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    戦艦武蔵、海底からのメッセージ

    先の大戦で撃沈した当時世界最大級の戦艦「武蔵」とみられる船体の一部が、フィリピン沖の海底で見つかり、注目を集めている。71年前のレイテ沖海戦で米軍の猛攻により撃沈した戦艦武蔵。その経緯は今も謎に包まれ、専門家の間でも意見が分かれる。海底からのメッセージは何を伝えるのか。

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    レイテ謎のUターン「栗田中将の名誉回復を」 証言集出版

    最後の兵学校生徒が著書栗田健男中将 史上最大の海戦といわれたレイテ沖海戦(昭和19年10月)をめぐり、主力艦隊を率いながら“謎のUターン”で勝機を逸したと批評された栗田健男中将(1889~1977年)の名誉回復を図ろうと、栗田氏が校長を務めた海軍兵学校最後の生徒だった戦史研究家、大岡次郎さん(80)=大阪市阿倍野区=が、関係者の証言などをもとにした著書「正説レイテ沖の栗田艦隊」(新風書房刊)が完成した。同海戦の評価をめぐっては諸説あるが、戦後65年の節目に大岡さんは「歴史を見つめ直すきっかけになれば」と話している。 栗田氏は、連合艦隊の戦隊司令官としてミッドウェー海戦(昭和17年)やガダルカナル・ヘンダーソン基地砲撃(同)などに参加。艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に加わった後、20年1月から終戦まで、最後の海軍兵学校校長を務めた。 レイテ沖海戦は、劣勢に立った日本の起死回生策として企図され、本土から南下した空母部隊が米軍の正規空母部隊を北へ誘い出したすきに、栗田艦隊がレイテ湾に突入する作戦だった。ところが、栗田艦隊はレイテ湾近くまで南進したものの、突入せず北へ反転。このことが戦後“謎のUターン”と呼ばれ、「敵前逃亡だった」などと激しい批判を浴びた。 反転の根拠となったのは、南進中の栗田艦隊に飛び込んだ「北約100キロに敵空母部隊がいる」という内容の電報だったとされる。だが、この内容は虚報だったことが戦後判明。打電元はわからないままで、「退却のために栗田艦隊司令部が電報をでっち上げた」とも非難された。「歴史見直すきっかけに」戦艦大和の模型を手に「栗田中将はこのあたりに乗っておられた」と語る大岡次郎さん=大阪市阿倍野区の自宅 栗田氏を敬う大岡さんは、栗田氏が昭和42年、東京から関西へ移り住んだのを機に、兵学校の同期生とともに以降数十回にわたり自宅を訪問。無口で有名で、兵学校入校の日に「弁解はするな」と海軍軍人の鉄則をしつけた栗田氏が、訥々(とつとつ)と話すのを聞くとともに、海戦に参加した十数人の将校からも証言を取った。 著書では、栗田氏がレイテ出撃にあたり、「敵主力部隊撃滅の好機あれば、乾坤一擲(けんこんいってき)の決戦を断行する」と訓示していたことを紹介。“謎のUターン”についても、栗田氏自身から「強い敵のいるほうへ行くのは当たり前だ」と聞いたことなどにふれ、「Uターンは強敵である空母部隊(敵の正規部隊)を求めての行動で、謎でも何でもない。栗田中将の考えは、最初から一貫して変わらなかった」と結論づけている。 大岡さんらは生前の栗田氏から「ほかの誰にも許さないが、お前たちだけには許す」と自身の伝記を書くように言われ、以来約40年間にわたり、構想を温めてきた。“謎のUターン”の評価については諸説あるが、大岡さんは「私がいなくなったら、真実が誰にも知られなくなってしまう。戦争を知らない若い人たちにもぜひ読んでもらいたい」と話している。関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 「戦勝国」史観との対決

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    戦艦「武蔵」の最期、そして「大和」謎のUターンを語る

    深井俊之助(元帝国海軍少佐・「大和」副砲長)聞き手:井上和彦(ジャーナリスト)世界一の軍艦「大和」井上 私は昭和38(1963)年生まれ、今50歳です。深井さんは大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発した年のお生まれで100歳。人生の大先輩として、この熾烈な大東亜戦争を戦い抜かれ、祖国のために生涯をかけられた深井俊之助元少佐から、お話をうかがっていきたいと思います。 まず、深井さんが最後に乗艦された戦艦「大和」はひと言で言うとどんな船だったでしょうか。第1回「大東亜戦争を語り継ぐ会」で講演する戦艦「大和」副砲長の深井俊之助さん(左)。右は司会の井上和彦氏=2014年7月27日、靖国神社遊就館(撮影・財満朝則)深井 口下手でうまく説明できないんですけれども、なにしろ世界一いい船。これからもこんなものはできない、今までできた軍艦の中でこれよりいい船はできないと思います。私は今でも「大和」の写真を飾ってますが、とても懐かしい。非常に特徴的なのは、排水量7万3000トン、長さ265メートル――東京駅の新幹線のホームが260メートルぐらいです。私は東京駅を見ると、いつも「大和」を思い出すんです。両方の長く、低い所があって、中央部が少し高くなっていて――東京駅ぐらいの船だと思っていただければいいんです。 速力は28ノット。私は副砲長ですから、配置についていたのが副砲射撃場という所で、だいたい水面から40メートルぐらいの高さにおりました。七階建てぐらいのビルになるんじゃないでしょうか。 乗組員編制でいうと艦長、副長、砲術長、副砲長、高射長、航海長、通信長…とあるんですけれど、艦長が戦死されたら副長。副長が戦死されたら砲術長…という具合に指揮権が移り、私は上から五番目です。そういう立場で「大和」で戦争しました。井上 余談ですけど、「大和」ではラムネは飲み放題で、アイスクリームが食べ放題だったということですが。深井 普段はホテル並みの食事が出て、夕方はフルコースの洋食というのが普通でした。冷暖房があるしワンルームマンションのちょっと大きいぐらいの個室があって、“大和ホテル”とみんな言ってました。普段はそうでも、戦争中はそんなわけにはまいりません。食事は、握り飯を食べて戦争するんです。井上 よその艦艇からも「大和」のアイスクリームを食べに来られたと。深井 アイスクリームもコーヒーも、何でもありました。ホテルと同じようなものです。散髪屋も歯医者さんもあったんです。歯医者さんは下手だったですけどね。私なんか「大和」で治療してもらった歯が、最近抜けちゃって困ってるんですよ。井上 「大和」への着任は、昭和19年3月でしたね。深井さんが指揮・管制されていた副砲は、三連装の15センチ砲でしたね。深井 副砲は前と後ろと二つあったんです。建造当初は四つあったんですけれども。航空機の脅威が高まったことから、途中で呉に帰って、四つのうち二つ下ろして対空機銃に替えたんです。ですから、私がレイテ沖海戦に行った時には、前後の2基の合計6門しかなかったんです。井上 ちなみに、この15センチ砲というのは、今、陸上自衛隊で155ミリ榴弾砲というのがありますが、それを三本並べて撃つのとおよそ同じくらいの威力があったことになりますが、さてその射程はどのぐらいだったんでしょうか。深井 28キロから30キロは届いていたようですが、撃って、必ず当てられるのは1万メートル前後ですね。1万5000、6000、7000メートルといったら、必ず当てる自信がありました。井上 「大和」が誇る世界最大の主砲46センチ砲はいかがでしたか。深井 主砲の射程はだいたい42キロですから、東京から大船ぐらいでしょうか。30キロ前後の目標ならちょうどよい距離で、1万メートル以内の近い目標に対しては、これは大きすぎて使いにくい。主砲は三連装で、3本を一つのブロックにして、根元から全部動くんです。大砲の下には弾薬が――遊就館にありますけれども――こんな大きな弾がずーっと立てて並んでおった。その下の階には火薬庫があって、弾を飛ばす火薬を積んでいる所がある。そういう円錐形の砲塔がありまして、それが全部一緒に水圧で動く。井上 主砲の射撃音はかなり大きかったと聞いてます。どんな感じだったんでしょうか。深井 音も大きいけれども、爆風がすごかったですね。大砲を撃って弾が飛んでいく時に、爆風がバーッと出るんですが、主砲の砲口が見える所にいると、爆風で怪我をします。だから、兵隊さんには「大砲の砲口が見えたら逃げなさいよ」と注意をしておりました。艦の上で戦争をしてますと、「大和」のような大きな艦でもしぶきや波がかかって濡れるので、みんなレインコートを着ていました。ところがそのレインコートはファスナーでなくボタン留めなので、主砲をボーンと撃つと、レインコートのボタンが取れてパッと開く。それほど爆風はすこかったんです。井上 対航空機用の高角砲や対空機銃はいかがでしたか。深井 三つ並んでいるうちの小さいのは40ミリ機銃です。口径40ミリで三連装、これはシェルターの中に入っていて、爆弾が落ちて破片が飛んできても、操作する砲員が怪我しないようになっています。その上にあるのが高角砲で、仰角90度ぐらいまで撃てるんです。この高角砲は副砲に比べて、非常に速く動きますから、高速で飛ぶ敵機の動きに対応できます。そもそも副砲は、飛行機を撃つ大砲じゃありませんから、そんなに速く回りませんが、高角砲はどこへでも素早く狙いをつけられるようにできていた。だから、機銃が40ミリで、高角砲12・7センチ。それから副砲が15・5センチ。そんなところです。南京攻略に参加南京攻略に参加井上 深井さんは海軍兵学校61期で、大東亜戦争を中心になって戦われた年代ということになりますが。そもそも海軍に入られた動機をお話しいただけますでしょうか。深井 それを聞かれると困っちゃうんですよ。私は東京生まれで、府立四中出身なんです。一高、東大の出世コースに向かってみんな勉強してたんですが、たまたま4年生の11月に海軍兵学校の試験があって、腕試しに受けたら入っちゃった。それで一高か海兵か迷って、東京帝国大学出身で海軍の技術者だった父親が、「うちには男の兄弟が4人もいるんだから、1人ぐらいは俺の跡継ぎになってもいいんじゃないか」なんて言ったことがあるのを思い出して、「俺は次男で家の面倒を見なくていいから、海軍に行ってやろう」と決めたんです。本当のことを言えば、合格通知をもらってからは勉強するのがいやになって…。高尚な理想もなく、お恥ずかしいんですけどね。井上 深井さんは南京攻略戦にも参加されていたんですね。深井 揚子江遡行作戦というのがあって、「雁」という1000トンぐらいの小さな水雷艇で、上海から揚子江を上っていきました。陸上では陸軍がどんどん南京に攻めていく。その右翼を海軍が守って揚子江を上っていくんです。こうして南京を攻略したわけです。 南京には、万里の長城みたいな城壁があるでしょう。当時の支那の都市には、みんなこうした城門、城壁があった。それは馬賊から住民を守るためでした。住民はこの門から城外へ出て田畑を耕作して、収穫した農作物は城内に持ち込んで門を閉めて城壁の中で暮らしていたんです。陸軍部隊は、その城壁を登って門を開け、陸軍部隊が城内に突入したわけです。当時の南京は小さな町で、今の世田谷区の半分もなかった。人口はざっと一万人いたかどうか、だから日本軍が南京で何十万殺したというような話はとても考えられません。だいたい、30万人も入れないですから。マレー沖で開戦マレー沖で開戦井上 昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦の日、深井さんはどのような任務に就いておられたんでしょうか。深井 駆逐艦「初雪」に乗っておりました。“特型駆逐艦”という大型駆逐艦です。だいたい1700トンぐらいの艦で、長さ約120メートル、乗員は約220名でした。 昭和16年の11月初めぐらいになって、「臨戦態勢をとれ」と言われましたね。ところが初めてのことですから、どうしていいかわからない。そこで「燃える物はみんな陸に上げてしまえ」「いらない物はみんな下ろせ」「食糧、弾薬は満載しろ」ということで、大慌てで準備を行ないました。いつもは兵隊さんもちゃんと椅子に座ってテーブルで食事をしていたんですけど、「こんなものは燃えるから」とみんな艦から降ろしてしまって、ちょうど空室のワンルームマンションのような空間で生活してたんです。 そのうちに、11月20日だったと思うんですけれど、「三亜に向け進出せよ」という命令が来た。三亜というのは、今、中国とベトナムの間で難しい問題となっている西沙諸島のちょっと北にある大きな島、海南島南端の漁港でした。当時はニチロ水産という会社がそこに倉庫を一つ持っていて、あの辺で捕れるエビとか鯛とか、その頃漁船は冷凍設備なんてありませんから、捕ったのはみんなニチロの倉庫に持ってきて冷凍し、内地に送っていました。 我々は、命令を受けてすぐ出航し、目的を知らされないまま海南島に向かいました。そして台湾の沖合で飛行機が書類を持ってきてくれたんです。その書類が大東亜作戦の命令書と作戦要領書でした。そこで初めて、これから戦争に行くんだということを知りました。我々の目的地はマレー半島だったのです。輸送船で陸軍の兵隊さんを運び、マレー半島に敵前上陸させ、そして彼らを守って最終的にシンガポールをとる。これが最初の任務でした。それで11月26日、海南島に行ってみたら、陸軍の輸送船が12隻並んでいてその輸送船には陸軍の兵隊さんがいっぱい乗っている。そのうちに軍艦が次々と集まってきて大部隊となりました。 そして、12月2日になって「ニイタカヤマノボレ一二〇八」、すなわち12月8日に宣戦布告という暗号が来たんです。我々はマレー半島の根元にあるコタバルという所に陸軍部隊を送り届け、12月8日早朝に上陸させろという命令を受けていました。ですから開戦の日の12月8日は、私は海の上でした。井上 そのマレー半島を巡る戦いで、なんと開戦3日目に、海軍航空部隊がイギリス東洋艦隊の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈するという戦果をあげましたが、深井さんはこの海戦をどのようにみておられましたか。深井 12月8日に敵前上陸した陸軍部隊はすぐに南へと進撃を始めました。我々は、その左側、半島の東方海上を陸軍部隊を護衛しながらシンガポールまで行くのが任務でした。その日、イギリスが持っていたシンガポールのセレター軍港で出口を見張っていた潜水艦から、「敵主力艦二隻北上中」という電報が来たんです。それが「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」でした。敵は戦艦二隻、我々は駆逐艦ですから我々の小さな大砲を撃ったって敵戦艦の装甲を撃ち抜けやしない。そこで、夜戦にもちこんで魚雷で沈めてやろうということになりました。 水雷戦隊というのは駆逐隊が四つあります。駆逐隊というのは、駆逐艦4隻で編成されていました。ですから水雷戦隊には合計16隻の駆逐艦がありました。そこでその4隻が4方向に分かれて、敵戦艦を包囲する。そして夜になったら攻撃を仕掛けて4、5000メートルまで近づいて魚雷を撃つ。それが夜戦だった。我々はこの夜戦を何年も連合艦隊で練習していました。 昔、ワシントン海軍軍縮会議(1921年)で、主力艦(戦艦)の保有比率が決められ、アメリカが5、イギリスが5、日本は3というものでした。ですから、英米を相手に戦争すると、敵は5・5ですから10隻だが、日本は3隻で戦わなければならない比率計算になります。これだととても英米にかなわないから、駆逐艦が夜戦で戦ってその戦力差を補わねばなりませんでした。そこで我々は夜戦の訓練に励みました。ですから敵戦艦二隻に挑む我々は「よし、やったるぞ」という気持ちでしたが、残念なことに天候が悪くなって見失っちゃった。 翌9日も、その戦艦がどこにいるのかわからない。向こうも日本軍がどこにいるのかわかったでしょう。お互い相手を発見できずに1日過ごしちゃったんですよ。そして10日朝8時頃にサイゴン(今のホーチミン)から飛び立った哨戒機が、敵の戦艦を発見したんです。敵主力艦の位置の報告があったので、我々は四方に分かれて包囲し、夜が来るのを待っておりました。ところが、2時頃になって、サイゴンから攻撃機が出撃していったんです。一式陸攻――日本では最後まで使っていて、戦死された山本五十六長官もその一式陸攻に乗ってたんです――と九六式陸上攻撃機が飛んでいって魚雷と水平爆撃で敵艦二隻を沈めたんです。 だから我々は、「バカにしてるな。飛行機がやっちゃったら、俺ら、仕事がないね」なんて冗談を言い合ってたんですけど、その時ちょっと思ったんです。今まで大艦巨砲主義で、大きな戦艦を造って、大きな大砲を据えて、撃ち合いをすることが我々のやり方だったけれど、それは間違っていると。これからは飛行機が主役になるということを、その時に初めてわかったんです。それ以降の戦いはすべて飛行機が主力じゃないですか。そんなことは、僕は兵学校でも、連合艦隊でも教わらなかった。戦争は戦艦同士の撃ち合い、それから夜になったら水雷戦隊の夜襲ということで、毎日訓練していたんですけども、この一戦、マレー沖海戦で頭がサッと変わりました。井上 現場の感覚って、こんな感じなんですね。深井さんが乗艦されていた駆逐艦「初雪」はどうされましたか。深井 それは飛行機がやっちゃったからね。ハワイ攻撃と、10日のイギリス極東艦隊の主力を潰したマレー沖海戦も、海軍航空部隊の戦果でした。ガダルカナルのネズミ輸送ガダルカナルのネズミ輸送井上 マレー沖海戦のあとはどちらに転戦されたのですか。深井 その前に、ちょっと横道にそれますけど、あの頃はアジアで独立した国は、日本、支那、シャム(タイ)の三つしかなかった。そのほかの国は全部、西洋諸国の植民地だったり、領土に取られたりしていました。インド、セイロン島(スリランカ)もビルマもマレー半島もシンガポールも香港も、みんなイギリス領。フィリピンはアメリカ領、この戦争の前に攻略したインドシナ半島の東側半分がフランス領、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスというような大きな島はみんなオランダ領。三国以外は全部、西欧諸国の縄張りの中だった。 ところが戦争がはじまると、日本軍はイギリス領のマレー半島とシンガポールを占領し、アメリカ領のフィリピンもオランダ領のジャワ、スマトラ(インドネシア)も瞬く間に占領してしまいました。次いでインド洋を渡って、イギリスの東洋艦隊の主要基地だったセイロン島まで攻めました。それからソロモン群島に行ったんです。井上 ソロモン群島のガダルカナル島(ガ島)をめぐる攻防戦の中で、深井さんは、戦艦「比叡」によるヘンダーソン飛行場の夜襲、夜間の艦砲射撃に随伴されて参加しておられますね。さて、このガダルカナルを巡る戦いについてお話しいただけますか。深井 ソロモン群島の東端にガダルカナルという島があって、そこがアメリカとの接点でした。西側の制海権、制空権を全部取ろうということで、日本はそこに航空基地をつくった。飛行場がちょうど出来上がる頃に、アメリカが何十隻という船でやって来て取っちゃった。それで、今度は日本が取り返しに行く。これがガダルカナル攻防戦ですが、この戦いは何カ月も続く最も激しい戦いでした。私なんか、ソロモン群島の戦争に足かけ4カ月も行っていた。後でお話しするレイテ沖海戦なんていうのは、たった4日間ですから。 我々は1日置きぐらいにガダルカナルに夜襲をかけたんです。アメリカ軍に飛行場を取られ、向こうが制空権を持っているので昼間は行けない。そこで夕方になると全速力で行って、闇夜にまぎれてガダルカナル島の陸軍に食糧や水、兵器、弾薬を届けて暗いうちに引き揚げるんです。夕方行って朝帰ってくる。いわゆるネズミ輸送です。翌日、また食糧や弾薬だのを積んで、その次の日の夕方に出航してガダルカナルに行って帰ってくる。そういうのが4カ月ぐらい続きました。アメリカも、我々の輸送を妨害しようと大変だった。行く時には敵駆逐艦や魚雷艇と交戦したりしました。しかし結局、陸軍は飛行場を取り戻せず、この作戦は失敗に終わりました。そうして翌年(18年)2月ぐらいまでかけて撤退したんです。これが、太平洋戦争の分水嶺だと僕は思いました。 それまでは、ミッドウェーで被害を受けても、アメリカの航空母艦が4隻、日本の航空母艦も4隻で対等でしたし、それに日本でもどんどん船を造っているから対等だなと思っていました。ガダルカナルで負け、そこからは敵は島伝いに攻めてくる。こっちは逃げるだけ。とうとうニューギニアを取られ、サイパン島を取られ、それでB29が東京に爆撃に来る。今度はどこに来るのか。たぶんフィリピンだということで、フィリピンの方で待っていると、レイテ島に来た。それを迎え撃ったのが、レイテ沖の海戦だったのです。井上 ネズミ輸送でガ島に通っていた時、ショックを受けたことがあったそうですね。深井 今日は魚雷艇も駆逐艦も出てこないなと船の上で話していたら、突然、水平線の向こうでパパパッと閃光が上がったんです。大砲を撃つ光です。「あ、あそこに敵がいるじゃないか」と言って、双眼鏡で一生懸命見ても見えない。我々駆逐艦というのはだいたい3隻か4隻で行動するんですけど、このときも「白雪」「初雪」「吹雪」の3隻で行動しておりました。そしてしばらくすると、一番艦「白雪」と二番艦「初雪」の所に十数発の弾がダダダッと落ちてきたんです。それで、これは巡洋艦がいるんだと思ったが、いくら探しても見えない。 この攻撃で「白雪」は、煙突が吹き飛ばされ、蒸気がフーッと吹いていました。それまでも、ガ島に通ってる間に沈められた軍艦は何隻でもいる。今日はあれか、今日はあれかと言うぐらいに沈められていったんです。ガ島に補給物資を届けて帰ってきた時には、「白雪」がまだ沈まずに動けたので、助けながら基地に帰ったんです。その射撃を受けたことが一つのショックでした。 それはレーダー射撃でした。忘れもしない9月の7日です。日本では「電波探信儀」と言っており、電波探信儀を利用した射撃を「電探射撃」と言っていました。この戦闘の後、敵の電探射撃のことを報告しても、中央の大本営はあまりピンと来ていなかった。我々はラバウルの司令部に言ったり、あっちの艦長、こっちの艦長に言ったりして、「電探射撃をやれるように早く内地に言ってくれ、夜戦がやりづらくなる」ということを言ってたんです。しかしそんな我々の訴えは取り上げられなかったんです。 そしてその年の11月ころになって、ネズミ輸送をやめて、戦艦「金剛」の副砲長になれという辞令が来たんです。部下も馴染んでいて、こういう部下なら絶対に船は沈まないぞというぐらいの自信があったんですけど、命令だから仕方なく「金剛」に行ったんです。ところが、「金剛」の艦長に呼ばれて、「お前の仕事は、電波探信儀を使って副砲を撃つことだ、あれを研究しろ」ということでした。そこで砲術長と相談して研究したが、うまくいかない。しまいには、横須賀から工廠の研究の人を呼んだり、大学から研究者に来てもらったりして、レーダーの精度向上のために一生懸命やった。10カ月ぐらい経っても、あまり成果が上がらない。それで横須賀に戻されて、そこから3カ月陸上勤務でした。 その3カ月は、参謀になる教育で、朝から晩まで図面で兵棋演習というのをやる。15名ほどの学生が、日本軍とアメリカ軍に分かれて、サイコロを振って、次々進めていくんです。その頃には今度はフィリピンだとわかっていたから、その研究をやっておりました。「大和」でレイテ沖へ「大和」でレイテ沖へ深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。トラックに碇泊する武蔵と大和。右が武蔵とみられる=「戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦〈2〉」(朝雲新聞社)井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたんですね。深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。 その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの四つの空母群から、栗田健男長官が指揮するわれわれ栗田艦隊に攻撃が来たんです。 朝八時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで――触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の十一時過ぎに第一派の攻撃が来ました。それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。 他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。 1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってた。2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。 それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃にひっくり返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。逃げたわけです。井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。深井 「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。 栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで西に向かってひっくり返してきた。その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。サマール沖での砲撃サマール沖での砲撃井上 その後の栗田艦隊の作戦行動についてお話しいだけますでしょうか。深井 我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。 その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。井上 翌25日朝、タフィ3というアメリカの護衛空母艦隊が接近してきます。護衛空母というのは、商船を改造した小型空母で、正規空母と同様に多種の艦載機を搭載して艦隊の護衛などに多用されたわけですが、これを栗田艦隊が発見し、攻撃をかけたわけですね。このときの状況を覚えていらっしゃいますか。深井 覚えてますよ。さきほどの続きを言いますと、爆撃を受けなくなってから栗田長官は思い直し、またレイテに進む決心をして、ひっくり返して行ったんですけど、サンベルナルジノ海峡で必ず敵が待ってるぞと覚悟していたのですが猫の子一匹出てこない。魚雷艇も出てこないし、駆逐艦も出てこない。小沢艦隊の働きがあって、ここはもう空っぽだったんですが、そんなこととは知らずに、おかしいなあと首をかしげながら太平洋に出てきて、サマール島の南を行ったんです。 そこで砲戦訓練でもしようかなという時に、25日6時45分、水平線の向こうにマストが見えた。私も指揮所という高い所から双眼鏡で見ていました。僕は初め、これが敵だと思ってなかった。商船団だと思ったんです。商船団が舞い込んできたけど、これから戦争が起こるかもしれないのに危ないから早くどこかに逃げればいいがなーなんて思ってました。それでも、この船団は何か確かめようということで、艦隊全部がこれに向かって進んだんです。井上 水平線の向こうからやってきた船のマスト部分だけが7本、見えたわけですね。深井 目標に近づいていくと、飛行機がポッと飛んだんです。おかしいな、飛行機が飛んだぞと言ってるうちに、だんだん近づいたら空母が見えた。これは大変だ、空母だといって、すぐ射撃の準備をして、6時52分には「大和」の主砲がドンと撃った。発見したのが45分で、弾を撃ったの52分ですから、7分間で「大和」が初弾を発射したんです。井上 敵空母と「大和」の距離は、3万2000メートルあったということですが。深井 この距離だと落ちるのに50秒くらいかかる。目標をメガネでじっと見ていると、敵空母の向こうに半分、手前に半分、弾がバサッと落ちて、緑色の水柱が上がった。着色弾といって、どの船から撃ったか分かるよう艦によって色が決まっているんです。「大和」の弾は緑でした。水柱が落ちるまで見ていると、空母の後ろの方がガタッと沈んだので、後部に当たったんだと思いました。 遊就館に飾ってありますけど、「大和」の主砲は直径46センチの大きな弾で、40センチぐらいの鉄板なら打ち抜いてしまう。ところが、この空母は元が商船ですから、ズボッと突き抜けちゃったんです。だから爆発しなかった。船はガタッと傾いて、そのまましばらく浮いていました。あとから、これは「ガンビア・ベイ」という商船を改造した護衛空母だと分かりました。弾が当たるか当たらないかというぐらいの時に、右のほうから巡洋艦とおぼしき敵艦がダーッと出てきて煙幕を張った。普段、軍艦は見つからないよう煙を出さずに走っているが、このときは煙突から黒い煙を出して空母群を隠したんです。井上 その駆逐艦を、深井さんは副砲で1隻ずつ撃ち取っていった。これが本当に痛快なお話ですね。深井 護衛空母群が6隻ずつ三ついたんですが、ちょうど後ろにスコールがあって、煙幕が見えなくなる頃には、敵はこのスコールの中に逃げ込んでしまったんです。だから、「大和」からは何も見えなくなってしまった。レーダー射撃もできないし、撃つ目標は見えない。そこで煙幕を張る巡洋艦らしき敵艦を、副砲で沈めたんです。 すぐ目標を決めて、距離を決め、ドンと撃った。ところが、最初当たらなかったんです。三斉射目ぐらいで命中し、1番目の敵艦が沈んだ。その敵艦はその時まで巡洋艦だと思っていましたがよく見ると駆逐艦でした。次に、2番目の駆逐艦を狙って撃ち始めた。七斉射ぐらい撃ったでしょうか。それで轟沈しました。爆発して、バーンと煙が上がったかと思ったら沈んじゃった。 あとで戦闘の戦果報告があって、戦艦「長門」から、2番目の巡洋艦は俺が沈めたという報告があったんです。しかし、「長門」の弾は赤い色がついている。「大和」の副砲は色がついておらず、私の撃った弾は白い水柱が上がる。白い水柱が上がって爆発して沈んだのは、この目で見てました。その時に、赤い弾が左のほうに2回くらい落ちていたので、「長門」が撃ってるなとは思ってましたが、「長門」が沈めたというのはおかしい。あの時は、その戦果報告を聞いても黙ってましたが、実際に見てたのは僕なんだからよくわかっています。反転時の大和艦橋反転時の大和艦橋井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。深井 突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。 こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんか向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大きな声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座ってるだけ。栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカを潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。 僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立たなくなる。飛行機も飛べなくなる。だから、ここは絶対に譲れない。そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。 しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが謎の反転の真実なんです。井上 その反転の理由はいったいなんだったのでしょうか?深井 その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。 僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑っています。ただし証拠はありません。横向きに倒れ沈んむ運送船「山霧丸」の薄暗い船倉には戦艦「武蔵」「大和」の46センチ砲の砲弾が転がっていた=ミクロネシア連邦・チューク州のトラック環礁井上 栗田長官ご自身はどうお考えだったのでしょうか。深井 あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたらどうなったと思われますか。深井 レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかる。また、「大和」と「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国のためにやることだからしようがない、そういう気持ちでした。井上 最後にたいへん貴重な写真をご覧いただきます。小沢治三郎長官から贈られたという短刀です。深井 小沢さんは一期下の栗田長官をよく知っていて、あの男はもしかしたらレイテに突っ込まないのではという懸念があった。その時は「大和」の士官が率先してレイテに突っ込みなさい。俺も囮艦隊で全滅してでもやるから、お前たちも必ず突っ込んでくれということで、出撃前に贈られた短刀です。レイテ湾に突っ込み、最後は必ず死ね、と。 後から考えて、あのとき小沢長官は俺たちを激励するためにこれをくれたのだと分かった。小沢さんの貴重な気持ちがこれに籠っています。井上 深井さん、本日は誠に貴重なお話をありがとうございました。(2014年7月27日、靖國神社遊就館で行われた雑誌『正論』主催講演会に、追加取材を含めて構成したものです) 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年、東京都出身。昭和5年海軍兵学校入校。9年卒業、「八雲」。10年「比叡」。11年少尉、中尉任官。14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」。15年仏印作戦。16年「初雪」、マレー沖海戦。17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」。19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦。20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役。戦後は不動産建設業を営む。現在100歳。(「」内は乗組艦名) 井上和彦氏(いのうえ・かずひこ) 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。軍事漫談家。『日本文化チャンネル桜』の「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)など多数。関連記事■ 柳田邦男に聞く 根強い零戦人気の本当の理由■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い

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    もうひとつの「永遠の0」

    した零戦パイロット、宮部久蔵の愛と苦悩を描いた「永遠の0」。原作者、百田尚樹がこの作品で伝えたかった戦後70年への思いとは何だったのか。永遠の0の世界観を通して、自虐史観に歪められた戦後ニッポンを考えたい。

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    百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い

