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    杉田水脈議員は「LGBTに税金を投入」について具体的な説明を

    網尾歩(コラムニスト) 何を指して「LGBTのカップルのために税金を使う」と言っているのか、杉田水脈議員の説明がないまま炎上が続いている。このままなし崩し的に、「LGBTが特権扱いされている」かのように語られていいのか。 「新潮45」10月号の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が大炎上。9月21日には新潮社の佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」とコメントを発表するまでに至った。 問題となったもともとの杉田水脈議員の記事、「『LGBT』支援の度が過ぎる」(同誌8月号)を読んだ時点から、筆者には一点の疑問がある。杉田議員の言う、「(LGBTに)税金を投入する」とは、具体的に何のことなのか。 「『LGBT』支援の度が過ぎる」という杉田記事の中で最も批判を集めたのは<彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。>という一文だが、この一文は<そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。>と続く。しかし、「税金を投入」が、具体的に何の取り組みについて、どれほどの税金を投入することなのかについて、この文章内でははっきりとした説明がない。 ただ、この前に子育て支援や不妊治療に<お金を使う>といった文章があることから推測すれば、杉田議員は同性パートナーシップ制度にかかる税金を念頭に置いているのかもしれない。 それでは、同性パートナーシップ制度にはどのぐらいの「税金が投入」されているのだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 「LGBTへの日本の行政支援は『度が過ぎる』のか」(NEWSWEEK/7月28日)では、<同性パートナーシップ制度をいち早く導入した渋谷区の場合、平成30年度の男女平等・LGBT関連予算が1300万円。予算総額938億円の0.01%でしかない。これで『度が過ぎる』と批判するのは度が過ぎる。>という指摘がある。 実は、杉田議員を擁護する側からも同じことが言われている。 「新潮45」10月号の特別企画の中で、「LGBTへの税金投入」の内容について具体的に触れている執筆者は、松浦大悟元参議院議員のみである。LGBT当事者である松浦氏は、<杉田議員はLGBTへの税金投入も問題にしていますが、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算はかかっていません。>と、NEWSWEEK記事と同じ指摘をしている。 松浦氏は続けて、<指摘するならそこではなく、復興庁が旗を振っている「LGBTツーリズム」でしょう。>と言及。海外からLGBTを被災地に招く企画について、LGBTが利用可能な温泉やトイレの改修工事が行われていることについて、<まだまだ生活債権に苦しんでいる人がいるにもかかわらず、このような復興予算の使われ方はやはりおかしい>と述べている。しかし、これは松浦氏自身が触れているように「復興予算の使われ方」の問題として論じられるべきだ。LGBTだけに特化して復興予算が使われているわけではないのだから、これをもってLGBTへの支援もしくは税金投入が「度が過ぎる」と、果たして言えるのか。杉田文章の「功績」 問題なのは、「生産性」の議論にとらわれるあまり、「税金を投入することが果たしていいのかどうか」という、杉田議員の具体性を欠いた雑な問いかけが、あたかも「LGBTに過大な税金が投入されている」事実があるかのごとくに独り歩きしていることだ。ツイッター上で、「差別は良くないけれど、そんなに税金を投入する必要はない」といった内容の投稿が見られることが、杉田文章の「功績」だろう。 杉田議員が「税金投入」を問題視しながら、本当にどれだけの「税金投入」が行われているかについては触れないまま文章を終わらせ、今に至るまで特に言及を行っていないのは、いったいなぜなのか。ぜひ説明を願いたい。「税金を投入」という言葉をいったん持ち出せば、都市伝説的に尾ひれがついて拡散されていくことを知っていたからではないのか。 LGBTに過度な税金投入の事実はないという指摘は、「杉田議員の『LGBT非難』の度が過ぎる LGBT支援も、予算も、じつはほぼ皆無の国で」(BuzzFeed News/8月1日)にもある。杉田議員は、逃げずにきちんと反論してほしい。 上記で松浦大悟氏の指摘について反論もしたが、筆者は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」企画の7人の書き手の文章のうち、杉田議員に目を通してもらいたいものがあるとすれば、松浦氏の文章だけだと思っている。 ゲイであることをカミングアウトした松浦氏は綴る。自身の暮らす秋田県にゲイバーは一軒もなく、その理由は「顔バレ」を恐れて当事者が集まらず、経営が成り立たないからであること。NPO団体が主催する会合も、参加希望者のみに場所が伝えられ、隠されていること。2012年にはトランスジェンダーの男性が焼身自殺したこと。松浦氏自身、同性愛者であることを理由に「代表にふさわしくない」と言われた経験があること。杉田水脈氏=2017年2月24日、山口県下関市%E3%80%80(中村雅和撮影) <LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。><そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、『非国民だ!』という風潮はありません。>と書いた杉田議員は、これを読んで恥ずかしくならないのだろうか。 わからない人にはわからない。気づけない人は気づけない。当事者でない者が知らないままでいたいと思えば知らないでいられる。だから差別は怖いのだ。

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    杉田水脈氏「生産性発言」めぐる論戦にほぼ生産性がない理由

     その主義主張には、きちんとした根拠があるのだろうか? と疑いを抱かずにはいられないような、極端な発言が国会議員や地方自治体の首長などからたびたび飛び出している。そのたびに、ネット上では賛意と反論が激しくぶつかりあっているが、肝心の当事者は置き去りで、なんのために彼らは争っているのかわからなくなる。ライターの森鷹久氏が、国会議員によるLGBTをめぐる偏った主張によって浮かび上がる、貧しい現実をレポートする。 * * * 各界に波紋を広げている、自民党の杉田水脈・衆議院議員による「LGBTには生産性がない」という主張。杉田議員に近しい支援者からは「言い方は過激ながら、言っていることは正論」といった声が聞こえてくるが、右派である筆者の周辺からも戸惑いの声は噴出しており、筆者自身も杉田氏の議員としての資質には疑問を呈せざるを得ない。 そもそも、杉田議員の言う「生産性」とはなんなのか?「子を産むか産まないかが生産性というのなら、杉田議員のボス・安倍首相はどうなのって話。いくら国のために頑張っていようと、子供がいない生産性はゼロの男だということになる。言われた方の気持ちがわからないって、致命的よ」 こう見解を述べるのは、新宿二丁目のゲイバーに勤務する、元男性のサクラさん(仮名)だ。 杉田議員が月刊誌に寄せた文章を読むと、LGBTの人々に「税金を使うべきではない」、「かの方々は病気ではない」、さらに「生産性がない人々への支援に意味があるのか」といった主張がなされていることがわかる。子供を産まない人々について生産性がない、すなわち「価値がない」とも受け取られかねない発言で、「全文を読めば理解してもらえる」(杉田議員)といった反論はまったく弁解になってはいない。※画像はイメージです(GettyImages) ネット上では、神奈川県相模原の障がい者施設で19人を殺めた容疑者が語る「優生思想」そのものという指摘すらある。かつて同じ自民党議員から飛び出した「女性は子を産む機械」発言にも似た、自分以外の人間を認めていない極めて自分勝手で、危険な思考であることは明らかだろう。「杉田議員も子を産む機械なのかしらね。女性という立場で女性をバカにするなんて、本当に理解できない」(サクラさん) 同じ新宿二丁目でLGBT向けの飲食店を経営するレズビアンのまりあさん(仮名・20代)も、杉田議員の主張には違和感を覚える。「病気でないし、支援されなくとも、私たちは私たちで懸命に働き、生活しています。税金だって納めているし……。それを生産性がない、の一言でバッサリ切り捨てる。別に金銭的な支援が必要だとは思っていないし、それは政治家など外野の人たちが勝手に言っている事、大きなお世話。でも、生産性の一言で切り捨てるような考え方にはゾッとするし、共存共栄といいながら、たくさんの人を殺してきた戦前の日本みたい。自分の気に食わない生き方を選択している人々を粛正したいのでしょうか」(まりあさん)純粋な日本人とは何か LGBT当事者の皆さんに今回の「杉田発言」をどう思うか聞いて回ると、確かに報道や反杉田派議員らのテンションとの温度差を感じないわけでもなかった。まりあさんのように過剰な反論には「大きなお世話」という、冷静で落ち着いた見方をしている人が多い印象だ。「子供が産めないことなんて、分かっています。だからゲイやレズビアンの私たちにとっては"だから何"という感じ。それよりもひどいのは、病気や様々な事情で子供ができない、生まれないという人々に、こんな乱暴な言葉がどう受け取られるか、まったく想像していないこと。唯一、杉田議員の主張の中で正しいのは"LGBTは弱者ではない"という部分でしょうか。 同性婚などの制度を拡充し“存在を認めて”とは考えますが、助けてくれとは思わない。ただ、やっぱり上から目線で“甘やかすな”みたいな主張は、現実を全く理解していないことの証左。一方で杉田議員を断罪する人たちの一部は、私たちを必要以上に弱者に仕立て上げようとする。あなたたちも声を上げなさい、弱者でしょ? と。LGBTのパレードにやってきて政治的な批判活動を行う……。結局、私たちは攻撃され利用されて、捨てられるんじゃないの? もうね、本当に放っておいてほしい。私たちで商売をする人たちのいやらしさに吐き気がする」(まりあさん) 杉田発言がマスコミで取りざたされ始めると、各社が杉田議員へアプローチを続けるも「まったく捕まらなかった」(大手紙政治部記者)というが、そのころ当の本人は支援者に向けた講演活動中で北海道にいた。件の主張について全く曲げる姿勢はなく、支援者からも「頑張れ」「間違っていない」といった激励が相次いだという。「マスコミも野党も騒ぎすぎ。どうせ弱者を作り上げて寄生して、安倍政権を潰したいのでしょう。講演会会場に札幌のテレビ局が来たようですがね……追い返しました(笑)。日本は少子化で、子供を産まないと日本は滅びる。純粋な日本人をもっと増やして、反日的な人々を追い出さないといけないんですよ」自民党の杉田水脈衆院議員に抗議する人たち=2018年7月27日午後、札幌市(共同) こう話すのは、かつて筆者が保守系論壇誌に寄稿していた際に、SNSを通じて激励のメッセージをくれた北海道在住の経営者男性(50代)だ。杉田議員の講演の一つに参加していた。筆者は「そういった考えは受け入れられない」と返したが、頑として主張は変えない、と言い切る男性。 純粋な日本人とはどんな存在なのか、反日的な人々とは何をさすのか、問いただしたいことはいろいろあるが、ただ相手を貶め、相手より優位に立てばどんな手段も厭わない議論にとらわれすぎていないか。それはどの思想信条の人にもある傾向で、今回の騒動でも、記事で名指しされたLGBTの人たちは置き去りにされている。左右の政治的議論に巻き込まれ、疲弊し、結局は単なるパフォーマンスの為に消費された後は、誰も関心を寄せない、ということになりはしないか。杉田議員のその後 杉田氏周辺を取材する大手紙記者も不満を呈する。「杉田議員は後に注意を受けることになりましたが、安倍首相をはじめとした上の人々がそもそもこうした問題に関心が低い。なので、事の重大性を理解しようとせず、叱責されない杉田議員本人も“これくらいなら過激な主張をしてもよい”と思っているのでしょう。 左右の政治スタンスに関係なく、この件はあまりにひどすぎるし、糾弾されるべき。杉田議員はマスコミの追及から逃げ回っていますが、主張が正しいと思うのなら、堂々と出てきて話せばよいのです。仲間内では強がっているようですが、騒ぎが大きくなって怖じ気づき、表に出てこずコソコソとしている感が否めません。結局過激なことを言って注目を集めようとするパフォーマンスだったと言われても仕方ないでしょう」 杉田氏は国会議員なので、主張のいびつさは選挙によって国民から審判を受けるだろう。だが、彼女のパフォーマンスに便乗して、当事者を置き去りにした"論戦"を激しく繰り広げている人たちが、みずからを省みる機会はあるのか。いわゆる専門家だけでなく、ネットで強く主張を続ける匿名の人たちも含めると、自分たちはいったい何をしていたのか、それによって何を失ってしまったのかを気づく機会はあるのか。 問題をめぐり、両方に存在する一部の過激派から飛び出す極論によって、議論がされるどころか、口汚く罵り合ったり暴力で相手を屈服させようとしたりして泥沼化する。今は昔と違い、そのやり取りの一部始終をネットで誰でも見られるから、一部の過激派たちの意見や主張がインパクトの有無のみで共有され続け、思想の極端化が増長されやすい。あらゆる問題が政治問題に取り込まれていくことで、悲しむ人々、苦しい人々の気持ちを押しのけて、空虚な思想論争ばかりが繰り広げられる。※画像はイメージです(GettyImages) わが国においては「#MeeToo」運動も、同じような経緯で言葉だけが消費され、再び当事者が声を上げづらい世の中に戻り、取り上げるマスコミも政治家も、ほとんどいなくなってしまった。こうした事態は、大変に悲しくそして情けなく、何か大きな不幸の到来を予感させる。考えることを辞めた人たちが、あまりにも多すぎるのではないかと思うのだ。関連記事■ Excel方眼紙めぐる論争 弊害あるのにやめられない理由とは■ 労働者派遣法改正巡る論戦 現場を知らぬ国会議員のたわごと■ 野田首相 論戦に用意したカンペに7つの【注】が書かれてた■ 「ダラダラ残業も、低い生産性も集団主義のせい」と大学教授■ 小籔千豊「ネットに悪口書くなんて生産性なさすぎて可哀想」

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    東京医大「差別入試」は必要悪?

    東京医科大が女子や3浪以上の受験者の得点を一律減点し、合格者数を抑制していたことが明らかになった。受験者の属性による「差別入試」の背景には、女性医師の高い離職率などがあったようだが、それを必要悪と短絡的に受け止めてもいいのか。議論の核心を読む。

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    医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実

    だろう。 こうした現状を打破するには、医学部と大学病院を分ける、といった対応が必要だろう。今こそ「女性差別」という問題だけで終わらせることなく、その裏に隠された医学教育という名の下の体制や慣習にメスを入れる時なのではないだろうか。

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    「男と女どちらが優秀?」差別入試、この議論をしても意味がない

    北条かや(著述家) 東京医科大(東京都新宿区)が一般入試で女子や3浪以上の男子受験生の得点を調整し、合格者数を恣意的に抑制していた問題で、大きな波紋が広がっている。女性医師の出産による離職問題や、「ハードワークになりがちな外科や救急に女性医師が少ない」といった医師の偏重、私立大学の存続がかかった寄付金集めの事情など、今回の問題には多くの切り口がある。本稿では、問題の本質を立ち止まって考えたい。 多くの日本の組織がそうであるのと同様に、東京医大はこれまで男女差別などないかのようなポーズを取ってきた。事実、平成27年には「東京医科大学男女共同参画宣言」を高らかにうたい、平成25年度には文部科学省の女性研究者を支援する事業に採択されている。 これは女性研究者と、彼女たちを夫としてサポートする男性研究者を対象に総額約8千万円もの補助を受けるものだ。当時公開された東京医大のホームページには次のように記されている。  「本学医学科の女子学生は、過去10年で187名から237名と50名増加し、全体で占める割合も26・9%から32・4%と5・5%も増加しております。その割合と同様に女性研究者の人数も年々増加し、今年4月に医学部看護学科の開設に伴いさらに女性研究者が増えることから本学の女性研究者支援体制の整備は急務であると言えます」(東京医大HPより一部抜粋) 一読して分かるように、東京医大ではむしろ女子の増加を歓迎するかのような広報活動を行っていた。しかし、その裏で「女子学生が3割を超えると困る」として、女子受験者が合格しづらくなるよう「調整」していたのだから「二枚舌」というほかない。ただ、本音と建前という二枚舌の使い分は、別に東京医大だけでなく、多くの日本の組織で行われていることでもある。 一方で「女性医師の増加を歓迎する」と言い、他方で「女性医師は現場への貢献度が低いので入学者数を制限する」と言う。その理由として、「女性は結婚や出産で離職する割合が高いので、医師不足を防ぐ」ことを挙げる。 2018年8月、記者会見の冒頭、謝罪する東京医科大の行岡哲男常務理事(手前中央)と宮沢啓介学長職務代理(同左) 不正に関わった関係者らはおそらく、男女の人数調整は正当化されると本気で信じていたのだろう。二枚に分かれた舌を無理やり一枚に見せようとして、秘密裏に女性の評価を下げる。その成果は「医師不足の解消」という、彼らにとっての善なのだから、この差別を批判するのはある意味で難しい。 なぜなら、差別批判は往々にして、「正当な処遇だから問題ない」というロジックで批判されるからだ。東京医大の問題に関して言えば、女医でタレントの西川史子氏が「女性医師の割合が増えると眼科医と皮膚科医だらけになってしまう。(女性医師の少ない)外科になってくれる男手が必要。男性ができることと、女性ができることは違う」と発言しているが、これも入試における差別を「正当な処遇」とする分かりやすい言説だろう。不正の「本質」 差別を「正当な処遇」だと結論づける根拠の多くが「差異」である。つまり、差別ではなく単なる差異を評価しているだけだ、というのである。 例えば、高卒者と大卒者で賃金の差をつける募集要項の「差別」が問題にされることはほとんどない。ミスコンテストの応募に「18歳以上25歳まで」と制限があっても年齢差別だという批判はめったに起きない。これらは単なる差異を認めているだけなので、差別ではないと思われているからである。 差異か、差別か。わが国でもほんの数十年前まで、性別は問答無用で「単なる差異」だと思われてきた。男女の賃金が違っても、昇進に差が生じても問題ないとされてきた。 筆者の祖母は80代であるが、彼女が国立大の付属高校を受験したとき、女子の定員は男子の3分の1しかなかったそうだ。私立ではなく国立の話である。 みんな、それが当たり前だと思っていた。男子と女子では生き方が違うのだから「女子に高等教育はいらない」という時代だったのである。今、同じことを全国屈指の名門、筑波大付属駒場高がやれば、きっと大きな問題になるだろう。 社会学者で横浜国立大の江原由美子教授は、『女性解放という思想』(1985年、勁草書房)で次のように述べている。 「『不平等』を『不平等』として認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるをえない。しかし、『不平等』が『不平等』として認識されない社会においては一般に差別者と被差別者のカテゴリーが別であるということが『常識』となっている」東京医科大の正門=2018年7月(萩原悠久人撮影) 今、東京医大の不正が問題になっているのは、入学試験を受ける者が全員、論理的には同一カテゴリーに属するにもかかわらず、女子(と3浪以上の男子)だけが明らかな不利益を被っていたからに他ならない。一方、不正を行った大学関係者や、この処置を「問題ない」と主張する人たちにとって、女子と浪人生は「男子とは別のカテゴリー」であることが「常識」となっている。フェミニズムの「関門」 その「常識」は、「女性医師の多くが出産で離職するので、男性医師と比べて頼りにならない」という現場の意見に支えられている。労働環境が特に厳しい外科では「女3人で男1人分」との言い草もあるという。もはや、男女は別のカテゴリーとして捉えられているようである。男と女はライフコースが違うので、入試の処遇で差をつけるのは当たり前、不平等な差別とまでは言えないというわけだ。 彼らのロジックを批判しようとするとき、社会の側は「男女の能力に差はないはずなのに、差別は不当だ」と、「差異の平等」を訴えなければならない。そもそも、男女を同じカテゴリーに入れて考えてもらわないと、「男女には差異があるので処遇の差は当然」と主張する人たちを説得できないからである。 しかし、ここでフェミニズムが誤解されやすい、というより一度は通過しなくてはならなかった関門がある。実際には「差異」がない、もしくはそれほどの差異が認められないのに差別されることに対して不平等を訴えても、「そうですか、男女に差はないと言うのですね」と短絡的に解釈されかねないからである。 次に行われるのは、果たして男性医師と女性医師の能力に差はあるのか、仮にあるとしたらどんな差なのか、という議論である。これでは問題の焦点がどんどんぼやけ、差別を訴える側はひたすら男女の差を検証していく作業へと巻き込まれていく。 男女の能力差の検証がまったく無意味だとは言わないが、それだけでは差別問題の本質は見抜けない。それどころか「差異の検証」に終始することは、差別の正当化を暗黙に容認する結果すら導いてしまうだろう。「医療現場を調べたところ、男性医師は女性医師より出産による離職率が低いので女性より優秀であることが実証された。よって優秀な男子を入試で優遇することは正当化され、差別ではない」といった結論が出てしまいかねない。もしくは、極端かもしれないが、「女性医師の出産による離職が問題なので、女性医師の産休、育休を認めない」とか、「一定数の女性を強制的に外科や救急に配属し、出産を制限する」などの不当な処遇が「男女平等」の未来予想図にされてしまう可能性もある。2018年8月、東京医科大前で「#女だからというだけで」と書かれたプラカードを掲げ、抗議活動する女性 私たちは今一度、何をどうすれば「平等」だと言えるのか、そのイメージを明確にしなければならない。求めるものは何なのか。性別による差異があることは前提として、その差異をどう扱えばより社会的な理想に近づけるのか。 男性医師と女性医師の差異をあげつらって「どちらが優秀か」などと泥仕合をしている場合ではない。また、ある分野で特に男性医師の労働力が求められているからといって、そこへ全員の医師が照準を合わせなくてはならない前提を疑ってかかることも必要だろう。 本件をきっかけに、私たちは男女平等のあり方と医療現場の現状を考えるべきである。しつこいようだが繰り返したい。何をどうすれば「平等」だと言えるのか、はっきりしたイメージがないままに男女差を検証するだけの不毛な議論は、もう終わりにしたい。

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    教授に媚び製薬会社にたかる「白い巨塔」が差別を生んだ

    上昌広(医療ガバナンス研究所理事長) 東京医科大が世間の注目を集めている。裏口入学が状態化していたことに加え、8月2日、入試で女性受験者の点数を一律に切り下げていたことが明らかになった。このことは海外でも報じられ、言うまでもなく前代未聞の不祥事である。 報道等によれば、東京医大による女子合格者の抑制は2006年から始まったという。2010年の医学科の一般入試では、女子の合格者数が69人と全体(181人)の38%に達したことに強い危機感を抱いたらしい。大学関係者は取材に対し、出産や子育てを抱える女性医師は男性医師ほど働けないと説明している。特に、外科系の診療科では「女3人で男1人分」との言葉もささやかれていたという。 私が驚いたのは、メディアのこのような論調に誰も疑問を呈さないことだ。今回、問題が発覚したのは東京医大の入試である。東京医大病院の就職試験ではない。どうして、入試の合否の基準に卒業後の働き方が考慮されるのだろうか。 医師不足が深刻な社会問題となっている昨今、確かに彼らの言い分は一定の説得力を持つ。男性と比較して、女性が働き続けるのは困難を伴う。激務の医療現場ならなおさらだろう。 ただ、この問題は医療界に限った話ではない。医療界でも看護師は同じ問題を抱える。日本看護協会をはじめ、看護師の業界団体も、この問題に取り組んで来た。安倍政権も女性活躍を目指して多くの政策を立案している。 医学部医学科以外で、卒業後に大学で学んだ技術を用いた仕事に就かないから、入試で差別する、というばかげた主張がまかり通ることはない。 なぜ、こんなことが真剣に議論されるのだろうか。それは東京医大の場合、医師国家試験に合格した卒業生の大半が、東京医大病院をはじめ系列の病院で働くことになるからだ。つまり、大学入試が「東京医大グループ」への就職試験を兼ねていることになる。おそらく、このような形で運用されているのは、大学の学部では医学部だけだろう。 医学部教授は学生を指導する教員であると同時に「病院の経営者」でもある。病院経営の観点から考えれば、給与が安くてよく働く若手医師をできるだけ多く確保したいというのが本音である。 東京医大に限らず、若手医師の待遇は劣悪だ。東京医大のホームページ(HP)によれば、東京医大病院後期研修医(卒後3から8年程度の若手医師)の給料は月額20万円だ。これに夜勤手当、超過勤務手当てなどがつく。この給料で、新宿近辺でマンションを借りて生活しようと思えば、親から仕送りをもらうか、夜間や休日は当直バイトに精を出すしかない。 しかも、この契約は3年間で満了となり、その後は一年契約となる。さらに常勤ではなく、仮に妊娠した場合、雇用が契約されるか否かは、東京医大に委ねられる。 大学病院経営の視点から考えれば、女性より男性が安上がりであることは間違いない。男性はめったに産休などをとらず、待遇面での不満や特別な事情でもない限り一生働き続けるからだ。入学試験の成績が多少悪かろうが、男性を合格させたいという考えも理解はできる。東京医科大学内に入る女性ら= 2018年 8月2日、東京都新宿区(吉沢良太撮影) 実は、このような主張も屁(へ)理屈だ。女医に限らず、女性は出産・子育ての時期に一時的に仕事を離れることが多い。これを「M字カーブ」という。 少し古いが、2006年の長谷川敏彦・日本医科大学教授(当時)の研究を紹介しよう。この研究によれば、医師の就業率は男女とも20代は93%だが、30代半ばで男性は90%、女性76%と差がつく。メディアは、このことを強調する。 ただ、これは今回の不正入試の本当の原因ではない。東京医大が主張する通り、入学者の4割が女性になったことが問題で、これを全国平均の3割に抑えたとしても、それで増加する医師はわずか1人である。その程度の効果しかないのに、東京医大の幹部が不正のリスクを冒したのはなぜなのか。教授に媚びる男性医師 問題の本質は、結婚や出産した女性医師が職場を変えることだ。本件に関して言えば、東京医大病院や関連病院を辞めてしまう、ということである。 例えば、東京医大の内科系診療科の場合、HPに掲載されている循環器内科など8つの内科系診療グループのスタッフに占める女性の割合は、教授・准教授で5%、助教以上のスタッフで22%、後期研修医で37%だった。女性は年齢を重ねてキャリアが上がるにつれて、東京医大病院で働かなくなっていることが分かる。 医師の平均的なキャリアパスは24歳で医学部を卒業し、2年間の初期研修を終え、その後、3~5年間の後期研修を受ける。その時点で30代前半になる。 その後のキャリアは雑多だ。東京医大の場合、「臨床研究医」などの医局員を経て、助教、講師へと出世していくようだが、速い人であれば40歳代前半で准教授となる。 大学病院は教授を目指した「出世競争の場」である。主任教授になれば、医局員の人事を差配し、製薬企業や患者から多くのカネを受け取る。東京医大のある内科教授は、2016年度に115回も製薬企業が主催する講演会の講師などを務め、計1646万円もの謝金を受け取っていたことが明らかになっている。 大学で出世するためには、安月給でも土日返上で働き、論文を書かねばならない。一方、私大医学部の経営者は、医師の名誉欲を利用する。知人の私立医科大の理事長は「大学の肩書をつければ、人件費を3割は抑制できる」と打ち明けてくれた。 ところが、女医にはこの作戦は通用しない。医師の世界で男性は保守的、女性は進歩的なケースが多い。食いっぱぐれのない医師は、親が子供に勧める職業の一つである。男性医師の多くは親や教師の勧めに従順に従って、医学部に進む。だが、女性は違う。苦労を知りながら、「女だてら」に医師になる。多くの女医は、狭い医局の世界で出世争いに汲々(きゅうきゅう)とする男性医師を見て嫌になり、医局を辞めていく。 週刊ポストは8月10日号で、製薬企業からの謝礼が特に多い主要医学会の幹部医師50人の実名を公開した。その中に含まれる女性医師はわずか1人だった。 大学病院から女医が去って行くのは、勤務体系が劣悪という理由だけではない。診療や研究そっちのけで、教授に媚(こ)び、製薬企業にたかる体質に嫌気が差しているからだ。東大医学部を卒業した知人の女性医師は「男性は本当に肩書が好きですね。私たちには分からない」と本音を漏らす。画像:Getty Images 国民の視点に立てば、女医はどこで働いてもらってもいい。彼女たちが育児と両立しやすい職場に移ればいい。象牙の塔を離れ、市中で診療してくれるのは、むしろ有り難いことだ。 彼女たちが大学病院を辞めて本当に困るのは、経営者だけである。とりわけ、彼らは「女性は使えない」と思い込んでいる。だからこそ、女子受験者を一律減点し、入学を制限しようとしたのである。 大学教育とは一体何なのか。むろん学生を育てることである。それは医学部だろうが、他学部だろうが関係ない。ところが、東京医大は学生を自らが経営する大学病院の「労働者」としてしか見ていない。 この問題を解決するには、情報公開を徹底するしかない。さらに、大学病院を医学部から分離する、あるいは卒業生の入局を制限するなどの対応が必要だろう。 これは学生にとってはプラスである。進学校から医学部に進み、そのまま入局して、一生母校の医局にいたら、まともな人間になるはずがない。不正に関与した東京医大の幹部はまさに反面教師である。 近年、大学医学部で不祥事が続発している。今こそ、学生教育という本来の目的に立ち返り、徹底的に議論し改革を促すべきだ。

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    東京医大「差別入試」 気になる違法性はここが分かれ目

    高橋知典(弁護士) 本稿では、東京医科大学の医学部医学科の一般入試おいて、女子受験生らの点数を一律に減点していたことが発覚した件について、法律上では何が問題になるか考えたい。 今回の東京医大の対応は、「不適切」であることは間違いないと考えられる。しかし、入試や学校運営に関して、性別を考慮要素とすることは必ずしも違法というわけではない。 まず、学校教育に関しては、現在一般的になっている「男女共学」の逆である「男女別学」も認められている。公立の男子校や女子校もいまだに存在しているし、現在の日本の状況では、「男女の性別を分けることが教育上全く無意味である」という考え方にはなっていない状況にある。 このため、性別を理由に、性別ごとに別の対応を行うことが、教育機関として絶対に違法ということではない。 少数者に対する差別的な扱いを解消するための差別解消措置「アファーマティブ・アクション」という制度がある。こういった制度自体は、かつて女性の社会進出が困難であったことを背景に、多様な人々が活躍できる社会を目指すために作られた。 このアファーマティブ・アクションは、学校が、例えば男性に比べ女性を優遇することで、多様な学生によって構成される学校を目指すことを認める考え方である。こうした考え方から、何か理由があって、性別を理由に加減点要素を認めるなどの取り組みも許されると考えられている。  また、裁判所は試験の評価に関して、試験実施機関の評価や判断に広範な裁量を認めている。裁判所は、その試験で判断しようとしている目的とは明らかに関係のない理由で合否判断をしていない限り、試験実施機関の判断に介入しないとしているのだ。これは、裁判所は法律のプロであって、試験のプロではないから、分からないことには出しゃばらないということであろう。(ゲッティイメージズ) 一方で過去の裁判例をみると、裁判所が介入するケースもある。例えば司法試験の合否判断について、司法試験委員会が「年齢、性別、社会的身分、出身大学、出身地、受験回数等」によって差別を行ったとする。その場合、司法試験の目的である「学識・応用能力の有無」とは直接関係のない事柄によって合否の判定が左右されたことになる。いわゆる「他事考慮」だ。この他事考慮に該当する場合には、裁判所が合否の判断に介入すると判断したことがある。 司法試験では、裁判官や検察官や弁護士といった仕事に就く人を選別するのだから、男性女性ということを考慮すべきとは思えない、ということから、性別での判断はしてはいけない「他事考慮」に該当するといえるのだ。 このように考えると、単に性別を理由にした取り扱いが問題なのではなく、今回の試験の目的と、性別がどのように関わるか、それとも関わらないのかが、違法性判断の重要な要素になることが分かる。 また、一部報道によると、東京医大は「女性医師は出産や子育てで離職することが多く、系列病院では男性医師が現場を支えているのが実情」という考えの下、今回のような対応を取っていたようだ。性別評価は事前説明が必要 本来的に、こうした性別で一律評価を行うことは、前時代的かつ働き方や資格制度の在り方といった問題の本質から目を背けている。 確かに大学病院は、地域医療に多大な貢献を行い、それぞれの医師が寝る間も惜しんで医療サービスを提供している実情があること、その職場環境が非常に厳しいものであることは理解できる。 しかし、試験の結果は当然、知識力や思考力や判断力、さらにそういった能力を培うための、本人の継続的な努力によって形成されたものである。今回の東京医大の対応は、「試験時点」の「能力で勝る女性医師の卵」と「能力で劣る男性医師の卵」を比べ、後者の方を優先させるという判断をしたものだ。しかし、上記したような能力で劣るものを優先して、本当に医療サービスの確保を目的としているといえるだろうか。 少なくとも、「医療サービスの確保」を理由に正当化するのであれば、その理由についての明確な根拠が必要であろう。 東京医大レベルの医学部入試のためには、多くの受験生が高額な費用を予備校に払い、浪人も厭(いと)わずに受験に臨む。さらに入試にはその学校独自の特性もあることを考えると、この学校に入りたいと思って受験している学生の中には、受験前にこうした事情を知っていれば、「そもそもこんな大学は候補に入れない」という受験生も多くいたことだろう。 仮に大学が本気で男性を優先的に合格させたいのであれば、それを明言すればよかった。しかし、そのような対処をすると大学としての評判を下げ、結果的に人気校と言えなくなることや、女性の進出に否定的な大学といった風聞が立つ。そうなれば自身のブランディングに影を落とすことを気にしたのだろう。 こうした受験生の状況も考えると、性別の評価要素は説明が必要な重要事項であろう。事前の告知が一切受験生にされていないということが重要な問題点だ。そして説明をしなかった以上は、後から「性別が実は大事な要素だ」というのは不合理な主張と考えられる。(ゲッティイメージズ) 今回の試験について、仮に性別を考慮することが他事考慮といえる場合、女性受験生が法律上できると考えられるのは、慰謝料請求、損害賠償の請求と、試験に合格したとして東京医大の学生としての身分の確認請求を行うことだ。 本来合格だった者が、不合格を言い渡されることは、その者に精神的苦痛を与えるものであり、さらには知っていれば受けなかった受験生らの無駄になった受験料なども損害といえ、慰謝料請求や損害賠償の請求が可能であると考えられる。 さらに、性別による評価が他事考慮であるとすれば、その点数分はいわば「採点ミス」である。このような「採点ミス」の結果不合格になった者を再度評価し、合格点を超えていれば、その学生には東京医大での学生の地位が与えられる可能性がある。 もちろん、その地位を「当該女性が望むのであれば」ということにはなるが。

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    東京医科大の入試得点操作 公民権運動や人種差別と同悪?

