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戦後教育史を覆す資料発掘! やはりGHQ主導だった教育基本法制定
江﨑道朗(日本会議専任研究員)国家の独立が問われている 「自民党執行部は、公明党と妥協した教育基本法改正案を呑めというのか」-。自民・公明両党執行部からなる教育基本法改正に関する協議会が4月13日にまとめた最終改正案に対して、自民党を支えてきた諸団体から強い不満の声があがっている。「現行基本法の理念を守りたい」公明党に引きずられ、多くの問題点を残す内容となったからだ。 校長らに多数の自殺者を出してきた国旗掲揚・国歌斉唱反対運動の法的根拠として利用されてきた現行法十条の「教育は、不当な支配に服することなく」との文言はそのまま残った。 わが国の宗教団体の大半が加盟する「日本宗教連盟」(神社本庁、教派神道連合会、全日本仏教会、新日本宗教団体連合会、日本キリスト教連合会の主要五団体で構成)が求めていた「宗教的情操の涵養」の盛り込みは見送られた。 最大の争点となっていた「愛国心」の表現は、「『国』の概念から統治機構を除く」「他国や国際社会の尊重を反映させる」(4月14日付「公明新聞」)という公明党の主張に譲歩し、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」となった。「国を愛する心」ではなく「国を愛する態度」ならば、卒業式で国歌を歌っているふりをすればいいということになりかねない。 現場に悪影響を与えてきた文言が残るだけでなく、新たな問題も惹起しかねない法案の動向について教育関係者が強い憂慮を示しているのとは対照的に、世論の関心はいま一つだ。 それは何故か。いろいろな理由があるだろうが、教育基本法制定当時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって「愛国心」や「宗教的情操」がいかに削られ、「不当な支配」が盛り込まれたのか、ほとんど知られていないことが一因だと私は考える。 教育基本法は、憲法同様GHQによって実質的に押し付けられた法律なのである。しかも、GHQや彼らに協力した日本人は、「押し付け」を巧妙に隠蔽し、日本が自主的に制定したかのように偽装した。教育という国の根幹、国民精神に大きな影響を与える法律だけに、このような制定経緯は日本という国家の独立性を揺るがすものである。基本法が教育現場に与えている悪影響に加えて、この点が広く知られていれば、改正論議はもっと高まっていただろう。 教育基本法制定をめぐる実情が知られていない責任の一端は、基本法を作成したとされている教育刷新委員会の副委員長を務めた南原繁東大総長にある。南原氏は講和独立後、占領政策の全面的見直しを始めた政府自民党の動きを念頭に、こう断言したのである。《わが国の戦後の教育改革は、教育刷新委員会を中心として、これら政府当局者の責任においておこなわれただけである。(中略)私の知る限り、その間、一回も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった。少なくとも教育刷新委員会に関する限り、すべては、われわれの自由の討議によって決定した》(朝日新聞社編『明日をどう生きる』昭和30年)[傍線筆者。以下同じ] 教育界のみならず戦後の言論界に強い影響力をもっていた南原氏の発言によって、「教育基本法はGHQの干渉を受けることなく日本人が自主的に作った」という定説が確立され、その見直しは長らくタブーとなってしまったからである。 その定説も、鈴木英一氏や高橋史朗氏らによる占領文書の研究を通じて疑問視されるようになってきているが、残念ながらその成果が国民全体に共有されているとは言い難い。自主的な教育改革を否定したGHQ そもそも敗戦後、わが国の教育改革がどのように始まったのかも誤解している人が多い。 日本政府は昭和20年8月の敗戦を受けて直ちに、戦時中の「軍国主義教育」の全面的見直しと、「平和国家建設」に向けた教育改革に着手している。 9月15日に発表した「新日本建設の教育方針」では、戦時中の「軍国的思想および施策を払しょく」し、「平和国家」を建設するため、「国民の教養の向上」「科学的思考力のかん養」と共に、「国民の宗教的情操と信仰心を養」うことを通じて、「平和愛好の信念」を養成する方針を掲げている。 GHQからの指示を待つまでもなく、日本は自主的に教育改革を始めたのだが、アメリカ国務省調査分析課は十月五日付内部報告書「日本の戦後教育政策」の中で、「新日本建設の教育方針」を取り上げ、「科学教育の振興」には「日本が原爆開発への遅れにみられる日米間の科学技術のギャップを埋めるためのものであるという意図が巧妙に隠されている」などと批判している。 「米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極において確立する」(9月20日付「降伏後における米国の初期対日方針」)、つまり日本にアメリカの傀儡政権を樹立するという方針をアメリカ政府から与えられている以上、GHQとしても、日本の自主的な教育改革を認めるわけにはいかなかったのだ。10月30日には、「教員及び教育関係官の調査、除外、認可に関する件」という指令を出し、日本の国柄を守る立場から自主的な教育改革を推進し、占領政策に異を唱えてくる文部省官僚たちを直ちにすべてクビにしろ、と命じている。 この容赦ない方針によって「実際の文部大臣は総司令部」(内藤誉三郎・文部大臣官房総務室)という状況を作ることに成功したGHQは次に、自らの政策に迎合する日本人グループの形成に取り掛かる。昭和21年1月9日、「米国教育使節団を受け入れるため」という名目で、GHQは日本側に「日本教育家委員会」を作るよう指示したのである。その委員長に就任したのが、前述した南原氏であった。 熱心なプロテスタントであった南原氏だが、戦前から愛読書として旧約聖書とともにマルクスの『資本論』を挙げるなど社会主義に強いシンパシーをもっていた。内務省に入省した南原氏は大正8年、日本最初の労働組合法を立案、大正9年にはレーニンの『国家と革命』を翻訳させ部内資料として出版している。大正10年に東大助教授に転身、その弟子には、戦後の進歩的文化人の代表格であった丸山真男東大教授や、中国共産党と組んで日本の戦争犯罪を告発する戦後補償裁判を主導した土屋公献元日弁連会長がいる。 この南原氏を中心に進歩的文化人たちが結集した「日本教育家委員会」は、3月5日に来日した米国教育使節団を受け入れ、戦前・戦中の日本の教育政策を非難する「報告書」の作成に協力している。この委員会のメンバーが中心となって21年8月10日に新設されたのが、前出の教育刷新委員会(委員長、安倍能成元文相)なのである。リモート・コントロールリモート・コントロール 協力者としての刷新委員会を組織したGHQは、教育改革の主導権が文部省ではなく刷新委員会にあることを再確認すべく、密室会談を主催する。 GHQの教育改革を担当していた民間情報教育局(CIE)は9月4日、田中耕太郎文相、山崎匡輔文部次官、教育刷新委員会の安倍委員長、南原副委員長を集め、①刷新委員会は、文部省から完全に独立する。②文部省は、刷新委員会が提案した政策を実行する。③刷新委員会と文部省、CIEの連絡調整のために「連絡委員会」を設置する--という方針を提示したのである。「刷新委員会が方針を決定し、文部省はそれに従え」と命じられた田中文相は、「文部大臣が原則について何も決定できないなら、議会での質問に対する答弁も困難だ」と抵抗するが、南原副委員長はCIEの方針に全面的に賛同し、文部省は刷新委員会の下請けに過ぎないことが決定される。 では、南原氏が指摘しているように、刷新委員会がGHQから干渉されることなく教育改革の方針を作成できたのかと言えば、そうではなかった。 注目してほしいのは、③の連絡委員会の設置である。日本側の文献では「連絡委員会」と呼ばれるが、英語の原文は「Steering Committee」、直訳すると「舵取り委員会」となる。その狙いを、アメリカのハリー・レイ教授は、《CIEは連絡委員会を通して、教育刷新委員会を米国教育使節団の報告書の枠内で指導し、文部省に教育刷新委員会の提案を受け入れさせることが可能になった。ステアリング・コミッティーは日本語で「舵取り委員会」とも訳される通り、教育刷新委員会の「独立」の陰に隠れて、CIEが日本側をリモート・コントロールする送信機のようなものであった》と説明している(『戦後教育改革通史』明星大学出版部、平成5年)。 9月24日、第一回舵取り委員会に出席した刷新委員会の大島正徳委員は、3日後の27日に開催された教育刷新委員会第四回総会で、刷新委員会で何を議題とするかはすべて事前に舵取り委員会を通してもらいたいと言われたとして、こう報告している。 《この委員会は自主的なものであって、我々はこの委員会が決めることは文部省の指令に依るものでなく、又司令部の指令に依ってやるべきものでもなく、全くオートノマス(自律的)にやるべきだが、委員会に正式に議題にする前に、先ずこのステアリング・コミッチー(舵取り委員会)で相談して、これは議題にするが宜いかどうかを考えなければならぬ》(『教育刷新審議会教育刷新審議会会議録 第一巻』岩波書店、1995年)[引用文の( )内は筆者が補足] 結局のところ刷新委員会は、CIEの許容する範囲内でしか「自主性」を認められなかったわけである。CIEによる第一の介入は「愛国心」の排除 戦後の教育改革の主導権を政府・文部省から、リベラル派の進歩的文化人による刷新委員会に握らせ、かつ同委員会を、舵取り委員会を通じて背後からコントロールするという仕組みを構築することに成功したGHQは、いよいよ教育基本法制定に着手することになる。『尋常小学修身書』の復刻版。修身教科書は教育勅語を中心に編集された 教育基本法制定に初めて言及したのは田中耕太郎文相だった(昭和21年6月27日、衆議院)。しかし、それをもって教育基本法制定は日本側の発案だったと断言することはできない。義務教育の無償化や男女平等を謳った日本国憲法の制定に伴い、田中文相の意志とは関係なく、教育関係法規は全面的に書き換えなければならない状況に置かれていたからである。GHQに日本国憲法を押し付けられた段階で、教育基本法を制定せざるを得なかったわけで、真の発案者はGHQと言ってよい。 文部省は7月18日、省内に「教育調査局」を新設し、教育法の全面改正に向けた準備を開始し、9月27日、刷新委員会第一特別委員会に、文部省の「教育基本法要綱案(9月21日案)」を提出している。 注目すべきは、この「要綱案」に「愛国心の涵養」という趣旨がなかったことだ。実は明治24年に公布された文部省令の「小学校教則大綱」の第二条には、「尋常小学校ニ於テハ(中略)殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養ハントスルコトヲ努メ」と、愛国心の涵養が明記されていた。 ところが、GHQは日本占領直後の昭和20年9月10日から、事前検閲という形で言論統制を始めていた。当初はラジオ放送や新聞、雑誌だけだったが、やがて一般国民の手紙や教科書まで検閲の対象となる。21年2月4日には、CIEが教科書検閲の基準を設定し、軍国主義、超国家主義のみならず、「国民的、国家、わが国」といった用語までも削除されるなど、国家そのものが否定されることになった。こうなると、GHQの支配下に置かれていた文部省としても、「愛国心」という言葉を予め削除した要綱案を作らざるを得ない。これを私は、教育基本法に対する、CIEの第一の介入と呼びたい。 愛国心が欠落した要綱案に異議を唱えた人もいた。刷新委員会第一特別委員会では、天野貞祐一高校長(のち文相)が「ただ自分のために生きるのではなくして、社会国家の為に生きるとか、何かそういうものを入れたいと思う」と主張したが、東京文理科大の務台理作学長(日教組の「教師の倫理綱領」作成に協力)が「個人を犠牲にせず、個人の自由をあくまでも尊重する(中略)そういう精神に教育の理念が基づくべき」と反論、これに社会党の森戸辰男議員(のち文相。日教組と提携)が賛同したため、「国の発展に尽くす」という趣旨は完全に消えることになったのである。「不当な支配」もCIEが強制 刷新委員会の日教組派の委員たちによって、愛国心が排除された教育基本法要綱案が固まった段階で、CIEは本格的な介入を開始する。 11月12日、CIEのジョセフ・トレーナー教育課長補佐は、刷新委員会の事務局を担当していた関口隆克・文部省審議室長を呼び出した。トレーナーは、舵取り委員会つまりGHQの了承なく、文部省が刷新委員会に要綱案を出したことを取り上げ、「文部省が議会に提出する諸法案は、CIEの承認を得なければならない」と詰問、関口室長は「今から、あらゆる問題を舵取り委員会に提出する」と改めて約束する。 11月14日、関口室長は「9月21日案」の英訳をCIEに提出、密室による本格的な改悪が始まることになる。CIEがまず問題にしたのは、「男女共学」の項目だった。 11月18日、CIEは男女共学について積極的な言及を行うよう要求、これを受けて関口室長は「男女はお互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、両性の特性を考慮しつつ同じ教育が施されなければならないこと」という案を持参するが、CIEは了承せず、文部省案の「両性の特性を考慮しつつ」という文言は削除されてしまう。もし教育基本法に「両性の特性を考慮」という文言が残っていたならば、現在問題となっているジェンダー・フリー教育がこれほど横行することはなかったと思うと、CIEによる第二の介入は大きな禍根を残したといえよう。 CIEによる第三の介入は、「教育行政」の項目であった。 11月29日の刷新委員会第13回総会に提出された「要綱案」には、「教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し、教育の目的遂行に必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないこと」とあった。刷新委員会はこの表現で合意していたのだが、CIEのトレーナーは「教育の自主性の尊重」という表現を問題視し、修正を要求した。 文部省に案を作らせても満足できる表現が出てこないことにしびれを切らしたトレーナーは自ら英文で要綱案を作成、12月13日、「教育行政」の項目は「教育は、政治的又は官僚的な支配に服することなく(Education shall not be subject to political or bureaucratic control)、国民に対し独立して責任を負うべきものである」という表現に変えるよう、文部省に通告したのである。その後も、教育行政の表現をめぐってCIEと文部省による密室会議は続き、翌22年1月15日案で「不当に」という言葉が追加され、最終的に現在の表現になったのである。今回の基本法改正でも焦点となった「不当な支配」という表現は、CIEによって強制されたものであったのだ。「伝統を尊重して」「宗教的情操」も削除「伝統を尊重して」「宗教的情操」も削除 第四の介入は、「伝統の尊重」の削除である。11月29日の刷新委員会総会に提示された要綱案では、前文に「普遍的にしてしかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育が普及徹底されなければならない」と明記されていたが、トレーナーは「伝統を尊重して」という言葉の削除を命じた。当時の通訳が「伝統を尊重するということは、再び封建的な世の中に戻ることを意味する」と述べたからだ、と明星大学の高橋史朗教授とのインタビューでトレーナーはその理由を説明している。 第五の介入は、「宗教教育」をめぐってであった。前述した11月29日の要綱案では、宗教教育について「宗教的情操のかん養は、教育上これを重視しなければならない。但し官公立の学校は、特定の宗派的教育及び活動をしてはならないこと。」と規定されていた。この表現は、社会党の森戸委員でさえも合意した案であり、宗教的情操の涵養が重要だという認識は、社会主義者も含め当時の日本人の総意であったのである。 ところが、CIEは「宗教的情操のかん養」を削除し、「社会における宗教生活の意義と宗教に対する寛容の態度は、教育上これを重視しなければならない」というCIE案に差し替えるよう日本側に要求した。しかも「宗教に対する寛容の態度」という表現は、「無神論者に対する寛容を含む」と解釈されることになったため、宗教を敵視する無神論(つまり社会主義、共産主義)を奉じる児童・生徒に配慮して事実上、学校教育において宗教に関する教育はすべて禁止されることになってしまったのである。 この第四・第五の介入で、伝統的な死生観や慣習を学校教育で教える法的根拠が失われてしまった。 要するに今回公明党が重視した「教育基本法の基本理念」なるものはすべてGHQ・CIEの密室介入の産物に過ぎないのだ。自主制定というGHQの偽装を証明する議事録を発見 この冷厳な事実を日本の立場から証明する史料を今回発見した。CIEが文部省や刷新委員会を背後からコントロールするために設置した舵取り委員会の「日本側議事録」である。 教育基本法制定の真相を理解するためには、舵取り委員会でのやりとりを知る必要がある。日本側は必ず議事録を残していると思ったのだが、なかなか見つからない。国立国会図書館や首都圏の主要大学図書館などで探し、文部科学省や戦後教育史の専門家にも問い合わせたが、「知らない」という回答であった。調査は3年以上に及んで諦めかけていたが、「教育刷新委員会会議録」の原本を保存している財団法人野間教育研究所の「書庫」でついに見つけた。 万年筆で書かれたざら紙による、昭和22年1月23日から24年7月28日までの31回分の舵取り委員会議事録のファイルで、『教刷委連絡委員会記録全一冊(ステアリングコミティ)』という表紙がついていた。 CIEが教育基本法の要綱案に対して介入していた昭和21年後半の議事録はなかったものの、肉筆の生々しい文字から浮かび上がってきたのは、想像通りCIE主導で教育基本法を含む改革が行われていたという現実であった。 例えば、教育基本法案が大詰めを迎えていた昭和22年1月23日の議事録には、次のようなやり取りが書かれてあった。 《辻田 通常国会に提出する案は三つあつて(教育基本法、学校教育法、地方教育行政法)今第一が法制局で検討中である。 トレーナー 教育基本法は今我我も一緒に検討中で未だ確定していないと思うが…。 辻田 決定したものではなく教育部と平行して法制局にも検討して貰っているのだ。主として字句の問題で、内容にはふれていない》 文部省の辻田力調査局長が、CIEの了解なく教育基本法要綱の法案化作業を法制局に依頼したことを、トレーナー教育課長補佐から咎められ、うろたえている様子が分かる。 教育基本法が衆議院本会議に上程された三月十三日の舵取り委員会「議事録」にはこう記されていた。 《日高 教育基本法と学校教育法のその後の経過を話す。前者は本日議会上程、後者は十五日或いは十六日に議会上程と予想している。非常に困難があったが通過するものと期待している。 オア 文部省の御骨折りに感謝する》 この「御骨折りに感謝する」という文字を見た時の衝撃は忘れがたい。なぜCIEが、文部省に対してお礼を言わなければいけないのか。徹底した密室介入によってGHQ製に換骨奪胎した教育基本法案を、日本人が主体的に作った案として国会に上程することに成功したため、思わず本音が出たのだろう。教育基本法が日本人のためではなくGHQのために作られたことを、この一文は物語っているといえよう。「属国の悲しみ」を克服せよ マーク・T・オアCIE教育課長から労いの言葉を直接かけられた文部省の日高第四郎学校局長はこのとき、どのような思いを抱いたのか。調べたところ、日高局長が後にCIEとの折衝について書いた一文に「属国の悲しみ」という表題をつけていることが分かった。 CIEによって徹底的に改悪され、わが国の教育に大きな悪影響をもたらすことが予想される教育基本法を、日本人自身が作成したと偽って国会において成立させなければならなかった。日高局長が味わった「属国の悲しみ」はその後語り継がれることもなく、忘れ去られてしまっている。 それは、「日本人によって教育基本法は作られた」かのように偽装したGHQ・CIEを擁護して、「一回も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった」と虚言を弄した南原東大総長のような人物が戦後教育の中心にいたからだ。さらに、誤った「教育基本法制定史」を流布したのは、南原氏だけではなかった。今回私が見つけた「舵取り委員会議事録」には複数の人間が閲覧した足跡が残されていたのである。教育基本法に対する疑問が国民の間に芽生えることを避けるためか、敢えてその存在を公開してこなかったふしがあるのだ。 今回の教育基本法改正にあたって「宗教的情操」や国を愛する「心」を削り、「不当な支配」を残すことに合意した与党幹部たちもある意味、そんな悪質な情報操作の被害者かも知れない。何しろGHQの密室介入の産物を、日本人が守るべき教育理念だとすっかり勘違いしてしまっているのだから。 しかし、与党幹部たちの誤った「教育基本法制定史」観によって、わが国の教育の歪みが放置されてはたまらない。今からでも遅くはない。正しい「教育基本法制定史」観に基づいて与党案を抜本的に修正すべきだ。 幸いそのモデルは出来ている。超党派の「教育基本法改正促進委員会」(亀井郁夫委員長)が、わが国の歴史と伝統に立脚し、「愛国心」や「宗教的情操の涵養」、「教育に対する国の責任」などを謳った、日本人のための新教育基本法案を作成している(下村博文編『教育激変』明成社)。 わが国の根幹を定める教育基本法の改正は、GHQの改悪を克服する方向で成し遂げられるべきである。えざき・みちお 昭和37年(1962年)東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌『祖国と青年』編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、政策研究を担当。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。※初出 月刊『正論』2006年6月号、肩書などは当時のまま)
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GHQ占領下の日本 進駐軍による強姦事件が多数発生の記録も
「慰安婦問題」でアメリカ政府は韓国・中国に歩調を合わせて「性奴隷」だったと日本を批判する。その一方で、GHQ占領下での日本人女性に対する米兵の「強姦事件」は日本人にあまり知られていない。近現代史家・ジャーナリストの水間政憲氏は新刊『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)の中で、以下のように解説している。 * * * GHQ外交局長W・J・シーボルドは「(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記している(『マッカーサーの日本』1970年刊、新潮社より)。 この米軍の「嘘」を暴く鍵は、占領下の1945年10月4日に解散させられた「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。国立公文書館に所蔵されていたこの手書きの原本を白日の下に晒したい。 そのファイルが377ページに及ぶ「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の特高解散命令までの米軍の不法行為を特高警察が取り調べ、内務省警保局がまとめたものだ。 ファイルによれば1945年8月30日~9月10日の12日間分だけでも強姦事件9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件。特別事件として「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」などが発生している。 掠れたページもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月間で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。(本文と写真は関係ありません) 米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、苦心惨憺した様子を少し述べてみたい。日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだった。 1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。その目的は、「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。 しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。実際は主権回復後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。ファイルを見ていこう(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。〈強姦事件(一)八月三十日午後六時頃 横須賀市○○方女中、34 右一人ニテ留守居中、突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハ二階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。手口ハ予メ検索ト称シ、家内ニ侵入シ、一度外ニ出テ再ビ入リ、女一人ト確認シテ前記犯行セリ(二)八月三十日午後一時三十分頃 横須賀市○○方。米兵二名裏口ヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当○○三十六年、長女○○当十七年ニ対シ、拳銃ヲ擬シ威嚇ノ上、○○ハ二階ニテ、○○ハ勝手口小室ニ於テ、夫々強姦セリ(以下略)〉 同9月1日、房総半島に米軍上陸。ここでも事件発生。〈○○方ニ侵入セル米兵三人ニ留守番中ノ妻(二八)(中略)奥座敷ニ連行、脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ〉〈九月一日午後六時頃 トラックニ乗リタル米兵二名(中略)市内○○ニ来リ女中一名(24)連レ去リ(中略)野毛山公園内米兵宿舎内ニ於テ米兵二十七名(ニ)輪姦サレ假死状態ニ陥リタルモ(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送リ届ケラレタリ〉 このような記載が「特高」解散の10月4日まで続く。※『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)関連記事■ 米兵の沖縄女性暴行事件 政治的思惑と報道のミスリードあり■ 米軍機が日本で事故起こしたら米は警視総監の立ち入り拒否可■ 【ジョーク】米国防長官がシリア攻撃計画に関し説明した内容■ 韓国犯罪割合は日本の3倍、殺人2.4倍、強姦・わいせつ5.8倍■ 沖縄米兵自宅に中国スパイが仕掛けたと推測の盗聴器見つかる
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発掘スクープ!それは「2DK公団住宅」から始まった
江崎道朗(日本会議専任研究員)地域社会で孤立する家族 全国各地で高齢者が所在不明となっている問題で厚生労働省は八月二十七日、住民基本台帳の情報と受給者情報が一致せず、死亡している確率が高い八十五歳以上の年金受給者の所在を確認するサンプル調査を実施したところ、対象となった七百七十人のうち、すでに死亡している一人と、行方不明の可能性がある二十二人の計二十三人に年金が支給されていたと発表した。現在、生存確認を行っている八十五歳以上の年金受給者は約二万七千人。今回のサンプル調査に基づいて単純計算すると、死亡又は所在不明であるにもかかわらず年金を受給しているケースは、約八百人に上ることになる。 ということは、自分の親が亡くなったか、行方不明であるにもかかわらず、生きていることにして年金を騙し取ってきた家族が少なくとも八百近く存在していることになる。これらの家族は、親が亡くなったとき葬儀をしなかったのか。苦労して育ててくれた親の葬儀もしないでどうして平気でいられるのだろうか。 そもそもご近所は気付かなかったのだろうか。ある日突然、顔見知りのお年寄りの姿を見かけなくなっても不審に思わなかったのか。町内会が機能していれば、掲示板にどこそこの家の誰々が○月○日に逝去したという訃報が掲示され、近所の人々がその家に弔問に訪れるということになるのだが、いまやある日、突然、姿を見かけなくなっても誰も怪しまない社会となりつつある。家族が地域社会の中で孤立してしまっているのだ。 三十年近く前から、都会で一人暮らしの人が誰からも看取られることなく死亡する孤独死が問題となっているが、いまや家族が同居していても、年金を騙し取るために葬儀もしてもらえず、近所の人にも気づいてもらえないのだ。 なぜ親子の絆がかくもおかしくなったのか。なぜ家族は社会の中で孤立するようになったのか。専門家は、その原因として産業構造の変化や都市化など社会の変容や個人主義の普及といった価値観の変化などを指摘するが、GHQによる占領政策の影響を指摘する人がなぜか殆んどいないのは、実に奇妙だ。 神道指令によって否定された地域共同体 いまから六十五年前の昭和二十年から約七年間、日本を占領したGHQは、「日本国が再び米国の脅威と…ならざることを確実にする」(米国務省「降伏後における米国の初期対日方針」)ため、徹底した日本弱体化政策を強制した。当時の米国政府は、日本を弱体化しない限り、米国主導のアジアの平和は維持できないと考えていたのだ。 当時の米国は、日本の強さの秘密は天皇を中心とした強固な共同体にあり、その共同体を維持しているのが「国家神道」だと考えていた。だからこそGHQは占領開始直後の昭和二十年十二月十五日、国家神道・神社に対する政府の支援・弘布を禁じる「神道指令」を発したのである。 この指令では、神道や神社に対する公的な財政支援、学校での神道に関する教育、役所や学校等での神棚設置、公務員の神道儀式の参加などが禁止された。 神道指令を受けて文部省は十二月二十二日、文部次官通牒を発し、伊勢神宮遥拝、学校引率の神社参拝を禁止した。その趣旨は昭和二十二年三月に施行された教育基本法において引き継がれ、その後、学校教育において神道排除が続くことになった。 問題は、神道指令の対象が学校教育だけではなかった、ということだ。神道指令は、神社を中心とした伝統的な地域共同体の破壊を目論んでいたのだ。 GHQは昭和二十一年十一月六日、「神社や祭社其の他神道の諸活動を支持するために資金を集めたりお守りやお札を配ったりするために善隣組合(町内会、部落会、隣組)がひきつづき利用され」ているのは神道指令違反なので、直ちにこの事態を是正するよう日本政府に指示している。 この指示を受けて日本政府は十日後の十一月十六日、地方長官宛に「町内会、隣組等による神道の後援及び支持の禁止について」と題する通牒を出し、おおよそ次の四つを指示した。 ①神社や祭礼その他神道の諸活動を支持するために資金を集めたりお守りやお札(神宮大麻)を配ったりするために町内会、部落会、隣組等を利用することは神道指令違反なので、取り締まること。 ②地元のさまざまな祝祭行事を行う場合は、いかなる場合でも神社の祭祀と切り離すこと。 ③町内会等の有力な役職員が神社の総代や世話役に就任しないこと。 ④氏子区域による氏子組織を改め、崇敬者だけによる組織に変革するよう勧奨すること。 戦前までの地域共同体は言うまでもなく、その中心に神社があった。その年の豊作を祈る行事から、実りに感謝する秋祭りまで一年のサイクルを通じて、人々は、天地の恵みと神々への感謝という宗教的情操を自らの内に育み、氏神を中心として精神的結束を固めた。子供たちにとっても境内は絶好の遊び場であり、お祭は強烈な印象とともにその人生に刻まれることになった。 政治的にもまた重要であった。地元の揉め事の解決からお祝い事まで地元のあらゆる問題は、神社で開催される寄り合いにおいて解決された。神社は精神的支柱であると共に、地元のさまざまな課題を解決する情報センター、行政拠点の役割も果していたのである。神道指令とその関連の通牒は、神社が果してきたこれら社会的機能を否定しようとしたのである。 翌昭和二十二年一月二十八日には、文部省宗務課長から地方長官宛に「神道指令違反について」という通牒が出された。この通牒では、千葉で町内会長が回覧版や集会を通じてみこし製作の寄付金を集めたことが神道指令違反として地方検事局で起訴され、罰金刑を受けた事例を紹介し、「今後もこの種の違反は容赦なく摘発されるから、貴官において、貴管下の神社、及び下部行政機関に対し、一層の注意を喚起し違反のないよう十分に注意せられたい」と警告したのである。何しろ神社を支援したら逮捕されるのだ。地方自治体関係者も地元の有力者たちも震え上がったに違いない。 公的機関、地域社会と神社との関係を徹底して断ち切ろうという神道指令の趣旨は、昭和二十二年五月三日に施行された日本国憲法にも次のように書き込まれた。《第二十条 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない》 そして、この神社・神道排除政策が、戦後日本の社会政策を大きく歪めていったのである。戦後イデオロギーの拠点としての公民館 神道指令によって神社と地域社会とを分離させ、地域共同体をまとめていく力を奪っていく一方で、神社に代わる地域共同体の中心として構想されたのが「公民館」であった。 昭和二十一年七月五日、文部省は公民館の設置運営を奨励する通牒を出し、地域社会の相談ごとや集まりは今後(神社ではなく)公民館で行なうよう指示した。この指示は、昭和二十二年三月に制定された教育基本法第七条(社会教育)に、「国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない」という形で盛り込まれた。この条文の意味するところは「社会教育」を通じて、神社を中心とした地域共同体を、アメリカ流の民主主義イデオロギーを奉じた公民館を中心とした地域共同体へと変革しろ、ということであった。 以後、全国各地で公民館は整備されていくのだが、敗戦後の財政難に苦しむ地方自治体に公民館を新築する費用を出せるはずがない。当然のことながら地元の人々の費用によって学校の教室や神社の社務所など現存する施設を整備し、公民館として転用するケースが多かった。 恐らくGHQは、ことの展開に驚いたと思われる。せっかく神道指令によって行政と神社との関係を断ち切ったのに、神社の境内地に公民館が建てられては、その効果も半減だからである。 そこで制定されたのが、社会教育法である。昭和二十四年六月に公布された社会教育法は全五十七条のうち二十二条を公民館のことに費やし、神社と公民館の関係を徹底的に切り離そうとした。具体的には、市町村の自治体が建設した「公民館」しか正規の公民館としては認知しない、としたのである。 つまり、地元の町内会によって維持・運営されている、神社の社務所を転用した公民館を「公民館類似施設」(第四十二条)と規定し、公的な財政支援を一切禁止したのである(市町村が設置した「公民館」と区別するために「自治公民館」と呼ばれている)。 さらに「市町村の設置する公民館は、特定の宗教を支持し、又は特定の教派、宗派若しくは教団を支援してはならない」(第二十三条)と規定することで、新築された公民館において、神社の祭礼の準備等を行うことも禁じたのである。神社・神道は、公的な集会所から徹底して排除されたのだ。民法改正で否定された「家族をまとめる力」民法改正で否定された「家族をまとめる力」 GHQが解体・排除しようとしたのは、地域共同体をまとめていく神社の力だけでなかった。 昭和二十一年、GHQによって押し付けられた新憲法のもとで、政府は下位の法令の全面的見直しを迫られた。新憲法の原理に反する法令は廃止、または改変を余儀なくされたのだ。当然、民法、特に家制度をどうするかという問題が浮上した。 昭和二十一年六月の時点では、政府は「新憲法ができても家の制度は廃止する必要はない」という方針を堅持していたが、臨時法制調査会で我妻栄・東京大学教授らが民法上の「家」制度を廃止することを強行に主張。これに屈して政府は、家制度廃止を目的とした民法改正を強いられた。 昭和二十二年七月三十日、参議院司法委員会で鈴木義男司法大臣は、次のように提案した。《現行民法の下では、戸主は家の統率者として、家族に対し、居所指定権、婚姻及び縁組の同意権、その他各種の権力を認められておりますが、これらはすでに述べました日本國憲法の基本原則と両立しないため、新らしい憲法の下では、これを認めることができません。そして、これらの権力を否定すれば、最早民法上の家の制度は、法律上はその存在の理由を失うのみならず、これを法の上に残すことは、却つて戸主の権力を廃止する趣旨を不明瞭にする虞れがあります。よつてこの法律では、戸主、家族その他家に関する規定はすべてこれを削除いたしました》 家制度の否定とは、家族・親族をまとめていく力の否定であった。先祖代々受け継いできた「家」を、戸主の統率のもと家族が結束して次代に伝えていこうという家制度は、統率者不在のまま、夫婦・親子が共同生活を営む場へと変質させられたのである。 しかも厄介なことに、この家制度の変質を助長、つまり戸主が家族をまとめていく力を否定する住宅政策が戦後、展開されたのである。 建設省住宅局の調査によれば、戦時中、米軍の空襲によって焼失した家屋は実に二百十万戸にのぼり、海外からの引揚者分も含めると、終戦直後の日本では、約四百二十万戸の住宅が不足したという。 政府は昭和二十年九月、戦災都市におけるバラック小屋や壕舎生活者の救済のため「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」を定め、年内にとりあえず三十万戸の簡易住宅を建設しようとした。その後も、借地借家人の保護、住宅の建設資材の確保等、国民の住生活の安定を図る措置がとられたが、建築資材の不足、資金難等によって住宅建設は進まず、昭和二十七年の段階でも三百十六万戸の住宅が不足していた。 そこで昭和二十五年五月、住宅金融公庫法を公布し、持ち家を建設する個人や法人に長期低利資金の融資を開始したが、社会党や労働組合は、労働者向けの低家賃住宅を大量に建設することを政府に強く要求した。住宅の建設はあくまで国民に対する融資を通じて国民主導で行うべきだとする当時の保守系議員の考え方に対して、社会党らは、政府が国民生活のすべてを面倒みるべきだとする社会主義的政策の実施を求めたのだ。その根拠となったのが、憲法第二十五条の「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という条文であった。 現実に劣悪な住宅環境に国民の多くが苦しんでおり、民間主導ではこの住宅不足を解決することは困難だった。そこで、あくまで低所得者向けの低家賃住宅を政府主導で建設することを目的として田中角栄衆議院議員らが公営住宅法を提出、昭和二十六年六月四日に成立した。その第一条は、憲法第二十五条に基づいて、次のように書かれている。《第一条 この法律は、国及び地方公共団体が協力して、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅を整備し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸し、又は転貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする》 この法律に基づいて政府と地方自治体は連携して、家賃が安い代わりに狭い間取りの公営住宅を大量に建設していくことになった。その住宅政策に決定的な影響を与えたのが、当時京都大学助教授だった西山夘三が書いた『これからの住まい』と、女性初の建築家と呼ばれた浜口ミホの『日本住宅の封建制』だった。意図的に助長された核家族化 戦前から戦時中にかけて庶民の生活実態を徹底的に調査した西山夘三は、狭い住宅に住んでいる庶民たちが意図的・慣習的に住宅内で食事の場所と寝る場所を区分していることを発見し、「食寝分離」が近代的な住宅の必須条件であるという研究成果をまとめた。 その研究成果に基づいて西山は、憲法施行直後の昭和二十二年九月に発刊した『これからの住まい』において、戦後の住宅難を解決するため、政府主導で「食寝分離」が可能となる「台所と部屋二つ」を基本とした耐火性のある高層集合住宅を大量に供給すべきと提案したのである。 しかも、集合住宅を大量に建設するに際しては、《親の家族内に跡取りの息子夫婦が同居するというくらし方を再吟味》して、三世代同居を否定し、核家族化を促すべきだと訴えたのである。戦前からマルクス主義を信奉していた西山は、伝統的な家制度を敵視し、こう主張した。《封建的な家長的家族形態は家生活の伝統をつたえる教育的効果と、個別的家事経済に於ける家事労働の一応の合理的協同組織を伝統的にもっていたことは否めない。併しその故に我々はそれを将来も固執すべきものであると主張したり、或はかういう方法で生活の型を確立して行こうと考えたならば、それは明に誤まっている。 我々は年寄りの躾けよりもむしろそうしたものを自分自身でつくり出す能力のある自主性に富んだ子女をつくり出す生活と環境を整備し、一方煩わしい家事労働を社会化し簡易化しなければならない》 つまり、三世代同居を否定し核家族化を促すことを通じて、祖父母から子供や孫へ、生活習慣や年中行事などの家風を継承できないようにしていく。そうすれば、祖父母の「封建的」な価値観に接する機会も少なくなり、子供たちは戦後民主主義イデオロギーに基づいて個人優先の人生観や生活スタイルを生み出していくようになる、と考えたのである。 この西山の提案を引継いだのが、日本初の女性建築家といわれた浜口ミホであった。彼女は昭和二十四年二月、『日本住宅の封建制』の中で、こう批判した。《「家」という観念を中心として、人間がその下で身をちぢめ、息をひそめて生きてきたのが、家父長制的な封建社会の生活であった。そしてその「家」の物体的表現が住宅であった。つまり住宅は住む人間自身のためというよりは「家」のためのものであった》 浜口が問題にしたのは、伝統的な住宅が、「家」と「家」との付き合いのため、接客機能を重視してきたことだった。その代表例が座敷と床の間だ。「床の間追放論」という章の中で浜口は、こう指摘する。《床の間のついた部屋は本来的に客間としての性格をもつ。室町、桃山時代ばかりではないが、封建時代の昔は、天皇は将軍家へ、将軍は臣下の家へといったように、より身分の高い者が、より低い者の家へしばしば「お成り」になった。そして「お成り」をいただいた方では、高貴の人を床の間のついた部屋でもてなすわけであるが、その際高貴な人は、その部屋が自分のものであるかのように、床の間をひかえた場所を占め、この家のあるじはその部屋へ、おずおずと伺候するといった礼式をとるのである。つまり床の間は、その部屋が客間であること、しかもそれがその家の人々よりも一段格の高い人のための客間であるということを示すのである》 つまり、床の間のある座敷は、《社会の人間が、すべて身分格式の上下にしたがって、階段的に構成されていた封建社会》の産物に過ぎない。そして《すべての人間が平等に連なる明るい近代的な社会に向かいつつある》今日、思い切って床の間のある座敷を廃止し、接客本位だった「封建的な住宅」から、台所や居間・寝室など居住者の生活を重視する「近代的な住宅」へと、大きく住宅の原理を改革すべきだ――と、浜口は訴えたのである。 浜口の追及は、玄関にも向けられた。「玄関という名前をやめよう」という章の中で、《玄関には人間の出入という機能的な要素のほかに、封建社会的な身分関係を示そうとする格式的な要素が含まれてきた》と批判する。なぜならば、《武士の家には普通二個以上の玄関(出入口)があったことである。正玄関は来客および主人のためのもの、内玄関は家族のもの、さらに召使たちは勝手口(大戸)から出入りするように――人間の出入という意味としては全く同一のものでありながら――身分的・格式的関係からして幾つかの出入口として使い分けられたのである》 もし《玄関が旧のままに玄関と呼ばれつずけ、その格式的・封建的性格を維持するならば、それは当然住宅の内部の間取における、例えば「座敷」といった封建的・形式的な要素と結合して、われわれの住宅を依然として救い難い封建的な泥沼にはめこんでおくのに大きな役割を果すであろう》 よって封建制を排除するため、玄関という名前を廃止し、例えば出入口と呼ぶべきだと主張したのである。公団住宅の背後に「封建的住宅」否定論公団住宅の背後に「封建的住宅」否定論 このように、家制度を否定した占領政策・憲法に乗じて西山夘三や浜口ミホは、戦後の住宅政策の方向性を次のように提示した。 ①住宅の供給は民間に任せるのではなく、政府の責任で実施する。 ②公営住宅は、一戸建ての木造の家ではなく、火災に強いコンクリート製の中層集合住宅(団地)とする。 ③間取りは統一し、核家族化を促進するため、2DKとする。 ④床の間のある座敷に代表されるような接客機能を否定し、代わって居間や台所などを充実させるなど、居住者の利便性を第一義とする。この方向性に基づいて、台所で食事をとることができるダイニング・キッチンが提案された。 ⑤接客を目的とする「玄関」という名称はやめ、単なる出入口とする。 当時は占領下で、何しろ「戦前の日本はすべて悪だった」という時代だ。西山や浜口が唱えたこうした基本原則は圧倒的な日本否定の風潮の中で、当時の政府・建築家たちに強く支持され、《西山理論と浜口理論がバックボーンとなってやがて公団住宅の設計が実現する》(西川祐子・京都文教大学教授)のである。具体的には、東京大学の吉武泰水や鈴木成文らが食寝分離が可能な2DKを基本としたコンクリート製の中層集合住宅を設計、一九五一年に設計されたため、51C型と呼ばれた基本間取りは、昭和三十年に設立された日本住宅公団で採用されたのである(因みに浜口ミホは日本住宅公団から招聘され、公団住宅の設計に深く関与した)。 全国各地で建設された公団住宅は、床の間も座敷もなく、三世代同居は難しい狭さであったが、ステンレス流し台、衛生的な水洗便所、浴室、シリンダー錠という最新設備を備えた欧米風の間取りは、若者たちの憧れのライフ・スタイルとなり、戦後の住宅の代表的間取りとして定着していった。 日本住宅公団が昭和三十年から、公団が解散した昭和五十四年までに全国に建設した公団住宅は、実に百八万戸。それ以外にも、地方自治体が独自に県営住宅、市営住宅を大量に建設し、民間建設会社もまた人気のあった51C型を標準設計とするアパート、マンションを次々と建設していった。 ステンレス流し台を備えた51C型住宅モデルが全国に普及していった経緯は、NHKの「プロジェクトX」という番組でも、サクセス・ストーリーとして取り上げられたほどだ。主流となった「神棚・仏壇なき2DK」 戦後の深刻な住宅難を解決していく上で公団住宅が果たした役割を評価しつつも、この51C型モデルこそが、戦後の家族のあり方を大きく変えてしまったことは否定できない。 なぜならこの51C型は、西山や浜口が指摘したように、戦前からの価値観継承を断ち切るために三世代同居を否定し、強制的に核家族化を促す意図があったからであり、実際に核家族化が急速に進むことになった。親子の断絶、世代の断絶は、自然に生まれたのではない。意図的に作り出されたのだ(住宅公団は昭和四十七年になってようやく、三世代同居が可能となる複合家族用住宅の供給を始めた)。 しかも公団住宅は、憲法の政教分離条項の適用を受け、神棚・仏壇の場所を確保しようとはしなかった。民間の一戸建て住宅であれば、大工さんと相談しながら、床の間のある座敷を設け、神棚をまつり、仏壇を整えるのが普通だった。同居する戦前派の親たちが、神棚・仏壇を要望したからだ。 しかし戦後の神道排除教育を受け、祖父母とも同居していない若夫婦が、欧米風の2DKに、わざわざ神棚や仏壇を祀るはずもなかった。統率者としての立場を否定された親たちが、別居している若夫婦に神棚を祀るよう求めることも困難だった。神道指令と憲法の政教分離の影響で、隣近所の人々も、神棚を祀るよう勧めることは何となく憚られたし、町内会等を通じて地元の神社のお札を頒布することは神道指令で固く禁じられていた。かくして公団住宅に住む核家族を中心に、神棚・仏壇なき家庭が急速に増えていくことになったのだ。 それまで一般的な家庭ならば、ことあるたびに神棚や仏壇に手を合わせ、神々とご先祖様に感謝するという生活習慣をもっていた。そしてご先祖様に日々手を合はせる親たちの後姿を見て、子供たちも自然と「自分の人生は、ご先祖様から預かつたものである。自分もご先祖様に恥じない立派な生き方をしなければ」という人生観を育んできた。 こうした人生観は戦後教育の中で否定され、祖孫一体の永続生命体であった家族は、祖父母と切り離され、敬神崇祖の場も持たないまま、食べて寝るだけの単なる共同生活の場へと劣化してしまったのだ。 かくして憲法によって家族に対する統率力を否定され、先祖崇拝という価値観も持たない親たちは、個人主義という利己主義を掲げる子供たちを前にして途方に暮れることになった。家庭から教育力が失われたと言われるが、それも無理はない。食べて寝るだけの生活空間に、子供たちの人生観を高める力があるはずがないからだ。社会との接点を失わされた「核家族」 家族をまとめる力を失った核家族は同時に、社会との接点も失っていった。 実は公営住宅から消えたのは、神棚・仏壇だけではない。床の間や座敷、縁側といった接客機能も削られ、シリンダー錠で固く閉ざされることになった。祖父母から引き離され、先祖とのつながりを失った核家族は、接客機能を否定した公団住宅の中で、地域社会との接点を失い、社会の中で孤立していったのである。 日本近代住宅史の専門家、内田青蔵・文化女子大学教授は、次のように指摘する。《住まい――家族や生活――を維持するには、それなりの覚悟とプライドが必要と思う。家に人を招くことは、それなりに自分や家族の趣味はもちろん料理の腕やインテリアの知識の度合い、さらには、家族関係の親密さや教育観といった様々なものが知られてしまう。いや、さらけ出さなければならなくなる。 当然ながら、そうしたことをさらけ出さなくてすむほうが人生、楽に決まっている。そのため、友人たちや地域の人々との関係を疎遠にして閉じてしまうと、家族の間にもそうした疎遠の溝ができたり、逆に、過剰に強い絆で結ばれてしまいお互い独立できない関係に至ってしまう危険性がある。 そうした危険性を逃れるためには、やはり、自らの生活をさらけ出し、他の批判を受ける覚悟が必要なのだ。そのさらけ出す場が、接客の行為の場のように思う》(『「間取り」で楽しむ住宅読本』光文社新書) 確かに高齢者行方不明問題にしても、家庭内での虐待にしても、接客を重視し、地域社会との関係が深い家庭であれば、恐らく起こらなかったはずだ。 勝手口、縁側がなくなり、シリンダー錠による出入口だけになったことも、社会との接点を失わせることになった。川添登・日本生活学会理事長は昭和五十七年、『人間都市への復権』(ぎょうせい)の中で、こう指摘している。《日本の住宅ぐらい出入口の多いところはない。玄関と縁側と勝手口、少なくとも三つある。しかもそこが単なる出入口じゃなくて、玄関でもって、上がらないで済むようなお客さんは、そこで接待する。縁側は、それこそ近所の人たちの広場です。(中略)それから勝手口というのは結構広い土間があって、御用聞きなどが来て、そこでコミュニケーションが行われる。対社会的なコミュニケーションの場がそれぞれ各戸にあったわけで、それがコミュニケーションの基礎になっていた》 ところが、縁側や玄関などの多様な接客機能を否定した間取りの普及で、そうしたコミュニケーションが失われてしまった。《それが現在のアパートになると、ドアが一つになって、御用聞きだって何だって全部そこで応待する。昔は玄関でつき合う人もいる、縁側でつき合う人もいるし、勝手口でつき合う人と、いろいろなつき合い方があったわけです。そういうものがいまは、全部遮断されているためにどういうことになったのかというと、呼び鈴があって、のぞき窓があって、インターホンがあって、かぎがある。そういうような装置に置きかえなくちゃならなかった。それで機能的には満足できるんだけれども、多様なつき合い方は失われた。 それは、かなり建築家に責任があると思うんです。多様なつき合い方ができるようなアパートならアパートの設計をしていないということなんです》 床の間や座敷、縁側、玄関といった接客機能を削った公団住宅は現在、UR都市再生機構に引継がれ、全国で千八百六団地・約七十七万戸の賃貸住宅を管理しているが、平成十八年度の一年間だけで実に五百十七人が孤独死をしている。 二〇〇五年の世界価値観調査によれば、日本人の社会的孤立感は、OECD諸国の中で圧倒的に高い。「友人、同僚、その他宗教・スポーツ・文化グループと全く、或はめったに付き合わないと答えた比率」が、オランダ二%、米国三・一%、英国五%、フランス八・一%に対して、日本は十五・三%と、諸外国と比較しても日本人は社会の中で人づき合いが極めて悪く、社会的に孤立する傾向が強い。接客機能を否定した戦後の住宅モデルのつけが回ってきたと言えば、言い過ぎだろうか。「神社なきニュータウン」の登場「神社なきニュータウン」の登場 核家族の社会的な孤立をさらに助長したのが、政府(日本住宅公団)主導の街づくり計画だった。 昭和三十年に発足した日本住宅公団は全国に高層集合住宅を建設すると同時に、大規模かつ計画的な宅地開発を進め、都市の郊外に大規模団地をつくっていく。その手始めが、昭和三十二年に千葉県柏市に完成した光が丘団地であった。 約千戸の集合住宅が農地の中に突然生まれることになったため、付近には、鉄道の駅も小学校も医療施設もなかった。そこで住宅公団は、町としての機能を持たせるべく、公園、保育所、小学校、市役所出張所、郵便局、診療所、店舗、銀行といった施設を同時に整備していった。その後もこの方式で多摩平、桜堤、ひばりが丘、新所沢などで大規模団地(昭和三十八年以降は、ニュータウン)が相次いで誕生していったが、この街づくり計画でも大きな問題が生まれた。 住宅公団が各地で作った大規模団地は、憲法の政教分離条項の制約があって、「神社なきニュータウン」となったからである。 いくら施設を整えても、それで自然にコミュニティが形成されるわけがない。それでなくとも公団住宅は、地域社会との接点を断ち切るような間取りであり、家族は部屋にひきこもりがちなのだ。 犯罪の増加、ゴミ処理などの近隣同士のトラブル、新旧住民の対立などの問題をどうすべきか。住民に任せるだけでなく、行政が積極的に取り組むべき政策課題として浮上する。 そして自治省(現総務省)は昭和四十五年、「コミュニティ(近隣社会)に関する対策要綱」を定め、「このままでは、住民は近隣社会の関心を失い、孤立化し、地域的な連帯感に支えられた人間らしい近隣社会を営む基盤も失われる恐れがある」として、「基礎的な地域社会をつくるため、新しいコミュニティづくりに資するための施策を進める」よう各都道府県に通知を出した。 この通知を受けて全国の地方自治体はなんと市民会館やコミュニティー・センターというハコモノの整備を始めたのである(田中角栄の『日本列島改造論』が発刊されたのが昭和四十七年だ)。住民が集まるハコモノをつくれば、地域的な連帯を生み出せるかも知れないという、根苦肉の策であった。神社・お寺の可能性 それから十二年後の昭和五十七年、全国の地方自治体の都市計画課、企画課などの協力を得て日本都市学会会長の磯村英一東洋大学学長らが『人間都市への復権』(ぎょうせい)という報告書を出した。そこには、実に興味深い発言が見られる。 例えば、日本生活学会理事長で建築評論家の川添登氏は「人間都市――その基本的視点」という座談会の中でこう指摘する。《地方の時代、文化の時代ということでさわがれていますが、では地域の人びとがみんなで楽しむ文化があるかというと、どこの都市も祭りしか思い浮かばなかった。(中略)ですから、祭りというのは、(中略)パブリックなものを一時的に演出したものとして、評価しなくちゃいけない。現在の場合でもお祭りを行うことによって初めて町会、特に商店街の団結などがあり得るわけですね》 家族の孤立を防ぎ、地域共同体をまとめていく力はどうしたら生まれるのか、全国で試行錯誤が行なわれたが、結果的には、「お祭り」だけが地域の団結を生み出すことに成功していると述懐しているわけだ。 また、加藤晃規・大阪大学環境工学科助手は「新しいひろば空間」という論考の中で、《そもそも神社は集会、コミュニケーションのうえで歴史上重要な役割を果たしてきている。中世の惣村では、寺社の境内地が宮座の集会場所であり、村の最高議決をおこなう権威ある場所であった。同時に年中行事化した祭礼などの神事の場所であり、それらの神事と結びついた各種芸能のとりおこなわれる場所として村民のレクリエーションの中心であった》として、神社の歴史的役割を振り返った上で、こう提案している。《神社の境内地は、都市化の進むなかで積極的に樹林を残してきたとされる代表である。戦後は、憲法の改正に伴い、神社組織が宗教法人化したし、区画整理や神社周辺の市街化による境内地の形状変更がみられるものも多いが、それでも、もっとも変容の少ない都市空間として境内地は存続してきたといえる。(中略)そこで、こうした中小の神社境内地の景観を整備しながら、そこに新しい都市広場の機能を与えることができないであろうか》 いかにして地域社会をまとめる力を回復していくか、という問題意識の中で、お祭や神社の機能に目を向けざるを得なくなったわけだ。 意外なことに、そのような問題意識はいまや地方自治体関係者の間でも広く共有されつつある。 千葉大学の広井良典教授は平成十九年五月、全国の市町村千八百三十四のうち無作為抽出した九百十七市町村に政令指定都市などを加えた計一千百十自治体に、地域コミュニティ政策についてアンケート調査を送付し、六百三自治体から回答を得た。その結果を、三菱総合研究所『自治体チャンネル』平成二十年七月号に公表している。 「地域における拠点的な意味を持ち、人々が気軽に集まりそこでさまざまなコミュニケーションや交流が生まれる場所」として「特に重要な場所は何か」という質問に対して、一位「学校(小中学校)」、二位「福祉・医療関連施設」、三位「自然関係(公園、農園、川べりなど)、四位「商店街」となり、五位に「神社・お寺」が入っているのである。 具体的数字を出すと、六百三自治体のうち、実に百もの自治体が神社・お寺を重視しているのだ。しかも、五万人未満の小規模の町村では、「神社・お寺」を重視する率が、大規模都市よりも更に高くなっている。因みに旧自治省がコミュニティの拠点として位置づけたコミュニティー・センターを重視すると回答した自治体は四十九で、神社・お寺の半数にも満たない。 この調査結果を受けて広井教授はこう解説している。《全国にあるお寺の数は約八万六千、神社の数は約八万一千であり、これは平均して中学校区(約一万)にそれぞれ八つずつという大変大きな数である。考えてみれば、祭りやさまざまな年中行事からもわかるように、昔の日本では、地域や共同体の中心に神社やお寺があった。(中略)こうしたコミュニティにおける拠点的な場所を再構築していくことは、コミュニティ再生の一つの重要な柱をなすと思われる》 地域共同体をまとめていく神社の力(機能)は戦後、神道指令と憲法、そして住宅・都市政策によって否定され排除されてきたが、ようやく神道指令の呪縛は解けつつあるようだ。戦後も六十五年が経った。神道と神社・お寺の精神的社会的機能を再評価する中から、家族、教育、住宅、そして街づくりのあり方を抜本的に見直すべきだ。 すでに学校教育レベルでは、抜本的な見直しが進んでいる。神道指令の影響を受けた教育基本法は平成十八年に改正され、新教育基本法第十五条は「宗教に関する一般的な教養…は、教育上重視されなければならない」と、より踏みこんだ表現に格上げされた。これによって単なる宗教「知識」教育に留まらず、各教科・道徳・特別活動を通じて神社・お寺見学も可とされ、神道や仏教について理解し身につける「教養」教育もできるようになっている。同様の見直しが家庭や住宅、街づくりにおいても進められていくことが、失われた家族の絆、地域の絆を回復していく上で極めて重要なのである。えざき・みちお 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。
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記事
日本を再敗北させたGHQ洗脳工作「WGIP」
有馬哲夫(早稲田大学教授)対日心理戦としてのWGIP 江藤淳の『閉ざされた言語空間』に引用されていながら、幻の文書とされてきたWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)文書が関野道夫の努力によって再発見された。彼の著書『日本人を狂わせた洗脳工作』のカバーにはまさしくWGIP文書(一九四八年三月三日付で民間情報教育局から総参謀二部に宛てた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と題された文書)が使われている。その努力と熱意に心から敬意を表し、彼の著書がより多くの人々が「自虐史観」から脱する助けになることを切に願っている。 しかしながら、それでも、江藤の前述の研究とWGIPに基づいて展開している言説そのものをなにかしら胡散臭い、「陰謀論」と見る人々がまだ少なからずいる。 このような人々のマインドセットを解くには、WGIPだけでなく、それを含む占領軍の心理戦の全体像と、それらの理論的仕組みを明らかにする必要がある。 それが白日のもとに晒されれば、いかに頑迷な「陰謀論者」も認識を変えざるを得なくなるだろう。 そこで本論では、まずアメリカで心理戦の概念がどのように生まれ、発展して、どのような体系を形づくっていったのか、それはどのような理論的基礎に基づいていたのかを明らかにしたい。 まずアメリカ側が戦争というものをどのように考えていたのか明確にしておこう。 ハロルド・ラスウェルの『心理戦』(Psychological Warfare,1950)によれば、戦争は軍事戦、政治戦、心理戦に分けられる。政治戦とは政治的手段によって、心理戦とはプロパガンダや情報操作によって、相手国やその国民をしたがわせることだ。 最近のイラク戦争やアフガニスタン戦争を見ても、軍事戦の勝利だけでは、目指す目的が達成できないことは明らかだ。それを達成するためには、政治戦と心理戦においても成功を収める必要がある。そうしないと、軍隊が引き揚げたとたん、政治は戦争の前に逆戻りし、民衆は復讐のため再び立ち上り、戦争をもう一度しなければならなくなる。 ラスウェルは、シカゴ大学教授で『世界大戦におけるプロパガンダ・テクニック』(Propaganda Technique in World War,1927)などの多くの著書がある政治コミュニケーション、とくにプロパガンダ研究の大御所だ。第一次世界大戦以後のアメリカの心理戦の理論的基礎となっていたのは彼の理論だといっていい。『心理戦』は出版年こそ一九五〇年(以下西暦の最後の2桁のみ示す)だが、書かれている内容はアメリカ軍が先の戦争以来実践してきた心理戦、とりわけホワイト・プロパガンダ(情報源を明示し、自らに都合のいい事実を宣伝する)、ブラック・プロパガンダ(情報源を明らかにせず、虚偽の宣伝を行う)、グレイ・プロパガンダ(情報源を明らかにせず、紛らわしい情報を流す)を使い分けた「思想戦」(the Battle of Ideas)をわかりやすく解説したものだ。 アメリカン大学教授クリストファー・シンプソンが彼の著書『強制の科学:コミュニケーション研究と心理戦』(Science of Coercion: Communication Research & Psychological Warfare,1996)で指摘しているように第二次世界大戦中、陸軍、海軍、OWI(戦時情報局)、OSS(戦略情報局)に心理戦を担当する部局が作られ、多くの社会科学とマスコミュニケーションの専門家が動員されていた。 そのなかには、ラスウェルの他にハドレイ・キャントリル(プリンストン大学、コロンビア大学、ハーヴァード大学で教授を歴任)、ポール・ラザーズフェルド(コロンビア大学教授)などの一流学者たちの他に、ジョージ・ギャラップ(ギャラップ世論調査)、フランク・スタントン(CBS社長、CBSはアメリカ二大放送網の一つ)、C・D・ジャクソン(タイム・ライフ副社長)、エドワード・バレット(ニューズウィーク編集長)などアメリカのメディア企業トップもいた。 これをみてもわかるように、アメリカは第二次世界大戦に入ったときから、軍事戦はもちろんのこと、政治戦にも心理戦にも重きを置き、最高学府の学者やメディア企業の幹部たちをそれらに動員していた。そして、アメリカ軍の幹部たちも、士官学校や幹部養成組織で心理戦を学んだ。 アメリカの心理戦重視を如実に示すのが、真珠湾攻撃のあと大統領直属の情報機関として設置されていたCOI(情報調整局)をOWIとOSSに分割したことだ。ラスウェルの理論を踏まえて、OWIはVOA(アメリカの声、アメリカ軍のラジオ放送)などのホワイト・プロパガンダを、OSSはブラック・プロパガンダと非公然の工作を担当するという分業体制を敷いた。 OWIは四四年七月に日本からサイパン島を奪取したあとそこからホワイト・プロパガンダを日本向けに放送した。同年末にはOSSが同じ施設を使って今度はブラック・プロパガンダ放送を始めた。米軍が撮影した進駐直後の横浜市中心部 (横浜市史資料室提供) ダグラス・マッカーサー率いる太平洋陸軍にPWB(心理戦部)が作られたのは四四年の六月だった。この新設部局のトップにはOSSからやってきたボナー・フェラーズ准将が就いた。マッカーサーのOSS嫌いは有名だが、フェラーズは三〇年代にフィリピンに赴任したことがあり、このときの経験から三六年に「日本兵の心理」という論文を書いていたので適材だと思ったのだろう。 だが、フェラーズの下でPWBを実質的に取り仕切ったのはウッドール・グリーン中佐だった。 彼らは、ラジオ放送、新聞、宣伝ビラを使って、フィリピン人に対しては日本軍に対して抵抗に立ち上がるよう、日本軍に対しては、無駄な戦いはやめて降伏するよう、ホワイト・プロパガンダとブラック・プロパガンダを織り交ぜて心理戦を行った。 PWBと関連する部局としてI&E(情報教育部)があったが、そのトップにいたのは、陸軍に入る前にNBC(アメリカ二大ラジオ放送網の一つ)で広告ディレクターをしていたケン・ダイク大佐だった。彼はPWBの仕事もしたが、投降してくる日本兵を殺さないようアメリカ兵を教育する講義を主として行っていた。この教育が徹底しないと、無駄な戦いはやめて降伏せよというアメリカ軍のプロパガンダが効き目をあらわさないからだ。 アメリカ軍にもセクショナリズムがあり、陸軍と海軍、この両者とOWIとOSSの連携は良くなかったが、日本兵から得られた情報、とくに彼らがアメリカ軍の心理戦をどう受け止めたかについての情報は互いに共有しあっていた。 太平洋陸軍が占領のために日本にやってくる前に、太平洋の島々やフィリピンなどの占領地で、すでにラジオ局経営や新聞発行などを行ってノウハウを蓄積していたことは注目すべきだ。つまり日本で行うことの予行演習をそれまでの占領地域で済ませていたということだ。 グリーンもダイクも実際にラジオ放送や新聞を使って心理戦を行い、日本人捕虜と直に接して情報を得ることによって、日本人に対してどのようにすれば目指す効果が得られるのかを学んでいた。「武器」とされた日本メディア「武器」とされた日本メディア 四五年八月十四日、日本はポツダム宣言を最終的に受諾して降伏し、翌日に玉音放送が流れて戦争が終結した。そして、マッカーサー率いる太平洋陸軍は日本にやってきて占領軍となり日本人にGHQ(正式名称はSCAP)と呼ばれることになった。あまり日本人が気付いていないことだが、GHQは占領軍であると同時に太平洋陸軍であるという二重の性格を持っていた。 戦争中に日本兵相手に心理戦を行ったフェラーズ、グリーン、ダイクも、新しい占領地日本にやってきて、引き続き心理戦を行った。ただし、今度のターゲットは兵士ではなく一般市民だった。 日本人は、占領は戦争の終わりだと考えているが、彼らにとっては、それは軍事戦の終わりであって、政治戦と心理戦の新たな段階の始まりを意味していた。 政治戦とは、軍閥打倒、戦争指導者追放、財閥解体、そして、「民主化」、「五大改革(秘密警察の廃止、労働組合の結成奨励、婦人の解放、教育の自由化、経済の民主化)」と彼らが呼ぶものを実行することだ。これによって占領軍は日本の指導者が最後まで護持しようとした「国体」をアメリカの都合に合わせて変えようとした。 これを成功させるためにも重要だったのが心理戦だが、その中心になったのは、意外にもグリーンではなくダイクだった。これはGHQのCIE(民間情報教育局)が太平洋陸軍のI&Eを母体として組織されたということによるのだろう。太平洋陸軍のSS(通信部)もまたGHQではCCS(民間通信局)となっている。 グリーンはそのままPWB所属になったが、R&A(調査分析課)課長になったりもしている。どうも占領軍より太平洋陸軍のPWBを本属としていたようだ。だから占領行政というより、次の戦争のための心理戦の調査分析に専念していたのだろう。実際、五〇年に朝鮮戦争が起こったとき、彼は国連軍(主体はアメリカ軍)のVOAやビラを使った心理戦を指揮する。そのあと日本テレビ放送網のアメリカでの借款獲得工作を手伝ったりしている。 一方、CIEの部長となったダイクは、この部局の設置目的にしたがって日本放送協会(NHKという通称は四六年から)と日本の新聞各社(三大紙はもとより地方紙もすべて)、各種雑誌を使って心理戦を行った。 四五年九月二十二日のSCAP文書によるとCIEの設置目的と機能は次のようなものだった。 1.CIEは総司令部に日本および朝鮮の公的情報、教育、宗教そのたの特殊な問題について助言するために設置された。 2.部局の果たすべき機能は、次のことについて勧告すること。(1)連合軍の情報と教育の目的を達成すること。(2)あらゆる公的メディアを通じて信教、言論、集会の自由を確立すること。(3)あらゆる層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事的占領の理由と目的を周知徹底せしめること。 CIEのターゲットが日本のメディアと教育機関だったこと、他にくらべて(3)だけが他に比べていやに具体的だということに注目する必要があるだろう。 十一月一日には、アメリカ本国からマッカーサーに対して次のような初期基本指令が通達された。「貴官(マッカーサー)は、適当な方法をもって日本人のあらゆる階層に対してその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき、初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない(後略)」 そこで、ダイクは、(1)日本が敗北したということ、(2)その苦痛と敗北は日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたということ―を周知徹底させるために関野氏が再発見した文書に言及されている二つのメディアキャンペーンを行った。 その第一弾が『太平洋戦争史』だ。CIEは自らが用意したこの記事の原稿を日本全国の各紙(とくに朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の三大紙)に掲載することを命じた。以下に朝日新聞に掲載された各回の見出しをあげよう。ちなみに、この見出しは新聞によって微妙に違っていることを言い添えておく。【一回目】十二月八日 眞実なき軍国日本の崩壊 奪ふ「侵略」の基地【二回目】十二月九日 戦機の大転換 いない艦をも・撃沈・虚偽発表、ガ島に挫折第一歩【三回目】十二月十日 連合軍の対日猛攻 新領域独立の空宣伝 東南隅からめくる・日本絨毯・【四回目】十二月十一日 補給路を断つ 飛び石作戦でひた押し マリアナ奪取、握る制空海権【五回目】十二月十二日 東條首相の没落 崩れ始めた軍独裁 無理押しの一人四役に破綻【六回目】十二月十三日 レイテ・サマールの戦闘 レイテの損害十二万 比島ゲリラ隊「共栄圏」に反撃【七回目】十二月十四日 完敗に終わった比島戦 マニラ、狂乱の殺戮 日本軍の損害四十二万【八回目】十二月十五日 硫黄島と沖縄 鉾先、本土にせまる 強引作戦に・自殺船・も功なし【九回目】十二月十六日 ソ連からも肘鉄 焦り抜く小磯内閣 ・四月危機・に鈴木内閣も無力【十回目】十二月十七日、東京湾上に調印 原子爆弾、驚異の威力 絶望、遂に日本和を乞う ラスウェルの分類にしたがえば、これは、情報源を明らかにし、事実を述べているのでホワイト・プロパガンダだということになる。 問題は、GHQがポツダム宣言の第十項にうたった言論の自由に自ら違反してプレスコード(新聞などに対する言論統制規則)によって日本のメディアから報道の自由を奪い、かつCCD(民間検閲支隊)を使って検閲を行っていたことだ。しかも、日本国民には彼らがそのようなことをしていることは隠していた。 江藤はこの状態を「閉ざされた言語空間」と呼んだ。言論と表現の自由がないだけでなく、相手に対してカウンター・プロパガンダを打つことができないこの言語空間では、支配者が発する言説は、被支配者にとってすべてプロパガンダになってしまう。 とはいえ、当時の新聞の影響力は限定的だった。終戦から四カ月しかたっていないので、紙不足のため、新聞発行がままならず、発行できても、長蛇の列ができて、一般国民にはなかなか手に入らなかったからだ。ラジオ「真相はこうだ」は悪質なブラック・プロパガンダラジオ「真相はこうだ」は悪質なブラック・プロパガンダ CIEもこのことはよく承知していたので、戦時中大本営発表を垂れ流しにした日本放送協会を解体せず、ラジオコード(放送に対する言論統制規則)で縛りはしたが、その独占を強化することによって、心理戦に徹底的に利用した。 CIEは『太平洋戦争史』の第一回目を新聞に掲載させた翌日の十二月九日にメディアキャンペーンの第二弾を放った。『太平洋戦争史』のラジオ版ともいえる『真相はこうだ』を日本放送協会のネットワークを使って放送したのだ。 