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    箱根駅伝「完全生中継」から見えてくる日テレの功罪

    飯田豊(立命館大産業社会学部准教授) 箱根駅伝の成り立ちは大正時代までさかのぼるが、「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としてテレビで楽しまれるようになったのは、それほど昔のことではない。「マスメディアに媒介されたイベント」として箱根駅伝を捉えるならば、目まぐるしい変化の積み重ねによって、革新が伝統を創造してきたと言っても過言ではない状況が見えてくる。 大会の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。報知新聞社が主催する「四大校対抗駅伝競走」として1920年に始まっているので、およそ100年の歴史がある。今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公で、日本マラソンの祖とされる金栗四三たちが、欧米の選手と肩を並べて活躍できる長距離ランナーの育成を目的に、東京箱根間の大学対抗駅伝の開催を思い立ち、報知新聞社に企画を持ちかけた。 1920年の第1回大会は、往路が2月14日、復路が15日という日程で、選手は午前中に大学の授業を受けた後、13時にスタートした。箱根の山中を走る頃には日が暮れるので、地元青年団がたいまつをかざして選手を誘導したという有名な余話がある。 駅伝は日本発祥の陸上競技種目であり、江戸時代に交通や通信の手段として整備された「宿駅伝馬制度」に由来する。読売新聞社の協賛記念事業として1917年、京都から東京まで23区間をリレーする「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されたのが、駅伝の始まりとされる。 朝日新聞社が主催する「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」の前身にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開かれたのが1915年のことだ。このような大会を新聞社が主導してきたのは日本独特のことであり、各社が新聞読者を獲得するための事業戦略のせめぎ合いから、箱根駅伝は生まれたとも言える。 そして戦時下、言論統制を目的とする新聞統合(一県一紙制度)によって報知新聞社と読売新聞社が合併し、箱根駅伝は戦後、読売新聞社が関東学生陸上競技連盟と共催する事業として発展することになる。 それに対して、日本テレビによる完全生中継が始まったのは1987年のことであり、実は全国的な注目を集めるようになってから30年余りに過ぎないのである。第63回箱根駅伝=1987年1月2日 箱根駅伝は戦後まで、ラジオで中継を聞くこともできなかった。NHKがラジオ放送に乗り出したのは1953年1月のことだが、現在は文化放送とアール・エフ・ラジオ日本もラジオ中継を行っている。 1979年から1986年までは、テレビ東京(1981年まで東京12チャンネル)がダイジェスト番組を放送し、最終10区のみを生中継していた。NHKは年末年始恒例の中継番組が立て込んでいたので、放送機材を箱根駅伝のために集めるのが難しかった上に、箱根駅伝そのものが関東のローカル大会であったことも重なり、全国放送を躊躇(ちゅうちょ)させたのである。日テレは乗り気じゃなかった また、読売新聞との関係を踏まえれば、日本テレビが放送するのは自然な流れだったが、当時は乗り気ではなかったという(杉山茂「「ラジオ・スポーツ」から「テレビの華」へ ―放送技術を結集させた箱根駅伝」『箱根駅伝の正体を探る』創文企画、2016年)。 というのも、箱根の山岳中継は過酷を極めるためだ。日本テレビは80年代、全区間生放送に備えて中継が可能な場所を徹底的に調査し、中継車の大改造も行ったという。長年にわたって箱根駅伝を手掛けた日本テレビの黒岩直樹氏によれば、第一回の中継では、踏切で1号車が先頭ランナーに抜かれてしまったり、箱根での宿泊や食事の手配が間に合わなかったりと、ハプニングが続出したらしい。 それでもお笑い中心の「おせち番組」(=年末に撮りだめして、新年に放送される番組)に飽きていた視聴者には支持され、予想を上回る平均18%の視聴率を記録した(黒岩直樹「わたし流番組論49 たすきの瞬間のドラマ ―箱根駅伝を撮る」『月間民放』2000年3月号)。 そして1989年に初めて、全区間の完全生中継が可能になった。その一方で、日本テレビは事前収録したVTRを効果的に挟んで、注目選手やその人間ドラマを丁寧に紹介した。黒岩氏によれば、箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではなく、「スポーツ・ドキュメンタリー生中継」を基本コンセプトとしてきたという(同上)。 1988年には箱根を全国大会にする提案も持ち上がったが、初代プロデューサーの坂田信久氏は、テレビ中継を行うことで箱根駅伝を変えてはいけないという考えから、これを断ったという。長年の番組スポンサーも、企業名を露出することよりも、大会を共催して支えようという考えの方が強いらしい(『週刊東洋経済』2008年1月26日号)。第95回箱根駅伝、2区の川澄(右)へたすきをつなぎ、倒れ込む大東大1区走者の新井康平=2019年1月2日、横浜市・鶴見中継所(斎藤浩一撮影) 日本においては、マスメディア企業体が主催し、自ら積極的に報道する「メディア・イベント」は枚挙にいとまがないが、複数の新聞社や放送局によって今日まで育まれてきたところに、箱根駅伝の特異性がある。 それでも、日本テレビによる中継が始まったことで、箱根駅伝を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、従来は1月中旬に開催されていた「全日本大学駅伝対校選手権大会」が88年度から11月に変更され、全国大会が地区大会の前哨戦に位置づけられるという「逆転」が生じた。 また90年代に入ると、箱根駅伝で上位に入った大学は全国的に知名度が高まり、受験志願者が増える傾向がみられるようになった。これに大学経営陣も敏感に反応した。テレビ中継の開始後に選手育成を強化し、優勝を経験した大学も少なくない(生島淳「大学全入時代がもたらした箱根駅伝の「経済戦争」」『エコノミスト』2010年1月5日号)。テレビ中継の功罪 その結果、才能のある高校生が強豪校から熱心に勧誘され、優れた選手が関東に遍在するという事態が一層進んだ。さらに、優秀な選手が箱根駅伝を区切りに競技生活を終える「箱根駅伝燃え尽き症候群」も、ますます問題視されるようになった。 これらの問題に対しては、まったく異なる見方もできる。スポーツ人類学に取り組む瀬戸邦弘氏は箱根駅伝を、国際スポーツの価値体系とは必ずしも折り合いがつかない、地域独自の文脈に根差した固有の価値体系を有する「エスニック・スポーツ」として捉えている。 瀬戸氏の指摘で興味深いのは、日本テレビが当初、箱根山中の電波状態が脆弱(ぜいじゃく)であることを踏まえて、生中継が中断したときの予備映像、いわば「つなぎ」のコンテンツとして制作した「箱根駅伝今昔物語」が、思わぬ形で果たした役割である。 箱根駅伝を支えてきた人々に焦点を当て、そのライフヒストリーを紹介しながら、大会の歴史を伝える名物コーナーだが、瀬戸氏はこれによって「箱根駅伝という番組自体が90年を超える時空間を自由に行き来する歴史的でありながら、共時的なバーチャル空間として成立することになった」という。 要するに、各大学の競走部(陸上部)の中で集団の記憶として受け継がれていた伝統重視の価値観が、番組を通じてクリアに可視化され、視聴者との間で広く共有されることになったのである。 明治期以降に成立した体育会運動部文化の延長線上にあると捉えれば、箱根駅伝の創設理念には反するが、オリンピックを頂点とする国際スポーツ文化の価値体系とは容易に馴染(なじ)まない。「箱根駅伝燃え尽き症候群」を嘆くのは、あくまで国際スポーツ文化の価値体系に基づく見方である(瀬戸邦弘『エスニック・スポーツとしての「箱根駅伝」』『文化人類学研究』14巻、2013年)。第94回東京箱根間往復大学駅伝、転倒する国学院大9区・熊耳智貴さん=2018年1月、神奈川県横浜市(撮影・斎藤浩一) 箱根駅伝で活躍した選手に対して、次は国際的な大舞台で結果を残すことに期待をかけるのも、逆に体育会運動部の伝統的な価値観を再生産しているのも、いずれもマスメディアに他ならない。この乖離を調停することは、箱根駅伝に関わる新聞社や放送局の使命ではないだろうか。 そしてこの議論こそが、選手に対する安全配慮のあり方を反省的に見直すことにも直結するだろう。持久力をつけるために長距離をひたすら走り込むという練習法によって、国際的な舞台で活躍できるスピードが身につかないという「箱根駅伝有害論」は戦前から指摘されていた(1938年には早稲田大と慶應義塾大が出場を辞退している)が、それどころか選手生命に関わる故障につながりかねないリスクを伴っていることも、現在では広く知られている。 テレビ放送の高視聴率、すなわち「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としての定着が、次なる変革に対する足止めになるのは望ましいことではない。冒頭で述べたように、箱根駅伝の伝統を裏打ちしているのは、メディア・イベントとしての革新に他ならないのだから。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    奨学金制度は何が問題か

    大学進学などで利用した奨学金の返済が行き詰まる「奨学金破産」が増えているという。「奨学金というシロアリが社会を食い荒らす」。制度へのこうした批判が相次ぐ中、日本学生支援機構(JASSO)の遠藤勝裕理事長がiRONNAに反論手記を寄せた。ニッポンの奨学金制度は何が問題なのか。

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    JASSO理事長手記「奨学金シロアリ報道に反論する」

