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分別ある人が黙る国はよくない 日本めぐる自由な言論空間を
平川祐弘(東京大学名誉教授) 悪霊が豚にのりうつった。「すると又(また)一匹あらはれた。此(こ)の時庄太郎は不図(ふと)気が附いて、向ふを見ると、遥の青草原の尽きる辺から幾万匹か数へ切れぬ豚が、群をなして一直線に、此絶壁の上に立つてゐる庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる」 漱石『夢十夜』で庄太郎は七日六晩、杖(つえ)で豚の鼻頭を叩(たた)いて谷底へ落としたが、とうとう精魂が尽きて仕舞に豚に舐(な)められてしまった。 この話が新約聖書マルコ伝5章に由来すると世間は察したが、確証は得られない。寺田寅彦は明治末年ロンドンで「絶壁に野猪の群が駆けてくる絵」を見て漱石先生の夢の一節は此れだなと思ったが、さてどこの美術館かは忘れてしまった。そんな第十夜の発想源が、百年前はテイト・ギャラリーに展示されていたリヴィエアの一幅と突き止めたのは東大大学院留学中の尹相仁(ユン・サンイン)氏で、氏の『世紀末と漱石』は岩波書店から刊行されサントリー学芸賞を授けられた。 その『ガダラの豚の奇跡』が今回初めて日本で展示された(『夏目漱石の美術世界』東京藝大美術館、7月7日まで)。その折に尹博士と20年ぶりに久闊(きゅうかつ)を叙した。聞けばこの3月、ソウル国立大学校アジア言語文明学部の初代の日本専攻教授に就任したという。ソウル大で日本語が学術語に 「日本語がソウル大でも学術語としてついに認められたということです」「東大でも今は韓国語は第二外国語の一つ、韓国語を学ぶ者は今年は五十数人です」。尹教授と日本の韓国語専任教員が話している。日韓のわだかまりについて各国学生ともども話し合った。 平川「台湾でも李登輝総統が出てくるまで官立大学では日本語はご法度(はっと)でした。私は30年前、台湾の私立大学で東方語という名義で日本語を教えました」 尹「韓国では外大で1961年から日本語を教えだしました。日本語教授も日本関係学会も多い。しかし大学受験の外国語から日本語は排除され教育の権利を侵害されたと訴訟が起きたこともある。今度ソウル大に日本語専攻ができたことで韓国の学問世界でも日本語日本文化は市民権を得ました」 平川「植民地支配は二級市民を作り差別するから悪ですが、日本のように植民地に国立大学を造った国は珍しくありませんか」 尹「京城帝大は1924年創立、日本の6番目の帝大で大阪、名古屋の帝大より古い。3分の1が朝鮮人学生でした。ソウル大は1946年の創立、今年で67年目。李承晩大統領は京城帝大を出て総督府の官吏となった者も左翼運動に飛び込んだ者も憎んだ」京城帝国大学(Wikimedia Commons)京城帝大と台北帝大の違い 元台湾大学客員教授「韓国の人は京城帝大のことをよくいいませんね。台湾大学は先年、建学80周年を祝しました。日本が台北帝大を創立した1928年から数えてです。台湾の方は台北帝大を誇りにしています」 韓国人留学生「いや韓国でも出身者は京城帝大を誇りにしています」 平川「2005年に台湾大学は日語系の大学院が完成し、私も集中講義に招かれましたが、その時、私の恩師の島田謹二教授が戦前台北で教えていた教室で、私も教えるよう取り計らってくれました。台湾の人はおおっぴらに台北帝大を肯定しています。そうしたことは韓国ではあり得ないでしょう。ただ日本の台湾統治と朝鮮統治と同じに論じてはいけない。中国にとって化外(けがい)の地であった台湾と違い、朝鮮は一つの文明で長く王朝も続いた。その朝鮮全体を奪うことは民族の誇りも奪うことになったから反日感情も強かった」 尹「京城帝大の日本人の先生にはよい思い出ももっています」 だが、個人的によく思っていても、後難をおそれ公然と口に出せない雰囲気だとすると、韓国のお国柄はやはりきついな、と私は考えた。第二次大戦前夜、日本の新聞は無闇(むやみ)に反英を煽(あお)った。日本の要人が釈明して英国大使館のサンソム参事官に「日本人は個人的には英国に対しよい感情をもっている。しかし分別のある人は今は黙っているのです」と言った。するとサンソム氏は「真面目で分別のある人が黙るような国は到底いい状態にあるとはいえませんよ」と答えた。事実、悪霊に取りつかれた群のように日本人は亡国の断崖に向かって駆けた。そんなことも思い出された。日本めぐる自由な言論空間を 尹教授は「漱石と同様、自己本位の立場で日本研究を進めます」と話を結んで拍手を浴びた。かつての日本には研究対象国に惚(ほ)れ込み毛礼賛に走った中文の教授もいた。近頃は逆に嫌中・嫌韓の人もいる。動は反動を生む。北京やソウルで日本について分別のある発言が難しくなれば大変だ。韓国における日本論や日本研究は今後どれだけ自由な(或(ある)いは不自由な)言論空間の中で発展することか。 最後に司会が、京城帝大や台北帝大の功罪を3カ国・地域の関係者が一堂に会して論ずると、客観的な歴史認識が出るのでないかと示唆した。良い提案に思われた。ひらかわ・すけひろ 1931(昭和6)年東京都生まれ。1953(昭和28)年、東京大学教養学部教養学科卒業。フランス、ドイツ、イタリアに留学し、北米、中国、台湾などで教壇に立つ。平成4年、東京大学名誉教授。著書に『和魂洋才の系譜』(平凡社)、『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』(白水社)、『ダンテ「神曲」講義』『西洋人の神道観』『日本の正論』(河出書房新社)、『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店)『市丸利之助伝』(肥前佐賀文庫)、『日本人に生まれて、まあよかった』(新潮新書)等多数。
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不都合な歴史を直視しない韓国 日本人はいわれなき批判に反論を
ヘンリー・S・ストークス(元『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長) 韓国の人々は毎年、「光復節」(8月15日)が近づくと、まるで自国が第2次世界大戦の戦勝国のような言動を繰り返している。だが、間違ってはならない。朝鮮半島の人々は戦争中、日本人として連合国と戦ったのだ。靖国神社のご祭神にも多くの朝鮮出身者がいる。特攻隊として散華された方もいる。 韓国が独立したのは、日本からではない。朝鮮独立運動の結果でもない。日本の降伏(1945年8月15日)に伴って、朝鮮は自治権(=独立ではない)を得たが、翌月に進駐してきた米軍は自治権を認めず、軍政を敷いたのだ。韓国は48年8月13日、「米国の占領統治から独立させてもらった」というのが歴史的事実である。韓国の李承晩(イ・スンマン)初代大統領 世界文化遺産をめぐっても、事実誤認や嘘が多い。 先日登録が決まった「明治日本の産業革命遺産」をめぐり、韓国では「一部施設で朝鮮半島出身者が強制労働させられた」「強制徴用された韓国人(=当時、韓国という国はない)は200万人」という報道まであるようだが、これでは日本人の「韓国嫌い」が増えるだけだ。 そもそも、戦時下での労働力不足を補う「徴用」は、わが祖国・英国でも、米国でも行われた合法なもので、当然、賃金も支払われていた。朝鮮半島に国民徴用令が適用されたのは1944年9月から翌年8月の終戦までの1年弱だ。敗戦濃厚だった時期に、日本に朝鮮半島から200万人も連行するほどの海運力があったと思うのか。 慰安婦問題による、日本批判もいい加減、やめた方がいい。 米軍が44年、ビルマ(現ミャンマー)で朝鮮人慰安婦20人を尋問した報告書でも明らかなように、彼女たちは賃金を得ており「性奴隷」ではない。慰安婦にならざるを得なかった不幸な運命には同情するが、当時、公娼制度は合法であった。 朝鮮戦争の休戦(53年)後、在韓米軍基地近くの売春街(基地村)には、米兵ら相手の売春をしていた「米軍慰安婦」(ヤンコンジュ)がいた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の父、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の署名入りの文書記録が韓国国会で取り上げられたこともある。 週刊文春は今年3月、韓国軍がベトナム戦争中、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-というスクープ記事を報じた。韓国紙「ハンギョレ」は翌月末、「腹立たしくはあるが反論しにくい」「韓国政府は今後、ベトナム当局との協議を通じて(中略)調査と後続措置に乗り出さなければならない」と報じたが、韓国政府はどう対応したのか。 私はこれまで著書に何度も書いているが、韓国も米国も国連も、日本を慰安婦問題で批判をできる立場にはないのだ。 日本人は、いわれなき批判には、断固反論しなければならない。(取材・構成 藤田裕行)ヘンリー・スコット・ストークス 1938年、英国生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、62年に英紙『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年、東京支局初代支局長に着任する。以後、英紙『タイムズ』や、米紙『ニューヨーク・タイムズ』などの東京支局長を歴任。著書に『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)、共著に『連合国戦勝史観の徹底批判!』(自由社)など。
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朝鮮語を「奪った」とは謬論だ 日本がハングルを学校で教えた
藤岡信勝(拓殖大学客員教授) 日本の歴史教育では、小学生段階から日清戦争を扱い、日本はこの戦争に勝って清から賠償金を取り、台湾を日本の領土にしたことを教えているが、日本が日清戦争をたたかった真の目的を教えていない。 戦争に勝った国は、講和条約の最初の条文にその国が最も欲することを書き込む。日清戦争の戦勝国である日本が日清講和条約(下関条約)の第一条に書き込んだのは、領土でも賠償金でもなく、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言だった。日本が最も求めていたのは、朝鮮国の清国からの独立だったのである。なぜか。半島に自主独立国家を期待 欧米列強の脅威にさらされていた明治の日本は、自国の安全を確保するため、朝鮮半島に自主独立の近代化された国家が成立することを強くねがった。福沢諭吉は次のように論じた。 「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬかれないからである」 日本、朝鮮、清国という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでもわが家に等しい石造りの家をつくらせることが必要である、というのが福沢の考えであり、明治政府の考えでもあった。近代日本の置かれた立場を理解させない歴史教育は教育の名に値しない。朝鮮語を「奪った」との謬論 李朝時代の朝鮮が「粗末な木造家屋」であったことは、朝鮮の外交顧問であったアメリカ人のスティーブンスさえ、日露戦争のあとで、次のように述べていたことからわかる。 「朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財産を略奪している。そのうえ、人民はあまりに愚昧(ぐまい)である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう」 朝鮮の近代化は、日韓併合後の日本統治によって初めて実現した。日韓併合100周年に当たっての菅直人首相の謝罪談話を推進した仙谷由人官房長官は8月4日、日本の「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」と発言した。あまりの無知に開いた口がふさがらない。ここでは、日本が朝鮮人から「言葉を奪った」という官房長官の妄想についてだけとりあげる。2010年8月10日、日韓併合100年に関する首相談話の記者会見を終えた菅直人首相。右は頭を下げる仙谷由人官房長官(酒巻俊介撮影) 日本統治時代、朝鮮半島に在住した日本人は、人口の2%に過ぎない。2%の人間がどうして他の98%の人間から、土着の言葉を「奪う」ことができるのか。 仙谷氏は、日本統治下の学校で日本語が教えられたことを、誤って朝鮮語を「奪った」と一知半解で述べたのかもしれない。それなら、この謬論(びゅうろん)を粉砕する決定的な事実を対置しよう。 韓国人が使っている文字、ハングルを学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ日本の朝鮮総督府なのである。 李朝時代の朝鮮では、王宮に仕える一握りの官僚や知識人が漢文で読み書きをし、他の民衆はそれができないままに放置されていた。ハングルは15世紀に発明されていたが、文字を独占していた特権階層の人々の反対で使われていなかった。それを再発見し、日本の漢字仮名まじり文に倣って、「漢字ハングル混合文」を考案したのは福沢諭吉だった。先人の苦闘の歴史冒涜するな 朝鮮総督府は小学校段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で教えた。日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備したのである。 併合当時、韓国の平均寿命は24歳だったが、日本統治の間に2倍以上に延び、人口の絶対数も倍増した。反当たりの米の収穫量が3倍になり、餓死が根絶された。はげ山に6億本の樹木が栽培され、100キロだった鉄道が6000キロに延びた。北朝鮮が自慢げに国章に描いている水豊ダムは、日本が昭和19年に完成させた、当時世界最大級の水力発電所だった。 これらのめざましい発展は、統治期間に政府を通じて日本国民が負担した、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金投下によってもたらされた。本国から多額の資金を持ち出して近代化に努めたこのような植民地政策は世界に例がない。日本の朝鮮統治はアジアの近代化に貢献した誇るべき業績なのである。 日韓併合100年の首相謝罪談話は、このような歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っている。それは、わが国の先人の苦闘の歴史を冒涜(ぼうとく)するものであると同時に、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱するものであることを忘れてはならない。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『産経新聞』掲載当時のものです)
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今も生きる「大和」と「武蔵」
指の艦戦能力を持ちながら、さしたる活躍もなく海に消えた姉妹艦は、なぜ時代を超えて人々を魅了するのか。戦後70年たった今も受け継がれる大和と武蔵の記憶をたどってみたい。
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これだけ知っておけば大丈夫! 日本海軍艦艇10の基本
戸高一成(大和ミュージアム館長) 「戦艦」と「軍艦」の違いは?近年、関心が高まり続けている日本海軍の艦艇。しかし、意外と見落としがちなポイントもあるのでは? 例えば、「軍艦」と「戦艦」の違いは? 「大和」「武蔵」などの名前はどう決まる? ここでは、太平洋戦争期の日本海軍艦艇を知るための「10の基礎知識」をQ&A形式で紹介しよう。(1)「軍艦」「艦艇」「艦船」は、同じ意味? 海軍の「軍艦」と「艦艇」は同じ意味だと思われがちですが、実はそうではありません。 日本海軍所属の艦は、そのすべてが「艦艇類別標準」に沿って分類されていました。類別標準とは、明治31年(1898)に制定された法令です(当初の名称は「軍艦及水雷艇類別標準」)。ここでは、最後の変更となった昭和19年(1944)以降のものを紹介しましょう。これを見ると、当時の日本海軍にどんな種類の艦艇があったかが、一目瞭然です(※別表)。 軍艦とは戦艦や巡洋艦など主要な艦艇のみ指す呼称でした。「海軍所属の艦=軍艦」と思われる方も少なくないでしょうが、駆逐艦や潜水艦は軍艦とは呼びません。 実はこれらは、それぞれ4隻を基準に隊を編成し、これで軍艦1隻の格でした。ですから、戦艦の艦長と駆逐艦4隻から成る駆逐隊の司令が同格だったのです。 海軍が主要艦艇のみを軍艦に分類した大きな理由は、軍艦の艦首に菊の御紋章を付けるという慣習にあります。駆逐艦や潜水艦は極めて消耗が激しく、それらに菊の御紋章をつけて簡単に沈まれては、具合が悪かったのでしょう。 一方、「艦船」という場合には、民間の船舶も含みます。つまり、「艦船」は艦艇と船舶を指し、「艦艇」の中に「軍艦」が含まれる、という順番です。(2)各艦艇の役割は? 日本海軍の艦艇の役割は、大きく2つに分けられます。「戦闘する艦」と、それを「支援する艦」です。 昔の帆船時代の主力艦は、戦列艦(line of battle ship)と言いました。戦艦の名前は、ここから始まりました。トラファルガー海戦で知られるイギリス海軍の英雄・ネルソン提督が活躍した時代(18世紀)もそうです。 しかし時代が下り、戦術や技術が発達すると、状況は変化しました。まず軍艦の中でも小型で高速の艦が巡洋艦に区分されます。偵察や捜索など、艦隊の耳目手足の役割を担うとともに、時には海上戦闘の主力としても活躍しました。 また、19世紀後半に魚雷が発明されます。魚雷は戦艦に甚大な被害をもたらし、雷撃を行なう小型の水雷艇は戦艦の脅威となりました。そこで水雷艇から戦艦を守るべく生み出されたのが、速力と運動性に特化した駆逐艦です。駆逐艦は英語で「 destoroyer(デストロイヤー)」。デストロイ(破壊)の対象は水雷艇なのです。そして駆逐艦に見つかりにくいよう、海中に潜った水雷艇が潜水艦でした。 日本海軍の連合艦隊に戦艦、巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、潜水艦までが揃ったのは、20世紀初めの日露戦争の頃でした。これらは大砲で戦う戦艦、巡洋艦の砲戦部隊と、魚雷で戦う駆逐艦や潜水艦など雷撃部隊の2つのグループに分けることができます。 なお、当時の巡洋艦には若干の防御を施した防護巡洋艦(protected cruiser〈プロテクテッド・クルーザー〉)や、より防御力の高い装甲巡洋艦(armored cruiser〈アーマード・クルーザー〉)がありました。また、後に戦艦よりもやや防御力が劣るものの、高速の巡洋戦艦も生まれます。そして第1次世界大戦後に、航空機を搭載する航空母艦(空母)や水上機母艦が登場するのです。 一方、海軍にとっては、「戦闘する艦」の戦闘能力を万全の状態で維持することも重大な課題でした。そこで求められたのが、「支援する艦」なのです。 艦隊にはタンカーや補給艦、応急処置を施す工作艦が必要でしたし、軍港ではクレーン船や牽引する曳船が欠かせません。海軍の艦艇というと前線で華々しく戦う姿ばかりを想像しがちですが、こうした支援艦を含めて海軍の艦隊だということを忘れてはならないでしょう。(3)「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」の違いは? 大正10年(1921)のワシントン海軍軍縮会議で、巡洋艦は「単艦基準排水量1万トン以下」「備砲は8インチ(20.3cm)以下」「ただし、総保有数は制限しない」と定義されました。 それが、昭和5年(1930)のロンドン会議において砲口径が6.1inch(155mm)~8inch以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、同6.1inch以下を「カテゴリーB」と分類し、それぞれの保有数に制限が設けられたのです。 基準が変わった理由は、ワシントン条約の範囲内で妙高型や高尾型など優れた巡洋艦を生み出した日本海軍を列強が恐れ、押さえつけようと図ったためでした。 日本海軍は、カテゴリーのAとBをそれぞれ「一等」「二等」に類別し、これが「重巡洋艦」「軽巡洋艦」と呼ばれるようになりました。つまり、技術的な要素ではなく、非常に人工的なカテゴライズなのです。その証拠に、当初、軽巡洋艦だった最上型は20cmの主砲を積んで、事実上重巡洋艦になりました。運用方法は、重巡洋艦と軽巡洋艦に変わりはありません。 一方、駆逐艦は一等と二等に分かれていますが、これは1,000t以上を一等、1,000t未満を二等という基準でした。戦艦長門(4)「○○型」の意味は? 日本海軍は「同型艦」や「姉妹艦」といって、同じ設計図で、同じ基本性能の艦を何隻も建造しました。 艦隊で行動する時、例えば1隻だけスピードの遅い艦がいたら統制のとれた動きはできません。そのため、戦隊、隊は同じ性能の艦で構成するのが基本でした。同型艦を何隻も造ったのは、そうした背景からです。 また、日本海軍の戦闘単位(指揮官が統率する部隊の単位)は、最低2隻から4隻でした。そのため、原則的に同じ型の艦は4の倍数を建造しました。有名な大和型戦艦は大和と武蔵の2隻が就役しましたが、計画上はやはり4隻です。 太平洋戦争を戦った戦艦は大和型以外では金剛型(金剛、比叡、榛名、霧島)、扶桑型(扶桑、山城)、伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長戸、陸奥)の4タイプでした。一方の巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などは、多くのタイプがありました。(5)太平洋戦争期の日本海軍で、最も速い艦艇は? 駆逐艦島風です。島風は公試(海上で行なう最終試験)で40.9nt(時速約75km)を記録し、日本海軍最速の艦となりました。もともと、外国艦艇の速力増大を受けて、40ntを目標値に建造された艦であり、見事に期待に応えたのです。 ただしこれは、最大速力の話です。艦隊で行動する時には16ntから18ntを艦隊速力(標準スピード)とし、燃費を抑えました。また、公試は戦闘直前を想定しているため、燃料や食糧、水は3分の2ほど積み、弾丸は満載で行なわれます。当然、これらの艦載量次第で速度は大きく変動しました。島風も常に40ntで航行していたわけではありません。 なお、戦艦は最大速力30nt程度を標準に建造されており、大和型もデータ上は最大27ntとなっていますが、レイテ沖海戦では、30nt近く出したという話も伝わります。そもそも、提督って誰のことなの?そもそも、提督って誰のことなの?(6)艦艇の寿命は? 意外なことに、太平洋戦争時にはまだ、日露戦争当時の艦も健在でした。有名なのが信濃丸です。 当時、仮装巡洋艦だった信濃丸は、明治38年(1905)5月27日の朝にバルチック艦隊を発見、日本海海戦勝利に貢献したことで知られます。日露戦争終結後、徴用を解かれ、民間の企業に引き取られて、戦時中は輸送船として活躍、戦後は復員輸送に使われました。老朽化が激しく、兵士の間では「あのボロボロの船は何だ」「あれはあの信濃丸だ」などといった会話も交わされたといいます。 また、戦時中には先代の大和や赤城も存在していました。先代の大和は、明治20年(1887)に建造されて日清・日露両戦争に従軍。その後は海防艦や特務艦に類別され、昭和10年(1935)からは浦賀で少年刑務所練習船として使用されました。役目を終えたのは、昭和25年(1950)で、船齢は60を超えていました。(7)艦艇の名前はどのように決める? 日本海軍の艦艇には様々な名前がついていますが、艦種ごとに基準があります。ここでは戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦を見ていきましょう。なお、それぞれ例外もあります。【戦艦】昔の日本の国名。武蔵や伊勢、日向。【巡洋戦艦】山の名前。榛名や鞍馬。【航空母艦】鳥や龍に関係する名前。正規空母は龍や鶴がつく名前。飛龍や翔鶴(なお赤城は巡洋戦艦、加賀は戦艦を空母に変更)【重巡洋艦】山の名前。妙高や愛宕。【軽巡洋艦】川の名前。北上や阿武隈。【一等駆逐艦】天象、気象、海洋などに関する名前。雪風、吹雪、磯波、朝霧。【二等駆逐艦】草や木の名前。桜、竹、朝顔。 注目すべきは、戦艦の名前の付け方でしょう。 戦艦では、同型艦の2隻ずつを対の名前にしています。例えば、伊勢と日向は神話。陸奥と長門は本州の北と南。扶桑と山城は日本の総称と古代の首都(平安京)。そして大和と武蔵は古代と現代の首都。非常にバランスがよく、命名のセンスの良さが窺えます。 現在の海上自衛隊でも、艦の名前は乗組員の士気に関わるといいます。名前は非常に重要なのです。(8)1隻の建造にかかる時間とお金は? 『海軍軍備沿革』という海軍省が出した本に詳細が記されていますが、まずは戦艦大和を例にお話しましょう。 建造期間は、呉海軍工廠で起工したのが昭和12年(1937)11月4日、竣工は4年後の昭和16年(1941)12月16日でした。進水式は昭和15年(1940)11月1日ですから、水上に初めて浮かんだのは起工から3年後のことです。 建造費は、当時の金額で約1億4,000万円。太平洋戦争前の国家予算は約40億円だったといいますから、その3%に相当します。なお、現在の国家予算は85兆円ですから、比較してみても面白いでしょう。もちろん、建造は未曾有の大事業であり、総延べ作業人数は300万人以上に達しました。 一方、駆逐艦などは起工から竣工まで半年ほどで、建造費も陽炎型駆逐艦は当時の金額で1,000万円弱という記録が残ります。当然ながら、建造に要する時間もお金も、艦種によって大きく異なりました。(9)「艦爆」「艦攻」「艦戦」って何? 「艦攻」は艦上攻撃機、「艦爆」は艦上爆撃機のことです。ともに空母に搭載して運用されることを想定された航空機でした。 ただし艦攻と艦爆の違いについては、少し注意が必要です。本来、攻撃機は魚雷で敵艦艇を「雷撃」、爆撃機は目標物に急降下で爆弾を投下する「爆撃」を行なうことが前提です。 しかし例えば、九七式艦上攻撃機は爆撃もできますが、絶対に艦爆とはいいません。なぜなら艦攻は、急降下爆撃(目標に対して急降下して投弾)ができないからで、艦上爆撃機は、急降下爆撃ができることが条件なのです。このポイントを押さえておくと、海軍の航空機のカテゴリー分けが理解しやすくなるでしょう。 また、「艦戦」とは艦上戦闘機のことで、空母搭載を前提とした戦闘機のことです。敵戦闘機との空中戦や地上の目標への攻撃、 さらには艦隊や、艦攻、艦爆の護衛も重大な任務です。零式艦上戦闘機、通称「零戦」は皆さんもよくご存知でしょう。(10)「提督」とはどんな人のこと? 海軍の将官を指す言葉で、陸軍の「将軍」にあたります。 将官とは大将・中将・少将の総称ですから、少将以上の階級の海軍士官のみが「提督」と呼ばれました。なお、英語では、提督は「admiral(アドミラル)」、将軍は「general(ジェネラル)」です。 10のポイントのうち、どれだけご存知でしたでしょうか? 初心者の方はもちろんのこと、豊富な知識のある方でも、改めて艦艇の奥深い魅力に触れることができたのではないでしょうか。とだか・かずしげ 呉市海事歴史科学館館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。関連記事■ B’z、進撃の巨人、世界遺産…話題続きの「軍艦島」の歴史とは!?■ 戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!■ 歴史街道8月号「戦艦大和と武蔵」
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戦艦大和と武蔵は日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった
戸高一成(大和ミュージアム館長)戦後70年の今年、海に沈む戦艦武蔵が初めて発見され、世界中の注目を集めた。また、今年5月、呉市の大和ミュージアムは、開館10年で来館者が1,000万人を突破している。今なお、多くの日本人が戦艦大和と武蔵に特別な感慨を抱くのは、なぜなのか。今年、相次いだ武蔵の「新発見」 今年(平成27年〈2015〉)は、戦艦大和の姉妹艦である武蔵の「新発見」が続きました。3月にはフィリピンのシブヤン海に没した武蔵の船体が発見され、5月には46センチ主砲発射時の写真が新たに見つかっています。特にシブヤン海に沈む武蔵は、その様子がインターネット動画で生中継されたこともあり、日本のみならず世界中の注目を集めました。 筆者が館長を務める広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)も、平成17年(2005)4月のオープンから10年を迎えた今年5月、総来場者数が1,000万人を超えました。毎年平均100万人ほどの方が足を運んでくださったことになり、特に今年は例年にないほどの勢いになっています。 今なお、多くの人々が戦艦大和、武蔵という「大和型戦艦」に特別な思いを抱き続けている何よりの証でしょう。 大和と武蔵は戦後、しばしば「無用の長物」と称されてきました。確かに両艦ともに太平洋戦争の局面を覆す活躍をついに果たせぬまま、生涯を終えています。 しかしながら、大和型戦艦が搭載した46センチ三連装主砲は、戦艦搭載の艦砲として今に至るまで最大であり、装甲は46センチ砲弾を受けても耐え得る強靭性を誇りました。大和と武蔵が「史上最大・最強の戦艦」であることは紛れもない事実なのです。 歴史に向き合う際、過去の出来事を現在の価値観で推し量っては、時に真実を見落としてしまいます。当時の人々が置かれていた状況や思いを客観的に捉えて、初めて本当の意味での解析ができるのです。 では、日本人は、なぜ戦艦大和と武蔵を生みだしたのか。不世出の戦艦に託したものとは、いったい何であったのか――。今、それらに改めて目を向けることに、極めて重大な意味があると私は考えています。戦艦武蔵(昭和17年)なぜ、大和と武蔵を造ったのか?なぜ、大和と武蔵を造ったのか? 日本が大和型戦艦の一番艦である大和の建造を始めたのは、昭和12年(1937)のことでした。日本海軍が巨大戦艦を求めた理由を知るには、大正11年(1922)締結のワシントン海軍軍縮条約に目を向ける必要があります。 日露戦争、第一次世界大戦を経て世界の大国の仲間入りを果たした日本でしたが、これを押さえつけようとするアメリカら主導の軍縮条約によって、今後10年間の戦艦新造が禁止されました。日本は、建艦能力の全てを注ぎ込むはずの「八八艦隊計画」の中止を余儀なくされます。 その後、さらに補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約を経て、このままでは仮想敵国のアメリカに抗する術のない日本は、軍備平等を主張するも受け入れられず、会議を脱退。しかしアメリカとの国力差は隔絶しており、日本は国家予算の全額を投入しても建艦競争には勝てないのが現実でした。 「持たざる国」日本が「持てる国」アメリカに抗しうる戦力を持つには、どうすべきか――。そう考えた海軍が計画し、建造したのが、46センチ主砲を搭載する大和型戦艦でした。 アメリカがどれほど多くの戦艦を揃えていても、現実的には一度の艦隊決戦に全てを投入することはありえず、大和型戦艦を擁すれば個別の決戦で敵艦隊の戦力を凌駕できます。その戦略は、当時の日本の経済力を鑑みれば実に理に適った選択でした。 超大国による圧迫を前に、「国を守る戦備をどう実現するか」を模索する日本海軍が辿りついた乾坤一擲の一手、それこそが戦艦大和と武蔵であったのです。「モノづくり」の本質を知っていた日本人「モノづくり」の本質を知っていた日本人 もっとも、大和型戦艦を設計するだけであれば、当然ながら、造船先進国である当時のアメリカやイギリス、フランスでも可能でした。しかし、工業製品は図面を書いただけでは、文字通り「絵に描いた餅」に過ぎません。 今でも、仮に火星へ行くロケットの設計図があったとしても、それを実際につくれる国や組織はごく僅かです。それを思えば、当時の日本海軍が大和型戦艦を計画・設計し、実際に造り上げたことは、素直に賞賛すべき偉業でしょう。 大和型戦艦の建造で、まず驚かされるのが、日本が国産初の戦艦「薩摩型」竣工(明治43年〈1910〉)から僅か30年程で、世界一の戦艦建造を実現している点です。薩摩型までの日本は外国に戦艦を発注しており、明治38年(1905)の日本海海戦で活躍した戦艦三笠もイギリス製でした。 しかし日本は「列強に追いつけ、追い越せ」の気概のもと、大正9年(1920)竣工の長門型戦艦で世界の水準に追いつき、その15年後には、大和型戦艦を計画するに至るのです。 これほどの速度で建艦技術の革新を遂げたのは日本だけですが、それを可能にしたものは何だったのでしょうか。 まず、20世紀初頭から世界で巻き起こった爆発的な技術革新の流れを逃さず、しっかりとそれに乗ったことが大きかったでしょう。エンジンにおいてはレシプロからタービン、ボイラーは石炭焚きから重油焚きへと変わる過渡期にあって、日本の技術者は懸命に研究開発を行ない、海軍も莫大な開発予算を計上し、後押ししました。 そして、要となったのが、日本人の伝統的な「モノづくりの力」です。 日本人は古来、モノづくりに並々ならぬこだわりを持ち続けてきました。「士農工商」といわれる江戸時代ですら、職人の社会的な評価は実際には非常に高く、刀鍛冶を例に挙げると、たとえ武士でも名工には頭を下げてでも刀を打ってもらいたいというような社会でした。 これが、たとえば隣国の中国では、有能とされる人間がモノづくりの仕事に就くことはありません。彼の地の職人は世襲制が基本で、能力の如何は問われないのです。そのため清国は、19世紀末より他国から最新艦を購入しながらも、自分たちの手ではついに軍艦を造りませんでした。 これに対し日本人は、「自分たちの手で造りたい」との思いが強く、国産戦艦の建造に着手し、絶え間ない技術革新を図っていったのです。継承された「匠の技」継承された「匠の技」 また、ワシントン条約で戦艦新造を禁じられても、日本海軍が「匠の技」の継承を怠らなかった点も見逃せません。 戦艦は他の艦船とは規模や構造が大きく異なるため、造船工は戦艦そのものに触り続けないと建艦技術を磨くことはできません。 そこで日本海軍は「改装」という名目で戦艦をたびたび呉、横須賀、川崎、長崎のドックに入渠させ、「実地訓練」を行なうことで工員の技術レベルの低下を防ぎました。一度で済む工事をわざわざ二度に分けることもあり、当時の戦艦は海に浮かんでいるよりもドックに入っている時間の方が長いような場合さえあったほどです。 モノづくりで大切なのは、工業品を「つくる・つくらない」よりも、常に「つくることのできる力」を潜在的に維持するということです。作る、作らないという選択は、作れる力を持っている場合に限られていることを理解しなければなりません。 もしワシントン条約を受けて「当分、戦艦を造ることはない」と技術の継承を怠っていたら、その後、状況が変化しても、もはや新鋭戦艦を「つくる」ことはできません。そうなれば大和型戦艦も、設計はできても実現化までは辿りつけなかったでしょう。 こうした「モノづくりの本質」を押さえていたからこそ、日本海軍は史上最大の戦艦をその手で生み出すことができたのです。「大艦巨砲主義」は偽り!?「大艦巨砲主義」は偽り!? 大和型戦艦については、航空機が主役となった太平洋戦争で活躍できなかったことから、「大艦巨砲主義の愚行」「時代錯誤の無用の長物」と揶揄するむきもあります。しかし私は、そう単純に言い切れるものではないと考えています。 大和型戦艦の計画をスタートした昭和9年(1934)当時、海軍の主役はあくまで戦艦でした。第一線の軍用機である九五式戦闘機などの航空機は未だ複葉機であり、戦艦がこれに脅かされるとは誰も考えていません。 よく、山本五十六連合艦隊司令長官の「戦艦は床の間の飾りみたいなものだ」という言葉が用いられますが、これは「そんなに沢山はいらないよ」という意味であり、山本自身、戦艦大和が就役した時にはすこぶるご機嫌だったと聞きました。また、宇垣纏連合艦隊参謀長は「一大威力を得たり」と認めており、彼らが大和の存在を心強く感じていたのは確かです。 他国に目を向けても、アメリカは戦時中に八隻の新鋭戦艦を造っており(いずれも大和竣工後の登場)、イギリスに至っては戦後もバンガードという戦艦を竣工させています。大和、武蔵より遅れてできた戦艦は少なくないのです。 むしろ日本海軍は大和型三番艦を、途中で航空母艦に転換し(空母信濃)、建造が始まっていた四番艦の工事を中止しました。すなわち、日本はいち早く戦艦主力から脱却していたのであり、「大艦巨砲主義」とは的外れの指摘に他ならないのです。もっとも、これは、アメリカには空母も戦艦も建造する力があり、日本海軍には建造能力が無かったためでもありますが。日本人の技術力がもたらした皮肉な運命とは?日本人の技術力がもたらした皮肉な運命とは? ただし、日本海軍が昭和16年(1941)の開戦後、大和と武蔵を的確に運用できず、活躍の場を与えられなかったのは残念ながら事実です。 軍事力を整えるにはハードウェアと然るべき運用法の双方が必要不可欠です。しかし、日本海軍にとって誤算だったのは、戦艦を航空機主役の時代にいかに用いるか、その戦略を研究し始めた矢先に戦争が始まったことでした。 また、当時の海軍には明治時代のように実戦経験を持つ人間はごく僅かであり、戦艦大和、武蔵という「名刀」を使いこなす「名人」はついに現われませんでした。一方のアメリカは戦艦を、島嶼攻撃での上陸前の砲撃や、空母の傍で防空艦として用いるなど有効な活用法を検討し続けており、運用面で日本に先んじていたといわざるをえません。 ただ、開戦直後の大和竣工は、ある意味で、日本の技術力が招いた結果といえます。そもそも大和の竣工予定は昭和17年(1942)の夏でしたが、日米決戦間近の空気から、海軍は半年ほど工期を縮めて大和を就役させました。それを可能にするだけの現場の力が、日本にはあったのです。 かくして日本は「虎の子」である大和の存在を後押しに開戦に踏み切るのですが、もしも計画通り、大和が昭和17年夏の竣工で、それまで開戦を待っていたら、どうなっていたか…。おそらく欧州戦線におけるドイツの劣勢が伝わって、ドイツの勝利を前提としていた対米開戦の考えは成り立たず、日本は開戦を躊躇し、また大和型戦艦の運用方法の研究も進んでいたはずです。 驚異的な工期短縮を実現した現場の力が、大和型戦艦と日本のその後の運命を決定づけたことは、皮肉としか言いようがありません。大和が「戦後」に栄光をもたらした!大和が「戦後」に栄光をもたらした! とはいえ、戦艦大和と武蔵を戦時中の活躍のみで評価するのは、極めて短見であると言わざるを得ません。 戦後僅か10年ほどで、日本は造船量世界一になり、長く造船王国となりますが、そのほとんどは輸出船、つまり、昨日まで戦っていた敵国から注文が殺到していたのです。この事実が、世界中が日本の造船技術を認めていた証拠ではないでしょうか。 その後日本はいわゆる「高度経済成長期」を迎えて経済大国として劇的な復興を遂げますが、その裏には、実は大和型戦艦の存在がありました。 建造責任者を務めた元海軍技術大佐・西島亮二などが典型ですが、大和型戦艦建造に携わった技術者たちは、いかに能率よく、より優れたモノをつくるかを、徹底的に突き詰め続けました。資材を発注した段階から戦艦建造は始まっていると考えていたといい、彼らの「モノづくり」へのこだわりと執念の凄まじさが窺えます。 そんな精神や技術を余すところなく受け継いだのが、高度経済成長を支えた技術者たちでした。西島も、石川島重工業(現在のIHI)社長を務めた土光敏夫をはじめ、多くの人物にその経験を伝え、多大な影響を与えました。◇ 戦後、日本が「モノづくり大国」として栄光をつかむことができた背景には、大和と武蔵のDNAが確かにあったのです。 戦艦大和と武蔵が今なお多くの人々に知られるのは、吉田満が著わした『戦艦大和ノ最期』を契機に、その悲劇性に注目が集まった側面もあるでしょう。しかし、この世界最大にして最強の戦艦が語りかけるものは、決して「悲劇」だけではありません。 大和型戦艦を造り上げた技術力はもちろん、日本を守るという想いや覚悟、そして日本人の魂が凝縮された「結晶」が、大和と武蔵であったのです。 先の大戦から70年を迎え、戦争を体験された方の多くが鬼籍に入られました。そんな時代だからこそ、この不世出の二隻の戦艦を通じて当時の日本人の姿を振り返るべきではないでしょうか。とだか・かずしげ 呉市海事歴史科学館館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。関連記事■ 歴史街道8月号「戦艦大和と武蔵」■ 祖国のため、敵艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち■ 日本海海戦…日露両艦隊の「総合戦闘力」を比較すると
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「化け物」と市民が呼んだ戦艦武蔵 大艦巨砲時代の終焉
昭和18年(1943年)1月18日、戦艦武蔵(65、000トン)が連合艦隊の根拠地トラック島をめざし、広島・柱島泊地を出撃した。武蔵は建造中から連合艦隊旗艦となることが決まっていた。「大艦巨砲」の思想のもと、最後につくられた戦艦(大和型)で、初の出撃だった。 岩手県一関市在住の吉野伊三郎さん(76)は17年6月3日、武蔵専属の理髪師(軍属)となり、2日後の5日、列車で横須賀から呉に着いた。武蔵は三菱重工長崎造船所で建造、呉海軍工廠に回航され、艤装(ぎそう)を受けていた。 警備は厳重で、ドックはすだれで隠されていた。何度か誰何を受けた後、すだれをくぐって中に入ると、ちょうど目の前に三連装の巨大な主砲があった。「横須賀を出るとき、『世界一の船をつくっているから絶対に口外してはならない』といわれていたのですが、その大きさにおったまげました」 武蔵の建造内命があったのは11年12月26日。13年3月29日、長崎造船所第二ドックで起工された。海軍省と三菱の請負契約によれば建造費は6490万円。武蔵は大和型戦艦の二号艦で、このとき、一号艦の大和はすでに、呉工廠で前年11月から建造が進められていた。シブヤン海海戦で攻撃を受ける戦艦武蔵(Wikimedia Commons) 戦後、三菱重工社長となる古賀繁一は武蔵の建造主任代理だった。建造を回顧した「古い思い出」の中で、「武蔵といえばどんな無理でも罷り通った。何度も工期が繰り上げられたが、そのたびに海軍工廠から加勢を受けた。すべてに武蔵が優先し、造船所の仕事は武蔵を中心に回転していた」などと振り返っている。 大和型戦艦は、世界最大口径の46センチ砲を持つ高速戦艦をつくり、米国戦艦のアウトレンジから攻撃するという発想から生まれた。主砲の最大射程は41キロ。艦橋から視認できる水平線までの距離の、はるか向こうの敵艦を攻撃できる計算だった。艦政本部が総力をあげて設計、責任者は福田啓二造船大佐(のち中将)で、造艦の権威で東大総長を務めることになる平賀譲も顧問として助言した。 すでに多くの出版物に紹介されているように両艦の建造は徹底的に秘密にされた。艦政本部の基本計画図面は軍機扱い、海軍省の予算書にも建造費は直接表れず、もちろん艦名も公表されていなかった。建造関係者は「家族にも漏らさない」という宣誓を求められ、長崎の二号ドックは外から見えないように有名な「シュロのすだれ」で覆われた。また、長崎には佐世保鎮守府から約50人の警戒隊が派遣されていた。 元連合艦隊参謀の千早正隆さん(87)は武蔵の艤装員も務め、その模様を「戦艦武蔵の艤装」(雑誌「丸」別冊)の中で紹介している。千早さんはドックの対岸の洋館に住み、フェリーで通っていた。あるとき、艦がどのように見えるのか確かめようと、左舷前方で作業員の一団の中に目立つ背広姿で立っていた。すると、警戒兵から「そっちを見てはいかん」と一喝された。千早さんは艦の機密保持の責任者の一人で、「身分をあかすわけにもいかず、すごすごと後ろの方に隠れた」という。 この様子を当時、第二ドック担当の技師で戦後、三菱重工常務となる竹澤五十衛が見ていた。竹澤は長崎造船所の歴史をつづった「回想百年」(同造船所編)の中で、「武蔵に従事する者は特別な腕章をつけたのですが、私はその番号が五番でした」と書いている。竹澤は建造前、上司から武蔵をつくるドックがどのように見えるのか調べろを命令され、いろいろな角度から見た図面をつくった。 武蔵進水は15年11月1日。約36、000トン(艤装前の進水重量)の巨体が進水台を滑り降りるという当時としてはまさに世紀のセレモニーだった。当時、三菱職工学校に勤務していた金丸平蔵はドックの真上の高台で海軍部隊とともに警戒にあたり、進水の模様を絶好の位置から見ていた。「回想百年」の中で、金丸は「(午前)九時六分前、折からの満潮に化け物の巨体は滑り出ていた。天佑というのだろうか、十時ごろまでには霧で天然の煙幕が張られたようになった」と述べる。 長崎市民は武蔵のことを化け物と呼んでいた。三菱が巨大な軍艦をつくっていることはみんな知っていた。当初は語るのもタブーだったというが、昭和17年に入ると、連戦連勝の勢いもあってか、「市民も公然と口にするようになった」と千早さんは回想している。 理髪師の吉野さんが武蔵に乗り込んだ17年6月5日はミッドウェー海戦の日だった。まもなく、「空母四隻沈没」のうわさが、艦内をあっという間にかけめぐった。トラックまで武蔵を護衛したのは駆逐艦。戦闘機の護衛はなかった。 武蔵がトラックに到着したのは1月22日。僚艦の大和が巨体を浮かべていた。武蔵の乗組員たちは「大和だ、大和がいる。それにしても、そっくりだ」と喜んだ。超弩級戦艦が2隻並んだ光景は壮観だった。しかし、大艦巨砲が物をいう時代はもう終わりを告げていた。(社会部 野崎貴宮)
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大破と中破の違いは? 艦隊決戦12の基礎
戸高一成(大和ミュージアム館長)ミッドウェー、ソロモン、マリアナ、レイテ…。70年前に終結した太平洋戦争において、日本海軍は多くの艦隊決戦を経験した。しかし、海戦とはそもそもどのように始まり、いかに勝敗を決するのか…。改めて考えると、意外に見落としがちなポイントも多いのではないか。(1)艦隊決戦って、そもそも何? まず前提として、敵味方の艦隊双方が決戦を求めていなければ、艦隊決戦は起こりません。戦う意志や意図がなければ、その艦隊は即座に逃避するからです。 このことを踏まえて艦隊決戦の始まりを定義すれば、「2つの国の海軍の主力艦隊が、互いに決戦を求めて遭遇した時に始まる」といったところでしょうか。 決戦に要する時間は、日本海軍は2日がかりで考えていました。まずは1日目の夜に水雷戦隊を突入させて、敵艦隊に一定のダメージを与えます。こうして敵の戦力を削いだ上で、2日目の昼戦で艦隊同士の戦いを挑むというものです。 もちろん実戦はケースバイケースで、日露戦争の日本海海戦などは昼戦の後に夜戦が行なわれましたが、基本的に夜から始まる2日がかりの戦いが、日本海軍が描いた決戦のシナリオでした。イラスト:谷井建三(2)勝敗はどう決まる? 戦闘能力を失えば、その艦隊の敗北であり、決戦もそこで終了します。 「戦闘能力を失う」というのは、主力艦艇の過半が沈む、沈まないにかかわらず、戦闘を続行できないほどの被害を受けたと考えればよいでしょう。「艦隊が壊滅」という表現も、この状態を指します。壊滅というとほぼすべての艦艇が沈んだような印象を抱きますが、そうではありません。 ただし、太平洋戦争での日本海軍は、過半の艦艇が沈むまで艦隊決戦を続けました。 昭和19年(1944)のレイテ沖海戦では、日本海軍は戦艦9隻、航空母艦4隻、重巡洋艦13隻などを投入してアメリカ海軍との決戦に臨みましたが、戦艦は武蔵、山城、扶桑の3隻、空母は瑞鶴、千歳、千代田、瑞鳳の4隻すべて、重巡洋艦は愛宕、摩耶、鳥海、鈴谷、筑摩、最上の6隻が沈みました。戦闘不能状態ならまだしも、これだけの沈没は異例です。 また昭和20年(1945)の大和沖縄特攻においては、8、9割の艦艇が沈みました。どの時点まで戦い続けるのかは、両軍が置かれた状況や意図も複雑に絡み、一概にはいえないというのが実情です。(3)「大破」「中破」「小破」の違いは? 実は、これらの用語に明確な定義はありませんので、ここでは概念をお話ししましょう。 まず頭に入れておくべきは、それぞれ沈んでいないことが前提であり、「沈没」とは異なります。では大破とはどのくらいの損傷を指すかといえば、戦闘能力を完全に失い、艦としての機能をほぼ失っている状態のことです。気息奄々、なんとか海上に浮いているのが大破です。 中破は、戦闘能力を「ほぼ」失っている状態です。戦おうと思えば戦えるものの、無理をすればかなりの確率で沈没するというレベルです。 中破と大破との線引きは、自力で基地に帰れるかどうか――基地に帰れるのならば中破で、帰れなければ大破という見方も出来ます。 最も損傷の少ない小破は、ダメージを受けているものの、大破や中破とは異なり、まだ戦闘を継続できる状態だと考えればよいでしょう。(4)勝敗をわけるポイントは? 艦艇の数や種類が勝敗のポイントなのは、間違いありません。 では、彼我の戦力が拮抗していた時の決め手は何かといえば、「索敵」が大きな要素です。一刻も早く敵艦隊を見つけて、味方の艦隊を有利な態勢に導くことが非常に大きな意味を持ちました。 特に空母機動部隊同士の戦いでは、先制攻撃で敵空母の飛行甲板に穴を開けさえすれば航空機は使用できず、空母はたちまち無力化されます。その意味でも、敵艦隊の布陣や位置をつかむ索敵は極めて重要なのです。 昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦では、重巡洋艦利根の水上索敵機四号機の発艦が予定よりも遅れたため、アメリカ機動部隊を先に発見することができなかったといわれてきました。 この件に関しては、近年の研究では時間通りに発艦しても敵機動部隊は発見できなかったとされ、議論の余地があります。とはいえ、連合艦隊が索敵に失敗し、それがミッドウェー海戦の敗戦の要因になったのは間違いありません。(5)「機動部隊」「遊撃隊」って何? まず機動部隊とは、本来はある特定の任務を帯びた、機動力(迅速に行動する力)を有する部隊を意味します。日本海軍においては、主として空母機動部隊のことを指します。すなわち空母を基幹とした艦隊のことで、太平洋戦争前、日本が世界に先駆けて、機動部隊としての「第一航空艦隊」を生み出しました。 なお、太平洋戦争開戦時には、第一航空艦隊の実力は世界一であり、互角に渡り合える機動部隊は他に存在しませんでした。日本海軍にとっては誇るべきことでしょう。 一方の遊撃隊は、作戦に合わせて特殊な目的を課せられた、一種の任務部隊の呼称です。基本的には、艦隊の主力部隊とは別に編成され、作戦によって任務も異なります。 レイテ沖海戦において、西村祥司中将が率いた艦隊も遊撃隊でした。彼らは栗田艦隊とは別ルートで、レイテ湾に突入するという任務を帯びていました。(6)主砲の撃ち方の決まりは? 日本海軍が通常用いた砲撃法が「一斉撃ち方」です。連装砲(二門)の場合に一門ずつ撃つもので、「交互撃ち方」ともいいます。 なぜ交互に撃つのでしょうか。ひとつは、艦艇の動力の許容を超さないためです。 また、艦隊決戦では彼我の艦隊は常に移動しており、敵艦の位置を完全に把握することは至難の業です。そのため、絶えず敵艦との距離を測り、好機を逃さぬよう、即座に撃てる準備を整えておかなければなりません。 例えば、一門が1分間に一発撃てるとすると、二門同時に撃てば次の砲撃まで1分間待たねばならず、その間に好機が来ても撃てません。一斉撃ち方で一門ずつ撃てば、30秒に一発ずつとなり、そのリスクを減らすことができるのです。なお、一度に全砲を撃つのは「斉発」といいますが、以上の理由により、実戦ではあまり行なわれませんでした。 一方、戦艦大和のように三連装の主砲ははどう撃ったのでしょうか。 この場合は、各砲塔をA、B、Cとすると、「A・B」「C」と二門と一門を交互に撃つか、「A・B」「B・C」「C・A」と各砲とも2回撃って1回休むサイクルを採っていました。並外れた強度の大和といえども、46cm砲を三門同時に撃つと、その衝撃に艦体が耐えられなかったともいいます。主砲の射程距離はどのくらい?(7)主砲の射程距離はどのくらい? 射程距離は「最大射程」「有効射程」の2つの計算方法がありました。最大射程とは、目標物に命中するか否かを問わず、砲弾を飛ばせる距離のことです。一方の有効射程は、狙い撃って目標に命中させられる距離のことです。 最大有効射程はおよそ最大射程から4,000mを引いた程度で、戦艦大和でいえば最大射程は約4万2,000mですから、最大有効射程は3万8,000mということになります。戦艦大和 日本の砲戦開始時期の基本(最大砲戦距離)は、最大射程より約1,000m引いた距離から目標に撃ち始めて、間合いを徐々に詰めていく戦い方です。そして砲撃の際には、確実に敵艦に命中させるために、「とにかく接近して撃て」という教育が施されていました。 しかし、いざ実戦になると、損害を恐れて最大射程より近づかず、訓練通りに命中させることはできませんでした。というのも、日本はアメリカよりも艦艇数が遥かに少なく、「沈めてはならない」という意識が現場の指揮官に強かったのです。日本とアメリカの物量の差は、戦い方にまで影響を及ぼしていました。(8)「雷撃戦(魚雷戦)」といえば? 昭和17年8月8日から翌9日にかけて行なわれた第1次ソロモン海戦が有名です。この戦いは、日本海軍が伝統的に訓練してきた雷撃戦に則るものでした。すなわち夜間に戦場に突入して敵を発見し、即座に魚雷で攻撃を仕掛け、反撃を受ける前にUターンをして脱出するというものです。 このガダルカナル島(ガ島)をめぐる第1次ソロモン海戦で、日本海軍は圧倒的な勝利を収めました。米英豪海軍で構成された連合国の艦隊は重巡洋艦6隻のうち4隻が沈没、1隻が大破。駆逐艦も8隻のうち大破と小破が1隻ずつという甚大な被害を受けたのです。 日本海軍がこれほどの戦果をあげることができたのは、訓練の賜物であるとともに、まだ敵にレーダーがなかったためでもありました。やがて連合国側は優れたレーダーを導入し、日本海軍は劣勢に立たされることになります。(9)「夜戦」で有名な戦いは? 夜戦といえば第3次ソロモン海戦の第一夜戦です。2日続けて夜戦が行なわれましたが、初日の夜戦は海戦史に残る激戦でした。 昭和17年11月中旬、日本海軍は海上からの艦砲射撃でガ島の飛行場を破壊すべく、戦艦比叡、霧島、軽巡洋艦長良、そして駆逐艦14隻から構成される挺身攻撃隊をガ島ルンガ泊地へと突入させました。同月12日午後11時30分、日本艦隊が目標地点に到達、飛行場砲撃を開始しようとしたまさにその時、前方に敵艦影を発見します。アメリカ海軍の支援部隊で、そのレーダーは日本艦隊を捉えていたのです。 かくして夜戦が始まり、史上稀に見る大混戦になりました。漆黒の闇の中、敵味方あわせて30隻ほどの艦艇が4、5km四方という近距離で砲撃、雷撃し合います。 比叡乗組員のある士官は、「艦橋最上部から真下にアメリカの駆逐艦を見た」と語っていました。そのくらい敵駆逐艦は肉薄しており、アメリカの歴史学者であるサミュエル・モリソンは自著で「バケツの中をかき回したような戦い」と表現しています。 もちろん、日本海軍はこのような乱戦は予想していませんでした。視界が利かない夜戦では、得てしてこうした不測の事態が起こります。結果、日本艦隊は戦艦比叡と駆逐艦夕立、暁、アメリカ艦隊は巡洋艦2隻と駆逐艦4隻を失いました。 戦艦を失う大損害を受け、日本艦隊は当初の目的であるガ島の飛行場攻撃を果たすことはできませんでした。(10)艦隊の陣形にはどんなものがあった? 基本的な陣形は「単縦陣」「単横陣」「梯形陣」の3つです。隊列の組み方はそれぞれ名前の通りであり、単縦陣は縦一列、単横陣は横一列、梯形陣は斜めに列を組みます。 中世のヨーロッパでは、全艦艇で敵艦隊に斬り込んで接近戦を行なうのが定石であり、それに適した単横陣が基本でした。しかし大砲が主力となると、敵艦隊に一斉に砲撃できる単縦陣が主流となります。日本海軍も、伝統的に単縦陣を採用しました。単縦陣ならば後続艦は先頭の旗艦についていけばよく、統率が非常にとりやすいというメリットもありました。 実は、先に挙げた3つ以外にも鶴翼など様々な陣形が考えられたのですが、複雑な陣形は実戦で混乱を招くだけで、現実的ではありません。梯形陣にしても、単縦陣や単横陣よりも複雑なため敬遠されました。 明治27年(1894)の日清戦争の黄海海戦では、単縦陣を採用した日本海軍が単横陣の清国海軍を撃破しています。なお、単縦陣、単横陣ともに各艦の距離はおよそ400mでした。 太平洋戦争直前には、「輪形陣」という新たな陣形が生まれます。これは空母の登場にあわせて考えられた陣形で、空母を中心に据え、その周りを囲むように戦艦や巡洋艦など強力な艦艇を並べたものでした。こうして、空母の上空を弾幕で護るのです。空母の登場が、戦い方に大きな影響を与えたことが分かります。 真珠湾攻撃に参加した第一航空艦隊も、中心に空母6隻、周りに戦艦、巡洋艦、駆逐艦を配した布陣で真珠湾へと向かいました。(11)真珠湾攻撃に参加した艦艇は何隻だった? 昭和16年(1941)12月8日、日本海軍は乾坤一擲の真珠湾攻撃を仕掛けました。参戦したのは南雲忠一司令長官率いる第一航空艦隊に、水雷戦隊、潜水艦部隊を加えた陣容で、この「南雲機動部隊」は間違いなく当時世界最強でした。主な参加艦艇は次の通りです。第一航空艦隊第一航空戦隊…空母赤城、加賀第二航空戦隊…空母蒼龍、飛龍第五航空戦隊…空母瑞鶴、翔鶴第三戦隊…戦艦比叡、霧島第八戦隊…重巡洋艦利根、筑摩第一水雷戦隊…軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦 谷風、浜風、浦風、磯風(以上、第十七駆逐隊)、霞、霧、陽炎、不知火、秋雲(以上、第十八駆逐隊)第二潜水隊…潜水艦伊19、伊21、伊23第一補給隊…油槽船極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸第二補給隊…油槽船東邦丸、東栄丸、日本丸 ちなみに、開戦時の日本海軍が所有していた艦艇数を紹介すると、戦艦10隻、空母9隻、重巡洋艦18隻、軽巡洋艦20隻、駆逐艦120隻、潜水艦64隻でした。(12)太平洋戦争で、日本海軍が経験した大規模な艦隊決戦は? ここでは、特筆すべき大海戦2つを簡単に紹介しましょう。 ひとつは昭和19年6月のマリアナ沖海戦。マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行なわれた、日本海軍空母機動部隊とアメリカ海軍空母機動部隊の決戦です。この戦いでは、日本の空母9隻のうち3隻が沈没、1隻が中破、3隻が小破という未曾有の損害を受けました。 もうひとつが、レイテ沖海戦です。これは、世界の海戦史における最後の艦隊決戦ともいうべき戦いです。残念ながら、2つの戦いとも日本海軍の完敗であり、その後も日本はアメリカの勢いに押され続け、昭和20年(1945)に終戦を迎えるのです。とだか・かずしげ 呉市海事歴史科学館館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。関連記事■ 風呂は「熱い」「ぬるい」と言うな…大泉洋が演じる真田信之とは?■ これだけ知っておけば大丈夫! 日本海軍艦艇10の基本■ 戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!