     作家の甘糟りり子氏が、現代の「ハラスメント社会」について考察する。今回は東京医科大で行われていた女子と多浪受験生に対する入試得点の不正操作について。* * * 東京医科大学の件を知った時、ノー天気にも、もしやフェイクニュースなのかと思った。だって、受験の際に女子学生が一律に得点を不正操作され、意図的に合格率を下げられているなんて、まともな国のまともな学校のすることとは考えられないから。日本は文明国ではなかったっけ? しかし、同大学では、実際に2006年頃から受験者にはなんの説明もなく、女子というだけで不利な扱いをされていたというのである。それどころか、各ニュース番組やワイドショーによれば、東京医科大学に限ったことではなく、さまざまな大学の医学部の入試で女子に対して採点の操作が行われているというではないか。 成績順に合格させると女子の比率が高まる(成績順だと医学部のほとんどは女子大になってしまうという人もいるらしい)。女子の比率が高まると、医師になってから、結婚や出産、育児で離職率が高く、勤務形態を維持できないという理由からだ。 パソコンの前で一人、思わず声をあげてしまった。女子受験生たちの無念を思うと、怒りで心も身体もわなわなと震えそうだ。これを差別といわずになんというのだろうか。 去年、ハリウッドでの女優の告発をきっかけに起こったいわゆる「#me too」の流れを、現代の公民権運動という人もいる。1950年代~60年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人が公民権の行使と人種差別を訴えた運動だ。当時、ローザ・パークスという女性の活動家がバスに乗った際、白人専用の席で白人に席を譲らなかったため、人種分離法違反で逮捕された。十代の頃、このエピソードを何かで読んだ時、あまりの理不尽さに内容を理解するまで少し時間がかかった。そして、理解はできても、白人でも黒人でもない私はこの理不尽さを「実感」はできていないのではないかと思い悩んだりもした。 しかし、今ならよくわかる。私たちは、あちこちで、女子もしくは女性だからというだけで、能力がない、当てにならない、感情的で理論的ではないと決めつけられるのだ。無教養な男性に。そして、同じような思考回路の女性に。 黒人が白人に席を譲らなければならない理由は一つもない。ただ黒人というだけで席を譲らなければならない理不尽さは、女子だから減点されるのと同じように私の目には映る。入試得点不正操作の罪の深さを考察 女性の医師の離職の理由に、結婚、出産、育児があげられているが、出産を除けば、男性も経験することだ。結婚するしないは個人の自由だけれど、親となったなら育児は「すべき」ことである。出産は、今の医学では女性しかできないが、そもそも女性が出産をしなければ、男性は世の中に存在できないのだ。当たり前だけれど。出産をしたから離職しなければならないのは、世の中の制度や意識が低いからだ。これも当たり前だけれど。 今、家族が癌の闘病で入院中である。開腹の大きな手術をした。男性の執刀医の他、担当の外科の先生が3人いて、毎日、回診に来てくれる。心細い時期だから、先生と短い会話をするだけで安心する。うち1人が女性。細かい質問でも明解で穏やかに答えてくれる。 考えてみれば、これまでに家族や親族の大きな手術の付き添いを7回ほど経験したが、外科の女性医師は初めてだ。もし仮に、彼女が明日からでも「産休」をとるとしても、私は心から応援したい。関連記事■ 「おっさん」は褒め言葉かハラスメントか、その基準とは?■ 中国の洗剤CM 人種差別と批判され「中国に人種差別ない」■ 落合信彦氏 ネットで政治話題活発化も人種差別的主張は残念■ 松山英樹 全英OPで「人種差別的ペナルティ」の指摘も出た■ 白鵬が相撲協会の人種差別匂わせる発言 単なる舌禍で済まず

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    「女性医師が担当なら死亡率が下がる」──異色論文の根拠

    らせる計算になります」 しかし、なぜ女医のほうが、死亡率や再入院率が低くなるのか。津川氏が解説する。<日本の女医もうなずいた「調査結果からは、女性医師のほうが男性医師よりも“リスク回避的”であることが分かりました。臨床ガイドラインとエビデンス(根拠)に基づく診療を忠実に守る傾向が強かったのです。 さらに、予防医療により多くの労力をかけており、コミュニケーションスキルも高い。患者さんの話をよく聞くこと、周りの医師にも相談することで、より慎重かつ個々の患者さんに適した治療が選択されているのだと思います」 こうした女医の細やかなケアが、高齢者の“異常”を上手く拾い上げた、と見られている。日本の女医もうなずいた 同内容の論文は医学界の“トレンド”でもある。「『メディカルケア』という学術雑誌に掲載された2016年のカナダでの研究によれば、女性医師にかかった場合、緊急手術を行なう事態になる可能性が17%低く、入院の可能性は11%低いと出ています」(前出・室井氏) 逆に、男性医師のほうが質の高い医療を提供しているとする研究結果はほとんど報告されていないという。この研究結果を女医たちは実感としてどう受け止めるのか。里見英子クリニックの里見英子・院長(内科医)は納得の様子で語る。「私は大病院での勤務経験が長いんですが、男性医師は患者さんを早く退院させることに重きを置きすぎる傾向にあると思います。回転率を上げたほうが病院から評価され、出世すると考えられているからです。ガイドラインから外れても、『自分が判断したからいいんだ』という考えが強いように思います。女性医師のほうが患者の話をよく聞き、ガイドラインを守るという指摘は、その通りだと思います」 津川氏は今回の研究の成果について、こう語る。「米国でも日本でも、担当医が女性であるというだけで不安に思う患者さんがいますが、データを見る限りでは、杞憂であることがわかります。米国では女性医師のほうが給与が安かったり、昇進が遅かったりすることが社会問題になっていますが、女性医師の診療の質が高いことが今回の研究で明らかになりました」 女医の割合がおよそ2割の日本の医療界は、米国以上に男社会といわれる。患者側が、「女医に当たってラッキー」と考えるようになれば、医学界も変わっていくかもしれない。関連記事■ かかりつけ医の良し悪し 受診中に注意したい4つのポイント■ 名医が教える 危ない“かかりつけ医”を見分ける薬の目安■ 病院で混雑を避ける方法とTVで有名な名医の診察受ける方法■ 死亡率減少する「内科は若手医師・外科は高齢医師」の根拠■ カルシウム摂り過ぎると死亡率2.6倍の根拠を医療専門家解説

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    LGBT「杉田論文」女性議員は何を思う

    自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌で「LGBTに生産性なし」などと主張した論文をめぐり、今も波紋が広がる。自民党は「配慮に欠く表現があった」として本人を指導したが、そもそも何が問題だったのか。iRONNAでは今回、3人の女性政治家に寄稿を募った。「杉田論文」の核心を同性の視点から考えたい。

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    同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論「LGBT杉田論文の度が過ぎる」

    尾辻かな子(衆議院議員) 月刊誌『新潮45』8月号に自民党の杉田水脈衆院議員が「LGBT支援の度が過ぎる」を寄稿した。この論文(以下「杉田論文」)には以下のような記述があった。 「(リベラルメディアの報道の背後にあるのは)LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方」 「しかし、LBGTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」 「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、『非国民だ!』という風潮はありません」 「日本の社会では(略)迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だった」 「(LGBTの生きづらさは)制度を変えることで、どうにかなるものではありません」 「行政が動くということは税金を使うということ(略)彼ら彼女ら(注=LGBTカップル)は子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのか」 「様々な性的指向も認めよということになると(略)兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかも」 「『LGBT』を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません(略)」 「『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません」 これは危険な暴論だと、私が自らのツイッターで批判したところ、1万2000以上リツイートされ、毎日新聞がそれをネット上で炎上と報道した。その後、当事者団体の抗議声明も報道され、自民党本部前に5千人(主催者発表)が集まる抗議行動へと広がっていった。 私自身、2005年、大阪府議会議員の時にレズビアンだとカミングアウトし、政治の現場で性的マイノリティーの可視化と政策による解決を目指して活動をしてきた。国会では唯一のオープンな当事者議員である。 杉田論文に対する疑問はいろいろあるが、絞って議論したいと思う。議論の土台は、LGBTが置かれている現状を知ることだ。「LGBT支援の度が過ぎる」という「支援」は、何を指し、どのくらいの税金が投入されているのか。 そもそもLGBT支援に使っている税金などほとんどない。各省庁に問い合わせをしたが、唯一具体的な金額が提示されたのは、人権擁護局を抱える法務省のみ。その予算が局として34億700万円。法務省予算は、本年度、約7638億。その額、0・44%だ。 さらに、これは人権擁護局全体の予算であり、本年度の人権啓発活動強調事項は、女性、子供、拉致問題、性的指向、性自認、ホームレスなど17項目にわたっている。LGBTに特化した予算は、国家予算の中に見受けられない。月刊誌「新潮45」に掲載された自民党の杉田水脈衆院議員の寄稿 では、最近のパートナーシップ証明書、宣誓書受領証などを発行している自治体ではどうだろうか。札幌市では200万円、世田谷区でも200万円、渋谷区は男女共同参画と合わせて1300万円。この1300万円も、渋谷区の総予算938億の0・01%である。各自治体もLGBTだけという区分で予算計上をしていないので、計算がしにくいという共通意見も聞いた。 LGBT支援は、LGBTが存在するという前提をもとに行政サービスの範囲を広げる形が多い。同性パートナーシップの宣誓書受領証発行も業務の拡大であって、億を超える予算が必要な箱ものを作るといった事業ではない。生きづらいLGBT いじめ対策にLGBTを含める、自殺対策にLGBTを含める、男女共同参画でも多様な性について言及する。公営住宅に同性カップルを入居できるように条例を変更する。公立病院で同性パートナーを家族として取り扱う。このような政策は、ほぼコストがかからない政策である。 また、「実際そんなに差別されているものでしょうか」と杉田議員は疑問を呈しておられるが、宝塚大学の日高庸晴教授の調査結果では、LGBT当事者1万5064人のうち、職場や学校で差別的発言を聞いたことのある当事者は71・7%であった。 さらに、「そもそも世の中は生きづらく、理不尽なもの(略)それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的」と指摘されているが、別の調査では、10代のゲイ・バイセクシュアル男性における自傷行為の生涯経験割合(17・0%)は、首都圏の男子中学生より2倍以上高い。 岡山大学の中塚幹也教授による性同一性障害の当事者1150人の調査では自殺しようと考えた人が59%、自傷や自殺未遂をしたことがある人が28%、不登校になった人が29%などとなっている。 LGBTはからかいの対象になりやすい。何かを異端として排除する社会で、当事者の子供たちが自己肯定感を大きく損ね、自分がこの世にいなくてもよいと自分を追い詰めていく。政治の役割は本来、そういった生きづらさを少しでもなくすためにあるのではないのだろうか。日本外国特派員協会で会見する尾辻かな子氏(中央)=2007年6月、東京・有楽町 同性パートナーシップの法的保障では、今や先進7カ国(G7)で米・加・英・仏・独と5カ国が婚姻の平等(同性婚)を達成している。イタリアにもシビル・パートナーシップ制度がある。2017年のILGA(国際レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックス協会)の調査では、同性婚を認めている国が24カ国、パートナーシップを認めている国が28カ国。性的指向を差別禁止規定の中に明記している国は63カ国ある。 日本は、いまだに差別解消法や同性パートナーの法的保障が実現していない。病気、加齢、死別など人生の転機に、人生を共に過ごしたパートナーの手術の同意、財産の相続、保険、お葬式の喪主、忌引などが使えない。 異性カップルであれば気付きもしないところにバリアーがある。パートナーが外国籍の場合は、相手の国では婚姻し永住権を持つカップルであっても、日本では配偶者ビザは発行されない。「LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」という言葉はどこから出てくるのだろうか。 杉田論文には「『LGB』は性的嗜好(しこう)の話です」という記述があるが、性的指向(Sexual Orientation)とするのが一般的である。自民党の性的指向・性自認に関する特命委員会によるパンフレットも「本人の意思や趣味・嗜好の問題との誤解が広まっている」と記されている。人権意識が欠如した杉田水脈 「トランスジェンダーは『性同一性障害』という障害なので」と書かれているが、トランスジェンダーの中に、性同一性障害と医師から診断された方がおられるということで、イコールではない。杉田論文には性に関する基本的な認識の誤りが散見される。 最後に生産性の議論である。「彼らを彼女らは子供をつくらない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」。子供を持たない生き方を、生産性がないと評価する文脈に読めるため、LGBT当事者以外の多くの人が反発を感じたと思う。 当たり前のことだが、人が生きることに他者の評価や理由はいらない。それが人権である。杉田論文にはこういった人権意識が欠如しているのではないか。特に相模原市の津久井やまゆり園で19人の命が奪われた事件の実行犯による「重度の障害者は安楽死させた方がいい」といった優性思想を想起させたとして、杉田論文には、障害者団体、難病患者団体等からも非難の声が上がっている。 また、子供を産まない生き方をするものは、税金投入しなくてもよい、という考え方は社会保障制度の否定につながりかねない。病気、けが、死亡、加齢、障害、失業、ひとり親、貧困など生活の困難をもたらす出来事を保険や福祉としてみんなで支えあうのが、社会保障である。 一人の力では到底太刀打ちできず、誰もがいつ自分の番になるかわからないからこそ、みんなで支え合っている。非合理的な基準で、その支え合いを分断することはあってはならない。 この国で同性愛者として生きることはいまだに困難が伴う。私の知り合いは、パートナーシップ証明書を取得したにも関わらず、パートナーと住む賃貸物件を探したところ不動産屋からの紹介は2件のみだったという。 家族や友人に、職場でカミングアウトできない人も多くいる。私自身も自己受容に5年を要した。ある日、自分が人と違う存在であることに気づき、自己否定の気持ちを胸にしまい、自分が何者かわからず途方にくれる。だからこそ、あなたはあなたのままでいいというメッセージを伝えるために、見える存在になり、社会を変えようと議員をつとめている。LGBT啓発パレードの参加者=2017年5月、東京・渋谷 今回の杉田議員の寄稿に、多くの人が傷つき、涙を流した。政治家の役割は、生きづらさを抱えている人々に寄り添い、その困難を解決することだ。そのため、立憲民主党のSOGI(性的指向、性自認)に関するPT(プロジェクトチーム)の事務局長として、LGBT差別解消法の国会提出と同性婚を可能にする法案作成に向けて議論を進めているところだ。 杉田議員には、今回の寄稿が基本的な認識の間違いの上に書かれたものであり、多くの人を傷つけたと、寄稿の撤回、謝罪を求めたい。このままうやむやにすることはできない。

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    稲田朋美手記「杉田さん、LGBTを尊重するのが保守の役割です」

    稲田朋美(衆議院議員) 平成28年2月、当時自民党政調会長であった私は、LGBTの当事者の方々が自分らしく、人として尊重され、活躍できる社会を実現するため、自民党の正式な会議体として「性的指向・性自認に関する特命委員会」を設置した。 特命委員会の委員長には、古屋圭司元拉致問題担当大臣に就任いただいた。古屋委員長とは思想信条、歴史認識も近く、私は古屋委員長を、柔軟な中に信念を貫く、そして人権感覚も優れたベテラン政治家だと尊敬している。  かつて私と古屋委員長は人権擁護法案反対の論陣を党内でリードした仲だが、それは人権を軽視しているということでは決してない。何が「人権」なのか、という定義は難しく、「人権擁護」の名の下に他者の人権を侵害するということもある。むしろ、個別法で人権を守っていくことの方が現実的だという考えからの行動だった。 政調会長時代には、二階俊博総務会長(当時)のご指導の下、「部落差別の解消の推進のための法律」も議員立法で成立させた。 さかのぼると平成27年秋、自民党政調会長としてワシントンで講演した際に、LGBTのことを言及した。LGBTについて考えるきっかけは、息子の友人に当事者がいたという極めて個人的なことだが、ワシントンでLGBTの人権について言及した日本の政治家は私が初めてだろうと言われた。 また、講演直前のことだが、サンフランシスコの慰安婦像設置にいち早く反対してくれたのは、実はLGBT団体だった。この問題が歴史認識やイデオロギー論争とは「無縁」と実感する良いきっかけとなった。 私のことを「歴史修正主義者」「右翼」という人もいるが、まっとうな保守政治家でありたいと思っている。保守の政治というのは、個人の自由を大事にすることだ。それは当然、自分勝手を認めることではない。自分が自分らしく生きたいと思うように、他者もそのように思っている。そういった他者への思いやりや尊重を大切にしたい。自民党の稲田朋美衆院議員(斎藤良雄撮影) その上で、人生100年時代の家族の在り方については、時代の変化とともにもっと柔軟なものであってよいのではないか。人々が自由にのびのびと生きられる社会、寛容な社会を実現したい。そうした風通しのよい社会こそがさまざまなイノベーションを生み、経済も成長させられるはずである。 そのような思いから、講演では次のように述べた。 「すべての人が平等に尊重され、自分の生き方を決めることができる社会をつくるために取り組みます。人は生まれつきさまざまな特徴を備えています。そのことを理由として、その人が社会的不利益や差別を受けることがあってはなりません。保守政治家と位置づけられる私ですが、LGBTへの偏見をなくす政策等をとるべきです」 「自民党は日本における保守政党ですが、その思想は多様です。大切なことは、人それぞれの個性を評価し、人々がその潜在能力を完全に発揮できるように支援する社会をつくること、また一生懸命努力し成功する人を評価し、一生懸命努力しても成功しない、または成功できない人を支援する社会をつくることです」LGBTに対する保守の役割 ワシントンでの講演後、平成28年2月3日の衆議院予算委員会で、LGBTについて加藤勝信・一億総活躍社会担当大臣(当時)に質問をした。 加藤大臣は「一億総活躍社会とは誰もが個性を尊重され将来の夢や希望に向けてもう一歩前に歩み出すことができる、そして多様性が認められる社会をつくるということでありますから、その社会を実現していく理念においてもLGBTといわれる性的少数者に対する偏見あるいは不合理な差別、こういったことはあってはならないのであります」と答弁している。多様性を認め、寛容な社会をつくることが安倍政権、そして自民党である。 特命委員会では設立当初から、LGBT当事者で一般社団法人LGBT理解増進会代表理事の繁内幸治氏にアドバイザーとして就任いただき、精力的に議論を続け、その後政府に対しLGBT理解増進のための33の施策を提言した。 しかし、その際、理解増進法を議員立法として自民党から提出することは断念した。あまりにも自民党内の理解が進んでいなかったからだ。その現実に愕然(がくぜん)とした私は、まずは党内の理解増進が先決だと痛感した。 だが、提言をしたその年の夏の参議院選挙の公約には、LGBTについて「正しい理解の増進を目的とした議員立法の制定」とともに「社会全体が多様性を受け入れていく環境を目指す」と盛り込むことができた。 人は、人として存在すること自体を尊重されなければならない。老いも若きも、障害がある人もない人も、そして性別がどうあろうとも、人が人として自分らしく、頑張って生きようとしている人々を応援する自民党でありたい。 自民党が下野した際に、自民党の綱領を新しくしたが、新綱領の中で「われわれが守り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい」と書き込んだ。まさに「他への尊重と寛容」の社会をつくることが保守の役割なのだ。 さらに、自民党が目指している理解増進法は、LGBT理解増進のために財政措置を講ずることができるとしているが、LGBTの方々やLGBTカップルを優遇したり特権を与えたりするものではない。 なぜ、私たちが「差別禁止」ではなく、「理解増進」を目指すのか。いきなり「差別」を禁止して「罰則」を設けたのでは、なぜLGBTが人権問題なのかが理解されず、政策に説得力、ひいては実効性がなくなるからだ。まずはLGBTの基礎的な理解を広めることが重要だ。2018年5月、葉梨康弘法務副大臣(右)にLGBTへの差別禁止の法整備を要請したアムネスティ・インターナショナルの担当者ら 自民党では自由な議論が許され、党内の多様な意見が尊重される。憲法、人権擁護法案、女系天皇反対など、激しい議論の末に党の方針が決められる場面をいくつも見てきた。 これからきたる臨時国会で、LGBT理解増進法の議員立法化に向けて関心を寄せてくれる議員が増え、議論が活発化することを期待している。

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    「LGBT、それがどうした」杉田論文の本質はただの差別である

    吉良佳子(参議院議員) 「私はゲイだ! それがどうした! This is Pride!」 7月27日、自民党本部前で行われた杉田水脈衆院議員の「差別発言」への抗議集会のスピーチの中で、私が一番心打たれた言葉です。そして、私はこの言葉に励まされました。なぜなら、私にはこれが「私は私だ。それこそが私の誇り(Pride)だ!」という宣言に聞こえたからです。 そもそも「自分が自分である」、ただそれだけで、それを誇りだと胸を張って言える人はどのくらいいるのでしょう。私自身、人に誇れる自分らしさとは何なのか、しょっちゅう考えてしまいます。 女性で、子を持つ母親で、国会議員で…私を表す記号はたくさんある。でも、その記号だけで「私らしさ」は表せない。むしろ「期待に応えられているか」「その役割を果たせているか」…その記号に付随する悩みは山ほどあります。 こんな風に「自分らしさ」を探しながら、「社会に、みんなに、認められたい」と思い悩み、苦しむ。誰だってそんな経験はあるはずです。とりわけ、LGBTの場合、その苦しみに直面し続けているのではないでしょうか。 「同性に興味があると確信したのは、中学3年生の時。同性に興味があるのは世界で自分1人だけだと思い、とても孤独で苦しかったです。20歳の誕生日を迎えたとき、その気持ちが破裂し、母親にカミングアウトをする決意をしました。誰よりも一番理解してくれると思っていた母親に言われた言葉『私の育て方が間違っていたのかな』。一番聞きたくなかった言葉を耳にしたときに、自分の中の何かが弾け、涙が止まらなかったのを覚えています」 ゲイの友人が手紙を書いてくれました。 LGBTに関する法整備を求める市民団体「LGBT法連合会」は「性的指向および性自認を理由とするわたしたちが社会で直面する困難のリスト」として、264項目を例示しています。例えば「性別への違和感について、教員や同級生が笑いのネタにした」「カミングアウトをしたところ、家族の中で無視をされたり、死んだ者として扱われたりした」「性的指向や性自認を理由に、解雇や内定取り消し、辞職を強要された」「レズビアンとカミングアウトしたら『治してやる』などといってレイプされた」など。2018年7月、東京・永田町の自民党本部前で杉田水脈議員に抗議する人たち とてもじゃないけれど、これでは「自分が自分であること」そのものを誇れる状況とはいえません。どんな性的指向であれ、性自認であれ、それ自体がかけがえのない「あなたらしさ」。尊重されるべき人権です。 その、一番大事な「自分らしさ」を否定され続けることが、どれだけ苦しいか。ゲイやバイセクシャルなどの性的マイノリティーの男性が、異性愛者の男性と比べて自殺を図るリスクが約6倍に上るという調査まであります。この深刻な事態は決して「笑って話す」ようなことではありません。傷口に塩を塗り込む主張 杉田議員による「『LGBT』支援の度が過ぎる」「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」「そこに税金を投入することが果たしていいのか」などという差別と偏見に満ちた発言は、LGBTを取り巻くあらゆる困難や苦しみによる傷口に塩を塗り込むようなもの。それに怒りの声を上げるのは当然のことだと思います。 大体、LGBTに対する「支援の度が過ぎる」状況がどこにあるのか。LGBTに対する何らかの施策を持っている地方自治体の数は、全国で70自治体(2015年時点、LGBT法連合会の調査より)。パートナーシップ条例を持つ自治体も今年7月末時点で10自治体。決して多いとはいえません。 私たち日本共産党はLGBTを取り巻く問題を解消したり、軽減したりするために、国として直ちに「LGBT差別解消法案」のような法律を制定することを求めています。国会にも、他の野党とともに「性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律案」を提出しています。 また、自治体、企業、学校などそれぞれの分野でもLGBT問題に関する正しい知識の周知徹底、そして教育が必要です。自治体における「パートナーシップ制度」も、もっともっと広く、推し進めたい。 性的指向や性自認について、今なお1人で悩み、苦しんでいるかもしれない人に「あなたは1人ではない」と伝えるために。1人でも多くの人にLGBTのことを正しく理解してもらうために。こうした法律や制度を作り、広げることは急務です。 何より今、「生産性」とか「子供を産むかどうか」などの条件で、人を選別するような思想を許すかどうかが問われています。 「差別の言葉がなんでダメなのか、それはその時耳に刺さるだけじゃないんです。その言葉はその言葉に触れた人の心の中にずっと残るんです。『あなたは必要とされてない』ってその一言、それが寝ても覚めて繰り返されてしまうんです」 冒頭の「This is Pride!」とスピーチをしたLGBT法連合会共同代表の林夏生さんは語っています。日本共産党の吉良佳子参院議員(酒巻俊介撮影) 「生産性」などの条件で人を選別する発言は、まさに「あなたは必要とされていない」というメッセージそのものです。そして、このメッセージは、LGBTだけじゃない。「子供を作らない」「作れない」、そして「生産性がない」と決めつけられたすべての人に対して発信されている。こんなこと、私は絶対に支持しないし、許すわけにはいきません。 「『生産性がない』から支援の必要もない」というのは重度の障害者にも及ぶ攻撃だ、と断じている筋ジストロフィーの詩人、岩崎航さんはこうも言っています。「ただ、そこに居るだけでいい、生きているだけで十分というのが人の命」だと。 「ただ、そこにいるだけでいい」。この言葉こそ「社会に認められたい」と思い悩む多くの人々が求めているものだと思います。これこそ政府や政治家が発信すべきメッセージ。私が私らしく、あなたがあなたらしく、堂々と生きられる社会こそ目指したい。私は私だ。それが、Pride!

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    「女の子と付き合ったら変わるんじゃない?」大御所の残念な偏見

    網尾歩(コラムニスト) 女優の室井滋さんが、テレビ番組で紹介された男性の同性愛者に「女の子と付き合ったら変わっちゃうんじゃない?」と発言したことが、「差別発言」として話題になっている。LGBTへの世論は、ここ数年で大きく変わったように感じるが、その認識にテレビがついていけていないようにも感じる一件だ。 8月3日に放送された「チマタの噺」(テレビ東京)というバラエティ番組。笑福亭鶴瓶さんとゲストが一般の人の“噺”をネタにトークを展開する番組で、この日のゲストは室井滋さんだった。炎上の的となったのは、VTRで最初に登場した兄弟に関するコメントだ。 弟がゲイであり、兄もそのことを知っている20代の兄弟。弟が女性と付き合ったことはあるかと聞かれ「ないです」と答えたことを受け、室井さんは「いい兄弟ですよね」と言いつつ、その後で「案外さ、女の子と付き合ったら変わっちゃうんじゃない? この人。今、男の人しか知らないって言ってたから」と発言したのだ。 鶴瓶さんはこの発言について特にコメントせず、「あの兄貴いいよね」と、人のよさそうな兄を感心したようにほめていた。 室井さんの発言について、ネット上では「(室井さんは)異性愛者だと思うけど、『女の子と付き合ってみたら変わるかも』と言われたら、という想像すらできないのか」「こういうのはきちんと差別発言、ヘイトスピーチと呼ぶべき」といった批判が巻き起こった。 先週末に報道されて大きな話題となった、一橋大学で同性愛者の男子学生が自殺し、遺族が裁判を起こした件についてのことか、「同性愛者が自殺してしまう日本らしい発言」とコメントする人もいた。女優の室井滋 室井さんは早稲田大学社会科学部中退の経歴を持ち、女優の傍らエッセイストとしても人気だ。ざっくばらんに発言する「知性派」というイメージが強いことから、なおさらこの発言について残念に感じた人が多かったのではないかと推察される。時代の感覚と離れていく“大御所”たち 実際の放送を見ると、この発言はこれ以上掘り下げられておらず、このVTR自体にもそれほど時間が割かれていない。どういった意図で室井さんがこの発言をしたか、これ以上はわからないのだが、それでもこの一言は「認識が甘い」と思われても仕方ない。それほど典型的な、よくある同性愛者に対する偏見だ。 さて、有名人が炎上した際には2つの対応がある。1つはネット上での謝罪や言及であり、もう1つは無視である。 謝罪が行われるのは、多くの場合その有名人が普段からブログかツイッターを行っている場合だ。逆に、その有名人が普段からネット上での発信を行っていない場合は、なんの対応も行われないことが多い。 たとえばテリー伊藤さんは、たびたびその発言が顰蹙を買い、ネット上で批判されている。最近でも、情報番組で女性の陣痛に対しての「大げさじゃないか」という発言や、高知東生容疑者が逮捕された際に発した言葉に対するコメントが物議をかもした。だが恐らく、テリーさんはネット上での自分の批判をほとんど目にしてはいないのではないか。 以前、曽野綾子さんがネット上の批判に対して「私はエレキ使わないから」と発言したことが話題になったが、インターネットから情報を入手しない人、SNSを使わない人はやはりいる。さらに、ある程度の“大御所”の方たちは、一般人からの批判を鼻にもかけない節がある。 室井滋さんが、この発言に関してどのように対応するかはわからないが、彼女はブログやツイッターをやっておらず(手がけた絵本の販促用ブログとツイッターはあるが、2014年から更新されていない)、ネット上での発信がそれほど好きなわけではないのだろう。演出家のテリー伊藤 ただ、だからこそ、ネット上の「世論」とは異なる発言をしてしまったのではないか、という気もするのである。

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    LGBT問題 このままでは当事者たちの居心地は更に悪くなる

    具とされたことで、僕らという存在がこれまで以上に色眼鏡で見られかねないことです。日本はLGBT問題、性差別問題において認識が甘い、と世界中で指摘されていますが、それを使って別の政治をしようとするから、余計に悪くなる」 ユウトさんは、自分のような性的少数者が今まさに「消費されている」と日々痛感している。「LGBT」だと告白すれば、大変だね、そうは見えないね、といった答えが返ってくる場合がほとんどだが、別に大変でもないし、変わっているとも思わない。この落差こそが、実際に性的マイノリティーの人々が、すでに社会から「かわいそう」とか「気の毒だ」と思われ始めている証拠ではないか、とも受け止めているという。「とある番組に出たゲイの知人が話していたんです。"こういった人たちがいるのだ"で終われば済む話が、マスコミへの出方、報じられ方によって必要以上にセンシティブで腫物のような存在として社会に認識されてしまい、やはり打ち明けるべきではなかった、やはり社会は私たちを受け入れてくれなかったと、間もなく絶望しなければならないかもしれない、と」 ユウトさんの知人は、某番組の出演前に、ディレクターから「オネエな感じを強調して」「白い目で見られたエピソードを多めに話して」などとアドバイスを受けていた。「私はゲイです」だけでは弱く、そこにドラマティックで、かつ虐げられているようなエッセンスを取り入れないと、番組が成り立たない、そう間接的に説明されたのだ。「LGBTを知ろう、受け入れようという動きは、どちらかと言えば歓迎すべきこと。でも、LGBTであることを白状させようとか、政治家に文句を言うべき、国のダメさを訴えろ、と強要してくるようなことになってはいないか。それでは結局、性的少数者は以前より居心地が悪くなってしまいそうですね」(ゲッティイメージズ) ユウトさんの一言は、我々マスコミ人にとっても、社会活動家にとっても重く突き刺さるものであることは間違いない。いいことをしている、社会のため、といって取材しモノを書き、発表することは簡単だ。この問題の本質とは何か、少数者や弱者が何を望み、社会がどう動いていくことが、社会の幸福につながっていくのか。うわべだけの言葉を用いていては、声や思いは、誰にも届かない。関連記事■ 九州でエイズ急増 中国若年層の患者激増との符合■ 中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化■ 地下アイドルの「いじめ体験率」はなぜ一般人の約5倍なのか■ LGBT恋活パーティー 参加者が打ち明けた「それぞれの事情」■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行

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    高須院長が少子化対策について提言「愛国心こそが解決する」