    百田尚樹(小説家・放送作家)映画「永遠の0」の上映後、講演する原作者の百田尚樹氏=東京都港区 皆さん、こんにちは。百田尚樹です。映画が終わったら半分ぐらいお帰りになるのかなと思って、心配していたんですが、たくさん残っていただきまして、ありがとうございます。原作者の私が言うのもおかしいかもしれませんが、この『永遠の0』という映画は実に素晴らしい映画だと思います。私自身、何回も観て、何度も泣いています。監督の山崎貴さんが本当に見事に映像化してくださったおかげですから、遠慮なく褒めさせていただきます。 さて、10月25日は、皆さん、何の日かご存知でしょうか。大東亜戦争中、フィリピンで日本海軍の神風特別攻撃隊が初めてアメリカの空母に突入した日です。関行男海軍大尉を中心とした零戦の敷島隊が突入した日です。19年10月25日。ちょうど七十年前の出来事です。 『永遠の0』でも書いたのですが、「特攻」というのは最初、あくまで限定作戦だったんですね。日本は当時、完全に追い詰められていました。フィリピンを米軍に奪われれば、南方資源を本土に運ぶ連絡地を失うことになるから終わってしまう、完全に息の根を止められる。この頃、日本海軍は数々の主要空母や航空機を失い、もうほとんど残存勢力はなかったんですけれども、すべての兵力を投入してアメリカ軍のフィリピン上陸を阻止しなければならなかったんですね。 そのいわゆるレイテ沖海戦では、日本は唯一残っていた大型空母「瑞鶴」をおとりにして、アメリカの主要な空母部隊を全部、引きつけて、その間に米軍上陸部隊を攻撃する作戦でした。つまり、瑞鶴はもう最初から沈む予定だったのですから、これもある意味、特攻です。実際、瑞鶴は沈み、多くの将兵が亡くなりました。 日本海軍初の神風特攻隊は、おとり部隊がアメリカ軍の主要部隊を引きつけている間、上陸支援の護衛空母を攻撃し、1隻を撃沈、3隻を撃破という大戦果をあげました。これは日本海軍としては久しぶりの大戦果で、海軍上層部は舞い上がった。それで「特攻というのは実に効果的だ」ということになって、限定作戦だったはずの「特攻」がその後も継続されてしまった。その翌年の沖縄戦では、陸軍もあわせてもう何千機という特攻隊として突入させ、多くの命が失われました。 私がなぜこの物語を書いたかと言いますと…という話をする前に、少し別な話をします。この映画の後ではちょっとやりにくいけど、私はいつも講演を楽しく聞いていただけるようにギャグをたくさんしゃべるようにしているものですから。 ご存じの方も多いかもしれませんが、以前から朝日新聞を批判してきた私は、朝日から目の敵にされています。今年の8月5日に、朝日新聞は従軍慰安婦の強制連行をしたという吉田清治氏の証言を掲載した記事を取り消しましたが、私はこの機会に、さらに厳しく朝日を叩いていると、朝日がきっちり報復をしてきました。 9月28日、旧社会党(現社民党)の元党首、土井たか子が死んだというニュースを見て、私がインターネットのツイッターで、拉致問題の存在すら認めることに否定的な言動をとってきた土井を批判して、「売国奴」と書いたときのことです。社民党の又市征治幹事長が記者会見で、「党をおとしめる誹謗中傷だ」「NHKの経営委員として不適格だ」と辞任を要求してきたことを、朝日新聞は、毎日新聞や東京新聞とともに書いて、私を批判してきたわけです。 ただ、又市幹事長の発言の翌日に大々的に記事にしたのは毎日と東京で、朝日は一日遅れだったんですね。僕は初め、朝日はなぜ記事にしないのだろうと首を捻っていました。すると朝日新聞の記者が、私のところに電話をかけてきたんですね。 「百田さん、ツイッターでこう言ったのはほんとですか?」 僕はわざととぼけてやりました。 「知らんがな」 「いや、百田さんのツイッターに書かれてますけど。百田さんが書いたんですよね」。 どうやら朝日の記者はビビっているようなのです。おそらく、もし僕ではなく、僕になりすました誰かが書いていたら、また誤報、捏造と批判されると思ったのでしょうか。 もちろん僕が書いたんですけど、僕も意地悪だから「知らんがな、そんな。覚えてへんがな」と、さらにとぼけてやりました。すると、朝日の記者は「やめてください。そんなことを言うの、やめてくださいよ」と言うので、「そんなん、自分らで勝手に調べろ」と言ってやりました。 朝日がどうするか楽しみにしていましたが、翌日、やっぱり朝日新聞には、きっちり記事が掲載されていました(笑)。実は、朝日の記者が「百田さん、何か言いたいことありませんか」と聞いてきた時に、こうも言っていました。「言いたいことは特にないけど、社民党の又市に言うてくれ。『記者会見で辞任を要求するって、いったい誰に向かって言うとるねん。要求するんなら、わしに言え、あるいはNHK、政府に言え、国会に言え。なんやったら、国会に呼べ。国会でお前らと直接対決したる』と。それを書いてくれ」 まあ、朝日新聞はその部分は全然、書いてくれませんでしたが。拉致問題に冷淡だった土井たか子は許さん日本人拉致の実行犯である辛光珠死刑囚ら韓国人政治犯の釈放に関する要望書に、菅直人や土井たか子の署名が記載されていた 真面目な話、僕は土井たか子のことを本当に、許せない政治家だったと思っているのです。旧社会党―つまりいまの社民党―は、北朝鮮の朝鮮労働党と友党関係にありながら、拉致問題などないという北朝鮮のウソを長い間、そのまま受け入れてきたんです。党のホームページに「北朝鮮による拉致というのは創作である」という論文まで掲載していた。土井は、そのときの党首です。平成14年、北朝鮮が拉致を認めた時、土井はさすがにその対応の誤りを認めて謝罪しているんです。1989年には、土井は、拉致の実行犯で韓国で逮捕された辛光洙(死刑判決、後に恩赦で釈放)という男の釈放要望書にも名を連ねています。これが「売国奴」ではなくて何だというのです。 さらに、僕が最も許せないのは、土井たか子が、自分たちを頼ってきた拉致被害者の家族の声に応えようともしなかったことです。 ヨーロッパで拉致された石岡亨さんという方がいます。1988年に決死の思いで北朝鮮から日本にいる家族に手紙を書いたんですが、その手紙はある人からある人へと渡って、ポーランド経由で、同じくヨーロッパで拉致され、石岡さんと結婚していた有本恵子さんのご両親のところに、届けられたんです。これ奇跡的な出来事です。 もしこんな手紙を出したことを北朝鮮当局に知られれば、石岡さんは粛清されるかもしれない。その手紙を日本に届けるために協力した人たちの命も危険にさらされる。それでも届けられた決意の手紙を手にした有本さんのご両親は、この年の9月、北朝鮮とパイプがあるといわれた旧社会党、土井たか子に、なんとかしてくれと頼みに行ったのです。当時、日本政府も、拉致はまだよくわからないという立場だったので、有本さんのご両親は、藁をもつかむ思いで土井を頼ったのだと思います。しかし、土井たか子は、それを門前払いにしてしまったのです。なんとひどいことをすると思いませんか。 しかもこのとき実は大変なことが起こっていた恐れもあります。それはこの14年後に明らかになります。2002年、当時の小泉純一郎首相と安倍晋三官房副長官らが訪朝して、金正日に拉致の事実を認めさせました。このとき北朝鮮は拉致した人たちの情報も出してきたのですが、なんと石岡亨さんと有本恵子さんについては、1988年の11月に、お二人のお子さんも含めて家族三人がガス中毒で亡くなっていると言ったのです。 ご両親が土井たか子に手紙のことで頼みに行ったのが、1988年の9月。この2カ月後に家族3人が突如として亡くなっているというんですね。もちろん、北朝鮮の出してきた情報は信じられない。石岡さんたちは生きていると僕自身は思うし、いまも生きていてほしいと思っています。けれども、もし北朝鮮の言う通り1988年の11月に亡くなっていたとしたら、その理由として考えられることはたった一つ。つまり石岡さんが手紙をこっそり日本に送ったという、この情報を北朝鮮が掴んだということです。じゃあ、どうして掴んだのか。そういうことを考えると、僕は怒りを抑えることができないのです。無敵の戦闘機の真実の姿 朝日新聞にしても、土井たか子にしても、反日の連中は、本当に何がしたいのかと怒りを覚えますが、その批判はさておき、『永遠の0』の話に戻りましょう。いうまでもなく、この映画は零戦の映画です。この零戦というのは、日本が生んだ傑作飛行機です。完成した昭和15年当時は、世界最高速レベルの飛行機であり、同時に世界のどの戦闘機にも勝る小回りの能力も持っていたんです。スピードと小回りというのは両立が極めて難しいのですが、それを実現したのが零戦でした。しかし、実は、僕は手放しでこれを傑作と言っていいのか、難しいところだと思っているんです。というのも、これほど、ある意味、人命を軽視している飛行機もなかったからです。大日本帝国海軍 零式艦上戦闘機(零戦)特攻機。終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として使用された 零戦の防弾性能はゼロといっても過言でもないほど薄かったのです。搭乗員の操縦席の後ろは防弾用の鉄板がまったく入っていない。一発でも撃たれたら、機体に火がつく。そんな戦闘機だったのです。にもかかわらず、初め零戦が無敵の活躍だったのはなぜかというと、当時、零戦の搭乗員が世界最高の技量を持っていたからです。つまり零戦というのは、最高の技量を持った搭乗員が操縦したら、最高の性能を発揮できるという戦闘機だったんですね。 ところが、戦争というのは、どうしても人が死にます。特に搭乗員は消耗度が激しく、次々と亡くなっていきます。一番、亡くなったのは、『永遠の0』でも描いたガダルカナルの戦いです。ラバウルの航空基地から1000キロ、米軍のいるガダルカナルを爆撃する一式陸攻を護衛して、現地で空中戦をして、そしてまた1000キロを帰る。そういう過酷な戦いが連日のように、行われたんですね。 『永遠の0』の中で、主人公の宮部久蔵は「1000キロを行って、帰ってくることはできない」と言いました。しかし日本海軍は実際にそれをやったんです。ガダルカナルを取り返すために、当時の零戦の搭乗員に、往復2000キロの飛行を要求したわけです。 現在の自衛隊のパイロットに聞いたのですが、戦闘機のパイロットが本当に集中力を持続できるのは、1時間半ぐらいだそうです。それを超えると、集中力が極端に落ちる。生理学的に必ずそうなるらしいです。ところが当時、零戦の搭乗員はガダルカナルまで往復6時間も乗り続けたんです。ガダルカナル上空で戦えるのは5分か10分。それ以上戦うと、帰りの燃料がなくなってしまう。一方、米軍戦闘機は燃料がタップリあるうえに現地で待ち構えているわけですから、どんな戦いでもできる。零戦は圧倒的に不利な上、自らを犠牲にしてでも、一式陸攻という爆撃機の護衛をしなければならない。行き帰りの飛行だって、どこで雲の合間から敵が襲ってくるかわからない。後ろから、雲の間から敵が来ないか。知らぬ間に敵に回りこまれていないか。そういう極限の緊張状況の中で、6時間飛び続けるんです。 車だって6時間も一度もストップしないで運転なんてできません。もうヘトヘトになります。しかし当時の搭乗員たちは6時間飛び続け、命懸けの空戦もしているんです。当時の戦闘詳報も見ましたが、多いときは1週間に5回とか出撃してるんです。疲労困憊どころの話ではありません。 私は、実際に宮部久蔵の時代、ラバウルで戦い、生き残った本田稔さんという元零戦の搭乗員の方とお話をしたことがあります。本田さんのおっしゃるには、おそらく実際に撃墜されて死んだ人よりも、途中で疲れ果て、海に落ちて死んでいった人のほうが多かっただろうということでした。連日の空戦で歩くのもしんどいほどでも、何とか出撃はする。しかし、帰りは、もうどうしても機中で寝てしまうのだそうです。本田さんは何度も、実際に海に落ちて死んでいった搭乗員を見たそうです。横に飛んでいる列機がそのまま、いつの間にか高度を下げてスーと落ちていく。「ああ、こいつ、寝てる」と思うけれども、当時の無線はとても使えたものではなくて、起こすこともできないのだそうです。 僕は、本田さんに、その睡魔にどうやって打ち勝ったのか尋ねました。本田さんは、眠たくなったらドライバーで自分の太ももを突いて目を覚ましていたそうです。何度も何度も出撃するうち、傷が倦んで、穴が開いてしまった状態になるそうですが、もう末期になってくると、普通に突くくらいでは目が覚めない。だから、傷口にドライバーを突っ込んで、それをグリグリと捻じ込んで、その痛みで意識を取り戻したというのですから、壮絶な話です。ラバウルの基地にたどり着いても、もうとにかく疲れ果てて、操縦席から出ることもままならず、整備員とかに両脇を抱き抱えられて降りたこともあったといいます。 そういう状況の中でね、ガダルカナルは半年間も戦うんです。昭和17年の8月から、ずうっと翌年の1月か2月まで、ガダルカナルの攻防戦をやるんですが、このときに日本の誇る、歴戦のベテラン搭乗員がほとんど亡くなったんです。日本は、そこでもう敗北が決定したわけです。なぜパイロット達は死んだのか 当時は、ラバウル行きの辞令を搭乗員が貰うと、片道切符と言われていたんです。私は『永遠の0』を書くために、いろいろ調べたのですが、その地獄の戦場でも、戦い抜いて、生き抜いて、生還したすごい搭乗員が何人もいたんです。先程、紹介させていただいた本田稔さんもその一人です。もう今、九十歳を超えていらっしゃいますが、本当に素晴らしい方で、まだまだお元気でいらっしゃいます。ガダルカナル島の海辺を行進する日本陸軍部隊=1942年 戦死された方の中にも素晴らしい搭乗員がたくさんいらっしゃいました。西澤廣義さんもその一人です。おそらく日本海軍で最高級技量の搭乗員の一人で、映画では登場しませんが、私は原作で書きました。 すごいのは、西澤さんは小隊長なんですが、自分の後ろに連れている列機の二機も一度も落とされなかったのです。映画でラバウルからガダルカナルに初めて行く日が描かれていますが、この日、西澤さんは実際に出撃して、6機のグラマンを撃墜しています。とんでもない達人だったんです。 地獄のガダルカナルを生き残った西澤さんは、昭和19年10月25日、関大尉が初めて神風特攻隊として突入する際、護衛を務めています。 初めての特攻の話は冒頭に少ししましたが、関大尉は突入前に二度、出撃しています。一度目、二度目の出撃では敵空母を見つけられずに帰ってこなければならなかったため、海軍の上層部は、相当な腕の搭乗員を誘導と護衛につけるしかないと考え、わざわざ別の基地にいた西澤さんに白羽の矢を立てたのです。「おまえは敵空母まで関大尉を護衛して連れていけ。そして、そこで神風特攻隊の突入を見届けて帰ってこい」というわけです。西澤さんは三度目の出撃をした関大尉を、敵空母まで送り届け、そこで敵の飛行機を2機撃墜し、そして関大尉が突入するのを見届けて、その戦果を全部確認して、戻ってきました。 しかし、その西澤さんの最期を思うと、あまりに悲しい。戻ってきた彼は翌日、命令で零戦をその基地に置いたまま、輸送機に乗って、クラーク基地に帰らなければならなかったのですが、その途中、その輸送機が敵戦闘機に撃墜され、彼もまた命を落とすわけです。日本の生んだ最高の戦闘機乗りが、こんな形で死んでしまったのです。当時の日本軍の戦い方を見ていると、もうなんという愚かな戦い方をしているのかと思います。 零戦の製作についても愚かなことがいっぱいありました。例えば、零戦は三菱重工業の名古屋の工場で製造されていたわけですが、そこには飛行場がなかったんです。完成した零戦は配備先の各基地に飛ばして移動させるわけですが、そのために名古屋から約30キロ離れた岐阜の各務ヶ原の飛行場まで、わざわざ運んでいたのです。しかも、牛車で20何時間かけて運んでいたのです。当時、道が舗装されていなかったので、馬車で運ぶと、完成したばかりの零戦が揺れて壊れてしまうため牛車でのろのろ運んだというんですね。これが1945年の日本が降伏するまで続いたんです。信じられないでしょう。 普通に考えると、飛行場のあるところに工場を建てるか、逆に工場の横に飛行場をつくるのが当たり前。もし離れていたとしたら、道路を舗装すべきなのに、それもされなかった。日本の省庁は、当時から全部、縦割りになっていて、工場もまた民間の三菱が経営しているので、一体化した効率的運用ができなかったようなんです。 もっとひどいのは、零戦の品質が途中からどんどん落ちていったということです。 零戦は、大東亜戦争中の米国の無骨な戦闘機グラマンなどとは違い、本当に美しい。どこを取っても直線がない。すべてが素晴らしい曲線なんです。最高性能を発揮するために、とことん堀越二郎が設計し尽くして、無駄のない曲線ができているわけですが、こんな飛行機は腕が良い職人、一流の職工でないとつくれなかったんです。それなのに、昭和17年ごろから、いわゆる赤紙、徴兵で、一流の職工もみんな兵隊として出征した。日本的な平等なのでしょうが、そうすると、その分、どんどん飛行機の品質が落ちていく。職人が足らなくなると、それを中学生で間に合わせようとする。中学生もいなくなってくると、今度、女子学生につくらせるようになる。当時は現在の教育とは違いますから、女子学生は工具なんか扱ったこともない。そういう人たちに一流の職工しかできない仕事をやらせるから、戦争の後半、昭和19、20年の零戦なんか、ひどかったそうです。部品が逆に付いていたり、すぐ落ちたりとか。ひどい飛行機がどんどん製造されていたんです。日本は、長期戦を戦うという体制がまったくできていなかったんです。どこの国の報道機関なのか アメリカは逆です。計画的ですし、余裕もありました。戦争に勝つためには、もういかなることでもやる。それらはアメリカが建国以来、やってきたことですが、そこには極めて恐ろしい部分も秘められていたと私は思っています。 英国からの移民が建国したときに、先に住んでいたインディアン―今はネイティブアメリカンと呼ぶようですが―そのネイティブアメリカンを騙して土地を奪い、西部に追いやりました。西部に金の算出が確認され、ゴールドラッシュになると、またそこでネイティブアメリカンを迫害し、追い出す。勇敢なネイティブアメリカンが戦うために抵抗を受けるわけですが、そうすると、まともに戦っては大きな被害を被るので、後方支援をする女性や子供を虐殺する。そんなことをされてきたネイティブアメリカンの歴史は悲惨です。空襲で焼け野原になった東京(神田上空から東南方向、浜町、深川本所方面を望む)=1945年 私は、これと同じことをアメリカがやったのが、東京大空襲、広島・長崎の原爆だったと思っています。アメリカは昭和20年の3月9日から10日にかけて東京に大空襲をするんですが、このときに狙ったのが一般民家の密集地帯です。これは主に日本の女性や子供の虐殺です。実際、このとき一夜にして10万人、死ぬのですが、その多くが女性であり未成年、子供たちでした。 アメリカは事前に砂漠に日本の町をつくり、日本の家屋、木造建築物をつくって、家の中まで再現し、これらの家を燃やすにはどんな爆弾がいいか、何度も実験を繰り返していたんです。そうして、火の燃え広がりやすい風の強い日を選んで300機を超えるB29の大編隊に東京を襲わせたのです。その爆撃は、ただ建物の破壊が目的だったとは思えないものでした。最初、空襲警報で人々が防空壕に入ったときは、爆弾を落とさず、まず房総に抜ける。「なんだ、威力偵察だったのか」と安心して、空襲警報が解かれ、みな家に帰ったところを―ちょうど9日から10日に日付が変わったころですが、まさにそのときUターンしてきて爆弾を落としていったんです。凄まじい爆撃で10万人が死んだんです。私は絶対許せない。 私はこの話を今年2月、東京都知事選に出馬した田母神俊雄氏の応援演説でしました。「東京大空襲は大虐殺や」とね。そうしたら、毎日新聞と朝日新聞が大騒ぎしました。共同通信は、米国のキャロライン・ケネディ駐日大使が「百田尚樹氏の発言でNHKの取材に難色を示している」などと報じました。正直、怒りを感じましたよ。彼らは一体、どこの国の報道機関なのですか。百田尚樹に『永遠の0』を書かせたもの 少し話がそれました。『永遠の0』で書きたい、描きたかったことはたくさんありました。その中で、一番描きたかったのは、生きるということの素晴らしさだったんです。 よく現代人は、自分が何のために生きているのかわからないとか、自分の生きがいがわからないとか言いますね。若い人は「自分を探しに行く」とか言ってインドなど海外に行きますが、僕に言わせれば、インドに自分がおるのかという話です(笑)。20何年間、日本で見つけられなかった自分が、インドに行ってもおるわけがない。 70年前、日本人はね、自分は何のために生きているのか、誰のために生きているのかということを、本当に切実に感じていた。自分の命は誰のためにあるか。そして自分は何のために生き延びるのか。生きるということは、どれほどすばらしいかということを、本当に知っていた。僕は、今の若い人たち、現代の人たちに、まずそれを知ってもらいたかったのです。 私がこの『永遠の0』を書いたのは、ちょうど8年前、50歳のときでした。人生五十年ということを幼い頃から考えていましたから、50歳以降は違う人生を生きてみようと思って、テレビの放送作家という世界から活字の世界に飛び込んで、小説を書こうと決めたわけですが、ちょうど、そのころ、私の父親が、末期癌で余命半年の宣告を受けたのです。徴兵で大東亜戦争に行っていた親父は僕によく戦争の話をしましたが、その親父がもう半年で死ぬのかと思ったら、何か書かなければいけないと思ったんですね。『永遠の0』を書いたのには、そんな事情がありました。 私の父親は大正13年生まれで、家は貧しかった。当時、日本人はみんな、貧しかったんですけど、父親も高等小学校を卒業してすぐ働きに出て、そこから夜間中学に通ったんです。13か14歳ぐらいから、ずっと働き続けて、そして二十歳のときに徴兵にとられました。運良く生きて帰ってきたんですが、戦後も、何もかも失った日本で苦労しました。戦前から勤めていた会社も潰れていて、昭和20年代は、いろんな職を転々とし、30年代にようやく大阪市の水道局の臨時職員になって、そこで一所懸命働いて、やがてそのうち、正職員になれた。そうやって私と3歳下の妹を、大学まで行かせてくれたんです。 その親父がもうすぐ死ぬんか、あと半年で死ぬんかと思って…。その1年前に私の3人いる伯父―母の兄です―の一人も亡くなっていたんですが、やはり戦争に行っていました。伯父が他界し、今、親父が亡くなろうとしている。そうか。あの大東亜戦争を戦った人たちは今、日本の歴史から消えようとしてるんだなと。そう思った時、僕は筆を執らずにはいられなかったわけです。父親と宮部久蔵 そして子供たちの世代 僕は幼いときから、父親から、あるいは3人の伯父から、戦争の話をたっぷり聞かされていました。正月などで親戚が集まると、そういうところで、いろんな話を聞かされるわけですが、必ず戦争の話が出てくるのです。僕は昭和30年代の大阪に育ちました。10年ちょっと前はまだ戦争をしていたという時代ですから、普通の会話の中で戦争の話が出てきたんです。 「お兄ちゃんはあのとき、どこにおったんや?」「ああ、俺はもうラバウルにおってな」「大変やったろう」。「大変やったぞ。もう戦争が終わってから、もう二年ぐらい帰ってこられんかった」とかね。「おまえ、どこやねん?」「俺はビルマや」「ビルマとか、すごかったらしいな」「すごいよ。うちの部隊、3分の1ぐらい死んだ」とか。そんな話をしょっちゅう聞いていました。 おばちゃんたちも「戦地もすごかったけど、大阪もひどかったよ。もう爆弾、もうブワァーと空襲がすごくて、家、焼けるし、子供背負って逃げたんや」と、普通に話をしていました。学校の先生にも兵隊経験者がいました。近所のおっちゃん、おばちゃんも普通に戦争の話をしてきました。 その頃の大阪にはまだ、建物や鉄道の壁といったところに、アメリカの機銃掃射の跡がたくさん残っていました。私は淀川の近くに住んでいたのですが、河川敷に大きな爆弾の跡でできた穴がたくさん残っていて、水が溜まっていました。僕らはそれを「爆弾池」と呼んで、筏を浮かべて遊んでいました。梅田や難波の繁華街に行けば、戦争で腕や足を失った傷痍軍人の方が、白い傷病服を着て歩道橋やトンネルにずらっと並んでいました。僕らそういうところを歩くと、お金を置いていったものです。これが日常的な光景でした。 僕はそんなふうに育ってきたんですが、それから何十年か経って、僕に息子と娘ができたとき、親父は、僕にはあれほどたくさんした戦争の話を、僕の子供たちには一言もしなかったんです。そして、しないまま死んだ。僕の親父だけかと思って、いとこに伯父たちのことを聞いてみたら、やっぱり「そう言えば、そうやな。俺の親父や、おふくろも、結局、俺の子供にはまったく戦争の話はしないで死んだな」という答えが返ってきたんですね。ほかの多くの人に聞いても、みんな、そうでした。僕より下の世代になってくると、戦争の話をほとんど聞いてないんですね。ミッドウェー海戦で炎を上げ沈没寸前の空母「飛龍」。4空母の中で最後まで戦い続けた(共同) 親父たちが戦争の話をしなくなったのには、いろんな理由があると思いますよ。改めて嫌な話をする気がしなかったのかもしれないし、あの記憶を思い起こすのがつらかったのかもしれない。昭和20年代、30年代は、つらい思い出を共有している人がたくさんいたから話も通じたけど、そうでもなくなってくると、改めて話をする気も失せたのかもしれない。もう記憶そのものが薄れてしまったという人もいたのかもしれません。とにかく、そういうことにハッと気づいたとき、僕は、父親や伯父さんから、戦争の話を聞かされた世代として、次の世代にこの話を語り継ぐ義務があるんじゃないか。僕はそう考えたわけです。 ですから、『永遠の0』の主人公、宮部久蔵は、ちょうど私の父の世代なんです。これは私がつくった架空の人物ですが、架空の人物と言いながら、実はいろんな実在の搭乗員の話を、総合して、つくり上げた男なんですね。 そして、『永遠の0』の中に出てくる宮部の孫である姉と弟、「僕のお祖父ちゃんはどんなお祖父ちゃんでしたか」と聞いて回る2人の現代の若者ですが、これはちょうど私の子供の世代なんです。つまり、私は『永遠の0』という物語で、私の父親の世代と私の子供の世代、この二つの世代を結びつけたかったんです。 それがうまくいったかはわかりません。ただ、この本は、戦争物、戦争の小説は売れないというのが出版業界の常識となっていた時代に、ベストセラーになりました。すごく若い世代に読んでいただいているんです。最初は60代以上の男性読者が多かったけれど、だんだん読者の年代が下がっていき、そして世代が下がるごとに、女性のファンが増えてきました。最近では20代、大学生、そして高校生。そういう人たちが読んでくれている。そういう人たちが『永遠の0』を読んで、それまで学校ではほとんど習ってこなかった歴史を知り、あの時代の日本人はどんな思いで生きていたのか、そして日本は世界を相手にどんなふうに戦って、そして、どんなふうに敗れていったのか、すごく知りたいと思っている。そういう若い人が増えているのを見ると、この物語を書いて本当に良かったなと思います。 本が売れると、私ども、印税が入ってくるので大変嬉しいのですが(笑)、でも、この『永遠の0』に関しては、印税が入って嬉しいというのとは、違う喜びがあるんです。 もちろん初めは、こんなに売れるなんて思っていませんでしたよ。小説家デビュー作として、この物語を書いた時、多くの出版社に持ち込んでも、ことごとく断られたんです。太田出版という小さな出版社が拾ってくれて、平成18年に発売され、その後、講談社文庫に入って、何年も何年もかかって、少しずつ売れていったのです。 普通、ミリオンセラーになるような本はすぐ話題になって、発売1、2年で、バーンっと100万部を突破するわけですが、『永遠の0』が100万部を超えるまでには、5年か、6年かかったんですね。そして今年、400万部です。平成に入って、もっとも売れた本と言われている。出版界も非常に不思議に感じているようです。戦争を戦った男達 日本を建て直した男達 映画の中にも、戦後の日本を描いたシーンが少し出てきます。何もかも失って、みな、バラックに住んでいる。映画では大阪しか描いていませんけど、もう日本の当時、日本の都市、東京も名古屋も全部、そうだったんです。日本の大都市は、ことごとく破壊されていたんですね。 東京は焼け野原に、ポツンポツンとビルが残っているだけ。しかも、その多くは中が焼けているという状態で、もう一発の爆弾を使うのも無駄だというぐらい、破壊され尽くされていたんです。ポツダム宣言受諾は昭和20年の8月ですけど、その三カ月前の五月の時点で、アメリカ軍は東京を爆撃目標リストから外したぐらい。それほど、破壊し尽くされていた。雨露をしのぐ家のない人は1000万人を超えていました。当時、8000万人だった人口のうち、300万人は死に、生き残った多くの人も家や食べる物がない。日本は世界最貧国でした。当時、占領軍が日本を調査したときの報告書に、どういうことが書かれていたかご存じですか。この国は50年経っても昭和5年当時の生活水準に戻るのが関の山だろうと書かれていたんです。それほど荒れ果てていたんです。 しかし、その日本が20年かからないうちに、戦争で負けて19年目の昭和39年には、東京オリンピックを開いて、ホストとして、世界中の国を招いたんです。そして同じ年に当時、夢の技術といわれた新幹線開通を実現させた。米英やソ連など第二次世界大戦の戦勝国がなしえなかった、時速200キロで走る高速鉄道を、東京から大阪まで通したんです。これ、すごいことです。 あの悲惨な状況の中で、どれだけ働いたら、こんなことができたのかと思います。先の東日本大震災のとき、すぐさま自治体や政府が避難所をつくり、食料を配給し、そして仮設住宅もつくりましたが、昭和20年当時、そんなことをしてくれる自治体も、政府も何もなかったんです。自分の家を焼かれても、家族を失っても、誰も補償してくれない。戦場から帰ってきた人たちは、仕事も何もない。家族はもう空襲で死んでいる。そういう状況の中でね、もう彼らは死に物狂いで働いたんですね。 私は『永遠の0』を書いた後、戦後の日本を描いた『海賊とよばれた男』を書いたのですが、この二つの作品を書いてみて、遅ればせながら、改めて気づいたことがあります。それは、あの戦争を戦った男たちと、戦後を建て直した男たちは、実は同じ男たちだったということです。 先ほど日本は戦争で300万人、死んだと言いました。広島・長崎の原爆と空襲で一般市民が約70万人、死んでいます。ですから、実際の戦闘で戦って、死んだ人は大まかに言って約230万人です。このうち、200万人が大正世代です。わずか15年しかない大正に生まれた男たちは約1340万人に過ぎない。1340万人のうち、200万人、死んだんです。平均すると6・7人に1人が死んでるんです。しかも、このほとんどが大正8年から15年という大正後半の生まれなんです。宮部久蔵も大正8年生まれです。私の父親も13年生まれ。ちょうどこの一番死んだ大正の後半世代に入っているんです。 この大正の後半世代というのは本当に不幸な世代です。日本は昭和6年の満州事変から14年間、ほぼ常に戦争していました。この世代は、物心ついたときから日本が戦争していたことになる。子供時代、青春時代を送った日本は、どんどん悲惨な国になっていった。二・二六事件が起き、国家総動員法ができ、戦争に邁進していき、そういう中で彼らは十代を過ごし、そして二十歳になった。二十歳というのは本当に人生で最高のときですよ。若さもあり、恋もする。その人生最高のときを、彼らは戦場で過ごしたんです。その戦場も地獄の戦場です。きのうは先輩が死んだ。きょうは自分の弟分が死んだ。あすは自分が死ぬかもしれない。そういう中で戦っていたんです。 戦争に負け、ボロボロになって日本に帰ってきても、「お国のために戦ってくれた兵隊さん、どうもお疲れさんでした。あとはゆっくり休んでください」と労ってくれる祖国は、どこにもなかった。祖国に帰ってきたら、戦場以上にひどいところだった。もう何もかもなくなっていた。そんな中で、彼らは日本を、祖国を一から建て直したんです。男と言いましたけど、女も同じです。200万人の男性が死んだということはね、200万人の女性が夫を失い、恋人を失い、あるいは兄や、弟を失ったということです。私の母親も大正15年生まれなんです。まだ元気にピンピンしてますが、ずいぶん結婚が遅かった。同世代の男は多くが、死んだからだと思います。父母、伯父達…大正世代に手を合わせたい 改めてそのことに気づいたとき、僕は大正世代のすごさに、深く感じ入りました。明治以降百何十年の中で、こんなに不幸な世代はないのですが、同時に、これほど偉大な世代もなかった。すばらしい世代です。私は、ありがとうございますと、手を合わせたいと思っています。私はいま58歳。もうすぐ60になります。この年まで生きて思うのは、伯父さん、父親、おふくろ、そういう僕の上の世代の人たちに、本当に豊かな日本、本当に素晴らしい社会に育ててもらったということです。深い恩を感じています。ですから、少しでも何か日本のためになりたい。日本のためはオーバーですが、小さなことしかできないにしても、何か世の中の役に立つことをして死にたいなと思っています。この日本にいて、この豊かさの上にあぐらをかいて、先人が残してくれたものをムシャムシャ食べるだけ食べて、腹一杯になったからもう死にますわと、そんな人生を過ごしたら、あの世で父親や伯父さんに顔向けできない。 先人が残してくれた、この豊かな素晴らしい日本に、少しでも豊かさを上乗せしたい。あるいはこの豊かさを維持したまま次の世代に渡していきたい。そういうことを考えています。 しかし、こういうのに足を引っ張るのが、慰安婦の強制連行があったなんていう捏造報道をした朝日新聞ですね(笑)。朝日を始めとする反日の連中は、日本をどうしたいのか。日本を沈めたいのか。日本にやってもない汚名を着せて、日本がひどい国であると世界に言って回りたいのか。 しかし、そんなことを続けていれば、朝日新聞社は日本人から信用を失って、経営危機に陥りますよ。私は日本のためにがんばって、いろんなことをやりたいと考えています。その「いろんなこと」の中には、朝日新聞の廃刊も入っています(笑)。その日までがんばりたいと思います。きょうはどうも皆さん、ありがとうございました。(講演を再構成して掲載しています) ひゃくた・なおき 昭和31(1956)年、大阪市生まれ。同志社大学法学部中退。放送作家となり、人気番組『探偵!ナイトスクープ』のチーフ構成作家に。平成18年には『永遠の0(ゼロ)』(太田出版、現在は講談社文庫に所収)で小説家デビュー。『海賊とよばれた男』(上・下、講談社)で、2013年本屋大賞を受賞。近著に『殉愛』(幻冬舎)、『フォルトゥナの瞳』(新潮社)。関連記事■ 百田尚樹もさじを投げた! それでもまだ報道機関を名乗るのか■ 百田尚樹より 朝日論説委員と記者の皆さんへ■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」■ 「戦勝国」史観との対決■ 戦争犯罪と歴史認識

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    柳田邦男に聞く 根強い零戦人気の本当の理由

     日米開戦を前にした日本で昭和15年、世界を圧倒する性能の零式艦上戦闘機(通称・零戦)が誕生した。技術後進国だった日本でなぜ、世界に冠たる戦闘機が開発されたのか、そして零戦の限界はどこにあったのか。設計者の堀越二郎らの苦闘を描いたのがノンフィクション作家、柳田邦男さん(77)の『零式戦闘機』(52年)だ。戦後の技術大国・日本に通じる題材を描いた作品は、刊行から30年以上たった今も増刷が続く“長期飛行”を記録している。◇ 零戦の人気は戦後も根強く、搭乗員だった坂井三郎さんの『大空のサムライ』や小説家、吉村昭さんの『零式戦闘機』などのブームがありました。そんな中、週刊文春の編集長だった半藤一利さん(83)から「技術者を中心に、零戦ができるまでの物語を書いてみないか」とのお話があったのです。その前に手掛けた『マッハの恐怖』のように、専門性の高い分野の話を一般読者にも分かるようにして、人間が技術にどう向き合ってきたかの物語を書けば、現代の記録文学として深みが出るのではないかと考え、引き受けました。 〈戦後30年目の昭和50年、南太平洋・ラバウル沖から引き上げられた零戦が国立科学博物館で公開され、話題を呼んでいた〉埼玉・所沢航空発祥記念館で2012年に展示された零戦 高度成長の中でしたが、歴史を冷静に見る視点が受け入れられるようになっていた。ノンフィクションに読者がついてきてくれる時代でした。昭和史の中で大きな意味を持った零戦の栄光と悲惨を技術の面から書くと同時に、若いパイロットがどういう形の生と死を見せてくれたのか、一人一人大事にみることを心掛けました。 仕事を始めてすぐ気づいたことは、日米の技術思想の違い。そして背景にある文化の違い、命に対する考え方の違い、そういう比較文化論みたいな意味があるんだと。 スピードや航続距離、旋回性能を追求するのは日本ならではの思想なんです。その土俵の中で、1千馬力のエンジンを積んだものとしては当時世界一の戦闘機を実現した。しかし、それが日本独特の条件の中での思想だということに気がつかない。ここが落とし穴なわけです。自分の世界の中で最善を尽くせば無敵だ、と思ってしまう。これは時代を超えた普遍的な問題だと思いますね。 ではアメリカの思想はどうか。僕は当時の(零戦のライバル機を製造した)グラマン社の設計者にも話を聞いたわけですが、大事なのはまず馬力、そして数。馬力が大きければいろんなものをカバーできる。力ずくで、そして数で相手を圧倒する。 日本はある優れた性能のものを作ると、全体的な技術レベルが伴っていなくても世界制覇したように思い上がってしまう。これは明治以来の「追いつき追い越せ」で形成された民族性が、国民性といっていいほどに染みこんでしまった結果だと。こういう目で見ないと、あれほど素晴らしい零戦がなぜボロボロになってしまったのか、説明がつかないと思います。 今の車でもそうですが、いい製品を作っても他社が追いついてくる、だから2~3年後には新製品を作って勝負せねばならなかったんです。 〈『零式戦闘機』に続き、『零戦燃ゆ』(3部作)を発表。長期にわたり零戦の栄光と凋落(ちょうらく)を技術面から冷静に書き続けた。昨年、堀越二郎らをモデルにした『風立ちぬ』、百田尚樹氏原作の『永遠の0』が相次いで公開され、再び注目されているが、このブームには苦言を呈する〉 最近の映画は、なぜあんなにはやっているのかと思いますね。今の若い世代は戦記物を読んでいませんから、特攻など本当に悲惨な全体像を知らずに断片を描いたものを見ているのかもしれない。だから、新鮮に映るのかもしれませんね。 僕は「全体ドキュメント」という発想をずっと持っています。零戦が生まれてから死ぬまでを徹底的に全部書いたのは、これが初めてでしょう。物事の本質を見るためには全体像を把握しないといけない。同時にディテールを見ていく。両者が相まって初めて、人間が今という時代に生きている姿が見えてくる。読者の方々には、作品を通して零戦の全体像を知ってもらえればと思っています。(聞き手 溝上健良)◇やなぎだ・くにお 昭和11年、栃木県生まれ。東大経済学部卒業後、NHK入局。連続航空機事故を追った『マッハの恐怖』で47年、大宅壮一ノンフィクション賞。作家業に専念するため49年にNHKを退職。54年『ガン回廊の朝』で講談社ノンフィクション賞受賞。巨大システムの事故、医療事故、災害の分析ドキュメントを数多く手がける。近著に『終わらない原発事故と「日本病」』など。関連記事■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 朝日新聞「素粒子」にモノ申す 特攻隊とテロ同一視に怒り■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」■ 「戦勝国」史観との対決■ 戦争犯罪と歴史認識

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    あの日、日本軍パイロットが見た風景

     74年前の1941(昭和16)年12月8日未明(現地時間7日朝)、米ハワイ・オアフ島の北約320キロに展開する日本の連合艦隊から、爆撃機や戦闘機約200機が発艦した。目標は真珠湾の基地と米太平洋艦隊。  午前7時52分、真珠湾上空に到着した空襲部隊の淵田美津雄総指揮官から空母「赤城」に向けて「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)が打電された。55分、フォード島の米海軍の6番格納庫への爆撃を皮切りに真珠湾攻撃が始まった。  第1波、第2波合わせて、約350機が縦横無尽に真珠湾上空を飛び回り、艦船や航空機数百機、格納庫、滑走路などを破壊、2時間に及ぶ「真珠湾攻撃」が終了、対米戦争に突入した。  フォード島の米海軍54番格納庫で飛行艇カタリナの乗組員として勤務していた20歳だったディック・ジラコさん(93)は、真珠湾攻撃の当日のことを鮮明に記憶している。「あの日は澄み切った青空の中、無数の飛行機が空を覆うように飛んできた。急旋回した翼の下に日の丸が見えたときに、パニックになった。飛行帽やゴーグルがはっきりと見えるほど近くを飛んでいった。パイロットと目があったが人は狙わなかった。日本軍は卓越した飛行技術と完璧な作戦で、滑走路や艦船、航空機を徹底して攻撃して去った」。この攻撃による死者は、米兵ら2000人超とされる。  ジラコさんは当時のまま残る格納庫などを利用した太平洋航空博物館の親善大使として、戦争体験を語り継ぐボランティアに励む。「90歳を過ぎた今も、当時の体験を正しく伝え、さまざまな人と交流できることが生きがいだ」と笑顔で話した。愛車は日本車で、自ら運転し格納庫に通っている。ナンバーは「パールハーバー・サバイバー(真珠湾の生存者)」だ。1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナ。上空からは船影がはっきりと確認できる(チャーターヘリから)=米国ハワイ州オアフ島の真珠湾  日米開戦の象徴とされるのが、あの攻撃で沈没した戦艦アリゾナ。攻撃第1波の午前8時過ぎに2発被弾し、大破して炎上。米兵1000人以上が犠牲となった。アリゾナは現在も攻撃を受けたその場所に沈んだままだ。全長185メートルの船体をまたぐように1962年に記念館が建てられ、天気が良い日には水面にその船影が浮かび上がる。白亜の追悼施設「アリゾナ記念館」には対岸から海軍のボートで訪れることができる。メーンマストに星条旗が掲げられた館内では、犠牲者名を彫った石版や、海中の残骸を見ることができる。となりには降伏文書の調印式を行った戦艦ミズーリの姿も。真珠湾攻撃を受けたヒッカム基地司令部のビルには当時の弾痕が生々しく残っている=米国ハワイ州オアフ島の米軍ヒッカム基地上空から見た真珠湾。大戦の舞台となったことが想像できないほど美しく、澄んだ水面が印象的だった=米ハワイ・オアフ島 当時8歳だった日系2世のエレーン・フナコシさん(81)は、自宅の庭で日本軍機を目撃した。「若い美男子のパイロットが手を振ったのを覚えています。開戦後、日系人は随分差別を受けました」と心境は複雑だ。 真珠湾にあるヒッカム基地のデビッド・ホンチュル大佐(51)は「司令部の建物には日本軍の弾痕もある。毎年12月7日には攻撃で破れた星条旗を掲げ、若者に何があったか伝えている。戦時中のできごとの是非ではなく、事実の記憶を消さないことが大切だ」と強調した。 ヘリをチャーターし、真珠湾攻撃と同時刻に上空を飛んだ。まぶしい日差しと澄んだ水面が印象的だった。あの日、日本軍のパイロットたちが見た風景はこれだったのか。身震いを覚えた。(写真・文 写真報道局 鈴木健児)関連記事■ 朝日新聞「素粒子」にモノ申す 特攻隊とテロ同一視に怒り■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」■ 「戦勝国」史観との対決■ 戦争犯罪と歴史認識

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    元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い

    ~元兵士・特別座談会~横山岳夫氏原田要氏前田武氏司会・門田隆将氏 今年は日米開戦70周年で大正100年でもある。先の大戦に臨んだ兵士の多くは大正生まれで、戦場を生き抜き、戦後は焼け跡から日本を立て直した「復興」の立役者でもある。私たちの前に再び「復興」という重い課題がのしかかっている今、大正世代の証言や生きざまに目を向けるべきではないだろうか。あすは終戦の日。「太平洋戦争 最後の証言」の著者、門田隆将氏の司会で最前線の戦場に臨んだ元兵士が戦争と後世への思いを語った。右から横山岳夫さん、前田武さん、原田要さん。手前は、司会の門田隆将さん(野村成次撮影)宣戦布告待った「真珠湾」門田 今年は日米開戦70周年です。今日は、先の大戦の当事者にお集まりいただきましたが、まず真珠湾攻撃に臨んだ前田さんにうかがいます。真珠湾の攻撃を初めて告げられたのはいつだったのでしょうか。前田武氏前田 舞鶴航空隊から転勤で鹿児島に配属されたのは真珠湾攻撃の3カ月前。ここで私は鹿児島湾で超低空から雷撃する訓練を連日続けました。海面わずか10メートルから魚雷を落とす。高度はそれ以上でも以下でもダメという難しい訓練でした。門田 真珠湾攻撃と知っての訓練だったのですか。前田 まだ誰も真珠湾とは聞かされていません。門田 原田さんはいつ告げられたのですか。原田 昭和16年11月の終わりです。択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に連合艦隊が集結、そこで初めて各艦長らに明かされました。「米国と外交交渉をしておるが、うまくまとまらない場合、攻撃する」と米国との開戦を知らされ、驚きました。門田 真珠湾攻撃の時、横山さんはどこにおられましたか。横山 戦艦「日向(ひゅうが)」に乗船して小笠原付近にいました。真珠湾攻撃は事前に全く知らず、ラジオで知りました。先の見通しなど全然考えてなかったから特に感慨などなかったですよ。前田 どこで、何をするとも告げられぬまま出航し、豊後水道を航行していた時です。加賀艦長の岡田次作(じさく)大佐が全員に「ただ今より、本土に別れを告げる」と言われました。その後、単冠湾到着翌日の11月24日、空母「赤城」の作戦室で、真珠湾と初めて知らされました。門田 どういう思いだったのですか。前田 標的と言われたウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。門田 実際の攻撃はどうでしたか。前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵(あんど)と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。 ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。が、肝心の外務省がそれをしていなかった。戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。それは今でも変わらないです。痛恨のミッドウェー門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。原田要氏原田 昭和17年6月5日朝、上空哨戒(しょうかい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。 ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。それで甚大な被害を受けてしまった。こっちは目前の敵に必死でしょう。全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。全ての狂いはここから始まっている。前田 索敵(さくてき)の怠慢以外の何物でもない。巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。当然、先には敵空母がいる。なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。致命的なミスでした。ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。 発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。瀕死の負傷の中で門田 着艦すべき空母が次々やられ、原田さんは海に不時着水したのですか。原田 空母がやられても、まだ巡洋艦や駆逐艦が残っているので、私も上空哨戒を続行し、必死で戦いました。こっちで飛んでいるのは私だけで、燃料が切れるまで飛び、駆逐艦脇の海面に着水したのですが、そこを敵機に攻撃され、救助の駆逐艦が逃げてしまった。門田 救助されたのはいつだったのですか。原田 なかなか来てくれなかった。フカは自分より大きなものはかじらないというから、首のマフラーを足に縛り付けてみた。もうダメと思って家内や子供のことが思い浮かびました。でも、それを過ぎて、もう死ぬしかない、と思いました。マフラーも外したが、今度はフカがなかなか来ない。そのうち静かで穏やかな気持ちになっていくのです。やるだけやった。もういい、という諦めですね。門田 諦めですか。原田 実は私は飛行機に乗るまでとても臆病で死が怖かった。死に直面した時の苦しみを何とか取り除けないかと高僧に意見を求めたこともあった。 そのとき「あれこれ悩んでもつまらない。死ぬとき誰でも多少の苦しみはある。でも、いよいよその時には案外穏やかになれる。諦めがあれば、人間は静かに穏やかに死ねる。だから兵隊さん、心配はいらない」と言われたのです。その言葉の意味がその時、わかったような気がしたのです。前田 加賀の艦上にいた私もドーントレスの爆撃で左の膝の上をえぐられる負傷を負いました。足が吹っ飛んだ感じでした。救助を受けるためにいったん海に落とされ、海から駆逐艦に移ろうとした。でも敵の攻撃でできない。私もただ海を漂うだけでした。手ぬぐいで傷をしっかり縛って止血したのが幸いして3時間後に引き上げられ、命は取り留めました。運命共同体のなかで門田 横山さんは特攻が始まった時の指揮官の一人ですね。昭和19年10月に特攻命令を聞かされたのは大西瀧治郎(たきじろう)中将からですか。横山岳夫氏横山 いや、フィリピンのマバラカット基地で私は201空の玉井浅一副長から言われました。大西さんがやってきたので、玉井さんともう一人の飛行隊長の指宿(正信)さんと私が呼ばれますが、特攻の相談は大西中将から私にはなかった。私は後で聞かされ、4隊ある飛行隊から1人ずつ出すように言われたのです。 命令なので1人選ばねばならない。が、考えてみると、1人選べば済む話ではなかろう、その先は自分もその1人になるだろうし、ならなくてはいけない。そう考えて選んだのです。門田 どう選びましたか。横山 知らない人間を選ぶわけにはいかない。実力を備えて一番よく知っている隊員でなければならない。それで大黒繁男という上飛兵を選んだのです。大黒はずっと私の二番機でついてきた若い優秀なパイロットでした。 彼にはその日の夜、告げました。私の部屋に彼を呼び、お前がまず行けといった。大黒は、淡々と「わかりました」と答えました。門田 横山さんは当時、特攻と異なる攻撃方法を考えていたそうですね…。横山 特攻が始まる前の昭和19年、爆弾を落とすさい、いかに被害を少なくするかを研究していました。それで、斜め45度からの爆撃ではなく、敵艦の真上から自分の機が裏上(うらうえ)になって真っ逆さまに降り、ちょうど垂直になった時に爆弾を落とすという攻撃法を研究し、特攻が始まる直前、実際に敵艦隊を攻撃して成功しました。しかし、「(その作戦に)まわす飛行機はない」と採用はされなかった。惜しかったが、戦況が戦況だし、飛行機がないといわれれば仕方ないですな。 私は大黒を指名したあと、ミンダナオ島のダバオ基地に飛び、今度はそこで特攻隊を出しました。しかし、1時間飛んで敵が見つからなければ帰って来いと私は言いました。燃料は2時間分しか入れてないですからね。もしかしたら、そう言ったのは私だけだったかもしれません。日本人としての戦い門田隆将氏門田 太平洋戦争とは大正生まれの青年たちの戦争でした。自分の家族や祖国を守るために、命を捨ててそれを貫きました。そういう毅然とした生き方や精神はどこから生まれたのでしょう。原田 それは、私は武士道だと思っていますよ。やはり連綿とつづいてきた武士道の精神が日本人には残っていたと思います。門田 横山さんは今、特攻にどういう感情をお持ちですか。横山 なかなか難しい質問ですね。特攻を考えるのは戦争そのものを考えることでもある。戦争には必ず勝つか負けるかが生まれるわけですよ。ところが計画した人は負けることに目を向けたがらない。劣勢時にどう収めるか。常に立案者はそれを考えなければならなかった。そういう反省は随所にありますよ。原田 私は日本国民のプライドの問題だったと思うのです。特攻で自分の身体を国のために犠牲にすることを誇りに思っていたと思う。大西中将は部下を殺すつもりで好きで特攻を始めたのではない。彼も負けるとわかっていたと思う。結局、特攻の犠牲を通じて早く終戦を模索するつもりだったのではないか。 ただ、プライドは自信過剰に陥る危険をはらんでいる。例えば、山本五十六(いそろく)長官が近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相に聞かれ、「半年くらいなら暴れてみせる」と言ったと記録に残っている。最後は負けるとわかっていても、やはり連合艦隊の司令長官として「戦えない」とは断じて言えなかったわけです。何とかする、何とかしようという気持ちと責任感、そしてプライドが、それを言わさなかったのだと思います。門田 それはプライドに基づく倫理的な言動ではあるが、一面、大きな危険を秘めているということではないでしょうか。横山 ご聖断にも通じます。なぜもっと早く停戦できなかったのか、という見方もあるが、それまで誰も言いきらんかったのですよ。前田 2年で戦争遂行のための燃料が枯渇することは初めからわかっていた。しかし、それでも戦争を始めてしまった。南方の資源を手に入れれば、と戦争が長引いてしまったのだが、それぞれの立場、それぞれの時期で判断を下す場面はいくらでもあったと思う。だが、それを誰も言わない。これは日本人の悪しき面でもある。同時に、それが日本人らしいところでもあって、難しいですよ。門田 確かにこれは今にも通じますね。あの時言うべきだった、という光景は今でも日本の至るところに存在する。しかも、先の大戦では、それを潔い大正世代の若者が黙々と戦場で実行し、多くの戦死者を生みました。その無念の思いや生きざまを現代の人間がもっとくみとって、これからの教訓としなければならないのではないでしょうか。横山岳夫氏 山口県出身。海兵67期。特攻第1号の「敷島隊」のメンバーを指名した飛行隊長の一人。94歳。原田要氏 長野県出身。真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナル等々でも零戦パイロットとして激闘を演じ、何度も九死に一生を得て生き残った。95歳。前田武氏 福井県出身。真珠湾攻撃では空母加賀の雷撃機隊の隊員。ミッドウェーの戦いで瀕死の負傷を負った。90歳。かどた・りゅうしょう ジャーナリスト。高知県生まれ。著書に「なぜ君は絶望と闘えたのか」(新潮文庫)「甲子園への遺言」(講談社文庫)など。「この命、義に捧ぐ」(集英社)で第19回山本七平賞を受賞。「太平洋戦争 最後の証言」(小学館)を上梓(じょうし)。関連記事■ あの日、日本軍パイロットが見た風景■ 朝日新聞「素粒子」にモノ申す 特攻隊とテロ同一視に怒り■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」■ 「戦勝国」史観との対決■ 戦争犯罪と歴史認識

