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    自民党総裁選がちっとも盛り上がらない

    戦後長らく自民党総裁選は権力闘争の頂点であった。その所以は、わが国のリーダーを決める事実上の首班選挙だったからである。安倍首相と石破茂元幹事長の一騎打ちとなった今回、党内には「安倍三選」ムードが蔓延し、国民の関心も低い。なぜこんなにも盛り上がらないのか。

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    安倍三選に支配された自民党の空気が「悪しき記憶」と重なる

    である」という理にのっとるならば、その「無難な判断」に走った岸田氏の姿勢は、「ポスト安倍」をうかがう政治家のものとして果たしてふさわしかったのか。少なくとも確実に指摘できることは、岸田氏は総裁選に出馬しなかったことによって、自らの政見を披露し、自ら「ポスト安倍」を担うにふさわしいということを世に認知させる機会を捨てたということである。 岸田氏に限らず、石原伸晃元幹事長や野田聖子総務相のように「ポスト安倍」として名が挙がる政治家も、同じ対応に走っている。自民党は、此度の選挙を「争論の舞台」としてだけではなく「『次代』のお披露目の舞台」としても実の伴ったものにしなかったわけだが、そのことの代償は、先々に大きなものになるのではなかろうか。「安直」や「安逸」の芽 第2次安倍内閣発足以降、自民党が5度の国政選挙に勝利を収めてきたことには、旧民主党内閣3代の政権運営への「悪しき記憶」が反映されている。むろん、民主党内閣3代の政権運営をネガティブ一色で語ることは、決して適切ではない。というのも、特に野田佳彦内閣下の安全保障政策展開には、安倍首相の再登板に向けて「下地」を作ったという側面があるからだ。 ただし、米軍普天間基地移設案件で「最低でも県外」を標榜(ひょうぼう)し、対米関係に無用の混乱を来した鳩山由紀夫内閣の対応、さらには東日本大震災や福島第1原発事故に際しての菅直人内閣の対応は、8500円前後から1万1000円前後で推移した日経平均株価が象徴する経済情勢に併せ、世に「混乱と停滞」を印象付けた。民主党内閣3代への「悪しき記憶」は、こうした「混乱と停滞」の印象と深く結びついている。 最も、こうした民主党内閣下の「混乱と停滞」の印象は今後、時間を経るに従って薄らいでいくのであろう。そのことは、「自民党に政権を委ねる必要性」が剝げ落ちていくことを意味する。 仮に今後、自民党内閣下の政権運営で「混乱と停滞」が生じ、それが民主党内閣下の「混乱と停滞」の印象を上書きするようなことがあれば、自民党が再び政権を失う光景も、現実のものになるかもしれない。自民党にとっては、民主党内閣三代の歳月の教訓とは、「自民党が何時でも無条件に政権を委ねられているわけではない」という一事に他ならない。 現下、「安倍晋三に任せるべきである…」というのは、国民各層の大方が受け入れる常識的な判断であるかもしれない。しかし、それが「安倍晋三に任せればよい…」といった姿勢に転ずるならば、そこに「安直」や「安逸」が生じるのであろう。自民党総裁安倍晋三選挙対策本部「発足式」で気勢を上げる安倍晋三首相(中央)=2018年9月3日午後、東京都千代田区(春名中撮影) 振り返れば、小泉純一郎内閣退陣以降、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の3代の政権樹立に際して、そのような「安直」や「安逸」を国民各層の大方が嗅ぎ取ったことにこそ、2009年の政権交代の遠因がある。今、安倍支持で大勢が決しつつある自民党の内に、そのような「安直」や「安逸」の芽が再び生じつつあるということはないのか。

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    「何も語らない小泉進次郎」総裁選の関心事がこれでどうする

    も今回ほど低調な選挙は過去に類を見ない。 始まる前から勝負がついてしまっている。まれにみる「茶番」に政治部の報道も低調だ。告示日前日、産経新聞は次のような分析記事を掲載している。 20日投開票の自民党総裁選は7日に告示される。産経新聞は投票資格を持つ党所属国会議員405人の支持動向を探った。安倍晋三首相(党総裁)が9割に迫る345人の支持を固め、石破茂元幹事長の50人に大差をつけている。国会議員票と同数の党員・党友票でも首相が6割前後の支持を集めているとみられ、首相の連続3選はほぼ確実な情勢となった。(産経新聞 2018.9.6) 過去の総裁選でも、圧倒的大差がついた例はある。 1956年の第一回自民総裁選では鳩山一郎に394票が集まり、2位の岸信介の4票とは、実に390票もの大差をつけている。 また、1957年の総裁選では岸信介が471票を集め、2位の松村謙三の2票に469票差をつけて雪辱を果たしている。 だが、これらは例外的だ。なにしろ、当時の総裁選は立候補制をとっておらず、前者は結党直後の現職総理だった鳩山を選出、後者は石橋湛山首相の倒れた直後の国会で首相指名を受けたばかりの岸を選出しており、それぞれが信任投票の意味しか持たない総裁選だったからだ。 こうした例を除けば、自民党総裁選は常に激しい権力闘争の歴史を持っていたとも言える。 1964年の総裁選の激しさはいまだ語り草になっている。ともに保守本流を自認する池田勇人と佐藤栄作が直接対決したこの選挙では、2・3位連合などが企図され、「実弾」も激しく飛び交ったという。そもそも、自民党総裁選は公職選挙法の規定外である。それゆえに、当時の金額で10億円とも15億円ともいわれる「実弾」、つまり裏金が各陣営の間を飛び交ったのだ。 激しい権謀術数(けんぼうじゅっすう)が渦巻き、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する永田町である。だからこそ次のようなエピソードも語り継がれることになる。 自民党の国会議員が、二つの派閥から同時に金をもらうことを「ニッカ」といい、同じく三派閥から同時に金を受けとることを「サントリー」、派閥や個人事務所も含めて4カ所以上から金をもらう場合は「オールドパー」といった。こうした隠語が生まれるほど、総裁選は「実弾」すら飛び交う、何でもありの闘いだった。池田勇人(自民党)首相による新内閣の記者会見=1964年7月 さらに、この1964年の総裁選では、佐藤派の田中角栄がぎりぎりになって池田派に寝返ったり、読売新聞記者の渡辺恒雄が、病床にいて面会謝絶中の大野伴睦(意識不明という説もあり)の「代弁者」として、池田支持を派閥に指示したりと、手段を選ばない陰謀も繰り広げられたことで知られる。安倍首相だけが原因ではない 1978年から導入された予備選は総裁選をさらに激しくさせることになった。現職首相の福田赳夫に対抗する大平正芳は、田中派の支援を受けて全国でローラー作戦を展開する。一方で、一般投票に絶対の自信を持つ福田は、自ら「予備選で100票差のついた場合は2位の者が辞退すること」とけん制したが、結果は皮肉なことに「天の声もたまには変な声がある」とセリフを残して福田が敗北することになる。 筆者は過去のこうした激しい総裁選にノスタルジーを抱いているわけではない。「勝てば官軍」がまかり通り、平気で金品が飛び交うような下品な政治の姿を求めているわけでもない。 旧田中派の議員秘書だった筆者自身の経験から「ローラー作戦」の凄さを誇っているわけでもない。もちろん過去の総裁選が健全だったと言うつもりなどない。 ただ、激しい権力闘争の陰には、政治に欠かせない人間ドラマや、見えにくいながらも政策論争が存在していたことを忘れてはならない。 外交、経済、金融、福祉、公共事業、米国など戦後日本の保守政治の基軸となる政策議論を盛んに行った。それは権力闘争の中にも、確実に散りばめられていたのである。果たして、今回の総裁選はどうか。権力闘争どころか、政策論争すらないことに危惧を覚える。 低調な総裁選は首相の安倍晋三だけが原因ではない。実は「何も語らない」ある人物の存在がこの選挙を低調にし、彼が口を閉ざせば閉ざすほど注目を浴びるという珍現象に起因している。 そう小泉進次郎である。彼が具体的なビジョンや姿勢を表明することなく、今回の総裁選のキーパーソンに祭り上げられているのは自民党にとって絶望的なことだ。 彼が何を考え、一体どういう政策を提示しているのか。それを説明のできる自民党員は多くはないだろう。また、彼は派閥を束ねるような政治力を持っているというわけでもない。少なくとも、彼の父である小泉純一郎は、派閥の領袖(りょうしゅう)を経験したし、旧大蔵族として財政投融資や郵政民営化などの政策を打ち出すなど、政治家としての顔がはっきり見えた。超党派議連の会合に臨む自民党の小泉進次郎筆頭副幹事長=2018年7月12日、国会 では、メディアが祭り上げる小泉進次郎がいったい何をしたのか。まったくバカげた話である。自民党総裁選の低調ぶりは、国の停滞も呼び込んだに等しい。 政治はしょせん権力闘争である。その権力闘争もできない自民党に未来はないだろう。

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    名門派閥に泥塗った岸田氏 「首相禅譲」の望みは不出馬で絶たれた

    。 一方、安倍首相の有力な対抗馬とみられていた岸田文雄政調会長は、結局不出馬となった。岸田氏は「今の政治課題に、安倍首相を中心にしっかりと取り組みを進めることが適切だと判断した」と不出馬の理由を語った。 当初、岸田派「宏池会」内は、若手を中心に出馬を促す「主戦論」と、ベテランを中心に今回は出馬せず、次回の総裁選で安倍首相からの禅譲を目指す「慎重論」で割れていた。そのような状況の中で、岸田氏は総裁選に出馬するかを慎重に検討してきた。 結局、自民党内に「安倍首相は余人をもって代え難し」という「空気」が広がる中、勝機が全く見えないことから、勝てない戦を避けて、安倍首相からの将来の「禅譲」に望みを託すことに決めた。 岸田氏が領袖(りょうしゅう)を務める宏池会は、吉田茂元首相の直系の弟子である池田勇人元首相によって創立されて以来、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一と4人の首相を輩出し、河野洋平、谷垣禎一と野党時代の総裁も2人出している。経済政策通の池田氏と、彼を取り巻く官僚出身議員を中心につくられ、「軽武装経済至上主義」を掲げて、高度経済成長を成し遂げた。長く自民党長期政権の中核を担ってきた伝統から、「保守本流」の名門派閥とみなされてきた。自民党総裁選挙への不出馬を発表する岸田文雄政調会長=2018年8月24日(春名中撮影) 自民党が下野していたときも、野田佳彦政権(旧民主党)が実現した「税と社会保障の一体改革」の民主・自民・公明の「3党合意」を主導したのは、自民党の谷垣総裁(当時)だった。経済通がそろう宏池会で育った谷垣氏は、若手のころから財政再建の必要性を訴える「財政タカ派」のリーダー的存在であった。総裁時代には、民主党政権のマニフェスト政策の完全撤回を要求する「強硬路線」を突き進んでいたが、消費増税の必要性には理解を示していた。 谷垣氏は、野田首相と極秘会談し、消費増税について「協調路線」にシフトした。民主党と自民党は、社会保障政策の考え方が大きく異なっていたが、考えの異なる点については「社会保障制度改革国民会議」を設置して議論することを提案するなど、谷垣総裁は野田首相に「助け舟」を出したのである。 国会論戦では、かつて「自社さ連立政権」時代に一緒に税制改革に取り組んだことを例に挙げて、「あなたたちの先輩は、税制改革実現のためにもっと汗をかいていた」と、民主党を厳しく諭し、合意形成に導いた。 結局、3党による消費増税のコンセンサスが形成されることになり、民主党の分裂騒ぎがありながら、消費増税関連法案は圧倒的多数で可決された。実に国会議員の約8割が賛成する「大政翼賛会」並みの大規模な合意形成を実現した立役者が、谷垣総裁だったのだ。 だが、「税と社会保障の一体改革」は第2次安倍政権の登場後に頓挫した。安倍首相は最初の組閣・党役員人事で、谷垣前総裁を法相、伊吹文明元財務相を衆院議長、石原伸晃前幹事長を環境相に起用するなど、3党合意を主導した谷垣執行部の幹部を経済政策「アベノミクス」の意思決定から排除したのである。 宏池会のホープだった岸田氏を外相に起用したのも、安倍首相が岸田氏を「盟友」と信頼する一方で、財政再建派として警戒し、アベノミクスに関与させない意図があったかもしれない。 逆に、安倍首相は3党合意から外されていた麻生太郎元首相を副総理兼財務相に、甘利明氏を経済再生相に起用した。また、経済学界では少数派にすぎなかった「リフレ派」の学者や評論家たちが、首相官邸に経済ブレーンとして招聘(しょうへい)された。アベノミクス「狂騒」の後 安倍首相は、明らかに3党合意には冷淡だったといえる。3党合意で決まっていた消費増税は、2014年4月の5%から8%への引き上げこそ予定通り実行したが、10%への引き上げは2度も延期を決断した。 また、3党合意では、増税分で得られる14兆円の新たな財源については、財政再建に7・3兆円、社会保障関連費に2・8兆円、基礎年金の国庫負担引き上げに3・2兆円と使途が決められていた。 だが、安倍首相は19年10月に、延期されてきた消費増税を予定通り実行する代わりに、その使途を広げて「教育の無償化」に充当する意向を示した。そして、その財源は財政再建に充てる予定の財源を削って捻出するとした。これは、「財政再建を放棄して新たなバラマキをする」という宣言だといえる。安倍首相は「3党合意」を事実上ほごにしたのだ。 安倍首相がアベノミクスを力強く推進し、「狂騒」といっても過言ではないほどの高い支持を得た一方で、3党合意が次第に無力化していったとき、宏池会領袖の岸田氏は何をしていたか。12年12月から17年8月まで、戦後では在職期間が歴代2位となる長期にわたって外相を務めたときはもちろんのこと、その後政調会長に転じてからも、岸田氏が明確に「アベノミクス」を批判したのを聞いたことがない。 前述の通り、岸田氏は総裁選不出馬を表明し、「今の政治課題に、安倍総理を中心にしっかりと取り組みを進める」と宣言した。「今の政治課題」に、経済財政政策や社会保障政策は当然含まれる。 かつて、宏池会が中心となって実現した「税と社会保障の一体改革」の3党合意をほごにして進められているアベノミクスに、挙党態勢で全面的に協力すべきと、岸田氏は主張したのである。 岸田氏は、本音では安倍政権下で財政再建が遅れていることについて、いろいろと思うことはあるはずだ。だが、安倍首相からの「禅譲」を期待して、それを封印し続けているのだろう。しかし、岸田氏の思いに対して、安倍首相は冷淡である。自民党の地方議員研修会後の懇親会で談笑する岸田政調会長(左)と安倍首相=2018年4月、東京都内のホテル 岸田氏の総裁選不出馬表明が、安倍首相の出身派閥である細田派、そして麻生派、二階派が支持表明した後になったことは、岸田氏の迷いを示している。だが、安倍首相側から「いまさら支持するといわれても遅すぎる」と言われてしまった。総裁選後の人事で岸田派が冷遇される可能性が出てきた。 戦後政治の歴史を振り返れば、かつて宏池会会長だった前尾繁三郎元衆院議長が、1970年の佐藤栄作元首相による佐藤4選の総裁選で、「人事での厚遇」の密約を理由に不出馬を決めたが、結果的に佐藤氏に約束をほごにされ、派内の反発を買って宏池会会長の座を大平正芳元首相に譲らざるを得なかったという、「宏池会会長交代事件」があった。岸田氏も、総裁選後の人事で冷遇されれば、首相の座を禅譲してもらうどころか、派閥の領袖の座から引きずり降ろされるかもしれない。 岸田氏がアベノミクスに対する批判を封印し、全面協力を決めたことは、単なる一人の政治家の個人的な判断を超えた、深刻な影響を今後の日本政治に与えかねない。 安倍首相は常々、「アベノミクス、この道しかない」と主張している。しかし、筆者はこれまで、一貫してアベノミクスを徹底的に批判してきた。アベノミクスとは、実はつぎ込むカネの量が異次元だというだけで、実は旧態依然たるバラマキ政策である。アベノミクスの円高・株高で恩恵を受けるのは、業績悪化に苦しむ斜陽産業ばかりで、新しい富を生む産業を育成できていないからだ。 政権発足から6年になろうとしているが、いまだに政権発足時の公約である「物価上昇率2%」は実現できず、経済は思うように復活していない。バラマキ政策とは「カネが切れると、またカネがいる」だけで、効果がさっぱり上がらないものだ。アベノミクスも、異次元緩和「黒田バズーカ」を放って、効き目がなければ、さらに「バズーカ2」を断行し、それでも効き目がないのでマイナス金利に踏み込んでいる。補正予算も次々と打ち出されている。まさに、「カネが切れるとまたカネがいる」の繰り返しではないか。昔ながらのバラマキ政策と何も変わらない。ただ、そのカネの量が異次元というのが、アベノミクスの本質であるということだ。 そして、なにより問題なのは、「アベノミクス」という安倍首相の名前をつけた経済政策であるため、その間違いを認められなくなっていることではないだろうか。例えば、日銀は7月31日の金融政策決定会合で、「フォワードガイダンス」と呼ばれる将来の金融政策を事前に約束する手法を新たに導入し、「当分の間、現在の極めて低い長短金利の水準を維持する」こととした。批判を許さない空気 しかし、今回の政策変更の真の目的は、「金融緩和の副作用」を和らげることだという。インフレ目標である物価上昇率2%の達成が早期に難しくなり、金融緩和の長期化が避けられないことから、金融機関の収益の低下や、国債市場での取引の低調といった副作用が生じているとの声が高まっており、これに日銀は対応せねばならなくなったのである。 今回、2%物価目標について、物価上昇率見通しを引き下げたことで、少なくとも2020年までは2%目標を達成できそうにないことが明らかになった。要するに、物価目標は事実上放棄されたということである。これは、日銀の実質的な「敗北宣言」のように思える。 ところが、黒田東彦(はるひこ)日銀総裁は「『長短金利操作付き量的・質的金融緩和』の持続性を強化する措置を決定した」と記者会見で述べ、あたかも新たな手を打ち出したかのように見せようとした。「異次元の金融緩和」がより強化されるという印象を与えようとしているのだ。 要するに、日銀は詭弁(きべん)を弄(ろう)してでも、かたくなに「敗北」を認めようとしないのである。そして、日銀だけではない。多くの政治家や学者、評論家の口から出る、首相に恥をかかせないためのさまざまな詭弁が横行している。例えば、単に人口減で労働力が減っているだけなのに「人手不足は経済成長しているからだ」と言ったり、派遣労働者が増えているだけなのに、雇用が拡大していると強弁するなどしている。 それは、アベノミクスという「首相の名前」がついた政策であるために、その過ちを認めることは、首相に恥をかかせるからではないだろうか。これでは、神格化された独裁者を守るために、都合よく事実が曲げられる、どこかの全体主義国家の「個人崇拝」と変わらないように思える。 そして、財政再建の必要性を認識し、明らかにアベノミクスに対して批判的であるはずの宏池会領袖の岸田氏が、言いたいことを封印してアベノミクスへの無批判な支持を表明した影響は大きい。安倍首相の軍門に下ったような印象を国民に強烈に与えることになり、アベノミクスに対する「批判を許さない空気」を、一挙に日本社会全体に拡散することになってしまったのではないだろうか。 だが、いくらアベノミクスへの批判が許されない「空気」が広がっても、「カネが切れたら、またカネがいる」のバラマキ政策であることは間違いないのだから、いつまでも続けられるわけがない。ましてや、その規模が異次元であれば、その被害も甚大なものとなろう。安倍政権は、何が何でも東京五輪までは経済を維持しようとするだろう。政治家や官僚、学者、評論家、メディアは、それに疑問を感じても、物申すことなくアベノミクスを礼賛し続けるのだろうか。だが、五輪後には必ずや大きな反動がやって来る。株価の下落を示す掲示板=2018年7月、東京都内 その時、アベノミクスを支持していた人たちは、安倍首相とともに総退陣していただくしかないだろう。本来であれば、「税と社会保障の一体改革」の3党合意を推進し、財政再建に取り組むはずの宏池会が、アベノミクス後を見据えた政策スタンスを掲げるべきである。だが、派閥領袖の岸田氏自身が「アベノミクスを支える」と宣言してしまっている以上、安倍首相と心中するしかなくなってしまうだろう。 アベノミクス後の経済政策は誰が担い、どんな政策になるのだろうか。ただ、実際に起こることはそれどころではなく、日本は経済的にただの焼け野原のようになり、政策がどうだと論じる余裕などなくなるのかもしれない。 さまざまな政治体制の中で、民主主義だけが持っている利点は、「学習」ができるということである。民主主義には多くの政治家や官僚、メディア、企業人、一般国民などが参加できる。選挙などのさまざまな民主主義のプロセスにおいては、多様な人々による、多様な考えが自由に示され、ぶつかり合う。時には、為政者が多くの国民の反対によって、自らの間違いに気づかされることがある。一方で、国民自身が自らの誤りに気づいて、従来の指導者を退場させて、新しい指導者を選ぶこともできる。 他方、民主主義の対極にあるのが全体主義であろう。よく、「国家の大事なことはエリートが決めればいい。民主的な選挙に委ねるのは間違い」という主張があるが、正しいとは思わない。エリートは自らの誤りになかなか気づかないものである。たとえ誤りに気付いても、素直に認めない。いや、認めようとしない。データや文書を改竄(かいざん)するなどして、それをなかったことにしてしまう。 そして、エリートに対する批判を許さず、エリートへの「個人崇拝」を国民に求めるようになる。エリートを批判する者が現れれば断罪する。しかし、そんな全体主義は長くは持たない。間違いを間違いではないように操作し続けても、いずれつじつまが合わなくなって、体制は不安定化する。 全体主義では、エリートの失敗を改めるには、政治や社会の体制そのものを転覆するしかない。それは、大変なエネルギーを必要とするし、国民の生活は崩壊してしまう。かつての共産主義国など、エリートがすべてを決める全体主義の国はほとんどが失敗したが、当然のことである。 何度でも強調するが、民主主義の最も良いところは、すべての国民がお互いに批判できる自由があり、間違いがあればそれを認めることができることだ。多彩な人たちの多様な考え方が認められているから、一つの考えが失敗しても、また別のアイデアが出てくる。政治や社会の体制を維持し、国民の生活を守ったまま、為政者の失敗を修正できるのである。 アベノミクスという首相の個人名がついた政策が、「批判を許さない空気」を社会に広げていくことで、戦後日本が守ってきた民主主義が崩壊しないことを祈りたい。

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    「アベ栄えて国滅ぶ」面従腹背の自民党議員よ、今こそ声を上げよ

    が及ぶと考えた結果、現在のような「安倍一強」になっているだけではないのか。 国民のために尽くすことが政治家としての最大の任務だと考えるのであれば、そして自民党がその名が示すように自由と民主主義を尊重する政党であるというのであれば、総裁選に打って出る候補者がもっと出現し、かつ活発な政策論議が行われなければおかしい。 少なくとも、一人でも多くの総裁候補が現れ、政策論争が展開されるのであれば、自民党員だけではなく、一般国民の中にも自民党の政策に関心を示す人が増えるはずだ。 だが、現状は首相自身がそのような政策論争を極力避けているようにしか見えない。それどころか、政策論争には関係なく、総裁選で圧勝すべく議員に「誓約書」を書かせることばかりに専念しているようだ。 安倍首相は、総裁選での勝利は間違いないと言われているにもかかわらず、なぜそこまで圧勝することにこだわるのか。その理由はひとえに森友・加計疑惑を過去のものとして葬り去りたいからだろう。自民党総裁選の立候補者討論会に臨む安倍晋三首相(左)と石破茂元幹事長=2018年9月14日、東京都千代田区・日本記者クラブ(納冨康撮影) しかし、政策論争抜きで単に圧勝を目指す首相の姿勢は、国民をしらけさせるだけである。だとしたら、総裁選によって政治家としての命は長らえるであろうが、自民党という政党は国民からますます遠ざかってしまうに違いない。 そして、そんな首相をリーダーの座に据えるわが国の国力は低下の一途をたどるだけではないだろうか。要するに、「アベ・シンゾウ」を守るために自民党、あるいは日本全体が犠牲になっているとしか思えないのである。

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    安倍晋三vs石破茂、結局は森vs青木 だからつまらん

    共産党)の筆坂秀世氏(70)らが、なぜ総裁選がつまらないのかについて語り合った。村上:前はもっと今の政治に怒りがあったんだけど、最近は総裁選と聞いても、カリカリすら来ないんだよ。興味を失った。自民党員のなかでは安倍支持が80%というけど、そんな高い数字が示すような熱気なんて国民の間にまるで感じないよ。筆坂:ホントそう。国民の関心はほとんどゼロ。村上:自民党総裁選というのは、次の日本を背負っていく人を選択する選挙なんだよ。どうしてこうなった。筆坂:総裁選は自民党にとって活力の源でしたよ。派閥が健在だった時代は、派閥の力を試す場だった。派閥の領袖こそが本来は総裁選を戦う候補のはず。 だけど、今の自民党の派閥トップで総裁狙っているの何人いる? 細田(博之)さんなんてまるっきり狙っていない。あれは今でも実質、森(喜朗)派ですよ。細田派のある議員から聞いたけどね、今でも森さんは派閥の会合にときどき顔を出すんだけど、そのときが一番空気がピーンと張り詰めるんだって。ふだんは緩んでるのに。平野:いまだに“森一強”なんですよね。筆坂:“東京2020一強”なんだよ。村上:そうそう。平野:そもそも森政権を作ったのは誰だって話になるからやめましょう(笑い)。村上:オレかっ!筆坂:いやいや、そういうことじゃなくて。二階(俊博)さんだって派閥のトップだけど、総理を目指していない。幹事長を握っていればそれでいいわけで。村上:石原(伸晃)派だって、相変わらず山崎(拓)派だよ。竹下派が復活したけれども、あれも青木(幹雄)派だ。筆坂:そう、青木派。安倍vs石破だって結局は森vs青木でしょう。 私は自民党の責任は重大だと思っているの。政権争いする野党がいないんだから、疑似政権争いを自民党の中でやるしかないのに、それを放棄したら政治に活力なんか生まれない。森喜朗首相(当時)と青木幹雄官房長官(左)=2000年5月、東京都(小松洋撮影)平野:今回の総裁選は面白くなりそうだったんです。岸田(文雄)さんは憲法九条を守ると言っていたから、自民党内で議論が起きるかと期待していたんですが、結局、安倍さんに折伏された。宏池会はこれでお終い。村上:岸田は禅譲を狙ったんだよ。筆坂:禅譲なんかないよ。権力の座というのは闘って奪い取るものなんだよ。村上:その通り。今まで禅譲なんて一度もなかった。平野:岸信介さんは日米安保改定に協力する見返りに、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作に順に政権委譲すると約束した。確認文書に児玉誉士夫が裏書きしてね。筆坂:あった、あった。だけど、そんなのどっかいって後継は池田勇人さんになった。佐藤栄作さんも福田赳夫さんに禅譲しようとしたけれど、角福対決で角さんが勝ったわけじゃない。平野:禅譲なんて幻ですよ。関連記事■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 進次郎氏の嫁探し 条件の一つは「昭恵さん的な発言をしない」■ 平野貞夫氏が安倍首相を「内乱予備罪」で告発した理由■ 石破茂氏の妻 最初のプロポーズを断った過去とその理由■ 政官財マスコミ 華麗なる安倍人脈大図解

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    安倍首相への評価「嫌われるほど大した政治家ではない」

    、田中角栄が典型的だけど、日本列島改造みたいに積極的に何かをやろうとするために時には悪役も引き受ける政治家がいた。幼い頃から新潟が雪に埋もれて忘れ去られていることへの怨念があって、好きな人はものすごく好きだし、嫌いな人はめちゃくちゃ嫌う。安倍の祖父の岸信介だって、60年安保で全学連に「殺す」って言われて、実際に右翼には太ももを刺されるほど憎まれたわけでしょう。 だけど、安倍の場合は、自慢できるのは血統ぐらいしかなくて、はっきり言って嫌われるほど大した政治家ではない。だから何かで底上げしてやらないと、憎む対象にすらならないんだ。中川:なるほど。素っ頓狂な昭恵夫人に、お友だちの籠池理事長と教育勅語をセットにして、ようやく嫌いになれるってことですね。「安倍嫌い」こそ最強の味方?呉:金丸(信)の金の延べ棒や田中角栄のロッキードなんかに比べたら悪行のスケールが全然小さいから、“忖度”みたいな茫漠した周囲の空気も含めて「安倍」にしないといけない。中川:「ヒトラーの再来」とか言うけど、そんなわけないだろうって。呉:小泉(純一郎)ならまだしも、安倍にヒトラーほどの大衆扇動能力があるわけがないだろう。中川:盛り上げるためにとにかく巨悪に見せかけようとするわけですよ。国会前で太鼓叩いてドンチャン騒ぎして。こいつらより安倍のほうがまだマシじゃんって思っちゃう。呉:あの人たち、昔と言っていることがまったく同じで、「軍靴の響きが聞こえてくる」とか、それこそ60年前、朝鮮戦争の頃から言っているけど、どんどん戦争から遠ざかっているじゃないかって。中川:デモの力で政治を変えようと言い続けて、何の成果も出ていない。あの、どうしようもないほどバカな杉田水脈のLGBT発言(*)にしても、安倍はLGBTを差別する発言なんてしたことないのに、「安倍の弟子っぽいヤツが言っているぞ」と無理やり反政権デモに利用している。何も学ばず同じことを続けているという意味では、彼らのほうが保守かもしれない。【*自民党の杉田水脈・衆院議員が月刊誌『新潮45』8月号で、「同性カップルは生産性がない」などと寄稿し批判を浴びた】「お前が国難」「安倍首相を応援しよう」のプラカードを掲げる聴衆=2017年10月18日午後、東京都豊島区(松本健吾撮影)呉:政権だってこんなの敵とも思っていない。むしろ日本は意見が自由に言える国だというアピールになると思っているんじゃないか。中川:安倍ぎらいこそ安倍一強の最強の味方ですね。【PROFILE】◆くれ・ともふさ:1946年生まれ。評論家。日本マンガ学会理事。8月に本誌連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)を刊行。◆なかがわ・じゅんいちろう:1973年生まれ。ネットニュース編集者。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)など。関連記事■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 政官財マスコミ 華麗なる安倍人脈大図解■ 進次郎氏の嫁探し 条件の一つは「昭恵さん的な発言をしない」■ 美人妻が語る石破茂氏 肩身が狭そう、娘に冷たくされる■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題

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    なぜ今、サマータイム導入なのか

    最高気温が40度を超えても、さほど驚かなくなったのは気のせいか。こんな猛暑の国で2年後には真夏の五輪が開催される。さすがの政府も、サマータイムの導入を本気で検討し始めたようだが、国民生活への影響が極めて大きいこの議論を拙速に進めてホントに大丈夫か?

