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    豪雨災害「クーラーデマ」を否定しない蓮舫議員もどうかしている

    ではなく間違った内容であっても、「真実」としてネットの中で生き残ることもしばしば見受けられる。特に、政治的な集団が先鋭的に対立している場合では、この「デマの延命」が見られるようである。 西日本の豪雨災害では、いまだ被災地で復旧作業や安否不明者の捜索が懸命に続いている。テレビや新聞の報道だけではなく、実際の被災者がほぼリアルタイムで知らせてくれる現状の一端は、被災地にいる人だけではなく、他の地域に住む人たちにも貴重な情報になっている。 民間の方々はもちろん、自治体や警察、消防、自衛隊などの人たちの必死の努力もネットなどで伝わってくる。事実、ボランティアの参加方法、寄付の注意点、また募金の重要性なども、筆者はネットを中心にして知ることができた。 他方でひどいデマにも遭遇した。中でも「風評被害」だと思えるケースが、岡山県倉敷市の「観光被害」とでもいうべきものだ。 今回の豪雨で、倉敷市の真備地区が深刻な浸水被害を受けた。だが倉敷の市域は広く、県内有数の観光地である美観地区はほとんど被害がない。観光施設や店舗なども平常通り営業している。 だが、「倉敷市が豪雨災害を受けている」というニュースや情報が、テレビでヘリコプターなどから映されている広域にわたって浸水した街の姿などとともに流布してしまうと、市域の広さや場所の違いなどが無視されて人々に伝わってしまう。ただし、観光客のキャンセルなどもあるようだが、この種の「風評被害」は、ネットメディアや一般の人たちの努力で打ち消していく動きも顕著である。2018年7月17日、風評被害により、観光客もまばらな岡山県倉敷市の美観地区(小笠原僚也撮影) 例えば、ツイッター上では「#美観地区は元気だったよ」というハッシュタグによる「拡散活動」が展開されている。また、大原美術館の防災の試みを紹介するネットメディアの記事で、今回は美術館のある美観地区が災害から免れているという紹介もあわせて説明されていて、それがよくネットでも注目を集めている。この種の試みや工夫は非常に重要だ。 これらの試みは、いわば民間の自主的な努力によるものである。言論や報道の自由が、あたかも市場での自由な取引のように行われることで、その権利が保たれるという見解がある。「言論の市場理論」とでもいうべき考え方だ。「クーラーデマ」と「コンビニデマ」 代表的には、19世紀の啓蒙(けいもう)思想家、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の中で展開されている。今回のようにネットでのさまざまな風評被害を防ごうという試みは、多くは人々の自主的な言論活動で行われている。 他方で、冒頭でも指摘したが、より対応が難しいのは、政治的に対立した人たちが放つデマである。今回の豪雨被害では、ネットを中心に代表的なケースが二つあった。一つは、先週、安倍晋三首相が岡山の被災地を視察に訪れ、避難所を訪問した際のことである。ところが、この訪問後に、ツイッターで「安倍首相が視察に来るので慌ててエアコンを設置した」というデマが拡散した。 最初にデマを「ウソに基づく噂」と書いたことからもわかるように、これは真実ではない。このデマに対しては、世耕弘成経産相がツイッターで即時に否定した。被災各地の避難所へのクーラーの設置は、被災者を多く収容している施設にまずは優先的に行われていることを、世耕氏は指摘したのである。 もう一つのデマは、政府が自衛隊の車両を緊急利用して、品薄が続くコンビニエンスストアに食品や飲料などを輸送したことへの批判である。これには「物流費を肩代わりするとは官民協力ではなく、官民癒着だ」という批判が上がった。また自衛隊への心ない批判も多くみられた。 もちろんこれは「官民癒着」などではなく、デマである。すぐさまネットでは、これらの施策が1年前に「災害対策基本法」に基づいて、「官民が一体となった取組の強化を図るため、内閣総理大臣が指定する指定公共機関について、スーパー、総合小売グループ、コンビニエンスストア7法人が新たに指定公共機関として指定」されたと指摘している。 当然だと思うのだが、被災地のコンビニで、以前と同じように品物がそろうことは被災している人たちにも助けになることは間違いない。「官民癒着」も間違いならば、官民連携によるコンビニ「復旧」を批判するのは、あまりにデタラメではないだろうか。 ただし問題はここからで、このような「クーラーデマ」「コンビニデマ」でも、いまだに政治的に対立する人たち、例えば安倍政権を批判することの好む人たちの中では健在である。だから、取るに足らない理由でデマを延命させている「努力」について、確認することは難しくない。2018年7月11日、岡山県倉敷市の避難所を訪れ、被災者の話を聞く安倍首相 特に野党議員など、国会レベルでの政治的な対抗勢力の人たちがこのデマに加担していることも確認できるだけに、政治的な思惑でのデマの流布により、社会的な損失がしぶとく継続しがちだと思われる。なぜなら、政治的な対立者たちが合理的なデマの拡散者である、という可能性も否定できないからだ。 デマの拡散力とデマを否定する力と、どちらが大きくなるかは、「正しさ」の観点だけで決めるのはなかなか難しい。いずれが打ち勝つかはケースによる、と冒頭でも書いた通りだ。特にこのような政治が絡む案件ではデマは真実だけでは打ち消せないかもしれない。政治的バイアスを打ち砕けるか ネット社会の問題について詳しい法学者、米ハーバード大のキャス・サンスティーン教授が著書『うわさ(On Rumors)』(2009)の中で、類似したケースを紹介している。要するに、人々の自由な言論ではこの種のデマを防ぐことは難しいと、サンスティーン氏は指摘している。 ではどうすればいいのか。サンスティーン氏は「萎縮効果(Chilling Effect)」に注目している。つまり、法的ないし社会的なペナルティーを与えることによって、この種のデマを抑制することである。 例えば、デマの合理的な流布者に対し、悪質度に応じて、法的な制裁やまたは情報発信の制限を与えてしまうのである。これを行うことで、他のデマの合理的な発信者たちに、デマを流すことを抑制できるとする考え方である。 このような「萎縮効果」は確かに有効だろう。だが、あまりに厳しければ、それはわれわれの言論の自由を損なってしまう。 現状でもあまりに悪質なものには、法的な処罰やまたソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のアカウントの制限や削除などが運営ベースで行われている。それが「萎縮効果」をもたらしているかもしれない。「萎縮効果」はやはり補助的なものだと考えた方がいいだろう。 立憲民主党の蓮舫議員はツイッターで以下のようなことを書いている。 総理視察の直前に避難所にクーラーが設置されたとのツイッターに、経産大臣が随分とお怒りの様子で、かつ上から目線のような書きぶりで反応されていたが、もはや避難所にクーラーのレベルではなく、災害救助法上のみなし避難所の旅館・ホテルを借り上げ、被災者の居場所を確保すべきです。蓮舫氏の7月13日のツイッター 「クーラーデマ」を明瞭に否定せずに、世耕氏の発言を「上から目線」として批判することで、かえってデマをあおる要素もこの発言にはある。ただし、この蓮舫氏の宿泊施設への対策が政府にあるかないかについて、即座に自民党の和田政宗議員が次のように反応している。 ご意見有難うございます。ご指摘いただいた前日までに政府は既に対応済みで、12日の非常災害対策本部の会合で、被災者向けに公営住宅や公務員宿舎、民間賃貸住宅など7万1千戸を確保し、旅館・ホテル組合の協力により800人分も受け入れ可能となっている旨、報告されています。r.nikkei.com/article/DGXMZO …和田政宗氏の7月15日のツイッター2018年6月18日、参院決算委員会に臨む立憲民主党の蓮舫氏(春名中撮影) この与野党の国会議員のやりとりを、ネットユーザーが直接見ることができ、それに評価を下すことができる。確かに、政治的バイアスを打ち砕くのは至難の業である。だが、同時にわれわれの言論の自由は、その種の政治的バイアスに負けない中でこそ養われていくことを、災害だけではなく、さまざまな機会で確認したい。

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    「赤坂自民亭」人命より酒宴の安倍政権に心底絶望した

    杉隆(メディアアナリスト) 国民の命が次々と奪われようとしているまさにその時、一国のリーダーが仲間の政治家らと酒宴に興じていたら…。 7月5日、気象庁から西日本各地に歴史的な豪雨への警告が発せられた。その最中、安倍首相ら閣僚は、与党幹部ら約50人と「赤坂自民亭」(衆院議員宿舎で行われる安倍首相と党所属議員の懇親会)で宴を愉しんでいた。 同夜、西村康稔官房副長官や片山さつき議員の会員制交流サイト(SNS)には、サムアップをして記念写真に応じる参加者たちの酔った姿がアップされた。 国民の苦しみや悲しみに共感できない政治に未来はないだろう。また、自分の国に起こり得る悲劇を予見できない政治家には為政の資格もないといえる。 首相や党派への好き嫌いではない。国民の命を軽んじる政治は東日本大震災が起きた2011年3月11日以降の民主党政権で懲り懲りなのだ。 慌てた安倍政権は3日後に非常災害対策本部を設置し、「的確に対応していた」と応じている。また西村官房副長官も「安倍首相の陣頭指揮のもと」と繰り返している。 しかし、果たして本当にそうなのか。【日本人の恥】警察・消防・自衛隊・海保・民間有志は発災当初から国民の命を救ってくれている。自民党の力も総理の指示も関係なく…。政治のフェイク介入は現場の士気を削ぐ。むしろ党派の仲間たちと宴に興じていてください。 @AbeShinzo #西日本豪雨災害【日本人の恥】故郷の人々の顔を思い出さなかったのか?演技でも選挙区の有権者の顔が浮かばなかったのか?初代自民党総裁の孫の元秘書として自民党の変節を嘆く。 @AbeShinzo #岸田文雄 #山口県 #広島県 #豪雨災害【日本人の恥】故郷の人々の顔を思い出さなかったのか?演技でも選挙区の有権者の顔が浮かばなかったのか?初代自民党総裁の孫の元秘書として自民党の変節を嘆く。 @AbeShinzo #岸田文雄 #山口県 #広島県 #豪雨災害 【日本人の恥】防衛大臣、自衛隊員が飲酒しながら救援活動をしていたら懲戒です。#自衛隊 #西日本大水害 @AbeShinzo 100人、200人と国民の命が次々と失われていく様をみながら、筆者は感情的になりすぎたのかもしれない。気づくと、安倍首相や酒宴に参加した閣僚たちに対して、繰り返し抗議のツイートをしていた。「赤坂自民亭」で酒を酌み交わす安倍晋三首相(下段中央)と岸田文雄政調会長(同左)=2018年7月5日夜、衆院赤坂議員宿舎(西村康稔官房副長官のツイッターより) 実は、6年目の長期政権を迎える安倍首相にここまで嫌悪感を持ったのは初めてだった。約10年前、拙著『官邸崩壊』(新潮社)で、安倍政権を徹底的に批判し、首相辞任にまで追いつめた時ですら、安倍首相本人への嫌悪感はほとんどなかった。むしろ、本にも記した通り、安倍首相の周囲に集まる政治家や官僚やマスコミの人間に利用された「被害者」という意識を持っていた。 しかし、今回は違う。6年に及ぶ長期政権への過信と、国民への共感を忘れた奢(おご)りの気持ちが、酒宴を開かせ、記念写真を撮り、それをSNSにアップするという愚行を自ら許したのだ。 そして、その愚行を誰も止められなかったのは、安倍官邸のみならず、自民党という党派そのものの腐敗に尽きる。死刑前日に酒宴に参加する法相 悲しむべきことは、翌6日、オウム死刑囚7人の執行にサインをした上川陽子法相がその場にいたことだ。しかも、酒宴の主催者で集合写真では安倍首相の横で親指を立てている。 かつての筆者のボスである鳩山邦夫法務大臣は在任中に13人の死刑囚の執行にサインをした。歴代最多で、当時は朝日新聞に「死神」と揶揄(やゆ)されたものだ。 しかし、その鳩山氏が死刑執行の週にどういう気持ちでいたか、朝日新聞もメディアも知らないだろう。「自分のサインひとつで一人の人間の人生が終わるんだぞ。眠れなくなるのも当然だろう」とも語っていた鳩山邦夫法相。死刑の週には登庁前に必ず体を清めて墓参していた。朝日新聞に「死神」と書かれたが、そんな優しい「死神」がいるのか?民主党政権や現政権の法相の方が心がない。 @hatoyamayukio 筆者が代表を務めるNOBORDERが運営する報道番組『ニューズ・オプエド』に鳩山元法相の兄の鳩山由紀夫元首相が出演した昨日(12日)、筆者が当時の様子を明かした時の言葉だ。 法相は死刑執行の約48時間前、つまり二日前の火曜日か水曜日に、大臣室で執行のサインを行う。その前、執行者リストの知らせが、法務官僚(大抵は大臣秘書官)から受けるのだが、それが前週末か、当週の月曜日だという。 鳩山法相は、その知らせを受けると、早朝に自宅で身を清めて、東京・谷中にある先祖の墓参りをした。さらに、執行日まで墓参を繰り返し、夜は断酒、死刑囚への祈りを毎日欠かさなかった。 「そうですか。弟のそうした振る舞いは知りませんでした」 番組の中で、兄の鳩山元首相はそう語った。 筆者は、死刑反対論に与(くみ)する者ではない。しかし、人命を奪う最強の国家権力行使に当たって、担当の法務大臣が、前夜に酒宴で首相と並んでサムアップで記念撮影に応じるというのはどうしても容認できないのだ。麻原彰晃死刑囚らの死刑執行を受け、臨時記者会見を行う上川陽子法相=2018年7月6日、法務省(桐原正道撮影) 国民の命を軽視する政権に未来はない。いや、そうした政権の存続を許しているのは私たち国民だ。となれば、私たちの国、日本の未来は…。 政治は結果責任だ。安倍首相と自民党は日本の未来のために潔く決断をすべき時に来ているのではないか。

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    『笑点』の安倍ネタは笑えない?

    ネタは昔からよくあった」「そもそもネタとして笑えない」。意見が分かれる今回の炎上騒動を機に、お笑いと政治風刺を考えてみたい。

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    「笑点の安倍ネタは風刺じゃない」石平が綴った怒りの反論手記

    珠玉の一言」を繰り出す設問があった。そしてその中で、いつもの顔ぶれの落語家たちの口から、次のような「政治ネタ」が連続的に放たれたのである。 まずは三遊亭円楽さん、「安倍晋三です。トランプ氏から『国民の声は聞かなくていい』と言われました」。次は林家たい平さん、「麻生太郎です、やかましいィ。」。そして最後には、林家木久扇さんは「沖縄から米軍基地がなくなるのは、いつなんだろうねぇ」と嘆いてみせた。 以上が、後にインターネット上などで話題となった『笑点』の「三連発政治批判」である。テレビの前でそれを見た私は、「そんなのは落語としてどこが面白いのか」と思ったのが最初の感想であった。 例えば、最後の木久扇さんの「沖縄から米軍基地がなくなるのは、いつなんだろうねぇ」という答えを取ってみても、そこに何か落語の笑いの要素があるというのか。「米軍基地がいつ無くなるだろうか」という、そのあまりにも平板にしてストレートな一言を聞いて、腹の底から笑おうとする人間がいったい何人いるというのか。 程度の差はあっても、一番目の「安倍ネタ」と二番目の「麻生ネタ」も同じようなものである。要するに、この三連発の政治批判は笑いのネタとしてまずつまらないし、落語としての機転も芸も感じさせない。 そこにはむしろ、政治批判が目的となって『笑点』としての面白さは二の次となった、という感がある。はっきり言って、そんなネタはもはや『笑点』ではない。『笑点』の名を借りた政治批判にすぎないのである。 しかも、その時の政治批判は、一般庶民の視点からの政治批判というよりも、特定政党の視点からの政治批判となっているのではないか。例えば、沖縄の米軍基地について、基地が無くなってほしいと思っている庶民が、この日本全国に一体何割いるというのか。地元の沖縄でも、基地反対派と基地維持派が県民の中に両方いるはずだ。2018年1月、米軍普天間飛行場移設に向けた護岸工事が進む沖縄県名護市の辺野古沿岸部(共同通信社機から) 上述の『笑点』三連発の政治批判は、つなげて考えてみれば、要するに「反安倍政権・反米軍基地」となっている。それはそのまま、日本の一部野党の看板政策と重なっているのではないか。 私自身は『笑点』が結構好きで、日曜日の夕方に家にいれば、そしてチャンネル権が女房と子供に奪われていなければ必ずつけてみることにしている。だが、その日の『笑点』を見て、さすがにあきれて自分のツイッターで下記のようにつぶやいた。多くの共感を呼んだツイート先ほど家のテレビで久しぶりに「笑点」を見ていたら、「安倍晋三です。国民の声を聞かなくてよいとトランプに教えられた」とか、「沖縄の米軍基地はいつなくなるのか」とか、まるで社民党の吐いたセリフのような偏った政治批判が飛び出たことに吃驚した。大好きな笑点だが、そこまで堕ちたのか。石平氏の5月27日のツイート このツイッターは結局、ネット上で大きな反響を呼んだ。数日間のうち、8千人以上の方々からリツイートをいただき、1万5千人以上の方々から「いいね」をいただいた。そして私のツイッターには、この件に関して1100件以上のコメントが寄せられて、その大半は私のつぶやきに賛同する意見であった。 私がツイッターを始めたのは今から4年前だったが、今は37万人以上の方々にフォローしていただいている。正直に言って、私の「ツイッター史」において、これほど大きな反響を呼ぶツイッターを放った経験はめったにない。『笑点』の政治批判ネタに対する私の感想と苦言は、やはり多くの人々の共感を呼んだのである。 もちろん、私のツイッターに対する批判や反発の声も挙がった。お笑いタレントで演出家のラサール石井さんが自らのツイッターで、「時の権力や世相を批判し笑いにするのは庶民のエネルギーだ」「政治批判は人間としての堕落だと言いたいのか」と反論したのはその一例だ。 他にも、ネット上や、私のツイッターに寄せられたコメントの中には「権力を風刺し批判するのは落語の伝統だ」「庶民の気持ちを代弁して権力を批判するのはどこか悪いのか」といった批判があった。その中には、「落語の政治批判を許さないというのは言論統制だ、全体主義だ」と、一物書きである私のことを、まるで権力者に対するかのように厳しく糾弾するネットユーザーまでいた。 しかし、私からすれば、こういった反論と批判のほとんどは、まさに的外れのものである。政治風刺や政治批判を行うのは、確かに落語の良き伝統であろう。しかしそれは決して、観客としての私たちが、落語で行った政治批判を何でもかんでも無批判のままで受け入れなければならない、という意味合いではないのである。 政治風刺も政治批判も良いのだが、それには面白いかどうか、特定の政党や政治的立場に偏っているかどうかがつきまとう。それに対し、われわれ観客の一人一人が、自らの基準と心情に従って論評したり批判したりするのはむしろ当然のことだ。私は自分のツイッターで『笑点』のことを「堕ちた」と酷評したのだが、それも一観客としての私の感想にすぎないし、そして私にも私の感想を吐露する権利はあるのだ。2017年6月、『笑点』メンバーの(後列左から)林家三平、林家たい平、三遊亭小遊三、(前列左から)三遊亭円楽、林家木久扇 要するに、『笑点』には政治を風刺し、批判する自由はあるが、われわれ観客にも『笑点』の政治批判に賛同したり、批判したりする自由があるのである。「『笑点』は庶民の声を代弁して権力批判をしているから、『笑点』を批判してはならない」というような論法は、逆に『笑点』に対する批判を封じ込めて、『笑点』そのものを絶対的な権力にしてしまうのである。これこそ、問題の最大のポイントではないのだろうか。

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    立川談四楼手記、『笑点』はパヨク政権でもからかいます

    で、「『笑点』も墜ちた」ぐらいはまだいいんだ。ロクに番組を観てない人の言い草だからね。ただ「落語家が政治に口を出すな」「落語だけやってりゃいいんだ」にはカチンときた。『笑点』を観てないことについてはいいにしても、落語と落語家の歴史をまるで理解してない輩(やから)のほとんど妄言だからね。「笑点」メンバー(前列左から)司会の春風亭昇太、新メンバーの林家三平、林家たい平(後列左から)三遊亭圓楽、三遊亭好楽、林家木久扇、三遊亭小遊三、山田隆夫=2016年5月 まあ、少人数ならそれも一つの意見だろうとスルーしたけど、名のある人まで言ってるんだ。半面、「落語について無知であります」と表明しちゃってるわけだけど、著名人だけにフォロワーも多く、「いいね」やリツイートする人がかなりいて、一応ちゃんと抗議したということなんですね。  驚いた。私のツイートに対する「いいね」とリツイートが合わせて15000に達したんだ。もちろん「クソリプ(見当外れな返信)」も飛んでくるが、賛同がはるかに凌いで、少し溜飲(りゅういん)を下げる思いがした。私は写真も動画も使わず、140文字のジャストを昼過ぎに3本投稿するのを旨としている。そりゃ過去には3万超えなんていうこともあったけど、1万を超えるツイートはなかなかないんだ。一言で言うと反響が大きかったということです。某紙もそれを取り上げるくらいに。 落語家の政権批判はホント日常なんだ。それが証拠に『笑点』では民主党政権のときもやったし、それは昔からのものなんだ。つまり伝統でね。何しろあの番組は私の師匠の談志が作ったのだから、過激になるのも当然なのさ。 酒で早くに死んでしまったんだが、春風亭梅橋(しゅんぷうていばいきょう)という人はスゴかったね。「酔っぱらい運転はなぜいけないか」の題に梅橋、こう答えたんだ。「轢(ひ)いた時に充実感がないから」。私が高校生の頃だったが、これには引っくり返ったよ。   ある日、なぞかけで「オッパイ」という題が出た。 梅橋「オッパイとかけてヤクザの出入りときます」   「その心は?」 梅橋「すったもんだで大きくなります」ときた。 「パンティ」がお題のときもスゴかった。 「パンティとかけて美空ひばりのおっ母さんとときます」   「その心は?」   「いつも娘にぴったりと張り付いてる」  全編この調子でね。今じゃ完全に炎上案件だよ。視聴率が上がるとスポンサーがうるさくなって、それで談志の降板に至る、という歴史なのさ。だから当時の過激さが少しだけ顔を出したというだけのことなのさ。戦時中の国策落語と禁演落語 戦時中の軍部との戦いにも触れないといけない。落語の本質は「三道楽煩悩(さんどらぼんのう)」の「飲む・打つ・買う」、つまり酒と博奕(ばくち)と女郎(じょうろ)買いなんだ。それをどう描くかで落語家の腕が問われるのだが、戦時中だから、どうしたって不謹慎ということになる。 時代の空気を察した落語家は、いち早く動いた。時局にふさわしくない落語53席を葬ったのだ。これが世に言う「禁演落語」で、これもなぜ53席かで面白い説があるんだ。「東海道五十三次」になぞらえての53席という説と、もう一つは「53(ゴミ)みたいな落語」。つまり、どうでもいいネタを葬って軍部の目を欺いたという説があるんだ。どっちにしろギリギリ反権力をやってるんだね。 しかし「国策落語」にはなす術(すべ)がなかった。なにしろ「お国のために国威発揚(こくいはつよう)の落語を作れ」という命令だから逃げようがないのさ。随分作られ演じられたというが、ほとんど残ってない。終戦直後、いろんな書類が焼かれたというから、ま、そういうことだろうね。落語「出征祝い」を口演する林家三平さん=2016年3月1日、東京都台東区 でも近年、林家三平師が祖父の林家正蔵作と言われる『出征祝い』を演じて話題となった。しかし評判は芳(かんば)しくなかった。慌てて声を大にして言っとくけど、三平師の技量のせいじゃないよ。国威発揚の落語が面白いわけがない、という真理によるものさ。 前述したように、落語の基本は「飲む・打つ・買う」だよ。戦争と相性がいいはずないじゃないか。戦争と落語は180度両極に位置するものだからね。 でね、その最中に志ん生はこう言ったんだ。「国策落語なんて野暮なもの、俺やだよ」。そう言って志ん生は戦時中に円生とともに中国に行ってしまうんだ。興味のある人は調べてみて。面白い話がワンサと出てくるから。 落とし咄(ばなし)をするから咄家(はなしか)と言われてた江戸時代、冒頭のツイートにある通り、わがご先祖は幕府とも戦っていたんだ。スゴいね。「島流し」ってのが。時代劇のお白州(しらす)で発せられる「遠島(えんとう)を申しつくる」ってやつだ。 いや、咄家だけでなく講釈師にもいてね。この人は島抜け、つまり脱走して捕まり、ついには死罪になったという歴史もあるんだ。吉村昭が『島抜け』という題で小説にしてるくらいでね。 どうでしょう。いくらか反権力の歴史がお分かりいただけたでしょうか。あ、今、「共産党が政権を担ったらどうする?」という声がしました。 経緯は省きますが、私は保守論壇の重鎮、西部邁先生にかわいがっていただきまして、あるとき先生が「今、一番まっとうな保守は共産党だ」と言ったのを鮮明に覚えています。それもあって、「共産党政権の誕生も夢ではない」と思う者ですが、約束します。「たとえ共産党と言えども政権を取ったら大いにからかいます」と。 是枝裕和監督の『万引き家族』がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞、安倍さんはメダルや賞が大好きなのにこれを無視、ようやく林芳正文科相が祝意を表明、それを監督が辞退するという日に記す。

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    「お笑いと社会批評の境界」茂木健一郎が考える日本の政治コメディ

    。それが、私たちの課題だ。そのために、「笑い」は大切なきっかけになる。とりわけ、意見が対立しがちな「政治」の分野でこそ、本来、笑いの力が活かせたらと思う。 昨年、私は「日本のお笑い」は「オワコン」だとツイートして、大きく炎上してしまった。その時の経験で、私は、いろいろなことを反省した。最も大きな反省点は、ただ自分の意見を表すだけでは、それは自己満足のようなもので、伝わらないし、世の中においても良い事にはならないというものだった。漫才日本一決定戦「M-1グランプリ2017」開催会見で集まった出場者ら=2017年6月 その苦い経験から、私はネットでの自分の表現の仕方を変えた。何よりも、世間で対立しそうなことに対して、一方の側の意見を書いて満足するというような態度では、何も伝わらないし、変わらないということが身にしみたから、そういう書き方はしなくなった。 結果として、私は意見の表明に対して慎重になり、価値中立的なことか、これは多くの方に知ってほしい、というような情報だけをツイートするようになった。あるいは、他愛もないこと、ほほ笑ましいこと。 ツイッターの書き方を意識的に変えたのは昨年末のことで、以来、ほぼ半年ほど、私のアカウントで「炎上」はないと認識している。このまま、穏やかな時期が続けばよいのだけれども、今後のことは、私の修練と選択にかかっている。英王室風刺にタブーはない 状況も変わるかもしれないし、人ぞれぞれでよい。政治的なことについてストレートに発言を続け、結果として炎上している多くの方々のことは尊敬しているし、応援している。人は、自分が「こっち」と思う方に行くしかないのだ。そのような多様性こそが社会である。  笑いには期待している。意見が分断しがちなネット状況でコメディの精神をうまく使えば、「日本をもみほぐしたい」という願いが叶うかもしれない。しかし、批評的な笑いは難しい。特に、政治的な問題について笑いを適用するのは難しい。 コメディアンの目的は笑いであり、社会批評ではない。社会批評をすることで笑いが起こればそれはすばらしいことだが、社会批評をしても笑いが起こらないとすれば、それはコメディアンの仕事ではない。 以前、英国のBBCで『リトル・ブリテン』というコメディ番組を大ヒットさせたコメディアン、デイヴィッド・ウォリアムスとマット・ルーカスが来日した時、話す機会があった。その時、彼らが言っていたことが忘れられない。英国においては、王室は長年にわたってコメディの対象になってきた。そこには、タブーはなかった。 ただ、目的はあくまでも笑いであって、王室批評自体がゴールなのではない。ここから先は笑えるか、それとも笑えないか。ぎりぎりの境界をコメディアンたちは探っている。 デイヴィッドとマットは、「ダイアナ妃の事故の後しばらく、英国でも王室のことを笑いにするのは難しくなった」と言っていた。ネタにしても、聴衆が笑わなくなったというのである。日本における政治ネタも、それで聴衆が笑えばコメディアンの仕事として成立するのだろうが、笑ってもらえなければ、それは社会批評であってもコメディではない。 もっとも、コメディの「境界」は常にダイナミックに変化するものであって、そのフロンティアを探ってみたいというのが、「コメディ魂」なのであろう。 そんなコメディアンたちを、私は応援したい。日本では、政治的なコメディは難しいと思われがちだが、日本には、批評的コメディのユニークな可能性があるとも思っている。 たとえば、漫才。「漫才」は、批評的スタンスを持ち込むのに適したフォーマットの可能性がある。「ボケ」と「ツッコミ」をうまく呼吸させれば、欧米のスタンダップコメディとは違ったかたちで、日本でも政治的コメディを成立させられるかもしれない。 「ボケ」が過激なことを言い、「ツッコミ」が常識に戻すことでバランスを取る。かつて、ツービートが見事に見せたように、そんなフォーマットならば、難しいと言われがちな地上波テレビでも、放送できる可能性があるのではないか。「ツービート」のビートたけし(左)とビートきよし さらに、「落語」というフォーマットの可能性。落語は、世界の各地での笑いの文化を見渡した上でも、類まれにユニークなかたちをしている。特に、一人の演者が、多数の「登場人物」を演じ分けるという点。長屋で、くまさん、八っつあん、与太郎、ご隠居などの登場人物たちが、それぞれの思惑、個性で動き、全体としておもしろい調和ができる。笑いは脳進化の「智慧」 対立したり、けんかをしたりしても、それらがすべて響き合って、やがて一つの「笑い」となる。そう考えてみると、落語は多様性を許容した「社会的包摂」そのものである。 たとえば、米朝会談を落語にしたと考えてみよう。アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長の意見は対立したり、時には口げんかもするのかもしれないが、その双方を落語の一人の演者が演じることができる。 「おい、そろそろ、放棄したらどうだい」 「そうは言っても、お土産がないとなあ」 「放棄したら、お土産をあげるよ」 「だけど、放棄した後で、お土産はないよ、お前の家を壊すよ、というんじゃ、嫌だよ」 「だいじょうぶ。家は壊さないと、保証するから」 「そうは言っても、君の後ろで、こわそうなやつらが腕組みしているぜ」 ……。 そして二人の「対話」が煮詰まったら、町内の「ご隠居」を登場させることもできる。 「おいおい、いい加減にしなよ、もう、お互いに歩み寄って、決めちまいな」などと。もっとも、現実の米朝会談に「ご隠居」はいないかもしれないが。 落語という「ファンタジー」の方が、人間にとっては温かく、楽しい。笑いは、不安や恐怖に打ち勝ち、不確実なことに挑戦するために脳が進化させてきた「智慧(ちえ)」である。大阪市全24区にちなんだ創作落語「参地直笑祭」をスタートした落語家の桂文枝 すべての動物の中で、複雑な認知プロセスを通して笑うのは人間だけだ。人間は、笑うからこそ、居心地のよい「安全基地」から未知の世界に向かうことができる。人間は笑うからこそ、宇宙にも行くし、人工知能も開発できるのだ。笑いはリスクの存在下でバランスを回復し、適切な選択をとるための最前線の「安全基地」となる。 今日の日本のように、さまざまな不確実性に囲まれつつも、やはり前に進むべき状況でこそ、笑いが必要である。笑いに至る「メタ認知」、つまり客観的に自分たちを見つめる能力こそが、難しい状況での判断力を高める。だからこそ、古来、優れたリーダーはユーモアのセンスがなければと言われてきた。 政治は国全体の進む方向だが、一人ひとりの人生にも、進むべき方向がある。人生の選択に、悩む人も多いだろう。どんな学校に行くべきか。会社を辞めるか、それとももう少しがまんするか。 私は、日本で政治コメディの文化が広まるためには、社会全体のメタ認知を高めなければと思っている。自分の状況を見つめ、不確実な状況下で行くべき道を選択して、よりよい人生を生きる、そんな一人ひとりの積み重ねが必要だと感じている。 日本に政治コメディが広がらない理由を、メディアや、政治家、ましてやコメディアンたちのせいにしても仕方がない。(かつて、私が誤解を与える発言をしたことについては、改めてお詫びいたします) 「日本をもみほぐす」ためには、まずは、「自分をもみほぐす」ことが必要なのだ。