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どこが「馬鹿査定」なのか 軍艦大和が残してくれたこと
野口裕之(産経新聞政治部専門委員) 4月7日を迎えた。大東亜戦争末期の昭和20(1945)年のこの日、大日本帝國海軍の軍艦・大和が、米軍による攻撃で没した。巨体は今尚、長崎県男女群島沖の海底に横たわる。暗い海底に眠る大和の無念など忘却の彼方。バブル景気に沸く昭和62年12月、大蔵主計官が言った。 「昭和の三大馬鹿査定と言われるものがある。戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」「大艦巨砲主義」を捨てていなかった米国 主計官は「整備新幹線計画を認めれば、これらの一つに数えられる」と続けた。運輸族議員が地元に整備新幹線を引こうとする“我田引鉄活動”が、財政を一層悪化させる懸念を示したのだ。脳裏にはけだし、華々しき戦果もなく沈められた大和の最期と、「大艦巨砲主義」への反発があったと思われる。 だが、大和設計時の1930年代、強力な艦砲と厚い装甲に鎧われた巨大戦艦を航空機で撃沈する戦法は、航空機と投下する爆弾・魚雷の精度・信頼性が完全でない現実もあり、懐疑的見方が多かった。米軍はじめ列強も同じ。確かに、航空兵力を、海上艦艇を含む全目標への攻撃兵器と位置付けた米陸軍のウィリアム・ミッチェル少将(1879~1936年)は第一次世界大戦後の1921年、ドイツ海軍から捕獲した戦艦を航空機で撃沈する実験に成功した。ただし、陸海軍の理解を得られていない。逆に陸海軍最高統帥部の方針を批判し25年、軍法会議で停職5年の有罪判決を受けた。 むしろ、米海軍は大東亜戦争を通じ、戦艦量産方針を転換していない。一方、帝國海軍では、空母を軽視してはいない。日米の戦艦・空母の建造数や総トン数、建艦率などを分析すれば明らかだ。米国は「大艦巨砲主義」と、航空戦力を軍の主軸に位置付ける「航空主兵主義」を両立できるだけの工業力=国の底力を持っていたのである。 とは言え、大和完成時の40年代に入り、補助兵力に過ぎなかった航空機と搭載兵器の性能は飛躍的に向上。大東亜戦争劈頭で、航空主兵主義に事実上の先鞭を付けたのが帝國海軍であった戦史は皮肉だ。英海軍機がイタリア海軍の戦艦を沈めたタラント空襲(40年)や布哇(ハワイ)海戦(真珠湾攻撃/41年)などは投錨中の軍艦に対する攻撃だったが、作戦行動中だった英国自慢の「最新鋭巨大不沈戦艦」など2艦を葬ったマレー沖海戦(41年)は見事と言えよう。英国は第一次大戦中の18年、早くも空軍省と空軍を創設しており、先駆けのはずだった。ウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)をして「戦い全体の中で、マレーの報告以外に、私に直接的な衝撃を与えた報告はなかった」と言わせている。もっとも、その後も航空機による戦艦撃沈はそう多くはない。現代に活きる最新技術 大和の話に戻る。「馬鹿査定」と放言した主計官もいるが、お国のために口を閉ざした主計官もいる。大和の全長は、完工時日本一の高さだった都庁舎(東京・西新宿)より長い263メートル。艦底から前部艦橋までの高さは19階建てビルに相当する。建造費も“超弩級”で、国家予算の3%に当たる1億4000万円に迫る。従って、機密保持と予算のやり繰りのため、大和と2番艦・武蔵の昭和12年度予算は3万5000トンの戦艦に加え、駆逐艦3隻と潜水艦1隻をダミーとして計上した。当時の大蔵省高官は国益に鑑み、海軍省に協力している。「大蔵省も欺いた」との説もあるが、大蔵官僚にも「国士」がいたことは確かだ。 ところで、前述の主計官が大和に満載された最新技術の数々を知っていれば、言い振りが少々変わったかもしれない。 主計官も使っただろう霞ヶ関近くのホテル・ニューオータニ(東京・紀尾井町)の回転展望レストランには、大和主砲塔の回転技術が活用された。砲塔1基の重量は2800トンと、駆逐艦1隻分の重さで、その回転技術が高度だったことは疑いもない。 21.13メートルの主砲砲身からは重量1.46トンの砲弾が42キロも飛ばせた。風呂屋の煙突より大型乗用車が飛び出す構図。従って、製造に投入された工作機械は、戦後の大型船舶のクランク軸製造に転用された。砲塔旋回や砲の上下、弾薬庫からの砲弾揚弾は水圧式。そのノウハウは現在、原子炉圧力容器の漏れを調査する水圧実験に投じられている。 攻撃目標までの距離を測る測距儀(距離計)は幅15メートル以上で性能・大きさ共に世界一。カメラのピント合わせの技術が用いられ、戦後日本の精密光学機器発展を下支えした。どこが「馬鹿査定」なのか建造中の当時世界最大のマンモスタンカー「日章丸3世」(13万9千重量トン)。全長291メートルで14万キロリットルもの原油が積める巨大タンカーだ。 大和は全長に比べ艦幅が世界一広かった。巨砲を安定させ、装甲を厚くし、防御力を高めるには広い艦幅が必要だが、速度は鈍る。そこで、人間の下あご様の球状艦首=バルバス・バウを開発し波抵抗を減じた。馬力節約に伴う航続距離延伸を呼び込んだのだ。巨大タンカーなどは今もって、この原理を使う。 また従来、艤装(装備工事)の大半は進水後だったが、大和では船体組み立てと並行して行われ、工期短縮につなげた。技術は造船業に加え高層ビル建築で、今に活きる。 このほか半導体加工に応用された研磨技術に始まり、生産管理システムや発電・配電/製鋼/機関・スクリュー・操舵/弱電…などは、戦後復興と高度成長を創造する技術力の源泉となり、現在も進化を続ける。 持続可能な次世代エネルギー誕生にまで貢献している。東北大学などは宮崎県日向市美々津町で一昨年10月、使用済み酸化マグネシウムを1200度以上に加熱し、還元再利用できる新燃料電池の開発を始めた。太陽光を一点に集め、高温を作り出す直径150センチもある巨大鏡は大和が備えた探照灯(サーチライト)の予備部品で、12キロ先の目標を照らす優れモノだった。 奇しくも美々津町は、神武天皇が大和(地方)東征のため、軍船を船出させた日本海軍発祥の地。大和も最後の出撃に際し、町の沖合を通航した。それは大和の短かった生涯1181日の内の一日。主砲に至っては、実戦で300回程度しか火を噴いていない。 それでも尚、大和が生んでくれた遺産の数々を思う時、一主計官如きに「馬鹿」呼ばわりして欲しくはない。
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5歳の安倍晋三氏 デモ隊まね「アンポハンターイ」繰り返す
米議会で壇上に立った安倍晋三・首相の顔には、「歴史に名を残した」という充足感が満ちていた。自民党史上初となる首相再登板を果たしてからの安倍首相は、時に党内からも“独裁者”との批判が上がる。数の論理を背景に集団的自衛権行使容認、憲法改正へと前のめりになるその姿は、60年安保締結を断行し、「昭和の妖怪」の異名をとった祖父・岸信介とも重なる。安保関連法案の衆院特別委員会での可決を受け、記者の質問に答える安倍首相=15日夕、首相官邸 一方で、前回登板が敵前逃亡に終わったように、ガラスのシンゾウ、小心者との月旦評も少なくない。40年超の政治記者人生を安倍家取材に費やしてきた政治ジャーナリスト・野上忠興氏が、膨大な取材資料を元に人間・安倍晋三を形成したルーツに迫る。(文中敬称略)* * * 1960年。東京・渋谷の南平台にあった岸の邸宅には、連日、日米安保条約改定に反対するデモ隊が押し寄せた。いわゆる60年安保闘争だ。 その岸邸の中では、まだ5歳と幼かった安倍晋三と兄・寛信(当時7歳)がデモ隊の口まねをして、「アンポハンターイ! アンポハンターイ!」と繰り返すのを岸がニコニコしながら見ていた──安倍が政治の「原体験」としてよく語るエピソードである。 だが、その背景に、甘えたい盛りの時期に両親が不在がちだったという家庭の事情があったこと、幼心に感じていた孤独が隠されていたことはほとんど語られていない。 安倍は毎日新聞政治部記者だった父・晋太郎と岸の長女・洋子の次男として1954年9月に生まれた。2つ上の兄・寛信(現・三菱商事パッケージング社長)が父方の祖父・安倍寛と母方の祖父・岸信介から1字ずつ受け継いだのに対し、安倍は父の「晋」の字をもらったものの、次男なのに晋三と名付けられた。母の洋子に、なぜ晋三なのかと聞いたことがある。 「主人も私も女の子を欲しかったが、2人目も男の子だった。父(岸)は喜んでいましたが。名前の由来はよく聞かれますが、晋二より晋三の方が字画が良いとか。主人も字の据わりが良いからとはじめから『晋三だ』といいました」 安倍の誕生は、まさに岸が権力への階段を駆け上がっていった時期に重なる。 開戦時の東条内閣の商工大臣を務めた岸は敗戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された。不起訴となり公職追放が解除されると、1953年の総選挙で国政に復帰。晋三誕生の翌年(1955年)の保守合同による自由民主党結成で初代幹事長に。1956年に石橋内閣の外相、1957年には首相へと瞬く間に頂上へ上りつめた。安倍が2歳の頃だ。 岸のスピード出世に伴い、晋太郎は政治記者から総理秘書官に転身。そして1958年の総選挙に出馬するや、安倍家の状況は一変した。 「普通の家庭の団欒は、なかった。父親は全然家にいなかったから。父親がいたりすると家の中がギクシャクしたほどだった」 安倍は筆者のインタビューにそう振り返ったことがある。総理秘書官の父は連日のように深夜に帰宅し、休日も仕事。母の洋子は夫の選挙のために地元の下関に張り付き、東京の家には幼い安倍兄弟がポツンと残された。 「友人宅で一家団欒の光景を見たりすると、『ああ、いいな』と思ったりした」と“普通の家庭”への憧れを語った安倍の言葉が改めて思い出される。 両親に代わって、安倍兄弟が成人するまで世話をしたのが、晋三の乳母兼養育係だった久保ウメ。岸、安倍両家に40年仕え生涯独身を通したウメは、筆者の取材のなかで、こんな「安倍家の日常」を明かした。 「安保の頃は晋ちゃんがまだ5歳、ママは地元だし、パパは仕事だから昼間も私やお手伝いさんしかいない。子供には危険だからと安倍家は岸邸と別のところに住んでいて、晩ご飯だけは南平台(岸邸)で食べると決まっていた。私が左手で代筆した夏休みの日記は、必ず『今日も、おじいちゃんの所で夕食を食べました』が書き出しだった」 ウメによると、安倍は幼稚園に通っていた頃、おんぶをよくねだる子だったという。 「朝、お兄ちゃんの仕度ばかりやっていると、晋ちゃんが拗(す)ねちゃって。拗ねるとテコでも動かない。幼稚園のカバンをかけてやって、バス停までおんぶしていった。あんなにおんぶが好きだったのは、やっぱり両親が不在がちだったからでしょう」 甘えたい盛りの安倍にとって、岸邸での祖父母との夕食や、時には庭で遊んでくれた祖父とのふれあいは貴重な団欒だった。 であれば、安倍が「A級戦犯」「妖怪」呼ばわりされた岸を「おじいちゃんは絶対正しい」と信じ込んだとしても、「安保反対!」を叫ぶデモ隊が「祖父の敵」として幼心に刻まれたとしても、解せなくはない。安倍は当時の岸との会話をこう回想している。 「『アンポってなぁに?』と聞くと、『日本をアメリカに守ってもらうための条約だよ。なんでみんな反対するのかわからない』──そんなやりとりをしたことをかすかに覚えている」関連記事■ 渋谷駅スクランブル交差点付近に安倍首相の風刺画が次々出現■ SAPIO人気連載・業田良家4コマ「移民メイド政策」■ SAPIO人気連載・業田良家4コマ「政府のメイドさん」■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ 「70年談話」■ 久しぶりに会ったYURI 僕にとびっきりの笑顔を見せてくれた
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防大生が見た50年前の安保騒動
柿谷勲夫(軍事評論家) 日米相互協力及び安全保障条約(以下、日米安保条約)は、50年前の昭和35年(1960年)1月19日に署名、6月23日に難産の末効力が発生した。我が国は当時貧しかったが、自衛隊と日米同盟によって国の安全が保たれ、経済的には飛躍的に発展した。 しかし、鳩山由紀夫首相は、核安全サミットではオバマ米国大統領と公式会談もできず、ワシントン・ポスト紙から「最大の敗者」などと酷評され、同盟が危殆に瀕している。 さらに深刻な事態は、この50年間、我が周辺諸国、特に中国の軍事力は飛躍的に拡大、核保有国にしても、日米安保条約署名時点ではアメリカ、ソ連、イギリスの三カ国だったが、35年2月にフランスが、39年に中国が、今や北朝鮮までが保有、我が国は独自では対処できない。だが、日米同盟によって安全が保たれたため、政府や国民から国家防衛意識が喪失し、脅威を脅威と感じない恐ろしい状態に陥っていることである。安保騒動とその背景 自民党の小池百合子議員が1月22日の衆院予算委員会で、笑みを浮かべながら、一部の閣僚に安保の頃、何をしていたかを質していた。名指しされた閣僚も「70年安保」当時の学生運動の体験を、笑みを浮かべて答えていた。この風景をテレビで見て、タイムトンネルを通って50年前に遡った。(1)辻参謀の「ダンス糾弾事件」と講演 筆者は52年前の昭和33年、防衛大学校(第六期)に入校した。入校前年の32年12月14日、防大ダンス同好会(あかしあ会)が東京ステーションホテルでダンスパーティを開いた。元陸軍大佐・大本営参謀の辻政信衆院議員の令嬢にも招待状が届いたとのことで、辻議員は受付も通さず、「竹下いるか」と会場に怒鳴り込んだ。 「竹下」とは、防大における自衛官の最高位である「防大幹事」の元陸軍中佐の竹下正彦陸将補(後、陸将)である。敗戦時の陸軍省軍務局軍務課員で、陸相・阿南惟幾大将の義弟、ポツダム宣言受諾に反対し、阿南大将の割腹にも立ち会ったとされる、辻氏と並ぶ「歴史上の人物」である。 その様子を竹下氏が『槙乃實 槙智雄先生追想集』で「会酣なる頃、果然辻政信代議士が現われ、私を呼び出して、『防大生がダンス会を開くとは何事ぞ、君が括然としてそれを許し、この会に参加しているとは何事ぞ』と詰問し、私が、『防大生がクラブ活動としてダンスパーティをもつことを悪いとは思わない』と返答するや、興奮の末、いずれ国会の問題としてとり上げ、議場で当否を決着しようといって引き上げたのである」と述べている。 翌年3月7日、槇校長が衆院内閣委員会に参考人として呼び出され、辻議員から防大生のダンスパーティは問題だと追及され、校長はダンスは立派な社交を教えるために必要などと説明した。本事件は「防大生、東京のど真ん中で半裸の女性とダンス」と騒がれたが、ダンスをする防大生は少数派で、筆者は郷里(石川県)の大先輩・辻議員に軍配を挙げる。 その辻議員が、筆者が入校して間もなく、防大を訪れ講演した。ノモンハン事件から大東亜戦争の体験、戦場での心得を述べ、最後に「戦争に負けて、多くのものを失い、申し訳ないことをした。しかし、どうか日本精神は失わないでもらいたい。日本精神さえ失わなければ、〇〇や××(具体的な地名を挙げたが、あえて言わない)はいつでも取り返すことが出来る」と述べた。それまで静粛に拝聴していた学生から一斉に大拍手が起こった。筆者も掌が破れんばかりに叩いた。だが、現実は日本精神が失われ、韓国に竹島がロシアに北方領土が不法占領されたままで、対馬や尖閣諸島も危なくなっている。当時拍手した一人として慙愧に堪えない気持ちである。(2)米兵で溢れる街と岸首相の核発言 筆者が防大に入校した頃、東京湾にはアメリカの空母を含む艦艇がひっきりなしに行き来し、横須賀の街に外出すると米海軍の下士官兵で溢れ、日本女性がぶら下がって歩いていた。戦争に負けるとはこういうことかと思った。米軍の最下級の水兵の給料が、我々の指導官(将校)と概ね同じと言われた。 だが、そのような時期でも、入校直後の4月18日、岸信介首相(当時)は参院内閣委員会で「私は、核兵器の発達いかんによっては、今言うように防御的な性格を持っておるような兵器であるならば、これを憲法上禁止しておるとは私は解釈はしない」と、将来の核保有に含みを残す発言をしていた。(3)女優の来校と作家の防大侮辱 入校して約2カ月後、才媛の誉れが高い美人女優の有馬稲子さんが来校するとの噂が広まった。当時、「税金泥棒」「憲法違反」などと言われた自衛隊、「有馬稲子が来るはずがない」と思った。ところが、驚いたことに来校した。同期生の記念写真帖(卒業アルバム)には、辻議員や次に述べる中曽根康弘氏の写真は見当たらないが、有馬さんの写真は「学生との談笑」と「竹下幹事にインタービュー」の2枚が載っている。作家、大江健三郎氏=昭和46年 有馬さんと防大生が懇談している写真と記事がある新聞に載った。これを見て嫉妬でもしたのか作家の大江健三郎氏は昭和33年6月25日付毎日新聞夕刊のコラムに「女優と防衛大生」との見出しで「ぼくは防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と防大生を侮辱した。(4)防大生に安保を訴えた中曽根氏 自衛隊や自衛官を侮辱しても世の中から非難されることはなかった。そのような雰囲気の中、昭和35年を迎え「60年安保」騒動が起こった。筆者が3年生の時である。 日米安保条約は、署名から4カ月経った昭和35年5月20日未明開会された衆院本会議で、小沢佐重喜安保特別委員長(当時)の委員会審議の報告後、直ちに自民党単独で可決承認された。因みに、小沢委員長は、戦前、東京市会・府会議員、戦後、吉田内閣の運輸相、郵政相兼電気通信相、建設相、池田内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官などを歴任、民主党幹事長・小沢一郎氏の実父である。 衆院で採決されると、共産党、社会党、朝日新聞などのマスコミが一斉に非難、国会周辺は連日デモ隊で埋まり、安保といえば反対、自衛隊といえば反対の大合唱。ほとんどの大学で授業がストップ、まともに講義が行われていた大学(校)は、防衛大学校などごく僅かで、デモ参加中の東大の女子学生が死亡した。 騒動の少し前の4月、韓国では3月に行われた大統領選挙に不正があったとして、大学生が抗議のデモを起こし、大学教授や市民に拡大、いわゆる四月革命で李承晩政権が倒れ、李大統領はハワイに逃れた。 岸首相(同)は「声なき声の支持がある」と述べたが、防大生までがデモに参加すれば、大変な事態になり、政府が転覆する恐れもある。慰撫する必要があると考え、中曽根科学技術庁長官(同)を防大に差し向けた。赤城宗徳防衛庁長官(同、徳彦元農水相の祖父)を派遣するのが筋だが、中曽根氏が最適任と考えたのは、氏が40歳を少し出たばかりの元海軍少佐で、当時「青年将校」と言われていたからであろう。 防大学生隊は当時、一個大隊約400人から成る五個大隊編成だった。現在、入校式や卒業式に使用している立派な大講堂はなく、学生全員を収容できる場所としては体育館と食堂しかなかった。中曽根氏は形式的な訓示を行うため来校するのではない、内閣総理大臣の特命を受けての使者である。 学校当局は、体育館や食堂では、「特命」を賜る場所としては適当でない、或いは広すぎると判断したのであろうか、中講堂(大講堂はなかったが、「中講堂」と称した)に選んだ。 但し、中講堂の定員は約500人、一個大隊しか入れない。学校職員と筆者が所属する第三大隊学生隊が中講堂に集合、第三大隊以外の学生は全校同時放送で聞いたものと思う。当時のことを数人の同期生に問うと、50年の歳月が流れたためか、第三大隊所属の者は覚えていたが、第三大隊以外の者は記憶が定かではなかった。筆者は当日のことを今日も鮮明に覚えている。 中曽根氏は颯爽として登場、被っている帽子を無造作に取り、二十数歳年長の学校長が恭しく受け取った。容姿端麗「これが青年将校中曽根か」と思った。中曽根氏は、次のように学生に訴えた。《●自分はかつて海軍少佐だった。国家防衛を志し、日夜勉学、訓練に励んでいる諸君たちの気持ちが良く分かる、敬意を表する。●強行採決をしたため、世の中は騒然としている。これは大手術後、臓器が所定の位置にないが、間もなく元の位置に戻るのと同じで、混乱が静まるのは時間の問題である。●日米安保条約は、我が国の平和と独立を守るために必要であり、戦後を脱却して発展するために不可欠である。●諸君たちの校長・槇先生の出身校である慶応義塾の創設者・福沢諭吉は、幕府と薩長の銃声の中、講義を続けた。世の中の騒動に惑わされず、勉学と訓練に励んで貰いたい。●訪米した折、アメリカ軍の将校に「諸君たちが、政府の行為に納得できず、反対する場合はどうするか」と質問すると、「その場合は、軍服を脱いで行う。つまり退役してから行う」との回答が返ってきた。諸君たちが、政府の行動に反対する場合は、退校してからやるべきだ。●政治の悪魔性……。(記憶が曖昧。中身がよく理解できなかった)》 最後に、「何か質問があるか」と問いかけた。筆者は3年生であるので遠慮したが、数人の学生が質問した。中曽根氏は「今の質問は、野党の諸君の質問よりも本質を突いている」と持ち上げた。 中曽根氏の情熱は学生に伝わった。中曽根氏も学生の雰囲気を目の当たりにして安堵、「防大生は大丈夫」と岸首相に報告したと思われる。 安保条約成立を契機に、アメリカのアイゼンハワー大統領が来日の予定だった。何処からともなく、防大生が羽田空港に出迎えるとの噂が伝わって来た。噂が本当であれば、防大生と全学連との対峙が予想され、若い血潮が躍り、親のすねかじりの道楽息子を徹底的に痛い目に遭わせてやろうと思った。 だが、6月10日、大統領来日の打ち合わせに来たハガチー氏と出迎えたマッカーサー駐日大使が、全学連や労働組合などのデモ隊に襲われ、海兵隊ヘリで脱出するという不祥事が発生、政府は大統領の身に万一のことがあったら大変と判断、来日は条約成立直前中止となった。 安保条約は6月19日成立した。その時、我が中隊は学校に連接する旧軍の砲台跡地で野営していた。ラジオから「安保が自然成立しました」との興奮した声が聞こえ、これで一段落したと思った。岸首相は退陣、池田勇人氏が首相に就任した。(5)大学の自衛官迫害 左翼陣営はあきらめず、10年後の昭和45年の廃棄を目論み、自衛隊に治安出動命令が下る可能性があった。 筆者は昭和37年、防大を卒業、幹部候補生などを経て、39年から41年の青年将校(三尉から二尉)の頃、大阪大学大学院修士課程に学んだ。「60年安保」と「70年安保」の中間であり、日韓基本関係条約の締結が昭和40年だった。 筆者など自衛官は、左翼学生から嫌がらせを受けた。例えば、左翼学生が、筆者が自衛官と知った上で、校門で「安保反対」「日韓会談反対」「自衛隊反対」「自衛官大学院入学反対」などのビラを差し出す。「要らない」と言って受け取りを拒否したり、彼らが見ている前で破り捨てたりした。学内の食堂にも同様のビラが貼ってあり、ビラを見ながらの昼食は極めて不愉快だった。 ある自衛官学生が登校すると、机の上に「〇〇三尉殿、伊丹の自衛隊から電話がありました」との置手紙、自衛隊に電話すると「電話していない」との返事、幼稚な嫌がらせである。 筆者が夜、実験をしていると「自衛隊反対」などと言いがかりを付けに来る。決して一人では来ない。ある日、論争の最中、「自分は自衛隊に戻れば、小隊長としてデモ鎮圧にあたるであろう。君たちの顔を覚えておく、どこに逃げても、逃がしはしないぞ」と言った。それ以降、筆者に対する態度が変わり、おとなしくなった。 幹部自衛官は、東大を除く京大など国立大学大学院に入学していたが、昭和40年頃多くの大学当局が学生運動の圧力に屈し、少なくとも筆者の現役中、受験の辞退を求めたり、願書を送り返すなど、自衛官の教育を受ける権利を剥奪した。(6)ゼンガクレン長官 安保騒動当時の我が国は経済的に貧しく、成績が優秀でも全日制高校に進学できず、働きながら定時制の高校に進んだり、弟や妹の面倒を見るため就職したりした孝行息子や娘が珍しくなかった。中学を出て就職して夜学の高校に進学、卒業後自衛隊に入隊、通信教育で大学を卒業、幹部候補生学校に合格した同期や、中学を出て「少年自衛官」となり、防大に進み、陸将になった後輩もいる。 防大在学中、支給される「学生手当」の中から親に仕送りしていた同期生、大学院在学中、昼食を節約して「奨学金」や「バイト」で得た中から親に仕送りしていた学部の学生もいた。 大学に進学できたのは「体制側」の子弟で、彼らの大半は安保の意味を知らず、一部の左翼に踊らされ騒動を起こし、高卒主体の警察官が治安に任じていた。その証拠に、騒動に参加していた加藤紘一氏が、防衛庁長官を終えて10年近く経った平成6年11月3日付の産経新聞で「安保の中身を知っている者は百人に二人もいなかった」と白状している。 騒動に参加した学生は卒業後、日米安保条約のお蔭で米兵と一部の国民(自衛官)に国の防衛を委ね、自身は兵役を逃れ、ある者は中央省庁に、ある者は大企業に、ある者は大学の教官などに就職し、高級官僚、大企業の役員、大学教授、政治家、大臣になって権力を振るい、退官後は多額の年金をもらい、優雅な日々を送っているであろう。 当時の学生には濃淡の差があるが、DNAに「反安保」「反自衛隊」が摺り込まれ、現在に至るも潜在している。その例が右に述べた加藤氏や次の項で述べる鳩山内閣の閣僚である。それにしても、防大生に安保の必要性を訴えた中曽根首相(当時)が昭和59年11月、騒動に参加していた加藤氏を防衛庁長官に任命した。加藤氏のDNAに「反自衛隊」が残っており、数々の“職権濫用”をした。 例えば、訓練を視察して「軍事用語が解らない」と文句を付け、帝国陸軍以来の伝統ある数個の用語が消滅した。筆者は当時、陸上幕僚監部教育訓練部の教範・教養班長であり、60年12月某日、長官に対する陸幕長の説明に随行した嫌な思い出が甦る。その10日後、内閣改造があり“ゼンガクレン長官”がいなくなると喜んだが、中曽根首相は留任させた。加藤長官は翌61年、雑誌の対談で自衛隊の実情を述べた方面総監を更迭した。中曽根氏が25年前、防大生に述べた「政治の悪魔性」の意味を理解した。鳩山内閣の正体は“ゼンガクレン”鳩山内閣の正体は“ゼンガクレン” 鳩山首相はじめ閣僚が、公約の撤回や迷走を繰り返し、恥じないわけは、学生時代に摺り込まれた「反安保」「反自衛隊」や甘えの幼児体質が抜けていないからではなかろうか。(1)安保騒動の再発 米軍普天間飛行場の移設問題は、安保騒動時の学生が閣僚になって起こしており、「安保騒動」の再発である。日米両国は、安保条約締結以来、信頼性の維持、向上に努めてきた。特に、命をかけて戦うのは自衛官と米軍人であるが故、日米双方の「軍人」は互いの信頼を高めるためあらゆる努力を重ねてきた。 かく言う筆者も陸上自衛隊東北方面総監部装備課長(一佐)の頃、日米共同訓練に参加した。参加した米軍人は一朝有事の際、我が国のために馳せ参じてくれる。信頼と友好を深めるため、訓練開始前と終了後、米軍人を官舎に招き、妻の手料理でもてなした。 国の防衛のためには軍隊も基地も必要だと十二分に理解していても、自分は兵隊になりたくない、基地が近くにできるのも反対、他人が兵隊になり、基地も遠くにつくり、自分を守ってくれ、が本音である。自衛隊のヘリ基地周辺に居住する元自衛官から、冗談混じりではあるが、現役時代はヘリの音を騒音と感じなかったが、退官後は五月蠅く感じるようになったと聞いた。 それ故、基地周辺の住民を説得し、理解を得るよう努力するのが国家の指導者の使命である。普通の人は、現行計画の変更を主張する場合、代替案を準備するが、鳩山首相は、政権を取るために、口から出任せに国外や県外への移設を主張し、現行計画に協力を表明していた容認派の知事、市長などを見殺しにし、県内容認派をも県外派に追いやった。 鳩山内閣は発足以降、米軍普天間飛行場移設問題だけではない、海上自衛隊のインド洋からの撤収など日米同盟の信頼低下に繋がることばかりをしてきたため、アメリカの我が国に対する信頼度はかなり低下したと考えるべきである。最善と考え合意した現行計画で決着しても、失われた信頼は元には戻らない。「覆水盆に返らず」である。一朝有事の際、アメリカからの過大な支援を期待してはならず、自力防衛を準備すべきだが、逆に防衛費を削減している。 有事駐留の発想は、自分たちは豊かな場所で贅沢な暮らしをし、兵隊にもならず、アメリカの若者をグアムやテニアンに追いやり、外敵の侵攻を受けた時だけは、日本を守れということだ。そのような便利なものはこの世の中には存在しない。「助っ人」を丁重にもてなすのが常識人であり、それが嫌なら自分の身は自分だけで守ることだ。 我が国に限らず、米軍は駐留するだけで抑止力なのである。例えば、北朝鮮軍が韓国に侵入すれば、在韓米軍と自動的に交戦状態になる。アメリカは在韓米軍を助けるためにも本国などから必ず軍を増派する。これが韓国防衛を確実にするのである。別の見方をすれば、在韓米軍は“人質”なのである。 米軍基地を日本から撤去すべきだと主張するのであれば、「憲法を改正して軍隊を持ち、国民に兵役の義務を負わせ、防衛費にしてもGDPの0・9%ではなく、欧米諸国並みの、例えば、米国:3・8%、英国:2・4%、フランス:1・9%にすべきだ」(米、英、仏の国防費のGDPのパーセントは平成21年版防衛白書から)と主張し、本人や家族が自衛隊に入隊し、外国人にも支給する「子ども手当」を防衛費に回せば不可能ではない。中国や北朝鮮も徴兵制で、核兵器を持ち、自力防衛体制を確立しているからアメリカに対して堂々と自己主張できるのである。2010年3月、防衛大学校の卒業式に出席した鳩山由紀夫首相(撮影・栗橋隆悦) 鳩山首相が「命がけで」と言っても、信用する自衛官はいない。政治家は辞めれば全く防衛に責任がない。小池衆院議員が徳之島で、基地はいらないと叫んでいる姿をテレビで見て、元防衛相として極めて無責任だと憤慨した。筆者は我が国のいかなる場所に自衛隊や米軍の基地を建設しようとも反対しない。多くの自衛官は、国防に生涯を捧げる積もりで入隊したのであり、政治家のような無責任な真似はできない。 5月4日、鳩山首相が沖縄を訪れ、最低でも県外と公言していたことに対し、「党の考え方ではなく、私自身の(民主党)代表としての発言だ」「学べば学ぶほど、(海兵隊が)連携し抑止力を維持していることが分かった。(考えが)浅かったと言われればその通りかもしれない」(5月5日付産経新聞参照、以下同じ)と述べた。厚顔無恥の発言である。 65年前の昭和20年5月4日は、沖縄の日本軍が米軍に最後の攻勢を行った日である。そして6月23日、最高指揮官・第三十二軍司令官牛島満中将(自決後、大将)は割腹した。辞世は「秋をも待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ」である。海軍の沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将(自決後、中将)も「身はたとえ沖縄野辺に果つるとも 護り続けむ大和島根を」(注:「大和島根」は日本国のこと)を残して6月13日自決した。鳩山首相が「五月末決着」を破棄しても、誰も驚かない。なぜなら、就任直後から数々の約束を反故にしてきたからである。 鳩山内閣の混迷を見るに見かねて、第四十四普通科連隊長中沢剛・一等陸佐が陸上自衛隊と米陸軍の共同訓練の開始式の訓示で「『信頼してくれ』という言葉だけで(日米同盟は)維持できない」(2月13日付産経新聞)と述べた。「斯くすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」(吉田松陰)の心境からの発言であろう。 この訓示に北沢俊美防衛相は、自分たちの無能や失政を棚に上げ、最高指揮官である首相を揶揄したなどと激怒、第六師団長が北沢防衛相の意向を受けて中沢一佐を「文書注意処分」にした。さらに、火箱芳文陸上幕僚長に対し「なぜ処分をしたか本人にも幹部の皆さんに浸透するよう言ってほしい。今後こういうことが起きないよう注意喚起してほしい」(2月16日付産経新聞)と指導した。 だが、第十一旅団(北海道・真駒内駐屯地)の中隊長(三佐)が、防衛省の榛葉賀津也副大臣や長島昭久政務官らに「連隊長の発言は総理の指揮統率を乱すものではない」(3月26日付産経新聞)などとの内容のメールを送って抗議、第二特科連隊(旭川駐屯地)の中隊長(一尉)が朝礼で「鳩山総理は普天間基地移転の結論を昨年のうちに出せずにいいかげんだ」(同)と訓示した。2人の中隊長の“罪”は連隊長よりも重い筈であるが、三佐の中隊長は「口頭注意」に、一尉の中隊長は「指導」に留めた。 『孫子』に「先ず暴にして而して後、其の衆を畏るゝ者は不精の至りなり」とある。「部下を粗雑、乱暴に扱った後、その行為によって部下の反発を畏れるのは、思慮が浅い、愚か者の証拠である」という意味である。 北沢防衛相は、己の浅はかな行為に反発している自衛官が少なくないことを知って驚き、この事実が公になって連鎖反応の起こることを懸念して、抗議のメールを送った中隊長は、手続きは問題だが、メールの内容は問題ない、朝礼の訓示で首相を名指しで非難した中隊長は公での発言ではないと、内々に済ませたのではなかろうか。が、発生から1カ月以上経ってマスコミの知るところとなった。 北沢防衛相は、中隊長の反発を伏せる一方、それでは飽きたらず、中沢一佐を陸上自衛隊研究本部主任研究開発官へ左遷した。このようなことでは部下は付いてこない。 自衛隊員(学生、生徒、予備自衛官等を除く)は入隊と同時に「……事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、……」と宣誓する。首相、防衛相、防衛省の副大臣、政務官も宣誓すべきである。自分は職務遂行に命を懸けず、隊員に命令する資格はない。(2)国家・国防意識の放棄 安保反対を唱える一方、自国の防衛、核の抑止力をアメリカに依存して平和にどっぷり浸かったため、国民は、国家意識、国防意識、軍事常識を放棄してしまった。それ故、普通の主権国家では、信じ難い考えの持ち主が首相や防衛相や外相に就任する。 昨年11月12日、「天皇陛下御即位二十年をお祝いする国民祭典」の「祝賀式典」が午後5時から7時まで皇居前広場で行われた。参列して舞台に登壇した大臣は、月刊誌『日本の息吹』2月号によれば、鳩山首相、平野博文官房長官、川端達夫文科相、中井洽国家公安委員長、前原誠司国交相の5人、陸海空自衛隊の音楽隊も奉祝演奏した。だが、北沢防衛相、岡田克也外相などの姿はなかった。ちなみに、北沢防衛相も岡田外相も昨年の新閣僚就任会見で国旗に敬礼しなかった。防衛相、外相にあるまじき国家観である。 鳩山首相は、防大卒業式の訓示で「私が言いたいことは自らが活躍することになる、この世界のことを正しく知れということだ」(3月23日付産経新聞)と大上段に述べたが、激しく伸び続ける中国の軍備増強を脅威と言わず、北朝鮮の核・ミサイルには一切触れず、中国人など外国人にも支給する「子ども手当」に言及、防衛費の削減をも示唆した。場違い、かつ現状認識欠如の訓示に、卒業生は軽蔑し、参列者はびっくり仰天したであろう。 北沢防衛相は4月8日、参院外交防衛委員会で、佐藤正久議員の米軍普天間飛行場の移設問題に関する質問に対して「一般的にいえば『迷惑な施設』としての米軍の駐留地を建設する。大変な反対の中で犠牲を払ってやっていただくわけで、並大抵のことではない」(4月9日付産経新聞)と述べた。同盟国を「迷惑」扱いした北沢防衛相こそ解任ものである。 我が国は「核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」(防衛計画の大綱)としており、我が国の領海に入る米国の艦船は当然核兵器を搭載していると考えるのが少しでも軍事知識のある者の常識である。ロシア、中国などの周辺諸国も我が国の「非核三原則」を信じていないから、核抑止が成り立ってきたのである。ところが、岡田外相は日米「密約」を暴露して鬼の首を取ったごとく喜び、相も変わらず、「非核三原則」を叫んでいる。この能天気な姿に周辺諸国は嗤っているであろう。(3)日米同盟破壊 中国の一部に 「60年安保」時、生まれていなかった民主党の前原代表(当時)が平成17年12月、アメリカ、中国を訪問して中国の軍拡は脅威と述べた。 この発言に対して、胡錦涛国家主席は訪中した前原氏との会談をキャンセル、朝日新聞(12月11日付)は社説で「外交センスを疑う」と非難、民主党の鳩山幹事長(同)は都内の講演で「(中国の)基本的な軍事力の行使は防衛。そのことを信頼すれば必ずしも脅威と呼ぶべき状態ではない」「民主党としては中国が現実的な脅威だと断定しない方がいいのではないか」(12月20日付産経新聞)、菅直人氏はホームページで「昨今の言動が、自民党との差がなく、二大政党としての存在理由が無くなっているという多くの人の指摘に、前原代表自身、真摯に耳を傾けてもらいたい」(12月16日付朝日新聞)、横路孝弘衆院副議長(同)は「無神経な発言だ。理解できない」(12月26日付朝日新聞)と非難した。 また、社民党の福島瑞穂党首は「小泉内閣の外交より右に行っているのはいかがなものか」(12月15日付読売新聞)などと批判した。 我が国の防衛費はアメリカの国防費の10分の1以下、一方、中国の軍備の増強は急で、10年を待たずして、実質の軍事費は現在のアメリカの国防費を追い越し、太平洋をアメリカと分かち合い、アジア支配を目指している。これを阻止する手段は、自力防衛を採らない限り、日米同盟しかない。 にもかかわらず、中国の軍拡を脅威と述べた前原氏は代表を解任されたが、大臣になって沈黙、前原氏を批判した「安保騒動」時代の学生である鳩山氏が首相、菅氏が副総理、横路氏が衆院議長、学生ではなかったが、福島氏も大臣に、その他「騒動」時学生だった旧社会党出身者も閣内に入って日米同盟を弱化させている。 我が国の現状を見て嗤っているのは中国なのである。すでに遅きに失した感はあるが、我が国が主権国家として生き残れるか否かの瀬戸際にあることに我が国民は気付くべきである。かきや・いさお 昭和13(1938)年、石川県生まれ。防衛大学校卒業と同時に陸上自衛隊入隊。大阪大学大学院修士課程(精密機械学)修了。その後、陸上幕僚監部防衛部、陸上自衛隊幹部学校戦略教官、陸上幕僚監部教育訓練部教範・教養班長、西部方面武器隊長、防衛大学校教授などを歴任。平成5年に退官(陸将補)。著書に『自衛隊が軍隊になる日』『徴兵制が日本を救う』。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)
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記事
安保闘争 過剰な「連帯感」は民主主義なのか
先崎彰容(東日本国際大東洋思想研究所教授) 今、「ナショナリズム」を語ることは、流行なのかもしれない。 国家という言葉を、以前に比べ格段に私たちは口にするようになった。「この国のかたち」を考えることは、半ば当たり前のことになった。以前は、国家を口にすることに批判的だった人まで、国家を議論するようになった。鼻歌交じりの平和主義は時流にあわない、だから国家の存在については最低限認めよう――こうした雰囲気で語ろうというのだ。 ただいずれにせよ、昨今のナショナリズムへの関心の原因が、震災など国内で相次ぐ危機だけだとは思えない。東アジアで台頭するナショナリズム、つまりは近隣諸国との不安定化もあってのことなのだ。 最近の尖閣をめぐる問題だけではない。たとえば民主党政権時代、天皇陛下の謝罪を要求し、野田佳彦首相の「遺憾の意」を書いた親書をはねつけた当時の韓国大統領、李明博氏は、最後は竹島への上陸を断行し国威発揚につとめた。政権は朴槿恵氏に移ったが、きしみの現状は増す一方で、解消する兆しさえない。中国が防空識別圏の拡張を宣言し、韓国がこれに対抗策をうちだすなど、昨年来、東シナ海をめぐる情勢は風雲急を告げている。 こうした東アジアの急激な緊張の背景は何か。 もちろん、国内に抱える矛盾を他国批判でガス抜きするとは、しばしば言われる「原因」である。人びとの不満のはけ口に、他国批判は恰好の材料となろう。だがそれだけならば、これまでにもよくあったことではないか。いまの東アジアをめぐる緊張には、何か根本的で文明的な、より「巨大な原因」があるのではないか――私はそう考えている。たとえばその一例が、東シナ海と南シナ海で相次ぐアジア諸国の緊張だ。急激に大国化する中国の海洋進出は、国策による「膨張主義」に他ならない。佐藤優氏がしばしば指摘する「新・帝国主義の時代」とは、より巨大な市場を求め外へ外へと進出=帝国主義化していく状態をさす。こうした東アジア全体を巻き込んだ「膨張主義」の巨大な運動に、日本は「戦後」始めて晒されている。戦後、一貫して経済的豊かさを追求し、軍事的緊張をふくむ国家について一切の思考を停止させてきた私たちは、東アジアからドアを叩かれた。東アジアの国際秩序の変更に促され、日本人はナショナリズムを直視する時代に入ったのである。一時的「刺激」としての国家 そう言えば、私自身も登壇した本年元日の討論番組『ニッポンのジレンマ』(NHK Eテレ)の題目も、「僕らが描くこの国のカタチ2014」というものだった。この、若者による討論番組の主題が「国のカタチ」だったことは、とても象徴的なことである。 番組の最中、『ニッポンのジレンマ』は次のように質問し、視聴者に意見を求めた。いわく、「あなたが一番、“国”を意識するのはどんな時ですか?」――。選択肢は次の四つである。「A オリンピックなどの国際試合」「B 選挙などの政治参加」「C 領土問題などの外交交渉」「D TPPなどの経済問題」。 回答は、驚くほどはっきりしていた。 今、若者たちの多くはAとCだけを、つまりはオリンピックと領土の危機をもって、国家を感じるというのである。言われてみれば、ロシアのソチ・オリンピックはこの事態をあからさまに示していた。オリンピックで高揚した気分になり、国家を意識した彼ら若者は、恐らくサッカーの国際試合でも同じ気分を味わうはずだ。 これは当然の回答、とも思えた。なぜなら戦後のわが国は、東アジア諸国とは異なり、軍事力を徹底的に抛棄してきたからである。アメリカの庇護のもと、考える必要性を抛棄したからだ。経済の奔流と沸騰の最中、国家は溶解し、無色透明のぶよぶよした皮膚のような「クニ」ができあがった。そこで私たちは生きてきたのである。 だとすれば、国家について考える機会はオリンピックのときか、あるいは領土問題で否応なく国境を皮膚で感じるときしか、ないだろう。両者は「瞬間的」である点で同じであり、国家は一時的な「刺激」にすぎない。 それは国家について考える、あくまでもきっかけにすぎない。 本来、ナショナリズムとは常にもつべき問題意識のことであり、瞬間的なものではない。経済的な豊かさで自信をもったり、その逆に不況によって自信喪失するようなものではない。 だから、ほとんど回答のなかったB=「政治参加の仕方」と、D=「TPPの賛否」も、きわめて重要なのだ。 今一度、まとめよう。東アジア情勢をめぐって、「膨張するナショナリズム」という問題があった。次に、テレビ出演で明らかになったのは、民主主義の問題と、生活や文化などの価値観をどう守るのか、これが重要だということだった。ナショナリズムが、生活や文化にまで根を下ろすとき、それは「戦後日本」を超える。「膨張するナショナリズム」とは全くちがうナショナリズムが、今、求められている。生活や文化に根ざしたナショナリズムを考える段階に、わが国は直面しているのだ。 そのとき私たちはどのような「言葉」で、この世界を、日本を語るべきなのか。今、言葉の態度も問われている。全体主義とナショナリズム そう思って、私は昨年『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)を世に問うたのだった。 膨張主義時代に晒された私たちは、どのような危機にあるのか、そのときナショナリズムの役割とは何か――東アジア情勢とテレビ出演は、その思いをさらに強くさせた。 私の基本的な考えはこうだ、「ナショナリズムは外交問題でも政治問題でもなく、死をめぐる問題であり、私たちにとって最大の問い――どう生きるのか、死とは何か――死生観、倫理学にまとわる問いだと、心の底で合点がいく」(31―32頁)。国会突入を図り、警察部隊と衝突する全学連主流派の学生ら つまり国家とは、法や制度、政治や外交だけでは語りきれないのであって、死者たちが紡いできた伝統や習慣を守り、思いをめぐらすことなのだ。それはきわめて落ち着いた「くらし」を守る営みに他ならない。「死生観、倫理観」とは、そういう意味である。 このような態度で国家を考えること、それが私のいうナショナリズムである。 その重要性を証明し、後押ししてくれる思想家たちの「言葉」を、以下で追いかけてみる事にしたい。 注目すべき時代は決まっている。 あの戦争を経験した人間たちの言葉である。死がもっとも身近なものになる戦争体験は、人間を「思想家」にする。 まずはナショナリズムを、帝国主義の問題から考えた思想家がいた。政治学者のハナ・アーレントである。彼女の精密な帝国主義分析は、現在の東アジア情勢の「巨大な原因」を探るのに役立つ。 彼女が眼をつけたのは、1884年から1914年までの帝国主義の時代であった。その特徴は、「膨張」あるいは「拡散」といった言葉でイメージできる動きである。それはあたかも、モーターが駆動し続けるように新しい市場を目指して膨張することを善とみなす。それに成功したのは、イギリスとフランスであった。 また、ドイツ・ファシズムとスターリニズムにも、彼女は注目した。イギリスやフランスに後れをとったドイツとロシアは、現状への不満の気分と「負い目」の意識をもった。他国に比べて「遅れ」ているという意識、これが怒りの気持ちを増幅させる。負い目と怒りの感情は、激しい現状否定と、秩序の変更欲求へと駆り立てる。世界各地に散らばり、憂き目をみている同胞たちの結束という現状変更への欲望、すなわち「血」による結びつきの強調が浮上してくるのだ。散らばった同胞の結集――これもまた「膨張主義」がもたらす危険な結末なのである。 アーレントは、これらの国々の「膨張主義」が、最終的には「全体主義」を生みだしたと結論した。そして全体主義とナショナリズムは全くちがうものだとも、主張した。なぜならナショナリズムとは、領土、民族、国家を「歴史的」に共有するからだ。歴史とは、つまり時間の積み重なりのことに他ならない。 一定の場所の「くらし」と、土地での記憶を人びとが分かちもつことで、ナショナリズムは生まれる。 だとすれば、「膨張するナショナリズム」など、あり得ない。それはナショナリズムではない、全体主義と呼ばれるべきなのだ。 みずからが今いる場所、課された条件を宿命として受け入れたとき、人の心は安定する。それは充たされた心だ。それがナショナリズムのつながり=連帯感を根本で支えている。現状にたいする怒りと不満、膨張へのあこがれとは無縁の心の構えが、ここにはある。 全体主義とナショナリズムの違いを描くこと、これが決定的に大事だとアーレントは思った。そうすることで彼女は、時代を診る医者になったのである。丸山眞男と江藤淳丸山眞男と江藤淳 具体的な東アジア情勢から始まったこの文章は、1人の女性政治学者を経由して、ナショナリズムの必要性にまでたどり着いた。 ところで、わが国の戦争体験は、「8月15日」という言葉に集約されていると思う。この日をどう評価するかで、「戦後」への評価も変わる。二つのカギカッコ付きの言葉が、激しい渦を巻きながら激突し、あらたな言葉を生みだしたのが、他ならぬ1960年、安保闘争の季節にほかならない。 ここでの主役は、丸山眞男と江藤淳である。 彼らが炙りだした問題は、50年以上も後の現在にまで影響を及ぼし、参照軸となっている。すでに早く、昭和22年の時点で、丸山は8月15日を「無血革命」だと唱え、戦後=再出発と肯定的にとらえた。 だが丸山のあの日への評価が、一躍脚光をあびたのは15年後、1960年5月の安保闘争の時期だった。吉田茂によってアメリカとのあいだに締結された日米安全保障条約、この条約の更新をめぐって戦われたのが、60年安保闘争である。このとき内閣は、「昭和の妖怪」岸信介内閣に代わっている。岸内閣による安保更新の強行採決がおこなわれた5月の状況を、丸山は次のように考えた、「つまり、5・20以降の事態は、本来ならば20・8・15において盛り上がるべきものがいま起こっているように思われる」と。 無血革命による「戦後民主主義」の誕生は、本来、8月15日から始まるべきであった。だがたとえ15年後であったにせよ、今、眼の前の政治行動には民主主義の萌芽があるではないか。安保反対を訴える国会周辺の人波を、丸山は「騒然とした空気のなかに終始見えない形でただよっている秩序意識と連帯感」があると感激的に書きつけた。課題ははっきりした、倒すべき対象は目の前にある。8月15日にもどれ、そしてどちらの側につくかを強く求め、「中間の考え方」を排除し、人びとは「つながる」べきではないか――丸山は、こう考えたわけである。 だが丸山が叫んでやまない、こうした「連帯感」こそ、最も恐ろしい集団である、そう考える思想家がいた。 文芸評論家の江藤淳である。江藤は思った、政治という「言葉」には二つの意味がある。第一に、自分の考え方を人びとに言葉巧みに拡大し、どこまでも支配領域を広げてゆくこと。このとき言葉は、デマゴキーやスローガンとなり、問題は単純化される。言葉は支配の道具に堕落する。 丸山の安保肯定の発言は、この意味での政治に堕落する可能性がある。「中間の考え方」などない、と人びとを追い詰める問いただし方こそ、民主主義=意見の多様性を排除してはいないか。 次に、政治にはもう一つの意味がある。 壊れやすさを宿命とする秩序、人びとの生活を維持し続ける静かで、しかも目立たない行為の連続、これも政治である。人から称賛されないかもしれない、だが黙って問題に対処し、次の世代に共同体の存続を受け渡していくこと――この地味で、しかも緊張に富んだ営みを政治と呼ぼう、江藤はこう思った。第一の政治でなく、この第二の政治にこそ、政治本来の役割はある。 こう思うようになってから、江藤は、岸政権の強硬策だけでなく、安保反対のデモにも懐疑的になった。「私はデモが嫌いなので、一度もデモに参加しなかった」――。安保闘争を、丸山はあまりにも美化しすぎている。どうして知識人はこうも、過剰なまでの「つながり」を、つまりはデモを肯定できるのか。それはおそらく、いつも自分自身が「正義」を握りしめていると思いたいからだ。だがそれは「独善」ではないか。 そして唯一の現実=真実は、次のようなことではないのか。たとえば太宰治が『斜陽』という作品で描いたように、この国は敗戦で、あらゆる価値観の「崩壊」を経験し、傷つき、めまいを感じたのである。ただそれだけが、真実である。この現実の直視を避け、知識人は夢と理想に立てこもった。その方がよほど楽だからだ。「戦後知識人」は、敗戦経験の苛酷さに耐えられず、だから革命・民主主義・平和主義などの言葉に立てこもり、自らの不安を慰めるために過激に「つながろう」としている、江藤はこう思ったわけである。「砂粒化」の時代 彼等の緊張感溢れる精神のドキュメントを、私たちがすっかり忘れて生きてきたのには訳がある。1980年代以降、経済でいえばバブル、思想でいえばポストモダンが隆盛した。これが忘却の原因なのである。この時代の特徴を一言でいえば「つながり」の否定・忘却の時代である。 階級であれ、地域共同体であれ、私たちは自らを位置づける場所を次々に壊していった。19世紀のマルクスは、どの階級に属しているかに注目し、人間を定義しようとしたが、同時代のトクヴィルは、人間がバラバラな存在となり、そのことに不安を抱く存在だと定義した。トクヴィルだけではない。ギデンズやベックなどの学者も指摘したこうした事態、人びとが個別化し、自分の世界と嗜好に閉じこもってしまう社会が、1980年代以降の「戦後日本」に、登場してきたのである。 こうした時代状況を、宇野重規氏は「砂粒化」の時代だと言っている。自分の世界にだけ興味をいだくバラバラな私。このイメージを宇野氏は砂粒のようだと言っているのだ。 ただ80年代、私たちは、バラバラな自分に特に不安を抱かないですんだ。未曾有の経済的な繁栄は、会社になど所属しないでも十分な金銭を獲得できたし、国家など考えずとも、防衛はアメリカに、思想的には何でもありの相対主義で暮らしていくことができたからである。ポストモダンとは、歴史と国家、そしてつながりからの逃走である。あらゆる価値観から逃げ出して、所属することを重荷であると否定して済まそうという思想運動であった。 だが今や、時代は急速に代わりつつある。不況、震災、そして近隣諸国との軋轢を目にした私たちは、今や80年代以降のバブルと思想を捨て去り、再び、「つながり」を求めようとしているのだ。「現在では、脆弱な個人の〈私〉の自意識がますます鋭敏化する一方で、同じような意識をもった他者とのつながりは築けないままでいます」(『〈私〉時代のデモクラシー』)という危機を宇野氏は指摘する。「砂粒化」は、今やあきらかに危機なのだ。 時代は転換しつつある。東日本大震災以降、人びとは「砂粒化」から逃げだし「つながろう」としている。反原発デモから、地域援助のNPOまで、さらにはデモクラシーの再定義から、ナショナリズムまで、今や、思想的左右なく時代全体が共同しようとしているのだ。この現状、思想的左右なく人びとが手を握りあおうとしている時、「ナショナリズム」はなぜ特権的に重要なのだろうか。革命もデモも、ありえない革命もデモも、ありえない 「つながり」が求められている現在、私は「ナショナリズム」を重視するが、デモには懐疑的である。なぜか。それを知るための手がかりを、若者の著作に求めよう。 「戦後」日本の構造を深くえぐりだした白井聡氏の著書『永続敗戦論』(太田出版、2013年)はきわめて誠実に言葉を連ねるが、デモや革命を主張するとき、こうした言葉に陰影は失われ、赤裸々な感情と暴力、憤慨が躍り出てしまう。 氏は「戦後日本の核心」と副題し、戦後日本に内在的に肉薄しようとした。白井氏は、原発問題こそ戦後を考える重要な転換点だと考えている。その上で尖閣諸島をふくめた対外関係にまで広く言及し、戦後日本の根本構造である「平和と繁栄」の物語を破壊しようと企てるのだ。 具体的にはこうだ、戦後とは、保守も革新も同じ過ちを犯してきた歴史のことである。保守は「親米」であることで、右翼的な立場をとることができた。一方、平和主義を唱え続ける左派陣営も、同じ過ちから抜け出せない。アメリカの地政学的な事情=政治的事情から、平和を口にできている日本のお粗末な状況を、理解できていない。確かに一見、イデオロギー上の左右の対立はあった。だがしかし、戦後の保守と革新は、同じ舞台のうえを踊っていただけではないのか――白井氏のいう「永続敗戦」とは、この対米従属の構造を言い換えたものだ。 今日、このような白井氏の発言は、それなりの評価を受けるのだろう。事実、若手の論客にみられる「保守主義」は、総じて反米的であり、白井氏の論理にも近い。だが私は、白井氏の発言内容が、最近の保守に近いから引用しているのでも、賛成しているのでもないのだ。 「言葉」の使い方、「言葉」の佇まいを考えているのである。 たとえば、白井氏は、日本が核武装すべきと思っているわけではないとことわったうえで、平和主義と核武装について次のように言う。 「唯一の被爆国である日本は……」というフレーズの後に「いかなるかたちでも絶対に核兵器に関わらない」といった類の言葉が自動的に続くことになってしまうという事態は、もうひとつの論理的可能性を排除することによって成り立っている。それは思想の衰弱にほかならない(158頁、傍点原著) 白井氏はここで「思想の衰弱」を恐れている。それは言葉の役割を手放さないということだ。矛盾する現実を直視する勇気を手放さず、江藤のいう第一の政治=支配の力学に抗うことを目指している。すなわち氏は、日本では珍しく「言葉」にこだわり、考える忍耐をもっているように見えるのである。 だがこの言葉への愛着が、文章後半で乱れ始める。 文章の後半、豊下楢彦氏の著作『安保条約の成立』などを参考に、白井氏は戦後の「国体」について考える。戦後の国体とは、安保体制にほかならず、アメリカとの間の「永続敗戦」にあると。さらに、「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない。かくて、問題の焦点は、革命・革新に見定められなければならない」ことに白井氏は気がつく。つまり、戦前であれ戦後であれ、一切の革命的なものを否定すること、これが戦前戦後をつらぬくわが国の最大の問題=「国体」だというのである。 こう結論づけた白井氏の文章は、戦後体制その象徴として原子力政策に触れつつ、次のように締めくくっている。私はそこに、現在の知識人=言葉にかかわる者が陥る、課題が典型的に現れていると思う。 それはとどのつまり、伊藤博文らによる発明品(無論それは高度に精密な機械である)であるにすぎない。3・11以降のわれわれが、「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見出し、それを合理的な思考によって裏づけられた確信へと高めることをやり遂げるならば、あの怪物的機械は止まる。われわれの知的および倫理的な怠惰を燃料としているのだから。(184頁) もちろん、「怪物的機械の停止(破壊?)」という結果を得るためには、私たちは「革命」を起こさねばならない。それだけが唯一、近代日本の「国体」を破壊するからだ。 この発言を、左翼だと言って批判しても、恐らくほとんど意味がない。問題は、氏がここで無意識のうちに「言葉」を放り出している事にある。批評をふくめた文学的な営みは、基本的に自分の内側にある倫理だけに忠実であればよい。ただ、現代批評のチャンピオン・小林秀雄が言ったように、批評とはついに、懐疑的に己を語ることでなければならない。 つまり、言葉にかかわるものは、自分の根本に懐疑を、疑いの眼をつねに抱きしめていなくてはいけない。にもかかわらず、氏を支配しているのは懐疑ではなく、暴力的なまでの正義感である。 自己への懐疑が、引用の文章にはどこにも見当たらない。なぜここで氏は「われわれ」と複数形で人に呼びかける必要があるのか。本物の「言葉」は、そう容易に人と人とを架橋できないこと、越え難い「ズレ」があることを感じた人間が発する、技巧的作品ではないか。だが自らの「怒り」の感情をおさえきれず、強引に「われわれ」に共有を求めていないか。それは言葉の抛棄である。 また第二に、白井氏自身が抱きしめている「確信」は、いったい何を根拠に成り立っているのだろうか。倫理も正義も、「人間の意志に関わりなく、人間と人間の関係」から、つまりは「関係の絶対性」(吉本隆明)からしか、生まれない。だがここで、性急に「倫理的な怠惰」を戒める時、それが真面目であればある程、純粋主義へと近づいてしまう。 確かに震災以降、国内は混乱し、戦後的価値は疑問にふされている。戦後体制の下で進められてきた原子力政策もその象徴なのであろう。 また東アジア情勢に目を向ければ、新しい動きに充ちていて、これまた従来の国際秩序は破綻の兆しを見せている。この混乱した時代にあって、暴力的な苛立ちが生まれている。しかしそのとき、暴力=自らの正義の斧を振り下ろす対象を求めて何になる? しばしば言われる「権力の可視化」、すなわち「こいつを叩けば全てうまく行く」といった「言葉」に私は懐疑的である。権力が視えるようになったと絶叫した瞬間、人は現実を見る眼を実は失っている。複雑なモザイクの現実は、絶対に「見通す」ことができない。 私にとって、確かだと思われる「つながり」は、だから一時的、瞬間的、情緒的でないものだけだ。怒りだけでは人は「つながり」つづけることは出来ない。つまり「くらし」を営むことができない。そのとき、今あるべき共同性とは、死者たちが積みあげてきた時間が与えてくれる「馴染み」ある「くらし」に他ならぬ。死生観と倫理観は、個人の独善とは無縁のものだ。こうした歴史への思いを含んだ「ナショナリズム」こそ、今、必要な「つながり」ではないのか――これが私の考える『ナショナリズムの復権』なのである。せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部倫理学科卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史、日本倫理思想史。著書に『高山樗牛―美とナショナリズム』(論創社)『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)など。
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記事
ポスト60年安保と革新幻想
【続・革新幻想の戦後史 第1回】竹内洋(関西大学教授) 連載を再開するにあたって60年安保後の空気についてふれてから出発したい。この点については『諸君!』最終号(2009年6月号)「進歩的文化人の変身」の後半部で一部ふれている。しかし、今回はじめて「革新幻想の戦後史」に接する読者もすくなくないだろう。最初に理解していただきたいところなので、既発表の部分を大幅に加筆して展開している。読者のご寛恕をお願いしたい。社会党は大敗北のはずだった 60年安保闘争は、戦後最大の反対運動のうねりをもたらした。安保改定が自然承認(衆議院では可決されたが、参議院は混乱を懸念して議決が回避されたので、衆議院可決後30日で自然承認)されたのが6月19日だった。その10日ほど前(6月10日)までに成人人口の半分の1800万人の安保改定反対署名が集められた。6月4日の反対運動参加者は全国で560万人を数えた。ところが、同月23日に新安保条約批准書交換がおこなわれ、岸信介首相が辞意を表明したあとは、あれほどの盛り上がりをみせた反対運動が急速に萎んだ。つよかった安保改定反対意見さえも急速に勢いをなくしていった。それを世論調査でみたものが(表1)である。 1960年3月の世論調査では、安保改定の新条約を「よくないと思う」36%が「よいと思う」22%を上回っていた。しかし、安保改定条約が批准交換された約1ヶ月あとの安保改定発効と安保改定反対運動への評価は(表1)の下欄のようなものとなった。安保の発効を「よい」とするものと「やむをえない」とするもので、49%。「よくない」の22%よりもかなり多い。おなじことは安保改定反対をめぐる政治ストや全学連の行動の評価にもみられる。どちらも、「よくない」が「よい」と「やむをえない」の合計よりもかなり多い。 安保闘争を闘ったのは社会党を中心とする革新勢力だったが、革新勢力の代表たる社会党人気の低落をあらわすものだった。6月末から青森県、埼玉県、群馬県の知事選挙がおこなわれた。社会党は安保闘争でもりあがった革新団体が選挙で大きな力になると期待したが、いずれも大差で敗北した。勝間田社会党教宣局長は、群馬県知事選の敗北のあと、「党としては安保反対闘争だけでなく、もっと農漁村の信頼を受けるような政策をかかげねばならない」(「三連敗、社党に打撃」『朝日新聞』1960年7月28日)とコメントさえしている。この知事選挙の4ヶ月ほどあと(11月20日)に、第29回総選挙がおこなわれることになるが、世論調査では、社会党の敗北が予想されていたのである。 安保新条約の批准交換と岸内閣退陣のあと、7月19日、低姿勢をうたい文句に池田勇人政権が誕生した。政権誕生まもなくの8月1、2日に『朝日新聞』は、池田内閣をどうみるかの全国世論調査をおこなっている。池田内閣を「支持する」が51%で「支持しない」(17%)を大きく上まわっている。 さらに今後選挙があれば、どの政党の候補者に投票するかをみると、自民党は43%で、社会党22%と民社党五%をおおきく上回っている。「どの政党が一番好きですか」を時系列でみると、安保改定強行採決直後には保守と革新がほぼ拮抗していたのが、このときの調査では、完全に自民党が盛り返している。自民党35%、社会党17%。社会党は20%を切るにいたっている。1955年の社会党統一以来の朝日新聞全国調査で社会党支持が20%を割ったのは、はじめてである。支持色をくわえると社会党は25%だが、同じ集計法をとれば、自民党は49%にもなる。 ところが事前予想とちがって社会党が辛うじて、もりかえしたのは、総選挙投票日(1960年11月20日)の40日ほど前(10月12日)に浅沼稲次郎委員長が山口二矢に刺殺されるという事件によって、社会党への同情票が集まったからである。沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫、2008)には、浅沼刺殺の報をうけて自民党と民社党の政治家連が、これで選挙が不利になると青くなる場面がつぎのように書かれてある。野党議員が抗議する中、自民、公明両党の賛成で安全保障関連法案を可決した衆院平和安全法制特別委=7月15日午後 民社党の衝撃の深さは自民党以上だった。浅沼の死を福島の遊説先で聞いた書記長曽禰益(そねえき)は「しまった」と叫んだ。今まで議会主義を危うくする加害者という立場であった社会党が、浅沼の劇的な死によって、一挙に同情すべき被害者の立場を獲得してしまった。日本人の情緒的な性格からすると社会党に圧倒的な同情が集まり、そのあおりを受けて、民社党は苦戦するに違いない、と思えたのだ。民社党の惨敗 民社党委員長西尾末広は、この日(10月12日)、浅沼とともに日比谷公会堂での三党首立会演説会に臨んだ。演説の順番は、西尾が最初で、浅沼稲次郎、池田勇人とつづくことになっていた。西尾は、安保闘争における社会党の行動を議会制民主主義を破壊するものだとして「赤い社会党」を激しく非難した。小論冒頭の世論調査でみたように、新安保条約批准交換と岸信介の首相退陣表明の後は、むしろ新安保賛成者がふえる勢いだった。そんなことからも、西尾は演説にそれなりの手ごたえを得て、降壇した。浅沼が刺殺されたのは、西尾のあと浅沼が登壇し、演説をはじめて20分ほどたったときのことである。西尾は車の中で浅沼刺殺のニュースを聞いた。「そこで曾禰とまったく同じ言葉を呟」くことになった。 その1ヶ月ほどあとの11月20日、総選挙がおこなわれる。曽禰や西尾の危惧どおりの結果となる。自民党は、公認候補だけでみると選挙前の議席よりも9議席増、無所属からの自民党入党者2名によって300議席となった。社会党は前回(1958年5月)の総選挙では、167議席獲得したが、党が分裂して、社会党議員のうち40人が民社党にうつった。総選挙直前の社会党議席数は、127議席だったことになる。そこからみると、選挙によって解散前よりも18議席上回った。民社党は選挙前には80人当選とぶちあげていたが、改選前の40人にもはるかにとどかず当選者17人で惨敗だった。 民社党の社会党攻撃が死者(浅沼社会党委員長)にムチを打つ所業とうつってしまった。民社党が曽禰や西尾が危惧したように、いかに打撃を受けたかは、つぎのような比較をすればよくわかる。 前回の総選挙(1958年)のとき、社会党から立候補し、かつ今回も立候補した者をつぎのふたつのグループにわける。ひとつは、今回も社会党で立候補したグループI。もうひとつは、今回は民社党から立候補したグループIIである。前回選挙は、グループIの平均得票が5万6千票、グループIIの平均得票が5万7千票。つまり、民社党にうつったグループのほうがわずかであるが、選挙につよかったということになる。ところが、今回の選挙で、グループI(社会党で立候補)の平均得票数は6万1千票、グループII(民社党で立候補)の平均得票は4万7千である。今回はじめて社会党で立候補した者でも平均得票数は4万9千だった(西平重喜「第二九回衆議院総選挙の結果」(『自由』1961年1月号)。社会党を議会制民主主義の破壊者として批判した民社党が浅沼委員長の死による同情によって大きな打撃を受けたことがわかる。山口二矢の行動は、その意志に反してかえって社会党を延命させるものとなってしまったのである。社会党贔屓の総括への疑問社会党贔屓の総括への疑問 ところで、この第29回総選挙結果について「社会党勢力への人心の移動がまだ続いていることを表してい(る)」(石川真澄『戦後政治史』岩波新書、1995)という社会党贔屓の総括がある。社会党は1949年の敗北のあとの1952年からの総選挙からは、一貫して右肩上がりで得票率を増してきたことから、その傾向が「まだ続いている」といっているのである。石川の「社会党勢力への人心の移動」持続論が問題なのは、あくまで浅沼社会党委員長殺害という偶発的出来事による結果論にもとづいているからである。いや結果論としてみてさえかなり疑問のある言明である。 たしかに解散前からくらべて社会党は議席数を18議席増やしたが、解散前の社会党勢力である民社党をふくめてみれば、社会党145議席、民社党17議席であわせて162議席である。これは解散前の社会党議席167議席を4議席下回っている。社会党の得票率は27・5%(前回32・9%)だったが、民社党の得票率8・8%をくわえると、前回を上回る36・3%の得票率を得て順調な上昇傾向となったといえなくもない。自民党の得票率は前回57・8%で、今回は57・6%でほぼ同率だった。しかし、得票率は、候補者を多く立てれば、上がる。社会党の分裂により民社党ができたことにより、民社党の候補者数がおおくなった。社会党と民社党の両方の候補をあわせると前回の246人から今回の291人と45人もふえたことによる得票率の増大なのである。 統計学者西平重喜(1924~)は、自民党の安保採決に欠席した議員の当選率(74%)は、採決に参加して賛成した議員の当選率(82%)より小さいなどのデータをあげて、浅沼委員長刺殺による同情票による社会党の盛り返しを考慮にいれても、「少なくとも、今回の選挙では、一部の人の考えていた『政治的関心を高め、革新化する』という結果は出ていない」(「統計調査から見た安保問題」『論争』1961年3月号)、と当時述べている。妥当な解釈だろう。 誰の目にもあきらかな社会党の凋落は、つぎの1963年総選挙からはじまるが、実は60年安保闘争直後の1960年11月の総選挙からその兆しがあったのである。いやさきほどふれたように、その兆しはすでに前年(1959年)にはじまっていたのである。同年4月に統一地方選挙、6月に参議院議員選挙がおこなわれたが、いずれにも社会党は敗北していたからである。参議院議員選挙では、前回選挙からくらべ当選者数は11名減、得票数でも100万票減となっていた。もっといえば、1958年5月の衆議院選挙で、選挙前予想とはちがっての伸び悩んだときから凋落の兆しがはじまっていたのである。ハンドルを切ったのは丸山眞男 時間を1960年6月18日に戻す。この日、50万人が国会と首相官邸を取り巻いていた。同日深夜零時をむかえ、安保改定は自然承認の運びとなった。国会周辺のデモ隊の中にいた清水幾太郎は喧嘩に負けた口惜しさで泣く。丸山のほうは「チラッと腕時計を見て、『ああ、過ぎたな』と思っただけで、特別になんの感情も涌きませんでした」(丸山眞男「8・15と5・19」『中央公論』1960年8月号)といっている。丸山は、安保条約の通過は短期的な出来事であり、民主主義の定着がなされたという長期的成果に満足したからである。 しかし、社会党も安保改定阻止国民会議の幹部も安保改定自然承認後の運動目標についてなすすべをもちあわせていなかった。このとき、指針を示したのが、丸山眞男である。5月24日、東京の神田の教育会館でおこなわれた「岸内閣総辞職要求・新安保条約採択不承認・学者文化人集会」に集まった者たちの前で、丸山はこういった。 私は安保の問題は、あの夜を境いとして、あの真夜中の出来事(自然承認-引用者)を境いとして、これまでとまったく質的にちがった段階に入った、(中略)この国民の運命を決する重大な国際的問題を、一挙に押し切ってしまったというそのことを、そもそもわれわれが認めるのか認めないのかという問題にしぼられてきました。(中略)この歴史的な瞬間に、私たちは、外国にたいしてではなく、なによりもまず、権力にたいする私たち国民の安全を保障するために、あらゆる意見の相違をこえて手をつなごうではありませんか(「選択のとき」『丸山眞男集』第8巻)。 いまや「安保改定阻止」よりも、議会政治のルールを無視した民主主義の蹂躙反対という「質的にちがった段階に入った」としたのである。すくなくとも丸山のスピーチはそう受け止められた。「あらゆる意見の相異をこえて」は、安保改定に賛成の者も反対な者もと受け止められた。竹内好(中国文学者、1910~77)は、より端的に「民主主義か独裁か」の選択だとした。方向性をうしなっていた社会党は、このような学者・文化人の言明を採択して「岸内閣をやめさせ民主主義をまもろう」をスローガンにしはじめた。 5月24日の神田の教育会館の学者・文化人会議には清水幾太郎もいた。会場に、「安保改定阻止」ではなく、「民主主義擁護」のスローガンが大きくかかげられているのをみて、清水は、「ああ、運動はもう滅茶苦茶になってしまった」と失望と怒りを感じる。その一ヶ月半ほどあと、丸山が安保改定反対運動をして「健康なデモクラチックなセンスが生きていた」(「新安保反対運動を顧みる」『丸山眞男集』第16巻)と総括したが、清水は、丸山などの学者文化人を批判しながらこう喋っている。安保改定阻止ではなく、民主主義擁護という目標に転ずれば、もりあがったエネルギーは空前だったのだから、誰でも「勝利」といえることになる。新安保自然承認以後、なすすべのなかった社会党や安保改定阻止国民会議の幹部が、民主主義擁護にのってきたのだとして、こうつづけている。 敗北という評価を下す場合は、敗北の責任者を探し出さなければなりません。永い間、「大衆の無関心」、「大衆の立ち遅れ」ということが説かれ、いつも大衆が責任者にされて参りましたが、今度は、これは通用いたしません。指導部が閉口するような大衆のエネルギーの昂揚こそ、民主主義の勝利を云々する根拠なのですから。そうなって来ますと、敗北説を採用することは、とりもなおさず、このエネルギーを十分に生かさなかった、むしろ、これを抑えつけるのに懸命であった既成指導部の責任を問うという結果を生じます。この点からしても、学者たちの民主主義勝利説は指導部にとって「神」であったと言えるようであります(「安保戦争の『不幸な主役』」『中央公論』1960年9月号)。 しかし、すでにふれたように、すくなくとも選挙結果をみれば、安保闘争反対でつちかわれたという「革新民主主義」が国民に浸透し、丸山眞男のいうような在家仏教主義が国民の間にひろく浸透したとはいいにくい。むしろ逆である。丸山らの理論を受け入れて、「民主主義をまもろう」をスローガンにした社会党は、ありうべき大敗北を浅沼委員長の刺殺による同情票によってかろうじて免れたのだから。 安保改定は戦争につながる、日本は要塞国家になり、警察国家になる、ヒトラー的な独裁政治がはじまるなどと悲壮感がただよっていたが、安保改定によってなにもかわらなかった。かくて多くの国民は、二幕目の消費社会(一幕目は1950年代後半)の気分に回帰した。警職法改正案に反対した人々が、審議未了になるやミッチー・ブーム(皇太子妃正田美智子さん人気)にもどったように。 警察国家のイメージを払拭し「所得倍増論」をとなえたニュー保守(ライト)である池田内閣は消費社会への邁進気分とマッチしながら迎えられた。国民の多くは、60年安保闘争で戦後民主主義の背後感情、つまり護憲による平和と民主主義の擁護というムードを消尽しはじめた。革新党派は70年代前半に地方首長で社共推薦候補を次々に当選させたが、社会党は衆議院選挙では停滞し、長期低落傾向をたどった(表2)。革新地方首長も70年代後半からは選挙で敗北することが多くなった。変わる学生生活変わる学生生活 消費社会のはじまりは大学生にもおよびはじめていた。大学生が角帽をかぶらなくなっただけではなく、入学式にさえかぶっていかなくなったのが、60年安保闘争がはじまったころの入学生からだった。 そんな風潮を感じてだろう、1960年10月に学生問題研究所(矢内原忠雄所長)が、都内の大学の正門に立って、午後3時から3時半までに出入りする学生が角帽をかぶっているかどうかの調査をしている。つぎの括弧のなかの数字は通行した男子学生数で括弧の外の数字が角帽をかぶった学生の数である。 東大(本郷) 0(184) 東大(駒場) 0(165) 早大 5(254) 明大 8(205) 立教大 4(319)「角帽をなぜ嫌う?」『サンデー毎日』1961年4月23日号 調査人数は全部で1127人。そのうち角帽をかぶっていたのは、17人。着帽率は1・5%。それでもこのときの男子大学生は黒の金ボタンの制服姿が多かった。これに関連して、絓(すが)秀実が『1968年』(ちくま新書、2006)の中でおもしろいことをいっている。一九五九年の安保闘争で逮捕状がだされ、東大駒場に篭城していた当時の全学連書記長清水丈夫が駒場を出るときの写真が掲載されている。清水とスクラムを組んでいるのが駒場(東大教養学部)自治会委員長の西部邁である。それぞれはオーバーとジャンバーを着ているが、黒の上下制服を着用していることが写真からわかる。そこで絓はつぎのように書いている。 この写真でも知られるように、当時の学生活動家の多くは学生服を着てデモに出ていたのである。それは、戦後に全学連が結成されて以来の「伝統」のようなものであり(そもそもそれ以外に着るものがなかった)、その「伝統」は全共闘では消滅している(下線引用者)。 ところが、60年安保と全共闘の中間にある、わたしの入学年ころから国立大学学生の服装でも変化がおきはじめていた。上着は詰襟の学生服だがズボンだけは制服と別の替えズボンを着用しはじめた。大学生の「レジャー」と「おしゃれ」がはじまった。 全国大学生活協同組合連合会の1964年実態調査によれば九割の学生が登山・旅行のレジャーを楽しんでおり、高額商品所持率調査では、上下背広服43%、プレーヤー47%、電気コタツ42%、登山靴35%、テープレコーダー21%だった(定村礼士「大学生市場の消費性向」『マーケティングと広告』1965年12月号)。なるほど当時のわたしも、上下背広、プレーヤー、電気コタツをもっていた。 アルバイトの種類と数もふえてきた。とくに、経済の高度成長と大衆受験社会によって、それまでなら、一部の有産階級に限定されていた家庭教師というアルバイトの求人が急増した。高校進学率は1960年の57・7%から65年には70・3%、同じ年度の大学進学率(短大含)も10・3%(60年)から17・0%(65年)に急上昇している。家庭教師をかけもちすれば、相当な金額になった。家庭教師などの割のよいアルバイトの増大は、影の奨学金となり、所得再分配の機能をはたしはじめた。合同ハイキング そんなことからわたしたちの世代の学生は、上級生から「最近の新入生は贅沢」といわれた。経済の高度成長が学生生活にも及んできたはしりだった。 男女学生の合同ハイキングの略称で、「合コン」の元祖となる「合ハイ」もこのころからさかんになった。戦後、大学の共学化はひろがったとはいえ、有名大学のほとんどは男子がほとんどで、女子のかなりは、女子大学に進学した。キャンパスは男女の出会いの場になりにくかった。そこで、サークルなどのつながりで、合同ハイキングが企画されたのである。男女交際がまだいかがわしいイメージをもつ時代であればこそ、出会いの手段として健全このうえないハイキングが選ばれて、帳尻があわされたのであろう。 教育社会学者岩田弘三は、このような「合ハイ」が流行現象になったのは、早くとも1950年代後半という(「デート文化の今と昔」武内清編『キャンパスライフの今』(玉川大学出版会、2003)が、まさに学生文化への消費社会の浸透による男女交際(デート)文化だった。 だから、学生文化の消費社会化は1950年半ばに芽生えてはいた。しかし、親の脛かじりかアルバイトによる収入の大学生の生活は世間水準からみれば、消費社会化の度合いは遅れていた。そのぶん理想主義=進歩主義の余燼(よじん)がのこっていた。1961年の四年制大学進学率は同年齢人口の9・4%(男15・6%、女3・0%)にすぎなかったから、キャンパスには大学生のエリート意識と相関しながらの理想主義の炎がなおつよかった。理想主義=政治主義は、無条件で消費社会の気分にひたることを潔しとさせないところがあった。進歩主義のキャンパス文化 60年安保闘争後のキャンパスはいくぶん静かになったが、まだ学生運動もさかんだった。学生運動団体は分派が分派を生む状況だったが、それでもキャンパスは学生運動のアジ演説や立て看で騒々しかった。 安保闘争がおわり池田内閣が登場した4ヵ月あとに、『京都大学新聞』(1960年11月14日)による「京大生の政治意識」調査がなされている。安保闘争を学生運動としてリードした共産主義者同盟(ブント)のような「新左翼」支持は2回生で8%いるものの、3、4回生(4%)や1回生(2%)では少数派である。全学連主流派と反主流派(日共系)については、「どれも支持しない」が半数以上でもっとも多い。しかし安保闘争の性格についてみると、半数以上が「民主主義の危機からたちあがった」としてとらえている。 「安保闘争の評価」については、民主勢力が「前進した」と「敗北した」の間の「どちらともいえない」が半数近くでもっとも多いが、「敗北した」(6%、3、4回生)と評価するものよりも「前進した」(44%、3、4回生)と評価するものが多い。3・4回生の支持政党調査では、社会党支持が前回(5月調査)の39%をおおきく上まわり半分近くの48%になっている。共産党系学生運動はもとより、非共産党系学生運動団体にもコミットメントしたくないが、革新的立場である学生が多かったということがわかる。 こういう当時の大学生政治意識調査をみれば、大学生の間には丸山眞男のいう在家仏教主義(革新市民主義)が浸透したということにはなる。 丸山眞男の『現代政治の思想と行動』(未来社、(上)1956、(下)1957)は、安保改定反対運動のときは、大学生の必読文献だったが、そのあとも勢いはとまらなかった。わたしが大学に入学したのは、60年安保闘争の翌年である。入学早々、あるサークルに勧誘された縁で、先輩の下宿に遊びにいった。このころの大学生の下宿はいまの学生アパートからみれば、殺風景このうえないものだった。本棚と机が目立った調度品といった態(てい)のものだったが、先輩は、難しそうな本が詰まった本棚から、2巻本の白っぽい表紙の本を抜き出した。そして、この上下2冊の本がいかにすぐれているかを滔々と述べ、これを読むのがよい、といった。丸山眞男『現代政治の思想と行動』だった。同じ年の秋(11月)に、丸山の『日本の思想』(岩波新書)がでた。京大生協書籍部と当時、京大正門のすぐそばにあったナカニシヤ書店のベストセラーだった。革新のあらたなうねり こうしたキャンパス文化のもとでは、よほどの保守的思考の持ち主でなければ、大勢(革新文化)に抗することができない。保守派は、バカ者か変わり者とされ、友人にも窮する。いずれかといえば、という程度の保守的思考であれば、萎縮してしまう。立場を決めかねている者なら、早々と革新文化に同化されてしまう。 こんなキャンパス文化だったからこそ、戦後を否定するとして保守派思想家をなで斬りにした大雑把で粗笨なカッパブックス『危険な思想家』(山田宗睦、1965)が大学生の「バイブル」になったりしたのである。『危険な思想家』を刊行した年に、山田宗睦は、東大五月祭をはじめとして、講演やシンポジウムで全国の大学数十校に招かれた。そして、アメリカの北ベトナム空爆を契機として、1965年4月に鶴見俊輔、小田実らを中心に結成されたベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が学生を中心に60年安保闘争後の革新のあらたなうねりをつくりだした。たけうち・よう 昭和17(1942)年新潟県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究学科教授を経て関西大学文学部教授。著書に『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論新社)、『丸山眞男の時代』(中公新書)など。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)
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パラオ・ペリリュー島で両陛下をお迎えして