    スではあるが、制度の現状と課題について申し上げたい。 そもそも、JASSOの奨学金は、憲法第26条と教育基本法第4条に定められた「教育の機会均等」を実現するための国の制度である。制度の発足は古く、昭和18年10月まで遡(さかのぼ)るが、以来支援した学生数は1288万人に上り、その若者たちが戦後復興から経済発展の担い手となり、70有余年に亘り日本社会を支えてきたと言えよう。そして現在は高等教育機関に学ぶ学生のほぼ3人に1人をJASSOの奨学金が支援しており、社会を支える重要インフラとして機能している。決して「シロアリ」などではない。 平成29年度の貸与人員は約130万人、貸与金額は1兆円に上り、わが国全体の奨学金事業のほぼ9割を占めている。貸与人員の8割強は大学、大学院などであるが、特徴的なのは専修学校の学生も22万人近くに上っているほか、放送大学等通信制で学ぶ人たちも支援していることである。 このため、貸与学生の在籍学校数は3647校を数え、うち専修学校は2485校と7割近くを占めている。JASSOの奨学金は専門的技術・技能の習得に向けて学ぶ学生を支えており、この面でも社会の重要インフラとして機能している。 貸与奨学金には無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、ここ数年は奨学生の負担軽減のため、無利子のウェイトを高めている。ちなみに平成25年度の25%に対して29年度には33%、約3分の1が無利子となっている。 なお、有利子の金利について、「3%という高利を貪っている」と誤解され、あるいは歪曲され喧伝されることがあるが、3%は法令上定められた上限金利である。実際にはJASSOが国から借入れる財政融資資金の金利と同一に設定され、現在は0・01%(変動の場合)、そしてこれはそのまま国に償還しており、JASSOが民間金融機関の様に「利鞘(りざや)を稼いでいる」ことは全くない。 ところで年間1兆円にも上る巨額の貸与原資をJASSOはどう調達しているのであろうか。ちなみに平成30年度予算では、8割強(81・9%)が返還金となっており、これは返還者が稼いだ金が後輩たちへの貸与資金となっていることを意味しており、この流れは「健全な日本社会の象徴」と私は自負している。日本学生支援機構の遠藤勝裕理事長(同機構提供) なお、残り2割は財政資金のサポートを受けているが、有利子奨学生については、在学中は金利負担を猶予しているため、この間は規則により財政資金が借りられず、債券発行や借入により、民間の金融市場から調達している。余談ながらJASSOが発行する債券は、国際資本市場協会(ICMA)が定める社会的課題解決のために発行される社会貢献度の高い債券、いわゆる「ESG債」と認定されており、JASSOは国際的にも「社会貢献度の高い組織」と位置づけられている。 さて、こう記してくると、「貸与原資となっている返還金の元は何なのか」との疑問がわいてこないであろうか。そもそも制度スタートの時に資金がなければならないからである。昭和18年10月に「大日本育英会」(JASSOの前身)としてスタートした際、まず国は財政資金100万円(当時)を投じているが、翌昭和19年4月、昭和天皇自らが御手許(おてもと)金100万円を拠出され、あわせて200万円(当時)でJASSOの事業が始まっている。 この200万円を原資として、以後連綿として「貸与、返還、貸与」の好循環が繰り返され、現在の資金規模となっている。元を正せば天皇陛下の拠出金を含め全て公的資金である。返還率は上昇 前述の通り、貸与原資の8割が返還金であり、これが大きく滞れば制度が成り立たなくなるか、あるいは公的資金(税金)の追加投入を余儀なくされることになろう。時に「JASSOは高利貸のように取り立に狂弄(きょうほん)している」と非難されるが、返還にこだわるのはまさに「次世代への貸与原資」を確保しなければならないからだ。 ちなみにJASSOが日本育英会から事業を引き継いだ平成16年度末の3カ月以上の延滞者数は18万3千人で、返還者数の9・9%にも上っていたが、29年度末は15万7千人、同3・7%にまで低下している。返還率で言えば90・1%から96・3%にまで上昇している。仮に16年度の10%近くの延滞率が続いていたとすれば、制度の存続について大きな議論になったのではないかと推測される。 この延滞率の低下、返還率の上昇は、基本的には日本の若者たちの生真面目さによるものと思われるが、この間にJASSOが制度存続のために尽くした様々な努力、例えば延滞者への地道な働きかけ、債権回収会社(サービサー)への回収委託、個人信用情報機関への登録などの成果と言えよう。 こうした中、400万人にも上る返還者の中には様々な事情(病気、失業など)により返還したくても返還できない人も存在している。このため、減額返還、返還期限猶予、返還免除などの救済制度(セーフティネット)を設けており、近年は返還者の実情に応じ、制度の充実に努めている。同時にこれらの周知徹底にも取組んでいるが、残念ながら制度を知らずに延滞に陥る方々も存在している。返還が困難な状況になった場合には悩まずに、遠慮なくJASSOにご相談いただきたい。 冒頭にも触れたように、奨学金破産や保証人問題が大きく報道され、あたかも奨学金制度自体を否定する様な論調も見受けられる。これはまさに「木を見て森を見ざる」の議論と思われる。従ってこれらについての事実を申し上げ、奨学金により大学や専修学校への進学を考えている若者たちが、奨学金制度を安心して利用できる一助としたい。 まず「奨学金破産」について申し上げたい。奨学金返還者のうち平成28年度に新たに自己破産に陥ったのは2009件、返還者全体の0・05%である。これが多いのか少ないのか、立場によって議論も分かれるところであるが、わが国全体の自己破産割合(20歳以上の人口1・1億人に対し、6万3727件の自己破産)は0・06%であることが一つの目安となろう。 ただ、JASSOの立場からは「奨学金破産」という造語自体に違和感を抱いている。それは、自己破産の債務内訳を知り得る限り調べると奨学金のウェイトは平均して2割前後であり、中には億単位の債務のうち50万円が奨学金といったケースも「奨学金破産」とされている。さらに破産者の31%は破産時に奨学金は延滞していない事実もある。大学入試センター試験に臨む受験生ら=2017年1月、東京都文京区の東大 (福島範和撮影) 昨今、奨学金の延滞者に対し「自己破産を勧めている人たちがいる」との報道もあるが、JASSOの立場からは極力法的措置、裁判所の判断に委ねることとしている。理由は2点、すなわち自己破産はJASSOの債権が損なわれ、これは公的資金(国民の税金)のロスにつながること、そして自己破産は返還者本人の経済的な再起を難しくすること、などである。 次に、保証人問題について申し上げておきたい。最近大きく報道されており、世の中的には奨学金制度上の大問題のように受け止められているが、制度全体の極く一部の事象として捉えている。なぜならば、報道では「分別の利益がある保証人に対し全額請求」としているが、対象者は29年度中に167人、22~29年度累計で825人程であり、その比率は、返還者全体の0・02%、人的保証選択者の0・04%と極めて低いためである。 そしてJASSOの「法的には問題ない」との姿勢が誤りとする見解も見受けられるが、改めてJASSOに差入れられている保証人の保証文面を見ると「保証人は本人が負担する一切の債務につき債務履行の責を負う」と明記されている。ただ、法的な議論はさておき、奨学金絡みで一人でも問題を抱えている人がいるとすれば、JASSOは問題解決に向け、前向きに対応しているので積極的に相談窓口に連絡していただきたい。「給付型」は理想論 私は平成23年7月に理事長に就任して以来7年有余、様々な課題に直面しながら関係者、とり分けJASSOの職員と共に走り続けてきた。解決できたこと、まだまだ途上にあるもの、さらには新たな課題も発生しているが、それらは大きく入口、真中、出口と三つの時間軸に存在する。 これは奨学金の申込者への対応に課題が集約される。手続きが煩瑣(はんさ)、分かりにくい、説明書の字が小さいなど、ここでは本人、保護者らに対する親切な説明と同時に高校らの先生方の協力も不可欠と認識している。このため、29年度から日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協力の下、スカラシップアドバイザー制度を創設、約3千人のアドバイザーを高校などへ派遣して丁寧な説明に務めている。 要望があれば大学などのオープンキャンパスに出向くこととしている。ただ、毎年のように奨学金制度の変更や新設があり、とりわけ学校現場からの苦情、要望が多いのが実情だ。これらにいかに親切に対応していくか、大きな課題と認識している。 そして、まず第一の課題は在学中の適格認定の問題で、すなわち奨学生としてふさわしい状態にあるかについて、大学などにしっかり把握してもらう必要がある。現在の制度が形骸化しない工夫も必要と考えている。第二は貸与学生の金融リテラシー向上のサポート。現在新入生の段階で、「本当に必要な金額?借り過ぎに注意!」と啓蒙しているが、在学生に対しても同様のアピールをすると同時に、減額や貸与辞退も可能と呼びかけている。第一、第二の課題は奨学金と勉学とを学生たちにどうリンクして意識づけるか、ということであり、この面での学校サイドの理解とJASSOとの連携強化も大きな課題である。 JASSOの貸与奨学金は通常、卒業してから半年後の10月に返還が始まる。前述の様にこの返還率は新規返還者で97%、全体でも96%と極めて高い。しかしながら、母集団が大きいため人数的には、全体で15万7千人が3カ月以上の延滞者となっている。確かに16万人近くが延滞しているが、逆に410万人は通常通り返還しているのは誇るべきことである。 しかし、JASSOとしては、延滞状況に陥った返還者への対応、すなわち前述のセーフティネットのさらなる充実が大きな課題である。そして、自己破産や保証人問題が指摘される中、保証人制度の抜本的改革も基本的な課題として視野に入れるべきであろう。すなわち、奨学金の人的保証制度を廃止し、機関保証制度に一本化するということである。もちろんこの実現のためには、保証機関、保証料率の水準と徴収方法、既往返還者への対応など検討を要する事項も少なくないが、フィージビリティスタディ(実行可能性調査)を開始すべき時期にきているのではなかろうか。学生らに胴上げされる東大合格者ら=2011年3月、東京都文京区の東大(三尾郁恵撮影) 奨学金制度改革の理想は全て返還負担のない給付型にすることであろう。しかし、全て給付型の先進国では、財源としての消費税率は20~30%と高く、わが国の実情からはなかなか難しい。従って今後の現実的な対応としては、貸与型に給付型をミックスし、貸与型をより返還者の立場に立って改善していくことである。 幸い現在法的にも給付型が可能となり平成30年度から本格的にスタートしているのは、その一つの足掛りとなろう。また、29年度から全て機関保証を条件とし、所得に応じ返還額が変動する新たな所得連動返還制度も始まっている。こうしたことの拡充により「日本型」の奨学金制度がより進化していくことを願って止まない。

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    奨学金取り立てが「サラ金と同じ」でどうする

    べる現状からすればマイナスの変化にもなりかねません。 奨学金の制度は、本来は子供が高校や大学等の高等教育を受ける際に経済的負担が大きくなるものの、その後就職して経済的に充実していくという流れを前提に、一時的にお金が不足する期間のある学生に、お金を貸し、卒業後の経済活動で返済していくことをモデルとしているものと考えられます。しかし、現在学生たちが置かれている経済状況を前提にすると、就職難、ワーキングプア、非正規雇用など、実際にはモデルのように生きることが難しい現実があります。 奨学金に関して、学生側が意識的に検討すべき内容として、教育機関で得られるものとそれにいくらお金を払うかということを冷静に見るべきでしょう。大学に行く目的、そこにかける費用は「みんなが行くから行こう」と思って行くには、随分と高くつくようになっていると思います。 もちろん、奨学金は、学生が無金利または低い金利でかなりの金額を借りることができる非常に有り難い制度であって、さらには返済の際に返済期間の猶予制度などもあり、適切に制度を利用すれば奨学金制度は好ましいものでしょう。 しかし、今回の問題でも明らかになったように、日本学生支援機構は、返済の際には普通の金融機関と同じように、厳しい請求をします。だからこそ、奨学金を借りる時には、なぜ借りるのか、なぜお金を借りても学ぶのかを吟味する必要があるでしょう。※画像はイメージです(GettyImages) また一方で、仮に酷に思える回収をせずに、日本学生支援機構が貸与した奨学金を返せる人から回収できていないとなれば、次の世代への貸し付けをする原資がなくなり、奨学金として貸したお金を無駄にしてしまうという別の問題になりえます。 学生の経済的困窮を教育期間中に軽減することが奨学金の目的であり、保証人からの回収というのは、そもそも借りた学生本人とその連帯保証人の親が返済できなかったことを意味しています。その意味は、単に日本学生支援機構の取り立てが公正性を欠くということ以上に、この国の若年層の経済事情と教育制度のあり方についての課題を提示していると考えられます。

