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    「泣き虫先生」は時代錯誤なのか

    ラグビーファンならずとも、「泣き虫先生」と呼ばれた元日本代表、山口良治監督を知っている人は多いと思う。伏見工の不良生徒たちを率いて全国制覇したサクセスストーリーは、ドラマ『スクール☆ウォーズ』でも描かれた。とはいえ、昨今のスポーツ界はパワハラ問題が吹き荒れる。熱血指導はもう時代錯誤なのか。

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    泣き虫先生独白「愛のムチなしに本当の指導ができますか」

    山口良治(元伏見工業高校ラグビー部監督) 最近、アマチュアスポーツ界で「パワハラ」と騒がれることが多いですが、思うことはたくさんあります。 なんでも「言ったもん勝ち」という風潮で、これでは指導者が何もしないことが正解のように感じてしまいます。しかし、「手を触れあう」ことなしに、本当に指導が行き届くのか、疑問に思ってしまうのです。 私はかつて伏見工業高校(現京都工学院・京都市伏見区)のラグビー部で監督をしていました。いわゆる「不良」が多い学校でしたが、顔が一人一人違うように、育った環境やしつけられ方がそれぞれ違います。両親が不仲だったり、逆に甘やかしすぎだったりね。 お母さんが早くに亡くなって、いつもお弁当を持ってきていない生徒もいました。その生徒にはおにぎりを渡したりしましたよ。思い出すだけで涙が出てきます。一人一人の人生の背景を思うと、たまらなかった。私は生徒のその先の人生まで考えて、本気で向き合って接していました。 当時、学校内でラグビー部は「山口収容所」なんて呼ばれていましたが、多い時で120人ぐらい部員がいました。指導した生徒は、みんなラグビーの試合中に大きなけがや事故なく、指導生活を終えられたことを、私は誇りに思っているんです。 学校の中には悩みを抱える生徒を見て見ぬふりする教員もいて、「なんでほっとくんだ」っていう憤りが強かった。もちろん、そういう気持ちを正当化してくださいと今言うつもりもないですがね。本当は、知らん顔をしている先生のほうが「賢い」んでしょうけど、私はほっとけなかった。 私は、その生徒がもし自分の息子や弟だったらと考え、本気で愛情を持って接するからこそ、親の前で泣きながら生徒に手を上げたこともありました。本当に一生懸命やっていればわいてきます、涙なんてものは。ほっとけなくて、伝えるために手を上げる、その判断は非常に難しいものでした。レギュラー一人一人にジャージを渡す山口良治・伏見工総監督(右)=2008年1月、奈良県(吉澤良太撮影) とはいえ、スポーツを指導することは、大変難しいことです。特にラグビーというスポーツは、恐怖に打ち勝ち相手にぶつかっていかなくてはいけません。体操の宮川紗江選手が体罰を受けていたと報道され話題になりましたが、体操も同じでしょう。あんな高い鉄棒で技を決めたり、平行棒から飛び降りたり、命の危険もありますし、怖いはずです。つらいこともたくさんあるでしょう。 ただ、指導する側はその恐怖を代わってあげることができないだけでなく、怖いことをやらせなくてはいけません。その恐怖に打ち勝てるようにするための指導を、パワハラや体罰だと選手が感じないようにと考えながら、また周囲の目を気にしながらするなんて、果たしてできるのでしょうか。 宮川選手はコーチの意図が分かっていたんだと思いますよ。命がかかった練習の時、コーチの一言で救われたことは多々あったでしょう。そんな関係性を知らない人たちが外から騒ぎ立ててニュースになっていく今の世の中は、なんだかおかしな方向にいってしまうのではないかと危惧しています。日大アメフト問題の本質 日大のアメフトの問題も、監督をしていたら、「相手を狙え、やっつけろ」なんて当然言いますよ。あれは言った言わないの問題ではなく、実際にラフプレーをした選手のスポーツマンシップが問題だと思います。 アメフトという危険なスポーツをやるにあたって、敵味方関係なくスポーツマンシップにのっとって信頼関係を築くのは当然です。もちろん、監督とのコミュニケーションの問題もあるでしょうが、やった選手はレギュラーになりたいとか、試合に出たいという気持ちから故意にあのような行為に至ったものなら、私には理解しがたいですね。 一連の体罰やパワハラの問題は、親子関係にも通ずると思います。このところ、若者の残念なニュースも多い。最近、バイクの事故で若者が複数亡くなりましたね。誰か間違っていることを教えてあげられる大人はいなかったのかと、歯がゆい思いを抱くことが多いです。 愛に飢えている子供たちがほっとかれているんじゃないでしょうか。今は親が手を上げても「体罰だ」と言われます。でも、親のしつけがしっかりしているのが本来の日本でしょう。 親には子供の命を守る責任があります。それにもかかわらず、言わなくてはならないことを言わない親が多い。「言ったもん勝ち」のハラスメントで、親子のしつけすら揺らいでいるわけですから、スポーツの指導はさらに難しくなるのではないでしょうか。 今の「言ったもん勝ち」のハラスメントが加速すれば、ますます「何もしない大人」が増えるでしょう。私も75歳になり、本当は表に出ず何も言わない方が楽だったのですが、元指導者として気になるニュースですし、誰かが言わなければならないだろうという気持ちがあったからこそ、インタビューを引き受けたわけです。日本一を決め感極まり、スタンドでガッツポーズをする伏見工の山口良治監督(中央)=1993年1月7日、東大阪市の花園ラグビー場 私がお伝えしたいことは、単純に「体罰を容認せよ」ということではありません。指導者と選手の間にあるものを言葉にするのが非常に難しいですが、一番大事な問題の本質は、「愛情を伝えられているか」ということだと思うのです。技術は伝えることができるかもしれませんが、目に見えないものを伝えるには愛情が必要なんです。選手に「勇気」を奮い立たせてほしい時、言葉で説明して伝えるなんてできますか。 時代は変わったと思います。しかし元指導者としてどうしても「言ったもん勝ち」の風潮と、今の若者たちが心配です。本当に大事なことは「愛」なんだと、そして「愛」を本気で伝えるにはどうしたらいいかを、世の皆さまに今一度考えてほしいと思います。(聞き手/iRONNA編集部、中田真弥) やまぐち・よしはる 京都市立伏見工業(現・京都工学院)高校ラグビー部総監督。昭和18年、福井県生まれ。日本体育大卒。元ラグビー日本代表。50年に伏見工業高校ラグビー部監督に就任、後に総監督を務める。全国的に無名だったチームを育てあげ、また情に熱い指導が多くの反響を呼び、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公、滝沢賢治のモデルとなった。

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    「体罰禁止で指導者が去勢される」ヤクザ先生が憂う教育の危機

    野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家) 人間が人間を教育(指導)する世界はロゴス(理論)ではなくカオス(混沌)である。論理で成立するのであればコンピューター教育や人工知能(AI)で事足りる。なぜ人から人なのか。ここを正しく認識せずして「人間教育」は語れない。女子体操の宮川紗江選手の訴えはその原点を炙(あぶ)り出して見せた。18歳のいたいけな少女は都内で記者会見し、練習中に暴力があったことを認めた上で処分の軽減を求め、速見佑斗コーチの指導継続を訴えた。  「1年以上前までたたかれたり、髪を引っ張られたりした」と暴力を認めた上で「暴力は許されずコーチも反省している」とし、「処分が重すぎる。速水コーチと東京五輪で金メダルを目指したい」と述べた。 彼女にとっては「暴力」と受け止めたことはなく、命やケガの危険性がある場合に厳しく指導されており、本人も家族も納得していたという。その一方で、塚原千恵子強化本部長らからパワハラを受けていたとも主張。「五輪に出られなくなる」などと圧力をかけられたほか、海外派遣選手の恣意(しい)的な選考があったと訴えたのは記憶に新しい。 この事件は二つの要素を含んでいる。「暴力」と呼ばれる速見コーチの体罰と塚原夫婦の「権力」を使ったパワハラである。連日、テレビのワイドショーは大騒ぎした。その中で特に気になったのは、速見コーチの一連の行為が疑いもなく、暴力という代名詞で報道されたことである。しかし、これは指導過程における「体罰」なのである。暴力は傷害であり、犯罪である。 むろん、体罰は行き過ぎれば暴力であるが、あくまでもこれは指導過程の一貫である。そのことを彼女も理解しているので、暴力を受けたという自覚がないのである。 体操は誠に危険をはらんだ競技である。競技中の事故で半身不随になったり、亡くなった人もいると聞く。彼女によれば、コーチからは集中力を欠いたり、遊び半分のように練習したときに叩かれたことがあったという。 速水コーチの行為はどうあれ、その方向性(ベクトル)は宮川選手をより伸ばすために用いられている。一方、塚原千恵子氏のパワハラは、宮川選手の思いから見れば、選手生命を閉ざし、意欲をなくす方向へと向けられている。どちらが正義に近いのか、一目瞭然であろう。 しかし、そのことに触れるコメントを一切聞くことはなかった。宮川選手から見ればコーチの行為は「善行」、塚原氏の行為は「悪行」である。私は、ワイドショーなるテレビ番組が「私刑(リンチ)ショー」であると感じている。一つの悪者を決めつけるとあらゆる人たちが徹底的に叩く。スタジオにはMC(司会者)に賛同する者たちが呼ばれ、台本に沿って悪者を締め上げる。その悪者の代表は体罰である。 「体罰=暴力=悪」であるという金科玉条(きんかぎょくじょう)の印籠を振りかざし、大衆はそれにひれ伏すという図柄である。世界的トランペッター、日野皓正(てるまさ)氏の体罰事件のときもワイドショーは大々的に扱ったが、そのビンタ事件のときは動画が流れた。すると叩かれた生徒の態度の一部始終が放映されるや、形勢は一気に逆転。ついには有名芸能人が「俺でもあんなやつはビンタくらいする」という発言が出た。男子中学生への体罰について会見するジャズトランペット奏者・日野皓正氏=2017年9月1日、羽田空港(撮影・佐藤徳昭) 決定的だったのは、空港でマスコミに取り囲まれ、すかさず詰め寄られると日野氏はこう言い放った。「君らのようなマスコミが日本文化を駄目にしてきたんだ!」と。「現場の関係も分からぬ者たちが論理だけで言うな。本当の師弟のぶつかり合いを前時代的な遺物として葬るな!」「モノづくりや真剣な教育はそんな単純なものではない!」などと言いたかったに違いない、と私は拝察する。これはあくまで私見であるが…。 その後、日野氏に同調する世論を敏感に読み取ると、この事件は何事もなかったかのように報道されなくなったのである。追い込むことは選手に必須 そもそも朝日生命体操クラブという私的な指導者が夫婦で体操協会の幹部であり、絶大な権限を持っていることも歪(いびつ)である。過去において、正式な競技会で自クラブの選手に不可思議な採点方法で高得点を与え、他チームから大会をボイコットされた前歴を持つ指導者である。ボクシング協会による審判不正「奈良判定」に匹敵する不祥事であるが、その責任を取って一度は役職を引いた人間が再び重要ポストに返り咲いたことも、面妖なことである。 塚原光男副会長と親交のある人物は彼のことをこう証言する。「さっぱりしていて男気で、よく若い者を食事に連れて行ったりする優しい人です」と。しかし、パワハラとこの人物像とは何の関係性もない。「巧言令色 (こうげんれいしょく) 鮮(すくな)し仁」である。何よりも悪いのは、守りたい組織と自分が経営するクラブが等価値となっており、そんな夫婦が協会の上層部で権力を振るっていることである。 組織の長に登り詰めた人間が「権力」の魔力に陥って、「公」と「私」の使い分けができなくなった典型とも言える。彼らは私(自分)を優先したパワハラを行った。18歳の少女を権力が集中している夫婦の通称「千恵子部屋」という部屋に一人呼ぶことの意味と、その恐怖が彼らには理解できないのだろう。彼らは「私」を行使したが、私は「公」(選手)を育てる過程での体罰、パワハラは必要であるという信念を持っている。 技術(理論)を超える精神論が結果を導くために不可欠であることは、衆目の一致するところだろう。どんなに立派な技術や体力を保持しても最後は「心が体を動かす」のであり、メダリストや一流アスリートは結局のところメンタル(精神)を語る。「根性論」は過去の悪癖の代名詞だが、どんなに科学的、理論的といえどもその実践は根性論からなる精神の昂(たか)まりである。強い精神力を作るためにも本人を鍛錬して“追い込む”ことは必須である。開星高校の野々村直通監督(当時)= 2011年8月14日、甲子園球場(恵守乾撮影) その追い込みの過程でパワハラ扱いされ、指導者が追放されていいのか。情熱ある指導者がその熱を削がれ、去勢され、優しいだけの指導者になっていいのか。日本は、すべてが中庸で、ナチュラルで、ニュートラルな中性的民族に向かっているようで強い危機感を覚えている。 「暴力」は犯罪である。しかし、「体罰」はそもそも教育における指導の手段の一つであり、「学校教育法」で禁止されている現状があるというだけのことである。体罰は本当に「絶対悪」なのか。どんな状況においても絶対に行使してはならないものだろうか。今こそ真剣な論議が待たれるところだが、今の軟弱な日本では遥かに望むべくもないことであろう。

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    戸塚宏手記「『体罰は悪』の論理を誰がつくったか」

    戸塚宏(戸塚ヨットスクール校長) 私は工学部出身である。それなのに図らずも文科系の教育分野に入り込んでしまった。そこでまず、感じたのが「何という非科学性、非論理性」である。科学の定義は「再現性」である。その理論、法則に従って行動すれば、必ず所期の成果が出る。 厚生労働省などによると、大学を卒業した若者のおよそ3割がニート(就学も仕事もしていない若者)だという。また、ニートにならず、会社で働き続けている者も仕事の能力は下がっているようだ。これは日本がやがてつぶれるということであり、私は全て教育の失敗によるものだと考えている。 そもそも、教育教育論により行われる。教育が失敗するのはその教育論が間違っているからだ。つまり、非科学であるということだ。正しくかつ科学的教育論で行えば、教育は荒廃しないし、ニートなどできはしないはずだ。 それなのに文部科学省は今の教育論にしがみつき、変えようとしない。「偏差値秀才」という教育の失敗者の多くが官僚やマスコミ人となったからだ。偏差値秀才は自分が偉いと思わないと生きていけないので前言にしがみつく。そして反省する能力がない。 「君子、豹変(ひょうへん)す」とは、大物は間違っていると分かればサッと正すことができるということである。前言にしがみつくのは偏差値秀才が小物である証拠だ。おかげで何百万という若者の人生が無駄なものになっている。誰がその責任を取るのか。 また、教育論は精神論からつくられる。今の教育論をつくる精神論は欧米のラショナリズム(理性主義)だ。ラショナリズムは科学ではない。宗教と哲学が融合したもので創造論である。科学と呼べる代物ではない。戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長 それに比べて「大和魂」(日本民族固有の精神)はラショナリズムとは真逆であり、最も科学的な精神論だ。それゆえ、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が精神のクーデターを起こし、大和魂をラショナリズムに替えさせた。 そして日本の官僚やマスコミは偏差値秀才だからマッカーサーの「ポチ」となり、それをありがたがった。大和魂を身につけていればそんなことはしないのだが、偏差値秀才は思考力、人間性、行動において劣るため、大和魂は身につけられない。だからアメリカの思うままに操られてしまった。 そこで「体罰は悪」は科学かどうか考えてみよう。「体罰は悪」という意見を持っている人にぜひ問いたい。体罰の定義は?  善悪の定義は?  この二つが科学的に定義でき、しかもそれがシミュレートできるなら「体罰は悪」は科学だ。だが、一体これを誰ができるのか。体罰の目的は進歩 そもそも「体罰は悪」をふりまき、日本中の意見を統一してしまったのはマスコミだ。マスコミに逆らうと人生を破滅させられてしまうので、みんな同じ意見になってしまった。 本来、体罰の定義は「進歩を目的とした、有形力の行使」である。体罰を受ける側の利益を目的としているのだから当然、「善」である。与える側にはなんの利益もない。見かけはよく似ていても暴力は与える側の利益のために行われる。要は、体罰と暴力は目的が逆なのだ。 だから、われわれの子供の頃は体罰を受けると心の底から「ありがとうございました」と言えた。体罰を生かす能力があったからだ。今はその能力がないからすぐに「教育委員会に訴えるぞ」となる。 善悪は性善説で判断するものだ。「天の命ずる、これを性という」(儒教の基本思想を示した経典の四書の一つ「中庸」より)。われわれの精神の中で、天の命じたものは本能である。性善説とは、本能は善ということなのだ。 ラショナリズムは「理性が善、本能が悪」なのだから性悪説だ。それなのに彼らはラショナリズムを性善説と言いくるめる。この自分たちに都合のいい精神論を正しいとして、欧米人は「世界征服」を繰り返してきたではないか。 先にも述べたが、世界一正しく善である精神論「大和魂」を悪のラショナリズムに替えたのはマッカーサーの命令ではあったが、それを忠実に守る「ポチ」の官僚とマスコミの罪である。双方とも文科系の偏差値秀才の成れの果てである。思考能力がないゆえに南蛮渡来の精神論に飛びつき、しがみつく。 そして、「日本人は愚かだが、私は優れている」と言い出す。現場に出ると自分のダメさ加減がばれるので上から目線で現場を見る。大和魂はこれを許さない。大和魂は「心身一如」(肉体と精神は一体)であり「知行合一」(知識と行為は一体)だからだ。知っているということは、それをできるということなのだ。 だから大和魂では、本来ジャーナリストも批評家もできない。それができるのは、悪の精神論であるラショナリズムを正しいとしているためだ。正しいと確信していなくても都合がいいと知っているからだ。 誤報で人を傷つけても「表現の自由」「報道の自由」で逃げられるので平気で悪いことをする。そのくせ「自由」とは何かは知らない。「権利」もそうだ。「子供の権利を守れ!」とヒステリックに叫ぶが、権利とは何かを知らない。言われた現場はどうすればいいのか。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) テレビは私を生では出演させない。録画して都合の悪い部分はカットする。自分たちの自由は主張するが、私の自由は認めない。これこそ象徴的な例だろう。 繰り返すが、ラショナリズムは悪の精神論だ。その一形態であるリベラルや左翼はもっと悪だと思う。そのリベラルを信奉するマスコミや官僚は当然、悪である。指導者たちがこれでは日本は滅びる。救う道は大和魂を復活させることしかない。

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    体罰が「ケースバイケース」で許されてはいけない理由

    ものだが、今やテレビの前で悪態をついているおっさんと変わらない。 何か事件があるたびに議論されるのが教育現場でのいじめや体罰問題。10~20年前にはそれこそ、「いじめられる方にも問題がある」「体罰にも愛がある」なんて言説がまかり通ってきたが、さすがにここ最近は、いじめや体罰は悪である、という認識が広まりつつあるように見えた。ようやく。 しかし、ジャズトランペット奏者の日野皓正が壇上で男子中学生の髪をつかみ、往復ビンタしたと報じられている件では、「体罰は絶対に許されないことなのか」という議論が再燃している。男子生徒がコンサート中に身勝手な演奏を続けたため、仕方のない処置だったという論調もある。 もしこれが、会社の中で上司から部下へ行われたことであればパワハラであり、暴行罪もしくは傷害罪に問われる事件になりかねない。たとえ部下が仕事上で暴走したとしても、それを暴力で罰していいという話にはならない。それなのになぜ、指導者から子どもに対して体罰が行われるときだけ、「アリかナシか」の議論になるのか。 それは、「子どもは言葉で言ってもわからない存在だ」「だから体で教えてもいい」という認識を一部の大人が持っているからではないか。自覚的にしろ、無自覚にしろ。 確かに大人に比べて子どもは判断能力に欠けるところがあるだろうし、自分の欲望を理性で止められない部分もあるだろう。「子どもには言葉で言ってもわからない」は、実際に子どもを育てたり指導したりしたことのある人の多くが抱える実感かもしれない。 しかし、「だから体で教えていい」は、おかしいだろう。なぜ大人から子どもに対してだけ、暴力が条件付きで容認されるのか。それは大人側の論理ではないのか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) この件について、ダウンタウンの松本人志が、レギュラーコメンテーターとして出演する「ワイドナショー」で、「わりとシンプルに、この中学生の彼が叩かれたことを『クソ!』と思ったとしたら、指導として間違えていたんじゃないですか? 反省を本当にしたのであれば指導として正しかったんじゃないかなと思うから、中学生の心の中が答えだと思うんですよね」と発言した。 これはかなり問題のある発言だ。体罰を受ける側の反応によって体罰がアリかナシかが決まるのであれば、体罰を行う側はいつでも「こいつと俺の関係ならアリのはず」という見切り発車で暴力を行っていいことになる。「なぜ今はダメ」答えは簡単 実際、日野は事件後の取材に対して、男子中学生が自分の楽屋に謝罪に訪れたことなどを挙げ、「俺と彼との間には親子関係に近いものがあり、問題はない」とも語っている。 また、体罰を「ケースバイケース」で、「許される場合もある」と大人が口にすることの危険性を、松本や松本の意見の賛同者は気付いていないのだろうか。体罰がケースバイケースで容認される世の中であれば、図々しい加害者ほど「自分は体罰をしてもいい」と思い込むだろう。子どもを虐待死させてしまった親が「しつけのつもりだった」と弁解することはよく知られている。 スタンフォード監獄実験の例を挙げるまでもないが、人は与えられた権限によって増長する。しかも教育現場は「密室」の状態になりやすい。 いったん暴力の権限が与えられたとき、それを行使せずにいられる人の方が少ないだろう。教育現場での指導者と被指導者の関係の危うさ、構造の中での強弱関係を認識していない人だけが、したり顔で「ケースバイケース」を口にする。 人間というのはときとして感情的になるものだから、言うことをきかない子どもに暴力を行使したくなる衝動を理性で止められないこともあるだろう。普段、「いい先生」と認識されている人が「ついカッとなる」ことはあると思う。 しかし、それを行ってしまった大人がやるべきことは、「正当性のある暴力もある」と主張することではなく、素直に「手段として暴力を選んだことを謝罪する」ではないのだろうか。 さらに松本は、「我々世代の人はすごく体罰を受けたけれど、今の時代ではそんなものありえへんってみんなよく言うじゃないですか? でも、なぜ今の時代にありえないのか、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ」「なぜ今はダメで、昔はよかったのか、明確な理由が分からないんですよ」とも語っている。 なぜ今はダメで、昔はよかったのか。こんな問いの答えは簡単だ。昔は今のように子どもの人権が守られていなかったから、体罰を辞めてほしい側の意見が通らなかったのだ。 国連で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、日本が批准したのは1994年。松本の子ども時代には、「子どもの権利」の概念がそもそも広まっていなかったのだ。子どもの権利なんて昔だって守られていたと主張するのであれば、それは不勉強が過ぎるだろう。 松本は続けて「体罰を受けて育った僕らは今、変な大人になってないじゃないですか? なんなら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか?」とも語っている。絶句である。 体罰について「今はダメでなぜ昔はよかったのか」程度の問いについて、周囲の誰からも回答をもらえない(もしくは、遠回しに諭されていても気付かない)大人が、常識があってまともなのだろうか。かつて若者から絶大的に支持されていた芸人がただの老害となっていく瞬間を、私たちは目撃している。

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    事前に親に体罰の許可をもらう「合理的スパルタ塾」の高実績

    が指摘する。「本人、親、第三者の誰が見ても悪いことについて体罰を含めた指導を行うのが『合理的スパルタ教育』。たとえば宿題を忘れる、人に迷惑をかける、友達をいじめる、授業を妨害する。こうしたことはすべて体罰の対象になります。本人も自分が悪いとわかっているから『体罰されて当然』と思っているし、保護者からの苦情もありません。むしろ『ここまでやってくださってありがたい』と感激されるかたもいらっしゃる」 集賢舎には現在、小学5年生から高校3年生まで約100人の塾生が在籍する。2017年夏に実施された愛知全県模擬試験では各学年で平均を大きく上回り、特に中学3年生は国語、英語、数学が全県下第1位。またその3教科全て満点で、全県下1位の生徒を出すなどの好成績を収めている。中3の娘をこの塾に通わせている母親は「体罰肯定派」だ。「ホームページを見て、体罰を含む指導と知ったうえで娘を入塾させました。私自身、学生時代に体罰のある厳しい塾に通っていろいろ学んだので、“愛のムチ”は時に必要と考えています。女の子なのでシッペまでにしましたが、男の子だったらビンタを選んでいたでしょうね」 この母親が振り返るように、かつての日本では子供に手を上げる岡田塾長のような先生は、決して珍しい存在ではなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「この道40年になりますが、開塾当時、体罰は社会的にも当たり前だったし、うちももっと激しかった。たとえば『アメリカの五大湖周辺の重大産業は?』という質問の答えを次回までに覚えてこなかったら、即ビンタでした。保護者から『先生、もっと叩いてくださいよ』と言われることもありました」(岡田塾長) しかし、時代は様変わりしている。関連記事■ やむなく親が子供に体罰を施すときの「正しい体罰のルール」■ 長嶋監督はスパルタ方式 体罰も辞さず江川卓氏「怖かった」■ 子が私立中狙う親にとっては宿題代行を利用するのが合理的か■ 63才婚阿川佐和子 愛に加えコスパ的合理的発想あったか■ 警察官は車を買う時・休日の長距離運転に上司の許可が必要

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    パワハラまがいの熱血監督や鬼上司が通用しなくなった理由

    太田肇氏だ。* * * 次々と表沙汰になるスポーツ界のパワハラ問題だが、高校以下の学校における部活や教育現場でも、教師による生徒への体罰が後を絶たない。 残念なのは、問題を起こしたリーダーの多くが教育や指導に情熱を燃やし、それを生きがいにしてきた人だということである。情熱をもって打ち込んでいるからこそ、選手や生徒が期待どおりの成績を残せなかったり、やる気のない言動をしたりすると許せないのである。 かつてなら少々の行き過ぎがあっても、熱血指導者として評価されてきたかもしれないが、いまではいくら実績があったとしても許されなくなった。そのことがまだ自覚できていないのだ。 職場でパワハラを起こすのも、たいていが古いタイプの管理者像、上司像から抜け出せない人たちである。やたら元気で威勢がよく、人前で自分の存在感を見せつけたがり、自分がこれだけがんばっているのだから部下も同じようにがんばるのが当然だと考える。そして、部下がちょっとでも思い通りにならないと相手の人格を否定するような物言いをしたり、怒鳴ったりしてしまう。チーム力を高めるのは、一歩引いたリーダー 冷静に考えてみたらわかるように、リーダーとフォロワーは立場が違うのだから、リーダーが自分と同じ「熱さ」をフォロワーに求めるのは無理がある。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) しかもリーダーがフォロワーにぶつける情熱と、フォロワーの情熱とは連動しないばかりか、反比例することが多い。リーダーが熱くなるほど、フォロワーは冷めてしまい、「どうぞ勝手にやってください」という気分になる。リーダーはむしろ一歩引いたほうがフォロワーに自発性が生まれ、成果もあがるケースが多い。熱血が通用する時代は終わった アマチュアスポーツの世界には、それを裏づけるようなエピソードがたくさんある。 高校野球の強豪、智弁和歌山高校の高嶋仁監督(8月下旬に引退を表明)は、前任の智弁学園高校時代には鬼監督として恐れられ、あまりの厳しさから選手に練習をボイコットされた経験もある。 それを機にスパルタ式の指導をあらため、春夏合わせて3度の全国優勝という実績を手に入れた。ラグビーの大学選手権で9連覇を達成した帝京大学ラグビー部の岩出雅之監督や、正月恒例の箱根駅伝で4連覇中の青山学院大学陸上競技部の原晋監督も、従来の体育会型指導を選手主体に切り替えてからチーム力が上がり、偉業に結びついたという。 岩出監督はいう。「上意下達のチームでは、ある程度の実績は残せても、それ以上の実績は出せない」と。熱血が通用する時代は終わった スポーツ界にかぎった話ではない。 精神科医の原田正文氏は、いまの日本では親が子どもを管理し支配する傾向が強くなっていることをデータによって示すとともに、それが思春期に行き詰まる子を増やしているのではないかと指摘している(『完璧主義が子どもをつぶす(ちくま新書)』より)。 大学で学生を見ていても、中学・高校時代にスパルタ教育を受けてきた学生は、おしなべて知識の量は豊富なものの、自分の頭で考えたり、自分から行動したりすることができない傾向がある。 仕事になると、それはいっそう深刻な問題だ。これからのリーダー像とは 部下はいつも強制や命令をされていると、最低限の仕事しかしなくなる。しかもIT化やアウトソーシングによって、そのような仕事の大半が消えつつある。残った仕事の多くは自分の頭で考え、自分の意思で行動しなければ成果があがらない性質のものである。実際、世界を席巻しているIT・ソフト系の企業や、優れた人材が殺到している優良企業では、ハラスメントはもちろん、熱血指導やマイクロマネジメント(重箱の隅をつつくような細かい管理)とも無縁だ。 要するにスポーツや教育においても、仕事でも、求められるレベルが上がったいま、従来のような熱血監督や熱血教師、鬼上司は通用しなくなったのである。それは、「リーダーシップ」のあり方が、いま根本的な転換を迫られていることを意味している。これからのリーダー像とは では、これから目指すべきリーダー像とはどのようなものか。 1つ目のタイプは、プロフェッショナルとしてのリーダーである。彼らは組織行動論、すなわち心理学や行動科学などの専門知識を応用し、フォロワーの潜在能力を引き出すとともに、それを組織力、チーム力に結びつける。スポーツ界、教育界、産業界を問わず、欧米のマネジャーにはこのタイプが多い。 2つ目のタイプは、つねに選手のため、生徒のため、部下やチームのためを考え、徹底的に尽くすリーダーである。最近はやりの名称を使うと「サーバント・リーダー」ということになる。企業では、顧客に近いところにいる現場の社員が最も偉いというメッセージを込めて、逆ピラミッドの組織図を描く人もいるくらいだ。 3つ目のタイプは、最低限の役割だけを果たし、あとはフォロワー個々人に、あるいはチームに任せるリーダーである。「委任型リーダー」と呼ぶことができる。フォロワーが自立していて、必要な知識や技術も備えている場合には、このタイプがベストである。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) それぞれタイプは異なるが、共通するのは「フォロワー・ファースト」の姿勢である。自分が目立ちたい人、主役になりたい人はこれからのリーダーには向いていないといえよう。関連記事■ テレビ朝日内部資料「女性社員の56%がセクハラ被害」の衝撃■ 日本体操協会・塚原副会長が語っていた「夢は武道館ライブ」■ 「多すぎるサービス残業」「上司のひどいパワハラ」との戦い方■ アジア大会で金0の女子レスリング 栄和人氏復帰はあるか■ セクハラ、パワハラの温床になる組織にメス入れる3つの方法

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    道徳教育とはなんぞや

    柴山昌彦文科相が戦前の教育勅語について「現代風にアレンジして道徳などに使える」などと発言し、物議を醸した。今春から小学校で必修化され、戦後初めて「教科」となった道徳。「価値観の押し付け」「愛国教育の始まり」などと批判的な意見も根強いが、そもそも道徳教育とは何なのか。