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    サマータイムが「東京五輪のレガシー」とは安易すぎやしないか

    舛添要一(前東京都知事) 2020年東京五輪組織委員会の森喜朗会長が、暑さ対策として時間を2時間早めるサマータイムの導入を提案し、安倍晋三首相に直談判したことから、大きな話題になっている。賛否両論が沸騰しているが、今のところ反対論の方が多いようである。 それにしても、今年の夏の暑さは異常である。日本だけではなく、地球全体がそうであり、世界各地で山火事や熱中症による被害が多発している。 2年後の東京五輪でも同じような猛暑となれば、マラソンや競歩など、屋外競技は選手にとっても観客にとっても過酷なものとなる。インターハイ出場の陸上競技選手経験者としては、参加したくない大会である。 今年のような猛暑でなくても、日本の夏は高温多湿でスポーツに適していない。私は若いころ、欧州諸国に留学したが、地中海性気候で夏は高温でも乾燥しており、木陰に入ると涼しく、エアコンなどは必要なかった。日本で言えば北海道のような気候である。もっとも、北海道も欧州も、最近の猛暑にエアコン需要が高まっているらしい。 身体が欧州の気候に順応して帰国したので、日本の夏の高湿度は耐えがたかった。40年前の話である。 その後の地球温暖化を考えると、事態はもっとひどくなっており、夏休みに観光で日本を訪れる欧州の人々は驚いているのではないか。フランス人観光客は「日本は熱帯か」と嘆いていたが、私の個人的体験から言うと、いまアジア大会が行われている熱帯のジャカルタの方が過ごしやすい。 実は、2014年10月に、森会長は講演で「一番暑いときにマラソンをしたら倒れる人がいっぱいいるんじゃないか」と懸念を示し、安倍首相に会った際に「思い切って2時間くらいのサマータイムをやったらどうか」と伝えたという。これに対し、安倍首相は「なるほど、考えておく。しかし役所は反対するんだよな」と答えたと報じられている。 このサマータイム提案に対しては、反対意見が続出したという。当時、私は都知事であったが、この森発言報道の記憶はないし、森会長とサマータイムについて議論したこともない。2018年8月、首相官邸を訪れた東京五輪・パラリンピック組織委の森喜朗会長(中央左)らと談笑する安倍首相(同右) ただ、マラソンが厳しい気象条件下で行われることについては危惧しており、朝5時よりも前にスタートすべきだと周囲にはいつも話していた。しかし、2016年6月に都知事を辞任したので、その後この件について、後任の小池百合子知事がどのような采配をしたかはつまびらかでない。 とまれ、夜明けとともにマラソンがスタートということについては、森サマータイム案も私の案も同じことになるが、実は大きく異なる点がある。「森案」と「舛添案」の違い 第一は、菅義偉(よしひで)官房長官が言うように、サマータイム案は「国民の日常生活に影響が生じ、大会までの期間が2年と限られている」という問題がある。私は、国際大学グローコムの教授時代に、コンピューターの2000年問題に取り組んでいたが、技術的に大変な難問であり、多くの時間とコストを費やしたことをよく覚えている。 サマータイムとなると、各家庭で時間合わせをする手間だけでも大変である。だが、それに見合うだけのプラスが得られるかということになると、否定的にならざるを得ない。 私が欧州に滞在していた40年以上前は、今ほどコンピューター社会になっておらず、IoT(モノのインターネット)などの発想もなかった。サマータイムを経験しながら、要するに、電気のなかった昔のように、夜明けとともに起きて仕事をするのだと思ったものである。夜も早く就寝するので、照明用の電気代が節約できてよかった。 また、長期休暇が日常化している欧州では、仕事を終えた後、明るい夕方をレジャーなどに有効に使えるので、楽しい思い出もたくさんできた。手間といえば、家に2、3個あるアナログ時計の針を動かすだけであった。 しかし、今では家の中にあるデジタル化された家電製品の時間調整だけでも大変な作業である。社会全体では、交通機関や生活インフラなどの時間調整に膨大なコストがかかるであろう。 サマータイムの本家本元の欧州では、健康障害などのマイナスが大きく、省エネ効果もほとんどないということで、廃止論が高まっている。コンピューター化、エアコンの普及によって、私が若いころのような「電気代の節約」という根拠がなくなったと言ってもよい。 このように考えてくると、サマータイム導入に軽々に賛成するわけにはいかなくなる。 第二の問題は、ゴールデンタイムを狙ったテレビの放映時間である。マラソンのスタートを、東京で午前7時にすると、ニューヨークは午後6時、ロサンゼルスは午後3時、ロンドンは午後11時開始になる。 もし、2時間早めて午前5時にするなら、それぞれ、午後4時、午後1時、午後9時となる。どちらがよいかは、各地の視聴率にもよりけりであるが、国際オリンピック委員会(IOC)が午前7時に決めたのは、その要素を勘案した上でのことだと思う。2018年8月、猛暑の中、皇居(こうきょ)の近くを走るランナー。政府などが暑さ対策でサマータイムを話し合っている 1984年のロサンゼルス五輪から、商業主義を五輪に取り入れたため、今では五輪収入の半分を放映権に依存するようになっている。極論すれば、競技日程もテレビ局の都合次第ということになる。 森会長のサマータイム案だと、東京が午前5時になっても、ニューヨーク午後6時、ロサンゼルス午後3時、ロンドン午後11時は、そのままである。私の案では、さらに2時間の時差が生じてしまう。IOCとのトラブルを避けようとすれば、森案の方がよいことになる。ところで小池さんとの関係は? 7月27日、森会長は安倍首相を首相官邸に訪ね、「2020年に限ってでも良いのでサマータイムを導入する法改正を検討してほしい」と申し入れた。その後、8月7日に、森会長は遠藤利明組織委副会長、林芳正文部科学相、鈴木俊一五輪相らと官邸を再訪し、安倍首相に正式に申し入れを行った。これに対して、安倍首相は自民党内で検討するように指示したという。 申し入れの席で、森会長は「地球環境をどう維持するかという大きな見地に立ち、五輪を日本のレガシーとして使ってほしい」と述べたという。27日の提案以来、サマータイム反対論が続出したため、「五輪のレガシー」というロジックを使ったのであろうが、やはり「五輪の暑さ対策」のためという「にわか仕立て」の印象がぬぐえない。 「2020年限り」から一気に「レガシー」、つまり永続的にという飛躍には多くの国民がついていけないのではあるまいか。しかも、先述したように、欧州では廃止論が強まっているという報道が相次ぎ、サマータイム導入論は風向きが悪くなっている。 ところで、五輪反対派を説得するために、これまでさまざまな論理が使われてきた。1964年の東京五輪のように、戦後復興、経済成長をうたうのは、発展途上国で開催する場合の常套(じょうとう)手段であった。ところが、開催費用の高騰で先進国以外の開催が難しくなると、この論理は使えなくなる。そこで、2012年のロンドン五輪で「レガシー」というスローガンが導入されたのである。 私は、都知事のとき、海外で「1964年は新幹線を残した。2020年は何をレガシーとして残すのか」という質問をよくされたが、私は「水素社会」だと答えていた。しかし、電気自動車が主流になり、水素自動車の普及が遅れている今日、この答えのままでよいのかと自問している。 このように、「レガシー」という言葉で五輪の目的を定めるのは、実は難しいのである。新幹線や首都高速道路といったハードの公共財については分かりやすいが、サマータイムをレガシーとするという考え方は安易にすぎる。2018年7月、東京五輪・パラリンピックのマスコットデビューイベントに出席した森喜朗組織委会長(左)と小池百合子東京都知事(飯田英男撮影) また、8月7日の首相官邸での森・安倍会談をテレビニュースで見ていて、実は不思議に思ったことがある。それは、小池知事が同席していなかったことである。「五輪の暑さ対策」という重要な問題を首相と正式に議論するのに、開催都市である東京の知事が参加しないでよいのであろうか。 森・小池の関係が悪いのか、小池知事がサマータイムに反対なのか、理由は分からないが、サマータイムについて小池知事の考えが全く聞こえてこない。組織委と東京都がこのような関係で、果たして東京五輪は問題なく実行できるのであろうか。 私が都知事のときは、意見の相違があると、正面から森会長に直言した。森会長は「生意気な奴だ」と思ったであろうが、理のある意見はきちんと受け入れてくれた。 五輪も人間が運営するものである。2020年大会の成功のためにも、組織委と東京都、森会長と小池知事の意思疎通が円滑になることを期待している。

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    デメリットはあれど、サマータイムはやはり導入すべきである

    伊藤元重(学習院大学国際社会科学部教授) 日本にサマータイムを導入するべきである、という議論は随分昔からあった。議論が少しは盛り上がることもあったが、その都度賛成と反対のさまざまな議論が出てきて、いつの間にか議論がしぼんでしまう。国内に賛成と反対の意見があり、どちらもそれほど強力な意見ではない時、今の制度を変更することは難しい。サマータイムの制度とはそういったものなのかもしれない。 後で理由を述べるように、私は日本がサマータイムを導入することには賛成の立場だった。今でもそうだ。ただ、経済学者としては、サマータイムの是非よりももっと重要な政策問題がたくさんあった。マクロ経済政策、財政問題、社会保障制度、貿易摩擦、規制改革などの問題だ。そうした問題を差し置いて、サマータイムの論議に情熱をつぎ込むことはできない。 これは賛成の立場であっても反対の立場であっても、同じことだろう。日本にとって最重要な課題でもない中で、メリットとデメリットがある制度変更を、あえて断行するということにはなりにくいのだ。 そうした中で、最近の異常とも言える猛暑と2年後に迫ったオリンピックの開催がきっかけとなり、日本でサマータイムの問題が再度盛り上がっていることは興味深い。この論議の行方は分からないが、なぜ私がサマータイムに賛成の立場か、改めて整理してみよう。 私が初めてサマータイムを経験したのは、23歳の時、留学先の米国であった。その時の印象は、不思議な生活感覚であるということだ。朝から夕方6時ぐらいまで忙しく大学院生の課題をこなして、夕方になってもまだ日が高いところにある。それから9時近くまで明るい。友人とバーベキューパーティーをやったり、公園の中をゆっくり散歩したりした。なんだか1日が倍になったような得をした気分だった。 夏の日の出は早い。それに合わせて起きるように生活を変える。日の出とともに起きるような生活をすれば、明るい日差しの中で夕方の時間を有効に使えるし、それだけエネルギーの節約になると、その時に知った。確かに夕方以降の照明の電気コストが節約できるようだ。「これがサマータイムの時計よ」と子供が指差す1時間早い時計(右)と標準時の時計=2004年7月21日、札幌市 日本の猛暑への対応ということでは、サマータイムの制度は効果がない、という意見もある。朝早くから活動を開始するのはよいとして、夕方になってもまだ日が高く、冷房費がかさむのでは効果が少ないという意見だ。そのような面はあるかもしれない。ただ、サマータイムは7月と8月だけではない。米国のように3月の中旬から11月初旬までとするなら、期間全体としての省エネ効果は大きい。日本は先進国か、途上国か 日本が地球の環境問題にどのように取り組むのかという姿勢を明確にするためにも、サマータイムを導入することのメッセージは大きい。オリンピック開催のレガシーとすることができるのなら、それも好ましいことである。 サマータイムにすると、日が高い分だけかえってダラダラ長く働くことになる、という否定的な議論もある。しかし、働き方改革を真剣に実行しようとするなら、むしろサマータイムをうまく活用して、日の高いうちに仕事とは別の活動をするというライフスタイルを模索すべきではないだろうか。 ところで、世界の先進国のほとんどはサマータイムの制度を採用している。日本はその例外であると言ってもよい。他の国がやっているので日本も採用すべきであるというのは、必ずしも説得力のある意見ではない、と思われるかもしれない。 ただ具体的にみれば、メリットとデメリットが共存する中で、結果的に大半の先進国が採用しているということの事実は重い。多くの先進国が結果的にサマータイムを選択しているのには、それだけの理由があると考えるべきだ。 アジアではどの国もサマータイムを採用していない。だからアジアモンスーン気候の日本も採用する必要はない、という議論がある。でもサマータイムを採用していないのは、アフリカや南米など途上国や新興国も同じであり、採用するか否かの線引きは先進国か途上国かにあるようだ。 最近は、欧州などでもサマータイムをやめるべきだという意見もある。ただ、その議論を積極的にしているのはフィンランドなど北の国のようである。白夜があるような国ではそうした意見が出るのはもっともだが、これが先進国の主流の意見とも思えない。北欧デンマークの首都コペンハーゲンで、人魚姫の像を眺めて夏の一日を楽しむ観光客。EUではサマータイム廃止が検討される=2017年8月(共同) また、サマータイムに反対する意見の中には、電車の時刻表や情報システムのソフトウエアなどを毎年2回変えることのコスト負担が大きいというのがある。確かにそうしたコスト負担はあるだろう。ただ、欧米ではそうしたコストを取り込んでサマータイムの仕組みが回っている。 コンピューターの調整が難しいのでサマータイムの導入は難しいという議論を聞いていると、レジのシステムの対応が難しいので、1%ずつ小刻みに消費税を上げるのは難しいという議論を聞いているのと変わらない。もっと言えば、システムの都合に制度を合わせるような議論である。これは正しい議論ではない。あるべき制度をまず議論して、それに合わせたシステム設計を行うという考え方でなくてはいけない。

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    サマータイム導入「2019年問題」で日本は大パニック?

    加谷珪一(経済評論家) 猛暑の中での開催が確実視される東京五輪の暑さ対策として、サマータイム導入論が急浮上している。サマータイムは過去、何度も議論の対象となったものの、導入が見送られてきたという経緯がある。サマータイムの導入について議論することは大いに結構だが、五輪の暑さ対策として、拙速に導入するというのはあまりにもリスクが大きい。 このところ酷暑ともいえる状況が続き、各地で熱中症の被害が相次いでいる。こうした中、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長は安倍晋三首相と会談、暑さ対策としてサマータイムの導入を要請した。これを受けて政府・与党内ではサマータイム導入の是非について議論が行われている。 サマータイムは、日照時間が長い夏季に限定して標準時よりも時間を進める制度で、欧米では広く導入されている。朝の涼しい時間帯を有効活用できるほか、外が明るい時間帯に仕事を終えられるので、個人消費も活発になるといったメリットがある。 今回は、こうした全般的なメリットを考えてというよりも、猛暑対策として涼しい時間帯を活用したいという部分が大きいと考えられる。 夏の期間だけ1時間もしくは2時間、時間を早めれば、ある程度の暑さ対策になるのは間違いない。だが、五輪という一大イベントのためということであればなおさらだが、想定されるリスクの大きさを考えると導入は見送った方が賢明だろう。 サマータイム導入に伴う最大のリスクは情報システムのトラブルである。 あらゆる情報システムは、何らかの形で時間を認識して作業を行っている。コンピューターのプログラムというのはすべて時間をベースに動いていると思ってよい。2011年6月、東京電力福島第1原発事故をきっかけに、企業で導入されたサマータイムで午前8時前に出社する女性(鳥越瑞絵撮影) だが、どのような方法で時間を認識するかはシステムによって異なっている。システム内部に時計機能があって、そこで時間をカウントするものもあるし、衛星利用測位システム(GPS)を使って時間を取得するシステムもある。サマータイムを導入する場合には、ある期間だけその時間を早め、その後、元に戻すという作業が必要となるので、時間をシフトする機能を実装していないシステムの場合にはシステム改修が必要となる。 日本では過去、何度もサマータイムが議論されてきたので、情報システムの中には、サマータイムに対応できるよう時間をシフトする機能をあらかじめ組み込んでいるものもある。だがすべてのシステムがそうではないため、いざ導入ということになった場合には、あらゆるシステムを検証し、必要なものについては改修を実施しなければならない。貧弱なインフラもリスク 現代では、複数の情報システムが互いに連携して動作しているので、一つのシステムが時間認識で不具合を起こすと、連鎖的にその影響が広がる可能性がある。既存システムの維持・管理の業務や新規のシステム構築業務に加えて、全システムについて夏時間対応の検証や改修を実施するのは、コスト的にも人員的にもかなりの負担となるだろう。 今、筆者は情報システムと述べたが、業務用の情報システムだけが改修の対象となるわけではない。家庭用の録画装置やエアコン、自動車に搭載されている各種機器類など、身の回りにある、ありとあらゆる機器類について対応が必要となる可能性がある。 家庭用機器の場合、時間がずれても致命的な問題にはならないので、一部の製品については利用者に諦めてもらうという選択肢もあるかもしれない。だが、そうはいかない製品も数多くあることを考えると、このリストアップだけでも大変な作業量だ。 しかも2019年には、天皇陛下の譲位に伴う皇太子さまの即位による改元が予定されており、システム会社はこの対応に追われている。ただでさえ人手不足で苦慮しているところにサマータイムも入るということになると、システム業界は相当な混乱となるだろう。 それだけではない。万が一、情報システムに不具合が発生した場合、社会や経済に対する影響があまりにも大きいという現実を見過ごすわけにはいかない。 東京は各種のインフラが貧弱であり、五輪開催時に大量に押し寄せる観光客をスムーズにさばけるのか心配する声も多い。こうした中で、システムの不具合による鉄道や航空機のダイヤの乱れなどが発生すれば、それこそ目も当てられない状況となる。 大きなリスクを背負ったとしても、得られるメリットが極めて大きければ、取り組む価値があるという考え方もある。だが、サマータイムによって得られる効果が限定的であることは、多くの人が実感しているはずだ。 酷暑となる日は、夜半過ぎになっても気温は下がらず、かなりの高温状態で日の出を迎えることが多い。1時間から2時間、時計の針を進めたとしても、競技中の平均気温を大きく下げることは難しいだろう。皇室会議により、譲位と即位、改元の日程が決まったこの日、皇居周辺に集まった大勢の観光客=2017年12月1日 一部では今回の議論をきっかけに、本格的にサマータイムのメリットについて検討し、恒久的な制度として導入を検討すべきという意見も出ているようだ。だが、サマータイムについては欧米でも賛否両論があり、総合的なメリットとデメリットを検討するには、相応の時間が必要となる。 今回のサマータイム導入が東京五輪の暑さ対策として浮上してきたのであれば、あくまで論点は五輪に絞った方が、議論は混乱しない。五輪の暑さ対策に的を絞り、抱えるリスクの大きさと得られるメリットを比較した場合、得られる結論は、導入見送りということにならざるを得ないだろう。

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    サマータイム導入はやはりデメリットが大きい

    力需給緊急対策本部によりサマータイムの導入が検討されたが、結局、見送られた。 そもそもサマータイムは政治家でもあり科学者でもあったベンジャミン・フランクリンが英国からの独立直後のアメリカの外交官としてフランスに滞在していた1784年、Journal de Paris誌に送った投書“An Economical Project for Diminishing the Cost of Light”の中で、人々が夏の間太陽のサイクルに合わせた生活を送れば、当時の照明の主力であったロウソクの使用量を減らして節約できるはずだと提案したことに起源があるとされている。記者会見する森喜朗会長(右)と御手洗冨士夫・有識者懇談会座長=2018年7月30日午後、福島県(共同) フランクリンの提案以降長らく実行には移されてはいなかったが、カナダオンタリオ州の現在のサンダーベイの住民が1908年7月1日にカナダの標準時より1時間時計の針を進め、世界に先駆けてサマータイムを実施した。一国単位では、第1次世界大戦中の1916年4月30日にドイツとその同盟国オーストリアが燃料不足対策を目的として実施したのが初めてであり、次いでイギリスやフランスが導入したのを契機に欧州に広がった。 アメリカでも1918年に導入したものの国民から不興を買い2年で廃止。しかし、やはりエネルギー資源節約を目的として第2次世界大戦中に再導入され、1986年の改正を経て現在まで続いている(アリゾナ州・ハワイ州等は不採用)。世界を見渡すと、現在、サマータイムを一部の地域ででも実施している国は、70か国以上あり、その多くは夏の間、日照時間が極端に長くなる中高緯度の北半球に集中している。「環境のため」は本当か それでは、現在の日本にサマータイムを導入することによるメリットやデメリットにはどのようなことが考えられるのだろうか。現時点では具体的にどのような形でサマータイムが企画立案されるのか確固とした情報がないという制約はあるものの、次の5つの論点について、原理原則から考え、検討することとしたい。(1)論点1:環境への効果 サマータイムはその着想から実際の導入に至るまで、エネルギーの節約が主眼にあった。日本においてもサマータイム導入の目的の一つは同様であり、起床時間を早めることで早朝の涼しい時間帯に活動すれば冷房も利用せずに済む上、夕方の明るい時間帯が長くなり、かつ日没から就寝までの時間も短くなることで、照明機器の使用を減らせるため、省エネルギー・温室効果ガス削減効果があるとされている。 例えば、環境省「地球環境と夏時間を考える国民会議」(平成11年5月)の試算によれば、年間約50万kL(原油換算)の省エネルギー・温室効果ガス削減効果があるとされている。しかし、東西に細長く伸びている日本では、東日本と西日本とで日の出・日の入りの時刻にズレが生じ、全国一律のサマータイム導入が馴染むのか疑問が残るし、節電や温室効果ガス削減効果については、日本は湿度が高く、日没後も蒸し暑さが続くため、帰宅後の冷房需要が大きく、勤務時間をずらしたとしても、節電効果は少ないと考えられる。 現代の日本においては、日照時間ではなく気温が電力の消費を大きく左右すると考える方が自然だろう。 実際、国立研究開発法人産業技術総合研究所安全科学研究部門井原智彦氏(当時)「夏季における計画停電の影響と空調(エアコン)節電対策の効果(第二報)」(2011年7月31日)によると、東京電力管内でサマータイムを想定した生活時間の前方1時間シフトの空調電力削減効果を試算したところ、業務用では確かに▲10%削減となるものの、家庭用では戸建住宅+23%増加、集合住宅+27%増加となり、合計では+4%増加との結果を得ているし、さらに、電力中央研究所社会経済研究所今中健雄氏「時刻、休日、連休シフトによる夏季ピーク負荷削減効果」(2011年4月6日)では、近年は昼間の特定の時間帯にピークがあるのではなく昼間全体が比較的高い電力需要で推移しているため、削減効果はピーク負荷の1%程度と誤差の範囲内に過ぎず、効果は少ないと結論付けるなど、環境へのプラス効果はゼロではないかもしれないもののほとんど存在しないものと考えられる。※画像はイメージです(GettyImages) しかも、後述するように、サマータイム推進派は効果の一つとして余暇活動の増加を挙げているが、そうなればその分余計に電力消費したがって温室効果ガスが増加することになるだろう。さらに、損得で言えば、サマータイムを導入すればそうでない場合よりも朝早く出勤し暑いさなかに帰宅することになるので、企業側はその分の光熱費を削減できるものの、家計では光熱費が余分にかかることになり、結局、企業が得、家計が損をすることになる。経営者団体がサマータイム導入を推進する理由の一端が垣間見られる。「外が明るいと消費が増える」のウソ(2)論点2:消費喚起効果 サマータイムの導入によって就業時間終了後明るい時間が2時間増えることになるので、娯楽・レジャー・外食などの機会が増え、それが消費喚起につながるとされている。第一生命経済研究所首席エコノミスト永濱利廣氏「不確実性の高いサマータイム効果」(2018年8月8日)によれば、日照時間の増加が名目家計消費にプラスに影響することで約7,532億円の経済効果があるとのことである。 しかし、少し考えれば分かることであるが、外が明るいので消費が増えるということは、外が暗い場合消費が減るということ意味している。そこで、総務省統計局「家計調査」により夏の間の家計消費額(夏1:6月から8月、夏2:7月から9月)と冬の間の家計消費額(12月から翌年2月)を比較したのが下図1である。 図1によれば、夏の取り方を変えても日照時間が短いはずの冬の消費額の方が多いことが分かる。さらに、図2は夏の間の平均消費性向と冬の間の平均消費性向を比較したものである。平均消費性向とは所得からどれだけ消費に回すかを示すもので、平均消費性向が高いほど消費意欲が旺盛であることを示す。次項図2からも日照時間が短いはずの冬の方が消費意欲が大きいことが分かる。つまり、日照時間が増えることで消費が増えるとは結論できない。 仮に永濱氏の分析の通り日照時間が延びることで消費額が増えるとの主張を認めるにしても、サマータイムを導入するより冬の間だけでも2時間ほど太陽が出ている昼間に休憩を与えてショッピング等の機会を与えた方がより効果的だろう。図1 夏と冬の消費額の比較(二人以上の世帯)(出典)総務省統計局「家計調査」より筆者作成 なぜなら、永濱氏の分析は日照時間と消費の関係を示したに過ぎず、日照時間が延びるのであれば別にサマータイムに限らずとも、冬の間であってもゴールデンウィークであっても違いがないからだ。また、就業時間終了後になにか余暇活動を行うにしても、サマータイムが導入されていない場合に比べて外気温が高いので、屋内での余暇活動が伸びたとしても屋外での余暇活動が減るので結局経済効果は相殺される。 さらに、夏の楽しみといえば、夜祭りや花火大会があるが、サマータイムが導入されれば、そうでない場合より開始時間を先送りせざるを得ないため、終わりの時間が遅くなる結果、門限や電車の時間の関係で早々に引き揚げざるを得ない人々が出てくる。穿った見方をすれば、それこそプレミアムフライデーの進化形であるシャイニングマンデーで月曜日は午前休を取りなさいということなのかもしれないが釈然としないものが残るのも事実である。(3)論点3:企業負担の増加 サマータイムの導入は正確には時計の針を一定時間だけ先に進めるというよりは、日本標準時に一定の時間を加えたり(開始時)、加えた時間を引いたり(終了時)する必要があるため、必然的にコンピュータプログラムの変更、サマータイム切替日における航空・鉄道等交通機関の運行ダイヤの調整、産業機械の時計の修正、一部交通信号機の調整等を惹起する。日照時間が短い冬は労働効率が落ちるのか? 環境省「地球環境と夏時間を考える国民会議」の推計によれば、こうしたプログラム修正によるコスト負担はハードウェア改修費(610億円)とソフトウェア改修費(420億円)の総額で1,030億円と試算されている。この試算は1999年当時になされたものでありコンピューターへの依存がさらに進んだ現代ではコスト負担はもっと大きくなっている可能性が高い。 実際、すでにサマータイムに対応済みのアメリカで2007年に省エネルギーのためサマータイムの期間を4週間延長したことに伴うシステム改修費用は3.5億ドルから10億ドルと見積もられている。 しかも日本にサマータイムが導入される場合、高度にコンピューターに依存した世界第3位の経済規模を誇る社会において、世界にも例を見ない2時間の繰り上げを無数のシステムに一から施さなければならないのであり、先の環境省の費用推計は、日米の経済規模の違いや、試算の前提と今回の想定の違いなどを割り引いたとしてもいかに過少推計であるかが理解できるだろう。 問題は企業の負担増だけにはとどまらない。もう一つの深刻な問題はたった一つのプログラムの修正がうまくいかなかっただけで全てのプログラムがストップし、経済・社会機能がマヒしてしまうことにある。世の中に存在するすべてのコンピューターやいろいろな機器に組み込まれたチップのチェックを完全に行い、しかも完璧に修正し得たことを誰が確認できるのだろうか。 さらに、現時点の計画に基づいて、システムを修正するには、来年5月に控える天皇陛下の代替わりに伴う元号の変更に対応しつつ、6月のサマータイム導入に間に合わせる必要がある。これはただでさえ過剰労働気味のシステム担当者の更なる労働強化をもたらすだけであろう。なお、「システム対応への支出が増えるからGDPにはプラス」との議論もあるが、これは無駄な公共工事でもGDPが増えるというのと同じ理屈であり、詭弁に過ぎない。図2 夏と冬の消費意欲の比較(勤労者世帯)(出典)総務省統計局「家計調査」より筆者作成(4)論点4:労働環境への効果 サマータイムの導入により、外が明るいうちに仕事を終わらせようと頑張った結果、一部企業では労働効率が上がり残業時間が減少したとの報告がある。もしそれが本当だとすれば、夕方には外が暗くなってしまう冬の間は労働効率が下がることになるはずである。 結局のところ、日照時間と労働効率に正の相関関係が存在するのであれば、夏だけ日照時間と労働効率を関連付けるのではなく、冬の間も日照時間と労働効率を関連付けるのが企業にとっては最適なはずであり、サマータイムに固執する必然性は薄い。また、日本の企業の多くはサマータイムを導入していないアジア諸国の企業との結びつきが強いので、残業時間が増えるだけとの批判には説得力がある。 結局、日照時間と労働効率に正の相関関係が存在し、自らに利益が多く及ぶと考える企業が個別に、労働者が個人で始業・終業時刻を変更できるフレックスタイム制の導入や、企業単位で始業時刻や終業時刻を早めたり遅くしたりできる繰り上げ出勤(退社)を採用するなど、働き方改革を進めればよいだけだ。しかも、サマータイムの導入で労働時間が増加するとすれば現在政府が進めている長時間労働の是正に反する結果となってしまう。本当にサマータイムは酷暑対策なのか(5)論点5:政策の目的と手段は整合的か そもそも今回のサマータイム導入の動きは、2020年に開催される東京五輪・パラリンピックの競技が灼熱の暑さの中実施されるのを回避したいとの思惑から発したものであるが、政策を評価する上では、政策の目的と政策の手段とが整合的か否かが重要となる。 つまり、国際オリンピック委員会との間で日本時間の朝7時以前にはマラソン競技を開始してはならないという取り決めがあるのなら別であるが、種々の競技開始時刻が朝の早い時間に前倒しできるのであればそれで対応すればよいだけであろう。しかも、競技によっては開始時間が前倒しされることにより、サマータイムが導入されない場合に比してかえって暑い環境下で競技が行われることになることも見逃せない。 そもそも、東京五輪・パラリンピックは建前上は東京都が責任を持つべき大会であり、極端な話、残りの46道府県には全く関わりのない話である。にもかかわらず、サマータイムなどという全国を巻き込む、場合によっては東京五輪・パラリンピックまでの時限立法的なその場しのぎの対応を是認できる国民はどれだけいるだろうか。 また、就業時間終了後様々な余暇活動に時間を費やすことで消費を喚起すると見込むことはそれが実現すれば睡眠不足をもたらすことになるし、サマータイム開始時及び終了時に時計の針を進めたり遅くしたりすることで睡眠障害をもたらすなど、健康を害するリスクを考慮しなければならない。東京五輪ではマラソンや競歩の会場となる皇居外苑で、穴の開いたチューブから散水を行い、暑さ対策の実証実験が行われた=2018年8月13日、東京都千代田区(川口良介撮影) 実際、ロシアではサマータイム移行時に心筋梗塞患者が増加したため結局サマータイムを廃止したし、オーストラリアでは、サマータイム移行時に男性の自殺が増える傾向があることも指摘されている。つまり、サマータイムの実施により消費が喚起され経済効果が得られたところで医療費が嵩み、人命が失われることになれば、経済ばかりでなく社会的にもメリットがデメリットを上回るとは言い難いだろう。気になるご都合主義のエリート姿勢 サマータイム推進派は、サマータイムの導入が、東京五輪・パラリンピックの一部競技の成功を目的とする以外に、エネルギー節約・温室効果ガス削減、消費喚起、労働時間の短縮といった日本が抱える構造的な課題に対して、これまで論じてきた様々なデメリットを考慮したとしてもなお抜本的な解決策になり得るのだという客観的かつ説得力のある根拠を示せないのなら、東京五輪・パラリンピックを口実としたなし崩し的なサマータイム導入への国民的な合意を得るのは非常に困難であると自覚すべきだ。 以上のように、自民党での検討が予定されているサマータイムの導入がわれわれの生活に与えるメリット・デメリットについて、5つの論点を取り上げ検討したところ、メリットに比してデメリットの方が大きく、特に、システム修正にかかる企業負担や、システム修正に失敗した場合に起こり得る経済・社会の混乱が深刻なリスクを孕んでいるとの結論に達した。 サマータイム導入の目的が、オリンピックを成功させるためというだけの矮小化されたものではなく、日本人の働き方やライフスタイルを時計から解放するのが目的であるならば、夏に限らず一年中太陽のサイクルに合致するよう労働時間を柔軟に変更・調整できるような仕組みを各企業なり組織が採用しやすくなる法的枠組みを整備すればよいだけではないだろうか。プレミアムフライデーで百貨店を訪れた経団連の中西宏明会長(左から2人目)=2018年7月27日日、東京都中央区(大塚昌吾撮影) サマータイムの導入が労働効率を上げ残業時間を減らすとの期待は、2016年に政府が勤務時間を1時間程度前倒しして朝早くから働き夕方からは家族や友人との時間を大事にする「夏の生活スタイル変革」を目論んだものの残業時間が増えただけに終わった「ゆう活」の失敗、さらには消費喚起に関しては、政府や企業団体の大号令にもかかわらず所定の効果を上げておらず迷走を続けるプレミアムフライデーの失敗から教訓を得、学習した形跡が政治家や政府、経営トップ層に全く見られず、国民の事情を考慮することなく自分たちの都合だけを一方的に押し付ける日本のエリート層の姿勢が個人的にはとても気になっている。

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    桂米丸や杉下茂ら、70年前に体験したサマータイムへの反発

     93歳になった落語芸術協会の最高顧問、4代目・桂米丸師匠が、約70年前の“苦い記憶”を振り返る。「前にサマータイムが導入されたのは、ちょうど私が師匠・古今亭今輔の前名である桂米丸を襲名した頃でした。“社会全体が能率的になる”という話でしたが、寄席では厄介なことが起きましたよ。始まる時間を勘違いして1時間遅れで会場に来てしまうお客さんが、大勢いたんです。そうしたお客さんたちから、“もう終わっちまうのか”と不満をいわれ、閉口しましたよ」 大混乱を日本中に巻き起こすことになった原因は、1948年に導入されたサマータイム制度だった。「占領統治下にあった政府は当時の電力不足を緩和するため、GHQ経済科学局電力班の指示を受けるかたちで『夏時刻法』を制定した。4~9月までの間、時刻を1時間早めるという法律でした(1950年からは5~9月)。ところが実際に導入されると、国民からは不評ばかりで、結局、占領が終わる間際の1952年4月に、わずか4年で廃止に追い込まれました」(経済部記者) 1951年に政府が行なった〈サンマータイムに関する世論調査〉(※編集注・当時の表記ママ)によれば、「やめた方がよい」が53%と、「続けた方がよい」の30%を大きく上回っていた。だが、70年の時を経て、そんな「不人気政策」が甦ろうとしている。落語家の桂米丸=2017年9月9日(栗原智恵子撮影) その理由は2年後に迫った東京五輪の「暑さ対策」だ。午前7時スタートの男女マラソンでは、選手がゴールする9時過ぎには、気温35度前後に達する見込みだ。“死者が出るかも”といった懸念が百出したことを受け、森喜朗・五輪組織委員会会長が、導入を呼びかけた。「森会長が『時計の針を2時間進めればより涼しい時間帯にスタートできる』と導入を要請すると、安倍晋三首相は、『一つの解決策かもしれない』と応じて与党に検討を指示しました。推進派は、秋の臨時国会で関連法案を成立させ、2019年からの実施を目指している」(自民党関係者) あまりに大袈裟である。選手の暑さ対策が目的なら、競技ごとに開始時間を変更すればよいだけではないのか──。アスリートから見ても「効果なし」 かつての“サマータイム体験者”からは、今回の唐突な導入論への反発が相次いでいる。導入2年目の1949年に中日ドラゴンズに入団した元プロ野球選手の杉下茂氏(92)は、アスリートの立場から「サマータイムは暑さ対策にならない」と話す。「当時のプロ野球は、デーゲームしかありませんでした。試合開始は午後3時。とりわけ名古屋はやたら気温が高くて、とにかく暑かった記憶しかない。試合の時間が1時間や2時間ズレたところで、選手にとってあまり変わりはなかったですよ」 当然ながら、東京五輪ではマラソン以外に昼間、屋外で行なわれる競技も数多くある。杉下氏のようなアスリートの観点からの指摘が、政府・与党に届くことはあるのだろうか。 累計200万部超のベストセラー『思考の整理学』著者で、“知の巨人”とも呼ばれる御年94歳の英文学者・外山滋比古氏(お茶の水女子大学名誉教授)も憤りを隠さない。「70年前は、たしかに時計を1時間早めたぶんだけ、日が高い夕方に余暇時間ができました。でも結局は、多くの人が生活のリズムを崩すだけだった。私の周囲の人たちも、“いつもより早起きになる上に、夜もなかなか寝つけない”と睡眠不足に陥って、疲弊していたと記憶しています。杉下茂臨時投手コーチ=2017年2月、北谷公園野球場(撮影・塚本健一) そもそも北海道から沖縄まで南北3000kmに伸びる日本は、地域によって日照時間が全く違う。法律で一律に夏時間を導入して何かの効果を期待するなどナンセンスで、混乱を招くだけだったのです」 戦後の混乱期だけの話ではない。近年になって地域限定で実施されたサマータイム制度でも、弊害が明らかになっている。 2003年夏、始業時間を繰り上げることでサマータイムの実証実験を行なった滋賀県庁では、職員を対象にしたアンケートで、41%が「労働時間が増えた」と回答(回答数1231人)。北海道内で札幌商工会議所が主体となって役所や企業が参加した実証実験でも、従業員の27%が「労働時間が増えた」と答え、22.6%が「体調が悪くなった」という(同1万780人)。 こうした経緯は、日本版サマータイムがいかに“悪手”であるかを物語る。関連記事■ 高須院長 東京五輪に苦言「死者が出る。10月にずらすべき」■ サマータイム導入 家庭の16時台電力需要増え節電に逆効果■ 蓮舫氏も提案したサマータイム 本当に効果あるか試算■ 東京五輪の「暑すぎ問題」、危険なのは選手よりも「客と馬」■ 東京五輪マラソン暑さ対策に不安 完走さえ難しくなるかも

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    LGBT「杉田論文」女性議員は何を思う

    く表現があった」として本人を指導したが、そもそも何が問題だったのか。iRONNAでは今回、3人の女性政治家に寄稿を募った。「杉田論文」の核心を同性の視点から考えたい。

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    「LGBT、それがどうした」杉田論文の本質はただの差別である

    。この言葉こそ「社会に認められたい」と思い悩む多くの人々が求めているものだと思います。これこそ政府や政治家が発信すべきメッセージ。私が私らしく、あなたがあなたらしく、堂々と生きられる社会こそ目指したい。私は私だ。それが、Pride!