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    「放言連発」「上から目線」でも麻生大臣はなぜ逃げ切れたのか

    ある。 対になっているということは「君子豹変」と「小人革面」は好対照を成すということだろう。ある人は政治家の「君子豹変」と官僚の「小人革面」のせめぎあいの歴史が繰り返されていると捉えたりするだろうが、同じ人物に両面を見ることも時にはあるものだ。 学校法人「森友学園」(大阪市)との国有地取引に関する決裁文書の改ざんが発覚してから3カ月近くたった。財務省は6月4日になって、ようやく調査報告書を発表した。 麻生太郎副総理兼財務相は大臣談話として「決裁を経た行政文書を改ざんし、それを国会などに提出するようなことは、あってはならないことであり、誠に遺憾である」「応接録についても、国会などとの関係で極めて不適切な取り扱いがなされていたものと認められる」と謝罪し、閣僚給与12カ月分の自主返納を表明した。結局、財務省では関係者20人に及ぶ処分者を出した。 この3カ月、国民は嫌というほど、森友問題に関する麻生氏の国会答弁や記者会見を聞かされてきた。テレビ朝日の女性記者へのセクハラ問題で、福田淳一前財務次官の更迭に伴うコメントにしてもそうだ。まさに、部下を一瞬にして悪者扱いする「君子豹変」と、自分は悪くないという姿勢を貫き通す「小人革面」の「麻生劇場」が繰り広げられたのである。 2018年2月13日、麻生氏は衆院予算委員会で、佐川宣寿(のぶひさ)国税庁長官(当時)を「国税庁長官としては適任だと判断したもので、事実、国税庁長官としての職務を適切に行っている」と持ち上げた。3月に朝日新聞が決裁文書書き換えの可能性について報じても、参院予算委で「答えることが捜査にどのような影響を与えるか予見し難い。答弁は差し控える」と突っぱねた。2017年2月、衆院財務金融委で答弁する財務省の佐川宣寿理財局長。左は安倍首相、右は麻生財務相=国会 3月9日、佐川氏の辞意表明後の会見でも、麻生氏は「彼が途中で辞めるということになったことに関しては、少々残念な気がする」と、佐川氏が適任であったという認識を変えなかった。それどころか、質問した記者の所属社をわざと「なんとか新聞」と述べ、当てこする始末だった。 それが一転、文書書き換えを認めた3月12日の記者会見で、麻生氏は「極めてゆゆしきことなのであって、誠に遺憾。私としても深くお詫びを申し上げる次第です」とようやく「お詫び」を口にした。それでも頭を下げるようなことはせず、「行政の長として深くお詫び申し上げる」と頭を下げた安倍晋三首相とは対照的に、麻生氏の「傲岸(ごうがん)不遜」を印象付けた。パーソナリティ、三つの特徴 確かに、麻生氏は佐川氏を「職務を適切に行っている」と持ち上げてはいたものの、行政文書の書き換えを認める会見では「佐川の答弁に合わせて、書き換えたというのが事実だと思っています」と文書書き換えが理財局長当時の佐川氏の答弁に合わせて行われた認識を示した。 さらに、「最終責任者が理財局の局長である佐川になると思う」と、理財局トップだった佐川氏に責任があると、「佐川」と呼び捨てにして言ってのけたのである。ただし、「私としては財務省全体の組織が問題とは考えていない」と、財務省全体への責任を否定するのを忘れなかった。 3月16日の参院予算委では、答弁中のヤジに業を煮やし、答えるのをやめて「やかましいなあ。聞きたい? じゃあ静かにしていただけますか」といらだちをあらわにするなど、相変わらず挑発的な姿勢を見せた。 こうして麻生氏は「悪いのは佐川と理財局」という「君子豹変」ぶりを見せ、最終的に佐川氏が主導して理財局が決裁文書の改ざんを行ったという報告書がまとめられたのである。 その財務省本体が、事務次官のセクハラ問題でも揺れた。発端は、女性記者に対する福田氏の「セクハラ発言」を『週刊新潮』が報じたことだが、財務次官の発言としては耳を疑うような内容が並ぶ記事は世間に衝撃を与えた。そのうえ、翌日には記事の元になった音源の一部も公開された。 だが、財務省のヒアリングに対して福田氏はこれを否定した。財務省は、事実関係を明らかにするために、財務省側の弁護士にセクハラ被害を申し出るよう求めた。 4月17日、麻生氏は音源について「俺聞いて、福田だなと感じましたよ。俺はね」と答える一方で、財務省側の弁護士にセクハラ被害を申し出るよう求めた件については「こちら側も言われてる人の立場を考えてやらないかんのですよ。福田の人権はなしってわけですか?」と、一方的に福田氏の側に立った上から目線の発言に終始した。財務省の外観・看板=2018年3月(桐原正道撮影) しかし翌日、事態は急展開する。麻生氏は記者団に対し、福田氏から辞任の申し出があり、認めたと発表した。この間、麻生氏からは「(福田氏が)はめられたという見方もある」「セクハラ罪はない」などいった発言も飛び出している。 この3カ月で、他の政治家には見られない麻生氏のパーソナリティーが遺憾なく発揮されたわけだが、それには三つの特徴がある。 一つ目は、マキャベリの『君主論』よろしく、自らの責任に累が及ばないように、「適材適所」と認めていた部下でもサッと切って捨てる冷酷さだ。「上から目線のお殿様」と揶揄(やゆ)されることもあるが、企業でもお人よしでは組織のトップは務まらない。麻生氏はそれを分かりやすい形で体現しているともいえる。安倍3選失敗で「君子豹変」? 二つ目は、マスコミに対して、ことさら挑発的な姿勢を見せることだ。「なんとか新聞」発言はその際たるものだろう。麻生氏は、米国を除く11カ国の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP11)が署名されたときにも、TPP11のことは一行も書かないで森友問題ばかり報道していたと、「日本の新聞のレベルが低い」と批判してみたりする。マスコミに遠慮して批判を控える政治家が多い中で、ここまでマスコミと事を構える政治家は、一部の有権者にはカタルシスにつながるだろう。 三つ目は、歯に衣(きぬ)着せぬモノ言いで「自分は悪くない」という「小人革面」を変えないが、「麻生さんだから仕方ないな」と思わせるレベルを自らコントロールしたことだ。「それを言ったらおしまいだろう」というグレーゾーンの発言に対して、野党は怒って麻生氏を批判するが、それで終わらせてしまうのである。 あれだけ好き放題に発言して、麻生氏への辞任要求が野党から出ても、辞めずに「逃げ切った」背景には、キレて冷静さを失ったように見せかけた絶妙のコントロールがあったのである。 企業社会に生きる人たちの中で、麻生氏の型破りな言動に快哉(かいさい)を叫びたくなる人も少なからずいるのかもしれない。だからこそ、麻生氏はプロレスのマイクパフォーマンスよろしく、野党やマスコミを挑発して、「俺にかかってこい」と言わんばかりの態度を貫きながら、辞任を逃れたのだろう。 もっとも、麻生氏が辞任してしまっては、さまざまな批判が安倍首相に集中してしまう。麻生氏に報道がフォーカスされるということは、世論の関心が麻生氏に向くので政権の「防波堤」になる、という見方もある。確かに、麻生氏は「絵になる」ので、麻生氏がマスコミにかみつくと、安倍首相や財務省もかすみがちになる部分はある。 ここまで来たら「死なばもろとも」、麻生氏は安倍首相と一蓮托生(いちれんたくしょう)で進んでいくしかあるまい。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界では、9月の自民党総裁選もにらんだ動きが既に繰り広げられている。 自民党の中にも、追及する野党やマスコミに迎合するかのように、安倍批判のトーンを上げる政治家もいる。とはいえ、彼らは「あわよくば」という魂胆がミエミエで、ひんしゅくも買っている。2018年3月、参院予算委で安倍晋三首相(左)と話す麻生太郎副総理兼財務相(斎藤良雄撮影) では、麻生氏は「安倍3選」が果たせなかったときに「君子豹変」してしまうのだろうか。一連の不祥事でも「上から目線」発言を貫いたことを考えれば、「やっぱり安倍には問題あったからね」と切って捨てるように、私には思える。 誰が次の自民党総裁に選ばれても、政治家のパフォーマンスに踊らされ、重要な法案の審議も含め、政治の本質がますます見えにくくなっていく悲劇を繰り返してはいけない。

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    松井一郎手記「安倍総理は敵じゃない」

    大阪市を廃止して特別区に再編する「大阪都構想」をめぐり、逆風に立つ大阪府の松井一郎知事がiRONNAに手記を寄せた。今秋の住民投票実施は見送られたが、一度は否決された構想への抵抗感は強く議論は紛糾。安倍首相の発言も重なり、構想の先行きは不透明だ。渦中の松井氏は今、何を思う。

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    松井一郎手記「安倍総理は本心をごまかしている」

    松井一郎(大阪府知事) 政治行政に100点満点はありえない。政治家が目指すのは、現状よりはマシになるか否かだ。大阪都構想は大阪府と大阪市の二重行政をなくすための役所制度の見直しであり、大阪都構想によって、すべての住民が100%満足する行政を提供できるものではない。 そもそも、行政サービスの原資は国民の税金であり、税収の範囲で成り立つサービスを立案し実施するのが行政の基本だ。だが、現在の日本の社会構造では、少子高齢化などで多様化する行政ニーズは税収の範囲を大幅に上回る。 このような、行財政運営は将来世代にツケを回し、いずれかは我々の子孫がそのツケを清算することになるのは明らかで、次世代から無責任の誹(そし)りを受けることになる。 将来世代にツケを回すことなく増大する行政ニーズを受けた行政サービスを維持する方法を考えると、その手段といえば増税をするか行政経費を圧縮するしかないが、安易な増税は住民生活を直撃することになりかねない。 ならば、まずは「行政経費圧縮から取り組むべき」が我々維新の会の考えだ。この10年、我々は公務員の意識改革、行政の効率化による経費圧縮に徹底的に取り組んできた。 そして大阪において最大の行政の無駄といえば、都市の成長を阻害してきた大阪府と大阪市の二重行政だ。大阪府と大阪市の対立の歴史は古く、1940年代にさかのぼる。当時大阪府から大都市が独立する特別市制度を大阪市は進めていたが、これに大反対したのが大阪府であり、大阪市の独立は大阪府によって阻止されたのだ。 その後、1950年代に大都市に都道府県権限を付与する政令市制度が施行され、大阪市は念願の大阪府からの独立を果たした。このときから大阪市域の行政は大阪市が、大阪市域以外の広域行政を大阪府が担う「二元二重行政」がスタートした。  1950年代から70年代までは、戦後の復興と高度経済成長好景気の影響もあり、大阪市域と市域以外の行政需要にそれぞれが没頭するという、広域行政の役割分担が比較的上手く機能していた時代であった。しかし、これは大阪府と大阪市の政策施策を分断する壁を決定的なものにした時期でもある。日本維新の会の党大会で、あいさつする代表の松井一郎大阪府知事=2017年3月、東京都内のホテル 結果、狭い大阪エリアに大阪府と大阪市が、それぞれバラバラに成長戦略を打ち出すことになり、都市機能強化のためのインフラ整備も停滞、挙句にお互いのメンツやプライドによる高層ビル建設といった公共工事に走り、両者が失敗した。これで莫大な府民市民の税金が無駄になり、大阪の経済を低迷させ、いわゆる、府と市を合わせて「不幸せ」と揶揄(やゆ)されるきっかけになった。 この大阪府と大阪市の不幸な関係を解消すべきということは、大阪の政治家なら誰もが公約したことであり、歴代の知事、市長も解決のための話し合いを実施してきた。太田房江知事と磯村隆文市長の時代には、新たな大都市制度協議会なるテーブルも設置されたが、お互いの主張は平行線のまま全く交わらず、最後は相手を批判して終了となった。 そもそも大阪府と大阪市はあわせて10万人以上の職員を有する巨大な組織で、双方に何十何百という部局課があり、そこで働いている職員は自分たちの仕事に自信を持っている。公僕として公に奉仕してきた矜持(きょうじ)があり、職員が自主的にそれぞれの仕事を仕分けするのは自己否定となりまとまるわけがない。大阪に二重行政はない 職員から見れば二重行政だろうが三重行政だろうが、それぞれはがんばっているのだからいいでしょうと考えるのは当然かもしれない。だからこそ、政治家が大都市大阪の広域行政と基礎自治機能の最適化の方向性を示し実行しなければならない。 ゆえに、私が知事に就任してから6年半、今の大阪に府市の対立、「不幸せ」と揶揄される二重行政はない。2011年の大阪府知事選と大阪市長選のW選挙で橋下徹氏が市長、私が知事になり、まず府市の行政を一体で進めるための行政組織「府市統合本部」を立ち上げたからだ。 そして、知事が本部長、市長が副本部長に就任して府市の担当部局で合意できない場合は、両者が協議して本部長である知事が最終的に意思決定するというルールを定めた。 もちろん、私と橋下市長が目指す大阪の将来像に違いはなかったので、広域行政一体化は一致しているが、これまでそれぞれで実施してきた行政施策を現実に一体で実施するとなると、担当部局同士では具体的な予算の配分や人員配置で折り合わないことは頻繁にあった。 例えば、広域インフラである高速道路や鉄道、JR大阪駅前の再開発「うめきた二期」においては府市で一緒に整備する方向は私と橋下市長で確認していた。だが、うめきた二期開発の公園整備の財源負担となると、大阪府財政当局は大阪市が維持管理する公園に大阪府が財政負担する理屈がないと主張した。「うめきた2期」再開発地区(手前)=大阪市北区 さらに、大阪市を中心に放射線状の鉄道ネットワークを横につなぐ大阪モノレールの延伸については、その大部分が大阪市以外に路線建設されるので、大阪市が財源負担に難色を示すといった具合である。 このような場合は、知事、市長がそれぞれの事務方の言い分を聞いて話し合い、最終的に府市統合本部会議で意思決定する。うめきた二期開発公園事業と大阪モノレール延伸の財政負担は1対1とすることとしたが、これで事業の段取りが全て整ったわけではない。府市統合本部の意思決定はあくまで大阪府と大阪市の幹部の意思決定であり、最終的にそれぞれの議会の議決が組織の意思決定となる。 一方で、この6年半の間に、行政組織が合意しても議会の同意に長時間を要したり、同じ政党なのに府議会と市議会で意見が異なり暗礁に乗り上げている案件もある。 政府が進めていた国立大学の法人統合の議論もその一例だ。少子化によって大学生人口が減少するため、今後定員割れする大学が多数にのぼることが予想される。だが、言うまでもなく、大学はイノベーションの拠点であり、生み出された成果が経済成長に直結する。 だからこそ税金を投入して維持する値打ちがあるのだが、学生が減少し経営が逼迫(ひっぱく)すれば新しい研究もままならず、税金投入の価値はなくなる。これは国立や公立だけでなく、私学でも同様であり、大阪府と大阪市の府立大と市立大も例外ではない。府立大と市立大の運営負担金は年間百億円規模にのぼるが、世界の大学と競争できる環境とは言えない。 そこで、府立大と市立大を統合し公立大学として学生数最大規模、関西で唯一の獣医学部と医学部を有する希少価値の高い大学を目指すことにした。この再編は、2011年から議論をスタートし、18年4月から府立大と市立大の経営法人が統合することとなったが、この法人統合も同じ政党が府議会と市議会で考えが一致せず、長時間を要した。 府議会では17年9月議会で維新、公明、自民が賛成、民進(当時)と共産が反対したが、賛成多数で可決した。一方、大阪市議会は半年遅れの18年2月議会で可決成立したが、維新と公明が賛成、自民と共産は反対した。 この議決の会派の態度に象徴されるのが、大阪の自民の考えは府議会と市議会でバラバラだということだ。自民大阪府連合会という同じ組織に所属しながら、府議会と大阪市議会は意見をまとめられなかったのだ。都構想反対は安倍首相の真意ではない 大阪都構想は、行政制度と成長を担う広域行政組織と住民身近な基礎自治行政の役割を分担すると同時に議会の役割分担でもある。議会の役割も広域と基礎で役割分担することで府議会と市議会のねじれも解消でき、議会の対立による成長施策の停滞を防ぐことができる。 現在は、私と大阪市の吉村洋文市長が同じ方向を向き、府庁と市役所が協議決定できる「副首都推進本部会議」があるので、役所の意思決定がねじれることはないしスピード感を持って進めることが可能な状態だ。 ただ、これはあくまで人間関係による脆弱(ぜいじゃく)なもので、人が変われば元の二重行政「不幸せ」と揶揄された大阪府と大阪市に逆戻りする。過去の大阪に戻さない、議会のねじれによる停滞も解消する、これを制度として確立させるのが大阪都構想である。 大阪都構想は、言うまでもなく、地方制度の一大転換だ。ゆえに、大阪の自民党のように私たちのやり方に反発する勢力があるのも当然だろう。 本来、大阪都構想に前向きだった安倍晋三首相が、4月に行われた自民党大阪府連の臨時党員大会に出席し、「大阪都構想については、大阪自民党の考えを尊重する」と発言した。これで、大阪自民党のみなさんは拍手喝采、大いに盛り上がっているようだ。 ただ、首相が地方の支部大会に出席すること自体が異例であり、安倍首相が都構想に対する自身の考えをごまかさなければならないほど、取り巻く状況が厳しいことは容易に想像できる。党首討論に臨む安倍晋三首相(右)。左は立憲民主党・枝野幸男代表=2018年5月、国会(春名中撮影) 歴史を顧みれば、明治維新のとき、武士の身分がなくなるとなれば、刀や鉄砲を交える殺し合いとなった。現代に置き換えれば、選挙や住民投票がまさに戦(いくさ)だ。 大阪都構想は議会で決めるものではなく、究極の民主主義である住民投票が決戦の場となる。大阪が二重行政で府と市を併せて「不幸せ」と揶揄されることが今後なくなるよう、私の任期中に二度目の住民投票に臨み、勝利したい。

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    「橋下徹のしょぼい提案」をスケールのでかい構想に変える秘策がある

    たように「商いの街」として発展してきた。「阪僑」とジャーナリストの大宅壮一が名付けたように、大阪人は政治よりも商いの中心であることに強い誇りがある。2012年12月、「難波京」跡で発掘された貴族の邸宅か役所とみられる大型建物群跡=大阪市天王寺区(柿平博文撮影) 一方、大阪の近隣には、1000年以上首都の座にあった京都が存在する。京都には「天皇陛下は東京に旅行に行っているだけ」と言い、現在でも京都が日本の首都だと言い張る人がかなりいる。 だが、京都は「府」である。大阪都ができてしまうと、行政区分上はともかく、日本の歴史、文化、伝統的には非常に違和感がある、京都と大阪の「奇妙な逆転現象」が起こってしまう。そのためか、京都では維新の会の支持率が極端に低く、「大阪都構想」は話題にすることすらはばかられる状況にある。 京都以外でも、全国的に大阪都構想は支持を得られていないだろう。もちろん、二重行政の解消や、地方分権の推進という観点から、一定の理解はある。かつては橋下氏の個人的人気から応援する人も多くいた。しかし、橋下氏が政治の表舞台から去っている今、「何で大阪が勝手に都になろうというんだ」と違和感を持つ人が多いのである。「二重行政の弊害」の実態 次に、大阪都構想の目的である「大阪府・市の二重行政の弊害」「既得権者の問題」を考える。端的に言えば、やはりこれらは深刻な問題だとは思う。二重行政の弊害の代表的なものは、大阪府と市が別々に行っている水道事業であろう。 府と市はともに琵琶湖から大阪湾に流れ込む淀川に浄水場を置き、大阪府は府内の市町村へ、大阪市では市内に飲み水を供給してきた。その水道事業を府・市で統合すればコストも安く済み、大阪府民に安価な水を供給できる。だが、いまだに手つかずである。 また、2015年5月の住民投票のときには、大阪府と大阪市の二重行政は134事業あった。例えば、中央卸売市場、信用保証協会、道路公社、病院、大学、体育館、近代美術館などで非効率性が指摘された。その後、このうち、府立大と市立大など一部の統合が決定したが、多くは積み残されたままだ。 さらに言えば、大阪府が関西国際空港の対岸に256メートルの超高層ビル「りんくうゲートタワービル」を建設したら、大阪市も負けじと、「大阪ワールドトレードセンタービル」(現大阪市咲洲庁舎)という同じ高さ256メートルのビルを建設した。結局、どちらとも経営破綻したことも、二重行政の悪例に挙げられるだろう。 一方、前回の住民投票の前に、関西圏の学者106人が、大阪都構想反対の論陣を張った。「地方分権からの逆行」「大阪市民の生活サービスの低下」「財源の使い道を大阪市民が決められない」「権限と財源の縮小」「住民間での負担増や歳出減の押し付け合い」など、さまざまな学問領域からの専門的な反対論の数々は、なるほど傾聴に値する説得力があった。 ただし、読んでいて気になることもあった。学者たちの主張は、概して「現状を変えることの問題」を指摘していた。だが、大阪府・市が抱えている「二重行政」のさまざまな問題については、ほとんど言及がない。 辛うじて、大阪府立体育館は大相撲春場所といったトップレベルのイベントを開催し、大阪市立体育館は市民に密着したサービスを行っているという「役割分担論」に触れている程度だ。その他については全く反論になっていないのである。2018年3月、連日の満員御礼にわく大相撲春場所が行われるエディオンアリーナ大阪(林俊志撮影) 反対派は「今の制度でも二重行政は解消されており、大阪市を廃止する必要はない」と主張していた。大阪府と大阪市の間に「調整会議」が設置されており、その場で話し合いをすれば二重行政は解消できるという。 だが、実際には、前回の住民投票で都構想が否決された後、反対派の会派を中心に調整会議が開催されたものの、各会派が主張を繰り返すだけの場となってしまった。結局、事実上破綻していたと批判されている。橋下市長「独裁」などかわいいもの また、反対派の中には、政治学的な観点から反対論を展開した学者もいる。要するに、それらは当時の橋下市長の「独裁的」「反民主主義的」な政治手法に批判を集中させていたといえる。ただ、筆者が政治学者としての立場から言えば、橋下氏だけを一方的に批判するのは、いささかフェアではないように思う。 それならば、大阪市の交通局、水道局、環境局のような現業部門の職員が非常に巨大な政治力を持つようになっていることも、同時に検証すべきだったのではないか。バスの運転手や、ごみ収集の職員など現業部門が、市長選などで一定の影響を与え、市長、市議といえども現業職員に容易に逆らえない雰囲気があると言われている。これは、学者として見過ごしてはいけない現象だ。 また、橋下氏が住民投票前日の演説で「僕は税金の使い方をとことんやってきた。誰かのポケットに入っていないか。7年半やってきた。職員の給与、組合からアホ、ボケ、カスと言われ、医師会、薬剤師会…」と、公然と名指しした既得権者の問題がある。よくも悪くも真正面から闘ってきた橋下氏は退陣したが、今後、既得権者の問題にどう対処すべきか。政治学者ならば、ぜひ意見表明してほしかったものだ。 正直に言って、橋下市長の「独裁」などかわいいものだったのではないか。住民投票で市民に「NO」と審判を下されたら、それで政治家を辞めるという程度の、あっけないものだからだ。学者として、大騒ぎして批判するほどの価値もなかった。 それよりも、極めて根が深く、複雑で、実態をつかむのが困難な大阪市の「既得権の闇」の問題こそ、政治学者が逃げることなく、正面から追及すべき問題ではないか。これこそが、政治学者としての矜持(きょうじ)だったはずだと、筆者は考える。 このように、大阪府・大阪市の二重行政の弊害解消と既得権の問題は、たとえ都構想がもう一度否決されたとしても、なかったことにはできない非常に重要な問題だ。だが、残念なのは、大阪人にも大阪の外にいる人たちにも、「都構想」をめぐる論争が、どうしても大阪府・大阪市の権限や予算の奪い合いという些末な縄張り争いに見えてしまうことだろう。2018年4月、IRイベントで基調講演を行う橋下徹前大阪市長(前川純一郎撮影) それにわざわざ「都構想」という仰々しい名称を付けているだけという印象なのだ。それでも、橋下氏というカリスマが先頭に立って指揮を執っていた時は、なんとなく様にはなっていた。だが、今や橋下氏は政界引退状態だ。都構想は「化けの皮が剝がされたしょぼい提案」とみなされている。 維新の会が現状を打開したければ、府・市のさまつな縄張り争いという悪いイメージの払拭(ふっしょく)が必要だ。まず、前述の通り「大阪都」というネーミングが悪い。 「行政区分が一つ上がるから都にします」では、いかにも「お役人が考えました」で魅力がない。「グレーター・ロンドン」のようなカタカナでもいい。これから述べるような構想に合致する、魅力的なネーミングを考える必要がある。「商いの街」をリスペクトせよ 次に、「大阪は商いの街」という歴史をリスペクトすることだ。例えば、世界第3位の経済大国である日本で、国際金融市場の機能を持つのが東京市場だけとは寂しすぎる。大阪市場を、東京と同規模に拡張し、シンガポール、香港、上海などとともに、アジアの国際金融市場の中核の一つになることを目指すべきだ。 東京都の小池百合子知事は、アジアの金融ハブを目指す「国際金融都市構想」を軸とする「スマートシティー」を公約に掲げている。日本が国際経済・金融界で確固たる地位を占めるには、東京と大阪がバラバラに動いてはいけない。連携して二大メガシティーが持つ巨大なリソースを有効に使う必要がある。 次に、アジアの国際金融市場の中核の一つが大阪に誕生すれば、従来の中央集権を超えた大胆な発想で、大阪を中心とする「新しい経済圏」構築を目指してはどうだろう。それは、東京を見て商売をするのではなく、大阪とアジア各地に広がる「華人社会」を直接ネットワーク化することである。 中国といえば、われわれは中国共産党だけをイメージしがちだが、実際には華人社会は、台湾、香港からシンガポール、マレーシア、タイなどの東南アジアに広がっている。また、その経済活動は、前述のように欧米の植民地だった時代からの歴史があり、現在でもHSBCやスタンダード・チャータード銀行を通じて欧米と深いつながりがある。華人は、決して共産主義ではなく、日本人と同じ自由民主主義、市場主義の価値観を共有できる存在なのである。 一方、国内に目を向ければ、大阪府・市から少し視野を広げれば、大阪府・京都府の間にある「京阪バレー」がある。それは、ローム、村田製作所、日東電工、日本電産、キーエンス、任天堂、京セラなど、世界でオンリーワンの技術力を誇り、グル―バルな経営展開を誇る優良企業が集積する地帯である。 この地域に、香港やシンガポールなどの優秀な若手経営者の投資を呼び込んではどうか。要するに、「阪僑」が「華僑」とつながって、日本が誇るハイテクノロジーを世界に打ち出していくのである。少なくとも、成長戦略の核であるはずの外資の導入は、中央政府がいくら旗を振っても進まない。だったら、地方主導で行うべきなのかもしれないのだ。 日中関係の改善には、中央政府間の関係だけでは不十分である。台湾、香港、シンガポール、マレーシア、タイなどの華人社会とのコネクションに働きかけることが重要だ。それには、お堅い中央省庁や大企業の東京本社の重役よりも、「なにわの商売人」が出ていくほうが、話が進むのではないだろうか。五代友厚の銅像が立つ大阪取引所 繰り返しだが、大阪都構想の制度設計は法定協で決定される。だが、それは大阪府・市の権限争いというさまつなものにしか見えない。大阪人は「都」と名乗ることに魅力を感じない。維新の会が、大阪人の心をとらえて大阪都構想を実現したいならば、都構想の先にあるものを考えるべきだ。 国の統治機構改革、中央-地方関係の再構築、アジアの中核の一つとなる国際金融市場の創設、「阪僑」と日本のハイテク企業がアジアでダイナミックに活動する。このような大阪人が夢を持てるスケールの大きな構想を打ち出してこそ、大阪都構想への理解も集まるはずである。