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    「星野君の二塁打」に隠された道徳教育のホンネ

    校でも始まる。そのための教科書も検定を通過し、各地で採択のための展示会も開かれている。道徳科は、戦後教育のあり方を大きく変えるものである。そこにはどんな背景があり、どんな問題があるのだろうか。 そもそも道徳科とは何か、それは今まで週1回行われてきた「道徳の時間」と何が違うのだろうか。取りあえず、教科になることによって変わった点は大きく三つある。 一つは、教科書があり、その使用が義務付けられることだ。二つ目は、学習の達成度を測る評価が求められる。そして、教科書をベースにした年間指導計画が強い縛りを持つことである。さらに、各学校では「道徳教育推進教員を置き、校長の方針の下に全教師が協力して道徳教育を展開すること」(学習指導要領)になっている。 それまでの「道徳の時間」は1958年に特設されたものだが、十分な議論を経ず、教育現場から反対の声が上がる中で実施された。日本国憲法と教育基本法の下において、国家が道徳に直接関わることに対する強い抵抗感が国民にはあったのである。 よって、戦前の修身は全ての教科の筆頭に置かれ、優・良・可などの成績も付けられていたが、「道徳の時間」はそうした形にはならず、教科外活動(領域)という位置づけにされた。 この時間は、学校や教師によって差があったが、クラスで起きたケンカやいじめなどの諸問題の解決のための話し合いや、合唱コンクールや体育祭などの行事に使われることも多かった。また、授業内容も副読本やそれに基づく年間計画はあるものの、個々の教師の裁量にある程度は任されており、良くも悪くも自由度が高いものであった。 そこには、戦前の道徳(修身)が押し付けであり、軍国主義教育の支柱になっていたことへの反省から、「子供たちに道徳を押し付けない」という教師たちの思いが底流にあったのである。そして、「道徳性は学校の教育活動全体を通して行う」(文部科学省)という指針に従っていたからだということもできる。『尋常小学修身書』(復刻版)。修身教科書は教育勅語を中心に編集された しかし、教科に格上げされる以上、そうはいかない。有り体にいえば、「高い自由度を認めない、させない」という狙いで、道徳科の設置が決まったのである。 ところで「教科」とは何だろう。算数、国語、理科などに加えて、体育や音楽などを思い浮かべる人が多いと思う。 例えば理科は「地学・生物学・物理学・化学」などの分野から構成され、それを子供たちの発達段階に合わせて、分かりやすくかみ砕いた形で教えられる。「地学・生物学・物理学・化学」は、それぞれさらに細かい分野別の科学的研究の上に構築されたものであり、学問的な根拠を持っている。体育や音楽も同様である。国語・算数と道徳の違い 社会科では、鎌倉幕府の成立はかつて「1192年(イイクニツクロウ)」と暗記された方が多いと思うが、昨今の研究をもとに、その記述は変化している。各教科は学問的根拠をベースにしているために、その研究の進展によって記述内容が変わることがあるわけだ。 しかし道徳科はどうであろうか。本来ならば、その性質から考えれば学問的根拠は「哲学、倫理学」などがベースになるべきものだと思うが、文科省の学習指導要領のどこにもそうしたことは書かれていない。 つまり、道徳科は教科となる学問的根拠を持っていないことから、いわゆる教科とは言うことはできないのである。文科省はそうした矛盾を「解決」するために「特別の教科 道徳」という立てつけをした。学習指導要領は以下のような6章構成になっており、道徳科が「第2章 各教科」の欄にないことからも、その苦しさが表れている。第1章 総則第2章 各教科(国語・社会・算数・理科・生活・音楽・図画工作・家庭体育)第3章 特別の教科 道徳第4章 外国語活動第5章 総合的な学習の時間第6章 特別活動 道徳科推進派である昭和女子大の押谷由夫教授は「要としての役割」や「本来の教科の概念を超えて成り立つものであることから、特別の教科(スーパー教科)となる」と説明する。そして「道徳は教科とのかかわりだけではなく、特別活動や総合的な学習にかかわる。その意味でも特別の教科(スーパー教科)なのである」と強調している。 しかし、どんな言辞を持っても、「第2章 各教科」に格上げすることには無理がある。その最大の理由は、すでに述べたように、道徳科が学際的研究成果と科学的根拠を持たないことにある。また、ベースになる基礎的な学問がないため、大学において(現時点では)道徳科の専門免許状を発効することはできない。 学問的バックグラウンドを持たないということは「文科省が指定した内容が道徳である」ということであり、すなわち「道徳の内実は国家が決める」ということになる。根本的な問題がここにある。国家が道徳をコントロールした典型事例は戦前の修身である。修身が教育勅語とリンクし、軍国主義を下支えする役割を持ったことは論を俟(ま)たない。道徳の教科化に戸惑いの声が聞かれた日教組の第67回教育研究全国集会=2018年2月、静岡市 また、教科になれば評価が伴う。人の心の内面を評価することに対する疑問や戸惑いの声が、教師たちからたくさん上がっているが、それは当然のことだろう。 そもそも、現場教員の大半は道徳の教科化に反対している。2015年に行われた全国の公立小中高教員計9720人を対象に実施した調査(愛知教育大)によれば、道徳科に反対という意見は「小学校79%、中学校76%」と圧倒的である。にもかかわらず、なぜ「道徳科」が設置されたのだろうか。 安倍政権下で発足した教育再生実行会議の提言には「今日多発化する青少年の問題行動の根幹に道徳性の低下がある」と書かれている。こうした主張を教育課程審議会などが引き継ぐ形で道徳科の設置が決まっていった。道徳でいじめは止められない そういう流れの中で、文科省が道徳科設置の主な理由としたのは、「いじめ問題」の深刻化であり、青少年の問題行動の多発、子供を取り巻く地域や家庭の変化(家庭の教育力、社会的モラルの低下)である。その他に、諸外国に比べて低い高校生の自己肯定感や社会参画への意識が低さ、グローバル化の進展などが道徳的に解決すべき課題として挙げられている。 確かに、いじめの認知件数は高止まり傾向にあり、待ったなしで解決すべき事案であることは間違いない。その他にも学校にはさまざまな問題が噴出している。 しかしながら、法務省のデータにあたってみると、少年犯罪は年々低下傾向にあるため、青少年の問題行動の多発という意見には根拠がない。そもそも、モラルが低下していると批判されなければならないのは、むしろ大人と社会の方ではないのか。 では、道徳を教科として格上げすれば、いじめ問題が解決に向かうのだろうか。 道徳科設置の直接的契機となったのは、2011年の「大津いじめ自殺事件」だ。あまり知られていないが、実は、事件の起きた大津市立皇子山中学校は、文科省指定の「道徳教育実践研究事業」の推進校(2009~2010年度)だったのである。 ところが、いじめ自殺事件は指定後の2011年10月11日に起きている。皇子山中の学校評価表では、道徳性の伸長について高い評価が掲載されている。もちろん、外向けの報告書を額面通りに受け取ることはできないし、この事件の真相や根本原因をここで論じることもできない。 だが、少なくとも文科省の肝いりで学校を挙げて行われた道徳の指定研究が、この事件を防ぐ有効な力になり得なかったということは言えるだろう。道徳を教科にしなければ、「いじめは防げない」と言わんばかりの文科省の主張には首をかしげざるを得ない。2013年8月、文科省の前川喜平初等中等教育局長に意見書を提出する大津市の越直美市長 それでは、なぜこのような性急な形で道徳科が推進されたのだろうか。第一次安倍政権の下では、教育基本法が「改正」され、いわゆる「愛国心条項」が追記された。 第二次安倍政権では「教育再生」を重要な政策課題に掲げ、第一次政権での教育再生会議を教育再生実行会議としてバージョンアップさせ、充実を図ってきた。当時の下村博文文科相は「6年前にも教科化は提言されたが、残念ながら頓挫した。今回は必ず教科化に資する議論をしてもらいたい」と強調し、第一次政権下で教科化を果たせなかったリベンジだということを公言している。 こうした経緯から考えれば、道徳の教科化は、教育問題というよりも政治的課題として浮上してきたものであるといえよう。その背景には復古主義を唱え、改憲を目指す日本会議など特定の政治勢力の影響がある。主な主張は「自虐史観、偏向教育の見直し」であり、「戦後レジームからの脱却のための教育再生」を課題とした安倍政権の意図とマッチしている。道徳科設置の「裏の顔」 こうした流れに位置づけられた道徳科の真の狙い、いわば「裏の顔」とするところは何だろうか。一つは「個人は国家のためにある」という道徳観の徹底である。次に、国家(政策)に疑問を持たない従順な国民の育成である。そして三つ目は、新自由主義政策が進行する中で、社会的格差が拡大し、生きづらさを感じている人々の心象にコミットすることである。 新自由主義は、ルールなき資本主義体制を基盤とし優勝劣敗をその魂とする。「成功も失敗もすべて個人の問題」という自己責任論を生み出し、敗者は自己の能力と資質の問題として、現時点での生活の責任を個人的かつ全面的に負うことを求められる。政治的には、公助よりも共助が強調されてきており、安倍首相も次のように述べている。 「私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を持たない限り、私たちの未来は開けません」(第183回国会、施政方針演説) 道徳科は「どんな社会の中においても、それに順応し個人の責任として生きていくこと」を要請する「21世紀型修身」の役割を持つものではないだろうか。 とはいえ、道徳教育が必要ないというわけではない。「異なる他者とともに生きる術を学び、よりよい社会をつくるための素地(そじ)となる道徳性」を育てることは教育現場で大切にされなければならない課題だ。 文科省も「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳教育への転換により児童生徒の道徳性を育む」と言う。大いに結構なことではないか。 しかし、検定教科書や現場で使用されている指導プランを確認する限り、「考え、議論する」と言っても、大半は教師の設定した枠内であり、教材も特定の価値項目、つまり「徳目」に誘導する構成になっている。 日大アメフト部の問題が社会的な注目を集めた今年だからか、「星野君の二塁打」という道徳教材を思い出す。監督の「バント」という指示に従わず、自分の判断でヒットを打ち試合の殊勲者になった星野君が、翌日監督に呼ばれて次からの試合の出場停止を告げられるというお話である。教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真 監督は言う。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」 この教材の主題は「約束や規則の尊重」である。チームプレーを是とする野球において、監督の指示を守ることは必要なことだ。しかし、このお話を「約束や規則の尊重」という徳目に結びつけていいものだろうか。 後半部分では「監督の話に最初は不満そうな選手たちも最後は監督の口調に熱がこもるにつれて、星野君の顔から血の気がひいて、他の選手たちもみんな頭を深くたれてしまった」と書かれている。結局のところ、「選手(子供)は監督(大人)の言うことを聞け、そうしなければ罰を与えるぞ」というメッセージになっている。それは強い力(権力)には従順であれ、というヒドゥン・カリキュラム(隠れている教え)に他ならない。「教材がいじめを誘発する」 こうした「道徳」教育は疑いを持たずに、上(権力)の命令に服従し、従属的な人間を結果としてつくり出すことにつながる。監督の指示に従わなかった星野君を、集団のルールや秩序を乱す存在として扱うのではない。決まりとは何なのか、ルールは誰のためにあるのか。監督(上の立場の人)の命令は絶対なのか、それが間違うことはないのか、間違いだと感じたらどうすればいいのか。徳目に誘導せずに、話し合えればいいのに、と思う。 低学年向けの「るっぺどうしたの」という教材は、おさるのるっぺが主人公だ。「わがまま」で言うことを聞かないキャラクターである。「朝一人で起きられない」「靴のかかとをふみながら登校する」。それを友だちに注意されると、留め具を止めていなかったランドセルから文房具を路上に落としてしまう、砂場の砂をクラスメートに投げてしまう。 授業では「るっぺの困ったところをみんなで話し合ってみよう」「るっぺのようにならないようにするために、自分はどうすればよいか、みんなで話し合ってみましょう」といった点が主要な発問になる。 しかし、これを読んだある母親は「るっぺは(発達障害を持つ)うちの子にそっくりだ」と言う。この母親は「教材通りに教えてしまっては、周囲と同じように規則正しく行動できない子が、一方的に追い詰められてしまわないか」と、心配が募る一方である。その上で「教材がいじめを誘発する内容になってしまっている。互いの違いを認めて助け合うことを学ぶことこそが大事なのではないか」と主張するのである。(神奈川新聞「カナロコ」2017年) 母親の指摘は鋭い。規則や集団の秩序に従うことが優先的課題にされてしまえば、道徳教育が「排除の教育」になってしまう。それでは本末転倒ではないか。残念ながら、現場で進行している実践の多くは「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳」ではなく、特定の徳目に答えを誘導するものになっているのである。 それでは一体どうすべきだろうか。まずは「学校の教育活動全体を通して、道徳性を育む」ということを大切にしたい。 子供たちの社会、つまり教室ではさまざまなトラブルや問題が起きる。そうしたことを、丁寧に話し合いながら解決していくことが求められる。そうした営みの中で、子供たちは異なる他者とともに生きる術を獲得する。それは他者への信頼と自分への肯定的感情を育むものだ。 そして、道徳性が子供の内面にだけ向けられているベクトルを、大人や社会との双方向のものに転換することだ。道徳性のベクトルは、むしろ私たち大人と社会に向けられるべきものである。2018年9月、立憲民主党の枝野代表(右)と米ワシントンで会談するサンダース米上院議員(立憲民主党提供・共同) 例えば、現実社会で起きているさまざまな問題を子供たちと話し合い、その解決に向けて学び合う。それは検定教科書を使ってもそうした学びを展開することは可能だと思う。根幹にあるのは、日本国憲法に示された国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三大原則であり、具体的には平和教育であり、人権教育ではないだろうか。 道徳性のベクトルは「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的指向に関係なく生まれたときから約束されている(バーニー・サンダース米上院議員)」人権の実現に向けられるものである。そして、社会の公正・公平を毀損(きそん)するものと戦うことが、その中には含まれている。それは社会(国家)の従属物としての「私」ではなく、権利主体としての「私」が世界に登場することでもある。

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    道徳の理念とかけ離れた「修身科=悪玉論」の実体

    、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。 では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。「道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない」「教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだか印象に残るものになっていない」「他教科に比べて軽んじられ、実際には他の教科に振り替えられていることもある」などの課題がこれまでも繰り返し指摘されてきた。 道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。 こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。中学道徳など中学・高校で使われる教科書を川崎市教委が審議した=2018年8月26日、川崎市(外崎晃彦撮影) ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。 これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。愛国心を教えたらどうなるか もっとも、こうした思考停止は、教科化の積極的な「推進派」にあっても同じである。彼らは、修身科が過去の「遺産」であるというが、はたして何が「遺産」なのか答えられない。中には、道徳の「教科化」さえ実現すれば、いじめや不登校、自殺などの教育問題が魔法のように解決するといった楽観論も少なくない。 こうした主張は根拠に乏しく、「感情的」であるという点で、「修身科=悪玉論」の主張と表裏を成している。しかも、両者に共通しているのは、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という道徳教育への素朴な「信頼」である。 しかし、道徳教育はそれほど簡単でも単純でもない。誠実や親切という価値を教えれば、子供たちが誠実になり、親切になるわけではない。愛国心を教えれば、すぐさま子供が愛国心を身につけるわけでもなければ、戦前の「少国民」に変貌するわけでもない。 それにもかかわらず、戦後日本は道徳教育を「賛成か反対か」という感情的なレベルの政治論に押し込め、あるべき道徳教育の理念、内容、方法といった本質的な課題の検討は妨げられてきた。「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論は、結局は政治的なイデオロギー論にたやすく回収され、教育論としての議論を希薄にした。こうした状況から生み出されたのが「道徳教育アレルギー」である。 歴史を創造するためには、決して過去を切り離して考えることはできない。真の創造を実現するためには、過去を厳しく批判し、過去を否定的に媒介することが必要である。たとえ誤った過去を持ち、悲しい歴史を担うにせよ、こうした過去を否定的に吟味し、検証することで初めて真の創造が達成されるはずである。教育勅語(安藤慶太撮影) その意味で、戦後の道徳教育は、戦前の修身科を否定的に媒介することに明らかに失敗した。戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。それが「修身科=悪玉論」の実体である。 しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。「賛成か反対か」不毛な議論 今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。 以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。 「特別の教科 道徳」の設置によって、私たちは子供の道徳性に正面から向き合うことが可能となり、その教育として当然の関わりは、必然的に政治的イデオロギーの入り込む余地を格段に減少させるからである。 実際、「特別の教科 道徳」の設置によって、これまで繰り返されてきた「賛成か反対か」の議論は明らかに後退し、教科書、指導法、評価のあり方といった授業の本質に関心が注がれ始めたことは間違いない。ここにこそ、道徳の「教科化」の歴史的な意義が認められる。 ところで、2014年10月の中央教育審議会答申は、今後の道徳教育のあり方について、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」とした上で、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」と明記した。教科化に伴い初めて検定申請された小学校道徳の教科書(寺河内美奈撮影) ここに至ってもなお、道徳の「教科化」が「修身科の復活」「価値の押し付け」であり、「いつか来た道」に至ると批判するのは自由である。しかし、それならば、せめてこの答申の言う道徳教育のあり方に言及して具体的に批判すべきである。そのことで初めて議論は成立する。 「賛成か反対か」の二項対立の議論は不毛であり、何より道徳的ではないことにそろそろ気づくべきではないか。感情的な議論に時間を空費する余裕は、今の教育にはない。

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    「道徳の教科化は正しい」いじめ自殺を隠蔽する学校は信用ならない

    森口朗(教育評論家)  道徳の教科化は学校関係者への不信任決議である。神戸市教育委員会が学校に対していじめ自殺事件の隠ぺいを示唆したというひどい事件が報道された。それを知って私は「道徳の教科化」がいかに正しい施策であったかを実感したところだ。 安倍政権の政治的リーダーシップと関係者の多大な尽力により、今年から道徳が教科になった。連合国軍総司令部(GHQ)により修身が廃止になって70年以上の歳月がたったことを思うと喜ばしいという思いとともに、この70年間、私たち日本人は何をやっていたのだろうと忸怩(じくじ)たるものがある。 道徳の教科化について大きな役割を果たした貝塚茂樹氏(武蔵野大学教授)によれば、GHQは敗戦時の修身を廃止はしたが、その後、大正デモクラシー時代に使っていたバージョンに近い教科書に戻して修身を復活させるつもりだったらしい。それを「公民」という新たな教科にして再出発しようとたくらんだのは文部科学省である。しかも、文科省の思いは結局実現せず、結果的にGHQの指導により元の修身とは似ても似つかぬ「社会科」になってしまった。 安倍政権が道徳の教科化を推進できた直接のきっかけは、滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒が2011年10月11日に自殺した事件だ。事件後に行われたアンケートによれば、男子生徒の手足を鉢巻きで縛り口を粘着テープでふさぐ、トイレや廊下での暴行、万引の強要、蜂の死骸を食べさせようとするなど、いじめの内容もひどいものだった。 さらに、被害者が自殺した後も加害者側の態度に反省が見られなかったことで、いじめ情報がインターネットで拡散され、社会的に大きな注目を集めた。しかし、残念なことではあるが、中学生の残虐ないじめ自殺事件はこれが初めてではない。過去には山形マット事件という「いじめ自殺」ならぬ「いじめ殺人」と言っても良いような事件が起きているのだ。 それでも、この事件が大きな反響を呼んだのは、既にインターネットが普及していたことに加えて、自殺事件発生後の教育委員会や学校関係者の対応があまりにひどかったからである。教育委員会の役人たちは学校と一丸となって「いじめ」隠しに奔走しただけでなく、報道により次々といじめの事実が明らかになっても、自殺原因が被害者家族にも問題があったからだと言い放った。さらには、行政のトップである市長が被害者の側に立っても、被害者とともに動こうとはしなかったのである。2018年6月、神戸市立の中3女子生徒の自殺問題で、聞き取り調査メモの隠蔽について、文科科学省の担当者らに謝罪する神戸市教委幹部ら その事件がきっかけになって「道徳の時間」が教科になったことは、何を意味しているのか。学校現場に道徳教育を任せておけないという事だ。道徳の教科化とは学校関係者への不信任決議に他ならない。 教科化される以前から、学校の時間割には「道徳の時間」なるものは存在した。だが、これは時間が確保されているだけで教科書さえ存在しなかった、いわば学校裁量、教師裁量でどうにでもなる時間だったのだ。パン屋と和菓子屋 多くの方々が「道徳の教科書」と考えていたものは、文科省の検定さえ入らない「道徳の副読本」にすぎなかったのである。それゆえ、教師によっては1年間に副読本を一度も読むことなく、慰安婦の強制連行という朝日新聞の虚偽報道を利用した反日教育をする者さえ存在した。彼らにしてみれば、今回の「道徳の教科化」は、腹立たしくて仕方ないだろう。なぜなら、「道徳の教科化」とは、道徳教育をどのように行うべきか、学校現場でしっかりと学習指導要領に沿った内容の教育が行われているかを国民が監視できる体制が整ったことを意味するからだ(もちろん、現段階はその一里塚にすぎないが)。 そこで教科化に反対する者たちには、この政策がどれほど醜悪であるか、というプロパガンダが必要になる。恐らくは、図らずもその先兵とされたのが、東京書籍小学1年の検定教科書を題材とした「パン屋、和菓子屋問題」だ。散歩中に友達の家の「パン屋」を見つけた話が、文科省の検定によりあたかも「和菓子屋」に書き換えさせられたがごとく報道されたのである。 あまりにバカバカしい。検定制度ではない。検定の中身でもない。もちろん道徳の教科化でもない。東京書籍の訂正方法と新聞等の報道の仕方が、である。文科省は、先に示された学習指導要領に沿って教科書を検定する責務がある。学習指導要領に「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」とあり、検定を受ける教科書にその記載がなければ指摘するのは当然だ。むしろ、指摘しなければならない。だが、東京書籍は歴史教科書などでも反日的記載の目立つ左派御用達の教科書会社である。 ここからは私の推測だが、その左派御用達の(それゆえシェアも大きい)東京書籍が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ことを子供たちに教えるために一項目増やすのは左派への裏切りに他ならない。「パン屋」を「和菓子屋」に替えてごまかしたのは、あえて「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ための項目を造らないためと考えるのが自然である。 もちろん、文科省の対応がいつも正しいとは限らない。そこで、提案だが、このような無駄な不信感を抱かせないためにも、検定結果だけでなく途中の検定意見もすべて情報公開してはいかがだろう。私たち国民は、とりわけ子を持つ親は、学校において子供にどんな教育がされるかを知る権利がある。現在は何冊中何冊が合格したという検定結果と、検定に通過した教科書を見ることが可能だが、一切の闇をなくし、文科省のどんな意見に対し、教科書会社がどんな修正をしてきたのか。それらをすべて晒(さら)して、その是非を国民に裁定してもらう。そんな制度改革を行ってもよいのではないだろうか。文部科学省の外観=東京・霞が関(宮崎瑞穂撮影) 元次官が未成年売春の巣窟に出入りしていたことが明らかになった文科省。いじめ自殺が起きたら隠ぺいを指示する教育委員会。それに唯々諾々と従う学校現場。元委員長の愛人の務める店に組織名の領収書を切らせていた日教組等々。われわれ国民の教育関係者の向ける目は、怒りと不信に満ちていることを、彼らは早く気づくべきである。 今年9月に新潮新書から拙著『誰が「道徳」を殺すのか』が発行された。道徳の教科化をめぐる問題について、より詳細な内容をお知りになりたい方はぜひ、ご一読ください。

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    義務感が強すぎる日本人だからこそ道徳教育は必要ない

    だ。実際、介護のために鬱(うつ)になったり、最悪、自殺する人も後を絶たない。こうした中で、拙速に道徳教育を科目化してまで行う必要がある国に思えないのだ。道徳の研究授業=2018年3月23日、兵庫県加東市(共同) もう一つは、認知科学、精神医学の立場から見ての危険性だ。最近の精神医学で注目されている認知療法では、心に悪い考え方を持つ人が鬱病になりやすく、鬱病になった際に治りにくいとされている。 その中で最も問題視されているのが、「かくあるべし思考」と「二分割思考」だ。「かくあるべし思考」が強い人は、自分がその理想像に達していないと不全感を抱き、それがひどくなると鬱状態になりやすい。鬱になってしまった際も、少しましになったと考えることができず、まだまだ理想像と遠いと思ってしまうので、改善も遅い。 介護のように延々と続く作業で「かくあるべし」にとらわれてしまうと、体力ももたないだけでなく、きちんと介護をしているのに「まだまだ」と考えて自責感が強くなってしまう。さらに他人にも「かくあるべし」を求めがちだ。道徳教育自体は必要 また、仕事の現場では、残業をしないで先に帰る人間が許せないなど、この手の上司がブラック企業の温床になる。時代の常識が変わった際も、自分にしみついた「かくあるべし」に拘泥(こうでい)されて、変化に対応できないことが多い。 一方、「二分割思考」は、人のことを敵か味方、正義か悪で分けてしまって、グレーゾーンが認められない思考パターンだ。こういう人は、自分の味方と思っていた人が自分の批判をすると、敵になったという認知をしてしまうために、鬱になるリスクが大きい。 要は、道徳教育というのは、よほどうまくやらないと、そうでなくても強い日本人の「かくあるべし思考」を強化してしまい、正義と悪の二分割思考につながる恐れがある。これに対して、文科省は考える道徳教育、多様な価値観を受け入れる道徳教育を打ち出しているのだが、このようなディスカッションを誘導できる教師の養成を十分に行わないまま、検定教科書を作った。しかも、テストを行うかどうかはともかくとして、評価の対象にまでしてしまった。 道徳教育というのが、「答えのある」一方向性のものになるとすれば、常識破りのフレキシブルな人づくりの阻害要因になり得るだけでなく、それ以上にメンタルヘルスへの悪影響が心配だ。 とはいえ、道徳教育自体、必要な時代になったと考えている。なぜなら、高度資本主義における新秩序や格差社会化への対応が必要だからだ。現在の日本が格差社会であるかどうかには議論があるだろうが、今後の格差拡大は、世界の流れを考える限り当然予想される。道徳教育について意見を述べる参加者=2018年8月、長野市(共同) 日本の場合は、高度成長期においても、累進課税が厳しく、また企業経営者も多額の報酬を求めず、終身雇用と年功序列で一般労働者の賃金も高かったため、長い間、格差が顕在化しなかった。 雇用の枠を外れる人も少なく、大金持ちもさほどいなかったので、政府が貧しい人をそれほど助ける必要もなく、金持ち層も寄付をするという習慣が根付かなかった。しかし、今は新事業が当たれば、上場で手に入る資産が1000億円ということが珍しくなくなった代わりに、雇用の枠組みから外れる人も多くなってきた。 要するに欧米型の社会になったのであれば、「ノブレスオブリージュ」(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)の精神が当たり前のものになる必要が生じてきた。自分が成功者になれば弱者を助けるのが当たり前という価値観の涵養(かんよう)は、宗教を持たない人の多い日本では道徳教育に負うところが大きい。 私は道徳というのは、人の「道」を教えるという一般の人向けへの規範のパートと、「徳」という形で上が範を示すというパートからなるものと考えている。前述のように、日本は「道」の部分はかなりしっかりしているが、階級社会でないという建前のために「徳」がないがしろにされてきた傾向が強い。良い忖度なら必要 例えば、海外の寄付文化がどういうものか、かつての日本の偉人がどうであったかなどを教えることで「徳」の教育をぜひ求めたい。 また、超高齢社会で高齢者が増えるだけでなく、85歳以上の長寿者が急増しているため、要介護高齢者や認知症患者が激増している。ただ、悲しいことに現在では、「寝たきりになってまで生きていたくない」「認知症になったら安楽死をさせてくれ」というような弱い高齢者は生きる価値がないといった言辞が当たり前に飛び交っている。 彼らとて、若い頃、あるいは現役時代は、日本のために尽くし、働いてきた人たちなのである。また、ほとんどの人は日本のために納税してきた人である。場合によっては戦地に赴(おもむ)いた人もいる。 そのことをきちんと教えて、今の姿だけで判断するのでなく、人には歴史があるということはきちんと道徳教育の中で教えてほしいというのが、高齢者専門の医師としての提言だ。 互助の精神、「弱ったときはお互い様」の精神がないと、高齢福祉は金がかかるだけの無駄という発想に陥ってしまう。体が弱った、脳が弱った人への労わりだけでなく、彼らにきちんと残存機能があり、また、人の情もあるということも知ってほしい。 これは、核家族化が進み、高齢者と触れ合ったことがないという要因も大きい。教科書を作るだけでなく、特別養護老人ホームなどで高齢者と触れ合う機会を作り、高齢者の昔話を聞いたり、逆に生きていく上で、どんなことが待ち受けているのかを教わる体験学習が、まさに道徳教育に必要なのではないだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 最後に主張したいのは、道徳教育を「上に従う人間」を作る教育にしてはいけないということだ。アメリカのAO入試(学力試験を課さない大学入試)においては、面接を教授が原則行わない。ハーバードなどの名門大学では、むしろ教授に議論をふっかけそうな人が好まれる。その方が学問の進歩を生み、学ぶ側も教える側も進歩していくという思想が根底にあるからだ。 昨年以降、「忖度」(そんたく)という言葉をよく耳にするが、他人の気持ちを推し量る、共感するという忖度そのものは悪いことではなく、望ましいことだ。ただ、それは上の意向を読み取り、それに従わないと出世できない、あるいは従うと出世できるなどという実利を求めるためのものでなく、「思いやり」の精神のはずだ。 日大アメフト部の危険タックル問題では、上の命令なら間違ったことでも逆らわないという体質が明らかにされた。命令に従わなければ試合に出られないという形で、逆らえない指導も問題になった。 要するに「忖度」にもよい忖度と悪い忖度があるということだ。悪い忖度が当たり前にある組織だと、上に嫌われないために不正が隠蔽(いんぺい)されたり、改竄(かいざん)される危険が高まる。さらにたちが悪いのは、そのような「悪い忖度」をする社員が出世などでメリットを享受できる風土だろう。 これは企業不祥事が起こる要因になり得る。上が間違っていると思っている際に、堂々と間違っていると言える人間を作ることも道徳教育の目標にしていいだろうし、少なくとも「良い忖度」と「悪い忖度」があることは子供に教えるべきことだろう。 忖度という言葉は、あの森友学園疑惑で注目されたが、悪い例として使われるようになったのは、国民が納得できるような説明がなされなかったためだ。道徳教育を進める以上、法を破っていなければいいのでなく、これが道徳教育の提唱者である以上、国民に範を示さなければいけないという矜持(きょうじ)を安倍晋三首相に求めたい。きちんとした徳がない社会では、学校で強制的に教えた道徳教育の有効性も半減してしまうからだ。

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    子供の学力 道徳論より「スマホ時間を限定」の方が効果あり

    関係をリサーチした結果、頭のいい子が育つ家庭で実践される “声かけ”が明らかになった。「褒めて伸ばす教育」が叫ばれて久しいが、調査結果によれば「努力の大切さを伝える」「いじめはいけないことだと家庭で話す」「最後までやり抜くことの大切さを伝える」という項目は9割以上の保護者が実践するも、子供の学力に大きな差は見られなかった。 一方、「テレビ・ビデオ・DVDを見たり、聞いたりする時間などのルールを決めている」「テレビゲームやスマホのゲームをする時間を限定している」という家庭ほど、子供の学力が高くなる傾向が顕著だった。“カリスマ国語講師”として多くの受験生を合格に導いてきた予備校講師の吉田裕子先生は、「小学生には時間の使い方を教えることが有効」と指摘する。※画像はイメージです(GettyImages)「『最後までやり抜く』『努力は大切』などの抽象的な道徳論は、自我が育っておらず判断力の未熟な小学生が聞いても具体的に何をしたらよいのかわかりにくいため、成果につながりづらい。それよりも、具体的な時間の使い方を教えてそれを習慣づけることが大切です」 菅原脳神経外科クリニックの菅原道仁院長も「効果的なのは“声かけ”よりも時間の管理」だと言う。「脳科学の視点から見ると、人間の“やる気”はいくら他人から声をかけられたとしても、自分で行動を起こさなければ絶対に出てこない。無理やりにでも手を動かし始めると、脳内から神経伝達物質のドーパミンが分泌されて、徐々に気持ちが乗ってきます。億劫だった掃除でもやり始めると熱中して、止まらなくなることを心理学用語で『作業興奮』といいますが、それと同じ原理です。だからスマホやゲームは、制限時間内で終わらせるというルールを作り、鉛筆を握らせて机に向かわせれば、最初は嫌々でも次第に熱中するはずです」関連記事■ 自宅の蔵書多いと子供の算数の成績が上がる、新聞も重要■ 雑然とした本棚はOK他、頭のいい子が育つ部屋の12のルール■ わが子の頭をよくする照明・ホワイトボードの活用法■ 頭のいい子を育てるための子供部屋&親の部屋のありかた■ 子供の学力、父親の学歴よりも母親の学歴が影響大

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    高須院長 「今こそ教育勅語をキチンと伝えるチャンス」

    いらっしゃいますか?高須:いつの時代も怪しげな学校はあるものだよ。私立の学校なんだから、多少は偏った教育をしていても仕方ない部分はあると思う。でも、国から格安で土地を売って貰うために、安倍首相を過剰に持ち上げてたというのなら、それはちょっとあまりにもケチな話だよ。昭恵夫人を名誉校長にすれば、首相も口利きをしてくれるだろう、「安倍首相がんばれ!」って園児に言わせれば、国がよくしてくれるはず…っていう考えだというのなら、本末転倒だね。 そもそも立派な教育理念を掲げてるのなら、絶対にズルをしてはいけないよ。教育者がズルをしていたら、子供たちもズルをするようになってしまう。どれだけ素晴らしい教育をしていても、不正を働いたら全部台無しになる。──保守派の中でも、森友学園に対しては反発する意見も多いようです。愛国心を教えるだけならまだしも、中国人や韓国人に対する差別的な考えを教えていたという意味では、保守派に対するイメージダウンに繋がる…ということのようです。高須:それはあるだろうね。正しい歴史を教えることと、差別をすることはまったく違うことだから。ただ単に「中国人や韓国人が嫌い」っていうスタンスで教育をするのは、ちょっとゆがんでるかな。 でも、教育勅語を毎日暗唱させてたっていうのはすごく素晴らしいことだとは思うよ。教育勅語っていうのは、軍国主義的だっていろいろ言われることもあるけど、その内容は本当に子供たちに教えていくべきものだからね。親孝行をしよう、兄弟仲良くしよう、友達を信じよう、勉学に励もう、社会のために働こう…っていうことを説いているものなんだよ。これこそ、日本国民が後世に受け継いでいくべき、素晴らしい教えだと思う。でも、だからこそそれが差別主義的な考えと混同されてしまうのは、本当に迷惑。教育勅語で言っていることは、差別なんてものとはまったく逆のものなんだから。 だからね、森友学園の件で、妙な形でスポットが当たってしまった今だからこそ、教育勅語の本当の意味を伝えていくべきなんじゃないかと思うよ。ちゃんと伝えていくことができたら、日本の未来は明るくなると思うけどなあ。高須クリニックの高須克弥院長=2017年8月4日、東京都港区(宮崎瑞穂撮影)──なるほど。教育勅語に対する誤解を解くことが、結果的に良い教育になる、と。高須:どうもね、全部をいっしょくたにして考えてしまう人が多いみたいだからね。「森友学園はけしからんから、教育勅語もけしからん!」ということではないんだよ。不正を働く人間と、教育の理念とはまったく別ものだからね。 ツイッターでも、「高須が右翼だから西原(理恵子)も右翼になってしまったのか!」って文句を言ってくる人がいるけど、本当にナンセンス。僕と西原はいっしょにいるけど、イデオロギーは別だからね。そうやって西原にいちゃもんをつけてくるのが本当に許せない。だから、そういうやつには「僕のところに文句を言え!」って言ってるんだけど、いざ議論になると逃げちゃうんだよ。本当に卑怯だね。──なんというか、考え方があまり柔軟ではない人が多いですよね。高須:そう。すべてを右か左かの二元論で考えたがる人が多い。本質はそうじゃないんだよ。右翼だからって中国人が嫌いなわけではない。もちろん嫌いな中国人もいるけど、好きな中国人だってたくさんいるんだよ。裏を返せば、親中の左翼の人々は、チベット民族に対する迫害はどう考えてるの?っていう話にもなる。人権派だったら、中国がチベットでやってることは絶対に許せないはず。結局、物事っていうのはいろんな側面があって、右か左かだけでは語れないんだよ。重要なのはしっかり筋と義理を通すということ。 筋も義理も通せない人ばかりだと、世の中はめちゃくちゃになっちゃうのは間違いない。だからこそ教育勅語をしっかり教えていくことが重要だと思う。なんとなくおかしな方向に行きかけている日本を軌道修正するには、いい機会な気がするなあ。* * * 森友学園の問題はさておき、今こそ教育勅語を広めていくべきだという高須院長。筋と義理を通せる日本人を育てるために、教育そのものを見直す時期なのかもしれない。【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)など。最新刊は『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)。関連記事■ 高須院長「プーチンは筋が通っている。今こそ仲良くすべき」■ 高須院長 南北首脳会談に不快感「今こそ日本は警戒すべき」■ 今こそパートに出るチャンス 老後考え50才までに開始したい■ 「論理学」こそ教育において最も重要な学問と大前研一氏力説■ 高須院長 チベットで亡命政府大統領に「高須平和賞」を授与

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    東京医大「差別入試」は必要悪?