     高須クリニックの高須克弥院長が世の中の様々な話題に、思いのままに提言をしていくシリーズ企画「かっちゃんに訊け!!」。今回は少子化対策についてお話をうかがいました。* * *──自民党の杉田水脈議員が『新潮45』に寄稿した『「LGBT」支援の度が過ぎる』という論文が批判の的となっています。LGBTは子供を作らないため「生産性がない」と表現したことについて、特に批判されているようです。高須:確かに、LGBTを差別して、「生産性がない」と切り捨ててしまうのはいかがなものかと思うね。どんな性的指向であろうと、性別が何であろうと、差別されるべきではない。国籍や生まれた土地で差別されてはならないのと同じことだよ。多様性は認められるべき。だから、たとえばLGBTは生産性がないから矯正するべきだといった主張もNGだと思う。 その一方で、今の日本では必ずしもLGBTが激しく差別されているわけではないという現状もあると思うんだ。LGBTのタレントは毎日テレビで活躍しているし、同性婚を認める自治体も増えている。だからこそ、LBGTへの過剰な支援は必要ないという意見が出てくるのも理解できる。それが本当に正しいかどうかについては、議論の必要があるだろうけどね。 そして、また別の問題として、少子化というものがある。本当であれば、少子化問題とLGBTの問題は直結しないはずであって、そこを同じ問題として扱うべきではないんだと思う。でも、そこを繋げてしまったからこそ、“LGBTを過剰に支援するのであれば、その分を少子化対策に費やすべきだ”という意見に行き着いてしまったんだろうね。そこはちょっと論理の飛躍があったかなと思う。 今回の騒動は、子供を作らないことを「生産性がない」と表現してしまったこと、そして、少子化とLGBTの問題を直結させてしまったこと。この2点が問題だったんだろうな。──野党は、今回の杉田議員の発言に対し、強く批判しています。高須:でも、立憲民主党の菅直人議員は過去に、出生率が低いゆえに「東京と愛知は生産性が低い」と演説していたというじゃないか。もう何年も前の話であっても、政治家は自分の発言に責任を持たないと。自分は「生産性」という言葉を使っていたのに、自民党の議員が使うのはダメだっていうのは、どうかと思うね。政治家としてダブルスタンダードを良しとするのはありえない。少子化対策について高須院長の提言は…? 結局、野党の政治家だって、LGBTの問題や少子化問題をちゃんと考えていないんじゃないかな? ただ単に、自民党を批判できそうなネタを探しているだけに見える。いつまで経っても「生産性」という言葉の問題ばかりを批判していて、なかなか少子化問題解決に向けた具体的な政策議論には発展しないもんなあ。──少子化問題といえば、先日院長はツイッターで「病根はゲームばかりしている若者だと思います。セックス以外の娯楽を禁止すれば人口は増えます」とつぶやかれていました。高須:ゲームの楽しさの虜になっちゃってセックスをしない若者が多いのは間違いないんじゃないかな。今でも『ポケモンGO』を楽しんでいる僕が言うのも説得力がないかもしれないけどね(笑い)。子供にとっては最高な日本 でも、言うまでもないだろうけど、単純に「ゲームが悪だ」という話ではないんだよ。今の世の中は、ゲーム以外でもセックス以上に楽しいものがあふれている。セックスをしなくても充実して生きられるくらいに、豊かになりすぎてしまったんだ。いろんな娯楽が増えているなかで、セックス自体は昔と変わらないままだから、結果的に少子化になってしまったということだね。まあ、ちょっと極論なのかもしれないけど、根本的には間違ってはいないと思う。原理原則として、娯楽が他になければ人はセックスするし、子供も増えるということ。今の若者たちは、セックス以外にやることがありすぎる。──とはいえ、セックス以外の娯楽を禁止するというのは、現実的ではないですよね?高須:そりゃそうだ(笑い)。だから、若者たちにもっと子供を作りたいと思わせるような日本にしていくことが重要なんだよ。そのためには、日本という国をもっと肯定的に捉えていく必要があると思う。差別だって少ないし、こんなに安全で住みやすい国はないと思うよ。子供にとっては最高な国だよ。 それなのに、なぜだか日本はダメな国だと主張する人がいるのだから、信じられないね。それこそ日本がまるで差別的であるかのような言説を流してまで、安倍政権を批判しようとする人もいる。そんなんだから、若者たちだって子供を作ることに躊躇してしまうんだよ。気楽にゲームを楽しんでいる方がマシだと考えちゃうわけだ。 もっと日本は素晴らしい国であるということを、ちゃんと後世に伝えていかなければいけないと思うね。それが大人の役目であり、政治家の役目でもあると思う。“将来の子供のために”とかいいながら、日本を貶めるような発言をする政治家たちは、絶対に信用しちゃいけない。愛国心こそが少子化問題を解決すると思うね。 セックス以外の楽しみがたくさんある今だからこそ、豊かな日本の未来は明るいんだということを正しく伝えていくべき。それが我々老害のできることだよ(笑い)。2018年7月、国会前で開かれた安倍内閣の退陣を求める集会で、プラカードを手にする参加者* * * 確かに国民が自国の悪口ばかりを言っている国に明るい未来があるとは思えない。少子化問題を解決するためにも、日本の未来をもっと前向きに捉えていく必要がありそうだ。【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。著書に『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子氏との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)、『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)、『炎上上等』(扶桑社新書)、『かっちゃんねる Yes! 高須 降臨!』(悟空出版)など。最新刊は『大炎上』(扶桑社新書)。関連記事■ 「僕は寄付するプロ」高須院長が豪雨被害で現地行かない理由■ 印税全額寄付の高須院長「炎上商法ならぬ炎上慈善活動だ」■ 高須院長 米朝会談で指摘「韓国は相当空気が読めてない」■ 高須院長 米朝会談を分析「トランプは損得で動いた」■ 高須院長 金正恩評価する声に疑問「それこそ歴史修正主義」

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    女性装の東大教授が警鐘「心の性に門戸を開くお茶大には矛盾がある」

    安冨歩(東京大学教授) 日本の大学の女性差別は、世界最高水準である。例えば、私が勤務する東京大学の女性教授の割合は、20世紀末の段階で1%を切っていた。その後飛躍的に改善したが、2017年5月1日時点で、教授1268人のうち、女性は86人、約6・8%にすぎない。准教授でも、941人のうち112人、11・9%にとどまる。つまり、今後、20年くらいたっても1割程度にとどまる可能性が高い。 そもそも学部学生の女性比率がいまだに、1万4002人に対して2711人、19・4%となっており、どんなに頑張っても2割を超えることはなかろう。 これは東大に限ったことではなく、日本全体で見てもそうである。文部科学省科学技術政策研究所の発行した『日本の大学教員の女性比率に関する分析』(2012年5月)によれば、2007年時点までのデータであるが、大学の本務教員の女性比率は人文科学では何とか2割から3割近くに達しており、また社会科学の分野は従来、理工系より少なかったものが、急速に改善している。 しかし、理系は相変わらずであり、特に工学系の伸びが悪く、数%の域を出ない。国立大学では、工学系や医学系の教員が圧倒的に多いので、全体としての改善が遅くなっている。 もちろん、大学教員は主観的には女性を差別しているつもりはなく、それどころか、教員採用では多少無理をしてでも女性を採用しようとしていて、にもかかわらずこのありさまなのである。ということは、これは、社会構造に起因する差別であって、大学関係者の努力だけでどうにかなることではない、と私は考えている。 ここで「構造」と言っているのは、人々の行動の「前提」として機能し、かつ、人々の行動によって支えられているものである。誰もが、「世の中は当然こうなっている」と考えて、それを前提として行動し、その結果として、「当然こうだ」と思っていることが維持されると、それが構造となる。当然こうだ、ということは、無意識に刷り込まれていて、意識化されることすらない。東大東洋文化研究所の安冨歩教授  例えば、「女が無理していい大学に行ってもいいことはないし、研究者になろうとしたら苦労するだけだ」と多くの人が前提にし、それにあわせて意思決定しているなら、その結果として前提が維持される。日本社会は、その罠から抜け出せていないのである。その前提を打ち破らない限り、いかなる制度改革や政策も効果がない。 この悲惨な状況を前提とするなら、女子大学の存在意義は全く衰えていない。かつて女子校は「良妻賢母」というような、女性差別を前提としてそれに順応する教育を期待されていた。しかしそれを逆手にとって、性にもとづく差別と戦うための拠点として自らを位置づけるなら、その意義はますます大きいとさえいえるだろう。「性的少数者」など存在しない 一方、かねてから私が主張しているように、「性的少数者」などというものは、言葉の上にしか存在しないのであって、現実に存在するのは、性的指向や性自認を口実にした差別だけである。他人を差別することで自分の存在を正当化したいという卑しい心根に支配された人が数多くいる、ということのみが現実に存在する問題なのである。その意味では、女性ということを口実にして行われる差別と、性的少数者に対する差別に、本質的な違いはない。 それゆえ私は、お茶の水女子大学がトランスジェンダーの女性を受け入れる決断をしたことは、全く正しいと考えている。女子大学が、性というものを口実とした差別と戦う研究教育機関と自らを位置付けるのであれば、その口実の範囲を「戸籍上」の女性性に限定せず、より多様な女性性に拡大することは、自然なことだからである。 お茶の水女子大の室伏きみ子学長は、記者会見で以下のように述べた。まず、「学ぶ意欲のあるすべての女性にとって、真摯(しんし)な夢の実現の場として存在するという、国立大学法人としての本学のミッションに基づき判断した」として、判断の根拠を明確にする。 ここに言う「ミッション」とは、お茶の水女子大の憲章に掲げられているものであり、この原則から判断した、という点が重要だと思う。日和見主義ではなく、こういう原則主義のみが、学術的機関の存在を正当化する。 その上で、「今回の決定を『多様性を包摂する女子大学と社会』の創出に向けた取り組みと位置づけて」いるとしている。この言葉は、女子大学の存在意義を、差別との戦いを通じた社会変革に設定し、そのための具体的行動としてトランスジェンダー女性の受け入れを決定した、ということを意味している。 さらに、次のように述べる。「今後、固定的な性別意識にとらわれず、ひとりひとりが人間としてその個性と能力を十分に発揮し、『多様な女性』があらゆる分野に参画できる社会の実現につながっていくことを期待している」 つまり、女子大学が戸籍上の男性を女性として受け入れることにより、固定的な性別意識を動揺させ、そのことを通じて私たちが等しく取りつかれている卑しい差別意識と戦い、誰もがあらゆる分野で活躍できる、開かれた社会づくりを目指す、ということである。なんという崇高で挑戦的な言葉であろうか。会見を行うお茶の水女子大・室伏きみ子学長=2018年7月10日(中田真弥撮影) 説明の最後に、室伏学長が次のように述べているのが興味深い。「はるか以前の社会と比べると格段に進歩したが、それでも様々な場で女性が職業人として活躍するには困難がある。その現状を変え、女性たちが差別や偏見を受けずに幸せに暮らせる社会を作るために、大学という学びの場で、自らの価値を認識し、社会に貢献するという確信を持って前進する精神を育む必要があると考える」 この部分は、いわゆる女性差別についての言及であって、一見すると、トランスジェンダー女性の受け入れと関係ないように見える。「二枚舌」だけは勘弁願いたい しかし、私が前述したことを踏まえれば、意味は明確である。お茶の水女子大は、トランスジェンダー女性の受け入れによって、固定された女性概念を動揺させ、女性性の多様化を推進する事で、社会にまん延する「性に基づく差別」全体と対峙(たいじ)することを自覚的に示したのである。つまり、トランスジェンダー女性の受け入れという戦術によって、女性差別と戦う、という戦略を示しているのであって、単なる制度改革ではない。 私は、今回の決定が発表された当初、iRONNAから寄稿を依頼されたのだが、どのような意図で今回の決定が行われたのか全く分からなかったので、一旦お断りした。しかし、その後の記者会見の報道を見て大いに驚き、お引き受けした次第である。 なぜ驚いたのかというと、昨今の国立大学を巡る状況は非常に悪く、ほとんど絶望していたからである。例えば私の母校である京都大学は、学生が出す立て看板(通称・タテカン)を強制的に撤去してしまった。これは、京都市の景観条例にひっかかって、市役所から𠮟られたのが理由なのだが、あのタテカンこそが、京大の自由な学風を象徴する伝統的景観であって、それを自ら破壊するのは、全くの愚挙である。 私の勤務する東大に至っては、画家の宇佐美圭司の大作「きずな」という貴重な美術作品をよくわからない理由で破棄してしまうという、不気味な処置をしている。日本国の知的文化的資産を守り育てる任務を負っているはずの中核的国立大学のこの知的貧困に、私は恐怖を感じている。 この状況で、お茶の水女子大が、世間の偏見やしがらみや抑圧をはねのけるための挑戦的行動に踏み出したことに、驚嘆したのである。私は微力ながら、本年6月3日に東大安田講堂で「ファッションポジウム」を開催した。これは男女の垣根を越えた自由なファッションを目指すことで、性的指向や性自認を口実とした差別と戦うためのものであった。その直後に、このような大きな決断が下されたことに、実に心強い思いがした。トランスジェンダーの学生を受け入れる方針のお茶の水女子大=7月10日、東京都文京区 ただ、ひとつ、気になることを申し添えておかねばならない。それは、多くの大学が、学生のLGBTの支援を打ち出し、そのカミングアウトを支援し、差別をしないように呼びかける政策をとっている一方で、大学の教員でカミングアウトする人が、非常に限られている、という現状についてである。日本中の大学教員全体を見ても、本当に数えるくらいしかいないのである。これは一体、どうしたことなのであろうか。 お茶の水女子大はこの重大な決断を機会に、教職員が何の不安を感じることもなく、自らの性的指向や性自認を自然に明らかにできる環境を整えてほしいと切望する。トランスジェンダー女性の学生は受け入れるけど、教職員には周囲への「配慮」を無言で要請する、などという二枚舌だけは、どうかご勘弁願いたい。

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    滝沢ななえが同性愛を告白した意味

    元バレーボール選手の滝沢ななえさんが同性愛であることを告白したことが話題になったが、平昌五輪でもLGBT(性的少数者)を公表した選手が多く活躍した。「多様性社会の実現」「差別や偏見のない社会」などと綺麗事の尽きない昨今だが、東京五輪を控えた日本で理解はどこまで進むのか。

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    「美しすぎるバレーボール選手」滝沢ななえが同性愛を告白した理由

    滝沢ななえ(元バレーボール選手) 2016年のリオ五輪・パラリンピックでは、セクシュアルマイノリティーをカミングアウトした選手が50人以上で過去最多となり、話題になりました。2014年、オリンピック憲章に「性的指向による差別禁止」が明記されたことも背景にあって、エンブレムに「多様性と調和」のメッセージを込めた2020年の東京五輪がどうなるのか、世界が注目していると思います。 一方で、日本の現役選手で今、カミングアウトしている人はいません。もちろんカミングアウトすることが全てではありませんが、引退したスポーツ選手でもカミングアウトしているのはわずか数人というのが現状です。 そんな中、2017年11月に放送されたバラエティー番組『衝撃のアノ人に会ってみた』(日本テレビ系)で、私は女性とお付き合いしていることを初めてメディアの前でお話しました。要はレズビアンであることをカミングアウトしたのです。 取材で来た番組ディレクターに「彼氏か旦那さんはいますか?」と聞かれたので、「彼女がいます」と答えたんです。最初はびっくりされましたが、その後に「ぜひ使わせて欲しい」と言われて、放送することになりました。 ちょうど、そのテレビ番組のお話をいただく少し前、私が所属しているジム「SPICE UP FITNESS」の代表と、セクシュアルマイノリティーとしてもっと表に出ていけたら、誰かを勇気づけたり、誰かの考えや行動に変化が生まれたり、そういうきっかけをつくることができるんじゃないかって話していたんです。だから、テレビ出演のお話はタイミングが良かったですね。インタビューに応じる滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) ここから少し自分自身の話をしようと思います。自分の恋愛対象が女性だと初めて自覚したのは、バレーボールチーム「上尾メディックス」に所属していた22歳のころでした。それまで男性とお付き合いしたこともありましたが、友達と「恋バナ」をしていると、なんとなく違和感がありました。 というのも、女の子って恋をすると恋愛モードになるというか、すごく乙女になるじゃないですか。その感覚が私にはなかったんです。付き合っている男性のことは人として尊敬していたので一緒にいることはできるのですが、どうしても「友達」のような感覚で、なんでこんなに違うんだろうと思っていました。 そんな時、女優の上野樹里さんが性同一性障害の人を演じた『ラストフレンズ』(フジテレビ系列)というドラマを偶然みたんです。私は自分が女性であることに違和感は全くなかったのですが、ちょっと男っぽい部分もあるので、「あー、私も女性とお付き合いした方が心惹かれるのかな?」と、ふと思ったんです。そして実際に女性と付き合ってみたら、「ああ、みんなが恋バナをしていたときの恋愛モードってこういう感じか!」と初めて理解できたんです。男性ファンに対する罪悪感 とはいえ、女性が好きだと自覚してからも、恋バナをするのは難しいものでした。なぜなら、恋バナをするときって、必ず「彼氏いるの?」と聞かれるからです。その時点で少し違和感がありますが、相手も決して悪気があるわけではないので難しいですよね。私の場合、男性の立場で彼女とお付き合いしているので、彼女を彼氏と置き換えて話すこともできない。なので、本当はもっとしゃべりたいこともあるし、恋もしているけれど、恋バナのときはごまかしてしまうことが多かったです。レズビアンをカミングアウトしたときの心境を語る滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) 私は基本的にポジティブで、普通に明るく楽しく生きているので、テレビのドキュメンタリーのような深刻な話ではないですけど、もう一つ、日常で違和感があるとすれば、やっぱり結婚や出産の話ですね。私の妹はすごく家庭的で、ずっと結婚したいって言っているような子なので、いつも「ななえ、結婚しないの?」「子供かわいいよ」と私に言っていました。 妹も、もちろん周りの友達も、結婚して、家庭があって、子供がいるっていう生活が幸せだと思っていたからこそ、いつか私にも幸せになってほしくて言ってくれたんだと思います。みんな悪気があるわけではなく、無意識にそう言ってくれますね。ただ、私にとっては興味がない話というか、私にとって幸せのカタチは結婚や出産ではなかったというだけなんです。 プライベートではそういう小さな違和感もありましたが、バレーボール選手として、自分がセクシュアルマイノリティーだからといって何か不便があったり、嫌なことがあったりということはほとんどなかったです。自分がセクシュアルマイノリティーだからといって、何か競技に悪影響が出ることもありませんでした。同性愛者だからという理由で試合中にミスが増えるなんてことはないじゃないですか。 一つあるとすれば、男性ファンに対しての罪悪感でした。私は現役時代、男性ファンが多くて、「ななえちゃん、かわいい」と言われると、だましているつもりはなくてもちょっと申し訳なく思っていました。 表舞台に出る人間として、周りの反応、特に応援してくれている方々の目というのはどうしても気になると思います。ファンの方は、「この選手はこういう人だろうな」という自分なりのイメージを持っていて、そのイメージをあまり崩してはいけないという意識が当時は強かった。もしイメージと異なれば、どうしてもがっかりさせてしまうのではないかと考えていました。 私自身も、ファンがあってのアスリートだと思っていたし、だからこそファンの方を大切にしたいと思っていたので、カミングアウトするより、イメージのままの「滝沢ななえ」でいる方がいいのかな、と思っていました。DNAの代わりに「考え」を残したい 私はもう引退した身ですが、それでも公表するのは怖かったですね。収録はしたものの、本当に放送されて大丈夫なのか、ずっと不安でした。正直なところ、同性愛であることを公表したら、男性ファンは引いてしまうのではないかと思っていましたし、そうなったらなったで仕方がないと、覚悟もしていましたけど…。最後はセクシュアルマイノリティーの滝沢ななえを応援してくれる人が残ってくれればそれでいい。そう思って公表しました。 もちろん、どうしても受け入れられない人もいるとは思います。でも結果的に、「ななえちゃんがどうであれ、滝沢ななえっていう人間をこれからも応援していきたい」というお言葉をいただいたり、男性の方でも今まで通り応援してくれるファンが意外に多かったり、予想以上に温かい反響をいただき少し驚きました。 冒頭でも話した通り、今現役の日本人スポーツ選手でカミングアウトしている選手はいませんが、今の日本の状況ではまだ難しいだろうと思います。LGBTというという言葉が少しずつ社会に認知されてきていますが、自身がLGBTであるということをカミングアウトするのには、まだまだ勇気が必要だと感じています。「自分のDNAよりも自分の考えを残せたら」と語る滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) それでも、現役選手の方で、モヤモヤしている方がいらっしゃるのなら、ファンの人はファンのままだから、あまり怖がらなくてもいいんじゃないかな、と伝えたいです。これは私が今回公表したことで一番実感したことです。絶対に理解してくれる人がいるし、そういう面で気持ちが晴れてくると、競技にもいい形につながってくるのではないでしょうか。 アスリートにとって、自分の支えになってくれる恋人やパートナーの存在はすごくプラスになると思います。そんなことを考えるより競技に集中しろ、というご意見もきっとあるでしょうが、スポーツはフィジカルの部分、メンタルの部分どちらも重要です。そんな心の支えになっている存在を、隠して生きていかなくてはいけない、後ろめたいことをしているわけでもなく、普通に恋愛をしているのに、という状況は、やっぱりストレスになるものです。 だからこそ、仕事や自身の生き方が少しでもLGBTの方々の応援につながっていけば幸いです。私は子孫を残す、自分のDNAを残すということにあまり興味がない代わりに「自分の考え」を残せたらいいな、と思っています。 恋愛において、みなさんの「普通」と、私たちの「普通」はきっと同じです。男性も女性も、誰が好きであれ、私たちにとっては「普通」なので、明るく受け入れてほしい。東京五輪では、LGBTの人たちも、不自由なく参加できる環境にしてもらいたいですね。(聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)たきざわ・ななえ 元バレーボール選手。1987年東京都生まれ。八王子実践高等学校を卒業。パイオニアレッドウィングスにて3年プレーした後、上尾メディックスに移籍。上尾メディックスでの4年間の選手生活を終え、バレーボールスクールのコーチなどを経て、現在トレーニングジム「SPICE UP FITNESS」トレーナー。

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    「LGBTなんて言葉なくなればいい」元女子高生の僕が伝えたいこと

    杉山文野(フェンシング元女子日本代表) 「それはお前がいい男に抱かれたことがないからじゃねえか?」。僕が「本当は男なんです」とカミングアウトしたとき、フェンシングのコーチからこう言われました。 僕はLGBTの中の「T」、トランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)です。幼稚園のころから、自分は男だと思って男の子たちとサッカーをして遊んでいました。でも、小中高と女子校に入ることになり、周りには女の子しかいない状況に「なんだかおかしいぞ?」と自分の性別に対する違和感を意識するようになったんです。 昔からスポーツが好きでしたが、その中でフェンシングを続けるきっかけになったのも、ユニホームに男女の差がほとんどなかったからなんです。当時、剣道は女子だけ赤胴に白袴、テニスはスコートが主流でしたし、バレーボールもブルマー。男女の差がはっきりと出るユニホームを着るのが本当に嫌だったんです。 小学生のころは、男子相手でもテクニックで打ち負かしていました。でも中学校に上がるころになると、第2次性徴が始まり、一気に体格差が出てくるようになりました。こうなると、ついこの前まで簡単に勝てていた男子の体があっという間に大きくなって、力もスピードも勝てなくなりました。それに比べて、自分の体はどんなにトレーニングをしてもなかなか筋肉がつかない。さらに、生理が始まって体調の変化もあるし、「体の変化」で男女の差が出てくるのは、自分にとってとても悔しいと感じるようになりました。 フェンシングは一般的に貴族のスポーツのように言われますが、実際はボクシングと変わらないくらい泥臭いスポーツなんです。フェンシングだけではないと思いますが、フェンシング協会もクラブチームもかなり体育会系で、男尊女卑というか、男性優位な風潮が当時はありました。 例えば、合宿に行っても食事の準備や洗濯は女子がやって、男子の先輩は練習が終わればパチンコに行ってしまう、なんてこともありました。男子選手が筋トレで体力がもたなかったりすると、「お前オカマかよ!」とか、「情けねえな、女じゃあるまいし」とか、そういった発言が当たり前のようにありました。もっと言えば「お前は女なんだから」と、どうしても女性を見下すような雰囲気がありましたね。元フェンシング女子日本代表の杉山文野さん(撮影 iRONNA編集部、松田穣) でも、当時のフェンシング仲間はすごく楽しくて良い人たちばかりでした。ただ、良い人であることと、差別的な表現をしてしまうことは、まったく別軸にあったように思います。誰も悪気はなく、男尊女卑のような表現をするのが当たり前だったんです。当時はジェンダーやセクシュアリティに関する情報がほとんど出ていなかったからなんだと思います。 2004年にフェンシング日本代表入りを果たし、世界選手権に出場した1年後に引退するまで、自分はずっと「僕」だと思っているのに、「女子」の部に出ているのはなぜなんだろう、と葛藤を繰り返していました。別に悪いことをしているわけでも、ドーピングをしているわけでもないのに、常に罪悪感のようなものが自分に付きまとっていたんです。アスリートとしての道をこのまま進んでいれば、自分らしくなれないし、かといって男性ホルモンの投与や性別適合手術を受ければ、選手を続けることができない。当時はその二者択一しか選択肢がなかったんです。自分にもあった「男尊女卑」 今振り返れば、100%競技に集中しているつもりでも、それと同じぐらいのエネルギーを、性別違和の悩みに使っていたんじゃないかと思っています。白いTシャツ1枚じゃ胸が透けてしまうけれど、ブラジャーはつけたくなかったし、スポーツブラをつけていても違和感が常にありました。女性用の更衣室でシャワーを浴びるにも、他の人と一緒の時間に入らないようになんとか時間をずらしたり、練習後に男子選手が気持ちよさそうにTシャツを脱いで裸になってパタパタ仰いでいるのをうらやましく思ったり、ホントに些細なことなんですが、いつも性別違和と向き合っていました。 そんな現役時代でしたが、実は本当に身近な人にはカミングアウトをしていました。クラブチームの仲間は「文野は文野だよね」と受け入れてくれましたが、だからといって単純に心が晴れやかになるわけではありませんでした。 なぜなら、自分が本当は男で、これから男に移行していきたい、みたいな話をしているのに、女子選手に負けたりすると、僕の心の中にもある種の男尊女卑的な部分があって、「女子なんかに負けてしまって」と思ってしまうんです。かといって男子にはかなわない。だからフラストレーションはたまる一方でした。周りは自分を受け入れてくれたにもかかわらず、自分の方が逆に居場所がないように感じることがありましたね。 それでも、自分にとって師匠と呼べるような人にカミングアウトしたときは「何があっても俺がお前の師匠であることは変わりない」と言ってもらって、すごくありがたいと思いました。一方で、別の信頼していたコーチをはじめ、大半の人からは、冒頭の言葉のように「いい男に抱かれたことがないから、そんなこと言うんじゃねえか?」というような反応が多く、やっぱりスポーツ界でカミングアウトするのは難しいなと実感しました。フェンシング現役選手時代の杉山文野さん こんな自分の体験を踏まえても、いま現役選手がカミングアウトするのは難しいと思います。本当はカミングアウトしたからといって、解決するわけじゃないんですよね。カミングアウトすることで、逆に居場所がなくなってしまうこともあります。僕は引退したから言えますけど。 メダルをとった選手で、実はLGBTだという人を個人的に何人か知っていますが、「やっぱり言えないよね」と言っていました。なぜなら、特にメダルをとった選手は、家族にとっても自慢の息子や娘だし、地元やファンにとってもヒーローという期待が膨らむ中で、もしカミングアウトしてしまえば、それ自体が裏切り行為になってしまうのではないかと不安を抱えてしまうからです。 だから、カミングアウトするということは、本当の自分をオープンにすると同時に、「これまで黙っていたのは、みんなに嘘をついていた」と言うのと同じなんです。東京五輪はチャンス もちろん、わざと嘘をついているわけではないし、嘘をつかざるを得ない状況に追い込まれていた事情があるからなんですが、これは社会の責任だと僕は思っています。でも、はっきり社会の責任だと声を大にして言いづらいのも事実です。自分のせいだと、責任や罪悪感を強く感じてしまう状況でカミングアウトするのは、とてもハードルが高いんです。 その一方で、スポーツは社会を変える力があると信じていますし、2020年の東京五輪は大きなチャンスになり得ると思っています。リオ五輪の時には、パラリンピックと合わせて50人以上がカミングアウトしたり、試合後に公開プロポーズしたり、いろいろなことがありましたよね。なぜそういうことをするかというと、五輪という世界中から注目をされているときに発信しなければ、私たちの声を取り上げてもらえないからです。だから、タイミングを見計らって情報発信するんですよね。 東京五輪では、実は取り組みの一つとして、世界初のLGBTパレード「アジアンプライド」をやってみたいと思っています。「ワールドプライド」という世界規模のLGBTパレードは既にありますが、アジアという枠組みではやったことがないので、台湾や韓国など、アジア各国と連携してできればと考えています。「世界初のLGBTパレード『アジアンプライド』を実現したい」と語る杉山文野さん(撮影 iRONNA編集部、松田穣) また、2020年に向けてアライ(LGBTを理解し、支援する人)アスリートの人たちにも、表に出てもらいたいと考えています。現役選手がカミングアウトするのはまだまだ難しいけど、それを理解してくれる人、支援してくれる人を可視化することで、スポーツ界でも発言しやすい環境をつくっていくことから始めていけたらと思っています。 スポーツ選手って、子供たちの憧れの的じゃないですか。そういう人たちがカミングアウトできるようになったら、それは本当に大きな夢と希望になります。僕だって、会う人会う人に「元女子高生です」なんて言いたくないですから。でも、言わないと「いない人」になってしまいます。近い将来、LGBTなんて言葉がなくなればいい。そのために、今はまだ言わなきゃいけない時代なんです。(聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)すぎやま・ふみの フェンシング元女子日本代表、株式会社ニューキャンバス代表。1981年、東京都生まれ。早稲田大大学院教育学研究科卒業。LGBT(性的少数者)の支援に取り組むNPO法人「東京レインボープライド」共同代表理事、NPO法人「ハートをつなごう学校」代表として、講演会やメディア出演など活動は多岐にわたる。日本初となる渋谷区・同性パートナーシップ証明書発行に携わり、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議委員も務める。著書に『ダブルハッピネス』(講談社)。

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    東京五輪は「閉じた世界」LGBTの集大成となるか