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    大阪が副首都になれば、日本はこんなにも変わる

    ど意味しない。「後退した」「終わった」の空気が流れ定着していく。「自然消滅が一番よい」との見方をする政治勢力もあるようだが、では大阪の問題はこれまでと大きく変わったのかと聞きたい。いや、根本は何も変わっていない。個別事業の民営化や事業統合は進みつつあるが根本問題は解けていない。弁護士の橋下徹氏=2017年7月12日午前、東京・赤坂(宮川浩和撮影) というのも、大阪の司令塔を一本化し、大阪をより強くすることで日本を二極構造に変えようという大儀は、強まることはあっても弱まる状況にはないからだ。「東京一極集中」が諸悪の根源、国家の危機管理上大きな問題だとみな口では言うが、じゃあどうすればそれを解決できるかという話になると、誰も具体論を提示できない。その突破口をつくろうというのが大阪都構想のはずである。 連日報道されるモリカケ問題も自衛隊の日報隠しも、日本官僚機構が肥大化し過ぎ、官僚のムラ社会を政治がコントロールできない、ガバナンス(舵取り)なき国家状況と深く関わっている。官僚の情報操作、情報隠蔽などやりたい放題の堕落した日本官僚制を正す―それは証人喚問すれば済むという話ではない。 国民(納税者)から遠い政府(国)に全てを委ねる仕組み、中央集権体制の中で起きている官僚機構の体たらくであることをまず知るべきだ。経営の組織管理上、常にスパン・オブ・コントロール(統制範囲の適正規模)が常に問題視されるように、肥大化し、縦割りしすぎた組織は必ず朽ちる。それをどう正すかが問題の本質にある。 ここ5年余の安倍政権の経済優先、アベノミクスの中で、大きく抜け落ちているのが統治の仕組みを総点検する視点がないことだ。国民の多くは、増税は議論するがワイズスペンディング(賢い支出)の話がない。 幾重にも重なる本省と出先、本省内の縦割り組織が、いかにカネ食い虫で非効率かをなぜ議論しないのか疑問に思っている。他人のカネを他人のために使う。だが、それが他人事のようなカネの使い方になっている。そこが問題なのだ。「大阪大改革構想」 今、賢い政府に変えるための地方分権の推進も、官民の役割見直しも、事務事業の民営化も、道州制移行など新たな統治の仕組みの議論も、みなどこかへ消えている。これが今の政治状況だが、間隙(かんげき)を縫うように政治家と官僚が融合し、国と地方の役割があいまいな中央集権体制の元でぬくぬくと国家官僚が跋扈(ばっこ)している。 大きくなり過ぎ、動きの鈍くなった会社を蘇らせる手法は、事業部制や分社化など組織規模の適正化を図るところから再構築が始まる。働いている社員が元気になるのも「仕事と成果の見える化」があってからこそだ。誰が決め、誰が責任を負っているのか、どうせ誰かやるだろう、こんなことをしてもばれない、といった組織風土の蔓延が組織を堕落させる。 こうした問題認識からいうと、国の官僚機構を立て直すには日本官僚制の組織規模の適正化を図るしかない。東京一極集中は意思決定の一極集中を指すが、それを変えるには大阪に副首都を形成し、首都機能の3分の1ぐらいを大阪副首都に移す。なおかつ内政の決定権の多くは国民の身近な政府に移し、分権国家化の切り札とされる「地方主権型道州制」へ移行することではないか。 それが国民を元気にし、地方創生が実を結ぶ最短の道である。身近な自治体である州政府を内政の拠点に据えれば、税金の集め方も使い方も情報の管理も透明性が高まる。ましてや、陳情請願を繰り返す「意味不明の忖度政治」も消える。 それを実現するのが大阪都構想の最大の目的である。今、大阪の副首都化を目指し、さまざまな都市づくりの試みが始まっている。「2025大阪万博」も大阪IR(カジノを含む統合型リゾート)構想もリニア早期敷設も、その一環と見てよい。 そこで、それにふさわしい統治の仕組み、つまり司令塔一本化によるオール大阪づくりと中心部の基礎自治充実を目指す特別区移行の「大阪都構想」は一体の改革テーマだ。この2つを総称するなら「大阪大改革構想」と呼んでもよい。   本来、これは一地方に委ねるテーマではなく、国を挙げて実現すべき改革である。これが実現していくことで、東京一極集中は大きく抑制され、日本経済も発展するのは明白だ。 誤解があるようだが、大阪都構想は何も「橋下構想」でもなければ、270万都市大阪を4つに分割する分割統治の話でもない。1956(昭和31)年の政令市制度ができて以降、狭い府域で大阪市と大阪府の二元行政、二重行政によるエネルギーの消耗、意思決定の不統一によって関西全体が地盤沈下してきた経緯を忘れてはならない。 その衰退を食い止める切り札、司令塔一本化構想が大阪都構想である。歴代の府知事、大阪市長が「府市合わせ(不幸せ)」状況に終止符を打とうともがいてきたが、誰もできなかった。そこに終止符を打とうというのが、維新政治を誕生させた市民の問題意識であったはずだ。 大阪都構想は単なる府政、市政改革ではなく、大阪の意思決定の仕組みを変える改革である。いま「区」という呼称の下、特別区と総合区が並行して議論の俎上に載っているが両者は似て非なるモノ、全く意味が違う。「区」という呼称に惑わされるべきではない。 聞いていると、総合区と特別区のどちらが安上がりかといった金目の話ばかりしているが、本筋はそこではない。数年前の法改正で制度化された総合区は、60年以上経つ政令市の内部出張所の行政区を拡大充実させようという策に過ぎない。それは中規模市に相当する自治権のある特別区をつくることとは全く違う(図参照)。 特別区は自己決定・自己責任・自己負担の原則で地域の政治行政を運営する地方自治体のことだが、総合区は大阪政令市の中を行政便宜上幾つかに分けて管理しようという拡大行政区に過ぎない。実はカネがかかる割にメリットは少ない。大阪市以外の19政令市のどこも総合区を使う動きがないのは、そのためである。大阪百年の大計 戦後、大都市を強くする特別市制度の実現をもくろみながら、実現不可能とみて昭和31年に妥協の産物として誕生したのが政令市制度である。日本が高度成長に入り、中心となる大都市を伸ばしていくために、市に府県の広域権限を移管して始まった制度だが、その頃、大阪府全体はまだ未開発地域が多く、大阪市が突出して大都市の様相を呈していた。 しかし、それから60年余を経て大阪は大きく変貌した。政令市も20まで増えたが、香川県に次いで狭い府域の大阪府は大阪市以外の地域も大都市化が進み、大都市区域は連担し、大阪市だけを分けて大都市行政を展開する意義は薄れている。 逆に、府と市による二重行政が顕在化し、知事、市長の二頭立てから生まれる二元行政の弊害が顕著になり、益より害が大きくなってしまった。大阪にとって今や政令市は「古い制度」と化している。 これを残したまま、内部を拡大行政区の「総合区」という形にしてどれだけ効果があるか疑問である。そうではなく、広域権限は大阪府(都)に移管集中し、身近な基礎行政は各特別区の公選区長、議会に委ねた方が充実すると考える。諸外国もその例が多い。 もとより、東京に現存する23特別区制度は十分ではない。都から特別区への権限移譲、財源移譲が不十分で特別区の自治権が弱い。ただ、それを大幅に改善したのが大阪都構想である点は銘記されたい。 30~50万規模の自治権の強い中核市並みの特別区が構想されており、権限移譲、財源移譲は現行法制でみる限り、東京の都区制度よりはるかに進化している。「大阪モデル」と称してもよく、東京の23特別区会長は「大阪でこれが実現したら、東京に逆輸入したいぐらいだ」とも述べている。 前回の住民投票の時より制度設計は精緻化し完成度は高い。あとは住民への理解が深まるよう、説明する努力と時間をかけることだ。大阪都構想を単に特別区移行への行革だという矮小(わいしょう)化した議論ではなく、今回は第2首都にふさわしい「大阪副首都」構想とセットで統治機構改革をやる覚悟を示すべきである。大阪府の松井一郎知事=2018年1月4日、大阪府庁(永田直也撮影) そうすれば副首都にふさわしい大阪ができ、若い人たちも夢をもって暮らせるもう1つの大都市が大阪に生まれる。大阪都構想は大阪、関西から日本を発展させようという大都市政策である点も見落としてはならない。 改革を成就させるには橋下氏のような強いリーダーが必要だ。だが、リーダーに頼るだけでは絶対にうまくいかない。志を同じくするリーダーたちが結集し、270万市民に十分説明して熟議し、制度の意義を十分理解させた上で住民投票に持ち込む必要がある。これは大阪百年の大計とも言える。今回の選択は、目先の利害を超えた「国づくり」の選択であることを理解しなければならない。

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    「羽生結弦に国民栄誉賞」舛添要一が素直に喜べない理由

    た、そのときの「空気」、世論の動向に左右される危険性が大きい。それだけに、時の政権によって人気取りの政治的目的に使われるのではないかという疑問が呈されることになる。 例えば、生存中か死後か、また、現役か引退後かでも大きく変わる。歌手の美空ひばりのように、生きているときに贈るべきだったという批判もあるし、大リーグのイチローは現役中ということで、自ら辞退した。 さらに、羽生はフィギュアとして66年ぶりとなる五輪連覇が理由といわれるが、五輪連覇以上が基準なら、柔道の野村忠宏、水泳の北島康介、体操の内村航平は、それを満たしているのに受賞していない。この不公平の理由を誰も説明できない。五輪2連覇達成を祝い行われたパレードで、沿道に集まった大勢の人たちに笑顔で手を振る羽生結弦選手=2018年4月、仙台市 要は、そのときの大衆のフィーバーの度合い次第であり、それに政治家が便乗するのはポピュリズム(大衆迎合主義)以外の何ものでもない。まさに、「パンとサーカス」の劇場型政治である。パンとサーカスは、為政者が自らの失政を隠し、国民に政治への関心を持たせないようにするための道具である。 実際に平昌五輪の開催中は、テレビ放映の大半が中継で埋め尽くされており、国会開催中でも、国内政治のことは話題にすらならなかった。終わったとたんに、厚労省や財務省の資料の問題が出てきたのも不思議ではない。 今回の平昌五輪でも、カーリング女子選手に対する熱狂ぶりは異常であり、同じ銅メダリストのモーグルの原大智(だいち)がかわいそうなくらいである。これがポピュリズムというものである。 ちなみに、北見市へのふるさと納税が増えているというが、これも変な話だ。北見市へ納税した者が住んでいる自治体は、その分減収となる。自分の財布から寄付金を出すなら大歓迎だ。だが、返礼品も含めて問題が多すぎる。ふるさと納税制度をこのように「悪用」してほしくはない。「立ち小便もできなくなる」 第二の問題は、受賞者にも重荷になるということである。こんな賞をもらうと、国民の模範となるべく品行方正に努めなければならなくなる。特に若いころに受賞すると、その後の人生に「栄誉」を背負っていかねばならなくなる。息苦しい限りだ。プロ野球の盗塁王、福本豊は「立ち小便もできなくなる」と言って辞退したという。 スポーツ選手にとっては、五輪であれワールドカップであれ、メダルだけで結構だ。どこまで記録を伸ばせるか、世界の一流選手と闘って勝てるか、それが最大の問題で、そのために厳しい練習をする。その結果が歴史に残る記録になる。それだけで十分だ。 つまり、純粋にスポーツだけで勝負しているのであって、だからこそドーピングを絶対に許してはならないのである。国民栄誉賞をもらおうなどと思って練習に励む者はいない。記録やメダル以外の「不純物」は不要である。 また、国民に感動を与えるために練習しているのではないし、その過程でけがをしたり、リハビリに励んだりするのは、ひたすら勝つためである。けがを克服したことが国民に感動を与えたなどといわれても、そんな道徳教育の話と勝負の世界は別である。お上に栄誉賞を授けてもらわなくても、国民の喝采があれば、選手には国民が喜んでいることは分かる。スポーツ選手を政治の道具にしてはならない。 極端な想定をすると、引退後に人生を間違えて犯罪者になろうとも、現役時代の記録は不滅である。下手に国民栄誉賞など受賞していたら、それこそ全人格的に否定されて、金メダルまで剝奪しようという暴論すら出てくるかもしれない。 若いころ、スポーツ選手だった人間が、年月を経て政治家や経営者になることはあるが、そのような職業には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものである。国民栄誉賞などを背負っていれば、リスクを冒したくないので、政治活動や経営をのびのびと実行することが不可能となろう。つまり、現役引退後の長い人生で、憲法で定められた基本的人権である「職業選択の自由」すらなくなってしまうのである。フィギュアスケート男子で2連覇を果たし、安倍首相(左、代表撮影)から電話で祝福される羽生結弦選手=2018年2月(共同) 以上のような問題は、すべての「栄典」について共通して言えることである。中でも勲章については、かねてから賛否両論があるし、実際に辞退する者もいる。しかし、国民栄誉賞と違って、勲章は年を取ってから受章するので、いわば「冥土の土産」であり、その後の人生を左右するといったことはない。 勲章については、栗原俊雄の『勲章-知られざる素顔』(岩波新書)に詳しいが、この中で「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂・がくどう)の例が紹介されている。尾崎は文部大臣、東京市長、司法大臣などの業績で、1916年7月に勲一等旭日大綬章を受ける。しかし、1942年の翼賛選挙を批判したことから、不敬罪で巣鴨拘置所に留置された。 戦後、「憲政の神様」として一躍時の人となった尾崎は、1945年12月に宮中に召されたが、その際に「けふ(今日)は御所 きのふ(昨日)は獄舎(ひとや) あすはまた 地獄極楽いづち行くらん」という自作の狂歌を昭和天皇に見せたそうだ。そして、翌年5月には勲章を返上している。 私は、モロッコ王国より、2008年11月にアラウイ王朝勲章グラントフィシェに、また2016年3月にフランス共和国より、レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールに叙せられている。これらは、モロッコやフランスとの交流に貢献したことが認められたものであり、光栄に思っている。 ところが、2年前の「舛添バッシング」のとき、この勲章にまでケチをつける者が出てきた。大衆迎合主義(ポピュリズム)の怖さである。五輪で優秀な成績を収めたメダリストたちには、同じような嫌な思いをさせたくない。国民栄誉賞は廃止すべきである。

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    鳩山由紀夫手記「安倍総理、ご自身の判断でお辞めになればよろしい」

    鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣) 安倍総理が退陣すべきか否かを論じてほしいとの依頼が来た。もとより私はかつて米軍普天間飛行場の移設問題において、「最低でも県外に」という沖縄のみなさんの期待に応えられずに、支持率が急降下して総理を辞めた人間である。 そんな私が他人の総理退陣の是否を論ずる資格などあるかとのご批判をいただくことは必須と思われるが、iRONNAからの執筆依頼に応えたのであって、その種のご批判はご遠慮申し上げたい。 まず結論から申し上げれば、安倍総理はご自身のご判断で総理をお辞めになったらよろしいと思う。 なぜ「ご自身の判断で」と申したかと言えば、それは言うまでもなく、学校法人「森友学園」(大阪市)の国有地売却問題に関わって、安倍総理ご自身が「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきりと申し上げておきたい」と開き直って答弁していたからである。 安倍総理が森友学園問題に関係するということは、必ずしも国有地を森友学園のために安く売ってやれと財務省に働きかけたか否かとか、文書の改ざんを指揮したか否かということを問うているのではない。単純に言えば、森友学園の籠池理事長夫妻と安倍総理夫妻(のいずれか)にはそれなりのお付き合いがあったか否かということである。 そのことに関しては、総理自身はともかく、昭恵夫人が総理に代わって森友学園を訪問した際に、学園の教育方針に感涙したとの報道があった。さらに昭恵夫人のフェイスブックにも、籠池夫妻との写真付きで、日本人の誇りや日本の教育について意見交換させていただきましたと書かれている。昭恵夫人は森友学園が開校予定の小学校の名誉校長を務めることになっていたことからも、関わりは明らかである。 それだからこそ、官邸に人事権を握られた官僚たちが、特に財務官僚たちが必死になって「アベ友」の森友学園に国有地を事実上タダ同然に払い下げしようとし、そのために事実を曲げ、隠蔽(いんぺい)し、揚げ句の果ては改ざんまでして安倍総理を守ろうとしたのである。 公務員が法律まで破り改ざんを行ったのは、時間的にみても、決して佐川宣寿理財局長(当時)の答弁に合わせるために行ったのではないだろう。安倍総理の「関係していたら総理も議員も辞める」との発言があったため、関係していたと見られる恐れがある箇所を改ざんせざるを得なかったのである。「森友」文書書き換え問題で、陳謝する安倍晋三首相=2018年3月12日、官邸(飯田英男撮影) そして、その過程において、自殺者まで生んでしまった。自殺した財務省近畿財務局の男性職員は、財務省上層部の指示で文書の改ざんに関与したことを示唆する内容のメモを残していた。安倍総理の意向を忖度(そんたく)した財務省幹部の指示で文書の改ざんに関与した職員が自殺したのである。 最低限明らかなことは、もし安倍総理夫妻が森友学園の籠池夫妻と知り合いでなかったのならば、森友学園へのタダ同然での国有地売却は起こっておらず、したがって改ざんなどもなされることはなく、職員の自殺は起きなかったということである。日本が真に独立するために 安倍総理がいなければ職員の自殺はなかったのである。もし私が総理であったならば、とてもいたたまれない。総理を続けることなどできない。自分が一人の人間を殺してしまったのだから。この事実の重さを安倍総理はどのように感じているのだろうか。 問題は森友学園にとどまらない。学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設は、加計孝太郎理事長と安倍総理の親密な関係によって無理が通ったのであるが、そのことを隠すために安倍総理は獣医学部新設についてはギリギリまで知らなかったと答弁している。 しかし、はるかそれ以前に愛媛県職員らが官邸で柳瀬唯夫総理秘書官(当時)と面談した際に、柳瀬秘書官が「獣医学部新設は総理案件」と述べていたことが明らかとなった。安倍総理は虚偽の答弁をしたことになる。決して許されることではない。 さらには防衛省による自衛隊の南スーダンやイラク派遣時における日報の隠蔽(いんぺい)問題、福田財務事務次官のセクハラ辞任問題など官僚の不祥事が絶えない。長期政権は必ず腐敗するのはまさに真理である。 政権交代はしばしば、かような内政のスキャンダルによる国民の怒りがもたらすものだが、私が最も不満に思うのは、安倍総理の「対米追随」の外交姿勢である。 日本総合研究所会長の寺島実郎氏が指摘するように、安倍外交は周辺の中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどとうまく行っていない。今年に入り、ようやくわずかばかり改善の兆しを見せているが、それまで不毛な「中国脅威論」を振りかざして、アメリカに倣いアジアインフラ投資銀行にいまだに参加していない。インタビューに答える鳩山由紀夫元首相=2017年7月19日午後、東京(酒巻俊介撮影) 韓国とも米国の指示の下に慰安婦問題の解決を図ったが、いまだに韓国民の理解を得られていない。ロシアについても、クリミア問題の歴史と現実を直視せず、経済制裁に加わる愚を犯して北方領土問題の解決を遠のかせた。 北朝鮮問題に関しては、対話の時代は終わったと繰り返して、世界の対話の波に乗り遅れた。そしてトランプ大統領でさえ、安倍総理に笑顔を振りまきながら、日本に必要性を感じない高価な武器を売りつけ、日本によって貿易赤字が拡大したと鉄鋼などに高い関税を設けた。 アメリカに諂(へつら)っても、日本はアメリカの尊敬の対象になり得ていないのだ。日本の外交姿勢を根本的に見直して、日本を真に独立させねばならない。 確かに自民党の支持率は安定しているが、それは自民党に代わる野党が存在していないからであり、ある意味で日本にとって最も不幸なことは、安倍政権が内政、外交ともに大きく国益を損なってきたにもかかわらず、国民の信頼に足る野党がいないことである。 民主党が民進党となり、分裂をしたことで大きく信頼を失った。しかし、だからと言って数合わせの合流はさらに信頼を失うことになりかねない。今、野党がやるべきは拙速を避け、安倍政権、いや自民党政権に代わって、日本の未来の姿を指し示すことである。 日本の国体は断じてアメリカであってはならない。天皇制の下に国民が国体となる日本を描き切ることだ。安倍政権の数代後に、そのような日本が誕生することを切に願う。

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    「安倍退陣論」私はこう読む

    「安倍総理はご自身の判断でお辞めになったらよろしいと思う」。第93代内閣総理大臣、鳩山由紀夫氏がiRONNAに寄せた手記の一節である。モリカケ、公文書改ざん、官僚トップのセクハラ…。相次ぐ不祥事で苦境に立つ安倍政権。与党内にもくすぶる「安倍退陣論」を真正面から考える。

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    「DV政治、安倍晋三」福島瑞穂が綴った内閣退陣6つの理由

    ) 私は社会の中で人々が萎縮したり、忖度(そんたく)したりするのではなく、もっとみんなのための社会、政治を実現したいと思っている。だから、安倍政権は退陣すべきである。嘘で塗り固められた腐った政治の上には何も積み上げることはできないし、ここから未来を切り開いていくことはできないからだ。 象徴的な例がある。今年4月から、小学生は「道徳」を検定教科書で勉強することになった。子供たちに「嘘をついてはいけません」と教えておいて、政治の世界が隠蔽(いんぺい)や改ざん、虚偽答弁の世界であったら、子供たちは大人を信用しないだろう。何てひどい世界だろうか。 安倍政権が退陣しなければならない理由は少なくとも6つある。 一つ目は、国民の生活、雇用、農業、そして地域を破壊していることだ。例えば、労働者派遣法は「全面改悪」され、全ての業種で派遣が可能になった。また、社会保障費の自然増が抑制されたほか、介護保険の改悪や生活保護の切り下げも行われた。働き方改革の名のもとに提案している「高度プロフェッショナル制度」は、一定の年収以上であれば全ての労働時間、休憩、休日、深夜業の規制が撤廃される。 いわゆる「働かせ放題」法案を提案しており、これ以上、過労死を増やしてどうするのだと言いたい。これは経団連などの要望に応えているに過ぎず、こんな法案を働く人の誰が望むだろうか。 二つ目は、権力と税金を私物化していることだ。そもそも森友学園問題は安倍夫妻案件であり、加計学園問題も安倍総理案件だ。これは権力の私物化であり、税金の私物化でもある。参院予算委で社民党の福島瑞穂氏(右端)の質問に答える安倍首相=2017年11月30 日 そして三つ目に挙げたいのは、隠蔽と公文書の改ざん、虚偽答弁である。これらは安倍内閣が不都合な真実を隠すための嘘であると言えよう。国会に提出される文書やデータが虚偽で、答弁が虚偽だったら、私たちは何を信じて議論したらいいのか。民主主義が破壊されている。 安倍総理は森友学園問題をめぐり、2017年2月17日に国会答弁で「私か妻が、関係していたら、総理大臣も国会議員も辞める」と明言した。また、3月13日、加計学園問題についての私の質問に対して、「私が働きかけていれば責任を取りますよ」とも言った。その言葉通り、辞めるべきである。 加計学園問題はこれだけではない。2015年4月2日に、官邸で柳瀬唯夫総理秘書官が、加計学園の幹部と愛媛県、今治市の職員と会っている。そして柳瀬秘書官が「首相案件」と言い、具体的に傾向と対策を教えていることがさまざまな文書と証言で明らかになっており、言い逃れのしようがない。国民への愛がない 四つ目は、憲法のねじ曲げである。歴代の自民党政権は、集団的自衛権の行使は憲法違反であるとしてきた。それをねじ曲げて合憲とし、2015年に安保関連法を強行成立させた。憲法は、権力者を縛るものなのに、憲法そのものをねじ曲げたのだ。そして、憲法そのものを変えようとしている。「法の支配」がない政治など危険極まりない。 そして五つ目は、メディアと教育に対する支配と介入だろう。文部科学省前事務次官の前川喜平氏が公立学校で行った授業について、自民党議員が文科省に問い合わせを行い、添削までしている。 また、NHK幹部が報道の現場に対し、森友学園問題を取り上げるときには安倍昭恵夫人の映像を使わないよう細かく指示をした事実が内部告発で明らかになった。政治の介入なのか、メディアの忖度なのかはわからないが、安倍政権に多大なる配慮をしていることは確かである。そして、安倍内閣がそのような状況を作っていると言えないだろうか。「国境なき記者団」による日本の報道の自由度ランキングは、2018年で67位というありさまだ。 六つ目は、セクハラやパワハラなどに対する全くの無理解である。セクハラという言葉は、1997年に男女雇用機会均等法に盛り込まれ、企業の中では意識の変化が進み、対策もとられてきた。それが、政権の中枢には全く入っていない。 麻生太郎副総理兼財務相が、財務次官だった福田淳一氏の辞任を認めた閣議後の記者会見で「はめられていて、訴えられたという意見もある」と発言したことには、本当に驚いた。被害者を加害者扱いしているのだ。これは大問題であり、発言そのものもセクハラで、第二のセクハラではないか。 そもそもセクハラやパワハラ、ドメスティックバイオレンス(DV)には共通点がある。力の差を利用して、権力を振りかざし、相手を屈服させ、反抗できないようにするのである。これらを当然のことのように行い、セクハラやパワハラを指摘されても認めようとしない。 財務省のセクハラ問題への対応を見ていると、安倍政権は被害者に思いを寄せることができない政権と言わざるを得ない。参院予算委員会集中審議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相=2018年5月28日、国会・参院第1委員会室(春名中撮影) 以上、6つの理由を挙げたが、こうした安倍政権とはいったい何であろうか。かつて、森友学園理事長だった籠池泰典氏のように、自分と同じ思想・信条の人や腹心の人、自分をヨイショしてくれる人は優遇し、便宜を図るのが安倍政権なのではないか。 一方で、政策に反対する、沖縄の辺野古新基地建設反対運動の参加者や、都合の悪いことを言う前川前文科次官などは弾圧をする。そして、その中間の人々は、虚偽文書や虚偽答弁でだませばいいと考えているのではないか。まさに強権政治である。 歯向かえば、飛ばされるか、弾圧されるのであれば、誰もが萎縮し、忖度(そんたく)し、服従していく。主権者は国民なのに、権力によって操られる客体に成り下がってしまう。 かつて自民党は国民政党だったのかもしれない。しかし、今や自由競争秩序を重んじる「新自由主義」に傾倒し、大企業のための政党に成り下がっている。現場のひずみや苦労、そして悲鳴や悩みを見ようとも聞こうともしていない。こんな安倍政権に国民への愛があると言えるのか。 もうこんな政治は終わりにしなければならない。民主主義を信じることができなくてどんな未来があるだろうか。安倍政権の退陣こそがスタートである。

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    そもそも「安倍退陣論」は間違っている

    日米同盟強化路線に対する小さな異論はあるものの、安倍首相の政策に代わる経済・安全保障のビジョンを描く政治勢力は存在しない。そして誰がやっても安倍政治の継続となるのであれば、首相が退陣してもしなくても、日本の国家戦略は変わらないからだ。 しかし、財務省による行政文書改ざんやセクハラ疑惑、防衛省の日報隠ぺい疑惑、幹部自衛官による野党議員への暴言など、首相を頂点とする行政機構の不祥事が同時多発的に起きている現状を見ると、指揮官の統率力の問題を考えないわけにはいかない。 組織が弛緩(しかん)して問題が噴出すると、組織は問題処理に追われてエネルギーを浪費し疲弊する。その疲弊が新たな問題を生んで、負のスパイラルが無限に続いていく。組織の構成員は責任を押し付け合い、自己保身に走る。これは「負け戦(いくさ)」のパターンである。 「負けること」自体が問題なのではなく、負けが士気を阻喪(そそう)させることが問題なのだ。それを食い止めることこそ、指揮官の最大の役割となる。そのためには、一時の負けが次の勝利に結びつくことを納得させ、自軍の精神的優位を信じさせなければならない。 森友問題について言えば、国有地を安価に払い下げたことが法律上適切だったかどうかを論じるのではなく、日本全体にとって安ければ安いほどよかったという道義的確信を持たせなければ、何のために現場が無理をして値下げしたのかが分からない。 国民に分からせる以前に、動いた現場が納得しなければならない。そうでなければ、「危ない橋」を渡る現場の士気が上がるはずはない。 「所詮は上が決めることだから言う通りにしておけ」という気分で仕事をすれば、誰だってミスをする。その責任を現場に押し付けられれば、現場は中央を信用しなくなる。安倍首相は「最終的責任は内閣の長たる自分にある」と言っている。 だが、その責任とは「膿(うみ)を出し切って信頼を回復すること」だ。「膿」は現場にあって、首相自身にはないことを前提としている。 もちろん、ヘマをやった実行者は罰せられるべきだ。だがそれは、取り締まりの原理であって、組織統率の原理ではない。首相辞任か担当大臣の辞任かはともかく、「現場のミスがこんなに大きな結果を招く」ことを思い知らせてこそ、組織の緊張感がよみがえる。 クラウゼヴィッツは、戦争を政治目的達成の手段と位置付けている。戦略とは、実現しようとする目標達成のために個々の戦闘をいかに組み合わせるかを考えることだ。それは、使うものが戦闘か外交か、あるいは法律、司法、マスコミなど、その手段に違いはあっても複雑な組織を使って目的を達成する「術」である政治戦略にも適用できる。 クラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争が人類の事業の中で最も錯誤に満ちた営みであることを強調している。組織が大きくなり、相互の連携が複雑化するほど、一つの錯誤が全体に影響する。 戦争でも政治でも、指揮官が自らの意図を正確に伝えず、各部署が勝手に忖度(そんたく)して動くならば、錯誤は必ず起きる。現場は自らの役割を理解できず、何もしないか余計なことをするか、右往左往してやがて疲弊し、機能を停止する。誰が首相かは「手段」にすぎない 指揮官の役割は、達成可能な目標を明確に定め、そのために投入する十分な資源を配分することだ。思い通りにいかない場合には速やかに目標を変更すると同時に、その時々の目標を全軍に徹底しなければならない。 クラウゼヴィッツは、戦争は3つの要素で構成されると言っている。「戦争の三位一体」すなわち、感情の主体である国民、戦場の錯誤を乗り越えるアートを備えた将帥、そして戦争の目標を合理的に判断する政府がそれだ。 これを戦争ではなく政治目標の達成という観点で言い換えれば、政治を構成する「三位一体」は、国民の支持、難局を乗り切る指導者のアート、そして合理的に設定された政治目標ということになる。 指導者のアートに属する官僚機構の統率が上手くいっていないことは、すでに見てきた。また、国民の支持が低迷していることも疑いようのない現実となっている。問題は、達成すべき政治目標が分からないことだ。 安倍政権は、秋の自民党総裁選を控えて支持率の回復を目指しているが、「安倍政権の維持」は目標達成の手段であって、日本という国にとっての政治目標ではない。 だから、「安倍首相は退陣すべきか」という問題の立て方が、やはり間違っている。日本の政治目的は、人口構成の変化に応じた日本社会の持続可能な再生と、変転する国際社会の力関係に合わせた安全保障目標の再定義でなければならない。誰を首相にするかは、そのための手段にすぎないからだ。 今、議論すべきは企業の国際競争力や物価上昇率に着目するアベノミクスか、貧富の格差是正と負担と分配の公平に着目した新たな福祉国家的経済政策か、という大きな経済・社会のビジョンである。 安全保障について言えば、中国や北朝鮮の脅威にどう対抗するかが問われている。脅威は、能力と意志の掛け算で定義される。中国・北朝鮮の軍事能力を止められない現実を前に、軍事バランスの観点から、力不足をもっぱらアメリカに頼る日米同盟強化路線がとられている。 それはどこまで可能なのか。むしろ、相手の能力よりも意志に着目して、軍事力ではなく政治力をもって侵略の意志をなくす、そのためにはアメリカとの意見の違いも覚悟する方向に舵(かじ)を切るかが問われている。 そういう大きな政治目的の絵柄を考えておかなければ、経済・社会の強靭性、安全保障の柔軟性が失われ、変転する世界の中で生き残れない国になってしまう。安倍首相以外に選択肢があるかどうかが問題ではない。「安倍的な政策」以外の選択肢があるかないかが問題なのである。

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    なぜ安倍政権は「戦後最強の内閣」になったのか

    櫻田淳(東洋学園大学教授) 2012年以降の2次にわたる安倍晋三内閣は、戦後日本政治史の中でも顕著な「強靱(きょうじん)性」を発揮してきた。安倍内閣は、過去5年半近くの政権運営の過程で幾度も「失速」が語られたものの、5度の国政選挙を勝ち抜くことで権勢を維持してきた。しかし、目下、安倍内閣の「強靭性」にも陰りが見え始めた感がある。 現下の財務省や防衛省を舞台にした政官関係に絡む混乱が軒並み、安倍内閣の政権運営の「歪み」として語られ、それを安倍内閣の責任として詰問する声が高まっているのである。数刻前まで既定のものとして語られた今秋の自民党総裁選挙に際しての「安倍三選」も、予断を許さなくなったと指摘する向きもある。 既に幾度も指摘してきたように、筆者が下す内閣評価の基準は、第一が「外交・安全保障政策を切り回せるか」であり、第二が「経済を回せるか」である。この評価基準に照らし合わせれば、安倍内閣の政権運営は「上手く切り回している」と観るのが順当であろう。 事実、例えば米誌『タイム』(2018年4月30日号)は、毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し「指導者」部門で2014年以来4年ぶりに安倍首相を選出した。オーストラリアのマルコム・ターンブル首相は選評中、「安倍氏の自信に満ちた力強いリーダーシップは日本の経済と先行きへの期待をよみがえらせた」と評した。 また、ロイター通信(4月23日配信)が伝えた「4月ロイター企業調査」の結果によれば、「安倍晋三首相が自民党総裁に3選されることが望ましいか」という問いに「諾」と答えた大手・中堅企業は73%に達した。加えて、この記事は「次の政権も安倍首相続投による与党政権継続が望ましいとの回答が6割を占めた。次期首相も5割が安倍首相を支持した」と伝えている。 こうした安倍内閣への評価を前にして、湧き上がる「安倍、辞めろ」の声には、日本の政治風土に根づく悪しき気風が反映されている。それはすなわち、「対外意識の希薄」と「民主主義理解の貧困」である。1989年6月3日、組閣後に記者会見をする宇野宗佑新首相 振り返れば、昭和中期以降、すなわち冷戦期の「55年体制」下、日本政界では金銭や女性に絡むスキャンダルが頻発した。リクルート事件や東京佐川急便事件といった金銭絡みのスキャンダルが相次ぐ一方で、女性スキャンダルで地位を追われた宇野宗佑元首相や山下徳夫元官房長官の姿は、そうした「55年体制」崩壊前夜の政治様相を象徴していたといえよう。国際環境が激変でも「モリカケ」 もっとも、こうしたスキャンダルが日本の国益上、大した損害を与えていると認識されなかったのは、それが「経済力だけは大きいが対外影響力は乏しい」国の出来事であったからである。しかも、往時は「『永田町』が混乱しても『霞ヶ関』がしっかりしているから、大した問題ではない」という理解は、半ば自明のように受け入れられていたのである。 しかしながら、平成に入って以降の日本が直面したのは、「バブル崩壊」後の長期にわたる経済低迷の一方で、「国際貢献」の名の下に一層の対外関与が要請される状況であった。そして、現在に至って、日本の立場は「経済力の減退を対外影響力で補わなければならない」というものに変質しているのである。 筆者が指摘する「対外意識の希薄」とは、「経済力の減退を対外影響力で補わなければならない」日本の立場を顧慮せずに、専ら国内統治案件の議論に熱を上げる様子を指している。北朝鮮情勢の展開次第では、日本を取り巻く国際環境が激変するかもしれない局面で、「森友・加計」問題の議論に過剰な精力が費やされている現状は、その典型的な事例であるといえる。 しかも、「対外影響力」を担保する条件の一つが、政治指導者が築いた人的ネットワークの豊かさである以上、こうした国内政局の紛糾の結果として、安倍首相が国際政治の舞台から退場することになれば、それが日本の国益に及ぼす影響は甚だしいものになるであろう。 また、筆者が指摘する「民主主義理解の貧困」とは、民主主義体制下であればこそ政治人材の発掘と養成は重大な課題であり、政治人材は「取り換え引き換え」のできる存在ではないという理解が浅いという様子を指している。 日本では、なぜか政治人材に関してだけは、「使い切る」とか「もったいない」という感覚が働かないようであるけれども、そうした様相は、民衆の当座の感情で政治が直接に左右されるという意味での「ポピュリズム」や「モボクラシー(衆愚政治)」の傾向を加速させるのである。2018年4月、米フロリダ州パームビーチで行われた会談で、トランプ米大統領と握手する安倍首相(共同) 世間には、筆者を「安倍応援団」の一人だと観る向きがあるかもしれないけれども、筆者は、そのように自ら思ったことは一度もない。筆者が支持し応援しているのは、あえて言えば「安倍内閣下の対外政策展開」や「日本の外交」であって、安倍晋三という政治家お一人ではない。当節、「何が重要か」を見誤らない議論が大事であろう。