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    高須院長が少子化対策について提言「愛国心こそが解決する」

    が低いゆえに「東京と愛知は生産性が低い」と演説していたというじゃないか。もう何年も前の話であっても、政治家は自分の発言に責任を持たないと。自分は「生産性」という言葉を使っていたのに、自民党の議員が使うのはダメだっていうのは、どうかと思うね。政治家としてダブルスタンダードを良しとするのはありえない。少子化対策について高須院長の提言は…? 結局、野党の政治家だって、LGBTの問題や少子化問題をちゃんと考えていないんじゃないかな? ただ単に、自民党を批判できそうなネタを探しているだけに見える。いつまで経っても「生産性」という言葉の問題ばかりを批判していて、なかなか少子化問題解決に向けた具体的な政策議論には発展しないもんなあ。──少子化問題といえば、先日院長はツイッターで「病根はゲームばかりしている若者だと思います。セックス以外の娯楽を禁止すれば人口は増えます」とつぶやかれていました。高須:ゲームの楽しさの虜になっちゃってセックスをしない若者が多いのは間違いないんじゃないかな。今でも『ポケモンGO』を楽しんでいる僕が言うのも説得力がないかもしれないけどね(笑い)。子供にとっては最高な日本 でも、言うまでもないだろうけど、単純に「ゲームが悪だ」という話ではないんだよ。今の世の中は、ゲーム以外でもセックス以上に楽しいものがあふれている。セックスをしなくても充実して生きられるくらいに、豊かになりすぎてしまったんだ。いろんな娯楽が増えているなかで、セックス自体は昔と変わらないままだから、結果的に少子化になってしまったということだね。まあ、ちょっと極論なのかもしれないけど、根本的には間違ってはいないと思う。原理原則として、娯楽が他になければ人はセックスするし、子供も増えるということ。今の若者たちは、セックス以外にやることがありすぎる。──とはいえ、セックス以外の娯楽を禁止するというのは、現実的ではないですよね?高須:そりゃそうだ(笑い)。だから、若者たちにもっと子供を作りたいと思わせるような日本にしていくことが重要なんだよ。そのためには、日本という国をもっと肯定的に捉えていく必要があると思う。差別だって少ないし、こんなに安全で住みやすい国はないと思うよ。子供にとっては最高な国だよ。 それなのに、なぜだか日本はダメな国だと主張する人がいるのだから、信じられないね。それこそ日本がまるで差別的であるかのような言説を流してまで、安倍政権を批判しようとする人もいる。そんなんだから、若者たちだって子供を作ることに躊躇してしまうんだよ。気楽にゲームを楽しんでいる方がマシだと考えちゃうわけだ。 もっと日本は素晴らしい国であるということを、ちゃんと後世に伝えていかなければいけないと思うね。それが大人の役目であり、政治家の役目でもあると思う。“将来の子供のために”とかいいながら、日本を貶めるような発言をする政治家たちは、絶対に信用しちゃいけない。愛国心こそが少子化問題を解決すると思うね。 セックス以外の楽しみがたくさんある今だからこそ、豊かな日本の未来は明るいんだということを正しく伝えていくべき。それが我々老害のできることだよ(笑い)。2018年7月、国会前で開かれた安倍内閣の退陣を求める集会で、プラカードを手にする参加者* * * 確かに国民が自国の悪口ばかりを言っている国に明るい未来があるとは思えない。少子化問題を解決するためにも、日本の未来をもっと前向きに捉えていく必要がありそうだ。【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。著書に『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子氏との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)、『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)、『炎上上等』(扶桑社新書)、『かっちゃんねる Yes! 高須 降臨!』(悟空出版)など。最新刊は『大炎上』(扶桑社新書)。関連記事■ 「僕は寄付するプロ」高須院長が豪雨被害で現地行かない理由■ 印税全額寄付の高須院長「炎上商法ならぬ炎上慈善活動だ」■ 高須院長 米朝会談で指摘「韓国は相当空気が読めてない」■ 高須院長 米朝会談を分析「トランプは損得で動いた」■ 高須院長 金正恩評価する声に疑問「それこそ歴史修正主義」

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    なぜ安倍内閣の支持率は底を打たないのか

    「下がっては上がる安倍内閣の支持率」。朝日新聞が内閣支持率の推移グラフをこんなタイトルで掲載した。モリカケ問題が過熱した数カ月前は、支持率が倒閣の危険水域に入ったとされ、首相の総裁3選も危ぶまれたが、今や再び息を吹き返した感は否めない。なぜ安倍内閣の支持率は底を打たないのか。

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    足立康史手記「野党が猿芝居で満足する限り、安倍内閣は強くなる」

    期待振りまく政権」だった。分かりやすく要約すれば「経済と外交で期待を振りまき、選挙での勝利を最大限、政治的パワーとして生かす。この政治手法は、離合集散を繰り返した野党の自滅と非力さも手伝い、不祥事や政権へのダメージを覆い隠した。5年半は、その繰り返し」と断じている。 また、連載「下」は、「政府も党も、進む『私的機関』化」との見出しで、「政府職員や自民党関係者が『安倍の私的機関』のスタッフかのように動くことは、一般社会にも影響を及ぼしつつある」と、安倍政権を諸悪の根源かのように批判する。 では、安倍政権は、本当に経済と外交で期待を振りまいただけなのだろうか。そんなことはない。まず、経済について、安倍政権は2012年に政権を奪還するや、経済を最重要課題に掲げ、景気と株価のエンジンを目いっぱい吹かしてきた。 それを象徴するのが日銀総裁人事であり、自分の考えに近い国際派の黒田東彦総裁を起用し、2018年2月には54年ぶりとなる再任を決定した。そして、名目国内総生産(GDP)は550兆円の大台を超え、5年前の493兆円から57兆円も拡大させた。 外交についても、安倍政権の成果は、米国の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)離脱後の TPPイレブン妥結など数多く挙げられるが、特に重要なのが、同盟国である米国のトランプ大統領との関係をしっかり築いたことだ。 トランプ氏が大統領に就任する直前の2016年11月、安倍総理はトランプ氏が住むトランプタワーに駆けつけ、懐に飛び込んだ。お互いを「シンゾウ」「ドナルド」と呼び合い、中露や北朝鮮と対峙する中でトランプ大統領は安倍総理の助言を頼り、電話会談は20回を超えるという。こうしたトップ同士の人間関係を甘く見てはならない。 もちろん、北朝鮮の拉致、核、ミサイルの問題でも決して利害が一致しているわけではないし、通商問題では多国間を重視する日本と二国間にこだわる米国との摩擦は避けられない。しかし、トップ同士の関係がよければ交渉も容易になるし、何よりも入ってくる情報の量と質が変わる。これは誰も否定できない安倍政権の成果である。日米首脳会談で握手する安倍晋三首相とトランプ米大統領=2018年6月、ワシントンのホワイトハウス 経済と外交だけではない。経済について、安倍政権の経済重視を象徴するのが日銀人事だと書いたが、憲法も同じである。安倍政権は5年前の2013年8月、フランスから呼び戻した小松一郎大使を内閣法制局長官に充て、憲法解釈の変更を断行した。 安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)の報告書とりまとめに命を捧げた小松長官の「人生をかけた仕事ぶり」(安倍総理)が時代を画するものとなったことは言うまでもない。 憲法改正については、国内の右派からも左派からも極端な意見が寄せられている。だが、そうした中で、2017年5月の公開憲法フォーラムに安倍総理が寄せたビデオメッセージで打ち出した「自衛隊の明記」提案は、卓越したリーダーシップによるものであり、遅々として進まない憲法改正議論に大きな一石を投じることになった。憲法改正の発議と国民投票までには引き続き紆余曲折があるだろうが、安倍政権の間に実現することを確信している。 以上のように、経済と外交そして憲法に係る安倍政権の取り組みを一瞥(いちべつ)しただけでも、「期待振りまく政権」との朝日新聞の見出しが全く事実に即していないことは明らかである。「悪夢の3年3カ月」 安倍政権が高い支持率を維持する理由は、こうした経済から外交に至るまでの実績だけではない。やはり、何といっても、第二次安倍内閣に先立つ民主党政権の「悪夢の3年3カ月」の影響は甚大である。国民は、口から出まかせの政権公約には二度と騙されないぞ、と思っているし、政権担当能力というもののハードルの高さを痛感しているからだ。 1955年の保守合同以来、40年近く続いた自民党一党独裁が崩壊したのは、ちょうど4半世紀前の93年だった。それから間もない96年に設立された民主党は、野党第一党として政局をリードし、2009年には政権交代を果たした。しかし、その政権運営は惨憺(さんたん)たるもので、「悪夢の3年3カ月」として国民の記憶に深く刻まれてしまった。 当時の長妻昭厚労相が主導した派遣労働者に係る専門26業務派遣適正化プラン、いわゆる「長妻プラン」によって50万人もの専門労働者が職を追われ、自民党政権が実現してきた累次の改正案にことごとく反対してきた自衛隊法については指一本触れることさえできなかった。 自分たちが死ぬほど騒いで反対した自衛隊法だったが、いざ政権を担う段になると、3年3カ月の間、何事もなかったように、そのまま自衛隊法を運用し続けたのだ。 朝日新聞は、政府職員や自民党関係者が「安倍の私的機関」のスタッフかのように動くと批判するが、官僚たちが選挙で選ばれた政権トップを支えるのは当然だ。そもそも官僚たちは、二度と民主党政権のような無能な政府に戻ることがないよう安倍政権を支えると誓い合ってきたのである。 私が、民主党政権の閣僚たちの統治能力の低さにあきれ果て、21年務めてきた官界から政治に転じたのは、東日本大震災が発災した2011年3月だった。日本維新の会の結党に参加し総選挙で初当選を果たした12年12月、まさに第二次安倍内閣が樹立された頃の霞が関の雰囲気を、私はよく覚えている。 「悪夢の3年3カ月」から解放された官僚たちは、久しぶりに清々しい空気を吸い込み、二度と民主党政権のような悲劇を繰り返してはならない、と自らに言い聞かせたものである。もちろん、それは「安倍の私的機関」(朝日新聞)としてではない。国家公務員として、国益に奉じるためである。平成23年3月13日、東日本大震災の緊急災害対策本部会合であいさつする菅直人首相(当時)=首相官邸 以上のように、官僚たちが懸命に安倍政権を支えてきた、と書くと、佐川宣寿前理財局長による決裁文書の改ざんや柳瀬唯夫元総理秘書官による国会答弁の混乱などの事例を挙げて、「忖度(そんたく)」云々と騒ぎ立てる向きがあるかもしれない。しかし、こうした官僚たちによる過剰な国会対策は、安倍政権の問題というよりも、自民党国対の「事なかれ主義」にこそ、その元凶がある。 いわゆる「55年体制」が終焉を迎えた1993年から既に4半世紀が経過したが、昨年10月の総選挙を経て政権交代を旗印とする民主党(民進党)は瓦解し、永田町は再び、万年与党と万年野党が猿芝居を繰り広げるだけの「非生産的」な国会に成り下がってしまった。 自民党と立憲民主党は、かつての自民党と社会党のように、表では相争っているように振る舞いながら、裏では政府提出法案の成立を図る見返りに野党に抵抗という見せ場を用意する、予定調和的な猿芝居といえる新「55年体制」を演じている。野党は「食中毒起こしたレストラン」 それが証拠に、通常国会の事実上の会期末となった7月20日に参院本会議場で垂れ幕を掲げるという前代未聞の懲罰事犯に及んだ山本太郎、森ゆうこ、糸数慶子の3参院議員について、伊達忠一参院議長はその場で懲罰委員会に付託することを決めたが、懲罰委員会の溝手顕正委員長(自民党)は、あっさりと懲罰委員会を開会しないことを決め、22日の会期終了をもって審査未了となった。3議員の懲罰事犯は、なんと3日で不問に付されることとなったのである。 2月5日の衆院予算委員会で国民民主党の玉木雄一郎代表や自民党の石破茂元地方創生相の疑惑を取り上げたことなどを理由に、私は5カ月以上にわたって懲罰動議に晒(さら)された。党の不当処分と戦わざるを得なくなった私自身の処遇と比較するわけではないが、今の国会では、かつての55年体制の亡霊が完全に息を吹き返し、「なんでもありの野党」と「ひたすら我慢の与党」とが繰り広げる猿芝居が復活してしまったのだ。日本維新の会の足立康史衆院議員 こうした新「55年体制」の下では、与党(与党に連なるだけの国政維新を含む)の行動原理は、自民党国対の指導の下、「ひたすら我慢」=「事なかれ主義」が徹底されることとなる。 官僚たちは、国会審議で野党の追及の対象となるような材料を提供することがないよう、ひたすら保身に走り、与党議員たちも、失言をしないように、表ではできるだけ発言を控えるようになる。そして、少しでも野党の不興を買うような発言をした場合は、与党国対の指導の下、その内容にかかわらず、即刻、撤回と謝罪に追い込まれるのである。 こうした猿芝居に興じるだけの「非生産的」な国会にあって、政権与党自民党と競い合えるような力のある野党が育つはずがない。枝野幸男代表率いる立憲民主党も、かつての社会党がそうであったように、野党第一党の座に完全に満足しているように見える。 昨年までは、選挙のたびに、まるで「食中毒を起こしたレストラン」のように看板を掛けかえ合従連衡を繰り返してきた旧民主系の国会議員らであったが、今や野党再編を仕掛けるエネルギーさえ失っている。 安倍政権は、経済と外交そして憲法に係る実績と、二度と悪夢を繰り返さないという霞が関の誓いと、そして見せ場を与えられて満足する野党によって、これからも高い支持率を維持するのである。

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    「55年体制の劣化コピー」安倍政権が倒れない七つの理由

    」と訝(いぶか)る。安倍晋三内閣を擁護する良識派も「日々の仕事を黙々とこなす行政官としてはともかく、政治家としての実績は安倍政権には思い当たらない」と首をかしげる。 確かに、吉田茂のサンフランシスコ講和条約、鳩山一郎の日ソ国交回復、岸信介の安保改正、池田勇人の高度経済成長、佐藤栄作の沖縄返還と並べて、「景気が回復軌道に乗った」だの「日米関係が改善した」だのと後世の歴史教科書に書くわけにもいくまい。 本稿では、安倍政権が倒れない消極的な理由を六つ、積極的理由を一つ説明しよう。 では、第一の理由である。自民党内の過半数が安倍支持だからである。そもそも政治のルールを確認しよう。1955年以来、極めてわずかな例外を除いて、自由民主党総裁が総理大臣となる。自民党総裁は総裁選挙に勝利すればなれる。歴代総裁は皆、派閥の支持を得て勝利を勝ち取った。一人の例外もない。 安倍首相の場合は、出身の最大派閥である細田派96人に加え、第二派閥の麻生派59人、そして幹事長がいる二階俊博派44人の合計199人が結束しただけで、衆参両院407人の49%を占める。 これに無派閥の安倍シンパが30人はいると目されているので、過半数を軽く上回る。他の総裁候補と言えば、岸田文雄政調会長の派閥は48人、石破茂元幹事長のそれは20人。野田聖子総務大臣に至っては、自身が無派閥である。彼らがどうやって票集めで勝とうというのか。 安倍首相は、麻生太郎と二階俊博の2人のご機嫌を損ねなければ安泰なのである。現に2人に、副総理兼財務大臣と幹事長、すなわち政府と党の最高の地位を与えて遇している。岸田、石破、野田…誰が対抗馬に立つか知らないが、三派の結束を切り崩す算段や如何に。麻生太郎副総理兼財務相(左)と自民党の二階俊博幹事長=2018年7月(斎藤良雄撮影) ついでによくある勘違いを指摘しておくが、小泉純一郎氏は「脱派閥」で輿論(よろん)の支持を得て最大派閥の橋本龍太郎首相を破ったとされるが、そういうことを言う人は何を見ていたのだろうと思う。小泉元首相ほどの派閥政治家はいない。当選前から派閥の領袖である福田赳夫氏に忠勤尽くし、安倍晋太郎、三塚博、森喜朗ら歴代派閥領袖の覚えがめでたかった。 むしろ安倍晋太郎氏の後継をめぐる争いでは、常に中堅若手に人望の厚い小泉氏が支持した側が勝利した。小泉氏は四代の領袖の下で着実に地盤を固めていたので、「派閥離脱」を演出できたのである。 また、基礎票においても、「YKKトリオ」を組む山崎拓、加藤紘一の両派に自分が所属した森派を合わせれば100人、橋本派と互角である。さらに橋本派と同盟を組む堀内光雄派を切り崩しただけでなく、橋本派の重鎮であり参議院を抑える青木幹雄氏まで味方につけた。 小泉元首相は政権運営において、自民党の他の全員を敵に回しても青木氏との同盟関係だけは尊重したが、小泉、青木の2人が組めば常に自民党の過半数なのだから当たり前である。安倍首相の対抗馬の誰が、かの小泉元首相と同じ芸当ができようか。安倍一強は砂上の楼閣 第二の理由は、なぜ安倍首相は麻生、二階の両氏に媚びへつらうのか、他の派閥ではダメなのかである。理由は、麻生、二階の両氏には、財務省と創価学会がもれなくついてくるからである。 麻生氏は言わずと知れた財務省、特に主計局の走狗(そうく)である。自身の総理大臣時代から消費増税への道筋をつけ、常に増税を迫り、金融緩和への懸念を示す。アベノミクスがどうなろうが知ったことではないのだろう。それが財務省の総意ならば。 麻生氏が罪深いのは、財務省増税原理主義派の走狗として消費増税8%を押し付けてきたことだ。あの時は、霞が関官僚機構の頂点に位置する時の財務事務次官、木下康司氏の号令により、自民党の9割、公明党の全部、民主党幹部、財界と労働界の主流派、6大新聞と地上波キー局のすべてが、消費増税8%を迫り、安倍首相は無残にも屈した。 結果、「2年で景気回復」の約束はどこへやら、いまだにデフレから脱却していない。安倍首相も学習したのか10%への増税は延期したが、来年の10月には予定通り増税すると公言している。何が怖いのか知らないが、安倍首相も財務省を敵に回したくないらしい。 二階氏の権力の源泉は創価学会と公明党との人脈である。先の新潟県知事選挙でも、二階氏が頭を下げたので、投票日直前に創価学会に動いたと報じられる。これまで安倍首相は、あらゆる国政選挙で勝利してきた。ゆえに、安倍首相は「一強」と呼ばれる。しかし、すべては創価学会のおかげである。 今や昔となったが、昨年の秋までは小池百合子東京都知事が率いる都民ファーストが日の出の勢いだった。たった1年前の都議会議員選挙で自民党は大敗した。特に無残だったのが1人区である。自民党は1勝6敗だった。都議選で当選を決めた都民ファーストの会の候補者名に花を付ける小池百合子都知事=2017年7月、東京都新宿区(大西正純撮影) 唯一の勝利は、島嶼(とうしょ)部。新党が絶対に勝ちようがない地区だけである。なぜ、ここまでの大敗を喫したか。創価学会の支援が得られなかったからである。東京も西部は電車も走っていないような超田舎だが、そのような地域ででも創価学会の支援を得られないと勝てない。自民党の組織力とはその程度のものであり、「一強」とは砂上の楼閣なのだ。 自民党が過半数を得る組み合わせなど、いくらでもある。その中で麻生派と二階派を主流派としたい理由は、財務省と創価学会・公明党との協調を維持できるからなのだ。 第三の理由は、政策で無理をしていないことだ。自ら各界からブレーンを集めて「日本のグランドデザイン」を描いた池田勇人内閣まではともかく、佐藤栄作内閣以降の自民党は、官僚機構をシンクタンクとして活用してきた。愚行である。 一般に、近代政党は独自のシンクタンクを有する。行政権力を握る官僚機構に対抗する知見を身につけ、立法府としての役割を果たすためだ。要するに、官僚に騙されないようにするためだ。また、官僚は生態的にポジショントークから絶対に離れられないから、官僚と話す前に勉強しておく。ところが、自民党のように官僚機構をシンクタンクとした場合、官僚が間違えたらどうするのか。政治そのものが間違う。 安倍首相もご多分にもれず、官僚機構に依存しきっている。それでも財務省に対しては、それなりにモノ申す姿勢はある。消費増税10%とて、二度の国政選挙での信任を得て延期するという大仰かつ意味不明なやり方であったが、延期した。 ところが、法律を握る内閣法制局に対しては、最初からお手上げである。嘘だと思うなら、安倍自民党がまとめた「憲法改正案」を一読してみるといい。内閣法制局の解釈を条文化しただけである。内閣法制局とは、日本国憲法の解釈を一手に握ってきた、戦後レジームの総本山である。その法制局の解釈を条文化する案を提示するなど、何の冗談だろうか。「三木武夫の劣化コピー」 だが、見方を変えれば、自分が決して危険な人物ではないと必死かつ巧妙にアピールしているとも評せる。過去の支持者の一部保守層に対し「戦後レジームからの脱却を決して忘れていない」と旗を立てつつ、本気で戦う気はない。タカ派を気取り「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘が5年の長期政権を築いた手法の焼き直しだ。「保守など時々ガス抜きしておけばよい」とするリアリズムである。 もう一つ政策を挙げれば、防衛費増額がある。マスコミは右も左も「戦後最高の防衛費増額」と書き立てる。右は称揚し、左は懸念を示す。しかし、安倍政権は毎年0・8%ずつ上げているにすぎない。 そして見事にGDP0・92~0・95%枠を守っている。言うなれば、「三木武夫の劣化コピー」である。当時は自民党史上最大のリベラル政治家と言われる三木内閣ほどの防衛努力もしていないのに自らをタカ派と演出しているのも、政権維持の知恵であろうか。 選挙は創価学会、予算は財務省主計局、法律は内閣法制局。この三つに依存している限り、「一強」なのである。「戦後レジームからの脱却」など捨ててしまえば、安泰である。 第四に、国際環境が幸運に左右していることである。日本の歴代内閣は、アメリカ大統領に左右されてきた。アメリカの民主党政権は、反日の傾向が強い。逆に共和党政権は、「番犬」としての役割を求め、種々の圧力を加えてくる傾向がある。 だが、前任のバラク・オバマは反日の姿勢が極めて弱かった。ウッドロー・ウィルソン以来、最も反日的ではないアメリカ民主党政権だった。代わったドナルド・トランプは、戦後初めて日本に対等の同盟国になる道を差し伸べてきた。極めて幸運である。 トランプは第二次大戦後の秩序を本気でひっくり返そうとしている。中国が台頭する世界の中で、アメリカの国益を追求する。その同盟国として日本を選んだ。そして、大統領選挙の最中から、東アジア情勢の緊張を鑑みて日本に防衛努力を求めてきた。共同記者会見で、手を差し出す安倍首相(左)とトランプ米大統領=2018年6月 では、この状況に安倍首相はどうしたか。ここでも政策で無理をしない、である。「間違ってもトランプの口車に乗って自主防衛や核武装だの、するものか」と決意しているかのようである。世界中のエスタブリッシュメントとけんかしているトランプに本気で付き合う気はない。 また、核武装や自主防衛など、法制局・主計局・創価学会を敵に回す。考えたくもない。それならば、世界中で嫌われているトランプを各国の首脳と取り持てば、面倒な努力をしなくても恩が売れる。「トランプ内閣の外務大臣」である。 世の中には安倍首相を「トランプの参謀総長」と誇張する御仁もいるようだが、わが国がいつ軍事努力をしたのか。語るに値しない野党 第五は、敵がいないことである。これまで述べてきたように、内閣法制局や財務省主計局、創価学会を怒らせなければ、麻生派や二階派、公明党が応援してくれる。自民党内反主流派がこれを崩すのは容易ではないだろう。 野党に至っては、語るに値しない。海江田万里、岡田克也、蓮舫、枝野幸男…。安倍内閣を「支える」人材が豊富である。彼らが野党第一党の党首を続けてくれる限り、安倍自民党内閣は安泰であろう。 たとえ中途半端でも、景気は回復している。何かの一つ覚えのように「モリカケ」を繰り返すだけの野党に、国民は政権を渡す気はないだろう。安倍自民党に不満が充満しても渡す気にはなれないだろう。「いくらモリカケを騒いでも、野党がザルだから大丈夫」…くらいのことは誰でも言えるが、ではなぜ安倍自民党に対抗できる野党が存在しないのか。 仮に去年の衆院選の際、人気絶頂だった小池百合子氏が「首相を3日やれば死んでもよい」と決心して、後先考えずに全野党を結集していたら安倍内閣は即死だっただろう。だが、できなかった。それを小池氏個人の力量に帰すのは簡単だが、組織の裏付けがないと野党結集など不可能だ。 では、創価学会に対抗できる組織とは何か。労働組合の連合である。現在の連合の首脳は、神津里季生会長と逢見直人会長代行(前事務局長)は、旧民社系で保守色が強い。この2人が「別に安倍内閣が続いてもらってよい」と考えているのではないか。そう考えないと説明がつかないことが多いのだ。 枝野幸男立憲民主党代表にしろ、玉木雄一郎国民民主党代表にしろ、安倍内閣以上の政権運営ができるのか。小池氏にしても然り。すなわち、彼らが政権を獲るよりも、安倍政権に存続してもらった方がアベノミクスで労働者の賃金は上がり、雇用は改善されるのである。立憲民主党の枝野幸男代表(酒巻俊介撮影) もちろん、金融緩和を中核とするアベノミクスとて、消費増税の影響で中途半端だ。しかし、安倍首相以上に景気を回復できそうな総理大臣候補はいない。ならば、何が何でも安倍政権を倒すなどという野党結集など、邪魔した方が合理的だ。 ついでに言うと、連合は組織内に自治労と日教組を抱えている。彼らは景気回復には反対だ。デフレを脱却しなければ民間の賃金は上がらず、公務員の給料は相対的に上がる。神津、逢見の両氏も自治労や日教組を敵に回す度胸はあるまい。安倍首相が、法制局や主計局、創価学会を敵に回す度胸がないように。 ここに、安倍首相と連合首脳の思惑が一致する。口では保守を唱えながら労働者に優しい総理大臣を引きずり下ろす必要など、どこにあるのか。 しばしば「マトモな野党が存在しない」との慨嘆が聞かれるが、組織論からの考察がほとんどなされないのは、どういうことか。しょせん議員の数合わせなど、組織の意向で決まるというのに。復活した「55年体制」 第六が、55年体制が復活していることである。この場合の55年体制とは、「常に衆議院の過半数を自民党が占め、野党第一党が“やられ役”を演じる政治運営」のことである。自民党は与党でいることが唯一の存在意義である。 対して、戦後政治において野党第一党の座を占めてきた、社会党~民進党~立憲民主党の系譜には共通点がある。政権を獲って国政を担う責任感は皆無だが、野党第一党の座は死守したい。そうすれば他人の批判だけで飯が食えるからである。 この意味では、上にあげた三党よりは、旧民主党はマシである。政権を獲る意思があったという一点で。ところが、民進党や立憲民主党は、すっかり社会党に先祖返りした。当選回数が若い議員はともかく、地盤が安定している幹部たちは落選の心配がないのだから、野党第一党の座さえ守れば党勢拡大のような面倒くさいことは考えてもいないのだ。 かつて、「まさか社会党に政権を渡すような非常識はできない」という理屈がまかり通り、自民党の腐敗が悪化し続けた。今はどうか。まったく同じ構造ではないか。 そして、55年体制で忘れられがちな側面がある。政界では保守政党の自民党が与党で、リベラル(昔は革新を名乗った)が“やられ役”だった。その反面、言論界では革新が多数派で、保守は「やられ役」だったのだ。かつては、自民党を革新の立場から論評するのがインテリであるとの風潮さえあった。 では、今はどうか。確かに、インターネットの普及で保守側の言論の発信も可能になった。ネットは右翼的言論が強いから「ネトウヨ」、テレビを見ている層は左翼的言論に影響されるから「テレサヨ」と呼ばれる。 言論界の主流であるテレサヨは「安倍政権は0点だから、何にでも反対しなければならない」と主張し、ネトウヨは「安倍政権は100点なのだから、保守は安倍政権を全肯定しなければならない。一つでも批判する奴はサヨクだ」と罵る。結局、テレサヨは「安倍政権にケチをつけているだけ」であり、ネトウヨは「安倍政権にケチをつけている勢力にケチをつけているだけ」ではないか。安倍晋三首相 しかし、人間界で起こることの評価に100点や0点があるだろうか。1~99点の間の膨大な中間地帯にこそ、正解があるのではないか。結果、冷静な議論はかき消される。 真の権力を握る勢力、すなわち法制局や主計局、創価学会―の既得権益を脅かさないという条件で安倍政権は長期化を認められ、国民からも消去法で選ばれる。「別に安倍でいいではないか?」と。結果、55年体制の劣化コピーの出来上がりである。 こうした言論は、熱心すぎる安倍支持者の怒りを買うだろうが、知ったことではない。安倍政権を支えてきたのは積極的な安倍支持者ではない。そのような勢力は「ノイジーホシュノリティー」にすぎない。安倍政権は、消極的な支持を得ることがてきたからこそ、これまで存続できたのである。それが、安倍政権が倒れない「唯一の積極的な理由」ではなかろうか。 安倍政権には、勝利の方程式がある。すなわち、「日銀が金融緩和をする→株価が上がる→支持率が上がる→選挙に勝てる→誰も引きずりおろせない」である。「株価連動政権」と呼ばれるゆえんである。支持者は政治に興味がない国民 要するに、黒田さんがお札を刷っている限り、安倍政権は倒れないのである。黒田さんとは、もちろん黒田東彦日銀総裁のことである。この人物は今年3月と5年前の人事で安倍首相が押し込んだ。日銀の政策は、1人の総裁と、2人の副総裁、6人の委員が決める。安倍首相は政権発足以来、この9人の人事で勝ち続けた。 旧民主党政権のみならず安倍首相以前の歴代自民党内閣は、お札を刷るのを拒否し続けた。麻生内閣に至ってはリーマンショックで世界中が増刷競争を始めた時に、頑(かたく)なに増刷を拒否し続けた。結果、何の関係もない日本が地獄絵図の惨状に陥った。 アルバニア並みの経済政策である。アルバニアとは、政府主催のねずみ講で国家崩壊に至った国のことである。その張本人のラミズ・アリア大統領は、後に首相に返り咲いている。 リーマンショックの責任者である麻生太郎が副総理兼財務大臣として返り咲くなど、ラミズ・アリアを笑えまい。どこの愚か者が、このようなタワケた人事を行ったのかと糾弾したくなるが、自分の国の自分の総理大臣のやらかしたことだから呑み込もう。 とはいうものの、このような失敗をしつつも、安倍首相は日銀人事で勝ち続けた。そして「勝利の方程式」につながっている。これが、安倍政権が倒れない唯一の積極的な理由である。そして、消費増税の悪影響で緩やかでしかないが、景気は回復してきている。これまで上げてきた理由が重なり、安倍政権が長期化したことで多くの人が救われた。 大多数の国民は、自民党に憲法改正などと言う夢物語を期待していない。くどいが、安倍自民党改憲案は夢としても、まったく魅力がない。 最後に。安倍首相は総裁3選を目指すという。戦後、3期やり遂げた総理大臣と言えば、吉田茂と佐藤栄作しかいない。そして2人とも晩節を汚し、心ある側近は「2期でやめておけば」と後悔した。当たり前の話だが、政権が長く続きすぎること自体が悪なのだ。権力には自浄作用が必要であり、長すぎる政権は硬直化して歪が生じる。 では、安倍首相は3選を目指すにあたり、何を目指すのか。これまでのように政治家ではなく行政官に徹するつもりか。もし、これが「一日でも長く総理大臣を続けたい」だけの愚劣な人間なら巧妙な政争術だ。ただし、その場合は「二度と戦後レジームからの脱却などと生意気なセリフを吐くな!」との批判を甘んじて受ける覚悟だろうが。約1年半ぶりに開かれた党首討論で安倍晋三首相(右手前)に質問する立憲民主党の枝野幸男代表=2018年5月、国会 現時点で安倍政権がやろうとしている政策は、消費増税10%くらいなのである。それも別に安倍首相でなければできない話ではない。むしろ景気回復前の増税阻止ならともかく、増税を公約に3選を目指すのか。さらに来年は統一地方選と参議院選挙がある。増税と9条改正を掲げて選挙に勝てると思っているのか。その場合、安倍首相が勝とうが負けようが、日本人は地獄に落ちる。 安倍政権が安泰なのは、景気回復について、多数の政治に興味がない国民が支持してくれるからであり、本質的には無難な政治しかしていないからである。安倍政権こそ、戦後レジームの護持者として長期政権化しているのである。

