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    女子たちよ、「オス化」を恐れるなかれ

    「男スイッチ」の正体 働く女性の「オス化」なる現象が(再び)話題になっているらしい。女性が“男並みに”夜中まで働き、朝まで飲み明かすなどしているうちに、「なんとなく男前になる」、「行動がガサツになる」はたまた「ヒゲが生えてきたり、体毛が濃くなったりする」など、生物学的には女であるはずなのに、男性ホルモンが分泌されたかのような現象が起きること、イコール「女性のオス化」という説明をよく見かける。この「女性のオス化」、なにも今になって始まったことではない。大ヒット漫画『働きマン』は2007年に菅野美穂主演でドラマ化された 2004年から2008年にかけ、講談社のモーニングで連載されていた大ヒット漫画、『働きマン』(安野モヨコ、休載中)では、主人公で、週刊誌の記者としてがむしゃらに働く松方弘子(28歳女性)が、「仕事モードオン、男スイッチ入ります!」と叫ぶ場面が話題になった。このセリフは、弘子が仕事において重要な場面に出くわした際や、重大な事案に取り組む際に発せられる。そういう時、弘子は生身の女でありながら、「男スイッチ」を入れて「男になる」。今風に言えば、弘子は瞬時に「オス化」しているとも捉えられる。「女」のままでいたら、無我夢中で働くことなんてできない。だから、あえて「男スイッチ」を入れる。この場合の「男」とは、生身の男とはまた違う、観念的な存在だ。リスクも顧みず、全力で働く「ふるまい方」のようなものである。 一方で彼女は、「怒るもんか……くそ!! 酒が飲みたい」というセリフ(第1巻)にあるように、理不尽な出来事にあった際、世の男性と同じように(?)、深酒でストレスを紛らわせる。仕事は大変だし、疲れる。プライベートの時間はなく、女の記者は特に、差別やセクハラに遭いやすい。そういう環境を逆手に取って、「女」を売りにして仕事を取るような行為は、絶対にしたくない。弘子は「私にしかできない仕事がある」という、ある種のやりがいとプライドに支えられて働いている。そんな彼女の「男スイッチ」は、女が厳しい労働環境下で働き続けるためのプライドを維持し、気分を上げるキーワードだった。源流は70年代の「飛んでる女」? 女性は元々、社会の変化を受けやすい存在だ。「勤め人」以外の選択肢があまりない男性と比べ、女性たちはめまぐるしく変わる社会情勢とともに、生き方のバリエーションをどんどん多様化させてきた。よって、女性は男性よりも、そのライフスタイルが「カテゴライズ化(類型化)」されやすい存在である。 70年代には、自由な生き方を模索する「飛んでる女」が注目された。バブル期にはマガジンハウス創刊の雑誌『Hanako』が、「キャリアとケッコンだけじゃ、いや」とぶちあげ、都市部在住で可処分所得が高く、流行に敏感な女たちが、仕事で稼いだお金で海外旅行やブランド品の消費を楽しんだ。「消費社会×女」の新たな生き方が話題になる一方、彼女たちの「結婚」は後回しになり、平均初婚年齢は上昇を続けた。 90年代になると、おじさんのように赤ちょうちんで飲み明かす「オヤジギャル」が流行した。そうかと思えば、優雅な専業主婦ライフを送る「シロガネーゼ」や「コマダム」も憧れの対象に。00年代には再び「働きマン」が一定の支持を集め、最近では「草食化」する男性に対して、異性に積極的な「肉食女子」、その対極の「干物女」や「こじらせ女子」なども現れた。仕事とファッション、恋愛など、人生すべてを楽しむ「キラキラ女子」や、細く長いキャリアを追求する「ゆるキャリ」女子など、現代の女性を表すキーワードは枚挙にいとまがない。というわけで、「バリバリ働く女性たち」の容姿や内面が「オス化」しているという類型化は、「何をいまさら」なのである。その源流は70年代の「飛んでる女」にもあったし、バブル期の「オヤジギャル」、00年代の「働きマン」にも、確実にあったのだから。「自分をカテゴライズしたい」という欲求 様々な類型化がなされてきた一方、女性には「自らをカテゴライズして安心したい」という心理もある。たとえば、「私は『こじらせ女子』です」と表明することで、女らしさから距離を取ることができ「ラクになった」という女性がいる。「バリキャリ系の女上司がいるけど、ああはなりたくない」という女性もいる。様々な「カテゴリー」に属する他人を見て、「私とは違う」と感じたり、「自分と似ているかも」と納得したりしながら、自らを特定のカテゴリーに当てはめて安心したい。女性たちの一部には、そんな気分もある。 もし、「オス化」を自認する女性がいるとすれば、「男女平等」とは名ばかりの厳しい労働環境下で疲れきっている「私」を、半ば自虐的に「『オス化』しちゃってるな~」と、認識しているのかもしれない。「オス」+「化」という言葉には、「生物学的には間違いなく私は女だけど、仕事のストレスやら何やらで、オスのようになっている」というニュアンスがある。その背景には、「今は『オス』みたいになっているけど、ちょっと意識すれば、『女』を取り戻すことは可能だ」という意識もある。 女らしさは仕事やストレスですり減ってしまうけれど、そんなもの、「女らしい」スカートやハイヒールを履いたり、綺麗なネイルアートを施したり、美容に気を使ったりすれば、すぐに取り戻せるもの。要は仕事上で他人に見せる「女らしさ」など、コスプレのようなものなのだ。だって「女らしさ」なんて、ちょっとした行動で「装う」ことができるものだから。「オス化」というキーワードには、現代の働く女性たちの、そんな「女らしさ観」が凝縮されている。女子たちよ、「オス化」を恐れるなかれ。

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    ステレオタイプを裏切る企画 次々生み出したい

     産経新聞の女子特区紙面は2年前に開設された。 平成25年6月7日付の第1回は「働く妻を伸す男たち」と題して、安倍内閣の2人の女性閣僚、稲田朋美さん(当時行政改革担当相)と森雅子さん(当時少子化・消費者担当相)の夫の支えぶりを特集した。 続いて、「女子力」の本質を見極めようと、男性の職場とされる佐川急便で働く「佐川女子」。「なでしこ防災」「婚活」、「働くおかあさんが輝くには…」「テレワーク」「家事ハラスメント」なども取り上げた。少しやわらかいテーマでは「カープ女子」「競馬女子」、「女子マネって?」。 自分が所属する部局を超えて記事、レイアウト、デザイン、写真、ほぼ女性で作りあげる。部局を超えて、ほぼ女性で紙面企画を作りあげる「産経女子特区」。目が離せない企画を次々に生み出そうと日々苦闘中だ(写真はイメージ) 新聞社が部局をこえてチームを編成し、大型の連載企画やキャンペーンを展開することは、必ずしも珍しいことではない。しかし女性というキーワードで部局を超えて、紙面を作る試みはほとんどなかったといってよいのではないだろうか。 ただし、「今さら女子?」という思いも当初はあった。募集、採用などに男女差をつけることを禁止した1999年の男女雇用機会均等改正法施行後の世代だからこそ、「女性」と性別に色分けされるのを意識的に避けてきたからだ。 産経新聞もまだ、女性の社員は少数派だが、それでも、男性の持ち場とされてきた、いわゆるサツ回りという事件担当を女性がすることは珍しくなくなっている。「女子」の定義 男性は32歳、女性は43歳 「女子」という言葉に対しては、「何歳までが女子と言えるのか?」という素朴な疑問もある。 サンケイリビング新聞が10~70代の男女300人の読者を対象に調査によると「女子」として、男性が許すのは32歳まで、女性は43歳までだった。男女で10歳以上も差が開く。 「おばさん」は平均47・5歳。ただし子供がいない女性は50代、60代でも「おばさん」と呼ばれるのは許せない傾向がある。  産経女子特区の担当者は20代~40代である。 自ら「女子」と呼ぶにはためらいがあるが、「女子会しよう!」と飲み会を企画するときの女子会には違和感はない。70歳すぎの我が母親も、友達との食事会を「女子会よ」などと、苦笑しつつも口にする。  とすると、女子特区の「女子」もよいではないか、という気になってくる。時代の変遷 5月15日に掲載した女性の「オス化」の企画では、女性を表す言葉の時代の変遷を紹介した。 子連れ出勤をめぐるアグネス論争、平成元年には裁判でセクシャルハラスメントが認められ、参院選には社会党女性候補が圧勝し、「オバタリアン、マドンナ旋風」が吹き荒れた。 片耳に赤鉛筆をはさみ、競馬新聞を読み、居酒屋で焼酎を頼み、くだをまく。いわゆる「オヤジギャル」が登場し、このときは、女性の側からも「はしたない」と批判の嵐がおこった。 未婚、子なしは「負け犬」と定義してみせたエッセー「負け犬の遠吠え」(酒井順子著)。仕事に生きるがんばり女性を描いた漫画から「働きマン」、一方で、恋愛に意欲をみせない「草食男子」。その正反対の恋愛に積極的な「肉食女子」…。 最近は、女性よりもこまめに肌の手入れをして脱毛もするといった男性も登場し、「女子力男子」と呼ばれている。ただし、外見は女性的だが、「ロールキャベツ」の場合もある。女性にもてるため外見に気を遣っているが、見た目とは裏腹に心はオオカミという場合もあるからだ。女性は歓迎されている?されていない? 「嫉妬(しっと)」「妬(ねた)む」「姦(かしま)しい」など、女がつく漢字の形容詞は、ネガティブなものがほとんど。出世を目指す社会では、男性の嫉妬は女性の比ではないだろうし、これらの形容詞も女性の専売特許ではないのにどうしてなのか。これまで疑問に思ってきたことだ。 アベノミクスでは女性の力を活用するという。だが、女性の幹部登用の数値目標を設定することには「女性だけ特別扱いでずるい」「不公平、不平等」と感じている男性も少なからずいる。一方、少子高齢化による人口減少だから女性を労働力として期待するというのも、今のままの状況ではムシがよいように思う。女性だからといって特別扱いされることも、かといって性別を無視されるのも、どちらも釈然としない。 コラムニストの深澤真紀さんからは「女子特区」について、「産経と女子って、最もかけ離れた一番おさまりが悪い言葉の組み合わせだと思っていたけど、産経にもこういう流れがあると知って心強いですね」という言葉をいただいた。 その励ましに恥じないよう、少々とんがっていても、目が離せない企画紙面を次々に生み出していきたい。(産経新聞女子特区担当 杉浦美香)

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    初の「同性パートナー条例」 国内での議論の行方は

    に「バベルの謎-ヤハウィストの冒険」「からごころ-日本精神の逆説」など。関連記事■ 女性専用車両は男性差別か?■ 櫻井よしこの視点  目配り欠く安倍政権の女性政策■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    寛容と偏見、同性婚を問う

    同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する全国初の条例が今年4月、東京都渋谷区で施行された。性的マイノリティーの権利を保障する動きは世界に広がっているが、家族制度をめぐる議論にも直結するだけに慎重な意見が根強い。寛容か偏見か。同性婚について考えたい。

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    同性カップルの証明書発行は渋谷区の憲法違反

    その周りを明るくする、そうアマテラスオオミカミ様のような存在なのです。 日教組は学校教育の中で男女の性差別をなくすために、男の子に対しても「さん」と呼ぶようにしました。「君」と「さん」と男女で呼び換えるのは男女差別に繋がるという理由からです。 では、どうして神様は男と女、オスとメスを作ったのでしょう。下等な動物には性の区別がないものがあります。 でも、人間は高等動物だと思うのは私だけでしょうか? 体も女性は赤ちゃんを産む機能を備え、子宮を護るために腹壁が発達し、外部の衝撃や刺激からお腹の赤ちゃんを護るようにできています。男性の身体の機能は筋肉は発達しますが、内臓を守る機能は女性に比べて乏しく、ちょっと強いストレスで下痢を起こす人がたくさんいます。しかし、男性は人のために命を捨てることも辞さない例が多くみられ、逆に女性は母体保護のために、なんとしても自分は生き延びるという本能が備わっているそうです。 体つきも全く違います。役割も違います。そして機能も違うのです。そしてそれぞれを役割を果たしながら家庭を持ち、子供を産み育て子々孫々まで繁栄をしようとするのです。これが動物としての人間の本能であり、だから家族といる時に人間は一番幸福感を感じるのです。 同性愛に生まれた着いたのは不幸なことかもしれません。でも、明るく生きている人もいるのです。周りが気を配り、人間としてのその努力を認めたうえで、普通に付き合っているのです。 ちょっと自分の周りを見渡してください。きっとそういう人に出会うはずです。  その人たちは決して自分は同性愛者だとは公言していないと思います。ひっそりとでもちゃんと人間としての幸福を追求しながら努力していきていると思います。それをわざわざ暴いてあいつはホモだからと差別する人間は人間としてクズだと言わざるを得ません。  逆に自分たちからわざわざホモカップルだと公言する必要も、それを公的に証明する必要もないでしょう。 渋谷区の区長はこれで引退するそうです。でも、産経新聞によるとその他にもたくさんの疑惑があります。私は産経の今後の記事に注目しています。そして渋谷区長がどのような人物なのかをきちんと確かめたいと思います。フェミニスト団体が男女共同参画法の次に日本弱体化計画の一環として仕組んでいるものだと思います。 法的弱者と呼んでいますが、日陰者は日陰者らしく過ごしてもらえば、私たちも惻隠の情を持って穏便に接します。それこそ、多様性の文化といえるのではないでしょうか。 この新しい流れを認めることが識者の役目という人もいますが、私は思いません。識者は識者らしく、常識をきちんともってことを判断する範を示すことが肝要かと思われます。 決して神の摂理つまり自然の摂理に逆らう人たちの大ぴらに求める権利を認めてあげることではないと思います。(井上政典ブログより転載)

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    保守はなぜ同性愛に不寛容なのか~渋谷パートナー条例をめぐる怪

