民法学者の渡辺洋三は、土地のもつ4つの特質として、人間の労働生産物ではないこと、絶対に動かすことのできない固定物であること、相互に関連をもって全体につながっていること、そして、人間の生活あるいは生産というあらゆる人間活動にとって絶対不可欠な基礎をなしているものを挙げ、これらの特質ゆえに土地とは本来的に公共的な性格をもつと結論づけている(注1)。 いま、そうした個人の財産であると同時に公共的性格をあわせもつはずの土地について、その所有者の居所や生死が直ちにはわからないという問題が、様々な形で表面化してきている。なぜ土地所有者不明問題が起きるのか もっとも身近な例が空き家だろう。2015年5月に全面施行された空家対策特別措置法にもとづいて最初に強制撤去された長崎県新上五島町(2015年7月)および神奈川県横須賀市(同10月)の空き家は、いずれも行政のどの台帳からも所有者が特定できない「所有者不明」物件だった(注2)。 一体なぜ、こうした問題が起きるのだろうか。 土地所有者の所在や生死の把握が難しくなる大きな要因に、相続未登記の問題がある。一般に、土地や家屋の所有者が死亡すると、新たな所有者となった相続人は相続登記を行い、不動産登記簿の名義を先代から自分へ書き換える手続きを行う。ただし、相続登記は義務ではない。名義変更の手続きを行うかどうか、また、いつ行うかは、相続人の判断にゆだねられている。 そのため、もし相続登記が行われなければ、不動産登記簿上の名義は死亡者のまま、実際には相続人の誰かがその土地を利用している、という状態になる。その後、時間の経過とともに世代交代が進めば、法定相続人はねずみ算式に増え、登記簿情報と実態との乖離(かいり)がさらに進んでいくことになる。 相続登記は任意のため、こうした状態自体は違法ではない。しかし、その土地に新たな利用計画が持ち上がったり、第三者が所有者に連絡をとる必要性が生じたときになって、これが支障となる。「登記がいいかげんで、持ち主がすぐには分からないために、その土地を使えない」という状態が発生するのだ。 国土交通省によると、全国4市町村から100地点ずつを選び、登記簿を調べた結果、最後に所有者に関する登記がされた年が50年以上前のものが全体の19.8%を占めた。30~49年前のものは26.3%に上っている。この結果について同省は、「所有者の所在の把握が難しい土地は、私有地の約2割が該当すると考えられ、相続登記が行われないと、今後も増加する見込み」と分析している(注3)。 図1は2013年に人口約1.5万人の自治体で事業担当者が実際に作成した相続関係図である。県道敷設に際して用地取得の対象となった土地の一角に、三代にわたり相続登記がされていない土地があった。権利の登記は任意とはいえ、自治体が税金を使って用地取得を行う際には所有権移転登記を行うことが前提となる。そのため、事業担当者は、面積はわずか192平方メートルのこの土地について約150名にわたる相続人を特定した。図1 時間の経過とともに、法定相続人は鼠算式に増加(出典:東京財団『国土の不明化・死蔵化の危機~失われる国土III』2014年) この事例は道路敷設だが、これが農地の集約化でも災害復旧の場面でも、相続未登記の土地の権利移転に必要な手続きは基本的に同じである。相続人全員の戸籍謄本や住民票の写しを取得して親族関係を調べ、相続関係図を作り、法定相続人を特定する。そして、登記の名義変更について、相続人全員から合意をとりつけなければならない。相続人の中に所在不明や海外在住などで連絡のつかない人が一人でもいれば、手続きのための時間や費用はさらにかかることになる。農地全体の2割が所有者不明 近年、各地で表面化している、「土地の所有者が分からず、利用が進められない」という事象の背景には、こうした相続未登記の問題がある。必要な土地の中のごく一部でもこういう土地があれば計画の遅れに繋がる。(iStock) 2014年4月からスタートした農地中間管理機構による農地の集約化の促進でも、同様のことが事業の障害となっている。同機構による農地の貸付は、土地の登記名義人による契約が原則だ。そのため、相続未登記の農地の所有者確認に時間を要し集約の足かせになる事例が各地で報告されている(注4)。 農林水産省が昨年行った初の全国調査によると、登記名義人が死亡していることが確認された農地(相続未登記農地)およびそのおそれのある農地(住民基本台帳上ではその生死が確認できず、相続未登記となっているおそれのある農地)の面積合計は約93万ヘクタール。全農地面積の約2割に達するという(注5)。 こうした未登記農地では、今後、現在の所有者が離農した場合、新たな権利関係の設定には相続人調査と登記書き換え手続きが必要になる。そのため、迅速な権利移転が困難になることが懸念される。 それでは、こうした問題は全国でどのくらい発生しているのだろうか。また、問題の全体構造はどのようになっているのだろうか。筆者らは土地の「所有者不明化」の実態を定量的に把握するため、2014年秋に全国1,718市町村および東京都(23区)の税務部局を対象にアンケート調査を実施した。次回はこのアンケート調査の結果から、全国の実態と問題の全体像を考える。(注1):渡辺洋三(1973)『法社会学研究4 財産と法』、東京大学出版会(注2):日本経済新聞「空き家解体 根拠は『税』」2015年11月30日、同「危険空き家28軒に勧告」同年12月6日。(注3): 国土交通省 国土審議会 計画推進部会 国土管理専門委員会(第1回)「資料6_人口減少下の国土利用・管理の検討の方向性」15ページ。https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/kokudo03_sg_000053.html(注4):例えば、日本経済新聞〔四国版〕「農地バンク利用低調」2015年6月17日、南日本新聞「まちが縮む(5)土地問題 未相続が『足かせ』に」同年9月26日など。こうした実態を踏まえ、政府の「日本再興戦略2016―第4次産業革命に向けて」(2016年6月2日閣議決定)では、「相続未登記の農地が機構の阻害要因となっているとの指摘があることを踏まえ、全国の状況について調査を行うとともに、政府全体で相続登記の促進などの改善策を検討する」ことが明記された。(注5):http://www.maff.go.jp/j/keiei/koukai/mitouki/mitouki.htmlよしはら・しょうこ 東京財団研究員兼政策プロデューサー。東京外国語大学卒。タイ国立シーナカリンウィロート大学、米レズリー大学大学院などを経て現職。国土資源保全プロジェクトを担当。

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    地方から広がった土地の「所有者不明化」問題

    吉原祥子(東京財団研究員兼政策プロデューサー)  第1回目では、所有者不明の土地について、その大きな原因が相続未登記にあることを指摘した。それでは、こうした問題は全国でどのくらい起きているのだろうか。また、問題の全体構造はどのようになっているのだろうか。 筆者らは、土地の「所有者不明化」の実態を定量的に把握するため、2014年秋に全国1,718市町村および東京都(23区)の税務部局を対象にアンケート調査を実施した。相続未登記が固定資産税の納税義務者(土地所有者)の特定にどのような問題を生じさせているかを調べることで、間接的ではあるが、「所有者不明化」の実態把握をめざした。888自治体より回答を得た(回答率52%)。 本調査で明らかになったことは、大きく2つある。順番に見ていこう。 まず1つは、土地の「所有者不明化」問題は、一時的、局所的な事象ではなく、平時に全国の自治体にその影響が及んでいるということだ。 土地の「所有者不明化」によって問題が生じたことがあるか尋ねたところ、63%にあたる557自治体が「あり」と回答した。具体的には、「固定資産税の徴収が難しくなった」(486自治体)がもっとも多く、次いで、「老朽化した空き家の危険家屋化」(253自治体)、「土地が放置され、荒廃が進んだ」(238自治体)がほぼ同数だった。(iStock) 次に、「死亡者課税」について尋ねた。これは土地所有者、すなわち固定資産税の納税義務者の死亡後、相続登記が行われていない事案について、税務部局による相続人調査が追いつかず、やむなく死亡者名義での課税を続けるもので、146自治体(16%)が「あり」と回答した。納税義務者に占める人数比率(土地、免税点以上)は6.5%だった。「なし」は7自治体(1%)のみ。735自治体(83%)は「わからない」と回答し、所有者の生死を正確に把握することが困難な現状の一端がうかがえた。 本調査から明らかになったもう1つの点は、このままでは「所有者不明化」問題の拡大は不可避だということだ。 死亡者課税が今後増えていくと思うか尋ねたところ、「そう思う」もしくは「どちらかといえばそう思う」という回答が770自治体(87%)に上った。その理由を記述式で尋ねたところ、回答は制度的なものと社会的なものに大きく二分された。 まず、制度的な理由として多かったのが、手続きの煩雑さや費用負担の大きさ等を理由とする相続未登記の増加、自治体外在住者の死亡情報がいまの制度では把握できないこと(注1)、人口流出によって不在地主が増加し相続人情報を追うことが困難になっていく、などだ。いつから「所有者不明化」は拡大したのか 社会的な理由として挙がったのは、土地の資産価値の低さや管理負担を理由とする相続放棄の増加や、親族関係の希薄化に伴う遺産分割協議の困難化などだ。 具体的には、「土地の売買等も沈静化しており、正しく相続登記を行っていなくても当面実質的問題が発生しないケースが増えている」、「相続人が地元に残っていない。山林・田畑について、所有する土地がどこにあるかわからない方が多い」、「土地は利益となる場合よりも負担(毎年の税金)になる場合が多いので、相続人も引き受けたがらない」、「過疎地で固定資産の価値も低い上、所有者の子が地元に帰ることがますます少なくなり、固定資産に対する愛着がなくなってゆく」といった記述があった。 さらに、寄せられた回答の中には、相続放棄によって所有者が不存在となった土地の扱いについて、相続財産管理制度などの制度はあるものの費用対効果が見込めず、放置せざるをえない例が少なくないこと、また、その後の当該土地の管理責任や権利の帰属が、実態上、定かでない点があることなど、制度的、法的な課題を指摘するコメントもあった。 こうした結果から、人口減少に伴う土地の価値の変化(資産価値の低下、相続人の関心の低下)と硬直化した現行制度によって、「所有者不明化」の拡大がもたらされている、という問題の全体像が徐々に浮かび上がってきた(図1)(注2)。図1 土地の「所有者不明化」問題の全体像(出所:筆者作成) こうした相続未登記による「所有者不明化」の拡大は、いつ頃から始まっていたのだろうか。 前回、紹介したように、国土交通省が行った登記簿のサンプル調査によると、最後に所有者に関する登記がされた年が50年以上前のものが全体の19.8%、30~49年前のものは26.3%に上っている。 つまり、一世代を30年と考えるならば、一世代以上、所有者情報が書き換えられていない登記簿が全体の半分近くを占めていることになる。相続未登記という現象は、今に始まったことではなく、過去数十年にわたり蓄積されてきているのだ。 実際、地域レベルで見るとこの問題は決して新しいものではない。相続未登記が、地域の土地利用という公益に及ぼす影響については、一部の関係者の間では経験的に認識され、長年、指摘されてきている。 たとえば、林業の分野では、1990年代初頭には、森林所有者に占める不在村地主の割合は2割を超え、林業関係者の間では、過疎化や相続増加に伴い所有者の把握が難しくなるおそれのあることが懸念されていた。柳澤(1992)は、急速に高齢化の進む農山村世帯において、都市部へ転出した子ども世代が相続に伴い不在地主となるケースが増え、林業の支障となることを懸念し、次のように述べている。「問題は彼らが所有する大量の土地の行方である」「不在村対策としては迂遠であるようにみえるかも知れないが、今いちばん必要なのは、将来の不在村所有者とのコンタクトではないか。」(注3)日本の土地制度の課題 農業では、各地で慢性的に発生している未登記農地の問題について、安藤(2007)が、「ただでさえ追跡が困難な不在地主問題を絶望的なまでに解決不能な状態に追い込んでいるのが相続未登記であり、これは農地制度の枠内だけではいかんともしがたい問題なのである」と指摘している(注4)。 自治体の公共事業の用地取得でも、同様の問題は起きていた。「用地取得ができれば工事は7割済んだも同じ」と言われるように、用地取得における交渉や手続きの大変さは関係者の間でしばしば指摘されてきていた。(iStock) しかしながら、こうした問題の多くは、関係者の間で認識されつつも、あくまで農林業あるいは用地取得における実務上の課題という位置づけにとどまってきた。たとえば、堀部(2014)は次のように指摘している。「農業経済学にとって農地制度とその運用は、長い間一貫して強い関心を寄せる対象であったが、それはあくまでも農地市場分析、農業経営における農地集積活動の与件としてであり、それ自体は『実務の問題』とされ、ほとんど分析対象とはならなかったのである(注5)」 関係省庁が複数にわたり、個人の財産権にもかかわるこの問題は、どの省庁も積極的な対応に踏み出しづらいこともあり、政策議論の対象となることはほとんどなかった。それが、近年、震災復興の過程で問題が大規模に表出し、また空き家対策のなかで都市部でも表面化したことで、ようやく政策課題として認識されるようになってきたのだ。 それでは、なぜ、任意の相続登記がされないことで、土地の所有者の所在や生死の把握が難しくなっていくのだろうか。そもそも、日本では土地の所有者情報はどのように把握されているのだろうか。次回は、所有者不明化問題から見えてくる日本の土地制度の課題を整理し、今後必要な対策について考えてみたい。(注1):自治体内に住民登録のない納税義務者(不在地主)が死亡した場合、現行制度では、死亡届の情報が当該自治体に通知される仕組みはない。(注2):アンケート調査結果の詳細は、東京財団『土地の「所有者不明化」~自治体アンケートが示す問題の実態~』(2016年3月、http://www.tkfd.or.jp/files/pdf/lib/81.pdf) を参照いただきたい。(注3):柳幸広登(1992)「不在村森林所有の動向と今後の焦点」林業経済45巻8号1-8頁。(注4):安藤光義(2007)「農地問題の現局面と今後の焦点」農林金融60巻10号2-11頁。(注5):堀部篤(2014)「遊休農地や山林・原野化した農地が多い地域における利用状況調査の取り組み実態」農政調査時報571号29-34頁。よしはら・しょうこ 東京財団研究員兼政策プロデューサー。東京外国語大学卒。タイ国立シーナカリンウィロート大学、米レズリー大学大学院などを経て現職。国土資源保全プロジェクトを担当。

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    「農地・山林はもらっても負担」時代に対応した土地制度の構築を