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    「奨学金は借りたくない」キャバ嬢学生の思いは本当に甘えなのか

    ので、学力が足りなければ公立や私立へ進学するしかない。 さらに、学力は、幼少期からの塾通いなど多額の教育投資ができる富裕層ほど高くなる。東大生の親は約6割が年収1千万円以上だ。国立教育政策研究所の濱中義隆総括研究官によるデータ解析では、国立大生の親の方が、公立や私立よりも「年収1050万円以上」「850~1050万円」の割合が高いという。皮肉というべきか、授業料の安い国立大に通うためのチケットは、富裕層ほど安く手に入るのだ。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) 以上のことから、もはや高い学費を払って国立以外の大学に通う学生は多数派であるといえる。親の収入状況で進学先が左右される以上、借金してまで大学に通う学生を「本人の甘え」とか「努力が足りない」などと非難するのは早計だ。 ある女子学生は、学費と生活費を補うため、ファストフード店でアルバイトを始めた。時給800円。授業の後に1日3時間働いて週4日、1日2400円、1カ月で4万円にもならず、毎月12万円かかる生活費が払えない。利益と搾取に「絶望」 ある日、繁華街で配られているポケットティッシュに「誰でも簡単、高収入」の文字を見つけた。「お酒が飲めなくてもOK」「週1日~時給4千円以上、1万円も可」と書いてある。ファストフード店と比べておそろしく魅力的な条件だった。そう、キャバクラである。 拙著『キャバ嬢の社会学』でも述べたが、キャバクラやガールズバーの多くは、水商売の初心者でも「気軽に」働けることをウリにしている。「飲酒なしでOK」「ノルマなし」「未経験者歓迎」など、若い女性ならほとんど誰でも良いというようなキャッチコピーで人を集めるのだ。 彼女は勇気を出して面接へ行った。ニコニコしたおじさんが出てきてシステムの説明をされ、身分証を提示したら、その日から働くことができた。夜中の12時まで4時間働き、1万6千円を手にした。ファストフード店の5倍。親への罪悪感はあったが、学費を払うために四の五の言う暇はなかった。 そこからは、週3回キャバクラ勤務の日々が始まった。毎月12万円の生活費、年間100万円の授業料は払ったが、寝ずに授業へ行く日が続き、ノルマのために深酒するようになった。2年以上、キャバクラ嬢として売り上げを上げ続けたが、ある日、色恋に狂った客からレイプされそうになり、店のスタッフがそれを止めなかったことで、全てが嫌になった。自分が若さや女を売りにして利益を得ることが、搾取されることと表裏一体であることに絶望したのだ。 「ものすごく傷ついたし、学費を払うためにどうしてこんなに苦労しなきゃいけないのか、最悪だと思った。でも、いろいろ大事な経験をしたと思う」と、彼女は静かに語った。 これは私の肌感覚だが、2008年のリーマン・ショック後に、キャバクラ嬢として働く女子大生が急激に増えた。理由はほとんどが「親の仕送りがなくなったから」。一見するとキャバクラで勤務しているようには見えない、というと語弊があるが、世間が思う派手なキャバクラ嬢とは違う、「真面目そうな普通の女子大生」が夜の店で働くようになった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 時を同じくして、ガールズバーやラウンジなど、キャバクラよりもさらに「ゆるい」形態の水商売が盛り上がりを見せた。飲酒しなくてよい、私服でよい、髪の毛をセットしなくてよい。接客はカウンター越しで、セクハラの心配も少ない(ということになっている)。夜の仕事のハードルはどんどん下がり、親の仕送りに頼れない学生や、生活費にゆとりが欲しい学生の一部がそこへ流れていった。 「大学のユニバーサル化」は同時に、「水商売に従事する大学生のユニバーサル化」も進めた。男子学生さえ、例外ではなかった。「やっぱり病みますよ」 「奨学金とか高いじゃないですか。借金するくらいなら、自分で稼いだ方が全然いいと思ったんで」 ある男子学生は、親が無理して通わせてくれた理系学部の授業料、年間200万円を工面しようと、新宿の歌舞伎町でスカウトマンの仕事を始めた。街で女性に声をかけ、風俗産業へと斡旋(あっせん)する。別の大学の友人は、週1日の出勤で月収30万円を稼いでいた。「完全自由出勤」「完全歩合制でノルマなし」という条件に引かれた。これなら授業と両立できる。 面接は雑居ビルの一室で、スーツを着たコワモテのお兄さんたちに囲まれて怖かった。「とにかく女の子に声をかけて、キャバクラか風俗店に連れて行って」と言われ、新宿へ通う日々が始まった。 女性と話すのは好きだったので、ナンパのようなノリで声をかけ続けるのも、それほどつらくはなかった。大学の同級生からは「女性にモテる」「コミュ力が高い」と褒められるようになった。 キャバクラ嬢を新しい店に紹介できれば、店から一件あたりいくらかの収入が手に入る。性風俗店なら、その女性が勤務し続ける限り、女性の給料の10%が彼の懐に入り続ける。月収は30万円を超えた。だが、本音は「やっぱり病みますよ」。 「女の子の愚痴や色恋の管理とか、あとは罪悪感。ヤバい人たちとの絡みもたまにありますし。でもこれ以上稼げる仕事はないです。やりがいもあるし。でもそろそろ単位が危なくなってきたので、ちょっとキツいですね」 信じられない人もいるだろうが、多くの学生にとって夜の世界は、奨学金に頼らず学生生活を送るための手段になっている。学費のためにキャバクラやクラブ、性風俗店などで働く大学生のほとんどは、奨学金を借りていない。そして、たいてい私立大に通っている。彼、彼女らは「自立」するために、大人の社会に依存する。いずれも「親に甘えずに」大学へ通おうとした結果である。 ある女性は、学費のために銀座のクラブで働いたが、その目的は「クラブに来る客の中から、自分を経済的に支えてくれる人を探すためだった」という。20歳の彼女が見つけたのは59歳の会社役員。学費を払ってもらう代わりに、体の関係を提供している。 深夜まで勤務するホステスやクラブは学業と両立できないので、「スポンサー」ができたらすぐにやめるつもりだった。還暦間近の男性とホテルで会うたびに虚しさが募ったが、最近は慣れてきたという。大学を無事に卒業し、無借金で社会に出ることが彼女にとっては何より大切だからだ。「貸与型」では限界 友人にも似たようなパターンの女子大生は多いという。昨今流行りの「パパ活」も、一部は学費を捻出するために行われているのかもしれない。 彼女たちにとって、学生生活を送ることはお金を稼ぐこととほとんど同じである。それでも大学へ行きたい。親には頼れない。でも奨学金は借りたくない。だから大人の社会を利用し、また利用されてお金を稼ぐのである。それでもまだ、「甘えるな」と言う資格が私たちにあるだろうか。 「そこまでして大学へ行く必要があるのか」という問いには、こう答えよう。高等教育の充実は社会的な善であり、よほどの代替案がない限り、大学進学率の上昇は歓迎されるべきことだ、と。やみくもに「大学へ行くな」という権利など誰にもない。 学生を借金漬けにする、もしくは学業に支障をきたすほどのアルバイトを強いる。言うまでもなく、これほど高額な授業料がそもそも問題なのだ。対処するには、全大学の8割を占める私立大が、貸与型ではなく給付型の奨学金制度を増やさなければならないだろう。授業料の減免制度を設けている私大は多いが、個別の大学ごとの格差が大きい上、学生の授業料負担を平均して下げる効果があるとまでは言えない。 だからこそ、私大同士が垣根を越えて資金を出し合い、給付型の奨学金制度を新たに作ることが望ましい。まずは生活費負担が相対的に重い、都市部の私大から連携を始めてはどうか。 こうした大学のうち、特に難易度が中程度から高程度のマンモス校は、地方からも多くの学生が集まる。地方から都市部へと、若年人口を吸い上げる代わりに、給付型の奨学金で彼らの生活費負担を少しでも下げることはできないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 資本の論理でいけば、こうした提案は利潤追求に反するかもしれない。が、若者に「甘えるな」と自己責任論を押し付け、やたらと高額な学費を吸い上げる高等教育機関など、無責任以外のなにものでもない。 大学とは経営主体である前に、教育理念を持った社会的存在であるべきだ。2人に1人が進学する時代だからこそ、「大学の社会的責任」を、学費負担という観点からも検討すべきではないだろうか。

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    「学歴」が分断する現代日本社会

    な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。 ―学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) ―トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。学歴による高い同質性 ―日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013~14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。 ―半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか? 吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。 ―吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。 吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社) 彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。 ―なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。 吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。なぜ切り離されているのか ―なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか? 吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。 ―彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか? 吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。 ―多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。 吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。ほんだ・かつひろ ライター。1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    奨学金に絡む自己破産者は15000人以上 増加傾向にあり