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    安倍vs麻生vs菅 次の財務次官人事めぐりパワーゲーム展開

     終盤国会は安倍政権内で“疑惑の主人公”がシーソーゲームのように入れ替わる展開だ。〈「そういう新しい獣医大学の考えはいいね。」〉──安倍晋三首相が「腹心の友」と呼ぶ加計孝太郎・加計学園理事長と面会(2015年2月25日)した際の言葉が記述された「愛媛県文書」が公開されると、世論の批判の矛先は明らかに変わった。 それまでは森友文書の改竄問題と相次ぐ失言で麻生太郎・副総理兼財務相が集中砲火を浴びていたが、一転、“やっぱりそうだったのか”と国民の疑惑の目は安倍首相の加計問題に向けられた。首相は否定に躍起になった。「指摘の日に理事長と会ったことはない。念のため記録を調べたが確認できなかった。獣医学部新設について加計氏から話をされたこともないし、私から話をしたこともない」 女房役の菅義偉・官房長官も「首相が説明した通りだ」とかばったものの、安倍・加計会談が行なわれたか否かの証拠となる首相官邸への来訪者を記録した入邸記録については「業務終了後速やかに廃棄される取り扱いになっている」と苦しい言い訳を繰り出した。 都合の悪い記録をよく捨ててしまう政権であるが、その説明は結果的に「会っていない根拠となる記録の存在」の信憑性という、新たな「安倍疑惑」まで招いてしまった。 そんな大慌ての2人の様子をみてほくそ笑んでいるのが、バッシングを浴びていた麻生氏だ。安倍首相の「加計問題」に注目が集まれば、財務省が舞台の「森友文書改竄問題」が霞み、失言続きの麻生氏への批判も薄まる。“加計は俺の友達じゃねーからな”というわけだ。2018年4月、政府与党連絡会議に臨む(左から)麻生太郎副総理兼財務相、安倍晋三首相菅義偉官房長官ら(斎藤良雄撮影) だが、それも束の間、財務省が「廃棄した」と説明してきた森友との交渉記録の存在が発覚し、国会に提出されると、再び麻生氏が批判の矢面に立たされた。それをかわすためなのか、麻生周辺からはこんな声もあがっている。「入邸記録を確認できなかったなんて、菅さんはあんなこと言って本当に大丈夫かね」 財務省は“首相をかばって証拠を隠してもバレたら致命傷になる”ことを思い知らされた。「次に批判が向かうのは菅だ」というニュアンスが感じられる。 本来なら、結束して批判の火消しにあたらなければならない安倍首相、麻生氏、菅氏の3人が、互いに団扇を持って“批判の火の手はあっちに行け”と煽り合いを始めている光景である。 それには理由がある。「最強の官庁」と呼ばれる財務省の次期次官人事を巡るパワーゲームだ。現在、財務省では改竄問題で佐川宣寿・国税庁長官が辞任したのに続いて福田淳一・事務次官もセクハラ問題で辞任。国会会期中にトップ2人が1か月以上にわたって空席という異常事態が続いている。霞が関を揺さぶる報道の情報源は誰だ霞が関を揺さぶる報道の情報源は誰だ「後任は今国会中に決める」 任命権者である麻生氏はそう語っているが、霞が関の幹部人事は大臣からあがってきた人事案を官邸の「内閣人事局」でチェックする仕組みになっており、首相や官房長官が「ノー」を出せばひっくり返される。その人事が3人の綱引きで調整がついていないのだ。 そこに政界、霞が関を揺さぶる報道が出た。〈傷だらけの財務省 次官誰に〉 産経新聞が5月21日付朝刊トップで報じた署名記事で、次期次官の本命とみられていた岡本薫明・主計局長の昇格が見送られ、代わりに国際金融の責任者である浅川雅嗣・財務官、もしくは森信親・金融庁長官の起用が浮上している──という内容だった。 浅川氏は財務官3年目、「金融行政のドン」と呼ばれる森氏も長官在任3年の実力者で、どちらが次官に就任しても辞任した福田氏より入省年次が上になる。「年次の逆行はさせない」という霞が関全体の人事の鉄則を覆すことになる。2018年5月28日、参院予算委の集中審議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相(春名中撮影) 予期せぬ人事構想に政界も各省庁の中枢幹部たちも「情報源は誰だ」と確認に走っている。経産省幹部が語る。「浅川財務官は麻生さんの“懐刀”として知られる人物。麻生内閣の総理秘書官を務め、麻生さんが第2次安倍内閣で副総理兼財務相に返り咲くと、国際局次長を兼務したまま副総理秘書官に起用されたほど信頼が厚い。“浅川次官構想”は間違いなく麻生人事だろう」 麻生氏は文書改竄問題で近く省内処分を行なうが、次期次官の本命の岡本氏は改竄が行なわれた当時に文書管理責任者の官房長だったため処分は免れないと見られている。麻生氏としては処分した本人を次官に昇格させるわけにはいかない。「そこで腹心の浅川氏をワンポイントで次官に起用し、ほとぼりがさめた1年後の人事で本命の岡本主計局長を次官に据えるレールを敷く。この記事はそのための地ならし、情報源は麻生周辺だと見ている」(同前) この麻生人事が実現すれば、麻生氏は同省の「守護神」として影響力をふるうことができる。関連記事■ 大麻解禁派にのめり込む安倍昭恵夫人 官邸は危うさを心配■ 失言王・麻生氏vs断言王・安倍氏、タチが悪いのはどっち?■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題■ 森友学園問題と酷似 「麻生グループ」への土地無償貸与問題■ 昭恵夫人 安倍家の親族会議で「離婚しない!」と叫ぶ

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    安倍・麻生発言 心理学的に見た2人のパーソナリティを分析

    政治家は言葉が命」といわれるが、その“命”を粗末に扱って批判を浴びているのが“失言王”こと麻生太郎・財務相兼副総理だ。「セクハラ罪という罪はない」「はめられたんじゃないか」「どの組織だって改竄はありえる話だ」と放言三連発。そのたびに国会で謝罪し、発言撤回に追い込まれた。 政治家の言葉というなら、安倍晋三首相は「断言」的な口調が多いのが特徴。そして今も自分の言葉で内政の“逃げ道”を塞がれている。個人消費は低迷し、今年1~3月期の実質GDPは前期比0.2%減と2年3か月ぶりにマイナスに転じるなど、金看板のアベノミクスの行き詰まりがはっきりしてきた。 問題は消費にブレーキをかける消費増税だ。これについて、首相はすでに「断言」と「撤回」をしている。もともと10%への増税は2015年10月の予定だったが、2017年4月に延期された。その際の会見での言葉だ。「さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんに『はっきりと』そう『断言』いたします」(2014年11月の会見) この発言を反故にし、増税が2019年10月に延期されたのは周知の通り。さらに、昨年10月に「消費税を10%に引き上げ、税収の使い途を変える」と増税を掲げて衆院を解散して勝利した。景気失速の懸念があってもいまさら“増税をやめる”とは言えないと見えて、安倍チルドレンの自民党若手議員たちに「増税再再延期」の声を上げさせているのだ。2018年5月14日、参院予算委に険しい表情で臨む安倍首相(左)と麻生財務相 安倍氏の悲願の憲法改正にも赤信号が点っている。「憲法にしっかりと自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打とうではないか。これこそが今を生きる政治家、自民党の責務だ」 今年3月25日の自民党大会で決意を語ったが、モリカケ問題再燃による国会紛糾と支持率低下で、「与党内の多くは改憲は絶望的と受け止めている」(自民党憲法改正推進本部メンバー)とみられている。 認知心理学が専門の富田隆・元駒沢女子大教授は、安倍発言と麻生発言から心理学的に見た2人のパーソナリティをこう分析する。「麻生さんは『循環性気質』の傾向が見られる。躁と鬱の時期が循環し、躁の傾向が強い時は、機嫌がいいとついリップサービスの放言をしてしまう。それに比べて安倍首相は『粘着気質』に該当するのではないかと思える。このタイプは真面目で、信念を持ち、ルールを重んじる。『拉致被害者を全員帰国させる』も『ノドンも廃棄せよ』という発言も正論であり、森友問題で『私や妻が関わっていたら総理も議員も辞める』という言葉からも、ルールを重んじる粘着気質の傾向がうかがえる」 そしてこのタイプが行き詰まった時にどんな行動を起こすかについて興味深い見方をする。「粘着気質の人は、『この道しかない』と一つのことを始めると、間違っていてもその方向に進んでしまう。つじつまを合わせようとして、違う方向にどんどん進んでいくことがある。そして矛盾が解消できず、いつか爆発する」 爆発のタイプは様々で、「当たり散らす人もいれば、最後は自暴自棄になって自爆する場合もある」という。 第1次政権の安倍首相は、消えた年金問題で批判を浴びると「最後のお一人に至るまできちんと年金をお支払いしていく」と国民に約束しながら、何もできないまま行き詰まり、最後は突然、自暴自棄になったように政権を投げ出した。 状況は、似てきた。関連記事■ 失言王・麻生氏vs断言王・安倍氏、タチが悪いのはどっち?■ 安倍首相の“断言癖” 大平正芳氏「アーウー」の方がマシ?■ 安倍語録が危険な理由は役人に二重三重の嘘を重ねさせる点■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 麻生氏が「悪いのは昭恵だろう!」と怒鳴る声が役人に話題

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    新聞、テレビの受け売り「モリカケ安倍陰謀説」の無責任

    疑惑」を抱く人はそろそろ自らの思考そのものを省みてほしい。要するに、これは単なる「安倍下ろし」という政治的な策動の一環にすぎないのだ。 報道では全く注目されていないが、そもそも新文書では、政府側の発言として、獣医学部構想についての技術的なアドバイスはあっても政治的介入はできないと断言している。問題はこれで終わりのはずだが、政治的な思惑だけで「モリカケ」は動いているので、終焉(しゅうえん)はないだろう。もう一度書くが、「疑惑」を無反省に抱く世論にも重大な責任はある。テレビや新聞の受け売りはそろそろやめたらどうだろうか。怒れる中村知事の「非常識」 ところで最近は、その新文書を公開した愛媛県の中村時広知事の発言が大きく取り上げられている。加計学園が「当時の担当者が実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えた」として、担当者の発言を謝罪した。 なんでも中村知事は、県文書を否定されたこのコメントに対して、かなりご立腹のようである。つまり「愛媛県への謝罪と説明が先だろう」というのである。だが、これは本当におかしな話である。 嘉悦大の高橋洋一教授が、ツイッターで「この知事は身勝手で非常識な人だ。文書を出すときにそこに書かれている関係者(加計)に確認したのかね。自分はやらないで相手は求めるタイプ。その確認をしておけばこんなぶざまなことにならないのに」と厳しく批判している。筆者も基本的にその通りだと思う。 正確な記述ともいえない文書を、関係者への事前確認もないままに世の中に出すのは、常識外れか、知事個人の政治的な配慮があるのではないか、と批判されても仕方がない。国会の要請で出したから当然である、という擁護の意見も見かけたが、国会で議論の対象にされるなら、なおさらきちんと関係者に内容を確認してから出すべきである。 さらに森友学園問題のほうでも動きがあった。こちらは籠池被告夫妻が保釈され、その後に記者会見を行ったことが大きく取り上げられた。ただ、アメフト部の「危険タックル」問題で揺れる日本大学の記者会見よりは、インパクトが乏しかったという印象だ。会見内容も聞くべきところはなかった。 ただ籠池氏が「国策勾留だ」と言ったことに妄想を刺激された人も多かったようである。筆者がチェックした範囲でも、「政権の不正を暴露したのに起訴されるのは理不尽」などというツイートを拡散した人がいた。これが「アベ批判無罪」かとあきれたものである。2018年5月、保釈後に会見を行う森友学園前理事長の籠池泰典被告(手前)と妻の諄子被告(手前から2人目、安元雄太撮影) 籠池夫妻の逮捕・勾留は、政治的な争点である安倍首相夫妻が森友学園の小学校用地の価格交渉への関与とは全く異なる次元のものだ。あくまで、籠池夫妻が小学校建設で国の補助金を詐取した容疑と、幼稚園などへの大阪府と市の補助金詐欺などの容疑が、両夫妻の訴追の原因だ。 だが、次元が違う話であっても、なぜか安倍政権批判の文脈で解釈する人たちも多い。本当におかしな話である。「モリカケ問題」の問題点 財務省が公開した文書改ざん前の、森友学園と近畿財務局との交渉過程の記録は重要である。それを見ると、森友学園側と近畿財務局側との熾烈(しれつ)ともいえる交渉が明らかになっている。そして、交渉経過を簡単に述べると、財務省と近畿財務局側の「交渉ミス」で終わっているのである。 交渉そのものは違法ではない。下手を打っただけである。最大の交渉ミスは、学園との相対取引ではなく、最初から公開入札を採用すべきだったということだ。もちろん、その後の財務省による文書改ざんは言語道断であることは言うまでもない。 「モリカケ問題」の問題点は、総じてみると、官僚と政治家の政策の割り当てがいかに難しいかということ、そしてメディアが公平なプレーヤーではなく、時にノイズとなり、時に政治的にふるまうことで世論が扇動されがちなこと、この2点に集約される。 前者は、官僚は行政上の情報や特別な知識を保有しているので、効率性を追求して経済や社会のパイの大きさを拡大していく役割が期待される。そして、政治家はそのパイをどのように配分するかを考えて再分配政策を進める役割を持つ。政治主導とは、この意味での効率性を考える官僚と、再分配政策を行う政治家を政策的にきちんと割り当てることにあるのである。 だが、実際にはモリカケをみても難しいものがある。加計問題では、獣医学部の申請自体を日本獣医師会や獣医師会に支持された政治家といった既得権側が反対していた。そして獣医学教育サービスの効率化を目指すべき文部科学省の官僚は、申請すら受け付けない形で抵抗していた。 官僚が効率性の追求に特化できずに、既得権益を保護する側に強硬に立った結果が、今回の問題がこじれている背景にある。それを端的に表すのが、前川喜平元文科事務次官による「行政がゆがめられた」をはじめとする一連の発言だろう。加計学園から報道機関に送られたファクス また森友問題についていえば、公開入札というスキームではなく、学園側との相対取引を採用したため、官僚側が効率化に徹しきれずに、交渉の不備をもたらしていったわけである。 しかも、より深刻なのは、今のメディアの多くが事実を追求せずに「安倍批判ありき」を繰り返し、無理筋の「安倍陰謀説」めいた話で世論をあおり続けることにある。また、あおりを真に受けて、「疑惑がいよいよ深まった」と思い込んでいる世論にも大きな責任がある。だが、問題の真因は、やはり思い込みをもたらすメディアや政治、官僚のあり方にあることを忘れてはならない。

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    米山隆一独占手記、知事失格「自責の念」

    米山隆一前知事の辞職に伴う新潟県知事選が告示された。週刊誌が報じた女性スキャンダルが引き金となった米山氏だが、辞職後は沈黙を貫く。その米山氏が自責の念をつづった独占手記をiRONNAに寄稿した。「知事失格」という世間の厳しい目にさらされる米山氏は今、何を思う。

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    【米山隆一独占手記】私が新潟県政で実現したかったこと

    米山隆一(前新潟県知事) 多くの方の期待を裏切り、ご迷惑をおかけした身で、この時期にこのような稿を書くことの是非を非常に悩みましたが、短い間とはいえ新潟県政の現場に携わったものとして、これからの県政に期待すること、そして知事として実現したかったことを書かせていただきたいと思います。 県政の課題は多岐にわたりますが、私はそのすべてに共通する課題が、3点あると思います。それは(1)正確な現状認識(2)時代に適合した解決策(3)柔軟かつ果断な実行です。 人にも社会にも歴史があり、過去の経緯を無視しては何事もできないことは(自分で書いていて胸がえぐられるようですが)、決して否定しません。しかし、共同体というものの本当の基礎部分である人口が増加から減少に転じているという事態は、あるべき社会のあり方、あるべき行政のあり方を大きく変えています。 世界中で技術革新が起こり、それが瞬時に世界中に広がるということも、今までになかったことです。そういった大きな変化の中で、本来先頭に立って時代の変化に立ち向かうべき行政が、最も過去に縛られてしまっていることが、新潟県に限らず日本の大きな課題であると、私はこの1年半感じていました。 原発問題は、新潟県のみならず、日本全体、ひいては世界全体の大きな課題です。この問題の私の立場は、ご承知のように政府などとは大きくかけ離れています。しかし、だからこそ、双方の立場の人が共通に話すことができる土台が、絶対に必要だと私は思います。率直に言って現在の日本にはいまだその土台はありません。 私はそのために、①福島第一原発事故の原因の徹底的な検証②福島原発事故が人々の健康と生活にもたらした影響の徹底的な検証③万一事故が起きた場合の安全な避難方法の徹底的な検証の三つの検証を掲げました。知事就任後、柏崎刈羽原発の再稼働について世耕弘成経産相との会談に臨んだ米山隆一氏=2016年12月 ①の事故原因の検証については、事故直後に複数の調査報告書が作成されたことはもちろん承知しています。しかし、それらの間には相互の不整合がありますし、その中に書かれていないことで、新潟県の調査や裁判によって初めて明らかになったこともあります。 私はぜひここで、今までの知見と事実をまとめて、事故の事実経過とその原因について多くの人が共通の土台とすることができる検証を行うべきだと思います。そしてその土台とともに、私たちは②の福島の原発事故が人々の健康と生活にもたらした影響を徹底的に検証すべきだと思います。私も着任後福島第一原発、柏崎刈羽原発にうかがい、事故後作成された様々な安全対策について説明を受けました。 福島第一原発事故と同じ形で同じ事故が起こることは、おそらくはないのだろうと思います。しかし、人間のやる事に絶対はありません。絶対があるなら、そもそも福島第一原発事故は起こっていません。 確率や形態は異なるにせよ、事故が起こる可能性は常に存在します。その時にいったいどのような事が起こり、私たちの生活にどのように影響するのか、私たちはそのリスクの全体像を、福島第一原発事故から学ばなければなりません。 そして、①②の土台に立って、万一原発事故が起こった場合に、我々がなしうる最善の避難方法を、現実的具体的に確かめなければなりません。そうやってこそ初めて、万が一事故が起こった場合に我々は現実的にどこまで状況に対応できるのか、考える事ができるようになるからです。原発を抱える日本の使命 この、三つの検証によって「共通の土台」をつくった後には、おそらくはより困難であろうと思われる「共通の事実と、そして現在の社会状況を踏まえて、未来に向かってどのような解決策を講じるのか」という作業が待っています。この作業による解決策は、おそらくそれぞれの立場によって異なり、間違いなく複数の立場から、複数の解決策が出てくるでしょう。 しかし、それぞれは、三つの検証によって同じ共通の土台に立つことができます。全ての人が柔軟かつ果断に、未来へ向けた解決策を民主的プロセスによって決めていくことは、私は原発立地県である新潟県、そして多くの原発を抱える日本の、県民、国民に対する責任であり、歴史的使命であると思っています。 原発問題を最初に説明しましたが、考え方によってはそれ以上に大きな課題が、人口減少問題だと思います。過度に悲観的になる必要はもちろんありません。しかし、少なくともこれから20~30年は人口が減り続けること、その影響は決して小さいものではないこと、その解決が決して簡単なものではないことは、事実として認めなければなりません。 そしてその上で、「現代に即した現実的な解決策」を提示し、柔軟かつ果断に実行していくことが、人々の暮らしに密着した地方自治体の責務であると私は思います。終戦直後のベビーブーム時代、合計特殊出生率の最高値は4を越えていました。しかし、いくらその時代を懐かしんでも、その時代に戻ることはありません。 私たちが時代の流れの中でどこか置き去りにしてきた「人間らしく生きること」を、「人間らしく生きることができる仕組みと社会」を、現代の社会の中にていねいにつくりこんでいく取り組みこそが、地味に見えて最も有効な対策だと私は思います。 そのためには国の大きな制度設計ももちろん重要ですが、地方自治の現場において、国の制度の隙間を埋めるきめ細かい制度と再作をつくり、それを根気よく柔軟に、しかし果断に進めて行く地方自治体の役割が、極めて重要になると思います。 人口減少及び少子高齢化の中で最初に大きな影響を受けるのは、おそらく医療、介護、福祉の分野です。そして地方においてはここに、医師不足という問題が加わります。特に医療提供体制は地方自治体においては極めてセンシティブな問題で、過去の経緯からそう簡単に離れることはできません。就任1年を迎え、報道各社の合同インタビューに応じる米山隆一知事(当時)=2017年10月、新潟県庁 しかし、ここでも、現実は現実として認めた上で、起こり得る未来に耐えられる現実的なプランの策定が必要です。そしてその際には、基礎自治体である市町村と広域自治体である県が補完し合い、また医療、介護、福祉の民間事業者とも連携して必要な福祉を受けられない人を決して生じさせない体制を柔軟かつ果断につくっていくしかありません。 また、それに当たっては、住民のみなさんの理解も必要になります。ぜひ、必要とする人に必要な医療・介護・福祉が提供されないことによって明日への希望を失ってしまう人が生じない体制をつくっていただきたいと思います。 ここで、少々脇道に逸(そ)れて一般論をお話させていただきたいのですが、私はその昔、公共政策においては、「公平、公正、効率」の三つの観点があり、それぞれ何を目標とするか考えて行うべきだと習ったことがあります。 「公平」は「全ての人が同じルールで同じように扱われるべき」ということで、それ自体が「公」が達成すべき価値です。「公正」は、「例え少数でも非常に不幸な人をつくらない」ということであり、これもまた非常に重要な価値だと思います。自責と哀しみを越えて 「効率」は「なるべく多くの人をなるべくたくさん幸福にすること」で、もちろん非常に重要で、昨今はここに重きが置かれる政策が多いように思います。しかし、これだけではだめで、前記の公平や公正も、公共政策を考える上ではとても大事だと、私は常々思っていました。  その観点で見ると、特に医療においては、「公平、公正、効率」のバランスが極めて重要になります。必要な医療が必要な人に届かないことは何より「公正」そして「公平」を害するもので、先に書いた通り、医療の「公平、公正」が害され、明日への希望を失ってしまう不幸な人を決してつくらない努力が必要です。 一方で、それを成り立たせるには、「効率」もまた重要であり、そのための県立病院・基幹病院の合理的経営、そして医療データを用いた(私はこれを「県民健康ビッグデータプロジェクト」としていました)効率的な医療提供体制の整備・運営を実現してほしいと思います。 そして県政の非常に大きな柱である産業政策はおいては、この「効率」という概念が重要になります。「公平、公正」をつくり上げるための夢と活力は、「産業」によって可能な限り効率的にたくさんつくられなければならないからです。 そのために、あえて申し上げると、大型のインフラ整備を「唯一の産業政策」として過大なリソースをつぎ込むようなあり方は、考え直すべき時代に来ていると思います。 インフラ整備は、それが産業のボトルネックだった時代には、産業政策としての役割を同時に果たしました。しかし、人口が減少しつつある現在において過剰なインフラはむしろ社会の負担になります。 また、高度に分化した現在の産業においては、すべての産業、全ての企業に有用なインフラというのは極めて考えづらく、産業政策は基本的にそれぞれの企業、それぞれの産業に合わせたきめ細かいものとすることが、私は現在求められる姿だと思います。ぜひ、それぞれの産業、それぞれの企業のニーズに即した、きめ細かく効率的な産業政策を実現してほしいと思います。 このようなことを言うと、インフラ整備そのものを否定しているように思われるかもしれませんが、私は全くインフラ整備の重要性、必要性を否定していません。人々の暮らしと、産業を成り立たせる基盤となるのは、街であり、街をつなぐ交通網であり、そのすべての安全を確保する様々なインフラです。 どこよりも暮らしやすい街をつくり、その街々を利便性の高い交通網でつなぎ、にぎわいをもたらし、そのすべてを災害から守ることは、自治体の最も基本的な役割の一つであり、その重要性が減ずることはありません。 新潟県の誇りである農業は、より付加価値を高めていく未来の産業であるとともに、中山間地の暮らしを成り立たせる暮らしの基盤でもあります。まず、いま新潟の農業が置かれている現状を地域ごとにきちんと認識し、地域ごとに今ある農業を持続・発展させながら、未来を目指してほしいと思います。週刊誌報道を受け、記者会見する米山隆一知事(当時)=2018年4月、新潟県庁 そして最後に、新潟の未来は、今社会に出ている私たちだけでつくることができるものではありません。これから社会に出る若者たち、これから生まれてくる子供たちの新しい柔軟な力を借りなければ、新潟の未来をつくることはできません。 若者たち、子供たちに新潟の未来をつくる力をつけてもらうための教育は、何よりも変化の速い現代の社会を生きるために必要な知識や能力、考える手法を、一人一人の適正に会わせてていねいに教えるものでなければなりません。 そして、そのためには、教える先生方の環境、教える方法を現場とともにつくって行かなければなりません。ぜひ、若者たち、子供たちの教育に力を尽くしていただければと思います。 自らの責で、自らがこの崇高な仕事をできなくなった自責は自責、哀しみは哀しみとして、この稿がどなたかの、何かの役に立てば幸いです。

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    角栄が気を使った東大卒のエリート集団“官僚”の操縦術

    は、当時も今も、官僚組織から「神輿」として担がれるかどうかにかかっている。 霞が関には将来を見込んだ政治家に若手官僚を貼り付けて政策を指南し、手とり足とり面倒をみて出世させるシステムがあるからだ。 角栄の周囲には、大蔵省(現財務省)、通産省(現経産省)などの気鋭の官僚が集まり、ブレーンとなって「日本列島改造論」をはじめとする田中政権の政策を練り上げていった。現在の自民党の中堅若手の中で“官僚が寄ってくる政治家”は進次郎くらいだ。 本誌・週刊ポストは財務省と経産省が競い合うように進次郎を囲む勉強会を開き、政策から選挙応援演説の内容、立ち居振る舞いまで指導していることを報じた(11月10日号)。当選4回で霞が関の“総理養成講座”を受ける存在は他にはいない。 表面的にはこれも「角栄の道」と同じに見える。だが、政界サラブレッドの進次郎と違って、高等小学校卒業の角栄が最も苦労し、気を使ったのが、官僚という東大卒のエリート集団の操縦術だった。 角栄の時代は官僚全盛期。ヒラ議員は相手にされない。そこで官僚の入省年次から、家族構成、閨閥まで暗記し、夫人の誕生日には花を贈る気配りを見せた。派閥の子分だった渡部恒三は「東大法学部の同窓会事務局長みたいだ、と言ったら角さんにひどくどやされた」と本誌に述懐した。角栄が「人たらし」と呼ばれた所以だ。1976年7月、報道陣のフラシュライトを浴び、緊張の面持ちで東京地裁に入る田中角栄前首相 ただし、田中角栄の写真を2万枚も撮ったカメラマンの山本皓一氏がレンズ越しに見た実像はそんな“伝説”とは違う。「田中邸を訪れた官僚に、角さんが『おい、そういえば今度息子が受験だな』と声をかける。近所のおせっかいなおじさんのような愛嬌たっぷりの表情だったが、言われた官僚の顔は真っ青になった。そこまで情報を知られているのかと肝を冷やすわけです。 しっかり政界と霞が関に情報網を張り巡らせ、“誰がどこで何を言ったかわかるぞ”と凄味を利かせていたからこそ、官僚になめられる太鼓持ちにはならず、官僚はついてきた。進次郎が掲げたこども保険などの政策には財務省の知恵者の影がちらついているが、官僚に頼るだけでは、霞が関の傀儡にされるリスクがある」関連記事■ 小泉進次郎と田中角栄 卓越した話術持つという共通項あり■ 田中角栄の言葉は人間心理の機微を知り尽くした行動伴ってた■ 小泉進次郎氏 首相の座を意識し官僚集めた勉強会立ち上げる■ 山路徹 矢沢永吉マニアの操縦術伝授「永ちゃんなら…」でOK■ モンテネグロで拘束のオウム信者は東大・京大卒の超エリート

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    テレ朝記者「セクハラ告発」と報道倫理

    対するセクハラ疑惑で、財務省の福田淳一事務次官が辞任した。「セクハラ告発」をめぐっては、官僚の資質や政治家の道義的責任、記者の報道倫理まで、議論はさまざまな方面に飛び火した。今回、iRONNAでは記者経験を持つ識者の論考を集めた。賛否が渦巻くこの議論を正面から考えてみたい。

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    テレ朝記者「セクハラ告発」に舌打ちしたオンナ記者もきっといる