西村眞悟(前衆議院議員)行幸啓は「とてつもない」こと 天皇皇后両陛下は、大東亜戦争において、祖国を遠く離れた地で戦没した帝国陸海軍将兵を慰霊するため、四月八・九の両日、南洋のパラオ共和国に行幸啓された。 そして九日、同国ペリリュー島に渡られ、その南端において「西太平洋戦没者の碑」に献花され海に向かって深く頭を垂れて黙祷され、続いて西海岸において戦没アメリカ軍将兵の霊を慰霊された。パラオ・ペリリュー島=3月24日(共同) この両陛下の慰霊の行幸啓によって、我が国内では英霊を忘れることなく慰霊される天皇を戴くことへの安堵と感謝の思いが静かに国民の心のなかに湧き上がっているように思える。また、海外の人々も、敵味方の区別も無く戦没将兵を慰霊される天皇のお姿に接し、あらためて、政治的存在としてではなく祈る御存在としての天皇を感じたと思う。 私は、日本は、過去現在未来の国民に支えられて現存し永続する国家であると実感している者である。それ故、太古より我が共同体の存在の中枢にある万世一系の天皇が、遙か南の太平洋に浮かぶ激戦の島ペリリューに慰霊のために皇后と共に行幸啓されることは、目に見えない世界における「とてつもない」ことだという予感を抱いたのだった。 そして、ペリリュー島に行幸啓される両陛下を同島でお迎えしようと思い立った。 そもそも「祈る存在」としての元首を戴いている国が、日本以外の何処にあろうか。しかもその地位の継承は、万世一系である。 古代ローマ建国の英雄やギリシャ神話のゼウスの直系の子孫が現在の国家元首である国がヨーロッパに存在するということを、ヨーロッパ人自身が想像できるだろうか。しかし、彼らの極東の地にある日本は、まさにそのような国なのである。 その国家の元首である天皇が慰霊のためにペリリューに行かれた。これは、世界の諸国民の歴史において、とてつもないことではないか。 そこで、このペリリューへの行幸啓に至る歩みをたどったうえで、ペリリューで両陛下をお迎えした情景をご報告したい。硫黄島、サイパンに眠る英霊とのご対話 昭和二十年八月十五日、「大東亜戦争終結の詔書」が国民に伝達された(玉音放送)。其の詔書において、昭和天皇は「堪え難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ、以て萬世の為に太平を開かむと欲す」と国民に訴えられた。この詔書によって、帝国陸海軍は戦闘行動を停止し、約三百万人の戦死戦没者を出した大東亜戦争は終結した。 それから初めて迎えた昭和二十一年の正月元旦に、天皇は「新日本建設に関する詔書」を発せられ、その冒頭、明治天皇の下された国是である五箇条の御誓文の趣旨に則り、「我が国民が現在の試練に直面し、且つ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途を展開せらるることを疑わず」と述べられ、「一年の計は年頭にあり、朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして自ら奮い自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ」と結ばれたのである。 この詔書を発せられた後、天皇は、戦禍に打ちひしがれた国民を励ます為の全国巡幸を開始された。しかし、昭和六十二年に予定された沖縄行幸は、病のため断念せざるをえなくなり、次の御製を詠まれたのだ。思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさむ つとめありしを そして、昭和天皇は、昭和六十四年一月崩御される。 今上陛下の慰霊の行幸は、この先帝陛下の「たづねて果たさむつとめ」を継承されたものである。 従って、そのお立場は、万世一系の故に昭和天皇そのもの、つまり大東亜戦争の「開戦を命じた天皇」としてのものである。即ち、それは昭和十六年十二月八日、昭和天皇が、開戦の詔書において、「天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す」、「朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事せよ」と命じたお立場である。 そのお立場を継承された今上陛下が皇后陛下と共に、日米両軍の激戦の地である沖縄への度々の行幸啓を果たされつつ、玉砕の島である硫黄島とサイパンへの慰霊の行幸啓を、それぞれ平成六年と同十七年に済まされた。 それから十年の歳月の後、いよいよ本年四月九日、パラオ国ペリリュー島に行幸啓されたのである。これら、硫黄島、サイパンそしてペリリューは、ここが陥落すればフィリピン、台湾、沖縄そして本土への敵の直接攻撃必至の絶対国防圏線上にある。従って、陸海軍将兵は、ここで敵を断固として阻止して祖国を守らんと、最後の一兵に至るまで勇戦敢闘し玉砕したのだった。 従って四月十六日、この絶対国防圏の南端にあるペリリュー島への慰霊の行幸啓を終えた両陛下は、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇と香淳皇后の御陵を参拝され、ペリリュー慰霊を終えられたことを先帝陛下に報告されたのだ。 そこで、天皇皇后両陛下の、西太平洋の硫黄島、サイパンそしてペリリューへと南に下るラインの最初の硫黄島行幸啓に際して歌われた御製と御歌を思い起こすとき、込み上げる思いを禁じ得ない。 天皇陛下は、硫黄島において、精魂を 込め戦いし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しきと歌われた。 この御製は、明らかに二万の将兵と共に玉砕した指揮官栗林忠道中将の大本営に対する訣別電の、「国のため 重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」を受けて、その「悲しみ」に応答されたものである。これこそ、我が国の伝統である歌において対話を果たす「天皇と民の絆」であろう。 そして、皇后陛下は、慰霊地は いま安らかに 水をたたふ 如何ばかり君ら 水を欲りけむと歌われた。 硫黄島は火山島であり雨水以外の飲料水はない。従って、この島の地熱で五、六十度の高温になる地下壕に潜って戦った二万の将兵の想像を絶する渇きを、皇后陛下は察せられて、将兵らに、「君ら」、と呼びかけられたのだ。 天皇皇后両陛下は、戦没英霊と対話をされ、まさに彼らの苦しみを我が苦しみとして感じようとして慰霊の行幸啓を、硫黄島からサイパンそしてペリリューまで続けられたのである。 これまで、硫黄島に駐留している自衛官達の間では、夜寝るときは枕元に喉が渇いた戦没者の為にコップ一杯の水を入れておかなければうなされるとか、夜中宿舎の外を大勢の隊列が通るような軍靴の音がするとか、夜中に部屋の中で旧軍の兵隊としきりに話している者がいるとかの怪奇な現象が報告されていたという。しかし、天皇皇后両陛下の行幸啓以来、それらの怪奇現象の報告は無くなったと聞いた。島における天皇と皇后の慰霊によって、未だ島の地下に眠る将兵の霊が慰められて鎮まられたのであろうか。 即ち、天皇皇后両陛下の玉砕の島への行幸啓は、両陛下の「英霊との対話という鎮魂」であったのだ。 次に、この度のパラオ国ペリリュー島における、両陛下のその鎮魂の情景をご報告する。これまで、両陛下が慰霊の行幸啓をされた硫黄島とサイパンに、後を追うように慰霊の旅を果たしてきた私は、この度、七名の同志とともにペリリュー島で両陛下をお迎えし、両陛下と共に英霊の慰霊を果たすことができた。目眩するほど広大な戦域に眠る英霊たち目眩するほど広大な戦域に眠る英霊たち 昨年に、両陛下がパラオ共和国の日本軍玉砕の島ペリリューに慰霊の行幸啓をなさることが知らされたとき、これまで硫黄島からサイパンまで慰霊されてきた両陛下が、いよいよ広大な西太平洋と東アジア全域を俯瞰される位置にあるペリリューにおいて、大東亜戦争の全戦没者を慰霊されることになるのだという思いにかられ、その広大な海空域を脳裏に思い描こうとした。そして目眩に似た感覚に囚われた。 大東亜の戦域はこのように広大であり、百万を超える英霊は未だここに眠っている。そして、万世一系の天皇は、皇后と共に国家元首の「たづねて果たさむつとめ」としての、英霊との対話という慰霊の行幸啓を続けられてきた。このような「祈る存在としての元首」を戴く国が日本以外のどこにあろうか。 従って、天皇のペリリュー島での慰霊は、世界諸民族の精神史上、とてつもないことではないか。ひょっとしたら英霊が喜び広大な地面の底から海の底から、祖国を支えようと力強く出てくるのではないか。このような思いを止めることができなかったのである。 そして、行幸啓が行われる本年の一月一日の元旦、産経新聞朝刊の一面には、「米軍を畏怖させた忠誠心 パラオ・ペリリュー島の戦い」という大見出しのもとに、パラオの透き通ったサンゴの海に沈む帝国海軍の零式艦上戦闘機の写真が掲載され、「天皇の島から」の特集が掲載されていた。そして、「天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。…両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が『天皇の島』と呼んだ南洋の小島(ペリリュー島)から歩みを始める」と特集の動機を書いている。 この産経新聞の一面大見出しを見たとき、いよいよ両陛下のペリリュー島行幸啓によって、「戦後の転換点」つまり「日本を取り戻す転換点」がきたとの思いを深くした。空港があるバベルダオブ島と中心街があるコロール島をつなぐ日本のODAで建設された通称「日本・パラオ友好橋」では、日本国旗の取り付け作業が行われた=4月6日、パラオ(松本健吾撮影) 何故、アメリカ軍がペリリュー島を「天皇の島」と呼んだのか。それはペリリュー島に立て籠もる日本軍兵士の驚くべき勇戦敢闘に直面したアメリカ軍が、その日本軍の兵士一人一人の強さが天皇への忠誠心からもたらされていると判断したからである。 その判断は正確であった。圧倒的な物量を投入して二、三日で日本軍を駆逐できるとみて島に上陸してきたアメリカ第一海兵団は、損耗率六割を超えて「全滅」の評価を下され撤退したのである。これは、アメリカ軍にとって想像を絶することであった。天皇への強い忠誠心即ち祖国への強い忠誠心を心に秘めた日本軍兵士が、この想像を絶することを為したのだ。警備を心配したが… さて、この「天皇の島」であるペリリュー島への行幸啓が、画期、転換点となると感じた時から、日を経るに従い、私には、警備への懸念、心配が大きくなっていった。 両陛下のご日程は東京パラオ間往復六千キロを一泊二日であり、しかもご宿泊先は狭いエンジン音の絶えない巡視船艦内である。大丈夫かと思った。 さらに、ご宿泊先が巡視船になったのは、警備上の問題であるという。そうであれば巡視船で大丈夫なのか。そもそも天皇陛下の「お召し艦」は国家の存在そのものである「軍艦」でなければならんではないか。イージス艦を含む数隻の護衛艦と潜水艦が「お召し艦」の護衛に当たり両陛下にご宿泊していただく。これが元首移動時の世界の常識ではないか。 戦前と同じ軍艦旗を掲げたこの護衛艦群がコロール沖に来れば、親日国パラオの国民は、「ああ、あの懐かしい日本が戻ってきた」と如何ばかり喜ぶか。安倍内閣は、何故、このような当然の措置を決断できないのか。 また、陛下が皇太子であられた昭和五十年七月十七日、妃殿下とともに沖縄糸満の「ひめゆりの塔」に献花されようとした際、六日前から塔の横にある壕の中に潜んでいた過激派が皇太子殿下に火炎瓶を投げつけるという事件があった。彼ら過激派は、沖縄戦の戦い方を学び、日本軍がしたように壕に潜んでいたのである。私は、ペリリュー島の至る処に壕を掘って立て籠もった日本軍の戦法通りにテロリストが島の何処かの壕に潜んで、両陛下を待ちかまえる可能性を思い心配で仕方がなかった。自衛隊の特殊部隊員が事前に密かに島内のジャングルに何日も前から潜んでいてテロリストを監視していなければ安心できない。 私の心配は、杞憂に終わった。しかし、自衛隊や警察の特殊部隊が動いていないはずはないという予感が、妙に私を安心させていたことも確かである。だいたい、監視は目に見えるところではしないのだ。潜水艦はそもそも何処にいるか分からないのであり、特殊部隊は動いているのか動いていないのか分からないから特殊なのである。私が、平成九年五月に尖閣諸島魚釣島に上陸したときも、見渡す限りの海と空に何も無かったが、後に、その時の沖縄の南西航空混成団の司令閣下から、警戒態勢を敷いてレーダーで総て把握していたと、にやりと笑って教えられた。両陛下、ご到着両陛下、ご到着 パラオ共和国は、我が国から三千キロ南の海洋に浮かぶ群島国家であり、人口は二万三百人で、その九割近くがコロール島に住む。コロール島から南に高速ボートで一時間の海上に人口六百人のペリリュー島があり、同島からさらに南に一時間のところに人口百三十人のアンガウル島がある。ペリリュー島では水戸歩兵第二聯隊の日本軍兵士一万一千人が、アンガウル島では宇都宮歩兵第五十九聯隊の千二百人が玉砕した。 両陛下がペリリュー島に行幸啓された九日は、早朝から雲一つ無い快晴であった。黒い礼服を着て表に出ると、フライパンの上の卵のように、肌が太陽に焼かれるのが分かった。そして、家から持参した赤い日の丸に「七生報国」と書いた鉢巻きを眺め、それを額に巻いた。 その時、遙か文永の昔、わずか八十四騎で雲霞の如き蒙古の軍勢に微笑んで突撃して玉砕した対馬の宗助國ら、またその六十余年後に兵庫の湊川で「七生報国」を誓って笑って自決した楠木正成ら、さらに幕末の志士そして維新から大東亜戦争に至るまでお国のために命を献げた英霊が、総てこのペリリューの海空域に集まって来ているように感じた。それ故、一人、海岸に出て、「海ゆかば」を歌った。 巡視船「あきつしま」で宿泊された両陛下は、同船に搭載されているヘリに乗られてペリリュー島に着陸される。 そこで我々は、島の南部のジャングルに隠れた旧滑走路上にアスファルトを敷いて急設されたヘリポートから三百メートルほど離れた十字路に並んで両陛下の到着をお持ちした。炎天下の十字路には、私と奉迎の同志7名以外、パラオの警察官が一人いるだけである。 一時間ほど待機した後、ヘリの轟音が響いてきてジャングルからヘリが現れヘリポート地点のジャングルのなかに降下していった。そしてしばらくすると、両陛下の乗られた中型バスを中心にした六台ほどの車列が道に現れ超低速で近づいてきた。そこにいるのは、パラオの警官と我々八人だけである。しかし、両陛下のバスは、我々の前でほとんど停止したのである。そして、ゆっくりと慰霊地の方に通り過ぎていった。天皇陛下が開けられた窓から手を振られ、皇后陛下はほとんど立たれていた。低頭しているので、停止したように低速になった車輪をみてありがたさが込み上げてきた。その時、隣の友が言った。「皇后陛下と目と目が会った。その瞬間や、涙が吹き出てきた。不思議や」両陛下の車列を追う子供たち 両陛下は、ひとまず休憩所に入られ、それから島の南端の慰霊地に向かわれる。それで我らは、慰霊地から四百メートルほど離れた丁字路に立って慰霊地に入られて出られる両陛下をお迎えしお見送りすることにした。その丁字路にも、我々以外はパラオの人の良さそうな警官が一人立っているだけだ。天皇、皇后両陛下が訪問されるパラオ共和国のペリリュー島にある、日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」で靖国神社と明治神宮の神職らによる慰霊祭が行われた。両陛下のご慰霊に先立ち行われた露払いの神事で、祝詞が奏上され、巫女による神楽も奉じられた=4月7日午後、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) 午前十一時前、両陛下の車列が超低速で慰霊地に入って行かれた。低頭してお迎えしていても皇后陛下がまた立ち上がっておられるのが分かった。そして、三十分後に、慰霊地から出てアメリカ軍慰霊碑に向かわれる両陛下に対し、我々は、元陸上自衛隊大佐殿の音頭で「天皇陛下万歳」を三唱した。 頭を下げて万歳をするわけにはいかないので、「七生報国」の鉢巻きをした私は顔を上げて万歳をした。その前を両陛下が手を振られながらゆっくりと通り過ぎていかれた。 天皇陛下はお顔の色がよく、ご健康そうだと拝見した瞬間に安心した。皇后陛下は透き通るようで弟橘姫の生まれ変わりのお方ではないかと思えた。 私は、衆議院の委員会委員長在任中、国会の開会の際、国会議事堂正面玄関で正装して天皇陛下をお迎えしたことが度々ある。そのお迎えの際、いつも低頭するので、五十センチほど前を通っていかれる陛下の靴や手を拝しても玉顔を拝したことはなかった。従って、ペリリューのジャングルに囲まれた炎天のほこり舞う地道で、初めて両陛下のお顔を間近に拝したのだ。 アメリカ軍戦没者の慰霊を終えられれば、いよいよ両陛下は、ペリリュー島の御日程を終えられて帰国の途につかれる。それで我らは、ヘリポート近くの先ほどの十字路に戻りお見送りをすることにした。 十字路につくと警官は先ほどの一人のままだが、ペリリュー島の人口の半分ほどの人が集まっていた。そして、若い娘さんが我々にも、日本の白地に赤の日の丸の旗とパラオの青地に黄色の月の旗を配ってくれた。 我々は、ここはペリリューの人々が両陛下をお見送りする所だと思い、「七生報国」の鉢巻きを外し、彼らペリリューの人々と共に並んで両陛下をお待ちした。 しばらくして、両陛下の車列が彼方から超低速で近づいてきた。両陛下は、現地の人々一人一人と挨拶を交わされているように見受けられた。 ヘリポートがあるジャングルの方に過ぎ去って行く陛下の車列を、日の丸と月の丸の旗をもった数十名の子供達が喊声を上げて追いかけていった。そして陛下のお車はその子供達の走る速さと同じくらいの低速で進んでいく。一人いた警官は子供達を止め無いので、彼らはジャングルに隠れるヘリポートの間近まで走って行く。その光景を眺めていて、私は、数人の友だちと砂ほこりの田舎の道を走って珍しい車を追いかけた少年時代を懐かしく思い出した。 しばらくしてジャングルのなかからヘリの回転翼が回り始めるエンジン音が聞こえ、それがひときわ高くなって次第に遠ざかっていった。 天皇皇后両陛下は、「天皇の島」ペリリュー島への慰霊の行幸啓を終えられ帰国の途につかれたのである。 翌日、コロールに戻って七名の同志が帰国してから一人になった私は、コロール在住の知人から天皇皇后両陛下の警備に関して次のように聞いた。 パラオ共和国は、二十数年前までアメリカ領だったので、警備はアメリカ流にして、空港からコロールの晩餐会場まで、両陛下の乗られた車を厳重に護衛して百二十キロのスピードで一挙に街中を走り抜けるつもりだった。しかし、陛下の強いご希望で最徐行で走行されることに変更された。そして、両陛下は、コロールの街の人々にゆっくりと挨拶をされながら目的地まで来られたという。 これを聞いて私は、何故、両陛下のお車が、ペリリュー島の人のいないジャングルに囲まれた小道においても、街中と変わることなく最徐行で進んでいたのかが分かった。 両陛下は、かつて七十一年前にこのジャングルのなかに潜んで徹底抗戦して斃れていった一万一千の将兵に挨拶をなされ、彼らと対話をなされながら、人のいないジャングルのなかの道を通られていたのだった。 西村眞悟氏(にしむら・しんご) 昭和23(1948)年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。弁護士を経て平成5年の衆議院選に初当選、6期務める。拉致問題、国防など国家の根本問題に積極的に取り組む。平成9年、尖閣諸島・魚釣島に上陸視察。著書に『誰か祖国を思わざる』(クレスト新社)、『国家の再興』(展転社)など多数。関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い
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記事
親日国家・パラオに忍び寄る影
井上和彦(ジャーナリスト)かつての敵兵との再会を祝す不死身の英雄 「いまも、なぜ私が生き残れたかということが不思議でなりません。このペリリューは私にとって第2の故郷のようなところです」 空と海を真っ赤に染め、いままさに水平線に沈まんとするペリリューの夕陽を眺めながら、御年94歳の土田喜代一氏は感慨深げにそう語った。「西太平洋戦没者の碑」の前で、天皇、皇后両陛下のご到着を待つ土田喜代一さん(右)=4月9日、パラオ・ペリリュー島(共同) 土田喜代一・元海軍上等水兵――大東亜戦争末期のパラオ諸島ペリリュー島攻防戦(昭和19年9月15日――11月24日)で米軍と死闘を繰り広げ、守備隊が玉砕した後も生き残った34人の兵士で米軍に遊撃戦を挑み続けた、まさに不死見の英雄である。米軍の停戦要請を受け入れて日本に生還したのは、昭和20年8月の停戦から1年8カ月が経った22年4月のことだった。 「この一戦に負けるわけにはいかない! 負ければ祖国が危ない! だから戦い続ける!」 そんな至純の愛国心と敢闘精神で戦い抜いた土田さんから筆者に電話があったのは、平成26年春ごろのことだ。 「井上さん、私は今回が最後だと思います。どうか一緒に来ていただけないだろうか…」 ペリリュー戦70周年に這ってでも参加するという英雄の姿を見届けるべく、筆者もパラオに飛んだ。 そして迎えた9月15日、米軍上陸から70年目のその日、ペリリュー小学校で執り行われた“Joint Battle of Peleliu 70th Anniversary Ceremony”(ペリリュー戦70周年日米合同記念式典)で、土田氏は、かつての敵兵だった元海兵隊員ウイリアム・ダーリング氏と対面した。 2人は軍人らしく挙手の礼を交わした後、互いの武勇を称えて抱き合った。参列者は2人に万雷の拍手を送り、平和裏の・再会・を祝福した。土田氏とダーリング氏は何度も堅い握手を交わし、そして来場者席に向き直すと唇を固く結んで再び挙手の礼で祝福の拍手に応えたのだった。 あまりにも感動的なシーンだった。* * 激戦の島ペリリュー――。パラオ共和国に属するこの島は、同国最大の都市コロール島から南へ約40キロの海上に浮かぶ南北10キロ、東西3キロ、面積にして20平方キロの小さな島である。 この島には、500人ほどの人々が暮らしているが、信号機や横断歩道もなく、通信インフラは未整備で、電力事情も貧弱である。観光開発も進んでいない。 しかし、そのために島内には、日本軍の九五式軽戦車をはじめ、日本軍守備隊のトーチカや砲爆撃で破壊された日本海軍の司令部庁舎など、まるで昭和19年9月から時間が止まったかのようにそのまま放置されている。 他にも撃墜された米海軍のアベンジャー雷撃機やグラマンF6Fヘルキャット戦闘機がジャングルの中で無残な姿をさらしている。道路脇の芋畑には零戦もある。山中には、地中に仕掛けられた水中機雷で底部をぶち抜かれたM4シャーマン戦車が横転したまま遺棄されている。 日本軍主部隊が最後まで奮戦した大山山中には、いまでも複廓陣地の中に無数の遺骨が残されており、その数は5000柱に上るものとみられている。 かつて筆者もこの島の遺骨収集団に参加したことがある。 破壊された速射砲の傍に、あるいは戦闘壕の中で草むす屍となった日本軍将兵は、御遺骨ではなく“御遺体”としか呼ぶことができなかった。3人の兵士が並んで白骨化している複廓陣地もあった。うち1人は「宮田」と記したスコップを墓標にしており身元も判明できた。 ある壕で、鉄兜を被ったまま息絶えた兵士のご遺体を目の当たりにした瞬間、私は言葉が出てこなくなり、涙がとめどなく頬を流れ落ちた。そこはまぎれもなく、いまだ終わらぬ“大東亜戦争”の戦場だった。 平成26年9月、安倍政権は、ガダルカナル島で収骨された戦没者の御遺骨を初めて海上自衛隊の練習艦隊で帰還させた。どうかペリリューでも同様の御遺骨帰還事業を進めていただきたい。ペリリューの激戦ペリリューの激戦 昭和19年6月以降、米軍は日本軍の激しい抵抗に大きな損害を被りながらサイパン、テニアン、グアムを手中に収めた。だがパラオ諸島を奪取なければフィリピン奪還は困難となり、台湾、沖縄から北上して九州に上陸するルートが確保できない。こうした理由から米軍は日本の信託委任統治領パラオの攻略に乗り出したのである。 9月15日午前8時、猛烈な艦砲射撃と空爆に援護された米第1海兵師団の上陸用舟艇が島の西及び南海岸に殺到した。ペリリュー攻防戦の幕開けだった。 この方面に睨みを利かせる同島の飛行場の確保が狙いであった。 「3日で陥としてみせる」――マリアナ諸島攻略戦の余勢をかった米軍はそう豪語した。 ところがこの島で彼らを待ち受けていたのは、これまで米海兵隊が経験したことのない日本軍の猛烈な反撃だった。 敵の主力上陸地点となった西岸地区では富田保二少佐率いる日本軍守備隊が、米軍に無血上陸を許したところで猛撃を加え、米上陸部隊を完膚なきまでに叩きのめしたのである。 「話が違うじゃないか!」――上陸初日だけで米第1海兵師団は1000人を超える死傷者を出した。「我々はいったいどんな敵と戦っているのか!」「いままでとは違う!」。米海兵隊史上最悪の光景を目のあたりにした米兵達はこの島を“悪魔の島”と呼んで罵った。 寄せ来る米軍の総兵力は4万2000人。迎え撃つ日本軍守備隊は関東軍最精鋭の第14師団・水戸第2連隊(連隊長・中川州男大佐)を中心とする1万2000人。彼我の兵力比は4対1。制海権・制空権を持たない日本軍の劣勢は論をまたず、勝敗の帰趨は誰の目にも明らかであった。 それまでの島嶼防衛戦で、日本軍守備隊は、米軍の上陸部隊に総攻撃をかける水際撃滅、いわゆる“バンザイ突撃”の戦法をとっていた。しかしペリリュー島では、あらかじめ山をくり抜いて構築しておいた複廓陣地で徹底的な持久戦を戦い抜いたのである。 自身はペリリュー戦の経験はないが、戦後この戦いを研究してきた米海兵隊員のエド・アンダーウッド元大佐がかつてこう話してくれた。「日本兵は実に勇敢に戦った。当初米軍は200人程度の損失でこの島を奪取できると考えたんだがそれはまったくあてはずれだった。日本兵が一発撃つと必ず誰かが殺られた。そう、全員がスナイパーのような腕前で米兵を次々と倒していったんだ」 中川大佐は部下にこう訓示していた。 戦は、つまるところ人と人との戦いである。戦う意志と力をもつものがいるかぎり、戦いは終わらず、勝敗も決まらない。陣地を守る事はその戦いぬくための手段のひとつ。問題はできるだけ多数の敵を倒し、できるだけ長く戦闘をつづけることにある。それには守る陣地が多いほどよかと。半藤一利著『戦士の遺書』文春文庫 その結果、米軍は未曾有の損害を被った。米太平洋艦隊司令長官のチェスター・W・ニミッツ提督は、《ペリリューの複雑極まる防備に克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇%)を甘受しなければならなかったのである。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である》と、その著書『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳)で回想している。アメリカにとってペリリュー攻略戦の代償はあまりにも大きかったのだ。* * 一方、玉砕した日本軍守備隊は1万2000人であるから、日本軍将兵がいかに勇戦敢闘したかがおわかりいただけよう。 土田喜代一氏は、戦後米軍が撮影したドキュメンタリー作品やデータなどを見て驚いたという。 「自分達があんなに敵を苦しめていたとは思いませんでしたね…日本軍もよく戦ったんだということを改めて思いました」(土田氏) 当時、日本の戦局は振るわず、連日暗いニュースが前線から届く中、このペリリューの戦いぶりは大本営幕僚を驚かせ、そして起死回生の逆転を期待させたという。 またペリリュー守備隊の敢闘は消沈していた全軍をおおいに奮い立たせ、ラバウルの今村中将は、部下に「ペリリュー精神を見習え」と訓示するほどその精神的影響は絶大なるものがあった。 そして天皇陛下は、毎朝「ペリリューは大丈夫か」と御下問され、守備隊に11回もの御嘉賞を下賜されたという。ゆえにこの島は「天皇の島」とも呼ばれた。 昭和19年11月24日午後4時、中川大佐は軍旗を奉焼した後、最期を告げる「サクラ・サクラ」を打電し、司令部壕の中で自決を遂げたのだった。ここに精鋭・水戸第2連隊を中心とする日本軍守備隊の組織的抵抗は終焉した。 しかしその後も、健在な連隊将兵57人は中川大佐の厳命により遊撃戦を続けた。山口永元少尉を指揮官とする土田喜代一上等水兵らが昭和22年4月に銃を置いたとき、兵士は34人となっていた。 軍人は最後の最後まで過早の死を求めず、戦うのが務めというものだ。百姓がクワをもつのも、兵が銃をにぎるのも、それが務めであり、務めは最後まで果たさならんことは、同じこと。務めを果たすときは、誰でも鬼になる。まして戦じゃけん。鬼にならんで、できるものじゃなか。『戦士の遺書』 鬼神をも哭かしめた軍人・中川州男大佐が遺した最期の言葉であった。 そして最期の決別電文となった「サクラ・サクラ」は、日本軍将兵の武勇の象徴としていまも地元の人々に語り継がれ、日本軍人は惜しみない尊敬を集めている。 なんと、ペリリュー島にはこうした日本軍将兵の勇気と敢闘を称える『ペリリュー島の桜を讃える歌』なるものが存在するのだ。この歌は地元のトンミ・ウェンティー氏によって作曲され、故オキヤマ・トヨミさんが作詞を担当した。オキヤマ・トヨミさん、むろんこの人も地元の女性である。『ペリリュー島の桜を讃える歌』 1、激しく弾丸が降り注ぎ/オレンジ浜を血で染めた/強兵たちはみな散って/ぺ島は総て墓地となる 2、小さな異国のこの島を/死んでも守ると誓ひつつ/山なす敵を迎え撃ち/弾射ち尽くし食料もない 3、将兵は“桜”を叫びつつ/これが最期の伝えごと/父母よ祖国よ妻や子よ/別れの“桜”に意味深し 4、日本の“桜”は春いちど/見事に咲いて明日は散る/ぺ島の“桜”は散り散りに/玉砕れども勲功は永久に 歌は、日本軍将兵の戦いぶりを称賛して8番まで続く。歌詞に説明は不要だろう。 米軍の上陸直前、日本軍守備隊は島民をコロール島へ退避させ、自らは玉と砕けた。住民が戦禍に巻き込まれずに済んだことを忘れてはならない。このことがパラオの人々をして日本軍への賞賛と感謝に繋がっているのである。この島の住民にとって彼らは“英雄”なのだ。超親日国家の誕生超親日国家の誕生 そんな日米両軍の大激戦地ペリリュー島を抱える「パラオ共和国」の国旗“月章旗”は、実はこの国の親日感情が大きな影響を与えていた。 日本、バングラデシュそしてパラオの国旗を合わせて“日の丸三兄弟”と称していた名越二荒之助元高千穂商科大学教授(故人)はその意味するところをこう語っている。 ――大東亜戦争におけるペリリュー・アンガウル両島での激戦で日本軍将兵が勇敢に戦い玉砕していったことが、パラオの人々の胸に深く刻まれ、同国がアメリカの信託統治から独立する際の国民投票で日本の国旗をデザインした月章旗が選ばれた――日章旗にデザインが似ている、パラオ共和国の国旗。背景の青色は海、黄色い丸は月を表しているという=2014年12月8日、パラオ共和国・コロール島(松本健吾撮影) 1947年から国連の太平洋信託統治領としてアメリカの統治下にあったパラオ諸島は、1980年の国民投票によって自立を決定する。その翌年1月にハルオ・レメリック氏が初代大統領に選出され、自治政府を発足させた。後にパラオはアメリカとの自由連合盟約(=アメリカ合衆国が軍事施設と運営権を保有し、安全保障上の全権と責任を負うという事実上の保護国条約)を模索し、1994年になってようやく「パラオ共和国」が誕生したのである。 独立までの道のりは決して安易なものではなかったが、その土台となったのは、日本の委任統治時代の近代化だった。 かつてスペイン領だったパラオ諸島は、19世紀末にドイツへ売却され、第一次世界大戦後から30年間、日本の委任統治が行われた。国際連盟による日本の内南洋委任統治が決定したのが1922年(大正11)。これを受けて日本政府はパラオに「南洋庁」を設けて南洋統治の行政機関とした。 日本からは大量の移民が押し寄せ、その人口は現地民の4倍にもなったという。そうした邦人移民は漁業や燐鉱石の採掘で生計を立て、また鰹節の生産や米の栽培にも取り組んだ。 日本統治時代のパラオでは、台湾や朝鮮の統治に習って、インフラ整備をはじめ教育制度や医療施設の整備が行われ、生活水準の向上が積極的に推し進められていったのだった。 当時、英国ロンドン・タイムスの記者は、「内南洋の人々は、世界の列強植民地の中で、最も丁寧に行政されている」と報じている。(『歴史群像』・34/学習研究社) 日本の南洋政策の中心だったパラオは、またラバウルなど重要拠点に向かう輸送船団の中継基地としてたいそう賑わったという。 そんな日本統治時代の残照は、首都が置かれたコロール島内の随所に見ることができる。 当時のパラオ支庁は現在も最高裁判所として使用され、共和国議会の建物やパラオ高校の校舎も日本統治時代のものがそのまま使用されている。「朝日球場」という名の野球場も健在だ。日本軍機のものと思われるプロペラが門柱として使われている民家もあるから面白い。 そして日本統治時代に造られた在留邦人のための日本人墓地なども当時のままで、戦後は数多くの戦没者慰霊碑が建立されている。 こうした日本統治領を経験したパラオでは、いまも日本語を話す年配者も多く、当時持ち込まれた多くの日本語がそのままパラオの日常語として定着している。寄合所に行けば、お年寄りから日本語で話しかけられたりするので日本統治時代との距離が一層縮まる。 「オカネ」(お金)、「テッポウ」(鉄砲)、「コイビト」(恋人)、「ドクリツ」(独立)、「レキシ」(歴史)、「サビシイ」(サビシイ)、「デンワ」(電話)、「ベンジョ」(便所)…。 31年間の日本統治で、500もの日本語がパラオ語になったのである。下着のパンツをパラオでは「サルマタ」(猿股)といい、女性用下着を「チチバンド」(乳バンド)というから面白い。 ちなみに私の選ぶ「日本語系パラオ語」の大賞は、「ツカレナオース」(疲れ治ーす)である。「ビールを飲む」という意味で、現代と変わらぬ当時の日本人のユーモアに、なんともいえない親近感を覚えるのは決して私だけではないだろう。* * 2006年10月、パラオ共和国の首都がコロール島から同国最大のバベルダオブ島マルキョク州に遷された。 面白いことにパラオ共和国の国旗が日の丸をモチーフにした月章旗だが、首都マルキョク州の州旗も旭日旗をモチーフにしたものでこの国の親日度をよく表している。 バベルダオブ島の総面積は約330平方キロでパラオ共和国の面積の約7割を占めており、周辺地域でもグアム島(約550平方キロ)に次ぐ大きさだが、その大部分が未開発の状態にある。 そんなことも手伝ってか、ペリリュー島と同じく戦跡や遺棄された兵器も数多く残っている。日本軍の水陸両用戦車の「特二式内火艇」や無傷の日本軍海岸砲陣地、高射機関砲陣地など、極めて珍しい兵器や日本軍防御陣地がほぼ完全な状態で残されており、軍事史研究者にとっては極めて関心の高い場所なのだ。 こうした戦跡の中に、ポツリと建つのが日本人とパラオ人の戦没者慰霊塔だ。この慰霊塔は、この地で収集された戦没者の遺骨が納骨されている場所で、いわば合同墓地だ。 いまは訪れる人もめっきり減ってしまった戦没者慰霊堂だが、まだ戦争経験者が社会の第一線で元気に活躍していた頃は、多くの人々が慰霊にやってきたことだろう。慰霊塔も、昭和61(1986)年9月に、日本を代表する一流企業群の寄付によって建立されている。国会議事堂そばに韓国が反日記念碑国会議事堂そばに韓国が反日記念碑 その新首都マルキョク州のあるバベルダオブ島とかつての首都コロール島は、幅約250メートルの海峡で隔てられており、かつては船で往来しなければならなかった。 そんな不便を解消すべく1977(昭和52)年に両島を結ぶ「KBブリッジ」(Koror-Babeldaob Bridge)が韓国のSOCIO社によって建設された。パラオ共和国が好んで韓国の建設会社を選んだのではなく、国際競走入札時に韓国SOCIO社が日本の大手建設会社の半額で落札したのだった。 しかし、そのためにパラオは“安かろう悪かろう”を身をもって知る事になる。 1996(平成8)年9月29日、韓国製KBブリッジは、橋中央部が折れて海峡に崩落。事橋を通過中の地元民2人が死亡し多数が負傷したのである。 被害はそれだけではなかった。バベルダオブ島から供給される電気や水道などのライフラインもがKBブリッジに通されていたため、首都コロールの機能は麻痺し、当時のクニオ・ナカムラ大統領が国家非常事態宣言を出すほどだったのだ。 そこでパラオ政府は韓国の建設会社SOCIO社に損害賠償を請求したが、20年以上パラオに居住している日本人によれば、韓国側は「こんなことは韓国ではよくあることだ」と一蹴して雲隠れしてしまったというのだ。呆れてモノが言えない。 その翌年、日本政府の援助で新たな橋を架けることが決定、鹿島建設がこの事業を担って2002(平成14)年に新KBブリッジを完成させたのである。この日本製KBブリッジは、韓国製とは比べものにならないほど立派で、パラオ政府はもとより地元民は「やっぱり日本が一番!」と絶賛しているという。 この新KBブリッジの正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge」(日本パラオ友好橋)となり、橋の上にも橋脚にも日本とパラオの国旗が“兄弟旗”のように並んで両国の友好を謳いあげている。 しかし、これに懲りないのが韓国である。「日本パラオ友好橋」完成2年後の2004年、「韓國人犠牲者追念平和祈願塔」なる“反日記念碑”を、あろうことかパラオ共和国の新首都マルキョク州の国会議事堂から150メートルほどの距離に建てたのである。 そこには英語とハングル文字でとんでもない歴史の捏造碑文が刻まれている。韓国人犠牲者の苦難 相当数の韓国人が、大日本帝国に主権を奪われ、第二次世界大戦前に祖国、両親、兄弟、姉妹、妻、子供から遠く離れたパラオに連行され、移住者という口実の下、日本軍のために農業、鉱業、漁業、要塞構築といった重労働に従事した。しかし、第二次世界大戦勃発後、当地における全ての韓国人労働者は日本軍に徴発された。韓国人女性は、エンターテイナーとして日本兵のために働くことを強いられた。太平洋戦争末期、パラオ地域における韓国人は5000~6000人にまで増加し、その中にはエンターテイナーとされていた韓国人女性約500人や、満州のいわゆる関東軍とともにパラオに来た相当数の韓国人兵士が含まれていた。そして、当地における韓国人は隔離され、文字通り奴隷とされた――2000人にものぼる韓国人が、飢餓、病気、日本人による虐待・暴行、事故、米国機による空襲のため悲痛な死を遂げたとされる。戦時中に建設された橋の一つに、通称アイゴー橋と呼ばれていたものがあり、地元の人々に広く知られていた。アイゴーというのは、韓国人が非常に極限の困難な状況において発する韓国語の感嘆詞である。(略) 2004年12月 海外犠牲同胞追念事業会 会長 李龍澤 韓国が反日宣伝ツールとして利用する慰安婦が「エンターテイナー」として登場し、これでもかと日本を攻め立てているのだ。かつて栄えたコロール島の花街である芸者通りに行った人がいたたならお分かりいただけるだろうが、あんなちっぽけな花街に500人もの慰安婦が居住するなど、あり得ない。このバカバカしい碑文に呆れてモノが言えないのは私だけではないだろう。 だがこの碑が建てられた年に注目していただきたい。米カリフォルニア州グレンデール市に慰安婦像が設置された2013年の9年も前である。こんな早くから、日本軍による慰安婦強制連行を訴えた韓国の反日記念碑が親日国家パラオに建立されていたわけだ。韓国“情報戦”に危機感なき日本韓国“情報戦”に危機感なき日本 26年夏に現地を視察し、この事態を問題視している元防衛大臣政務官の自民党参議院議員・佐藤正久氏は、こう語る。 「たしかに日本統治時代のパラオには朝鮮半島出身者もいたでしょうが、碑文にある数字はずいぶんと誇張されたものでしょう。もとより韓國人犠牲者追念平和祈願塔なるものは、その建てられた場所、碑文の内容のどれをとっても日本を貶めようという意図が明らかです。さらに建立主が海外犠牲同胞追念事業会なる民間組織を名乗っていますが、間違えれば大きな外交問題に発展しかねない場所にこの極めて政治的な記念碑を建てたわけですから、その背後に韓国政府が直接間接的に関与していることは疑う余地がありません。つまり韓国の対日情報戦とみるべきでしょう。日本はもっと“情報戦”について真剣に取り組まなければなりません」 そして佐藤議員は、パラオが中国の戦略目標である第2列島線の南端に位置し、日本の安全保障にとっても重要な国であると力説した上で、日本人の危機感の欠如を訴える。 「日本を非難することを目的としたこうした韓国の記念碑がパラオの国会議事堂の近くに建てられたということは、日本とパラオの関係が希薄になっている証左であり、パラオとの関係を強化する必要があります。韓国のこの記念碑も大きな問題ですが、一方で、パラオ各地に建てられた日本の戦没者慰霊碑などが高齢化に伴う参拝者の減少で、年々朽ち果ててゆく様を放置しておくわけにはまりません。日本政府が責任をもってこうした慰霊碑も整備してゆくべきでしょう。いずれにせよ、韓國人犠牲者追念平和祈願塔建立問題は、日本政府とりわけ外務省の情報戦に対する認識不足と、安全保障感覚および先人に対する感謝の気持ちの希薄化の結果であり、これらを根本的に改善してゆかねば、親日国家として知られたパラオがいつしか韓国や中国に取り込まれて反日国家の仲間入りする恐れがあります。日本政府も外務省もこうした危機感をしっかりともってもらわねば困るのです」 佐藤議員は、激戦の島ペリリューに建つ第二次世界大戦記念博物館(戦争記念館)の整備に尽力した唯一の日本の政治家である。かつて日本軍の兵器は、とても展示とはいえない状態にあり、訪れた「むさしコーポレーション」社長、横山高司氏がその惨状を見るに見かねて私財を投じて補修・整備を行なったのである。その際、国会議員の中で佐藤正久議員だけが横山氏の志に思いを寄せて協力した。 横山氏はいう。 「日本の兵器は床に転がっているような状態でした。これでは勇戦敢闘して亡くなっていった日本の将兵が浮かばれないと思い、アメリカ人館長のディビット・マクレーン氏に掛け合って展示コーナーの整備に乗り出したのです。整備には3年かかりましたが、これで英霊が喜んでいただけると思えばその苦労もなんということはありません。しかし本来こうした戦争記念館の整備は日本政府がやるべきものではないでしょうか」 まったくその通りである。 だが日本大使館は無関心だった。 戦争記念館の補修整備はもとより、屈辱的な先の韓国反日記念碑を、なぜ在パラオ日本大使館は黙ってみているのだろうか。外務省本省にしっかりと報告されているのだろうか。日本の外務省の怠慢な仕事ぶりと危機意識の希薄さに、あらためて苛立ちと怒りを覚える。 横山氏は、記念館の天井が雨漏りしているので、平成27年4月にも予定されている天皇皇后両陛下の御行幸啓までになんとかしなければならないと気をもんでいるのだが、日本大使館はこのことに気付いているのだろうか。両陛下が国会議事堂をご訪問されたとき、あの韓國人犠牲者追念平和祈願塔をどう説明するつもりなのか。 親日国家の代表格たるパラオに土足で乗り込んで反日をまき散らす韓国という“病人”につける薬はないものかと思う一方で、日本の外務省の再教育が急務ではないだろうか。* * 一方で、冒頭に紹介した今年2014年(平成26)9月15日の日米合同ペリリュー戦70周年記念式典は、共に戦かった日米両国であったからこそ、式典に参加した米海兵隊太平洋基地司令官のチャールズ・L・ハドソン少将はスピーチで、熾烈なペリリュー戦での日米両軍の尊い犠牲を称え、参列した歴戦の勇士・土田喜代一氏とウイリアム・ダーリング氏に敬意を表したのだった。 ハドソン少将は沖縄の在日米軍基地から参加したとのことだった。 恩讐を超えた友情の表意は心に響く。だが、当時は日本国民として共に戦いながら、戦後は犠牲者を装って悲哀をぶつけて恥じない韓国とは大きな違いである。 ペリリュー島での日米合同式典は、これまでも、今回の70周年と同様にお互いの武勇を称え合い、まさに“昨日の敵は今日の友”というスタンスで執り行われてきた。 1999年(平成11)9月15日、ペリリュー戦55周年の慰霊祭が旧ペリリュー神社で慰霊祭が執り行われた際、元米海兵隊員らは恭しく神社に玉串を捧げ、勇敢に戦った日本軍将兵に敬意を込めて神殿に敬礼した。その光景は実に感動的だった。このとき、元米海兵隊員らは異口同音に日本軍兵士の敢闘精神と武勇を称え、うち一人はこういった。 「私は、白兵戦で11カ所に切り傷を負ったが、日本兵は本当によく戦ったと思う。勇敢だった。劣勢の中であれほどの戦いをみせた日本軍将兵こそ英雄だよ」 2004年(平成16)9月15日、ペリリュー戦60周年の記念式典にも土田喜代一氏が参加し、かつての敵兵・米海兵隊員のエドワード・スミス氏とビル・カンバ氏と固い握手を交わして“再会”を祝っている。この年は、コロール島でもペリリュー戦60周年の記念式典が開かれた。国立競技場に設けられた式典会場に、日本・アメリカ・パラオの3カ国の国旗が入場し、続けて米海軍兵士らが勇壮なマーチと共に隊列を組んでやってきたのである。 この式典には、パラオ大統領やアメリカ大使らが列席されていたが日本の駐パラオ大使の姿がひな壇にあった。中国と韓国がぐずぐずと言い続ける“被害者と加害者”の関係を示すような立ち位置ではない。かつてこの地で勇敢に戦った国として、堂々と胸を張っての参加であった。そしてこの式典で最も感動したのは、地元パラオの学生諸君による行進だった。学生らはパラオ、アメリカ、そして日の丸の小旗を振りながら式典会場を行進したのである。 このパラオでの式典こそが、歴史と正視した姿であろう。中国の進出に危機感なし!式典を欠席した日本大使中国の進出に危機感なし!式典を欠席した日本大使 平成26年の70周年記念式典には、パラオ共和国のトミー・レメンゲサウ大統領、在パラオ米大使館のトーマス・E・ダレイ代理大使、クニオ・ナカムラ元パラオ共和国大統領が参加した。 式典が始まると、日本・アメリカ・パラオの各国旗と米海兵隊旗が会場に入場し、なんと日本国国歌「君が代」が最初に演奏され、続いてアメリカ合衆国国歌、パラオ共和国国歌が演奏されたのである。米海兵隊の高配だろう。 ところがあろうことか、肝心の日本大使館の田尻大使の姿がなかったのだ。パラオの日本大使館にとって、この記念式典出席よりも優先されるべき職務などあるのだろうか。しかも入場してきた日本国旗「日の丸」の旗竿の竿頭が、日本の神話に基いた金の玉ではなく、米国国旗や海兵隊旗のそれと同じ鏃型のものとなっていた。事情を聞いてみると、日本大使館から借りてきたものだというではないか。旗手も日本人ではなく明らかにパラオ人であった。他国の人に国旗を預けて自らは参加しないとはどういうことなのか。日本大使館は猛省すべきである。 こんなことでは親日国家パラオの人々はもとより、同盟国日本への配慮をしたアメリカ合衆国および軍関係者の参列者を失望させはしまいか。 今後は、日本大使は必ずペリリュー戦記念式典には参列し、戦没者への感謝と哀悼の意を述べると共に日本国のプレゼンスを示していただきたい。また今後は自衛隊の高官も参列すべきと考える。というのも、式典には在日米海兵隊の高官の他、オーストラリア軍も参加しており、将来のアジア太平洋地域の安全保障を睨んだものだからである。 実はオーストラリアは、南太平洋諸国がそれぞれの国の排他的経済水域の哨戒監視ができるように「パシフィック級哨戒艇」を提供しており、パラオもその提供を受けた国の一つなのだ。1996年5月に引き渡された艇は、初代大統領ハルオ・レメリックの名をとって「President H.I.Remeliik」と命名され、目下周辺海域のパトロールの任務に就いている。実はこの艇は、2012年(平成24)3月31日にパラオ海域内で違法操業していた中国漁船を取り締まろうとした際、例の如く中国船が激しく抵抗したためやむを得ず発砲、その結果、中国人船員1人が死亡したという事案の当事者である。こうしたパラオの毅然とした対応姿勢は、日本も見習うべきであろう。 いずれせよ、こうして南太平洋の安全保障に積極的にかかわるオーストラリアまでもが式典に参加しているのであるから、いまや2プラス2(外務・防衛担当閣僚協議)を実施する・特別な関係・となった日豪両国にとってこの式典は太平洋地域の安全保障について話し合う絶好の機会となろう。 哨戒艇「President H.I.Remeliik」の艦番号は001、パラオ共和国初の海上警察艦艇なのだが、そもそもパラオ共和国は、海軍はもとより沿岸警備隊のような海上警察力も保有していなかった。だからパシフィック級哨戒艇の保有は画期的なことだった。 パラオ共和国は、内政・外交はパラオ共和国政府が行なうが、独自の軍隊は保有せずアメリカ軍がパラオの安全保障を担うことになって今に至っている。アメリカがパラオを重要視するのは、この国が中国の太平洋進出目標とする「第2列島線」の南端に位置し、日本列島とオーストラリアを結ぶ線上にある戦略の要衝だからである。加えてパラオは、台湾と外交関係を樹立しており中国とは国交を結んでいない。 一方、中国もパラオへの進出を虎視眈々と狙っており、水面下の侵攻はすでに始まっている。中国資本のホテルが建設中で、多くの中国人観光客がやって来ているという。また“実業家”を名乗る中国人がパラオ諸島南端のアンガウル島の観光開発をエサに島の買収を目論んでいるという情報もあり穏やかではない。 アンガウル島は、ペリリュー島の南西約10キロに位置する人口わずか120人程度の島だが、なんとこのアンガウル州の州憲法第12条1項では、パラオ語、英語に加えて日本語が公用語として定められているのだ。中国は、そんな島の“無血占領”を狙って魔の手を伸ばし始めているのだ。 だからこそ、この戦略の要衝パラオに日米豪の安全保障関係者が参集して今後の太平洋地域の安全保障を協議することに意義があり、地域の安全保障にとっての大きな抑止力となることはここであらためて論じるまでもなかろう。* * 今次、ペリリュー戦70周年記念式典に参加した後、ペリリュー島内の戦跡を散策したとき、ある落書きに胸を打たれた。 海岸付近で米軍を迎え撃った高崎歩兵第15連隊の千明大隊トーチカの中にその落書きがあった。 GOD BLESS ALL THE BRAVE SOLDERS(すべての勇敢な兵士達に神のご加護あらんことを)パラオのペリリュー島にある米軍の慰霊碑=3月27日(共同) 圧倒的物量を誇る米軍の前に敢然と立ちはだかり、最後まで勇敢に戦った日本軍将兵は実に立派であった。 戦争は悲劇であり、これを望む者はいない。 しかし、父母兄弟、妻や子をそして祖国を護らんと戦陣に散っていった幾百万の将兵達は、至純の愛をもって我々の御楯となってくれたことを忘れてはならない。 ペリリュー神社には日本人を驚かせる石碑がある。それは、敵将・アメリカ太平洋艦隊司令長官・C・W・ニミッツ提督から送られた賛辞がそのまま石碑となっているのだ。 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」 国を守るために尊い生命を捧げた軍人に対する感謝は、世界の常識なのだ。にもかかわらず日本人は忘れてしまっている。ひたすら祖国の平和と弥栄を願い、北の荒野にそして絶海の孤島に散華された先人達のことを。 パラオでは現在も日本軍将兵の武勇は地元の人々に語り継がれており、この国を訪れる日本人は、きっとパラオの人々の親日感情や今も残る日本語に驚き、そして感動することだろう。 天皇皇后両陛下がパラオに行幸啓されるとのご計画が発表された直後、再びペリリューの英雄・土田喜代一氏の声が電話越しに私の耳朶を打った。 「井上さん、陛下がおいでになるなら、たとえ車椅子になっても、這ってでももう一度パラオに参ります!」 背筋の伸びた感極まった声であった。いのうえ・かずひこ 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。著書に『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など多数。関連記事■ 呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■ 朱子学の影を引きずる朴大統領の反日■ 本当は「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべて捏造
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帰還兵が語るペリリュー島の激闘、そして生還
土田喜代一(元大日本帝国海軍二等兵曹)聞き手:井上和彦(ジャーナリスト)*3月21日、靖國神社遊就館で開催された雑誌『正論』主催講演会の内容を再構成したものです。「杖にすがっても行きます」井上 この4月8日、9日、天皇皇后両陛下がパラオ共和国を公式訪問され、ペリリュー島に渡られます。かつて土田さんが、米軍と戦われた場所です。土田 去年の9月15日、米軍ペリリュー上陸から70周年の日米合同記念式典に孫と参加したときには、これが現地訪問の最後の機会と思っていました。その後に陛下がペリリュー島を行幸啓されると知り、びっくりしました。パラオ、ペリリュー島は非常に交通の便が悪く、お年を召された両陛下にとってはご訪問なさるのは大変なことです。あの地で散華され、靖國神社に祀られる一万余柱の英霊は、両陛下がペリリュー島に来ていただけるとは、夢にも思っていないと思うんですよね。実際に来られたら、どんなに嬉しいことか。是非両陛下と会ってもらいたい。私も杖にすがってでも現地に行って、英霊たちに両陛下と会ってもらいたいと思うようになり、再び現地を訪れる気になりました。井上 明日(3月22日)は皇居に招かれ、両陛下にお会いになるそうですが。土田 陛下がどんな質問をなさるのか心配で、頭がくらくらしております。井上 実は私も土田さんに「陛下のご質問にどう答えたらいいのか」と電話で聞かれたんですが、さすがに私にもなんとお答えしたらよいか分かりませんでした(笑)。先の大戦での激戦地、ペリリュー島から生還した土田喜代一・元海軍上等水兵(左端)、永井敬司・元陸軍軍曹(左から2人目)から話を聞かれる天皇、皇后両陛下=3月22日 皇居・御所「応接室」(宮内庁提供)井上 ここで少し、ペリリュー島について説明させていただきます。大東亜戦争の大激戦地としては、ガダルカナルやラバウル、島嶼部の硫黄島、サイパン、テニアンなどが有名ですが、パラオの「ペリリュー島」は聞いたことがない方がいらっしゃると思います。 パラオは日本から真南に約3000キロのところに位置しており、したがって時差もなく、直行便で約4時間半ほどで行けます。 第一次世界大戦で、日本はドイツ領であったパラオを占領しました。戦後の1920年、国際連盟からパラオを含むミクロネシア(南洋群島)の委任統治が認められます。サイパンもテニアンも同じです。ですから、第二次世界大戦では、もともと国連の信託委任統治の日本領土に、米軍が侵攻してきたということになります。 土田さんが戦われたのが、現在、首都があるバベルダオブ島から南西に50キロほど行ったペリリュー島です。南北9キロ、東西3キロの本当に小さい、カニの爪のような島です。 太平洋の島々をめぐる攻防戦でマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムを落とし、日本の絶対国防圏の内側に入ったアメリカは、次いでフィリピンに照準を合わせます。さらに北上して台湾を攻め、沖縄を攻め、本土を攻めるルートを確保するためです。 フィリピンに照準をあわせた米軍の前に立ちはだかったのが、西カロリン諸島最大の飛行場を持つペリリュー島でした。その日本海軍の十字滑走路を奪取するため、米軍は5万の大軍を差し向け、昭和19年9月15日から11月24日まで「ペリリュー島の戦い」が行われました。日本軍戦死者は約1万名、米軍の戦死傷・行方不明者約8000名(戦死者約1800)という激戦でした。 米軍の上陸部隊である第一海兵師団のウィリアム・ルパータス少将は戦闘前、「three days maybe, two」と豪語していました。「こんなところは3日間くらいで落とせる。2日ですむかもしれん」と。実際には73日間の激戦となり、米軍最強の海兵隊といわれた第一海兵師団は日本軍に滅多うちにされて撤退し、隣のアンガウル島を攻めた陸軍第八一歩兵師団と交代するという屈辱を味わったのです。 迎え撃つわが軍は、中川州男(くにお)大佐率いる水戸の歩兵第二連隊を中心とするペリリュー守備隊。満州で鍛え上げた精強部隊、現役兵の集まりです。そして、海軍西カロリン航空隊ペリリュー本隊が加わっていました。ペリリュー島では陸軍の戦いとみられがちですが、そもそもペリリュー島には海軍基地があり、そこを守るために陸軍一四師団の一部がやって来たんです。土田さんは、海軍部隊の一員として陸上戦闘を戦われました。陸海軍総勢1万1000名。米軍5万対日本軍1万1000の戦いでした。 それまでの南方戦線、太平洋の島々の戦いで日本軍は、「バンザイ突撃」という総攻撃をかけ、敵弾に次々と斃れていました。ペリリューの戦いでは、こうした消耗の激しい戦法を改め、徹底持久戦の方針をうち立てます。中川大佐は、「戦は、つまるところ人と人との戦いである。戦う意志と力をもつものがいるかぎり、戦いは終わらず、勝敗も決まらない。陣地を守る事はその戦いぬくための手段のひとつ。問題はできるだけ多数の敵を倒し、できるだけ長く長く戦闘をつづけることにある。それには守る陣地が多いほどよい」というふうにおっしゃっています。 米軍が上陸する海岸付近には、巧みに配置されたトーチカ陣地を築き、引きずり込んだ内陸の山岳部では500以上の洞窟を掘った「複郭陣地」に潜んで迎え撃つ、二段構えの戦法です。こうした戦法は、その後の硫黄島の戦い、沖縄戦に引き継がれていきます。ペリリュー島は隆起珊瑚でできた非常に硬い島です。複郭陣地構築は、大変に苛酷な作業でした。 凄まじい戦いぶりに、天皇陛下が毎朝、「ペリリュー島は大丈夫か」とご下問なさったという話も残されております。11回のご嘉賞(お褒めの言葉)にもあずかりました。それだけ陛下がお心をかけておられたということで、「天皇の島」と呼ばれたのです。棒地雷の決死隊棒地雷の決死隊井上 土田さんは、見張り兵として米艦隊到来の第一報を通報しました。現在で言う、レーダーの役目で、非常に大事な任務でした。最初にペリリューに米軍が来たときは、どんな様子でしたか。土田 私たちは20人ばかりが交代で、朝昼晩ずっと、戦闘指揮所の上にのぼって船と空の見張りをしていたわけですが、そのころはサイパン、テニアン、グアムでの戦いにペリリュー島の飛行機は全機応援に行って、1機も帰ってこなかったわけです。それで、「いよいよ最期の時が来たな。死んでもこの島を守らなければいけない」と玉砕も覚悟していました。それはもう、陛下のため、国のためと思って死にものぐるいで戦ったものですから。井上 9月15日に米軍上陸作戦が始まりましたが、そのころには見張り任務も不要となり、土田さんは山中で配置につきます。ペリリュー島中央の山岳地帯は、現在はジャングルに戻っていますが、当時の写真を見ると、米軍の艦砲射撃で草一本まともに生えていないくらい吹き飛ばされて、禿げ山になってしまいました。土田さんは、米軍の侵攻をどのあたりから見ておられたのですか。土田 「海軍通信壕」という洞窟におりました。入り口は、体がやっと出入りできるような壕です。講演する元海軍二等兵曹の土田喜代一さん(左)。右は聞き手でジャーナリストの井上和彦氏=3月21日午後、東京都千代田区の靖国神社遊就館(松本健吾撮影) その9月15日の夜、ここから兵が3名、棒地雷をもって出撃しました。中隊長が「今から戦車攻撃に出る。希望者は3名だ」ということで決死隊を募った。すると最初に名乗り出たのが陸軍の伍長ぐらい。2番目は海軍の陸戦隊員。「もう一人誰かいないか」というところで、「死ぬのは覚悟しているけど、米軍は今朝上陸したばかりだし、ちょっと早いな、どうしようかな」と逡巡していた私を尻目に、パッと手を挙げたのが小寺亀三郎という一等兵でした。おそらく実弾を撃ったことがない人間でしたが、パッと手を挙げて「小寺一等兵、参ります。両親から死ぬときは潔く死ねと言われました」と言って、元気よく出て行った。 棒地雷というのは刀の鞘を大きくしたような形で、陸軍の兵器だから私は見たことがなかったんです。30トンもの重い戦車が使いものにならんような爆破をするらしいですけどね。井上 米軍戦車の分厚い装甲を撃ち抜くのはなかなか難しい。47ミリ速射砲という大砲が側面から攻撃してようやく穴があく。ところが、この当時の状況になってくると、日本軍の大砲は全て破壊されてしまっている。そんな中で、「棒地雷」といって、棒の先に地雷をつけたものを手に、体ごと突っ込んで戦車に踏ませて爆破する。戦車もキャタピラがなくなると動けなくなります。特に米軍の戦車は、エンジンがディーゼルじゃなくて、ガソリンを使っていたので、爆破するとものすごい勢いで燃えるんです。土田 小寺一等兵らのその後の行動は分かりません。そのうちに、中隊長から「5人ばかりで水を汲んでこい」と命令された。わが隊に「飯を炊いて、移動しろ」という命令が出ていたんだと思います。 私も選ばれて水を汲みに行ったら、戦車が2台、もう真っ赤になって燃えてるわけですよ。脚に引っかかったものがある。見てみると敵兵の死体でした。1台の戦車がぶっ飛んだところには、5名ほどの敵兵が死んでいました。まだ腕時計がピピピピッと動いていた。この時計も、銃もかっぱらって帰ったのです。井上 小寺さんら決死隊3名が爆破したのですね。実はその直前まで、土田さんが小寺さんに、銃の撃ち方を教えていたそうですが。土田 あの出来事はつい昨日のことのような気がします。70年も経っているのに。「ああー、今でも考えると辛いなあ……」と思って、やっぱり涙が出ます。井上 この話をされるとき、土田さんはいつも目に涙をためてお話しになるんです。土田 その後、汲んできた水で飯を炊いて、壕から出撃しました。まさに雨霰のごとく「シャシャシャシャッ、シャシャシャシャッ」と砲弾が飛んできて、爆発すると昼間のように明るくなる。パッと散る間際に、約七十名のものがパパパッと進みました。そうしたら、敵は艦砲射撃に切り替えたんです。夜中ですよ。これは撃たれると思って、死に物狂いでペリリュー神社が建っているところまでたどり着きました。井上 それからの戦闘の様子を私からお話ししたいと思います。実際この地で戦われたアメリカの第一海兵師団の兵士たち何名かにインタビューをしたことがあります。彼らは「日本兵は全員スナイパーのようだった」と言うんですね。狙撃兵のようだと。 大東亜戦争で日本は筒の長い三八式歩兵銃や九九式小銃で戦ったから負けた、などという戦後の評論家がいますが、それは間違いです。実は、筒が長いと命中精度は上がるんです。弾薬の乏しい日本軍にとっては、一発ずつ精魂込めて撃ち抜くのは重要なことで、しかも連射すると発火点がばれて反撃されますから、一発撃ったらすっと壕の中に引っ込む。そんな戦いにこの日本軍の小銃は最適だったんです。しかも、命中精度はアメリカ軍のものよりも良かったともいわれています。 私が話を聞いた海兵隊員は「『パーン』という日本軍の銃の音が一発するたびに、米兵が必ず撃たれて死んでいった」と言っていました。米軍にとっては、巧みに配置された500もの複郭陣地から日本兵に狙撃されるという厳しい戦いだった。米軍が「死の谷」と呼んだ場所もあります。そこを通るととにかく撃たれる「キリングゾーン」。そういう場所が幾つも幾つもあったんですね。 一方で米軍は圧倒的な火力にモノを言わせて攻め、日本軍守備隊はどんどん消耗していく。そんな厳しい戦いの毎日、どう気持ちを奮い立たされていたのでしょうか。土田 とにかく「自分たちが負けたら、もう日本は後がないんだ」と考えていましたから必死でした。そして戦闘の最中に、陛下からお褒めいただいたということを聞かされたんですね。井上 ご嘉賞にあずかったと?土田 そうそう。そして「おい、土田、またもらったぞ」と上官から聞かされた。「またもらったんですか」と言うて、やっぱり元気百倍になりましたね。もう「ああ、これで死んでもいいや」というような気持ちでした。玉砕後も続く遊撃戦玉砕後も続く遊撃戦井上 死力を尽くして米軍に相対した日本軍守備隊でしたが、11月24日に中川大佐が自決され、73日間の戦闘が終わりました。しかし、これは日本軍が全滅したということではありません。組織的抵抗は終わったが、個人がばらばらに戦い続ける遊撃戦が継続されたのです。 ルバング島から帰還した小野田寛郎さん、グアムから帰還した横井庄一さん、それからモロタイ島から出てきた台湾出身のスニオンさんという方もいました。そして土田さんも、戦後ずっと戦っていらっしゃった。疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、通信設備が途絶し、今どういう状況であるのか、自分の部隊が消滅したのか、そうしたことを知るすべがなかったのです。 土田さんは、中川大佐以下の皆さんが玉砕されたことは知っていましたか?土田 まったく知りません。井上 玉砕後のことをお話しいただけますか。土田 中川大佐の自決後、日本兵が潜んでいた「海軍壕」という鍾乳洞で、激しい撃ち合いがあったらしいです。相当数の日本軍が壕にいると米軍には分かっていたのでしょうね。私も「海軍通信壕」から出撃した後、敗残兵としてしばらく「海軍壕」に潜んでいたのですが、三原という兵長と「もっといい所がありはしないか」と出ていきました。だから、この撃ち合いの話は最後を戦った者に後から聞いた話です。 陸軍が約100名、海軍が20名ぐらいいて、海軍壕の一部に日本軍の食糧庫がありました。その横に1人ぐらいやっと通れる抜け道があることは聞いていた。そこを約3名が抜けて、何百名の敵がボンボン撃つのに銃で応戦して、そのすきに他の兵もどんどん壕から出て、そして散り散りばらばらになるわけです。そこが日本軍の敗残兵と米軍の最後の決戦だったんでしょうね。米兵と顔を突き合わせる井上 そんな中で、土田さんが米兵と30センチぐらいまで顔を突き合わせて、お互いが見つめ合って、そのまま後ずさりしたという非常に貴重な経験をされています。そのときの状況をお話しいただけますか。土田 「海軍壕」を出て、新たな隠れ場所を探していたときです。直径20メートルぐらいの、大きなドーナッツ形のような形で、底が直径10メートルか14、5メートルぐらいある窪みを見つけた。降りてみたら斜面に横穴があったので、ここに三原兵長と2人隠れていたわけですよ。急な斜面になっていますから、敵は絶対に降りてはこない、大丈夫だという確信がありました。「ああ、あの横側の草がもうちょっとかぶって隠してくれていたら、見ても絶対分からないがなあ…」と思ってました。 ある日、「ガサガサッ、ガサガサッ」という音がして、三原兵長が「土田、敵の声がする」と言うんですよ。「えぇ、ここら、来やせんですよ」「そうかな」。私は「大丈夫、大丈夫」と言ったんですが、やはり「ガサガサッ、ガサガサッ」と音がした。敵も急な斜面だからなにも持ってこられず、素手で降りてきたわけですよ。 「土田、手榴弾ば投げんかい、早うー。土田、何しようるか、早う、手榴弾ば投げんかい!」と三原兵長は言うけど、上に投げてもコロコロと壕内に戻ってくるだけで、私らがやられるのがオチです。「パン、イチ、ニイ、サン」で投げないと、日本の手榴弾は爆発しません。「もう、せからしかね(うるさい)。この人、ええーい」と思って私は、穴から顔を上げたら、敵ものぞき込んでいた。顔と顔がふれあわんばかり(笑)。白人が真っ赤な顔して、鉄かぶとを持っとるでしょうが。お互い物も言わず、後ずさりして逃げた。 「三原兵長、敵方に発見されました。急いでください」と言って2人で逃げたんですが、逃げるといっても、草が少ししか生えていない。いくらか逃げて、同じような大きな窪みを見つけ、その横にパッと2人で隠れた。小銃を持たず、手榴弾しか持っていませんでした。米兵5人くらいが追ってきて、ボトン、ボトンと、穴に何かを投げ込む。ウサギを狩るように、穴から出てきたなら撃ってやろうと思ったんでしょう。ドン、と転がったのを見て手榴弾かと思ったら、珊瑚礁の石でした。 やつらはだんだん近づいてきて、私の1メートル半ぐらいのところに鉄カブトをかぶった歩哨が立った。もう一歩近寄れば私たちは見つかる。「もうダメ」だと思ったんですが、その一歩がこない。そして、助けの神が来たんですよ、そこに。井上 助けの神?土田 12時のサイレン。《おーい、もうお昼だぞー。飯だ飯だー》という話をしていた。英語だから分からないけど、そうだったろうと思うわけですよ(笑)。やつらは早速、一つの石の上で飯を食い始めた。そのすきに逃げたわけですよ(笑)。井上 「九死に一生を得る」という言葉がございますけど、まさにその言葉とおりですね。 今、手榴弾のお話がありました。米軍の手榴弾と日本軍の手榴弾は違うんです。米軍の手榴弾はピンを抜くんですね。ピンをプチンと抜いて、そのまま投擲すれば爆発します。ところが日本軍の手榴弾にはその先端に信管があり、鉄兜や石などで叩いて着火させる必要がありました。その動作のときの「カチン」といった音が出るので秘匿性に難がありました。また小銃もボルトアクション方式であったため弾込め時にボルト(遊底)を操作する「ガチャッ」という音で敵に感づかれることもあったといいます。土田 もう一つ、話していいですか?井上 もちろん、お願いします。土田 夜、私と三原兵長が水を汲みに行ったときのことです。帰ろうとして道に出たときに突然、米軍の車のライトに照らされたんです。我々は辺り構わず飛び込んだんですが、敵はすぐ足元に伏せた私を越して、遠くばかりを見ているんです。月夜の晩で明るく、見通しがよかったからだと思います。私は敵の迷彩服を着て、手榴弾を持っていました。三原兵長は、大木の手前に隠れたようでした。「ババババッ」と銃声がして5~6秒したら、「土田、水くれー…」という三原兵長の声がした。そして、声がピタッと止まった。今でも、「最期は水が飲みたかったんだなあ」と思い出します。その隙に、私は24~25メートルばかり移動したのですが、5~6人の敵がライトをあちこち照らしながら《もう1人いたはずだ》という感じで探していました。 これが真っ暗闇の闇夜だったら見つかってしまったけれど、月夜の晩でどこも明るいから、ライトで照らしても分からなかったんじゃないでしょうか。実際に私の方を照らしていたんですから。もちろんちょっとでも動いたら撃たれる。私は観念して「早く撃て、撃たんかい」と内心思っていましたが撃たない。「ババババッ」とあたりを撃つ音がして、「ハハハ」と笑いながらなにか言っていた。《いつまでも柳の下にドジョウはいねえや》。日本語でいうならそういう言葉じゃなかっただろうかと思いますね。井上 究極の状態になると英語も分かりますからね(笑)。 月夜の晩はすべてが見えますからライトもぼやけて逆に見えないことがある。野戦では、そういうことがあるんですね。また米軍は照明弾を連続してボンボン上げていきますが、ゆらゆらゆらゆらと揺れながら明かりを発して落ちていきますので、動いているものと動いていないものを見分けるのが難しいこともありました。 土田さんはそういう兵器のメリット、デメリットを戦いの中で体で覚えて、激戦の中を生き抜かれたんでしょう。米軍の食糧を「担ぐ」米軍の食糧を「担ぐ」井上 食糧はどうされていたんですか。土田 米軍から調達しました。それぞれ自己調達ですから、部隊の間で争奪戦です。 「海軍工作科壕」に日本軍の備蓄した缶詰があり、私たちもそこから取ってきていたんですが、あるとき、陸軍通信隊の連中もその缶詰の存在を知ったことが分かった。そこで「早いうちに自分たちで独占しようじゃないか」ということになり、暗闇に乗じて工作科壕の食糧置き場にいくと案の定、陸軍通信隊の五人が来た。彼らは「あら、しまった」というような顔をしていましたが、とにかく奪い合うようにしてどんどん集めたわけですよ。 それが午前1時ごろでしたかね。彼らも私たちもある程度取ったから、双方満足して雑談していました。そうしたら、仲間の千葉兵長がこっそり「あそこに敵の高射砲の陣地ができてる。見てみろ。きっと食糧があるぞ」と囁いてきたんです。私は慌てて取りに行こうとしましたが千葉兵長に制されました。そして陸軍通信隊の連中にばれないよう、彼らが引き揚げるのを待ちました。午前二時ごろになり、彼らが引き揚げたので行ってみたら、高射砲陣地じゃなくて、なんと缶詰の山だったんです(笑)。井上 高射砲陣地だと思ったら、缶詰の山。そこでガッポガッポと、「さあ、担げ担げ」と。土田 格好もお構いなしに1人5、6箱ぐらいずつ、日本軍の缶詰なんかは放ったらかしで担いだ。持ちきれず、改めて取りに来ようと考えて、途中で何箱か隠したんですよ。ところがそれを敵に見つけられた。そうした跡を辿って自分たちの潜んでいた湿地を見つけたんでしょう、突然に大掃討をくらったわけですよ。井上 米軍による大掃討作戦ですね。日本軍の将兵がまだいることが分かって、米軍が山狩りのように追いつめていくという戦いがあった。土田 私がそのときにいた壕は、友軍から乾燥肉で買ったんですよ。同じ湿地に唐沢さんと斎藤さんというのが住んでいたんですけど、もう1カ所壕があるというわけですよ。そこを「この缶詰をやるから売ってくれんかね」と頼んで教えてもらった。「しょうがないな」ということで案内してくれたところが、岩の割れ目ですよ(笑)。湿地の水面から高さが70センチぐらいのところで、満ち潮の時には水に浸かるような格好になる。しかし、「ここに潜り込んでいれば敵にはちょっと見つからんな。外におるよりはよっぽどいい」と千葉兵長と森島一等兵と私の3人、頭上に大きな石をかぶせて、枯れ枝をのせて擬装して潜んだんです。そこに、大掃討をくらって、米軍が200人ぐらいやってきた。 それはそうでしょう。米軍の缶詰のソーセージを食った残骸を、湿地に投げ込む。その横には大便を投げているから、敗残兵がいると感知されるのも当たり前でした。 で、壕に潜んでいたら、頭上の石に米軍の司令官が腰かけとるわけですよ。《この辺りを探せ》なんて命令していたんでしょう。彼が立ち去ると、違う兵隊が石の上を踏んでいく、その靴底が見えるわけですよ。我々のいる下には缶詰の空き缶があって、石ころがぽろっと落ちてきたら、「タン」と音がして分かってしまう。千葉兵長がそっと移動させた。 そのときに森島が、私に「敵はもう帰ろうと言っていますよ」と言った。彼は大学出ですから、英語も聞き取ったんでしょうね。そしたら1分もしないうち、彼らは引き揚げていきました。ああ……もう助かった。うれしかったですね。 この掃討戦では、4人が死にました。壕での楽しみは将棋井上 大東亜戦争の終結後も、土田さんたちは1年8カ月も戦い続けられました。 私はペリリュー島を訪れた際、土田さんたちが潜伏していた壕に入ってみました。出入りするにも、背中が尖ったサンゴで傷つくような狭い入り口を入らないといけない。内部も天井が低いため中腰で移動せねばならず、閉所が弱い方は精神的に参ってしまいそうです。そうした壕がいくつかあって、何人かが分かれてお住まいになっていました。あの狭い壕の中での生活はいかがだったでしょうか。生き残った日本兵が身を隠した壕=2月11日、パラオ・ペリリュー島(共同)土田 それはもう、いったい我々はどうなるのだろう、というのが一番の心配でしたがね。生まれてから現在のことを全部話して、話すこともないぐらいに。おんなじことを2回も3回も。だからなかには小説を書く人もいるし、講談する人もおるし、また昔の恋人のことをやりだしたという感じで、もう話すことがなくなってしまうわけです。 だから、将棋が一番の慰めになりました。勝っても負けてもね。板に彫った将棋でした。私は旋盤工をやっていたので、彫るのも得意中の得意で、7組くらいは作りましたね。森島というのが、「俺は田舎二段だ」と大きく出やがった。なにを言いおるか、と思ったら本物だったんです(笑)。井上 強かったんですか。土田 もう本当に、強くて。それに、まるで将棋を知らない人もどんどん強くなってきたんですよ。井上 当時みな、20代前半の方々でした。娯楽で何とか気を紛らわしつつ、そんななかでも戦い続けなければならない。戦いが終わったのは、どうやって知ったのですか。土田 木の枝に札が下がっていたんです。『戦争は終わった、お前達の帰りを待っている』と。だが、ばかやろう、まただ、とほっておいた。澄川少将(第四艦隊参謀長で、武装解除の説得にあたった澄川道男少将)が来られたが、最初は分からなくて帰ったようです。井上 澄川少将は米軍の依頼でペリリュー島に出向き、メガホンで呼びかけたり、木に手紙をつるしたりして帰順の説得に当たられましたね。土田 きっかけとなったのは、「パパイヤちぎり」です。千葉兵長が木に登ってパパイヤをちぎり、下に待ち受けている塚本という男にポーン、ポーンと放り投げていた。その最中に見つかったんですよ。すぐに塚本が「千葉兵長がつかまった」と知らせに来た。格闘しているところがすぐわかったので、銃を撃つと敵はバッと散ってしまった。 千葉兵長は蹴られたり踏まれたりしたけれど、無事でした。千葉兵長に聞いてみると「相手が、『俺は通訳だ。日本は負けたんだ。日本兵を戻すために帰って来ているんだ』とか、妙なことをしゃべったような気がする」という。後で分かったことですが実は、その敵は米兵ではなく島民でした。戦争中は東京にいて、府立一中で学んだという柔道二段、剣道初段の若者だったのです。 この発砲事件を受けて、「まだ日本兵がいる。危ない」ということで、米軍が澄川少将に説得を依頼したわけです。命懸けで「終戦」を確かめる命懸けで「終戦」を確かめる井上 壕を出て、置き手紙を残したことについてお話をお願いします。土田 ある日、壕のなかに何かが投げ込まれた。タバコとともに「日本は負けた」ということが書いてありました。敵の欺瞞戦術かもしれない。対応を協議した結果、食糧は1、2年分あるが、トーチランプにするガソリンがない。ガソリンだけ取りにいこうじゃないか、そうしてから考えようという結論が出た。 その際、「参謀長が会おうという手紙だから、私に行けというなら命懸けで行ってきますがね」と言ったんですが、真剣だけれども笑い話で言わなければいけないような雰囲気でね。脱走と見なされ死んだ人もおるから。うかつに変なことをすれば私も疑われると思って「言われるならば命懸けで私が行ってみますが」と。私は本気だけど、笑いながらでないと撃たれると思った。 そして皆がガソリンを取りに行くとき、見張りとして残った私は置き手紙を残して壕を抜け出し、澄川少将に会った。私がすぐには承知しないものだから、アンガウル島まで連れて行かれて、ようやく日本が負けたという状況がはっきりしたのです。井上 アンガウル島では、すでに日本人とアメリカ人が一緒にリン鉱石の採掘作業をやっていましたからね。 土田さんは、日本が負けたかどうかを確認するため、書き置きを残して壕を出られた。だが集団生活ですから、脱走兵と見なされ、土田さんを処刑しろということもささやかれていた。そんな危険を承知でもう一度、澄川少将とともに壕に戻り、指揮官に話し、皆さんが帰投された。皆さんに銃を置かせるため、土田さんは、それぞれのご家族のお写真や手紙を日本から取り寄せ、それを持って行かれたということですね。 こうして最後まで戦って生き残った34人の方々が昭和22年4月22日、帰順されました。この方々で、「三十四(みとし)会」という戦友会を結成されています。 最後に私のほうから、お話の中にもでてきたペリリュー神社にある石碑を紹介したいと思います。そこには敵将だったアメリカ太平洋艦隊司令長官・C・W・ニミッツ提督から贈られた次のような言葉が日英二カ国語で刻まれています。 《諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ》 敵将が日本軍の戦いぶりを讃えている場所は私の知る限り、ペリリュー島だけです。 改めてうかがいますが、この度の天皇皇后両陛下のペリリュー島への行幸啓についてどんなお気持ちですか?土田 ほんとうにありがたいことです。あの島で亡くなった戦友たちがどれほど嬉しく思うことでしょう。靖国神社に祀られる一万余の戦友たちは皆喜んでいると思います。皆に陛下と会ってもらいたいですね。井上 長時間にわたって、ありがとうございました。ペリリュー島の英雄・土田喜代一さんでした(拍手)。【質疑応答】 ――私は大学生ですが、後世に何を残したいと思っておられますか。土田 今の人はなんの原因かわかりませんが自殺者が多いですね。どうしてあんなことをされるか。事情はあったけれども私たちの時代には一人もいなかったですよ、若い人たちの自殺なんかというのは。だから、何を考えておられるかと思って。昔の若者のようにかえってもらいたいですね。 ――そのためにはなにが必要と思われますか。土田 昔の人たちの戦闘のことを考えてみて、自分たちはもっと強く生きないといかんなという精神を持ってもらえたらいいんじゃないかと、年寄りながら思ってるんです。 ――土田さんたちが戦われた戦いを、一部で「狂気の戦場」「無駄死に、飢え死に」などと言われたりするが、そんな状況をどう思われますか。土田 我々は、その時代は国民のため、陛下のためと思って戦っていたもんですから。みんな、国家のため陛下のために、なんとかして日本がつぶれないようにと、一生懸命に戦ったのが、そういうふうなことはちょっとね…。◇元日本兵でペリリュー島の戦いから生還した土田喜代一さん(中央手前)に言葉をかけられる両陛下=4月9日、パラオ・ペリリュー島(松本健吾撮影) 土田氏は、4月8~9日の天皇皇后両陛下のパラオご訪問にあわせてペリリュー島を訪れ、両陛下が9日に同島の西太平洋戦没者の碑を拝礼して戦没者を追悼されたのに立ち会った。産経新聞の記事でその様子を紹介する。椅子の上で背筋を真っ直ぐに伸ばして天皇陛下からおねぎらいを受けている姿の写真が印象的だった。《「34人のうち、私が幸運にもここに来ることができた。1万の英霊たちが喜んでいると思いました」。ペリリュー島守備隊で生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)は、西太平洋戦没者の碑で拝礼した天皇陛下からおねぎらいを受けた後、報道陣にそう語った。 約1万人がほぼ全滅した同守備隊の中で、昭和22年まで抗戦して生還した隊員34人の一人だ。戦友の御霊が陛下と邂逅(かいこう)する場に立ち会いたいと、車いすの老身を押して訪島した。シャツの胸には生還者の会「三十四会(みとしかい)」の刺繍(ししゅう)があった。 弾薬も食糧も補給がない中、後輩、同僚、上官が目の前で次々と落命。「自分もいつ死んでもおかしくなかった」。守備隊の組織的戦闘は19年11月に終結し、日本は20年8月に終戦を迎えたが、土田さんたちは「徹底抗戦」の命令を守り、険しく狭いサンゴ岩の洞窟に息を潜めて抗戦を続けた。 今回、島に到着した今月5日。慰霊碑「みたま」の前で、ハーモニカを吹いた。若くして帰れなかった戦友らを思い、南洋での海軍兵らの郷愁を歌った「ラバウル小唄」を選んだ。「1万の英霊たちが喜ぶ姿が、はっきりと見える」。戦友を追悼された両陛下のお姿に、土田さんはつぶやいた。》 土田 喜代一氏(つちだ・きよかず) 大正9(1920)年1月福岡県生まれ。95歳。昭和18年1月、佐世保第二海兵団に入団。同年4月、博多海軍航空隊(実習部隊)に配属後、横須賀航海学校見張り科に入校。同年10月の鹿屋航空隊への配属を経て、第一航空艦隊第761海軍航空隊(主力機種・一式陸上攻撃隊)に配属。19年2月、テニアン島へ向かう。同年6月、パラオのペリリュー島転進に伴い第一航空艦隊西カロリン方面航空隊に移り、見張り兵として任務に就く。米軍が上陸した同年9月からは陸戦隊員として戦った。同年11月24日のペリリュー島守備隊玉砕後も、生き残った日本兵百名余は日本軍の反撃を信じつつ抗戦を続けた。終戦を信じず生き残った34名の日本軍将兵は、22年4月24日、米軍の武装解除の求めに応じ帰順。現在、土田氏を含めそのうち4名が健在。ペリリュー島での戦闘時は海軍上等水兵、最終階級は海軍二等兵曹。 井上 和彦氏(いのうえ・かずひこ) 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。軍事漫談家。『日本文化チャンネル桜』の「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『国民のための防衛白書』(扶桑社)、『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『パラオはなぜ[世界一の親日国]なのか』(PHP研究所)など多数。
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記事
ペリリュー英霊が問う戦後精神
皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。「海ゆかば」を知らない日本人 戦後60年の年には、サイパン島に慰霊の訪問をされた。そのときも、先の戦争を深く回想する契機を与えられたが、サイパン島は、バンザイクリフなどによって玉砕の島として日本人に知られているであろう。戦争の記録映像などでも、よく出て来るからである。 しかし、そのサイパン島や硫黄島などに比べてペリリュー島の方は、慚愧(ざんき)の至りであるが、戦後生まれの私も、この島の名前を知ったのは、そんなに古いことではない。日本人の多くが、知らなかったのではないか。 そのような島に天皇、皇后両陛下が訪問され、戦没者を慰霊されるということは、戦後70年間、大東亜戦争を深く記憶することを怠りがちであった日本人の精神の姿勢を厳しく問うものである。戦後の日本人が、いかに民族の悲劇を忘れて生きてきたかを叱責されるようにさえ感じる。 今年1月3日付産経新聞の「天皇の島から」の連載で、ハッとさせられる話が載っていた。パラオ共和国の94歳になる老女が取り上げられていたが、明快な日本語で「君が代」を歌い上げ、続けて「海ゆかば」を口ずさみ始めたという。歌詞の内容も理解していた。 この記事を目にしたとき、戦後60年の年に両陛下がサイパン島を訪問されたときのエピソードを思い出した。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという話である。玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心からおのずから「海ゆかば」が湧き出てきたのであろう。それに対して、日本人の方が「海ゆかば」を知らないのである。日本が失ったものの大きさペリリュー島にある戦没者慰霊碑「みたま」=2014年12月10日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) このように「海ゆかば」を通して先の戦争を記憶しているサイパン島の島民やパラオ共和国の老女に比べて、日本列島の島民はどうであるか。私もそうであったが、ペリリュー島を忘れていたではないか。サイパンやパラオの島民はずいぶん貧しいかもしれない。しかし、歴史の悲劇と戦没者を忘れないという精神においてどちらが品格が上であろうか。それを思うと、戦後70年間、日本が経済的発展の代償として失ったものの大きさに改めて気づかされる。 ペリリュー島については、40年ほども前に産経新聞社の前社長の住田良能氏が、支局時代にとりあげていたことを最近知って感銘を受けた。1978年、本紙の茨城県版に掲載された「ペリリュー島’78」には、「犠牲の大きい戦いであっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後、太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は『制空、制海権を手中にしていた米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである』と述べ、また米軍公刊戦史は『旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』と讃(たた)えた」と書かれていた。 この「旅人よ、日本の国を」は名訳といっていいが、この文章の原型は、紀元前480年のギリシャでのテルモピレーの戦いを讃えた碑文につながっている。テルモピレーの戦いといえば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』初版の跋文(ばつぶん)に、三島由紀夫が「感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである」と絶賛したことを思い出す。 戦艦大和の激闘が、テルモピレーの戦いの如くであったように、ペリリュー島の激戦も、テルモピレーの戦いであったのである。両陛下の慰霊に合わせ黙祷を この玉砕を悲惨な戦争とか戦没者を戦争の犠牲者とか決して言ってはならない。テルモピレーの戦いのように「祖国」のために戦った勇者に他ならないからである。 天皇、皇后両陛下が慰霊される時刻には、終戦記念日の正午に国民が黙祷(もくとう)をささげるように、ペリリュー島の戦没者に国民が黙祷するようにしてはどうであろうか。これまでほとんど忘れていたことに対するおわびも兼ねてである。 そして、今年の8月15日の全国戦没者追悼式には、「海ゆかば」を流してはどうか。明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。 追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。しんぽ・ゆうじ 昭和28年、宮城県生まれ。52年、東大文学部卒。出光興産勤務を経て都留文科大助教授に。平成10年、同大教授。19年、正論新風賞受賞。共著に「歴史精神の再建」など。関連記事■ 「侵略戦争」という言葉は歴史を見る目を歪める■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ もう一つの「終戦詔書」 ―国際条約の信義を守る国、破る国
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テーマ
両陛下パラオご訪問が意味するもの
今年4月、天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のためパラオ共和国に行幸啓された。パラオの人々の親日感情、日本軍の忠誠心あふれる敢闘ぶりから「天皇の島」と呼ばれたペリリュー島の激戦など、話題の多かった両陛下の行幸啓を振り返りたい。
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記事
陛下、靖国、富士、桜… 「日本人になりたかった」パラオ人
いう。日本の会社も多く、島民は働き場所を得ていたという。 公学校は「中山」と呼ばれた山の麓にあった。戦後70年となる今、ジャングルに覆われ、わずかに門柱が残るだけだが、鉄筋コンクリート造りで、高さは5メートル近い。敷地内には畑があり、野菜を作っておいたといい、いかに立派な校舎だったか想像できる。 テロイさんのクラスメートは男女合わせて20人で、3クラスあった。パラオ人の先生も1人がいたが、日本語や日本の歌はハシモト先生に教わったという。 「夫婦で先生をしていて、奥さんは着物のときもありました。『親を大切にしよう』『ありがとうございました。どういたしましてと言おう』と教えられました。先生の2人の子供と一緒に歌ったこともあります。正月に日本人と一緒に遊んだことが今でも思い出されます」と、テロイさんは楽しそうに笑顔を見せた。ペリリュー島の日本軍司令部跡。長年の月日でツタや植物に覆われていた。一歩、踏み込むと弾痕や破壊された跡も生々しく残っていた=2014年12月11日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) マルタンサン・ジラムさん(83)は公学校跡地の門柱の前を通ると、毎朝「おはようございます」とヒラマツ先生にあいさつしていたのを思い出すという。公学校の2年生まで日本語の勉強をしたが、3年生の時、空襲で学校がなくなり、疎開した。 ジラムさんは当時を懐かしむように、「桃太郎」を歌ってくれた。「ヒラマツ先生に会いたい。優しくていい先生だった。『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『家のことを手伝いなさい』『ありがとうと言いなさい』『困っている人がいれば手伝いなさい』と教えられた」 悪いことをすると叱られたという。「だから、私も子供が悪いことをすると謝るまで手を上げた。ヒラマツ先生に教えられたことは5人の息子に伝えてきたし、息子には子供ができたら同じように伝えなさい、と話している」と語った。新しい生活様式伝承 アマレイ・ニルゲサンさん(79)によれば、「半ズボン」「便所」「草履」「熊手」「大丈夫?」「先生」「大統領」「飛行場」「バカ野郎」「ごめんなさい」「よろしく」「面白い」「飲んべえ」「ビール」「野球」「勤労奉仕」「炊き出し」など、多くの日本語がパラオ語として定着しているという。 イサオ・シンゲオ・ペリリュー酋長(しゅうちょう)は「戦争は良くない。だが、日本は新しい生活様式を伝えてくれた。われわれの生活スタイルが近代化し、生活が向上したのは日本のおかげだと感謝している」と笑顔を見せた。ウエキさんも「統治時代の教育や経済発展を通して、パラオ人は日本人として育てられた。パラオ人は日本に感謝している。今は日本語を話すのは少なくなったが、われわれは日本に戻るべきだと考えている」といい、「天皇陛下がいらっしゃるのがうれしい」と何度も繰り返した。 イナボさんは雑誌のインタビューに「(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた。男とは自分に与えられた義務を成し遂げる、任務を果たすことなんです。パラオは昔の日本と近い」とも語っている。 パラオの人たちの心のどこかに、日本を“親”“身内”のような存在ととらえているのではないだろうか。そして、パラオには日本以上に日本の心が生きているではないか-。そんな印象を抱いた。(編集委員 宮本雅史)関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 大切にしたい日本の美徳
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時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開でペリリュー島民守った日本兵
先の戦争が終結してから今年で70年を迎える。産経新聞では年間を通じ、「戦後70年」を紡いでいく。序開きとして、天皇陛下と日本を考えてみたい。天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。パラオは昭和20年までの31年間、日本の統治下にあり、ペリリュー島は日米間で壮絶な地上戦が繰り広げられたが、島民が犠牲になった記録はない。両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が「天皇の島」と呼んだ南洋の小島から歩みを始める。(編集委員 宮本雅史) 平成26年12月初旬、ペリリューは、島を覆うジャングルが強い日差しを受けて緑に輝いていた。島民600人の多くが住む北部のクルールクルベッド集落は、ヤシの木に囲まれた庭の広い民家が立ち並び、カフェからは英語の音楽が流れる。ハイビスカスが咲き、のどかな雰囲気に時間が止まっているような錯覚すら覚える。 だが、ジャングルを縫うように車を走らせるに従って、そんな印象は一変する。破壊された米軍の水陸両用戦車、日本軍戦車、52型零式艦上戦闘機…。至る所に激戦の爪痕が残る。 ペリリュー島に住むマユミ・シノズカさん(左)とウィリーさん=2014年12月12日、パラオ共和国(松本健吾撮影) 案内をしてくれたウィリー・ウィラードさん(53)によると、日本軍守備部隊は、兵隊1人が入れるたこつぼ状から数百人が入れる洞窟まで500個を超える洞窟陣地を構築、大部分は内部で行き来できるようになっていたという。島全体が要塞。島の真の姿に気づくのに時間はかからなかった。米の予想上回る抵抗 米軍がペリリューに上陸したのは昭和19年9月15日。人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷いた米軍は、島の攻略についても、「スリーデイズ、メイビー・ツー(3日、たぶん2日)」と豪語していたという。 だが、その予想は大きく裏切られる。米軍は第1次上陸作戦で第1海兵連隊の損害が54%に達したため、第1海兵師団が撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥った。 「軽機関銃の銃身が熱くてさわれないくらい夢中に撃ちまくった。敵味方入り乱れて、殺したり殺されたりの白兵戦で、地獄絵図そのものだった」 そう述懐する水戸歩兵第2連隊の元軍曹、永井敬司さん(93)は、数少ない生還者の一人だ。「食糧や弾丸がすぐに底をついた。空からも海からも補給はなく、米軍の食料や戦死した米兵から武器と弾薬を奪った。3日も4日も寝ないで戦った」と語る。最高の戦闘損害比率 日本軍の執拗(しつよう)な抵抗に、太平洋艦隊司令長官のニミッツ海軍大将は著書『太平洋海戦史』で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べている。 守備部隊がいかに激しい戦闘を展開したかを物語るが、永井さんは、想像を絶する環境の中で気持ちを支えたのは「第2連隊で教育を受けたという誇りと、日本を守るという意地だった」と胸を張った。 『昭和天皇発言記録集成』(防衛庁防衛研究所戦史部監修)によると、昭和天皇は『水際ニ叩キツケ得サリシハ遺憾ナリシモ順調ニテ結構テアル。「ペリリュ」モ不相変ラスヨクヤッテヰルネ』(10月23日)『「ペリリュー」補給困難ニナリ軍ハアマリ長ク抵抗ガ…。随分永イ間克ク健闘シ続ケテ呉レタ』(11月15日)-と述べるなど島の戦況を気に掛け、守備部隊の敢闘に11回、御嘉賞(お褒め)の言葉を送っている。誇りをかけた戦い 平成8年6月17日、靖国神社で開かれたシンポジウム「ペリリュー戦 日米両軍の勇戦を讃える会」に、ペリリュー戦に参戦した元米軍のエド・アンダウッド元大佐とコードリン・ワグナー氏の姿があった。 『昭和の戦争記念館 第3巻 大東亜戦争の秘話』(展転社刊)によると、アンダウッド氏は「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、ワグナー氏も「日本軍人の忠誠心に最高の敬意を表す」と語っている。 これら2人の言葉を裏付けるように、米第81歩兵師団長のミュウラー少将は、日本軍の抵抗が終わった昭和19年11月27日、「いまやペリリューは、天皇の島から我々の島に移った」と宣言したという。 米軍に「天皇の島」と言わしめたペリリューでの戦闘は、日本軍将兵が日本と日本人の誇りをかけた象徴的な戦いでもあった。 一方、ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。 平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。 「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」島民の残留要望を認めなかった守備部隊残留要望を認めず 昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。ペリリュー島に残る、旧日本軍が使用していた隣のゲドブス島との間に架けられていた桟橋跡。夕暮れに橋脚のシルエットが浮かび上がった=2014年12月12日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) 当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。 「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」 ペリリューに一つの逸話が伝わっているという。 〈ある島民が一緒に戦いたいと申し出ると、守備部隊の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。その瞬間、この島民は、あの言葉は島民を救うためのものだった-と悟った〉 逸話の真偽は分からない。だが、ニルゲサンさんは「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」といい、ウエキさんも「逸話は今でも語り継がれている」と話す。生還者の永井敬司さん(93)がいう「日本人の誇り」は、島民疎開という形でも発揮されたのかもしれない。「島が兵士のお墓」 1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻る。 島民が日本兵の被害状況を知るのは、昭和40年代に入ってからだ。日本人を父親に持ち、クルールクルベッド集落で民宿を経営するマユミ・シノズカさん(77)は「日本の兵隊さんが何人亡くなったかを知ったのは、日本から慰霊団が来るようになってから」という。シノズカさんはこの頃から、弟のウィリー・ウィラードさん(53)らと50年近くにわたり、慰霊団の食事の世話や島の中央部に立つ日本兵の墓地「みたま」の清掃などを続けている。遺骨収容に参加したこともある。 シノズカさんは言う。 「ペリリューそのものが日本兵のお墓。ご遺族に代わり、遠く離れた島に眠っている日本兵の冥福を祈る気持ちです。島に眠る日本兵は私たちが守ります」 アントニア・ウエンティさん(85)も遺骨収容に関わった一人だ。戦後、ペリリューに移り住んだ彼女は島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたという。ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養した。軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。 ウエンティさんは「緑の島のお墓」という日本語の歌を作っている。 〈遠い故郷から はるばると/お墓を参りに ありがとう/みどりのお墓の お守りは/ペ島にまかせよ/いつまでも〉〈海の中にも 山の中/ジャングルの中にも 土の中/英霊よ よろこべ 安らかに/一緒に暮らそよ とこしえに〉 〈ペ島の願いは 唯1つ/日本とペリリューは 親善の友/かよわい力 よく合わせ/知らせておくれよ 祖国まで〉〈伝えておくれよ 祖国まで/父母兄弟 妻や子に/僕らはみどりの 島暮らし/涙をおさえて さようなら/涙をおさえて さようなら〉遺骨収容し慰霊 「大山」と呼ばれる山の中腹にペリリュー神社が鎮座する。昭和57年、島民が見守る中、再建された。由来記によると、祭神は天照大神と戦死した日本軍守備部隊の一万余人の英霊。「護国の英霊に対し、心からなる感謝と慰霊鎮魂の誠を捧げましょう」とあり、島民が草むしりや掃除を続けているという。 日本兵の慰霊にこだわるのは、シノズカさんやウエンティさんだけではない。ウエキさんは「多くの島民が慰霊碑の建設や遺骨収容などに協力している」という。これほどまで日本兵の慰霊にこだわるのはなぜか。 ペリリュー州のシュムール州知事の母親、メンロムス・エテペキさん(89)は「なぜ、日本軍と米軍が自分の島で戦ったのか、という憤りはあった」と、一瞬、表情をこわばらせたが、すぐに「今は悪感情はない」と、笑顔で続けた。 彼女は、自分の名前をカタカナで書きながらこう話した。 「31年にわたる統治時代を通し、日本に対して特別な感情が育まれていた。日本への思いは深い」関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 大切にしたい日本の美徳
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紫電改、最強伝説の謎に迫る
あった。第三四三海軍航空隊。旧日本海軍が最後に実用化した新鋭戦闘機「紫電改」を主力とする部隊だった。戦後70年たった今も語り継がれる最強伝説の謎に迫る。
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菅野直と紫電改―指揮官先頭を貫いた闘魂
高橋文彦(作家) 「あの不死身の杉田が戦死するとは…」。撃墜王の悲報に、さしもの菅野も肩を落とした。悪化する戦況の中で343空は特攻機の護衛、B29の邀撃と困難な任務をいくつも担わされ、激闘の中で有能な人材が次々と失われていく。しかし、菅野が烈々たる闘志を失うことはなく、最期の瞬間まで、隊長として敵に挑み続ける。 杉田との別れ 華々しい初陣を飾った第343航空隊だが、物量で勝る米軍の攻勢は凄まじく、多勢に無勢の剣部隊は次第に苦戦を強いられる。 昭和20年(1945)4月15日、戦闘三〇一飛行隊の8機が鹿屋基地の上空防衛のために待機していた。 杉田庄一上飛曹にとって、鹿屋基地は居心地が悪かった。剣部隊は第5航空艦隊に属しているが、その司令部は鹿屋基地にあり、司令長官が宇垣纏中将だったからである。杉田が山本五十六司令長官機の護衛についたとき、2番機に乗って撃墜されながら助かったのが、当時連合艦隊参謀長たった宇垣である。宇垣は4月6日から、沖縄防衛の特攻作戦「菊水作戦」を指揮し、源田実司令にも「そろそろ特攻隊を出してはどうか」と打診していた。 源田から話を聞いた菅野は、鹿屋から他の基地へ移るように意見具申した。源田からの要請で三四三空は第一国分基地へ移動することになり、それが2日後に追っていた。 午後3時ごろ、電探(レーダー)基地と監視哨から指揮所へ緊急通報が入った。 「敵編隊、佐田岬の南東10カイリ(約18.5キロメートル)を北進中!」 源田は「即時発進」を命じた。杉田は愛機に飛び乗った。2番機の笠井智一(上飛曹)、3番機の宮沢豊美(二飛曹)、4番機の田村恒春(飛長)も搭乗した。源田は双眼鏡で上空を見あげた。すでにグラマンF6FとF4Uコルセアの編隊が攻撃態勢に入り、急降下してきた。どんな優秀な搭乗員でも離陸時を狙われたらひとたまりもない。 「発進中止、退避せよ!」 源田は自ら機上の無線電話に向かって声を張りあげた。ほとんどの隊員は発進を中止したが、すでに杉田と宮沢だけは滑走を始めていた。杉田の機体は離陸直後に敵の猛射を浴びて火を噴き、飛行場の端に激突した。宮沢も燃料タンクを撃ち抜かれて火だるまとなったまま飛び続け、国立療養所の庭に落ちた。 「あの不死身の杉田が戦死するとは…」 悲報を告げられた菅野直大尉は激しいショつツクを受けた。その姿は傍から見ていても痛々しいものがあった。菅野直(Wikimedia) 翌16日、杉田の遺体が荼毘に付された。ところが火葬の前に再び空襲があり、敵戦闘機が放ったロケット弾が近くで炸裂し、杉田の遺体を吹き飛ばしてしまった。 源田の具申により、杉田の戦死は全軍布告され、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績により2階級特進で少尉に進級した。 続く悲劇の連鎖 杉田庄一を失って傷心した菅野だったが、今は戦争中である。戦意まで喪失するわけにはいかない。菅野は自分の心に鞭を打ち、杉田が荼毘に付される4月16日朝、加藤勝衛(上飛曹)を2番機にして出撃した。 この日は鴛淵孝大尉率いる七〇一飛行隊が8機、林喜重大尉率いる四〇七が12機、菅野率いる三〇一が16機の計36機が発進した。それぞれの隊長機の胴体後部には隊長機を示す黄色い線が2本、襷掛けのように描かれている。総指揮官は鴛淵が務めた。 途中で3機がエンジン不調で引き返す。紫電改は高性能だが、質の悪い燃料やオイルによって故障が生じやすかった。 奄美大島と喜界島の中間上空にさしかかると、グラマンF6Fの編隊と遭遇した。敵編隊は高度6000メートル。500メートル下で味方が左旋回すると、敵編隊は左旋回しながら第2中隊へ急降下攻撃をしかけてきた。第2中隊の数機が一撃を食らって墜落してゆく。 「ワレ、菅野1番、これより支援に入る。俺に続け!」 格段に向上した無線電話で命じると、菅野はこれまでと同じく先頭を切って格闘戦の渦の中へと突入した。 だが、この戦闘で剣部隊は自爆1機、未帰還機8機、不時着機1機と大きな痛手を負った。菅野は2番機についたばかりの加藤を戦死させてしまい、自責の念にかられた。 翌17日、剣部隊は鹿屋から第一国分基地に移った。ところが菅野が頼みにしていた笠井がエンジントラブルで小山に激突して右足を骨折、戦線から離脱してしまった。 この基地には第三航空艦隊六〇一空が駐屯していたが、やはり菊水作戦による特攻隊が出撃していた。18日朝、基地はB29の編隊による空爆を受けた。以後、米軍は九州の各基地に100機ほどの大編隊で襲来し、爆弾を雨のように落とすようになった。 菅野は将兵の士気を鼓舞するためにB29を撃墜しなくてはならないと決意し、源田司令にかけあった。すぐに鴛淵、林を交えて攻撃方法について議論を重ねた。 菅野はかつてB24に対して敢行した前方上空からの背面急降下による直上方降下攻撃を主張したが、鴛淵と林は「誰もができる芸当ではない」として渋った。 21日朝、B29の編隊が宮崎方面から西に向かっているとの報が入り、剣部隊は発進した。指揮所からは無線電話を通し、源田司令の敵情報告が入る。途中、エンジン不調で3機が引き返したが松山の別働隊が加わり、30機を数えた。といってもB29は10機ほどの編隊が次から次と波状的にやってくる。そのため源田は特定の1コ編隊に攻撃を集中するように命じていた。 菅野は後方の編隊に狙いを定めた。米軍に一泡吹かせるには、まず自分が手本を示してB29を撃墜しなくてはならない。いざとなったら体当たりも辞さない。そんな強い決意のもと、急上昇した。B29は10000メートル上空を悠々と飛べるが、日本軍機を見下すように高度を下げて飛行していた。それがこちらの付け目になる。 「ワレ菅野1番、攻撃に入る」 全軍に伝え、列機を率いて上空で背面となり、編隊の後方を飛んでいる機体に向けて急降下した。さすがにB29はでかい。巨大なオニヤンマのように見える。コックピットが複眼となって迫る。菅野は4挺の機銃から20ミリ弾を放った。狙った機体の背部にある機銃座だけでなく周囲のB29からも赤い閃光が飛んでくる。操縦桿を臍に押しあてる。「ぶつかる!」と思った次の瞬間、前方をすりぬけていた。こちらの機首を立て直し、上空へと向かう。自分が撃ち落としたかどうかわからないが、炎を噴きながら降下してゆくB29の機体が見えた…。さらば、祖国よ だが、この日の戦闘で林隊長の機体は阿久根の海岸沖に突っ込んでしまった。失速が原因とみられる。地元の消防団員が小舟に分乗して林を収容したが、すでに事切れていた。三〇一飛行隊の清水俊信(一飛曹)も海面に激突し、機体と共に海中に没した。 菅野は自分がB29の撃墜を強く主張したために林や清水に無理をさせ、死に追いやってしまったと悔やんだが、彼らの遺志を継いで死闘を続けるのが使命と闘志を掻き立てた。 剣部隊は4月25日、懐かしい松山基地に戻ったのち、ほどなく長崎県の大村基地に移った。407の後任飛行隊長として菅野と同期の林啓次郎大尉が着任した。 菅野はここで隊員たちに直上方背面降下によるB29攻撃について事細かく説明し、操縦方法を具体的に教えた。その甲斐があってか、5月11日、豊後水道付近でB29の編隊を邀撃したときには2機撃墜の戦果をあげた。 剣部隊は5月11日までの間に来襲した延べ1000機以上のB29に対し、紫電改延べ120機をくりだし、12機を撃墜した(源田實著『海軍航空隊始末記』文春文庫)というが、日を追うごとに戦死者は増えていった。菅野直の愛機(Wikimedia) 6月22日には407の林啓次郎隊長と隊員3人が未帰還となった。林の後任として菅野と同期の光本卓雄大尉が着任した。 7月中句には横須賀航空隊から武藤金義少尉が赴任した。武藤は撃墜王として知られる坂井三郎と同じく、日中戦争から戦ってきたベテラン搭乗員である。卓越した空戦術で敵機を蹴散らしていたことから「空の宮本武蔵」の異名がつけられていた。杉田に代わって菅野を助ける逸材が欲しいという源田の意向で異動してきたもので、引き換えとして七〇一の坂井三郎が大村を去っていった。 「菅野を頼むぞ」 源田司令が言うと、「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません」と力強く答えた。菅野は武藤の精悍な顔を見て杉田を思い出し、頼もしく感じた。 7月24日、剣部隊は豊後水道上空で敵艦上機の大編隊と死闘をくりひろげた。菅野は自分の伝授した攻撃法が隊員に伝わっているとの手ごたえを感じ、大村基地に帰還した。搭乗員の報告をまとめると計16機を撃墜していた。ところが損害も大きかった。ラバウル航空隊の全盛期を知っていた数少ない指揮官の鴛淵孝を含む6人が未帰還となった。その6人の中に、あろうことか剣部隊では初陣となった武藤金義も含まれていた。 「いよいよ、次は自分の番か…」 弱気になりそうな心を、菅野は生来の負けん気で踏み止まらせた。 さらば、祖国よ 剣部隊は戦局の悪化に伴い紫電改の補充が断たれ、燃料は本土決戦のためと称して極力節約するように命じられた。 8月1日、先任飛行隊長となった菅野率いる剣部隊全機が沖縄方面から来襲する敵機を邀撃するため、ひさびさに大村基地から出撃した。全機といっても紫電改72機で大編隊を組んだ全盛期には遠く及ばず、20数機が参加するのがやっとである。 高度6000メートルで屋久島近くに達したとき、菅野は同島西方の5000メートル付近で旋回しているB24の編隊を見つけた(このとき最新鋭戦闘機のP51マスタングがいたかどうかについては『三四三空隊誌』の隊員の回想でも異なる)。 「全機、突撃せよ!」 無線電話で伝え、増槽を落とた。B24は南方で戦って以来の因縁がある。見慣れた機体に一撃を加えて急降下すると、とたんに激しい衝撃が機体に走った。 操縦桿が思うように動かない。左翼の日の丸あたりを見やると表面がやぶれ、めくれあがっている。20ミリ機銃の暴発だった。翼が飛び散らなかったのは幸いだが、これでは戦えない。丸裸になったも同然である。 「機銃筒内爆発。こちら菅野1番」 無線電話で伝えた。まもなく2番機の堀光雄(のちに三上と改姓)が降下してきて横に並んだ。ここにいてもどうにもならない。「俺にかまわず、さっさと空戦に戻れ」。菅野は堀に仕草で伝え、堀がそれに従わないと見ると、睨みつけ、殴るぞという手つきをしながら命じた。菅野の荒ぶる姿勢に堀はためらっている表情だったが、意を決したように上昇していった。よし、それでいい。菅野の顔に一瞬、笑顔が浮かんだ。しばらくして、敵機も味方機も周囲に見当たらなくなった。 「空戦やめ、集まれ」 無線電話に告げると、遠くで光る機影があった。あれは敵機か味方か。菅野が目を凝らしているうちに紫電改は失速を始めた…。 終戦まであと2週間と迫っていたその日、零戦と紫電改を駆って死闘を演じ続けた空の勇士、菅野直は最後まで闘志を失うことなく敵に立ち向かい、大海へと消えていった。剣部隊もまた、満身創痍のまま終戦を迎えた。関連記事■ 吉田松陰とその妹―維新の原動力とは何か■ 【歴史街道脇本陣】日本史上で最もすごい奇人 ランキング■ 史上最強の戦闘機隊「343空」〔1〕創設者源田実の合理的発想
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「零戦」「紫電改」を駆った最後のエース・パイロット
笠井智一(元大日本帝国海軍上等飛行兵曹)聞き手:井上和彦(ジャーナリスト)予科練に志願井上 笠井さんは、航空自衛隊などでもその大東亜戦争における熾烈を極めた空中戦の体験談などをご講演されておられますが、実戦経験のない航空自衛隊のパイロットにとってはたいへん貴重な戦訓となっております。 まずは、笠井さんが予科練に志願された動機からお聞かせ願えますか。笠井 私は中学校3年修了で、海軍の甲種飛行予科練習生に志願しました。予科練は職業軍人でもなんでもありません。志願兵です。 中学2年のとき、中学校の先輩である海軍兵学校出身の小谷大尉という方が学校へやって来て、全校生徒に「制空権と制海権」という題目で話をされました。支那事変の際、九六式陸上攻撃機(双発の爆撃機)に乗って、南京の渡洋爆撃に行かれた話を聞き、私は子供心に「これから日本は陸軍も大切だが、まず飛行機だ」という感覚を持ちました。そして1年後の試験に幸い合格し、予科練に入ったのであります。井上 昭和17年4月、土浦航空隊に入隊されたわけですが、そのときのご心境はいかがでしたか。笠井 「予科練というても、なんじゃ、こんなジョンベラ(水兵服)着て教育されるんか」と思いました。まあ、ジョンベラから「七つボタン」の制服に変わったときは、「かっこのええ服やなあ」と思いました(笑)。しかし、かっこのええ服は外出のときだけで、皆、作業服で訓練を受けますので、七つボタンがどうこうという感覚はあまりありませんでした。井上 17年5月、九三式水練に初搭乗されたときの写真が残っていますが、最初は水上機で訓練されていたんですか?笠井 土浦には陸上の飛行場がありません。霞ヶ浦の湖の岸辺に予科練がありまして、そこにある飛行機は全部水上機でした。予科練に入って2カ月目ぐらいで、初めて飛行機に乗りました。「へえー、飛行機ってこんな格好か」と感心しましたね。だって今と違って、当時は飛行機に乗るようなことは滅多にありませんからね。 最初は飛行機の操縦などできるはずがありません。教官が離水と着水をやってくれて上空で私が操縦桿を握るのですが、筑波山の方を向いて飛んでいると、後席の教官から「筑波山ヨーソロー」という号令がかかる。「ヨーソローって何かいなあ」と全然分からない(笑)。後で聞いたら、「筑波山に向かってまっすぐ行け! おまえたちが戦地へ出たら、敵に向かってまっすぐに行け!」ということだと。 それで、教官に宙返りや垂直旋回をしてもらいました。最初の飛行は15分か20分ぐらいの飛行だったかと思いますが。そのとき「おお、よくぞ男に生まれける」、飛行機に乗ったときの気持ちは、本当にもう飛ぶ鳥を落とす勢いのごとくうれしかったですね。井上 予科練の1年間で体力養成と勉強、そして海軍精神を徹底的にたたき込まれ、そののち、いよいよ操縦訓練に入ります。笠井 昭和18年5月に予科練を修了し、北海道の千歳航空隊に移動して、飛行練習生として正式に飛行機の訓練教程に入りました。九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」で基礎的な離着陸訓練から特殊飛行と呼ばれる宙返りや垂直旋回まで、あらゆる操縦訓練を受けました。普通ならば1年間の課程を、戦局逼迫により同年11月には繰り上げ卒業。卒業前に「おい、おまえは戦闘機へ行け」「おまえは艦上攻撃機」「おまえは艦上爆撃機」と機種の選定があって、私は戦闘機の分類に入れていただきました。井上 飛行練習生教程を卒業後、延長教育で徳島航空隊へ行かれたということですね。笠井 そこでは、「おい、貴様たちはこれから実戦機で訓練するんだぞ」と告げられました。こっちは練習機の「赤とんぼ」しか乗ったことがない。飛行場へ行ったら、飛行機がたくさん並んでいて、教官の顔を見たら、怖い教官ばっかり! おまけにその教官らは太く大きなこん棒を持ってましてね、「あんなこん棒でドツかれたら死んでしまうなあ」と思いましたよ(笑)。そりゃ厳しい訓練の毎日でした。「今度あの教官と一緒に飛ぶときは、自分で海に突っ込んで死んだろかいな」と何回も思ったほどです。しかし、「待て待て、われわれの先輩は皆この教育を受けて、そしてハワイ、マレー沖、ラバウル、あっちのほうでものすごく戦果を上げとるやないか。俺たちもできんことない。弱音を吐いてどうするんじゃ!」と自分で自分に言い聞かせて頑張りました。笠井智一さんはゼロ戦の後、紫電改のパイロットとなる。手にしている模型は笠井さんが搭乗していた機体番号の紫電改。パイロットは笠井さんがモデルだ井上 そこで、まず笠井さんが乗られた戦闘機が九六式艦上戦闘機でした。この戦闘機は脚(着陸装置)が外に出たままの固定脚機で、しかもキャノピー(風防)は開いたままになっています。この旧式戦闘機九六艦戦のあとで笠井さんは零式艦上戦闘機で訓練されたわけですね。笠井 九六式は脚が出ていても、赤とんぼよりスピードが速い。そしてフラップ(高揚力装置)を下げなければならない。次に零式艦上戦闘機に乗せられたら、フラップを下げ、脚を引っ込めてスピード、高度を考えなければいかん。赤とんぼとは操縦感覚が全然違います。 それに訓練したからといって、そう簡単に技量が上がるものではありません。教官から何回も殴られながら、「先輩に負けたらいかん、追い付け、追い越せ」という気持ちで零戦二一型に乗せてもらいました。 そんなこんなで零戦に乗ったわけですが、零戦という戦闘機は、慣れたらこれほど操縦しやすい飛行機はありません。スピードはだいたい時速530キロ前後です。米軍のグラマンF6Fヘルキャットは時速約600キロ以上でしたから、これには及びませんでした。井上 この零戦二一型と、靖国神社の遊就館にもある五二型との違いを笠井さんにお聞きしました。初期の零戦二一型は、エンジンの排気管が集合排気管で、機体下部についていたので静かだったが、零戦五二型は、単排気管となってカウリングの横から並んで出ているので排気音が大きく、エンジンが回っていると機上整備員と会話ができなかったそうです。「豹部隊」に配属井上 本来なら半年から1年かけて行われる零戦による延長訓練も、わずか20日間で修了しました。当時、いかに戦闘機搭乗員の消耗が激しかったかがうかがえます。 昭和18年11月、笠井さんは第一航空艦隊隷下の第二六三航空隊に配属されます。通称「豹部隊」。絶対国防圏防衛の主力として18年10月に松山基地に新編された海軍航空隊の虎の子部隊です。ここで出会ったのが、撃墜王・杉田庄一一等飛行兵曹(最終撃墜数百二十機)ですね。笠井 杉田兵曹はラバウル航空隊の歴戦の勇士で、ブーゲンビル上空における連合艦隊司令長官・山本五十六大将(戦死後、元帥に昇進)搭乗機の護衛戦闘機6機のうちの1機でした。私は昭和19年4月に着任した杉田兵曹の列機になって、彼が戦死するまで一緒に戦いました。杉田兵曹は非常に空中戦が上手で、部下を殺さず、部下が敵の弾でやらないように空戦技術を伝授してくれた、そういう人でした。井上 「とにかく俺に付いてこい」「絶対に編隊を崩すな」「絶対に深追いをするな」と、この三つを教え込まれたということですね。笠井 私がまだ新米の頃、杉田兵曹はよく出撃前に、「おい、笠井! 貴様はきょう、どんな空戦をするか知っとるか!」と言うんです。それで私が「わかりません!」と答えると杉田兵曹は、「よっし! それでいいんだ!」という。意味がわからないので私が「なぜでありますか?」と聞くと、杉田兵曹は「おまえらはまだ敵機と空中戦をするほどの技量はない。おまえたちはただ俺に付いてこい。俺についてきたら、絶対敵に勝つ。その代わり俺が弾をダダーッと撃ったら、おまえは敵機を見なくてもかまわんからとにかく弾を撃て」と言うんです。それで杉田兵曹が敵機を墜として基地に帰投すると、杉田兵曹は「よーし、今日の空戦では、おまえも弾を撃ったのだから、墜とした敵機は“協同撃墜”だ!」と豪快に言い放って、戦果をおすそ分けしてくれたんです。 そして杉田兵曹は、常に「絶対編隊を離れるな!」と口酸っぱく言っておられました。 昭和20年4月12日、沖縄方面攻撃に行ったときのことです。沖縄から北上してくる敵機と、喜界島の上空で空中戦になりました。あのとき、私は一番機(杉田兵曹)の教えを忘れて、編隊を離れてしまったんです。しかし空中戦で敵2機を撃破して煙を噴かしました。それで「よっしゃ! やったぞ!」と鹿屋基地に帰還しました。 そして「笠井上飛曹、帰りました。2機撃墜!」と報告したら、杉田兵曹が「おい笠井、おまえ、もう一度言ってみろ!」と言うので、私は「2機撃墜です!」と答えました。すると杉田兵曹が「バカ者! おまえは、敵機が海へ墜ちるか、山へぶつかるとこを確認したのか!」と怒鳴られたんです。あわてて私が「いえ、確認しておりません!」と答えるや、杉田兵曹は「それは撃墜じゃない! それは不確実だ!」と。ということでこのときの空戦の戦果は「不確実撃墜」となったのですが、そのときのことは今も記録に残っております。井上 この部分は、後年の本土防空戦争の話になりまして、ヘンリー境田さんがまとめた『源田の剣』で、「二機撃墜を召し上げられてしまった」というやりとりが生々しく記されております。グアム基地で初陣グアム基地で初陣井上 さて話を笠井さんの「初陣」に戻します。 笠井さんが配属された第二六三航空隊は内南洋(サイパン・テニアン)を守るためにグアム島に展開しました。そして笠井さんは、グアム基地で初陣を経験されたわけですが、そのときのお気持ちをお聞かせください。笠井 昭和19年4月25日、グアム上空へ空中偵察に来たB24の邀撃に上がったのが、私の初陣です。今まで戦闘機同士の空中戦の訓練はしたけれども、あんな四発大型機に対する攻撃の訓練なんかしたことはありませんでした。 敵機があまりにも大きいから零戦の照準器からはみ出てしまって、距離感が全然つかめないんですよ。それでも「ええーい、撃てー」と思って、二撃ぐらいやって基地へ帰ると、「こら笠井、おまえ、きょうはどんな射撃したんだ! あんな射撃では弾が当たるはずがないだろう! もっと接近して、ぶつかるとこまで近付いて撃て!」と杉田兵曹にどやされた。非常に苦い空中戦でした。井上 笠井さんが常々「コンソリ」と言われている「コンソリデーテッドB24爆撃機」には相当手を焼いたようですね。なんといってもハリネズミのように搭載している多数の対空機関銃が厄介だったようですね。 グアムでの戦いの後、笠井さんは、この4月に天皇・皇后両陛下が行幸啓されるパラオ共和国のペリリュー島に転進し、ヤップ島経由で米軍占領下のサイパンへの攻撃にも参加されました。笠井さんらは、米軍機による空襲を避けるために、ペリリュー島の隣のガドブス島に退避していて、桟橋を渡ってペリリューの飛行場へ通われたそうですね。今でもその橋脚だけが残っていますが、この桟橋の思い出はありますか?笠井 橋の下を見たらね、赤い魚とか、いろいろおりましてねえ。岸から海に手榴弾を投げて魚を捕った思い出がありますよ。井上 手榴弾で魚を捕られたんですか(笑)。他にはペリリュー島での思い出はありますか?笠井 また、ペリリュー島の飛行場の横がジャングルで、そこにニワトリがいたんですよ。日本の鶏よりも脚が倍ほど長い。「おい、あいつを拳銃で撃って食べようじゃないか」というわけで拳銃を持って捕りに行ったけども、結局一発も当たりませんでした(笑)。ヤップ島の戦い笠井 昭和19年7月16日にフィリピン南方のダバオ基地で、私はちょっと事件を起こしてしまったんです。実は、外出のときにある飲み屋で3人の陸軍兵と喧嘩になった。こっちは5人。私服なもんだから相手の階級が分からないまま、3人を打ちのめしてさっさと隊へ帰ったんです(笑)。 その晩、分隊長の菅野直大尉から「憲兵隊からお尋ね者で来とるぞ」と告げられました。菅野大尉は憲兵隊の身柄引き渡し要求を断わり、追い返してくれたんですが、そんなことで3―4日外出ができませんでした。それを避けるためもあって、菅野大尉が「ヤップ島にいつもコンソリが空襲に来るらしい。一度、邀撃に行こうやないか」ということで、喧嘩した5人を含めて8人で編隊を組んでヤップ島へ向かいました。 翌日から早速B24の邀撃戦です。ヤップ島には今でいうレーダー、電探が置いてあって、10時40分ぐらいになると必ず「敵らしき編隊近づく、何度何分!」と電話がかかってくる。それを受けて邀撃に上がるんですが、情けないことに零戦が6機か7機しかない。もっとあったら、もっと敵を墜とせたのに。 離陸して待ち構えていると、遠くの方にポツポツと約20ぐらいのごま粒大の点が見えて、それがだんだん近づいてくる。大型のB24爆撃機には12・7ミリ機銃を10挺ほど積んでいて、これが我々を発見するとガンガン撃ってくる。その弾は1000メートルぐらい向こうから飛んでくるのに、零戦の20ミリ機関砲は500メートルまで近づかないと有効弾が撃てない。初めは前上方攻撃、それから前下方攻撃、後上方攻撃というような方法でB24に挑んだんですが、どうしても我々の被害が大きい。そこで菅野大尉が考案したのが、直上方攻撃でした。敵機との高度差を1000メートル以上とって、上方から機銃を射ちながら真っ逆さまに敵機めがけて突っ込んでゆくわけです。井上 今お話がありました米軍の12・7ミリ機銃というのは、零戦の20ミリ機関砲の約2倍の弾薬を搭載していて、米軍戦闘機はその12・7ミリ機銃を6門搭載しており、大型爆撃機のB24は10門ほど積んでおりました。しかも敵の12・7ミリ機銃は初速が大きいため、猛烈な弾幕を張るので近づくのが難しかった。そこでこの弾幕を避けながら敵機に命中弾を浴びせるために考案されたのが直上方攻撃だったというわけですね。笠井 はい。射撃した後は、敵の主翼と尾翼の間を抜けて下方へ逃げるんです。井上 まるでサーカスのような曲芸飛行ですね。笠井 すり抜ける間合いを読み違えて敵機に体当たりするやつもいました。そうしたら「おっ、あいつは体当たりして敵を落としよった」と。誰も間違って当たったとは言いませんでした。井上 そのとき零戦の機首に付いている7・7ミリ機銃は、どんな役目を持っていたのでしょうか。笠井 ちっぽけな7・7ミリ機銃なんていうのは100発撃っても敵は痛くも痒くもないわけです。ただ、自分が突っ込んでいくとき、下から敵が一斉に撃ってくると、やはり人間だから怖い。その恐怖心をなくすために7・7ミリをタタタタン、タタタタンと5、6発撃ちつつ、自分の心をだまして突っ込んでいく。そして「ここっ」というときに20ミリに切り替えて撃つ。銃座にいるアメリカ人の顔が見えるぐらい接近して、突っ込むんです。そのぐらい危険の伴う攻撃でしたけれども、割合に被害がなくてすみました。井上 笠井さんは昭和49年、ヤップ島で墜落した愛機と対面されるんですね。笠井 7月24日のヤップ島上空での空中戦で、敵に撃たれエンジンが止まって海へ不時着しました。戦後、「あんたが乗った飛行機がヤップにまだあるらしい」と誘われて行きました。現地の人に筏で案内されて行ってみると、干潮時には海面から尾翼とプロペラが出てる。それを目にしたとき「なるほど、俺が乗っとった飛行機に間違いない!」と思いました。飛行機の番号「63」という文字がかすかに見える。これは「二六三」豹部隊の番号です。 実はその墜落した機体の尾翼の先端部分をちぎって持って帰ってきたんです。その実物がこれです。昔の零戦はこんなにペラペラで軽いでしょ? これが日本の「超々ジュラルミン」というアメリカでもできなかった航空機用材料です。まあ、零戦はそれぐらい軽い。軽いから格闘戦に強いし、長距離も飛べる。グラマンみたいに5トンも6トンもあるような飛行機は、そうは飛べないわけですな。菅野直大尉との出会い菅野直大尉との出会い井上 話は前後しますが、海兵七十期の総撃墜数72機というエースパイロット、菅野直大尉との出会いが、また笠井さんのパイロット人生の中で大きな影響を与えたということですが、菅野大尉は、どんな方だったのですか?笠井 私が昭和19年の6月にフィリピンにおりますときに、「今度、海兵出の中尉が分隊長で来るらしい。菅野中尉というてな、三四三空の隼部隊におった人らしいわ」「海兵七十期ぐらいやったら、まだろくに空戦技術もないだろうし、大丈夫かいな」なんて皆で心配しておりました。しかし相手は中尉、こっちは二等下士。なかなか簡単に話せない。飛行場から帰ったら、われわれは下士官の宿舎へ帰る。菅野大尉らは士官の兵舎へ帰る。それでも、飛行場へ来たら士官も昼食は一般の兵隊と同じ飯を食べます。 それで「今度来た菅野中尉いうのは話せるぞ」という評判だった。そんな菅野中尉がしばらくして大尉になり、その途端に分隊長になった。大した戦闘もなく過ぎたある日のこと、菅野大尉に「おい笠井、おまえ、俺と一緒に内地へ飛行機を取りに帰らんか」と言われた。それで8人か9人で、内地へ飛行機を取りに帰ったんです。 群馬県の中島航空機の太田飛行場には新品の零戦がたくさん並んでおりました。しかし悲しいかな、エンジンが一つも付いてない。そこでエンジンが付くまで20日間ほど待って、15、6機の零戦を受領してフィリピンへ戻ったんです。 零戦で3、4時間も飛ぶと、お尻が痛くなって、「もう隊長、はようどこでもかまへん、着陸してくれたらええのにな~」なんて思っていたところ、フィリピンのある飛行場へ着陸したんです。そして到着の報告のために指揮所へ行ったら、そこの隊長に「こらあ貴様ら、自分の着陸する飛行場も分からないで内地から飛んで来るバカがおるかー!」と一喝された。「ここはバンバン飛行場だ! お前らが行くのは、ここから10分か15分北へ飛んだところにあるマバラカット飛行場だ!」。そうしたらうちの菅野大尉がプーとふくれて、離陸前のエンジン出力チェックのとき、15、6機の飛行機が一斉に天幕にお尻を向けてエンジンをかけ全力試運転したんです。そうしたらその強風で天幕の指揮所は吹き飛ばされてしまいました。この「仕返し」に皆で大笑いしながら離陸したわけです。 そしてマバラカットへ着陸したら、どうも気色がおかしい。整備員に聞くと「昨日か一昨日か、零戦が250キロの爆弾を積んで体当たり攻撃に行ったらしいですよ」というんです。まあ、私たちが内地へおるときに菅野大尉からそういう話を少しは聞いておりました。 「おい、今度フィリピンに戻って、爆弾積んで特攻に行けと言われたら、俺は行くからな。笠井、おまえも一緒に連れて行くぞ」と菅野大尉が言ったので、私はすかさず「はい、行きましょう」と答えました。そのとき、命が惜しいとか、敵が怖いとか全然思わなかったですね。サンゴに飲み込まれるように海底に横たわる零戦=ミクロネシア連邦・チューク州のトラック諸島(水深9メートル) 当時、17、8歳の若者は、ただ国を思い、日本の勝利を信じて、みんな飛び立っていったんですよ。 もちろん戦闘機搭乗員たるものは、戦って再び帰ってきてまた敵を落としに行く。1機でも敵を落とすのが戦闘機の役目だということもわかっていましたが、それでも国を守るために多くの若者達が特攻隊員として敵艦に突っ込んでいったのです。われわれはそうして国の礎となって死んでいった戦友たちに、本当に感謝と慰霊の言葉を申すほかはありません。井上 戦史の中では、昭和19年10月25日、神風特攻隊、関行雄大尉率いる敷島隊の五機がマバラカット飛行場を飛び立ちます。実はこの関大尉は艦上爆撃機の搭乗員で、本当は菅野大尉が指名される予定だったようです。もしそうであったならば、笠井さんも敵空母に突入されて、今ここにこうしていらっしゃらなかったでしょう。 さて、特攻機が爆弾を抱いて敵艦めがけて突っ込んでいきますと、敵戦闘機がこれを阻止しようと襲いかかってきます。その敵の戦闘機を追い払う「直掩」という任務を、笠井さんは担っておられました。笠井さんは同期の方の特攻機の直掩もなさったのですね。笠井 10月26日にバンバンからマバラカットへ帰着し、現地人の家を借りた兵舎で、晩飯を食べて一杯飲んでいたら、「おーい、きょう内地から空輸してきたやつ、全員集合!」と呼集がかかりました。「きょう18機来た中で、あした5機、特攻の直掩に行くから、その五機を発表する」ということでした。その中に菅野大尉と私の名前が入っておりました。「ええっ、せっかく内地から来たというのに、もうちょっと休ませてくれよ」と(笑)。しかしそんなことは言っていられない。翌27日、夕方を狙った薄暮攻撃を仕掛けるため、3時に編隊を組んでフィリピンのニコロス基地へ行きました。 するとそこにはすでに、胴体に「五十番」(500キロ爆弾)を積んだ特攻機、艦上爆撃機「彗星」が4機並んでいる。ああ、あいつらやなと。そして4時すぎに離陸しました。 護衛する特攻機の上空1000メートルぐらいの高度差で護衛していくわけですね。幸い敵の戦闘機に出合うこともなくレイテまで行ったら、ものすごく雲が多い。ところが1カ所だけ雲の切れ間があった。その雲の切れ間から特攻機が突っ込んでいきました。こっちも直掩機だから遅れまいと付いて行った。そうしたら上は明るいけども、下へ行ったらもう暗いんですね。そして下からボンボンと対空砲を撃ってくる。 これは戦後分かったことですが、この日、私の同期生が乗る特攻機は、車輪が故障して離陸できなかったということでした。そのため特攻機が3機になったらしいんです。それで、3機の体当たりを確認いたしました。そして、生半尺な高度だったら敵に撃たれるから、自分のプロペラが海面をたたくようなすれすれの高度で逃げ回って、戦場を離れてセブ島の飛行場へ着陸しました。 戦果報告を済ませてマバラカット基地に帰ろうとしたとき、「おまえたちの乗ってきた零戦は特攻機に使うから、ここに置いとけ!」という命令を受けたんです。 そこで仕方ないので、九六陸攻(九六式陸上攻撃機)でセブ島を出たんですが、途中で敵のP38に出合ってしまいやられそうになったんです。そのとき菅野さんが「おまえらどけっ、俺が操縦する」と言って操縦をかわろうとしたんです。戦闘機の操縦士が急に中攻の大型機の操縦なんかできないのに菅野大尉は操縦桿を握り、巧みな操縦で敵機を振り切ってどうにか芝の草っ原へ不時着しました。不時着した機体は追ってきたP38に攻撃されて燃えてしまったのですが、我々は機外へ飛び出して無事でした。実はこの不時着した島はルパング島でした。戦後、小野田寛男少尉が出てきた島です。 まあそんなことで、菅野さんとはいつも一緒でした。あの方も割合お酒が好きな人でして、当時なかなか手に入らなかったウイスキーの角瓶を一晩に一本ぐらい空けるぐらい、よく飲みました。井上 実際に特攻機が敵艦に体当たりする場面をご覧になって、いかがでしたか?笠井 それはもう、実際に爆弾を抱いた戦闘機が敵艦に体当たりをしたとき、「やったぞ。よっしゃー、次は俺がやったるからな!」と思いましたね。その一心でしたね。だから命が惜しいとか、死んだやつがかわいそうだとか、家族がかわいそうだとか、そんなことは一度も思ったことも、考えたこともありませんでした。井上 皆さま、これが本当の武人の魂でございます。 その後、ルソン島のマバラカット基地に帰った笠井さんは、乗る飛行機がなかったため、しばらく特攻機の見送りなどをして過ごしていたそうです。そして19年11月初旬、笠井兵曹と杉田兵曹に内地転勤の命令が発せられました。紫電改による本土防空戦紫電改による本土防空戦井上 ここからが本土防空戦の話となります。新編された三四三航空隊は、海軍きってのいわば“エリート部隊”です。腕利きのベテランパイロットが内外各地から集められ、笠井さんは菅野大尉や杉田兵曹らと共にここに着任されるわけです。 この部隊で使用された戦闘機が紫電二一型です。零戦の後継機として川西航空機が製造した紫電一一型の改良型で通称「紫電改」と呼ばれました。かつて養毛剤で「紫電改」というのがありましたが、これは「起死回生の逆転」という意味が込められていたということです。 さて笠井さん、この紫電改はどんな戦闘機でしたか?笠井 昭和19年11月末にフィリピンから内地へ帰ってきて、横須賀で当初は「紫電」(一一型)に乗って訓練を受けました。そして12月初旬、橙色に塗装された飛行機が着陸してきました。これが「紫電改」(紫電二一型)でした。当時はまだ試験飛行中だったのでこのような橙色の機体だったわけです。 皆がこの新鋭機に乗りたくて、たった1機で5、6人が「おまえ、操縦が長すぎるぞ。早く代われ」などと言いながら訓練をしたことを覚えています。そして、この年の12月末に松山へ移動したわけですが、松山飛行場へ行ったら紫電改がずらっと並んでいる。「これで絶対グラマンに負けんぞ!」という自信が湧きました。それはそうでしょう。今まで乗っていた零戦は1000馬力でグラマンの半分の馬力しかありませんでしたが、今度は2000馬力のエンジンの付いた優秀な紫電改ですから。井上 当時のアメリカ海軍の主力戦闘機グラマンF6Fヘルキャットのエンジンは2000馬力で、零戦はその半分しかありませんでした。零戦は軽量で抜群の旋回性能があったため格闘戦に優れていましたが、エンジンパワーが半分ではスピードや上昇性能などで劣るため、追撃してもF6Fに振り切られたようです。紫電改(Wikimedia) そうした中で零戦の後継機として登場したのが紫電一一型でした。この新鋭戦闘機は水上戦闘機「強風」の派生型でしたが、これをさらに改良したのが紫電二一型つまり「紫電改」です。 搭載した「誉」エンジンの出力は2000馬力でグラマンF6Fと互角となりました。武装は、強力な破壊力を持つ20ミリ機関砲を4門という重武装で、12・7ミリ機銃を6門搭載した米軍機に対抗したのです。“下手な鉄砲数うちゃ当たる”の要領で、とにかく数多くの弾を発射して弾幕で攻撃する米軍機に対して、日本の零戦や紫電改は、発射弾数は少ないが“一撃必殺”で敵機を射落とす戦法でした。搭載している20ミリ機関砲は、射撃技術がないと敵機に命中させるのは難しい。その代わり1発当たったら一撃で米軍機を撃墜できたということです。そして注目すべきは、紫電改には防弾板も装備されていたほか、「自動空戦フラップ」という世界最先端技術が採用されていたのです。 三四三航空隊の各飛行隊には「新選組」「天誅組」「維新隊」と勇壮な愛称が付けられており、笠井さんが所属されたのが三〇一飛行隊「新選組」で、菅野大尉が飛行隊長でした。この菅野大尉は「ブルドッグ隊長」と言われていたようですが、どんな戦い方をされていたのでしょうか。笠井 この人はとにかく空中戦で敵を見つけたら、部下がどうであろうと関係なしに、ビヤーッと自分一人で突っ込んでいくわけ。だから菅野大尉の二番機になった人は、非常に苦労しました(笑)。私は菅野大尉の一区隊に続く、二区隊の二番機におりましたから、菅野大尉機がビヤーッと突っ込んでゆくのが見えました。「敵発見、敵発見」と言うやいなや、突っ込んでいくんです。あんな隊長、見たことなかったですね。井上 実は、私の親族(中西健造大尉)がこの三〇一飛行隊におりまして、若い頃に笠井さんのことは聞いておりました。笠井さんはたいへん優れたパイロットでいらっしゃったと。その笠井智一さんと、今こうやって靖國神社でご一緒していることは感慨無量です。 さて三四三航空隊は、かの源田実大佐を長として、第三〇一飛行隊(隊長・菅野直大尉)、第七〇一飛行隊(隊長・鴛淵孝大尉)、第四〇七飛行隊(隊長・林喜重大尉)を中心に、歴戦の勇士が集められた部隊でした。今もお元気でお過ごしの本田稔少尉(四〇七飛行隊)は、私のもっとも尊敬するパイロットの一人で、戦後は、航空自衛隊でパイロット育成にご尽力されました。その他にも「空の宮本武蔵」といわれた武藤金義少尉、笠井さんの恩師ともいえる杉田庄一少尉、さらに三四三航空隊飛行長の志賀淑雄少佐は空母加賀の戦闘機隊を率いて真珠湾攻撃に参加した歴戦の勇士でした。三四三航空隊は、日本海軍が誇るエリート中のエリートパイロットが集められた戦闘機部隊だったんですね。 この部隊の「主要戦闘記録」を見てみると、初陣が昭和20年3月19日の瀬戸内海上空での戦いで、その戦果は敵機撃墜57機、わがほう損害13という圧勝で始まっています。以後も、ほぼ敵機撃墜数が被害機数を上回っています。このように最後の最後まで、米軍に日本海軍航空隊の強さを見せつけたのが、この三四三航空隊でした。 その中で笠井さんにとって思い出に残る戦いはどの空戦でしょうか?笠井 昭和20年7月24日、豊後水道の上空で敵の艦載機120機と空中戦をしました。そしてこの日に、6機の未帰還機が出ました。その6機のうちの1機が、戦後海底から引き揚げられまして、今、愛媛県愛南町の紫電改展示館に展示されております。これは、日本に現在ある紫電改のただ一機の実機です。井上 この最後の戦いで、鴛淵大尉、武藤金義さんも亡くなっておられますね。 三四三航空隊は、最後まで勇戦敢闘して米軍に多大の損害を与え続け、驕る米軍パイロットの心胆を寒からしめたのですが、熾烈な戦闘で、笠井さんの恩師であった杉田兵曹をはじめ優秀なパイロットが次々と散華されてゆきました。 そんな本土防空戦のときの御心境はどのようなものだったのですか?笠井 まあとにかく、「こんちくしょう! こんちくしょう!」と思って「いつかやったるぞー」と、そればっかりでした。紫のマフラー紫のマフラー井上 日本の上空で戦った米戦闘機がF6Fヘルキャット、P51ムスタング、F4Uコルセア、P47サンダーボルトです。この中で思い出のある敵機はありますか?笠井 F4UコルセアとF6Fヘルキャットですね。 P51ムスタングとは、二、三回空中戦をやりましたけども、なかなか格闘戦をしてくれないんです。“一撃離脱戦法”で、高速で一撃したあとは、全速で逃げるんです。P51は速度が速いからとても追っつかんわけですよ。 F6Fなんかは、まだたまに空戦を挑んでくる。格闘戦になったらもうこっちのものなんですが。井上 そしてB29爆撃機を邀撃するときは、やはり菅野大尉が編み出された直上方攻撃だったのですね。間違えたら体当たりになりますが、怖くなかったですか?笠井 怖かったら戦争できません!井上 皆さん、笠井さんをはじめ我が軍の戦闘機搭乗員の方々はこの精神力と覚悟で戦ってくださったのです。いまの笠井さんの言葉が真実です。今日は本当の生の声を皆さんに聞いていただきました。 さて笠井さん、戦後、瀬戸内海から引き揚げられた紫電改をご覧になっていかがでしたか。笠井 生きている間に紫電改が見られるなんて、夢にも思わなかった。引き揚げられた機体を目の当たりにしたとき、「はあー、これはすごい。誰が乗っとったんかいな」と、まず思いました。遺品もなにもなかったから分からない。同期と2人で誰の機体だろうかと推測もしましたが、これは一生、口には出しません。井上 この愛媛の展示館には「紫のマフラー」というものが展示されていますが、このことについてご説明いただけますでしょうか。笠井 当初、三四三航空隊が展開していた四国の松山に、よく遊びに行った食堂がありました。その食堂の女将が「あんたたち紫電改に乗っているのだったら、紫のマフラーを作ったら」と言ってくれたんです。 皆さんは、パイロットが首に巻くあの白いマフラーを「かっこいい」と思っているでしょうが、あれは格好つけるためのものではないんです。敵にやられてエンジンが燃えたとき、顔を火傷しないように守るためのものなんです。木綿だと火が付くと燃えてしまうが、絹か毛糸でしたら、なかなか燃えない。そういう目的で首に巻いていたんです。 その白いマフラーを紫に、といっても生地がない。そこで私が「そやけど奥さん、今頃、絹の生地なんてないやないの」と言ったら、奥さんは嫁入りの時の白無垢を切って作ってくれたんです。今井琴子さんという方でした。それを紫に染めて、済美高等女学校の生徒さんに刺繍してもらった。我々4人がいただいた紫のマフラーには、杉田兵曹の合言葉「ニッコリ笑へば必ず墜とす」が刺繍されておりました。 一番機の杉田兵曹は、喜界島上空での大空戦の3日後、4月15日に散華されました。鹿屋基地に襲来したグラマンに、離陸直後に撃ち落とされたのです。そのとき三番機も戦死しました。それから四番機の田村、これも去年か一昨年、病院で亡くなりました。みんな死んだときに自分のマフラーを持っていきました。このままだと紫のマフラーの話が途絶えてしまう。そこで私が紫電改展示館へ寄付して、今あそこに私のマフラーが展示してあるんです。井上 最後に、今日、笠井さんがお持ち下さった伊勢神宮外宮にある「国旗の詩」の碑の写真についてご説明いただけますか。笠井 「戦敗れて萬家国旗を忘る/星条ひるがえる処惨として旗を看る/邦を興す正気此々に存す/願わくばこの民をして国旗を愛せしめん」 日本の国は戦争に負けて、そして国全体が国旗を忘れてしまった。独立国である日本で、見えるのは星条旗だけじゃないか。残念でたまらない。国を興す正気はこの国旗、国歌にある。願わくば、この日本国民をして国旗を愛せしめんと。陽明学者・安岡正篤先生の詩です。日本人である以上、平和日本再建のために国旗・国歌を尊び、そしてその精神を高揚しようではありませんか。 そして最後に、靖國神社に祀られる英霊に対し心より感謝と鎮魂の誠を捧げます。(1月25日、靖國神社遊就館で開催された雑誌『正論』主催講演会をまとめたものです) 笠井智一氏(かさい・ともかず) 大正15 (1926)年、兵庫県篠山町生まれ。昭和17年、土浦海軍航空隊入隊(甲飛10期生)。18年11月に263空(豹部隊)に配属後、翌年グアム島付近で初の空戦を経験。同年7月に201空隊員としてヤップ島上空で米軍爆撃機(B24)の迎撃にあたり多数を撃墜。この時に被撃墜、不時着も経験。同10月神風特別攻撃隊第二忠勇隊の直掩任務に当たり特攻の瞬間を目撃した。自らも特攻を志願するも内地行きを命令され、19年12月、局地戦闘機・紫電改が集中配備された343空(剣部隊)配属。翌年4月、九州・鹿屋基地に進出し特攻隊の前路哨戒、制空戦、本土防空戦などにあたり終戦を迎える。 井上和彦氏(いのうえ・かずひこ) 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。軍事漫談家。『日本文化チャンネル桜』の「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)など多数。関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか■ よみがえる戦艦大和 その伝説が日本人に残したものは
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決死で突撃 珊瑚海の勇士
珊瑚海海戦は史上初の空母同士の決戦として知られる。日本側は井上成美中将指揮の空母3、巡洋艦9、駆逐艦13、上陸部隊を乗せた輸送船6など総勢51隻。連合軍側はフレッチャー少将指揮の空母2、巡洋艦8、駆逐艦13など23隻が出動したが、実際は互いに敵の艦影を見ず空母の搭載機だけの戦闘に終始した。 戦いは、昭和17年5月6日、ツラギのガブツ基地を離水して哨戒飛行に出た山口清三飛行兵曹長指揮の九七式大艇が、基地の南南西750キロの上空から「敵発見!」の第一報を打電してきたことから始まった。当時、日本はラバウル、連合軍はポートモレスビーから互いに連日の空襲合戦を演じており、目の上のたんこぶ、ポートモレスビー攻略が目下の急務になっていた。そのためいち早くツラギに水上機部隊を進出させて索敵圏を広げたことが功を奏した。 送信した井元正章二等飛行兵曹は、この連載の「日記から」に二度ほど登場した。鹿児島県の種子島生まれで上京後、府立の名門六中(現新宿高)に学び、三年のとき少年航空兵を志願した。成績が良く、「志願兵では下士官どまり。卒業して海軍兵学校を受けたら…」と勧める試験官に、「それより早く軍人になりたい」と答えた好漢だった。 井元二飛曹は同年8月、23歳の若さでソロモン上空に散華するが、敵発見時の模様は遺稿になった日記「碧空を往く」(潮書房)に生々しく語られる。「午前八時十分、敵らしき艦隊を発見。よく見ると、戦艦の艦型がどうやら違うように思われる。(中略)そのうち航空母艦が一隻見えた。まぎれもなく敵サラトガ型(実際は同型の姉妹艦レキシントン)と思われる。味方ではないと小生は断言した。(中略)敵の隊形は重巡二、戦艦一、空母一で駆逐艦五の前衛を配し、間隔約五百m」と、視力2・0、総飛行2000時間を超えるベテランだけに、実際は参加していなかった戦艦を除けばまず完ぺきな偵察だった。 このあと九七式大艇は敵艦隊に付かず離れず4時間の触接を続ける。それまで空母を発見して触接した艇はほとんどが迎撃してきたグラマンに撃墜されていた。十人の搭乗員にしてみれば、勇気のいる命がけの偵察飛行だった。 敵発見の一報は、ソロモン諸島の南端を回って珊瑚海に入ったばかりのMO(ポートモレスビー)機動部隊にも届いたが、残念ながら距離が遠く艦載機の攻撃圏外。決戦は翌日に持ち越された。 米海軍はこのころから日本海軍の暗号解読に成功しており、MO攻略部隊の出撃の日取りも的確に把握していた。6日、レキシントンとヨークタウンの攻撃機はジョマード水道に直進、攻略部隊護衛の軽空母祥鳳を撃沈した。これに対し日本側は、索敵機が空母と誤認した給油艦ネオショーに殺到、これを大破させ、駆逐艦シムスを撃沈したにとどまった。 7日、日米双方ともほぼ同時に敵発見、互いに攻撃をかけ合った。ここでまた勇士が生まれる。索敵に出た空母翔鶴の九七艦攻(菅野兼蔵飛行兵曹長、後藤継男一等飛行兵曹、岸田清次郎同搭乗)が、発見した敵空母と触接しながら12通の適切な電報を打ち続け、帰途味方の攻撃隊に出会うと反転して、これを敵艦隊の上空まで誘導したのだ。その最期の模様は不明だが、燃料切れ覚悟の上での決死の行動だった。 この攻撃でレキシントン撃沈、ヨークタウンも大破して戦線を離脱した。攻撃を指揮した翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐は真珠湾攻撃にも参加、インド洋では英空母ハーミスを撃沈したベテランだったが、攻撃終了後も戦果確認のため長く上空にとどまり未帰還になった。恐らく敵戦闘機に撃墜されたのであろう。最後の電報は「サラトガ撃沈ハ取消、マテ」だった。事実、レキシントンは被爆後、漏れて気化したガソリンに引火して数回の大爆発を起こしたがなかなか沈まず、最後に米軍が駆逐艦の魚雷で処分したのは攻撃の九時間後だった。 また翔鶴上空の援護で弾を撃ち尽くした零戦の一機が、爆弾を投下しようとする敵機に体当たりして撃墜するシーンも見られた。このように、戦争末期に“特攻”が始まるはるか前から、死を恐れず自己犠牲の精神で国のために戦った数多くの勇士たちがあったことを忘れてはならないだろう。 大本営は8日、「空母サラトガ、ヨークタウン、戦艦カリフォルニアを轟撃沈、英戦艦一、重巡一大破」とかなりオーバーな戦果を発表した。確かにこちらは軽空母1損失、正規空母翔鶴も大破したが僚艦瑞鶴は搭載機34に半減したものの無傷だった。これに対し、相手は正規空母1損失、1大破で機動部隊としての戦闘力を喪失、南方へ退却したから勝った海戦だったといえる。しかし戦略的にみて、この海戦の結果、主目的のポートモレスビー攻略作戦を断念せざるを得なかった点では負けだった。 瀬戸内海にあった戦艦大和の連合艦隊司令部では、早めにMO作戦を断念した第四艦隊司令部への非難ごうごうだった。参謀長の宇垣纏少将は、「第四艦隊は祥鳳一艦の損失に依り全く敗戦思想に陥れり。戦果の拡大残敵の殲滅を計らざるべからずと(第四艦隊の)参謀長宛迫る」(戦藻録)と記した。 敵が退却した情勢をつかめなかったといえばそれまでだが、第一線の指揮官が、「見敵必戦」の決断に欠けるとすべてがむだになる。しかし時すでに遅し、多くの将兵たちの敢闘もむなしくポートモレスビー攻略のチャンスは永遠に失われた。 (編集委員 牧野弘道)関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか■ よみがえる戦艦大和 その伝説が日本人に残したものは
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「翔べなかった予科練生」の戦後
【消えた日本人 再発見の旅】※肩書、年齢等は当時のまま敗戦国民を叱咤した大日章旗 昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃により戦端が開かれた「太平洋戦争」は、やがて苦戦続きとなる。大空に憧れて海軍の「甲種飛行予科練習生」に合格しながら、物資欠乏などのため、飛べなかった人々がいる。今年は戦後60年。虚脱感を抱えながらも、生きぬいて日本復興に努力した元予科練生たちを訪ねた。かつて学び舎に軍艦旗が翻っていた 平成元(1989)年秋、創立百周年を迎えた「関西学院」(兵庫県西宮市)では校舎が次々と新築され、一連の記念式典が開催された。それに先立ち関係者を集め「高校校舎お別れ会」が大講堂で開かれた。荘厳なミサ、賛美歌…。粛々と進む式典だったが、あまりそぐわない一団の参加で、違和感を覚えた出席者も少なくなかった。熟年男性60人が旧日本海軍の略帽姿で、軍艦旗まで捧げていたからだ。 旗とともに「西宮海軍航空隊会」の会員数人が壇上へ。すわ、時代錯誤の大演説が始まるのか? 会場が緊張感に包まれる中、隣接の芦屋市でコンビニ店を経営する山村喜一郎会長(77)が口を開いた。戦前、関学には西宮海軍航空隊の基地がおかれ、消えゆく校舎は兵舎と化した。 「じつは私たちもここの卒業生です。厳しい訓練を受け、多くが特攻隊に志願しました。兵舎を出る日、桜の花びらを胸ポケットに入れ、別れを惜しんだのです。どうか皆さん、二度と学び舎に軍艦旗が翻ることのないよう、平和を守る努力を続けてください。日本人を生かすも殺すも、先生、あなたたちの口先次第ですよ」 平和を願う重い言葉は万雷の拍手を呼び、一団は握手攻めとなった。山村さんはグライダーのライセンスを持ち昭和19年、芦屋中学から16歳で海軍の「甲種飛行予科練習生」の第14期に合格した。約1200人が関学の西宮海軍航空隊に入隊した。「入営当夜、いきなりバットで尻を叩かれた。以後、連日連夜…」 特攻隊に志願。山口県柳井市の柳井潜水学校分校で特殊潜航艇「海龍」の訓練を受けている20年8月15日、終戦を迎えた。海龍は爆薬を積み、敵船にぶつかる特攻兵器。母に持たされた慈母観音の小像が心の支えだった。「復員して真っ先に関学を訪れ、無事に帰れたことを感謝しました」◇ 旗にまつわる思い出がもう一つ。山村さんは21年から10年間、六甲山系の一角、「城山」(鷹尾山、標高263メートル)の掲揚台に日章旗を掲げ続ける運動の中心として活躍した。戦後、芦屋市の廣瀬勝代さんが芦屋市婦人会を結成。まず復員兵にお茶を振る舞うサービスを開始した。次に、全国の各婦人会に「日の丸掲揚運動」を呼びかけた。敗戦に打ちひしがれた日本人に誇りを取り戻してもらいたい。まず女性側からの呼び掛けだった。 真っ先に呼応したのが、地元芦屋の連合青年会。山村さんが先陣を切り、21年春、畳十二畳分もある巨大な国旗を折り畳み、リュックに入れて城山にあがった。午前8時、旗が翻った。以後、青年会員がローテーションを組み、雨の日も雪の日も掲揚し続けた。 阪急神戸線だけでなく国鉄(現・JR)、阪神電車からも日の丸は見えた。「いや、遠く離れた西宮市の甲子園球場からも見えました」。そのうち、「元気づけられました。どなたが掲げておられるのか」と新聞に投書が載った。「日本人として生きる支えになる」、「日の丸は本当に美しい」という感想をよく聞いたが、新聞はあまり取り上げなかった。「そんな時代だったのでしょう」 しかし、占領軍は見逃さなかった。神戸市内からMPが軍用車で到着。山村さんは連行されてしまった。「何の目論見(もくろみ)なのか?」、「この予科練崩れめ」と厳しい追及が続いた。だが、廣瀬さんが駆けつけ、連れ戻してくれたという。今夏、芦屋市内で、「市民とともに考える平和展」が開かれ、旗が展示された。「すぐに破れるので、三代目かな? 雨の日は死ぬほど重かった」 山村さんは現在、「芦屋川カレッジ きらめき会」の会長として会員80人と生涯学習に邁進している。車いすを押し、交通安全運動を行ったり。鍛えぬいた体があればこそだ。じつは復員後、芦屋中学の野球部でコーチ兼マネジャーになった。 芦屋中学は、昭和21年、5年ぶりに再開された第二十八回「全国中等学校優勝野球大会」(夏の甲子園)に、勝ち進み兵庫県代表に輝いた。甲子園球場は接収されており、大会は阪急西宮スタジアム(すでに取り壊された)で行われた。「闇市(やみいち)で進駐軍のグラブ、ボールを調達。神戸市東灘区の小学校を借りて合宿しました。やはり平和はいいし、スポーツもよろしい」白球で立ち直った「予科練崩れ」 この戦後初の「全国中等学校優勝野球大会」で、決勝に進んだのは浪華商業(大阪代表)と京都二中(京都代表)。浪商は平古場投手の力投で深紅の優勝旗を手にした。あれから45年目の平成3年7月11日、西宮球場に当時のOBたちが集い対抗戦を行った。と言うより「オール大阪対オール京都」の戦後球児が参集し大イベントとなった。京都二中OBの中川和雄・大阪府知事(当時)の始球式で、「プレーボール」。予科練の訓練風景 対抗戦の企画者の一人、大阪府豊中市、元会社社長、伊勢田達也さん(77)は大阪・八尾中学出身。左利きのセカンドとして活躍した。藤井寺球場で行われた大阪予選の準決勝で敗れ、3位決定戦(当時存在した)に臨んだ。しかし九回表、後方に上がったフライを追って、センターと交錯し失神。特別仕立ての近鉄電車で病院に運ばれた。 「道を歩けば、『特攻崩れ』と呼ばれたり、『お前はどこの舎弟や』と質問されたりで、正直、何もかも嫌になっていたが、私は野球で救われたんです」 昭和19年秋、15歳で甲種飛行予科練習生の15期に合格した。愛媛県の「松山海軍航空隊」に配属されたが、やがて予科練教育は中止された。伊勢田さんは、今やユニークな御当地ラーメン「鍋焼きラーメン」で売り出し中の高知県須崎市に送られ、入り組んだ海岸線でひたすら塹壕(ざんごう)を掘っているうち、終戦を迎えた。さすが土佐は酒処だ。十日後、町の女性たちが焼酎を携えて「さあさあ陽気にやろうやー」と押しかけて来た。酒盛りが始まり、戦争の終わりを実感したという。 復員後は虚脱感に襲われていたが、歴史の先生から復学と野球部への入部を勧められ、伊勢田さんは、気力を取り戻した。慶応大学に進み、家業の「オーサカゴム」の経営に携わった。その傍ら、『八尾高野球部史』、『物語 八尾高野球部』などを出版した。八尾中学は昭和4、5、6、7年と4年連続センバツ出場した強豪だったからだ。 62年、戦後復活球児の仲間たちと「大阪戦後野球懇親会」を設立。30校150人が参加した。また予科連の同期者たちと「松空十五期会」を結成した。 ある日、「松空十五期会」の来賓、「全国甲飛会」の大西貞明会長(当時)と言葉を交わす機会を得た。甲飛会は旧予科練の存命者を糾合して設立された。大西さんは京都市出身。第三期で主に偵察で活躍。四回、墜落し、太平洋を漂流した経験をもつ。戦後も実業家であり、数々の要職を歴任したが、15年、逝去した。 「伊勢田君、生き残った我々には死んで行った者が言いたかったことを後世に伝えるつとめがある」。語り部としての大切さを懇々と説かれた。それから丸3年間を費やし平成13年8月15日、『翔(と)べなかった予科練生』(あすなろ社刊)を出した。◇ 伊勢田さんの松山海軍航空隊は戦闘基地と隣接し、戦闘機「紫電改」が何十機も活動していた。飯は良かった。麦飯一日6合半。イワシが多く、肉も出た。「毎日、罰直で殴られてばかりだが、うまい飯と相殺かな」と納得させたそうだ。 19年3月19日、「本日課業ナシ。朝食後急イデ防空壕へ避難セヨ」と指令が出た。間もなく米空軍の大編隊グラマン四百機が襲来。「三四三空(航空隊)」別名剱(つるぎ)部隊の紫電改54機が迎え撃ち、空中戦となった。合計57機を撃墜、日本側の自爆、大破はわずかだったという。 眼前に展開する壮絶な戦いに「勝った勝った」と喜んだが、五月四日、B29の爆撃で基地は壊滅した。伊勢田さんも九死に一生を得た。 著作には、事実以外は書いていないと自負している。「野球で言えば記録員のように」と自己を律したそうだ。「私は明治維新から60年目に生まれた。戊辰戦争も日露戦争もついこの間の戦争だったわけです。戦後六十年。第二次世界大戦もやはりついこの間の戦争だったわけだが、多くはその実態を忘れ果ててしまっている。事実を正確に伝えないとね。海軍をそのまま肯定する気にはなれないが…」関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか■ よみがえる戦艦大和 その伝説が日本人に残したものは
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憲法改正は次世代のために
を見かけるたびに、憲法改正の必要性を痛感する。彼等の声が大きいほど、現憲法の危険さを感じるのである。戦後70年経過した現在でも、この手の勢力が存在し続けるのは、そういう日本人を育ててきた、という誤りの証明に見えてならない。 そういう意味で、教育は憲法に影響を受けると言っても良いと思う。国柄の表記である憲法を基にし、教育を行うのは当然といえる。これ以上、妙な日本人による妙な活動を拡大させない為にも、教育の視点で憲法改正を考えていくことが重要だと思う。 平成18年に教育基本法は改正されているが、これが功をなす為には、その根幹である憲法改正は欠かせないものだろう。改正教育基本法と憲法改正。教育視点では、これらをまとめて考え、行動することで、真価を発揮するものと思う。 勿論、憲法には教育に直結しない条文も多くあるが、全ては次世代の日本人を念頭に議論すべき問題であることは揺ぎ無いだろう。今われわれがなすべきこと、それは、次世代の日本人育成を考え、次世代へ自信を持って継承できる憲法へ改正することではないだろうか。
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国家と憲法と私たち
著者 一大学生(東京都) 「憲法」は英語で”Constitution”であり、これは「国体」をも意味する。憲法はその国の最高法規であるとともに、国柄を表すものでもある。大日本帝国憲法においては、告文や憲法発布勅語の中で、神武天皇より代々受け継がれてきた皇位を継承し、伝統文化を保持すること、歴代天皇が常に臣民と共に国を作り上げてきたことなどが記されており、天皇を中心とする日本のあり方が示されていた。 一方、現在の日本国憲法の前文には何が記されているか。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することを堂々と謳っている。世界には平和を愛する心優しい人や国しか存在しないと信じるのは勝手だが、そんな曖昧なものに「われらの安全と生存」まで委ねてしまうのは看過できない。現に日本はテロの恐怖を味わったばかりであり、その脅威は今もなお拭いきれない。また、中国の習近平国家主席は「中華民族の偉大な復興」を標榜しており、防衛費を年々増大させ、南シナ海では基地建設を始めている。これは明らかに覇権主義であり、この事例を考えるだけでも、現行憲法の前文がいかに非現実的なものであるかが理解できる。そのような現状も踏まえた上で、他力本願な幻想じみた前文は廃し、自立した国としての日本のあり方を明確に記すべきである。 昨年7月、集団的自衛権の限定的な行使容認の閣議決定が行われた。これを機に、各種報道で憲法9条に関する話題が大きく取り上げられるようになったと感じている。的外れな批判も多いが、まずは9条に対する問題意識を国民が共有しなければならない。 そもそも現憲法制定当時は、個別的自衛権すら認めないという解釈であった。解釈はその時々によって変化してきたが、そういった流れを無視して昨年の閣議決定だけを抜き取り、立憲主義の否定だと大騒ぎするのは不思議である。しかし、解釈改憲だけで済ませて良い問題ではないことも確かだ。時の政権のさじ加減で解釈の変更を行い、ある時は集団的自衛権を認め、ある時は認めない、といった状態になれば、国際的な信用を著しく損ない、私たち国民も安心して暮らすことができなくなる。最終的には憲法改正によって9条が抱える矛盾を解消し、自分の国は自分で守るという当たり前のことを記す必要がある。 日本が戦後70年間平和の歩みを続けてきたのは、9条があったからだと豪語する人がいるが、それは明らかに見当違いである。日本が平和国家として続いてきたのは日米同盟、在日米軍という抑止力が働いていたからに他ならない。フィリピンから米軍が撤退した後に中国が南シナ海へと進出したこと、イラクから米軍が撤退した後にテロ組織が跋扈するようになったことなどを考えれば、米軍の影響力が如何ほどのものかは自明である。アメリカの庇護の下で平和を享受している現実には目もくれず、9条の理念を信奉し続け、平和国家だと胸を張っている姿はあまりにも滑稽に映る。そんな態度は内輪でしか通用しない。 日本国憲法が制定された時、日本はGHQの占領下にあり、主権を持っていなかった。主権を持たない国が憲法を制定することなどできず、この憲法の正当性はあまりにも脆弱である。現実離れした条文を含み、正当性すら危うい憲法は一刻も早く改正されるべきである。主権を回復した現在、再び日本人の手によって日本の憲法を作り上げなければ、真に独立した国家とはなりえない。戦後に目覚ましい復興を遂げ、経済大国へと成長した日本だが、国柄すら明記されていない憲法をいつまでも大切に抱え込んでいては、精神的な成熟を見込むことはできない。 衆院の向大野新治事務総長(右)に、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公選法改正案を提出する自民党の船田元・憲法改正推進本部長=3月5日 以上、僭越ながら憲法に対する拙い私見を述べたが、憲法問題で最も危惧していることは、国民の間でこの問題意識が十分に共有されているか、ということである。早ければ来年の参院選から、選挙権付与の対象が18歳以上に引き下げられる見通しだが、今の若者は政治に無関心な層がほとんどである。憲法問題などのテーマで話し合う雰囲気はほとんど無く、ファッションやドラマ、誰かのゴシップなどの話題が大半を占める。学生の身である私自身、日本の根幹に関わる重要な問題を共有し、話し合える友人は片手で数えるほどしかいない。また、昨年の12月に行われた衆院選での投票率が戦後最低を記録したことからも、国民の政治に対する無関心さが読みとれる。これでは議論を交わすことすら難しい。 だが、国民の無関心さを憂いてばかりもいられない。ある野党の党首は、総理は憲法を軽視しており、現政権下で議論をすること自体が危うい、といった趣旨の発言をしており、議論を拒否する姿勢を見せている。これでは一体何のために立候補したのか甚だ疑問である。有権者に選ばれたからには、そういった問題に対する論議を重ねて国を導くことこそが責務ではないのか。総理の憲法観が危険だと感じているのなら尚のこと、与党を牽制するような議論を行い、野党としての存在感を高めるべきである。 憲法問題の是非を論ずる前に、有権者も議員も責任を自覚しなければならない。特に新しく選挙権を得る世代への教育は肝心である。問題を論じるための土俵づくりを疎かにしてしまっては、日本が変わることはできない。戦後70年という節目を機に、憲法問題が広く共有され、活発に議論が交わされることを期待したい。
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木村草太が考える 日本国憲法とは何か?