     「まさか大学に行ったことが、人生の“枷”になるとは、予想だにしていませんでした」。都心の飲食チェーン店でアルバイトをして暮らすA子さん(28才)は、ガックリとうなだれる。 東京の有名私立大学を卒業後、念願のアパレル業界に入社。しかし残業は毎月70時間を超え、給与は雀の涙。完全にブラック企業だった。人間関係にも悩み、わずか2年間で退職。以降、派遣やバイトなど非正規で働く日々を送っている。そんな彼女に今、重くのしかかるものがある。「学生時代の奨学金です。合計300万円超。まだ半分も返済できていません。社会人になったら毎月2万円ずつ返す予定だったのですが、延滞し続けていて…。現在、アルバイトの給与が月に手取り11万円で、家賃が5万円。生活費の5万円を引くと、どうしても払うことができないんです」 そう話すA子さんは最近、真剣に自己破産を検討しているという。 「奨学金を借りた日本学生支援機構(JASSO)からは催促の通知が絶えません。ただ、自己破産しても連帯保証人である親に支払い義務が行ってしまうので、それも申しわけなくて。もう、どうしたらいいのか…。完全に袋小路に追い詰められています」(A子さん) 彼女のケースは氷山の一角だ。昨今、学生時代の奨学金の返済ができずに破産する人が激増している。JASSOによれば、返済の滞納が3か月以上続く人は、16万人(2016年度末時点)。「今後決められた月額を返還できる」と回答した人は3割強しかいなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 奨学金に絡む自己破産者は、2016年までの5年間で1万5338人。内訳は本人が8108人、保証人が計7230人。2016年度は過去最高の3451人が破産した。「年収300万円以下など低所得者を対象にした奨学金の返済猶予制度の猶予期限は10年。期限切れによる自己破産者は今後さらに増える見込みです」(全国紙記者) なぜこんな事態になったのか。『ブラック奨学金』(文春新書)の著者でNPO法人『POSSE』代表の今野晴貴氏が語る。「根本的な原因は学費の高騰です。国立大の授業料は2017年時点で年間約53万円。過去40年で15倍近く上がっている。私立はさらに高い。入学金も含め、4年間支払うのは家計に大きな負担がかかります。結果、奨学金に頼る学生が急増しました」 現在、奨学金の受給者数は130万人にのぼり、20年前の46万人から3倍近く増加した。学生の2人に1人がなんらかの形で奨学金を借りている状態である。ここに、就職難とブラック企業問題が重なった。「MARCH(明治、青学、立教、中央、法政)を出ても非正規労働者がゴロゴロしている時代です。正社員でも過重労働で超低賃金というブラック企業も多い。体調を崩して休職したり、辞めてしまったりすると、奨学金の返済は至難になります」(今野氏)関連記事■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 早稲田vs慶應 奨学金の延滞人数は早大が慶大の3倍■ 奨学金受給率と入試難易度に相関関係 難関大ほど受給率低い

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    「高等教育の無償化」が救うのは学生でなく倒産危機の大学

     安倍政権が打ち出した「高等教育無償化」は、“奨学金を借りる学生を減らす政策”に見える。だが、本当にそうか──。 過当競争で私大の4割が定員割れを起こしているのに加えて、今年から18歳人口が急激に減少に向かい、奨学生が払う学費では大学経営が維持できなくなってくる。安倍政権の掲げる「大学無償化」からは、“奨学金でこれ以上、大学生を増やせないのなら、授業料を国が払って18歳全員が大学に行けるようにしよう。そうすれば大学は生き残れる”という発想が透けて見える。元文部科学省審議官の寺脇研・京都造形芸術大学教授が指摘する。「無償化がすべての大学を対象にするなら、三流大学は大喜びですよ。タダなら大学行こうとみんな入学してくれる。例えば総理の友人が経営する加計学園グループは岡山理科大学以外は定員割れ。そうした大学の救済措置と言われても仕方がない」 日本学生支援機構のデータから加計グループ3大学の奨学金受給率を見ると、岡山理科大(50.7%)、倉敷芸術科学大(57.0%)、千葉科学大(51.7%)と奨学生によって経営を支えられていることがわかる。その中でも安倍側近の萩生田光一・自民党幹事長代行が客員教授を務めていた千葉科学大の奨学金延滞率は2.1%と全大学平均(1.3%)より高い。 安倍政権の大学無償化の最大の問題は、大学の生き残りが優先され、「大学生に国が投資し、国に利益が還元されるか」という重要な視点が抜けていることだ。卒業生に借りた奨学金を返済するための「生活力」を持たせられない大学の授業料を無償化して学生を通わせても、国は税金投入に見合うリターンを得ることができるはずがない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 安倍内閣の大臣には、大学経営の経験者がいる。奨学金延滞者数ランキングでワースト3位の近畿大学元理事長である世耕弘成・経産相だ。近大卒業生の延滞をどう考えるのかぶつけると、事務所を通じてこう回答した。「経営から離れて5年以上経過していることもあり、ご質問に答えることは差し控えさせていただきます」 大学無償化の本当の狙いは、奨学生が背負いきれなくなった私大経営の支援を、納税者に肩代わりさせることではないのか。そうなる前に、卒業生の「生活力」を基準に大学を評価する“目”を受験生とその親が、そして全国民が持つことも必要になってくる。●取材協力/峯亮佑(フリーライター)関連記事■ 女子大生風俗嬢を生み出す「奨学金制度」の弊害■ 私大トップクラスの「奨学金返済能力」を誇る大学は?■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋

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    「泣き虫先生」は時代錯誤なのか

    ラグビーファンならずとも、「泣き虫先生」と呼ばれた元日本代表、山口良治監督を知っている人は多いと思う。伏見工の不良生徒たちを率いて全国制覇したサクセスストーリーは、ドラマ『スクール☆ウォーズ』でも描かれた。とはいえ、昨今のスポーツ界はパワハラ問題が吹き荒れる。熱血指導はもう時代錯誤なのか。

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    泣き虫先生独白「愛のムチなしに本当の指導ができますか」

    山口良治(元伏見工業高校ラグビー部監督) 最近、アマチュアスポーツ界で「パワハラ」と騒がれることが多いですが、思うことはたくさんあります。 なんでも「言ったもん勝ち」という風潮で、これでは指導者が何もしないことが正解のように感じてしまいます。しかし、「手を触れあう」ことなしに、本当に指導が行き届くのか、疑問に思ってしまうのです。 私はかつて伏見工業高校(現京都工学院・京都市伏見区)のラグビー部で監督をしていました。いわゆる「不良」が多い学校でしたが、顔が一人一人違うように、育った環境やしつけられ方がそれぞれ違います。両親が不仲だったり、逆に甘やかしすぎだったりね。 お母さんが早くに亡くなって、いつもお弁当を持ってきていない生徒もいました。その生徒にはおにぎりを渡したりしましたよ。思い出すだけで涙が出てきます。一人一人の人生の背景を思うと、たまらなかった。私は生徒のその先の人生まで考えて、本気で向き合って接していました。 当時、学校内でラグビー部は「山口収容所」なんて呼ばれていましたが、多い時で120人ぐらい部員がいました。指導した生徒は、みんなラグビーの試合中に大きなけがや事故なく、指導生活を終えられたことを、私は誇りに思っているんです。 学校の中には悩みを抱える生徒を見て見ぬふりする教員もいて、「なんでほっとくんだ」っていう憤りが強かった。もちろん、そういう気持ちを正当化してくださいと今言うつもりもないですがね。本当は、知らん顔をしている先生のほうが「賢い」んでしょうけど、私はほっとけなかった。 私は、その生徒がもし自分の息子や弟だったらと考え、本気で愛情を持って接するからこそ、親の前で泣きながら生徒に手を上げたこともありました。本当に一生懸命やっていればわいてきます、涙なんてものは。ほっとけなくて、伝えるために手を上げる、その判断は非常に難しいものでした。レギュラー一人一人にジャージを渡す山口良治・伏見工総監督(右)=2008年1月、奈良県(吉澤良太撮影) とはいえ、スポーツを指導することは、大変難しいことです。特にラグビーというスポーツは、恐怖に打ち勝ち相手にぶつかっていかなくてはいけません。体操の宮川紗江選手が体罰を受けていたと報道され話題になりましたが、体操も同じでしょう。あんな高い鉄棒で技を決めたり、平行棒から飛び降りたり、命の危険もありますし、怖いはずです。つらいこともたくさんあるでしょう。 ただ、指導する側はその恐怖を代わってあげることができないだけでなく、怖いことをやらせなくてはいけません。その恐怖に打ち勝てるようにするための指導を、パワハラや体罰だと選手が感じないようにと考えながら、また周囲の目を気にしながらするなんて、果たしてできるのでしょうか。 宮川選手はコーチの意図が分かっていたんだと思いますよ。命がかかった練習の時、コーチの一言で救われたことは多々あったでしょう。そんな関係性を知らない人たちが外から騒ぎ立ててニュースになっていく今の世の中は、なんだかおかしな方向にいってしまうのではないかと危惧しています。日大アメフト問題の本質 日大のアメフトの問題も、監督をしていたら、「相手を狙え、やっつけろ」なんて当然言いますよ。あれは言った言わないの問題ではなく、実際にラフプレーをした選手のスポーツマンシップが問題だと思います。 アメフトという危険なスポーツをやるにあたって、敵味方関係なくスポーツマンシップにのっとって信頼関係を築くのは当然です。もちろん、監督とのコミュニケーションの問題もあるでしょうが、やった選手はレギュラーになりたいとか、試合に出たいという気持ちから故意にあのような行為に至ったものなら、私には理解しがたいですね。 一連の体罰やパワハラの問題は、親子関係にも通ずると思います。このところ、若者の残念なニュースも多い。最近、バイクの事故で若者が複数亡くなりましたね。誰か間違っていることを教えてあげられる大人はいなかったのかと、歯がゆい思いを抱くことが多いです。 愛に飢えている子供たちがほっとかれているんじゃないでしょうか。今は親が手を上げても「体罰だ」と言われます。でも、親のしつけがしっかりしているのが本来の日本でしょう。 親には子供の命を守る責任があります。それにもかかわらず、言わなくてはならないことを言わない親が多い。「言ったもん勝ち」のハラスメントで、親子のしつけすら揺らいでいるわけですから、スポーツの指導はさらに難しくなるのではないでしょうか。 今の「言ったもん勝ち」のハラスメントが加速すれば、ますます「何もしない大人」が増えるでしょう。私も75歳になり、本当は表に出ず何も言わない方が楽だったのですが、元指導者として気になるニュースですし、誰かが言わなければならないだろうという気持ちがあったからこそ、インタビューを引き受けたわけです。日本一を決め感極まり、スタンドでガッツポーズをする伏見工の山口良治監督(中央)=1993年1月7日、東大阪市の花園ラグビー場 私がお伝えしたいことは、単純に「体罰を容認せよ」ということではありません。指導者と選手の間にあるものを言葉にするのが非常に難しいですが、一番大事な問題の本質は、「愛情を伝えられているか」ということだと思うのです。技術は伝えることができるかもしれませんが、目に見えないものを伝えるには愛情が必要なんです。選手に「勇気」を奮い立たせてほしい時、言葉で説明して伝えるなんてできますか。 時代は変わったと思います。しかし元指導者としてどうしても「言ったもん勝ち」の風潮と、今の若者たちが心配です。本当に大事なことは「愛」なんだと、そして「愛」を本気で伝えるにはどうしたらいいかを、世の皆さまに今一度考えてほしいと思います。(聞き手/iRONNA編集部、中田真弥) やまぐち・よしはる 京都市立伏見工業(現・京都工学院)高校ラグビー部総監督。昭和18年、福井県生まれ。日本体育大卒。元ラグビー日本代表。50年に伏見工業高校ラグビー部監督に就任、後に総監督を務める。全国的に無名だったチームを育てあげ、また情に熱い指導が多くの反響を呼び、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公、滝沢賢治のモデルとなった。

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    「体罰禁止で指導者が去勢される」ヤクザ先生が憂う教育の危機