    古谷経衡(著述家)LGBTを嫌悪する保守派 渋谷区でのパートナーシップ条例が同区議会に提出されるやいなや、いわゆる保守界隈や、右派から、この条例が猛烈な抗議の対象となっていることは、知っている方も多いと思う。 この条例には、「結婚に相当する関係」を同性カップルに対し証明する証明書の発行が可能となる条項が含まれているのだが、このことに対し、保守派からの猛烈な抗議の声はとどまることを知らない。東京都渋谷区の「同性パートナーシップ条例」の制定をめぐっては、反対派がデモ行進で条例成立阻止を叫ぶ場面もみられた=3月、東京都渋谷区役所周辺 3月10日には、右派系市民団体である「頑張れ日本!全国行動委員会」(以下、同委員会)が、JR渋谷駅前の広場で”渋谷区「同性パートナーシップ条例」絶対反対緊急行動”と題して、大々的な反対の抗議街宣を行い、話題となった。同会は、右派系のCS放送局である「日本文化チャンネル桜」(スカパー528ch)と密接に関連する政治団体である。 同委員会は、2014年2月に投開票された東京都知事選挙で、元航空幕僚長の田母神俊雄氏を擁立した最大の支持母体として知られ、いわゆる保守・右派界隈では、大きな行動力を持つ行動組織として認知されている。同委員会が、保守、右派の全てを代表しているとは言わないものの、保守、右派界隈全般の空気感を如実に代弁する存在であることは確かだ。 同性愛、同性婚をめぐる問題は、日本においては一貫して保守派、右派が「我が国の伝統的な家族観を破壊する」と称して、反対の立場を鮮明にしている場合が圧倒的である。 同委員会が3月10日に行った渋谷駅前での抗議活動について、同会の幹事長らは、スカパーの番組内で次のような趣旨で、重ねて渋谷区のパートナーシップ条例への激烈な反対の意見を鮮明にした。 ・「(この渋谷区のパートナーシップ条例は)ジェンダ―フリーの流れで、左翼の人たちがやっている」 ・「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」 この見解はおおよそ、忠実に保守派、右派の同性愛・同性婚への嫌悪の感情をトレースしたものであると言って良い。これに先立つこと約2年前の2013年12月7日、当時の石原慎太郎知東京都自治は「(同性愛者は)どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と発言して、大きな問題になった。 言わずもがなその後、石原氏は都知事を辞職して「太陽の党」を立ち上げ、橋下徹氏率いる維新の会に合流。その後、「次世代の党」として分離した同氏は、保守系論壇誌などに精力的に登場し、保守派、右派の中心的論客として知られるキーマンである。このことからも分かるように、保守、右派全般が同性愛やLGBTに嫌悪や偏見のニュアンスを少なからず抱いていることは、疑いようもない。 渋谷区のパートナーシップ条例が話題に上がってから、多くの保守系活動家や言論人が、「感情的」と形容するのにふさわしいほどに、この渋谷区のパートナーシップ条例に対し、反対の声、ないしは嫌悪の感情を表明していることは疑いようがない。「伝統」と相容れない保守派の同性愛、LGBT嫌悪 私個人としては、渋谷区のパートナーシップ条例は、自治体の条例のレベルなのだから手放しで大絶賛するほどのことではないにせよ、別段、問題だとは思わない。制定するなら、私は微温的に支持しようと考えている(私は残念ながら区民ではないが)。同性愛、LGBTの人々が、絶対数は少ないにせよ、異性結婚と同等の権利を欲するのは、別段不自然なことではない。同性が同性を好きになり、事実上の家族関係を有することに、なにか大きな社会的弊害が発生するとは到底思えない。 そんな私は、前述した「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という保守派による、この条例へのトリッキーな反対の姿勢が、よく理解できないでいた。「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という理屈は、「同性愛やLGBTは、日本の伝統的な家族観とは相容れない」と言っていることに等しい。 が、言わずもがな織田信長と森乱(森蘭丸)&前田利家や武田信玄&高坂昌信など、ややもすればBL(ボーイズラブ)のネタにされそうな、(余りにも有名な)日本の中世期における同性愛関係をなんとするのだろうか。或いは、江戸幕府三代将軍の徳川家光の性癖をなんと解釈するのか、など、日本の「伝統」を持ち出すのならば、現在の保守派や右派による同性愛やLGBTへの嫌悪や禁忌の情は、全くその「伝統」を踏まえない異質のものであると思う。「伝統」を殊更となえるのなら、「衆道」の伝統を踏まえないのは、嘘だろう。 だから、なぜ現在の保守派や右派がここまで激烈に同性愛やLGBTを嫌悪するのか、彼らのささやかな権利獲得に、ここまで苛烈に反駁するのはなぜなのか、それが、私を含め多くの人にとっては謎だと思うのである。保守派が同性愛を嫌悪する理由保守派が同性愛を嫌悪する理由 1)保守の高齢化が原因 保守派や右派がここえまで激烈に同性愛やLGBTを嫌悪する理由には、大きく別けて二つの理由がある、と私は考えている。一つは、大前提的に保守派、右派の高齢化がその要因である。YAHOOニュースの過去エントリーや、拙著『若者は本当に右傾化しているのか』に詳述しているとおり、現在の保守派や右派は高齢化が着実に進展している。 彼らの主要な支持層は、40代以上の中・高年であり、場合によってはボリュームゾーンは50代や60代以上である。これらの中・高年が世代的な風潮として、同性愛者やLGBTに対し、辛辣な姿勢を堅持しているのは、時代的な要請とはいえ、しかたのないことだろう。現在、60代の世代が青春時代を迎えた1960年代から1970年代の高度成長期は、まだまだ前近代的な差別と古い因習がこの国の中に残置されていたのは、言うまでもないからだ。 特に地方では、明治時代から続くような、旧い因習としきたりが支配的だった。このような世代の人々が、同性愛やLGBTを禁忌のもの、としてとらえ、「正常な恋愛の形ではない異常なもの」とみなすのは、世代的な要因が大であると思う。現在の保守派や右派の年齢的ボリュームゾーンを考えると、理屈としてそのような性的マイノリティーに対する差別的感情が根強いのは、得心が行くものといえよう。保守派が同性愛を嫌悪する理由 2)宗教右派からの照射 もう一つの理由だが、その前に今一度、上記の「ジェンダ―フリーの流れで、左翼の人たちがやっている」「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という、保守派・右派による反対理由を少し検証してみることにする。この考え方は、「ジェンダフリー(教育・政策)」に強い反対の立場を採る「日本会議」の思想的影響を強く受けていることは間違いはない。  「日本会議」は、保守系最大の行動団体として、旧軍遺族会やその他旧軍関係団体を始め、神社本庁や仏教系宗教団体など、おもに「宗教右派」とよばれる保守的な傾向を持つ宗教団体によって形成されている。さらにこの日本会議が、主に自民党のタカ派議員を支援したり、自民党のタカ派議員自らが会員となっている例は、公然の事実である。 また、保守系の論客や文化人などの講演会などを頻繁に行うなど、保守業界のありとあらゆるところに「日本会議」は入り込んでいる。「日本会議」が、保守や保守運動に有形無形の形で絶大な影響力を与えていることは、紛れも無い事実だ。 勿論、現在、渋谷区のパートナーシップ条例に反対の立場を採る人や団体の全てが、「日本会議」と直接の人的・物的なつながりがあるわけではない。が、保守、保守運動団体の背後に、隠然たる影響力を行使し続ける日本会議の思想的源流をたどることで、保守がなぜ同性愛に不寛容なのか、その答えが見えてくるのだ。保守派が同性愛を嫌悪する理由 3)戦後新宗教と同性愛 特に、「日本会議」の中枢をなすのは、神道系の「神社本庁」の他に、「霊友会」、「念法眞教」、「新生佛教教団」、「佛所護念会」、「生長の家」など、大なり小なり仏教を源流とする仏教系新宗教団体である。「日本会議」における仏教系宗教団体の力は、非常に大きいものがあるのは、誰しも認める所だ。 しかし本来、仏教の教えは「同性愛には至極寛容」であることを根本とする。事実、敬虔な仏教国であるタイ王国は、同性愛者に寛容な気風であることは、広く知られている。仏教の開祖ブッダは、出家する前まで、インドの地方豪族の皇子として自由奔放な生活を行ってきた。「伝統的な家族観」をそもそもブッダ自身が体現していないのだが、なぜかことさら、日本の仏教系新宗教を主力としてから構成される「日本会議」は、仏教本来の教えを部分的にせよ照射されているはずなのに、この仏教の「伝統」を否定しているようにも思える。 ともあれ、この仏教を源流とするこれら仏教系の「宗教右派」の支持の上に成り立っている日本会議は、「伝統的家族観」を最重要視し、従前から「夫婦別姓反対」「ジェンダーフリー反対」、の立場を堅持してきた。つまり、現在、保守派や右派が渋谷区のパートナーシップ条例に反対するロジックとして使用している、前述の「ジェンダフリーの流れで…」の基本的な反対の構造は、正しくこの「日本会議」の一貫した姿勢を忠実にトレースしたものと同じものなのである。保守派が同性愛を嫌悪する理由 4)儒教と保守 なぜ、本来仏教系団体を基礎とする「日本会議」が、ジェンダーフリーや、ひいては同性愛に不寛容なのか。 これについて私は、宗教問題に詳しく、仏教関係で数多くの著作がある著述家の星飛雄馬氏に詳しい話を伺った。星氏によれば、 1.そもそも日本の仏教は、元来のインド仏教の理念以外に、その伝播の過程で朝鮮半島や大陸から来た儒教の影響を強く受けている 2.そのため、元々インド仏教にあった「輪廻」(生まれ変わり)の思想になじみのない日本では、儒教などに由来する祖霊崇拝の傾向が強く、家父長制度を基礎とした長男継嗣の「墓守り」の思想がある 3.それゆえ、現在でも地方などでは仮に家督を継ぐべき長男がゲイだとすると、「誰が先祖の墓を守るのか!」と問題視されるような話もあるという 4.つまり、日本の仏教系の新宗教では、儒教の家父長思想の影響を色濃く受けているがゆえに、本来の仏教の教えとは外れた、同性愛への蔑視や禁忌の発想が生まれるのではないか ということなのである。なるほど、日本のみならず、朝鮮半島や中国など、いわゆる「儒教文化圏」では、同性愛に対する社会的差別が温存されているのは、このせいかと納得した。 こうした日本における宗教勢力、とくに保守や保守運動に隠然たる影響を与えてきた「宗教右派」としての「日本会議」が、仏教と儒教の混交体として、家父長制の思想を元にした、同性愛に対して辛辣な思想的源流が、有形無形の形となって保守と保守運動に照射されているのが、現在の状況を読み解く上でのカギとなるのは間違いはない。 繰り返すように、上記で例示した保守運動組織や団体が、「日本会議」の傘下にあるといっているのではなく、書類上は別個の存在であっても、「日本会議」に多くの保守系の政治家や文化人が集う現状を鑑み、この動きが一種、大きな保守界隈の潮流となって、無意識的にも、各人に強い影響を与えていることは間違いのない事実なのである。 ここで断っておくが、私はこのような、仏教徒儒教が混交した日本の仏教系新宗教のあり方や「日本会議」の構成要素を、「悪い」と言っているのではない。あくまでも、事実としてそのような傾向があると、指摘しているだけだ。宗教化する保守~アメリカ「福音派」と日本の保守宗教化する保守~アメリカ「福音派」と日本の保守 今回、渋谷区のパートナーシップ条例への保守派、右派の激烈な反対の姿勢は、ある意味、日本の戦後保守を考える上での分水嶺的事件になり得ると、私は考えている。 何故ならば、戦後における日本の保守は、一貫してして「反共保守」というイデオロギーの産物だった、ということだ。「反共保守」とは、読んで字のごとく反共産主義、つまりアンチ・ソ連だが、ソ連が崩壊して消滅した後、「反共保守」は敵を失い、漂流するに至った。 その過程で、つまり新しい敵を見つけるための運動が起こったのが、「ポスト・反共保守」以後の保守や右派界隈の動きである。その中から登場してきたのが、いわゆる「嫌中・嫌韓」のたぐいだった。 しかし、この度の渋谷区のパートナーシップ条例反対という動きは、これまでのイデオロギーに染め上げられ、イデオロギーの理屈で行動してきた保守・右派の中にあって、きわめて異質な、観念が優先する宗教色が強い姿勢であると言わなければならない。そこにあるのは、理屈抜きにして、宗教的で、観念的な感情である。 アメリカの「宗教保守」といえば、聖書原理主義者の「福音派」を指すことが多い。彼らは、「同性結婚」、ひいてはLGBTの問題に対し、激烈な反対の姿勢を示す原理主義者で、その大多数は、保守派である共和党の支持基盤になっている。科学的な理屈、政治的なイデオロギーよりも、宗教性が優先されるという、福音派にまま垣間見える性質が、いま、確実に日本の保守、右派の中に芽生えようとしている。 仏教と儒教の混交として生まれた日本の「宗教右派」と保守・右派の関係は、その両者を書類上は別個の存在としながらも、あきらかに同一する形で進んでいる。日本の右派も、アメリカの「福音派」のようなエッセンスが、いままさに一気呵成に注入されようとする、その契機を迎えていると私は感じている。 それが「良いことだ」とか「悪いことだ」とか言うつもりはない。ただし現状が、そうなっているの疑いが強いと、多くの人に知ってもらいたい、ただそれだけである。 願わくば性的マイノリティーの人々が、雑音に惑わされることなく、慎ましやかな生活を送れることができるよう、祈るよりほかない。(『Yahoo!ニュース個人』より転載)関連記事■ 沖縄基地問題で問われる「保守」のカタチ■ 「我が軍」と呼べば呼ぶほど憲法改正は遠ざかる(かも知れない)■ 木村草太が考える 日本国憲法とは何か?

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    同性婚と憲法改正

    な議論が進むことを願っています。(『Yahoo!ニュース個人』より転載)関連記事■ 女性専用車両は男性差別か?■ 櫻井よしこの視点  目配り欠く安倍政権の女性政策■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    「同性婚」支持者のどこが間違いか

    の思考について、ここでは読者とともに考えたい。 人間は誰でも「価値」を有する存在であり、民族、宗教、性差などの理由からその価値、人権が蹂躙されてはならない。これは「世界人権宣言」の中にも記述されている内容だ。 (「世界人権宣言」第2条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」)ロンドンで行われた同性愛の男性のコーラスグループによるゲイ・プライド・パレード ところで、ジェンダー・フリーを主張する人々は男女の「性差」による区別を「差別」と指摘し糾弾する。例えば、欧州では同じ仕事をしているにもかかわらず男性の給料と女性のそれとに差がある時、女性側から男女平等の給料を要求する声が当然出てくる。この場合、「性差」の区別は「差別」だという主張に一理ある。  「差別」という用語は本来、社会学用語だ。「性差」の区別を「差別」と受け取るジェンダー・フリーの人々がその「差別」を撤回するために社会運動に乗り出すのは当然だろう。「差別」は社会によってもたらされた現象と考えるからだ。フランスの実存主義者シモーヌ・ボーヴォワールはその著書「第2の性」の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いているが、それに通じる考えだ。 もちろん、ジェンダー・フリーの人々も「性差」が生物的に選択の余地なく、否定できないという認識はあるが、その「性差」による社会的区別は「差別」であり、「悪」と受け取るから、独裁下の弾圧に反対するように、その撤廃のために様々な社会運動を行う。 問題は次だ。「性差」の区別からもたらされた「差別」を撤回しようと腐心するあまり、「性差」と「差別」が引っ付き、「性差」まで「悪」のように考えてしまう傾向が見られることだ。「性差」も「差別」と考えれば、それを撤回しなければならない。その思考の延長線上に同性婚容認の動きが出てくる。 「性差」は「差別」ではない。「性差」は生物学的に厳に存在する事実だ。「世界人権宣言」を想起するまでもなく、「性差」に関係なく、男も女も人間としての価値は等しい。「性差」には価値の「差別」はない。あるとすれば、「性差」による社会的、経済的、生物的な「位置」の違いだろう。そして、位置の違いは「差別」ではないのだ。 ジェンダー・フリーを主張する人々が「価値」の平等だけではなく、「位置」の平等まで要求すれば、問題が生じてくる。なぜならば、全ての人が同じ位置を占めることはできないからだ。簡単な例を挙げてみる。体力の弱い女性に「位置」の平等を訴えて、強靭な体力を要する仕事を課せば、「性差」の撤回どころか、人権蹂躙で訴えられるだろう。一般的に考えてみる。会社で社長という位置に部長が「位置」の平等を訴えて反旗を翻せば、会社は経営できなくなるだろう。 「位置」の平等はその組織、そして人間の存続を脅かす。同性婚が世界の過半数を占めた場合、人類は果たして存続できるだろうか。「主体」が存在すれば、本来、必然的に「対象」が生まれてくる。そして「主体」と「対象」が円満な関係を構築できれば、両者は作用し、存続し、繁栄できる。その「主体」と「対象」の関係を、対立、搾取・差別の関係と考える思考の背後には、共産主義思想の残滓がある。 ジェンダー・フリーを主張する人々は、「価値」と「位置」を同列視し、後者に前者が享受している平等を付与すべきだと要求しているのではないか。繰り返すが、「価値」は等しいが、「位置」(位置が要求する役割)は必然的に異ならざるを得ないのだ。(ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より)関連記事■ 「天下の朝日」の新しい友達探し■ 女性専用車両は男性差別か?■ 日本人の「社会の心」はどこへ