    東京医科大が女子や3浪以上の受験者の得点を一律減点し、合格者数を抑制していたことが明らかになった。受験者の属性による「差別入試」の背景には、女性医師の高い離職率などがあったようだが、それを必要悪と短絡的に受け止めてもいいのか。議論の核心を読む。

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    医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実

    の高い私立男子校が大阪や京都、神戸、奈良に何校もある。一方で、女子校や共学は少なかったからだ。中高の教育レベルが、医学部の合格者数に比例するのだろうと勝手に思っていた。女子差別の実態があると知っていたら、それでも私は医師を目指していたのだろうか。「退職」ではなく「転職」 医学生の頃は、憧れを抱いたままだった。医学部5年時の病院実習(「ポリクリ」と呼ばれていた)は、あくまで見学であり、実際に働く訳ではない。ある外科を研修していると、女性医師が「女を捨てた」と言っているのを聞き、外科系は出産や子育てなどができない、と学生ながら感じることもあれば、別の科ではオンオフがはっきりしているから「女性も働きやすいよ」としつこく言われた。 だが、初期研修医になると、医師としてさまざまな診療科を回り、各診療科の仕事内容やハードさを、身をもって体験する。仕事も続けたいが、いつかは出産も育児もしたい。だから、緊急手術や夜間の呼び出しの有無、身体的・精神的に耐えられるかどうかなど、女性として働くことが可能かどうかを考え、初期研修を終えるまでに診療科を選ばなければならなかった。いや、むしろ診療科を切り捨てて行った、という方が正しいのかもしれない。 東京医大の言い分が正しいのかというと、当然ながら正しくない。一般に、女性の労働力は、結婚や出産期に当たる年代にいったん減少し、育児が落ち着いた頃に再び上昇することが知られている。これを「M字カーブ」というが、女性医師も例外ではない。 平成18年度厚生労働科学研究「日本の医師需給の実証的調査研究」によると、女性医師の就業率は、医学部卒業後減少傾向を認め、卒後11年目(36歳)で76%まで落ち込んだ後、再び回復している。結婚や出産を機に医師を辞める選択をする女性医師がいることも事実だが、ベビーシッターを雇いながら勤務を続ける医師もいれば、出産後すぐに復帰して第一線で働く医師もいる。 さらに、多くの女性医師は職場や働き方を変えながら、医師を続けている。東京医大の経営者にしてみれば「退職」と同じだが、当事者の女医からみれば「転職」だ。東京医大の経営者は、自分のところで働く医師にしか関心がないのかもしれない。 実は、この点こそが今回の問題の本質である。医学部の入学試験は、単なる大学入試ではない。大学医局への就職試験という側面もある。大学経営者にとっては、卒業後医師として自らが経営する大学病院や系列病院で働いてくれる人を選ぶ「採用試験」でもある。だから、出産や子育てを理由に辞めてしまう、あるいは男性に比べて戦力にならない女性医師はいらない、ということになる。東京医科大学正門前=2018年7月4日、東京都新宿区(萩原悠久人撮影) 一律減点や裏口入学は、実は医大経営者の本音を表しているのだ。だが、医学部は教育機関であるにもかかわらず、医学部合否の基準に卒後の働き方が入っていることを誰もおかしいと感じない。このことが、問題の根深さを象徴している。 実は、これは入試に限った話ではない。医局の勧誘や専門医制度も、医師や医局員不足対策として「囲い込み」をしているにすぎないのだ。 大学5年の時、病院実習として各科をローテーションした。その度に、医局説明会や歓迎会に誘われた。それはまるで部活の歓迎会のようだった。県内に残ることを説得され、「女医は医局に入らないと仕事を続けられないよ」と毎回脅された。 研修医2年目の秋ごろだったと思う。母校の産婦人科教授が、はるばる当時私が勤めていた福島県南相馬市までやって来た。産婦人科を志望していた私に会うためだった。その後、「母校に帰って来なさい。専門医を取得しないと将来の可能性を狭める。母校の産婦人科プログラムは入局を求めているが、個人を縛るものではない。あなたのことが心底心配だ」と何通もメールが来た。それほどに医局員を欲しているのかと驚くほどだった。3年目の医師になり、教授からのメールはパタリと来なくなった。「男社会は仕方ない」 本来、教師は生徒の味方だ。だからこそ、多くの人が社会に出てからも、何か困ったことがあったときに恩師に相談する。ところが、医学部は違う。教授は医局の「経営者」でもある。一人でも多くの若手を囲い込みたい。いろんな理屈をつけて、縛り付ける。それが分かっているから、在校生の時も、もちろん卒業してからも、教授に相談したことは一切ない。 その典型が専門医制度だ。この制度では、若手に「専門医」という肩書をチラつかせ、医局員として働かせている。それにしても「専門医」とは何なのだろう。専門性とは一生かけて取得していくものではないのか。たった数年で取得できるはずがない。まして、学会費を支払い、学会に参加し、決まった症例数と決まった年数をクリアすれば取得できるなんて、どう考えてもおかしな話だ。 ただ、これは医学部教授から見れば有り難い。最も働いてくれる30代前半までの医師を囲い込み、後期研修を終えれば、「雇い止め」することができるからだ。そして、新たな若手を「教育」という名の下で縛り付ける。普通の職業なら、こんな有期雇用は認められない。 裏口入学は、世間でいう「コネ入社」と同じだ。医師になるための切符をくれた大学には一生頭が上がらない。医局員として一生働き続ける。大学の経営者にしてみれば、裏口入学を認めた代わりに、ずっと働いてくれる医局員を確保できる。お安い御用なのだろう。 某私大の皮膚科医局に所属している友人によれば、医局スタッフの約8割を占めている女性医師が、産休や育休を理由に医局を辞めるケースが後を絶たず、特に入れ替わりが激しいという。しかも、女性医師が多いために時短制度を導入できず、フルで勤務せざるを得なくなり、途中でリタイアしてしまう女性が多いそうだ。だから、教授も女性の入局希望者を採用したがっておらず、医局スタッフでさえ男性の入局希望者を優先させたがっているらしい。 この状況は、大学経営者や教授にとっては「女は使えない」ことに等しいが、われわれ女性からみれば「男社会は仕方ない」ことになる。教授や系列病院の部長を目指し、滅私奉公することを私は求めない。 ある病院の産婦人科で研修をした大学6年の時のこと。定時(9時〜17時)で働いている女性医師が患者の急変に気がつかなかったようで、フルタイムで勤務している女性医師が彼女を責め立てていたことがあった。「急変時に対応できないなら、勤務しない方がマシだ。結局フルで働く私たちにしわ寄せがくるんだ」と。定時で帰ってしまう医師をフォローし合うという意識が全く感じられなかったことは、学生ながら残念に思った。 私が医師を目指したのは、大学教授のような「肩書」が欲しいからではない。患者さんを診察して治療し、患者さんに寄り添っていく中で、医療と医学の両方を学びたいからだ。私は、大学医局には属さず、新専門医制度にも登録しなかった。福島県と東京都で臨床医として働きながら、臨床研究にも取り組んでいる。画像:Getty Images 女子受験生を一律減点し、恣意(しい)的に合格者数を抑制していたことは、女子差別であるとしか言いようがない。だが、根底に隠れている問題は、医学教育という名の下、大学において入試や専門医の名を語った医師の囲い込みや就職活動が行われているという現状があることである。そこは典型的な「男社会」だ。私はそのような人生を送りたくない。おそらく同様に感じている女性医師も多いだろう。 こうした現状を打破するには、医学部と大学病院を分ける、といった対応が必要だろう。今こそ「女性差別」という問題だけで終わらせることなく、その裏に隠された医学教育という名の下の体制や慣習にメスを入れる時なのではないだろうか。

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    「男と女どちらが優秀?」差別入試、この議論をしても意味がない

    立の話である。 みんな、それが当たり前だと思っていた。男子と女子では生き方が違うのだから「女子に高等教育はいらない」という時代だったのである。今、同じことを全国屈指の名門、筑波大付属駒場高がやれば、きっと大きな問題になるだろう。 社会学者で横浜国立大の江原由美子教授は、『女性解放という思想』(1985年、勁草書房)で次のように述べている。 「『不平等』を『不平等』として認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるをえない。しかし、『不平等』が『不平等』として認識されない社会においては一般に差別者と被差別者のカテゴリーが別であるということが『常識』となっている」東京医科大の正門=2018年7月(萩原悠久人撮影) 今、東京医大の不正が問題になっているのは、入学試験を受ける者が全員、論理的には同一カテゴリーに属するにもかかわらず、女子(と3浪以上の男子)だけが明らかな不利益を被っていたからに他ならない。一方、不正を行った大学関係者や、この処置を「問題ない」と主張する人たちにとって、女子と浪人生は「男子とは別のカテゴリー」であることが「常識」となっている。フェミニズムの「関門」 その「常識」は、「女性医師の多くが出産で離職するので、男性医師と比べて頼りにならない」という現場の意見に支えられている。労働環境が特に厳しい外科では「女3人で男1人分」との言い草もあるという。もはや、男女は別のカテゴリーとして捉えられているようである。男と女はライフコースが違うので、入試の処遇で差をつけるのは当たり前、不平等な差別とまでは言えないというわけだ。 彼らのロジックを批判しようとするとき、社会の側は「男女の能力に差はないはずなのに、差別は不当だ」と、「差異の平等」を訴えなければならない。そもそも、男女を同じカテゴリーに入れて考えてもらわないと、「男女には差異があるので処遇の差は当然」と主張する人たちを説得できないからである。 しかし、ここでフェミニズムが誤解されやすい、というより一度は通過しなくてはならなかった関門がある。実際には「差異」がない、もしくはそれほどの差異が認められないのに差別されることに対して不平等を訴えても、「そうですか、男女に差はないと言うのですね」と短絡的に解釈されかねないからである。 次に行われるのは、果たして男性医師と女性医師の能力に差はあるのか、仮にあるとしたらどんな差なのか、という議論である。これでは問題の焦点がどんどんぼやけ、差別を訴える側はひたすら男女の差を検証していく作業へと巻き込まれていく。 男女の能力差の検証がまったく無意味だとは言わないが、それだけでは差別問題の本質は見抜けない。それどころか「差異の検証」に終始することは、差別の正当化を暗黙に容認する結果すら導いてしまうだろう。「医療現場を調べたところ、男性医師は女性医師より出産による離職率が低いので女性より優秀であることが実証された。よって優秀な男子を入試で優遇することは正当化され、差別ではない」といった結論が出てしまいかねない。もしくは、極端かもしれないが、「女性医師の出産による離職が問題なので、女性医師の産休、育休を認めない」とか、「一定数の女性を強制的に外科や救急に配属し、出産を制限する」などの不当な処遇が「男女平等」の未来予想図にされてしまう可能性もある。2018年8月、東京医科大前で「#女だからというだけで」と書かれたプラカードを掲げ、抗議活動する女性 私たちは今一度、何をどうすれば「平等」だと言えるのか、そのイメージを明確にしなければならない。求めるものは何なのか。性別による差異があることは前提として、その差異をどう扱えばより社会的な理想に近づけるのか。 男性医師と女性医師の差異をあげつらって「どちらが優秀か」などと泥仕合をしている場合ではない。また、ある分野で特に男性医師の労働力が求められているからといって、そこへ全員の医師が照準を合わせなくてはならない前提を疑ってかかることも必要だろう。 本件をきっかけに、私たちは男女平等のあり方と医療現場の現状を考えるべきである。しつこいようだが繰り返したい。何をどうすれば「平等」だと言えるのか、はっきりしたイメージがないままに男女差を検証するだけの不毛な議論は、もう終わりにしたい。

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    教授に媚び製薬会社にたかる「白い巨塔」が差別を生んだ

    えない」と思い込んでいる。だからこそ、女子受験者を一律減点し、入学を制限しようとしたのである。 大学教育とは一体何なのか。むろん学生を育てることである。それは医学部だろうが、他学部だろうが関係ない。ところが、東京医大は学生を自らが経営する大学病院の「労働者」としてしか見ていない。 この問題を解決するには、情報公開を徹底するしかない。さらに、大学病院を医学部から分離する、あるいは卒業生の入局を制限するなどの対応が必要だろう。 これは学生にとってはプラスである。進学校から医学部に進み、そのまま入局して、一生母校の医局にいたら、まともな人間になるはずがない。不正に関与した東京医大の幹部はまさに反面教師である。 近年、大学医学部で不祥事が続発している。今こそ、学生教育という本来の目的に立ち返り、徹底的に議論し改革を促すべきだ。

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    東京医大「差別入試」 気になる違法性はここが分かれ目

    かし、入試や学校運営に関して、性別を考慮要素とすることは必ずしも違法というわけではない。 まず、学校教育に関しては、現在一般的になっている「男女共学」の逆である「男女別学」も認められている。公立の男子校や女子校もいまだに存在しているし、現在の日本の状況では、「男女の性別を分けることが教育上全く無意味である」という考え方にはなっていない状況にある。 このため、性別を理由に、性別ごとに別の対応を行うことが、教育機関として絶対に違法ということではない。 少数者に対する差別的な扱いを解消するための差別解消措置「アファーマティブ・アクション」という制度がある。こういった制度自体は、かつて女性の社会進出が困難であったことを背景に、多様な人々が活躍できる社会を目指すために作られた。 このアファーマティブ・アクションは、学校が、例えば男性に比べ女性を優遇することで、多様な学生によって構成される学校を目指すことを認める考え方である。こうした考え方から、何か理由があって、性別を理由に加減点要素を認めるなどの取り組みも許されると考えられている。  また、裁判所は試験の評価に関して、試験実施機関の評価や判断に広範な裁量を認めている。裁判所は、その試験で判断しようとしている目的とは明らかに関係のない理由で合否判断をしていない限り、試験実施機関の判断に介入しないとしているのだ。これは、裁判所は法律のプロであって、試験のプロではないから、分からないことには出しゃばらないということであろう。(ゲッティイメージズ) 一方で過去の裁判例をみると、裁判所が介入するケースもある。例えば司法試験の合否判断について、司法試験委員会が「年齢、性別、社会的身分、出身大学、出身地、受験回数等」によって差別を行ったとする。その場合、司法試験の目的である「学識・応用能力の有無」とは直接関係のない事柄によって合否の判定が左右されたことになる。いわゆる「他事考慮」だ。この他事考慮に該当する場合には、裁判所が合否の判断に介入すると判断したことがある。 司法試験では、裁判官や検察官や弁護士といった仕事に就く人を選別するのだから、男性女性ということを考慮すべきとは思えない、ということから、性別での判断はしてはいけない「他事考慮」に該当するといえるのだ。 このように考えると、単に性別を理由にした取り扱いが問題なのではなく、今回の試験の目的と、性別がどのように関わるか、それとも関わらないのかが、違法性判断の重要な要素になることが分かる。 また、一部報道によると、東京医大は「女性医師は出産や子育てで離職することが多く、系列病院では男性医師が現場を支えているのが実情」という考えの下、今回のような対応を取っていたようだ。性別評価は事前説明が必要 本来的に、こうした性別で一律評価を行うことは、前時代的かつ働き方や資格制度の在り方といった問題の本質から目を背けている。 確かに大学病院は、地域医療に多大な貢献を行い、それぞれの医師が寝る間も惜しんで医療サービスを提供している実情があること、その職場環境が非常に厳しいものであることは理解できる。 しかし、試験の結果は当然、知識力や思考力や判断力、さらにそういった能力を培うための、本人の継続的な努力によって形成されたものである。今回の東京医大の対応は、「試験時点」の「能力で勝る女性医師の卵」と「能力で劣る男性医師の卵」を比べ、後者の方を優先させるという判断をしたものだ。しかし、上記したような能力で劣るものを優先して、本当に医療サービスの確保を目的としているといえるだろうか。 少なくとも、「医療サービスの確保」を理由に正当化するのであれば、その理由についての明確な根拠が必要であろう。 東京医大レベルの医学部入試のためには、多くの受験生が高額な費用を予備校に払い、浪人も厭(いと)わずに受験に臨む。さらに入試にはその学校独自の特性もあることを考えると、この学校に入りたいと思って受験している学生の中には、受験前にこうした事情を知っていれば、「そもそもこんな大学は候補に入れない」という受験生も多くいたことだろう。 仮に大学が本気で男性を優先的に合格させたいのであれば、それを明言すればよかった。しかし、そのような対処をすると大学としての評判を下げ、結果的に人気校と言えなくなることや、女性の進出に否定的な大学といった風聞が立つ。そうなれば自身のブランディングに影を落とすことを気にしたのだろう。 こうした受験生の状況も考えると、性別の評価要素は説明が必要な重要事項であろう。事前の告知が一切受験生にされていないということが重要な問題点だ。そして説明をしなかった以上は、後から「性別が実は大事な要素だ」というのは不合理な主張と考えられる。(ゲッティイメージズ) 今回の試験について、仮に性別を考慮することが他事考慮といえる場合、女性受験生が法律上できると考えられるのは、慰謝料請求、損害賠償の請求と、試験に合格したとして東京医大の学生としての身分の確認請求を行うことだ。 本来合格だった者が、不合格を言い渡されることは、その者に精神的苦痛を与えるものであり、さらには知っていれば受けなかった受験生らの無駄になった受験料なども損害といえ、慰謝料請求や損害賠償の請求が可能であると考えられる。 さらに、性別による評価が他事考慮であるとすれば、その点数分はいわば「採点ミス」である。このような「採点ミス」の結果不合格になった者を再度評価し、合格点を超えていれば、その学生には東京医大での学生の地位が与えられる可能性がある。 もちろん、その地位を「当該女性が望むのであれば」ということにはなるが。

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    東京医科大の入試得点操作 公民権運動や人種差別と同悪?

     作家の甘糟りり子氏が、現代の「ハラスメント社会」について考察する。今回は東京医科大で行われていた女子と多浪受験生に対する入試得点の不正操作について。* * * 東京医科大学の件を知った時、ノー天気にも、もしやフェイクニュースなのかと思った。だって、受験の際に女子学生が一律に得点を不正操作され、意図的に合格率を下げられているなんて、まともな国のまともな学校のすることとは考えられないから。日本は文明国ではなかったっけ? しかし、同大学では、実際に2006年頃から受験者にはなんの説明もなく、女子というだけで不利な扱いをされていたというのである。それどころか、各ニュース番組やワイドショーによれば、東京医科大学に限ったことではなく、さまざまな大学の医学部の入試で女子に対して採点の操作が行われているというではないか。 成績順に合格させると女子の比率が高まる(成績順だと医学部のほとんどは女子大になってしまうという人もいるらしい)。女子の比率が高まると、医師になってから、結婚や出産、育児で離職率が高く、勤務形態を維持できないという理由からだ。 パソコンの前で一人、思わず声をあげてしまった。女子受験生たちの無念を思うと、怒りで心も身体もわなわなと震えそうだ。これを差別といわずになんというのだろうか。 去年、ハリウッドでの女優の告発をきっかけに起こったいわゆる「#me too」の流れを、現代の公民権運動という人もいる。1950年代~60年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人が公民権の行使と人種差別を訴えた運動だ。当時、ローザ・パークスという女性の活動家がバスに乗った際、白人専用の席で白人に席を譲らなかったため、人種分離法違反で逮捕された。十代の頃、このエピソードを何かで読んだ時、あまりの理不尽さに内容を理解するまで少し時間がかかった。そして、理解はできても、白人でも黒人でもない私はこの理不尽さを「実感」はできていないのではないかと思い悩んだりもした。 しかし、今ならよくわかる。私たちは、あちこちで、女子もしくは女性だからというだけで、能力がない、当てにならない、感情的で理論的ではないと決めつけられるのだ。無教養な男性に。そして、同じような思考回路の女性に。 黒人が白人に席を譲らなければならない理由は一つもない。ただ黒人というだけで席を譲らなければならない理不尽さは、女子だから減点されるのと同じように私の目には映る。入試得点不正操作の罪の深さを考察 女性の医師の離職の理由に、結婚、出産、育児があげられているが、出産を除けば、男性も経験することだ。結婚するしないは個人の自由だけれど、親となったなら育児は「すべき」ことである。出産は、今の医学では女性しかできないが、そもそも女性が出産をしなければ、男性は世の中に存在できないのだ。当たり前だけれど。出産をしたから離職しなければならないのは、世の中の制度や意識が低いからだ。これも当たり前だけれど。 今、家族が癌の闘病で入院中である。開腹の大きな手術をした。男性の執刀医の他、担当の外科の先生が3人いて、毎日、回診に来てくれる。心細い時期だから、先生と短い会話をするだけで安心する。うち1人が女性。細かい質問でも明解で穏やかに答えてくれる。 考えてみれば、これまでに家族や親族の大きな手術の付き添いを7回ほど経験したが、外科の女性医師は初めてだ。もし仮に、彼女が明日からでも「産休」をとるとしても、私は心から応援したい。関連記事■ 「おっさん」は褒め言葉かハラスメントか、その基準とは?■ 中国の洗剤CM 人種差別と批判され「中国に人種差別ない」■ 落合信彦氏 ネットで政治話題活発化も人種差別的主張は残念■ 松山英樹 全英OPで「人種差別的ペナルティ」の指摘も出た■ 白鵬が相撲協会の人種差別匂わせる発言 単なる舌禍で済まず

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    このままでは国立大学がヤバい

    「もうノーベル賞はとれなくなる」。わが国の歴代ノーベル賞受賞者たちがこう警鐘を鳴らすのも無理はない。科学技術立国を支えた国立大学の研究予算が財政難を理由に大幅に減額され、いま若手研究者が腰を据えて研究できる環境が崩壊しつつあるという。このままではニッポンの国立大学がヤバい。

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    土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち

    仏、中、韓の主要国が04年比でその総数を大きく伸ばしている一方で、日本のみ減っている。イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education」の「THE世界大学ランキング」04年版では東大は12位、京大は29位、東工大、大阪大学、東北大学、名古屋大学が200位以内にランクインしていたが、最新の18年版では東大は46位、京大は74位に後退し、他の大学は200位以内から転落している。 日本は00年以降、自然科学分野で15人のノーベル賞受賞者を輩出し、科学技術大国とされてきた。しかしそれらの受賞の多くは研究者が20代後半から40代前半の若手のころにに行われた研究が後年になって評価されたものだ。次世代のノーベル賞を生む土壌は既に崩壊し始めている。梶田教授は「このままでは日本からノーベル賞受賞者は生まれなくなる」と危機感を隠さない。 ではどうするべきか。安井名誉教授は「すぐに成果が出る研究は民間がやる。先進国として、あくまで科学技術立国を目指すのならば、運営費交付金を増やすべきだ」と語る。梶田教授や16年にノーベル医学・生理学賞を受賞した東工大教授の大隅良典氏など、運営費交付金増額を求める声は大きい。科学技術・学術政策研究所資料を基にウェッジ作成 しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。川口教授は現状のジレンマをこう分析する。 「運営費交付金を戻すのはセカンドベスト(次善の策)だ。いったん戻すべきだという危機意識は正しいが、財政難という時代の中で誰にもファーストベスト(最善の策)がわからない。そうこうしているうちにこのままでは大学が崩壊するというところまで来てしまった」 国の財源なき中で、有望な若手研究者にいかに資金を回し、科学技術立国の基盤である国立大学を再興させればいいのか。次章以降でそのヒントを探っていく。

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    経営難の私大に「名誉ある撤退」を促せ

    田中敬文 (東京学芸大学教育学部准教授) 日本の18歳人口は、ピークだった1994年の205万人から次第に減少し、近年は120万人程度を維持していた。ところが、2018年から再び減少に転じ、31年には99万人と100万人をも下回る見通しである。さらに大学、短期大学、専門学校、高等専門学校4年目の合計の進学率は約81%(17年度)と頭打ちである。他方、私立大学・短大数は932校にも及び、定員割れの学校数も229校と約39%にも達する(下記グラフ参照)。また学校法人の17%が経営難に陥っている。 大学・短大進学率を15年と同率と仮定した推計によれば、31年の入学者数は約56万人と、15年の約68万人に比べて約12万人も少なくなる。仮に進学率が高まるとしても、定員を満たすことのできない大学がより一層増えることが予想される。こうして大学の淘汰(とうた)が本格化することを大学の「2018年問題」と呼ぶ。 この「2018年問題」は的確な人口予測に基づくものであり、以前から顕在化していたことである。にもかかわらず、文部科学省は大学全体のグランドデザインを描くことなく、私大の新設を認めてきた。大学と短大を設置している文科省管轄の学校法人数の推移を見ると、05年の660に対して17年には664と微増している(この間、法人の合併による減少は12、解散による減少は15であり、逆に31増加している)。 筆者が開学間もないある地方私大へ出かけた際、定員を大きく下回る学生数に驚いたことがある。経営を持続できるのか心配になり、経営者に話を聞くと、幼稚園や高等学校の長年の経営で蓄えた資金で何とか切り盛りしているとのことだった。こうした事例は氷山の一角である。 日本では大学数でも学生数でもその約7割は私大が占めているが、特に問題となるのが、進学者のパイそのものが小さくなっていく中、定員割れが深刻化していく地方の私大である。今後こうした経営基盤の弱い私大の処遇が問題となる。文部科学省資料などを基にウェッジ作成 一方で地方自治体にとっては、域内の大学の存続は人口維持にも関わってくる。そこで、公費を投入してでも私大を存続させようと手を打つ例が目立ってきている。山口東京理科大学は16年度に地元の山口県山陽小野田市により公立化され、学費が下がったことにより倍率が数倍に跳ね上がった。他にも17年度までにすでに6大学が公立大学となり、18年度には、新たに石川県の公立小松大学と長野県の公立諏訪東京理科大学が誕生した。地元としては設立時に土地や資金などで支援し、若者の流出を何とか防ぎたいとの思惑がある。 だが、欧米とは異なり社会人をターゲットとしない日本の大学にとって、減り続ける18歳人口のみが実質的な市場だ。大学を存続させたとしても、その前途が多難であることに変わりはない。また公立化による学費引き下げは、一見すると家計負担の軽減につながるようではある。しかし大学への公費投入は、やがては地域住民の負担増加という形でツケが回ってくる。加えて公費投入は周辺地域の私大の経営努力のモチベーションを失わせる諸刃(もろは)の剣でもある。 これらを許容し公立化をするに際しても、既存の地方国立大や公立大との住み分けが不可欠だ。16年度以降、86ある国立大は3種類に分別され、そのうち「地域貢献」に分類され地域に根ざすとされている国立大は55に上る。地方の新興私大が実績ある地元の国立大と伍(ご)するのは並大抵ではない。大学がその地域の産業に役立つ学びの場となるようにし、卒業生がその地域で就職できるようにグランドデザインを描いて大学を地域に組み込まなければ、公立化も一時的な延命措置で終わってしまう。求められる経営の透明化 また目下、政府により「一億総活躍社会」の実現に向けた「リカレント教育」や、「地域創生」のための「産官学の連携」の必要性、さらには「大学のグローバル化」のための「外国人留学生の受け入れ増」が叫ばれているが、これが本来の趣旨から逸脱し、経営難の私大の延命のために公費を投入する言い訳に利用されるようなことがあってはならない。 大学は時代に応じて参入を認められてきたのならば、「構造不況」である今こそ、時代に応じてその数を減らしていくときである。経営に行き詰まった地方私大に残された道は「撤退」、「他大学との統合」、「学部の切り売り」となる。しかし、統合先にメリットがある有望な私大や価値のある個性的な学部を有している私大は、そもそも経営難に陥るのはもっと後になるはずだ。つまり、すでに経営難に陥っている大半の私大に残された道はもはや「撤退」しかない。 私立学校法により国は私大に対し直接介入することはできない。そのため国は私大に対し、自分の意思で「名誉ある撤退」を行えるよう政策誘導する必要がある。文科省は1月、「定員割れ」「5年程度の連続赤字」「教育の質が低評価」といった条件に該当した場合に私学助成金を減額する方針を示した。こうした方策は撤退を促すには有効かもしれない。 また文科省管轄の特殊法人である日本私立学校振興・共済事業団は私大に対し経営指導などを行っている。こうした専門機関が「撤退」に向けアドバイスしていくことも重要だ。 というのも、私大の設立に時間と資金が必要であるのと同様、撤退にも手間を要するからだ。学生や教員の処遇だけではなく、特に地方は土地を無償提供されたりするなど自治体との結びつきが強い場合が多く、地元の経済界から援助を受けているケースもある。こうした関係者との調整には多大な時間を要するため、数年前から準備を始めなければならない。時間と準備が足りないと、突発的な破綻という、学生にとって最悪の事態さえ起こりうる。 私大の突発的な閉鎖が危惧されるようになれば、学生・保護者が自己防衛できるように、国は経営情報の開示をより積極的に求めるべきだろう。20年前と比べると今日の大学の経営情報は開示されつつある。しかし問題は学校法人会計が独特の仕組みや表記のため、学生・保護者がすぐには理解できないことにある。企業会計の専門家でさえ、学校法人会計はわかりにくいという。※写真はイメージ(iStock) また、定員割れによる収入減を人件費凍結などによりどうにかやりくりしている大学もあるから、経営状況は経常収支の継続的な赤字を一層厳しくチェックすべきである。一方で、大学の他に高校や幼稚園など複数の学校を経営する法人も珍しくなく、大学の赤字を他の黒字で賄うことも可能である点には留意が必要だ。 いずれにせよ、学生保護の観点から、経営情報の分かりやすい開示を怠っている大学は学生に選ばれないような環境整備が必要である。志願者数や入学者数・在籍学生数の実員という「入口」情報や、学生が身につけた教育成果や地域への貢献といった「出口」情報の開示のない大学にも、撤退を促すことも考えるべきであろう。 「2018年問題」は以前から予測できた問題でありながら、18年に突入した現在にあっても具体的な政策を施行できていない現状は遅すぎると言わざるを得ない。私大の突発的な破綻により路頭に迷う学生が出ないよう、私大の「名誉ある撤退」に向けた施策が急がれる。

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    梶田隆章が警告! このまま放置すればノーベル賞はとれない

    事情が厳しいのは重々理解するが、資源のないこの国には科学と技術が絶対に必要だ。人口減少を見据えて高等教育から先んじて縮小させることは全く理解ができない。国は科学技術立国を目指すといいながら、国立大学の研究環境を悪化させ、すでに日本の研究力が大きく落ちている。本末転倒と言わざるをえない。次代を担う若者が、日本は科学技術の国だ、研究がやりやすい国だと思えるような方向に大きく方針転換をする必要がある。 かじた・たかあき 東大宇宙線研究所長。1959年、埼玉県東松山市生まれ。埼玉大理学部卒業後、東大大学院で物理学を専攻。東大宇宙線研究所助手、助教授を経て1999年に教授。2008年から現職。15年、ニュートリノ振動の発見によりノーベル物理学賞を受賞。東大卓越教授。