    鈴木涼美(社会学者、元日経新聞記者) 財務官僚のトップがセクハラ発言で辞任、なんていうニュースをフランス人の友人が見て、未開地の部族のニュースのようだとバカにしていた。 確かに気軽にICレコーダーを使いそうな職業のオンナを目の前に「おっぱい」とか「エロい」とか「うんこ」とか言える感覚は前近代的だ。ユダヤ系米国人女優のナタリー・ポートマンがイスラエルの賞を辞退した、とかそんなソフィスティケイテッドなニュースに比べると、うん、確かに原始人みたいなニュースではある。 週刊新潮に最初に掲載された福田次官と女性記者とのやりとりを読んだときに、ふと思い出したのはとあるおじさんのことだった。 以前とあるトーク番組で、突発的に私が番組のアシスタントMCをすることになった。なんでそんなもっときれいどころ(美人という意味ではなく清廉性のハナシ)がやるべき仕事がワイのところにきたんだ?と不思議に思っていたのだが、当該回のゲストがカリスマAV監督の村西とおるさんだというのを聞いてなんとなく納得した。 村西監督はAV村で愛されるキュートなおじさんなのだけれど、いかんせんそんな村で培養された期間が長いため、会話の端々に「オマンコ」「足の付け根」なんていうちょっとエッチな言葉を挟まずにはいられない。 レギュラーアシスタントであるフリーアナウンサーへの番組側の配慮(つまりゲストがアナウンサーに向かってオマンコきついですか? とか聞くのはどうなのか、という話)として、その回だけは元AV嬢の私を起用したらしい。私としては仕事が増えただけでなんら問題はない。オマンコがきついかどうかはさておき、私もかつてその村にいたのだから。アダルトビデオ監督・村西とおる氏=2005年11月15日(撮影・佐藤雄彦) 監督自身は邪気も悪気も、実際のところはほとんどエロな視点もなく、ほとんど習慣、なんなら彼的にはむしろサービスに近い礼儀でそんなことを言っている。7000人以上のあそこをカメラ越しに見てきたわけだから、もはや1人2人増えようが増えまいがどうでもいいのだろう。 AV業界という動物園にいるぶんには無害で楽しい存在だが、高度に洗練された2010年代の実社会に放たれると、速攻で「#MeToo」委員会に捕獲されかねない危険人物となる。 さて、福田次官のやりとりはAV監督ではなく東大法学部卒司法試験合格のエリートによってなされたためか、「あなたの足の付け根はきっと締めます締めます山手線…」という村西節に比べると面白さでは数段下だ。 しかし、みだらな言葉の入れ込み具合では同レベルで張り合っている。「抱きしめていい?」「おっぱい触っていい?」と同意を得ようとしているぶん、言葉遊び、なんて言う割には遊びに乏しく少々弱気でもある。オンナだって一枚岩ではない 彼らのような男は大変生きづらい世の中になったと思っているに違いない。若い時分にはノーパンしゃぶしゃぶで密談する上司なんかを尻目に、おっぱいの一つももめなきゃ出世なんてできないぜ的価値観を押し付けられ、財務省という海を泳いできて、ここにきて「おっぱい触っていい?」と聞いたら社会での立場も大人としての威厳も全て失う。 かといって別に同情する気にもならないのは、彼が日本のエリートの代名詞のような立場にありながら、そして財務省では鋭い勘を頼りに出世してきたにもかかわらず、時代の空気を読む勘がごっそり抜けていたところが、どうにも間抜けだからだ。どうしてもみだらな言葉を挟み込んで死んでいきたいなら、村西監督よろしく実社会とやや隔たりのある動物園で過ごしていればいいのにというのが率直な感想だ。 しかし、自分の所属するメディアや自分のジャーナリズム精神を使うのではなく、週刊誌に頼ってまでセクハラオヤジを駆除しようとした勇気ある女性記者、ノーパンしゃぶしゃぶの時代から抜けきれずになんとか勝ち抜けようとしたら最後の最後で捕獲されたバブルおやじ、そんなこの時代らしい登場人物に埋もれて声を失っている者がいることについてはあまり考慮されていない。私は一点、まさにそこだけにこの女性暗躍時代、じゃないや女性活躍社会の闇を感じないでもない。 オンナだって一枚岩ではないのだ。男並みに実力とロイヤルティーで働きたい女性、女なりに活躍したい女性、女ならではの活躍をしたい女性。そんな中、女の武器などなかったことにして、勉学や労働に勤しみ、あたかも乳も足の付け根もついていないかのように振る舞い、かといって女性らしい美しさを失わない、きれいで清廉潔白な女性はどんどん発言の場が広がり、汚いものが駆除されて働きやすい時代が間近に迫っているのかもしれない。 しかし、清廉潔白でもきれいでもない女たちは、つるし上げられるバブルおやじたちを横目に、ちょっと本音でも漏らせば、おじさんに向けられている矛先がすぐにでも自分の眉間を目指しそうな、嫌な緊張感のもとにいる。辞意を表明した財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日午後、東京都千代田区(桐山弘太撮影) 許可を得ずに録音した本来の取材とは関係のないテープを週刊誌に横流す女性記者をみて、心強いと感じた女性がいるであろう反面、自分を担当している愛想の良い、手練手管の女性記者の取材を急に恐ろしく感じた男もいるであろう。 同時に、いい感じにあほなおやじを手のひらで転がしてうまいことやっていたのに、と舌打ちしているオンナだっている。おじさんに、警戒心と恐怖心を抱かれた時点で自分が女性ならではのやり方で積み上げてきた仕事のやり方が一気に崩壊するからだ。生きづらいのはおじさんだけじゃない オンナを使って出世する、なんていう事態を世間は非常に冷ややかな目で見るが、生理の時には痛み止めを飲んでナプキン変えて、男より人生のうちに仕事に費やせる時間が少ない。 ましてや、もし子供を持とうと思えば長期のインターバルを余儀なくされる女が、会社の中でそれなりに自分の存在意義を認めたいとすれば、女の自分に使えて男のあいつらには使えないものを惜しみなく使い、男以上の価値を発揮するのだって、ある意味ではいじらしい努力である。国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会。女性団体の代表や国会議員、市民が参加した=2018年4月23日 だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから。 もっと次元を落とせば、単に女性としてみられていないと機嫌が悪くなる女だっているし、官僚とのラブロマンスを望んで記者になる女だっているし、容姿に恵まれず殿方と縁がない人生を歩んできたものの、男ばかりの会社で記者になったらこんな私でも女の子扱いしてもらえる、なんて悦に入っている女もいる。胸を見せたくらいでネタが取れるならそんなにラクなことはない、と思っている元AV記者だっている。 そういった女ならではの感情を持たずに生きるのが正しいなんて誰が決めたんだろう、とちょっと思う。 何事にも清廉潔白を求める空回りの正義感によって生きづらくなっているのが、おっぱいもみながら日本経済を支えてきたバブルおやじだけだと思っているならば、それはおじさんの被害妄想だ。 女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易(へきえき)としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない。

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    女性記者の「セクハラ告発」でテレビ朝日が犯した二つの過ち

    上谷さくら(弁護士、元毎日新聞記者) 財務省の福田淳一事務次官によるテレビ朝日の女性社員へのセクハラ問題は、福田氏が辞任表明したことで、テレ朝の対応や女性社員の個人情報に関心が集まるようになった。私は大学卒業後、毎日新聞社で記者をしており、刑事事件から行政、選挙の取材などを一通り経験した。その後、弁護士となって犯罪被害者支援をライフワークとし、性犯罪被害の相談を多く手掛けている。その経験を踏まえ、テレ朝の問題点や同社女性社員の保護について考えたい。 テレ朝の記者会見によると、女性社員からセクハラ相談を受け、自社で報道してほしいとの要望を聞いた上司は、報道すると女性社員が特定されて二次被害に遭うので報道しない、と答えたという。 詳細は不明だが、「報道しない」と回答するだけで終わったのだろうか。もし、そうだとすれば、女性社員のセクハラ被害を放置し、結果的に福田氏のセクハラ行為を継続させたテレ朝の責任はあまりにも重い。 確かに、自社で報道すると個人が特定されやすく、被害者が二次被害に遭う恐れは十分にある。女性社員が報道を望んでいたとはいえ、覚悟のうえの申し出だろうから二次被害に遭っても構わないというのは、あまりにも短絡的であり、この上司が女性社員の二次被害を心配したこと自体は評価されるべきである。 その際、具体的にどのような二次被害が想定されるのか、福田氏が全面否認した場合はどうするのか、今後も女性社員は財務省の取材を続けたいという希望があるのかなど、十分な話し合いがなされたのであろうか。 このような相談がなされ、相談者が明確に「こうしたい」という希望を持っている場合でも、その希望自体がそもそも無理な場合や、希望が実現するとかえって相談者が傷つく結果を招くケースは多い。 ゆえに、相談者の希望とは少し異なる方法だが、相談者にとってメリットが大きく、被害回復に資する手段をいくつか考えて提案し、どの方法を選ぶのがいいのか一緒に考えるプロセスが重要である。 今回の場合、女性社員があくまで自社による報道にこだわり、それ以外の選択肢については断ったのかもしれない。だが、例えば、テレ朝として財務省か福田氏個人に抗議したり、女性社員を福田氏の担当から外したりする方法もあっただろう。2018年4月16日、財務省を出る福田淳一事務次官(中央)。女性記者へのセクハラ疑惑を否定した マスコミ各社は多くの場合、このような手段を取っているはずで、そんなことでは女性記者が置かれた劣悪な労働環境は改善されないが、一定の歯止めにはなるはずだ。会社が「何もしない」ことは「被害者を見捨てた」も同然で、被害者を傷つけることは間違いない。一緒に考えて手を尽くすこと自体が、被害回復にとって非常に重要なのである。 テレ朝が記者会見で、女性社員が『週刊新潮』に今回の事件のことを持ち込んだことについて「遺憾である」と表明した。私は、この一言が一部の人たちから女性社員が激しくバッシングされる流れを決定づけたと思っている。テレ朝はこのようなことを絶対に言うべきではなかった。その理由は二点ある。 一点目は、この期に及んでテレ朝が女性社員を守る視点に欠けていたことである。女性社員が週刊新潮に情報を持ち込んだのは、テレ朝が女性社員の訴えにきちんと対応せず、このままでは福田氏のセクハラ行為や同じような立場に置かれた女性記者の苦しみが続いてしまうと考えたための苦肉の策であろう。新聞・テレビの「よくある慣習」 つまり、やるべきことをやらなかったテレ朝の態度が、女性記者にそのような行動を取らせたのである。それを「遺憾」と言い放ったのは、今回は例外的なことであって、テレ朝の他の記者はそんなことはしないから安心してほしい、という対外的なアピールだったと思う。全力で女性社員を守らなければならないテレ朝が、そのことよりも会社としての体面や取材先との関係を優先した結果、被害者の傷を深くしたのではないか。 二点目は、大手新聞社やテレビ局が、ネタを週刊誌に持ち込むことはよくある慣習という点だ。新聞社やテレビ局の記者があるネタをつかんだ時、そのメディアの性質上、報道に適していないと判断されたり、取材先との関係を重視して自社では報道できないなどの理由で、報道を断念することがある。 しかし、何らかの方法で世に知られるべきだと思われる場合などに、その記者個人や、時には上司の判断で、週刊誌に情報提供して報道してもらう。報酬が発生するかどうかはケースバイケースのようだが、小遣い稼ぎ感覚の記者もいる。 そこで、取材源まで明かされているかどうかは分からないが、少なくとも大手新聞社やテレビ局の記者が、週刊誌に情報提供するのが普通に行われていることは明らかである。 テレ朝の女性社員は、メディアに身を置くものとして、そのような実態を熟知していたはずだ。なにしろ、財務省事務次官という強大な権力を持つ者による悪質なセクハラ行為が、テレ朝によってなかったことになりかけていたからだ。 それを防ぐために、女性社員が週刊新潮に情報提供したことは自然な思いつきだったであろう。そのことについて、大手メディアに所属する人間が、さも悪であるかのように評価するのはお門違いであるし、偽善である。 大手メディアと週刊誌とのそのような関係は、一般的には知られていない。それにも関わらず、テレ朝が上記のような言い方をしたために、この女性社員がことさらに悪いことをしたように誤って評価され、それがバッシングの一因となった。 テレ朝は、「結果的に取材源の秘匿という問題に不安を抱かせることになったかもしれない。それも全てわが社の対応が悪く、女性社員を追い詰めた結果である。彼女に責任はない」と言って頭を下げるべきだったと思う。2018年4月18日、女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにしたテレビ朝日の記者会見 テレ朝の記者会見後、テレ朝がことさらに悪者のように言われている。しかし、テレ朝だけの問題ではない。テレ朝を悪者にして終わりにしていい話ではない。 新聞社やテレビ局の人であれば、現場の記者がセクハラやパワハラに日常的にさらされていることは常識として知っている。ただ、被害に遭っている記者は、それを言い出すと同僚や上司、会社に迷惑をかけると思っているのであまり口にしない。忙しすぎて、そういうことを相談する時間もない、という現実もある。 誰に相談するのかも迷う。誰を信頼していいのか、その人に相談して対処してくれるのか、という悩みもある。つまり、誰かに相談するというのは、よほど耐えられないと感じた場合が多い。大手マスコミの女性記者たちよ、立ち上がれ そして実際に記者から相談があった場合、会社としてどう対応しているか。相談者の要望としては、取材先に内々で抗議してほしいとか、担当を変えてほしいというのが一般的だろう。会社は、そのくらいの対応はしていると思う。 しかし、今回のように「自社が報道すべきだ」と訴えられた時、その望み通りに報道したメディアはあっただろうか。世間には、「女性社員の望む通りに報道すればよかったのだ」という向きもあるが、今回のケースが自社だった場合、「それは出来ない」と断ったメディアがほとんどだったのではないか。各社の見解を聞きたいところだ。 また、全国的に「その女性記者は誰だ」という注目が集まっている中で、最悪な形でほぼ個人が特定されてしまった。インターネットには、特定した情報が流れているし、取材源の秘匿を守らずに週刊誌にネタを売ったけしからん人間である、と公然と批判する人もいる。 しかし、福田氏の言動がセクハラであり、大多数の女性が不快感を覚えることは明らかであるし、福田氏に共感する男性が少ないこともまた明らかだ。 テレ朝の女性社員は、公表によって自らがバッシングを浴びることを予想していただろう。それでも泣き寝入りしなかった彼女に敬意を表したい。今後は、彼女の尊厳を回復することに全力を注がなければならない。 これまで、セクハラ問題は、告発した女性がバッシングされ、居場所がなくなる現実が多くあった。会社内でセクハラした人が配置転換され、被害者が不利益的な扱いを受けなかったとしても、何年も「あいつのせいで〇〇は飛ばされた」などと後ろ指を指される様子を多くの女性たちが見てきた。 その結果、「あんな目に遭うなら泣き寝入りしよう」ということになり、いつまでもセクハラがなくならない、男性の意識も変わらないという悪循環が続いている。今回もこれまでのところ、全く同じ構造だ。 まず、大手マスコミの女性記者たちに立ち上がってほしい。沈黙はセクハラをしているのと同罪だ。テレ朝の女性社員は、女性記者みんなの声を背負って自分が犠牲となったのだ。最近は女性記者の数も多い。会社の垣根を超えて団結し、どうしたらこのような問題がなくなるのか真剣に考えてほしい。この機会を逃したら改善される機会はなくなるかもしれないのだから。2018年4月23日、国会内で開かれた「セクハラ被害者バッシングを許さない」とする緊急集会 また、セクハラの話になると、男性が全く当事者意識を持てないのも問題だ。問題意識を抱いている男性も多いと思うが、「女性は大変だね。頑張ってね」と他人事で済ましていると感じる。それではこの問題はいつまでたっても終わらない。 セクハラはパワハラとセットになっていることが多い。男性にとっても自分の問題でもあるはずだ。真剣に考えてどうすればいいのか方法を考えてほしい。自分が感じた苦い気持ちを思い出してほしい。 テレ朝の女性社員の二次被害をどう食い止め、彼女の尊厳を回復するか。今となっては非常に難しい。ただ、世の中が少しでも変わるのであれば、それが彼女の被害回復に資すると思う。

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    「福田さん、あんたはエライ!」テレ朝記者セクハラ告発、私の本音

    う」という思いも強かったからだ。特に、女性記者とはその点で合致していると思う。 それにNHKの場合、政治家絡みの事件では、ネタがなかなか日の目を見ることが少ない。中にはとんでもないデスクがいて、「ネタ元を明らかにしろ。その人が信頼できるかどうかで出す出さないを判断するから」と、ロクな取材もしてこなかったような先輩に問いただされたものだ。そういう場合の発信場所を文藝春秋に求めていたのである。その時の「相方」は、いまや社長や常務になったが、この2人の編集者なら絶対の信頼が置けたからだ。だから、私は2人と当時の編集長以外、文藝春秋の編集者をほとんど知らない。 おそらく、女性記者も同じ気持ちだったのだろう。会社の上司にセクハラを報告しても相手にしてくれないのなら、他の媒体に持ち込む方法しかないと思うのは自明の理である。むしろ、彼女をここまで追い詰めたテレ朝の上司や幹部は、反省や遺憾の意を表すどころではなく、厳しく処分されるべきである。「お前ら涼しい顔して逃げるんじゃねぇ」と私が怒鳴りつけたい気分だ。2018年4月、福田財務次官のセクハラ問題について会見に臨むテレビ朝日の篠塚浩報道局長(右)と長田明広報局長(佐藤徳昭撮影) 最後は女性記者に対する今後の処遇の問題である。一つ目でも触れたように、彼女が望もうが、記者としては残念だが活動しづらいと思う。綺麗事で言えば「正義のセ」なのだから、何ら臆(おく)することはないのだろう。しかし、現実に戻れば、そう簡単にはいくまい。 だからこそ、社を挙げて彼女を守ることが重要なのである。年齢を問わず、こうした過酷な事態の渦中にあって、精神的にボロボロになっているはずだ。彼女が「よくやった」ことは動かぬ事実であり、称賛すべきことだと思う。それだけに、代償が大きすぎてはいけない。 余計なお世話だが、彼女には、ぜひ人権や弱き側の心をくみ取ったドキュメンタリーを作れるようなディレクターに新天地を見つけてほしい。こういう発想が、まだまだ私に「明治の尻尾」が残っているからかもしれない。むしろ、今の人なら、平然とそのまま取材記者を続けるのかもしれない。それができるメディアの世界であってほしいが…。

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    「財務官僚が不祥事連発する理由」を竹中平蔵が斬る!

    、官僚組織との戦いと改革に取り込んでこられた竹中平蔵氏に、超わかりやすく、解説していただこう。竹中 政治がなかなか変われない最大の理由は、政策が官僚終身雇用制度の上で作られているからだと思います。キム どういうことですか。竹中 官僚は政権が代わろうがどうしようが、クビになりません。公務員なので、不利益処分を受けるときはいろいろ条件がつく。公務員には団結権がないので、ストをしてはいけないことになっている。その分、しっかり守られているんですよ。 それに、官僚は終身雇用制で、東大を何番で卒業して公務員試験に何番で受かったか、そしてどういうキャリアを積んだかがずっとついて回る。そういう人たちが、政府の政策をずっと継続させているわけです。 だから業界団体等としては、ある時点でお上の言うことを聞いていれば、次も安心なんです。逆に逆らったりすると、その時点ではうまくいったとしても次で仕返しを食らう。「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉がありますが、それを官僚たちはやるんです。だからお上はすごい力を持っている。その力の最大の要因が、終身雇用・年功序列なんですよ。事実上更迭され、記者の質問に答える財務省の福田淳一事務次官=2018年4月18日キム 官僚には終身雇用と年功序列が保障されているため、そういう人に一度でも逆らうと、ずっと恨まれてどこかで復讐されると。だから国民や業界団体は省庁に対して恐れを持っていて逆らえないということですか?竹中 そうです。経団連をはじめとする業界団体は、みんなそれをわかっています。だから経団連の事務局というのは、同じく年功序列で霞が関理論に追従する官僚的組織になっているわけです。いわば「民僚」です。誰かがお上に逆らって改革をやろうとしても、だいたい裏切るのは経団連なんですよ。上からの近代化も時代遅れキム つまり財界は官僚に従い、官僚は議員に「先生、先生」と擦り寄り、議員は財界からお金を恵んでもらう。そういうトライアングルになっているわけですね。竹中 そのとおり。その鉄のトライアングルは強力で、お互いにもたれ合う仕組みになっている。官僚は国会議員の先生に自分たちが作った法案を通してもらわなきゃいけない。議員先生は財界からお金をもらわなきゃいけない。財界は官僚に支配される立場にあるから、いろいろお伺いを立てなきゃいけない。そういうジャンケンのような形になっているんです。 このトライアングルはすごいですよね。アメリカだとコインの裏と表だから、勝つか負けるかなんだけど、日本はジャンケンだから明確な強者がいないんですよ。 ついでに言うとね、これまでの官僚制度というのは、要するにエリートの促成栽培制度なんですよ。国家公務員の上級試験というのがありますよね。しかし、その試験を通っただけで高級官僚になれるというのは、どう考えてもおかしいでしょ。そんな大した試験じゃないんだから。キム そうですよね。こんな試験で「真の公僕」に必要な能力を測れるんですかっていう感じです。竹中 近代国家を作るとき、とにかく誰かをエリート官僚にしなきゃいけなかった。だから促成栽培制度を作ったんですよ。それが今日でも残っている。 大学入試というのも、促成栽培の一環のようなものですよね。あんなもので人間の能力を測れるわけがない。結局、ものすごく安上がりな制度なんです。竹中平蔵・慶応大学教授=2014年12月5日 (野村成次撮影)竹中 実はこの原点は明治維新後の大久保利通に遡ると思います。明治新政府の発足早々、大久保は岩倉使節団の副使節団長としてアメリカとヨーロッパを回っています。 実はそのとき、ドイツでビスマルク首相の自宅に招かれているんです。そこでビスマルクは、大久保たちを相手に熱弁をふるったと言われている。曰く、ドイツというのは、小国プロイセンを中心としてようやく統一された国家であるわけです。 しかしヨーロッパではイギリスとフランスが先行している。ドイツが彼らに追い付くためには、上からの近代化じゃないとダメだ、と。 つまりイギリスやフランスでは、ブルジョアジーが育ち、啓蒙思想が育ち、それで市民革命が起きて近代化が進んだわけです。しかしドイツとしては、そんなプロセスを待っていられないと。そこで上からの近代化が必要と説いたんです。 大久保は、ビスマルクの話にすっかり感化されたらしい。帰国後に内務省を作って初代の内務卿に就任すると、殖産興業を徹底しながら上からの近代化を強引に推し進めていくわけです。 そのために内務省の中には警察も入れました。時には警察権力を使ってでも、国民に言うことを聞かせようとしたんですね。 だから大久保は日本の近代化にたいへん貢献したことは間違いありませんが、庶民からはすごく恨まれたそうです。それで結局、47歳の若さで6人の士族にめった刺しにされた。これがいわゆる「紀尾井坂の変」です。いかに恨みを買っていたかということでしょう。「組織を護ること」が至上命題(ムーギー・キム)以上では、『最強の生産革命 時代遅れのルールに縛られない38の教訓』から、官僚組織の問題点に関して論じられている部分を一部抜粋して紹介した。ところで私は重ね重ね立派な官僚の皆さんがたくさんいらっしゃるのは知っているし、めったやたらな批判はできない。財務省の外観・看板=2018年3月26日、東京・霞が関(桐原正道撮影) ただそんな優秀な官僚の皆さんと「なぜ官僚組織は官僚的なのか」という議論をしていると必ず指摘される弊害が、「一度省庁に入ったら、他の省庁に移れないので、省庁の権益確保が至上命題になってしまう」という悲しい二流な時代遅れの人事システムである。 とある上級官僚に今後の組織改革の方向性を聴いたら、「もっと官僚も民間に出て、相互に中途採用の交流をはかるべき」だというし、他の省庁へのキャリアパスを用意することの大切さを語っておられた。確かに、今時どこの民間企業でも終身雇用は崩壊しているのに、官庁だけ「一度入ったらその省庁で一生出世を目指す」というコースしかなければ、どうなるだろうか? 国や社会のための全体最適ではなく、所属する省庁の利益の最大化と、そこでの出世という、「極めて視野の狭いキャリアパス」しか描けない。そうすると、「出世の鍵を握る官邸を忖度することでしか上に登れない二流の官僚」が、官邸ズブズブ官僚として、政官のもたれあいを強めることは避けられないのである。 そういえば私の友人も某省庁での官僚歴が長いが、「なぜこの人が」という尊敬できない人に限って出世していくのがいたたまれない、と語っていたものである。「官僚の無謬(むびゅう)性」への拘泥(こうでい)が問題視されて久しい。よくコーポレートガバナンスの改革をなどと政官が唱えているが、まずその前に、自分の組織のガバナンス改革から始めなければならないのは、一連の官僚不祥事が次期首相に課した最大の課題の一つなのである。(本記事は『最強の生産性革命 時代遅れのルールに縛られない38の生き方』より一部を抜粋し、加筆のうえ編集したものです)たけなか・へいぞう 東洋大学教授・慶應義塾大学名誉教授。1951年、和歌山県生まれ。1973年、一橋大学経済学部卒。2001年、経済財政担当大臣に就任。以後、金融担当大臣、総務大臣などを歴任する。2013年、安倍政権で産業競争力会議有識者委員に就任。著書に、『竹中流「世界人」のススメ』(PHPビジネス新書)ほか多数。ムーギー・キム 投資家、『最強の働き方』『一流の育て方』著者。1977年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。INSEADにてMBA(経営学修士)取得。大学卒業後、外資系金融機関の投資銀行部門にて、日本企業の上場および資金調達に従事。その後、大手グローバル・コンサルティングファームにて企業の戦略立案を担当し、多くの国際的なコンサルティングプロジェクトに参画。2005年より世界最大級の外資系資産運用会社にてバイサイドアナリストとして株式調査業務を担当したのち、香港に移住してプライベート・エクイティ・ファンドへの投資業務に転身。ベストセラー作家としても知られ、近著に、『最強の健康法―世界レベルの名医の本音を全部まとめてみた』(SBクリエイティブ)と、『最強のディズニーレッスン―世界中のグローバルエリートがディズニーで学んだ、50箇条の魔法の仕事術』(三五館シンシャ)がある。関連記事■竹中平蔵 × ムーギー・キム 大企業エリート信仰は時代遅れ■竹中平蔵 × ムーギー・キム 日本の政治が変わらない理由■高橋洋一 前川喜平氏の「大活躍」

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    テレビ朝日が「セクハラ被害会見」で守りたかったのは誰?

    『週刊新潮』でセクハラ問題を報じられた福田淳一・財務事務次官の辞任発表を受け、4月19日未明から急遽開かれたテレビ朝日の記者会見。急ぎ駆けつけた本誌・週刊ポスト記者を待っていたのは意外な事実だった。「今回はお世話になっている新聞社とテレビ局の方のみに来ていただいております。すみません」 受付の男性にバツの悪そうな表情で“週刊誌立ち入り禁止”を通告されたのである。 会見では、1年半ほど前から福田氏によるセクハラ被害を受けていた女性記者が上司に報道することを提案。本人特定による“二次被害”のおそれから「報道は難しい」と判断され、この女性記者は『週刊新潮』に音声データを提供したという経緯が説明された。 しかし、この会見には不可解な点が多すぎた。まず、なぜ発表は次官が辞めたあとだったのか。「福田氏がセクハラを否定したまま辞任し、この問題の幕引きを図ろうとしていたためそうはさせじ、というのが表向きの理由です。一方で『週刊文春』に“テレ朝説”が書かれるなどメディアの詮索が激しくなっていたため、これ以上黙っているわけにはいかなくなったという判断もあったはず」(テレ朝関係者) 一方で、財務省への“配慮”もうかがえる。「局内には、『今回の件で官僚を敵に回して、記者クラブから爪弾きにされ、情報が取れなくなるような事態は避けたい』という意見もある。次官が辞めてからなら『抗議する相手は財務省じゃなく前次官』という体裁が取れると考えたのではないか」(同前)福田事務次官のセクハラ問題について会見する篠塚浩取締役報道部長(右)と長田明・広報局長=2018年4月19日、東京都港区(撮影・佐藤徳昭) 事を荒立てたくないという本音は、「女性記者を守る」と言いながら、新潮に情報を“リーク”したことに関して「不適切な行為だった」と突き放した点にも透けて見える。スクープしたのは『週刊新潮』なのに週刊誌を排除して会見を開き、自局で生中継すれば話題必至のはずなのにそれすらしない。「記者クラブに向けた会見だったため週刊誌は対象ではなかった。会見の中継については総合的な判断によるものです」(広報課) テレビ朝日が守ろうとしているのは、勇気ある告発をした女性記者か、それとも記者クラブ利権か。関連記事■ 大下容子アナ、足を組み替えるたび現場で「オー」と歓声■ 年上の女性上司に「パワハラ」された男性会社員たちの告白■ 堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者■ 「新しい痴漢」の悪辣な手口 女性スタッフの盗撮も横行■ 福田元事務次官のセクハラ疑惑会見に心理士がツッコミ

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    堅物官僚から情報を取るべく、各局が送り込む才媛記者

    ビ朝日の進優子記者は女子アナと見紛うような美形ですし、フジテレビの石井梨奈恵記者は上智大学から仏パリ政治学院に留学した経験のある才媛。NHKの山田奈々さんは突っ込んだ取材をする優秀な記者だと評判です。ぼくたち若手はほとんど相手にされませんが、一癖も二癖もある幹部たちから直接、携帯で呼び出されるのを見るとホントに大変そうです」 冒頭の通り、財務省は血眼になって報じられた女性記者を探している。「音源を全部聞いたわけではないので状況はわかりません。福田氏の言う通り、クラブでホステスとの会話という可能性がないわけではない。それにしても被害を受けたという記者に“名乗り出て”というのはおかしな話。情報を握るために必死の記者が自ら名乗り出られるはずがないし、セクハラを受けた女性が被害を訴えることに抵抗があるのは当然のこと。誰が相手だとしても、音源があるのだから、福田氏を徹底的に調査すべきです」(前出・全国紙記者) 福田氏は新潮社を名誉棄損で提訴するというが、向かう新潮社も記事に絶対的な自信を見せている。関連記事■ 総理執務室撮影したNHK美人解説委員に局内部から痛烈な批判■ NHK記者 “官邸の最高レベル”スクープを不発弾にされ不満■ 昭恵さんに呆れる安倍首相「離婚できるならとっくにしてる」■ 安倍首相、「昭恵抜きで訪米したい」の打診却下されガックリ■ 安倍首相の「悪だくみ人脈」 始まりは昭恵さんだった

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    #MeTooに便乗した枝野幸男のセクハラ追及は「限りなくアウト」

    速に決めつけて進むべき問題ではないように思う。 だが、野党の姿勢は、この私的なセクハラ問題をむしろ「政治闘争」の素材にしてしまっているのではないか。中でも一部の野党議員は「#MeToo(私も)」運動を標榜(ひょうぼう)し、黒いスーツを着用して国会を中心にパフォーマンスを展開している。「身内」と矛盾する立憲民主党2018年4月22日、松山市内で取材に応じる立憲民主党の枝野代表 今回のセクハラ問題に対して、本当に野党6党が共同で抗議するのであれば、まずはセクハラ問題を起こした野党議員への対処をしたらどうか。例えば、J-CASTニュースによれば、立憲民主党のセクハラ問題を起こした2人の衆院議員について、同党の枝野幸男代表らは双方で話し合いや和解が済んでいることを理由にして、現状以上の処分を避けている。むしろ、野党6党が今、麻生氏に退陣要求している理屈を援用すれば、枝野氏自らの進退にもかかわるのではないか。 もし、現状の立憲民主党と同じ方針を採用するのであれば、財務省のケースも、まずは双方による調停や、また財務省が行っている調査や処分の経過を見守るのが正しいのではないか。今の立憲民主党による麻生氏への辞任要求は、さすがに「身内」への態度とあまりにも矛盾している。 だいたい、現在の世界情勢を考えると、国際的な情報収集のために、今こそ政治家たちが与野党問わず、奮闘すべきときだと思う。確かに、セクハラ問題の解明も重要であるが、現在は財務省の今後の対応を見守るべき段階であろう。むしろセクハラ問題を、見え透いた倒閣目的での利用に走る野党が残念で仕方がない。 マスコミにも問題はある。特に女性記者が在籍しているテレビ朝日である。自社の女性記者が上司に相談したとき、セクハラの訴えを事実上抑圧してしまっているからだ。そのため、女性記者は『週刊新潮』に身に起きた事態を告げたのだろう。また自社の記者がセクハラ被害をうけたときの社内対応が全くできておらず、それが1年以上続いたことで問題の長期化を招いた疑いもある。 だが、テレビ朝日の報道・情報番組では、自社の対応への反省よりも、ともかく安倍政権批判にが優先であるように思える。その一端が、問題発覚直後に放送された『報道ステーション』の一場面に現れている。 4月19日の番組内で、コメンテーターの後藤謙次氏は「テレビ朝日が最初、女性記者から相談を受けたときの対応は大いに反省してもらいたい」としつつも、「ただ今回、記者会見をして事実公表したことで、ギリギリセーフ」と述べた。 この見解はさすがにおかしい。女性記者の訴えが上司によって事実上握りつぶされてしまっていたからだ。また、女性記者がセクハラを長期間耐え忍んだことに、セクハラを事実上許してしまう会社の体質や、セクハラに対して不十分な態勢が影響していたのかどうか。それらの疑問点が番組では全く明かされることはなかった。 むしろ「ギリギリセーフ」どころか「限りなくアウト」としか筆者には思えない。また、多くのマスコミも一部を除いて、テレビ朝日の対応に批判的な声が上がっているようには見えない。これも実におかしなことである。テレビ朝日をはじめとするマスコミや、野党による今回のセクハラ問題をめぐる対応には、いろんな点でますます疑惑が深まるばかりである。