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    明治神宮が「同性婚の聖地」になる日

    否定されているトンデモ学説に依拠したものだ。それによれば、「男らしさ」「女らしさ」という社会的文化的性差(ジェンダー)の意識が生物学的性差(セックス)を規定しているのだという。 男女共同参画社会基本法の原案を作成したとされる東京大学教授の大沢真理氏もその信奉者で、「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」としながら「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、2001年)と言い放っていた。 このように男女に生物学的な違いもほとんどないとするならば、結婚を男女の組み合わせに限る必要はない。男と男、女と女の組み合わせだってあっていい。ジェンダーフリーは同性愛に基づく「結婚」をも認めるべきだという主張に行き着く。 東京都渋谷区が3月区議会に提案した「男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例(案)」は、同性愛に基づくカップルを「結婚に相当する関係」と位置づけ、区民や事業者にも同性愛者を含む「性的少数者」に対するあらゆる「差別」を禁止するものだが、これはジェンダーフリーの進化形と言っていい。ジェンダーフリーという発想に本来的に織り込み済みのものに他ならず、その破壊的な要素が遂に顕になったということなのだ。 この広義のジェンダーフリー条例は当然のことながら我が国の家族観、結婚観を大きく揺るがす内容を有している。本稿の締め切り時点では条例案の行末は不透明だが、渋谷区に追随する動きをみせている自治体もある。ここではこの条例の持つ問題点を明らかにし、条例の制定に慎重もしくは反対の姿勢を示したい。論理の飛躍だ!条例案の提案理由 この条例案の内容が一般に伝えられたのは今年2月中旬のことだったが、その際、報道では、渋谷区が「同性カップルを『結婚に相当する関係』と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表した」とし、条例が必要とされる理由について「同性カップルがアパートの入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースを問題視し、区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう求める方針だ」としている(共同通信2月12日配信)。 同区が報道機関に発表したものをベースにした記事であろうが、ここで先ず問題にしたいのは、個別の具体的問題と一般原則が混同されているということだ。世の中には同性愛者が一定程度存在し、同性カップルも存在する。その人たちの人権への配慮は必要だ。アパートへの入居や病院での面会を、家族でないとして断られるケースがあるとするならば、その不利益は救済されるべきである。ただそれは、そのレベルで救済すればよく、入居や面会を家族以外に広げるような個別の施策を実施すれば済む話であり、何も同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める、すなわち後述するような憲法や民法にも抵触し、国民の家族観、結婚観を揺るがすような大きな話にする必要はない。 その前に、現在、アパートへの入居や病院での面会を家族でないとして断るケースがそれほどあるのか疑問だ。「アパート」という言い方も一昔前のものであるが、若者の間では他人が部屋を分けて同居する「シェアハウス」が流行している。結婚前の男女が同棲するケースも珍しくない。病院での面会も独居や身寄りのない老人が増える中、家族に限定しているところは多くないはずだ。どこか作り話の臭いがする。 繰り返すが、仮にそのようなケースがあるとしても、何も一般原則を変更しなくても解決できる問題なのである。ここに論理の飛躍がある。夫婦別姓もそうだが、小さなところで解決できる問題を大きな問題に仕立て上げ、社会の原則自体を大きく変えようとするのは、このジェンダーフリー、同性婚推進を含む左翼運動の常套手段だ。「結婚は男女による」ことを含意した憲法24条に抵触「結婚は男女による」ことを含意した憲法24条に抵触 この条例案が問題である理由を三つ述べたい。第一は、条例案は憲法に抵触する可能性が高いということだ。憲法第24条は、第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とし、第2項で家族法制は「両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。明らかに婚姻=結婚は「両性」すなわち男女によるものと想定し、同性婚は排除している。民法もその前提に立っている。同性パートナー条例成立を受け、会見する東京都渋谷区の桑原敏武区長=3月31日、渋谷区役所 学界の一部には「24条は婚姻をかつての『家制度』から解放することが主眼で同性婚を排除していない」との見解もあるが、多数説を形成していない。一般的には「婚姻とは『子どもを産み・育てる』ためのものだという観念がある」ので、「民法は、婚姻の当事者は性別を異にすることを前提にしている。同性では子どもが生まれないので、同性カップルの共同生活は婚姻とはいえないということだろう。民法典の起草者は書くまでもない当然のことを考えていたので、明文の規定は置かれていない。(中略)少なくとも現段階では、同性婚を認めたり、性転換者の婚姻を認めることは困難だと思うが、同性カップルに対して契約的な保護を拒む必要はないだろう」(大村敦士『家族法〔第3版〕』有斐閣、2010年、大村氏は東京大学法学部教授)とする見解が支配的だ。 渋谷区は「いや、法律上の婚姻とは区別している。あくまで『結婚に相当する関係』だ」と反論するかも知れないが、「相当する」とは、それそのものではないけれども、限りなくそれに近いものをいう。少なくとも実態としては法律上の結婚に準ずるものとして取り扱われる。憲法24条に抵触する可能性は高い。「条例は法律の範囲内」とする憲法94条にも抵触 条例案はまた、憲法94条に抵触する。94条は条例の制定は「法律の範囲内」とする。地方自治権は国の行政権の一部が委譲されたものと考えるからだが、条例案は、国のレベルで認められていない制度を渋谷区という自治体レベルで実現しようとしている。明らかに94条に違反する越権行為だ。 ここで想起されるのは、自治基本条例や民主党政権で唱えられた「地域主権」だ。その発想の背景には、基礎自治体が国に先んじて存在するとする倒錯した理論がある。政治学者・松下圭一氏が提唱し、自治労関係者が広めているが、これも内閣法制局や裁判所も認めない異端の学説でしかない。何より、こんな国民全体の家族観や結婚観を揺るがすような内容の条例を一自治体のレベルで制定しようというのは常軌を逸している。ことは自治体レベルの問題ではない。広く国民で議論を尽くし、国会でも議論して、その上で実施の賛否を決定する大きな問題だ。条例案は二重の意味で憲法に抵触している。不透明な制定手続き 第二は、条例制定の手法が民主的ではないということだ。後にも述べるように、この条例案は、同性愛者だけが関係するのではない。渋谷区に在住する者や同区に事業所を置く事業者全てを対象にしている。区民や事業者の価値観や利益に関わる大きな政策の変更であるにもかかわらず、条例案の公開も不十分で区役所のホームページにさえ公開されていない。区民の声を聴くパブリック・コメント等も行われず、ほとんどの区民は条例案の内容すら知ることができていない状態だ。2月中旬にいきなり公表され、内容も報道レベルでしか知らされない。議会に内容が示されたのも直近になってのことだ。3月議会で成立、4月1日施行を目指すという拙速な手法は「ゲリラ的」とも言うべきだ。 条例制定の前段階として渋谷区では「『(仮称)渋谷区多様性社会推進条例』制定検討会」(委員長・海老原暁子元立教女学院短期大学教授)を設置し、昨年7月から今年1月まで9回の会議を開いている。議事録は公開されていないが、議事要旨は一部墨塗りで公開された。会議では推進派の区議会議員や性的少数者、推進派の民法学者などの意見を聴いている。異論が唱えられた形跡はない。イケイケどんどんで、ブレーキを踏む者は不在のようだ。 気になるは「事務局アドバイザー」に諸橋泰樹氏の名前があることだ。諸橋氏はフェリス女学院大学教授で専門はジェンダー研究、各地の自治体で男女共同参画関係の役職に就いており、渋谷区でも男女共同参画アドバイザーを務めている。事務局に推進派の確信犯を置いて司令塔とし、密室で議論し、ゲリラ的に条例の制定を目指している。始めに結論ありきで、議論を尽くそうという姿勢は窺えない。法が保護する家族制度を破壊する毒法が保護する家族制度を破壊する毒 第三は、条例案の中身についてだ。内容そのものにも問題は多い。「同性愛カップルが被る不利益の解消」という表面上の趣旨を越えて、日本の家族制度、婚姻制度(法律婚)の形骸化を目指し、思想・信条の自由、信教の自由、表現の自由、経済活動の自由までも侵害するかのような内容になっている。結果として、区民・事業者の不利益を招く可能性すらあるということだ。具体的に条例案を紹介しつつ問題点を指摘していこう。 第2条(定義)の6に「性的指向 人の恋愛や性愛がどういう対象に向かうかを示す指向(異性に向かう異性愛、同性に向かう同性愛及び男女両方に向かう両性愛並びにいかなる他者も恋愛や性愛の対象としない無性愛)をいう」という部分がある。8には「パートナーシップ 男女の婚姻関係と異ならない程度の実質を備える戸籍上の性別が同一である二者間の社会生活関係をいう」という部分がある。 ここでは、異性愛、同性愛、両性愛、無性愛をすべて同列に並べている。前述のように憲法や民法では、次世代を生み出す男女の法律婚を特別に重視、保護していることは明らかだ。上位法である憲法、民法の法律婚尊重の原則に反する条文だ。また、生物学的にも同性同士が「男女の婚姻関係と異ならない程度の実質」を備えることは不可能であり、法令の条文として不適当だ。「人権の暴走」―偏った教育や外部団体介入を招かないか 第4条(性的少数者の人権の尊重)の3に「学校教育、生涯学習その他の教育の場において、性的少数者に対する理解を深め、当事者に対する具体的な対応を行うなどの取組がされること」とある。ここでいう「性的少数者」とは「同性愛者、両性愛者及び無性愛者である者並びに性同一性障害を含め性別違和がある者」(第2条)とのことだが、特に性同一性障害を持つ子供がいじめの対象になっていることはかねて指摘されており、文部科学省もその対応策を検討し始めたところだ。しかし、渋谷区の動きは国の動きに先行しようとしている。独自の副読本などが作成され、区内の小中学校などで使用される可能性が高い。かつての過激な性教育のように、男女の法律上の結婚の意義などを無視し、多様な性愛を全て同等に扱う偏った内容になることは十分考えられる。自治体が暴走しないよう、文部科学省も性的少数者の人権に配慮した教育はどうあるべきかについてのガイドラインを作成する必要があるのではないか。 第5条(区及び公共的団体等の責務)の2として「区は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するに当たり、区民、事業者、国及び他の地方公共団体その他関係団体と協働するものとする」との規定がある。問題は、「関係団体と協働するものとする」との義務規定の下で「性的少数者の人権を尊重する」との名目で各種人権団体が区の行政に介入する虞れがあるということだ。かつて広島県の一般行政・教育行政が一部の同和団体のコントロール下に置かれた時、その根拠になったのは、差別事件の解決に当たっては「関係団体と連携する」とした合意文書だった。「協働」の名の下に外部団体が介入し、区が主体性を失うことにならないのか検討を要する。思想・信条・表現・経済活動の自由を侵害しないか 第6条(区民の責務)の2として「区民は、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に協力するよう努めるものとする」との規定もある。これにより、必ずしも国民的合意が得られていない価値観とそれに伴う施策を区民が強制される可能性があるということだ。例えば、先の学校教育の問題とあいまって、親が伝統的な家族観を持っていた場合に、その価値観から見て偏っていると感じた学校教育に不満を述べると「区の施策に非協力的」と見なされることになる。渋谷区長選で当選し、拳を突き上げて喜ぶ長谷部健氏(左)=4月26日 次は事業者の問題だ。第7条(事業者の責務)の2は、「事業者は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するため、採用、待遇、昇進、賃金等における就業条件の整備において、この条例の趣旨を遵守しなければならない」とし、3は、「事業者は、男女の別による、または性的少数者であることによる一切の差別を行ってはならない」と規定する。禁止事項だ。これにより、経済活動の自由を侵害する可能性は高い。どういう人材を雇用するかは憲法が保障する経済活動の自由の一環であることは最高裁判決でも示されているところだ(三菱樹脂事件判決、昭和48年12月12日)。ここでも条例案は憲法や法律に先んじた形になっている。「法的拘束力はない」と説明されているが、後述の15条で行政による勧告や、事業者名の公表など社会的制裁があり得ることが示されており、強制性があることは明らかだ。 「一切の差別を行ってはならない」とするが、区別も差別と見なされる可能性は高い。事業者とは、渋谷区内に何らかの事業所を置く企業等のことだ。本社を置く大きな会社もある。宗教団体や私立学校など、法人の性格や活動において男女の差異が重要な要素の一つとなる場合に不自由を強いられることも考えられる。例えば、渋谷区には全国の神社を統括する神社本庁や明治神宮がある。同性愛を禁じるカトリックの教会もある。宗教法人が母体となった私立の学校もある。これらも当然、対象となる。この条例が制定されれば、明治神宮でもカトリック教会でも同性愛カップルの結婚式を挙げなければならなくなる。拒否すれば「差別」ということになり、勧告や名前の公表など社会的制裁を受けることになる。私立の学校では同性愛を許容する教育をしなければ、「差別」とされることになる。 第8条には(禁止事項)として「何人も、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策を不当に妨げる行為をしてはならない」とし、2では「区、区民及び事業者は、性別による固定的な役割分担の意識を助長し、若しくはこれを是認させる行為又は性的少数者を差別する行為をしてはならない」と規定する。これにより、区が推進する政策に反対して「男らしさ」「女らしさ」や伝統的な家庭のあり方を教えるような講演会、啓蒙活動、言論活動なども禁じられる可能性がある。少なくとも渋谷区の公共施設での開催は難しくなるだろう。思想・信条の自由、言論の自由などを侵害する危険性の高い内容だ。 第11条(区が行うパートナーシップ証明)は問題とされる証明書に関する規定で「区民及び事業者は、その社会活動の中で、区が行うパートナーシップ証明を最大限配慮しなければならない」と規定する。この「パートナーシップ証明」を示されれば、不動産業者は部屋を必ず貸さなければならない。神社も教会も結婚式を拒否できない。 第14条は「男女平等と多様性を尊重する社会の推進について調査し、または審議するため、区長の付属機関として、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議(以下「推進会議」という。)を置く」と規定する。構成、運営等は区規則で定めるとするが、推進会議は区民の意識形成や区長に意見を述べるなど区政に深く関わる立場だ。構成員の選定基準などが不透明なままでは大いに問題がある。第5条の規定と同様に一部の団体が行政に介入する道筋をつくる可能性が高い。甦る「人権擁護法」の悪夢甦る「人権擁護法」の悪夢 第15条(相談及び苦情への対応)は「区民及び事業者は、区長に対して、この条例及び区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に関して相談を行い、又は苦情の申し立てを行うことができる」とし、2は「区長は…(略)…必要に応じて調査を行うとともに、相談者、苦情の申し立て人又は相談若しくは苦情の相手方、相手方事業者等(以下この条において「関係者」という。)に対して適切な助言又は指導を行い、当該相談事項又は苦情の解決を支援するものとする」とし、3は「区長は、前項の指導を受けた関係者が当該指導に従わず、この条例の目的、趣旨に著しく反する行為を引き続き行っている場合は、推進会議の意見を聴いて、当該関係者に対して、当該行為の是正について勧告を行うことができる」とし、4は「区長は、関係者が前項の勧告に従わないときは、関係者名その他の事項を公表することができる」と規定する。 かつて、「人権擁護法(案)」や「人権侵害救済機関設置法(案)」と呼ばれる法律が制定されかけたことがあった。「人権の名のもとに組織される《人権委員会》によって、強権・恣意的に各種の権利や自由が抑圧されるのではないか」との反対が根強く、制定には至らなかったが、今回の渋谷区の条例は、その「人権擁護法案」の内容をも同時に実施しようということだ。「法的拘束力」はないと言いながら、区の施策に従わなければ、指導、勧告、さらには関係者名等を公表して社会的な制裁を加えるとしている。これは事実上の拘束力を持たせようということだ。更に、その過程に「推進会議」が関与するとなっており、会議の構成によっては、恣意的な勧告が行われる可能性も否定できない。 同種の条例は、世田谷区や横浜市でも制定への動きがある。繰り返すが、性的少数者の不利益を救済するにはこのような包括的な条例を制定する必要はない。個々の施策で救済すべきものだ。日本は伝統的に同性愛に寛容な文化を持つが、そのことと制度をどうするのかは次元が異なる話だ。性的少数者の人権には配慮しつつ、同時に次世代を産み育てる機能を有する男女の結婚を他の人的関係よりも制度として優遇する。二つのことは対立するものではない。関係者には拙速は避け、くれぐれも慎重な対応を望みたい。やぎ・ひでつぐ 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学、思想史。著書に『日本国憲法とは何か』(PHP新書)、『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など。平成14年に正論新風賞受賞。教育再生実行会議、法務省相続法制検討WTの各委員。

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    女性専用車両は必要ですか?

    世の中にあまたある女性優遇施策の中でも、とりわけ鉄道事業者が痴漢対策として導入する「女性専用車両」に複雑な思いを抱く男性も多いのではないでしょうか。痴漢が卑劣な犯罪とはいえ、冤罪による被害者がいるのもまた事実。みなさまにお尋ねします。女性専用車両は本当に必要ですか?

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    女性専用車両は男性差別か?

     ジェンダー論の話をしていると男性から必ずと言っていいくらい、「女性専用車両とレディースデーは男性差別ではないのですか?」という質問が来ます。世の中に女性差別など残っていないと勘違いしている人ほど、こういう質問をしてくる傾向が強いように思われ、いつもため息が出ます。「逆差別」か否かが問題となるのですが、これは痴漢が歴史的には比較的新しい存在で、まだ「犯罪」としての理解が進んでいないから起きるのかもしれません。 「痴漢は犯罪です」という駅のポスター、私は最初に見たとき、「はぁ?」と思ってしまいました。「強盗は犯罪です」というポスターはないでしょう。なぜそれと同じような犯罪を「犯罪だ」とわざわざ強調し、啓発しなければならないのでしょうか? 女性専用車両の歴史は古く、1912年の中央線にさかのぼります(その後廃止されたわけですが)。当時は女子学生が増え、また「婦人」が男性と近接する状況自体を避けるべきと考えたからで、かなり古典的な空間感覚です。現代はもっと男性と女性の体が密着しています。 電車の優先席は「健常者差別」だと思いますか?もしそうでないとすれば、犯罪に特に遭遇しやすい人たちのために、空間を確保するというのは、優先席と同様に社会が認めるべきことではないでしょうか。日本の性犯罪の現況と痴漢 女性専用車両が問題でした。話をそこに戻す前に、日本の性犯罪の現況について少し確認しておきましょう。日本の強姦の認知件数は2012年に1240件。もちろんこれは、あくまで警察が把握した件数です。 強姦は親告罪といって、被害者が立件を要求しない場合、件数にはカウントされません。したがって、認知件数と実際の発生件数との乖離が常に指摘されています。 ただそれでも、1964年に戦後最高の6854件を記録し、最近のピークでは2003年に2472件だったものが、10年ほどで半分に減ったとすれば、実際の発生件数も減ったと考えるのが妥当ではないでしょうか。2003年と比べて、泣き寝入りをする人が2倍以上になったと考えるのは、どう考えても無理があるはずです。 日本は世界的に見ても、殺人や強姦の極めて少ない社会で、その点に関しては統計的にも、世界一安全な社会と言ってよいでしょう。もちろん女性が夜道を、男性とは少し異なる緊張感を持って歩いていることは、忘れてはならないことですが。 本題に戻りましょう。つまり日本の性犯罪の最大の問題点は、毎日、数限りなく起きているであろう痴漢なのです。これはたとえばアメリカのように、地下鉄はあっても満員電車のない社会では起きません。そもそもアメリカの地下鉄で、あんなぎゅうぎゅうづめが起きれば、懸念されるのは痴漢よりも、スリでしょう。たとえばナイフで肩ひもを切って、カバンごと取られるといったことがあっても不思議ではありません。 そういう意味では、痴漢は人口密度の高い地域固有の犯罪ということもできます。でもゼミの複数の留学生曰く、中国人なら(日本でも)その瞬間に女性がぐっと手をにぎって上に上げたり、ガンと足で踏んだりするそうです。女性専用車両は、優先席と同様に必要痴漢成立の歴史 鉄道に詳しい研究者として有名な原武史さんは、痴漢の成立を1950年代とした上で、その重要な条件として「和装から洋装への変化」と「スカートの中への幻想の変化」を挙げています(『鉄道ひとつ話ばなし』講談社)。前者はともかく、「スカートの中への幻想」って? これについては井上章一さんが『パンツが見える』(朝日選書)で詳細な議論を展開しています。パンチラを見たいという欲望自体が、社会的・歴史的に作られたものなのです。 和装からズロースへと移行した時代には、下着が見えることに対して、女性も羞恥心を感じていなかったのに、洋装とパンティの普及が、隠されるべきものとしてのパンティを立ち上げ、「パンチラという性欲」を作りだしたとされるのです。そして、それに触れることへの「過剰な欲望」が誕生し、痴漢と結びついたということになります。 痴漢は刑法上「強制わいせつ罪」にあたります。ですが、法律運用の実務では、下着の中に手を入れたケースを強制わいせつとして立件し、下着の上から触る場合や盗撮は、各都道府県の「迷惑防止条例」違反として、取り扱われています。女性専用車両は、優先席と同様に必要 それもあって、満員電車の車内アナウンスで「痴漢等の迷惑行為を見かけた場合は……」などと言う場合があるのですが、痴漢は「迷惑行為」ではなく、女性の人格を否定する「犯罪」です。なぜこんな重篤な人権侵害に、かくも無神経な男性がいるのでしょう。 「欲望」の成立自体が戦後のことで、「いたずら」程度の認識しかないからなのでしょうか? 強制わいせつの認知件数は、2012年に7263件。毎朝の痴漢が日本中で20件しかないわけがないはずです。 痴漢の冤罪事件があるのは確かです。両手を挙げた状態にして、疑いをかけられないようにする男性がたくさんいるのも事実で、男性の乗客の中で、痴漢をしている比率というのは、そうとう低いでしょう。でも、だとすればなおのこと、そのような可能性のない空間を確保するのは、必要不可欠な手段ではないでしょうか。 セクハラを含めて、性犯罪の定義権は、一義的には被害者にあります。つまり何をセクハラと考えるか、何を痴漢と感じるかは、被害者に最大の決定権があるのです。同じ行為を受けたとしても、好きな人なら「犯罪」とならないわけで、犯罪行為を外形的に定義するのが難しいからです。しかしそのことが、同様の行為を誰もが試してみてよい、ということを意味しないのは当然です。 「婦人専用車両」が導入された100年前とは異なり、今、女性と男性は、電車、職場、学校を共有しています。だからこそ、少なくとも優先席と同程度には、女性専用車両の必要性が認められるべきだと思うのです。国交省の資料を調べたところ、実は量的にも1編成の電車の総座席数に占める優先席の比率は、女性専用車両の座席数の比率とほぼ同じ。お年寄りに席を譲るのと同じ気持ちで、女性専用車両を認めるべきではないでしょうか。 男性のみなさん、毎朝通勤するたびに、体の特定の部位を触られるという恐怖感を想像してみてください。それを防ぐための措置を「差別」と呼ぶのですか? 私は中学の頃に電車で一度だけ痴漢に遭ったことがあるのですが、本当に不愉快な記憶です。関連記事■ 「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ■ 女性の活躍 男中心の企業文化を排せ■ 法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」