    松中権(認定NPO法人グッド・エイジング・エールズ代表) 平昌五輪の会場で、フリースタイルスキー男子のガス・ケンワージー選手(米国)と応援に来ていた恋人で俳優のマシュー・ウィルカスが、予選突破の願いを込めるようにキスをする様子がテレビ番組で生中継され、世界中で話題になりました。 「子供のころ、五輪中継でゲイカップルのキスを見る日が来るとは夢にも思っていなかったよ。だけど、いまの子供たちは、実際にテレビで見ることができるんだね。愛は、愛。愛だよね」 このケンワージー選手のコメントが象徴するように、スポーツ界はLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)などの性的少数者に対する偏見や差別意識がとても強い「閉じた世界」といわれています。そもそも男女で分かれる競技がほとんどで、内在化する同調圧力によりホモフォビア(同性愛嫌悪)、バイフォビア(両性愛嫌悪)、トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)が生まれやすく、カミングアウトする当事者が少ないため、いじめや暴力も表面化しにくいとも言われています。フリースタイルスキー男子、米国のガス・ケンワージー選手(AP)  米国の調査では、当事者の子供たちが不安や不快を感じて避けている学校内の場所として、更衣室や体育の授業、運動場、体育施設が上位を占め、体育の授業や部活動などへの参加率も低いという結果も出ています。 そんなスポーツ界が性的少数者の問題に自覚的になるきっかけとなったのが、1998年に英国の人気サッカー選手、ジャスティン・ファシャヌさんがゲイであると告白したことでしょう。その後、チーム内のいじめやファンからのやじ、罵声、嫌がらせが続き、所属チームとはフルタイム契約を結べず、最終的には自殺という結果を招きました。これを機に、本当に少しずつですが、さまざまな競技団体や関連企業などにおいてスポーツとLGBTなどについて議論するようになり、当事者のアスリートたちが悩む必要のない環境づくりに向けた活動が始まりました。 LGBTなどに関する世界的な活動機運とも重なり、2010年のバンクーバー冬季五輪で、「プライドハウス」という取り組みがスタートします。地元のLGBT団体が立ち上げた期間限定のホスピタリティ施設で、「世界中から集まる当事者アスリートやその家族、友人、観光客などが安心して集える場所を」というコンセプトのもと企画されました。 「プライドハウス」は、広く一般市民向けにLGBTなどに関する情報発信が行われるとともに、以降は五輪・パラリンピックだけでなく、サッカーワールドカップ、コモンウェルスゲームズ(英連邦に所属する国、地域の選手が参加)など、国際スポーツ大会の開催にあわせて、それぞれ地元の団体により、自発的に立ち上げられてきました。 さらに大きなスポーツとLGBTに関するムーブメントは、2014年のソチ冬季五輪でした。大会直前に同性愛宣伝禁止法を制定したロシアを非難し、先進諸国の首脳陣の多くが開会式を欠席したのです。世界中のLGBT関連団体が企業や市民を巻き込み連帯する中、「プライドハウス」の過去の主催団体と今後立ち上げを目指す団体が手を取り、「プライドハウス・インターナショナル」というネットワークも生まれることとなりました。「プライドハウス」設置への苦闘 そして同年、国際オリンピック委員会(IOC)がオリンピック憲章を改定し、「根本原則」第6項において「性別および性的指向」に関する差別禁止を表明したのも、これら一連のソチ冬季五輪期間に行われたさまざまな活動が大きな契機となってのことでした。 私が初めて「プライドハウス」と出会ったのは、2015年夏にカナダで開かれた「プライドハウス・インターナショナル」の会合でした。パンアメリカン大会(南北アメリカ大陸の各国が参加)に合わせ、トロントのLGBTセンター「The 519」が期間限定で「プライドハウス」となり、2016年のリオ五輪、2018年の平昌冬季五輪での設立を目指すチームも参加しました。 私が代表を務めるLGBTの支援団体「グッド・エイジング・エールズ」が、シェアハウス、カフェ、街のステーションなどの企画運営、職場づくりのカンファレンスやランニングイベントの開催をしていたこともあり、2020年の東京五輪に向け、日本での「プライドハウス」立ち上げを勧められました。 会合では、「プライドハウス」の過去の取り組みや課題、実施に至るまでのノウハウがシェアされると同時に、各国各地の地域性・独自性を活かしながら、いかに持続可能な取り組みとして、その都度、バトンを渡していくことができるかについて議論されました。 また、直近のリオ五輪、平昌五輪、そして2020年東京五輪での「プライドハウス」においては、施設としての大小や形にとらわれず、ホスピタリティ、情報発信、自由参加可能なスポーツ企画、教育プログラムという4つの機能の実現を目標にしたい、という緩やかな意志の共有もありました。 個人的には、ブラジルから参加したジェフ・ソウザさん、韓国から参加したキャンディー・ダリム・ユンさんとは意気投合し、「お互いのプライドハウス実現をサポートし合おう!」と誓い、トロント以降も連絡を取り合う仲となりました。昨年のリオデジャネイロ五輪で設置されたLGBTの拠点「プライドハウス」で写真に納まる松中権さん(右)(筆者提供) そして2016年夏、仕事の関係でリオに滞在していた私は、五輪開催に合わせてジェフさんたちが立ち上げた「プライドハウス」のオープニングイベントに参加しました。その際、ジェフさんから、国外に発信されるブラジルの陽気なプライドパレードのイメージとは裏腹に、国内でのLGBTなどへの政府や自治体や企業のスタンスは非常にドライだと聞きました。最終的にどこからもサポートを得られず、「プライドハウス」はトランスジェンダー女性のシェルターの一部を借りて実施するなど、苦労が多かったようです。東京五輪が集大成になる とはいえ、リオ五輪では「カミングアウトしたオリンピアンが過去最大数」「試合後に同性カップルのプロポーズ」など、明るいニュースが報道されました。ただ、現在も年間数百人のトランスジェンダー女性がヘイトクライムで殺害されているなど、ブラジルのLGBTの実情についてはほとんど語られることがなかったのも現実です。 こうした流れの中で開かれた平昌五輪は、キャンディーさんをはじめとする韓国チームが、五輪に向けて、いくつもの取り組みを実施してきました。あまり報道されていませんが、平昌五輪の倫理憲章に記された、LGBTなどのコミュニティーへの差別禁止条項の周知や、期間中の差別被害のモニタリング機能を果たすことを宣言したほか、具体的な被害状況を寄せられる通報フォームも立ち上げました。 また、「正しい表現や単語を使う」「存在を居ないことにしない」「HIV/AIDSの正確な情報を提供する」など、オリンピック史上初めて、LGBTなどに関するメディア向けの表現ガイドラインの提供も行っています。 その一方で、韓国ではキリスト教信者や保守層のLGBTなどに対する根強い抵抗によるコミュニティーとの衝突もあります。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が選挙前に「同性愛に反対」と発言したことへの抗議活動で逮捕者も出ており、国内で強力な支援体制を得ることができず、本格的な「プライドハウス」の設置には至りませんでした。左からプライドハウスインターナショナルのケフ・セネットさん、韓国プライドハウス担当のキャンディーさん、松中権さん(筆者提供) そして迎える2020年東京五輪はどうでしょうか。世界各国で相次ぐ同性婚の合法化の流れ、IOCによるトランスジェンダー選手の参加条件の明確化など、国内外を合わせてもLGBTなどに関する社会的関心が高まっており、集大成の時期になると言えるでしょう。 だからこそ、日本でも設立を目指す「プライドハウス」は、専門家や企業、自治体、教育機関、メディアなど、より多くの機関が関わっていくべきだと考えています。差別や偏見を具体的に取り除き、来場者に「安心」をいかに提供できるか。実際に起こっている被害をキャッチし、当事者を守り、いかに「救済」することができるか。そして、社会が性に関する多様性を受け止め、いかに多くの人が互いを「祝祭」し、リスペクトしあえる場を作りあげることができるかが重要です。 これらの役割を担える「プライドハウス」を模索しつつ、組織委員会と連携し当事者選手に向けた取り組みだけでなく、五輪後も形を変えて機能を継承していけるよう、みなさんとともに議論し、実現していきたいと考えています。 先日、東京都議会での一般質問を受けて、東京都としてオリンピック憲章の理念に基づく条例を制定する動きが出てきたというニュースが飛び込んできました。単なる理念条例にとどまることなく、LGBTなどに関する担当部署の設置を視野に入れ、2018年度内の成立を目指すようです。こうした2020年東京五輪に向けた動きを生かしていくことが、私たちの使命だと考えています。

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    「フェアな東京五輪」への道は甘くない

    鈴木知幸(国士舘大客員教授、元16年東京五輪招致推進担当課長) 「2017年版オリンピック憲章(JOC日本語版)」のオリンピズム根本原則には、「すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる」とうたわれている。この「いかなる種類の差別」とは「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会のルーツ、財産、出自やその他の身分などの理由」と個別的に列挙されている。 この差別禁止事項は、2003年版の憲章まで「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく…」とだけ書かれていて、個別事例は列記されていなかった。しかし、2004年版から「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別」と、初めて4つの個別事例が書き込まれるようになった。 その後、2014年2月に、ソチで行われた冬季五輪の開会式において、前年成立したロシアの「反LGBT法(反同性愛法)」は人権侵害だとして反発した米、英、仏、独など欧米諸国の要人が開会式を欠席したことで世界が注目した。だが、日本の安倍晋三首相はプーチン大統領に配慮して出席しており、日本は人権問題への意識が低いのではないかとの批判もあった。2014年2月、ソチ冬季五輪の開会式に出席した安倍晋三首相(中央、代表撮影) これを機に、2014年12月の国際オリンピック委員会(IOC)総会において、事前にIOCが提言していた「オリンピック・アジェンダ2020」を踏まえて、憲章の「いかなる種類の差別」の中に、「性的指向(Sexual Orientation)」が書き加えられたのである。その憲章改正を受けて、2020年の東京五輪・パラリンピックの大会基本計画にも多様性を認め合う対象として、性的指向が明記されている。 したがって、東京都がダイバーシティ(多様性)を表明しているなら、東京五輪の開閉会式で、ロンドン五輪と同じくLGBTなどの性的少数者の権利をテーマの一つに加え、日本も積極的に取り組んでいることを世界にアピールしてほしいと願う関係者は多いはずである。その上で、このテーマを具現化するためには、大会中ではカミングアウトした人々だけでなく、すべての参加者が、相互理解のもと安心して使用できる更衣室、トイレ、宿泊機能などの整備を推進するとともに、それを保証する法整備や制度設計を整えることは言うまでもない。パラリンピックで浮上する異論 もちろん、大会開催中に該当者の利便性を確保するだけで終わってはならない。大会後に日本国民がLGBTの権利を理解し支持するようダイバーシティへの啓発を進めて、社会的レガシーにしていくことこそが、五輪開催の意義の一つとして評価されることになるだろう。2017年7月、LGBT自治体議員連盟を発足させた東京都豊島区の石川大我区議(左端)ら地方議員 憲章における「差別禁止」は、五輪の大会運営全般に差別があってはならないという趣旨だ。さらに、前述した「フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる」とは、競技者同士が公平性について相互理解することが、スポーツのフェアプレーであると解することができる。 IOCと国際競技団体(IF)は、五輪競技者の公平な参加条件を定めるために、さまざまなアンチ・フェアネスと戦ってきた歴史・経緯がある。特に、アンチ・ドーピングは五輪の公平性を守る戦いそのものだと言っても過言ではない。 もともと、ドーピングは競技者の健康・生命を守ることで取り締まりを始めたが、すぐに健康を害しないドーピングが現れた。現在は、薬物などによる競技能力の操作は、インテグリティ(高潔性、正義)に反するとして厳格に対処しているところである。しかし、すでにゲノム編集による遺伝子ドーピングなど、先天的に優位性を操作できる懸念にまで及んでおり、ドーピングのアンフェア排除の限界説までささやかれ始めている。 また、両足義足のパラリンピック選手が五輪種目に出場を希望したときには、義足の反発力が走力を高めているとして出場が拒否された問題も公平性が争点になり、現在も続いている。なお、パラリンピックは、国際パラリンピック委員会(IPC)が、競技の価値として「公平(Equality)」を挙げており、「多様性を認め、創意工夫をすれば誰もが同じスタートラインに立てる」とアピールしている。その公平性の確保のためにIPCは、パラリンピック競技を身体機能別に細かく区分し、種目数(メダル数)を大幅に増やす創意工夫をしている。例えば、東京パラリンピックでは22競技537種目まで区分されているのである。 したがって、身体機能の区分に異論を訴えられた事例はあるが、男女の所属判定に翻弄されたケースは、まだ表面化していない。ただ、近年のパラリンピックは競技レベルが向上し、メダル合戦も熾烈(しれつ)になりつつあり、いずれ五輪のような男女区分にも異論が出てくることは否めない。メダル争奪戦の弊害 一方、五輪競技は、男性と女性(混合は男女一緒という意味)の区分しかできず、東京五輪の場合は、33競技を男子、女子、混合の339種目に区分してメダルを設定している。このため、競技性の公平性を厳密に確保しようとすれば、男女の区分へ異論が集中することは必然である。 現在の五輪は、近代オリンピック創設者のクーベルタン男爵が「オリンピックは参加することに意義がある」と言っていた時代ではない。賛否は別にして、1分1秒を厳しく争う国家ぐるみのメダル争奪戦になっており、競技者はメダル獲得によって人生が激変する時代である。だからこそ、勝つためにはどのような不公平も許せないことは競技者共通の思いであり、IOCも公平性確保を厳格化しているのである。皮肉にも、健常者がパラリンピック選手と同様のハンディを設定すれば、パラリンピックに出場できるのかという反論もあり、これではパラリンピック大会の存在意義さえ問われかねない。 その他には、競技ルールの変更や競技器具の開発制限、イスラム教下での女性スポーツ制限など、競技の公平性にかかわる問題は枚挙にいとまがない。したがって、あらゆるスポーツ競技者が、相互理解を踏まえて公平な条件でスタートラインに着くということは、そう簡単なことではないのである。2016年8月、リオデジャネイロ五輪の陸上女子800メートルで優勝した南アフリカのキャスター・セメンヤ(中央、桐山弘太撮影) 憲章で差別が禁止されている性的指向の中で、スポーツ競技力に大きな影響を及ぼすのは、LGBTのトランスジェンダーと、両性具有者である。 特に、生物学的な男女の運動能力的な差異は、陸上競技の短中距離や投擲(とうてき)競技のように、走力、重量対応力、瞬発力などによるパフォーマンス差に大きく表れる。その影響は男性ホルモン量に最も起因するといわれている。そのため、サッカーのようなチーム競技やスキルが中心の競技ではなく、個人の身体能力をシンプルに競い合う陸上競技などの成績において顕著に表れるのである。とりわけ、競技力の公平性の議論に一石を投じたのが、両性具有と診断された陸上中距離のキャスター・セメンヤ選手(南アフリカ)である。セメンヤ選手に対しては、さまざまな擁護と反発の見解がある。 擁護する見解には、オリンピズムにおいて最も守らなければならない根本原則は「スポーツをすることは人権の一つ」であり、先天的な有意差をとがめてホルモン調整を強要したり、競技条件を厳しくして排除することは、人権無視も甚だしいという理由による意見が多い。「旧優生保護法」への懸念 一方、現に五輪競技が男性種目と女性種目に区分されていることは、競技能力を区別することであって差別ではない。したがって、公平な条件でスタートラインに立つことを保証するために、ホルモン調整などさまざまなコントロールを参加条件にすべきである。それを怠れば明らかに逆差別となり、新たな不公平を生むという見解である。その懸念が表れたのが、リオデジャネイロ五輪で、セメンヤ選手が女子800メートル走で驚異的な記録で優勝したときである。その時に2位以下の選手から異論が噴出したことは察するに余りある。 もちろん、IOC、国際陸上競技連盟(IAAF)、スポーツ仲裁裁判所(CAS)とも静観したり、手をこまねいていたわけではない。苦慮したうえでそれぞれの判断を下しているのである。特にIOCは、現在のところ、男性選手が女性選手として出場する場合には、性別適合手術を受けていなくても、性自認が女性であることを宣言して4年間変更しないこと、および、テストステロン値(男性ホルモンの一種)が、過去12カ月の間一定レベルを下回っていることを証明することとしている。しかし、この現行案でも、すべての参加者に相互理解が及ぶことは程遠く、不可能に近い。 だからこそ、東京五輪におけるLGBT対応は、大会中にすべての人々が快適に五輪を享受できるよう、行動や生活などすべてのバリアフリーを徹底することが前提となる。実際に、東京都はLGBTを担当する部署の立ち上げをようやく表明した。4月から担当課長を置いて、五輪憲章の理念に沿った条例の制定を目指すという。また、大会組織委員会も十分な対策を検討しているところである。2017年10月、東京五輪の開幕まで1000日となり、カウントダウンボードをお披露目。小池百合子東京都知事(後列左から3人目)もイベントに参加した その上で日本が、世界に向けてさまざまな人権問題に取り組み、その制度設計や法改正を進めていくというメッセージを発信する必要がある。ただその際に、個人的に懸念しているのが「旧優生保護法」への対策である。日本では現在、旧優生保護法に基づき不妊手術を受けた被害者に対する救済処置を巡って議論が続いている。もし、この現状を放置したまま、東京五輪でLGBTの積極的な救済を訴えても、国民も世界からも懐疑的に見られる懸念を拭い去れない。 何より、大会後の継続が最も重要であり、日本国民が2年後の東京五輪におけるLGBT対応への理解を通じて、ダイバーシティ社会の構築が加速され、未来に向けた社会的レガシーになっていくことを期待したい。その一方で、五輪の持続可能性には、スポーツ競技の公平性を絶対的価値として維持していくことが重要であることも共有すべきである。 憲章を通じて、いかなる差別も廃止する根本原則と、スポーツの本質である競技の公平性には、どうしても二律背反に陥るところが生じてくる。IOCはその現実を認めつつも、個人の尊厳と競技の公平性を両立していく議論を続けてほしいと願うばかりである。

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    ゲイプライドパレードがニューヨーカーたちにとって特別な理由

    田村明子(ジャーナリスト) 6月25日の良く晴れ上がった日曜日、マンハッタンで今年も恒例のゲイプライドパレードが開催された。毎年6月の最終日曜日に開催されるこのパレード、現在では「NYC Pride March」が正式名。LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クイア)プライドパレードとも呼ばれている。 ニューヨーカーはパレードが大好きで、ハロウィーンや感謝祭のような派手なものばかりではないが、1年中毎月どこかで必ずパレードをやっている。その種類もさまざまだ。2017年6月、ニューヨークで行われたLGBTの権利と尊厳を訴えるパレードで「われわれは抗議する」との横断幕を持って行進する参加者(AP=共同) 3月のアイルランド系のお祭りSt. Patrick’s Day Paradeや、6月のThe National Puerto Rican Day Paradeのように、移民の祖国の文化を祝うパレード。 夏の終わりを次げる9月の始めのLabor’s Day Paradeや、退役軍人に捧げる11月のVeteran’s Day Paradeのように、国民の祝日に行われるイベントパレード。ブルックリンのコニーアイランドで行われる、夏の始まりを宣言するMermaid Parade(人魚の仮装をした人々が集まる)のようにユニークなものもある。 とはいえこのゲイプライドパレードは、ニューヨーカーにとって別格の、特別なイベントと言える。 そもそもこのパレードがはじまるきっかけとなったのが、1969年にニューヨークで起きた事件だったからだ。 今のニューヨークにとってゲイカルチャーは、欠かせないコミュニティの一部である。LGBTQの人々はごく自然に社会にとけこみ、大都会のニューヨークで伸び伸びと生きている。だがここに至るまで、先人たちの長い戦いがあった。 19世紀後半から、ニューヨークにはすでにゲイコミュニティができていたそうだ。 だがアメリカでは、近代まで同性愛行為はfelony(重罪)だったことをご存知だろうか。俗に言う、ソドミー法である。(正確に言うなら、同性間だけではなく、生殖につながらない「不自然」な性行為を禁じる法律) 保守的な田舎から自由な空気を求めてニューヨークに人々が集まってくるのは、昔も今も変わっていない。筆者も20代の頃に、ノースカロライナでしばらく通った高校の上級生にマンハッタンで偶然行き会い、彼女が実はレズビアンで故郷に居場所がなく、ニューヨークに移住したという告白を聞いたことがある。 60年代には、ウェストビレッジにいくつかゲイバーが出現した。だが正式なアルコール類販売ライセンスを持たずに営業していたところもあり、定期的に警察の踏み込み調査を受けて、逮捕者も出していたという。 その一方、1967年にはコロンビア大学が全米の大学で初めて、生徒が結成したゲイ団体を公認するなど、徐々にリベラルな空気が社会に広がっていた時期である。 1969年6月28日、クリストファーストリートにあったゲイバー、ストーンウォールインで、恒例の警察の手入れが行われた。だがこの日は差別されることに飽いていたゲイの人々は怒りを爆発させて警官に立ち向かい、3日間暴動が続いたのだという。 英語でStonewall Riots, 日本語ではストーンウォールの反乱と呼ばれているこの事件。2015年に映画化もされたので、知っている人も多いだろう。 その1年後、ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスとサンフランシスコの4都市で、ストーンウォール事件の一周年を記念した初のゲイプライドパレードが開催されたのだという。ゲイの人々の市民権「獲得のための」戦い ストーンウォール事件をきっかけとして、同性愛を違法とするのは差別だという世論が徐々に高まり、ゲイの人権を訴える活動団体が次々と結成されていった。 それでもニューヨークでソドミー法が正式に廃止されたのは、なんと1980年とごく最近のことだから、驚いてしまう。(ちなみにアメリカ全体ではまだアラバマ、フロリダなどまだソドミー法が存在している州もあるが、2003年に合衆国最高裁がこの法の取り締まりは現実的には「プライバシーの侵害」であり、違憲とする判決を下した) 1981年にはHIV/AIDSがゲイ社会を中心に広がって人々を脅かし、再びゲイ社会受難の時期がはじまった。著者の知り合いのゲイの男性の中には、未だにHIVウィールスはFBIがゲイ撲滅のために開発し、広めたものだと信じて疑っていない人もいる。 真偽のほどはともかくも、ゲイの人々にとってこの陰謀説が真剣に受け止められるほど、彼らはオーソリティから差別を受け迫害を受けてきたということに違いない。 2002年にようやく、Sexual Orientation Non-Discrimination Act(ゲイ差別撤廃法案)がニューヨーク州議会で可決され、ジョージ・パタキ州知事が署名した。性的指向を理由に、住居、職場など公的な場所で差別を禁じることが、ようやく法として成立されたのである。 そしてストーンウォールの反乱から42年後の2011年6月、アンドリュー・クオモ州知事が同性婚を合法化させた。これまで日陰者扱いされてきたゲイカップルたちが、公然と市庁舎に行って婚姻届を出すことができるようになったのだ。 筆者がニューヨークに移住した1980年、ゲイの人々はすでに社会のあらゆる分野で活躍し、男性の4人に1人はゲイと言われていたほどメジャーな存在だった。だがくったくなく底抜けに明るく振舞うその裏で、彼らは毅然と差別と戦い続けてきたのである。こうして勝ち取った権利を誇り、同時にエイズで亡くなった友人たちを追悼するイベントが、このゲイプライドパレードの真髄なのだ。2016年6月、ニューヨークのLGBTパレードに参加するヒラリー・クリントン元国務長官の支持者ら 現在のアメリカは、トランプ政権が医療保険や公立教育機関など、一般市民の基本的権利をあらゆる角度から崩壊させようと試みている。人種間の対立も表面化し、かつてないほどヘイトクライムも横行するようになった。 そんな世相の中で、今年のゲイパレードは、ニューヨーカーにとってゲイの人々だけではなく、市民全体の自由を守る象徴でもあった。 ゲイではない一般のカップルや家族連れ、スポンサーとなった各種の企業団体、黒人、アジア人、ヒスパニック系など多くのマイノリティグループもパレードに参加して、LGBTQの象徴である虹色の旗を振る姿が通りを埋め尽くした。 その発端の舞台となったストーンウォールインは現在改装されて再営業しており、その前にある小さな公園は、1年前の2016年6月オバマ大統領によって国立モニュメントに指定された。

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    中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化

     中国で「LGBT」と呼ばれる性的少数者=L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)が7000万人に達していることが明らかになった。 これはイギリスの人口を上回る規模で、その年間消費額も4700億ドル(約53兆円)と推計されているが、中国ではLGBTを蔑視する傾向が強いことから、海外での挙式に関心を示しており、潜在的に大きな市場として海外の旅行業界などが開拓に乗り出している。米タイム誌などが報じた。 中国の同性愛者向け出会い系アプリ「Blued」の最高経営責任者(CEO)・耿楽氏によると、Bluedは世界で最大級の同性愛者向けアプリでユーザー数は1500万人にのぼる。 彼ら(彼女ら)は社会的なステータスが高い層が多く、平均月収は約1万元(約16万円)と全国の労働者の平均月収の5倍にも達しており、可処分所得が高くブランドモノを好む傾向が強いという。 これは大半のLGBTに子供がいないことが大きな原因だとみられる。 欧州や米国に次いで世界3位のLGBT人口を抱える中国が大きな市場として観光業者の関心を集めている。これは日本のみならず、欧米諸国も同じで、中国のLGBTを自国に取り込もうと躍起になっているというほどだ。 これは、中国内でのLGBTにはまだ市民権が与えられていないことも大きな原因だ。 「同性愛に治療は必要ない」と書かれたプラカードを掲げ、LGBTの人権擁護を訴える人々=北京(AP) 中国では同性愛行為者が罪に問われた時代が長く続いていた。それが、違法ではなくなったのは1997年で、LGBTがタブー視されていない香港が同年7月、中国に返還されたためだとみられる。 その後、2001年からLGBTは精神疾患リストからも外されたが、一般的にはまだまだ認められていない。 ネット上では、同性愛者が「ハワイで結婚式を挙げた」などという書き込みに対して嫌悪感を表明する意見も少なくない。 日本でも同じような傾向はみられるが、中国の場合はこれまで一人っ子政策が適用されていたことから、「子供がいないのは罪悪」という感情がより強く、「一人っ子の男性の場合は『偽装結婚』をして、子供を作ってから、安心して同性愛にのめり込むという傾向が中国では強い」(香港紙「リンゴ日報」)とも報じられている。関連記事■ 同性愛者がなぜ必ずクラスに1人いるのかという謎に迫った本■ 米の性調査 同性愛者比率は60年前からほぼ変わっていない■ 中国大都市圏で同性愛エイズ患者拡大 一人っ子政策の影響も■ 聖火リレーに同性愛者象徴旗持つ男が乱入しプーチン怒り心頭■ 中国・周恩来元首相に同性愛説広まるも国内では反発の声

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    私は「同性カップルに育てられる子どもがかわいそう」とは思わない

    藤めぐみ(レインボーフォスターケア代表理事) この4月、大阪市の男性カップルが里親に認定され、子どもを育てているというニュースが各種メディアで何度も流れた。関西地域では新聞の一面に大きく取り上げられるなど、全国のほとんどの新聞やテレビで報道された。そしてまた、ネット上では多様な意見があふれた。 私は2013年に任意団体「レインボーフォスターケア」(2015年一般社団法人化、以下「RFC」)を設立した。「同性カップルも里親に」をミッションに掲げて講演会やロビーイングを続けてきたが、今回の報道に対して実はかなり戸惑った。というのも、これまで同テーマに対する人々の反応が薄かったため、これほど大きく取り上げられるとは思わなかったからだ。 近年、LGBTをめぐるさまざまな取り組みは大きな進展を見せている。しかし、今回報道された「同性カップルと里親制度」については、多くの人から関心を持ってもらえなかった。そもそも、児童養護施設や里親制度といった「社会的養護」自体に世間の関心は低く、ある人からは「『同性カップルと社会的養護』ですか。マイノリティーとマイノリティーの話で、『超マイナー』な感じですね」などと言われた。 このように「同性カップルが里親になるなんて、しょせん『超マイナー』な話、到底実現できるわけがない」と世間が思っていた中で、それが実現したからこそ、このような大きな関心を集めたのかもしれない。 なぜ、同性カップルが里親になることが「実現できるわけがない」と思われてきたのか。それは、里親制度があまり知られておらず、養子縁組と混同されることもあり、「同性カップルは『法律上』里親になれない」と思われてきたからだ。要保護児童(保護者のいない児童)のための制度としては、「特別養子縁組」があるが、縁組をするには法律上夫婦でなければならず、民法の改正が必要だ。 しかし、里親制度は、子どもと里親の間に法律上の親子関係を作り出すものではなく、里親になれる人は夫婦である必要もない。実際、私の知人には「成人した娘とその母」で里親になった人もいれば、単身者で里親をしている人もいる。里親制度は「一定期間、お子さんをお預かりする」といった表現をされることもあり、かなり「緩やかな子育て」が行われている。 ところが、RFCの設立以来、「役所に問い合わせたが『(男性と)結婚してから電話してきて』といわれた」という女性カップルや、「偏見にあふれた言葉を口にされた」というゲイ男性の声が寄せられ、「事実上同性カップルは里親にはなりにくい」ことがわかってきた。自治体職員が法律を勘違いしている、あるいは、偏見に満ちあふれていて否定的なことを口にしていたためだ。同時に、自治体職員が勘違いしているということは、里親のなり手である同性カップルもまた、「里親になれない」と思い込んでいると予想された。私はこのような間違った情報や対応によって、里親の人的資源が非常に残念な形で失われていると危機感を覚えた。 今回、同性カップルが里親認定され、子育てをしていることが報道されたことで、このような「断られた」「なれないと思っていた」という状況が各地で起こっていたことが次々と判明しており、4月17日付の北海道新聞では、同性カップルの「私たちは里親になれないと思っていた」の声や法律婚でないと駄目と断られた事例を紹介している。 私は前記のような間違った情報や対応、思い込みといった状況を改善する有効な手段は、まずは自治体から「同性カップルも里親になれる」ということをアナウンスしてもらうことだと思った。認定側である自治体が発信すれば、双方の誤解が解け、同時にマイノリティーも里親の人材として歓迎する、という自治体のメッセージにもなる。そこで、RFCは2015年に大阪市の職員と意見交換を行った。その結果、大阪市の「里親として適任者であれば、差別や偏見でもってLGBT当事者を排除することは絶対にない」というメッセージが淀川区の広報誌に掲載されることとなった。今回報道されたカップルはこのメッセージに応じた形で里親申請を行ったのだ。子どもが欲しいはエゴか 過去には、女性カップルが単身者として同時に里親認定を受けたような例があると聞いているが、今回は自治体がアナウンスし、同性カップルである二人を一つの「世帯」として認定したことが大きなインパクトとなったと感じている。今回、同性カップルが里親認定を受け、子どもを委託されたことは「法律上可能なことが当たり前に可能になった」ということである。 大阪市の吉村洋文市長の言うように「(こうしたことが)ニュースにならないのが在るべき社会だと思う」という言葉が印象的で、「当たり前」に近づく一歩だと感じた。 一方で、ネット上には否定的な意見も見られた。 その一つが「里親制度は子どもの制度。子どもがほしい大人の制度ではない。勘違いしないでほしい」「子どもがほしい大人のエゴだ」といった意見だ。誰に対して「勘違いするな」なのか不明だが、里親制度は子どもたちのための制度であることは間違いない。今回の里親当事者も「『子どもがほしい』大人のための制度ではなく、子どものために『育つ家庭』を用意する、子ども中心の制度です」と述べている。 ただ、現実的に「里親になりたい」大人=「子どもがほしい」大人であることが多いのは事実だ。私のところにも「子どもがほしいんです」という同性カップルの問い合わせが入ることがある(まずは制度を知ってほしいので、社会的養護に関するサイトを紹介したり、勉強会の案内を送るようにしている)。 私は、そういった「子どもがほしい」という動機について、「エゴだ!」と毛嫌いしなくてもいいのではないかと感じている。なぜなら、「子どもがほしい」ということを入り口として、そこから里親制度、社会的養護の現実について学んでいく人が多いからだ。実際に、自治体が行う「里親説明会」に参加する人の大半は「不妊治療をしていたが子どもを授からなかった夫婦」である。テレビ番組で取り上げられる里親も、「子どもができなかったので」というのが最初の動機であると語っていることが多い。 そうした動機で制度に興味を持った大人たちが、里親研修を受け、認定をめざすことになるのだが、里親に認定されるまでの道のりはとても長い。座学の研修、施設の見学や実習、面談などを経て、最後に児童福祉審議会において、その人が里親として適切かどうかが審議される。仕事の休みをやりくりしながら研修に参加する場合、およそ1年の歳月がかかる。 たとえ「子どもがほしい大人のための里親制度」と「勘違い」していた大人がいても、研修の中で「子どものための制度」ということを何度も教えられる。早い段階で「考えていた制度と違った」と、あきらめる人もいれば、社会的養護の現実を知ったうえで「ぜひ子どもたちのために里親になりたい」と考えを変える人もいる。ゆえに、私はことさら「子どものための制度ということを知っているのか」と目くじらを立てる必要はないと思っている。 さらに、報道の反応を見ながら感じたことは、「異性カップルの里親」と「同性カップルの里親」に対しての反応が不均衡だということだ。前述の通り、夫婦で里親の人が「不妊治療で授からず子どもがほしくて」と言ったところで、世間から「エゴだ」「勘違いするな」と言葉を浴びせられることはほとんどない。一方で、同性カップルとなると、途端にそういった言葉が飛び交う。私はそんな現実に対して、「それこそが差別的なのでは」と首をかしげる思いだった。「いじめ」の問題 ほかに、「同性カップルに育てられるなんて、子どもがかわいそう」という意見があったが、それは偏見と差別以外の何物でもない。親元で暮らせない子どもは、現在約4万5000人いる。《厚労省「社会的養護の現状について」(平成29年3月)参照》  その大半が児童養護施設で暮らしており、厚生労働省は「家庭的養護の推進」を掲げて、里親の増加に取り組んでいる。同時に、児童養護施設の小規模化など、環境改善もはかろうとしている。ただ、施設ごとに大きく環境が異なることや、性的マイノリティー児童の中には児童養護施設の集団生活が苦痛となる児童がいるなど(※注)、課題は山積している。児童養護施設の環境を改善していく取り組みと同時に、一つでも多くの里親家庭を増やし、子どもにとっての選択肢を増やすことは喫緊の課題である。 そのような状況の中で、今回の報道は、一人のお子さんに安心して過ごすことのできる家庭が用意されたという喜ばしいものである。「同性カップルに育てられるなんてかわいそう」と言い放つ人は、「嫌がる子どもが無理やり連れ去られた」と想像しているのだろうが、それはとんでもない間違いである。 なぜなら、里親認定を受け、委託の打診がなされた後、すぐに子どもが委託されるわけではないからだ。委託できるかどうか、慎重にマッチングが行われ、小さいお子さんであれば、半年くらいかけて、少しずつ家庭に慣れていく期間が設けられる。4月18日付朝日新聞によると、男性カップルの里親だと説明を受け「抵抗感なく納得していた」という10代男子と引き合わせ、3人は今年2月から仲良く暮らしているという。 と報じられている。お子さんが納得したうえでの委託となっているのである。 「いじめられるからかわいそう」という声もあった。確かに「絶対にいじめられない」とは言い切れないだろう。 イギリスの『Proud Parents』という本には、同性カップルとその里子のインタビューが収められている。同性カップルの里子、ウィル君(17歳)へのインタビューで、「(里親が同性カップルということで)嫌がらせはあった?」と聞くと、彼は「あった」と答えている。以下が、彼のセリフだ。 「生徒たちが、僕がゲイカップルの里親と暮らしていることに気がついたんだ。彼らは僕をからかい、それは学校中に広がった。マークとキーラン(彼の里親)は学校に話をし、このこと(からかわれたこと)について連絡した。その後、その件は落ち着いた。最初にからかった生徒は注意を受けたよ」 彼のセリフから、彼の里親や通う学校が、いじめにきちんと対応していることがわかる。 ウィル君は、以前男女夫婦の里親のところにいたが、彼にとっては今のゲイカップルの里親のほうが自分に合うのだという。以前の里親が合わなかった理由は、「里親の小言が多くって、しかも田舎だったんだよね」だそうで、私はこのセリフを読んで、なんとも若者らしい発言だなと思った。ウィル君は、今の里親と初めて海外旅行に行ったり、日々の生活を楽しんでいる様子を語り、「まるで息子のように接してくれて、家族のようだ」と語っている。 このインタビューは「いじめられるかもしれない」という理由のみで子どもが家庭で過ごすチャンスをつぶしてはいけない、ということを示唆している。また、いじめが起こったとき、子どもが親に自分がいじめられていることを言える環境や、親が学校にいじめについて話し、学校が適切に対応することがとても大切だということが伝わってくる。(※注)RFCは「児童養護施設における性的マイノリティー(LGBT)児童の対応に関する調査」を実施した。集団生活になじめない性的マイノリティー児童の存在が明らかになっている。イデオロギーは関係ない ここで、「いじめ」の本質から「同性カップルの子どもはいじめられるからかわいそう」という意見について考えてみたい。 いじめというのは「マイノリティー性をあげつらう行為」だ。実際に、児童養護施設の子どもや、里親家庭の子どもがいじめにあっているという声を聞く。集団でいじめが行われるとき、子どもたちはそのターゲットの子どものマイノリティー性を見つけ出す。それは「めがね」でも、「デブ」でも、「金持ち」でも、「貧乏」でもいい。いじめのターゲットとなったマイノリティー性は、なんでも「からかい」の言葉に変わりうるのだ。そうだとすると、「●●だといじめられるよ」という言葉自体がいじめに近い言葉なのではないだろうか。「かわいそう」と言い放つ前に、自分自身が誰かのマイノリティー性をあげつらっているのではないか立ち止まって考えてほしい。 私は以前、知人から「同性カップルの里子なんてかわいそうだ。そんな人に育てられるよりも施設で暮らせばいい」と言われたことがある。施設がどういうところか知っているかと聞くと「知らない」と彼女は言った。性的マイノリティーの人に会ったことがあるかと聞くと「会ったことがない」と返ってきた。「AよりもB」と述べる人が「AもBも知らない」と答える姿に私は驚愕した。結局、「かわいそう」と言い放つ人は、子どもたちの状況を何も知らず、知ろうともしていないのではないだろうか。今回の報道を聞いて「かわいそう」と言う人は、ぜひ社会的養護についてもっと関心を持ってほしい。報道のような養育里親だけでなく、季節里親、週末里親、児童養護施設ボランティアなど、大人が子どもと関わる方法はたくさんある。ネット上に「かわいそう」と書き込んだ後、今回の報道を忘れずに、ぜひ社会的養護への関心を深めてほしいと私は願っている。 また、RFCの活動を続ける中で、さまざまな政治家と話をして、非常に興味深いと思ったことがある。それは、今回の報道に関して、政治家のイデオロギー面での思想と、同性カップルの里親認定に対する賛否が一致しなかったことだ。つまり、「保守=同性里親反対」「リベラル=同性里親賛成」というような形では、意見がわかれなかったのだ。 今回の塩崎恭久厚労相の発言のように「子どものための家庭を増やすことだからいいことだ」と応援してくれる保守層の方もいれば、「実現性も低ければ、優先順位も低い」と相手にしてくれないリベラル層の方もいた。塩崎恭久厚労相=4月7日、国会(斎藤良雄撮影) 今回の報道に関して、塩崎氏は「同性カップルでも男女のカップルでも、子どもが安定した家庭でしっかり育つことが大事で、それが達成されれば、われわれとしてはありがたい」と述べている。 私は常に「子どもたちのため、一つでも多くの里親家庭を増やそうとしている中で、マイノリティーへの無理解や偏見がその妨げになっている。そのような構造を変えたい」と訴えてきた。 今回の報道に関し、ネット上では「子どものためならいいがLGBTの人権推進なら反対」という意見も見かけたが、そのような「どちらの人権の問題なのか?」といった無意味な議論を行うのはやめにしよう。 「マイノリティーへの偏見に固執しているうちに、他の誰かのチャンスを摘み取ること」は、「同性カップルと里親」の問題以外にも起こりうることではないだろうか。今一度、社会の課題を振り返り、同じような問題が起こっていないか、皆で考えるきっかけにしてほしいと私は願っている。

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    子供の幸せを奪う同性カップルの「里親」などもってのほか!