    吉原祥子(東京財団研究員兼政策プロデューサー)  ここまで、各地で広がる土地の「所有者不明化」の実態について、相続未登記の問題から全体像を見てきた。では、なぜ任意の相続登記の問題が、「所有者不明」というこれほど大きな問題につながってしまうのだろうか。そもそも、日本では土地の所有者情報はどのように把握されているのだろうか。(第1回、第2回) 土地の所有・利用に関する様々な制度を洗い出してみると、見えてくるのが情報基盤の未整備やルールの不十分さだ。 現在、日本の土地情報は不動産登記簿のほか、国土利用計画法に基づく売買届出、固定資産課税台帳、外為法に基づく取引報告、さらに森林調査簿や農地基本台帳など、目的別に作成・管理されている。各台帳の所管はそれぞれ、法務省、国土交通省、総務省、財務省、林野庁、農林水産省と多岐にわたる。台帳の内容や精度もばらばらで、国土の所有・利用に関する情報を一元的に共通管理するシステムは整っていない。 さらに、国土管理の土台となる地籍調査(土地の一筆ごとの面積、境界、所有者などの基礎調査)も、1951年の調査開始以来、進捗率は未だ5割にとどまる。一方で、個人の土地所有権は諸外国と比較してもきわめて強い。(iStock) 「土地の権利関係なら不動産登記簿を見ればすぐわかるのではないか」と思う方も多いかもしれない。実際、各種台帳のうち、不動産登記簿が実質的に主要な所有者情報源となっている。だが、ここまで繰り返し述べてきたように、権利の登記は任意である。そもそも、不動産登記制度とは、権利の保全と取引の安全を確保するための仕組みであり、行政が土地所有者情報を把握するための制度ではない。登記をした後に所有者が転居した場合も、住所変更を届け出る義務はない。そのため、登記がされなければ、登記簿上の名義人がすでに死亡した人のままだったり、古い住所がそのまま何十年も残り続けることになる。 任意の相続登記を相続人が行うかどうか、また、いつ行うかは、個人の事情をはじめ、経済的、社会的な要因などによって影響を受ける。たとえば、景気改善によって都市部の土地取引が活発化し地価が上昇すると所有者の売却意欲が高まり、その準備の一環として相続登記が行われる、あるいは、公共事業が増加し用地の対象となった所有者が売却のために相続発生後何年も経った後に登記を行うなどだ。なぜこれまで政策課題にならなかったのか 図1は相続等による所有権移転登記の件数の推移である。登記件数は近年増加傾向にはあるものの、年によって変動が大きいことがわかる。図1 相続等による所有権移転登記の件数推移(出所)法務省「登記統計」より作成 政府の「経済財政運営と改革の基本方針2016」では、所有者不明化の大きな原因の1つである相続未登記への対策が盛り込まれ、法務省が「法定相続情報証明制度」の創設を進めるなど、徐々に対策が始まりつつある。 しかし一方で、司法書士の間からは、「農地・山林はもらっても負担になるばかりで、相続人間で押し付け合いの状況」とか「最近、相談者から、『宅地だけ登記したい、山林はいらないので登記しなくていい』と言われるケースが出てきた」、「次世代のことを考えれば登記すべきだが、登記は任意であり、無理に勧めるわけにもいかず悩んでいる」といった声も聞かれる。 国土交通省の「土地問題に関する国民の意識調査」によると、「土地は預貯金や株式などに比べて有利な資産か」という問いに対して、2015年度は、「そうは思わない」とする回答が調査開始以来最高の41.3%を占めた。これは1993年度(21%)の約2倍である。 人口減少に伴う土地需要の低下や人々のこうした意識の変化を考えれば、今後、相続登記がいまよりも積極的に行われるようになるとは考えにくい。国による相続登記の促進は当面の対策としては重要だが、人々にとって相続登記をする必要性が低いままであれば、促進策の効果も限定的にならざるを得ないだろう。 考えるべきは、いまの日本の土地情報基盤が、こうした市場動向や個人の行動によって精度が左右される仕組みの上に成り立っている、という点である。 現在の日本の土地制度は、明治の近代国家成立時に確立し、戦後、右肩上がりの経済成長時代に修正・補完されてきたものだ。地価高騰や乱開発など「過剰利用」への対応が中心であり、過疎化や人口減少に伴う諸課題を想定した制度にはなっていない。 「所有者不明化」問題とは、こうした現行制度と社会の変化の狭間で広がってきた問題なのだ。 それでは、なぜ、この問題はこれまで政策課題として正面から取り組まれることがほとんどなかったのであろうか。 その理由として、1つには、問題が目に見えにくいということがあろう。所有者不明化という課題が平時に広く世の中の関心を得る機会は限られる。多くの場合、相続や土地売買、大規模災害時など、「一生に一度」の機会になって初めて、問題の存在や解決の難しさが認識される。土地所有者不明問題は「盲点」 耕作放棄地や空き家といった「管理の放置」の問題は、農地の荒廃や老朽化に伴う危険家屋化など、目に見える形で地域で表面化する。それに対し、相続未登記という「権利の放置」は、登記簿情報と実際の所有状況を照合するまでは、人々の目に見えない。 自治体担当者が公共用地の取得の際などに所有者不明化の実態に直面しても、個別事案への対応に追われ、政策課題として広く共有するまでにはなかなか至らないのが実情だ。用地取得の難しいことは、自治体担当者の多くが経験的に認識してはいるものの、そうした担当者も基本的には数年で異動するため、政策課題として体系だった議論を継続的に提起する人材も輩出されにくい。 この問題は個人の財産権に関わることから行政も慎重にならざるを得ず、積極的に取り組む政治家も少ない。 情報基盤が整っていないために精度の高い基礎情報も少なく、制度見直しの根拠となる不利益の定量化や分析も容易ではない。所有者不明化問題の根本にある制度的要因や経済的損失、さらに対策を講じないことによる負の効果などに関して、全国レベルでの詳細な検証はほとんど行われてきていないといえよう。 さらに、国民の側から見ると、この問題は解決に要するコストが大きい一方で、問題解消によって得られる便益を短期的に実感しづらいという難しさがある。問題が目にみえづらく突発的な事件が起きることも少ないため、マスコミの記事にもなりづらい。 こうした意味で、土地の所有者不明化問題は、さまざまな主体の間の隙間に落ちた「盲点」のような課題だといえる。農地集約化、耕作放棄地対策、林業再生、道路などの公共事業、空き家対策、災害復旧事業など、多くの場面で同様の問題が発生していながら、その根底にある土地制度の課題について踏み込んだ議論が十分に行われることのないまま、問題が慢性的に広がってきていたのだ。(iStock) 所有者不明化問題の1つひとつの事象は小さいかもしれない。しかし、この問題が各地で慢性的に発生し堆積していくことで、再開発や災害復旧、耕作放棄地の解消など、地域社会が新たな取り組みに踏み出そうとしたときに大きな足かせとなる。地域の活力をそぐ問題であり、全国で同じようなことが繰り返されていくことで、長期的には国力を損なうおそれがあるといっても過言ではない。 それでは、今後、どのような対策が必要だろうか。地価の下落傾向が続き、「土地は資産」との前提が多くの地域で成り立ちづらくなるなか、土地制度が大きな転換期にあることは明らかだ。具体的な対策は? まずは国と自治体が協力し、地域が抱える土地問題について実態把握を進めることが必要だ。その上で、国土保全の観点から、どのような土地情報基盤が実現可能か、また、どのような関連法整備が必要か、省庁横断で整理していくことが求められる。 短期的な対策としては、まず所有者、自治体双方にとって各種手続きのコストを下げる必要がある。たとえば相続人による相続登記や、自治体による相続財産管理制度の利用にあたり、費用負担を軽減し手続きの促進を支援していくことなどだ。 同時に、相続登記の促進を図りつつも、登記が長年行われず数次にわたって放置されているものについて、一定の手続きを踏まえた上で利用権設定を可能にする方策など、踏み込んだ対策の検討も今後は避けて通れないだろう。 森林については、所有者不明などの問題の広がりを踏まえ、昨年の森林法改正のなかで、市町村が所有者等の情報を林地台帳として整備することが義務付けられた。ただし、この法案に対しては全国市長会から、「都市自治体では、地域住民の多様なニーズに対処するため、絶え間ない行政改革を断行している中、新たな事務を一律に義務付けるような制度改正については、地方の実情を踏まえ十分な検討を行うことが必要である」との申し入れがあった(注1)。人口が減少し、土地需要も相対的に減っていく中で、国土保全の観点から最低限必要な情報を国と地方が連携して効率的に整備していくことが求められる。(iStock) さらに、長期的な対策として必要なのが、所有者不明化の予防策である。具体的には、利用見込みのない土地を所有者が適切に手放せる選択肢を作っていくことが急務だ。本来、個人が維持管理しきれなくなった土地は、できれば共有したり、新たな所有・利用者にわたることが望ましい。だが、現状、そうした選択肢は限られる。地域から人が減るなか、利用見込みや資産価値の低下した土地は、そのまま放置するしかない。「いらない土地の行き場がないんです」とは、ある自治体職員の言葉だ。NPOなど地域の中間組織による土地の寄付受付の仕組みや、自治体による公有化支援策の構築等、土地の新たな所有・利用のあり方について議論を本格化させる必要がある。自治体も動きにくい あわせて、こうした問題について、日頃から人々が学ぶ機会を設けることも重要だ。学校教育では現行の土地制度について学ぶ機会はほとんどない。多くの人々にとって、土地制度や登記手続きの仕組み(煩雑さ)を学ぶ機会は限られ、相続もしくは被災といった「一生に一度」の場面になって初めて直面する人がほとんどであろう。(iStock) ある自治体の担当者は、次のように言う。「この問題は公共課題でありながら個人の権利に関わる部分が大きく、行政が積極的に動きにくい。しかも、その個人の権利を個人が必ずしも理解していない。まさしく、どこから手を付けて良いのか分からない問題だ。」 多くの人々は、ふだん相続登記をしないままの実家の土地が、公共の利益に影響を及ぼすとはあまり意識することはない。自分が相続登記をしないことが、将来、地域や次の世代の土地利用の足かせになるかもしれないと考えることは、決して多くはないだろう。 財産権にも関わる土地制度の見直しは、国民の理解がないことには進まない。土地が個人の財産であるとともに公共性の高い存在であることを、普段から国民が学び、一人ひとりが理解を深めていくことが大切だ。このままでは、この問題は一部の関係者の間では経験的に認識されつつも、一般の人々の認知や理解を十分に得られないまま、先送りが続いてしまうおそれも否定できない。 親族や自らが所有する土地をどう継承していくかは、個人の財産の問題であると同時に、その対処の積み重ねは生産基盤の保全や防災など地域の公共の問題へと繋がっていく。今後、土地を適切に保全し次世代へ引き継いでいくために、どのような仕組みを構築していくべきなのか。土地問題を人口減少社会における1つの課題と位置づけ、制度見直しを進めることが必要だ。(注1):全国市長会「『森林法等の一部を改正する法律案に対する申入れ-林地台帳(仮称)の整備について-』を森山・農林水産大臣に提出(平成28年2月25日)」http://www.mayors.or.jp/p_action/a_mainaction/2016/02/280225daichoseibi-moushiire.phpよしはら・しょうこ 東京財団研究員兼政策プロデューサー。東京外国語大学卒。タイ国立シーナカリンウィロート大学、米レズリー大学大学院などを経て現職。国土資源保全プロジェクトを担当。

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    空き家だらけの日本 成熟社会の宿命とどう向き合うか

    中村宏之(ジャーナリスト) 日本各地で空き家が増え、多くの自治体や地域の関係者が困っているという古くて新しい問題をわかりやすい言葉で解説してくれる本である。『空き家問題 1000万戸の衝撃』(牧野知弘、祥伝社) 以前、筆者(中村)が住んでいた東京郊外の一角にも、朽ち果てる寸前の木造住宅の空き家があった。昼夜を問わず、人が出入りする気配は全くなく、通行人が投げ捨てるゴミが放置され、異臭を放っていた。毎日その場所を歩くたびにいやな思いをしたものだ。近所の人々も迷惑している雰囲気が明白だった。だいぶ長く放置されてからその空き家は解体され、更地に変わった。同じようなことが全国で起こっているのだろうなと素朴に想像していたが、本書を読むと、こうしたケースは実はまだ救われている方だということがわかる。本書に紹介されている様々なケースは、いまこの国が抱えている空き家問題の深刻さを浮き彫りにしている。 次の東京オリンピック・パラリンピックが開かれる2020年には全国の空き家は1000万戸に達し、空き家率は15%になるという。毎年20万戸数ずつ増加しているというから、驚くべき数字である。 著者は問題の本質について、「増え続ける空き家をどう扱うか、始末するかという対策論ではない。日本の構造的な問題に深く関連している」と指摘する。つまり高齢化、人口の減少、住宅の需要と供給というあらゆる課題を巻き込んだ経済の構造問題として対応してゆく必要があるという主張だ。 人口が減り、働き手が減少してゆく時代。人が減れば住む家も多くはいらない。その中で社会インフラとしての住宅は国内では満たされている。いずれ世帯数が減る時代がくることを考えれば、活用されない住宅は増え、その結果、空き家も増えてくる。こうした状況で空き家問題に対応するには、発想の転換や価値観の見直しが不可欠だ。 持っているだけで価値があり、自然に値上がりして資産形成には最良というイメージが強かった家や土地。ごく少数の例外を除いて、もはやそうした時代ではなくなっているのは明らかだ。家を買うことが人生の目標とはなりえず、人生最大の買い物として買った住宅が、最後はお荷物になってしまい、相続すら拒否されかねないのが今の現実だ。自分の親、あるいは配偶者の親のことを考えると決してひとごとではない。寿命が伸び、多くの人が長い人生を生きなければならない時代だからこそ、この問題は深刻なのである。空き家の活用方法はこれだ! 現在の多くの対策が「対症療法」にすぎず、もはやどうにもならないという著者の指摘は大きな警告である。つまり、いまある法律の枠組みでは解決できないのだ。自治体の空き家条例のように撤去のための助成金を出すだけでは解決は進まないし、代執行も難しい。空き家に固定資産税を大きく賦課しようというハードルも高い。「売れない」から流動化できない、「貸せない」から活用できない、「解体」したら税金負担に耐えられない、だから放置される悪循環に陥っているという著者の説明は明快だ。 ではどうすればよいのか。著者は自らの実務経験などから以下のような処方箋を提示する。・市街地再開発手法の応用・シェアハウスへの転用・減築・介護施設への転用・在宅介護と空き家の融合・隣家との合体 などだ。いずれも確かにそうした方法は有効だと思われるものだ。だがその一方で、既存の法律やルールの枠組みで進めてゆくのはなかなか難しい面もあるのではないか、との印象も受ける。(iStock) 空き家であってもそれぞれの家に所有者がおり、所有権があることから、権利を尊重する必要があることは当然だ。だが、必要な場合には、一定の保護や保証を与えつつ、ある程度の私権の制限を行って、大胆な都市計画などを行うことが必要という著者の考え方には大いに賛同できる。 時代の変化によって、都市計画などに求められる社会のニーズも変化する。人口が減り、生産年齢が減り、家が余り、空き家が増えるというのは、戦後の日本が経験したことのない新しい局面だともいえる。成熟社会の宿命ともいえる方向にいま社会は確実に動いている。固定観念にとらわれず、柔軟な発想をするにはどんな覚悟が必要なのか。「空き家問題」という切り口を通じて日本が直面している喫緊の課題を再認識させてくれる一冊である。なかむら・ひろゆき 1967年生まれ。91年、慶應義塾大学経済学部卒、読売新聞東京本社入社。ロンドン特派員、米ハーバード大学国際問題研究所研究員、経済部デスク、調査研究本部主任研究員などを経て2017年4月より読売新聞東京本社メディア局編集部次長。『御社の寿命』、『世界を切り拓くビジネス・ローヤー』、(いずれも中央公論新社)など

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    今すぐ始めるべき「実家の整理」失敗しない5つの鉄則

    965年、神奈川県生まれ。銀行、出版社などを経て、2016年より〔一社〕実家片づけ整理協会代表理事。少子高齢化社会に特化した「実家片づけアドバイザー」育成講座や、親子で取り組む生前整理、空き家問題、物とお金の整理術、遺品整理などの講座を開講し、講師育成、出張片づけサービスなどを展開中。著書に『カツオが磯野家を片づける日』(SB新書)、『プロが教える実家の片づけ』(ダイヤモンド社)など。関連記事■ 「収納破産」を解消すれば、仕事も人生も一気に好転する!■ 情報は分類しない!進化した「超」整理法■ 自分の頭の中を可視化する「本棚の整理術」

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    なぜ「身寄りのない土地」が今増え続けているのか

    のは生まれ育った思い入れのある土地であっても難しくなっているのでしょう。(iStock) これからは少子高齢化に伴い、人口が減少していくにつれ、土地の需要が徐々になくなってくるのではないでしょうか。不動産は都会の条件のいい土地でない限り「資産」として成り立たず、多くが負担ばかりかかる「負債」になっているのです。 朽ち果てた家や何年も耕作を放棄している土地が、多くの過疎地域でよく見られる光景となる一方、都市部の近郊では新築アパートや建売住宅が次々と建てられています。住宅メーカーは、空き家の問題などはお構いなしに利益追求に走り、それを購入する人の税金を免除するといった国の方針は全く変化が見られません。また、相続した空き家を売るために作られた税金の優遇措置は要件が厳しく、なかなか手が付けられないといった状況です。 これからも資産価値のない「いらない」土地が増えることは間違いなさそうです。最近、困ったときに誰も頼る親類がいない高齢者が多いですが、このような「身寄りのない土地」の処分もさらに問題化してくるのではないでしょうか。 これからの将来、土地の法制度を変えていくことが急務となるでしょう。【参考文献】■タダで簿記の指導をしてもらえる!税務署の無料記帳指導を知っていますか?(浅野千晴 税理士)■ふるさと納税にもはやお得感なし?総務省の要請でブーム終息となるか。(浅野千晴 税理士)■世界のシンデレラストーリーは変わった。それは自分の力で起業することである。(浅野千晴 税理士)■年収1000万円超えの会社員は「税金」で貧乏になる。(浅野千晴 税理士)■相続税や消費税対策が将来の空き家問題を加速させる(浅野千晴 税理士)