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    弱者は女性だけじゃない! 女性専用車両の不思議

     みなさん今日は。出羽の守代表の@May_Romaです。普段延々とネトウヨの悪口をいっているワタクシがこの媒体に出てしまうのはどう考えても炎上目的なんじゃないかという気がするのでありますが、本日は女性専用車両について考えてみたいと思います。 海外の方が日本に来てびっくりすることの一つが女性専用車両の存在であります。ワタクシは日本と欧州を往復しておりまして、時々外国人駐在員や出張者の世話などをやくこともあるのですが、「ええ!俺はこれに乗っちゃいけないのか。俺は痴漢ではない!!オーノーガッデム!!」と大騒ぎする外国の方を「まあまあ」となだめるのは面倒なので、そろそろアレは辞めて頂きたいと思っていたりします。 ちなみにサウジアラビアやチュニジアの人が日本に来ても、アレをみて凍ります。サウジの方はこうおっしゃりました。「日本はコンビニや街にエロ広告やエロい本が溢れている!でもまるで我が国の様じゃないか!そうか日本も実はイスラム教国だったのだね!!我々はトモダチだ。石油をもっと売ってやるぞ。ガハハハ」 その他にも辞めてしまえと思っている理由があります。弱者は女性だけじゃないんですよ。世の中。なのになぜ女性だけ沢山のコストをかけた車両をあてがわれて、まるで障碍者の様に扱われるのか? ワタクシの身内には事故や病気の後遺症で体に問題があるわけですが、仕事でも公共交通機関でも特に配慮されるわけではありません。見るからに具合が悪くても、血族や同じ会社の人間以外には気を使わないこの日本と言う島国では実態はそんなもんです。 健康体で仕事も適当にやっている様な女性と、事故の後遺症や病気で一年365日体が痛いけど働かざる得ない男のどっちが弱者かと言ったら、それは後者なんですよ。体が痛い人間も女性専用車両には乗れるんですけどね、視線に耐えられなくて諦めちゃう人が多いんです。これホントの話。 人道的観点から考えたらね、ホントに必要なのは女性専用車両じゃなく一年365日体が痛い人間用の車両なんですけども、どうも議論はそうならない。女性は弱者、弱者は隔離しよう、弱者は守ろう、という話になってしまう。足がない人間や心臓にペースメーカーが入っている人間だって殺人的に混む電車で通勤しているのに、彼らには専用車両はないわけです。欧州の大都市に女性専用車両がない理由 ところで欧州だと女性専用車両なんてありません。ロンドンで地下鉄で性犯罪があったから作れって話もありましたが、色々反対意見があってポシャりました。なぜないか?だって電車には女性以外にも様々な弱者がいます。老人、障碍者、字が読めない人。女性だけ特別配慮するのはその人達に対する差別になってしまう。電車に乗る様な女の大半は口があって歩けて殴れます。彼女達は人工心臓を付けた人や、事故で脳が半分になってしまった人に比べたら弱者ではありません。 さらに、欧州の場合、痴漢にあったら凄い勢いで罵声を浴びせたりグーで殴ります。男をグーで殴るんです。特にイギリスなんて女も体が巨大なので、身長180センチとか体重が150キロなんてのがゴロゴロしています。だから女性専用車両なんていらない。殴られるのがわかっているので痴漢をしないんです。痴漢して有罪にでもなったら会社は首ですからそれも怖い。 通勤電車も日本の大都市ほど混まないので痴漢のしようがない。これはロンドン、パリ、ローマ、マドリッド、フランクフルトなど、欧州の大都市どこも同じです。瞬間的に混むこともありますけど、その密度は日本よりもうんと低い。そしてラッシュの時間も短い。なぜかというと、そもそも人口が分散する街作りになっているので、日本ほど首都圏に人が集中しないからです。コスト削減に熱心なので家賃の安い郊外に移転している会社も少なくありません。 通信インフラは日本に比べたらボロボロですけど、ネットを活用した在宅勤務の人も多いのです。在宅だから通勤しないんです。そもそも同僚が嫌いだし会社には一秒もいたくないから在宅は大歓迎。 労働時間も短くて家に帰るのが早いので夜8時台で電車はガラガラ。サービス残業なんてないので自分の仕事が終わったら家にさっさと帰ります。帰ったら家事をやるんです。男性も家事をやらなかったら離婚です。旦那が家事をやらない、なんて愚痴は垂れません。「やらないからムカつく、じゃあ離婚」大変単純です。嫌なことは我慢しません。 仕事が適当なのでストレスが溜まらず、通勤も日本ほど大変ではないので、電車で性的欲求を解消しなくちゃならない人も多くはない。そもそも気に入った女性がいたら、直接ナンパした方が早いわけですけど。触ってどうするという話です。 日本の女性には女性専用車両の存在意義に関して議論するとか、「私は差別されている」と延々と言い張るのではなく、そもそも、なぜ日本の通勤電車はあんなに混むのか、混雑を解消するのはどうするべきなのか、なぜ痴漢してしまう人がいるのかを考える活動に取り組んで欲しいと考えております。 本当に生産的なのは、私は被害者だと延々ということではなく、男性と恊働しながら何かを提案する活動です。女性専用車両に乗り組んでくる男性を糾弾しても何も良くならないのです。関連記事■ 元AV記者の社会学者が分析 「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽■ 橋下市長vs在特会にみるエンタメ報道■ 中国人に狙われる生活保護の実態

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    女性専用車両がつくる「断絶」が被害への理解を阻む

     今年に入り、電車内での痴漢被害など性犯罪に関する記事をネット上でいくつか書きました。これらの記事をきっかけに今回、「女性専用車両について」寄稿依頼をいただいたのだと思います。 女性専用車両についての意見を聞かれれば、メリットもあり、デメリットもあると考えています。メリットは、痴漢被害から女性や子どもを守る効果がいくらかはあるということです(ただ、女性被害者に比べると少ないですが男性の痴漢被害者もいるので、彼らは無視されているとも思います)。 一方デメリットは、男性と女性との間に本来無用なはずの断絶をつくってしまっていることです。女性専用車両がつくる「断絶」が、被害への理解を阻む 少し前に、「いまの女子大生が5年後安心して母になれる社会をつくる」ことをビジョンとして掲げて活動している学生団体の代表をしている女子大生に取材しました。彼女が言っていたこんな言葉が心に残っています。最近よく耳にする、電車内でのベビーカー論争の話になったときのことです。 「(子どもがいる人といない人の間に)断絶がありますよね。しかも断絶があると余計断絶しようとする。知る機会がないから、『ベビーカー専用車両作れば?』という話になってしまう。でもそうやって断絶の連鎖が続いたら、子どもを育てられない社会になってしまいます」(引用:「お母さんの自己肯定感は子どもに伝わる」―女子大学生が考え始めたこれからの子育て:ウートピ) この言葉を聞いて、なるほどなあと思いました。専用車両があるからこそ断絶してしまうというのは、女性専用車両の話にぴったり当てはまります。 女性専用車両は本来、性犯罪から被害者を守るという目的があり、断絶があるべきなのは「加害者と被害者」のはずなのですが、現状では「男性と女性」の間に断絶をつくってしまっています。 女性専用車両によって2つの性別のうちの一方が「優先」されたことにより、「事情はわかるけれど全員が痴漢を行うわけではないのに何だか理不尽だ」という気持ちになる人もいるでしょう。人の考え方はさまざまなので、もちろん全く不満を感じない人もいると思います。でも逆に大きな不満を感じる人もいます。その「不満」が、実際に痴漢に遭う被害者に対しての理解を阻んでしまっていないかと懸念します。男性が男性から強制的に体を触られたら男性が男性から強制的に体を触られたら こういう言い方をすると女性からお叱りを受けることがあるのですが、痴漢被害に遭うことが少ない男性が痴漢被害の実態を想像できないことは、ある意味「仕方ない」ことです。ほとんどの男性にとっては自分の身に危険が及んだことがないからです。また、自ら被害を語ろうとする性犯罪被害者はまだ少数です。よほどの信頼関係がない限り、男性に対して被害を語ろうとする女性は少ないでしょう。 自分の家族が電車内で強制わいせつの被害に遭ったことがある男性を取材した際、その男性はこんなことを言っていました。 「私は家族が被害に遭ったことで加害者に対して激しい怒りを感じていますが、痴漢被害そのものよりも痴漢冤罪に怒っている男性も多い。本来多くの男性は、自分が痴漢被害に遭うことを想像するのは難しいのだと思います。女性が男性から受ける性被害は、男性が女性から性被害を受けるというイメージでは想像できない。男性が自分よりも強そうな男性から強制的に体を触られるということの方が近いのではないでしょうか」 性犯罪は加害者が「自分より弱い者」へ行う行為で、性欲のほかに支配欲が関係しているのではないかとも言われます。一般的に男性より女性の方が力が弱いため女性が被害に遭いやすく、被害に遭ったときに抵抗しづらいという恐怖があります。抵抗できない恐怖を想像するには、この男性が言うように「男性が自分よりも強そうな男性から強制的に体を触られる」と考えた方が想像しやすいかもしれません。痴漢を怖がると「自意識過剰」、被害に遭うと「隙があったから」 被害に遭う確率が女性よりも少なく、被害内容を聞くことも稀。想像するのもなかなか難しい。このため、男性にとっては被害者たちの感じた恐怖や屈辱よりも、繰り返し報道される痴漢冤罪や、「女性専用車両を我が物顔で使うオバサンたち」のイメージの方がリアルだったりします。 ネット上で有名な画像の一つに、女性専用車両についての街頭インタビューで「私は特にどこでもいいです」と答えた女性と「(ある方が)安心」と答えた女性たちのルックスの違いを比較するようなものがあります。この画像から感じられる「嘲笑」がまさしく、女性専用車両が作り出してしまった男女間の壁を表していると思います。 女性専用車両が必要だという女性を自意識過剰かのように言う一部の風潮の背景にあるものは、「実態に対する認識の差」です。女性と男性とでは、見えているものが違います。 「認識の差がある」と言うと男性から「仕方ないだろ」「男を責めるな」と言われ、「認識の差があるのは仕方ない」と言うと女性から「仕方ないという言い方はもやもやする」と言われることがあるので、本当になかなか難しい問題ですが、言いたいのは認識の差を前提に議論することが必要だということです。以前書いた記事に対して、「ほとんどの男性は痴漢なんてしないし、ほとんどの女性は痴漢でっちあげなんてしない。大多数の善良な男女で協力すればいいのに、うまくいかない不思議」という内容のコメントがありました。全く同感です。 得をするのは痴漢加害者だけ男女が対立したとき、得をするのは痴漢加害者だけ 置かれた立場の違う人が断絶することなく、お互いへの想像力を持つためには、本当は女性専用車両がない方が良いのだと思います。女性専用車両がない状態でも、電車内で性犯罪に遭わないことが一番です。仮にも先進国と言われる日本で、痴漢対策として女性専用車両を採用しなければならなかったことは恥ずかしいことです。わざわざルールを設けなければ最低限のモラルが守られなかったのです。 2011年に警察庁がまとめた「電車内の痴漢撲滅に向けた取組みに関する報告書」によれば、2009年における電車内での強制わいせつの認知件数は340件。迷惑防止条例違反で立件される痴漢行為の検挙件数は3880件でした(どちらも全国)。ただし、同調査では被害に遭った人のうち警察に届けた割合は10分の1という結果もあり、犯罪の性質上、認知・検挙件数ともに実態を正確に反映した数とは言えません。 電車内での強制わいせつとは、これまでの例では「下着の中まで手や指を入れること」「露出した陰部を被害者の手などに押し当てること」などがそれにあたるとされています。 私は都内の高校に通っていた頃、電車内で何度も痴漢に遭いました。下着の中に手を入れられ、性器の中に指を入れられることもありました。被害に遭っていたのは私だけではなく、同級生の中には精液をかけられたり、2人の男性から同時に被害を受けたりした友人もいました。私も友人の多くも、親や警察に相談していません。大事にしたくない、恥ずかしいという気持ちもありましたが、理由の一つは痴漢被害があまりに日常茶飯事だったからです。 今、自分が子どもを持つ年齢になって、女子高生が電車という公共の場で日常的に性犯罪に遭うということが、いかに異常なのかと感じます。被害の内容を記事に書くと、「隙があったのだろう」「被害に遭う方が異常だ」と言われることがありますが、こういう声がある限り、被害の実態を伝えていかなければいけないと思っています。今、被害に遭っているけれど声をあげられない人に代わって、声をあげられる元被害者が訴えていく必要があります。 繰り返しになりますが、痴漢犯罪は男性対女性の問題ではなく、加害者対それ以外の問題であり、加害者ではない人たちが協力する必要があります。また、子どもが被害に遭うことも多くあり、子どもを被害から守れないのであればそれは大人対子どもの問題です。痴漢加害者に対する怒りが女性に対する怒りにすり替えられたとき、得をするのは加害者だけです。痴漢犯罪を根絶するためには、電車内でおきている痴漢行為がどれだけ卑劣であってはならないことなのかをまず知ってもらうことが必要です。 女性専用車両をつくりだしたのは女性ではない女性専用車両をつくりだしたのは女性ではない 痴漢被害の内容を記事に書くと、「痴漢冤罪についても調べろ」「女性専用車両から身体障碍者を追い出す女性乗客の存在を無視して一方的に痴漢被害の深刻さを語られてもふーんとしか感じられませんが」といったコメントが届くことがあります。でも、被害を訴えることは、男性全体を敵視することでも、痴漢冤罪や女性専用車両の使い方を間違える女性の存在を無視することでもありません。また、痴漢犯罪が減れば、痴漢冤罪も減ります(痴漢冤罪には取り違えとでっちあげの2種類があるとされますが、少なくとも前者は減ります)。 女性専用車両をつくりだしたのは女性ではなく、痴漢加害者です。女性が被害を訴えなければ、女性が権利を主張しなければ女性専用車両はなかったというのであれば、被害者は黙っておけという話になってしまいます。 先進国と言われる日本で、なぜ女性専用車両が存在するのでしょうか。女性専用車両には一定の効果が期待できますが、根本的な解決策ではありません。電車内で誰も性被害に遭わせないモラル、性犯罪を絶対に許さないという意識が今よりも必要です。「東京の電車は殺人的混雑だから仕方ない」と言われることがあります。確かに首都圏の通勤電車の混雑は異常ですが、「混んでいるから仕方ない」という免罪符をわざわざ加害者に与える必要もないとも思います。  今後の被害を防ぐためにも、被害経験のある者が口をつぐんではならないと思っています。被害を減らしていくために、今後どのような課題に取り組むべきかについては、「電車内での「強制わいせつ」が年間340件起こっている日本(わかっているだけで)」(Yahoo!個人)で書きました。ご興味のある方は読んでいただければ幸いです。関連記事■ ベビーカーマーク「若い母親甘やかし過ぎ」と年配女性が苦情■ 女性の活躍 男中心の企業文化を排せ■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ

    も、参与観察に基づいた論文があります。 結論からいうと、日本テレビの内定取り消しは、大変な時代錯誤と性差別に基づくものだと私は考えます。大学院を含めて私のゼミには今まで、広義のセックスワーク(性労働)と呼ばれるものにアルバイトで関わる学生さんが複数いました。「広義の」と表現したのは、セックスワークを買売春に限定せず、AV女優、キャバクラ、バニーガール、ホステスなどを広く含めて考えるからです。ホステスは「セックスワーク」なのか このセックスワーク、実は定義をしようとするとかなりやっかいです。何らかの意味で「性的サービス」が金銭を対価として提供されることを指すわけですが、身体接触がないものについてどのように判断するかは、学問上の概念としても、合意された基準があるわけではなく、そのときの議論によって違いが生じます。 今回問題となったホステス。いわゆる水商売と言われるものですが、銀座にある普通のクラブのようですので、顧客との身体接触は原則としてはなく、あくまで客との対話が重視されるはずです。このケースで女性の「性」が取引されたと見るのかについては、議論の余地があるでしょう。むしろこの仕事で重要なのは、相手の話を受け止め、楽しませる対話力のようなもので、「性的魅力とは無関係」との立場もあり得ます。アナウンサーのトレーニングに向いているかもしれません。 ただ、だとすると日本テレビの判断は、セックスワークですらないものについてまで「前科」を問うことになり、その立場はより広い範囲の職業について問題視しているということになります。ここでは、女性の外見を含めた「性」がホステスという「商品」の重要な一部であったと考えることにして、これを広義の意味でのセックスワークに含めて、議論してみましょう。あえて、日本テレビ側から見て「より『重罪』である」という仮定に立って議論をするのです。 セックスワークという概念は、そもそもジェンダー論の中でこれを認めるかどうかについて、議論が分かれます。女性の性が男性によって買われているという点を深刻視する立場に立つ人たちは、これを「ワーク(労働)」とは認めず、搾取であると考えます。「セックスワークを認める」という議論自体が実は、最低限の「自己決定」が、働く当事者の側にある、ということを前提とするのです。私はその立場に立ちます。 今回のケースでは女性は、人に頼まれてこのアルバイトをしたと仄聞していますが、いずれにせよ、(強制ではないという意味では)自分の意思で就労しています。この「自己決定」を前提とする議論が登場したことで、買売春やその他のセックスワークに関する議論は、難しい判断を迫られるようになりました。自ら「望んで」売春をしたり、アダルトビデオに出たりしたのだとしたら、そこには「労働」があるだけで、性差別はないのか? 男が女を買う、という問題を消去してこの問題を論じてよいのか、といった批判を、セックスワーク論に立つ私は、受けることになるわけです。 しかし日本テレビが今回取った立場は、そういったフェミニズムやジェンダー論の一部からある反対意見とは180度方向の違う反対論です。日本テレビは、アナウンサーには「高度な清廉性」が求められ、ホステスという職歴はそれにそぐわないと主張したのですが、この「清廉性」とは一体何なのでしょうか? 1956年の売春防止法制定にいたるまでの議論の中には、「売春は性差別である」という婦人解放論からの主張とは別に、キリスト教矯風会などを中心とする女性たちから「売春は道徳的に許されない」との強い売春反対論がありました。彼女たちは(キリスト教的な)道徳から考えて、性を売ることは許されず、売春婦というのは、(意に反した場合もあるとはいえ)堕落した、もしくは救済すべき存在だと考えたのです。売春をする女性を「醜業婦」と呼んだのは、そうした考えを反映するものです。キャバクラ通いの男子学生もアナウンサーNGに? そして今回の日本テレビの「清廉性」という発想は、このキリスト教矯風会の「醜業婦」という視線を思い起こさせる時代錯誤的なもので、非常に差別的な考え方であると考えます。そもそも何をもって「清廉性」と呼ぶのでしょうか? 「職業に貴賎はない」などというのは当然のことです。ホステスが仮にセックスワークだったとして、それが「清廉性」に欠けるというのであれば、セックスワークに従事する人たちすべてを差別するものです。よりによって報道に携わるアナウンサーについて、そうした視点から内定を取り消すというのは、メディアとしての自殺行為であると考えます。 また、性別を逆にして考えれば、仮にキャバクラでアルバイトをしたことのある女子学生が、アナウンサーとして不適格なのなら、キャバクラに通っていた男子学生も、アナウンサーとして不適格なのではないでしょうか? 売る側と買う側で評価を変える理由がどこにあるのでしょうか? テレビ局は志望する男子学生にどのような風俗産業に通ったかを申告させるのでしょうか? 風俗で仕事として働く側とときおり行くだけの客とは違う、との反論も受けましたが、週1回働く人と、週1回通う客はどう違うのでしょうか? それが2回になったからといって何か違うでしょうか? もし「清廉性は女性のみに求められる」と言うのであれば、それこそ性差別であるはずです。 あくまでも、問題なのは女子学生のアルバイト歴ではなく、特定の職業を貶めた日本テレビの姿勢にあるのです。「醜業婦」のごとく見なす視線と、買う側の男性を不問とする性差別。なぜ女性のアナウンサーにのみ、内実の不明な「清廉性」なるものを求めるのか、こうした発想が時代錯誤であり、性差別であることが、今回確認されたと考えます。

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    「AV記者で何が悪い」は性差別?

    マエであって、ホンネはどうなんでしょう? ウーマノミクスと呼ばれる女性活躍に注目が集まる今、「職業と性差別」の問題について改めて考えたい。

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    女子アナ内定取り消し騒動「職業差別」論を嗤う

    呉智英(評論家) 昭和21(1946)年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。民主主義や人権思想の矛盾から脱却する道として封建主義を提唱する封建主義者。マンガにも造詣が深く日本マンガ学会の理事も務める。著書に『封建主義者かく語りき』『サルの正義』『危険な思想家』『現代人の論語』『つぎはぎ仏教入門』など。職業に貴賤はある 11月14日、東京地裁で「ホステスと清廉性」「女子アナと清廉性」をめぐる裁判の初弁論があった。東洋英和女学院大学4年生の女子大生が日本テレビのアナウンサーに内定していたのに、銀座のクラブでホステスのアルバイトをしていたことが発覚し、内定取り消しになった。ホステス体験はアナウンサーにふさわしい清廉性を損なう、という理由からである。これを不当だとして女子大生が日テレを訴えたのである。争点はもう一つ、虚偽申告もある。女子大生は応募の過程で職歴・アルバイト歴の項にホステス体験を申告していなかった。法廷実務としては、こちらの方も重要な争点になろうが、事件が社会の関心を集めているのは「清廉性」の方だろう。 既に新聞・雑誌・ネットなどで、ホステスに対する職業差別ではないかとか、今時ホステスぐらい誰でもやってるぞとかいった声が挙がっている。酒場談義ならこのレベルでもかまうまいが、何か御高見のつもりで新聞などにこの種のコメントを寄せる人がいるのは笑止である。 12月2日付の朝日新聞は、この事件を解説風に報じ、元ホステスである作家の室井佑月の「職業に貴賎はなく、[裁判に]勝ったら堂々と日テレに入ればいい」という発言を結論部に載せている。 勝ったら堂々と日テレに入ればいいというのは、現在の法秩序においてはその通りであり、私もそう思う。しかし、職業に貴賎は本当にないのか。どうも室井佑月は安易な良識論の上に作家活動をしているらしい。イデオロギーに曇らされた目には見えないかもしれないが、厳然として職業に貴賎はある。 私は因習の中で「賤業」とされてきた職業に差別感は抱かない。むしろ、そうした差別への怒りに共感を示してきた。それらの多くは、社会制度の改革で解決できる。 我々は現在ほとんど気づかないが、かつて徴税人は差別されてきた。現代で言えば税務署員である。聖書の中でも、徴税人は罪人と一括りにされ、人々に賤視されている。イエスはこれらの「罪人を招くために来たのだ」と語る。使徒マタイも徴税人だとされる(マタイ伝9・9~13)。フランス革命時、化学者のラボアジェは革命政府によって逮捕され、ギロチンによって斬首された。徴税人だったからである。民主主義と人権思想を実現するための革命は、被差別者である徴税人を殺すことで成立した。 現在、民主主義と人権思想が実現しているのかいないのかよく知らないが、税務署員が堅実な職業として社会的信望を得ることはあっても差別されることはない。社会制度が変わったからであり、国家が公務員として徴税人を認定したからである。 しかし、制度の改革では解消しない職業差別もある。日本共産党を監視する公安警察は、共産党から賤視されないだろうか。親族に公安刑事を持つ青年が共産党に入党したいと言って来たら入党拒否されないだろうか。それが虚偽申告だったら、どうだろうか。共産党以外の社会運動団体だって事情は同じである。これらの団体は、公安警察という職業を差別しているのである。それがいけないと言うのではない。むしろ当然だろう。「選別」と「差別」は同義語 そもそも、何かを「選別」する時、必然的に「差別」が伴う。この二語はほとんど同義語である。ずいぶん前になるが、新聞の投書欄に、無差別爆撃という言葉はやめようという意見が載った。無差別な社会を目指すことが全人類の課題になっているのに、無差別だから非武装の市民が殺されるとするのはケシカラン、という論旨である。これをきっかけに、差別をめぐる議論が起きればいいと、私は思ったが、どういうわけか、そうはならなかった。現代の良識がイデオロギーにすぎないということが暴露されるのを新聞は恐れたのかもしれない。 入試も、大学だろうが企業だろうが、選別である以上、差別が伴う。能力がある者はウェルカム、能力のない者はあっちへ行け、という差別である。我々はこれを許容しているだけのことであって、本質は変わらない。許容の基準は合理性である。要するに、その差別が大学や企業にとって得になるか否かである。 もっとも、その損得勘定はしばしば間違うことがある。そんな時、当事者はその非合理性を告発するだろうし、識者はその非合理性を分析批判するだろうし、国家権力は強制力を発揮するだろう。障害者を、能力による選別ではなく、障害者というだけで排除するのは、大学にとって企業にとって損になる、という見解はその典型例であり、何十年間かの試行錯誤を経て定着しつつある。先述の日本共産党への入党志望者選別の例は、何十年たっても解消されないだろう。それで少しも不合理ではない。「芸能人」の独白に愕然 さて、今般の女子大生の件は、どうか。 この女子大生は、ホステス経験はアナウンサーという職業にとってマイナス要因でない、という立場である。ジャーナリズムの一翼を担うアナウンサーにホステス経験があろうがなかろうが関係ない、という考えである。 確かに、ジャーナリストに要求されるのは、取材能力、発信能力、特にアナウンサーであれば言語能力であろう。この女子大生の擁護者である室井佑月は、先述の通り元ホステスであっても、広く言えばジャーナリズムに属する小説家をしていて何の不都合も不合理もない。 しかし、女子アナはちがう。ジャーナリストの側面も少しはあるが、その能力の大部分は芸能タレントとしてのものである。単にアナウンサーと言えばすむものを、敢えて女子アナと呼ぶことに、それが表われている。女性タレントであるかぎり、お笑い芸人や悪役女優という少数派を除けば、清廉な女性像が能力として要求される。本当に清廉であるかないかなどと議論してもしかたがない。だから「像」である。 先に言及した朝日新聞の記事でも、労働問題に詳しい吉村雄二弁護士は、女子アナは「一般の職業に比べれば、ホステス歴をふさわしくないとする余地はある」と述べているし、メディア研究の碓井広義教授は「女子アナが社内タレント化していることを象徴する」としている。現に、この女子大生は3年前ミス東洋英和に選ばれ、女性誌の読者モデルにもなっている。その延長線上の職業として女子アナをとらえているようだ。 こうした事件が起きる背景には、芸能界の地位向上がある。20世紀半ばから、新聞、雑誌、テレビなど、報道メディアの急速な発達によって、そこに登場する芸能界がオーソライズされ、社会的地位が確立した。芸能界と裏社会とのつながりなど、かつては当たり前であったのが、つながりが発覚すると指弾されるようにさえなっている。 政治家で芸人でもある東国原英夫は、かつて暴力事件や少女買春事件を起こし、芸能活動休止に追い込まれた。しばらくして、彼は早稲田大学に入学し、学生生活を送った後、政治家となった。 政治家となった東国原英夫がこの学生時代を振り返ったインタビュー記事を芸能誌か何かで読んだ時、私は思わず目頭を押さえた。 彼は、こんなことを語っていた。自分は学生になって普通の人の生活がやっと分かった。芸能人の時は、普通の人の生活なんて分からなかった、と。本当につらかったんだろうな、と私は思った。芸能人として差別されていた頃、普通の人としての生活など、想像もできなかったんだろう。私はハンカチで涙をぬぐいながら、その続きを読んで愕然とした。彼は、芸能人として華やかで人にうらやまれる生活をしていた頃、普通の人のみすぼらしい生活など想像できなかった、と語っていたのである。 半世紀前には考えられないことである。吉永小百合は、それこそ清廉さを看板にする大スターだが、それでも早稲田大学第二文学部に入学し学士号を得た。その35年後、東国原英夫は吉永と同じ早稲田大学第二文学部に屈辱の入学をし、下積みの普通の人として学生生活を耐えたのである。 私は、こういう社会の変化を嘆かない。悪いことだとは思わない。むしろ、このようにして芸能人差別が解消されるのは歓迎すべきことだと思う。同時に、歴史を、社会を、人間を、分からない人が増えているのは、大変に困ったことだとも思う。関連記事■ 「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽■ アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です■ 日テレ内定取り消し騒動に見る「女子アナというガラパゴス」■ 「箱入り娘プレイ」はもういらなくない?

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    「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽

    た。職業に貴と賎のイメージはある 職業選択の自由と、イメージやリスクの問題はまた別だと言ったが、やれ性差別だ時代錯誤だとまくしたてる人たちには、いまいちその感覚が見てとれない。私は「元日経新聞記者はAV女優だった」と週刊誌に書かれた時、元AV女優が新聞記者で何が悪い、と我先に擁護してくれるインテリ系の人々のほうに驚いた。「何が悪い」というか、別に私は日経新聞に不当に解雇されてないし、閑職に追いやられるような不当な扱いも受けてはいないし、それどころか週刊文春すら別に私を悪いとは言っていなかった(世にも奇妙だとは言ったが…)。(本文と写真とは関係ありません) 何故か、女性の「夜職」系、あるいは「性の商品化」系の話題では、一部の人達は何か壮大な仮想敵をつくって大きく反応したがるようだ。仮想敵というのは或いは不適切な言い方かもしれない。彼らが戦っている相手は「おそらく現状根強くはびこっている男権イデオロギー」的なものであって、その戦いが未だ終結していないことは確かだ。しかし、そもそも「時代錯誤」かどうかは時代の空気が決めることであって、何も学者が決めることではない。 女子アナに清廉さを求めたり、AV記者を面白がったりする時代の空気を競って叩いたところで、相手は空気なので仕方がない。そういった問題について、鮮やかな切り口で空気を読み解く論考は一部であって、ネットに氾濫する多くの反応は、「私は時代錯誤的でも差別的でもない」という身も蓋もない自己アピールである。そして私たち元ホステスや元AV嬢や元風俗嬢は、そういうリベラルな人間であっても、ごく親しい者が夜職であった時に「時代錯誤的な」拒絶反応をするのをよく知っているので、やや冷笑してしまうのだ。職業に貴賎はなくとも、貴と賎のイメージはある。 どんな職業にもついていい、というのは私たちにとって変えがたい幸福である。仕事を選ぶ権利と自由を与えられた私たちが、理知的な職業選択ができる教養を身につけることは勿論、一度選択した職業を後悔したり軌道修正したりするタイミングが訪れた時に、いかに逞しく効果的に動けるかどうかが重要な問題である。大学や高校は、安易な職業訓練や就活準備の機会であるべきではなく、自分の人生の予測不能な状況に対応する力を身につける場所であるべきだ。関連記事■ 女子アナ内定取り消し騒動 「職業差別」論を嗤う■ 「箱入り娘プレイ」はもういらなくない?■ アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です■ 日テレ内定取り消し騒動に見る「女子アナというガラパゴス」

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    アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です