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    西部邁氏が安倍首相に残していた「痛烈な遺言」

    本は死後の出版になる』とはっきりおっしゃっていました」 その遺作の内容として注目を集めるのが、“保守政治家”を自任する安倍首相への最期のメッセージである。 本書には、「安倍首相よ、プラクティカリズム(実際主義)の空無を知られたし」と題し、こう書かれている。〈首相に限らず現代人は、指導層であれ追随層であれ、おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいるといってよいであろう〉衆院予算委の集中審議で、疲れた表情を見せる安倍首相(右)と麻生財務相=2018年4月11日午後 とりわけ、西部氏がかねて訴えてきた「対米追従からの自立」に、安倍政権が一向に踏み出さないことへの失望は大きい。〈世界はマルチポーラー(多極)の時代に入っている。そのことに日本政府はどこまで自覚的なのであろうか〉〈対米追従に徹しておればこの列島は何とか生き延びられるであろうというプラクティカリズム(実際主義)の態度が現代日本人に骨がらみにとりついてしまったことの帰結なのであろう〉 かつて交流のあった安倍首相は、この遺言をどのように受け止めるのか。関連記事■ 【大塚英志氏書評】保守を語る西部邁氏の最後の書■ 安倍、岸田、石破…憲法改正口にするのは「目立ちたいから」■ 田久保忠衛氏 安倍首相は「9条2項削除」に踏み込むべき■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」■ 香取慎吾が安倍晋三首相に作品を紹介、がっちり握手

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    財務次官セクハラ疑惑 「被害者」テレ朝記者の行動も問題である

    を売ったかについては、十分な説明はない。 そこで、本当にそれ以上の裏はないのか疑いたくなるのである。政治家と官僚の関係が、忖度、公文書改ざんなど、さまざまな点から問題になっている。うがった見方をすれば、今回のセクハラ疑惑報道は、政治家側、つまり自民党、首相官邸側の「高等戦術」ではないかとすら思いたくなる。 なぜなら「悪いのは、財務省であり官僚であって、政治家ではない」というイメージを世間に拡散させるには、次官のセクハラ・スキャンダルは格好の材料になるからである。佐川国税庁長官(前理財局長)が辞め、今度は次官がやり玉に挙がるとすれば、「財務省悪玉論」が定着する。森友・加計問題も、政治家の関与などはなく、すべて悪いのは官僚だというイメージ操作に有力な材料を与えるであろう。 知ってか知らずか、野党は鬼の首でも取ったかのように、政権批判に「大はしゃぎ」している。自らの調査でもなく、マスコミ報道に依拠して追及しているだけで、政権奪取の気概も何もない。国会では、国民のために必要な法案を審議するなど、他にやることが山積しているのではないのか。テレビ朝日の女性社員が福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていたと明らかにする同社の篠塚浩報道局長=2018年4月19日未明 権力闘争に明け暮れる一方で、解散総選挙を恐れる戦略の無さは、政党支持率が低迷し、一向に改善しないことにも現れている。野党の無策に、国民も閉口していることに気づくべきである。財務省の行為は万死に値する しかしながら、安倍政権にとっても、事態は決して楽観できるような状況ではない。NNNが4月13~15日に実施した世論調査では、内閣支持率はこれまで最低の26・7%、不支持率はこれまで最高の53・4%になった。ついに支持率が2割台に下落し、不支持率は支持率の2倍となった。これは政権維持に黄信号が灯りはじめたことを意味する。 同じ週末に行われた共同通信の世論調査では、内閣支持率は5・4ポイント減の37・0%、不支持率は52・6%であり、女性の支持率は29・1%と初めて30%を割っている。朝日新聞の調査でも、支持率31%、不支持率52%と、支持率の下落・低迷の傾向は変わっていない。 このような結果になったのは、財務省の役人による公文書の改ざんが明らかになったときに、組織のトップである麻生太郎財務相が責任を取って辞任しなかったからである。公文書は絶対に改ざんしてはならない。それは、官僚の職務規律であり、民主主義の基礎である。そのルールがいとも簡単に破られたことは、国権の最高機関である国会に対する反逆であり、万死に値する。 しかも、それは財務省という組織ぐるみの行為であり、このような場合には、組織のトップが引責辞任するのが筋である。その組織存続の基本が守られなかったことが、財務省にもろに跳ね返ってきたのである。そして、それは安倍首相批判の声をさらに高めることにつながった。 安倍政権は、安倍首相、麻生副総理兼財務相、菅義偉(よしひで)官房長官のトロイカ体制で安定しており、派閥の力学もそれを軸に形成されていた。それだけに、麻生氏の辞任だけは何としても避けたいというのが、政権側の意向であった。麻生氏は19、20両日にワシントンDCで行われる20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議に出席のため訪米し、22日に帰国する。 安倍首相は、フロリダでの日米首脳会談を終えて、間もなく帰国の途につく。帰国後、総理自身が国内政局をどう判断するかによるが、「麻生更迭」という苦渋の決断を迫られる可能性がある。麻生氏帰国後の「初仕事」が財務大臣辞任ということになるかもしれないのである。財務省をバックに、セクハラ疑惑が報じられた同省の福田淳一事務次官(奥)と、麻生太郎財務相(左)安倍晋三首相(右) 日米首脳会談では拉致問題で一定の成果を上げたが、そのことが内閣支持率の回復に寄与することはあまり期待できない。野党の抵抗が続いて国会が正常化できないならば、予算を人質にとられたリクルート事件の際の竹下登内閣と同様な雰囲気になるだろう。「空気」が支配する日本で、それに抵抗して政権を維持していくのは、不可能に近いと言わざるをえない。

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    小ネタの波状攻撃「安倍政権撲滅キャンペーン」にモノ申す

     こう列挙するといろいろな話題があったが、安倍内閣に総辞職に値するほどの責任があるかといえば、よほど政治的な思惑がない限り、答えはノーであろう。 もっとも、「安倍政権撲滅キャンペーン」の一番の狙いは、今秋に行われる自民党総裁選での安倍首相の3選阻止だろう。そのためには、一撃で辞任に値するほどの責任など必要はない。「小ネタ」を何度も繰り出して波状攻撃をかけていけば、それだけ世論は安倍政権への支持を下げていく。これがおおよそ、反安倍陣営の描いているシナリオではないだろうか。 事実、連日のようにテレビや新聞では、安倍政権への批判が盛んである。今のところ、反安倍派の狙いはかなり当たっており、言い換えれば視聴者や読者に安倍批判報道が好まれていることを意味している。何せ、米英仏によるシリア空爆という国際的な大ニュースよりも、日本の報道番組が上記の五つのニュースに割く時間の方が圧倒的に長い。 そのことだけで、いかに「安倍政権撲滅キャンペーン」がうまくいっているかを端的に表している。もちろんあらかじめ明言しておくが、そのような事態を好意的に評価しているわけでは全くない。むしろ、真に憂うべき状況なのである。獣医学部新設を巡り、愛媛県の職員が作成したとされる記録文書 さて、上記の五つの問題の現状について簡単にみていく。まず、「森友学園をめぐる財務省の文書改ざん」である。森友学園問題は、簡単にいうと財務省と学校法人「森友学園」(大阪市)をめぐる公有地売却に関係する問題であり、その売却価格の8億円値引きに安倍昭恵首相夫人が関わっていたかどうかが焦点である。現状ではそのような事実がないばかりか、安倍首相自身が関与したという決定的証拠もないのである。 ただし「反安倍的な見解」によると、「関与」の意味が不当なほど拡大解釈されてしまっている。例えば、文書改ざんでいえば、財務省の文書には森友学園前理事長の籠池泰典被告と近畿財務局の担当者の間で、昭恵夫人の名前が出たという。昭恵夫人の名前が籠池被告の口から出ただけで大騒ぎになったのである。森友は政権撲滅への「持ち駒」 ところが、それで財務省側が土地の価格交渉で何らかの有利な働きかけを森友学園側にしたという論理的な因果関係も、関係者の発言などの証拠も一切ない。それでも、印象報道の累積による結果かどうか知らないが、筆者の知るリベラル系論者の中には、「首相夫妻共犯説」のたぐいを公言する人もいて、老婆心ながら名誉毀損(きそん)にならないか、心配しているほどである。 また、文書改ざん自体は、筆者は財務省の「ムラ社会」的な体質が生み出したものであると発覚当初から批判している。ただし現在、佐川宣寿(のぶひさ)前国税庁長官ら関係者の立件を検察側が見送るとの報道が出ている。だが、法的には重大ではないとはいっても、財務省の改ざん行為が国民の信頼を大きく失墜させたのも確かだ。 政府側は、この機会に財務省改革を進めるべきであろう。識者の中でも、ブロックチェーン導入などによる公文書管理の在り方や、歳入庁創設に伴う財務省解体、また消費増税の先送りなどが議論されている。 だが、野党側やマスコミには政権側への責任追及が強くても、一方で財務省への追及は全くといっていいほど緩い。なぜだろうか。それは森友学園問題も文書改ざんも、あくまで安倍政権を降ろすことが重要であり、そのための「持ち駒」でしかないからだ。だからこそ、財務省改革など、多くの野党や一部マスコミの反安倍勢力には思いも至らない話なのだろう。 ちなみに、文書改ざんについて、麻生財務相や安倍首相の責任を追及し、辞任を求める主張がある。確かに、麻生氏が財務省改革について消極的ならば、政治的な責任が問われるだろう。その範囲で安倍首相にも責任は波及するが、あくまで今後の政府の取り組み次第である。とはいえ、官僚たちが日々デスクでどんな作業をし、どんな文書を管理し、どんな不正をしているかすべて首相が知っていて、その責任をすべて取らなければいけないとしたら、首相が何人いても足りない。今、安倍首相に辞任を迫るのは、ただのトンデモ意見なのである。 さて、「自衛隊イラク派遣部隊の日報問題」は安倍政権に重大な責任があるのだろうか。そもそもイラク派遣は2003年から09年まで行われており、第2次安倍政権発足以前の話である。日報そのものも、小野寺五典防衛相が調査を指示して見つかったという経緯がある。確かに、この問題は防衛省と自衛隊の間の関係、つまり「文民統制」にかかわる問題である。東京・霞が関の財務省の外観・看板=2018年3月(桐原正道撮影) だが、日報が現段階で見つかった過誤を、安倍首相の責任にするのは論理的にも事実関係としても無理がありすぎる。どう考えても、第一に日報を今まで提出しなかった自衛隊自体の責任であろう。この問題も今後の調査が重要であり、また文書管理や指揮系統の見直しの議論になると思われる。 この問題についても、リベラル系の言論人は「小野寺防衛相は責任をとって辞任せよ」という珍妙な主張をしている。文書の存在を明らかにした大臣がなぜやめなければいけないのか、甚だ不可思議だが、反安倍の感情がそういわせたのか、あるいは無知かのいずれかとしか思えない。加計問題、首相「介入」の意味はあるか 次に最新の話題である「加計学園に関する『首相案件』メモ」に移ろう。2015年4月に当時首相秘書官だった柳瀬唯夫経済産業審議官が愛媛県職員らと面会し、学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設についての助言を求めた事案である。 そのときの面会メモに「首相案件」という柳瀬氏の言葉が記載されている。メモの存在は、当初朝日新聞などが報道し、その後、愛媛県の中村時広知事が職員の備忘録として作成したと認め、農林水産省にもメモの存在が確認されている。 柳瀬氏は国会での答弁で、何度も加計学園関係者との面談の記憶がないと言い続けてきた。だが、その愛媛県職員のメモには、柳瀬氏の発言として「本件は、首相案件となっており、内閣府の藤原(豊地方創生推進室)次長(当時)による公式のヒアリングを受けるという形で進めていただきたい」とあった。 面会の記憶は本当になかったのか、それとも、国会答弁をろくに調べもせずに答えたり、あるいは隠したりしたような違う事情があるのか、今後の進展をみなければいけない。いずれにせよ面会の事実はあるわけだから、柳瀬氏は反省すべきだろう。ちなみに、柳瀬氏が面会の記憶がないとコメントしたことを安倍首相が「信頼する」と述べたことを問題視する勢力がある。そもそも反証の事実が確定しないときに、国会の場で自分の元部下の発言を「信頼できない」ということ自体、社会常識的におかしいとは思わないのだろうか。 ところで、柳瀬氏のメモ内での発言である「首相案件」は、果たして安倍首相の「加計学園ありき」の便宜を示すものなのだろうか。いま明らかになっているメモの内容を読み解けば、何十年も新設を認められなかった獣医学部の申請自体をいかに突破すべきなのか、助言が中心である。 では、愛媛県側が首相秘書官に会い、助言を求めたことが大問題なのだろうか。筆者が公表された部分のメモを読んだ限りでは、まったく道義的にも法的にも問題はない。例えば、筆者も複数の国会議員にデフレ脱却のためにどうすればいいか、今まで何度も相談してきた。それが何らかの「利益供与」になるのだろうか。もしそう考える人がいたとしたらそれはあまりにも「ためにする」議論の典型であろう。その「ため」とは、もちろん「安倍政権批判ありき」という心性であろう。記者団の取材に応じる元首相秘書官の柳瀬唯夫経済産業審議官=2018年4月、経産省 加計学園は面会した2015年4月の段階で、内閣府の国家戦略特区諮問会議に獣医学部新設で名乗りを上げる前であった。そもそも、国家戦略特区諮問会議で決めたのは獣医学部の新設ではない。文部科学省による獣医学部新設申請の「告示」を規制緩和することだけだったのである。 獣医学部の設置認可自体は、文科省の大学設置・学校法人審議会が担当する。そして特区会議も設置審も、ともに民間の議員・委員が中心であり、もし安倍首相が加計学園を優先的に選びたいのであれば、これらの民間議員や委員を「丸め込む」必要がある。そんなことは可能ではなく、ただの妄想レベルでしかないだろう。 実際、今まで安倍首相からの「介入」を証言した議員や委員はいない。そもそも首相が「介入」する意味さえ乏しい。なぜなら、加計学園による獣医学部の申請が認められたことで、これ以後、獣医学部申請を意図する学校法人は全て同じ条件で認められるからだ。疑惑を垂れ流す「首相案件」 つまり、制度上は加計学園への優遇措置になりえないのだ。それが国家戦略特区の規制緩和の特徴なのである。この点を無視して、首相と加計学園の加計孝太郎理事長が友人関係であることをもって、あたかも重大な「疑惑」でもあるかのように連日マスコミが報道するのは、まさに言葉の正しい意味での「魔女狩り」だろう。 ちなみに「首相案件」は、言葉そのものの読解では、国家戦略特区諮問会議や構造改革特区推進本部のトップが安倍首相である以上、「首相案件」と表現することに不思議はない。そもそも「首相案件」ということのどこに法的におかしいところがあるのか、批判する側は全く証拠を示さない。ただ「疑惑」という言葉を垂れ流すだけである。 何度も書くが、これを「魔女狩り」と言わずして何というべきだろうか。政府の行動に対して常に懐疑的なのは、慎重な態度かもしれない。しかしそれが行き過ぎて、なんでもかんでも批判し、首相の退陣まで要求するのであれば、ただの政治イデオロギーのゆがみでしかない。ただ単にマスコミなどの「疑惑商法」にあおられただけで、理性ある発言とはいえない。 「安倍首相や麻生副総理兼財務相などの発言や態度」については、論評する必要性もない。この種の意見を筆者も高齢の知識人複数から耳にしたことがある。簡単にいえば、この種の報道は、首相が高級カレーを食べたとか、麻生副総理が首相時代にカップラーメンの値段も知らないとか、今までも散々出てきた話である。 確かに、国会発言が適当か不適当かはその都度議論もあるだろう。しかしこの種の「言い方が下品」系の報道で政治を判断するのは、筆者からするとそれは政治評価ではなく、単に批判したい人の嫌悪感情そのものを表現しているだけにすぎないように思う。 最後は「福田財務次官のセクハラ疑惑」である。これについては事務次官個人の問題であり、現段階では事務次官本人がセクハラ疑惑を否定している。また、セクハラ疑惑を報道した出版社を訴える構えもみせている。セクハラを受けたという女性記者たちと、事務次官双方の話を公平に聴かない限り、何とも言えない問題である。マスコミは、この財務事務次官のセクハラ疑惑も安倍政権批判に援用したいようだが、これで安倍政権の責任を求めるのはあまりにもデタラメな理屈である。財務省を出る福田淳一事務次官(奥中央)=2018年4月13日 筆者は安倍政権に対して、以前からリフレ政策だけ評価し、他の政策については是々非々の立場である。最近では裁量労働制について批判を展開し、消費増税のスタンスにも一貫して批判的だ。だが、上記の五つの問題については、安倍首相を過度に批判する根拠が見当たらない。要するに、これらの事象を利用して、安倍政権を打倒したい人たちが嫌悪感情、政治的思惑、何らかの利害、情報不足による無知などにより、批判的スタンスを採用しているのだろう。 もちろん、まっとうな政策批判、政権批判は行われるべきだ。だが、安手の政治的扇動がマスメディアを通じて日々増幅され、世論の少なからぬ部分が扇動されているのなら、少なくとも言論人は冷静な反省を求めるのが使命ではないだろうか。だが、筆者が先にいくつか事例を紹介したが、リベラル系の言論人を中心に、むしろ扇動に寄り添う態度を強く示すものが多い。まさに日本は「欺瞞(ぎまん)の言論空間」に覆われつつある。

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    ある意味どえらい「カジノ法案」

    政府が今国会の成立を目指しているカジノを含む統合型リゾート施設(IR)実施法案の議論があまりにひどい。「週3回、月10回以内」「入場料6千円」といった具体案がようやく提示されたが、いずれもギャンブル依存症対策とは名ばかりの内容と言わざるを得ない。こんな法案でホントに大丈夫か?

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    ヒントは韓国にあった! カジノ依存「7・3%の層」への具体策

    木曽崇(国際カジノ研究所所長) わが国のカジノ合法化と統合型リゾート施設(IR)導入に向けた論議が大詰めを迎えている。政府は、この通常国会に提出を予定しているIR実施法案において、日本人及び在日外国人のカジノ入場に対して入場料を課す案を提示した。また、一定期間内での入場回数上限を設けるとしている。連立与党である自民党と公明党はこの政府の主張に対し、入場料の設定を6千円とし、また入場回数上限を「週3回、月10日以内」とする案を両党間協議で了承し、近く法案の国会提出を行う予定だ。 一方、これら政府が示す規制案に対しては与野党のみならず、各メディアも含めてさまざまな論議が飛び交っている。まず入場料の設定に関してだが、現在与党が合意している6千円という価格に対して、カジノ反対派や慎重派の立場にいる人間からは「それでは依存対策にならない」との意見が散見される。 しかし、そもそもこの入場料は「国民の安易なカジノ入場を防止する」目的で設定されてはいるものの、政府も昨年昨年行われたIR推進会議の総括において「依存症対策として入場料の効果についての科学的知見は必ずしも確立されていない」と明言している。そのような何ら効果の検証されていない入場料に対し、「それでは依存対策にならない」という批判自体がいかにナンセンスなものであるかが見て取れる。 そもそも、国際的なカジノ研究の中で、入場料賦課はギャンブル上の問題を抱えるプレーヤーに対して、それほど大きな行動抑制策にはならないどころか、総体としてその施策は逆効果を生むとする説が主流である。ワシントン州立大のフィランダー准教授はレジャービジネス誌『UNLV Gaming Research & Review Journal Vol.21』に掲載された論文で、二つの経済モデルを利用しながらこれら入場料の「効果」の検証を行っている。 「Entry Fees as a Responsible Gambling Tool: An Economic Analysis(『責任あるギャンブルツールとしての入場料:経済分析』)」と題したこの論文では、入場料の賦課は健全な娯楽としてギャンブルを楽しむプレーヤーの需要を大きく減退させる一方、ギャンブル上の問題を抱えるプレーヤーに対する需要抑制としてはあまり効果がないことを論じている。この論文においてフィランダー氏は、入場料の設定がむしろカジノ産業に「ギャンブル上の問題を抱える消費者からの収益に重度に依拠した産業構造」を誘発させかねない施策であるとして警鐘を鳴らしている。2018年2月、大阪市夢洲での統合型リゾート施設の構想案を説明する米MGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長 実はこのことは、2015年に発刊された拙著『日本版カジノのすべて』においても、私自身が相当の分量を割いて論じてきたことでもある。 一方で実はこれら(入場料が採用されている)地域においても、この入場料の徴収が真の意味で依存症対策になっているかどうかに関していまだ科学的な論証はありません。また、ラスベガスやマカオなど他地域のカジノ専門家の中には、むしろこの入場料の徴収が消費者にとってのサンク・コスト(撤退を行ったとしても回収ができないコスト)として認知され、ギャンブル依存者の施設内滞在を助長している可能性も指摘されています。『日本版カジノのすべて』(日本実業出版社)カジノに行きたい「7・3%」の危険 さらに、入場料金額の多寡に関してだが、これを論ずるにあたっては国内で同様に入場料の徴収が行われている類似のギャンブル産業と比較してみる必要もあるだろう。現在の依存対策論議では、カジノの入場料設定だけが論議の焦点として取り挙げられがちであるが、実はわが国の公営競技場はそれぞれの論拠法に基づいて、カジノ施設と同様に入場料の徴収が行われている。第五条 日本中央競馬会は、競馬を開催するときは、入場者(第二十九条各号に規定する者その他の者であつて農林水産省令で定めるものを除く。)から農林水産省令で定める額以上の入場料を徴収しなければならない。ただし、競馬場内の秩序の維持に支障を及ぼすおそれがないものとして農林水産大臣の承認を受けた場合は、この限りでない。「競馬法」 この競馬法と同様の規定は、わが国のボートレースを規制するモーターボート競走法にも存在する。一方で競輪やオートレースを規制する自転車競技法や小型自動車競走法では2007年の法改正によって「規制緩和」という名目で同様の入場料規制が撤廃されている。結果として現在、各公営競技及びパチンコ産業など、カジノと類似するサービスを提供している施設への入場料設定は以下のようになっている。【注】ただし、公営競技の場外投票券売場に関して入場料はない(筆者作成) このように見ると、現在わが国のカジノで導入されることが提案されている6千円の入場料設定は、国内の類似するギャンブル産業と比べて相当以上に「高額」な設定であることが分かる。 また、カジノ入場料の金額設定に基づく日本人顧客の消費意向の変化も非常に興味深い。以下は昨年9月にヤフー・ジャパンによって実施された「カジノ入場料、いくらまでなら行ってみたい?」という意識調査の結果である。この質問に対して、500円程度の入場料では100%が「行く」と答えたのに対して、当初政府が提案していた2千円程度の入場料の場合でも、カジノ訪問意向が半分(49・1%)程度にまで下がることが分かった。出典:「IR実施に向けた制度・対策に関する検討PT資料」(内閣官房) このヤフーによる意識調査では「いくらの入場料を課すと、どの程度の需要が抑制されるか」に焦点が集まりがちだが、実は最も注視すべきなのは、カジノ入場料が「いくらでも行く」と答えた7・3%の層である。むろん、この層の中には文字通りカジノ入場料がいくらであっても構わない超高所得者層が含まれている可能性もある。しかし、一般的にインターネット上で行われるこの種の簡易調査における超高所得者層の出現率というのは限りなくゼロに近い。 すなわち、この設問で入場料が「いくらでも行く」と答えた7・3%の人たちは「入場料がいくらであったとしてもギャンブルでその分勝てばよい」と考えている層、もしくは「自身の所得水準とそれに対する適正支出水準を念頭に置かずして入場料が『いくらでも行く』と答えた」層である可能性が高い。いずれにせよ、カジノ入場に対して適正な判断能力に欠けた解答を行っている層であると考えられる。 本来、依存対策というのは、このようなカジノ利用に際し、適正な判断能力に欠けてしまっている層に対する効果のある施策でなければならない。だが、この種の人たちに対しては入場料の設定が効果的に働かないことはこの意識調査の結果からも見て取れる。「入場回数」制限でもまだ甘い では、ギャンブル上の問題を抱える人たちに対して、どのように対処を行うべきか。その答えが、政府が入場料と併せてもう一つの施策として提示している「入場回数の上限措置」である。 「依存」とはそもそも、自らの理性的な判断によってはとどめられない衝動的な欲求に基づいて特定の物事に対し過度に執着してしまうという精神障害である。ギャンブル依存の場合、そのほとんどの場合がゲームへの参加頻度の上昇としてその症状が現れる。そこに制限をかけようというのが、今回の政府による施策案である。 実は、この「入場料設定よりも入場回数規制」という依存対策の方針は、入場料の賦課を重要視する論調が強かったわが国のカジノ業界にあって、それに異を唱える少数派の研究者として私自身が長年主張してきたものだ。そして今回、政府が依存対策としてこの入場回数の上限措置を前面に打ち出したのは、そのような一連の論議背景があってのことである。 そもそも、わが国のカジノ合法化はあくまで「観光振興」の一環として、例外的にカジノを含む統合型リゾートの設置を認めるものである。国民に対して、それを「日常の娯楽」として利用することを推奨するものではない。 そこで、今回提案されたのが「観光施設」としての利用にふさわしい利用回数を制度上定め、日本国民、もしくは在留外国人のそれ以上の利用を制限するという措置だった。制限措置の具体的な数値として出てきたのが、先般自民、公明両党で合意した「週3回、月10日以内」という入場制限である。 ただし、現在政府側から示されている制度案を見る限り、政府はこの入場回数規制をどのように依存対策として「有効に機能させるか」に関して、いまだ正しい理解をしていないように想える。そもそも、この入場制限は、制度そのものだけでは依存症対策に「ならない」。たとえ入場回数の制限があったとしても、ギャンブル依存者はその限られた入場回数の中で目いっぱいのギャンブルを行い、その内容をエスカレートさせていくからである。セガサミーHDと韓国パラダイスグループが共同開発した韓国初のIR施設「パラダイスシティ」に開業した外国人専用カジノ=2017年04月、韓国・仁川 では、どのようにこの上限措置を有効に機能させるのか。そのヒントは韓国のカジノ産業にある。韓国は、世界のカジノを合法とする主要な国の中にあって、自国民に対する入場回数制限を設定する代表的な国である。 韓国の入場回数上限は月あたり最大15日と、日本が計画している制限措置よりも緩慢である。だが、一定期間のうちにこの上限回数に繰り返し到達するような利用客に対しては、その人物が依存状態に「ある・なし」を問わず、強制的に専門家によるカウンセリングを受けさせる(受けなければ再入場できない)という施策を取っている。 すなわち、多くの依存者にとって共通して現れる「ゲームへの参加頻度の上昇」という現象を基準として、該当する人の中から依存リスクの高い人を抽出し、ギャンブル依存の早期発見、早期対処につなげていく。このような仕組みが韓国の入場回数規制の背後に存在している。それを日本政府が表層的にマネるだけでは、実効性のある依存対策にならないのである。 残念ながら現在、日本政府が示している制度案の中には、依存者を早期発見して次への対処につなげていくために、韓国のような具体的な施策部分が欠けている。つまり、依存対策としての施設入場回数制限は「不完全な提案」にしかなっていないといえる。政府には今の施策案で不足している部分を、新たな制度提案によって早急に補完し、より意味のある依存対策の構築に向けて動くことが求められている。

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    韓国よりも生ぬるい「ギャンブル依存症」対策で大丈夫か?

    鳥畑与一(静岡大教授) カジノを含む統合型リゾート(IR)解禁に向けた「世界最高水準の依存症対策」の政府案が2月末に明らかにされ、とりわけ「1週間3回以内」、「1カ月(28日)10回以内」というカジノ入場回数制限が賛否の的となった。依存症対策としては甘すぎるという批判の一方で、カジノの収益性を損なうものという批判も出され、自民党プロジェクトチーム(PT)からは「1カ月10回以内」に絞り込むよう要望がまとめられている。 ギャンブル依存症は、ギャンブル行為を通じた脳に対する刺激による脳の変化(ドーパミンの過剰分泌など)による病気であり、ギャンブルの「頻度×継続時間×賭け額」の大きさが客観的原因(いわゆるエクスポージャー理論)とされる。 英国ノッティンガム大教授のM・グリフィス氏らによれば、個人的要因のほかに、居住地からカジノ施設の距離、カジノ数、賭け行為の間隔や時間、賭け金額、勝つ確率などの状況的・構造的要因が依存症を誘発する客観的要因とされている(『欧州における問題ギャンブル』2009年)。 例えば、米国のJ・H・ウェルテ氏らの依存症実態調査によれば、カジノに近いまたはカジノ数の多い住民ほど常習者(週2回以上の頻度)になる確率が高く、そして常習者ほど依存症率が高いことが明らかにされている。 従って、カジノへの入場回数の規制は、政府案も認めるように一般論としては依存症対策として有効である。問題は、政府提案の入場制限数が依存症対策として有効であるか否かであるが、結論から言えば、提示されている入場制限数は、依存症を促進するものであっても抑制する水準ではない。カジノへの入場禁止を行う「自己排除(Self Exclusion)」制度を導入している国は欧米でも多くみられるが、入場回数制限を行っている国は韓国とシンガポールなど稀(まれ)である。 そこで政府案では、1カ月で15回以内の韓国と8回以内のシンガポールの事例を参考に提案を行っている。しかし、政府提示の入場制限数の具体的根拠は、国民の休日数や平均的な旅行宿泊日数との適合性であって、この回数が依存症対策として有効か否かの検討が行われているとは思えない。※写真はイメージ(iStock) 例えば、韓国で国民に唯一解放されているカジノであるカンウォンランド(2000年開業)で2006年から開始された入場回数制限は1カ月15回以内(地域住民は月1回のみ)だが、それが2カ月連続した場合は入場を制限し、カウンセリング実施などの措置が取られている。 韓国のKL依存症管理センターは、入場回数で依存症発生リスクを区分しているが「2カ月連続15日出入を繰り返すなど年間100日以上の常習出入」を高リスク、「2四半期連続で30日を超える顧客など年間100日以上の常習出入」を中リスクと位置付け、高リスク利用者には「特別管理(義務カウンセリング、病院治療など)」や「本人/家族への出入禁止を強く誘導」などの対策を適用している。抑制策にならない政府案 韓国カジノ管理委員会などの依存症調査(「ギャンブル産業利用実態調査」)では、中リスク以上を依存症者と位置付けている。政府案の1カ月10回以内では年間120日のカジノ入場を許容することになり、これでは依存症の抑制策たり得ない。 シンガポールでは、2010年のカジノ開業前の2009年に自己申請・家族申請・自動排除などでカジノ入場禁止を行う「自己排除制度」が導入されていたが、2013年6月から新たに自己申請・家族申請・第三者申請による入場回数制限(1月あたり1回、2回、4回、6回、8回の選択制)が導入された。 この回数制限で注目されるのは、シンガポールの国立問題ギャンブル評議会(NCPG)が、カジノへの頻繁な入場者をリストアップし、その家計状況(銀行口座、クレジットカード利用状況など)を審査し、ギャンブルによって家計的困難が生じている場合は、個人的状況に応じた回数制限を強制的に課す第三者申請の回数制限措置である。 表1に見るように、昨年末の回数制限適用者5598人中、第三者回数制限者は3715人(66・4%)となっている。審査対象者らの詳細は2016年から非公表となっているが、2015年末には4532人が「頻繁なカジノ入場者」として審査対象となり、そのうち2012人(44・4%)に回数制限が適用されている。資料:NCPG「Active Casino Exclusions & Visit Limits 」 NCPGの依存症調査によると、2011~14年にかけて依存症率が大きく減少している(表2参照)。それぞれの調査期間は3月~8月であり、14年時のデータは回数制限導入後1年余りでしかなく、回数制限がどの程度の効果があったのかは十分な判断はできない。 しかし、同調査では、週1回以上のギャンブル経験者が常習者とされ、依存症者(病的)の83%が常習者とされるので回数制限の有効性は推測できる。だが、ここで重視されるべき点は、この回数制限は単なる回数制限にとどまるものではなく、過度の常習者に対する家計調査やカウンセリングを行った上でより厳しい回数制限を課す制度が中心であるということである。資料:NCPG「Report of Survey on Participation in Gambling Activities     among Singapore Residents」2009、12、15年版  深刻な場合は、回数制限にとどまらず、入場禁止措置も取られることになっているが、日本においても単なる回数制限で終わるのではなく、家計状況調査などを踏まえた第三者申請による回数制限や入場禁止措置と一体となったものでなければ有効性は担保できないと言える。しかし、市民と永住権取得の成人人口310万人を対象としたシンガポールの入場回数制限制度を日本において有効に実施することは極めて困難と言わざるを得ない。 ところでラスベガス観光局の調査では、初訪問者のカジノ目的比率は1%であるが、平均3泊4日の滞在期間で73%がカジノでギャンブルを体験している。その結果、再訪問者のカジノ目的比率は12%と大きく増大している(Las Vegas Visitor Profile Study 2015)。偶然性に対する賭けであるカジノのギャンブルは多くの人に勝った経験を味わいさせることでリピーターにしていくビジネスモデルであるので、最大の依存症防止策はギャンブルを経験させないことに尽きる。 その点でカジノ入場禁止を課す「自己排除制度」が回数制限以上に有効な対策となるが、政府案では事業者に本人・家族申告による利用制限措置などの実施を義務付けさせるべきと述べるにとどまっている。 多くの国で依存症対策の一つとして自己排除制度が活用されている。例えば米国では、カジノ合法化24州中20州でなんらかの自己排除制度が導入されているが、有効に機能しているとは言えない。多くは氏名、住所、写真などを記載したリスト作成に基づき入場を制限する形式だ。だが、事業者に運営が委ねられた場合は依存症の危険性の啓蒙活動や制度の存在の宣伝がおろそかになるため、申請数が少ない上に、登録した場合でも入場時の確認が不十分なため機能しないとされる。有効なシンガポールの対策 とはいえ、シンガポールの自己排除制度は、表3に見るように大きな役割を発揮している。これは独立組織であるNCPGが自己排除制度の運用を担当し、依存症の危険性や自己排除制度の宣伝や申請のしやすさなどの促進に非常に力を入れているからである。資料:NCPG「Active Casino Exclusion & Visit Limit」 ここでも注目されるのは、政府から何らかの財政的補助や法的支援を受けている者や自己破産者らの家計困難者は自動的に入場禁止を課す自動的入場禁止措置の存在である。この結果、入場禁止措置を受けているシンガポール市民らは、自己申請、家族申請、自動排除の合計で7万774人(成人人口比約2・3%)に達している。 カジノ経験率(2011年7%から14年2%に低下)から推計されるカジノ利用市民約6万余を上回る規模の市民が入場禁止措置を適用されているのである。入場回数制限と共にこの自己排除制度による入場禁止措置が、シンガポール市民のカジノ利用の抑制策として非常に有効に機能したことが依存症率の低下に貢献したものと推測される。 日本においても「世界最高水準」を標榜するならば、シンガポールNCPGのような独立のギャンブル依存症対策機関による自己排除制度の運用が欠かせないと言える。 シンガポールでは、入場料徴収(1回100シンガポールドル、年間2000シンガポールドル)の他、市民対象のカジノの宣伝や勧誘活動の禁止、ATMの設置や市民への信用供与の禁止を課す一方で、NCPGなどを通じたギャンブル依存症の危険性の啓蒙宣伝活動が盛んに行われている。これが可能なのは、シンガポールのカジノ客のほとんどが中国などの海外からの来客で占められており、シンガポール市民に依存しなくてもカジノの高収益確保が可能だからである。 外国客向けには高額の賭け資金貸付も行うジャンケットも容認されており、LVサンズなどのカジノ事業者はその巨額投資を5年ほどで回収できるほどの高収益を維持しているが、ジャンケット禁止を予定している日本において、シンガポールと同様の高収益獲得の条件が乏しいのは明らかである。シンガポールの観光の目玉となっている「マリーナベイ・サンズ」=2018年3月(鳥越瑞絵撮影) 国内客を主要ターゲットとせざるを得ない外国カジノ事業者にとって、日本政府が求める巨額投資を行いつつ、出資者が求める短期の投資回収を可能にする高収益を実現する上で、シンガポール並みの依存症対策を実行することは不可能である。 刑法の賭博禁止の違法性を阻却するためにIRの経済効果の大きさを強調するほど、収益エンジンとしてのカジノと依存症対策が両立不可能な隘路(あいろ)にはまり込んでいるのではないだろうか。 

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    カジノ法案成立で最も損をするのは誰か?