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    朝日新聞「素粒子」にモノ申す 特攻隊とテロ同一視に怒り

     1月13日付朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」に「少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった」という記述があった。 わずか4行だが、この記事を読んで言葉を失った。というより強い怒りがこみ上げてきた。特攻隊とテロを同一視しているからだ。 広辞苑によると、テロはテロリズムの略で、(1)政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行為。暴力主義(2)恐怖政治-とある。無差別攻撃行わず 特攻隊は敗戦が濃厚になり、抜き差しならない環境の中で採用された究極の戦術だった。標的は軍事施設だけであり、決して無辜(むこ)の民は標的にしなかった。無差別攻撃を行うテロとは根本的に違うのである。 戦争という非常事態の中で、国をどう守るのか。指揮官も出撃した特攻隊員も、思いは複雑だった。雑草に覆われるように丘の中腹に横たわる零式艦上戦闘機(通称・零戦)の残骸=パラオ共和国・バベルダオブ島 特攻隊の生みの親ともいわれる大西瀧治郎中将の副官だった故門司親徳氏が生前、筆者に語ってくれたことがある。大西中将は門司氏に、「棺を蔽(おお)うて定まる、とか、百年の後に知己を得る、というが、己のやったことは、棺を蔽うても定まらず、百年の後も知己を得ないかもしれんな」と漏らしたという。 門司氏は「大西長官は特攻隊員を見送る度に一緒に死ぬんだという印象を感じた。長官は自分のやったことをこれでよいのかと、自問自答しながら、人に分かってもらえなくても仕方がないと、自分に言い聞かせていたのだと思う。だが、この特攻攻撃が戦争の終結に結びついた」と語った。 大西中将の思いについては、「特攻隊と同じ若い人たちに『諸子は国の宝なり』と呼びかけ、平時においても特攻隊のような自己犠牲の精神を持ち続け、世界平和のため最善を尽くすように-と後事を託した遺書に集約されている」と話した。 実際に出撃していった若者たちも、手紙や遺書から、戦局悪化で、奈落の底が見える中での究極の選択だったことがうかがえる。 極限状態の中で愛する者たちを守りたいと強く願う気持ち、国の行く末を案じる気持ちが、行動の芯であり源だったのはまぎれもない事実だ。そして、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。「自己放棄の精神」 フランス人文学者のモーリス・パンゲは『自死の日本史』(ちくま学芸文庫)の中で、特攻隊員の思いを次のように分析している。 〈それは日本が誇る自己犠牲の長い伝統の、白熱した、しかし極めて論理的な結論ではなかっただろうか。それを狂信だと人は言う。しかしそれは狂信どころかむしろ、勝利への意志を大前提とし、次いで敵味方の力関係を小前提として立て、そこから結論を引き出した、何物にも曇らされることのない明晰(めいせき)な結論というべきものではないだろうか〉 〈強制、誘導、報酬、麻薬、洗脳、というような理由づけをわれわれは行った。しかし、実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の眼には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。彼らにふさわしい賞賛と共感を彼らに与えようではないか。彼らは確かに日本のために死んだ〉日本人の誇り奪う 特攻は、宗教思想を曲解した行動とは根本的に違うのである。朝日新聞は昭和19年10月29日付1面で、「身をもって神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特別攻撃隊五神鷲の壮挙は、戦局の帰趨(きすう)分かれんとする決戦段階に処して身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じ、一億総特攻を扇動するような記事さえ掲載している。にもかかわらず、その責任には触れず、特攻隊の英霊を冒涜(ぼうとく)、日本の伝統的価値観の象徴でもある特攻隊の誠を踏みにじり、日本人から「日本人の誇り」を奪うような論調は決して容認してはならない。(編集委員 宮本雅史)関連記事■ 百田尚樹もさじを投げた! それでもまだ報道機関を名乗るのか■ 百田尚樹より 朝日論説委員と記者の皆さんへ■ 世界の人々が惹かれる「日本の心」■ 「戦勝国」史観との対決■ 戦争犯罪と歴史認識

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    共産主義の戦争責任を問う

    戦後70年を迎え、改めて注目される日本の「戦争責任」。本当に、日本だけが悪かったのか。日本は侵略国家だったのか。この問題を考える一助として、近年保守論壇を中心に注目されている「共産主義の戦争責任」についてシリーズで論じたい。

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    「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略

    福井義高(青山学院大学教授)レーニンに比べたら我々は皆ひよっこだ。ヨシフ・スターリンコミンテルン陰謀史観と反共資本主義陰謀史観 20世紀前半の日本の歴史にソ連と共産主義が多大な、場合によっては決定的影響を与えたとする歴史認識が、保守言論界に広まっている。 それによれば、支那事変は日本軍を中国に釘付けにして中国国民党との戦いで疲弊させ、弱体化を図るとともに「北進」を妨げてソ連を防衛し、国民党に追い詰められていた中国共産党を助けるために始められた。あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。 さらに、日本が「南進」からアメリカとの戦争に至ったのも、ソ連を日本の攻撃(北進)から守り、日本を対米戦に仕向けて敗北させ、その混乱に乗じて共産主義革命を起こすという「敗戦革命」謀略だった──。 一方で、そんな議論は妄想にまみれた「コミンテルン」陰謀史観である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。 コミンテルン(第三インターナショナル、国際共産主義組織)の陰謀ないしは謀略は、本当に実在したのであろうか。 ヨシフ・スターリン治世下のソ連において、ごく少数のトロツキスト等を除けば、スターリンと別の意思を持った共産主義者の組織など世界中のどこにも存在しなかった。コミンテルンも諜報機関も、はたまた日本を含む各国共産党もすべてスターリンの手駒に過ぎなかった。「コミンテルン」という形容詞は、スターリン時代の共産主義の本質を見えにくくする。したがって、上述のような歴史観は、「コミンテルン」ではなく、「スターリン」、「ソ連」あるいは「共産主義」陰謀史観ないしは謀略史観と呼ぶべきであろう。 米露の著名なソ連研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが指摘しているように、スターリン以下共産党幹部は、十月革命(1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、自らが歴史の産婆役であることを確信し、共産主義の理想と、その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。自分たちの政策が誤っていると想像することなど心底不可能だったのである。もし思わしくない事態が生じたら。それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces”)が働いているに違いないのだ(『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。 ウラジーミル・レーニンの指導下、十月革命を成功させ、その死後、スターリンに率いられた共産主義者が「反共資本主義陰謀史観」の虜であったことは確かである。当然ながら、この「労働者階級の前衛」たちは、相手が邪悪な陰謀をしかけてくる以上、それに対抗せざるを得ない。しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しいのだから、謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝までどのような手段も許される。 共産主義者が世界共産革命実現を目指すうえで、謀略工作あるいは陰謀を主要な手段の一つとしていたことは否定できない事実である。近年世界各国で進められている、ソ連崩壊後の資料公開に基づく研究がそのことを明らかにした。検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、実際にどれだけ有効に機能したか否かであろう。 ここでは、共産党による政権奪取直後から1939年9月の第二次大戦勃発(欧州戦線)までの対日を中心とするソ連外交と世界史の流れを、レーニン及びスターリン自身の発言に沿いながら見て行きたい。 この時代の共産主義者による数々の謀略工作あるいは陰謀については、すでに日本でも多くの文献がある。しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、レーニン及びスターリンという謀略工作の最高責任者の言動の検証が疎かになっていたからである。レーニンの基本準則 レーニンは1920年12月6日の「ロシア共産党(ボルシェビキ=以下「ボ」)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、全世界で共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。 二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することができなければならない。 このくだりはコミンテルン謀略史観の「バイブル」である『戦争と共産主義』(昭和二十五年、三田村武夫著、のちに『大東亜戦争とスターリンの謀略』として復刊)にも引用されている。ただし、右記に続けて、レーニンが資本主義社会において共産主義者が「利用すべき根本的対立」として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。 第一の、われわれにもっとも近い対立──それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない。…地球は分割ずみである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。アメリカは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか? 強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべてその手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。…このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、そして共産主義者として、「われわれはこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう」と言うだけですまされるであろうか。これは正しいことではあるが、これがすべてではない。共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせることである。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、略奪する権利をめざして、たたかうであろう。…われわれ共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない。… もう一つの矛盾は、アメリカと、残りの資本主義世界全体との矛盾である。…アメリカはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で略奪している。アメリカは植民地をもっていない。…イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治…をアメリカに提供したが、アメリカはそれを受けとらなかった。…しかし、この植民地を他の国々が利用するのを彼らが容認しないことは、明らかである。… 第三の不和は、協商国とドイツとのあいだにある。ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約でおさえつけられているが、しかし巨大な経済的可能性をもっている。…このような国にたいして、同国が生存していけないようなヴェルサイユ条約がおしつけられているのである。ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、ヴェルサイユ条約を耐えることはできない。だから、ドイツは、それ自身帝国主義国でありながら、圧迫されている国として、世界帝国主義に対抗して同盟者を探しもとめなければならない。 歴史は第二次大戦まで、ほぼこのレーニンの基本準則に従って推移した。「自然」とそうなった、あるいはレーニンの「科学的社会主義」に基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。次節以下で示すように、レーニンの「遺言」を継いだスターリンが自覚的にそのように仕向けたのである。臥薪嘗胆、好機を待つスターリン 1923年のドイツでの武装蜂起失敗が象徴するように、欧州赤化の可能性が遠のくと、レーニンの後釜に座ったスターリン主導の下、ソ連は内向きになったかのように見えた。いわゆる一国社会主義路線である。しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわちソ連以外の国々との対決に備えた臥薪嘗胆の時期であった。ソ連の第一次及び第二次五カ年計画では、軍備増強がすべてに優先した(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。 もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、共産主義者を使った破壊工作は継続していた。コミンテルンは1928年に、そのものずばり『武装蜂起』(Der bewaffnete Aufstand)と題する各国共産主義者に向けた「実用的」な教科書を編集、(偽名で)発行している。執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される赤軍の「ナポレオン」ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ錚々たる顔ぶれであり、失敗に終わった中国共産党の広東蜂起(1927年)や上海自治政府樹立(同)の事例が詳細に分析されている。 そして、スターリンが決してレーニンの基本準則を忘れたわけではないことは、1925年1月19日、「ロシア共産党(ボ)中央委員会総会での演説」を見ればわかる。いずれ必ず来る戦争を前に共産主義者はどう行動すべきか。 そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。…われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。 資本主義国が内ゲバで弱ったところに、最後の一撃を加えて世界革命を完遂するという大原則に、最初からスターリンほど忠実な革命家はいなかったのだ。そしてスターリンが仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、資本主義列強を弱らせる「内ゲバ」だったのである。日本を翻弄するスターリン 満州問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、スターリンは側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、日本に対して英米とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、アメリカへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。日米対立の利用である。 政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下しはじめたことである。これはきわめて重要な情勢だ。これに応じて、アメリカ合衆国はソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つ[ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行]の代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。 そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと首相ヴャチェスラフ・モロトフに今度は日中対立を利用して、日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。 もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させることを望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てるために、対中交渉を継続して長引かせる必要がある。 この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。バルト三国、フィンランド後述するポーランドなど、不可侵条約を結んでおいて、侵略(スターリンから見れば解放)するのがソ連の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。 満州国との領事交換に同意するなど、アメリカとは異なり、表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、スターリンは反日キャンペーン強化を指示する。 私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった(声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。…日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある。 実際、10月26日からプラウダで反日プロパガンダ記事が次々と掲載される。「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家である。それにしても、具体的にパンフレットの名前(『日本における軍国ファシスト運動』)まであげるなど、その指示の細かさには驚かされる。日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された偽造文書「田中上奏文」が世界中で急速に浸透した背景に、こうした日本重視のブラック・プロパガンダ戦略があったことは間違いないだろう。 しかし、スターリンを激怒させる事件もあった。朝鮮人を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。スターリンは1932年7月2日(より以前)、カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。 さる朝鮮人爆破工作員たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。…この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。 ここにも、スターリンの「反共資本主義陰謀論」が表れている。自国諜報機関が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と考えるのである。 ところで、日本ではソ連スパイというとリヒャルト・ゾルゲを過大視する傾向があるけれども、実際、ゾルゲは数あるスパイの一人に過ぎない。諜報活動にも詳しいソ連研究者、黒宮広昭インディアナ大教授も指摘しているように、支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント(本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。ヴェノナ文書が明らかにしたアメリカでのソ連スパイ活動の規模から考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。 支那事変に至るまでの共産主義者の策動については多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。支那事変以降のスターリンの対日政策については、黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。「スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、ソ連から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」 スターリンに翻弄される日本とは対照的に、我が国の対ソ政策はソ連側に筒抜けであった。ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、ソ連は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。 盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、ソ連は中国(国民政府)と日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、ソ連に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。11月18日にスターリンは、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる中国代表団に、ソ連だけでなく、アメリカやドイツからの武器調達の必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。 ソ連は現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連は戦争に突入する。 ソ連参戦が蒋介石政権を助けるためではなく、日中が疲弊し切ったところで、両者に最後の一撃を加えるためであることはいうまでもない。 スターリンはさらに1939年7月9日、蒋介石にこう語った。 今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。 まさに、スターリンの高笑いが聞こえてくるかのようである。日本が対米英中のみならず、ソ連に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという東京裁判史観は、とりわけスターリンにとって片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。1938年2月7日、日本について立法院長孫科にスターリンが語った次の言葉の方が真実に近いであろう。 歴史というのは冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、間抜け(дурак)を選ぶ。戦争挑発に舵を切るスターリン 極東及び欧州で風雲急を告げるなか、共産党中央委員会名で1938年に刊行された『ソ連共産党小史』に見られるように、スターリンは、アドルフ・ヒトラー政権成立以降の民主主義対ファシズムという構図に基づく人民戦線路線から再度転換し、共産主義と資本主義の対立軸を前面に打ち出す。 『共産党小史』刊行を受けたプロパガンダ担当者会議開催中の1938年10月1日、スターリンは大演説を行う。以下はその一部である。 戦争の問題に関するボルシェビキの目的、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。それは、ボルシェビキは単に平和に恋焦がれ、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ。それは全く正しくない。ボルシェビキ自らが先に攻撃する場合がある。戦争が正義であり、状況が適切であり、条件が好都合であれば、自ら攻撃を開始するのだ。ボルシェビキは攻撃に反対しているわけでは全然ないし、全ての戦争に反対してもいない。今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。全ての国家が仮面をかぶっている。「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて、手の内を明かすとしたら、それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる。… 実は、レーニンは資本主義の跛行的発展状況の下、個々の国での社会主義の勝利が可能である、なぜなら跛行的発展つまり遅れる国がある一方、先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、レーニンはまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。… 異なった国の間で社会主義への成熟度合いが異なっており、この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義が勝利する可能性があるなどとどうして語りうるのか。全くばかげている。そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義の勝利が可能であることだけに言及することは、レーニンの立場を完全に伝えていない。 革命家スターリンの面目躍如たる発言である。レオン・トロツキーのような世界同時革命論ではなく、機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していくという自らの方針こそ、レーニンに忠実な真の世界革命への道であるという強い自負が示されている。 さらにスターリンは、1939年3月10日の第18回共産党大会における報告でも、社会主義すなわちソ連と資本主義の対立という構図を前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。 慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる(загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。 五か年計画による軍備増強で世界最大の軍事強国となり、大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリンは、この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、戦争を煽るるべく行動を開始する。 共産党大会直後に起こったドイツのチェコ併合にも、ソ連は形式的抗議を行っただけで、英仏の宥和政策から強硬姿勢への転換とは好対照であった。英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、イギリス人を妻とし英米仏で受けがよかったユダヤ人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、首相のモロトフが外相兼務となり、独ソ連携の動きは加速する。ノモンハンでのスターリンの謀略 さらに、極東では同じ時期、ノモンハン事件が勃発する。上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文「一九三九年ノモンハンの謎」で明示した。関東軍の第二十三師団長小松原道太郎中将がソ連のエージェントだったというのである。 黒宮教授は次のようなスターリンの演説(1937年3月3日)からの引用で始める。 戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍兵士が必要であろう。しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ。 したがって、「ハイラルに小松原がいることは、日本の行動を挑発し、厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。これこそスターリンが考えていたことだったように思える。」。 スターリンの狙いはずばり当たった。「ノモンハンは、ソ連に敵対する北方ではなく、米英蘭の権益に敵対する南方に向かうというその後の決断に決定的影響を与えた。ノモンハンは日本の対ソ野望に対するスターリンのとどめの一撃(coup de grace)となったわけである。モスクワがノモンハンで攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは日本の致命的誤りであった。」 最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。「ノモンハンはスパイの重要性に関するスターリンの発言が正しいことを示した。小松原がいなければ、ノモンハンは起きなかったかもしれない。ソ連の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。小松原のおかげでそのとき赤軍は戦闘に勝利したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、ノモンハンの歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」 日米戦実現に向けたソ連の謀略といった場合、尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを使った南進論への政策誘導や、アメリカにおける「雪作戦」(エージェントの名前が財務省高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。その重要性は疑いないけれども、陸軍内に一種の対ソ恐怖症を植え付け、対ソ北進論の勢いを削いだノモンハン事件は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。ヒトラーをけしかけるスターリン 以下、同時期の欧州情勢について検証したい。1939年春以来、ソ連のドイツへの態度は軟化したものの、ダンチヒ自由市をめぐる争いでイギリスの「白地小切手」を得た(と思った)ポーランドの強硬姿勢に会い、ヒトラーは袋小路に入り込む。スターリンに最後の望みを託し、より踏み込んだ独ソ連携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。スターリンはより大きな「獲物」を得るべく、ドイツと英仏を競い合わせ、天秤にかけていたのだ。 8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク駐ソ大使とモロトフの交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。ところが外交儀礼上、異例なことに、モロトフは大使を再度クレムリンに呼びつける。そして、独ソ不可侵条約を締結するようソ連政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。首相兼外相モロトフに指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、スターリンしかいない。 一方、極東では翌20日、それまでの局地的小競り合いとは一線を画す赤軍の大攻撃がノモンハンで始まり、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。 モスクワでは8月23日、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相とモロトフが独ソ不可侵条約に調印し、全世界に衝撃を与える。条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連の同意を得たドイツは、9月1日にポーランド攻撃を開始、ヒトラーの期待に反し、しかし、スターリンの思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。 なぜ、スターリンは不倶戴天の敵であるはずのヒトラーと手を結んだのか。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日にスターリンがその動機を赤裸々に語った記録が残っている。 この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。 権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。 我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄することができる。不可侵条約はある程度ドイツを助けることになる。次の一手は反対陣営をけしかけることだ。 資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。 この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させることは全く正しかった。帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。 この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョアジーの立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。 かつて歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。現在、ポーランドはファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョア・ファシスト国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。 我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。 9月16日に東郷茂徳駐ソ大使とノモンハン停戦に合意したと発表した翌日の17日、モロトフはポーランドの駐ソ大使に、ポーランドはもはや国家として存在しないので、領内に住む「血の同胞」であるベラルーシ人とウクライナ人をソ連が保護せねばならないと通告し、赤軍が「越境」を開始する。スターリンは決して「侵略などしない」。 小松原師団長スパイ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、ノモンハンと独ソ不可侵条約は、スターリンの戦略のなかで密接に関連していた。 ノモンハン事件と独ソ不可侵条約は、日本対アメリカとドイツ対英仏というレーニンの基本準則に沿って、スターリンが演出した一つのドラマとして理解する必要があるのだ。最後に躓いたスターリン  そもそも自らが陰謀史観の持ち主であったスターリンは、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼレーニンの基本準則通りに進んだのである。 まず、極東においては、スターリンの「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、ノモンハンで陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反英米に仕向けることに成功する。それに呼応して、アメリカでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領という「パートナー」の存在もあって、スターリンの思惑通り、日米は激突することとなった。 しかし、スターリンは欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、予想外のフランスの早期戦線脱落で予定が狂い始め、最後の段階でヒトラーの対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。資本主義国同士を戦争で疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだったのに、ソ連は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。 スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。 結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義というもう一つのグローバリズムであった。(付記) レーニン演説及び一九二五年スターリン演説は大月書店刊『レーニン全集』及び『スターリン全集』、その他引用は拙訳を用いた。 福井義高氏 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。

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    アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略

    江崎道朗(日本会議専任研究員)収まらない「ヴェノナ」の衝撃 第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ政府内に多数のソ連のスパイが潜入したことを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では「ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。しかも、そのピッチは近年、急加速していると言っていい。 ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。 これら機密文書が次々と公開され、その研究が進んできた結果、ルーズヴェルト大統領の側近であったアルジャー・ヒス(1)[以下、主要人物に通し番号を附し、共産党員または協力者と思われる人物は傍線を引く]を始めとする200人以上のスパイ(あるいは協力者)が政府官僚として働いていたことが立証されつつあるのだ(中西輝政監修『ヴェノナ』PHP研究所)。 ルーズヴェルト政権内部にソ連のスパイたちがいるという疑念は、60年以上前からあった。1948年、下院非米活動委員会において『タイム・マガジン』記者のH・チェンバースが、アルジャー・ヒス(1)を「ソ連のスパイだ」と告発した。1950年には、ジョセフ・マッカーシー上院議員が「国務省に潜む共産党員の名簿を入手した」と発言し、容共政策を進めた国務省や陸軍の幹部たち、特にジョージ・マーシャル国務長官(2)や、蒋介石政権の顧問を務めたオーエン・ラティモア(3)らの責任を激しく追及した。「マーシャル国務長官(2)やラティモア(3)らはソ連に通じており、ひそかに中国共産党政権の樹立を支援した」というのだ。 確かに彼らはソ連や中国共産党に好意的な発言をしていたが、ソ連のスパイだと断定する証拠も当時は見つからなかった。しかも、ソ連のスパイだと名指しされた人物が次々と自殺をしたため、リベラル派のマスコミは、「マッカーシー上院議員らが根拠なく言論弾圧を行った結果、自殺に追い込まれた。これは現代版の魔女狩りで許されることではない」などと、保守派批判を繰り広げたのである。 以後、ソ連や中国共産党に好意的な言動を理由に批判することはタブーとなってしまった。アメリカでも戦後、ソ連や中国に親近感をもつリベラル派にマスコミは支配され、保守派は肩身が狭かったのだ(リー・エドワーズ著『アメリカ保守主義運動小史』明成社)。 それだけに、ヴェノナ文書がアメリカの知識人たちに与えた衝撃は大変なものだった。「国連創設にまで関与したアルジャー・ヒス(1)らがソ連のスパイであるはずがない」と断言していたリベラル派の学者やマスコミは沈黙を余儀なくされた。 ソ連が崩壊し、1991年に登場したロシアのエリツィン政権が、旧ソ連時代のコミンテルン・KGB文書の一部を西側研究者に公開するようになったことも追い風となった。これらの文書の公開によって、「やはりルーズヴェルト民主党政権内部にソ連や中国共産党に利するような政策を推進したスパイがいた」という声が、保守派から実に60年ぶりに上がってくるようになった。その代表者が評論家のアン・コールター女史で、彼女はヴェノナ文書を引用しながら2003年、『トリーズン(反逆)』(邦訳『リベラルたちの背信――アメリカを誤らせた民主党の六十年』草思社)を書いた。 その影響か、共和党のジョージ・ブッシュ大統領は2004年5月13日、アメリカ保守主義同盟40周年大会の記念講演で、アルジャー・ヒス(1)らを告発した『タイム・マガジン』記者のチェンバースを「アメリカの保守主義のリーダー」として高く評価した。 そしてその翌年の2005年5月7日、ブッシュ大統領はラトビアで演説し、アルジャー・ヒス(1)が関与したヤルタ協定について「史上最大の過ちの一つ」だと強く非難したのである。 ヤルタ協定とは1945年2月、ルーズヴェルト大統領、チャーチル首相、スターリン元帥という米英ソ三カ国首脳がソ連領ヤルタで行った会談において、国際連合構想にソ連が同意する見返りとしてポーランドやバルト三国などをソ連の勢力圏と認めることや、ソ連の対日参戦と引き換えに満州の権益や南樺太・北方領土を与えることを認めた秘密協定のことだ。 第二次世界大戦後、東欧諸国がソ連の支配下で苦しんだのも、日本の降伏後、ソ連による満州・北方領土占領、中国共産党政府の樹立、朝鮮半島の分割など極東で連鎖的に起きた危機も、すべてヤルタ協定にその原因をたどることができる。 後に「ヤルタ体制」と呼ばれるようになった戦後の国際秩序の出発点を、こともあろうに当事国であったアメリカのブッシュ大統領が正面から批判したのだ。これに対してロシアのプーチン大統領は5月7日付仏紙フィガロで、「米英ソの三首脳がナチズム復活を阻止し、世界を破局から防ぐ国際体制を目指して合意した。その目的に沿って国連も結成された」と、ヤルタ協定について擁護するなど、国際政治に少なからぬ反響を巻き起こした。急増する歴史見直しサイト 一方、アメリカの保守主義者たちは、ブッシュ大統領の発言を歓迎した。フェミニズム反対運動のリーダーとして著名なフィリス・シェラフリー女史は「ブッシュ大統領、ヤルタの屈辱を晴らす」と題した論文でこう書いた。ジョージ・W・ブッシュ大統領、ありがとう。去る5月7日、ラトビアにおいて演説したブッシュ大統領は、大国同士の談合によって、多くの小国の自由を売り飛ばしたヤルタ協定は誤りだったと指摘しました。時期がだいぶ遅れたとはいえ、誤った歴史を見直し、F・D・ルーズヴェルト大統領の悲劇的な間違いの一つについてよくぞ(ヤルタ協定によってソ連に併合された東欧諸国に対して)謝罪の意を表明してくれました さらに、この数年で、ヴェノナ文書などを引用してソ連や中国共産党を支持していたルーズヴェルト政権の政府高官や知識人たちを告発するサイトが急増しているのである。 その代表的なものが、2006年11月に開設された「コンサバペディア」である。ヴェノナでスパイとされた人物の一覧やそのプロフィール、他で明らかになっているソ連のスパイたちのリストとともに、相次ぐヴェノナ研究の新たな成果を紹介し続けている。 この中では、従来の東京裁判史観とは違って、「日米戦争を引き起こしたのは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのか」という視点まで浮上してきている。東京裁判史観からの脱却をめざす我々にとって、絶好のチャンスを迎えているのだ。 意外なことに、アメリカの反日運動の背景にソ連のスパイたちの暗躍があることに当時から気づいていた人物がいた。日本外務省の若杉要ニューヨーク総領事である。若杉総領事は昭和13年から15年にかけてアメリカの反日運動の実態について詳細な報告書をたびたび作成し、外務省に報告していたのだ。 若杉総領事が作成した報告書の多くは当時機密文書扱いであったが、平成14年からアジア歴史資料センターにおいて公開され、現在はアジア歴史資料センターのホームページにて誰でも見ることができるようになっている。 これら若杉総領事の報告書とヴェノナ文書、コミンテルン文書等を併せ読むことで、ソ連・コミンテルンの対米工作の一端が見えてくる。その実態を最新の研究成果を踏まえ、順を追って再現したい。◇第1段階アメリカ共産党の創設 ソ連の指導者レーニンは1919年、世界共産化を目指してコミンテルンを創設した。 世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、共産党一党独裁政権を樹立することである。ではどうやって世界共産化を成功させるのか。レーニンは、「敗戦革命論」を唱えた。敗戦革命論とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略だ。 要するに、共産主義革命のため、国家間の対立を煽って戦争を引き起こし、自国を敗戦に追い込もうというのだ。なんとひどい発想だろうか。日本にとって不幸だったのは、この謀略の重点対象国が、日露戦争を戦ったわが日本と、世界最大の資本主義国家アメリカだったということだ。日米二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、コミンテルンにとって最重要課題であった。現にレーニンは1920年、世界共産化を進めるためアメリカを利用して日本に対抗し、日米両国の対立を煽るべきだと主張している。 こうした「資本主義国間の戦争から敗戦革命へ」という戦略を遂行するために1919年、コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ共産党も設立されたのである。◇第2段階人民統一戦線を構築せよ 1931年、アジアで満州事変が勃発し、ソ連は日本と国境線を挟んで直接対峙することになった。 日本の台頭に恐怖を覚えたコミンテルンは1932年2月、「満州に対する日本の攻撃と反ソ大戦争の準備との密接な関係」を理解していない外国の同志たちを厳しく叱責し、「断固たる大衆動員が必要である。何よりも、あらゆる資本主義国の鉄道を通り、あらゆる資本主義国の港から日本に向けて積みだされる武器と軍需物資の輸送に反対しなければならない」として、日本と戦う中国を支援するとともに、対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した(クリストファー・アンドルー他著『KGBの内幕・上』文藝春秋)。 この指示を受けてアメリカ共産党は1933年、「日本の侵略に抵抗する中国人民の闘い」を支援する世論を形成してアメリカの力で日本を押さえ付けるべく、「アメリカ中国人民友の会」を設立した。同会の会長には左翼系雑誌『ネイション』の編集者マックスウェル・スチュアート(4)が、機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長にはフィリップ・ジャフェ(5)がそれぞれ就任した。二人とも当時ソ連との関係を否定していたが、ヴェノナ文書でソ連のスパイだったことが判明している。 この1933年にドイツではヒトラー政権が成立。日独という二つの反共国家の台頭に脅威を感じたソ連は世界戦略を大きく転換する。1935年にモスクワで開催された第7回コミンテルン大会において、従来の「階級闘争・世界共産主義革命路線」を修正し、日独というファシズム国家と戦うためにアメリカやイギリスの資本家や社会主義者とも手を組んで広範な人民統一戦線を構築するよう各党に指示したのである。 一方、ルーズヴェルト大統領も1933年、ハミルトン・フィッシュ下院議員ら保守派の反対を押し切ってソ連との国交を樹立した。 コミンテルンによる人民統一戦線路線と米ソ国交樹立を受けてアメリカ共産党は、「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」という外廓団体を設立し、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組(CIO、組合員数150万人)」といった労働組合や「アメリカ反戦会議」(ジョン・デューイ会長)といった平和主義団体、そして宗教界、スポーツ界、芸術界などに積極的に入り込んでいった。 共産党色を消したこの反ファシズム運動は、ナチス・ドイツの台頭を憂慮するリベラル派知識人やキリスト教グループなどの参加を得るようになっていく。 この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・プラウダー(6)であった。アメリカに来るまでは、中国において周恩来やリヒャルト・ゾルゲなどと共に諜報工作を行うプロの活動家であったプラウダーは、上海では「南京での市民二十万人虐殺説」を唱えた有名な作家のアグネス・スメドレー女史(7)とも仕事をしていた。 ちなみにスメドレー女史(7)は生前、ソ連との関係を否定してきたが、コミンテルン文書の公開によって、1935年9月2日付でプラウダー(6)がコミンテルンの指導者ディミトロフに出した手紙が見つかり、スメドレー女史(7)がコミンテルンからの資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明している(H・クレア他著『アメリカ共産党とコミンテルン』五月書房)。◇第3段階シンクタンクIPRの乗っ取り この人民統一戦線を理論的に支えたのが、当時アメリカ最大のアジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)」だった。 IPRは、アジア太平洋沿岸国のYMCA(キリスト教青年会)の主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共にキリスト教布教を強化する目的で1925年、ハワイのホノルルで汎太平洋YMCA会議を開催した際に創設された。 ロックフェラー財団の資金援助を受けたIPRはアメリカ、日本、中国、カナダ、オーストラリアなどに支部を持ち、2年に一度の割合で国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題についてのシンクタンクへと成長することになる。 このIPRを、アメリカ共産党は乗っ取ったのだ。YMCA主事としてインドや中国で活動したエドワード・カーター(8)が1933年に事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の外交政策を批判する政治団体へと、IPRは性格を大きく変えていく。カーター事務総長(8)は1934年、IPR本部事務局をホノルルからニューヨークに移すと共に、政治問題について積極的に取り上げることを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長にオーエン・ラティモア(3)を抜擢した。 後にマッカーシー上院議員によって「ソ連のスパイ」だと非難されたラティモア(3)はIPRの機関誌において日本の中国政策を「侵略的」だと非難する一方で、中国共産党に好意的記事を掲載するなど、その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。 にもかかわらず、ラティモアを擁護し続けたカーター事務総長(8)はFBIの機密ファイルによれば、自ら「共産党のシンパだ」と認めており、その周りには共産党関係者が集まっていた。一九二九年にカーター(8)の秘書としてIPR事務局に入ったフレデリック・ヴァンダービルド・フィールド(9)は有名な資産家の息子で、その左翼的言動から「赤い百万長者」と呼ばれていた。そのほか、カーター事務総長(8)のもとでIPRの研究員となったメンバーは、歴史学者で後にカナダの外交官となったハーバート・ノーマン(10)、シカゴ大学出身で1941年には蒋介石政権の財務大臣秘書官となる冀朝鼎(きちょうてい)(11)、そして上海でゾルゲ・グループの一員だった陳翰笙(ちんかんしょう)(12)がいるが、ヴェノナ文書によれば、フィールド(9)も冀朝鼎(11)もソ連のスパイだった。陳翰笙(12)は中国共産党のスパイだったし、東京裁判でA級戦犯選定に関与したハーバート・ノーマン(10)も戦後の1957年、アメリカ上院司法委員会で共産党員ではないかと追及され、エジプトで自殺している。 IPRは一九三九年になると、冀朝鼎(11)、陳翰笙(12)ら共産党員の手で、ハーバート・ノーマン(10)著『日本における近代国家の成立』など日本の中国「侵略」を批判する「調査シリーズ」というブックレット集を次々と刊行し、欧米諸国の外交政策に多大な影響を発揮したばかりか、アメリカの対日占領政策の骨格を決定することになった。 何故ならIPRは戦時中、太平洋方面に派遣される陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、『汝の敵、日本を知れ』といった啓蒙用反日パンフレットを軍や政府に大量に供給したからである。 特にIPRが製作に協力したフランク・キャプラ監督の宣伝映画『汝の敵を知れ』は、日本が世界征服を目論んでいたとする田中メモランダムや「国家神道による洗脳」、「南京大虐殺」などが毒々しく紹介され、神道指令や東京裁判における「南京大虐殺」追及へとつながることになった。因みにこの反日宣伝映画の製作や米軍将校教育プログラムをIPRに委託するよう指示したのは、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長(2)だった。◇第4段階中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊 1936年12月、中国で西安事件が起こり、中国国民党の指導者蒋介石は、中国共産党と共に抗日戦争を開始する方向へと政策転換を強いられた。この国共合作を支援するアメリカ世論を形成すべく、「赤い百万長者」のフィールド(9)は1937年3月、『チャイナ・トゥデイ』編集長ジャフェ(5)と共に、中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊する。 その編集部事務所は、IPR事務局と棟続きに置かれ、IPR機関誌の編集長ラティモア(3)、冀朝鼎(11)、そして元在中国宣教師で外交政策協会研究員のT・A・ビッソン(13)が編集委員となった。戦後GHQの一員として財閥解体などを担当したビッソン(13)もまたヴェノナ文書によれば、ソ連のスパイであった。 『アメラジア』を創刊したジャフェ(5)やフィールド(9)は1937年6月、ラティモア(3)やビッソン(13)と共に訪中し、作家のスメドレー女史(7)とも合流して中国共産党の本拠地である延安を訪問、毛沢東、周恩来らにインタビューをしている。来るべき日中戦争に際して、いかなる諜報工作を展開するのか、綿密な協議が行われたに違いない。◇第5段階「ルーズヴェルト大統領一族を取り込め」 1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの反ファシズム団体は一斉に、反日親中運動を開始した。当時、全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」は11月に全米大会を開催し、その名称を「アメリカ平和民主主義連盟」と改め、「平和」「民主主義」を守るという名目を掲げることで、広範なアメリカ民衆を結集しようとしたのだ。 更にこの「アメリカ平和民主主義連盟」のもとに、全米22都市に支部をもつ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国「侵略」反対のデモや対日武器禁輸を国会に請願する活動も開始した。 在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付機密文書『米国内ノ反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、ジェームス・ルーズヴェルト夫人だった。ルーズヴェルト大統領の実母だ。名誉副会長には中国政府の胡適(こてき)元駐米大使が、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長(2)の夫人がそれぞれ就任した。夫の理解がなく夫人がこのような反日組織の理事に就任するとは思えないし、前述したようにマーシャル陸軍参謀総長(2)は戦時中に「南京大虐殺」を非難する反日映画の製作を命じており、その思想傾向はよくよく検証する必要がありそうだ。 ともかく、表向きはルーズヴェルト大統領の実母やマーシャル陸軍参謀総長夫人が役員を務めた「中国支援評議会」だが、その実態はやはりアメリカ共産党の外廓組織だった。 他の常任理事には、フィリップ・ジャフェ(5)や冀朝鼎(11)ら「ソ連のスパイ」が就き、事務局長にはミルドレッド・プライス女史が就任した。ヴェノナ文書によれば、プライス女史は、その姉妹であるマリー・プライス女史(著名な評論家ウォルター・リップマンの秘書)と共に、アメリカの内部情報をソ連に報告していたスパイであった。 ヴェノナ文書が公開された現在だからこそ、彼らがソ連のスパイであることも分かっているが、当時の一般のアメリカ人たちの目には、ジャフェ(5)もプライス女史も中国救援に熱心な人道主義者と映っていたに違いない。中国支援評議会の活動に協力したアメリカ人は約300万人とも言われているが、アメリカの大多数の国民は見事に騙されていたわけだ。「南京」宣伝の背後にゾルゲ この反日国民運動と連携して、日本軍の「残虐行為」を告発する反日宣伝も欧米で活発になっていく。仕掛けたのは、蒋介石率いる中国国民党だった。 中国国民党は1937年11月、中央宣伝部のもとに国際宣伝処を設置し、国際的な宣伝工作を開始した。その一環として国民党が仕掛けたのが、欧米の新聞記者、宣教師、大学教授を使って対日批判を繰り広げることであった。その成果の一つが、イギリスのマンチェスター・ガーディアン紙特派員のH・J・ティンパーリが1938年6月、ニューヨークやロンドンで出版した『戦争とは何か』であった。 南京事件を最初に世界に知らせたと言われているこの本は中国国民党国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれた宣伝本であり、ティンパーリ自身も中央宣伝部の顧問だった。この宣伝本を分担執筆したのは中国YMCA主事のジョージ・フィッチ(14)とマイナー・ベイツ南京大学教授だが、ベイツもまた中国政府の顧問だった(東中野修道著『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、北村稔著『南京事件の探求』文春新書)。 因みに、この動きにどうやらコミンテルンも関与しているようだ。楊国光著『ゾルゲ、上海ニ潜入ス』(社会評論社)によれば、1937年7月、盧溝橋事件が起きた直後にリヒャルト・ゾルゲはドイツの新聞記者として盧溝橋を訪問。その後、日本の軍用機に相乗りして南京に飛び、南京陥落直後の12月中旬、「南京大虐殺」を目撃したという。南京のドイツ大使館は当時、ドイツ本国政府に「日本軍は殺人マシーンとなって市民を殺害している」という報告書を提出しているが、この報告書にゾルゲが関与している可能性があるのだ。 更に早稲田大学客員教授の加藤哲郎氏によれば、上海でゾルゲやアグネス・スメドレー(7)らに秘密の会合場所を提供していた建築家のルドルフ・ハンブルガーは実は上海のソ連・赤軍諜報部の責任者であり、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの上海時代の諜報活動の助手であった。このハンブルガー夫妻の友人が「南京大虐殺」の証拠の一つと言われている『ラーベ日記』を書いたジョン・ラーベ(ジーメンス社中国総社長)であった。歴史の闇は深く、「南京大虐殺」キャンペーンに、ソ連・コミンテルンのスパイたちが関与していた疑いが浮上している。◇第6段階スティムソン元国務長官を利用したロビー活動 舞台をアメリカに戻そう。1937年12月から翌年の1月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は、戦地の模様を映画フィルムでひそかに撮影していた。このフィルムは、中国国民党の顧問だったティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して編集され、YMCAによる中国支援・日本非難キャンペーン用の映画としてアメリカ各地で上映された。 この映画を南京からアメリカに持ち出したのが中国YMCA主事ジョージ・フィッチ(14)で、彼は38年4月、首都ワシントンDCにおいてヘンリー・スティムソン元国務長官(15)や、スタンレイ・ホーンベック国務省極東部長(16)ら要人と会見している。何のために? 恐らくルーズヴェルト政権に対するロビー活動を行う組織の創設について相談したのではなかったか。 なぜならフィッチ(14)らが発起人となって38年8月、ニューヨークにおいて「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まったからだ。 馬暁華(ばぎょうか)著『幻の新秩序とアジア太平洋』(彩流社)によれば、アメリカ委員会設立を最初に言い出したのは、ハリー・プライス元燕京大学教授(17)だった。彼は弟フランク・プライス(在中宣教師)(18)と共に、ニューヨーク地域在住の友人たちに呼び掛け、対中軍事援助の実施や対日経済制裁を求めるロビー団体の必要性について相談した。さらに6月7日にワシントンDCに赴き、国務省極東部長ホーンベック(16)と会見したところ、ホーンベック(16)は、アメリカ社会の孤立主義の空気を変え、アジア問題への関心を高めるため、「キャンペーン活動を行うべきである」との考えを示し、ハリー・プライス(17)の主張を支持した。 国務省の支持を得たプライス兄弟は、「奇跡の人」で有名なヘレン・ケラー女史、元在中国外交官のロジャー・グリーン(IPR理事長でロックフェラー財団理事ジェローム・グリーンの弟)、元在中宣教師マックスウェル・スチュアート(4)、雑誌「アメラジア」編集人フィリップ・ジャフェ(5)、YMCA中国事務局長ジョージ・フィッチ(15)、女性平和団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表のジョセフィン・シェイン女史などと共に1938年7月、ニューヨークにおいて「アメリカ委員会」を設立した(正式な設立は1939年1月で、元国務長官ヘンリー・スティムソン(15)が名誉会長に就任した)。 発起人の内、フランク・プライス(18)は中国国民党中央宣伝部国際宣伝処の英文編集委員会主事だった。元在中宣教師マックスウェル・スチュアート(4)はアメリカ共産党の外廓団体「アメリカ中国人友の会」会長で、ジャフェ(5)、ビッソン(13)の2人はヴェノナ文書でソ連のスパイと見なされた人物だ。そして「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表のジョセフィン・シェイン女史は、アメリカ共産党のシンパだったと言われている。 因みにシェイン女史率いる「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」の構成団体の一つである「全国女性クラブ連合」の幹部の1人がエレノア・ルーズヴェルト、つまり大統領夫人であった。 このようにキリスト教関係者を前面に出しながら、その実態は中国国民党の工作員とアメリカ共産党関係者によって構成されていたアメリカ委員会は、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレット(A5判サイズで80頁)を6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを2万2千部作製し、連邦議会上下両院のあらゆる議員やキリスト教団体、婦人団体、労働組合などに配布し、大々的なロビー活動を開始した。 このロビー活動を受けてルーズヴェルト政権は、中国支援へと舵を切っていく。ホーンベック国務省極東部長(16)の進言を受けてルーズヴェルト大統領は1938年12月、「対日牽制の意をこめて」、中国国民党政府に2500万ドルの借款供与を決定したのである。共産党の暗躍を見抜いていた若杉総領事 「反ファシズム・デモクラシー擁護」という大義名分に惑わされて、スティムソン元国務長官(15)やホーンベック国務省極東部長(16)ら政府関係者までがアメリカ共産党の工作に引っかかってしまっていた。それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったわけだが、当時のアメリカでは、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もある。何しろアメリカ政府、具体的にFBIが、アメリカ共産党をマークするのは1939年の後半になってからのことであった。 一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。 若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月20日、宇垣一成外務大臣に対して、『当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件』と題する機密報告書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析している。 一、シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。 二、ルーズヴェルト政権と議会は、世論に極めて敏感なので、このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても反日的になりがちだ。 三、アメリカで最も受けがいいのは、蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らは「デモクラシーとキリスト教の擁護者だ」とアメリカの一般国民から思われているため、その言動は常に注目を集めている。 四、一方、日本は日独防共協定を結んでいるため、ナチスと同様のファシズム独裁国家だと見なされている。 五、このような状況下で中国擁護の宣伝組織は大別して中国政府系とアメリカ共産党系、そして宗教・人道団体系の三種類あるが、共産党系が掲げる「反ファシズム、デモクラシー擁護」が各種団体の指導原理となってしまっている。 六、共産党系は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。 七、共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させてシナ事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。 若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズヴェルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを強調し、共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えたのだ。「トロイの木馬作戦」 ルーズヴェルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて1939年7月26日、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給をアメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。一方、蒋介石政権に対しては1940年3月、2000万ドルの軍事援助を表明、反日親中政策を鮮明にしつつあった。 アメリカに対する反発の世論が日本国内に沸き上がりつつある中で、若杉総領事1940年7月25日、3日前の22日に発足したばかりの第二次近衛内閣の松岡外相に対して「米国内ノ反日援支運動」という報告書を提出し、次のように訴えた。 一、アメリカにおける反日・中国支援運動は、大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し効果を挙げているだけでなく、新聞雑誌やラジオ、そして中国支援集会の開催などによって一般民衆に反日感情を鼓吹している。 二、この反日運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンが唆(そそのか)したものだ。 三、その目的は、中国救済を名目にしてアメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することだ。 四、中国救済を名目にして各界に入り込もうとする、いわばアメリカ共産党・コミンテルンによる「トロイの木馬」作戦の成功例が「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」だ。共産党関係者を表に出さず、ヘレン・ケラーといった社会的信用があるリベラル派有識者を前面に出すことで、政界、宗教界、新聞界を始め一般知識人階級に対してかなり浸透している。 五、共産党のこのような作戦に気づいて苦々しく思っている知識人もいるが、一般民衆の反日感情のため、反日親中運動に対する批判の声を出しにくくなっている。 つまり、ルーズヴェルト政権の反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的にスターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと若杉総領事は訴えたわけだが、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。 若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定し、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど連ソ反米政策を推進していった。◇第7段階政権内部のスパイたちが対日圧迫政策を強行 対抗してアメリカのルーズヴェルト政権も、コミンテルン・アメリカ共産党が築いた反日世論を背景に、対日圧迫外交を強化していく。 ルーズヴェルト大統領は1941年3月、ラフリン・カリー大統領補佐官(19)を蒋介石政権に派遣し、本格的な対中軍事援助について協議している。翌4月、カリー補佐官(19)は、蒋介石政権と連携して日本本土を約五百機の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。JB355と呼ばれる、この日本空爆計画にルーズヴェルト大統領は7月23日に承認のサインをした。日本が真珠湾攻撃をする4カ月以上も前に、ルーズヴェルト大統領は日本爆撃を指示していたわけだ。 エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』(新潮社)によれば、7月26日、財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイト(20)の提案で在米日本資産は凍結され、日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれた。それだけではない。ホワイト(20)は財務省官僚でありながら11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった「ハル・ノート」原案を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。 ヴェノナ文書によれば、これら反日政策を推進したカリー大統領補佐官(19)もホワイト財務省通貨調査局長(20)も、ソ連のスパイであった。 かくして1941年12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌々日の12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すというソ連・コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。 以上のように、ヴェノナ文書やコミンテルン文書、日本外務省の機密文書などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、そして「ソ連のスパイたち」を重用したルーズヴェルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。 我々もこれら機密文書を徹底的に研究し、アメリカの保守派とも連携して、堂々とコミンテルンとルーズヴェルト政権の責任を追及していこうではないか。 江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。