    長谷川豊(フリーアナウンサー)フジテレビ出身のフリーアナウンサー。取材した現場数は1700以上。伝えたニュースは2500を超える。同番組が2012年まで続けた連続視聴率1位の中心人物の一人。趣味と公言する競馬ではG1レースの実況も担当。ニューヨーク赴任当時につづったブログは大人気となり、退社後に始めたその続編のブログは1か月間で400万人の来訪、2700万PVを記録した。退社後はアナウンサーだけではなく、講演・執筆など、多方面で活躍中。現在、TOKYO MX(デジタル9チャンネル)の「バラいろダンディ」(月~金夜9:00~)でメインキャスターを務める他、「キリウリ$アイドル」などのバラエティーの司会も務める。 公的な裁判になった以上、明日から始まる審議に関しては最低レベルのネットニュースにはなるでしょう。そして、それは拡散されるでしょう。蓋なんてそんなに簡単には出来ないはずです。何より、労使関係にまつわる裁判としても、ジャーナリスティックな観点からも、今回の裁判は少なからず「興味をそそられる」裁判であることは間違いないからです。 前回のブログに対して、大きな反響がありました。何件かの取材も受けました。 公判は明日から始まります。日テレさんはこのまま裁判に突き進むようです。残念な対応と言わざるを得ません。その判断は「みんなが不幸になる」最悪の選択肢だからです。1、まず、この女子学生さんですが、当然、心無い人たちからのバッシングを受けるでしょう。まだ現役の学生さんがそんなバッシングを受けるのはとても辛いものだと思います。彼女の心境を思うと心が痛みます。2、そして、今回のケースでは彼女と同様に苦しんでいる人がいることを忘れてはいけません。恐らく、彼女に対し、銀座で働くご友人を紹介したお母様、多分、相当に苦しいお立場だと想像します。僕にも子供が3人おりますが、自分が紹介した、何気なく言った一言によって、この女子大学生さんは「人生を崩され」た形になりました。お母様の責任では全くないにもかかわらず、きっとお母様は心を痛めていることでしょう。同じ親として、気持ちが分かります。自分の行動によって、子供が苦しむ、というのは親として一番つらいものです。ひょっとしたら、何度も泣いておられるかもしれない。どうか心を強く持って頂きたいと、そう願います。3、しかし、今回、最もダメージを受けるのは恐らく、日テレさん本体です。僕はフジテレビ出身です。テレビという業界がどれほど「ふわっとしたイメージ」で大きく左右されるかを痛いほど良く知っています。フジテレビが巻き込まれたライブドアの買収騒動、そして、2011年の韓流騒動…。それまでと同じようにしているだけなのに、フジテレビの視聴率はボディーブローを受けているようにジワジワ下がっていきました。 なんか、冷たい感じ~ 学生さん、イジメてるみたい~ ホステスさん、見下してるらしいよ~ そんなことあろうがなかろうが、イメージというものが持つ力は絶大です。少なくとも今回は「公的な司法の場」に判断が委ねられました。日テレさんの上層部は懇意にしているメディアなどに「後追い取材はしないように」とお願いをすることでしょう。そして、いわゆる「古いメディア」=スポーツ紙や芸能マスコミはそこまでの後追いをしない可能性はあります。 しかし、もうそんな時代じゃない。 みんなが興味があれば、ネット上の記事があっという間に拡散されてしまいます。FacebookとTwitterがある以上、一部のメディアや芸能界に力のある人間が、好き放題に情報を操作できるような時代じゃあ、もうないんです。 しかし、今回の一件に対するご意見の中で、日テレさんが今回の女子大学生さんに対して一方的に内定取り消しを突きつけた理由のうちの一つである…「女性アナウンサーには極めて高度な清廉さが求められる」という言葉に対するネット上の反応の一部に… 「女子アナなんてキャバクラ嬢みたいなもんだろ!」 「視聴者は女子アナに対して清廉さなんて求めていませんが?」 「はぁ?今さら何言ってんの?朝から超ミニスカートはいた女子アナを売り物にしてる局がよく言うわ!」 というものがあるのですが、これに対しては…僕は日テレさんの言ってる事が正しいと断言します。 アナウンサーにはもともと、極めて高度な「清廉性」だけではなく、「信頼性」であり、「専門性」が求められます。テレビに出るという事はそういう事です。これは今、テレビに出ているキャピキャピした女性アナが間違っているだけで、本来、日テレさんの言っていることが正しいのです。 僕自身、ありもしない事をでっち上げられ、名誉を傷つけられた時、迷うことなく、会社を辞めました。覚えている方もいない方も、僕は「会社のお金を取った」という完全なでっち上げをされたのです。 僕は事実でない以上、何故事実でないのか?そこにいったい何があったのか?お金を取ろうどころか、最初からお金を返そうとしていた事実を示す、僕個人のプライベートなメールまで全てを公開し、説明責任を果たそうとしました。それにより、僕はフジテレビ社員という立場を失い、生涯年収を失い、家族も不安にさせたました。でも、これはアナウンサーとしては当然の選択なのです。 テレビ局は絶大な力を持ちます。 その先頭に立って、悪に対峙するアナウンサーという立場は、逆に自身のすべてを見られても恥ずかしくない生き方をしなければいけないのです。アナウンサーたちはテレビでは伝わらないでしょうが、みんなびっくりするくらい誠実に真面目に生活を送っているのです。 ごく一部のフジテレビのバカ者の暴走によって、僕の家族は傷つけられましたが、それ以上に僕が怒ったのは、「アナウンサーが横領したんだ」という、アナウンサー全体に対するあまりにもバカにしたその感覚に激怒したのです。 全てのアナウンサーの名誉のために言っておきますが、アナウンサーは皆さんが思っているよりもずっとずっと地味に、そして真面目に生活をしています。演出の関係で、おバカっぽくしゃべらされますし、ぶりっ子を演じさせられる女の子などもいるでしょうが、懸命に演出してくれるスタッフに恩返ししたいから頑張っているだけで、大多数のアナウンサーは、裏ではかなり地味で、パッとしない生活をしているものなのです。僕にかけられた疑惑は、そんな懸命に…局に対して恩返しするために働いている、アナウンサー全体を馬鹿にするような疑惑だったので、その全てを説明させて頂いただけです。・お金の流用など、絶対にしていない事・懲罰委員会には、呼ばれもしなかった事・僕を処分する懲罰委員会の開催は、フジテレビ労働組合にすら隠蔽され、一部の人間のみで極秘裏に行われたこと・その懲罰委員会で、僕の提出した書類や主張はすべてもみ消されたこと・週刊誌や2ちゃんねる上に、現役フジテレビの社員が「長谷川は横領犯」という話を流し、書き込んでいたこと など、全て事実を書かせていただきました。 ネット上を見てください。ここまで来て、いまだに僕を懸命に「横領犯だ」とイメージ操作しようとしている人間がいるでしょう?皆さんも見たことあるはずです。「こいつ、横領したのに何言ってんだか?」とわざわざ書き込んでいるハナクソのような連中がいますね?そのクズどもの大体の素性は、すでに分かっています。くだらないのでほったらかしにしていますが、度を越した場合、即時に法的措置に出る準備も出来ています。僕はそこまでの覚悟で戦っています。 記者会見などでは、取材に来てもらえなかったら説明できずに終わりです。なので、世界中の人が、見たい時に、見たい場所から自由にアクセスできるように、僕はブログという公開の場を使って説明させていただきました。今まで、取材も100件以上受けていますが、その一つたりとも、お断りしてきていません。取材依頼があった場合、どんな媒体に対しても受けてまいりました。これからもその姿勢は継続していくつもりです。 話がすっかりそれましたが、アナウンサーとは、それくらいの思いと共にテレビに向かっている職業です。なので、「極めて高度な清廉性が求められる」と日テレさんが言ったことに関しては全く間違いではありません。それが正しいのです。だって、「ニュースを読む」職業なのですから。 しかし、問題はその後であって、お母様のご友人の頼みを断れず、この女子大学生は数日だけ、銀座のクラブで働くわけですが、その彼女に対して「経歴の『傷ついた』あなたが…」と人事部の人間が発言し、また、内定取り消しの通知の中でも、「銀座で働くこと」を「清廉さに欠ける」と受け止めざるを得ない内容を突きつけている、という点は、間違いなく「合法」で働いているすべての銀座だけでなく、ホステスとして働く女性に対する蔑視的視点であり、これは社会通念上、許されないものです。 大事にならなければいいと心配していますが、これは最悪、銀座で働く多くの女性たちからの大規模なクレームに発展する可能性すらある発言と言わざるを得ません。 いやいや、そうは言っても、そういうクレームを言ってくる人がいる それ分かります。そんなクレームも確かに来そうです。銀座で働く女性に対して、差別的視点を持っている人がいることは事実です。でも、そういう人は貧しい考え方の人なだけであって、日テレさんは公共の電波を司るキーステーションなのです。そこに迎合してしまうと、その「差別的視点」を「日本テレビとして受け入れた」と受け止められてしまうのです。これはまずいです。 今回の件を受けて、現役の日テレ社員に連絡を取りました。彼は「クレームは本当に多く、辟易としている上層部の気持ちはよく理解できる」としながらも次のように語ってくれました。 「女子大学生に対して、内定の『辞退』をお願いした、までは理解できる。例えば報道局で働き始めた後になって、なんらかの写真が出てきてしまっては、その対応に全社員が追われる。リスクマネジメントの観点からはそこまでは間違っていないと思う。だが、『強制的に内定を取り消した』所まで行くと、これは行き過ぎ。週刊現代の記事通りの内容である場合、とても勝てるとは思えない裁判であり、どうしてそこまでエキセントリックになったか理解しかねる。自分の周りでも、『この女、本当はAVに出ていたんだろ』という意見がほとんど。そう思わないと、このままでは負けるとみんな分かってる。上層部への批判と責任問題は免れないのではないか?」 日本テレビさんにとってはきっと、将棋の駒を動かすように、「たった一人の内定を紙一枚で取り消した」だけの行為なのだろうと思うんですが、彼女にとっては人生の全てが狂ってしまったほどの大変なこと。どうかその重みを分かってあげて欲しいと思います。 このまま、なんとか上手く手を取り合えば、来年の入社の時に爆笑問題の太田さんにでもいじってもらえれば、笑いにつなげられるし、何より話題にもなる。そうすれば、みんなが幸せになるはずです。 来年の4月、どうかこのお嬢さんが笑って汐留にいてくれることを心から願ってやみません。(長谷川豊公式ブログ『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載 2014年11月13日)関連記事■ 「箱入り娘プレイ」はもういらなくない?■ 「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽■ 日テレ内定取り消し騒動に見る「女子アナというガラパゴス」■ 女子アナ内定取り消し騒動 「職業差別」論を嗤う

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    「箱入り娘プレイ」はもういらなくない?

     昨年11月、日本テレビのアナウンサー職の内定を獲得していた女子大生が、銀座のホステスのアルバイトをしていたことを自己申告した結果、内定取り消しとなった(その後内定取り消しは撤回)。この件の根底には何があるのか。1995年にTBSにアナウンサーとして入社した小島慶子さん(42才)が指摘する。 * * * 内定取り消し騒動では『高度の清廉性』という言葉が注目されましたが、それを聞いて「局アナが特別に清廉潔白な仕事だとでも?」と白けた気持ちになった人は少なからずいるでしょう。 お利口で清楚で、だけどおっちょこちょいで親しみやすい…そんな男性視聴者のさまざまな欲望を満たす存在として女子アナは扱われ、ひとつの「マーケット」として成立している。いってみれば「箱入り娘プレイ」です。プレイですから、テレビ局側も視聴者も、その存在が作られた「ウソ」であることをわかっていて、お互い暗黙の了解の上で楽しんでいるんです。 ところが、ホステスというプロの接客業の経歴の持ち主がなってしまったら、「ウソ」が崩れてしまい、そのプレイが成り立たなくなってしまう。それが今回の騒動の根底にあると思います。 しかし、「箱入り娘プレイ」がしょせんプレイでしかないことを視聴者は知っているんだから、今さら女子アナにお題目としての「高度な清廉性」を求めなくてもいいのではないか、と思います。 世間が思う「女子アナ」とは「出たがり会社員」といったところでしょう。それは本当ですし、ちっとも悪いこととは思いません。出演者は出たがりでないと務まりません。ちゃんと原稿が読めていい仕事ができるなら、それでいいじゃないですか。 自分の身内にするなら箱入り娘を、という“オヤジ”の理屈で人を選ぶのではなく、プロとして箱入り娘を演じ切れる技術があればいい、というほうがよほど現実的です。 視聴者もとっくに気づいている女子アナの幻想は、それで萌える一部のオヤジのためにあるだけ。これを機に「もう、このプレイいらなくない?」と言っていいと思う。“いい子を演じ続けるのは誰のため?”って。※女性セブン 2015年1月22日号関連記事■ 気象予報士業界も「異常気象」? 不倫体質は仕事柄か社風か■ 水卜麻美アナ 激務で彼と会えずも仕事の食事誘いはホイホイ■ 粒ぞろいの女子アナ達の中でも美しさ目立つ日テレ徳島えりか■ 大場久美子 大反響を呼んだ「54歳のビキニ姿」未公開カット■ NHK・有働アナ 結婚目前と噂出るも吉報聞かれぬ複雑な事情

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    女子アナというガラパゴス

    安倍宏行(Japan In-depth編集長/ジャーナリスト) 銀座でホステスのバイトをしていたという理由で日本テレビのアナウンサー職の内定を取り消された大学生の笹崎里菜さんが入社を求めた訴訟は、8日東京地裁で和解が成立し決着したという。これで晴れて、笹崎さんは今年4月から日テレに「アナウンス部配属予定の総合職」として入社することになった。彼女にとっても、日テレにとってもこれが考えうる最良の選択だった、ということだろう。 ここまで社会が騒ぐことは日テレも想定外だったかもしれないし、笹崎さんを入社させない場合の企業のレピュテーションリスクを考えたら、和解せざるを得なかった、というのが正直なところだろう。中には、これだけ話題となったのだから、最終的に入社させれば日テレの懐の深さをアピールできるからむしろ同社にとってメリットだ、などと無責任なコメントもあったが、正直、日テレとしてはやっかいなことになった、という思いしかなかったと思う。いずれにしても和解が一番傷が浅い、と思って決断したのだろう。 今回の問題で、これまでメディアは、やれ「清廉性」とは何ぞやとか、職業差別の問題とか、過去の内定取り消しの判決はどうだったとか、色々書き立てたが、「女子アナ」という職業そのものに言及したものは少ないような気がする。 21年間フジテレビにいて常々思っていたことがある。それはアナウンサーという職業は極めて日本的な職業であり、このままでいいのだろうか、という問題意識だ。そもそも英語の辞書でannouncer(アナウンサー)と引くと、“a person who gives information in a public place (such as a store or airport) especially using a loudspeaker.”つまり、「店や空港でスピーカを使って情報を人々に伝える人」と出てくる。したがって、アメリカで「私はアナウンサーです。」と自己紹介すれば、「どこで何をアナウンスしてるの?」とどっかの売り子か何かと間違われかねない。 では、テレビ番組に出て、司会をしている人は何と言うのか、というと、talk show host(トークショーホスト)とかMC (エムシー:Master of Ceremony)と言う。又、ニュースキャスターというのも和製英語で、caster は、“a small wheel attached to the bottom of something (such as a piece of furniture) to make it easier to move.”つまり椅子や家具の足についている、例のキャスターだから、I am a caster.といっても全く通じない。 ニュースキャスターは、通常、アンカーパーソン、anchorperson (a person who reads the news and introduces the reports of other broadcasters on a television news program.)と言う。アンカーとは船の錨こと。番組の中心となってニュースを掘り下げ、かつわかり易く視聴者に伝える役割からそう呼ばれるようになった。 話を女子アナに戻そう。呼び名はともかく、日本のテレビ業界は女子アナをタレント扱いして来た。本来ニュースを読むのならジャーナリストとしての素養も求められてしかるべきだと思うのだが、テレビ局はアナウンサーと記者を明確に分け、アナウンサーは原稿を読むプロ、と規定し、記者として仕事をさせることはほとんどない。東京キー局では、まれにアナウンサーが報道局に異動になり記者として現場に出ることはあるが、そのケースは非常に少ない。(注1) 特に、バラエティー番組などで引っ張りだこの女子アナが記者になることはほとんどなく、あくまで司会者としての能力を求められ続ける。バラエティー番組で司会をしているうちはいいのだが、日本のテレビの場合、時としてそのアナウンサーがニュース番組のキャスターになったりすることもある。取材などしたこともないので、そもそもニュースの背景もわからない。それではニュース番組でござい、といっても信頼性は担保できない。 中には勉強熱心な女子アナもいないことはない。かつて、自ら空き時間に取材に出かけ、人一倍努力して知識を増やし、人脈を築こうと努力した女子アナがいた。しかし、報道の現場ではむしろ煙たがれていた。テレビ局の文化では、アナウンサーはただ記者が書いた原稿を読んでいればいい、という意識が根底にある。アナウンサーは「出役(でやく)」という呼び名があるくらいだ。番組に「出て」ちゃんと司会という「役」を果たしていればいい、と言うことなのだろう。無論それは正しいのだが、ことニュース番組においては、その司会をする人間はタレント性より、ちゃんとした知識、豊富な取材経験などが求められるべきだと私は考える。 現場にろくに取材に行ったこともない、ジャーナリスト経験の乏しい人がニュースに論評を加える、という日本のニュース番組のスタイルは、ガラパゴスそのものだ。視聴者が離れていくのもうなづける。 こうした中、最近の女子アナ採用はこれまで以上にタレント性を求められている。即戦力を期待され、学生時代からタレントをやっていました、という人を堂々と採用するようになっている。あのNHKですら、最近は「元ミスxxx大学」を積極的に採用している。 日本でジャーナリスト的な女子アナと言ったら、国谷裕子氏や安藤優子氏、田丸 美寿々氏位しか思いつかない。その次の世代が全く育っていないのは、テレビ業界の怠慢そのものだと思う。「清廉性」うんぬんより、むしろ国際的にも通用する能力を持ったアナウンサー、もといニュースアンカーを育てることが、今求められているのではないか。(注1)地方局(ローカル局)では、東京キー局ほど厳密にアナウンス職を記者職などと分けておらず、アナウンサーが現場に出て取材し、原稿を書き、時には編集まで立ち会うことも普通である。関連記事■ 「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽■ 「箱入り娘プレイ」はもういらなくない?■ アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です■ 女子アナ内定取り消し騒動 「職業差別」論を嗤う

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    専業主婦をやっててもいいですか?

    成長戦略の一環として女性の労働力を積極的に活用する「ウーマノミクス」の議論が動き出した。安倍晋三首相は専業主婦を優遇する所得税の「配偶者控除の見直し」を指示。女性の社会進出を後押しする一方で、専業主婦にとっては「逆風」となる。総理、もう専業主婦をやってはダメなんですか?