    野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家) 人間が人間を教育(指導)する世界はロゴス(理論)ではなくカオス(混沌)である。論理で成立するのであればコンピューター教育や人工知能(AI)で事足りる。なぜ人から人なのか。ここを正しく認識せずして「人間教育」は語れない。女子体操の宮川紗江選手の訴えはその原点を炙(あぶ)り出して見せた。18歳のいたいけな少女は都内で記者会見し、練習中に暴力があったことを認めた上で処分の軽減を求め、速見佑斗コーチの指導継続を訴えた。  「1年以上前までたたかれたり、髪を引っ張られたりした」と暴力を認めた上で「暴力は許されずコーチも反省している」とし、「処分が重すぎる。速水コーチと東京五輪で金メダルを目指したい」と述べた。 彼女にとっては「暴力」と受け止めたことはなく、命やケガの危険性がある場合に厳しく指導されており、本人も家族も納得していたという。その一方で、塚原千恵子強化本部長らからパワハラを受けていたとも主張。「五輪に出られなくなる」などと圧力をかけられたほか、海外派遣選手の恣意(しい)的な選考があったと訴えたのは記憶に新しい。 この事件は二つの要素を含んでいる。「暴力」と呼ばれる速見コーチの体罰と塚原夫婦の「権力」を使ったパワハラである。連日、テレビのワイドショーは大騒ぎした。その中で特に気になったのは、速見コーチの一連の行為が疑いもなく、暴力という代名詞で報道されたことである。しかし、これは指導過程における「体罰」なのである。暴力は傷害であり、犯罪である。 むろん、体罰は行き過ぎれば暴力であるが、あくまでもこれは指導過程の一貫である。そのことを彼女も理解しているので、暴力を受けたという自覚がないのである。 体操は誠に危険をはらんだ競技である。競技中の事故で半身不随になったり、亡くなった人もいると聞く。彼女によれば、コーチからは集中力を欠いたり、遊び半分のように練習したときに叩かれたことがあったという。 速水コーチの行為はどうあれ、その方向性(ベクトル)は宮川選手をより伸ばすために用いられている。一方、塚原千恵子氏のパワハラは、宮川選手の思いから見れば、選手生命を閉ざし、意欲をなくす方向へと向けられている。どちらが正義に近いのか、一目瞭然であろう。 しかし、そのことに触れるコメントを一切聞くことはなかった。宮川選手から見ればコーチの行為は「善行」、塚原氏の行為は「悪行」である。私は、ワイドショーなるテレビ番組が「私刑(リンチ)ショー」であると感じている。一つの悪者を決めつけるとあらゆる人たちが徹底的に叩く。スタジオにはMC(司会者)に賛同する者たちが呼ばれ、台本に沿って悪者を締め上げる。その悪者の代表は体罰である。 「体罰=暴力=悪」であるという金科玉条(きんかぎょくじょう)の印籠を振りかざし、大衆はそれにひれ伏すという図柄である。世界的トランペッター、日野皓正(てるまさ)氏の体罰事件のときもワイドショーは大々的に扱ったが、そのビンタ事件のときは動画が流れた。すると叩かれた生徒の態度の一部始終が放映されるや、形勢は一気に逆転。ついには有名芸能人が「俺でもあんなやつはビンタくらいする」という発言が出た。男子中学生への体罰について会見するジャズトランペット奏者・日野皓正氏=2017年9月1日、羽田空港(撮影・佐藤徳昭) 決定的だったのは、空港でマスコミに取り囲まれ、すかさず詰め寄られると日野氏はこう言い放った。「君らのようなマスコミが日本文化を駄目にしてきたんだ!」と。「現場の関係も分からぬ者たちが論理だけで言うな。本当の師弟のぶつかり合いを前時代的な遺物として葬るな!」「モノづくりや真剣な教育はそんな単純なものではない!」などと言いたかったに違いない、と私は拝察する。これはあくまで私見であるが…。 その後、日野氏に同調する世論を敏感に読み取ると、この事件は何事もなかったかのように報道されなくなったのである。追い込むことは選手に必須 そもそも朝日生命体操クラブという私的な指導者が夫婦で体操協会の幹部であり、絶大な権限を持っていることも歪(いびつ)である。過去において、正式な競技会で自クラブの選手に不可思議な採点方法で高得点を与え、他チームから大会をボイコットされた前歴を持つ指導者である。ボクシング協会による審判不正「奈良判定」に匹敵する不祥事であるが、その責任を取って一度は役職を引いた人間が再び重要ポストに返り咲いたことも、面妖なことである。 塚原光男副会長と親交のある人物は彼のことをこう証言する。「さっぱりしていて男気で、よく若い者を食事に連れて行ったりする優しい人です」と。しかし、パワハラとこの人物像とは何の関係性もない。「巧言令色 (こうげんれいしょく) 鮮(すくな)し仁」である。何よりも悪いのは、守りたい組織と自分が経営するクラブが等価値となっており、そんな夫婦が協会の上層部で権力を振るっていることである。 組織の長に登り詰めた人間が「権力」の魔力に陥って、「公」と「私」の使い分けができなくなった典型とも言える。彼らは私(自分)を優先したパワハラを行った。18歳の少女を権力が集中している夫婦の通称「千恵子部屋」という部屋に一人呼ぶことの意味と、その恐怖が彼らには理解できないのだろう。彼らは「私」を行使したが、私は「公」(選手)を育てる過程での体罰、パワハラは必要であるという信念を持っている。 技術(理論)を超える精神論が結果を導くために不可欠であることは、衆目の一致するところだろう。どんなに立派な技術や体力を保持しても最後は「心が体を動かす」のであり、メダリストや一流アスリートは結局のところメンタル(精神)を語る。「根性論」は過去の悪癖の代名詞だが、どんなに科学的、理論的といえどもその実践は根性論からなる精神の昂(たか)まりである。強い精神力を作るためにも本人を鍛錬して“追い込む”ことは必須である。開星高校の野々村直通監督(当時)= 2011年8月14日、甲子園球場(恵守乾撮影) その追い込みの過程でパワハラ扱いされ、指導者が追放されていいのか。情熱ある指導者がその熱を削がれ、去勢され、優しいだけの指導者になっていいのか。日本は、すべてが中庸で、ナチュラルで、ニュートラルな中性的民族に向かっているようで強い危機感を覚えている。 「暴力」は犯罪である。しかし、「体罰」はそもそも教育における指導の手段の一つであり、「学校教育法」で禁止されている現状があるというだけのことである。体罰は本当に「絶対悪」なのか。どんな状況においても絶対に行使してはならないものだろうか。今こそ真剣な論議が待たれるところだが、今の軟弱な日本では遥かに望むべくもないことであろう。

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    戸塚宏手記「『体罰は悪』の論理を誰がつくったか」

    戸塚宏(戸塚ヨットスクール校長) 私は工学部出身である。それなのに図らずも文科系の教育分野に入り込んでしまった。そこでまず、感じたのが「何という非科学性、非論理性」である。科学の定義は「再現性」である。その理論、法則に従って行動すれば、必ず所期の成果が出る。 厚生労働省などによると、大学を卒業した若者のおよそ3割がニート(就学も仕事もしていない若者)だという。また、ニートにならず、会社で働き続けている者も仕事の能力は下がっているようだ。これは日本がやがてつぶれるということであり、私は全て教育の失敗によるものだと考えている。 そもそも、教育教育論により行われる。教育が失敗するのはその教育論が間違っているからだ。つまり、非科学であるということだ。正しくかつ科学的教育論で行えば、教育は荒廃しないし、ニートなどできはしないはずだ。 それなのに文部科学省は今の教育論にしがみつき、変えようとしない。「偏差値秀才」という教育の失敗者の多くが官僚やマスコミ人となったからだ。偏差値秀才は自分が偉いと思わないと生きていけないので前言にしがみつく。そして反省する能力がない。 「君子、豹変(ひょうへん)す」とは、大物は間違っていると分かればサッと正すことができるということである。前言にしがみつくのは偏差値秀才が小物である証拠だ。おかげで何百万という若者の人生が無駄なものになっている。誰がその責任を取るのか。 また、教育論は精神論からつくられる。今の教育論をつくる精神論は欧米のラショナリズム(理性主義)だ。ラショナリズムは科学ではない。宗教と哲学が融合したもので創造論である。科学と呼べる代物ではない。戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長 それに比べて「大和魂」(日本民族固有の精神)はラショナリズムとは真逆であり、最も科学的な精神論だ。それゆえ、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が精神のクーデターを起こし、大和魂をラショナリズムに替えさせた。 そして日本の官僚やマスコミは偏差値秀才だからマッカーサーの「ポチ」となり、それをありがたがった。大和魂を身につけていればそんなことはしないのだが、偏差値秀才は思考力、人間性、行動において劣るため、大和魂は身につけられない。だからアメリカの思うままに操られてしまった。 そこで「体罰は悪」は科学かどうか考えてみよう。「体罰は悪」という意見を持っている人にぜひ問いたい。体罰の定義は?  善悪の定義は?  この二つが科学的に定義でき、しかもそれがシミュレートできるなら「体罰は悪」は科学だ。だが、一体これを誰ができるのか。体罰の目的は進歩 そもそも「体罰は悪」をふりまき、日本中の意見を統一してしまったのはマスコミだ。マスコミに逆らうと人生を破滅させられてしまうので、みんな同じ意見になってしまった。 本来、体罰の定義は「進歩を目的とした、有形力の行使」である。体罰を受ける側の利益を目的としているのだから当然、「善」である。与える側にはなんの利益もない。見かけはよく似ていても暴力は与える側の利益のために行われる。要は、体罰と暴力は目的が逆なのだ。 だから、われわれの子供の頃は体罰を受けると心の底から「ありがとうございました」と言えた。体罰を生かす能力があったからだ。今はその能力がないからすぐに「教育委員会に訴えるぞ」となる。 善悪は性善説で判断するものだ。「天の命ずる、これを性という」(儒教の基本思想を示した経典の四書の一つ「中庸」より)。われわれの精神の中で、天の命じたものは本能である。性善説とは、本能は善ということなのだ。 ラショナリズムは「理性が善、本能が悪」なのだから性悪説だ。それなのに彼らはラショナリズムを性善説と言いくるめる。この自分たちに都合のいい精神論を正しいとして、欧米人は「世界征服」を繰り返してきたではないか。 先にも述べたが、世界一正しく善である精神論「大和魂」を悪のラショナリズムに替えたのはマッカーサーの命令ではあったが、それを忠実に守る「ポチ」の官僚とマスコミの罪である。双方とも文科系の偏差値秀才の成れの果てである。思考能力がないゆえに南蛮渡来の精神論に飛びつき、しがみつく。 そして、「日本人は愚かだが、私は優れている」と言い出す。現場に出ると自分のダメさ加減がばれるので上から目線で現場を見る。大和魂はこれを許さない。大和魂は「心身一如」(肉体と精神は一体)であり「知行合一」(知識と行為は一体)だからだ。知っているということは、それをできるということなのだ。 だから大和魂では、本来ジャーナリストも批評家もできない。それができるのは、悪の精神論であるラショナリズムを正しいとしているためだ。正しいと確信していなくても都合がいいと知っているからだ。 誤報で人を傷つけても「表現の自由」「報道の自由」で逃げられるので平気で悪いことをする。そのくせ「自由」とは何かは知らない。「権利」もそうだ。「子供の権利を守れ!」とヒステリックに叫ぶが、権利とは何かを知らない。言われた現場はどうすればいいのか。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) テレビは私を生では出演させない。録画して都合の悪い部分はカットする。自分たちの自由は主張するが、私の自由は認めない。これこそ象徴的な例だろう。 繰り返すが、ラショナリズムは悪の精神論だ。その一形態であるリベラルや左翼はもっと悪だと思う。そのリベラルを信奉するマスコミや官僚は当然、悪である。指導者たちがこれでは日本は滅びる。救う道は大和魂を復活させることしかない。