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    クマラスワミ報告否定が河野談話見直しへの突破口だ

    西岡力(東京基督教大学教授) 私は月刊正論前月号(平成26年5月号)に掲載された山田宏衆議院議員との対談の中で、1996年に国連人権委員会に提出されたクマラスワミ報告が、慰安婦に関する不当な誤解を国際的に広めるのに大きな役割を果たしたが、当時、外務省は一度、事実関係に踏み込んだ反論文書を人権委員会に配布しながらそれを取り下げてしまった、この幻の反論文を探して、なぜ取り下げられたのか国会で検証して欲しいと発言した。 前月号の発売日である4月1日付産経新聞はまさに私が指摘した反論文書全文を入手し、1面トップで〈慰安婦問題 政府「国連報告は不当」 性奴隷認定、幻の反論文書〉という見出しをつけて大きく報道した。記事のリード部分は以下のように書かれていた。 慰安婦募集の強制性を認めた平成5(1993)年の河野洋平官房長官談話を引用し、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した96年2月の「クマラスワミ報告書」について産経新聞は[3月・西岡補]31日、日本政府がいったん国連人権委員会(現人権理事会)に提出しながらすぐに撤回した反論文書を入手した。文書は報告書を「極めて不当」「無責任で予断に満ち」「歴史の歪曲(わいきょく)に等しい」と厳しく批判したが、非公開のため「幻の反論文書」となっている。 私は2007年に出した拙著『よくわかる慰安婦問題』(草思社、その後の動きを加えた増補版を2012年に草思社文庫から出版)で、クマラスワミ報告の事実関係記述のでたらめさと外務省が当初事実関係に踏み込んだ反論文書を提出しながら、それを撤回したことを詳述して日本外交の失敗を批判した。ただ、同書執筆の時点では反論文書そのものは見ていなかった。 その後、その文書をあるところから入手した。事実関係と国際法の両面からクマラスワミ報告に全面的に反論する立派なものだった。だから対談で自信を持って文書はあると断言できたのだ。本誌今号と次号にに文書の全文が掲載されるので、ぜひ多くの方にそれを熟読していただきたい。河野談話「継承」でも出来た反論 先ず強調しておきたいことは、この文書は河野談話を継承する外務省によって書かれているという点だ。この文書が撤回されず、政府の見解として外務省のホームページなどに英文や他の外国語でアップされていれば、今われわれが直面している、慰安婦を巡る深刻な国際誤解の多くは解消されていたはずだ。 河野談話を継承するとしている現在の安倍政権も、この文書のレベルの反論はできるのだ。いま、急がれるのは政府としてこの文書のレベルの国際広報を早急に行うことだ。余りにもひどいウソが国際社会に広まっている。その大きな原因は政府が事実関係に踏み込んで反論しなかったからだ。 私は月刊正論前月号対談でも、河野談話の見直しをいますぐ行うことに懐疑的な意見を表明した。繰り返しになるが大事なことなので前月号で私が話した要点を書いておく。 河野談話も朝鮮での奴隷狩りのような慰安婦募集を認めていない。勤労動員のための公的制度であった女子挺身隊と慰安婦は全く関係ない。そのことは日本国内では90年代に行われた激しい論争の結果、慰安婦への国家賠償が必要だと考える陣営も含めて認めている共通認識だ。ところがクマラスワミ報告では吉田清治とヒックスの著書に全面的に依拠したため、あたかもそれらが事実であるかのように書かれている。 2007年の米議会慰安婦決議、2011年の韓国憲法裁判所における慰安婦への補償を日本に求めない韓国政府の外交は違憲とする判決も、すべてクマラスワミ報告を主要な根拠の一つとしている。この国際誤解の厚い壁を突破する作業が先ず必要なのだ。それなしに河野談話の見直し作業を現段階で進めると、米国を含む国際社会での誤解が深化してしまう恐れがある。 まず、英語などで国際社会に対して事実関係に踏み込んだ体系的な反論をすることが先行しなければならない。1996年に取り下げられた幻の反論文書と同趣旨の文書をまず、外務省のホームページに掲載し、各国語に翻訳して全世界に配布する作業が先行しなければならない。そのために、日本の外交官、公務員がその点をしっかり学んでどこに行ってもきちんと日本の立場を主張できるように訓練しなければならない。また、反論文書の根拠となる資料や研究論文などをやはり各国語に翻訳して公開する作業も必要だ。 それらをおこなうための司令塔を政府内に作らなければならない。これまで外務省が国際広報に失敗してきたのだから、拉致問題をモデルにして、外務省の外に担当大臣と専従事務局をおくのがよい。すでに領土問題に関しては内閣府に担当大臣と事務局が設置されている。研究と広報の実際の活動は大規模な基金をつくって政府の外に置く外郭団体に担当させるべきだ。韓国では盧武鉉政権時代、アジア歴史財団を作って精力的な研究と広報活動を展開している。《怪文書》呼ばわりした者たち 結論を先に書いたが、話を1996年の反論文書に戻そう。一体どの様な経緯で反論文書が取り下げられてしまったのだろうか。その点について産経新聞4月1日記事は、当時の外務省関係者に取材して、当時のジュネーブは日本政府が事実に基づく反論をすると逆効果が生まれる雰囲気だった、英文に翻訳されていたのは反日勢力の資料ばかりであった、などという言い訳を聞いている。 1996年3月、国連人権委員会でのクマラスワミの演説を現場で聞いた元在ジュネーブ国際機関代表部公使、美根慶樹はこう振り返る。「ものすごい力があり、彼女が舌鋒(ぜっぽう)鋭く『ワーッ』と説明すると、聴衆はスタンディングオベーション(立ち上がっての拍手喝采)だ。日本政府には答弁権を行使して反論することは制度上認められていたが、そうしたら大変なことになっていた」 クマラスワミは「かわいそうな元慰安婦のおばあさんたちのため一生懸命働いている」(外交筋)と評価されていた。個別の事実関係の誤りを指摘しても「日本が悪者になるばかりで逆効果だった」(同)というのだ。クマラスワミと面識のある当時の日本政府関係者もこう語る。 「慰安婦問題だけでなく歴史全般がそうだが、日本国内のまともな議論は英語になっていない。英語に訳されているのは左翼系メディアや学者の文章だけ。だから国連人権委にはもともと一定の方向性がある。報告書も相場からいえば『まあこんなもの』だった」 スタンディングオベーションをした聴衆の主力は1992年から国連を舞台に反日キャンペーンを展開してきた日本人、韓国人活動家たちだろう。彼ら、彼女らは日本政府の反論文書を「怪文書」と呼び、文書を提出した日本政府を激しく攻撃した。ジュネーブでロビー活動をしていた戸塚氏は反論文書が提出されたという情報に接して「これまで4年間積み上げてきた国連での成果は水泡に帰する」として知り合いの国会議員や記者らに文書の入手を依頼し、文書を受け取った各国政府代表部に日本政府の反論を受け入れないようにというロビー活動を行っている(戸塚悦郎『日本が知らない戦争責任』現代人文社、1999)。 クマラスワミ報告が出る1996年まで、日本政府は92年に宮沢首相が訪韓して8回謝罪し、93年に河野談話を出して謝罪し、95年にアジア女性基金を作り謝罪と償い金を元慰安婦に配る活動を行っていた。道義的責任を認め誠意ある活動をすることに専念し、事実関係に踏み込んだ反論を一切しなかった結果、事実無根の「奴隷狩り証言」などが根拠となり、慰安婦=性奴隷という重大な誤解が国連人権委員会から国際社会に強く発信されていった。遅ればせながら外務省が作った反論文書も「逆効果」と判断され取り下げられた。 国際社会では事実に基づく反論をしないと、ウソが拡散し、取り返しの付かない名誉毀損を受けるのだ。特に、日本人が先頭に立ち、韓国など関係国の反日勢力が悪意を持った反日キャンペーンを展開している状況の中では、英語の文書など国際社会に通じる方法での反論活動が絶対に必要なのだ。しかし、外務省はこの反論文書取り下げの後、日本は慰安婦問題で繰り返し謝罪をしており、アジア女性基金を通じて償い活動も行っているという趣旨の「反論」しかしなくなる。 2007年、第1次安倍政権時代、米議会が慰安婦決議を採択しようとしたとき、総理が国会などで権力による強制連行は証明されていないと事実に踏み込んだ反論を行ったが、在米大使館などはすでに謝罪して贖い事業も行っているという弁解をするのみで、総理を孤立させ、慰安婦を巡る事実誤認を米国にまで拡散させる一助となってしまったのだ。北朝鮮の伝聞「証言」も利用したクマラスワミ報告 この反論文書の持つ意味を知るために、クマラスワミ報告とそれが出された背景について整理しておこう。 前月号対談でも指摘したが、慰安婦問題を国連に持ち込んだのは日本人弁護士戸塚悦郎氏だった。私は本誌や拙著で戸塚氏の果たした役割について書いてきたが、ここで再度、取り上げておく。戸塚氏こそが「慰安婦=性奴隷」の発案者だった。ミニコミ雑誌『戦争と性』第25号(2006年5月「戦争と性」編集室発行)に寄稿した「日本軍性奴隷問題への国際社会と日本の対応を振り返る」の中で、戸塚氏は以下のように書いている。 筆者[戸塚のこと・西岡補]は、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO(IED)の代表として初めて提起し、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請した。日本の国会審議で日本政府が無責任な発言をしたこと、韓国で金学順さんら被害者が名乗り出て、「人道に対する罪」を告発する訴訟を起こしたこと、吉見義明氏による公文書発見で軍の関与が証明されたこと、日本首相による一定の謝罪があったことからとった行動だった。 当時、韓国の教会女性連合会など諸団体は、この問題を「日本は多くの若い朝鮮女性たちを騙し強制して、兵士たちの性欲処理の道具にするという非人道的な行ないをして罪を作りました」と規定していた。 しかし、それまで「従軍慰安婦」問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これをどのように評価するか新たに検討せざるをえなかった。結局、筆者は日本帝国軍の「性奴隷」(sex slave)と規定した。たぶんに直感的な評価だったが、被害者側の告発が筆者の問題意識にもパラダイムの転換を起こしていたのかもしれない。 この戸塚の直感が国際社会での「慰安婦=性奴隷」キャンペーンのスタートだったわけだ。日本人が国連まで行って、自国誹謗を続けるのだから、多くの国の外交官が謀略に巻き込まれるのは容易だった。戸塚の引用を続ける。 だが、国連内でこの法的評価が承認され、同様の転換が起きるまでには多くの障害があった。その後筆者らは、数多くの国連人権会議に参加して、この問題を提起し続けた。現代奴隷制作業部会、差別防止少数者保護委員会(人権小委員会)、人権委員会には毎年参加した。そのほか、ウィーン世界人権会議(1993年)とその準備会、北京世界女性会議とその準備会など参加した関係国際会議を数えるだけでも気が遠くなるほどの数になった。ラディカ・クマラスワミ氏(共同) 戸塚の著書『日本が知らない戦争責任 国連の人権活動と日本軍「慰安婦」問題』(現代人文社、1999)によると、国連人権委員会で彼が初めて「慰安婦=性奴隷」と問題提起した92年2月からクマラスワミ報告が公表された後の96年2月までの4年間で18回、すなわち2ヵ月半に1回もジュネーブなどを訪れ国連への働きかけ活動を行っている。 当時国連人権委員会は旧ユーゴやルワンダで起きた女性への暴行や家庭内での女性への暴力など現代における女性に対する暴力に関して人権侵害として関心を払っていた。スリランカ人であるクマラスワミ女史が1994年3月「女性への暴力、その原因と結果に関する特別報告者」に任命されたのも、そのためであった。 しかし、クマラスワミ女史は50年前の出来事である慰安婦問題も調査対象に加え、1995年7月韓国と日本を訪問し、北朝鮮政権から資料提供を受けた。それらをもとにして「女性に対する暴力とその原因及び結果」に関する本報告書とは別に付属文書として「女性に対する暴力──戦時における軍の性奴隷制度に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告書」(いわゆるクマラスワミ報告)をまとめた。現在における女性への暴力を調査する任務を与えられた特別報告者が、過去に無数に存在した事件の中であえて慰安婦問題だけを調査対象に加えたのは、戸塚氏ら日本の運動体と韓国の運動体の強い働きかけの結果であるとともに、日本政府の外交の失敗とも言えよう。吉田清治の著書・証言を検証なく利用 クマラスワミ報告の内容とそれに対する反論文書の主張を紹介する。 クマラスワミ報告は第一章で報告書は慰安婦は性奴隷だと定義する。 特別報告者は、本件報告の冒頭において、戦時下に軍隊の使用のために性的奉仕を行うことを強制された女性の事例を、軍隊性奴隷制(military sexual slavery)の慣行と考えることを明確にしたい。(略) 特別報告者は、「慰安婦」という語句が、女性被害者は、戦時下に耐えなければならなかった、強制的売春ならびに性的服従と虐待のような、毎日行われる複数の強姦および過酷な肉体的虐待の苦痛を、少しも反映していないとの、現代的形態の奴隷に関する作業部会委員ならびに非政府機関代表および学者の意見に全面的に賛同する。したがって、特別報告者は、「軍隊性奴隷」という語句の方がより正確かつ適切な用語であると確信を持って考える。(外務省仮訳を一部補正した。以下同) ここで国連の文書で「性奴隷」説が採択されたのだ。奴隷とは所有関係をもとにする概念であり、労働に対して金銭の代価を得ることはない。反論文書は国際法上の奴隷の定義を挙げて、〈「従軍慰安婦」の制度を「奴隷制度」と定義することは法的観点から極めて不適当である〉と断言している。その精緻な論旨を反論文全文で確認して欲しい。 次に、クマラスワミ報告書が奴隷狩りのような慰安婦連行があったとする重大な事実関係の誤りを犯していることと、それを的確に指摘した反論文書の記述について見る。 「第二章 歴史的背景 B.徴集」でクマラスワミ報告書は奴隷狩りのような強制連行と勤労動員のための公的制度である女子挺身隊による慰安婦強制募集があったとして次のように記述した。 三通りの募集方法が確認されている。一つはすでに売春業に従事していた婦人や少女たちがみずから望んできたもの。二つめは軍の食堂料理人あるいは洗濯婦など高収入の仕事を提供するといって誘い出す方法。最後は日本が占領していた国で奴隷狩りのような大規模で強制・暴力的な連行を行うことだ。(註7 G. Hicks, "Comfort women, sex slaves of the Japanese Imperial Force", Heinemann Asia, Singapore, 1995 p. 25.) より多くの女性を求めるために、軍部のために働いていた民間業者は、日本に協力していた朝鮮警察といっしょに村にやってきて高収入の仕事を餌に少女たちを騙した。あるいは一九四二年に先立つ数年間には、朝鮮警察が「女子挺身隊」募集のために村にやって来た。 このことは、徴集が日本の当局に認められたもので、公的意味合いを持つことを意味し、また一定程度の強制性があったことを示している。もし「挺身隊」として推薦された少女が参加を拒否した場合、憲兵隊もしくは軍警察が彼女らを調査した。実際、「女子挺身隊」によって日本軍部は、このようにウソの口実で田舎の少女たちに「戦争に貢献する」ように圧力をかけるのに、地方の朝鮮人業者および警察を有効に利用できた。(註8 前同 その他「慰安婦」本人の証言) さらに多くの女性が必要とされる場合に、日本軍は暴力、露骨な強制、そして娘を守ろうとする家族の殺りくを含む人狩りという手段にに訴えた。これらの方法は、一九三八年に成立したが一九四二年以降にのみ朝鮮人の強制徴用に用いられた国家総動員法の強化により容易となった。(註9 前同)元軍隊性奴隷の証言は、徴集の過程で広範に暴力および強制的手段が使われたことを語っている。さらに吉田清治は戦時中の経験を記録した手記の中で、国家総動員法の労務報国会の下で千人におよぶ女性を「慰安婦」とするために行われた奴隷狩り、とりわけ朝鮮人に対するものに参加したことを認めた。(註10 吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行の記録』東京、1983年) なお、ここに引用しなかった部分を含む「第二章 歴史的背景」では11個の註が付いているが、そのうち10がヒックスの著書であり、1つが吉田清治の著書だった。そしてよく知られているようにヒックスの著書は、吉田清治証言を検証なしに事実として論を進めているなど日本国内での論争の結果を全く反映していない水準の低い本である。日本の的確かつ強力な反論 この点について反論文書は以下のように的確に指摘している。第3章 事実面に関する反論 日本政府は、以下の通り、付属文書がその立論の前提としている事実に関する記述は、信頼するに足りないものであると考える。 第1に、特別報告者の事実調査に対する姿勢は甚だ不誠実である。(略)第2章「歴史的背景」において、特別報告者は、旧日本軍の慰安所に関する歴史的経緯や、いわゆる従軍慰安婦の募集、慰安所における生活等について記述しているが、同章の記述は、実は、ほぼ全面的に、日本政府に批判的な立場のG.Hicks氏の著書から、特別報告者の結論を導くのに都合の良い部分のみを抜粋して引用しているに過ぎない。(略)Hicks氏の著述内容について、…検証が行われた形跡がない。その上、引用に際し、特別報告者は、随所に主観的な誇張を加えている。このような無責任かつ予断に満ちた本件付属文書は、調査と呼ぶに値しない。 第2に、本件付属文書は、本来依拠すべきでない資料を無批判に採用している点においても不当である。従軍慰安婦募集のためslave raidを行ったとする吉田清治氏の著書を引用している。しかし、同人の告白する事実については、これを実証的に否定する研究もあるなど(秦郁彦教授「昭和史の謎を追う(上)」p334、1993)、歴史研究者の間でもその信憑性については疑問が呈されている。特別報告者が何ら慎重な吟味を行うことなく吉田氏の「証言」を引用しているのは、軽率のそしりを免れない。(略)北朝鮮在住の女性の「証言」は、特別報告者が直接聴取していない「伝聞証言」である。特別報告者自ら問いただして確認するなどの努力もなしに、いかに供述の真実性を確認することができたのか、全く不明である。(略) この北朝鮮女性の「証言」とは、たとえば、日本軍人に連行され警察署でレイプされた上なぐられて片目を失明し、慰安所で日本軍人が仲間の慰安婦をリンチして首を切り落としてゆでて無理矢理食べさせられた、などというものだ。クマラスワミ報告はこれを勇気ある証言と称賛している。 反論文書は、右記の通り、検証されていない伝聞証言だと批判した後で、1944年に米陸軍がビルマで行った朝鮮人慰安婦調査には全く異なる慰安婦像が示されているが、クマラスワミ女史はそれを無視したと指摘して「偏見に基づく一般化は、歴史の歪曲に等しい」と辛辣に批判している。 反論文書の「第3章 事実面に関する反論」は以上のような議論を踏まえて次のように結論を書いている。結論 付属文書の事実関係は信頼するに足りないものであり、これを前提とした特別報告者の立論を、日本政府として受け入れる余地はない。特別報告者がこのように無責任かつ不適当な付属文書を人権委に提出したことを遺憾に思うとともに、人権委の取り扱い方によっては、特別報告者制度一般ひいては人権委そのものに対する国際社会の信頼を損なう結果となることを深く憂慮する。 理路整然とした反論である。これがしっかりとした英文になり、一度は国連人権委員会に提出されたのだ。当時は自民党、社会党、さきがけ3党連立政権だった。村山富市首相が1996年1月に辞任したことを受け、橋本龍太郎内閣が成立した直後だ。橋本首相の下、外務大臣は池田行彦、官房長官は梶山静六だった。3人ともすでに亡くなっているが、彼らの政治責任は極めて重い。 安倍政権は河野談話がどの様に作られたのか、韓国政府とのすりあわせがあったのかなどについて検証作業を行い結果を国会に報告すると約束した。ぜひ、検証作業の範囲を反論文書の作成と取り下げの経緯まで拡大して欲しい。反論文書が取り下げられたためにいまだに吉田清治証言に基づく慰安婦奴隷狩りという虚構が国際社会で日本を苦しめているからだ。反論しなければ、状況は悪化する クマラスワミ報告につづいて1998年8月国連人権委員会に提出されたマクドゥーガル報告では、よりひどく事実関係が曲げられ、慰安所は「レイプセンター」であり、慰安婦20万のうち14万人以上の朝鮮人慰安婦が死亡したと記述している。ここで慰安婦20万人という新たな虚構が国連文書に登場する。 アジア女性基金元専務理事の和田春樹東大名誉教授もさすがにこの事実誤認は見過ごせなかったのか、女性基金のウエブページでマクドゥーガルが根拠として挙げている荒舩清十郎代議士の発言、(報告では1975年となっているが、実際は1965年の発言)は全く根拠のない放言であり、「国連機関の委嘱を受けた責任ある特別報告者マクドゥーガル氏がこのような信頼できない資料に依拠したのは、はなはだ残念」と批判している。 しかし、このようなウソが国際社会に広まっていた根本原因は和田氏らが主導した事実反論抜きの謝罪事業だった。アジア女性基金に足りなかったのは国際的な事実わい曲に対する反論広報だった。 韓国の有力新聞朝鮮日報さえ、次のような社説を掲げて事実に基づかない日本批判を未だ行っている。朝鮮日報は保守有力紙で、北朝鮮政策などで韓米日の連繋の必要性を説いている。その読者たちの多くも奴隷狩りを事実と信じているのだ。 …日本は自分たちが侵略した韓国、中国、台湾、フィリピンの女性を強制的に戦場に連れ出し、日本軍の性のはけ口としてじゅうりんした。この性奴隷問題では被害者たちが日本に謝罪を求め、今なお日本の態度を見守っている。…90歳近くなった女性たちの中には、日本が自分たちの罪を自白、謝罪し、賠償するまでは絶対に死ねないと主張する人が多い。そのような意味でも、日本が侵略した国の女性を「性のはけ口」としたこの反人倫的犯罪は、歴史や過去の問題ではなく現在の問題だ。 日本は1940年代に自分たちが犯した罪を、93年の河野談話で認めるまで50年かかった。ところが国の指導者とされる政治家が、河野談話からわずか20年で「自分たちの発言を見直す」と述べ「談話の廃止」まで主張し始めた。つまり、かつて侵略の先頭に立ち、後にその事実を美化した集団が口裏を合わせているというのが、現在の日本の状況だ。… しかし河野談話が発表された後も、日本の歴代政権は性奴隷問題について謝罪や賠償は行わず、さまざまな理由を持ち出して責任を回避してきた。 1992年には日本の中央大学の吉見義明教授が『軍慰安所従業婦等募集に関する件』(1938年、陸軍省作成)を公表した。これには日本軍が慰安婦を募集する際、誘拐と同じような方法を取っていたとの内容が記載されている。[事実と反する。同文書は日本軍が業者が誘拐などをしないように取り締まりを求める内容だ。西岡補]さらにこれを裏付ける日本人の証言も相次いでいる。1942年から3年間、山口県労務報国会動員部長を務めた吉田清次は「朝鮮人女性を慰安婦として動員した」「1943年5月17日、下関を出発して済州島に到着し、女性狩りを行った」と証言している。吉田は「慰安婦に関する件は全て軍事機密に分類されていた」とも述べた。 世界が一つになろうとしている今、日本による性奴隷強制連行犯罪は、すでに現代史の最も醜悪な歴史的事実として公認されている。米下院や欧州議会は2007年、「日本は若い女性を日本軍の性的奴隷として利用するため、公式的に徴用した」と糾弾した。オランダ議会は「日本は強制的な性売買に日本軍が関与したことについて、全面的な責任を負うべきだ」とする決議を採択している。 国連では性奴隷犯罪に対する日本の責任を追及する報告書が、すでに10回以上提出されている。… 野田首相は日本による犯罪を証言、記録、追及、審判してきた世界の動きに対抗する自信があるのであれば、今年の国連総会に出席し「第2次大戦当時、日本軍には性奴隷などいなかった」と演説してほしい。それによって拍手が起こるのか、あるいは非難の声が出るのか実際に体験し、その結果を日本国民に率直に報告すべきだ。朝鮮日報2012年8月30日社説 この社説は当時の野田首相が「強制的に連行されたという事実は文書で確認されなかった」と第一次安倍政権以来の政府見解を述べたことに反発して書かれたものだが、国連など国際社会が吉田証言を信じていることを前提にしている。このような事実誤認に基づく日本誹謗を生んだ大きな原因は反論しないで謝り続けるこれまでの日本の外交姿勢である。このまま反論をしないで放置しておけば、問題は悪化するばかりだと強く警告したい。関連記事■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である■ 最新の脳科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理■ 秦郁彦×西岡力対談「朝日の誤報は日本の名誉毀損」

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    「成熟民主国家」へ国策の共有を

    井上寿一(学習院大学学長) 第一次世界大戦開戦100年から戦後70年へ、メモリアルイヤーを意識しながら2015年の日本外交はどのように展開すべきか。 昨年の「イスラム国」の台頭は、アラブ中東地域における勢力地図が第一次世界大戦前に戻りかねないことを示唆した。そこにウクライナ情勢の緊迫化が加わった。これらの危機的な状況は第三次世界大戦を引き起こしかねなくなった。警戒すべき緊張からの緩和局面 日本にとってこのような国際情勢は、100年前の「欧州動乱」がそうだったように、対岸の火事に過ぎなかった。しかし傍観を決め込むわけにはいかない。原発問題を抱える日本の資源エネルギーは、これらの地域に対する依存度を高めているからだ。他方でシェールガス革命のアメリカの依存度は低下するかもしれない。そうなればこれらの地域をめぐる両国の利害関係の違いは、日米同盟に影響を及ぼすおそれが出るだろう。これらの地域に対する日本の自主的な外交が必要な所以(ゆえん)である。 メモリアルイヤーとしての2015年は近隣諸国関係において特別な意味を持つ。今年は中国・韓国からすれば「抗日戦勝利」あるいは「光復節」70周年である。日中にとっては対華21カ条要求から100年、日韓にとっては日韓基本条約50周年の年に当たる。 対立の歴史を想起させる一方で、近隣諸国関係は部分的な修復に向かうかもしれない。その背景にあるのは経済的な相互依存関係である。警戒すべきは緊張が緩和に向かう局面だろう。緊張時にはコントロールできる偶発的な事件が起きやすいからである。満州事変も日中全面戦争も勃発の直前の両国関係は修復に向かっていた。 領土・国境線や歴史認識の問題に対して、日本は従来の基本的な立場を堅持しつつ、より積極的な広報外交に努めるべきである。近隣諸国に対する影響は限定的であっても、欧米諸国や東南アジア諸国に対しては違う。日本の立場に理解を求める一方で、戦後70年を巡るこれらの国との和解を発信する必要がある。日本の自画像訴求した談話に 和解の発信は首相談話の形式を取ることになるかもしれない。戦後70年の首相談話は、戦後の70年間と戦前をつなぐ歴史観に基づくものにしたい。別の言い方をすれば、戦後70年の首相談話は、非西欧世界のなかでいち早く近代化に離陸し、曲折を経て、成熟した先進民主主義国をめざす日本の自画像を訴求しなくてはならない。 今年は国連創設70周年でもある。10年前は日本の国連安保理常任理事国入りの機運が高まった。今は針穴に糸を通すに等しい。国連改革は進まないだろう。それでも安保理非常任理事国のポストが確実な今年の日本は、国益と国際公共利益のバランスをとりながら実績を積み重ねることで、平和構築に責任を果たすべきだろう。 国連改革以上に進まない、あるいは逆行しかねないのが欧州統合である。昨年の欧州議会選挙で欧州統合を批判する極右勢力が議席数を伸ばした。今年5月のイギリスの総選挙は保守党の勝利が予想される。そうなれば2017年に欧州連合(EU)加盟継続の是非を巡る国民投票が実施されて、EU脱退が実現するかもしれない。 欧州統合はアジアにとって地域統合の模範だった。模範が失われていく一方で、今年東南アジア諸国連合(ASEAN)共同体が創設される。アジアのなかの日本が自立的な地域統合を主導できるか否か。試金石の年になるだろう。国民世論の分裂修復を期待 外交に関連する国内政治はどうなるか。先の総選挙を「アベノミクス選挙」と名づけて勝利した安倍晋三首相は、改めて憲法改正への意思を明確に示した。総選挙の結果は改憲よりも別の問題を巡る自民党の解決力に対する期待の表れではなかったか。別の問題とは景気対策や社会保障の問題のことを指す。別言すれば、国民が期待しているのは、穏健な保守政党による政権運営である。次世代の党の惨敗は自民党の穏健な保守政党化を促すだろう。それは経済重視の外交路線に軌道修正を図ることになる。 先の総選挙で国民は安倍内閣の継続を求めると同時に、野党第一党の民主党に議席数の増加をもたらした。大幅な議席減が避けがたかったにもかかわらず、このような結果になったのは、二大政党制に対する国民の期待が残存しているからだと解釈できる。民主党は解党的な出直しと野党の再編をとおして、責任政党としての信頼の回復に努めなくてはならない。 日本が二大政党制を前提とする成熟した先進民主主義国になるには、主要政党間で基本国策を共有することが重要である。領土・国境線や歴史認識の問題、安全保障政策で大きな違いがあってはならない。戦後70年をきっかけとして、これらの問題を巡る政党間対立と国民世論の分裂が修復に向かうことを強く願う。関連記事■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である■ 最新の脳科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理■ 慰安婦、吉田調書…消えぬ反日報道の大罪

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    どうなる「安倍談話」

    安倍晋三首相は、戦後70年の今夏に出す「安倍談話」について、かつての日本の行為を「侵略」と認めた村山談話の表現を見直す可能性を示唆した。「反省」と「お詫び」を表明した過去の談話は継承されるのか。どうなる、安倍談話。

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    情の力

    「余生は義理・人情の研究に力を注ぎたい」。宗教学者で評論家の山折哲雄さんの言葉です。義理だの人情だというと、一昔前の知性とはほど遠い世界と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか――。