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    「大介護時代」の到来にふさわしい処方箋はあるか

    津止正敏(立命館大産業社会学部教授) 「冷遇・衰弱・不衛生」「長寿嘆く20万人寝たきり老人」-これは日本で初めての介護実態調査(全国社会福祉協議会主催)の結果を報じた1968年9月14日の全国紙朝刊記事の見出しだ。日本初の調査報告、いまであれば1面トップを飾ってもおかしくないビッグニュースかもしれないが、当時は社会面で人気の4コマ漫画の下にたった3段組の記事として扱われた。(iStock) 当時の介護問題に対する社会の関心度合いはこのようなものだったのだろう。「介護は家族がするもの」ということを誰もが当然のように受け入れて、そのことを疑う余地すらなかった時代だ。特別養護老人ホームは身寄りがない低所得の高齢者を対象として、全国にわずか4500床しかなかった。介護者は、子供の配偶者(ほとんどが嫁)が49%超とほぼ半数を占め、次が配偶者(大部分が妻)で26%、3番目が娘で14%と、9割以上が婦人の肩にかかっている、と報じられた。この時代、介護する人は「若くて体力もあり、家事も介護も難なくこなし、介護に専念する時間も十分にあって、何より家族の介護を担うことを自然と受け入れている」というような同居女性、とりわけ専業主婦をモデル化したものだった。 あれからほぼ半世紀が経過し、介護の世界は激変した。前述した「嫁・妻・娘」という介護者モデルの劇的な変容がその最たるものだ。今年6月に公表された「国民生活基礎調査」を見て、つくづくそう思う。この調査は毎年実施されている恒例のものだが、3年ごとに介護の項目の入った大規模調査を行っており、今回のものがそれにあたる。 主な介護者をみると、要介護者との「同居」は6割を切った(58・7%)。「別居」して通いながら介護する家族は12・2%で、「事業者」「不明」というのもそれぞれ13・0%、15・2%となっている。在宅の介護実態はますます複雑化しているようだ。「同居」の主な介護者の、要介護者との続柄をみると、「配偶者」が25・2%で最も多く、次いで「子」が21・8%。「子の配偶者」は1割を切って9・7%となっている。また、「同居」の主な介護者を性別にみると、女性が66・0%だが、男性も34・0%と文字通り主な介護者の3人に1人を占めるようになった。 「老老介護」の実態が一段と進んだというのも今回の調査結果で明らかになった。介護する人もされる人も「65歳以上」という世帯が半数を超え(54・7%)、ともに後期高齢者である「75歳以上」という世帯も30%を超えた(30・2%)。「60歳以上」同士に至ってはなんと7割を超えている(70・3%)。もう在宅での介護実態は「老老介護」そのものであるといっていい。さらに、夫婦間での介護となればこの実態はより先鋭化している。これまでのカタチを激変させる老老介護 調査概要には夫婦間での介護する人とされる人の年齢階層を組み合わせたデータは掲載されていないが、介護する夫の83・1%は60歳以上、75歳以上も半数(50・2%)を超えている。また、被介護者のほうはさらに高齢化が進み、65歳以上は89・2%、75歳以上が62・9%に達していることからしても、事態の深刻さは容易に把握することができよう。「老老介護」はもはや一過性のもではなく、さらに加速するように思われる。「人生90年時代」が現実化し、加えて少子化や非婚化の進展によって、家族形態が大きく変容しているからだ。いまや介護は夫婦間が主流となり、その後、ひとりになった親を高齢期に達した息子や娘らが介護するという関係が一般化する。 「老老介護」はこれまでの介護のカタチを激変させる。「家ではコーヒー一杯入れたことがなかった」男性が、介護どころか炊事・洗濯・掃除・買い物など生活全般の困難を抱えながらの介護を始める。これまで何も問題なくこなしてきたに違いない女性の介護者も、年々の体力劣化によって家事にも支障が出てくる。自らも要支援・要介護認定を受けながら、ヘルパーやデイサービス等の介護サービスを利用しつつ介護の役割を引き受けている高齢者も何ら珍しくなくなっている。 こうした「ながら」の介護は「老老介護」に限らない。先述した半世紀前の介護者の専業主婦モデルでは、家族の介護が始まれば介護に専念すると想定されてきたが、それはもう過去の話である。いまあるのは、働きながら、子育てしながら、通いながら、体調不調を抱えながら、就活・婚活しながら、介護する配偶者や子供たちだ。岩手県奥州市で開かれたダブルケアサロンの参加者=2016年8月 では、働きながら介護する人はどれぐらいいるのか。直近の就業構造基本調査(平成24年)という総務省のデータでは291万人。介護者総数(557万人)の半数を超えている。60歳未満という生産年齢層の介護者の中で、働いている人は男性で8割を超え、女性でも6割を超えている。育児と介護を担う「ダブルケアラー」は25万人(男性8万人、女性17万人)ということを内閣府が明らかにしている。 「認知症に克つ」(週刊エコノミスト)「認知症の常識が変わった」(文藝春秋)「家族の介護」(週刊ダイヤモンド)-総合誌でも経済誌でも介護の大特集だ。報道からドラマ、バラエティーまで介護がメディアを席巻し、また時の政権が「介護離職ゼロ」(2015年)を成長戦略の三本の矢の一つに挙げるなど世間を驚かせたが、介護問題をめぐっての上記の状況からすれば何ら不思議でもないように思える。 フランスの著名な歴史人口学者、エマニュエル・トッドは急速に進むわが国の人口減少と人口の老化をあの「幕末の黒船以上の脅威」だと警鐘を鳴らしているが、介護もまた同様にこの時代を象徴する社会問題に違いない。その対処を誤れば社会の崩壊を招くだけである。まさしく「大介護時代」の到来である。 「大介護時代」にふさわしい処方箋こそ、私たちに課せられた重い課題だ。その処方箋のひとつとして、家族介護者への支援とそのための根拠法の制定を挙げたい。現行の介護保険制度は、介護が必要な高齢者への直接的な支援にとどまっており、家族介護者は介護の資源とはみなされても支援対象とはなっていない。介護者の事前評価(アセスメント)や支援プログラムの開発によって、介護する人、される人がともに安心して暮らせる環境づくりが何より急務である。私が代表理事を務める日本ケアラー連盟は、この不可視化されてきた「家族介護者支援」という政策課題を「介護者(ケアラー)支援の推進に関する法案(仮称)」という形にまとめて具体的な政策提言を行ってきた。立法府や行政機関での議論が進み、無理なく介護を続けられる環境が整うことを念願している。

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    大山のぶ代さん「認知症介護」が教えてくれた3つのリスク

    古川雅子(ジャーナリスト) 「妻より先に死ぬわけにはいかない」。そう言い続けていた、俳優の砂川啓介さんが7月11日、入院先の病院で天国に旅立った。80歳だった。 妻はアニメ「ドラえもん」でドラえもんの声などを務めた女優の大山のぶ代さん。砂川さんは妻の認知症を公表し、献身的に介護を続けてきた。2008年に大山さんが脳梗塞で倒れてから10年弱。さらには12年秋、アルツハイマー型認知症と診断されてから5年。自宅介護で重ねてきた時間は、実に長い。大山のぶ代、砂川啓介さん夫妻(2007年6月撮影) 6月に厚労省が発表した国民生活基礎調査によれば、介護をする人とされる人が同居する世帯のうち、介護を受ける側も担う側もともに65歳以上の「老老介護」世帯の割合が過去最高の54%に達した。75歳以上同士の「超老老介護」世帯も30・2%と、初めて3割を超えた。砂川さんと大山さん夫婦は、まさにこの「超老老介護」世帯であった。 介護をする側である砂川さん自身も、13年には胃がんの摘出手術を受け、その他にも帯状疱疹(ほうしん)、肺気腫とさまざまな病気を患っていた。介護によるストレスも関係があると、医師からは指摘されていたという。70歳を超えてからの砂川さんは、自らの老いを突きつけられながらも妻の介護に明け暮れる日々だった。だからこそ、砂川さんは「老老介護」を自認していた。自著の『娘になった妻へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』には、こんな記述がある。〈介護をする側の僕の体調だって万全じゃない。それなのに、介護をする側は、「頑張らなきゃ」「自分がなんとかしなきゃ」と、背負いこんでしまう〉 マスコミは、昨年4月に砂川さんに尿管がんが発覚して共倒れにならぬよう妻を介護施設に入居させたことを「おしどり夫婦を襲った老老介護の悲劇」として伝えていた。80近い齢(よわい)を重ねた男性が愛妻のために自宅介護を続けてきた「美談」と、介護する側が先に倒れるかもしれぬ「悲劇」の予感とが合わさり、そこに「老老介護」というわかりやすいラベルを貼ってニュースが大量生産されて…。そんな構図が垣間見えた。3つの「置き忘れの視点」 しかし、それだけでは「老老介護」の本質は見えてこない。私は一連の砂川・大山夫婦をめぐるマスコミ報道では、3つの「置き忘れの視点」があったと考える。 1つ目は、介護を担っていた側が相手をみとった後の「孤立のリスク」だ。老老介護とはいえ、少なくとも介護を担う側は健常であり、介護される側が遺(のこ)されるよりは何とかなるという思い込みがある。しかし、当初の砂川さんがそうであったように、他人を家に入れて介護サービスを受けるのが苦手、SOSを出すのも苦手な世代でもある。在宅介護を長年続け、まわりとの交流が途絶えた介護世帯が最も陥りやすいのは、孤立である。(iStock) 砂川さんの介護体験で最も学ぶべきだと私が感じたのは、自宅で介護を続けた美談よりもむしろ、妻の認知症を公表し、徐々に人に頼るということを受け入れていった「開く介護」にシフトしていった切り替えスイッチの見事さだった。著名人ゆえに当初は認知症を公表することにも躊躇(ちゅうちょ)していた砂川さんだが、公表してから途絶えていた友人との交流が戻り、支え手は自分だけでないことを知った。それまでは、〈一日中二人きりで家にいると、日によっては、どうしてもいら立ちを抑えられないことがある〉(『娘になった妻へ』より)という状態だったのが、公表してからは激励の電話、砂川さんが好きだった焼酎「百年の孤独」の差し入れ、電話をかけてきた友人などアクセスがどっと増えたという。砂川さんはそれから介護をするにも余裕が生まれ、〈一番変化したのは僕自身〉と著書にも記している。マネジャーや身の回りの世話をするお手伝いの女性にも頼ることが増えていった過程もしっかりと記録していた。仮に、砂川さんが介護をやり遂げ、妻を見送った側になったとしても、おそらくつないできたネットワークの力により孤立を回避しながら喪の時を過ごすことができただろうと想像する。 2つ目は、介護されていた側が遺された場合、その介護を引き継ぐ人との新たな介護関係が孕(はら)むリスクだ。砂川・大山夫婦には、死産など悲しい歴史があり残念ながら子供がいなかったわけだが、核家族で遠方に子供がいる夫婦の場合、老老介護で持ちこたえていた夫(妻)の一方がいなくなり、取り残された「介護をされる側」の引き取り先が子の世帯ということもある。子の側は親と暮らすこと自体に慣れておらず、介護にも不慣れ。その上、晩婚化でまだまだ子育て中というケースもある。介護と子育てとの板挟みで悩む、いわゆる「ダブルケア」状態である。連れ合いの衰えを見抜くのは難しい いきなりダブルケアに突入して混乱する現役世代側のリスクを回避するためには、遠距離で多少コストがかかったとしても、普段からなるべく親元に通って親とのコミュニケーションを増やし、親の生活習慣に目を向ける。他の支え手になりそうな親の交友関係を把握しておく。いずれ親を引き取ることも想定して脳内でシミュレーションをしておく。そんな準備期間を過ごしてきたかどうかが、いざというときに対処できるかどうかの分かれ目になるだろう。 老老介護における3つ目の置き忘れの視点は、本来は介護や手だてが必要なのにそれがなされていないという「見逃しのリスク」だ。老老介護といっても、砂川さんは身体がヨロヨロしてからも、人の手を借りてでも大山さんをしっかりフォローしていた。それは妻が認知症を発症しているという事実を認識していたからこそ。だが、夫婦の一方が認知症などで明らかに判断力が低下していたとして、見張り役の側がその異変に気づいていなかったらどうだろうか。 私が取材した40代の男性は老齢の親夫婦が九州で暮らしていた。現役世代の「子」である男性は東京で所帯を持ち働いている。久しぶりに親元に帰ったとき、80代の父親の運転する車に同乗して「これは危険だ」とそこで初めて親の老いに直面し、時間をかけて運転をやめさせるよう説得したという。一緒に暮らしている母親では日々の暮らしの延長線上にあるため、連れ合いの衰えを見抜くのは難しいのだと感じたという。 砂川さんのように、長年連れ添い自宅介護に難儀する「老老」の側面は確かに悲劇かもしれないが、家族の誰かがいきなり事故を引き起こして「老老」の現実を突きつけられるなら、惨劇である。それではあまりにも遅すぎる。(iStock) 「老老介護」の真の課題は、連れ添う夫婦の美談や介護地獄という悲劇性に涙するところで立ち止まっていては見えてこない。いかに目を背けずに、齢を重ねた者同士が支え合う世帯ならではの孤立、疎遠、無関心といった現実に向き合えるか。事前に対処できるか。それこそが「超老老介護」時代を迎える私たちが忘れてはならない大事な視点なのだと思う。

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    老老介護は「セカンドハネムーン」という考え方

    小山朝子(介護ジャーナリスト、介護福祉士) 老老介護とは一般に65歳以上の高齢者が65歳以上の高齢者を介護することを指す。しかし、私が在宅介護の現場で遭遇する高齢者は75歳以上の後期高齢者が多いようだ。 75歳を過ぎると人は介護が必要になる割合が高くなる。厚生労働省の「介護保険事業状況報告」(2012年度)によると、65歳から74歳で「要支援・要介護」の認定を受けた人は4・4%であるのに対し、75歳以上の「後期高齢者」では31・4%だった。ちなみに、日本老年学会などは今年1月、現在は65歳以上と定義されている高齢者を75歳以上に見直すことを求める提言を発表した。画像と本文は関係ありません ところで、老老介護のなかでも、特に深刻なのが認知症の人が認知症の人を介護する「認認介護」である。公益社団法人「認知症の人と家族の会」のホームページには、80歳前後の認知症高齢者はおよそ20%であることから、80歳前後の夫婦ではおよそ11組に1組が認認介護となる可能性があると記されている。 ある番組で老老介護について取り上げることになり、この番組のスタッフに私が認認介護の事例について紹介したところ、「ニンニンって響きだけを聞くと、かわいい感じなんっすけどね」と話していたが、現場は深刻な状況である。 認知症の妻を介護する認知症の夫が妻を受診させようと病院に同行するが、夫が院内で迷ってしまい、結果的に受診できずに帰ってきたという話も現場では耳にする。一方、認知症の場合、夏なのに冬服を着込んだり、クーラーをつけずに高温の部屋でじっとしているといった事態が起きる。高齢になると体温の調節機能が落ちて暑さを自覚しづらくなるが、そこに認知症の症状のひとつである「見当識障害」(時間や月日、季節感が薄れる症状がある)が加わり、熱中症になるリスクが高まる。  認認介護のお宅を訪問しているあるヘルパーは「冷蔵庫には賞味期限を過ぎた食品でいっぱいになっている。こちらが勝手に処分することもできないですし…」と話していたが、このように第三者が介入しているケースは事件に繋がりにくいこともあり「救われているケース」だといえよう。問題なのは、第三者が介入していない場合である。 私は介護分野を専門とするジャーナリストとして長年にわたり現場の取材を続けてきた。その間執筆した記事のなかで印象深い事件のひとつが2005年に埼玉県富士見市で発覚した「リフォーム詐欺事件」である。 この事件の被害者は当時80歳と78歳だった姉妹である。事件に関わった市の消費生活相談員の話では、「姉妹はともに認知症だった。寡黙な妹と社交的な姉、ともに10分前のことは忘れてしまうレベルだった」という。  この事件に関わった悪質リフォーム業者と姉妹との間で交わされた契約書によると、事件が発覚するまでの4年間で姉妹宅のリフォーム工事に関わった業者は19社あり、姉妹が請求された金額は約4800万円(2005年7月までの判明分)に上った。姉妹は被害に遭った事実も把握できず、近隣の住民が気づいて市に相談しなければ、この事件は明らかにはならなかった。 姉妹が介護保険の申請を行い、介護保険のサービスを手配・調整する介護支援専門員(ケアマネジャー)やヘルパーなどの介護スタッフが出入りすれば、もっと早く事件が表面化し、被害総額もここまで膨らむことはなかったのではないだろうか。老老介護の家で見た驚きの光景 介護保険制度はその人のレベルに応じた介護サービスが受けられるが、自ら申請しないと受けられない。申請は家族も代行することはできるが、介護する側も認知症である場合、介護保険制度の内容を理解し、介護保険の申請窓口である「地域包括支援センター」や自治体の介護保険課などに足を運ぶことは容易いことではない。 各自治体において、未だ認認介護の実態把握が未整備で、その対策が後手後手となっている状況では、上記のような事件が後を絶たないだろう。他方、こんな老老介護もある。 10年ほど前だったか、私は海辺からほど近い神奈川県内のあるお宅を訪問した。老老介護で夫婦ともに生活の一部に介護が必要であった。この夫婦の家の近くにある事業所の管理者であるベテラン女性ケアマネジャーがこまめに足を運んで2人の見守りをしていた。ケアマネジャーとともに2人の住まいにうかがう前、私は2人がどんな生活をしているのかを想像して陰鬱な気分でいた。 しかし、お宅に到着すると、そこには目を疑うような光景があった。足の踏み場もないような部屋のなかで、夫婦はカセットプレーヤーにマイクが付いたカラオケ機器を使い、戦後の歌謡曲を楽しそうに歌っていたのである。老夫婦に促され、ベテラン女性ケアマネジャーも汗を拭きながら懸命に歌っていた姿が目に焼きついている。画像と本文は関係ありません このケアマネジャーのような「キーパーソン」が近くにいることで、老老介護であっても穏やかに暮らしているケースもあるのだなと感じた。この先、2人の生活が成り立たなくなったとしても、キーパーソンがいれば、施設に入居するなどの解決策を提示してもらうこともできるだろう。 同居は無理だという子供でも「つかず離れずの距離」で親を見守ることで、「老親の2人が共倒れ」になるような事態を防いだ例もある。ちなみに、私は今年『なぜ介護殺人は起きるのか』という本を監修したが、この本にも親子の適度な「距離感」は大切だと書いている。 上記の事例のほかにも、80代前半の夫が末期がん、70代後半の妻が認知症というケースがあった。年齢と病状を聞くと大変そうに思えるかもしれないが、お互いが不自由なところを補い合って生活していた。この夫妻の場合、がんの夫はベッドから離れることは難しかったが、認知症でも手足に不自由はない妻に必要な指示を出すことで日常生活は機能していた。 また、芥川賞の選考委員などを務めた作家、大庭みな子さんの介護を続けてきた夫の利雄さんの日記には「介護はセカンドハネムーン」だと記されていたという。1+1=2にはならなくても、0・5+0・5=1で良しとして「今日一日が無事に終わった」ことに安堵する老老介護の日常。そこには2人だけが共有するスローな時間が流れている。マスコミがあまり報じない「穏やかな老老介護」があることも最後に書き添えておきたい。