それはこのように始まっていた。 アナ「われわれ日本国民は、われわれに対して犯された罪を知っている。それは、誰がやったんだ」 声「誰だ、誰だ、誰がやったんだ」「まあ待ってくれ。この三十分のうちに、実名を挙げて事実を述べます。そこからあなた方のほうで結論を出し、日本の戦争犯罪についての判断を下してください。……」(音楽高まり、そして低くなる) アナ「真相はこうだ! ……この番組は日本の国民に戦争の真実を伝え、その戦争がいかに指導されたかを知らせるものです……」 このラジオ番組がおおいに問題なのは、その内容もさることながら、ブラック・プロパガンダだったという点だ。あたかも日本放送協会の日本人スタッフが作ったようにミスリードしながらも、実際はCIEのハーバート・ウィンド中尉がシナリオを書いて日本人の俳優に演じさせたものだった。このため、これを聞いて激怒した聴取者は、抗議の手紙を日本放送協会宛てに送った。なかには「月夜の晩ばかりではないことを覚えておけ」とすごむものもあった。製作したのが占領軍のCIEだと知っていたら、こんなことはしなかっただろう。 CIEはこのブラック・プロパガンダによって、日本が戦争に敗北したこと、苦痛と敗北は侵略戦争がもたらしたのだということを日本人の脳に浸透させることに、なみなみならぬ熱意を示した。 日本のラジオ放送研究の第一人者竹山昭氏の「占領下の放送―『真相はこうだ』」によれば、この番組は日曜日のゴールデンアワーの午後八時から八時三十分、月曜日の午後十一時三十分から十二時、木曜日の午前十一時から十一時三十分までの時間帯で週三回放送した。週に三回放送したこと、曜日と放送時間帯を変えて、日本人の各層が聴取できるようにしたあたりはさすがNBCにいたダイクならではの知恵だ。 CIEは新聞によるキャンペーンはやめたが、ラジオ番組の方は続編を作って強化していった。『真相はこうだ』に続いて『真相はこうだ 質問箱』を一九四六年一月十八日以降毎週金曜日の午後八時から八時三十分まで、『真相箱』を一九四六年二月十七日からの毎週日曜日八時から八時三十分まで放送し、四六年六月二十八日からは毎週金曜日の八時から八時三十分に移動させた。一九四六年十二月十一日からは『質問箱』をスタートさせ一九四八年一月四日まで放送した。「五大改革」、すなわち政治戦もそうだが、心理戦の方も、きわめて矢継ぎ早だった。 その理由をダイクは四六年三月三〇日の極東委員会第四回目の会議でこのように語っている。「指令を出すスピードというのは戦いでのスピードに喩えてもいいでしょう。実際、私たちはまだ戦いのさなかなのです。私がいう意味は、私たちはまだ戦いに従事していて、それは平和的工作(peaceful operation)ではないということです。つまり、戦いでは相手のバランスを崩そうとします。そして右のいいジャブを打ったら、相手が立ち直る前に左のジャブを打たねばなりません。私たちは、教育のために与えられる一つの指令を日本人が完全に咀嚼するまで次の指令を出すのを待つつもりはありません」 つまり、アメリカの占領目的を達成するためには、日本人が敗戦のショックから立ち直り、我に返る前に、心理戦を次々と仕掛けて成果をあげておかなければならないということだ。 占領軍にとって、占領とは戦争の終わりではなく、政治戦と心理戦の新たなステージだということをダイクの言葉はよく示している。 しかし、同じCIEでも下っ端の下士官には、一般市民に対してこのようなブラック・プロパガンダを浴びせることに罪悪感を抱いているものもいた。『マッカーサーの日本』によれば、『真相はこうだ』などの脚本を書いたウィンドは次のように一九四六年一月二十五日の日記に書いている。「(前略)私はこの番組(『真相はこうだ』)にどういう意味があったのかということを、ここで考えてみたい。ある人は・ベリー・グッド・だといったし、日本人の通訳や演技者たちも、意味がよくわかるといってくれた。NHKに、たくさんの手紙が来た。私はその一部を読んだ。(中略)私の耳にはこのシリーズに関しての非難の声が、くっついて消えない。ある章については憤激の抗議を呼んだ。また多くの視聴者は、さらに多くの他の事柄に関して知りたい、といってきた。(中略)『ニッポン・タイムス』の編集者たちも批判的だった。私の親友も・バッド・だといった。・なぜなら、君が今していることは、敗者の顔をさらに手でなするようなことだからだ・と。……ある人は脅迫状を送り付けてきた(後略)」 ウィンドは「もっと知りたい」といってくる日本人がいたとしているが、やはり「私の耳にはこのシリーズに関しての非難の声が、くっついて消えない」というのが本心だろう。また、『ジャパン・タイムス』の記者を務める彼の親友も・バッド・だといっていたことを認めている。 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを実施していた当事者がそのことに罪悪感、つまり、ギルトを感じていたということはなんとも皮肉だ。 彼のもとで製作を手伝わされた日本放送協会の職員はまた別な意味で、このシリーズに違和感を持ったようだ。四六年の『放送』(日本放送協会発行)の三・四合併号に次のような記述がある。「野蛮な軍国主義や、極端な国家主義を、この国土から追放しなければならぬことは勿論であるが、惨ましい敗戦を誇らかに喜ぶのは国民の感情ではない。にもかかわらずこの劇的解説の主役のエキスプレッションは、動(やや)もするとそのような傾向を帯びているかに解せられた。〈真相は知りたいが、あの放送を聞くと何か悪寒を覚える。この解説者ははたしてわれわれと手をつないで日本の再建のために立ち上がる同胞であろうか〉とはわれわれの周囲の大多数の見解であった」 CIEの支配下にあったとはいえ、日本人である日本放送協会の職員が「真相は知りたいが、あの放送を聞くと何か悪寒を覚える」と正常な感情を持っていたことに、ある意味安堵する。「太平洋戦争」呼称を広めた東大歴史学教授 救いようがないのは、『太平洋戦争史』を翻訳して書籍にし、その歴史観を広めようとする日本人がいたということだ。それは当時共同通信の渉外係をしていた中屋建弌だ。渉外とは外部との連絡をとる業務だが、彼は検閲などで占領軍と頻繁に接触していた。 彼は書籍版の『太平洋戦争史』のなかの「訳者のことば」で次のように述べている。「(前略)この無意味なりし戦争が何故に起こったか、そして又日本軍閥がわれわれの自由を如何に横暴に奪ひ去り、善意なる国民を欺瞞して来たか、について明確にすることは、その渦中にまきこまれていた日本人の立場を以てしては今のところ極めて困難である。この連合軍総司令部の論述した太平洋戦争史は、日本国民と日本軍閥の間に立って冷静な立場から第三者としてこの問題に明快な解決を与へている。終戦後極めて短時日の間に起草され又われわれとしては更に詳細なる論述を希望するものであるが、一読してわれわれが知らんとして知り得なかった諸事実が次々に白日の下に曝され、その公正なる資料と共に戦後われわれが眼にふれたこの種文献中の最高峰たる地位を占めるものであることは疑ひない」『太平洋戦争史』がCIEによって作成されたものであることを明らかにしている点と「軍閥」と「日本人」とを区別している点は中屋を評価できる。 しかし、GHQが「日本国民と日本軍閥の間に立って冷静な立場から第三者としてこの問題に明快な回答を与えている」という彼の理解には驚くしかない。 戦争において日本国民と日本軍閥は敵同士ではなかった。敵はアメリカ軍だ。アメリカ軍は日本国民と日本軍閥と戦った当事者であり、いかなる意味においても第三者ではあり得ない。 中屋が述べていることは、要するに先の戦争を敵であるアメリカの立場から見るということだ。どんなマジックを使えば、それが第三者の立場から冷静に見ているということになるのだろうか。 とはいえ、中屋にかぎらず、日本のメディアは占領軍に対して弱い立場に立たされていた。占領軍は言論統制や検閲だけでなく、企業の解体もできたからだ。 恐ろしいことに、書籍版『太平洋戦争史』は、十万部を超えるヒットとなった。そのわけを江藤が暴露している。 CIEは「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの言葉を使うことを禁じ、それまで正規の科目になっていた修身を廃止するとともに、新しい歴史教科書を作成させた。その歴史教科書の参考書として『太平洋戦争史』を使うよう文部省に命じたのだ。このような「トンデモ本」が十万部も売れた理由はそこにあった。 驚倒すべきは、この中屋はこののち東京大学の歴史学の教授になったことだ。しかも、歴史教科書や著書を多く書いている。あろうことか、これらは戦後の現代史の標準的かつ一般的なテキストとして広まってしまう。それにつれて「太平洋戦争」という極めて不自然な、実態にあわない用語が定着することになってしまった。 そして、「太平洋戦争史観」を広めたのが日本人の中屋だったため、この自虐的歴史観は、いかにも戦争責任を重く受け止めた良心的日本人が自発的に発展させたもののように理解された。真の出所はCIEなのに、日本人である中屋が出どころのようにミスリードされたという点でも「太平洋戦争史」はブラック・プロパガンダだった。WGIPの効果を決定的にした制度WGIPの効果を決定的にした制度 このあとのCIEの心理戦の力点は、関野が指摘しているように、極東国際軍事裁判を日本人に受け入れさせることにシフトしていく。そのために、日本人が侵略戦争をしたということ、その過程で残虐行為を行い、アジアの国々の人々に多大の被害を与えたこと、日本人全員がそれについて責任があるということが強調された。 アメリカ軍自身も、投降してきた日本兵を多数殺したこと、広島・長崎で人道に反する無差別大量虐殺を行ったことから日本人の目をそらすためだ。 では、このようなCIEによる心理戦は果たして効果があったのだろうか。これまで見てきた心理戦の体系から、その実施体制から、現在の日本の現実から、ないというほうが無理なのだが、江藤の言説を受け入れない人々は、そのような心理戦が行われていたとしても、効果がなかったと主張する。 現にNHK放送文化研究所の元主任研究員向後英記も、『真相はこうだ』などのプロパガンダ番組が失敗だったといっている。竹山も番組の表現などが稚拙だったので、聴取者の反発を招いたが、その後改善されたといっている。だが、今日の常識では、反発もまた、反響の一種であり、聴取率をあげる要素の一つだ。そして、聴取されるということは、影響力を持つということだ。 そこで、ダイクなどが熟知していたコミュニケーション理論に照らしても、彼らの心理戦が失敗であるはずがないことを明らかにしよう。 冒頭で言及したポール・ラザーズフェルドは、「マスコミュニケーション、大衆の趣向、組織的社会行動」(Mass Communication, Popular Taste, and Organized Social Action, 1948)のなかで、人々を洗脳するためには次の三つの条件を満たさなければならないと述べている。ちなみにこの論文はアンソロジーに収められたのは四八年だが、内容は三〇年代のラジオ放送のもので、以前から知られていた。(1)マスコミュニケーション手段の独占(2)回路形成(3)制度化 まず(1)だが、人々をあるイデオロギーに染まらせるには、そのイデオロギーを肯定する情報だけが流れ、否定する情報が流れない状況を作る必要がある。つまり、イデオロギーを植えつける側のプロパガンダだけが流れて、カウンター・プロパガンダが一切流れないマスコミニュケーション環境を作らなければならない。 占領軍は、日本放送協会や新聞などのメディアを支配することによって、そして検閲を実施することによって、江藤のいう「閉ざされた言語空間」を作り、カウンター・プロパガンダをすべてシャットアウトできるマスコミュニケーション環境を作りあげた。 これは日本の占領期特有の、そしてこの後には決して実現することのなかったマスコミュニケーション環境だった。 朝鮮戦争でもヴェトナム戦争でも、アメリカ軍は陸続きの近隣諸国から人や電波を介して占領地に入ってくる敵性プロパガンダを遮断することはできなかった。 インターネットが発達した今日では、イラク戦争やアフガニスタン戦争でも、やはりアメリカ軍は敵性プロパガンダを遮断することはできなかった。 なぜアメリカは日本の占領には成功したのに、そのあとの占領では失敗したのかはこれで説明できる。(2)は最初にある情報を与えると、それを受ける人間に固定的回路ができてしまい、そのあとそれに反する情報を何度送っても、受け付けなくなることをいう。 これを、軟らかい土の上に水を流すことに喩えよう。最初に水を流したとき、溝ができて水路が形成される。このあと何度水を流そうと、水は同じ溝を流れていく。 イデオロギーに関しても、今まで知らなかったことを初めて教えられると、そのあとそれと違ったことを何度教えられても、最初に教えられたこと以外は受け付けなくなる。 戦争中に大本営発表を聞かされていた日本国民は、大勝利を収めているということ以外は、戦争について詳しく知らされていなかった。そこへ戦後、占領軍によって、『太平洋戦争史』や『真相はこうだ』シリーズによって、初めて詳しい情報を与えられた。それらは基本的にアメリカ側によるプロパガンダだったのだが、それ以前には知らされていなかっただけに、大多数の日本人は信じてしまった。そして、いったん信じて回路が形成されてしまうと、そのあとそれを否定する情報が与えられ、啓発されても、それを受け付けなくなってしまう。 これは、戦争についてある程度知っている大人には、効果はあまりないが、まったく知識がなく、抵抗力もない子供たちには効果は絶大だった。 最後は(3)の制度化だ。前述の二つのことが、短期的に強力に行われても、それが行われなくなれば、その効果はやがて消える。これを永続的なものにするためには、機関や制度が作られる必要がある。共産主義国であれば、共産主義のドクトリンを説くだけでなく、それを人民に説明し、教育する機関や制度を作る。これによってイデオロギーやドクトリンは永続性を獲得する。 日本では、教育機関と教育制度が占領期にアメリカ軍が行った心理戦の効果を永続化させた。 CIEはまず「大東亜共栄圏」に関する書物の焚書を行った。次いで「大東亜戦争」という名称の使用を禁じ、「太平洋戦争」という名称を強制した。しかも、それを強制したということを明らかにせずに、中屋を東京大学に送り込み、彼を現代史の研究と教育の中心的人物とすることで、あたかも良心的日本人が自発的にしたかのように「制度化」した。 不思議なことに、占領軍とはイデオロギー的に敵対しているはずの日教組もこの「制度化」には進んで協力した。 かくして日本の教育機関と教育制度そのものが、現代史に関しては、反日プロパガンダを行うものとして「制度化」された。そして、いわゆる「自虐的」歴史観が公教育によって「制度化」され、これによって広まり、永続化することになってしまった。 とくに現代史に関しては、占領軍の心理戦が功を奏したため、歴史的事実と反日的プロパガンダとが区別できなくなっている。 この病弊がCIEの標的とされた大手メディア企業や教育機関や太平洋戦争史観を奉じる「正統」歴史学者にとくに顕著にみられるのは不思議ではない。WGIPが失敗だったのなら、このようなことは起こらなかっただろう。 もう一つラザーズフェルトのコミュニケーション理論によって説明できるCIEの心理戦の成功例は「五大改革」の一つ「婦人解放」だ。CIEは日本放送協会にラジオ番組「婦人の時間」を放送させただけでなく、放送後に、聴取者を集めてその内容について話し合う集会を開かせた。この集会で啓発された女性たちは、今度は自らの口コミで同調者を増やして運動の輪を広げていった。これはラザーズフェルドの「人々の選択」(The People's Choice, 1999)で明らかにした理論の実践だ。つまり、ラジオ番組を流すだけでなく、番組の聴取者のなかからオピニオンリーダーを作ることによって、コミュニケーションの二段階の流れを作ることで「婦人解放」のイデオロギーを広めていったのだ。「婦人解放」に関しては筆者も否定的に考えるものではないが、実際のところ、占領軍によるこの心理戦は、婦人を解放したというより、その動きを速めたといえる。 戦後七〇年になるのだから、私たちはそろそろ占領軍の政治戦と心理戦の呪縛から抜け出さなければならないのだが、そのためにはまず、占領軍が行ったことがアメリカの利益にそって日本の「国体」を作り変える政治戦と心理戦だということ、憲法も教育基本法も放送法も、言論と表現の自由を奪われ、検閲が行われたこの占領期に作られたのだということをしっかり認識し、その意味をよく考えなければならない。ありま・てつお 昭和28(1953)年、青森県生まれ。早稲田大学卒業後、東北大学大学院文学研究科修了。東北大学大学院国際文化研究科助教授などを経て現職。アメリカの占領政策と日本のマスメディアの関係を明らかにする研究に注力。著者に『アレン・ダレス 原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』『こうしてテレビは始まった―占領・冷戦・再軍備のはざまで』『1949年の大東亜共栄圏―自主防衛への終わらざる戦い』など多数。
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戦後70年に思う 先の戦争にどんな評価を下すか
平川祐弘(東京大学名誉教授)「日本よりいい国があるか」 ダンテの『神曲』が専門の私だが、個人と国家の体験を織り交ぜて『日本人に生まれて、まあよかった』(新潮新書)を出したら意外に読まれた。戦前戦中戦後を知る私が、本音を語ったのがよかったらしい。米国の旧知が「Born in Japan,it’s nice! あれは本当だ。今の日本くらいいい国がほかにあるものか。謝罪などせず、きちんと自己評価しろ」という。それでやや先だが西暦2045年、日本人が100年前の戦争に対しどんな歴史評価を下すべきか、今から巨視的に考えておく。 まず微視的に私のことを述べると、中国でも何回も教えて親しい人もいる私だが、今の大陸の体制は御免蒙(こうむ)る。私は自由を尊ぶ親米派だ。戦争中も熱心に英語を勉強した。父は洋行から帰るや昭和15年、小学3年の私に米国婦人に英語を習わせた。その父が米国ロングビーチの油田を写した写真の裏に「全ク林ノ如クヤグラヲ立チ居リ壮観ヲ極ム。吾等石炭ヨリ液化セント努力スルモ此ヤグラ一基カ二基ノ能力ヨリナシ。此石油産出状況ヲ見テ米ト戦ハン等、疾(はや)ル人ノ夢タルノミ、在外武官ハ何ヲ視察シ調査、研究、報告シタルヤ」と書いてあった。「石炭から液化できなくはないがコストが高過ぎる」といった。わが家は理系の合理主義で精神主義に批判的である。8月15日、玉音放送に引き続き「万斛(ばんこく)ノ涙ヲ呑ミ」と内閣告諭が読み上げられるや理科少年の私は「180万リットルも飲めるものか」と悪態をついた。 そんな家庭での歴史評価はどうか。「五・一五や二・二六で重臣を殺した軍部が悪い」と父。「大欲ハ無欲ニ似タリ。満洲国で止めておけばよかった」と兄。「大きな声で言えないけれど、こうして空襲がなくて夜眠れるのは有難いね」と母。それが敗戦1週間後の会話だった。黙っていた中学2年の私も同感した。原爆投下で立場が逆転した 戦災を免れたわが家は接収と決まる。すると父はおなかの大きな姉を嫁ぎ先から呼び戻し「妊婦がいる」と占領軍の接収を延期させた。しかし甥(おい)が生まれ姉が秋田へ戻ると一家は立ち退かざるを得ない。和風の家にペンキを塗る足場が組まれる。しかし「相手が米国だからお産がすむまで待ってくれたのだ。これがソ連ならそうはいかん」と父は言った。 私の歴史評価は当時も今も同じだ。軍部が政府に従わず、解決の目途も立たぬまま中国で戦線を拡大した責任は大きい、また軍部に追随した新聞も悪い。私は日米同盟の支持者だから左翼に悪用されても困ると大声では言わなかったが、先の大戦で軍国日本が悪玉だったとしても、1945年8月6日にその立場は逆転した-そう判定している。ナチスドイツ敗戦直後の破壊されつくした街並みが衝撃的 降伏交渉中の日本に原爆を投下した米国は極悪非道の悪玉で、米国の原罪は末永く記録されるだろう-ダンテがいま『神曲』を書くならトルーマン大統領は、死ぬ前に原爆投下を命じた前非を悔いていないかぎり、地獄で焼かれているはずだ。その罪を帳消しにするために「慰安婦20万」とか日本側の大虐殺とか誇大に主張する輩(やから)もいるらしいが、よし見ていろ、そうした良心面した連中の赤い舌は必ずや『神曲』未来篇で抜いてやる、と私は考えている。 そこでヒトラーは地獄のガス室に詰め込まれ、スターリンはさらに下層で氷漬けなのは、それだけ殺した人数が多いからだ。だがさらに下に一人黄色い顔をした大物の主席が「こちらの方がもっと多いぞ」と居丈高である。それが誰か皆わかるが、恐ろしくて名前を口にすることもできない。大失策だったドイツとの同盟 ここで日本国家の行動を反省したい。連合国は軍国日本についてまるで知らなかった。日本が極東のドイツに擬せられたのは、日本がナチス・ドイツと同盟したからだ。先の大戦でわが国の大失策は、ユダヤ人全滅を図った国と同盟を結んだことだ。 しかし日本はドイツがそんな是非を弁(わきま)えぬ人種政策を実行するとは、同盟を結んだ近衛文麿も松岡洋右も知らなかった。ドイツで日夜精勤していた父もわからなかった。それはいま大陸に勤務する日本人技術者や商社マンがチベット人弾圧の詳細を知らないのと同じだろう-。そんな平川家は親独派で、一族は父も兄も義兄も私も旧制高等学校は理科でドイツ語を学んだ。和独辞典を擦り切れるほど使ったのは父だ。戦争末期にドイツから潜水艦で運ばれたというロケットの設計図の青写真が父のもとへ届けられた。敗戦後、屋根裏に隠したが後で焼却した。 朝鮮についてはどうか。「本国にもない大工場を植民地に建設した国が日本の他にあるか。あるなら言うてみい」と父は怒って言った。鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』(ちくま文庫)はいい本で、そこに父も建設に参画したらしい硫安の工場の話が出ている。(ひらかわ すけひろ)
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安倍談話と「戦後」からの決別
安倍晋三総理が出した戦後70年談話は、「日本だけが悪かった」という戦前の日本を全面的に悪者視する歴史観と、明確に一線を画した。今回は、戦後日本にさまざまな害をなしてきた「日本の戦前や戦争をめぐって流布してきた嘘」の幾つかを取り上げたい。
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安倍談話 公明党の顔色窺い保守派も気遣う政治的妥協の産物
安倍晋三首相は、戦後70年談話で、過去の戦争を「侵略」と位置づけて謝罪した村山談話(1995年の戦後50年談話)に象徴される政府の歴史認識を事実上、転換しようとした。保守勢力もそうした安倍首相の姿勢に期待を寄せて支持してきた。 歴史認識見直しを掲げる『新しい歴史教科書をつくる会』は安倍談話の発表にあたって、3万人以上の署名を集め、談話に〈「侵略」や「おわび」を一方的に日本を断罪する文脈で入れることのないよう、強く要求する〉という要望書を官邸に申し入れている。 だが、安倍首相は最終的に「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」という村山談話の4つの贖罪キーワードを全部盛り込まざるを得なかった。神道学者で歴史研究家としても知られる高森明勅氏の見方はこうだ。70年談話を発表し、記者会見する安倍晋三首相=8月14日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影)「安倍談話の印象は、村山談話を事実上撤回する目的で発案されながら、政治的事情で不可能になり、やむなく村山談話を極力薄めた内容にしたということです。 本当はもっと安倍色を前面に出した強気な談話にしたかったのに、安保法制で支持率が下がり、これ以上落とせなくなった。公明党の顔色も窺う必要があった。そのために入れる予定になかったおわびや植民地支配といった言葉を盛り込んで玉虫色の巧妙な談話に仕上げた。まさに政治的妥協の産物になってしまった」 そのままでは保守派の失望を買いかねない。安倍首相はそれを防ぐために談話に保守派が喜ぶ“粉飾”を施した。反省やおわびに「私は」という主語をあえて入れずに主語を曖昧にしただけではない。「談話には『アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました』とか、『日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました』など安倍応援団的な保守派の喜びそうなフレーズがてんこ盛りにされている。 一方で、戦後70年談話なのだから昭和の戦争についての認識を明確に語るべきなのに、大東亜戦争や支那事変といった言葉さえ出ていない。あえていえば読み手の誤解を意図的に狙うようなトリッキーな文章です」(高森氏)関連記事■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」■ 70年談話 「いつまで非生産的なことやるのか」と政界OB重鎮■ 安倍談話と真逆の天皇談話出れば国際的には上位の声明となる■ 中国 安倍談話を必死で牽制する背景には習主席のメンツあり■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ 「70年談話」
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美しいほどの「日本悪玉論」~韓国による執拗な反日「米議会闘争」
安倍晋三首相の米議会演説を阻止するために、韓国は大統領、政府、外務省、国会議長、在米韓国人団体、主要メディアまで、その総力をもって「安倍演説阻止の米議会闘争」を展開していました。 今年になっての報道された主要な動きだけでもこの執拗さです。「安倍演説阻止」に向けた韓国の動き(2015年)2月14日 聯合ニュース「在米韓国人、安倍首相の議会演説阻止に動く」と報道3月4日 訪米した韓国国会の鄭義和議長、安倍首相の米議会演説に関し米下院議長に「日本の真の謝罪と行動が必要」3月19日 聯合ニュース「米議会、安倍総理の上下院合同演説を許可する方向」と報道3月20日 韓国外務省「安倍首相は米議会演説で歴史への省察を示すべきだ」3月29日 韓国の尹炳世外相「安倍首相の米議会演説と70年談話が日本の歴史認識の試金石になる」4月2日 鄭議長、訪韓した民主党のナンシー・ペロシ下院院内総務に「日本の首相は米議会演説で過去を認め謝罪すべきだ」4月2日 尹外相、ペロシ総務に「安倍演説は侵略、植民地支配、慰安婦に関しすでに認めた立場を具体的な表現で触れねばならない」4月2日 朴槿恵大統領、ペロシ総務に「慰安婦問題の解決は急務」4月16日 日米韓外務次官協議で韓国の趙太庸第1次官「安倍演説は正しい歴史認識を基に」と注文4月21日 韓国国会の羅卿瑗・外交統一委員長、リッパート駐韓米大使に安倍首相の歴史認識について懸念表明4月21日 WSJ「韓国政府が安倍首相の米議会演説に韓国の主張を反映させるべく米広報会社と契約」4月22日 韓国の柳興洙駐日大使、戦後70年談話で「(侵略、植民地支配、反省の)3つの言葉を使うよう期待」4月22日 韓国外務省、バンドン会議での安倍演説に関し「植民地支配と侵略への謝罪と反省がなかったことが遺憾」4月23日 米下院議員25人「安倍首相が訪米中に歴史問題に言及し、村山・河野両談話を再確認する」ことを促す書簡送る4月23日 韓国系と中国系の団体、元慰安婦とともに米議会内で会見し「安倍首相は演説で謝罪を」と要求4月24日 韓国外交部「尹外相とケリー米国務長官が電話、歴史対立を癒す努力で一致」と発表4月24日 ブラジル訪問中の朴大統領「日本に、正しい歴史認識を基にした誠意ある行動を期待」4月24日 ローズ米大統領副補佐官「安倍首相に対し、過去の談話と合致し、地域の緊張を和らげるよう働きかけている」4月24日 メディロス米NSCアジア部長「歴史問題は最終解決に達するよう取り組むことが重要」(参考記事)日経ビジネス「アベの米議会演説阻止」で自爆した韓国http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150424/280347/?P=1 当初は演説の阻止が目的でしたが、それが困難と分かると後半では演説の中で韓国に謝罪させようとしました。 韓国政府は安倍首相の米議会演説に韓国の主張を反映させるべく米広報会社と契約、猛烈なロビー活動を展開いたします、また朴槿恵大統領は、安倍議会演説の米側キーマンの一人であるペロシ下院院内総務に「慰安婦問題の解決は急務」と直訴、外遊中のブラジルでも、「日本に、正しい歴史認識を基にした誠意ある行動を期待」と発言します。ワシントンの米連邦議会前で、安倍首相に従軍慰安婦問題での謝罪を要求する人々(共同) しかし、この猛烈なオール韓国による「米議会闘争」は、アメリカにおいて思わぬ副産物を生んでしまいました。 米国人当事者たちが韓国の執拗さに、いい加減うんざりしてしまったのです。 3月以降、米国の外交・安全保障関係者のもとに韓国人が押し掛けてきては「アベの演説をやめさせろ」とうるさく言ってきたからです。 米国の外交関係者が日本人に会うたびに「日韓関係は――韓国は何とかならないのか。韓国人にはほとほと疲れた」とこぼすのが恒例になったそうです。 米国の「韓国疲れ」です。 結果、ペロシ院内総務は「米議会でのアベ演説に謝罪を入れさせろ」という韓国の要求を事実上無視、受け流すことになります。 さて安倍演説です、(参考記事)安倍首相米議会演説 全文http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150430/k10010065271000.html ここには韓国が目指した「従軍慰安婦」に関する話も過去の過ちに対する「お詫び」も全く出現しませんでした。 国家予算まで投じたこの猛烈なオール韓国によるロビー活動「米議会闘争」は、失敗に終わりました。 ・・・ そもそも他国の首相がよその国の議会で演説することに、ここまで反対してここまでその内容にこだわる韓国の人々のメンタルは、大変興味深いものであります。 思うに彼らの日本批判は時空を超えて「正義」なのであり、時、場所を選ばず世界中で展開されて当然の日本の「侵略」「植民地支配」の被害者たる韓国にとって当然の「権利」なのでありましょう。 であるからこそ、「告げ口外交」などと陰口言われても、大統領は世界中の訪れた国々で日本批判、謝罪要求を言明し続けたのであり、安倍首相はアメリカ議会においても「従軍慰安婦」への心からの「お詫び」をしなければならない、それが加害者日本の「義務」であるととらえているわけです。 場所だけでなく時間も関係ありません。 村上春樹氏の例の問題発言を、韓国メディア・東亜日報は「無限謝罪論」ととらえています。(参考エントリ)2015-04-23 村上春樹氏「日本は相手国が納得するまで謝罪すべき」発言に見る見事なストラテジー&タクティクスhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150423 この発言の「相手国が納得するまで」をすっぽり切り落として発言をこう解釈します。 「日本政府は慰安婦被害者に対して謝罪と贖罪をし続けなければならない」(参考記事)[オピニオン]2人の春樹の無限謝罪論http://japanese.donga.com/srv/service.php3?bicode=100000&biid=2015041838738 ・・・ さて、国家予算まで投じたこの猛烈なオール韓国によるロビー活動「米議会闘争」は、失敗に終わりました。 米国中枢部に「韓国疲れ」という韓国にとって想定外の副産物をも残してしまいました。 この「外交的敗北」を、韓国ではどう総括しているのか、大変興味があります。 安倍演説を受けての30日付の中央日報コラムはその意味でヒントになりますです。【コラム】安倍首相を抑え込むには(1)http://japanese.joins.com/article/756/199756.html?servcode=100§code=140&cloc=jp|main|top_news うむ、このコラムではアメリカ人に「韓国疲れ」まで招いた韓国による執拗なロビー活動「米議会闘争」が敗北したのは、日本による水面下のロビー活動、「米国の心臓部にひそかに食い込んだ日本」によりもたらされたのだというのです。日本政府も米国の広報・ロビー企業を雇用して水面下で米国の政策立案者に緻密に事前の整地作業を行っていたことが明らかになっている。日本政府は米国の大手広報企業「ダシュル・グループ」やロビー専門ローファームの「エイキン・ガンプ」「ホーガン・ロヴェルス」「ポデスタ・グループ」などと契約したという報道がこれを後押ししている。米主流社会とつながっている広報・ロビー企業を雇用して米国の政策立案者・意志決定権者・水面下の実力者・シンクタンク・メディアなどを相手に日本に肯定的なイメージを与えることのできるノウハウやアイデア、人脈を提供してもらったと考えられる。韓国も接触する国務省や国防省ではなくて、最高位層を動かせる非公式のインナーサークルに直接食い込んだ可能性が大きい。要するに日本政府は広報・ロビー企業を雇用して積極的に米国の首脳部に接近し、ファシストを公言する極右者が生前に作った民間団体は歪曲された歴史認識を米国にまき散らすために波状攻勢をかけたという話だ。これに対抗して韓国政府と民間は声明発表・公務員接触・デモ・抗議書簡・新聞広告などで大衆を相手に日本の歴史歪曲の行為を必死に告発した。だが、このように米国の心臓部にひそかに食い込んだ日本を相手にしては力不足だったのかもしれない。 そしてこのコラムは、なんと更なるロビー活動の強化を、「費用がかかっても米国を動かす人に公式・非公式的に接近して心を動かせる手堅い広報とロビー戦略が必要だ」と訴えます。今こそ国益を守るために対米アプローチのパラダイムを根本的に切り替えなければならない時だ。費用がかかっても米国を動かす人に公式・非公式的に接近して心を動かせる手堅い広報とロビー戦略が必要だ。そんな人物を探して外交の全面に配置する案もある。果敢に外国広報・ロビー・戦略・マーケティング企業を雇用する案も積極的に考慮しなければならない。韓国の外交官たちがいかに有能で忠誠心にあふれていても、彼らだけでは日本に敵対し韓国の国益を守ることが容易ではないということを、安倍首相の訪米成果が見せているのではないだろうか。 「果敢に外国広報・ロビー・戦略・マーケティング企業を雇用する案も積極的に考慮しなければならない」と再びオール韓国で「米議会闘争」を展開すべきであると主張しているのです。 ロビー活動が失敗したのも「日本が悪い」「日本のせい」なのであります。 ・・・ 読者のみなさん。 すごいメンタリティーではありませんか。 美しいほどの「日本悪玉論」です。 米国中枢部に「韓国疲れ」という韓国にとって想定外の副産物をも残しての、国家予算まで投じた執拗で猛烈なオール韓国によるロビー活動「米議会闘争」が外交的に敗北したことに対し、一切の反省はなしに、「実は日本がじゃましたからだ」と結論付け、さらなるロビー活動の強化を主張しているのです。 そしてオール韓国による執拗な反日「米議会闘争」は「無限」に展開されていくことでしょう。 ある意味、あっぱれです。 ふう。※「木走日記」2015年4月30日より転載。
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戦前は「悪」、戦後は「善」という錯誤
渡部昇一(上智大学教授)日下公人(東京財団会長)日下 森喜朗首相の「日本は天皇を中心にした神の国」という発言をめぐってマスコミは大騒ぎをしました。その後、「国体」「銃後」発言が重なって、こうした表現には森首相の戦前回帰思想が現れており、それは首相としての資質に欠けるという非難が展開された。総選挙もそれがテーマの一つとして争われましたが、これは何とも滑稽な光景でした。別に森さんを弁護するわけではありませんが、「神の国」発言の真意は、少年犯罪などが多発する現状を憂え、神様からいただいた生命を大切にしようという宗教心を教育現場で教えられないものか、という問題提起だった。それが戦前回帰と非難されたというのは、その前提になっているのが戦前の日本は悪い国だった、という思い込みです。“悪の帝国”だった(笑い)。だが、果たして本当にそうだったのか。『神の国発言』について会見する森喜朗首相=2000年5月26日(鈴木健児撮影)渡部 ひとことで言えば、戦前の日本は良かった(笑い)。とくに、ロシア革命が起こって共産主義の脅威にさらされる前の日本は非常に良かったと思います。日露戦争の勝利後、日本は自らの力で、独自に民主主義の道を歩み始めている。大正デモクラシーが共産主義によって断絶させられたことを、日本人は正確に記憶しておかねばならない。 実際、大正二年の第三次桂太郎内閣なんか演説によって潰れたようなものです。“憲政の神様”と謳われた尾崎咢堂なんか“天皇をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸となす”という弾劾演説をやって桂太郎を真っ青にさせている。演説で内閣を倒すなどということは、イギリスの議会政治が一番栄えたディズレリーかピールの頃を思わせるものです。日本もそれに近づいていた。 日露戦争に勝利しても軍国主義には進まず、むしろ着々と軍縮をしていた。戦前を悪し様に言う人たちが頻繁に取り上げる治安維持法にしても、コミンテルンの「皇室廃止」指令や、ロマノフ王朝一族にとどまらず、共産主義に賛同しない人民の大量虐殺という情報が入っていて、それへの防波堤として制定されたものです。日下 加藤高明首相による護憲三派内閣のときだから、大正十四年ですね。渡部 同時に普通選挙法を通しています。この普選法は、収入の多寡に関係なく成人男子には等しく選挙権を与えるというもので、当時としては最も進んだものです。女性の参加は認めませんでしたが、これは徴兵制があるために仕方がなかった。もともと徴兵制がある国は女性に選挙権を与えていない。スイスも徴兵制を続けてきましたから最近まで与えていなかった。このときの内閣は高田、岡山、豊橋、久留米の四個師団を廃止するという空前絶後の軍縮までやっている。当時の日本には、デモクラシーを発展させようという意志があったんです。日下 共産主義の実態とその脅威を考えれば、治安維持法は、スターリンのような指導者が出現し、それこそ“八百万の神”を信じる日本人を、大量虐殺するような政府の誕生に至る暴力革命を阻止するためにはやむを得ない措置だった。シナでは孫文も容共政策をとっていましたしね。戦前日本の分水嶺はロシア革命渡部 戦前の日本が悪い国だったとすれば、その分水嶺はロシア革命です。スターリンの時代は五カ年計画を繰り返して、強大な戦力を再び満蒙国境に配備します。併せて思想的にも入り込んできて、シナ人を全部反日に立ち上がらせようと画策する。昭和初年あたりから日本は深刻な危機感を抱かざるを得なくなって悪くなるんです。 さらに皇室廃止論へのリアクションとして右翼が台頭してくる。彼らは天皇を座標軸にして左翼とは対照の位置にいるように見えながら、ついに政策としては対抗するものを考えつかず、逆に共産主義のプラットホームみたいなものを求める形になった。それが戦前の民間右翼であり、軍の革新派将校であり、彼らはその国家改造の思いをたぎらせて行動した。五・一五事件であり、二・二六事件ですね。あるいは新官僚による国家統制の徹底です。これは革命幻想なのであって、対峙しているはずの共産主義と行動原理において差異がないということになる。日下 同感ですね。平和、自由主義、民主主義に向かって歩んでいた日本を、右翼国家主義に変転させたのは共産主義という怪物の出現だった。『アメリカの鏡・日本』(ヘレン・ミアーズ著)という本がありますが、それにならえば当時は“ロシアの鏡・日本”だった。日本自身が内発的にそうした道を選んだのではなく、ソビエトロシアへの対応策としてそうせざるを得なかった。これは筋道としてそうなんです。 私も渡部さんと同じく、戦前の日本は素晴らしかったと思います。 それから、いささか声を大にして言っておきたいのは、戦前の日本人は独立の尊さを知っていた、ということです。同時に、独立を失う危険があることも自覚していた。だから必死に努力したんです。危険が迫れば団結して富国強兵政策を取り、破壊を目論む異端分子は排除する。そういう事情の吟味なくして戦争の反省も、戦後の反省もない。日本に降りかかった脅威を故意に見ないのはおかしいと、つけ加えさせていただきます。渡部 戦前の日本、とくに大正期は非常に良かったということを、ライシャワーさんなんかはちゃんと知っていたらしい。ところがそれを口にすると、民主主義がアメリカ軍の占領軍統治から始まったということにならないから、戦後はそれを日本人に分からせないようにした。学校でも教えてはならないというふうにさせられたわけです。日下 要するに民主主義は占領軍の素晴らしい“お土産”だという、そういう意識を日本人に植え付けたかった。渡部 だから大部分の日本人は、敗戦のお陰で民主主義を得たと思っているんですね。とんでもないことです。何度でも繰り返しますが、ロシア革命のせいで日本の民主主義の発展は止まったんです。もう少し長い時間軸で言えば、中断を余儀なくされたのはロシアが遠因で、近因はアメリカが石油を売らなくなったことです。日下 そこで、リアクションとはいえ平和で民主的な日本を食い潰していった陸軍の責任についてはきちんと検証しなければならない。『組織の興亡』という近著で詳しく述べているのでここでは詳細を措きますが、陸軍は機密費を右翼に投じて、民主的な政治家や国民の世論を封殺して自らの意見を通していった。国民がある程度承知の上でそれについていったのは、アメリカとロシアという外圧があったからで、国民の多くがその圧力を不当と感じていた。 ではなぜ陸軍は見苦しいほどに軍の利益を追求したかというと、平和な時代に二度の軍縮があって、不遇を託ったからです。有り体に言えば、「日露戦争を死力を尽くして戦い抜いたにもかかわらず何と無体な」という受け止め方を陸軍はした。そもそも論で言うと、いざというときに命を投げ出す武装集団の名誉を奪ってはいけない。クーデターを起こしますからね。しかるに今の日本の自衛隊は、四十年間不名誉のどん底にあってもクーデターを起こさない。こんな立派な国はありますか、と言いたい。 それから、当時の日本に貧富の差があったのは紛れもない事実です。多分イギリス並みの差だったと思いますけれど、それでも日本は耐えられなかった。貴族の伝統がないから、「もっと平等に」ということを言い出すと、いきなり革命ソ連の方に傾斜してしまった。渡部 対抗の理論がなかったということは、これは日本だけではなくて、たとえばイギリスなども完全に負けている。ウェッブ夫妻らが設立したロンドン政経学校(London School of Econoics and political science)がロンドン大学の一部になるのはちょうど一九〇〇年ですが、ここでウェッブ夫妻が目的としたのは、端的に言えば、社会主義社会の建設が推進できる人材を輩出することだった。 それで理論的に完全にイギリスをドミネートするんです。戦前前後の日本で人気のあったラスキ教授とか、のちにイギリスの首相になるアトリーとか、みんなそこで活躍している。イギリスは理論に関する限り、ほとんどおしなべて左翼になるんです。 それからアメリカも、ニューディールというのは、今、産経新聞で「ルーズベルト秘録」という連載で詳細が明らかにされていますけれど、左翼と紙一重というようなところがあった。どこも巻き込まれているんです。共産主義の脅威という現象は日本だけではないんだけれど、イギリスやアメリカとは地政学的な与件が決定的に違う。国家の基本は「独立を守る」こと国家の基本は「独立を守る」こと日下 まさにそうですね。だから戦前の日本は特別悪い国ではなかった。独立国の中では普通か、普通よりいい国で、しかも自らの足で歩んでいた。そのときの国家の基本は「独立を守る」ことです。努力を傾注しなければ危ないということも知っていた。欧米列強のアジア侵略、日本もその標的にされていたわけですから、否も応もなく危機を自覚させられる状況が目の前にあった。渡部 参謀総長や陸軍大臣を務めたことのある杉山元が、これはもちろん開戦前ですが、夫人とヨーロッパに外遊する途中インドに寄ったんですね。そのとき彼は、インドがいかにイギリスに搾取されているかを目の当たりにして、何と日本は有り難い国だろうと夫婦で話し合ったという。戦前に一度でも海外に出た経験のある日本人はそれを痛感していたんですね。日下 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創設者として有名ですが、昭和十五年に第二次近衛文麿内閣の商工大臣に就任した小林一三にも似たような話があります。渡部 小林一三は官僚統制に反対して、革新官僚だった岸信介次官を辞任させていますね。日下 ええ。その一事を見ても、当時の日本はまだまだ軍国主義とは言えない。小林は蘭印特派大使として石油を売ってもらおうとオランダに交渉に行ったり、さまざま努力するんだけれども、結局、英米の妨害でうまくいかない。それで翌十六年には辞めてしまうのですが、その小林が昭和十五年に書いた随筆の中に、こんな述懐があるんです。 自分はロンドンやニューヨークへ行っていろいろ商売をしてきた。自分のようなチンチクリンの黄色人種が相手でも、とにかく白人同士のルールを適用してくれる。それは、ひとえにわが日本に「陸奥」と「長門」をはじめとする、侮ることのできない連合艦隊があるからだと。大砲の威力はグローバル・スタンダードですから(笑い)。普通に商売するためにも、軍事力の後ろ盾がないと払うべきものも払ってくれないと小林は痛感していたんですね。渡部 当時のヨーロッパは、たしかに今おっしゃったような認識だったと思います。ところがそのグローバル・スタンダードに従わなかったのがアメリカです。日露戦争を勝った日本人を、ほかの有色人種と同じように差別したから日本人は怒ったわけです。堪忍袋の緒が切れたというかね。崖っぷちまで追い込んだ者の責任が不問なのはおかしいんです。 はっきりしているのは、確かに日本はアメリカに軍事的には敗れはしたけれども、戦ったこと自体を善悪で分かつべきではないということです。戦後は善悪の問題としてしか見ず、悪いことをやったんだから東京大空襲も、原爆投下も仕方がなかったなどと言い募る日本人が出てきた。戦って死んだ人々に対しても、「犬死にだった」と突き放してしまう。空襲を受け焼け野原になった東京。手前は皇居内の焼け跡=昭和20(1945)年日下 その意味で、戦後の日本で大前提になっているのは、“独立を自ら守るのはよけいなことであり、生意気なことだ。お前の国のほどほどの幸せはアメリカが保証してやる”ということと同義といって過言でない今の憲法です。前文に端的に現れている無条件の他者信頼と他者依存、その精神から歴史を見てしまうから、自力で独立と生存を維持しようとしたわが国の歴史は野蛮なものだということになってしまう。一国の独立を守る行為、自衛行為が、他国に対して侵略的になる可能性があるということは、倫理的な批判は可能ですけれども、論理的には矛盾しないんです。これが戦後の日本人にはすっかり分からなくなってしまった。渡部 国家としての独立を失うとどうなるか、という想像力もない。能天気です(笑い)。日下 まずは経済的な利益を収奪される。それから教育です。最近、分離独立紛争で日本でも名前が知られるようになったティモールも、ポルトガルの支配下では教育を奪われています。支配階級というのはどこもそうです。朝鮮でも李王朝は庶民に教育を施していないし、琉球でも尚王家は庶民に教育を施していない。南米なんかの事情を見ると、逆にポルトガルやスペインは文明をもたらす有り難い存在なんだ、支配されて幸福なんだと教えている。それが百年も続くと本当にそうなってしまうから恐ろしい。たとえばメスティーソ(=混血児)がスペインへ国際会議か何かで来て、「父の国に来られた」といって涙を流して喜んでいたりするのを見ると、母はどうなっているのか考えたことがあるのか、と思ってしまう。混血の意味を考えたことがあるのかと。渡部 スペイン語の先生に聞いたことがあるんだけれど、中南米には母親を尊敬する伝統がないんですってね。似た顔をしているけれどイタリア人なんかはママでしょう(笑い)。中南米の人がスペインやポルトガルを、母の国ではなく父の国として感激できることの歴史的背景を考えると、それはたしかに悲しいものがある。日下 教育を支配されて百年、二百年経つとそうなってしまう。ところが日本は明治維新のときに独立を守ったから教育は続いていたわけで、その中で自ら必死に努力して、民主主義、自由主義の国を築こうとしてやってきた。渡部 着々とやっていた。日下 それが先の大戦に敗れたとき、独立を奪われて、教育も何もかも奪われて、それこそ男も女も奴隷的境遇に落とされるかと思ったらそれほどでもなかった。案外、寛大だった。それに日本人みんながバカに感激してしまったわけです。渡部 ほっとしたんだな。日下 それで独立のために命を捧げるなんて阿呆らしいことであったという雰囲気になって犬死に論が出てくる。こんなことなら戦う必要もなかったと。しかし、戦ったからこそアメリカは寛大になったんです。渡部 まったくそうです。戦う気概を忘れた国はやがて亡国の淵に立つ日下 それを忘れてはならないと思います。今、アメリカが寛大になった余得が五十年経って消えつつある。これは怖いことです。二十世紀後半の五十年はともかくも国際社会らしきものがあって、道理が通って、アメリカも力の自制をした。それは、身命をなげうって究極の奮戦をしてくれた英霊の、なかんずく神風特攻隊のお陰だったといって過言でない。追い詰められた日本が立ち上がって噛み付いた、その記憶がバリアーとして彼我の間にあるから、あまり日本に理不尽なことを仕掛けてはいけないという自制を彼らにもたらした。その残像が急速に薄れつつある。「戦って敗れた国は必ず再生する。戦わずに敗れた国は永久に立ち上がれない」と言ったのはチャーチルですが、戦う気概を忘れた国は必然的に亡国の淵に立つということを、今の日本人は真剣に思い起こす必要がある。渡部 国際社会は本当に熾烈です。そこでは厚かましく、ふてぶてしく振る舞わなければならない局面が必ず生じる。もっと砕いて言うと、図々しくなることです。それが日本人にはできない。日下 客観的に歴史を通覧して比較しても、国際常識を外れて(笑い)、日本人の道義心は高い。自分の常識で反省してしまうから、これは言葉が悪いけれど“鴨ネギ”ですよ。正しい国際感覚というのは、報復力のない国を相手にしたときは蹂躙してよい。残念ながらそういうことです。連合国の元捕虜による、日本企業を相手にした戦時賠償請求がアメリカ・カリフォルニア州で提訴されていますが、わざわざ法律を改正して時効を延長してまでの“狙い撃ち”というのは、そういう常識の上に立っている。八〇年代以降の経済的繁栄を見ても、アメリカは「絶えずルールを変更する国」「ダブル・スタンダードの国」という“評判”と引き換えに利益を獲得している。 ここで日本人がふてぶてしく振る舞おうとするなら、こういう物言いもできると思います。いわく、「無辜の市民に対して原子爆弾を落としましたね」とか、「東京を空襲しましたね」とか言って、それに対する謝罪と賠償を求める裁判を遺族が個人として起こす。法理上の問題と、わが国の現状でそれが可能かどうかは措くとして、少なくとも彼らと同じ土俵に立てばそうなる。それ以前に、「あなたがたはインディアンから土地を奪いましたね」と問えば、彼らは何と答えますかね。渡部 サンフランシスコ講和条約がなければ、私も日下さんと同感です。ただ個々人がそういうことを言い始めたらきりがないから、国家同士で手を打った。民間の喧嘩なら警察もあれば裁判所もあるけれど、国家同士の戦争はその上に何もない。したがって“手打ち”は、民間にたとえれば常に示談と同じ形をとる。サンフランシスコ講和条約はそういうものです。示談が終わってから五十年も経ってから、それを反故にするというのは通用しない。ナチス追及のために措定された戦争犯罪には時効がないというのも、ユダヤ迫害とかあまりにひどい事情ゆえにであって、日本に適用するというのは乱暴です。 それからこうした問題になると、すぐドイツと比較して日本を非難する人たちがいますが、ドイツと日本はまったく事情が違う。ドイツは講和条約を結んでいないのですから個人補償にならざるを得ない。それゆえドイツの私企業を訴えることも可能なんです。日下 それを日本の立場から考察すれば、サンフランシスコ講和条約にソ連は入っていませんから、シベリア抑留の六万人の死者はどうしてくれるんだとか、カイロ密約にからんでロシアに抗議しつつ、アメリカをそれに引き込むということは可能ですね。これは実際にそうすべきだと主張したいのではなく、そういう戦略的な発想、したたかさを日本も持たなければ、二十一世紀という新たなパワーゲームの時代を乗り切れないということを言いたいのです。渡部 その意味では、明治維新のときのような、白刃の下をくぐり抜けてきた覚悟の据わった指導者が、この国から消えたということが深刻な問題ですね。あまり明治時代を懐かしんでも建設的じゃないんだけれど、日露戦争が勝利に終わってからは制度として出世コースが決まってしまったことが、危急存亡のときの人材発掘、登用の妨げになったことは間違いない。エリートではあるけれど、ひ弱になってしまった。日下 戦後は一層そうですね。善にも悪にも強い人がいない。結局、自らの歩みの正当性に自信がないからだと思う。戦前の日本は悪いことをやってきたんだという呪縛、それが戦後の日本人を潜在的にも顕在的にも萎縮させてきた。それどころか、善人の国になった戦後はなおさら戦前・戦中の悪の追及に熱心に取り組まなければならない(笑い)。いわば国を売る行為が、良心にかなう行為だとされるような空気が戦後この方ずっとわが国を支配してきた。 カリフォルニアの訴訟もそうですけれど、日本の戦争犯罪なるものの世界的追及の動きに同調し、煽っているのは日本人です。世界の反日は、常に日本発と言っていい。こんなことは自明だと思いますが、どうも世間的には周知されているとは言い難い。日本の戦いを自衛だったと認めたマッカーサー日本の戦いを自衛だったと認めたマッカーサー渡部 マスコミがその実体を報道しませんからね。日本叩きにはあんなに熱を上げるのに(笑い)、日本の弁護、正当な言い分を発信することには本当に力を注がない。ここで、戦前の日本は「悪」、戦後の日本は「善」という錯誤をわれわれにもたらした元凶を二つ指摘すると、一つは日本を野蛮な侵略国家だと一方的に決めつけて断罪した東京裁判。これをやらせたマッカーサーです。これが第一です。 第二は、マッカーサーは後日、日本の戦争目的が侵略であったということを正式に取り消したにもかかわらず、それを日本人に伝えなかった日本の多くのマスコミです。一九五一(昭和二十六)年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で行われたアメリカの極東政策をめぐる公聴会の席で、マッカーサーはこう証言しているんです。「日本は絹産業以外には固有の産業はほとんど何もない。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生することを彼ら(日本)は恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」(傍点は渡部) この証言は当時のニューヨーク・タイムズにも全文が載っています。東京裁判を始めた連合国軍の最高司令官が、日本の戦争の動機は安全保障の必要に迫られてのことだった、と証言したことは、東京裁判の無効宣言に等しいと考えて、決して大袈裟ではありません。ところがマッカーサー証言のその部分を伝えなかったのは誰かというと、たとえば朝日新聞は報道しなかった。縮刷版にも見当たらない。ものすごく意地悪に、本当に目立たないベタ記事としてどこかに、それこそ〇〇県版に載せているということはあるかも知れないけれど(笑い)、そんな価値判断で済まされるニュースじゃないことは明々白々です。あるいは百歩譲って、当時報道していなくとも、今、それを掲載すべきです。事は過去・現在・未来のすべての日本人の名誉に関わることです。日下 重要なご指摘ですね。渡部 それこそ日本人が一番聞きたかったことですよ。このマッカーサー証言を全国の新聞、NHKが伝えていれば、事態はかなり変わっていたと思います。バカげた反日日本人の跳梁跋扈はなかったのではないですか。日下 今の日本の政治外交を預かってる人たちが、そのマッカーサー証言を知っているとは思えませんね。渡部 耳に入らないのかなあ。平成七年の「戦後五十年決議」のときにも痛感したことだけれど、細川護煕、村山富市、土井たか子、宮沢喜一、河野洋平といった政治家にはほとほと呆れてしまう。いったい日本の歴史をまともに学んだことがあるのか。とくに責任が重いのは、長く政権政党の座にあって、その維持のためなら“国を売る”自民党の人たちですよ。日下 そういう状況を見ながら、私は日本を売った人たちには四種類あると思っています。前提として言えるのは、日本を売る気になった人たちの心の底は、「崇洋媚外」だったのではないかということです。これは文字通りの意味です。この崇洋媚外の心を持った日本人が戦後各界にたくさん出現して日本糾弾を繰り広げた。 まずはGHQへの追従です。これは権力者にいつも擦り寄る性向の人たちです。次は自分の足跡を隠す人。戦争協力の足跡を隠すために、熱心に日本断罪に取り組んだ人たちです。学者に多かったですね。それから、何事もイデオロギーというメガネを通して物事を把握しようとする教条主義者。秀才ですが、この手の人はだいたいにおいて精神力が弱い。結論を急ぐから単純に割り切れるものに飛びつく。国家主義はもう流行らんらしいから今度は民主主義に行こう、という感じです(笑い)。 四番目は、単に自分の利益を追求する左翼政治家・運動家、あるいは労働組合の人たち。こういう人たちは最も素直だと私は思います。自分の生活のためにやるとか、ちょっとした贅沢のためにやるという程度だから罪は軽い。 しかし、前三者に対してはそう寛容になれない。GHQに最も擦り寄ったのは言論人と学者です。そもそもが思想信条を守ってなんぼという立場のはずなのに、それが掌を返したような物言いをしたのだから、これは許し難い。官僚もそうです。権力を持って命令する立場にあった人は、やはり責任を取ってもらわねば困るんです。少なくとも懺悔してからやってもらいたい。左翼用語で言えば、自己総括ですか(笑い)。それをせずに、生まれ変わった証拠に今度は日本の悪口を目一杯しゃべる。この浅ましさは目を覆うばかりです。日本断罪論者の品格の欠如と大衆蔑視渡部 そうした視点から申し上げると、谷沢永一さんの研究が第一等だと思いますが、横田喜三郎なんか典型ですね。文化功労者、文化勲章が視野に入ってからの彼の変節ぶりははなはだしい。それから歴史学者の家永三郎氏。彼はもともと“忠君愛国”みたいな教科書を書いていたはずなのに、やっぱりガラッと変わった。日下 結局、自分がないということなんでしょう。すぐイデオロギーとか社会風潮に身を委ねてしまうのは、自己の中に守るべきものがないからなんだと思います。本当の知識人、教養人がいなかった。いや、戦前、戦中、戦後を通じてそういう人はいたけれども、少なくともマスコミはそういう人に見向きもしなかった。渡部 日本を蔑むことを何とも思わない人たちは、まず品格に欠けていると思います。日下 それから大衆蔑視ですね。自分はいつも大衆に対して上位に立っているという顔をしている。自分の立場を維持するためには、何か偉そうに説教をたれてた方がいいし(笑い)、事大主義のほうがいい。独善的で、かつ進歩的でなければならないから常に悪罵の対象が必要になる。戦前の日本がまさに恰好なわけです。しかも、そういう人たちは文章技術とか話術に長けている。困ったことに文章とレトリックだけ強い。こういう人たちの根底にあるのは、日本は絶対に沈まないという油断なのか、あるいは自信なのか。日本の独立は天与のものであって、いくら悪口を言っても傷つかない、揺るがないと日本を信じているのだから、それはそれで偉いんですね(笑い)。渡部 左翼幼児症という言い方がありますが、まあ幼稚な振る舞いですよ。親はいくらなじっても自分のことを思ってくれるだろうという甘えの感覚と同じです。日下 だから戦後は、今度は「アメリカは日本を見捨てないだろう」という盲目的な依存に変わってしまった。なぜアメリカは優しくしてくれると思えるのか。「多分キリスト教だからだろう」なんて言っているわけだ(笑い)。渡部 ソ連が崩壊する前は可愛がってくれていたと思う。ソ連が崩壊すれば日本は要らないんじゃないのかな。日下 最近、中国の脅威を認めて、去年から今年にかけて親日的な数字がアップしたというアメリカ国内での世論調査の結果が発表になりましたね。これはバランス・オブ・パワーの感覚で、きわめて現実的と言っていい。渡部 結局、それだけなんです。だから思い返せば、日英同盟の締結であんなに日本が感激するのもおかしかった。私はチェスタートンの自叙伝の中に、当時のイギリス指導層の裏面が出てくるのを読んだ記憶があるんですが、チェスタートンは、「プライベートではみんな日本の悪口ばかり言っているのに、パブリックになると途端に日本を誉めるのはどういうわけだろう」と不思議がっている。日本人はそのへんをまったく知らなかった。 つまるところ、残念ながら彼らは日本人を好きだったわけではない。むしろ嫌いだったのではないか。しかし極東におけるロシアの拡張に対して、イギリス単独では対抗できない。そういう現実があった。だから彼らは、日本を使おうという戦略を立てて実行しただけなのに、日本はイギリスの好意と受け止めて感激してしまった。まあ、感激したことそれ自体は悪くないけれど(笑い)、所詮、パワー・ポリティクスでそうやっているのだということを胸中に刻んでおけば、ただのお人好しみたいな様で終わることはなかった。日下 日本は自ら独立を守る必要があったのだから、そのとき援助を与えてくれたことに感謝するのはいい。渡部 日英両国に利益があったわけです。それを明確にイギリスに認識させなければならなかった。数年前のことですが、ケンブリッジ大学のバイス・チャンセラー、実質上の学長ですけれど、ロード・バタフィールドさんという方とロンドンで会食する機会があったんです。どういう会話のなりゆきだったかは忘れましたけれど、私が、日英同盟は廃止する必要はなかったという発言をしたら、バタフィールドさんが「そうなんだ」と我が意を得たりとばかりに、本当に膝を打ったんです。バタフィールドさんは八十歳を超えている方ですが、大英帝国の栄光を知っている世代から振り返ってみると、日英同盟を解消しなければ、依然として大英帝国だった可能性が高かったということなんです。日下 日米同盟という“下支え”があるアメリカ帝国も同様だと思います。渡部 もし日本という国が西側に付いていなかったら、ソ連とアメリカはいまだに睨み合ったままでしょう。日本の力を一番知っていたのは実に日本の政治家ではなくて、アメリカです。そして、残念なことだけれども、その力を一番上手く利用したのもアメリカです。二十一世紀もまた日本を味方につけた国が栄える日下 二十世紀がどんな百年だったかを考えると、私はそのパワーゲームの主役は日本だったと思っています。一九〇〇年当時の三大国、ロシア、中国、イギリスは、それぞれ日本と戦って衰運に傾いた。ロシアはまず日露戦争に負けて国を失い、ソ連としては第二次大戦では勝った側にいたとしても、「中立条約違反」と「侵略による領土獲得」という道徳的な敗北を喫した。その後、経済戦争でも負けています。中国も清という国は日清戦争で潰れ、中華民国という蒋介石の国も台湾へ逃れて、いまや台湾人の国として別の国になろうとしている。イギリスは先に渡部さんがおっしゃられたとおりですね。チャーチルが日本を敵に回したら、全アジアの植民地を失って往年の栄光からは遠い国になった。 第二次大戦とその後の冷戦に勝利したのはアメリカですが、「原爆使用」という道徳的な傷を負った。ソ連の「中立条約違反」と同様、どちらも白人国に対してはしないことを日本にした。要するに、両国が有色人種蔑視の正体を見せざるを得ないくらい日本は善戦敢闘したということです。その事実を紛らすために、彼らは、日本を軍国主義だ、侵略国家だと、しつこく悪宣伝した。いささか乱暴に聞こえるかも知れませんが、丹念に歴史をたどった上で、それをラフに描いて見せるとこうなると思います。渡部 歴史の仮説としてみると、ペリーが太平洋を渡った頃、もしこの極東に日本という国がなかったら、朝鮮半島は一〇〇%の確率でロシア領になっていたと思います。黄河以北のシナも八〇%の確率でロシア領、揚子江以北は五分五分でこれもロシア領でしょう。イギリスの艦船がいるから揚子江以南には行けなかったと思いますが、そうなったとすれば、白人の世界支配は本当に完璧になって、白人アパルトヘイトを崩す契機はどこにも存在しなかったと思います。だから、彼らにとってそれを突き崩した戦前の日本は、“悪の帝国”ということになるんですね。日下 そういう状況下、アジア各国はどこも日本の味方をしなかった。が、独立を失っていたから無理もないことではあった。日本は、白人もわれわれ有色人種と変わらない、工業化して立ち向かえばいいんだということをアジアに示したわけで、それは白人にとって大きな脅威だった。 だからアジアには二種類の人がいて、それを分かっている人は、今も昔も日本を悪く言わない。尊敬している。世界がいくら日本の悪評を立てようが、日本を味方につけた国は栄え、敵に回した国は結果的に衰運に向かうという二十世紀の教訓は、二十一世紀にも通ずると思います。渡部 それに気づいた国だけが得するわけですね(笑い)。わたなべ・しょういち 昭和五年(一九三〇年)山形県生まれ。上智大学文学部卒、同大学大学院英米文学科修了。独ミュンスター大学大学院英語・言語博士課程修了。文学および哲学博士。平成七年ミュンスター大学より名誉博士号を授与。著書に『知的生活の方法』『腐敗の時代』(日本エッセイスト・クラブ賞)『かくて昭和史は甦る』『日本人の本能』など多数。最新刊に林道義、八木秀次両氏との鼎談『国を売る人びと』(PHP研究所)。昭和六十年第一回正論大賞受賞。くさか・きみんど 昭和五年(一九三〇年)兵庫県生まれ。昭和三十年東京大学経済学部卒、日本長期信用銀行入行。業務開発部長、取締役を経て六十年に退職。五十九年にソフト化経済センター設立、平成五年同センター理事長。多摩大学教授。九年東京財団(旧国際研究奨学財団)設立と同時に会長に就任。主著に『新・文化産業論』(東洋経済新報社=サントリー学芸賞)、『人事破壊』『これからの10年』(PHP研究所)など。最新刊に三野正洋氏との対談『組織の興亡』(ワック出版部)がある。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)
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記事
戦後レジームの原点、日本「無条件降伏論」の虚妄