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    文系学部廃止の議論は終わりにしよう

    力などは欠くことができない」と主張していきました。この主張自体は、その通りなのですが、文系学部と教養教育は同じではありません。 つまり、昨年の騒動は人文社会系の学問に関する認識不足や、この20年間に文系に起きてきた変化についての認識不足を露呈することとなりました。 ーーそもそも前提とする認識が間違っていたと。他にも気になった議論はありましたか? 吉見 それが、この本の中の一番重要なポイントです。去年の議論の中で私が違和感を持ったのは、「文系の知は役に立たないけれど価値がある。だからこそ廃止すべきではない」という反論です。しかし、「文系は役に立たない」と言ってしまった瞬間に、廃止するという議論に根本的には対抗できなくなってしまう。 特に考察すべきなのは、「理系は役に立つけれども、文系は役に立たない」という認識が、国民一般に暗黙裡に浸透している状況です。これこそが問題で、極端に言えば90年代末以降の日本の凋落のひとつの大きな要因だとも言えるのです。 私は「文系は役に立つ」と確信しています。だから、文系学部はどのように役に立つのか、その「役に立つ」とはどういう概念なのかをこの本で論じました。吉見俊哉・東大大学院教授=2017年2月22日(栗井裕美子撮影) ーーそれでは役に立つとはどういうことでしょうか? 吉見 「役に立つ」には2つの意味があります。1つ目は、すでに与えられた目的に対して手段として役に立つこと、手段的有用性です。例えば、大阪まで最も早く確実に行くのは新幹線です。だから、新幹線の技術は素晴らしいし、それを作ったのは日本の理系の技術力である。だから理系は役に立つ、そういう有用性です。確かに、目的に速く到達するにはそうかもしれませんが、その場合には、目的が所与です。つまり、何らかの所与の目的に対して手段として役に立つことは、目的やそれを支える価値が変わってしまえば役に立たなくなるのです。 しかし、そもそも社会にとって何が重要な目的であるかは人々の価値観や社会の価値軸によって決まるのです。そしてその価値軸は、数十年単位で必ず変化する。ですから、そうした歴史の流れの中で、現在、多くの人が当たり前と思っている目的や価値を批判し、新しい目的や価値を創造する価値創造的な有用性があります。これが、2つ目の「役に立つ」です。これこそが文系の知の本質なのです。ソニーはなぜアップルになれなかったのか ーーなるほど、先程の90年代以降の日本の凋落とつながってくるわけですね。 吉見 この新しい価値軸や目的を打ち出していくことを「イノベーション」や「クリエイティビティ」と言いますが、日本はなぜこれが出来なかったのか。それはこれまであまりにも目的に対する役立ちばかりを追求し、長い時間の中で価値軸そのものが変わるということをきちんと理解してこなかったからだと思います。 高度経済成長の頃に私たちが当然だと思っていた価値と、現在の私たちが向かっている価値は違います。こうした変化は、歴史の中で常に起こっていて、19世紀初頭の人々と20世紀後半の人々が抱いている価値は全然違うわけですね。3年~5年では価値軸は変化しないかもしれませんが、30年~50年の単位で考えれば価値軸は必ず変化します。この変化は、絶対に理系だけでは認識できません。理系は「技術革新」を追求しますが、その根本の「概念の革新」は想像できないのです。 ーーこの価値軸の変化を捉えるためにはどういうことが必要なのでしょうか? 吉見 新しい価値軸を創りだすためには、現在人々が当たり前だと思っている価値軸を内側から批判出来ないといけない。当たり前にどっぷりと浸かっていたら、その自明性を超えることは出来ません。 「当たり前」を内側から批判し、超えていくためには、本当は世界はこんなに広くて多様で、多元的であるということを認識できる知、つまり文系の知が必要なのです。たとえば政治学、経済学、社会学、人類学をはじめとする人文社会科学は、全て人々が当たり前だと思っていることに対し、長い歴史や様々な文化、様々な社会的価値の変化を見ることで、他の価値軸があることを教えてくれます。 そう考えると人文社会系の知は、どちらかというと長期的に、理工系の知は文系に比べると短期的に役に立つ知であると言えます。画像はイメージです(iStock) その例が、ソニーがなぜアップルになれなかったのかという問題です。技術的には、ソニーはアイフォンを作れたはずです。しかし、ソニーが作ったウォークマンはステレオの概念を取っ払い、モバイルなステレオを創り出しました。イノベーティブでしたが、そこで終わった。一方のアップルが創り出したアイフォンが革新的だったのは、電話の概念そのものを変えたことです。その差は長期的な価値軸の変化を捉える文系的な知が、文理横断的にあったかどうかだと思います。経団連は誤解している ーー先程のお話で経団連が文系学部と教養教育を混同していると、もう少し具体的に聞かせてもらえますか? 吉見 経団連の文科省批判は「国立大学文系学部の廃止は、経団連からの要請によるものだと世間では騒がれているがそんなことはない。私たちは教養教育をとても大切にしている」という主旨でした。つまり、経団連は文系と教養教育を一致したものと見ている。しかし、これは概念の混同で、当然ながら人文社会系の学と教養教育は同じではありません。たとえば人類学や経済学、歴史学を思い浮かべてください。それぞれの学問は専門知で、決して教養知ではありません。理系でも数学や物理学などの一部には教養的な要素が強い知もあります。つまり、専門と教養、文系と理系という区別は別の軸なのです。 また、特に混同されているのがリベラルアーツと教養教育です。リベラルアーツ教育は遅くとも中世には確立し、文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、そして音楽の7つの分野から成り立っています。最初の3つは言葉に関する学ですから、どちらかというと文系、次の3つは数に関するもので理系です。最後の音楽は芸術系なので、文系3つ、理系3つ、芸術系1つがリベラルアーツを構成していたことになります。決して文系だけで成り立っていたのではありません。 ーー今で言う文理融合というイメージですね。 吉見 このリベラルアーツは16~17世紀になると哲学になっていきます。有名な哲学者のデカルトはデカルト数学を生み出し、ライプニッツは数学の微分積分を生み出しました。つまり哲学者であると同時に数学者でもあったわけです。 ではいつ頃から理系と文系の区別が生じていったのか。私は18世紀末から19世紀にかけてだと考えています。それには2つの理由があります。1つは国民国家の誕生。国民国家は、近代的なナショナリズムの伝統の起源を発明する必要がありました。この起源こそが「文化=教養」の知において追究されていくわけです。 たとえばドイツではカントやフィヒテ、ヘーゲルの哲学、ゲーテやシラーの文学などが教養的規範として確立していく。イギリスの場合はシェイクスピアです。そういったナショナルな「古典」が成立し、国民国家の規範として機能していくのが教養です。教養とは近代の産物なのですね。画像はイメージです(iStock) その後、19世紀にヨーロッパの大発展を産業革命が支え、そうした中で文系的な知と理系的な知の区別が生じてくる。産業革命と表裏をなして新しい科学技術が発展していくと、土木工学、機械工学が確立し、さらに産業が発展し資本主義がまわりだすと、物理学や化学、電気工学も重要になってくる。 つまり、理系的な知の自立と大発展、近代の物理学、化学、電磁気学から原子力工学までを含めた様々な知の凄まじい発展は、近代の産業社会の発展と表裏の関係であり、19世紀~20世紀にかけての近代産業技術社会の発展の中で理系的な知はさらにメジャーになっていく。この時、「文系とは何か、人文社会科学とはどのような価値を持つのか」という問いを人文社会科学者が真剣に考え始めることになります。あらゆる呪縛から解放されるために ーー人文社会科学者の中ではどんな人達が、どんなことを考えていくのでしょうか? 吉見 ドイツの新カント派がこの問題を焦点化していきますが、その代表的な人物がマックス・ウェーバーです。彼は社会科学にとって最も重要な概念が「価値」であると考えました。また、価値に注目した彼は、合理性には2つあると考えました。それは目的合理性と価値合理性です。彼の古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、ピューリタンにとって勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではない、つまり、これは価値合理性ですね。 しかし、ピューリタンは贅沢や豪遊を良としないのでお金は貯まり、それを投資に使っていきます。投資が重なることで経済が発展し、資本主義を拡げていく。そして資本主義がシステムとしてまわりはじめると「価値合理性」が見失われ、目的に対して手段と追求しつづける「目的合理性」が社会を覆っていきます。 20世紀の人文社会科学ではこの種の議論は批判もされていきます。ウェバーは価値を強調しましたが、それに対してマルクス主義は階級のほうが重要だと主張しましたし、フーコーを始めとする構造主義では構造が重要だという議論をします。こうして人文社会科学が考えてきたことは多様ですが、自然科学的な合理性に対し、自明な価値を批判し、新しい複数の価値軸を考える点では一貫しているのです。 つまり、目的は自明ではないし、階級も、構造も、私たちを無意識のレベルから呪縛している。しかし、その自明性の呪縛から解き放たれるには、創造力を培うことが必要で、それには価値に照準した文系的な知が必要だということはウェバー以来繰り返し論じられてきたことです。決してそれは、ここ2年~3年、あるいは国立大学法人化以降の議論ではないのです。こうした長いスパンの歴史的なビジョンが去年の夏の文系学部論争では著しく欠けていたと思います。 ーー翻って、現状では理系も含め大学を取り巻く状況は厳しいです。現状をどうお考えですか?画像はイメージです(iStock) 吉見 日本は大学の数を増やしすぎてしまいました。終戦直後の1945年には48校しかなかったのが、今では800校近くあります。80年代後半には18歳人口は減り始めたにも関わらず、規制緩和の流れで増やし続けたことは致命的でした。 さらに悪いことに、志願者を獲得しようとした各大学は手を変え品を変え、新商品にラベルを貼るように学部名称をコロコロと変えていった。90年頃まで学部名称の数は97種類だったのが、現在では464種類、まさにカンブリア的大爆発です。 この2つに加え、大学院重点化政策のために大学院生の定員を増やした。しかし、社会は変化していないわけですから、大学院生の数だけ増やし、学生が修士号や博士号を取得してもその後のキャリアパスが開けません。そうした先輩たちを見ていた後輩世代は、優秀な学生ほど大学院へ進学しなくなります。しかし、大学院は定員を充足させようとしますから、さらに入学しやすくなる。そうなると、学部の4年生より、大学院の1年生のほうが学力が低いといった現象も生じます。ますます日本の大学院は世界で評価されなくなりますし、学部も含めた大学全体の質が劣化していったのがここ15年の状況です。人生で3回大学に行く ーーこうした状況に対し、吉見先生は今後大学をどう変革していくべきだと考えていますか? 吉見 この本の後半では、まさにそのビジョンを示しました。まず、1人の学生が1つの学部に所属する仕組みを止め、1人の学生は基本的に2つの専門分野を学ぶダブルメジャーを採用すべきです。これは、アメリカの大学では当たり前で、主専攻と副専攻を必ず取ります。たとえば、ある学生は法学部と工学部、文学部と農学部に所属するといったように。そうした仕組みが当たり前にならないとイノベーティブな知は生まれてきません。 これは前半にお話した役に立つ、立たないと関係していて、文系が役に立つと主張しましたが、理系が役に立たないとは一言も言っていません。文系、理系にそれぞれの役立ち方があり、それを組み合わせれば強力なわけです。たとえば、コンピュータサイエンスを専攻している学生が、副専攻で法学部の知的財産権についての勉強をする。あるいは、医学を主専攻にしている学生が、副専攻で哲学や倫理について勉強し、人間とは何であるかを知れば良い。しかしこれは理系的な知と教養知を学ぶということではなく、大学の仕組みとして理系的な知と文系的な知を有機的に組み合わせる仕組みを日本の大学に作るということです。 ーー他にも考えていることはありますか? 吉見 人生で3回大学に行く。日本では大学に進学した場合、小中高校、大学、そして就職があります。高校と大学の間には入試という壁があり、大学から社会人の間にも就活という2つの壁があります。若い人が入試や就活のことだけを考えて若い時代を送るのは貧しいと思うのですよ。今の仕組みでは大学は通過儀礼のようになっていて、入試と就活の壁を越えれば大学在学中はどうでもいいとなってしまっている。それでは大学の意味がなくなってしまうので、2つの壁を低くし、大学へいつでも入れるようにし、学んだことがキャリアの転換点となるようにする。画像はイメージです(iStock) そのことを可能にするにはまず成績を厳密な基準のもとにコントロールし、単位取得を難しくすべきです。そうなると一つひとつの科目がハードになりますから、学生が取得しなければならない科目数を大幅に減らす。また科目と科目をどう組み合わせれば学生が得たい能力に結びつくかを大学側がサポートする仕組みも必要です。こうしたことが出来るようになると、学生が大学でどんなことを学び、どんな評価を得たかが可視化され、社会と大学の関係も変わってきます。 やがて、大学はただの通過儀礼ではなくなりますから、人生でいつ大学に入っても良くなる。たとえば、1回目は18歳で、社会に出て色々と経験し30代前半で2回目の入学をする。そして3回目は60前後。定年が見えてくる頃に、何か事を成したい人に大学で再び必死に学んでもう一花咲かせるチャンスを与える。 日本では欧米の大学に比べ社会人学生の数が圧倒的に少ないし、そうやって3回大学に入るのが一般化すれば、800校は救えないかもしれませんが、多くの大学の経営的な支えになります。なにより、社会が大学での学びを評価するようになると思いますね。

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    東大常連校にもくじ引き入試か 筑駒出身男優「僕は反対」

    の「筑駒」こと筑波大附属駒場など、進学校が少なくない。入試は最難関だが、「エリート校化して国立大学の教育研究に寄与する本来の機能を失っている」という趣旨で改革が提言された。実行に移されれば、影響は甚大だという。教育ジャーナリスト・松本肇氏が解説する。「慶應、早稲田などの一流大学がAO入試など学力に依らない選抜方法を導入した結果、ブランド低下を招きました。国立大学付属校で抽選による選抜が導入されれば、同様のことが起きる。OBからは強い反発があるのではないか」 筑駒OBには黒田東彦・日銀総裁らが名を連ねるが、本誌読者にお馴染みなのは、筑駒出身で高学歴AV男優の森林原人氏だろう。率直な感想を聞いてみた。「僕は反対です。偏差値エリートを養成しているように見えるかも知れませんが、筑駒は生徒の自主性を重んじる校風で、ほとんどの卒業生が中高時代を楽しかったと思っている。母校に誇りを持っているから、様々な世界でOBが活躍できているのだと思います。官僚の友人は『霞が関では東大、京大は当たり前。だから“東大筑駒”のつながりが大切』と話していました」 と真面目な答え。ただ、AV男優に学歴は関係ないのでは、と聞くとこう続けた。(画像:istock)「そりゃ、偏差値で女の子がイってくれるわけじゃないですから(笑い)。でも、先輩たちが作ってくれた母校のブランドで、周りから一目置かれることはある。そういう伝統がなくなるのは、やっぱり寂しい」 文部科学省の担当者は「あくまで報告書は抽選での選考も検討されるべきとしているだけ」(大学振興課)と火消しに回っているが、省内に多数いるであろうOBからも、反対の声があがっているのだろうか。関連記事■ 東大理IIIに3人の息子合格させた母 東大AO入試を語る■ 甲子園常連校はユニフォームの着こなしも勝利に結びつける?■ 甲子園常連校 関西から留学受け入れでチームが関西弁になる■ 甲子園出場常連校で窓のない“しごき部屋”でケツバット体罰■ 遠征・用具・応援団バス… 「甲子園貧乏」に陥る常連校も

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    広島大学 「10年間で世界トップ100位入り」への秘策

    か秘策があるのか。もしあるとすれば、それはどんな具体性、実現性を持っているのか?  そもそも、国立の教育機関がそうした生々しいランキング争いに参戦する意味とは、何なのだろうか。『広島大学は世界トップ100に入れるのか』(PHP新書)の著者、山下柚実氏に聞いた。──地方の国立大学である広島大学がなぜ、世界ランキングトップをめぐる戦いに参加する宣言をしたのでしょうか。 山下:「今後10年で世界大学ランキングトップ100に10校ランクインを目指します」と口火を切ったのは、実は安倍晋三首相でした。2013年5月、「成長戦略第2弾スピーチ」の中で「世界に勝てる大学改革」という方針を掲げ、国は積極的な改革を進めてきました。日本の大学が世界ランキングを意識する風潮もこのあたりからぐんと高まってきたと思います。 すでに2004年に国立大学は法人化され、自ら特徴を活かし強い点を伸ばし、外部資金を稼いで自立することが求められています。そうした流れの中、世界ランキングによる評価によって一層入学志願者を増やし、企業との共同研究を増やして外部資金や補助金を得ようといった、「大学経営」への意識が高まっているわけです。──しかし、そうした流れとは裏腹に、日本の大学のランキングは思うようには伸びていない、いやむしろ低下傾向にあるとも聞きますが。山下:THE世界大学ランキングの最新版(2015年9月30日)が発表された際は、大きな話題を集めました。というのも、前年まで「アジア首位」だった東京大学が順位を落とし、トップの座をシンガポール国立大学にもっていかれたからです。中国の大学も上昇傾向にあります。それに対して日本は、東大が前年23位から43位へ、京都大学も前年59位が88位へと下落しました。この2つの大学の他に上位200校以内に日本の大学は見あたらなかった。前年は東京工業大学、大阪大学、東北大学の5校が入っていたのですが。 最新版は毎年9月末頃に発表されるので今年も注目を集めると思いますが、このランキングを見る限りたしかに日本の大学の順位は低下傾向にある、と言えるでしょう。 ──日本の大学のランクが上がっていかない理由とは、何なのでしょうか?山下:シンガポールや中国の大学が順位を上げている理由には、教育機関への投資を国が増加して世界各国から優秀な人材を募る戦略が効いているようです。対して、日本の大学への公的な投資は削減傾向にあり、外部からの資金も諸外国に比べて少ない。国際化にも遅れをとっている等、いくつもの問題点が指摘されています。──影響力を持つTHE「世界大学ランキング」ですが、そもそもどんなものさしで順位を決めているのですか?山下:インターナショナルな講師・留学生の在籍数、論文被引用数、教育環境、他国の研究者との共同研究等といった13の項目がものさしになっています。例えば、論文の引用数はランキングを決める要素の一つですが、対象は英語論文。つまり、英語圏の大学が有利というわけでさまざまな矛盾も含んでいる。でも一方で、グローバル化の中で競争しようとすれば英語を中心としたコミュニケーションを無視してはいられない現実もあるわけですね。 たとえば留学を考えている外国の学生がTHEのランキングを見て大学を選択するかもしれないし、企業や研究所が共同研究の相手を選ぶ時の一助にランキングを参照することもありうるでしょう。だからランキングには問題点もあるけれど、実際上の影響力も持っている、ということですね。広島大学旧理学部1号館──つまり、非英語圏の大学は不利だと。山下:たしかにそうした側面はあると思います。そもそも世界ランキングが大学の価値を測定しうる指標なのか、単純な順位を大学の価値のように鵜呑みにしていいのか、といった批判的な意見も、実はたくさん聞かれます。 実際、私自身も取材時に「特定の世界ランキングなんかで右往左往、一喜一憂していてもしょうがない」という言葉を、広大前大学経営企画室室長・相田美砂子氏から直接耳にしました。しかし同時に「だからといって、ランキングを無視していればいいのでしょうか。何もしないで放っておいて、今大学が抱えている問題を解決することはできるのでしょうか」と相田氏は語っています。ランキングに振り回されるより「大学が活性化し変わるためのチャンス」と捉え、道具として上手に使ってしまうおう、というタフさのようなものを広大に感じました。実際、「トップ100入り」という明快な目標を掲げていることもあってか広大の順位は上昇傾向にあり、6月に発表されたアジア地域限定のTHE大学ランキングの順位も上がってきています。 ──広島大学は「世界トップ100」に入るために、具体的にどんな戦術を用意しているのでしょうか?山下:独自に編み出した指標「A-KPI(アチーブメントモチベーテッド・キー・パフォーマンス・インジケータ)というものを見せてもらいました。世界トップ100の大学になるためにこなすべき課題を洗い出し数値化し「見える化」したものです。詳細は本書に記しましたが、簡単にいえば、この数値目標をこなせば100位以内は達成される、という具体的な道筋です。進むべき行程は見えた。しかし、本当に目的地に達するかどうかはまだわからない。 広大の越智学長は「妙に背伸びをしたり、実力以上に見せようと虚勢を張っているわけではないんです。今持っている力をきちんと自覚し、戦略に沿って現状を伸ばし、その数値を学外からはっきり見えるようにすれば世界100位に入ることは決して夢物語ではありません」と語っていました。──大学をめぐる問題は、グローバル化だけではなく少子化など深刻です。山下:横ばいだった18歳人口は2018年以降減少局面に入り、入学志願者はますます奪い合いになります。教育産業だけの問題ではないのです。例えば自動車産業。東京五輪が開催される2020年、国内で販売される台数が今より約2割減る、という試算もあります。つまり、今必死になって改革に取り組み競争力を付けようとしている教育産業は「さきがけ」であって、いずれは日本の企業や自治体、さまざまな組織が、このシビアな問題に直面する。だから今、大学が積極的に繰り出している挑戦と試行錯誤の中に、明日の日本の課題と解決のヒントが詰まっている、そんなつもりで本書を執筆しました。関連記事■ ブリヂストン 実は太陽電池用接着封止材で世界トップ争い■ 「日本の地ビールは世界トップ5に入る」とビール五輪審査員■ 世界トップランクの欧州年金ファンド 日本株比率引き上げへ■ すみれが手つなぎデート 新恋人は「世界トップ50」のモデル■ 2ケタ成長続く中国飲食業界だが業界トップは天敵・米国企業

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    あのヤクザ監督の直言 「ビンタが試合を変えることがある」

    教育の場」と位置づけられる甲子園で、その敗戦の弁は、物議を醸した。「負けたのは末代までの恥」「腹を切りたい」。6年前のセンバツ一回戦、21世紀枠の格下校に負けた島根・開星高校監督(当時)の野々村直通氏の一言。翌日の謝罪会見には、ど派手な服装で現れ、火に油を注ぐ。2日後、退任。 連日、「ヤクザ監督」と叩かれた野々村氏だが、監督復帰を望む8000人の嘆願書とともに翌年、現場復帰を果たすなど、教え子の支持は厚い。現在は教育評論家として活躍する野々村氏は、萎縮する一方の指導者に大きな違和感を覚えるという。* * * 昔は甲子園に出てくるような高校では、当たり前のように体罰は行われていましたよ。そりゃあ、ビンタぐらいしてるぜ、って。今でも、やってる高校はけっこうあるでしょう。強豪校はどこもギリギリのところで戦っていますから。 ただ、2012年12月の桜宮高校の男子バスケット部のキャプテンが自殺した事件で、潮目が大きく変わったことは確かです。自殺の原因は、監督の体罰にあったとされましたから。「体罰=悪」で、教師は生徒に触れてもいけないってぐらいの状況になった。 文科省もビビったね。事件翌年3月に〈執拗かつ過度に肉体的・精神的負荷を与える指導は教育的指導とは言えない〉という通知を出した。僕に言わせれば、「過度」だから伸びるんですよ。子どもなんて、簡単に満足しちゃいますからね。そこで追い込んで、初めて成長するんです。第82回選抜高校野球 開星・野々村直道監督=2010年3月22日(澤野貴信撮影) リオ五輪で結果を残した選手たちは、体罰があったかどうかは別として、想像を絶する練習をこなしてきているはずですよ。でなきゃ、あんなに人に感動を与えられるもんじゃない。 教育現場は今、歪んでます。ちょっとでも手をあげようものなら、当事者ではなく、第三者がタレ込むようになった。2014年秋にこんな事件があったんです。今治西高校(愛媛)は四国大会の準決勝で、高知の明徳義塾とぶつかった。勝てば、春の甲子園が当確になるという大一番です。 試合中、大野(康哉)監督は、ある選手に「気合入れてください!」と言われ、「よし、わかった!」と3発ビンタをした。それで明徳義塾を逆転して、甲子園の切符をつかんだんです。でも、たまたまそのシーンがテレビカメラに映っていて、視聴者が電話で抗議をした。試合後、高野連は大野監督と当該選手に確認したらしいのですが、選手の方は泣きながら「僕がお願いしたんです! 暴力じゃありません!」と訴えたそうです。でも、高野連は世論を恐れたんでしょうね、大野監督を謹慎処分にし、そのせいで甲子園で指揮を執ることができなかった。 これが体罰ですか? アスリートが気合を入れようとして自分で自分の頬っぺたを叩くことがよくありますよね。それを監督にしてもらっただけのことじゃないですか。 私も試合中、あがって頭が真っ白になっている子に、「勝負してこんかい!」と頬を張ったこともあります。1発のビンタが試合を変えることもある。 がんばれば負けたっていいなんて、教育でも何でもないですから。僕は試合に負けたら練習試合でも怒りまくってましたよ。ずいぶん前ですけど、試合に負けると、センターからホームまで、手だけで這わせた。下半身はぶらんとさせてるから匍匐前進よりしんどい。腕力が弱い選手はたどり着けない。見ていてかわいそうになるんだけど、負ける惨めさを覚え込ませるためにも心を鬼にしてやらせた。 うちの選手は、負けたら俺に殺されるんじゃないかぐらいに思っていましたよ。 今の子どもたちは、簡単に自分で自分を見切っちゃう。俺は無理だって。でも、これだけ追い込んでやれば甲子園に出られるんだというのを示せば、しんどくてもついてきますよ。【PROFILE】野々村直通(ののむら・なおみち)/1951年、島根県生まれ。広島大学教育学部卒。島根県の開星高校野球部を監督として9回、甲子園に導く。美術教師を務めていたことから「山陰のピカソ」の異名を持つ。2012年に定年退職。著書に『やくざ監督と呼ばれて』など。●取材・構成 /中村計(ノンフィクションライター)関連記事■ あのヤクザ監督 「『GTO』みたいな生徒ばかりだったら楽」■ ヤクザ100人調査 生まれ変わってもヤクザになりたい率判明■ 韓国で政治ヤクザ衰退もインテリヤクザと半グレが増加■ 昭和初期のヤクザ 親分が子分引き連れ戦地に赴くことも■ 紳助 旧国鉄職員の真面目な父に反発し伝説のヤクザに憧れる

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    「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?

    を詳細に分析しました。すると調査を進めるうちに、さまざまな問題が明らかになり、いじめ防止対策推進法は教育現場でほとんど機能しないばかりか、ますますいじめ問題をこじらせてしまう可能性があるという結論に達しました。2018年3月、東京都葛飾区役所で報告書を青木克徳区長(右)に手渡す、第三者委の委員長を務めた平尾潔弁護士 ここでは大きな問題点を二つだけ指摘しておきます。一点目は、報告や申告があったものだけで年間32万件(平成28年度)も発生し、そもそも人間の本質にかかわるいじめを防止、根絶するための法律を作ってしまったことです。そしてニ点目は、この第三者委員会の報告書の中でも述べられている「いじめの定義」です。このいじめ防止対策推進法と定義の問題点をもう少し詳しくまとめますと、おおよそ以下に集約できると思います。 いじめの定義は一度明文化された後、より被害者救済の観点に立つように「継続的」という文言などが削られ、次のように改定されました。(定義)第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人間関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。被害者と加害者の感情的な対立 いじめは物理的被害にも増して精神的被害が大きなウエートを占めるといわれています。ところが、被害を受けた児童生徒の性格や環境、力関係など個人差は相当に幅があるため、同じいじめ的言動(特に軽度と思われる冷やかし、無視、からかい、はたきなど)であっても受け止め方はさまざまです。定義では、行為を受けた児童等が心身の苦痛を感じれば、行為の重さや大きさに関係なく「いじめ」になりますから、現実問題として、全く同じ言動がいじめになったり、いじめにならなかったりすることが頻繁に起こるようになるわけです。 関連して、特に小中学校では、子供たちは日常習慣のごとくお互いにからかい、冷やかし、いたずら、言い合いなどを、よくゲームや遊び感覚で行います。実際、私も学校内でそのような場面を何度も目にしています。やる側の子供はいじめをするつもりではなく、無意識のうちにこれらの行為に及んでいることが多いのです。また、やられる側の子供も全く苦痛ではなく楽しんでいる場合もあって、教師が一見していじめと判断するのが難しい行為が日常的に発生しているのが学校なのです。 上記のように、子供の行為が実際に「いじめ」に該当するのかどうか、被害者側、加害者側、学校間で見解の相違が生じやすいわけです。ところが、文科省(国)がいじめを法律で定義し明文化してしまったために、被害者本人以上に保護者にとっては「いじめ」と認定されるかどうかは、謝罪や賠償の面からも大きなカギとななるので、納得できずこじれて事が大きくなりがちなのです。 いじめに限らず「自殺」の原因を特定することは、大人、子供を問わず真実を知る本人から聞き取りができないだけに極めて難しいのが現実です。今回のように不幸にも児童生徒が自殺した場合には、いじめが自殺の原因であったかどうか確かめたくても、いじめの定義は「受けた行為により子供自身が心身の苦痛を感じたかどうか」です。ゆえに本人がこの世にいなければその心情を直接聞くこともできず、残された文章や周りの証言から推定するしかなく、人の命が絡んでいるだけにますます被害者側と加害者側で感情的な対立が起こりやすいのです。 いじめが法律で防止(禁止)されたことで、大きないじめ被害が起こるたびにマスコミが過熱報道を繰り返し、正義感の塊のような市民がそれに同調する傾向があります。中にはいじめの有無や行為そのものの有無があいまいなケースまで、加害者とされた子供と保護者を会員制交流サイト(SNS)などで犯罪者扱いし糾弾するような傾向もあり、彼らも自殺に追い込まれはしないか危惧されます。 そういった事態が頻繁に起きるようになれば、マスメディアの自殺報道に影響されて自殺が増える「ウェルテル効果」により同情、後追い自殺する若者や、現在陰湿ないじめを受けている児童生徒たちが、「自分が死ねば家族や世間が加害者に復讐してくれる」といった仕返し手段として「自殺」を選んでしまうという悪循環に陥る危険があります。 これらは、感情を持つ人間の本質的な言動であり、根絶できないいじめを文科省が「いじめ防止対策推進法」という、まさに法の論理で定義まで決めて防止(根絶)しようと躍起になる一方で、「隠ぺいするな!」と各教育委員会や学校にいじめの報告が増えるように徹底させるという矛盾した施策を続けていけば、最も疲弊するのは当事者である子供たちであり、保護者や先生です。(iStock) 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。

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    このままではヤバい「2020大学入試改革」

    2020年、日本の教育はターニングポイントを迎える。教育改革という旗印の下、大学入試センター試験に代わって、「大学入学共通テスト」の導入が決まったからである。知識を詰め込むだけの受験勉強では乗り切れなくなるとのことだが、あの看板倒れに終わった「ゆとり教育」と同じ轍を踏むことにならないか。

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    日本の入試はなぜ「知識偏重」から抜け出せないのか