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    ニッポンの働き方と家庭のあり方は問題だらけ

    『無頼化した女たち』 水無田気流氏インタビュー 著者の水無田気流さん 安倍政権は「女性が輝く日本」をつくるために、「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」などの政策を掲げている。しかし、一方で、若い女性の専業主婦志向が強まっているとの報道もある。現在、女性は雇用や結婚、出産、家庭などでどのような状況に置かれているのか。『無頼化した女たち』(亜紀書房)を上梓した立教大学社会学部兼任講師の水無田気流氏に、女性たちの今、そして男性が抱える問題についても話を聞いた。 ―― 今回の本は、09年に出された『無頼化する女たち』(洋泉社)を収録し、さらに前作以降の女性の社会状況についてまとめられました。 水無田:前作では、主に80年代以降の女性を取り巻く動向を中心に書きました。今回は、そういった社会史的なものを踏まえつつ、震災以降の新しい考察を加えました。 前作では、無頼化する状況、つまり女性が人を頼らずにひとりで生きていくことを前提とした社会が積み上げられていることを指摘しました。それが震災当時の「絆」の大合唱で少しは変化するのかと思ったのですが、結局「絆」はそんなに強まりませんでした。 たとえば、婚活をする男女は増えたけれども、婚姻件数自体は戦後過去最低を更新しましたし、少子化も歯止めがきかない。震災前からあった傾向がより極端になったと言えます。そこで、本のタイトルも前作が無頼化「する」だったのが、今回は無頼化「した」となり、女性はますます無頼化していると。 また、男性の生涯未婚率(50歳になった時点で一度も結婚していない人の割合)も、前作当時では16パーセントと高かったのですが、あっという間に2割を超え、孤立している。特に男性の場合、会社村の住人になってしまっているので、退職してみないと、いかに自分が孤立しているかに気が付きにくい面がありますね。 ―― 09年以降の女性の雇用環境はどう変化したのでしょうか? 水無田:男女ともに非正規雇用化は進んでいて、これまで、女性の非正規雇用は中高年と若年層が中心でしたが全年齢階層で進んでいます。女性では、非正規が過半数を占めています。たとえば、正社員の女性も結婚を機に半数が離職するかパートタイマーや派遣に働き方を変え、残りの半数も出産を機に仕事を辞めたり、働き方を変えたりすることが影響しているからでしょう。結果的に、正社員として子どもを産んで、そのまま残り続ける女性は実質的に25パーセント程度しかいないこととなります。 ―― 結婚を機に、子どもを産まなくても、雇用形態を変える女性が多いのではどうしてでしょうか? 水無田:それは、やはり家庭責任が取りきれないからでしょうね。今なお日本では、女性が担うべき家庭責任と家事・育児・介護などの諸々のケアワークが一体化しています。その上、外での仕事もあるとなると、時間のやりくりが大変なことになります。また、特に子どもをもつと実感しますが、女性はいざという時に家族のために時間をあけられることが前提とされているので、家の周辺地域からあまり離れられません。 旧来の男性並みの働き方は、とにかく日常的な長時間労働と長期間の継続就労ですよね。長期間の継続就労については、出産や育児で一旦キャリアに抜けの出る可能性がある女性には厳しいですね。また、日常的な長時間労働も、家事や育児などのケアワークの責任が重い女性にはやはり厳しい。家事や育児、介護などが部分、部分に分解されれば、仕事は頑張ればできるかもしれませんが、家庭責任を負いながら会社人間として生きるのは難しい。 ―― では、女性が結婚、出産後も正社員として働き続けるには、どうしたら良いでしょうか? 水無田:まず、単位時間あたりの生産性を評価するような、評価システムに徐々にで良いので変えていくことですね。他には、同一価値労働・同一賃金の導入も必要なのではないかと思います。 単位時間あたりの生産性を評価するシステムがなぜ必要なのかといえば、生産年齢人口が減少しているので、少ない人数でどれだけ生産性を上げ、より質の高い就労ができるかが問題だからです。しかし、ここ最近議論されている配偶者控除の廃止や移民の受入れにしても、とにかく泥縄式に働き手を増やす方向の議論ばかりなされている。これまで家庭でアンペイドワークに従事し、家族や地域社会の担い手であった女性を、お金に代わる労働に変えればいいという単純な発想で、時短や有給取得率を上げるといった働き方そのものを見直そうという方向にならないのが残念です。 現在も女性は、家事・育児・介護とさまざまな家庭責任を取らなければなりません。また地域社会の担い手である既婚女性の場合、男性より睡眠時間が短いですし、90年代後半以降、共働き世代が増加しているので、家事育児の他にパート就労している女性が多数派のため、男性より女性のほうが総労働時間は長いと考えてよいでしょう。配偶者控除廃止は中長期的には必要だと思いますが、それによって現在よりも女性が外で働かねばならないということになると、ただでさえ家事育児などの無償労働時間も長い女性たちは、時間的にパンクしてしまいます。そうすると、女性が活躍している町内会やPTAの活動といった地域社会の担い手も枯渇してしまう。 ―― 一方で、無頼化し、ひとりで生きている女性たちもいます。しかし、若い女性に目を向けると、専業主婦志向が強いとも聞きます。若い女性たちは、キャリア志向の女性たちを目指さないのでしょうか? 水無田:ちょうど専業主婦志向の強い若い女性たちのお母さん世代というのは、1986年に施行された男女雇用機会均等法世代で、保守的な層と、自分の生き方を尊重する層に別れたと思います。それまでの日本では、多いときで女性が97パーセント、男性が98パーセントの皆婚社会でした。これは結婚以外の選択肢がなかったとも言えます。 選択肢が増えた雇用機会均等法世代以降の女性は、子どもを産むとなると育児環境がまだまだ専業主婦が前提とされていたので、自分の個性やキャリアを尊重したい女性は子どもを産まなくなりました。ですから、あえて結婚、出産を選んだ女性というのは、もともと保守的で、そういった家庭で育った現在の若い女性は、専業主婦志向が強いのではないでしょうか。 ただ、現在特に若い男性は総体的な賃金水準が低下していますから、20~30代の未婚男性で、結婚相手に専業主婦になってほしいという割合は5人に1人しかいません。一方の女性で、専業主婦になりたい割合は3人に1人ですからミスマッチが起こっているわけです。 ―― 若い男性の賃金ベースが相対的に低下していて、共働きが増えているにもかかわらず、どうして女性と男性との間でズレが生じているのでしょうか? 水無田:よく結婚に関して男性の収入が話題になりますが、まず日本というのは、所属社会で身分やどこに属しているかということがすごく重要視される社会なんです。女性は、会社に正社員として「所属」している男性と結婚することによって、社会の中や家族の中で「所属」を得られる。でも、男性の賃金水準の低下や就労形態の不安定さなど、女性側から見て「所属」に足ると思う男性が減っていますよね。 ――保守的な女性と、無頼化した女性の対立を強調するような議論も時折見かけます。 水無田:無頼化と保守化は、一見両極端に見えますが、これは社会が不安定なことの証左ですよね。今回の配偶者控除の廃止や第3号被保険者見直しなどを見てもわかるとおり、女性のライフスタイルというのは社会の過渡期に緩衝材として使われがちなんです。 配偶者控除がなぜ高度成長期に考えられたかというと、この制度が導入された60年代頃までは、農林漁業などの第1次産業から第2次産業への転換期だった。第1次産業の農家では、お嫁さんも貴重な労働力ですから、みんな働いていましたが、製造業や建築などの男性向けの職場とも言える第2次産業が伸びていた頃には、男性を支える妻が奨励されたからなんです。 質問にもあった保守的な女性と、無頼化した女性の対立のように、ここ1、2年、私自身、働く女性と専業主婦の税制問題や、ママ友カーストなどの取材を受けることも多くなりました。女性同士の論争というのは、昔からありますし、男性中心のメディアでは、女性同士の論争は高みの見物ですからおもしろいというのがあるんだと思います。そういう女性同士の戦いのように煙幕を張って、実際には女性を社会に都合の良い形で動員しようという有形、無形な力は働いていますから、女性もいい加減そういった手に乗らないで欲しい。ただ、女性が社会の問題に目が向くと困るというのもありますし、女性自身もそういった問題に目が向きづらい。なぜ女性が社会に目が向かないかというと、社会性のある女性がモテなくなるからなのではと(笑)。 ―― 一方の男性については、お話のはじめの方で「孤立」しているという指摘がありました。 水無田:OECD報告では、日本の男性は世界で一番孤独と言われています。仕事以外の人間関係が他国と比べて、圧倒的に少ないからなんです。そうすると、引退後の人生がすごく辛く、居場所がないですし、幸福かどうかという問題にもなります。 また現在、男性の生涯未婚率は2割を超えており、現在20歳くらい若者の3人に1人は生涯未婚になるだろうとも言われています。男性の未婚率が上昇しているということは、未婚のまま老親2人を介護しなければいけない男性が今後急増する可能性があることを示しています。そうなると、まだ働き盛りにもかかわらず、介護のために仕事を辞めなければならなくなったり、生活保護の世話になる男性が増える可能性があります。 ――男性、女性ともに難しい時代を迎えているわけですが、今後どのようにすればいいとお考えですか? 水無田:男性にとっても、女性にとっても問題の多い働き方と家庭のあり方。今、女性が家庭の中で使っている時間をただ就労に回せばよいとうことではなく、日本社会の制度疲労の問題だと思うんです。繰り返しになりますが、そこを考えないで、泥縄式に女性や移民を導入しても、問題を先送りするだけです。 そして、その間にも女性の時間的な負担は増え続けている。また、男性も従来のような家族を持てる人が減ってくるので、なし崩し的に介護などの家庭負担が重くなってくる。女性には従来の家庭責任プラス就労による家計負担を、男性には従来の長時間労働プラス介護負担をといったひたすら時間の負担増を推し進める政策は、早晩立ち行かなくなるでしょう。第一、誰もが幸福ではない社会になってしまう。そうならないためには、短時間でも生産性を上げたり、時短やワークシェアリングの浸透など、総合的な働き方の見直しをしていかなければなりません。これは若年層や女性の問題だけではありません。たとえば現在50代以上の管理職の男性層も、退職するまでに少しずつで良いので自分自身の働き方、定年後の生活を考えたり、部下の働き方への理解を深めていくなど、変わっていかないといけないと思います。(聞き手 本多カツヒロ)水無田気流(みなした・きりう)1970年生まれ。詩人、社会学者。早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程単位取得満期退学。立教大学社会学部兼任講師。2013年から朝日新聞書評委員をつとめる。著書に『無頼化する女たち』(洋泉社新書)、『黒山もこもこ、抜けたら荒野』『平成幸福論ノート』(田中理恵子名、光文社新書)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。詩集『音速平和』(思潮社)で中原中也賞を、『Z境』(思潮社)で晩翠賞を受賞している。

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    「女性の社会進出」 新聞各紙の論調はこんなにも違う

     企業に女性登用を促す女性活躍推進法案が国会に提出された。企業管理職に占める女性比率など数値目標の扱いが最大の焦点だった。設定・公開を義務付けるものの一律とはせず、個々の企業がそれぞれ目標を決めることに落ち着いた。政府の「すべての女性が輝く社会づくり本部」も発足し、女性登用をめぐる議論が活発化している。 目標設定が企業の側に委ねられたことを産経と日経はいずれも「妥当」、読売は「現実的な判断」と評価した。産経は「企業ごとに女性社員を取り巻く状況は異なる。政府が民間企業に対して一律に女性登用の目標を課せば、企業の活性化を損ないかねない」としながらも、企業側には「自発的、かつ真に女性登用を促進する努力が期待されている点を忘れてはならない」と注文もつけた。 日経は、法律に促されなくとも「先駆的に取り組んできた企業は少なくない」とし、推進組織を設け管理職の女性比率を高めた日産自動車などの例を挙げた。安倍晋三政権は「2020年に指導的地位に占める女性の割合を30%にする」との政府目標を掲げているが、日経はこの「数値目標」にも異を唱え、「企業の実情とは隔たりが大きい。何より大事なのは自社に即して考えることだ」と論じた。 朝日と毎日は「企業任せ」を批判した。朝日は法案の裏付けとなる厚生労働省審議会の報告書に対する論評で、「確かに、様々な業界をひとくくりにはできないし、政府が業界ごとに目標数値を決めて義務づけるのも無理があろう。しかし、企業の自主性を尊重してきた結果、いまだに『女性が活躍できる社会』を実現できていないことを考えてほしい」と官主導の数値目標が必要と指摘した。 毎日は「企業の自主性に委ねるだけでは(20年に30%の)政府目標が達成できるとは思えない」と断じた。「数値目標は『倍増する』などあいまいな表現が可能で、数値目標のどれを公開するかも企業が選択できるため、指導的地位にある女性の比率がどう改善されたのか正確に把握するのは難しい」とし、運用では「政府が強い指導力を発揮して実効性を高めなければならない」と強調した。 女性登用のため、男性社員を含めた職場全体の環境を改める必要があるとの認識は各紙共通だ。まず男性が働き方を変えるべきだとの論調も目立った。 読売は「重要なのは、企業や男性の意識改革だ。家事・育児の大半を女性に委ねたままでは、女性の活躍は進まない」と指摘。毎日も「日本の男性が育児や家事に参加する時間の少なさは以前から問題となっているが、長時間労働はますます夫から育児を遠ざけているのだ」とし、「男性社員の働き方を変えなければ、女性が活躍できるようにはならないだろう」と性別によらない労働条件の変革を主張した。 女性の活躍は、安倍政権の成長戦略の柱の一つである。労働人口の減少が懸念されるなか不可欠であり、子育てや就労を支援し、女性が働きやすい職場を実現しなければならない。政府の「すべての女性が輝く社会づくり本部」もそのため、全閣僚参加で全力を挙げる。 社会の趨勢(すうせい)が女性登用であるなかで「専業主婦の役割を再評価したい」とする産経の主張は際立った。「家族の介助に果たす専業主婦の役割はいまも大きい」「地域活動や学校、ボランティアでリーダーシップをとる場面も増えている」という。家事・育児に専念したいと考える若い女性も少なくなく、「経済成長を重視するがあまりに、専業主婦を目指す女性が後ろめたさを感じる社会になってはならない」と多様な女性の役割を強調した。 職場であれ、地域・家庭であれ、すべての男女が、自分らしい輝きを追求できる社会を実現したい。(内畠嗣雅)

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    専業主婦ではダメなのか? 