渡部昇一(上智大学名誉教授)義家弘介(衆議院議員・前文部科学政務官)渡部昇一 本日は先の大戦で日本が「無条件降伏した」と言われている問題を義家弘介先生と一緒に考えてみたいと思います。私は比較的戦後の早い時期から「日本は無条件降伏したのではない」と警鐘を鳴らしてきました。日本人はもっと歴史を学ばなければならない。そう強調してきましたが「日本が無条件降伏したか否か」、これは戦後の出発点というべき重大な問題です。 私は中学3年の時、終戦を迎えました。ラジオを通じて終戦の詔書が読み上げられるのを実際に拝聴しましたが、その時「ポツダム宣言」という言葉が明確に耳に残っている。「これで日本は負けたのだなあ」という実感がわいてきたことを鮮明に覚えているのです。そして「ポツダム宣言」には連合国側から「われらの条件、次の如し」と記し、その条件のひとつとして「陸海軍の無条件降伏をせしめること」とあるのです。 日本政府が無条件に降伏したら、陸海軍を無条件降伏させることなどできない。だから日本に主権をとどめ、命令する権利を残した。これは、「無条件降伏」などとは到底いえない。自分の軍隊を「無条件降伏」させてくれと、そういう条件でポツダム宣言が出されたのです。そのことを多くの日本人は今忘れてしまっていますが。義家弘介 昨年の11月27日に私どもは無条件降伏について国会で正面から取り上げる議論を提起しました。なぜこの問題を取りあげたか。そこから話します。そもそもの発端は子供が使う教科書を眺めていたことでした。そこには「日本は無条件降伏した」と平然と書いてある。おかしい。それほど簡単な話ではないのです。安倍晋三政権のもとで私たちは戦後レジームからの脱却を掲げています。しかし、先生も仰ったようにとりわけこの問題は、戦後の出発点であり、戦後レジームの根幹となる最重要ポイントです。そう考えて、まず根幹を正そうと「日本は無条件降伏したのか」と同僚議員が政府の見解を質したのでした。 大前提としてわれわれ日本人、あるいは政治家がこの問題を考える際に踏まえておかなければならない問題があると私は考えています。それは大東亜戦争、第二次世界大戦の敗戦国となった日本とドイツの明らかな違いです。ドイツは45年4月29日にヒトラーが自殺して、5月3日にベルリンが陥落した。つまり、あの時点でドイツという国はなくなった。その後、四カ国による分断統治が行われた。戦争で滅んでしまったドイツに対して日本はどうか。これはポツダム宣言を受諾し、終戦に向かったのですが、日本国という国家は厳然と残った。ですから、サンフランシスコ講和条約という条約が必要だったわけです。まず、この違いをしっかりとわれわれは認識しておくべきだと思っています。渡部 その違いも意外に知られていませんね。そもそもポツダム宣言すら読んでいない日本人が多すぎると思うのです。軍隊が降伏した後、日本にやってきたマッカーサー司令官と外務省との間に交渉がもたれます。そこで国務省の命令で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府と交渉する必要はなく、一方的に何でもできると通告されてしまうのです。これが実に不当なことであることもまた案外知られてはいないのですが、ポツダム宣言を明白に反故にするものなのです。米国は日本が無条件降伏したと思い込んだふりをし、そして日本もまた、それに従わざるを得なかった。その結果、実質的に日本が無条件降伏したと見なされるようになってしまったようであります。 しかし、当時はまだ気骨のある人が多かった。例えば重光葵氏がそうです。GHQは当初、日本の直接統治を考えていた。ところが彼の頑張りで、危ないところを間接統治に切り替えた。 間接統治になると、直接の支配を受けない。お金も円のまま使えるし、支配された実感がわかないわけです。それで多くの日本人がごまかされてしまった面がある。間接統治ですから、一々GHQは日本政府に命令しなくてはいけない。そこで、その根拠となる占領政策基本法が必要となり、それが今の憲法だったわけです。日本国憲法の本質は占領統治下の占領政策基本法であって、憲法に対する私の態度もこの認識が出発点にあります。有条件降伏のポツダム宣言と米国の国際法違反義家 先日、ニューヨーク・タイムズの記者と話す機会がありました。私が「ポツダム宣言は無条件降伏か」と聞くと彼らでさえ「有条件降伏です」と明言しました。渡部先生が仰るようにポツダム宣言の5に「われらの条件は左のごとし」と明記され、その条件を羅列しているわけですから、明らかにこれは有条件降伏です。誰の目から見てもですね。渡部 そこで重要なのは、条件を出しているのは、日本ではなくあくまで連合国が出してきているという点です。彼らが出してきた条件を日本が呑んだ。これが事実です。明らかに「条件降伏」であり、降伏かどうかすら疑わしい話なのです。外交交渉と言ったほうが実態に近いと思いますね。義家 問題は無条件降伏か否かを考える場合に、ポツダム宣言のみでは判断できない点があることです。それは9月2日のミズーリー号で調印された降伏文書です。私は日本国が本当に戦争に負けたのはこの時ではないかと思っています。首都が見える海上で、日本側の代表を呼び出して、米国の誇る艦隊で降伏文書に調印させるセレモニーです。その調印文書にはこうあるのです。 まず第一点は、日本軍の無条件降伏。日本国の無条件降伏ではありません。「日本国軍隊および日本国の支配下にあるすべての軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告する」とあるのです。 渡部先生にご見解を伺いたいのはその調印文書には続けて「すべての官庁、陸軍および海軍の職員に対し、連合国最高司令官がこの降伏実施のため適当であると認めて自ら発するか、または委任にもとづき発令された全ての布告、命令および指示を遵守し、かつこれを施行することを命令する」とある点です。そして三つ目に「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる」ともある。 この文書が調印されたのは午前9時10分でした。調印を済ませ、夕方の4時になって突然、参謀次長のマーシャル少尉が終戦連絡委員会の鈴木九萬公使を呼び、三カ条の布告を明言します。まず、日本全域の住民はGHQの最高司令官の軍事管理の下に置くこと。日本国民は行政、立法、司法のすべての機能も含めて最高司令官の権力の下に行使される英語を公用語にすることが告げられたのです。そして二つ目は、米国に対する違反は米国の軍事裁判で処罰すること。これは治外法権を認めるということです。三つ目が、米国ドルを法定通貨にする。これらをトルーマン大統領からの指示として通告してきたわけです。 先生が仰ったように当時の外務省にはまだ気骨がありました。こんな条件が呑めるわけがない。そこで当時外相だった重光葵氏が横浜まで駆けつけた。彼は午前8時に現れる予定だったマッカーサー氏を待ち伏せしたんですね。そして直接マッカーサー氏に「こんなことをやったら日本の戦後処理はできません。大変なことになりますよ」と掛け合っている。マッカーサー氏は重光氏の話を保留にしましたが、このころの外務省はしっかりしていて昭和21年の段階では「ポツダム宣言の受諾は所詮無条件降伏と同一ではない」と明確に省庁として見解を示してもいるのです。 一方、「占領を条項の駆け引きから始めるわけにはいかない」と考えていたトルーマン大統領は「われわれは勝利者で日本は敗北者である。無条件降伏は交渉するものではないと彼らは知らなければならない」と断言し、それに基づいて三カ条の布告を出したというわけですね。渡部 米国の連中が、ポツダム宣言を知らなかった。知らなかったか、知らないふりをしたのか。どちらにしろ日本は武力を全部捨てた後でしたから、どうしようもなかったわけですが、米国が行ったことがポツダム宣言に反する如何に不当なことか、は日本人はしっかり認識しておくべきです。日本国憲法の正体は占領政策基本法日本国憲法の正体は占領政策基本法義家 ポツダム宣言では紛れもなく条件降伏となっていた。しかし、現実に米国が実施したのはそれとは正反対だったわけです。天皇及び日本国政府の国家統治の権限はマッカーサー司令官に属し、彼がすべてを決める。われわれと日本国の関係は契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏が基礎となる。つまり、ポツダム宣言が破棄されたわけですね。マッカーサーは「大東亜戦争は日本の自衛戦争であった」と議会証言した=1945年9月撮影 この通達には、日本の管理はまず日本政府を通じて行うと書かれています。つまり、この時点でも日本国は存在するのです。しかし、一方で必要なら直接連合国軍が行動する権利を妨げるものではないとも述べ、日本が言うことを聞かないならGHQは直接統治するとも言っている。これはポツダム宣言の上書きではなく、卓袱台返しに等しい。渡部 ですから、そこはトルーマン大統領が国際条約であるポツダム宣言を勝手に廃止した。明らかにトルーマン大統領の国際法違反なのです。間接統治に留めたのは重光さんたちの努力ですが、その結果、出てきたのが占領政策基本法でそれが今の憲法というわけです。 あの憲法の前文を読んでごらんなさい。そういう憲法だとよくわかります。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。連合国だろうが何だろうが外国に国民の生命まで預ける。そんな憲法が本来あろうはずないのです。護憲派は9条ばかり口にしますが、この前文のおかしさは言いたがらない。こんな前文は誰が見ても弁解できませんからね。私の人生を変えた占領政策と錯誤に気づいた米国渡部 それから、占領軍は25年から50年近く日本を統治するつもりでした。私は当時、高校生で大学を理科系に進むか、文科系に進むかという選択を迫られていた。私は理科コースで学んでいた。ところが尊敬していた物理の先生が授業中に「君たちは今理科コースに来ているが、つまらないぞ」と突然言い出したのです。「物理学の一番先端を走るのは何と言っても原子核だ。ところが理化学研究所の加速器サイクロトロンは東京湾に沈められた。新聞にも出ているだろう。物理学は芯が止められたのだ」というわけです。「エンジニアリングの分野もそうだ。なんといっても飛行機なのに、日本は飛行機も作れなくなって工学もダメになってしまった。これからの日本はせいぜい自転車を作って東南アジアに輸出するより仕方がなくなったのだ」というわけです。皆愕然としました。それで、私は理科系への大学進学を諦め、文科系に移ったんです。尊敬していた英語の先生の影響を受けたこともありましたが、多くの学生が当時は私と同じように文科に移ったんですよ。 長く続くはずの占領がパタッとなくなった理由は、朝鮮戦争でした。大学二年のときでした。するとあっと言う間に日本はいい国になってしまった。東京裁判が終わった直後の1950年だったと思います。それまで日本は悪い国とばかり言っていた。ところが、日本の言い分が決して間違いではなかったと米国にもわかったわけですよ。 シナ大陸に1949年、中華人民共和国が出来たことも米国には衝撃だったはずです。シナ大陸を侵略した本尊は日本だった、その日本がいなくなれば、アジアに泰平が訪れる。そう米国は信じて、占領政策で日本を悪者扱いし続けた。ところが日本がシナ大陸から手を引いたら、いきなり共産党が伸びて共産圏になってしまった。そして大陸及び満州を支配し、朝鮮にまで入ってきたわけです。日本が元凶だとする米国が抱いていた幻想がわずか二年足らずで崩れたわけですよ。 マッカーサー司令官は共産圏との戦争を憚らなかった。しかし、ここでトルーマン大統領と意見が合わずに米国に呼び戻されました。彼はその時、上院の軍事外交合同委員会で証言しているのですが、彼はそこで日本の戦争について「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」というわけです。つまり「大戦は日本の自衛戦だった」と公式に証言したのです。簡単にいえば、東京裁判とはマッカーサーそのものです。連合国はマッカーサー氏にすべてを任せて東京裁判をやらせた。だから、彼は国際法によらずに自分が作ったチャーターによって裁いた。そのことがわかっていれば、マッカーサー証言は、東京裁判がぶっ壊れたことを意味する発言です。しかもこれはつぶやきでもなければ、伝記の言葉でもない。米国の上院軍事外交合同委員会という場での公式発言なのです。彼は日本への自らの評価を180度変えざるを得なかったのです。 日本はいい子になってしまった。それでサンフランシスコ条約ができたわけです。義家 戦後レジームにつながるサンフランシスコ講和条約までの三つのフェーズを少し整理します。まず、米国の占領初期のトルーマン大統領をはじめとした非常に極端なマッカーサー氏の方針が幅をきかせた時期があります。日本の軍事力を支えた経済的基礎を破壊し、再建を許さない。厳しい統治が続きました。日本の生活水準は日本が侵略した国よりも高くならないようにしておくという徹底的な強権統治だったわけです。 ところが、これが変化したのが1948年、つまり昭和23年だったと思いますが、同年の1月6日、ロイヤル陸軍長官が演説で「占領経費が高くつきすぎる。日本にある程度の経済的自立を与えたほうがいい」と言い出したのです。彼は、将来極東で起こるかもしれない全体主義との戦争、すなわち共産主義との戦争を見据えていました。日本が抑止力を発揮できるようにする。占領政策の目的は日本が自給自足の民主主義国家を作ることだと言っているのです。日本を共産圏からの防波堤にすべきだと方針を変えたのです。冷戦構造、ソビエト連邦を意識してのことでしたが、突然に変わったわけです。 そして三番目のフェーズが、今、渡部先生が指摘された朝鮮戦争でしょうね。1950年6月25日に勃発したこの朝鮮戦争についてトルーマン大統領は自身の回顧録で「日本にかなりの自治を復活させなきゃいけない」とつぶやいています。そして「日本の講和条約締結を促進しなければならない」とも「日本の国際機関への加入を促進しなければならない」とも言及し、初期占領から五年で方針転換された。これが51年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約につながっていくわけですね。吉田茂首相の不徹底は避けて通れない義家 戦後レジームからの脱却といった場合に政治の責任は大きいといわざるを得ません。外務省が無条件降伏ではないと断言し、ポツダム宣言は誰が見ても条件付き降伏です。しかし、ここでは吉田茂内閣の検証が避けて通れなくなる。昭和24年の予算委員会で吉田首相は「米国政府の声明としてポツダム宣言によって日本が権利として要求し、もしくは議論することは米国政府においては受け入れないと言われております」と答弁しているのです。12月26日には「日本は無条件降伏をしたのである」と明言し、25年2月6日には「ポツダム宣言に違反した事項がある場合、政府としては権利として交渉することはできません」とまで述べてしまっているわけです。渡部 吉田首相が、あの頃の日本人にはガッツがあるとみえた。これは確かなのですが、立ち止まって考えると、彼はやるべき重要なことを相当やり残しているんですよね。例えば、真珠湾攻撃が日本のだまし討ちだったという日本の悪い評判を彼は払拭しようとしなかった。これは一にかかって外務省の出先機関の責任です。現地時間午後1時に国交断絶書を渡すことになり、そして、米国のハル国務長官の予約を1時に取ったわけですよ。ところが、翻訳が間に合わない、タイプが間に合わない、などといったつまらない理由で2時に延ばしてしまう。真珠湾攻撃は現地時間1時と2時の間ですから、「外交交渉中に攻撃した」ことになってしまった。これは最悪の事態ですよ。ルーズベルト大統領にはこの点を徹底的に利用されてしまって世界中に「日本はずるい国だ」という汚名が着せられてしまった。 実態は逆です。日本ほどずるいことをしなかった国はなかった。当事者の責任は重大ですよ。ところが外務省の当事者たちは日本に帰ったのち、吉田首相によって全部出世させられて勲一等にしたり、外務次官になった人まで出てきた。吉田首相の頭の中では、もしかすると、日本の名誉より外務省の名誉の方が大切だったのかもしれません。 当時の社会党の連中などと比べれば吉田首相が立派でした。これは大前提です。しかし、戦後の保守派と言われた学者や政治家たちが無闇に誉めたことで、彼の良くなかった点が見えなくなった気がしてなりません。義家 吉田首相の不徹底は今に至るまでひきずっているんですよ。例えば領土問題などで教科書会社は日本政府の立場について明確に児童生徒にも分かる記述をする方針が示されています。ところが、この問題では、外務省が「無条件降伏ではなかった」といい、内閣の長である吉田首相が国権の最高機関で無条件降伏を明言してしまっている。その後も政府の見解は幾度も質されました。しかし、悉く政府から帰ってくる答弁は、吉田首相の答弁の延長上にあると言わざるを得ない煮え切らない内容でした。 例えば、平成19年の政府答弁書は「一般に降伏とは戦闘行為をやめ、敵の権力下に入ることを意味し、その際に条件をつけない場合には無条件降伏と称されていることがあると承知しているが、文脈等にもよるものであり、お尋ねの定義について一概にお答えすることは困難である」。「無条件降伏の定義については一概に述べることが困難であるということもあり、お尋ねについては様々な見解があると承知している」といった具合です。民主党政権下の野田佳彦政権下の答弁も「無条件降伏については確立する定義があるとは承知していない」。 要するに有耶無耶。有耶無耶さこそ戦後レジームと言わざるを得ない。「戦後レジームからの脱却」を具体的に進めるならば、新たな事実に基づく議論を立法府でしなければならない。何が戦後日本のスタートだったのか。ここが曖昧なまま、歴史だけが積み重なる危機感を私は強く感じます。渡部 吉田首相についてもうひとついえば、サンフランシスコ講和会議が終了後にやるべきことでやり残したことがたくさんある。当時の野党第一党の社会党は講和条約に参加しなかったり、吉田氏に同情すべき点はあります。しかし、主権を回復した以上、せめて「日本国憲法は占領政策基本法でした」と一言言って欲しかった。義家 おっしゃる通り、占領下のときにできたルールはすべて主権回復したら無効になりますからね。彼は終戦時は外相で、46年5月から47年5月まで首相だったわけで、第一次吉田内閣の時は、確かに誰が首相になっても非常に難しい時期だったと思う。実質的な権限を米国が持っていましたからね。ただ問題点は、再登板した1948年以降にあったと言わざるを得ない。こう思っています。 学校の教科書ではサンフランシスコ講和条約によって主権を回復し、同時に日米安全保障条約をつくったと書いてありますよね。実はここもそう単純な話ではない。ポツダム宣言で条件付き降伏をしつつ現実にはトルーマン大統領が全くそれを反故にする話とよく似ているのです。サンフランシスコ講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで48カ国の代表を集めて盛大に日本の主権回復が調印された。ところが、一方で日米安全保障条約は米国陸軍第六軍の基地の下士官クラブで調印式をやっている。下士官といえば一番低いところですよ。出席者は米側から4人、日本からは吉田首相一人。つまり、あなたたちは独立してセレモニーを世界的にやってあげたが、一方で未だ保護国ですよという屈辱的な見せしめをやったわけです。日本は保護国という大前提は今も続いている日本は保護国という大前提は今も続いている義家 この機会にぜひ渡部先生にお聞きしたいことがあります。カーター政権の大統領補佐官で、オバマ政権でも外交顧問をしているブレジンスキー氏が『グランドチェスボード』で日本について「日本は米国のセキュリティー・プロテクトレート」と評していますね。渡部 保護国だと言っています。義家 「安全保障上の保護国」と今でも言っている。つまり日本では誰もが独立国だと思っているがそうではない。こと安全保障に関しては現オバマ政権の外交顧問でさえ、セキュリティー・プロテクトレートと評して憚らない。これをどう見たら良いのか。来日中、アジア政策演説に臨むバラク・オバマ米大統領=2009年11月14日午前10時20分、東京・赤坂のサントリーホール(代表撮影) 私たち日本人はまず、本当にそういうことでいいのかとしっかり国民に問い、考えることが大切だと思う。集団的自衛権の議論だって然り。戦後六十数年、あたかも自分たちの手で平和国家をつくりあげたかのような錯覚を抱いているが、米国から見れば「ただのセキュリティー上の保護国」。こんな位置づけに甘んじて、次の世代に日本という国家を引き継いで行くことがいいはずがない。現代を生きる大人の責任を感じますね。渡部 平和運動家たちは、自分たちの運動のお陰で平和が保たれているなんて思っているが、ソ連が北海道に手を出さなかったのは、紛れもなく米国軍がいたからです。それ以外に理由はありません。義家 まともな感覚を持っていれば、そんな汚名は着たくない、自主独立国家になるというのが自然な発想ですがそうはならない。昨年の安倍首相の靖国参拝の時に、米国が「失望した」と表明したことがありました。私は言いようのない違和感を感じたんです。御霊をどう祀るか。これは国内の問題であり、内政の問題です。しかし一方で、改めてこうした発言などに出会うと、「ああ、なるほど。彼らは日本をそう思っているのか」と考えると合点がいくところがあるのです。保護国に対する感覚とはそういうものでしょう。ですがそういう感覚を米国が抱いているということは日本人はしっかりと認識しておかなければならない。仮の話ですが現実に中国が尖閣に突入してきた場合、どうするか。日本が全く動かないなら恐らく米国は動かないですよ。安全保障上の保護国に甘んじて、本当にこれからの激動の世界で平和を保てるのか。現実を直視する必要があると思いますね。渡部 米国は日本を今も保護国と見ている。これは義家先生がいまおっしゃった通りでしょう。安倍首相の靖国神社参拝に失望を表明した問題についていえば、米国には「靖国神社問題は内政の問題ではなく、これは宗教の問題だ」と日本は言うべきだったと思います。そうすれば米国は口は出さないはずなんです。宗教問題は1648年のウェストファリア条約以来、絶対お互いに口を出さないことにしているでしょう。三十年戦争の反省に基づいて、宗教と国家は切り離した。ですから、ブッシュ大統領はどんなにイラクに攻め込もうとも絶対にイスラム教の批判はしないし、9・11という未曽有のテロが起きても、イスラム教への批判はなかったはずですよ。日本の靖国神社になぜ、米国は口を出すのですかと言えば、はたと気づくはずなんです。 問題は「これは宗教問題である」と米国に伝える外交官が日本にいないことではないでしょうか。外交官が「何をバカなことを言うのですか。バカなこと言わないでくださいよ。あれは宗教問題ですよ」と米国を諭す。米国だって先進国ですから、こう言われればわかる人がいるし、わかるはずなんです。学校教科書記述のお粗末義家 事実に基づいた議論が本当に大切だと思いますね。この六十数年間、渡部先生のように一貫して背骨のある主張を展開された先生はいらっしゃるけれども、国民全般としては、学校教育が嘘を教えてきたこともあってまっとうな議論が行われないまま70年近くが過ぎている。こう言わざるを得ません。 せっかくの機会ですので今の教科書でどうポツダム宣言や無条件降伏を扱っているか、紹介したいと思います。渡部先生が仰ったようにポツダム宣言の文章自体が教科書にはないのです。「われらの条件は左のごとし」とあったことは教えられない。そして一番採択率の高い東京書籍では、「一九四五年七月、連合軍はポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を求めました。そして、日本は宣言を受け入れて降伏しました」と書いてある。清水書院も「一九四五年七月、米国、英国、中国は日本に無条件降伏をよびかけるポツダム宣言を発表した…」とある。帝国書院は「日本の無条件降伏をうながす共同宣言を出しました(ポツダム宣言)」とあって、無条件降伏したとも条件降伏したともどちらにも読める記述です。渡部 教科書というのは怖いんです。数学の教科書や物理の教科書に嘘は書いていない。ところが社会科とか歴史の教科書は嘘だらけだから怖い。時間とともに私たちの頭を縛っていきますからね。 でもこうした構造はメディアも同じことです。私は敗戦利得者構造と名付けていますが、占領が7年間続くと、もうそこで本当に利権の構造が確立してしまう。朝日新聞も初めのうちは違っていた。ところが、それが上が替わってしまって左翼に占められてしまうわけです。言論界も同じだし、教育界も公職追放令で堅いことを言っていた人はいなくなった。義家 芦田均内閣ぐらいで、マスコミの報道姿勢は完璧に確立したような気がします。渡部 敗戦利得者による利権構造、別の言葉で言えば、これが戦後レジームかもしれないですな。戦後レジームとは敗戦利得者構造だ渡部 それから、私は戦勝国の枠組みをまた作り直そうとしている動きがあるように思えてなりません。冷戦終結後、それは顕著になっている気がします。ですから、日本の外務省は、さきほどのマッカーサー証言を米国の国務省に教えてやらなきゃいけないと思う。ところが日本の外交官がそのことを知らないんです。マッカーサー証言すら知らないんですよ。この証言は「敗戦国」対「戦勝国」という枠組みを基本から崩すものですからね。義家 その問題の根っこには教育があると思う。対米依存意識が染みついているでしょう。米国の言うとおりやっていれば大過なくやれる。そういう判断基準に慣れきってしまっている。これも戦後レジームの弊害の一つだと思う。渡部 米国に頼り切る生き方だってあると思いますよ。でもそれは奴隷の平和なんです。日本も独立すれば、ひょっとしたら徴兵制に近い訓練が必要かもしれない。これは日本人にとって苦痛です。米国の下なら一見安全に思えるかもしれない。しかし、そうなると、今度は米国が日本の男を徴兵しますよ。だから、苦しくても日本は日本人として努力しなければいけないんです。義家 まさにこれはポツダム宣言とイコールの話ですね。奴隷的平和を甘受するか否かという話は。渡部 先生は別として日本の政治家の発言を見ていると、ポツダム宣言とサンフランシスコ条約を無視する傾向がある。サンフランシスコ条約のことを言い出す政治家はまずいませんし、サンフランシスコ条約は日本について立派なことを言っています。敢えて言えば11条だけ少し問題はあるが、同じ11条の後半でそれは訂正可能だとも言っている。ところが、小和田恒氏(元外務事務次官)などのようにサンフランシスコ条約でパアになったはずの東京裁判を敢えて持ち出して、国会で「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾している」(昭和60年11月8日、衆議院外務委員会)などと答弁してしまう外交官すら出てくるわけですよ。裁判を受諾するのと判決を受諾するのは天と地ほどの差があるのに、何もわかっていない。義家 そもそもマッカーサー氏の外交顧問のW・J・シーボルト氏がこう言っているわけですよ。「私は裁判をやったこと自体が誤りだったと感じた。被告たちの行動が善悪という観念から見ていかに嫌悪を感じさせ、また非難すべきものであったとしても、当時は国際法上犯罪でなかった行為のために、勝者が敗者を裁くというような考えには賛成できなかった」。マッカーサー氏の外交顧問でさえ言っていることで、東京裁判がいかにおかしなことかをしっかりと世界に向けて発信すべきですが、日本が悪かったのだからと自虐的に考えてしまう。そしてあの戦争は全く意味のない無駄なもので命を捧げた人達は犬死にだったとさえ漠然と考えてしまう日本人が多い。私は戦後レジームとは曖昧さと自虐さだと思いますね。渡部 私が望みたいのは、安倍政権が長期政権になること。その間に啓蒙活動が広がって、本当の姿を記した教科書ができること。そうすれば次の世代は良くなると思う。いまの自民党の方々は、河野洋平氏をまだ呼びつけることすらできない。自分たちの仲間や自分たちの利益の方が国民の利益より重いと考えているのではないか。私も最初の頃は河野洋平氏は馴れ合いの外交に乗せられたと思って同情していた。ところが去年あたりから、河野氏は自己弁護を始めました。これは許せない。自己弁護が成功したらどういうことになるか。全く考えていないとしか思えない。自己弁護が成功したら、日本人は20万人の朝鮮人の若い女性を拉致して、性奴隷にしたと未来永劫、日本人が汚名を着せられ続ける話でしょう。仲間意識で庇うような話では到底あり得ない。そういうことも考えて、私は安倍内閣が長期政権になってほしい。今はまだ、情けないほど妥協しているが、これは直ちに変わる話ではありませんので、気の長い希望として持っています。わたなべ・しょういち 昭和5(1930)年、山形県生まれ。上智大学卒業。同大学大学院西洋文化研究科修了。独ミュンスター大学、英オックスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c. 著書に言語学・英語学の専門書のほか『国民の教育』『先知先哲に学ぶ人間学』『国家とエネルギーと戦争』など多数。昭和60年第1回正論大賞受賞。よしいえ・ひろゆき 昭和46(1971)年、長野市生まれ。明治学院大学法学部卒。ヤンキー先生の名で知られる。平成15年横浜市教育委員会教育委員に、安倍内閣の教育再生会議では再生会議室長となった。20年の参院選に出馬し初当選。24年12月の衆議選では神奈川16区で当選し、文部科学大臣政務官を務めた。
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テーマ
宗教から戦後ニッポンを読み解く
作家、井沢元彦氏によれば、人の死を忌み嫌う日本人の「ケガレ忌避」は、戦前も戦後もまるで変わっていないという。日本が主権国家として軍事力を保持することを嫌う「平和ボケ」の根底にも、このケガレの思想があるらしい。日本人の宗教観から見えてくる戦後ニッポンのひずみとは。
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記事
宗教は、なぜ必要なのか
ひろさちや(宗教評論家)《PHP文庫『学校では教えてくれない宗教の授業』より》人間は、宗教を持つから動物と区別される 人間に宗教は必要なのでしょうか? わたしには、「人間に宗教は必要か」という問い自体が、ナンセンスに思えます。 というのは、人間は宗教を持つから動物と区別されるとわたしは思っているからです。 宗教を持つから人間になると、わたしは思います。「動物プラス宗教イコール人間」であり、逆に言えば、「人間マイナス宗教イコール動物」と言うことです。 動物とは、エコノミック・アニマルということもできましょう。宗教を持たない人間は、「損か得か」の経済原理でしか動きません。他人が困ろうが、他国の人が苦しんでいようが、自分たちだけが繁栄すればいいのだという生き方―それがエコノミック・アニマルです。そういう動物に、日本人は成り下がっていると言えないでしょうか。 わたしたちは一所懸命に働くことが美徳と思って、やみくもに働きます。しかし、「働く」ということの意味は、自分の幸せのため、自分の家族の幸せのため、周りのみんなの幸せのためにあります。 ところが、日本人は、働くことの原点を忘れて、いつしか「企業の奴隷」や「企業の飼い犬」になってしまったのだと思います。会社に飼い慣らされた家畜同然の「社畜」ということばさえあります。 「売り上げがあがればいい。儲かれば何をやってもいい。自分の会社さえよければいい。他がどうなろうと構わない」 そういう考え方が、日本の社会では支配的になっています。諸悪の根源は、そこに集約されるんじゃないでしょうか。 昔、雪印食品が、輸入牛肉を国産と偽って、狂牛病対策事業の対象肉として業界団体に買い取らせていました。また、大手の食品会社や総合商社、あるいは全農など一流企業といわれるところが、鶏肉や豚肉の産地を偽装するなど、消費者を欺く行為を平然と行っていました。これらは、組織ぐるみの犯罪行為です。 わたしは不思議でならないのですが、自分の会社がそういうごまかしをしていることを、社員は知っていたはずです。ところが、どこの会社からも、内部告発はありませんでした。外務省の不祥事にしても、職員は知っていたはずなのに、暴露されるまでは黙っていました。彼らは、国民や消費者に迷惑をかけていることに対して、何の罪悪感も感じなかったのでしょうか。 自分の勤めている会社が、消費者をだますようなことをしていれば、「そんなことをしてはいけない」と止めるべきだし、「そんなことをするのであれば、この会社は辞めます」というのが普通でしょう。それが、まっとうな人間です、 でも、いまの社会では、逆に「そんなことを言う人間がおかしい」と思われてしまいます。それほどまでに、労働者が企業の飼い犬になっているのです。そして、平気で、弱いものいじめをしたり、法律を破るようなことをしています。 これでは、まるでヤクザの集団と同じではないでしょうか。ヤクザの集団に属していれば、親分がいかに理不尽なことを言おうと、「それは、ご無理ごもっとも」で反対することはできません。 人間として幸せになるためには、悪いことをする企業の味方をしない、そういう会社には属さない。わが社だけが大事で、他はどうなってもいいというヤクザの集団のような意識を捨てることです。 わたしたちは、企業のために生きているのではありません。自分と家族の幸せのために働いているのであって、企業の奴隷や飼い犬ではない。1人1人が、そういう自覚を持つことが大事です。そのための規範となるものが、宗教であり道徳なのです。競争原理とは、あらゆる人が幸せになってはならないという考え 日本は、「企業型」の資本主義社会です。国家をあげて、企業型の資本主義を応援しています。学校教育も、企業型の資本主義の教育に歪められています。 教育の本来の目的は、子どもを幸せにすることです。人間として幸せな生き方を教えることにあります。 ところがいまの学校教育は、企業人を作るための場になっています。企業が買ってくれる人材、企業向きの人間を作ることが教育の根幹になっています。企業に入れば、企業の価値観にどっぷり浸ってしまう人間が求められます。企業の価値観にどっぷり浸る人間とは、企業の奴隷になるということです。 そして、日本の社会の価値観は、競争原理です。企業は競争に勝てる人間を欲しがっています。そのため、競争に耐えられない人間は、排除しようとします。知的障害児だとかハンディキャップのある子どもは、排除されてしまいます。 わたしたちは、「競争は当たり前じゃないか。競争しなければやっていけないんだ。競争がなくなれば、日本の社会はつぶれてしまう」と、競争によって成り立つ社会を作ってきました。ここに、さまざまな問題の根源があると思います。 競争原理とは、「競争に勝った者が幸せになれる。競争に負けた者は、幸せになる権利はない」という考えです。しかしそれは、 「競争に勝った者が不幸になって、競争に負けた人間が幸せになれるのはおかしい」 という考えでもあります。勝つ者がいれば当然に負ける者がいます。だから、半分の人間しか幸せになれないことになります。つまり「みんなが幸せになれるはずがない」というのが競争原理ですね。 この日本社会は、神仏からみると、とてもおかしな社会と映るのではないかと思います。 仏さまの願いは、 ――あらゆる人が幸せになってほしい。すべてのものが幸せになってほしい ということです。「すべて」ですから、人間ばかりではありません。。動物も植物も含めて、「生きとし生けるもの」すべてです。 ところが日本の社会は、「あらゆる人が、幸せになってはならない」という競争原理によって成り立っている社会です。そういう社会は、おかしな社会だと思いませんか。 日本の民話に「ウサギとカメ」の話がありますが、日本人は諦めずに最後まで努力をしたカメを、立派だと思っています。しかし、わたしはこれは、弱肉強食の原理だと思っています。 インド人に、ウサギとカメの話をしたところ、 「ウサギはノープロブレム、カメに問題がある、カメは寝ているウサギの横を通り越したとき、どうして起こしてやらなかったのか」 と言いました。「それは競走だから仕方がない」とわたしが言いますと、そのインド人は、 「競走だからといって、見捨てていいわけがない。ひょっとしたら病気で苦しんでいたのかもしれないじゃないか。怠けて昼寝しているのか、病気で苦しんでいるのか、起こしてみてはじめてわかることなんだ。自分の勝つことばかり考えているやつがおまえは好きなのか」 と言いました。 わたしたちは、まさにアニマルになっているから、カメは立派だ偉いと思うわけです。しかし、ほんとうにカメは立派なのか、もしかしたらおかしいんじゃないかと、そこに気がつくのが宗教の役目だと思います。ひろ・さちや 宗教評論家。1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。同大学院人文科学研究科印度哲学専攻博士課程修了。65年から85年まで、気象大学校教授を務める。膨大で難解な仏教思想を、逆説やユーモアを駆使してやさしく説く語り口は、年齢・性別を超えて好評を博している。著書に、『釈迦とイエス』(新潮選書)、『「狂い」のすすめ』(集英社新書)、『奴隷の時間 自由な時間』(朝日新書)、『阿呆のすすめ』(青春出版社)、『お葬式をどうするか』(PHP新書)、『がんばらない、がんばらない』『捨てちゃえ、捨てちゃえ』(以上、PHP文庫)など多数。関連記事■ 渡辺和子・心をこめて生きる■ 山折哲雄・死と向き合って生きる■ 小浜逸郎・なぜ人を殺してはいけないのか■ 川村妙慶・「いい人生だった」と笑って言える人になる■ 和田秀樹・うつ病を予防する3つの方法
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日本人と宗教―「無宗教」と「宗教のようなもの」
島薗 進(上智大学神学部教授、グリーフケア研究所所長)大きな反響を呼んだ『日本人はなぜ無宗教なのか』 1996年に宗教学者・阿満利麿(あま・としまろ)氏が『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本を出した。これは英語や韓国語にも翻訳されるなど非常に大きな反響を呼んだ。阿満氏によると、日本人は無宗教だと言われてはいるものの、それは「創唱宗教」と比較しているからではないかという。創唱宗教とは、特定の教祖がいて明確な教義を持つ宗教を指す。キリスト教にはイエス・キリストが、仏教にはゴータマ・ブッダが、イスラム教にはムハンマドという教祖がいる。他方、ヒンズー教や神道には特定の始祖がいない。また民間信仰にも特定の始祖は存在せず、いわば無名の人たちによって自然に実践されてきたものである。 日本の宗教は創唱宗教から大きな影響を受けてきた。6世紀に流入した仏教は、19世紀の中ごろまではもっとも影響力の大きい宗教であった。今でも日本人の多くは仏教の様式でお葬式を出し、あるいは仏像に親しみ、中には阿弥陀仏、観音菩薩、地蔵菩薩を見分けることができる日本人もいる。毎年お墓参りをする人は国民の過半数を大きく超えており、墓前で手を合わせるのは仏様への礼拝の方法である。 19世紀の後半からは、そこにキリスト教の強い影響が加わった。しかし、学校や学問を通してキリスト教が及ぼした文化的影響は大きいものの、宗教集団としてのキリスト教は日本の全人口の1%程度にとどまっている。神道に目を向けると、中には創唱宗教になったものがある。19世紀の中ごろに中山みきという農婦が始めた天理教がその一例だ。新宗教の中には神仏習合の宗教の影響を受けたものが多い。19世紀の中ごろまでは神道といっても仏教と切り離せないものが圧倒的に優勢であり、それほど仏教の影響は大きかった。自然宗教がベースとなった日本人の信仰 しかし、上記のように創唱宗教の影響もある程度はみられるが、概して日本人の信仰のベースは自然宗教だと阿満氏は述べている。人々は土地や家の神々を礼拝するが、教義はあまり発達していない場合も多い。「無宗教」とは何かを考えてみると、広い意味で神道といえるかもしれないし、民間信仰といえるかもしれない。まずは自然宗教の影響があり、その後に創唱宗教の影響を受けたにもかかわらず、それがしっかりとは根付いていない。そのため強い創唱宗教に出会うと何か戸惑ってしまい、自分は創唱宗教にはなじめないと考える日本人は多い。それが、狭義の「宗教」(創唱宗教)を信じていないという意味で、多くの日本人が自らを「無宗教」と言う理由になっている。 これが、阿満氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』の主な論旨である。同書が刊行されたのは1996年。前年の1995年にはオウム真理教事件があった。同教団の信徒には20代の男性、とりわけ大学生や大学院生が多く、コンピューターグラフィックスや医学、自然科学などの高度な専門知識を備えた若者たちもいた。彼らがオウム真理教に傾倒していったのは、日本が「無宗教」だったからだろうか。 この問いに、阿満氏は「自然宗教」の存在を説くが、自然宗教は必ずしも昔のものではない。自然宗教自体は原始人以来の宗教であり、それがもっと発達して崇高な智慧をもつ段階になって生まれたのが創唱宗教だという考え方もある。世界の文明はこの高等な創唱宗教に基礎づけられて進んできたという理解である。日本でいえば、自然宗教というのは仏教が入ってくる前の宗教を指す。 神道は自然宗教に近い宗教ともいえるだろう。1980年代にオウム真理教がマスコミで騒がれるようになる前、「アニミズム」という言葉が流行していた。神道というと、何か日本のナショナリズムと結びついて外国人を排除するようなニュアンスがあるが、神道をアニミズムと表現すれば印象が変わってくるだろう。日本という国家ができる以前、古代からあった神道を「古神道」というが、日本人の中には自分の中に根付いているものはそのようなものではないかという考え方も見受けられる。しかし、宗教学の専門家からすると、そうした考え方は現代人が都合よく考え出したものにすぎないと感じられる。「宗教のようなもの」としての儒教 日本人の宗教について、以上のように、無宗教か自然宗教かということで日本人の特徴を捉える考え方がある。もう一つの見方として、「宗教」そのものにはなじみの薄い日本人でも「宗教のようなもの」にはいろいろな形で親しんでいることに着目することもできる。 たとえば儒教だ。日本人は礼儀を大切にする。日本人は誰に対してもお辞儀をするが、これは儒教の影響が大きいと考えられる。また、日本人は敬語を使う。中高生や大学生でも先輩に対する言葉遣いと後輩に対する言葉遣いが大きく異なるが、それは「長幼の序」を重んじているからだ。死者への礼を尊ぶのも儒教の特徴である。葬式や墓参りは仏教の領分だと述べたが、実はそこに儒教の影響が加わっているともいえる。儒教が「宗教」であるかどうかは、「宗教」をどう定義するかによって異なるが、「天」の「命」を尊ぶこと、祖先から子孫へと受け継がれる命の連続を尊ぶこと、儀礼によって聖性を付与された秩序を尊ぶことなどに宗教性を見る立場がある。また、東アジアでは「道」という言葉が西洋由来の「宗教」にあたる言葉だと考えられる。17~18世紀の日本人にとっては、仏教も儒教も人に「道」を教えるものであった。漫画『バガボンド』に見る「孤独」-「道」に惹かれる現代日本人 儒教は「宗教のようなもの」の代表的な例だが、明治維新以降、現実社会では見えにくいものになってしまった。しかし、他にも「宗教のようなもの」の例は多い。たとえば、漫画『バガボンド』(井上雄彦作、講談社刊)は、2013年10月までに36巻刊行されており、1998年に雑誌で連載開始以降、発行部数は国内6000万部以上にのぼる。主人公は16~17世紀の武士、宮本武蔵で、彼は浪人の身ながら剣術の達人であり、また武士道の書も著した人物である。原作は1935年に吉川英治が新聞で連載した小説『宮本武蔵』。小説は人気を博し映画化もされた。 なぜ、これが現代の若者に人気なのかというと、一つには「孤独」が印象的に描かれていることがある。『バガボンド』の主人公は武士だが、主を持たない浪人という身分のため、ある意味では自由である。故郷を離れて全国を歩きながら戦い、あらゆる強い敵を見出して戦いを挑んでは勝ち続ける人生だ。そして、勝つ時はいつも命がけである。よって、死というものを常に意識せざるを得ない。主人公は生きていることの意味が分からないと感じており、絶えず敵に勝たなければならない意味や、敵と戦うこと自体の意味を自問しながら生きている。勝つということ自体が目的になっているという世界観が、現代人の心にも強く訴えかけてくるようだ。 2003年公開の米映画『ラストサムライ』などの影響もあって、近年では武士道という言葉の人気が高まっている。武士道とは、命を賭けて戦い、主君のためには命を投げ出してもかまわないという覚悟で毎日を生きる世界だ。絶えず死を意識するということが重要な要素となる。そのような思想系譜に人々は強く惹かれるのである。何のために生きているのかということの手がかりを探して、武士道に一つのヒントがあると感じているようにも思われる。こうしてみると、日本人の中には、宗教自体には距離を感じてしまう人でも、「道」といわれるといろいろな形で関わってくる人が多い。 たとえば、東京大学の宗教学科に進学している学生の多くは音楽や芝居などの芸術に親しんでいる。また、合気道や弓道といった武道をしている人も非常に多い。筆者がこれまで接してきた例では、高校や大学に入ってから武道に親しんで、武道で感じたものを深めたいということで宗教学科に入ってきたという学生がかなりいる。若い層ばかりでなく、晩年になって陶芸をしたり、茶道をしたりするなど、技芸の道に入って心の安定を求める人も多い。捉えどころのない、漠とした「宗教」を極めようとするのではなくて、もっと身近な「技」や「道」を通して心の平安を求めようとするのである。具体的で身近なものを通して精神的な価値を身に着けていこうとするのは、日本文化の一つの特徴であるといっていい。学校で広められた「国家神道」 このように、日本人にとっては「宗教のようなもの」が多くある。そのため、「宗教」であると自覚されにくいものがある。その中でもっとも影響力が大きいのは、「国家神道」だろう。1945年まで、日本の学校では「教育勅語」が尊ばれていた。1890年に当時の明治天皇が、教育の根本精神について国民に授けた聖なる教えである。この後、小学校は天皇の聖なる教えに導かれる場となっていった。それから敗戦までの数十年の間に多くの日本人が神道的な拝礼に親しんだ。伊勢神宮や皇居を遙拝し、靖国神社や明治神宮に詣で、天皇のご真影と教育勅語に頭を垂れた。これが国家神道と呼ばれるものだ。この時期には、学校教育を通じて大半の日本人が国家神道に慣れ親しんだといえよう。 1920年代前半に生まれた筆者の両親の世代は、2月11日の紀元節(※1)に小学校で歌われた次のような唱歌(紀元節の歌)を、大人になってからも憶えて口ずさんでいた。 雲に聳(そび)ゆる高千穂の。高根おろしに草も木も。なびきふしけん大御代(おおみよ)を。仰ぐ今日こそたのしけれ。 子供たちは「高千穂」とは天照大神(アマテラスオオミカミ)の血を引く天孫迩迩藝命(ニニギノミコト)が天下った日向(ひゅうが/宮崎県)の山であると教えられた。「大御代」はニニギノミコトの子孫である万世一系の天皇、つまり皇祖皇宗を継ぐ天皇による治世を指す。しかし、この唱歌の中心場面は日向ではなく、後に出てくる飛鳥(奈良県)である。飛鳥といえば7世紀ごろに歴代天皇が都を築き、天皇家の支配が確立した地だ。この唱歌の3番は初代天皇である神武天皇の即位について述べている。 天津ひつぎの高みくら。千代よろずよに動きなき。もとい定めしそのかみを。仰ぐけふこそたのしけれ。 「天津ひつぎ」とは天照大神の神勅によって皇位を継承する者、「高みくら」は天皇の玉座を指す。「もとい定めしそのかみ」とは、神武天皇が最初の天皇として祭政一致の統治を始めた原初の時のこと。この神話的存在である神武天皇が即位したとされる場に橿原神宮が奈良県に創建されたのは1890年で、教育勅語が発布された同じ年のことだった。 国家神道は神社よりもむしろ学校で広められた。紀元節に限らず戦前の祝祭日は、おおかた皇居で重要な天皇の神事が行われる日だった。皇室神道・神社神道・学校行事が国家神道の主要な儀礼の場であり、子供たちは教育勅語や修身科、歴史といった授業を通して、国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった。国家神道のたどった歴史 神道についてよくある誤解は、神道とは神社と神職とその崇敬者の宗教だとする考え方だ。これは神道に対する理解としてはあまりに狭すぎる。実は天皇崇敬こそ国家神道の主要な牽引役だったのだ。国家神道は神社以外の場、とりわけ近代国家の国民になじみが深い学校や国民行事、あるいはマスメディアを通して広められた。それは江戸時代に形作られた国体思想をより所とし、国民国家とともに形成された神道の新しい形態ともいえる。 「国体」とは、広い意味では「国家の政治体制」を意味するが、日本(特に戦前の日本)では、「歴史の始まりから天界の神が遣わした神の子孫である天皇の家系が、変わることなく国民を統治してきた神聖な国家体制」という特別な意味を持つ。そして、この国家体制を持つが故に、日本は世界の諸国にも勝るという信念をも表す言葉である。 では、神道の長い歴史のなかで国家神道はどのような位置をもつのだろうか。民間の神道は神道とも言えないような不定型な民俗宗教と地続きであり、その起源がいつなのかを示すのは難しい。有史以前の弥生時代、縄文時代に由来するものもあるかもしれず、これを「古神道」と呼ぶ人もいる。だが皇室神道となると、ある程度その起源を見定めることができる。 まず、7世紀の終わりから8世紀の初めごろ、天武天皇、持統天皇らの時代に唐の国家体制にならって国家儀礼や法体系が整備され、皇室神道の基礎は確立した。しかし、中世の日本では仏教が優勢であり、皇室神道は地域住民の生活とは関わりが薄い目立たぬものになっていた。これを国家の中心に据えようとするのが国体思想や祭政一致論で、江戸時代末期に次第に高揚し明治国家の基本理念となった。戦前から戦後へ、国家神道の大転換点 そして、明治から第二次世界大戦中まで、政府(文部省)は、天皇を崇敬する神道は日本人の習俗であって宗教ではないとした。このため、仏教を信仰していようとキリスト教を信仰していようと、すべての日本国民が神社や学校での国家神道の儀礼に参加することを強制された。なお、天皇崇敬の神道とは別に独自の教義を持つ神道宗派は「教派神道」と呼ばれ、宗教として扱われた。 第二次大戦後、日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義や超国家主義が宗教のあり方と深く関わっていたと考えた。とりわけ政教分離が不十分だった点に大きな問題があったとして早急に手を打とうとした。日本人を無謀な侵略戦争に導いた宗教とイデオロギーの悪影響を取り除かなくてはならないとの判断がそこにはあった。そこで1945年12月15日、いわゆる「神道指令」が、1946年1月1日には昭和天皇による年頭勅書で天皇の神格化を否定する「天皇の人間宣言」が下された。 これをもって国家神道は「解体」されたと理解されてきた。しかし、戦後も皇室神道はおおむね維持された。その後、皇室神道と神社神道の関係を回復し、神道の国家行事的側面を強めようとする運動が活発に続けられてきた。そうした広い意味で1945年以後も国家神道は存続している。国家神道はもともと天皇崇敬と結びついた民間の運動に支えられてきた。戦後は民間団体となった神社・神職組織(神社本庁)が国家神道運動の主要な担い手の一つとなった。戦前に比べ薄められてはいるものの、「神の国」の信仰を受け継ぐ国家神道は今もなお多くの支持者を集める。それも信教の自由に属するが、他者の思想信条の自由を抑圧しない範囲にとどめなくてはならない。憲法20条「信教の自由」が果たす役割 戦前の歴史を振り返れば、国民が否応なく国家神道への関与を強いられ、思想や信教の自由を失いかねないという不安にはもっともな理由がある。日本国憲法第20条は「信教の自由」を規定する。第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない」、第2項「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。つまり、誰も国家神道に従うことを強制されてはならないし、国家が神道に特別な地位を与えることがあってはならないことを憲法上明らかにしているのである。 安倍晋三首相が2013年12月26日に靖国神社を参拝し、あらためて靖国神社の持つ意味がクローズアップされているが、もし靖国神社を国家の公式儀礼施設とするようなことがあれば、それは国民を宗教的な天皇崇敬に駆り立ててきた戦前の体制に近づいていく意味を含むものである。国家神道強化に歯止めをかける上で、憲法20条の規定が果たしてきた役割は重い。無宗教といわれるほど宗教になじみの薄いことが多い日本人だが、国家神道の例に見るように、日本においても宗教は社会や国家と非常に密接な関係にある。その点は見過ごすべきではないだろう。(※1)^ 1872年(明治5年)制定。2月11日が、日本書紀にある神武天皇即位の日にあたるとして定められた祝日。1948年に紀元節は廃止となり、1966年からは「建国記念の日」として国民の祝日となった。 しまぞの・すすむ 上智大学神学部教授、グリーフケア研究所所長。1977年東京大学大学院博士課程単位取得退学。筑波大学哲学思想学系研究員、東京大学文学部宗教学宗教史学科助教授、同大学院人文社会系研究科教授などを経て、2013年から現職。主な著書に『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版、2012年)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社、2013年)、『倫理良書を読む』(弘文堂、2014年)など。※この記事はnippon.com 2014年3月3日の記事を転載しました。
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政教分離にがんじがらめに縛られてしまった日本人
島田裕巳(宗教学者) このたび、筑摩選書の一冊として『戦後日本の宗教史』という本を刊行した。副題は、「天皇制・祖先崇拝・新宗教」としたが、この三つの事柄を軸に、戦後日本の宗教がどういった歩みを経ていったのか、敗戦から1995年のオウム真理教の事件までを追ってみたのである。 この本は、私が、この10年ほど研究を進めてきたことの集大成としての性格をもつだけに、是非、多くの読者に読んでもらいたいと考えているが、この本を執筆するなかで、戦後日本の宗教ということを考える上で、「政教分離」という側面が何より重要だということに気づかされた。 政教分離は、信教の自由とともに、戦後に日本国憲法で規定された原則であり、大日本帝国憲法では、制限つきでしか認められていなかった。 戦前の日本が軍国主義の方向にむかうにあたって、「宗教にあらず」と規定された神道を国民道徳として強制することが、大きな意味をもったと判断されたことで、日本国憲法では、国と宗教との分離である政教分離が原則として定められたのである。 日本を占領したGHQは、すぐに「神道指令」を発し、戦前の宗教体制を「国家神道」と呼んで、その国家神道の解体をめざした。戦前から戦時中にかけて、主要な神社は国家によって経済的に支えられていたのが、それが廃止されたのである。 学校では、「教育勅語」が教えられ、天皇は「現人神」として崇拝の対象になっていた点も改められた。天皇自身も、自らが現人神であることを否定する「人間宣言」を行った。 その点で、戦後の日本宗教のあり方は、政教分離ということを大原則とするうようになったわけだが、それを徹底させることはかなり難しいことであり、また、さまざまな問題を残す形になってしまった。 天皇は現人神の地位から降りたものの、明治になってはじまった「皇室祭祀」は、天皇家の私的な信仰として存続し、宮中三殿もそのまま保たれた。大嘗祭のような祭儀や、死後の埋葬の仕方なども、戦前のあり方が受け継がれたし、天皇の継承を規定した「皇室典範」もそれほど大きくは改められなかった。靖国神社の入り口に立つ大鳥居 その点では、国家神道の体制は半分温存されたとも言えるし、靖国神社についても、軍の所轄から民間の宗教法人に移行したものの、祭神として祀られる戦没者の名簿の作成は、厚生省(現在の厚生労働省)が行っており、国家との関係は切れなかった。 しかも、一時は、靖国神社の国家護持を求める運動が盛り上がった。もちろん、政教分離の原則がある以上、その実現は難しかった。実際、靖国法案は衆議院で可決されたこともあったが、結局は廃案になり、国家護持は実現しなかった。 その際に、反対運動の中心を担ったのが日本共産党系の人々であった。とくに重要なのが津地鎮祭訴訟で、これを提訴したのは共産党の市議だった。これは、市が公共施設の地鎮祭に公金を支出することが、政教分離の原則に違反するかどうかが問われたものだが、途中から、靖国神社の国家護持に反対する人々が支援するようになったことで、反靖国のシンボル的な訴訟に祭り上げられた。 しかも、裁判所の判断は揺れ、違憲判決も出たことから、政府や自治体が宗教行事に関与することが難しくなり、靖国の国家護持も不可能になった。 首相の靖国神社参拝についても、公的か私的かが問われるようになり、それに強い制限が加えられるようになる。 中曽根康弘首相が、1985年にあえて公式参拝を行うと、中国などからの反発が起こり、そこに外交問題としての「靖国問題」が生まれることとなった。A級戦犯の合祀ということが批判されたのは、実はこのときがはじめてだった。 その点で、共産党の戦略が功を奏したということにもなるが、その一方で、共産党は、1969年から70年にかけて、創価学会・公明党による言論出版妨害事件を告発し、この二つの組織にも政教分離の厳格化を強いる結果になった。具体的には、公明党の議員は、創価学会の幹部を降りなければならなくなり、二つの組織の間に距離が生まれたのである。 憲法において、政教分離という原則が確立されている以上、靖国の国家護持はもちろん、首相や天皇の参拝も難しくなる。そして、宗教団体が政治力を行使することにも事実上、制限が加えられるのである。 神道は、現在の考え方では、まぎれもなく宗教であるということになるが、その長い歴史を考えると、個人が選択する宗教ではなく、社会に共有された習俗という面が強い。 建築物を建てるときに、地鎮祭を行うのも、信仰にもとづくというより、習俗として営まれてきたと見なければならない。 政教分離の原則は、習俗として営まれる儀礼の実施を阻む方向に作用するわけで、考えようによっては、信教の自由を妨げているとも言える。 この点をどのように考えるのか。戦後の70年を経験することで、日本人は政教分離の原則にがんじがらめに縛られてしまったとも言えるのである。
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右翼にとっての「神風」と左翼にとっての「平和憲法」
井沢元彦(作家) いわゆる節目の年ではあるが、実は10年前20年前であっても、これから書く事は変わらなかったかもしれない。 それは戦前も戦後も異なっているようで実はまるで同じだということである。 それは一言で言えば空想的防衛論と言うべきだろう。日本には神風思想というものがある。言うまでもなく国難にあたって神は天皇をいただくこの国を守るために何らかの奇跡を起こすというものだ。これは天皇信仰と分かちがたく結びついているため、一般には「神風を信じる人は右翼、信じない人は左翼」という「常識」がある。 私は歴史学者ではないが、それだからこそ専門分野にとらわれず日本史全体を鳥瞰的に見ているつもりだが、そうした視点から見ると実は「左翼も神風を信じている」のである。念のためだが「左翼」は「右翼」の誤植では無い。そして私に言わせれば、この点に気がつかないことが日本人の愚かしさであり、その原因は真の日本史を知らないことに理由がある。 まず神風思想というものがどうして始まったのか、その点を振り返ってみよう。もちろんこれは鎌倉時代の話である。日本は初めて外国から本格的な侵略を受けた。いわゆる元寇、モンゴル帝国の侵略である。実はこの侵略、日本にとってはタイミングが良かった。というのはその少し前に日本には史上初めての軍事政権である鎌倉幕府が成立していたからだ。では、それまでの日本の統治者である朝廷(天皇家)はなぜ武士たちに政権を奪われ、軍事政権である幕府の成立を許したのか? 話せば長いのだがごく簡単に言うと、日本には神道に基づく「ケガレ忌避」つまり、あらゆる不幸の根源であるケガレを徹底的に避けようという「宗教」がある。ケガレは様々な理由で発生するが、もっとも大きな発生源は「人間の死」である。つまりケガレを避けるためにはケガレに触れる職業を忌避しなければいけない。それは軍人であり警察官だ。だから朝廷は軍事部門と警察部門をほぼ開店休業状態にしてしまった。今で言えば自衛隊と警察を事実上廃止してしまったのである。 それで日本は平和になったか? とんでもない、治安は乱れ全国は騒乱状態になった。そんな中、自分の身は自分で守るという武器を持った自営農民たちが階級として発達し、ついには独自の政権を作り朝廷を圧倒した。これが幕府である。 侵略などという国難を、あえて日本にとってタイミングがよかったと言ったのは、幕府成立以前の平安時代に元が攻めてきたら日本はなすすべもなくやられていたかもしれないからだ。ひょっとして日本という国はなくなり、われわれはいま中国語をしゃべっていたかもしれないのである。 ところが我が先祖は見事に敵を撃退した。 様々な幸運は確かにあった、たとえば日本は海に囲まれているということである。元の最大の強みは騎馬軍団による攻撃だ。しかし日本には騎馬軍団を派遣するわけにはいかなかった、当時の船舶では大量の軍馬を輸送するのは不可能だったからである。だが幸運よりも何よりも日本が勝てたのは鎌倉武士の奮戦のおかげである。これが最大の勝因だ。ところが朝廷も貴族階級もそれは認めたくなかった。かれらはケガレている。だから「悪」である。「悪」の力によって神聖なる日本が守られたとは、どうしても認めたくない。そこで彼らが持ち出したのが神風であった。確かにあの時低気圧による暴風雨が起こり、元軍を悩ましたのは事実である。しかし決定的な勝因では無い。それを朝廷勢力は「神風のおかげで勝ったのだ」と盛んに吹聴した。言うまでもなく「勝てたのは鎌倉武士の力(軍事力)ではない」と思い込みたかったからである。生の松原の石塁前を行軍する御家人、竹崎季長(蒙古襲来絵詞・部分、宮内庁三の丸尚蔵館蔵) そしてその時から800年近く経過した現代でも、「ケガレ忌避」という先祖の宗教はわれわれ現代人の心の中にも刷り込まれている。こういう人たちはたとえば「抑止力は戦争を防止する」などという考え方を絶対に認めない。なぜなら抑止力といえば軍事力であり、それは「悪」そのものであるからだ。 確かに戦後70年日本は平和だった。日本を侵略してくる外国はなかった。それはいったいなぜか。もちろん運が良かったという事は前提にあるかもしれないが、侵略を排除できたのは日米安保条約という「外部のガードマン契約」と自衛隊という「自社の防衛システム」があったからだろう。現実的に見ればこれが最大の要因である事はだれの目にも明らかだ。ところが日本人だけは「軍事力=悪」と考えているから(戦前は諸外国との競争に勝つために「軍事力=悪」という考え方は国策で抑制されていたのだが、その国が戦争に負けたことによって過去の何倍にも増幅されてしまった)、戦後70年の平和が軍事力によって守られたとは認めたくない。しかしいくら認めたくなくても事実は事実である、しかしそれでも認めたくないなら、どうすればいいか? おわかりだろう、平安貴族と同じことをすればいいのである。彼らは現実には鎌倉武士の軍事力で勝ったにもかかわらず「神風のおかげだ」と言って自らをごまかし他もごまかそうとした。同じことだ。戦後70年の平和は軍事力で守られたのでは無い、「平和憲法」によって守られたのだと主張し自らをごまかし他もごまかそうとした。だから彼らにとって平和憲法というのは神風と同じく信仰の対象なのである。 平和憲法いわゆる日本国憲法は日本人に対する強制力はあるが、外国人には何の効力もない。日本を侵略しようとしている国にとって、それが歯止めになることなどあり得ないのだ。にもかかわらず護憲派はそのように主張する。それは合理的な主張ではなく、信仰だからだ。だからこそ彼らはかつて「平和憲法を維持したまま(自衛隊を解体し)安保条約も廃棄せよ」などという無茶苦茶なことを主張していた。 その主張を貫くためには日本の周囲に、日本にとって仮想敵となりうる国家があっては具合が悪いから、たとえば「北朝鮮は日本人を拉致してなどいない」というデタラメを叫び続けていた。 しかしそれでもそんな「嘘つき」どもの力はまだまだ強い。それは彼らの考えが、彼らはまったく意識していないが、実は日本人の古来からの信仰に基づくものだからである。 だから「右翼にとっての神風と左翼にとっての平和憲法」はまるで同じものなのであり、現在の日本人が最も成すべき事は、こういう歴史に早く気がつくことである。
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宣戦の布告に当り国民に愬(うつた)ふ
奥村喜和男(情報局次長) 国民諸君、同胞諸君 日本は、われらの祖国日本は、本日実に重大なる運命の中に突入したのであります。真に皇国の興廃を賭して万里の波涛を拓開せんとする苦難の道へ突進したのであります。 昭和十六年十二月八日は、日本国民の、永遠に忘るべからざる日となりました。日本の存在する限り、従つて世界の存在する限り、その歴史の上に堅く刻み込まるゝ日となりました。アジア十億の民が、アジアの運命決定(註1)の日として、否、ひとりアジアのみならず、世界の全人類が、ひとしく新らしき歴史創生の日として、永遠に記憶する日となつたのであります。 本日、米国及び英国に対し、畏(かしこ)くも宣戦の御詔勅(ごしようちよく)が渙(かん)発(ぱつ)せられたのであります。今や御聖断が下つたのであります。帝国は英国とは本日午前一時半に、米国とは午前三時半に、それぞれ完全に戦闘状態に入つたのであります。先刻東條内閣総理大臣は烈々たる信念と凛々たる決意とを以て、一身を捧げて決死報国を誓はるゝと共に、国民各位に天業翼賛の誠を求められたのであります。 私は、この人類が歴史を有して以来の一大回天の今日、今こゝに襟を正し身を潔(きよ)め、宣戦の大詔(たいしよう)を下し給へる上(かみ)(註2)御一人の大御心(おおみこころ)を拝察しつゝ、日本が今次、米英両国に対し戦を宣するの真に止むを得ざりし所以(註3)を愬へ、一億国民と共にその時の正に到れるを喜ばんとするものであります。 米国の日本に対する暴戻なる態度は、決して今日に始まつたものではないのであります。日露戦争以来、ハリマン協定(註4)以来、米国の日本の進路に対する執拗なる妨害は、殆んど例を挙げて数ふるの煩に堪へないのであります。アジアを欧米の植民地的状態から解放し、アジアを本来のアジアに復し、アジアに皇道の理想に基づく新らしき秩序を創造せんとする帝国の悲願に対して、米国こそは飽くことを知らず、あらゆる牽制と妨害とをほしいまゝにして来たのであります。 彼はいはゆる民主主義国家群の最後の選手として、帝国を先覚とする澎湃(ほうはい)たる世界維新の運動の矢面に敢へて立たんとするのであります。彼はその強大な武力を恃(たの)んで、歴史の必然たる世界史転換の方向に抗(あらが)ひ、世界の諸国家に、その独善的にして世界の現実を無視したる時代後れの架空的なる諸原則を強制せんとするのであります。米ポーツマスで行われた日露講和会議。左から3人目が特命全権の小村寿太郎(明治38年8月撮影) わけても、アジアにおいて彼の意図するところは、支那市場の完全なる独占であり、アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張であります。思へば米国の東亜への侵略は、ジョン・ヘイの門戸開放要求(註5)以来、既に四十年の生々しき歴史を持つてゐるのであります。今日までアメリカが太平洋において着々と計画を進めて参りましたことは、一にはアジアの政治的支配に在り、二にはアジア資源の経済的独占に在つたのであります。過去二百年に亘る白人のアジア搾取は、米国のアジア侵略の計画に於いて絶頂に達するのであります。 日露戦争の講和條約の調印もまだ終らぬうちに起つたハリマン協定は、早くもアメリカの野望をあからさまに暴露したものでありました。之に引き続いて執拗に繰り返された満鉄共同経営の提議にいたしましても、満洲中立の要求にいたしましても、いづれも米国がアジアに挑んだ血を見ざる侵略の戦でありました。二十億の国帑と十万同胞の血を流して(註6)漸く確保したる満洲の権益を、そつくり横合ひから奪ひ取らうとしたのであります。さらに一九一〇年の錦愛鉄道協定(註7)といひ、一九一四年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題(註8)といひ、陜西省における石油掘削権の獲得といひ、更に又シベリア出兵(註9)の理由なき干渉といひ、どれ一つとして、米国の周到なるアジア侵略計画を示さぬは無いのであります。 しかしながら、これらのことは未だよい方であります。日本国民の断じて忘れてならぬことは、ヴェルサイユ講和会議後(註10)に開かれたるワシントン会議(註11)におけるアメリカの仕打ちであります。この会議における暴戻なアメリカの態度と仕打ちこそは、断じて日本人の忘れ得ざるところであります。 米国は英国と共謀して、帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも、日本に対しては却つて太平洋無防備の美名のもとに、日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ、日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。いはゆる九ケ国條約によりまして、日本と支那との歴史的、地理的、政治的、経済的の緊密な関係を切断して、支那の独立及び領土保全の美名の下に、両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。更に四カ国條約によりましては、太平洋現状維持に藉口(しやこう)して帝国の海洋発展を封じたのであります。かやうにして、帝国の手足を束縛し、帝国の武力を封じて、アジアと太平洋とを彼がほしいまゝなる支配のもとに置かんとしたのであります。このワシントン会議こそは、かの日清戦争後の三国干渉(註12)にも優るとも劣らざる屈辱であります。私は今、このことを語りながらも当時の米国の暴戻なる仕打ちに忿懣やる方なく、正に血の逆流するのを覚ゆるのであります。日本代表の珍田捨巳と牧野伸顕(前列左端の2人)による人種差別撤廃提案を不当に否決したウィルソン米大統領(後列中央)=パリ講和会議国際連盟委員会 その後十年にして起つた満洲事変は、かやうな英米の利己的なアジア支配体制の強化に対する、止むを得ざるに出でたる帝国の反撃であつたのであります。米英両国―特にアメリカの太平洋における日本圧迫と、その援助を恃む支那の暴戻(ぼうれい)とは、遂に帝国をして自衛の戦ひに出づるの止むなきに至らしめたのであります。国際聯盟(れんめい)の脱退も、ワシントン条約の廃棄も、帝国が自身の危急を認識し、自身の使命に目覚めたからにほかならぬのであります。 支那事変は、この満洲事変の意義をそのまゝ承け継いでゐるのであります。この意味において、支那事変は表面はどうあらうとも、本質は肇(ちよう)國(こく)の理想実現に邁進せんとする帝国と、これを妨碍(ぼうがい)し阻止して、アジアを飽くまで自己の都合よき鉄鎖の下に繋いで置かうとする英米両国との決戦であることは、最初から明らかでありまして、この間大陸に戦つた百万の我が同胞は、真の敵の何ものたるやを明らかに我々国民の前に示されたのであります。支那事変で陥落した南京・国民政府庁舎前で規律正しく入城式を行う日本軍=昭和12年12月17日(『支那事変聖戦写真史』忠勇社) 時は遂に参りました。時は正に到りました。今こそ帝国は三十年の隠忍の堰を切つて落し、真実の敵に対し堂々戦ひが宣せられたのであります。今こそ米国を、而して英国を、われらは討つのであります。大陸に骨を埋め血を流したる十万の護国の英霊も、このことを知つて定めし地下で感泣してゐることと確信します。 この戦ひにおいて、帝国が目的とするところは米国及び英国を討つて、その侵略の魔手よりアジアを護るにあるのであります。久しくアジアを禍(わざわい)したるアングロサクソンの利己的支配を根絶して、その跡の清らかな天地に八紘一宇(註13)の理想による新らしきアジアの秩序を作り出さうとするにあるのであります。 曩(さき)に帝国は、今次事変究極の目的は東亜新秩序の建設にありと中外に宣言いたしました。次いでまた日独伊三国同盟の結ばるゝに当りましてもこの大精神に則つて万邦をして各々その処を得しむるを以て、世界恒久平和の先決条件と断定したのであります。これは皇祖肇國の大精神であります。またわれら大和民族が歴史に承けた大使命であります。 言ふ迄もなく支那事変の完遂と大東亜共栄圏(註14)の確立とは、帝国不動の国策であります。今日においては支那事変は最早単純なる日支両国間の問題ではなく、また東亜の局地的事件でもないのであります。正にこれは現在人類が直面する世界的規模における変革の戦ひの一(いつ)鐶(かん)であり、世界維新のための大戦争における東亜戦線なのであります。今日支那事変を完遂する道は、世界を掩(おお)ふ変革の戦ひの一戦線としてこれを解決するよりほかに方法はないのであります。重慶(註15)の背後に在つて、執拗にこれを援助しこれを使(し)嗾(そう)して、自己のアジア支配の野望のために支那を戦ひに駆り立てつゝある者(註16)を討たざる限り、永遠にこの戦は、決して終ることはないのであります。思へば日清・日露の昔から、我等の父祖が血をすゝり骨を削るの辛苦を嘗めたのもこの敵のためでありました。私達昭和の国民が、今こそこの父祖以来の仇敵に身を以て当ることが出来るとは、何たる光栄でありませう。 支那事変を完遂するといふことは、帝国の周囲に築かれたる米英の包囲陣地を突破して、その勢力をアジアの外に撃攘(げきじよう)して、永く禍の根を絶つことでなければなりません。支那事変を完遂するといふことは、米英が東亜に揮(ふる)ふ魔の力の源泉である南洋及び濠(ごう)亜(あ)地中海(註17)を掌握し、アジアの天地を清掃して、こゝに揺ぎなきまことの平和を築くことでなければなりません。この意味におきまして、支那事変の完遂と大東亜新秩序の確立とは、決して別々のことではないのであります。これは二にして一であります。同一のものの二つの面であります。支那事変を完遂する道は、大東亜新秩序の確立以外にはなく、大東亜新秩序の確立は、支那事変完遂の当然の結果であります。同時に又これは八紘一宇の大訓を実現する所以であります。 帝国がその使命に忠なる限り、祖宗の偉勲に忠なる限り、米国との戦争は全く不可避であつたのであります。アメリカがその帝国主義的侵略を断念して、アジアの現状に置き去られたる九ケ国条約を死守するの頑迷を改めて西半球に退去せざる限り、しかして又帝国が、自らの膝を屈して彼の奴隷たるの境涯に甘んじ、アジアの一隅に跼蹐(きよくせき)して、明治維新以前の小日本に還らざる限り、日米の戦ひは結局、避け得られざる宿命であつたのであります。 支那事変を受けて昭和12年11月に九カ国条約会議が開かれたが日本は欠席、イタリアは日本支持で、米主導の軍縮ワシントン体制が崩壊した(同) しかもなほ帝国は、最後まで避け得ざるものを避けんとする誠意を棄てなかつたのであります。事こゝにいたるまで帝国はあらゆる手段を竭(つく)して、あらゆる方法を講じて、太平洋の平和を守護せんがための必死の努力を致したのであります。寧ろ因循の限り、姑息の極と思はるゝまでに、凡そ試み得るすべての方法を竭したのであります。しかしながら、これらの努力はすべて米国によつて蹂躙せられたのであります(註18)。 一昨年七月、日英東京会談の結果、英国が遂に東亜に行はれつゝある大規模の戦争状態を確認して帝国との協調に向つて進んで参りましたるその折りも折り、米国は突如日米通商航海條約の破棄を申入れて、これによつて英国を牽制したのであります。私は寡聞にして、数十年間平穏に履行して来た通商條約が、一日の予告もなしに一方的に破棄されたる実例を未だ知らないのであります。この無礼を加へられてもなほ、日本は隠忍自重いたしました。遂には作戦上の重大な支障を犯して揚子江下流の開放を約束してまで、アジアの新らしい事態に対する米国の認識の是正を求めたのでありますが、米国はこの帝国の謙譲な要求をさへも、冷然として一蹴したのであります。否、冷然として一蹴したのみではなく、この帝国の謙譲に応へるやうに、彼はアメリカ艦隊の主力をハワイに集結して、太平洋上に武力の示威をさへも敢へてしたのであります(註19)。 それでもなほ足らず、彼は禁輸に次ぐに禁輸を以てしつゝ、限度を知らぬ経済圧迫を以て帝国に迫つて来ました。今日まで、日本はアメリカによつて経済封鎖を受けてゐたのであります。言う迄もなく、経済封鎖はあらゆる戦争手段の中でも、最も酷烈な効果を有するものであります。これは明らかに武力戦にも劣らざる敵対行為であります。日本はこれでもなほ且つ隠忍したのであります。われらが現在直面してゐる戦争を誘発するために、アメリカこそはあらゆる手段と努力とを傾けつゝあつたのであります。 帝国は今日まで三十年(註20)、あらゆる譲歩と妥協とを続けて参りました。思へば、長い隠忍の歴史でありました。彼に如何に理解を求めようとも、所詮それは無意味であることを、今こそわれわれは肚(はら)の底から知つたのであります。これ以上の隠忍は隠忍に非ずして屈辱であります。遂に帝国の隠忍の堰も切れました。今日、こゝに米国並びに英国に対する宣戦の大詔を拝しましたことは、まことに妖雲を一掃して天日を仰ぐの心地がいたすのであります。 先般、臨時議会で東條総理が言明致しましたる三ケ條の外交原則(註21)は、帝国が国家としての独立と権威とを完(まつとう)うし得るための究極の條件でありました。来栖大使の米国派遣は、帝国が譲り得る最後の境界線であるこの三原則を提案して、アメリカの反省を求めたものであります。この期に及んでも、衷心アジアの平和を願ふ故にこそ、譲るべからざるを譲つて、帝国はなほ最後の反省の機会を米国に与へたのであります。しかるにも拘はらず、彼は世界の現実に副(そ)はざる時代錯誤の架空的原則に固執して、遂に一片の誠意をも示さうとしなかつたのであります。帝国は生死存亡の関頭に立ちながら、なほ避くべからざる戦ひを避けんがために、最後まで必死の努力をしたのであります。しかるに帝国の国力を過少評価して、帝国の誠意を却つて日本に戦ふ力なく、戦ふ意志なしと誤解した米国は、些(いささ)かもその態度を改めぬばかりか、却つて武力的にも経済的にも、圧迫を強化して参つたのであります。 こゝに到つて、帝国は、剣によりてその正義を守り、剣によつてアメリカの野望を粉砕して、アジアに清らかなまことの平和を創り出さうとする決心を致したのであります。この戦ひの意義はこれを消極的の面より言ふならば、真に止むを得ざるに出づる自衛の戦争であります。白刃首(かうべ)に臨んで、はじめて起つて剣を執つたのであります。ハリマン協定以後、ワシントン会議以来の重なる政治的重圧については言はずとするも、単に物資の一面のみを見ましても、封鎖下の日本は夙(つと)にあらゆる物資を得る道を封ぜられてゐるのであります。このまゝに推移するならば、帝国は当然ヂリ貧か窒息死に陥るほかはないのであります。北部仏印進駐で日本軍がハイフォン港で差し押さえた米国主導の〝援蒋物資〟の一部。岩塩(上)とガソリン(下)(同) 止むを得ず、日本は自身のために、自身の生きる道を切り拓かんと決したのであります。然るにアメリカは、最後の血路を開かんとする帝国の努力さへも、何処までも阻害しようといたしました。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、マレーを連ねて太平洋上に日本包囲の陣形を形成するのみか、遂に蘭印(註22)を唆(そその)かして、これを包囲の一鐶に引き入れまして、重慶政権下の支那と共に、完全に帝国の四囲を封じたのであります。しかも彼等の策謀の手は飽くことを知らず、仏印に伸び、タイ国に延びるに至りました。皇軍の南部仏印進駐は纔(わず)かにその危機を救つたのであります。タイ国もまた同断であります。このやうにして日本は、最後の生存権をすら拒否されんといたしました。情勢は正に三十数年前の日清戦争の前夜に髣髴たるものがあつたのであります。今次帝国の戦ひは三十数年前の日露の戦ひを再びする自衛の戦争であることを忘れてはなりません。 しかしながら、これはまた積極の面よりいふならば、帝国の使命を完遂し、肇國の理想を実現して、祖宗の威霊に対(こた)へ奉らんとする聖戦であります。これはまた、アジア十億の民の信頼に応へる道でもあるのであります。アジアに国を成すすべての国家、すべての民族をして、各々その処を得しめ、日本は己れを虚(むなし)うしてこれを率ゐつゝアジア恒久の平和を築き、進んで世界の平和を確保せんとするのであります。この戦ひに帝国の揮ふ剣は、まことの意味の神武不殺、一殺多生の活人剣であらねばなりませぬ。 帝国この度の戦ひは、アジア恒久の平和と光栄のために、千年の禍の根源を絶たんとするのであります。永く世界人類を毒して来た自由主義、個人主義、帝国主義の侵略の源泉(みなもと)を洗つて、かやうにして洗ひ清められたる清浄の大地の上に、揺ぎなき平和の礎(いしずえ)を置かんとするのであります。 国民諸君、同胞諸君 今正に時は到つたのであります。われらの祖国日本は今、蹶然立つて雄々しく戦ひを開始いたしたのであります。敢然起つて国難突破に勇躍いたしてゐるのであります。われら一億国民は、この日の為めにこそ生きて居つたのであります。