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    「老老介護」を切り捨てる国、ニッポンの悪夢

    中村淳彦(ノンフィクションライター) 日本は約4人に1人が65歳以上の高齢者であり、2035年には3人に1人になると推測されている。超高齢社会に激増する介護対策として2000年に介護保険制度が始まり、シニアビジネスへの注目が高まるようになって久しい。しかし、「介護」に焦点を当てると、どうもこれからの超高齢社会はお先真っ暗である。 介護保険制度をきっかけに、民間の力を借りて明るい超高齢社会を目指したが、それをあざ笑うかのように、また介護施設で大事件が起こった。岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」では、7月末から8月中旬のわずか半月で、入居する高齢者3人が相次いで死亡、2人がけがをして入院する事態となった。岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」= 8月18日 亡くなった高齢者3人の死因は、のどに食べ物を詰まらせる窒息死のほか、自室で頭を打ったことによる脳挫傷と頭蓋骨骨折、肋骨(ろっこつ)骨折で折れた骨が刺さり肺に血がたまる外傷性血気胸だった。事故か殺人か判然としない中、警察の捜査が続いている。 およそ半月の間で5人もの死傷者が出たのは異常な事態だが、筆者周辺の介護関係者や介護の現状に詳しい人たちは、こうした凄惨(せいさん)な事態に驚いていない。多くは「これから、こんなことばかりだろうね。高齢者はどんどん殺されるよ」と、もはや投げやりだ。 他にも、2014年に東京都北区の高齢者向け賃貸住宅で起きた入居者の80%が身体拘束される虐待事件、2015年の川崎老人ホーム連続転落死事件、さらに2016年の相模原障害者殺傷事件と、介護施設で世間を揺るがせる事件が相次いで起こり、老老介護の末に夫や妻を殺害する悲痛な事件も後を絶たない。 こうした事態の背景にあるのは、現在の介護現場で起きている異常な人手不足だ。無条件に人材採用するため、続々と専門性がない人が介護現場に投入されるといった「質の低下」を招き、それがさまざまな事件や事故の根底にあると言わざるを得ない。介護職は失業者のセーフティーネットに 本来、介護現場の人材不足は慢性的だったが、「募集をしても誰も来ない」という厳しい状況になったのは、第2次安倍内閣の発足以降だ。求人倍率が上昇して求職者が仕事を選択できるようになり、介護職の希望者は激減した。さらに2000年後半の世界不況以降、国の失業者対策で介護は雇用政策に利用されるようになり、介護福祉士の専門学校は入学定員の半分を割るという絶望的な状態になった。多くの報道陣が集まる「津久井やまゆり園」=2016年7月27日、相模原市(古厩正樹撮影) いわば介護は専門職ではなく、失業者のセーフティーネットという状況が続いている。実際、多くの介護施設では介護の「か」の字も知らない人物が介護職としてサービス提供する現実があり、本来は高齢者の命を預かる仕事だったはずだが、職員の質の低下は底なしとなっている。今回のように死をともなう事故、事件が起こることは、もはや関係者の多くが予想していた事態だった。 介護業界としては数々の凄惨(せいさん)な事故、事件に対する改善はなにもされていない。改善どころか、外国人技能実習制度で外国人介護職の大量受け入れることが決まり、刑務所出所者への就労支援で介護を重点分野にする事業が行われるなど、混乱にくさびを打つような人材確保の対策が、続々と繰り広げられている。 多くの事件や事故が象徴しているように、介護人材の質の低下は目を覆うレベルで、明らかに限界まで達している。そんな深刻な状況下で、地域では介護が必要な高齢者を65歳以上が介護する「老老介護」が拡大しているのだ。 総務省国民生活調査(2013年)によると、自宅で暮らす要介護者と主な介護者が65歳以上の世帯の割合は51.2%、介護者と要介護者が75歳以上「超老老介護」の世帯の割合は29%と、在宅介護者の半数以上が老老介護だ。65歳以上の介護者が夫や妻、親の介護をする老老介護は、介護者自身の体力が低下する中で体力的、精神的な負担は大きい。 介護者は自宅に閉じこもりがちとなり、大きなストレスを抱える。要介護者が認知症ならば徘徊(はいかい)などの問題行動が次々と起こり、介護者はどんなに疲れていようと常に目が離せない。要介護認定の理由で、最も多いのは認知症だ。介護者のストレスが大きく、ストレスや加齢から介護者自身も認知症になってしまったりする。要介護者、介護者の両者が認知症を患う認認介護は、現在大きな問題となっている。介護保険制度がどんどん悪くなる 老老介護を超えた認認介護だけでなく、認知症高齢者の単身暮らしも難しい。自立した普通の生活は、まず送れない。見守る人が必要であり、第三者がいち早く気づき、介護保険制度や地域の社会資源につなげ、誰かに助けてもらいながらなんとか生活していくしかない。しかし、苦しむ高齢者や家族にとって、最後のセーフティーネットといえる介護保険制度も、2015年4月からせきを切ったように制度改悪が進行している。 そもそも介護保険制度は3年に1度、改正される。「改悪」の例を挙げていくと、2015年の見直しで、利用者の自己負担金額が一律1割だったものが、一定以上の所得者に関しては2割に引き上げられた。高齢者が支払う金額は一瞬で2倍となった。月の自己負担金額の上限を定める「高額介護サービス費」も3万7200円から4万4400円に引き上げられ、地域のセーフティーネットとして機能する特養老人ホームには、要介護3以上の重症者しか入居できなくなった。 そして、軽度高齢者の切り捨てを目的とした自治体による地域総合事業も始まっている。地域総合事業は要支援1、2という軽度高齢者を制度から切り離し、自治体がそれぞれ支援するという社会保障費削減を目的にした苦しい施策である。 また、来年度の改正では、要介護者の介護度を改善させた自治体に財政支援する財政インセンティブの導入が決まっている。要介護高齢者が少ないほど評価される驚きの内容で、来年度からは要介護認定が厳格になる。地域によっては必要な要介護認定がされなくなり、介護保険制度は圧倒的に使いにくくなる。介護保険制度スタート。特別養護老人ホーム「デイサービス」でヘルパーらと談笑しながら食事をとるお年寄り=2000年4月1日 さらに現役世代並みの収入がある利用者の自己負担は、2割から3割にアップする。介護事業者に支払われる介護報酬も、業種によっては大幅に下がる。説明した通り、介護現場は圧倒的な負の連鎖の渦中、本格崩壊の瀬戸際にあるが、絶対に必要と現場から声が上がり続ける介護職の処遇改善どころか、さらに賃金は低下して人材獲得は困難になり、離職に拍車がかかる。異常な人手不足の中で、賃金が下がるという前代未聞の事態となるのだ。 財政難の国は、見境なく本格的な介護保険制度縮小にかじを切っている。介護保険制度はまだまだ改正を繰り返し、最終的には要介護1、2まで制度から切り離し、自己負担は収入に関係なく一律3割、現役世代の負担はさらに上昇して、高額介護サービス費もまだまだ上がるといわれている。制度から切り捨てられた高齢者の行く末 そして介護で最も手がかかるのは、実は徘徊する層だ。要介護1、2の歩行ができる認知症高齢者である。これまで続いた1割負担の時代は、軽度認知症高齢者は介護者と在宅で過ごしながらデイサービス、ショートステイなどを併用し、なんとか介護者の負担を低減しながら乗り切ってきた。 しかし、利用料を2倍、3倍と跳ね上がらせることによって、多くの中間層の高齢者は介護サービスを使えなくなる。高額な介護保険を使うのは富裕層、もしくは自己負担を公費で賄ってくれる生活保護者が中心となる。老老介護、認認介護に苦しむ多くの世帯は、高額な介護保険を使えない。制度改悪によって、必然的に老老介護、認認介護の世帯は激増することになる。 では、こうした老老介護、認認介護世帯が制度から切り捨てられることで、なにが起こるのか。入居者を介護する職員=8月29日、東京都(納冨康撮影) 認知症高齢者は住み慣れた地域でも、自宅から1歩外に出れば、道がわからない。自宅に戻ることができない。自宅を探して徘徊し、青信号、赤信号の判断もできない。赤信号を平気で渡る。主要道路の赤信号を横断したら、普通に車にひかれるだろう。 また、沿線の線路をひたすら歩くことも考えられる。都市部には踏切のある沿線が多く、認知症高齢者が自宅を求めて線路内を歩く風景が日常になれば、鉄道事故も増える可能性がある。 歩行だけでなく、認知症高齢者には、車で徘徊する人もいる。免許を返納させても、そんなことは覚えていない。信号無視の暴走、高速道路の逆走、アクセルとブレーキを踏み間違えることが相次ぐようになる。子供の集団登校に車が突っ込むような悪夢も、頻繁に起きかねない。 まして認認介護になれば、夫や妻が徘徊していなくなっても近隣に助けを求められないし、警察に通報ができない。自宅からいなくなっても、多くは捜索願すら出ない。高齢者は体が弱いだけに、地域や季節によっては、一晩で凍え死ぬことも起こりうる。 ゆえに、現在着々と進む介護制度の縮小、いわば利用料を上昇させて高齢者になるべく制度を使わせないようにする改悪は、すぐに国民全員に跳ね返ってくるおそろしいことなのだ。

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    「老老介護」とどう向き合う

    厚生労働省によると、介護が必要な65歳以上の高齢者を65歳以上の人が介護する「老老介護」の世帯の割合が過去最高の54・7%に達した。核家族化と超高齢社会が進行し、「大介護時代」に突入したニッポン。私たちはこの現実とどう向き合うべきか。

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    貧困高齢者 介護費捻出のため熟年離婚ならぬ“晩年離婚”も

     政府が年金の支給開始年齢を75歳に引き上げようと検討している。「生涯現役」などのスローガンで高齢者を働かせて社会保障費も負担させようという目論見だ。「働かせて、負担させる」というやり口は介護を巡っても同じだ。とりわけ、介護を巡る問題の場合、負担増が家族の在り方まで変えてしまいかねない。介護施設情報誌『あいらいふ』の佐藤恒伯編集長が警鐘を鳴らす。「来年8月から、現役世代並みの所得がある高齢者が介護保険サービスを利用した場合、自己負担の割合が2割から3割に引き上げられることが決まっています。3割負担になるのは介護保険を受給している人の3%程度ですが、徐々に対象を拡大していくのではないでしょうか。現在は40歳からとなっている介護保険料の支払い開始年齢についても、引き下げられる可能性はある」 そうしたなかで想定されるのが、「世帯分離」の増加だという。佐藤氏が続ける。「たとえば、親夫婦と息子夫婦が一緒に生活している場合、世帯収入を圧縮するために、親夫婦と息子夫婦の世帯を分割する。そうすると介護保険の自己負担が少なく設定できたりするケースがある。“どうやればいいのか”と相談を受けることもよくあります」 ただ、そうした“対策”も、徐々に国による網を掛けられていくことになる。たとえば夫が働いていて妻が介護施設に入居しなければならなくなった場合に、以前は世帯分離をすれば妻が低所得者扱いとなり、利用者負担が一定程度に抑えられていた。 それが2015年8月の介護保険改正によって、世帯分離していても夫が働いていて住民税を課税される状況であれば、負担軽減は認められなくなった。都内に住む70代男性はこう肩を落とす。「年上の妻が特養に入っているのですが、世帯分離による負担軽減が認められなくなり、施設からの請求額は一気に倍近くになってしまいました。子供も自分たちの生活で汲々としていて頼れない。世帯分離でダメなら、もはやかたちの上では離婚してでも、妻が低所得者扱いになるようにして負担軽減を受けるしかない……」 どんどん“対策”が網に掛けられるようになるたびに、こうした事例が増えていくことが懸念されるのだ。 定年後の熟年離婚ではなく、介護費を捻出するための晩年離婚である。関連記事■ 老人も働け!時代、孫世代の若者に使われ精神的にもキツい■ 年金75歳支給時代、貯金5000万円あっても足りない■ 年金支給年齢引き上げ 働けば働くほど高い医療費払わされる■ 年金支給先延ばし 働いた場合手取りは2.6万円低い試算■ 社会保障カットの決まり文句「子や孫にツケ回さない」の欺瞞

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    認知症患者の徘徊、姿が消えてから「1時間以内」に対応を

     超高齢社会が迫るなか、医療・介護現場の人手不足は深刻で、あぶれだした高齢者が施設ではなく在宅での「老老介護」を選ぶしかなくなる。そうしたなかで、認知症の行方不明者は年間1万5000人を超え、かつてないペースで激増しているのだ。「行方が分からなくなるのには“本人なりの理由がある”ことが多い」と指摘するのは日本地域ケア協会・梅澤宗一郎代表だ。「たとえば女性の場合、雨の日にいなくなることが多い。それは認知症を発症する前、健康だった時の習慣的な記憶と関係があるのではないかと考えられています。雨が降ったら『洗濯物を取り込むために急いで帰る』あるいは『小学校まで傘を持って子供を迎えに行かなければいけない』といった不安に駆られていた。それを“思い出している”のではないかということです。 他にも、寒くて閉じこもりがちな冬から春になると体が外出を求める。また年中行事としてお墓参りをしていた人はそうした記憶に突き動かされるのか、お彼岸、お盆に先祖の墓を探しては、とんでもない場所まで行ってから自分がどこにいるのかわからなくなる、ということもあります」 だからこそ、認知症患者の徘徊行動に対して、「頭ごなしに否定するのは逆効果」と梅澤氏は続ける。「日の出前から出勤するモーレツサラリーマンだった方に多いのですが、真夜中に“会社に行く”と言い出す。そういう時は、ただ止めるのではなく、“行ってらっしゃい。でも、その前にご飯食べないと”といったふうに一旦は受け止め、それから家の中に止める理由を言うほうが効果的です」 姿が見えないと気づいた時には「1時間以内」がデッドラインになるという。『認知症の人と家族の会』の阿部佳世・事務局長はこう語る。「初動が重要です。1時間以内に捜索願を出せば同じ町内で発見される可能性が高まる。“周囲に迷惑をかけては……”と遠慮しがちですが、そうしているうちに1時間以上経過すると、町内を出てしまい、顔を知る人物もいなくなる。途端に発見・保護の確率が下がります」徘徊者役の男性(右)に声を掛ける見守り訓練=2016年5月、枚方市 北海道釧路市や福岡県大牟田市では「SOSネットワーク」という新たな取り組みも始まっている。行方不明者の届け出があれば、警察だけでなく、自治体や地元のFM局が連携して情報を発信し、早期発見につなげる取り組みだ。 ただこうした取り組みは緒に就いたばかりで、大都市部を中心にした爆発的な行方不明者の増加をカバーできる態勢には程遠い。「施設から在宅へ」という国の介護政策の大きな潮流の中で、孤独に認知症高齢者と向き合う家族の負担も増える。それはさらなる「行方不明者増」にもつながる。介護施設情報誌「あいらいふ」編集長の佐藤恒伯氏は「独居老人」の増加も見逃せないと指摘する。「10年に500万人だった独り暮らしの高齢者は35年には1.5倍の760万人になるといわれています。独居老人が認知症で徘徊を始めたら、行方がわからなくなっても行方不明になっていることすら知られない。そうして孤独に見知らぬ土地で死んでいく悲劇を今のところ防ぐ手立ては存在しません」“大量行方不明社会”の到来は、すぐそこに迫っている。関連記事■ 認知症行方不明者は年間1万5000人 死亡で発見も多数■ 介護業界に衝撃 施設から抜け出し凍死、賠償2870万円■ 「化粧をしなくなった」「口ひげ」に母親の認知症感じる■ 交通死亡事故に占める75歳以上 10年で7.4%→13.4%に急増■ 認知症の母、IHの登場で50年来の主婦の看板下ろす

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    3千人の命を預かった老医師の「頓死」が意味するもの