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    「新聞読まない人は自民支持」麻生太郎、マンガ的論理の本質

    歳代で自民党支持が高いことを指摘した上でこのように持論を展開し、例によって物議を醸した。 教養溢れる政治家である麻生氏が疑似相関のことを知らないはずはないだろう。それを承知した上での、「自民党支持」=「新聞を読まない」という「カマシ」だったと、ここでは好意的に解釈しよう。 確かに「若者は新聞を読まない」は、麻生氏の指摘通りであり、深刻な問題である。朝、家に届いた新聞を父親が読み、父親が仕事に出掛けた後、学校に行くまでの時間で主要な記事をナナメ読みし、ちょっと大人になった気分を味わう。筆者のような還暦男が小中学生だったころの昭和40年代のノスタルジックな「新聞で1日が始まる風景」は、もはや遠い昔のことになった。2018年7月、自派の夏期研修会で講演する麻生太郎副総理兼財務相(酒巻俊介撮影) 実際、新聞という存在自体が、今の若者にとっては遠い存在になっている。私は大学で「新聞学」を講じているが、自宅通学生は家で新聞を定期購読しているものの、下宿生で新聞を定期購読している学生はほぼ皆無だ。 日本新聞協会のデータでは、2000年の段階で、朝夕刊セットを1部とした新聞の発行部数は約5371万部、1世帯当たりの部数は1・13部あった。ところが、最新の2017年になると、発行部数は約4213万部と2000年の約78%に落ち込んだ。1世帯当たりの部数は0・75部で、単純に言えば4世帯に1世帯が新聞をとっていない、ということになる。「思春期仮説」のバイアス 高齢単独世帯が増え、経済的負担から新聞をとらなくなった側面もあるとはいえ、「新聞離れ」を牽引(けんいん)しているのは若者である。 総務省の平成29年版情報通信白書で、2016年のメディア利用行為者率を見ると、平日に新聞を読んでいるのは全体で28・5%。50歳代で41%、60歳代で55・4%だが、20歳代ではわずか6・7%、30歳代で18・2%だ。20歳代では、ネットが96%、テレビでも70・3%だから、いかに新聞が若者からそっぽを向かれているかが分かる。 同時に「10歳代から30歳代で自民党支持が高い」ことも、各種世論調査で指摘されている。ここでは、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が月1回程度実施している合同世論調査のデータで、自民党支持層の比率の変化を「20歳代・30歳代(2016年4月以降は18、19歳を含む)」の「青年層」、「40歳代・50歳代」の「中年層」、「60歳以上」の「高年層」に分けて見てみよう。 2012年12月の自民党の政権復帰後、全世代で自民支持率は上昇しているものの、「青年層」の支持率が「高年層」のそれを上回るときも見られるようになったのである。保守的で安定を求める「高年層」が自民党を支持し、変化を志向する「青年層」が野党を支持という構図は崩れ、「若者の保守化」と言われる現象が起きている。 政党支持には「思春期仮説」が有効だとも言われている。つまり、若い時代に支持した政党を一定程度引きずっていくということで、全共闘世代で政権批判的傾向が一定の割合でみられるのは、「思春期仮説」の証左ともいわれている。そうすると、若い世代で自民党支持の比率が高いということは、これからも自民党を支持する人たちが一定の比率で40歳代、50歳代になっていくという可能性はある。総裁選出馬を目指す野田総務相のお膝元、自民党岐阜県連会長代行の猫田孝県議(左)は安倍首相の支持を表明した=2018年7月24日 2018年7月の最新合同世論調査では、安倍晋三首相の政権運営を「評価する」と回答したのが10~20代で、男性が73・2%、女性が61・2%と年代別で最も高く、「アベノミクス」を背景に雇用改善や景気回復が進んでいけば、青年層の政権支持も継続していくだろう。 一方で、政権運営を「評価する」と答えた60代以上は男性が40・7%、女性が37・7%にとどまった。経済政策が若者の雇用に好影響をもたらし、自民党支持に結びつくことはあっても、「新聞を読まない」=「自民党支持」と結論づけるのはいくらなんでも乱暴に過ぎよう。 もっとも新聞報道も、いわゆる慰安婦問題のような「誤報」を垂れ流し、訂正もせずに国際社会における日本の立場を損なったままにしてきた面があったことは否めない。そのような報道のあり方に対する不信が、若者の新聞離れを加速させた部分があると言える。だとすれば、新聞などの既存メディアは「信用できないメディアだ」という意識と、新聞の「反安倍ありき」報道のうさん臭さの意識がどこかで結びついているのかもしれない。麻生氏は未来の政治を先取り? 共産党の小池晃書記局長は、麻生氏の発言を受けて、「紙の新聞に普段から親しみのない若い層の人たちに『しんぶん赤旗』の電子版を広げて、そういう人たちが読めばみんな共産党支持になる状況を作り出したい」と意気込みを語った。紙で配達する新聞が衰退していく中でも、若い世代がさまざまな政治的課題について、政党機関紙や新聞の電子版を通して政治的社会化を図っていけるように不断の努力を行うことが求められよう。 「新聞を読まなければ自民党支持」などとあぐらをかいている場合ではないのである。もっとも、麻生氏は「活字離れ」という点ではフロントランナーとして知られている。 何といっても、愛読書がマンガの『ゴルゴ13』である。活字至上主義の世代は眉をひそめたが、漫画世代の若者からは拍手喝さいを浴びた。え、ひょっとして麻生氏は時代を先取りしている? この世の中、「活字離れ」が続いて政治自体も変わっていくのだろうか。 東京・神保町で創業した「五車堂書房」は1967年から国会に書店を出店し、政治家の読書傾向をつぶさに見てきた。五車堂書房の幡場益(はたば・すすむ)店主はかつてメディアのインタビューに答え、伊東正義元外相と倉成正元外相、前尾繁三郎元衆院議長は大変な読書量で「政界の三賢人」とも称され、月に500万円も本代に費やしたこともあったと語っている。 同時に、欧州や米国の政治家は、ギリシャやラテンの古典を勉強しており、日本でも人の上に立つ人は、中国の陽明学や帝王学を学ばないといけないが、あまり読む政治家もいなくなったと慨嘆している。 豊富な読書量に裏付けられた「賢人政治」の時代も今は昔、愛読書は漫画という政治家が若者を中心とする有権者を引きつけ、政治に活字はいらない、とばかりに疑似相関もなんのその、放言連発で政治を革新する時代が来るのだろうか。2016年11月、京都国際マンガミュージアムの10周年記念式典に駆けつけ、蔵書や展示物を鑑賞する麻生太郎財務相(右から2人目)=寺口純平撮影 それとも「活字離れに目くじらを立てる世代は時代遅れだ」と言われる日が来るのだろうか。「放言大臣」麻生氏はマンガのような政治を先取りしているのか。個別の政策には問題を感じながらも、感性で「まあいいや」と流すような世論は、批判しかできない野党のだらしなさがあるにせよ、どこかマンガチックだ。 「若者はマンガが好きである」「麻生氏はマンガが好きである」、すなわち「若者は麻生氏が好きである」などという疑似相関は…いや、まさかとは思うが…。

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    若者は本当に自民党を支持しているのか

    党への投票割合が高まることとなる。(出所)公益財団法人明るい選挙推進協会資料により筆者作成 さらに、政治的満足度と投票政党との関係を図8により確認すると、政治的に満足している層は自民党や与党に投票し、民進党や革新政党に投票するのは政治的に満足していない層であることが分かる。 つまり、自民党の政策のパフォーマンスが良く有権者の生活満足度が高まると自民党への投票割合が高まり、自民党の政治基盤が安定し、有権者の政治的満足度が高まると、有権者はより一層自民党に投票するようになるのだ。アベノミクスはその名の通り安倍総理の経済政策であり、アベノミクスの高パフォーマンスはすなわち自民党への支持に直結する。(出所)公益財団法人明るい選挙推進協会資料により筆者作成 上で見た通り、政権与党の経済政策のパフォーマンスが、想定通りであれ、偶然であれ、良好でありさえすれば、国民の生活満足度が高まり、その結果国民はより政権与党に投票しその結果政権与党の政治基盤が安定すれば、政権与党は現在の経済政策を継続しやすくなったり、場合によってはさらに思い切った経済政策の採用が可能となることで、今まで以上に経済パフォーマンスを向上させることが可能となれば、政権与党にとっては好循環が続くこととなる。こうした業績・生活満足度・政治的満足度のトライアングルがもたらす好循環が現在自民党に有利に働いていると考えられる。 つまり、こうした好循環の結果こそが、若者の自民党支持がそれほど上向かない中で投票先政党として選択されている理由なのである。 これまで見てきた通り、若者は最近突然積極的な自民党支持に転じたわけではなく、イデオロギー・フリーな無党派の立場から、自民党の業績評価に基づく投票を行い、自民党に投票するか野党に投票するかを決定しているに過ぎない。現在、自民党は好調な雇用状況を起点とする好循環に支えられている側面が強い。 これは別のアングルから見れば、自民党の一人勝ちが今後も続くか否かは、経済の動向次第であるとも言える。例えば、2009年に民主党は、高齢世代から子育て世代重視へとそれまでの政策のパラダイムチェンジを行うことで政権を奪取したように、政策上のイノベーションにもう一度成功することができれば、支持を回復することが可能となるかもしれない。2017年10月、衆院選の投開票当日、大阪市内の投票所を訪れた有権者 客観的なデータに基づいて様々な観点から、若者の自民党支持の増加について検証を行った結果、若者の自民党支持が近年特に増加したとの積極的な証拠は見つからなかった。どちらかと言えば、良好な経済・雇用パフォーマンスに支えられた現象に過ぎず、今後の経済動向次第では自民党への支持も一転減少してしまうこととなるだろう。しまさわ・まなぶ 中部圏社会経済研究所チームリーダー。富山県生まれ。1994年東京大学経済学部卒業 同年4月経済企画庁入庁。調査局内国調査第一課、総合計画局計量班、調査局国際経済第一課等を経て2001年内閣府退官。02年秋田経済法科大学経済学部専任講師、04年10月秋田大学教育文化学部准教授。12年4月より現職。

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    新聞記者たちがあっさり騙される安倍首相「信号無視話法」

    た安倍首相の答弁スタイルを「信号無視話法」と名づけたのは都内在住の会社員・犬飼淳氏である。「もともと政治には興味がなかったが、国会で1年以上にわたって騒いでいるモリカケ問題では、非常におかしなことが起きているんだろうと感じていました。しかし、テレビのニュースでは問題の本質が見えてこない。新聞は詳しいが、やはりわかりにくい。そこで自分なりにまず安倍首相の国会での説明を視覚化してみようと考えたんです」 犬飼氏は1年半ぶりに開かれた5月30日の党首討論から、首相が質問にまともに回答した部分を「青」、全く聞かれていないことを答えたり、論点のすり替えで誤魔化した部分を「赤」、なぜか質問内容を繰り返したり、解説した部分を「黄」と“信号機”のように色分けしてみた。するといきなり問題の本質が見えてきた。「首相夫人が公務員を使って、財務省に(森友学園への)優遇措置を働きかけるのはいいことか」などと質問した枝野幸男・立憲民主党代表への答弁では、首相は枝野氏の持ち時間19分のうち12分も喋り続けたが、犬飼氏が文字数を計算すると「青」答弁はわずか4%、しかも「政府はコメントする立場にはない」と、内容的にはゼロ回答だった。 志位和夫・日本共産党委員長の「モリカケ問題で文書の改竄、隠蔽、廃棄、虚偽答弁という悪質な行為が起きた理由をどう考えるか」という質問に対しては、なんと「青」答弁がゼロという結果になった。2018年4月、「桜を見る会」を終え、記者の質問に答える安倍晋三首相(中央)=東京・新宿御苑(代表撮影) 6月27日に行なわれた2回目の党首討論でも、首相は志位氏の「加計学園が総理の名前を使って巨額の補助金を掠め取ったのではないか」という質問に、約6分間も「赤」「黄」答弁を繰り返した挙げ句、「私はあずかり知らない」とゼロ回答だった。説明責任? 何それ?説明責任? 何それ? 新聞記者と同じく追及する側の野党党首の実力不足もあるにせよ、この「黄」「赤」ばかり点灯させる信号こそ、真相解明という“車”が立ち往生し、1年以上も国会で堂々めぐりの議論が続いている原因なのだ。「この視覚化で再認識したのは安倍首相がたいへん不誠実な答弁を続けているということです。メディアは今の政治についてもっとわかりやすく報じてほしい」(犬飼氏) 新聞各紙はさすがに30日の党首討論について、「安倍論法もうんざりだ」(朝日)、「政策を競う場として活用せよ」(読売)、「もっと実のある中身に」(日経)と翌31日付の社説で注文を付けているが、“自民党支持者は新聞を読んでいない”とバカにしているから何と言われても響かない。 そればかりか、6月19日、初めて記者会見に応じた首相の「腹心の友」加計孝太郎・加計学園理事長まで、記者の質問に議論のすり替えや「記憶も記録もない」という首相と同じ「信号無視話法」を駆使し、わずか25分で一方的に打ち切った。 安倍首相を筆頭に、佐川宣寿・前国税庁長官、柳瀬唯夫・元総理秘書官、そして加計理事長と“安倍一味”に共通する態度からは、これからこの国の政治腐敗がどれだけ広がろうと、「総理の友人ならおかまいなしで、国民への説明責任もいらない」という信号無視の暴走政治が始まることを示唆している。 安倍首相は今国会2回目の党首討論でついにこんな言葉まで繰り出した。「(党首討論の)歴史的な使命が終わってしまった」 信号無視どころか、信号機を壊し始めたのだ。そして政治の暴走は止まらなくなる。関連記事■ 信頼失った朝日新聞 安倍―麻生の印象操作の餌食に■ 朝日新聞の信頼度は日本の有力紙の中で最下位 英調査■ 右派系まとめサイトの管理人に「目的」を直撃してみた■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題

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    安倍晋三首相 総裁3選を決めてしまおうと“約束手形”乱発

     9月に自民党総裁選を控えている安倍晋三首相だが、西日本豪雨の夜に衆院赤坂宿舎で行われていた酒盛り(7月5日)、いわゆる「赤坂自民亭」で批判を浴びた。そのため、「総裁選より災害対応」をアピールするために、総裁選出馬表明を延期する方針だと報じられている。だが、「被災者優先」は口先だけだ。 安倍首相は国会後半、岸田文雄・政調会長との「和食会談」(6月18日)や麻生太郎・副総理兼財務相、二階俊博・幹事長との「ステーキ会談」(6月20日)など積極的に実力者との会合を重ねてきた。今回の赤坂自民亭の出席も「竹下氏取り込みが目的」(側近)だと見られている。「総理は一気に総裁3選を決めてしまおうと約束手形を乱発している。岸田さんには“総裁選に出馬しないなら、どこでも望むポストを”と幹事長起用を匂わせ、麻生さんには“政権が続く限り副総理兼財務相に留まってもらいたい”と説得、二階さんには“これからも幹事長として党の重しとなってほしい”と喜ばせている」(細田派議員) それでは幹事長が2人になってしまうが、さらにもう一枚、竹下亘・自民党総務会長にまで約束手形が切られたという。「総理が一番気にしているのが竹下派の動向だ。ここが石破支持に回ったり、岸田に出馬をそそのかすと厄介だ。そのため官邸の安倍側近からしきりに竹下幹事長説が流されている」(同前)“毒まんじゅう”も登場する。安倍自民党は参院定数を6増する公選法改正案を国民の批判を承知で成立させたが、これも総裁選対策のひとつという見方が強い。元参院議員・脇雅史氏の指摘だ。2018年5月、自民党石原派の派閥パーティーで石原前経済再生相(右)と握手する安倍首相=東京都内のホテル「今回の参院の選挙制度改革の内容は参院自民党の党利党略そのもの。安倍総理も筋が通らないおかしな制度だと思っていると推察するが、総裁選やその後の政権運営で参院自民党の支持を取り付けたいから、彼らのいうままに目をつぶって成立させたのだと思う」 自民党の参院議員はこの“毒まんじゅう”を喜んで食べたが、毒が回るのは定数が増える議員の給料を払わされる国民なのだ。関連記事■ “赤坂自民亭”で安倍首相が若手議員に地方行脚を売り込み■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ カジノ3か所開設 横浜、大阪、長崎、沖縄の椅子取りゲーム■ 野田聖子氏も「非常に厳しい」 日本で女性総理は誕生するか■ 大麻解禁派にのめり込む安倍昭恵夫人 官邸は危うさを心配

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    文科省汚職、マスコミの追及が手緩いのは前川喜平さんのおかげである

    ていた前川氏の責任は重いのだが、ご存じのように加計学園問題に関して、彼はマスコミや「反安倍」といえる政治勢力たちに担ぎ上げられている。特に、前川氏自身は講演会などで安倍政権批判を熱心に行っていると報じられている。 その姿勢が「反安倍無罪」とでもいうマスコミの風潮に乗って、マスコミや反安倍勢力での「人気」に結びついているのだろう。だが、前川氏のマスコミ「人気」と、彼が官僚時代に行った不正を比較してみると、「反安倍無罪」というべきマスコミの姿勢の問題性が浮かび上がってくるはずだ。 また文科省の腐敗は、この天下り斡旋だけにとどまっていない。文科省の幹部職員が「裏口入学疑惑」と「接待疑惑」で起訴ないし逮捕されている。両方ともいわゆる「霞が関ブローカー」が関与した、あまりに絵に描いたような汚職事件である。 文科省前局長の佐野太被告がこの「霞が関ブローカー」の調整を受けて、東京医科大側から自分の子供のいわゆる「裏口入学」の便宜を得た。佐野氏はその見返りに東京医科大側に私学支援事業の書き方を指導したとされている。 また、同じブローカーが同省前国際統括官の川端和明容疑者に対して、飲食店だけではなく、高級風俗店などでも長期間接待を繰り返したという。川端容疑者はそれに対して、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙飛行士をブローカーの関係する講演会に派遣する便宜を図ったとされている。 このような接待や裏口入学の手引は、まさに古典的な汚職の手段であり、それが今日まで文科省で長く行われていたことは驚くべきことである。この「霞が関ブローカー」の暗躍は前川事務次官時代を含めてかなり長期に及び、その文科省への侵入度合いが、果たしてこの2事例だけでとどまるのか、さらに組織的な広がりがあるか否かが大きな関心の的だろう。幹部職員が相次ぐ逮捕・起訴されている文部科学省(鴨川一也撮影) 実は、筆者は個人的にも大きな驚きをこの事件について抱いている。なぜなら、川端容疑者は筆者の大学生時代の教養ゼミの同級生だからだ。 川端容疑者が大学を卒業してからは全く交流もなく、同窓会などでも遭遇することはなかったと記憶している。そのためこの35年ぶりの「出会い」は本当に驚きであった。この問題も「反安倍無罪」? 筆者の所属していた教養ゼミは学年をまたいで親密になりながら、熱心に議論することで有名であった。先輩や同期はマスコミ関係に進む人間が多く、例えば最近『「共感報道」の時代』(花伝社)を出版したジャーナリストの谷俊宏氏は筆者の1年先輩であり、川端容疑者ともども勉学に励んでいた。 ただ、川端容疑者の報告は、他のゼミ生の報告内容を今でも記憶していることに比して、全く印象に残っていない。地味で目立たず、あまり積極的に発言もしなかった。 コンパの席上でも、他のゼミ生が政治から文化の話題まで幅広く談論風発する中で、川端容疑者は寡黙な人という印象であった。簡単に言うと、華はないが、実にまじめという印象だ。 筆者は海外放浪をして1年留年したので、川端容疑者の方が先に卒業していった。その就職先が科学技術庁(現文科省)と知ったときは、地道で手堅いな、となんとなく納得したものである。 今回、このデタラメとしかいえない汚職の報を聞いて、「彼は昔の彼ならず」なのか、という素朴な感想を持つ。それとも、文科省という組織そのものが、あの実直な青年をここまで堕落させたのだろうか。文科省国際統括官の川端和明容疑者=2018年7月撮影 この問題も、文科省の構造的なものかどうか検証が求められるが、他方で、この事案でも「反安倍無罪」的な報道姿勢がありはしないだろうか。例えば、現状で2人の野党議員の関与が噂されている。すでに一部の識者はラジオなどでその名前も明らかにしている。 だがマスコミ各社の報道の動きは極めて鈍い。もちろん野党自体にも追及の声は皆無に近い。テレビのワイドショーも、普段から「モリカケ」問題で取るに足りない情報だけで大騒ぎし、番組を挙げて政権批判を繰り返してきた姿勢とあまりに対照的である。 ひょっとしたら、モリカケ問題であまりにも官僚側を「称賛」しすぎてしまった反動で、文科省への腐敗追及の手が緩んではいないだろうか。まさかとは思うが、「反安倍無罪」がマスコミにありはしないか、一つの注目点である。

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    豪雨災害「クーラーデマ」を否定しない蓮舫議員もどうかしている

    ではなく間違った内容であっても、「真実」としてネットの中で生き残ることもしばしば見受けられる。特に、政治的な集団が先鋭的に対立している場合では、この「デマの延命」が見られるようである。 西日本の豪雨災害では、いまだ被災地で復旧作業や安否不明者の捜索が懸命に続いている。テレビや新聞の報道だけではなく、実際の被災者がほぼリアルタイムで知らせてくれる現状の一端は、被災地にいる人だけではなく、他の地域に住む人たちにも貴重な情報になっている。 民間の方々はもちろん、自治体や警察、消防、自衛隊などの人たちの必死の努力もネットなどで伝わってくる。事実、ボランティアの参加方法、寄付の注意点、また募金の重要性なども、筆者はネットを中心にして知ることができた。 他方でひどいデマにも遭遇した。中でも「風評被害」だと思えるケースが、岡山県倉敷市の「観光被害」とでもいうべきものだ。 今回の豪雨で、倉敷市の真備地区が深刻な浸水被害を受けた。だが倉敷の市域は広く、県内有数の観光地である美観地区はほとんど被害がない。観光施設や店舗なども平常通り営業している。 だが、「倉敷市が豪雨災害を受けている」というニュースや情報が、テレビでヘリコプターなどから映されている広域にわたって浸水した街の姿などとともに流布してしまうと、市域の広さや場所の違いなどが無視されて人々に伝わってしまう。ただし、観光客のキャンセルなどもあるようだが、この種の「風評被害」は、ネットメディアや一般の人たちの努力で打ち消していく動きも顕著である。2018年7月17日、風評被害により、観光客もまばらな岡山県倉敷市の美観地区(小笠原僚也撮影) 例えば、ツイッター上では「#美観地区は元気だったよ」というハッシュタグによる「拡散活動」が展開されている。また、大原美術館の防災の試みを紹介するネットメディアの記事で、今回は美術館のある美観地区が災害から免れているという紹介もあわせて説明されていて、それがよくネットでも注目を集めている。この種の試みや工夫は非常に重要だ。 これらの試みは、いわば民間の自主的な努力によるものである。言論や報道の自由が、あたかも市場での自由な取引のように行われることで、その権利が保たれるという見解がある。「言論の市場理論」とでもいうべき考え方だ。「クーラーデマ」と「コンビニデマ」 代表的には、19世紀の啓蒙(けいもう)思想家、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の中で展開されている。今回のようにネットでのさまざまな風評被害を防ごうという試みは、多くは人々の自主的な言論活動で行われている。 他方で、冒頭でも指摘したが、より対応が難しいのは、政治的に対立した人たちが放つデマである。今回の豪雨被害では、ネットを中心に代表的なケースが二つあった。一つは、先週、安倍晋三首相が岡山の被災地を視察に訪れ、避難所を訪問した際のことである。ところが、この訪問後に、ツイッターで「安倍首相が視察に来るので慌ててエアコンを設置した」というデマが拡散した。 最初にデマを「ウソに基づく噂」と書いたことからもわかるように、これは真実ではない。このデマに対しては、世耕弘成経産相がツイッターで即時に否定した。被災各地の避難所へのクーラーの設置は、被災者を多く収容している施設にまずは優先的に行われていることを、世耕氏は指摘したのである。 もう一つのデマは、政府が自衛隊の車両を緊急利用して、品薄が続くコンビニエンスストアに食品や飲料などを輸送したことへの批判である。これには「物流費を肩代わりするとは官民協力ではなく、官民癒着だ」という批判が上がった。また自衛隊への心ない批判も多くみられた。 もちろんこれは「官民癒着」などではなく、デマである。すぐさまネットでは、これらの施策が1年前に「災害対策基本法」に基づいて、「官民が一体となった取組の強化を図るため、内閣総理大臣が指定する指定公共機関について、スーパー、総合小売グループ、コンビニエンスストア7法人が新たに指定公共機関として指定」されたと指摘している。 当然だと思うのだが、被災地のコンビニで、以前と同じように品物がそろうことは被災している人たちにも助けになることは間違いない。「官民癒着」も間違いならば、官民連携によるコンビニ「復旧」を批判するのは、あまりにデタラメではないだろうか。 ただし問題はここからで、このような「クーラーデマ」「コンビニデマ」でも、いまだに政治的に対立する人たち、例えば安倍政権を批判することの好む人たちの中では健在である。だから、取るに足らない理由でデマを延命させている「努力」について、確認することは難しくない。2018年7月11日、岡山県倉敷市の避難所を訪れ、被災者の話を聞く安倍首相 特に野党議員など、国会レベルでの政治的な対抗勢力の人たちがこのデマに加担していることも確認できるだけに、政治的な思惑でのデマの流布により、社会的な損失がしぶとく継続しがちだと思われる。なぜなら、政治的な対立者たちが合理的なデマの拡散者である、という可能性も否定できないからだ。 デマの拡散力とデマを否定する力と、どちらが大きくなるかは、「正しさ」の観点だけで決めるのはなかなか難しい。いずれが打ち勝つかはケースによる、と冒頭でも書いた通りだ。特にこのような政治が絡む案件ではデマは真実だけでは打ち消せないかもしれない。政治的バイアスを打ち砕けるか ネット社会の問題について詳しい法学者、米ハーバード大のキャス・サンスティーン教授が著書『うわさ(On Rumors)』(2009)の中で、類似したケースを紹介している。要するに、人々の自由な言論ではこの種のデマを防ぐことは難しいと、サンスティーン氏は指摘している。 ではどうすればいいのか。サンスティーン氏は「萎縮効果(Chilling Effect)」に注目している。つまり、法的ないし社会的なペナルティーを与えることによって、この種のデマを抑制することである。 例えば、デマの合理的な流布者に対し、悪質度に応じて、法的な制裁やまたは情報発信の制限を与えてしまうのである。これを行うことで、他のデマの合理的な発信者たちに、デマを流すことを抑制できるとする考え方である。 このような「萎縮効果」は確かに有効だろう。だが、あまりに厳しければ、それはわれわれの言論の自由を損なってしまう。 現状でもあまりに悪質なものには、法的な処罰やまたソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のアカウントの制限や削除などが運営ベースで行われている。それが「萎縮効果」をもたらしているかもしれない。「萎縮効果」はやはり補助的なものだと考えた方がいいだろう。 立憲民主党の蓮舫議員はツイッターで以下のようなことを書いている。 総理視察の直前に避難所にクーラーが設置されたとのツイッターに、経産大臣が随分とお怒りの様子で、かつ上から目線のような書きぶりで反応されていたが、もはや避難所にクーラーのレベルではなく、災害救助法上のみなし避難所の旅館・ホテルを借り上げ、被災者の居場所を確保すべきです。蓮舫氏の7月13日のツイッター 「クーラーデマ」を明瞭に否定せずに、世耕氏の発言を「上から目線」として批判することで、かえってデマをあおる要素もこの発言にはある。ただし、この蓮舫氏の宿泊施設への対策が政府にあるかないかについて、即座に自民党の和田政宗議員が次のように反応している。 ご意見有難うございます。ご指摘いただいた前日までに政府は既に対応済みで、12日の非常災害対策本部の会合で、被災者向けに公営住宅や公務員宿舎、民間賃貸住宅など7万1千戸を確保し、旅館・ホテル組合の協力により800人分も受け入れ可能となっている旨、報告されています。r.nikkei.com/article/DGXMZO …和田政宗氏の7月15日のツイッター2018年6月18日、参院決算委員会に臨む立憲民主党の蓮舫氏(春名中撮影) この与野党の国会議員のやりとりを、ネットユーザーが直接見ることができ、それに評価を下すことができる。確かに、政治的バイアスを打ち砕くのは至難の業である。だが、同時にわれわれの言論の自由は、その種の政治的バイアスに負けない中でこそ養われていくことを、災害だけではなく、さまざまな機会で確認したい。

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    「赤坂自民亭」人命より酒宴の安倍政権に心底絶望した