    小坂実(日本政策研究センター研究部長)  今年4月、「男性カップル 里親に」という新聞の見出しを見て驚愕(きょうがく)した。虐待などで親と一緒に暮らせない子供を育てる「養育里親」に、なんと大阪市が30代と40代の男性カップルを認定したというのである。4月6日付の東京新聞はこう報じている。 「2人は2月から、市側に委託された十代の男の子を預かっている。厚生労働省は『同性カップルを認定した事例はない』としており、全国初とみられる。/社会が多様化する中、市は2人の里親制度への理解、経済的な安定など生活状況を詳細に調査した上で認定した。/自治体によっては、同性カップルを男女の結婚に相当する関係と認める動きもあるが、里親は夫婦や個人が認定されており、同性カップルに対し慎重な意見もある」 吉村洋文大阪市長は「LGBT(性的少数者)のカップルでは子育てができないのか。僕はそうは思わない。子どもの意思確認もした」とツイートし、市の判断の正当性をアピールした。だが、同市の判断には深刻な懸念を抱かざるを得ない。 というのも、同性カップルの里親認定には、「子供の福祉」の面で重大な疑問が拭えないからだ。論より証拠、同性婚が容認された米国では、同性カップルに育てられることが、子供に及ぼすさまざまな問題が専門家らの調査を通して指摘されている。※写真はイメージ 例えば、テキサス大オースティン校のマーク・レグニラス准教授による18~39歳の男女約3千人の調査だ。同性愛者の親に育てられた人は、結婚した男女の親に育てられた人に比べて、経済的、社会的、精神的問題を抱えている割合が高いことが分かった。 米カトリック大のポール・サリンズ教授が発表した研究結果では、4~17歳の同性カップルの子供は異性の親の子供に比べ、情緒・発達面で問題を抱える割合が2倍前後高いことが判明した(以上は森田清策・早川俊行編著『揺らぐ「結婚」』による)。 実際、同性愛などについての書き込みがあるブログ「ジャックの談話室」には、父母が揃った家庭に生まれ、両親の離婚後に同性カップル(レズビアン)の家庭で育つことになり、成人してから男性と結婚して子供を持った米国人女性たちの、次のような切実な証言も紹介されている。 「結婚して子供を持ってはじめて父親の役割がいかに重要であるか、また母親としての私の存在がいかにかけがえのないものであるかよく分かりました」 「初めて子供とその男親を持ったことは私にとって美しい、畏敬の念に打たれる経験でした。子供には父親と母親の両方が必要であるという信念がますます強まりました」深刻な「同性カップル家族」の認定 もちろん、これらの調査が今度の大阪市の事例に当てはまるということではない。ただ、こうした公開された知見がある以上、いかに里親が足りなかったとしても、同性カップルを里親に認定するのは、子供の福祉の観点から言って、甚だ軽率と考えざるを得ない。 養育里親は、18歳未満の子供を一時的に夫婦や個人が養育する児童福祉法上の制度で、里親認定の基準は、運営主体の都道府県や政令都市によって異なる。東京都は、同性カップルが里親になれない基準を設けているが、他の自治体には同性カップルを除外する規定はないと報道されている(4月16日付毎日新聞)。だが、以上のような知見を踏まえれば、それは同性カップルを容認しているからではなく、そもそも同性カップルを想定していないからだと考えるのが妥当であろう。※写真はイメージ とはいえ、問題はそれだけではない。同性カップルの里親認定の先には、同性カップルの特別養子縁組への参入、さらに同性婚の合法化が見据えられていることも指摘したい。 今回の大阪市の認定の背後には、一般社団法人「レインボーフォスターケア」の活動があったと言われている。事実、同団体の藤めぐみ代表理事はネットメディアBuzzFeedNewsで、最初に区長がLGBT施策に熱心だった淀川区に足を運んだことや、次に大阪市こども相談センター職員と2時間激論を交わしたことなど、実に興味深い「舞台裏」を語っている(「同性カップルの里親」はこうやって誕生した。立役者が語った「舞台裏」)。 見過ごせないのは、同団体の活動方針だ。同団体のホームページには、1 国や自治体に対して、里親・養親の候補として積極的にLGBTを受け入れるよう働きかけます。 とあるが、それに続いて、次のような方針が掲げられている。2 国に対して、特別養子縁組の養親に同性カップルが含まれるよう働きかけます。3 養子縁組あっせん団体に向けて、養親の候補としてLGBTを受け入れられるよう提案・連携をします。 要は、同性カップルの里親認定の先には、特別養子縁組の「養親」に道を開くという明確な目標があるわけだ。これは法律上の「同性カップル家族」を作ることを意味しており、同性カップルの里親認定とは比較にならない重大かつ深刻な意味を持つ。 先に触れたように、養育里親が18歳未満の子供を一時的に養育する制度であるのに対して、特別養子縁組は、養親との間に実の親子と同様の親子関係を成立させる民法上の制度だ。そのため民法第817条の3は、特別養子縁組については、「養親となる者は、配偶者のある者でなければならない」と定めている。この「配偶者」は、法的には「婚姻関係」にあるものに限られており、夫婦共同縁組が原則とされる。危うい大阪市の判断 つまり養育里親とは違い、特別養子縁組は法律上の親子関係を創設するものであり、結婚が条件となる。しかし、日本には同性婚の制度がないので、現状では同性カップルは特別養子縁組の養親にはなれない。同性カップルが特別養子縁組の養親となるには、民法第817条を改正するか、あるいは同性婚を合法化しなければならないわけだ。 いずれにしても、仮に同性カップルが特別養子縁組の養親になれるようになれば、法律に基づく「同性カップル家族」が誕生することとなる。これは「裏口からの同性婚」の容認ともいえ、そうなれば同性婚の合法化に向けた動きが加速するのは明らかだと思われる。 こう考えると、同性カップルの里親認定は、特別養子縁組の議論に進むための「呼び水」でもあり、同性カップルの特別養子縁組への参入は、同性婚合法化への「呼び水」と言うこともできるわけである。「子供の意思確認もした」などと言って、同性カップルへの養育里親を認定した大阪市の判断の「危うさ」は明らかではなかろうか。※写真イメージ  ちなみに、筆者は同性婚の合法化には反対である。同性婚の合法化によって、子供や社会の利益のための制度としての結婚は本質的な変質を余儀なくされるからだ。 長崎大の池谷和子准教授が指摘しているように、同性婚は結婚の定義から「子供の福祉」という視点を完全に抜き去ることで、一夫一婦制や貞操義務を弱め、親が生まれてくる子供を取捨選択する傾向を強め、男女の結婚や血縁に基づく家族の良さを強調できなくなるなど、結婚や家族の制度に重大な影響を及ぼすことが危惧される(月刊『正論』27年12月号)。 今回の大阪市の動きが、同性婚の合法化―つまり、結婚と家族という「子供の福祉」と「社会の持続可能性」を支える最も重要な社会制度の解体へ向けた「アリの一穴」とならないことを願うばかりである。

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    同性カップル里親制度を大学生427人に聞いてみたらこうなった

    のそれよりもさらに増大すると考えられるのではないだろうか。 話を学生アンケートに戻すが、男女の違いや性差別に終始した反対側の意見と類似した意見は賛成側からもいくつか上がったが、賛成側の意見の多くからは、人間がいかに柔軟で、多様な生き方を選ぶことのできる生き物であるかを再度考えることを重要視したものが多く見受けられた。ここに賛成側の共通意見もいくつか取り上げてみよう。「男同士の方が経済力があって子供によりよい教育を受けさせられる」「女同士はよくて男同士はよくないのは不平等だ」「異性愛者の親のなかには子供を虐待したり育児放棄したりする親がいる」「他人の目は気になるだろうが幸せを決めるのは他人じゃなくて自分たち」「友人にゲイの人がいるから彼らにも幸せになってほしい」「シングルマザーやシングルファーザーなど1人で子育てしている人たちだっている」「女性同士は連れ子が血縁関係だが、男性同士ならそのようなしがらみがない」「男同士だと子供を産むことができないので、より一層子供に愛情を注ぐはず」「LGBTを否定すること自体、今の時代の流れにそぐわない」 これら賛成側の学生の共通意見で最も多かったのは、「男性同性カップルのほうが経済的な余裕がある」とする意見だった。つまり、賛成側の「男性=経済力」と考える意見は解釈によっては、日本社会が依然「男性中心」であり、そこにおける女性の役割はあくまで従属的であると考えることができるだろう。こうした賛成側の意見からも分かるように、男性カップルの里親問題に対する若者の理解は深まりつつあるように思えるが、彼らの理解のうちにはいまだ「男性=経済力」といった、男性中心社会の価値観が根付いているのだ。 また、賛成者の大半が女子生徒であったのに対し、反対者の大多数が男子生徒であった結果を考えると、男性側の意識を変えていくことがいかに重要であるかが分かる。男性にこれまで期待されてきた性別的役割をいかに流動化し変えていくかが、今後男性同性カップルの里親問題の在り方を考えていく上で重要な課題となりそうだ。里親資格をてんびんにかけるな 筆者は最近、『週刊SPA!』の企画した「女性の専売特許を男性が体験する」特集に論者として参加した。子供の弁当を夫が作って幼稚園の送り迎えをしたり、結婚式で新婦が花束を投げる代わりに、新郎が友人男性に向かって投げる「ブロッコリー・トス」を行うことが日常風景となりつつある現代において、これまで女性だけに限定されてきた性役割を男性が「体験」することは、自分とは違う他者を発見し、理解する上で重要な経験であるに違いないと考える。 しかし、里親制度に関して言えることは、命を預かり育てるという大変重要な役目を担うわけで、「体験」することとはわけが違う。ペットの里親になることですら身辺調査や住宅訪問などさまざまな適性審査がある今日、人間の子供を育てる里親制度の審査基準が厳しく設けられることはあって然るべきである。 ただ、同性カップルであるという理由だけで審査基準を厳しくすることは絶対あってはならない。日本は先進国でありながら6人に1人の子どもが貧困や教育格差という現実に直面している。そんな中、里親資格を異性か同性かだけで、てんびんにかけている場合ではないことを、少子高齢社会に生きるわれわれ国民は自覚する必要があるのだ。 ここまで話してきたように、男性同性カップルの在り方を描いた映画作品や、そういった作品を目にすることで固定概念から解放された場所で彼らを優しく見守ることのできる若者が増える現代、「弱者」が「強者」よりも柔軟で多様性に富んでいることが可視化される動きはより一層広がりを増すに違いない。著書『フラジャイル―弱さからの出発』の中で編集者の松岡正剛氏が示唆しているように、権力を行使する「強者」はその権力を奪い取られることに恐れているだけのつまらない存在で、そんな強者たちからもろく生きることを強いられた「弱者」のほうがとてつもない力、未来の社会を変える力を内に秘めていると信じたい。 数週間前、書店で偶然目に留まり購入したマンガ本がある。鈴木有布子(作画)と北川恵海(原作)の作品『ちょっと今から仕事やめてくる』だ。日々の仕事に疲れ果てた新卒サラリーマンの青年は、駅のホームから身を投げて投身自殺を図ろうとするが、自分を理解してくれる同性の親友に命を救われ、最後は周囲からの批判を恐れることなく会社に自ら辞表を出す。 男性同性カップルであるがゆえに理不尽な批判を受ける方々には、批判を受けることはむしろ自分たちの存在を社会に示す好機であると考えてほしい。「批判を恐れていても何も先に進まない」。そう自分に言い聞かせながら、私は私で男性の新しい生き方を模索し続けたい。

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    同性婚合法化で苦慮するロシア政府

    010年に撤廃された(詳しくは以下を参照。「同性愛者の軍務禁止法の廃止」『外国の立法』2011年2月)。 このようにしてみれば、ドブルィニン議員の提案が決して前向きなものでないことは明らかであるし、従来からの「非伝統的な性的関係のプロパガンダの禁止」とも矛盾するものではない。むしろ、米国の連邦最高裁判決の衝撃を和らげるため、軍隊内での「臭い物に蓋」的な手法を社会全体に適応することで、同性愛の問題をそもそも議題に載せないことが目的と考えられよう。

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    同性カップルの「里親」ってどうなの?

    世はLGBT(性的少数者)花盛りである。大阪市で男性カップルの「養育里親」が認定され、大きな注目を集めた。海外ではこうした事例がいくつもあるが、わが国ではほとんど例がないという。親のエゴか、多様な家族のカタチか。賛否が分かれる同性カップルの里親制度について考えたい。

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    中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化

     中国で「LGBT」と呼ばれる性的少数者=L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)が7000万人に達していることが明らかになった。 これはイギリスの人口を上回る規模で、その年間消費額も4700億ドル(約53兆円)と推計されているが、中国ではLGBTを蔑視する傾向が強いことから、海外での挙式に関心を示しており、潜在的に大きな市場として海外の旅行業界などが開拓に乗り出している。米タイム誌などが報じた。香港のLGBTの権利保護を訴える団体が開いた集会 中国の同性愛者向け出会い系アプリ「Blued」の最高経営責任者(CEO)・耿楽氏によると、Bluedは世界で最大級の同性愛者向けアプリでユーザー数は1500万人にのぼる。 彼ら(彼女ら)は社会的なステータスが高い層が多く、平均月収は約1万元(約16万円)と全国の労働者の平均月収の5倍にも達しており、可処分所得が高くブランドモノを好む傾向が強いという。 これは大半のLGBTに子供がいないことが大きな原因だとみられる。 欧州や米国に次いで世界3位のLGBT人口を抱える中国が大きな市場として観光業者の関心を集めている。これは日本のみならず、欧米諸国も同じで、中国のLGBTを自国に取り込もうと躍起になっているというほどだ。 これは、中国内でのLGBTにはまだ市民権が与えられていないことも大きな原因だ。 中国では同性愛行為者が罪に問われた時代が長く続いていた。それが、違法ではなくなったのは1997年で、LGBTがタブー視されていない香港が同年7月、中国に返還されたためだとみられる。 その後、2001年からLGBTは精神疾患リストからも外されたが、一般的にはまだまだ認められていない。 ネット上では、同性愛者が「ハワイで結婚式を挙げた」などという書き込みに対して嫌悪感を表明する意見も少なくない。 日本でも同じような傾向はみられるが、中国の場合はこれまで一人っ子政策が適用されていたことから、「子供がいないのは罪悪」という感情がより強く、「一人っ子の男性の場合は『偽装結婚』をして、子供を作ってから、安心して同性愛にのめり込むという傾向が中国では強い」(香港紙「リンゴ日報」)とも報じられている。関連記事■ 同性愛者がなぜ必ずクラスに1人いるのかという謎に迫った本■ 米の性調査 同性愛者比率は60年前からほぼ変わっていない■ 中国大都市圏で同性愛エイズ患者拡大 一人っ子政策の影響も■ 聖火リレーに同性愛者象徴旗持つ男が乱入しプーチン怒り心頭■ 中国・周恩来元首相に同性愛説広まるも国内では反発の声

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    LGBTの介護サービス経営者に勇気を与えた言葉

     LGBTをめぐる社会の受け止め方は、この数十年の間に大きく変わった。奇抜なものではなく、当たり前のものとして受け止めようという働きかけも増え、少しずつだが変化してきた。長野県の諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』と、LGBT当事者である介護サービス経営者との出会いを通して、お互いの違いを尊重し合える社会について考えた。* * *『ムーンライト』といえば、アカデミー賞授賞式でハプニングに見舞われた、あの映画だ。作品賞で『ラ・ラ・ランド』の名が発表され、喜びのスピーチが進むなか、『ムーンライト』の間違いだったと発表。ドッキリ番組だとしても、タチが悪い。 その『ムーンライト』を見た。これが実にいい映画だった。キャストはすべて黒人。“白いハリウッド”“白いアカデミー”という批判の反動という人もいるが、そんなヤワな映画ではなかった。LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』の一場面。アカデミー作品賞を受賞した この映画は、LGBTがモチーフになっているが、それ自体がテーマではない。あくまでも少年が自分探しをしながら成長していく物語だ。 画面全体が、月明かりに照らされているようにブルーに輝いている。黒い肌が美しく光を反射する。初めて見る映像美だ。人生の明暗をはっきりと際立たせる太陽の光ではなく、月の光は「生」を悲しく、躍動的に描きだすことにも成功している。 夢と希望の『ラ・ラ・ランド』もよかったが、アカデミー賞作品賞はこの映画で間違いなかった。人種や、LGBTという性の多様性を認めない一部の風潮に対して、「生」の輝きを見せつけようという映画人たちの心意気が込められているように思った。 ただ自然体でいれば、自分らしく生きられるというものではない。 葛目奈々さんは、LGBTの当事者。24歳で性転換手術を行っている。戸籍上の名前も男性名から現在の名前に変えた。水商売を経験した後に介護の世界に入り、介護サービスの経営者として働いている。 奈々さんが「ほかの人と何か違う」と感じたのは、子どものころから。小学校では女の子とばかり遊んでいた。高校生になると、同級生の男性を好きになり、心と体の性の不一致に苦しむようになった。18歳のとき高校を中退し、上京。新宿二丁目のニューハーフの店で働きはじめる。お金をためて、25歳になったら看護学校に入り、看護師になるというのが、彼女の夢だった。 この人のすごいところは、自分を客観視できていることだ。自分の現実をしっかり受け止めているところがいい。「自分らしく」あることの難しさと大切さ しかし、看護学校からLGBTという理由で入学を断られてしまう。10年以上前は、まだLGBTという言葉もよく知られていない時代だった。絶望のなかで彼女は介護の門をたたく。「どういうセクシュアリティーであれ関係ない」 介護の専門学校で言われたその言葉が、彼女に勇気を与えた。貯めたお金で、介護の勉強をし、残ったお金でデイサービスを開設した。現在では、デイサービスを2つ、訪問介護と居宅介護支援事業所も経営している。 奈々さんを精神的に支えたのは、母親の存在が大きかったと思う。彼女が看護師を目指したのも、母親が看護師だったからだ。 高校中退後、奈々さんがアルバイトをしていた店に、母親が飲みに来た。いい機会だと思い、LGBTであることをカミングアウトしたという。こうやって自分で壁を突破していくところがすごい。それでも、母親は「いまは病気みたいなもの。いずれ治るだろう」と思っていたらしい。2016年5月、LGBTへの理解を広げようと、NPO法人「東京レインボープライド」が主催して行われたパレード=東京都渋谷区(伴龍二撮影) 親子でよくケンカをした。20歳を過ぎたころから、「あなたの人生だから」と言ってくれるようになった。それでも酔っぱらうと「いつ嫁をもらうの」と泣きつかれる。母親も揺れているのだ。 奈々さんは、介護サービスの事業所を開設するとき、LGBTの職員を集めようと思ったが、色眼鏡で見られたくないと思い、ふつうの求人をした。 5年ほどして経営が軌道に乗り、ようやく公然とLGBTの人を受け入れられるようになった。それが原因で辞めていく職員もいたが、残ってくれる職員もいて、理解し合うことができた。 事業所では、少しでも働きやすいように、性転換手術のための休暇も認めている。そんな求人を見て、わざわざ引っ越してまで働きに来てくれる人もいた。いまは全体の4分の1がLGBT。人手不足が深刻な介護業界で、そこそこ人材を確保できているという。 堂々と「自分らしさ」を表現できない人たちはけっこう多い。性的少数者だけではない。人種や宗教、性別、年齢、出身地などによって、自分らしく生きることを制限されてしまう現実は、今も相変わらずある。 介護を受けている高齢者も、「年だから仕方ない」と、言いたいことをのみ込み、やりたいことを我慢してしまうことはないだろうか。年齢で人を差別するエイジズムは、自分の首を絞めることである。 以前、奈々さんの経営するデイサービスを訪ねたことがある。明るく、全体的にやさしい空気が流れているような気がした。「自分らしく」あることの難しさと大切さを知っている奈々さんだからこそ、高齢者が「自分らしく」いられるように、気を配っているように感じられた。「オレはオレだ」『ムーンライト』の主人公シャロンのように、だれもが堂々と言い切ることができ、お互いの違いを尊重し合えるような社会をどうやって築いていくか。とても大切なことだと思った。●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『遊行を生きる』『検査なんか嫌いだ』。関連記事■ 自治体の介護サービス 練馬区には高齢者の出張調髪サービス■ 公共介護サービス受けるためにまずやらなくてはいけないこと■ 中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化■ 民間介護サービス 「航空運賃割引」「介護タクシー」なども■ 過去18年間の介護殺人 全体の72%は少数派の男性が加害者

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    配偶者控除をなくしてどうする? 女性は「家庭」にあってこそ輝く

    細川珠生(政治ジャーナリスト) 誤解を恐れず言えば、女性が「仕事も子育ても」どちらも完璧にこなしていくことは不可能だ。必ず「どちらか」を選択しなくてはならない。それは一生にわたっての選択の場合もあるだろうし、瞬間的な場合もある。また時期による「濃淡」という意味の選択もある。 別の言い方をすれば、どちらもやっていこうと思えば「そこそこ」というので精一杯というのも現実である。最近は、ここに親の介護も加わり、そこそこの様相はますます強まっている。男性も積極的にこれら家庭の事情に加わっていくことが求められる時代になったが、それでも男女が全く同じようにその役割を担うのも不可能だ。 それは男性と女性という性別の違いが存在し、その違いをなくすことは根本的に不可能であるからだ。違いをなくすことより、むしろその違いを生かす社会の方が私は合理的であり、効果的であると思う。 その視点に立つと、「配偶者控除」という仕組みはあって然るべきものと考える。昨今の「女性の活躍」を目指す風潮の中で、配偶者控除がその障害となっているように捉えられているが、私はそうは思わない。 「先が見えない」と思ってきた私自身の子育ても、気がつけば義務教育を3分の2終えるところまでたどり着いた。私はどこかの社員として働いてきたのではないので、この間産休もなければ育休もなかった。事実、出産の4日前まで仕事をし、産後1カ月で仕事を再開した。また、いわゆる「自営業」扱いでもあり、夫の扶養家族にも結婚以来入っておらず、よって配偶者控除の適用対象者でもない。 また、保育園入園可否の優先度も低く、保育園など公的な子育て支援のお世話にならずに、仕事と子育ての両立を行ってきた。現実はとても厳しい毎日で、いつも「どっちつかず」と思いながら12年間この状態が続いてきた。 「中途半端」な自分自身にイライラすることもあったし、いつも時間に追われ、セカセカしている日常生活に、私の家族は本当に幸せなのだろうかと自省することもあった。しかしその中でも、私の軸足は常に母親としての役割に置くという決意は変わらなかった。 それは、仕事はその気さえあれば、後からいくらでも挽回できるが、子育てはやり直しがきかないと思ってきたからである。その結果、30代後半から40代前半に、思うように仕事ができなかったのも事実だ。子供にとって本当に幸せなことは何なのか しかし、子供が小学校中学年以上になれば、それまでに比べて随分仕事との両立が可能になる状況が増えてくる。それは子供の帰りが遅くなったり、子供が自分自身でできることが増えてくるので、物理的に余裕ができるということでもある。とはいえ、まだ小学生は幼く、いざという時の判断はできない。そう考えると、ちょっと楽になったことに油断して、軸足を仕事へ移すと、子供は一気に悪い方向へ進んでしまう。ここで気を緩めず、母親としての軸足をずらさないことが重要であるのだ。 母親の心配は尽きないもので、中学生になったらなったで、高校生は高校生で、その時々の母親としての役割に自分の存在意義を見出そうとするのかもしれない。時期的にはそこへ親の介護の問題が覆いかぶさってくる。介護はすべての人がその負担を経験するものでもないが、長寿社会の日本においては、育児と介護のダブル負担の問題は益々深刻化していくだろう。 子育ても介護も、別に女性だけの役割ではないし、特に介護は力仕事も多く、男性の協力は子育て以上に欠かせない。しかし、私が根本的に男女の役割の違いがあると思うのは、子供や親への対処の仕方が全然違うからだ。 女性、つまり母親は目の前にあることへの対処能力が高い。食事の支度をしながら、子供の勉強を見たり、親からの電話に対応したりしても、家の中のことは、常に同時多発的に起こる場合が多いが、それも何とかこなしていくことができる。食事の支度ひとつをとっても、片方で煮物をしながら、片方では炒め物をするなど、そもそもが同時進行の連続なのである。子供のちょっとした表情や顔色の変化に気づくのも、母親の能力として重要なところである。 一方、男性は、一つのことに集中して高い解決能力を発揮する。子供との勉強や遊びにしても、子供と同じ目線で徹底して、集中して行うことができるのだ。また目の前にあることだけでなく、もっと広い視点から物事をとらえることができるのも、女性にはなかなかできないことでもある。 もちろん、個人差はあるし、ひとり親世帯では両方の役割をしなければならないことが多いとはいえ、父親と母親が同じ能力で同じ役割でよいのなら、そもそも男女の違いがあることにすら意味がなくなってしまう。 私は配偶者控除の事を考える時、女性の家庭での役割の重要性をもっと考えるべきであると思う。特に昨今の配偶者控除廃止の議論は、女性を労働力として活用したいという産業界の都合だけに立っていることに、相当の違和感を覚える。 確かに、日本の経済力の縮小により、夫婦共働きが避けられない状況を抱えている家庭も多い。また、家族の形態が多様化している中で、世帯単位の考え方を再考する余地もあるだろう。高い能力を持った女性が、社会でその能力を発揮できないことは「社会的損失」であるというのも、分からないこともない。 しかし、女性は一度母親となったのならば、その役割や責任は、仕事の有無で変わるものではない。そう考えると、母親としての時間を大きく削ってまで社会に出ることが、特に子供にとって、本当に幸せなことなのかどうかは女性の活躍に関心が高まる今こそ、改めて考えるべきである。女性の能力は家庭においてこそ、発揮される場合も多くある。 時期はあるにせよ、母親と子供を引き離すような制度をあえて作ることが、社会の在り方として本当によいのか、母親の立場から再考を促したい。

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    オトコの本能を失った「草食系男子」が日本に増殖したホントの理由

    とができる社会の実現が、緊要な課題となっています」と男女共同参画社会の理念に言及している。その上で「性差に関わらない保育の実施」と銘打ち、「保育士としてのキャリア形成のため、男性保育士も女性保育士と同じように、こどもの性別に関わらず、保育全般を行っていきます」と謳っている。 プラン策定の背景について、熊谷俊人千葉市長は2月19日付の東京新聞紙上で、「男性保育士による女児のおむつ交換や着替えなどをやめてほしいと保護者から要望があり、トラブルを避けるため、男性保育士が外されるケースがあることを知った。特別な理由がないのに男性保育士を外すことはあり得ないと考えた」と語っている。 要するに、これまで市立保育所の現場は、保育士の性別にこだわる保護者に一定の配慮を示してきたわけだ。そうした配慮を「男女共同参画」や「ダイバーシティ」を大義名分に、一刀両断に断ち切ることが、プランの一つの狙いと言えそうだ。  そもそも、男性保育士による女児の着替えやオムツ替えといった問題は、保護者や場合によっては幼児自身の受け止め方にも個人差があろう。こうしたデリケートな問題は、行政が上から目線で特定の「正義」を振りかざして解決を図るよりも、現場の経験知にもとづく柔軟な対応に委ねるのがベターだと思われるが、ここではこの議論に深入りしない。ジェンダー・フリー教育はなぜ問題なのか 気になるのは、この千葉市の動きが一部で保育におけるジェンダー・フリー(性差否定)の推進と捉えられている節があることだ。実際、プランに明記された「性差に関わらない保育」なる文言は、かつて日本の教育現場を席巻したジェンダー・フリー教育を連想させる響きを持つことは否定できない。 「ジェンダー」は、生物学的性別(セックス)とは異なる「社会的・文化的性別」などと説明される。ジェンダー・フリー教育とは、「区別は差別」という特異な観点に立って、ジェンダーに基づくとされる「固定的性別役割意識」や「男らしさ・女らしさ」などの性差の解消を図ろうとする教育である。簡単に言えば「男女まぜこぜ教育」のことだ。 例えば、小学校に入学したばかりの一年生は、「男の子が黒いランドセル、女の子が赤いランドセルというのは親や社会が勝手に決めただけ」と言われ、ランドセルの色を男女で区別するのは間違いだと教えられた。また高学年の子供たちは、「男子がズボンをはき、女子がスカートなのはジェンダー・バイアス(性別による偏り)があるためだ」と教え込まれた。運動会で男女混合騎馬戦をやったり、修学旅行で男女同室宿泊を行うといった極端な事例もしばしば報じられたことは今も記憶に新しい。※写真はイメージ 現在、政府は男女共同参画と「ジェンダー・フリー」は異質なものとの立場を明確にしており、また極端な教育現場の事例も報じられなくなった。とはいえ、多くの教育現場では今も男女混合名簿が使われ、児童の「さん付け」統一呼称がつづいている。 また、家庭科教科書は「男は外で働き、女は家庭を守るべきだ」という性別役割分業を見直すべきだと子供たちに刷り込みつづけている。その意味で、今も事実上のジェンダー・フリー教育は続いているとも言える。 では、ジェンダー・フリー教育はなぜ問題なのか。ジェンダーフリー教育が真っ盛りの十数年前の話だが、一部の中学校や高校で、男女が同じ教室で日常的に平然と着替えをするという光景が報じられた。その多くは、小学生の頃からジェンダー・フリー教育を受けてきた生徒たちだという。つまり、異性に対する思春期特有の恥じらいの感覚の薄れた子供たちが出現したのである。人口急減の「隠れた犯人」 ジェンダー・フリー教育の最大の弊害は、子供たちの人格形成に破壊的な影響を及ぼす危険性である。自我が形成される幼少期から思春期にかけて、男女の区別をしないとアイデンティティが健全に作られず、場合によっては、性同一性障害や同性愛などに陥ってしまうことも、専門家によって指摘されている。例えば、心理学者の林道義氏は「生物として子孫を残すために必要な行動に支障が出るおそれがある」。特に男子の場合、「心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てくる可能性がある」と警鐘を鳴らしている(『明日への選択』2003・6月号所収「ジェンダー・フリー教育の恐るべき『弊害』参照。日本政策研究センターのHPに掲載)。 それから十数年が過ぎた現在、恋愛に消極的な「草食系男子」の増加が指摘されている。また最近の複数の意識調査は、若者の結婚願望の急速な低下、つまり非婚化傾向の強まりを示唆している。※写真はイメージ 例えば、明治安田生活福祉研究所の昨年の調査によると、20代の独身男女のうち、結婚したい人の割合が3年前と比べて男性で28ポイント、女性で23ポイントと大幅に減少した。「できるだけ早く結婚したい」「いずれ結婚したい」との回答が、男性で67・1%から38・7%に、女性は82・2%から59・0%に減少した。「草食系男子」の増加や非婚化傾向の強まりが、「性別役割意識」や「男らしさ」「女らしさ」の解消をめざすジェンダー・フリー教育と全く無関係とは筆者には到底思えない。 現在、わが国は人口急減に直面しており、昨年の出生数はついに100万人を割り込んだ。今のままでは、2040年には半数近い自治体が「消滅」する可能性が指摘される一方、50年後の日本の総人口は8千万人台に、100年後には4千万人台になると予測されている。その大きな原因は、若者の未婚化と非婚化だとされる。とすれば、ジェンダー・フリー教育こそは、人口急減=地方消滅危機の「隠れた犯人」と言えるかもしれない。  確かに、千葉市の「性差に関わらない保育」は、 男性保育士にも女性保育士同様、女児と男児を区別せず保育全般に関わらせるという趣旨ではある。それが子供の性差を無視した「ジェンダー・フリー保育」の呼び水にならないか、一抹の不安を抱かざるを得ない。