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    体罰が「ケースバイケース」で許されてはいけない理由

    ものだが、今やテレビの前で悪態をついているおっさんと変わらない。 何か事件があるたびに議論されるのが教育現場でのいじめや体罰問題。10~20年前にはそれこそ、「いじめられる方にも問題がある」「体罰にも愛がある」なんて言説がまかり通ってきたが、さすがにここ最近は、いじめや体罰は悪である、という認識が広まりつつあるように見えた。ようやく。 しかし、ジャズトランペット奏者の日野皓正が壇上で男子中学生の髪をつかみ、往復ビンタしたと報じられている件では、「体罰は絶対に許されないことなのか」という議論が再燃している。男子生徒がコンサート中に身勝手な演奏を続けたため、仕方のない処置だったという論調もある。 もしこれが、会社の中で上司から部下へ行われたことであればパワハラであり、暴行罪もしくは傷害罪に問われる事件になりかねない。たとえ部下が仕事上で暴走したとしても、それを暴力で罰していいという話にはならない。それなのになぜ、指導者から子どもに対して体罰が行われるときだけ、「アリかナシか」の議論になるのか。 それは、「子どもは言葉で言ってもわからない存在だ」「だから体で教えてもいい」という認識を一部の大人が持っているからではないか。自覚的にしろ、無自覚にしろ。 確かに大人に比べて子どもは判断能力に欠けるところがあるだろうし、自分の欲望を理性で止められない部分もあるだろう。「子どもには言葉で言ってもわからない」は、実際に子どもを育てたり指導したりしたことのある人の多くが抱える実感かもしれない。 しかし、「だから体で教えていい」は、おかしいだろう。なぜ大人から子どもに対してだけ、暴力が条件付きで容認されるのか。それは大人側の論理ではないのか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) この件について、ダウンタウンの松本人志が、レギュラーコメンテーターとして出演する「ワイドナショー」で、「わりとシンプルに、この中学生の彼が叩かれたことを『クソ!』と思ったとしたら、指導として間違えていたんじゃないですか? 反省を本当にしたのであれば指導として正しかったんじゃないかなと思うから、中学生の心の中が答えだと思うんですよね」と発言した。 これはかなり問題のある発言だ。体罰を受ける側の反応によって体罰がアリかナシかが決まるのであれば、体罰を行う側はいつでも「こいつと俺の関係ならアリのはず」という見切り発車で暴力を行っていいことになる。「なぜ今はダメ」答えは簡単 実際、日野は事件後の取材に対して、男子中学生が自分の楽屋に謝罪に訪れたことなどを挙げ、「俺と彼との間には親子関係に近いものがあり、問題はない」とも語っている。 また、体罰を「ケースバイケース」で、「許される場合もある」と大人が口にすることの危険性を、松本や松本の意見の賛同者は気付いていないのだろうか。体罰がケースバイケースで容認される世の中であれば、図々しい加害者ほど「自分は体罰をしてもいい」と思い込むだろう。子どもを虐待死させてしまった親が「しつけのつもりだった」と弁解することはよく知られている。 スタンフォード監獄実験の例を挙げるまでもないが、人は与えられた権限によって増長する。しかも教育現場は「密室」の状態になりやすい。 いったん暴力の権限が与えられたとき、それを行使せずにいられる人の方が少ないだろう。教育現場での指導者と被指導者の関係の危うさ、構造の中での強弱関係を認識していない人だけが、したり顔で「ケースバイケース」を口にする。 人間というのはときとして感情的になるものだから、言うことをきかない子どもに暴力を行使したくなる衝動を理性で止められないこともあるだろう。普段、「いい先生」と認識されている人が「ついカッとなる」ことはあると思う。 しかし、それを行ってしまった大人がやるべきことは、「正当性のある暴力もある」と主張することではなく、素直に「手段として暴力を選んだことを謝罪する」ではないのだろうか。 さらに松本は、「我々世代の人はすごく体罰を受けたけれど、今の時代ではそんなものありえへんってみんなよく言うじゃないですか? でも、なぜ今の時代にありえないのか、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ」「なぜ今はダメで、昔はよかったのか、明確な理由が分からないんですよ」とも語っている。 なぜ今はダメで、昔はよかったのか。こんな問いの答えは簡単だ。昔は今のように子どもの人権が守られていなかったから、体罰を辞めてほしい側の意見が通らなかったのだ。 国連で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、日本が批准したのは1994年。松本の子ども時代には、「子どもの権利」の概念がそもそも広まっていなかったのだ。子どもの権利なんて昔だって守られていたと主張するのであれば、それは不勉強が過ぎるだろう。 松本は続けて「体罰を受けて育った僕らは今、変な大人になってないじゃないですか? なんなら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか?」とも語っている。絶句である。 体罰について「今はダメでなぜ昔はよかったのか」程度の問いについて、周囲の誰からも回答をもらえない(もしくは、遠回しに諭されていても気付かない)大人が、常識があってまともなのだろうか。かつて若者から絶大的に支持されていた芸人がただの老害となっていく瞬間を、私たちは目撃している。

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    事前に親に体罰の許可をもらう「合理的スパルタ塾」の高実績

    が指摘する。「本人、親、第三者の誰が見ても悪いことについて体罰を含めた指導を行うのが『合理的スパルタ教育』。たとえば宿題を忘れる、人に迷惑をかける、友達をいじめる、授業を妨害する。こうしたことはすべて体罰の対象になります。本人も自分が悪いとわかっているから『体罰されて当然』と思っているし、保護者からの苦情もありません。むしろ『ここまでやってくださってありがたい』と感激されるかたもいらっしゃる」 集賢舎には現在、小学5年生から高校3年生まで約100人の塾生が在籍する。2017年夏に実施された愛知全県模擬試験では各学年で平均を大きく上回り、特に中学3年生は国語、英語、数学が全県下第1位。またその3教科全て満点で、全県下1位の生徒を出すなどの好成績を収めている。中3の娘をこの塾に通わせている母親は「体罰肯定派」だ。「ホームページを見て、体罰を含む指導と知ったうえで娘を入塾させました。私自身、学生時代に体罰のある厳しい塾に通っていろいろ学んだので、“愛のムチ”は時に必要と考えています。女の子なのでシッペまでにしましたが、男の子だったらビンタを選んでいたでしょうね」 この母親が振り返るように、かつての日本では子供に手を上げる岡田塾長のような先生は、決して珍しい存在ではなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「この道40年になりますが、開塾当時、体罰は社会的にも当たり前だったし、うちももっと激しかった。たとえば『アメリカの五大湖周辺の重大産業は?』という質問の答えを次回までに覚えてこなかったら、即ビンタでした。保護者から『先生、もっと叩いてくださいよ』と言われることもありました」(岡田塾長) しかし、時代は様変わりしている。関連記事■ やむなく親が子供に体罰を施すときの「正しい体罰のルール」■ 長嶋監督はスパルタ方式 体罰も辞さず江川卓氏「怖かった」■ 子が私立中狙う親にとっては宿題代行を利用するのが合理的か■ 63才婚阿川佐和子 愛に加えコスパ的合理的発想あったか■ 警察官は車を買う時・休日の長距離運転に上司の許可が必要

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    パワハラまがいの熱血監督や鬼上司が通用しなくなった理由