木村草太(首都大学東京准教授)驚くほど「身近」な法 いま、日本国憲法に強い関心が集まっている。しかし、そもそも、日本国憲法とは何なのか。よく分からないという人も多いだろう。そこで、それが定められた目的、制定の経緯、大日本帝国憲法(以下、明治憲法)との比較の三つの観点から、考えてみたい。 まず、なぜ日本国憲法があるのか、考えてみよう。憲法は、自分の生活からかけ離れた、遠い世界のものだと感じている人も多いのではないだろうか。しかし、憲法は、驚くほど「身近」な法だ。 例えば、今の日本では、普通に街中を歩いているだけで根拠もなく逮捕されることはない。税務調査員が、いきなり家に立ち入ってくることもない。読みたい新聞を読めるし、原発再稼働に賛成するデモでも反対するデモでも好きな方に参加できる。選挙で野党に投票しても不利益に扱われることはないし、どの政党を支持していようが、裁判所は公平に裁判してくれる。 こうした自由や公正は、私たちにとって空気のように「当たり前」なことだ。しかし、過去の歴史では、それが「当たり前」でないことの方が多かったし、現在でも、それが実現できていない国はたくさんある。独裁国家では、令状はもちろん、さしたる理由もなく警察に逮捕されたり、住居に押し入られたりするのは日常茶飯事だし、公正さのかけらもない「選挙」や「裁判」が行われる国もたくさんある。 では、なぜ、私たちにとっては、自由や公正が「当たり前」なのか。日本国憲法が、それを強く保障しているからだ。日本国憲法は、私たちの「当たり前」の生活を保護するためにある法なのだ。「押しつけ」だから不当なのか そんな日本国憲法について、「押しつけ憲法」だから不当だという人もいる。だが、本当にそうなのだろうか。日本国憲法の制定プロセスを簡単に振り返ってみよう。1946年10月、衆院本会議で憲法改正法案が可決し、日本国憲法が成立した 1945年の夏、連合国は、ポツダム宣言にて、日本政府に対し、降伏とともに、「民主主義に対する一切の障害を除去」し、「基本的人権の尊重」を確立するよう要求した。これは、憲法改正を含む大胆な改革を求めるものだった。8月14日、日本政府はこれを受諾し、10月からは、改憲草案を準備し始める。しかし、翌1946年2月、GHQは、日本政府の改憲草案があまりにも保守的と考え、自ら草案を作り、日本政府に交付した。2月から3月にかけて、「翻訳」や「折衝」が行われ、4月に政府案が完成する。これが、帝国議会に提案され、一部修正ののち制定。1947年5月3日から施行された。 ここに、連合国の意向が強く働いたのは確かである。しかし、ポツダム宣言受諾は、日本政府の意思であり、「翻訳」や「折衝」、帝国議会での審議のプロセスで、日本政府や日本国民の意向も汲まれている。そもそもGHQ案自体、明治憲法はもちろん、当時の日本国民の作った民間の憲法草案を参照しており、単純な占領軍の一方的押しつけではない。そうなると、日本国憲法のどこからどこまでが「押しつけ」で、どこからどこまでが「自発的」なものなのかを区別することは難しい。例えば、衆参の二院制は、日本政府の要望で設けられた制度である。とすれば、「押しつけ憲法」論は、話を単純化しすぎている。 また、明治憲法と比較したとき、日本国憲法の制定は、民主主義や基本的人権保障を発展させるものだと評価できる。表現の自由を例に考えてみよう。 1889年に制定された明治憲法は、他の非西欧諸国に先駆けて近代的な議会政治を樹立するものだった。そのことの意義は、日本史的にも、世界史的にも大きい。「憲法を立てた」国であることを誇り、党名に「立憲」という言葉を入れた政党も多かった。言論の自由に限界があった明治憲法 帝国議会の成立は、言論の自由の保障の点でも重要である。この憲法ができる以前、政府は、(議会がないので当たり前だが)議会の承認なしに政府を批判する言論を禁じたり、政府にとって不都合な出版物・新聞記事を差し止めたりすることができた。他方、明治憲法29条は、言論の自由を保障し、帝国議会の定めた法律の根拠なしに、それを制限してはならないと定めたのだ。それによって、政府は、集会や結社を規制しにくくなったし、新聞や出版も好き勝手に差し止めるわけにはいかなくなった。 とはいえ、この憲法には、限界もあった。帝国議会が承認さえすれば、言論の自由は制限できたのだ。1909年に制定された「新聞紙法」は、内務大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣が、不適当と認める新聞記事の差し止め命令を出すことを認めるものだった。当時の大臣たちは、国民に不人気な条約の交渉を秘密にしたり、テロ事件の報道のタイミングをコントロールしたりして、世論操作に使った。 もし、いまこの法律があれば、例えば、TPP交渉をしている事実自体を秘密にできるし、災害対応にミスがあっても報道を差し止められる。現在の私たちの基準からすれば、とんでもない法律だろう。しかし、当時の憲法は、そのような法律を制定することも認めていたのだ。 そこで、日本国憲法は、「一切の表現の自由」を保障する第21条を設けた。この自由は、議会によっても奪えないものとされていて、新聞紙法のような法律を作れば違憲無効である。この条文は、明治憲法の内容を発展させるものとして、高く評価できるのではないだろうか。そして、表現の自由以外にも、明治憲法の民主主義や人権保障を発展させた条文はたくさんある。 日本国憲法は、私たちの「当たり前」の生活を守るための法だ。それは、GHQの関与の下で作られたが、単純な「押しつけ憲法」というわけでもない。内容面では、明治憲法の内容を改善し、民主主義や人権保障を発展させるものだった。 日本国憲法については、国立国会図書館のホームページの「日本国憲法の誕生」と題された特集で、明治憲法との比較や、制定過程の詳細を知ることができる。改憲・護憲の議論に興味のある人は、ぜひ一度、その特集を見てほしい。どちらの立場からも新しい発見があるはずだし、日本国憲法の制定に関わった人たちの気持ちや努力が痛いほど伝わってくるはずだ。関連記事■ 昭和は日本の二十世紀だった■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅■ 社会の分断を深めない政治を
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安易な先送り避け憲法改正急げ 沖縄の人々に改正権の行使を
百地章(日本大学教授) 憲法改正の発議とその賛否を問う国民投票の時期は来年夏の参院選後であり、安倍晋三首相も同意したとの報道が各紙で伝えられている。情報源は自民党憲法改正推進本部の船田元本部長だが、果たして安倍首相の真意だろうか。船田発言が勝手に独り歩き 報道によれば、船田本部長が「参院選後に」と述べ、首相は「それが常識だろう」と答えたとある(朝日、毎日新聞、2月5日付)。が、首相は国会で時期など明言していない旨答えており(2月19日衆院予算委員会)、船田発言が勝手に独り歩きをしている。参院本会議=2013年12月6日(酒巻俊介撮影) 船田氏の構想は、次の参院選で3分の2の改憲勢力を確保し、改憲の発議をというものだろう。「早ければ来年秋、遅くとも再来年の春には実現すべく全力を尽くしていきたい」ともいう(産経新聞、2月15日付)。現状では自公両党だけでは3分の2に及ばず、それも分からないことはない。 しかし昨年秋、船田議員は「次の参院選までに1回目の憲法改正の発議まではやりたいと思います」と述べており(産経新聞、平成26年9月1日付)、明らかに後退である。果たして参院選後で大丈夫だろうか。 また、次の参院選で3分の2の改憲勢力を確保できる保証は本当にあるのか。それに再来年春には消費増税が控えている。そんな時に国民投票など無謀過ぎないか。 前回の選挙後、参議院では与野党を合わせて改憲派議員が75%を占めているが(朝日デジタル、25年7月23日)、3分の2を超えたのは憲法制定以来初めてである。決して容易ではなかろうが、自公にこだわらず今与えられているこの最大のチャンスを生かせずして次の展望も開かれまい。安易な先送りは避けるべきだ。 昨年暮れの総選挙後、安倍首相の積極的な改憲発言が目を引く。首相も改憲論議が盛り上がりを欠いていることは認識しており、もどかしいのではないか。だから2月12日の施政方針演説では「憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこうではありませんか」と訴え、「全国に議員が出て行って国民に直接訴えていくことも大切」(2月20日衆院予算委員会)とまで述べているのであろう。国民投票は参院選に併せて 筆者は、予(かね)て国政選挙に併せる形で国民投票を行わなければ勝ち目はなかろうと、繰り返してきた。その理由は簡単である。 護憲派はいかなる改憲にも反対であり、もし国民投票ということになれば、必死に投票に向かうであろう。他方、改憲派の中にはムード的に憲法改正を支持しているだけの国民も少なくないし、いざ国民投票となった場合にどれだけの人々が投票所に足を運んでくれるのか、いささか悲観的である。 しかし、国政選挙と同時であればその懸念は薄れる。少なくとも国民投票だけ実施した場合と比べて、より多くの改憲派を投票所に向かわせることができよう。逆に単独で国民投票を行った場合、改憲支持の議員とその後援会組織が、果たして全力をあげて憲法改正を訴えてくれるだろうか。 しかも、テーマ次第では投票率が懸念される。これは住民投票でも同じで、所沢市の「小中学校へのエアコン設置の是非」をめぐる投票では、比較的身近な問題であったにもかかわらず、投票率はわずか32%にとどまっていた。 とすれば、わが国の平和と安全を守るための9条2項の改正や、国家的な緊急事態対処規定などであればともかく、環境権や財政均衡条項のために改憲支持の国民がどれだけ投票に向かうだろうか。なぜなら、こんなテーマでは、是が非でも憲法改正を、との意欲も情熱も湧いてこないからである。 また、国民投票には約850億円の経費がかかるというが、国政選挙と一緒となれば無駄が省ける。事務の煩雑さも衆参同日選挙や首長選挙と同時のケースなどを考えれば、心配には及ぶまい。沖縄の人々に改正権の行使を もう一つ、改憲を急ぐ理由は沖縄県の人々のことである。 2月11日、那覇市で行われた建国記念の日の講演に招かれ、地元選出の衆院議員、宮崎政久氏とお話をする機会があった。その時、言われたのは「沖縄県民は、現行憲法の制定に関わっていない」ということであった。 確かに憲法制定当時、沖縄県はアメリカの施政権下にあり、「この憲法を確定」したはずの「国民」の中に、沖縄県民は含まれていない。とすれば護憲派も言うように「憲法は国民のもの」であり、このままで良いはずがない。 にもかかわらず、国会が改憲の発議をしなければ、沖縄ばかりか奄美や小笠原の人々は憲法制定に参加できなかっただけでなく、改正権も行使しえないことになる。 衆参両院憲法審査会の重要な役割の一つが「憲法改正原案」の提出である。衆院審査会ではすでに憲法前文から最高法規まで、参院審査会でも緊急事態、二院制、環境権などの審査を終えており、もはや堂々巡りは許されまい。一日も早い憲法改正原案の国会提出を切望している。ももち・あきら 京都大学大学院法学研究科修士課程修了。愛媛大学教授を経て現在、日本大学法学部教授。国士舘大学大学院客員教授。専門は憲法学。法学博士。比較憲法学会理事長。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『憲法の常識 常識の憲法』『憲法と日本の再生』『外国人の参政権問題Q&A』など。
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与野党は真の日本示す新憲法を示せ 作成は国民の責務だ
西修(駒沢大学名誉教授)国会上に「女神像」の構図 昭和21年11月3日、東京都交通局が「日本国憲法公布記念」として発行した電車往復乗車券(金80銭)には、国会議事堂の屋上に「自由の女神像」が据えられている。また翌年5月3日に逓信局が発行した「日本国憲法施行記念」の切手シートには、1円と50銭切手の下に、憲法前文の抜粋が英文と日本文で掲示されているが、英文に全体のスペースの約3分の2が割かれている。昭和22年5月3日に発行された「日本国憲法施行記念」切手 いったい、どこの国の憲法を「記念」したのだろうか。これらの記念発行物に対しても、連合国軍総司令部(GHQ)の関与があったのだろうか。押しつけがましく、侮辱感すら抱かせる構図になっている。 本日は、日本国憲法公布から68年の記念日を迎える。日本国民の手からなる日本国憲法を作り直そうという声が上がってから、何十年も経過している。内閣に創設された憲法調査会が『報告書』を発表したのは、昭和39年7月のことである。衆参両議院に設けられた憲法調査会がそれぞれの『報告書』を公にしたのは、平成17年4月のことだ。その後、19年8月には衆参両院に憲法審査会が設置され、すでに7年以上がたっている。そして今年6月20日、改正国民投票法が施行された。憲法改正の手続きは整ったのである。 本来ならば、各党から憲法改正に付すべき項目が提出され、審議されていなければならない時期である。しかしながら、そのような動きはいっこうに見られない。 衆院憲法審査会では、今月17日に岩手県盛岡市で公聴会が予定されている。公聴会で広く意見を聴取すること自体は否定されるべきでないが、憲法調査会時代から、何度行われてきたことか。参院憲法審査会でも議論が行われているが、堂々めぐりを繰り返しているだけで、具体的な進展は全く見られない。荏苒(じんぜん)、時を過ごしているように感じられてならない。 憲法審査会は、日本国憲法について調査し、憲法原案を審査する機関と位置づけられている。改正国民投票法が施行された時点で、調査から、憲法原案の審査に移行しなければならないはずだ。まずカード並べなくては 各党は、できる限り早い時期に、それぞれ国民投票に付すべき原案を提示することが求められる。一部に、環境権、国家緊急事態、財政の健全化に絞るという見解があるようだが、まずは各党から、これぞと思う原案を提示すべきである。 最初からカードを限定するのではなく、テーブルの上に並べられた多くのカードからいくつかに絞り込むというのが踏まれるべき手続きであろう。 自民党は、すでに『日本国憲法改正草案』を決定している(平成24年4月27日)。民主党は、17年10月31日に『憲法提言』を発表、環境権や生命倫理などの「新しい権利」の確立、国家緊急権の明示などを盛り込んでいる。 公明党は、自衛のための実力組織や新しい権利などを加える加憲を唱えている。維新の党は、憲法改正要件の緩和、道州制の導入などをうたっている。みんなの党と次世代の党は、現在、共同で憲法改正案を作成中であると聞く。これらの党で優に両院の3分の2を超える。 まずは第1弾として、具体的にどの条項をどう改めようとしているのか、あるいはいかなる条項を加えようとしているのか、衆議を尽くし、国民に提案するという作業にとりかかるべきである。 現行の憲法改正国民投票法は、改正案ごとに個別に賛否を問う形式になっている。それゆえ、1問ごとにブースを設置しなければならず、あまり多くを問えない。この方式では、憲法を全面的に改正することは不可能である。全面的な改正を可能にするには、現行法を改正して、一括方式が導入される必要がある。国民の手でつくる責務 現行憲法の最大の問題点は、日本国民自身の手で作られていないことである。マッカーサーは、日本での連合国軍最高司令官の地位を離任後、1951年5月5日の米上院軍事外交委員会で、「近代文明の成熟度の基準にてらして、われわれが45歳の壮年であるのに対し、日本はまだ12歳の少年のごときである」と証言した。 憲法については、未熟な日本人に対して、教え諭すという態度だった。その後、68年間で随分と成長したはずだ。成人になった証しとして新憲法を作成すること-それが現代に生きるわれわれ日本国民の責務であるといえよう。 憲法全体を改めてこそ、日本国民は、真の意味の「日本国憲法」を獲得したといえる。そのためには、改憲勢力が合同して知恵を出し合い、新憲法草案を作成するのが最も望ましい。 国民投票に付し、一括して「賛成」票を得られるような新憲法の制定作業に入るのが、本来のとるべき方策といえよう。純粋の「日本」を示す「新日本国憲法公布記念」の切手シートの発行を期待したいものだ。にし・おさむ 早稲田大学大学院博士課程修了。政治学博士、法学博士。現在、駒沢大学名誉教授。専攻は憲法学、比較憲法学。産経新聞「国民の憲法」起草委員。著書に『図説日本国憲法の誕生』(河出書房新社)『現代世界の憲法動向』(成文堂)『憲法改正の論点』(文春新書)など多数。
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政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない
憲法をめぐる問題は、戦後日本の政治対立を象徴する論点である。改憲、護憲、加憲、創憲などの政治的立場に色分けされた戦後日本ほど、憲法が政治対立の中心にあって国民を分断し続けてきた国はないかもしれない。政治評論の世界でも、憲法はまさにイデオロギー対立の主戦場だった。そして、衆議院で3分の2の議席を有し、2016年夏の参議院選挙でも3分の2の議席をうかがう与党によって、憲法改正ははじめて現実的な政治カレンダーに乗ってきた。 筆者は憲法学者ではないし、そうした憲法学に則った議論を以下で展開するわけではない。政治学者として憲法論議について思うところを記したい。日本においては、あらゆる政治問題を憲法と結びつけて論じる思考方法が日本の政治言論を貧困にしてきたと感じている。政治問題には、おのずから論者が拠って立つ立場というものがある。それをいちいち憲法問題にする必要はない。憲法自体も抑制的であるべきだし、憲法論議も抑制的であるべきというのが、筆者の立場である。 民主主義下における憲法とは、お互い立場は違うが、同じ国の中で隣り合って生きていかなればいけない者同士を縛る最低限のルールといってもよい。つまり、イデオロギーや立場の違いをめぐる争いが暴力に帰着したり、多数派による少数派の弾圧に繋がったりしないようにすることが最も重要なことなのである。そこにおいて、憲法を通じて民主主義そのものを縛ることが重要になってくる。現行憲法においては、基本的人権に関する項目が自由主義を守っているが、この最低限という部分が重要だと考える。 さまざまな立場の人間が、それでも一緒に生きていくためのルールであるので、最低限度を踏み越えた瞬間、無用の摩擦を生むのは必定だ。個人に保障された自由は、他人の自由を侵害しないという「公共の福祉」の他からは制約されるべきでないという発想である。憲法とは生き方を強制するために存在するのではなく、生き方を強制されないために存在するからだ。衆院憲法審査会の参考人質疑=2014年5月 憲法を通じて政治論議を展開することの一番の副作用は、憲法の無用の拡大を生むことである。政治には政治の空間が準備され、憲法には憲法の空間が保障されるからこそ、本当に守らなければいけない価値が守られるのであって、憲法が論争的であるという戦後日本的な政治空間がそもそも不健全なのだ。歴史的な経緯はもちろん無視できないが、この観点は重要だと思う。 抑制主義を基調とする発想に立つ場合、現実的な改正論議の中心にある自民党の改憲草案については、様々な価値観が入れ込まれていることが最大の欠点だろう。入れ込まれている価値観の一つ一つには害のないものが多いのも事実だし、前文に掲げられた和を尊ぶことも、第24条に掲げられた家族を尊重することにもなんら異存はありません。ただ、他人から、ましてや国家から尊重しろと押し付けられることには大いに異存がある。この感覚が、自由を愛する者の感覚であって、学者にせよ、実務家にせよ、報道にせよ、この感覚が共有できないと暗澹たる気分になる。 この気持ち悪さは、同時に美しくないという審美眼の問題ともつながっている。何を美しいと感じるかは人それぞれで、憲法は法的な文書であるゆえに独特の言い回しが必要なのは仕方がない。それでも、憲法には国民が共有するものとしても美しさがあることは重要なのではないだろうか。その点、数多くの識者からそうした批判を受けていることは謙虚に受け止めていただきたい。美しさというものは、多くを求めすぎると支障も出てくる。従って、ここで提唱しておきたいのは、美しさをまず無駄のない削ぎ落されたものとして捉えることだ。例えば、前文は無駄なく、リズム良く、格調高く書いていただきたい。 最低限を超えた価値観を入れ込むべきではないという原則は、ここでは、「言わぬが花」という日本文化の重要な原則に反しているとも見ることができる。 もちろん、憲法に書き込むということに意味がある場合も存在する。それは、国権の最高レベルで承認を与えるということであり、例えば、基本的人権の項目に障害者に関する記述を加えることには意義があるかもしれない。この部分は、過去70年で国民の意識が随分と変化した部分だからだ。しかし、憲法を政争の具にするような姿勢は慎むべきだ。例えば、外国人参政権に関する方針を憲法に書き込んでしまおうという姿勢はいただけない。外国人の地方参政権という課題自体は様々な立場がある、論争的な政策だからだ。論争がある問題を憲法に入れ込み、憲法を過度に政治化してしまうのは民主主義の発想として健全でないということを分かっておかなければならない。戦後の左派勢力は、安全保障政策について、憲法を盾にとって戦ってきた。結果として、安全保障の世界は法律論に席巻されて本来行われるべき論争が行われず、この分野の日本の民主主義を歪めてしまった。戦後政治のそのような負の伝統を今度は右の側から再生産するのが良いことだとは思えないのである。 憲法改正の最大の目的は安全保障関連の項目であり、憲法9条が体現する平和主義の精神を継承しつつ、時代に合わなくなった部分を是正することだと思う。仮に、憲法9条だけを国民投票にかけると負けるかもしれないので、他の雑多な条文も加えて政治性を薄めようという意図があるとすると、さすがに姑息な印象を抱かざるを得ない。 かつての世代と比べ、若い世代には憲法は一字一句変えてはいけないと考える層は少なくなってきた。筆者も、政治や安全保障を研究する者として改憲には意義があると思っている。理想を言えば、改憲が国民を分断するものではなくて統合するものであってほしい。その統合は、特定の価値観を押し付けるものではなくて、戦後70年の時代認識と、日本国民の歩みの中から沸きあがってくるコンセンサスを抑制的に反映するプロセスであるべきなのだ。関連記事■ 「我が軍」と呼べば呼ぶほど憲法改正は遠ざかる(かも知れない)■ 「冷戦後」の終わりの始まりを予感させたロシア危機■ 保守二大政党にしかリアリティーがない
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もう一つの「終戦詔書」 ―国際条約の信義を守る国、破る国
正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま小堀桂一郎(東京大学名誉教授)(一)終戦の日付 普通「終戦の詔書」と呼ばれてゐるのは昭和二十年八月十四日の日付を有し、翌八月十五日正午に昭和天皇御自身による御朗読の録音を以て全国民に向けて放送され周知徹底せしめられた、あの歴史的文書である。詔勅集成として最も大部であり校訂上の権威を有すると思はれる森清人撰の『みことのり』の中ではこれは「大東亞戰争終結の詔書」と題されてをり、それが正式の呼称なのかもしれないが、一般には「終戦の詔書」と呼ばれてゐる。他に取り違へる様な詔書は全く無いのだから、その簡単な呼び方でよいのだらう。〈朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク〉との一節で説き起され、要するに天皇御自身が帝国政府に対し、去る七月二十六日付米英支ソ四箇国共同のポツダム宣言を受諾して戦争終結の手続きに着手する様命じられた、といふことを全国民に布告せられた詔書を指していふのである。 詔書は(此処に引用するまでもないと思ふが)この後の本文で、米英に対する抑々の宣戦の動機を回顧し、皇軍全將兵の善戦敢闘にも拘らず戦局は次第に不利となり、非命に斃れる国民の数と国土に受ける物的損害の増大、殊に原子爆弾の出現による非戦闘員の大量死傷の今後も測り知るべからざる惨害への憂慮を述べられる。そしてポツダム宣言受諾以後の正規の終戦手続の完遂までの前途の苦難の尋常ならざるを予想され、御自らも〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ〉平和恢復に向けて尽力する覚悟なのだから、といふことで国民の隠忍自重と志操の鞏固ならんことを求めてをられる。 有体(ありてい)に言ふと、この詔書の中で明白なる事実として天皇が確言せられてゐるのは、ポツダム宣言の受諾と、従つてその宣言が求めてゐる降伏条件に天皇は同意してをられる――と、そこまでである。そこから後の話、〈萬世ノ為ニ太平ヲ開カム〉との御念願が、どの程度、又どの様な形で実現できるのか、それは全く未知数の事に属し、又〈朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ〉と仰せられてはゐるが、それに確たる保證はあるのか、〈總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ〉、又国民による〈國體ノ精華ヲ發揚〉するとの御嘱望も果して可能なことかどうか、全ては是天皇のひたすらなる御希望・御念願の中にあることであつて、詔書自体がそれを予言、況してや約束してゐるわけのものではない。 右に暗示されてゐると筆者が読んだ終戦手続の完遂といふことにしても、それが具体的には講和条約の締結を意味することになるのはまあ国際法上の常識であるが、詔書の中に具体的に講和条約締結への御要請が言及されてゐるわけでもない。最も基本的な線にまで絞つて言ふとすれば、この詔書は、――四箇国共同宣言を受諾し、降伏要求に応ずる、武器を措け、戦闘行為を停止せよ、との御命令以上のものではない、と読むべきものである。 ところがこれを「終戦の詔書」と呼び慣はすことによつて、この一片の詔書を以て戦争が「終つた」かの如き錯覚が国民の間に生じた。そして九月二日の停戦協定調印は詔書に窺ひ見られる所の「終戦」の敵味方相互間の確認であるかの如き重ねての氣楽な錯覚が此に続いた。そして実は甚だ苛酷なものであつた占領政策実施の期間を経て、昭和二十六年九月六日のサンフランシスコでの平和条約の調印、翌二十七年四月二十八日の条約発効の日付こそが眞の終戦の日であり、その時まで連合国による日本への追撃戦は続いてゐたのだ、その期間はまだ戦争中だつたのだといふ厳しい現実を認識できず、六年八箇月の軍事占領の期間を既に「戦後処理」の歳月であつたかの様に思ひ做してしまふといふ大きな誤りを多くの国民が冒したのだつた。「戦後」は昭和二十年九月に始まつたのだとするこの誤認の悪しき影響は甚だ広く又深くに及んでゐる。(二)同一主題反復主張の弁明(二)同一主題反復主張の弁明 本稿の主題である「もう一つの終戦詔書」の意味に立ち入る前に、なほ少々この広く知れ渡つた文脈での終戦の詔書の果した意義に拘泥(こだは)つてみよう。但し一つお断りしておくべきは、この詔書の歴史的意義は多くの現代史家の手によつてほぼ論じ尽されてをり、筆者が今更木稿に於いて新たに付加へる様な新しい情報や解釈は皆無だといふ事実である。一時多少の謎を含むものの様にも思はれ、複数の相容れない見解が提出されてもゐたこの詔書の成立史的経緯についても、茶園義男氏の入念緻密な考証『密室の終戦詔勅』(昭和六十四年一月(ヽヽヽヽヽヽ)、雄松堂刊)が出、現在それと信ずるより他ない実相が明らかにされた。念の為に言へば、なるほど複雑で錯綜したその成立史的謎があらかた解明されたとはいへ、この詔書が昭和天皇その人の「みことのり」であるといふ事実には毫も変更はない。詔書とはさうしたものであつて、その事情は成立史的経緯が未だ余り問はれてをらず、またその必要も認められてゐないかに見える「もう一つの終戦詔書」についても同じことである。さうでなければ抑々拙稿の主題が成立し得ないことになつてしまふ。 論は出尽したと思はれる上に、筆者自身も終戦をめぐる二つの詔書の史的意義については既に一度ならず見解と主張の文を草してゐる。筆者は学界の末席に列る身であるが故に、同じ主題について二度以上文稿を草するのは文章の士として恥づべきことである、それは〈著者は自著を話題にして語るものではない〉(極く初歩の英和辞典にも文例として出てゐるThe author should be the last man to talk about his work.)との金言と同様、筆執る身にとつての御法度である、といつた教育を若年の日以来受けて来た。公けに人の眼にふれる紙面に文を售(う)るといふ履歴を踏み出してより四十年余、この禁忌を守り通し得たとはとても思へないが、受けた教を遵守するといふ意識だけは身から離した覚えがない。少なくとも研究者生活の枠内ではそのつもりであつた。(但し研究論文には過去の誤謬訂正や新発見の資料・情報に基づいて旧作に改訂増補を施す責任が生ずる場合があり、此は同一主題の二重発表とは話が別である。) 然し凡そ知識といふものが公開された形で広く世間大衆の耳から耳へと飛び廻る現今の情報社会の在り様と、その知識の一々の項目に然るべき固有の価値が託されて授受される学界とでは、同一主題の反復といふ行為にも、微妙ながら明らかに或る性格の違ひがついて廻る。簡単に言へば情報社会に於いては反復は避けることのできない重要な伝達技術の一方法である。 手近な例を以て語るならば、――大東亜戦争の真の終結の日付は決して昭和二十年の八月十五日でも九月二日でもない、それは正しくは対連合国平和条約が国際法上の効力を発生した昭和二十七年四月二十八日の事である――と、この簡単明白な事実についての認識が意外なほど世に疎かにされてゐるといふ実情がかねてより甚だ氣になつてゐたのだが、そのことの表現の一端として同憂の友人(入江隆則氏、井尻千男氏)と語らひ、「主権回復記念国民集会」といふ催しを計画したのが平成八年の秋、その第一回集会の開催を実現したのが平成九年四月二十八日である。爾来、早くも八年の歳月が流れ、「終戦の詔書」奉戴六十周年の記念年に当る平成十七年にはその第九回の記念集会を盛会裡に実行することができた。 記念日である四月二十八日を間近に控へて毎年配布する集会の趣意書は、その年々の国際政治の状況を反映して多少の変化(北朝鮮の最高実力者が何件かの日本人の誘拐を自ら認めた事件はその最も大きな一つだつた)はあつたけれども、基本的には毎回同じ趣旨の主張である。講演会か討論会形式か、集会の形は年々これも多少の変化を有するけれども設定された主題は所詮常に同じものであり、前記両氏と筆者を含む三人の代表発起人は毎年ほぼ同じ主張を繰返して壇上から述べることになる。論文といふわけではないが、同一主題の反復発表といふ禁忌を私共は連年犯してゐるわけである。若干の羞恥を覚えないわけにはゆかない。 然し乍ら、この集会を九年も続けてゐるうちに、私共は自分達の一種の弘報(宣伝と呼ばれてもそれは構はない)活動が次第に効果を表してきてゐることを判然と認め得る様になつた。運動の初期の頃には、「四月二十八日は何の日か」といふ問ひかけが、何か奇矯な質問の如くに受取られ、取り分け若い世代の人々の間には、それが何か不思議な謎ででもあるかの様な、答に窮するのみといつた反應をよく目にしたものであつた。それが昨今では、眞の終戦の日付は二十七年四月二十八日なのだ、との認識を含んだ言表に接することが少しも珍しいことではなくなつた。それを通じての一般の意識の変革が成つたといふにはまだ程遠いと言はざるを得ないが、この日付に関しての認識だけは定着に近づいてゐると言へるであらう。 それならば――、この効果に我と我身を励まされて、なほ同じ様な懲りずまの反復主張による成果を収めたいと思ふ弘報目標とでもいつたものがなほいくつか思ひ浮んでくる。そのうちの重要な一項が即ち「無条件降伏論争」の始末についての念押しの追論である。(三)再検討「無条件降伏」(三)再検討「無条件降伏」 所謂「無条件降伏論争」とは昭和五十三年に江藤淳氏と本多秋五氏との間に生じた紙上の論争であつて、この論争の抑々の発端と結末、その両者の議論が戦後の日本の思想界に対して有した意味等については筆者の旧稿「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」(PHP研究所刊の拙著『東京裁判の呪ひ』〔平成九年十月〕に収録)の中で、それ自体既に追論の形で述べてゐるので此処に繰返すことは慎む。但、その結論を一言以て要約しておくならば、昭和二十年夏のポツダム宣言に述べられた停戦条件の受諾を以てしての対連合国戦争の終結方式を、占領後の米軍の邪悪な宣伝工作によつてあれは無条件降伏といふ終戦形態だつたと思ひこまされてしまつたこと――、この歴史的事実と一般の認識との間の重大な齟齬に戦後の我が国の思想界を昏迷に陥れた全ての不幸の原因がある、との判断を言ふ。 本稿の此の節で又しても繰返しておきたいのは、右に記した昏迷や不幸のことではなくて、大東亜戦争の収拾過程に於いて、日本が最も避けたかつた、といふより此だけは絶対に回避しなくてはならぬとの決意を固めてゐた終戦方式が無条件降伏といふ負け方であり、又連合国の中核をなすアメリカ合衆国が初めから強烈に志向し、最後まで固執してゐたのが無条件降伏方式による日本打倒であつたといふ、その双方の執念の衝突のことである。付加へて言へば、日本はポツダム宣言の受諾によつて、無条件降伏の回避といふ念願を達成し得たことを確認したが故に停戦協定に調印し、一方アメリカ側は、当初の目標を獲得できなかつたが故に、日本武装解除終了の瞬間から欺瞞と謀略を以て実質上その目的を達成するための工作を開始した、といふ構造が生じた、その経緯である。我々は半世紀余の長きに亙つてこの構造の呪縛から脱出できないことの不利を甘受し続けた。 扨、この様に、日本国の戦後処理の上での重大な鍵概念となつた無条件降伏とは元来如何なる事態を指し、其処には又如何なる意味が籠つてゐるのであらうか。是亦筆者の旧稿(「戦争犯罪裁判と歴史の実相」(PHP研究所刊『再検証東京裁判』〔平成八年六月刊〕に収録)に於いて既に論じたところではあるが、その国際法上の定義について此処に反復略述しておくことの意味はあると思ふ。 その学術的定義を下してゐるのは、極東国際軍事裁判が弁護側反証段階に入つた昭和二十二年二月二十四日、弁護側の冒頭陳述として、清瀬一郎氏の有名な弁論(「総論A」)と同時に法廷で陣述される予定であつた、高柳賢三弁護人の「総論B」の第一部第一章「降服((ママ))文書と裁判所条例」に含まれてゐる論述である。 この冒頭陳述は裁判所によつて却下(法廷での朗読不許可)の扱ひを受けて一時弁護人の筺底に逼塞することを余儀なくされたが、一年余り後の昭和二十三年三月、弁護側の最終弁論段階に至つて、その間の著者の大幅な改訂増補により、却下された初稿の二倍余の長大な論文となつて復活し、陽の目を見た。これは現在高柳氏の著書『極東裁判と国際法』(昭和二十三年、有斐閣刊)に収められてをり、著者が自信を以て世に問うた決定稿と見られる。 この弁護側最終弁論稿の中で高柳氏は無条件降伏の実体について、ドイツ降伏の場合と日本のそれとを対比させて説明してゐるので甚だ解りやすい。要旨は以下の如くである。――ドイツは一九四五年五月一日ヒトラー総統が市街戦の唯中に、ベルリンの地下壕で自決を遂げたことで国家元首を失つた。翌二日ベルリン守備隊は降伏し、ソ連軍はベルリン全市を完全占領したが、其処には最早ドイツ政府なるものが存在しなかつた。ヒトラーの遺志によつて(と伝へられてゐた)海軍のデーニッツ提督が後継首班に指名されてゐたが、外交関係の中で新しいドイツ国元首と認められてゐたわけではなく、ただ五月七日正午にデンマークとの国境に近いフレンスブルクの海軍基地からラヂオ放送を通じて全ドイツ軍の米英ソ三国に対する無条件降伏を命令できただけであつた。 この降伏命令に先立つて米英ソの連合三箇国とデーニッツとの間に何らかの形での停戦交渉が行はれてゐたわけではなかつた。戦闘行為はドイツ全土の占領・政府の消滅を以て終つた。この様な敗戦の様態を高柳氏は国際法に謂ふ所のdebellatioであると定義した。これは法律学の術語で従つてラテン語であるが、Debellationといふ形のドイツ語として登録してゐる独語辞書もあり、戦争当事国が相手国の全土を占領しその政府が消滅した形での戦争終結形態である、と説明してゐる。ドイツの敗戦は正にこのデベラチオの定義にぴたりと嵌つたものである。たぶんこの様に書いただけで既に、日本の敗戦様態はドイツとは違つて国際法上の学術的意味でのデベラチオ=無条件降伏ではないことが、如何な素人の眼にも瞭然たるものがあるであらう。 二十年八月十五日、大本営が全軍に向つて武力抵抗の中止、戦闘停止を命令した時、日本国政府は健在であつた。沖縄本島及びその周辺と硫黄島以外の日本国領土は占領されてゐなかつた。国家元首たる天皇も毅然として帝都に留つてをられた。鈴木貫太郎内閣は、天皇の御決断を仰いで、といふ日本の立憲君主政治としては例外的な形をとつてではあるが、閣議決定といふ正規の手続を履んだ上でポツダム宣言の受諾を決定した。受諾決定に至るまでには、連合国の側から四箇国共同宣言(言ふまでもなく発出当時は米英華三箇国宣言、ソ連は八月九日の対日宣戦布告によりこの宣言に後から加入して四箇国となつた)といふ形での停戦交渉が提議されたのであり、日本は多分に時機を遷延させてしまつた形でではあるがこの交渉に応じ、相互の条件が折合つたが故に停戦の呼びかけに同意したものである。 ポツダム宣言はその後半部で七箇条に及ぶ日本降伏容認の条件を提議し、日本側は内部では申し入れるべき四箇条の条件を用意したが、交渉が長びくのを恐れて三箇条は伏せたままにし、実際に相手方に伝へたのは国体護持の保証といふ唯一箇条のみとなつた。交渉応諾条件の数の上での不均衡は覆ふべくもないが、壓倒的な優勢に立つ勝利者側に対して継戦能力をほぼ完全に失つてしまつた敗北者側としては要するに為す術もない厳しい現実だつた。 然し乍ら、幾重にも強調しておかなくてはならないが、八月十四日付の詔書は連合国からの条件附停戦申し入れを受け容れよ、との御下命を意味するものであり、その結果として、東京湾に進入してきた米軍艦ミズーリ号上での停戦協定調印式があつた。署名したのは日本帝国政府と大本営を代表する全権委員(外務大臣と参謀総長)であり、このことは執拗い様だが外交権を有する政府の健在を意味してをり、その権威が厳存してゐたが故にこそ、政府はポツダム宣言の要求に従つて全日本国軍隊(ヽヽ)の無条件降伏・抵抗中止を下命することができたのである。 近代に於ける対外戦争での敗戦を経験してゐなかつた日本国ではあるが、ポツダム宣言を溯ること三箇月前に生じた同盟国ドイツの真の意味での無条件降伏を観察する機会には恵まれた。他者の運命も、それを注意深く観察する眼にとつては立派な経験である。日本はこの経験に学んだ。その教訓は、どんなことがあらうと無条件降伏だけは避けよ、といふことだつた。 それにしても無条件降伏とは何故にそれほど恐るべき事態なのか。又その様な破局的事態をうみ出す思想は何時、何処で、如何様にして生れてきたものなのだらうか。終戦直後の大阪・梅田の闇市 無条件降伏の思想はアメリカの南北戦争(A.D.一八六一―六五)の終末時にグラント將軍の率ゐる北軍が、リー將軍麾下の南軍を徹底的に撃破した際の戦争終結様式に於いて初めて現れたもの、といつた記述を何かで読んだ記憶があり、そのあたりの事情を少し詳しく知りたいものと思つてゐたところ、平成十七年一月、戦史研究家吉田一彦氏の新著『無条件降伏は戦争をどう変えたか』(PHP新書)が刊行された。これある哉と早速求めて繙いてみたのだが、吉田氏の記述によればグラントはリーに対してそれほど苛酷な全滅作戦を展開したわけではなく、むしろ比較的寛大な条件を以て降伏を容認したといふことである。問題はこの時の戦争終結様式を不正確に記憶してゐたF・D・ルーズベルトが、一九四三年一月、英米首脳のカサブランカ会談後の記者会見で、独・伊・日の枢軸に対する戦争は無条件降伏方式で決着をつける、と語り、その無条件降伏の実態を説明するのに、南北戦争終結時の方式だ、と付加へたことにあつたらしい。吉田氏によればそれはルーズベルトの記憶違ひで、実際に無条件降伏方式と言へる様な徹底した破壊をもたらす焦土作戦が北軍によつて行はれたのは一八六二年のテネシー州フォート・ドネルソン包囲攻撃の際のことであつたといふ。 とすれば、それは所詮南北戦争といふ全体の中での一局面の戦闘での話にすぎないのだから、第二次世界大戦のドイツに於いて現出した如き一の国家の潰滅といふ現象とは大分話が違ふ。つまり一部に伝へられてゐた無条件降伏=南北戦争起源説は事実に即しての観察によるものではなく、F・D・ルーズベルトといふ一アメリカ人の頭脳が紡ぎ出した敵国撃滅への苛酷なる妄執の図式化だつたといふことになるらしい。 因みにルーズベルトはその時debellatioなる学術語で定義される様な敵国殲滅を思ひ描いてゐたわけではなく、字義通りのUnconditional Surrender=謂はば「一切の妥協を許さぬ完全な降伏」を以て枢軸国を屈服させることを考へてゐた様である。それは彼の後継者によつてやがて具体化された如く、日本(及びドイツ)が二度と米国に対する敵対者として彼等の国家発展の前途に立ち塞がる様な力を保持できないほどに完璧に叩きのめすといふことであつた。そのために敵国の降伏後にはその敵に対しアメリカが全権を以て戦後処理に当り得る様な徹底的な優越性を持つた上で降伏を承諾せしめることであつた。高柳賢三氏がドイツのデベラチオによつて連合国は諸地域に於いて、〈いはばルイ十四世のやうな専制君主の如く振舞ふこともできるのである〉との比喩を述べてゐるが、ルーズベルトの意図した無条件降伏も、つまりは敗戦国日本に対して己れが絶対専制君主に等しい権限を獲得し、以て日本を自分の思ふがままに処理し改造しようといふ所にその眼目があつた。 米大統領の主唱によつて(とは後から分つたことであるが)米・英・華の連合国が企んでゐるのはあの恐るべき無条件降伏方式によつて枢軸国を打倒することなのだ、と日本人が知つたのは昭和十八年十一月のカイロ宣言を通じてのことであつた。然しこの時、一般の日本人はこの方式が含んでゐる恐しい思想の意味を深刻には受けとめてゐなかつた、或いは理解してゐなかつたと思はれる。といふのも、その後戦闘が終つて米軍の日本占領が始まつた頃になつても、国民はそれほどの抵抗感もなしにこの詞を口にし、又自分達の祖国は連合国に無条件降伏したのだ、現在の占領状態はその結果なのだ、と思ひこんでゐる人が大半だつたからである。なるほど、降伏条件のうち日本から提出した最低限度の一項目たる国体の護持だけは一応相手方が遵守してくれてゐる様に見えてゐた。その上で、これが無条件降伏の結果生じた事態だと認識すれば、確かに無条件降伏はそれほど恐しい終戦方式だとは思へなくなつてしまふ。中には(これは実は昭和天皇の捨身の外交的御尽力の結果であるが)占領軍が敗戦直後の日本国民の飢餓状態を救つてくれたのだ、との恩誼を深く胸に刻んだ人々もゐた。 さすがに日本帝国の為政者層の事前の認識はそれほど甘いものではなかつた。殊に同盟国ドイツがデベラチオの実現といふ形で潰滅し、ルーズベルトの急死で急遽登場した新大統領トルーマンが、対ドイツ戦で得た勝利の方式を対日戦にも適用する、と公式の聲明を発するに及んで、時の日本国政府鈴木貫太郎内閣の受けた内心の衝撃は深刻なものとなつた。その時以降この内閣が天皇の御意向を体して挺身した終戦工作の努力が如何に苦しく且つ真剣なものとなつたか。そして鈴木首相が二十年六月の第八十七臨時帝国議会の施政方針演説を以て発信した米国内知日派向けの暗号通信が幸運にも受信相手に把握・解読され、決定的にその効果を発揮した次第、即ちポツダム宣言といふ形での停戦交渉提案に結実して行くまでの迂余曲折、このあたりの終戦工作の経緯は既に筆者が何度も論及したことなので此処での反復は慎むことにする。付加へて言へば、鈴木首相の暗号通信を解読したジョセフ・グルーを筆頭とする米国内の知日派が、無条件降伏方式の回避、国際法上筋の通つた停戦交渉の発議に向けて米国内で様々の政治工作を展開した、その始終についての研究は既に「完成」した状態にある様である。筆者はそれを岡崎久彦氏の『吉田茂とその時代』(平成十四年、PHP刊)及び杉原誠四郎氏の『日米開戦とポツダム宣言の真実』(平成七年、亜紀書房刊)を通じて間接に知つたのだが、その調査の完成を成就したのは五百旗頭真氏が『米国の日本占領政策』上・下(昭和六十年、中央公論社刊)で提出された詳密精細な考証の成果だつたとされてゐる。(四)「誓約履行」の御下命(四)「誓約履行」の御下命 扨、大東亜戦争の終結といふ難事業達成のための最後の鍵となつたポツダム宣言発出の経緯、そこに至るまでの日米両国の政治・戦争指導者達の苦心惨膽の努力の迹に関しては、是亦十分過ぎるほどの多くの研究が簇出してゐることでもあり、本稿では一切省略に従ふ。 語つておきたいのは、天皇をはじめとする日本国内の和平希求派と米国内の知日派及正常な国際法上の戦争観の持主達との間に、交互の通信杜絶状態にあつて猶且つ成立した不思議な連繋工作の存在である。このことによつて大東亜戦争は無条件降伏方式の回避といふ文明の流儀に則つて戦闘行為の終結にまで到達することが出来たのだ。それにも拘らずこの貴重な成果を蹂躙し、文明の作法に深甚な侮辱を加へた国がある一方、ポツダム宣言の受諾とそれに基く停戦協定への調印が国際法上の条約締結に当ることを正確に認識され、敗者といふ屈辱的な位置に在りながら、毅然として、条約の信義を守れ、との詔勅を発布せられた先帝陛下の御事蹟を、何とも不思議なる東西文明の対比図としてここに掲げておきたい。それを「昭和天皇と激動の時代・終戦編」に寄せるささやかながらふさはしい寄与たらしめたいとの筆者の念願が本稿執筆の動機である。 実は昭和二十年八月十四日付「大東亜戦争終結の詔書」に続いて八月中に二つのみことのりが発せられてゐる。八月十七日付「戦争終結につき陸海軍人に賜はりたる勅語」と同二十五日付「復員に際し陸海軍人に賜はりたる勅諭」とである。これも終戦に伴ひ、十四日付詔書の一種の補遺として、特にこの大事件の当事者である陸海軍の將兵に向けて発せられたねぎらひのお言葉である。それは国政に関はる御下命事項ではなく、天皇御自身の御心に発する人としての情の表現であるから「勅語」「勅諭」の題に窺はれる如く、国務大臣の副署も御璽の捺印もない、何らかの御奉答をも必要とするわけではない文書である。ところが次の二十年九月二日付「ポツダム宣言受諾誓約履行の詔書」は再び「詔書」であり、臣民に向けての御下命である。その有する意味は重い。その意味について、此も筆者は既に別の箇所で論及したことはあるが、今茲に再説に値すると思ふので、先づその本文を掲げよう。 朕(ちん)ハ昭和(せうわ)二十年(にじふねん)七月(しちぐわつ)二十六日(にじふろくにち)、米(べい)英(えい)支(し)各國(かくこく)政府(せいふ)ノ首班(しゆはん)カポツダムニ於(おい)テ發(はつ)シ、後(のち)ニ蘇聯邦(それんはう)カ參加(さんか)シタル宣言(せんげん)ノ掲(かか)クル諸條項(しよでうかう)ヲ受諾(じゆだく)シ、帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ニ對(たい)シ聯合軍(れんがふぐん)最高司令官(さいかうしれいくわん)カ提示(ていじ)シタル降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ニ朕(ちん)ニ代(かは)リ署名(しよめい)シ、且(かつ)聯合國(れんがふこく)最高司令官(さいかうしれいくわん)ノ指示(しじ)ニ基(もとづ)キ、陸海軍(りくかいぐん)ニ對(たい)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ發(はつ)スヘキコトヲ命(めい)シタリ。朕(ちん)ハ朕(ちん)カ臣民(しんみん)ニ對(たい)シ敵對(てきたい)行爲(かうい)ヲ直(ただち)ニ止(や)メ武器(ぶき)ヲ措(お)キ、且(かつ)降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ノ一切(いつさい)ノ條項(でうかう)竝(ならび)ニ帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ノ發(はつ)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ誠實(せいじつ)ニ履行(りかう)セムコトヲ命(めい)ス。終戦直後の大阪駅。目の前の広場は食糧難のため農園に変えられた この詔書は本来の「終戦の詔書」に比べると、その成立史的詳細がまだ問はれてもゐないし、その必要がないかにも見える、とさきに記したが、それはその単純な成立事情が文献的に追跡可能であり且つそこに何らかの謎も認められない以上、むしろ当然のことといふべきかもしれない。その文献とは、直接的には江藤淳氏の編・解説に成る『占領史録』(全四冊、昭和五十六―七年、講談社刊、現在同社學術文庫で全二巻)第一部Ⅲ「降伏調印」の章である。この詳細にして正確な校訂を経た第一次史料の集成本に拠つてみるに、米軍総司令部の厚木進駐・到着に先立つて日本国政府は代表をマニラに派遣して連合国軍と降伏手続の打合せに入る様要求された。マニラに飛んだ日本代表の参謀次長河辺虎四郎中將とアメリカ太平洋軍司令部参謀長サザーランド中將との間に会談が行はれたのは八月十九日夕刻の日本代表のマニラ到着後、少休を経て直ぐの午後八時半から深夜にかけてである。 この席上で日本代表は米軍側から三通の文書を手交される。一に「降伏文書」の草案、二に「天皇の布告文」の案文、三に日本軍の降伏を実施するための「陸海軍一般命令第一号」の案文である。 「降伏文書」(Instrument of Surrender)はこの草案が些細な字句の文法的訂正を経ただけでそのまま正式の「降伏文書」となつた。これは元来が「停戦協定文書」と名付けられるべき性格のものであるはずだが、強引にも「降伏文書」なる標題を有してゐた。日本代表の河辺中將に微妙ながら重要な意味を有するこの文書の標題に氣付くべきであつたと責めることは外交慣例に習熟してゐるわけではない軍人に対して無理な要求だつたであらうし、又仮令河辺中將がそれに氣付いてサザーランド参謀長に抗議したとしてもおそらくは聴く耳を持たぬとの扱ひを受けただけであつたらう。 この文書の中で「無条件降伏」といふ詞が「全日本国軍隊」に限つて使はれてゐることはポツダム宣言の文言をそのまま受け継いでのことであるし、又文書の末節〈天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス〉といふ部分は、日本政府のポツダム宣言の受諾通告に対するアメリカ国務省のバーンズ回答の文言そのままである。占領軍司令官の制限の下に置く(原文は…shall be subject toで、本来「従属す」と訳すべき有名な部分、日本側も占領開始後に作成した降伏文書説明文では〈ソノ間日本ノ主權ハ聯合國最高司令官ニ隷属シ〉といつた表現を使はざるを得なくなる)とされた天皇及日本国政府の国家統治権は、裏から見ればその存立を容認されてゐるからこそこの表現になるわけで、つまり国際法上のデベラチオではないことの客観的事実の承認に等しい。河辺代表の持ち帰つた文書草案を検討した日本政府はもちろん上記の関連に十分の注意を払つた。『占領史録』には、録された史料の政府当路者の発言の端々に、――これならばまあよい、それほどひどい事態にはならないだらう、との安堵の感が透けて見える。 さうであればこそ、つい昨日までの敵であつた米軍から手交された第二文書「天皇の布告文」の草案に則つて「詔書」を起草する、といつた前代未聞・空前絶後の国辱的事態にも、日本政府は正に〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ〉の聖旨に則つて第一の試煉として九月二日付詔書の発布を実施せねばならなかつたし、おそらくは敢然たる決心を以て積極的にそれを断行したのだつた。 詔書の指示内容は手交された米軍起草の文案と意味の上ではほぼ同じである。然し、些細なことの様だが、原案の西暦による日付は昭和年号を用ゐてをり、且つ〈朕〉は原案に於いてI, myであつたのを、この詔書を英文に訳し返して米軍との終戦連絡事務上の記録に留めるに際しては尊厳の複数We, Ourに訂するといふほどの心得は見せてゐる。米軍側の心ある者が見れば、自分達が皇帝勅書の様式を知らない国民である、との自覚が一瞬念頭を掠めるくらゐのことはあつたかもしれない。 幸ひにして、この段階では単なる外面的様式のみならず、文体の面でも詔書にふさはしい威厳を具へた文章を構成し得る人材が政府部内に居た様である(余計な注釈かもしれないが、昭和二十一年一月一日付の「年頭、國運振興ノ詔書」の起草が課題となつた時には、政府部内には詔勅の文則を的確に駆使し得る人が最早居なくなつてゐた)。原文が英語の公文書であるにも拘らず、この詔書は「みことのり」の品位を具へてゐた。そして実際に『占領史録』中「降伏調印」の章によれば〈聯合國最高司令官ノ要請ニヨリ公布セラルル詔書ハ同司令官ノ要請ニ基キ之ニ與フルノ要アルニ付詔書別紙ノ通奉供 欽閲候間御親書(〔ママ〕)ノ上御下付相成様仕度此段謹テ奏ス/昭和二十年八月三十一日/外務大臣〉なる文書が殘つてゐるのであるから、詔書文案を陛下の御親閲に供し奉つた上で公布の御裁可を得たことは確かである。つまり実に異常な成立経緯を有するとはいへ、是は真正のみことのりに違ひないのである(編者により〔ママ〕を付せられた〈御親書〉が「御宸筆」の意味だとしたら慥にこれは一寸考へ得られぬことであり、存疑の表現とされるのが尤もである。おそらくは「親署」の字違ひで、署名と御璽押印の意ででもあらうか)。 真正のみことのりであるが故に、詔書に言及されてゐる所の「陸海軍一般命令第一號」が、その布告後、全軍によつて如何に厳密・忠実に遵守せられたか。それは最高司令官D・マッカーサー自身を始め、その幕僚達及び降伏受容れと武装解除の実施現場でその任に当つた連合軍將士の感歎を喚び起すに十分な規律厳正なものだつた。それは吉田茂が口にしたとされてゐる「負けつぷりのよさ」といつた通俗概念を以て評価するのでは到底足りない、といふよりもそれでは明らかに不当といふべき、実に重大な歴史的事実がそこに示されたと見るべきである。 我々日本人は皆、聖徳太子の十七條憲法第三條の「承詔必謹」のおさとしが千二百五十年の歳月を距てて茲に蘇つた、いや生き続けてゐたのだと考へて停戦時の軍の規律の正しさに深く納得する。日本国民である以上それは当然のことで、特別に殊勝の振舞ひであつたと己惚れるわけでもない。 このあまりにも指図がましい三種文書の受諾並に布告要求に対し、日本側でも文書原案到着直後に、いつたいこの様な要求に唯々諾々として屈服してしまつてよいものか、これらの文書の正文化及び発出は国内法上如何なる手続を取れば正当化できるのかについては大いなる疑問があり、議論も生じた。その疑問と議論の記録は極めて重要な先人達の苦心の痕を留めた史料である。残念ながら本稿ではそれを再確認して示すだけの紙幅の余裕がない。結局のところポツダム宣言の受諾によつて辛うじて終戦の機会を掴み得たといふ事実の重みが決定的だつたのだ。その名も忌はしい「降伏文書」は実質上「停戦協定」なのであるから、〈右ハ一種ノ国際約束ト見ルベキモノニシテ我方ハ之ニ依リ寡クトモ國際上ノ義務ヲ負フ次第ナリ〉といふ八月二十二日付外務省条約局作成の見解は正しい。とすれば、〈…降伏文書ノ一切ノ條項竝ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠實ニ履行セムコトヲ命ス〉との詔書の結びの文言は元来「約束を守れ」との至高の道徳的御訓戒と読むべきもので、凡そ日本臣民たる以上、このみことのりに叛く者一人たりともあらうとは思はれぬ。勅命とその遵奉といふ伝統的君臣関係での千古未曽有の切羽詰つた非常事態が此処に現出したのだと見てもよい。 事実、この時の日本国民は勅命を奉じて世界史に比類なき誠実さで「約束を守つた」。連合国最高司令官マッカーサーの任務としての平和条約締結までの「日本保障占領」といふ大きく困難なる歴史的事業は、彼等の見地からすれば十分な、もしくは過分な成功を収めたと見るべきだらう。成功の原因は総じて言へば湊合的なる時運の然らしむる所、としておけばよいわけだが、その成功の大前提となるのは、日本といふ国家と国民が、ポツダム宣言に基く停戦協定が列記した諸般の国際的「約束」を忠実に履行したことである。(五)彼我の深刻な対照(五)彼我の深刻な対照 日本帝国は大東亜戦争収拾過程に於いて、天皇の詔書の文言そのままに飽くまでも国際条約の信義を守つた。九月二日付の詔書を奉戴したか否かに拘らず、他者との約束を守るといふ徳目は日本人の国民性の一端として人々の意識の中に深く染みついてゐる公準である。十七条憲法の第九条も〈信是義本、毎事有信、其善悪成敗、要在于信〉(信(まこと)は是義(ことわり)の本なり。事毎に信(まこと)あるべし。其れ善悪成敗、要(かならず)信に在り)とされてゐる。だが是亦、改めて聖徳太子の教を持ちだすまでもないであらう。近代では新渡戸稲造も『武士道』の中で約束遵守の「誠」が日本人の道徳性の重要項目である所以を著名な「武士の一言」を標語として論じてゐる。事の善し悪し、成功か失敗か、その要は信義を守るか否かにある――と、此は国民の遺伝子の中に潜んでゐた信念である。大戦争の終結時に際しても国民性の中の遺伝子がその然るべき特性を発揮したまでのことである。 故に国民は約束の遵守の結果として己が権利が侵され、身体が深い傷を受け、長く健康を損ふ様な不利を身に受けようとも約束の信義だけは守る、といふ途を選んだ。 それに対して、停戦協定の締約相手たる連合国側はどうであつたか。協定調印以前とはいへ、日本帝国の大本営が既に全戦線の將兵に停戦命令を下達し、且つその事を連合国側に通知した八月十六日以後の段階でソ連極東軍がどの様な暴挙に及んだか、此こそは六十年後の今日に及んで本稿が今更指摘するまでもない天下周知の史実であるから今は全て省略する。又九月二日付昭和天皇の第二の終戦の詔書とあまりにも対照的な、同じく九月二日付の「連合国最高司令官総司令部布告」第一、二、三号の含む米国側の激しい裏切り、約束の信義の蹂躙といふ事実に就いても、筆者はこれも前掲の「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」の中で十分具体的に詳述してゐる。此も要約の形にせよ再説するのは不謹慎であらう。唯一言だけ、此だけは何度反復して記しておいてもよいと思ふ件りだけを此処に記しておく。 昭和二十年九月二日午前九時、東京湾内に碇泊した米戦艦ミズーリ号艦上で米軍の呼ぶ所の「降伏文書」調印式が行はれ、日本側では政府代表として重光葵外相、梅津美治郎参謀総長が署名し、連合国側では最高司令官マッカーサー元帥、合衆国代表ニミッツ提督他八箇国の代表が署名した。調印式に先立つてマッカーサーは〈日本ハ吾人ノ条件(ヽヽ)ヲ以テ降伏シ吾人ハ之ヲ受諾ス〉(加瀬俊一氏聽取覚書)の一句を含む、短いが極めて紳士的態度のスピーチを行つた。〈降伏条件(ヽヽ)の遵守〉といふ表現は随員の一人であつた横山一郎海軍少將の手記の中にも録されてゐる。調印式の終了は午前九時二十分、日本政府代表団が首相官邸に帰着して総理大臣東久邇宮稔彦王に任務の無事終了を報告したのが午前十一時十五分だつた。日本側の理解では、調印によつて終戦への外交手続の第一段階に足を踏み入れ、爾後は詔書に仰せられた通りのポツダム宣言=停戦協定に謳はれた降伏条件の誠実な履行が外交上の最大の課題になる、と思はれた。協定が一種の国際条約である以上、協定に記された諸条件は相互的なもので連合国側にもその遵守の義務は生じてゐる、といふのが国際法上の正統な解釈だつた。戦災で焦土と化した日本橋付近(米軍撮影、産経新聞社所有) ところが、その日の午後四時、横浜(山下町のホテル・ニューグランド)に入つてゐた連合国軍総司令部に呼び出され、出頭した終戦連絡事務局長鈴木九萬(ただかつ)公使は、其処で前記の三種の「総司令部布告」なる文書を手交される。その第一号布告はマッカーサー元帥の名を以て次の様に書き起されてゐた。 〈日本国民ニ告ク/本官ハ茲ニ聯合国最高司令官トシテ左ノ通布告ス/日本帝国政府ノ聯合国軍ニ対スル無条件降伏ニヨリ日本国軍ト聯合国軍トノ間ニ長期ニ亙リ行ハレタル武力紛争ハ茲ニ終局ヲ告ケタリ……(後略)〉 以下多言に及ぶ旧稿の反復は慎しむ。日本帝国の「国としての無条件降伏」といふ無稽の神話は此処に胚胎してゐた。わづか七時間のうちに発生し、その効果を実現させてしまつたこの裏切と瞞着が以後どれほどの長きに亙つて我が国にとつての重大な禍であり続けたか。それは最早縷々説くを要しないだらう。 唯一言、日本国民は詔書の聖旨を奉じて誠実に国際条約の約束を守つた。それに対して連合国側の複数諸国が無殘にも条約の信義を蹂躙して顧みなかつた。この事実からは様々の教訓を、又凡そ国際関係についての深刻な考察の材料を汲み取ることができる。それは既に多くの研究者によつて試みられてきたし、今後もなされるだらう。但、本稿としても一言付加へておきたいことはある。国際条約に明文化された約定の遵守は相互的な義務である。二国間条約に於いて、我国が約定の信義を守るのは当然の事として、相手側にもし約束を破る態度が現れた時はどうするのか。相手側にも忠実にそれを守らせるといふ厳しい姿勢を我方が見せなければ、その条約の信義は真に守られたとは言へない。つまり真に信義を守るといふ姿勢には、当方が守ると同時に相手にもそれを守らせるといふ相互性を貫徹することが是非必要なのである。 このことを近年我々は日中平和友好条約(昭和五十三年)や日中共同宣言(平成十年)に約定した〈内政に対する相互不干渉〉の原則を、我方では常に遵守し相手側ではそれを度々毀損して恬然たるものがある、といふ関係に陥つてしまつたことで改めて痛感してゐる。自分さへ手を汚してゐなければ、なるほど良心の疚しさに嘖まれることはなしで済むかもしれないが、相手の破約を黙認したままでゐることは、法にひそむ信義それ自体を守るといふ究極の第一義にはやはり悖ることである。更には、対連合国平和条約(通称サンフランシスコ条約)第十一条の場合の如く、如何なる迷妄のなせるわざか知らないが、故意に自らに不利に、自己毀傷的な解釈を施すといふ我国の一部の政治家の心理も、不可解であると同時に先づ法の有つ義といふものの尊重に於いて却つて悖徳であり、罪過なのだ。 六十年後の後世からあの昭和二十年といふ年の悲痛な記憶を更新してみた結果の感慨は結局この様な暗澹たるものになつた。 こぼり・けいいちろう 昭和八年(一九三三年)、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。昭和六十年より同大学教授、平成六年から十六年三月まで明星大学日本文化学部教授。専攻は比較文化論、日本思想史。主著に『若き日の森鴎外』(読売文学賞)『宰相鈴木貫太郎』(大宅壮一ノンフィクション賞)『東京裁判 日本の弁明「却下未提出辯護側資料」抜粋』(講談社)『さらば東京裁判史観』(PHP文庫)『和歌に見る日本の心』(明成社)など多数。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係
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テーマ
昭和天皇と激動の時代
「昭和天皇が懐かしいです」と編集者仲間が言った。彼はまだ30代。昭和天皇がご健在のときは10代だったはず。となれば、それ以上の年代にはもっとたくさんの懐かしむ気持ちがあるにちがいない。
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『昭和天皇独白録』を再読する
ある。現在も残る大阪砲兵工廠跡(写真中央)。旧日本陸軍の兵器製造を担ったアジア最大規模の軍事工場は、戦後70年を経た現在、大阪ビジネスパーク(OBP)や大阪城公園の一角にひっそりとたたずんでいる=大阪市(安元雄太撮影) 「侵略」といえるかどうかは別にして、満州事変には他にも問題点はある。日本の権益を過剰に押し広げ、ソ連と国境を接してしまったことである。ソ連との暗黙の了解であった中部満州の南北を分ける線を超えて北部に出ていってしまった。これは中ソの両方を敵とすることを意味した。たとえソ連と直接軍事衝突することはないにしても、当時日本国内にもコミンテルンの指令を受けている共産主義者が大勢いたわけであるから、彼らの国家転覆活動が活発化する可能性も合わせて考えるべきであった。実際、ソ連の指令を受けた尾崎秀実やゾルゲらは、この満州事変の直後から動き始めて日本を日米戦争の奈落に誘い込んでいったのである。 そのように考えると、満州事変は戦略的には誤った行動ではあったが、本来正当な日本の権益は守られなければならないという点では決して間違ってはいなかったのである。従って、「リットン報告書」を受け容れれば、日本の主張の正当性を国際社会が認めることになるのだとお考えになった点でも、昭和天皇の大きなプラグマティズムに基づく国際政治観、大義と国益とをバランスよく見据えていくという戦略眼がうかがえるのである。 ところが、この天皇のお言葉を取りあげて、いまだに生き残っている左派歴史家たちの中には、「昭和天皇は満州事変を是認していた」「侵略肯定論者だ」と捻じ曲げて解釈する向きがある。『独白録』は専ら東京裁判で昭和天皇の戦争責任が追及されたときの弁明資料として作成されたものだとして、天皇の戦争責任を追及する藤原彰・女子栄養大教授、粟屋憲太郎・立教大教授、吉田裕・一橋大助教授、山田朗・東京都立大助手の共著『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店、共著者肩書きは平成三年の初版発行時)にも、同様の批判が記述されている。 《満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の畏(おそ)れがあると思つた》(『独白録』42頁) このお言葉についても、藤原らの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、「昭和天皇は満州は田舎で英米の目に付かないのだから侵略してもいいと考えていた。侵略を明確に肯定している」と批判している。 しかし、これらは根本的に歪んだ前提に立った批判である。この部分の天皇のお言葉は、前述の通り満州事変それ自体は、国際社会から日本が認められた権益を守るための行動であったが、その入り方が間違っていたし、明白に中国政府の支配下にある北支で同様の衝突をすることは国際秩序に対する挑戦であり許されない、という意味なのである。 だから、藤原や粟屋らの批判は、どんな地域でも、いかなる場合でも武力を用いてはならないという戦後の「日本国憲法」第九条に根ざした空想的平和主義から一歩も出ない立場を前提としたものである。歴史を論じながら、当時の国際状況をまったく無視しており、国際関係が「彼我の関係」という相対性を本質とすることを敢えて否定する一方的な批判である。戦後平和主義をもって正統的平和主義を批判する愚 この関連で、さらに踏み込んで見ていくならば、第二次上海事変(昭和十二年八月)勃発後に支那事変が拡大する局面における『独白録』の記述からは、昭和天皇の正統的な平和主義と卓越した戦略観の一端が見えてくる。 《その中(うち)に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張してゐたが、私は上海に飛び火した以上拡大防止は困難と思った。/当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つていたのだ。湯浅[倉平]内大臣から聞いた所に依ると、石原(莞爾、筆者註)は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。/私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をこゝでも取り逃した》(44頁) 左派史観は、これを「天皇の好戦性」を示すものとしてしきりに批判の対象とするのだが、もしかしたら、戦後の平和教育の中で育った日本人の中にも同様の見方をする者が一部に現れてくるかもしれない。しかしこれは全く平和の何たるかを理解しないものと言わなければならない。 その五年前の昭和七年一月に起きた第一次上海事変についての『独白録』の記述では、白川義則大将が上海派遣軍を率いて十九路軍(国民党軍)を撃退しながら深追いせずに停職したのは、《私(昭和天皇、筆者註)が特に白川に事件の不拡大を命じて置いたからだ》と明らかにされている(34頁)。 白川大将が国際連盟との衝突を避けたい天皇の戒めを守ったことにより、この時の日本軍の行動は国際連盟でも評価されることとなった。 ところが、先の『独白録』にあるように、第二次上海事変で日本は兵力の逐次投入という愚かな策をとった。一方の蒋介石軍は西安事件(一九三六年十二月)後の第二次国共合作により、国を挙げての大々的な日本攻撃を準備して、条約上の権利で上海に駐留していた僅か二千五百人の日本軍に十数万人の大軍をもって先制攻撃する挙に出たのである。そうである以上、昭和天皇は第一次上海事変と同じようにむしろ一挙に大規模な兵力を投入することによって和平への道を確保しようと考えられたのであった。ところが、石原莞爾ら不拡大派の主張によって陸軍は最初に二個師団を派遣しただけで、その後も戦況が不利となるたびに逐次増派するという泥縄の作戦しかとれなかった。このため上海での戦闘は泥沼化し、最終的に四万の日本兵が死傷する日露戦争の旅順攻撃以来の大損害を出したのである。 さらに、その大損害のために蒋介石・国民党軍と全面戦争に突入すべしの世論が高じ、「南京進撃」へと繋がった。確かに対ソ戦を優先して考えていた石原らの戦略にも一理はあったが、昭和天皇のほうがより現実を見据えた平和論として戦略的にも優れた見識であったように思われる。もし昭和天皇の見識が事態を支配していたら、結果的には平和的な解決につながっていたであろうし、そもそも国際政治のロジックを踏まえた大きな戦略観を天皇が持っておられたことに注目すべきではないだろうか。 ここでもまた、『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、《私は盛に兵力の増加を督促した》との記述をもって、「昭和天皇は平和主義者とは決して言えない」と批判している。しかし、これも武力の行使は一切してはならないという戦後憲法の前文と第九条的思考に縛られ、それを前提に戦前の日本の行動を裁断しているにすぎないことは改めて言うまでもない。 当時の日本は、上海で、三万人以上の日本人が住む「日本租界」という日本の法律が通用する地域を持つことが国際法上の権利として認められていた。ところが、それを守る兵力として前述の通り二千人強の海軍陸戦隊しかいない日本租界を蒋介石軍が十二万もの圧倒的兵力で攻撃しようとしたのであり、上海事変は完全な日本の防衛戦争、あるいは自衛戦争だったのである。混迷する時代にこそ心に刻むべき御心混迷する時代にこそ心に刻むべき御心 以上見てみたように、昭和天皇は満州事変には明確に反対しておられた。満州の権益を守ることは正しいが、そのやり方が国際秩序に反していて日本を危険に陥れていたからである。他方、支那事変に対しては反対されていない。むしろ第一次上海事変のように、上海での日本人の生命・財産と日本の威信を守るために積極的な軍事行動に出て、ある程度の成果を収めたら追撃せず即座に和平するというお考えであった。実際、あのとき平和を確保するにはその方法しかなく、その後の支那事変がたどった悲劇は間違いなく避けられたと思われる。 この昭和天皇の平和観と戦略感覚もまた、非常に大切な事をわれわれに教えている。国際秩序に決して挑戦してはならない。このことは天皇が繰り返し様々な場面で強調しておられた。他方、自らの利益を守り、自衛の権利を発動するときには、正々堂々、明確なかたちで国際法にのっとり断固とした態度を示すこと。それが憲法九条的な戦後平和主義ではない、もっとも正しい意味での普遍的平和主義だということである。 冷戦終結後、混迷の度を増す国際社会の中で、日本は自立した国家への手探りを始め、「このままでは国家としては立ち行かない」という意識も国民にようやく浸透してきた。しかし、自衛隊の扱いひとつをとってみても、憲法改正後の位置づけや海外派遣をめぐって議論は錯綜したままである。本来の平和主義とはいかなるものかという認識、国際関係の基本を踏まえた戦略の文化も育っていない。これは、国際社会で、日本がとるべき行動の基準、国家の基軸という意識がいまだに日本国民に根付いていないからである。 日本の国体というものは、お互いを思いやる「仁」と「誠」の精神を重んじ、日本の国と国民の安泰を祈り続けてきた皇室が厳然としてあり、国民がそれを尊崇し、そして自己の意志だけでは乗り越えられない存在の前に謙虚になって常に自己抑制を忘れず、そして国際社会の潮流、つまり「世界の進運」(終戦の詔勅)に遅れることなく、常に国際社会と軌を一にして発展していくところにある。そのベースとなるのは、二千年の歴史に根ざす伝統への絆から生じる、ゆったりとした大きな誇りであり、これが堅実な合理主義と強靭なプラグマティズムを支え、他国と真に平和的に共存できる「柔らかき心」を生み出してくれるのである。 昭和天皇は昭和五十年、戦後三十年を迎えて初めて記者会見に臨まれた。その場で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と記者が正面切って聞いたのに対して、昭和天皇は「そういう言葉の綾(あや)については、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」とお答えになった。私はこのお言葉に昭和天皇の万感の思いが込められていたと強く感じる。本来の文脈を虚心にたどれば、そこには歴史観、あるいは歴史と国際関係の大きな基軸を踏まえ、立憲君主としての立場、また国家はいかにあるべきかという哲学がうかがい知れる。 「言葉の綾」という表現には、「そのことを論じ始めれば、実にたくさんのことを論じなければならない」という感慨、そして何よりも、「私は当事者だったし、あなた方の中にもその時代を生きた人たちがいる。この問題は後世の歴史家がしっかりと冷静に論じられる時代になったときに、自ずと真実が明らかになるはずだ」という万感の思いをむしろ率直に込められたのだと思う。 日本が国として立っていくための基軸について昭和天皇が遺されたこと、そして孫子の世代に受け継いで欲しいと願われた御心を、われわれは八月十五日を迎えるたびに、あの「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と唱えられた終戦の詔勅とともに繰り返し思い出すべきなのである。それが、戦後六十年という節目を迎え、またこの春に昭和天皇の御誕生日が「昭和の日」という国民の祝日として制定された今、われわれに改めて求められる決意であろう。 なかにし・てるまさ 昭和二十二年(一九四七年)大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。同大学院修士課程(国際政治学)、ケンブリッジ大学大学院修了。静岡県立大学教授を経て現職(総合人間学部教授)。著書に『大英帝国衰亡史』『なぜ国家は衰亡するのか』(以上、PHP)『日本の「敵」』(文藝春秋)『国民の文明史』(扶桑社)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係
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国破れて、廃墟に立つ