    、ゆとり世代の大卒生が初めて入社するということで、私たちはさまざまなレッテルを貼られました。「ゆとり教育=悪」の空気に端を発した、荒唐無稽なゆとり批判を経験した私は、いかに日本の教育政策が空気に左右され、支離滅裂であるかを痛感しました。そして、その支離滅裂な状況は、2020年度から実施される大学入試改革も例外ではありません。 2020年の大学入試改革の目的を簡単にまとめると、「受け身から主体性の教育への転換」といえます。変化の激しい時代に求められる人材は、既存の知識を詰め込んだだけの「学校秀才」ではなく、未知の課題に対して自分の頭で考え行動できる主体性を持った人材だと考えたわけです。 入試改革を検討するにあたり、特に問題視されたのは大学入試センター試験のマークシートでした。受け身の姿勢で暗記をすれば攻略できてしまうからです。そこで、マークシートの試験に加え、記述試験を導入することにしました。記述試験は単純な暗記だけでは解けないと考えたのでしょう。知識偏重の入試から、思考力・判断力・表現力・主体性といった、さまざまな能力が必要となる入試を目指したわけです。従来のマークシート試験に記述試験を加えたセンター試験は、「大学入学共通テスト」と名称を改め、2020年度から段階的に実施される予定となっています。大学入試センター試験の会場で配布されたマークシートの解答用紙=2018年1月13日、東京・文京区の東京大学(川口良介撮影) しかし、これは少し調べれば分かることですが、センター試験の前身である共通一次試験が導入される前から、日本の大学入試は知識偏重だと批判され続けてきました。後述するように、暗記科目からほど遠いように思われる数学の記述試験でさえ、知識とテクニックを頭に詰め込めば攻略できるのです。だから、センター試験のマークシートは、日本の大学入試を知識偏重にしている原因ではありません。いま記述試験を導入するため、膨大な時間と労力をかけているわけですが、なぜここまで記述試験の導入にこだわるのか、率直に言って理解に苦しみます。 このような首をかしげざるを得ない現象の原因として、二つのことが考えられます。ひとつは教育問題の語られやすさです。誰もが教育を受け、そして多くの人は誰かを教育したことがあるのですから、皆がこだわりのある教育理念を持っています。しかも、この教育理念は各人の経験に基づいているので、皆が自信をもって意見を表明できます。一方、語られやすいがゆえに、今回の改革のようにきちんとした検証を踏まえず、政治家や有識者の思い込みが政策に反映されやすいわけです。「PISAショック」のウソ もうひとつの原因が「社会の空気」です。山本七平は、著書『空気の研究』で日本は空気に支配されていると看破しましたが、教育政策でも特に空気が強い力を持つようです。ここでは、荒唐無稽なゆとり教育批判を簡単に振り返ることで、いかに日本の教育政策が空気に左右されるかを見ていきたいと思います。 まずは教育政策に大きな影響を与えた「PISAショック」を振り返ります。PISAショックとは、経済協力開発機構(OECD)が世界の15歳を対象に実施した学習到達度調査(PISA)の順位が、2003年に大きく低下した現象を指します。2003年はゆとり教育が始まって間もないこともあり、ゆとり教育のせいで学力が低下したとする論調が支配的になりました。また、「脱ゆとり」の方針を鮮明にした後に実施した2012年度の調査結果が好転した際に、文部科学省が脱ゆとりの成果であると強調し、改めてゆとり教育が学力低下をもたらしたとする印象を社会に広めました。 しかし、ジャーナリストの池上彰氏も主張しているように、この結果からゆとり教育を批判するのは無理があります。ゆとり教育の象徴とも言える総合学習が段階的に導入されたのは2000年度からであり、教科書の内容が3割削減されたのが2002年度からです。つまり、PISAショックが起きた2003年の調査に参加した子供たちは、ほぼゆとり教育を受けていません。 また、結果が好転したとされる2012年にPISAを受けた世代は、小学校ではすべてゆとり教育を受け、中学校では脱ゆとり教育への移行期間中でした。移行期間では数学・理科の一部前倒しなどの変化があったものの、中学校の総授業時間はゆとり教育の時と全く同じなので、ほぼゆとり教育しか受けていない世代となります。脱ゆとりの成果などと、どうやっても言えないはずです。東京・霞が関の合同庁舎に掲げられた文部科学省の看板=2017年1月撮影 確かに、統計学のような専門的な知識を使って検証しているわけではありません。でも、ゆとり教育と脱ゆとり教育の導入時期を知っていれば、ごく簡単に理解できることです。しかし、国民のみならず、教育政策のエキスパートであるはずの文科省でさえ「ゆとり教育のせいで学力が低下した」とする空気に従ってしまったのです。なぜ入試は知識偏重になってしまうのか社会学者の小室直樹氏 その一方で、文科省はPISAショックに対し、順位が低下したとはいえないとする見解を表明しています。文科省のホームページにも掲載されている「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2003年調査国際結果の要約」によれば、数学的リテラシーと科学的リテラシーについては、2000年と2003年ともに1位と有意差のない得点(1位グループ)です。また、読解力に関しても、両年ともに1位と有意差のある二位グループだとしています。つまり、統計学的な見地からは順位変動が認められないと発表しているわけです。 しかし、「ゆとり教育=悪」の空気が形成されるや否や、先述のとおり文科省は脱ゆとりの旗印を鮮明にし、当時の馳浩文科相が「ゆとり教育との決別」を発表するに至りました。文科省の言い分を振り返ると「ゆとり教育によって学力が低下したとはいえないけど、ゆとり教育は悪いからやめる」という話になり、あまりにも支離滅裂です。これほど非論理的な振る舞いをしてしまえば、日本の教育政策は論理ではなく空気で動いているといわれても仕方ないでしょう。非論理的としか言いようのない安易な教育改革が繰り返されるのも、空気に従っていると考えれば納得できます。 今回の入試改革も、マークシートではなく記述試験ならよいだろうという、非常に安直な発想からスタートしています。もし、受け身の姿勢で攻略できてしまう知識偏重の入試を改善したければ、なぜ入試は知識偏重になってしまうかを徹底的に検証しなくてはならないはずです。でも、そうした作業は不十分なまま改革の議論は始まり、今日に至ってしまいました。 では、なぜ入試は知識偏重になってしまうのでしょうか。まずは知る人ぞ知る在野の天才、社会学者の小室直樹氏の入試分析を紹介し、知識偏重になってしまう理由を考えていきます。 だが、この種の難問は、とうてい一般向きの入試用には役立ち得まい。初等幾何(筆者注:図形問題)の難問に取り組んだことがある人なら、だれでも思い出すように、その解決のためには、実に、ただ一本の補助線を思いつくかどうかが決定的となって、短期間の試験においては、あまりにも大きな偶然に左右されやすいからである。 このような本格的難問が入試には不向きであるため、入試のためには、「平易な難問」が人工的に用意されなければならないことになる。「平易な難問」とは、きわめて平易な事項が複雑にからみ合って合成されて出来てくる問題のことをいう。このような問題を解くためには、インスピレーションによってすばらしい補助線を思いつくといったような、発見的な頭脳活動は少しも要求されない。そのかわりに要求されるのは、平易な事項を多く暗記して、条件反射的にこれらを組み合わせる能力である。このような理由から、入試に出題される「平易な難問」を解くためには、数学的訓練とはほとんど無関係な訓練――暗記と特定の形式の盲目的適応――が要求されるようにならざるを得ない。『週刊朝日』1978年6月2日号入試分析でのキーワードとは? 「平易な難問」こそ入試を分析するうえでのキーワードです。そこで、もう少し具体的に説明を加えるため、多くの人が挫折してしまう高校数学ではなく、女優の芦田愛菜さんが合格したことでも話題になった慶応義塾中等部の入試問題を題材とし、平易な難問を解説したいと思います。2017年2月3日実施、慶応義塾中等部【7】をもとに筆者作成 この問題は、足し算と掛け算の筆算さえ理解していれば解けるので、内容そのものは平易です。しかし、いざ解こうとすると厄介な問題であることに気づきます。また、この2問に使える時間はせいぜい10分しかありませんが、じっくり考えれば解けるはずの大人でも、この2問を10分以内に解くのは容易ではありません。内容そのものは平易であるにもかかわらず、小細工と制限時間が加わることで「平易な難問」に変わってしまうわけです。 (1)の問題について、簡単に解法を紹介します。最も小さいABCDを求める問題なので、まずはAに1を入れてみます。Aに1が入れば、Bは2と考えるのが自然です。同じようにCには4、Dには8が入りそうです。しかし、Dに8が入るとおかしなことが起きます。一の位で繰り上がりが発生するため、十の位の答えは8ではなく9になってしまい、うまくいきません。そこで、試しにDを9として計算してみます。すると、先ほどの繰り上がりの問題もうまくクリアできることが分かります。正解は1249です。 Dに9を入れるという作業は、一見豊かな発想力が要求されているように思えます。しかし、繰り上がりのせいで、Dに当てはまる数字はひとつに限らないというコツさえ知っていれば、それほどてこずることなく解答できるでしょう。頻出問題をすべて解けるよう繰り返し練習したうえで、解くためのテクニックやコツを理解し、使いこなせるレベルに到達することで、「平易な難問」を攻略できるわけです。 大学入試も基本的に平易な難問です。特に学力上位の受験生は、高校で習う内容を簡単に理解してしまうため、普通に出題すると平均点が非常に高くなってしまいます。その結果、受験生の間で点数の差がつかず、適切な選抜ができません。だから、素直な問題ではなく、慶応義塾中等部の問題のように小細工を加え、適切な平均点となるよう難度を調整しなくてはなりません。 こうして、内容そのものは初歩的な確率や微分積分といった平易なレベルなのに、受験専用のトレーニングをしないと数学の専門家でさえ解答困難という摩訶(まか)不思議な問題ができあがるわけです。今年のセンター試験で話題になったムーミンの問題のように、あの手この手で小細工を加えなければならない事情が浮かび上がってきます。平易な難問を避ける三つの方法 このような平易な難問は、センター試験の国語においても見られます。センター試験は資格試験ではなく選抜試験であるため、適切な平均点が求められます。しかし、センター試験はさまざまな学力を持つ高校生が受験するため、難解な文章は基本的に出題できません。そこで、文章そのものではなく、選択肢をややこしくすることで難度を調整することになります。その結果、正答として疑わしいと評されるような、質の悪い選択肢が再三出題されてしまいました。例えば、次のような専門家の指摘があります。 問5 問題文の全体を通した設問であり、また「地球儀」という題名からもここを問うのは妥当だが、1の「ふがいない自分」や「息子」にかかわる記述は正答として疑わしい。誤答の選択肢も凝りすぎており、問題としての質を下げた。大学入試センター『平成25年度大学入試センター試験問題評価委員会報告書』2013年ムーミンを取り上げた2017年度のセンター試験地理Bの問題 こうして、問題文は平易なので読解できても、選択肢が凝り過ぎているため正解できないという平易な難問が完成します。そして、この受験専用に作られた平易な難問に対し、受験産業は頻出問題を網羅した問題集やさまざまなテクニックを開発します。当然ながら、少しでも偏差値の高い大学に合格しようとする受験生は、こうした受験専用の知識・テクニックを頭に詰め込むので、特別な策を講じない限り、受験は知識偏重の入試に行き着いてしまいます。より正確に言えば、受験しか使えない知識偏重の入試のせいで、受験生は不毛な努力を強いられることになるのです。 それでは、次に平易な難問を避けるための方法を示します。各教科によって具体的な方法に違いはあるでしょうが、おおよそ次の三つが考えられます。 まずは、各大学が自由に試験範囲を設定することが必要です。特に数学や物理については、学力上位の受験生にとって出題範囲が簡単すぎるため、平易な難問にならざるを得ません。だから、もっと難しい範囲まで広げて、素直な作問でも選抜試験として機能するように工夫すればよいわけです。「平易な難問」から「難解な基本問題」への転換です。引き続き、知識偏重の試験にはなってしまいますが、大学受験しか使えない平易な難問を攻略するための知識より、格段に有益なことを学べます。一方、試験範囲を各大学が自由に設定してしまうと、学校の教科書だけでは入試を突破できないという批判もあるでしょう。でも、それは現行の入試でも全く同じことが言えますので、新たに起こる問題ではありません。 次に、大幅な試験時間の延長と専門職員(アドミッションオフィサー)の養成が必要になります。問題数が少ない数学の試験でさえ、1問あたりに与えられた時間は10分程度です。これでは、本格的な難問は出題できず、やはり平易な難問になってしまうからです。また、これらに対応できる専門職員も足りません。 何より資格試験にすればいいのではないでしょうか。資格試験は、必要な能力を習得しているかどうかを判定するための試験ですので、平均点の調整が不要です。したがって、素直に作問すればいいわけで、平易な難問とは似ても似つかない問題になります。共通テストでも続く平易な難問 2020年度から実施される大学入学共通テストでは、試験結果はABCDといった具合にランク分けされて評価される見通しです。一見資格試験のようですが、受験生は少しでも偏差値の高い大学に合格するため、より高いランクに入ろうと努力しますので、その性質は選抜試験と同じです。1問でも多く正解するため、今までのようにさまつな知識・テクニックを詰め込むことになります。もちろん、適切な平均点が求められますので、またしても平易な難問ができあがるでしょう。 最後に、2017年5月に公開された国語の例題を簡単に紹介しながら、平易な難問が今後も続くことを改めて示したいと思います。この例題では、景観ガイドラインに関する広報文書と、その文書に関する父と娘の会話文が登場しました。広報文書と会話文なので、センター試験で出題されている評論文や小説よりも平易な文章です。したがって、適切な平均点にするためには、センター試験と同様に問い方や選択肢といった部分で難度を調整せざるを得ず、平易な難問となってしまいます。大手予備校でも、試験の作問方法に対して疑問を呈しています。 本問では、「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、この場合街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という文言が含まれているが、「街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という条件付けは、本来なら平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える。ここはもっとシンプルに「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、どういうことか」と問えば、生徒はそこで自ら思考力を働かせるはずであり、逆にこのような条件付けをすることでかえって自然な思考力の発露が妨げられてしまうのではないかと考える。ハピラル・テストソリューションズ『「大学入学共通テスト(仮称)」モデル問題例への当社コメント』2018年1月14日2018年2月、「大学入学共通テスト」の試行調査で、英語の試験に臨む高校生=東京・練馬区の都立井草高校 「平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える」とありますが、まさにこれは平易な難問の特徴そのものです。思考力・判断力・表現力・主体性といったものを評価するためには、記述試験や実用的な場面を想定した問題を課せばよいと安易に考えているため、平易な難問を克服できないわけです。残念ながら、大学入試は受験にしか使えない知識偏重の入試であり続けます。 今回の改革では、その他にもアクティブ・ラーニングや、面接・プレゼンテーション・エッセーなどによる多面的な評価が導入される予定ですが、これらについても問題が山積みです。一度仕切りなおしたうえで、きちんとした議論を新たに始めるべきではないでしょうか。いい加減な教育政策と世論によってあらぬレッテルを貼られる世代は、私たちで最後にしてほしいと切に願います。

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    2020年大学入試改革は「ゆとり教育」の二の舞にはならない

    石川一郎(香里ヌヴェール学院学院長) 「ゆとり教育の二の舞になるのでは?」2020年度からの大学入試改革について、多くの教育現場で講演をする機会を今日いただいておりますが、「ゆとりの時も変わらなかったのに、今回は本当に変わるのですか」という質問を現場の先生方からされることがあります。そんな時は、「今回の教育改革は社会的要請です」とお話をします。 社会的要請とは何か。ゆとり教育の議論から約20年間の社会の変化を考えてみると、主に3つの変化が挙げられると思います。①グローバル化が加速をつけて進んでおり、日本国内で生活を続けていく上でも海外との関係を無視することはできない状況となっている②インターネットの普及によって情報に対するアクセス方法が変化するとともに、情報の活用という新しい産業が生まれてきている(IOT)③人工知能(AI)が今後飛躍的に進化することが予想されており、2045年にはAIが人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、「シンギュラリティ」に到達すると予想されている これからの20年から30年で社会は大きく変化し、産業や働き方も今までと全く異なったものになることが予想されているのです。となると、未来社会で求められるコンピテンシー(資質)は、現在求められているものから大きく変化することは間違いありません。(iStock) ゆとり教育は、1990年代以前からもあった「落ちこぼれ」や「不登校」の問題が深刻化する中で、21世紀の教育はかくあるべき、という話からスタートしたのではないかと思います。社会的には、反対ではないものの、そこまで大きな変化を教育には求めていなかったのではないでしょうか。 1996年の中央教育審議会の答申には、教育の考え方について「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し・・・」とあります。今回の教育改革の狙いである「主体的、対話的で深い学び」は、ゆとり教育が目指すものの延長線上にあると言ってもいいと思います。 そして、ゆとり教育と並行して教育現場で行われた施策は、学校週5日制でした。5日制を実施するにあたり、授業時間は当然削減しなければなりません。そこで文部科学省は、授業時間が減って学力低下が起きないように、教育の中身の「質的転換」を目指したのです。その目玉となったのが総合学習の導入でした。「量的転換」と「質的転換」セットの改革であり、5日制を導入することで教員の働き方改革も狙いとしては当然あったと思います。ゆとり教育が上手くいかない理由 そんなゆとり教育は、なぜは進まなかったのか。最も大きな原因は、大学入試改革を行わなかったことだと思います。大学入試の内容の「質的転換」がないまま、小中高の現場で扱う知識量が減ることで、「ゆとり」カリキュラムでは大学入試に対応できず、学力低下が起きるという議論が巻き起こったのです。 また、「質的転換」の目玉である総合学習も中身は現場に丸投げされ、現場は大混乱に陥ったのです。この時に、総合学習の内容が評価方法も含めて具体的に現場に提示され、それに沿って現場が教えるだけであれば、ずいぶん違ったのではないかと思います。 ゆとり教育の話題が出てきた当時は、現状の教育に行き詰まりを感じていた教師も多く、教育改革に夢を持ったものでした。しかし、思ったような方向に教育が変わっていくことがなく徒労感に襲われたことも事実です。 では2020年の大学入試改革はどのようなものか。例えば、「もし、地球が東から西に自転していたとしたら、世界は現状とどのように異なっていたと考えられるか、いくつかの観点から考察せよ」(2014年度東京大学理科Ⅰ類「外国学校卒業生特別選考」といった大学入試問題があります。実は、この問題は海外の学校教育を受けたいわゆる帰国子女や留学生を対象にした問題であり、2020年に向け文科省が実現を目指す教育改革の中で、生徒に身につけさせようとしている力を問う問題なのです。大学入試センター試験で配られたリスニング機器=2018年1月13日、東京都(代表撮影) 今回の教育改革で文科省が特に意識しているのは、教育のグローバル化です。発表されている文章を読むと、認知心理学、教育心理学の研究者である米国のベンジャミン・ブルームのタキソノミー(思考レベルの分類)の学習理論が背景にあると強く感じます。ブルームのタキソノミーは6段階でさまざまな解釈がありますが、私は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」「批判的思考」「創造的思考」に分類されると理解しております。前述した東大の問題は「批判的・創造的」思考を問う問題です。 この6段階で考えると、従来の日本の教育は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」を、欧米の教育は「批判的・創造的思考」を重視してきたのではないかと思います。前述した東大の問題は、「批判的・創造的思考」を問う問題なのです。 激変する未来は、今までとは全く違う価値観が求められると思います。そんな時必要な力は何か。「もし、あなただったら地球温暖化をどのように阻止しますか?」といった問題に立ち向かう若者を育成するためには、今回の改革をやらないといけないのです。

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    大改革なんてモノじゃない、大迷惑ばかりの「大学新テスト」

    おおたとしまさ(育児・教育ジャーナリスト) 大学入試改革の本丸は個別の大学の入学者選抜の方法である。ペーパーテストだけに頼らず、面接・論文・高校時代の活動の記録を評価するなど、多様な方法で入学者を選抜することを当初の目的とした。改革のもう一つの目玉がセンター試験の見直し。高校で学ぶべき事柄の達成度を見る「基礎レベル」のテストと大学で学ぶための素養が身に付いているかをたしかめる「発展レベル」のテストの2種類の「達成度テスト」に分けるとした。 個別の大学入試選抜方法についてはまだ不透明な部分が多い。基礎レベルの達成度テストについては本格実施を2023年度以降に先送りすることが決まっている。2020年度以降実質的にセンター試験の後継テストになる発展レベルの達成度テストは現在「大学入学共通テスト(新テスト)」と呼ばれており、現時点ではこのテストの行方に注目が集まっているので、今回ここでは、新テストについて中心的に述べる。 新テストについて2013年の時点では、「年複数回の実施」「1点刻みではなく段階別の結果」「外部検定試験の活用」などのビジョンが示されていた。しかし具体的な検討に入ると途端にトーンダウンした。年複数回実施するということは現状1月に実施されているセンター試験よりも早いタイミングでの受験が可能になるということ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」というのが高校の現場からの声だった。年複数回実施は当面見送られることになった。(画像:istock) そのような声が上がることは十分に予測できた。それでも「一発勝負の大学入試文化」を改めるために、やるのか。そこに今回の改革の本気度が表れると思って議論の行方を見守っていた。しかし変わらなかった。結局「新テスト」とは、共通一次試験以来の「国を挙げての壮大な一発勝負」の概念を改めるものではなくなり、現行のセンター試験に多肢選択問題・記述式問題を含めるだけのいわば「アップデート版」になってしまった。ここに今回の大学入試改革全体のスケール感が規定されてしまったような気がしている。要するに、それほど変わらない。 文部科学省の担当者が悪いわけではないだろう。もともと広げられた大風呂敷が、どだい無理筋だったのだ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」という声が現場から上がるのは、日本の大学入試が学習指導要領と検定教科書にがんじがらめにされているからだ。入試問題と学習指導要領と検定教科書が三つどもえになっている限り、高校の授業の進度と内容に入試が縛られるのは宿命である。教科書絶対主義から離れられない アメリカの大学を受験するときに必要になる標準学力テストSATは、年複数回実施されている。学習指導要領も検定教科書もないので、高校の授業の進度はバラバラという大前提。SATで早くいいスコアを取りたければ、自分で勉強しなさいということだ。 学習指導要領と検定教科書を入試から切り離す。そこまで腹をくくらなければ、年複数回実施などできるわけがない。そうでもしなければ、学習指導要領に定められた検定教科書の内容を「試験範囲」とする「教科書絶対主義」「知識偏重型教育」からいつまでたっても離れられないと私は思う。そこまでやるつもりなのかと、2013年当初は期待したが、そうはならなかった。現実的には非常に難しいことはわかっていたが、それでも一縷(いちる)の望みが消えたときにはがっかりした。 念のため付け加えるが、学習指導要領や検定教科書の内容が悪いといっているわけではない。その影響が強すぎることが大学入試改革のネックになっているという指摘だ。 2017年12月、数学と国語について、新テストの試行テストが公開された。地方の公立進学校の教員に評価を聞くと、「今回はかなり頑張ってつくった良問だと思う」「例えば数学は、単なる計算力では太刀打ちできないようになっている」と、おおむね好評だった。ただし「問題のレベルが、一部の上位層にはちょうどいいが、それ以外の高校生には難しすぎるのではないか」という声も聞いた。関西の私立中高一貫校の校長も「うちの生徒にはいいが、一般論としたら難しすぎるのではないか」と懸念を示した。さらに国語の問題については「あれが国語の読解力なんですかね」とも。思想の練り込まれた長文を立体的に読む力というよりは、雑多な文字情報の中から必要な情報だけをパッとすくい取る能力を試すような問題が目立つからだ。大学入試センター試験に臨む受験生ら =2018年1月13日、東京都文京区の東京大学 今回の試行テストと従来のセンター試験を比べたとき、見た目上の一番の違いは、問題文や課題文の体裁である。従来のテストであればほんの数行で終わっていたはずの問題文が、何行にもおよぶ会話文になっていたりする。日常生活や実社会を意識させるために、会話文や図表などを多用し、ストレートに問いを投げかけてはこないのである。その手法は、公立中高一貫校の適性検査にそっくりだ。 まわりくどい問題文をわざわざ読ませることには課題発見能力も測るという意図があるのだとは思うが、問題文が長く婉曲(えんきょく)的になればなるほど、文章を速く正確に読み取るのが得意な受験生に有利になる。要するに読解力あるいは速読力の勝負になり、教科そのものの能力が見えづらくなる。例えば驚異的な数学センスをもっている受験生でも、読解でつまずいてしまうかもしれない。それは教科のテストとしてはいかがなものか。テストの体裁を変えることを目的化して、本来測るべき能力が正確に測れなくなるようなことのないように、今後の調整を行ってほしい。「お色直し」程度の改革 さらに先の校長はこんなことも懸念していた。「記述式の採点は専門の業者が行うというが、いくら専門の業者でも、50万人分の答案を採点できるほど専門の職員がいるとは思えない。実際は大量のアルバイトに採点させることになるのではないか」。結局は素人に機械的に採点させるのなら、記述式問題を出す意味があるのかという、もっともな疑問だ。 また「日本テスト学会」は試行テストに見られた「5つの選択肢の中から適当なものをすべて選べ」というような多肢選択問題について、実際は選択肢ごとにそれが適切か否かの二者択一をしているにすぎず、「より深い思考力」を求めていることにはならないと指摘する。さらに「テスト理論」の観点から、5問正答のみを正答とし4問以下の正答は0問正解と同じとみなしてしまうことについて、「貴重な個人差情報を捨てる」と批判的な声明を出している。 以上を総合すると「だったら記述式問題も多肢選択問題もなしにして、現行のセンター試験のままでいいじゃないか」という結論になりかねない。 報道によると、テスト理論の専門家がすでに再三にわたって問題点を指摘したにもかかわらず、軌道修正がされないまま今回の試行テストが実施されたとのこと。だとすると、今回の試行テストは「見せ球」の可能性が高い。「このままではGOできない」とわかっているが、一見していままでとは明らかに違う案を見せておいて、公に批判を浴びる中で現実的な案に収斂(しゅうれん)していくのが文部科学省の作戦なのかもしれない。無理筋な改革を押しつけられたときにとるべきプロセスとしては間違ってはいない。ただしそれは、最終的な着地点が現行のセンター試験を「お色直し」した程度のものになることを見越しているからこその作戦だと言えなくもない。 英語の試行テストについても始まり、全国の158高校で順次実施される。英語に関しては民間資格・検定試験の活用も同時に検討されており、それとの兼ね合いも論点になる。現時点で英検やGTEC、TEAPなどが名乗りを上げており、審査の結果が3月に発表される。 改革によって得られるものと、生じる混乱のどちらが大きいか。 新テストの実施まで、すでに3年を切っている。早めに混乱を回避する十分な策がとられなければ、新テストを回避しようとする思惑が、受験生の志望校選びに影響を与えかねない。

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    大学入試改革で失われる「受験学力」というニッポンの強み

    1年春施行)から大学の大胆な入試改革を断行する方向性が事実上決定している。 14年12月22日に中央教育審議会から出された高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」(以下「答申」)が出され、さらに16年3月31日に、この答申を具体的にどういう形で実現するかについての文部科学省の諮問会議である「高大接続システム改革会議」が最終報告(以下「最終報告」)を公表した。 ただ、センター試験を記述式にすることにせよ、大学の二次試験に面接や小論文、そして高校時代の調査書などを加味することや、総合的な判断を経た入試を勧めるなど、一見、美辞麗句(びじれいく)が並ぶ。そのためなのか、これについては反対する声が少ないどころか、私がゆとり教育反対運動をやっていた時と比べ物にならないぐらい、その対策に追われる教育産業の人たちを除くと、世間の反響が驚くほど少ない。 実は、私はこの危険性を説くために『受験学力』(集英社新書)という本を書いた。出足は好調だったが、その後は、残念ながらヒットと言える状態ではなかった。ということで、今回は、この改革がいかに日本の受験生の学力とメンタルヘルスに危険な影響を与えかねないことを改めて知らしめたく、ペンを取らせていただいた。 今回の入試改革は、旧来型の知識の詰め込みを否定し、もっと思考力や判断力や表現力を鍛え、それを反映するような入試に変えていこうという趣旨のものである。ただ、これは世界のトレンドに反している。世界の教育の基本的なトレンドは、初等中等教育では、基礎学力のレベルを上げることである。 そこでは公文式のような形で、計算のトレーニングをしっかりするとか、これまで以上に多くのことを覚えさせる、日本で「詰め込み教育」と批判されるような形のものが主流となっている。アメリカやイギリス、そして東南アジア諸国でも、初等中等教育改革の手本は日本だったのだ。 その背景にあるのは、1960~80年代の自由化教育の失敗がある。アメリカの哲学者、ジョン・デューイなどの「子ども中心主義」や、ハリー・ハーローなどの教育心理学者による内発的動機論(アメとムチでなく、自発性を重視する教育論)、あるいはベトナム反戦やヒッピー文化のような自由を重んじる気風を背景に、強制力を極力排し、生徒のやりたいことをやらせる教育が一世を風靡(ふうび)した。 もちろん、この世代の教育を受けた人たちの中からかなりの数のITオタクが生まれ、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような起業家が生まれたのだが、一方で、一般学生については深刻な学力低下が生じた。ビル・ゲイツ氏 アメリカでは、81年にロナルド・レーガン氏が大統領に就任した際、全国の学校で学力調査が行われた。結果は惨憺(さんたん)たるもので、「17才のアメリカ人の約13%が機能的に文盲 (まともに読み書きができない)であることがわかった」、「17才のアメリカ人の40%近くは文章題からの推論ができない(要するに文章題を数式にできない)し、説得力のある論文の書けるのは五分の一にすぎない」といったものだった。 この報告書は83年に『危機に立つ国家』というタイトルで刊行され、3500万部も売れたという。また、この時期に欧米諸国で、生徒の自殺も2~3倍に急増、その一方で、当時受験競争が厳しかった日本だけ自殺が減ったのだ。 以降、アメリカはアメとムチを重視し、また日本に見習った「詰め込み教育」を奨励する(アメリカの場合、教育政策は地方自治に任されている)方向になり、同様に深刻な学力低下に見舞われていたイギリスでも当時の国際学力調査が一位で、高度成長を成し遂げていた日本を手本にした教育改革が行われた。この方向性は今もって変わっていない。「低学歴」なニッポン 一方で、大学や大学院のような高等教育については、教育期間の延長が国際的なトレンドとなっている。現に大学進学率が先進諸国では50~70%になっている近年では、大卒はエリートとみなされない。日本では学歴というと出身大学のことを指すことが多いが、これは正確には学校歴という。学歴というのは、中卒、高卒、大卒、院卒、そして博士ということになる。 そういう意味では、日本は先進国の中で最低レベルの低学歴社会となっている。官僚の出席する国際会議で院卒でも博士でもない、ただの大卒の人間が出るのは日本くらいなのだ。要するに今回の入試改革で求められるような力は大学で身につけさせ、専門教育は大学院レベルで行うのが世界のトレンドである。 ゆとり教育の撤回で、PISA(学習到達度調査)などの学力は多少回復傾向にあるが、少子化と大学の定員増などで、大学生の基礎学力不足が問題になっている。こうした中で、大学入試で基礎学力プラスアルファを求めると、さらなる基礎学力の低下は十分に懸念される。センター試験に臨む受験生ら=2018年1月、大阪府吹田市の大阪大学吹田キャンパス(渡辺恭晃撮影) そして、本当は大学、とくに教養課程で求められる能力を、高校生までに押し付けて、大学に入ってからも詰め込み教育を続けるようだと、日本の大学教育は企業からも評価されない(海外では高等教育の就学期間が長いほど優遇されるのに、日本では院卒や博士が評価されない)し、アジアなどの優秀な留学生が日本の大学をパスする現状は改善されないだろう。 いい加減、この手の教育関係の審議会で務める委員を、世界や日本の企業からバカにされている大学の教授ではなく、世界から評価を受けている初等中等教育の優秀な教師たちに変えることができないのだろうか。 本題に戻るが、今回の改革では、センター試験は廃止され「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が導入される。これについては、「答申」と「最終報告」で多少の変更点があったが、基本的な方向性はマークシート方式だけでなく、記述式も導入される。 現行の解答だけを出して、思考過程を問わないテストには、批判が多かったが、長年精神科医をやることで私はむしろ答えだけを求める試験も悪くないと思えるようになった。 要するに、大量の受験生を処理しないといけない試験で記述式解答を求めてしまうと、模範解答的なものばかりが求められて、ユニークな解答が排除される可能性があるからだ。二次試験であれば、受験者数が限られるうえ、たとえば東大の数学なら数学のプロが見るので、相当ユニークな解法でも認められることがあるが、それが可能かが疑問である。 そうでなくても、日本人は、結果よりプロセスにこだわるところがあり、それがメンタルヘルスを害している。 たとえば、ゴールが大学受験だったり、社会的な成功であるはずなのに、プロセスの中学受験で失敗すると絶望するというようなパターンである。顔が赤いのを気にする赤面恐怖の人も、人に好かれるというのが目的なのに、プロセスである赤面を治さないと、人前に出られないようなことが起こる。目的がはっきりしていれば顔が赤いのを治さなくても話術を磨く、笑顔を絶やさないなどで人に好かれることは十分可能だ。リスクヘッジのない入試改革 それ以上に問題なのは、すべての大学の二次試験の評価を変えろということである。具体的には、面接や小論文、志望動機書、学校の調査書などを加味しろというものだ。要するに人物像などを重視したAO(アドミッションズ・オフィス)入試を行えというものである。 私が最も危惧するところは、「答申」や「最終報告」を見る限り、例外を認めないという姿勢である。国に、各大学のアドミッション・ポリシー(求める学生像)を作成するような法令を作れというと同時に、財政的措置を明言している。 現在、日本には昔のような国立大学は存在しない。国立大学法人という独立法人なので、国からの補助金が出ないと、教職員の給与も払えないなどということが生じてしまう。文面上は入試を工夫した大学に財政的措置を講じるということになっているが、大学予算が増えないのであれば、逆に従来型学力偏重の入試を行わなければ予算が減らされることになる。おそらくほとんどの大学がAO入試化されることだろう。 しかし、このような入試改革が成功すればいいが、むしろ学力低下やそのほかの問題が生じた際のリスクヘッジがない。 「ゆとり教育」の際は塾通いや中学受験をする人がむしろ増えることで、その弊害を受けない人も相当数いた(その代わり一般の公立学校に通う生徒たちと学力格差が生じたが)。しかし、今回の改革では「従来型」の学力は高いが、表現力、面接力などに劣る生徒の逃げ場がないのだ。 さて、今回の入試改革の基本的な哲学は、これまでの受け身の学びから、主体的な学びを重視しようというものであるが、これは、「ゆとり」派の巻き返しであると私は見ている。 実は、2002年度に始まったゆとり教育は、カリキュラムの削減だけを行ったものではなかった。総合的な学習の時間の導入で、教科学習より科目横断的な授業を重視する方向に舵をきっているし、またそれまでも続いている観点別評価を強化する形で、ペーパーテストによる評価の比重を下げた。受験生に問題と解答用紙を配る担当者=2018年1月、大阪府吹田市の大阪大学吹田キャンパス(柿平博文博文) この観点別評価というのは、02年のゆとり教育の前の学習指導要領(92-94年施行)から本格的に採用されたものだ。これは、成績を評価する際に、ペーパーテスト学力(これが概ね「知識・理解」という観点にあたる)だけでなく、「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」などの観点から多面的に行うというものである。 そのため、中間試験や期末試験で常に満点をとっても、授業中に意欲がないとか態度が悪いとみなされたり、宿題などの書き方や図示の方法が悪かったり、実験室での技能がまずいとみなされると5段階評価で3程度しか得られないことがあり得るようになった。 これは、メンタルヘルスに悪いようだ。授業中に常に教師の目を気にしないといけないのが大きなストレスになっているようで、この観点別評価が採用された93年ごろから、生徒間暴力も、学校内暴力も、不登校も激増している。しかも、小学校や高校ではそれほど増えていないのに、内申書が重視される中学校で顕著に増えているのだ。 さらにいうと、入試の公平性も犠牲にされる。もちろん、改革会議の安西祐一郎座長が言うように、すでに大学入試を受ける前に家庭の所得格差が学歴格差の要因になっているのだから、公平性は多少犠牲になっていいという考え方もあるだろう。 ただ、大学入試レベルの面接や小論文であれば、対策塾のようなものに行ったほうが圧倒的に有利で、カリキュラムが早く終わる6年一貫校のほうが対策に時間を取りやすい。要は、社会的階層による学歴格差や地方と都会の学歴格差が現在以上に広がる危険は小さくない。 こうした様々な危険性があるにもかかわらず、リスクヘッジもないまま、すべての大学に適応されるような実験的入試改革を、このままの形で進めていいとはとても思えないのだ。

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    中学受験「難関私大附属中」の倍率が軒並み上昇している理由

    ている。文科省は次世代の日本人に求められる力を「自ら課題を見出し問題を解決する力」とし、高校・大学の教育課程を全面的に見直す。その一環として、現行のマークシート主体のセンター試験が廃止され、新たに「大学入試共通テスト」が導入される。これまでにはなかった記述式のテストが国数で導入され、英語に関しては「聞く」「読む」に加え「話す」「書く」の4技能評価となり、試験の外部委託も予定されている。 2年後に迫ったこの改革にあたって今、“中学受験”に注目が集まっている。中高一貫校、なかでも難関私大の附属中学校の受験倍率はここ数年、全体的に大きく上昇している。NHKおはよう日本でも取り上げられた中学受験塾を舞台にした漫画作品『二月の勝者-絶対合格の教室-』(小学館ビッグコミックスピリッツ連載)の作者で漫画家の高瀬志帆氏にその理由を聞いた。* * *2017年、慶応義塾中等部に合格した女優の芦田愛菜──中学受験がひと際、熱を帯びてきているように見えます。高瀬:「大学受験」と聞くと遠い未来に感じるかも知れませんが、現小6生はこの新テスト導入後の世代。決して遠い未来の話ではないのです。既に新テストの記述式問題のモデル問題が公開されており、公立高校でプレテストを実施したところ、ある生徒は「今の学校の授業だけではこの問題は解けない」と。 高校の3年間だけで、果たしてこの新テストに対策がしきれるのか、という不安に対して、すでに多くの私立中学は、中高一貫の6年間でこの新テストに準備することを表明しています。変革への不安と、一貫教育への期待から、注目が高まっているのではないでしょうか。──中高一貫校は増加の一途です。高瀬:ただ、高校募集をやめた学校が増加しています。いわゆる“御三家”も、高校から入れるのは男女6校中開成の1校のみです。私立だけでなく、公立の中高一貫校も増加しており、首都圏に22校あります。親が高校から通っていた母校が、今は中高一貫になっていて高校受験できない、というケースは意外と多いんじゃないでしょうか。親の世代が受験した時代と較べて、選択肢は減っていると思います。──難関私大の附属中学校の倍率が大きく上昇しています。平均すると4倍から7倍の狭き門と言われています。高瀬:2015年、文科省は定員を上回る私大への補助金カットの方針を打ち出しました。首都圏に学生が集中している状況を打開するためのものです。2016年から段階的に定員超過数が厳格化されてきており、特に難関私立大学の合格者数はすでに大幅に削減されています。 早稲田・明治・青学に至っては一昨年(2016年)と前年(2017年)で各2000人超の削減。難関私大全体で1万人超の削減となっています。この合格者数減を受け、大学受験を避け、附属中から入る動きが加速し、その結果難関私学附属校は軒並み倍率が上昇しています。実際に、厳格化が開始された2016年と較べて今年2018年の倍率は、慶應義塾中等部は6.5倍から7.3倍に上昇。明治大学付属中野八王子中学に至っては2.3倍から4.3倍に急上昇しています。難関私大附属中学全体で、平均して1ポイントから1.5ポイント上昇しているのです。──『二月の勝者』の舞台は中学受験塾ですね。高瀬:中学受験は、義務教育だけで合格するのはかなり困難です。ほとんどの子どもは4年生から、遅くとも6年生の春から中学受験塾に通います。本書で中学受験塾を舞台にしたのは、中学受験を親子のドラマとしてだけ描くのではなく、それを主に支える塾業界、その職業にスポットを当てたかったからです。 親が子どもの将来を真剣に考えた結果として中学受験を選んだ事情。そして子どもにとっても自分ごとになってからの真剣な気持ちや努力。それを支える塾。世間一般のイメージとは違い、大人のエゴだけではない、“二月の勝者”となるためのそれぞれの真剣な闘いがそこにあります。最近の中学受験塾の実態──最近の中学受験塾の実態とは?高瀬:本書は、大手受験塾を辞め、中堅受験塾の校長として赴任した黒木蔵人が、「親はスポンサー」「金脈」と受験のタブーを次々と露わにしていきます。一方で、<受験当日に公式を忘れた他校の生徒><偏差値40の子供><塾を辞めたい生徒>などを結果的に救い、「全員第一志望合格」を公約します。東京都千代田区にある明治大学駿河台キャンパスのリバティタワー。附属中学は大学の合格者数削減の影響を大きく受けている(春名中撮影) エンターテインメントとして所々に過激な表現はありますが、子どもを“二月の勝者”とするために塾では何が行われているのか。例えば、作品の冒頭で受験当日の早朝に、塾講師たちが志望校の門前に集合し、雪をかぶって塾生を応援するシーンがあります。一見やり過ぎで馬鹿馬鹿しく見えるかも知れませんが、実際に塾生達に話を聞くと、応援が嬉しかったり、緊張がほぐれて平常心を取り戻せたりと、明確な効果が出ているんですね。 必ずしもいわゆるガリ勉タイプだけが受験向きという訳でもありません。サッカーなどチームスポーツを続けてきた子どもは、競争意識や、目的に向かってやるべきことを組み立てる経験値が高く、これは中学受験に生かせることがあります。ピアノをずっとやっていた子どもは、長時間椅子に座って集中する習慣が身についています。こういった子どもの個性は、受験勉強の進め方や、モチベーションのスイッチが入るタイミングに大きく影響します。受験を切っ掛けにあらためて子どもと向き合うことになる親はとても多いです。 また、中学受験塾の授業というと、異常な緊張感の中で黙々と、画一的な詰め込み勉強をしている印象があるかもしれませんが、トップクラスの講師の授業ほど、授業中に笑いが起きたり、活発に生徒が発言していたりします。義務教育と違って塾講師は評価によって待遇が変わります。彼らは小学生を集中して学ばせることに関して、プロなのです。『二月の勝者』には長期にわたって塾や講師、保護者等に取材してわかったこういった実態が沢山詰まっています。──今後、中学受験は更に加熱していくのでしょうか。高瀬:本書の裏テーマは「教育格差」です。大学受験改革を筆頭に、今、子どもたちは変革の波の真っ只中にいます。一方で、中学受験というチャンスを持った子ども、そうではない子ども、かなり格差があります。果たして、子どもを取り巻く環境はこれでいいのか? 世の中はこれでいいのか? 今の子どもたちの未来は? 今の子どもを取り巻く環境や事情、それを更に取り巻く大人たちの事情をリアルに描くことで、読んだ後に少し立ち止まって考えるきっかけになれば嬉しいです。関連記事■ 複数の漢字を組み合わせて二字熟語を導く名門中学受験の難問■ 漢字の成り立ちや書き順を問うパズルのような中学入試の難問■ 二字熟語は中学受験で最も出題が多い そんな問題を解いて!■ 校舎7割閉鎖の代ゼミ SAPIXを傘下に収めて少数精鋭路線に■ 中学受験激化の背景には「ゆとり教育」の導入があった