    上昌広(医療ガバナンス研究所理事長) 年をとれば、誰もが病を患う。健康は高齢者の最大の関心と言っていい。では、高齢社会で医療はどうなるだろう。 メディアで、「医療費を抑制しなければならない」、「医師や看護師が足りない」というニュースや記事を見かけない日は、いまや珍しい。我が国の医療が崩壊の瀬戸際にあるというのは、国民的なコンセンサスといっていいだろう。 ただ、このようなマクロのニュースを読んでも、多くの読者は実感がわかないのではないだろうか。自分の住んでいる町がどうなるかを示されないと、イメージがわかないだろう。 最近、将来の日本の地方都市の医療崩壊のモデルとなるようなケースがあった。舞台は、福島県広野町だ。 広野町は、福島県浜通りに位置する。江戸時代には浜街道の宿場町として栄えた。21世紀に入っても、町内には東京電力の広野火力発電所があり、財政的に豊かだった。2010年度の財政力指数は1.12で、福島県内では大熊町(1.44)についで2位、全国では愛知県の小牧市と並び23位だった。福島県楢葉町と広野町にまたがるサッカーのトレーニング施設「Jヴィレッジ」のスタジアム。福島第1原発事故の収束作業にあたる関係者の中継基地になっており、フィールドには原発事故対応に当たる作業員らの宿舎が立ち並ぶ=2013年2月20日 冬場も雪が降らない温暖な気候のため、1997年にはJヴィレッジが設立された。日本サッカー協会、Jリーグ、福島県、東京電力が共同で出資した、日本サッカー界で初めてのナショナルトレーニングセンターである。 この地域を東日本大震災・津波・原発事故が襲った。緊急時避難準備区域に認定され、住民は避難を余儀なくされた。この認定は2011年9月30日まで続き、広野町役場が元の場所に戻ったのは、2012年3月1日だった。震災前の2010年には5418人いた町民は5042人に減った。このうち、広野町で生活しているのは2849人だ。実に47%の人口減である。 これからご紹介する高野病院は、広野町で唯一の病院だ。福島第一原発の南22キロに存在する慢性期病院で、1980年に高野英男氏が設立した。病床は内科65床、精神科53床で、毎日20名程度の外来患者や、数名の急患を引き受けていた。 高野病院は高台にあったため、津波の被害は免れた。高野院長は「地域医療を守る」と言って、震災後も診療を続けた。震災前、双葉郡には5つの病院があったが、高野病院以外は閉鎖され、高野病院は双葉郡で操業する唯一の病院となった。 震災前、二人いた常勤医のうち、一人は去った。この結果、高野院長は双葉郡で唯一人の「常勤医」となった。高野院長は孤軍奮闘した。病院の敷地内に住み、数名の非常勤医師とともに診療に従事した。 この高野院長が12月30日に亡くなった。享年81才だった。娘で、事務長・理事長を務める高野己保さんは「寝たばこが原因の焼死です」と言う。過労が原因だろう。「福島県は支援に及び腰」 病院が存続するためには、常勤の院長が必要だ。高野院長が亡くなったことで、高野病院は閉院せざるを得なくなった。高野病院が閉鎖すれば、双葉郡からは病院がなくなる。97名の職員は職を失うことになる。このうち看護師は43人、介護士は17人だ。生活するためには、この地域から出て行かざるを得ない。 政府も広野町も住民の帰還を推奨してきた。昨年9月には、遠藤智・広野町長は、今年の3月末までに全町民の8割(約4000人)が帰還すると予想していた。病院は欠かすことの出来ないライフラインだ。高野病院が閉院すれば、絵に描いた餅になりかねない。  お嬢さんの高野己保事務長は、元旦には、広野町の遠藤智町長に対して「患者・職員を助けて下さい。私はどうなっても構いません。病院と敷地を寄附するつもりです」と伝えた。 遠藤町長も事態の深刻さを理解し、福島県および周辺の自治体に支援を求めた。南相馬市立総合病院は即座に協力を表明し、外科医である尾崎章彦医師を中心に「高野病院を支援する会」を結成した。大勢の若手医師がボランティアで診療に従事した。高野病院の診療継続のため開かれた緊急対策会議 =1月6日、福島県広野町 行政も動いた。6日には、福島県・広野町・高野病院などで会議を開いた。翌日の福島民友は一面トップで「医師派遣や財政支援 高野病院診療体制維持へ県 福医大と連携」と報じた。 このような動きを知ると、関係者が一致団結して、問題解決に取り組んでいるように見える。ところが、実態は違う。 この会合に参加した坪倉正治医師は、「福島県は支援に及び腰でした」という。会議の冒頭で、安達豪希・福島県保健福祉部次長は「双葉地方の地域医療と高野病院の話は別です」と発言した。広野町で高野病院が果たしてきた役割を考えれば、こんな理屈は通じない。 福島医大にも危機感はなかった。代表者は「常勤医を出すことはできない」と明言した。筆者が入手した福島県の報告書には「全県的な人材不足の中で、一民間病院に、県立医大から常勤医を派遣することは困難」と記されている。 実は、この説明は虚偽である。福島医大は、星総合病院など県内の複数の民間医療機関から寄付金をもらい、「寄附講座」の枠組みで常勤医師を派遣している。 また、福島第一原発の北の南相馬市原町区に位置する公益財団法人金森和心会雲雀ヶ丘病院には、災害医療支援講座から複数の専門医を派遣していた。約1000億円の新設病院 高野病院も雲雀ヶ丘病院も、原発周辺に位置する民間の精神科病院という意味では全く同じだ。福島医大関係者は「故高野院長は福島医大の医局員でなかったので、震災後も支援されなかったのでしょう」という。被災地で、こんな議論がなされていると、国民は想像もつかないだろう。 東日本大震災以降、福島県浜通りの医療支援を継続してきた小松秀樹医師は、「福島医大のやっているのは火事場泥棒だ」と憤る。小松医師が問題視するのは、復興予算の使途だ。福島民報2011年9月20日号によれば、福島県と福島医大は、約1000億円を投じ、放射線医学県民管理センターなど5つの施設を5年間に新設すると発表した。 2017年1月現在、福島県立医大には、ふくしま国際医療科学センター(放射線医学県民健康管理センター、県民健康管理センターデジタルアーカイブ、先端臨床研究センター、医療-産業トランスレーショナルリサーチセンター、先端診療部門)、ふくしま子ども・女性医療支援センター、災害医療総合学習センターなどが新設されている。先端診療部門には新たに建設された5階建てのみらい棟と呼ばれる壮大な建物が含まれている。高野病院を見捨て、中通りに位置する福島医大に、こんなものを作る意味がどこにあるのだろうか。 福島県・福島医大の暴走は、これだけではない。2018年4月には、福島第一原発から約10キロの富岡町に二次救急病院「ふたば医療センター(仮称)」が開設される。病床数は30だ。 問題は経費だ。総工費24億円で、1床あたり8000万円になる。病院の建設費は、1床あたり、民間病院平均1600万円、公立病院平均3300万円だ。馬鹿たかい。 しかも、この病院は最大5年で閉鎖される。双葉郡の避難指示が解除されると、双葉郡内の県立病院が再開されるからだ。高野病院へはカネは出せないが、県立病院には湯水のようにカネを使う。福島県関係者は「人が住んでいないところに、急性期病院を建てて、どれくらい役にたつかわかりませんが、もう後戻りはできません」という。 なぜ、こんなことになるのだろうか。それは、行政には行政の都合があるからだ。福島県が、このような対応をとったのは、高野病院のケースが初めてではない。福島県のケースは特別ではない 原発事故後、政府は民間業者向けの救済スキームを作った。ところが、福島県は運用の仕方が悪かった。例えば、避難地域の病院経営者は「救済措置を受けるには、営業を再開しなければならなかった。病院を閉鎖している間は支援されず、東電の賠償金でなんとかしろという態度だった」という。勿論、東電の賠償金は十分ではないし、「法人税で三割持っていかれる(前出の経営者)」という。福島県広野町の高野病院=1月6日 さらに、病院を再開しようにも、福島県が策定した地域医療計画が立ちはだかる。「移転が認められるのは、原発被害にあった相双地区か、150キロも離れた南会津だけだった。隣接するいわきでの再開は認められなかった(前出の病院経営者)」そうだ。杓子定規な対応に呆れはてる。 福島県にとっては、民間に補助金を出すより、県直営の機関を作った方が権限とポストが増えるのだろう。彼らにとっては「合理的」な選択かもしれない。 行政を監視するのは、本来、議会とメディアの役割だ。福島県の場合、地元紙が「実態」を報じないのだから、議会もチェックしようがない。県民は何も知らされないまま、事態は進んでいく。 この間、民間病院は内部留保を切り崩し、資産を切り売りして、窮状を凌ぐしかない。しかしながら、それも限界がある。このままでは、早晩、「倒産」するしかない。 読者の皆さんは「福島県のケースは特別」とお考えの方が多いだろう。確かに原発事故が各地で起こるわけではない。その意味で特殊ではある。しかしながら、高野病院の苦境は、原発事故だけが理由ではない。我が国が抱える構造的な問題を反映している。それは地域では民間病院が「構造的不況業種」になりつつあるからだ。 病院の経営は、診療収入に依存している。診療収入は診療単価と患者数のかけ算だ。厚労省は、高齢化に伴い患者数が増加し、医療費が増えると主張している。財政破綻を避けるために、診療報酬を引き下げてきた。確かに、マクロでみれば、この政策は正しい。ただ、例外もある。それは地方都市だ。 高度成長期、団塊世代が地方都市から中核都市に移動した。東京や大阪は、団塊世代が高齢化し、医療・介護需要が逼迫する。一方、地方都市では団塊世代の親世代が亡くなりつつある。中核都市では、総人口は減るが、高齢者人口は増えるのに対し、地方都市では総人口も高齢者人口も減少する。医療機関の収入は急速に減少する。地域医療は「頓死」する 一方、中核都市での医療ニーズが高まるため、地方都市での医師調達コストは高まる。東京から福島県浜通りにアルバイトの医師を呼ぶ場合、その費用は、週末の二泊三日の当直で30万円を超える。東日本大震災以降、アルバイト料は更にあがった。 さらに消費税は患者に転化できないため、医療機関にとっては損税となる。厚労省は、診療報酬で対応しているというが、十分ではない。地方の中小都市の医療機関の経営は急速に悪化する。 このような影響は、すべての医療機関に同じように出るわけではない。対応の仕方が異なるからだ。例えば、開業医は、日本医師会の政治力を使い、診療報酬の引き下げを最小限にしようとする。国公立が多い急性期病院は赤字が出ても、税金で補填される。もっとも影響を蒙ったのが、中小の民間病院だ。彼らも業界団体を形成し、厚労省や与党に陳情しているが、その影響力は日本医師会とは比べるべくもない。高野英男さん(高野病院提供) 我が国では200床未満の民間病院が、全病院数の過半数を占める。つまり、彼らが地域医療を支えている。高野病院は、このような中小民間病院の典型だ。 高野病院では、院長が病院の敷地内に住み、24時間365日対応することで、コスト削減に努めてきた。過労がたたり、3月に体調を崩した。そして、今回の急死となった。壮絶な戦死だ。 実は、このような病院は珍しくない。日紫喜光良医師(東邦大学)の推計によれば、20床以上の日本の病院の約9%が「一人院長病院」だ。多くの院長は高齢だろう。いつ倒れてもおかしくない。高野病院のように、地域で唯一の病院の場合、地域医療は「頓死」する。 今後、このような事態は益々増えるだろう。どのような救済スキームを準備すればいいのだろう。医療機関が国公立だろうが、民間だろうが関係ない。住民視点にたち、ソフトランディングの仕方を議論すべきだ。

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    人口減少危機から日本を救う「新労働力」はこれしかない!

    加谷珪一(経済評論家) 人口減少が日本の社会や経済に極めて大きな影響を与えていることについて知らないという人はほとんどいないだろう。だが、ひとくちに人口減少といっても、その動きは単純なものではなく、社会や経済への波及経路も様々である。本稿では日本の人口動態について分析し、人口減少社会に対してどう向き合えばよいのか考察してみたい。 日本における2016年12月1日現在の総人口は1億2692万人(総務省統計局による概算値)となっており、前年比で約16万人、率にして0.13%減少した。日本では人口減少という言葉が一人歩きしているので、急激に人口が減っているとイメージする人もいるが実際はそうでもない。 2000年の人口は約1億2693万人、2010年の人口は1億2806万人だったので、総人口そのものはあまり変化していない。過去15年間は「人口減少社会」というよりは「人口横ばい社会」だったというのが正しい認識である。 だが、人口が横ばいだからといって社会や経済に対する影響が軽微というわけではない。総人口が変わらなくても高齢化が進み、若年層人口の比率が減少することで、社会のあちこちに歪みが生じるからである。 過去15年間で34歳以下の人口は約22%減少したが、一方、60歳以上の人口は43%も増加した。長期にわたって不景気が続いているにもかかわらず、企業では人手不足が深刻な状況だが、その主な理由は、若年層の労働人口が急激に減っているからである。 最近、注目を集めている長時間労働の是正など、いわゆる働き方改革についても、実は若年層労働人口の減少が大きく関係している。特に外食や小売といった業界は、労働力の中心が若年層労働者であることから影響は大きい。 牛丼チェーンの「すき家」は2014年、深夜の1人運営体制(いわゆるワンオペ)において過重労働が横行しているとの指摘を受け、深夜営業の大幅な見直しに追い込まれた。過重労働が常態化したのは同社の体質にも原因があるが、労働市場で人を確保できないという状況が背景となっている。ワンオペが指摘され営業時間の見直しに追い込まれた「すき家」 昨年末には、「ガスト」や「ジョナサン」を展開する「すかいらーく」が深夜営業を大幅に縮小すると発表し、ロイヤルホストを運営するロイヤルホールディングスも24時間営業の廃止を決定している。これについても事の本質は人手不足である。24時間営業をこなすために必要となる人員の確保が難しくなっており、採算が悪化したことが最大の原因である。 では、今後も同じような傾向が続き、企業は引き続き若年層労働力の確保に苦労するのかというとそうではない。総人口の減少はこれから本格化することになるのだが、人口構成の変化についても、これまでとは大きく様変わりする可能性が高いのだ。 国立社会保障・人口問題研究所の将来推計によると、2040年の総人口は1億728万人と現在より15%ほど減少する見込みである。しかし、60歳以上の人口はまだまだ増加が続き、2040年には今より374万人多い4646万人になる。 一方で、企業の労働力の中核となっている35歳から59歳までの人口は、現在との比較で何と26%も減少してしまう。次の20年間、日本社会は中核労働力の減少という大きな問題に直面することになる。豊かさを維持するには人工知能しかない 若年層労働力が22%減少した結果、外食や小売といった分野では人不足が深刻化し、サービス残業など社会問題を深刻化させる結果となった。同じようなレベルのインパクトが、今度は一般的な企業の業務にも及ぶことになる。企業の中には、従来のビジネスモデルについて見直しを迫られるところも出てくるだろう。 もし労働力の不足に対応できない場合、不本意ながら生産を縮小する企業が出てくる可能性がある。そうなってくると、労働力不足が供給を制限し、これがインフレを誘発。結果として消費者の購買力が縮小し、需要不足から経済がさらにシュリンクするという負のスパイラルに陥る可能性も否定できない。※写真はイメージ そのような状態にならないためには、企業は生産性を向上させ、少ない人数で同じアウトプットを実現できるよう、業務プロセスを改善していく必要がある。 幸い過去の20年間とは異なり、今の時代にはAI(人工知能)という強い味方がいる。AIについては、人間の仕事を奪ってしまうのではないかというネガティブなイメージを持つ人も多いが、マクロ的に見た場合には、必ずしもそうとは言い切れない。 社会で中核となる労働者の人口が今後、急激に減少することを考えると、AIを積極的に活用し、人間の仕事をうまく機械に代替させなければ、社会の維持に必要な生産を維持することさえ難しくなる。AIに仕事を奪われるというよりも、むしろAIをフル活用しなければ、現在の豊かさを維持できないといった方が正しいだろう。 ただAIを本格的に社会に導入するためには、適材適所に人を再配置する必要が出てくる。同じ組織で同じ仕事をしながら高齢者になるまで、漫然と時間を過ごすといったキャリアプランは描きにくくなる。 AIを活用して人口減少時代をうまく乗り切るためには、時間や場所などにこだわらない、多様性のある働き方が必要となる。政府は従来の労働政策をあらため、副業の本格的な解禁に向けて舵を切ろうとしているが、これは日本人の働き方を変えるひとつのきっかけとなるかもしれない。人口減少をネガティブな要因とは考えず、複線的なキャリアプランを構築するよいきっかけと受け止め、企業での働き方をもっと柔軟に捉えるべきである。

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    ヤンキーも逃げ出す「超おバカ社会」がニッポンにやってくる