正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま中曽根康弘(元首相) 中曽根康弘元首相は大正、昭和、平成の三時代を生き、先の大戦に出征し、敗戦を体験、その後の日本の復興に政治家として尽くされた。最後の「首相らしい首相」と評される。その中曽根氏に、終戦時を中心とした自らの体験と、戦後六十年を振り返っての感想を率直に語ってもらった。 (聞き手/産経新聞正論調査室次長 奥村茂)海軍主計中尉として参戦 ――中曽根元首相は昭和十五年(一九四〇年)に高等文官試験に合格し、内務省採用が決まっていました。それがあえて海軍を志された動機はどこにあったのですか。 中曽根 東大法学部にいる頃から、自分は将来どういう人生を送ろうかと考えていました。しかし、次第に時局が切迫してきて、やはり大事なのは日本の統治、国政の問題だと思いました。そのためには高等文官試験に合格した上で国政に参画し、影響を及ぼし得る役職に就こうと決意しました。大蔵省か内務省かの選択では、当時の内務省には総合国策を推進するうえで非常に大きな権限がありましたので内務省を選びました。 海軍へ行った理由は当時、当然徴兵検査、軍務というコースがありました。海軍は臨戦態勢を覚悟したのでしょう。主計官を大幅増員しなければ間に合わないと、二年現役の主計科士官制度を作って募集していました。陸軍へ行って二等兵から始めるよりも、主計科士官になればすぐ主計中尉でしたから海軍を受けた。幸い合格して、四カ月間東京・築地の海軍経理学校で訓練を受け、十六年(一九四一年)八月半ばに連合艦隊に配置されて、巡洋艦「青葉」の乗組員として赴任しました。 ――海軍軍人になってどうでしたか。 中曽根 「青葉」に乗り組んでからは、駆逐艦隊を引き連れて敵の戦艦を攻撃する猛訓練を土佐沖へ出て行いました。それが終わると大分県の佐伯湾に来て休養してまた出ていくという繰り返しでした。艦にはガン・ルーム(青年士官室)というのがありまして、その長が海軍大尉の星野文三郎さんという通信長でした。兵学校出の少・中尉、われわれ大学出の二年現役主計、あるいは軍医の部屋を取り仕切っていました。この星野さんが十月頃でしたか、訓練が終わった後、甲板にデッキチェアを出してみんなを休ませていた。そのときに「いよいよ戦争だ」と言明しました。戦災で焦土と化した東京。日本橋上空から、本所方面をのぞむ そのとき、私は戦争のような大きな問題を急いで決断すべきでない、と言いました。ドイツのヒットラーは、当時ソ連に深入りして戦っており、まだ勝つか負けるか必ずしも決定していませんでした。ソ連はいつもモスクワまで退却して迎え撃ち、ナポレオンを破った歴史がありますから、独ソ戦の将来はまだ決断できない、もう少し情勢を見たほうがいい、と言ったのです。青年士官室内が「もう戦いだ」と極めて士気高揚していたときに、このようなひんやりした発言をしたものですから(笑い)、星野さんも「いや、もう石油は六百万トンしかない。今やらなければ石油がなくなってしまって戦いができなくなる」ということを言いました。それで、今度来た主計中尉には変なやつがいるという風評が艦内に一時立ったそうです。兵学校出のみなさんから見ればそう思ったのでしょう。 その星野文三郎さんは、私が昭和四十五年(一九七〇年)に防衛庁長官になったとき、自衛艦隊司令官になってた。それで横須賀へ私が巡視に行ったときに自衛艦隊司令官として拝謁にきました。 ――奇遇ですね。 中曽根 妙にこそばゆい感じがしました(笑い)。しかし、星野さんは非常に立派な軍人でした。 ――日本に燃料が少ないということを海軍はわかっていた。にもかかわらず戦争に突き進んで行った。それが戦争だといえば戦争なんでしょうけれども、もう少し冷静に考え、対応できなかったのでしょうか。 中曽根 そこが大学出の士官と兵学校でみっちり教育を受けた士官とには、ある程度の格差はあったのですね。しかし、いったん戦争になったら格差はまったくなくなりました。みんな一生懸命、国のために働いたということです。 ――実際に砲弾が飛び交う中での経験はありましたか。 中曽根 私は開戦の直前、設営隊主計長に転勤を命ぜられました。つまり飛行場は壊されてるし、地雷がたくさん埋められている。そのため敵前上陸して敵の飛行場を奪取し、修復して味方の零戦が三日以内に飛べるように直す。零戦がきたら一週間後には中型陸攻(海軍の爆撃機)を飛ばせるようにして南下して行く。そういう部隊の主計長に任ぜられて、呉で十一月二十日頃から約九日間、二千人の徴用工員を死にもの狂いで編成し、戦争機材を輸送船に積み込む指揮をしました。もう戦争だということははっきりしている。南方戦線で戦火をくぐる南方戦線で戦火をくぐる というのは、転任を命ぜられて呉の海軍に行き、参謀長に着任の挨拶をしました。「設営隊の主計長を命ずる」という辞令をもらった。それから二千人の部隊を編成し、必要な武器弾薬、セメント、工作機械など全部積み込んで、今月末には出航だという。参謀長に「一体どこへ行くんですか」と聞いたら、「そんな秘密をお前にいえるか」って黙ってしまった。そこで「しかし、いよいよ戦争となれば軍票がいります。行く先がわからなければ、どこの国の軍票を持っていっていいかわかりません」。そう言ったら、「そういえばそうだな。絶対ほかに言うなよ」と、紙にフィリピン三カ月、蘭印(あの頃はインドネシアのことを蘭印と言いました)三カ月。「二千人の徴用工員と、そのほかの工作関係の費用を計算して持って行け」と言われました。それで経理部から、フィリピンとインドネシアの軍票を七十万円受け取った。新しい部隊ですから置き場がない。だから、お棺のような木箱を七つ作って十万円ずつ入れて、呉の建築部長の部屋に並べ、その上に戸板と毛布をたくさん敷いて、蚊帳を吊り、その中で私は寝ていました。当時の七十万円は今に換算すると七十億円ぐらいです。七十億円の上に寝た者は私しかいないと(笑い)、威張ったものです。 出港したのが十一月二十九日です。九日間で全国から徴用で集まった工員二千人を編成して、セメントとか重油、あるいは武器弾薬、工作機械類を積み込んで、昼間は編成、夜は積み込みでほとんど寝なかった。 二十九日に十四隻の船団で呉を出港し、十二月三日か四日にパラオに着いて、待機していました。そして八日に開戦となり、真珠湾攻撃をパラオで聞きました。そのときはよくやったと、感激しましたが、それでも「勝てるかな?」という疑いは持っていました。 それからフィリピンのダバオに敵前上陸して飛行場を造った。それが戦争の始まりで、マニラの基地から飛んできたアメリカ軍のB17による爆撃をたくさん受けました。1983年11月、東京・西多摩の山荘で、来日したレーガン大統領(奥)、ナンシー夫人にお点前を披露する中曽根康弘首相 ――まさに戦火をくぐってこられた。 中曽根 そうです。それから次はタラカン、その次はバリックパパンと南に下がって行って飛行場を作っていったのです。バリックパパンに移動の途中、マカッサル海峡で十四隻の輸送船の中、四隻が爆撃と潜水艦でやられ、さらにバリックパパン上陸時、敵のオランダと英国の駆逐艦に、十隻のうち私の乗っていた「台東丸」の前後左右四隻が撃沈されました。泳いできている人たちを救援してるときに船尾に敵の砲弾が当たって火事が起きた。主計長というのは防火隊長ですから、飛んで行って防火作業をやろうとしたら、第四ハッチ(一番底のハッチ)で敵の砲弾が爆発した。そりゃあ、首は飛んでる、手足は転がっている。 私が一番かわいがっていた古田という班長は、前科が幾つかある剛の者でした。しかし、そういう刑余者がかなりいましたから、「台東丸」の中でそういう者の班長に彼を任命したのです。彼は一生懸命やってくれまして、非常にかわいがっていたんです。その彼が砲弾にやられて、背中におぶわれてきたのを見たら足首がぶらぶらしてました。それから胸の辺りに傷を負って血がだらだら流れていました。私が懐中電灯で、「古田、しっかりしろっ」と言ったら、ただ一言「隊長すまねえ」と言ったね。「早く医務室へ連れてけ」と言ったけど、着いたときにはもう死んでいました。 ――古田班長との間には、ちょっとしたエピソードがあったそうですが。 中曽根 古田を班長に任命するときに刑余者を全部集めたら、古田が一番統御力がありそうな親分肌の顔をしていた。それで「おい、古田、下へ来い」と、主計長の私の部屋へ連れて行って、「お前も随分天皇陛下に迷惑をかけたな」という話をした(笑い)。そして「お前、おれの子分になるか。班長やってくれるか」と言ったら、「ご命令なれば引き受けやす」と受けてくれた。「それじゃ一杯飲もう」と、従兵に一升ビンを持ってこさせて、茶碗に私が一杯ついで、「おい、古田、飲めよ」と言ったら、「こういうものは隊長が先に飲むもんです」。 ――ほとんど任侠の世界そのものですね。 中曽根 そういわれて、「あ、そうか」と私が飲んで彼に茶碗を渡し、これでもう親分子分です。私は上州・国定忠次の気風を受けている。大学出のシャバを全然知らない者が戦争へ引っ張り出されてやれるには、そういう何か思い切ったことをやらなければこれはできない。しかし、その古田が戦死したんです。 ――そのときは、どのくらいの方が戦死されましたか。 中曽根 私の船でも五十人以上です。それから周りの四つの船から泳いでくる者を助けたから、船は一杯になりました。しかし、そこから敵前上陸してバリックパパンの飛行場を奪取し、建設をしたんです。バリックパパンへ行ったのは、石油の精製所があるので、石油獲得が大きな目的でした。玉音放送を聞き、頭が空白に ――敗戦の玉音放送はどちらでお聞きになりましたか。 中曽根 私は南方作戦が終わったころ、台湾へ転勤を命ぜられて高雄の海軍施設部にいました。敵は台湾へ来るというので台湾に飛行場をたくさん造った。そうしているうちに十九年(一九四四年)九月ごろ、また転勤になり、海軍省兵備局補佐官を任命された。 二十年(一九四五年)六月ごろ、いよいよもう沖縄がだめになってきた。そこで、東京にいる補佐官は一斉に地方へ行って戦えということになった。私は高松の海軍運輸部に赴任して、呉と土佐湾の特攻隊との連絡を行っていました。そのときに終戦となった。だから、高松で天皇陛下の玉音放送を聞いたのです。 ――どのような気持ちで、お聞きになりましたか。 中曽根 玉音放送を聞いて、頭が空白になりました。一日半ぐらいは手つかずの状況でした。しかし、そのうち本省から、海軍の物資を民間に払い下げろという命令がきました。そこで、機帆船を四隻調達し、呉へ行って、軍需部から重油を四隻分もらった。そして高松へ戻り、漁業組合に重油をすべてタダで渡しました。つまり物質不足の時代ですから、魚をとって国民に供給してもらいたいということです。それが一段落したころ、軍籍を離れて故郷へ帰ってよいとなり、女房が疎開していた山梨県小淵沢に行って家族に会いました。 それから内務省へ戻って官房調査部に配置され、第八軍司令部との連絡官、リエゾン・オフィサーをさせられました。マッカーサー司令部は東京にありましたが、実際に日本の行政を担当したのは第八軍のアイケルバーガー中将で、横浜にいたんです。向こうの命令を受け取るわけです。とくに海軍や陸軍が持っていた敗戦後の物資をどういうふうに処理するか、ということを行ったのです。 しかし、そうしているうちに日本の社会は荒れてくるし、食糧はない。米軍が共産党を一時応援したことがありますから、共産党が猖獗を極めていました。この国はどうなるか、どうするか。もう官吏でいる段階ではない。GHQ(連合国軍総司令部)、マッカーサー司令部の占領行政に対してものを言うのは国会議員でなければだめだと思いました。当時追放令が出て、群馬県でも古い政治家が追放になっていたので、立候補を決断して当選したのです。 ――内務省に戻られたとき、首都・東京をご覧になられました。 中曽根 東京の焼け野が原を見て慄然としました。まさに廃墟でした。この国を再建することは非常に難しい、どうしたらいいのか、と一国民として心痛したものです。 リエゾン・オフィサーを務めていたとき、占領軍が無理をいうこともかなり多かったのです。いいことも行ってくれましたが、結局、占領軍に対して発言権を持つには役人ではなく、国民の支持で出てきた国会議員でなければだめだと強く感じました。そのような経験もあり、国会議員に立候補したのです。 ――家族は反対しませんでしたか。 中曽根 いやもう父は絶対反対、兄も絶対反対、家族も反対です。しかし、私は高松にいる頃から父に手紙を出し、内務省を辞めると伝えていました。そうしましたら、「絶対辞めるな」と、義理の兄がわざわざ高松まで説得に来ました。私は日本の状態を見たら、もう内務省にはいられないと、警視庁の監察官に転勤したときには辞める決心で東京へ出てきました。しかし、それでも家族や父は反対しましたね。 二十一年(一九四六年)十二月に辞表を出しましたら、警視総監が「お前辞めるな」と大分止められました。「辞表を受け付けない」と言われましたが、十二月末には辞表を出しっ放しにして故郷の高崎に帰りました。高崎では青年運動を行って、立候補の準備をしたんです。廃墟を前にし、政治家として立つ廃墟を前にし、政治家として立つ ――それが青雲塾ですか。 中曽根 そう、青雲塾。私の政治家としてのスタートと生涯は、利権とか、便宜供与とかで代議士になるのではなく、むしろ自分の思想とか、理想とか、国家論というようなものを中心に代議士になったと思います。それは一貫してきたと思います。 ですから占領中にマッカーサーに建白書を出しました。あれは昭和二十六年(一九五一年)一月、占領政策の是非を論ずる建白書です。GHQに行き、国会課長のドクター・ウィリアムスに会って、プレゼンテーション・トゥ・ジェネラル・マッカーサーと英文の建白書を持っていったのですが、受け取らない。占領下の国民が建白書を持ってきても、GHQは受け取らないという。 実は、私はその前年にアメリカに行って、上院議員のバークレー外交委員長とタフト上院議員に会ったときに、「マッカーサーの占領政策はどうか」と聞かれた。私は「これは一言では、また短時間では言えないから、日本へ帰って文書で申し上げましょう」と言って帰ってきて、改めて英文にしたためてマッカーサー司令部へ行く前日にアメリカに空送したんです。同じ英文を持ってマッカーサー司令部へ行きましたら、ウィリアムスが受け取らない。そこで、「実はこれはもうきのう航空便でタフト上院議員とバークレー外交委員長に送った」と言いました。彼は驚いて、慌てて読み出したら七面鳥のように顔色が変わりました。それでも彼は「受け取らない」と言うので、私は「勝手にしろ」と帰ってきました。 あとで聞くと、ウィリアムスは非常に驚いて、すぐにマッカーサーのところへ駆け込んだ。というのはマッカーサーは当時大統領選に出るつもりだったから、アメリカの上院議員の実力者にそういう文書が行ったということは大変な打撃なのです。それでマッカーサーは受け取って、読んでるうちに怒ってしまい、破ろうとしたんです。ところが少し厚い紙で、上と下はボール紙だったから破れないんです。ねじって屑紙箱へ投げたらぽんと飛び出してしまった。そのことがあとの検証でわかったんです。それはアメリカのメリーランド大学の図書館に今でも残ってます。1986年5月、東京での先進国首脳会議(サミット)に出席するために来日したレーガン大統領(右)の歓迎式典(迎賓館)。左隣は中曽根康弘首相 ――戦後のエピソードの一つですね。 中曽根 ええ。マッカーサーが怒ったのは、建白書の中にいかなる聖将、ホーリー・ジェネラルといえども、近代的な国民を五年以上も占領統治することは不可能である、という文章があった。それが気に入らなかったんでしょう。昭和天皇は気概を持たれた聖天子 ――戦後六十年たちましたが、振り返って印象に残ることがありましたら。 中曽根 まず第一に感ずるのは昭和天皇です。昭和天皇は、従来の日本の天皇の在り方の最後のお方ではなかったかと思います。昭和天皇の前半というものは非常に苦難に満ちた時代でした。大正天皇の摂政の時代から、関東大震災があり、大不況があり、それから満州事変、日支事変等で国際的に日本がもまれ、苦しみのうめき声を持っていた時代です。ついには大東亜戦争へ突入してしまいました。陛下は非常に平和主義者であられたが、そういう経験をされ、そして占領されて、昭和天皇としてはおそらく日本の皇祖皇宗の霊や歴史に対し甚だ申し訳ない、とお考えになっていたと思われます。 ですからそういう経験を経て、敗戦後の日本の建て直しに非常に責任を感ぜられた。あの頃一時は天皇退位論もありました。しかし、昭和天皇は自分が責任をもって日本をもう一回回復しなければならないという決意で、全国を行脚されて国民に接触されました。それはやはり日本を回復し、祖先の霊に報いなければならないという大きな責任感と、国を愛する気持ちからおやりになったと思います。 そういう体験が体に、顔に映っていました。だからある意味において聖天子という印象を私は持っています。総理として天皇陛下に五年間接してきましたから、非常に聖天子、ホーリー・エンペラー、そういう感じがしました。 天皇としての気概を持たれていらっしゃいました。皇祖皇宗の歴史をうけた天皇としての気概を持たれていた。ですから、例えば宮中でわれわれ少数のものが天皇陛下と会食の栄を賜わった。そういうときに待合室でみんなで話していると、陛下がおいでになって「みなの者、食事に行こう」といわれた。「みなの者」です。やはり厳然たる天皇の威厳を持っておられました。 今の陛下は民衆的天皇です。例えばお年寄りの養老院などに行かれると、天皇陛下も皇后陛下もひざまずいてお年寄りに話しかけている姿がテレビに映ります。あのような光景を見ますと、昭和天皇と平成天皇では非常に違ったと感じます。片方は歴史と伝統という長い、ある意味においては神秘的なものを背負った天皇ですし、今の陛下はむしろオープンマインドというか、民衆天皇として天皇制を維持しておられる。そういう感じがします。 また、新しい憲法の下の天皇ですから、政治に対する発言はされません。しかし、大正天皇の摂政以来、長い日本の歴史や政治を経験されていらっしゃる方ですから、政治に対する感覚は非常に豊富に持っておられる。総理大臣以上にお持ちです。それを黙っておられる。私はわりあいざっくばらんに、陛下に国情を申し上げたり、外国の情勢を申し上げましたら、「それからどうした」「それからどうした」と常々ご下問がありました。 あるとき、ご進講が終わって宮殿の下へ降りてきて自動車へ乗ろうとしたら、宮内庁長官が私を追いかけてきた。それで「総理、総理」というから、「なんだい」といったら、京都大学の猪木正道教授が書いた「近衛文麿論」がある。「あの本は非常に正しく書いてある。それを中曽根に伝えろ」ということを言いました。 開戦に至るまでのいろいろな過程で日本の重臣の挙措をよく見ておられた。それで頭にあった一つのことを、ある意味においては残しておこうというお考えがあったのかもしれません。政治家は国家像と国家路線を持て政治家は国家像と国家路線を持て ――今の政治、今の日本には、何が欠けていますか。 中曽根 戦後六十年経ちました。六十年というのは還暦の年、本卦がえりなんです。この六十年の大部分は冷戦の時代でした。冷戦の時代は自民党内閣の時代で、失われた国権の回復を行いました。沖縄を取り返すとか、韓国と国交回復するとか、ロシアと国交回復するとか、日中国交回復とか、そういう国権の回復を行った。しかし、平成三年(一九九一年)に冷戦が終わった。それまではアメリカ体系、ロシア体系、第三勢力体系に入っていたけれど、共産主義・ソ連が崩壊してロシアが敵でなくなった。そうすると、その中に依存する必要がないというので、各国が自立、独立の方向へ動きました。アメリカに対抗するヨーロッパということで、EUを作り、イラク問題でもフランス、ドイツ、ロシアはアメリカに同調しない。そういうナショナリズム、アイデンティティー、リージョナリズムがたくさん出てきた。中国にしても共産主義ではなく、ナショナリズムで国を動かしているのです。 日本がその間十年間、漂流してしまいました。大きな不況もありました。自民党の腐敗が出て、金丸問題以降は連立内閣になり、すべて一年半ぐらいで潰れてきました。その漂流していたのを小泉内閣が止めました。これは小泉首相の一つの功績です。 しかし、日本が漂流している間に、他の国はみんなナショナリズム、アイデンティティーを確立し、国家像や国家路線を持ちました。小泉首相は漂流を止めただけで、日本の二十一世紀の新しい国家像とか国家路線というものには手をつけず、目前の郵政と道路問題に熱中しています。非常に大きな政治のマイナスです。 国民の六三%が憲法改正に賛成に変わってきました。とくに若い人が多い。日本もナショナリズム、国の独立自尊の思いが、国民のほうからじわじわ湧き上がり、憲法改正賛成が多くなりました。政治が誘導したよりも、国民の中から湧いてきたような現象が出てきています。だから小泉内閣は、国民のその大きなうねりに対して追いつけないで歴史的に見て大きなマイナスが、私は出ていると思います。 この六十年の前半の日本の国権回復を行った時代というのは、大東亜戦争を経験した総理大臣です。吉田茂さん、鳩山一郎さん、佐藤栄作さんなど、われわれまでは体の隅々まで国家とか民族というものがしみている。ところが、それ以降の今の政治リーダーたちは、幼少から中学、高校へ行った頃には食糧は何でもある。自動車もある。テレビもある。そういう時代に学校へ行ったりした人たちで、われわれのような国家というものを体で体感するチャンスはなかった。だから理論で国家とか民族というのがわかっていても、体で本当にしみてわかってるとは思えません。だから佐藤さんでも、池田勇人さん、田中角栄さんも重みがありました。それはそういう経験がしみているからです。今の政治指導者たちを見ると、カリスマ性と重みがない。やはりそういう経験不足があると思います。そのことを今の政治家は自覚しなければいけません。 昔の政治家は、吉田さんでも、河野一郎さんでも、国会の廊下ですれ違うと風圧を感じたものです。吉田さんなんかとくにそうでした。ところが今の政治家の皆さんは、逆に向こうが風圧を感ずるのではないですか(笑い)。やはり戦争体験というものが、それだけの落差を作っていると思います。 また、最近の憲法改正論を見ますと、二十代、三十代が圧倒的に強いんです。六十代、七十代はむしろ改正に消極的な人が多い。二十代、三十代には非常に希望を託していい。今の年寄りよりは希望が持てる気がします。 日本の歴史の中で冷たい戦争の時代の政治、それから冷たい戦争が終わり、とくにニューヨークの大テロ事件以後、アメリカは新しい航路に動き出しています。トランスフォーメーションと称して日本からインド洋、湾岸に至るユーラシア大陸の南岸の腹の柔らかい部分に中心の対象を昔の共産ソ連から移動させています。そういう実体をよく見極めて日本の進路や行動を誤らないようにすることを今の政治家に期待しています。情勢によっては忠告をしたいこともあると思います。 ――大いに忠告していただきたいと思います。 なかそね・やすひろ 大正七年(一九一八年)群馬県生まれ。昭和十六年(四一年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業、内務省入省。同年、海軍主計中尉に任官、終戦時は少佐。同二十二年(四七年)衆議院議員初当選。同五十七年(八二年)~六十二年(八七年)自民党総裁、首相。同六十三年(八八年)から世界平和研究所会長。平成三年(九一年)から自民党最高顧問。同九年(九七年)大勲位菊花大綬章受章。同十五年(二〇〇三年)国会議員引退。著書は『政治と人生』(講談社)『天地有情』(文藝春秋)『自省録』(新潮社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係
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記事
昭和は日本の二十世紀だった
「戦後史開封」昭和天皇崩御産経新聞連載再録(1995年12月26日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま 昭和64年1月7日、「昭和」という時代が終わった。戦後だけでも43年余りにわたって在位された昭和天皇を抜きにして、日本人の戦後史はあり得ないだろう。ご病気に倒れられてから崩御されるまで、関係者ばかりでなく、国民一人ひとりがさまざまな思いの中にあった。手術かどうか、分かれた議論 「天命に従い天寿を全うしていただくのが自然であると思う。手術には賛成できない」 元侍医長の西野重孝(故人)は、穏やかな口調ながらも、ひとり明確に異議を唱えた。 昭和62年9月14日。宮内庁三階の侍医室でひそかにもたれた拡大侍医会議には西野のほか、侍医長の高木顕(故人)ら侍医団4人、前侍医長の星川光正(80)が顔をそろえ、険しい表情でテーブルを囲む。 昭和天皇はかつて背中に腫(は)れ物ができ、膿(うみ)を出す簡単な切開手術をお受けになったことはある。だが、今論議されているような外科手術を受けた歴代天皇はいない。「玉体にメスを入れるべきではない」との信念にも似た西野の思いを、高木らも理解できないではなかった。 しかし、手元にある2枚のレントゲン写真は、昭和天皇の体に起こっている“異変”を鮮明に写し出している。前日、宮内庁病院で行われた検査で、腹部を撮影したものだ。 1枚目は、バリウムの白い影が十二指腸の末端で止まり、その先の小腸には流れ込んでいない。昭和天皇のおなかをもみ、再度撮影された2枚目の写真では、バリウムが小腸へ通っているものの、極めて少量で、細いひも状になっている。十二指腸の末端から小腸の入り口にかけて通過障害があった。腸閉塞(へいそく)である。 「昭和天皇は非常に摂生に気をつけていらした。お年より10歳は若いお体だった」 星川が語る昭和天皇のお体に“異変”の兆しが現れたのは、5カ月ほど前のことだ。 4月29日の天皇誕生日、86歳をお迎えになった昭和天皇は祝宴の席で食べ物をもどされた。当時、侍医長だった星川は「それまでにもカゼをひかれたときにお吐きになることがあり、脈などを拝見しましたが、一過性のものと判断した」と言う。しかし、8月に入り再びおう吐を繰り返される。 腸閉塞を放置しておけば食べ物も通らず、栄養の吸収が不十分で体力は衰えるばかりだ。だが最大の問題は、腸閉塞をもたらしている原因が何か、ということにあった。星川はこう打ち明ける。 「原因は難しいんだが、まず膵臓(すいぞう)がんだろうと。腸閉塞の部位からいって、膵臓が肥大し十二指腸を圧迫している可能性が高い。悪性のものであることは間違いなかった。しかし、膵臓がんの根治手術というのは大手術なんです。できないことはないが、陛下のお年などを考えると、お命の方が危ない」 高木は「根治手術をするつもりはない。しかし、お食事ができるように腸のバイパス手術を行う必要がある」と主張、西野以外はこの方針に同意した。 意見が分かれたため、高木と西野の二人は、侍従長の徳川義寛(89)らに最終判断を仰ぎ、結果は高木の主張が通る。4日後、徳川と高木は御前に出て、病状を説明し、手術のご了解を得た。昭和天皇はひとこと「そうか」とだけお答えになった。 執刀医は、東大医学部第一外科教授の森岡恭彦(65)=現日赤医療センター院長=に決まる。第一外科出身の星川が後輩に白羽の矢を立てたのだった。そして森岡、麻酔医の東大教授、沼田克雄(65)=現自治医大教授=ら6人による「東大医療チーム」が編成される。 森岡は「文芸春秋」の62年12月号で、当時の複雑な心境を次のように表現している。 「『誤ればお家は断絶、切腹もの』であるといった、やや時代劇的な雑音が耳に入ってくる。しかし、やるべき手術は、ごく簡単な腸管の吻合(ふんごう)手術であり、どうも術前の緊張感にもチグハグさを感じるし、またいろいろと意識すればするほど、頭がおかしくなりそうでもある。努めて冷静に対処すべきであると理性はもの申すわけである」 9月22日午前11時55分、宮内庁病院の一室で手術が始まる。 手術に先立ち、森岡と沼田は昭和天皇に初めてお目にかかり「このたびはご苦労である」とのおことばをいただいていた。沼田は長野県立飯山中学3年の時、終戦の玉音放送に耳を傾けた。「それこそ神の声を聞く思いだった」という沼田の頭には、「陛下のお体の中は普通の人とは違うのではないか」との考えがよぎる。 2時間35分。昭和天皇は手術に耐えられた。手術では膵臓の一部などから組織を採取し、東大医学部の病理学教室に回される。 森岡や沼田が、術後の合併症に神経をとがらせているころ、病理学教室の教授、浦野順文(故人)は顕微鏡をのぞき込んでいた。一部の組織標本に、がん細胞がある。浦野自身この年の4月に自分が肝臓がんであることを知らされていた。浦野は直ちに結果を高木に報告する。 だがそれから4日後、高木が記者会見で発表した病理検査の結果は「がん組織を認めない。慢性膵炎の像と考えられる」というものだ。高木は生前に残した著書「昭和天皇最後の百十一日」の中で、こう書いている。皇居のシンボル・二重橋 「私の信念は、ガンを告知することはしない。まして、それが陛下のお耳に入ったりしては、具合が悪い。だから、ひた隠しに隠すということでした」 ただ、高木も皇太子殿下(現天皇陛下)にだけは、がんであることを知らせている。 「ガン組織を全部取り除くことは、陛下のご体力からしても無理で、放射線療法や抗ガン剤など副作用のある治療法は、採用したくないと考えます」 皇太子殿下は黙って高木の話に耳を傾けられていた。 昭和天皇は、手術から16日目の10月7日に退院される。久しぶり吹上御所でとられた夕食には月見団子が添えられた。中秋の名月だった。年賀状の発売中止も検討した郵政省 東京・霞が関にある郵政省三階の事務次官室で秘密会議が開かれた。昭和63年9月末の夜のことだった。事務次官の奥山雄材(64)=第二電電社長=をはじめ、郵務局長、田代功(61)=東京放送常務=、官房長、松野春樹(58)=事務次官=らが頭を抱えていた。11月5日に発売予定の昭和64年の年賀状の取り扱いをめぐってだった。 前年9月に手術を受けられた昭和天皇は19日夜、大量の吐血をされた。この日以来、連日マスコミでご容体が大きく報じられ、皇居にはご快癒を祈る記帳の長い列ができていた。こんな時に年賀状を発売していいものかどうか。 「大正天皇の時はどうだったのかな」。奥山が聞いた。大正15年12月25日、大正天皇が崩御された。この時代、まだ年賀状はなかったが、元旦に配達する年賀取り扱いは実施していた。27日に逓信省は年賀取り扱いを中止、差出人一人ひとりに返却するかどうかを尋ね、希望者には返却した。その数は3億通に上った。 「ですが、いまはとてもそんなことはできません。時代が違うし、年賀状も30億通を超えます」。田代は悲痛な顔をした。年賀状は郵政省の現業部門の収入の一割を超える。簡単に発売を中止できるような状況ではない。 年賀状は毎年8月に発売数を決め、民間の印刷会社に委託する。前年の天皇の手術で昭和63年の年賀状は売れ残りが出た。今年は大丈夫だろうと、前年より1億枚増やすことにしたばかりだ。奥山が決断した。「年賀状は国民に定着している。国民がご快癒を祈っているのに発売しないのは不自然。陛下も年賀状をやめることはご本意ではないでしょう。1割減らして予定通り発売しよう」 11月5日発売の日が来た。最初の一週間は例年の7割しか売れなかった。だが、12月中旬には様子をみていた人々が買いだし、年内に98%が売れた。 「もし、発売後に崩御ということになれば、スタンプで新元号を押して配達することにした。返却を希望する人がいたら、可能な限り応じようと決めた。無事、新年を迎えたときは陛下に感謝しました」。田代はそう振り返る。 昭和天皇のご病気で自粛ムードが高まる中、10月2日から開催される予定の東京の「大銀座まつり」が中止になった。43年に政府主催の明治100年記念式典の一環として始まった銀座きってのイベント。実行委員会を組織する銀座通連合会の事務局長、石丸雄司(60)は「銀座は皇居のおひざ元。ご用達業者も多い。陛下に特別の親近感を持っており『自粛するのが銀座の見識』という声が幹部の一致した意見だった」と説明する。 中止決定後、石丸は外国メディアから「圧力があったのではないか」と取材攻勢を受けた。「親が病気のときにはしゃぐ子供はいない」。だが「理解してはもらえなかった」。 江戸時代から続く佐賀県唐津市の「唐津くんち」。11月2日夜から始まった巡行の指揮をとる唐津曳山(やま)取締会の総取締、瀬戸利一(76)は直前に県警の公安担当刑事から警告を受けた。「行列から外れないように。さもないと、身の安全は保障できない」 自粛ムードの中でくんちを強行したからだった。曳山を持つ14カ町は当初「中止」が大勢だった。しかし、10月3日夜、唐津神社に招集された取締会総会で、瀬戸はこう言った。「くんちをやるのもご快癒祈願。右へならえして自粛するのではなく、唐津っ子の意気を示してはどうか」。2日後の氏子総代会で「実施」が決定された。 瀬戸の自宅の電話は鳴り通しだった。「非国民」「殺すぞ」。抗議の手紙も何百通と届いた。瀬戸は振り返る。「放火を危惧(ぐ)して、水を入れたプラスチックのタンクを用意した。期間中に崩御されたら、喪章を付けてでも曳山を引く計画だった」 唐津くんちの実施が決定された直後の10月8日、皇太子殿下(現天皇陛下)は「陛下のお心にそわないのではないかと心配している」と、自粛の広がりに憂慮の念を示された。 マスコミ各社の報道は過熱していた。 皇居の主要な門や侍医長宅前には連日、東京本社のほか、地方支局から増員された若手記者が「張り番」として、24時間態勢で張り付けられた。 入社1年目の産経新聞東京本社写真部記者、篠崎理(32)=現横浜総局=は皇居に出入りする皇族らの写真を片っ端から撮影した。遠巻きに、走り去る車中の人物を車の窓ガラス越しに撮る「透かし撮り」と呼ばれる手法は、大発光量のフラッシュと一瞬のシャッターチャンスが決め手とされ、当時の報道写真では一般化されていなかった。 篠崎は言う。「撮っても撮っても紙面に載らず、記者になったことを自問する日々。唯一の成果は透かし撮りの練習だった」。いつしか「透かしのシノちゃん」と呼ばれるようになり、その後、拘置所前など被疑者の護送現場にはきまって出されるようになった。 岡山総局から東京に増員された深堀明彦(34)=現大阪本社文化部=は9月19日、天皇が吐血された日に新婚旅行から帰国した。その足で東京へ。以来3カ月半にわたる“新婚別居”生活が始まった。 「下着の洗濯は、実家に帰った妻と宅配便でやり取りした。連絡用に持たされた携帯電話で張り番先から妻に電話するのが日課だった」 現在社会部宮内庁詰めの記者、菊池一郎(34)も張り番の一人だった。「門の前で群れをなしてボーッと座りこんでいる僕たち報道陣に外国人観光客が物珍しそうにカメラを向けた。あれほど惨めだったことはない」一年前「がん」を打ち明けていた担当医一年前「がん」を打ち明けていた担当医 東京・代々木にある侍医長、高木顕(故人)の自宅に、明かりがともった。昭和64年1月7日午前4時過ぎのことである。 肌を刺すような寒さだ。高木邸前で張り込んでいた記者団はにわかにざわめきだし、向かい側の駐車場で寝袋にくるまっていた産経新聞記者の深堀明彦(34)も、とっさに跳び起きた。 高木は、侍医で当直の一人だった内田俊也(43)=現帝京大医学部講師=からの電話で、浅い眠りから起こされた。 「最終段階だと思います」「わかった。すぐ行く」 午前5時5分、高木は「ご危篤ですか」との記者団の質問に無言のまま車に乗り込む。「今、高木侍医長が出ました」。携帯電話を握り締める深堀の声も高揚していた。当時の産経新聞社会部のデスク日誌には、こうある。 「侍医長が自宅を出たとの一報。全員呼び出し。あとは…」 前年の9月19日に昭和天皇が吐血をされてから111日目。だれもが「昭和が終わるな」と感じていた。 皇居・吹上御所の二階にある昭和天皇の寝室。静まりかえった20畳ほどの部屋に、心電計の音だけが響く。 駆けつけた皇族方が並ばれ、美智子妃殿下(現皇后陛下)は昭和天皇の足をさすられていた。 急変したのは午前2時ごろ。心臓の機能などが低下しはじめ、当直の大橋敏之(70)=現皇太后宮侍医=が強心剤を打つなどしたが期待した効果はなく、内田に「数時間のうちだと思う。高木先生に連絡してほしい」と指示したのだ。 やがて、心電計を見守っていた大橋は、高木に「心停止です」と告げた。高木は瞳孔(どうこう)を拝見すると、皇太子殿下(現天皇陛下)に黙礼し、懐中時計に目をやった。昭和64年1月7日午前6時33分である。 この日まで侍医団は、幾度か訪れた危機を輸血などでしのいできた。だが、侍医の一人だった加藤健三(71)=現皇太后宮侍医長=はこう明かす。「陛下はおことばには出されませんが、お辛(つら)かったようです。一日でも長く、という延命方針ではありましたが、それだけお苦しみの時間を長引かせることにもなり、疑問を感じたこともあります」 崩御と前後して、吹上御所には首相の竹下登(71)ら三権の長も相次いで拝謁(はいえつ)に訪れた。竹下はご容体急変の一報を受け、午前6時過ぎに私邸を出て首相官邸へ向かったが、「ご危篤」との連絡が自動車電話に入り、急きょ皇居へと急いだのだ。 参院議長だった土屋義彦(69)=現埼玉県知事=は「拝謁したときは崩御のあとでしたが、崩御とは知らされてはいなかった。拝謁のあと『実は』ということでした」という。うっすらと雪化粧した皇居周辺 一方、首相官邸も慌ただしい動きをみせる。最初の官房長官会見は午前六時三十五分。わずか二分前に昭和天皇は崩御されていたが、小渕恵三(58)の発表は「ご危篤の状態になられた」。官邸に「崩御」の連絡が入ったのは午前7時過ぎだった。臨時閣議では、皇太子殿下の皇位継承の内閣告示や、剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀を国の儀式として行うことなどを決定。すべては事前に検討された手順に従い進んだ。 神事をつかさどる掌典長の東園基文(84)は、「三種の神器」のうち鏡を受け継ぐ賢所の儀に備え、潔斎(けっさい)所で、体に湯をかけ身を清めていた。皇太子殿下は、賢所の儀とほぼ同時刻に行われる剣璽等承継の儀に臨まれるため、賢所の儀は掌典長が代行することになっていた。東園はこう打ち明ける。 「それ以前にも2回、潔斎所に駆けつけ湯をかぶったことがありました。ご容体が悪化された63年11月8日の夜と、12月5日の朝です」 賢所の儀が始まり、東園は神前に供え物をささげ、「意を奮って皇位を継承します。どうぞお守りください」と、御告文(おつげぶみ)を奉告した。 「新天皇陛下でいらっしゃれば、お子さまとして悲しみに耐えられつつご奉告されたことでしょう。そう思うと、心の準備はできていましたが緊張しました」 そのころ宮内庁では、高木が「最終診断は十二指腸乳頭腫瘍(腺ガン)」と発表していた。それまで「慢性膵(すい)炎」としてきたが、真実を公表したのである。 この後、NHKのニュースはこの模様とともに、昭和天皇が手術をお受けになった際、病理検査を担当した東大教授、浦野順文が、昭和天皇のがんを告白するのを放映した。 浦野は実は昭和天皇より一年近く早い63年1月15日、肝臓がんでこの世を去っていた。死去する9日前に東京・渋谷のNHKを訪れ、テレビカメラの前でこの告白をしていたのだ。妻の純子(59)がこう打ち明ける。 「主人は昭和天皇が崩御された後には、真実が公表されるべきだと考えていました。でも宮内庁が公にするかどうかはわからず、NHKとは崩御されてから放映するという約束でした。最後には主人の願いがかない、遺志が伝わったのだと思います」 侍従たちの心にも、さまざまな思いが去来した。卜部亮吾(71)=現皇太后宮職御用掛=は、こんな風に振り返る。 「手術をお受けになったあと、陛下は『早く公務に復帰し宮殿に出たい』とおっしゃり、こちらと押し問答されたこともあります。ご状態が正常に戻りますと、目標のない生活がお嫌なんですね。そういう生活ならば天皇の地位にとどまるにふさわしくない―極端に言えば、そんなやりとりもございました」懇談会で最初に説明された「平成」 昭和天皇崩御から7時間余りたった昭和64年1月7日午後2時前、総理府辞令専門官の河東順一(49)は東京・永田町の総理府内の内政審議室の一室に呼び出された。 書道家でもある河東に用件は分かっていた。新元号を墨書するためである。四枚の奉書紙を用意した。「元号案は三つあると聞いていたので、三つを書き、4枚目に新元号を書こうと思っていました」。だが、2時15分、届いたメモには既に「平成」と書かれていた。「書きやすい」と瞬間的に思った。4枚目が額に入れられて官邸に届けられた。秘密保持のため、河東は発表まで部屋から出ることを禁止される。 午後2時36分、首相官邸記者会見室で官房長官、小渕恵三(58)は額を両手に掲げ「新しい元号は“へいせい”であります」と緊張した声を上げた。 その瞬間、大阪で腰を抜かさんばかりに驚いた人がいた。衣料のセールスをしていた平成(たいら・しげる)=(54)=だった。新しい元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官=1989年1月7日、首相官邸 その日からセールスは順調、「お守り代わりにしたい」と名刺を欲しがる人もいた。平安時代の武将、平将門の子孫と言い伝えられ、父母が千葉の成田山新勝寺にお参りして生まれたため、名前は成となった。「新規開拓が増えたことはプラスだった」と言う平だが、「平成不況なんて言い方を聞くと愉快じゃありませんね」。 その後の調べでは平成という名の登録商標はなく、名字にも使われていなかった。ただ、岐阜県武儀郡武儀町下之保大門の小字名に平成(へなり)があった。同地区は後に「へいせい」と呼び方を変えている。 元号担当の内政審議室長だった的場順三(61)=大和総研理事長=は「社名も店名も調べに調べた。とくに中華料理店と焼き肉店はしらみつぶしに調べた。地名も大字まで調べたが、まさか小字にあるとは思わなかった」と苦笑する。 平成がスタートした翌8日の昼過ぎ、千葉県警流山署に35歳の男が現れ、「元号が変わったので改心したい」と自首した。5日前に勤務先の軽トラックを乗り逃げしていた。「社長を困らせようと思ってやった。だが、元号が平成に変わったので心を改めようと思って自首した」とうなだれた。 十年余り前の昭和53年12月、大平内閣が発足、三原朝雄(86)は総理府総務長官に任命されたとき、大平正芳(故人)は三原に「あなたに総理府総務長官をお願いするのは、元号問題を仕上げてほしいからです」と頼んだ。三原は元号法制定に着手、翌54年6月(1)元号は、政令で定める(2)元号は、皇位の継承があった場合に限り改める-という、たった2項目と附則からなる元号法が施行された。 当時、内閣審議室長だった清水汪(69)=農林中金総合研究所理事長=は「現在の憲法が制定されたとき、新たに元号法を制定する予定だった。しかしGHQの反対で見送りとなり、原案は内閣の金庫にしまわれた。54年に制定された元号法はこの第一項と第二項を入れ替えただけ」と明かしている。 元号法が制定された54年、最初に元号候補の考案者として委嘱されたのは陽明学者の安岡正篤、大漢和辞典編者の諸橋轍次、京大名誉教授の貝塚茂樹、東大名誉教授の坂本太郎、同、宇野精一(85)の五人だった。だが、昭和天皇が発病された62年時点で、宇野を除いた四人が他界していたため、政府は新たに九大名誉教授の目加田誠(故人)と東大名誉教授の山本達郎(85)に考案を委嘱した。 新元号の基準は(1)国民の理想としてふさわしい意味をもつ(2)常用漢字二字で字画が少ない(3)音読みで読みやすい(4)外国も含め過去に元号やおくり名として使用されていない(5)俗用されていないーなどだった。 宇野の自宅にあらためて内政審議室のメンバーが訪ねてきたのは62年9月。過去に使われた日本と中国などの元号表を手渡し、「これにないもの」「出展は四書五経などから」などと新元号の条件を示した。 「年内に『正化』など三つほど案を出した。するともう一回出してほしいということで新たに『保和』を出した記憶がある」と宇野は語る。目加田は候補七案を出典意味などを付けて提出、その一つが最後まで候補に上った「修文」であることを生前に認めている。 的場は崩御から30分後の午前七時過ぎ、首相執務室に入った。「元号の選定準備はすべて完了致しております。かねてご説明した通りの手順です」と首相の竹下登(71)に報告した。竹下は深くうなずいた。 正午前、8人の男女が首相官邸の門をくぐった。「元号に関する懇談会」のメンバーだ。8人が大食堂の席に着くと官房副長官の石原信雄(69)が封筒を配った。中には新元号の候補として「平成」「修文」「正化」の三つが列記してあった。三つの候補について各委員が意見を述べた。「一部に異論も出たが、雰囲気として平成に落ち着いた」(政府関係者)という。出席者の一人、東大名誉教授、久保亮五(故人)は「平成が分かりやすい、字がやさしい、親しみやすいなどで一番よいという雰囲気だった」と証言している。だが他の出席者の一人は「最初に平成の説明があり、紙にも平成が一番先に書いてあった」と言い、政府側は「平成」で決めようとしていたことをうかがわせる。懇談会の最中に的場らは衆参両院議長を訪ね「平成」でいいかどうかを聞いている。 その後、全閣僚会議が開かれ「平成」が提示された。閣僚からは何の発言もない。閣議に切り替えられ、小渕は「それでは新元号は平成にしたいと思います」。「結構です」との声がそろった。政府の苦悩を象徴していた「鳥居」政府の苦悩を象徴していた「鳥居」 平成元年2月24日、東京・新宿御苑に設けられた昭和天皇のご葬儀のための葬場で、皇室行事の「葬場殿の儀」が終わった。すると葬場殿前の幔門(まんもん)が閉じられ、内側で作業員10人が、白木の鳥居を固定してある根元のボルトを外し、“張りぼて式”の鳥居をわずか数分で撤去した。再び幔門が開き、国の儀式「大喪の礼」が始まる。 実はこの鳥居は、昭和天皇のご葬儀をどう行うか、という政府の苦悩を象徴していた。 戦前は、旧皇室喪儀令や登極令などの皇室令により、大喪、即位関連の儀式は国事行為として行われてきた。だが、新憲法施行に伴い旧皇室令は効力を失う。「政教分離」を規定した憲法と、宗教色が濃い皇室伝統との妥協点をいかに見いだすか―政府はひそかにその研究を行っていた。 福田内閣当時の52年6月首席内閣参事官の藤森昭一(69)=現宮内庁長官=を中心に、内閣審議室、法制局、宮内庁の幹部四人による極秘の勉強会がスタートする。メンバーの一人で、内閣審議室長だった清水汪(69)=現農林中金総合研究所理事長=はこう証言する。 「元号と、大喪、即位の諸儀式をテーマに、キャピトル東急ホテルで月に2、3回開いた。どこまでが政教の『教』なのかはっきりせず、議論すればするほど難しかった」 勉強会は53年秋まで続き解散。その後、本格的な検討に着手したのは57年11月に発足した中曽根内閣である。中曽根康弘(77)はこう明かす。 「内閣発足と同時に、官房副長官の藤森君、首席参事官の森幸男君らに研究を命じた。諸儀式の性格と範囲に始まり、参列者の範囲、皇位継承、大喪儀委員会の設置、経費などあらゆる問題を検討した。60年3月には総合的な研究に取りかかり、秋になると“鳥居”などの問題も議論し、想定問答も作成している」 検討結果は、62年11月に発足した竹下内閣にそのまま引き継がれる。中曽根は「竹下君に渡したときには大体準備ができていた。ほぼその通りに竹下内閣では実施された」と語る。 63年夏、政府は「大喪儀案」を作成する。だが、宮内庁の掌典職はこれに反発した。大正天皇の大喪を踏襲した掌典の当初案とはあまりにかけ離れ、鳥居や、皇居-新宿御苑と葬場内の徒歩列、牛車、弓矢などが姿を消していたのだ。掌典長だった東園基文(84)は、こう振り返る。 「本当に情けないことだった。こちらとしてはこうやりたいと言うと、クレームがつく。宮内庁の主張は通らないことが多かった」 その後の調整で、葬場内の徒歩列は了となったが、鳥居については最後まで再検討の動きはなかった。ところが、昭和天皇が崩御された直後から「国家基本問題同志会」の座長、亀井静香(59)ら自民党議員が猛烈に巻き返した。「大喪の礼」を終えて武蔵野陵に到着した昭和天皇の棺(ひつぎ)を乗せた御料車=平成元年2月24日、東京都八王子市 平成元年1月12日、亀井らは首相官邸で竹下登に会い、「牛車を使うことにしてほしい。せめて鳥居は建立していただきたい」と詰め寄り、竹下も「どうにか工夫してみる」と答えた。 官房副長官だった石原信雄(69)=日本広報協会会長=はこう振り返る。「鳥居は宗教的意味あいをもち、国の儀式である大喪の礼では外す必要があった。法制局は政教分離に厳格で、宮内庁は伝統を重んじる。激しい議論となったが、苦肉の策として、持ち運びができる鳥居にするという知恵が浮かんだ」 昭和天皇の柩(ひつぎ)を乗せた葱華輦(そうかれん)の担ぎ手の中には、歴代天皇の柩を担いできた「八瀬童子」(やせのどうじ)の姿はなかった。京都市左京区八瀬。今も百127世帯が「八瀬童子会」を組織している。起源は約650年前。足利尊氏に追われる後醍醐天皇を、八瀬の村民が助け、その功績から柩を担ぐ駕輿丁(かよちょう)として仕えるようになった。 会長の山本六郎(80)=現名誉会長=らは、崩御の翌日に上京し、宮内庁幹部に「今回もご用命いただければ」と申し出た。だが、八瀬童子会の約九割は会社員。アンケート調査も行い、大方は「数日ならば会社を休んでもご奉仕したい」と回答したが、消極的な者もいた。 結局、宮内庁の回答は「今回はご遠慮いただきたい」。式部官長だった安倍勲(81)は「お柩は大正天皇のものとは材質も違い相当重い。八瀬童子では難しいと、皇宮警察になった」と言う。だが、宮内庁は八瀬童子の内部事情を察知し断った、というのが真相のようで、山本も「時代の流れで伝統もああなった」と話す。 大喪の礼には164カ国もの国から元首などが参列した。 外務次官だった村田良平(66)=現外務省顧問=は「戦後、戦争の重みを背負い歩んできた日本が国際社会で地位を得て、重要な国だと認められたあかしがご大喪であり、昭和の仕上げだった」と語る。 外相だった宇野宗佑(73)=元首相=は、昭和天皇にお目にかかり、日本外交の在り方などについて所信を表明したことがある。「陛下は目を閉じられじっと話を聞いておいでになる。『昭和』を感じ、開戦、敗戦の時はどういうお気持ちだったろうと思った」 崩御の際、海外の一部マスコミは昭和天皇の戦争責任問題を取りあげたが、侍従だった卜部亮吾(71)には、「陛下はご自分で、戦争責任を背負っていらした」と映る。 外交評論家の岡崎久彦(65)=現博報堂特別顧問=はこう語る。 「昭和は日本の二十世紀だった。昭和天皇とともに二十世紀は終わり、実質的に二十一世紀に入ったといえる。ひとつの区切りでした」 (文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係
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全国巡幸 国民を慰め、励まされるための旅
「戦後史開封」天皇御巡幸産経新聞連載再録(1995年8月8日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま 昭和天皇は終戦の翌年の昭和21年から29年にかけて全国を巡幸された。敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅だった。全行程は3万3000キロ。東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になる。一日平均200キロの強行軍だった。国民はそれまで現人神(あらひとがみ)とされていた天皇の姿に直接触れ、国家再建の道を歩むことになる。通りすぎるはずが突然お声を 昭和21年2月19日、神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場で農業用濃硫酸係をしていた安藤義雄(75)は、工場の正門で同僚約20人と整列し、頭を下げていた。 昭和天皇はこの日、全国巡幸の第一歩として同工場を訪ねられた。食糧生産に不可欠の化学肥料を生産する工場だった。事務所は戦争で焼け、急ごしらえのテントで社長の森暁(故人)から説明を受けて視察を終え、帰ろうとしておられた。 予定では正門は歩いて通り過ぎるだけだった。しかし、ハプニングが起きた。天皇が足を止められたのだ。 「通り過ぎられたと思って顔を上げると、陛下と目が合いました」と安藤。天皇は安藤に話しかけられる。 「何年勤めているか」 「5年ちょっとです」 「生活は苦しくないか」 「何とかやっております」 「あっそう。頑張ってください」。これが天皇と一般国民が声を交わした最初だった。 「その日の朝、工場内放送で(巡幸を)知らされました。まさか、お声をかけていただくとは夢にも思いませんでした。目と目が合ったときは、どきどきしました。夢を見ているようだった」 天皇はさらに進まれた。そして女子事務員の佐久間信子(73)にも声をかけられた。 「何年勤めているのか」「生活はだいじょうぶですか」 「“はい”と答えるだけで、もうドキドキして、ぼーっとしてよく覚えていません。負けたのだから仕方ないと思いましたが、MP(米軍憲兵)や見物の米兵が陛下の目の前を横切ったりして失礼ではないかと憤慨したのを覚えています」 終戦から1カ月余りたった20年9月27日、天皇は連合国軍総司令部(GHQ)に最高司令官、マッカーサーを訪問された。その際、「わたしは失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので、日本全国を回りたい。しかし、一部に反対の声もあるのだが…」と申し出られた。マッカーサーは「遠慮なくでかけるべきです。それが民主主義というものです」と答えた。 天皇はただちに宮内省(22年5月から宮内府、24年6月から宮内庁)の幹部に巡幸の準備を命じられた。 旅立ちは背広にソフトの帽子、夏はカンカン帽といった軽装。隊列も鹵簿(ろぼ)と呼ばれた戦前の物々しさとは打って変わり、警護も当初はGHQが付けたMP二人だけだった。 21年2月19日の最初のご巡幸は朝、皇居を車で出発。MPのジープが先導、宮内相、侍従長らがお供をした。 昭和電工の工場では、天皇が説明を受けておられる間、待ち構えていた米兵が写真を撮るため、天皇のそでを引っ張ったり、小突いたりした。天皇は全く逆らわず、何ごともないような顔をして説明を聞かれた。 午後は横浜に向かわれた。戦災者用のバラック住宅では被災者に「これでは寒いであろう」「はい、大変寒うございます」「あっそう」。 天皇の「あっそう」はぎこちない印象を国民に与えたが、初めて庶民に接する天皇の精いっぱいの言葉であった。やがて「あっそう」は流行語になる。 翌20日は横須賀市の浦賀引揚援護局を訪問になった。援護局内の引き揚げ者に声をおかけになり、17日にパラオ島から復員してきた宇都宮の歩兵第五十九連隊を中心とした将兵から復員報告を受けられた。 五十九連隊は第一大隊がアンガウル島で玉砕、第二、第三大隊はパラオ島で終戦を迎えた。傷病兵は先に帰還したが、高崎の歩兵十五連隊の一部をふくむ550人はコロール島の清掃作業に従事、この日の復員となった。 同連隊は終戦後も階級章をつけ、戦時中と同じように軍紀を保っていた。 大尉で連隊副官代理をしていた深堀泰一(72)は「復員手続きが終わるまでは軍隊として行動した。階級章もそのまま、歩調をとって行進、週番肩章やラッパも持ち出して起床、点呼、食事、消灯などを実施した」という。 援護局の担当者は当初、やめるよう要請したが、連隊長、江口八郎(故人)は拒否する。援護局側もその姿勢に次第に尊敬心を抱き、復員業務を1日遅らせて、巡幸される天皇に復員報告をするように勧めたのだった。 宿舎に整列した将兵の前に天皇は進まれた。江口は挙手の礼をして上奏文を読み上げた。 「臣、八郎、歩兵五十九連隊連隊長としてパラオ諸島に転進、祖国防衛の任に当たりました。将兵は困苦欠乏に耐え、団結して最後まで米英撃滅のため戦って参りましたが、股肱輔弼の任を全うすること能わず、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に立ち至りましたことは、誠に申し訳なく慚愧の至りであります」 天皇は終始、沈痛な表情で聞かれ「あっそう」と相づちを打たれた。終わると兵の中を歩まれて声をかけられた。 侍従のひとりが連隊副官のところに来て小声で「米英撃滅ということばは慎まれるように」と注意した。周りにはMPや進駐軍関係者、米国人記者などが多くいたからだ。 江口のすぐ後ろに立っていた当時、中尉の橋本宏(75)=現栃木県南那須町長=は「陛下は軍服で来られると思っていたが背広だった。号令が“頭右”ではなく“最敬礼”だった。戦争は負け、軍隊はなくなったと実感した」と振り返る。 海外から復員した約300万人のうち、天皇に直接、報告したのはこの部隊だけだった。役場から「モンペ姿で農作業して」 神奈川県下で昭和天皇の初の巡幸が行われて9日後の昭和21年2月28日午後、東京・新宿のデパート「伊勢丹」前に大勢の人々が集まりだした。天皇が巡幸の一環として伊勢丹で開催されている「平和産業転換展」をご覧になるということを知った人たちだった。 東京への巡幸は当初、いちばん最初の2月14、16の両日が予定されていたが、一部新聞に漏れ、警備の都合から神奈川の後の28日と3月1日に変更されたいきさつがあった。 28日にはまず日本橋の焼け跡を視察の後、小石川の被災者用バラックを回られ、早稲田・鶴巻小学校で授業を参観。午後、伊勢丹に回られた。 天皇が伊勢丹を出られると取り囲んだ人たちから、「天皇陛下バンザイ」の絶叫が繰り返された。天皇は帽子を取ってお応えになり、車に乗ってからも手を振られた。 政府関係者たちもこの時点までは、敗戦による国民の天皇に対する感情をつかみかねていた。だが、この光景を目の当たりにして、国民の天皇に対する尊敬心は戦前と大きな変化はないと胸をなで下ろし、以後、巡幸は予定通りスムーズに行われるようになる。 翌3月1日は三多摩地区に足を運ばれ、八王子の都立第四高女(現南多摩高校)を視察になった。雨が降り、天皇は自ら傘をさされた。戦前では考えられなかったことである。 学校は戦災で全焼したが、教職員、生徒が一丸となって自分たちの手だけで仮校舎を作り上げていた。校長の岩崎源兵衛(故人)がそのことを報告すると「よく建てられましたね」とねぎらい、生徒の間を回って「食料に困っていないか」「家は焼かれたか」などと聞かれた。 4年生だった野尻(旧姓島田)和子(65)はこう覚えている。「長靴をはいておられました。“大変ですね”といわれて感激しました。口をきけるとは思っていなかったから、親しみを感じました」 巡幸をめぐってケガ人も出る。3月25日、群馬県群馬町の堤ケ岡開墾場にお着きになったとき、堤ケ岡農業会会長、大沢半之丞(故人)を先頭に多くの農民が整列して待っていた。 お車が到着して運転手がドアを開けたとたん、ドアが車のすぐ近くで最敬礼をしていた大沢の額を直撃してしまった。大沢は額から出血をしたが、めげずに直立不動を続け、天皇をお迎えした。 驚いたのは天皇である。目の前に額から血を流した老人が立っている。視察を後回しにされ、「大丈夫か」とすぐに侍医を呼び、手当てを命じられた。 後日、群馬県知事の北野重雄(故人)はお礼に皇居を訪れたが、侍従から天皇のお見舞いとして、大沢のための包帯、ガーゼ、脱脂綿などが贈られた。 埼玉県埼玉村(現行田市)で農業をしていた新井(旧姓木村)ハル子(72)は、村役場の人から「天皇陛下が来られるから、かすりのモンペ姿で農作業をお見せするように」といわれた。3月20日ごろのことだった。今でいえば“やらせ”っぽい話だ。 「辞退しましたよ。震えちゃう。勘弁してくださいってね。でも決まったことだからといわれて」 天皇は群馬県から3月28日、埼玉県に入られた。新井は継母のヒデ(故人)とともに、農作業のふりをした。役場からは「手ぬぐいをして農作業をし、お車が着かれたら手ぬぐい取って腰に挟み、最敬礼をしてください。お声をかけられても返事をしないように」と言われていた。 畑の周囲には何百人の歓迎の人がいた。後ろには小学校の児童も整列していた。 「お車が着いたので最敬礼しましたが、怖くなって義母と二人で、逃げようかと言って後ずさりしたら、役場の人から『ダメダメ』と元の位置に連れ戻されました」と笑う。 天皇は二人の前で「大変でしょうが、頑張ってください」とねぎらわれた。返事をしてはいけないといわれていたが、何も答えないのは失礼だと思って、新井はとっさに「ありがとうございます」と答えた。天皇が車に戻られて、二人は「もう大丈夫ね」と目配せして頭を上げた。 10月22日は名古屋に着かれた。名古屋駅近くの歓迎はすさまじかった。群衆は天皇をもみくちゃにしてついに警護のMPが威嚇発砲する事態にまでなり、侍従の一人が財布をすられてしまう。天皇はそれを聞くと「ほう、そういうこともあるのか」と妙な感心の仕方をされた。 22年8月には15日間にわたって東北をご巡幸になった。天皇の洋服がみすぼらしいため、侍従の入江相政(後に侍従長、故人)が「米国人も見ていますので」と背広の新調をすすめたところ、「米国は戦争に勝って裕福なんだからいい洋服を着ても当たり前である。日本は戦争に負けて(国民は)着るものにも不自由しているのだからいらぬ」と断られた。 山形では初めて民間の旅館にお泊まりになった。それまでは列車内や知事公舎、県庁、公会堂、学校、地方の豪農宅などにお泊まりになっていた。学校などでは教室の板の間にゴザを敷き、そのうえに布団を敷いて、黒いカーテンをかけてお休みになった。初めての民間旅館、山形県上山市の「村尾旅館」では部屋に入られた後、「ちょっと、みんなの泊まる部屋を見て来るよ」といって侍従らが泊まる部屋を見て回り、「宿屋というものは人を泊めるのに実に具合よくできているね」と感心された。涙でレンズが曇り撮れなかった写真涙でレンズが曇り撮れなかった写真 栃木県岩舟町で石材店を経営する川島健三郎(七九)は県庁から昭和天皇の巡幸の公式記録写真の撮影を依頼された。天皇は那須の御用邸を宿舎に昭和22年9月4日から5日間、皇后(現皇太后)を伴われて栃木県内を回られた。 川島は中学時代、体をこわしたとき、父から与えられたカメラが病みつきになり、撮影の腕は県下でも有数だった。しかも、プロのカメラマンでも手に入らないミノルタ・フレックスとドイツ・ツァイス社のスーパーシックスの2機種を持っていた。 川島の最初の写真は天皇が那須から国鉄宇都宮駅にお着きになり、お車に乗り込まれるときのものとなるはずだった。 「だめでした。周囲は歓迎の波。万歳の歓声に自然と涙が出て、レンズがくもってしまい、撮れませんでした。当時のカメラはピントを合わせるのが難しかったし、やはり、緊張したのですね」 結局、お車の後ろ姿を撮るのがやっとだった。それもピントがずれてしまった。その写真は県が後に発行した「昭和二十二年栃木県御巡幸誌」ではお帰りの時の写真ということで掲載された。 川島は陸軍幹部候補生出身の少尉だった。「(自分が軍人だったことを)意識したわけではないが、天皇は大元帥だったですからね」 両陛下は宇都宮市内をご視察の後、県庁に立ち寄り、さらに市内の母子寮を訪ねられた。夫、父を戦争で失った31世帯が入居していた。 どの部屋にも位はいが安置され、母子が正座してお迎えした。「随分つらいだろうが、辛抱してね」「お子さんたちを立派に育てるために、一生懸命頑張ってね」と励まされた。この後、子供たちの遊戯をごらんになった。終わって手を差し伸べる皇后に子供たちがすがった。「おばちゃんの服はきれいだね」「また来てね」というと、皇后は目頭を押さえながらほほ笑まれた。この時の様子を皇后は和歌に詠まれている。 「われもまた手をさしのべてはぐくまむみよりすくなき引揚の子を」 6日は真岡町の益子焼の絵付けをごらんになった後、日光市の古河電気工業日光電気精銅所に着かれた。ここで思わぬハプニングを川島は目撃する。 工場を1時間かけてご視察になった後、労働組合幹部の席に進まれると、整列していた中から労組委員長が、突然、大きな声を上げた。 「生産の向上と組合の発達を望む陛下のおぼしめしはありがたい。自分たちも努力するつもりである。労働者を激励する意味において、代表として自分に握手を賜りたい」と話し、右手を差し出したのだ。 川島はびっくりした。しかし、内心では期待もあった。握手の写真が撮れれば特ダネになる。侍従長も知事も立ちすくんでいる。川島は天皇の横に回ってカメラを構えた。 天皇はゆっくり口を開いた。「大変だろうが、一生懸命にやってください。握手の件は日本風にやりましょう」とカンカン帽を取られて会釈された。周囲から「ハァー」という安どのため息が漏れた。委員長は手を差し出したまま、ぼう然として天皇の後ろ姿を見送った。 「特ダネ写真は逸しましたが、内心ほっとした。それよりも、天皇は決められたスケジュールに従ってお話しされているだけと思っていましたが、委員長へのとっさの返事を聞いて、自分の意思でお話をされていると痛感しました」と、畏敬の念が深まったという。 巡幸取材では先回りするため、天皇の横を通り抜けたりすることもあったが、天皇はにこにこしておられた。また、お車や列車にお乗りの時はカメラを構えて待つが、シャッターを切るまで姿勢を崩されなかったという。 「あのころは陛下がいかに国民の間に溶け込もうとしていたかがはっきり分かった。しかし、その後は菊のカーテンの中に戻られてしまった」と川島は回想する。 新潟県にお出かけになったのは10月8日から5日間だった。その4日目は疲労も重なって公式の行事はなく、休養日に充てられた。高田村(現柏崎市)の豪農、飯塚家にお泊まりだったが、午前10時過ぎ、数人の側近とともに通称デコ山と呼ばれる山を散策になられた。 その少し前、若い女性二人が山へ入って大きな声で鼻歌を歌いながらキノコを採っていた。幼なじみの宮島トミ(69)と今井スミ子(69)だ。下から人が登ってくる気配がした。 案内していた写真館の主人が二人に「あんたら、ここに立っていてくれ。いま天皇陛下がおいでになるから」という。 「やだー。逃げよう」 だが、片方はがけ。道にはすでに天皇のお姿があり、侍従が追い付いて手を引き、「逃げたら失礼でしょう。道に出てかさを取ってください」。 天皇は二人を見つけるとニコニコされながら「これは何ですか」と竹籠の中をのぞき込まれた。 「ズボダケ」 「あっそう。ではこれは」 「ハツタケ」 「いっぱい採ったね。気を付けてね」 二人は深く礼をすると、山を下りた。 「陛下に会ったときは足ががたがた震えました。でも、帰りは足が軽くなった感じ。物柔らかな、お優しい声でした。陛下が登って来られたときは、私たちが見下ろす格好になり、申し訳なく思いました」。宮島はいまもデコ山の近くに住み、思い出を大切にしている。原爆孤児の少年僧に「声をかけたい」 昭和22年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られた。宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られた。ここには家族を原爆で失った84人の孤児が天皇をお迎えした。その先頭の墨染の衣をまとった5人の少年僧が人目を引いた。 最年少は小学生の朝倉義脩(60)=旧姓増田修三、現真宗大谷派大谷祖廟事務所長=だった。 朝倉は20年4月、広島市内から8キロ離れた寺に学童疎開した。「8月6日朝、体操が終わってしばらくすると、広島市の方が光って、間もなくドーンというものすごい音がしました。夕方には焼けただれた避難民がやってきた」 終戦。子供たちは迎えに来た家族や親せきに連れられ帰っていった。しかし、朝倉を迎えに来る者はだれもいない。父は前年に亡くなっていた。母と妹の住む自宅は爆心地に近く、絶望だった。 「自分が最後の一人になってしまい、12月になって育成所に入ることになりました」 育成所はこうした孤児を見かねた真宗本願寺派の僧侶、山下義信(故人、元参院議員)が私費を投じて開設した。 子供たちは夜になると泣いた。「お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」。中には「どうすれば会えるの」と涙をためて山下に詰め寄る年長の子供もあった。山下はさとした。「お経をあげれば会える。坊さんになって修行しなさい」 朝倉らは21年11月に京都・西本願寺で得度して僧になった。新聞は「原爆少年僧」と呼んだ。この話を知った天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と立ち寄られたのだった。 天皇は整列する子供たちの前に進まれた。山下が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして天皇にお見せした。天皇はその子の頭をなで、目頭を押さえられた。さらに少年僧らを「しっかり勉強して頑張ってください」と激励された。側近や多くの報道関係者がいたが、水を打ったように静まり返った。 「陛下に励まされたわけですから、正しい道を歩まなくては、と思ってやってきました」と朝倉は振り返る。 朝倉らの後ろに、朝倉とともに得度した今田義泰(60)の弟、荒木恒雄(五八)がいた。荒木は「ほかの人が会えない人に会えたんだ、という自負心が生まれた。ここまでやってこれたのは多くの人のおかげ。少しでも恩返しできればと思っています」という。荒木は高校を出た後、産経新聞の配達などをしながら大学を卒業、かつての育成所近くの精神薄弱者施設、「見真学園」の指導員をしている。 天皇は広島市内に入り、約七万人が集まった護国神社跡地の歓迎場にお着きになった。平和の鐘が鳴り響き、君が代の合唱の中、お立ち台に上がられた。市民からは万歳の声が上がった。正面には原爆ドームが見えた。天皇は終戦以来初めてマイクで直接市民に語りかけられた。 「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」皇居・千鳥ケ淵のサクラ この様子を見て恐怖心を抱いた米国人がいた。“目付け役”として随行していたケントというGHQの民政局員である。侍従としてお供していた徳川義寛(89)=後に侍従長=も「ケントという変な男がついてきてあれこれ探っていた」と証言。広島の会場をそれまでの「奉迎場」から「歓迎場」と名称を改めさせたのもケントらだった。 「昭和天皇の御巡幸」(鈴木正男著)によると、「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないとケントは思った。しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなった。このままご巡幸を続けてると、天皇制はますます確固不動になる。ご巡幸をやめさせねばならないとケントは考えた」。 民政局は巡幸の中止を政府に働きかけることにする。問題にしたのが、日の丸事件である。GHQは占領以来、日の丸の掲揚を禁止していたが、巡幸の先々で日の丸が振られた。民政局はその都度、宮内府に抗議した。宮内府は「国民が日の丸を振ることを禁止する権限は宮内府にはない」とかわしていたが、GHQは納得せず、宮内府の責任だと強硬姿勢に出た。 後の東宮大夫、当時、侍従の鈴木菊男(89)も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言する。 21年2月に始まった巡幸は22年末までに関東、関西の一部、東北、北陸、中部、中国をめぐり、順調にいけば23年中には終わる予定だった。 だが、22年12月、中国地方の巡幸が終わると、GHQは政府に宮内府の機構改革と首脳の更迭を指示。当時芦田内閣は何の抵抗もなく従った。この結果、宮内府長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。巡幸は中止となった。 九州、四国を中心に全国からGHQ、政府、宮内府に巡幸復活の嘆願書が寄せられた。鈴木、徳川によれば「陛下も直接、マッカーサーに復活を願われた」という。 供奉員を削減するなど一層簡素化して、巡幸が復活するのは24年5月になってからである。 東西冷戦が顕在化し、米国としても日本を自由主義国家として確保する必要が高まり、GHQ内でも巡幸反対の民政局の勢力が衰え、冷戦担当のG2(情報二部)が力を得るようになっていた。引き返してもう一度「さようなら」引き返してもう一度「さようなら」 昭和24年6月6日、昭和天皇は宮崎市内の県立盲学校をお訪ねになった。目の不自由な子供たちにどうやって、天皇が来られたことを認識してもらおうか。関係者は考えた末、教室では天皇以外は裸足になり、靴音の主が天皇だと判断してもらうことになった。 小学部の2年生だった村社マツ子(55)が振り返る。「コツコツと靴音が聞こえました。先生が『いま、みなさんの教室に天皇陛下がお入りになりましたよ。マツ子さん、あなたのそばにいらっしゃいますけど分かりますか』というので、『どこにいらっしゃいますか』と反射的に両手を出しました」 差し出す村社の手に天皇の手が触れた。すると天皇は目を潤ませながら、体を村社の方に寄せられた。村社は天皇の左腕をつかんだ。 天皇は「不便でしょうが、しっかり勉強して立派な人になってくださいね」と励まされた。教室を出るとき、村社らが「天皇さま、さようなら」と叫ぶと、天皇はもう一度教室に戻られ、「さようなら、さようなら」と繰り返された。 「あの後、励ましの手紙をたくさんいただきました。『あなたは幸せです。うちの子は陛下にも会えず、寝たきりのまま死にました』というのもありました。自分より不幸な人もいる。くじけちゃいけない。そう思って生きてきました」。今、宮崎市でマッサージ師をしている村社の部屋には、天皇とお会いしたときの写真が飾ってある。 24年に巡幸が復活したさい、天皇はまず九州地方を回られた。5月27日には被爆地・長崎で、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書で知られる医学博士、永井隆を長崎医大病院にお見舞いになった。永井夫人は原爆で死亡、永井も白血病に苦しんだ。 枕元には14歳の長男と9歳の長女がいた。天皇は永井のベッドに進まれ、「どうです、ご病気は?」と声をかけられた。「早く回復してください。あなたの書物(「この子を残して」)は読みました」。永井は「それがこの子たちです」と二人を紹介した。 永井は手記に「(天皇の)全身の表情から私は、いつも顔つき合わせてゐる隣人のやうな、親しいものを感じた」と書いている。そして友人に「天皇陛下は巡礼ですね。洋服をおめしになっていても、大勢のおともがいても、お心はわらじばきの巡礼のお姿だと思いました」と語っている。永井はこの2年後に亡くなる。 今でも語り草の楽しい話も生まれた。雲仙・仁田峠から阿蘇山を双眼鏡で望まれたとき、側近が「あれが阿蘇山でございます」というと、天皇は「あっそう」。皆ふき出し、天皇も照れ笑いをされた。 福岡県久留米市では久留米医大を訪問された。一私立大を訪問というのは異例だったが、その陰には一人の学生の奔走があった。現在、長崎県琴海町の大石共立病院長の梶山茂(69)。「福岡県においでになるなら、ぜひお寄りいただこう」と大学に相談。大学は「難しいだろう」と本気にしなかった。しかし、梶山は一人で上京、宮内府に侍従の入江相政を訪ね、お立ち寄りを懇請する。入江から事情を聴かれた天皇は「そういうことなら」と行幸が決まった。 「全学挙げての歓迎でした。左翼の連中もおとなしくしていましたよ」と梶山は笑う。 巡幸はどこでも大歓迎だったが、時として天皇に反発する動きもおきた。 九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。 このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。 だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。 26年11月の京都大学への行幸では一部の学生が「再軍備について」などの質問状を手渡したいと騒いだ。 京大に着いたお車を約千人の学生、職員が取り囲んだ。降り立った天皇は一瞬、歓迎と勘違いされて、帽子を振ろうとされた。帰りはもっとひどかった。お車の窓をたたいたり、前に寝転んでインターナショナルを歌うなどして妨害した。警官隊が出動して学生を排除した。 法学部助手だった勝田吉太郎(67)=鈴鹿国際大学長=は「騒然たる状況でした」と振り返る。「車の前に寝転んだ学生に1年後輩がいた。彼は後に検察庁の首脳になったが、その話をすると『その話だけは忘れてください。一生のお願いです』といまでも頭を下げますね」 戦前、自由主義的として京大を追放された滝川幸辰(故人)がご進講した。「先生は天皇制に批判的だったが、ご進講の後、すっかりファンになって、天皇制擁護一辺倒になっちゃたんだ」と教え子の勝田は笑う。 巡幸は29年の北海道を最後に終わった。まさに巡礼であり、行脚だった。天皇は側近に「戦前からこうして国民と直接話ができたらいいと考えていた」と語られた。崩御されて六年半、最後まで沖縄への巡幸を果たさねばと気にかけておられたという。(文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係
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松本零士 「ヤマト」は生きるために飛ぶ
松本零士 ヤマトを語る ──「宇宙戦艦ヤマト」ですが、登場人物にはそれぞれモデルがいるとか 松本 ヤマトの沖田十三艦長は顔もセリフも父がモデルです。たとえば、最初の方で出てくる「きょうの屈辱に耐えて明日のために生きろ。死ぬな古代」というセリフ。そういった意味の言葉はいやというほど聞きました。「これでいい。これでいいのだ」と言って息をひきとるシーンは、父の死に方がこの通りだったんです。十三という名は海野十三(小説家)からいただきました。 ──そのほかは 松本 古代進は弟の将(すすむ)から。弟は三菱重工でロケットや深海艇の心臓部などを手がけた一人です。森雪は、「男おいどん」の読者で手紙を山ほどくれた森木深雪さんという女性から、名前を頂戴(ちょうだい)しました。佐渡酒蔵は、ウチの事務所にいた佐渡島出身の大酒飲みの青年がモデル。登場人物はすべて、知り合いとかを性格も含めて使いました。 ──戦艦大和を題材にすることで配慮したことは 松本 アニメの制作に参加することになったときには、「よりによって戦艦大和か」というのが正直な思いでした。僕は飛行機マニア、戦艦マニアだったんですが、ヤマトは扱いにくいテーマなんです。それに、思想、宗教、民族感情といったものに土足で踏み込まない、というのを鉄則としていましたから、不用意につくりたくなかった。僕としてはスペース・ファンタジーを先にやりたかったんです。インタビューに答える漫画家の松本零士氏=東京都練馬区の自宅 ──そうでしたか 松本 でも、こんなチャンスはめったにないので、挑戦することにしました。ヤマトの物語を最初から描き直して、どこの国の人が見ても傷つくことがないよう、嫌な思いをしないよう、万全の配慮をして。 ──ご自身の信念を作品に描き込んだんですね 松本 人類皆兄弟。ケンカすることもあるけれど、長い歴史で見たら同じ地球人。日本でもあるでしょう。会津出身の知り合いがいるんですが、最初に出会ったときに「お前は九州か。昔なら敵だ」と言われ、大笑いして、それから仲良くなりました。現代なら笑い話で済む。昔はそうだったけれど、今は同じ日本人。地球人もそうなるでしょう。お互い理解しあえる日が来るはずだと。 ──「ヤマト」は海外でもアニメや翻訳本などが紹介されましたが、反響は 松本 「楽しく見ている」という声がほとんどでした。「地球の艦」として描きましたからね。「銀河鉄道999」でも「キャプテンハーロック」でも、そうした配慮をしました。 ──「ヤマト」で訴えたかったテーマは 松本 地球を救うために、生きるために飛ぶ-です。生存のために飛ぶのであって、死ぬために飛ぶんじゃない。胸の中には、戦場で倒れていった地球上のすべての人たちへの思いがあるわけです。いつの日か殺し合いのない世界に。そんな思いを込めました。 (聞き手 溝上健良)関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ ゆでたまごが語る 育ててくれた大阪に恩返ししたかった
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栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか
「不沈艦」と謳われ、当時世界最大を誇った戦艦大和が、東シナ海に散ったのは70年前の4月7日だった。その名の通り、旧日本海軍の象徴的存在だったとはいえ、目立った戦果はなかったことでも知られる。なぜ人々はこの栄光なき巨大戦艦に惹かれるのか。
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戦艦大和の信号兵
【消えた日本人 再発見の旅】「雪風」艦上、尻を一発 世界最強と言われた戦艦「大和」が沖縄へ向かう途中、米軍航空機部隊の攻撃により、東シナ海に沈んでから六十年が経った。3330人余の乗員中、生存者は270人余。すでに鬼籍に入った人々も多い。最後の「出港ラッパ」、「対空戦闘用意ラッパ」を吹き鳴らし、「総員退艦」を叫んだ信号兵は今も健在だ。その体験を紹介する。鎮魂と平和への願いを込めて…。遺書は書かず 古里へ別れも告げず 昭和20年4月6日夕、日本帝国海軍第二艦隊旗艦、戦艦「大和」は山口・徳山沖を出航した。巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」と共に最後方から。前日、沖縄への出撃命令「天一号作戦」が下っていた。任務は「水上特別攻撃隊として沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅せよ」と明快である。 ♪タンタンカ ターン 「出港ラッパ」は高地(たかぢ)俊次さん(80)が吹いた。当時20歳。大和の中枢部「第一艦橋左舷」。航海科信号幹部付。航法の補助を行う「艦位測定補助員」で、航泊日誌を付けていた。ある元海軍兵士は証言する。「出港ラッパも入港ラッパも全く同じメロディーや。けど、聴かされる方は違うんやナ。エッ? そりゃもちろん、出港で泣き、入港ラッパで勇み立つわけや」。 まして制空権どころか、日本近海奥深く敵潜水艦が入り込む現状。事実上の特攻出撃だった。3330人以上の乗員は、何と聴いたろう。3月29日、大和は静かに呉を出港していた。先立って各分隊の可燃物は陸揚げされた。各自、身の回りを整理し、私物を格納した。 4月5日夜、皆、酒保から酒を持ち出し、大いに飲んだ。この夜から翌6日、最後の郵便物が出るまで、乗員たちは遺書をしたためることに追われた。海軍少尉、吉田満氏は『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)で「遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給ウ人ノ心ニ」と描写している。「頭髪、爪を切って同封する人も多かったですよ」と話す高地さんだが、遺書は書かなかった。 「わしゃ次男やし、恋人もおらんしネ。それに不沈艦だとはさすがに思わなかったけど三千人が乗っとる。『町がそのまま動いている』わけで、これだけ多人数だと、沈むという感覚はなかなか得られません」◇ 大和のプラモデルをなでながら、高地さんは淡々と振り返った。和歌山県田辺市の山中(旧・西牟婁郡三栖(みす)村)。書斎前には紀州名産「南高梅」の巨木が何本も広がっている。実が黄ばみ、今や収穫で大忙し。専業農家で3人の子供を育て上げた。スヱ子夫人と共に今でも、農作業用の軽トラックで走り回る。戦艦大和の模型を前に沈没を語る高地俊次さん 農家の次男に生まれ、大阪・船場の綿布商店に勤めた。昭和17年、徴用。堺市の金属会社で100キロ爆弾の弾頭を製作した。海軍に志願し18年4月、大竹海兵団に入団。信号員募集に応募した。「当時は徴用された後、志願するケースが多かったですネ」。普通科統制信号術練習生候補として3カ月、新兵教育。同年兵より一月早く一水に進級し、「横須賀航海学校」へ「第十一期普通科信号術練習生」として入校した。 訓練期間は7月1日から半年間。手旗信号、発光信号、旗●(きりゅう)信号、海軍ラッパ、見張りなどの教育を受けた。「横須賀は初冬、乾燥がきつい。砂埃(ぼこり)で信号の視認など涙交じりやった」。12月、戦艦大和が横須賀港に入港してきた。陸軍将兵、諸物件を搭載、トラック島に向け出航した。高地さんら6人が繰り上げ卒業し、在校生に見送られて乗艦した。 その夜、いきなり「技量査定」の試験があった。「満点を取りましたけど、海軍は本当に厳しいと思いました」。信号兵一人だけの船もあるが、大和は右舷、左舷共に約20人の大部隊だった。戦闘配食は竹皮の握り飯戦闘配食は竹皮の握り飯 「対空戦闘用意」のラッパを吹奏 大和はトラック島へ向かう。入港前、潜水艦の魚雷攻撃を受けたが、軽微の浸水があったものの無事、入港できた。「さすが前線だ」と身が引き締まった。トラック島は「日本の真珠湾」と言われたように多数の船が停泊していた。 19年1月元旦の食卓は今でも忘れない。「生まれてから一度も食べたことのない御馳走が出た。いい匂いがしてリンゴまで入ってた」。後で野菜サラダとわかったそうだ。大和は総じて食事がよかったと言うが、「他艦に乗ってませんから比較できません」。 熱帯性低気圧で南洋が荒れる。波濤は駆逐艦だけでなく、巡洋艦まで平気で頭から呑み込んだ。大和の第一艦橋は水面から34メートルの高さだ。艦橋から見下ろすと、各艦そのまま沈没するように思えるほどだった。しかし、大和は全長263メートル、公試6万9100トン、満載時7万2809トン。びくともしない。 「皆揺れとるなー。乗員は大変やろ、と思いました。その点、大和は頼もしい船でした」。艦橋までエレベーターがあるが、士官以上でないと、使用を禁じられていた。しかし、高地さんらは多くの書類を運ぶため、黙認されていたそうだ。 その後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と戦った。レイテでは姉妹艦の戦艦「武蔵」が沈められた。武蔵と大和は姉妹艦であり、なかなか見分けがつかない。「信号兵たちは、旗●信号で『我、大和』と他艦に知らせたもんです」。最早、戦況は悪化の一途。大和艦内では「今日は武蔵かい。明日は大和やなー」と言い出す乗員もいたという。◇ 4月6日夕刻、当直を除く全員が甲板に出た。君が代斉唱後、能村次郎副長が「各人、故郷の方角に迎え」と告げた。「遠慮はいらんぞ、大いに泣け」。しかし、すでに作戦中のため、有賀幸作艦長は第一艦橋から離れていない。高地さんも当直だった。甲板での別れの儀式の最中、艦橋内では、敵潜水艦がしきりに接触してくるため、緊迫の度を加えていた。航海長は「いっそ沖縄までアメリカの潜水艦に先導してもらうか」と話していたそうだ。 大和ミュージアムに展示されている、戦艦大和の設計図面=2014年6月、広島県呉市(大和ミュージアム提供) 吉田氏は盛んに「生と死」の意義を問い、「日本の、日本人のありようとは?」と考察を巡らせ、悩み抜いている。だが、高地さんは、「第一艦橋には中将らエライさんばかり詰めている。緊張感ばかりで、余計なことを考えるような状況ではありませんでした」と言う。さながら一個の機械と化し、死生の念をどこかに封印していた。 運命の7日。「戦闘配食」が支給された。竹皮に包まれたお握りで副食(ユデタマゴと沢庵漬)が添えてあった。正午前後、東シナ海は緩やかなうねり。水平線に米軍の水上偵察機を目視できた。しかし、曇天だったため、機影の発見はじつは、やや遅れている。大和にとっては、不幸だった。「1分間に5万発撃てる、と言われた対空砲火が遅れたわけです」。 午後零時半、ほどなく、電探(レーダー)が「大編隊 発見」の報。高地さんは海軍ラッパを構えた。およそ艦船にとって歓迎すべからざる「対空戦闘用意」が艦内に流れた。 ♪タテタテ ティンティン タテタテ ティンティンティン 数百機が何度も波状攻撃をかけて来る。その間、「戦闘記録」を担当した。戦闘機グラマンは敵操縦士の顔が見える程近く、襲って来る。魚雷は泡を吹きながら左舷に迫る。「左30 高角20 グラマンつっこんで来」。「左舷 魚雷近づく 距離…」と次々、記入した。 我も友も重油で真っ黒柔道畳にしがみつく我も友も重油で真っ黒 米軍は「不沈艦大和撃沈」のため、作戦を立て、高地さんのいる左舷ばかり集中的に攻撃してきた。激闘が続いたが、午後二時過ぎ、総員最上甲板(退避命令)が出た。当たり前だが、海軍に総員退避のラッパはないという。高地さんは三回、今度は肉声で拡声器に叫んだ。 「総員最上甲板 総員最上甲板 総員最上甲板」 しかし、乗員に聞こえたかどうか? 伊藤整一長官は皆に別れを告げ、作戦室に下りていった。掌航海長は「皆、艦と運命を共にせい」と叫んだ。高地さんたちは互いに体を舵輪にロープでくくりつけた。 しかし、伝声管を通じて、これを知った有賀艦長は「そんな馬鹿なことをするな。若い者は第二の御奉公をしろ。助かる者は助かって次の戦いに参加せい」と怒ったため、ロープをほどいた。発言者は羅針盤にくくりつけて艦と共に沈む。 「機密書類を沈めるように」と命令が下った。高地さんは海図、作戦綴りなどを必死で、引き出しの奥にしまいこんだ。絶対に浮かばないよう鉛で装丁されている最高機密「艦隊運動程式」も念のため、しまった。 大和は左舷から沈み始めた。映画「タイタニック」さながらに巨艦が傾く。艦橋の傾斜も激しい。艦内靴(運動靴)を脱ぎ、戦闘服も靴下もそのままで這いながら、ひたすら右舷を目指したが、間もなく波にさらわれてしまった。大きな渦に巻き込まれ、一旦、東シナ海深く沈んだ。浮かび上がった時、目もくらむような閃光が走った。「雷がまとめて光った感じ。パッと明るくなりました」。 大和が爆発炎上した瞬間だった。兵士、鉄板、砲身などが空中で四散し、海に降り注いでくる。あわてて、潜った。再度、浮上した時、海面は流出重油で真っ黒だった。敵機の機銃掃射が激しい。 「何か捕まる物はないか?」とあがいていると、漬物樽が流れてきた。引き寄せたが、樽はクルクルッと回転するばかりで浮力も乏しい。その時、天の助けか。上官4、5人がつかまった大きな物体が近づいてきた。何と柔道畳だった。 「柔道畳が浮くなんて知りませんでしたから、びっくりしました」 畳にしがみついて漂っていたが、駆逐艦数隻が救助に乗り出してくれた。だが、至近を走る船の波、スクリューに巻き込まれて沈む人々が続出した。そのうち、駆逐艦「雪風」がとまった。約200メートル先だ。雪風は昭和15年、竣工。幾多の海戦に参加しながら、同型艦18隻の中で唯一、沈まず「日本一、運の強い艦」と言われる。 振り仰ぐ雪風の甲板。信号兵たちはズラっと並び、手旗信号で「頑張れ」、「ガンバレ」と励ましてくれている。カッターも降ろされた。紀州育ちで水泳は達者だ。「わしは泳いで行きます」と別れを告げ、泳ぎ出した。多くの兵隊が泳いでいたが、「艦にたどりついた途端、力尽きて沈んで行く人が多かったです」。 高地さんは3人が降ろしてくれたロープに掴まった。だが、重油で滑り、どうしようもない。「湾岸戦争で重油で真っ黒になった水鳥と一緒です。喉の奥まで黒くなった」。最後の力で、体を縛りつけた。 約7、8メートル引き上げられたが、甲板付近が忍び返しのように斜めに膨らんでいるためスムーズにはいかない。「こりゃ駄目か」と覚悟した時、やっと甲板についた。何か温かい言葉でもあったのか? いや、海の男たちは無言だった。 「バシーン」 思いっきり尻を叩いてくれた。笑顔での手荒い歓迎は今でも忘れられない。大和沈没は午後2時23分。しかし、高地さんの記録用時計は2時20分ジャストで止まっていた。初の便りが「金送れ」初の便りが「金送れ」 奇跡に両親は泣いた 次に込み上げてきたのは、圧倒的な寒気だった。着替えを出してくれたのに、「胴震いはする、手はかじかむで着こなせないんです」。着替えた後、意識不明となった。気がついた時は4月8日、佐世保港に着いていた。救助組は一種、隔離された状態となった。その後、呉に移動した。 高地さんは家を出て以来、一度も金を無心したことが無かったが、今回は本当に無一文となったため、初めて実家の両親、與平さん、ちいさんに仕送りを頼んだ。「初めての便りが『金送れ』ですから…」。どんなに両親は驚いたり、喜んだことか。 その後、故郷の田辺海兵団に所属した。自宅近くの裏山に特攻基地を築いていた時に終戦。 以来、農業一筋。田辺ではまず水田。続いて換金作物を目指してスモモ「ブランコット」を増産した。その後は早生の温州ミカン。まだ彼岸の頃から青い皮で出荷した。「消費者の好みが刻々と変わるから、本当に大変。このまま食っていけるかな、と悩みながら続けました」。 そして昭和50年頃から、南高梅を手掛けている。10月から年内いっぱい、剪定作業。1月下旬に開花。5月、小梅の手取り。現在、梅干し用の収穫だ。7月から一次加工、つまり梅干しに漬け込む。8月には出荷する。一年中、休めない。「近年、中国から入ってくる。これが安くて結構、品質がいい。だから、大変なんです」。 49年、喉頭がん。大阪大学病院で、手術。スヱ子夫人の看病もあり、食道発声機で話ができる。『男たちの大和』(ハルキ文庫)の作者、辺見じゅんさんも取材に来た。作品内に数回、登場している。高地さんは激情型というより、冷静な観察者として描かれている。 大和は北緯三〇度四三分、東経一二八度四分。長崎県の南約300キロ、鹿児島県の西312キロ、水深約340メートルの海底に眠る。大和の慰霊航海が過去何度か行われているが、一度も参加していない。平成15年、呉の海軍墓地の慰霊祭には参加した。「もう海はよろしいがな。映画は観るつもりですが」 (編集委員 藤原義則)【注】●=「流」のさんずいへんを「方」に替えた字 関連記事■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い
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栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか
戸高一成(呉市海事歴史科学館館長)/上島嘉郎使われなかった世界一の名刀 上島 大和ミュージアム(呉市海事科学歴史館)が開館して9年目を迎え、来館者は900万人近いそうですね。地方の都市が運営する博物館としては驚異的な数字です。戦艦大和の10分の1模型が来館者のお目当てだと思いますが、なぜこんなにも「大和」は人気があるのか。百田尚樹さんの『永遠の0』がミリオンセラーになって、映画も大ヒットしましたが、零戦には実際に米軍機を圧倒した輝かしい戦果、栄光があります。坂井三郎、岩本徹三といったエースパイロットの活躍もあった。 ところが、大和は世界最大最強の戦艦といわれながら、赫々たる戦果はありません。昭和19年10月のレイテ沖海戦でサマール島沖の米護衛空母群に主砲を発射し、それなりの損害を与えたとも言われていますが、これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃です。そして翌20年4月、沖縄に向け航空護衛のない海上特攻をして沈められてしまう。零戦と比べて活躍の機会がなかったにもかかわらず、沈没から70年近く経ってもなお、日本人はなぜ大和に強く惹かれるのか。 戸高 大和には、世界一の名刀なのに有効に使われなかったという可能性への郷愁があるのだと思います。日本人の判官贔屓の心情に合う。判官贔屓の原則は決まっていて、能力のある者がそれを発揮できず悲劇的な末路をたどる、こういう姿に日本人は深い共感と同情心を抱いてきた。歴史上では源義経がそうですね。大変な能力を持ちながらそれを存分に発揮できず悲劇的な最期を遂げた大和もまさにそうです。 それからもう一つ考えられるのが「大和」という艦名です。軍艦の命名には艦種ごとに基準があって、戦艦は原則として旧国名をつけることになっていました。大和、武蔵、長門、陸奥…。金剛、霧島、榛名といった山岳名の戦艦は、当初巡洋艦として計画された艦なので巡洋艦は山岳名という基準にしたがっています。大和はいまの奈良地方ですが、同時に日本国の総称でもある。武蔵だと関東のローカル名という感じですが、大和になると誰もが「ああ、日本の船」だと感じる。そんな違いもあるでしょう。 上島 私は、戦艦大和最後の艦長・有賀幸作と同郷(現在の長野県辰野町。有賀は旧朝日村出身)なんです。墓のある見宗寺にお参りしたこともあります。戦後の生まれですから生前の有賀幸作を知っているわけではありませんが、少年時代、有賀も私も通った母校の先生から、郷土の先輩として、責任を全うした立派な軍人というふうに有賀のことを教えられて、その頃から格別な思いを抱いていました。 有賀は大和の艦長を拝命したときから「戦死」を覚悟していました。沖縄への海上特攻は、護衛戦闘機なしで進撃し、米航空兵力を吸収して味方航空部隊の米艦船攻撃を支援、さらに沖縄西方海面に突入せよ、という命令でした。有賀は、死に場所を得た思いだったでしょう。「一億総特攻のさきがけ」を受け容れて出撃したのですが、大東亜戦争の・決戦兵器・として建造されたはずの大和は、なぜそのとおりに使われなかったのか。これをしっかり考えないと日本海軍失敗の教訓は得られない。高知県沖で就航前のテスト航行をする戦艦大和=昭和16年10月30日(呉市海事歴史科学館図録から) 戸高 明治開国以後、日本は帝国主義の荒波に乗り出して行きました。欧米列強と対峙し国の独立を守るためにはどうしても近代的な陸海軍が必要だった。弱小国は強国に蹂躙されても仕方のない時代でした。良い悪いの話ではなく現実がそうだった。西欧近代と遭遇してから、日本は必死でその文明を摂取した。夷を以て夷を制す、ということです。物真似と言われようが紛い物と言われようが、西欧が産み出した文明の利器と同じ物をつくり出す必要があった。そしてそれをやれたアジアの国は日本だけ、有色人種の国の中でも日本しかなかった。 戦艦大和の建造が極秘理に開始されたのは昭和12年11月です。大正11年のワシントン海軍軍縮条約で対米英六割の戦艦保有に制限された日本海軍は、条約期限切れの昭和12年からその劣勢を挽回するために、まず2隻の巨大戦艦の建造に踏み切り、その一番艦が大和、二番艦が武蔵、次いで三隻目が計画変更され世界最大の空母になった信濃です。設計が開始されたのは起工から3、4年前だから、明治維新から70数年で世界最大最強の戦艦を建造したことになる。これは驚き以外の何ものでもない。 上島 ペリーの来航が嘉永6年(1853)で、それからほぼ3年後には、日本人は初めて見た文明の利器である蒸気船を外国人の助けを借りずにつくっています。島津斉彬の薩摩藩、鍋島直正の佐賀藩、伊達宗城の伊予宇和島藩の三藩です。 戸高 先の敗戦までアジアで戦艦を建造できたのは日本だけです。いや現在に至るもオリジナルの戦艦や戦闘機、その時代における第一級の戦艦や戦闘機を全部自前でつくれたのはアジアでは日本だけです。戦前はもちろん戦後の中国にしても、初期はほとんどがソビエトロシアからのライセンス生産です。技術はそれを吸収する側の水準によってその後の展開が決まってくる。それが幕末明治の日本のダイナミズム、面白さのポイントです。戦艦大和も零戦もその延長線上にある。ただそのダイナミズムも、日露戦争に勝って明治末年になると官僚国家の体裁が整ったことが裏目に出るようになります。 その後の日本海軍は人事と艦隊運用に失敗してしまう。明治時代は目前の困難を乗り切らなければならない状況で、ハードウェアとしての軍艦を導入することに汲々とせざるを得なかった。それは仕方なかったけれど、日露戦争後には艦隊運用のソフトウェアを考えるべきでした。戦闘機や戦艦の「能力」は、カタログデータ(仕様書)のことではない。それを人間が使いこなせること、オペレーションができて初めて能力と呼べる。そのためにソフト面が不可欠ですが、海軍はそれに真剣に取り組むことなく大東亜戦争に突入してしまった。ヨーロッパの海軍が持っていた軍艦を「抑止力」として使うという考え方も薄かった。日露戦争時の秋山真之参謀が上策として語ったのが「戦わずして勝つ」ですが、そのための戦略や外交感覚も身につかず、勝てなくとも負けることもないという「戦争設計」ができなかった。 上島 大和や武蔵はその存在は秘匿されましたが、時代はまだ大艦巨砲主義でしたから、むしろ世界に公開し、その超絶的な能力を抑止力として使う手はありました。巨大戦艦が時代遅れの「無用の長物」とされるのは、日本軍がマレー沖海戦やインド洋海戦でイギリス艦隊を撃破してからの流れですから、昭和16年なら大和の威力は世界を驚かせるに充分だった。「こんな戦艦と戦うのか」という出血を相手に思わせるだけでも、時間稼ぎや戦意を削ぐことはできたと思います。アメリカも新造艦として戦艦ワシントンが1941年5月、続いてサウスダコタが42年3月、ミズーリが44年6月に戦場に投入されています。日本海軍の戦艦が活躍していないので、戦艦は「無用の長物」とされるけれども、日本の場合は運用が下手だっただけではないかと言える。「戦争設計」のなかった指揮官の責任「戦争設計」のなかった指揮官の責任 戸高 先の大戦で日本海軍は戦艦をどのように使うべきかに失敗したのは事実です。マレー沖海戦やインド洋海戦のあと、アメリカ海軍は戦艦を主力兵器ではなく、空母の防空護衛や輸送船団の護衛艦として運用するようになりました。戦艦の対空能力は空母とは比べものにならない。水上艦艇の中で最強です。防御力も高い。日本の戦艦はなおさらでレイテ戦中にシブヤン海に沈められた武蔵は撃沈されるまでに魚雷20発、爆弾10発命中という攻撃に耐え、米軍を驚嘆させました。 昭和17年5月の珊瑚海海戦以後は、日本海軍も海戦の主力は空母であると認識したはずですが、アメリカ海軍と異なったのは戦艦の使い道を真剣に考えなかったことです。連合艦隊司令長官の山本五十六は、もともと大和建造には消極的で、「こんなものは要らん」と言っていた。山本は昭和5年に航空本部技術部長、7年に第一航空戦隊司令官、九年からロンドン軍縮会議に出張して中将に昇進したあと航空本部長に就き、11年11月から14年8月まで海軍次官をつとめ、その後連合艦隊司令長官に任命されている。次官時代の13年には航空本部長兼任で海軍航空兵力の整備に努力しています。履歴を見ても、戦艦の指揮・運用者というよりは、・航空戦力拡充の先駆者・でした。 その山本が、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に任命された経緯は、テロの危険から遠ざけるために海上勤務に・避難・させたもので、海軍の戦争設計に基づいてなされたものとは言えない。私は、山本五十六は、昭和の日本海軍にとって待望のリーダーだったと思いますが、大和や武蔵を有効に使おうという戦略、戦術意識が希薄だったことは明らかです。 上島 英霊には申し訳ない言い方になりますが、日本海軍、とくに指揮官、参謀は真剣に戦争をしたのかという思いを禁じ得ない。指揮官にとって真剣に戦争をするとはどういうことか。目的を達すること。兵士を無駄死にさせないこと。私はそう考えるのですが、それからすると大和の沖縄突入作戦は、海軍全体のけじめをつけるという精神的な意味が大きく、命令書にどう書かれていようと戦略目的を達するための作戦とは言えない。歴史作家の山岡荘八は、たしか・終戦のための供物・という表現で語っていました。日本人が最後の最後まで敢闘精神を失わなかったという精神史における意味を特攻作戦に見いだしたとしても、近代戦争の通念を超えての戦いを将兵に強いたことを、「それでもよかった」としてはならないと思うのです。大和が無傷で米軍に鹵獲されたのでは、戦い抜いた航空部隊と日本国民に申し訳ない。だから…という理由に納得してはいけない。命懸けの戦闘を要求するなら、甲斐ある戦場を設定するのが指揮官・参謀の役目のはずです。 戸高 その意味では、戦艦は本当に決戦場に投入されていない。夙に指摘されることですが、昭和17年6月のミッドウェー海戦では大和以下の戦艦部隊は空母部隊の約500キロ後方にいましたし、同年8月から翌18年2月にかけてのガダルカナル戦では、巡洋艦や駆逐艦群が死闘を繰り広げていたにもかかわらず、大和も武蔵もトラック島の泊地に居座ったまま出撃していない。 山本長官は日本を発ってトラックに進出する前、「あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」と故郷に手紙を送っていますが、結局、大和で決戦場に出ることはなかった。連合艦隊は同年11月の第三次ソロモン海戦で戦艦比叡、霧島を米艦との砲撃戦で沈められますが、この2隻が大正初めに就役した旧式戦艦だったのに対し、アメリカは新鋭戦艦のワシントン、サウスダコタを投入しました。大和、武蔵は日本海軍でいちばん打撃力があって防御力の高い戦艦です。もしガダルカナルに出撃していれば、ワシントンやサウスダコタを相手にしても大きな戦果が得られたと思います。 山本五十六は一応出撃しようと言ったのですが、渡辺安次という参謀が、「長官がわざわざ行くには及びません」と袖を引っ張ったので他の艦船が行ったという経緯なのですが、決戦場にはいちばん打撃力のある戦艦で行くべきで、やはり山本が決断すべきでした。モノというのは実際に使って能力を発揮して初めてその存在理由と価値が確認されるのですから、使わなかったら単なる飾りでしかない。「大和ホテル」と揶揄されても仕方ない。 上島 「見敵必戦」が徹底していた日露戦争時の日本海軍ではなくなっていた。 戸高 大東亜戦争開戦時の第一線艦隊では実際に日本海海戦で本格的な戦闘を経験していたのは山本ぐらいしかいません。にもかかわらず…という気がしてならない。 上島 使うべきところでモノ惜しみをした。わが海軍には一度の艦隊決戦に勝利するしか道はない、というのが日露戦争における日本海海戦で、奮闘バルチック艦隊を撃滅したわけですが、その成功体験が強すぎたのか、日本海軍はその後も艦隊決戦主義を採り続けますね。貧しい国がやっとの思いで編成した連合艦隊を、その主力艦である戦艦大和を前哨戦で失うわけにはいかない。艦隊保全の意識が強かった事情はわかりますが、ガダルカナル戦は大東亜戦争の帰趨を決める戦場だったはずです。それがわからなかったのか、陸海軍ともに戦力の逐次投入をしていたずらに損耗を重ねた。決戦はまだ先だ、もっと先だと言っているうちに、艦隊を運用するどころか艦隊そのものを失ってしまった。フィリピン・レイテ沖海戦で攻撃を受ける戦艦大和 結果的に「戦争設計」がなかったということは、日本は侵略の野望を逞しくしてあの戦争を戦ったどころか、まさに米英に追い詰められて、「自存自衛」のためにやむを得なく戦端を開いたという証ですが、それにしても海軍の戦争はもっとやりようがあったのではないか。少なくとも艦隊決戦を想定していたのなら、そこにアメリカを誘導する戦い方をすべきだった。こうした「if」を考えることは、決して詮無いことではなく、未来のために、日本人が戦略的思考を持つために不可欠です。 戸高 以前、日下公人さんとの対談で、日下さんが連合艦隊をいかに使うべきだったかについて、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊は壊滅、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊も撃滅、事実上連合艦隊は無敵となっていたから、昭和17年初めにベンガル湾に派遣してインド独立運動を支援する態勢を取っていれば、インドからイギリスを駆逐することにつながったかも知れないと述べられましたが、そういう積極策もあり得ました。 歴史の「if」を重ねれば、その前にハワイ占領という作戦もあり得た。陸軍部隊が実際に上陸訓練をしていましたし、山口多聞のプランにも米本土西海岸への上陸がありました。ハワイを占領し、米軍の燃料やドックを接収して真珠湾を大和の母港にする。そして米西海岸から太平洋を渡って日本に近づこうとするアメリカの艦船は真珠湾を拠点にした大和以下の部隊が逐一叩く。 ハワイ占領作戦が正式に中止されるのはミッドウェー海戦の敗北後ですが、緒戦の有利な状況下で大和を使う手はいくらもありました。これを、艦隊保全を第一にして肝心の戦場に投入することなく宝の持ち腐れにしたことは本当に残念です。大和が戦後に残したもの大和が戦後に残したもの 上島 その意味で、大和が活躍できる最後のチャンスは先に申し上げたレイテ沖海戦です。昭和19年10月23日から26日にかけて行われた「捷〈勝利の意〉一号作戦」は、内地から南下した小澤治三郎中将率いる囮の機動部隊がハルゼー大将率いる米機動部隊の主力を北方に誘い出し、その間に大和、武蔵を中心とする第一遊撃部隊(戦艦部隊)がレイテ湾に集結中の米軍輸送船団を攻撃、上陸中のマッカーサーの陸上部隊を戦艦の艦砲射撃で壊滅させるというものでした。 日本側は武蔵を失ったものの、壊滅覚悟の小澤艦隊はハルゼー部隊の釣り出しに成功し、海峡の入り口はがら空きになりました。第一遊撃部隊を率いたのは栗田健男中将で、栗田艦隊は25日早朝、サマール島沖で米空母部隊を発見し、大和、長門、榛名、金剛などの戦艦の主砲が次々火を噴いて追撃戦を開始しました。相手は折からのスコールに隠れ、ひたすら逃げるのみで、北方に誘い出されたハルゼー艦隊に帯同する高速戦艦部隊に平文で救援電報を打つほどだった。 にもかかわらず栗田艦隊は午前9時過ぎ、2時間少しの戦闘で追撃を中止しました。そして、レイテ湾突入を目前にしながら反転、北上してしまう。同じくレイテ湾突入をめざした西村祥治中将の部隊は予定どおりスリガオ海峡に達し、単独突入した25日未明の海戦で玉砕している。連合艦隊が出した命令に従って西村艦隊も小澤艦隊も玉砕したのに、栗田艦隊だけは命令を遂行できなかった。最も力のある戦艦群を率いながらそれを使いきることをしなかった。 戸高 レイテ湾突入は沖縄特攻よりもずっと勝機がありました。もう輸送船は荷揚げを終えて空船になっていて無駄だったという説もありますが、それを言うなら沖縄特攻のときもすでに米軍は上陸していたのだから同じです。マッカーサーが上陸していたらそれを砲撃して、タクロバンに飛行場を造らせなければ日本軍の航空部隊が活躍できた可能性がある。 上島 湾奥まであと約100キロに進出したのだから、大和の主砲到達距離まであと約60キロですね。潜水艦などの待ち伏せがあったとしても、護衛の駆逐艦が大和を守って主砲到達距離にまで進んで全弾撃ち込むことができたら…、と思うのは、死んだ子の年を数えるのと同じかも知れませんが、敵は動かない地上にある、たとえ沈められても大きな「戦果」はあり得た。沖縄特攻での沈没とは違う、大岡昇平が『レイテ戦記』で書いた「反転は悔いを千載に残したものというのが、われわれの心情的判断である」という無念を引きずることにはならなかったのではないか。 戸高 栗田健男中将は戦後、「敗軍の将、兵を語らず」と寡黙でしたが、海軍記者の長老伊藤正徳にだけは口を開いて、「三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、からだの方も頭脳の方もダメになっていただろう」と判断ミスを認めています(『連合艦隊の最後』)。しかし判断ミスというよりも、そもそも「見敵必戦」と戦闘目的が徹底されていなかったというのが本当でしょう。当時の海軍の作戦命令書とその結果を見ると私は腹が立ってしようがない。譬えはよくないが、金庫破りが金庫を開けた瞬間に、自分の腕前に満足して帰ってしまうようなところが常にありました。作戦命令そのものが内向きで、その人の履歴を傷つけないという・配慮・でつくられている。官僚組織の庇い合いという最もよくない点が現れている。せっかく決戦兵器を持ちながら、運用する人間の側に問題があるから威力を発揮できない。公試運転中の「大和」 上島 「大東亜戦争の反省」とは何かということを口にするとき、私はいわゆる東京裁判史観的な意味での反省はしませんが(笑)、また戦ったこと自体を愧じる気もないのですが、大和ほどの戦艦を十分に戦場で働かせられなかったことは反省する必要がある。曖昧にしてはいけない。それをすることが、それぞれに力を尽くして艦に殉じた3000名近い将兵への本当の供養だと思うんです。兵員は命惜しみをしなかった。戦艦というモノを惜しんだことで人の命を甲斐なく失ったという悔いです。大和の「悲劇」を語るとき、悲劇特有の美しさによってそれをもたらした人たちの怠慢や不実を糊塗してはならない。 ここで冒頭の「なぜ大和に惹かれるのか」に戻ると、私はやはりモノとしての大和ではなくそれに関わった日本人の気概、勇気に共感し、惹かれるのだと思うのです。特攻隊も同じですが、運命を受け容れて、じたばたしない。諦観とは違う、覚悟を決めた上での死生観の凄みというか…言葉としてこなれた表現ができないのですが、そんなところがいまも日本人の琴線に触れるのではないか。こういう物言いをすると、「戦争を美化するのか」と抗議されるのですが(笑)。 戸高 兵器としての大和はその能力を発揮することはなかった。けれどもそれに関わった人間は極限の働きをした。そのギャップに惹かれるのかも知れませんね。 大和が沈んで戦後に残したものを考えると、私は別の感慨もあります。大和ほどの戦艦を米英は建造できたか。設計だけならできたでしょう。しかし実際に建造する能力が呉の海軍工廠にはあった。鉄鋼から大砲をつくり、装甲鈑をつくり、それを組み立てて一隻の戦艦にするという現場の力は当時の日本がいちばんだった。伊藤正徳が『大海軍を想う』にこう書いています。 「大和、武蔵は沈んだが造船技術は沈まなかった」 まさにそのとおりで、呉海軍工廠は戦災を受けましたが終戦の翌年にはアメリカのNBCという船会社が呉海軍工廠を手に入れて造船を始めるんです。アメリカには無傷の造船所はたくさんあるのに、わざわざ空襲を受けた海軍工廠を修繕して使おうとしたのは、日本人工員の能力を買ったからです。世界一の戦艦大和ほかの優秀艦を建造した日本の造船力をアメリカは認めざるを得なかった。そして日本は復興し、昭和31年に日本の造船量は世界一になる。敗戦からわずか十年ちょっとで日本は奇跡の復元力を見せた。大和をつくった日本人の気概と技術は死んでいなかったのです。 大和はさまざまな日本人の力が結晶した存在でした。大東亜戦争が避けられない戦争だとして私が何か任せられたとしたら、やはり戦艦大和を建造したと思います。そして大和を必ず使う。大和の存在を公表して抑止力として、また決戦場で講和の条件を追求するために最大限使う。それが大和をつくった者の思いのはずです。 上島 悲劇的な最期を遂げた大和ですが、日本人の心の中では、たとえば「宇宙戦艦ヤマト」のように、そして大和ミュージアムの精緻な模型のように忘れられることなく甦ってきます。そこに日本人の琴線に触れる・確かな何か・があるからですね。それは大和の物語を受け止める人それぞれによって違う光彩を放つのでしょうが、日本民族にとって薄れることない輝きだと思います。 戸高 世界一の戦艦大和は、栄光ではなく悲劇として日本の歴史に刻まれている。しかしその悲劇は誇りとともにある。この矛盾を忘れないことが、今後の日本人が誤りのない道を歩むカギになるでしょう。関連記事■ 戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 柳田邦男に聞く 根強い零戦人気の本当の理由
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よみがえる戦艦大和 その伝説が日本人に残したものは
海軍兵学校最後の生徒(78期)だった戦史研究家の大岡次郎氏は、自著『正説 レイテ沖の栗田艦隊』(新風書房)を刊行した際に、カバーに戦艦長門の写真を選んだ。戦時中、士官予備軍である海軍兵学校の生徒にすら、世界一の戦艦・大和の存在は知らされておらず、当時の大岡氏にとって戦艦といえば連合艦隊旗艦を務めた長門だった、という理由からだ。それゆえ多くの国民が戦艦大和の存在を知ったのは、戦後になってからだった。 極秘裏に建造された戦艦大和は、米国との戦争が始まった直後の昭和16年12月に竣工。翌年2月から約1年間、連合艦隊旗艦を務めた。ただ大和は実戦への参加が少なく、トラック島(現ミクロネシア連邦)の泊地にとどまっていることが多く、艦内設備が豪華だったこともあって「大和ホテル」などと揶揄される存在でもあった。世界最大を誇る戦艦大和の46センチ主砲が実戦で火を噴いたのは、昭和19年6月のマリアナ沖海戦が初めてだった。 大和の活躍の場が少なかった背景には、すでに航空母艦が艦隊間の戦いでの主力になっていたという事情もある。しかし米海軍は沖縄侵攻などでは上陸作戦の際、艦砲射撃を有効に使って守備隊の無力化を図った。戦艦の使い道はあったはずで、新野哲也氏は著書『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか』(光人社NF文庫)で「真珠湾を攻撃した後、海軍は、インド洋に向かうべきだったのだ(中略)…戦艦大和をインド洋へ送り、海上からカルカッタ、ボンベイを封鎖して、海岸線の英軍基地を砲撃すれば、英の陸・空軍は、無力化されたはずである」と主張している。40キロのかなたに重さ1・5トンの砲弾を撃ち込める大和の主砲は強烈無比だったのだ。徳之島の犬田布岬にある「戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔」=鹿児島県伊仙町 19年10月のレイテ沖海戦では栗田健男中将の率いる主力艦隊の旗艦・愛宕(重巡洋艦)が出撃途中で撃沈されたため、戦艦大和が栗田艦隊の旗艦となった。この戦いでは大和の姉妹艦・武蔵が米軍機の空襲を受けて沈没。大和以下の主力艦隊はレイテ湾突入を前に「謎のUターン」で引き返す。ちなみに栗田中将はこの後、海軍兵学校最後の校長となった。教え子として戦後、栗田氏のもとをたびたび訪れた大岡次郎氏が集大成として書き上げたのが冒頭の書で、謎のUターンについても独自の考察を加えている。 戦艦大和が最後に出撃したのは20年4月。米軍の沖縄上陸作戦が始まり、すでに沖縄近海の制空権・制海権が奪われている中で4月6日、戦艦大和以下10隻の艦隊は沖縄に向けて瀬戸内海を出撃した。可能性は低かったが、沖縄までたどり着けたなら浅瀬に乗り上げて米軍の上陸を防ぐ砲台となって戦う計画だったという。しかしその願いもむなしく翌7日午後、米軍機の攻撃により、鹿児島・坊ノ岬沖の東シナ海で沈没した。ちなみに沖縄特攻に参加し、大和など沈没した乗員の救助にあたった駆逐艦・雪風は戦後、中華民国(台湾)に接収され、台湾の軍艦として昭和40年代まで活躍している。 およそ生還の望めない特攻出撃で壮絶な最期を遂げたこともあって、戦艦大和は戦後になって広く知られることとなり、吉田満著『戦艦大和ノ最期』や伊藤正徳著『連合艦隊の最後』といったノンフィクションを初め、さまざまな著作で紹介されることになった。意外なところでは山本茂実著『あゝ野麦峠』の末尾にも、大和沈没の場面が登場している。それほどに戦艦大和は戦後、旧日本海軍の象徴といえる存在になっていった。もちろん映画でも「連合艦隊」や「男たちの大和/YAMATO」などで繰り返し取り上げられた。それらの映画に涙した読者も多いはずだ。 また高木彬光著『連合艦隊ついに勝つ』を初めとする架空戦記小説でも「あのとき戦艦大和を有効に使っていれば…」と何度も取り上げられることになる。蛇足ながら1~3月に放映されたテレビアニメ「艦隊これくしょん(艦これ)」でも、戦艦大和がミッドウェー島を想起させる敵根拠地「MI」を砲撃するシーンが登場していた。 そして戦艦大和はSFアニメで華々しくよみがえることになる。テレビアニメの放映が昭和49年に始まった「宇宙戦艦ヤマト」では、先の大戦で沈没した戦艦大和が改造を施され、宇宙戦艦ヤマトとして復活。ガミラス帝国の攻撃により放射能汚染された地球を救うべく、放射能除去装置「コスモクリーナーD」を求めてイスカンダル星へと飛び立つ。このSF設定を担当した作家の豊田有恒氏は「究極の核有事を背景とすることで、ぬるま湯のような日本人の平和ボケに、一石を投じたかった」(『3・11の未来 日本・SF・創造力』)と振り 返っている。このアニメは当時「果たして、進歩的(退歩的?)陣営からは、酷評を加えられた」(同)とのこと。しかしヤマトは映画化もされて批判の声を一撃で吹き飛ばすブームを巻き起こし、次々と続編が作られていった。 敵は幾万ありとても、座して滅亡を待つのではなく、可能性がある限り死力を尽くして活路を見出すべきではないのか-。戦艦大和は今でも日本人の心の中に生き続け、戦争と平和についてわれわれに重い問いを突き付けている。大和沈没から70年がたつ今、そんな気がしてならない。(産経新聞文化部記者 溝上健良)関連記事■ レイテ謎のUターン「栗田中将の名誉回復を」 証言集出版■ 戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る■ あの日、日本軍パイロットが見た風景
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反日・反独はいつまで続くのか
何度も過去と向き合ってきたのに、日独はいつまでも「悪者」「悪役」の役回りだ。戦勝国の都合のよい秩序が戦後70年も続いたが、日本は辛抱強く世界平和に貢献してきた。自信をもって、大きな声で世界に発信するべき時ではないか。
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「成熟民主国家」へ国策の共有を
井上寿一(学習院大学学長) 第一次世界大戦開戦100年から戦後70年へ、メモリアルイヤーを意識しながら2015年の日本外交はどのように展開すべきか。 昨年の「イスラム国」の台頭は、アラブ中東地域における勢力地図が第一次世界大戦前に戻りかねないことを示唆した。そこにウクライナ情勢の緊迫化が加わった。これらの危機的な状況は第三次世界大戦を引き起こしかねなくなった。警戒すべき緊張からの緩和局面 日本にとってこのような国際情勢は、100年前の「欧州動乱」がそうだったように、対岸の火事に過ぎなかった。しかし傍観を決め込むわけにはいかない。原発問題を抱える日本の資源エネルギーは、これらの地域に対する依存度を高めているからだ。他方でシェールガス革命のアメリカの依存度は低下するかもしれない。そうなればこれらの地域をめぐる両国の利害関係の違いは、日米同盟に影響を及ぼすおそれが出るだろう。これらの地域に対する日本の自主的な外交が必要な所以(ゆえん)である。 メモリアルイヤーとしての2015年は近隣諸国関係において特別な意味を持つ。今年は中国・韓国からすれば「抗日戦勝利」あるいは「光復節」70周年である。日中にとっては対華21カ条要求から100年、日韓にとっては日韓基本条約50周年の年に当たる。 対立の歴史を想起させる一方で、近隣諸国関係は部分的な修復に向かうかもしれない。その背景にあるのは経済的な相互依存関係である。警戒すべきは緊張が緩和に向かう局面だろう。緊張時にはコントロールできる偶発的な事件が起きやすいからである。満州事変も日中全面戦争も勃発の直前の両国関係は修復に向かっていた。 領土・国境線や歴史認識の問題に対して、日本は従来の基本的な立場を堅持しつつ、より積極的な広報外交に努めるべきである。近隣諸国に対する影響は限定的であっても、欧米諸国や東南アジア諸国に対しては違う。日本の立場に理解を求める一方で、戦後70年を巡るこれらの国との和解を発信する必要がある。日本の自画像訴求した談話に 和解の発信は首相談話の形式を取ることになるかもしれない。戦後70年の首相談話は、戦後の70年間と戦前をつなぐ歴史観に基づくものにしたい。別の言い方をすれば、戦後70年の首相談話は、非西欧世界のなかでいち早く近代化に離陸し、曲折を経て、成熟した先進民主主義国をめざす日本の自画像を訴求しなくてはならない。 今年は国連創設70周年でもある。10年前は日本の国連安保理常任理事国入りの機運が高まった。今は針穴に糸を通すに等しい。国連改革は進まないだろう。それでも安保理非常任理事国のポストが確実な今年の日本は、国益と国際公共利益のバランスをとりながら実績を積み重ねることで、平和構築に責任を果たすべきだろう。 国連改革以上に進まない、あるいは逆行しかねないのが欧州統合である。昨年の欧州議会選挙で欧州統合を批判する極右勢力が議席数を伸ばした。今年5月のイギリスの総選挙は保守党の勝利が予想される。そうなれば2017年に欧州連合(EU)加盟継続の是非を巡る国民投票が実施されて、EU脱退が実現するかもしれない。 欧州統合はアジアにとって地域統合の模範だった。模範が失われていく一方で、今年東南アジア諸国連合(ASEAN)共同体が創設される。アジアのなかの日本が自立的な地域統合を主導できるか否か。試金石の年になるだろう。国民世論の分裂修復を期待 外交に関連する国内政治はどうなるか。先の総選挙を「アベノミクス選挙」と名づけて勝利した安倍晋三首相は、改めて憲法改正への意思を明確に示した。総選挙の結果は改憲よりも別の問題を巡る自民党の解決力に対する期待の表れではなかったか。別の問題とは景気対策や社会保障の問題のことを指す。別言すれば、国民が期待しているのは、穏健な保守政党による政権運営である。次世代の党の惨敗は自民党の穏健な保守政党化を促すだろう。それは経済重視の外交路線に軌道修正を図ることになる。 先の総選挙で国民は安倍内閣の継続を求めると同時に、野党第一党の民主党に議席数の増加をもたらした。大幅な議席減が避けがたかったにもかかわらず、このような結果になったのは、二大政党制に対する国民の期待が残存しているからだと解釈できる。民主党は解党的な出直しと野党の再編をとおして、責任政党としての信頼の回復に努めなくてはならない。 日本が二大政党制を前提とする成熟した先進民主主義国になるには、主要政党間で基本国策を共有することが重要である。領土・国境線や歴史認識の問題、安全保障政策で大きな違いがあってはならない。戦後70年をきっかけとして、これらの問題を巡る政党間対立と国民世論の分裂が修復に向かうことを強く願う。いのうえ・としかず 一橋大学卒。同大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士(専門は日本政治外交史)。学習院大学法学部助教授などを経て1993年から同教授。関連記事■ なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか■ 中国との均衡こそ取るべき道だ■ 「尖閣」と「靖国」で取引した日中首脳
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日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか
渡部昇一(上智大学名誉教授)石平(評論家)シナ事変前夜と同じ石 「尖閣問題」が起こったとき、当時の仙谷(由人)官房長官が中国に気をつかって、「かつて日本は中国に迷惑をかけたんだから」というようなことを言っていましたね。ああいう認識がいまも日本人のあいだにある。渡部 あれでまず思ったのは、これは〈シナ事変〉のときと同じだということです。 あのころも、シナは尖閣と似たような事件をしょっちゅう起こしていた。それで日本人はシナに対してカンカンに怒っていたんです。だから、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)という言葉ができた。それは、私ら子供でも、みんなそう言っていました。いちばんひどかったのが、昭和12年(1937)の中国軍による通州の日本居留民大虐殺、いわゆる「通州事件」(注1)です。あれだけひどいことをされたら、やり返すのは当然ではないか、というのが一般的な考えでしたね。石 いまの中国は「暴支」どころか「暴走」していますね。シナ事変、つまり日中戦争について、私は中国でこういう教育を受けました。 日露戦争当時からすでに、日本は中国をほろぼして大陸を我が物にする計画を立て、着々と対中侵略を進めてきた。その過程に満洲事変があって、盧溝橋事件(注2)があり、そうして全面的な侵略が始まったと。 そう教えられて、私は「日本人はすごいな」と感心した。何しろ、百年の計を立てて、そのとおり実行していたというのですから。 しかし、日本に来て歴史の本を読むと、全然話が違うのでとても驚きました。いったいどこに侵略計画があったのか。ズルズルと戦争に巻き込まれていっただけではないのか。渡部 日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっているんです。田中義一首相のいわゆる「田中メモ」ですが、そこに日本は満洲を征服して、まずシナを、最後には世界を征服するというシナリオが書いてある。 しかし、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっている。ところが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。信憑性がないから、証拠として認められなかったんです。最近の研究では、このメモは、コミンテルンがモスクワで捏造して、世界中に広めたのだと言われています。石 中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい。渡部 「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まってしまった。A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実がそもそもないんですよ。「対華二十一カ条」の中身石 そういう意味では、日中戦争にはコミンテルンが大きな影を落としていますね。もう一つ、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だと、中国では必ず言うんです。渡部 あれは14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求です。最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望でしたが、結局、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる。後半の7カ条は、希望なんか出すと誤解されると言って、日本の議会でも批判されていたんです。石 その7カ条に中国は反発したわけですが、結局、その部分は削除された。それはどの国家間でも行われている当然の外交交渉ですね。一方が希望を出して、相手が反発すれば一歩引く。渡部 あのとき、アメリカが「民族自決権」を持ち出して、いかにも日本が悪いかのように騒ぎたてて中国を焚きつけた。それで問題が大きくなったところがある。民族自決権そのものは非常に立派な考えだけれど、自分たちが持っている植民地のフィリピンや、あるいはイギリスが世界中に持っている植民地については問わない。しかし、中国に対してはしきりに民族自決を煽りたてた。だから中国の青年たちのあいだで排外運動が起きた。最初は日本だけでなくて、イギリス、アメリカも排除しようとしたわけですが、日本だけが武力で抑えることをしなかった。だから、なめられて排日運動だけが大きくなった。石 それは日中関係の大きな教訓ですね。肝心なときにきちんと武力で対応しなかったから、中国はますますつけあがって「暴支」になった。渡部 「二十一カ条要求」を出した時期が第一次世界大戦のさなかだったのもまずかった。英米がヨーロッパの戦争で忙しい隙を狙ったかのような、ずるい印象を与えてしまった。石 日本のそういう判断ミスが、アメリカに利用された結果、中国の五四運動(注3)がはじまり、反日的な風潮が高まった。渡部 反日運動についてだけは、ソ連とアメリカは同調していたという印象を受けますね。談合したわけではないとしても、日本を大陸から追い出すことが両国の利益だった。日本は満洲を中国に返した石 五四運動の後、しばらくしてコミンテルンが中国で共産党を作った。中国共産党は自分たちで作ったものではなくて、コミンテルンの中国支部に過ぎない。日中関係のすべての問題がそこから生じてきたと言ってもいいのではないでしょうか。渡部 ロシア革命とコミンテルンがなければ、大陸はずっと穏やかなままだったと思います。中国人も誤解していると思うんですが、日露戦争前の満洲はロシア領になっていたんです。ロシアはまだ自分の領土であると主張してはいなかったけれど、清国の役人が満洲に入るときには、ロシア官僚の許可を得なければいけなかった。 その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返したんです。そしてロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。あのままほうっておいたら、いずれ「満洲スタン」(「スタン」は国や地方を表すペルシャ語起源の言葉)なんて地名になっていた。 北シナも朝鮮もそうです。半島はいまごろ「コリアスタン」になっていますよ(笑)。石 朝鮮人も満洲人も何々スキーという名前をつけられていたでしょう。キムスキーとかね(笑)。渡部 だからスターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったんです。もしもロシア革命がなければ、満洲と東半島は日本が租借し、鉄道は日本が管理して、あとは平和だったはずです。満洲事変も不要だった。石 日中戦争も起こらなかった。万一、満洲があのころソ連と共産党に侵略されていたら日露戦争以来のすべての国防上の安全保障の成果を日本は一気に失うところだった。渡部 しかし、アメリカが愚かだったから、日本の敗戦でそれが失われたわけです。朝鮮戦争以後、アメリカの歴史家は口をそろえてこう言った。何がシナ大陸を失わしめたか、それは日本を潰したからだと。石 結果的に共産主義中国という化け物を生み出した。いま世界中でいちばんやっかいな国を生んだのは、あの頃の痛恨の歴史だった。ミステリアスな事件渡部 満洲国に清朝の王朝が続いていれば、大きな緩衝地帯が存在して、世界平和のためには非常によかった。ただ、清朝にクーデターが起こって愛新覚羅溥儀が日本公使館に逃げ込んでこなかったら、満洲国建国のアイデアは生まれなかったと思う。溥儀は満洲のヌルハチの直系ですから、その故国に正統の皇帝を立てたのは、誰からも文句を言われない良いアイデアだったと思う。石 満洲国は、ある意味では、日本本土よりも近代国家でした。私は大学時代に満洲を旅行したことがあるんですが、ほかの中国の都市よりずっと整備されていた。まず、橋が丈夫です。日本人が作ったから(笑)。当時の鉄道がいまでも走っていますしね。結局、近代中国の産業基盤はすべて満洲にあった。満鉄の遺産です。現代の中華人民共和国の自動車産業も、旧満洲からはじまっています。張作霖渡部 張作霖爆死事件にしても、当時は昭和天皇まで河本大作大佐が事件の首謀者だと思っていたらしいけれど、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、日本軍が起こした事件だとは言っていないんです。イギリスの諜報部は、爆発物の分析をし、火薬がソ連のものであると突き止めている。日本は気づかなかったけれど、リットンは知っていたんだと思います。だから、あえて日本を責めなかった。石 リットン報告書を読めば、日本を一方的に断罪していないことはすぐわかる。それなのに、東京裁判以降、歴史的事実が塗り替えられて、どういうわけか、すべてが日本を断罪するものになってしまった。それを、なぜか日本人は否定しようとせず、それどころかむしろ積極的に認めている。「引かれ者史観」渡部 戦前・戦中に反日運動とか左翼運動をやって帝国大学を追われた人たち、お縄になって牢屋に引かれていってもおかしくなかった人たちが戦後、大学に復帰して東大や京大の総長・学部長におさまった。そういう彼らの歴史観を、エッセイストの山本夏彦さんは「引かれ者史観」と呼びました。戦後の歴史経済学者はみんなこの人たちの弟子にならざるを得なかったから、学界は「引かれ者史観」に染まってしまった。ジャーナリズムも同様です。昔ならくさい飯を食っている人たちが、刑務所のかわりに学界とマスコミに集まっている(笑)。みんな日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」なんです。石 コミンテルンは、戦前は日本周辺で工作を行って大日本帝国を潰しましたが、戦後はさらに日本国内に入り込んで、日本の心まで潰そうとした。渡部 潰されなかった人たちは、史学や法学の本流にいなかった人たちですね。本来であれば、法学部の教授なら、「日本に主権がないときにできた憲法など憲法ではない」と言うべきです。国際法の学者であれば、「交戦権のないような憲法を持ってはいけない」と言うべきでしょう。しかし、東大や京大では言わない。むしろ、歴史や法律が専門ではない文学の先生とかがそういうことを言っているわけです。敗戦利得者ではないからまともなことを言える。敗戦利得者の弟子たちは、その口移しを言っているだけです。そして、弟子の秀才たちが各地の大学に散って「引かれ者史観」を学生に教え、あるいは高級官僚として、あるいは朝日新聞やNHKに入って反日的な言動をしている。石 不思議なのは、そういう誤った歴史観が70年たったいまも、大半の日本人の頭を占めているという現実です。占領軍は指導者たちの精神まで占領し続けているようです。中曽根内閣で一変渡部 「引かれ者史観」は「東京裁判史観」と言ってもいいのですが、それに反対して憲法改正を党是にしていたはずの自民党が、中曽根康弘内閣(1982~87)のときに明らかに変わってしまった。昭和60年(1985)の外務委員会で、「日本は東京裁判において中国に対して有罪になった。その罪をいまも背負っている」と答弁したんです。石 それはサンフランシスコ条約を無視していますね。渡部 サンフランシスコ講和条約で、東京裁判については白紙になったんです。にもかかわらず、自民党も講和条約を無視した歴史観を持つに至った。田母神(俊雄)元航空幕僚長の事件でも、田母神さんをやめさせる理由がなかったので、「日本の侵略は歴史的事実である」と言った、村山元首相のいわゆる「村山談話」(1995)に背いたという理由をこじつけた。しかし、村山さんは社会党の党首じゃありませんか。社会党はサンフランシスコ講和条約に参加しなかった党ですよ。石 中国共産党も講和条約に一切参加しなかった。渡部 社会党は当時、国会で第二党でしたから、当時の吉田茂首相はぜひ参加させたかったのに、請われても行かなかった。スターリンの意図に従ったのです。そういう左派の意見に、中曽根さんは外交に関しては乗ってしまった。それ以来、「南京事件はなかった」とか、「朝鮮に対しては良いこともした」と発言しただけで大臣の首が飛ぶようになった。石 第3次中曽根内閣の文部大臣だった藤尾正行さんは、歴史教科書問題で「日韓併合」は韓国にも責任があると言っただけで罷免された。「東京裁判史観」はサンフランシスコ条約後も続いているわけですね。渡部 講和条約の11条に、東京裁判ですでに判決が下りている人は、刑期の継続を実行する、ただし、関係国が許せば免罪されるとあります。それに従って、国内でも「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が与野党一致で可決され、A級戦犯も免責されました。これで国内的にも国際的にも、戦犯はいなくなり、本人や遺族にも年金の支給が行われることになった。 A級戦犯として有罪を宣告された重光葵は鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣になって、日本が国連に加盟したときには、国連に日本代表として出席して演説し、拍手喝采を受けて、帰国後に急死したときには国連で黙しているんです。石 要するに講和条約を締結した時点で、日本は歴史的な名誉を回復し、国際社会に復帰して独立をきちんと果たした。そのときに、もう戦後ではなくなった。渡部 だから、日本の内閣は、中国にも韓国にもペコペコしなかった。それが中曽根内閣から一変したんです。そのときの外務省の知恵袋が小和田恆さんでした。小和田さんが、「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と勝手に答弁してしまった。国賊と言ってもいいでしょう。小和田さんは非常な秀才ですから、敗戦利得者の東大の法学部教授の言うことを全部そのまま暗記していたらしい(笑)。共産中国という“化け物”石 日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至り、歴史は取り返しのつかない方向に進みました。盧溝橋事件がなければ中国共産党も蔣介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったでしょう。すべてあの瞬間、昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋での発砲事件から、日本にとっても、中国の人民にとっても不幸の歴史が始まった。渡部 盧溝橋事件も、いまでは国民政府軍に入り込んでいた共産兵が発砲して、意図的に武力衝突を引き起こしたという説がほぼ確立していると思います。もともと戦争をする気はなかったのだから、どうもおかしいなぁと日本軍も国民政府軍も思っていたでしょう。石 だから、本当に奇妙な戦争だったと思うんですよ。渡部 盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったんです。ところが、そのおよそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれなかった。だから、本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。ただ、それも蔣介石が望んだことではなく、京滬警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中という共産党とみられる将軍が仕掛けたことだった。執拗な挑発石 蔣介石は、〈中国人にとって本当の脅威は日本ではなくて中国共産党〉であることがよくわかっていた。だから日本と戦う気はなく、中国共産党殲滅に専念しようとしていました。にもかかわらず、日中は全面戦争に突入した。 そのA級戦犯は、国民革命軍第二十九軍を率いていた宋哲元です。盧溝橋周辺に駐屯していた中国軍は、国民党軍ではなく、二十九軍なんです。宋哲元の二十九軍は事あるごとに日本軍とトラブルを引き起こしていた。だいたい二十九軍は共産党員だらけでした。だから、どう考えても盧溝橋事件は二十九軍の共産党員が引き起こしたとしか思えない。 蔣介石も、二十九軍に対して日本にちょっかいを出すなとしきりに言っていた。にもかかわらず、日本が盧溝橋事件の現地解決、不拡大方針を決めると、二十九軍はその翌々日の7月13日に日本軍のトラックを爆破して大紅門事件(注4)を起こし、25日に廊坊事件(注5)、26日に広安門事件(注6)というように、次々に日本軍を攻撃した。“じっと我慢”の動かない日本軍をなんとしても全面戦争に追い込もうとした。そしてついに通州の中国保安隊(冀東防共自治政府軍)による日本人虐殺事件、いわゆる通州事件が起こる。渡部 そういう挑発は、ソ連の指示によるものでしょう。日本軍がシナ大陸で戦争をしていれば、それだけソ連軍も楽になる。それを見破ったのが石原莞爾です。彼はナポレオン戦争の専門家なんですが、当時、彼が書いたパンフレットを読むと、「シナ事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわらず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、シナ事変などに巻き込まれてはいけない」と書いてある。石 冷静に見ていた石原さんのような人が、発言力を失ったのは日本の不幸ですね。渡部 もし日本が計画的に戦争をするつもりでいたら、まっすぐ南京に向かったでしょう。それで一挙に南京を占領して終わりですよ。石 日本が計画的に侵略したというようなことはまったくなくて、二十九軍のような中国側の執拗な挑発にのってしまった。渡部 通州事件のときは、日本人は非常に憤慨したけれど、中国側が謝ったことで戦争にまで至らなかった。石 本来であれば、謝ってすむ問題ではありませんね。なんと言っても民間人を含めた230人が虐殺されたんですから。渡部 日本はすぐ水に流すんです(笑)。宋美齢の反日宣伝石 通州事件でも日本が動かなかったから、いよいよ日本が応戦せざるを得ない状況を作り出すために、8月13日の上海事変を起こしたのでしょう。渡部 中国は民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行ったから、日本は居留民を保護するために陸軍を派兵せざるを得なかった。司令官だった張治中が満洲の反日スパイを動かしていたことは、奉天(瀋陽)の日本軍憲兵にも知られていました。その張治中が、日本の陸戦隊約4000人が日本人居留民を守っているところに約5万の大軍で攻撃してきた。そこで翌8月14日、日本政府は急遽第三師団と第十一師団を上海に派遣したのです。 これが本当の日中戦争のはじまりであると、元米駐日大使のライシャワー教授も言っています。石 つまり、戦争を始めたのは中国だというのが歴史的真実だということになる。渡部 そのとおりです。結局、日本が「断固として不拡大方針を貫く」などと言っていたからなめられたんですよ。 第一次上海事変(昭和7年=1932)のときも、中国軍は共同租界に対して攻撃を仕掛けたので、イギリスもアメリカも反撃している。日本だけは抵抗するなという命令を出されたので反撃せず、公使館まで襲われてしまった。これで中国は「日本与しやすし」と考えたと思いますね。こういうときは、やはり断固たる態度をとらなければいけない。これも、今日の状況とよく似ています。宋美齢石 日中の全面戦争が始まるまでの一連の経緯は、どう考えても中国側のコミンテルンの指令を受けた人間たちが一方的に日本を挑発して、あらゆる手を使って日本を全面戦争に引きずり込もうとしたということになる。渡部 それを、いかにも日本のほうから侵略を仕掛けたと宣伝したのは、もちろんソ連と左翼の連中ですが、実はアメリカもそうなんです。 日本と全面戦争になった以上、蔣介石は「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出して、国際世論の同情を集めようとしたんです。そこで蔣介石は、非常に賢明にも、キリスト教に改宗しました(笑)。奥さんの宋美齢もクリスチャンで、アメリカの名門女子大の卒業生です。そして、アメリカのプロテスタントの牧師たちに金をばらまいた。アメリカからは、それぞれの教区の牧師たちが寄附を募って布教に来ていて、妻子もあるから生活費が必要なんですよ。それで蔣介石に世話になっているから、「日本が悪い、日本が悪い」と言うわけです。石 なるほど。本当は、蔣介石はキリスト教に興味はなかったのに。渡部 そうすると、アメリカの宣教師たちは、日中戦争をキリスト教徒対異教徒の戦争のようにとらえる。宋美齢のステンドグラスまで入れた教会もあるそうです(笑)。石 聖母マリアのかわりに(笑)。渡部 だから面白いことに、当時のアメリカの宣教師は口をそろえて日本軍の悪口を言っているけれど、それはプロテスタントばかり。カトリックの神父や尼さんには日本を批判した人が一人もいない。カトリックは単身赴任だし、蔣介石からお金をもらう必要がないから(笑)。南京の「ナ」の字もなかった石 中国が捏造した最大の“傑作”は「南京事件」ですね。攻略からまもない昭和13年初頭の南京露店街 大にぎわいを見せている渡部 あの話がおかしいと私が思ったのは、まずこういうことでした。シナ事変初期には兵隊さんたちが1、2年でみんな帰国していたんです。うちの近所でも2人くらい帰ってきた。だから、全国では何万人と帰ってきている。にもかかわらず、南京大虐殺など噂にもならなかった。 昭和17年(1942)に日本の機動部隊がミッドウェーで大敗したときには、それは極秘だったにもかかわらず、私は近所の遊び仲間から、「もう加賀も赤城もなくなったんだぞ」と聞かされました。加賀も赤城も、われわれが幼いころから名前をよく知っていた日本の主力航空母艦ですよ。大変なことになったと思いました。東北の小さな町にも、そういう極秘情報はちゃんと伝わってくるんですよ。だから、南京大虐殺が本当にあったとしたら、その当時、噂にならないわけがない。石 実は、私も日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載っていませんでした。渡部 それは重要な証言ですね。石 もちろん、日本軍がどんなにひどいことをしたかということはさんざん教わってきました。それでも南京の「ナ」の字もなかった。渡部 南京虐殺について、公式に日本政府に抗議してきた政府はない。石 蔣介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。 最初、南京で30万人殺されたという記述を読んだときに、素朴な疑問を感じたわけです。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。どこそこで100万人の捕虜を殺したとか、そういう記述が歴史書によく出てきますが、そういうところを掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、2000年前の記述でもじゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない。渡部 当時、戦争が起こりそうになると、お金のある南京の市民は大部分が逃げたんです。逃げるところのない人たちや外国人が南京に残っていた。そのときの20万人という人口はかなり正確な数なんです。ところが、それから1カ月後に、市民を食わせなければならないので日本が食糧を調達したときには25万人になっていた。石 増えているんですね(笑)。そもそも30万人なんか殺せない。仮に30万の死体があったとして、その数字を誰が集計したのか。物理的に不可能です。 しかし、日本の知識人が南京虐殺をことさらに言いふらしたり、日本を攻撃することによって社会的地位を得たりというのが私には信じられない。本来なら逆でしょう。河本大作説の疑問渡部 その「逆」のこと、つまり本来の姿に戻す動きが、少しずつ起こりはじめているとは思います。しかし、先ほど言ったように「敗戦利得者」たちの反日的な言動はいまだに尾を引いている。日教組も子供たちに「すべて日本が悪い」と教えてきたわけですから。とくに、そうして地位を築いた人は新たな歴史的事実が出てきても、面子があるからいまさら持論を引っ込めるわけにはいかない。 秦郁彦さんは『南京事件』という著書のなかで、4万人虐殺説をとっている。30万人説を否定して4万人説をとったから良心的であるように言われていますが、私はこれを批判したことがあるんです。まず市民と戦闘員の死者を区別していないという問題が一つ。それから、曽根一夫という男の証言を重視していること。この曽根という人は2冊くらい南京大虐殺の本を書いている。ところが、この男は南京には行っていないんです。私は仙台で偶然、曽根氏の親類に会ったことがあるんですが、その親類は「あのつきには困ったものだ」と言っていました(笑)。つまり、まったくあてにならない男なんです。石 4万人という根拠は何ですか。渡部 それなりにいろいろ計算したらしい。「捕虜を処分せよ」という命令を、「すべて殺せ」と解釈しているんですね。当時の命令では、それは「解き放て」という意味です。食糧も不足しているから、捕虜に食わせる余裕がなかった。それをすべて殺したと計算したんですね。それから戦闘捷報か何かを調べて4万人という数字を出しています。しかし、私は市民に関して言えば限りなくゼロに近いと思う。 秦先生がいい研究もなさっていることは認めるけれど、やはり面子にこだわっているのではないかと思いますね。張作霖爆死事件も日本軍のしわざだと言われてきたけれど、田母神俊雄さんが「そうでないという説もある」と書いたら、秦さんはものすごく怒って、朝日新聞か何かで「そんなことを言うのは上杉謙信が女であるというようなものだ」と批判した。 ところが、張作霖爆死事件を日本軍が起こしたという説には根拠がないんですよ。首謀者は河本大作大佐ということになっていて、戦後、河本大佐の手記なる告白記事が『文藝春秋』に出たことがありますが、これは彼の甥である左翼の人間が書いたデッチ上げでした。東京裁判で、パル判事は張作霖事件に関する証言はすべて伝聞証拠にすぎなかったと断定しています。そもそも当時、河本大作は生きて中国に捕らわれていたのだから、証言させればよかったのに、中国が抑えていた。なぜ呼ばなかったのかというと、彼を証人として出廷させるといろいろまずいからだったと思う。 最近では研究が進んで、ソ連主犯説が濃厚になっています。そういう状況にあって、田母神さんはあくまで穏やかに、「日本軍の犯行ではないという説もある」と言っているのに、激昂して日本軍犯行説を周知のこととして反論するのは、「南京でも虐殺がなければならない」「張作霖も日本軍に爆殺されたのでなければならない」という「東京裁判史観」が崩されるからですよ。それはエゴでしかない。自分のエゴと業績を守るために相変わらず「日本は大虐殺した」と言い続けるのです。有色人種の解放戦争石 日本にとっても意味のない戦争をした結果、国益を損なった。日本が中国の挑発に乗らず、もっと大局的な判断をして戦争の不拡大を貫く道はあったのでしょうか。渡部 南京が陥ちたとき、トラウトマンというドイツの外交官が和平案を出したんですよ。そのときの日本の参謀次長──参謀総長は閑院宮という宮様ですから、実質上の参謀総長です──その多田駿中将は、ぜひとも停戦してくれと涙を流して近衛首相に頼んだ。しかし、近衛首相の周囲はコミンテルン系の左翼ばかりだった。それで「蔣介石政権を相手にせず」という声明を出して、スターリンの思惑どおり、大陸の泥沼にはまり込んでしまった。 それから日本はものすごい消耗戦を続け、ついにはアメリカと戦争せざるを得なくなった。ルーズベルトは絶対日本と戦争する気でいましたからね。ヒトラーのためにイギリスが息の根を止められそうになっていたから、アメリカはイギリスを助けなければならなかった。ところが、アメリカ国民は第一次大戦に参入してろくなことがなかったから、ルーズベルトはヨーロッパの戦争には絶対参入しないという公約を掲げて当選したんです。にもかかわらず、チャーチルがしきりに助けを求めてくるし、蔣介石からも参戦を懇願してくる。 だから、アメリカは日本が対米開戦せざるを得ない状況に追い込んだ。これは三国同盟の弱さをつかれたということもあります。三国同盟はもともと日独防共協定でしたから、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだときに、これは三国同盟の意図に反すると言って、同盟を破棄していればよかったかもしれない。しかし、それは死んだ子の年を数えるようなもので、長い目で見れば結局、有色人種の解放戦争はしなければならなかったかもしれません。石 それが大東亜戦争の歴史的功績ですね。国際的に人種観が変わった。渡部 いまの人には戦前の白人の人種差別のひどさがわからない。日本人のような全然犯罪者を出さない、優秀な移民団でも、1人も入れないというところまで差別された。 そもそも、白人に勝てる有色人種もいるということが日露戦争で日本が勝利するまで、白人も有色人種も思ってもみなかったんです。当時、日露戦争は世界の注目の的だったから、誰もが驚いた。 大東亜戦争のときも、実際、機動部隊を持っている国というのはアメリカと日本しかなかった。イギリスにもドイツ、フランス、ソ連にもない。アメリカと対抗して戦争ができるのはヒトラーのドイツでもなければチャーチルのイギリスでもない。日本だけだった。インドのネルーや、ベトナムのホー・チ・ミンなど、世界中の独立運動の指導者は、みんなそこからインスピレーションを得た。有色人種のイメージを180度変えたのは日本だったんです。石 そういう意味では、大東亜戦争というのは有色人種と白人の全面戦争でもあったわけですね。渡部 日露戦争に続いて2度目ですね。それで日本はアメリカから憎まれた。アメリカは人種差別を前提としてできている国です。もしはじめから人種差別はないという彼らの独立宣言が本当なら、インディアンの土地を奪ったり、アフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたりできませんよ。だから、白人と同じステータスの有色人種が現れたということはアメリカにとって非常に不愉快なことだった。日本と戦争をしたころのアメリカの海軍には有色人種もいましたが、軍艦の厨房(台所)以外には配属されなかった。なぜなら、大砲を撃たせたり飛行機に乗せたりすると、有色人種が出世して上官になる可能性があるから。それは白人には耐えられない。戦前のシンガポールでも、マレー人は奴隷に近く、その上に中国人がいて、中国人はマスターであるイギリスに仕える。そういう差別構造を日本が完全にぶち壊した。 だから、日露戦争はコロンブスのアメリカ大陸発見以来、数百年に一度起こるかどうかの大事件であったとみないと世界史はわからない。20世紀初頭は、人種差別は当然という世界でした。そして21世紀のはじめには、国という名に値しないような国でも国連で一丁前の口をきくようになっています(笑)。この百年の差はどこに起因するかといえば、日露戦争と大東亜戦争しかない。石 日本はあらゆる国際の場で堂々と「人種差別を破ったのはわれわれです」と言うべきですね。渡部 そうです。第一次大戦のあと、日本が国際連盟で人種差別撤廃を提案したとき、それをぶち壊したのはアメリカだった。そういうことはプライドと地位をかけて言わなければいけない。ところが、政治家が勉強していない。勇気・胆力がない。 捕鯨問題で世界を相手に日本の立場を主張した元農水省の小松正之さんの話を聞いたことがあるんですが、「自分が頑張れたのは十数年間、クジラについて勉強したからだ。ちょっと話を聞いてわかったような気がしたというくらいでは必ず言い負かされる」とおっしゃっていた。やはり10年以上研究しないと信念にならないというんですよ。政治家も、それくらい勉強してほしいと思いますね。(注1)通州事件 昭和12年(1937)7月29日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(冀東防共自治政府軍)が起こした大規模な日本人虐殺事件。通州の日本軍守備隊と、日本人居留民(多数の婦女子と朝鮮人を含む)約106名が、人間とは思えぬような方法で中国兵によって惨殺され、シナに対する国民の怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは言うまでもない。(注2)盧溝橋事件 昭和12年(1937)7月7日の夜10時、蘆溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。翌八日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こり、状況が曖昧なまま、日中は戦闘状態に入った。事件から4日目の7月11日に、事態収拾のため現地協定が成立した。(注3)五四運動 大正8年(1919)、第一次大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省におけるドイツの権益を日本に移譲することが容認されたのを発端に起こった中国の反帝国主義・反日運動。5月4日に発生したため、この名がある。(注4)大紅門事件 昭和12年(1937)7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され、日本兵4名が死亡した事件。(注5)廊坊事件 同年7月25日に北京の郎坊駅で国民革命軍が日本軍を襲撃した事件。(注6)広安門事件 同年7月26日、中国の了解のもとに北京・広安門の居留民保護に赴いた日本軍が中国軍から銃撃された事件。わたなべ・しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr. phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『知的生活の方法・音楽篇』(渡部玄一・共著)などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一の日本の歴史』(全7巻)、『渡部昇一ベストセレクション』シリーズ刊行。せき・へい 評論家。1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、88年に来日。95年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。07年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)、『中国はもう終わっている』(徳間書店)、『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)、『私はなぜ「中国」を捨てたのか』『もう、この国は捨て置け!』(ワック)など多数。
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記事
「抗日」を煽って逃げた中国共産党
北村稔(立命館大学教授)日本軍に感謝した毛沢東 中国共産党の最高指導者であった毛沢東は、1961(昭和36)年1月24日に、訪中していた日本社会党(現、社会民主党)の国会議員らに対して、日中戦争について次のように語っていた。毛沢東「日本の軍閥はかつて中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して、武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地を作って、その後の解放戦争[日本敗戦後の国共内戦―北村注]において勝利するための条件を作りだしました。日本の独占資本や軍閥は『よいこと』をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」。外務省アジア局中国課監修『日中関係基本資料集 一九四九-一九六九』所収、資料70<毛沢東主席の黒田寿男社会党議員等に対する談話>、霞山会、1970年 毛沢東の談話は、中国共産党の最高権力者のみにゆるされた本音の吐露である。日本軍国主義のおかげで中華人民共和国が出現したというのである。一体、どのような歴史事実が存在したのか。「虫の息」だった共産党 かつての中国では、抗日とは日本との即時開戦を意味する言葉であったが、抗日が中国内で叫ばれだしたのは、1931年9月の満州事変勃発後である。 事変が勃発した当時、中国共産党と国民党は内戦中であった。国民党と共産党は1924年から27年までの合作(第一次国共合作)のあと、1928年からは、不倶戴天の敵として激しく戦っていた。 国民党が一党独裁体制により1925年に広州に樹立した国民政府は、1928年には首都を南京に定めた。そして国家資本主義政策を急速に展開していた。中央銀行が設立され(1928年11月)、関税自主権の回復も実現されており(1930年5月)、国内金融の統一と国家収入の安定的増大および自国産業の保護が推進されようとしていた。このような経済発展の動きは日本と競合することになる。 一方この間、中国共産党は農民反乱により、辺境部での「社会主義革命」を追求していた。しかし実態は、マルクス主義者のいう「生産活動からはじき出されたルンペンプロレタリアート(遊民)」の暴動であり、中国の歴史上では頻繁に発生していたものである。ちなみに、共産党が各地に樹立していたソビエト区の一つである江西省興国県永豊区のソビエト政府では、政府委員18人のうち6人が博徒出身であった。政府委員の内訳は、共産党自身の1930年の内部調査に基づく(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち―土匪と流氓の世界』(中公新書、1998年)。 ソビエト区では地主の土地が没収され小作人に分配されており、農地の所有形態は変化していた。しかし農作業に新式の機械や肥料が持ち込まれたわけではなく、従来どおりの方法で農業がおこなわれていた。ソビエト区は全国に点在し、1931年11月には毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府が江西省の瑞金に成立した。しかし農業という生産活動において何らの新機軸も出現せず、生産力の向上が望めない状態では、中華ソビエト共和国には発展の可能性は無かった。冒頭の毛沢東の言葉のとおり、「われわれはいまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかった」という状況が続いたであろう。 満州事変勃発当時の国民党と共産党の政治路線を評価すれば、都市を中心に国家資本主義建設に邁進し社会の生産力を向上させようとした国民党の路線が、中国史の正鵠を得ていた。ちなみに、中国で行われている1979(昭和54)年以来の改革開放政策は、毛沢東が推進した「社会主義プロレタリア文化大革命」を<貧困を共有する悪平等>であったと批判し、社会の生産力向上を至上目的にして開始されたのである。 国民党は共産党の中央ソビエト区に対して、1930年の12月から5回にわたる包囲攻撃を加え、1934年の10月には中華ソビエト共和国の首都の瑞金を陥落させた。このあと共産党軍(紅軍)は、国民党軍(国民革命軍)の追撃にさらされる1年間の困難な移動をへて、1935年の10月には陝西省北部にたどり着き、やがて延安を根拠地とする。この間、共産党は移動途中の1935年1月に、貴州省の遵義で会議を開き、失脚していた毛沢東が中央政治局常任委員に選出され、主導権掌握への第一歩を確立していた。 共産党軍(紅軍)のこの北方への移動は、「長征」として肯定的に語られるが、実態は逃避行であった。絶滅を免れたが国民革命軍により辺境に封じ込められたのである。共産党が逼塞状態を脱して新たな政治展開を図るためには、大きな歴史変動の波が必要であった。そして変動は、中国史を変化させる伝統的要因である「異民族の侵入」によりもたらされる。1937年に始まる日中戦争である。国民党への反撃のための「抗日」スローガンで 紅軍は国民革命軍に包囲され、社会主義革命を追求する政治路線も一般社会の支持を得ておらず、共産党は孤立していた。しかし満州事変の勃発は、共産党に突破口を提供した。地主対小作人の階級闘争を一時的に停止し、中華民族対日本民族の矛盾を正面に掲げて、共産党の存在をアピールするのである。 満州事変勃発後の1931年11月に、成立直後の中華ソビエト共和国臨時政府は日本に宣戦布告し、抗日を主張する最初の政治勢力となる。背景には、満州事変のあと蔣介石らの国民政府首脳が妥協策を繰り返し、国民の不満が充満している状況が存在した。共産党は蔣介石の「不抗日」を非難することで世論を巻き込み、蔣介石に対する有効な攻撃手段とした。そしてこれにより、辺境のゲリラ集団から民族の存亡に責任を有する政治勢力へと変身し、中国政治の主導権を国民党と争う絶好の機会を手に入れた。 満州事変が勃発すると、市民の間には激しい抗日気運が高まり、各種の反日団体が組織された。血書や断食により、対日即時開戦の決心が示された。南京や北京では数十万人の抗日救国大会が開かれ、南京では、「日本人を殺せ」の大合唱が会場に充満した。首都の南京では大学生たちが外交部(外務省)のビルに乱入し、国民政府外交部長の王正廷を殴打して重傷を負わせた。王正廷は1931年の9月30日に辞職する。 このあと12月になると、全国各地から大学生1万人以上が南京に集結して「請願」をおこない、蔣介石を「恐日病」と非難し、直ちに北上して日本と戦うよう蔣介石に求めた。学生たちは国民党の中央党部に乱入したあと警官隊と衝突し、学生側に死傷者がでた。 抗日を主張する民衆は、やがて国民政府に対し国際連盟からの脱退を求めることになる。国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書が、満州における日本権益の尊重を問題解決の条件として提示していたからである。 国民政府の対日妥協策は、蔣介石と対立する地方の軍閥たちにも、格好の攻撃材料を提供した。彼らも共産党と同様に、「抗日」を蔣介石への攻撃手段にしたのである。 当時、国民政府の統治は揚子江流域に限定され、その他の省は蔣介石に対抗する地方軍閥の実質的支配下にあった。広西省の李宗仁、雲南省の龍雲、新疆省の盛世才、甘粛省の馮玉祥、山西省の閻錫山、山東省の韓復榘、察哈尓省の宋哲元、綏遠省の傅作義、東三省(満州)の張学良である。ちなみに満州事変勃発前年の1930年には、馮玉祥と閻錫山と李宗仁の3人が聯合して、蔣介石と戦う大規模な内戦(中原大戦)が発生していた。しかしこの内戦は張学良の蔣介石支持表明で、蔣介石の勝利に帰す。 このような状況下で抗日が焦点となると、軍閥たちは蔣介石の不抗日を槍玉にあげ、蔣介石非難の大合唱を展開する。馮玉祥は、蔣介石に抗日を促す論争を挑み、1936年になると李宗仁が「焦土抗戦論」を発表し、「北上して抗日し一切の失地を回復する用意がある」と大見得を切る。しかし李宗仁が支配する広西省は、満州を離れること3000キロの地である。どのように北上抗日を実現するのか。蔣介石批判のための口先だけの抗日以外の何者でもなかった。 共産党による抗日は、以上のような状況下に主張されたのであり、全国の民衆からの支持を獲得できる有効な政治スローガンであった。そして共産党も、反蔣介石の軍閥たちと同様に、日本軍と直接に戦闘を交える危険は少なく、口先の抗日であった側面も否定できない。たしかに1936年の2月に、紅軍の部隊が抗日実践を唱えて根拠地の陝西省北部から山西省に侵入し、日本軍との前線のある華北の地に向かおうとした。しかしこの動きは、山西省の閻錫山と蔣介石が派遣した援軍により、たちまち撃退された。台北の中正紀念堂にある蔣介石坐像 蔣介石ら国民政府首脳の、日本に対する妥協策には十分な理由があった。国民政府の政治、経済、軍事の基礎は都市にあり、都市により農村部を支配していた。ひとたび日本との間に全面戦争が始まれば、沿岸の都市部はたちまち日本軍に占領され、経済建設は崩壊し国内の統一も失われることが予想された。そして日中戦争が始まると、予想どおりの状況が出現する。首都の南京は半年を経ずして占領され、国民政府は奥地の重慶に移転を余儀なくされることになる。 それにもかかわらず、新聞はじめ当時の国内のマスコミの論調は、日本軍「恐れるに足らず」が主流であった。その根拠は、概ね3点である。(1)中国は人数的に優勢である。中国陸軍には191の師団があり200万人以上の兵士がいる。さらに新たに1000万人以上を動員できる。これに対し日本陸軍の現役部隊は17個師団25万人であり、最大でも200万人しか動員できない。日本海軍は大陸の作戦では役に立たない。(2)中国は領土と資源で優勢である。日本は資源が貧弱で長期戦を戦えない。日本商品の最大市場は中国であり、日本製品ボイコットを半年続ければ日本は干上がり、やがて瓦解する。(3)列強諸国は満州を日本の勢力範囲であると認め、満州事変を黙認した。戦場を満州に限定せず中国全土に拡大すれば、列強諸国は日本に干渉するであろう。 上記の3点のうち、3番目の理由はその後の展開を予想するものであったが、予想の実現までには中国の主要部分が日本軍に占領されてしまう。「抗日」の実行は、政権担当者の国民政府には困難な課題であった。戦争回避を主張した人々は少数派であったが、軍事や政治の重要ポストについているか、社会的影響力のある学者たちであった。 当時もっとも声望のあった学者で、和平論を主張して抗日派と論争した哲学者の胡適の言葉を借りれば、抗日とは、「鍛冶屋の鍛えた大刀をひっさげ、荷車やラクダや人夫をたよりにして、近代的な日本軍と運を天に任せて戦う」ことであった。蔣介石自身も馮玉祥との論争で、「銃でもおよばず、砲でも及ばず、教育訓練でも及ばず、機械でも工場でも及ばない。もし日本に抵抗すれば、せいぜい3日で国は滅んでしまう」と述べ、馮玉祥に「三日亡国論」だと批判されていた。 しかし表むき蔣介石は、妥協派という非難をかわすために、<先ず共産党を滅ぼして国内を統一し、国民の団結一致により日本と戦う>「安内攘外」(内を安んじて外を打ち払う)論を展開した。そして戦争になった場合の戦略として、1933年の段階で次のように述べていた。「日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線、第三線の部隊でこれを補充する。…一線、また一線と陣地を作り不断に抵抗して少しも怠ることがない。…もし3年か5年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。…このようにしてこそ、我々の国家と民族には死中に活を求める一筋の希望があるのである」(秦孝儀『総統 蔣公大事長編初稿』<中華民国二十二年(一九三三年)四月十二日条>、1978年、台北)。 はたして4年後の1937年に始まった日中戦争は太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発により、蔣介石の予想どおりの展開と結末を迎えることになる。しかし一方では共産党に勢力拡大の機会を与え、国民党が政権を奪われてしまうという結果をもたらす。コミンテルンの介入と抗日の実現 内戦を続けていた国民党と共産党は、やがて表面上は戦闘を中止し、抗日のため民族統一戦線を構築する。統一戦線を成立させた最大の要因は、コミンテルンの新政策であった。コミンテルンはナチスドイツの出現と日本の満州国建国が、両面からのソ連攻撃に発展する危険を感じていた。この危険に対処するため1935年夏のコミンテルン第7回大会は、反ファシズム統一戦線の構築を決議した。その結果、各国の共産党員は階級闘争を一時的に停止し、ドイツ、日本、さらにはイタリアからのソ連攻撃の脅威を減少させる役割を担わされた。 こうして1935年8月1日に、モスクワ駐在の中国共産党代表の王明(陳紹禹)は、中華ソビエト共和国政府と中国共産党中央の名により「抗日救国のために全国同胞に告げる書」を発表し、統一された国防政府の樹立を呼びかけた。ただし、この段階では蔣介石たち国民政府首脳を売国奴呼ばわりしており、国民党との抗日統一戦線の構築は不可能であった。 1936年5月5日になると、共産党は中華ソビエト共和国中央政府の毛沢東ならびに革命軍事委員会主席の朱徳の名により、国民党に対して一カ月以内の停戦と一致抗日を呼びかける通電(全国のメディアに通知する電報)を発した。この中では、「蔣介石氏」という敬称も用いた。そして日本側からの圧力に対し対決もやむなしと考え始めていた国民党側との間で、このあと上海で停戦協議が開始されたという。 すでに蔣介石も、1935年11月の国民党第5回全国大会で、日本とは和平の努力を続けるが「最後の関頭(分かれ目)」に到ればと述べて、抗日の覚悟を示していた。そして同年の末にはオーストリアのウィーンでソ連政府と接触し、抗日への援助を打診し始めていた。しかし表面的には従来からの安内攘外の方針を崩さず、延安を中心とする共産党支配地域への包囲を強化していた。 ところが翌1936年12月になり、地方軍閥の楊虎城と、満州の地盤を失ったあと共産党包囲を担当させられていた張学良が、包囲作戦の督戦に西安を訪れた蔣介石を監禁したのである。そして共産党側との連絡のもとに、蔣介石に対して、内戦停止と一致抗日の実現を迫った。いわゆる「西安事件」の勃発である。この事件のあと、基本的には国共内戦の停止と一致抗日という状況が出現する。日中戦争の拡大と共産党の勢力増大 1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、抗日民族統一戦線として第二次国共合作が一気に促進される。共産党は9月に宣言を発し、国民党の党是である三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)の実現に奮闘し国民党の指導のもとで抗日戦争を戦うことを確認した。紅軍は国民革命軍に編入され、第八路軍、および新四軍と改称し、国民政府から軍費の給付を受けた。共産党のソビエト区も辺区と名を改め、地主の土地没収は停止され小作料の軽減へと変化した。国民党の政治主導権が承認され、国内の政治統一が促進された。 国民党は1938年3月になると、戦争完遂の指導方針である「抗戦建国綱領」を作成し、7月には蔣介石を議長に共産党も参加する国民参政会が組織された。国民参政会は1948年3月まで、最高の民意機構として機能する。 ではこのとき、中国共産党は何を考えていたのか。日中戦争の実質的な始まりである第二次上海事変勃発後の同年8月20日から25日にかけ、中国共産党は延安の洛川県で中央拡大会議を開き、毛沢東が起草した「中国共産党の抗日救国十代綱領」を発表、「日本帝国主義の打倒」「全国的な軍事と人民総動員」などを呼びかけ、国民党とともに抗日戦に臨む気勢を示した。しかし、これらは「公の顔」に過ぎず、それとは異なった「秘密の顔」があったことを示す資料が近年公開されている。『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』(謝幼田、草思社、2006年)によると、毛沢東は洛川会議の参加者に対し、「愛国主義に惑わされてはならない。前線に行って抗日の英雄になってはならない」と警告し、八路軍の主要任務は「軍の勢力を拡充するとともに、敵の後方に中共の指導する抗日遊撃根拠地を建設することである」などと指示している。 同書は9月21日に毛沢東が彭徳懐に送った手紙をもとに、党の戦略の基本精神は「(日本と国民党軍の戦いを)高みの見物をするとともに、機に乗じて『根拠地を創造し、大衆を動員し』、国の中の国を創建すること」だったと指摘する。「これは抗日戦勝利後に中共が全中国を奪取するための条件を生み出すことであり」「完全に民族の責任から逃避するとともに、(中略)宣伝面では懸命に抗日を叫び、民衆を欺きながら政治的な利益を掠め取るもであった」(同書)。 日中全面戦争がはじまると、沿岸の都市部はたちまち日本軍に占領され、国民政府の経済建設は頓挫する。これに対し共産党の勢力基盤は広大な農村部にあり、行政機構も簡素で柔軟性に富んでいた。日本との全面戦争がはじまっても共産党は国民政府の正規軍とはことなり遊撃戦(ゲリラ戦)をやるわけであり、損害も少ないことが予想された。「敵進めば我退く」を信条とするゲリラ戦は、敵とは正面から戦わず自らの勢力を温存することを旨としていた。そしてそのぶんだけ、住民が敵から危害を加えられる危険に晒されたことは想像に難くない。 はたして日中戦争の開始後、共産党は国民政府の行政機関が消滅した(地方官吏が逃亡したのである)広大な農村部に楽々と浸透した。大都市を占領した日本軍は、都市住民のために食糧を確保しなければならなかった。しかし従来の食糧流通の仕組みは、国民政府の地方行政機関の崩壊とともに消滅していた。 その結果、日本軍は農村から食糧を徴発せざるをえなかったが、この行為が華北(北中国)の農民の大きな反発を惹起した。これに対し共産党は、農民からの食糧徴発を極力押さえ、農作業などへの協力と治安維持の役割を通じて、農民の支持を獲得する。そして八年間の日中戦争中に、人口約一億人を擁する勢力圏を作り上げたのである。この巨大な勢力圏が、日本降伏後に再会された国共内戦において、共産党が勝利する決定的要因となった。この間の詳しい経緯は、北村稔・林思雲『日中戦争―戦争を望んだ中国、望まなかった日本』(PHP研究所、2008年)を参照していただけると幸甚である。 ただ実際には日中戦争中から、共産党の支配地域拡大をめぐり国共間の対立が高まっていた。そして日中戦争開始3年半後の1941年1月に、安徽省では蔣介石の命令に違反して勢力圏の拡大を図った理由で、共産党の新四軍が国民党軍に包囲攻撃され壊滅する事態が発生した。国民政府はこの事件をきっかけに共産党に支給していた軍費を打ち切り、国民政府軍は陝西省の延安一帯を経済封鎖する。これに対し共産党は、軍隊を農業生産に大動員して延安の根拠地を持ちこたえる。 日中戦争は、太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発により転機を迎え、中国は米英を中心とする連合国の一員となった。重慶の国民政府は真珠湾攻撃の翌日の1941年12月9日に、宣戦布告なき戦争を改め、日本に宣戦を布告した。これにより日中戦争における中華民国の勝利は保証され、中華民国は国際的地位を一気に向上させる。蔣介石は連合軍中国戦区最高司令官に任命され、中国だけでなくタイとベトナムの連合軍部隊を指揮した。新国家建設の青写真 日中戦争中の中国では、国民党と共産党のいずれが日本敗戦後の国内政治の主導権を握るかをめぐり、熾烈な戦いが繰り広げられていた。そして国民党が従来の政治路線を踏襲して勢力温存を図ったのに対して、共産党は新しい政治理論と社会的基礎を構築し、国民党に対抗した。新しい政治理論は1940年に発表された毛沢東の「新民主主義論」であった。 共産党は1937年9月の宣言で、国民党の指導のもとに抗日戦争を戦い、三民主義の実現のために奮闘すると述べていた。しかしこれは国民党の政治理論に従属し続けることを意味しており、共産党には、抗日統一戦線の枠を破壊しない範囲内で新しい政治理論を提示する必要があった。この作業はすでに1936年中に開始されていたが、「新民主主義論」の出現により完成される。「新民主主義論」は巧みな政治理論であった。国民党の政治原理である孫文の三民主義を新旧二つの三民主義に分断し、蔣介石たち国民党指導部は旧三民主義にとどまる存在にすぎず、共産党こそが孫文の新三民主義を継承し発展させる存在だと主張した。「新民主主義論」は、マルクス主義を基礎に歴史を分析し、中国は1919年の五四運動を境に「新民主主義革命期」(新しい民主主義革命の時期)に入り、中国革命の指導勢力も民族ブルジョアジー(国民党がその代表である)からプロレタリアート(共産党がその代表である)に移行したと主張した。そして孫文に対する批判姿勢を一変させ、孫文を新しい歴史段階への橋渡しを演じた人物として積極的に評価した。 事実として孫文は、ソ連との連携、共産党員との協力、労働者と農民への援助、という三つの新政策を基礎に第一次国共合作を決意したが、これは旧来の政治主張である「旧三民主義」が、新民主主義革命期の「新三民主義」に移行した結果であると主張したのである。ちなみに孫文は第一次国共合作中の1925年に逝去していた。 共産党の新しい政治理論に対し、蔣介石は1943年に「中国之命運」を発表し、孫文の三民主義に変化はなく、国民党が革命の指導勢力であり、今後も国民政府が国家の中核であると反駁していた。しかし共産党は、「新民主主義論」により、社会主義革命に必ずしも賛成しないが、国民党の一党独裁には反対する第三勢力(民主党派とよばれた)と連携し、地方軍閥を含む国民党内の反蔣介石派を味方につけることに成功する。 共産党は1945年4月、各党各派を基礎とする民主連合政府の樹立を提案する。そして「新民主主義論」と連合政府の樹立を掲げて国民党との内戦に勝利し、1949年には中華人民共和国を樹立した。 国民党内の反蔣介石派の人々は、内戦の帰趨が決まった1948年1月に孫文夫人の宋慶齢を名誉主席とする国民党革命委員会を組織し、他の民主党派ととともに、中華人民共和国の成立に参画した。宋慶齢は国家副主席(主席は毛沢東)に選出され、民主党派からも数人が国務大臣に就任した。しかし新国家が共産党の独裁であることは自明であり、民主党派は1956年の「反右派闘争」で少数の人物をのぞき一掃される。ちなみに民主党派は現存する。そして、中国人からは「花瓶」とよばれている。 三民主義のもう一つの精神である民生主義(経済的不平等の改善と社会福祉の充実)についても、都市部と農村部のすさまじい経済格差を許しながら経済発展を遂げてきた改革開放後の歴史を考えると、中国共産党の本心からのスローガンであったとは思えない。「新民主主義論」もまた、「抗日」とともに党の政治的利益を得るための虚言だったのである。北村稔氏(きたむら・みのる) 昭和23(1948)年、京都府生まれ。京都大学文学部卒業、京都大学大学院博士課程中途退学。三重大学助教授を経て現職。中国近現代史専攻。法学博士。著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探究』(文藝春秋)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP研究所)など。関連記事■ 日本の“孤島化”を目論む中国■ アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略■ 「超限戦」目に見えない戦争はもう始まっている