    杉隆(メディアアナリスト) 国民の命が次々と奪われようとしているまさにその時、一国のリーダーが仲間の政治家らと酒宴に興じていたら…。 7月5日、気象庁から西日本各地に歴史的な豪雨への警告が発せられた。その最中、安倍首相ら閣僚は、与党幹部ら約50人と「赤坂自民亭」(衆院議員宿舎で行われる安倍首相と党所属議員の懇親会)で宴を愉しんでいた。 同夜、西村康稔官房副長官や片山さつき議員の会員制交流サイト(SNS)には、サムアップをして記念写真に応じる参加者たちの酔った姿がアップされた。 国民の苦しみや悲しみに共感できない政治に未来はないだろう。また、自分の国に起こり得る悲劇を予見できない政治家には為政の資格もないといえる。 首相や党派への好き嫌いではない。国民の命を軽んじる政治は東日本大震災が起きた2011年3月11日以降の民主党政権で懲り懲りなのだ。 慌てた安倍政権は3日後に非常災害対策本部を設置し、「的確に対応していた」と応じている。また西村官房副長官も「安倍首相の陣頭指揮のもと」と繰り返している。 しかし、果たして本当にそうなのか。【日本人の恥】警察・消防・自衛隊・海保・民間有志は発災当初から国民の命を救ってくれている。自民党の力も総理の指示も関係なく…。政治のフェイク介入は現場の士気を削ぐ。むしろ党派の仲間たちと宴に興じていてください。 @AbeShinzo #西日本豪雨災害【日本人の恥】故郷の人々の顔を思い出さなかったのか?演技でも選挙区の有権者の顔が浮かばなかったのか?初代自民党総裁の孫の元秘書として自民党の変節を嘆く。 @AbeShinzo #岸田文雄 #山口県 #広島県 #豪雨災害【日本人の恥】故郷の人々の顔を思い出さなかったのか?演技でも選挙区の有権者の顔が浮かばなかったのか?初代自民党総裁の孫の元秘書として自民党の変節を嘆く。 @AbeShinzo #岸田文雄 #山口県 #広島県 #豪雨災害 【日本人の恥】防衛大臣、自衛隊員が飲酒しながら救援活動をしていたら懲戒です。#自衛隊 #西日本大水害 @AbeShinzo 100人、200人と国民の命が次々と失われていく様をみながら、筆者は感情的になりすぎたのかもしれない。気づくと、安倍首相や酒宴に参加した閣僚たちに対して、繰り返し抗議のツイートをしていた。「赤坂自民亭」で酒を酌み交わす安倍晋三首相(下段中央)と岸田文雄政調会長(同左)=2018年7月5日夜、衆院赤坂議員宿舎(西村康稔官房副長官のツイッターより) 実は、6年目の長期政権を迎える安倍首相にここまで嫌悪感を持ったのは初めてだった。約10年前、拙著『官邸崩壊』(新潮社)で、安倍政権を徹底的に批判し、首相辞任にまで追いつめた時ですら、安倍首相本人への嫌悪感はほとんどなかった。むしろ、本にも記した通り、安倍首相の周囲に集まる政治家や官僚やマスコミの人間に利用された「被害者」という意識を持っていた。 しかし、今回は違う。6年に及ぶ長期政権への過信と、国民への共感を忘れた奢(おご)りの気持ちが、酒宴を開かせ、記念写真を撮り、それをSNSにアップするという愚行を自ら許したのだ。 そして、その愚行を誰も止められなかったのは、安倍官邸のみならず、自民党という党派そのものの腐敗に尽きる。死刑前日に酒宴に参加する法相 悲しむべきことは、翌6日、オウム死刑囚7人の執行にサインをした上川陽子法相がその場にいたことだ。しかも、酒宴の主催者で集合写真では安倍首相の横で親指を立てている。 かつての筆者のボスである鳩山邦夫法務大臣は在任中に13人の死刑囚の執行にサインをした。歴代最多で、当時は朝日新聞に「死神」と揶揄(やゆ)されたものだ。 しかし、その鳩山氏が死刑執行の週にどういう気持ちでいたか、朝日新聞もメディアも知らないだろう。「自分のサインひとつで一人の人間の人生が終わるんだぞ。眠れなくなるのも当然だろう」とも語っていた鳩山邦夫法相。死刑の週には登庁前に必ず体を清めて墓参していた。朝日新聞に「死神」と書かれたが、そんな優しい「死神」がいるのか?民主党政権や現政権の法相の方が心がない。 @hatoyamayukio 筆者が代表を務めるNOBORDERが運営する報道番組『ニューズ・オプエド』に鳩山元法相の兄の鳩山由紀夫元首相が出演した昨日(12日)、筆者が当時の様子を明かした時の言葉だ。 法相は死刑執行の約48時間前、つまり二日前の火曜日か水曜日に、大臣室で執行のサインを行う。その前、執行者リストの知らせが、法務官僚(大抵は大臣秘書官)から受けるのだが、それが前週末か、当週の月曜日だという。 鳩山法相は、その知らせを受けると、早朝に自宅で身を清めて、東京・谷中にある先祖の墓参りをした。さらに、執行日まで墓参を繰り返し、夜は断酒、死刑囚への祈りを毎日欠かさなかった。 「そうですか。弟のそうした振る舞いは知りませんでした」 番組の中で、兄の鳩山元首相はそう語った。 筆者は、死刑反対論に与(くみ)する者ではない。しかし、人命を奪う最強の国家権力行使に当たって、担当の法務大臣が、前夜に酒宴で首相と並んでサムアップで記念撮影に応じるというのはどうしても容認できないのだ。麻原彰晃死刑囚らの死刑執行を受け、臨時記者会見を行う上川陽子法相=2018年7月6日、法務省(桐原正道撮影) 国民の命を軽視する政権に未来はない。いや、そうした政権の存続を許しているのは私たち国民だ。となれば、私たちの国、日本の未来は…。 政治は結果責任だ。安倍首相と自民党は日本の未来のために潔く決断をすべき時に来ているのではないか。

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    「笑点の安倍ネタは風刺じゃない」石平が綴った怒りの反論手記

    珠玉の一言」を繰り出す設問があった。そしてその中で、いつもの顔ぶれの落語家たちの口から、次のような「政治ネタ」が連続的に放たれたのである。 まずは三遊亭円楽さん、「安倍晋三です。トランプ氏から『国民の声は聞かなくていい』と言われました」。次は林家たい平さん、「麻生太郎です、やかましいィ。」。そして最後には、林家木久扇さんは「沖縄から米軍基地がなくなるのは、いつなんだろうねぇ」と嘆いてみせた。 以上が、後にインターネット上などで話題となった『笑点』の「三連発政治批判」である。テレビの前でそれを見た私は、「そんなのは落語としてどこが面白いのか」と思ったのが最初の感想であった。 例えば、最後の木久扇さんの「沖縄から米軍基地がなくなるのは、いつなんだろうねぇ」という答えを取ってみても、そこに何か落語の笑いの要素があるというのか。「米軍基地がいつ無くなるだろうか」という、そのあまりにも平板にしてストレートな一言を聞いて、腹の底から笑おうとする人間がいったい何人いるというのか。 程度の差はあっても、一番目の「安倍ネタ」と二番目の「麻生ネタ」も同じようなものである。要するに、この三連発の政治批判は笑いのネタとしてまずつまらないし、落語としての機転も芸も感じさせない。 そこにはむしろ、政治批判が目的となって『笑点』としての面白さは二の次となった、という感がある。はっきり言って、そんなネタはもはや『笑点』ではない。『笑点』の名を借りた政治批判にすぎないのである。 しかも、その時の政治批判は、一般庶民の視点からの政治批判というよりも、特定政党の視点からの政治批判となっているのではないか。例えば、沖縄の米軍基地について、基地が無くなってほしいと思っている庶民が、この日本全国に一体何割いるというのか。地元の沖縄でも、基地反対派と基地維持派が県民の中に両方いるはずだ。2018年1月、米軍普天間飛行場移設に向けた護岸工事が進む沖縄県名護市の辺野古沿岸部(共同通信社機から) 上述の『笑点』三連発の政治批判は、つなげて考えてみれば、要するに「反安倍政権・反米軍基地」となっている。それはそのまま、日本の一部野党の看板政策と重なっているのではないか。 私自身は『笑点』が結構好きで、日曜日の夕方に家にいれば、そしてチャンネル権が女房と子供に奪われていなければ必ずつけてみることにしている。だが、その日の『笑点』を見て、さすがにあきれて自分のツイッターで下記のようにつぶやいた。多くの共感を呼んだツイート先ほど家のテレビで久しぶりに「笑点」を見ていたら、「安倍晋三です。国民の声を聞かなくてよいとトランプに教えられた」とか、「沖縄の米軍基地はいつなくなるのか」とか、まるで社民党の吐いたセリフのような偏った政治批判が飛び出たことに吃驚した。大好きな笑点だが、そこまで堕ちたのか。石平氏の5月27日のツイート このツイッターは結局、ネット上で大きな反響を呼んだ。数日間のうち、8千人以上の方々からリツイートをいただき、1万5千人以上の方々から「いいね」をいただいた。そして私のツイッターには、この件に関して1100件以上のコメントが寄せられて、その大半は私のつぶやきに賛同する意見であった。 私がツイッターを始めたのは今から4年前だったが、今は37万人以上の方々にフォローしていただいている。正直に言って、私の「ツイッター史」において、これほど大きな反響を呼ぶツイッターを放った経験はめったにない。『笑点』の政治批判ネタに対する私の感想と苦言は、やはり多くの人々の共感を呼んだのである。 もちろん、私のツイッターに対する批判や反発の声も挙がった。お笑いタレントで演出家のラサール石井さんが自らのツイッターで、「時の権力や世相を批判し笑いにするのは庶民のエネルギーだ」「政治批判は人間としての堕落だと言いたいのか」と反論したのはその一例だ。 他にも、ネット上や、私のツイッターに寄せられたコメントの中には「権力を風刺し批判するのは落語の伝統だ」「庶民の気持ちを代弁して権力を批判するのはどこか悪いのか」といった批判があった。その中には、「落語の政治批判を許さないというのは言論統制だ、全体主義だ」と、一物書きである私のことを、まるで権力者に対するかのように厳しく糾弾するネットユーザーまでいた。 しかし、私からすれば、こういった反論と批判のほとんどは、まさに的外れのものである。政治風刺や政治批判を行うのは、確かに落語の良き伝統であろう。しかしそれは決して、観客としての私たちが、落語で行った政治批判を何でもかんでも無批判のままで受け入れなければならない、という意味合いではないのである。 政治風刺も政治批判も良いのだが、それには面白いかどうか、特定の政党や政治的立場に偏っているかどうかがつきまとう。それに対し、われわれ観客の一人一人が、自らの基準と心情に従って論評したり批判したりするのはむしろ当然のことだ。私は自分のツイッターで『笑点』のことを「堕ちた」と酷評したのだが、それも一観客としての私の感想にすぎないし、そして私にも私の感想を吐露する権利はあるのだ。2017年6月、『笑点』メンバーの(後列左から)林家三平、林家たい平、三遊亭小遊三、(前列左から)三遊亭円楽、林家木久扇 要するに、『笑点』には政治を風刺し、批判する自由はあるが、われわれ観客にも『笑点』の政治批判に賛同したり、批判したりする自由があるのである。「『笑点』は庶民の声を代弁して権力批判をしているから、『笑点』を批判してはならない」というような論法は、逆に『笑点』に対する批判を封じ込めて、『笑点』そのものを絶対的な権力にしてしまうのである。これこそ、問題の最大のポイントではないのだろうか。

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    『笑点』の安倍ネタは笑えない?

    ネタは昔からよくあった」「そもそもネタとして笑えない」。意見が分かれる今回の炎上騒動を機に、お笑いと政治風刺を考えてみたい。

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    立川談四楼手記、『笑点』はパヨク政権でもからかいます

    で、「『笑点』も墜ちた」ぐらいはまだいいんだ。ロクに番組を観てない人の言い草だからね。ただ「落語家が政治に口を出すな」「落語だけやってりゃいいんだ」にはカチンときた。『笑点』を観てないことについてはいいにしても、落語と落語家の歴史をまるで理解してない輩(やから)のほとんど妄言だからね。「笑点」メンバー(前列左から)司会の春風亭昇太、新メンバーの林家三平、林家たい平(後列左から)三遊亭圓楽、三遊亭好楽、林家木久扇、三遊亭小遊三、山田隆夫=2016年5月 まあ、少人数ならそれも一つの意見だろうとスルーしたけど、名のある人まで言ってるんだ。半面、「落語について無知であります」と表明しちゃってるわけだけど、著名人だけにフォロワーも多く、「いいね」やリツイートする人がかなりいて、一応ちゃんと抗議したということなんですね。  驚いた。私のツイートに対する「いいね」とリツイートが合わせて15000に達したんだ。もちろん「クソリプ(見当外れな返信)」も飛んでくるが、賛同がはるかに凌いで、少し溜飲(りゅういん)を下げる思いがした。私は写真も動画も使わず、140文字のジャストを昼過ぎに3本投稿するのを旨としている。そりゃ過去には3万超えなんていうこともあったけど、1万を超えるツイートはなかなかないんだ。一言で言うと反響が大きかったということです。某紙もそれを取り上げるくらいに。 落語家の政権批判はホント日常なんだ。それが証拠に『笑点』では民主党政権のときもやったし、それは昔からのものなんだ。つまり伝統でね。何しろあの番組は私の師匠の談志が作ったのだから、過激になるのも当然なのさ。 酒で早くに死んでしまったんだが、春風亭梅橋(しゅんぷうていばいきょう)という人はスゴかったね。「酔っぱらい運転はなぜいけないか」の題に梅橋、こう答えたんだ。「轢(ひ)いた時に充実感がないから」。私が高校生の頃だったが、これには引っくり返ったよ。   ある日、なぞかけで「オッパイ」という題が出た。 梅橋「オッパイとかけてヤクザの出入りときます」   「その心は?」 梅橋「すったもんだで大きくなります」ときた。 「パンティ」がお題のときもスゴかった。 「パンティとかけて美空ひばりのおっ母さんとときます」   「その心は?」   「いつも娘にぴったりと張り付いてる」  全編この調子でね。今じゃ完全に炎上案件だよ。視聴率が上がるとスポンサーがうるさくなって、それで談志の降板に至る、という歴史なのさ。だから当時の過激さが少しだけ顔を出したというだけのことなのさ。戦時中の国策落語と禁演落語 戦時中の軍部との戦いにも触れないといけない。落語の本質は「三道楽煩悩(さんどらぼんのう)」の「飲む・打つ・買う」、つまり酒と博奕(ばくち)と女郎(じょうろ)買いなんだ。それをどう描くかで落語家の腕が問われるのだが、戦時中だから、どうしたって不謹慎ということになる。 時代の空気を察した落語家は、いち早く動いた。時局にふさわしくない落語53席を葬ったのだ。これが世に言う「禁演落語」で、これもなぜ53席かで面白い説があるんだ。「東海道五十三次」になぞらえての53席という説と、もう一つは「53(ゴミ)みたいな落語」。つまり、どうでもいいネタを葬って軍部の目を欺いたという説があるんだ。どっちにしろギリギリ反権力をやってるんだね。 しかし「国策落語」にはなす術(すべ)がなかった。なにしろ「お国のために国威発揚(こくいはつよう)の落語を作れ」という命令だから逃げようがないのさ。随分作られ演じられたというが、ほとんど残ってない。終戦直後、いろんな書類が焼かれたというから、ま、そういうことだろうね。落語「出征祝い」を口演する林家三平さん=2016年3月1日、東京都台東区 でも近年、林家三平師が祖父の林家正蔵作と言われる『出征祝い』を演じて話題となった。しかし評判は芳(かんば)しくなかった。慌てて声を大にして言っとくけど、三平師の技量のせいじゃないよ。国威発揚の落語が面白いわけがない、という真理によるものさ。 前述したように、落語の基本は「飲む・打つ・買う」だよ。戦争と相性がいいはずないじゃないか。戦争と落語は180度両極に位置するものだからね。 でね、その最中に志ん生はこう言ったんだ。「国策落語なんて野暮なもの、俺やだよ」。そう言って志ん生は戦時中に円生とともに中国に行ってしまうんだ。興味のある人は調べてみて。面白い話がワンサと出てくるから。 落とし咄(ばなし)をするから咄家(はなしか)と言われてた江戸時代、冒頭のツイートにある通り、わがご先祖は幕府とも戦っていたんだ。スゴいね。「島流し」ってのが。時代劇のお白州(しらす)で発せられる「遠島(えんとう)を申しつくる」ってやつだ。 いや、咄家だけでなく講釈師にもいてね。この人は島抜け、つまり脱走して捕まり、ついには死罪になったという歴史もあるんだ。吉村昭が『島抜け』という題で小説にしてるくらいでね。 どうでしょう。いくらか反権力の歴史がお分かりいただけたでしょうか。あ、今、「共産党が政権を担ったらどうする?」という声がしました。 経緯は省きますが、私は保守論壇の重鎮、西部邁先生にかわいがっていただきまして、あるとき先生が「今、一番まっとうな保守は共産党だ」と言ったのを鮮明に覚えています。それもあって、「共産党政権の誕生も夢ではない」と思う者ですが、約束します。「たとえ共産党と言えども政権を取ったら大いにからかいます」と。 是枝裕和監督の『万引き家族』がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞、安倍さんはメダルや賞が大好きなのにこれを無視、ようやく林芳正文科相が祝意を表明、それを監督が辞退するという日に記す。

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    「お笑いと社会批評の境界」茂木健一郎が考える日本の政治コメディ

    。それが、私たちの課題だ。そのために、「笑い」は大切なきっかけになる。とりわけ、意見が対立しがちな「政治」の分野でこそ、本来、笑いの力が活かせたらと思う。 昨年、私は「日本のお笑い」は「オワコン」だとツイートして、大きく炎上してしまった。その時の経験で、私は、いろいろなことを反省した。最も大きな反省点は、ただ自分の意見を表すだけでは、それは自己満足のようなもので、伝わらないし、世の中においても良い事にはならないというものだった。漫才日本一決定戦「M-1グランプリ2017」開催会見で集まった出場者ら=2017年6月 その苦い経験から、私はネットでの自分の表現の仕方を変えた。何よりも、世間で対立しそうなことに対して、一方の側の意見を書いて満足するというような態度では、何も伝わらないし、変わらないということが身にしみたから、そういう書き方はしなくなった。 結果として、私は意見の表明に対して慎重になり、価値中立的なことか、これは多くの方に知ってほしい、というような情報だけをツイートするようになった。あるいは、他愛もないこと、ほほ笑ましいこと。 ツイッターの書き方を意識的に変えたのは昨年末のことで、以来、ほぼ半年ほど、私のアカウントで「炎上」はないと認識している。このまま、穏やかな時期が続けばよいのだけれども、今後のことは、私の修練と選択にかかっている。英王室風刺にタブーはない 状況も変わるかもしれないし、人ぞれぞれでよい。政治的なことについてストレートに発言を続け、結果として炎上している多くの方々のことは尊敬しているし、応援している。人は、自分が「こっち」と思う方に行くしかないのだ。そのような多様性こそが社会である。  笑いには期待している。意見が分断しがちなネット状況でコメディの精神をうまく使えば、「日本をもみほぐしたい」という願いが叶うかもしれない。しかし、批評的な笑いは難しい。特に、政治的な問題について笑いを適用するのは難しい。 コメディアンの目的は笑いであり、社会批評ではない。社会批評をすることで笑いが起こればそれはすばらしいことだが、社会批評をしても笑いが起こらないとすれば、それはコメディアンの仕事ではない。 以前、英国のBBCで『リトル・ブリテン』というコメディ番組を大ヒットさせたコメディアン、デイヴィッド・ウォリアムスとマット・ルーカスが来日した時、話す機会があった。その時、彼らが言っていたことが忘れられない。英国においては、王室は長年にわたってコメディの対象になってきた。そこには、タブーはなかった。 ただ、目的はあくまでも笑いであって、王室批評自体がゴールなのではない。ここから先は笑えるか、それとも笑えないか。ぎりぎりの境界をコメディアンたちは探っている。 デイヴィッドとマットは、「ダイアナ妃の事故の後しばらく、英国でも王室のことを笑いにするのは難しくなった」と言っていた。ネタにしても、聴衆が笑わなくなったというのである。日本における政治ネタも、それで聴衆が笑えばコメディアンの仕事として成立するのだろうが、笑ってもらえなければ、それは社会批評であってもコメディではない。 もっとも、コメディの「境界」は常にダイナミックに変化するものであって、そのフロンティアを探ってみたいというのが、「コメディ魂」なのであろう。 そんなコメディアンたちを、私は応援したい。日本では、政治的なコメディは難しいと思われがちだが、日本には、批評的コメディのユニークな可能性があるとも思っている。 たとえば、漫才。「漫才」は、批評的スタンスを持ち込むのに適したフォーマットの可能性がある。「ボケ」と「ツッコミ」をうまく呼吸させれば、欧米のスタンダップコメディとは違ったかたちで、日本でも政治的コメディを成立させられるかもしれない。 「ボケ」が過激なことを言い、「ツッコミ」が常識に戻すことでバランスを取る。かつて、ツービートが見事に見せたように、そんなフォーマットならば、難しいと言われがちな地上波テレビでも、放送できる可能性があるのではないか。「ツービート」のビートたけし(左)とビートきよし さらに、「落語」というフォーマットの可能性。落語は、世界の各地での笑いの文化を見渡した上でも、類まれにユニークなかたちをしている。特に、一人の演者が、多数の「登場人物」を演じ分けるという点。長屋で、くまさん、八っつあん、与太郎、ご隠居などの登場人物たちが、それぞれの思惑、個性で動き、全体としておもしろい調和ができる。笑いは脳進化の「智慧」 対立したり、けんかをしたりしても、それらがすべて響き合って、やがて一つの「笑い」となる。そう考えてみると、落語は多様性を許容した「社会的包摂」そのものである。 たとえば、米朝会談を落語にしたと考えてみよう。アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長の意見は対立したり、時には口げんかもするのかもしれないが、その双方を落語の一人の演者が演じることができる。 「おい、そろそろ、放棄したらどうだい」 「そうは言っても、お土産がないとなあ」 「放棄したら、お土産をあげるよ」 「だけど、放棄した後で、お土産はないよ、お前の家を壊すよ、というんじゃ、嫌だよ」 「だいじょうぶ。家は壊さないと、保証するから」 「そうは言っても、君の後ろで、こわそうなやつらが腕組みしているぜ」 ……。 そして二人の「対話」が煮詰まったら、町内の「ご隠居」を登場させることもできる。 「おいおい、いい加減にしなよ、もう、お互いに歩み寄って、決めちまいな」などと。もっとも、現実の米朝会談に「ご隠居」はいないかもしれないが。 落語という「ファンタジー」の方が、人間にとっては温かく、楽しい。笑いは、不安や恐怖に打ち勝ち、不確実なことに挑戦するために脳が進化させてきた「智慧(ちえ)」である。大阪市全24区にちなんだ創作落語「参地直笑祭」をスタートした落語家の桂文枝 すべての動物の中で、複雑な認知プロセスを通して笑うのは人間だけだ。人間は、笑うからこそ、居心地のよい「安全基地」から未知の世界に向かうことができる。人間は笑うからこそ、宇宙にも行くし、人工知能も開発できるのだ。笑いはリスクの存在下でバランスを回復し、適切な選択をとるための最前線の「安全基地」となる。 今日の日本のように、さまざまな不確実性に囲まれつつも、やはり前に進むべき状況でこそ、笑いが必要である。笑いに至る「メタ認知」、つまり客観的に自分たちを見つめる能力こそが、難しい状況での判断力を高める。だからこそ、古来、優れたリーダーはユーモアのセンスがなければと言われてきた。 政治は国全体の進む方向だが、一人ひとりの人生にも、進むべき方向がある。人生の選択に、悩む人も多いだろう。どんな学校に行くべきか。会社を辞めるか、それとももう少しがまんするか。 私は、日本で政治コメディの文化が広まるためには、社会全体のメタ認知を高めなければと思っている。自分の状況を見つめ、不確実な状況下で行くべき道を選択して、よりよい人生を生きる、そんな一人ひとりの積み重ねが必要だと感じている。 日本に政治コメディが広がらない理由を、メディアや、政治家、ましてやコメディアンたちのせいにしても仕方がない。(かつて、私が誤解を与える発言をしたことについては、改めてお詫びいたします) 「日本をもみほぐす」ためには、まずは、「自分をもみほぐす」ことが必要なのだ。

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    「放言連発」「上から目線」でも麻生大臣はなぜ逃げ切れたのか

    ある。 対になっているということは「君子豹変」と「小人革面」は好対照を成すということだろう。ある人は政治家の「君子豹変」と官僚の「小人革面」のせめぎあいの歴史が繰り返されていると捉えたりするだろうが、同じ人物に両面を見ることも時にはあるものだ。 学校法人「森友学園」(大阪市)との国有地取引に関する決裁文書の改ざんが発覚してから3カ月近くたった。財務省は6月4日になって、ようやく調査報告書を発表した。 麻生太郎副総理兼財務相は大臣談話として「決裁を経た行政文書を改ざんし、それを国会などに提出するようなことは、あってはならないことであり、誠に遺憾である」「応接録についても、国会などとの関係で極めて不適切な取り扱いがなされていたものと認められる」と謝罪し、閣僚給与12カ月分の自主返納を表明した。結局、財務省では関係者20人に及ぶ処分者を出した。 この3カ月、国民は嫌というほど、森友問題に関する麻生氏の国会答弁や記者会見を聞かされてきた。テレビ朝日の女性記者へのセクハラ問題で、福田淳一前財務次官の更迭に伴うコメントにしてもそうだ。まさに、部下を一瞬にして悪者扱いする「君子豹変」と、自分は悪くないという姿勢を貫き通す「小人革面」の「麻生劇場」が繰り広げられたのである。 2018年2月13日、麻生氏は衆院予算委員会で、佐川宣寿(のぶひさ)国税庁長官(当時)を「国税庁長官としては適任だと判断したもので、事実、国税庁長官としての職務を適切に行っている」と持ち上げた。3月に朝日新聞が決裁文書書き換えの可能性について報じても、参院予算委で「答えることが捜査にどのような影響を与えるか予見し難い。答弁は差し控える」と突っぱねた。2017年2月、衆院財務金融委で答弁する財務省の佐川宣寿理財局長。左は安倍首相、右は麻生財務相=国会 3月9日、佐川氏の辞意表明後の会見でも、麻生氏は「彼が途中で辞めるということになったことに関しては、少々残念な気がする」と、佐川氏が適任であったという認識を変えなかった。それどころか、質問した記者の所属社をわざと「なんとか新聞」と述べ、当てこする始末だった。 それが一転、文書書き換えを認めた3月12日の記者会見で、麻生氏は「極めてゆゆしきことなのであって、誠に遺憾。私としても深くお詫びを申し上げる次第です」とようやく「お詫び」を口にした。それでも頭を下げるようなことはせず、「行政の長として深くお詫び申し上げる」と頭を下げた安倍晋三首相とは対照的に、麻生氏の「傲岸(ごうがん)不遜」を印象付けた。パーソナリティ、三つの特徴 確かに、麻生氏は佐川氏を「職務を適切に行っている」と持ち上げてはいたものの、行政文書の書き換えを認める会見では「佐川の答弁に合わせて、書き換えたというのが事実だと思っています」と文書書き換えが理財局長当時の佐川氏の答弁に合わせて行われた認識を示した。 さらに、「最終責任者が理財局の局長である佐川になると思う」と、理財局トップだった佐川氏に責任があると、「佐川」と呼び捨てにして言ってのけたのである。ただし、「私としては財務省全体の組織が問題とは考えていない」と、財務省全体への責任を否定するのを忘れなかった。 3月16日の参院予算委では、答弁中のヤジに業を煮やし、答えるのをやめて「やかましいなあ。聞きたい? じゃあ静かにしていただけますか」といらだちをあらわにするなど、相変わらず挑発的な姿勢を見せた。 こうして麻生氏は「悪いのは佐川と理財局」という「君子豹変」ぶりを見せ、最終的に佐川氏が主導して理財局が決裁文書の改ざんを行ったという報告書がまとめられたのである。 その財務省本体が、事務次官のセクハラ問題でも揺れた。発端は、女性記者に対する福田氏の「セクハラ発言」を『週刊新潮』が報じたことだが、財務次官の発言としては耳を疑うような内容が並ぶ記事は世間に衝撃を与えた。そのうえ、翌日には記事の元になった音源の一部も公開された。 だが、財務省のヒアリングに対して福田氏はこれを否定した。財務省は、事実関係を明らかにするために、財務省側の弁護士にセクハラ被害を申し出るよう求めた。 4月17日、麻生氏は音源について「俺聞いて、福田だなと感じましたよ。俺はね」と答える一方で、財務省側の弁護士にセクハラ被害を申し出るよう求めた件については「こちら側も言われてる人の立場を考えてやらないかんのですよ。福田の人権はなしってわけですか?」と、一方的に福田氏の側に立った上から目線の発言に終始した。財務省の外観・看板=2018年3月(桐原正道撮影) しかし翌日、事態は急展開する。麻生氏は記者団に対し、福田氏から辞任の申し出があり、認めたと発表した。この間、麻生氏からは「(福田氏が)はめられたという見方もある」「セクハラ罪はない」などいった発言も飛び出している。 この3カ月で、他の政治家には見られない麻生氏のパーソナリティーが遺憾なく発揮されたわけだが、それには三つの特徴がある。 一つ目は、マキャベリの『君主論』よろしく、自らの責任に累が及ばないように、「適材適所」と認めていた部下でもサッと切って捨てる冷酷さだ。「上から目線のお殿様」と揶揄(やゆ)されることもあるが、企業でもお人よしでは組織のトップは務まらない。麻生氏はそれを分かりやすい形で体現しているともいえる。安倍3選失敗で「君子豹変」? 二つ目は、マスコミに対して、ことさら挑発的な姿勢を見せることだ。「なんとか新聞」発言はその際たるものだろう。麻生氏は、米国を除く11カ国の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP11)が署名されたときにも、TPP11のことは一行も書かないで森友問題ばかり報道していたと、「日本の新聞のレベルが低い」と批判してみたりする。マスコミに遠慮して批判を控える政治家が多い中で、ここまでマスコミと事を構える政治家は、一部の有権者にはカタルシスにつながるだろう。 三つ目は、歯に衣(きぬ)着せぬモノ言いで「自分は悪くない」という「小人革面」を変えないが、「麻生さんだから仕方ないな」と思わせるレベルを自らコントロールしたことだ。「それを言ったらおしまいだろう」というグレーゾーンの発言に対して、野党は怒って麻生氏を批判するが、それで終わらせてしまうのである。 あれだけ好き放題に発言して、麻生氏への辞任要求が野党から出ても、辞めずに「逃げ切った」背景には、キレて冷静さを失ったように見せかけた絶妙のコントロールがあったのである。 企業社会に生きる人たちの中で、麻生氏の型破りな言動に快哉(かいさい)を叫びたくなる人も少なからずいるのかもしれない。だからこそ、麻生氏はプロレスのマイクパフォーマンスよろしく、野党やマスコミを挑発して、「俺にかかってこい」と言わんばかりの態度を貫きながら、辞任を逃れたのだろう。 もっとも、麻生氏が辞任してしまっては、さまざまな批判が安倍首相に集中してしまう。麻生氏に報道がフォーカスされるということは、世論の関心が麻生氏に向くので政権の「防波堤」になる、という見方もある。確かに、麻生氏は「絵になる」ので、麻生氏がマスコミにかみつくと、安倍首相や財務省もかすみがちになる部分はある。 ここまで来たら「死なばもろとも」、麻生氏は安倍首相と一蓮托生(いちれんたくしょう)で進んでいくしかあるまい。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界では、9月の自民党総裁選もにらんだ動きが既に繰り広げられている。 自民党の中にも、追及する野党やマスコミに迎合するかのように、安倍批判のトーンを上げる政治家もいる。とはいえ、彼らは「あわよくば」という魂胆がミエミエで、ひんしゅくも買っている。2018年3月、参院予算委で安倍晋三首相(左)と話す麻生太郎副総理兼財務相(斎藤良雄撮影) では、麻生氏は「安倍3選」が果たせなかったときに「君子豹変」してしまうのだろうか。一連の不祥事でも「上から目線」発言を貫いたことを考えれば、「やっぱり安倍には問題あったからね」と切って捨てるように、私には思える。 誰が次の自民党総裁に選ばれても、政治家のパフォーマンスに踊らされ、重要な法案の審議も含め、政治の本質がますます見えにくくなっていく悲劇を繰り返してはいけない。

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    松井一郎手記「安倍総理は敵じゃない」

    大阪市を廃止して特別区に再編する「大阪都構想」をめぐり、逆風に立つ大阪府の松井一郎知事がiRONNAに手記を寄せた。今秋の住民投票実施は見送られたが、一度は否決された構想への抵抗感は強く議論は紛糾。安倍首相の発言も重なり、構想の先行きは不透明だ。渦中の松井氏は今、何を思う。