    山田順(ジャーナリスト) 今年(2017年)になって再び、人口減社会が大きくクローズアップされている。それは、昨年10月、総務省が発表した2015年国勢調査の確定値で、日本の総人口が初めて減少に転じたことが明らかになったからだろう。すでに、住民基本台帳による調査人口は、2008年をピークに減少に転じていた。しかし、今回の発表でそれが決定的になったのである。 国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の人口2040年代に1億人を割り込み、2060年に8674万人に減少するという。 人口減社会に関しては、「楽観論」と「悲観論」が交錯している。楽観論では、人口が減っても経済成長は望める、今後のイノベーションによって生産性が向上すれば経済は維持できるという。日本はその潜在力が十分にあるという。 しかし、これは少数意見であり、悲観論のほうが圧倒的に強い。人口減少は経済成長を不可能にし、なにより税収減により社会保障とインフラ維持を困難にさせる。日本はこのままでは衰退せざるをえないというのだ。 日本政府も悲観論の立場で、そのため、なんとか現状を維持できないかという対策を取ってきた。しかし、それは消費税の増税や年金支給額の縮小など、ほとんどが単なる対処療法だから根本的な解決にはなっていない。女性が活躍する社会、高齢者の活用なども同じだ。 また、成長戦略というのも、成長しそうな分野に税金を投入するという旧態依然たるバラマキだから、ほとんど期待できない。 かくして、年々、悲観論が強まってきた。 2年前に元総務相の増田寛也・東大客員教授が座長を務める日本創成会議が、2040年には全国の市区町村の半分にあたる896自治体が人口減により消滅の危機を迎えるという予測を発表して以後は、とくにそういうムードになっている。いまのところ、2020年に東京オリンピックがあるということで、悲観的未来は先送りされているが、それは見たくないものは見ないですませたいという心理があるからにすぎない。未来は、まったく明るくない。2014年7月、佐賀県唐津市で行われた全国知事会で各知事と意見交換する日本創生会議の増田寛也座長(前列左端) じつは、私も悲観論に立っている。というより、このままだとそうならざるをえないと考えている。そこで本稿では、徹底的な悲観論で、日本の人口減社会の行く末を考えてみたい。地方創生で分かれる勝ち組、負け組 これまでに私は、人口減社会を扱った本を2冊書いている。1冊は『人口が減り 教育レベルが落ち 仕事がなくなる日本』(2014、PHP研究所)で、もう1冊は『地方創生の罠』(2016、イーストプレス)だ。このうち、後者では、人口減で衰退する地方が、現状ではどうやっても衰退を免れない。アベノミクスで掲げた「地方創生」策は、完全な愚策で、地方の衰退を速めるだけだということを指摘した。 これまで、日本中で「まちおこし」や「地域活性化」が行われてきた。アベノミクスはこれを言い換えて、「地方創生」としたが、なんら有効な手は打っていない。というか、有効な手、アイデアなどないと言っていい。 人口減を食い止め、市町村がさびれていく現状を食い止めるには、端的に言って「女性がもっと子供を産む」か「他地域から住民を引っ張ってくる」(移住促進)しかない。しかし、経済が衰退していくなかで、子供を育てることが高コスト、高リスクになる社会では、女性は子供を産まない。 移住促進と言っても、たとえそれに成功したとしても、それは日本国内の人口移動に過ぎない。国外からの移民ではないのだから、日本全体としては人口減が解消しない。 現在、日本中で地方創生が行われている。その結果、「ゆるキャラ」が乱立し、「B級グルメ」が全国規模で誕生した。「ふるさと納税」などというバカバカしい制度(税金を右から左に移すだけ)もでき、さらに「地域振興」と称して「プレミアム商品券」というマヤカシにすぎない金券がばらまかれるようになった。 また、中央からコンサルや代理店が出向き、シャッター通りの活性化案、地方発のベンチャー支援策、移住促進プランなどを提案すると、それに自治体は予算をつけて、かえって財政の悪化を招いてきた。JR水戸駅北口から続く商店街もシャッターが目立ち、人通りは少ない=2015年6月(桐原正道撮影) これが行き着く先は、一部の「勝ち組」自治体と、多くの「負け組」自治体の誕生だ。全国規模で同じ競争をやれば、必然的にこうなる。そして、負け組自治体からますます人が出て行き、衰退が速まるだろう。2007年に財政破綻した夕張市がいい例だ。 楽観論者に言わせると、人口減少は一時的なもので、社会の変化により、また人口が増えるときがやってくるという。たしかに19世紀までの歴史ではそうなっている。しかし、それ以後、産業革命と資本主義によって人類人口が爆発的に増え、その結果として、20世紀後半から先進国で少子化が起こった。そして、その最先端を行く日本で人口減少が始まった。 つまり、今後、同じ歴史は繰り返されない。イノベーションはさらに進み、資本主義は続くのだから、人口減少は止まらないと考えた方がいい。しかも、IT革命、第4次産業革命(インダストリー4.0)が進むなか、もはや人間自体が価値を失いつつある。 AIとロボットがなんでもやってくれる世の中で、労働力としての大量の人間が必要だろうか。必要なのは労働力としてのロボットであり、頭脳としてのAIだ。この先、シンギュラリティに突入していくなかで、機械が雇用を奪うとすれば、人口が増える理由が見当たらない。人口減少に逆らっている若者たち 日銀の「黒田バズーカ」による量的緩和が効かないのも、人口減のせいとも言える。いくらカネを刷って市中に供給しても、使う人間が年々減っている。なにしろ、年間20〜30万人の人口が失われている。これは、中規模の都市が一つなくなるのと同じことだ。 銀行にしても預金者が減るのだから、もう業務を縮小せざるをえない。金融緩和になど付き合っていれば、確実に破綻する。 すでに過疎化は進み、鉄道路線、公共交通網は縮小されている。乗客が年々、減っているからだ。そんななかで、整備新幹線だけはまだまだ拡張され、リニア新幹線の建設も始まった。東京−名古屋を1時間ほどで結ぶことに、なにか意味があるのだろうか。それにしてもこのような乗り物にいったい誰が乗るのだろうか。名古屋から東京に通勤する人間が誕生するというのか。 人口減が進むなか、中央アルプスの地下を乗客がまばらな弾丸特急が走るという未来に、なぜ多額の税金を投入する必要があるのだろうか。 すでに地方では、人口減により、学校が減り、病院が減り、飲食店も減った。書店はピークの半分以下、スタバもマックも減り始めた。地方都市の郊外にできたイオンモールのようなSCも、最近では不採算店からクローズされるようになった。 地方都市では結婚式場がなくなったため、若者たちは結婚式を挙げなくなり、またお寺は檀家が減ったために消滅の危機にある。 今後は、Eコマースが進み、流通は自動運転によるトラック輸送やドローンになるから、生活自体が困ることはない。ただし、人口減少はますます進む。 ところで、日本の人口減少に逆らっている若者たちがいる。地方都市や大都市圏の郊外にいる「マイルドヤンキー」たちだ。ひと昔前、ヤンキーと言えば「暴走族」「不良」とほぼ同義だったが、いまは違う。 マイルドヤンキーたちは、日本と郷土をこよなく愛し、地元を離れずに職に就き、同じよう育った仲間たちと暮らすことを好んでいる。彼らの特徴は、20歳そこそこで「早婚」「デキ婚」し、子どもには「キラキラネーム」をつけることだ。そして、子どもをたくさんつくる。 したがって、博報堂ブランドデザイン若者研究所のアナリスト原田曜平氏は、著書『ヤンキー経済-消費の主役・新保守層の正体』(幻冬舎新書)で、彼らを今後の消費の主体、日本経済の新しい担い手とした。  厚労省のデータによると、高学歴女性ほど子どもをつくらない。母親の学歴に反比例して子どもの数が減っている。かつては「貧乏人の子だくさん」という言葉があった。貧困層は貧困ゆえに労働力を必要とし、そのいちばん簡単な解決策としてたくさん子どもをつくった。しかし、社会が成熟し、貧困層が減ると子どもは必然的に減った。 ところが、マイルドヤンキーたちだけが、いまでも子どもをたくさんつくっているのだ。「B級のホラ話」を笑えない日本の未来 少子化のなかで、このような層だけがたくさん子どもをつくっていくとどうなるだろうか。残念だが、ヤンキーたちの多くが勉強嫌いか、勉強が得意ではない。知能程度も低い。彼らが好きなのは、LINEやツイッターなどのSNSやユーチーブの投稿動画だ。最近は、コンビニ店員を脅かして喜ぶ「おでんツンツン男」というユーチューバーも出現している。 こうした子だくさんヤンキーたちが「大活躍」する未来を描いた映画がある。アメリカ映画だが、日本にも当てはまるので紹介したい。 2006年にアメリカで公開され、わずか数週間で上映が打ち切られたB級コメディSF映画『IDIOCRACY(イデオクラシー)(日本タイトル『26世紀青年 ばかたち』)だ。完全にB級のホラ話で、笑いも寒いので、とても見るに耐えないが、よく考えるとホラ話とは言えない。 物語は簡単に言うと、人工冬眠の実験台にされた平凡な男が500年後に目覚めると、アメリカには知能指数50以下のバカしかいなかった―ということ。 主人公のジョー・バウアーズは、軍に勤務する平凡な兵士。アメリカ人の典型で、本など読まず、ジャンクフードばかり食べ、スポーツ好きで女好き。つまり、あまりにも平凡だったので、そこに目をつけられて軍の秘密プロジェクトの実験台にさせられてしまう。 このプロジェクトというのは、冷凍カプセルで1年間の冬眠をし、その後の変化を見ようというものだった。しかし、責任者が売春容疑で逮捕されたことからプロジェクトは忘れられ、なんと彼は、500年間も冬眠してしまう。彼と一緒に一般人のリタという女性(じつは売春婦)も冷凍カプセルに入れられたが、2人は目覚めてびっくり仰天する。 なんと、彼らが目覚めた2505年の社会は、あらゆる人々の知的水準が著しく低下した世界だった。人々は、誰ひとり本を読まず、朝から晩までトイレつきの椅子に座ってジャンクフードを食べながらすごしている。男はスポーツ、女はファッションにしか興味がなく、テレビではお笑いバラエティ番組とスポーツ番組しかやっていない。しかも、ニュースといえば、FOXニュースしか放送してないのだ。 さらに、医者や弁護士もとんでもないバカばかりで、裁判は完全な見世物ショーになっていた。死刑になると、スタジアムでモンスター・トラックと戦わされるという有様だった。「私が日本の若者だったら国を出る」 つまり、アメリカは「バカによるバカのためのアメリカ」が完全にできあがった「超おバカ社会」になっていた。ここでジョーは、社会の異常さに目覚めて病院に行く。すると、自己証明用の刺青がなかったことで警察に逮捕され、刑務所に送られる。しかし、刑務所で知能テストを受けると、なんと彼がこの世界では最高の知性を持っていることが判明する。これを知った元プロレスラーでポルノ男優上がりのカマーチョ大統領は、彼に世界の問題(食料危機、経済停滞、ゴミ問題)を解決するように頼んでくる―。 エリート層、中間層が子どもをつくらず、おバカな低所得層だけが子どもをつくる。その先にある未来が、こうならないと、誰が言い切ることができるだろうか。 映画のタイトル『イデオクラシー』は、「イデオ」(idiot:おバカ)と「クラシー」(cracy)の造語である。クラシーと言えば、デモクラシー(民主政体、民主主義はクラシーが主義の意味でないので誤訳)でわかるように、政治形態のことで、「デモ」(demo)は大衆だから、合わせて「民主政体」となる。だから、「イデオ」+「クラシー」は、「おバカ政体」(衆愚政治)となり、この映画は、現代の人口減社会の行き着く先が、衆愚社会であることを暗示しているとも言えるのだ。 はたして、私たちの社会はこのような方向に向かっているのだろうか。あるいは、すでにそうなりつつあるのか。 フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは、かねてから「日本の最大の問題は人口減である」と言っている。またシンガポールの故リー・クアンユー首相は、日本があまりに保守的な政策を続けて移民を受け入れないことを批判して、「私が日本の若者だったら国を出る」と言っていた。 さらに投資家のジム・ロジャーズ氏もこれまで、将来の日本の財政破綻は確実として、「若者なら国は出るだろう」と言ってきた。 人口減により、この先、国家の借金はますます増え、そのツケはすべて若者たちに回される。ヤンキーたちまで逃げ出すようになったら、この国は本当に終わってしまうだろう。

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    ついに始まった人口減少クライシス

    96万2607人。この数字は、過去5年間で減少した日本の総人口である。かたや、昨年生まれた子供の数は、1899年の統計開始以来初めて100万人の大台を割った。2つの数字は、日本が本格的な人口減少時代に突入したことを意味する。私たちは未来を揺るがすこの危機とどう向き合えばいいのか。

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    少子高齢化で日本経済が迎える黄金時代

    きに読み解く経済の裏側】塚崎公義 (久留米大学商学部教授) 「日本経済は、人口減少で衰退して行くし、少子高齢化で年金も破綻しそうだし、明るい展望など持ちようもない」と考えている人は多いと思います。しかし、少子高齢化にも悪い面と良い面があります。筆者は、今後10年間は少子高齢化の良い面が表面化し、日本経済は明るい時代を迎えると考えています。 少数説ですから、「非常識だ」と考える読者も多いと思いますが、「どこが間違えているのだろう?」と考えながら御読み頂ければ幸いです。読者の頭の体操になれば幸いですし、結果として読者が筆者の誤りを発見できずに、筆者に賛同していただければ、さらに幸いです(笑)。iStockバブル崩壊後の諸問題の源は失業だった バブル崩壊後、日本経済は長期停滞に陥りましたが、その根幹は失業問題でした。失業が多い(労働力の供給超過)ので、賃金が下がり、デフレになり、それが景気を更に悪化させました。失業者が不幸であるのみならず、「辞表を出せば失業する」という恐怖からブラック企業の社員が辞表を出せず、結果としてブラック企業が存続、増加してしまいました。 企業は、いつでも労働力が確保出来るという安心感から、正社員を減らして非正規社員を増やしました。労働力を囲い込む必要を感じなくなったからです。この結果、正社員になれずに非正規職員として生計を立てざるを得ない人が増え、「ワーキング・プア」と呼ばれる人々も出現しました。ワーキング・プアは、結婚できなかったり、結婚しても子供が産めなかったりしたため、少子化に拍車をかける要因となりました。 財政赤字が膨らんだのは、失業対策として公共投資などを行なったことに加え、「増税すると景気が悪化して失業が増えてしまう」という反対論が強かったからです。そして実際に増税して景気が悪化して財政赤字がむしろ悪化してしまったこともありました。景気は「税収という金の卵を産む鶏」であるのに、それを殺してしまったからです。 失業が問題であった真の原因は、日本人が勤勉で倹約家であることでした。勤勉に物を作り、倹約に務めたことで物が余ったのです。余った物は輸出をしましたが、それにより円高を招いてしまい、際限なく輸出を増やすことは出来なかったのです。そこで企業は人を雇わなくなり、失業が増えた、というわけです。今後は失業より労働力不足が問題となる今後は失業より労働力不足が問題となる 少子高齢化によって、現役世代の人口(作る人)が急激に減りますが、総人口(使う人)の減り方は緩やかです。そうなると、失業問題は自動的に解決し、労働力不足が問題となってきます。現在の日本経済は、まさに移行期で需要と供給のバランスが良い時期にあるのです。そして、今後は少しずつ労働力不足の時代になっていきますが、じつは労働力は少し足りないくらいが経済にとって活力になるのです。 非正規労働者の待遇は、労働力の需給を素直に反映するので、労働力が不足すると、非正規労働者の待遇が順調に改善して行くでしょう。そうなれば、非正規労働によって生計を立てている人々の生活が改善し、ワーキング・プアが消滅します。そうなれば、非正規同志が結婚しても子供が産めるようになり、少子化も緩やかになるかも知れません。 1日4時間しか働けない高齢者や子育て中の女性なども、仕事を探せば簡単に見つかるようになります。まさに「一億総活躍社会」ですね(笑)。子育て世代は消費性向が高いので、所得の増加が消費に直結しやすいですし、高齢者も、仕事を見つけられるようになれば、老後の不安が和らぎ、消費が増えることも期待されます。需要が増えれば供給が増える 現在、経済成長率がほとんどゼロなのに、労働力が不足しています。これを見て、「日本経済は労働力不足なので成長出来ない(潜在成長率がゼロである)」と心配している人も多いようですが、これはバックミラーを見ながら運転するようなもので、将来予測としては正しくありません。 心配要りません。需要が増えれば供給も増えるからです。日本企業は、これまで省力化投資を怠って来ました。安い労働力が自由に使えたからです。しかし、これからは労働力不足の時代になるので、企業は省力化投資を迫られることになるでしょう。「省力化投資の必要が無かったから投資をしてこなかった時代」に投資が行われなかったというデータを用いて、今後の投資を予測するのはミスリーディングなのです。 ここで明るい材料は、これまでサボって来た分だけ、日本経済には「少しだけ省力化投資をすれば大幅に省力化できる余地」が充分にあるということです。これは、今後は設備投資が増えて景気が上向くという需要面と、労働力不足でも供給力は増やせるという供給面と、両方で明るい材料です。財政赤字問題も悪化しない財政赤字問題も悪化しない 少子高齢化は財政を悪化させると多くの人が考えていますが、そうでもないでしょう。これまで、「増税をすると景気が悪化して失業が増え、失業対策で財政が悪化する」ということで増税が難しかったわけですが、今後は景気が悪化しても失業が増えないので、「気軽に」増税できるようになるでしょう。 むしろ、インフレ対策として金融引き締めより増税が用いられるようになるかもしれません。金融引き締めで金利が上がると政府の利払いが増加してしまいますから、ポリシーミックスとして「金融は緩和したままにして、景気過熱を増税で抑え込む」ということになるはずです。そうなれば、増税は財政再建とインフレ対策の一石二鳥という事になります。 最期に、本当の極論です。財政は破綻しません。少子化が進むと、日本人の人口は減り続け、最後は一人になります。その人は、1700兆円の個人金融資産を相続します。国の借金が1000兆円あるので、同額の税金を徴収されるでしょうが、手元に700兆円あるので、豊かな一生が送れるはずです。 「財政赤字は、将来世代に増税することになるので世代間の不公平だ」と言われます。その部分だけを切り取れば、その通りですが、日本人の高齢者は(平均すれば)多額の資産を残したまま他界し、遺産を遺します。それも考慮すれば、世代間不公平など存在しないのです。 問題は、遺産が相続できる子と相続できない子がいる、という「世代内不公平」なのです。これをどうするか、相続税や累進課税を増税すべきか否かは、政治の問題なので、本稿で議論するのはやめておきましょう。