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    大切にしたい日本の美徳

    徳川恒孝(徳川宗家 第18代当主)威風堂々の日本 長い歴史の中で、日本人が作り上げてきた大変に繊細な文化の持つ「人と人との絶妙な距離感と助け合う心」「正直であること」「自然・四季と密着した生活の感覚」「祭りの爽快な活力」「義の思想」「個々の人々の高い技術の力や創造力」などが今日でもしっかりと生きていて、日々の生活の中に継承されていることは本当に素晴らしいことです。 世界のどの都市に行っても、落としたり忘れたりした財布が、入っていた現金もそのままで警察に届けられて持ち主に戻る、という国はまずほとんどありません。もし届けられたら今度は警官がポケットに入れてしまう国や、地震があって停電すれば、街中が強盗とカッパライに襲われる国は沢山あります。 しかし一方では、同じように本来の日本の社会がしっかりと持っていた「伸びやかさ」「人に対する優しさ」、そして、これはとても大切な美徳だと思うのですが、「適度ないい加減さ」と「許すという美徳」といった「おおらかな心」。この、いわば社会の潤滑油のような部分がだんだんに失われてきて、なにかギリギリとひどく狭いところで、時には人を「憎む」というような心が、少しづつ増えて来ているようにも思えます。 子供たちの世界や、会社の中でもますます問題になっている「いじめ」の問題などがその典型ですが、どうしてそんなことが起こるのか、逃げ場のない人たちを(子供たちを)楽しみながら追いつめていくような、本来の日本人の心にはなかったような厭な心がその中にあることを感じるのはとても悲しいことです。 私の乏しい諸外国での生活や旅の記憶には、各地で会った素晴らしい人々の記憶や、感嘆するような場所や事が沢山あることは書きました。私は訪問した外国では、必ず1枚はスケッチをするようにしていますが、10年も20年も前の絵を引っ張り出しますと、他のことは忘れていても、その時の寒かったことや、覗き込んで話しかけてきた子供のこと。道に迷った私に道を教えてくれるために集まってきた人々の大論争。「コッチだ」「いや、アッチだ」などとお爺さんたちの中で巻き起こった大議論や、アラブの国の喫茶店で、並みいるお爺さんたちの真似をして「水煙草」のパイプを持ってきてもらって、どうしても上手く火種を数分以上消さないで吸い続けることができず悪戦奮闘している私を見て、苦笑しながら、それでも身振り手真似で色々と吸い方を教えてくれた白い髭のお爺さんの優しい目などは、私の記憶の中の宝物です。 たかだか70年ちょっとの経験しかないのですが、振り返ってみて、どのくらい素晴らしい人たちと会い(家人も含みます)、笑い、飲み、語り、助けられ、また時にはほんの少しですがなんとか人を助けてきたか、という積み重ねが、私の本当の宝物なのだろうと思います。これは人の温もりのないコンピュータの世界では、全く経験できないのではないか? と心配しています。 日本人の温かさと人々の笑顔、湿度の高い自然の微妙で繊細な美しさや、その自然に育まれて育った文化の洗練は、このまま世界文化遺産のトップに認定されて当然であるように感じていますが、しかしその美徳が、ほんの少しかも知れませんが失われてきつつあるようにも感じています。 それは主として「人」の部分であって、今日の日本人が、あんまり近視眼的になっているのではないか。近視でないならば視野狭窄症という病にかかっているのではないか。その他にも色々な出来事や要素から、少し元気がなくなりすぎて居るのではないか、ということで、これはとても心配です。 私にはこの日本という素晴らしい国と人々が、何が悲しくてそんなに内向きになっているのかよく解りません。今日私たちが当たり前のこととしている日々の生活が、世界の中でどんなに珍しく、素晴らしいものなのかを、ぜひ多くの方々に知っていただきたいと思いますし、たとえその中の「お金があるからできている部分」が多少減ってきても、おそらくそんなことは全く問題にならないほど、日本の「良さ」は強く大きいもので、かならず問題を乗り越えていく力のあることを確信しています。威風堂々の日本です。

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    人間、やっぱり情でんなぁ

    科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理■世界が羨む「日本の力」■日本人が靖国参拝して何が悪い!■戦後70年 落ち着いて歴史を語れる国に■「敗北を抱きしめて」などいられない

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    最新の脳科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理

    場合もあれば、向こうから攻撃される場合も当然あります。それを彼らはまったく考えない。 それどころか、戦後70年間にわたって平和だったのは憲法9条があったおかげだと言い出す始末です。福島瑞穂氏は、平和憲法こそ日本の最大の抑止力だと国会で発言していました。まさしく「見たいものだけを見て、見たくないものは見ない」主観主義です。いくら憲法九条を信じ、外国の侵入などありえないと主張していても、夜、寝るときは家に鍵をかけるはずですが……(笑)。 もしも中国に攻め込まれたら、喜んで奴隷になる、“中国日本省”の人民になる、銃をとって戦うくらいなら、そのほうがずっとましだと発言するテレビのコメンテーターも何人かいます。平和憲法こそ日本の最大の抑止力だと主張する人間も含め、破壊衝動を秘めた人間の典型と言えるでしょう。 実は、先ほど名前の出たバートランド・ラッセルも同じようなことを言っています。アメリカが核を独占している時代には、「共産主義は悪の帝国だから、核兵器でソ連を攻撃すべし」と言っていたのが、ソ連も核武装すると「核戦争を避けるためには西側が核を一方的に放棄するべきだ」と180度主張が変わったのです。 ラッセルの家系も、祖父が二度首相を務めている名門なのですが、彼も幼児期に両親を失い、厳格なキリスト教徒だった祖母に育てられています。おばあさんの愛情がどれほどのものだったかはわかりませんが、彼にそうした破壊衝動が生まれたのは両親の愛情と無縁に育てられたせいかもしれません。 無意識の「破壊衝動」は、現代の脳科学・進化心理学で広く認められつつあるのですが、欧米のような人間性悪説に基づくキリスト教圏と違って、性善説の国民性を持つ日本人には、なかなか受け入れにくいかもしれません。しかし、3年3カ月にわたる民主党政権を振り返ってみれば、納得できるのではないでしょうか。 「平和」「人権」「平等」「権利」「友愛」などといった耳に心地よく響く美辞麗句を並べながら彼らが行ったのは、まさしく日本の破壊そのものでした。 脳科学・進化心理学という科学的な基準によって、「心の核兵器」とでも形容すべき政治家の破壊衝動を見極め、政治を客観的にとらえることが、いま求められています。その第一歩として、憲法9条の非合理性と欺瞞を科学的に暴き、日本国民に伝えていきたいと私は考えています。 関連記事■世界が羨む「日本の力」■日本人が靖国参拝して何が悪い!■戦後70年 落ち着いて歴史を語れる国に■「敗北を抱きしめて」などいられない

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    「戦勝国」史観との対決

    歴史と文化の複合攻撃 西尾 今日はまず、お二人に問いかけをさせていただきます。歴史問題で日本が苦しめられている。靖国神社や慰安婦問題でアメリカ、中国、韓国から謂われなき罪で批判され続けていて、日本はそれに毅然と反論できないでいる。その構図は国際政治の文脈で語られることが多いのですが、少し角度を変えて考えてみたい。 韓国はあまりにも荒唐無稽な自国自慢をします。日本語の仮名は韓国産だ、剣道も柔道も韓国起源だと呆れ返るようなことを言い出す。相撲も歌舞伎も韓国が日本に教えたとさえ言っています。対日本だけではなく、孔子も孫文も韓国人だと言い出して中国人を怒らせたこともある。ついにピッツァもイタリア産ではなく韓国由来だそうです。 その中国も中国で、キリスト教は中国起源であるとか、『旧約聖書』も『新約聖書』も墨子から発しているという説もあります。十九世紀には世界の文化文明はほとんどが中国起源であるというお国自慢が広がったことがありました。中国人はまだ大人ですから、表では大声で言わなかったり、それをきちんと否定する人が出てきたりします。韓国の場合は否定する人は袋叩きに遭うらしいですから、救いがない。ただ、腹の中は両国はよく似ている。 アメリカはどうか。今や自らこそがキリスト教文明の中心であり、ヨーロッパ文明の継承者だと信じていて、ヨーロッパもそれを認めている。だから堂々と「人道に対する罪」などという概念を持ち出し、人類の名において世界を裁くということに躊躇しない。 一方のわが国は、もともと謙虚で、そういう原理主義をとらない。戦前から文明を他国に学ぶことを隠していない。第二次世界大戦で敗北した後、戦争裁判の結果をすんなり受け入れたのはそのせいでもある。賠償もすませそれなりの償いを完了させて講和条約も結んだ。にもかかわらず、というか今述べた国柄のせいか、どこかで罪悪意識を抱き続けてきました。これは日本人に罪の意識を植え付け、二度と立ち上がれない国にしようとしたGHQ(連合国軍総司令部)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によって洗脳されたせいでしょうね。占領終了後も日本を「弱い国」のままにしておきたかった左翼勢力に騙されてきただけなのに、なかなか吹っ切れない日本人が多い。 アメリカが日本との戦争に勝ったこと、中国や韓国が戦勝国の側に自分勝手な理屈で立っていること、あるいは戦争の犠牲国として日本より国際政治的に優位に立っていることと、文明の起源は自分たちにあるといって偉そうに日本に押しかぶさってくることとは本来は別の話です。後者に関しては、われわれはきちんと文化論的対応や反論ができます。先述したような馬鹿馬鹿しい自国自慢は放っておけば消えていくことも理解しています。 日本対西洋というドラマは、長い付き合いの中で文明論的に成熟していて、西洋人は日本が古い独自の文明を持つことを理解していました。また日本人はある時代には自らを東洋の代表としてみて、東洋対西洋という対立図式さえ堂々と語っていた。 ところが中国人と韓国人には、西洋との精神的な対話を通して、自らを分析することなど考えもしません。ことに韓国人は西洋との対話の伝統さえあるように思えません。一方的に自らが優越していると思っています。日本は優越しているなどと考えず、西洋とは異質であるが、そこから学んで自分のものにもしなければならない西洋文明の底深さを自覚してきました。 日本はそうしてバランスをとりながらやってきたのに、突如として中韓の異様な日本攻撃が始まった。なんの根拠もなく自分たちを高みにおいて日本に上から目線でものを言う。そこに戦勝国、戦争の問題を重ねている。文明の問題と戦争の問題とは別なのに、それが折り重なって日本に二つのウソが覆い被さってきていて、日本人はたいへん分かりにくい局面に立たされている。区別すべきはきちんと区別すべきです。日本が古代中国から影響を受けたのは韓国経由ではありません。韓国経由はごく初期だけです。宋以後の中国からはさして決定的な影響を受けていません。戦争に関しては、日本は韓国とは戦争していません。日本も敗れて韓国も敗戦国なのです。日本が中国と戦ったのは国民党軍であり、中共軍ではありません。中華人民共和国は日本がアメリカに太平洋で敗れて、大陸を撤退してから、その後で大陸の覇権国家になったのです。日本人はここで一度、日本人としての自覚、歴史の自覚を突き詰めて考え、対決すべき時が来ていると思います。 宮崎 中国と韓国が似ているところは、まったくのジコチューで独善的であることです。韓国は朝鮮半島の食いっぱぐれが日本だと考えている。また見栄っ張りで、映らないのにサイズだけは大きいテレビを置いたり、外箱だけで中身のない文学全集を本棚に飾ったりしている。一方の中国は、史上最大のベストセラーが清朝末期に公刊された『厚黒学』だというお国柄。腹黒くなければ出世しないという人生観に染まっているのが中国人です。 この中国人と韓国人の共通点は、山賊の論理です。「人のものは自分のもの。自分のものは自分のもの」。西洋との違いといっても、西洋もアメリカも中東も一神教ですから、自分だけが正しいと考えるのも論理的には分からないでもない。ただ中韓は一神教でも何でもないんだけれど。 西尾 朱子学は一神教に似ています。 宮崎 一神教は他を認めませんが、朱子学の中では、さまざまな学派が百家争鳴、という時代もあります。彼らの規範はやはり中華思想でしょう。国際秩序を守れと批判されても、彼らは彼らで中華秩序という独自の国際秩序を守っているという意識だと思います。 西尾 困ったものですが、最近は「鄭和の艦隊」を持ち出して、現在進めている海洋覇権戦略を正当化しようとしていますね。 宮崎 六〇〇年前の明代に、東南アジアからインド、アラビア半島さらにはアフリカにまで至る航路を開いたのが「鄭和の艦隊」。習近平は二〇一四年九月にモルディブとスリランカを訪れた際、「鄭和がモルディブを訪れ、その答礼の使者がモルディブから中国に来た記録がある」などと発言しました。スリランカでも同じことを言っています。 西尾 「鄭和の艦隊」は平和主義だった。だから自分たちも軍事覇権や軍国主義とは無関係だというようなことを言って回っている。 宮崎 中国はモルディブとスリランカを「真珠の首飾り戦略」に組み入れようとしています。「真珠の首飾り」とは、南シナ海からインド洋を中東へと至る中国のシーレーン戦略で、沿岸各国の港湾インフラ整備を支援し、自国の艦船が寄港する足場として確保しようとしています。これまでは商業目的と語られてきましたが、習近平がスリランカを訪れた前日には中国の潜水艦が初めて寄港し、軍事目的があることも分かってきた。 つまり中国は、自分の仲間になりそうなところでは鄭和を持ち出す。日本やインドでは語らない。語っても無駄だからでしょう(笑い)。真珠湾・アリゾナ記念館 真珠湾攻撃を受けたヒッカム基地司令部のビルには当時の弾痕が生々しく残っている =米国ハワイ州オアフ島の米軍ヒッカム基地(鈴木健児撮影)陸軍博物館の特別展示にみるアメリカの「正戦」論 江崎 アメリカも独善という点では中国と変わらないと思います。最近ハワイのホノルルに行くことがあって、真珠湾のアリゾナ記念館やアメリカ陸軍博物館を見てきました。自分たちがホノルルを征服し、ハワイ王朝を絶滅させことについてはほとんど触れず、アジアの平和を乱したのは日本のエクスパンション、拡張主義で、アメリカはそれに立ち向かい、平和が訪れたという歴史観が語られていました。 陸軍博物館ではちょうど戦後七十年にあわせた特別展示が行われていて、これもまた愉快ではありませんでした。戦時中の日系人によるインテリジェンス(情報収集・諜報)活動がテーマで、日系人たちがアメリカ国民として第二次世界大戦で日本を打ち負かすためにインテリジェンス活動に従事していたというんですね。日系人も最終的にはアメリカの文明に心服して、アメリカ国民として日本との戦いに加わった、彼らを称えようというストーリーです。米陸軍には当時、主に日系二世の将兵で編成された情報セクションまでありました。対日戦線で日本語能力を生かし、情報収集や分析、宣伝、捕虜の尋問などにあたり、在日占領軍でも活動しています。 宮崎 アメリカの日系人は戦前から戦中にかけて、日米の間で揺れ動きます。アメリカ組と日本組に分かれ、日本に忠誠を誓った人たちは船で日本に帰った。戦争が始まるとアメリカ組は収容所に入れられますが、そこでもアメリカが勝つという組と負けるという組に分かれる。勝ち組は、「われわれはアメリカ人として戦う」と誓って日系人部隊に入った。アメリカ史上最も多く勲章を受けた勇猛な部隊として有名な四四二部隊も彼らですよ。 西尾 戦後我々は、アメリカ軍に加わって日本と戦った日系人の行動を武士道として理解してきました。彼らは「郷に入りては郷に従えで、アメリカという国家に忠誠を尽くした」のだと。しかし、よく考えてみると祖国を裏切る卑劣な行動だったのではないか。そんな評価が近年出てきました。鈴木敏明さんという方が『逆境に生きる日本人』(展転社)で打ち出しています。アメリカには協力しないと背中を向けた日本人たちもいて、彼らは牢にぶち込まれた。彼らこそが立派だというんですね。 宮崎 戦後、その問題を最初に書いたのが藤島泰輔の『忠誠登録』で、そのあと山崎豊子の『二つの祖国』がでた。日系人の心理の移ろいを描いています。 一九八〇年にレーガン政権ができたときに、強制収容した日系人に対する補償がなされました。実はあの運動をやったのは民主党左派です。穏健な在米日本人たちは嫌がっていました。日本人のモラルとして、恥だと考えたんですね。 西尾 あえて請求しなかったんだ。 宮崎 従来の日本人は、そういう感覚なんですよ。 江崎 帰属心とは別に、戦時中の在米日本人・日系人でアメリカ軍の諜報・情報活動に協力したのは、実はアメリカ共産党に属した在米日本人グループだったという側面に注目しておくべきです。有名なのはカール・ヨネダや木元伝一らですね。カール・ヨネダは筋金入りの活動家で、マルクスから名前を取っています。陸軍情報部で中国やビルマ戦線に従事し、『アメリカ――情報兵士の日記』『がんばって――日系米人革命家60年の軌跡』といった著作で知られます。木元は尾崎秀実・ゾルゲグループの宮城与徳を日本に送り込んだ人物とされ、日米戦争中はアメリカ戦時情報局(OWI)で対日心理作戦に従事しています。彼らにとっては日米戦争を煽ることこそ目的だったからです。アジア赤化のために日本をアメリカと戦わせて日本を弱体化させるのがソ連の戦略でしたから。中国に警戒強めるアメリカ情報機関 江崎 一方で、ハワイの海兵隊基地では、こんなこともありました。真珠湾攻撃でその基地に突っ込んだ零戦パイロットの飯田房太大尉の記念碑が戦後アメリカ陸軍によって突入現場に建立されていて、「日本人は非常に勇敢に戦った。自分たちも顕彰している。お前は日本人なのだから、そこに行け」と海兵隊関係者から勧められました。 西尾 そういうこともあるんだね。 江崎 軍人として忠誠心や勇敢さ、自己犠牲の精神は敵味方の区別なく評価する。そんなフェアな一面もありますが、米軍全体としては、日系人でさえ悪い日本と戦ったのだとアメリカの正義を強調するようなプロパガンダを戦後七十年に向けて展開しているわけです。 西尾 アメリカは、日本との戦争の評価で文明の優位については譲らなくても、戦争の可否と動機の相対化、つまり日本にも一分の理はあったことを承認する目が出てきているのではないか。カナダ在住の歴史家、渡辺惣樹さんが報告されていますが、ルーズベルト大統領が日本を開戦に追い込んだことは、刑事裁判では認められなくとも民事裁判では認定されるというところまでアメリカでは研究が進んできているようです。学界や言論界レベルの話ですが。 江崎 確かにアメリカでは保守派を中心に、「ソ連と組み、コミンテルンのスパイたちを重用したルーズベルト外交は結果的に中国大陸を共産党に奪われるなど、失敗だった」という議論が浮上してきています。 西尾 日本人に日本人パイロットの顕彰碑を見に行けと勧める軍人がいるという江崎さんのお話もそれに通じるところがある。 江崎 現在の国際情勢の中で国防総省、特に海兵隊は、着々と太平洋に進出してきている中国の軍事的脅威に対して、日米が協力して戦わないといけないという危機意識が高まっていると思います。そういう中で日本のプラス面は積極的に評価しようとしている印象を持ちましたね。 西尾 ただそれはあくまで戦争の問題で、文明の問題ではありません。軍事利用の問題で、歴史の正義を認めるか否かの問題ではない。アメリカは戦後、中国や韓国、その他の国々に対して、経済的に豊かにさえなれば民主化して法治国家になるという見通しに基づいて外交政策を立ててきました。ところが現実はまったく逆で、中国は狂暴化するし、韓国は愚昧化した。アメリカは自ら犯してきた過ちに気付いているのでしょうか。 江崎 一般人は中国への警戒心を持ち始めています。というのも中国が金にあかしてアメリカの不動産を買いまくっているからです。ハワイでは中国人が投資のためだけにコンドミニアムを高いカネで買い漁り、地価が急騰している。地元の人たちが住みづらい地域ができてきています。 西尾 中国人は世界各地で同じことをやっている。 江崎 実はアメリカの軍当局やインテリジェンス機関も相当、中国の対外工作に警戒心を強めています。中国の国営テレビ局中国中央電視台(CCTV)はアメリカ本土をはじめとして世界中で放送をしていますが、軍当局は「プロパガンダ放送だ」と神経をとがらせています。 アメリカでは、中国が世界中で開設してきた中国語教育機関「孔子学院」を閉鎖させる動きが出ていますが、その背景にもアメリカの情報機関の意向があると聞いています。そのきっかけは、中国に留学するアメリカの大学生が、中国によってスパイにリクルートされる事件が起きたことです。FBIは二〇一四年春、中国に滞在しているアメリカ人留学生らが中国の情報機関に買収され、スパイになる危険性に警鐘を鳴らす留学生向けの動画を製作してネットで公開しています。『(チェスの)歩兵のゲーム(Game of Pawns)』というタイトルです。 西尾 経済発展しても期待していたようには民主化されず、逆の効果が出てきたということですね。そもそも豊かになれば民主化するというアメリカ人の発想の根拠は日本です。ファシズム国家だった日本を負かし、占領して民主化し、立派な国に育て上げたと考えています。アメリカが勝手にそう考えているだけですが。 江崎 イラク戦争でブッシュ大統領が言っていましたね。 西尾 アメリカの文明で日本を覆い尽くしたのだから、他国も教化できると考えていた。私に言わせれば、とんでもない勘違いですよ。かつての日本には確かに民主主義などという言葉こそありませんでした。しかし古の時代から、民を大事にし、他人の意見をよく聞き、相和して生きていくという、モラルあるいは一種の習俗があった。ただ戦後は、その上にアメリカの明るさとパワーを学んだ、という程度のことだと理解しています。もちろん日本からの輸出に門戸を開いてくれたことには感謝しています。 ですから、アメリカが日本に民主主義を与えたという理解は誤りなのだということを、アメリカ人に分からせることができるのかという問題なんですよ。巨額不良債権の隠蔽共同体 西尾 それにもうひとつは中国の未来です。中国が共産主義をやめて、言論の自由のある国になるか否かで日本の未来は変わってきます。あんなデタラメな経済政策をやっていて今でも何とか持ちこたえている。いつまでこんな状態が続くのですか。 宮崎 米中は通貨や金融に関しては共犯です。紙くず同様の人民元がドルと交換できるようになって、中国は外貨をどんどん積み上げ、政治資金として使ったり、海外に投資したりしてきました。アメリカにとっても、ドルが流通するから利益になる。 ところが西尾先生が御指摘のように、中国の経済は滅茶苦茶でバブルも破裂しているのに、なぜかまだ成長が続いている。これはアメリカも荷担して、中国の銀行がまだ機能しているというフィクショナルな虚像を世界に見せているからです。中国の銀行は破綻しています。預金準備率を引き下げ、シャドーバンキングなどを使って資金を供給し、今度は利下げです。貸出の上限利率は五・六%であるのに、一年物定期は二・七五%にまで下げて利ざやを大きくしている。これで海外からの投資が続く。年間ドル換算で九〇〇億ドルから一〇〇〇億ドルの投資がある。 西尾 今でもまだ海外から? 宮崎 そうです。日本からの投資は、二〇一二年の尖閣問題に端を発した反日デモ・日本企業焼き討ち以降減り始めて半減したけれども、まだ一〇〇億ドル近く投資されています。台湾からも一〇〇億ドル、ドイツも大金を投資しています。海外からの投資は相対取引で人民元になるから、銀行に資金が供給できるという仕組みになっています。 しかもアーンスト・ヤングなどアメリカの代表的監査法人も中国に現地法人をつくり、銀行の監査に入っているのに、実態を明らかにしない。銀行が相当な不良債権を抱えていることはわかり切っているのに公表しないんです。中国の当局に握り潰されているんでしょう。その結果、中国の金融が機能しているかのように世界中が錯覚する。この不良債権問題が弾けると、ドルも連動して相当暴落してアメリカも困る。米中は隠蔽共同体ですよ。 西尾 中国版サブプライムローンが限界に近づいているということですね。 宮崎 おそらく円換算で一千兆円ぐらいでしょう。日本のバブル崩壊は四十兆円でしたから、その二十五倍の規模です。そうなったときは日本の反撃の最大のチャンスですけれども。 西尾 しかし日本経済も攪乱されるでしょ。 宮崎 一割程度は攪乱されますね。中国に大工場を持つメーカーや手広くビジネスをやっている商社は株価が大暴落するでしょう。トヨタ、コマツ、ダイキン工業、伊藤忠などです。 西尾 アメリカも日本もそれが分かっていて半身を抜いているけれども、中国経済が破綻して自分たちもやけどを負うのが怖いから協力して投資もするというハーフ・アンド・ハーフのスタイルで付き合っているわけですね。 宮崎 アメリカは、製造業は中国からかなりが撤退しましたが金融ではまだズブズブの関係です。「共産主義に汚された歴史」を問え 西尾 アメリカが金融を握っているのは、いざとなれば中国の弱点をカネの面でつかんで抑えにかかれると思っているからではないでしょうか。アメリカ経済への波及も恐れているのでしょう。各国が金融面で痛い思いをしたくないがために、中国の独裁と腐敗を許しているという国際社会の現状をどうみるか。これは北朝鮮への対応と似ていますね。北朝鮮は規模こそ小さいけれども、暴発されたり無秩序に崩壊されたりしたら困る。その一点で国際社会が一致していて、あれほどデタラメな国に手出しをせず、そっとしておいている。暴発されたら韓国は甚大な被害を蒙るし、いざ統一となると経済的な負担が大きい。アメリカも力を行使する状況は避けたい。中国も緩衝地帯がなくなるのは嫌だし、日本だってとばっちりはごめんだと思っている。勝手なことやれるのはロシアだけでしょうが、責任は取りたくない。だから北朝鮮のような国がここまで残存してきた。同じことが巨大な規模で中国にも言えるということでしょう。 戦後七十年で、米中が歴史戦争を仕掛けてくる。アメリカには日本の味方をする勢力もあるかもしれないというのが今日の江崎先生のお話ですが、やはりファシズム国家日本をアメリカ文明で教化したという認識原則は変えないでしょう。しかし、日本は三百年余の歴史的由来から――「東インド会社」以降の――日本の正しさを弁明すべきです。 西洋の植民地主義は、スペインからポルトガル、オランダ、そして英仏へと主役が交代しながら侵略を拡大してきました。この大きな流れの終着点が大東亜戦争だったんです。日本は中国に対して、協力して西洋植民地主義と戦おうと呼びかけた。ところが、そこまでの認識を持てない中国と韓国が深い眠りに入ったまま動けなかった。 そのことをアメリカに納得させたい。アメリカだけを責めているのではないのです。地球を覆い尽くしたキリスト教文明と、孤立無援の中で戦ったのが日本だった。われわれはそうして立ち上がった先人を誇りに思っていて、戦争犯罪人として断罪されるなどとんでもない。靖国神社を首相や閣僚が参拝するのは当然なのだと理解してほしい。これは大東亜戦争肯定論ではあるけれども、修正主義でもないし右翼でもありません。そもそも「修正」ではなく最初から正しかったと言っている。それをどうやったら一歩でも実現できるのか。 江崎 ソ連と組んだルーズベルトが「悪」だったと考えるコンサバティブな人たちにも、「日本が正しかった」ということまでは理解されないでしょうね。アメリカは日本の正しさを永遠に認めないと思います。 宮崎 絶対に認めませんね。 西尾 認めなくてもそこに日本の「意志」があることを機会あるごとに訴え、知らせるだけでもいい。 江崎 ただしソ連と組んだ民主党のルーズベルト外交は間違いだったというレベルまでは認めさせることは可能かもしれない。第二次世界大戦にいたる国際政治の中で、ソ連と組んだルーズベルトは外交的にも戦略としても間違っていたと理解させることはできるのではないかというのが、私の見立てです。 アメリカ政府が一九九五年にヴェノナ文書を公開しました。第二次世界大戦期にソ連の暗号電報を傍受、解読した文書で、ルーズベルト政権にソ連のスパイである秘密アメリカ共産党員が大量に入り込んでいたことを立証する文書です。それをアメリカ政府自身が公開した。ルーズベルト政権内部にソ連のスパイがいたことがアメリカの歴史学会で話題になってきたためか、今年に入ってイギリス政府もが、アメリカの対日占領政策に全面的に協力したカナダの外交官ハーバート・ノーマンが少なくとも学生時代にはソ連のスパイだったというMI5の秘密文書を公開しました。 ベルリンの壁崩壊から二十五年、アメリカの首都ワシントンDCに本部を置く共産主義犠牲者追悼財団が、第二次大戦後の共産主義との闘いを映像にまとめ、公表しましたが、そこでは、いまだに中国共産党や北朝鮮が人権弾圧を繰り返し、国際社会の脅威となっていることを批判しています。英米の指導者たちの中にも、自分たちがソ連と組んだことで、アジアにおいて共産主義勢力を大きくしてしまったことについて忸怩たるものがあるでしょう。その意味で、ルーズベルトの間違いを認める可能性はあると思います。 ですから「大東亜戦争で日本は正しかった、悪くなかったのだ」と主張するのではなく、「日本は防共戦争、共産主義の膨張・南下に対する防護をしていたのだ」という形で英米諸国に対してアピールすべきだと思います。東京裁判では、日本側が弁明のための証拠として準備した共産主義関係の資料はすべて却下されています。連合国の側にソ連が入っていたからです。この対共産主義という視点を戦後七十年という節目に打ち出すべきだと思いますね。アメリカでもイギリスでもソ連や中国共産党と組んだことは間違いだったと認められ始めているではないか、と訴えるべきです。 アジア太平洋地域に限って言えば、共産主義の問題はなにも終わっていないし、中国の脅威という形で進行形だという認識がアメリカに広がってきていますから、タイミングとしてもいい。 西尾 私もずっとそう言ってきました。中国共産党は日本が大陸から手を引いた後、アメリカが作ったんですよ。中国戦線米軍総司令官だったウェディマイヤーの反対を押し切って国民党を排除し、毛沢東を全面支援したのは国務長官のマーシャルでした。その一、二年後に毛沢東軍は朝鮮半島を南下し、アメリカの正面の敵となりました。マーシャルの失敗はいまだに批判されていません。アメリカは余りにも愚かです。私はこうしたことをきちんと日本国民に伝える国民教育も大事だと思います。たとえば、なぜ講和条約というものがあるのか。講和条約は戦勝国にとっては報復の手段だけれども、敗戦国にとっては二重の謝罪、三重の賠償をしないための防衛策です。それが国際的ルールのはずなのに、それを今でも言い募ってくるのは、もう一回戦争しようとしていることと同義です。中国や韓国とは、講和条約と同じ意味を持つ平和条約、基本条約を結んでいるのに、そのことをいくら言っても分かろうとしない。 従って、中国や韓国と歴史の問題を討議することはまったく意味がないということを国民に知らしめる。最近のいわゆる「嫌韓本」の出版ラッシュはいいことなのです。これ以上歴史問題を議論しても、お互いに理解しあえる言葉がもうないということを国民も分かり始めている。朝日新聞やNHKや自民党の左半分はそれでも和解ができると思い込んでいるかもしれないけども、できません。中国も韓国とまったく同じだということは、日本人も分かってきていると思います。一方で、アメリカは多少なりとも違うでしょう。他のアジアの国々も話せばわかる。 日本人が国内で見ている戦争観と、世界が見ている日本の戦争観と、この落差があまりに大きいということについて申し上げたい。ドイツの場合にはこの落差がありません。ドイツ国内のナチス観と世界のナチス観は一致しています。そのため今のドイツ人は、ナチスは自分たちとは違う存在だ、というウソをついて逃げています。しかし日本人はウソをつく必要がありません。国民と天皇と軍は運命共同体として戦ったのです。世界の世論はそのことがまだ良く分かっていません。そのため日本国内との落差が大きい。日本国民は戦後もあの戦争自体を犯罪だと思っていない。失敗だとは思っていますが。ですから、外国の力で口を封じられると、日本人にも復讐心が燃え上がってきます。ですが、たとえばアメリカには一部だけれども分かってくれている勢力がいて、理解が少しずつでも広がっているという希望があれば、復讐心を燃え上がらせたり、恨みに思ったりはしない。正義の心に風穴を開けておくことが大切なのです。そうしないと内向化して鬱積する。 ドイツ在住の作家、川口マーン惠美さんの『住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち』という本に同じようなことが書かれています。「謝罪の問題は既に謝りましたではなく、なかったことについては謝りませんということをはっきりと皆にわかるように言ったほうがいい。そもそも日本人が不誠実なら、日本はこれほど健全な発展は成し得なかったはずだ。皆が思いやりを持ち助け合ってきたからこそ、戦後の経済発展の果実が一人の人間の手だけに落ちることなく、国民全体の富として行き渡ったのではないか」。 にもかかわらず、歴史問題の克服が「うまくいかないのは、先方が終止符を打つことをひたすら拒んでいる」からだと。先方というのは中韓のことで、「その上哀しいことに、日本人の罪はますます水増しされていく。ここまですべてがうまくいかないということは、日本人のこれまでのやり方、つまり穏便に控えめにというやり方が間違っていたと考えたほうがよい」「こちらが退けば退くほど、突進してくるのがあの国の人たちのやり方のようだから、このままでは和解のチャンスは永久に巡ってこない」。 江崎 その通りですね。 西尾 おとなしくしていてはダメなんですよ。突っ込まれるばかりで、罪はどんどん水増しされていく。 江崎 やはり日本からアメリカに向けて働きかけていくことです。繰り返しますけど、アメリカの軍や情報機関は現在、中国のプロパガンダに警戒心を高めていて、対抗策をとろうと考え始めています。「慰安婦も南京事件も、共産中国のプロパガンダなのだから、疑問視すべきだ」と彼らに働きかける絶好のチャンスを迎えているのです。問題は、アメリカ内部のこうした動きを、日本政府がどこまで理解しているのか、ということです。 宮崎 問題は日本に情報機関がないことでしょう。情報を取ってくる人もいるけれども、統合された情報戦略として官邸なりに上げていく組織がないことは、大変な問題だと思いますよ。 江崎 第二次安倍政権が発足した平成二十四年当時、官邸に戦略情報室を創設する動きがあったと聞いていますが、実現しなかった。公明党や親中派の自民党政治家たちの反対を押し切れなかったようです。日本の世界戦略と歴史観をアピールするために 西尾 ちょうど新しい安倍政権が発足します。何を期待しますか。 江崎 官邸に設置した日本版NSCの下にインテリジェンスと対外広報と分析を担う実働部隊を組織すべきです。安倍政権は対外広報戦略として、これから五〇〇億円を使って米ニューヨークと欧州・東南アジア国家の主要都市に「ジャパンハウス」なるものを作るそうですが。 西尾 なんですか? 江崎 日本の漫画・ゲーム・アニメ・料理などを紹介する施設を世界各地に作ろうという計画です。そんなことでお茶を濁さずに、戦後七十年なのですから、日本の世界戦略と歴史観を堂々と問うてほしいですね。ソ連と組んだルーズベルトがどれだけ罪深いのか。ルーズベルトが日本を叩いたお陰で、アジア太平洋地域では共産主義の防波堤がなくなり、中国は共産党政権となり、朝鮮戦争が起きた。そしてアジアはいまだに中国共産党と北朝鮮という全体主義陣営に苦めらていると考える欧米の学者や政治家たちと積極的に連携すべきです。 西尾 おっしゃるとおり。政府がやるべきなのはもちろんですが、それを言うと、その前にお前たち言論人がやれと言われるんです。だからかつては新しい教科書をつくれ、となったわけですけども、改めて教科書も大切になるのではないでしょうか。 宮崎 長期的には、教科書は一番大切です。短期的に言えば、日本に天安門事件の記念館をつくりたい。 江崎 天安門事件は中国共産党政権の残虐さを世界に知らせた事件ですし、戦後七十年の一つの記念事業として世界的な発信になりますよね。 宮崎 もう一つ、二〇一五年四月十七日は下関条約締結百二十周年です。日清戦争勝利国民大集会を開催する。 西尾 であれば、日露戦争のポーツマス条約締結日も祝日にすべきだよね。 宮崎 諸外国なら当然、祝日ですよ。 江崎 アメリカにとっても、日露戦争は、日米で連携してロシアの南下を食い止めたという意味を持ちます。今度は、日米で連携して中国の拡張主義を食い止めようという世界戦略をアピールすることにもなる。 地道な作業ですが、長期的に取り組むべきことは、防衛研究所にあるような日本軍に関する基礎的な資料を英訳し、インターネットで公開して全世界の研究者が利用できるようにすべきです。慰安婦問題でもそうですが、アメリカの学者たちは、日本は、戦争に関する資料を隠蔽していると考えているんですよ。 西尾 日本語を勉強しないからいけない。 江崎 そうなんですが、欧米の学者たちに、日本軍がどれほど厳格に軍規を守って行動していたのかを示す資料が山ほどあることを知らせるべきです。そうした膨大な文献を英訳すれば、日本軍が南京大虐殺をしたり、女性を強制連行したりする軍隊ではないことが自然と世界に伝わっていきます。 西尾 それは大変なお金が必要でしょう。 江崎 ジャパンハウスなどに使う予算五百億円をあてれば十分です。法的根拠なく、外国人に支給している生活保護費が年間一千二百億円ですから、それを適正化すれば、英訳の予算などいくらでも捻出できます。 西尾 それは私も大賛成で、確かに慰安婦問題をこのままで終わらせてはまずい。朝日新聞が誤報を認めたから議論は終わりとなるのが怖いですね。国内的にはよくても、国際的にはまったく効果は出ていません。一説では、韓国が国連安保理に慰安婦問題を訴えるという話もある。潘基文が事務総長ですから議論が進められる可能性があります。 もう一つ心配なのは、憲法九条のノーベル平和賞です。戦後七十年という節目だからなどいう理由で受賞しかねませんよ。 江崎 憲法九条がノーベル平和賞をもらってしまったら、「正論」連載の漫画「それゆけ! 天安悶」が描いていたように、安倍総理がノーベル賞のメダルなりをオバマ大統領に贈呈したらどうですかね。「立派な憲法をつくってくれてありがとう」ってね(笑い)。受賞者はアメリカだとアピールすればよい。痛烈な皮肉ですが、それくらいのことを言ってこなかったから、日本は国際社会から舐められるのです。 西尾 ただ現実問題として、日本人には愚かなノーベル賞信仰があります。憲法改正はできなくなるでしょう。外務省はこれを阻止するための活動をしているんですかね。安倍総理には、外務省の尻を叩いてほしいですね。 安倍総理は外交面では本当によくやってくださっていると思います。よく体がもつなと思うくらい精力的に海外を回られて、国際社会での日本の存在感は確実に高まりました。インドやオーストラリアとの関係が深まったことも、対中抑止を考えると非常に大切です。不運だったのは、関係を深めようとしていたロシアがウクライナ紛争を起こしたこと、北朝鮮の問題がなかなか進まないということですが、頭が下がる思いです。 しかし、肝心要のところでミスをしているのではないかと思えてなりません。メイドとして外国人移民を受け入れるとか。 江崎 それは安倍総理の問題というよりも、周囲にそうしたおかしな政策を止められる人間がいないということではないでしょうか。かつての悪しきリベラルな自民党の体質はいまだに色濃く残っていますから。 宮崎 党内にも反安倍派がごろごろいます。衆院選が終わったら真っ先に靖国神社行ってほしいね。常に問題を起こしてほしい。 江崎 平成二十五年十二月の靖国参拝をアメリカが批判したことに対し、日本側が反発しましたね。衛藤晟一総理補佐官や萩生田光一・自民党総裁特別補佐がアメリカを批判し、アメリカ大使館には抗議メールが殺到した。日本がそれほど反発するとは思っていなかったアメリカは慌てて、ひそかに調査団を派遣してきたんですよ。 西尾 靖国のことで? 江崎 そうです。なぜ安倍総理は参拝に踏み切ったのか。アメリカが批判したことになぜ日本は反発したのか、調べて回ったんです。 ところが、残念ながら日本の外務省や政治家の対応は、ピントがずれていたと聞いています。「靖国はアメリカのアーリントン墓地と同じ位置づけだ」、「慰安婦を強制連行した証拠は見つかっていない」といった言い訳しかせず、アメリカ側はがっくりきたそうです。「俺たちは戦略の話をしているんだ。中国の台頭に対抗するためにも韓国と連携してもらいたいから、靖国に参拝して韓国との関係を悪化させることは止めてくれと言っているのに、何の戦略もなく靖国に行ったのか」と。 私なら、「中国や韓国から言われて靖国に参拝しないのであれば、中国の言い分に屈する日本になります。中国に屈する日本になって困るのは、あなた方アメリカではないのですか。逆に靖国神社に参拝すれば、中国の恫喝に日本は屈しないという政治的メッセージをアセアン諸国やインドに送ることになります。それは、アメリカの国益にもつながるのではないか」と言いますよ。アメリカは戦略を語っているのに、日本の側は外務省も政治家たちも、弁解するだけで、戦略を語っていない。 西尾 仰有る通りで今の貴方の論理の立て方でアメリカに訴えるのは説得力があります。アメリカは韓国が太古から支那の一部だという歴史が分かっていないのです。日本は歴史も宗教も、言語も人種も大陸とは異なり、一貫して独立した別の文明であったということが理解されていません。 安倍総理の靖国参拝に「失望した」といった米大使館に数千通のメールが届いて、国務省はびっくりしました。ケネディ大使は人気がガタ落ち、あわてて調査団を寄越したところ外務省は無能で、日本人の真意が分からずじまいだったというお話ですが、アメリカ代表はなぜ外務省なんかに頼ったのでしょう。国民の心が分かる人、なぜ言論人の何人かに会って、日本人が何を考えているのかを知ろうとしないのでしょう。日本の言論の主なものは翻訳されていて、アメリカ政府はつかんでいるはずです。日本の外務省に聞くなんていうのは下策の下で、アメリカ外交も焼きが回っているのかもしれませんね。 今日は外人部隊の話が出ました。日系人がアメリカのために血を流したあの一件から、日系人でさえ悪い日本と戦ったのだ、と単純なアメリカ人は一直線に考えるようですね。そんな風に考える今の日本人は一握りの左翼しかいません。こういうアメリカの戦争観をどう変えさせるか。江崎さんが中国共産党に疑問を持ち始めた新しいアメリカの空気にしっかり訴えよ、と仰有ったことはとても印象的でした。慰安婦も南京も中国のプロパガンダが基本ですから、そこを疑問視せよ、とアメリカ人に向けて言っていく戦略が必要だというのは本当にそう思いました。とりわけ慰安婦問題はこのまま放って置くわけにはいかないはずです。ウソで抑えられてきた積年の思いをぶつけるべきでしょう。 江崎 日本人にとって靖国神社に参拝するということは、引き続きアジア太平洋の平和と安全に日本は責任をとる覚悟がある、ということです。そうした国家意思に裏打ちされた具体的な対外戦略をぶつけるとアメリカも初めて、「ああ、日本の言い分聞かなきゃ」と思うんですよ。 西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『GHQ焚書図書開封1~9』(徳間書店)など多数。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第十回「人生論集」まで配本)。 宮崎正弘氏 昭和21(1946)年、金沢生まれ。早稲田大学英文科中退。日本学生新聞編集長などを経て、昭和57年、『もう一つの資源戦争』(講談社)で論壇へ。中国ウオッチャーとして活躍。著書に『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』(徳間書店)など多数。近著は『吉田松陰が復活する!』(並木書房)。 江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。日本会議専任研究員、国会議員政策スタッフなどを経て現在、評論家。著書に『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾――迫り来る反日包囲網の正体を暴く』(展転社)、共著に『世界がさばく東京裁判』(明成社)など。