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    センター試験 国語の問題を直木賞著者が解いた結果…

    「私の小説がセンター試験に使われたというので解いてみたのですが、やっぱり難しかったですね……」 そう語るのは、直木賞作家の井上荒野氏だ。1月13日に行なわれた大学入試センター試験・国語の問題で、井上氏の小説『キュウリいろいろ』が採用されたので、井上氏自ら「解いてみた」というのだ。井上氏が続ける。「どうにか全問正解だったので良かったです(笑い)。小説の読解に正解はないと考えていますが、今回の問題は間違いの選択肢に『明らかにこんなことは書かれていない』という記述が含まれていて、消去法で選べるようになっていた気がします。 ただ、『問6』の小説のテクニックについての設問では、たぶん多くの小説家が無意識にやっていることの理由を厳密に問うていました。受験生には相当難しかったのではないかと思います」 各大学・高校の入試も含めれば、毎年、数多くの文学作品が出題文に採用されるが、なかには作品の著者でさえ“正解”に辿り着けないケースもある。大学入試センター試験で、受験番号と照らし合わせて会場の教室を確認する受験生=2018年1月13日、東京・本郷の東京大学 日本身体文化研究所代表理事で、武蔵野美術大学講師の矢田部英正氏は、「毎年3~5校の問題に採用されていますが、6割くらいしか正解できなかったことがあった」と笑う。「東大や早稲田・慶應ではなくて、高校入試の問題が意外と難しい。“筆者の意図”を問う選択問題で、僕の意図とは全く違うことが“正解”になっていることもある。僕の文章は日本文化に関するテーマがよく入試に採用されます。『日本の歴史上こういうことがありました』という事実を淡々と書いた文章が、『だから日本文化は素晴らしい』という趣旨の解答になっていると、それは“出題者の解釈”であって“筆者の意図”ではない。 学生時代はテストが苦手だったから、そういう問題に出くわすと、“出題者がそう思っただけなんだ”と、少し安心したりもします(笑い)」 受験生が必死で辿り着こうとする“正解”は、必ずしも正しいとは限らない。関連記事■ 山本美月 『PRウーマン』初日舞台挨拶で見せたスラリとした脚■ 日本の男女がどんな場所で「営み」を行なってきたかを調べた書■ ディーン・フジオカが萬田久子から詐欺の才能を認められる■ 結婚してさらに色香を増した井上和香をスペシャル撮りおろし■ 琵琶湖はなぜ10個の市に分割された? 霞ヶ浦は9個

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    「バカ量産」の教育無償化は必要か

    安倍政権が選挙公約に掲げた教育無償化の議論がスタートした。高等教育に加え、幼児教育の無償化も議論の対象となったが、聞こえのよいバラマキ政策には賛否が渦巻く。向学心のある学生ならともかく、誰もがタダで大学まで行ける制度など本当に必要なのか。「バカ量産」につながりかねない制度の是非を問う。

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    【特別寄稿】高等教育の無償化は「天下の愚策」である

    集散が大きな話題を集め、政策論争はいつの間にか忘れ去られてしまいました。衆院の解散を表明した会見で、教育の無償化に言及する安倍晋三首相=2017年9月、首相官邸(宮崎瑞穂撮影) しかし、そもそもの解散の理由が消費税増税分の教育目的への転換とされ、自民党が公約に「保育・教育の無償化」を掲げた上、ここにきて安倍総理が私立高校の無償化の検討を表明しました。また、その他の政党も軒並み教育を重視する姿勢を見せており、教育の無償化は本来、今回の総選挙でも大きな論点であったはずです。今回はその是非について論じたいと思います。 まず、極めて当然のことですが、仮に何のコストを払うことなく教育を無償化できるなら、それに反対する人はいません。しかし、そんな魔法のような話はないわけで、教育無償化に限らず、「〇〇無償化」は、無償化といいながらも、もちろんそのコストは、税金から支払われます。 したがって「教育無償化」の是非は、教育費を無償にすべきかどうかというよりはむしろ、教育費を、教育を受ける本人ではなく、「税金」という形で社会全体が負担すべきか否かで決せられるということになります。 現在、日本においては、義務教育である公立の小学校、中学校は無償化されています。日本人の誰もが共通の基本的な教育を受けることで、教育を受けた本人の能力が高まって利益を受けるだけでなく、国民全体の能力が高まって社会全体が利益を受けることになるので、これに異論のある人はほとんどいないものと思います。 一方で、例えば私が、ロシアのすてきな方とお話しするために始めたロシア語の勉強も、先生に教わっている以上教育と言えなくはないのですが、これによって利益を受けるのは恐らく私1人であります。私が奇跡的に上達したロシア語を駆使してロシアの地方政府とよほど大きな話をまとめでもしない限り、その費用は私が負担すべきだということに異論がある人もまたほとんどいないものと思います。 つまり、教育といってもそれを受ける時期、対象、内容がさまざまにあるわけで、教育の無償化は、義務教育から個人的な語学教育までのさまざまな教育について、どの範囲でどう無償化するべきかを考えなければならないことになります。無償化すべき教育とは? そこで、議論を整理するために、少々勝手に、教育を分類してみます。 まず、主に時期を中心として、下記のように分けることは、ご了承いただけるのではないかと思います(通常(4)(5)をまとめて高等教育としますが、議論のために分けました)。(1)幼児教育 (2)義務教育 (3)高校教育 (4)大学教育 (5)大学院以上の教育 (6)社会人教育  対象については、ざっと、大部分の人(全員)が受ける教育と、一部の人しか受けない教育に分類します。 内容については、分類が難しいので、これも非常にざっと、公的教育と私的教育に分けさせていただこうと思います。公的教育はその教育主体がどうあれ、内容の主要な部分が公定されているもの、私的教育はその教育主体がどうあれ、民間が自由に内容を決めているもの、という分類です。 これを図示すると、以下のようになります。  先ほど述べた通り、義務教育のように(1)全員が受けるもの、(2)内容が公的に決まっているものであり、かつそれによって(3)社会全体が利益を得るもの、については、無償であること、すなわち社会全体でその費用を負担することに大きな問題はないものと思われます。 したがって、教育の無償化を進めるのであれば基本的には、義務教育から始まって順次(1)一部の人が受けるもの、(2)内容が私的に決まっているもの、にその範囲を広げることになり、おおむね図の①、②、③、④、⑤の線の順に議論がなされることになるのだろうと思います。もちろんそれぞれの丸の位置や順番については別の意見もありうると思います。 また、①~⑤の順番は、上記の(1)全員が受けるもの、(2)内容が公的に決まっているもの、という基準に依拠していますが、当然その過程では(3)社会全体が利益を得るものという基準が満たされているか否かも問題になりますし、例えば大学院教育などについては、(1)(2)の基準では優先順位が低いけれど、技術革新の時代において社会全体に与える利益が大きいから優先的に無償化する等の議論はありうるものと思います。 ところでここまでは、教育の無償化を順次進めるという前提で議論してきましたが、そもそも無償化を進めるべきか否かを考えるにあたって、非常に重要な問題である、財源についての議論を避けることはできません。 上述の通り、教育無償化というのは結局税金を徴収することによって社会全体でその費用を負担するということです。日本の税収(国税)は毎年ほぼ50兆円で変わらず増える見込みはありませんから、教育を無償化するには、(1)他の用途に使われていた税金を教育無償化に使う、(2)増税する、の二つに一つしかありません。例えば、自民党で「こども保険」を創設するという議論がありますが、これは実質的に増税と同じです。結局誰が負担するのか (1)の選択肢を選んだ場合は、「他の用途」が医療・福祉の社会保障なのか、公共事業なのか、公債費、つまり財政健全化のための費用なのか、はたまた防衛費なのかはそれぞれでしょうが、いずれにせよ教育無償化を行うことによってこれらの用途にお金を使うことはできなくなります。(iStock) したがって本当にその教育無償化が、他の用途にお金を使うよりも社会全体に利益をもたらすのか、上記の①~⑤の無償化の段階ごとに、議論が必要だということになります。 (2)の選択肢を選んだ場合は、すでに税金が使われていた他の用途が削られることはありませんが、増税されなければ民間の個人もしくは企業がそれぞれに使っていたお金を教育無償化に使うわけですので、その教育の無償化は、民間でそれぞれにお金を使うよりも社会全体に利益をもたらすのか、やはり上記の①~⑤の無償化の段階ごとに、議論が必要だということになります。 さらに教育無償化には、もう一つ忘れてはならない問題があります。それは無償化をすることそれ自体によって、上述の議論の前提がすべて変わってしまう可能性があるということです。 かつて日本には、「教育無償化」ならぬ「老人医療費無料」という政策がありました。1973年~1983年、高度成長によって毎年伸びる税収を背景に、当時の田中角栄内閣が70歳以上の医療費を無料にしたのです。もちろん、「経済的事情に関わらず、高齢者は必要な医療を全て無償で受けられる」ということそれ自体は良いことで、誰も文句はありませんでした。 しかし、「無償」の効果は絶大でした。何せ「ただ」です。70歳以上の高齢者は、それこそ擦り傷一つ、咳(せき)一つどころか、「日々の健康診断」という感覚で病院を受診しました。病院が高齢者のサロンとなり、高齢者同士で「〇〇さん今日病院に来ないね、どうしたんだい?」「ああ、今日は風邪をひいて家で寝てるんだ」という会話が交わされているという冗談が、リアリティーを持って語られました。そして医師もまた、相手にとって負担がないということでどんどん検査をし、薬を処方し、新しい診療所や病院を開設して増え続ける高齢者の需要に応えました。 結果は、高齢者医療費の急激な増大とそれによる保険財政の圧迫であり、これに耐えられなくなることを危惧した大蔵省(現財務省)が主導して、老人医療費無料という政策は、わずか10年で幕を閉じることとなったのです。無償化が引き起こすもの つまり、老人医療費無料、教育の無償化に限らず、「〇〇無償化」という政策は、それ自体によって、それまで存在していなかった需要、しかも本来なら必要とは言えなかった需要を引き起こしてしまう可能性があるのです。 主に日本維新の会が提唱している高等教育(大学)無償化を例にとって考えましょう。現在日本の大学進学率は54%で、その無償化に必要な額は4兆円程と言われています。(iStock) しかし、無償となれば、この大学進学率が80%近くまで跳ね上がることは容易に予想されます。その過程で現在の大学のみならず、さまざまな事業者が高等教育に参入し、現在大学に行っていない学生たちのニーズに応えようとするでしょう。大学進学率54%の現在でさえ、率直に言って、九九やアルファベットを授業で教えている大学は存在します。高等教育無償化によって雨後のたけのこのように出てくる学校の相応の割合が、「高等教育」とは名ばかりのモラトリアム享受機関になることもまた、相当程度の確率で予想されます。 大学教育の無償化は、それらのさまざまな事象を引き起こすことによって、当初の(1)全員が受けるものか、(2)内容が公的に決まっているものか、(3)社会全体が利益を得るものか、という議論を、全く変えてしまいかねないのです。そして、これらの変化によって、大学教育無償化の費用は、最終的には当初の4兆円を大きく超え、10兆円近くに跳ね上がるだろうと、すでにいくつかの試算で予想されています。 以上教育の無償化は、下記のような困難な多元方程式を解かなければならない、極めて複雑な問題だといえます。A 幼児教育、高校教育、大学教育、大学院教育、社会人教育のどの教育を無償化するのかB その教育の無償化は(1)全員が受けるものか(2)内容が公的に決まっているものか(3)社会全体が利益を得るものかC その教育の無償化の財源はどうやって確保するのか、その財源を「他の用途」に使うよりも、その教育無償化は、より多くの利益を社会にもたらすのかD 仮にA~Cがクリアされたとしても、教育の無償化それ自体によって、議論の前提が変わってしまうのではないか 教育無償化の議論の土台ということで、結論ではなく、論点の抽出・整理を行いましたが、各党においてはぜひ、漠然と聞こえがよい「教育無償化」を打ち出すのではなく(それだけなら誰にとってもよく聞こえるのは当然です)、きちんと、詳細に、上記のような議論をしていただきたいと思います。 それこそが、教育無償化という政策を行うそもそもの理由である「次世代のために適切な政策をする」ということであるのですから。

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    「奨学金の返済地獄」をなくすために必要な議論は何か

    佐藤智(教育ライター) 先の総選挙で自民党が勝利した。自民・公明両党は、幼児教育の無償化とともに私立高校の授業料無償化を実現したいと掲げ、注目が集まっている。消費税増税の文脈と一緒に語られることも多いため、「財源の確保はどうするのか」という問題に目が行きがちになってしまい、本質的な教育無償化の議論にまで至らないことも少なくない。 そこで今回は、「高校の授業料無償化」がどんな意味を持つのかに焦点を当てて考えたい。(iStock) まずは、一時期騒がれていた高校無償化が、現在ではどのような制度になっているのか、少しおさらいをしてみよう。 高校無償化は、2014年から「高等学校等就学支援金制度」という新制度となった。この制度は、「高校の授業料に充てるための就学支援金を支給することにより、高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の実質的な機会均等に寄与することを目的」としている。 現在は、国公私立問わず一定の収入額未満(市町村民税所得割額)が30万4200円(年収約910万円未満)の世帯の生徒に対して、授業料を支援している。具体的には、世帯収入590万~910万円未満の世帯には年11万8800円(月9900円分)とし、250万円未満世帯で私立高校に通う生徒にはその2・5倍(年29万7000円)を支援するなど、所得に応じて支給額を決定しているのだ。 受給額の年額11万8800円は、公立高校の授業料全額分が免除されている金額だ。つまり、私立学校に通う生徒に対しても低所得世帯・中間所得世帯に対しては公立高校と同額のサポートがなされており、それを上回る分を家庭から支出することとなっている。 私立学校の授業料には学校によって大きなひらきがある上に、施設費や制服費用、修学旅行の旅行積み立て費用なども高額なことが少なくない。また、これは私立学校、公立学校を問わないが、生徒が主体的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」型の授業の導入が進み、情報通信技術(ICT)関連の購入費用などプラスの負荷が家庭にかかることも増えている。 高校進学率のさらなる上昇や、金銭面を理由とする高校中退者の減少がみられた点で、施策は一定の効果があったと考えられるものの、学校教育費の家庭負担が一切なくなったわけではないのだ。地域による機会不均衡 国のサポートだけでは、私立学校の授業料を賄うことができない世帯も少なくないだろう。例えば、年間25万円の授業料の場合には、11万8800円を差し引いた13万1200円は家庭から支出することになるからだ。 そこで、各都道府県でも私立学校の授業料無償化が検討されている。 例えば、東京都では、小池百合子知事が教育機会均等化の実現に向けて、私立高校授業料の実質無償化を掲げている。この方針を受け、2017年度から都内在住の私立高校生を対象に実質無償化が進められている。衆院選で第一声を行う、希望の党の小池百合子代表=2017年9月、東京都豊島区(宮崎瑞穂撮影) しかしながら、これは東京都の施策であるため、東京都の私立高校に通っていたとしても都内在住でなければ支給はされない。東京都の私立高校へは神奈川県や千葉県、埼玉県など近隣の都道府県に住む生徒も通っている。そのため、住まいがどこかで授業料への支援が異なってくる。 また、この東京都の制度においても所得制限が設けられており、世帯年収760万円未満を対象とするとされている。対象となるのは、約5万1000人。国の高等学校等就学支援金制度が年額11万8800円であるのに対して、東京都の制度では年間私立授業料の平均額44万2000円を上限に支援すると定めている。 地域の人材育成は、各自治体において最重要事項の一つだ。その意味で、各地域が課題意識を持ち、それぞれの教育的施策を講じることは意義深いといえる。一方で、税収が少ない自治体と多い自治体とで、格差が大きくなるという見方もできるだろう。子供の教育環境を考える上で、保護者が自治体情報をつぶさに収集することが求められる時代へと進んでいくと言えそうだ。 私立学校も含めた高校の授業料無償化が整備され、すべての子供が平等に教育の機会を得られる社会になりつつあると感じている。最近では、高卒者の就職率もある程度持ち直してきており、高校教育を保証することである程度の水準を満たすことはできるのではないかと思う。 しかし、大多数の大企業の新卒採用では、大卒者がターゲットとされている。さらに、多くの場合、専門職となるためには大学に進学することが必要となる。現在の大学進学率は、男子が52・1%、女子が56・9%である(総務省統計局「日本の統計2017」)。半数以上の子供たちが大学に進学する時代において、「高校の授業料さえ保証すれば十分」といえるだろうか。支援の多様化も必要 政府は、2020年までの重点項目として「理工系人材育成戦略」を挙げるなど、大学などの高等教育機関が人材育成において果たすべき役割がますます大きくなると予測している。(iStock) つまり、大学進学への道をいかにサポートするのか、今後さらに議論を深めていく必要がある。 「奨学金制度があるではないか」という指摘もあるかもしれない。しかし、テレビのニュース番組でもたびたび取り上げられるが、既存の制度だけでは卒業後に「奨学金の返済地獄」に陥る人も少なからずいる。大学に行きたい一心で奨学金を借り、社会人になり返済に困窮する。 現状から考えると、大学などの高等教育機関も高校の授業料無償化と地続きで変革を進めていくことが求められるのではないだろうか。 もちろん、現行の制度でも、返済の必要がない奨学金や支援制度が存在している。独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)が行う「予約採用奨学金」が世帯収入の基準を満たし、成績ボーダーを超える子には給付型の奨学金を用意している。また、民間団体や公的機関が用意する給付型奨学金支援制度もある。こうした奨学金を複数活用することで、学費・生活費を完全にまかなえる場合もある。さらに、給費生・特待生・奨学生入試を整備している大学もある。 ある一定の学力を収めており、研究・学習意欲があることが大前提とはなるが、子供たちにこうした大学への切符を準備していくことは今後さらに重要だ。 国の支援だけを期待するのではなく、「優秀な人材は地域で作る」というコンセプトを掲げて都道府県の育成事業を推進してもよいだろうし、企業としてインターン経験を積ませながら大学の学費を支援するところが出てきてもよいだろう。支援は必ずしも一元化する必要はなく、あらゆる側面から子供の可能性を伸ばせる社会になっていくことが求められる。 また、保護者や学校の先生はこうした多様な制度を知ることで、子供に選択肢を提供していくことも役割の一つになるだろう。たとえ今、何らかの理由で金銭的な弱者であったとしても、情報弱者にならなければ道は拓ける、そんな未来に期待して、教育の無償化への歩みを見守っていきたい。

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    おバカが集まる「底辺高校」まで授業料をタダにする道理はない

    森口朗(教育評論家) 先の総選挙で大勝した安倍政権は、消費税を10%に上げて教育の無償化を実施するという政策を打ち出している。消費税増税については、リーマンショック級の経済的打撃がないことが条件とされており、緊迫する北朝鮮情勢を勘案すれば、いまだに不透明である。そこで、本稿では財源問題とは一応分離して「教育の無償化」の是非を考えたい。 憲法は義務教育の無償化をうたっており、現在、小中学校教育が義務教育とされているので「教育の無償化」政策のターゲットは、幼児教育、高校教育および大学(大学院)教育であるが、それぞれにまったく異なる問題をはらんでおり、これらを一律に論じるのは乱暴に過ぎる。そこで、3つの無償化について順に、解決すべき問題点と是非を考察したい。 まず、幼児教育の無償化については、原則的には推進すべきである。なぜなら、世界の各国が6~7歳から義務教育と定めた近代以降の教育学の進展により、早期教育を社会の構成メンバー全員に施すことは、その社会の知的水準を上げるだけでなく、治安維持効果も持つことが分かっているからだ。すなわち適切な幼児教育を受けた者は成人した後、経済的成功を獲得する確率が高いだけでなく、犯罪者になる確率が低いことが実験で明らかになっているのだ。グローバル化が進む中で、世界一ともいえるわが国の治安を維持することは、全ての日本国民にとって有益である。また、高等教育と異なり、幼児教育に適さない者は存在しないだろうから、無償化の恩恵を世代全員が受けることが可能である。その点でも、幼児教育の無償化は、推進すべき政策と言えるだろう。 しかし、その政策を推進するためには、幼児教育が、文部科学省が管轄する幼稚園と、厚生労働省が管轄する保育園に分断されているという問題を解決する必要がある。両者は、入園できる年齢も異なれば、幼児を預かる時間帯も異なる。そのために、一人当たりにかかる費用も異なるし、第一、保育園の機能は、実態はともかく、一次的には乳幼児を預かるという点であって、教育は二次的なものに位置づけられている(だから、厚生労働省の所管なのだが)。さらには、幼稚園教諭免許と保育士免許が別という問題も無視はできないだろう。そういった点を解決せずに、幼児教育の無償化を推進すれば、現場に無用な混乱をもたらし、森友学園事件のような公金の不正受給問題の温床となるだろう。(iStock) 次に高校の無償化について考察する。これは、既に日本維新の会が牛耳る大阪で実施済みの政策なので、政府がそれを全国に広げ、推進しても混乱は少ないだろう。しかし、高校教育を無償化すべきか否かについては大いに疑問がある。これは大学教育の無償化についても同様、あるいはそれ以上に深刻な問題であるが、中等教育や高等教育を無償化する際には、経済的弱者から集めた税金を経済的強者に配布するという側面があることを忘れてはならない。中卒で働く者と高校に進学する者を比較した場合、通常、前者の方が経済的に恵まれていない。高卒で働く者と大学に進学する者を比較した場合も同様である。弱者の税金を強者に分配する愚 これは、財源を消費税に求めても、教育国債に求めても、小泉進次郎氏が主張した「子ども保険」なるものに求めても、まったく変わらない。所得の再分配は政府機能の一部として認められているが、経済的弱者の税金を経済的強者に分配するのであれば、尋常ではない正当性が必要だ。私は、これを正当化するのは「日本経済全体の向上に資する」以外にはないと考えている。2017年3月、子育て支援などの財源を確保する「こども保険」の創設の提言を発表する、自民党の小泉進次郎衆院議員(中央)ら 読者諸賢は、現在の高校教育、とりわけ底辺高校の教育水準をご存じだろうか? 少なくとも数学や英語については、中学校の教育をマスターできなかった者に対して、問題をよりシンプルにして解かせている。つまり、中学校課題の再教育がその実態なのだ。このような教育を中卒で働く者が納めた税金を費やしてまで無償にする必要があるのか? 断じて「否」である。 ただし、高校教育については「義務教育にする」という手法が残されている。それならば、経済的弱者の税金を経済的強者に投入する不正義の問題はおきない。前期中等教育(中学)だけでなく、後期中等教育(高校)までを義務教育期間にするのは世界的潮流であるし、IT化が進み訓練された労働者を必要とする現代社会にとっても適合する。ただ、高校を義務教育にする場合には、左派の論者たちが、高校入試の廃止や、誰でも望む高校に進学できるように制度改正を求めてくることは必至だ。万一、その声に負けて、中学の延長線のような高校を多数派にしたら、日本人の知的水準は地に落ちてしまうだろう。事実、共産党に牛耳られた京都府において、これに類する政策を実施して、京都の府立高校のレベルが急落した歴史がある。 高校の無償化は、①高校教育を義務教育化し、かつ②現在同様の学力に応じた学校に進学するシステムを維持した場合にだけ、肯定できる政策だろう。 このように考えていくと、大学、あるいは大学院も含めた無償化は決して認めてはならない政策だ。実のところ、底辺大学の教育も先に紹介した底辺高校の教育と大差ないことになっている。事実上の無試験で入学できる大学も、全国に山のようにある。この現実をそのままに、大学教育を無償化したら、「高い授業料を払っているのだから勉強しよう」という、最後のインセンティブまで吹き飛ぶだろう。 安倍総理が言う「どのような家庭に育っても、自分が希望する進路に進める」社会を構築することは極めて重要である。しかし、そのための政策は、現在、政府・文部科学省が着手しはじめた給付型奨学金(返済不要の奨学金)制度を、学力優秀な者に限定して一層拡充することであって、大学教育を受けるに値しない低学力の者の4年間の居場所を、経済的弱者から集めた税金で提供する「大学教育の無償化」ではないのである。

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    「分数もできない」大学生をまだ増やすつもりなのか

    党の選挙公約として目立った。政権与党である自民党は、人づくり革命の一環として、増税した消費税の大半を教育無償化に充てるという方針を打ち出した。基本的には3~5歳児の幼児教育(保育園・幼稚園)の費用を無償化する、所得が低い層での高等教育の無償化を行うとしている。 これに対応するかのように各党も選挙公約に教育無償化を打ち出した。野党第一党に躍り出た立憲民主党は、「児童手当、高校等授業料無償化、所得制限の廃止」を打ち出している。希望の党は、「幼児保育・教育の無償化、大学における給付型奨学金の大幅拡充により、格差の連鎖を断ち切る」と宣言。維新の会は、橋下徹氏が大学など高等教育まですべて無償化を掲げ、現在もこの政策を強調している。 確かに、ヨーロッパ諸国は消費税が高い代わりに高等教育を含め、教育無償が原則だ。そして、私の聞く範囲でも、格差が広がり、とくに地方では、貧困のために大学進学をあきらめるということは現実にあるようだ。知人の地方新聞の社長に聞いた話だが、世帯年収300万円くらいでも、親と同居していると、日本はアメリカと違って、公的医療保険が充実しているし、デフレ経済もあいまって、それほど生活に困らないどころか、軽自動車とはいえ、夫婦で自動車を2台所有などということは当たり前にある。 ところが、子供が大学に行きたいという段になって初めて、貧困を自覚する。地元の国立大学の授業料でも、今は負担が重い。4年で授業料と入学金だけで240万円以上かかるのだ。ましてや私立となると一層の負担増になる。国立であったとしても東京の大学など夢の夢という世帯も多いそうだ。※iStock 私の知り合いのお金持ちが、ある九州の名門高校で講演をした際に、生徒たちの真摯な聞きぶりに感激して、学校に寄付を申し出たそうだ。すると、校長は「この高校からも東大を狙える子なのに、東京で受験する旅費がないために泣く泣く九州大学に進学する子が毎年何人もいます。その子たちの旅費を何年分か寄付していただけませんか」という話を聞いて驚いたそうだ。その使途で使ってもらうために500万円寄付したそうだ。 授業料の無償化は貧困世帯にとって福音になるのは確かだが、地方の人にとっては、受験の旅費のような、都会の人には想像できないような出費も大きいのである。格差の連鎖を断ち切るという点では、少子化なのに、むしろ定員を増やしてきた大学の場合、実質、無試験状態という学校が当たり前にある。 金沢工業大学のように大学に入ってから徹底的に鍛えるということで、「偏差値30台から(今はこの評判のためにすっかり上がってしまったそうだが)正社員就職率99%」というような例外的な大学を除けば、この手の低学力大学から正社員入社、その後に能力を高めて社会で成功者になるという道は決して開けているとは言えない。 2020年度の入試改革で見送られた大学入学資格試験のようなものを作らないと、分数ができない、まともに読み書きのできない大学生が大量に出現している。 こういう学生に対して、中学校や高校の初期に教えるような内容を教えなおす「リメディアル教育」というものが行われる大学も増えているようだが、大学教育(これまでは教育者というより研究者が教授になる傾向が強かった、いや今でも強い)を抜本的に変えるか、GRE(アメリカやカナダの大学院へ進学するのに必要な共通試験)のような大学卒業時の学力テストを導入するか、あるいは高校教育の充実のため(今は落第や留年をさせる高校はほとんどない)大学入学資格試験を作るなどを検討しないと、教育無償化が実現しても大学卒の肩書が得られるだけで、格差の連鎖が打ち切られる効果は、さほど期待できないだろう。教育バウチャーが有効 貧困層が高等教育機会に恵まれない理由は、アメリカのように一流大学の授業料が高いこと以上に、公教育でエリート教育をするのがおかしいという左翼的な教育批判のために名門公立高校の多くが解体され、一流大学に入るためのエリート教育が名門の私立中高一貫校や塾や予備校などの民間教育(東京ではその両方に通わないと東大に入れないとさえ言われる)に依存してきたことがあるだろう。名門中高一貫校に入るためには、小学校4年生くらいからの塾通いが必要だから貧困層どころか共稼ぎ世帯すら排除されることが多い。東京などで公立学校が復活してきたことは望ましいことだが、やはり塾や予備校通いの率は高いという。 貧困層でも塾に通えるような教育バウチャー(教育に使用目的を限定したクーポン券)のようなものを用意しないと、格差の連鎖の是正には役立たない可能性は高い。エリートとか医師になるという問題以外に、ゆとり教育だけでなく、少子化による高校入試の実質無試験化や、高等学校における落第・留年を行わない方針などのために低学力者の増加の問題もある。※iStock これらの子供を救っているのも、ほとんどの場合、民間の学習塾なので、それに行く経済的余裕がない家庭は、AI(人工知能)やロボット化で単純労働力の需要が激減が予想される中、再貧困にあえぐ可能性は小さくない。教育バウチャーの実行が難しいなら、せめて低学力児童対象の少人数学級の実施は重要な課題だろう。 経済協力開発機構(OECD)の調査で学力世界トップレベルを続けているフィンランドに視察に行ったことがあるが、クラスの人数は18人という少人数クラスと、学力がそれでも足りなければ、義務教育が終わる年に補習を行い1年留年させるという。それによって学力が低いまま社会に出すことがないようにしているとのことだった。 私自身、福島県のいわき地区で初めての中高一貫校磐城緑陰中学高校のスーパーバイザーを行っているが、公立優位の文化の中で、大学進学実績は悪くないのに、生徒が集まらないため、期せずして1学年18人以下という教育の効果を実感することになった。 東京の私立中学の受験予備校で小学校5年生の子が受けるようなテストで合格者の最低点は400点満点で100点レベル(東京なら偏差値30台だろう)の生徒を引き受けながら、下から二番の子が国立大学に合格した年もあるし、卒業生の4人に1人が慶応大学に現役合格し、慶大現役合格率が首都圏以外でトップになったこともある。それ以上に教師の目が行き届くためか、いじめやメンタルの問題がほとんど起こらない。 無償化以上に金をかけてほしいのは、クラスの小人数化である。格差社会というのは富裕層は昔と比べてはるかに収入が多い、資産が多い社会でもあるということだ。そういう点では、自民党の所得制限の考え方のほうが現実的だ。一方で、給付型奨学金の大幅拡充という希望の党の公約は自民党も検討してほしい。これは塾にも使えるだろうし、私立大学の医学部や法科大学院など授業料が高いためにあきらめる人を減らす効果が大きいからだ。机上の空論ばかりではダメ さて、幼児教育の無償化の問題だが、これも格差社会においては、所得制限を設けたほうがいいと私は考える。基本的に幼児教育の世界で問題になっているのは、保育園の待機児童の問題だろう。無償化もありがたいが、とにかく入れるようにしてくれというのが本音の人が多いだろうし、保育園に入れた人は無償化なのに、入れないための認可を受けていないような保育園に入れなかった人は、負担はこれまで通りというのなら踏んだり蹴ったりだ。 一つの方法としては、幼児教育バウチャーという手もあるだろう。所得制限は設けるものの、幼児に対してバウチャーを設ければ、親の負担が減り、民間の保育業者が増えるだろう。サービスの競争も起こりえる。※iStock 実は、私は本年度から、女医さんを対象にして、中学受験や大学受験に有利な学力をつける保育園型の幼児教育の総合監修を務めている。子供というのはこの時期に、きちんと読み書きや計算を教えるとびっくりするくらい伸びることを実感したが、高めの授業料の設定もあって、保育士さんの給料を高めに設定すると、優秀な保育士さんが簡単に集まることも実感した。 保育士の給与水準を上げれば、保育士が容易に集まり、それによって保育園不足も解消されるなら、無償化以上に、保育園の予算を増やして、スタッフの給与水準を上げるほうが有効だというのが私の実感だ(もちろん、貧困層の人には無償化すべきだろうが)。 日本の教育の質の低下や格差問題の解決はタダにすれば済むものではない。机上の空論ばかり述べる大学教授でなく現場の声を聴いて、きちんとした対策をしてほしい。それによって、税金を有効活用してもらうことで、本当の意味の人づくり革命を期待する。