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    人口減少に打ち勝て! 観光が日本の未来を救う

    修繕を行なう小西美術工藝社の社長を務めるという異色の経歴の持ち主である。 アトキンソン氏は受賞作で、少子高齢化による人口減少が日本の経済成長に及ぼすマイナスの影響について指摘し、「観光こそがこれからの日本を救うもっとも重要な分野である」と位置付けている。元アナリストらしく、各種のデータに基づく分析と提言は説得力に富む。その一方で、観光に対する日本人の思い違いを正している部分には、来日25年の氏ならではの鋭い“日本批判”が感じられる。聞き手=Voice編集部効果のある観光戦略を打ち出していない ――山本七平賞の受賞、おめでとうございます。アトキンソン ありがとうございます。 ――2030年に日本は観光立国として外国人観光客が8200万人になり、50兆円規模の経済効果を上げる、という試算をされています。この数字は「むしろ保守的で、現実よりも少々控えめな数値」(「日本の観光客数はマレーシアの約半分 豊かな『潜在力』を活かせ」『2016年の論点100』文藝春秋)ということで、日本人にとっては心強い限りです。ただ、心配なのは、それだけの成長を支える人材が観光業界にいるかどうかです。もともと観光業界というと、休みが不定期なわりに給与水準はけっして高くなく、一流大学の卒業生の就職先としては、敬遠されがちなイメージがあります。アトキンソン そもそも観光業界にそれほど学歴の高い人材が必要なのか、疑問に思いますね。衛星を設計したり半導体を生産するわけではなく、接客業ですから。お客さんに観光地まで来てもらって、楽しんでもらえればそれでよいわけです。それこそ政府や自治体には一流大学出身の方もいますので、彼らが大まかな方針や戦略を立てて、管理していけばいいのではないか、という気がします。家主がいなくなり、道路沿いには老朽化した空き家が並ぶ=2016年2月21日、群馬県南牧村(伊藤弘一郎撮影) ――受賞作では、外国人観光客に向けて情報発信をしたり、集客のためのマーケティングを行なう「地域デザイナー」の必要性を説かれています。そうなると、一定の語学力が必要ですし、マーケティングのセンスも必要です。そうした人材が日本には足りていないのでは?アトキンソン そうでしょうか。日本には国全体の観光戦略を担う観光庁があり、都道府県、市町村、ほとんどの自治体に観光課があります。東京都には一つひとつの区ごとに、観光に携わる役人がいるんですよ。さらに各地域には観光振興協会があります。ですから、人材が足りていない、ということはないでしょう。もし問題があるとすれば、効果のある観光戦略を打ち出していない、という点に尽きます。たとえば「くまモン」のようなゆるキャラをつくり、イベントを行なうことがほんとうに観光客の集客につながるのか。実質的に、これは日本人同士の“お仲間イベント”にすぎないと思います。 スキルのレベルアップと成果の検証の話でしょう。たとえば語学力は筋肉と一緒で、使って鍛えられるものです。幼児でもできるものなのですが、観光客があまり来ていないので、語学力も足りていないと思います。 ――「くまモン」を見て癒やされる日本人は多いと思いますが、外国人には通用しない?アトキンソン 無理でしょう(笑)。軽い負担で来られるアジアの観光客と違って、遠い国から来る人にはあまり効果はないと思います。じつは日本全国で、観光誘致のための予算は合計3000億円もあるそうです。私も最近知った数字で、少々驚きました。つまり、日本は観光に人もお金も掛けている。しかし、効果が上がっていないのです。こうしたパターンの問題が、日本には多い気がします。 たとえば、博物館や美術館をつくると、よく“箱モノ”と批判されますが、ほんとうに無駄なのか。たんに、それらを生かせていないだけなのかもしれません。先日、ある博物館に行きました。展示に外国人向けの英語の解説がないかというと、一応あります。しかし、それはたんにローマ字で書いてあるだけで、意味がある文章になっていませんでした。日本でよく見掛ける例です。「江戸」を「Edo」にしただけでは“お役所仕事” ――ご著書でも触れられていますが、「江戸」をたんに「Edo」とローマ字表記にしただけでは、外国人に意味が伝わるはずがない。まさに“お役所仕事”で、そうした例が多いとすれば、残念というほかありません。アトキンソン そもそも、翻訳は必ずネイティブのチェックを受けるべきです。しかも、その人は日本の文化や歴史に詳しくなければならない。文化財の解説は、その辺りの留学生に気軽に頼んでいい仕事ではないはずです。繰り返しますが、こうしたお粗末な例が日本にはあまりに多い。 ――アトキンソンさんからすれば、日本は当たり前のことができていない、ということですね。受賞作では、京都の二条城には詳しい展示パネルがないため、外国人にはその「すごさ」が伝わらないと書かれていました。その後、何か改善の動きがありましたか。アトキンソン 私がいつも二条城の例を出すため、先方もそうとう意識されているようですね(笑)。先日行ってみたら、見事に展示パネルが増えていました。ただ、「虎の間」を説明するのに「虎と豹の絵が描かれている」というような説明だけでは不十分です。それは見ればわかります(笑)。 ――さらに文化的な背景まで詳しく説明する必要がある、ということですね。アトキンソン 案内板をつくることだけが目的になってしまっているのではないでしょうか。結果的に、日本の歴史文化をきちんと学べる場所になっていない。じつにもったいないと思います。 ――最近は、文化施設や自治体も観光のために熱心にホームページをつくっているようですが。アトキンソン ええ。しかし、私が信じられないと思うのは、それが時として10年以上前の技術によって制作されていることです。地図をクリックすると、いきなりPDFが出てきて、これはいったい、いつの時代のホームページなのか(笑)。日本の各観光地でつくっているから、自分のところでもやりました、というだけの話です。なぜ、そうなってしまうのか。初めから「戦略的に考えて効果を出せ」と指示していないからでしょうか。 ――ヨソでもやっているから、ウチもやる。日本人特有の横並び意識。耳の痛いご指摘が続きます。アトキンソン ある日本の旅行代理店は、集客のための文化イベントをフランスで実施しています。しかし、発信の仕方も広告も、全部日本の会社がやっている。私はよくいうんです。「逆を考えてみてください」と。もし、フランスの大学で日本語学科を出たフランス人がネイティブのチェックも受けずに日本語で広告をつくり、それまで日本に来たことのないフランスのイベント会社が日本で「フランスに来てください」というイベントを行なった場合、日本人はどう思うでしょうか。「馬鹿にされている」と感じるはずです。それと同じ事を、日本の旅行代理店はフランスでやっている。日本は観光に人もお金も掛けています。しかし、中身が十分に伴っていない。だから効果が出ない。私にいわせれば、まだまだ本気になっていないんです。ビジネスプランとは呼べない目標ビジネスプランとは呼べない目標 ――観光分野において、日本は明らかに後進国のようです。明治の日本は、議会制度に始まり、鉄道、造船、あるいは文学に至るまで、アトキンソンさんの母国イギリスに学べ、でした。海軍などは、食事の内容まで英国海軍の真似をしています。現代日本も、観光のやり方は1からヨーロッパに学んだほうが早いかもしれません。アトキンソン 明治時代とは、また極端な例を持ち出しましたね。教えるも何も、それほど難しい話ではありません。たとえば地域デザインといっても、誰をどの駅まで運び、どの場所に誘導して施設を生かしていこう、というだけの話で、子供でもできます。東大を出ている必要はない(笑)。 北海道のニセコのスキー場は、オーストラリアやニュージーランドから多くの観光客が訪れて「リトル・オーストラリア」と呼ばれるほど賑わっています。大きな貢献を果たしたのが、1992年からニセコに移住したオーストラリア人のロス・フィンドレー氏です。彼が大学で観光学を専門に学んだかというと、そうではない。巨額な投資をしたわけでもありません。やるべきことを地道に、真面目に取り組んで、それをお金に換えていったのです。 ――受賞作でも、日本は観光立国に必要な4条件(「気候」「自然」「食事」「文化」)が揃っていると述べられています。その好条件を生かしきれていない。アトキンソン そうです。政府が掲げている「2020年までに訪日外国人2000万人」「2030年までに3000万人」という目標にしても、いかにも官僚がつくったもので、とてもビジネスプランとは呼べないでしょう。本来であれば、国別の目標人数、さらに収入の目標金額など総合的に目標を設定すべきで、そのためにどんな戦略を実行すべきか。それがいまの日本に求められていることです。 私は、観光業の基本はトヨタにあり、と考えています。トヨタの経営は日本人だけで成り立っているかというと、そうではない。海外の販売網の構築では、現地の会社をうまく使っている。日本の会社のなかでは、トヨタはこのようなコラボレーションがもっとも成功している企業だと思います。 さらにトヨタが販売しているクルマをみれば、富裕層向けのレクサスがあり、スポーツカーもあれば、ファミリー向けのクルマもある。日本で売れるクルマもあれば、東南アジアでよく売れるクルマもある。要するに、さまざまな属性を相手にしている。観光も同じで、あらゆる属性の人びとに万遍なく日本に来てもらう必要がある。そうでなければ、大きな産業にならないからです。 ――受賞作の『新・観光立国論』に寄せられたであろう日本人からの反論で想像がつくのは、「超富裕層向けのサービスやコンテンツの充実」です。諸外国に比べて、日本には大金持ちが少なく、ちょっと現実離れしていると思いました。アトキンソン 誤解してほしくないのは、「超富裕層向けのサービスやコンテンツの充実」というのは、あくまで一つの例を示したのであって、これだけをやればよい、というものではありません。観光業で問われるのはあくまで多様性であり、階段に例えれば、超富裕層向けを頂点として、その下にさらに続く階段があるかどうかです。私がいま困っているのは、日本人が観光戦略について、あまりにシンプルな解を求めることです。 そのうえで申し上げれば、たとえばビル・ゲイツ氏が来日した際、ビジネスホテルに泊まるかといえば、泊まらないでしょう。世界で高級ホテルというのは、1泊400万~600万円の価格帯をいうのであって、超富裕層は世界のホテルチェーンを選ぶので日本のホテルや旅館にはまず泊まりません。日本がほんとうに観光立国をめざすのであれば、具体的にどの国から、どの属性の人を呼び、総額でいくら使ってほしいのか、もっと緻密なマーケティングが必要です。抽象的で、情緒的な議論のオンパレード抽象的で、情緒的な議論のオンパレード ――アトキンソンさんは受賞作のなかで、20年余りに及ぶ日本でのアナリスト人生を振り返り、「事実を客観的に分析して、その結果がどんなに都合が悪くても、人間関係を悪化させようとも、建設的な話ができると信じて指摘した結果、反発を招く」ことの繰り返しだった、と書かれています。山本七平氏は代表作の一つである『空気の研究』において、日本人の判断基準になっているものは合理的な分析やデータではなく、空気としかいいようのないものであり、こうした行動様式は第2次大戦の敗戦でも変わらなかった、という意味のことを書いています。もし日本人が合理性を重んじる国民だったら、約70年前、中国、アメリカ、イギリスを相手に同時に戦争をする、という選択は取らなかったでしょう。アトキンソン 石破茂さん(地方創生大臣)がそういうことをおっしゃっていますね。日米開戦の直前、30代のエリートが集まって戦争の見通しを議論した際、絶対にやめるべきだという結論になったらしいですね。 ――1941年(昭和16年)の段階で、緒戦は勝ってもやがて劣勢に陥り、最後はソ連の参戦を招いて敗北すると予測されており、実際にそうなってしまいました。大戦中、物量不足を糊塗するために日本軍で連呼されたのが「必勝の精神」です。日本人はこうした抽象的で、情緒的な言葉に酔いやすい傾向がある。『新・観光立国論』で指摘されているように、「おもてなしの文化」を自慢する無意味さに似ていると思います。アトキンソン おもてなしのアピールの一つの動機は、自己満足でしょう。じつは、いまの日本企業でも似た例があると思います。新聞を読んでいるだけでは具合が悪いから、何かをしなければいけない。しかし、本格的なことはやるつもりはない。要は成果を求められていないから、形だけやっているフリをする。真の成果主義になっていないことが問題でしょう。 もう一つの動機は、こういうと反感を買うかもしれませんが、汗をかくのを嫌がっているのです。マスコミは「日本は技術大国」「農耕民族」「勤勉で手先が器用」などといった、根拠を検証もせずにまさに抽象的で、情緒的な議論が多い。あるいは「これからの観光戦略はインバウンド」とか、「ツーリストからトラベラーと変わって、いまは体験コレクターだ」などと、流行り言葉を並べているだけ。こういうのは、ただの時間つぶし戦略だと私は思っています。 ――日本人にしか通用しない内向きの議論。少なくとも、外国の方には意味不明でしょう。アトキンソン 地方の自治体もよくシンポジウムをやっていますが、地元のいつものホテルで、お友だちの新聞記者を呼んで、記事になりました、といって喜んでいる。参加者は旅行代理店にノルマを課して無理やり集客し、「アトキンソンさん、講演で1時間話して残りは対談でお願いします」などといわれる。昼間に延々とシンポジウムを行ない、夜は懇親会。しかし、その日だけたくさんの人が集まっても、あとが続かない。世界遺産も同様です。先ほどもいいましたが、観光戦略というのは、どの国からどんな人を呼ぶかを考えて、何を楽しんでもらうかを地道に実行するだけです。いまの日本で求められているのは、ある意味でこうした低次元の戦略なのです。でも、皆さんは何か高次元なことをやっているようにみせたいのでしょう。 90年代の不良債権のときも同じでした。不良債権の処理を実際にやろうとすると、大変なことになるから、代わりにシンポジウムを開いて、朝から晩まで不良債権について「ああでもない、こうでもない」とやっていた。いずれ世の中が解決してくれると思って時間稼ぎをしていたんです。 ――まさに“空気”が変わるのを待っていた。日本人にはそういう悪いところがあります。「文化スポーツ観光省」をつくれ「文化スポーツ観光省」をつくれ ――受賞作では、人口減少が日本の経済成長に及ぶ影響について詳しく言及されています。それは同時に、日本が観光立国をめざすべき理由になっています。アトキンソン 私の本を読んだ人のなかには「あなたは反日か」という人がいますが、たんに事実を指摘しているだけです。たとえば、「一人当たりの名目GDP」という指標でみると、日本は世界28位です。2015年10月5日にスタートしたスポーツ庁(大西正純撮影) ――意外に低くて驚きます。アトキンソン そう、事実として低い。しかし、それに気付いている日本人は少ないでしょう。先進国ではない中国を除くと、GDPの世界順位は、アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリスです。ところが、この順番を技術の違いや働き方の違いなど、優劣の問題だと勘違いしている日本人が多いのではないでしょうか。 ――たしかに、「世界第3の経済大国」と聞いたとき、それを自分たちの優秀さの証明だと思っている日本人は多いかもしれません。アトキンソン この前もテレビを見ていたら、戦後の日本は追い付き、追い越せでやってきた、そしてヨーロッパを追い越した、と語っていました。しかし反感を承知でいえば、戦後の日本経済が急成長した大きな理由の一つは、子づくりに専念したからです。日本の高度経済成長は、ベビーブームに象徴される人口の激増が大きく関係しています。これは先進国では例のない現象なのですが、日本の経済の教科書をみても、こうした議論はほとんど目にしません。なかには私に対して、「イギリスは日本の技術なしでは成り立たない」といってくる方もいますが、「その技術は誰が教えたのですか」と言い返したくなります(笑)。 ――日本の近代化はイギリスをはじめ、ヨーロッパが手本になったことは間違いありません。アトキンソン もちろん私は、日本の技術が優れていることを否定しているわけではありません。先進国同士を比較した場合、GDPの大きさは、技術力以外の人口など他の要因が大きく関係している、という客観的な事実について述べているだけなのです。 そしてご存じのとおり、日本では少子高齢化が始まっています。当社のお得意先であるお寺や神社にも、「このまま放っておくと、拝観収入が半減しますよ」といっています。たいてい「えっ」という反応が返ってきますが、日本は現役世代が減っていくのですから、当然のことです。 拝観収入を維持するためには、国内のリピーター客を増やすか、一人当たりの客単価を上げるか、外国から客を呼んでくるしかありません。そうした戦略を考えるのは、私のいまの本業ではありませんが、たまたまビジネス上、日本の人口減が当社のお得意先のマイナスに直結するため、また相手の観光客は外国人なので、私が外国人観光客を呼ぶための戦略を提供しているのです。私は評論家ではありません。私の提案がたんに「興味深い議論でした」で終わってしまうのであれば、残念としかいいようがありませんね。 ――大事なのは、まさに実践ですね。アトキンソン 実際に日本は観光分野において、潜在的な競争力で非常に恵まれています。業界としても、順調に伸びてきている。そうでありながら、まだまだやるべきことは多い。目の前には宝の山が眠っています。 これから私が一つポイントになると考えているのは、観光庁が予算を増やすかどうかです。それと同時に、文化財というコンテンツの管理を担う文化庁が予算を増やすか。こうした点に、日本の本気度が表れるでしょう。さらにいえば、なぜ観光「庁」、文化「庁」なのか。日本がほんとうに観光立国をめざすのであれば、両者に加えて、さらにスポーツ庁を一つにまとめ、「文化スポーツ観光省」に昇格させるべきでしょう。関連記事■ 地方経済を再生させる「企業とまちのたたみ方」〔1〕■ ローカルアベノミクスで地方は再生するのか〔1〕■ 松下幸之助さんの人の話を聞く姿はすさまじかった