    が目につく。 与野党ともに「ギャンブル依存症で苦しむ人のために対策を!」と声高に叫びながら、どちらも政治的駆け引きに必死であり、当事者と家族は置き去りという展開になっている。一足先に与野党全議員の賛成を得て温かく見守られながら成立したアルコール問題の対策法案「アルコール健康障害対策基本法」とは雲泥(うんでい)の差で、我々ギャンブル依存症の当事者や家族は声が届かないもどかしさを感じている。 一般の方には、分かりにくいと思うが、IR実施法案の前に国会には「ギャンブル等依存症対策基本法」が提出されている。これは、パチンコを含めた既存ギャンブルに対する依存症対策基本法である。この基本法が通らぬ限り、IR実施法は通さないというのが与党の建前にあるため、政府はこの法案の通過を急ごうとしている。 しかし現在、この法案は野党だけでなく、既存ギャンブルの側も行く手を阻んでいる。当然ながら、既存ギャンブルは、極力対策を小規模に押さえたいと考えるわけだが、時節柄、表立って依存症対策に非協力的な態度は取れない状況にある。(画像:istock) 公営ギャンブルにとってはカジノのとばっちりを受けた形だが、我々にとってはカジノのおかげで、依存症対策が推進するという皮肉な結果になっている。中でも、公営ギャンブルは「いかに真摯に対策に向き合っているように見せるか?」ということに腐心しているとしか思えない対策案が次々に浮上してきている。 例えば、日本中央競馬会(JRA)は昨年末から、本人や家族からの申告でインターネットでの競馬投票券販売を停止する措置を取った。しかし、ネット投票を停止しても、競馬場や場外馬券場に行けば購入できてしまうという批判を受け、このたび競馬場や場外馬券場でも申告があれば、入場を禁止できるという措置を決めた。 ところが、その防止策が「家族から提出された顔写真でチェックする」という実にお粗末なもので、実効性があると思えない上に、個人情報の管理や人権への配慮という点でも疑問に思わずにはいられないやり方を打ち出してきたのである。本格的に依存症対策に取り組むのであれば、入口ゲートで防止できるようなシステム化を図るべきである。不可解な依存症対策 また、パチンコを含め公営ギャンブルでも盛んに「依存症対策の相談窓口を作る」「電話相談を受ける」など、最も対策をやりやすく、産業側の売り上げダメージの少ないものを作り、対策推進をアピールしているが、このような窓口はすでに精神保健センターや保健所、または当会のような民間団体など、既にさまざまな拠点で行われており、効果のほどは限定的になると言わざるを得ない。 では、カジノの依存症対策はどのようなものが挙がっているのか。これが実に不可解な対策で、「カジノの入場料を6千円にする」「カジノへのアクセス制限として週3回まで、月10日以内とする」というものなのである。 よく考えてほしい。週末2回しか行われていないJRAですら依存症は大きな問題となっているのである。我々の所には「競馬の借金のために会社のお金を横領した」「不動産を担保に入れてまで、競馬で借金をしてしまった」といった相談は決して珍しくないのである。 それなのに、週3回に限定することにどんな意味があると政府は考えているのだろうか。また、「カジノに来て数万円から数千万円の遊びをしよう」という人に、入場料を6千円程度取ったからといって、抑止力になるのか、甚だ疑問である。 その上、「カジノが国内に何カ所作られるのか?」といった重要なポイントはいまだ明確にされていない。エビデンスもない依存症対策を、華々しく打ち上げ、いかにも依存症対策を厳格にやっているかのように見せるイメージ戦略に、我々としては誤魔化されたくないと思っている。 では、求められる依存症対策とはどのようなものか。そもそもギャンブル依存症は特効薬があるわけでも、「これだ!」という治療法が確立されているわけでもない。2014年にIR法案が初めて衆議院に提出されるまでは、ギャンブル依存症対策は議論の対象にすらならず、もちろん国や地方自治体、医療機関などでもほとんど対策はなかった。そのため、日本ではギャンブル依存症の当事者と家族が中心になって対策を行ってきた経緯がある。(画像:istock) 今からおよそ30年前の1989年に、ギャンブル依存症当事者の自助グループ「GA」が生まれ、その2年後1991年にはギャンブル依存症者の家族の自助グループ「ギャマノン」が誕生した。そこから当事者や家族が支え合い助け合う形で、きめ細かい支援を行い、わずかに理解のある医療従事者とともにさまざまな困難事例を解決してきた。 つまり、自助グループはIRの議論とともに、にわかに誕生した専門家と名乗る医療従事者や研究者、そして行政よりもはるかに多くの事例を持つ、ビッグデータの役割を果たしているのである。だからこそ、この当事者や家族の知識や経験を生かし、ギャンブル依存症対策はネットワークを作る形で、網目状に作られていくべきなのである。 例えば、家庭内で暴言・暴力、脅しなどで毎日のように金銭を要求し、断れば暴れることを繰り返しているような依存症者に対しては、「介入」が必要であり、警察や精神保健センター、保健所や医療が連携し、入院や回復施設への入寮へと促すべきである。既存ギャンブルにも当てはめるのか? また、横領や窃盗や万引きなどの事件を犯してしまった場合は、弁護士、刑務所、更生保護施設との連携、失踪した場合は警察との連携、自殺未遂の際には救急病院から精神病院への連携などが欠かせないのだが、残念ながら、これらさまざまな連携やセーフティーネットはまだほとんど機能していない状況にあり、家族は理解のない対応にさらされ右往左往している状況である。 ここまで深刻な問題になっていなくとも、多重債務の対処の仕方や、家族は本人にどう関わっていけば良いのかといった、基本的な知識を相談担当者には理解してもらう必要があるが、その基本的なこともまだ行き渡っていない。 さらに、家族が本人の勤める会社に休職を申し出た際も会社側に理解がなく、なかなかスムーズにいかないのが現状である。そして何よりも根本的な問題として「ギャンブル依存症が病気で、相談できる」ということが知れ渡ってないため、問題が重篤化しているという啓発不足も否めない。 また、入場制限のような業界側への規制を強化するなら、経験上、一番効果が上がるのは「本人及び家族申告による入場規制」だと思う。特に「家族の申告による入場制限の条件をどのようにするのか?」をカジノを含め既存ギャンブルも足並みそろえて明確にしていただきたい。加えて、カジノでは入場制限が決定した人に対して、マイナンバーで排除するようだが、その条件を「既存ギャンブルにも当てはめるのか否か」、これは重要なポイントである。 このように真に必要なギャンブル依存症対策とは多岐にわたり、簡単に作ることはできない。関係各所との繋がりや、人材育成、何よりも支援の経験というものが必要になってくる。これらの対策を日本の隅々にまで行き渡らせるには、予算の確保が肝心であり、その予算はギャンブルの売り上げを国が吸い上げた中から「ギャンブル依存症対策費に何%を回すか?」ということを決定する必要があると思う。(画像:istock) ギャンブル産業がもうけるだけもうけて、負の部分はすべて税金に押し付けるという、この国の悪しき慣習をここで終わりにすべきではないだろうか。この国にはギャンブル依存症がすでに蔓延している。この上、カジノという新しいギャンブルができることで、さらにギャンブル依存症者が蔓延してしまったら、被害を受けるのは国民なのである。 これらギャンブル産業による負の側面をこれ以上拡大させないためにも、これまでの我々の長年の経験に基づいた、幾重にも重なる、効果あるギャンブル依存症対策が導入されるよう、世論にも応援していただきたいと願っている。

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    東証は日本最大のカジノか?

    塚崎公義(久留米大学商学部教授)前向きに読み解く経済の裏側 カジノ法案が通りました。日本にも、本格的なカジノができるのでしょう。カジノというと、バクチだと言う人がいます。バクチなら競輪や競馬やパチンコと同じではないか、という人もいます。しかし、それを言うなら、東証が日本最大のカジノかもしれません。今回は、株式投資がバクチなのか否かについて、考えてみましょう。 ルーレットで、赤が出るか出ないかは、全くの偶然です。実はディーラーは赤を出すか否かコントロールできているという噂もありますが、仮にそうだとしても、顧客の立場で見れば偶然だ、ということが重要なのです。ディーラーがイカサマをしていない、ということが大前提ですが。そこで、赤に賭けるのはバクチ(賭博とも呼びます)だと言われます。 では、株式投資はどうでしょうか? 今日株を買って、明日売るとします。株価が上がるか下がるかは、偶然でしょうか? 偶然ですね。それは、株価の短期的な値動きのメカニズムを考えればわかります。 今日から明日にかけて、株価が上がったとします。それは、投資家たちが「株価は値上がりするだろうから、買い注文を出して他の投資家よりも先に買おう」と考えるからです。投資家たちがそう考える理由は、ニュースが流れたり、噂が流れたりするからでしょう。「天気が良いので気分が良くなって買い注文を出した」という投資家が多くても株価は値上がりしますが(笑)。 問題は、今日の時点では、明日の投資家が買い注文を出すか否かが分からない、ということです。「今晩、良いニュースが流れるだろう」ということを予想出来る人がいれば、それは予言者です。もちろん、当事者で、秘密の情報を知っている人もいるでしょうが、そうした人が株の売買をしたとすれば、インサイダー取引として処罰されてしまうでしょう。 あるいは、自分で株価の上がりそうな噂を流すこともできますが、そんなことをしたら相場操縦の罪で、やはり処罰されてしまうでしょう。つまり、投資家たちは、明日の株価が上がるか否か、今日の時点では知り得ないので、株式に投資することは「ルーレットで赤が出る方に賭ける」のと本質的に同じだ、ということになります。東京証券取引所(iStock) ちなみに、カジノと同様、こうした株式投資の期待値はマイナスです。カジノでは、ルーレットの赤に賭けると、当たれば2倍になりますが、当たる確率は50%より若干低い(0と00は、赤でも黒でも無いから)ので、期待値はマイナスです。株式投資も、勝ち負けの確率が五分五分だとすると、証券会社の手数料や税金の分だけ期待値はマイナスになります。 「自分は才能があるから、勝率は5割以上だ」という人もいるかもしれません。デイトレーダーと呼ばれる人の中には、相場の流れを他の投資家より素早く読み、短期売買で利益を稼いでいる人もいるようです。そうした人についてもバクチだと考えるべきか否かは微妙ですが、「麻雀がとても強くて賭け麻雀の勝率が9割だ」という人でも賭博罪で捕まりますから、腕利きのデイトレーダーもバクチだと考えて良いでしょう。刑法の賭博罪には当たりませんが(笑)。長期投資なら期待値はプラス 会社を設立し、銀行から借金をして材料を仕入れて人を雇って物を作るとします。売値から材料費を差し引いた部分は、企業が生み出した付加価値です。これを銀行の利息、社員の給料、株主の配当(及び値上がり益)の形で配分することは、極めて健全な経済活動です。 上記の短期株式投資と決定的に異なるのは、価値を生み出していることです。今日と明日で会社の価値(すなわち株券の価値)は変わりませんが、価格は変わります。それに賭けているのが短期投資です。一方の長期投資は、価値を創り出して、その分配に与ろう、という行為なのです。 もちろん、企業経営にもリスクはありますから、長期投資でも株価が上がるか下がるか、偶然に左右される面は大きいでしょう。しかし、そこまでバクチだと言ってしまうと、世の中のビジネスは全てバクチだということになってしまいます。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ですから、リスク無しで儲けることはできないからです。 日本経済は、長期的にもあまり成長しないかもしれません。しかし、それでも株式の長期投資は期待値がプラスです。株価の期待値が「現状横這い」だとすれば、配当利回り分だけプラスになるからです。実際には証券会社の手数料がかかりますが、長期投資をしている間の配当で充分に取り戻せるでしょう。また、厳密には機会費用として銀行預金の金利を差し引く必要がありますが、昨今の金融情勢であれば気にする必要はありません。 以下は余談ですが、人はなぜ、期待値がマイナスと知りながら、カジノでルーレットに興じるのでしょう? 中には霊感を信じている人もいるかもしれませんが、多くの人は「運試し」をしたかったり、あるいは「当たれ」と念じている時のワクワク感を得に行ったりするのでしょう。 そうだとすると、その意味からも、長期投資はお得です。相場は毎日動きますから、毎日の運試しが無料でできますし、毎日(あるいは毎秒)「上がれ」と念じてワクワクすることができます。(iStock) 株式の長期投資は、期待値がプラスで、しかもインフレに強い資産を持つことでインフレリスクへの備えにもなり、加えてカジノで味わえるワクワク感をずっと味わい続けることができるので、大変お得です。「株式投資は怖いから嫌だ」と考える読者もいるでしょうが、カジノへ行くより手軽で安上がりでお得ですよ。是非、トライしてみましょう。 ただ、筆者の体験だと、「上がれ」と念じている時間が長くなりすぎて、仕事に熱が入らなくなるリスクがあります。その意味では、カジノの方が仕事と休日のメリハリがあって、良いのかも知れませんね(笑)。つかさき・きみよし 久留米大学商学部教授。1981年、東京大学法学部卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行。主に調査関連部署に勤務した後、2005年に銀行を退行して久留米大学へ。著書に『増補改訂 よくわかる日本経済入門』(朝日新書)、『老後破産しないためのお金の教科書』(東洋経済新報社)、『世界でいちばんやさしくて役立つ経済の教科書』(宝島社)、『なんだ、そうなのか! 経済入門』(日本経済新聞出版社)など多数。

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    「快感と依存は表裏一体」IR法案の前に知るべき脳内回路の仕組み

    「背側線条体」と呼ばれる部分が活性化するのだが、実は金銭的報酬で活性化する部分と同じらしい。金持ちが政治家になりたがるのは、どうやら科学的に説明できるという。 依存症者は、快感を感じ取る快感回路に異常が生じている。それは具体的に言うと「鈍く」なっているということである。普通の人と同じ量では快感がない。必然、より多くの量を求めるようになる。するとますます「鈍く」なる。さらに量を求める。この悪循環が依存症を進行させていく。 薬物依存症者は、他の人よりも薬物を欲しがるけれども、他の人ほど薬物が好きではないように見える。言われてみれば、私が麻雀店でアルバイトをしていた学生時代、「もう麻雀はあまり面白いとは思わない」と言いながら毎日来ている客がいた。それはもしかしたら依存症の初期症状だったのかもしれない。依存症予防の観点からは「昔ほど面白くないけど何となく…」と感じた時点で少し距離を置いた方がいいようだ。 依存症が進行していくときの快感回路の変化は、経験や学習によって記憶が貯蔵されていくときの神経回路の変化と同じである。皮肉なことに、人は経験によって学ぶ能力があるからこそ依存症にもなり得るのだという。 『快感回路』にはギャンブル依存症についても詳細に記載されている。ギャンブルの快感は、惜しい負け(ニアミス体験)によって増幅されていく。惜しい勝負が空振りするほど続けたくなるのだという。これはギャンブルファンなら実感できるかもしれない。ギャンブラーがもっとも快感を覚えるのは、結果が出るまでの待ち時間なのだという。スロットやルーレットが回っている時間や馬が最後の直線に入ったときに、快感回路がもっとも刺激されるわけだ。(iStock) 確かにギャンブルには快感が伴うが、全てのギャンブラーが依存症になるわけではない。誰もが食事をし、買い物をし、多くの大人は酒を飲むが、ほとんどの人は依存症にならない。同様に、たいていの人は時折ギャンブルを楽しむだけで、病的にのめり込んだりしない。 しかし、少数のギャンブラーが依存症になるのは事実だ。ギャンブル依存症の特徴は、女性より男性がはるかに多く、しかも遺伝することが多いという現実である。そして意外なことに、ギャンブル依存症者にはビジネスの世界で大きな成功を収める精力的な人物も多いことも挙げられる。少し前に著名な実業家がカジノで大枚をはたいた事件が有名となったが、当該人もビジネスマンとしては非常に優秀だったと聞いたことがある。資本主義は必然的に依存症を生み出す 依存症は脳の病気である。これには、依存症の発症は患者の責任ではないという考え方を伴う。しかし、依存症からの回復は患者の責任である。患者には、発症はさておき、回復への責任や、回復に伴うもろもろの問題への責任がある。病気なのだから責任はなく、何もしなくていいというわけでは決してない。 ギャンブルについては、患者にはもちろん、利益を上げている胴元にも、依存症の予防・回復への責任があるだろう。ギャンブル産業は大きな利益が上がる。しかしその半面、ギャンブル依存症を生むことになる。合法的ギャンブルが増えるほどギャンブル依存症者は増えるというのは事実である。とすれば、依存症への対策は、胴元の必須事項といえよう。 その観点からすると、今回の入場制限には一定の評価ができるものだ。とはいえ、当該措置に果たしてどの程度の効果があるか、疑問も残る。与党の合意によると、IR実施法案で、日本人のカジノ入場は週3回、月10回までに制限されるという。 しかし、ギャンブル依存症かどうかの診断においては、ギャンブルの回数はそれほど重視されない。そこではギャンブルを中断することによりいらだちが起きたり、ギャンブルをすることやその結果について人に嘘をついたり、ギャンブルがらみで借金をしたりする、といった付随的な行動をもとに依存症の判断がなされる。 週3回であろうが借金してまで通っているのであれば依存症であるし、毎日通っていても借金もせず嘘もつかず「健全な遊び方」をしていれば依存症ではないのだ。回数のみに着目した制限は違和感を覚える。 『快感回路』では興味深い指摘がなされている。それは資本主義と依存症との関係性だ。資本主義における経営主体の努力は、より多くの顧客を獲得しようとする努力である。それは言い換えれば、自らに依存してくれるユーザーを得ようとする努力である。より多くの「依存症ユーザー」の獲得に成功した企業が資本主義における勝ち組である。 資本主義は必然的に依存症を生み出すのだ、と。依存症はギャンブルだけの問題ではない。資本主義が高度化するにつれ、今後もさまざまな依存症が増えることが予想される。カジノ解禁に伴いギャンブル依存症対策を採るというのであれば、これを機に依存症全体のことを考えてもいいかもしれない。(iStock) カジノは賭博である。賭博について、法律はとかく臭いものにフタをしておけばいいというやり方を取っている。現行刑法にはいまだ賭博罪が存在する。しかしその「犯罪行為」を国家が経済施策として進めるのだという。賭博は悪なのか、そうでないのか。賭博は依存症を生むから悪いのだというならば、それは明らかに違う。 酒は依存症を生む。高カロリーの食事も、高額なバッグも、発達した資本主義社会における過剰サービスの多くが依存症の原因となる。魅力と依存症は表裏一体の関係にあるのだ。カジノ解禁には、ギャンブル依存症の温床となるという批判が根強い。これへのパフォーマンスとして安易な措置を取るだけは問題の本質的な部分を逃すのではないか。

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    カジノ解禁の問題点の一つはマフィアやテロ組織上陸の可能性

     カジノの合法化を進める「統合型リゾート(IR)整備推進法案」が、昨年末衆議院で可決。いよいよ、カジノ解禁に現実味が帯びてきた。しかし、そこにはいろいろな課題が残されている。たとえば治安の問題もそのひとつ。 2011年10月までに全都道府県で施行された、暴力団排除条例に基づき、官民一体となった暴排活動が進められた結果、暴力団の資金源は逼迫しつつある。このような暴力団がカジノへの関与に強い意欲を持つことは容易に考えられる。多重債務を重ねるパチンコ依存者を見てきた弁護士の新里宏二さんはこう話す。「暴力団が直接関与しなくても、その周辺の人が、ヤミ金融などを運営し資金獲得に出るケースも考えられます。資金の調達もますます巧妙になっていくかもしれません」 一方で巨額の金が動くカジノとマネー・ロンダリング(資金洗浄)は切り離して語れない。マネー・ロンダリングは、マフィアはもとより国際テロ組織などによって世界をまたにかけて行われており、そのまま使用すれば「足」の付いてしまう非合法な手段によって入手した資金を、「表の世界」でも使用できる「きれいな」資金へと転換して行くことを指す。 日本が加盟しているマネー・ロンダリング対策の政府間会合FATFでは、カジノ事業者はマネー・ロンダリングに利用される恐れが高い非金融業者に指定されている。 麻薬取引や脱税などで得た汚れたお金をカジノを通してきれいなお金にするというケースも見られる。(iStock)「カジノ業者に疑わしい取引の届け出を求めても完全にマネー・ロンダリングを封じ込めることはできないでしょう。つまり、マフィアやテロ組織のメンバーが日本にやって来る場所を作ることになる」(新里さん)子供は賭博に対する抵抗感がないまま成長する 今回のIR方式では、カジノのほかに、ホテルやショッピングモールを併設してリゾートを形成していくという。お父さんはカジノ、お母さんはショッピング、子供たちはアミューズメントパークへと、家族そろってのレジャーを提唱している。そして夜はみんなで食事──。「これ、おかしいですよね?」と声を荒らげるのは新里さん。「せっかくの家族でのお休みなのに一緒に遊ばないんですか? 夕飯でいったいどんな話をするんでしょう?“今日、お父さん、羽振りがいいね!”“カジノで勝っちゃって”“え、カジノってそんなにもうかるの?”“なんだ、お父さん。働くのばかばかしいね”って会話があったり、“今日、しょぼいね、お父さん”“カジノで負けちゃって…だからまたこの後、行ってくる”とか、そんな感じになったらどうするのか? 子供は賭博に対する抵抗感が少ないまま成長していく危険性があり、勤労意欲を失うことも指摘されています。だから賭博は禁じられてきた。そういったことをきちんと議論されないまま通過したのがカジノ法案なんです」(新里さん)関連記事■ 中国銀行 イタリアで組織ぐるみのマネーロンダリングが摘発■ 米大手金融機関 2020年に日本が世界2位のカジノ国になると予測■ 日本のカジノ「入場料1万円ぐらいと想定」とカジノ専門家■ 日本が参考にするアジアのカジノは資金洗浄の温床的側面も■ 【書評】日本のカジノ解禁を前に新たな観光の可能性探る一冊

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    フィリピンの「カジノ産業」、活況の影に潜む治安への懸念

    水谷竹秀(ノンフィクションライター)  観光地として名高いフィリピン中部のセブ州マクタン島に、カジノを含めた統合型リゾート施設(IR)が着工する運びとなった。首都マニラ以外では初のIR誕生で、フィリピンのカジノ産業が活況を呈している。 着工するIRの名称は「ラプラプ・レジャー・マクタン」。カジノを運営する政府機関、フィリピン娯楽ゲーム公社が5月上旬、事業を実施する開発公社に建設許可を出した。総工費3億4100万ドル。マクタン島の海辺に面した広さ12万5千平方メートル(東京ドーム2.5個分)の敷地に、カジノ施設をはじめ高級ホテルやコンベンションセンター、ショッピングモールが建ち並ぶ予定だ。2019年に部分開業し、22年の本格開業を目指す。 これに先立ち、昨年12月下旬にはマニラに日系のIR「オカダマニラ」がソフトオープンした。パチスロ機メーカー「ユニバーサルエンターテインメント」(本社・東京都江東区)が出資しており、総工費は24億ドル。 広さは東京ディズニーランドに匹敵する44万平方メートルで、マニラに現存する他のIR3カ所と比べても最大規模。このソフトオープンは日本でIR推進整備法案が可決された直後のことで、今後、日本にカジノができる際のモデルケースになる可能性がある。 さらに「オカダマニラ」の近くには20年、ホテルオークラが入居するIR「ウエストサイド・シティー」(広さ31万平方メートル)も開業する予定だ。 世界のカジノ産業に関する調査報告書によると、フィリピンのカジノ市場規模は、10年に5.6億ドルだったのが15年には倍以上の12億ドルを超えた。アジア域内ではマカオ(約621億ドル)、シンガポール(約71億ドル)、韓国(約26億ドル)に次ぐ4番目。韓国では今年4月、仁川国際空港の近くに初のIR「パラダイス・シティー」が開業したばかりだが、フィリピンのカジノ市場は今、韓国を追い上げる勢いで急成長している。2015年、マニラにオープンした巨大カジノリゾート施設「シティオブドリームス・マニラ」(iStock) この背景にあるのが中国人観光客の増加だ。カジノの収益は外国人富裕層を取り込めるか否かが鍵を握る。観光省によると、16年にフィリピンを訪れた観光客数は1位が韓国(約147万人)、2位が米国(約87万人)、3位が中国(約67万人)で、日本がこれまでキープしていた3位の座を中国に明け渡して4位(約53万人)に転落した。中国人観光客の増加率は前年比38%で断トツ。ドゥテルテ大統領が打ち出した親中路線の外交政策が影響しているとみられる。 一方、こうした産業活性化に水を差すように、首都マニラのIR「リゾーツ・ワールド・マニラ」では6月上旬に37人が死亡する銃撃、放火事件が発生し、一時的な営業停止に追い込まれた。焼身自殺を図って死亡した犯人は、元政府職員のフィリピン人男性と特定されたが、警備が厳重なはずのカジノに拳銃が持ち込まれたことから、治安への懸念があらためて浮上している。みずたに・たけひで ノンフィクションライター。1975年三重県桑名市生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業、カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(集英社)で開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『脱出老人』(小学館)。

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    昭恵夫人喚問は「疑惑のインフレ」 マスコミの洗脳報道を疑え!