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テーマ
日中戦争(シナ事変)の真犯人
第二次世界大戦後70年が経っても「侵略国家」との烙印を押されたままの日本。近年では対米英戦を「侵略戦争」だと主張する向きは少なくなったが、中国大陸は「日本が侵略した」との声は今なお根強い。だが、日本は本当に中国侵略を望んでいたのだろうか。日清戦争以後の中国大陸で、何が起きていたのか。
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国共合作・内戦の背後で蠢いた「赤色謀略」
日中共同防共戦略vs東アジア赤化戦略 大歴史(文明史)から見た日中関係は、衝突の必然性はそれほど高くなかった。たしかに白村江の役や元寇、倭寇、豊臣秀吉の征明があり、開国維新後には朝鮮半島を巡る対立と、その結果としての日清戦争はあったものの、千数百年の間でわずかこれくらいだ。 その日清戦争でさえ、それが終わったら、中国では日本の近代化に学ぶ戊戌維新や、同じく日露戦争後の改革開放運動なども行われている。開国維新後の日本では、「アジアの悪友どもとの交遊謝絶」との脱亜論があった一方で、アジアの覚醒と連帯を目指す大アジア主義もあり、中国もそれに共鳴、呼応していたわけだ。 このような日中蜜月の時代を経て、両国関係に齟齬が生じ始めたのは、袁世凱時代の所謂「二十一ヵ条要求」(1915年)や段祺瑞時代の「五・四運動」(1919年)以降になってからだ。そして対立はだんだんと拡大し、満州事変、支那事変へと突入して行った。 しかし「二十一ヵ条要求」以降の日中間の齟齬の原因は、日本と言うより中国の国内問題にあった。そもそも中国は政治が不安定な国である。この中華民国時代は、かの五代十国時代以上に混乱していた。政府はいくつも存在し、一つとして対外的に一国を代表できるものはないばかりか、抗争は絶えることはなく、ほとんど国家の体をなしていなかった。 そのような騒乱のカオス状態のなかにソ連の勢力が入り込み、コミンテルンやスターリンの操りで排日、抗日運動が激化し、日本を翻弄したのだった。 もともと開国維新以前から、日本にとっての最大の脅威の一つは、東アジアへ南下しようとするロシアだった。だから維新後の大日本帝国の歴史は恐露から出発し、日露戦争で一度はクライマックスを迎えた。その後ロシア革命が起こり、再びロシア(ソ連)は南下の勢いを見せた。これが東アジア赤化の脅威である。かくして日本では軍事とイデオロギーが一体となった脅威論が醸成され、「防共」と言うソ連との軍事的対立が国防上の至上の課題となった。 日露戦争以降の日本の国家戦略は、主に対ソ戦を想定しており、陸軍は主力を関東軍に投入してソ連軍の侵攻に備えた。そして日独防共協定、日独伊三国同盟も締結したものの、そのために米英との対立が深まり、日本は突如、北守から南進へと戦略転換し、支那事変から大東亜戦争へと戦火は拡大した。アメリカが対日戦争を決意した背景には、スターリン指導のコミンテルンによる策謀があった。また日本の側でも共産主義者の開戦誘導の謀略があったことは、三田村武氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に詳しい。 さてその間、日本が立てた目標は中国との「共同防共」だった。満州事変、支那事変が始まっても、日本によるこの日中連帯の呼びかけは続けられた。つまり「共同防共」の実現が日本の最も望むところであって、ソ連の脅威を前に、中国などと戦っている余裕などなかったと言うのが実情だった。 つまり「日中戦争」なるものの実態は、日本が中国の挑発に振り回され続けていたと言うものだ。だからこそ日本の政府も軍部もあれほど、いかに戦争を回避するか、いかに戦争を終結させるか(和平を結ぶか)で悩み続けていたのである。 もちろん日本だけでなく、それと近いような悩みは蒋介石も汪兆銘も抱いていた。ことに汪兆銘は日中全面戦争の最中、最も憂慮したのは戦争に乗じて共産党が勢力を拡大することだった。だから彼は重慶政府と袂を分かち、南京政府を樹立して日本と和平を結び、「共同防共」に乗り出したのだった。実際汪兆銘の憂慮は的中し、蒋介石は日本には勝利したものの、それですっかり戦力を消耗し、他方「全力の七分を党の発展に、二分を国民党との対抗に、一部を抗日に」との毛沢東戦略でやってきた共産党は、それとは逆に勢力を広げたのだった。もちろんこの共産党とは、東アジア赤化のためのソ連の傀儡である。コミンテルンの陰謀に対処できなかった日本 中国人は偽書「田中上奏文」を日本の中国侵略の証拠とし、日本の「野心」「陰謀」だけに日中戦争の原因を求めようとする。こうした日本侵略史観は日本でも横行したが、いまでは教科書に名残をとどめている以外には、ほとんど退潮しているようだ。 支那事変にまで至る民国以降の日中間の齟齬の背景に、日中を離間させようとした米英の国家戦略、世界戦略があり、日本がそれに乗せられたとする説は、とくに保守派学者の間でよく見られるが、日中戦争の原因については、少なくとも次の三つを挙げなければ何も語れないだろう。 時間的順序に従って言えば、(1)民国の内戦、(2)コミンテルンの陰謀、(3)日本の対応の不得手だ。 (1)については、辛亥革命(1911から12年)で中華民国が樹立されて清帝国は崩壊したものの、孫文の南京臨時政府も、それに次ぐ袁世凱の北京政府も国家統治に失敗し、そのため南北対立、各省、各地の対立が深まって多政府状態となり、中国史上空前のカオス状態に陥った。それらの対立は北京政権を巡る北洋軍閥の内戦、南方の広州政権を巡る革命派、軍閥の内戦、湖南・湖北間での連省自治派と統一派との内戦、広西・広東間での内戦、北方軍閥と南方革命派との間の北伐と南征、さらには国民党内での軍の実力者同士の抗争、戦争があり、そして西安事件まで続いた熾烈きわまりない第一次国共内戦もあった。 各派武装集団の抗争は、省レベル、県レベル、村レベルにまで及び、たとえば辛亥革命以降の約20年間で、四川の一省だけで軍閥内戦は五百回も発生した。そのほか匪賊が跋扈し、その数は2000万人にも達していたと推定されている。国民党の内部諸勢力間の内戦である中原大戦では、百五十万人もの兵力が動員され、30万人もの死者を出している。 たしかに蒋介石は1928年、北京政府を打倒して北伐を完了し、国家権力を掌握しつつあったが、なお蒋介石系以外の各武装勢力に号令するまでの力はなかった。 このような中華民国内の混乱こそ、日中戦争を醸成した温床と言うことができるだろう。 (2)のコミンテルンの工作については、戦後の日本ではあまり語られていない部分だが、1921年のコミンテルン指導下における中国共産党の創立から、国共合作、国共内戦、そしてコミンテルンの解散に至るまで、中国の排日、侮日の運動、事件の背後には、コミンテルン=スターリンの謀略が見え隠れしていた。もちろんコミンテルンは中国だけに限らず、日本、アメリカ等各国の政界で暗躍をしていた。 (3)については、たとえば盧溝橋事件から終戦に至るまで、日本はあらゆる手を使って和平交渉を試みたものの、すべてに失敗している。近代中国の争乱の元凶は孫文 近代中国の争乱と悲劇の元凶のすべては「中華民国建国の父」「中国近代革命の父」などと讃えられている孫文だと指摘する人は実に少ない。しかしこうした認識がない限り、近代の中国史、日中関係史は正しく語れない。 もともと日本人の支持、支援、援助、指導あってこその孫文の革命運動だったが、辛亥革命後は自分中心の政権を樹立するまではと、延々と革命闘争を続け、そのおかげでこの国の争乱は拡大し、挙句の果てには日本を裏切ってコミンテルン幕下に入り、その指導の下で国共合作を行い、やがてそれが元で国共内戦が発生したと同時に、排日、侮日の嵐が巻き起こったのだ。 孫文が革命を指導して中華民国を樹立したと言うのは国民党のデッチ上げである。孫文が指導したと言う華興会、光復会、興中会三派の連合体である革命同盟会は、宮崎滔天、内田良平ら日本のアジア主義者の斡旋、支援の下、東京で発足したものだったが、発足後は孫文の革命路線、革命資金濫用の問題で空中分解した。 そして辛亥革命は反孫文系の人々により偶発的に始まった。当時孫文は追放の身としてアメリカで隠居生活を送っており、まったく関与していなかった。ただ革命後の臨時政府の発足にあたり、臨時大総統には国際的に知られていた孫文以外に適任者がいなかったため、帰国した彼が一時的にその地位には就いた。だが財政資金は集まらず、各省の革命基地も維持できず、そして列強からの政府承認もえられないので、それから3ケ月未満で孫文は、周囲からの反対を押し切り、革命の敵である北京政府最大実力者、袁世凱を「中国のワシントン」と讃え、政権を譲渡し、自らは袁世凱初代大総統の下の鉄道部長となり、美女を連れて西太后の特別列車に乗り、全国周遊の旅に出ている。 やがて袁世凱による国民党党首の宋教仁の暗殺や帝制復活を受けての反袁気運が高まると、孫文はそれに乗じて第二革命(1913年)に参加したものの、敗れて東京へ亡命。第三革命(1915年)の雲南蜂起ではまったく蚊帳の外。第三革命は袁世凱の死去で終焉したが、孫文はまったく自分の出番がないため、南方の地方軍閥を誘っては内戦を引き起こし、三度にもわたって広州軍政府を作り、北京政府に対抗した。かくして中国は五代十国以上に混乱した多政府状態となった。 孫文は軍事力もなければ政治資金もない一介の「革命浪人」だから、日本など外国以外には、いつも軍閥頼みだった。たとえば広東で3度目の軍政府を作るにあたっては、「客軍」と言われた全国各地の軍閥、匪賊などの武装集団を誘い込んでいる。そのため現地の政府各機関は軍閥に占領され、住民は略奪を受け、理不尽な重税を課せられた。孫文は抵抗した広州の商団の武装組織との抗争で、住民大虐殺も行っている。 私は魯迅の『阿Q正伝』の愚かな主人公阿Qは、孫文がモデルではないかと考えている。それについては拙著『中国が葬った歴史の新・真実』(青春出版社)で詳述している。国共合作が行われた裏の理由 中華帝国建国の父である始皇帝と、中華人民共和国の父である毛沢東は、いずれも実力で天下を統一し、国造りに成功した。しかし孫文はそれらとまったく逆だ。彼が中華民国の「国父」と呼ばれるのはなぜか。それは日中戦争中に汪兆銘が、もう一つの中華民国政府を南京に作る政略に危機感を抱いた蒋介石が、自らの正統性を裏付けるため、勝手にそのような祭り上げをしたからだ。 孫文は辛亥革命以前、十回蜂起を行ってすべてに失敗し、その後の第二革命も三度の革命軍政府もみな失敗している。そのため「失敗の英雄」と呼ばれ、彼自身も遺言の中で「革命未だ成功せず」と言い残して死んでいる。彼が参加しなかった辛亥革命や第三革命だけが成功したことから見ても、結局は疫病神のような存在だったのだ。 この孫文が晩年、いかにしてソ連に接近したのだろうか。孫文は北京政府を不満として広東政府を作り、「こちらが正統な中華民国政府だ」と主張したものの、辛亥革命前のように日本の官民や欧米からの支援も受けられず、孤立無援の状態に陥った。レーニンに抱きついたのはそのためだ。 当時孫文は、「仏、米の共和国は旧式であり、ただロシアだけが新しい。吾人は本日より最新の共和国を作る」とまで表明している。 もちろんこのソ連への接近には、ロシア革命からの影響もあった。1917年にその革命が成功すると、「新しい共和国は中国のよき隣人となった」「ロシアは専制から共和国に代わったのは、中国の影響だ」と勝手に思い込んでいる。 中国に反帝国主義の親ソ政府を築きたかったソ連にとっても、北方の最大実力者である呉佩孚、あるいは軍の実力者である馮玉祥よりも、孫文が一番手懐けやすかった。かくして工作対象は孫文に絞られた。 1921年、レーニンの秘書マリーンの指導の下、上海で中国共産党が発足した。同党の当時の二大指導者は陳独秀と李大ショウだった。この年12月、マリーンは広西省桂林で孫文と会って工作を行った。これを受け孫文は「中国革命はソ連を鏡にするべきだ」と主張し始めた。22年8月にはマリーンから国共合作を提案され、孫文はソ連からの武器援助を交換条件に、それを受け入れた。12月、孫文とソ連の代表ヨッフェとの間で、ソ連と国民党の提携が決まり、その結果出されたのが23年1月の「孫文・ヨッフェ宣言」である。 中国共産党が強調する孫文の「連ソ・容共・扶助工農」への路線転換が行われたのはこのときだ。 23年12月、国民党政治顧問として派遣されたボロディンから孫文は、「国民党は組織と規律が不完全で、大衆組織を持たず、官僚、投機主義者だらけだ」と指摘された上で、「全革命勢力を国民党に参加させよ」と勧告された。そこで孫文は国民党を改組し、反帝国主義、反軍閥の主張をより明確化させた。 もともと国民党の組織はきわめて杜撰で、党首の孫文ですら党員数を把握していなかった。党費もなく、架空に近いマフィア組織だったが、このようにして革命政党として再生したのである。国民党に寄生して拡大した共産党 1923年1月、孫文とヨッフェの間で取り決められた「連ソ・容共」という国共合作の党策に対し、国民党内では大勢の幹部が反対し、党首の独断が非難された。しかし孫文は「党を解散しても、一人でも共産党に入る」と怪気炎を上げ、恫喝した。 発足したばかりだった共産党にしても、国共合作には反対だった。総書記の陳独秀などは、「共産党を創設したのは、孫文の旧式革命を否定するためだ」とし、「コミンテルンの指導は受けない」とまで言って激怒した。反対意見はその後の党全国代表大会でも続出、孫文が北方軍閥の張作霖、段祺瑞らと軍事同盟を結び、日本帝国主義の援助を求めたことに激しい非難が集まった。だが最終的には国共合作を受忍した。党の経費はすべてコミンテルンから提供されていたから、その指示には従わざるを得なかったのだ。 国民党が国共合作によって得たものは少くない。その一つは従来の伝統的チャイナ・マフィア組織から、ソ連式の近代的革命政党にのし上がることができたこと。もう一つは武力と言えば地方軍閥、匪賊、マフィアを頼みにするばかりだったのが、ソ連の赤軍制度が導入されて黄埔軍官学校が作られ、自前の軍隊が持てるようになったことだ。 蒋介石は軍官学校校長を経て武装集団のボスとなり、孫文死後は党内の群雄との抗争を勝ち抜き、実力者として擡頭している。 一方、共産党も大きな利益を得た。なぜなら国民党に寄生しながら革命勢力として発展することができたからだ。共産党は国民党に寄生しながらも国民党と抗争し、国民党が二つに分裂すれば、それらと三つ巴の戦いを演じた。混迷した情勢の中で、国民党左派の廖仲凱の暗殺、汪兆銘を首班とする武漢政府と蒋介石を主席とする南京政府の対立など、さまざまな事件が起こっている。仕組まれた北伐軍の日本領事館襲撃事件 1927年、北伐中の国民革命軍が南京入城の際に発生したのが「南京事件」である。それは中国による反日歴史捏造の最大ヒット作である「南京大虐殺」とは関係のない、実際に起こった日本の領事館と居留民に対する狂気の襲撃事件だ。 この北伐戦争という中国内戦に対し、日本や英米など各国は中立の立場をとっていた。だが北伐軍が南京に迫ると、英米は日本に共同介入を要請した。ところが当時の日本は、対中宥和の幣原外交の時代であり、幣原外相はそれを拒否した。 ただ中国内戦において略奪は兵士の慣習だったことから、日本の南京領事館は居留民保護のため揚子江を哨戒中だった海軍の駆逐艦に警備を要請した。居留民もまた戦闘に巻き込まれるのを恐れ、領事館に避難した。当時そこを警備していたのはわずかに荒木大尉率いる水兵11名だった。 3月24日午前7時、北伐軍は日本領事館に突入、兵士は居留民に対し略奪と暴行を加えた。そのほかドイツ、ソ連の領事館を除く各国の領事館も被害を受けた。 日本領事館では前日のうちに、正門前には荒木大尉らによって土嚢と機関銃銃座が備えられたが、森岡領事は「北伐軍を刺激してはならない」とし、武装を解除して完全無抵抗の姿勢を見せた。そしてこの無防備さのために、ここは簡単に兵士の餌食となった。 かくして南京にいた500人以上の日本人居留民は全員、北伐軍の暴行や略奪を受け、そのうち1人が殺されたのだ。 その後、英米の海軍が南京城を砲撃したので(日本は本国の指令により砲撃できず)、日本海軍の決死隊が午後四時になって領事館に到着、居留民を救出して砲艦へ避難させた。日本国民は激怒し、政府の責任追及の声が上がった。ところが外務省は事件の経緯を隠蔽した。荒木大尉は引責自決している。 そして中国側はこの事件を通じ、日本が意外にも与しやすいことを見出し、排日、侮日の気勢はますます高まった。 この事件に関してはさまざまな説があったが、コミンテルンの陰謀説が有力だ。 のちに張作霖の北京政府がソ連領事館を捜索したところ、クレムリンからの指令文書が見つかったのだ。そこでこの事件で領事まで殺されかけたイギリスなどは、ソ連と断交までしている。 南京以外でも漢口、蘇州、鎮江、杭州、蕪湖、九江、南昌でも国民革命軍による略奪、虐殺が行われているが、そのあたりは『もうひとつの南京事件』(田中秀雄編・芙蓉書房)が詳しい。 4月、田中内閣が発足し、田中首相が外相を兼任した。11月、訪日中の蒋介石は田中首相と会見、北伐軍への共産党員の潜入についての憂慮を述べた上で、ソ連が中国に干渉する以上、日本も干渉援助を行って欲しいと、本心を漏らしている。中国人の残虐性のシンボル-済南事件と通州事件 1928年5月、北伐軍は2000人余の日本人が住む山東省済南に進撃、日本は第2の南京事件を防ぐため、現地へ派兵した。やがて中国軍からの挑発で、日中両軍は市内で交戦状態に入り、その間、中国兵は再び略奪、暴行、虐殺に狂奔、それに対して日本軍は居留民保護で奮闘した。だが日本居留民は死者十数名、暴行を受けたもの三十余名、凌辱された女性2名に上った。 そしてその殺され方があまりにも惨すぎた。南京駐在武官の佐々木到一中佐の手記によると、手足を縛られた上で頭部をかち割られ、あるいは滅多切りにされていたり、婦人は全員陰部に棒が挿入されていたり、あるいは焼かれていたりで「酸鼻の極」だったと言う。済南病院が行った検視結果を見ても、男根切断、内臓引き出し、滅多刺しの跡…と、その手の込みように、兵士たちがいかに虐殺を楽しんでいたかがわかる。 日本人大虐殺は、盧溝橋事件直後の1937年7月29日にも起きている。北京の東の通州における通州事件である。通州は殷汝耕が蒋介石の南京政府から独立して作った親日政権、冀東防共自治政府の首都で、そこには1万人を超える保安隊が置かれていた。ところが保安隊は早くから二十九軍や共産党と繋がっており、早くから日本人襲撃の計画を持っていた。そして盧溝橋事件が起こると、南京放送が流した「盧溝橋で日本軍が二十九軍に惨敗。二十九軍は冀東を攻撃する」とのデマを鵜呑みにし、日本の守備隊主力が戦闘に出動中であることに乗じ、千数百人が日本の100人余の留守部隊と居留民を突如襲撃した。 留守部隊は応戦するので精一杯で、その間に居留民に対し、その家屋を焼き払い、略奪、暴行、凌辱、虐殺をほしいままにしたのだ。居留民380名の内、殺害された者は実に260名。ここでも殺害の手口は残虐きわまりなく、役所の職員はすべて首に縄をかけて引きずられた後に殺害、14、5歳以上の女性は全員が強姦された上で殺害、もちろん殺害方法は済南事件のように猟奇的で、人間業とは思えないものだった。 これら事件を通じて日本の軍民は中国人の残虐性に驚愕し、激昂し、そして「暴支膺懲」(暴戻なる支那を徹底的に懲らしめろ)を合言葉にするに至ったのだ。西安事件で日中戦争への道を開いたコミンテルン 中国の排日、侮日、仇日運動が始まったきっかけは、「二十一ヵ条要求」、あるいは「五・四運動」であるが、その背景には当時の中国のナショナリズムの擡頭があった。このナショナリズム擡頭は、各政府、各派各系の武装集団の勢力の消長、思惑などと連動するものだった。つまり中国人の排外、ことに反日は、主に各勢力が反政府、反中央の手段として煽り、利用したものだった。国民党の反蒋介石の武装勢力や共産党にとっては、蒋介石打倒のための梃子だったわけだ。 そうしたなかで、日中戦争に至るまでの間、反日、排日の謀略を仕掛け続けていたのがコミンテルンである。 コミンテルンは共産主義インターナショナル、あるいは第三インターナショナルと言われ、ロシア革命後の世界共産主義運動、労働運動の総本山として、1919年3月、モスクワに設立された。そして第二次世界大戦中の1943年5月にその使命を終えるまで、ずっと中国共産党を指導し続けた。もちろん日本打倒の総司令塔でもあり、中国の反日、仇日事件の背後にはたいていコミンテルンの影が見られた。 コミンテルンは中国共産党創設から国共合作までの間、中国に強い指導力を発揮していた。国共合作後、徐々に軍の主役として擡頭しつつあった蒋介石にしても、中山艦事件、上海での共産党員粛清、寧漢分裂など、コミンテルンとの不和事件は後を絶たなかったが、それでも彼の軍事作戦の背後には、つねにコミンテルン派遣の軍事顧問団がいた。ちなみに蒋介石がドイツの軍事顧問団に切り替えるのは国共内戦になってからだ。そして日独伊三国同盟後は、アメリカの顧問団がそれに代わった。 1927年、国共内戦に突入するとコミンテルンは、中国共産党の中華ソビエト政権の樹立や紅軍の作戦、そして反日排日運動を指導し続けた。1935年1月の遵義会議で毛沢東が軍の指導権を掌握したとは言われるが、それでスターリン=コミンテルンの影響力が失われたわけではない。1935年の第7回大会では、抗日人民戦線運動を起こすよう命令し、それ受けて中国共産党は同年8月1日、「抗日救国宣言」(「八・一宣言」)を行っている。 1936年12月の西安事件から、それにともなう国共の再合作に至るまでの「逼蒋抗日」(蒋介石に抗日を迫る)は、スターリンの命令によるものである。 共産党殲滅まであと一歩の段階にあった蒋介石を監禁し、共産党討伐から一致抗日へと転換させた西安事件は、討伐軍の副司令官で、反日、恐共の張学良が起こした兵諫事件だった。蒋介石捕獲の報に毛沢東以下の共産党幹部は驚き、狂喜し、そして蒋介石を殺害して西北防衛政府を樹立し、国を挙げての抗日戦争に持って行こうと考えた。ところがソ連は、中国に対日戦争をやらせるためには、まずは内戦を停止し、全国を統一させることが不可欠であるが、それができるのは蒋介石以外になく、また蒋介石を殺害しようものなら、国民党は復讐に燃え、日本と共同防共の条約を結びかねない。そこでスターリンは「蒋介石を釈放しろ。さもなくば中共とは絶縁する」と命令したのである。 ソ連に挑む力など、中国共産党にはまだなかったのだ。嫌がる日本を戦争へと引っ張り込んだ中国 1900年の北清事変(義和団事件)後、講和の議定書(辛丑条約)に基づいて、現在のアフガニスタンやイラクのごとく、自力では国内の治安維持ができなかった中国に、日本や英米仏伊などの各国が駐留軍を派遣し、居留民の保護に当たった。 その日本の駐留軍である支那駐屯歩兵旅団第一連隊第三大隊第八中隊は1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近での夜間演習中、後方から突然数発の銃撃を受けた。そのとき兵士1名が行方不明となったが無事が確認され、7月8日払暁になり、再度中国軍側から射撃を受けたため、牟田口廉也連隊長が断固応戦した。 この衝突は11日、日中双方との間で停戦協定が調印された。中国軍は最初の数発は自分たちのものではないと主張し、日本軍に遺憾の意を伝えた。日本軍は中国軍が責任者を処分することを条件に、盧溝橋から撤兵した。だが中国軍はその後も、たびたび停戦協定を破り、日本軍への挑発攻撃を続けたため、いよいよ27日になり、日本軍は開戦を通告して攻撃に移った。 この日中戦争の引き金となった盧溝橋事件について、日本政府は7月11日、「北支事変」と命名。8月、上海で中国軍の日本軍攻撃が始まって第二次上海事変が勃発。 中国軍はすでに前年末から上海での非武装地帯に陣地を構築し、盧溝橋事件以降は中央軍をそこへ集中させ、日本の陸戦隊を挑発した。そして13日、中国軍が先制攻撃を開始。14日には上海市街(外国租界も含む)と日本の艦隊を爆撃。これを受け、ついに日本軍も渡洋爆撃を行い、全面戦争へと引きずり込まれた。この中国側の動きの背後にも、国民党軍に潜入した中国共産党工作員の動きがあった。 かくして9月2日、日中の戦争は一括して「支那事変」と改称された。結局日本は正式な宣戦布告をせず、蒋介石政権も行わなかった。日本は事態の不拡大方針をとり、平和交渉を求め続けていたものの、不本意ながら泥沼の戦争に引きずり込まれて行ったのだった。 さて盧溝橋事件を巡って最も論議されたのは、最初の数発を撃ったのが日本軍と中国軍のどちらであるかという問題である。中国は一貫して、日本軍は行方不明の兵士捜索のため発砲してきたと主張してきたが、日本では最近すでに中国共産党の陰謀説が定着している。真犯人は宋哲元指揮下の国府軍第二十九軍に潜入していた張克侠副参謀長以下、多数の中国共産党員だったとの説、あるいは劉少奇の差し金とする説(劉少奇自身がそう語っていた)などがある。 当時の興亜院政務部の極秘文書によると、コミンテルンは盧溝橋事件を受けて、「あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突にまで導かなければならない」などとする中国共産党宛ての指令を事件翌日に出した。 これを受け中国共産党は、すぐに開戦通告を打電しているから、まったく手際がよすぎる。 コミンテルンと中国共産党が、嫌がる日本軍に無理やり始めさせたのが支那事変なのである。日本がなぜ「謝罪と反省」をしなければならないのか、まったく理解できない。本当の被害者は日本だった 日中戦争-支那事変は、日本の軍部の暴走がもたらしたとの見方が日本でも定着しているが、それは非常に一方的な偏見、独断である。 日本の支那事変以前の対中国政策は、もとは幣原外交に代表される不干渉の宥和政策である。しかし中国の排日、侮日運動はかえってそれによって助長されただけでなく、中国内部の矛盾の深化とともにますます激しくなり、日貨の排斥、不買運動から、日本人居留民の虐殺までを引き起こしているわけだ。 それに対して日本軍部は暴走どころか自制をしていたことは、支那事変勃発後の不拡大原則を涙ぐましいまでに遵守する姿勢を見れば理解できるだろう。 もっとも日本の世論は、中国の挑発、同胞虐殺事件を受け、支那膺懲を求める声が高まり、それは国民の総意と言っていいほどのレベルに達した。そのころの反中国意識は、2004年のサッカーアジア杯や2005年の反日愛国デモに対して醸成された、今日の嫌中気分の比などではないことは、良識ある人ならわかるだろう。 しかしそれでも日本政府は不拡大方針を堅持し、あるいは和平交渉を終戦まで何度も試み、国会で「今度の戦争目的は」と質問されても、何ら具体的な回答を出せなかった。なぜかと言えば、あの戦争が中国の挑発に対する自衛の戦争だったからだ。 日中間の戦争において、日本は明らかに被害者だったのだ。 民国樹立から終戦に至るまでの間、中国は多政府の混戦状況から、一日たりとも抜け出すことはできず、そのカオスに日本は引きずり込まれたわけである。 日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府、アメリカが支援する重慶政府、ソ連が支援する延安政府の三つ巴の内戦の様相を呈していた。そのなかで日本は南京だけでなく、重慶に対しても、内戦の早期終結と、「共同防共」との希望を捨てなかった。 日中戦争の本質を客観的に言うならば、中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入だったと言うことができるだろう。 だがそれに対してスターリン=コミンテルンは、何としてでも日中戦争の長期化で国民党と日本を弱体化させ、共産党の拡大と日本のソ連攻撃の阻止を行い、中国で、そしてうまくいけば日本でも、共産政権を樹立させようと狙っていたのだ。マッカーサーが朝鮮戦争を経て、日本が中国で戦っていたのは侵略ではなく防共の戦いだったと悟った話は有名だ。【注】李大ショウのショウは金へんにりっとう黄文雄昭和13年(1938年)、台湾高雄県生まれ。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。同61年に台湾で地下出版された『中国之没落』(新台政論社)は大反響を呼び、反体制運動家の必読書に。中国を批判し日本を激励する言論を展開。著書は『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』(徳間書店)『大日本帝国の真実』(扶桑社)『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワック)『日本人なら知っておきたい中国の侵略の歴史』(宝島社)『終韓論』(ベストセラーズ)など多数。関連記事■ 歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」■ 左翼たちの異様な喜びはキモくないか■ なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか
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盧溝橋事件、日本軍からの発砲はあり得なかった
長澤連治(元支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第二小隊第二分隊長)聞き書き・構成/解説 江崎道朗(評論家)いまなぜ「盧溝橋事件」か靖国神社参拝を終え、本殿をあとにする小泉純一郎首相(中央)。現職首相として21年ぶりの終戦記念日参拝を果たした=2006年8月15日(古厩正樹撮影) 首相(編注:小泉純一郎元首相)の靖国神社参拝をめぐる日中対立の背景には、言うまでもなく昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる支那事変(日中戦争)がある。この日中間の戦争責任はすべて日本側にあるというのが一般的な見方だったが、アメリカ、旧ソ連、台湾などの機密文書の相次ぐ公開によって通説の見直しが始まっている。当然のことながら盧溝橋事件もまた見直しの対象に入るべきだ。 そもそも中国大陸に日本軍がいたこと自体が問題だと批判する人もいる。確かに中国政府の了解なく日本軍が中国大陸に侵攻し駐留したならば、そうした非難も甘受すべきだが、少なくとも盧溝橋事件前の日本軍については、そうした批判は当たらない。 日本軍駐留のきっかけとなったのは、1900年、宗教・政治結社である義和団が、外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃したことであった。時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど11カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。そして翌1901年、各国政府は清国政府と「北清事変に関する最終議定書」を結び、首都の北京に列国公使館区域を設定する(第7条)とともに、中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における無期限の駐兵を認めさせた(第9条)のである。 更に同議定書の「交換公文」において、各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。 このように中国政府との合意に基づいて各国は、北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、イギリス軍1000名、アメリカ軍1220名、フランス軍1820名、イタリア軍300名であった。居留民が3万3000人に達していた日本の場合、約5600人が駐留していた。 当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約4キロに位置する豊台(ほうだい)に駐屯地(=基地)を置いていた。この第三大隊第八中隊の133名が7月7日深夜、盧溝橋周辺の永定(えいてい)河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、翌日の午前3時25分頃、3回目の実弾射撃を受けた。 3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、8日の午後3時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(苑平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた。 しかし、中国側は25日に北平東方の廊坊駅付近で、26日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに29日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(1935年12月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである。 ところが、中国共産党政府の歴史教科書では、「最初の一発」にも、停戦協定後に中国側が「廊坊事件」や「通州事件」といった軍事的挑発や在留邦人に対する組織的大量殺害事件を起こしたことにも全く触れておらず、あたかも日本軍側が一方的に戦争を仕掛けたかのように描いている。 一九三七年七月七日夜、日本侵略軍は北平西南の盧溝橋に進攻し、長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した。(中略) 七日夜、日本軍は盧溝橋北側で盧溝橋進攻を目標とした軍事演習を行った。彼らは一人の兵士の失踪を口実に、苑平県城に入って捜索することを理不尽に要求、中国守備軍に拒絶された。日本軍はすぐさま苑平県城に向けて攻撃を開始した。(中略)双方は盧溝橋で争奪を繰り返した。ほどなくして、日本軍は大量の援軍を集合させ、北平、天津に向けて大規模な進攻を開始した。初級中学用『中国歴史』人民教育出版社出典・日本政策研究センター『ここがおかしい中国・韓国歴史教科書』中国・北京郊外の「中国人民抗日戦争記念館」 教科書だけではない。盧溝橋周辺には、中国共産党政府の「愛国主義教育基地」、すなわち「反日教育基地」の総本山「中国人民抗日戦争紀念館」があり、「南京大虐殺」「三光作戦」など、でっちあげられた日本軍の「蛮行」をモチーフとした巨大なモニュメントが無数に並ぶ公園も整備されている。いわば日本の「原罪の地」として位置づけられているのである。 この中国共産党政府の歴史観の影響なのか、我が国の中学校の歴史教科書も、誰が「最初の一発」を撃ったのかを曖昧にしたまま、全体の文脈から日本軍が仕掛けたかのような印象を抱かせる記述となっている。 満州を支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入し、一九三七年七月七日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。東京書籍『新しい社会 歴史』平成16年発行 一九三七年七月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針がまとまらないこともあって戦火は上海にも広がり、宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。大阪書籍『中学社会 歴史的分野』平成16年発行 では、どちらが戦争を仕掛けたのか、言い換えれば、誰が「最初の一発」を撃ったのか。この問題について財団法人偕行社の協力を得て今回、盧溝橋事件に立ち会った長澤連治元伍長から新たな証言を得ることができた。夜間演習を行った第八中隊第二小隊の第二分隊長として盧溝橋事件に遭遇した長澤元伍長は、「日本軍が最初の一発を撃つことは有り得ない」として、次のように証言した([ ]内は聞き手の補足)。中国軍との戦闘など全く予想していなかった いまから69年前の昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋近くで支那駐屯歩兵第一連隊の第三大隊第八中隊の133名が夜間演習を行った際に、私は第八中隊の第二小隊第二分隊長として演習に参加し、いわゆる盧溝橋事件に立ち会いました。 当時、盧溝橋周辺には、宋哲元(そうてつげん)率いる第二十九軍のもと第三十七師(馮治安(ひょうちあん)師団長)が配置されていました。その第三十七師が6月下旬になって夜間の隠密作業で永定河左岸の堤防に散兵壕を構築したり、満州事変のときに作った盧溝橋付近のトーチカ十数個を掘り返して使えるようにしたりしていました。このため、上級の幹部たちは「どうもおかしい」と感じていたようですが、私たち兵隊は、まさか日中間で戦争が起きるなんて全く感じておりませんでした。本当に予想外でした。 7月7日に盧溝橋付近で夜間演習をしたのは、来るべき検閲[司令部等が、各部隊の錬度などをチェックすること]に備えてのことでした。第八中隊に割り当てられた演習内容は、薄暮を利用して敵に接近し、「黎明攻撃」といって夜明けとともに戦闘を開始するという想定でして、そのための訓練を行ったわけです。 盧溝橋周辺で演習中であった7日の夜10時40分頃、最初の銃撃の音がしました。私も聞きました。実弾を2、3発撃ってきましたね。実弾には、飛弾音(ひだんおん)といって弾が飛ぶ音がするんですよ。発射直後と、2、300メートルのところと、5、600メートルのところでは音が違います。私たちも射撃訓練のときに実弾を撃ちますけれど、飛弾音というのはなかなか判らないものですが、部隊には満州事変に参加した人もいて、中隊長はすぐに「これは実弾だ」とはっきり答えていましたね。 では、誰が撃ったと思ったのか。盧溝橋(苑平県城)の城壁に近い方向から銃声がしたので、これは中国側だと、私たちはすぐに思いました。当時、中国の第三十七師は盧溝橋の散兵壕(堤防陣地)に夜、兵士を配置していましたから。 演習中に実弾射撃を受けたのは初めてのことでしたが、ただの嫌がらせか、暴発で誤って撃ってしまったのではないか、というような感じを最初は持っていて、それほど深刻には受け止めていませんでした。というのも、狙い撃ちというよりも、「闇夜に鉄砲」で、私たちの頭上を飛んでいましたので、本気で私たちを狙ったものではないと感じたからです。それに、そもそも宋哲元率いる第二十九軍とは非常に友好的な交わりをしていたので、私たちは「友好的な軍隊」つまり「友軍」と呼んでいました。ですから友軍と同じように感じていた第二十九軍から最初に実弾を撃たれたときは、挑発的行為だと全く思いませんでしたね。恐らく事故か何かだろうと思っていました。 この盧溝橋事件の背後に中国共産党の謀略があったと言われていますが、当時の私たちは全くそんなことを考えていませんでした。ただ当時、中国の学生たちが排日運動を煽っているという話は聞かされていました。それを聞いた私は、「日本側が友好的にやりましょうと思っているにもかかわらず、なぜ中国の学生たちは排日運動を煽ったりしているのか」といった感じで、さほど深刻には受け止めていませんでした。 第二十九軍で最も排日的なのは第三十七師の馮治安師団長だということも当時から聞いていましたが、「中国側にも、反日的指揮官がいる」程度の受け止め方でしたね。馮治安師団長の背後に中国共産党の謀略があったなんて、上級の幹部は判っていたのかも知れませんが、私たちは全く知りませんでしたね。一発も勝手に使うことはできなかった 盧溝橋事件が「日本軍の謀略だった」という話を戦後聞かされて、非常に憤慨しましたね。私たちは当時、好き好んで彼らに戦(いくさ)を挑んだという考えは毛頭もっていませんでしたからね。それに、当時の日本軍の実態を知っていれば、日本側から実弾攻撃をすることなど有り得ないことが判るはずだからです。 当時の日本軍はすべて官給品による生活でして、兵器、被服、消耗品等の管理はたいへん厳しいものがありました。特に弾薬の管理はことのほか厳しかったんです。何しろ私たち兵隊は、営内(駐屯地)で実弾を持たせてもらえませんでした。当時、北京郊外の豊台にいた日本軍において実弾を持てたのは、勤務中の風紀兼警備衛兵だけでした。 その風紀兼警備衛兵にしても、小銃弾15発を薬盒(やくごう)[腰のベルトに通す革製の弾入れ]に入れ、歩哨(ほしょう)として警戒にあたる時のみ内五発を小銃の弾倉に装填することができました。そして、任務を終えた後は、衛兵司令の前で歩哨掛の号令により確実に実弾を抜いた後にようやく任務終了となるという厳しさでした。 それでは、私たち兵隊はいつ実弾を持つことができたのか。実際の戦闘を除けば、射撃場での実弾訓練の時と、野外演習のために営外に出る時だけでした。 実弾訓練に際しては、射撃場で弾薬が支給されましたが、その総数と発射使用弾の薬莢(やっきょう)[小銃で弾丸を発射した際に出る弾丸の抜け殻のようなもの]数とが一致しないと、たった一発であっても未使用の弾薬のありかを部隊全員で探しました。もし見つからないと、--そんなことは実際は有り得ませんが--その部隊の隊長と兵器掛は処分されます。具体的には始末書を取られ、成績評価は黒星となります。厳重に包装されていた実弾 野外演習に際しては、内地ではないことですが、大使館や居留民保護の任務を持つ部隊であるため、さすがに実弾を支給されましたが、その量は僅かでした。 盧溝橋事件当日は演習出発直前に、規定によって警備用として小銃1挺につき30発の実弾と、軽機関銃1銃につき120発を渡されました。実弾を受け取る手続きもきちんと決まっていて、兵器掛の下士官が中隊長の命令により、中隊の人員と軽機関銃の数に応じて所要数を申請するなど所要の手続きを経て弾薬庫から受領してきたものです。 しかも、支給された実弾はすぐに使用できないようになっていました。どういうことかと言えば、実弾は15発ずつ紙製ケースに入れられ、その上から縦横十文字に被服補修用糸でぐるぐる数回巻にした形にして渡されるため、簡単に取り出すことができないようになっていたのです。もし野外で緊急事態が発生したら、即座に実弾を装填し対応することができないため、実に危険極まりないと私たちは思っていましたが、それが当時の規則であったため、やむを得ませんでした。 当然のことながら、野外演習に際して理由なく紙製ケースの紐を解き、紙を破いて実弾を取り出したら鬼より怖い上官から厳しく追及されることになります。というのも、日本軍は当時、野外演習に際して実弾を使っていなかったからです。演習では、形だけ引き金を引くか、時には空包[発射音だけがするもの]を使うだけでした。 盧溝橋事件が発生した7月7日の夜もやはり野外演習を実施していましたが、敵に模した仮設敵[ベニヤ板や布で人間の伏せた形に作り、色彩を施したもの]の部隊が空包を持ち、実弾は使っていません。取り出しにくい位置に弾丸を携行 更に携行に際しては、わざわざ実弾を取り出しにくい位置に身に付けるように指導されました。兵隊は平素、ベルトの正面のバックルの左右に30発の前盒[弾入れ]を二つ付けています。15発の実弾が入った紙製ケースを二つ、つまり30発ずつ渡される場合、必ず左側の前盒に入れるよう、口うるさく指導されました。なぜ左側なのかと言えば、左側の方が装填しにくいからです。 実弾を装填するには左手で小銃を胸の前に捧げ、右手でレバーを引いて弾倉を開け、右手で弾入れの前盒の留めを外し、紙製ケースを破って五発ずつセットにしてある実弾を取り出し装填します。従って、もっとも装填しやすいのは動かす右手下の右の前盒に入っている実弾です。左の前盒に入っている実弾は小銃を支えている腕の下で開けにくい。 まして戦闘になれば、兵の姿勢は概ね敵弾を避けるために右手で銃を持ち、左ひじで上半身を支えた匍匐(ほふく)[横ばい]姿勢ですから、左側の前盒は体の下になり弾を出しにくい。取り出しやすい位置に実弾を身に付けさせると、身の危険を感じた兵隊が命令をきかずに実弾を装填し、撃ってしまうと考えたのかも知れませんが、現場の兵隊からすれば、「過剰」ともいえるほどの実弾管理体制でした。 野外演習を終了し、営内に戻ると、兵器掛が各自から紙製ケースに入った実弾を集め、その数を確かめ、弾薬箱に封印し、直ちに弾薬庫に運び返納、厳重に保管させました。万が一実弾を落としたりして返納の際に一発でも数が合わなかったら大変な騒ぎとなり、厳しく追及され、処分を科せられることになります。もちろん鬼より怖い下士官の兵器掛が丹精して包装した紙製ケースを破いて実弾を取り出すことも有り得ません。理由なく実弾を装填しているだけで、厳しく追及されるからです。 つまり、野外演習に際して実弾を支給されましたが、兵隊が命令もなく無断で小銃に装填するはずがないのです。よって日本軍の兵隊がミスとか偶発で撃つことは絶対に有り得ないのです。携行食糧もなく なお、「最初の第一発は中国軍側の偶発的行為かも知れないが、事件を利用して日本軍が日中戦争を拡大するつもりであった」という批判があります。しかし、当時の第八中隊の装備を知れば有り得ない話だと思います。北京近郊の盧溝橋で戦闘態勢を取る日本軍部隊=昭和12年7月 盧溝橋事件が起こった日、野外演習に際して兵隊が渡された実弾は従来通り1人僅か30発でした。この30発という数は決して少ない数ではありませんが、本格的な戦闘を想定していなかったことは明らかです。また、私が所属していた第八中隊は当日、中隊長の配慮により兵隊の負担を軽減し、来るべき検閲に備えて体力温存のため超軽装で野外演習に参加しています。具体的には、夕食を早めに営内で取り、飯盒(はんごう)を持参しないで済むようにし、鉄帽も着替え用下着も携行食糧(乾パン)も持たず、背嚢(はいのう)[リュックサックのようなもの]を空っぽにしていました。ただし湯冷ましを入れた水筒と作業用の小円匙(えんぴ)[シャベル]と小十字鍬だけは持って出ました。中国軍との戦闘など全く想定していなかったわけです。 7日の晩は、夜間演習が夜の10時半頃に終わって朝は4時頃になると明るくなってしまうので、その間は野営をして仮眠をとるつもりでいました。ところが夜10時40分頃に実弾射撃を受けてから私たちの部隊は、野営もできず、敵に射撃を受けても安全なところまでは後退したりするなど敵に対して警戒態勢をとり、ひたすら緊張状態の中を過ごしました。 営内での夕食から30時間経った8日の夜11時頃、在留邦人の協力で弾薬箱に入れて運ばれた炊き出しのおにぎりをようやく食べることができましたが、その美味しさは未だに忘れることができません。それまで睡眠もとれず、携行食糧もなく、頼りにするのは水筒一本の水だけでした。民家の水がめや井戸の水もありますが、そのような水を飲むことは非常に危険でした。 中国側が主張するように、もし日本軍が野外演習を口実に中国軍との戦闘を始めようという謀略を考えていたのだとしたら、第一線となる私たち第八中隊の兵隊をわざわざ鉄帽も携帯口糧も持たせずに野外演習に出すでしょうか。現場にいた者としては、日本軍が最初から仕掛けるつもりだったとはとても思えないのです。【解説】長澤証言をいかに受け止めるべきか 以上、長澤氏の証言のポイントを整理すると、以下の3点に集約されよう。 第1に、当時の中国駐留の日本軍は弾薬の管理が厳しく、たとえ1発でも無断で実弾射撃をできる態勢になかった。このため、たとえ偶発的であったとしても、盧溝橋事件の「最初の一発」が日本軍によるものである可能性はほとんどないということである。ちなみに中国側の反日宣伝を真に受けて、中国大陸にいた日本軍の兵士たちは規律が乱れ、好き勝手に武器を使って中国の民間人を殺害し、民家に押し入って食糧やお金などを略奪し、女性に暴行を働いていたといった印象を持つ人が多いが、それがとんでもない誤解であることも判る。 第2に、中国の歴史教科書では「盧溝橋進攻を目標とした軍事演習」と非難しているが、夜間演習に出た第八中隊は、鉄帽も携行食糧も持参していない上、実弾も1人30発に過ぎず、中国側との戦闘を想定した装備ではなかった。演習目的も、間近に迫った検閲のための訓練に過ぎず、実弾も全く使用していなかった。つまり第八中隊には、盧溝橋進攻という「目標」も、夜間演習を行うことで中国側を挑発する「意図」もなかったのである。 第3に、豊台駐屯地にいた第八中隊は、日常的な交流があった中国側の第二十九軍を「友軍」と見なしていた。そのため、最初の実弾射撃を受けた第八中隊の兵隊たちは、中国側による「嫌がらせ」か「偶発的事故」といった受け止め方しかしていなかった。中国側は「長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した」と非難しているが、少なくとも現地にいた当時の日本軍の兵隊たちには、中国と本格的な戦争を始めるという発想そのものがなかった。 このように長澤氏の証言から、日本軍が最初の一発を撃つことは、武器管理上も、当時の装備上も、また当時の日本軍の空気としても有り得なかったといえよう。 「最初の一発は日本軍ではない」という見解は実は、昭和21年5月から始まった極東国際軍事裁判(東京裁判)でも否定されていない。中国側は、「盧溝橋事件は日本軍が盧溝橋地区を武力占領するために始めた」と主張したが、最終判決は、「盧溝橋事件の責任が日本側にあった」との明確な判定を下さなかったのである。日本軍の戦争責任を追及するために開かれた東京裁判においてさえも「最初に仕掛けたのは日本軍ではない」という見解を否定できなかったという事実は、我が国の歴史教科書にもきちんと明記されるべきである。残された課題--誰が事件を仕掛けたのか 最後に、では誰が「最初の一発」を撃ったのか、という問題に触れておきたい。 1986年、当時現場の第二十九軍の大隊長であった金振中の回想記が中国で公刊された。その回想記によって、金振中が7月6日に開いた将校会議で「十分なる戦闘準備をなすよう指示し、日本軍が我が陣地の100メートル以内に進入したら射撃してもよし」と命じていたことが判明した。 そこで秦郁彦氏はその大著『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年)において、「最初の一発」について、「日本人説」、「中国側の第二十九軍」、「第三者説…(1)藍衣社など国民党系の特務機関、(2)西北軍閥系の諸分子、(3)中国共産党、(4)その他」の3説を挙げた上で、金振中回想記を踏まえ、現場にいた第二十九軍の兵士が事前に射撃許可をもらっていたため、日本軍の夜間演習の空包射撃に興奮して「偶発的に射撃した」と結論づけている。 一方、日本側の公式見解は、事件直後は「第二十九軍第三十七師馮治安部下の支那兵約二個中隊」(盧溝橋事件が起こった翌日の7月8日午前11時の外務省当局発表)が実弾を撃ってきたと非難していたが、その後、中国共産党が当時7月8日付という早い時点で対日即時開戦を主張した通電(アピール)を出していたことなどが判り、東京裁判では、蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀だと主張している。 『日本軍盧溝橋進攻に関する通電』と題したこの通電は次のようなものである。 七月七日夜十時日本は盧溝橋に於いて中国駐屯軍馮治安部隊に対して攻撃を開始し馮部隊の長辛店への撤退を要求せり。馮部隊は衝突の発生を許されざるに因り双方現に対峙中なり…日本帝国主義の武力平津華北侵略の危険は既に各中国人の面前に迫れり…我等は宋哲元将軍が即刻動員二十九軍全体が前線に赴き応戦せん事を要求す。 我等は南京中央政府が即時適切に二十九軍を援助し並びに全国民衆の愛国運動を開放し抗戦の世論を昂揚し全国海陸空軍を動員し抗戦を準備し中国内に潜伏する漢奸分子及一切日寇のスパイを粛清し後方を安んずべし…我等のスローガンは 武装して平津を保衛せよ 華北を保衛せよ 日本帝国主義が寸土たりとも中国領土を占領するを許さず(中略)国共両党は親密に合作し日寇の新しき進攻に抵抗し中国より駆逐す。波多野乾一『中国共産党史』 この通電について中国共産党犯人説をとる葛西純一氏は、《電文は七月七日夜十時、といわゆる日本軍の先制攻撃時刻を明示しているが、事実は8日午前5時半の応戦であり、従ってこの「夜十時」は劉少奇ら中共中央北方局の地下工作員が、日支両軍に向けて銃声(爆竹のような)を同時に浴びせかけ、「点火」に成功したという無線報告によるものと思われる》と解説している(『新資料 盧溝橋事件』成祥出版社、1975年)。 この中国共産党犯人説について、秦郁彦氏は決定的証拠がないとして退けているものの、その著『昭和史の謎を追う[上]』(文藝春秋、1993年)の中では、第二十九軍には、張克侠参謀副長を筆頭に張経武、朱則民ら中国共産党の秘密党員が司令部に潜入しているほか、盧溝橋の現場を指揮していた三十七師の百十旅団長何基もシンパであったことを紹介し、《盧溝橋事件当時の二九軍は中共党の思うがままに近い状態ではなかったか》と指摘している。 前述したように東京裁判において日本側は、「盧溝橋事件は蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀であった」として日中対立を煽った中国共産党の謀略について論証しようとしたが、ウェッブ裁判長は「支那あるいはその他の場所での共産主義その他の思想の存在、またはその蔓延にかんする証拠は、すべて関連性なし」としてその書証はすべて却下されてしまった。 戦後61年を迎え、NHKや読売新聞など日本のマスコミは戦争責任の検証に熱心だが、それならば、東京裁判で追及を禁じられた「盧溝橋事件と中国共産党との関係」も正面から取り組むべきではないだろうか。(聞き書き・構成・解説/評論家 江崎道朗) 長澤連治氏(ながさわ・れんじ) 大正4年生まれ。昭和10年秋田歩兵連隊、11年支那駐屯歩兵第一連隊(牟田口廉也連隊長)に転属、12年7月7日、盧溝橋事件に遭遇(当時伍長)。以後中国各地を転戦。19年7月准尉として湖南省の戦闘で右手に重傷、野戦病院、内地陸軍病院を経由して終戦で復員。現在、秋田県横手市平鹿町に在住。関連記事■ 戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか
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対日「十五年戦争」への前奏曲~かくして大陸は赤く染まった
田中秀雄(近現代史研究家)東亜保全-日本の大命題 明治の開国を迎えなければならなかった日本にとって、日清、日露の大戦争が国家安全保障のために遂行しなければならなかった国家的プロジェクトであったことは、狂信的な反日思想の持ち主を除いては誰も異論はないだろう。 さらに、西洋列強のアジア進出という事態に、日本は自国の安全だけでなく東洋の保全を考えなければいけなかった。明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布の頃、明治天皇は西郷従道に言われたという。 「東経百二十度以東のシベリアに意義ある援助をし、日本海の安全を保ってこそ支那の領土保全が図られる」のであると。 シベリアというのは満洲と言い換えてもいいだろう。ここには明治天皇の優れた地政学的感覚と東亜保全という叡慮が表明されている。この天皇の基本的認識に添って、明治の政治家、軍人たちは外交に対処し、身を処していったのである。 明治天皇と同じ認識を北一輝も『支那革命外史』(1916・大正5年)年で述べている。南北満洲と黒龍沿海の諸州、ウラジオストク、これらを城郭にして初めて朝鮮、支那、日本海の安全は保たれるのであると。 日露戦争の勝利とその後の韓国併合、これによって東亜は磐石の平和を保てるようになったはずであった。しかしそうではなかった。二十一カ条交渉における日清・日露の戦後処理 1915(大正4)年、大隈内閣はいわゆる二十一カ条の要求を北京の袁世凱政府に行った。「第一次大戦のどさくさにまぎれて利権獲の企みで日本の対中侵略の始まり」と中国や自虐史観派がやり玉にあげる問題である。しかし、1月18日から始まって5月7日の最後通牒、9日の袁世凱政府受諾に終わった経緯や内容を冷静にみていくと、この交渉には日清、日露戦争の戦後処理という重要な意味があったことが分かる。二十一カ条要求を行った時の外相、加藤高明(元首相) 全5カ条、21項目にわたる要求のうち主なものは、継続中の第一次大戦で戦火を交えていたドイツの山東省の利権継承に関するものが4項目、南満洲と内蒙古、漢冶萍公司に関するものが9項目、そして最も問題をはらんでいたとされる第五条のいわゆる希望条項が7項目である。 山東省関係は日清戦争後に諸列強が清国内に相次いで獲得した権益、租借地のうちドイツ版に関するものである。日本はこのドイツとロシア、フランスによる三国干渉によって遼東半島領有が不可能になった。逆に言えば、ドイツは干渉のご褒美として山東省の権利を得ていたのだ。 やはり三国干渉のご褒美としてロシアが租借地として得ていた旅順や大連の租借権は、その後日露戦争での勝利で日本が継承することになった。とすれば対ドイツ勝利の代償として利権の継承を求めることは特に不当と思えない。日本には権益継承の要求権があったのである。日清戦争の戦後処理という側面である。 しかしながら日本は資財を投じ、自ら血を流してドイツ軍基地を攻略占領しながらも、北京政府と協定を結んだ上で還付してもいいという予約もしていた。これも日中親善を念頭においていたからである。 南満洲と内蒙古に関する要求は、戦後のロシアから権利継承を得ていた満鉄や旅順・大連がまもなくその期限切れを迎えるため、それを99年に延長したいということと、日本人が興したい農業や商工業のために土地建物の賃借権や所有権を許可することである。 しかし後半部分では中国の未整備な法制度に、日本人がどう対処するかという大きな問題があった。後にも記すことになるが、これが満洲事変の大きな原因となっている。 満洲での権益の安定化は、この地が明治天皇も認識されていたように日本の死活的な戦略上の重要拠点であったことに加え、10万の戦死者を出した戦争の結果から見ても不当なものではなかった。日本は清国のためにこれだけの血を流してロシアを北方に追いやったのだ。日露戦争の戦後処理という側面である。 漢冶萍公司は揚子江中流の現在の武漢市に1908(明治41)年に設立された鉄鋼と石炭を主とする商事会社であるが、この中の大冶鉄山の鉄鉱石は日清戦争後に八幡製鉄所を設立した日本にとっては、産業化するための必須の資源供給地となっていた。1899年に正式に契約が結ばれ、日本興業銀行などを通じて巨額の投資、借款が行なわれていた。日露戦争の膨大な鉄鋼需要はここから可能となった。 辛亥革命後は革命軍による公司の没収の動き、また国有化の策謀もあったりして日本との関係が不安定になっていた。当時既に年間30万トンにもなっていた鉄鉱石の安定供給のための交渉は必須であった。 最後まで中国側が抵抗したのが第5条7項目である。内容は、政府に日本人顧問を招くこと、「必要な地方」の警察を日華合同にすること、日本から兵器を輸入することなどだが、当時日本に亡命中であった「国父」孫文が、山田純三郎(孫文革命に参加して1900年に戦死した山田良政の弟)や犬塚信太郎満鉄理事との間で交わした「中日盟約」(大正4年2月5日)とその5項目が等しい。国民党の創始者で台湾のみならず中国共産党下の中国で今も尊敬される孫文には問題となる内容ではなかったのである。 3カ月の長丁場には、中国側がわざと交渉を遷延させ、交渉模様を第三国にリークさせて干渉を起こさせようと試みるなど、日本側にはきわめて不快な問題が続発した。そして中国側の意向を勘案した日本側の最終修正案(4月26日)に対する、中国側の「最後の決定案」と称する回答(5月1日)がまた問題となった。満洲や内蒙古の土地賃借権は認めても、中国の警察法規に従うことを要求していた。あってなきがごとき法制度に在住日本人が従順であり得るはずがなかった。その他も決して応じられないものが多かったが、ドイツ権益の中国への無条件還付、日独講和会議への中国の参加、戦役によって生じた損害を日本が負担することまであった。あきれて物が言えなかった。 5月5日夜、袁世凱政府の参政院参政である李盛鐸が「交渉の結果はかならず南方人の非難攻撃、あるいは政府打倒の風潮をかもし出す恐れがある。対応策として日本国の要求を軽減せんとして、このような態度に出たものと思われる。日本がいよいよ最後の決意を示すに至れば、我が方は譲歩するほかないだろう」との見解を日本側に伝えた。 東郷茂徳の回想録『時代の一面』に出てくる、日置公使が彼に話したという「使嗾」、強要された形を装えばいいとのけしかけがあったのである。これがいわゆる「最後通牒」の舞台裏である。 7日の最後通牒、9日の受諾と続き、中国の新聞は轟々の非難記事を満載した。李盛鐸の言う「南方人」に繋がるマスコミだろうか。しかし彼らは広東人である孫文と関係が深いわけで、当の孫文は「中日盟約」を密かに交わしている。日本非難に名を借りた北京政府攻撃にすぎまい。 日本側は懸案事項のかなりの部分を解決するに至った。しかし山東省権益に関しては条件付の還付を明記し、第5条の多くを撤回した修正案が締結されたのである。「欣然同意」の西原借款 大隈内閣に代わり、1916(大正5)年10月に誕生した寺内正毅政権の対中外交政策で、最重要なのがいわゆる「西原借款」である。 これは朝鮮総督時代の寺内総理と親交のあった実業家・西原亀三が交渉の直接当時者として北京に赴き、段祺瑞政権との間でまとめた案件である。二十一カ条要求が解決した翌年、袁世凱は皇帝に就こうとして失敗し、頓死した。その後の政権担当者となったのが段祺瑞である。 西原借款は、諸名目とは裏腹に、北京政府への実質的な政費補助という側面が強い。あくまで日中親善が目的であり、北京政府と南方政府はお互いに妥協(統一)することを念頭においていた。西原はこの借款を二十一カ条要求でこじれた日中関係の改善策と考えていた。 政権発足早々の大正6年1月20日に契約された交通銀行借款を皮切りに、総辞職(大正7年9月21日)後の9月28日にも3件の契約があたふたと成立、合計8件、1億4500万円の巨額借款である。原敬内閣の組閣は翌29日である。 注目すべきは、西原が南方派にはこれぞという首領がいないという認識を示していることである。彼らは支那の実情を無視し、我儘し放題のことをなそうとしていると批判している。孫文など目に入っていない。孫文革命を援助して寺内政権を批判していた宮崎滔天とは正反対である。 西原借款で注目すべきは、6・7件目に結ばれた「鉄道借款」だろう。満蒙四鉄道と山東二鉄道、計4000万円であるが、これは財政総長であった曹汝霖からの同額の密かな政費援助申し込み(大正7年9月14日)に起因している。 その後、後藤新平外務大臣と特命全権公使章宗祥との間に交渉が成立し、鉄道借款の形で解決が図られたのである。つまり9月24日に極秘に、山東省鉄道の日本軍の済南と青島での駐留継続、鉄道に日本人を聘用、鉄道の将来的な日中合弁経営などが合意されたのである。章は「欣然(喜んで)同意」と交換公文に書いている。二十一カ条問題の山東省部分の実質的解決である。日清戦争の戦後処理が終わったのである。五四運動が孕んだ「種」 1918(大正7)年8月14日には、アメリカが発起し、日本も賛成した中国の対独参戦が決定し、中国は第一次大戦の勝利国としての地位を得ることになる。パリ講和会議は翌1919年1月18日から始まった。 この会議で中国は自らも戦勝国であることを理由に、山東省権益を直接返還することを求めた。傲慢というべきか、西原借款の8件目は中国の軍費を負担する「参戦借款」という名目なのである。 これが原因で日中間に紛糾があったが、前年9月の西原借款の交換公文が披露されると、中国代表は調印を拒否して帰国した。その結果起こったのがいわゆる五四運動である。1919年5月4日、曹汝霖の邸宅は焼き討ちにされ、その場にいた章宗祥は暴力を振るわれた。 しかし五四運動の背景は深く広い。19世紀末からの中国の半植民地的な状況に危機を感じて、心ある知識人の中に自国を改革する運動が始まった。新文化運動と言われるもので、たとえば胡適が提唱した、難しい文語体でなく口語体の「白話文」使用運動などである。 中国の封建的な現状を批判する過激な儒教批判も登場してくる。この儒教批判の主導者たちが北京大学に集合していた。陳独秀や李大釗などである。そして彼らは、ボリシェヴィキが政権を奪取した1917年のロシア革命への憧れから、共産主義への道を歩み出していた。 五四運動の主体は彼らに教えられた学生であった。彼らに共鳴した言い方をすれば、愛国運動であり、民族主義でもあったろう。それは反政府運動ともなって、全国に展開した。段祺瑞政権はデモを取り締まり、学生を逮捕しては釈放し、また逮捕しては釈放することを繰り返し、最後には曹汝霖や章宗祥は罷免され、6月13日、内閣は総辞職した。学生たちの勝利である。 重要なことはこれが反日運動であったことである。これに共産主義者たちは味をしめた。愛国運動、民族運動に仮託して共産主義を広めようというひそかな戦略である。反日運動が反政府運動に転換し、その逆もあるというパターンが作られてくる。 なお胡適も北京大教授であったが、陳独秀らの共産主義には反対であった。ワシントン会議の外交敗北 五四運動のとき、孫文は、排日運動が激しかった上海にいた。ほぼ1年前に広東軍政府から大元帥を解任されていたからである。ここで彼の日本批判が始まっている。 孫文は1920年12月に広東に帰還する。しかし実力はなかった。彼を支えるのは既存の軍閥であり、彼自身の有する軍隊はなかった。1922年に入って孫文は統一のための北伐を始めようとして対立する軍閥の陳烱明に追放され、また上海に落ち延びている。 西原亀三の認識は間違いではなかった。 孫文は、ついには自分たちの革命ができないのは日本の策謀だとまで痛烈に非難するようになった。この年の12月に52歳で亡くなった宮崎滔天にも手紙を出し、日本の軍閥を批判している。彼の日本非難は日本の新聞紙上でも披露され、当時は少壮の外交官であった重光葵も孫文自身から直接聞かされている。 そうした声高な批判が聞えたかは別にして、1921年末から始まったワシントン会議で、幣原全権は、満蒙問題はともかく、山東問題では中国側に全面的に譲歩したのである。この会議は第一次大戦のパリ講和会議で解決できなかったアジア問題を討議する場であった。 何より重要なのは、この問題をうるさく言い立てる中国に敗北したことと、アメリカの委員から日清戦争後に締結された露支密約に軍事同盟があったのかを問われて、それをしぶしぶ認めた顧維鈞全権に対し、日本側は沈黙したままそれ以上何も追求しなかったことである。二重の外交敗北である。 この軍事同盟の意味するものは何か? 日露戦争でロシアと必死で戦っている日本の背後を清国軍が突いてくる可能性があったことである。清国領土の保全を日本人の血で贖った日本に対する重大な背信行為であった。本来ならばこの時点で、満蒙を日本領土にしてもよかった。二十一カ条を提出された袁世凱は清朝の高官だったのであり、裏事情はすべて知っていたはずだ。そうでありながら空とぼけて、3カ月以上の長丁場を交渉に費やさせたのである。 孫文も二十一カ条を批判するようになったが、この露支密約にも言及はしないし、三国干渉でドイツが権益を得ていたことも問題としないのである。彼は日本の対中国侵略主義と批判するのだが、日本は生存のための戦争の結果を受け取ったまでであり、それ以上でも以下でもない。日本が支那保全=東洋の平和を企図するにあたっても、まずは自国の安全が第一である。 孫文は朝鮮半島の三・一独立運動事件(1919年)もあって、日本の朝鮮支配も批判の対象とした。しかし朝鮮問題が原因で2度の大戦争が起こったことを理解していたのか。孫文が日本の戦争を革命に利用しようとしたのは勝手だが、日本は彼の革命を援助するために戦争したのではない。併合もまずは自国の安全のためである。多くもない国幣を傾け、孫文の嫌いなイギリスと同盟して始めてロシアに勝利したのである。 漢冶萍問題に象徴的なように、日本が得た権益は資源なき日本にとっては「存在するための鮮血であった」(『米国極東政策史』A・W・グリスウォルド)。それもごく平和的な手段で維持しようとしているだけで、日中親善という建前は崩されていなかった。「西原借款」はその象徴である。有償借款、つまり貸し出しだが返還されないのも仕方がないと考えていたのかもしれない。「武士の情け」である。 二十一カ条での「最後通牒」は相手側も納得した上での形だけのものであった。ワシントン会議で露支密約の露呈に沈黙したままだったのも、「武士の情け」であったのか。しかし幣原の戦後の回想録『外交五十年』では、肝心のところが曖昧なのが遺憾である。孫文の連ソ容共政策 孫文の再度の広東帰還は、陳烱明の排除がなった1923年2月である。しかしこれも別の軍閥の力によるもので、僥倖という側面もあった。そして孫文は大元帥に就任した。 彼が日本批判を始める以前にロシア革命が起きている。1917年である。この革命に孫文は大きな関心を抱いた。革命ロシアもアジアに大きな関心を抱いていた。 早速なされたのが、1919年7月25日の「対支宣言」である。この中で、ソ連は列強の圧制に苦しむ中国に同情し、解放する意図を持つ。また旧ロシア政府が持っていた圧制的条約を無効とし、義和団事件の賠償金も放棄するとの中国を喜ばせる宣言を出していた。ソ連のこの宣言に直ちに応じたのが孫文だった。 1921年にはコミンテルン代表のマーリンと接触、1923年1月には落ちのび先の上海で、ヨッフェとの間に共同宣言を出す。翌1924年1月には、連ソ容共政策と国共合作を中国国民党第一次全国大会で宣言することになる。 この一連の展開の中で、孫文は何を考えていたのだろう。マーリンと接触したときは北伐の陣営にいるときである。ヨッフェと会ったときは陳烱明に追い払われた屈辱のときである。孫文の耳に、強力な軍隊を提供しようという甘美なささやきが吹き込まれた可能性は大いにある。 孫文はソ連の力を借りてそれまでの封建的な軍閥に代わる、近代的軍隊を中国に作ろうとしたのである。1923年8月、蒋介石をモスクワに派遣した。12月に彼は帰国して、翌年6月に黄埔軍官学校を創設するのである。 蒋介石がソ連に行っている間にボロディンが広東にやってくる。彼はこの軍官学校の設立に大きな力があった。教員には政治部副主任として周恩来が就任することになる。国民党の学校なのに、共産主義者が政治部の中心に座ったのである。 国民党第一次全国大会では、共産党との合作を危惧する声が党員から出された。しかしその声を孫文は無視した。共産党員は国民党に入党するのであり、その党紀は守らなければならない。危惧の必要はないというわけである。 中国革命を応援していた犬養毅宛の孫文の手紙(1923年11月)には、日本批判とともに「ソビエト主義とは、ほかでもない孔子の説くところの『大同』である。大同の世は理想社会ではないか。日本もソビエトと同盟せよ」とまで書いている。受け取った犬養も相当に困惑したであろう。孫文は完全に共産主義に毒されていたのである。 1924年11月、孫文は北京の覇者となっていた張作霖と会うために日本経由で北京に行くことになった。そのときあの有名な「大アジア主義」の演説を神戸でやっている。最後の言葉として「日本は西洋覇道の番犬となるか、東洋王道の盾となるか、その判断はあなたがた日本人にかかっているのです」と述べたと言われている。 その後の経過は孫文の悪い方の予言が当たったと言われるのだが、それは違うのではないか。真実は孫文が不用意に中国に持ち込んだ、共産主義という悪魔の思想と戦うために日本の昭和史はあったのである。日本にとって共産主義は「東亜の保全」への新たな脅威であった。 宮崎滔天のように日本政府が孫文を支援しておればよかったという意見もあるかもしれない。しかし実力においては北京政府に明らかに劣っていた南方政府に国が援助するということが現実的に可能だったか? 内情は複雑で、双方に足を置いている政客も多い。列強との兼ね合いもある。内乱を誘発するだけの内政干渉と非難されるのがおちだったろう。共産主義浸透と暴虐事件の続発 孫文は1925年3月に北京で死去する。その後の国民党は混乱を極めた。後継者は定まっておらず、早速孫文の側近の1人である親ソ派の寥仲愷が暗殺される。年末には右派の西山会議派が結成される。蒋介石も翌年3月の中山艦事件で共産主義者によるテロの危険に遭遇する。この危機を克服する中で彼は頭角を現し、国民党軍を完全に統率することに成功する。 蒋介石による北伐が始まったのはその年の夏からである。約半年をかけて揚子江流域までたどり着く。蒋介石はこれを自前の兵隊だけで行なったわけではない。例えば元々湖南省の軍閥だった唐生智などが参加した。そして大きな事件が続発することになる。 1927(昭和2)年3月24日、南京を占領した北伐軍が南京市内を暴行の嵐にさらした。外国人が多数虐殺され、市内は掠奪の巷となった。日本領事館も掠奪を受け、女性は暴行を受けた。武装解除されていた陸戦隊は眼前での暴行を防ぐこともできなかった。英米の砲艦は南京市内に砲撃をして自国民を守ろうとしたが、日本はそれもできなかった。 漢口にできた政権は共産色が濃かった。労働者を組織するとの目的で、日本人の店に働いている者も「工会」に入らなければいけなかった。断わる者は「工賊」と書いた紙を背に張り、後ろ手に縛って街を引き回した。後の文化大革命で再現される光景である。そしてこの政権に唐生智が入っていたことを我々は見逃してはならない。 4月3日、漢口の日本租界は漢口政権の攻撃に晒された。武器を持った群集が租界内を掠奪して暴れまわり、日本女性が暴行死した。これは完全に共産主義者に指導された租界回収の目的を持った行動であった。 同じ頃、張作霖が北京のソ連大使館を捜索した。排外暴動の風潮を煽り、どんな手段を使っても掠奪や虐殺を強行し、外国の干渉をもたらし、その混乱の中から将来的な共産主義による中国支配を目論むという命令計画文書を押収する事件が起こった。漢口事件はその一環だった。事件で李大釗は逮捕され、銃殺された。 蒋介石は反省した。4月12日、上海クーデターを敢行する。市内に割拠する共産主義者たちを一網打尽にして、五千人をも射殺した。市内にゴロゴロと首がころがった。周恩来も危なかったという。漢口にも軍隊が送られ、唐生智は一旦日本に亡命する。 その後内政上の問題で一旦下野した蒋介石だが、12月10日に首都南京で革命軍総司令に復帰した。その翌日、広東に集まっていた共産主義者たちが武装蜂起をして城内を占領した。監獄が開放され、掠奪と放火、恐怖の3日間が広東を支配した。ソ連の方針を堅持していたのである。これも国民党が弾圧した。済南事件の本質 翌1928年、蒋介石は北伐を再開した。そして5月、起こったのが済南事件である。これは蒋介石の北伐=統一を望まぬ日本が邪魔立てしたものと非難されるのだが、実態は違う。これを理解するためには前年起こった南京、漢口事件に戻らねばならない。 両事件で大きな被害を被った揚子江流域の日本人居留民は、一旦全員日本に引き揚げねばならなかった。そして時の政府に中国に対する断固たる措置を望むとの陳情をなしたのである。 そして、北伐の再開である。進撃ルートにあたる済南では日本人居留民の危険が予想され、保護のために出兵がなされた。中国軍の警察力が信用できないからだが、やはり日本軍との衝突が起こり、男女16人の在留日本人が非道というほかない方法で虐殺された。中国兵は相変わらずの野蛮さで、至る所で虐殺、掠奪、強姦をやった。黄埔軍官学校で促成された近代軍隊などほんの一部で、兵隊などは一皮剥けばただの無頼漢に過ぎなかった。将官にしても、退却すれば処刑という厳しい強制力を行使しての北伐敢行であったのだ。 結局北伐は済南を回避してこの年七月に完成することになるが、北京を占領した兵隊らは西太后の墓を暴き、遺体を陵辱し、遺葬品の財宝を掠奪するという暴挙までした。財宝の幾つかは宋美齢への贈り物となった。これは溥儀の復辟(清朝復興)、そして満州国皇帝就任への気持ちを強く刺激したのである。 内田良平は既にこうした中国社会の古今変らぬ実情を『支那観』(大正2年)で深く鋭利に解剖し、孫文の理想主義など実態から乖離した机上の空論だと唾棄している。田中上奏文と唐生智の足跡 南京、漢口事件後、田中内閣は中国各地の領事らを集めて「東方会議」(1927年6~7月)を開いた。このような事件の再発の場合を予測して対応策を決めようとしたのである。 それだけのことだったが、中国はわざと曲解した。この会議で日本が中国を征服し、そしてアジアを、全世界を支配する計画が作られたとする「田中上奏文」なるものを1929年に公表したのである。書いたのは共産主義者の王梵生とも言われるが、原型は孫文の側近だった戴天仇が書いた『日本論』(1928年)に既に述べられている。 そして恐らくこの頃からコミンテルン=中国共産党の戦略が変化していったのである。諸列強の中から唯一日本という《敵国》を利用して、最終的には中国を手に入れる算段である。孫文の日本批判を利用し、戴天仇の日本観も共産主義者に乗じられるところとなった。政治軍事上は国民党と対立しながらも、思想面では共闘、あるいは利用するのである。 唐生智は国民党軍に戻ったが、1930年に蒋介石に反抗する事件を起こしている。1937年末の南京防衛戦では、蒋介石は信頼していない外様だから彼を残したのだ。唐生智は部下を放り捨てて南京から逃げ、戦後共産党政権下では故郷の湖南省の副省長に納まっている。意味深な軌跡ではないか。新たな「十五年戦争」史観を 満洲事変の直接のきっかけとなったのは万宝山事件である。長春北方の万宝山における中国人地主と朝鮮人(日本国民)農民の間の諍いであるが、二十一カ条要求における満蒙の土地賃借権問題とリンクしている。実はこのような諍いは、榊原農場事件を始めとして大正時代から続発していた。日本人に賃借権はあっても、地主の中国人に中国側で貸すなと罰則をかけるとどうなるのか。諍いが起こらないはずがない。 万宝山事件を契機に一気に諸懸案を解決しようとしたのは、在満の日本人団体である満洲青年聯盟であった。彼らは満洲を自治化し、五族協和の理想国を作ろうと考えていた。 万宝山事件から3カ月後、1931年9月18日に満洲事変は起きた。ちょうどその日に内田良平は露支密約を論拠に、満蒙の権利はむしろ日本にあるとの見解を記した小冊子を刊行した。その権利執行を軍事行動で示したのが関東軍である。 事変が起きる2カ月前、あの東方会議を主宰した政友会代議士・森恪は、旅順で関東軍の石原莞爾参謀と会っている。軍は満蒙を占領するが、満蒙人が信頼する政治家による簡明な王道政治を実現するという石原構想に森は驚いた。石原はまた満蒙領有はソ連の極東進出を防止するという意味で、朝鮮問題の解決にも寄与するとの認識を示した。朝鮮独立を画策する共産主義者たちは満洲とシベリア、特に沿海州でうごめいていた。 事変の経過は、石原が満洲青年聯盟の構想に歩み寄り、溥儀を招いて半年後の独立国家誕生へと至る。石原の予見通り、満洲建国後は朝鮮内での独立の動きは沈静化する。共産主義の防波堤が満洲に築かれたからである。 事変当時、上海にいた米国領事ラルフ・タウンゼントは、その2年後に満洲建国を高らかに讃える『暗黒大陸中国の真実』をアメリカで刊行した。しかし彼のような人物だけが上海にいたのではない。ゾルゲ、アグネス・スメドレー、尾崎秀実、川合貞吉らの国際共産党(コミンテルン)員らが上海にそろっていた。事変の勃発は彼らには驚愕の極みであった。関東軍の行動はソ連の危機だからだ。早速彼らは協議し、川合が実情調査のために奉天まで出かけている。ゾルゲが、上海で地下活動を続けていた周恩来とも知り合っていたという説も近年注目されている。 ゾルゲや尾崎の認識はコミンテルンも共有するところであった。モスクワにおけるコミンテルン第12回執行委員会決議(1932年9月)の表題の一部に明確にそれが現われている。「ソ連邦への軍事干渉」と書かれているのだ。 満州国建国後の1931年11月、中国共産党は江西省・瑞金で中華ソビエト共和国を成立させ、共和国政府名義で対日宣戦布告をした。そしてゾルゲや尾崎の活動が活発化する。つまりコミンテルンの対日「十五年戦争」が開始されたのである。「十五年戦争」という言葉は従来、日本が満州事変以降、昭和20年8月15日の大東亜戦争停戦まで中国を侵略し続けたという反日偽造史観を宣伝する左翼用語であった。しかし、コミンテルンと中共が一方的に日本に仕掛けた非対称戦は確かにこのとき、日本人が知らないまま始められていたのである。彼らは「十五年戦争」と称することで、日本を大陸での泥沼に引きずり込んだのは自分たちだと自白しているのだ。彼らの戦争責任を追及する文脈で使用してこそ、「十五年戦争」は正しい意味を持つのである。田中秀雄氏(たなか・ひでお) 昭和27(1952)年、福岡県出身。慶應義塾大学文学部卒業。著書に『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社)、『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』(芙蓉書房出版、以下同じ)、訳本(共訳含む)に『暗黒大陸中国の真実』『アメリカはアジアに介入するな!』『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』など。映画評論家としても活躍。関連記事■ 豪州の慰安婦像はこうやって阻止した■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る

















