    太田肇氏だ。* * * 次々と表沙汰になるスポーツ界のパワハラ問題だが、高校以下の学校における部活や教育現場でも、教師による生徒への体罰が後を絶たない。 残念なのは、問題を起こしたリーダーの多くが教育や指導に情熱を燃やし、それを生きがいにしてきた人だということである。情熱をもって打ち込んでいるからこそ、選手や生徒が期待どおりの成績を残せなかったり、やる気のない言動をしたりすると許せないのである。 かつてなら少々の行き過ぎがあっても、熱血指導者として評価されてきたかもしれないが、いまではいくら実績があったとしても許されなくなった。そのことがまだ自覚できていないのだ。 職場でパワハラを起こすのも、たいていが古いタイプの管理者像、上司像から抜け出せない人たちである。やたら元気で威勢がよく、人前で自分の存在感を見せつけたがり、自分がこれだけがんばっているのだから部下も同じようにがんばるのが当然だと考える。そして、部下がちょっとでも思い通りにならないと相手の人格を否定するような物言いをしたり、怒鳴ったりしてしまう。チーム力を高めるのは、一歩引いたリーダー 冷静に考えてみたらわかるように、リーダーとフォロワーは立場が違うのだから、リーダーが自分と同じ「熱さ」をフォロワーに求めるのは無理がある。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) しかもリーダーがフォロワーにぶつける情熱と、フォロワーの情熱とは連動しないばかりか、反比例することが多い。リーダーが熱くなるほど、フォロワーは冷めてしまい、「どうぞ勝手にやってください」という気分になる。リーダーはむしろ一歩引いたほうがフォロワーに自発性が生まれ、成果もあがるケースが多い。熱血が通用する時代は終わった アマチュアスポーツの世界には、それを裏づけるようなエピソードがたくさんある。 高校野球の強豪、智弁和歌山高校の高嶋仁監督(8月下旬に引退を表明)は、前任の智弁学園高校時代には鬼監督として恐れられ、あまりの厳しさから選手に練習をボイコットされた経験もある。 それを機にスパルタ式の指導をあらため、春夏合わせて3度の全国優勝という実績を手に入れた。ラグビーの大学選手権で9連覇を達成した帝京大学ラグビー部の岩出雅之監督や、正月恒例の箱根駅伝で4連覇中の青山学院大学陸上競技部の原晋監督も、従来の体育会型指導を選手主体に切り替えてからチーム力が上がり、偉業に結びついたという。 岩出監督はいう。「上意下達のチームでは、ある程度の実績は残せても、それ以上の実績は出せない」と。熱血が通用する時代は終わった スポーツ界にかぎった話ではない。 精神科医の原田正文氏は、いまの日本では親が子どもを管理し支配する傾向が強くなっていることをデータによって示すとともに、それが思春期に行き詰まる子を増やしているのではないかと指摘している(『完璧主義が子どもをつぶす(ちくま新書)』より)。 大学で学生を見ていても、中学・高校時代にスパルタ教育を受けてきた学生は、おしなべて知識の量は豊富なものの、自分の頭で考えたり、自分から行動したりすることができない傾向がある。 仕事になると、それはいっそう深刻な問題だ。これからのリーダー像とは 部下はいつも強制や命令をされていると、最低限の仕事しかしなくなる。しかもIT化やアウトソーシングによって、そのような仕事の大半が消えつつある。残った仕事の多くは自分の頭で考え、自分の意思で行動しなければ成果があがらない性質のものである。実際、世界を席巻しているIT・ソフト系の企業や、優れた人材が殺到している優良企業では、ハラスメントはもちろん、熱血指導やマイクロマネジメント(重箱の隅をつつくような細かい管理)とも無縁だ。 要するにスポーツや教育においても、仕事でも、求められるレベルが上がったいま、従来のような熱血監督や熱血教師、鬼上司は通用しなくなったのである。それは、「リーダーシップ」のあり方が、いま根本的な転換を迫られていることを意味している。これからのリーダー像とは では、これから目指すべきリーダー像とはどのようなものか。 1つ目のタイプは、プロフェッショナルとしてのリーダーである。彼らは組織行動論、すなわち心理学や行動科学などの専門知識を応用し、フォロワーの潜在能力を引き出すとともに、それを組織力、チーム力に結びつける。スポーツ界、教育界、産業界を問わず、欧米のマネジャーにはこのタイプが多い。 2つ目のタイプは、つねに選手のため、生徒のため、部下やチームのためを考え、徹底的に尽くすリーダーである。最近はやりの名称を使うと「サーバント・リーダー」ということになる。企業では、顧客に近いところにいる現場の社員が最も偉いというメッセージを込めて、逆ピラミッドの組織図を描く人もいるくらいだ。 3つ目のタイプは、最低限の役割だけを果たし、あとはフォロワー個々人に、あるいはチームに任せるリーダーである。「委任型リーダー」と呼ぶことができる。フォロワーが自立していて、必要な知識や技術も備えている場合には、このタイプがベストである。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) それぞれタイプは異なるが、共通するのは「フォロワー・ファースト」の姿勢である。自分が目立ちたい人、主役になりたい人はこれからのリーダーには向いていないといえよう。関連記事■ テレビ朝日内部資料「女性社員の56%がセクハラ被害」の衝撃■ 日本体操協会・塚原副会長が語っていた「夢は武道館ライブ」■ 「多すぎるサービス残業」「上司のひどいパワハラ」との戦い方■ アジア大会で金0の女子レスリング 栄和人氏復帰はあるか■ セクハラ、パワハラの温床になる組織にメス入れる3つの方法

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    道徳教育とはなんぞや

    柴山昌彦文科相が戦前の教育勅語について「現代風にアレンジして道徳などに使える」などと発言し、物議を醸した。今春から小学校で必修化され、戦後初めて「教科」となった道徳。「価値観の押し付け」「愛国教育の始まり」などと批判的な意見も根強いが、そもそも道徳教育とは何なのか。