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    松井一郎手記「安倍総理は本心をごまかしている」

    松井一郎(大阪府知事) 政治行政に100点満点はありえない。政治家が目指すのは、現状よりはマシになるか否かだ。大阪都構想は大阪府と大阪市の二重行政をなくすための役所制度の見直しであり、大阪都構想によって、すべての住民が100%満足する行政を提供できるものではない。 そもそも、行政サービスの原資は国民の税金であり、税収の範囲で成り立つサービスを立案し実施するのが行政の基本だ。だが、現在の日本の社会構造では、少子高齢化などで多様化する行政ニーズは税収の範囲を大幅に上回る。 このような、行財政運営は将来世代にツケを回し、いずれかは我々の子孫がそのツケを清算することになるのは明らかで、次世代から無責任の誹(そし)りを受けることになる。 将来世代にツケを回すことなく増大する行政ニーズを受けた行政サービスを維持する方法を考えると、その手段といえば増税をするか行政経費を圧縮するしかないが、安易な増税は住民生活を直撃することになりかねない。 ならば、まずは「行政経費圧縮から取り組むべき」が我々維新の会の考えだ。この10年、我々は公務員の意識改革、行政の効率化による経費圧縮に徹底的に取り組んできた。 そして大阪において最大の行政の無駄といえば、都市の成長を阻害してきた大阪府と大阪市の二重行政だ。大阪府と大阪市の対立の歴史は古く、1940年代にさかのぼる。当時大阪府から大都市が独立する特別市制度を大阪市は進めていたが、これに大反対したのが大阪府であり、大阪市の独立は大阪府によって阻止されたのだ。 その後、1950年代に大都市に都道府県権限を付与する政令市制度が施行され、大阪市は念願の大阪府からの独立を果たした。このときから大阪市域の行政は大阪市が、大阪市域以外の広域行政を大阪府が担う「二元二重行政」がスタートした。  1950年代から70年代までは、戦後の復興と高度経済成長好景気の影響もあり、大阪市域と市域以外の行政需要にそれぞれが没頭するという、広域行政の役割分担が比較的上手く機能していた時代であった。しかし、これは大阪府と大阪市の政策施策を分断する壁を決定的なものにした時期でもある。日本維新の会の党大会で、あいさつする代表の松井一郎大阪府知事=2017年3月、東京都内のホテル 結果、狭い大阪エリアに大阪府と大阪市が、それぞれバラバラに成長戦略を打ち出すことになり、都市機能強化のためのインフラ整備も停滞、挙句にお互いのメンツやプライドによる高層ビル建設といった公共工事に走り、両者が失敗した。これで莫大な府民市民の税金が無駄になり、大阪の経済を低迷させ、いわゆる、府と市を合わせて「不幸せ」と揶揄(やゆ)されるきっかけになった。 この大阪府と大阪市の不幸な関係を解消すべきということは、大阪の政治家なら誰もが公約したことであり、歴代の知事、市長も解決のための話し合いを実施してきた。太田房江知事と磯村隆文市長の時代には、新たな大都市制度協議会なるテーブルも設置されたが、お互いの主張は平行線のまま全く交わらず、最後は相手を批判して終了となった。 そもそも大阪府と大阪市はあわせて10万人以上の職員を有する巨大な組織で、双方に何十何百という部局課があり、そこで働いている職員は自分たちの仕事に自信を持っている。公僕として公に奉仕してきた矜持(きょうじ)があり、職員が自主的にそれぞれの仕事を仕分けするのは自己否定となりまとまるわけがない。大阪に二重行政はない 職員から見れば二重行政だろうが三重行政だろうが、それぞれはがんばっているのだからいいでしょうと考えるのは当然かもしれない。だからこそ、政治家が大都市大阪の広域行政と基礎自治機能の最適化の方向性を示し実行しなければならない。 ゆえに、私が知事に就任してから6年半、今の大阪に府市の対立、「不幸せ」と揶揄される二重行政はない。2011年の大阪府知事選と大阪市長選のW選挙で橋下徹氏が市長、私が知事になり、まず府市の行政を一体で進めるための行政組織「府市統合本部」を立ち上げたからだ。 そして、知事が本部長、市長が副本部長に就任して府市の担当部局で合意できない場合は、両者が協議して本部長である知事が最終的に意思決定するというルールを定めた。 もちろん、私と橋下市長が目指す大阪の将来像に違いはなかったので、広域行政一体化は一致しているが、これまでそれぞれで実施してきた行政施策を現実に一体で実施するとなると、担当部局同士では具体的な予算の配分や人員配置で折り合わないことは頻繁にあった。 例えば、広域インフラである高速道路や鉄道、JR大阪駅前の再開発「うめきた二期」においては府市で一緒に整備する方向は私と橋下市長で確認していた。だが、うめきた二期開発の公園整備の財源負担となると、大阪府財政当局は大阪市が維持管理する公園に大阪府が財政負担する理屈がないと主張した。「うめきた2期」再開発地区(手前)=大阪市北区 さらに、大阪市を中心に放射線状の鉄道ネットワークを横につなぐ大阪モノレールの延伸については、その大部分が大阪市以外に路線建設されるので、大阪市が財源負担に難色を示すといった具合である。 このような場合は、知事、市長がそれぞれの事務方の言い分を聞いて話し合い、最終的に府市統合本部会議で意思決定する。うめきた二期開発公園事業と大阪モノレール延伸の財政負担は1対1とすることとしたが、これで事業の段取りが全て整ったわけではない。府市統合本部の意思決定はあくまで大阪府と大阪市の幹部の意思決定であり、最終的にそれぞれの議会の議決が組織の意思決定となる。 一方で、この6年半の間に、行政組織が合意しても議会の同意に長時間を要したり、同じ政党なのに府議会と市議会で意見が異なり暗礁に乗り上げている案件もある。 政府が進めていた国立大学の法人統合の議論もその一例だ。少子化によって大学生人口が減少するため、今後定員割れする大学が多数にのぼることが予想される。だが、言うまでもなく、大学はイノベーションの拠点であり、生み出された成果が経済成長に直結する。 だからこそ税金を投入して維持する値打ちがあるのだが、学生が減少し経営が逼迫(ひっぱく)すれば新しい研究もままならず、税金投入の価値はなくなる。これは国立や公立だけでなく、私学でも同様であり、大阪府と大阪市の府立大と市立大も例外ではない。府立大と市立大の運営負担金は年間百億円規模にのぼるが、世界の大学と競争できる環境とは言えない。 そこで、府立大と市立大を統合し公立大学として学生数最大規模、関西で唯一の獣医学部と医学部を有する希少価値の高い大学を目指すことにした。この再編は、2011年から議論をスタートし、18年4月から府立大と市立大の経営法人が統合することとなったが、この法人統合も同じ政党が府議会と市議会で考えが一致せず、長時間を要した。 府議会では17年9月議会で維新、公明、自民が賛成、民進(当時)と共産が反対したが、賛成多数で可決した。一方、大阪市議会は半年遅れの18年2月議会で可決成立したが、維新と公明が賛成、自民と共産は反対した。 この議決の会派の態度に象徴されるのが、大阪の自民の考えは府議会と市議会でバラバラだということだ。自民大阪府連合会という同じ組織に所属しながら、府議会と大阪市議会は意見をまとめられなかったのだ。都構想反対は安倍首相の真意ではない 大阪都構想は、行政制度と成長を担う広域行政組織と住民身近な基礎自治行政の役割を分担すると同時に議会の役割分担でもある。議会の役割も広域と基礎で役割分担することで府議会と市議会のねじれも解消でき、議会の対立による成長施策の停滞を防ぐことができる。 現在は、私と大阪市の吉村洋文市長が同じ方向を向き、府庁と市役所が協議決定できる「副首都推進本部会議」があるので、役所の意思決定がねじれることはないしスピード感を持って進めることが可能な状態だ。 ただ、これはあくまで人間関係による脆弱(ぜいじゃく)なもので、人が変われば元の二重行政「不幸せ」と揶揄された大阪府と大阪市に逆戻りする。過去の大阪に戻さない、議会のねじれによる停滞も解消する、これを制度として確立させるのが大阪都構想である。 大阪都構想は、言うまでもなく、地方制度の一大転換だ。ゆえに、大阪の自民党のように私たちのやり方に反発する勢力があるのも当然だろう。 本来、大阪都構想に前向きだった安倍晋三首相が、4月に行われた自民党大阪府連の臨時党員大会に出席し、「大阪都構想については、大阪自民党の考えを尊重する」と発言した。これで、大阪自民党のみなさんは拍手喝采、大いに盛り上がっているようだ。 ただ、首相が地方の支部大会に出席すること自体が異例であり、安倍首相が都構想に対する自身の考えをごまかさなければならないほど、取り巻く状況が厳しいことは容易に想像できる。党首討論に臨む安倍晋三首相(右)。左は立憲民主党・枝野幸男代表=2018年5月、国会(春名中撮影) 歴史を顧みれば、明治維新のとき、武士の身分がなくなるとなれば、刀や鉄砲を交える殺し合いとなった。現代に置き換えれば、選挙や住民投票がまさに戦(いくさ)だ。 大阪都構想は議会で決めるものではなく、究極の民主主義である住民投票が決戦の場となる。大阪が二重行政で府と市を併せて「不幸せ」と揶揄されることが今後なくなるよう、私の任期中に二度目の住民投票に臨み、勝利したい。

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    「橋下徹のしょぼい提案」をスケールのでかい構想に変える秘策がある

    たように「商いの街」として発展してきた。「阪僑」とジャーナリストの大宅壮一が名付けたように、大阪人は政治よりも商いの中心であることに強い誇りがある。2012年12月、「難波京」跡で発掘された貴族の邸宅か役所とみられる大型建物群跡=大阪市天王寺区(柿平博文撮影) 一方、大阪の近隣には、1000年以上首都の座にあった京都が存在する。京都には「天皇陛下は東京に旅行に行っているだけ」と言い、現在でも京都が日本の首都だと言い張る人がかなりいる。 だが、京都は「府」である。大阪都ができてしまうと、行政区分上はともかく、日本の歴史、文化、伝統的には非常に違和感がある、京都と大阪の「奇妙な逆転現象」が起こってしまう。そのためか、京都では維新の会の支持率が極端に低く、「大阪都構想」は話題にすることすらはばかられる状況にある。 京都以外でも、全国的に大阪都構想は支持を得られていないだろう。もちろん、二重行政の解消や、地方分権の推進という観点から、一定の理解はある。かつては橋下氏の個人的人気から応援する人も多くいた。しかし、橋下氏が政治の表舞台から去っている今、「何で大阪が勝手に都になろうというんだ」と違和感を持つ人が多いのである。「二重行政の弊害」の実態 次に、大阪都構想の目的である「大阪府・市の二重行政の弊害」「既得権者の問題」を考える。端的に言えば、やはりこれらは深刻な問題だとは思う。二重行政の弊害の代表的なものは、大阪府と市が別々に行っている水道事業であろう。 府と市はともに琵琶湖から大阪湾に流れ込む淀川に浄水場を置き、大阪府は府内の市町村へ、大阪市では市内に飲み水を供給してきた。その水道事業を府・市で統合すればコストも安く済み、大阪府民に安価な水を供給できる。だが、いまだに手つかずである。 また、2015年5月の住民投票のときには、大阪府と大阪市の二重行政は134事業あった。例えば、中央卸売市場、信用保証協会、道路公社、病院、大学、体育館、近代美術館などで非効率性が指摘された。その後、このうち、府立大と市立大など一部の統合が決定したが、多くは積み残されたままだ。 さらに言えば、大阪府が関西国際空港の対岸に256メートルの超高層ビル「りんくうゲートタワービル」を建設したら、大阪市も負けじと、「大阪ワールドトレードセンタービル」(現大阪市咲洲庁舎)という同じ高さ256メートルのビルを建設した。結局、どちらとも経営破綻したことも、二重行政の悪例に挙げられるだろう。 一方、前回の住民投票の前に、関西圏の学者106人が、大阪都構想反対の論陣を張った。「地方分権からの逆行」「大阪市民の生活サービスの低下」「財源の使い道を大阪市民が決められない」「権限と財源の縮小」「住民間での負担増や歳出減の押し付け合い」など、さまざまな学問領域からの専門的な反対論の数々は、なるほど傾聴に値する説得力があった。 ただし、読んでいて気になることもあった。学者たちの主張は、概して「現状を変えることの問題」を指摘していた。だが、大阪府・市が抱えている「二重行政」のさまざまな問題については、ほとんど言及がない。 辛うじて、大阪府立体育館は大相撲春場所といったトップレベルのイベントを開催し、大阪市立体育館は市民に密着したサービスを行っているという「役割分担論」に触れている程度だ。その他については全く反論になっていないのである。2018年3月、連日の満員御礼にわく大相撲春場所が行われるエディオンアリーナ大阪(林俊志撮影) 反対派は「今の制度でも二重行政は解消されており、大阪市を廃止する必要はない」と主張していた。大阪府と大阪市の間に「調整会議」が設置されており、その場で話し合いをすれば二重行政は解消できるという。 だが、実際には、前回の住民投票で都構想が否決された後、反対派の会派を中心に調整会議が開催されたものの、各会派が主張を繰り返すだけの場となってしまった。結局、事実上破綻していたと批判されている。橋下市長「独裁」などかわいいもの また、反対派の中には、政治学的な観点から反対論を展開した学者もいる。要するに、それらは当時の橋下市長の「独裁的」「反民主主義的」な政治手法に批判を集中させていたといえる。ただ、筆者が政治学者としての立場から言えば、橋下氏だけを一方的に批判するのは、いささかフェアではないように思う。 それならば、大阪市の交通局、水道局、環境局のような現業部門の職員が非常に巨大な政治力を持つようになっていることも、同時に検証すべきだったのではないか。バスの運転手や、ごみ収集の職員など現業部門が、市長選などで一定の影響を与え、市長、市議といえども現業職員に容易に逆らえない雰囲気があると言われている。これは、学者として見過ごしてはいけない現象だ。 また、橋下氏が住民投票前日の演説で「僕は税金の使い方をとことんやってきた。誰かのポケットに入っていないか。7年半やってきた。職員の給与、組合からアホ、ボケ、カスと言われ、医師会、薬剤師会…」と、公然と名指しした既得権者の問題がある。よくも悪くも真正面から闘ってきた橋下氏は退陣したが、今後、既得権者の問題にどう対処すべきか。政治学者ならば、ぜひ意見表明してほしかったものだ。 正直に言って、橋下市長の「独裁」などかわいいものだったのではないか。住民投票で市民に「NO」と審判を下されたら、それで政治家を辞めるという程度の、あっけないものだからだ。学者として、大騒ぎして批判するほどの価値もなかった。 それよりも、極めて根が深く、複雑で、実態をつかむのが困難な大阪市の「既得権の闇」の問題こそ、政治学者が逃げることなく、正面から追及すべき問題ではないか。これこそが、政治学者としての矜持(きょうじ)だったはずだと、筆者は考える。 このように、大阪府・大阪市の二重行政の弊害解消と既得権の問題は、たとえ都構想がもう一度否決されたとしても、なかったことにはできない非常に重要な問題だ。だが、残念なのは、大阪人にも大阪の外にいる人たちにも、「都構想」をめぐる論争が、どうしても大阪府・大阪市の権限や予算の奪い合いという些末な縄張り争いに見えてしまうことだろう。2018年4月、IRイベントで基調講演を行う橋下徹前大阪市長(前川純一郎撮影) それにわざわざ「都構想」という仰々しい名称を付けているだけという印象なのだ。それでも、橋下氏というカリスマが先頭に立って指揮を執っていた時は、なんとなく様にはなっていた。だが、今や橋下氏は政界引退状態だ。都構想は「化けの皮が剝がされたしょぼい提案」とみなされている。 維新の会が現状を打開したければ、府・市のさまつな縄張り争いという悪いイメージの払拭(ふっしょく)が必要だ。まず、前述の通り「大阪都」というネーミングが悪い。 「行政区分が一つ上がるから都にします」では、いかにも「お役人が考えました」で魅力がない。「グレーター・ロンドン」のようなカタカナでもいい。これから述べるような構想に合致する、魅力的なネーミングを考える必要がある。「商いの街」をリスペクトせよ 次に、「大阪は商いの街」という歴史をリスペクトすることだ。例えば、世界第3位の経済大国である日本で、国際金融市場の機能を持つのが東京市場だけとは寂しすぎる。大阪市場を、東京と同規模に拡張し、シンガポール、香港、上海などとともに、アジアの国際金融市場の中核の一つになることを目指すべきだ。 東京都の小池百合子知事は、アジアの金融ハブを目指す「国際金融都市構想」を軸とする「スマートシティー」を公約に掲げている。日本が国際経済・金融界で確固たる地位を占めるには、東京と大阪がバラバラに動いてはいけない。連携して二大メガシティーが持つ巨大なリソースを有効に使う必要がある。 次に、アジアの国際金融市場の中核の一つが大阪に誕生すれば、従来の中央集権を超えた大胆な発想で、大阪を中心とする「新しい経済圏」構築を目指してはどうだろう。それは、東京を見て商売をするのではなく、大阪とアジア各地に広がる「華人社会」を直接ネットワーク化することである。 中国といえば、われわれは中国共産党だけをイメージしがちだが、実際には華人社会は、台湾、香港からシンガポール、マレーシア、タイなどの東南アジアに広がっている。また、その経済活動は、前述のように欧米の植民地だった時代からの歴史があり、現在でもHSBCやスタンダード・チャータード銀行を通じて欧米と深いつながりがある。華人は、決して共産主義ではなく、日本人と同じ自由民主主義、市場主義の価値観を共有できる存在なのである。 一方、国内に目を向ければ、大阪府・市から少し視野を広げれば、大阪府・京都府の間にある「京阪バレー」がある。それは、ローム、村田製作所、日東電工、日本電産、キーエンス、任天堂、京セラなど、世界でオンリーワンの技術力を誇り、グル―バルな経営展開を誇る優良企業が集積する地帯である。 この地域に、香港やシンガポールなどの優秀な若手経営者の投資を呼び込んではどうか。要するに、「阪僑」が「華僑」とつながって、日本が誇るハイテクノロジーを世界に打ち出していくのである。少なくとも、成長戦略の核であるはずの外資の導入は、中央政府がいくら旗を振っても進まない。だったら、地方主導で行うべきなのかもしれないのだ。 日中関係の改善には、中央政府間の関係だけでは不十分である。台湾、香港、シンガポール、マレーシア、タイなどの華人社会とのコネクションに働きかけることが重要だ。それには、お堅い中央省庁や大企業の東京本社の重役よりも、「なにわの商売人」が出ていくほうが、話が進むのではないだろうか。五代友厚の銅像が立つ大阪取引所 繰り返しだが、大阪都構想の制度設計は法定協で決定される。だが、それは大阪府・市の権限争いというさまつなものにしか見えない。大阪人は「都」と名乗ることに魅力を感じない。維新の会が、大阪人の心をとらえて大阪都構想を実現したいならば、都構想の先にあるものを考えるべきだ。 国の統治機構改革、中央-地方関係の再構築、アジアの中核の一つとなる国際金融市場の創設、「阪僑」と日本のハイテク企業がアジアでダイナミックに活動する。このような大阪人が夢を持てるスケールの大きな構想を打ち出してこそ、大阪都構想への理解も集まるはずである。

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    大阪が副首都になれば、日本はこんなにも変わる

    ど意味しない。「後退した」「終わった」の空気が流れ定着していく。「自然消滅が一番よい」との見方をする政治勢力もあるようだが、では大阪の問題はこれまでと大きく変わったのかと聞きたい。いや、根本は何も変わっていない。個別事業の民営化や事業統合は進みつつあるが根本問題は解けていない。弁護士の橋下徹氏=2017年7月12日午前、東京・赤坂(宮川浩和撮影) というのも、大阪の司令塔を一本化し、大阪をより強くすることで日本を二極構造に変えようという大儀は、強まることはあっても弱まる状況にはないからだ。「東京一極集中」が諸悪の根源、国家の危機管理上大きな問題だとみな口では言うが、じゃあどうすればそれを解決できるかという話になると、誰も具体論を提示できない。その突破口をつくろうというのが大阪都構想のはずである。 連日報道されるモリカケ問題も自衛隊の日報隠しも、日本官僚機構が肥大化し過ぎ、官僚のムラ社会を政治がコントロールできない、ガバナンス(舵取り)なき国家状況と深く関わっている。官僚の情報操作、情報隠蔽などやりたい放題の堕落した日本官僚制を正す―それは証人喚問すれば済むという話ではない。 国民(納税者)から遠い政府(国)に全てを委ねる仕組み、中央集権体制の中で起きている官僚機構の体たらくであることをまず知るべきだ。経営の組織管理上、常にスパン・オブ・コントロール(統制範囲の適正規模)が常に問題視されるように、肥大化し、縦割りしすぎた組織は必ず朽ちる。それをどう正すかが問題の本質にある。 ここ5年余の安倍政権の経済優先、アベノミクスの中で、大きく抜け落ちているのが統治の仕組みを総点検する視点がないことだ。国民の多くは、増税は議論するがワイズスペンディング(賢い支出)の話がない。 幾重にも重なる本省と出先、本省内の縦割り組織が、いかにカネ食い虫で非効率かをなぜ議論しないのか疑問に思っている。他人のカネを他人のために使う。だが、それが他人事のようなカネの使い方になっている。そこが問題なのだ。「大阪大改革構想」 今、賢い政府に変えるための地方分権の推進も、官民の役割見直しも、事務事業の民営化も、道州制移行など新たな統治の仕組みの議論も、みなどこかへ消えている。これが今の政治状況だが、間隙(かんげき)を縫うように政治家と官僚が融合し、国と地方の役割があいまいな中央集権体制の元でぬくぬくと国家官僚が跋扈(ばっこ)している。 大きくなり過ぎ、動きの鈍くなった会社を蘇らせる手法は、事業部制や分社化など組織規模の適正化を図るところから再構築が始まる。働いている社員が元気になるのも「仕事と成果の見える化」があってからこそだ。誰が決め、誰が責任を負っているのか、どうせ誰かやるだろう、こんなことをしてもばれない、といった組織風土の蔓延が組織を堕落させる。 こうした問題認識からいうと、国の官僚機構を立て直すには日本官僚制の組織規模の適正化を図るしかない。東京一極集中は意思決定の一極集中を指すが、それを変えるには大阪に副首都を形成し、首都機能の3分の1ぐらいを大阪副首都に移す。なおかつ内政の決定権の多くは国民の身近な政府に移し、分権国家化の切り札とされる「地方主権型道州制」へ移行することではないか。 それが国民を元気にし、地方創生が実を結ぶ最短の道である。身近な自治体である州政府を内政の拠点に据えれば、税金の集め方も使い方も情報の管理も透明性が高まる。ましてや、陳情請願を繰り返す「意味不明の忖度政治」も消える。 それを実現するのが大阪都構想の最大の目的である。今、大阪の副首都化を目指し、さまざまな都市づくりの試みが始まっている。「2025大阪万博」も大阪IR(カジノを含む統合型リゾート)構想もリニア早期敷設も、その一環と見てよい。 そこで、それにふさわしい統治の仕組み、つまり司令塔一本化によるオール大阪づくりと中心部の基礎自治充実を目指す特別区移行の「大阪都構想」は一体の改革テーマだ。この2つを総称するなら「大阪大改革構想」と呼んでもよい。   本来、これは一地方に委ねるテーマではなく、国を挙げて実現すべき改革である。これが実現していくことで、東京一極集中は大きく抑制され、日本経済も発展するのは明白だ。 誤解があるようだが、大阪都構想は何も「橋下構想」でもなければ、270万都市大阪を4つに分割する分割統治の話でもない。1956(昭和31)年の政令市制度ができて以降、狭い府域で大阪市と大阪府の二元行政、二重行政によるエネルギーの消耗、意思決定の不統一によって関西全体が地盤沈下してきた経緯を忘れてはならない。 その衰退を食い止める切り札、司令塔一本化構想が大阪都構想である。歴代の府知事、大阪市長が「府市合わせ(不幸せ)」状況に終止符を打とうともがいてきたが、誰もできなかった。そこに終止符を打とうというのが、維新政治を誕生させた市民の問題意識であったはずだ。 大阪都構想は単なる府政、市政改革ではなく、大阪の意思決定の仕組みを変える改革である。いま「区」という呼称の下、特別区と総合区が並行して議論の俎上に載っているが両者は似て非なるモノ、全く意味が違う。「区」という呼称に惑わされるべきではない。 聞いていると、総合区と特別区のどちらが安上がりかといった金目の話ばかりしているが、本筋はそこではない。数年前の法改正で制度化された総合区は、60年以上経つ政令市の内部出張所の行政区を拡大充実させようという策に過ぎない。それは中規模市に相当する自治権のある特別区をつくることとは全く違う(図参照)。 特別区は自己決定・自己責任・自己負担の原則で地域の政治行政を運営する地方自治体のことだが、総合区は大阪政令市の中を行政便宜上幾つかに分けて管理しようという拡大行政区に過ぎない。実はカネがかかる割にメリットは少ない。大阪市以外の19政令市のどこも総合区を使う動きがないのは、そのためである。大阪百年の大計 戦後、大都市を強くする特別市制度の実現をもくろみながら、実現不可能とみて昭和31年に妥協の産物として誕生したのが政令市制度である。日本が高度成長に入り、中心となる大都市を伸ばしていくために、市に府県の広域権限を移管して始まった制度だが、その頃、大阪府全体はまだ未開発地域が多く、大阪市が突出して大都市の様相を呈していた。 しかし、それから60年余を経て大阪は大きく変貌した。政令市も20まで増えたが、香川県に次いで狭い府域の大阪府は大阪市以外の地域も大都市化が進み、大都市区域は連担し、大阪市だけを分けて大都市行政を展開する意義は薄れている。 逆に、府と市による二重行政が顕在化し、知事、市長の二頭立てから生まれる二元行政の弊害が顕著になり、益より害が大きくなってしまった。大阪にとって今や政令市は「古い制度」と化している。 これを残したまま、内部を拡大行政区の「総合区」という形にしてどれだけ効果があるか疑問である。そうではなく、広域権限は大阪府(都)に移管集中し、身近な基礎行政は各特別区の公選区長、議会に委ねた方が充実すると考える。諸外国もその例が多い。 もとより、東京に現存する23特別区制度は十分ではない。都から特別区への権限移譲、財源移譲が不十分で特別区の自治権が弱い。ただ、それを大幅に改善したのが大阪都構想である点は銘記されたい。 30~50万規模の自治権の強い中核市並みの特別区が構想されており、権限移譲、財源移譲は現行法制でみる限り、東京の都区制度よりはるかに進化している。「大阪モデル」と称してもよく、東京の23特別区会長は「大阪でこれが実現したら、東京に逆輸入したいぐらいだ」とも述べている。 前回の住民投票の時より制度設計は精緻化し完成度は高い。あとは住民への理解が深まるよう、説明する努力と時間をかけることだ。大阪都構想を単に特別区移行への行革だという矮小(わいしょう)化した議論ではなく、今回は第2首都にふさわしい「大阪副首都」構想とセットで統治機構改革をやる覚悟を示すべきである。大阪府の松井一郎知事=2018年1月4日、大阪府庁(永田直也撮影) そうすれば副首都にふさわしい大阪ができ、若い人たちも夢をもって暮らせるもう1つの大都市が大阪に生まれる。大阪都構想は大阪、関西から日本を発展させようという大都市政策である点も見落としてはならない。 改革を成就させるには橋下氏のような強いリーダーが必要だ。だが、リーダーに頼るだけでは絶対にうまくいかない。志を同じくするリーダーたちが結集し、270万市民に十分説明して熟議し、制度の意義を十分理解させた上で住民投票に持ち込む必要がある。これは大阪百年の大計とも言える。今回の選択は、目先の利害を超えた「国づくり」の選択であることを理解しなければならない。

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    「羽生結弦に国民栄誉賞」舛添要一が素直に喜べない理由

    た、そのときの「空気」、世論の動向に左右される危険性が大きい。それだけに、時の政権によって人気取りの政治的目的に使われるのではないかという疑問が呈されることになる。 例えば、生存中か死後か、また、現役か引退後かでも大きく変わる。歌手の美空ひばりのように、生きているときに贈るべきだったという批判もあるし、大リーグのイチローは現役中ということで、自ら辞退した。 さらに、羽生はフィギュアとして66年ぶりとなる五輪連覇が理由といわれるが、五輪連覇以上が基準なら、柔道の野村忠宏、水泳の北島康介、体操の内村航平は、それを満たしているのに受賞していない。この不公平の理由を誰も説明できない。五輪2連覇達成を祝い行われたパレードで、沿道に集まった大勢の人たちに笑顔で手を振る羽生結弦選手=2018年4月、仙台市 要は、そのときの大衆のフィーバーの度合い次第であり、それに政治家が便乗するのはポピュリズム(大衆迎合主義)以外の何ものでもない。まさに、「パンとサーカス」の劇場型政治である。パンとサーカスは、為政者が自らの失政を隠し、国民に政治への関心を持たせないようにするための道具である。 実際に平昌五輪の開催中は、テレビ放映の大半が中継で埋め尽くされており、国会開催中でも、国内政治のことは話題にすらならなかった。終わったとたんに、厚労省や財務省の資料の問題が出てきたのも不思議ではない。 今回の平昌五輪でも、カーリング女子選手に対する熱狂ぶりは異常であり、同じ銅メダリストのモーグルの原大智(だいち)がかわいそうなくらいである。これがポピュリズムというものである。 ちなみに、北見市へのふるさと納税が増えているというが、これも変な話だ。北見市へ納税した者が住んでいる自治体は、その分減収となる。自分の財布から寄付金を出すなら大歓迎だ。だが、返礼品も含めて問題が多すぎる。ふるさと納税制度をこのように「悪用」してほしくはない。「立ち小便もできなくなる」 第二の問題は、受賞者にも重荷になるということである。こんな賞をもらうと、国民の模範となるべく品行方正に努めなければならなくなる。特に若いころに受賞すると、その後の人生に「栄誉」を背負っていかねばならなくなる。息苦しい限りだ。プロ野球の盗塁王、福本豊は「立ち小便もできなくなる」と言って辞退したという。 スポーツ選手にとっては、五輪であれワールドカップであれ、メダルだけで結構だ。どこまで記録を伸ばせるか、世界の一流選手と闘って勝てるか、それが最大の問題で、そのために厳しい練習をする。その結果が歴史に残る記録になる。それだけで十分だ。 つまり、純粋にスポーツだけで勝負しているのであって、だからこそドーピングを絶対に許してはならないのである。国民栄誉賞をもらおうなどと思って練習に励む者はいない。記録やメダル以外の「不純物」は不要である。 また、国民に感動を与えるために練習しているのではないし、その過程でけがをしたり、リハビリに励んだりするのは、ひたすら勝つためである。けがを克服したことが国民に感動を与えたなどといわれても、そんな道徳教育の話と勝負の世界は別である。お上に栄誉賞を授けてもらわなくても、国民の喝采があれば、選手には国民が喜んでいることは分かる。スポーツ選手を政治の道具にしてはならない。 極端な想定をすると、引退後に人生を間違えて犯罪者になろうとも、現役時代の記録は不滅である。下手に国民栄誉賞など受賞していたら、それこそ全人格的に否定されて、金メダルまで剝奪しようという暴論すら出てくるかもしれない。 若いころ、スポーツ選手だった人間が、年月を経て政治家や経営者になることはあるが、そのような職業には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものである。国民栄誉賞などを背負っていれば、リスクを冒したくないので、政治活動や経営をのびのびと実行することが不可能となろう。つまり、現役引退後の長い人生で、憲法で定められた基本的人権である「職業選択の自由」すらなくなってしまうのである。フィギュアスケート男子で2連覇を果たし、安倍首相(左、代表撮影)から電話で祝福される羽生結弦選手=2018年2月(共同) 以上のような問題は、すべての「栄典」について共通して言えることである。中でも勲章については、かねてから賛否両論があるし、実際に辞退する者もいる。しかし、国民栄誉賞と違って、勲章は年を取ってから受章するので、いわば「冥土の土産」であり、その後の人生を左右するといったことはない。 勲章については、栗原俊雄の『勲章-知られざる素顔』(岩波新書)に詳しいが、この中で「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂・がくどう)の例が紹介されている。尾崎は文部大臣、東京市長、司法大臣などの業績で、1916年7月に勲一等旭日大綬章を受ける。しかし、1942年の翼賛選挙を批判したことから、不敬罪で巣鴨拘置所に留置された。 戦後、「憲政の神様」として一躍時の人となった尾崎は、1945年12月に宮中に召されたが、その際に「けふ(今日)は御所 きのふ(昨日)は獄舎(ひとや) あすはまた 地獄極楽いづち行くらん」という自作の狂歌を昭和天皇に見せたそうだ。そして、翌年5月には勲章を返上している。 私は、モロッコ王国より、2008年11月にアラウイ王朝勲章グラントフィシェに、また2016年3月にフランス共和国より、レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールに叙せられている。これらは、モロッコやフランスとの交流に貢献したことが認められたものであり、光栄に思っている。 ところが、2年前の「舛添バッシング」のとき、この勲章にまでケチをつける者が出てきた。大衆迎合主義(ポピュリズム)の怖さである。五輪で優秀な成績を収めたメダリストたちには、同じような嫌な思いをさせたくない。国民栄誉賞は廃止すべきである。

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    「安倍退陣論」私はこう読む

    「安倍総理はご自身の判断でお辞めになったらよろしいと思う」。第93代内閣総理大臣、鳩山由紀夫氏がiRONNAに寄せた手記の一節である。モリカケ、公文書改ざん、官僚トップのセクハラ…。相次ぐ不祥事で苦境に立つ安倍政権。与党内にもくすぶる「安倍退陣論」を真正面から考える。

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    鳩山由紀夫手記「安倍総理、ご自身の判断でお辞めになればよろしい」

    鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣) 安倍総理が退陣すべきか否かを論じてほしいとの依頼が来た。もとより私はかつて米軍普天間飛行場の移設問題において、「最低でも県外に」という沖縄のみなさんの期待に応えられずに、支持率が急降下して総理を辞めた人間である。 そんな私が他人の総理退陣の是否を論ずる資格などあるかとのご批判をいただくことは必須と思われるが、iRONNAからの執筆依頼に応えたのであって、その種のご批判はご遠慮申し上げたい。 まず結論から申し上げれば、安倍総理はご自身のご判断で総理をお辞めになったらよろしいと思う。 なぜ「ご自身の判断で」と申したかと言えば、それは言うまでもなく、学校法人「森友学園」(大阪市)の国有地売却問題に関わって、安倍総理ご自身が「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきりと申し上げておきたい」と開き直って答弁していたからである。 安倍総理が森友学園問題に関係するということは、必ずしも国有地を森友学園のために安く売ってやれと財務省に働きかけたか否かとか、文書の改ざんを指揮したか否かということを問うているのではない。単純に言えば、森友学園の籠池理事長夫妻と安倍総理夫妻(のいずれか)にはそれなりのお付き合いがあったか否かということである。 そのことに関しては、総理自身はともかく、昭恵夫人が総理に代わって森友学園を訪問した際に、学園の教育方針に感涙したとの報道があった。さらに昭恵夫人のフェイスブックにも、籠池夫妻との写真付きで、日本人の誇りや日本の教育について意見交換させていただきましたと書かれている。昭恵夫人は森友学園が開校予定の小学校の名誉校長を務めることになっていたことからも、関わりは明らかである。 それだからこそ、官邸に人事権を握られた官僚たちが、特に財務官僚たちが必死になって「アベ友」の森友学園に国有地を事実上タダ同然に払い下げしようとし、そのために事実を曲げ、隠蔽(いんぺい)し、揚げ句の果ては改ざんまでして安倍総理を守ろうとしたのである。 公務員が法律まで破り改ざんを行ったのは、時間的にみても、決して佐川宣寿理財局長(当時)の答弁に合わせるために行ったのではないだろう。安倍総理の「関係していたら総理も議員も辞める」との発言があったため、関係していたと見られる恐れがある箇所を改ざんせざるを得なかったのである。「森友」文書書き換え問題で、陳謝する安倍晋三首相=2018年3月12日、官邸(飯田英男撮影) そして、その過程において、自殺者まで生んでしまった。自殺した財務省近畿財務局の男性職員は、財務省上層部の指示で文書の改ざんに関与したことを示唆する内容のメモを残していた。安倍総理の意向を忖度(そんたく)した財務省幹部の指示で文書の改ざんに関与した職員が自殺したのである。 最低限明らかなことは、もし安倍総理夫妻が森友学園の籠池夫妻と知り合いでなかったのならば、森友学園へのタダ同然での国有地売却は起こっておらず、したがって改ざんなどもなされることはなく、職員の自殺は起きなかったということである。日本が真に独立するために 安倍総理がいなければ職員の自殺はなかったのである。もし私が総理であったならば、とてもいたたまれない。総理を続けることなどできない。自分が一人の人間を殺してしまったのだから。この事実の重さを安倍総理はどのように感じているのだろうか。 問題は森友学園にとどまらない。学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設は、加計孝太郎理事長と安倍総理の親密な関係によって無理が通ったのであるが、そのことを隠すために安倍総理は獣医学部新設についてはギリギリまで知らなかったと答弁している。 しかし、はるかそれ以前に愛媛県職員らが官邸で柳瀬唯夫総理秘書官(当時)と面談した際に、柳瀬秘書官が「獣医学部新設は総理案件」と述べていたことが明らかとなった。安倍総理は虚偽の答弁をしたことになる。決して許されることではない。 さらには防衛省による自衛隊の南スーダンやイラク派遣時における日報の隠蔽(いんぺい)問題、福田財務事務次官のセクハラ辞任問題など官僚の不祥事が絶えない。長期政権は必ず腐敗するのはまさに真理である。 政権交代はしばしば、かような内政のスキャンダルによる国民の怒りがもたらすものだが、私が最も不満に思うのは、安倍総理の「対米追随」の外交姿勢である。 日本総合研究所会長の寺島実郎氏が指摘するように、安倍外交は周辺の中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどとうまく行っていない。今年に入り、ようやくわずかばかり改善の兆しを見せているが、それまで不毛な「中国脅威論」を振りかざして、アメリカに倣いアジアインフラ投資銀行にいまだに参加していない。インタビューに答える鳩山由紀夫元首相=2017年7月19日午後、東京(酒巻俊介撮影) 韓国とも米国の指示の下に慰安婦問題の解決を図ったが、いまだに韓国民の理解を得られていない。ロシアについても、クリミア問題の歴史と現実を直視せず、経済制裁に加わる愚を犯して北方領土問題の解決を遠のかせた。 北朝鮮問題に関しては、対話の時代は終わったと繰り返して、世界の対話の波に乗り遅れた。そしてトランプ大統領でさえ、安倍総理に笑顔を振りまきながら、日本に必要性を感じない高価な武器を売りつけ、日本によって貿易赤字が拡大したと鉄鋼などに高い関税を設けた。 アメリカに諂(へつら)っても、日本はアメリカの尊敬の対象になり得ていないのだ。日本の外交姿勢を根本的に見直して、日本を真に独立させねばならない。 確かに自民党の支持率は安定しているが、それは自民党に代わる野党が存在していないからであり、ある意味で日本にとって最も不幸なことは、安倍政権が内政、外交ともに大きく国益を損なってきたにもかかわらず、国民の信頼に足る野党がいないことである。 民主党が民進党となり、分裂をしたことで大きく信頼を失った。しかし、だからと言って数合わせの合流はさらに信頼を失うことになりかねない。今、野党がやるべきは拙速を避け、安倍政権、いや自民党政権に代わって、日本の未来の姿を指し示すことである。 日本の国体は断じてアメリカであってはならない。天皇制の下に国民が国体となる日本を描き切ることだ。安倍政権の数代後に、そのような日本が誕生することを切に願う。

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    「DV政治、安倍晋三」福島瑞穂が綴った内閣退陣6つの理由

    ) 私は社会の中で人々が萎縮したり、忖度(そんたく)したりするのではなく、もっとみんなのための社会、政治を実現したいと思っている。だから、安倍政権は退陣すべきである。嘘で塗り固められた腐った政治の上には何も積み上げることはできないし、ここから未来を切り開いていくことはできないからだ。 象徴的な例がある。今年4月から、小学生は「道徳」を検定教科書で勉強することになった。子供たちに「嘘をついてはいけません」と教えておいて、政治の世界が隠蔽(いんぺい)や改ざん、虚偽答弁の世界であったら、子供たちは大人を信用しないだろう。何てひどい世界だろうか。 安倍政権が退陣しなければならない理由は少なくとも6つある。 一つ目は、国民の生活、雇用、農業、そして地域を破壊していることだ。例えば、労働者派遣法は「全面改悪」され、全ての業種で派遣が可能になった。また、社会保障費の自然増が抑制されたほか、介護保険の改悪や生活保護の切り下げも行われた。働き方改革の名のもとに提案している「高度プロフェッショナル制度」は、一定の年収以上であれば全ての労働時間、休憩、休日、深夜業の規制が撤廃される。 いわゆる「働かせ放題」法案を提案しており、これ以上、過労死を増やしてどうするのだと言いたい。これは経団連などの要望に応えているに過ぎず、こんな法案を働く人の誰が望むだろうか。 二つ目は、権力と税金を私物化していることだ。そもそも森友学園問題は安倍夫妻案件であり、加計学園問題も安倍総理案件だ。これは権力の私物化であり、税金の私物化でもある。参院予算委で社民党の福島瑞穂氏(右端)の質問に答える安倍首相=2017年11月30 日 そして三つ目に挙げたいのは、隠蔽と公文書の改ざん、虚偽答弁である。これらは安倍内閣が不都合な真実を隠すための嘘であると言えよう。国会に提出される文書やデータが虚偽で、答弁が虚偽だったら、私たちは何を信じて議論したらいいのか。民主主義が破壊されている。 安倍総理は森友学園問題をめぐり、2017年2月17日に国会答弁で「私か妻が、関係していたら、総理大臣も国会議員も辞める」と明言した。また、3月13日、加計学園問題についての私の質問に対して、「私が働きかけていれば責任を取りますよ」とも言った。その言葉通り、辞めるべきである。 加計学園問題はこれだけではない。2015年4月2日に、官邸で柳瀬唯夫総理秘書官が、加計学園の幹部と愛媛県、今治市の職員と会っている。そして柳瀬秘書官が「首相案件」と言い、具体的に傾向と対策を教えていることがさまざまな文書と証言で明らかになっており、言い逃れのしようがない。国民への愛がない 四つ目は、憲法のねじ曲げである。歴代の自民党政権は、集団的自衛権の行使は憲法違反であるとしてきた。それをねじ曲げて合憲とし、2015年に安保関連法を強行成立させた。憲法は、権力者を縛るものなのに、憲法そのものをねじ曲げたのだ。そして、憲法そのものを変えようとしている。「法の支配」がない政治など危険極まりない。 そして五つ目は、メディアと教育に対する支配と介入だろう。文部科学省前事務次官の前川喜平氏が公立学校で行った授業について、自民党議員が文科省に問い合わせを行い、添削までしている。 また、NHK幹部が報道の現場に対し、森友学園問題を取り上げるときには安倍昭恵夫人の映像を使わないよう細かく指示をした事実が内部告発で明らかになった。政治の介入なのか、メディアの忖度なのかはわからないが、安倍政権に多大なる配慮をしていることは確かである。そして、安倍内閣がそのような状況を作っていると言えないだろうか。「国境なき記者団」による日本の報道の自由度ランキングは、2018年で67位というありさまだ。 六つ目は、セクハラやパワハラなどに対する全くの無理解である。セクハラという言葉は、1997年に男女雇用機会均等法に盛り込まれ、企業の中では意識の変化が進み、対策もとられてきた。それが、政権の中枢には全く入っていない。 麻生太郎副総理兼財務相が、財務次官だった福田淳一氏の辞任を認めた閣議後の記者会見で「はめられていて、訴えられたという意見もある」と発言したことには、本当に驚いた。被害者を加害者扱いしているのだ。これは大問題であり、発言そのものもセクハラで、第二のセクハラではないか。 そもそもセクハラやパワハラ、ドメスティックバイオレンス(DV)には共通点がある。力の差を利用して、権力を振りかざし、相手を屈服させ、反抗できないようにするのである。これらを当然のことのように行い、セクハラやパワハラを指摘されても認めようとしない。 財務省のセクハラ問題への対応を見ていると、安倍政権は被害者に思いを寄せることができない政権と言わざるを得ない。参院予算委員会集中審議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相=2018年5月28日、国会・参院第1委員会室(春名中撮影) 以上、6つの理由を挙げたが、こうした安倍政権とはいったい何であろうか。かつて、森友学園理事長だった籠池泰典氏のように、自分と同じ思想・信条の人や腹心の人、自分をヨイショしてくれる人は優遇し、便宜を図るのが安倍政権なのではないか。 一方で、政策に反対する、沖縄の辺野古新基地建設反対運動の参加者や、都合の悪いことを言う前川前文科次官などは弾圧をする。そして、その中間の人々は、虚偽文書や虚偽答弁でだませばいいと考えているのではないか。まさに強権政治である。 歯向かえば、飛ばされるか、弾圧されるのであれば、誰もが萎縮し、忖度(そんたく)し、服従していく。主権者は国民なのに、権力によって操られる客体に成り下がってしまう。 かつて自民党は国民政党だったのかもしれない。しかし、今や自由競争秩序を重んじる「新自由主義」に傾倒し、大企業のための政党に成り下がっている。現場のひずみや苦労、そして悲鳴や悩みを見ようとも聞こうともしていない。こんな安倍政権に国民への愛があると言えるのか。 もうこんな政治は終わりにしなければならない。民主主義を信じることができなくてどんな未来があるだろうか。安倍政権の退陣こそがスタートである。

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    なぜ安倍政権は「戦後最強の内閣」になったのか

    櫻田淳(東洋学園大学教授) 2012年以降の2次にわたる安倍晋三内閣は、戦後日本政治史の中でも顕著な「強靱(きょうじん)性」を発揮してきた。安倍内閣は、過去5年半近くの政権運営の過程で幾度も「失速」が語られたものの、5度の国政選挙を勝ち抜くことで権勢を維持してきた。しかし、目下、安倍内閣の「強靭性」にも陰りが見え始めた感がある。 現下の財務省や防衛省を舞台にした政官関係に絡む混乱が軒並み、安倍内閣の政権運営の「歪み」として語られ、それを安倍内閣の責任として詰問する声が高まっているのである。数刻前まで既定のものとして語られた今秋の自民党総裁選挙に際しての「安倍三選」も、予断を許さなくなったと指摘する向きもある。 既に幾度も指摘してきたように、筆者が下す内閣評価の基準は、第一が「外交・安全保障政策を切り回せるか」であり、第二が「経済を回せるか」である。この評価基準に照らし合わせれば、安倍内閣の政権運営は「上手く切り回している」と観るのが順当であろう。 事実、例えば米誌『タイム』(2018年4月30日号)は、毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し「指導者」部門で2014年以来4年ぶりに安倍首相を選出した。オーストラリアのマルコム・ターンブル首相は選評中、「安倍氏の自信に満ちた力強いリーダーシップは日本の経済と先行きへの期待をよみがえらせた」と評した。 また、ロイター通信(4月23日配信)が伝えた「4月ロイター企業調査」の結果によれば、「安倍晋三首相が自民党総裁に3選されることが望ましいか」という問いに「諾」と答えた大手・中堅企業は73%に達した。加えて、この記事は「次の政権も安倍首相続投による与党政権継続が望ましいとの回答が6割を占めた。次期首相も5割が安倍首相を支持した」と伝えている。 こうした安倍内閣への評価を前にして、湧き上がる「安倍、辞めろ」の声には、日本の政治風土に根づく悪しき気風が反映されている。それはすなわち、「対外意識の希薄」と「民主主義理解の貧困」である。1989年6月3日、組閣後に記者会見をする宇野宗佑新首相 振り返れば、昭和中期以降、すなわち冷戦期の「55年体制」下、日本政界では金銭や女性に絡むスキャンダルが頻発した。リクルート事件や東京佐川急便事件といった金銭絡みのスキャンダルが相次ぐ一方で、女性スキャンダルで地位を追われた宇野宗佑元首相や山下徳夫元官房長官の姿は、そうした「55年体制」崩壊前夜の政治様相を象徴していたといえよう。国際環境が激変でも「モリカケ」 もっとも、こうしたスキャンダルが日本の国益上、大した損害を与えていると認識されなかったのは、それが「経済力だけは大きいが対外影響力は乏しい」国の出来事であったからである。しかも、往時は「『永田町』が混乱しても『霞ヶ関』がしっかりしているから、大した問題ではない」という理解は、半ば自明のように受け入れられていたのである。 しかしながら、平成に入って以降の日本が直面したのは、「バブル崩壊」後の長期にわたる経済低迷の一方で、「国際貢献」の名の下に一層の対外関与が要請される状況であった。そして、現在に至って、日本の立場は「経済力の減退を対外影響力で補わなければならない」というものに変質しているのである。 筆者が指摘する「対外意識の希薄」とは、「経済力の減退を対外影響力で補わなければならない」日本の立場を顧慮せずに、専ら国内統治案件の議論に熱を上げる様子を指している。北朝鮮情勢の展開次第では、日本を取り巻く国際環境が激変するかもしれない局面で、「森友・加計」問題の議論に過剰な精力が費やされている現状は、その典型的な事例であるといえる。 しかも、「対外影響力」を担保する条件の一つが、政治指導者が築いた人的ネットワークの豊かさである以上、こうした国内政局の紛糾の結果として、安倍首相が国際政治の舞台から退場することになれば、それが日本の国益に及ぼす影響は甚だしいものになるであろう。 また、筆者が指摘する「民主主義理解の貧困」とは、民主主義体制下であればこそ政治人材の発掘と養成は重大な課題であり、政治人材は「取り換え引き換え」のできる存在ではないという理解が浅いという様子を指している。 日本では、なぜか政治人材に関してだけは、「使い切る」とか「もったいない」という感覚が働かないようであるけれども、そうした様相は、民衆の当座の感情で政治が直接に左右されるという意味での「ポピュリズム」や「モボクラシー(衆愚政治)」の傾向を加速させるのである。2018年4月、米フロリダ州パームビーチで行われた会談で、トランプ米大統領と握手する安倍首相(共同) 世間には、筆者を「安倍応援団」の一人だと観る向きがあるかもしれないけれども、筆者は、そのように自ら思ったことは一度もない。筆者が支持し応援しているのは、あえて言えば「安倍内閣下の対外政策展開」や「日本の外交」であって、安倍晋三という政治家お一人ではない。当節、「何が重要か」を見誤らない議論が大事であろう。

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    そもそも「安倍退陣論」は間違っている

    日米同盟強化路線に対する小さな異論はあるものの、安倍首相の政策に代わる経済・安全保障のビジョンを描く政治勢力は存在しない。そして誰がやっても安倍政治の継続となるのであれば、首相が退陣してもしなくても、日本の国家戦略は変わらないからだ。 しかし、財務省による行政文書改ざんやセクハラ疑惑、防衛省の日報隠ぺい疑惑、幹部自衛官による野党議員への暴言など、首相を頂点とする行政機構の不祥事が同時多発的に起きている現状を見ると、指揮官の統率力の問題を考えないわけにはいかない。 組織が弛緩(しかん)して問題が噴出すると、組織は問題処理に追われてエネルギーを浪費し疲弊する。その疲弊が新たな問題を生んで、負のスパイラルが無限に続いていく。組織の構成員は責任を押し付け合い、自己保身に走る。これは「負け戦(いくさ)」のパターンである。 「負けること」自体が問題なのではなく、負けが士気を阻喪(そそう)させることが問題なのだ。それを食い止めることこそ、指揮官の最大の役割となる。そのためには、一時の負けが次の勝利に結びつくことを納得させ、自軍の精神的優位を信じさせなければならない。 森友問題について言えば、国有地を安価に払い下げたことが法律上適切だったかどうかを論じるのではなく、日本全体にとって安ければ安いほどよかったという道義的確信を持たせなければ、何のために現場が無理をして値下げしたのかが分からない。 国民に分からせる以前に、動いた現場が納得しなければならない。そうでなければ、「危ない橋」を渡る現場の士気が上がるはずはない。 「所詮は上が決めることだから言う通りにしておけ」という気分で仕事をすれば、誰だってミスをする。その責任を現場に押し付けられれば、現場は中央を信用しなくなる。安倍首相は「最終的責任は内閣の長たる自分にある」と言っている。 だが、その責任とは「膿(うみ)を出し切って信頼を回復すること」だ。「膿」は現場にあって、首相自身にはないことを前提としている。 もちろん、ヘマをやった実行者は罰せられるべきだ。だがそれは、取り締まりの原理であって、組織統率の原理ではない。首相辞任か担当大臣の辞任かはともかく、「現場のミスがこんなに大きな結果を招く」ことを思い知らせてこそ、組織の緊張感がよみがえる。 クラウゼヴィッツは、戦争を政治目的達成の手段と位置付けている。戦略とは、実現しようとする目標達成のために個々の戦闘をいかに組み合わせるかを考えることだ。それは、使うものが戦闘か外交か、あるいは法律、司法、マスコミなど、その手段に違いはあっても複雑な組織を使って目的を達成する「術」である政治戦略にも適用できる。 クラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争が人類の事業の中で最も錯誤に満ちた営みであることを強調している。組織が大きくなり、相互の連携が複雑化するほど、一つの錯誤が全体に影響する。 戦争でも政治でも、指揮官が自らの意図を正確に伝えず、各部署が勝手に忖度(そんたく)して動くならば、錯誤は必ず起きる。現場は自らの役割を理解できず、何もしないか余計なことをするか、右往左往してやがて疲弊し、機能を停止する。誰が首相かは「手段」にすぎない 指揮官の役割は、達成可能な目標を明確に定め、そのために投入する十分な資源を配分することだ。思い通りにいかない場合には速やかに目標を変更すると同時に、その時々の目標を全軍に徹底しなければならない。 クラウゼヴィッツは、戦争は3つの要素で構成されると言っている。「戦争の三位一体」すなわち、感情の主体である国民、戦場の錯誤を乗り越えるアートを備えた将帥、そして戦争の目標を合理的に判断する政府がそれだ。 これを戦争ではなく政治目標の達成という観点で言い換えれば、政治を構成する「三位一体」は、国民の支持、難局を乗り切る指導者のアート、そして合理的に設定された政治目標ということになる。 指導者のアートに属する官僚機構の統率が上手くいっていないことは、すでに見てきた。また、国民の支持が低迷していることも疑いようのない現実となっている。問題は、達成すべき政治目標が分からないことだ。 安倍政権は、秋の自民党総裁選を控えて支持率の回復を目指しているが、「安倍政権の維持」は目標達成の手段であって、日本という国にとっての政治目標ではない。 だから、「安倍首相は退陣すべきか」という問題の立て方が、やはり間違っている。日本の政治目的は、人口構成の変化に応じた日本社会の持続可能な再生と、変転する国際社会の力関係に合わせた安全保障目標の再定義でなければならない。誰を首相にするかは、そのための手段にすぎないからだ。 今、議論すべきは企業の国際競争力や物価上昇率に着目するアベノミクスか、貧富の格差是正と負担と分配の公平に着目した新たな福祉国家的経済政策か、という大きな経済・社会のビジョンである。 安全保障について言えば、中国や北朝鮮の脅威にどう対抗するかが問われている。脅威は、能力と意志の掛け算で定義される。中国・北朝鮮の軍事能力を止められない現実を前に、軍事バランスの観点から、力不足をもっぱらアメリカに頼る日米同盟強化路線がとられている。 それはどこまで可能なのか。むしろ、相手の能力よりも意志に着目して、軍事力ではなく政治力をもって侵略の意志をなくす、そのためにはアメリカとの意見の違いも覚悟する方向に舵(かじ)を切るかが問われている。 そういう大きな政治目的の絵柄を考えておかなければ、経済・社会の強靭性、安全保障の柔軟性が失われ、変転する世界の中で生き残れない国になってしまう。安倍首相以外に選択肢があるかどうかが問題ではない。「安倍的な政策」以外の選択肢があるかないかが問題なのである。

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    安倍・麻生発言 心理学的に見た2人のパーソナリティを分析

    政治家は言葉が命」といわれるが、その“命”を粗末に扱って批判を浴びているのが“失言王”こと麻生太郎・財務相兼副総理だ。「セクハラ罪という罪はない」「はめられたんじゃないか」「どの組織だって改竄はありえる話だ」と放言三連発。そのたびに国会で謝罪し、発言撤回に追い込まれた。 政治家の言葉というなら、安倍晋三首相は「断言」的な口調が多いのが特徴。そして今も自分の言葉で内政の“逃げ道”を塞がれている。個人消費は低迷し、今年1~3月期の実質GDPは前期比0.2%減と2年3か月ぶりにマイナスに転じるなど、金看板のアベノミクスの行き詰まりがはっきりしてきた。 問題は消費にブレーキをかける消費増税だ。これについて、首相はすでに「断言」と「撤回」をしている。もともと10%への増税は2015年10月の予定だったが、2017年4月に延期された。その際の会見での言葉だ。「さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんに『はっきりと』そう『断言』いたします」(2014年11月の会見) この発言を反故にし、増税が2019年10月に延期されたのは周知の通り。さらに、昨年10月に「消費税を10%に引き上げ、税収の使い途を変える」と増税を掲げて衆院を解散して勝利した。景気失速の懸念があってもいまさら“増税をやめる”とは言えないと見えて、安倍チルドレンの自民党若手議員たちに「増税再再延期」の声を上げさせているのだ。2018年5月14日、参院予算委に険しい表情で臨む安倍首相(左)と麻生財務相 安倍氏の悲願の憲法改正にも赤信号が点っている。「憲法にしっかりと自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打とうではないか。これこそが今を生きる政治家、自民党の責務だ」 今年3月25日の自民党大会で決意を語ったが、モリカケ問題再燃による国会紛糾と支持率低下で、「与党内の多くは改憲は絶望的と受け止めている」(自民党憲法改正推進本部メンバー)とみられている。 認知心理学が専門の富田隆・元駒沢女子大教授は、安倍発言と麻生発言から心理学的に見た2人のパーソナリティをこう分析する。「麻生さんは『循環性気質』の傾向が見られる。躁と鬱の時期が循環し、躁の傾向が強い時は、機嫌がいいとついリップサービスの放言をしてしまう。それに比べて安倍首相は『粘着気質』に該当するのではないかと思える。このタイプは真面目で、信念を持ち、ルールを重んじる。『拉致被害者を全員帰国させる』も『ノドンも廃棄せよ』という発言も正論であり、森友問題で『私や妻が関わっていたら総理も議員も辞める』という言葉からも、ルールを重んじる粘着気質の傾向がうかがえる」 そしてこのタイプが行き詰まった時にどんな行動を起こすかについて興味深い見方をする。「粘着気質の人は、『この道しかない』と一つのことを始めると、間違っていてもその方向に進んでしまう。つじつまを合わせようとして、違う方向にどんどん進んでいくことがある。そして矛盾が解消できず、いつか爆発する」 爆発のタイプは様々で、「当たり散らす人もいれば、最後は自暴自棄になって自爆する場合もある」という。 第1次政権の安倍首相は、消えた年金問題で批判を浴びると「最後のお一人に至るまできちんと年金をお支払いしていく」と国民に約束しながら、何もできないまま行き詰まり、最後は突然、自暴自棄になったように政権を投げ出した。 状況は、似てきた。関連記事■ 失言王・麻生氏vs断言王・安倍氏、タチが悪いのはどっち?■ 安倍首相の“断言癖” 大平正芳氏「アーウー」の方がマシ?■ 安倍語録が危険な理由は役人に二重三重の嘘を重ねさせる点■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題

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    安倍vs麻生vs菅 次の財務次官人事めぐりパワーゲーム展開

     終盤国会は安倍政権内で“疑惑の主人公”がシーソーゲームのように入れ替わる展開だ。〈「そういう新しい獣医大学の考えはいいね。」〉──安倍晋三首相が「腹心の友」と呼ぶ加計孝太郎・加計学園理事長と面会(2015年2月25日)した際の言葉が記述された「愛媛県文書」が公開されると、世論の批判の矛先は明らかに変わった。 それまでは森友文書の改竄問題と相次ぐ失言で麻生太郎・副総理兼財務相が集中砲火を浴びていたが、一転、“やっぱりそうだったのか”と国民の疑惑の目は安倍首相の加計問題に向けられた。首相は否定に躍起になった。「指摘の日に理事長と会ったことはない。念のため記録を調べたが確認できなかった。獣医学部新設について加計氏から話をされたこともないし、私から話をしたこともない」 女房役の菅義偉・官房長官も「首相が説明した通りだ」とかばったものの、安倍・加計会談が行なわれたか否かの証拠となる首相官邸への来訪者を記録した入邸記録については「業務終了後速やかに廃棄される取り扱いになっている」と苦しい言い訳を繰り出した。 都合の悪い記録をよく捨ててしまう政権であるが、その説明は結果的に「会っていない根拠となる記録の存在」の信憑性という、新たな「安倍疑惑」まで招いてしまった。 そんな大慌ての2人の様子をみてほくそ笑んでいるのが、バッシングを浴びていた麻生氏だ。安倍首相の「加計問題」に注目が集まれば、財務省が舞台の「森友文書改竄問題」が霞み、失言続きの麻生氏への批判も薄まる。“加計は俺の友達じゃねーからな”というわけだ。2018年4月、政府与党連絡会議に臨む(左から)麻生太郎副総理兼財務相、安倍晋三首相菅義偉官房長官ら(斎藤良雄撮影) だが、それも束の間、財務省が「廃棄した」と説明してきた森友との交渉記録の存在が発覚し、国会に提出されると、再び麻生氏が批判の矢面に立たされた。それをかわすためなのか、麻生周辺からはこんな声もあがっている。「入邸記録を確認できなかったなんて、菅さんはあんなこと言って本当に大丈夫かね」 財務省は“首相をかばって証拠を隠してもバレたら致命傷になる”ことを思い知らされた。「次に批判が向かうのは菅だ」というニュアンスが感じられる。 本来なら、結束して批判の火消しにあたらなければならない安倍首相、麻生氏、菅氏の3人が、互いに団扇を持って“批判の火の手はあっちに行け”と煽り合いを始めている光景である。 それには理由がある。「最強の官庁」と呼ばれる財務省の次期次官人事を巡るパワーゲームだ。現在、財務省では改竄問題で佐川宣寿・国税庁長官が辞任したのに続いて福田淳一・事務次官もセクハラ問題で辞任。国会会期中にトップ2人が1か月以上にわたって空席という異常事態が続いている。霞が関を揺さぶる報道の情報源は誰だ霞が関を揺さぶる報道の情報源は誰だ「後任は今国会中に決める」 任命権者である麻生氏はそう語っているが、霞が関の幹部人事は大臣からあがってきた人事案を官邸の「内閣人事局」でチェックする仕組みになっており、首相や官房長官が「ノー」を出せばひっくり返される。その人事が3人の綱引きで調整がついていないのだ。 そこに政界、霞が関を揺さぶる報道が出た。〈傷だらけの財務省 次官誰に〉 産経新聞が5月21日付朝刊トップで報じた署名記事で、次期次官の本命とみられていた岡本薫明・主計局長の昇格が見送られ、代わりに国際金融の責任者である浅川雅嗣・財務官、もしくは森信親・金融庁長官の起用が浮上している──という内容だった。 浅川氏は財務官3年目、「金融行政のドン」と呼ばれる森氏も長官在任3年の実力者で、どちらが次官に就任しても辞任した福田氏より入省年次が上になる。「年次の逆行はさせない」という霞が関全体の人事の鉄則を覆すことになる。2018年5月28日、参院予算委の集中審議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相(春名中撮影) 予期せぬ人事構想に政界も各省庁の中枢幹部たちも「情報源は誰だ」と確認に走っている。経産省幹部が語る。「浅川財務官は麻生さんの“懐刀”として知られる人物。麻生内閣の総理秘書官を務め、麻生さんが第2次安倍内閣で副総理兼財務相に返り咲くと、国際局次長を兼務したまま副総理秘書官に起用されたほど信頼が厚い。“浅川次官構想”は間違いなく麻生人事だろう」 麻生氏は文書改竄問題で近く省内処分を行なうが、次期次官の本命の岡本氏は改竄が行なわれた当時に文書管理責任者の官房長だったため処分は免れないと見られている。麻生氏としては処分した本人を次官に昇格させるわけにはいかない。「そこで腹心の浅川氏をワンポイントで次官に起用し、ほとぼりがさめた1年後の人事で本命の岡本主計局長を次官に据えるレールを敷く。この記事はそのための地ならし、情報源は麻生周辺だと見ている」(同前) この麻生人事が実現すれば、麻生氏は同省の「守護神」として影響力をふるうことができる。関連記事■ 大麻解禁派にのめり込む安倍昭恵夫人 官邸は危うさを心配■ 失言王・麻生氏vs断言王・安倍氏、タチが悪いのはどっち?■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題■ 森友学園問題と酷似 「麻生グループ」への土地無償貸与問題■ 昭恵夫人 安倍家の親族会議で「離婚しない!」と叫ぶ

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    新聞、テレビの受け売り「モリカケ安倍陰謀説」の無責任