その持てる物、その持てる力、その持てる生命(いのち)、一切を国に捧げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。この時であります。神州日本は不滅であります。皇国日本は天壌と共に栄ゆるのであります。悠久二千六百年の永き歴史において、戦ひに敗れたことは、未だ曾つて一度もないのであります。日本は絶対不敗の国であります。戦つて未だ捷(か)たざることなき国であります。勝利は常に御稜威(みいつ)(註23)の御旗のもとにあります。対米交渉でルーズベルト大統領と最後の会談を終えてホワイトハウスを出る野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特派大使=昭和16年11月27日(『昭和』講談社) 一億国民、悉く、必勝の信念を微動だにさせてはなりません。戦はざるものに勝利なしであります。戦歿勇士の心を心として、吾等は戦つて戦つて戦ひ抜くのであります。勝つて勝つて、進むのであります。錦の御旗は南に、東に、北に、西に躍進し突進して、アジアの歴史を創るのであります。アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪ひ回(かへ)すのであります。アジア人のアジアを創りあげるのであります。而してアジアに国を成すすべての国々と、すべての民族とをして、各々その処を得しむるのであります。かくて昭和のみ民われらは、「万里の波涛を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かん事を欲する」大御心に対へ奉ることが出来るのであります。 何たる光栄、何たる矜持でありませう。日本国民にとつてこれ以上の生き甲斐は絶対にないのであります。宣戦の詔勅を奉戴したわれら国民の決心は今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御(み)楯(たて)といで立つわれは(註24)と同じ心であります。万葉の名もなき防人(さきもり)の歌つたこの歌は、爾来千年の間、われらの祖先が朝な夕な愛唱し続けて来たのであります。堂々と米英両国に対し宣戦の御詔勅の渙発せられたる今日こそ、一億国民の心の中にひとしくこの歌が甦つたことと確信いたします。八紘を掩ひて一宇(いへ)となす御稜威のもと、生くるも死するも、只これ大君のためであります。君国のためであります(※25)。この灼熱の愛国心ある限り、神州は絶対に不滅であります。我に正義の味方あり。我に世界無敵の陸軍あり、海軍あり。米英何んぞ惧(おそ)るゝに足らんやであります。勝利は常に御稜威の御旗のもとにあり。天皇陛下万歳 帝国陸海軍万歳 大日本帝国万歳註1 欧米による対アジア差別を解消し、植民地支配を排除して独立した各国によるアジア連合としての大東亜共栄圏構想。日本が指導的立場に立ち、昭和十八年十一月には東京で開かれた大東亜会議にシナ(中華民国)南京国民政府、満洲国、タイ王国、大東亜戦争によって独立したビルマ、独立が早まったフィリピン、さらに日本の支援で独立をめざす自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースも参加した。註2 天皇のこと。註3 昭和七年の満洲国建国、十二年からのシナ事変などで日本のシナ大陸への影響が拡大。対する米国はシナにおける自らの権益を確保するため、蒋介石政権(重慶国民政府)への軍事支援を実施。ABCD(アメリカ、英国=ブリテン、シナ、蘭=ダッチ)包囲網を形成し強力な対日経済封鎖(制裁)を行った。日本に協力的で蒋と対立する汪兆銘は十五年に南京国民政府を樹立(十八年に米英に宣戦布告し、対列強不平等の象徴だった租界、治外法権を撤廃した)。一方、蒋介石支援する最大の「援蒋ルート」を断つため日本軍は十五年、北部仏領インドシナに進駐。さらに日本は独、伊と三国同盟を結び、のちに枢軸へと拡大する。十六年春から日米国交改善に向け最終的な交渉が続けられ、同十月の東條内閣発足後、日本は従来の野村吉三郎駐日大使に加え、来栖三郎駐独大使を日米交渉担当として派遣し、異例の特命全権大使二人態勢で妥結をめざした。しかし、排日・差別思考のフランクリン・ルーズベルト大統領の下で交渉を担当したコーデル・ハル国務長官が十一月二十六日に提示した米側要求文書いわゆる「ハルノート」は、日本の主張、権益をことごとく否定、排斥する内容だった。ロシアの南進を食い止める半島・大陸での権益構築、欧米によるアジア差別の是正など日露戦争以来の日本の取り組みの否定するもので、さらに在米日本資産凍結、石油の対日全面禁輸など物量面の抑圧を払拭し、国家存立をめざすためだった。註4 日露戦争の講和会議が米ポーツマスで開かれ、調印まじかの明治三十八(一九〇五)年八月三十一日、米鉄道王エドワード・ハリマンが来日し、駐日大使ロイド・グリスコムの仲介で桂太郎首相ら主な閣僚に面会。ロシアから日本に譲渡される見込みの南満洲鉄道の共同経営を持ちかけ、同十月十五日、戦争で財政疲弊の日本側は予備覚書を交換する。ところが特命全権として講和会議を終えた小村寿太郎外相が翌十六日に帰国してこの件を知ると、事実上の米資本による乗っ取りであることを各閣僚に説いて回り、予備段階だった覚書を破棄させた。米国はこの後、政府が前面に出て満洲鉄道権益獲得の野心を露骨にした。註5 南北戦争によってシナ進出が遅れていた米国は、米西戦争(一八九八年)で獲得したフィリピンを足がかりに進出。すでに進出していた英、仏、独、伊、露、日の列強に対し翌九九年、ジョン・ヘイ国務長官がシナの主権尊重と港湾自由使用を求める通牒を出して牽制。この後も米国は特に日本のシナにおける権益拡大を抑えようとした。註6 日露戦争の日本側戦費と戦死・戦病死者の概数。註7 米国は南満洲鉄道の事実上の買収が頓挫(註4)すると今度は明治四十二年十一月に国務長官フィランダー・ノックスが、日本が保有する南満洲鉄道、当時はまだロシアが保有した東清(北満)鉄道について日、露、米、英、独、仏の六カ国共有とする「満洲鉄道中立化案」を提議。ほぼ同時に米国はハリマン(註4)とともに渤海湾岸・錦州から西部満洲を経由して黒竜江岸・愛輝をつなぐ錦愛鉄道敷設の借款協定をシナ(清)と結んだ。しかし中立化案は日露の反対と、英仏も日露を優先したため成功せず。錦愛鉄道もハリマンの死で立ち消えとなった。註8 日清戦争で日本領となった台湾の対岸にある福建省は、軍事的に重要な地域だが、米国はかねて米海軍根拠地を計画するなど食指を伸ばし、ついには要港の三都澳に軍港とドックを建設するための借款をシナと進めていることが判明。辛亥革命で成立した中華民国に対し日本は大正四(一九一五)年に行った「二十一カ条要求」の一つとして、同省での港湾などの建設に外国資本が必要な際は予め日本と協議することを求めた。註9 第一次第戦中に起きたロシア革命(一九一七年)で、赤軍に捕らわれたチェコ軍団の救出を名目に翌年、日、英、米、仏、伊など連合国(第一大戦)がシベリアに出兵。米軍が二〇年に撤兵したのに対し、日本軍は最後の二二年まで継続したため、米国などは領土的野心があると批判した。註10 第一次大戦のパリ講和会議。大正八(一九一九)年一―九月に断続的に開かれた。日本は連合国の一員としてより、欧米の偏見・差別・抑圧が続くアジアの代表として、人種差別撤廃の明記を世界で初めて提案。国際連盟委員十五人のうち十一人が賛成、五人が反対という圧倒的賛成多数にもかかわらず、議長のウィルソン米大統領は「全会一致ではない」などとして採択しなかった。註11 大正十年十一月から三カ月にわたる国際軍縮会議で日、米、英、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガル、シナの九カ国が参加。ウォレン・ハーディング米大統領が提唱したもので、第一次大戦戦勝国の軍拡抑制を名目に、日英同盟破棄や日本海軍力の制限などで、日本の台頭を阻んだとされる。海軍軍縮条約では、主力戦艦の保有比率が、英米の各五に対し日本は三に抑えられた。太平洋の離島に新たな軍事要塞の建設を禁止し、日本は委任統治となったパラオなど南洋群島だけなく千島列島や小笠原諸島にも本格軍事施設を造れなくなった。四カ国条約では太平洋に権益を持つ日、米、英、仏が、相互の領土・権益を尊重と非軍事要塞化を約定。これにより第三次まで続いた日英同盟は第四次へと更新されず失効した。さらに九カ国条約で、日欧より遅れている米国のシナ進出を図るため一八九九(明治三十二)年に国務長官ジョン・ヘイが行ったシナの「門戸開放、機会均等、領土保全(主権尊重)」を全参加国に再確認させた。これにより日本は第一次大戦で独から得た山東省の権益を縮小。このワシントン体制は、清から中華民国に代わったシナの領土を明確にしないまま「領土保全」を認めたため、中国共産党によるモンゴル、チベット、ウイグルなどへの侵害につながったとされる。註12 日清戦争(明治二十七―二十八年)で勝利した日本は日清講和条約(下関条約)で、清の朝鮮に対する冊封撤廃(独立)と、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲などを得た。シナ分割の野心を持つ露、独、仏の三国が日本に主導権を握られると警戒し、遼東半島放棄を日本に勧告。英米は中立の立場を取ったため、日本は応ぜざるを得なかった。米国はこの四年後、門戸開放宣言を行いシナへの進出を加速した。註13 「八紘」は天地のあらゆる方位のことで、世の中、世界の意。「宇」はいえ(家)の意。世界が一つの家族のように和み合うこと。註14 「註1」参照。註15 日本に協力的な汪兆銘の南京国民政府と対立する蒋介石の重慶国民政府。註16 米国を指す。シナ大陸に対し、日本の影響拡大を抑えつつ、自らの権益を確保するため、米国は蒋介石への軍事支援を実施。ABCD(アメリカ、英国=ブリテン、シナ、蘭=ダッチ)包囲網を形成し強力な対日経済封鎖(制裁)を行った。註17 豪亜地中海とも。東南アジアとオーストラリアの間の海域。註18 「註3」参照。註19 昭和14(一九三九)年九月、独のポーランド侵攻で第二次世界大戦の戦端が開かれた。米国による四カ国条約(註11)で日本との同盟関係が解消していた英国は、対日改善に傾きつつあった。しかしF・ルーズベルト大統領の下で排日・反日措置を強める米国は、直前の同七月、日米通商航海条約破棄を通告。翌八月、日本は米国のシナ権益に資するよう、シナ事変後に封鎖していた揚子(長)江下流の開放も提起して条約更新を求めたが米国は拒否。十五年一月に同条約は失効し、日米は無条約状態となる。すでにワシントン体制(註11)が崩壊して日米軍拡競争が続く同五月、米国は主力艦隊の拠点を太西洋からハワイに移し太平洋を挟んで日本圧迫を強めた。註20 日露戦争後のポーツマス講和会議から、米国が自らのシナ権益確保と日本台頭抑止の行為を続けた三十年。註21 東條英機内閣発足後の臨時議会(昭和十五年十一月十七日)施政方針演説で東條首相は①第三国が日本の企図するシナ事変完遂を妨害しないこと②日本を囲む諸国家が直接軍事行動はもちろん、経済封鎖という敵性行為を解除し経済の正常関係を回復する③欧州戦争が拡大して戦禍が東亜に及ぶことを極力防止する―を外交の三原則と述べた。註22 蘭領東印度(オランダ領東インド)の略。現在のインドネシア。註23 天皇が具え持つ清らかで徳のある威光。註24 下野国、今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)の作。防人として召された吾は今日より家族や故郷は差し置いて、大君=祖国をお守りする醜の御楯(武人が自らを卑下した表現)として出で立つのだ。註25 大君=天皇のためというのは、すなわち天皇をいただく我が祖国、ふるさと、家族のため。※『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より転載。
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ご聖断下る「日本のいちばん長い日」
「五内為に裂く」。70年前のあの日、終戦の詔勅を自ら読み上げられた昭和天皇は、この一節で語気が変わられたという。深い悲しみと嘆き。ラジオから流れる陛下のお言葉に耳を傾けた日本国民は、そのとき誰もが涙した。ご聖断と終戦に揺れた「日本のいちばん長い日」とは何だったのか。
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大詔(たいしよう)を拝し奉りて
東條英機(内閣総理大臣)「大将を拝し奉りて」の音声はこちら 只今宣戦の御詔勅が渙発(かんぱつ)せられました。精鋭なる帝国陸海軍は、今や決死の戦いを行いつつあります。東亜全局の平和はこれを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。 過半来、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、却(かえ)って英、蘭、支と聯合(れんごう)し、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要して参りました(註1)。 之に対し帝国は、飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けて参りましたが、米国は何等(なんら)反省の色を示さず、今日に至りました。若(も)し帝国にして彼(かれ)等(ら)の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危(き)殆(たい)に陥らしむる結果となるのであります。 事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危局を打開し、自存自衛を全うするため(註2)、断乎(だんこ)として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼(きようく)感激に堪(た)えません。私、不肖なりと雖(いえど)も、一身を捧げて決死奉公、ただただ宸(しん)襟(きん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君もまた、己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。 凡(およ)そ勝利の要決は「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は未だかつて戦いに敗れたことを知りません。この史(し)績(せき)の回顧こそ、如何(いか)なる強敵をも破砕(はさい)するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざると共に、更に栄(は)えある帝国の明日を建設せんことを固く誓うものであります。顧みれば我等は、今日まで隠忍(いんにん)と自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、また敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるに外なりません。然(しか)も、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)立たざるを得ないのであります。昭和7年満洲国建国の「執政就任式」。溥儀(中央着座)は当初「執政閣下」だったが2年後「皇帝陛下」に就く(『満洲建国と満洲・上海大事変史』日出新聞社 昭和12) 当面の敵は物資の豊富を誇り、之(これ)に依(よ)って世界の制覇を目指して居るのであります。此(こ)の敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せんが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。之と同時に、絶大の建設的努力を要すること言を要しません。斯(か)くて我等はあくまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍(しようがい)も克服して進まなければなりません。これこそ、昭和の臣民(みたみ)我等に課せられたる天与の試練であり、この試練を突破して後にこそ、大東亜建設者(註3)としての栄誉を後生に担うことが出来るのであります。蒋介石と袂を分かち南京国民政府を樹立した対日和平派の汪兆銘 この秋(とき)に当たり、満洲国及び中華民国との一徳一心の関係いよいよ敦く、独、伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣(ママ)とするものであります。帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘(はつこう)を宇(いえ)と為す皇(こう)謨(ぼ)の下(もと)(註4)に、この尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖(いえど)も何ら惧(おそ)るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)(註5)の下にありと確信致すものであります。私は茲(ここ)に慎んで微衷(びちゆう)を披(ひ)瀝(れき)し、国民とともに大業翼賛の丹心を誓う次第であります。終わり。註1 昭和七年の満洲国建国、十二年からのシナ事変などで日本のシナ大陸への影響が拡大。対する米国はシナにおける自らの権益を確保するため、蒋介石政権(重慶国民政府)への軍事支援を実施。ABCD(アメリカ、英国=ブリテン、シナ、蘭=ダッチ)包囲網を形成し強力な対日経済封鎖(制裁)を行った。日本に協力的で蒋と対立する汪兆銘は十五年に南京国民政府を樹立(十八年に米英に宣戦布告し、対列強不平等の象徴だった租界、治外法権を撤廃した)。一方、蒋介石支援する最大の「援蒋ルート」を断つため日本軍は十五年、北部仏領インドシナに進駐。さらに日本は独、伊と三国同盟を結び、のちに枢軸へと拡大する。十六年春から日米国交改善に向け最終的な交渉が続けられ、同十月の東條内閣発足後、日本は従来の野村吉三郎駐日大使に加え、来栖三郎駐独大使を日米交渉担当として派遣し、異例の特命全権大使二人態勢で妥結をめざした。しかし、排日・差別思考のフランクリン・ルーズベルト大統領の下で交渉を担当したコーデル・ハル国務長官が十一月二十六日に提示した米側要求文書いわゆる「ハルノート」は、日本の主張、権益をことごとく否定、排斥する内容だった日独伊三国同盟締結祝賀会。陸軍大臣だった東條英機(中央軍服)は首相就任後もユダヤ人に同情した=昭和15年9月27日、外務大臣官邸註2 ロシアの南進を食い止める半島・大陸での権益構築、欧米によるアジア差別の是正など日露戦争以来の日本の取り組みの否定、さらに在米日本資産凍結、石油の対日全面禁輸など物量面の抑圧を払拭し、国家存立をめざすこと註3 欧米による対アジア差別を解消し、植民地支配を排除して独立した各国によるアジア連合としての大東亜共栄圏構築を確かなものにし、その指導的立場に日本が立つこと。昭和十八年十一月、東京で開かれた大東亜会議にはシナ(中華民国)南京国民政府、満洲国、タイ王国、大東亜戦争によって独立したビルマ、独立が早まったフィリピン、さらに日本の支援で独立をめざす自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースも参加した註4 「八紘」は天地のあらゆる方位のことで、世の中、世界の意。「宇」はいえ(家)の意。「謨」は「はからい、計画」。「皇謨」は天皇の考え、はからい。世界が一つの家族のように和み合うことを願う天皇の御心のもとで註5 天皇が具え持つ清らかで徳のある威光※『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より転載。
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近衛連隊と玉音放送阻止事件
小田敏生(元近衛歩兵第一連隊第一中隊長) 昭和20年の夏。運命の8月15日が近づきつつあった。陸軍省軍務課の畑中健二少佐を中心とする徹底抗戦派は戦争終結を告げる「玉音放送」を阻止しようと血眼になっていた。彼らは近衛連隊を動かし録音盤を探した。結局、録音盤をみつけることはできず、実力をもって放送を阻止しようと考えた。その実行部隊として近衛歩兵第一連隊第一中隊が選ばれ、ニセの命令が出された。以下は、当時、中隊長だった小田敏生氏の談話を編集部でまとめたものである。☆ 私は大正8年10月14日、広島県呉市で生まれました。呉中を卒業したあと、四国・新居浜の住友別子銅山に勤めました。ここに2年半はど勤務してから昭和15年1月、近衛歩兵第一連隊に入隊しました。5月に幹部候補生試験に合格し、盛岡の予備士官学校で教育を受け、16年12月1日に陸軍少尉に任官しました。以来、終戦まで近衛歩兵第一連隊に勤務することになったわけです。 近衛歩兵第一連隊では、初年兵教育、下士官教育、更に幹部候補生教育などを務め、それから大隊副官になりました。終戦の年、昭和20年には、第一連隊第一大隊第一中隊長として私は部下237名を持ちました。8月10日に結婚し、目黒に所帯を持ったばかりでした。26歳でした。 平素、戦争は絶対に負けるものではない。負けた場合、いままでの歴史から見ても日本民族は滅びる。たとえ物量には限りがあっても、精神力は無限大である。そして米英の物量にも限度がある。精神的な優位を示して、最後は日本が勝利を収めるといった精神訓話を聞いていたので、私も日夜、こういう話を部下にしていました。 当時、正確な戦況は高級将校はともかく、われわれ下級将校には全くわかりませんでした。いずれは有利な形で戦争終結ができるのではないかという頼りない見通しのもとに、われわれは陛下をお守りするという光栄ある任務についていました。 近衛歩兵第一連隊長は渡辺多粮大佐でした。将校集会所で昼食をとりながら、渡辺連隊長は楠正成が金剛山に籠城した話、千早城攻防の話をしました。ここでも物資より精神力が優位であるという話が中心でした。 第一大隊長は久松秀雄少佐でした。第一大隊長の下には中隊長が6名おりました。毎晩のように久松少佐のもとへ食事に呼ばれて話をしました。当時、われわれは戦争に負けるなどとは、九分九厘、考えていなかった。若い将校の中には近衛師団だけでも決起して天皇を奉護して信州の松代にお移し奉る。そして最後の最後まで抗戦する、と主張する将校もいました。 が、中隊長のなかには、近衛師団だけで決起することは賛成しかねる、という意見もありました。久松大隊長は、最後の決戦をわれわれに推し進めようという気持ちが非常にありました。大隊長には、徹底抗戦を主張する畑中健二少佐ら陸軍省の主戦派の意図が染み通っていたと思います。「ただちに集合せよ」 近衛連隊は田安門(東京都千代田区九段)、いまの北の丸公園にありました。しかし、敵の焼夷弾による爆撃で連隊の建物はほとんど焼けてしまいました。ここに集団駐屯していたのでは危険だというので、すでに各中隊ごとに分駐しました。 私の中隊は、府立一中(現在の日比谷高校)、永田町小学校、国会議事堂そばの焼け跡などを利用して、各小隊ごとに分駐しておりました。地下防空壕だった御文庫付属室の会議室北側の鉄扉=平成27年7月15日撮影、皇居・吹上御苑(宮内庁提供) 昭和20年8月10日前後から、この周辺は自動車の出入りが目立ってふえてきました。真夜中、議事堂に向かって前照灯に黒幕を貼った自動車が入っていきます。われわれも薄々なにか重大なことが起きる気配を感じました。毎晩集まる大隊長との会食のときも、緊迫した状況を伝える断片的な情報がもたらされました。 いざという場合には決戦という大隊長の話もだんだんと具体的になってきた8月14日の午後11時30分、私のもとに「第一中隊全員を引きつれて、ただちに連隊に集合せよ」という非常呼集がありました。当時、第一連隊と第二連隊が交代で宮城警備にあたっていました。14日は第二連隊の担当でわれわれは非番でした。 集合場所は近衛連隊の営庭。現在の北の丸公園へ各中隊が集まりました。午前零時過ぎ、「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」という大隊長命令がきました。ただし、それが玉音放送の阻止だということは、われわれ下級将校には知らされませんでした。 ――出発は午前1時。将校先遣隊は下士官、兵と共に放送会館へ急行せよ。放送局にいる者を一人といえども外へ出すな。外部からいかなる者も入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ。無我夢中で走った こういう命令を受けて先遣隊は駆け足で出発しました。こういう場合、中隊長は先には行動しない。中隊には将校が3名いて、その将校に下士官、兵隊をつけて約10名ぐらいの先遣隊を編成して、それを先行させました。先遣隊が放送会館へ急行して、各部屋を封鎖する。そして放送を阻止する。 先遣隊が出発してから30分後、われわれも全員武装して田村町の放送会館へ向かいました。隊を揃えて粛々と進むのではなく、われがちに行って名誉を奪うようなつもりで駆け足しました。全員、とても張り切っていました。真夜中、無我夢中で、お濠端を走りました。それは、いままでのなかで一番早い行軍でした。とにかく必死でした。 あっという間に見えてきた放送会館は遮蔽幕がしてあり、明かりは漏れていませんでした。中に入ると、先遣隊は命令通りに占拠してくれていました。 放送会館は入り口がホールになっていて、曲がり階段を上ったところが中二階になっていました。中二階に連絡してずっと各部屋がある。その中二階が上から下を見るのにいいからというので、そこに陣取り、各兵士にそれぞれの部屋を警備させました。 しばらくして年配のNHK理事(あとで生田武夫常務理事とわかる)が中二階にいる私のところに来て「私どもは下村情報局総裁の下で全国放送、海外放送を行っています。従って下村総裁の命令がなければ放送を中止するわけにはいきません。ここは是非とも放送させて戴きたい」という。 私は軍刀を床に突き立てて「われわれは近衛師団長の命令で来ている。近衛師団長の命令はすなわち天皇陛下の命令だ!」と一喝しました。理事はそのまま引き下がりました。命令の百八十度転換 夜が明ける15日午前4時半過ぎまでは平穏無事でおりました。けれども、夜がいくらか明け始めたころ、一少佐が参り、私に一言もいわないで、各部屋を巡回し始めました。たまたまそこへ久松大隊長がやってきました。二人は士官学校の同期でしょうか、早口で激論を交わしておりました。 そこで私は、すでに近衛師団長は亡くなられたこと。近衛連隊は東部軍管区司令官の管轄に入ったという重大な話を直接耳にしました。 この時点で久松大隊長より「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」命令の変更を伝えられた。 私は放送の内容が天皇陛下による戦争継続の宣言だと思っていました。まさか戦争終結のお言葉とは想像すらしていない。陛下が帝国陸海軍軍人および国民に最後の激励をされる。そう思い込んでいた。《編集部注・近衛師団司令部で森師団長を殺害したのは畑中少佐らである。午前4時40分、阿南惟幾陸相自刃。陸軍首脳が相次いで消えていくなかで近衛師団の反乱を身を挺して収拾したのは、東部軍管区司令官の田中静壱大将であった。東部軍管区司令部はNHKとは目と鼻の先の第一生命ビルにあった》 午前11時半ごろのことです。東部軍の高級参謀(あとで参謀長の高島少将とわかる)と肩章を吊るした高級副官の大佐、それに憲兵2名が側車(サイドカー)で放送会館にやって来ました。そして入り口で血相を変えて「中隊長はどこにいるか!」と大声で叫びました。中2階から階段を駆け足で降りると、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか! 命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ」という。 私はすでに近衛師団長死亡の情報を知っていたので、この命令を疑う余地はなかった。 戦争終結のご放送を擁護せよ、と聞いて、途端に最後まで抗戦するという気持ちがプッツリ切れたような感じになりました。 放送を阻止せよという当初の命令は、近衛師団長の許可もなく参謀の古賀秀正少佐らが出した命令だったわけですが、そんな事情をわれわれが知るよしもありません。 阻止から擁護へ、命令の百八十度転換は私にとっては表現できないほどの衝撃でした。悲しい光景 ご存じのように、それ以前に近衛第二連隊が皇居のなかで陛下の録音盤を探しています。近衛第二連隊の動きについてはほとんど知りませんでした。ただ、映画「日本の一番長い日」の一部に腹が立ちました。兵隊が各女官の部屋の入り口を銃で壊す場面があります。しかし、建物が壊されたところは一か所もありません。 また、機関銃を御文庫の御座所に向けて据え付ける場面があります。これも違います。近衛兵は断じてこのようなことはいたしません。 話を戻します。 事態の急変に動転しましたが、すぐ気をとりなして、参謀長閣下の前で伝令を使って放送の準備をとったわけです。その間の時間というものは一時間に満たないと思います。 正午の放送時間が近づきました。一階ホールの右手に参謀長、左手に副官が並び、私はそのあいだにはさまれるようにして直立不動の姿勢をとりました。二人の憲兵はその後ろに立ちました。お二人とも長身で、私の頭は肩までしかありません。 私は肩をはさまれながら涙をこぼして終戦の勅語を聞きました。参謀長は高級副官と手を握り合いながら「これでいい。これでよかったんだ」といい、そのまま側車で司令部に帰りました。 今度の戦争では神風が吹かなかったといわれています。たしかに戦争に負けたのですから、そうともいえます。 しかし、いま振り返って私には東部軍の参謀長・高島少将がNHKに来られたこと自体が神風のように思えるのです。 もし参謀長が来なかったらどうなったか。間一髪で陛下のお言葉を放送できた。それが、今日の日本の繁栄のまさに第一歩だったと私は思うのです。 そのあと私どもは兵を撤収しました。午後2時半に集結して皇居前へ出て、二重橋前で捧銃(ささげつつ)をしました。 隊に帰ってきましたら、こんどは「ただちに宮城警護にあたれ」という命令が出ました。私の中隊は皇居二重橋の櫓楼の中に駐屯することになりました。 陛下の放送を聞いて、各地から続々と将兵が上京しつつあるということでした。なかには「このままでは大日本帝国は崩壊する。近衛連隊は何をしているんだ」と叫んでいる将兵もいるとか。空には飛行機が何機も飛んでいました。15日だったか、それ以降のことも混じっているのか、とにかく宮城前の情景は忘れられません。 女学生が土下座している。モンぺに白足袋をはいた若い女性が松の木の下で死んでいる。憲兵が私の目の前で拳銃で自決する。どこかの参謀が刀を抜いて「まだ日本は負けていない」といいながら腹を切る。悲しい光景でした。 水戸航空通信師団の将兵約四百名が水戸駅に集結、急行列車に分乗、「神州不滅」「徹底抗戦」を叫んで上野美術館を占拠したとの情報が入った時には全身が硬直したのを憶えています。長い一日だった 宮城警護につきながら、ふと結婚したばかりの妻を思いました。まだ一睡もしていません。私にとっては長い一日でしたが、結婚してまだ五日しか経っていない妻にとっても、長い一日だったと思います。 結局、家に帰ったのは8月20日のことでした。 毎年8月が近づくとマスコミに取り上げられる宮城事件が一部少壮将校の蛮行であり愚行であったと結論づけられているが、身命を賭して純粋に国を思う無念の感情を、事実で示した唯一の行動であったと思います。正に昭和の彰義隊であり、白虎隊であったと言えるのではなかろうか。近衛師団起てども利あらず、皇軍の相撃を防ぎ又右翼による内乱暴発を防止して、大命の下、整斉と干戈を収めることができたことは奇跡と言われています。 亡き昭和天皇のご遺徳を偲び奉り終生昭和天皇崇敬の誠を捧げたいと思います。 終わりに、経済大国といわれるまでに発展したわが国の今日を思う時、畑中さん、古賀さんをはじめ事件に関与して自決された方々と犠牲となられた森師団長に「心配された国体は護られました。その上日本は経済大国にまで発展しました。どうぞ安らかにお眠り下さい」と心からその冥福をお祈りするとともに、痛ましくも哀れな宮城事件の記事を目にされる時、彰義隊や白虎隊を弔う気持ちを思い起こし、一掬の涕を濺いでもらいたいと思います。(初出 月刊『正論』平成3年9月号)※再録した著作については、著作者と連絡が取れないものがあります。お気づきの方は編集部までご連絡ください。
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終戦の詔書(口語訳付き)
詔書(大東亜戦争終結ニ関スル詔勅)昭和天皇朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサ(ざ)ル所 曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦 実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(しよき)スルニ出(い)テ(で) 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ(が)如キハ固(もと)ヨリ朕カ(が)志ニアラス(ず) 然(しか)ルニ交戰已ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ 朕カ(が)陸海将兵ノ勇戦 朕カ(が)百僚有司ノ励精 朕カ(が)一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス(ず) 戦局必ス(ず)シモ好転セス(ず)世界ノ大勢亦我ニ利アラス(ず) 加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所(ところ) 真(しん)ニ測ルヘカラサ(ざ)ルニ至ル 而(しかも)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ(が)民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス(ず) 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却(はきやく)スヘ(べ)シ 斯クノ如クムハ(ごとくんば)朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ 是レ朕カ(が)帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セ(ぜ)シムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサ(ざ)ルヲ得ス(ず) 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ(じ)非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ(ば)五(ご)内(ない)為(ため)ニ裂ク 且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫(しん)念(ねん)スル所ナリ 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情(ちゆうじよう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レト(ど)モ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ(び)難キヲ忍ヒ(び) 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱(みだ)リ 為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ 爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ御名 御璽昭和二十年八月十四日 各国務大臣副署 (文節間の一字開けは別冊「正論」編集部)【現代語訳】 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。玉音放送を聞いて炎天下にもかかわらず、皇居前で天皇陛下に向かって泣きながら額づく人々 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてなたない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)内閣告諭本日畏(かしこ)クモ 大詔を拝す。帝国は大東亜戦争に従ふこと実に四年に近く、而も遂に 聖慮を以て非常の措置に依り其の局(きよく)を結ぶの他(ほか)途(みち)なきに至る。臣(しん)子(し)として恐懼(きようく)、謂(い)ふ(註1)べき所を知らざるなり。顧るに開戦以降遠く骨(こつ)を異域に暴(さら)せるの将兵其の数を知らず。本土の被害無辜(むこ)の犠牲亦茲(ここ)に極まる。思ふて此に至れば痛憤限りなし。然るに戦争の目的を実現するに由なく、戦勢亦必ずしも利あらず。遂に科学史上未曾有の破壞力を有する新爆弾の用ひらるるに至りて戦争の仕法(しほう)を一変せしめ、次いで「ソ」聯邦は去る九日帝国に宣戦を布告し、帝国は正に未曾有の難関(註2)に逢著(ほうちやく)したり。 聖徳の宏大無辺なる世界の和平と臣民の康寧とを(註3)冀(こいねが)はせ給ひ、茲に畏くも大詔(たいしよう)を渙発(かんぱつ)せらる。 聖断既に下る。赤子(せきし)の率由(りつゆう)すべき方(ほう)途(と)は自ら明かなり。空襲で廃墟となった自宅跡に正座して、拾い集めて作ったラジオから玉音放送を聞く人々固より帝国の前途は此に依り一層の困難を加へ、更に国民の忍苦を求むるに至るべし。然れども帝国はこの忍苦の結実に依りて、国家の運命を将来に開拓せざるべからず。本大臣は茲に万斛(ばんこく)の涙を呑み、敢てこの難(かた)きを同胞に求めむと欲す。今や国民の斉(ひと)しく嚮(むこ)ふべき所は国体の護持にあり。而(しか)して苟(いやし)くも既往に拘泥して同胞相(あい)猜(せい)し内争(ないそう)以て他の乗(じよう)ずる所となり、或は情に激して軽挙妄動し信義を世界に失ふが如きことあるべからず。又特に戦死者戦災者の遺族及傷痍軍人の援護に付(つい)ては国民悉(ことごと)く力を效(いた)すべし。職場に集まり頭を垂れて玉音放送を聞く大阪新聞・産経新聞両社員政府は国民と共に承詔必謹(しようしようひつきん)刻苦(こつく)奮(ふん)励(れい)常に大御心(おおみこころ)に帰一(きいつ)し奉(たてまつ)り必ず国威を恢弘(かいこう)し父祖の遺託に応へむことを期す。尚此の際特に一言すべきはこの難局に処すべき官吏の任務なり。畏くも至尊(しそん)は爾臣民の衷情は朕善く之を知ると宣(のたまわ)はせ給ふ。官吏は宜(よろ)しく 陛下の有司(ゆうし)として此の御仁慈(ごじんじ)の 聖旨を奉行(ほうこう)し堅確(けんかく)なる復興精神喚起の先達(せんだつ)とならむことを期すべし。昭和廿年八月十四日内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎註1 二十年八月十五日のラジオ放送でNHKの和田信賢アナウンサーは「こ(・)うべきところを…」と朗読。「謂ふ」を「請ふ」と読み間違えたか。註2 同じく和田アナウンサーは「未曽有の難(なん)に逢著…」と朗読。「関」を見落としたか。註3 同じく「世界の和平と臣民の康寧を(・)…」と朗読。「と」を見落としたか。※『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より転載。
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終戦御前会議 二度も示された国民護持の聖慮
『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より迫水久常(元内閣書記官長)終戦できたのは天皇陛下のおかげ 私が今日お話をしようと思いましたことは、終戦ができましたことはまったく天皇陛下のお陰であるということを申し上げたいと思うのでございます。 鈴木貫太郎内閣ができましたのは、昭和二十年の四月七日であります。当時の習慣によりまして、総理大臣の歴任者、いわゆる重臣と称する方々が集まって、小磯内閣の後の総理大臣の候補者として鈴木大将を推薦された(註1)のを陛下がご嘉納あそばされまして、大命が降下したわけであります。 組閣直後、鈴木総理大臣は非常に慎重でございまして、戦争を止(や)めるということは決しておっしゃいませんでした。東郷(茂徳)外務大臣の入閣が一応一日遅れたんでありまするが、それは東郷外務大臣が鈴木大将に「あなたが戦争を止める気ならば、自分は外務大臣になる」とこう言う。「どうしても鈴木大将は戦争を止めるとおっしゃらない。だから入閣はしないんだ」ということで、東郷外務大臣が頑張られたのであります。私は何回か東郷外務大臣のお宅にお伺いしまして「総理大臣の顔をご覧なさい。あの勇気の持ち主でありますから、戦争をするにせよ、止めるにせよ、鈴木総理大臣をご信認になって入閣してください」ということを、私はお願いに行ったことを覚えております。東條英機内閣、小磯國昭内閣に次ぎ昭和20年4月7日に発足した鈴木貫太郎(前列中央)内閣。後列中央が迫水久常 総理大臣は組閣直後、「直ちに日本の国力の真相を究めるように」というご下命がありました。陸軍、海軍、企画院、そういうようなものが本当の材料を持ち合って検討をいたしました結果、日本が組織的に経済を運営し、また、行政というものを全国統一的な立場でできるのは、昭和二十年の九月いっぱいという判定をしたのです。 そういうことで九月を過ぎると日本の経済は断片的になる。行政も断片的になる。そのために鈴木内閣では各地方総監府というものを設置することを決めたのでありまするが、したがって戦争も組織的にはできずに、ゲリラ的になってしまうことになるだろうという判定を下したのが、四月の末であります。 国際情勢の判断においては、ソ連がソ満国境に兵力を集中しておるが、ドイツの戦争が終わった後、ソ連は復員することなく、ソ満国境に兵力を集中し始めまして、その態勢の整うのはおおむね九月、こういうのが陸軍の判定でもありまして、何としても九月いっぱいまでには戦争を終結しようということをご決心になったのが、四月の末だと思います。天皇制維持と民族一体が条件 爾来、いろいろご腐心になりましたが、鈴木総理の胸中には二つの条件を考えておられたようであります。その一つは、国体の護持であります。天皇制は絶対に確保する。もう一つは、民族一本の姿で戦争を終結しなければならない。こうお考えになったことです。 陸軍がどうしても戦争を止めないと頑張っておる以上は、あるいは戦争を止めることはできても、軍と民との間の内乱的な状態になったり、軟派と硬派との間の分裂が起こったりすることのないように、民族一本の姿で戦争を終結することができるようにしたい。この二つが戦争終結の条件であるとお考えになりましたから、どうしてもきっかけを探さざるを得なかったのであります。 六月二十二日という日は、われわれは忘れることのできない日であります。この日、天皇陛下が総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、軍令部総長、参謀総長の六巨頭(註2)をご内面になりました。この六巨頭は、最高戦争指導会議というものを構成しておって、日本の最高の意思を決める機関であります。内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長及び内閣総合計画局長官の四名がこの最高戦争指導会議の幹事という立場に立っておったのであります。 最高戦争指導会議の構成員たる六巨頭をお呼びになりまして、本土決戦ということについてのお話がありました。いろいろ奉答を皆申し上げたんですけれども、最後に天皇陛下から「これは命令で言うのではないが、懇談の立場で言うのであるが、自分の希望としては、戦争を一日も早く止めるように工作してもらいたいということを希望しておる」というお言葉が、六月二十二日に、この最高戦争指導会議構成員の会合においてお言葉があったのであります。 これで、日本の方向は決まりました。しかし、阿南陸軍大臣は、もしそのことが下の方に漏れるというと、あるいは異常な事態が起こらんとは限らん。クーデターが起こる恐れがある。二・二六事件を上回るクーデターが起こって、天皇陛下ご自身を秩父宮様とでも代わっていただこうという者も出てこないとも限らない。厳重にこのことは極秘にしておいて、六人だけで工作を進めていきたいと阿南陸軍大臣がご希望になりましたもんですから、その含みでやったのであります。昭和14年に起きた満洲国とモンゴ人民共和国の国境紛争「ノモンハン事件」で日ソ間の緊張が一気に増した。写真は関東軍陣地(防衛研究所所蔵) それ以後、六人の巨頭はしばしば会合をされました。そうして遂に、ソ連に仲裁を頼むということを決めたのであります。 私は、東郷外務大臣が非常にそれに反対をされたことを覚えております。どうしても仲裁が必要と考えるならば、むしろ蒋介石に仲裁を頼む方がいいんじゃないかということを東郷外務大臣は言われたのであります。しかし、陸軍はおそらくソ満国境の状態が緊迫しておって、むしろこの際ソ連に仲裁を求めることのほうが、ソ満国境から侵入してくることを未然に防ぐ一つの手段になると考えたんだろうと私は判断しますが、非常にソ連に仲裁を頼むことを主張しましたので、近衛文麿公をソ連に特派して、そうしてソ連に仲裁を頼むことを決めたのであります。 ソ連はそのことについていろいろなことをサウンドしてきたことは事実でありますが、四月十五、六日になりまして、モロトフ及びスターリン(註3)は、ポツダムの会議に出席をするからベルリンに行くと、日本からの要請には、ポツダムから帰ってきてから答えをするということを言い残して、モスコウを後にしてしまいました。 政府は非常に焦慮して、佐藤尚武大使に、できるならポツダムに追っかけて返事を取れということまで指令したのでありますが、そのことは遂にできませんでした。「無条件降伏」は日本軍へのもの米軍は広島に原爆を投下・炸裂させ、その様子も航空機から撮影した ポツダム宣言が出ましたのは、その直後であります。七月二十六日、突然としてポツダム宣言が出てまいりました。英国、米国、中華民国の三国の署名であります。東郷外務大臣は、このポツダム宣言が出ましたときに、その次の閣議において「これは今までのアメリカの言ってるのとは全く違う。今までアメリカは、国家として無条件降伏を要求しておったのに対して、八個の条件を掲げておる。そうしてその条件を日本国政府が呑むならば、戦争は終結しようという条件付きの戦争終結の提案の形になっておる。 これを受諾することによって、日本国の存在がなくなることはない。日本国は、厳重に主権を保持しつつ戦争を集結し得ることであるから、ポツダム宣言を受諾しよう」と言われたのであります。 「アンコンディショナル・サレンダー(unconditional surrender)」(無条件降伏)という言葉は、八番目の条項に「日本国政府は、あらゆる日本の軍隊が無条件に降伏するように処置をせよ」というような表現で「アンコンディショナル・サレンダー」という言葉が出てきた。 すなわち、軍隊の無条件降伏ということが一つの条件ですが、国家としての無条件降伏を要求してるのではない。そこで東郷外務大臣、非常にこれを受諾すべきことを主張されましたが、閣議においてはソ連に仲裁を頼んでいるのに、ソ連からの返事を待とうじゃないかということで、しばらく様子をみようということに決定をいたしたのであります。 八月六日、広島に原子爆弾が落ちました。それで原子爆弾であるということが確定しましたのは、八月八日であります。 この日、総理大臣は、明日九日、朝から閣議を開いて正式に終戦のことを論議する。原子爆弾が出現したる以上、原子爆弾を持てる国と持たざる国との間には、戦争は成立しないということは、陸軍もこれを認めるだろうし、国民は必ず皆これを承認するであろうから、もう公式に終戦のことを論議してもいいんじゃないかというお考えであります。米軍は広島に続き長崎にも原爆を投下した 私がその準備をしておりますうちに、九日午前二時、ソ連の宣戦布告を聞いたのであります。ソ連の非道な裏切りに全身の血逆流 私は、そのときのことを今考えても全身の血が逆に流れるような憤激を感じます。日ソ間に日ソ不可侵条約(註4)というものが厳として存在しておったのにかかわらず、ソ連は日本からの仲裁申し入れに対して一言(いちごん)の返事もしないで、いきなり戦争をしかけてきました。 当時、スターリンは、後でわかったことでありますが、モスコウにおいて「この日本に対する宣戦布告は日露戦争に対する報復である」という演説をしていることは、皆様ご承知のとおりであります。 八月九日の午前十時から閣議が開かれました。原子爆弾の落下、それにソ連の宣戦布告という致命的な二つの事実を前にした閣議でありまするから、閣議の方向は自ずから決まりまして、ポツダム宣言を受諾することによって戦争を集結すべしという議論になったのであります。 しかし、阿南陸軍大臣は「陸軍としてはそれに同意ができない。このままここで戦争を集結することになれば、国体の護持について我々は確信を持てない。どっかアメリカ兵を一遍負かした機会において戦争を集結することなら別であるが、今この段階でこのまま戦争を集結することは不同意であるというのが陸軍の意思である」と非常に強調されました。 そうしてとうとう夜の八時になった。閣議不統一ということは、内閣が総辞職をしなければならない一つの原因であります。夜の八時ごろ閣議を休憩しまして、鈴木総理大臣が総理大臣室に帰られました。ご聖断仰ぐ以外に途なしご聖断仰ぐ以外に途なし 私は総理大臣室に行って「どうされますか」と聞きましたら、「自分は総辞職をしないで終戦は自分の手で片付けたいと思う」と。 「それでは総理、どうされますか」と聞きましたら、「君はどういうふうに考えるか」と言われますから、私は「誠に畏(おそ)れ多いことでありますが、ご聖断を拝する以外に方法はありますまい」ということを申し上げましたら、鈴木総理大臣は自分もそう思ったから、今朝、陛下にお目にかかったときにそのことをお願いしてきてあるから、その段取りを取るようにというお言葉があったのでありました。 どういう方法でご聖断を仰ぐ機会を作るかということについて、私はいろいろ考えまして、最高戦争指導会議を開いて、その席に天皇陛下のご親臨を仰いで、そうしてその席上陛下のご聖断を賜るという処置を取ることに決めたのであります。日露戦争の復讐に燃えるスターリンは中立協定を破って昭和20年8月9日に対日参戦、同11日には南樺太に攻め入ってきた=真岡市 私はそのときに非常に考えましたのは、ポツダム宣言を受諾するということは、条件付きの向こうの提案を呑むことでありまするから、一種の条約になる。条約ということになれば、当時の制度では枢密院の批准を経なければならないという議論が起こってくることが必至でありまするから、鈴木総理大臣に「この御前会議には、最高戦争指導会議には、特に思し召しを拝して、枢密院議長平沼(騏一郎)男爵を参加せしめられてはどうですか」ということを申し上げまして、鈴木総理大臣は「それなら君がそうするように」ということで、太田耕造(註5)先生が遣いになって行かれまして、平沼男爵にその最高戦争指導会議に参加をしていただいたのであります。 この八月九日の御前会議と称する第一回の御前会議であります。この御前会議が開かれたのは、昭和二十年八月九日の夜の十一時。鈴木総理大臣が議長、私はいわば進行係の形で会議は進行しました。鈴木総理から閣僚、その列席者、構成委員を一人ずつ指名しまして発言を要求しまして、最初に東郷外務大臣が理路整然とポツダム宣言を受諾することによって戦争を集結すべきであるという議論をされました。 次は阿南陸軍大臣が、冒頭に「私は東郷外務大臣の説には反対であります」と前提をされまして、「このままで戦争を集結するということについては、国体の護持覚束(おぼつか)なし。や むをえない、本土で敵を迎え撃って、必ず勝たなければならない。本土で決戦をするということは自分は必勝とは申し上げませんが、失敗ではありません。人の和があり地の利がある。必ずやアメリカ兵を撃退することができると思います」。声涙(せいるい)俱(とも)に下るというのはあのことを言ったんだと思いますが、両方の頬に涙が流れるのをお拭いもなりませず、阿南陸軍大臣は仰せられました。 その次に米内海軍大臣は、極めて簡単に、本当に一言「自分は東郷外務大臣に同意であります」と言われただけです。平沼男爵はいろんな質問を軍部の大臣、外務大臣等にされまして、結局、東郷外務大臣の説を支持する立場をお示しになったのでありますが、梅津参謀総長、豊田海軍軍令部総長は、それに対して阿南陸軍大臣に同調する意見を申しまして、三対三という立場になったのが、八月十日の午前二時ごろであります。 そこで鈴木総理大臣が立ちまして、「これだけ議論をしたけれども、議論は結論を得られないが、事態は極めて緊急であって、一刻の猶予も許さない状態であるから、甚だ先例もなく懼(おそ)れ多いことであるが、ここで陛下の思し召しを伺うことによって、われわれの決心を決めたいと思う」とこういうことを宣言をいたしまして、天皇陛下の前に進んで丁重にお辞儀をされまして、そのことを陛下にお願いをしました。捨身の聖慮に臨席全員が滂沱の涙 天皇陛下は左手をお出しになって自分の席に帰れとお示しになりました後、体を前にお乗り出しになるようにしてお言葉があったのであります。「自分の考えは、先ほど東郷外務大臣の申したことに賛成である」とおっしゃいました。一瞬間、私は胸が詰まりまして涙が眼から迸(ほとばし)り出て、机の上に置いてあった書類に涙の跡が残ったことを覚えております。部屋はたちまちみんなすすり泣きの声から、やがて声を上げて泣きました。 天皇陛下は白い手袋をおはめになった御手(おんて)の親指を眼鏡の裏にお入れになって、何遍か眼鏡の曇りをお拭いあそばされました。陛下もお泣きになっていらっしゃるということを、私たちは拝したのでありま す。開戦直前の昭和16年5月22日、皇居・二重橋前の広場で青年学校生徒を親閲した昭和天皇(写真奥中央) 思いがけなく天皇陛下のお言葉は続きまして「念のために理由を言う」ということをおっしゃいました。「自分としては先祖から受け継いできたこの日本国を子孫に伝えなければならないが、本土で決戦をするということになれば、日本国民のほとんど全部の者が死んでしまって、そのことを実現することができなくなると思うから、甚だ堪え難いことであり忍び難いことであるが、ここで戦争を止めて、一人でも多くの日本国民を救いたい。その場合、自分はどういうことになっても一つも差し支えない」ということを、たどたどしく途切れ途切れに仰せられたのであります。私たちは本当に泣 きながら陛下のお言葉を拝しました。「大勢の戦死者が出ておるが、その人たちのことを考えると、自分の胸はまったく痛む」というお言葉もありました。 やがて陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣から天皇陛下に入御(にゅうぎょ)を、ご退席をお願いしまして、その後私共が残りまして、会議を続行したのであります。陛下ご退席のときのお姿を私は目の前に今思い出すことができますが、後ろから体を支えてあげなければと思うほど、お疲れのご様子で、たどたどしい歩き方でお席をお立ちになったことを覚えております。 後に残りました者の会議において、日本国天皇の命(めい)によって日本国政府はポツダム宣言を受諾。ただし、ポツダム宣言に要求事項が掲げられておるが、そのポツダム宣言の要求事項の中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求は、これを含まざるものと了解する。すなわち「天皇制の護持ということが条件だ」ということを言って、それを「あなた方の方は当然天皇制を廃止せよ、なんていうことは要求していませんね。この了解を確認せられたい」という条件を打ったのであります。 これに対する返事が参りました。正面からそのとおりという返事はしてきませんでした。「日本国の最終の政治の形態は、日本国国民の自由に表現せられたる意思によって決定するもの」という回答がきたのでございます。ところがその日、返事を受け取りました日本は大騒ぎになりました。 まず平沼男爵は「この回答は不満である」と言われたのです。「日本の天皇の御(おん)位置は、神(かん)ながらの御位置であって、日本国民の意思以前の問題である。然(しか)るに先方の回答は、そのことを理解しないで、日本国民の意思によって天皇制の護持するかどうかということを決めようとしておるが、それは明らかに日本国体の本義と若干違うんじゃないか。この際、もう一遍アメリカに対して日本の国体の本義のことをよく説明して、納得のいく説明を取らなければ自分は同意できない」とこうおっしゃったのであります。 鈴木総理大臣は非常に困りました。そうして、遂に十三日は閣議を終決にしないで、明日まで持ち越すということにして、そのままにされたのであります。そうして、陛下のお力にもう一度おすがりをしたのであります。「必要なら諭しにどこへでも行く」 九日の御前会議は制度としての会議でありました。親臨を仰ぐ、陛下のご臨席を仰ぐ最高戦争指導会議。十四日の御前会議、この御前会議は陛下の思し召しによって、陛下の方から最高戦争指導会議の構成員と全閣僚をお召しになるという形の、陛下のイニシアティブによる会議という形式であります。九日の時は人数が少のうございますからみんなの前に机がありました。この日は人数が多うございますから、椅子だけが三列に並べられておったのでありますが、ここに一同集まりました。 そうして陛下にお出ましをいただきまして、鈴木総理大臣から今日(こんにち)までの経過をご報告いたしました。すなわち、ポツダム宣言を受諾するという返事をした。天皇の国家統治の大権は変更する旨の条項は入ってないということを確認せられたいという条件を付けた。それに先方としては、そういう返事が来たということをご報告をしました。 「これについて異論のある者もございまするから、異論のある者から陛下にその意見を申し上げることをお許しを願います」と言いまして、阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田海軍軍令部総長の三人がこの席上で発言をされたのであります。戦前の皇居・二重橋。昭和20年8月14日、再度のご聖断と翌15日の玉音放送をめぐって、一見静かな二重橋の内側では激しい葛藤があった… 私はこのときの阿南陸軍大臣のお話にも感激をしました。本当に本土決戦の覚悟を披瀝(ひれき)されまして、そうして、もし本土決戦ということにならざれば、大和民族は全滅して青史、歴史に名を留めることこそ民族の本懐であると思うというお言葉も、阿南陸軍大臣のお言葉の中にはありました。 そのほかは、誰も発言を鈴木総理はさせませんでして、豊田軍令部総長の発言が終わりますというと、鈴木総理から「もう発言はございません。陛下の思し召しをお願い申し上げます」と申し上げたのであります。 天皇陛下は非常にたどたどしいお言葉でありましたが、もちろん原稿等はお持ちになってるのではありません。その場所で、本当に絞り出すように仰せられました。「先方の回答はあれで満足してよろしいから、速やかに戦争を終結するように」というお諭しがあったのでございます。 陛下は白い手袋をおはめになった御手で、何遍も両方の頬をお拭いになりました。陛下ご自身もお泣きになっておられたのであります。 太田文部大臣がおっしゃいましたが、岡田厚生大臣のごときは、椅子に座っておるのが堪え難くお泣きになったのを私は覚えております。誰も泣かない者はありませんでした。昭和20年8月の終戦直前、昭和天皇の「終戦のご聖断」が二度下された皇居・御文庫付属室の会議室。防空壕でもあった。昭和40年8月の撮影で、まだきれいだった。現在は手入れもされず朽ちており、保存を求める声が出ている 陛下は「陸海軍においてもし必要ならば、自分がどこに行ってでも説き諭す。軍隊は非常な衝撃を受けるであろうから、どこにでも行って自分は説き諭してもよろしい」と仰せられました。「必要であるならば、マイクの前に立って直接国民に諭してもよろしい」というお言葉もそのときにあったのであります。 陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣が立ちまして、陛下の思し召しを承ったことを申し上げまして、陛下はご退席になりました。 そうして、われわれ閣僚は総理大臣官邸に帰って閣議を継続して、ポツダム宣言を受諾ということを正式に決定して、その日の午後の閣議で終戦のご詔勅の審議に入ったのであります。終戦のご詔勅の審議につきましても、お話をしたいことは数々ございますけれども、「万世のために太平を開く」という言葉が中心であります。 そうして、これから陛下がそのお言葉の中に「これから先、再建は非常に困難であるが、自分も国民と一緒に努力をすると」いうお言葉があったことを表現するために「朕は、ここに国体を護持し得て、常に汝臣民と共にある」という言葉が、あのご詔勅にはあるんです。本当に陛下が国民の中に帰っていらしたような感じがしました。 終戦後二十五年、今日の繁栄を持ちました。これは、私は経済学的には自由貿易であるとか、アメリカの恩恵であるとか、蒋介石の恩恵もあるといろいろ言いますけれども、私は、たった一つ考えることは、終戦後、厳として天皇陛下がご存在になっていらっしゃるから、今日の日本の繁栄があるんだということを、私は確信をいたしておる次第でございます。註1 宮中で天皇を補佐した内大臣(内府とも。内務大臣とは別)が主宰して天皇の諮問機関としての重臣会議が置かれていた。総理大臣の選定や重要国事について意見具申した。この時は構成員は若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、近衛文麿、阿部信行、米内光政の各総理大臣経験者と鈴木貫太郎枢密院議長、木戸幸一内大臣。註2 東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎(陸軍)参謀総長、豊田副武(海軍)軍令部総長。註3 ヨシフ・スターリンソ連共産党書記長・人民委員会議議長(首相相当)、ヴャチェスラフ・モロトフ前人民委員会議議長、外務人民委員(外相相当)=肩書は当時。註4 日ソ中立条約のこと。昭和十六年四月にモスクワで調印、同二十五日発効。正式名称は大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国連邦間中立条約。相互不可侵と、一方が第三国の軍事行動対象になった際の他方の中立、満洲国とモンゴル人民共和国の相互不可侵などを定め、期間は五年。満了一年前までにどちらかが廃棄通告しない限り五年間延長することを規定した。註5 鈴木貫太郎内閣の文部大臣。二・二六事件まで平沼騏一郎が会長を務めて存在した政治団体「国本社」の幹事、平沼内閣(昭和十四年四―八月)で内閣書記官長を務めた。
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御聖断のインテリジェンス