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    オムツ替えする男性保育士を増やす前に絶対やるべき8つの掟

    谷本真由美(コンサルタント兼著述家) 保育園で男性保育士に「着替えやオムツ替えをやらせないで」といった保護者に対し、千葉市の熊谷俊人市長が「それって男性保育士差別では?」と疑問を投げかけたことが大炎上していました。※写真はイメージ 熊谷市長は「娘を男性保育士に着替えさせたくないと言う人は、同様に息子を女性保育士に着替えさせるべきではないわけですが、そんな人は見たことがありません。社会が考慮するに足る理由無しに性による区別をすることは差別です」とおっしゃっており、リベラル系とか海外出羽守(でわのかみ〈海外から日本のコレはあかん、海外サイコー、とゴチャゴチャいう暇人〉)系の面々も「そんなの差別じゃん」と激怒しておられます。 確かに性別で職業を差別するのは今風ではありません。 ワタクシ自身はいわゆる海外出羽守のカテゴリの人ですが、この件に関しては、男の保育士のオムツ替えは勘弁して、という保護者と同じ立場です。 自分にも2歳になる男の赤子がいますので、そのような親御さんたちと同じく、男性保育士のオムツ替えや着替えは不安に思います。差別主義者といわれるのを承知で書きますが、こどもをターゲットにした性犯罪の大半は男性によるものだからです。 the US National Incident-Based Reporting System(NIBRS)のデータによれば、こどもをターゲットにした性犯罪の90%は男性によるもので、3.9%は女性、6%は性別不能です。1998年のCanadian Incidence Study of Reported Child Abuse and Neglectの調査結果によれば、10.7%の犯罪者が女性です。 犯罪学者によれば、女性がやった場合は、通報されない、発見されないこともあるとしています。しかし、女性に比べると、男性は性犯罪を犯すリスクが高い人々です。(https://aifs.gov.au/cfca/publications/who-abuses-children)日本はロリコン大国 日本は世界的に有名なロリコン大国です。幼児ポルノ、児童ポルノの規制はゆるく、ネットや同人業界にはそういうコンテンツが溢れています。イギリスであれば逮捕される様なコンテンツも含まれています。そういう事実があるのですから、保護者が不安になるのは当たり前です。 ここ数年、イギリスで幼児性虐待スキャンダルが話題になっていますが、幼児性愛者は、こどもと親しくなれる職業や機会を意図的に選ぶ傾向があります。Jimmy Savileの性犯罪スキャンダルは、性犯罪者がどのような機会を利用してこどもに近寄るかを明らかにしました。 Savileはイギリス初のラジオDJで、1960年代から80年代にテレビ司会者、DJ、慈善事業家として大活躍し、90年代にはナイトの称号を得ます。芸能人であることを利用して、番組に出演したこどもや、サインをねだるこどもと性行為を行いました。 キャリアの後半では慈善事業に熱心でしたが、訪問した国立病院でこどもの性的虐待を繰り返していました。被害者の数は500以上に及ぶとみられています。Savileがこども番組や慈善事業を好んだ理由は、こどもに近寄れるからだったのではないかという意見があります。(Jimmy Savile: timeline of his sexual abuse and its uncovering) イギリスの保育園における性犯罪スキャンダルは、幼児性愛者にとって保育園は最高の環境であることを証明してしまいました。PlymouthにあるLittle Ted's という保育園で働いていたVanessa Georgeという女性保育士は、職場で乳児や幼児を性的に虐待した上、性的な写真やビデオを撮影、それを職場のコンピューターや私用の携帯電話などに保存し、Facebook等のソーシャルメディアで知り合った幼児性愛者達に配っていたのです。(Nursery worker admits sex abuse)(Vanessa George jailed for child sex abuse)(Nursery paedophile Vanessa George jailed indefinitely) Little Ted'sは大変評判の良い園で、地元では人気でした。GeorgeはLittle Ted's でも人気の保育士で、当時39歳。こどもの親と友だちになるほどでした。既婚者で自分にも2歳のこどももいました。ところが、Georgeは職権を利用し、60人以上のこどもの写真や動画をとって、仲間にせっせと渡していたのでした。 保育園というのは、大半のところは零細企業レベルの規模です。大企業に比べたら働く人の数も少なく、働く人同士は親密な関係を持つことになります。商店やオフィスにくらべたら閉鎖的な環境で、外野の目は届きません。職員同士は距離が近いので、他の同僚のちょっとおかしな行動を批判したり、政府に通報するのは簡単ではありません。職員以外の大人の出入りは限られています。 保育園には様々な死角があります。トイレ、廊下の隅っこ、遊び場の奥などにこどもを連れて行ってしまえば、他の職員には見えないこともあります。Georgeはキュービクルを使って死角を作り出し、オムツを替えるふりをして、虐待を繰り返していたのでした。※写真はイメージ Georgeの職場でも職員同士は緊密だったので、Georgeのおかしな行動を面と向かって批判するのは難しく、経営者も職場の雰囲気を乱したくないので、みてみぬふりだったようです。これは、日本でも学校や老人ホーム、障がい者施設、刑務所といった閉鎖空間で起こる、職員による暴力や虐待と似ています。 例えば学校の場合、暴力教師が生徒を虐待することがありますが、それを同僚教師が批判したり通報するのは簡単ではありません。日本では老人ホームでの虐待が時々報道されますが、これも似たような構造です。リベラルの皮を被った暴力 低賃金で重労働の業界で、働いてくれる人を確保するのは大変ですから、経営者や管理者は、ちょっとおかしいなと思っても、そのままにしてしまいます。日本の保育所はイギリス以上に閉鎖性が高いですし、日本の職場は調和を重視します。何かあっても隠匿するという方向に動くことだってあるでしょう。 そんな環境なのですから、男性保育士が嫌だという保護者の言い分はまともではないでしょうか? 男性保育士を増やすことは、ジェンダー教育の観点でも重要です。しかし、対策もとらずに不安な保護者を差別者だ、了見が狭いと一方的に責めるのは間違いで、それはリベラルの皮を被った暴力にすぎません。不安に思う保護者がいるのですから、以下のような対策をとるべきでしょう。男性保育士を増やすに当たっての推奨対策・保育所に監視カメラを設置し、動画は保護者のスマホや自宅のPCに配信することを法律で義務化する。・保育士の私用スマートフォンやPCの使用を禁止する。職場で使用できるのは支給されたデバイスのみ。業務で必要なファイルやメールは、Web上のグループウェアで使用する。・保育士は男女とも雇用前の心理テストを実施。警察もしくは国の独立機関による犯罪歴証明書を提出を義務にする。学校や以前の雇用者からの推薦状提出を義務化する。・ 着替え、オムツ替え、野外活動のポリシーを国もしくは第三者機関が作る。閉鎖空間での実施は禁止、保育士単独でこどもを連れ出さない、所定の場所を作る等の決まりを作る。ポリシーは、国もしくは第三者機関が抜き打ちで監査する。落第した保育所の補助金は翌年度より100%カットする。・匿名で通報できる窓口を国が運用する。国は通報件数、調査件数、調査結果などを公表し、調査開始の手順や実施までの時間を明らかにする。・ 国はこどもの虐待を防止する団体を設立し、性的虐待に関する啓蒙活動、こどもへの訓練を行う。通報の訓練、性的虐待の見分け方の訓練は、幼稚園、保育園、保育所、小学校で必須にする。保護者には、生後半年の乳児検診の際に、性的虐待のサインや見分け方に関する冊子を配布する。・国はこどもへの性的虐待を厳罰化し、最高で無期懲役刑にする。・ネット業界(ISP、テレコム、SNS含む)や書籍業界、テレビ業界は、幼児性愛的なコンテンツを自主規制する。自主規制のガイドラインは、北米や欧州を参考にする。

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    なんでこうなったニッポンの「男子禁制」社会

    したが、そういえば日本でも最近、女性優遇だの男子禁制だのという声が一段と大きくなった気がします。男女性差の隔たりはいったいどこまで広がるのでしょうか?

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    古い「男らしさ」の呪縛から抜け出せない日本男児に告ぐ!

    論の声は二つに割れる傾向にある。女性優先の取り組みを、社会一般に浸透する男女平等の理念にそぐわない男性差別であるとする声もあれば、女性を守られるべき弱者として社会の周縁へと追いやる女性差別に他ならないとする声もあり、いずれの意見も男女の間の隔たりを広げることや他者嫌悪に終始している。 一見、ここに挙げた女性優先の問題は、人を性別によって区分するという点で、女性差別の問題をはらんでいるように思えるが、差別問題とは切り離して考える必要があるだろう。ジェンダー問題がメディアで取り上げられることのなかった在りし日の日本社会を想像してもらいたい。男性たちは常に社会の中心に立ち、権力を行使し、政治を支配し、男という性別のもたらすさまざまな恩恵にあずかってきた。これに対し、女性たちは男性中心社会に埋没し、家事や育児といった限定的な性役割を押し付けられ、家庭という「孤島」に閉じ込められてきた。 こうした歴史的経緯を考えると、女という性別ゆえに男性中心社会から搾取されてきた女性たちを配慮、優遇する近年の社会的風潮はあって然るべきである。この問題を肯定的に捉えて見ると、女性優先の取り組みは、むしろこれまで当然視されてきた男性に有利な社会制度や体制の在り方を国民一人一人が「意識」し、考え、議論する機会となるのではないだろうか。 今日の社会が推進する女性を優遇、配慮する取り組みは、今後大いに行われていくべきである。鉄道各社による女性専用車両、東京都台東区の中央図書館による女性専用席、全国展開する女性だけの体操教室カーブス、大手不動産各社が宣伝する女性限定賃貸マンション、社員をすべて女性で統一するバラエティ雑貨販売のミカヅキモモコ、運転に不慣れな女性に配慮した女性専用駐車スペースなど、女性を優遇、配慮するジェンダーに関わる取り組みは既にさまざまな分野で展開されており、世の中が女性優先の方向へと進んでいるのは自明である。こうすれば男女は自己解放できる さらに、こうした社会的取り組みの相乗効果として、セクシャル・マイノリティの人たちに配慮したLGBT専用トイレの設置などが進められることも期待でき、それによって社会のジェンダーに対する問題意識が深まるのであれば、女性優先に端を発するジェンダー問題の存在意義は大きい。 一方で、女性優先、男性優先という具合に、性別によってカテゴライズされる社会的風潮が当然視され、「弱者を守ることが当たり前である」といった誰もが無条件に受け入れやすい社会規範が生み出されることを危惧する声もあるだろう。しかし、重要なことは、ジェンダー問題によってしばしば生じる他者嫌悪や男女間の隔たりをなくすための糸口を探ることではなく、まず、男女が互いの性について「意識」するきっかけを持てる社会をつくっていくことである。 上野千鶴子氏をはじめとする多くのフェミニスト研究者たちが述べてきたように、女性の問題は女性の問題、男性の問題は男性の問題、と当事者性に執着するのではなく、自分と他者がそれぞれに問題を抱えていることをまずは知り、互いの抱える問題を「意識」するプロセスの中で自分の問題を考えることに意味を見出すことが重要である。ジェンダー問題をメディアを通して知ることで、男女が互いの問題を「意識」し、その上でそれぞれが抱える問題と向き合うことで、両者は他者解放ではなく「自己解放」への第一歩を踏むことができるのだ。 男女共同参画が叫ばれる今、時代は漸進的ではあるが確実に変わろうとしている。今後、女性たちには女性優先を推進する社会の取り組みを出発点に、男性と肩を並べて生きていくための屈強さを養い、また、古い男らしさの呪縛から抜け出せない男性たちを温かい目で忍耐強く見守ってもらいたい。 そして、男性たちには「草食系男子」「イクメン」「女子力男子」「ジェンダーレス男子」「ソロ男(だん)(独身を謳歌する男性)」といった新語が示唆するように、新しい男性の在り方を受け入れる余裕を持ち、これまで「男の沽券」にかかわるとされてきた問題に縛られている自分とは違う自分、例えば自分の内面にある「女性性」を模索し、自分らしく楽な生き方をする選択肢が人生にあることを知ってもらいたい。

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    私が「ドクター差別」として女性専用車両に乗り続けるワケ

    https://youtu.be/loPomUo7EXU「女性専用車」は改善可能 ところで、私は「男性差別と同様、女性差別にも反対」ですし、「痴漢対策には大賛成」です。ただし、「女性差別を解消すると称して、男性差別をするのは大反対」ですし、「痴漢対策と称して、男性対策をするのは大反対」なわけです。もちろん、「女性専用車」以外にも、痴漢対策はいろいろありますし、そもそも痴漢犯罪が減らない、痴漢被害が減らない「女性専用車」では「痴漢対策」としては失格です。2002年12月、JR西日本の東海道線にお目見えした女性専用車両 現行の「女性専用車」の一番ダメなところは、「痴漢対策」と言いながら、痴漢被害が減らないことです。たしかに、「女性専用車」に乗ったA子さんは、痴漢に遭う可能性は(ほとんど)なくなるでしょうが、「女性専用車」に乗らないB子さんが、A子さんの代わりに痴漢に遭う、というのが今の仕組みです。これでは、被害者が代わるだけで、痴漢被害に遭う女性の数は減りません。男性にとっては「協力」のしがいがない状況になっています。 これを改善する方法があります。それは「女性専用車に痴漢のターゲットになる女性を(半ば強制的にでも)乗車させる」という方法です。これなら、「獲物」がいなくなって、痴漢は困ります。痴漢が困る、すなわち痴漢ができにくくなるわけですから、痴漢被害は(確実に)減ります。痴漢被害が減るのなら、男性も「協力」のしがいがあるでしょう。 あるいは、いっそのこと「女性専用車に女性全員を乗せる」という手もあります。「女性専用車」の車両数を増やし、女性全員を「女性専用車」に乗せる、これは、結果的に「男女別列車」になります(注:家族連れやカップルのために、一部を「男女共用」にすることもあり得る)。これなら「痴漢対策」どころか、「痴漢冤罪対策」にもなって「一石二鳥」です。 「女性専用車が痴漢冤罪対策にもなっている」という話をよく聞きますが、これは甚だ疑わしい主張です。痴漢冤罪は、官憲や司直が「証拠を重視せず、被害者の言葉を鵜呑みにする」から起こるわけですが、その前段階の「痴漢でっち上げ」は、被害者と称する女性によって引き起こされます。もちろん、女性に悪気がなくても、犯人を間違えたり、偶然の接触を「痴漢行為」と間違えたりすることで、結果的に痴漢をしていない男性が痴漢扱いされる場合もあります。また、悪意から「痴漢でっち上げ」が起こる場合もあります。 前述の「犯人間違い」や「偶然の接触」は、「女性専用車」があるせいで、他の車両が混雑し、逆に「間違い」が起こる確率が高くなる可能性があります。また、悪意による「痴漢でっち上げ」には、「腹いせ」のほか、「示談金目当て」のでっち上げもありますが、そういう目的の女性は「獲物」のいない「女性専用車」には乗らず、他の車両に乗っていますから、痴漢でっち上げの確率は(全然)減らないでしょう。要するに、「女性専用車」があったところで「痴漢でっち上げ」の危険性は「多少、増えることはあっても、減ることはない」というわけです。「女性専用車」の悪影響 「女性専用車」は、それが本当なら、本当に「女性専用」なら日本国憲法第14条1項に「違反」します。ですから、鉄道会社は「女性専用車には男性も乗れる」としているのです。しかし、「女性専用車」を命名し、「女性専用車」「Women Only」などと書かれたステッカーをホームや車体の内外に貼ることで、あたかも「男性は乗れない」かのようになっています。そして、今やそれが「当たり前」のように思われているのです。 そのせいでしょうか、世の中には、さまざまな「女性専用」「女性優遇」があふれています。身近なところでは、「女性割引」「レディースデー」です。「女性専用席」「女性専用フロア」「女性専用マンション」なんてのもあります。そうそう、公務員採用試験や大学入試において、女子受験者に下駄を履かせる(=えこひいきする)、優先的に合格させるのは「不正入試」と言っても過言ではない異常事態です。 こういう「女性専用」「女性優遇」を正当化する際には、いろんな理由がつけられます。「女性割引」や「レディースデー」なら、「女性は給料が安いから」とか、「女性客が少ないから誘引するため」などという理由が挙げられます。女性は給料が安い? いえいえ、給料の安い男性も結構いますし、自由になるお金を持っているのは、むしろ(若い)女性の方でしょう。女性客を誘引するため? 「営業戦略」「企業の自由」などと言う人がいますが、「だから、何をしてもいい、(男性)差別していい」とはなりません。 図書館の「女性専用席」は、「女性専用車」と同様、公共性が高いので、不当性が高いと言えます。一説には、「実はホームレス対策で、そうハッキリ言えないから女性専用(=男性お断り)にした」とありますがどっちもダメ、「非常に汚い人は入館不可」とした方がまだマシでしょう。ホテルの「女性専用フロア」も、ホテル側とすれば「営業戦略」「企業の自由」などと言いたいのでしょうが、まるで「男性がいると安心できない」「男性は皆、不審者」と言われているようで、不快です。ただ、「女性専用マンション」は公共性、代替物の有無からすれば、比較的、不当性は低いでしょう。女性専用者より問題な「えこひいき」 それよりも「問題」なのは、公務員採用試験の女子受験者への「えこひいき」です。以下は、大阪市の2013年度職員採用試験の結果ですが、男女の合格者比率でこれほどの「偏り」が出るのは、尋常ではありません。受験者数を「男女同数」と見なして、男女の合格者比率を調整すると、その数値(の偏り)は「女子合格者85%、男子合格者15%」と、さらに大きくなります。これは、ほんの一例です。なお、地方公務員採用試験だけでなく、国家公務員採用試験でも、これほどひどくはありませんが、その傾向は見られます。大阪市2013年度職員採用試験女子受験者数 335人女子合格者数 53人    合格率 15.8%  合格者の81.5%男子受験者数 425人男子合格者数 12人    合格率  2.8%  合格者の18.5% 女性の市職員が少ないから? そんな理由で、女子受験者を「えこひいき」して良いのでしょうか? いいえ、良いはずがありません。女子受験者は、まったく差別されていないのに、なぜ優先して合格させる必要があるのでしょうか? 一方、何の落ち度もない男子受験者にとっては、合格点に達しているはずなのに不合格になる人が出てくるわけで、(男性)差別以外の何物でもありません。一生を左右する(公の)就職試験で、こんな「不正」が行なわれていいわけがありません。 それとも、この結果は「偶然の産物」と言うのでしょうか? あるいは「公正な試験の結果」だと言うのでしょうか? この結果を(大阪市に)問い合わせた人によると、電話に出た市職員は「女子は、男子よりも、コミュニケーション能力(=面接能力)があるからだろう」などと言ったそうです。もし、それが本当だとしても「男女でこんなに隔たりのある結果を生じるような選抜方法自体が極めて差別的」と言えます。「間接差別」の考え方では、「結果的に大きな格差が生じるような方法は、たとえ取り扱いに差がなくても、(不当な)差別と見なされる」のです。 大学入試でも「女子を優先して合格させる、入学させる」という「女性優遇」が生じつつあります。2010年に問題になった九州大学(理学部数学科)は、結局「女子優遇」を取りやめましたが、昨年には東大の「女子学生だけに家賃補助」というのが問題になりました。しかも、東大は「推薦入学で、女子を優先的に入学させている」という指摘もあります。「私学」と違って、どちらも「国立」ゆえ、「大学の勝手でしょ」というわけにはいきません。実は「女性専用車」に反対していない 意外だと思われるかも知れませんが、私は「女性専用車」に反対しておりません。なぜなら、「女性専用車」は名ばかりで、「男性も乗れる」からです。その名称は「おかしい(=事実に反する)」とは思いますが、「男性が乗れる女性専用車」には、全然反対していません。 というか、法律上も、運送契約上も、「女性専用車」は存在しません。裁判所も、国交省も、「女性専用車」は鉄道営業法34条2号で言うところの「婦人のために設けたる車室」にはあたらない、としています。また、運送約款にあたる「旅客営業規則」には、「女性専用車」に関する項目は1行もありません。つまり、法律上も、運送契約上も「女性専用車」は存在しない、存在するのは「女性専用車」「Women Only」などと何の意味もないこと(注:もし、これらが意味のあるもの、もし、「運送条件」だったら、憲法違反になる)が書かれたステッカーが貼られた、ただの「一般旅客車両」に過ぎません。 それでもなお、「女性専用車」を存続させたいと言うのであれば、男性に「任意の協力」を仰ぐのであれば、鉄道会社は、まず「男性も乗れる」と公告すべきです。「女性専用車」と謳いながら、「男性も乗れる」とは言いにくいなら、せめて「(何らかの理由で)男性が乗る場合があります」と言いましょう。そうすれば、少なくとも「女性専用車」に乗った男性と女性客の間のトラブルは減るでしょうし、(トラブルによる)電車遅延もなくなるでしょう。 もちろん、できれば「女性専用車」という名称を変えていただくのが一番です。「男性も乗れる(=任意)」にもかかわらず「女性専用車」では、あまりにも理屈が通りません。「任意」と「専用」は、相反する概念です。 第一に頭に浮かぶのは、「女性優先車」でしょうか? これなら「任意であること」と矛盾しません。でも、「なぜ女性を優先しなければならないのか」という疑問は生じます。痴漢被害者は「弱者」ですが、女性全員が「弱者」ではありません。「女性=弱者」という決めつけは、逆に女性差別ではないでしょうか。 では、「弱者優先車」はどうでしょう? これなら私でも「協力しよう」という気になります。でも、本来の趣旨、「痴漢対策」というのからはかなり外れてしまいますし、「(男がいないので)空いてて快適」だとか、「男と一緒に乗りたくない」などという女性のニーズには応えられなくなります。 最後になりますが、私の地元の東急電鉄では、いま試験的に「防犯カメラ」を搭載した列車を多摩川線又は池上線で走らせています。昨年の発表では、「2020年までに、すべての路線のすべての車両に、防犯カメラを設置する」とのことでした。これが実現すれば、痴漢被害の減らない「女性専用車」は不要でしょうし、痴漢犯罪はもちろん、痴漢以外の犯罪の抑止も期待できます。痴漢犯罪に限らず、どんな犯罪でも、一番の対策は「自己防衛」なわけですが、補助的な対策としては、この「防犯カメラ」、他の鉄道会社も是非、前向きに考えていただきたいものです。防犯カメラ登場!https://youtu.be/T_9DjvmuRhM

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    「お茶出しは女性の仕事」まだあった驚愕の風習

    片田珠美(精神科医)【『男尊女卑という病』試し読み〈第3回〉】男性が女性を軽んじてしまう様々なケースの分析から、男女が歩み寄る糸口を探る『男尊女卑という病』。静かに熱く注目される本書から、その一部を抜粋してお届けします。第3回は、古くて新しい「お茶出し」問題。地域によってはこういう話が根強いところがあるかもしれません。女性起業家にかけられた言葉には、静かに絶句……。男性がお茶出しをした時に流れる微妙な空気 たとえば、仕事で訪れた会社でお茶を出してくれるのは、圧倒的に女性である。ごくまれに若い男性がお茶を出してくれるところもある。聞くと、そういう会社では、男性がお茶を出すと、相手の客が驚く表情を見せたり、「こちらでは男の人がお茶を出すんですね」と直接言ったりすることもあるという。 接客している当人が女性だと、男性にお茶を持ってきてもらった際に居心地が悪いと感じることもあるようだ。彼女のほうが上司でも、(男性にお茶汲みなんかさせて……)という視線を、彼女に無遠慮に向ける客がいるらしい。特に来客相手が年配の男性だと、何か言いたくてたまらない空気をひしひしと感じるという。 これは男女差のあまりない会社で聞いた話だが、男性優位が職場に染み渡っている会社だと状況は逆戻りする。女性の役職が上でも、暗黙のうちに、お茶出しや電話番は“男性より一段下の”女性の役目になっている。一例を挙げよう。 デザイン会社に勤める30代後半の女性には、後輩の男性が2人いた。彼女は勤続10年目で、ポジション的には彼らより上である。その日はあいにく営業や打ち合わせでみんな出払っていて、会社にはほとんど人がいなかった。 次々かかってくる電話に、彼女は自分の仕事をこなしながら、ほとんど1人で応対していた。見ると、後輩たちは、黙々と自分のことだけやっている。たまりかねて、彼らに「電話に出て」と言ったが、その時は何本かとっても、そのうちまた彼女だけが忙しく電話をとる羽目になった。 そこに50代の男性上司が追い打ちをかけた。「○○君、悪いけど、お客さんが来たからお茶出してもらえる?」 男性上司の目の前に、あきらかに彼女より暇そうな、若い男性が2人も座っているのに、お茶出しは彼女に回ってきたのである。お茶出しも電話番も大事な仕事の一つだと彼女もわかっている。こんなことで肩書きを振り回そうとも思っていない。けれども彼女は腑(ふ)に落ちないものを感じた。 彼女たちが男性より軽んじられてしまうのは、中途半端なポジションだからというわけでもない。会社を起ち上げた女性社長であっても同じようなことはある。女性起業家があるインタビューに答えていて、印象的な話があった。 起業家が集まる交流会に参加したその女性は、会場にいた男性から、彼女の仕事の内容についていろいろ質問をされていた。起ち上げたばかりの会社に興味を持ってもらえるのは嬉しかったし、その男性はソフトで感じもよかった。 けれども最後に「パトロンはいるんですか? いや、お若く見えるから」と普通に聞いてきたそうである。 もちろん彼女にそんな人はいない。意識の高い人が多そうな起業家の集まりでも、トップの女性の後ろにはさらに上の立場の男性がいるはずと思い込んでいる人もいるのである。かただ・たまみ 精神科医。広島県生まれ。京都大学非常勤講師。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。フランス政府給費留学生として、パリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて犯罪心理や心の病の構造を分析。精神分析的視点から、社会の根底に潜む構造的な問題も探究している。主な著書に、『他人を攻撃せずにはいられない人』(PHP新書)、『他人の意見を聞かない人』(角川新書)、『他人の不幸を願う人』(中公新書ラクレ)、『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』(朝日新書)などがある。最新刊は『他人を平気で振り回す迷惑な人たち』(SB新書)。関連記事■ 「女じゃなくて男の責任者を出せ!」と言う心理■ 友達夫婦の前で妻を見下す夫の本心は?■ 女の子はピンク、男の子はブルー、のなぞ■ 森友学園の8億円より、日銀の国債買い入れ500兆円の方が深刻

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    「亭主元気で留守が…」から30年、「稼ぎのいい夫に替える」は笑えない

    網尾歩 (ライター)【ネット炎上のかけらを拾いに】 このCMで笑える人との間にあるのはジェンダー観の差ではなく世代間ギャップかもしれない。男性蔑視であり、女性蔑視でもある描写 「安い電気に替えるか、稼ぎのいい夫に替えるか」 こんなことを妻が言い放つ、JXエネルギー「ENEOSでんき」のCMが炎上している。筆者はこのCMが不興を買っているのをツイッター上で知り、その後実際にテレビで見て、よくこんなCMを現代にやるなと思った。随分と時代遅れなCMである。 内容はこうだ。「主婦って自由に使えるお金って少ないのよねえ」と妻役の女優が茶飲み友達に言い、「解決策は2つあるわ」と続ける。そして冒頭でも紹介した「安い電気に替えるか……」というセリフを、目を見開いて言うのだ。さらに、後ろのドアから覗いている夫役の男優を振り返って威圧し、犬を抱いていた人の良さそうな夫は後ろに吹っ飛ぶ。 30秒バージョンの方では「安い電気に替えるか…」のセリフの後で、友人の女性が「やあだ~」と笑い話に変えようとするのだが、妻はいったん笑った後で真顔になり「本気よ」と畳みかける。妻役を演じているのは小池栄子さん。もともとグラビア出身だが2012年には日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞するなど演技派として知られるだけに、このCMでもいい目力を見せている。 J-castがこの炎上を伝える記事「『安い電気か、稼ぎのいい夫か』 『ENEOSでんき』CM炎上」の中で下記のようなコメントがネット上にあったことを引用していたが、まさにそれ、である。「このCMは男性の扱いも問題ですが、世の主婦・女性はこのような考えであるという誤解を生みかねないものでもあり、困りものですね」「男性蔑視というか、女性蔑視でもあると思うが。男性に経済的に依存しているのが通常ということが前提なわけだろ」バブル時代の価値観ではもう笑えないバブル時代の価値観ではもう笑えない ネット上で女性を叩く言葉のひとつに「寄生虫」がある。主に専業主婦に対してこの言葉が使われる。言わずもがな、夫の稼ぎに“寄生”して生きているという意味だ。このCMは、ネット上にはびこる偏見と同じ目線にある。寄生することが前提の女性、働きアリになることが前提の男性。どちらの性にとっても差別的だ。 とはいえきっと、こう言う人もいるだろう。「いやいや、ただの冗談でしょう。このくらいユーモアですませなさいよ」と。 その昔、「亭主元気で留守が良い」というキャッチコピーを使ったCMがあった。もともとは「亭主達者で留守が良い」ということわざだが、「達者」を「元気」に置き換え、1986年の流行語に選ばれた。さらに2013年には「新語・流行語大賞」過去30年のトップ10にも選ばれている。 1986年といえば、バブル景気がまさに始まろうとしていた時期。稼ぐ夫と家にいる妻が典型的な夫婦像であり、そして「留守の方がいい」と冗談を言って笑う「余裕」があった時代なのだろう。裏を返せば、それだけ女性の社会的地位が低く、男性にとって脅威ではなかったということだ。 当時から30年が経ち、専業主婦世帯を共働き世帯が上回って久しい。20~30代の独身者が結婚後に「共働き」を望む割合は専業よりも高いという調査結果が多くある。その一方で、働き続けたくても雇用の場がなかったり、子どもを預ける保育園がなくて仕事を諦めなければならない状況がある。女性が働くことを政府が奨励しているのに、なぜか足かせがなかなかなくならない。男性も男性で昔のようにただ働いていれば自動的に年収が右肩上がりになるわけではないし、育児と家事をともに担うのが「当たり前」で、ちょっと子どもと遊んだだけで「イクメン」を名乗ろうものなら四方八方からドヤされる。男も女も、旧来の働き方や生き方、そして価値観から脱却しようと四苦八苦しながら模索を続けている。未来では「過渡期」と言われるかもしれない、そんな厳しい時代である。そんな時代に、今さらバブル時代の価値観で笑いを取ろうとされてもね。 恐らく「ENEOSでんき」CMの制作担当者は、1980年代からタイムマシーンに乗ってきたのではないだろうか。怒っちゃいないがぽかんとする。ははのん気だね~って感じである。

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    面接までいけないケースも 保育士業界での「男性差別」