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    日本の力

    ある年の12月8日、言語社会学者で慶大名誉教授の鈴木孝夫さんが「今日は日本にとって大事な日だが、何だと思うか」と学生に問うたところ「ジョン・レノンが死んだ日」と約半数が答えた…。戦後も数えて70年、昭和も遠くなりにけり…。

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    世界の人々が惹かれる「日本の心」

    呉 善花(評論家、拓殖大学教授) 夢のような国 江戸時代末期から明治初期にかけて、その当時来日した西洋人による日本の情勢、風景、人間模様などの見聞を記した書物がたくさん書かれている。それらに共通して見られ、私にとって最も興味深いところは、日本人には当たり前のことにずいぶんと驚き、また感心して思いを深めている描写である。日本人には当たり前のことだから、それらの大部分は、日本人自身の手になる書物にはまず書かれていないこと、書かれていても、いかにもそっけなく簡単にしか触れられていないことである。 ラフカディオ・ハーンは、警察官が殺人犯の了解をとって被害者の妻が背負う幼子に引き合わせ、「お前も人の子だろう……」というや犯人が大粒の涙を流しながら幼子にわびる場面を描写している。 エドワード・モースは、旅館で財布と時計を預けた際に、仲居さんがお盆の上に乗せて部屋の畳に置いただけなので、あきれながらも不安で仕方がなかったが、それから1週間ほど他へ出かけて戻ってみると、時計と財布がそのままあったことに心から驚いたと書いている。 イザベラ・バードは、蒸し暑い夏の宿場の休息所(駅舎)で、おかみさんが団扇で何時間もずっと扇ぎ続けてくれるので、チップを渡そうとしたところ「そんなものを貰うのはとても恥ずかしいことだ」と拒否されたと記している。いずれも明治時代初期の頃のことである。 当時の日本人は、彼らがなぜそんなことに驚いたり感心したりするのか、わけがわからなかったに違いない。でも西洋人たちは、そこに「日本の心」を見出していた。現代日本にやってきた私は東洋人だし、彼らとは百数十年も時代を隔てているのに、よく似た体験を通して、はっと「日本の心」を見出したかのような感覚になるときがたびたびある。 かつての西洋人や私のような外国人が発見したと思えている「日本の心」と、日本人自身が感じている「日本の心」とには、ある種のズレがある。それは当然のことで、外国人は外側から眺め、日本人は内側から眺めているからである。 それら、外側からの日本見聞記を素材にしながら、幕末・明治初期の「日本の心」を鮮やかに描き出した素敵な本がある。渡辺京二氏の『逝きし世の面影 日本近代素描 I 』(葦書房/平凡社)である。この本によって私は、「素朴で絵のように美しい国」(ウェストン)、「ほっそりと優美な乙女と妖精の住む、こわれやすい小さな驚異の国」(チェンバレン)などの西洋人たちの感銘のことばが、単なる異国趣味による賛辞などではなく、心から日本を「夢のような国」と感じてのものだったことが、はっきりと信じられた。 この本に紹介されているさまざまな外側からの目に触れて、私があらためて感じたことは、彼らが一様に自然や田園の風景と人々の生活風俗のうちに、「日本の心」の美しさを見ていることである。そして、その親和感に満ちた調和的な社会に、強烈な羨望のまなざしを向けていることである。私とまったく同じではないかと思った。 しかし渡辺氏は、「夢のような国」はすでに滅び、けっして呼び戻すことのできない「逝きし(死んでしまった)世の面影」なのだと述べている。とすると、私が現在見ている「日本の心」は、百数十年前の「日本の心」の断片的な残存にすぎないのだろうか。 「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」(モース)と今断言できるかといえば、たしかにできない。「日本人は生得正直である」(モース)といえないのも、たしかだ。先の見えない不透明な時間のなかで、倫理が得体知れずの大変化をとげつつあることはまちがいない。 渡辺氏が論じたように、かつて世界に類例のない「夢のような国」が、一個の文明を堂々と形づくってこの日本列島に実在していたことは疑いようもない。そして近代以降の巨大な文明史の発展のなかで、人間の内面的な精神史が日本を含めて衰退と廃退の一途をたどってきたことも私は疑わない。渡辺氏が示したのも、そのことである。 そうではあるけれど、世界的な観点から眺めれば、日本が今なお「夢のような国」の様相を失っていないのは、私にはたしかなことに感じられる。私に限らず、実は多くの外国人が本音では同じように感じているはずなのだ。 いったい現代日本のどこに「夢のような国」の姿が見られるというのか、といわれるかもしれない。かつてと同じように、日本人には当たり前のことだから、ことさら夢のようとは感じられていないだろう。また世間の関心はもっぱら政治や社会の暗黒面に向けられるから、なおさらのことだ。幕末から明治にかけての日本にも暗黒面がなかったわけではない。だが当時の西洋人たちは、そこにはほとんど関心を払うことなく、「夢のような国」にばかり注目したのである。それはなぜだったのか。 当時の西洋人にとって、暗黒面なら自分たちにいくらでももち合わせはあるが、かの「夢のような国」ばかりは、驚嘆のうちに引き寄せられていくほかないものだったからである。私も同じようにして現代の日本に惹かれてきた。 私は本書『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』で、百数十年前の西洋人が外から見た日本と、現在の私が外から見ている日本とを行ったり来たりしながら、現代日本は何を保存してきたのか、何を捨ててきたのかを、できる限り見極めてみたいと思う。 モースは時計と財布を頂けて旅館に戻ったときのことを、次のように記している。 「帰ってみると、時計はいうに及ばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に乗っていた」 モースによれば、欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったそうである。 この通りのことは、今の日本にも今の西洋にもない。しかし、それを「日本の心」として見れば、同じことが現代日本のいたるところに見られる。また同じような盗難防止の習慣が現代西洋にも見られる。その点では、当時も今もいっこうに変わりはないのである。そういうことを示していってみたい。 またモースの、日本の子どもたちの孝行や尊敬の念への称賛は、次の文章のなかで発せられている。 「この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蝿く愚図愚図いわれることもない。日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。爾の父と母とを尊敬せよ(中略)これは日本人に深く浸み込んだ特性である」 日本人の孝行や尊敬が、なぜどのようにして「深くしみ込んだ」特性となっていたのかが、ここでは明瞭に物語られている。そういうことも考えていってみたい。(『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』より)関連記事■ この震災で、「日本人の宝」が見えてきた!■ 日本の歴史と伝統を大事に/松下幸之助■ ドナルド・キーン 私が日本人になった理由■ 竹田恒泰 日本人はいつ日本が好きになったのか■ [世界遺産・富士山の伝説] あなたは知っていますか?

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    「日本の価値」発信の海外拠点を

    森本敏(拓殖大学特任教授) 昭和16年、東京都出身。防衛大学校卒業後、航空自衛隊を経て外務省安全保障課に出向。外務省入省後、情報調査局安全保障政策室長などを歴任。拓殖大海外事情研究所長や初代の防衛相補佐官などを務め、平成24年6月に野田佳彦政権下で民間人初の防衛相(11代)に就任。 米国の大学寮にいた頃、日本人の寮生は皆、寡黙だった。ところが、高校から米国留学していた日本人で、ほとんど意味のないことをぺらぺらとしゃべりまくる学生がいて、日本人仲間は「口先おとこ」「巧言令色鮮(すくな)し仁」とバカにしていたが、米国学生の中では妙に人気があった。米国人と通じるものがあったのかもしれない。 日本には「沈黙は金なり」ということわざがあるが、米国人は「黙っているのは頭の中に何もないからだ」という。これを文化や価値観の違いと片づけるわけにはいかない。嘘でも3回以上同じことを聞くと本当かもしれないと思うようになるのは人の常である。「鼻につく」近隣諸国の嘘宣伝 最近、国際社会で日本の発信力の少なさが国益を損なっているとつくづく思う。尖閣問題、慰安婦問題、靖国問題、南京事件、どれをとっても近隣諸国はほとんど根拠のない論理を世界に広めている。日本人には「いずれは真実がわかる日が来る」などと無視するきらいがあるが、その間に国際社会で嘘が真実として通用する日が来る。いや、もう来ているのかもしれない。 日本人の独り善がりの価値観はもはや、世界で通用しないのである。われわれは真実を謙虚な形でどんどんと対外発信する必要がある。遅れたけれど今からでも間に合う。かすかな救いは、最近、日本人の控えめな人柄の良さ、誠実さ、謙虚さがアジアをはじめ世界中で好感を以(もっ)て見られ始めていることである。 これには近隣諸国の嘘宣伝や傲慢(ごうまん)さが鼻につくようになったこともあろう。今年の夏に行われた米国の世論調査によれば米国人の対日信頼度は極めて高く、アジアにおける米国の最も重要なパートナーは「日本」と答える人が1位になり「中国」と答える人より多かった。過去4年は中国が1位であったのが今年になって逆転したのである。世界に広がる中国の三戦米ジョージ・メイソン大学のキャンパスにある孔子像 しかし、これに油断することは禁物である。中国が10年前に始めた孔子学院は今や海外で1千校以上になり、海外留学生も70万人(日本人は3万人)を超え、中国の三戦(世論戦・法律戦・心理戦)は世界中に広がっている。韓国も同様で、海外韓国人社会を動員して宣伝戦に専念しており、慰安婦像が米国だけでなく世界中に広がる恐れもある。 日本はこんなまねをする必要は全くないが、日本の正しい本当の姿、魅力を世界にもっと発信しなければならない。東京オリンピックに来た外国人が日本の社会を見て「こんな国になりたい」「こんな国に住みたい」と思ってもらうような環境を準備することは、これからの大きな課題である。 その前に、まず、やるべきことは日本を外国に発信する戦略拠点を設けることである。世界の主要都市に日本の伝統、文化、日本食、芸術、学術、先端技術、武術、ファッション、商品などを知って、日本を肌で感じてもらう場所を作ろうではないか。そこに行くと日本の香りと魅力を知ることのできるジャパンハウスをいくつかの主要都市に設置して、首相直轄の政策広報拠点とすべきである。 そこにはいつも日本と日本人の良さを感じることのできる催しや実演、講演、日本料理、アニメ、映画、工芸、写真、ファッションなどがあり、日本をふんだんに満喫できる空間を作ることである。政策広報予算の検証を その経営は現地の知日派・親日派に任せるというのも良い発想である。今や125万人を超える海外在留日本人や6万以上の拠点を持つ日本企業にも協力してほしい。この2年で50カ国を訪問している首相をはじめ閣僚や著名人や財界人には、その拠点に必ず立ち寄って、日本の対外広報に貢献してほしい。海外に旅行や出張する日本人も必ず立ち寄ってみたいと思うような場所にしておくべきである。 要するに日本を世界に発信する戦略拠点を作り、日本が全体となって日本人の「おもてなし」の神髄を世界に発信しよう。まず、そのためのコンセプトを作り、具体策を発展させようではないか。 もう1つは、この際、日本の海外発信をするための基本的戦略を官民財を挙げて早急に作り上げ、十分な政策広報予算を充当することである。この点だけは近隣諸国を見習う必要がある。 すでに米国のシンクタンクには政策広報予算が相当流れているが、これも有効に使われているか検証する必要がある。今日、いかなる社会・国家でも最も重視される資質とは説明能力である。 米国人のすごさは、それを小学生の時から鍛錬しているところにある。プレゼンテーションの能力が個人の能力の決め手になるからである。意味のないことを話す必要はないが、必要なことはしっかりと世界に発信できる人材の育成にもっと力を入れるべきである。 ジャパンハウスの広がりがそれを増進できれば、日本の国力はさらに充実すること間違いない。関連記事■ 政治的過激主義としての韓国の反日主義■ ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは

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    戦後70年 落ち着いて歴史を語れる国に

    近いものに聞こえたのも戦後教育の成果だろうか。 日本の戦争についてはさまざまなとらえ方があるだろう。戦後70年の今年は、日清戦争戦勝120年、日露戦争戦勝110年の節目でもある。第1回バンドン会議の各国代表たちのような、戦後日本の「常識」とはいささか違う歴史の見方が、日本の近現代史のさまざまな出来事に対してできるのではないだろうか。 このような取り組みに「歴史修正主義」とのレッテルを貼って排斥するとしたら、知的な態度とはとても言えない。一方的な日本断罪が、思い込みに基づくひどい過ちでありえることは、朝日新聞などの慰安婦問題の虚報をみればわかるはずである。 歴史は多面的に見るよう努めたい。そうすれば、落ち着いた気持ちで歴史を語り、理不尽な非難に史実をもって反論することもできる。未来にも目を向けられる。今年はその良いチャンスである。※産経新聞 平成27年1月3日付朝刊掲載の原稿に加筆しました。関連記事■ 国際平和の視点が足りぬ独立論―スコットランドと沖縄■ 戦後レジームに風穴開けた靖国参拝■ 戦争犯罪と歴史認識

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    内も外もよく知る「二本」人たれ  

    平川祐弘(比較文化史家、東京大学名誉教授)  元朝日新聞論説主幹の松山幸雄氏が随筆集『国際派一代』で「基本的に日本がいかに素晴らしい国であるか」を自覚せよと説いた。外国人は日本に滞在すると殆(ほとん)ど誰もが「穏やかな社会」を褒め「治安の良さ」をいい「サービスのすばらしさ」「ストの少なさ」「他者への気配り」「交通機関の時間表厳守」をあげるという。「愛国殉国」裏返しの戦後 なんの事(こと)はない、姪(めい)の日本語教師の外国人生徒たちの第一印象とそっくりだ。「来日外国人の日本認識の作文を集めて本にしたら」と姪に忠告したら「そんな当たり前の事を綴(つづ)るだけでは売れない。朝日記者の特色は日本の欠点を論(あげつら)うこと」と生意気を言う。 それはまあそうだが、姪が名をあげたのが「百人斬り」の本多勝一記者だったから、いくらなんでもそれでは地道に働く報道人に気の毒な気がして「戦後の本多流の刺激的な日本軍残酷物語は戦争中の悲愴(ひそう)な愛国殉国物語の裏返しにすぎない」とたしなめた。 が、日本を悪く言いたい記者がいるのも事実らしい。日本軍の大陸「侵略」を「進出」と歴史教科書が改訂したとの誤報に端を発して、中韓が反日宣伝攻勢に転じたのは知る人ぞ知る。誤報を素直に訂正しないのが良くない。 森喜朗氏は「日本は神の国」といって揚げ足をとられた。日本が神道の国であるのは歴史的事実だ。森首相発言を Japan is the country of Shinto gods と訳せば問題はなかった。Japan is a divine country と訳すから内外で右傾化と騒がれる。麻生太郎氏の揚げ足を取った人は得意だろうが、発言を歪(ゆが)めて報じ世界の嫌日派に媚(こ)びるのはいかがなものか。 こうなると良く言うも悪く言うも記者の筆先次第だ。「日本の良い点をもっと自覚しろ」と唱えれば、「日本の悪い点ももっと認識しろ」と言う人も出る。へそ曲がりの私も同調する。「日本人は東大法学部など最高学府だと思っているが、講義本位の授業はよくない。法学部志望生は理工系ほど頭がよくないが、クラス会に出てみると法学士の方が出世している。良くない」。こう有り体に言えば松山法学士も世間も妙な顔をするに違いない。だがこれは、私が長年文系理系の学生を東大駒場で教えた経験に即して述べたので、遺憾ながら事実だ。困った事だ。日本の欠点を論う心理とは 日本の欠点を論う心理も考えたい。漱石も明治34年、ロンドンに着くや自分はダメと思い込んだ。「我々(われわれ)はポツトデの田舎者のアンポンタンの山家猿(やまがざる)のチンチクリンの土氣色の不可思議ナ人間デアルカラ西洋人から馬鹿(ばか)にされるは尤(もっと)もだ」。光太郎も「魂をぬかれた様(よう)にぽかんとして、自分を知らない日本人」と卑下してみせた。 自信喪失は敗戦で悪化し、日本の負けに乗じて外国礼賛がはやり出した。かつて『リテレール』という仏文系の雑誌が「日本人どこがダメか」という特集を組んだ。日本はダメ、とはよそにダメでない国があると思うから生じる判断で、事実、アンケートに答えた識者の多くは、同じ日本人でも西洋を学んだ自分だけはダメでないと思うからこそ口に出せる類いの日本人批判の回答を寄せていた。 文化面ではそんなフランス礼賛が長く続いたが、政治面ではソ連や中国など社会主義礼賛が盛んだった。昭和29年、森恭三朝日欧州総局長は共産圏を謳歌(おうか)し、ニューヨークの最高級住宅でも裏側はレンガがむき出しだが、東ベルリンのスターリン大通りでは裏側まで化粧レンガが張ってあり、これは「ここで遊ぶ子供たちが、うわべだけを飾る人間にならないように、という心遣い」からだと書いた。いやはや恐れ入った。内向け国際派スタイリスト 外国語が多少読めて外国に傾倒するだけが能の特派員や学者先生の色眼鏡には困ったものだ。また外国語で反論できない程度の言語能力だと本国人に位負けする。日本古典を知らず日本人であることに自信が持てない人は、外国語が達者でも、日本人のアイデンティティーに欠ける。外国のこともよく知る「二本足の人」が日本には必要だ。それというのも、自国しか知らない保守派の日本礼賛はお国自慢でしかないからだ。 私は「戦後の仕切り直し」に賛成だ。しかしそれが単なる「戦前への復帰」であっては困る。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」という『五箇条の御誓文』を、日本の大憲章(マグナ・カルタ)として尊重する私だが、『教育勅語(ちょくご)』の国体観の強がりには無理を感じる。井上毅流の一国主義的愛国主義を私はとらない。 世界の中の日本をきちんと見据えての自由主義諸国との同盟強化が肝心だ。相手を知り己を知り、外国語で説得力をもって日本を語る能力が求められる。米大手紙が日本について論評するが、その日本知識や判断は正確か。外国語で著述し、偉そうなことを言う相手を論破してこそ大物日本人記者といえるだろう。今のところ日本のインターナショナリストは学者も記者も、概(おおむ)ね国内向け国際派スタイリストでしかないようだ。関連記事■ 忘れてはいけない歴史、知らねばならぬ国の姿■ 駐日40年のサンマリノ大使が語る「靖国の心」■ 日本人の「社会の心」はどこへ

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    あのニッポンの輝きは失せたのか

    巨人の背番号「3」が打席に入れば、いつも心が躍った―。巨人V9時代の中心選手だった長嶋茂雄が、プロ野球界でひと際輝きを放っていたころ、日本も同じように輝いていた。あれから40年。ニッポンの輝きはもう失せてしまったのか。

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    戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件」

    のが、95年だった。平和で豊かな国ではない現実を突きつけられた年だったといっていいだろう。 しかし、戦後70年を迎えるいま、防災立国をめざすでもなく、テロ防止が万全といえる状態ではない。その一方で、特定秘密保護法は一般市民やメディアまでも巻き込むことも可能な危うさを孕み、集団的自衛権の憲法解釈容認は時の政権によって大きく舵取りが変わる危険性を持っている。あの20年前のこの国の姿を思い出すと、違う国づくりの必要性が改めて浮かび上がってくるように思えてならない。

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    ドリフが「ひょうきん族」に負けた日

    ■テレビが「芸」を殺した  テレビの午後7時から11時までのプライムタイムの視聴率1%は、関東地区で40万人、関西なら16万人、全国では117万人の視聴者に換算されるという。  この時間帯のお笑い番組は、15%の視聴率を稼ぐと「合格ライン」とされる。単純計算すれば1755万人の視線を画面に向けさせたことになるが、振り返ってみると、新聞や雑誌を含む活字メディアで、これほど影響力のある媒体がどれだけあるだろうか。  在京キー局の番組プロデューサーは言う。「劇場で300人を笑わせるのと、1755万人を笑わせるのは、同じ『お笑い』でありながら次元が全く異なる。だからこそ、テレビでウケるには、その違いを理解していなければなりません」  舞台に立つ芸人たちは、客席の温度をリアルに肌で感じ、「空気」を読み取ることができる。だが、テレビの場合、視聴者の笑い声が返ってこない。しかも、番組がおもしろくないと感じれば、さっさとチャンネルを変えられ、画面の向こう側にある空気は読めない。ただ、唯一の反応があるとすれば、後日発表される視聴率だけである。  かつて「花王名人劇場」(関西テレビ系)などを手掛け、漫才ブームの火付け役となったテレビプロデューサー、澤田隆治は言う。  「テレビが求める笑いとは分かりやすさ。そこに『芸』なんか求めていません」フジテレビ「オレたちひょうきん族」のざんげ室シーン。左から横澤彪、ビートたけし、明石家さんま。ザンゲするのは日枝久編成局長(当時)=1986年2月  漫才ブームの渦中だった昭和56年、テレビのお笑いを根本から変えたと言われるフジテレビ系の大ヒット番組「オレたちひょうきん族」がスタートした。  ブームで名を売ったビートたけしや島田紳助らがそのまま横滑りする形で出演した番組のコンセプトは、アドリブを重視した即興的な笑い。それは当時、いかりや長介率いるザ・ドリフターズの看板番組として、圧倒的人気を誇った「8時だヨ!全員集合」(TBS系)へのあからさまな「挑戦」だった。  当時の「ひょうきん族」プロデューサー、横澤彪(たけし)=故人=は生前、次のように語っている。  「僕が特に気を配ったのは、漫才という笑芸をどう新しく見せるかでした。言い換えれば、吉本の漫才師たちが築き上げた話芸をいかに解体し、キャラを引き立たせるかに苦心したということです」  横澤が求めたのは「芸」ではなく芸人の「キャラクター」。入念なリハーサルを繰り返し、お決まりのオチに向かって突き進む「ドリフ的笑い」とは一線を画した新しいスタイルを確立することで、ひょうきん族は盤石の“王者”を完全に抜き去った。  「冗長な部分、ウケてないところはどんどん編集を入れましたね。テレビは食事をしながらとか、本を読みながらとか、いつも何かを『しながら』見る媒体ですから、視聴者の耳目を引きつける演出が必要だったんです」「8時だよ!全員集合」の最終回で挨拶するザ・ドリフターズ。左から志村けん、仲本工事、いかりや長介、加藤茶、高木ブー、荒井注=1985年9月28日 共演者からネタを振られたら必要以上に大げさに切り返し、突然のハプニングにはオーバーアクションで自分をアピールする。ひょうきん族で横澤が取った手法は、その後のお笑い番組の「主流」に変わったが、一方で芸人から「芸」を奪う皮肉も招いた。  澤田は自戒を込めて言う。「芸を失った芸人は、芸人ではなくタレント。リアクションだけなら素人でもできる。僕が思うに、今の時代の最高の『リアクション芸人』は、橋下徹さんじゃないですか?」  「15分のネタを3分でやらせる」「実力よりもキャラを重視する」…。今、そうしたテレビのお笑いに対する批判は、「ベテラン」と呼ばれる芸人になればなるほど強く感じている。  ベテラン漫才コンビ、オール阪神・巨人のオール巨人は「テレビがなかったら芸人はもっとつぶれている」と前置きした上で、こうも付け加えた。  「僕らは劇場で一番頑張るし、大事にしている。でもテレビやと、漫才が編集で無残にカットされてしまう。ええ格好やなくて、ほんまお客さんに悪いと思っています。だからもう一生、テレビには出なくてもいいですね」(敬称略)※産経新聞連載「吉本興業研究」の一部を再録。関連記事■ 女子アナ内定取り消し騒動「職業差別」論を嗤う■ くっだらねー! 猿芝居にイチャモンつけるクレーマーの正体■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?

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    松井秀喜の「真実」 長嶋茂雄との師弟関係

    松井秀喜(元プロ野球選手) ―1992(平成4)年のドラフト会議で、復帰されたばかりの長嶋監督に劇的にクジを引き当てられましたね。そのことを今ではどのように感じていらっしゃいますか?あれは日本球界にとってエポックメーキングなできごとであり、運命的なドラフトでした。 一言で言ったら、やっぱり引き寄せられたというんですかね。御縁をいただいたという感じです。本当に感謝しています。そもそも僕をドラフトで指名することをいち早く決断してくださったのも、長嶋監督だったと聞いていました。 監督が「松井でいくんだ」と指名してくださり、ドラフト会議で引き当ててくださったからこそ、今の松井秀喜があるのだと思っています。僕のプロ野球人生のすべてのスタートがあのドラフトです。長嶋監督は、野球選手、松井秀喜に一番影響を与えてくれた人です。 えっ?残りクジだったんですか?当たりクジを最後に残してくださったのも、いわゆる長嶋監督の幸運を引き寄せるパワーだったのではないでしょうか。 ―1999(平成11)年の開幕後、不調に陥ったとき、長嶋監督からアドバイスがあったそうですが、それはどのようなものだったのですか? ある意味、入団からずっとアドバイスや指導をいただいていたので、この時期だから、このアドバイス…というのは特になかったような気がします。 監督の打撃指導は一貫しておられました。すべてはスイングのキレに集約されるのですが、キレの良さを出すために、ボールの見方からとらえ方まで、素振りを通して教えていただきました。ボールを打つわけでもなく、ただ黙々とバットを振る。素振りというのは、見方によっては単純なことなのかもしれません。でも僕にとってはとても充実した、大切な時間でした。監督からいただいたアドバイスは、松井秀喜の打撃をつくるうえで礎となっています。 ―2002(平成14)年にFA権を取得し、2003年(平成15)にヤンキース入りをされましたが、大リーグへの挑戦は、いつ頃、どのような思いで決めたのですか?大リーグ入りに際して、長嶋監督からはどのような言葉をかけられましたか? はっきり決意を固めたのは、日本シリーズが終った直後のことです。心の中でくすぶっていた思いが抑えきれなかった。日本一になったことで、その思いがより一層抑えにくくなったのはあったと思います。 もし長嶋監督がユニホームを着ていたら?...どのような判断ができていたかはわかりません。それは今でもわからないです。ただ、大リーグへ挑戦することが決まってからは、「とにかく頑張って来い」と声をかけてくださいました。 長嶋監督がジョー・ディマジオ選手のファンであったことはよく知られていますが、僕がセンターのポジションにコンバートされたとき、「ディマジオになれ」とおっしゃっていました。そういう意味では、ヤンキースは運命的であり、必然的だったのかもしれません。 ―2006(平成18)年5月11日の試合で骨折し、日米通算試合連続出場の記録が止まりました。そのとき、長嶋監督からどのようなアドバイスがありましたか?「リハビリはうそをつかないぞ」という内容だったと報道されていますが。 確か手術が終って、すぐに電話で話をさせていただきました。とにかく監督は「やったのはしかたない。しっかりリハビリして頑張りなさい」という言葉をかけてくださいました。 監督は僕よりも毎日、過酷なリハビリをされていたと思います。それを考えたら、自分のリハビリなんて限られた数カ月です。大変な状態でありながら、逆に僕を励ましてくださる監督には、本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。 ―ニューヨークのご自宅に、長嶋監督から届いたサイン入りの色紙が飾ってあるというのは本当ですか?それには「最後まであきらめずに頑張れ」と書いてある、という報道があります。その言葉をどう考えていらっしゃいますか? 本当です。今でも大切に飾らせていただいています。色紙の言葉にはどんなに励まされたかわかりません。色紙をいただいたのは、後半戦も中盤にさしかかっていた頃だったのですが、あの言葉に奮起し、シーズン終了まで頑張ったことを覚えています。 監督が左手で書いてくださった文字を見て、心が震えたというか、魂が揺さぶられたことを、昨日のことのように思い出します。松井秀喜(Hideki MATSUI)1974(昭和49)年石川県生まれ。星稜高校時代の4度の甲子園出場を経て、1993(平成5)年、ドラフト1位で巨人入団。日本球界屈指の強打者として活躍し、2002(平成14)年にFA権を取得。2003(平成15)年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。開幕戦で初打席初安打初打点を記録。ワールドシリーズでも本塁打を放つなど、1年目から勝負強さを発揮し、7年に渡りチームの主軸として活躍。2009(平成21)年オフにロサンゼルス・エンゼルスへ移籍。その後、オークランド・アスレチックス(2011年)、タンパベイ・レイズ(2012年)等でプレー。2012年シーズン限りで現役引退。2013年長嶋茂雄氏と同時に国民栄誉賞を受賞。(『長嶋茂雄ドリーム・トレジャーズ・ブック』(産経新聞出版)より)

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    今こそ日本人の誇りを取り戻せ

    あの敗戦から70年。GHQによる占領統治、高度経済成長、バブル経済の崩壊、そして東日本大震災…。幾度となくわが国を襲った苦難にも、日本人はそれを乗り越え、ただ前を見つめて歩んできた。戦後を彩った数々の出来事を振り返り、今こそあの輝きと誇りを取り戻そう。