    問は、マスコミにとっても野党にとっても政権へのイメージダウン以外の目的を見いだしにくいからだ。実際に政治家慣れしている佐川氏の証言を野党は全く切り崩すことができなかったし、どうみても切り込む手段にも欠けていた。 喚問が終わると、野党は「安倍昭恵首相夫人の証人喚問を」と声を連ね、それを一部のマスコミも連日大きく取り上げるだけだろう、とも思った。だが、この連載でも何度も指摘しているように、森友学園問題に昭恵夫人が土地取引で「関与」した事実はいまだない。それでも、マスコミの洗脳めいた報道がよほど効いているのかもしれない。 筆者も学術界の年配の方々と最近話す機会があったが、いずれも「8億円の値引きを忖度(そんたく)させたのは昭恵夫人」説を信じ込んでいた。そもそも「忖度」も「忖度させたこと」も心の中の問題なので、実証はできない。 また現段階で、森友学園前理事長の籠池泰典被告の証人喚問での証言や、財務省の当事者たちも昭恵夫人の関与を否定している。そして忖度罪も忖度させた罪も日本の法律にはない。だが「関与」も「忖度」も、お化けのように膨れ上がった存在と化している。 このような「魔女狩り」にも似た世論の一部、政治の在り方を批判するのも、マスコミや言論における本来の役目のはずだ。今はどうひいき目にみても、反安倍と安倍支持に分断してしまっている。これは憂うべき事態である。2018年1月、山口県下関市で支援者と談笑する安倍首相(右)。左は昭恵夫人 世論調査の動向によって、安倍政権が万が一レームダック(死に体)化すれば、経済政策や安全保障政策を中心に不確実性が増してしまうだろう。特に経済政策では、「ポスト安倍」を狙う自民党内のライバルは総じて財政再建という美名を利用した「増税・緊縮派」である。 また、消費増税や緊縮財政はマスコミの大好物でもあり「応援団」にも事欠かない。自民党内のポスト安倍勢力が今後、世論の動向でますます力を得れば、日本経済にとって不幸な結果をもたらすだろう。

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    【和田政宗独占手記】森友問題「メディアリンチ」と私は断固戦う

    があのような質問をしたのかについて、自分の意見や説明も紹介されていない。事実に基づいた批判であれば、政治家として甘んじて受けるが、事実に基づかず人間性すら否定する一方的なコメントは、論評の域を超えた誹謗(ひぼう)と中傷でしかない。 まさに「メディアリンチ」ともいう状態であり、名誉を毀損(きそん)した番組や週刊誌に対しては断固たる措置を取るために、名誉毀損訴訟に強い弁護士と協議に入った。 特に、フジテレビ系情報番組『バイキング』については、私に対する汚い言葉や事実に基づかない誹謗中傷が過ぎており、視聴者からも番組内容について批判が相次いでいる。この番組の司会者に関するWikipedia(ウィキペディア)の書き換えがあったことについて、iRONNA編集部よりコメントを求められているが、私は詳細を知らない。ただ、本人に関わる情報で、知られたくなかったり、公表されたくないものについては配慮がなされるべきであると思う。どんな困難があっても安倍政権を支える こうした中、私に対するメディアリンチに便乗したとみられる人物が、私と家族に対する殺害予告、事務所に対する爆破殺害予告を新聞社2社にメールで送ってきた。 その内容は極めておぞましいものであるし、こうした政治に対するテロは絶対に許されるものではなく、断固として戦わなくてはならない。しかも、このメールは細工が施されており、ただの愉快犯ではなく何らかの組織が便乗して私をバッシングするためにやっている可能性も、決してゼロとは言えない。 そして、ワイドショーなどの一部メディアは、物事の本質を無視した「言葉狩り」になっており、ここ最近のメディアの劣化は著しいと言わざるを得ない。国民の知る権利に寄与するという理念より、むしろ視聴率や部数など利益優先になっているからである。 実は歴史上、過去にも同じようなことがあった。満州事変の際の若槻礼次郎内閣の不拡大方針を「弱腰」と批判し、その姿勢を覆させたのは、新聞主要全紙によるリンチにも近い書きぶりだった。私は、民族独立の観点から満州国建国は重要であったと思うが、関東軍、朝鮮軍の越権行動は当時においても許容されるものでなかった。しかし、それを覆したのは「戦争や事変が起これば新聞が売れる」と自らの利益優先で、事態拡大を後押しする新聞であった。 今こそ過去の歴史に学び、メディアはそのあり方を正しい形に変えるべきである。国民も声を上げなければ、メディアの劣化はさらに進む。参院予算委員会で民進党の大野元裕氏(右手前)の質問に答弁する安倍晋三首相。奥前列左は財務省の太田充理財局長 =2018年3月19日、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影) 安倍政権は、家庭の貧富の差によって教育の格差が生まれないようにする、待機児童は徹底的に解消することなど、極めて国民に優しい政策を打っているのに、これまでメディアはほとんど報道せず、強権との印象を強調して批判を繰り返した。森友学園への国有地取引に首相も首相夫人も関与していないことが明確になっても、さも関与しているのではないかと印象報道を連日続けている。  森友問題の焦点は、財務省がなぜどういった理由で文書の書き換えをしたのか、法令に則っているものの、森友学園側と近畿財務局との国有地取引交渉に何があったのか、である。こうした点をなぜメディアは追わないのか。 安倍政権は、民主党政権時代のどん底の経済状況から、デフレ脱却、国民生活を豊かにするために戦っている。安倍首相の外交は、首脳会談国数、会談数においても歴代首相と比べても圧倒的に多く、世界の外交のトップリーダーとして各国と交渉できることによって日本の平和も守られている。 安倍政権がしっかりと続くことが、ひいては国民の幸せにつながる。どんな困難があっても私はしっかりと安倍政権を支えていく。

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    「財務省の倒閣テロ」森友文書改ざんは消費増税中止でケリがつく

    ているので、捜査当局が逮捕してもいいはずだ。とにかく、事実が解明されることを望みたい。 さて、本件を政治的にみれば、秋に予定されている自民党総裁選への影響が考えられる。あくまで財務省の問題なのだが、麻生太郎副総理兼財務大臣への政治的な責任も避けられない。となると、安倍晋三総裁(総理)の三選に黄信号がともる。 文書書き換え問題が発覚する前、麻生氏と二階俊博幹事長を抑えている安倍氏の三選は揺るぎなかった。一方、対抗馬の岸田文雄政調会長は禅譲を期待し、石破茂元幹事長や野田聖子総務大臣は選挙人を集められることができるかどうか、という状況だった。しかし、ここにきて麻生氏の政治責任を追及されると、安倍氏もうかうかしていられない。2018年3月26日、参院予算委に臨む安倍首相(左)と麻生財務相 先述の通り、財務省による公文書書き換え問題は、あくまで財務省という行政組織での不祥事である。しかし、政局に持っていきたい人たちは多い。一部の野党はもちろん、マスコミの一部も同調している。それに自民党内にもいる。そうした人たちは、森友問題での安倍昭恵首相夫人の関与と、麻生氏の政治責任を追及する。そして、財務省内の問題にとどまらせないように仕向けてくるのである。このため、佐川氏個人のミスには否定的で、少なくとも佐川氏が官邸に「忖度」したはずと主張する。他省庁にない財務省の「三大権限」 そして、佐川氏の国会証人喚問で、政局を期待する人たちは、佐川氏が捜査対象になっていることを理由として証言を拒むと、官邸の関与を隠すためだと批判するはずだ。逆に前川喜平・前文部科学事務次官のように政権に反旗を翻したり、「忖度」に言及したりすれば、一躍英雄扱いにするだろう。要するに、佐川氏の国会証人喚問で事実が明らかになるかどうかはどうでも良く、とにかく「安倍叩き」をしたい人たちなのだ。 確かに、今の安倍首相の在任期間は2284日(3月27日現在)と長い。戦後の一人の宰相の平均在任期間は808日(2・2年)であるが、最長の佐藤栄作元首相の2798日、吉田茂元首相の2616日に次いで第3位である。 しかし、近隣国を見ると、中国では憲法上の国家主席任期をあっさり撤廃し、習近平氏は「皇帝化」しようとしている。ロシアでも、プーチン氏は今回の大統領で4期20年にも事実上「皇帝」の座を確保しようとしている。北朝鮮にいたっては「終身独裁者」を戴いている。 日本はこれらの国と違って民主主義国家であるとはいえ、財務省のごとき国内問題で足をすくわれるのは、隣国からみれば、格好のチャンスになり、日本の国益を大きく損なう結果になるだろう。特に、今の北朝鮮情勢を考えれば、つまらない国内問題で時間を使っている余裕はない。 いずれにしても、政局がらみを期待する人が挙げるのが官邸や昭恵夫人への「忖度」である。だが、元財務キャリア官僚の筆者からみれば、政治家への「忖度」は他省庁とは違ってまずないといいたい。財務省庁舎に掲げられている看板=2018年3月26日、東京・霞が関(桐原正道撮影) なぜなら、財務省には「予算編成権」「国税調査権」、そして「官邸内の人的ネットワーク」という、他省庁にない権限がある。これらのアメ、ムチ、情報を駆使しながら、政治家を手玉にとっていくことができる。他省庁とは事情が違い、「忖度」する必要がまずないのである。 だから、もし佐川氏が証人喚問で、官邸への「忖度」を示唆したら、要注意である。もっとも、「忖度」は内面の話なので、佐川氏の個人的なものとして断定できないが、「忖度」を示唆することによって、世論の関心を財務省から官邸(安倍政権)に誘導していくことも可能だからだ。もちろん、官邸が「忖度」されたからといって、官邸の責任ではない。でも、世間の衆目を官邸に集めることができれば、政局にしたい人たちにとって非常に好都合なのである。「忖度」はしないが「倒閣」には動く ただ、財務省のキャリア官僚は「忖度」はしないが、「倒閣」は行いうる。実際にあった話だが、それは筆者が第1次安倍政権の官邸勤務時に起こった。当時の安倍政権が進める公務員改革が官僚に不評であった。そこで、官僚の事実上の代表である財務省が官邸ネットワークを使ってさまざまな仕掛けを行った。 例えば、筆者が用意した経済財政諮問会議のペーパーを閣僚にレクチャーする前に潰そうとしたりするのは日常茶飯事だった。また、首相や官房長官の国会での想定問答を差し替えることもしばしばあった。そのたびに、筆者は本来の想定問答を用意して、首相、官房長官に上げなければならなかったのである。 そのような中で、ある閣僚が、財務省は「倒閣運動」しているのではないかとこっそり筆者に伝えてくれた。この閣僚は、実際に某官邸高官から「官僚が倒閣運動する」と聞いたといっていた。 また、消費増税の延期を安倍政権が企てると、財務省は平然と妨害したという事実もある。消費増税は財務省の悲願である。2014年4月から消費税率は5%から8%へと引き上げられたが、8%から10%への再引き上げについて、安倍政権はこれまで2度スキップした。1度目の再引き上げは2015年10月とされていたが、2014年11月の総選挙で争点となり、2017年4月の実施に延期された。2度目は、2016年6月の先進7カ国(G7)首脳会議(サミット)後、2017年4月からだったのが2019年10月に延ばされた。2017年3月、参院予算委での質問に挙手する財務省の佐川宣寿理財局長(斎藤良雄撮影) また、2014年11月30日、安倍首相はフジテレビの番組で「財務省が『善意』ではあるが、すごい勢いで(消費再増税にむけて)対処しているから党内全体がその雰囲気だった」と、財務省の「工作」を明らかにしている。決裁文書の書き換え当時、消費増税を行わない安倍政権を、財務省が苦々しく思っていたのは事実だ。このような安倍政権に忖度すれば、財務省内での出世に差し支えるというのが実情に近い。 こうした経験を持つ筆者から見れば、「忖度」という仮説は、「倒閣」「自爆テロ」と同レベルの仮説のように聞こえるのだ。いずれにしても、政局にもっていこうとする人々は多いが、そうした人たちは、今回の話が財務省内の問題になることを嫌う。それが、佐川氏の辞任は「トカゲの尻尾切り」という表現にもつながる。 もっとも、国会の議事録を見ると、佐川氏が国会答弁でミスをして、それを隠すために、近畿財務局の決裁文書を書き換えたとの話は説得力がある。「特殊性」は昭恵夫人のことではない 事の発端は、昨年2月9日に朝日新聞が「学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か」と報じたことにある。この記事に関して、国会では、2月15日の衆院財政金融委員会で質問があった。共産党の宮本岳志議員の質問を受けた佐川氏は上手に答弁できていなかった。特に、森友学園の売却土地と、隣接した豊中市への売却土地を比較した説明はかなり危うかった。初めての国会答弁はその後の答弁のベースになるので、佐川氏はここでミスしたと思ったことだろう。なお、この財政金融委に安倍首相は出席していない。 佐川氏はその後、2月17日の衆院予算委でも、当時民進党の福島伸享議員から追及を受けているが、その答弁も冴えなかった。佐川氏との質疑の最後に、昭恵夫人が名誉校長をしているという安倍首相への質問が出て、「私や妻が(学校設置認可や国有地払い下げに)関係していたとすれば、間違いなく首相も国会議員も辞める」という発言につながっている。 安倍首相は、佐川氏の答弁の後にこの発言を行ったのである。むしろ、安倍首相は、頼りない佐川氏の答弁を聞き、強気に出たような印象さえ受ける。つまり、佐川氏の国会答弁は、安倍首相の「関与していれば辞める」発言の前からほころびが出ていたのである。 さらに、3年前にも、近畿財務局で決裁文書が書き換えられたことがある。そうした決裁文書の書き換えの常態化がまずあって、佐川氏の答弁ミスも加わり、森友決裁文書の書き換えにつながったという見方が自然である。むしろ、書き換え前の決裁文書をみると、多方面からの政治関与を近畿財務局で排除してきたことが書かれている。この記述は、安倍政権潰しをもくろみ、政局化したい人たちにとっては不都合であろう。2017年11月、東京・銀座のミキモト本店を訪問した安倍昭恵首相夫人(代表撮影) さらに、一部野党からは、問題の決裁文書で「本件の特殊性」という文言を指摘している。それを一部野党は「安倍昭恵さんがいた特殊性」と捉えているがそうではなく、筆者の見るところ三つの特殊性がある。一つは、土地を売り切るのが通常だけれども、当初は貸し付けにしようとしていた特殊性だ。二つ目は、端的には地中にゴミが埋まっていたいわく付きの土地という特殊性である。三つ目が契約相手方である籠池氏という特殊性が考えられる。交渉に当たった担当者は大変だったと思う。そうしたことが、あの決裁文書からにじみ出ていると、筆者はみている。 なお、昭恵夫人の国会招致を一部野党が求めているが、そもそも籠池氏が勝手に昭恵夫人について話していただけであり、昭恵氏が近畿財務局に働きかけをしていたわけではない。しかも、決裁文書の書き換えには何も関係もない。関係のない人を国会招致するのは、国権の乱用ともいえる。 いずれにしても、この問題はあくまで財務省内の問題なのだから、財務省解体、消費増税中止でさっさとけりを付けるべきなのだ。政局にかまけている余裕は今の日本ではない。

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    昭恵夫人の国会招致は必要か

    「広告塔の責任はある」。元大阪市長、橋下徹氏がテレビ番組で、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる問題に触れ、安倍昭恵総理夫人の責任について言及した。元財務省理財局長、佐川宣寿氏の証人喚問だけでなく、昭恵夫人の国会招致を求める国民の声も依然大きい。「日本のファーストレディ」の招致は本当に必要なのか。

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    「昭恵夫人招致で官邸の負け」権力闘争の道具になった忖度の連鎖

    恵首相夫人=2018年3月17日、愛知県 森友問題は次の三つより起因している。学園側、役所側、そして政治側。これらを把握しない限り、真相究明は困難である。裏を返せば、それぞれ三つのサイドから証言を取ることができれば、真相解明にぐっと近づくということだ。 学園側の森友学園については、籠池泰典(本名・籠池康博)氏がすでに証人喚問に呼ばれていることからも、現時点で追加すべき情報はほとんどないといえよう。 役所側はどうかというと、当時の近畿財務局、財務省理財局、財務官房長、財務事務次官のうち誰か、あるいは全員からの証言を得ることができれば、真相解明に向けて大きく前進するだろう。 関係者の死者を出している(近畿財務局の男性職員が自殺)ことからも、最大の被害者は財務省だ。約20年前の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」で崩壊の危機にひんした組織の記憶も消えていない。 そうした意味では、誰よりも真相解明を願っているのは批判の対象となっている佐川氏その人かもしれない。その佐川氏は今回、証人喚問に呼ばれている。 さて、政治側の証人だけが曖昧だ。森友学園の名誉校長を務め、官邸には自分自身の部屋を持ち、最高権力者の配偶者である安倍昭恵氏の証人喚問は本来ならば不可避であるはずだ。しかし、官邸はどうにか首相夫人の証人喚問だけは回避し続けてきた。 ときに「私人」を強調したり、「籠池逮捕」の間に時間稼ぎを行ったり、さらには解散総選挙を打ったりと、すべては首相夫人を表舞台に出さないための方策だともとれる。昭恵夫人に罪の意識なし 約1年前、筆者が運営している報道番組『ニューズオプエド』のライブ放送で、私自身、次のように語っている。「首相夫人を国会に招致できれば野党の勝ち、呼べなかったら安倍官邸の勝ち。単純な構図の権力闘争だ」 官邸がなぜ首相夫人を国会に呼ぶことをそこまで恐れるのか。その理由は案外難しくない。首相夫人の発言をコントロールできる人間が、夫人本人も含めて、この世に存在しない。ただそれだけにすぎない。 首相夫人に罪の意識がないのは事実だ。最近も葛飾区議会議員の立花孝志氏のFacebookに「私こそ真実を知りたいのです。本当になにも知らないのです」とメッセージを寄せている。 ある意味、彼女の他人事のような言動も理解できなくもない。というのも、この問題の根源は大阪府と大阪維新の会、さらには籠池氏による土地用地の取得というそれほど珍しくない陳情がきっかけになっているからだ。 森友学園の用地買収に絡んで、最初に動いたのは鴻池祥肇事務所の秘書だった。次に鳩山邦夫事務所、平沼赳夫事務所のそれぞれの秘書が動く。安倍晋三事務所も本人ではなく、夫人が動いた。 このように森友問題は、国会議員レベルではなく、地方自治体、もしくは秘書レベルの陳情に過ぎなかったのだ。「森友文書」書き換え問題をめぐる集中審議を疲れた様子で臨む安倍晋三首相(左)。右は麻生太郎副総理兼財務相=2018年3月14日 それがここまで大きな問題になったのは巷間(こうかん)言われているように忖度(そんたく)の連鎖が原因だろう。 近畿財務局が財務省本省に忖度し、財務省本省は会計検査院に、あるいは首相官邸に忖度し、自民党は内閣官房に忖度し、財務大臣や官房長官も首相に忖度し、その首相自身も夫人に忖度した。忖度が忖度を呼び、ついにはこうした結果に陥ったのだ。 この騒動の中に国民の姿は見えない。見えるのは、そうしたスキャンダルの中、麻生太郎財務大臣と菅義偉官房長官の内部権力闘争だ。 今年9月の自民党総裁選をにらんだ内部からのリーク合戦も加わり、安倍昭恵夫人の国会招致(証人喚問)というカードは、今や真相解明というよりも、激しい権力闘争の道具に使われているといえるだろう。

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    舛添要一が断言「昭恵夫人の国会招致などあってはならない」

    らない。 改ざん前の決裁文書を見ると、記述が詳細すぎて驚くが、そこには役人の魂胆が垣間見える。それは政治家案件であるために、事後に問題が起こったときには「自分(役人)の責任ではない、政治家の存在が無言の圧力となった」と逃げ道を作るためだったようである。 このあまりに詳しすぎる決裁文書が近畿財務局、そして財務省本省で問題になるのが、昨年2月以降である。 昨年の2月17日には、衆院予算委員会で、安倍首相が「私や妻が払い下げに関与していれば首相も国会議員も辞める」と答えている。また、2月24日には佐川氏が「学園との面会記録は破棄している」「国会議員らの不当な働きかけは一切なかった」と答弁。さらに、3月15日には「価格を提示したことも、先方からいくらで買いたいと希望があったこともない」と発言している。「森友文書」書き換え問題をめぐる集中審議を実施され、疲れた様子で臨む安倍晋三首相(左)。右は麻生太郎副総理兼財務相=2018年3月14日(共同) 佐川氏は、まずは首相答弁と整合性を取るため、つまり首相辞任といった事態に陥らないように、国有地取引の内容を熟知しないまま、そのような答弁をしたと考えられる。 そして、部下たちが理財局長の発言と矛盾するような文言を決裁文書から削除したと考えるのが最も事実に近いのではないだろうか。文書の改ざんが行われたのは、昨年2月下旬から4月にかけてである。 野党は、役人が「安倍昭恵夫人」の名前を削除したのは、この首相答弁を忖度したからではないかと疑問を呈している。 しかしながら、以上の経緯を見ても、役人レベルの決裁文書そのものについて、首相や首相夫人が知るわけがないし、まして改ざんするように圧力をかけることなど有り得ない。したがって、この公文書改ざんについて昭恵夫人を証人として国会招致するなどあってはならないことである。 次に、国有地払い下げ問題については、特例での取引に不正があったのか、なかったのか、そしてそこに安倍首相や昭恵夫人、あるいは鴻池祥肇氏や平沼赳夫氏ら政治家の関与があったのかどうかが焦点になっている。昭恵夫人は利用された 3月23日と26日には、野党議員が大阪拘置所で森友学園前理事長の籠池泰典被告と接見し、昭恵夫人から「いい土地ですから前に進めてください」と言われたということなどを再確認したという。しかし、籠池被告が本当のことを言っているのかどうかは確認する証拠がない。 ところで、籠池夫妻はなぜ今も拘置所に入っているのか。昨年7月31日に逮捕されたのは、小学校への国の補助金を不正受給したという補助金適正化法違反である。しかし、特捜部は国有地売却をめぐる財務省職員の背任容疑についても告発を受理しており、いわばこちらが「本丸」であり、国有地の払い下げが不正なものであったかどうかの捜査を進めていると思われる。 この件の真相を明らかにするためには、佐川氏の前任者たちの証人喚問が必要である。佐川氏が理財局長だったのは、2016年6月17日から2017年7月5日までであり、国と森友学園との間で件(くだん)の土地について売買契約が成立したのは2016年6月20日である。つまり、実際の売買交渉は迫田英典理財局長(在任期間2015年7月7日〜2016年6月17日)、中原広理財局長(同2014年7月4日〜2015年7月7日)、林信光理財局長(同2013年3月29日~2014年7月4日)時代に行われたものである。 この交渉で籠池被告が昭恵夫人の名前に言及するのは、2014年4月28日であり、近畿財務局との打ち合わせの場で、籠池夫妻が昭恵夫人と一緒に写った写真を見せながら、「安倍昭恵総理夫人から『いい土地ですから前に進めてください』とのお言葉をいただいた」と述べている。 もし、籠池被告の言っていることが正しいとしても、大臣や都知事としての私の経験を振り返っても、毎日のように多くの人と会い、写真も一緒に撮られ、またいろんな場所に視察に行くため、4年前にどこでどのような言葉を話したかなど覚えてもいない。また、「いい土地ですね」「いい絵ですね」「いい本ですね」などと社交辞令を連発することも決して珍しくはない。 昭恵夫人を証人喚問に呼んだところで、安倍首相が言ったように「そんなことは言っていない」としか言わないであろう。そして、発言内容について、録音などの証拠もない。スリランカのシリセナ大統領との晩さん会で、笑顔を見せる安倍昭恵首相夫人=14日午後7時30分、首相公邸(代表撮影) 国有地の不正払い下げを問題にするのならば、近畿財務局の関係者を証人喚問に呼ぶことが先決である。籠池被告は昨年3月28日に証人として国会で喚問されている。 そのとき、籠池被告は総理夫人付きの政府職員、谷査恵子(さえこ)氏から国有地借り受けに関して、ファクスをもらって「現状では希望に沿えない。なお、昭恵夫人にも既に報告している」と述べている。この真相については、谷氏を証人喚問して問いただせば済む話である。 いずれにしても、昭恵夫人は籠池被告に利用されたのであろう。彼女を証人喚問しても、真相が分かるはずがない。真相解明のために証人喚問すべきは、まずは歴代近畿財務局長、そして担当の役人たちである。

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    エリート官僚のミスを誘った昭恵夫人「お節介な行動力」

    いるようであれば、首相も国会議員も辞職する、というものである。 そもそも、「官高政低」といわれる日本政治において、政治主導を示すために、内閣人事局や国家戦略特区を設置したのではなかったか。関係の有無はいまだ明らかではないが、内閣人事局の存在が忖度(そんたく)を生んだ可能性が指摘されている。また、加計学園問題についても、政治主導の最も象徴的な会議に、諮問会議の議長である首相が関与していないというのは、事実であれば、職務怠慢と言わざるを得ない。こうした二つの官高政低にあらがった設置がさまざまな疑問を生み出している。 さらに問題が複雑化したのは、昭恵夫人を巻き込んだことである。夫人は森友学園の教育方針に賛同し、3回も講演を行ったり、小学校の建設予定地に足を運んでいる。その結果、新しくできる小学校の名誉校長に一時就任していたことを考えれば「関与していない」という言葉は空虚に聞こえる。言葉遊びのレベルでいえば、設置には直接関与していないので問題ない、という答えは納得しがたいものがある。2018年1月、杉原千畝の記念館を訪れ「命のビザ」のパネルなどの展示を見る安倍首相と昭恵夫人=リトアニア・カウナス(共同) 政治家の対応に慣れているはずの高級官僚がミスを犯すとは思いたくはない。仮にミスしたとすれば、官僚が今まで慣れていない首相夫人への扱い、歴代でもとりわけ行動的な昭恵夫人とはいえ、政治に口を出すことは想定外であったのだろう。もちろん、その背景は「安倍一強」体制が盤石であることなどが挙げられるものの、それだけではないはずだ。やはり、昭恵夫人と森友学園前理事長の籠池泰典被告夫妻との付き合いが挙げられよう。規定のない首相夫人の「地位」 夫人の籠池諄子(じゅんこ)被告の話によると、メールや電話は数多く残されているという。そうであるなら、名誉校長がお飾りにすぎないとしても、新設の小学校に関して全く言及がなかったというのは考えにくい。改ざん前の決裁文書には籠池泰典被告の発言として、昭恵夫人から「いい土地だから前に進めてください」という小学校建設を促進するような言葉もあったと記されている。2018年3月23日、大阪拘置所前で籠池泰典被告と妻諄子被告の収監に抗議する人たち=大阪市都島区 この発言が正確なものかどうかは本人しか分からない。実際に安倍首相が夫人に確かめて「そのような意見は言ってはいない」と答弁していたが、定かではない。なにせ、財務省の文書改ざん、厚生労働省の裁量労働に関する調査のいい加減さを目の当たりにした国民には、国会で「証拠は示せないけど信用してください」と言われても、信じることは難しいからである。 また、経済産業省から内閣府に出向し、昭恵夫人付きとなった谷査恵子(さえこ)氏の存在も、夫人との関係で触れないわけにはいかない。彼女は常に昭恵夫人に同行していたようである。しかも、谷氏は財務省理財局、田村嘉啓(よしひろ)国有財産審理室長に対して、契約状況などについて問い合わせをしていたという。籠池被告も野党議員との接見で、小学校開設の進捗(しんちょく)を夫人や谷氏に随時報告していたと改めて主張している。 こうなると、昭恵夫人と谷氏との間で、この問題についてどのような会話をしていたのかも気になるところである。2人の間の会話は2人のみが知るところであるが、この問題、とりわけ昭恵夫人の関与の度合いが明らかになるであろう。現在は在イタリア日本大使館に異動しているが、政治的都合の「海外逃亡」に思える。 昭恵夫人の行動は、やはり脇が甘かったと言わざるを得ない。森友学園への対応も実態を把握できなかった。この問題がなければ、今でも名誉校長を続けていたのかもしれない。財務省の改ざん文書で氏名が削られていることからも、一定の力は持っていると考えられる。 今回の問題を総括すると、日本においても首相夫人の地位について規定する必要があろう。そうでなければ、官僚を秘書につける必要があるとは思えない。警護対象であっても、税金で雇われている官僚を秘書につけることとはまた別の話である。 今回の問題は、官僚による忖度の結果と思われるが、首相の国会発言に端を発した以上、なぜ首相夫人の地位を守る必要があったのか政治的に明らかにすべきだ。また、昭恵夫人も官僚を秘書に付けて行動していた以上、証人喚問は無理筋にしても、必要であれば参考人招致に応じたり、会見を開く責任がある。

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    ウラ社会の視点でみれば「昭恵カード」の無意味さがよく分かる

    向谷匡史(ジャーナリスト) 「佐川宣寿元長官が終わったら、次は昭恵夫人を引っ張り出せ!」と、野党の鼻息は荒い。自民党内においても、安倍一強で出る幕がないとあきらめていた連中が、総裁三選を阻止すべくモゾモゾと動き始めた。メディアも大張り切りで、昭恵夫人喚問の声はいまや大合唱の観がある。 では、この大合唱の本質は何なのか。森友問題の経緯や事実関係、さらに公文書管理のあり方といったことについて、私は真相に迫れる立場にない。 だが、森友問題そのものには、とても関心がある。交渉術や人間関係術に関するハウツー本の著書が多い私は、多角的な視点で事象を見る習慣があり、そうした視点から昭恵夫人の「証人喚問問題」を見ると実に興味深いのだ。 世論に問いかける事件が起きると、私はまず愚妻の反応を見る。一国民の、いい歳をした専業主婦であることから、世間の受け止め方を代表しているように思うからだ。 その愚妻が「昭恵夫人は喚問すべきよ」と、テレビのワイドショーを見ながら柳眉(りゅうび)を逆立てている。国民は怒っていると、私はハッキリ認識しつつ、「では、なぜ昭恵夫人を喚問しなければならないと考えているんだ?」と、素朴で根源的な質問をしてみた。ケニアのナイロビに到着した安倍首相と昭恵夫人(右)=2016年8月 愚妻は何を今さらといった顔で、憤然として言う。 「昭恵夫人が籠池さん(森友学園前理事長)を贔屓(ひいき)したから、財務省は国有地を安く売ったんじゃないの。国会に呼んで問い質すべきよ」 「なるほど。昭恵夫人が『安く売れ』と財務省に命じたわけだ」 「いくらなんでも、そこまではしないんじゃない。忖度(そんたく)がどうとかテレビが言ってるから、官僚が気をまわしてやったんでしょう」 「じゃ、昭恵夫人を国会に呼んで何を聞くんだろう」 愚妻は一瞬、言葉に詰まったものの、「でも、総理夫人なのよ。その人が肩入れしているんだから、無言の圧力になるじゃないの」と、譲らないのだ。 そこで、私はさらにこう問うてみた。 「おまえが町内会長をやっていて、通りが暗いので外灯を設置して欲しいと、町内会の人に相談されたとする。どうする?」 「必要なものなら市役所にお願いするわ」 「当然だな。でも、設置してくれるかな?」 「手続きやら審査やら、市の予算もあるから難しいかも」 「どうする?」 「地元の××市議に話してみる」 「それって籠池被告の手法と同じだろ?」 「……」 そして外灯設置が問題化した場合、××市議が行政を恫喝(どうかつ)したとすれば即刻アウトとなるが、行政のほうで忖度したとすれば責任は誰にあるのか。 「おまえ、経緯を知りたいから議会に証人として出てこいと言われたらどうする?」 「いやよ。私は悪くないもの。だって、暗い通りに外灯は必要だと思ったから、そう言っただけよ」 「昭恵夫人の場合は?」 「……」 こんな問答を愚妻と茶飲み話にするのだ。利用され過ぎた「昭恵カード」 さらに視点を変え、ウラ社会から森友問題を見ればどうか。「籠池被告は昭恵夫人をうまく引っかけた」ということになる。不謹慎な言い方だが、それがウラ社会の視点から見た本質だ。 トラの威を借りるのはウラ社会の常套(じょうとう)手段で、借りられるものであれば、トラだろうがゾウだろうがワニだろうが何でも借りる。威を借り、相手を威圧して意を通す。籠池被告にそういう意図があったかどうか私は知らないし、実際にそうしたどうかも知らない。ただ、ウラ社会の視点から森友問題と昭恵夫人の関係を見れば、そう読み解けるということなのである。 そして留意すべきは、非は「威」にあるのではなく、それを利用した人間にあるということを見落としてはなるまい。 では、財務省はどうか。麻生太郎財務相が、決裁文書の改ざんは「一部の職員が行った」と繰り返し発言したことで、メディアは財務省に責任をかぶせるものだと批判した。さらに、さわやかイメージの小泉進次郎筆頭副幹事長が「自民党という組織は、官僚のみなさんだけに責任を押しつけるような政党じゃない」と述べたことで、財務官僚が「被害者」であるかの印象を世間に与えた。 だが、それは違う。事情がどうあれ、財務官僚が行った忖度の本質は、相手のためでなく、わが身可愛(かわ)いさのものであって、彼らは決して被害者ではない。そうした処し方に葛藤し、苦悩した官僚が、気の毒にも自ら命を断つケースにつながっていくことを思えば、財務官僚の行為について是非を問うまでもあるまい。 そもそも森友問題の特徴は、これに関わるすべての人間に「言い分」があることだ。籠池被告は「私は理想の学校づくりに邁進(まいしん)しただけ」と主張するだろうし、昭恵夫人は「私はその理念に賛同しただけ」と言うだろう。 財務官僚は公言できないにしても、「総理夫人の案件として、土地払い下げに忖度するのは当たり前」という思いがあるだろうし、野党は「安倍政権の驕(おご)りである」「民主主義の根幹を揺るがす大問題だ」「内閣総辞職すべし」と当然ながら攻撃する。 そしてメディアは「国政批判は使命である」と進軍ラッパを吹き、国民は玉石混交のメディア情報によって「昭恵夫人を証人喚問せよ」という世論を形作っていく。自民党の安倍サイドは、揚げ足取りによる倒閣を懸念して、昭恵夫人の証人喚問を突っぱねる。みんな「言い分」があり、それぞれにおいてこの言い分は「正義」なのだ。 そこで、昭恵夫人の証人喚問である。昭恵夫人から直接的な働きかけがなく、森友問題が財務官僚の忖度に起因するものであるとするなら、昭恵夫人を証人喚問しても、「隠された事実」が出でくることは考えられない。講演する安倍昭恵氏=2016年6月、福岡市博多区 「私が真実を知りたいって本当に思います。何にも関わっていないんです」と、福岡で語った昭恵夫人の発言が批判的に報道されたが、第三者がこの発言をどう解釈するかということとは無関係に、昭恵夫人が本当にそう思っているのだとすれば、証人喚問されても「語るべき話」がないと当惑するのは当然だろう。 「昭恵夫人が全否定しても、否定する姿をみれば国民はわかる」と、したり顔で言う意見もある。だが、証人喚問して得られるものがそんな情緒的で不確かな推測でしかないとしたら、まったく無意味であり、これほどの茶番はあるまい。 「昭恵カード」は政局に利用され、野党議員のパフォーマンスに利用され、メディアのバッシングに利用され、財務省の批判かわしに利用され、茶の間の慰みにされるとしたら、証人喚問とはいったい何なのだろうか。 喚問する理屈をどれだけみつくろうとも、私の目には寄ってたかって「魔女狩り」を楽しんでいるようにしか見えないのである。