    は別に男性でもいいわ』と言う人もいれば、『嫌だ』と言う人もいてセンシティブなところです」保育現場の男性差別 市長のツイッターを受けて千葉市には、現役の男性保育士からこんな電話があったという。「今回こうやって騒がれること自体、肩身が狭い。こういう報道をされることでモチベーションが下がる」 今では保育士と呼ばれるものの、以前の職業名は「保母」。1985年の男女雇用機会均等法や1999年の男女共同参画社会基本法の制定を契機として男性保母の就労者数が増えたことから、性別に依存しない「保育士」に改称された。男性保育士が社会に認知され、広がってきたといわれて久しいが、厚生労働省の2015年賃金構造基本統計調査によると、サンプル調査の対象となった労働者10人以上の保育所で、男性保育士はわずか5.3%にすぎなかった。悩みを抱いても周囲に相談しづらい 今回の論争が起きていることに関して、元保育士の飯沼健太郎さん(仮名、33才)は「もともとそういった要望は昔からあることで、たいていの男性保育士は保護者からそう言われてしまうことも覚悟しているはず」と語る。 飯沼さんには保育士として3才児を受け持っていた時、園長から「保護者からプールの授業のとき、女児の着替えはやめてほしいとの要望があった」と言われた経験がある。「やはりいろいろな性犯罪が起きていますし、親御さんの気持ちもわかるので、まずは信頼関係をつくらなくちゃと思いました」 保育士の仕事は、長年女性の職域だったが、「男性ならでは」の保育もある。例えば体を動かすことは男性の方が得意なことが多く、ダイナミックな動きで子供たちを遊ばせることができる。しかし飯沼さんは、「保育士の業界では男性差別はけっこう多いんですよ」と寂し気に笑う。「男性というだけで面接までいけないケースもありますし、施設内に“男性用のトイレがないから”という理由で採用されないこともある。また実際働くようになっても、着替えるスペースがないから、ピアノの裏とか物陰でさっと着替えたりという人もいますよ。ぼくの知人の男性保育士はトイレが男女兼用の職員トイレで用を足さなくちゃいけなくて、まあ、使いづらいじゃないですか。それでがまんすることが多くなって、仕事が終わるまで一日中トイレに行かなくても平気な体になった、と言っていました」(飯沼さん) こういった悩みを抱いても、周囲に相談しづらい雰囲気もある。佐々井洋一さん(仮名、25才)の話だ。「ぼくが勤めている保育園には、男性保育士はぼくしかいません。悩むことも多いですよ。例えば母子家庭の1才の子供の場合、男性と接する機会があまりないからか、ぼくに会うたびに泣いてしまうということがありました。何もしていないのに泣かれてしまうとやっぱり寂しい気持ちになるんですが、そんなとき相談したくても、周りには女性の先輩しかいません。 一般的な会社でしたら仕事帰りに同僚の女性と2人きりで食事や飲みに出掛けたりするかもしれませんが、ぼくはそうしないようにしていました。保護者の目がありますから、変な噂や誤解を招くような行動はできない。正直、ストレスはたまる一方ですね」関連記事■ 「男性保育士着替え手伝い論争」について小島慶子の見解■ 男性保育士論争に45才女性「触診が気にならないのと同じ」■ 男性保育士の「着替え手伝い論争」についての東尾理子見解■ 宋美玄医師 「男性保育士はダメ」論争を危惧する■ 一億総活躍プラン 保育士給料アップ策の効果に疑問

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    マスコミが「男性限定」を「女性差別」とレッテル貼る理由

    、こうした“意見”は表に出しにくい。「男女平等」が錦の御旗となった現代では表立って異論を唱えると“女性差別主義者”のレッテルを貼られかねないからだ。 上智大学の碓井広義教授(メディア論)はこう言う。「特にテレビの視聴率を支えているのが女性というのもあって、日本のマスコミは『男性限定』を批判の対象にしがちで『女性差別』の事例として取り上げるところがあります。私も『女性専用車両』が登場した時は“なんじゃこりゃ”と思いましたし、痴漢冤罪防止用の男性専用車両だってあっていいじゃないかと思うのですが(笑い)。そうした意見は憚られてしまう」 こうして男性限定だけが叩かれている間に、世の中には映画館の「レディースデイ」や飲食店での「レディースセット」「女子割」など、「女性限定」のサービスが増え続けているのだ。もちろんこれらもサービス提供者の自由である。関連記事■ 上杉隆氏 深夜のゴルフ場に忍び込んで「泥棒ゴルフ」の過去■ 18歳美人プロ ショートパンツから伸びる健康的な美脚が素敵■ 中村寅吉プロ カナダカップ勝利で日本のゴルフ環境一変した■ 「美人すぎるキャディ」と話題の藤田美里 19歳の眩しい美脚■ ファッション業界も注目する19歳の美女プロゴルファーの笑顔

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    私が慶大で出会った広告学研究会という滑稽な「リア充」たち

    鈴木涼美(社会学者) 「すみません、ミス慶応の出場者を募ってる者なんですが、ぜひ出て下さい!」と当時大学に入って間もない私に声をかけてきたのはTシャツにシャツを羽織ってちょっとしたネックレスをつけた男だった。もちろん「あ、でも君の場合は勿論あれです。エントリー写真は顔のアップじゃなくて乳の谷間のアップで」というオチつきで。失礼な。 そういう、大して面白くはないけれどその場は盛り上がるような笑いを彼らは持っていた。その数ヶ月前、入学式の翌日、日吉でも三田でもない辺境のキャンパスで広告研究会の「キャンスト班」の新歓お茶会にも行った。先輩たちが飲めよ食べよその代わりぜひ入ってね、とやる例のやつである。テーブルで話題になるのは去年の海の家で誰と誰がヤッたとか付き合ったとか、一昨日の三田との合同のバーベキューで誰と誰がヤッたとか付き合ったとか、夏は誰々がクルーザーを借りるらしいとか、誰々の親はなんちゃら株式会社の社長だとか。暴行問題で揺れる慶応大学日吉キャンパス=13日、横浜市港北区  どれもこれも別にすごく面白くはないが、場がしらけずに湧く。時は2002年。ちょうど早稲田の有名サークルのトップが逮捕されたことが話題になっていた頃である。慶応の広研はそれよりは随分上品に、けれども若さで想定しうるありきたりなことはすべて内包していた。セックス、恋愛、お酒、オシャレ、不真面目、オカネ儲け、嫉妬、仲間、遊び、遊び、社会、悪意、ノリ、リアル。どれをとっても別に特別なことではない。特別なことではないが、どれも真剣に全うしようとすると結構時間と手間がかかる。 2002年当時はまだ「リア充」なんていう便利なコトバは一般的ではなかった。その代わり、慶応の辺境であるSFCには暗い、マニアック、オタク、真面目っぽい、ダサい、キモいで形容されるような在り方はたくさんあった。その対義語、アンチテーゼとして彼ら広告学研究会らの佇まいはあった。私はここ10年「リア充」というコトバが一般名詞として使用される度に、なんとなく広研の人らを想起する。 この度、そのリア充集団である広研は未成年の飲酒問題で伝統あるイベントのミスコンを中止にしてしまったことを発端とし、集団レイプ疑惑やら美人局疑惑まで浮上し、ポリティカリー・インコレクトな存在として不名誉な脚光を浴びているらしい。私は失礼なミスコンスカウトや入学直後のちょっとした飲み会などの縁しかない同サークルを擁護する義理も愛も何もないし、そもそも法律を破った人らに肩入れする熱意のある異端派でもない。ただ、彼らをただの鬼畜で非人道的な犯罪者集団として説明してしまうような安易さは、後々自分自身の首を締めるのではないかとちょっと懸念しているだけだ。おそらく杞憂に終わるし、おそらく気のせいだが、あまりにコレクトネスにとらわれると、逆に正しさへの自然な敬意を失うこともある。「若気の至り」の境目 「非リア」に対するやや批判的なニュアンスを含んで肯定されていた「リア充」という流行語だが、「非リア」という言葉の利用のされ方が当事者たちによる自己愛的な自虐である場合が多いのに対し、「リア充」は表面的には羨望として、内実はちょっとした嘲笑とともに、あるいは軽い冗談として他者を指す。フェイスブックで「いいね!」の数がものすごい量だとか、土日のスケジュールが3ヶ月先まで埋まっているとか、自分の誕生日に100人規模のパーティーをするとか、LINEの友達数が異様に多いとか。多くの非リアは自分を非リアで非モテだと自虐しながら、リア充の必死さを嘲笑う。確かにちょっと滑稽なのだ。無理して社交的であらんとしている人たちの姿というのは。画像はイメージです なぜだろうか。リアルが充実している、ということ自体は何よりも重要なことに思える。虚構が充実していて助かるのは女優や芸術家であって、この世を生きる多くの人間にとってリアルより重要なことなどないのだ。ただし、社会性をもって都会的であって充実して楽しいというのは作り出すものではなく、演出するものでもない。過剰にそれをアピールしている「リア充」はバランス感覚が悪い。 ヤンキー漫画のヒーローたちがあれだけめちゃくちゃに暴れて殴りまくってもどこか牧歌的なのは、間違いなく子供の頃から暴れて殴り殴られまくっているからだ。どれくらい殴っていいのか、知らぬ間に肌が覚えこんでいる。若さというのはそれだけでとてつもない価値があるが、間違えれば狂気や痛々しさにもなりうる。「若気の至り」の境目を生身の手の感触で探り当てる子供時代は絶対に必要だ。 強制わいせつや美人局を「若気の至り」なんていって許容する社会は危なすぎる。今回の騒動がすべて事実ならそれは糾弾されるに値する罪だ。しかし、その彼らをなぜ若さと犯罪の区別もつかない大馬鹿野郎に育ててしまったのかは一考の余地がある。 私が6歳まで育った中央区月島のマンションには付帯施設の公園があり、タイヤや丸太を駆使したアスレチックの吊橋部分から落下した時に切ったおでこの傷は今も注意深く見れば分かる程度に残っている。私がお酒を飲んで初めて吐いたのは高校時代の体育祭の打ち上げで行った安いサワーを樽で出すような高田馬場の飲み屋だった。店主が「絶対に急アルにはなるな。そうしたらもうこの店で飲み会はできなくなるんだから」と飲み会前に演説するような店だった。月島のマンションも高田馬場の雑居ビルも健在だが、アスレチック遊具もその居酒屋もいつの間にかなくなっていた。 集団レイプを若さなんていう免罪符で許容するような緩みは必要ない。しかし、子どものパックリ割れたおでこや高校生のゲロで汚れたトイレを一切の予断なく切り捨てる緩みのなさは、結果的に若さの許容範囲を理解することもなく美人局をしたり、ひたすらフェイスブックの「いいね!」のために味もわからない店の高い料理を頼む滑稽な若者たちを生み出していることには、もっと自覚的でなければならないと思う。

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    なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理

    原田隆之(目白大学教授) 名門慶応大学に通う未成年の女子学生が、有名サークルの男子学生に性的暴行を受けたと被害届を提出したことが報じられている。報道によれば、彼女は合宿所に呼び出され、無理やり酒を飲まされた挙句、複数の男子学生から性的な暴行を加えられたうえ、その様子を動画で撮影されたという。これが真実であるならば、まさに「鬼畜の所業」と言わずして何であろう。 この事件の報を聞いて、先月に行われた東京大学の男子学生による性的暴行事件の裁判を思い出した人も多いだろう。この事件でも、女性に飲酒を強要し、前後不覚になった被害者を凌辱した。両事件に共通することは、まるでゲームか何かのように、1人の人間を弄び心身に大きな傷を負わせても平気であったということだ。被害者が受けたはかり知れない傷の大きさを思うとき、これら加害者の「軽さ」に愕然とする。東京大学 これらの事件によって、「名門大学生による性犯罪が増えている」などと言うのは早計である。また、「名門大学生がなぜ」などと言う疑問にもあまり意味はない。確かに立て続けの感はあるが、名門大学生がこの時期に挙って悪党になったわけでもなければ、名門大学の教育が性犯罪者を生んでいるわけでもない。報じられないだけで、名門大学生によらない性犯罪のほうがはるかに多い。 要は、これらの事件では、卑劣な性犯罪者がたまたま名門大学生であったということであり、立て続けに同じような事件が起こったというのは偶然でしかない。確かに、東京大学の事件で犯人は「相手は自分より頭が悪いと見下していた」という内容のことを述べており、彼の歪んだ特権意識が一因であったことも事実である。しかし、それは事件の本質ではない。性犯罪は「ある種」の人間が犯すもの 卑劣な性犯罪は、名門大学生であろうとなかろうと、「ある種」の人間が犯すものであり、今回の男子学生たちにもそれが当てはまる。つまり、この種の性犯罪者の特徴として第一に挙げられるのは、女性に対する著しく歪んだ認知である。彼らは、女性を自分と同じ人格を持った人間として尊重する認知を有していない。そもそもそのように見ることができない。そのため、相手がどれだけ傷つき、苦しむかということが想像できない。 「女性は産む機械」と発言して物議を醸した大臣がいたが、程度の差こそあれ、これも似たような認知の類である。つまり、「女性は性の道具」としか見ることのできない人間が、残念ながら世の中には存在し、彼らがこのような性犯罪を起こす。酒を飲ませ、まさに人格を失わせてから行為に及んだ犯行の態様を見ても、彼らにとって相手の人格は邪魔でしかなかったことが明らかである。 かつて私は痴漢で懲役刑となった性犯罪者に対し、刑務所で調査をしたことがある。その結果からは、彼らの女性に対する露骨な認知の歪みが浮かび上がり、愕然とさせられた。彼らの多くは、「女性のほうも痴漢をされたがっている」「痴漢をされても声を上げないのは、OKの印」などと本気で考えていた。このような認知を有しているからこそ、公共の場である電車内で、誰憚らず見知らぬ他人の体に触れるという行為に出ることができるのである。 痴漢行為が卑劣な性犯罪であることは間違いないが、今回の一連の性犯罪では、はるかに悪質な数々の非人間的行動に至っている。したがって、彼らの認知の歪みもはるかに悪質であることは想像に難くない。 また、このような性犯罪者の特徴として、四六時中「性的妄想」に耽っているということも挙げられる。彼らは、女性を見ればあたかも白日夢のようにすぐさま性的なファンタジーに耽り、次はどのようにして相手を陥れ、どのような行為をしようかということばかり考えている。薬物依存者が、弱い薬物が効かなくなるとより強い薬物を求めるように、より刺激的な性行為を夢想し、エスカレートしていく。報じられているように、被害者に尿をかけたり、動画に撮影したりという倒錯的な性行動に出たのはそのためである。 これらの要因に加え、集団であったからエスカレートしたということも、彼らの心理の一面としては当たっている。ここで重要なことは、リーダー的な「首謀者」の存在である。私はかつて、早稲田大学の「スーパーフリー事件」の際に、主犯の男に面接をしたことがあるが、あの事件は、上述のような性犯罪者の特徴をすべて兼ね備えた男が主導し、周囲の共犯者が同調したものであった。アダルトビデオは要因ではない 本件を含め多くの集団犯罪がそうであるように、1人のきわめて異常な、そしてある意味カリスマ的な首謀者の存在がなければ、これらの事件は起こっていなかっただろう。とはいえ、そもそもそうした反社会的な者に嫌悪感や危機感を抱いて距離を置くのが「正常な」人間だとすれば、逆にそのような危険な人物に魅了され、付き合いを深めていた同調者たちにも、程度の差こそあれ同様の「歪み」があったことは確かである。今回の事件でも同じ合宿所にいながら、これらの行為に加担しなかった男子学生もいたということであるから、同じ状況にあっても、すべての者が同調するわけではないのである。慶大広告学研究会が合宿していた集会所=神奈川県葉山町 しかし、それでは彼らの「歪み」は、どのようにして生じたのだろうか。多くの人は、世に氾濫するアダルトビデオなどの影響を想定するかもしれない。世の中には「強姦モノ」「痴漢モノ」などの性犯罪を扱ったアダルトビデオが数多く存在する。しかし、これまでの研究によれば、こうした性的コンテンツは、そのような性的嗜好を既に有している者たちの逸脱を助長することはあっても、元来そのような嗜好を有しない者に、逸脱した性的嗜好を植え付けるものではないことがわかっている。 代わりにまず挙げられるのは、生理学的な要因である。男性ホルモンであるテストステロンの血中濃度の高さは、攻撃性や性的衝動が強めることが知られているが、このような者が性犯罪者にも一定程度存在する。環境的要因としては、家庭や友人など彼らを取り巻く環境の影響も無視できない。例えば、そこで女性を見下すような価値観が共有されていたという可能性が挙げられるだろう。 しかし、何より彼らの歪んだ心理の根底にあるものは、救いようのないほどの男性としての自信のなさである。彼らは心の底では、女性を下に見ているどころか、実は著しい劣等感を抱いている。そしてその一方で、「男は女より上でなくてはならない」という価値観にがんじがらめになっている。そのため、力で女性を押さえつけ、凌辱することで自分の優位性を得ようとする。しかし、他人を貶め、傷つけることで一時の優越感を得たとしても、当然のことながら現実的に彼らは何も高められてはいない。彼らの「歪んだゲーム」には果てがないのだ。

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    ブスは相手にしないミスコンを「見なくてよい自由」はないのか

    北条かや(著述家) 卑劣で難しい問題である。「ミス慶応コンテスト」を主催する慶応大の「広告学研究会」の男子学生らが、同大の女子学生に集団で性的暴行を加えたとされるニュース。被害にあった女子学生はどれだけ苦しかっただろう。 「不祥事」というにはあまりにも卑劣な暴力事件のために、今年のミス慶応コンテストは中止になった。当然というほかないし、もし性暴力を楽しむような「伝統」が同サークルに受け継がれているとしたら、それが「ミスコン」という「女性を容姿(≒性的魅力)によってランク付けするイベント」の主催団体であることに、直感的な嫌悪を感じた人もいるのではないか。大学におけるミスコンが、そのような「伝統」と一切無関係であると言い切れるのか。2006年、ミス慶応に輝いたテレビ朝日の竹内由恵アナウンサー 個人的な立場を明らかにしておくと、筆者は大学で行われるミス・コンテストのすべてには反対していない。が、賛成でもないし、積極的にやるべきではないという立場である。どっちつかずの曖昧さを残しているのは、「自由」をたてにされると何も反論できないからだ。 「ミスコンに参加する女性たちの自由はどうなる」「イベントを開催する学生の自由はどうなる」そのとおり。自由は最上位に置かれるべき価値観だ。やりたい人はやればよい。が、筆者は個人的な意見として、女子大生が容姿によって序列化される品評会がまるで「一世一代のイベント」のように報じられ、場合によっては景品や広告提供などの名目で巨額のスポンサーがつく現実は「あまり見たくない」と思う。 これは好みの問題で、筆者はできるだけ、その喧騒に巻き込まれたくないのである。大学では容姿のことなど忘れて学問に集中したいから、という理由もある。冒頭で述べたように、今回の慶応大サークルのように「性暴力を当然とする風土」をもつ団体が、ミスコンを主催していたという現実もあまり直視したくない。性暴力とミスコンが、どこかでつながってしまう気がするからだ。見たくもないものを、無理やり見せられているような気分になる。 「考え過ぎ」「そこまで言わなくても」という意見もあるだろうが、そういう直感をもつ人間もいるということだ。ミスコンが人気を集める一方で、「ミスターコンテスト」が圧倒的に少ないのは、外見による序列化が男性より女性に優位に働くことを示している。そして、その序列化を当然とする態度が、ときに性暴力を当然とする態度につながる可能性はある。そこに直感的な怖さを感じる人間もいるのだ。国公立大の「ミスキャンパス」に反対の理由 「ミスコンを主催する自由、参加する自由」があるというなら、こちら側の「見なくてよい自由」も保障してほしい。ただし、これは言い換えれば「見なくてよい自由」=「間接的にでもかかわらなくてよい自由」が保障されている限り、ミスコンには反対できないということでもある。大学主催のミスコンが「いちサークルの主催で行われる学園祭のいちイベント」であれば文句は言えない。こちらは、ただ黙って目を背けるだけである。 しかし、これが私たちの税金によって運営される団体によるものであれば、話は違ってくる。たとえば京都大学では度々、ミスコンが企画されては潰れるという「事件」が起きているが、国立大の公認サークルが企画するというのであれば、当然私たちの税金が一部でもミスコンに使われる可能性があるわけで、「関わらない自由」があやうくなる。国公立大学でのミスコンは基本的に反対だ。税金をつぎ込んで女性の外見を品評するくらいなら、奨学金の充実や研究費に充てた方がよほど社会のためになるであろう。 余談だが、この論理からいえば、地方自治体の実質的なミスコンである「何とか美人」「何とか大使」みたいなものもやめるべきだということになる。美しい女性が地方のPRになる、と言いたいのは理解できないこともないが、生身の人間を使うのはやめておくべきだ。どうしてもやりたいなら、2次元の美しいキャラクターに代わってもらえばよい。 筆者の主張は単純だ。民間団体が主催するミスコンには反対こそできないが、「見なくてよい自由」を保障してほしい。こちらが見なくてよいミスコンであれば、どんどんやればいい。成人雑誌のゾーニングのように、あちら側とこちら側を分かつものがあればよい。が、そんなミスコンがありえるだろうか。大学で開催されるミスコンはもはや年中行事と化しているし、特に首都圏のそれは週刊誌やネットメディアから注目を集め、大々的に報道される。 「ミス・キャンパスコンテスト」が、我々の視界から消えることはないだろう。つまりそれを見たくない人の自由は、ギリギリのところであやうい。ここまで肥大化したミス・キャンパスに、成人雑誌のようなゾーニングは難しいだろう。見たくない者は、鼻をつまんで目をそむけるしかない。自由という価値観が最上位にある限り、「ミスコンを廃止せよ」と叫ぶことの正当性は薄い。それでも我々には、「ある種のミスコン」に違和感を唱える権利があるし、女子学生を品評するその土俵がいつかまた、今回のような暴力事件と結びつかないことを祈る「自由」もある。

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    「ヤリサー」主催のミスコンなんてもういらない

    女子アナの登竜門として知られる「ミス慶応コンテスト」の主催サークルに集団レイプ疑惑が浮上した。しかも突然のミスコン中止に波紋が広がった矢先である。関係者の証言からは、その実態がセックス目的の「ヤリサー」だったとの声も聞こえてくる。もう金輪際、バカ学生が牛耳るミスコンなんてやらない方がいい。

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    美人に生まれるのは本当のところ得ですか?

    林真理子(作家)中沢沙理(2016ミス・ユニバース日本代表)美人に生まれるって、本当のところ、得なの損なの? 林真理子さんの最新小説『ビューティーキャンプ』の登場人物は美女ばかり。刊行を記念して開かれたGINGER STYLE セミナーで対談の相手を務めるのも、2016ミス・ユニバース日本代表に選ばれたばかりの日本一の美女・中沢沙理さん。世界に通用する美とはどのように培われるのか。圧倒的な美が周囲にもたらすものとは。(撮影:岡村大輔)ミス・ユニバース・ジャパンが選ばれるまで林真理子(以下、林) こんばんは。今日はお集まりいただきありがとうございます。今年のミス・ユニバース日本代表中沢沙理さんです。中沢沙理(以下、中沢) 皆様こんばんは。3月1日に開かれました日本大会にて2016年ミス・ユニバース・ジャパンに選んでいただきました。今日は皆様と楽しい時間を過ごせたらと思います。よろしくお願いいたします。2016年ミス・ユニバース・ジャパンの中沢沙理さん(南雲都撮影)林 あまりにお綺麗で、今、「おぉっ」と会場からどよめきが起きましたけれども、どうですか? 日本代表に選ばれる自信はありました?中沢 100%の自信はなかったんですが、ずっと以前よりミス・ユニバースに憧れていて、特にこの半年間は集中して取り組んできましたので、自分の可能性を信じてとにかくベストを尽くそう。そう思って臨みました。林 今回私は本を書いた仕上げとして初めて日本大会の審査員を務めましたが、大会は一次審査、二次審査とありまして……。中沢 全国47都道府県からそれぞれの代表が集まり、一次はダンス審査と、大会前に行われた2週間のビューティーキャンプでの生活態度などの結果で、まずは46人から16人に絞られました。林 47都道府県のうち、唯一棄権が出たのが、私の故郷、山梨。それで46人。まぁ、それはどうでもいいんですが。でもミス・ユニバースの苛酷なところは、なんといっても1位が選ばれる瞬間ではないですか。中沢 二次審査で選ばれた5人のうちから、4位、3位、2位と発表されて、最後残されるのが1位と5位。林 二人が手を取り合い向かい合って、その時を待つ。今回、中沢さんと向かい合った方はとても背が高くて。中沢 182センチくらいありました。林 中沢さんがとっても華奢で小さく見えたので、世界大会に行くのは背の高い子かしらと思ったんですけど。選ばれて、どんな思いでしたか。中沢 びっくりしました。身長が高い方が世界大会で有利だと多くの人が思っていらっしゃるでしょうし、それでも「選ばれたい」という気持ちが自分の中にありまして。ひらすら祈ってました。林 最後にああやって二人が向かい合うってイヤなことじゃないですか。中沢 12月から少しずつトレーニングが始まって、ファイナリストはライバルでありながら仲間でもあったので、最後は誰が選ばれても「おめでとう」と言えるようでありたいとはずっと思ってました。実際のビューティーキャンプは小説より苛酷?実際のビューティーキャンプは小説より苛酷?林 『ビューティーキャンプ』はお読みいただいているかしら?中沢 もちろんです。林 この小説はミス・ユニバースの舞台裏を取材して、「ビューティーキャンプ」という2週間の非常に苛酷な、アスリートのような合宿の模様を描きましたが、実際に体験してどうでしたか?中沢 小説と近いものがありました。実際、朝7時のジョギングから始まって夜中までダンスレッスンがある。体力的にも精神的にも大変でした。林 小説にはエルザという美の伝道師が出てきて、美しい人たちに向かって、「あなたたちは今まで美しいことで辛い目に遭ってきたでしょう」と問いかける。小中学生くらいだと「首が長い」「背が高い」と苛められ、高校生くらいになると「色目使ってる」「イヤらしい」と責められる。中沢さんはそうした経験はされたのかしら?中沢 直接的に苛められることはありませんでしたが、身長が高くて目立っていたので男の子は全然来てくれませんし、男の先生と話していると女の先生がイヤな目で見てくるとか、そういうことは確かにありました。林 いくつくらいで、“自分っていけてる"って自覚するものですか?中沢 はっきりした自覚の記憶はないのです。でも自信をもっとつけたいと思い始めたのは中学生の時でしょうか。中1で165センチはありました。林 「沙理ちゃん綺麗」って、みんなから言われたでしょう。中沢 「かわいいね」と言われたことはありますが、「調子に乗り過ぎちゃダメ」と母にずっと言われてまして。褒められた時は、素直に「ありがとう」という気持ちでいました。林 中沢さんは今歯科医を目指していて、勉強にも励んでいる。それはただ綺麗な人と言われるのがイヤだからとか?中沢 そんなことはないんですが、単純に身体や人に興味があったので勉強を続けてきたら、ここまで来ました。美しすぎる女は男からも女からも敬遠される美しすぎる女は男からも女からも敬遠される林真理子氏林 先ほど控え室で意地悪な質問をしたんですよね。ミス・ユニバースのファイナリストレベルに綺麗だと逆にモテないんじゃないかって。私も小説を書くにあたってたくさんの元ファイナリストたちから話を聞いたんですが、みんな本当に綺麗で。ある時、青山で取材して、皆さんが店の外まで見送ってくれたんですけど、他にも女の人がたくさんいる中で彼女たちだけに光が燦々と当たっている感じだった。すごい輝き。でも、彼女たちの半分以上は外国の方と結婚している。これだけ綺麗だと、日本人の男性は怯えちゃうんじゃないかな。だから、ファイナリストレベルになると、男性に対して実はあまり得してないような。中沢 男性からちやほやされた経験は本当にないです。林 モテないなんて、信じられない。高校は共学?中沢 共学で、理系コースだったので3分の2以上が男の子でした。それでもクラス内で付き合うってこともなく。大学も理系で1クラスで6年間ずっと一緒なんですが、やっぱりなにもないんです。林 学校に行く時はヒールを履いたりなさる?中沢 履きます。ヒールを履くと180センチを超えてしまうので、男性と歩く時は履かないようにとも思いますが、気を遣うのもしんどくて。林 このレベルでの美しさだと、声をかけづらいのかしら。小説『ビューティーキャンプ』のエルザは「美しさは不当に貶められている」と言います。聡明さや優秀さは努力して身につけたものだから賞賛されるけど、「美人」「かわいい」は生まれつきだから評価されにくいと。「どうせ美人だからうまくいったんでしょう?」みたいな言われ方はされたことあります?中沢 「笑っておけばなんとかなるよ」というお言葉をいただいたことがあって。半分は褒めて下さってるのかなと思いながらも、中身をきちんと見てほしいという気持ちもあります。林 ビューティーキャンプでは協調性とか前向きであるとか、そうしたことも審査対象になるんですか?中沢 そうですね。50時間ほどの講義には常にカメラが入ってまして、先生方からの評価もあるので、全く気を抜けませんでした。少しでもイメージが下がると上げるのが難しいので。その他大勢にならないよう、自分のカラーを他の人に伝えるためにはどうしたらいいか、ということをずっと考えていました。林 大会本番ではスピーチ審査もあるんですよね。中沢さんが本番で受けた質問は?中沢 あなたの人生にもっとも影響を与えた人物は誰ですか? という質問だったので、ずっと憧れていた女優のオードリー・ヘップバーンについて話しました。誰が見ても美しい女優ですが、晩年にはチャリティー活動をされてまして。外見だけではなく行動でも多くの人を魅了したところに惹かれています。林 スイスのローザンヌに旅行した時、案内の方がどうってことのないお墓の前で車を停めてくれて。それがオードリー・ヘップバーンのお墓でした。あの方は顔もほとんどいじってなくて。あえてシワなどもそのままにしてて、白人の女性にしては珍しい。ところで中沢さんは女の友達は多いのかしら?中沢 私はかわいい女の子が好きで、みつけるとすぐに声をかける方です。林 かわいい女の子同士でつるむ?中沢 そういうわけじゃないんですけど。いろいろな方と知り合いたくて、キャリアを積んでる方から、専業主婦になってお子さんもいらっしゃる方までいます。林 モデルさんって同じくらいの美しさの人たちと一緒にいるのが楽で、普通の人とは群れないって、ご本人たちからお聞きしたことがあります。中沢 確かに特殊な仕事なので、お互いの環境を言い合えるという意味では落ち着きます。でも私の場合は好奇心の方が勝ってるかもしれません。林 今日びっくりしましたが、まだ22歳? この威厳。この落ち着き。2012年のミス・ユニバース日本代表の原綾子さんにお目にかかった時、彼女も若いのに、辺りを睥睨するような威厳があって。女王のようなオーラを発していた。ビューティーキャンプで身につくものなのかしら?中沢 ビューティーキャンプを始めとするミス・ユニバースの活動を通じて、考えはぶれないようになってきたとは思います。完璧な肉体美は偏見をもはねのける完璧な肉体美は偏見をもはねのける林 この間の日本大会を見てると、舞台上の皆さんがすごく楽しそうで。水着姿だけど、羞恥心なんて皆無。音楽に合わせてリズムにのって、「私を見て」って歩く。ターンする姿も、一朝一夕で作れるものではなくて圧巻でした。 そんなことと比べるなと言われそうですが、昨夜テレビで女芸人たちが、それこそ恥ずかしげもなくお腹を見せて笑いをとっていて。その対極がミス・ユニバースなわけですが。贅肉のひとかけらもないボディに、完璧に伸びた脚とくびれ。イヤらしい目で見ることができないくらいの肉体美。80年代にミスコン批判がありましたけど、そうした偏見をはねのけるほどでした。中沢 私自身、普段は肌をだすことに抵抗があって、女友達と行く温泉さえイヤなんですが、今回ミス・ユニバースに参加するにあたって、水着に着替える時間が限られており、そんなことにこだわっている場合じゃなくて、全員の裸を見飽きるくらいに吹っ切れました。苛酷な2週間の最後の締めくくりだから、舞台の裏で「みんなで盛り上げよう」と円陣を組んで臨みました。林 今後は歯医者さんのお勉強も続けていく?中沢 軸は変わってません。勉強は最後までやりたいですし、それに加えてミス・ユニバースという新しいブランドや知識を取り入れて美容と健康も伝えていけるようになりたいです。もともとファッションが好きなので、メークや服の着こなしなども発信していきたいと思ってます。林 今日のメークはご自分でされたとか? 今日の方が、大会の時より綺麗。中沢 大会時はプロのメークさんにミス・ユニバースらしいメークをしていただきました。今はミス・ユニバースのブランドイメージと、2016年の新しい私にしかない魅力を伝えられるメークを研究中です。強くてゴージャス。世界で通用する美とは林 数年前の日本大会ではたかの友梨さんが審査員でした。「あの子かわいいですね」と言ったら、「確かにかわいいけど、世界大会でどうなんでしょう」とおっしゃって。それが印象に残って小説で使わせてもらいました。難しいですね。世界が求める美しさは強くてゴージャス。日本人はそういうのがわりと苦手のようで。中沢 今回、本を読ませていただき、そのシーンはとても印象に残りました。実際のキャンプ中でも、かわいらしくて日本人が好きそうなタイプの方もたくさんいて、でも目標は世界なので、世界でどうアピールできるかを、私も小柄な方ではありますが、ずっと考えてます。林 中沢さんはアジアンビューティーだからアジアとか日本を前面に出すのはどうですか。中沢 日本人として育ってきましたので、日本の良さをアピールすることは大事だと思ってます。日本と日本人女性の良さを伝えていきたいです。林 これまでだと知花くららさんは日本人だったら誰もが好きなタイプで、その後の森理世さんは強烈な個性を放って世界一の美女になった。世界に通用する美を手にするのは大変なこと。中沢 世界大会は80カ国くらいから集まってきて、国によって美の基準もバラバラ、肌の色も違う。そんな中で単純に日本人が見て顔がかわいいとかスタイルがいいというだけでは世界で目立てない。内面も含めて世界基準で誰もにいいと思っていただけるようにならなくては。林 日本の男性は狭量で、自分よりも背が高い女性とか強い個性を持つ女性を敬遠する傾向があって。そうした男性と合わせ鏡にある日本の女性はいつまで経っても「かわいい」を第一に考えるところがあると、『ビューティーキャンプ』の書評にありました。中沢 日本の男性が望むのは、自分の一歩後ろをついてくる気の優しい女性なのかなと思いますし、そういうふうに実感する場面もたくさんあります。でも世界で、日本でももちろんそうですが、活躍するためには、自分を出していかないといけないと思ってます。そうしないと成長も難しいのかな、と。林 私が取材でお会いした日本人男性と結婚した元ファイナリストたちの多くが離婚されてましたよ。男性側が受け止めきれないんでしょうね。でもいいじゃないですか。世界に羽ばたいて外国の方と結婚するというのも。中沢 そうですね。結婚願望はありますので、世界でいろいろな方と出会える機会が今後あるとすると楽しみです。起き抜けの白湯とストレッチ、フルーツの効用起き抜けの白湯とストレッチ、フルーツの効用3月8日、滋賀県の三日月大造知事(手前)を表敬訪問、談笑する中沢沙理さん林 これだけの美しさを保つために気をつけてらっしゃることがあれば、最後に教えて下さい。聞いても無駄なような気がしますけど(笑)。お肌のためにやっていることとか?中沢 日焼け止めは、春先も冬も、肌に負担のない範囲でつけてます。林 ダイエットはなさったりする?中沢 ビューティーキャンプの時は体力的に厳しくて、一日三食プラス補食を2回とか食べてました。もともと食べることが好きで、東京で美味しいものを探すのが趣味です。小さい頃は新体操と水泳、中学高校はバレーボール部、今はヨガを中心にジムに通ってます。ダイエットをやるというより、運動して食べる感じです。林 この間対談で堀北真希ちゃんにお会いしたら、中学時代にジャージ姿のところをスカウトされたそうで。ジャージ姿から今日の彼女の美しさがわかるなんてすごい。中沢さんもスカウトされたとか。中沢 高校時代にたまたま東京に遊びに来ていた時でした。林 どこを歩くとスカウトされるのかしら?中沢 表参道です。林 ヒエー。やっぱり綺麗だったんでしょうね。普段はお水などにも気をつけてらっしゃる?中沢 水分をたくさん摂ろうとは思ってます。起き抜けに白湯を一杯飲んでから動くようにしてます。その後軽くストレッチして、フルーツを少し食べる。それはこの5、6年続けています。林 世界大会に向けてそろそろ準備も本格的に始まりますか? 数年前に取材の一環で、ラスベガスで行われた世界大会を見に行きましたが、中南米の人たちの応援がすごかった。彼らは世界一になると一族郎党がお金に困らないくらいのお金持ちになれる。日本だと賞金もないそうですけど。プレッシャーをかけるわけじゃないですが、そのくらい国を懸けてやってる人たちとの競争は大変ですね。ぜひ頑張っていただきたいです。中沢 楽しんでやりたいと思います。林 ここにいる皆さんも応援してます。頑張ってください。はやし・まりこ 1954年山梨県生まれ。82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』でデビュー。86年『最終便に間に合えば/京都まで』で直木賞を受賞。95年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞を、98年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞。週刊誌や女性誌の連載エッセイも人気で『野心のすすめ』は大ベストセラーとなる。近著は『中島ハルコの恋愛相談室』『マイストーリー 私の物語』など。なかざわ・さり 1993年滋賀県生まれ。2016ミス・ユニバース日本代表。現在、都内の医療大学に通う。身長171センチ。関連記事■ 人はなぜ“苦しい恋愛”にハマるのか?■ 「忙しくて整理ができない」の悪循環から抜け出すには■ 戦争は体験してない。なのに身体に沁み込んでしまった戦争の記憶