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    理念も定義もない「教育無償化」は大衆迎合した世紀の愚策

    スト」のかけ声のもと、有権者のあいだで話題になりそうな施策を次々と打ち出している。そのうちのひとつ「教育無償化」について、経営コンサルタントの大前研一氏は異論があるようだ。* * * 東京都の小池百合子知事は、都内外の私立高校に通う都内在住の生徒の授業料を、世帯年収760万円未満の家庭を対象に実質無償化する方針だ。国の制度に加えて都独自の特別奨学金を拡充し、都内の私立高校の平均授業料に相当する年44万2000円を支給するもので、対象となるのは私立高校に通う都内在住の生徒16万7000人の3割にあたる5万1000人。この新制度による上乗せ分として2017年度予算案に事務費を含め80億円を盛り込むという。2017年3月、東京都議会の予算特別委員会に臨む小池百合子都知事(酒巻俊介撮影) だが、これはあまりにもバカげている。なぜなら、国や地方自治体がやらねばならないのは、中学校までの「義務教育」について公平を担保するための経済的援助に限られると思うからだ。高校、ましてや私立高校は個人の選択の結果であり、それに対して都民の税金から特別奨学金を拠出して無償化するというのは、どう考えてもおかしい。 しかも、神奈川県・埼玉県・千葉県から都内の私立高校に通っている生徒に都の特別奨学金は支給されないので、投票資格のある人だけに補助金をバラ撒こう、という露骨さが垣間見える。近隣県も黙っていないだろうから、今後は周辺自治体とのサービス合戦になりかねない。優位性が揺らぐ都立高校への影響も避けられないだろう。 また、世帯年収760万円以上でも、子供2人が私立高校に通っていたらどうなるのか? その場合、世帯年収1520万円未満としなければ理屈に合わないのではないか? そういう矛盾だらけの政策である。 さらに、もし公的なお金(都民の税金)を小池知事の私的な目的(7月の東京都議会議員選挙対策など)のために使うのであれば、犯罪に等しいと思う。 そもそも日本国憲法は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」(第26条第2項)と定めている。義務教育ではない高校を無償にするとは書いてない。すでに公立高校は年収910万円未満の世帯を対象に無償化されているが、憲法を厳密に解釈すれば、高校無償化は憲法違反という見方もできるだろう。 このため日本維新の会は「憲法改正による教育無償化」を提唱し、自民党は大学などの教育に関する財政支援に必要な財源を確保するための「教育国債」を検討している。民進党も教育・子育て政策の財源として「子ども国債」の発行を提案している。与野党そろって教育無償化の大合唱だが、全国の大学・短大の授業料は総額3.1兆円に上り、幼児教育からすべて国が負担すれば5兆円規模に膨らむという試算もある。 つまり教育無償化はそう簡単に財源が確保できる政策ではなく、それを唱えるなら確たる理念が必要だ。それもなしに無償化するのは単なる大衆迎合にほかならない。 政治家や官僚は、そもそも何のための教育なのか、義務教育とは何なのか、ということを全く理解していないと思う。その最大の原因は、義務教育がきちんと定義されていないことである。教育基本法第4条に「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」「国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない」と書いてあるだけだ。 学校教育法も「6歳から15歳まで」という年齢以外に具体的なことは定めていない。日本の場合、なぜ6・3・3・4制なのか、公立と私立はどうあるべきか、といったことがさっぱりわからないのだ。 私は、義務教育とは「社会人として独り立ちし、日本国民としての責任を果たせるようにするための教育」だと思う。とすれば、義務教育は小学校・中学校の9年ではなく、高校を卒業する18歳までの12年に延ばし、中学教育と高校教育は重複も多いから6・5制(小学校6年と中高一貫5年)にする。そして残り1年は、お金の借り方・返し方や家庭の持ち方、運転免許など社会人に不可欠な常識をきっちり教え、晴れて18歳で「成人」になる。そこまでを義務教育にして無償化すべきだと思うのである。関連記事■ 高校授業料無償化と拉致問題「罪は朝鮮学校に」と李英和氏■ 「朝鮮学校の授業料無償化に反対は当然」と櫻井よしこ氏■ 「洗脳教育」進める朝鮮学校授業料をタダにする文科省の異常■ 小池都知事が進めた私立高校の無償化 救われるのは誰か■ 保育園義務教育化を提唱する古市憲寿氏「国が悪者になるべき」

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    教育に投資すると、「私」だけではなく「みんな」が豊かに

    特別対談企画「出口さんの学び舎」中室牧子(教育経済学者)×出口治明(ライフネット生命保険会長)(前編)構成/菅聖子ライフネット生命会長・出口治明さんが「歴史」や「教養」をテーマに、さまざまな有識者をゲストに迎える対談企画「出口さんの学び舎」。技術革新やグローバル化により変化の激しい現代で、ぶれない軸を持って生きていくために必要なものとは何か、対話を通じ伝えていく――。出口治明さん、中室牧子さん出口:アメリカの研究などでは、できるだけ幼児期に教育投資したほうが、効果が高いという研究結果が発表されています。教育のどの段階で何にどう投資すれば意味があるのでしょう。中室:わぁ、いきなり奥の深い質問ですね。まず、経済学では、教育を「投資」と考えますが、一般の方にとってはあまりそうした考え方が馴染みがないようです。私がテレビなどで「経済学は教育を投資と考えています」と言うと、「自分の大事な子どもに対してお金をかけるのは、投資ではない。別に見返りを求めているわけではない」という批判のご意見が寄せられます。出口:でも、お金をかけることって、すべて投資ですよね。中室:消費に過ぎないお金の使い方というのもあると思います。しかし、消費とは区別して、教育は投資なのです。もちろん、子どもにお金を使うことで必ずしも何か見返りを求めているわけではないからといって、学校を卒業した後、全くお金を稼げない大人になったとしたら…。やはり、親としては頭を抱えてしまう。そのことを頭では理解しながらも、教育にお金をかけることを「投資」と呼ぶのに、抵抗がある方も少なくないというところでしょう。出口:それは、なぜでしょう?中室:おそらく、教育の成果をお金で測ることに抵抗があるのではないかと思います。ただ、経済学は、教育の成果を将来の収入や賃金だけで測っているわけではありません。将来の健康や幸福などもまた教育の成果と捉えています。自分の子どもに健康で、幸福であってほしいと思わない親はいませんから、健康や幸福までも含めて、教育の投資リターンを考えているのですと言えば、納得していただけるのではないかと思っています。 ただ、教育に対する投資が、株や債券などの金融資産に対する投資と違うのは、教育への投資には「外部性」が存在するということです。たとえば金融資産への投資の場合、その投資からリターンを得るのは自分だけです(これをやや専門的に言うと「教育の私的収益率」といいます)。一方、教育にはそうした私的な投資リターンだけでなく、社会全体が得る投資リターンもある(これを「教育の社会的収益率」といいます)。出口:地域の住民同士のつながりが強くなったり?中室:はい。それ以外にも、公衆衛生の改善や、犯罪率の低下、投票率の上昇や貧困や格差の解消などです。出口:なるほど、その通りですね。中室:こうした教育による正の外部性の存在が、教育に公的資金を投入することを正当化する理由です。教育を受けることによって、「私」も豊かになるけれど、「社会」の人々も豊かになれる可能性がある。これが、教育が金融資産などへの投資と最も大きく異なる点だと考えられています。教育とはリテラシーを高めていくこと出口:僕は次のように考えています。人間は動物であるというのが大前提だと思っていて、二足歩行で大脳が大きくなったことによって、人間は特殊な動物になった。普通、動物はすぐに大人になりますが、人間はこの二つの制約から、20年くらいかかって大人になるんですね。そして人間が生きる社会は、いろいろな制約もあってかなり複雑です。動物ならエサを獲るだけでいいけれど、いろいろなリテラシーを高めていかなければ人間は幸せな生活ができない。 飢えた人に食べ物を与えるのではなく、魚の釣り方を教えなければいけないという話がありますが、僕は教育って魚の釣り方を教えることだと思うんですよ。複雑になった社会で生きていくために、いろいろなことを教えるのが教育。中室:はい。出口:しかも、世の中はどんどん変わっていきます。ダーウィンの言う通り、賢い人や強い人が生き残るのではなく、適応するしかない。 人間にとって最も大事なことは、「自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を言うこと」です。プラス、今の社会で必要な「政府とは何か」「社会保障とは何か」「お金とは何か」などというリテラシーを高めなければ上手に適応できない。 人間にとって幸せな生活というのは、ごはんが食べられて、寝床があって、子どもが安心して産めて、上司の悪口が言えること。悪口というのは言論の自由ですね。そして、移動の自由があること。置かれた場所で必ずしも咲く必要はなくて、咲けるところを探して世界中どこへ行ってもいい。そういう当たり前の生活をするための武器を与えるのが教育だと、僕は思うんです。(iStock)中室:おっしゃる通りです。出口:僕は歴史が大好きなんですけれど、世界最古の文明・シュメールの粘土板にも、今の言葉に直せば「リテラシーを上げないと、悪賢い商人に役に立たないものを山ほど買わされるで」と書かれている。だから、ヨーロッパでは教育はほとんど無償なんですよね。中室:家計ではなく政府が負担する教育段階をどこまで見るかは、国によってかなり開きがあるのが実情です。日本では、6歳~15歳までは義務教育ですから、義務教育期間中の教育費は政府が負担するものという国民的な合意があると思いますが、就学前と高等教育は政府というより家計が負担しています。一方、北欧の国々を中心に、全ての教育にかかる費用は、家計ではなく政府が負担するという国もあります。このため、「教育」のどこからどこまでを政府が、どこからどこまでを家計が、というのは国によって異なっているということになります。出口:教育無償というのは、僕たち保険会社の敵なんですけれどね。死亡保険が売れなくなるから(笑)。男性も女性も働いて、教育が無償だったら保険なんかいらんやろ、って話になりますからねえ。中室:そうですよね。早期選抜は必ずいい結果になる?出口:早期教育の重要性が叫ばれていますが、小学校受験はどんな経済効果を生むんでしょうか?中室牧子さん中室:良い面もあるし、悪い面もあると思います。まず、子どもの学齢が小さい間に、学力やIQなどで測ることのできる認知能力を高めることは、子どもの将来にとってプラスに考えられます。一方で、厳しい選抜の存在は、保護者の社会経済的地位による格差の拡大に繋がるのではないかという懸念があります。つまり、所得や学歴の高い親ほど子どもの受験や学校選択に熱心でしょうから、あまり所得や学歴の高くない親の子どもは取り残され、子どもになんら責任のない親の経済状況による格差が拡大し、不平等感の強い社会になってしまう。 そうした社会的な影響とは別に、私が厳しい選抜についてもう一つ懸念していることがあります。それは、厳しい選抜があると、正の「ピア効果」が働きにくいのではないかということです。ピア効果とは、端的にいってしまえば、仲間の影響ということです。出口:ああ、なるほど。中室:経済学の研究には、私たち人間が、親しい友人や家族の考え方や習慣、行動にまで影響を受けることを示したものもあります。喫煙、肥満、ゴルフの成績や、貯蓄性向に至るまで近しい人の影響を受けていることを明らかにした研究があります。出口:へーっ!中室:「類は友を呼ぶ」といいますが、「友が類になっていく」ということもあるのだということです。大人でも友人や家族の影響を受けるのですから、子どもはなおさらでしょう。海外のデータを用いた実証研究は、成績はもちろんのこと、カンニングをするかどうかなどまでも、友人の影響を受けることを明らかにしています。ただ、ピア効果と学力の関係については、まだ決着がついたとは言えない状況です。自分の周囲に学力が高い友達がいると、本人の学力が上がるケースもあれば、下がってしまうケースもある。 しかし、一般的に、小学校受験をさせたいという動機は、私立の偏差値の高い学校へ行けば、学力の高い友人たちと一緒に過ごすことになり、おのずと自分の子どもの学力も上がるだろうと考えているからなのではないでしょうか?出口:そうでしょうね。中室:しかし、私たちが最近日本のある自治体のデータを使って分析したところ、日本の小・中学生については、学力のピア効果がマイナスになる――、つまり、周囲の友人たちの学力が上がれば、自分の学力が下がってしまう傾向があることが分かったのです。出口:ほう~。中室:なぜこうなるかというと、子どもたちは自分の学力や潜在能力だけでなく、自分の学力や潜在能力が他人と比較して相対的にどの位置にあるかということを考慮して、どれくらい勉強するかとか、どこへ進学するかなどの意思決定をしています。つまり、自分の周囲の友人たちの成績がよいということは、相対的に自分のクラスの中での順位が下がってしまうことを意味しており、それが自分の意欲や成績の低下につながってしまっているということです。 しかし、小学校や中学校のときに在籍したクラスの中での相対的な順位など、長い人生の中では、あまりにも小さなスナップショットにすぎません。一時期、クラスの中での順位が下がったからといって「人生終わり」というわけではない。しかし、小学校受験などのように早期選抜によって厳しい競争にさらされる子どもたちにとっては、周囲のクラスメートの学力やクラスの中での自分の相対的な順位を「意識するな」というほうが難しいのかもしれません。せっかくその早期選抜で、レベルの高い学校に合格したとしても、一度学校の中で成績が下位になってしまうと上がってこられない生徒のことを「深海魚」などと言ったりするそうですが、小学校受験のような早期選抜によって、そうなってしまうリスクが存在しているということは心に留めておく必要があるでしょう。出口:いったん底に沈むと上がって来られない。このメカニズムって何なのでしょうか。中室:海外で行われた研究の中には、生徒が非常に高い能力を持っていたとしても、自分が所属している学校やクラスの中で相対的に順位が低い生徒は、教育投資が過小になり、成績が低下していくことを示したものがあります。学校やクラスの中で相対的に順位が高い生徒は、将来に対する前向きな希望を抱き、そして教員や親からもより積極的なサポートを受ける。このことが、もともとの能力が同じだったとしても、学校やクラスの中で相対的に順位が高い生徒たちが、その後の成績や進学で有利な理由だといいます。 もちろん、クラスの中で相対的に順位の低いわが子をみて、残念に思う親は多いでしょう。しかしこのようなときに、親が子どもと一緒になって視野狭窄に陥り、自分の子どもと人の子どもを比べるのではなく、「今回はダメだったけど、またがんばろう」と考えられる自己効力感(自分ならできる、というセルフイメージを持てていること)を身に付けるように促すことが重要ではないかと思います。実際に私たちの分析の中でも、自己効力感の高い子どもは学力も高い傾向があることも分かっています。格差で本当に社会が分断される可能性も出口:ロバート・D・パットナムが書いた『われらの子ども』のように、一つの大きな問題は所得による格差が固定してしまっていることですね。中室:おっしゃる通りです。出口:むしろ、ダイバーシティでいろいろな人が混ざっているほうが、人間は楽に生きていけますよね。それが純粋培養されてしまう。しかも、親の所得による格差で固定してしまうところが、とても気になります。中室:はい。私もそれは本当に大きな問題だと思っています。先ほどご紹介した関東近郊の自治体のデータを学校別にみてみますと、経済的理由によって、就学困難な児童の保護者に対する補助である「就学援助率」は、全国平均でみると15.6%(2012年)ですが、この自治体のデータでその最大値と最小値をみてみますと、就学援助率が一番低い学校では0.3%で、一番高い学校では51.4%となっています。51.4%の学校では、在籍児童の半分以上が就学援助を得て就学しているという状況なわけですから、学校は、おそらく極めて厳しい、困難な状況におかれていると考えられます。これは同じ自治体の中にかなり大きな学校間格差が存在していることを意味しています。出口:それを聞いて思い出したのですが、パットナムの本の中には、道路を挟んでこちらが貧困率1%、向こうが51%というデータが出てきました。中室:そうなんです。私も研究や調査でそれを実感する時があります。現実に、日本でも高速道路によって居住エリアが分断されているという話は耳にします。特に子どもの生活圏は狭く、徒歩か自転車がほとんどなので、駅から高速道路までの間は学習塾が多く存在しているが、その高速道路を越えるとほとんどなくなってしまう、というような地域もありました。出口:そうですよね。格差によって本当に社会が分断されてしまう可能性がある。中室:おっしゃる通りです。出口:もう一つ思うのは、僕自身は競争はあっていいと思うんです。極端に言えば、塾も、公立も、私立も、全部競争するような、互いに切磋琢磨する環境があっていい。そこで引っかかるのは、親の所得によって選べる/選べない、ということです。中室:そうですよねえ。出口:それなら、公立も私立も塾も同じコストで、子どもの興味や子どもの能力で選べるようになれば、競争環境があるほうがいいのかなあと思ったりします。中室:アメリカでは、教育バウチャーなどがありますね。出口:そうです、そうです。中室:日本ではあまり聞きなれない言葉ですが、アメリカでは、教育バウチャーという言葉は定着しています。学生や若者を対象にしたドラマの中でも、教育バウチャーという単語は頻繁に出てくる。例えば、有名な「ゴシップガール」というドラマでは、主人公の男子学生は、教育バウチャーを得て、ニューヨークのイーストサイドにある私立名門校に通っているのです。そして、バウチャーを得た生徒も、そうした生徒を受け入れる残りの生徒もまた、家庭環境や価値観の異なる同級生から様々なことを学んでいくわけです。出口:なるほど。中室:教育バウチャーについては、費用対効果が低いなど様々な問題も指摘されていますが、これだけ、子どもの貧困や貧困の連鎖が問題になるわが国においても、学校に用いることができるバウチャーや、大阪市などいくつかの自治体で先行的に実施されている塾などに用いることができるバウチャーなどは、政策的に検討すべきオプションの1つではないかと思っています。出口:格差がいけないという考え方は、僕は嫌いなんですよ。中室:私も同じ考えです。出口:格差は、自然界の中にあるのです。問題は、格差の間の流動性です。そこに、梯子がいっぱいかかっているかどうか。中室:セイフティネットが存在しているかどうか。そして、能力ややる気に応じて挑戦する機会があるかどうかということが重要だと思います。出口:70年代に森嶋通夫先生が岩波新書から『イギリスと日本』という本を出されたんです。その本で面白かったのは、「UKは階層社会。でも、入れ替えがしょっちゅうある」と書かれていたこと。割と簡単に成り上がれるんですね。日本ではそれがとても少ないと書かれていました。すごく印象に残っています。小学校低学年から始まる格差出口:中学受験がトレンドというか、最近は多くの子どもが中学受験するようになっていますよね。中室:トレンドといっても、東京など首都圏近郊のちょっとした傾向なのではないでしょうか。年度末が近くなると私立小学校の受験が話題になりますが、私立小学校の在籍者数は、全体の1.2%に過ぎません(文部科学省平成27年度「学校基本調査」)。中学校になるとちょっと増えますが、それでも全体の7.0 %程度です(同)。出口:はい、それくらいでしょう。中室:児童・生徒数でみれば、やはり圧倒的に公立に在籍している生徒が多いのが現状です。さらに私が先ほど紹介した自治体のデータを用いて分析したところ、学力や非認知能力の学校間分散は、個人の学力分散の5%以下しか説明していません。もう少し噛み砕いて言うと、日本の公立小・中学校は非常に「均質」だということです。 それにもかかわらず、保護者の社会経済的地位による、子どもの学力や非認知能力の格差は拡大しているとみられています。先ほどの例でいいますと、就学援助率が一番低い学校では0.3%で、一番高い学校では51.4%となっている。51.4%の学校では、在籍児童の半分以上が就学援助を得て就学しているという状況なわけですから、学校は、おそらく極めて厳しい、困難な状況におかれていると考えられます。しかし、現在の教員配置や予算措置などは、児童の「数」を基準にしているわけです。これを続けていく限り、保護者の社会経済的地位による格差は拡大していく一方なのではないかと懸念されるのです。私は、出口さんがおっしゃるように、格差はあってよいと思います。そもそも格差をゼロにすることなどできません。しかし、格差を縮小するような資源配分を行うことこそ、政府が行うべき再分配ということなのではないかと思うのです。出口:51%のほうには、ベテランのよい先生をつけるとか。出口治明さん中室:それは1つの方法です。あるいは、51%の学校では、教員の数を大幅に増加させるというのも良いのではないかと思います。出口:形式的平等性を重んじて公教育をやっていくと、格差が拡大していくという意味ですね。中室:はい。私が時々、「子どもの貧困」という問題について紹介すると、「私は小さいころ経済的に貧しかったが、一生懸命勉強して大学に入った。だから、経済的な問題は関係ない。本人の意欲や努力の問題である」ということをおっしゃる方がいます。出口:外的条件が変わってきているんですよね。中室:教育社会学の専門家であるオックスフォード大学の苅谷剛彦教授の研究によると、親の学歴や所得によって、子どもの「意欲」や「努力」に格差があるということが示されており、苅谷剛彦教授はこの発見を「インセンティブ・ディバイド」(意欲の格差)と名づけられました。 ですから、経済的な問題は関係なくはないのです。経済的な問題は、子どもたちが意欲をもって努力をすることから遠ざけ、学力を低下させることに繋がっていく。そして、こうした保護者の社会経済的地位による分断は、子どもたちの学齢が低いときから始まっていることも分かっています。私が日本のデータを用いて分析した結果では、子どもたちの学習時間や学力は、小学校低学年のときに既に差がついています。データが限られているので確たることは言えませんが、ひょっとすると、こうした格差の始まりは就学する前にはもう始まっているのかもしれません。親の学歴や所得が高い子どもは、小学校低学年のときに既に、勉強時間が長く、学力が高いのです。こうした事実を客観的に見てみると、「子どもの貧困」を自己責任と捉えることがいかに誤った考え方かということがよく分かります。出口:親はロールモデルですから、当たり前といえば当たり前ですね。中室:親の社会経済的地位による格差の拡大がこれほどまでに深刻な社会にもかかわらず、学校における資源配分はいまだ「平等」や「一律」という考え方に縛られている。そうすると格差は拡大していくだけだという矛盾に気づいていないんです。教育というのは、本来、貧困の世代間連鎖を断ち切り、親の社会経済的地位による格差を縮小することができる装置のはずなのですが、この「平等」や「一律」という資源配分が、むしろ格差を拡大させる方向に作用してしまっている。出口:それはやっぱり、画一性のガンだと思いますよ。中室:私も非常に強い危機感を持っています。日本は就学前教育に対する投資が一番少ない中室:私は、教育段階でみれば、就学前の教育にもっと投資したほうがいいのではないかと思っています。先にも述べたとおり、保護者の社会経済的地位による格差は、子どもたちの学齢がかなり小さいときに確認されているからです。出口:もっと早い段階で、格差を縮小させたほうが、効率がいいということですね。中室:幼児教育の収益率が高いことを示したノーベル賞受賞者のシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授は、技能の獲得がさらに次の技能の獲得を呼ぶ傾向があることを指摘しています。このため、子どもの学齢が早いうちに技能を獲得させれば、次の段階で更に多くの技能を獲得できるというわけです。カリフォルニア大学バークレイ校のエリンコ・モレッティ教授も著書の中で、大学進学率が十分に上昇しない原因は、大学進学の直前にあるのではなく、もっと前にあると述べ、幼児期に子どもたちに投資をすることが、大学に進学する若者を増やすことになるだろうとの見解を示しています。 ただ、残念なことに、非常に重要だと考えられる就学前教育に対する投資が十分に行われているかといわれれば、そうではありません。例えば在学者1人当たりの公財政教育支出を教育段階別で比較すると、義務教育段階は国際的な水準をやや上回っていますが、就学前教育は先進国中最下位です。出口:フランスのように、義務保育にするべきですよ。中室:就学前教育を義務教育化するという議論も出てきていますね。出口:僕はもう一つ、中学・高校の3年・3年という分割が本当にいいのかと思っています。僕自身の経験でいえば、中学であらあら習ったことを高校でもう一度やっているような感覚があって、それなら一回できちんと丁寧に教えたほうがいい。この分割は、子どもにとって良くないと思っているんです。中室:確かにそうかもしれません。出口:昔、文科省の学習指導要領を読んでみたんですよ。たとえば漢字の配分のところを読んでみたら、1年生で教える漢字、2年生で教える漢字というのがあるんです。簡単にいえば、「青空」という字は、まず「空」という漢字を習うとしますね。そうするとまず「あお空」と教えるんです。中室:習ってない漢字は書いちゃいけないんですね。出口:そうなんです。これ見て、腹が立ってきて。中室:同感です。出口:一回で覚えたほうが絶対によくわかるし、理解ができる。何年間で教える漢字の総量は決めてもいいけれど、あとは先生に任せればいいんですよ。同じようなことが中学高校でもあるので、中高は6年一貫教育にしたほうがいいような気がします。なかむろ まきこ 1998年慶應義塾大学卒業後,Columbia University, School of International and Public Affairsで修士課程を修了(2005年,MPA),Columbia University, Graduate School of Arts and Scienceで博士課程を修了(2010年,Ph.D.)日本銀行や世界銀行を経て2013年から慶應義塾大学総合政策学部准教授に就任。著書に『「学力」の経済学』(ディスカバー・トゥエンティワン)、『「原因と結果」の経済学』(ダイヤモンド社)など。でぐち はるあき 1948年三重県生まれ。京都大学法学部卒業。ライフネット生命保険株式会社代表取締役会長。日本生命保険相互会社に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て退職。2006年に生命保険準備会社を設立し、代表取締役社長に就任。生命保険業免許取得に伴い、ライフネット生命保険株式会社を開業。2016年6月より現職。主な著書に『世界一子どもを育てやすい国にしよう 』出口治明・駒崎弘樹(著)(ウェッジ)、『「働き方」の教科書: 人生と仕事とお金の基本』(新潮文庫)他。

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    知能の7~8割は遺伝 奨学金は成績の悪い子供にこそ必要

    「子どもたちのため」「格差解消のため」という美辞麗句で、教育へのさらなる税金投入が議論されている。しかし、作家の橘玲氏は、それは“壮大な無駄”だと指摘する。* * * 民主党政権で公立高校の授業料が無償化されたが、こんどは東京都が私立高校の授業料の実質無償化を発表した。「教育国債」で大学の授業料をタダにすべきだ、と主張する教育者もいる。 この問題を考えるポイントは、教育の無償化には税の投入が必要だが、そのお金はいったい誰の財布に入るのか、ということだ。もちろん、「未来を担う子どもたちだ」というだろう。だが、お金を受け取るのは子どもではない。教育サービスの対価として、税は教育者に支払われるのだ。 コメ農家が、「日本人の健康のためにコメを無償化せよ」と主張したとしよう。この場合、税の受益者が国民ではなくコメ農家であることは誰でもわかる。 それに対して教育をめぐる議論では、受益者は子どもで、(税金を受け取る)教育者は“善意の第三者”に納まっている。私はこれを詐術の典型だと思うのだが、なぜか指摘するひとはほとんどいない。 もっとも教育者は、自分たちが税金を受け取ることを正当化するために、それなりの理屈を用意している。彼らは、「所得格差が教育を通じて貧困を連鎖させる」と力説する。 一流大学の入学者の家庭を調べると、平均よりずっと所得が高い。裕福な親は子どもによい教育を与えられるのだから、貧しい家庭の子どもとの「教育格差」は開いていくばかりだ。これは不公平だから、親の所得にかかわらず平等に教育を受ける権利を国家が保障すべきだ。(iStock) いかにももっともらしいが、次のような事実はどう考えればいいのだろう。行動遺伝学では、一卵性双生児や二卵性双生児を比較することで、身長・体重から性格に至るまで、さまざまな属性における遺伝と環境の影響を調べている。そうした研究を総合すると、論理的推論能力の遺伝率は68%、一般知能(IQ)の遺伝率は77%で、知能のちがい(頭の良し悪し)の7~8割は遺伝で説明できることを示している。 知識社会とは、知能の高いひとが経済的に成功する社会だ。行動遺伝学によれば、知能の高い親からは、知能の高い子どもが生まれやすい。一流大学に進学するであろう彼らの家計を調べれば親の所得が高いのは当たり前で、ここにはなんら不正なところはない。 このような主張を不快に思うひともいるだろう。だが私は、一介の納税者として、行動遺伝学の証拠(エビデンス)にもとづいてよりシンプルな解釈を提示しているだけだ。それを反証し、自分たちが多額の税金を受け取る正当な理由を納税者に納得させる「説明責任」は、当然のことながら、受益者である教育者が負っている。 誤解のないようにいっておくと、私は「成績の悪い子どもに税を投入する必要はない」といいたいわけではない。給付型奨学金のように、成績のよい子どもを支援する政策の方がはるかに税の無駄遣いだからだ。 知識社会では高学歴=高収入の因果関係があることは誰でも知っている。知能の高い子どもは将来、大きな収入を期待できるのだから、奨学金は利子をつけて返してもらえばいいだけだ。北欧のように大学無償化できないワケ 同様に知識社会では、低学歴=低収入の因果関係も顕著だ。この不平等を教育によって是正しようとするなら、返済不要の給付型奨学金は「成績の悪い子ども」にこそ必要なはずだ。 だが不思議なことに、この「正論」を主張する教育者はいない。それは彼らが、知能が遺伝する、すなわち「成績の悪い子どもに税を投入しても効果がない」ことを知っているからにちがいない。これもまた、典型的な自己欺瞞だ。「北欧のように大学も無償化せよ」と主張する、さらに過激な教育者もいる。彼らがぜったいに口にしないのは、北欧の大学は日本とまったくちがうことだ。 たしかにスウェーデンでは大学の費用はすべて国庫負担だが、そこでは文学や哲学などの一般教養は教えない。学生が学ぶのは「実学」で、そこで取得したMBA(経営学修士)などの資格が会社で昇進や昇給に反映される。北欧の大学は(高度な)職業訓練校なのだ。 こうした実態を知ると、なぜ北欧企業が大学教育の無償化を受け入れているかがわかる。彼らは自分たちで社員教育をせずに大学に「外注」し、そのコストを税で払っているのだ。(iStock)  だとすれば、日本で大学を無償化するには、一般教養から実学へと教育内容を根底から変えなくてはならない。しかしレジャーランド化した日本の大学では教員の多くが一般教養しか教えられないのだから、彼らは職を失ってしまうだろう。 これが、「北欧の大学はなぜ無償なのか」を納税者に説明するのを拒否し、「大学に行けない子どもがかわいそう」というお涙ちょうだいの物語をひたすら垂れ流す理由だ。では、「格差社会」に対処するにはどうすればいいのだろうか。 日本において「子どもの貧困」が大きな社会問題になるのは、母子家庭の多くが生活保護以下の収入で暮らしているからだ。日本の母子家庭は先進国のなかでも生活保護の受給率がきわめて低いが、それは保護を受けることで子どもがいじめられることを危惧しているからだろう。 だが欧米の研究は、母子家庭の子育てを支援し、職業教育を提供すれば、働く母親は納税によって受益を上回る社会への貢献ができることを示している。だとすれば必要なのは、母子家庭を生活保護の枠組みから切り離し、子どもがいわれなきいじめの対象にならないようにしたうえで、母親が子育てをしながら労働市場に戻れるような政策を考えることだ。 財源がかぎられている以上、趣味のような学問に無駄な補助金を払うくらいなら、日本社会の最貧困層で呻吟する母子家庭に直接、現金を支給した方がはるかに「格差社会」の不平等を是正できる。 だが利権のために「教育」という幻想を振りまくひとたちが、自分の懐に税金が入ってこないこの案を支持することはぜったいにないだろう。●たちばな・あきら/作家。1959年生まれ。小説『マネーロンダリング』でデビュー。ノンフィクションや時評も手掛け、『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』がベストセラーに。『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』など著書多数。近著に『言ってはいけない』がある。関連記事■ 近年流行の「こども学部」 一体どんな教育内容かを学長解説■ 「ハゲ親父だから子供もハゲ」というほど遺伝は単純ではない■ 遺伝学者 「浮気性は遺伝する可能性あり」との調査結果語る■ 学資保険以外での教育費準備 代表は低解約返戻金型終身保険■ がんを抑制するREIC遺伝子でほとんどの腫瘍が完全に消滅

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    籠池泰典氏長男「この先、加計さんも父みたいな目に遭うはず」

    小学校設立のために奔走して無理な資金繰りもやってきて、借金もかなりある。父は日本のための人材を育てる教育者だが、加計さんは金儲けをする経営者なのでしょう」家宅捜索中の籠池泰典氏の自宅前で、報道陣に囲まれ厳しい表情で話す長男の佳茂氏=6月19日、大阪府豊中市(彦野公太朗撮影) 森友学園は業務停止になり、補助金適正化法違反などの疑いで大阪地検特捜部の家宅捜索も受けた。「森友の先行きは暗いばかりですが、加計さんは日本のエスタブリッシュメントで、根っからの権力側なのでしょう。だから、今回の“躓き”があっても安泰で、だんまりを決め込むことが得策だと思っている。でも本当にやましいことがなく、教育者という自負と理念があるのなら、事実を全て国会で話したほうがいい。初めは父も大変叩かれたが、事実をすべて話したことで、今はメディアや一般の人からも応援されていますよ」 最後に、安倍首相との“お友達関係”について忠告した。「安倍さんは、父と理念でつながっていたはずなのに、いきなり手の平を返した。そういう人ですから、この先、“腹心の友”の加計さんも、父みたいな目に遭うはずですよ」関連記事■ 稲田朋美氏を籠池氏に“応援”させるという落選運動■ “総理のご意向文書”作成女性課長補佐 異動→辞職懸念する声も■ 加計学園グループの敷地内に自民党支部が存在した■ 高須院長が都議選総括「反安倍派が喜ぶのはとんだ見当違い」■ 田村英里子 伝説の「半裸カレンダー」写真リバイバル公開

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    同性カップル里親制度を大学生427人に聞いてみたらこうなった

    られた。ここに賛成側の共通意見もいくつか取り上げてみよう。「男同士の方が経済力があって子供によりよい教育を受けさせられる」「女同士はよくて男同士はよくないのは不平等だ」「異性愛者の親のなかには子供を虐待したり育児放棄したりする親がいる」「他人の目は気になるだろうが幸せを決めるのは他人じゃなくて自分たち」「友人にゲイの人がいるから彼らにも幸せになってほしい」「シングルマザーやシングルファーザーなど1人で子育てしている人たちだっている」「女性同士は連れ子が血縁関係だが、男性同士ならそのようなしがらみがない」「男同士だと子供を産むことができないので、より一層子供に愛情を注ぐはず」「LGBTを否定すること自体、今の時代の流れにそぐわない」 これら賛成側の学生の共通意見で最も多かったのは、「男性同性カップルのほうが経済的な余裕がある」とする意見だった。つまり、賛成側の「男性=経済力」と考える意見は解釈によっては、日本社会が依然「男性中心」であり、そこにおける女性の役割はあくまで従属的であると考えることができるだろう。こうした賛成側の意見からも分かるように、男性カップルの里親問題に対する若者の理解は深まりつつあるように思えるが、彼らの理解のうちにはいまだ「男性=経済力」といった、男性中心社会の価値観が根付いているのだ。 また、賛成者の大半が女子生徒であったのに対し、反対者の大多数が男子生徒であった結果を考えると、男性側の意識を変えていくことがいかに重要であるかが分かる。男性にこれまで期待されてきた性別的役割をいかに流動化し変えていくかが、今後男性同性カップルの里親問題の在り方を考えていく上で重要な課題となりそうだ。里親資格をてんびんにかけるな 筆者は最近、『週刊SPA!』の企画した「女性の専売特許を男性が体験する」特集に論者として参加した。子供の弁当を夫が作って幼稚園の送り迎えをしたり、結婚式で新婦が花束を投げる代わりに、新郎が友人男性に向かって投げる「ブロッコリー・トス」を行うことが日常風景となりつつある現代において、これまで女性だけに限定されてきた性役割を男性が「体験」することは、自分とは違う他者を発見し、理解する上で重要な経験であるに違いないと考える。 しかし、里親制度に関して言えることは、命を預かり育てるという大変重要な役目を担うわけで、「体験」することとはわけが違う。ペットの里親になることですら身辺調査や住宅訪問などさまざまな適性審査がある今日、人間の子供を育てる里親制度の審査基準が厳しく設けられることはあって然るべきである。 ただ、同性カップルであるという理由だけで審査基準を厳しくすることは絶対あってはならない。日本は先進国でありながら6人に1人の子どもが貧困や教育格差という現実に直面している。そんな中、里親資格を異性か同性かだけで、てんびんにかけている場合ではないことを、少子高齢社会に生きるわれわれ国民は自覚する必要があるのだ。 ここまで話してきたように、男性同性カップルの在り方を描いた映画作品や、そういった作品を目にすることで固定概念から解放された場所で彼らを優しく見守ることのできる若者が増える現代、「弱者」が「強者」よりも柔軟で多様性に富んでいることが可視化される動きはより一層広がりを増すに違いない。著書『フラジャイル―弱さからの出発』の中で編集者の松岡正剛氏が示唆しているように、権力を行使する「強者」はその権力を奪い取られることに恐れているだけのつまらない存在で、そんな強者たちからもろく生きることを強いられた「弱者」のほうがとてつもない力、未来の社会を変える力を内に秘めていると信じたい。 数週間前、書店で偶然目に留まり購入したマンガ本がある。鈴木有布子(作画)と北川恵海(原作)の作品『ちょっと今から仕事やめてくる』だ。日々の仕事に疲れ果てた新卒サラリーマンの青年は、駅のホームから身を投げて投身自殺を図ろうとするが、自分を理解してくれる同性の親友に命を救われ、最後は周囲からの批判を恐れることなく会社に自ら辞表を出す。 男性同性カップルであるがゆえに理不尽な批判を受ける方々には、批判を受けることはむしろ自分たちの存在を社会に示す好機であると考えてほしい。「批判を恐れていても何も先に進まない」。そう自分に言い聞かせながら、私は私で男性の新しい生き方を模索し続けたい。

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    籠池さん、あなたは実に哀しい人だ

    出し、国会の証人喚問に応じる姿勢をみせた。なんだか破れかぶれになった感は否めないが、この方は本当に「教育者」としてふさわしいのでしょうか?