有馬哲夫(早稲田大学教授) 先の戦争を1945年(昭和20年。以下西暦は下2桁のみを記す)8月15日で終わらせるうえで決定的だったのは、8月6日と8月9日の二度にわたる原爆投下だったという説がある。一方、8月9日のソ連の対日参戦だと主張する研究者もいる。だが、大方は両方があいまった結果だったと考えられている。 筆者はこれらの説のどれにも与しない。なぜなら、これらは必要条件ではあっても十分条件ではないからだ。 8月9日に、2発目の原爆が投下され、ソ連が参戦したことを知ったのちも、最高戦争指導会議のメンバーと昭和天皇は、降伏するにあたっての条件について議論していた。それは国体護持という条件だった。日本が敗戦を受け入れ、占領を受けてもなお、将来にわたって日本として、日本らしく存続していくために最低限必要なものが国体護持だと考えられていた。これが護られないならば、戦争を継続するつもりだと昭和天皇は8月12日に開かれた皇族会議で朝香宮に明言している。 ポツダム宣言を受諾しても、国体が護持していけると天皇が確信したこと、重臣たちがそれを支持して御聖断を下す状況が生まれたことこそが、8月15日に戦争を終わらせる決定的要因だった。つまり、天皇と木戸幸一内大臣、東郷茂徳外務大臣などの重臣にそのような確信を与えたインテリジェンスこそが終戦をもたらしたといえる。 さらにいえば、天皇および重臣たちがこのような確信を持つに至っていれば、原爆投下がなくともソ連の参戦がなくとも、日本が降伏していた可能性は大だったといえる。 本稿では戦争を終わらせたものは、原爆投下でもソ連参戦でもなく、ポツダム宣言を受諾しても皇室と国体の護持が可能であるというインテリジェンスだったという立場をとり、昭和天皇が御聖断を下すにあたってどんなインテリジェンスを得ていたのか、東郷などの重臣とどのようにそれを共有していたのか、それがいかに終戦に結びついていったのかという点に光をあて、終戦にいたる過程を新たに見直したい。先帝陛下に逐一届けられていたアメリカ側の議論 終戦時東郷の秘書をしていて昭和天皇とも接触があった加瀬俊一は、NHK国際放送ラジオジャパンの『終戦の条件を探れ』(91年8月15日放送)のなかで次のように証言している。以下のザカライアス放送とは、エリス・ザカライアス米海軍大佐がOWI(戦時情報局)に出向して行った対日ラジオ放送である。 「ザカライアス放送というものは、やはり日本全土の上陸作戦を行わないで、適当に終戦に持っていけないかということで、日本をそこに誘導する目的で一種の心理攻勢をしているんですね。もう一つの狙いは、日本にももののわかる人物がいるはずである、すべての人が戦争気違いになっているはずじゃない。特に天皇陛下はお立場から言っても、戦争を早くやめることを希望しているに違いないと考えたんですね。これは正しいですね。そこで、何とかしてこの放送を陛下のお耳に入るようにしたいと(筆者註・ザカライアスは)思ったんでしょう。実は、お耳にはいっているんです。入るようにしたのは我々です」(傍線筆者) ここで加瀬は外務省職員の自分たちがザカライアス放送を天皇の耳に入れるようにしたと述べている。彼が独断でしたとは思えないので、東郷が関知していたと考えるのが自然だ。 さらに加瀬は『日本がはじめて敗れた日』では次のように述べている。「このように、無条件降伏を緩和または解明せよと(アメリカ側の)議論が、漸増しつつ、我が方の傍受所を通じて流入した。これらの報道は、適切な分析ののち毎日遅滞なく政府要路に配布された。このうちには、もちろん、陛下も含まれていた」 加瀬はここで、無条件降伏を緩和せよ、あるいはそれが何を意味するのか明確にせよというアメリカ側の議論を紹介する報道が次第に増え、それが日本側の通信傍受施設に入ってきていたと述べている。そしてその報道は、分析されたのち文書にされて政府の重要な部署、なにより天皇に毎日配布されていたというのだ。とすると、ザカライアスの放送だけでなく国務長官代理のジョセフ・グルーが日本向けに出したラジオ声明も天皇や政府上層部に届いていたと考えていいだろう。 この傍受施設とは外務省ラジオ室のことだ。ここには日系二世などが職員として採用されていてアメリカ側のラジオ放送や無線の傍受、翻訳を行っていた。 とはいえ、ザカライアス放送やグルー声明が一足飛びに天皇や重臣たちに影響を与えたわけではない。 5月はじめ以降戦争終結を求める機運が天皇およびその周辺で高まり、6月8日の木戸による「時局収拾の対策試案」の提示があり、6月26日のポツダム宣言の発出があり、そのあと8月9日に第一回目の「御聖断」、8月14日に最終的「御聖断」が下されたが、ザカライアス放送とグルー声明は、これらの節目ごとに効果を発揮した。 また、実はこの敵性放送とともに、在外公館から送られていたインテリジェンスも重要な役割を果たしていた。なかでもとくに重要だったのはスイス公使加瀬俊一(前出の人物とは同姓同名の別人)からのインテリジェンスであった。これらのものが天皇と彼を支持する重臣たちに共有され、相乗的効果を発揮した結果、天皇の「御聖断」となったのだ。「無条件降伏」とは そこで、最初の節目であり、日本が終戦へ向けて大きく舵を切る契機となった6月8日の木戸の「時局収拾ノ対策試案」からみていこう。この試案は次のように始まっている。 「敵側の所謂平和攻勢的の諸発表諸論文により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以って其の主要目的となすは略(ほぼ)確実なり。」 つまり、敵側の発表や論文からみて敵の主目的は軍閥打倒であって、皇室を廃止する意向はないようなので、この際、和平を講じて皇室を護り、国体を護持したいというのが木戸の試案の趣旨だ。 敵の主要目的が軍閥打倒であるという彼の判断は、直接にはザカライアス放送でも流されたハリー・S・トルーマン大統領の次の声明から来ている。「軍隊の無条件降伏とは日本国民にとって何を意味するだろうか。それは戦争が終わるということを意味する。それは日本を破滅の淵に追い込んだ軍部の指導者の影響力が終わるということを意味する。(中略)無条件降伏は日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものではない」 注目すべきは「軍隊の無条件降伏」とし、日本政府および皇室の無条件降伏としていないことだ。つまり、無条件降伏するのは軍隊であって、日本政府でも皇室でもないといっているのだ。このことのダメ押しとして、無条件降伏とは軍部の指導者の影響が終わることだといっている。 明らかに、軍部と皇室および日本政府を区別し、前者に責任を負わせ、後者にはそれを負わせないという意図が読み取れる。これを木戸試案は汲み取ったのだ。 このあとの6月22日の会議で、天皇はきわめて強いイニシアティヴを発揮し、最高戦争指導会議のメンバーをしてソ連を通じて英米と終戦交渉を行う方針を決定させる。木戸と天皇の密接な関係を考えるとこれは連携プレーだったと考えられる。 軍部と皇室および日本政府を分け、前者に責任を負わせて、後者を護るというザカライアス放送の考え方は、これらを全く区別せず、両者が一蓮托生だという考え方より、事態を収拾する案として良案といえる。ソ連に仲介を要請した東郷外相の本心鈴木貫太郎内閣の外相就任の記者会見をする東郷茂徳=昭和20年4月10日、外相官邸 もちろん昭和天皇と木戸は敵性情報を鵜呑みにして行動を起こしたわけではない。彼らはザカライアス放送とは別の情報源からインテリジェンスを得ていた。それは、東郷が5月上旬から下旬にかけてヨーロッパの中立国の公使から得ていた「アメリカは日本の降伏条件をどう考えているか」というインテリジェンスだった。 これらのインテリジェンスはすべて、アメリカが無条件降伏原則を貫くことを告げていた。 日本側が終戦へ向けて舵を切るだけでも困難なのに、この上無条件降伏を飲むというのは、当時の状況ではほぼ不可能だった。そこで、天皇と和平派重臣は、日ソ中立条約を翌年に破棄することを4月24日に通告してきてはいるが、未だ中立国であるソ連を仲介として、無条件ではない、少なくとも皇室存続の条件付きの終戦を目指すことを考えた。このことは木戸試案の次の部分からうかがえる。 「相手国たる米英とは直接交渉を開始し得れば之も一策ならんも、交渉のゆとりを取るためには寧ろ今日中立関係にあるソ連をして仲介の労をとらしむるを妥当とすべきか」 東郷がソ連を仲介として終戦交渉を行う方針を立てたということは、しばしば誤った選択だったといわれる。この選択のため、8月9日までソ連の時間稼ぎにあったことが、原爆投下とソ連の参戦を招いたことはたしかだ。 しかし、ザカライアス放送やトルーマンの声明(のちにはグルーの声明が加わる)は一貫してアメリカは無条件降伏方針を変えないと強調していた。そして東郷が在外公館から得ていたインテリジェンスでもこれは確認されていていた。これを踏まえれば、彼は間違った選択はしていないといえる。 ザカライアス放送は、皇室や重臣たちに終戦を決意させたが、その一方で、在外公館からのインテリジェンスと相まって、ソ連を仲介としてそれを達成するという選択に彼らを走らせもしたのだ。 5月初めころには、ソ連に終戦交渉の仲介を要請するには遅すぎるし、また危険すぎる、と繰り返し発言してきた東郷がこの選択をしたのは、決して最善と思ったからではなく、消去法でこの選択肢しかなかったからだ。 東郷と同じ行動はスイス公使の加瀬俊一もとっている。OSS文書によれば、彼は45年5月11日にOSSの協力者となっていたフリードリッヒ・ハック(元日本海軍御用達のドイツ人武器商人)から接触を受けたとき、「ソ連を仲介として終戦を実現すると、ソ連のアジアでの権威が高まってしまうので、自分はアメリカと和平交渉がしたい」と申し出ている。 ところがこの3日後に本国の東郷宛に長文の電報を打ったときは、ヨーロッパ情勢やソ連の参戦の可能性について分析しつつ、ソ連を仲介として速やかに米英と終戦交渉に入ることを勧告している。 これは加瀬の外交官的二枚舌というより、東郷が陥っていたのと同じディレンマを示している。つまり、アメリカと直接交渉したいが、相手は無条件降伏しか認めず、皇室存続の確約もなかったため、国体護持という譲れない線をまもるためには、相当の危険を覚悟してソ連に仲介を頼むしかない。だが、本心ではアメリカと交渉したいので、ソ連の仲介が挫折する場合を考えて、OSSとのパイプも確保しておくということだ。 実際、終戦の最終段階では、加瀬はこのOSSとのパイプを最大限に利用して東郷、そして天皇に御聖断に必要なインテリジェンスを送る。国体護持をポツダム宣言から読み取った日本の外務省 このあと東郷ら重臣と昭和天皇に大きなインパクトを与えるのは、言うまでもなく7月26日に発出されるポツダム宣言である。これはこの2人だけでなく広く日本政府の上層部に知れ渡った。 注目すべきは、ザカライアス放送やグルー声明(7月21日ラジオで放送された。内容はほぼザカライアス放送と同じ)や在外公館からインテリジェンスを得ていたかどうかによって、この宣言の受け止め方が人によってかなり違ったということだ。松本俊一外務次官は次のように証言している。 「われわれにとっては(ポツダム宣言は)突然の様でもあり、又当然来るものが来た様にも感ぜられた。何故かというとポツダム会議前からザカリアス少将の名で、無条件降伏の条件らしいものを連日に亘って放送させていたが、今回発表せられた宣言は少しきつくはなっているが、大体同じラインのものだったからである」 松本の念頭にあったのは、とくに7月21日の放送だろう。この中でザカライアスはこういっていた。 「(前略)日本の指導者には選択肢が二つあります。一つは完全なる破壊とその後の強いられた和平です。もう一つは無条件降伏で、これには大西洋憲章に書かれている恩恵がともないます。この二つの選択肢のうち無条件降伏だけが日本の平和と繁栄をもたすことができるのです」 ここで言及されている大西洋憲章とは、敗戦国を含め、いかなる国であっても、領土保全と政体選択の自由が保証されるという原則をうたったものだ。 ポツダム宣言には明示的に大西洋憲章の恩恵について述べた箇所はない。それに相当するのは第12条の次の部分だ。 「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める」 日本国民が自由意思で平和的傾向の責任ある政府を樹立せよとは、命令形ではあるが、皇室の存続を含め、政体選択の自由を与えるということになる。ザカライアス放送とグルー声明を聞いていた、そして皇室存続のことが頭にあった松本にとっては、ポツダム宣言は「少しきつくはなっているが、(21日の放送内容と)大体同じラインのものだった」と読めたのだ。 松本を含む外務省幹部は、このほかにもポツダム宣言を肯定的に受け止めさせる決定的なインテリジェンスを得ていた。 スイス公使加瀬は、現地にいる国際決済銀行勤務の北村孝治郎と吉村侃に依頼して、やはり国際決済銀行幹部でスウェーデン人のペール・ヤコブソンを使ってOSS幹部のアレン・ダレスにアメリカが日本の降伏条件についてどう考えているかを7月14日と15日の両日にわたって聞き出させていた。そしてこの会談の要旨を7月21日に東郷宛に打電していた。 そのポイントを要約すると次のようになる。 1.イギリスは、ポツダム会議において、日本の皇室の維持に肯定的意見を述べるだろう。 2.アメリカは故意には皇居を爆撃していない。 3.アメリカはこれまでプロパガンダのなかで皇室と憲法を攻撃対象とすることはなかった。 4.すみやかに無条件降伏を受け入れれば、それが皇室および国体を確保するベストチャンスになる。 5.アメリカ世論に好印象を与えるもっとも確実な方法は、天皇が無条件降伏を受け入れるというリスクを取ることだ。 この電報は7月23日に東京の東郷に届いている。つまり、ポツダム宣言が発出される3日前だ。 東郷をはじめとする外務省の幹部は、ザカライアス放送とグルー声明とこのインテリジェンスによって、アメリカは明示的に皇室存続を条件として提示こそしないが、ポツダム宣言に「日本の降伏条件を定めた声明」という名称を与えていること、宣言のなかで日本に政体選択の自由を認めていること、そして皇室に言及していないことから、皇室を存続させる意向を持っていると判断した。ポツダム宣言「黙殺」声明を出させたのはポツダム宣言「黙殺」声明を出させたのは 少なくとも、ザカライアスがいうように、最後まで戦って否応なく降伏するよりは、統治機構がまだ機能しているうちに降伏して、大西洋憲章にある、政体選択と領土保全の恩恵を受けた方がいい、また、たしかにリスクはあるが、当時の状況下では、ダレスのいうように、天皇がこのリスクを取ること、その姿勢を連合国側に示すことが、皇室を存続させるもっとも確実な方法だと彼らは思った。 したがって東郷はポツダム宣言を極めて肯定的に受け止めた。彼は『時代の一面』で次のように語っている。 「予は米国放送による本宣言を通読して第一に感じたのは、これが〈我等の条件は左の如し〉と書いてあるから、無条件降伏を求めたものに非ざることは明瞭であって、これは大御心が米英にも伝わった結果、その態度を幾分緩和し得たのではないかとの印象を受け、また日本の経済的立場には相当の注意が向けられていると認めた」 そこで彼は7月27日の最高戦争指導会議において「この線(ポツダム宣言)に沿って受諾然るべし」と主張し、天皇には「ことこれ(ポツダム宣言)を拒否するがごとき意思表示をなす場合には、重大な結果を惹起する懸念あり」と内奏した。 加瀬や松本の証言から、昭和天皇が東郷、木戸と情報を共有していたことが確かなのだから、天皇も東郷と同じようにポツダム宣言を受け止めたと考えていいだろう。 にもかかわらず、彼らは直ちにポツダム宣言を受諾しようとしなかった。なぜなら、すでに駐ソ大使佐藤尚武を通じてソ連に終戦交渉の仲介を要請していたからだ。ソ連は日本の和平案は具体性を欠いていると指摘はしたが、拒否はしていなかった。 したがって、日本はスターリンやモロトフなどソ連のトップがポツダムから戻るまで待って、要請が受け入れられるのか、拒否されるのかはっきりするのを待たなければならなかった。だから東郷たちは、この宣言についてはコメントせず、事態を静観する方針を取った。 しかし、ザカライアス放送やグルー声明を無視していた陸軍関係者と特攻隊の責任者である大西瀧次郎中将(海軍軍務局次長)のポツダム宣言の受け止め方は東郷や天皇とはまったく違っていた。 これらの人々は、ポツダム宣言に対しはっきり拒否の姿勢を示さなければ、日本軍に致命的な士気の低下をもたらすとして、鈴木総理大臣に圧力をかけ、結局ポツダム宣言を「黙殺」するという声明を出させた。これが原爆投下とポツダム宣言拒否を理由とするソ連の参戦を招く結果となり、東郷の悪い予想は的中した。最後の暗闘 日本がポツダム宣言を「黙殺」すると発表したことを知って、スイス公使の加瀬はなんとしても、この宣言が皇室の存続を否定するものではないことを理解させて、この宣言を受諾させ、終戦に持ち込もうと考えた。 そこで、7月28日の朝、彼はスイスのバーゼルにいる吉村をヤコブソンのもとへ送って、彼を通じて現地のOSSに次の問に対するアメリカ側の答えはどのようなものになるかと再度確認させた。(1)アメリカの意図は日本国民を滅亡させることか(2)天皇は戦争犯罪者とされるか(3)ポツダム宣言では「日本軍」だけが無条件降伏することになっているが、その通りか――。ヤコブソンは最初の二つには否、あとの一つにはしかりと答えた。 吉村は喜び勇んでバーゼルからスイス日本公使館のあるベルンに向かい、その日のうちに加瀬にヤコブソンの回答を報告した。加瀬はこれと7月21日のグルー声明を踏まえて東郷に7月30日付で次のような「ポツダム三国宣言に関する観察」を送った。 (一)、独に対する態度との顕著なる相違 独に対しては今回の如き全般的語調、形式をもって相当仔細に条件を附すると共に兎に角一定の保証を与へつつ呼び掛けをなしたること就中 イ・皇室及び国体には触れ居らざること ロ・日本主権を認め居ること ハ・日本主権の行はるる範囲たる日本領土の一部を認め居ること、要するに日本民族が死をもって擁護しつつある国体の下に国家生活を営み行く基礎を認むる考えなること (二)、所謂無条件降伏の文句を用ふるに当り右は日本軍に就きてであり日本国民又は政府に就きてにあらずと云ふ印象を与へ彼等としては余程考へたりと認められること此の外我の面子保持を色々なる点で考へたる形跡あること。 これはモスクワにいる佐藤にも送られた。そして、佐藤は8月4日、もはやソ連による仲介をあきらめ、ポツダム宣言を受諾して英米に降伏することを東郷に対し電報を送る際、加瀬の電報に言及し、彼のポツダム宣言についての解釈はきわめて当を得たもので、自分も全く賛成である、ついては、もはや一刻の猶予もならないので、即座にポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせるようにと述べた。 にもかかわらず、東郷も、そして天皇もまだ動けなかった。ソ連に仲介を依頼した以上は、はっきりした返事をもらわないうちは、信義上、勝手に英米にポツダム宣言受諾による降伏を伝えることはできないと考えたのだ。 これに対してソ連は背信をもって応えた。8月9日、アメリカが2発目の原爆を投下したことを知ったのち、日本のトップはソ連の宣戦布告を受け取った。東郷も天皇ももはや、ソ連の返事を待つ必要はなくなった。 しかし、ただちにポツダム宣言受諾を決定するために同日緊急会議を開いたところ、国体を護持できる見込みが立たないかぎりは受諾できないという議論になった。そして、国体護持のための条件として次の四つの条件があげられた。 (一)(ポツダム宣言は)日本皇室に関することを包含せず (二)在外日本軍隊は自主的に撤収の上復員す (三)戦争犯罪人は日本政府において処理すべし (四)保障占領はなさざるものとす この条件論争において、天皇や木戸と情報を共有していた東郷と米内光政海軍大臣は(一)のみしかアメリカ側に要求できないと判断し、これだけを条件として降伏することを主張した。 これに対し、アメリカ側の意向を知らない陸軍大臣阿南惟幾と陸軍参謀総長梅津美治郎らは四つすべて通さなければ国体護持はできないので降伏に反対するとした。 一条件派と四条件派が同数で、議論が暗礁に乗り上げたとき、鈴木貫太郎総理大臣が天皇陛下のご聖断を仰ぎ、それによって決したいと発言した。 東郷や木戸とインテリジェンスを共有している天皇は、「自分は東郷に賛成である」として一条件のみで国体が護れるとし、ポツダム宣言を受諾し戦争を終わらせることを決定した。 このあと、この日のうちに、ポツダム宣言が天皇の統治の大権を変更する要求を含んでいないという了解のもとにこれを受諾するという電報が、スウェーデンを通じてソ連に、スイスを通じてその他の連合国に打たれた。 もし、四条件を連合国側に提示していたなら、ほぼ確実に終戦交渉は流れてしまい、それを陸軍の強硬派に利用されて、本土決戦を覚悟しなければならなくなっていたことだろう。バーンズ回答にもご確信は揺るがず 8月12日に天皇の大権は占領軍総司令官の権限の下に置かれるとして日本の条件に修正を加えるとアメリカの国務大臣ジェイムズ・バーンズが回答してきた。 昭和天皇はこのような修正があっても国体護持は可能だと考えていた。これについて懸念を持ち、天皇に翻意を促すためにやってきた阿南に「阿南心配スルナ朕ニハ確証ガアル」といったとされる。 この前か後かはわからないが、同日天皇に会見したときの模様を木戸は次のように語っている。 「天皇は之(阿南らがバーンズ回答を拒否するよう主張していること)に対し、即座にそして率直に次のような趣旨のことを仰せられました。〈連合軍の回答の中に《自由に表明されたる国民の意思》あるのを問題にして居るのであると思うが、それは問題にする必要はない。若し国民の気持が皇室から離れて了って居るのならば、たとえ連合軍側から認められても皇室は安泰と云うことにならない。反対に国民が依然皇室を信頼して居て呉れるのなら、それを国民が自由に表明することによって、皇室の安泰も一層決定的になる。これらの点をハッキリ国民の自由意思の表明に依って決めて貰うことはよいことだと思う〉」 天皇は、グルーやザカライアスが、ラジオでいっていたこと、つまり、日本が敗戦を受け入れても大西洋憲章に基づいて政体選択の自由が認められると強調したことで、自分に何を伝えたかったかを理解していたようだ。 さもなければ、ポツダム宣言の第12条すなわち「日本国民が自由に表明した意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立されれば連合軍の占領軍は直ちに日本から撤退する」を自分に引き付けて「自分が国民から支持されれば皇室は存続できる」と確信をもって解釈することはできなかっただろう。 この翌日さらにスウェーデン公使岡本が次のような電報を送ってきた。 「(前略)日本の保留承認の可否に付米英共に政府部内において賛否両論あり最初の米側『テキスト』は天皇の地位を連合軍の指導下に認むる旨の文句あり、又英側において起草せるものには天皇の地位を認めつつもonly until further noticeなる制限を附せりソ連は最も強硬に文字通り無条件降伏を主張し之が為三六時間に亘り四国間に極力折衝せる結果結局天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統率するものなく連合軍は之が始末になお犠牲を要求せらるべしとの米側意見が大勢を制して回答文の決定を見たるものにて回答文は妥協の結果なるも米側の外交的勝利たりと評し居れり(中略)なお昨日来のBBCその他敵側放送は連合国は日本の申し出を条件附にて受諾せるものなりと述べ〈アクセプト〉なる語を使い居れるは注意を要す」 要するに日本軍を武装解除する上でも、その後の占領統治においても天皇は必要なので、アメリカは天皇を残すことを考えていて、この意見が四国間で大勢を占めているということだ。それを「米側の外交的勝利」とさえいっている。 松本はこの電報のコピーが鈴木首相と木戸内大臣に渡されているので、天皇も読んだと思うと証言している。 このようなインテリジェンスが積み重なって天皇があの「御聖断」を下すためのインテリジェンスになったのだ。 8月14日に最終決断した際も、天皇は、「自分は、先方は大体我方の言分を容れたものと認める。第四項(国体護持)に付いては東郷外務大臣のいう通り日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持っているものとは考えられない」と、皇室が維持でき国体が護持されるという確信を示している。 天皇はこれより以前に伊勢神宮が空襲に遭い、三種の神器が失われること、あるいは大本営がアメリカの空挺部隊によって占拠される恐れを口にしていた。したがって天皇は重臣たちに敗戦を受け入れさせるために思ってもいないことをいったのではなく、ポツダム宣言受諾によっても国体が護持できると確信して「御聖断」を下したと考えていいだろう。皇室を守り抜いたもの 御聖断によって戦争が終わってから1か月もたっていない9月6日、トルーマン大統領はマッカーサーに次のような指令を出した。 「国家を統治する天皇と日本政府の権威は、連合軍総司令部最高司令官としての貴下の下に置かれる。貴下はその権威を任務を遂行するためならばいかようにでも行使できる。われわれの日本との関係は約束に基づくものではなく、無条件降伏に基づくものである。貴下の権威は至上であるから日本人の側からその範囲について質問を受ける必要はない。(中略)ポツダム宣言のなかに書かれた趣旨は効力を持つ。しかしながら、この文書の結果によってわれわれが日本と双務的義務を負っているとみなすがゆえにそれが効力を持つのではない。それはポツダム宣言が日本と極東の平和と安定につい誠実に述べられた我々の方針の一部をなしているがゆえに尊重され効力を持つのである」 たしかに8月12日にアメリカ側が「降伏とともに天皇の大権は占領政策を行う最高司令官の下に置かれる」というバーンズ回答を送ってきたとき、日本側はこの妥協案を飲んだ。 しかし、ポツダム宣言が条件提示であった以上、最高司令官といえども条件は守らなければならない。約束なのだから日米双方が守る義務がある。しかも条件は日本側ではなくアメリカ側が定めたものだ。 にもかかわらず、とくに引用の後半で述べているように、トルーマン大統領は、これは約束ではないのだから最高司令官はこれに縛られなくともいいとしている。そして最高司令官の権限がどの範囲まで及ぶのかという日本人の質問は受ける必要はないとまでいっている。ポツダム宣言を受諾し、占領を受け入れた日本人から見ればこれは重大な背信行為だ。 このような事実にもかかわらず、マッカーサーは皇室を廃止しようとはぜず、天皇も退位させようとはせず、むしろ占領統治と占領政策遂行のために最大限に利用した。天皇が国民と一体化しており、天皇という心の拠り所なしでそれらを行うことは困難だということを理解したからだ。 マッカーサーは約束を守ったのではなく、彼にとって最良と思われることをしたのだ。 昭和天皇は、多くの重要なインテリジェンスを得つつも、ダレスのいったように、自らリスクを冒し、明治憲法に反する超法規的「御聖断」まで下して、日本を終戦に導いた。そのような天皇だからマッカーサーは排除できなかった。天皇は、アメリカ側の空約束によってではなく、自らの行いと国民が寄せた信頼によって、皇室を守ることができたのだ。ありま・てつお 昭和28(1953)年、青森県生まれ。早稲田大学卒業後、東北大学大学院文学研究科修了。東北大学大学院国際文化研究科助教授などを経て現職。アメリカの占領政策と日本のマスメディアの関係を明らかにする研究に注力。著者に『アレン・ダレス 原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』『「スイス諜報網」の日米終戦工作:ポツダム宣言はなぜ受け入れられたか』『歴史とプロパガンダ―日米開戦、占領政策、尖閣問題―』など多数。
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テーマ
戦後日本の宿命を背負った安倍談話
「先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」。安倍首相の戦後70年談話は、植民地支配と侵略を認めた歴代内閣の立場を継承した。過去を受け継ぎ、未来へ引き渡すという首相の決意は、戦後日本の宿命とも言える「反省」と「謝罪」への区切りでもある。私たちは談話の意味をどう受け止めるべきか。
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記事
落ち着くべきところに落ち着いた「安倍談話」
「安倍談話」が発出された。その輪郭は、既に浮かび上がっていた。 『朝日新聞』記事(電子版/八月十二日配信)によれば、安倍晋三総理は、自民党山口県連会合での挨拶の中で、「安倍談話」に関連して、「先の大戦に対する反省と戦後の歩み、これから日本がどういう国になっていくかを世界に向けて発信していきたい」と語ったと報じている。この記事によれば、安倍総理は、「日本はこの70年間、ひたすら平和国家としての歩みを進めてきた。その歩みは決して変わることはない」と強調した上で、「先の大戦に対する深い反省のもと平和を守り、アジアの繁栄のために力を尽くしてきた。私は日本の歩みを誇りに思うし、今後も勝ち得た信頼のもとに世界に貢献していかなければならない」と述べた。「安倍談話」は、先刻の有識者懇談会報告書の線に落ち着く。即ち、それは、中国は「苦虫を噛み潰した評価」、韓国は「大いなる不満」、米国を含む他の国々は「概ね歓迎」という反応を出すと予想できる線に落ち着く。そのように予感させる材料は、事欠かなかったといってよいであろう。 筆者は、特に満州事変以後の軌跡に関して、「侵略」の認識と「反省」の言葉は入るかもしれないけれども、特定の国々に対する「謝罪/詫び」の言葉は表明されないのであろうと観ていた。そして、筆者は、この辺りの記述に割かれる紙幅は、「安倍談話」全体の10パーセントぐらいの割合に留まり、「談話」全体の80パーセントの文言は、特に米英豪蘭四ヵ国や東南アジア諸国との関係を念頭に置いた「和解の実績」の説明、さらには「積極的平和主義」の信条の表明のために費やされるであろうと読んでいた。「アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議」や米国連邦議会上下両院合同会議での安倍総理演説を経た「流れ」を凝視するならば、それが「常識な判断」というものであろう。 ところで、この種の談話を評価する上で考慮しなければならないのは、国際政治が「お手々、つないで…」という類のものではないとすれば、談話発出に際しても、「どこの国との関係を重視したいか」という意図は当然に反映されるのであろうということである。 「安倍談話」に関していえば、筆者は、その策定に際しては、特に米英豪蘭四ヵ国との「調整」が水面下で進んでいたかもしれないと想像する。日本にとっては、この四ヵ国は、前の大戦では「まともに戦った相手」であるし、安倍内閣下の「地球儀を俯瞰する外交」の文脈では最も重視されている国々である。「安倍談話」策定に際しては、特に中韓両国との関係への影響だけが過剰に議論されていたけれども、実は第一に考慮すべきは、こうした米英豪蘭四ヵ国との関係であった。これらの国々との「敵対から友情へ」という物語を損ねない限りは、「安倍談話」における一つの隠れた目的は達成されていたことになるのではないか。実際、「安倍談話」では、「ですから、私たちは、心に留めなければなりません。…米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を」や「それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります」という「敵対から友情へ」の文言が二度、登場するのである。「安倍談話」もまた、「地球儀を俯瞰する外交」の文脈で展開されてきた対外政策路線における一つのピースでしかない。 そもそも、「村山談話」それ自体もまた、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国」という文言によって、「どこの国との関係を重視したいか」が示唆されていたのである。「村山談話」における力点が特に中国や朝鮮半島との関係に置かれていたのは、現在となっては明白であろう。実際、「村山談話」には、「米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います」とあるけれども、それは、その文言から判断する限りは、決して米英豪蘭四ヵ国との「和解」を念頭に置いたものではかった。中韓両国が「村山談話」の継承を折々に要求した際、そこで要求されていたのは、たんなる「歴史認識」の継承ではなく、「中韓両国に配慮した対外姿勢の継続」であった。こうした「村山談話」の性格を理解することは大事であろう。 その意味では、「安倍談話」は、事前の侃々諤々たる議論にもかかわらず、落ち着くべきところに落ち着いたものになったという評価になるのであろう。そのこと自体は、「諒」とせられるべきものであろう。
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記事
戦争責任を認めるとはどういうことか―その「未来志向」的な在り方
『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より山田寛人(朝鮮教育史研究家)責任という概念のあいまいさ 戦争責任と言えば、過去に起きた具体的な事実に基づいて、どこにどのような責任があるのかということを論じるのが一般的である。しかし、本稿ではそのような論じ方はしない。日本の戦争責任に関わる事例を取り上げる前に、まず「責任とは何か」という根本的な問題を素朴な論理的思考によって追究することで、日本の戦争責任について考えるための手がかりとしたい。 われわれは普段の生活の中で何か問題が起きたときに、比較的軽い気持ちで責任が「ある/ない」と言う。しかし、少し考えてみればわかるように、責任があるのかないのか、ということは簡単には決められない。 例えば、「Aが手に持ったナイフでBの胸を刺した結果、Bが死亡した」という事件があったとする。この情報だけであれば、Bが死んだ責任はすべてAにあるように見える。 ところが、そのナイフは元々BがAを刺すためにもっていたもので、Bに殺されそうになったAがそのナイフを奪い返して自分の身を守るためにBを刺したのかもしれない。そうするとAの正当防衛が認められそうである。しかし、Bは自分の家族をAに殺されたことに対する恨みをはらすためにAを襲ったのかもしれない。 このようにBが死亡したという事実は確かなものであったとしても、その原因は無限にさかのぼっていくことができてしまう。 そんなことでは収拾がつかなくなるので法律というものがあって、それに則ってどこにどれだけの責任があるのかないのかを、裁判官が判決という形で決めていくのである。つまり、判決を書くのも人間なら、判決の根拠となる法律という約束事をあらかじめ決めているのも人間なのである。人間がすることである以上、絶対に正しいということはあり得ない。 現に、裁判官によって判決内容が異なることは多々あるし、判決の根拠となる法律自体も人の手によって定められたものであるため、国や時代が変わればその内容も変化する。したがって、判決という形で明らかにされる責任の所在(有罪/無罪)とその度合い(量刑)は、「とりあえずそういうことにしておこう」という程度のものでしかないのである。 「責任を問う」という行為について、本稿では、三つの段階に分けて考えていく。①どこにどれだけの責任が「あるのか」について、たった一つの解を求めることは原理的に不可能である②しかし、さしあたり、どこにどれだけの責任が「あることにするのか」を決める必要がある③ということは、何らかの事実に基づいて責任の所在を明らかにすること以上に、責任の所在を決める意志がより重要だということになる―。このようにして責任という概念について整理したうえで、それに基づいて日本の戦争責任をどう考えていくべきかについて論じる。責任の所在と度合いは相対的 責任の所在やその度合が問われる場合、一般的には、その責任が問われる原因となった行為の結果に基づいて、何らかの判断が下される。ところが、その原因となった行為の結果が明白な事実であったとしても、その事実に対する評価は一定しないのが普通である。終戦から70年を機に日本の宰相として初めて米上下両院合同会議で英語で演説する安倍晋三首相=平成27年4月29日 例えば、通りを渡ろうとした歩行者が車にはねられて死亡したとする。この場合、その車が制限速度を超える速度で走行していたのだからという理由で、運転者に責任があったと判断されるかもしれない。一方、歩行者が横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしていたのだからという理由で、歩行者にも責任の一部があったと判断されるかもしれない。 また、その車には急病人が乗っていて一刻を争う事態だったために制限を超える速度で走行していたのかもしれないし、その道の向こう側の池で人がおぼれそうになっているのを見つけた歩行者が、急いで横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしたのかもしれない。この場合、運転者にも歩行者にも情状すべき点があったということになり、責任をすべて押し付けられるかどうかは、微妙なものになる。 さらに、車にはねられた人はケガで済んだ可能性もあったのに、その人を運ぶ救急車が渋滞に巻き込まれたために手遅れになって死に至ったのかもしれないし、運び込まれた救急病院の医師の技術が未熟だったために死に至ったのかもしれない。この場合、死なせた責任は、どこまで運転者にあったことになるのか。これもまた判断が難しい。 非常に単純な例えではあるが、このように考えてみると、責任の所在や度合を正確に特定することは不可能に近いということがよくわかる。仮に、その結果に至る経緯を「責任判定機」にすべて入力して、責任の所在と度合を出力したとしても、その判定結果にすべての人が一〇〇%納得するということはあり得ないだろう。 責任というものは、その結果をもたらした原因をたどっていけば自動的に明らかになる、というような性質のものではないのである。 責任につながる原因は無限にさかのぼることができるからである。さらに、無数の原因のうち、どれを採用するのかは、法律のような約束事に基づいて決めるわけだが、その法律自体が相対的なものであって普遍性を持たない。 例えば、東京裁判が客観的で公平な裁判だったと考える人はあまり多くはないだろう。東京裁判を例に挙げるまでもなく、どんな裁判でも根本的には同じことである。なぜならば、そもそも責任の所在と度合を決める法律自体も時代や場所によって異なる相対的なものであり、その判決結果に納得いかない人の目から見れば、その法律はどうしても恣意的なものに見えてしまうからである。 すべての人が納得する約束事にしたがって責任の所在と度合が決められるのが理想なのだろうが、そういうことは現実にはあり得ない。だからと言って、責任を明らかにする必要がなくなるわけでもない。 重大な結果が生じてしまったのであれば、それに対する責任を追及するのは当然である。何が起きても責任を追及しないということになれば、あらゆる犯罪行為が許され、誰も責任を取らなくてよいことになり、結果として社会秩序が維持されなくなってしまうからである。何のために責任を問うのか 何のために責任を問うのか だからこそ、「どこにどれだけの責任があるのか」を追及すること以上に、「何のために責任を問うのか」ということが重要になるのである。 つまり、責任を問うことの意味は、過去にさかのぼってその原因となった行為を特定して「正しい」判断を下すということではなく、責任を問う側と問われる側の未来の関係性をどのようなものにしていくのかというところにある。オランダ・ハーグで行われた日米韓首脳会談で、韓国の朴槿恵大統領は安倍首相の韓国語でのあいさつを徹底的に無視した=平成26年3月25日 責任とは、過去に起きた事実をめぐる問題であるというよりも、未来に対する意志をめぐる問題なのである。責任が「あるのか/ないのか」ではなく、責任を「あることにするのか/ないことにするのか」を問うのである。 「あることにする」などというと、ずいぶん乱暴で無責任な言い方だと思われそうだが、そうではない。その責任の根拠となる事実を追求することや、そのための判断基準を設定すること自体を否定しているわけではない。むしろ、そうした作業を前提にして「どこに責任があることにするのか」を考える必要がある、ということなのである。 これまで述べてきたことは、一般的な裁判について考えてみればわかりやすい。「被害者」は、「加害者」に対して無限に責任を追及するかもしれない。「加害者」は、可能な限りの弁明をするかもしれない。前述した交通事故の事例のように、理屈をこねくり回せば、そうした追及や弁明はいくらでもできてしまう。双方の言い分をすべて受け入れて、誰の目から見ても公明正大な裁きを下すことは原理的に不可能なのである。 だからと言って、裁判そのものを否定して「判決を下すべきではない」ということにはならない。不完全ながらもどこかで「線引き」をしてそれなりの判決を下す必要がある。それは、特定の正義を実現するためではなく、その社会に生きる人たちがある程度落ち着いて暮らせるようにするためである。韓国では反日行為が収まらない(AP) つまり、過去に起きた事実に対して絶対的な正義に基づいた公正な判決を下すことではなく、可能な範囲内での暫定的で相対的な正義に基づいた適度に公正な判決を下すことによって、よりマシな社会を未来に向けて構想していく。それが裁判の目的なのである。「加害者」と「被害者」のあいだ ようするに、責任は客観的・普遍的・絶対的な正義によって決まるというものではない。戦争責任の主体もまた、切れ目のない連続体をなしている。われわれが「常識」的な判断に基づいて分けて考える「加害者」と「被害者」の間にも実は切れ目はない。 例えば、過去の歴史に関して、日本人は「加害者」であり、韓国人は「被害者」であるという見方がある。しかし、「加害者」とされる日本人の中にも原爆や空襲などによって犠牲になった民間人がいる。軍人も対外的には「加害者」であるかもしれないが、対内的に言えば公務を遂行させられた結果、戦死・餓死・病死・負傷した「被害者」としての側面も否定できない。 一方、「被害者」とされる韓国人の中にも日本軍の兵士として戦った軍人がいる。日本による「植民地支配」と言われるが、それが三十五年間続いた背景には、結果としてそれを支えることになった韓国人のさまざまな働きがあった。 つまり、「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という見方は原理的には不可能なのである。このようなことを言うと、日本の戦争責任を相対化して責任逃れをしようとしているのではないか、という批判を受けそうである。だが、すでに述べたように、責任の所在や度合いを決めるための約束事自体がそもそも相対的なものなのである。だからこそ、逆に「日本の戦争責任はゼロである」ということもできない。 広島平和記念資料館を訪れると、日本による対外的な加害の歴史に関する展示を見せられる。自分たちは一〇〇%の「被害者」であると思っている被爆者や犠牲者の遺族からすれば、ありえない展示である。なぜ、「被害者」である自分たちの側にも責任があることになるのか、まったく理解できない。それは当然だろう。実際にも、そのような展示に対する反発や批判の声は強かったようである。 しかし、結果として、あの戦争を止めることができなかったという点においては、非常に小さくて間接的であるとしても、原爆による犠牲者も含めて「日本人全体に戦争責任があった」ということになる。 それとは逆に、「加害者」としての側面が強調されがちな戦争指導者を追悼することに対しては、隣国から批判の声が上がる。それは対外的な戦争責任の面からである。かれらの目から見れば日本の戦争指導者は一〇〇%の「加害者」なのである。 さらに、戦争指導者は対内的な責任も負うべき立場にあったので、かれらの命令に従って任務を遂行した結果、戦死・餓死・病死・負傷した軍人や、空爆や原爆の犠牲となった民間人からみれば、戦争指導者は一〇〇%の「加害者」であり、自分たちは一〇〇%の「被害者」ということになる。韓国同様反日を喧伝する中国の習近平国家主席。2年半ぶりの首脳会談で握手の際にそっぽを向いた=平成26年11月9日、北京・人民大会堂 しかし、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏が「戦争は軍部が国民に押し付けたというが、うそだ。国民のかなりが戦争したかった」(47NEWS平成二六年六月二一日配信)と述べているように、戦争指導者を一〇〇%の加害者と見るのには無理がある。 そのように考えるのであれば、「A級戦犯として処刑されたかたがたは、国家全体によってなされた行為をみずからの命にかえて責任をとった人たちということになり、国家として当然弔うべき人たちということになる」(東郷和彦『歴史と外交』講談社)。追悼と記憶の二面性追悼と記憶の二面性 戦争責任を考えるうえで、過去を記憶することの意味を問うこともまた重要である。 現代社会では「戦争という悲惨な過去の体験を忘却せず次世代に伝えていくことが、平和な社会をつくっていくための土台となる」という考え方が共有されている。特に国際社会では、この考え方を否定するような言動をとれば即座に猛烈な批判を受けることになる。とはいえ、素朴な疑問として、そもそも、なぜ、過去を忘却しないことが平和につながるのか。 それに関して平成七年の村山談話では「私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません」と説明されている。確かに「過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう」というのは、そのとおりである。悲惨な過去の体験を是非もう一度あじわいたいという人はあまりいないからである。中国の尖閣諸島への領土的野心は強い。公船(写真奥)に日本領海を侵犯させ「ここはわが国領海だ。退却せよ」と海上保安庁の巡視船に呼びかける(同庁提供) 先に述べたように「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という考え方をせず、「被害者」の中の加害性や、「加害者」の中の被害性という、複雑な実態を踏まえたうえで、死者を追悼したり、過去を記憶にとどめて次世代に伝えたりするというのであれば、それは平和への祈りや誓いになるかもしれない。 しかし、それとは逆に、「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という考え方に基づいて、死者を追悼したり、過去を記憶したりする態度は、まったく別の方向にむかう可能性をはらんでいる。 自分たちの側が一〇〇%の「被害者」であれば、危害を加えた相手は一〇〇%の「加害者」であるということになり、場合によっては復讐を正当化することになる。逆に、自分たちの側が一〇〇%の「加害者」にされるのは不当であるという考え方を拡大していくと、自分たちが行ったはずの加害の事実がなかったということになり、責任を取らないことを正当化することになる。 「被害者」側の視点から過去の記憶を留めるために建てられた施設を、「加害者」側の人たちが見学する時に感じる複雑な思いの原因は、過去の記憶のこうした二面性に起因している。韓国の独立記念館や西大門刑務所歴史館を訪れる日本人の中には、日本が過去にこんなにひどいことをしたのかと感じて恥じ入る人もいれば、ここまで被害を強調する生々しい展示が必要なのかと疑問や反発を感じる人もいるだろう。あるいは、その二つが入り混じった複雑な思いを抱く人もいるだろう。 戦没者を追悼する施設の場合には、それとは逆のことがいえる。確かに一〇〇%の「加害者」はいないのだから、いわゆる「戦犯」とされた人や軍人も追悼の対象にすべきである。しかし、その人たちの加害性を一切認めずに死者の功績を強調して顕彰すれば、疑問や反発を感じる人も出てくる。一〇〇%の「加害者」ではないからといって、加害責任ゼロということにはならないのである。 平和のためにという思いを込めて、過去の悲惨な戦争の記憶を伝えたり、戦没者を追悼したりしているのに、そのことが逆に憎しみの連鎖を生み出す原因になってしまうのは、「加害者」側、「被害者」側の双方が「一〇〇%の加害者」「一〇〇%の被害者」という極端な考え方にとらわれているからなのではないか。 「平和のために戦争をする」という矛盾の根は、こういうところにあるのかもしれない。 過去の事実ではなく未来への意志 ではどうすればよいのか。それについては、一般的な責任問題を取り上げて先に述べたとおりである。戦争責任もやはり、過去に起きた歴史的事実をめぐる問題ではあるが、それ以上に、未来に対する意志をめぐる問題として考える必要がある。 そこで出てくるのが「未来志向」である。しかし、この未来志向という言葉は物議をかもしやすい。例えば、日本と韓国の間で歴史認識をめぐる議論をする中で未来志向という言葉が使われる場合、その意味するところは両者にとって大きく異なってくる。 韓国側にとって未来志向とは、「日本側が過去の歴史について侵略と加害の事実を認めたうえで」めざすべきものという意味になる。日本側にとって未来志向とは、「韓国側が過去の歴史について謝罪を要求するのをやめたうえで」めざすべきものという意味になる。 この場合、両者ともに、「正しい」歴史認識や、「明確な」責任というものが存在するはずだという錯覚にとらわれてしまっている。つまり、両者ともに未来志向という言葉を使いながら、「正しい」歴史認識という「過去志向」にとらわれている。安倍首相の米上下両院合同会議の演説では、議員たちの立ち上がっての拍手が14回を数え、日米の結束を見せ付けた(共同) 未来志向は過去志向とは考える順序が逆になる。過去志向では、過去にこのような事実があったからこのように認識するべきである、このような責任が「あるはずである、ないはずである」と考える。一方、未来志向では、責任が「あるのか、ないのか」という事実とそれをめぐる評価の問題ではなく、両国同士でどのような未来を創っていくのかというビジョンが先にあって、そのビジョンを実現するという目的のために過去の歴史に対する責任を「あることにするのか、ないことにするのか」という意志の問題になる。 次世代の党の和田政宗参院議員が提出した、村山談話における「植民地支配」と「侵略」の定義についての質問主意書に対して、安倍晋三内閣は二十七年三月二十日に「『植民地支配』及び『侵略』の定義は様々な議論があり、答えることは困難だ」とする答弁書を決定した。 定義は困難なのだから、戦争責任の有無も、謝罪すべきかどうかについても即座には答えられないということである。質問者としては大いに不満だろうが、この答弁書には不備がない。問題は「だったらどうするのか」というところにある。 「正しい」歴史認識に基づいて戦争責任の有無を決めることなど不可能だというのは、未来志向で考えていくための前提にすぎない。その前提に基づいて、どこにどれだけの戦争責任が「あることにするのか」を考えていくのが未来志向の姿勢なのである。 和田議員は、「植民地支配」や「侵略」の定義さえはっきりすれば、日本の戦争責任の有無も明確になるはずだという見通しのもとで、このような質問をしたのだろう。しかし、定義というものは、いかようにも設定し得る。だからこそ、定義自体の的確さや説得力よりも、どういう目的で定義するかの方が実は重要である。問われているのは、「侵略かどうか」という定義の問題ではなく、「侵略だったことにするかどうか」という未来に対する意志の問題なのである。隣国に対しどのような意志示すか隣国に対しどのような意志示すか ヨーロッパ諸国が過去の植民地支配について侵略性を認めず謝罪もしていないのに、なぜ日本だけが謝罪しなければならないのかという意見があるが、それはこの問題が個別具体的な隣国関係に関するものだからである。 つまり、韓国や中国が謝罪せよと現在も言い続けているからこそ、それに対して何らかの反応をしなければならないのである。日本が謝罪すべき侵略行為をしたかどうかという過去の歴史の事実そのものが問われているのではなく、今後、隣国とどのような関係を作っていくつもりなのかという未来に対する意志が問われているのである。それに反応したものの一つが村山談話である。 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」 この中の「疑うべくもないこの歴史の事実」という表現には疑問をもつ人がいるかもしれない。「疑うべくもないこの歴史の事実」が指し示す「植民地支配と侵略」とは、歴史的な「事実」を表すものではなく、一定の意志にもとづいて示された「評価」を表すものだからである。対日宣戦布告文書に署名するF・ルーズベルト米大統領。米国も70年前は徹底した排日思考に覆われていた… 歴史的な事実に対してはさまざまな評価が可能だが、この談話ではその中から「植民地支配と侵略」という評価(事実ではなく)を日本国の意志として選んだにすぎない。したがって、「疑うべくもないこの歴史の事実」という表現は、この談話の歴史認識の間違いを示すものではなく(もちろん、正しさを示すものでもなく)、「事実」という日本語の用法の間違いと理解した方がよい。 ともあれ、この談話は、時の政府の意志として日本に戦争責任が「あることにした」ことを示そうとしたものであって、客観的事実そのものを示そうとしたものではない。 そもそも、このように短い談話という形式の中に、詳細な客観的事実を盛り込んで表現することなど不可能である。したがって、この談話は、日本に戦争責任が「あることにする」ことが、未来の国際社会において日本と諸外国との関係をよりマシなものにするだろうという期待を込めた、未来志向的な判断に基づいて示された、当時の日本国としての意志であったと理解すべきである。 重要なことは、過去の歴史についての謝罪を要求してくる隣国に対して、「正しい」歴史認識を示すことではなく、未来に向けた日本国としての意志を示すことである。 戦後七十年を機にした首相談話において大事なのは、日本国としての未来への意志をどのように盛り込んだか、ということである。ベランダ栽培のインゲンの実り具合は…=広島市の自宅やまだ・かんと 昭和42年名古屋市生まれ。広島大学大学院修了(平成13年)、博士(学術)。韓国外国語大学などで非常勤講師。「日本語強制・朝鮮語抹殺」という側面でのみ語られがちな日本統治下朝鮮の実際について、講演なども行っている。著書に『植民地朝鮮における朝鮮語奨励政策―朝鮮語を学んだ日本人』(不二出版、平成16年)、著作に「植民地朝鮮における近代化と日本語教育」(日韓歴史共同研究委員会『第二期日韓歴史共同研究報告書(第三分科会篇)』 平成22年)、「『東海(トンヘ)』は『日本海』か?―朝鮮語と日本語の視点の差異」(山本真弓編『文化と政治の翻訳学』明石書店 平成22年)など。
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そもそも「戦後70年談話」は必要なの?
美根慶樹(平和外交研究所代表) (THE PAGEより転載) 安倍晋三首相が14日に発表する「戦後70年談話」をめぐり、文言の調整が行なわれています。村山談話や小泉談話で盛り込まれた「痛切な反省」と「おわび」、「植民地支配」と「侵略」という言葉が盛り込まれるのかなどが焦点となっていますが、一時は首相個人としての談話になるとの見方もありました。結局、閣議決定される見通しですが、そもそも「戦後談話」とはどのような位置づけのものなのでしょうか。「談話」とは何か[写真]8月6日、戦後70年談話について有識者懇談会から報告書を受け取る安倍晋三首相(右)。安倍首相が発表する談話の内容に注目が集まっている(代表撮影/ロイター/アフロ) 安倍首相の戦後70年談話が14日に発表されることとなったと報道されています。「談話」とは首相や官房長官などの見解の表明であり、対象となる事柄はさまざまです。有識者懇談会の報告が6日に提出されましたが、どの程度参考にされるか不明です。 「談話」は、例えば「天皇皇后両陛下のパラオ共和国御訪問に関する内閣総理大臣談話」のように「談話」という言葉が出てくる場合(狭義の「談話」) と、メッセージ、声明、見舞い、祝辞、コメント などを総称して「談話」と呼ばれる場合(広義の「談話」)があります。外務省の文書では両方が使われています。「談話」「メッセージ」「声明」は実質的には同じであり、重みに区別はありません。 これら「談話」および類似の言葉を区別する基準は明確に決まっているわけではなく、文脈や慣用にしたがって使い分けられています。例えば、「見舞い」や「祝辞」がそれぞれどのような場合に使われるかは自明であり、混同されることはまずありえないでしょうが、他の言葉については紛らわしい場合があります。 特に「声明」と「談話」 の使い分けは明確ではありません。しいて言えば、「声明」は狭義の「談話」より硬い感じがあります。2015年1月25日と2月1日にそれぞれ発表された湯川遥菜氏と後藤健二氏殺害の場合はともに「声明」でした。 一方、英語では通常「談話」と「声明」は区別されておらず、ともにstatementです。前述の両陛下のパラオ御訪問に関する談話もstatementと訳されています。安倍首相は2013年12月26日、靖国神社へ参拝した直後に「談話」を発表し、なぜ参拝したかを説明しました。この英訳もstatementでした。国会決議との違い 国会も重要事項について決議を採択して立法府としての見解を表明することがあります。戦後50年に際しては、村山首相の談話が発表されたのが8月15日の終戦記念日。それに先立つ6月9日に、衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が採択されました。これは「終戦50年決議」とも、また「不戦決議」とも呼ばれることがあります。また、これは厳密には衆議院の決議ですが、通常は「国会決議」と呼ばれています。参議院においてはこれに相当する決議はありませんでした。 法的に言えば、予算、条約、首相の指名などのように憲法で「国会の議決」によることが明記されている場合を除き、「国会決議」というものはありません。すべて衆議院かあるいは参議院の決議です。内容が同じことであっても両院の別々の決議です。 憲法などに想定されていない任意の事項に関する場合、すなわち「終戦50年決議」のような場合は、厳密に言えばすべて衆議院か参議院の議決なのです。しかし、「国会の場で行なわれた決議」という意味で「国会決議」と表現することは誤りでないとみなされており、政府の文書においても「国会決議」の表現が使われることがあります。 戦後60周年の際には、やはり8月15日に小泉首相の談話が発表されるのに先立ち、衆議院で8月2日、「国連創設及びわが国の終戦・被爆60周年に当たり、更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」が採択されました。これは「終戦60周年決議」と略称されています。 「決議」と「議決」は文脈に応じて使い分けられますが、意味は同じです。また、「国会決議」は全会一致で採択されることが多いですが、「終戦50年決議」「60周年決議」のように多数決で採択された場合もあります。 「国会決議」「衆議院決議」「参議院決議」の効果については、前述した予算、条約、首相の指名などのように憲法に定められている場合を除き、法的には定められていませんが、その内容についてそれぞれ国会、衆議院、参議院が責任を負います。閣議決定の意味戦後50年の1995年に「村山談話」を発表した村山富市元首相(Rodrigo Reyes Marin/アフロ) 村山談話も小泉談話も閣議決定されました。 行政をつかさどる内閣はさまざまな問題について審議・決定します。その様式には「閣議決定」と「閣議了解」があり、「閣議決定」が正式かつ最高の決定です。「閣議了解」は、本来各省庁の主務大臣の権限に属することですが、とくに重要な問題について内閣の了承が求められた場合に行われることです。 このほか、閣議では「閣議報告」「配布」「閣僚発言」など、さらに閣議に引き続き開かれる閣僚懇談会で「了承」されることもあります。いずれもそれなりに重要なことですが、内閣としての意思決定ではありません。 首相談話の発表については、必要な手続き・要件は決まっておらず、首相の判断次第でできますが、村山談話も小泉談話も閣議決定されました。これにより両談話とも内閣全体で決定したこととなり、閣議決定されない首相個人限りの談話より一段と重くなりました。「70周年談話」は必要か 安倍首相はどのような内容の談話を出すのでしょうか。前例としては50周年の村山談話と60周年の小泉談話があります。そもそも70周年に談話を発表することは必要でありませんが、発表するからには有意義な談話になることを望みたいと思います。中国、韓国、さらには米国なども新しい談話の内容に強い関心を寄せています。みね・よしき 平和外交研究所代表。1968年外務省入省。中国関係、北朝鮮関係、国連、軍縮などの分野が多く、在ユーゴスラビア連邦大使、地球環境問題担当大使、アフガニスン支援担当大使、軍縮代表部大使、日朝国交正常化交渉日本政府代表などを務めた。2009年退官。2014年までキヤノングローバル戦略研究所研究主幹。
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「和解」への可能性—“Forgive, but never forget”への道程
川島 真(nippon.com編集長)戦後の「和解」を焦点に 戦後70年の議論が多々なされている。メディアでは、「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「お詫び」という4つの言葉が話題になることが多い。これは、村山談話(1995年8月)や小泉談話(2005年8月)で用いられてきた、いわばキーワードであり、2007年4月の温家宝談話がそうであったように、アジア諸国からも一定の評価を得てきたものだった。現政権も、「全体として」これらの談話を継承するとしている。これはこれで一つの見識であろうが、この4つの言葉が歴史をめぐる問題のすべて、というわけではなかろう。 昨今公表された安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会 」の報告書のひとつのモチーフは、過去に向き合うこととともに、戦後の和解、そして未来に向けての展望だった。過去に向き合うのは当然としても、この戦後の和解に焦点をあてるのが、この構想懇談会の報告書の特徴であった。東アジアの「平和構築」の過程を検証 世界大戦であれ、地域紛争であれ、多くの死者を出した武力衝突は地域社会に大きな禍根を残す。勝者と敗者、また敗戦側の国内における責任論、戦勝側の手柄争いなど、それはさまざまなかたちで現れる。こうした意味で、歴史認識問題は世界各地にある。 国際関係論や国際政治学では、「平和構築」というジャンルがある。戦争や紛争を行った国や地域において、その戦いが終わった後にいかに平和的に社会を再構築していくのかということを探求する研究分野だと言ってよいだろう。日中戦争から第2次世界大戦を経た東アジアは、戦後、いかに平和構築されてきたのだろうか。そして、そこに「和解」といわれるような状態はできあがっているのだろうか。 「和解」に向けてのプロセスは、まず外交面で行われ、それが次第に社会に向かうと言ってよい。「和解」の主体には国家と社会があり、国家間関係と社会間関係の双方に於ける「和解」が重要となる。 外交面では、「講和」を通じて戦争状態を終わらせて、国交を開くということが最初のステップだ。しかし、それは平和構築の第一歩、それも形式的な第一歩に過ぎない。無論、国家と国家の関係では講和なくして何もできないだろう。だからこそ必要不可欠な第一歩だ。だが、たとえこの条約で賠償問題が解決されていようとも、それだけでは国民それぞれの傷は癒えないし、またそれぞれの国での歴史教育において、自国の正当性を強調すれば、心情的な敵対はむしろ増幅、固定化されることになる。日本に求められる真摯な反省とお詫びの継続 東アジアでは、昨今の歴史認識問題に見られるように、「和解」に至っていると見るのは難しいが、それでも日本と台湾、日本と東南アジア諸国との和解は、日中、日韓に比べれば一定の段階に達しているようにも見える。和解には、加害者側、被害者側双方の歩み寄り、加害者側の真摯な反省とお詫び、被害者側の寛容さ、「赦す」心などが必要だとされる。日本と台湾、あるいは東南アジアとの間で、このような定式通りの「和解」が行われたかは疑わしい。つまり、現在の状況としては、“Forgive, but never forget”の状態に至っていると見ることもできるのだが、それが日本の、あるいは相手国の「和解」のための意図、施策の結果かどうかは検証が必要だということである。 これは「和解」がきわめて難しい均衡の上に成立していることを示している。国際環境や国内政治の状況、さまざまな要素の絡み合った状況の上に「和解」がある。だからこそ、一度「和解」に見えるような状況に至ったとしてもそれはまた変化し得る。つまり、可逆的なものなのである。 だからこそ、歴史問題に於いて、一度「和解」に至ったように見えるからといって、それ以後日本側が不作為でいてよいということにはならない。加害者側の日本側が常に過去に対する真摯な反省とお詫びを見せ続けなければならないということであろう。いつまで謝り続けるのかという点については、頻度こそ減少することは間違いないものの、象徴的な儀式や教育などは、継続して行われることが求められるし、さまざまな情勢の変化に敏感に対応しなければならない。山口県下関市で、地元住民らに手を振る安倍首相=8月13日午後 目下、中韓に至っては、“Forgive, but never forget”の状態に至っているとは到底思われない。両国の国内の歴史教育においても日本の侵略や植民地支配は批判的に記され、また独立神話にそれらが深く関わっている。それに、両国の新聞やテレビなどのメディアも歴史問題に敏感に反応し、国境を跨(また)いで互いに刺激し合っているし、SNSにおいても過激な言論が巻き起こっている。国際的な場でも中韓は自らに有利な言論の宣伝を怠らないし、昨今では世界遺産をめぐってもさまざまな試みがなされている。 そうした意味では、日韓、日中は当面和解には至らないように思える。だが、忘れてはならないのは、相手が「歴史」をさまざまな政治の道具にしているからといって、こちらが和解への努力を怠っていいということにはならないのではないか、過度な要請に応じる必要などはまったくないし、相手の歴史認識と同じ歴史認識をもつ必要もないが、それでも和解への姿勢を示し続ける必要があるのではないか、ということである。戦争を知らない世代が取り組むべき課題 戦後、日中、日韓間で多くの和解への取り組みがなされてきたのも確かである。日中間でも、日中友好運動のみならず、日本の経済人が味わってきた辛苦、そこで築かれたさまざまな絆も特筆すべきだろう。また、日本の各自治体の中国との姉妹自治体提携はしばしば戦争中での体験が基礎になされており、その地域の師団や連隊が侵略した中国の地域と交流を進めたところも少なくない。日本の知識人も、戦争責任論を多く議論してきたし、「15年戦争論(※1)」、あるいは戦争への道程をめぐるさまざまな議論を通じて、戦前の日本の失敗、過ちを検証する試みを行ってきた。 現在必要なのは、日本が犯した過去の過ちをこれまで同様に真摯に検証しつつ、また同時にこれまでの和解への取り組みの過程を考察し、その至らなかった点を認識することだと思われる。和解という観点に立つとき、戦争に行ったことがない、また戦争に直接に関わっていない戦後世代にとっての課題が明確になるように思われる。いままた1950−70年代と同じ言動をとる必要があるかどうかは議論があろうが、21世紀の日本、日本社会にとっての和解の在り方を模索していくことが求められよう。 その際に、反省とお詫びが重要であることは言うまでも無いが、どのような言葉を用いるのかということよりも、「和解」に向けての言動において、至らなかった点を実際の行動で克服し、実際の行動で「忘れていない」ということと、「つぐないの気持ち」を表現することを続けることが肝要だと考える。 国際社会は政治や経済だけでなく、次第に「感情」の時代に入ってきているという。その国民感情に歴史認識は深く関わるし、この領域の問題にいかに向き合っているのかということが、国家のスタイルにも関わる。そのためにも、相手の言動に対して常に受け身になるのではない、「和解」に対しての自らの姿勢を明確にし、そのスタンスに基づいて、実際の言動をともなう行為を継続していくことが大切だろう。これは国家にとっての課題でもあり、そしてメディアを含む社会、そして個人においても課題となるものと思われる。(※1)^ 1931年から1945年まで足かけ15年間(14年間弱)にわたる日本の対外戦争の総称。満州事変・日中戦争・太平洋戦争は、相互に密接、不可分な、ひとつづきの戦争であるという認識から生まれた呼称。※nippon.com 2015年8月13日の記事を転載しました。
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「謝罪すべき」というのは中韓と日本の左派の国家主義的な妄言だ。
竹中正治(龍谷大学経済学部教授、京都大学博士) 安倍首相が行う戦後70年談話の参考となる「有識者懇談会の報告書」、全文読んだ。 正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)による報告」である。 例えば以下のような記述には、中韓や日本の左派が批判する「歴史修正主義」の要素は微塵も感じられない。 引用:「日本は、満州事変以後、大陸への侵略1を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。」アメリカの位置づけをめぐる二つの対立する世界観 私にとっては概ね違和感のない良くできた内容だが、安全保障関連法案に対する左派と政府の対立点は、たどって行くと結局「アメリカ」という国をどう位置付けるかで大きく分岐するのだと思う。この点、党としての見解が統一できずに、「憲法違反一点張り」で実質的な安全保障問題の議論ができない民主党は、ある意味で論外だろう。 SEALDsなどに参加している若者諸君も、以下の2つの世界観の対立の中で、自分がどちらにつくことを選ぶのか?そういう問題に行き着くことを熟考して欲しい。 懇談会報告書の見解:「1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった」 上記の太字にしたポイントこそ、2度の世界大戦を経験した20世紀の教訓として継承すべきものと報告書は総括しており、その実現を主導してきたのは、アメリカとその同盟諸国である西欧並びに日本であると位置づけている。 一方、この見解と真逆の立場は、例えば日本共産党の綱領に記載された以下のようなものであろう。 引用:「アメリカが、アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き、国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し、新しい植民地主義を持ち込もうとしていることは、重大である。アメリカは、「世界の警察官」と自認することによって、アメリカ中心の国際秩序と世界支配をめざすその野望を正当化しようとしているが、それは、独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を、ソ連の解体によってアメリカが世界の唯一の超大国となった状況のもとで、むきだしに現わしたものにほかならない。 これらの政策と行動は、諸国民の独立と自由の原則とも、国連憲章の諸原則とも両立できない、あからさまな覇権主義、帝国主義の政策と行動である。いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっている。」 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/ 私は戦後、アメリカがやって来たことが全部正しい、正義だなんて全く思っていない。アメリカはアメリカとして自国の国益と価値観の実現を追求して来ただけだ。ただし、例えばかつてのソ連、今のロシアや、戦後の中国が世界最大の大国、覇権国家になった世界を想像して頂きたい。あるいはアメリカではなく、ソ連が戦後の日本を占領した世界を想像して頂きたい。 そして自分がそうした世界に生きることを選ぶか、あるいは今の世界に生きることを選ぶか、それを考えれば、私にとって選択は後者(今の世界)しかありえない。そういう相対比較の問題として考えているわけだ。 日米同盟破棄は中国の戦略の上で踊るようなもの 中国ウオッチャーはみな同意するだろうが、今の中国の権力者は日米同盟を破棄させることができ、かつ米中が手を握れば、中国にとって日本などはどうにでもなる対象、赤子の手をひねるような存在になると判断し、それを戦略的に志向している。 現実の世界はパワーポリティクスだからね。日米同盟破棄を掲げるなんてのは、主観的にはそういうつもりはなくても、結局中国の思惑通りに踊ることになる。この点、間違いないと確信している。自分が生まれる前に起こった過去の出来事に対してどうして謝罪ができるのか? 今回の報告書については中韓を含め日本の左派は村山談話にあった「おわび」や「謝罪」をすべきとの指摘がないと批判をしている。 例えば赤旗は次のように報じている。引用:「『侵略』明記、『おわび』求めず」 「 報告書は、最大の焦点となる歴史認識について「先の大戦への痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」という表現も記載する一方、戦後50年の村山富市首相談話(1995年)にある「おわび」の踏襲は求めませんでした」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-08-07/2015080701_04_1.html 日経新聞(8月7日)は中国の報道を以下のように報じている。 引用:「【北京=共同】中国国営通信、新華社は2日、安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話について、先の大戦に関する「痛切な反省」を明記しても「おわび」の表明がなければ、戦後50年の村山富市首相談話と比べて「深刻な後退だ」とする記事を配信した。 記事は村山談話のキーワードが「植民地支配」「侵略」「おわび」だとし、安倍氏がこれらに言及するかどうかが注目点だとした。」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-08-07/2015080701_04_1.html 「謝罪」というのは直接か間接か選択する何かしらの自由が自分にあり、その結果に対する道義的な責任から生じることだ。 例えば全く行動の自由選択のない奴隷の立場ならば、道義的な責任も生じないので「謝罪」もあり得ない。 自分が生きている同時代のことで、自国のやった所業が他国に大いなる災いをもたらしたのであれば、たとえそれに自分が直接関与していなくても、国家としての「謝罪」の念を共有することはあり得るだろう。 しかし自分が生まれた前に起こった過去の出来事とは、自分自身には間接的にも直接的にも選択の自由が全くなかった出来事である。それに関して、どうして私を含めた戦後生まれの国民に道義的な責任や謝罪の必要性が生じるのだろうか。 「過去の教訓として過ちは繰り返さない」という意思の表明で十分だろう。 つまり戦後生まれの私たちのとって、問題の過去は、同時代の過去ではなく、歴史的な過去なのだ。 中韓や日本の左派が、それでも「謝罪が必要」と言うのであれば、それはどのようなロジックによるものだろうか? 自分が生まれる前のことであろうと、「国家としての連続性がある以上、戦後生まれの政府や有権者も謝罪すべきだ」と彼らは言っていることになる。つまり国家を擬人化して、その道義的な責任を追求しているわけだ。 この主張が前提とするロジックとはいかなるものだろうか? 戦中時代を描いたある再現ドラマを見ていて、はたと気が付いた。ドラマの中で「お国のために私たち国民ひとりひとりも滅私奉公しなくては」というセリフが出てきた。もちろん、これは今では国家主義的なロジックとして一部の極右の方々を除けば全く否定されているものだ。 ところが 「謝罪せよ」と主張している方々のロジックとは、まさにこの国家主義的なロジックと表裏、あるいはポジとネガの関係にあるのではなかろうか。すなわち「お国のせい(責任)なんだから、戦争の同時代の世代だろうと、戦後生まれの世代だろうと、日本国民とその政府である限り『謝罪』すべきだ」と主張していることになる。 日本の左派は右派の国家主義的なロジックを批判し続けてきたが、今に至るまで「謝罪せよ」という自らのロジックは、実は国家主義的なロジックの矛先を逆に向けただけで、同質のものだったのだ。 もちろん、国家を擬人化することには、一定範囲内での合理性もある。例えば、同様の擬人化には「法人」もある。 法人は契約の主体となり、その遵守の義務がある。国家は条約の主体となり、その遵守の義務がある。法人の契約や国家の条約は、締結後に生まれた経営者、あるいは国民・政府でも遵守しなくてはならない。 承知の通り、戦争賠償をめぐる日韓の条約は1965年の日韓基本条約であり、この条約で日本の韓国に対する経済協力が約束されると同時に、韓国の日本に対する一切の請求権の「完全かつ最終的な解決」が取り決められている。 また中国人民共和国との間では、条約よりは弱いがそれに準するものとして1972年の日中共同声明で、日本が台湾ではなく中華人民共和国政府を正当な「中国」として事実上認知すると同時に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すること」が宣言されている。 これらの条約や共同声明は、国家を構成する国民が世代交代で変わっても、遵守すべき事柄であり、自国の政治情勢などの変化で一方的に破ることはあってはならないはずなのだが。たけなか・まさはる 龍谷大学経済学部教授、京都大学博士(経済学)。1979 年東京大学経済学部卒、同年東京銀行入行、東京三菱銀行(現三菱東京 UFJ 銀行)の為替資金部次 長、調査部次長などを経て、2003 年 3 月よりワシントン駐在員事務所所長。ワシントンから米国の政治・経済の分 析レポート「ワシントン情報」を発信し、National Economists Club(WDC)役員、Conference of Business Economists 会員を務めるなどエコノミストとして活動。2007 年 1 月に帰国、同年 2 月より(財)国際通貨研究所、経済調査部長・チーフエコノミストを経て、2009 年 4 月より現職。最近の論考の掲載は、日経ビジネスオンライン「ニュースを斬る」、毎日新聞社「エコノミスト」、週刊ダイヤモンド、 外国為替貿易研究会「国際金融」など多数。竹中正治ホームページ http://masaharu-takenaka.jp※この記事はたけなか まさはるブログより転載しました
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テーマ
「戦後」の脱却は歴史観から
「村山談話を政権として継承しているか」と問われれば、嫌でも「継承している」と答えざるを得ないのが、日本の現状だ。歴史問題で日本を貶め、アジアの覇権奪取に利する中国に歴史観を支配されているような異常な状況から抜け出すには、まずは歴史を政治から分離させることが必要だ。
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戦後70年「敗戦国」から脱却せよ
阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員)「もはや戦後ではない」 経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述したのは昭和三十一年、今から六十年近く前の話である。当時の鳩山一郎首相の孫で、ルーピー(クルクルパー)と呼ばれた鳩山由紀夫元首相が政界を引退してからも、すでに随分たつ気がする。 昭和六十年の施政方針演説で中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、はや三十年が経過した。あの時代を象徴したこの言葉も、もうあまり思い出されることもなくなった。 それなのに、日本はいまだに「戦後」という堅牢な枠に閉じ込められたままだ。今年はメディアや国会で「戦後七十年」が強調されており、戦勝国はお祭り気分ではしゃいでいるが、筆者はこの言葉を使うこと自体に抵抗を覚える。 なぜなら七十年と言えば、人が生まれて学校へ通い、社会に出て年金受給者となる時間をさらに上回る長い歳月なのである。にもかかわらず「戦後」はいつまでたっても終わらず、日本はいつまでたっても内外で敗戦国、敵国の扱いに甘んじている。 なんと非生産的で退嬰的な現状だろうか。もちろん、中国や韓国のように、建国の経緯から日本を執拗に悪者にし続けなければ正統性が保てない国もあるが、どうしてそんな相手国の勝手な事情にこっちが付き合わなくてはならないのか。 やはり、安倍晋三首相が第一次政権時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」が必要である。これからの日本を背負う世代は、偽善と自己愛に満ちた内向きの反省と自虐の中に閉じ籠もることはやめ、国際社会で自国に自信と誇りを抱き、堂々と前を向いてほしい。またぞろ蠢く謝罪マニアの面々 今年は、日本が新しい時代を前向きに生きるための第一歩にしたい。そして、今度こそ本当に、高らかに「もはや戦後ではない」と内外に宣言しなければならない。 ところが、左派メディアも野党も相変わらず思考停止し、「過去」に拘泥している。安倍首相が今夏に出す戦後七十年談話について、戦後五十年の村山談話、戦後六十年の小泉談話の踏襲を求め、「植民地支配と侵略」や「心からのお詫び」などの文言をそのまま使うべきだと感情的に主張している。 揚げ句、戦後七十年談話に関する有識者会議「二十一世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理(国際大学長)までが三月のシンポジウムで、「安倍首相に『日本は侵略した』とぜひ言わせたい」と言い出す始末だ。 さながら啓蟄前後から、日本中の謝罪マニアが土中から這い出て一斉に踊り出したかのようで、かまびすしいことこの上ない。「こうなったら、談話では『侵略』『植民地支配』などのいわゆるキーワードは使わずに、いっそ修辞を凝らした『文学』にしてやろうかと思っている」 政府高官は周囲にこう話している。例えば安倍首相は平成二十六年七月にオーストラリアの国会で行った演説でも、外務省案にあった先の大戦にかかわる「謝罪」という言葉は採用しなかった。その代わり、次のように深い哀悼を示すにとどめた。「何人の、将来あるオーストラリアの若者が命を落としたか。生き残った人々が、戦後長く、苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。(中略)私はここに、日本国と、日本国民を代表し、心中からなる、哀悼の誠を捧げます」 その結果、明確な謝罪などしなくても、安倍首相の演説はオーストラリア議会に受け入れられ、大きな拍手を受けたのである。何も特定のキーワードにこだわる必要はなく、全体としてどういうメッセージを伝えるかが大事なのだ。 ちなみに安倍首相は、終戦の日である八月十五日の全国戦没者追悼式での式辞でも、近年の歴代首相が使用してきたアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたとする「反省」を踏襲していない。オートマチックに前例通りにあいさつするより、よほど意を尽くしたと言えるのではないか。 また、政府高官は北岡氏の「侵略」発言についてもこう突き放している。「まあ、北岡発言は関係ない。自分で『侵略した』なんて言う国は日本しかない。だって果たして日本は英国を侵略したのか。何で当時、オランダがインドネシアにいたのか。日本が侵略したというのなら、欧米中が侵略していたということになる」侵略という言葉にこだわる愚 そもそも、「侵略」という言葉に明確な定義はない。意味があやふやな政治的な言葉が、どうして七十年談話の必須キーワードであるかのようにすり替えられたのか。 安倍首相が国会で「侵略の定義は定まっていない」と答弁すると、メディアや野党は「侵略否定だ」「村山談話の否定だ」などとまるで大失言・暴言であるかのように騒ぎ立てた。だが、当の村山富市元首相自身が首相時代の平成七年十月の衆院予算委員会で、次のように答弁しているのである。「侵略という言葉の定義については、国際法を検討してみても、武力をもって他の国を侵したというような言葉の意味は解説してあるが、侵略というものがどういうものであるかという定義はなかなかない」 麻生太郎内閣時代の平成二十一年四月の衆院決算行政監視委員会では、外務省の小原雅博大臣官房参事官(当時)もこう答弁した。「さまざまな議論が行われていて、確立された法的概念としての侵略の定義はない」 さらに民主党の野田佳彦内閣時代の平成二十四年八月の参院外交防衛委員会では、玄葉光一郎外相もこう指摘した。「何が侵略に当たるか当たらないかというのは論争があるところで、そこにはある意味、価値観、歴史観が入り込む余地があるのだろう。だから、なかなか明確な定義というものができないのかなと」 つまり、安倍首相は従来の政府見解を答弁しただけだったのに、内外のメディアなどから異様なバッシングを受けたのである。この問題をめぐっては、岸田文雄外相も四月一日の参院予算委員会でこう述べた。「植民地支配と侵略の定義についてはさまざまな議論があり、明確な答弁を行うことは困難だ」 ところが、これまでさんざん安倍首相の答弁を批判してきた多くのメディアは、この岸田発言に関しては取り上げなかった。これまでの安倍首相批判記事との整合性がとれなくなるので、一斉に「報道しない自由」を行使して逃げたのだろう。 この侵略の定義をめぐっては、伊藤隆・東大名誉教授が最近、鋭い指摘をしていたので、他誌(隔月刊「歴史通」五月号)ではあるが紹介したい。インタビュー記事の中で伊藤氏はこう述べている。「侵略の定義というものはない。だから、唯一成り立ちうる定義があるとしたら、『侵略国家とは戦争に負けた国である』。それしかない。侵略国イコール敗戦国。また、『侵略』を定義するなら、『侵略とは敗戦国が行った武力行使である』。それ以外に言い様がないというのが、ぼくの結論です」 なるほど納得できる。一方、この程度の抽象的な内容しかない「侵略」言葉をさも事の本質、一大事であるかのように書き立ててきた記者や論説委員は、自分の頭でものを考えたり、事実関係を調べたりしたことはあるのだろうかと疑問に思う。 いずれにしろ、安倍首相はこんな言葉は重視していないし、戦後七十年談話で使うこともないはずである。中韓に好餌与える談話と訣別せよ 植民地支配、侵略、お詫び……などの言葉にこだわり、それらを使えば使うほど日本は「戦後」にからめ取られ、戦勝国と敗戦国という枠組みは固定化されていく。日本にとって有害無益であり、戦勝国を偽装する中国や韓国を喜ばすばかりだ。 そしてその枠組みの半永久的な固定化について、意識してか無意識にか日本の左派メディアが率先して尖兵の役割を果たしている。彼らは左派言論が全盛で何を言っても書いても許された「戦後」によほど愛着が強く、もはや幻となりつつある戦後のぬるま湯にまだ浸かっていたいようだ。 そんな彼らより、安倍首相の前述のオーストラリア訪問時での共同記者会見で、次のように訴えたアボット首相の方がよほど客観的かつ建設的だ。「日本にフェア・ゴー(オーストラリアの公平精神)を与えてください。日本は今日の行動で判断されるべきだ。七十年前の行動で判断されるべきではない。日本は戦後ずっと模範的な国際市民であり、日本は法の支配の下で行動をとってきた。『日本にフェア・ゴーを』とは『日本を公平に見てください』ということだ」 韓国の朴槿恵大統領が、二年前の三月の演説で言い放った「加害者と被害者という立場は千年の時が流れても変わらない」というセリフとでは月とすっぽんである。どちらが日本の友邦としてよりふさわしいかは、いまさら言うまでもない。 韓国は「戦後」どころではなく、千年だってさかのぼって謝罪しろと主張しているわけだ。だが、そんなことを言えば、日本は元と高麗の連合軍による元寇の被害者である。 長崎県の離島、対馬や壱岐の住民は元寇で虐殺され、女性は手に穴をあけてそこに縄を通しつながれ拉致された。 このときの元・高麗連合軍の残虐非道さは、言うことを聞かない子供を脅かす文句「ムクリコクリ(蒙古・高句麗)が来るぞ」となって記憶されている。 しかも、歴史作家で徳島文理大学大学院教授の八幡和郎氏によると、高麗は「現実の来襲のときにはむしろ(元を)けしかけたのだし、主力でもあった」(「誤解だらけの韓国史の真実」)とされる。 だから朴氏のセリフが仮に普遍的で正しいものだというのなら、日本人はいまだに韓国をうらんでいて当然だということになる。二度目の元寇である弘安の役からは、まだ七百三十四年しかたっていないからだ。本当に日本は隣国に恵まれていない。 韓国のありようは、反面教師としてわれわれ日本人に、過去にばかり目を向けることの愚かしさ、無意味さを教えてくれる。 歴史を学ぶのはそれを教訓として、あるいは未来をよりよいものにするヒントとして活かすためであり、決して過去の歴史に閉じ籠もるためではない。また、どこかの国に永遠にわび続けるためではないのも当然だ。 そもそも、事実関係に基づかない贖罪意識や、国際関係全体の動向に目を向けない局地的・例外的な謝罪外交にどんなメリットがあるというのか。 安倍首相による戦後七十年談話は、いたずらに感傷的に自虐的に過去を振り返ることで、中国や韓国の思うつぼにはまってきたこれまでの日本と決別する内容であってほしい。新しく生まれ変わる好機に 昨年は、戦後レジーム派の拠り所である朝日新聞が慰安婦問題をめぐる一連の誤報、虚報について初めて認めて謝罪した。 ありのままの現実を直視せずに、連合国軍総司令部(GHQ)製の憲法前文をはじめとする非現実的な観念とイデオロギーに従って言論界を歪めてきた彼らの堤防が、ようやく決壊を始めた記念すべき年だった。 だからこそ朝日の凋落に焦り、脅える戦後レジーム派は、今も彼らが黄金時代を過ごした「戦後」にすがっている。「私たち日本国民が、六十二年前のあまりに大きな犠牲を前にして誓ったのは『決して過ちを繰り返さない』ということでした。そのために、私たち一人一人が自らの生き方を自由に決められるような社会を目ざし、また、海外での武力行使を自ら禁じた日本国憲法に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んでまいりました」 これは平成十九年の全国戦没者追悼式で、河野洋平衆院議長(当時)が述べた式辞である。明らかに安倍首相(同)が提唱した「戦後レジームからの脱却」を当てこすっている。その河野氏も今や、ろくな根拠もなく慰安婦募集の強制性を認めた平成五年の河野談話の虚構性が明らかになったことや、関連して自身が多くの嘘や誤魔化しを語り続けてきたことが白日の下にさらされ、一部のメディアにしか登場しなくなった。 彼らは、憲法、その解釈、安全保障体制から児童・生徒の教育方針、官公労のあり方まで、前例墨守を金科玉条にしている。だからこそ、彼らの最後の砦であり居心地のいい住み処であった「戦後」は超克されなければならない。「日本の戦後七十年については、かなり陰徳を積んだ七十年だったのではないか」「日本が歩んできた七十年の道のりをもう一度確認しあって、そのことに静かな誇りを持ちながら、さらに今後の道のりについてやるべきことをやっていこう」 安倍首相は四月二日の「二十一世紀構想懇談会」第三回会合で、こう発言した。戦後七十年を系統立てて振り返り、その道程と意義を再確認することを通じ、日本の将来を担う若者や子供たちのためにも「戦後」ではない「新しい時代」をつくっていきたい。 今年は、戦勝国のお祭りの年である。だが、敗戦国である日本にとっても、新たに生まれ変わるチャンスの年でもあると思う。 過去しか見ない人たちと、あるべき未来を見据えた人たちのどちらが国益に沿うかは論を俟たない。未来は、過去を懐かしむ人のためにあるのではない。これからを生きる人のものである。
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歴史の大転換「戦後70年」から「100年冷戦」へ
大学教授)島田洋一(福井県立大学教授)江崎道朗(評論家)中国共産党の「冷戦」「悪しき所業」隠し西岡 戦後70年を迎えて第二次世界大戦についての日本の謝罪をめぐる議論が再び盛んになっています。私は、このこと自体に強い疑問をもっています。なぜ70年も経っていまだに議論せねばならないのか。第二次世界大戦で負けてから50年、60年、そして今年の70年と、10年ごとにわが国の敗北を記念して議論することが妥当なのか。 しかも、その後に第三次世界大戦と位置づけられるべき東西冷戦があり、そこで日本は勝利した自由主義陣営に属していた。にもかかわらず日本は謝罪し続けなくてはならないという議論に巻き込まれている。私には理解できません。 二つの勢力が日本の過去を糾弾しています。一つは中国共産党です。もう一つは朝日新聞に代表されるような、自国の過去の悪だけを強調する国内勢力です。私は後者を反日日本人、反日勢力と呼んでいます。 今年2月に国連安保理で創設70周年の記念討論会が開かれ、中国の王毅外相が「過去の侵略の罪を糊塗しようとするものがいる」と婉曲表現ながら日本や安倍首相をあてこすった演説をしたことが話題になりました。ただ、この演説の最大の問題点は、「戦後70年間、国連の創設メンバーで、安保理の常任理事国の中国は、常に国連憲章の精神に従い、国連の役割を支え、平和と安定を守ることに尽くしてきた。今日の開かれた討論会が、反ファシスト戦争勝利と国連創設70年の記念の序幕になることを望む」(2月25日付読売新聞朝刊)という箇所です。 まさに虚偽だらけの内容です。中国共産党政権の中華人民共和国は、国共内戦に国民党が敗れて1949年に成立したのであって、1945年に国連が創設された当時のメンバーは中華民国でした。中華人民共和国の国連加盟は1971年です。 朝鮮戦争(1950年~)を考えると、演説の嘘はより明らかです。金日成の北朝鮮が韓国を武力侵略したとき、国連の安全保障理事会は国連軍を組織して侵略者を撃退すべきだと決議しました。国連史上、国連軍での戦いを決議した唯一のケースですが、その侵略者・北朝鮮の側に立って国連軍と戦ったのが中国共産党であり、中華人民共和国です。国連と戦った中華人民共和国が国連創設メンバーであるとか、国連の役割を支えて平和と安定を守ってきたなどと、よくも言えたものだと開いた口が塞がりません。 これは冷戦を無視、隠蔽する議論であり、こうした欺瞞が日本をいまだに第二次大戦に縛り付けているのではないか。そんなことを話し合いたいと思います。江崎 中国共産党は近年、尖閣諸島問題にからめて日本が「戦後国際秩序に挑戦している」と盛んに批判しています。しかし中国共産党の所業を考えると、「戦後国際秩序に挑戦」してきたのはまさしく彼らです。 中国共産党は1950年代から60年代、アジア各国に「革命の輸出」を試み、騒乱を起こした加害者です。インドネシアはその最たるもので、中国の周恩来から支援を受けていたインドネシア共産党が1965年に起こした軍事クーデター「9・30」事件では、約80万人が死んだと言われています。カンボジアでは、数百万人を大虐殺したクメール・ルージュのポル・ポト派を支援し、1979年にはポル・ポト政権を崩壊させたベトナムを「懲罰する」といって中越戦争を起こした。日本に対しても、60年安保や赤軍派の一連の事件などを引き起こすに至った新左翼過激派の活動、成田闘争に手を突っ込んでいました。西岡 1958年~60年の「大躍進政策」では、2000万~3000万人ともいわれる自国民を餓死させ、60年代後半からは文化大革命と称して知識人を弾圧して国内に大動乱を引き起こし、やはり数百万から1000万人以上の死者が出たといわれています。歴史も民族も異なるチベットに軍事侵略をして帝国主義的植民地統治をし、ウイグルや内モンゴルでも、同じことをしている。近年は異常な規模の軍拡を続け、周辺諸国に侵略的行為を繰り返しています。そして何より、民主化を求める学生たちを、軍を出動させて虐殺した天安門事件(1989年)です。江崎 中国共産党が自らの悪しき所業を隠すために、「反ファシズム戦争勝利」を言い立てているのが見え見えです。島田 「反ファシズム戦争」という言葉ですが、そもそも第二次大戦の構図は、戦勝国の英・米・仏・中・ソが自由・民主主義の「陣営」を組んで、日・独・伊の「ファシズム陣営」と戦ったといった単純なものではありません。その始まりは、ナチスのヒトラーとソ連のスターリンが「同盟」を組み、1939年9月に東西からポーランドに侵攻したことです。独ソは同年8月に結んだ不可侵条約の秘密議定書で、東ヨーロッパを両国の勢力範囲に分割することを約束していました。 そもそもソ連は共産党一党独裁で、しかもスターリンは20世紀でも指折りの人権弾圧者です。経済は市場メカニズムを排除する点でファシズム以上に抑圧的で、政治的な自由度も当時の日独伊を遙かに下回っています。この点だけでも、「第二次大戦は反ファシスト陣営が勝利した戦争だ」という議論のおかしさは明らかです。西岡 中国共産党はトウ小平の改革開放のかけ声で、経済における社会主義理論を捨て、計画経済をやめて生産手段の私有を解禁してマルクスの言うところの「搾取」を認め、市場経済を導入しました。しかし、社会主義市場経済など理論的にあり得ない。マルクス・レーニン主義は下部構造の経済が上部構造である政治を規定するとしています。下部構造で社会主義をやめて資本主義を復活させたのに、上部構造では、社会主義のための人民民主主義、プロレタリアート独裁を続けるという理論は矛盾しています。共産党独裁統治の根拠はすでに崩壊したんです。そのために、自分たちは反ファシズム戦争を戦って勝利したという歴史を必要としている。 簡潔にいえば、労働者を搾取する資本家を絶滅させたことが正統性の根拠だったのに、敵である資本家を復活させた。だから、日本軍国主義ファシズムと戦って中国を勝利させた歴史を捏造したうえ、軍国主義が復活しようとしているというフィクションで現在の日本を敵に仕立て上げ、それと中国共産党は戦うのだという虚構を独裁統治の正統性の根拠に利用している。 しかし、実際に日本と戦ったのは中国国民党であって、中国共産党ではない。八路軍や新四軍とよばれた中国共産党軍は日本とは戦闘らしい戦闘をせず、専ら自らの勢力拡大に勤しんでいました。 だから「戦後」という枠組みで歴史を議論すること自体、中国共産党の欺瞞統治戦略の土俵に乗ることになってしまう。中国共産党の罠に陥るのです。中国は帝国主義的ファシズム国家北京郊外にある盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で各国大使らに公開された抗日戦争70年に関する展覧会島田 概念的に整理しましょう。ファシズムという用語の起源ともなった象徴的人物は、第二次大戦中のイタリアの指導者ベニト・ムッソリーニです。彼は若いころは純粋社会主義者で、レーニンから「イタリア唯一の真の革命家」、欧州共産主義の次代を担う存在とまで評価されていました。ところが第一次大戦中に、労働者階級の国際連帯など幻想に過ぎず、また生産手段のあくなき国有化は国力の衰退を招くと痛感し、資本主義のエネルギーも利用した国家主義的独裁を打ち立てるべきだと考えた。西岡 ムッソリーニはトウ小平だったということ?島田 そう。ファシズムの最大公約数的な定義は、資本主義のエネルギーを抑圧体制活性化のため利用する、ということです。もちろん自由な言論や議会制民主主義を否定し、ある国家宗教的理念を体現した指導者に束(イタリア語で「ファッショ」)になって付き従うべきだという原理もファシズムの特徴の一つです。 ちなみにアメリカのルーズベルト政権も、ブレーンのほとんどがムッソリーニに畏敬の念を抱いていました。当時のアメリカもファシズム的傾向と無縁ではなく、ソ連と抵抗なく手を結んだのは、側近にコミンテルンのスパイが多かったせいだけではありません。なお、優越人種主義や領土拡張主義はファシズムの本来的属性とは言えません。ムッソリーニのファシスタ党にはユダヤ人の幹部が少なからずいましたし、スペインのフランコ政権は、ヒトラーの再三の圧力にも拘わらず枢軸側で参戦せず、内にこもる傾向が顕著でした。ナチスにも、ナンバー2のゲーリンクなど、破滅を危惧し領土拡張に慎重だった幹部がいます。すなわち、ファシズムに偏執的人種主義が加わったのがナチズム、さらに際限なき拡張主義が加わったのがヒトラリズムと言えるでしょう。なお、自集団を頭部と位置づけ有機的な支配圏拡張を図るのが帝国主義ですが、ヒトラリズムは帝国主義の破滅的形態とも言えます。 中国はトウ小平時代に改革開放の名で、原始共産主義を捨てファシズムに転換しました。その後の中国は政治・経済体制として典型的なファシズムであり、少数民族弾圧政策をとっている点ではナチズムの要素もある。ではヒトラリズムに該当するかどうか。現在、いわゆるサラミスライス戦術でじわじわと無法に領土を拡張しており、ヒトラーほど無謀ではないけれども、有機的拡張主義という点では同類です。一言で表せば、現在の中国は「帝国主義的ファシズム」と言えるでしょう。ファシズムに加えて、ナチズムの要素を持ち、ヒトラリズムの傾向をも見せている中国が、反ファシズム戦争の勝利を祝うのは倒錯の極みです。西岡 直感的に言えば、日本は確かにナチスと組んだけれども、アメリカもルーズベルト大統領がスターリンと組んだ。そして戦後に冷戦が始まり、スターリンがナチスと同じような「悪」だということに気づいた。中国大陸を共産党にとられ、朝鮮戦争も始まった。そこで日本に憲法第9条を押しつけたり社会主義的政策を行ったりしたことが失敗だったと悟り、いわゆる「逆コース」政策をとるようになった。再軍備を迫って朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に警察予備隊がつくられ、その後の自衛隊創設につながったわけですね。江崎 それでも中華人民共和国は国連常任理事国になっている。これは、アメリカがソ連との冷戦を有利に戦うため、あるいはベトナム戦争停戦のために1972年、ニクソン大統領が訪中して、中国と組んだからです。アメリカが理念的には敵であるはずの北京と組んでソ連と戦おうとしたため、中国共産党の本質に目をつぶってしまった。その結果、今日まで中国共産党の犯罪的行為が厳しく問われてこなかったのが残念です。左派リベラルも同罪左派リベラルも同罪西岡 生き残るために戦前日本を問題視し続けているのは、朝日新聞など国内のリベラルや左派勢力も同じです。敗戦後米軍に占領されていた日本がアメリカなどと講和条約を結んで独立を回復したとき、全面講和か片面講和かという国内を二分する大議論が起きました。そこで自由主義陣営とだけではなく、冷戦の敵であったソ連中心の共産主義陣営とも講和し、日本は非武装中立国となるべきだという全面講和論を叫んだのが、その左派リベラル勢力です。 彼らはそれ以降、日米安保条約に反対し、日韓国交正常化に反対し、ベトナム戦争もアメリカの侵略だとして反戦運動をし、西側陣営の一員としての日本、日本に軍を駐留させているアメリカの足を引っ張り、両国の同盟関係を破壊しようとしてきました。 「資本主義の総本山アメリカが戦争を引き起こす」というのが彼らの世界観です。それは誤りであったことが、今では証明されています。ベトナム戦争でアメリカが撤退したらベトナムはカンボジアと戦争をし、中国とベトナムも戦争した。そしてカンボジアでは大虐殺があったということが明らかになった。 そうした過ちを認めたくないから、過去の日本を糾弾する枠組みに逃げ込んで、戦前の日本を糾弾し続けている。そして、冷戦で彼らと戦って勝った保守勢力に対して、「過去の日本を復活させようとしている歴史修正主義者だ」という濡れ衣を着せようとしている。江崎 いまの日本を国際社会の敵に仕立てようとする中国共産党の対日戦略のお先棒を担いでいるのが、左派リベラル勢力ということです。 マイケル・シャラーという歴史学者によると、実はニクソン大統領は、アジアでは日本と組んで共産陣営と戦いたいと考えていて、憲法改正や核武装を含む本格的な再軍備をしてほしいと日本に繰り返し打診していた。ところが、日本側が色よい返事をしなかったために、「アジアを守るために日本が戦わないのであれば、北京と組むしかない」と対中接近を決断したというのです(『「日米関係」とは何だったのか』邦訳・草思社)。 日本はなぜニクソンの打診を拒否したのか。60年安保もそうですし全面講和論もそうでしたが、背景には北京の対日工作がある。左派リベラル、社会党や労組が北京と一緒になって「反戦平和」という名の反日・反米闘争を繰り広げて、自民党政権がそれに屈してしまったわけです。自由・民主主義陣営の勝利を妨げるもの江崎 ベルリンの壁崩壊から25年経った昨年2014年、アメリカの共産主義犠牲者財団が記念ビデオを作製しました。ベルリンの壁の崩壊によってソ連共産主義との戦いに勝利したことを振り返ると共に、「アジアでは、核開発を強行する北朝鮮と、天安門事件を引き起こした中国がいまなお人権弾圧を繰り返しており、アジアでの共産主義との戦いはまだ続いている」というキャンペーンを繰り広げています。 アメリカの保守派の中には、戦後70年ではなく、アジアの冷戦という現在進行形の課題に強い問題意識を持つ人たちがいるのです。そうしたアメリカの議論がほとんど日本で紹介されてないというのも、やはりおかしい。島田 冷戦を、自由民主主義とそれに対抗する全体主義抑圧体制との理念闘争だと捉えれば、終わったのはヨーロッパにおいてだけで、アジアでは終わっていませんね。西岡 ベルリンの壁崩壊と同じ1989年に自由・民主を求める学生を虐殺した天安門事件で、中国共産党はファシズムを続ける選択をした。アジアでは、自由・民主主義陣営対ファシズム中国という構図を中心にした冷戦は終わっていないという評価は理論的に正しい。 一方で、日本が冷戦で自由主義陣営の一員として戦い、ソ連との勝利に貢献したことは、現在も続く冷戦を戦うためにも評価すべきだと思います。 日本は講和条約締結にあたって、全面講和論を退けて自由・民主主義陣営に入る決断をした。そして日米安保条約を結んで相応の役割も果たしてきた。最近、米軍関係者から、日米の軍事協力が実際に成功した例があると聞きました。米海軍と海上自衛隊がソ連潜水艦の太平洋進出を完全に阻止したことが、冷戦勝利に重大な貢献をしたというのです。海自のP3C機による対潜哨戒能力をアメリカは高く評価しています。そんな目には見えない戦いが世界中で繰り広げられた結果、91年にソ連が崩壊したのです。 モスクワでは5月、北京では9月に「反ファシズム戦争勝利70年」の記念行事が行われるんですよね。江崎 ええ。西岡 モスクワでの「反ファシズム」を冠した行事に、北朝鮮の金正恩まで参加するという話もあって、もうお笑いのレベルだけど。彼らの歴史の誤魔化しを暴く意味でも、今年から来年にかけ、1991年の冷戦勝利25周年を記念する行事を日米が中心となって開催すべきです。そのことによって、自由主義陣営は冷戦で共産党一党独裁のソ連を倒し、アジアにおける戦いで日本も貢献したけれども、現在も全体主義抑圧体制との戦いは続いているという歴史を明確にすることができる。江崎 ASEAN創設に寄与して国連のハマーショルド賞を受賞したマレーシアのガザリー・シャフェー元外務大臣が1993年に来日したときに話をする機会がありました。彼は「ソビエトに自由主義陣営が勝利できたのは、経済力を持つ日本とドイツがアメリカに味方したからだ。戦争に勝つには経済力が重要な要素であり、冷戦勝利に対する日独の貢献は莫大だ」と言っていました。日本は戦後、自由主義陣営の一員であることを選択し、アメリカと共にソ連と戦い、勝利した戦勝国であることを誇るべきであったのです。 ところが当時の日本は、慰安婦問題で河野談話が出た直後で、「次は戦後50年だ」、「中国など“近隣諸国”に謝罪すべきだ」という議論に明け暮れ、「敗者としての日本」にこだわらざるを得なかった。西岡 島田先生に教えていただいた話で、自由・民主主義陣営に冷戦勝利をもたらしたアメリカのロナルド・レーガン元大統領は1992年の共和党大統領候補指命大会の演説で、「われわれは冷戦に勝った。しかし私はときに疑いを持つ。この『われわれ』とは誰か」と問いかけました。参加者たちは「あなたが勝利者だ」「共和党が勝ったのだ」「民主党は違う」などの答えを叫んだといいます。アメリカは勝ったけれども、アメリカ人全員が勝者なのではなく、対ソ融和論を主張していた人々は本当の勝者ではないということです。 日本も自由・民主を選択して冷戦に勝ったけれども、違う選択をせよと主張し、冷戦終結後の大切な時期に過去にばかり目を向けるよう仕向けた左派リベラルは、負けた側ではなかったか。我々もレーガンと同じ問いかけをして、彼らの責任を追及すべきだと思う。島田 レーガンの問いは、民主党や主流派メディアに対してだけではなく、共和党内のデタント派、すなわち対ソ宥和的な平和共存主義をとった勢力にも向けられていました。デタントは、実は極めて今日的課題でもあります。中国がアメリカに向けて「新型大国関係」を持ちかけ、オバマ政権は同意したのかしていないのか曖昧な態度をとっている。お互いが勢力圏を認めあって共存しようというのが新型大国関係で、まさにデタントの発想です。 レーガンがデタント派を厳しく批判したのは、冷戦は理念の闘争であるという信条からでした。ソ連を「悪の帝国」と呼んだ有名な演説がありますが、「悪の帝国」の存続を認めていてはこちらの理念を捨てたことになる。ソ連の体制は倒すしかないと考えたのです。 天安門事件当時の大統領は、レーガンの後任のジョージ・ブッシュです。父ブッシュはデタント派でした。彼は天安門事件後間もなく、世界が中国に経済制裁をかけている中で、側近のブレント・スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)やローレンス・イーグルバーガー(国務副長官、九二年から国務長官)を密かに北京に送り、「議会の圧力で制裁をしているが、できるだけ早く制裁を解除したいと思っている。日本にもそう働きかけている」といった宥和的メッセージを送っていました。それでトウ小平も安心して抑圧政策を維持できた。 日本でもアメリカでも、対中政策に関してデタント派がいまだ主流である状況は大きな問題です。西岡 われわれは拉致問題や慰安婦問題で外務省を再三批判してきました。まさにデタント思考だからです。ところが、朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に外務省が公表した「朝鮮の動乱とわれらの立場」と題するパンフレットをみると、まったく異なる印象を持ちます。レーガン路線そのものです。「民主主義と共産主義という、とうてい相容れない二つの勢力が全世界にわたって拮抗している情勢のもとでは、いかにわれわれが『不介入』や『中立』を唱えてもそれはとうていできない相談である。共産主義は全世界にわたる民主主義の絶滅を終局の目標としているから、共産主義に全面的に屈服しないかぎり、その国はすべて共産主義の『敵』であり、共産主義国の辞典には『中立』や『不介入』などという言葉はあり得ないのである」 理念の戦いに相当する「思想戦」という言葉も使っています。「思想戦の見地から見て、すでに戦場にあるともいうべきわれわれがあいまいな態度を取ることは、実戦における敵前逃亡と同じ結果をもたらし、われわれの希望にもかかわらずかえって自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供することとなり、真の意味における自主独立の回復にはなんら役立たないのである」 その思想戦において、共産主義を武器にしていた陣営は、いまや歴史、捏造の歴史を武器にして自由主義陣営に戦いを挑んできているわけです。島田 レーガンは大統領就任前にこんなことも言っています。「私の対ソ戦略はシンプルだ。われわれが勝つ。彼らは負ける(We win and they lose)」。明確で力強い。デタント派のように共産党独裁体制が永続すると考えること自体がインテリの弱さであって、とにかく倒すというレーガン的発想を思想戦において持たねばならないと思いますね。そこには歴史戦、歴史情報戦も含まれます。西岡 イスラエルの政治家で、かつてソ連で人権活動をしていたナタン・シャランスキーという人物は、レーガン大統領の「悪の帝国」演説を批判するソ連共産党の機関紙プラウダの記事を収容所で読んだそうです。独房同士、便器を通じて話ができたため、「レーガンがソ連を『悪』だと言ってくれている」という話が収容所内に広がって勇気づけられたと言っています。 「悪」を否定する価値観は国境を超えて大きな力になります。ところがデタント派は、相手が力を持っていることは認め、足して二で割って物事を進めようとする。相手を不倶戴天の「悪」だと考えるのか、「悪」でも力を持っているから存在を認め妥協すべきだと考えるのか、大きな違いです。 さきほど私は朝鮮戦争時の外務省を評価しましたが、30年後の1980年には同じ外務省とは思えないほど理念的に堕落していました。当時の全斗煥政権が日本に対し、共産主義陣営の軍事的脅威と戦うため60億ドルの経済支援を申し込んだ際、外務省はこんな驚くべき内部文書を作って、ともに共産主義と戦うことを拒絶したのです。 (1)全斗煥体制は、軍事ファッショ政権であり、これに対して日本が財政的てこ入れをすることは、韓国の民主化の流れと逆行するのではないか(略)。(2)韓国への経済協力は、韓国への軍事的協力のいわば肩代わりであり、日・韓・米軍事同盟(強化)の一環として極東における緊張を激化させる。(3)南北間の緊張が未だ激しく、南北対話の糸口さえ見出しえない現在、その一方の当事者である韓国のみに多額の経済協力を行うことは朝鮮(半島)政策として理解しがたい―。 当時の鈴木善幸首相も「日米同盟は軍事同盟ではない」と発言して物議をかもしましたが、外務省は北朝鮮と韓国のどちらが味方なのかさえ分からなくなっていたんですね。経済支援を拒絶したツケを、日本は教科書誤報事件で払うことになります。82年に日本メディアが、「文部省が高校日本史教科書の検定で、華北に対する『侵略』を『進出』と書き換えさせた」と誤報したときに、全斗煥政権は中国共産党や日本の反日左派勢力と組んでこれを外交問題化し、経済支援を改めて迫ったのです。 この問題をきっかけに日本の教科書検定に近隣諸国条項ができ、その後の歴史教科書の自虐化を招きましたが、韓国にも大きな禍根を残しました。日本の歴史問題で中国共産党と共闘する先例をつくってしまったことが一つ。もう一つは、左傾反韓史観が韓国内に蔓延する素地をつくってしまったことです。全斗煥政権が日韓基本条約締結時に解決した歴史問題を外交に持ち出すという禁じ手を使ったことで、「反日」の価値観が高まった。その結果、日本の陸軍士官学校を卒業した朴正熙大統領らによる韓国の発展を否定し、一方で「抗日の英雄」金日成を戴いた北朝鮮は民族的正統性が高いと評価する北朝鮮発の謀略的「反韓自虐史観」が広まった。この反韓史観によって韓国では80年代から従北派が勢力を急速に拡大したのです。 全斗煥大統領が日本に経済支援を求めたのは冷戦のためでした。アメリカは当時、ソ連と軍拡競争を行っていました。ソ連はそれに耐えられずに崩壊したわけですが、日本にも韓国にも軍拡が求められていました。アメリカの庇護のもと共産独裁全体主義のソ連、ファシズムに変質しつつあった中国共産党の全体主義の脅威と正面から向き合わずにすむ日本が、その武力侵略に直面してやむなく自由・民主主義の一部を制限した全斗煥政権をファシズムだと考えた。まさにデタント派、リベラル左派のバランスを欠いた思考が、現在の東アジアの安保環境の悪化を招いたのです。1955年の外務省が「思想戦であいまいな態度を取ることは…自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供する」と指摘した通りです。人権を取り戻して武器とせよ人権を取り戻して武器とせよ島田 全体主義体制や専制抑圧国家と戦ううえで大切なのは、人権です。物理学者でソ連の反体制人権活動家として有名だったアンドレイ・サハロフに「人権問題は国内問題ではなく国際問題でもある。自国民の人権を尊重しない体制が他国の権利を尊重するはずがないからだ」という言葉があります。中国のような人権抑圧体制を放置することは、日本やベトナム、フィリピンに対する権益侵害、つまりは侵略を許すことになる。その意味でも中国は自由・民主化あるいは分割民営化ならぬ地域の文化や自律性をも重んじた民主化をさせるべきであり、それは可能なのだという発想を持たねばなりません。西岡 新たなデタント派は、中国は共産主義を捨てて市場経済を導入したのだから民主化するはずだ、賃金の安い労働力も利用できるし市場としても魅力があるのだから共存すべきだと言い続けてきました。トウ小平の微笑路線に騙されてきたわけです。 しかし、ファシズム人権抑圧体制下の市場経済では、国民は実質的奴隷労働を強いられることになる。実際に中国はたいへんな格差社会になって国民全体の福祉向上にはつながっていません。アパルトヘイト政策を採っていたかつての南アフリカの奴隷労働によって製造された安い製品と同様、普遍的人権の観点から、経済に短期的にマイナスになっても中国と距離を置くという議論をするべきです。日本の長期不況の一つの要因は中国に生産施設をどんどん移転したことですから、その点でも中国との関係を見直すべきなのです。島田 中国は市場経済化したのではなくて、ファシズム体制下で市場経済の要素を導入しただけです。いわゆるクローニーキャピタリズム、縁故資本主義に過ぎない。だから共産党幹部ら一部に富が集中して激烈な格差が生じている。自由公正な競争がないから、イノベーションも中途半端で技術力が高まらず、最新のイノベーションはアメリカや日本から盗む。かつてソ連がある程度経済を維持できたのも、最新テクノロジーを産業スパイで盗んでいたからです。つまり資本主義のエネルギーを産業スパイという形で不正導入することで生き残りを図ってきた。この体制はやはり潰さないといけない。江崎 それはアジア全体の利益でもあります。平成8年ごろ、インドネシア陸軍大学の元学長と話していて、「日本はアジアのために何をしたらいいですか」と尋ねると、「中国に対する援助をやめてくれ。中国の拡張主義を日本が応援することで、東南アジアは中国の支配下に陥る。それだけはやめてくれ。余計なことしてくれるな」と厳しい口調で即答されたのを覚えています。 実際に日本は中国を経済的に肥大化させることで、結果的に東南アジアの産業を潰してきました。インドネシアやベトナムの靴、衣料産業がそうです。日本には現在のような歪んだアジアの経済状況を是正する責任があります。 オバマ政権で親中姿勢が顕著なアメリカですが、その内情は一枚岩ではありません。レーガン大統領の流れを汲んだ安倍首相のような考え方の政治家が確かにいる。アメリカ軍、特に太平洋軍の中にも、中国の拡張主義と戦おうと考えている人たちがいる。しかし肝心の日本がこれまでデタント思考で旗幟鮮明にしないできたために、慰安婦問題も含めて本当の意味でのアメリカの味方を引き込むことができていない。 安倍首相が今年、談話を出すのであれば、中国の拡張主義に警戒心を持っているアメリカの保守派やアジア太平洋諸国を味方にするようなメッセージこそ必要です。具体的には、「我々日本は人権、自由、民主主義という価値を守るため、アメリカやASEAN諸国と共に、共産主義陣営あるいは全体主義抑圧体制と戦ってきた」という冷戦を見据えた談話を出すべきです。その上で同時に日本はアメリカやASEAN諸国だけでなく、インドやオーストラリアなどとも連携して今後ともアジアの自由と民主主義と人権を守る責任を果たすことも打ち出すべきです。西岡 70年談話で第二次世界大戦について触れるのであれば、現在も続く自由・民主主義の戦いという観点で、スターリンとヒトラーという二つの「悪」にアメリカと日本が分かれて同盟し、お互いに戦ってしまったという悲劇的が過去にあったという点で、日本の誤りや敗北を認めてもいいかもしれません。 一方、安倍首相が内外の反日勢力から継承を迫られている村山談話には、自由・民主主義の戦いについて何も書かれていません。村山談話は、自分たち社会党が、日米安保に反対したり自衛隊が憲法違反だと言っていたりしたことや、ベトナム戦争でアメリカは侵略者だと言っていたことをごまかすために、過去の日本の「悪」を意図的にフレームアップしたのではないか。 人権で言うと、安倍外交によって国連人権理事会に北朝鮮の人権問題や拉致問題の調査委員会ができ、北朝鮮の人権抑圧は人道に対する罪だという報告書が出され、金正恩の国際司法裁判所(IOC)での訴追をも可能にする「北朝鮮人権決議」が昨年12月に国連総会で採択されました。土壇場の安保理でIOC付託に反対したのが、まさに今年、「反ファシズム戦争勝利70年」記念行事を開く中国とロシアです。 人権理事会は反日勢力、左翼の独壇場で、毎年のように日本が慰安婦問題で北朝鮮や韓国から非難されてきました。これは歴史問題の縮図であって、70年前の話をするなら70年間全体を取り上げるべきなのに、日本は70年前を謝ることで蓋をしようとして、誹謗中傷され続けてきたわけです。 だからこそ、70年前だけをいう歴史の枠組みに与してはならない。戦後70年間、どちらの側が収容所をつくって人権を抑圧し、いまも抑圧しているのかを問うべきです。江崎 人権の理念を左派リベラルから取り戻さねばならない。冷戦の敗北で日本社会党も大きなダメージを受けましたが、そこで彼らは党内に「国際人権研究会」という組織をつくり、弁護士の戸塚悦朗氏らと共に国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したのです。日本の「戦争犯罪」をでっち上げ、人権問題と結び付けて政治問題化することで、ソ連や中国、北朝鮮の深刻な人権弾圧を隠蔽した。日本の過去の問題で騒いで現在の問題を隠蔽するという手法で彼らは一貫しています。島田 左派リベラルには知的羞恥心というものがありませんからね。レーガン大統領を「戦争屋」だの、すぐに拳銃の引き金を引く「トリガー・ハッピー」だ、核のボタンを押したがる「ボタン・プッシャー」だのと非難していた勢力が、今やしばしばレーガンを「一発も撃たずにソ連を巧みに崩壊させた」と評価する。狙いは、テロとの戦いを進めたブッシュ・ジュニア共和党政権を「トリガー・ハッピー」だと非難することにあるわけですが、レーガンを引き合いに出すあたり実に厚顔です。 定見のない左派リベラルの誹謗中傷など気にせず「ソ連は悪の帝国だ」と力強く打ち出し、抑圧体制の被害者を鼓舞したレーガン大統領のように、安倍首相には「中華人民共和国こそファシズムの典型だ」と大いに口にしてもらいたい。これは知的に正しい議論です。「反ファシズム戦争勝利」を言い立てる中国共産党の欺瞞に反論する国家リーダーがいないような国際社会にしてはなりません。西岡 議論をまとめます。ソ連崩壊で終わった冷戦第一期においては、勝利した自由・民主主義の陣営で日本も戦った。しかしアジアの冷戦はいまも続いている。中国ファシズムに対する自由・民主主義の戦いというこの第二期冷戦の主軸は日本であるべきだが、冷戦を隠蔽して日本だけを「悪」とする戦後七十年史観の罠にはまっていては正しく戦えない。冷戦を見据えた新たな歴史観の枠組みを提示すべきだ、ということですね。江崎 今日は話題にできませんでしたが、私は、日本にとっての冷戦はわが国に共産主義思想が押し寄せてきた大正期に始まり、大東亜戦争に影響を与えて現在も続いていると考えます。2017年はロシア革命100年、2019年は世界革命を目指した国際組織コミンテルン創設百年です。戦前・戦中も含めてこの100年を見通した「100年冷戦史観」とでも言うべき歴史観の確立に向けて、今後も議論させていただきたいと思います。
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歴史問題に決着をつける最後のチャンスの年を迎えて-2015年のアジェンダ・セッティング
戦後70年の節目を迎えた。世界に、そして日本に待ち構えるものは何か。多言語発信サイトnippon.comの今年のテーマを編集長が解説する。川島 真(nippon.com編集長)聞き手:原野 城治 (「nippon.com」より転載)アメリカの制約、中国の転換点原野 新年を迎えて、この2015年の重要課題についてお考えを。川島 この2015年、アメリカのオバマ政権は、さらに厳しい環境におかれることになります。財政の問題、議会との関係など、制約条件を考えると、思い切った政策を打てないでしょう。アメリカは国際政治上のさまざまな問題でリーダーシップを発揮することがさらに難しくなってきています。とはいえ、グローバルに見れば、ウクライナ問題であるとか、シリア・イラクのイスラム国といった世界秩序への大きな挑戦や変動が起きているので、思い切った政策・行動がとれないなかでも、それらへの対処はしなければなりません。 また経済の面でも、グローバルな新しい秩序を構築するということで、環太平洋経済連携(TPP)のような地域的枠組みへのルールづくりが、太平洋、大西洋の双方で進んでおり、これがまとまっていくかどうかが新しい年の注目点です。が、やはりここでも、アメリカ自身の国内における諸産業、議会、政権の関係がどうなるのかが大きな問題となります。 アメリカがこのような問題を抱えている中で、アジア太平洋を考えると、相当厄介な状況にあるといえます。いうまでもなく中国がとても大きな問題です。 中国という国は、現在、19世紀的な砲艦外交に近いことをやってみたり、あるいは20世紀前半のイメージで主権・国境を重視する外交を唱えてみたり、あるいはグローバルガバナンスといった最近の課題に対応したりと、いろいろと手を変え品を変え、国益の伸長を図ってきています。この中国にどう向き合うのかということがアジア太平洋地域の一番の課題であることはいうまでもありません。 中国が、とりわけ東アジアなど「周辺」において、主権や安全保障を強く主張していくことに対し、財政難のアメリカは、日本を含む西太平洋の安全保障体制を組み替えて、同盟国の力を借り、かつ、同盟国同士の横の連絡を保ちながら、アメリカの優位性を保ったままネットワーク型の安全保障網を作りたいと考えているようです。 アメリカがこの体制を上手に作れるのかどうか。アメリカが「リバランス」と言った時、何も対中包囲網の構築を目指したものではありません。アジア太平洋地域の安定を図ったうえで、発展が続くこの地域から富を引き出したいというのが狙いです。しかし、富を引き出していくためには安定している方がいい、安定するためにはアメリカと同盟国が軍事力を強化すべき、というロジックです。 しかし、このアメリカの理屈は、同盟国から見れば、もっと中国に厳しく当たるという予見を与えながら、現実にはそうではない、ということで頼り切ることができないものにみえる。もちろん中国から見れば対中包囲網に見え、より反発を呼ぶものになっています。アジア太平洋地域で、そして世界で、アメリカが自らの国益に即した論理を用いて政策を説明したときに、それが個々の地域でどのように認識されるのかということについて想像力を働かせながら、世界の信頼を勝ち得ていくことができるのか、ということが課題となるでしょう。 中国自身も、とても大きな問題を抱えています。習近平政権が2012年に発足して、最大2期10年となっている任期の前半の5年の終わりがそろそろ見えてくる時期になります。今の体制の総決算が見え始める時期であり、同時に政権後半期を見据えた新しいスタイルを打ち出してくる時期になります。これは経済でいえば「新常態」といわれるもので、これまでのように年率10%を超える経済成長を目指すのではなく、6%、7%の成長が当たり前で低いとは言わないというイメージを作っていくことになります。ある種の成長戦略の切り替えですね。あるいは地方等への資金の分配を行って、国内全体を落ち着かせようとしています。そして人民解放軍の合理化や直接掌握を進めていて、これが習近平自身の権力基盤形成に深く関わるのですが、これらがうまくいくのかどうか。2015年におよその方向性が決まってきます。 加えて、香港と台湾の民主化の動きがあり、とてもチャレンジングな1年間になるでしょう。民主主義、経済の自由化、法の支配という現在の我々の世界を支えている根源的なルールが中国ではどうなっていくのか、長期的に見て2015年が大事な年になると思います。最大の課題である歴史問題原野 日本にとってみれば、戦後70年という節目の年であり、昨年12月の総選挙の結果、安倍政権の長期政権化が確定的になり、さまざまな面で今後を見据えたアジェンダセッティングが必要になると思います。何が重要でしょうか。川島 真氏川島 安倍政権は財政、経済などさまざまな問題を抱えています。まずは、経済や財政面でアベノミクスが機能することを示さないといけないでしょう。これは必須です。しかし、2015年にとりわけ重いのが歴史を巡る問題です。第2次世界大戦終結70年だけではなく、日清戦争終結120年、日露戦争終結110年、対華21か条要求100年と節目を迎えます。歴史問題では、日本は世界から非常に厳しい目線を向けられているわけですが、逆に日本がこの問題にある種の決着をつける、もしくは、世界に対し、決着をつけようとしているという姿を見せる、とても大きなチャンスであるとも思います。あるいは最後のチャンスであるかもしれません。10年後になると中国が強くなり過ぎているはずで、世界で日本の声がより響きにくくなるからです。今ならまだ、日本の論理というものを押し出すことができる。だから、ここでやる必要があると考えます。 ただし、対中、対韓は、難易度がかなり高い。もちろんやるべきだとは思うが、歴史共同研究のような形で、対話を継続することが現実的な対応でしょう。むしろ、重要なのは、対米、対豪、対東南アジアでしっかりした歴史をめぐる「和解」の像を内外にしっかりと示すことです。この70年の間に、対米、対豪、対東南アジアではさまざまな形の和解を行ってきました。その成果というものを象徴的な形で示すべきです。戦争を巡って日本は侵略も行っているし、戦争犯罪も行った。これに対し、日本は、戦後、何もしなかったわけではない。賠償、平和友好交流事業、そしてアジア女性基金と取り組みなど、さまざまな取り組みをしてきたわけです。まずはこれまでちゃんとやってきたことの成果を踏まえて、安倍首相が、これらの国の首脳とで何らかの談話を出すなり、歴史にかかわる重要な場所に行って、そこで宣言をしてみるなり、何らかの行為をするなどのことがあっていいと思います。原野 安倍首相に対するアメリカの評価の低さは何に起因しているのでしょう。歴史認識の問題なのでしょうか、それとも、今回の総選挙で大勝したことで憲法改正など「タカ派」政策に進むことへの警戒感なのでしょうか。川島 アメリカでの評価は動いているように思います。2013年末の靖国参拝の後は厳しいものがありましたが、しだいに評価も回復したような印象があります。ただ、リベラルな向きからの目線が厳しいのは確かですね。今回の総選挙の運動が始まる段階で、安倍首相は「過半数」という目標を掲げました。「低すぎる」という批評がもっぱらでしたが、私はあれは「改憲を目指すわけではない」というメッセージとしても受け止められると解釈しています。こういう日本国内ではある程度わかるメッセージは海外には伝わりにくい。まずは日本全体が右傾化しているという認識であるとか、「タカ派」的な憲法改正をするのではという疑念とか、軍国主義化とか言われている話とかをまずは修正していかなければいけません。 世界で、とりわけ関心が集まっているのは、「民主」「自由」「人権」そして「歴史」といったテーマです。「歴史」の問題では中国とか韓国が主張しているものもありますが、やはり慰安婦の問題が最も重い。人権問題が絡んでいるので適切な対処が必要です。靖国参拝問題も、アメリカにおいてもかなりの批判があるのが事実なので、歴史認識問題は、中韓をにらんで考えるというよりも、アメリカやグローバルな社会全体を見据えて、かれらにどうやって日本の姿を見せるのかということから考えたほうがいいと思います。つまり、日本は、既存の重要な普遍的価値の擁護者である、ということを示すように、歴史認識問題について適切に対処していく必要があります。韓国との関係改善は可能か原野 韓国との関係も、日韓基本条約締結50年という大きな節目の年を迎えることになります。中韓には、ある種の跛行性があるのかと思えます。中国は前向きに関係改善に向かっている兆しが見えますが、韓国は国内的な事情もあってもたついています。川島 韓国の場合、朴槿恵大統領の個性、朴政権が持っている特質が最大の原因となっているようです。それでも大分、機が熟しつつあり、関係改善に向けての色々な動きがあるなどといったメッセージも伝わってきています。 歴史認識問題に韓国側がこだわるのは分かりますが、まずは対話を行うという姿勢を特に青瓦台に持っていただくことが肝要です。また、歴史認識問題の中の慰安婦の問題とそれ以外の話を分離できるかどうかがポイントなように思います。歴史認識問題全体を十把ひとからげに扱うのではなくて、個別に腑分けしていくという作業、これがないと日本側は対応できないのではないでしょうか。 日本は過去にアジア女性基金を作り元慰安婦に対する援助を行いました。十分でないなどの不満があるかもしれませんが、このことを適切に評価するなど、日本側の取り組みについても見て戴かないと話し合いの素地がないわけではありません。難しいこととは思いますが、韓国側に、こうしたことへの理解を求めながら対話を進めていくしかないでしょう。 日韓双方とも民主化した国、民主化した社会同士です。首脳同士の交流が止まっていても市民レベルの交流は自由に行われています。韓国側もそこは分かっていて、日中関係のようにトップの関係が止まれば、すべて止まるというわけではありません。そうした意味では、日韓関係は日中と同じに考える必要はありません。原野 この30年ほどを見ていると、日本が謝罪をする、その片方で慰安婦の問題や歴史認識問題を指弾するという、2面を使い分け、同時並行で行う外交を中国も韓国もやってきました。それをそろそろ断ち切らないといけないとすれば、やはり慰安婦問題や歴史認識問題で強いメッセージを出す必要があるのでは。川島 ご存知のように1980年代から90年代までは、歴史を巡る問題というのは経済とセットとなって取り上げられてきました。日本の経済が強かったときだったので、経済面での日本側の譲歩を引き出すことが、歴史問題で抗議をすることと半分セットになっていました。逆に言うと歴史認識問題にも歯止めがきいていたことになります。しかし、中国は2010年にはGDPで日本を抜いてしまいましたし、韓国も規模は日本より小さいものの、韓国人の認識としては韓国企業の方が日本企業よりグローバルに展開しているということになっていて自信を深めています。日本から経済で何か勝ち取ろうという部分がだいぶ落ちてしまっています。経済を取引材料にして歴史認識問題に対処するということはできなくなった、日本としてもそういう認識を持つべきです。 さらに日本は、2006、07年に最高裁判所が戦後賠償について、それまでの判断を変更しました。日本は戦後、各国と講和条約、平和条約を結んだ際に国家賠償を行うか、国家賠償請求権の放棄をされてきたが、個人賠償については別というのが従来の判断でした。しかし、最高裁はこのとき個人賠償レベルでも請求権は放棄されているという判断を下しました。それまでは個人の賠償請求はありえるとしていたのでさまざまな賠償が日本の司法の場にきて、司法による決着がありました。しかし、それが出来なくなりました。経済だけでなく司法の場も歴史認識問題で機能しないわけです。そうなりますと、市民レベルの交流で底上げしていくとか、政治決断で決着を図るしかない、歴史認識を巡る処理の方法もだいぶ変わってきていることを認識する必要があります。平和構築の論理と日本原野城治氏原野 歴史の和解というと、いつも例に出されるのはドイツ・フランスの関係です。エリゼ条約を結んで市民レベルの交流で和解を進めて行きました。必ずしもドイツの方式が日本で通用するとは思いませんが、一つの参考にはなります。また、ネルソン・マンデラがアパルトヘイトを廃止して民主主義国としての南アフリカ共和国を作り直す時に、「真実和解委員会」をつくり、ここで歴史認識をしっかり行いました。「許すけど、しかし忘れない」というルールです。日本はこのような論理的、弁証法的なやり方というのをこの15年ぐらいの間、必ずしもできていなかったのではないかと思いますが。川島 たしかに平和構築という発想が生まれてからの和解は、そのようなやり方が出来ています。例えばアフリカなどで紛争を収めていく過程の中で、紛争が終わった後に子供たちの将来を見据えてどうやって教育をしていくかが大きな課題になった。歴史を巡る話もそこに入ってきていて、「許すし忘れる」「許すが忘れない」「許さないし忘れない」のパターンがあります。中国、韓国は「許さないし忘れない」ですね。日本はずいぶん謝ってはいますが、最低でも「許すが忘れない」、多くの場合は「許さないし忘れない」という反応です。 第二次世界大戦終結当時には、平和構築として両国国民が和解していって平和な環境を作っていくにはどうすればいいか、という発想が十分ではなかったでしょう。独仏のエリゼ条約も、戦争の和解を目指した条約かというと必ずしもそうではなくて、結果論として和解のツールとして機能していった、というものです。 日本の場合、第二次世界大戦を終え、植民地支配を終える時、敗戦国だったわけで、自分の方から主導的に和解を言い出しにくかった、という事情があります。ですが、もう一度、この段階に立ち戻って、今からでもできることをやっていく、平和構築的な発想を遡及適用でもいいのでやっていく、そういう考え方があってもいいと思います。 ドイツ・フランスの例から学ぶことというのは、もちろんありますが、これを「成功例」として東アジアにそのままもってくるのには無理があります。戦後西ヨーロッパような、EC、NATOといった経済協力も成し遂げ安全保障もいっしょだという環境の中でやった和解の話だからです。東アジアでは、日中間で安全保障面の問題を抱えていましたし、韓国や台湾との間にもNATOに相当するような地域安全保障体はありませんでした。ただ日韓は、お互いに民主化していますし、安全保障が地域的になっていく可能性もありますので、むしろこれから、と考えたほうがいいでしょう。最大の焦点「安倍談話」原野 今年、新しい首相談話、つまり「安倍談話」で慰安婦問題がどう扱われるかが、重大な問題と言えますが、ハンドリングを一つ間違えると、さらに深刻な事態になるかもしれません。川島 特に慰安婦問題は、歴史をめぐる問題というだけでなく、人権問題を含んでいて、世界の普遍的な価値に反する問題として捉えられがちです。つまり、中韓に絞った問題ではなくて、欧米全体を敵に回しかねない案件ですので、この問題については特別な意味があるとして、日本として主張すべきことを主張して、対応、処理をすべきだと思っています。まずその大原則を認識すべきです。無論、多くの誤解や事実誤認があるので、それはおおいに正すべきです。 安倍談話は、もしあるとすれば村山談話と河野談話を否定せず、それを継承することを前提にして、新たに出すことになるだろうと思います。この2つの談話の継承は、すでに政府も明言しているので、それは変えられないでしょう。ただ、危惧するのは、その時、村山談話や河野談話の上にラップするような新しい談話をつくって、それらの談話と矛盾があるような印象を内外に与える可能性です。談話を継承すると言っておきながら、それとは異なる印象を与えるものを出せば、さまざまな解釈の余地を与えてしまうわけです。繰り返しですけれど、あくまでも中韓に対抗するのではなく、世界の普遍的な価値に反さないようにやらないと、中韓への反論になっているが、ワシントン、ヨーロッパその他敵に回すという事態を引き起こす可能性があります。 無論、この際、欧米における誤解を背景にした、過度にリベラルな言説におもねる必要はありません。歴史としての「事実」を究明し、発信することと同時に、現在の人権問題の側面から対応するということの二面対策が必要なのです。 あくまでも普遍的な価値観においては、アメリカ、ヨーロッパを含めてちゃんと、日本は和解をしてきた、こうした問題を適切に処理している、という姿を示すような談話であって、その上で、中国や韓国の言っている話にもちゃんと反論になっているというものであることが望ましいです。また、日本は中韓に対して、ずっと敵対したわけではなくて、ご存じのように金大中氏や温家宝氏は、日本の取り組みに対して肯定的な評価をしてきたわけですから、そのことを踏まえながら、日本のやってきたこと、それに対して中韓からも評価を得てきたことも、ちゃんと談話の中に組み込んで、日本はずっとこの問題にとり組んできたとうことを示す談話になることが望ましいと思っています。長期政権だからこそ目指せる戦後の終結原野 アジア全体でみると、2015年以降、ASEANを中心として大きな経済圏が立ち上がってきます。それで、首相はかなり一生懸命アジアの歴訪をしていますけれども、十分咀嚼できているのでしょうか。川島 まず、東南アジアをどう見るかですが、日本の東南アジア外交、あるいはASEAN+3外交の基盤となる発想は、アジアの地域統合が機能的なものであるというものです。だから、ヨーロッパと違って「ヨーロッパ人」をつくろうというような、ある種のウェットなものはあまりないわけです。経済的な関係をどんどん緊密化していって、そこにおけるさまざまなルールをちゃんとつくっていく。これが統合だと思っているのですね。 これから恐らく大事なことは、別に東アジア人をつくる必要はないにしても、これから成長していくのは東南アジア、あるいはプラスアルファの地域と、ある意味でウェットな関係をつくっていく意味で、もう一回重点的に留学生や国民の交流をやっていくべきだと思うのですね。東南アジアの人たちともう一回ちゃんと人間とフェイス・トゥ・フェイスの関係を築く、そういう時代に入ったと思います。それはもう日本が東南アジアに援助をする関係ではなくて、互いに対等に協力をするような関係です。そろそろ頭を切り換えて、東南アジアを十分なアクターと考えて、対等に交流をする。そこにちゃんと予算と手間暇をかけていくということです。その点で、昨今できた国際交流基金のアジアセンターには期待しています。原野 アジアには日本にとって、北朝鮮や北方領土など残された問題がまだあります。川島 今後四年間、自民党政権が続きますので、大きなチャンスだと思います。つまり、こういう領土問題というのは、時間のかかる問題で、首脳同士の信頼関係も必要となりますから、これは安倍政権だからこそできる、取り組める課題だと思います。特に北朝鮮は戦争状態、また植民地支配を終結させ、平時の関係を築くという、戦後の日本が背負ってきた外交の最後のパズルのピースなわけです。戦争をちゃんと終わらせて、植民地支配も終わらせて、通常の関係を築く。北朝鮮だけが終わっていません。これはある意味で戦後の終結でもあるわけですね。そこをちゃんとできるのは安倍政権ではないかと、私は期待をしています。日本を伝えるということ、日本に伝えるということ原野 われわれnippon.comも4年目を迎えます。どんなことをこれからやっていかなければいけないとお考えですか。川島 まず第一に、格差社会が広がってきて、国内でいろいろなところでナショナリズムが強まっている、という指摘があります。多くの国々の国内の世論というのは、自分の国のことはきわめて多様に見るわりに、外国のことになるとすごくものを単一化して見るのですね。一人が全員になってしまうのです。日本もまた、海外からあまり理解されないところもあります。東アジアであれ欧米であれ、日本の中にも多様性があるということは、なかなか分かってくれないと思います。 政府の対外広報ですと「日本の正しい姿を発信する」と言いますが、私は別に日本の正しい姿でなくとも、日本の中にあるさまざまなものの見方、観点というものを出す、ということでいいのではと思っています。もちろん、極端な議論は出す必要はないと思っていますが、だいたいこのへんだなといういくつかの意見というものを、特集等々を通じて、ちゃんと世界に発信していく。複数の観点を出すことによって、私どもの議論や考え方の幅を示すことができます。私は国内問題を発信することにも意味があると思っています。そしてその背景には、日本を理解して欲しいだけではなく、日本という国がある種の課題の先進国でもあり、今どんな問題に取り組んでいて、どのような選択肢があって、どういう考えをもって何を選んだか、結果がどうだったかということを発信し、かつそれをちゃんと一つのアーカイブとして残して、海外からも、いつも引き出せるようにしておく。これはものすごく大きな意味を持つと思うのですね。 二つ目は、世界のさまざまな事象、現象、例えば東アジア地域に起きていることを、日本側がどう見ているのかということを示すことも大事な点であるということです。例えば中国で反日デモがあるなら、日本にも反中デモがあるだろうと思われるじゃないですか。現実には、そういうことではないわけで、日本側が反中デモをどうみているのか、それに仕返しをするために日本国内で反中デモをするなんてことにはならない、そのことをちゃんと発信をしていく。グローバルなこと、海外のことだから、日本は関心がないわけではなくて、こういう観点で見ているんだよということも、同時に発信をしていくことがあるだろうと思います。三つ目ですが、これは特に2015年であれば、歴史の問題、あるいは、先ほど申した普遍的なさまざまな価値の問題で、日本に向けられる目線に対して応えていくことです。さらに、そういう問題について、世界の人たちは、日本をどういうふうに見ているのかということをnippon.comの日本語版を通じて日本側に発信する。これもとても大事だと思うので、そうした海外の日本の目も、歴史やそうしたいろいろな問題を通じて、日本に対して発信するという作業ができればいいなと感じています。川島 真 KAWASHIMA Shin nippon.com編集長。東京大学総合文化研究科准教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。92年東京外国語大学中国語学科卒業。97年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授を経て現職。著書に『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会/2004年)、『近代国家への模索 1894-1925』(岩波新書 シリーズ中国近現代史2/2010年)など。原野 城治 (聞き手) HARANO Jōji 一般財団法人ニッポンドットコム代表理事。政治ジャーナリスト。1972年時事通信社入社。同社政治部記者、パリ特派員、解説委員、秘書部長、編集局次長、ジャパンエコー社代表取締役を経て2011年より現職。2006年より日本国際問題研究所評議員。2008年「イタリア連帯の星」カヴァリエーレ章受章。2009年TBS番組コメンテイター。
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「アジアの解放」と日本―「戦後70年談話」有識者懇が振り返らなかった視点
榊原智(産経新聞 論説委員) 安倍晋三首相が戦後70年談話(安倍談話)の作成に向けて設置した私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(有識者懇)が6日、報告書を首相に提出した。 有識者懇の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」で、座長は西室泰三日本郵政社長、座長代理は政治学者の北岡伸一国際大学長だ。 報告書が、日本の安全保障分野での日本の役割の拡大や、平和や法の支配、自由民主主義、自由貿易体制などからなる国際秩序の維持の重要性を強調していることは評価できる。一方で、歴史問題に関して、満州事変以降の日本の戦争を「侵略」と明記しつつ、おわびの必要性は指摘しなかった。これらの問題は、いろいろ論議されるだろう。 有識者会議「21世紀構想懇談会」の座長・西室泰三日本郵政社長(左)から報告書を受けた安倍晋三首相=8月6日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影) アジア解放と日本 そこで本稿は、別の論点を取り上げたい。大東亜戦争(太平洋戦争)をめぐって、歴史的事実を踏まえていないように思われる箇所があるからだ。 報告書の「20世紀の世界と日本の歩み」の項に、次のようなくだりがある。 「日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意志決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断したことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。」 「20世紀の世界が経験した二つの普遍化」の項では、次のように記されている。 「英国、フランス、オランダなどの東南アジアにおける植民地も、日本の進出によって大きな打撃を受けた。戦後、英国、フランス、オランダは植民地支配の回復を目指したが、これを実現することはできなかった。日本はアジアの解放を意図したか否かにかかわらず、結果的に、アジアの植民地の独立を推進したのである。」 敗れたにもかかわらず、日本の戦いがアジア諸国の独立をもたらしたことは報告書も認めるが、それはあくまで「結果として」であり、日本が意図したものではないという。 日本が大東亜戦争において、欧米諸国が植民地にしていたアジアの解放を目指して戦った意味合いがあることを、正面からとらえたくないような書きぶりである。 国の命運と多くの国民の生命を賭して戦う以上、日本の戦争目的は、自存自衛が第一であったのは当然だ。しかし、それとともに、アジアの解放も目的だったことは、はっきりと認めるべきではないだろうか。 大東亜会議――72年前の人種平等サミット 日本が世界史に果たしてきた役割はいろいろあるだろうが、20世紀における最も大きなものは、日本の行動がアジア諸国の独立をもたらし、白色人種優位の世界から、今のような人種平等の世界をつくる原動力となったことである。 この話は、戦争の相手だった欧米諸国が嫌う話である。しかし、私たちは知っておいたほうがいい。そうでなければ、父祖の世代が戦ったあの戦争の意味合いを、私たちはバランスよくとらえることができない。 大東亜戦争当時の日本が国策として、アジアの独立、人種差別の撤廃を目指していたことは、1943年(昭和18年)に東京で開かれた、史上初めての有色人種の国々によるサミット(首脳会議)である「大東亜会議」と、その際の「大東亜共同宣言」を振り返れば、容易にわかるはずである。 筆者は産経新聞の紙上で、大東亜会議について何度か触れたことがあるが、改めて紹介したい。これはいわば、72年前の人種平等サミットなのである。 1943年11月5、6の両日、東京の帝国議会議事堂で大東亜会議は開かれた。今、安全保障関連法案をめぐって侃々諤々の議論が繰り広げられている国会議事堂である。当時の新聞は大ニュースの扱いだった。現代の日本人が忘れているのが不思議なほどだ。 出席したのはアジア7カ国の首脳である。フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマ(ミャンマー)のバー・モウ国家元首、タイのワンワイタヤコーン殿下、中華民国(南京政府)の汪兆銘主席兼行政院長、満洲国の張景恵国務総理、日本の東条英機首相、それにオブザーバーのチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班だった。 現代風にいえばアジア首脳会議、アジアサミットで、いずれも日本の同盟国、友好国の首脳が出席した。 錚々たる顔ぶれだった。フィリピンのラウレルは戦後、逮捕されたが1948年に恩赦となり、1951年の上院議員選挙でトップ当選するなど政界で活躍した。 タイの王族、ワンワイタヤコーンは1947年には国連総会の議長を務めた。外相、副首相も歴任している。 ビルマのバー・モウは戦前、仏・ボルドー大、英・ケンブリッジ大へ留学し、哲学博士、弁護士になった。植民地政府の首相となるが、辞任後は独立運動に身を投じ、反乱罪で英当局により獄につながれた。 汪は中華民国の成立宣言を起草した辛亥革命の志士で、孫文の側近だった。蒋介石と並ぶ中国国民党の有力者だったが、日中戦争の最中に、和平を唱えて重慶から脱出し、その後、南京政府を樹立した。南京政府は日本と同盟を結び、日本は治外法権を撤廃し、租界を返還している。1944年にがんで死去した。 満洲国の張は、清朝の軍人から中華民国の陸軍総長、軍事参議院総長を経て、最後の清の皇帝だった溥儀が即位した満洲国のナンバー2になった人物である。戦後はソ連に逮捕され、1959年に中華人民共和国で獄死している。 チャンドラ・ボースは、インド独立運動の大立て者だった。終戦時に台湾での飛行機事故で亡くなったが、独立運動指導者としてガンジー、ネルーとともにインドの国会議事堂に肖像画がかかっている。日本は、海軍が占領したインドのアンダマン、ニコバル諸島を自由インド仮政府の領土として贈っている。 悲劇として知られる1944年のインパール作戦は、日本軍とともに、自由インド仮政府の6千人のインド国民軍が「進め、デリーへ」を合言葉に、インド北東部の都市、インパールの攻略を目指した戦いだった。 有色人種の国々が世界に訴えたこと 大東亜会議が世界に向けて出した大東亜共同宣言は次のようなものだ(読みやすい表記に改めた)。 「抑々(そもそも)世界各国が、各其の所を得、相扶(たす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、世界平和確立の根本要義なり。 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ、大東亜隷属化の野望を逞(たくまし)うし、遂には大東亜の安定を根柢(こんてい)より覆さんとせり。大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。 大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。 一、大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す一、大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ、大東亜の親和を確立す一、大東亜各国は、相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢(しんちょう)し、大東亜の文化を昂揚(こうよう)す一、大東亜各国は、互恵の下、緊密に提携し、其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進す一、大東亜各国は、万邦との交誼をを篤(あつ)うし、人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化を交流し、進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」 現代文で置き換えてみてほしい。戦争の完遂という戦時中の外交文書である点を除き、他の部分は、普通の首脳会議の宣言にしてもおかしくない内容であることがわかる。その中で、「人種差別の撤廃」「相互に自主独立の尊重」といった表現があることは、欧米植民地支配に対峙する宣言だったことを示している。 会議が開かれた1943年11月は、日本の敗色が感じられるようになった時期だ。それにもかかわらず、アジア7カ国の代表が東京に集まった。日本が要請したからであるが、無理強いしたから集まったにすぎないととらえる人がいるなら、戦勝国の史観にとらわれすぎている。当時の人たちの人種差別や欧米支配への憤りを軽んじるのは、歴史の多面的見方から遠ざかることになるだろう。 チャンドラ・ボースは、大東亜会議で次のように語った。 「かつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しく彷徨したことのある国際連盟の決議、そしてその廊下やロビーを想起しました。 この歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを想います。 この会議は、戦勝者同士で戦利品を分割するための会議ではありません。これは弱小国家を犠牲にしようとする陰謀、謀略のための会議でもなく、また、弱小な隣国を欺くための会議でもありません。この会議は、解放されるべき諸国民のための会議であり、即ち、正義と国際関係における互恵主義および相互援助の原則に基づいて、この東亜の地域に新秩序を創建するための会議なのであります」 フィリピンのラウレル大統領は、「我々は今後再び既往のごとく離散することなく、圧迫、搾取および圧政にあくまでも抗争し、10億のアジア民衆は少数西洋強国の支配および搾取の犠牲とは再びならないことを世界に向って宣言し得る次第であります」と演説した。 米英両国は、1941年に出した大西洋憲章において、人民に政府の形態を選択する権利があると謳った。しかし、英国のチャーチル首相は、その権利は欧州だけのものでアジア・アフリカの植民地には適用しないと述べていたのである。 重光葵――20世紀日本を代表する外交家 東条内閣において大東亜会議を推進したのが、重光葵(まもる)外相だった。 重光は、20世紀の日本における屈指の外交家である。戦時中は、東条内閣後期と小磯国昭内閣の外相を務めた。終戦後、東久邇宮稔彦王内閣の外相となり、政府全権として米戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印式に臨んだ。その後、A級戦犯として逮捕、起訴され、東京裁判で有罪判決(禁固7年)を受けて服役した。 日本の再独立後、衆議院議員に当選し、鳩山一郎内閣の副総理・外相を務め、日ソ国交回復に尽力した。1956年に日本が国際連合に加盟した際には日本政府代表として国連総会に赴き、加盟受諾の演説をして大きな拍手を浴びている。 重光が大東亜会議と大東亜共同宣言を推進したのは、日本の戦いの目的が自存自衛にとどまらず、アジアの解放にあることをはっきりと世界に示すねらいがあった。 当時、重光は東条に「これで英米の大西洋憲章に対抗できます。大東亜会議を開けば、大東亜戦争の目的はアジアの解放にありという、わが国の戦争目的の正当性を世界に示すことができます」と語っている(福冨健一著『重光葵連合軍に最も恐れられた男』講談社)。 昭和天皇も、重光に「これを進めるべし」と述べられ、大東亜会議を明確に支持していた(前掲書)。 イギリスの歴史家、アーノルド・トインビーは、日本の戦争目的の中に、アジアの解放があったことを認め、歴史的意義を見いだしている。 「第2次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間考えられていたような不死の半神でないことを明らかにした点にある。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、開戦当初、ともかく我々はみな将棋倒しのようにやられてしまった」(英紙「オブザーバー」1956年10月28日)と指摘している。 有識者懇の報告書との見方とは大きく異なる。 第1回バンドン会議で大歓迎された日本 もう1つ、筆者が今年1月に産経新聞の記事とし、その後加筆して産経のオピニオンサイト「iRONNA」に載せた「戦後70年落ち着いて歴史を語れる国に」を引用したい。 (---引用始め---) 「よく来たね!」 「日本のおかげだよ!」 日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。 1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。 この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。 日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。 高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。 「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。 この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。 その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」 これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。 本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。 アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。 バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。 (---引用終り---) 加瀬俊一は、重光外相の秘書官として、重光とともに大東亜共同宣言の原案を書いた外交官である。 加瀬は著書(「あの時『昭和』が変わった101歳、最後の証言」光文社)でも次のように記した。 「対米戦争は自存自衛のために追い詰められて、立ち上がった戦いだったが、何百年にもわたって西洋の植民地支配のもとにあったアジアを解放したのだった。開戦三年後の大東亜宣言の原案は、重光外相と私が苦心して書いたものだった。 あの降伏調印式の日にそのようなことは互いにいわなかったが、世界史的な戦いが終わって、日本は人類史によって与えられた役割を果たしたという矜持が、胸のなかにあった。負けたのは事実であっても、精神的にはけっして負けていなかったのだ。そういう意地があった。」(82頁) 「わが国では、戦後、この大東亜共同宣言をもっぱら軍部が占領地域を搾取する煙幕に利用したように解釈しがちだが、真意は日本の戦争目的を宣明するにあった。 いずれにせよ、日本の先の戦争を戦ったために独立したアジア諸国は、今日なお大東亜共同宣言を深く多としている。アジアだけではなく、アフリカの諸民族まで、日本が提唱した植民地解放運動に心から感謝していたことは、私が1955年(昭和30年)にインドネシアのバンドンで催されたアジア・アフリカ(AA)会議に、日本政府代表として出席した時や、初代国連大使として国連にあった時に、親しく感得した。 大東亜共同宣言が日本で軽視され、アジア、アフリカにおいて高く評価されているのは、皮肉である。」(105頁) 独立のタネをまく 日本の戦争だけでアジア、アフリカ諸国が独立したのではもちろんない。たとえば、インドネシアは戦後、オランダ軍を相手に激しい独立戦争を戦い、80万人もの犠牲を払って独立を勝ち取った。その戦いに1千人から2千人もの残留日本兵が加わったが、独立戦争の主体はインドネシア人である。 インドネシア独立のために戦う母体となったのは、戦時中に日本が育成した祖国(郷土)防衛義勇軍(PETA、3万8千人)などの青年たちだった。愚民化政策をとったオランダとは異なり、戦時中の日本は官吏育成学校、医科大学、師範学校(教員養成学校)、商業学校などを設けて、国づくりに欠かせない人材を教育していたのである。 世の中の出来事は、多面性があることなど、大人なら誰でも知っていることだ。まして、一国の歴史ともなればなおさらだ。日本では、戦前や戦中の自国の歩みについて否定的にばかりみる言説が、今も満ちあふれている。戦後70年も経ったのに、あまりに公平さを欠いている。 インターネットによって、このような状況は是正されつつあるが、ネットや——恐縮だが——産経新聞などに触れることなく、日本ばかりが悪かったという史観ではない見方があることに気づかない世代、人々はなお多い。 有識者懇の面々は、知識も経験も十分な人々のはずだ。にもかかわらず、日本と「アジアの解放」の関係について、大東亜会議、宣言などを顧みなかったのだろうか。報告書が「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」としたのは理解に苦しむところだ。 大東亜戦争をめぐって、日本の戦いの目的や日本人が抱いた理想と「アジアの解放」を関連づけて考察することは、戦争を美化する話では決してない。戦争とは多くの人々が犠牲になる悲劇であることは間違いない。 それでも、戦争を含め一国の歩みにはさまざまな意味合いがある。「有識者」が振り返るというなら、大きな歴史的事実を踏まえることが必要ではないのだろうか。(この記事は「先見創意の会」2015年08月11日のコラムより転載させていただきました)