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    早大生の停電デマ、慶大生の女性中傷 驚愕の「デジタルネイティブ」たち

    【ネット炎上のかけらを拾いに】網尾歩 (ライター) 週刊誌『AERA』10月8日発売号の第一特集は「早稲田vs.慶應」。たびたび話題になる私大の2強を取り上げた企画だったが、皮肉なことにネット上では両大学の学生による“不名誉争い”といってもいいような騒動が巻き起こっていた。停電に乗じた差別的デマをつぶやいたのは、早稲田大学在学中と思われる人物。一方、慶應大学では集団強姦容疑での捜査が報じられていることに関連し、複数の学生が女性を中傷する内容のツイートを行っている。デマを問われ「お口にチャックです」 プロフィール欄に「早稲田大学」、さらに所属学部名を書いた人物がデマをつぶやいたのは10月12日。都内で停電が起こったことに乗じて、「新宿のBURB〇RRYにいるんだけど停電発生 中国人がバックを掴んで逃走→自動ドア開かず、全力で衝突→気絶して警備員取り押さえ→客の悲鳴」(原文ママ、以下同)などと書き込んだ。ツイートは速いスピードで拡散されたが、当初からデマではないかと疑う人もいた。 その後、ニュースサイトBuzzFeedが検証を行い、デマであることを確定(※参考:【更新】「停電時に中国人が火事場泥棒」デマ、投稿者は取材拒否の後に投稿削除)。ここまでであれば、たまに現れる悪質な愉快犯的ユーザーだ。しかしここからがひどかった。 BuzzFeedの記者がこのユーザーに取材を申し込むと、「バズ何とかのトラフィックに貢献するのが嫌なのでお口にチャックです」と拒否し、さらに 「どうでしょう、BuzzFeedで、もう二本程、現状をテーマに記事を書いてみては。デマと噂されるツイートと、それに群がる人達をうまく記事にできませんか?」 などと、どこから目線なのかわからない提案。記者が「まず第一に(略)ツイートが真実であったのか否かをお答えいただきたいと考えております」と投げかけると、 「うーむ、それが通るのは本当に素人だけだとおもいますよ。まずはお互いにwin-winな状況をそちらが見せてくれないと、私は動きたくないですね」と返答した。 念のためにもう一度説明するが、このユーザーはデマの発信源である。熊本地震直後には、動物園からライオンが逃げ出したというデマをツイートして後に偽計業務妨害で逮捕された男がいたが(過去記事参照)、緊急時のデマは非常に危険であることは言うまでもない。自分のデマを指摘されてのこの態度はあまりにも図々しい。その後、この人物はアカウントを非公開にし、裏アカウント(サブ用のアカウント)も非公開にしたままだが、こちらには現在も大学名と所属学部をしっかりと書いている。 また、このユーザーが過去に障がい者や被爆者を中傷するような内容や、「女をレイプしろ 警察を殺せ」「尊師と飯食いながら、小学生の女の子どうやってレイプするか相談すんの楽しかったし、またやる必要ありだな」など、犯罪を示唆するツイートも行っていたことがわかっている。 プロフィールにウソの大学名を書いている可能性もあり得るが、この人物の場合、これまでの友人とのやり取りや画像から、早稲田大学の学生である可能性が極めて高い。 眉をひそめた方は、次でさらにあ然とするかもしれない。倫理よりもノリを重視 慶應大生のツイートの数々倫理よりもノリを重視慶應大生のツイートの数々 ミスコンが中止となり、その原因が広告研究会の集団強姦だったのではないかと報道された慶應義塾大学。警察が捜査を開始したことも報じられている。この件に関連して、アイドル活動を行う同大の女子学生が、ミスコンに参加した際の面接でセクハラを受けたことをツイッターで訴えた。 このツイートは現在までに数千回RTされているが、これを見た一部の慶應大生が、女子学生への中傷を開始。「ぶっ〇したくない?」「ぶち込んでやって下さい」といった、暴力を示唆するようなツイートさえあった。さらに、女子学生本人がこれを見つけて反論を行うと、攻撃はさらにエスカレート。他ユーザーからの非難をあざ笑うかのような態度を取り、最後はツイートを勝手に「晒された」と責任を女性に押し付けるようなつぶやきまで行った。 また、この学生とは異なるグループの慶應大生は、集団強姦の際に自分が撮影役だったという「冗談」を投稿。このツイートが拡散されると調子に乗ったのかさらに悪ふざけを続け、 「(セクハラをツイッターで訴えた女子学生を)叩けば本人が直々に晒してくれてフォロワー増えるってマジ? 牛丼は反応してくれないしこっちに浮気しようかな」(※牛丼は別の女子学生に対する揶揄) 「取り敢えず(同女子学生を)叩くことで注目を集めたい僕(略)お、おっ、おっぱい!!」 と女性の画像の一部を加工・強調してツイートをした。 この学生は過去に、 「女子小学生がたまらんかわいすぎて20になって顔写真付きで報道される前に逮捕覚悟で誘拐したい」 「痴漢魔の友人に座右の銘を聞いたら思い立ったが吉日と即答されてすごい納得した」 「おは幼女 今日も朝から女子中学生見学会に行ってきたんだけど野球部しか練習してなくて体育館まで潜入するかなぁとなっている」 といったツイートを投稿。実際に小学校の正門や校庭を撮影したツイートもあった。 筆者が驚いたのは、当然ながら非難されたこれらの学生に対し、他のユーザーは「(炎上に)負けずに頑張って下さい」などと応援したり、同じようにセクハラ的なツイートを行ったり、窘める人を煽ったり、集団強姦の被害者を「レイプされに行ったやつ」と表現したりしていたことだ。 プロフィール欄に慶應大学と書き、学部や学科名も出し、大学構内で撮影した風景や友人の画像を頻繁にアップしている状態で、だ。友人から本人の画像がアップされている場合もあった。匿名とはいえ簡単に個人を特定できるような状態で、こういったツイートをしているのだ。 問題のあるツイートは、探さなくても目に入ってくるほど多かった。ツイートは多くの「いいね」がついているものもあり、仲間内では顰蹙を買うどころか「ウケる」ツイートとして受け入れられていたようだ。 広告研究会の集団強姦が事実であったとすれば、こういった「倫理よりもノリ」を重視するキャンパス内の雰囲気も原因の一つではなかっただろうか。「小女子事件」や内定取り消し騒動を知らないのか「小女子事件」や内定取り消し騒動を知らないのか 少し前に流行ったデジタルネイティブという言葉がある。1990年代以降生まれを指すことが多く、生まれたときからITに触れ合う環境があったことを意味する。デジタルネイティブは「ITを直感的に使いこなす」「SNSでの距離感が絶妙にうまい」「ネット上での自己プロデュースがうまい」など、ポジティブなイメージを持っていた人も多いだろう。 バカッターという言葉があるように、バイトでの不正行為をツイートして若者が次々と炎上する現象もあったが、これもいったん収まり、数々の屍を踏み台としてインターネットの世界は教訓を得たと思われていた。しかし、このような大学生のツイートを見ると過去の炎上や、ネット上の犯行予告で逮捕者が相次いだことを知らない層もいるのかもしれない。 数年前には「小女子を焼き〇す」「おいしくいただいちゃいます」と書き込んだ男が逮捕されたり、立教大学の学生が起こしたレイプ事件について「別に悪いと思わない」「女がわりー」などと書き込んだ同大生が炎上して内定先企業が内定取り消しをしたと思われる発表を行ったりしたことがあったが、今の学生はこういった例を知らないのだろうか。リアルで言えないことを言うのがツイッターであり、悪乗りにノレないユーザーはKY。そんな、かつての2ちゃんねるのような空気を、一部の学生は感じてしまっているのかもしれない。 学生がこういったツイートをしてしまう背景にある他の要因として、狭い世界で周囲から受け入れられていると錯覚してしまう点があるのだろう。普通なら顰蹙を買うようなツイートが、仲間内からは「いいね」されたり、「また言ってるww」と苦笑を返されたりする。本当は画面の向こうで眉をひそめている人がいるのかもしれないが、相手がアクションを取らない限り、それはネット上ではなかったことになる。自分に好意的な反応だけを目にしているうちに、それに応えるために徐々に過激なツイートをしてしまう現象は確かにある。また受け手側も、周囲が「いいね」を押しているからアリなのだと錯覚し、感覚が麻痺していくのだろう。 ツイートが炎上した場合、かつては即刻アカウントを削除する人が多かった。しかし今回紹介した学生たちは皆、すぐにはアカウントを消さずに粘ろうとしていた。さらに「凍結された場合はこちら」と最初からサブ用のアカウントへ誘導していることもある。いったんやり過ごせば、次第に炎上の注目度は下がると知っているのかもしれない。もしくは炎上してもなおアカウントを消せないほど、そこでのつながりにしがみついているのかもしれない。

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    3年夏が山場 女子アナ志望就活生の合言葉は「ミスコン出る?」

     厳しい大学生の就職戦線のなかでも、群を抜いて熾烈なのが「女子アナ」の採用試験である。 民放キー局(日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジテレビ)の昨年の女子アナ採用人数はわずか7人。少ない“枠”を目指し、競い合う就職活動は過酷だ。 女子アナ就活の最初の山場は、3年の夏に訪れる。各テレビ局が実施する「1日アナウンサー体験」のようなセミナーである。 そして、セミナーが行なわれるのと同じ時期、女子アナ就活生の間では「ミスコン出る?」が合言葉になる。 ニュースキャスターに憧れ、昨年、キー局入社を目指したAさん(23)がいう。「女子アナにはミスコン出身者が多いので、選ばれれば箔づけになる。私はニュースキャスター志望だったので違和感を感じて出なかったけど、周りの子たちは真剣にエントリーするか悩んでいました」 ちなみにミスコン出身者の女子アナは、「ミス慶應」の中野美奈子(元フジ)や青木裕子(元TBS)、「ミス青学」で準ミスだった田中みな実(TBS)など多数いる。

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    「不当に責められすぎている」 性犯罪者はなぜ反省できないのか

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 強姦致傷の容疑で逮捕されていた高畑裕太氏は、被害者との示談も成立し、不起訴処分となり釈放されました。釈放時の仰々しい謝罪の仕方が芝居がかっているとか、集まったマスコミ人をにらみつけているように見えるなど、様々な報道がされています。会見冒頭、頭を下げる高畑淳子さん=8月26日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影) これで、裁判が開かれることはなくなり、事実が裁判で明らかにされることもなくなりました。高畑裕太氏が今何を感じているのかも、わかりません。 ただ、一般的に性犯罪者は反省することが難しく、再犯率も高いとされています。なぜ、性犯罪者は反省しにくいのでしょう。強姦か同意か 強姦は、暴行や脅迫による性器の挿入ですが、性交自体は同意なら犯罪ではありません。ただ、この「同意」がよくわかりません。ある犯罪者は、女性をどんなに脅し、殴っても、最後に女性が「はい」と言えばそれは同意だと本気で思っていました。彼の最初の性体験は、強姦でした。 法的には、加害者が同意だと思い込んでいただけなら罪に問えるでしょうが、多くの人が同意と思っても無理はないとなれば、強姦罪が成立するかどうかは微妙でしょう。 さらに性犯罪者の多くは、認知がゆがんでいます。普通の人なら、たとえ女性がはっきり「ノー」と言っていない時でも、拒絶しているとわかるのに、彼らにはわからないことがあります。女性が苦しんでいたり、恐怖を感じていても、彼らは共感することが難しいのです。「同意だと思った」というのは、嘘であり裁判での言い訳という場合もありますが、誤解して思い込んでいる場合もあるのです。これでは、なかなか反省できないでしょう。共感されにくい性犯罪被害 ある女性が、尊敬する男性の別荘に行った。男性は女性にキスを迫る。女性は拒むのだが、拒みきれずキスされ、さらにホテルに誘われる。もしもこのような出来事があれば、どうでしょうか。 たとえどのような関係の男女がどこにいても、同意なしの性的行為は許されません。けれども、世間ではなかなか納得しない人もいるでしょう。別荘に行った女性が悪い、キスぐらいで騒ぐなという人もいるでしょう。 性犯罪は、刑法上は軽いわいせつ行為でも、被害者は人生が左右されるほどに深く傷つくこともあります。しかし、体の怪我や金銭被害に比べて、心の傷はわかりにくいのです。 見知らぬ人からの行為で傷つこともあれば、身近な人による行為で傷つくこともあります。交際中の男性に無理やりセックスさせられる「デートレイプ」で深く傷つく女性たちもたくさんいます。 わいせつ行為ではなく強姦ですら、乱暴な男性の中には、「減るものじゃなし」などという人もいます。強姦は、魂の殺人とさえ言われているのにです。 女性が強姦される恐怖は、男性が去勢される恐怖だと言う人もいます。男性が、誰かに男根を切断された時に、女性たちが「そんなものなくても生きていける」などと語ったらどうでしょうか。 加害者自身の共感性が弱く、世間の被害者への共感も低いなら、加害者が反省できなくても不思議ではありません。裁判、そして示談裁判 少年が強姦事件を起こした場合などは、関係者一同が本人を反省させようとすることが一般的ですが、大人の裁判では違います。検察側と弁護側が戦います。 被害者とされる女性が、いかに普段から性的に奔放だったかとか、事件発生時も男性を誘うかのような行為をとったかなどが指摘されることもよくあるでしょう。 これが例えば路上強盗事件なら、いかに被害者が強欲だったかとか、当日どれほど高価なスーツを着て偉そうに歩いていたかなどは、問われないでしょう。 たしかにケースとしては、女性が同意していたのに、後から男性を訴えることもあるでしょう。これで逮捕有罪となれば、冤罪です。しかし本当に強姦なのに、女性側の責任が問われるような裁判のスタイルは、加害者男性の反省には悪影響でしょう。示談 強姦罪は、親告罪です。強姦致傷や集団強姦は、違います。強姦罪が親告罪なのは、裁判を始めることが被害者にとって不利益になることがあるとの配慮でしょう。 本当は100パーセントの被害者でも、性犯罪被害者は不当に責められ、傷つくことが多くあります。弁護士の中には、その点を強調し、示談を迫る人もいると言われます。 強姦罪で一度は逮捕されても、示談が成立して釈放となれば、反省をしない加害者もいることでしょう。 以前、ある教育系の大学で、6人の男子学生が19歳の女性学生への集団準強姦罪で逮捕される事件がありました。サークルの宴会で、酔った女性を別部屋に連れ込み、6人の男性が次々と襲ったとされた事件です。集団準強姦罪も集団強姦罪も刑の重さは同じです。大学は、彼らを停学処分にしましたが、被害者女性は後に示談に応じました。 この事件を、検察は不起訴としました。不起訴にも種類がありますが、このケースでは、「起訴猶予」でした。起訴猶予とは、被疑事実は明白でも、様々な状況から訴追を必要としない(公判が維持できない、有罪にできる見込みがない等)と判断されたものです。 学生側は、起訴猶予処分を受けて、停学処分を下した大学の処分が不当として民事裁判を起こします。一審は、被害者女性が証言台に立つこともなく、学生側勝訴でした。学生は、疑いが晴れたと喜びの涙を流し、弁護士は「ある意味、刑事事件での無罪にあたる」とコメントしています。 しかし、その後の二審の高裁判決では、大学の行なった処分は教員養成大学の社会的責任として合理的な措置であるとして、地裁の判断を大きく見直す判決が下されています。 この学生らによる事件も、今回の「高畑事件」も、示談や不起訴が絡む事件です。どちらも、様々な推測はできるものの、事実は闇の中です。多くの場合当事者しかいない性犯罪、強姦事件は、事実の解明が困難です。被害者女性が不利益を被りかねない現状では、捜査や裁判への協力が得られなくても、女性を責められません。 示談成立、不起訴でも、深く反省できる人はいるでしょうが、示談と不起訴で、自分はやはり悪くなかったと感じる人もいることでしょう。 「疑わしきは罰せず」ですし、たとえ事実があっても、家族や弁護士が、当人を守るのは当然です。示談を求め、不起訴や無罪判決を願うのは、当然です。しかし、本当に当人を守るとは、事実があるとするなら反省させ、更生させることではないでしょうか。性犯罪加害者の反省と更生のために性犯罪加害者の反省と更生のために 刑事事件としては、不起訴や無罪でも、社会的制裁を受けることはあります。完全に冤罪であるならば、社会的制裁も受けるべきではありませんが、有罪判決は出なくてもルール違反や不道徳な行為はあった場合は、学校や会社が処罰を下すのは、一般的です。 さらに、起訴されれば正式な処分が下され、有罪となれば社会的生命が奪われることも多いでしょう。 問題は、これで加害者が反省するかどうかです。多くの加害者は、自分が不当に責められすぎていると感じています。 彼らの中には、女性蔑視の思いがあったり、男女の人間関係の感覚がゆがんでいたり、世の中全体を見る目がゆがんでいることもあります。大切なのは、彼らの価値観を正し、認知の歪みを取ることです。 犯罪者を甘やかすべきではないと思います。しかし、不当に責められていると思っている人を責め立てるだけでは、彼らの心はさらに固くなり、反省がかえって難しくなったり、形だけの反省になったりします。 彼らに深い罪の意識を持ってもらうためには、時にカウンセリング的なアプローチが必要です。彼らの言い分を一度は傾聴し、その上で、自分の考え方の歪みを自覚してもらう方法です。 このような性犯罪者への更生プログラムは、再犯防止に効果を上げています。 性犯罪者を反省更生させるためには、有罪になってもならなくても、更生プログラムを受けることが大切だと思います。さらにその前提として、罪を憎むと同時に、たとえ罪を犯してもやり直す価値はあると感じさせること、そして社会全体で被害者への共感と支援の思いを強めることが大切でしょう。(「Yahoo!ニュース個人」より2016年9月13日分を転載)

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    コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス

    昼間たかし(ルポライター) 大阪府堺市が3月から始めたコンビニエンスストアの成人向け雑誌に対する新たな「規制」をめぐり、出版業界との間に深刻な対立が起こっている。「人権」が絡んだ途端に思考停止する堺市行政の体質が原因なのか、既に2カ月あまりに及ぶ問題に解決の糸口は見えていない。  問題の発端となったのは、3月16日に堺市が始めた「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定」だ。これは、堺市の呼びかけで市内のコンビニエンスストアの成人雑誌陳列棚に同市が制作した目隠しを取付け、個別の包装の実施を行うというもの。堺市の呼びかけに市内のファミリーマート11店舗が、これに応じた。 この施策の発端となったのは堺市が取り組んでいる女性や子供が暮らしやすい「堺セーフシティ・プログラム推進事業」。この施策の中で、堺市は2014年からUNWomen(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)が取り組むセーフシティーズ・グローバル・イニシアティブに参加。その中で実施された、現状と問題点を報告する「スコーピング・スタディ・レポート」で「コンビニエンスストアに性暴力を主題としたものを含むポルノ漫画やポルノ雑誌が、目につく形で展示されている」という批判がなされたのを受け、コンビニエンスストアを対象にした協定を実施することになったという。成人雑誌にカバーをつけた陳列イメージ。下は子供の視線を遮る横長の板(堺市提供)  まず問題となるのは、この協定で目隠しを取り付けた棚に陳列され、シール包装すべき対象となる雑誌・書籍だ。堺市とファミリーマートが結んだ協定では「大阪府が府青少年健全育成条例で定める有害図書」が対象だと記されている。現在、長野県を除く46都道府県には「青少年健全育成条例」による「有害図書(東京都のみ「不健全図書」と呼称)指定」制度が存在する。この条例の目的は、過度な性表現や暴力を扱う雑誌・書籍が青少年に悪影響を及ぼすものとして18歳未満への販売を禁じ、店頭では棚を区分陳列し包装や目隠しなどを施すことを定めるものだ。 制度自体は、ほぼ全国に存在するが、まともに運用されているのは東京都だけ。東京都では1964年の条例制定以来「個別指定」制度を導入。これは、都の職員が書店などで指定されるべき候補を購入し毎月一回開催される東京都青少年健全育成審議会(都議や業界団体代表、識者などで構成)に判断を仰ぐものだ。 これに対して、大阪府をはじめとする多くの道府県が実施しているのは「包括指定」と呼ばれる制度。これは性や暴力表現が条例の定める基準を超えたものが、自動的に「有害図書」になるという制度だ。大阪府の条例では「全裸又は半裸での卑わいな姿態、性交又はこれに類する性行為で下記の内容を掲載するページ(表紙を含む)の数が、総ページの10分の1以上又は10ページ以上を占めるもの」とされている。つまり、現状でも大阪府では書店やコンビニエンスストアが「全裸又は半裸での卑わいな姿態」か否かを判断し「総ページの10分の1以上又は10ページ以上」かを数えなければならないことになっている。とりわけ「卑わいな姿態」の判断は、極めて主観的だ。これを補う目的で、大阪府は数年に一度「個別指定」を行って判断基準を示すことになっているのだが、2010年を最後に実施されていない。「自主規制」にタダ乗りしようとする堺市 「有害図書」がなにか曖昧なままに、実施される堺市の施策。結局、コンビニエンスストアが堺市から送付されるフィルムで包装しているのは「2点シール止め」を施した雑誌になっている。 出版業界がもっとも憤慨するのは、ここである。 「2点シール止め(または「小口シール止め」と呼称)」は、2004年から出版業界が導入した「自主規制」だ。これは、書店やコンビニエンスストアで青少年が立ち読みできないようにするために行われているものだ。 ゲームソフトやアダルトビデオが販売前に倫理団体の審査を受けるのに対して、出版は倫理団体を持たない。そのためパッと見は野放図な印象を持たれるが、様々な形で自主規制が行われている。 出版業界の自主規制のための組織として、日本雑誌協会・日本書籍出版協会・日本出版取次協会・日本出版物小売業組合全国連合会の業界4団体による出版倫理協議会がある。この協議会に設置された出版ゾーニング委員会には、アダルト系出版社の業界団体である出版倫理懇話会も参加している。日本出版取次協会も参加していることから、雑誌・書籍の流通システム上、出版倫理協議会の決定にはすべての出版社は従うことになる。 現状、前述の「2点シール止め」に加えて、出版社では過激な性表現を扱う雑誌・書籍は最初から「18禁」「成人向け」の自主規制を行う。「18禁」の場合、取り扱う書店は最初から心得た限られた書店になる。 こうした自主規制や組織が存在する背景には、出版業界が戦後70年あまりにわたって、幾度となく「俗悪」と批判されたり、国や地方自治体による法規制に抗してきた歴史の積み重ねがある。「2点シール止め」もまた、出版業界にとっては苦渋の決断だった。なぜなら、一冊数百円の雑誌に対してシール止めは20円あまりの工賃がかかる。文字通り、出版社が身銭を切って行っている自主規制なのだ。堺市の施策は、そこにタダ乗りしようとするものである。 加えて問題となっているのは大阪府の条例からの逸脱だ。大阪府の青少年健全育成条例施行規則では、「有害図書」の区分陳列の方法として「ビニール包装、ひも掛けその他これらに準ずるものとして知事が認める方法により有害図書類を容易に閲覧できない状態」としている。大阪府では「2点シール止め」は「その他」に該当すると判断している。これに対して、堺市のフィルムは幅12センチにも及ぶもので、雑誌・書籍の表紙の大部分が見えなくなる。府の条例から逸脱した施策が「協定」という形で議会にも諮ることなく実施されているのである。的を射ていないのはどちらだ 堺市の協定に対して日本雑誌協会と日本書籍出版協会では、3月18日にこれらの問題点を追及した公開質問状を送付した。堺市は3月31日に回答したが「協定は民間企業との間で実施しているもので、府条例からは逸脱しない」「民間の取り組みで、離脱することもできる」とし、施策に問題はなく変更はないという態度を示した。さらに、回答に先立って堺市の竹山修身市長はTwitterで「雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当(註:的外れの意)です」と、半ば嘲笑するような発言を行った。二月定例会を終え定例記者会見です。提案の議案は全て可決頂きました。記者連から有害図書のコンビニ掲示、相次ぐ政務活動費監査請求、政令市十年の総括等の質問がありました。雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当です。 pic.twitter.com/mcLDLNPhEM— 竹山おさみ(堺市長) (@osamit_sakai) 2016年3月25日  こうした堺市の態度は、さらに出版業界の反発を呼んだ。日本雑誌協会編集倫理委員長の高沼英樹氏は筆者の取材に「的を射ていないのはどちらでしょうか。あなたたちこそ、そうでしょうと言いたい」と怒りを隠さず、堺市の回答に対しては「声明を出して終わる問題じゃない! 徹底的にやりますよ」と話した。 回答の後、両協会では4月4日に「協定」の即刻解除を要求する声明を発表。対して、竹山市長は定例記者会見で「(ほかのコンビニでも進めていきたいという考えに)変わりない」と発言。これを受けて、両協会は新たに申入書を送付しているが、以降堺市からの返答はない。 そこで、堺市に返答しない理由を尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。 「(申入書は)特に回答を求めているのはないので、頂いたということで……様々なご意見を頂いてはいますが協定を解除する予定はありません」 堺市には、出版業界の努力を踏みにじる過度な規制が、言論・表現の自由の侵害へと繋がっていくことへの想像力が欠けているようだ。協定による施策を実施しているファミリーマートは、現在も11店舗のまま増減はないという。11店舗で成人向け雑誌を包装したことで女性や子供が暮らしやすい都市ができると、本気で考えているのだろうか。「人権問題になると、基本的に思考停止してしまう」 ここで思い出されるのが、2008年に堺市で起こったボーイズラブ(BL、主に女性読者を対象とした男性同性愛を描く作品)図書撤去問題だ。これは堺市立の4図書館がBL小説を書棚に置いていたことに対して市民から「セクハラではないか」「子どもに悪影響を与える」と苦情が寄せられたことに端を発する。これに対して堺市は「今度は、収集および保存、青少年への提供を行わないことといたします」と回答し書庫に収蔵する措置を取った。ところが、この問題が全国紙でも報道されると、今度は市民から「図書館には実に多様な資料が収集され、利用者に提供されています。それらの資料の中には、ある人にとって気に入らない資料が含まれています」となどとする批判が殺到。結局、堺市では条例の「有害図書」にあたらない、として書庫への収蔵や貸し出し制限は行わないことを決めた。平成28年度当初予算案の記者会見に臨む堺市の竹山修身市長=2016年2月10日 筆者もこの騒動の渦中で、現地を訪れて多くの関係者に取材した。市民のための図書館はどうあるべきか。娯楽本やポルノを公共図書館は収蔵すべきかなど論点は尽きなかった。だが、その中で気になったのは市立図書館の関係者に取材した時である。 「まずは、なにがBL図書にあたるのか洗い出し作業を行っています」 そう話す担当者が見せてくれた資料には、明らかにBLではないジャンルの小説までもが、いくつも記載されていたのである。そこには「とりあえず、嵐が過ぎ去るまで、なにかをやっているフリ」が匂っていた。 その匂いの正体を教えてくれたのは、日本図書館協会・図書館の自由委員会委員長の西河内靖泰氏である。西河内氏が堺市が迷走した背景として、様々な人権問題が行政闘争によって解決されてきた歴史を語り、こう指摘した。 「堺市は人権問題になると、基本的に思考停止してしまう。ほとんど正常な理屈が通らなくなってしまう行政の体質があるんです」 この時の取材から導き出されるのは、堺市では「人権」への取り組みが市民に対する大きなパフォーマンスになると行政が考えていることである。堺市はファミリーマートと協定を結んだことを大々的にアピールするが、施策を実施している店舗は11店だ。電話帳で調べたところ堺市内のファミリーマートは34店。コンビニエンスストアは288店舗である。 これだけで、堺市の行政も、出版業界を挑発する竹山市長も、本気で女性や子供が暮らしやすい街を目指しているとは思えない。出版業界からの声明、申入書にも動じないのは、言論・表現の自由に無理解だからではない。本気で「人権」のことなど考える気すら持っていないからである。 粗悪な「人権」パフォーマンスを自画自賛する堺市。きっと、市民から「協定」に対する苦情が寄せられた途端に、また迷走するだろう。その姿が目に浮かぶ。 だが、最後に歩みを留めて考えたい。社会的に「弱者」とされる側に寄り添うふりをして、錦の御旗を得たかのように振る舞う姿を見るのは、ここだけではないということを。 「弱者」だとか「被差別」とされる側と社会との関わりは、一様ではない。そこには複雑な関係が絡み合っていてなにが真なのか、回答などない。その複雑な社会や人間というものを描くためにも、やっぱり言論・表現の自由は限界まで制限されるべきではないと考える。