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    籠池さん、あなたは実に哀しい人だ

    いやスクール)となり、問題は多岐にわたっている。ただ、本当に単純化して言ってしまえば、いまどき「愛国教育」をやると国有地を格安で払い下げてもらえるうえ、首相も首相夫人も応援してくれるということだろう。 そこで、問題となるのが、この学園の愛国教育の中身だ。 小学校認可申請を突如取り下げた籠池泰典理事長は、「塚本幼稚園公式チャンネル」でこう言っていた。豊中市内の小学校建設現場に姿を見せ、報道陣に囲まれる「森友学園」の籠池泰典理事長=3月9日「日本国のためにがんばっている。私がやらなきゃ誰がやるんだということだった。どうぞみなさん、私はいま、責められています。でもこの学校はいま、日本民族にとって必要な学校であります」 本当にそうだろうか。この発言を聞いて思うのは、この人は本当に哀しい、余裕のない人間、日本と日本人がどういうものなのかまったくわかっていないということだ。 はっきり言って、あなたがそんなことをしなくても、この国に生まれ育った日本人は、自然にこの国を愛している。なにかあれば団結し、この国を守る。日本は、世界の多くの国のように多民族共生国家ではない。国民が分断されてもいない。しかも、国家は自然発生的にできて、1千年以上にわたる統一的な歴史を持っている。 つまり、どこかの国のように、56民族の共存を訴え、反日教育をして常に愛国心を強調しなければ、国が成り立たないなどいうことはない。しかしこの人は、こういった日本が信じられないのだろう。本当に哀しいことだ。 だから、この人は、幼稚園の子供たちに「日本民族です」と大きな声で言わせている。さらに、軍艦行進曲を演奏させるなんていうことまでしている。運動会では「中国、韓国が心を改め、歴史教科書で嘘を教えないようお願いいたします。安倍首相がんばれ、安倍首相がんばれ。安保法制、国会通過よかったです」とまで言わせている。まったく馬鹿げている。 そんなことを4、5歳の子供たちが理解できるわけがないだろう。しかし、この人は、「教育勅語」を暗唱させれば、それで国を愛し、日本を誇りに思う日本人ができると思っている。そんなことは、あるわけがない。 なぜなら、子供たちにとって、強制されることは苦痛であり、逆効果の方が大きいからだ。要するに、この学園は愛国心を育むのではなく、愛国心を強制することで北朝鮮のような体制に従う「愛国ロボット」を生産したいだけだ。なぜ、見識ある保守政治家たちがこのような教育に騙されるのか、私には皆目わからない。“正しい教育”の押し付けは北朝鮮と同じだ さらに、たちが悪いのが、こうしたエセ愛国教育を批判するリベラルメディアとリベラル言論人たちだ。愛国教育を戦前回帰だと毛嫌いし、政治的に攻撃する。「教育勅語」は、ともかく悪いものだと決めつけている。 そして、「このような教育は行き過ぎだから規制しろ」と言い出すのである。要するに、国家が“正しい教育”を国民に提供しなければならないと言うのだ。 しかし、なにが正しいかを国家が決めてはいけない。それは教育統制であり、最終的には北朝鮮と同じになる。 高等教育における「学問の自由」ではないが、初等教育にも自由があっていい。世の中にいろいろな教育が存在し、それを、親が自由に選べることが理想だ。その意味で言えば、森友学園のような学校も存在しても構わない。そこに入れるか入れないかは親の選択の問題だからだ。 それに、前記したように、日本のようなユニークな国こそ、この教育の自由が必要だ。しかし、日本では教育が文部科学省の統制下に置かれ、その現場を長らく日教組が仕切ってきたので、自分の意見をはっきり言えない、人目を気にして妥協を繰り返すような人間ばかりが大量生産されてしまった。2月3日、新潟市で始まった日教組の第66回教育研究全国集会 私はこうした日本の教育が信じられず、自分の娘をインターナショナルスクールに入れた。1980年代半ばのことで、当時、教育現場は、いじめ問題、校内暴力問題、学級不成立問題などで揺れていた。友人の小学校教師は「女の子を公立校になんか入れたら大変なことになる」と真顔で言った。 公立の場合、学区内の学校に行く決まりがある。この決まりを破ってインターに入れたため、役所の窓口に指定の学校に行かないことを届け出に行った。 すると、役所の人間は「日本人は日本の学校に行くのが義務です。あなたのお子さんは非国民になりますよ」と言った。非国民なんて言われたのは、生まれて初めてだった。 しかし、娘は非国民にならなかった。私もより一層、日本に対する愛着が深まった。インターのような多国籍、多文化の中でも揉まれると、自分が日本人あること、日本文化で育っていることが、際立って意識されるからだ。その意味で言うと、海外で暮らしている日本人の方が、国内で暮らしている日本人より、より強く日本を意識し、愛国心も強い。 もっと言えば、英語(他言語)を話してこそ、日本語の美しさ、よさがわかるのだ。 娘は成人していまニューヨークで暮らしているが、お正月には、必ずおせち料理と雑煮をつくる。片時も日本を忘れたことはない。 公立学校ということで言うと、日教組のおかげで日本の学校には愛国教育が存在しなくなってしまった。なにしろ、日の丸掲揚、国歌斉唱まで禁忌されたことがあった。 しかし、アメリカには日本にはない愛国教育がある。なぜ米の学校では必ず「愛国教育」をするのか アメリカで公立学校に子供をやった親御さんなら知っているが、アメリカの学校には教室に必ず星条旗が飾られている。そして、毎朝、子供たちは胸に手を当てて、星条旗に向かって「The Pledge of Allegiance」(忠誠の誓い)を唱えることになっている。毎朝、毎朝だ。 これは、以下のような簡単な文言で、日本の「教育勅語」のように長くない。 I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all. (私は、わがアメリカ合衆国の国旗、すべての人々に自由と正義が存する、分かつことのできない、神の下での一つの国家である共和国に忠誠を誓う) もし、あなたがアメリカ人に出会ったなら、この「忠誠の誓約」を暗誦できるかどうかを試してみればいい。できなければ、アメリカ人ではない。 ここで大事なのは、この「忠誠の誓い」が国家ではなく、その理念である「自由と正義」(Liberty and Justice)に誓うということだ。なぜ、そんなことを幼い子供たちにさせるのだろうか。 それは、こうした儀式をさせ、アメリカという理念を叩き込まないとアメリカ国民にはならないからだ。アメリカは移民の国である。トランプ大統領ですら、ドイツとスコットランドからの移民の子孫だ。 ということは、一人ひとりが持つ祖国、文化、歴史はみな違う。これを統一させて、星条旗の下に一つの国民をつくらなければ、国は分断されてしまうのである。  たとえば、トランプ大統領の出身地、ニューヨークのクイーンズ区ジャマイカで生まれ育った黒人の子が学校で歴史の授業を受ける。すると、教科書には建国の父、ジョージ・ワシントンが出てくる。 しかし、この子はジョージ・ワシントンを「自分の祖先だ」などと思うだろうか。彼の祖先はアフリカから連れてこられた黒人奴隷で、奴隷所有者ワシントンにこき使われていたかもしれないのだ。 こういうことを思えば、いかに日本が恵まれた国かわかるだろう。私たち日本人の祖先はずっと遡っても日本人であり、この国は自然と一つの国家で、私たちはあえて意識せずとも、日本人であることに誇りを持てるようになっているのだ。 森友学園のような愛国教育など、あえてする必要がどこにあるのだろうか。そう思うと、籠池理事長というのは、実に「哀しい人物」である。悲しいではない、“哀しい”だ。 「教育勅語」を意味もわからず暗唱できる子供をつくるより、他文化を理解し、他言語を話せる子供をつくったほうが、よほど愛国心は育まれる。「お国のため」にもなる。 しかも、時代は大きく変わろうとしている。いまの子供たちが大人になる頃には、人間はロボットとAIと共存するようになるだろう。そうこうするうちにシンギュラリティもやってくる。 そんな将来を考えたら、「教育勅語」より「プログラム言語」と「英語」を学ばせるべきだ。私にいま幼い子供がいたら、絶対そうする。

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    安倍政権を支持する人は、籠池氏をきちんと批判しなさい!

    用して不当な利得を得ようとする人は今に始まったことではない。問題は、このような人物が行おうとしていた教育だからと言って、教育理念そのものが否定されることだ。たとえば、この学校は幼稚園児に教育勅語を朗唱させたことでも問題になった。それが戦前の軍国教育への回帰のような言い方をするテレビコメンテーターも多数見受けられた。会見で持論を語る森友学園の籠池泰典理事長 =大阪市淀川区 だが、教育勅語を現代語訳すると「国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家が非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」(国民道徳協会訳)というもので、特段軍国主義や天皇陛下への忠誠心を煽るものでもない。 確かに、児童虐待やDVなどの問題がある場合に、子が親にどれだけの孝養の義務を負うのか、夫婦を無理に続けないといけないのかということは、その後遺症に苦しむ患者を多数診てきた精神科医である私にも疑念はある。 また、少子化と長寿化のため、在宅介護が物理的に不可能になる家庭が増えている現状を考えると、子が親に孝養を尽くさないといけないという日本的な道徳意識が多くの介護家族を苦しめていることは、老年精神科医である私も目の当たりにしてきていることだ。 ただ、国家の非常時に国の平和と安全に奉仕するというのも、専守防衛の精神に反するものではないし、そのほかの点では現在も十分通用する道徳のように思える。朗唱させるだけで、その内容を園児にどのくらい伝えてきたのかはわからないが、この精神は否定されるべきものではないのは明らかだ。 これらを鑑みると、今回の問題に際して保守論壇の人たちがやるべきことは、これに関与した可能性のある保守側の身内をかばう(潔白の証明を求めるのでなく、単にかばうのであれば、むしろ道徳教育の精神に反する)ことではなく、籠池氏が例外であって、やろうとしていた教育理念は安倍首相夫人が賛同したように決して間違ったものではないことを強調することなのではないか、と私は信じる。 とはいえ、道徳教育を今改めて日本で行うべきというほど、今の日本人の道徳はすたれているとは思えないし、教育勅語の精神は今でも日本人に深く根付いているのではないかと私は感じている。日本に足りないのは「徳」の教育 前述のように私は老年精神科医として、親の介護に義務感を持ちすぎている人を多くみてきた。もちろん、それで日本人全体の傾向を論じることはできないだろうが、介護うつや介護離職などの数をみても、相当親への孝養という道徳観に囚われている人は多いはずだ。 また、景気回復が謳われ、失業率は下がっているが、非正規雇用率や相対貧困率が高まり、格差が拡大しているのはいろいろな統計で問題になっている。多くの国で、格差の拡大は犯罪の増加につながるが平成15(2003)年くらいから強盗、傷害、殺人などの刑事事件はおおむね減少のトレンドにあり、殺人事件にいたっては年間1千件を下回るようになっている。 東日本大震災の際の助け合いといい、火事場泥棒のようなものの少なさといい、むしろ世界の道徳の見本のように言われたのだ。東日本大震災で港に打ち上げられたフェリー亀山(中央)=平成23年4月6日、宮城県気仙沼市 たまたまネットニュースを見ていたら、中国の新聞が、野菜の無人販売所についても同様に「誰も見ていないのに、野菜や売上金を盗む人がいない」という日本人の公徳心の高さを称賛したり、立体駐車場のようなものが成り立つのも日本人がルールをきちんと守るからだと、中国人と比べて道徳心の高さを絶賛していた。 道徳教育を考えるうえで、道徳というのは、一般の人に「人の道」を説くという要素と、上に立つものが人々に示す「徳」の要素があるという話を、道徳教育を考える保守論陣の集まりで聞いたことがある。これは正鵠を射ている。 そう考える際に、日本人にむしろ足りないのは、道の教育ではなく、徳の教育なのではないかと思うようになった。海外では「ノブレス・オブリージュ(高貴なる人の義務)」という言葉が盛んに用いられ、富裕層の寄付も決して少なくないが、日本では二言目には寄付税制がないことが言い訳にされる。これでは、税金が安くないと寄付をしないと言っているようなもので、徳の心にそぐわない。 税金を高くすると国を逃げていくというようなことが公然と論じられるのも、それが恥ずかしいことだという徳の教育の欠如からだろう。冷戦時のトルーマン政権では、最高税率が91%になったことがあったが(これによってアメリカの中流が勃興し、自動車産業や家電産業が急成長したという説もある)、これにしても冷戦に勝ち抜くために、私有財産を犠牲にするという徳の精神や愛国心が背景にある。道徳教育の進むべき道とは 社会心理学の考え方に「属人思考」というものがある。自分が尊敬する人のいうことや信頼している人の言うことは正しいと思い、嫌いな人やバカにしている人のいうことは正しいことでも受け入れられないというものである。 もちろん望ましくない思考パターンなのであるが、上に立つものは大衆がそういうものの考え方をするということを前提に徳を積むことで、自分の言っていることの信頼度を上げないといけないし、自分が嘘つきだとか金に汚いと思われると、立派なことを言っていても否定されるということを心しないといけない。 たとえば、ノーベル賞というのは、その人の研究に対して与えられるものなのに、その人の人格まで素晴らしいものにみえ、その人の専門外の分野の発言でも正しいことのように受け入れられるというのはその一例であるが、ほとんどの人が思い当たることだろう。 今回の森友学園問題にしても、籠池氏の人格が否定される中で、その教育方針までおかしいと考えられてしまっているわけだが、このような思考パターンが通常のものであるからこそ、道徳教育を先導する人間は、徳を示さないといけない。 確かに野党のやることは揚げ足取りのようなことが多いが、徳を求められない立場にある人間からの批判に徳を示さないといけない為政者が慌てたり、虚偽答弁をするなどという恥ずかしい対応は許されないことだと心すべきだ。蓮舫代表(右手前から2人目)の質問に答弁する安倍首相 以前も道徳教育を先導する文部科学大臣が、不正献金疑惑の際に「法に触れていない」という趣旨の答弁をしたが、法に触れなければ何をしてもいいのであれば道徳教育は必要ないと言われても仕方ない。「道徳を先導する立場として、法には触れなくとも、道義上の責任を取る」と言えたほうが国民の範になるだろうし、再起の可能性も高まるはずだ。 保守的な教育を進める教育者の人たちも、きちんと籠池氏の批判をしないと自分たちまで「カネ目当て」と思われ、高邁な理想がかすんでしまう。こういう危機のときこそ、過去の過ちは正直に打ち明け(どういう人物か分からなくてつきあうことはミスであっても悪事ではないのだから堂々としていい)、場合によっては道義上の責任を取ることで、徳を示すことが安倍政権や道徳教育の進むべき道なのではないか。

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    教育勅語礼賛」の気持ち悪さ

    谷経衡(著述家)「昔はよかった」という妄想    森友学園を巡る一連の騒動でにわかに注目されだした「教育勅語」。同学園が運営する大阪市内の塚本幼稚園では、「先人から伝承された日本人としての礼節を尊び、それに裏打ちされた愛国心と誇りを育て…」としたうえで、その教育内容に「毎朝の朝礼において、教育勅語の朗唱、国歌“君が代”を斉唱します」と明確に謳っている。  くしくも3月8日、稲田朋美防衛大臣は参議院予算委員会で、 教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない。(中略)教育勅語の精神である親孝行や、友だちを大切にすることなど、核の部分は今も大切なものとして維持しており、そこは取り戻すべきだと考えている出典:NHK NEWS WEB、強調引用者 (iRONNA編集部注:リンク切れ) などと、教育勅語礼賛を隠さない。森友疑獄とも呼べる一連の疑惑と、同学園の教育内容への是非は別問題としてとらえるべきであるが、同学園や稲田大臣が筆頭のように教育勅語への礼賛は、この国の保守・右派界隈にまるで「常識」というぐらい普遍的に見受けられる現象である。参院予算委で社民党の福島瑞穂氏の質問に答弁する稲田防衛相=3月8日 いわく「教育勅語の復活により現代社会の道徳堕落の乱れを正す」云々。保守系の集会や講演会に行けば、二言目には「あるべき道徳社会の模範」として必ず教育勅語の存在が引き合いに出されるのだ。 この保守・右派界隈に頻出する「教育勅語礼賛」へ、私が感ずる強烈な気持ち悪さというか、違和感とは、次の二点である。1)教育勅語が存在した時代には、現代社会よりも高い道徳観が存在していたという思い込み=つまり前述稲田大臣の発言部分の「そこ(道徳観)は取り戻す」という言葉に象徴されるように、教育勅語が存在した時代には高い道徳観が存在したが、現在は失われてしまっており、よって教育勅語を筆頭とした道徳観は「取り戻すべき存在」として認識されているということである。2)教育勅語を礼賛したり、復活したりすることを勧奨し、高い道徳観を至高のものと説く人物に限って、道徳的に退廃した私生活を送っているということ=教育勅語が示す精神、例えば父母への孝行、兄弟は仲良くし、夫婦は互いに調和しあい協力し合って、慎みの精神を持ち、尊法精神の涵養すべしなど(これ自体は至極真っ当な道徳観だ)を至高のものであり、現代はそれが失われていると嘆き、よって教育勅語の復活が重要だと説く人間ほど、夫婦愛も尊法精神もない、ということである。現代日本は道徳的に退廃しているという妄想現代日本は道徳的に退廃している、という妄想画像はイメージです まず、1)の観点から見ていきたい。果たして教育勅語の存在した時代は、教育勅語の内容が示す通り、道徳的に高い時代だったのだろうか? この国の保守・右派界隈は、教育勅語が存在した戦前日本を、教育勅語の内容が示すままに、なにか高い道徳的価値観を保った美的な社会であると思い込んでいる節がある。それは現在、保守派・右派とされる文化人らの著作を少し紐解くだけで明瞭としてくる。例えばその筆頭は、保守言論界の重鎮と目される櫻井よしこ氏の著書には、次のように教育勅語とそれが存在した時代を手放しで肯定している。(教育勅語が)「朕惟フニ」で始まるために今では”悪しき帝国主義”の元凶のようにされ、否定されがちだが、そこに書かれているのは兄弟愛、夫婦、友人との人間関係の基本から、人を愛すること、国の法律を守ることまでを「十二の徳目」として列挙した真っ当な内容だ。現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった。だからこそ、明治政府はこうした事柄を国民教育の基礎と位置づけ、日本国の姿を伝統のまま守ろうとしたのだ。出典:『気高く、強く、美しくあれ 日本の繁栄は憲法改正から始まる』PHP文庫、括弧内・強調引用者(iRONNA編集部注:リンク切れ) 強調部分で顕著なように、どうも櫻井氏は教育勅語に書かれている内容そのものを「戦前日本の真の姿」と思っているようである。そして教育勅語が失われ、新たに戦後出来た教育基本法を、教育勅語と明治憲法は、対の形で日本国の土台を形成していた。そして現行憲法において教育勅語の役割を果たすのは、教育基本法のはずだ。しかし、教育基本法は、かつて教育勅語が国民に道理や道徳を教え導いたような役割を果たしてきただろうか。明らかに否である。出典:前掲書 (iRONNA編集部注:リンク切れ) と痛烈に批判したうえで、「宗教心も道徳心も消え去ったかのような現在の日本で、宗教心の育成、小さな存在としての人間を超えた大摂理への畏敬の念を養うことがどれ程大切かは、今更言うまでもない」(2016年5月)と自身の週刊誌上のコラムにて嘆き、現行の教育基本法の時代=現代の道徳観の低下を憂い、教育勅語の時代を「取り戻すべき至高の道徳の時代」であるかのように定義している。この世界観は、冒頭に登場した稲田防衛大臣の考え方と類似しているといってよい。教育勅語の時代は現代よりも不道徳?教育勅語の時代は現代よりも不道徳? しかしながら、教育勅語の時代は、教育勅語に書かれているのと真逆の、不道徳の時代であった。詳細は名著『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著 築地書館)の中に縷々描かれているが、櫻井氏が言う「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった」はずの時代に、読むもおぞましい不道徳な蛮行が行われていた。しかも教育勅語を激しく訓話されていたはずの青少年の手によって。以下、同書より重要事件を3つ引用する。1)1934年3月15日 20歳の真面目な長男が何人殺せるか試すために一家皆殺し奈良県北葛飾郡の農家で深夜二時、長男が就寝中の家族五人の頭を斧で殴り、母親、二男、長女、三男を殺害、父親を重体とした。すぐに隣家に押し入り、就寝中の長女の頭を斧で殴り、逃げようとするところを肩と足を切って重傷を負わせ母親にも切りつけたが斧を奪われ逃走、百メートル離れた線路で列車に飛び込み自殺した。出典:前掲書、年齢表示は引用者が省略した (iRONNA編集部注:リンク切れ)2)1945年4月17日 17歳が一家五人を惨殺長野県下伊那郡の農家で、三男が父親、母親、四男、二女、三女を殺害、三キロ離れた山林で猟銃自殺した。前日に近所の家から米を盗んで両親に叱られており、就寝中の両親の顔や頭をまずカナヅチで殴り、カナヅチの柄が折れると斧でめった打ちにしたもの。出典:前掲書、同(iRONNA編集部注:リンク切れ) これのどこが「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観」の時代だというのだろうか?親孝行どころか、親を含めて一家惨殺。現代なら数週間も全国ニュースで取り上げられてもおかしくはない大事件である。ちなみにかの有名な津山三十人殺し(津山事件)はこれとは別に1938年に起こっている。3)1933年7月9日 女学校3年生らの桃色遊戯グループ「小鳥組」東京市四谷区で夜十時過ぎ、裁縫女学校三年生と無線電話学校一年のカップルが、簡易旅館に入るところを警官に見つかり逮捕された。この女学校の三年生七、八人は四月に「小鳥組」を結成、「現代女性はすべからく異性と交際して、時代に遅れぬ良妻賢母を心がけねばならぬ」という誓いの下、放課後に新宿の喫茶店などで異性を紹介しあい、またお互いに相手を交換までしていた。出典:前掲書、同(iRONNA編集部注:リンク切れ)他人に道徳を強制する者こそ最も不道徳 教育勅語で道徳を叩き込まれていたはずの当時の青少年が、「良妻賢母」を大義としてスワッピング・サークル然とした「桃色遊戯」を楽しんでいた事実を、いかように解釈すればいいのだろうか。塚本幼稚園(森友学園)、稲田大臣、そして櫻井氏を筆頭とする保守派・右派の多くが「教育勅語のおかげで戦前は高い道徳の時代であった」と無根拠に思い込んでいるが、それは後世に創造された妄想に過ぎない。そして教育勅語の時代は「道徳的に善」で、戦後の現代が道徳的に腐敗堕落しているというのも、少年犯罪をはじめ、刑法認知犯全体が減少している明確なデータを鑑みても、無根拠な妄想なのである。『尋常小学修身書』(復刻版)。修身教科書は教育勅語を中心に編集された = 2012年 2月20日  教育勅語は明治国家による教育の規範として1890年に発布されたが、教育勅語の内容をそのまま時代の反映とするのは無知の極みであろう。自明のことは表明されないのだ。つまり、当たり前の常識はわざわざ言葉にされないのである。親不孝、兄弟不和、不倫・浮気、不道徳と怠慢と不正が蔓延していたからこそ、教育勅語による上からの教導が必要であった。 これは、よく教科書に登場する「慶安の触書(現在は再考証され、教科書記述から削除される方向にある)」の文面を観て、「近世江戸の農民は規則でがんじがらめにされていた」と、すわ貧農史観に直結させる考え方に似ている。自明のことは言葉にされない。それが守られないからこそ、わざわざ文面で訓話する必要があるのである。このような教育勅語礼賛の背景にある「あの時代は良かった」考こそ、無根拠で疑問視すべき歴史観なのではないだろうか。他人に道徳を強制する者こそ最も不道徳 もうひとつ「教育勅語礼賛」への強烈な違和感の二点目、「教育勅語を礼賛したり、復活したりすることを勧奨し、高い道徳観を至高のものと説く人物に限って、道徳的に退廃した私生活を送っているということ」については、端的に以下の事例を挙げるのが適当であろう。 元航空幕僚長でホテルグループ・アパが主催した懸賞論文「真の近現代史観」の第一回大賞に輝いた論文を巡る騒動=いわゆる「田母神論文」で一躍時の人となり、保守界隈の寵児となって2014年には東京都知事選挙に立候補するにまで至る田母神俊雄氏は、2010年3月、自身の公式ブログにて次のように記述している。1)教育勅語と修身の教科書を復活せよ 戦前の日本人の自立心や道徳観の高さを支えていたのは、教育勅語と修身の教科書である。(中略)教育勅語というと、その言葉を聴いただけで拒否反応を示す人たちがいると思う。しかし、教育勅語に書いてあることは、今現在でも世界中に当てはまる極普通のことだけである。親孝行をしましょう、兄弟仲よくしましょう、夫婦仲良くしましょう、人格を磨きましょう、国家に緊急事態が起きたときは、みんなで力を合わせて公のために頑張りましょう、とかいうものである。修身の教科書は、教育勅語を具体例を挙げて解説しているものである。(中略)これら二つが戦前のわが国の道徳教育を支えていたのである。現在の教育を正常化するためにはこれら二つを復活すればよいのではないかと思う。出典:田母神俊雄公式ブログ・教育勅語と修身の教科書を復活せよ、強調引用者不道徳に満ちた二枚舌 この世界観は前述櫻井氏と大差ないように思えるものだ。しかし罪深いのは、このように一方で教育勅語の特高い道徳観を至高のものとしてその復活を他者に強要する一方で、自身の私生活は不道徳に満ちた二枚舌であった、ということである。田母神の私生活については、2014年12月5日に産経新聞が次のように報じている。 田母神氏は、30年以上連れ添った妻と2人の子供がいるが、5年ほど前に出会った50歳前後の女性と恋仲になり、一時は自分の秘書にした。2年前に田母神氏は妻と離婚して女性と結婚しようとしたが、妻は拒否して離婚訴訟に発展した。出典:田母神氏、フライデー「不倫」報道に正面反撃! FBで「交際中の女性守らねばならぬ」と吐露 激励「いいね!」殺到、強調引用者 民事の「泥沼」離婚裁判なので、原告・被告の双方どちらが正義ということはない。双方に理があり主張があるのであろう。よってこれについての論評はしないが、仮に事実がこの記事のとおりであったとして、「30年間連れ添った妻と2人の子供」をおざなりにして50歳前後の女性と不倫するのは、教育勅語の謳う「夫婦の協和・協調」と著しく矛盾するのではないか。少なくとも声高に教育勅語を引き合いに出して道徳の崇高さを謳う人の言としては不適切のように思える。教育勅語の復権の必要性を訴える田母神俊雄氏 =2011年 8月28日、さいたま市大宮区 田母神は前述2014年に出馬した東京都知事選挙に関連した公職選挙法違反の疑いで2016年4月14日に東京地検特捜部に逮捕、その後起訴され、現在裁判中。つい2017年3月10日には、検察側が2年を求刑したというニュースが流れたばかりである(判決5月22日)。こちらは歴とした刑事事件の被告人として「悪」が裁かれることに相成ったわけだが、これも、教育勅語が謳う「尊法精神」から著しく逸脱してはいまいか? 教育勅語の道徳観を礼賛することは自由だ。そこに書かれていることは、大変に常識的なことばかりであると私も思う。しかし教育勅語の存在した時代を一方的に「道徳的に高い時代」と位置付けたり、或いはそこから援用して現代を「道徳的に退廃している」と糾弾し、教育勅語の時代を「取り戻すこと」に躍起な人々の中の少なくない部分には、田母神のように片方で道徳を唱え、片方で平然と不道徳(とみなされるような民事裁判や刑事犯罪)を冒す二枚舌の人物が存在することを忘れるべきではないのではないか。実現してしない教育勅語の理想 むろん、戦後の日本とて、すでに前述した『戦前の少年犯罪』の例のように、青少年による猟奇事件・性愛事案は数多く存在する。ということは、戦前も戦後も等しく道徳は廃れていたのであり、「戦前が善で戦後が悪」という一方的な時代の「色分け」は不適用である、ということも存分にできよう。土台、時代に「善悪」の塗り分けなど無意味であり、教育勅語が存在した時代も現在と同じように人々は不道徳で、悪徳が栄えていたのである。そんな当たり前のことを教育勅語の存在を盾に認めないのはアンフェアだ。 実は、例示こそしないものの、過去の時代(戦前日本)を過度に礼賛し、教育勅語に代表される教育の理想をとうとうと説く保守派・右派とされる人々の中には、この手の人物が少なくない。 道徳を声高に叫ぶ一方実は隠し子が居たり、妻や夫がありながら「保守界隈」の中で出会った相手と平然と不倫をくりかえし、表向きは「凛とした日本男子・大和撫子」などと厚顔無恥に喧伝する人々を私は何十人と知っている。 私は彼ら彼女らの不道徳を糾弾しているのではない。誰しも不道徳を楽しんでいる側面はある。繰り返すように、それは戦前・戦後の別なくである。であるならば、他者に道徳を強制するべきではない、ということだ。少なくとも、自分が不道徳な人間なのに、他人に対してだけ道徳を強制するのは筋違いだ。己の不道徳を自覚するなら、他者の不道徳にも寛容でなければならない。 教育勅語が発布されて120年以上が経つが、いまだ教育勅語の理想というのは、良い意味でも悪い意味でもこの国の中で実現していない。しかしそれは、おそらく古今を問わず人間の自然な姿なのだろう。改*2017/3/10*19:50 (「Yahoo!ニュース個人」より2017年3月10日分を転載)