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かくも怪しき北岡伸一「総理に侵略と言わせる」発言
小川榮太郎(文芸評論家) 「安倍談話」について検討する「二十一世紀構想懇談会」の座長代理で、国際大学学長の北岡伸一氏は九日、東京都内で開かれたシンポジウムに出席した。講師の一人として参加した北岡氏は首相の歴史認識に関して、「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」と述べた。 北岡氏は「日本全体としては侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して、誠に申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば九十九%そう言うと思う」と指摘した。(3月10日付朝日新聞) これを読んで、私は驚いた。読んだ瞬間、椅子から滑り落ちさうになつたと言つても誇張ではない。報道による不正確な歪曲かと思ひもしましたが、どうやらさうではないらしい。すぐ後にも氏は「私はもちろん侵略だと思っている。歴史学的には」と繰り返してゐる。(3月15日付朝日新聞)かうしてわざわざ「歴史学的に」などと注釈を付けられると、私も後に引けなくなる。何故なら、正に、「歴史学的に」こそ、日本の戦争の「全体」を「侵略」と断ずる事は絶対に不可能だからです。まさか、国際政治学の専門家である北岡氏が、その事を弁へてゐない筈はなからう。とすれば、北岡氏が、懇談会の実質上のリーダーといふ立場を寧ろ積極的に利用するかのやうに、敢へて繰り返し「侵略」と言ひ募つてゐる以上、そこには間違ひなく「歴史学的」ではない何らかの強い理由があるのでせう。が、それは私の関知するところではない。「二十一世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理 今、さしづめ私が大事にしたいのは、「議論を守る事」それ自体です。「議論」を「政治」――マスコミ、アカデミズム、外務省、アメリカなどの圧力――から守る事です。更に付け加へれば、私の言ふ「議論」とは、「侵略」だつたかなかつたかなどについて、意見を異にする陣営が、相手に届かぬ言葉で攻撃しあふ事ではない。 今、我々にとつて本当に必要な事は、「侵略戦争」をしたと断じる事でもなければ、「侵略戦争」でなかつたと断じる事でもない。「悪い戦争」だつたと言ふ事でも、「良い戦争」だつたと言ふ事でもない。大東亜戦争に関しては、何十年もの間、戦争の評価を巡つて対立し続けてゐるばかりで、肝心の、議論の土俵そのものが一向に確立されてゐない。その事を確認し直す事で、神学論争そのものを打ち切り、日本の戦争を、もつとありのまゝ見詰め直す機会に、七十年の節目をする事こそが「議論を守る事」だと、私は思ひます。 懇談会に先立ち、安倍総理は五つの論点を提示してをられるが、その第一は、「二十世紀の経験からくむべき教訓」でした。単純さうに見えて示唆的です。従来、かういふ時に政府が採る「先の大戦」といふ表現ではなく、敢へて「二十世紀」と括つてゐる。これは、日本の戦争を世界史の中で相対化するといふ方針に他なるまい。実際、世界史といふ過酷で複雑極まる舞台抜きに、日本の政治指導者や軍部、或いは特定の戦闘地域にばかり焦点を当てた歴史記述から、何と長い間、我が国は抜け出せないで来た事か。「二十世紀」といふ時間軸と「世界」といふ政治力学上の舞台を、しつかりと確立する事――これこそは、神学論争を止めて、新たな歴史認識へと我が国が成熟する為に不可欠であり、七十年談話発出に向けて民間が議論を深めるべき主題に他ならない。総理の提出された論点はそこを正確に穿つてゐる。 そして、実は、その際最も邪魔になるのが、北岡氏が強調してみせてゐるやうな「侵略」といふ言葉の不用意な使用なのです。「侵略戦争」でなかつたと結論付ける為ではなく、議論の土台を築く為にこそ、この言葉が如何に有害か――今回はそこを中心に論じておきたい。「侵略」概念がもたらす野蛮と残虐 冒頭の北岡発言の問題は取り敢へず次の三点に集約されます。 第一に、侵略の原語aggressionといふ語の、国際法上の特殊な語義を顧慮してゐないといふ歴史学的な誤り。 第二に、鍵概念の日本語と欧米語の差異や、全体的な用語の不正確さによつて生じる戦争観の誤り。 第三に、大東亜戦争のやうな多義的な戦争の性格を一義的に断定する誤り。 以下、それぞれの観点から論じておきませう。 「侵略」といふ概念の特殊な語義については、三月十七日付産経新聞の「正論」欄で、長谷川三千子氏が、「侵略=aggression」が、歴史的経緯から見て、「勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負はせる罪のレッテル」以上でも以下でもない概念だといふ点を指摘してをられる。簡にして要を得た議論だから、詳細は氏の論考に譲りたいが、要は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約が、敗戦国ドイツに対して、aggression=侵略といふ言葉を用ゐた時、この言葉は、単に他国領土を野心的に侵すといふ本来の語義以上の意味、国際裁判で訴追され有罪を問はれるwar crime=戦争犯罪を構成する要件になつてしまつた。以来、純軍事学的に事実を指示するinvasion=侵攻に対して、aggression=侵略は、犯罪性を含意して今日に至つてゐます。事実としての侵攻を認めるのと侵略を認めるのでは、だから意味が全く違ふ。 この状況を国際社会の合意として確立したのがパリ不戦条約です。不戦条約の第一条は、よく知られてゐるやうに、「国際紛争解決の為戦争に訴ふるを非とし」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と書かれてゐる。要するに、自分の側から戦争を仕掛ける事を締約国に禁じた訳だ。ただし、現実の国際政治に纏はるあらゆる利害を考慮してゆく中で、結果的には、自衛戦争は容認される事になる。更に、米英を中心に、それぞれに固有の国益に関はる戦争は自衛だと主張され、承認されます。つまり、侵略戦争は戦争犯罪だが、自衛戦争は正しい。が、自衛か否かは各国に決定権があり、事実上は、強国が、侵略か自衛かについての仕切屋となる、この条約はさういふ構図を国際社会に作り出し、法理の細目はともかく、原理的には、九十年経つ今も、この戦争観が世界を支配してゐる。 国際法の権威である大沼保昭氏は、かうした、戦争違法観の成立と展開を、それ以前の無差別戦争観に対する進歩と見做してゐる。主流の学界は当然さうなのでせう。 確かに、国際社会で紛争を論じたり、糾弾する場が出来た事は進歩でせう。が、それは国際連盟や国際連合がまがりなりにも存在する事自体の成果であつて、戦争違法観が平和に貢献してゐるといふ話ではないのではないか。寧ろ、不戦条約以後の、良い戦争と悪い戦争といふ分類は、国際社会を、それがなかつた時よりも遥かに野蛮で凄惨なものにしたのではないか。 パリ不戦条約以来の戦争観は、有名なクラウゼヴィッツの定義と真つ向から対立します。周知のやうに、クラウゼヴィッツは「戦争とは別の手段で行はれる政治である」とした。戦争を、政治が合理的、平和的に解決できぬ問題に対する代替的手段ととらへたのです。これは、戦争を国家の正当な権利と認める事だから、一定の危険は伴ふ。が、逆に、もし世界各国が、戦争を政治の下位に置くこのテーゼを原則的に了解してゐれば、戦争が、政治的成果を無視した不合理な総力戦や敵殲滅戦になりにくいのも確かでせう。 勿論、不戦条約が登場したのは、第一次世界大戦によつて、このクラウゼヴィッツの原理が必ずしも機能しない――政治が戦争をコントロールし得ない事が明らかになつたからです。確かに、クラウゼヴィッツの原理は、運用の過程で、失敗も逸脱も行き過ぎも生じ得る。 が、不戦条約の戦争観は原理的に残虐さを生む。 戦争に正不正があるとなると、戦争は達成すべき政治目標といふ理性的指標を見失ひ、勝敗そのものといふ裸の力だけが全てを決する事になるからです。 自分の戦争を侵略戦争だと宣言する馬鹿はゐません。誰もが、正当な理由を主張する。が、その主張が正当か否かは何が決めるのか。勝敗でしかない。まさか戦争をやつた挙句、第三者による裁判で、戦勝国の側の指導者が絞首刑になるなどといふ図がある筈がない。東条英機と並んで、トルーマンが原爆投下の罪で、スターリンが中立条約違反で絞首台に送り込まれるなどといふ事があり得る筈がない。かうして戦争は、侵略戦争の規定によつて戦争を抑止するといふ美名の下、結局、勝てば正義、負ければ犯罪者といふ近代以前の危険な賭けに逆戻りしてしまつた。侵略と認定されれば、そのまま戦争犯罪になる以上、戦争は死にもの狂ひのものになつた。「侵略」によって隠された共産主義という災厄 一方、二十世紀は、この不戦条約の戦争観と同時に、共産主義といふ怪物が席巻する時代でもありました。旧ソ連、中国を中心に、政治実験の犠牲者は数千万人を越えると言はれる。共産主義独裁による災厄は、間違ひなく、「侵略戦争」の被害の比ではなかつた。が、ソ連はアメリカや西側諸国との戦争で負けたのではなく、自壊してしまひます。中国共産党はトウ小平の改革路線によつて、冷戦崩壊を巧みに逃げきつた。つまり、彼らは敗戦したのではなかつた故に、歴史上最大の災厄とさへ言へる国家的犯罪を、免責されたままなのです。 かうした二重に歪んだ二十世紀史の構造――敗戦国は戦争に負けたといふだけの理由で、犯罪の烙印を押される一方で、ソ連・中国といふ二つの大国の巨大な「人道に対する罪」が問責されぬままといふ――を助長・固定する概念こそが、「侵略」なのです。この鍵概念が持ち出されると、敗者は何一つ口が利けなくなる。そしてそれ以外の国は、「侵略」といふ鍵概念さへ呟けば、この敗者を無条件に黙らせる事ができる。そして、それが同時に、「侵略」認定国家以外が侵してきた世界史的な悪にとつての隠れ蓑になる。更には、慰安婦問題のやうに、今現に進行してゐる他の悪から世界の眼を逸らさせる便利な小道具にさへなる。 我が国がなすべき事は明白でせう。何よりもまづ、我が国の戦争を、二十世紀の世界史全体の中で相対化する事だ。正当化するのではなく、構造的な歪みを極力除去する、それだけでいい。「あいつらも悪い事をしてゐたんだ、日本だけぢやない」などと幼稚な罪のなすりつけあひをする必要はない。世界史的な文脈で戦はれた戦争を世界史の中に位置づける、それだけでいい。 そして、実は、その時にも又、最大の障害になるのが、「侵略」といふ概念なのです。ここまでで明らかなやうに、この言葉で自分の戦争を規定し続ける事は、戦争の客観的な性格の叙述ではなく、国際法上の極悪人の烙印を自らに押し続け、世界に宣言し続ける事だからです。「侵略」といふ言葉を不用意に使へば、それだけで二十世紀以来今日に至る国際政治の暴風圏に入り込んでしまふ。あの戦争を真つ新な気持で、新しい知の地平で捉へ直す事そのものが不可能になつてしまふ。 ところが、政治家である安倍氏が、内外の圧力に屈する事なく、「侵略」概念に対して努めて距離を置かうとしてゐる時に、政治的圧力から議論の客観性を守るべき筈の北岡氏の方が、逆に、この用語の暴風圏に自ら率先して飛び込み、総理を道連れにしようとしてゐる――奇妙な光景といふ他ないのではないでせうか。「戦争責任」という魔語への言ひ換え「戦争責任」という魔語への言ひ換え 次に論じるべきは、原語と翻訳語の差異や、用語全体の不用意さの問題です。私はさつき、さり気なくwar crime=戦争犯罪と書いたが、実はこの語からして、面倒な事がある。日本では、war crimeを、狭義の残虐行為などを指す時には「戦争犯罪」、第一次大戦で新たに登場した「侵略」「平和に対する罪」などを全体として指す時には「戦争責任」と訳す習慣がある。例へば大沼保昭氏による古典的なwar crime論の表題は『戦争責任論序説』、にもかかはらず副題の方では「「平和に対する罪」の形成過程におけるイデオロギー性と拘束性」となつてゐる。勿論「平和に対する罪」はcrimes against peaceの訳語だが、では「戦争責任」は、war responsibilityかといふと、そんな言葉はない。原語はwar crimeである筈だ。 実際、手元にある『国際関係法事典』(三省堂)には「戦争犯罪」といふ項目はあるが、「戦争責任」といふ項目はない。一方、Wikipediaには「戦争犯罪」とは別に「戦争責任」といふ項目があり、御丁寧な事に「しばしば戦争犯罪と混同されるが、戦争責任にはいくつかの側面があり云々」と書いてある。ところが、よく見ると他言語対応がないではないですか。勿論、be responsible for the warといふ言ひ方はあるに決まつてゐるが、斯界の最高権威である大沼氏の主著に冠されてゐる「戦争責任」といふ言葉に、欧米の原語が存在しないといふのは皮肉がきつすぎないでせうか。言ふまでもないが、この概念は欧米由来のものなのだからです。 最初に「戦争犯罪」を「戦争責任」と言ひ換へたのが、敗戦直後の外務省かGHQの示唆によるのか、その辺りは専門家の知見を伺ひたいが、今は措きます。要は、「戦争犯罪」といふストレートな言葉に較べ、「戦争責任」と言へば、道義的な語感が強くなる。だから、この言葉を用ゐて事を論じてゐると、この語の原義が、犯罪である事を忘れて、曖昧な気持になつてくる。 かうしたどぎつい原義を誤魔化した用語で日本の戦争を論じる風土から、冒頭の北岡さんのやうな「日本全体としては侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して、誠に申し訳ない」と言ふ発言も出て来るのです。 「悪い戦争」といふのが、正に「戦争責任」といふ曖昧な語感に合致する。日本人も、さすがに自分が犯してゐない犯罪を進んで引き受ける迄のお人よしではない。「お前は犯罪者だ」と言はれれば、目を剥いて抗議する。が、「君にも悪いところはあつたらう」などと言はれると、寧ろ自分の悪い面は潔く認め「責任を痛感する」のが大好きなのが我々日本人だ。「戦争犯罪」から「戦争責任」への言ひ換へは、この日本人の心性と見事な迄に共振してしまふのです。 その上、戦争そのものが「悪い事」だといふ話と「悪い戦争」とが混線する。確かに戦争はたくさんの人を殺す事だ。絶対悪とも言へるし、人間の業の最悪の現れとも言へる。が、戦争といふ非情な現実を論じる以上、戦争といふ「悪い事」と「悪い戦争」の混同は、厳に戒めなければならない。平時では、人一人殺しても大罪です。他方、戦争は、たくさん殺した方、つまりより「悪い」方が勝つ。そして二十世紀以降の戦争は勝てば正義になつた。つまり、単純化して言へば、戦争では、より「悪い」方が正義になる。要するに、戦時と平時とはベクトルが正反対なのであり、特定の当事者のみに絞つて、戦時の人道的善悪を論じると、どんなご都合主義的な議論でも可能になつてしまふ。北岡氏の「悪い戦争をしたから申し訳ない」といふのは、その陥穽に嵌つた典型的な物言ひと言ふ他はありません。 つまり、我が国の主流歴史学の戦争論では、(1)侵略といふ言葉の犯罪性を隠蔽し、(2)war crimeを「戦争犯罪」から「戦争責任」に置き換へ、(3)一般的な「悪い」事と、「犯罪」との境界を曖昧にし、(4)「戦争」といふ「悪い事」と「悪い戦争」を混同してきた。 その結果、「日本は、よその大陸に出掛けて行つて戦争するなどといふ『侵略』をしたのだから、『責任』はあるんだ。色々な意見はあるかもしれないけど、『悪い』面はあつたのだから、素直に認めようよ」といふロジックになる。如何にも日本人には居心地がいい論法だ。が、これが世界標準の政治言語に翻訳されたらどうなるか。「日本はaggressionといふwar crimeを自ら認めた」といふ意味に自動的に置き換へられてしまふ、行間もニュアンスも糸瓜もない、論争の余地さへないまま、この話は終了です。 言ふまでもなく、安倍談話は、英訳されて世界中で認知される事になる。それが今後の日本の公式の歴史観となり、日本の歴史学の学術発信にも、外交交渉にも影響を及ぼす事になるのは間違ひない。北岡氏の、「侵略」戦争観を談話に入れよといふ主張は、日本の学界の、意図的誤訳と情緒操作的な戦争観に支配された、致命的な誤謬として百年の禍根を残すものだ。絶対に譲つてはならない。「侵略」では道徳的断罪もできぬ支那事変の複雑性 さて、以上、aggression=war crimeについて述べてきた訳ですが、次に、「侵略」をさうした明白な法的犯罪と取らずに、一般的な語感に従つて、他国の領土への侵攻といふ道徳的悪と見るとしませう。するとどうなるか。 大東亜戦争は、支那事変から対英米蘭戦争までを包括した戦争です。延べ九年間にわたり、中国大陸、東南アジアからインド、更に中部太平洋諸島にまで渡る歴史上最大面積で戦はれ、その後の世界史に与へた影響も数百年規模の転換点となる程甚大だつた。 常識で考へても、これだけ大規模な戦争を、侵略戦争と呼ばうと、逆に自衛戦争やアジア解放戦争と呼ばうと、所詮群盲象を撫でるのを出ないのは明らかでせう。大東亜戦争をどう評価するか以前に、この多面性を一語で覆ふこと自体が、そもそも不可能なのです。 大東亜戦争は、大雑把に言つて、対支那戦争、対米戦争、そして、東南アジアの英米蘭植民地で戦はれた戦争、そして対ソ連戦争といふ四つの戦争が複雑に絡み合つてゐます。そして、それぞれ性格が全く違ふ。 対支那戦争において、日本の戦争が「侵略」の語感に最も近づいたのは、間違ひないでせう。明治以来、日本が歴代の中国政府と信頼関係を築けなかつた事の責任を追及しはじめると、相互の言ひ分が錯綜して、結論は出ない。ここでは、満州事変と支那事変とに話を限りますが、満州事変は、中国に安定的な政権が出来ず、ロシアの南下意図が明白な中、力の空白地帯を日本が先取しようとしたものです。五族協和の理念で建国した。これが事変を主導した日本側の「物語」だ。が、一方で、欧米の帝国主義的領土分割の季節は既に終はり、しかも先述したパリ不戦条約が戦争そのものの否定を打ち出した直後の事だ。時期が悪い。我が国が予防的な領土拡張だと主張しても、予防の必要を逸脱した侵略行為だとされれば、議論の決着は付きません。 が、かと言つて、東京裁判の言ふやうに、満州事変を大東亜戦争の遠因とするのも無理がある。もし満州建国直後のリットン調査団勧告を日本が受け入れ、ロビー活動によつて調査団を取り込み、国際主流派となれ合ひながら、実質的な満州権益を確保してゐれば、満州国は徐々に国際社会に承認されたでせう。国際承認を受けてゐれば、これが「侵略」の一歩だとはならなかつた。 次に支那事変ですが、ここから対米戦争までは確かに連続してゐます。が、これは又、史上類を見ない程複雑な戦争でした。 構図の基本は、一向に支配権の確立もできず近代化も進められぬ中国の政治・軍事指導者らの内部抗争、その不安定な状況に乗じて、満州から支那へと徐々にせり出す日本軍部と英米との、利権を巡る綱引き、コミンテルンによる中国赤化工作の絡み合ひです。 国民党政府の蒋介石が、昭和十二年、共産党に身柄を拘束されて反共から抗日に転向した時に、日本の孤立は決しました。中国共産党の裏にはソ連、蒋介石には英米資本がゐる。毛沢東と蒋介石が一致して抗日となれば、中国人のナショナリズムの炎が日本に向けられるのは当然でせう。 さうした中で勃発した支那事変は、日本を追ひ出せといふ中国のナショナリズム戦争といふ側面、それに対処してゐる内に日本側が戦争にひきずり込まれたといふ側面、圧勝続きの日本が、調子に乗つて終戦条件をせり上げて自ら泥沼にはまつていつた側面が共存する。蒋介石は重慶に閉ぢ籠り、だらだらと降伏を先延ばしにします。背後には日本弱体化を狙ふ英米、国民党と日本とを争はせて漁夫の利を狙ふ共産勢力の思惑がある。 いづれにせよ、日本軍が戦つた相手そのものさへはつきりしない。中国の民衆でもあり、共産党分子でもあり、蒋介石政権でもあり、彼らそれぞれの背後の勢力でもあつた。支那には人がをり、社会があるが、所詮、国家はない。さういふ意味で、支那大陸といふ特殊な深海に日本を誘き入れて自滅させたのは、古代以来の中国人の奸智であり民族力そのものだつたと言ふ言ひ方もできよう。異民族を排出する中国独自のシステムが機能したとも言へるが、日本が体現してゐた「近代」そのものを追ひ出したと言ふのが一番正しいのかもしれない。 かうした戦争を、単純に侵略と規定する事は到底できまい。勿論、正義の戦争でもない。古代以来支那大陸で民族入り乱れて繰り返されてきた伝統的な覇権戦争に寧ろ近いのではないか。 いづれにせよ、確実に言へる事がある。もし、早期に停戦できてゐたら、日本は満州国の承認だけを条件に、勝者として撤兵する筈でした。さうなれば、対米戦争が起きたかどうかも分らなくなる。次の戦争の時期が先に延びれば延びる程、ソ連の危険な正体がはつきりし、日米戦争を経ずに、日米は対ソ同盟を形成したかもしれない。別に事々しくifを振り回すつもりはありません。私が言ひたいのは、満州事変、支那事変共に、日本が身を引く事さへ知つてゐれば、事実上の勝者として解決し、今日迄問責される事態にはならなかつた筈だといふ一点です。日米戦争は双方の自衛権発動だつた日米戦争は双方の自衛権発動だつた では、アメリカとの戦争は「侵略」だつたのか。いや、勿論、これこそは、侵略の語感から最も遠い戦争でした。支那事変が長引くにつれて、アメリカは、大陸に対する日本の野心を強く警戒し始め、日本を経済封鎖によつて追ひ込みます。アメリカに経済封鎖されると、日本は、支那事変において有利な終結を図れなくなる。そこでジリ貧になる前に南方の石油を確保しようと、東南アジアに進出した。ところが、それが引き金となり、逆に、アメリカとの戦争が始まつてしまふ。これは、日本側からみれば明白な予防戦争です。 断つておきますが、私は日本を弁護したくて言つてゐるのではない。逆も言へるからだ。アメリカから見ても、これは予防戦争だつたのです。日本がどこまで強国になるかは、領土や資源の確保によつて決まります。もし、日本の領土的野心を指を咥へて見てゐたらどうなるか。満州の権益が日本の国力を増強し続け、中国利権で優位に立ち、その上南洋の石油資源まで確保し、南太平洋の制海権まで日本が手に入れたとしたら――それこそアメリカにとつてかつてない巨大な脅威の出現と言ふ他はない。しかも大英帝国に昔日の面影はなく、ドイツ一つに振り回されて青色吐息だ。日本が一度領土と資源を入手し、アジアの広域で安定的な統治を確立したら、アメリカは逆に追ひ込まれる。そこで、アメリカは、日本が大国への道を目指す以上、いづれ予防の意味でこれを叩かねばならなかつた。 つまり、日米ともに、広義の自衛権を発動しあつた結果が、日米戦争だつた。言ひ換へれば、不戦条約以前であれば、どちらが勝者になつたかにかかはらず、一方を侵略国家と決め付けて精神的に追ひ詰める必要などなかつた筈だつたとも言へる。 その、日本にとつての予防戦争の戦闘地域が、南方の資源地帯である東南アジアからインドにかけてです。では、これらの地域での日本の戦争は「侵略」だつたか。これらの地域は、そもそも全て欧米の植民地であり、日本軍が戦つた相手は、植民地に駐留してゐた欧米の軍隊です。しかも、日本は連戦連勝、植民地の白人たちは数百年の支配を一瞬で打ち砕かれた。これら植民地の一部は、戦争の最中に日本の承認で独立国となり、さうでなかつた地域も、戦後全て独立を果たした。 これを侵略戦争と呼ぶならば、日本はイギリス領を侵略したのか、マレー人やインドネシア人を侵略したのか。 だが、そもそもは、英米蘭諸国がこの地域から日本への資源輸出を拒んだから、日本は戦争を始めたのです。もし、当時、それぞれの地域に自由な主権国家が成立してゐれば、日本は戦争など起さずに資源の輸入をすれば済んだ話でせう。しかも結果として、日本は欧米と戦ひ、彼らをこの地域から駆逐した。結果としてアジア諸国はそれぞれ独立を果たした。 要するに、侵略といふ観念そのものが、これらの地域における日本の戦争を規定するにあたつて全く無力だといふ他はない。 ソ連については、勿論、日本の対ソ連戦争は存在せず、ソ連の対日本侵略が存在するだけです。ソ連は、中立条約を一方的に破棄して日本に参戦してきた。しかも、そのソ連の参戦は、チャーチル、ルーズベルトとの密約だつた。国際法違反をして、日本を蹂躙したのはソ連であり、それを是認した米英は、その共同謀議者だつた。 以上を要するに、大東亜戦争は、極めて多面的な戦争であつた。しかも、侵略といふ観念に最も接近するかに見える支那事変でさへ、規定の難しい戦争である事、それ以外の局面では「侵略」との規定は、相当無理をしてもまづ成立し得ない事、したがつて、「日本の戦争」を一刀両断に「侵略」と括る事は、北岡さんの強弁とは逆に、「歴史学的」にこそ、全く不可能だといふ事は、以上の簡単な叙述だけでも明らかではないでせうか。大東亜戦争の全貌は世界史の中で語られねばならぬ さて、以上、「侵略」といふ概念に三つの観点から検討を加へました。私は国際法や二十世紀史の専門家ではないから、無知による誤謬も多々あるでせう、それは覚悟の上なので叱責頂くとして、議論を前に進める為にあへて拙い試論を立てたのだとご理解頂きたい。 私は焦つてゐるのです。 大東亜戦争をどう見るかといふ事は、単に国内的な論争の対象ではなく、いまだに国際政治の一部です。そして、国際政治と密接に連動する国際アカデミズムでの重要な主題でもあり続けてゐる。 我々は、日本の立場を日本国内で幾ら主張しても仕方がない。また、日本に都合のよい、逆に言へば、世界が眉を顰めるやうな勇まし過ぎる議論を、内輪だけで幾らしてゐても仕方ない。 先頃、メルケル首相が来日して、安倍首相の歴史認識を牽制するやうな発言をしました。その是非はどうでもいいのです。メルケル氏がわざわざそんな事に言及したのは、明らかに、安倍総理が、欧米のメディアやアカデミズムにおいて、彼らにとつて非難すべき意味での歴史修正主義者だと決め付けられてゐる事の反映だ、要点はそこにあります。 メルケル氏を難じるのは簡単だが、肝心な事は、日本の保守系知識人の言説そのものが、国際的な誤解の構図に組み込まれてゐる事の方だ。 例へば、南京大虐殺=犠牲者三十万人といふ捏造された神話がある。それに対して保守側は、実証研究を重ね、これがプロパガンダであることを証明してきました。しかし、その議論を普及させる為に、「南京大虐殺は無かつた」といふ刺激的なキャッチコピーが用ゐられる。プロパガンダに対してプロパガンダで対抗するといふのは無論必要でせう。多くの日本人が、南京虐殺がプロパガンダだと認識するに至つてゐるのは、こちらの宣伝戦も又有効だつたからです。 が、同時に、ここで対立の構造がすりかはつてしまつてゐる事にも注意を払はねばならない。南京事件に関する保守派の取り組みの本質は、その緻密な実証性、客観性にあつた。南京陥落に際する史実としての不祥事と、プロパガンダとしての大虐殺を明確に区別する点にあつた。ところが、世に喧伝される時には、「大虐殺容認派」対「全否定派」といふ構図に話が置き換へられてしまふ。岩波、朝日派の学者達は、英語媒体を駆使して、それを右派による南京事件全面否定といふ極論に置き換へて世界に喧伝する。我々は、歴史を丁寧に検証した結果としての歴史修正主義を唱へてゐるのに、世界では、自国を正当化する為に事実を歪曲するウルトラナショナリストの知識人集団が安倍首相の歴史観を歪めてゐるといふイメージが、流布されてゐる。 我々は国内で左派叩きをするよりも、海外で、実証に基いた品位ある議論を、人材を総動員して展開すべき時期に来てゐるのではないか。世界の論構造そのものを変換してゆく組織的な作業が必要なのではないか。 その時、世界が知るのは大東亜戦争の日本に都合の良い解釈ではありません。世界史の大きなうねりの中で、関係各国それぞれが、我が身の明日に怯へ、疑心暗鬼に駆られながら、一方に「理想」といふ危険な毒杯を飲み干し、死闘を演じ続けた、その全貌でなければならない。そして全貌が見えた時、日本の栄光と罪とが、世界全体の栄光と罪とに照らし出され、等身大の姿を現すでせう。 日本は語る事を恐れてはならず、世界は見る事を恐れてはならない。 我々が、そこに肚を決めた時、安倍談話は、従来の見方の焼き直しや総括ではなく、二十世紀を真の「世界史」としてとらへ直す一歩となるに違ひない、そして、それこそが、戦争と殺戮の世紀から理性の時代への復帰の一歩となる唯一の道なのだと、私は確信してゐます。おがわ・えいたろう 昭和42(1967)年生まれ。大阪大学文学部卒業。埼玉大学大学院修士課程修了。創誠天志塾塾長。処女作『約束の日─安倍晋三試論』(幻冬舎文庫)がベストセラーに。『『永遠の0』と日本人』(幻冬舎新書)、『最後の勝機(チャンス)』(PHP研究所)、共著に『保守の原点』(海竜社)
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テーマ
捻じ曲げられたポツダム宣言
日本に戦争終結を促したポツダム宣言は全13カ条から成る。日本がこの宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。しかし、その裏側には大国の駆け引きやトルーマン大統領の思惑も交錯する。アメリカの戦争犯罪の側面も見え隠れするのだが……。
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記事
「碧い眼の天皇崇拝者」が皇室を残すために
有馬哲夫(早稲田大学教授)志位共産党委員長の誤解 今年5月20日の国会の党首討論で、安倍晋三首相と志位和夫共産党委員長のあいだに次のようなやりとりがあり、話題になった。 志位委員長「総理はポツダム宣言の、日本の戦争は誤りであるという認識を認めないのか」 首相「われわれはポツダム宣言を受諾をし敗戦となりました。ポツダム宣言の、日本の戦争の誤りを指摘した箇所については、私はつまびらかに読んでないので、いまここで答えられない」 志位氏の論理は「日本の戦争は誤りである」としたポツダム宣言を日本は受諾し、降伏したのだから、日本は先の戦争を誤りであると認めたのだ、だから安倍よあの戦争が誤りであったと認めよ、ということだ。首相は「誤りではない」といえば、国内外の反日メディアが大喜びでこの発言を世界に広めるので、賢明にもこうかわしたのだろう。 この勝負、志位氏の勝ちで、安倍氏の負けだろうか。歴史的事実に照らせば逆である。ポツダム宣言中には、少なくとも「日本の戦争は誤りである」と解釈できる部分はない。もっともそれに近いことをいっているのは、次の第4条と第6条だ。 4.日本が、誤った計算により自国を滅亡の淵に追い込んだ軍国主義的助言者の支配を受け続けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。 6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れえないからである。 問題は主語である。第4条では、「自国を滅亡の淵に追い込んだ」のは「軍国主義的助言者」になっている。第6条でも「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた」のは「過ちを犯させた勢力」「無責任な軍国主義者」になっている。 ポツダム宣言ではJapan, the people of Japan, the government of Japan, the Japanese armed forces, militaristic advisersという主語が注意深く使い分けられていて、けっして混同されていない。なにより、天皇にも皇室にも言及されていない。これは偶然ではなく、そこに作成者が細心の注意を払っていたからだ。 とくに注目すべきは、第4、第6条でも明らかなように、軍国主義者、軍国主義的助言者と日本(および皇室)、日本国民、日本政府をはっきり区別していて、誤っていたのは、前者であって、後者はその被害者だとしていることだ。前者は日本軍や日本の軍部とすら区別されている。これは草稿の段階からあったもので、まさしくそれを意図しているのだ。 つまり、戦争責任は軍国主義者と軍国主義的助言者(日本軍や日本の軍部ではない)にあるのであって、連合国はけっして日本(天皇)や日本国民に戦争の責任を負わせたり、その罪を問うたりしない、また、無条件降伏を求めるのは日本軍にであって、日本や日本国民にではない、だから早期に降伏せよということだ。 志位氏は「日本の戦争は誤りである」といったが、この物言いは、軍国主義者、軍国主義的助言者と日本(天皇)、日本国民を明確に区別してあるものを、わざわざ混同してポツダム宣言の趣旨を捻じ曲げたものといえる。党首討論で質問に立つ共産党の志位和夫委員長(左)。右は安倍晋三首相=5月20日、国会・衆院第1委員室(酒巻俊介撮影) ポツダム宣言の作成者は、これを受け取ったとき「日本の戦争は誤りである」と日本側が受け取ることがないよう細心の注意を払ってこのような表現にしたのである。なぜなら、志位氏のような言い方をしたなら、日本人および日本軍はポツダム宣言を受諾できず、本土決戦を決意することを知っていたからだ。また、彼らは、自らの開戦期の経験から、日本がアメリカに「誤った戦争」を仕掛けたのではないことをよく知っていた。 志位氏は驚くだろうが、もとはといえばこの宣言は、日本を開戦に追い込んだローズヴェルトの仕打ちを批判し続けた「碧い眼の天皇崇拝者」が、皇室を残すために考え出したものなのだ。したがって、志位氏の恣意的な解釈は、この作成者の意図からみてもまったくの誤りだといえる。そこで、本論では、ポツダム宣言は誰が何のために作ったのか、それがどのように変遷して、1945年(以下西暦は最後の二桁のみ)7月26日に出されることになったのか、その経緯をたどることにしたい。ローズヴェルトの二つの負の遺産 43年1月、フランクリン・ローズヴェルト大統領は突如として「無条件降伏」方針を唱え始めた。つまり、敵国が無条件降伏するまで戦争を止めないということだ。なぜ、このような方針を打ち出したかといえば、日本軍はミッドウェー海戦以来頽勢が明らかで、ドイツ軍もスターリングラードの戦いで崩壊しつつあったからだ。これを見て、英国が日本と、ソ連がドイツと単独講和を結ぶ恐れがあった。だから、敵国が無条件降伏するまで戦争を遂行することを原則とすることで、両国の戦線離脱を防ごうとしたのだ。 しかし、この方針は敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして陸海軍の幹部はもとより、国務長官コーデル・ハルまで反対した。にもかかわらずローズヴェルトは死ぬまでこの方針に固執した。 45年4月12日にローズヴェルトが死去し、大統領職をハリー・S・トルーマンが引き継いだが、新大統領は律義にも就任後のアメリカ議会両院合同会議で前大統領の無条件降伏方針を変えないと表明し、その後のソ連との交渉のなかでも方針変更はないと明言した。 しかし、前年の44年11月に国務次官となり、翌年1月に国務長官代理になっていたジョゼフ・グルーは、軍の幹部や前国務長官のハルと同様、無駄に戦争を長引かせる無条件降伏方針に反対だった。加えて、彼は45年3月の段階で、彼のかつての部下で当時OSS(戦略情報局、CIAの前身)スイス支局長になっていたアレン・ダレスから、日本人が考えている降伏条件は皇室を残すことだけだというインテリジェンスを受け取っていた。これは、その後スイス、バチカン、スウェーデン、ポルトガルなどのヨーロッパの中立国のOSS局員から上がってきたインテリジェンスによって裏付けされた(詳しくは拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作』〔新潮社〕に譲る)。これはグルーを大いに勇気づけた。彼は、皇室の存続を条件として日本と早期講和を結ぶのが最良の策と考えていたからだ。 31年以来、10年間の長きにわたり駐日アメリカ大使を務めたグルーは、日本の皇室と経済エリートを中心とした体制は、アメリカの金融資本の有利な投資先として、アメリカ大企業の技術の有望な移転先として、アメリカの国益にとって必要だと考えていた。したがって、強硬な態度をとって日本を戦争に追い込むべきではないと繰り返しローズヴェルトに説いていた。 その努力もむなしく、ローズヴェルトの強硬策が戦争を引き起こしてしまったが(グルーはそのように理解していた)、それが終わりつつあるとき、どういう巡り合わせか、国務次官(2度目)となり、国務長官代理となった。グルーの日本に対する考え方は、このときもいささかも変わってはいなかった。 皇室を中心とした保守的エリート層を温存して、日本の共産化を防ぎ、戦後もアメリカ金融資本と大企業の優良な投資先・技術移転先としていきたい、そのため破壊と労働力喪失がこれ以上進まないよう早期に戦争を終結させたいというのが彼の思いだった。 だから、日本人が考えている降伏条件は皇室の存続の保障のみというインテリジェンスがヨーロッパの中立国のOSSから上がってきたとき、彼は、わが意を得たり、と感じた。 そのグルーに衝撃を与えたのは、前大統領ローズヴェルトの二つの負の遺産だった。ローズヴェルトが死去したあと、彼の軍事顧問のウィリアム・リーヒ提督がホワイトハウスの金庫から「ヤルタ協定関係書類」を出してきて、ハリー・S・トルーマン新大統領に渡した。そのなかには、ソ連に対日参戦と引き換えに千島列島と満洲での利権を引き渡すとした、いわゆる極東密約も含まれていた。 この密約が実現すれば、共産主義がアジアに広まり、日本が共産化する恐れも出てきてしまう。そこで、グルーは5月8日にこの密約の破棄をトルーマンに勧告したが、5月12日の3人委員会(陸軍・海軍・国務長官から成る)で、密約で引き渡されるとされた地域はいずれにせよソ連の勢力下に入ってしまうので、見直しの意味はないという結論が出た。 この過程で、グルーはローズヴェルトに、もう一つの負の遺産(グルーから見て)があることをスティムソンから知らされた。極秘に開発されていた原爆が8月には使用可能になるということだ。グルーにとっては、前述の理由で、日本に原爆を使用するなど問題外だったが、開発責任者のスティムソンは使用に肯定的で、パールハーバーの騙し討ちへの復讐を公言しているトルーマンも消極的とは考えられなかった。 このときからグルーの早期和平の努力は、原爆投下とソ連の対日参戦の防止の意味をもつようになった。それを達成するには、皇室の維持を条件とした降伏案を日本側に提示するのが1番なのだが、これはローズヴェルトの無条件降伏方針を引き継ぐとしたトルーマンらアメリカ政権幹部からは、方針に反する日本側への妥協だと受け止められていた。 そこで、グルーは、表向き日本に対する最後通告ないし警告でありながら、事実上条件付き降伏案と取れるものを作成し、大統領に日本向けに発表させることを考えた。その草案の作成をグルーは5月26日に駐日大使時代からの腹心で、当時国務次官補ジェイムズ・ダンの特別補佐をしていたユージン・ドゥーマンに電話で命じた。これがポツダム宣言の原型となる。ポツダム宣言案の真の作成者ポツダム宣言案の真の作成者 ユージンの父アイザックは、アメリカ国籍を取得した亡命イラン人のキリスト教宣教師だった。ユージンは大阪に生まれ、幼年時代を奈良で過ごし、フランス語教育で有名な東京の暁星学園で財閥の子弟とともに教育を受けた。このためか、彼は幼いときから、キリスト教の神とは違った「現人神」としての天皇に神秘を感じ、魅了されていた。グルー(金融界の大物J・P・モーガンの従兄)は、自らが属する階級の利益のために皇室の存続を望んだが、ドゥーマンは天皇に対する崇拝の念から、この世界的にも稀有な存在の存続を願った。したがって、この草案の第12条が次のようになっていたのは不思議ではなかった。「連合国の占領軍は、これらの目的(侵略的軍国主義の根絶)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」 いうまでもなく、この草稿の眼目は、最後の皇室の存続についての部分にあった。このほかにもこの草案には、前にも見たように、軍国主義者と日本および皇室とを峻別し、前者にのみ責めを負わせる配慮が見られる。日本生まれで日本育ちの「碧い眼の天皇崇拝者」としての彼の思いがそうさせたのだ。ジョゼフ・グルー(Wikimedia Commons) グルーは、ドゥーマンが作成した最後通告を5月31日に大統領声明として出すことを5月29日の3人委員会に諮ったが、スティムソンが「先送りするのが穏当だ」と主張し、これが結論になってしまった。スティムソンの部下だったジョン・マクロイは、スティムソンがこのように主張したわけを「S1(原爆のこと)の使用準備のことも考えなければならなかったからだ」とのちに証言している。 つまり、グルーにとっては最後通告を出す目的は、原爆投下とソ連の参戦を防止することなのだが、スティムソンにとっては多大の人的被害が出ると予想される本土上陸作戦を確実に回避することだったのだ。 したがって、スティムソンの頭のなかにある選択肢は(1)皇室維持条項の入った最後通告を出して日本に条件付き降伏を求める、(2)原爆を投下して日本を無条件降伏させたうえで、恩恵として皇室維持を認める、の二つだった。だから、スティムソンは、5月末の段階で最後通告を出すのは時期尚早で、日本や他の連合国の反応、アメリカ世論の動き、大統領の意向の変化などを見定め、なにより原爆の実験の結果を見てから出すべきだと考えたのだ。 実際、部下のマクロイが非公式に大統領とジェイムズ・バーンズ(このあと7月初めから国務長官になる)の意向を探ったところ、アメリカ国民に弱腰だと思われることはしたくない、最後通告については後に予定されているポツダム会議の議題としたいということだった。 こういったなかで、グルーやドゥーマンは熱意を失っていったが、それと反比例してスティムソンは強いイニシアティヴを発揮して、皇室の維持条項を含んだ最後通告をトルーマンに発表させることに積極的に取り組んだ。そして、7月2日に最終版を仕上げて、ポツダムに向かう大統領に渡した。これがポツダム宣言案になった。 このことから、ポツダム宣言案の作成者をスティムソンとする歴史学者が多数いるが、ハーバート・フーヴァー研究所所蔵の「ドゥーマン文書」に残る文書から、やはり作成者はドゥーマンで、スティムソンはその改訂者とすべきだということが筆者の調査でわかった。 スティムソンが大統領にポツダム宣言案を渡した1日あとに、天皇制維持条項を復活させたポツダム宣言案についてのメモをグルーが国務長官バーンズに渡した。だが、そのまた翌日に開かれた国務省のスタッフ会議で、グルーのメモは国務省の意見を代表したものではないので取り消すという決定がなされた。そして、それはポツダムに到着したアメリカ政府首脳に電報で伝えられた。 ポツダムでの会議が本格的に始まろうとしていた7月16日、アラモゴードで原爆の実験が成功したという知らせが、スティムソンの口からトルーマンに伝えられた。これによって、トルーマン(そしてスティムソン、バーンズも)は原爆を使用して日本を無条件降伏に追い込むという選択肢を取ることを決意した。 じつはトルーマンはポツダム宣言を出すことに必ずしもこだわっていなかったのだが、スティムソンが催促するので、かつ、のちに予告なしに原爆を使用したと非難されることが予想されるので、皇室維持条項を削除したのち、7月26日にこの宣言を世界に向けて発表した。原爆投下の指令がトマス・ハンディ陸軍参謀総長代理から戦略空軍司令官カール・スパーツに伝えられたのは、この前日の7月25日だった。 こうして、もともと皇室を護り、原爆投下とソ連の参戦を防ぐために考え出されたポツダム宣言は、作成者の意図に反し、最も重要な条項が削られ、原爆投下の口実づくりのために利用された。 しかし、軍国主義者と日本(天皇)および日本国民を峻別し、前者にのみ戦争責任を問うという本来の枠組みと言葉遣いはそのまま残された。そして、あとに残った次の文言によって、日本側に皇室を廃止する意向がないことを暗に示すことができた。 12.日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。 この「日本国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府」の部分は、国民が自由に表明すれば立憲君主制のもと皇室が存続できることを暗にいっている。事実、天皇、木戸幸一内大臣、東郷茂徳外務大臣、および彼らの側近たちはそのように受け止めた。『GHQ歴史課陳述録・上』に収録されている木戸の証言によれば、天皇は8月12日にこの第12条に言及し、「国民が皇室を信頼して呉れるならば、それを国民が自由に表明することによって、皇室の安泰も一層決定的になる」との確信を彼に述べている。だからこそ最終的にポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させることができたのだ。罪悪感を植え付けた洗脳プログラム このような歴史的事実を知ってもなお、志位氏はポツダム宣言が「日本の戦争は誤りだ」と断じたものだと言い張るだろうか。もしそうだとすれば、彼は占領中GHQが日本のメディアを総動員して行なった「ウォーギルト・インフォーメーション・プログラム」、つまり日本および日本国民に戦争責任を負わせ、罪悪感を植え付ける洗脳プログラムの犠牲者だといえる。 GHQは、ポツダム宣言の趣旨と目的を無視し、このプログラムに従って戦争責任は軍国主義者や軍閥だけにではなく、日本および日本国民にもあるとするプロパガンダを行なった。そして、戦争中日本軍がいかに悪を働き、アジアの民を苦しめてきたかを日本人に対して宣伝した。日本人の目をアメリカ首脳が平和と人道に反する大罪である原爆投下を実行したという事実からそらし、日本軍の戦争犯罪のみを極東国際軍事裁判で裁くことを日本人に受け入れさせるためである。これについての詳細は拙著『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)に譲る。 志位氏は、彼らにとって不倶戴天の敵であるアメリカが、洗脳プログラムによって日本人に植え付けたものだと知ってもなお、「日本の戦争は誤りだ」、その責任は日本(天皇)および日本人にあると言い続けるのだろうか。誤ったのは軍国主義者であり、日本(天皇)および一般日本国民は、戦争の加害者ではなく犠牲者だというポツダム宣言の、その作成者ドゥーマンの、認識のほうが歴史的現実に近いとは思わないのだろうか。イデオロギーはしばらく脇に置いて、日本人として、虚心坦懐に歴史的事実を見てもらいたい。ありま・てつお 1953年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。93年、ミズリー大学客員教授。現在、早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。近著に『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(新潮社)などがある。
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昭和天皇実録 国の舵取りしなければならぬ元首の立場を示す
昭和天皇の生涯の記録である『昭和天皇実録』が宮内庁による9月9日に公開された。『実録』は同時に、現代に続く国民と皇室の在り方を考えるうえでも重要な記録となる。文芸評論家の富岡幸一郎氏が今上陛下へ受け継がれたものを読み解く。* * * 今回の実録で、昭和二十年戦局の悪化のなか終戦に向けて政府が動き出している時期の、七月三十日、八月一日、二日と宇佐神宮、氷川神社、香椎宮などへ勅使を派遣され「敵国撃破」を祈念する「御祭文」が奉告されていた事実があきらかになったが、戦争終結の決断で固まっていた天皇が、この時期になぜ戦勝祈願なのかという疑問が生ずるかも知れない。完成した昭和天皇実録(代表撮影) しかし祭祀王としての天皇という側面を考えれば、本土決戦かポツダム宣言受諾かといった立憲君主としての決断(選択)とともに、戦局の挽回を神に祈るということは、むしろ当然の行為ではないだろうか。歴史学者などがさまざまなコメントを寄せているが、昭和天皇が昭和という時代の君主であったのは、まさに「一人にして両身あるが如し」の使命と困難をわが身に受けられておられたことを忘れるべきではないと思われる。 近代国家という「国」のかたちのなかで、天皇という日本の悠久の歴史を生きる存在であるとともに、西洋列強の植民地政策と帝国主義の激烈な時代のなかでの国の舵取りをしなければならない元首の立場に昭和天皇が置かれていたことは、実録の全体から否応なく浮かびあがってくる。 昭和天皇の終戦後の全国巡幸は、祈りの王としての天皇が、まさしく国民の(昭和帝においては「臣民」であり、「赤子」)安寧を行動として示された出来事であり、それは今上陛下へとしっかりと受け継がれているのである。 東日本大震災直後の今上陛下のビデオメッセージは、国家元首が被災者と全国民に向けて発した、深い祈りにみちた言葉であったことを改めて想起する。戦後の憲法によれば、天皇は象徴であり、大日本帝国憲法第四条に記されているような「國ノ元首」ではない。 しかし終戦後の「人間宣言」以降の昭和天皇が、哲学者の和辻哲郎がいったように「国民全体性の表現者」として、「日本国民統合」の「象徴」であったように、今上陛下の言葉は巨大な災厄と国難のときに、まさにこの国の「言霊(言霊)」の力を示した。 今上陛下は、昭和六十一年五月、皇太子としてこう語られていた。《天皇と国民との関係は、天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています。 このことは疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の写経の精神や、また「朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず、甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表われていると思います》関連記事■ 昭和天皇の思想形成、政治や戦争との関わりについて迫った書■ 摂政を務めていた昭和天皇 「若い摂政」と国民に大歓迎された■ 今上天皇は二・二六事件の60年後も国民をまとめようとご尽力■ 昭和天皇 8年半かけて3万3000キロ巡幸し2万人に声をかけた■ 小渕元総理 新元号「平成」テレビ発表時の視聴率は58.1%
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日米戦後史の始点 ポツダム宣言で何を受け入れたのか
佐伯啓思(京都大学名誉教授)《PHP新書『従属国家論』より》ポツダム宣言の「無条件降伏」 おそらく誰もがポツダム宣言というものを知っていながら、これを読んだことのある人はごくわずかなのではないでしょうか。 ポツダム宣言は非常に重要なものです。なぜなら、これを受け入れることによって日本は戦争を終結させた。そしてポツダム宣言にしたがってアメリカは日本を占領したわけです。だから、これは日本の戦後を考える上で決定的に重要な文書なのです。 もしも、日本の「戦後」が占領政策から始まったのだとすれば、その始点はポツダム宣言になるのです。ここにはいったい何が書かれていて、何を受け入れたのか。そのことをわれわれは当然知らなければならないのです。 こういうことを学校教育の中でほとんどやらないということは、かなり大きな問題だと思いますね。 ポツダム宣言を簡単に説明しましょう。 一三項目がありますが、一九四五年、終戦の直前、七月二十六日にこの宣言が出されています。アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、それから中国国民党の蔣介石代表、この三名の連名になっています。ポツダム会議が開かれるツェツィーリエンホフ宮殿に入るトルーマン米大統領(Wikimedia Commons) 実際にはチャーチルはイギリスに戻り、蔣介石は出席できる状況ではなかった。ですからこれは事実上アメリカのトルーマン大統領がひとりで作り、アメリカがひとりでやった自作自演です。 基本的にこういうことが書かれています。外務省訳を要約しつつ紹介しましょう。 「無分別なる打算によって日本帝国を滅亡の淵に陥れた我儘な軍国主義的助言者により、日本国が引続き統御せらるべきか」は、今決定される時である。 「我儘な軍国主義的助言者」とは何とも格調の低い表現ですが、要するに、我儘で無謀で打算的な軍国主義者たちが日本を滅亡の淵に陥れようとしている。彼らを始末するかどうかは、今、日本の国民の決意にかかっているという。 連合国は、無責任な軍国主義が世界から駆逐されて、平和で安全で正義に基づいた秩序が生み出されることを主張するものである。そのためには日本国民を欺いて世界征服の虚に出るという過誤を犯した軍国主義的勢力を永久に排除しなければならない。 つまり、日本の軍国主義者たちは国民を欺いて「世界征服の挙」に出た、というのです。 その次にこういうことが書かれています。「新しい秩序が建設されて、日本国の戦争遂行能力がなくなるという確証が得られるまでは、連合国の指定すべき日本国領内の諸地点は占領せらるべし」と。 新しい秩序が建設され、日本の戦争遂行能力が破砕されるまでは、連合国は日本国の中の「諸地点」を占領する、というのです。日本国を占領するとは書かれていない。日本から軍事的勢力がなくなるまで、日本国の中の諸地点を占拠するという。 ポツダム宣言では、別に日本国を占領するとは書かれていないのです。 次にこういうことがありますね。われわれは日本人を奴隷化しようとしているのではないと。そういう意図は持っていない。ただ捕虜の虐待を含む、一切の戦争犯罪人に対して、厳重なる処罰を加えられなければならない。 これが東京裁判の根拠になります。だから一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加えるという、こういうふうに書いています。軍国主義者は「戦争犯罪人」なのです。「犯罪人」ですから、裁判で裁かれるべきなのです。 そして最後に例の有名な、問題になる箇所があります。それは「無条件降伏」ということで、われわれは、戦後、日本はポツダム宣言によって無条件降伏を受け入れた、と了解してきました。 しかし、ポツダム宣言ではこうなっています。外務省訳を現代文にして述べてみましょう。「われらは、日本国政府が、直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言することを日本の政府に要求する」となっています。ただそれに続けて「これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅をもたらすだけだ」とある。 この最後の文章は、確かに「無条件降伏」とも読めます。このポツダム宣言を受け入れるほかないのだぞ、といっているのですから。 しかしポツダム宣言それ自体で、国家の無条件降伏を要求しているわけではないのです。 アメリカが要求しているのは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言するということなのです。 日本国政府が軍隊の無条件降伏を宣言することを日本国政府に要求する、ということなのです。 だから無条件降伏するのは軍隊なのですね。これは英文では “unconditional surrender of all Japanese armed forces”となっている。これがポツダム宣言なんですね。 さて、このポツダム宣言全体のストーリーをまとめてみると次のようになるでしょう。 日本の軍国主義者たちが日本国民を欺いて世界の征服を企むという過ちを犯し、自由やら正義に基づく世界の秩序を破壊しようとした。そこで自由な人民が立ち上がった。彼らの力によってドイツの野蛮な行為は壊滅させられた。今や日本は、自由と正義の前に敗北しつつある。日本の敗戦の後には、過誤を犯した戦争犯罪人である軍国主義者たちは厳重に処罰され、日本から軍事力が完全に除去されなければならない。日本には新しい民主的な政府が打ち立てられなければならない。そのために連合軍は日本の諸地点を占拠する。 おおよそこういうことです。さえき・けいし 京都大学名誉教授。1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。滋賀大学経済学部教授などを経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は社会経済学、社会思想史。おもな著書に『隠された思考』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ、東畑記念賞)、『現代日本のリベラリズム』(講談社、読売論壇賞)、『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書)、『反・幸福論』『日本の宿命』『正義の偽装』(以上、新潮新書)、『アダム・スミスの誤算』『ケインズの予言』(以上、中公文庫)など多数ある。
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「若い世代や、海外の人々にも観てもらいたい」原田眞人監督
映画『日本のいちばん長い日』インタビュー 太平洋戦争末期、戦争を終わらせるため闘った人々の姿を描いた映画「日本のいちばん長い日」が8月8日に公開される。終戦へ向け動き出す内閣と、徹底抗戦を叫ぶ軍部との間で苦悩する阿南惟幾陸軍大臣を役所広司さん、クーデター計画を模索する陸軍中央部の将校・畑中健二少佐を松坂桃李さんが演じている。 本作は半藤一利氏による同名原作の映像化で、1967年に岡本喜八監督が三船敏郎さんの主演で映像化して以来二度目となるが、当時は直接的な描写がなされなかった昭和天皇の存在を前面に押し出しており、演じる本木雅弘さんが”引き受けるか迷った”と語ったことも話題だ。 今回編集部では、監督・脚本を務めた原田眞人さんに、本作に込めた思いや、戦争映画の意義について話を聞いた。 “再映画化”を決意するまで―本作を改めて映画化しようと考えたのは、なぜでしょうか。 実はずっと昔からやりたかったんです。 2015年8月3日、日本外国特派員協会で行われた映画「日本のいちばん長い日」の記者会見に出席した原田眞人監督 若い頃から岡本喜八監督のファンだったんですが、『日本のいちばん長い日』に関しては、18歳の頃に観に行って非常に失望した覚えがあるんです。今見直しても"なんで?"って思う所ばかりなんです。 一番の疑問だったのは、"戦争の終結"という時に、東條英機が何をしていたのかが描かれていなかったことです。確かに彼は最後の段階にはあまり関係が無いのかもしれません。しかし、東條を抜きにして、”戦争の終結”は描けないだろう、という思いがありました。 また、三船敏郎さんが演じていた阿南惟幾陸軍大臣が、クーデター計画の進行とは全く関係なく、ただ自分の美学を全うするためだけに死んでいるように思えたんですね。見ていて、18歳の自分なりに、"これって何だ"、っていう気持ちが強かったですよ。 さらに、岡本喜八監督はご自身が戦争を体験されていますから、本土決戦を主張するような連中は狂気以外の何ものでもない、という描き方をされることも分からなくもありません。しかし、資料を読めば読むほど、畑中健二少佐というのは非常に純粋な人間で、その純粋さが他の将校たちを引き寄せたんだろうとも思います。 もちろん1967年当時は天皇を正面から描けないという苦労もあったでしょうし、これはいつか誰かが別の形で描かないと駄目だなと思っていました。 でも、戦後50年の区切りのときに出るだろうと思ったら出なかった(笑)。60年になっても出なかった。そうこうしているうちに、2006年、昭和天皇が主役の映画『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督、イッセー尾形主演、露・伊・仏・スイス合作)が日本でも公開されたんですよ。 ただ、僕はイッセー尾形さんが演じた昭和天皇は"違うな"と思ったんです。昭和天皇の形態模写をしたことが話題になったけれど、本来は2時間という枠の中では、天皇の風格、ある種の神がかり的な部分を描かなければいけないんじゃないかと思っていたし、畏敬の念があったらそんなことはできないだろうと。あの時点から完全に、自分がやらなければいけない、という気持ちになっていました。 ただ、企画を受け入れてくれるところが無かったので、すぐに実現はしませんでした。それでも自分なりに準備はしておこうと、もう一度半藤先生の作品などを読み直したりしていました。やはり『日本のいちばん長い日』を描くためには、終戦の4ヶ月前、鈴木貫太郎が首相に就任する時点から描けないと行けないだろう、とか、資料をどんどん読んでいくうちに大体のイメージが固まって行きましたね。 そして2013年の秋、プロデューサーたちと企画を考えていた時、"再来年は戦後70年だし、誰かが『日本のいちばん長い日』やるんじゃないの?"っていう話をしたら、"そういう企画は無い"と。しかも、映画化権について確認したら空いていたんです。これは放っておく手はないんじゃないかと(笑)。 そして2ヶ月後の12月中旬には『駆込み女と駆出し男』(公開中)の製作準備もやりつつ、脚本を書くプロセスに入って。元旦も書いていましたよ(笑)。4月の上旬には『駆込み女と駆出し男』の作業もほぼ終わって、自分の意識も改訂稿に行けるなと。その改訂稿がほぼ最終版になっています。「天皇を描く」ということ―今回は、副題に「The Emperor in August」とあり、昭和天皇が前面に出ています。難しさはどんなところにありましたか。 僕が”ここまで描いても大丈夫なのか”、と思ったのは、やはり先ほど述べた『太陽』なんです。公開初日に銀座シネパトスに観に行くと、知的な感じのお客さんたちが観に来ていて、男女比は半々くらい、30〜40代を中心に、高齢者もいました。映画館に右翼が突っ込んでくるかもしれないってみんな緊張していました(笑)。もちろん何も起きなかったわけだけれど、そういうことを恐れていたから単館での公開だったんですね。でも、そのうちに広がっていって、結局はヒットしたわけです。 しかし僕は『太陽』を観て、先ほども言ったように、昭和天皇を魅力的な人間として描きたいという気持ちを強くしましたね。 ―海外の作品だからこそ、恐れずに描写することができたという意見もあると思います。 それは関係ないと思いますよ。近年では、いくつかの作品で、昭和天皇が描かれていますし。 一方で、アメリカでは天皇の戦争責任に言及する書籍が出ています。例えば、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』は、10年かけてリサーチして書いた、かなりボリュームのある本なんだけれど、やはり最初から昭和天皇に対して、戦争責任があるという意識のアングルがはっきりしていました。 半藤先生は、"大元帥としての天皇"と、"立憲君主としての天皇"と、その上にある、皇祖皇宗につながり、祭祀を司る"大天皇"と、「三つの顔」があるとおっしゃっています。誰がなんと言おうと、戦争を終わらせたのは"聖断"ですし、それが責任を全うした昭和天皇の姿なんですよ。そして、それを導くために、鈴木貫太郎という総理大臣が必要だったし、彼が死刑を覚悟で促してくれなければ、口を封じられてしまっているから、言えないわけですね。 昨年公開された『昭和天皇実録』を読んで、歴史学者の磯田道史先生は"天皇の存在は神殿の壁だった"と表現されています(「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書))。軍人はただ壁に向かって喋って、帰ってそれを作戦に移して行ったと。日中戦争以降、口を封じられていくプロセスの中で、ああ言っても駄目か、こう言っても駄目かと、どうすれば自分の意思が生きるのか、昭和天皇ご自身は模索を続けておられたと思います。 ですから、昭和天皇がなぜ東條英機を首相に据えたのか、その気持ちも分かる気がします。つまり、言わば"毒を以て毒を制する"という、木戸幸一内大臣からの示唆があったわけだけれど、”もうそれしかない”、というところまで状況は進んでしまっていたということなんです。東條が忠臣だったことは確かだったし、昭和天皇はあそこまで自分を騙すとは思っていなかったと思います。 だから僕はそのこともベースにして、『日本のいちばん長い日』を作るときには、やはり東條英機から始まる映画じゃないとダメだと思っていました。結局東條を3回登場させたけれど、東條が退場するシーンについては、史実として東條の進言に対して昭和天皇がどう切り返したのか、記録は残っていないんですよ。ただそれ以降、彼が口をつぐんでしまったことを考えると、よっぽどのことをされたんだろうと思ったんです。 それで、軍人が奏上に来た時には必ず最後まで立っていた昭和天皇が、椅子に座ってしまう、そして生物学者としての立場から切り返す。それで東條が仰天する、というシーンにしたんです。 プロデューサーたちからは、”あのシーンは落としたほうがいい”と言われたんですが、僕は"それではピースが欠けてしまう"と断固反対しました。この映画を海外に持っていった時に、昭和天皇を理解してくれるとしたら、この東條をやり込めるシーンなんじゃないかと思うから。それこそハーバート・ビックスが観ても拍手してくれるんじゃないかという気持ちで描いたんです(笑)。僕自身が思う、昭和天皇はああいう人であっただろうという、"愛すべき天皇像"を入れたんです。 ―侍従時代の鈴木貫太郎や阿南惟幾の回想シーンを挿入することで、昭和天皇と二人の信頼関係がどのようにして築かれたのかも理解しやすいですし、決断に至る背景もより深く理解できるように思いました。 角田房子さんの『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』や半藤さんの『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』にも出てくる、侍従武官時代、阿南惟幾が昭和天皇に駆け寄り、捲れてしまった上着の裾を直すあのシーンは撮りたいと思っていました。 昭和天皇と阿南の関係を描くのに決定的だったのは、2003年、『ラスト サムライ』(エドワード・ズウィック監督、米)に出演し、楠木正成について考えた事だったと思います。 戦前、軍人たちが正成やその家族たちの辞世の句を書き残して出撃していったという話があるんですが、それまで史料をいくら読んでも、その理由が実感として自分の中に入ってこなかったんですね。 それが、『ラストサムライ』に参加して、楠木正成に対する考え方が大きく変わったんですね。渡辺謙さんが演じた勝元盛次は、楠木正成だったっていうことなんです。 脚本には当初「Katsumoto」としか書かれていなくて、苗字なのか名前なのかもはっきりしなかった。それで謙さんたちとズウィック監督に聞きに行ったら「これは苗字だ。名前は考えてくれ」と言われました。「ただし、4音節でイニシャルは"M"じゃなければならない」と。最終的に色々と考えた中から「盛次」を監督が選んだんですけど、つまりは「勝元盛次」という名前は「楠木正成」という名前につながるということなんです。 他にも調べていくと、勝元が死ぬシーンは正成父子の「桜井の別れ」の逸話をベースにしているし、最後にトム・クルーズが勝元の遺品である佩刀を明治天皇に渡すシーンも、楠木正成の佩刀(「小竜景光」、東京国立博物館蔵)を明治天皇が愛用していたことを踏まえています。 実はズウィック監督はハーバード大学でエドウィン・ライシャワー教授(元駐日大使)に学んだ人で、モチーフを日本の歴史から持ってきているんですね。 そういうことを僕らは知らなかったんだけれど、欧米人も感動させられる"楠木正成の精神"とはなんだろうと考えると、彼が単なる勤王家、忠臣というだけではなくて、家庭人だった、ということなんです。正成は自分の一族を守るために闘ったんですが、その"家長"の位置には後醍醐天皇がいたんだと思うし、彼にとって天皇は家族の一員だったんだと思う。これは阿南と同じではないかと思うんです。「10代には絶対に観てもらいたい」―登場人物が非常に多く、人間関係も複雑で、それを2時間に落としこんでいくことの難しさはありましたか。 それはもう主役たちの"家族関係"と絞り込んでいましたからね。必要最低限のものを押さえていく、ということで、ナレーションは入れない、ということを決めていたんですね。人名や肩書のサブタイトルもやめました。人名や肩書を書かれたって、今の私たちにはわからないと思ったから、会話の中でわかるようにしました。そこは懸案事項だったけれど、みんなが同意してくれたので。 ただ、女性の役割を出来るだけ入れたいなと。岡本監督版には鈴木貫太郎の奥さんが少し出てきただくらいだけれど、家庭人としての阿南さんを描く上では奥さんも大事だし、陸相官邸の女中さんも描きました。玉音放送を阻止しようとNHKの東京放送会館の中に畑中少佐らが押し入った事件では、副調整室にいた保木玲子という女性が要求を突っぱね、放送設備の電源を落としたことが功績ですから、それを戸田恵梨香ちゃんにやってもらって。侍従たちの中でも、女官長が強い、という風に描きました。極限状態の中でも女たちは強い、と。 ―日本では戦争映画を作ることの難しさがあると思います。 1973年にアメリカに住み始めて、現地の映画人たちと交流を始めた時に、ジョン・ミリアス監督に"日本の戦争映画の何がいけないかと言ったら、要するに謝罪の態度か、完全に振りきって右の方に行っちゃう。どうしてその間のニュートラルな感覚でできないのか"と言われました。"人間としての軍人を描く感覚が欠如している"、と。 戦争映画というのは、極限に追い込まれた時の人間の決断という、格好いいという意識ではないけれど、それが一番の魅力だと思います。そういう意味で、今回は昭和天皇も含めて"等身大"で描きました。 ―戦後70年ということですが、戦後50年だった1995年に比べると、映画やテレビ番組も含め、企画はそれほど多くはないように思います。 もうあんまり考えてもしょうがないという風潮になっちゃっているんじゃないかな。戦後50年の延長線上のような。だからこそ、今年はこの作品がフォーカスされると思います。 やはり今作って良かったと思うんですね。"18歳選挙権"みたいなことになりましたが、歴史は苦手だと公言しているような若者ばかりでしょう?少なくとも、1945年8月から始まった日本という国はどういう国なのかということを、この映画をきっかけにして、興味を持って学ぶようになってほしいと思います。だから10代には絶対に観てもらいたいですよね。 ―日本の戦争映画は謝罪という要素が強い、というお話がありましたが、最近ですと、国内外から"右傾エンタメ"というような批判的な意見も出てくる傾向があります。今回の作品についても、様々な意見が出てくると思います。 基本的な考え方として、謝罪は必要だと思います。ただ、当時の人間がどのような考え方をしていたのかを過不足無く描く、ということだと思います。 やはり、阿南惟幾が置かれた立場、心の相克というのは、(徹底抗戦を主張する人々を抑えるための)腹芸が面白いとかではなく、単純にハリウッドの名作と言われているような映画の主人公たちが抱えているアンビバレントなものと共通しているものだと思う。その意味で阿南に魅力を感じてもいるわけですから。 ―現代の観客でもそこはわかると。 わかると思う。だから腹芸がどうのこうのと言ったって、今の若者は全然付いてこないし、海外の人も付いてこないでしょう。 でも、阿南の置かれた立場、究極の選択を迫られている状況、しかも二つの家族の相克。これは若い世代であってもわかってくれると思う。 韓国や中国からも様々な見方が出てくると思いますが、僕はむしろ中国、韓国にも、尊敬できる映画人、監督達がたくさん居ますし、彼らが何と言うのか興味があります。作品が世界の映画人から色々な反応を得ていくことが楽しみでもありますね。はらだ・まさと 1949年、静岡県沼津市出身。高校在学中に映画監督を志し、1972年、ロンドンに語学留学していた際、「キネマ旬報」で評論家としてデビューし、1973年からは、ロサンゼルスをベースに評論活動を行う。「スター・ウォーズ」「フルメタル・ジャケット」等の字幕・翻訳監修も手がける。近年の作品に、「クライマーズ・ハイ」「わが母の記」「RETURN」「駆込み女と駆出し男」など。