    疑惑」を抱く人はそろそろ自らの思考そのものを省みてほしい。要するに、これは単なる「安倍下ろし」という政治的な策動の一環にすぎないのだ。 報道では全く注目されていないが、そもそも新文書では、政府側の発言として、獣医学部構想についての技術的なアドバイスはあっても政治的介入はできないと断言している。問題はこれで終わりのはずだが、政治的な思惑だけで「モリカケ」は動いているので、終焉(しゅうえん)はないだろう。もう一度書くが、「疑惑」を無反省に抱く世論にも重大な責任はある。テレビや新聞の受け売りはそろそろやめたらどうだろうか。怒れる中村知事の「非常識」 ところで最近は、その新文書を公開した愛媛県の中村時広知事の発言が大きく取り上げられている。加計学園が「当時の担当者が実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えた」として、担当者の発言を謝罪した。 なんでも中村知事は、県文書を否定されたこのコメントに対して、かなりご立腹のようである。つまり「愛媛県への謝罪と説明が先だろう」というのである。だが、これは本当におかしな話である。 嘉悦大の高橋洋一教授が、ツイッターで「この知事は身勝手で非常識な人だ。文書を出すときにそこに書かれている関係者(加計)に確認したのかね。自分はやらないで相手は求めるタイプ。その確認をしておけばこんなぶざまなことにならないのに」と厳しく批判している。筆者も基本的にその通りだと思う。 正確な記述ともいえない文書を、関係者への事前確認もないままに世の中に出すのは、常識外れか、知事個人の政治的な配慮があるのではないか、と批判されても仕方がない。国会の要請で出したから当然である、という擁護の意見も見かけたが、国会で議論の対象にされるなら、なおさらきちんと関係者に内容を確認してから出すべきである。 さらに森友学園問題のほうでも動きがあった。こちらは籠池被告夫妻が保釈され、その後に記者会見を行ったことが大きく取り上げられた。ただ、アメフト部の「危険タックル」問題で揺れる日本大学の記者会見よりは、インパクトが乏しかったという印象だ。会見内容も聞くべきところはなかった。 ただ籠池氏が「国策勾留だ」と言ったことに妄想を刺激された人も多かったようである。筆者がチェックした範囲でも、「政権の不正を暴露したのに起訴されるのは理不尽」などというツイートを拡散した人がいた。これが「アベ批判無罪」かとあきれたものである。2018年5月、保釈後に会見を行う森友学園前理事長の籠池泰典被告(手前)と妻の諄子被告(手前から2人目、安元雄太撮影) 籠池夫妻の逮捕・勾留は、政治的な争点である安倍首相夫妻が森友学園の小学校用地の価格交渉への関与とは全く異なる次元のものだ。あくまで、籠池夫妻が小学校建設で国の補助金を詐取した容疑と、幼稚園などへの大阪府と市の補助金詐欺などの容疑が、両夫妻の訴追の原因だ。 だが、次元が違う話であっても、なぜか安倍政権批判の文脈で解釈する人たちも多い。本当におかしな話である。「モリカケ問題」の問題点 財務省が公開した文書改ざん前の、森友学園と近畿財務局との交渉過程の記録は重要である。それを見ると、森友学園側と近畿財務局側との熾烈(しれつ)ともいえる交渉が明らかになっている。そして、交渉経過を簡単に述べると、財務省と近畿財務局側の「交渉ミス」で終わっているのである。 交渉そのものは違法ではない。下手を打っただけである。最大の交渉ミスは、学園との相対取引ではなく、最初から公開入札を採用すべきだったということだ。もちろん、その後の財務省による文書改ざんは言語道断であることは言うまでもない。 「モリカケ問題」の問題点は、総じてみると、官僚と政治家の政策の割り当てがいかに難しいかということ、そしてメディアが公平なプレーヤーではなく、時にノイズとなり、時に政治的にふるまうことで世論が扇動されがちなこと、この2点に集約される。 前者は、官僚は行政上の情報や特別な知識を保有しているので、効率性を追求して経済や社会のパイの大きさを拡大していく役割が期待される。そして、政治家はそのパイをどのように配分するかを考えて再分配政策を進める役割を持つ。政治主導とは、この意味での効率性を考える官僚と、再分配政策を行う政治家を政策的にきちんと割り当てることにあるのである。 だが、実際にはモリカケをみても難しいものがある。加計問題では、獣医学部の申請自体を日本獣医師会や獣医師会に支持された政治家といった既得権側が反対していた。そして獣医学教育サービスの効率化を目指すべき文部科学省の官僚は、申請すら受け付けない形で抵抗していた。 官僚が効率性の追求に特化できずに、既得権益を保護する側に強硬に立った結果が、今回の問題がこじれている背景にある。それを端的に表すのが、前川喜平元文科事務次官による「行政がゆがめられた」をはじめとする一連の発言だろう。加計学園から報道機関に送られたファクス また森友問題についていえば、公開入札というスキームではなく、学園側との相対取引を採用したため、官僚側が効率化に徹しきれずに、交渉の不備をもたらしていったわけである。 しかも、より深刻なのは、今のメディアの多くが事実を追求せずに「安倍批判ありき」を繰り返し、無理筋の「安倍陰謀説」めいた話で世論をあおり続けることにある。また、あおりを真に受けて、「疑惑がいよいよ深まった」と思い込んでいる世論にも大きな責任がある。だが、問題の真因は、やはり思い込みをもたらすメディアや政治、官僚のあり方にあることを忘れてはならない。

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    【米山隆一独占手記】私が新潟県政で実現したかったこと

    米山隆一(前新潟県知事) 多くの方の期待を裏切り、ご迷惑をおかけした身で、この時期にこのような稿を書くことの是非を非常に悩みましたが、短い間とはいえ新潟県政の現場に携わったものとして、これからの県政に期待すること、そして知事として実現したかったことを書かせていただきたいと思います。 県政の課題は多岐にわたりますが、私はそのすべてに共通する課題が、3点あると思います。それは(1)正確な現状認識(2)時代に適合した解決策(3)柔軟かつ果断な実行です。 人にも社会にも歴史があり、過去の経緯を無視しては何事もできないことは(自分で書いていて胸がえぐられるようですが)、決して否定しません。しかし、共同体というものの本当の基礎部分である人口が増加から減少に転じているという事態は、あるべき社会のあり方、あるべき行政のあり方を大きく変えています。 世界中で技術革新が起こり、それが瞬時に世界中に広がるということも、今までになかったことです。そういった大きな変化の中で、本来先頭に立って時代の変化に立ち向かうべき行政が、最も過去に縛られてしまっていることが、新潟県に限らず日本の大きな課題であると、私はこの1年半感じていました。 原発問題は、新潟県のみならず、日本全体、ひいては世界全体の大きな課題です。この問題の私の立場は、ご承知のように政府などとは大きくかけ離れています。しかし、だからこそ、双方の立場の人が共通に話すことができる土台が、絶対に必要だと私は思います。率直に言って現在の日本にはいまだその土台はありません。 私はそのために、①福島第一原発事故の原因の徹底的な検証②福島原発事故が人々の健康と生活にもたらした影響の徹底的な検証③万一事故が起きた場合の安全な避難方法の徹底的な検証の三つの検証を掲げました。知事就任後、柏崎刈羽原発の再稼働について世耕弘成経産相との会談に臨んだ米山隆一氏=2016年12月 ①の事故原因の検証については、事故直後に複数の調査報告書が作成されたことはもちろん承知しています。しかし、それらの間には相互の不整合がありますし、その中に書かれていないことで、新潟県の調査や裁判によって初めて明らかになったこともあります。 私はぜひここで、今までの知見と事実をまとめて、事故の事実経過とその原因について多くの人が共通の土台とすることができる検証を行うべきだと思います。そしてその土台とともに、私たちは②の福島の原発事故が人々の健康と生活にもたらした影響を徹底的に検証すべきだと思います。私も着任後福島第一原発、柏崎刈羽原発にうかがい、事故後作成された様々な安全対策について説明を受けました。 福島第一原発事故と同じ形で同じ事故が起こることは、おそらくはないのだろうと思います。しかし、人間のやる事に絶対はありません。絶対があるなら、そもそも福島第一原発事故は起こっていません。 確率や形態は異なるにせよ、事故が起こる可能性は常に存在します。その時にいったいどのような事が起こり、私たちの生活にどのように影響するのか、私たちはそのリスクの全体像を、福島第一原発事故から学ばなければなりません。 そして、①②の土台に立って、万一原発事故が起こった場合に、我々がなしうる最善の避難方法を、現実的具体的に確かめなければなりません。そうやってこそ初めて、万が一事故が起こった場合に我々は現実的にどこまで状況に対応できるのか、考える事ができるようになるからです。原発を抱える日本の使命 この、三つの検証によって「共通の土台」をつくった後には、おそらくはより困難であろうと思われる「共通の事実と、そして現在の社会状況を踏まえて、未来に向かってどのような解決策を講じるのか」という作業が待っています。この作業による解決策は、おそらくそれぞれの立場によって異なり、間違いなく複数の立場から、複数の解決策が出てくるでしょう。 しかし、それぞれは、三つの検証によって同じ共通の土台に立つことができます。全ての人が柔軟かつ果断に、未来へ向けた解決策を民主的プロセスによって決めていくことは、私は原発立地県である新潟県、そして多くの原発を抱える日本の、県民、国民に対する責任であり、歴史的使命であると思っています。 原発問題を最初に説明しましたが、考え方によってはそれ以上に大きな課題が、人口減少問題だと思います。過度に悲観的になる必要はもちろんありません。しかし、少なくともこれから20~30年は人口が減り続けること、その影響は決して小さいものではないこと、その解決が決して簡単なものではないことは、事実として認めなければなりません。 そしてその上で、「現代に即した現実的な解決策」を提示し、柔軟かつ果断に実行していくことが、人々の暮らしに密着した地方自治体の責務であると私は思います。終戦直後のベビーブーム時代、合計特殊出生率の最高値は4を越えていました。しかし、いくらその時代を懐かしんでも、その時代に戻ることはありません。 私たちが時代の流れの中でどこか置き去りにしてきた「人間らしく生きること」を、「人間らしく生きることができる仕組みと社会」を、現代の社会の中にていねいにつくりこんでいく取り組みこそが、地味に見えて最も有効な対策だと私は思います。 そのためには国の大きな制度設計ももちろん重要ですが、地方自治の現場において、国の制度の隙間を埋めるきめ細かい制度と再作をつくり、それを根気よく柔軟に、しかし果断に進めて行く地方自治体の役割が、極めて重要になると思います。 人口減少及び少子高齢化の中で最初に大きな影響を受けるのは、おそらく医療、介護、福祉の分野です。そして地方においてはここに、医師不足という問題が加わります。特に医療提供体制は地方自治体においては極めてセンシティブな問題で、過去の経緯からそう簡単に離れることはできません。就任1年を迎え、報道各社の合同インタビューに応じる米山隆一知事(当時)=2017年10月、新潟県庁 しかし、ここでも、現実は現実として認めた上で、起こり得る未来に耐えられる現実的なプランの策定が必要です。そしてその際には、基礎自治体である市町村と広域自治体である県が補完し合い、また医療、介護、福祉の民間事業者とも連携して必要な福祉を受けられない人を決して生じさせない体制を柔軟かつ果断につくっていくしかありません。 また、それに当たっては、住民のみなさんの理解も必要になります。ぜひ、必要とする人に必要な医療・介護・福祉が提供されないことによって明日への希望を失ってしまう人が生じない体制をつくっていただきたいと思います。 ここで、少々脇道に逸(そ)れて一般論をお話させていただきたいのですが、私はその昔、公共政策においては、「公平、公正、効率」の三つの観点があり、それぞれ何を目標とするか考えて行うべきだと習ったことがあります。 「公平」は「全ての人が同じルールで同じように扱われるべき」ということで、それ自体が「公」が達成すべき価値です。「公正」は、「例え少数でも非常に不幸な人をつくらない」ということであり、これもまた非常に重要な価値だと思います。自責と哀しみを越えて 「効率」は「なるべく多くの人をなるべくたくさん幸福にすること」で、もちろん非常に重要で、昨今はここに重きが置かれる政策が多いように思います。しかし、これだけではだめで、前記の公平や公正も、公共政策を考える上ではとても大事だと、私は常々思っていました。  その観点で見ると、特に医療においては、「公平、公正、効率」のバランスが極めて重要になります。必要な医療が必要な人に届かないことは何より「公正」そして「公平」を害するもので、先に書いた通り、医療の「公平、公正」が害され、明日への希望を失ってしまう不幸な人を決してつくらない努力が必要です。 一方で、それを成り立たせるには、「効率」もまた重要であり、そのための県立病院・基幹病院の合理的経営、そして医療データを用いた(私はこれを「県民健康ビッグデータプロジェクト」としていました)効率的な医療提供体制の整備・運営を実現してほしいと思います。 そして県政の非常に大きな柱である産業政策はおいては、この「効率」という概念が重要になります。「公平、公正」をつくり上げるための夢と活力は、「産業」によって可能な限り効率的にたくさんつくられなければならないからです。 そのために、あえて申し上げると、大型のインフラ整備を「唯一の産業政策」として過大なリソースをつぎ込むようなあり方は、考え直すべき時代に来ていると思います。 インフラ整備は、それが産業のボトルネックだった時代には、産業政策としての役割を同時に果たしました。しかし、人口が減少しつつある現在において過剰なインフラはむしろ社会の負担になります。 また、高度に分化した現在の産業においては、すべての産業、全ての企業に有用なインフラというのは極めて考えづらく、産業政策は基本的にそれぞれの企業、それぞれの産業に合わせたきめ細かいものとすることが、私は現在求められる姿だと思います。ぜひ、それぞれの産業、それぞれの企業のニーズに即した、きめ細かく効率的な産業政策を実現してほしいと思います。 このようなことを言うと、インフラ整備そのものを否定しているように思われるかもしれませんが、私は全くインフラ整備の重要性、必要性を否定していません。人々の暮らしと、産業を成り立たせる基盤となるのは、街であり、街をつなぐ交通網であり、そのすべての安全を確保する様々なインフラです。 どこよりも暮らしやすい街をつくり、その街々を利便性の高い交通網でつなぎ、にぎわいをもたらし、そのすべてを災害から守ることは、自治体の最も基本的な役割の一つであり、その重要性が減ずることはありません。 新潟県の誇りである農業は、より付加価値を高めていく未来の産業であるとともに、中山間地の暮らしを成り立たせる暮らしの基盤でもあります。まず、いま新潟の農業が置かれている現状を地域ごとにきちんと認識し、地域ごとに今ある農業を持続・発展させながら、未来を目指してほしいと思います。週刊誌報道を受け、記者会見する米山隆一知事(当時)=2018年4月、新潟県庁 そして最後に、新潟の未来は、今社会に出ている私たちだけでつくることができるものではありません。これから社会に出る若者たち、これから生まれてくる子供たちの新しい柔軟な力を借りなければ、新潟の未来をつくることはできません。 若者たち、子供たちに新潟の未来をつくる力をつけてもらうための教育は、何よりも変化の速い現代の社会を生きるために必要な知識や能力、考える手法を、一人一人の適正に会わせてていねいに教えるものでなければなりません。 そして、そのためには、教える先生方の環境、教える方法を現場とともにつくって行かなければなりません。ぜひ、若者たち、子供たちの教育に力を尽くしていただければと思います。 自らの責で、自らがこの崇高な仕事をできなくなった自責は自責、哀しみは哀しみとして、この稿がどなたかの、何かの役に立てば幸いです。

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    米山隆一独占手記、知事失格「自責の念」

    米山隆一前知事の辞職に伴う新潟県知事選が告示された。週刊誌が報じた女性スキャンダルが引き金となった米山氏だが、辞職後は沈黙を貫く。その米山氏が自責の念をつづった独占手記をiRONNAに寄稿した。「知事失格」という世間の厳しい目にさらされる米山氏は今、何を思う。

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    角栄が気を使った東大卒のエリート集団“官僚”の操縦術

    は、当時も今も、官僚組織から「神輿」として担がれるかどうかにかかっている。 霞が関には将来を見込んだ政治家に若手官僚を貼り付けて政策を指南し、手とり足とり面倒をみて出世させるシステムがあるからだ。 角栄の周囲には、大蔵省(現財務省)、通産省(現経産省)などの気鋭の官僚が集まり、ブレーンとなって「日本列島改造論」をはじめとする田中政権の政策を練り上げていった。現在の自民党の中堅若手の中で“官僚が寄ってくる政治家”は進次郎くらいだ。 本誌・週刊ポストは財務省と経産省が競い合うように進次郎を囲む勉強会を開き、政策から選挙応援演説の内容、立ち居振る舞いまで指導していることを報じた(11月10日号)。当選4回で霞が関の“総理養成講座”を受ける存在は他にはいない。 表面的にはこれも「角栄の道」と同じに見える。だが、政界サラブレッドの進次郎と違って、高等小学校卒業の角栄が最も苦労し、気を使ったのが、官僚という東大卒のエリート集団の操縦術だった。 角栄の時代は官僚全盛期。ヒラ議員は相手にされない。そこで官僚の入省年次から、家族構成、閨閥まで暗記し、夫人の誕生日には花を贈る気配りを見せた。派閥の子分だった渡部恒三は「東大法学部の同窓会事務局長みたいだ、と言ったら角さんにひどくどやされた」と本誌に述懐した。角栄が「人たらし」と呼ばれた所以だ。1976年7月、報道陣のフラシュライトを浴び、緊張の面持ちで東京地裁に入る田中角栄前首相 ただし、田中角栄の写真を2万枚も撮ったカメラマンの山本皓一氏がレンズ越しに見た実像はそんな“伝説”とは違う。「田中邸を訪れた官僚に、角さんが『おい、そういえば今度息子が受験だな』と声をかける。近所のおせっかいなおじさんのような愛嬌たっぷりの表情だったが、言われた官僚の顔は真っ青になった。そこまで情報を知られているのかと肝を冷やすわけです。 しっかり政界と霞が関に情報網を張り巡らせ、“誰がどこで何を言ったかわかるぞ”と凄味を利かせていたからこそ、官僚になめられる太鼓持ちにはならず、官僚はついてきた。進次郎が掲げたこども保険などの政策には財務省の知恵者の影がちらついているが、官僚に頼るだけでは、霞が関の傀儡にされるリスクがある」関連記事■ 小泉進次郎と田中角栄 卓越した話術持つという共通項あり■ 田中角栄の言葉は人間心理の機微を知り尽くした行動伴ってた■ 小泉進次郎氏 首相の座を意識し官僚集めた勉強会立ち上げる■ 山路徹 矢沢永吉マニアの操縦術伝授「永ちゃんなら…」でOK■ モンテネグロで拘束のオウム信者は東大・京大卒の超エリート

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    テレ朝記者「セクハラ告発」と報道倫理

    対するセクハラ疑惑で、財務省の福田淳一事務次官が辞任した。「セクハラ告発」をめぐっては、官僚の資質や政治家の道義的責任、記者の報道倫理まで、議論はさまざまな方面に飛び火した。今回、iRONNAでは記者経験を持つ識者の論考を集めた。賛否が渦巻くこの議論を正面から考えてみたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる

    鈴木涼美(社会学者、元日経新聞記者) 財務官僚のトップがセクハラ発言で辞任、なんていうニュースをフランス人の友人が見て、未開地の部族のニュースのようだとバカにしていた。 確かに気軽にICレコーダーを使いそうな職業のオンナを目の前に「おっぱい」とか「エロい」とか「うんこ」とか言える感覚は前近代的だ。ユダヤ系米国人女優のナタリー・ポートマンがイスラエルの賞を辞退した、とかそんなソフィスティケイテッドなニュースに比べると、うん、確かに原始人みたいなニュースではある。 週刊新潮に最初に掲載された福田次官と女性記者とのやりとりを読んだときに、ふと思い出したのはとあるおじさんのことだった。 以前とあるトーク番組で、突発的に私が番組のアシスタントMCをすることになった。なんでそんなもっときれいどころ(美人という意味ではなく清廉性のハナシ)がやるべき仕事がワイのところにきたんだ?と不思議に思っていたのだが、当該回のゲストがカリスマAV監督の村西とおるさんだというのを聞いてなんとなく納得した。 村西監督はAV村で愛されるキュートなおじさんなのだけれど、いかんせんそんな村で培養された期間が長いため、会話の端々に「オマンコ」「足の付け根」なんていうちょっとエッチな言葉を挟まずにはいられない。 レギュラーアシスタントであるフリーアナウンサーへの番組側の配慮(つまりゲストがアナウンサーに向かってオマンコきついですか? とか聞くのはどうなのか、という話)として、その回だけは元AV嬢の私を起用したらしい。私としては仕事が増えただけでなんら問題はない。オマンコがきついかどうかはさておき、私もかつてその村にいたのだから。アダルトビデオ監督・村西とおる氏=2005年11月15日(撮影・佐藤雄彦) 監督自身は邪気も悪気も、実際のところはほとんどエロな視点もなく、ほとんど習慣、なんなら彼的にはむしろサービスに近い礼儀でそんなことを言っている。7000人以上のあそこをカメラ越しに見てきたわけだから、もはや1人2人増えようが増えまいがどうでもいいのだろう。 AV業界という動物園にいるぶんには無害で楽しい存在だが、高度に洗練された2010年代の実社会に放たれると、速攻で「#MeToo」委員会に捕獲されかねない危険人物となる。 さて、福田次官のやりとりはAV監督ではなく東大法学部卒司法試験合格のエリートによってなされたためか、「あなたの足の付け根はきっと締めます締めます山手線…」という村西節に比べると面白さでは数段下だ。 しかし、みだらな言葉の入れ込み具合では同レベルで張り合っている。「抱きしめていい?」「おっぱい触っていい?」と同意を得ようとしているぶん、言葉遊び、なんて言う割には遊びに乏しく少々弱気でもある。オンナだって一枚岩ではない 彼らのような男は大変生きづらい世の中になったと思っているに違いない。若い時分にはノーパンしゃぶしゃぶで密談する上司なんかを尻目に、おっぱいの一つももめなきゃ出世なんてできないぜ的価値観を押し付けられ、財務省という海を泳いできて、ここにきて「おっぱい触っていい?」と聞いたら社会での立場も大人としての威厳も全て失う。 かといって別に同情する気にもならないのは、彼が日本のエリートの代名詞のような立場にありながら、そして財務省では鋭い勘を頼りに出世してきたにもかかわらず、時代の空気を読む勘がごっそり抜けていたところが、どうにも間抜けだからだ。どうしてもみだらな言葉を挟み込んで死んでいきたいなら、村西監督よろしく実社会とやや隔たりのある動物園で過ごしていればいいのにというのが率直な感想だ。 しかし、自分の所属するメディアや自分のジャーナリズム精神を使うのではなく、週刊誌に頼ってまでセクハラオヤジを駆除しようとした勇気ある女性記者、ノーパンしゃぶしゃぶの時代から抜けきれずになんとか勝ち抜けようとしたら最後の最後で捕獲されたバブルおやじ、そんなこの時代らしい登場人物に埋もれて声を失っている者がいることについてはあまり考慮されていない。私は一点、まさにそこだけにこの女性暗躍時代、じゃないや女性活躍社会の闇を感じないでもない。 オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日午後、東京都千代田区(桐山弘太撮影) 許可を得ずに録音した本来の取材とは関係のないテープを週刊誌に横流す女性記者をみて、心強いと感じた女性がいるであろう反面、自分を担当している愛想の良い、手練手管の女性記者の取材を急に恐ろしく感じた男もいるであろう。 同時に、いい感じにあほなおやじを手のひらで転がしてうまいことやっていたのに、と舌打ちしているオンナだっている。おじさんに、警戒心と恐怖心を抱かれた時点で自分が女性ならではのやり方で積み上げてきた仕事のやり方が一気に崩壊するからだ。生きづらいのはおじさんだけじゃない オンナを使って出世する、なんていう事態を世間は非常に冷ややかな目で見るが、生理の時には痛み止めを飲んでナプキン変えて、男より人生のうちに仕事に費やせる時間が少ない。 ましてや、もし子供を持とうと思えば長期のインターバルを余儀なくされる女が、会社の中でそれなりに自分の存在意義を認めたいとすれば、女の自分に使えて男のあいつらには使えないものを惜しみなく使い、男以上の価値を発揮するのだって、ある意味ではいじらしい努力である。国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会。女性団体の代表や国会議員、市民が参加した=2018年4月23日 だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから。 もっと次元を落とせば、単に女性としてみられていないと機嫌が悪くなる女だっているし、官僚とのラブロマンスを望んで記者になる女だっているし、容姿に恵まれず殿方と縁がない人生を歩んできたものの、男ばかりの会社で記者になったらこんな私でも女の子扱いしてもらえる、なんて悦に入っている女もいる。胸を見せたくらいでネタが取れるならそんなにラクなことはない、と思っている元AV記者だっている。 そういった女ならではの感情を持たずに生きるのが正しいなんて誰が決めたんだろう、とちょっと思う。 何事にも清廉潔白を求める空回りの正義感によって生きづらくなっているのが、おっぱいもみながら日本経済を支えてきたバブルおやじだけだと思っているならば、それはおじさんの被害妄想だ。 女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易(へきえき)としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない。

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    女性記者の「セクハラ告発」でテレビ朝日が犯した二つの過ち

    上谷さくら(弁護士、元毎日新聞記者) 財務省の福田淳一事務次官によるテレビ朝日の女性社員へのセクハラ問題は、福田氏が辞任表明したことで、テレ朝の対応や女性社員の個人情報に関心が集まるようになった。私は大学卒業後、毎日新聞社で記者をしており、刑事事件から行政、選挙の取材などを一通り経験した。その後、弁護士となって犯罪被害者支援をライフワークとし、性犯罪被害の相談を多く手掛けている。その経験を踏まえ、テレ朝の問題点や同社女性社員の保護について考えたい。 テレ朝の記者会見によると、女性社員からセクハラ相談を受け、自社で報道してほしいとの要望を聞いた上司は、報道すると女性社員が特定されて二次被害に遭うので報道しない、と答えたという。 詳細は不明だが、「報道しない」と回答するだけで終わったのだろうか。もし、そうだとすれば、女性社員のセクハラ被害を放置し、結果的に福田氏のセクハラ行為を継続させたテレ朝の責任はあまりにも重い。 確かに、自社で報道すると個人が特定されやすく、被害者が二次被害に遭う恐れは十分にある。女性社員が報道を望んでいたとはいえ、覚悟のうえの申し出だろうから二次被害に遭っても構わないというのは、あまりにも短絡的であり、この上司が女性社員の二次被害を心配したこと自体は評価されるべきである。 その際、具体的にどのような二次被害が想定されるのか、福田氏が全面否認した場合はどうするのか、今後も女性社員は財務省の取材を続けたいという希望があるのかなど、十分な話し合いがなされたのであろうか。 このような相談がなされ、相談者が明確に「こうしたい」という希望を持っている場合でも、その希望自体がそもそも無理な場合や、希望が実現するとかえって相談者が傷つく結果を招くケースは多い。 ゆえに、相談者の希望とは少し異なる方法だが、相談者にとってメリットが大きく、被害回復に資する手段をいくつか考えて提案し、どの方法を選ぶのがいいのか一緒に考えるプロセスが重要である。 今回の場合、女性社員があくまで自社による報道にこだわり、それ以外の選択肢については断ったのかもしれない。だが、例えば、テレ朝として財務省か福田氏個人に抗議したり、女性社員を福田氏の担当から外したりする方法もあっただろう。2018年4月16日、財務省を出る福田淳一事務次官(中央)。女性記者へのセクハラ疑惑を否定した マスコミ各社は多くの場合、このような手段を取っているはずで、そんなことでは女性記者が置かれた劣悪な労働環境は改善されないが、一定の歯止めにはなるはずだ。会社が「何もしない」ことは「被害者を見捨てた」も同然で、被害者を傷つけることは間違いない。一緒に考えて手を尽くすこと自体が、被害回復にとって非常に重要なのである。 テレ朝が記者会見で、女性社員が『週刊新潮』に今回の事件のことを持ち込んだことについて「遺憾である」と表明した。私は、この一言が一部の人たちから女性社員が激しくバッシングされる流れを決定づけたと思っている。テレ朝はこのようなことを絶対に言うべきではなかった。その理由は二点ある。 一点目は、この期に及んでテレ朝が女性社員を守る視点に欠けていたことである。女性社員が週刊新潮に情報を持ち込んだのは、テレ朝が女性社員の訴えにきちんと対応せず、このままでは福田氏のセクハラ行為や同じような立場に置かれた女性記者の苦しみが続いてしまうと考えたための苦肉の策であろう。新聞・テレビの「よくある慣習」 つまり、やるべきことをやらなかったテレ朝の態度が、女性記者にそのような行動を取らせたのである。それを「遺憾」と言い放ったのは、今回は例外的なことであって、テレ朝の他の記者はそんなことはしないから安心してほしい、という対外的なアピールだったと思う。全力で女性社員を守らなければならないテレ朝が、そのことよりも会社としての体面や取材先との関係を優先した結果、被害者の傷を深くしたのではないか。 二点目は、大手新聞社やテレビ局が、ネタを週刊誌に持ち込むことはよくある慣習という点だ。新聞社やテレビ局の記者があるネタをつかんだ時、そのメディアの性質上、報道に適していないと判断されたり、取材先との関係を重視して自社では報道できないなどの理由で、報道を断念することがある。 しかし、何らかの方法で世に知られるべきだと思われる場合などに、その記者個人や、時には上司の判断で、週刊誌に情報提供して報道してもらう。報酬が発生するかどうかはケースバイケースのようだが、小遣い稼ぎ感覚の記者もいる。 そこで、取材源まで明かされているかどうかは分からないが、少なくとも大手新聞社やテレビ局の記者が、週刊誌に情報提供するのが普通に行われていることは明らかである。 テレ朝の女性社員は、メディアに身を置くものとして、そのような実態を熟知していたはずだ。なにしろ、財務省事務次官という強大な権力を持つ者による悪質なセクハラ行為が、テレ朝によってなかったことになりかけていたからだ。 それを防ぐために、女性社員が週刊新潮に情報提供したことは自然な思いつきだったであろう。そのことについて、大手メディアに所属する人間が、さも悪であるかのように評価するのはお門違いであるし、偽善である。 大手メディアと週刊誌とのそのような関係は、一般的には知られていない。それにも関わらず、テレ朝が上記のような言い方をしたために、この女性社員がことさらに悪いことをしたように誤って評価され、それがバッシングの一因となった。 テレ朝は、「結果的に取材源の秘匿という問題に不安を抱かせることになったかもしれない。それも全てわが社の対応が悪く、女性社員を追い詰めた結果である。彼女に責任はない」と言って頭を下げるべきだったと思う。2018年4月18日、女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにしたテレビ朝日の記者会見 テレ朝の記者会見後、テレ朝がことさらに悪者のように言われている。しかし、テレ朝だけの問題ではない。テレ朝を悪者にして終わりにしていい話ではない。 新聞社やテレビ局の人であれば、現場の記者がセクハラやパワハラに日常的にさらされていることは常識として知っている。ただ、被害に遭っている記者は、それを言い出すと同僚や上司、会社に迷惑をかけると思っているのであまり口にしない。忙しすぎて、そういうことを相談する時間もない、という現実もある。 誰に相談するのかも迷う。誰を信頼していいのか、その人に相談して対処してくれるのか、という悩みもある。つまり、誰かに相談するというのは、よほど耐えられないと感じた場合が多い。大手マスコミの女性記者たちよ、立ち上がれ そして実際に記者から相談があった場合、会社としてどう対応しているか。相談者の要望としては、取材先に内々で抗議してほしいとか、担当を変えてほしいというのが一般的だろう。会社は、そのくらいの対応はしていると思う。 しかし、今回のように「自社が報道すべきだ」と訴えられた時、その望み通りに報道したメディアはあっただろうか。世間には、「女性社員の望む通りに報道すればよかったのだ」という向きもあるが、今回のケースが自社だった場合、「それは出来ない」と断ったメディアがほとんどだったのではないか。各社の見解を聞きたいところだ。 また、全国的に「その女性記者は誰だ」という注目が集まっている中で、最悪な形でほぼ個人が特定されてしまった。インターネットには、特定した情報が流れているし、取材源の秘匿を守らずに週刊誌にネタを売ったけしからん人間である、と公然と批判する人もいる。 しかし、福田氏の言動がセクハラであり、大多数の女性が不快感を覚えることは明らかであるし、福田氏に共感する男性が少ないこともまた明らかだ。 テレ朝の女性社員は、公表によって自らがバッシングを浴びることを予想していただろう。それでも泣き寝入りしなかった彼女に敬意を表したい。今後は、彼女の尊厳を回復することに全力を注がなければならない。 これまで、セクハラ問題は、告発した女性がバッシングされ、居場所がなくなる現実が多くあった。会社内でセクハラした人が配置転換され、被害者が不利益的な扱いを受けなかったとしても、何年も「あいつのせいで〇〇は飛ばされた」などと後ろ指を指される様子を多くの女性たちが見てきた。 その結果、「あんな目に遭うなら泣き寝入りしよう」ということになり、いつまでもセクハラがなくならない、男性の意識も変わらないという悪循環が続いている。今回もこれまでのところ、全く同じ構造だ。 まず、大手マスコミの女性記者たちに立ち上がってほしい。沈黙はセクハラをしているのと同罪だ。テレ朝の女性社員は、女性記者みんなの声を背負って自分が犠牲となったのだ。最近は女性記者の数も多い。会社の垣根を超えて団結し、どうしたらこのような問題がなくなるのか真剣に考えてほしい。この機会を逃したら改善される機会はなくなるかもしれないのだから。2018年4月23日、国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会 また、セクハラの話になると、男性が全く当事者意識を持てないのも問題だ。問題意識を抱いている男性も多いと思うが、「女性は大変だね。頑張ってね」と他人事で済ましていると感じる。それではこの問題はいつまでたっても終わらない。 セクハラはパワハラとセットになっていることが多い。男性にとっても自分の問題でもあるはずだ。真剣に考えてどうすればいいのか方法を考えてほしい。自分が感じた苦い気持ちを思い出してほしい。 テレ朝の女性社員の二次被害をどう食い止め、彼女の尊厳を回復するか。今となっては非常に難しい。ただ、世の中が少しでも変わるのであれば、それが彼女の被害回復に資すると思う。