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    戦争犯罪と歴史認識

    北原惇(哲学者) 「ポツダム宣言」受諾の後、日本はアメリカ主導の連合軍に占領され、戦争犯罪を犯したと見なされた人たちが軍事裁判にかけられ、その一部は処刑された。もし「戦争犯罪」なるものが客観的に判定できる人間行動であるならば、戦争犯罪を犯した人間は例外なくすべて同様に罰せられるものと考えたい。残念ながら人間は罪を犯すものであり、罪は罰せられるべきものである。 しかし現実はそうではない。東京での軍事裁判は日本側の戦争犯罪だけを取り上げ、連合国側の犯した戦争犯罪はすべて無視された。その後の世界でも中国はチベット、東トルキスタン、内モンゴルを侵略して戦争犯罪を犯し、ベトナム戦争では韓国軍が戦争犯罪を犯している。しかしこれらの戦争犯罪は国際的な裁判にはかけられず、戦争犯罪人は罰せられない。本書はこの不条理を取り上げ、戦争犯罪を伝統的な法学の立場からではなく、神経生理学、動物行動学、社会科学、心理学、精神分析などの観点から再考する可能性を提案するものである。 誤解を避けるために明記しておくが、本書はいわゆる「リビジョニスト」の類の本ではなく、日本は戦争犯罪を犯してはいない、などと主張する本でもない。人間行動が完全無欠ではないのは誰の目にも明らかであろう。したがって東京での極東国際軍事裁判が完全で公平であったとは言えないのも納得できる。本書の目的はできるだけ客観的にそして簡潔にこの裁判について再考し、その後中国と韓国が犯した戦争犯罪について考察するものである。その意味では本書は極東国際軍事裁判を全面的に肯定するわけではなく、また全面的に否定するのでもない。筆者が強調したいのは戦争犯罪は例外なく罰せられなければならない、そして裁判は公正でなければならない、という点である。 筆者は「右翼」でも「左翼」でもない。このような表現はまったく役に立たず、百害あって一利なしで、これは筆者がすでに別の著書『脱西洋の民主主義へ』などで述べているのでここでは繰り返さない。「リベラル」という表現も現在の日本で用いられている意味では筆者には当てはまらない。しかし「一寸の虫にも五分の魂」という表現があるように、筆者にも考えたり行動するための指針がある。それは「個人の尊厳を最優先にすること」である。この考えは人間の存在を生物学的現象と見なすことから始まる。生物の種であるために人間の多様性は当然の結果であり人類の生存には好ましいと仮定する。ここで多様性とは本来の生物的多様性のほかに心理的多様性、さらには文化・文明的多様性も含む。 人間という種が多様であることは進化論的に考えて好ましいかもしれないが、多様であるために意見、好み、思想、解釈の違いによる口論、対立、葛藤、戦争などがおこってしまう。その場合、自らの主張にしたがって行動するのは自由の一種で、これは古典的なリベラリズムの用語では「正の自由」と呼ばれる。しかし誰かが「正の自由」を行使すると、その行動の結果を好ましくないと感じ、これを回避したいと反応することもある。この回避したいという反応もやはり一種の自由とみなされ、これは「負の自由」と呼ばれる。「負の自由」は、いじめ、強盗、強姦、などの個人的な場合から外国に侵略されること、空襲、占領、など大規模な国際的な場合にも切実に求められる「こんな事があってはならない、これから逃れたい」という願望である。 筆者の社会哲学と政治哲学の出発点はすべての人間現象についてこの「負の自由」をできるだけ可能にするという希望である。これは単なる見解であり他人に対しなんらの強制力もない。したがってそのような考えは受け入れられない、と言われてしまえば筆者としても、ああそうですか、と言うしかない。しかし人間が多様であることを考えると、この考え方に共感していただける読者もおられるのではないかとも思える。 そしてここにこそ筆者が「右翼」にも「左翼」にも反発する理由がある。なぜならどちらの政治思想にも全体主義になる危険性があり、歴史は繰り返し繰り返しそれを示している。全体主義の現実には「右翼」や「左翼」の違いは存在しない。どちらの場合にも個人の存在は無視され、「負の自由」は蹂躙され、個人の尊厳は無視される。更につけ加えれば、いわゆる「民主主義」の国でも個人の尊厳を無視する傾向は大変明確である。政治思想の名前などどうでもよい。筆者は個人の尊厳を無視する社会や政治体制すべてに反発するのである。 この「負の自由」の必要性を具体的に、そして現実的に表現すると、人間が多様であることをいわば「天から与えられたもの」とでもして(カント式の哲学で言えばアプリオリである)すべての人間の尊厳というものを尊重し、それにもとづいた社会、文化、文明を構築するのが筆者の希望することである。以上の前口上のようなものを念頭にいれて本書を読んでいただきたい。 なお本書を書くにあたり、フェリス女学院大学の横山安由美教授が絶版になり古書としても入手不可能であった文献の取得にご尽力くださった。この貴重なご援助なしでは本書は書くことができず、ここで心から感謝の意を表したい。戦争犯罪と極東国際軍事裁判 アーミー・デーの行進 アメリカ陸軍記念日(アーミー・デー)を祝う進駐軍の都内行進が行われた =東京・日比谷付近 我々は「戦争犯罪」という表現をしばしば耳にする。法律、特に国際法に詳しくない一般の人々にとっては、これは戦争に関連して犯された犯罪行為であるという印象を受ける。法律の専門家にとっても大体同じような意味であるが、非専門家の考える概念よりは具体的に定義され、戦争をおこなう場合に交戦の規則に違反した行動が戦争犯罪であるとされている。日本で広く利用されている百科事典を見ると戦争犯罪とは戦争法規に違反する行為(世界大百科事典〔改訂版〕、平凡社、2009年、ならびに日本大百科全書〔第二版〕、小学館、1998年)であると定義されており、戦争法規とは戦争開始と終結に関する法と戦争遂行に関する法であると説明されている(ブリタニカ国際大百科事典〔第三版〕、1996年)。ここで重要なのは戦争をおこなう場合の「法規」という点である。つまり戦争をするにはルールがあり、戦争をする国にはそのようなルールを遵守する義務があるとされ、ルールを無視したりルールに違反した場合に戦争犯罪を犯したことになる。この考え方の基礎に隠れて存在しているのは、戦争そのものは犯罪ではない、という見解である。規則に違反しないかぎりいくらでも戦争をしてよい、いくら戦争をしても犯罪にはならないという理屈になる。  この「戦争犯罪」というものの定義をよく考えてみると、専門家の考える戦争というのは試合やゲームにたいへんよく似ている。野球、フットボール、テニス、柔道、ボクシング、などのスポーツ、そしてかるた、トランプ、麻雀などあらゆる種類の試合やゲームにはすべて詳細に決められた規則があり、そのような規則を遵守して初めて試合やゲームが可能になる。規則に違反した者は警告を受けたり退場させられたり、罰金を課されたり、自動的に負けになったものと見なされる。 子供のチームが野球やフットボールの試合に勝つと喜び得意になり、他の子供たちに対していばり始める。その反対に負けると悲しみ意気消沈し、時には涙をながしてくやしがる。戦勝国と敗戦国の大人たちも事実上これとまったく同じ反応を示すのも戦争と試合やゲームの類似点を示す現象と言える。 文化的に見て比較的に複雑ではない社会、以前は「未開社会」などと呼ばれた社会の間の戦争にも細かく決められた規則があり、それが事実上試合やゲームにたいへんよく似ている点は以前から文化人類学者によって指摘されている。またゲーム理論の専門家は戦争や国際間の紛争をゲーム理論の考えを用いて考察しているのも興味ある点である。戦争犯罪についての前提1と三つの仮定 専門家の考え方にしたがって、そして上記の簡単な考察から、「戦争犯罪」は戦争に関する各種の規則に違反した場合に発生するものであると定義し、これを前提1とする。前提1 戦争犯罪とは戦争の行動に関して決められている禁止事項に違反して発生した行動と定義する。具体的には敵の戦闘員を戦闘中に殺すのは戦争犯罪ではないが、同じ戦闘員が捕虜となった場合、それを殺すのは戦争犯罪となる。また非戦闘員である民間人を殺すのも戦争犯罪となる(そのような規定が明記されている場合)。この前提からさらに次の三つの仮定を導き出すことができる。これらの仮定は前提1がその存在意義を明確にするために必要である。仮定1 戦争が始まった時点で禁止についての規定が関係国すべてに明確に認識されているものとする。仮定2 戦争開始時点での禁止の規定は関係国すべての同意なしに一方的に変更、追加、ならびに削除されてはならない。仮定3 戦争犯罪は戦争に関して規定されている禁止事項に違反した場合にのみ発生するものとみなされるため、戦争行動そのものは犯罪ではない。 仮定1の意味は明白である。どのような行動をしたら戦争犯罪になるのかすべての関係者が知っておく必要がある。そうでなければ絶えず戦争犯罪を犯す危険性に直面し、どう戦争をしたらよいのかわからない。これは紙の上の議論では明白であるかもしれないが、実際に戦場にかりだされた兵士たちにとっては明確ではない可能性がある。太平洋戦争の結果BC級の戦犯として処罰された被告の中にはそのような可能性が実際に存在していたことが知られている。 仮定2の意味は、戦争をしているうちに一方が自分たちに有利になるように勝手に規則に手を加えたり、負け戦になっていると意識した側がそれを挽回するために勝手にルールを変更したり、勝つことが予測される国が戦後処理をより有利にするために勝手にルールを変更してはいけない、ということである。この典型的な例は極東国際軍事裁判の法廷で、そしてその後も繰り返し繰り返し取り上げられ議論されている「平和に対する罪」である。これを事後法、つまり罰するために問題の行動がおこった後で決めた法であるとする多くの専門家の強力な意見がある。この「平和に対する罪」で起訴されたのはA級戦犯であった。しかし「平和に対する罪」を事後法と見なせばA級の戦争犯罪はありえず、この罪状によって起訴され処刑された被告たちは実際には国際法に反する不当な処罰をされたことになる。 仮定3は「戦争犯罪」の定義から導き出される、考えようによっては最も非人道的で危険な仮定である。国際間の規定に従っていれば、つまり規定に違反しない限り、何をどう実行しても罰せられることはない、という論理的な結論である。これは驚くべき指針であり、事実極東国際軍事裁判で日本側の弁護人の一人であったアメリカ人のベン・ブルース・ブレークニーが1946年5月14日の法廷で戦争は犯罪ではないと強力に主張した。この件に関してはのちほど第3章で詳しく述べることにする。戦争犯罪についての前提2 前提1と共に考えられる前提として前提2の必要性が考えられる。 前提2 戦争に関しての禁止事項は戦争に関わるすべての国、文化、そして文明圏に理解でき、明確に解釈でき、納得できるものでなければならない。 この前提の意味は交戦国の間の禁止事項についての同意の問題である。2つのよく似た国の間の戦争ではどのような行動が禁止されるべきで、どのような行動なら容認されるべきであるかは問題にならないかもしれない。しかし同じ西洋文明圏の中でもかなりの相違がある2つの国の場合、例えば第二次世界大戦中のフランスとナチスのドイツの場合、この問題は明確に認識されてしまう。 そして厳密に考えればこれは禁止事項を批准した国についてのみに有効であるとさえ主張することもできる。別の可能性としてある禁止事項を自然法にもとづくものとし、批准なしでも普遍的に適用されてよいと主張できるかもしれない。自然法というのは国や文化・文明の違いに関係なく、人類に普遍的にそして恒久的に存在している法というものがあるという考え方である。しかしこれは国々が自然法を受け入れているという前提があって初めて論理的に可能であり、すべての国が自然法を認めているわけではない。東京での裁判の場合、「平和に対する罪」などはこれがあたかも自然法であり、これが事後法であるかどうかなどという問題には無関係に日本の被告に適用されるものとしていた。 ここで注意すべき点は、自然法の考えにしたがわない場合、一つの国でも歴史上の時点によって極度に変化してしまう可能性もあることである。ドイツの例を見ればわかるとおり、ナチス台頭以前のドイツ、更にはそれ以前、ドイツが統一された国として国際的に承認された時点のドイツでは、フランスは優れた国、先進国、多くの点で見習うべき国と見なされていた。ナチス支配下のドイツではそれが抜本的に変化し、ドイツは最も優秀な人種の国であるからフランスを侵略して支配するのは当然であるとされた。そしてナチス崩壊後のドイツ、ヨーロッパ連合形成後のドイツではナチスを礼賛したり、ナチスの敬礼をすれば法的に罰せられる。一つの国が時代によって変化するのは特にめずらしくはないが、これは極端な例である。 これが異なる文明圏の間の戦争、例えば西洋文明圏とイスラム文明圏の間の戦争であれば、どちらの側にとっても明確に理解し、納得できる禁止事項を相互に承認し遵守する可能性は少なくなりうる。この問題を別の角度から見ると、このような条件の下で禁止事項を決定する場合、その内容はいづれかの文明圏の価値観の影響を受けたものになり、それを事実上他の文明圏に強制することとも見なされる。近代と現代の世界では軍事的・経済的に西洋文明が圧倒的な支配をし、その結果西洋文明の価値観が世界を支配してしまう。したがって戦争犯罪の概念も西洋文明の価値観を反映したものになってしまう。  例えば極東国際軍事裁判(以下慣例にしたがってこれを東京裁判と呼ぶことにする)ではアメリカが主導権を握っていた検察側は連合国側を「文明国」とし、日本を野蛮な好戦的な国であると非難し続けた。1946年6月4日の東京裁判の冒頭陳述でキーナン首席検事は「被告らは文明に対し宣戦を布告した」と述べている。 この発言の基礎にあるものは連合国各国だけが文明をもった優れた国々であり、日本には文明がなかったという考えである。しかし戦争を仕掛けたからといってそれが文明国ではないという証明にはならない。16世紀以来、世界を侵略し植民地化した西洋各国には文明がなかったのであろうか。この問題はむしろ世界の異なった文明間の争いと見るのがより現実的な解釈なのではないだろうか。 この文明圏の違いから生ずる問題は1948年3月3日の東京裁判においての日本側の最終弁論で鵜沢総明日本側弁護人団長によって述べられている。鵜沢弁護人は古代日本には平和文化が存在していた、日本は鎖国時代には島国の平和な民族であった、しかし欧米諸国の勧誘と圧力によって開国した、世界の独立国と認められてからも軍縮会議に積極的に参加した、しかし世界の大勢から島国に押し込まれる拘束となった、と主張した。 鵜沢弁護人はさらに次のように陳述をしている。侵略戦争であるかどうかの問題は戦勝国が戦敗国に対して決定するのは一方的である、対立した国々の間で意見が一致せず、異なった主張がなされ、その結果戦争になる場合もある、司法の正義からすると戦勝国も戦敗国も共に被告として審判されるべきである、としている。これらの議論を支えるために鵜沢弁護人は東洋と西洋の数多くの思想家の考えを引用している。戦争犯罪の問題点 以上のごく簡単な「戦争犯罪」という概念の考察から明らかになるように、ここには重大な問題になる要素がいくつか含まれている。戦争には二つまたはそれ以上の国が関与する。内戦の場合には2つまたはそれ以上の対立する勢力が存在することから始まる。これらの相対する勢力の間で戦争開始の時点で一体どれだけ「戦争犯罪」について合意ができているのか大いに疑問がある。 前提1は常識としては存在しているかもしれない。しかしこれがその時点での国際法で明確に規定されているとは限らない。これは仮定1が言及している事項で第二章以後で順次取り上げてゆく問題である。事後法が指摘されたという問題を考えると仮定2も現実には遵守されてはいないと議論できる。仮定3はこれまであまり考えられていなかった問題であり、今後法の専門家に熟考していただきたい点である。 前提2は異なった文化・文明の間の争いでは最も重大な問題であり、これは東京裁判で明確に存在した。ここでは西洋文明の考え方が裁判の基礎にあり、しかも裁判そのものは英米法の考えにしたがって行われた。国際法と呼ばれる法そのものが西洋文明の産物である事実を考えるとこれを日本というまったく異なった文化・文明の国に適用することができるのかという議論も可能である。  ここで得られる暫定的な結論は、「戦争犯罪」という考えそのものは完全無欠であるどころか、今後解決しなければならない大事な問題を含んでいることである。にもかかわらず、東京裁判では「戦争犯罪」があたかも明確にそして客観的に定義されていた犯罪のように見なされていたのであった。筆者の主張する「個人の尊厳を最優先にする」思想から考えれば、戦争という悪はできるだけ回避されるべきで、戦争に関連して発生したある種の行動を犯罪と見なし、それに伴う罰則は存在すべきである。しかしそこにいたるまでの定義と仮定は明確でなければならない。「歴史認識」とは 東京裁判に関連して「歴史認識」という表現が東アジアの近代・現代史を語る場合にしばしば用いられる。これは通常「正しい」という形容詞がその前に付加され、「正しい歴史認識」などという表現がマス・メディアに現われる。そしてこの表現は他の東アジアの国々、特に韓国が盛んに用いている。この場合韓国の言及する「正しい歴史認識」とは日韓併合以来の日本が韓国に対して行った支配すべてを悪事として日本側が正式に認めることとされている。この問題は「歴史認識」と「正しい」という二つの表現を別々に考察する必要がある。 「歴史認識」という表現も更に2つに分け、「歴史」と「認識」と別々に考察するべきである。歴史とは過去におこった出来事であるが、現在過去を問わず世の中でおこる出来事は星の数ほどあり、それをすべて記録することは不可能である。また記録された出来事のすべてが歴史上の後の時点で人々の知識として知られているとは限らない。一人の人間が知りうる知識は極度に限られており、極端に言えばそれは無に等しい。それでも個人Aの知識は個人Bの知識とは全く同じではない可能性があるので国や社会のように多くの人間の集団ともなれば集団としてはある程度の知識の蓄積も不可能ではない。 このように極度に限られた人間の知識が何らの制限なしにまったく自由に流通するのであれば歴史の認識もある程度可能かもしれない。しかしそれにははるかに程遠いのが現実である。その理由は数々の選択または排除のメカニズムの存在である。 どこかに知識が蓄積されていればそれは情報源となりうる。しかしこの知識が社会なり国なりの中で伝達されなければ知識である意味がない。それでは知識が存在しないのと同じである。そして知識の伝達が何らかの形で意図的に操作されている場合には歴史が「正しく」認識されるどころか、全く認識されないことになる。これは全体主義の国では明らかな問題であるが、「自由な」国でも存在する。上部からの政治的な圧力があったり、報道関係者が自主的に判断したり、ロビー活動などをする圧力団体に脅迫されたり、商業放送の場合スポンサーの顔色をうかがったりした結果知識の伝達が阻止されてしまうことにもなる。 しかも国際関係や国内政治に関わる事項は政治思想に左右されてしまう危険性が大いにある。政治思想が知識の蓄積とその自由な伝達を妨害するのでは「正しい歴史認識」などは不可能である。いわば人間の常として他人の悪事を指摘し非難するのは容易であるが、自分自身の悪事は自ら任意に公表することはしない。 自身の醜い過去は通常隠しておいたほうが得策であるのでそのように振舞うのが人間である。この点に関しては国でもまったく同じである。このような一般論ではこの問題は理解しにくいかもしれないが、本書で後に述べられる明らかに戦争犯罪である中国のチベット、東トルキスタン、内モンゴルの侵略と民間人の虐待と虐殺、ベトナム戦争でアメリカに次ぐ多くの兵士を送り込んだ韓国軍のベトナムでの民間人の虐待と虐殺などの例によってより理解しやすくなるものと信ずる。東京裁判にいたるまで米戦艦「ミズーリ」甲板上で降伏文書調印(ポツダム宣言受諾) 署名する重光葵外相 アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、そして中華民国の蒋介石総統の3人がベルリン郊外のポツダムで1945年7月26日に会談をおこない、その結果を連名の文書として発表した。これがいわゆる「ポツダム宣言」である。この文書は13項目からなり、その目的は日本に対し降伏の最終条件を提示し、日本に降伏することを迫ったものであった。ここで注目すべき点はこの宣言は米英中の3国のものでソ連は参加していないことである。日独伊の3国同盟のうち、イタリアはすでに早期に降伏して脱落し、ドイツも1945年5月7日に降伏し、残るは日本だけになっていた。 ポツダム宣言をただちに受け入れなかった日本はその後2つの原子爆弾の攻撃を受け、8月14日に昭和天皇と日本の首脳部よりなる「御前会議」の結果ポツダム宣言を受諾することとなった。これは直ちに中立国であったスイスとスウェーデンの日本公使館を通じて連合国側に通達され、同日8月14日にアメリカのトルーマン大統領が日本の降伏を公式に発表したのであった。 その後9月2日に東京湾に停泊したアメリカの戦艦ミズーリ号の上で日本政府を代表した重光葵外務大臣その他の降伏文書署名によって国際法上でも降伏が正式なものとなった。 その後間髪を入れずにアメリカ主導の形で日本の占領が始まり、日本を根本的に改革して欧米式の民主主義の国にするという占領政策が強制されることになった。占領軍にとって、これらの徹底的な日本改革に必要なことはそれまでの日本を支配した体系をすべて破壊し、その責任者と見なされた者すべてを犯罪者とし処罰することであった。東京裁判はこの考えにもとづいて実行されたのである。したがってその根底に存在していた方針は連合国側の観点から見て好ましくない点、気に入らない点をすべて取り上げ、逆に日本側にとって有利な事実はすべて無視するという裁判なのであった。敗戦と占領という非常事態の場合、このような結果になるのはいわば当然とも言えるが、客観的、そして歴史的な観点からは注目し熟考すべき点である。東京裁判の特徴 この裁判を実行するにあたり、連合国側には明確な考えが存在していた。それは仮定と言ってもよいし、仮説と言ってもよいが、むしろ一番現実に近い表現はドグマであろう。その内容は、第二次世界大戦というものは民主主義を信条とする文明国の国々と、これに反対し、世界を侵略しようとした全体主義国家の集団との戦いであった、というものである。これを更に別の形で表現すると、ナチスのドイツもファッシズムのイタリアも軍国主義の日本もすべて同一の侵略思想にもとづいて侵略戦争をし、世界の平和に対する罪を犯した、というものである。 これはすべてを善と悪、白と黒に二分してしまう西欧文明やキリスト教の教えに従ったものであるかも知れないが、ドイツ、イタリア、日本にはそれぞれ独自の歴史があり、それぞれ独自の事情があり、それぞれの国の地政学的な問題の大きな違いをすべて無視した、あまりにも幼児的な解釈であったと言える。しかしその反面、このような観点からの裁判であれば物事がすべて簡単にすんでしまうという利点もあった。 歴史の現実はこれよりはるかに複雑であった。日本がドイツと共謀していたという非難にもかかわらず、日本もドイツもお互いに裏切られたという衝撃を受けたことが多々あった。例えば張鼓峰事件と2回にわたるノモンハン事件でソ連と軍事的に戦火を交えていた日本は、1939年8月23日にドイツがソ連と独ソ不侵略条約を締結した際衝撃を受け、その結果平沼内閣は退陣に追い込まれた。この事実は日本側の弁護人の1人、カニンガム弁護人によって1947年6月12日の法廷で述べられている。またドイツはアメリカが参戦することは大きな危険であるのでそれは是非とも回避したいとしていたが、日本が真珠湾を攻撃してアメリカを参戦させてしまったことに驚き、衝撃を受けている。 日本の終戦に至るまでの指導者たち、そして特に戦争犯罪人と見なされ裁判にかけられた人々の間でさえ、法廷に出てきて初めて会った、などという場合があり、これではとても共謀していたとは言えない。日本の指導者たちは一枚岩ではなかったのである。ローガン弁護人は1947年2月25日の法廷で被告の間に共同謀議はなかったと主張し、それを五項目に分けて弁論した。例えば陸軍と海軍、外交官と陸海軍は対立し、内閣はしばしば分裂し、議会は政府の政策ならびに軍部の勢力から独立し、文官と軍部ははげしく衝突した、したがって共同謀議は不可能であった、と述べている。ニュールンベルグ裁判の繰り返し 以上の歴史的事実にもかかわらず、日本はドイツならびにイタリアと共謀したとの考えにもとづいて東京裁判が実行された。その結果この裁判の条例はニュールンベルグですでに始まっていたドイツでの軍事裁判、いわゆるニュールンベルグ裁判での条例をほとんどそのまま丸写しにしたものであった。どちらの条例にもA(平和に対する罪)、B(戦争犯罪)、C(人道に対する罪)の3種類の犯罪が定義されており、書かれている内容は事実上同じである。これらの定義によりA級、B級、C級の3種類の戦争犯罪人が指定されたわけであるが、「平和に対する罪」とは共同謀議によって侵略戦争をおこなった罪、「戦争犯罪」とは戦争の法規または慣例に違反した罪、「人道に対する罪」とは一般人民に対しておこなわれた殺人その他の罪とされている。このように東京裁判でもニュールンベルグの裁判での三種類の戦争犯罪が定義され、これにもとづいて戦争犯罪人が起訴され、有罪と認められた被告は処罰されることになった。 ここで特に注意しておくべき点、しかも日本でも韓国や中国などの海外でも誤解されているのは、このABCの定義は単なる三種類の犯罪ということでしかない点である。Aが最も重大な罪で、ここに分類された被告は最も重大な犯罪を犯したということではない。したがって韓国や中国が日本の首相その他の政府関係者や国会議員が靖国神社に参拝すると、A級戦犯が祭ってあるから参拝するのはいけない、軍国主義の復活だ、歴史認識をしていない、などと非難をするのは見当違いである。そのように議論するのであれば、すでに歴史的に認識されていた狭義の戦争犯罪や民間人の虐殺などの罪で処刑された被告たち、つまりBC級の被告の霊に参拝するのは軍国主義ではなく、「歴史認識」をしていることになる。ただしABCの分類に言及せず、戦争犯罪人が祭ってあるから首相が靖国神社に参拝するのはいけないと言えばそれは主張としては論理的である。 もう一つ注意しておく点は東京での裁判はA級に分類された被告だけを扱い、B級とC級の被告は日本以外の場所、つまりマニラ、上海、グアム、シンガポール、クアラランプール、香港、ラングーンなどで裁判をされた。これら3種類の裁判のうち、日本でも海外でもマス・メディアに注目をされていたのはなんといっても東京の市ヶ谷での裁判で、BC級の裁判はあまり外部に知らされずにおこなわれた。 ニュールンベルグ裁判と東京裁判の相違点 ニュールンベルグと東京での二つの裁判は極度に類似したものであるが、違いも存在した。相違点は主として3つある。第一に、連合国側の日本に対する裁判の正式の考えは1943年11月27日に米・英・中の三国がカイロで会合し宣言をした「カイロ宣言」が始まりである。それまでの時点では連合国側は1943年10月20日のロンドンのイギリス外務省で「連合国戦争犯罪委員会」を発足させていたが、それはヨーロッパの事情を念頭にいれたものであった。 この点に注目した中国大使はアジアも取り上げてもらいたいと提案し、翌年の5月10日に「極東分科委員会」が発足したが、これはその名の示すとおり連合国戦争犯罪委員会の一部でしかなかった。「カイロ宣言」では日本を明確にそして積極的に取り上げ、米・英・中の3国は「日本国の侵略を制止し、且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり」と明記している。1945年7月26日の「ポツダム宣言」はこの「カイロ宣言」の考えにもとづき、それを更に具体的にしたもので日本に対する降伏の最終条件を示したことは周知のことである。この宣言の第10項では戦争犯罪人の処罰を明記している。 第二の相違点はこのポツダム宣言に関連している。これは連合国と日本との関係だけをあつかったもので、ここでは例えばドイツはまったく関係ない。ポツダム宣言を受諾した日本としては当然ながらその後の連合国との関係はすべてポツダム宣言に記された事項にしたがって処理されるものと解釈し、これはその後の誤解と議論の原因となった。 1946年5月13日の東京裁判において、清瀬一郎弁護人はこの点を指摘し次のように述べている。東京裁判には平和に対する罪と人道に対する罪について裁判する権限はない、なぜなら日本は1945年7月26日のポツダム宣言を受諾しこれに記述されていた第十条の連合国の俘虜に対して残虐行為をした者を含むすべての戦争犯罪者に対して裁判がされるという条項を受け入れた、そして9月2日の降伏文書の署名によってポツダム宣言が確認され受諾された、したがって日本と連合国の両者はポツダム宣言の条項を遵守しなければならない、第10条による起訴と裁判は受け入れるがそれ以外の起訴は受け入れることができない、なぜなら東京裁判にはその権限がないからである、と弁論した。 清瀬弁護人がなぜこのような主張をしたかという理由は平和に対する罪と人道に対する罪はドイツを裁判にかけた国際軍事裁判条例で初めて明記され、この条例は1945年8月8日に制定された。つまりポツダム宣言の日付より後の時点で決められた罪状であるためである。日本は東京裁判が行われることには同意するがそれはすべてポツダム宣言第10条にしたがって裁判されるものでなければならない、ポツダム宣言発表の後で連合国側が勝手に決めた罪状を持ち出して東京裁判をすることは受け入れられない、という主張である。 この5月13日の裁判速記録をそのまま引用すると清瀬弁護人は次のように述べている。「7月26日の宣言を解釈するのに、8月8日の資料を以って解釈すると云うことは、矛盾撞着いやしくも法律家のなさざる所であります」。裁判の性質から考えれば当然であろうがこの議論は無視された(このやりとりは現存する映像で詳しく見ることができる)。 第3の相違点は日本にとって有利となった違いである。それまでの日本人が知っていた西洋の法律は原則的には大陸法、つまりフランスやドイツのようなヨーロッパ大陸の国々の法律であった。ところがこの軍事裁判では裁判長も検察もアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといったように英米法の国々が支配的であった。裁判が英米法の考えにもとづいておこなわれるのであれば、英米法の考えにしたがった形で法廷の進行を解釈し、英米法の考えにしたがった弁護をしなければならない。ところが現実には日本で英米法に詳しい専門家は非常にすくなく、特に英米法にもとづく国際法の法廷で検察に対決できる日本人の弁護人など皆無であった。例えば英米法では「共同謀議」という概念を持ち出して起訴をしたが、これは大陸法ではあまり用いられない考えで、これに対して弁護する日本側にとっては不利であった。 この問題を理解した外務省は、アメリカやイギリスなどの英語圏出身で英米法に詳しい弁護人に日本側の弁護を依頼することを提案した。これは日本人の弁護人たちにとっては寝耳に水の発想で、連合国出身の人間が日本人の被告たちを良心的にそして有能に弁護などできるわけがない、と反発した。ことに清瀬一郎弁護人などは大反対であった。しかしニュールンベルグでの裁判ではドイツ人の弁護人しか認められず、それがドイツ側にとって不利になったと理解した日本は、連合国側からの英米法に詳しい弁護人を依頼することで意見がまとまり、外務省の太田三郎終戦戦犯室長がニュージーランド出身のH・ノースクロフト代理裁判長にこのことを要請した。この要請は意外にも好意的に受け入れられ、このような事項に関して最終的な判断をできる権限をもっていた連合国総司令部は1946年3月19日付の書簡でアメリカ人弁護人25人を派遣すると回答した。この回答は約束どおり実行され、このように連合国出身の弁護人が元敵国の被告を弁護した点がニュールンべルグと東京での裁判の3つ目の違いである。(『戦争犯罪と歴史意識 日本・中国・韓国のちがい』より)北原惇(きたはら・じゅん)  本名は北原順男(きたはら みちお)。1937 年生まれ。横浜出身。武蔵高校卒。1961 年モンタナ大学(米国モンタナ州ミゾーラ市)卒(社会学と人類学の二専攻)。一九六八年ウプサラ大学(スウェーデン)修士課程修了(社会学専攻)。1971 年ウプサラ大学博士課程修了(社会心理学専攻)。同年哲学博士号を受ける。メリーランド大学、ミシガン大学、サンフランシスコ大学、ニューヨーク州立大学(バッファロ)などでの教職、研究職を経て1997 年までノーデンフェルト・インスティテュート(スウェーデン・イエデボリ市)所長。マーキズ・フーズフーその他海外約20 のフーズフーに経歴掲載。英語の著書はChildren of the Sun (Macmillan,1989), The Tragedy of Evolution (Praeger, 1991), The Entangled Civilization (University Press of America, 1995), The African Revenge (Phoenix Archives, 2003) など。日本語の著書は『なぜ太平洋戦争になったのか』(TBSブリタニカ、2001)、『幼児化する日本人』(リベルタ出版、2005 年)、『生き馬の目を抜く西洋文明』(実践社、2006 年)、『ロック文化が西洋を滅ぼす』(花伝社、2007 年)、『黄色に描かれる西洋人』(花伝社、2007 年)、『現代音楽と現代美術にいたる歴史』(花伝社、2009 年)、『脱西洋の民主主義へ』(花伝社、2009 年)、『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』(花伝社、2013 年)、『戦争犯罪と歴史意識 日本・中国・韓国のちがい』(花伝社、2014年)

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    なぜ「高度成長」の考察が重要なのか

     日本の現代史を特徴づけた「高度成長」。通説では1954年年末に始まり、19年後の1973年に終焉したとされる。この時期の平均的な経済成長率は年平均10%超であり、日本経済を世界第二位の経済大国に押し上げた。戦後70年を振り返ったときに、同時に注目したいのは、高度成長から60年が経過したことである。今日、高度成長の時代を再考することは重要だ。私見では以下のふたつがその理由になる。 (1)高度成長期の代表的な政権は、池田勇人内閣(1960年7月-1964年10月)だが、この政権のブレーンだったエコノミストの下村治と安倍晋三首相の経済思想の近さ。(2)90年代から続いた「失われた20年」からの脱出に、高度成長期の経験―特に池田政権の経済政策の方向性―が役立つためである。 まず(1)から見ておこう。高度成長の19年間で首相は、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田、佐藤栄作、田中角栄と6人が替わった。この中で経済政策を中心に推した政権は、池田と田中の二人だった。この二人の掲げた経済政策は何かと対照的だが、それについては後で述べる。第2次池田内閣成立を受けて記者会見する池田勇人首相(左端)。この年末に国民所得倍増計画が閣議決定された。隣は大平正芳官房長官=昭和35年12月8日 池田の経済政策は、所得倍増計画として知られている。所得倍増計画は、日本経済の旺盛な生産力の発展、それに見合った有効需要を創出することが計画の中心だった。具体的には、(1-1)日銀の金融緩和政策スタンス、(1-2)インフラ整備を中心にした財政政策、(1-3)貿易の自由化・「石炭から石油へ」のエネルギー政策の転換・太平洋ベルト地帯構築のための規制緩和などによって実現を目指すものだった。この三つの要素が、今日のアベノミクスの「三本の矢」、すなわち大胆な金融緩和、機動的な財政政策、成長戦略と相似しているのは明瞭だろう。 このような特質をもった池田内閣の経済政策をブレーンとして支えたのが、下村治だった。彼の経済思想を簡単にいうと、経済成長が人間のもっている可能性を発揮できるようになる前提条件だというものだった。また経済成長は緩やかな消費者物価の上昇を伴い、それは人間の価値自体が上昇することでもある、という独自の物価観にも裏付けられていた。 このような下村の経済成長論を安倍首相は共有している。2013年4月19日に行った「成長戦略スピーチ」の中で、下村の成長政策を「普遍的な価値」を持っているものとし、自らの成長戦略も同じく働く人たちの潜在的な能力を十分に開花させる政策である、ことを述べている(同スピーチの意義については、若田部昌澄早稲田大学教授の御教示による)。 またアベノミクスはデフレ脱却をして緩やかなインフレ(2%の物価水準)を目標にしている。このとき雇用は最大化されているだろうから、その意味では下村と同じようにインフレは人間の価値を向上させる、と安倍首相は確信していることになろう。 (2)の高度成長の経験、特に池田政権の経済政策がいまどのように役立つであろうか。すでに指摘したように、アベノミクスの三本の矢と池田政権の経済政策の3つの要素は各々照応している。ところで高度成長期に、この池田版「三本の矢」がなぜ必要だったのだろうか? ひとつはデフレ圧力に抗するため、もうひとつは経済格差の解消のためだ。 当時の日本経済は旺盛な生産力がある一方で、有効需要が不足していた状況を指す。売れない財やサービスが潜在的に多いことが、日本経済にデフレ圧力となっていた。これを解消するには、国民の所得を増加するように財政政策と金融政策を拡大することが必要だった。このことは今日の日本のデフレからの脱却が必要である理由とまったく同じだ。 経済格差の解消にも経済成長が必要条件であることが、高度成長の経験からもわかる。高度成長期の日本経済は「二重構造」にあった。例えば、農村には膨大な「余剰」労働力が存在していた。経済成長を実現することで、農村から多くの若者たちが都市に移動し、そこで職を得て、家庭を持ち、年々増える所得によって潤沢な消費社会を構築していった。また経済成長によって、衰退化していた生産部門から成長産業への労働者の移動もわりとスムーズに行われた。この経済格差の解消に経済成長が必要である、という高度成長の経験は重要である。 日本には現在、2400万人程度の「貧困層」が存在する。欧米では富裕層への富の集中が経済格差の根本原因だが、日本では経済格差とは貧困問題のことである。そして日本の貧困問題の原因は、景気の悪化(現実の経済成長率が低いこと)にある。経済が低迷することで、失業やまた非正規雇用が激増した。この流れを断ち切るためには、安定した経済成長が必要である。 高度成長の終焉の経験も、また今日的な意義をもつ。田中角栄は池田の経済政策の真逆を行った。田中の主張した日本列島改造論は、お金の動きを都市から地方に、そして若者から老人に移動させることで、社会の固定化につながり、成長率の鈍化を招いた(参照:増田悦佐『高度経済成長は復活できる』文春新書)。 もちろん経済成長が問題解決のすべてではない。しかしより高い経済成長が実現できれば、人々の可能性を発揮できる機会はより豊かだ。高度成長が始まって60年の節目にその教訓は得ておきたい。