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原爆投下ではない 「ポツダム宣言」で降伏を決意した日本
加瀬英明(外交評論家)8月15日の消えない2つの思い出 また、暑い8月が巡ってくる。 70年前の8月7日に、広島に原爆が投下され、その2日後に長崎が原爆に見舞われた。 私より20歳年上になるが、「陸軍航空の撃墜王」といわれた、田形竹尾氏と親しくさせてもらった。平成19年に故人になられたが、田形准尉は終戦の前年の10月に、台湾上空で三式戦闘機『飛燕』を駆って、20数分の空中戦でアメリカ・グラマンF6Fを6機撃墜したことによって、知られている。 私は田形氏の九州の実家に招かれて、丘の中腹に建つ農家で、御馳走になったことがあった。「わたしが2枚翼の練習機ではじめて単独飛行を行って、郷里を訪れることを許された時に、高度を低く下げて、この縁側のすぐ前を飛び抜けました。父と母と一族郎党が、庭に総出になって、日章旗(ひのまる)を振りながら、歓呼してくれたのを忘れません」と、いった。 田形氏は広島に原爆が投下された3日後に、任地へ向かう途中、満員だった列車が広島駅で数時間停まったので、屋根が吹き飛ばされ、柱やわきのレールが、まるで飴細工のように捻じ曲がった駅舎の外へ出た。 すると、顔や、腕が無惨に焼き爛れた婦人や、子供たちに囲まれた。 目を背けるような火傷を負った老婆や、女性たちが、田形准尉の軍服の胸に、銀色の航空徽章がついているのを認めて、口々に「この仇をかならず討って下さい! お願いします!」と叫びながら、胸にとりすがった。 田形氏は「これが生涯忘れることができない、2つの思い出です」と、いった。フーバー元大統領の回顧録 広島への原爆投下への強い意見 4年前に、ルーズベルト大統領の前任者だったフーバー大統領の『フーバー回顧録』が、アメリカ有数のフーバー研究所から刊行された。957ページにのぼる大著である。 このなかで、フーバー大統領は広島への原爆投下を、強く非難している。 「1945年7月のポツダム会議の前から、日本政府は和平を求めている意向を、繰り返し示していた。ポツダム会議はこのような日本の動きを、受けて行われた」 「ヤルタ会議が1945年2月に催されたが、その翌月に、日本の重光葵外相が東京駐在のスウェーデン公使と会って、本国政府に和平の仲介を求めるように要請した。ここから進展はなかったが、日本が和平を求めている決意を、はっきりと示したものだった」 「7月26日に、ポツダム会議が日本に対して最後の通告を発するまで、日本は6ヶ月にもわたって、和平について打診していた。 日本は原爆投下の2週間前に、ソ連に対して和平の明らかな意向をもっていることを知らせていたが、トルーマンも、バーンズ、スティムソンも、日本の外交電文を傍受解読して、承知していた」。バーンズは当時の国務長官、スティムソンは陸軍長官である。 「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を、示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」 後にアメリカの第34代大統領となった、ドワイト・アイゼンハワー元帥が、スティムソン陸軍長官から、広島に原子爆弾を投下することを決定したと知らされた時に、「日本の敗色が濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だと信じていたし、もはや不可欠でなくなっていた兵器を使うことは、避けるべきだと考えた」と、回想している。当時、アイゼンハワーはヨーロッパ戦線における、連合軍最高司令官だった。一億総特攻を否定した御聖断 今月、私は日頃、親しくしている著名な歴史学者から頼まれて、次著の原稿を読むことがあった。 そのなかで、原爆が投下されることがなかったら、日本が降伏することがなく、本土決戦が戦われて、国民にはるかに大きな犠牲が強いられた、原爆投下を招いた政府、軍の指導層の責任を問うことが今日までないのはおかしいと、論じられていたのに唖然とした。 日本が原爆が投下されたために、連合国に降伏したということは、まったく当たっていない。 軍は広島、長崎に原爆攻撃が加えられたにもかかわらず、「一億総特攻」を呼号して、本土決戦を戦うことを主張していた。昭和天皇による御聖断によって、終戦がもたらされた。 日本が降伏を決意したのは、前月末に『ポツダム宣言』が発せられて、無条件降伏を要求してきた『カイロ宣言』が、条件付き降伏に大きく改められたからだった。『ポツダム宣言』は「われらの条件は左の如し。それから逸脱することはなし」と、述べている。 私は終戦の経緯について、当時の多くの関係者に面接して、研究してきた。原爆投下については、トルーマン大統領が8月に、原爆を使用することを決定したホワイトハウスの会議に出席した、ジョン・マケロイ国防次官と夕食をともにしたことがある。原爆使用がなくとも日本は降伏したと語ったところ…1941年、対日宣戦布告書に署名するフランクリン・ルーズベルト大統領(Wikimedia Commons) 私はいまから25年前に、広島、長崎に原爆を投下した、アメリカ陸軍航空隊第509混成団の最後の隊友会(リユニオン)が、原爆投下実施部の訓練のために設けられた秘密基地があった、ネバダ州とユタ州の州境のウエンドオーバーで催された時に、記念講演を行うために招かれた。私がB29『エノラ・ゲイ』号から広島、長崎に原爆を投下した指揮官のポール・ティベッツ准将(退役)をはじめとする隊員と、その家族を前にして、「原爆を使用がなくても、日本は降伏した」「原爆投下は国際法の重大な違反だった」と話しているあいだに、聴衆の八割が抗議のために廊下に出て、つぎつぎと愛国歌を合唱した。 先の対米戦争について、日本国民の多くの者が軍部が暴走したために、無謀な戦争に突入したと思っている。 フーバー大統領は回想録のなかで、占領下の日本を訪れた時に、マッカーサー元帥と3回にわたって、余人をまじえずに会談したが、「日本との戦争をもたらしたのについて、ルーズベルトという狂人(マッドマン)1人に責任があった」と述べたところ、「マッカーサーも同意した」と、回想している。 日本は20世紀に入ってから日米開戦まで、アメリカの国益を損ねるようなことは、何一つしていなかった。 ルーズベルトは、母方の祖父が清との阿片貿易によって巨富を築き、幼少の頃から中国に強い愛着心をいだいていたために、日本を嫌っていた。日本は中国本土を侵略する計画を、まったく持っていなかったが、中国による度重なる挑発に乗せられて、日中間の戦闘が不本意に拡大していった。 アメリカは国際法に違反して、蒋政権に大量の資金、武器援助を行うかたわら、次々と日本を圧迫して締めあげていった。日本は追い詰められて、自存自衛のために立ち上った。 日本軍は勇戦敢闘して、太平洋に散らばる多くの島々において、孤立無援の状況下で玉砕していった。敗北のなかでも真実の客観化は必要 トルーマン政権が条件付降伏に切り換えたのは、統合参謀本部が本土決戦を行ったら、戦争が1947(昭和22)年まで続き、アメリカ軍に100万人以上の死傷者がでると見積もったからだった。 玉砕した部隊や、特攻隊の勇士たちが、日本を救ったのだった。けっして無駄死にではなかった。もし、アメリカが無条件降伏を要求し続けたとすれば、原爆が投下されても、本土決戦が戦われたはずだった。 私は5月に先の戦争について、『大東亜戦争で日本はどう世界を変えたか』(ベスト新書)という新著を刊行して、いったい何が正しい事実だったのか詳述した。好評で5月のうちに再版となった。ぜひ、お読み頂きたい。 日本は正しい歴史を奪われた国家と、なっている。そのために記憶を喪失した人と同じように、正常な国家生活を営むことができない。(『加瀬英明のコラム』2015年7月31日分より転載)かせ・ひであき 昭和11年、東京生まれ。慶応大経済学部卒業後、米エール大とコロンビア大に留学。42~45年にブリタニカ国際大百科事典の初代編集長を務め、その後は外交評論家として執筆や講演で活躍している。
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世界の核事情はどう変わったか 核を「保有」しない日本の覚悟
澤田哲生(東京工業大学 原子炉工学研究所助教) 2009年4月5日、米国のオバマ大統領がプラハ演説で核廃絶の実現を訴えてから6年目である。 この間、核事情に何が起こったか。 最も新しいニュースは、イランの核疑惑に対して包括同意が成立したことである。イランは兼ねてからの核開発疑惑に応える形で、今年7月14日、米国EUなど6カ国との間で、問題解決のための「包括的共同行動計画」で最終合意した(1)。イランは今後10年以上にわたり核開発を大幅に制限し、核関連施設に対するIAEA(国際原子力機関)の査察も条件付きで受け入れることになったと報じられた。主要部分は10年あるいは15年という時限付きの行動計画である。そればかりか、イランの高官は、“軍事施設は査察対象になっていない”とまでメディアに向かって言い切る始末である。 イランの同意事項を仔細に見て真っ先に感じたことは、イランは核技術をもう手に入れたと確信したに違いないということである。いつでも“その気にさえなれば”核開発の道に戻れるという技術的かつ制度的確信の基盤を手に入れたに違いない。制度的とは、IAEAの査察や六者協議のメカニズムを深く知り得た結果、それら制度との付き合い方、もっといえば利用方法を会得したということである。北朝鮮の先行事例に学ぶところもあったであろう。そうでなければ、いくら国連決議による制裁のもとで経済的に喘いでいるとはいえ、一見するとここまで屈辱的な同意に応じるとは思えない。 歴史を振り返ってみれば、オバマ演説のわずか1カ月半後、北朝鮮はオバマ演説を嘲笑うかのように、2009年5月25日に第2回目の核実験に踏切った。その約2年前、北朝鮮は2007年2月に六者協議で一端受け入れていた。つまり、再処理施設を含む核関連施設の停止(shut down)封印(seal)およびIAEAの核査察を受け入れるなどした後の核実験再開である。北朝鮮はこのようにいとも容易く六者協議で成立した同意を反古にしたのである。そして、北朝鮮は事実上9カ国目の核保有国になった。続いて、2013年には第3回目の実験を強行した。核の小型化に枢要な技術の確立も実証したようである。核砲弾(左)と核戦車 1962年10月のキューバ危機の頃、核保有国はまだ4カ国に過ぎなかった。米国、ソ連、英国、そしてフランスである。因みに、これに中国が加わったのは2年後の1964年10月16日である。日本はオリンピックに沸き立っていた。米国をはじめ4者は中国を2年も待っていたのである。そうして核開発の扉は閉ざされこの5カ国のみが正規の核保有国となった。これら5カ国が国連における常任理事国(permanent members)であり、P5という。そのころ、米ソらの観測では、向こう数10年程度の間に新たに30カ国ほどが核保有国になるといわれていた。 ソ連が最初に核実験に成功したのは1949年であるが、その後10年程度の間に、米ソは核の小型化に成功していた。例えば、米国は戦術核として、戦車等の大砲で数km先まで飛ばせる核砲弾の開発に成功したのである。Swanを用いた弾頭の概念図 ちょうどこのころスウェーデンでも、小型核兵器の設計研究が進んでいた。それはスワン(Swan)と呼ばれる核爆発装置と同様のものであった。Swanの爆発威力は広島・長崎級で、TNT火薬相当で15ktである。しかしそのサイズは、直径30cm、長さが60cm、重量はなんと僅か50kg。要するに、広島・長崎型原爆からわずか10年程度で1/100の重さにまで小型化された(2)(3)。形が大きめの冬瓜のような楕円体で、白鳥のボディにも似ていることからswanというニックネームがついたのであろう。これが60年前に10年かけて成し遂げられた核の小型化技術である。北朝鮮が最初の核実験に成功してからから約10年経とうとしている。核地雷ブルーピーコック(実物) この頃、西ドイツの東ドイツに接する国境地帯には、核地雷が敷設されていた。ソ連-東独の戦車による侵攻に備えるための対戦車核地雷である。実際に起爆することは勿論無かった。この核ガジェットのニックネームはブルーピーコックである。クジャクが羽を広げたようなサイズかもしれないが、重さは7トン以上もあった。可搬型(リュックサック)小型核爆弾 このほかにも可搬型の小型核も開発された。スーツケース爆弾とかリュックサック爆弾と呼ばれるものである。 いずれも冷戦が生んだ、いまから思えば動物園じみた見せ物のようなガジェットである。いずれも実際の役にはたたないものばかりであった。が、当時はどれも真剣に設計開発され、なかには実戦配備されたものがある。 いまから思えば馬鹿馬鹿しい話に思えるが、人々は真剣そのものでその道をひた走った。 北朝鮮もイランも同様である。実に真剣そのものなのである。何故なのだろう。ごく最近、ロシアのプーチン大統領が本音を吐いた。『核を保有し管理出来るもののみが主権国の名に値する』という趣旨の心情を吐露したのである。これは、P5(米・ソ・英・仏・中)のみならず、それに追随したイスラエル、インド、パキスタンの本音でもあろう。過去に核武装を検討した国は少なくない。しかし、実際に核武装を完遂して、その後核を放棄した国は南アフリカ1国のみである。しかも、それは極めて特殊な事情であった。アパルトヘイトの下で長く続いた統治体制が、マンデラ氏によって終わりを迎えることがはっきりしたのであった。核の主権が黒人主権のもとに移管するのだけは防ぎたかったのである。 半世紀前のケネディ大統領の頃の予想からすれば、現在の核保有国の数は随分と少ない。当時新たに30カ国ほどが核保有国になるとされたが、仮にイランを10番目と仮定しても、わずか5カ国に過ぎない。1945年7月、ニューメキシコ州アラモードの砂漠に上がった最初の核爆発の火の玉(米エネルギー省提供) 過去70年、スウェーデン、西ドイツ、日本などは核保有国になろうと思えばなれたかもしれない国々である。それぞれに事情は違うが、潜在的技術はあっても、それを使わないと意思決定したのである。日本は『非核三原則』という建て前を打ち立てた。なかでも“核を保有しない”と決めたのである。この決意は、首の皮一枚ほどのものかも知れない。しかし、それがあるとないとでは大きな違いなのである。 広島・長崎から70年。 その節目の今年、湯川秀樹博士や朝永振一郎博士らも参加して1957年に立ち上げられたパグオッシュ会議が日本で開催される。パグオッシュ会議に止まらず、日本人が世界に向けて、核拡散防止そして核兵器廃絶のための、新たな価値観を創出し発信していくべき節目ではないだろうか。 識者の創造力に政治的実行力を備えたあらたな枠組みが必要だと思う。参考資料1)https://www.whitehouse.gov/issues/foreign-policy/iran-deal2)http://www.gepr.org/ja/contents/20130128-01/3)http://www.gepr.org/ja/contents/20130128-02/
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原爆と原発-核は何をもたらしたか
広島はきょう、70年目の「原爆の日」を迎えた。式典に参列した安倍首相は「核兵器のない世界の実現」を誓ったが、被爆の風化は避けて通れない課題でもある。20世紀の科学史最大の発見とも言われる核エネルギー。世界唯一の被爆国である日本に、核は何をもたらしたのか。
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戦後70年目の原子爆弾被爆地「ナガサキ」を訪ねて
原野城治(ニッポンドットコム代表理事)(「nippon.com」より転載)被爆、「1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分」。長崎に原子爆弾が投下されてから70年を迎える。戦国時代から江戸時代初めまで、西欧、中国、朝鮮など海外に開かれた唯一の日本の“窓口”だった長崎。ポルトガル船の来航(1571年)からちょうど374年目の1945年8月9日、米軍爆撃機から投下された原子爆弾は、長崎駅から北西約2.5キロメートルの浦上盆地の上空で爆発、多くの死傷者を出した。8月6日の広島に次ぐ、2度目の原爆投下。今、「ヒロシマ」と「ナガサキ」という被爆地は、人類が被った“負の遺産”として厳然と存在し、「平和希求」の祈りの地となっている。戦後70年という節目の年に、長崎市の「長崎原爆資料館」や爆心地近くの「浦上天主堂」などを訪ねてみた。生存被爆者は18万3000人、平均年齢は初の80歳超 厚生労働省が2015年7月に発表した日本全国の「被爆者健康保健手帳所持者」の統計データによると、15年3月末の被爆者総数は18万3519人で、前年同期より9200人減少した。生存者の平均年齢も80.13歳で、初めて80歳を超えるとともに、1年間に亡くなられた方の人数も過去最高となった。生存被爆者は、長崎が4万7868人、広島が8万3367人となっている。 爆心地である「平和公園」の周辺500メートルは、爆発と同時に真空地帯となりほぼ全員が死んだといわれる。しかし、その中で生き残った人が1人だけおり、高齢者ながら現在千葉県で生活をしているという。 訪れた「長崎原爆資料館」(長崎市平野町)の被爆継承課の刈茅謙さんは、「被爆者の高齢化、やがて被爆者全員がいなくなる日が来る。そういう中で、被爆の実相をどう継承していくか大きな課題になっている」と強調した。戦後70年、被爆をめぐる“風化”の問題は広島だけでなく長崎にも重くのしかかりつつある。小倉の天候不順で、長崎に投下長崎型原爆「ファットマン」。プルトニウム239を使い、球形のケースで囲んでいる火薬の爆発力で中心部を圧縮して核分裂が起きるようにしている。 では、語り継がれるべき事実とは何か。 米国は1945年8月、第2次世界大戦終結のため原爆投下の候補地として広島、小倉、長崎、新潟とすることを決め、8月6日に最初のウラン型原子爆弾を広島に投下した。その2日後の8日、ソ連が日本に対して宣戦布告するとともに、米国は米陸軍在グアム第20航空隊司令部に対して、「小倉を第1、長崎を第2目標」として翌9日に投下するよう指令した。 プルトニウム型の原子爆弾「ファットマン(太っちょ)」を積載したB29爆撃機「ボックスカー号」は9日午前3時前、テニアン(マリアナ諸島)を飛び立ち小倉に向かった。しかし、小倉上空は焼夷弾による煙と曇り空のため投下できず、長崎に向かうことになった。 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の智多正信館長によると、「投下しないで帰ろうという意見もあったようだが、4トンの原爆を積載しているため、基地へ戻れなくなる、ということで長崎に投下した。燃料も少なくなり爆撃機はテニアンに戻れず沖縄に帰還した」という。しかも、原爆は風にも流され、目標だった三菱製鋼所や三菱兵器製作所などの軍需工場群から大きく外れ、日本の隠れキリシタンの聖地でもある浦上天主堂の近くに落下、浦上地区周辺のカトリック信者1万2000人のうち約8500人が死亡し、周辺は“原子野”と化した。被爆で長崎市民の62%が死傷国立長崎原爆戦没者追悼平和祈念館の地下2階にある「追悼空間」にある12本のガラスの柱と、原爆戦没者を収めた名簿棚 長崎市原爆資料保存委員会によると、被害規模(1945年12月までの推定)は、死者7万3884人で、うち65%が高齢者、子供、女性で占められ、負傷者は7万4909人に上ったとしている。当時の長崎市の人口は約24万人だったので、実に市民の約62%の方々が死傷されたことになる。 原爆資料館の横にある平和祈念館には、毎年亡くなられた方の名簿が収められており、14年末でその数は167冊、16万5425人に上っている。名簿棚の250メートル先に原爆投下中心地がある。地上部には、被爆者が必死に求めた「水」を満々とたたえた水盤が置かれており、閲覧室には被爆者の手書き資料(3万6400人分)が保管され、同室内で閲覧できる。残念ながら、個人情報ということでインターネットなどでの公開はされていないが、手記は実に生々しい。評論家の立花隆さんが公開を強く求めてきたという。 外国人被爆者は、朝鮮人約1万2000人~1万3000人、中国人650人、その他外国人約200人が亡くなっているとしているが、正確な人数はまだ明らかにはなっていない。ケネディ米大使も被爆体験に「心動かされた」 こうした悲惨な現実の中で、1955年に恒久平和を願うため「長崎国際文化会館」が建設された。その後、同会館は老朽化と展示機能の強化のため1996年に「長崎原爆資料館」として建て替えられ、満20年を迎えた。広さは延床面積約7950平方メートル、地上2階、地下2階の建物で、長崎市のシンボル的施設となっている。 資料館の年間来館者は、2014年度(14年4月から15年3月)で約67万1900人。うち海外からは英語圏5万9000人、韓国2万6000人、中国2万5000人などとなっている。 各国要人の長崎訪問も多く、15年4月には核不拡散条約(NPT)再検討会議議長を務めるアルジェリアのタウス・フェルキ外相顧問が訪問した。また、米国のキャロライン・ケネディ駐日大使も14年4月に長崎を初めて訪問し、長崎原爆資料館を見学した。被爆の体験談を聞いたケネディ大使は「深く心を動かされた。可能な限り、みなさんの取り組みの支援をしたい」と述べるとともに、「オバマ大統領も、核軍縮の目的のために尽力しています」と語った。 長崎市はオバマ大統領の長崎訪問を公式に要請しており、中国や韓国など近隣諸国首脳の訪問も強く望んでいる。しかし、米大統領の訪問は様々な理由からまだ実現していない。また、15年5月に国連本部で開催されたNPT再検討会議で、岸田外相が「世界の指導者に広島・長崎への訪問」を呼びかける提案を行ったが、中国などの反対で提案文言が削減されるということも起きている。日中の歴史認識をめぐる論争の余波とはいえ、被爆者には戸惑いと失望が広がった。隠れキリシタンの聖地「浦上天主堂」を直撃 現在の浦上天主堂。1959年に再建され、被爆した聖マリア像などが安置されている。 原爆資料館の展示で、重要なものの1つは、原爆で廃墟と化した浦上天主堂の再現模型だ。倒壊を免れた高さ11メートルの南側壁を再現している。そこには爆風で傷ついたマリア像なども置かれている。 浦上地区の隠れキリシタン(キリスト教徒)は、江戸時代の約250年間にわたるキリスト教団弾圧と迫害の歴史を乗り越え、1895年から1925年まで30年をかけて、当時東洋一と称された赤レンガ造りの大聖堂「浦上天主堂」を完成した。しかし、その20年後、爆心地から北東500メートルのところにあったため、鐘楼ドームは吹き飛ばされ完全に破壊された。 戦後、浦上天主堂を再建するかどうか、議論になった。キリスト教徒は、もともと隠れキリシタンを取り締まった庄屋の土地を信者の協力で買い取り、その地に浦上天主堂を建設したため、痕跡の保存も含めての再建を望んだ。一方で、被爆の忌まわしい記憶をできるだけ早く取り除き、新しい天主堂を建設すべきだとの意見も出された。広島に「原爆ドーム」があって、長崎になぜないのか? 浦上天主堂は結局、1959年に鉄筋コンクリート造りの本聖堂が再建された。残骸は保存されずに資料館などに展示された。しかし、廃墟の取り壊しをめぐり、50年後の2009年に出版された一冊の本が、浦上の人々を困惑させた。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅著、平凡社)だ。 結論を先に言えば、広島の原爆ドームは残されたが、浦上天主堂は日本のカトリック信者の“聖地”であるがゆえに、米国の意向などによって取り壊され新しいものになってしまったのではないかということだ。 被爆後、長崎市原爆資料保存委員会は、天主堂の廃墟を保存すべきだとの提案をしていたという。しかし、米ミネソタ州のセントポール市から姉妹都市提携を持ち掛けられた長崎市の田川務市長(当時)は、1955年に訪米し帰国すると、浦上天主堂の建て直しへと軌道修正した。これと並行して、米国内で浦上天主堂再建の支援金集め活動も展開された。 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の知多館長は、「本が出版されて、戸惑いました。いろんな意見があると思いますが、真相はわかりません」ときっぱり言い切った。セントポール市と長崎市の姉妹都市提携は戦後の姉妹都市提携の第1号であり、今年はその60周年となる。平和祈念館はこれを記念して、セントポール市で8月から11月まで「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」を開催する。米国での開催は05年のシカゴ、06年のラスベガスに次ぎ3回目だ。平和祈念・核廃絶へ遠い道のり もし、浦上天主堂の残骸が保存されていたとすれば、「原爆ドーム」のようにいち早く世界遺産に認定されていたかもしれない。また、カトリック教の世界には、被爆の痕跡を残したまま浦上天主堂を再建することに対して、“忌避”する空気があったかもしれない。しかし、浦上のキリスト教徒は、つまらない思惑に左右されることはなかった。しかも、天主堂で被爆した聖アグネス像は、今、ニューヨークの国連本部に展示され、世界の人々に原爆の恐ろしさを訴え続けている。 それにしても、NPT再検討会議における岸田外相提案の削除問題や隣国・北朝鮮の核・ミサイル開発のエスカレートなどの現実からすれば、ヒロシマ、ナガサキが国際政治や外交の駆け引き材料に利用されることなく、平和希求と核廃絶の“遺産”となるまでにはまだ遠い道のりが必要だということだろう。実際、長崎市議会が、恒久平和を願う「長崎市民平和憲章」を決議したのは、東西冷戦の崩壊直前の1989年3月であり、被爆から実に44年後のことであった。
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幻の原爆開発 理研「ニ号研究」、ウラン濃縮が壁に
由緒ある高級住宅街として知られる東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の原爆研究が行われていた。理化学研究所の仁科芳雄博士(仁科記念財団提供) 研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。 約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織。だが、懇談会は「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかった。 本格化の契機になったのは仁科が18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。 「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。実験失敗、焼失した「始終苦号館」 ニ号研究は原爆に使うウラン濃縮技術の確立、濃縮の確認に使う大型の円形加速器「サイクロトロン」の開発、ウラン調達ルートの確保が3本柱だった。 天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。 原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。 そこで、熱拡散法という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。 分離筒は二重構造で内側に外径3・5センチの筒があり、2つの筒の間には2ミリの隙間がある。この隙間の空気を抜いて真空にして、天然ウランをフッ素に反応させて作った六フッ化ウランのガスを注入。電熱線で内筒を350~400度、外筒を50度にして温度差を作ると、ガスが上下に対流し、筒の上側に軽いウラン235、下側に重いウラン238が集まる仕組みだ。 分離筒は19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。 実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。 仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが、稼働しなかった。4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。既存の小型サイクロトロンで中性子を当てた実験済みの試料がわずかに残っていたため、調べたところ、濃縮できていないことが判明。仁科はニ号研究の中止を決断した。 仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。「文字通り腹を切る時が来た」 焼失を免れた37号館の2階には、仁科の執務室が当時のまま残っている。まるで時間が止まったかのような空間だ。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は、この部屋で今も遺品の整理を続けている。「濃縮実験の状況から、仁科は本当に原爆を開発できるとは思っていなかっただろう」と心中を推測する。焼失を免れた旧理化学研究所37号館に当時のまま残されている仁科芳雄博士の執務室=東京都文京区本駒込 仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」 科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。 次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」 仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。 「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。浩二郎氏は静かに語った。ニ号研究に参加した福井崇時氏「証拠、川に捨てた」 --原爆研究のニ号研究に関わったきっかけは福井祟時・名古屋大名誉教授 「大阪帝国大の1年生だった昭和19年春、理学部物理学教室の助教授だった奥田毅先生から『(ウラン濃縮に使う)分離筒の世話をしろ』と言われた。理研が空襲で危なくなったので、阪大に分室を作ったと後で聞いた」 --どんなことをしたか 「分離筒をポンプで真空にする作業をした。停電するとポンプが止まって油が逆流するので、そのための世話をした。問題は、分離筒は当時の日本の製作技術としては無理な構造だったこと。溶接が不完全で漏れがひどく、真空にならないので全然だめだった。20年春、理研から六フッ化ウランが持ち込まれたが、分離筒の真空度が悪く、入れても意味がないので注入しなかった」 --原爆を開発できると思っていたか 「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」 --終戦後はどうしたか 「進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」 --仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか 「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」仁科芳雄(にしな・よしお) 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。6年、仁科研究室創設。21年、理研所長、戦後初の文化勲章。24年、日本学術会議副会長。26年1月死去。
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70年目の広島・長崎「原爆の父」の後悔 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
坂東太郎(早稲田塾講師)(THE PAGEより転載) 8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日です。原爆によって、広島では14万人、長崎では7万人の命が奪われました。では原爆とはどのようなものだったのか? どういう経緯で生まれたのか? 戦後70年を迎える今年、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーという人物を中心にあらためて振り返ってみました。広島への原爆投下の3日後、長崎にも原爆が投下された(ロイター/アフロ)「模擬原爆」投下から70年 大阪で投下の真相に迫る集いマンハッタン計画 1938年12月、ヒトラー政権下のドイツの科学者が核分裂エネルギーを発見しました。分裂性のウラン235に中性子を当てて得られる巨大なエネルギーを爆弾にする可能性が生まれたのです。ナチスの迫害から逃れてアメリカにいたアインシュタインら亡命ユダヤ人は、ドイツの原爆開発をアメリカが注視し、迅速な行動を取るべきとの書簡をルーズヴェルト大統領に送ります。 39年に「ウラン委員会」が置かれ、ニューヨーク・マンハッタン管区の陸軍研究所に由来する「マンハッタン計画」が、イギリスと共同で秘密裏に始まりました。兵器としての開発は41年10月以降です。43年設立のニューメキシコ州ロスアラモス研究所を中心に進められました。初代所長が物理学者のユダヤ系アメリカ人の物理学者ロバート・オッペンハイマー。ナチスより先に原爆を製造するのが至上命題でした。 原爆の製造には天然ウランに0.7%しか含まれていないウラン235を濃縮する必要があるので、天然ウラン6000トンを内外で獲得し、濃縮工場はもとよりウランから、原爆に応用できるもう1つの元素プルトニウムを分離する工場、爆弾製造所などを続々と造り、最大で約12万人ともいわれる人員と、当時の日本の国家予算をも上回る20億ドルもの巨費を投じてまい進します。 所長のオッペンハイマーは、1904年生まれ。いわば「万能の天才」で12歳で研究論文を書き上げてハーバード大学化学科をトップで卒業しました。25歳で大学助教授、32歳で教授へ就任しています。能力に加えてユダヤ系の一流原子物理学者のリクルーターとしても手腕を発揮しました。44年には最大の難関であったウラン濃縮のメドが立ちました。 ところが翌45年5月、最大の不安材料であったナチス・ドイツが降伏。ヒトラーは直前に自殺しました。第二次世界大戦を戦う枢軸国が日本のみとなっても、4月に死去したルーズヴェルト大統領の後任として副大統領から昇格したトルーマン大統領の下、原爆製造は進められます。 そしてついに、テネシー州オークリッジの施設でウラン型の、ワシントン州ハンフォードではプルトニウム型の原爆計3つの製造に成功し、7月にニューメキシコ州アラモゴードでプルトニウム型の核実験に挑みます。これが暗号名トリニティ(三位一体)から取った「トリニティ実験」です。トリニティ実験 実験は成功に終わり、オッペンハイマーは興奮に体を震わせたといわれています。実験場がある場所は観光地としても有名なサンタフェから車で約3時間半のところにあり、今でも4月と10月の2回、一般公開されています。 45年5月には、日本への原爆投下を具体的にどこにするか会合が持たれ、京都、広島、横浜、小倉の4都市が挙がっていました。7月には対日戦争終結のため米英ソの首脳が集まってのポツダム会談が行われ、宣言が出されました。4月から就任していた鈴木貫太郎首相は表向き宣言受諾を拒否しつつも、中立条約を結んでいたソ連の仲介などで、何とか終戦に至れないか密かにはかっていました。 トリニティ実験成功の報はポツダム会談の直前に、トルーマン大統領へ届いています。しかし宣言には原爆の存在はまったく述べられていませんでした。実験が行われたのと同じ日に、ウラン型原爆が出撃基地のあるテニアン島へ運ばれていきます。広島・長崎に原爆投下 8月6日朝、戦略爆撃機B29の一機で愛称「エノラ・ゲイ」が広島にウラン型原爆「リトルボーイ」を投下。世界で初めて原子力が戦争目的に使われ、14万人が亡くなりました。9日にはプルトニウム型原爆「ファットマン」が長崎に落とされ、7万人の命を奪いました。 日本軍および政府の動揺は激しく、同日に対日参戦したソ連の動向も相まってポツダム宣言の受諾を最終的に昭和天皇が決断し、レコードに吹き込んだ終戦の詔書が15日に流され、事実上、終戦となりました。詔書に「敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して」とあるように、原爆のもたらした脅威は甚大でした。 この結果を「原爆の父」となったオッペンハイマーはどう受け取ったのでしょうか。彼は日本への投下を支持しており、広島での「成果」を自慢げに研究員へ語ったとされています。ところが広島、長崎の惨状を知ってからは態度が微妙に変わります。核兵器の国際的管理呼びかけ 自らの発明で信じがたい人命を失い、トップ科学者ゆえに投下後の放射能被ばくも予見できたオッペンハイマーがふさぎ込んでいたり、後悔とも取れるような発言をしたのを多くの人が証言しています。10月には研究所を去りました。 戦後すぐに主張を始めたのが「核兵器の国際管理」です。連合国勝利でまだ沸き返っている中、いち早くソ連が原爆を開発し、他にも拡散するのを予見して、そうなる前に核管理の枠組みを作ってしまうのが得策という発想です。果たして49年に核実験を成功させ、以後米ソの冷戦が激化していきます。 オッペンハイマーらがイメージしていた国際管理とは多少異なった形ながら、1968年には核兵器拡散防止条約(NPT)が制定され、今日まで不完全とはいえ、核不拡散の唯一の防波堤となっています。 また彼は原爆よりさらに大きな威力がある水素爆弾開発にも反対しました。原爆以上の惨禍を出現させないためであるとか、アメリカの水爆実験成功が却ってソ連の開発を促進する契機になるからとか、反対の理由は諸説あります。原子力委員会に所属していた彼の発言は推進派も一目置かざるを得ませんでした。 いわば「邪魔者」になってきたオッペンハイマーを襲うのが「赤狩り」です。共和党のマッカーシー上院議員を中心とする政府内に巣くう共産主義者のあぶり出しに彼も引っかかってしまうのです。 ナチスに対抗すべく、愛国者としてマンハッタン計画に参加する前のオッペンハイマーは、30年代の一時期左翼系の知識人と交流していたほか、弟や妻が共産党員や元党員であったなどの行動が米連邦捜査局(FBI)などの尾行や盗聴で明らかにされ、「スパイ」の疑いをかけられました。結局、危険人物とのレッテルを貼られ、公職から追放されてしまいます。そのまま静かな一学究に戻り、67年に死去しました。 直前の63年、民主党のジョンソン大統領がアメリカの物理学に貢献した者に与えられるエンリコ・フェルミ賞を授与して名誉を回復したのが、せめてもの救いでした。「我は死神なり、世界の破壊者なり」 後年になって核実験を振り返って回想した言葉として有名です。ヒンズー教の聖典の一節から引き出したとされています。「原子力は生と死の両面を持った神である」とも述べています。 オッペンハイマーは原爆投下には賛成したし、製造そのものを後悔した様子もありません。ナチスに対抗するという信念は間違っていなかったし、他に選択肢もなかったと。では何を後悔したのかというと、はっきりしたことは分かりませんが、原爆を生み出した行為自体を罪として抱えていたのではないでしょうか。 「破壊者なり」の言葉の前に述べた「世界は今までと同じ世界ではなくなった」が、それをうかがわせます。国際管理を訴えたのと合わせて考察すると、核兵器を二度と使わせないようにしようというのが「原爆の父」としてできる、せめてもの罪滅ぼしと考えていたのかもしれません。ばんどう・たろう 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】
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知っていますか… ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾
1945年8月、原子爆弾の投下でヒロシマ・ナガサキは被爆し、一瞬のうちに死傷者が20万人を超え、都市は破壊されました。戦争の悲惨さや平和の大切さは語り継がれていますが、70年の月日が経ち、戦争や原爆の記憶が薄らいできています。 JCIIフォトサロンで開催中の「知っていますか…ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾 被爆から70年」展での展示写真は被爆直後から約3カ月間に11名がカメラでとらえた現実です。現存する貴重な写真フィルムからのプリントは、印刷とは違う迫力で悲惨な実相を訴えかけてきます。【広島】被爆翌日の市内 1945年8月7日 撮影:岸田貢宜 所蔵:岸田哲平、広島平和記念資料館提供荷車で運ばれてきた少年 1945年10月11日 撮影:菊地俊吉 提供:田子はるみ被爆直後 御幸橋で救護を待つ 1945年8月6日 撮影:松重美人 提供:中国新聞社被爆した婦人の背中 1945年8月7日 撮影:尾糠政美 提供:広島平和記念資料館被爆後パノラマ 1945年10月上旬 撮影:林重男 提供:広島平和記念資料館【長崎】お握りをもつ親子 1945年8月10日 撮影:山端庸介 所蔵:山端祥吾、日本写真保存センター寄託負傷者を運ぶ 1945年8月10日 撮影:山端庸介 所蔵:山端祥吾、日本写真保存センター寄託水を飲む少女 1945年8月10日 撮影:山端庸介 所蔵:山端祥吾、日本写真保存センター寄託乳を飲ます母親 1945年8月10日 撮影:山端庸介 所蔵:山端祥吾、日本写真保存センター寄託破壊された市電と死者 1945年8月10日 撮影:山端庸介 所蔵:山端祥吾、日本写真保存センター寄託「知っていますか…ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾 被爆から70年」展 JCIIフォトサロンでは、来る2015年8月4日(火)から8月30日(日)まで、「知っていますか…ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾 被爆から70年」展を開催いたします。 1945年8月、原子爆弾の投下でヒロシマ・ナガサキは被爆し、一瞬のうちに死傷者が20万人を超え、都市は破壊されました。戦争の悲惨さや平和の大切さは語り継がれていますが、70年の月日が経ち、戦争や原爆の記憶が薄らいできています。 今回の展示写真は被爆直後から約3カ月間に11名のカメラがとらえた現実です。現存する貴重な写真フィルムからのプリントは、印刷とは違う迫力で悲惨な実相を訴えかけてきます。 本展示は、主催:公益社団法人日本写真家協会「日本写真保存センター」、一般財団法人日本カメラ財団、後援:中国新聞社、公益財団法人広島平和文化センター平和記念資料館、協力:長崎原爆資料館、朝日新聞社、一般社団法人日本写真著作権協会で開催いたします。写真展情報はこちらから
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特攻隊員として出撃した光山文博
早坂隆(ノンフィクション作家)訪日と入隊 大東亜戦争下、「航空機による特攻」で戦没した日本軍将兵の数は4000人を超えるが、その中には20名ほどの朝鮮人も含まれていた。 その内の一人、卓庚鉉は1920年11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。後の日本名、光山文博である。 卓庚鉉が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる。 卓庚鉉の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。卓庚鉉がまだ幼少だった頃の話である。 訪日した彼らは、京都府に定住した。当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。 結局、卓庚鉉の父・卓在植は、京都市内で乾物商を立ち上げた。 こうして彼らは、所謂「在日」となった。決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。この歴史的背景をまず適確に押えておかなければ、卓庚鉉の生涯の輪郭に触れることはできない。 一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。卓庚鉉の一家もこの例に当てはまると考えられる。 光山文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力の高さを証明するであろう。 いずれにせよ、光山は人生の大半を日本で過ごしており、朝鮮に関する記憶は殆どなかったと思われる。光山は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。 昭和18年(1943年)9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。 昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。 かかる時流の中で、光山は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。 ちなみに、朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944年)4月、実際に徴兵が適用されるようになったのは同年9月以降のことである。 即ち、日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。 昭和18年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929年)に女主人・鳥濱トメが開いた店である。知覧分教所の開校は昭和16年(1941年)12月だが、同店は翌昭和17年(1942年)1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。 光山はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった光山だが、トメとはとりわけ親しくなった。 光山はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。そんな背景を知悉していたトメは、光山に対して殊に気を使って接した。光山は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。 トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だったが、二人の間には長女の美阿子、次女の節子という二人の娘があった。当時、美阿子は17歳、次女の節子は13歳だった。光山はこの二人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。光山には妹が一人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。 そんな光山だったが、昭和19年(1944年)7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、 「知覧のおばちゃん、元気ですか」 などと綴った葉書を寄せた。特攻隊への志願 昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、 「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」 という内容のものだった。光山文博少尉(Wkimedia Commons) やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。 上官の一人は、光山が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし、光山の決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされた。こうして光山の特別攻撃隊への配属が決定した。 昭和20年(1945年)3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。 第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。 光山は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。 「おばちゃーん」 店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。 「まあ、光山さんじゃないの」 トメは温かく彼を迎えた。光山の相貌は以前よりも逞しくなっているように見えた。そして、トメはすぐに光山が特攻隊員であるという事実を悟った。何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。トメの推察と不安は、光山から発せられた次の言葉によって裏付けられた。 「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」 約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。 久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。 以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。アリランの歌アリランの歌 光山は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だろうと判断して促した結果であった。 そんな光山にも、確実に出撃の日が迫る。 いよいよ迎えた出撃前夜の5月10日、光山はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。光山はトメと彼女の娘たちを前にして、こう口を開いた。 「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ」 光山が心中を吐露する。「長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになるんだ。でも、俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」 光山の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘たちが彼に贈ったものだった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊に大切にしていたという。 トメが目頭を押えながら俯いていると、光山が、 「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」 と切り出した。トメは思わずこう答えた。 「まあ、光山さん、あんたが唄うの」 トメには光山の言葉が意外だった。それまでの光山は、他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時でも、一緒に声を合わせるようなことは殆どなかったのである。 「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」 「いいわよ、どうぞ、どうぞ」 薄暗い座敷の中で、光山が言う。 「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」 光山は床柱を背にしてあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直した。 トメと二人の娘は、正座をして光山が唄い出すのを待った。光山はしばらく目を閉じていたが、やがて室内に大きな歌声が響き始めた。それは、朝鮮の民謡である「アリラン」であった。 アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えて行く 私を捨てて行かれる方は 十里も行けず足が痛む アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えて行く 晴々とした空には星も多く 我々の胸には夢も多い 彼の声の震えや鼓動、胸中に灯った心模様を想う。哀調を帯びたその節回しが意味する歴史の重層性を、我々は真に理解できるだろうか。 この歌を知っていたトメは、光山と一緒になって声を揃えた。トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。 それから、光山は形見として、トメに自らの財布を手渡した。 「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」 その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、 「これ、持ってって」 と差し出した。光山は、 「そうかい、おばちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」 と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら去って行ったという。 翌11日、第七次航空総攻撃の実施により、光山は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。知覧飛行場の滑走路から勢いよく出撃した。 光山の搭乗機は、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。 やがて、航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。 この戦闘において、光山も散華。享年24である。彼は「犬死に」か 知覧町には現在、富屋食堂を復元した資料館「ホタル館」が建っている。出撃前夜に光山がトメに託した形見の財布は、ここで大切に保管されている。 色褪せたその巾着の財布には、彼方此方に深い染みが浮かんでいる。小さな袋の内部には、虚空が収められているようにも感ずる。永劫の寂寞が時間と溶け合っている。 光山はその生涯の最期まで、朝鮮人としての矜持を忘れることなく、且つ日本軍の歴とした一員として南溟に命を散らした。では、彼が己の命と引き換えに守ろうとしたものは何だったのであろう。朝鮮人という意識と血肉への誇り、自らが育った日本の平和や安寧、それとも睦まやかな日本と朝鮮の友好か。 ――或いは無念しかなかったのか。 単純なる散文への描写や、安易な推察は留めるとしても、光山が日本への呪詛や罵りの言葉を一片も残していないことは、軽視すべからざる事実として記しておきたい。 先の大戦中、特攻に限らず多くの朝鮮人が日本人と共に戦った。それら全ての行為を「強制」という平面的な表現で括ることは、光山を含む先人たちの生き様に対する重大な冒涜と不遜であろう。 現下の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが真実である。あくまでも韓国は「日本側」であった。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要がある。 そして、戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山は「対日協力者」「親日派」として、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。旧日本軍・朝鮮人特攻隊員を悼む慰霊碑「帰郷記念碑」の除幕を反対派に遮られ、遠方から手を合わせる女優、黒田福美さん(右から2人目)と日本人ツアー客=2008年5月10日、韓国・泗川市 平成20年(2008年)5月には、とある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願した人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。 結句、記念碑は市によって撤去された。日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。 韓国側の歴史認識は、朝鮮人特攻隊員の御霊を無惨に毀傷している。これは韓国人に根強く存在する「在日への差別」の断片とも言えよう。このような韓国側の態度こそ、まさに「ヘイトスピーチ」「ヘイトアクション」そのものではないか。 韓国側の視座には、朝鮮人特攻隊員たちの心の底にあった気位や沽券、自尊心などへの洞察が著しく欠落している。無論、光山らが抱えた懊悩や葛藤の揺らぎは、日本人以上であったかもしれない。だからこそ、日本側はその死を心から悼もうとしている。特攻を仰々しく美化する必要はないが、御霊を弔いたいという心情にまでなぜ彼らは反発するのか。主義や情念に従属した愚行である。「売国奴」の如き軽薄な常套句を使用した刹那、アリランの調べに内包されていた光山の自負と憂悶の混和は、途端に見えなくなってしまう。それでは、歴史から学ぶことにはならない。 知覧特攻平和会館の敷地内には多くの慰霊碑が建つが、その中には「アリランの鎮魂歌碑」という石碑もある。同碑は日本人の篤志家の寄付によって建立された。碑の前面には、 アリランの歌声とほく母の国に 念ひ残して散りし花花 という文字が刻まれている。 羞恥すべき「反日ナショナリズム」の悲哀と、それに伴う日韓関係の迷走に、光山も落涙しているのではないか。はやさか・たかし ノンフィクション作家。1973年、愛知県生まれ。著書に、『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)、『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(文春新書)、『鎮魂の旅 大東亜戦争秘録』(中央公論新社)、『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文春文庫)、『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)ほか多数。
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日本人と共に戦った朝鮮人
大日本帝国による韓国併合が「反日ナショナリズム」の淵源なのだろう。しかし、戦時中、少なからぬ朝鮮人が「日本と共に戦いたい」と入隊を希望したのも事実。朝鮮人としての誇りを忘れることなく、日本軍の一員として戦ったのだ。決して「強制」ではなかったことを知ってほしい。
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「特攻の母」が隊員の前で一度だけ大泣きした日
富屋食堂の鳥浜トメは、特攻隊員の前で一度だけ大泣きしたことがある。その相手のことは、二女・赤羽礼子(70)の当時の日記に小さな字でびっしりと書かれている。 「光山さん(昭和二十年)五月十一日午前八時(突入) 私たちにとって一番忘れられない方であります」 朝鮮出身の光山文博少尉=当時(24)、卓庚鉉、戦死後大尉=とは1年半ぶりの再会だった。光山は昭和18年秋、京都薬学専門学校(現・京都薬科大)から学徒出陣、当時は陸軍飛行学校分教所だった知覧に滞在し、訓練を受けたことがあった。礼子の記憶では、一人でいることが多かった光山をトメは何かと気にかけ、台所に立たせたり、一緒に食卓を囲んだり、と息子のように扱った。 「お別れを言いに来ました」。久しぶりに富屋食堂に戻ってきた光山は、以前にも増して寂しそうだったという。トメが、食堂に一人でいた光山を自分の部屋に呼んだのは出撃前日、5月10日の夜だ。礼子と当時18歳だった長女の美阿子を加えた4人でいると、光山が自分を励ますように明るい声で言った。 「今夜は最後だから、故郷の歌を歌うよ。おばちゃん」 ♪アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を 越えていく 私を捨てて 行く君は 一里も行けず 足痛む 光山は戦闘帽を目が隠れるまでずらした。それでも涙は隠せなかった。「あんな悲しいことはなかった」と礼子は言う。トメも礼子も美阿子も、わんわんと泣きながら「アリラン」を歌った。 光山は1年前に母を病気で失っていた。3月には、「心残りがある」といとこに頼んで、年老いた父と嫌がる十歳代の妹を船で朝鮮に送り返したばかりだ。次の日早朝、他の隊員と同じようにそでに日の丸を縫い付けた彼は、見送りに来たトメと握手して、南の海に消えていった。* * * それにしても、隊員たちにかけるトメの愛は尋常ではなかった。 〈私の母は 私の母じゃない〉 光山らを「お兄ちゃん」と慕っていた礼子でさえ、隊員への嫉妬を日記に書いて、トメからしかられたことがある。礼子が、母の優しさの理由を知ったのは、トメが平成4年に亡くなる直前だったという。“特攻隊員の母”と慕われた鳥濱トメさんを称える顕彰碑の除幕式に出席した、石原慎太郎・東京都知事(左)ら=2007年10月3日、鹿児島県知覧町 トメは明治35年6月20日、薩摩半島の南西端の町・坊津で生まれている。未亡人だった母親が、漁業の町・枕崎の実業家宅に女中奉公していたとき、妻子あるその実業家との間にできた子供だ。兄や姉と違い、母の実家の姓を名乗り、父親に会うことも許されなかった。 母一人、三兄妹の家は貧しかった。トメは小学校にまともに通うこともなく、8歳で枕崎の裕福な家に子守奉公に入った。15歳になると、鹿児島市内の警察署長宅に女中奉公した。 同じ年頃で女学生だった署長の娘姉妹は、トメにかなりきつくあたった。「靴を磨いといて」「あなた、何もできないのね」。 奉公が珍しくなかった時代とはいえ、トメはつらかったのだろう。「貧乏だから仕方ないけど、悲しかったんだよ。お金をちゃんと稼いで、お母さんに送らないといけなかったから我慢したんだよ」。礼子は、トメからそう聞かされた。* * * トメが他人の優しさを初めて知ったのは18歳のころ、枕崎の隣の加世田市の「竹屋旅館」の女中になってからだ。ここの女将は今までの雇い主とは違い、小遣いや着物をくれた。 「どん底から、ぱっと人生が変わったんだよ。人間は他人にこうしなければならない、と思うようになってね」。これも礼子が聞いた言葉だ。 運命の出会いもあった。旅館を独身寮にしていた南薩鉄道のバス運転手、5歳年上の鳥浜義勇(よしとし)との恋愛だ。夜になると、義勇が字を教えてくれ、勉強の楽しさも初めて知った。 ただ、結婚には障害があった。義勇は大隅半島東部の町・志布志の有力者の家の出で、一族こぞってトメとの交際に反対した。大正11年、二人は入籍しないまま、知覧に移って事実上の新婚生活を始めた。 数年後に正式に結婚が認められたのは、トメの努力があったからだ。義勇の給料はすべて志布志の義弟の学費として送り続けた。生活費は、トメがサツマアゲや魚の行商をして稼いだ。 余談だが、トメは、地元の新聞広告で着物のモデルになるような美人だった。当時の写真から暗さやつらさはみじんも感じられない。少女時代に比べれば、ようやく幸せをつかんだ思いがあったに違いない。* * * 昭和4年、27歳のトメは、かき氷や丼モノを出す「富屋食堂」を開業した。近所の人たちが材料を持ってきたら、ただで料理をふるまう。そんな牧歌的な店だった。 知覧の町、そして食堂の様子が一変するのは昭和15年、大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校(福岡)の分教所として陸軍の飛行場建設が始まってからだ。日中戦争の深みにはまった軍部は、操縦士の養成を急ピッチで進めていた。建設には中学生も駆り出された。 17年3月に飛行場が開所すると、富屋食堂は飛行兵たちが自由に立ち寄れる軍用食堂に指定された。やってきたのは最年少だと14歳の少年飛行兵。18年には、特別操縦見習士官と呼ばれる学徒出陣者も日曜日ごとに食堂で遊ぶようになった。「おばちゃん」。愛情豊かなトメの性格とあいまって、親元を離れて厳しい訓練に明け暮れる彼らはすぐに打ち解けた。 「あのころはまだ、のんびりしていました。母が入院している病院の上空を練習機が何度も旋回したり。まさか、特攻隊員になって帰ってくるとは、私も母も考えてませんでした」と、礼子はトメの気持ちを代弁する。 他人のつらさや苦労を放っておけないトメ。数年後に「お別れにきました」と戻ってきた彼らに会ったときの悲しみは、いかばかりだっただろうか。=敬称略=(三笠博志)(※iRONNA編集部注:肩書き等は『産経新聞』掲載当時のものです)
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日本人化の時代 「創氏改名」と「族譜」は関係なかった
【20世紀特派員】隣国への足跡(19)(肩書き等は『産経新聞』掲載当時のもの)黒田勝弘(産経新聞ソウル支局長) 戦前の韓国(朝鮮)で生まれ育った作家・梶山季之の贖罪意識が反映した小説「族譜」は「創氏改名」をテーマにしたものである。小説としての評価や韓国での映画化のできばえはよかったが、問題の「創氏改名」については誤解があるとして専門家の間では評判がよくない。この誤解は日本統治時代の「創氏改名」(昭和15年から実施)の悪名ぶりを強調するあまり、現在、日韓双方にある。「皇軍兵士」に 映画「族譜」は「創氏改名」に抗議して自殺した人がいたという実話を素材にしている。自殺例は全羅北道高敞郡での一件だけが記録として残っているのだが、映画は「創氏改名」によって韓国人が先祖代々、自らの存在証明(アイデンティティー)として受け継いできた一族の系譜である「族譜」が断絶するかのように描いている。しかしこれは誤りだという。 まず「創氏改名」は戸籍に別途、日本式の「氏名」を新たに作るというものであって、個人が所持し維持してきた「族譜」はそのまま残ったし、韓国人が大事にしてきた金とか李とか朴といった「姓」も戸籍にはそのまま残された。つまり、実際は「創氏改名」と「族譜」は関係なかったのだ。 韓国(朝鮮)は昔から男系社会であるため妻は夫の家系に入ることができず夫婦別姓である。また子供は必ず夫の姓を受け継ぐ。したがって戸籍では夫と妻の姓が違い、夫や妻の母親もそれぞれ別姓で、同じ戸籍にいくつもの姓が混在している。しかも姓自体が二百数十しかないため三大姓の金・李・朴だけで何百万人もいる。 「創氏改名」は日本風の氏名、日本風の戸籍にすることで韓国人の家族観を変え、日本人にしようとしたものというわけだ。 日本が植民地の韓国(朝鮮)や台湾を含め、国家総動員体制で戦争に対処しなければならなくなった南次郎総督時代のいわゆる「内鮮一体」「皇民化」政策である。とくに「皇軍兵士」として韓国人を動員する必要性から日本人化が進められたともいえる。 韓国人にとって最も重要な家族-血縁に関する問題だけに当然、反発があったし、ごく一部だが自殺者も出た。「創氏改名」は法律による半ば強制、半ば自由意思という政策だったが、応じないと不利益をこうむるといわれ、さらに「時流」もあって韓国人の約8割が応じた。進む一体化 著名な文学者だった李光洙は昭和15年2月、「香山光郎」と「創氏改名」した際、その理由を次のように説明している。 「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したがって差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急なことがあるだろうか。(略)われわれの従来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。地名や人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然だと信じる」 李光洙は「同じ日本人」として差別排除を願って日本人風の氏名を選択したというのだ。朝鮮総督府 たしかに日本軍では韓国(朝鮮)人の上官の下で日本人の兵が動くという、西欧の植民地国では考えられないような「平等」ぶりも見られたが、李光洙の「願い」は5年後の日本の敗戦、撤退もあり結局、実現はしなかった。 余談だが、前述のように「族譜」は韓国では「創氏改名」とは関係なく維持され、人びとは数百年、ときには千年以上もさかのぼって祖先を意識しながら血縁・同族社会に生きている。しかし北朝鮮では1945年の解放後、共産主義化によってあの「日帝」もやらなかった「族譜」の全面廃棄ということをやっている。 韓国の歴史教科書を見ると、日本統治時代の末期にあたる1940年あたりから解放の1945年までがきわめて簡単である。「われわれはよくがんばった」という抵抗史観からすれば、このころはもう目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないということだろう。 戦時体制下でそれほど日本との一体化が進み、日本への協力が進んだ時代ということである。当時、少年だった韓国人は今、六十代だが、彼らの多くは「あの当時、ぼくらはもう日本人になりつつあった」という。先に紹介した学徒兵出身の作家・韓雲史氏も「あのままいってたら完全に日本人になっていただろうね」という。99%日本人 ぼくは70年代の韓国留学時代、元日本軍出身だという行きつけの食堂のオヤジから「日本が戦争に負けていなければ自分は今ごろはアメリカのカリフォルニアの知事にでもなっているのに」と、まじめ半分、冗談半分の顔でいわれ驚いたことがある。 日本がアメリカを支配して自分も出世しているというわけだが、今回、日本統治時代に日韓同数の生徒で日韓共学をやっていたというソウルの名門高校・善隣商業を取材しようと、ある韓国人OBと会ったときもこんな話が出た。 あまりにも鮮やかな印象だったので紹介する。昭和19年(1944年)春、陸軍航空少年兵の募集があって、学校の上空に日の丸をつけた陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」3機が飛来して何回も低空旋回した。 生徒はみんな校庭に出て手を振った。その中の一機のパイロットが善隣商業出身の韓国人で、機上からしきりに手を振るのがはっきり見えた。この後、生徒たちはわれもわれもと少年航空兵に志願したが、実際に行けたのはわずかだった。この話の主は「あの時、ぼくらは99%日本人になっていたからねえ」といっていた。 日本の韓国併合は35年間続いた。これは一世代分である。1940年代の戦時中、壮年以下の韓国人は日本人化していた。 解放後の韓国で徹底した反日教育が行われたのもこうした背景がある。日本人になってしまったのを元の韓国人にするためには、日本を全否定する反日教育が必要だったのだ。いまなおマスコミや識者が一方で「日本に学べ」といいながら「反日」に熱心なのも、「日本人になってしまった」という過去の経験からくる不安のせいかもしれない。

















