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    労働力人口減少と経済成長は無関係、高齢化は技術革新の元

     人口減少・高齢化による日本経済の衰退を不安視する向きは多い。だが、立正大学教授の吉川洋氏は「労働力人口の減少と経済成長は無関係」と、社会に蔓延する悲観論を一蹴する。* * * 現在約1億2700万人の日本の人口は、ある試算では2110年に4286万人まで減少する。今後、社会保障、国家財政、地方過疎など様々なリスクが増大することになる。 しかし、「日本はこの先、人口が減るから経済は右肩下がりになる」という悲観は間違いだ。先進国において、労働力人口の増減と、1国で1年間に作られるモノやサービスの付加価値の総計を表すGDP(国内総生産)は無関係なのである。 実際、日本経済は高度成長期(1955~1970年)に年約10%成長したが、この間の労働力人口の伸びはわずか年1%ほどだった。それでは何が、差し引き9%の成長を支えたのか? その答えは、「労働生産性の上昇」である。すなわち、1人あたりの労働者が作り出す付加価値が増えれば、経済は成長するのだ。 労働生産性の上昇をもたらすものこそ、広い意味での「イノベーション」(技術革新)に他ならない。 労働力人口と経済成長を結びつける者は、ツルハシやシャベルを持った労働者が額に汗して働くイメージを持つ。確かにこの工事現場では、労働者の数が工事の進捗に直結するだろう。 しかし、先進国では、ツルハシとシャベルの現場にブルドーザーやクレーンというイノベーションが起き、100人で行っていた仕事が10人でできるようになった。新しい機械の発明、それへの設備投資、さらに労働者の技術力向上があいまって、生産性が上昇して経済は成長するのである。 人口減と共に進行する超高齢化も実は日本にとって大チャンスとなる。 2015年の日本の高齢化率は26.7%で、国民の約4人に1人が65歳以上の高齢者だ。現役世代と高齢者の人口比は、現在の約3対1から今世紀中頃に1.3対1まで低下する。 高齢者が増えると、社会には様々な「困ったこと」が生じるが「必要は発明の母」との言葉通り、「困ったこと」は新たなニーズを生み出して、イノベーションの元となる。 例えば、電気洗濯機のアイデアを出したのは、洗濯物に苦労していたシカゴの主婦と言われている。主婦のヒントによって企業が潜在的なニーズを発見し、アイデアを製品化したのだ。 日本でもすでに高齢化に対応している産業がある。その典型である自動車産業では、安心・安全な「スマートカー」が出ている。運転に不安の生じる高齢者にとって、「ドライブ・ア・カー」(車を運転する)から「ドリブン・バイ・カー」(車に動かしてもらう)への転換が行われている。 イノベーションはスマートカーなどハードの技術だけではない。「コンセプト」の刷新など、ソフト面での技術進歩も立派なイノベーションとなる。 好例が、赤ちゃん用紙おむつ市場に登場した高齢者用紙おむつだ。生産技術に革新的な進化があったのではなく、「高齢者が使う紙おむつ」という新しいコンセプトを思いついただけで、子供用紙おむつの出荷量を凌ぐ大ヒット商品となった。【PROFILE】よしかわ・ひろし●1951年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業後、イェール大学大学院博士課程修了。ニューヨーク州立大学助教授、大阪大学社会経済研究所助教授、東京大学助教授、東京大学大学院教授を歴任。現、立正大学教授、東京大学名誉教授。専攻はマクロ経済学。近著に『人口と日本経済』(中公新書)がある。関連記事■ 地方の人口減少や都市の高齢者激増等の今後の対策を考える本■ 団塊世代の引退で年金を支える側と支えられる側の人口比逆転■ 「東京オリンピック後日本の地価が3分の1になる」と説く本■ 就労可能生活保護受給者に職業訓練施し移民不要と三橋貴明氏■ 年金制度未整備の中国 60歳以上人口2億人超で財政に不安も

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    国連の総合富裕度で日本1位 人口減少でも稼ぐ力ある

     日本の株式市場に「棚ぼたバブル」をもたらしている円安だが、当然いつかは局面が変わる。円安が終わり、円高になれば株価が下落し、輸出・外需依存度の高い日本経済は失速する──と不安視する声もあるが、「それは大間違いだ」というのは、投資銀行家のぐっちーさんこと山口正洋氏である。「すでに日本からの輸出品は円高でも競争力のある高度な技術が求められる製品ばかり。円高で輸出企業が打撃を受けるという論はあまりに安直です。円高で輸入産業は潤い、内需型の株式が買われる。何より日本国民の購買力はどんどん上がる。現在でもGDPの6割は個人消費であり、それが伸びることで経済成長に繋がります」 円安では外貨を集めることができ、円高に振れた時に内需が拡大。円安バブル時に資金を溜め込んでおけば、国内消費の増加率も上がる。より円高の恩恵を受けやすい。「国連はGDPだけでは把握しきれない本当の豊かさを表わす指標として、『総合的な富裕度報告書』という経済統計を発表しています。経済生産を生み出す主体は人であり、その能力の高さを示す『人的資本』、これまで構築されてきたインフラや安全な環境といった『生産資本』、農業や鉱物資源を中心とした『天然資本』などを評価したもので、その最新のランキング(2012年)によれば日本は1位。 この指標が物語るのは、今後人口が減少しても、日本は世界が求める付加価値を生み出す余力がまだある。継続して稼ぐ力がある、ということです。円が強くなった時、日本が今以上に豊かになるのです」(山口氏) 棚ぼたバブルを利用して力を蓄えることで、その後の日本経済は長期にわたり「最強」であり続けるのだ。関連記事■ 円バブルの日本、「外貨」「日本株」「不動産」への投資が吉■ メディアが円高警戒報道するのは「スポンサーが困るから」■ 円高=悪はウソ 東京電力は1ドル80円で年間利益1400億円増■ 韓国への経済制裁 日本からの輸出止めれば失業率30~40%説■ 【書評】異色エコノミストと若き哲学者が経済を徹底討論

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    子供はみんなで育てないのがニッポン流?

    千葉県市川市で計画中だった保育園建設が地元住民の反対で白紙撤回に追い込まれた。「付近の道が狭く危険」「子供の声が気になる」…。地域の事情があったとはいえ、この問題は今も広がりをみせる。「子供はみんなで育てるもの」というコンセンサスはもう、現代ニッポンの非常識になったのか?

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    子供の声はうるさい? ドイツでは法改正し「騒音」から除外

    この法律によって、ドイツ全土で子どもが発する騒音については除外し、賠償請求がなされないこととなった。少子高齢化と共に、貧困家庭における子どもの育成が社会問題となっているドイツにおいて、子育て環境の整備は重要な政策課題であり、訴訟リスクにより児童保育施設の整備・充実が阻害されることは望ましくないという考えが、政治的にも一定の広がりをみせた。 当初、高齢者など子育て世代以外からは、子どもの発する騒音を特権化することに対して、「騒音に良い騒音も悪い騒音もない」「権利を持っているのは子どもだけではない。高齢者も権利を持っている」といった異論も出たという。 連邦イミシオン法では、「児童保育施設、児童遊戯施設、およびそれに類する球技場等の施設から子どもによって発せられる騒音の影響は、通常の場合においては、有害な環境効果ではない。このような騒音の影響について判断を行う際に、排出上限及び排出基準に依拠することは許されない」(22条1a)、と記されている。 こうしてドイツでは、「子どもから発生する騒音」を規制から除くことになったわけだが、この「子どもから発生する騒音」とは、子どもが発するあらゆる大声(話し声、歌声、笑い声、泣き声、叫び声等)の他、遊戯、かけっこ、跳躍、そして、子ども自身による騒音だけでなく、保育施設等の場合には、そこに勤務し、子どもの世話に従事している職員が発する音も含まれることになっている。 日本でも「子どもたちの声」をめぐる訴訟が生まれている。ドイツを参考に、とくに自治体からこうした取り組みを始めるべきではないだろうか。東京都でも環境確保条例を見直し東京都でも環境確保条例が見直された 東京都でも、「子どもの声」に関して、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(平成12年東京都条例第215号。以下「環境確保条例」)が2014年に変更された。条例第百三十六条に「別表第十三に掲げる規制基準」を加え、その別表第十三「日常生活等に適用する規制基準(第百三十六条関係)」を以下のようにした。保育所その他の規則で定める場所において、子供(六歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にある者をいう)及び子供と共にいる保育者並びにそれらの者と共に遊び、保育等の活動に参加する者が発する次に掲げる音については、この規制基準は、適用しない。(一) 声 (二) 足音、拍手の音その他の動作に伴う音 (三) 玩具、遊具、スポーツ用具その他これらに類するものの使用に伴う音 (四) 音響機器等の使用に伴う音 また、騒音規制の特例として、規則第七十二条の二にその特例場所を、認定こども園も含めた保育所、幼稚園、児童厚生施設、公園のほか、知事が認める場所と位置付けた。検討の過程では、子どもの声を巡る問題として、「苦情を受けて、保育所等では園庭活動を縮小する等の対策をとっている事例もある。また、子供の声等に対する苦情が保育所等を新たに設置する際の妨げとなっているという意見もある。また、子供の声を巡る訴訟では、騒音規制法(昭和43年法律第98号)や各自治体の条例に規定する規制基準を基に、不法行為責任が争われている事例もある」とした上で、子どもの健やかな成長・育成への配慮の必要性として、「規制基準を遵守するように子供の声を抑制することは、心身の発達段階にある子供にとってストレスになり、発育上も望ましくないという意見がある」としている。 こうした背景を持っているのは、決して東京都だけではない。むしろ東京都だけで環境が整備されることになれば、川を挟んだ市川市では、さらに子育て環境の格差が生じてしまう。 市川市は、これまでも、川を挟んだ江戸川区での子育て支援に対し、財政状況の差を理由に挙げてきた。しかし、こうした条例による環境整備には、財政状況は影響しない。むしろ現場を持つ基礎自治体ごとに工夫があっていいのではないかと思う。 基礎自治体には何ができるのか、都道府県のような広域行政で何を行うべきなのかを考えていく必要がある。「保育園落ちた日本死ね」とは何だったのか 今回の市川市における社会福祉法人の判断はもっともであり、こんな状況で無理やり開設したところで、住民とトラブルになってしまっては、お互いにとって不幸になる可能性もある。第一、子どもたちが可哀想である。 ただ、ニュースを見てまず感じたのは、「保育園落ちた日本死ね」とは何だったのかということだ。結局のところ自分のことしか考えてない そもそも匿名で書かれたブログを国会での質問材料にすることや、子どもに「死ね」なんて言葉を使うなと言っている立場からすると、こうした言葉を使うことにも違和感があった。 こうなってくると、「保育園落ちた日本死ね」と言った人も、「子どもの声がうるさい」と言っている人たちも、結局のところ自分のことしか考えてないんじゃないのかとすら感じてしまう。 もちろん、待機児童解消の重要性は認識している。2010年に出した著書『世代間格差ってなんだ 若者はなぜ損をするのか?』(PHP新書)では、以下のように書いた。 女性の労働環境の整備とともに、仕事と出産・育児の両立が可能となるような柔軟な働き方を実現するための支援政策が必要だということだ。こうしたことからも保育ニーズに対する対応はいっそう進めていく必要がある。 近年の都市部では、少子化に歯止めがかからない一方で、保育ニーズは年々増えている。もちろん女性の社会進出や経済状況により共働きせざるを得ない状況になっていることも考慮しなければならないが、これまで保育ニーズに表れていなかった新たな層まで保育ニーズが拡大していると考えるべきである。 保育園は、保育に欠ける子どもに対する育児の補完的な役割とされてきたが、核家族化やコミュニティの崩壊など、子育ての負担が両親、とくに母親に偏ってしまう傾向にある。こうした構造は過度に子育てを負担に感じてしまう状況を生み出しており、専業主婦でいるより社会に出たい、専業主婦であっても一時的に子どもを預けられる状況が欲しいという保育ニーズを反映している。 実際現在でも二・五万人の待機児童がいるといわれており、こうした保育ニーズは今後もさらに加速していくことが予想され、まさに子育てを社会全体で支えていくことが求められる。待機児童解消のため、まずは保育サービスへの企業の参入規制を抜本的に緩和するとともに、幼稚園と保育園の幼保一元化などを行うべきである。 また、フランスで合計特殊出生率が回復した少子化対策の一つとして、自宅で保育経験者などが保育する保育ママ制度が頻繁に紹介されるが、仕事との両立支援としての保育の時間延長や、病児病後児保育の整備をしていくとともに、働き方の多様化や保育ニーズの多様化に合わせて、延長保育や一時保育、保育ママ制度など保育園だけでない保育ニーズに細かく応じた対策が求められる。その意味でも、当事者の声を直接反映した仕組みづくりが必要である。 6年前に書いたわりには、まだまだ新しいこと、今になってようやく皆さんの共感を呼ぶこともあるのではないかと思う。当時は「奇抜過ぎる」と指摘された我々の「ワカモノ・マニフェスト」も、いまや多くの政党の政策に反映されるようになった。参院選に向けて、みなさんにももう一度手に取ってもらえればと思う。なぜ市川市議会議員は黙っているのか?なぜ市川市議会議員は黙っているのか? 最後に一つ気になるのは、今回の「(仮称)ししの子保育園市川」の開園断念について、市川市議会議員がネット上でほとんど発言してないことだ。英語に「NIMBY(ニンビー)」という言葉がある。NIMBYとは、「Not In My Back Yard(自分の裏庭や近所以外なら)」の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉だ。 私は自治体などに呼ばれて、職員や幹部の研修で、「PI(Public Involvement = 住民参画・市民参画)」について話をすることがある。近年、こうしたPIの重要性が言われ、様々なプロセスでの住民参加の必要性が求められるようになってきた。パブリックコメントなどが取られるようになったのもこの流れからだ だが、一方で、住民の意見を聞こうとアンケート調査などを行うと、非常に表層的な声ばかりが集まることがある。何の情報共有もなく、意見を求められると、どうしても利己的な要求になりがちだからだ。2013年に、内閣府特定地域再生事業の補助金を取って、埼玉県内の自治体で、無作為抽出した市民による「未来政策会議」のプロジェクトを、自治体コンサルとして提案、実施したことがある。学校の跡地利用や公共施設再編について議論したのだが、公共施設再編について市民に意見を求めると、まさに「NIMBY」になる。「公共施設再編の必要性は理解できるが、うちの前の公民館は潰すな」といった具合だ。 ところが、市の財政状況を共有し、公共施設のファシリティ・マネージメントを共に考え始めると状況は一変する。市役所職員と市民が一緒になって市の全体利益を考えるようになる。今回の問題も、報道で誇張されるような「子どもの声がうるさい」という表層的な理由だけでなく、「保育園が面する道路は狭いので危険だ」といった地理的な要因をはじめ様々な要素が交わっているのだろう。PPP(Public Private Partnership)や新しい公共の視点から、これまで行政や政治家に依存していた部分を、市民が共に担っていく仕組みを整備していく必要はもちろんだが、同時にこうした市民ニーズが交錯する問題の中で、市全体の利益を考え、将来を見据えたビジョンと責任を持って決断し、方向性を定めることも、政治家の大きな役目でないかと思う。 統一地方選挙の際に『統一地方選挙の候補者選定に、「政治とカネ」「議会の議員構成」「自治体の共通課題」を考えてみてはどうか』でも触れたが、市川市議会は、政務活動費で切手を大量購入し現金化したとの疑惑が未だに解決できていないほか、この問題で2つの百条委員会ができてしまったことなど、最も質の低い議会ではないかと思われるような状況を全国に発信してしまった経緯もある。こうした一つひとつの問題に対して、身近な人の声だけでなく、住民の声なき声にまで耳を傾けながら、市川市の未来のためのビジョンを描き、決断し、責任を持って行動してもらえるよう期待したい。(Yahoo!個人 2016年4月14日分を転載)