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    東京五輪にはまだまだ隠されたドラマがある

    「戦後史開封」東京五輪産経新聞連載再録(1994年4月2日から5回)※肩書、年齢は当時のまま東京オリンピック 開会式 秋空にクッキリ 航空自衛隊のジェット機五機が描いた青、黄、黒、緑、赤の5つの輪の五輪のマーク=1964年10月10日 日本中の青空を集めたような、というNHKアナウンサーの名文句で東京オリンピックが開幕した。あれからもう30年、聖火をリレーした若者たちは五十歳前後のオジサン、オバサンになった。日本人が自信を取り戻し、経済大国ニッポンへの分岐点になったといわれる東京五輪の陰には、さまざまなドラマが隠されている。 昭和34年5月15日、当時自民党の東京都議会議員だった佐々木千里(92)=東京・豊島区在住=は、同僚議員二人らとともに羽田からヨーロッパに向け旅立った。 第18回オリンピック大会の開催地を決めるための国際オリンピック委員会(IOC)総会がドイツのミュンヘンで開かれる。ここで、IOC委員でもある東龍太郎都知事(故人)ら代表団による東京への誘致活動を側面支援するためである。 羽田空港には選挙区の支持者たちが、ノボリを持って見送りにきてくれた。オリンピック招致への期待も大きかったが、飛行機で外国に行くのがまだ大変な時代でもあった。 ベイルートで一泊してまず、IOCの実行委員会と各国の国内委員会の合同会議が開かれているローマへ。ここで、日本の大使が各国委員を集めて、日本料理による夕食会を開いた。佐々木は東京をPRする演説を行う。 「まず治安維持が世界一確立している。次に世界一食品衛生環境がいい。それに日本は文化国家であると言ったんです。私も何度も選挙をやってきたが、どういう選挙でも、安心して投票してもらうようにするのが一番大切だと思ったからです」 ミュンヘンでは26日午前、いよいよ開催地を決める投票が行われた。東京は一回目に全58票のうち34票を獲得、対抗馬のデトロイト(米国)やウィーン(オーストリア)に大きく水を開けて開催権を勝ち取った。 予定よりも早く、しかもあまりにあっさりと決まったため、日本代表団はIOC委員の東と高石真五郎(故人)以外、会場にだれもいなかったぐらいだった。 東京の“圧勝”に貢献した人は多い。総会での説明役を務めた外交評論家の平沢和重(故人)もその一人だった。外務省のニューヨーク領事から当時NHKの解説委員となっており、後に産経新聞論説顧問などを務める平沢は英語でこう演説する。 「西洋の人は私たちの土地をファーイースト(極東)といわれる。だが、ジェット機時代の今、もう距離はファーではない。ファーなのは国同士、人間同士の理解なのだ」 「アジアに何としても聖火を」という平沢の演説はヨーロッパ中心のIOC委員たちの心を打つのに十分だったという。 だが、佐々木らが「あの人がいなかったら、東京五輪が実現していたかどうか」と口をそろえる陰の功労者が実はもう一人いた。 日系二世の米国人、フレッド・ワダ(日本名・和田勇)だ。 ワダは第二次大戦後、ロサンゼルスに食料品スーパーを開き、成功させていた。米国民の対日感情が極めて悪かった昭和24年、ロスでの全米水泳選手権に参加するため訪米してきた古橋広之進(現日本オリンピック委員会会長)ら日本人選手を自宅にあずかったのをきっかけに、日本スポーツ界との交流が始まった。 そのワダに昭和33年ごろ、当時の首相、岸信介から一通の手紙が届いた。「東京にオリンピックを誘致したいので、中南米諸国を説得してもらえないか」。中南米には10人前後のIOC委員がいたが、米国の影響が強く、デトロイトに投票する可能性が大きかったのだ。 国にとっての一大事業を実現するのに、その根回しを、日系人とはいえ米国籍の“スーパーのおやじ”に頼るなど、今では考えられないことだが、当時の日本の力からいえばやむを得ないことだった。 ワダは、これを快く引き受けた。自費でブラジルなど中南米諸国を回り、商売上のパイプを通じてIOC委員と接触。さらに東京五輪誘致委員会ロサンゼルス駐在員の肩書でミュンヘンにも乗り込み、東京への投票を依頼した。 IOC総会での投票は無記名だが、票差からみて中南米の委員のほとんどは東京に投票したものとみられている。 当時、ワダの名前もその活躍ぶりも日本国内ではほとんど知られなかった。わずかに朝日新聞がミュンヘンに現れたワダを「全く奇特な老人である」と伝えている。 そのワダは今もロサンゼルスで健在だ。86歳。東京五輪決定のこともさることながら、自由形六種目のうち五種目を制した古橋らの全米選手権での活躍をきのうのことのようによく覚えている。 競技終了後、「ワダさんの親切とおいしい食事が勝因です」と感謝する古橋らに、ワダはこう答えたという。「きのうまで私たちはジャップと呼ばれていました。でも(あなたたちが活躍したあとの)今日は、ちゃんとジャパニーズといって握手を求めてきました。ありがとうというのは私たちです」 アジア初の五輪が実現したことについても、古橋らの活躍に感激した「私の中の日本人の血」がそれを実現させたのですと、自慢することもなく、静かに振り返る。 それから35年。佐々木は「日本の経済発展のきっかけは東京オリンピックだった。それにわずかでもかかわることができたのを誇りに思う」と言う。 今や世界中の国々に経済援助をし、スポーツ選手や大会も「カネで買う」と揶揄(やゆ)されることさえある日本。だが、経済成長の起爆剤となった東京五輪が、ワダら無名の人たちの“手弁当”の努力に支えられたことを知る人も少なくなった。 新宿御苑内に新競技場構想 昭和34年5月、5年後の東京オリンピック開催が決まった。しかし、メーンスタジアムをどうするのか、選手村は、輸送機関は…と、解決しなければならない難問は山ほどあった。そうした中、神宮外苑にある現在の国立競技場とは別に、新宿御苑内に九万人収容の新競技場を造るという大胆な構想が、文部省関係者の間で持ち上がっていた。 証言するのは、国の直接のオリンピック担当である文部省体育局の局長を35年3月から37年1月まで務めた杉江清(81)=現日本図書教材協会会長=だ。 「その当時の神宮の競技場は収容人員が約五万人。しかし、メーンスタジアムとするには九万人に増やす必要があると考えた。しかし、拡張してもそこまではできないだろう。そこで、いっそ新しいのを造ったらと、都心で候補地を探し、新宿御苑の北側の部分はどうだろうということになった。文部省としてはかなり(真剣に)検討し、私も事務次官と一緒に現場を見に行きました」 杉江が上げた“候補地”は御苑の中で最も新宿駅寄り、現在は「母と子の森」として整備されている一帯だ。御苑全体(約五八ヘクタール)の一部の林を削るだけですみ、神宮の競技場に比べ交通の便も良い。 だが杉江によると、この構想は当時、御苑を管理していた厚生省にもちかけるまでもなく、文部省の内部検討だけで立ち消えになってしまう。 「やはり、御苑にというのは相当の理由がなければ無理だろうということだった」と振り返る。 新宿御苑は、もともとは高遠藩内藤家の下屋敷跡。明治以降は「皇室の庭園」として整備されたが、戦後、厚生省の所管となり国民に開放された。その後は都心の数少ない「憩いの場」として都民に親しまれており、一部とはいえ削ることには反発が強いだろう、との判断だった。 結局は神宮の競技場を現在の七万人規模に拡張することになった。杉江は「それだけの拡張でも技術的に可能か問題だった。いずれにしても7万人では不十分だった」という。もし、このときに文部省が新競技場建設で押し切っていれば、日本のスポーツ環境や、新宿周辺の景観もだいぶ変わっていただろう。 現在御苑の管理に当たる環境庁新宿御苑管理事務所の前田稔所長は「そんな話があったというのは初めて。でも、とんでもない話です」と苦笑いする。 メーンスタジアムとともに、大きな問題だったのが選手村だった。役員・選手約八千人を収容できる土地はおいそれとはない。開催が決まった34年当時には、埼玉県朝霞の米軍キャンプ・ドレイク跡に設置することがほぼ決まっていた。ところが、36年になって突然、渋谷区代々木にあった米軍宿舎「ワシントンハイツ」案が浮上する。 競技関係者らから「朝霞では競技場まで遠すぎる」とのクレームがあったほか、屋内競技場を建設するためハイツの一部を返還してくれるよう米側と折衝すると、「返還するなら全部でないと」という返事が返ってきたからだった。そこで、渡りに船とハイツを丸ごと調布市に移転させ、選手村と屋内競技場などを造ろうとの案が浮上した。 ところが、この案に反発したのが東京都だった。都議会はすでに「選手村は朝霞とする」という決議をしている-という理由もあったが、別の事情も隠されていた。 東京都はいずれワシントンハイツが国に返還されたとき、ここを払い下げてもらい森林公園にする予定だった。国有地を払い下げる場合、公園目的だと無償で、その他の目的、例えば、選手村だと有償となるからだった。 都の担当者は当時の副知事で現知事の鈴木俊一(83)。鈴木は自治事務次官から内閣官房副長官を経て、五輪開催決定直後の34年6月、副知事になった。 当時の知事、東龍太郎はIOC(国際オリンピック委員会)委員として国際的に名が通っていたが、行政経験はない。鈴木は当時の自民党幹事長の川島正次郎から「オリンピックもあることだから東君を助けてほしい」といわれており、副知事に起用されたのも、オリンピックに備えてのエース投入だった。 鈴木が振り返る。「結局、選手村はオリンピック後は公園にするということで払い下げを受けることになった。国の担当が大蔵省主計局長の石野信一君(後に事務次官、太陽神戸銀行会長)で、昔一緒に内閣参事官をやった仲間ですから、『最終的には公園にするのだから無償にしろ』といいました。しかし向こうも『当初は選手村だから』といって九十億円という金額を出して譲らない。結局、間をとって四十五億円ということにしたんです」 これで解決と思ったら、こんどはNHKがオリンピック後、ハイツ跡の一部を払い下げてもらうよう国と話をつけてしまった。「約束が違う」と、都議会は騒然となった。 「こちらの方は、国がNHKへの譲渡分に匹敵する別の国有地を都に払い下げることでやっと話がつきました」と鈴木。 今、明治神宮南側の広大な旧ワシントンハイツ跡は、見事な緑の代々木公園に変身する一方、国立代々木競技場とNHK放送センターがそびえている。当初、選手村としてほぼ決まっていた朝霞の米軍キャンプ・ドレイク跡は現在、陸上自衛隊朝霞駐屯地となっている。 次から次に出てくる難問。それでも三十九年十月十日の開会式に向け、一歩一歩、準備は進んでいった。ポスターモデルの学生、実は教師 昭和39年9月7日正午、東京オリンピックの聖火が沖縄・那覇空港に到着した。 8月21日にギリシャのオリンピアで採火されたあと、「アジア初の五輪」を強調するかのようにアジアの各都市に立ち寄りながら、国産機「YS11」の空輸機で日本まで運ばれた。途中、空輸機が故障し、沖縄到着が一日遅れるというハプニングもあり、国民をやきもきさせた。 空輸機から降ろされた聖火を最初に手にしたのは当時22歳、琉球大学四年生の宮城勇(51)=現沖縄国際大教授=だった。 宮城は大学で剣道をしていて、体育会の中心的メンバーだったことから聖火リレーの第一走者に選ばれた。「3キロほど走りましたが、道路の両側がすごい日の丸で、走るのが大変だったけど、その日の丸に感激したのを覚えています」と振り返る。むろん、当時の沖縄はまだ復帰前だった。 最初の聖火ランナーを務めたことは、宮城の人生を少なからず変えた。まず、その名前が全国に知られた。 「その当時は内地に行くのは大変な時代だったのですが、第一走者ということで当時、日活(現にっかつ)の専務だった方の奥さんに特別に招待していただいて東京へ行き、国立競技場で開会式を見ることができました」 「聖火ランナーを務めたことで、ずっと、いい加減なことをしてはいけないと思い続けてきた」という宮城は大学卒業後七年間高校教師をしたあと、体育学の教授となり、地元の体育教育の指導的立場に立っている。 聖火は沖縄を一周したあと鹿児島、宮崎、札幌に空輸され、さらに全都道府県を通るように四つのコースに分かれて日本列島をリレーされ、東京に向かう。 全国4350区間、9829キロを地元の高校生を中心に聖火を持つ正走者に随走者を加えた20人余りのチームでリレー。ランナーの総数は九万六千三百四十七人に上った。 国をあげての一大セレモニーだった。それだけに、さまざまな予期せぬ出来事をも生んだ。 山口県では、練習中の中学生が心臓マヒを起こして死亡。兵庫県や千葉県では予定されていた走者が暴力事件を起こしたり、年齢を偽っていたというだけで資格を取り消されたりする騒ぎが起きる。 後にプロ野球のロッテや西武で活躍した野球評論家の山崎裕之(47)も、せっかく決まっていた走者を取り消されそうになった。当時、埼玉県立上尾高校三年生で「長嶋2世」とまでいわれるスラッガーだった山崎は学校からの推薦で、上尾市内を走ることになっていた。 ところが、一部のマスコミから「山崎君はプロ野球に入ることが確実なのだから、アマチュアに限るとした聖火ランナーの資格に触れるのでは」とクレームをつけられたのだ。 「確かにそういうことを書かれたのは知っているけど、ちゃんと走りましたよ。新聞が騒いだだけで、僕はまだ入団が決まってたわけでもなかったから。でも、当時は野球ひと筋だったから、聖火を運んだ感じといってもあまり…」 多くの若者を巻き込んだ安保騒動から4年。オリンピック組織委員会もマスコミも無意識のうちに、聖火リレーのランナーに日本の“理想的青年像”を見いだそうとしていたのかもしれない 実をいうと、ホンモノの聖火が到着する前に「聖火ランナー」になった青年がいた。 順天堂大陸上部出身で、東京・北区にある私立聖学院高校の体育教諭、田中良明(53)は39年2月のある日、関係していたオリンピック青年協議会(OIC)から「オリンピックのポスターの撮影をするから」と、新荒川の堤防に呼び出された。寒い中、聖火のトーチを持って堤防上を何度も走らされた。 「でも、最後まで自分がモデルだとは考えなかった。第一、モデルは若さを象徴するために学生を起用するという話だった。私はすでに卒業して勤めていました。それに私は短距離が専門で長距離みたいなきれいな走りはできない。最終的には当時順大の後輩の沢木啓祐(メキシコ、ミュンヘン両五輪代表、現順大陸上部監督)あたりがやって、私はそのテスト撮影だとぐらいに思っていました」 だが結局、そのまま田中がモデルになって四枚目になる公式ポスターが完成した。奇妙なことに、そのころすでに別の高校で非常勤講師をしていた田中が「順大3年生」ということで発表され、当時の新聞にもそのまま載った。 図らずも“ニセ学生”を演じることになった田中は「どうしてそうなったのか、今でもよくわからない」というが、ここでも、組織委員会側が「イメージ」にこだわっていたことがうかがえるようだ。 田中もポスターのモデルになったことでその後、東京五輪PRのためソ連に行ったり、オリンピック期間中、選手村で外国人選手の世話に当たるなどオリンピックと深いかかわりをもつことになる。 「自分があれだけの祭典にかかわれたということは感激です。しかし、オリンピックそのものを見ると、スポーツをあんなに“道”にすることはないのではないかと思う。もっと単純に汗を流せばいいのでは」と、田中は意外にもクールな反応だ。 ともあれ、十万人の若者の手で運ばれた聖火は10月10日、最終ランナーに選ばれた坂井義則(四八)=当時早大1年、現フジテレビスポーツ局勤務=の手で国立競技場の聖火台に灯され、オリンピック東京大会は開幕した。命かけた競技見つめた小野夫人東京オリンピック 開会式で日の丸を先頭に日本選手団が入場 入場行進 =1964/ 10/ 10、東京都・新宿区・国立競技場 昭和39年10月20日、東京・千駄ケ谷の東京体育館。女子体操選手としてオリンピックに出場していた小野清子(58)=現自民党参院議員=は、二階の観覧席から、一階のフロアで繰り広げられる男子の体操競技を食い入るように見つめていた。 視線の先では、夫の小野喬(62)=現二階堂学園常務理事=が団体自由演技の最初の種目、鉄棒の競技を始めていた。 小野はメルボルン、ローマ両五輪の鉄棒で連覇、「小野に鉄棒」といわれた通り、鉄棒が得意だった。ところが、この時点で体はズタズタになっていた。肩の痛みが引かず、痛み止めの注射を打ったらこんどは肩が全く上がらなくなった。もう一度神経を戻すために鍼(はり)を打つという状態だった。 清子は競技の前に選手の集合場所にいた小野を見付けた。日本では五輪史上初のママさん選手だった清子は「パパ、うちは子供もいるのだから、よく考えてね」。小野は「わかってるよ」と小さく答えたが、清子は「命を落としてでもやり抜こうと思っていたんじゃないですか」という。 体操の男子団体には金メダルの期待がかかっていた。もっとも団体の場合、6六人が競技し、種目ごとに一番成績の悪い一人を除いた5人の点数の合計で順位が決まる。5人が高い点数を取れば、最後の一人は棄権しても構わないわけだ。 「ところが、一番安定感のある鶴見(修治)さんが落下して(得点9・25)、どうしても主人が競技しなければ、優勝できないということで、やらなければならなくなったのです」 清子はいたたまれない気持ちのまま、観覧席に陣取った。 「手をもちかえたり、両手を離してまた鉄棒を握ったりするとき一拍ずつ遅れるのがわかるのです。今にも落ちるのではないかと。終わったとき、一緒にいた女子選手は泣いていましたが、私は『生きていて終わった』という感じで、涙を通り越して笑顔でいました」 小野は見事に二回宙返りの着地を決め、9・70の高得点を出し、男子団体も優勝、日本選手団主将の重責を果たした。 アジアで初のオリンピックを主催することになった日本にとって、大会運営の成功もさることながら、主催国として「恥ずかしくない成績」を上げることもまた、至上命題だった。 かつての「フジヤマのトビウオ」といわれた名スイマーで、東京五輪では大島鎌吉選手団長(元陸上選手、故人)の秘書を務めていた古橋広之進(六五)=現日本オリンピック委員会会長=によると当初、日本選手団としては10以上の金メダルを目指していた。ところが大島が「15個以上は取れる」とぶちあげるのでヒヤヒヤしたという。 「でもそのために、大島さんは旅行中でも午前四時ごろから起きて、運動生理学なんかの本を原書で読んでました」と振り返る。 最も金メダルの期待の強かった女子バレーボールチームの中心選手たちは37年、モスクワでの世界選手権での優勝を花道に引退するつもりだった。ところが、周囲の熱い期待や説得で、さらに2年間すさまじいばかりの練習に耐えることになる。 主将だった河西(現中村)昌枝は後に「もはや自分たちの意思では進退を決められなかったのです」(夕刊フジ「私の流儀」=平成3年11月6日付)と語っている。 悲壮ともいえる指導者たちの意気込みや選手たちの踏ん張りで、結果的には金十六個、銀五個、銅八個のメダルを獲得、面目をほどこした。 陸上80メートルハードルで、マラソンを除く女子の陸上トラック競技として戦後ただ一人の入賞(5位)を果たした依田郁子(後に結婚して宮丸郁子)も、そうした重圧と闘った一人だった。 依田はオリンピックから十九年たった昭和58年、45歳で自らの命を断った。茨城県つくば市にある依田の夫、宮丸凱史(五六)=筑波大体育科学系教授=の自宅には、数10冊に上る依田のノートが残されている。 10年以上にわたり毎日の練習日程を記したものだ。一本の線を引き、その線に沿って、何時に起きて何時何分に電車に乗って練習場へ行き、何時から何メートル走る-という予定が極めて詳細に書いてある。バナナ一本をここで食べるということまで記入されている。 依田は、レースのスタート前になると、口笛を吹き、ほうきでスタート付近を掃き、くるりと逆立ちをする-というお決まりの“手順”が、すっかりおなじみになっていた。 「あれは自分を集中させるため、練習でやっていたことをそのままやっていたのですね。人にはいろいろいわれたけど、あれだけやらないと、おさまらなかったのだと言ってました」と宮丸は回想する。 「実は、彼女はオリンピックのときも自分のレースまでは選手村には入らかったのです。立川の会社の寮でいつもの通り過ごし、いつもの通り中央線に乗って競技場にきていた。プレッシャーに対して、私は私のやり方でやらしてもらうということだったのですね」 こうした徹底した自己管理で、プレッシャーをはねのけた依田だったが、人生の重圧には勝てなかった。やはり、マラソンで銅メダルを得たあと、自殺した円谷幸吉とともに忘れることのできないオリンピック群像である。2回も約束破った100メートルの王者 オリンピックとアスファルト舗装。一見、何の関係もなさそうだが、今ではごく普通に行われているアスファルトによる道路舗装が実は、東京五輪の副産物なのだという。 東京都の技術部門を統括する技監の石川金治によると、そのわけはこうだ。 「それまでは日本では道路舗装といえば、セメントがほとんど。石油がないからアスファルトはやらなかった。しかし、オリンピックの道路整備で開会式直前でないとできない道もある。固まるのが遅いセメント舗装では間に合わないというのでアスファルトを使ったのです」 道路舗装はほとんどアスファルトで行われることになるのはそれからのことだった。 オリンピックによって、東京の町は一変したといわれる。 外国人の選手や観客が到着する羽田空港と、都心や選手村のある代々木の間を、ビルの谷間を縫うように高速道路が走った。首都高速1号線。続いて3号線、4号線。都心を走る高速道路時代の幕開けだった。 一般道路も環状や放射四号線(青山通り)など22の道路が新設されたり、拡幅されたりした。 地下鉄の路線も増え、下水道の普及率(区部)も20%から26%にまで伸びた。 「古き良き東京が消える」との批判もあった。だが、オリンピックを成功させるため内閣官房副長官から東京都副知事に送り込まれた現知事の鈴木俊一(83)は「オリンピックによって東京の西側部分は首都らしく、国際都市らしく整備が進んだ」と自負する。その上で「ただ、東側部分までは手がつかず遅れた。だから知事になったときに、真っ先に東側部分の整備を進めようと思った」と総括する。 東京と大阪を結ぶ国鉄新幹線もオリンピックに合わせて建設を急ぎ、開会式の9日前の10月1日、慌ただしく営業運転を始めた。新幹線も含めオリンピック関連でつぎ込まれた金は1兆円を超えた。この額は現在では、約10兆円に相当するという。 だが、オリンピックで変わったのは町ばかりではなかった。 「非婚時代」などの作品で知られる作家の吉廣紀代子は、昭和38年、大学を出てすぐ、スポーツの報知新聞社に入社した。 女性のスポーツ記者は極めて珍しいころだった。オリンピックで、女子選手村には女性しか入れないとわかり、各新聞社ともにわかに女性記者やカメラマンを集めていた。吉廣は特に英会話ができることを買われての入社だった。 翌年、オリンピックが開幕すると、吉廣は女子選手村を根城に、男女の別なく英語圏の選手を中心に取材することになる。 「おっかない人」と感じた“水の女王”ドン・フレイザー(豪)や、大会中に自国が独立、喜んでいたザンビア(アフリカ)の女子選手たちが印象に残っている。中でも強烈だったのが、陸上男子100メートルの王者、ボブ・ヘイズ(米国)だった。 後にプロフットボールの選手に転向するヘイズは、この大会でも最も注目された選手の一人だった。で、選手村の食堂でつかまえ、「エクスキューズ・ミー、報知新聞のものですが、インタビューさせてください」と取材を申し込んだ。 「オーケー、じゃあ一時間後に」 「ここでいいの」 「イエス、イエス」 ところが、一時間後にその場所へ行っても、ヘイズは来ない。仕方なく、もう一度申し込んで約束の場所へ行くと、こんども現れない。 「私が女だから軽く見られたんだ」と怒っていると、やはりヘイズにすっぽかされたらしい記者が何人もたむろしている。 やがて100メートルのレースが行われ、ヘイズは予想通り10秒0のタイムで優勝する。 吉廣はもう一度ヘイズと会う機会があったときに、抗議した。「あなたは時間と場所まで約束したのに、一回も会ってくれなかったじゃないですか」 だが、ヘイズは平然として答えた。「そんなこと知らないよ。時間? 僕にとって時間は10秒フラットしかないんだよ」 「オリンピックにきていた二週間の間、彼の頭の中にあったのはピストルの音を聞いて10秒で走ることしか頭になかったのですね。約束してもそんな自覚もなかったわけ。なるほど、頭のてっぺんから足の先までそうならなければ、オリンピックで優勝するなんてできっこないんだなって思いました」 吉廣は「ヘイズのことばかりでなく、オリンピックを経験して私の人生観が変わった」という。 「日本人とだけいると、みんな似たりよったりで、その枠からはみ出す者に対して異端視するところがあるのですが、それは絶対間違っていると思いましたね。私自身若かったし、驚いたことをダイレクトに吸い込んで、カルチャーショックを含めていろんなものがシャワーのように入ってきたというところがあります。世界一周したみたいで、もうけたなと思いました」 日本人がこれだけ多くの外国人と接点をもったのはこの東京五輪が初めてであった。 10月24日夜行われた閉会式。厳粛な閉会式のイメージを破り、自由奔放にはしゃぐ外国人選手たちに、多くの日本人も吉廣と同じことを感じたに違いない。そしてオリンピックを終えた日本は、本格的な高度成長へ、国際化時代へと進んでいく。(文中敬称略)

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    戦後最大の疑獄事件「ロッキード事件」の真相に迫る

    「戦後史開封」ロッキード事件産経新聞連載再録(平成6年12月13日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま 総理大臣経験者の逮捕にまで発展した昭和51年のロッキード事件は、まぎれもなく戦後最大の疑獄事件であった。その衝撃は深刻な政治不信を生み、現在の政界再編にまでつながっているが、今、振り返ってみると、事件には依然として“なぞ”のまま残っている部分も多い。 51年7月27日午前4時半、日比谷公園と道を隔てた東京地検地下の通称“鳥小屋”と呼ばれる仮眠所で、寝返りばかり打っていた特捜部検事、松田昇(61)=現法務省矯正局長=は、覚悟を決めたかのように起き上がった。 同5時、松田のほか特捜部資料課の田山太市郎課長ら3人を乗せた車が地検裏口からひっそりと、東京・目白台に向け出発した。前夜、ある記者が守衛に「松田さん、家に帰っていないな。変なんだよな」と言っていたことがわかり、1時間繰り上げたのだ。時間調整と心を鎮めるために東京・九段の靖国神社に参拝する。 午前6時半、元首相、田中角栄(故人)の私邸の150メートル手前で車を止めた。1人を車に残し、別々に歩いて田中邸を目指す。門前近くのタクシー後部座席に、前のシートに足をあげ、松田らをうかがう一見してマスコミ風の男がいた。松田らは素知らぬ顔で進んだ。男は公衆電話に向かって走っていった。しかし、田中邸を出るときの写真は、どのマスコミにも出なかった。今もって、なぞだ。 私邸の玄関のブザーで応対に出た書生に「田中先生にお目にかかりたい」と名刺を渡すと、応接間に通され、書生は2階に駆け上がった。田中はなかなか降りてはこない。田山は「何かあるといけませんから見てきましょうか」と言った。しかし松田は「気持を整えながら着替えをされているのだろう。まあ待とう」と制した。 20分もたっただろうか。背広姿の田中が現れた。座りもせず、いきなり「君が松田君か」と言う。 松田「そうです」 田中「今日は早いね」 松田「ゴルフに出掛けられることもあるかと思いまして、お迎えに上がりました。これから地検に参りますが」 田中「ウンウン。ところで、君は等々力(児玉誉士夫邸の住所)担当じゃなかったかね」 松田「よく御存知ですね」 田中「入省は何年かね」 田中と接した人の多くは、こうした田中の記憶力と人懐っこさに魅せられるが、検事の場合「何年入省」という言い方はしないので、松田はちょっと戸惑ってから「検事に任官して13年というところです」と答えると「大したもんだなあ」 事態をいち早く悟った田中の回転、そして2人のエスプリや適度の威厳によって、話はそれなりにスムーズに運んだ。 田中は家人に「家のことをしっかりな」と言い残して家を出た。車中、松田が「地検正門に着くと、マスコミがいるかもしれませんが」と尋ねると、「いやかまわん」と答えた。警視総監すら知らなかった極秘逮捕劇 地検正門に着いたのは午前7時27分。すぐに5階の取調室に入った。テーブルを挟み向かって右に検事正の高瀬礼二(78)、左に取り調べにあたる石黒久あき・特捜部副部長が座った。高瀬が口を開いた。 「前総理の田中さんに、このような形でお目にかかるとは誠に残念です」 高瀬は特捜部検事時代、関西のある地検からの捜査嘱託で、参考人として田中から話を聞いたことがあった。高瀬が「夏のさなかで、今のように扇子を使っておられましたが、田中さんに『検事さんの仕事も大変ですね』と言われました」と話した。田中は扇子を止めて、急にしんみりし、「忘れちゃったなあ。覚えておけばよかったなあ」と言った。 8時50分、逮捕状が執行された。合同捜査本部の一翼を成す警視総監の土田国保(72)ですら「知らされていなかった」極秘の逮捕劇だった。 田中は過去に総理経験者が逮捕されたかどうか、尋ねた。 高瀬は、昭和電工事件(23年5月)の芦田均を例に挙げ、「しかし、総理ご在任中の事実で逮捕されたのは、田中さんが初めてでしょうね」と付け加えると「イヤー、初めてか」と苦笑いした。田中は、よほどこのことが気になったのか、東京拘置所に行く車の中で、松田にも同じ質問を繰り返している。 2時間後、取調室を出る際、高瀬が「これから環境が変わられるので、どうかお体に十分、お気を付け下さい」と気遣うと、右手を挙げて例のポーズを取りながら「ありがとう」を3度繰り返した。 再び取調室に姿を見せた松田が「さあ、参りましょうか」と促すと、田中は立ち上がった。「手錠は考えなかった」という。 拘置所までの道中を考え、5階のトイレで2人は並んだ。手を洗った田中の手には、ハンカチ代わりに手をふいたちり紙がボロボロになってひっついていた。それを見た松田が「暑い折ですから、どうぞお使いください」とセロハンに入った真新しいハンカチを渡すと、田中は「いや、ありがとう」とポケットにしまった。 「汗かきと聞いていたし、地下の売店で念のため前日、ハンカチを買った」という。 田中が保釈されてからしばらくたった9月初め、秘書が洗濯したハンカチを返しに来た。田中の自筆の手紙が添えられていた。 『御高配いたゞき心からお禮申し上げます。借用のタオルお返しいたします。いずれの日にか御拝眉のおりお禮申し述べ度いと存じます』 松田は59年春から事件の控訴審を担当する東京高検特別公判部長となり、田中弁護団の切り札である笠原運転手のアリバイ主張を切り崩した。だが、法廷に田中の姿はなく、「拝眉」は実現しなかった。返されたハンカチは今も大事に持っている。1回目聴取で受け取り認めた児玉誉士夫1回目聴取で受け取り認めた児玉誉士夫 田中角栄元首相の逮捕からさかのぼること4カ月余り。昭和51年3月4日午後3時過ぎ、東京・等々力の児玉誉士夫=当時(65)=(故人)邸で、東京地検による在宅取り調べが始まった。 1年半前に脳血栓で倒れた児玉は、2階和室で点滴を受けていた。ふとんに寝た児玉の向こう側に妻、手前にはやがて田中を迎え行くことになる東京地検特捜部検事、松田昇(61)=現法務省矯正局長=が座った。足元からやや離れたところに、「短時間ならば」と、聴取に決断を下した主治医の喜多村孝一・東京女子医大教授が付き添った。 「日本の黒幕」といわれた児玉だったが、倒れた後、高血圧のためまぶしくて目を開けていられない『羞明(しゅうめい)』症状があり、部屋は暗くされていた。まるで、司祭が臨終の床にある信徒に最後の祈りをささげるキリスト教の『終油の秘跡』を描いた宗教画を思わせた。 2月4日、米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)での公聴会で、ロッキード社のカネが、児玉や丸紅を通じて日本の政府高官に流れ、航空機導入が決定された疑惑が明らかにされた。以来、それなりに安定していた児玉の病状は悪化、国会喚問にも出られないようになった。 敬愛する特攻隊の生みの親、大西滝治郎海軍中将が床の間の壁に映る-と叫ぶなど、幻覚を見る『失見当識』症状に陥った時期もあったほどだ。 一方、「逮捕は絶望的でも、せめて取り調べを」と願う検察側は、児玉に取りつく病魔に加え、時間とのきわどい神経戦を強いられた。47年分の『8億5千万円』の脱税についての時効が、10日後の14日に迫っていた。昭和51年2月、ロッキード事件の一斉家宅捜索で東京・世田谷区の児玉誉士夫邸に入る捜査員 松田は児玉に問いかけた。 「ロッキード社を知っていますか」 「どのような関係ですか」 「契約書は作りましたか」 「ロッキード社からカネをもらったことがありますか」 児玉は初めての調べに、金額はともかくロッキード社の顧問であること、同社からカネをもらっていたことを真摯(しんし)に答えた。児玉の声はややロレツが回らず、ゆっくりとしたものだった。 10分ほどのやりとりの後、ドクター・ストップがかかった。疲労に加え、上空を舞うマスコミのヘリコプターの音で、「マスコミの報道はひどい」と、いらだちを見せ始めたからだった。 はやる気持ちを抑え、階下の食堂で調書用紙に一気に書き起こした。松田にとって「たった数枚のこの調書がまるで貴重な宝石のように思えた。早く書かないとそれがこぼれ落ちるような感じさえした」。病状が安定した1時間半後、教授が再び面会を承諾した。ロウソクは最後は赤く燃え、細くなる 松田は緊張の場面を振り返る。調書を読んで聞かせ、間違いがないか確認させる“ヨミキケ”の後、「署名しますか」という松田に児玉は「します」と答えた。だが、あおむけになったまま、調書を挟んだ画板をじっと見つめていた。 躊躇(ちゅうちょ)したのか、自らの運命を考えているのか。ところが、児玉は思いもかけないことを口走った。 「検事さん、『よしお』という漢字を思いだせないんですが…」 松田が「ああ、書ける字で結構ですよ」と言うと、調書の末尾に『児玉ヨシヲ』と署名した。筆圧がなくわずかに流れていたが、松田は「『ヲ』というカタカナに明治の男を感じた」。 松田はこの日のために、児玉の自伝や草柳大蔵の『特攻の思想』などを精読していた。以後、松田による在宅調べは70回にも及ぶ。 2回目の調べは3月7日の夕方。児玉はいきなり「検事さん、ロウソクを知っていますか。ロウソクは最後は赤く燃え、細くなります。私の命も短くなっていることが自分でわかります。今のうちに検事さんに聞いてもらいたい」と語りかけた。 松田がロッキード社から受領したカネの流れを問いただすうち、児玉は「債券を買ったはず」と言う。しかし、2月24日の家宅捜索の指揮官を務めた松田は、その債券がどこからも発見されていないことを知っていた。 「実はある所にふろしきに入れて預けてあります。この債券を検事さんに提出します」 その債券は6億円ものワリフドーで脱税の捜査に欠かせない“たまり(財産)”となる貴重な証拠であった。 9月に入り「今月で交代するかもしれません」と告げると、児玉のほおに涙が伝わった。「ご繁栄をお祈りします」と言って、差し出された両手を松田は黙って握った。児玉は一時的に快方に向かうが、脳梗塞(こうそく)で倒れ、59年1月72歳でこの世を去る。 松田の手元には、児玉の死後数年たって、遺族が「ゆかりの人」に贈った児玉の著書の英訳本が残った。 児玉の筆頭秘書で自らも外為法違反にとわれた現東京スポーツ新聞社社長、太刀川恒夫(57)は、東京・池上本門寺の児玉の墓の後ろに、自分の墓を建てた。隣が空いていたが、あえて後ろの他人の墓を譲ってもらったという。 「児玉のレベルに達せられないから、後ろが相応」というのが理由だが、「生まれ変わっても一緒にいたい」との願いもある。 児玉は田中以外のある自民党実力者をかばい、墓の下まで真相を持っていったといわれているが、太刀川もまた、児玉と同じ道を歩むのだろうか。「ロータス」と警視総監夫妻の奇妙な同居「ロータス」と警視総監夫妻の奇妙な同居 昭和51年4月23日、東京・一番町にあった警視総監公舎に1人の男が住み着き、当時の総監、土田国保(72)夫妻と5カ月近い奇妙な同居を始めた。 「ロッキード事件の資料提供に関する日米取り決め」により引き渡された米連邦証券取引委員会(SEC)や米連邦捜査局(FBI)などの資料を警視庁独自に翻訳するため、刑事部付兼防犯部付に異動した兼元俊徳(49)=現警察大学校国際捜査研修所長=である。1976年2月6日、2日前に発覚したロッキード社のトライスター機売り込み工作について、コーチャン副会長(左)が米上院公聴会で「現金は日本政府関係者に支払われた」と衝撃的な証言をした(UPI=共同) 2カ月前に神奈川県警捜査二課長になったばかりなのに、突然の異動。庁舎に姿も見せず、おかしいと直感した記者たちが、兼元の“手配写真”を持ちながらチェックして回っているため、公舎の2階に缶詰め状態になっての作業を強いられたのだ。 あるときなどは、土田の留守に記者がやってきて「ホテルにもいない。かくなる上はこの公舎にガサ入れ(捜索)をしなきゃ」と迫った。夫人が「再婚したばかりで、2階だけは見ないでください」と言ったためやっと引き上げたという。土田は警視庁警務部長時代の4年半前、自宅に届いた小包爆弾が爆発し、先妻を失っていた。 記者の前で名前が出ることを恐れ、兼元を「ロータス」というあだ名で呼んだ。ロータスは英語でハス。兼元はレンコンの煮付けが大好物だった。ところが、土田によると兼元は「体力があり心臓が強い。英語がペラペラという、絶好の条件ながら大食いで1日5キロを走らないとダメ」。かくして公舎に隣接した麹町警察署長公舎から、ヤッケのフードを頭からすっぽりかぶったジョガーが、夜な夜な出没するようになった。 兼元は振り返る。「捜査の流れの中でどういう価値を持つのかわからない。役に立つものを探せるのかも未知数。五里霧中の作業に加え翻訳家ではなく捜査員として期待されていたから辛かった。腹をくくるまでには時間がかかった」 2月24日に児玉誉士夫邸などを家宅捜索して以来、東京地検と警視庁は東京国税局を含めて3庁合同で捜査を進めていた。しかし、検察は米国から得たこの資料をなかなか警視庁に渡そうとはしなかった。 4月2日には、高橋正八最高検次長検事が山本鎮彦警察庁次長に対し「資料の捜査は、いっさい検察が責任を持って当たります」と伝えていた。山本からそのことを聞いた土田は5日に旧知の東京地検検事正、高瀬礼二(78)に直談判する。 「資料を全面的に見せてほしい。警視庁は第一次捜査機関であり捜査の徹底を期したい」 しかし、高瀬は極めて冷静だった。「米国側との協定成立のいきさつからして、あまり期待できませんよ」「検察主導過ぎる」現場の不満 この後、浅沼清太郎警察庁長官が布施健検事総長と高橋に会い、資料引き渡しを“お願い”し、ようやく引き渡しが始まったのが4月23日。午後6時、1回目の資料が警視庁に到着した。 資料は全部で3千枚。その後数回に分けて引き渡されたが、地検次席検事の豊島英次郎(69)自身がコピーした。地検ナンバー2が資料をコピーするなどむろん異例中の異例だった。 しかも、警視庁からそれを受け取りに出向くのは中平和水刑事部長の役目になった。総監室の外は、資料が来たことをかぎ付けた警視庁詰め記者たちによって張られていた。そこで中平は、記者の前で新聞紙の入ったふろしき包みを携え、鑑識課の金庫に恭しくしまった。 ホンモノの資料は総監公舎の金庫にしまわれ、土田はその部屋で寝た。剣道七段の土田の布団の中から木剣が見えた。 しかし、3千枚の資料の中には『ピーシズ』『ピーナツ』という領収書のコピーはあったものの、契約書がほとんどで、供述を引き出すための具体的な物証はなかった。そして、なぜか欠番があった。 土田は「(田中角栄元首相の影響を受けている人物が少なからずいる)警察の旧内務官僚たちが、リークすると誤解していたようだ」という。 6月19日の打ち合わせで、土田は高瀬から「大久保利春・丸紅元専務(故人)を突破口にし、全日空幹部と児玉の秘書は共同で逮捕」という方針を提案される。土田は「警視庁が逮捕した経理部長と営業本部長兼国際部長の証言から若狭全日空社長の国会での偽証が裏付けられた」と自負する。 しかし、検察首脳と警視庁上層部の関係は良かったものの、「検察主導過ぎる」という警察の現場の不満はあった。 例えば警視庁は6月24日、逮捕前提で別の丸紅元専務の任意取り調べを行っているが、検察はその後独自に調べを行い7月2日に逮捕した。「警視庁の調べの中身が一部報道されたことを、検察は面白くない-と感じたのだろう。元運輸次官にしても結局、検察の証拠が採用になり、検察が逮捕した」(土田) そして7月27日の朝。土田が東京西部にある青梅警察署での剣道の出げいこに向かったころ、東京地検の検事たちは田中邸のブザーを鳴らした。 土田が「田中逮捕」を知ったのは午前8時10分。地検では逮捕状執行のための取り調べが既に始まっていた。 このころ、警視庁管内の各署を回っていた土田が言う。 「午前7時33分に署に着いた。道中、車に連絡したらしいが、山間部で電波が届かなかったようだ。7月20日ごろ、検察事務官が榎本敏夫邸を張っているという情報があり、近いとは知っていたが、いつかは知らされていなかった。24日に高瀬さんに会っているが、オクビにも出されなかった」検察と裁判所の“異例”の挑戦検察と裁判所の“異例”の挑戦昭和51年2月、ロッキード事件の衆院証人喚問で証言する丸紅の大久保利春専務 昭和51年6月22日、丸紅元専務の大久保利春(故人)は全日空幹部3人とともに、ロッキード事件初の逮捕者となった。検察関係者によれば、「心に曇りを感じるカネ」と述べ、「丸紅ルート」の中で最も早くしゃべり出したのも、実は大久保だった。大久保の調書をとったのは東京地検の検事、村田恒(61)=現在高松高検検事長=だった。 「大久保は僕の調べた数万人の中で最高の人格者だった。最初は随分反発もしたが、1回言ったことを絶対に翻さなかった。取り調べにも背筋をいつもピンとして。さすがは元勲の孫。やったことは別として、あんな人間になりたい。私自身で二十数枚、調書を書いた。最初は、外為法だけでいくつもりだったが、趣旨はともかく、カネの引き渡し(贈賄)のアウトラインまで出た。主任検事の吉永(祐介現検事総長)さんもびっくりして、秘密保持のため、最高検にも出せなかった」 大久保は大久保利通と高橋是清を祖父にもち、もと勤めていた会社の倒産や合併で降格を何回か味わい、丸紅専務になったところで事件に巻き込まれた。 この大久保の証言がなければ、田中角栄元首相をあそこまで追い込めなかった、という点では検察、弁護側とも見方は一致している。 しかし、大久保のような例は珍しかった。日本とアメリカにまたがり、多くの関係者が口を閉ざすこの難事件を解明するため、検察と裁判所はいくつかの“異例”に挑戦した。 コーチャン・元ロッキード社副会長ら贈賄側米国人に対する嘱託尋問自体があまり前例がないなら、その調書を確保するため、彼らを起訴しないことを確約した検事総長らによる「不起訴宣明」も異例だった。さらに、その免責が守られるに違いないと“保証”した「最高裁宣明」もそうである。 「最高裁宣明」は「最高裁長官の免責保証が得られるまで調書は引き渡せない」という米国の司法当局の求めに応じる形で、7月24日に発表された。最終的に決めたのは、人事などを決める場でもある裁判官会議。当時の長官、藤林益三(87)ら15人の裁判官中13人が出席、「全裁判官が一致して」(宣明書)決めたという。 だが18年余りがたった今、裁判官会議に加わった判事たちは、必ずしも「宣明」を出したことに納得しているわけではない。熱い“世直しムード”は裁判に影響したか その中の1人は後に「宣明はやり過ぎだった。やるべきじゃなかった。無理しなくても良かった」と、ある官庁の元首脳に話している。 また、別の判事はこう証言する。「早く出さないと、捜査が止まってかわいそうだと思った。経過説明した長官は積極的で『やっていいかな』というはかり方。大阪高裁長官を東京に異動させる人事と同じで、長官一任という雰囲気になった。『異議のある方は』とは聞かれなかったが、(法律判断ではなく)司法行政だからこれで済むのだろう。見方によっては検察を助けたことになるが、それがいけないなら裁判で争えばいいと思った」。 さらに別の判事は「あっさり決まったとはいっても、得心ある議論が行われ、初めから『出そう』という方向ではなかった。長官に結論を一任した覚えはない」と少し違った証言をする。 しかし、この判事も「刑事訴訟法の解釈論では言い分も出てくるだろうが、日本の検察実務では、起訴には検事総長の署名・押印が必要だから(検事総長宣明があれば)事実上、起訴はないと判断した」とするとともに、「結果的に検察側に有利になった」と断言する。長官だった藤林は「他のメンバーが言えばそれで良い」と語るが、平成元年1月の日本経済新聞紙上では、日記をもとに『外国人だとはいえ犯罪の容疑者を見逃す保証をするのだから、さぞ議論があったろう、と想像するかも知れないが、さほど意見は出なかったように思う』と述べ、さほどの意見も出ずに決まったことを明言している。 当時のマスコミ報道は過熱、公判前から関係者をクロと断定する論調が多かった。田中に懲役五年の求刑が行われたときなど、労組員ら2万3千人は「角栄御用」と書いたちょうちんで田中邸付近をデモするなどヒステリー現象も起きていた。 そうした“世直しムード”が裁判に影響したかはどうかは、もちろんわからない。だが、当時の捜査・公判に濃厚にかかわった検察首脳経験者はこんな批判をする。 「検察は、行政機関だから行政に無関心ではいられない。だから、起訴すると著しく国益を損なう場合などは、起訴しない起訴便宜主義をとる。だが、裁判所は司法機関で、こうした巷の情勢に左右されてはいけない。残念ながら、マスコミや国民の熱狂的支持の下では、裁判所は虚心坦懐(たんかい)というわけにはいかなかった」 ほとんどすべての局面で“敗北”を喫した元全日空会長、若狭得治(80)は嘱託尋問について、「検察側にだけ尋問が許され、弁護側には反対尋問が許されなかったのはアンフェアだ」と今も割り切れない気持ちでいる。調書の証拠採用が最大の争点になっている「丸紅ルート」の最高裁審理について、「最高裁がどういう判断下すか見ています」という。 同じく丸紅元専務の伊藤宏(67)の場合は、あきらめとも皮肉ともつかない心境でこう語る。 「裁判官も人間。熱くなっている世論・マスコミに動かされて、先に結論があったことはしようがない」「手首を切って死ねば楽だろうな」「手首を切って死ねば楽だろうな」 全日空社長だった若狭得治(80)=現名誉会長=は昭和51年7月8日、東京地検に逮捕された。その若狭が今「生涯であんな悲しいことはなかった」と言う。逮捕されたこと自体ではない。広島にいた娘が出産間近だったからだ。 「本来なら実家に帰って産むのだが、私が目の前で逮捕されてはショックで流産すると思い、『来ないよう』伝えた。ところが逮捕後、出産した娘が『孫の名前を付けて』と、弁護士を通して刑務所(東京拘置所)に伝えに来た。刑務所で孫の名前を付けるわけにはいかないと、知人に付けてもらった」 若狭の直系の部下で専務だった沢雄次(76)=現全日空エンタプライズ会長=の娘は、沢の逮捕一カ月前に挙式した。「逮捕された後、娘の結婚式をしておいてよかったと思ったが、小管(東京拘置所)では、娘の新婚生活より会社の方が気になった」 全日空では若狭、沢ら計6人が逮捕・起訴されたが、沢によると公判の最中でも若狭への信頼は変わらず、和気あいあいとしていたという。 「この人にまかせておけば、会社は大丈夫だと思ったからだ。私には『ホテル部門をみんなまかす』と言ってくれるなど、裁判関係者全員をしかるべきポジションに就け救ってくれた」。事件については「外国から入った金を、日銀に届けなかったということであまり関係ない。しかし全日空の海外進出が数年遅れ迷惑をかけた」と言う。 公判で、丸紅の政界工作の司令官とされてきた専務の伊藤宏(67)は現在、丸紅エネルギーの顧問を勤める。 「経営トップ(になること)を考えないこともなかった。順風満帆だった人生を逆さまにした事件だったが、今はこだわってはいない。執着してみたところで、これからの生きざまは左右されないから。それより、一人息子がときたま連れて来る初孫の顔を見るのが楽しみ」 事件についてはこう語る。「檜山(広・丸紅元社長)は『詳しい内容にはタッチするな』と下命した。丸紅は一本のレールの上で、ロッキード社から言われるままに実行した中継駅。自分たちの意思ではなかった。当時の政治資金規正法に上限がなく、外国法人からも資金を受け付けていたのだから、なぜ、堂々と銀行に振り込まなかったのか、といわれると身を切られる思いだ」。“ハチの一刺し”でも変わらなかった家族との人生 丸紅でエリートの道をひた走っていた元秘書課長の副島勲(62)=後に取締役、現丸紅石油基地社長=は、丸紅フランス社長として着任半年後の51年7月17日から50日間、検察から取り調べを受けた。証人として立った公判では灰色高官たちに直接現金を届けたとされた。現金を配ったのは欧州に栄転する直前。 「転勤があと1-2カ月早かったら(事件に巻き込まれなかった)-と思うけど、(将来は)間違いなく社長になった伊藤さんも逮捕され、人生何が待ち受けているかわからないと悟ることができた」。 ホテルの一室で「浴衣のヒモで首をつるか、バスタブの中で手首を切って死ねば楽だろうな-と自殺も考えた」という。 「(灰色高官)に3千万円が渡ったのは事実。でも、わいろではなく政治資金。当時、一般的に飛行機を買うことと日ごろの政治献金の習慣は同一線上にあり、問題にならないと思った」 副島らによれば、85歳になる桧山は都内の自宅で目立たぬように、ひっそり暮らしている。心臓病の持病に加え、腰をいためているという。好きな旅行も行かず、ゴルフも初公判以来「いい気なものといわれるから」とやっていない。 田中角栄元首相の秘書官、榎本敏夫(68)を調べた東京地検検事、村田恒(61)=現高松高検検事長=は、榎本に対し「善人で小市民的」というイメージを持っていた。 その榎本は、5億円の段ボール箱授受の現場にはいなかったとする『榎本アリバイ』の中でも度々登場する東京・上中里の自宅に今も住む。表札はなく、『榎本敏夫』と書かれた親指大ぐらいの紙が、ポストの投函口のヒサシの中に、隠れるようにセロテープで張ってある。 社会人となっている長男(26)、二男(23)と母親(87)との4人家族。三男(21)が米国留学していることを除けば、事件発覚当時と変わらない。田中家との金銭関係はもはやない。昭和56年12月に高血圧性脳症で倒れて、手足の自由を奪われた。「本当はもっとべらんめえなのに、言葉が思うように出なくて歯がゆい。階段を上がるときはつえがあっても人の厄介にならないといけないから、通院や美術館巡り以外、外出はほとんどない。夕食の前に日本酒をお湯で割ってコップに一杯飲む。まずいけど、飲まないと食事がうまくないような気がして」 テレビのチャンネルは、政治番組で止まる。 「たかだか7-8カ月の野党生活に嫌気がさして社会党と連立するなんて、自民党の今までからすると信じられない」 “ハチの一刺し”で榎本に不利な証言をしたかつての妻、三恵子とは「保釈の2-3日後に別居になった。一番辛いときだったが、これも人生と思ってあきらめる他なかった。私が悪かったのだが、ちょうど子供たちが小さくて、母に養育で迷惑をかけ、伜(せがれ)としては大変親不孝な話だった」としんみりした。(文中敬称略)