    河合雅司・産経新聞論説委員 安倍晋三政権が、目玉施策と位置付ける「女性の活躍推進」の実現に向けて、「すべての女性が輝く社会づくり本部」を立ち上げた。 全閣僚が参加し、女性の活躍推進に向けた政策を総合的に取りまとめるのだという。 能力と意欲がありながら、妊娠や出産で職場を去らざるを得ない女性はいまだ多い。少子化の影響で労働力人口が大きく減ることが予想されており、女性の活躍なくして日本の未来はありえない。社会進出を阻害する要因を一刻も早く取り除くことは極めて重要だ。 だが、間違ってならないのは、阻害要因を取り除く目的はあくまで「働きたいのに働けない」という女性の現状を打開するためだ。女性のライフコースは1つではない。就職以外の選択を排除することがあってはならない。 安倍政権は「女性の活躍推進」の説明する際、経済成長につながる点を強調しすぎる。展開しようとしている政策メニューも違和感を覚えるものが少なくない。 例えば、企業に女性幹部登用の割合など一律の数値目標の設定を義務付けようとしたことだ。 「女性の社会進出を進めるには、これぐらい思い切ったことをしなければ『2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%にする』という政府目標を達成できない」ということなのだろう。乱暴な「数値目標」の法制化 しかし、女性幹部の登用割合を法律で決めるというのはあまりに乱暴である。業種によっては、もともと女性社員が少ない企業もある。「女性であれば誰でもよい」わけではない。 女性であることを理由にして、不当に昇進を妨げることはあってはならないが、女性に生まれてきたことが〝能力〟というわけでもないだろう。男性がそうであるように、女性にも企業の幹部になるのにふさわしい人もいれば、そうでない人もいる。男女を問わず能力が公平に評価されることこそが重要なのである。 法律で無理な目標を立てて〝名ばかり〟の女性幹部を増やしたところで、「女性の活躍推進」にはならない。性別に関わらず誰を幹部として登用するかは各企業の業績を左右しかねない経営の根幹部分でもある。政府が口出しをするのは無責任だ。 予想通り経済界から反発の声が上がった。一律での義務付けは見送られ、従業員300人超の企業がそれぞれの実情に応じた数値目標を定めた「行動計画」公表を義務付けることで落ち着いたのも当然である。 もう1つの大きな違和感が配偶者控除の見直しだ。 配偶者控除とは、妻が専業主婦であれば、夫の課税所得を38万円少なくできる仕組みである。長年、「専業主婦世帯への過度な優遇」との批判がついて回ってきた。 配偶者控除には大きく「2つの壁」が存在するといわれる。第1が「103万円の壁」だ。妻の年収が103万円以下ならば控除額は変わらないが、103万円を超すと妻も所得税を納めなければならない。このため、手取り額が減ることを嫌って、年収を103万円ギリギリに抑えようとする人が多いことからこう呼ばれる。 第2が「130万円の壁」である。妻の年収が130万円を超すと、夫の扶養家族から外れ社会保険料を妻自身が負担しなければならなくなる。このため130万円を超えないように働く時間を調整する人が少なくない。 安倍政権はこれら2つの壁が女性の社会進出を阻んでいると考えているのだ。「専業主婦への優遇をなくせば、パートで働く女性たちが103万円や130万円を気に掛ける必要がなくなり、もっと長い時間働くようになるはずだ」との思惑である。 だが、こうした考え方には〝決めつけ〟が隠れている。女性の多くがフルタイムで働くことを望んでいることを前提としている点だ。「女性がフルタイムの職に就くのは当たり前」と言わんばかりの威圧的な印象さえ受ける。いまだ「妻は家庭」志向続く 本当に多くの女性は、結婚・出産後もフルタイムで働きたいと思っているのだろうか。 国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が8月に公表した「第5回全国家庭動向調査」(2013年実施)が既婚女性の意識を聞いているが、「夫は外で働き、妻は専業主婦に専念すべき」と考えている人は44・9%に上る。若い世代をみても、29歳以下が41・6%、30代も38・9%だ。専業主婦を志向している人は中高年世代だけではないのである。 配偶者控除の見直し論者からは「共働き世帯が増え、『夫は仕事、妻は家庭』という伝統的家族観は過去のものとなった」との意見が聞かれるが、これも疑わしい。 本当に仕事を優先する女性が増え、「妻は家庭」が過去のものとなったのならば、出産後も働き続ける妻が増え続けているはずだ。しかし、社人研が2010年に行った「結婚と出産に関する全国調査(夫婦調査)」にはそうした数字は見つからない。 第1子出産前後に「働き続ける」との選択をした妻は1980年代半ばからほぼ25%と横ばいで推移している。むしろ、退職する割合のほうが年を追って増え、2005~2009年は43・9%に上った。 先の「第5回全国家庭動向調査」には、「子供が3歳くらいまでは、母親は仕事を持たずに育児に専念したほうがよい」との設問もあるが、29歳以下は63・5%、30代は66・0%、40代は74・3%が賛意を示している。 こうした傾向は、2007年に内閣府が公表した「女性のライフプラニング支援に関する調査報告書」にも見られる。3歳以下の子供がいる女性の「理想の働き方」を聞いているが、「働きたくない」が実に57・6%を占めているのだ。出産後は家事・育児に専念することを前提としている女性は少なくないのである。 これらの数字を眺めれば、女性の活躍推進が、フルタイムの仕事への就業促進だけで達せられるわけではないことがよく分かる。配偶者控除は誰の「障害」か そもそも、配偶者控除が「女性の社会進出への障害になっている」という〝常識〟もいま一度、冷静に検証し直してみる必要がある。 すでにフルタイムで働いている女性たちは配偶者控除の対象ではないのだから、「障害」と感じることはないはずである。一方、控除の恩恵を受けている人たちは存続を願っている。少なくとも「障害になっている」と語るのは恩恵を受けている当事者ではないことは確かだ。 では誰が「障害」だと主張しているのだろうか。実は、すでに社会進出を果たしている女性である場合が多い。そこには「専業主婦ばかり優遇されてずるい」との不公平感が垣間見えてくる。 配偶者控除を見直そうとすれば、さまざまな影響が生じる。その1つが配偶者控除には子育て支援策の意味合いもあることだ。若い女性に専業主婦志向がある一方で、妊娠・出産で会社を辞め専業主婦にならざるを得なかった人も多い。配偶者控除が縮小されれば専業主婦がいる世帯は増税となる。こうした世帯にしてみれば、妻の収入がなくなり、税負担まで増えるダブルパンチとなる。 家計に余裕がなくなれば、とても「2人目を産もう」との気持ちにはならないだろう。仮に、配偶者控除を見直すことで女性の社会進出が図られ、目の前の労働力不足を解消したとしても、その結果、少子化がさらに進んだとなったのでは元も子もない。多様な選択肢の提示が必要 「女性の活躍推進」に取り組むにあたっては、家族の価値観や専業主婦の役割の再評価を同時に進める必要があるということだ。 介護保険制度の導入以降、公的な介護サービスが拡充されてきたとはいえ、かゆいところにまで手が届くわけではない。家族の介助に果たす専業主婦の役割は相変わらず大きいのだ。政府は「在宅医療・介護」の流れを強めようとしており、今後ますます期待がかかることだろう。 地域社会における専業主婦の役割も小さくない。高齢化が進んだ地域などでは「若い力」としての期待も大きく、自治会活動、学校のPTA活動、ボランティアにおける役員など、リーダーシップをとる場面は圧倒的に増えてきている。 女性ならではの細やかな気配りやコミュニケーション力が、独居高齢者への声かけとなって孤立を防ぎ、大災害時の防災能力も高めることにもつながっている。全国で悲惨な事件が起こっているが、小さな子供や認知症の高齢者を事故や不審者から守る「地域の目」になっているケースも多い。 人生のコース設計は個人の価値観に根ざしている。それがゆえに、安倍政権のいささか強引な「女性の活躍推進」の手法を冷めた目で見つめる女性は少なくない。 ある専業主婦は「『とにかく働け』といわれているような気持ちになるが、病気の家族や小さい子供を抱えて、働きたくとも働けない人がいる」との疑問を投げかける。別の専業主婦からは「専業主婦は楽をしているように思われることが多いが、家事や育児は大変な重労働だ。専業主婦やパート労働が見下され、軽視される風潮が広がるのは悲しいものがある」との声も聞こえる。 政府が声高にフルタイム就業の促進とワンセットで配偶者控除の見直しを語ることによって、専業主婦を目指そうとする女性が後ろめたさを感じるようになってはならない。安倍晋三首相は今国会の所信表明演説で「子育ても一つのキャリアだ」と語っていたはずだ。 女性が働きやすくすることは重要だが、真に「女性が輝く社会」を作るには、「専業主婦」という選択も含めたさまざまな選択ができる社会であることが必要なのである。(河合雅司・産経新聞論説委員)

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    森永卓郎がキレた! 「女性の社会進出の本質はもっと働けだ」

     主婦のパート収入には、「103万円の壁」と「130万円の壁」がある。これは一体何なのか? 経済アナリストの森永卓郎さんが解説する。 * * * 現在、1000万人近くいるとされる主婦パートは、収入を103万円以下に抑えた場合、2つのメリットがあります。 ひとつは妻自身の所得税が免除されること。もうひとつは、夫の課税所得から38万円を差し引いて税額を計算する「配偶者控除」が適用されることです。このため、働く時間を細かく調整して収入を103万円以下に抑える主婦パートが多い。これが「103万円の壁」です。 政府は配偶者控除を廃止して働く女性を増やそうとしています。妻の収入が103万円を超えても、かかる所得税は数千円程度ですが、配偶者控除(と配偶者特別控除)が廃止されると、夫の年収700万円で所得税、住民税合わせて年10万9000円の負担増になります。 そしてもうひとつ、政府が廃止に向けて検討を始めているのが、年収130万円未満の妻が夫の扶養に入って、社会保険料を免除される「第3号被保険者制度」です。この「130万円の壁」も働く女性が増えない大きな理由と見られています。 もし配偶者控除に加えて、第3号被保険者制度が廃止された場合、どれだけの負担増となるのか。妻の年収が130万円とすると、妻にかかる所得税と住民税を合わせた額は年4万6000円になります。配偶者控除廃止の影響は妻の収入103万円時と同じ10万9000円なので、夫婦合わせて15万5000円の税負担増になります。 さらに、妻には社会保険料の支払い義務が生じます。国民年金保険料が年間19万3000円、健康保険料は自治体ごとに異なりますが、東京都を例にすると18万3000円とかなり高額で、年金と合わせて計37万6000円。これを夫婦の税金と合算すると、53万1000円の負担増になります。 政府が考える、女性の社会進出促進策の本質が、「負担増分をまかなうために、もっと働け」というメッセージであることが、わかってもらえたでしょうか。※女性セブン2014年4月17日号■パート主婦の収入 103万円より130万円の壁のほうが重要■FPが解説・実は存在しない!? パート主婦「103万円の壁」■所得税大幅増税で「子ども手当」もらっても結局損になる■サラリーマンの賢い節税術 リストラ夫も配偶者控除に入れる■森永卓郎が増税他の影響試算 4人家族で1年に24万円負担増

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    「女性が輝く日本!」で本当に輝くか

    安倍政権が成長戦略の柱として掲げる女性の社会進出。秋の臨時国会には、管理職など指導的地位を占める女性の割合を2020年までに3割にすることを盛り込んだ「女性活躍法案」が再び審議される見通しだ。

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    「早く結婚しろよ」批判報道が封殺したこと

    婚するしない、産む産まないは個人の自由だとか、自己決定だとか、フェミニストたちが言い始めたためです。性差を否定するジェンダーフリーという考え方も大きく影響しているでしょう。彼女たちの考え方によれば、妊娠、出産するというのは自分を拘束するものでしかないわけです。妊娠、出産は「女性の奴隷化」だと考えるため、結婚もせず子供も産まず―というのが、一番女性にとって自由な生き方だと信じるわけです。もちろん、そんなことをしていれば、人類は滅びます。 細川 ただ、幸いにも多くの女性はそこまでは考えていない。大したことでもないのに「セクハラだ」と騒ぎ立てるようなことをする人も、女性の中では一部に過ぎないと思うのです。 八木 確かにヤジをセクハラと決めつけて大騒ぎする報道についても、多くの女性達は違和感を持っているようですよ。塩村議員に対する女性の反発もかなり大きいと思いますよ。 鈴木 しかし、マスコミの報道にのせられて、信じていらっしゃる方も多いのですが…。ヤジ問題で隠された河野談話の検証報告 八木 私はこの問題が大きくなったのには、もう一つ、裏があるのだと考えています。都議会のヤジは六月十八日にあったのですが、初めはそれほど大きな報道ではなかったのです。翌十九日付朝刊で報じた朝日新聞などは、東京地方版に掲載していたのです。それがその後、どんどん大きくなっていった。何があったか。六月二十日に慰安婦問題の河野談話について、慰安婦募集の強制性を認めた根拠がなかったことを示す政府の検証結果が発表されたのです。慰安婦問題がここまで大きくなったのは、朝日新聞の報道と、フェミニズム団体が「女性の人権」などといって騒いだことが発端ですから、この検証結果によって、国民の怒りの矛先が自分たちに向けられるのを心配したはずです。そんなときに、ちょうどヤジ問題があったのです。実際、この問題が大きくなると同時に、河野談話の検証結果についての報道は一切なくなったのです。 細川 なるほど。 八木 中国や韓国が、自国政府に対する国民の不満を逸らすために日本という敵を作るように、セクハラヤジという敵を作ったのです。二十一日付の朝日新聞の社説には、河野談話と都議会ヤジの二つのテーマが並んでいます。慰安婦をめぐる河野談話については「もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ」と書いてあり、ヤジの方には「都議会の暴言 うやむやは許されない」と見出しにあります。しかし、うやむやが許されないのは、慰安婦をめぐる朝日の報道の方なのです。 細川 (笑)。朝日新聞は、慰安婦の方だけ、うやむやでいいと言っているわけですね。 八木 都議会のヤジは、初めに名乗り出た鈴木議員以外にも複数の発言があり、「産めないのか」というヤジもあったと報道されたのですが、朝日新聞とテレビ朝日が音声を分析してみると、発言が違っていて、「自分が産んでから」と言っていたのです。細かい話のようですが、意味は全く違います。そうやって、ありもしない発言の犯人捜しに、朝日以外のメディアも便乗して、話がどんどん大きく仕立ててられていったわけです。それに、日本嫌いの欧米メディアの記者も飛びついて、日本叩きに利用しました。 細川 塩村議員自身が外国人特派員協会で会見しましたね。公人であるなら、あそこで話すことが世界へ向けてどれくらい影響力を持つということなのか考えるべきですが、塩村議員は、考えた上で臨まれたのでしょうか。 そして何より、新聞は、セクハラばかり強調して、根幹にある少子化や晩婚化、報道のあり方について一切言葉を発しないというのは公正さに欠くと思いますね。集団的自衛権の議論で、朝日新聞やテレビなどの多くのメディアが、世の中の人みんなが行使容認反対というふうに報道していたのと同じです。マスコミはきちんと日本という国がどうあるべきか考えて報道してほしいし、テレビのスポンサーである企業にも、番組の質をきちんと判断していただきたいものです。 鈴木 お二人のように、ジェンダーフリーやフェミニズムを厳しく批判して、正論を述べて下さる方は少ないですよね。 八木 (笑)以前はもっと少なかったですよ。しかし、少子化の時代、日本人は気づくべきなのです。フェミニストは男女を「同等」ではなく、「同質」なものであると考えたがる。だから性差を前提にした結婚、出産を女性の奴隷化と見るのです。東京大学の大沢真理教授は、日本のフェミニズムの代表的な人物である上野千鶴子氏との対談で「女で妊娠したことがある人だったらメスと言えるかも知れないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば…』)と発言しています。 細川 (笑)私から見ると可哀想な人ですね。 八木 こういう人が高校の家庭科教科書に携わっているのです。米国のウーマン・リブの旗手、ベティ・フリーダンは『新しい女性の創造』を書いた後、恋愛し、結婚して、以前書いていたことを否定する『セカンド・ステージ 新しい家族の創造』という本を書いています。女性のセカンド・ステージに、結婚があり、そこに幸せがあるという意味ですが、日本のフェミニストたちは、この改心に学ぼうとしないですね。 細川 フェミニズムがここまで広がったのは、内閣府の男女共同参画局の影響力も大きいのではないかと、私は思います。廃止すべきです。都道府県レベルを中心に各自治体に同じような組織が設置され、税金で無駄な施設を建てたり、いろいろ研究に公費を投じたり。あの予算を教育に使えば、どれだけ日本のためになるかと思います。 私も仕事をしていますが、結婚、出産という価値も大切だと思ってきました。母からは、これからの時代は女性も仕事を持って生きていくべきだという考えで育てられたのですが、一方で、「父親に花嫁姿を見せないと一生後悔するわよ」と半ば、脅しのように言われていましたから。女性はいかに働き、いかに結婚すべきか 八木 女性の社会進出を否定するわけではありませんが、「育児より働け」という風潮には問題があります。それは、残念ながら、いまの政府にもあるのです。二〇二〇年までに女性を役員、管理職、高度の専門性が求められる職業その他の「指導的地位」に三割以上就ける現実的な計画がなければ、公共事業の受注や補助金の支給が受けられなくするという政府の案まであります。 細川 女性に下駄を履かせて、出世させるというような手法は無意味だと思います。女性でも男性でも、たくましくないと、本当の自分のやりたい仕事はできない。まして女性が「セクハラだ」とか集団で押しかけていって、権利を主張するようなことをやっているかぎり、自分たちが社会で本当に必要とされる人材にはなれないと思います。女性が仕事と家庭、両方をやっていくのは大変ですが、苦労しながらも両方やっていく覚悟がなければ、どちらかの選択しかないのです。 鈴木 仕事を持っていて、子育てが困難であるという人を応援することが、私は大事なことだと思っています。 細川 いま女性問題を論じましたが、少子化については男性の問題が大きいと思います。五十歳男性で結婚未経験の率は二〇%です。結婚生活がうまくいかず離婚するというのは残念なことですが、男性の五人に一人は、そもそも結婚すらしていない。これでは子供は減りますよ。もっと女性をデートに誘うとか、積極的になるとか、男性が頑張らなければいけない。みんなスマホをいじることに満足していてはいけないのです。 八木 アニメやゲームなど、二次元の架空女性がいいという男性も多くなっていますよね。 細川 若い人も男性がおとなしく、入社試験でも上位は女性ばかりだそうです。能力のある男性が減ると、女性はますます苦労します。それから非正規雇用の問題も解決すべきです。経済力がなければ結婚できませんから、お父さんにしっかり給与が払われる社会でなければなりません。 八木 産めよ、増やせよでないと、国が滅びる時代になっているということを、いま、私たちは考えなければなりません。 細川 ただ、国のために産むとか、国が滅びるから産むという気持ちにはなかなかならないので、自分の人生が楽しくなる、大変だけど育てたい、そういう喜びや価値を女性が実感できるようにならないといけない。子供は人生を豊かにしてくれるものだということは間違いないですから。 八木 逆に言えば、子供のいない人生は寂しいものです。と、いうと、フェミニストたちは、またこれがセクハラだというかもしれません。 細川 子供ができないならできないで、人生に別の価値を見いだすことはできると思います。私も、子供ができなかったときに品川区(東京都)の教育委員になり、神様から「自分に子供がなくても、世の中の子供のために働きなさい」と言われていると思って決意しました。ただし、産む努力はしないと後悔すると思います。私もその後、息子に恵まれました。 八木 家族のいない後半生の寂しさは実際にあるわけです。煩わしく思うこともありますが、煩わしいところもまた、面白さです。 細川 自分一人で我が儘に生きていく人生より、格段に自分自身を成長させることができます。 鈴木 家族の価値を見直すべきです。お父さんが家の大黒柱だとか、そういう日本の伝統的な考え方があったからこそ、日本人というのは先輩への尊敬の念を持つとか、困っている人に手を差し伸べるとか、惻隠の情だとかが芽生えてきたのだと思います。そういうものが失われていってもいいのでしょうか。 八木 まあ、あのヤジで、そこまで伝えようとするのは無理でしょう(笑)。もう一度、真意を釈明しておいた方がいいのではないですか。 鈴木 政治家として少子化対策を訴えるのならまずご自分が結婚されて、その経験をもとに語るべきではないか。そういう思いだったのです。私の配慮を欠いた不適切発言により、塩村議員をはじめ多くの方に、ご心痛を与えてしまったことに、改めてお詫び申し上げます。政治家として自らが発した言葉に責任を持つことは当然であります。少子化問題は深刻であり、夫婦が子供を持ちやすく、女性が働きながら子育てしやすい、そうした東京を目指して参ります。■鈴木章浩氏 昭和37(1962)年、東京都大田区生まれ。青山学院大法学部在学中に父親が死去し、家業のクリーニング会社「光伸舎」に入社。大田区議2期を経て平成19年、都議補欠選で初当選。現在3期目。今年6月、都議会ヤジ問題で謝罪し、自民党会派離脱。■八木秀次氏 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学。著書に『憲法改正がなぜ必要か』など。平成14年、第2回正論新風賞受賞。教育再生実行会議、法務省相続法制検討WTの各委員。■細川珠生氏 昭和43(1968)年、東京生まれ。聖心女子大英文科卒。父親の故細川隆一郎氏との父娘関係を綴った「娘のいいぶん~がんこ親父にうまく育てられる法」で日本文芸大賞女流文学新人賞。平成7年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演中。