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    「星野君の二塁打」に隠された道徳教育のホンネ

    校でも始まる。そのための教科書も検定を通過し、各地で採択のための展示会も開かれている。道徳科は、戦後教育のあり方を大きく変えるものである。そこにはどんな背景があり、どんな問題があるのだろうか。 そもそも道徳科とは何か、それは今まで週1回行われてきた「道徳の時間」と何が違うのだろうか。取りあえず、教科になることによって変わった点は大きく三つある。 一つは、教科書があり、その使用が義務付けられることだ。二つ目は、学習の達成度を測る評価が求められる。そして、教科書をベースにした年間指導計画が強い縛りを持つことである。さらに、各学校では「道徳教育推進教員を置き、校長の方針の下に全教師が協力して道徳教育を展開すること」(学習指導要領)になっている。 それまでの「道徳の時間」は1958年に特設されたものだが、十分な議論を経ず、教育現場から反対の声が上がる中で実施された。日本国憲法と教育基本法の下において、国家が道徳に直接関わることに対する強い抵抗感が国民にはあったのである。 よって、戦前の修身は全ての教科の筆頭に置かれ、優・良・可などの成績も付けられていたが、「道徳の時間」はそうした形にはならず、教科外活動(領域)という位置づけにされた。 この時間は、学校や教師によって差があったが、クラスで起きたケンカやいじめなどの諸問題の解決のための話し合いや、合唱コンクールや体育祭などの行事に使われることも多かった。また、授業内容も副読本やそれに基づく年間計画はあるものの、個々の教師の裁量にある程度は任されており、良くも悪くも自由度が高いものであった。 そこには、戦前の道徳(修身)が押し付けであり、軍国主義教育の支柱になっていたことへの反省から、「子供たちに道徳を押し付けない」という教師たちの思いが底流にあったのである。そして、「道徳性は学校の教育活動全体を通して行う」(文部科学省)という指針に従っていたからだということもできる。『尋常小学修身書』(復刻版)。修身教科書は教育勅語を中心に編集された しかし、教科に格上げされる以上、そうはいかない。有り体にいえば、「高い自由度を認めない、させない」という狙いで、道徳科の設置が決まったのである。 ところで「教科」とは何だろう。算数、国語、理科などに加えて、体育や音楽などを思い浮かべる人が多いと思う。 例えば理科は「地学・生物学・物理学・化学」などの分野から構成され、それを子供たちの発達段階に合わせて、分かりやすくかみ砕いた形で教えられる。「地学・生物学・物理学・化学」は、それぞれさらに細かい分野別の科学的研究の上に構築されたものであり、学問的な根拠を持っている。体育や音楽も同様である。国語・算数と道徳の違い 社会科では、鎌倉幕府の成立はかつて「1192年(イイクニツクロウ)」と暗記された方が多いと思うが、昨今の研究をもとに、その記述は変化している。各教科は学問的根拠をベースにしているために、その研究の進展によって記述内容が変わることがあるわけだ。 しかし道徳科はどうであろうか。本来ならば、その性質から考えれば学問的根拠は「哲学、倫理学」などがベースになるべきものだと思うが、文科省の学習指導要領のどこにもそうしたことは書かれていない。 つまり、道徳科は教科となる学問的根拠を持っていないことから、いわゆる教科とは言うことはできないのである。文科省はそうした矛盾を「解決」するために「特別の教科 道徳」という立てつけをした。学習指導要領は以下のような6章構成になっており、道徳科が「第2章 各教科」の欄にないことからも、その苦しさが表れている。第1章 総則第2章 各教科(国語・社会・算数・理科・生活・音楽・図画工作・家庭体育)第3章 特別の教科 道徳第4章 外国語活動第5章 総合的な学習の時間第6章 特別活動 道徳科推進派である昭和女子大の押谷由夫教授は「要としての役割」や「本来の教科の概念を超えて成り立つものであることから、特別の教科(スーパー教科)となる」と説明する。そして「道徳は教科とのかかわりだけではなく、特別活動や総合的な学習にかかわる。その意味でも特別の教科(スーパー教科)なのである」と強調している。 しかし、どんな言辞を持っても、「第2章 各教科」に格上げすることには無理がある。その最大の理由は、すでに述べたように、道徳科が学際的研究成果と科学的根拠を持たないことにある。また、ベースになる基礎的な学問がないため、大学において(現時点では)道徳科の専門免許状を発効することはできない。 学問的バックグラウンドを持たないということは「文科省が指定した内容が道徳である」ということであり、すなわち「道徳の内実は国家が決める」ということになる。根本的な問題がここにある。国家が道徳をコントロールした典型事例は戦前の修身である。修身が教育勅語とリンクし、軍国主義を下支えする役割を持ったことは論を俟(ま)たない。道徳の教科化に戸惑いの声が聞かれた日教組の第67回教育研究全国集会=2018年2月、静岡市 また、教科になれば評価が伴う。人の心の内面を評価することに対する疑問や戸惑いの声が、教師たちからたくさん上がっているが、それは当然のことだろう。 そもそも、現場教員の大半は道徳の教科化に反対している。2015年に行われた全国の公立小中高教員計9720人を対象に実施した調査(愛知教育大)によれば、道徳科に反対という意見は「小学校79%、中学校76%」と圧倒的である。にもかかわらず、なぜ「道徳科」が設置されたのだろうか。 安倍政権下で発足した教育再生実行会議の提言には「今日多発化する青少年の問題行動の根幹に道徳性の低下がある」と書かれている。こうした主張を教育課程審議会などが引き継ぐ形で道徳科の設置が決まっていった。道徳でいじめは止められない そういう流れの中で、文科省が道徳科設置の主な理由としたのは、「いじめ問題」の深刻化であり、青少年の問題行動の多発、子供を取り巻く地域や家庭の変化(家庭の教育力、社会的モラルの低下)である。その他に、諸外国に比べて低い高校生の自己肯定感や社会参画への意識が低さ、グローバル化の進展などが道徳的に解決すべき課題として挙げられている。 確かに、いじめの認知件数は高止まり傾向にあり、待ったなしで解決すべき事案であることは間違いない。その他にも学校にはさまざまな問題が噴出している。 しかしながら、法務省のデータにあたってみると、少年犯罪は年々低下傾向にあるため、青少年の問題行動の多発という意見には根拠がない。そもそも、モラルが低下していると批判されなければならないのは、むしろ大人と社会の方ではないのか。 では、道徳を教科として格上げすれば、いじめ問題が解決に向かうのだろうか。 道徳科設置の直接的契機となったのは、2011年の「大津いじめ自殺事件」だ。あまり知られていないが、実は、事件の起きた大津市立皇子山中学校は、文科省指定の「道徳教育実践研究事業」の推進校(2009~2010年度)だったのである。 ところが、いじめ自殺事件は指定後の2011年10月11日に起きている。皇子山中の学校評価表では、道徳性の伸長について高い評価が掲載されている。もちろん、外向けの報告書を額面通りに受け取ることはできないし、この事件の真相や根本原因をここで論じることもできない。 だが、少なくとも文科省の肝いりで学校を挙げて行われた道徳の指定研究が、この事件を防ぐ有効な力になり得なかったということは言えるだろう。道徳を教科にしなければ、「いじめは防げない」と言わんばかりの文科省の主張には首をかしげざるを得ない。2013年8月、文科省の前川喜平初等中等教育局長に意見書を提出する大津市の越直美市長 それでは、なぜこのような性急な形で道徳科が推進されたのだろうか。第一次安倍政権の下では、教育基本法が「改正」され、いわゆる「愛国心条項」が追記された。 第二次安倍政権では「教育再生」を重要な政策課題に掲げ、第一次政権での教育再生会議を教育再生実行会議としてバージョンアップさせ、充実を図ってきた。当時の下村博文文科相は「6年前にも教科化は提言されたが、残念ながら頓挫した。今回は必ず教科化に資する議論をしてもらいたい」と強調し、第一次政権下で教科化を果たせなかったリベンジだということを公言している。 こうした経緯から考えれば、道徳の教科化は、教育問題というよりも政治的課題として浮上してきたものであるといえよう。その背景には復古主義を唱え、改憲を目指す日本会議など特定の政治勢力の影響がある。主な主張は「自虐史観、偏向教育の見直し」であり、「戦後レジームからの脱却のための教育再生」を課題とした安倍政権の意図とマッチしている。道徳科設置の「裏の顔」 こうした流れに位置づけられた道徳科の真の狙い、いわば「裏の顔」とするところは何だろうか。一つは「個人は国家のためにある」という道徳観の徹底である。次に、国家(政策)に疑問を持たない従順な国民の育成である。そして三つ目は、新自由主義政策が進行する中で、社会的格差が拡大し、生きづらさを感じている人々の心象にコミットすることである。 新自由主義は、ルールなき資本主義体制を基盤とし優勝劣敗をその魂とする。「成功も失敗もすべて個人の問題」という自己責任論を生み出し、敗者は自己の能力と資質の問題として、現時点での生活の責任を個人的かつ全面的に負うことを求められる。政治的には、公助よりも共助が強調されてきており、安倍首相も次のように述べている。 「私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を持たない限り、私たちの未来は開けません」(第183回国会、施政方針演説) 道徳科は「どんな社会の中においても、それに順応し個人の責任として生きていくこと」を要請する「21世紀型修身」の役割を持つものではないだろうか。 とはいえ、道徳教育が必要ないというわけではない。「異なる他者とともに生きる術を学び、よりよい社会をつくるための素地(そじ)となる道徳性」を育てることは教育現場で大切にされなければならない課題だ。 文科省も「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳教育への転換により児童生徒の道徳性を育む」と言う。大いに結構なことではないか。 しかし、検定教科書や現場で使用されている指導プランを確認する限り、「考え、議論する」と言っても、大半は教師の設定した枠内であり、教材も特定の価値項目、つまり「徳目」に誘導する構成になっている。 日大アメフト部の問題が社会的な注目を集めた今年だからか、「星野君の二塁打」という道徳教材を思い出す。監督の「バント」という指示に従わず、自分の判断でヒットを打ち試合の殊勲者になった星野君が、翌日監督に呼ばれて次からの試合の出場停止を告げられるというお話である。教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真 監督は言う。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」 この教材の主題は「約束や規則の尊重」である。チームプレーを是とする野球において、監督の指示を守ることは必要なことだ。しかし、このお話を「約束や規則の尊重」という徳目に結びつけていいものだろうか。 後半部分では「監督の話に最初は不満そうな選手たちも最後は監督の口調に熱がこもるにつれて、星野君の顔から血の気がひいて、他の選手たちもみんな頭を深くたれてしまった」と書かれている。結局のところ、「選手(子供)は監督(大人)の言うことを聞け、そうしなければ罰を与えるぞ」というメッセージになっている。それは強い力(権力)には従順であれ、というヒドゥン・カリキュラム(隠れている教え)に他ならない。「教材がいじめを誘発する」 こうした「道徳」教育は疑いを持たずに、上(権力)の命令に服従し、従属的な人間を結果としてつくり出すことにつながる。監督の指示に従わなかった星野君を、集団のルールや秩序を乱す存在として扱うのではない。決まりとは何なのか、ルールは誰のためにあるのか。監督(上の立場の人)の命令は絶対なのか、それが間違うことはないのか、間違いだと感じたらどうすればいいのか。徳目に誘導せずに、話し合えればいいのに、と思う。 低学年向けの「るっぺどうしたの」という教材は、おさるのるっぺが主人公だ。「わがまま」で言うことを聞かないキャラクターである。「朝一人で起きられない」「靴のかかとをふみながら登校する」。それを友だちに注意されると、留め具を止めていなかったランドセルから文房具を路上に落としてしまう、砂場の砂をクラスメートに投げてしまう。 授業では「るっぺの困ったところをみんなで話し合ってみよう」「るっぺのようにならないようにするために、自分はどうすればよいか、みんなで話し合ってみましょう」といった点が主要な発問になる。 しかし、これを読んだある母親は「るっぺは(発達障害を持つ)うちの子にそっくりだ」と言う。この母親は「教材通りに教えてしまっては、周囲と同じように規則正しく行動できない子が、一方的に追い詰められてしまわないか」と、心配が募る一方である。その上で「教材がいじめを誘発する内容になってしまっている。互いの違いを認めて助け合うことを学ぶことこそが大事なのではないか」と主張するのである。(神奈川新聞「カナロコ」2017年) 母親の指摘は鋭い。規則や集団の秩序に従うことが優先的課題にされてしまえば、道徳教育が「排除の教育」になってしまう。それでは本末転倒ではないか。残念ながら、現場で進行している実践の多くは「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳」ではなく、特定の徳目に答えを誘導するものになっているのである。 それでは一体どうすべきだろうか。まずは「学校の教育活動全体を通して、道徳性を育む」ということを大切にしたい。 子供たちの社会、つまり教室ではさまざまなトラブルや問題が起きる。そうしたことを、丁寧に話し合いながら解決していくことが求められる。そうした営みの中で、子供たちは異なる他者とともに生きる術を獲得する。それは他者への信頼と自分への肯定的感情を育むものだ。 そして、道徳性が子供の内面にだけ向けられているベクトルを、大人や社会との双方向のものに転換することだ。道徳性のベクトルは、むしろ私たち大人と社会に向けられるべきものである。2018年9月、立憲民主党の枝野代表(右)と米ワシントンで会談するサンダース米上院議員(立憲民主党提供・共同) 例えば、現実社会で起きているさまざまな問題を子供たちと話し合い、その解決に向けて学び合う。それは検定教科書を使ってもそうした学びを展開することは可能だと思う。根幹にあるのは、日本国憲法に示された国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三大原則であり、具体的には平和教育であり、人権教育ではないだろうか。 道徳性のベクトルは「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的指向に関係なく生まれたときから約束されている(バーニー・サンダース米上院議員)」人権の実現に向けられるものである。そして、社会の公正・公平を毀損(きそん)するものと戦うことが、その中には含まれている。それは社会(国家)の従属物としての「私」ではなく、権利主体としての「私」が世界に登場することでもある。

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    道徳の理念とかけ離れた「修身科=悪玉論」の実体

    、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。 では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。「道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない」「教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだか印象に残るものになっていない」「他教科に比べて軽んじられ、実際には他の教科に振り替えられていることもある」などの課題がこれまでも繰り返し指摘されてきた。 道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。 こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。中学道徳など中学・高校で使われる教科書を川崎市教委が審議した=2018年8月26日、川崎市(外崎晃彦撮影) ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。 これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。愛国心を教えたらどうなるか もっとも、こうした思考停止は、教科化の積極的な「推進派」にあっても同じである。彼らは、修身科が過去の「遺産」であるというが、はたして何が「遺産」なのか答えられない。中には、道徳の「教科化」さえ実現すれば、いじめや不登校、自殺などの教育問題が魔法のように解決するといった楽観論も少なくない。 こうした主張は根拠に乏しく、「感情的」であるという点で、「修身科=悪玉論」の主張と表裏を成している。しかも、両者に共通しているのは、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という道徳教育への素朴な「信頼」である。 しかし、道徳教育はそれほど簡単でも単純でもない。誠実や親切という価値を教えれば、子供たちが誠実になり、親切になるわけではない。愛国心を教えれば、すぐさま子供が愛国心を身につけるわけでもなければ、戦前の「少国民」に変貌するわけでもない。 それにもかかわらず、戦後日本は道徳教育を「賛成か反対か」という感情的なレベルの政治論に押し込め、あるべき道徳教育の理念、内容、方法といった本質的な課題の検討は妨げられてきた。「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論は、結局は政治的なイデオロギー論にたやすく回収され、教育論としての議論を希薄にした。こうした状況から生み出されたのが「道徳教育アレルギー」である。 歴史を創造するためには、決して過去を切り離して考えることはできない。真の創造を実現するためには、過去を厳しく批判し、過去を否定的に媒介することが必要である。たとえ誤った過去を持ち、悲しい歴史を担うにせよ、こうした過去を否定的に吟味し、検証することで初めて真の創造が達成されるはずである。教育勅語(安藤慶太撮影) その意味で、戦後の道徳教育は、戦前の修身科を否定的に媒介することに明らかに失敗した。戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。それが「修身科=悪玉論」の実体である。 しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。「賛成か反対か」不毛な議論 今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。 以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。 「特別の教科 道徳」の設置によって、私たちは子供の道徳性に正面から向き合うことが可能となり、その教育として当然の関わりは、必然的に政治的イデオロギーの入り込む余地を格段に減少させるからである。 実際、「特別の教科 道徳」の設置によって、これまで繰り返されてきた「賛成か反対か」の議論は明らかに後退し、教科書、指導法、評価のあり方といった授業の本質に関心が注がれ始めたことは間違いない。ここにこそ、道徳の「教科化」の歴史的な意義が認められる。 ところで、2014年10月の中央教育審議会答申は、今後の道徳教育のあり方について、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」とした上で、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」と明記した。教科化に伴い初めて検定申請された小学校道徳の教科書(寺河内美奈撮影) ここに至ってもなお、道徳の「教科化」が「修身科の復活」「価値の押し付け」であり、「いつか来た道」に至ると批判するのは自由である。しかし、それならば、せめてこの答申の言う道徳教育のあり方に言及して具体的に批判すべきである。そのことで初めて議論は成立する。 「賛成か反対か」の二項対立の議論は不毛であり、何より道徳的ではないことにそろそろ気づくべきではないか。感情的な議論に時間を空費する余裕は、今の教育にはない。

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    「道徳の教科化は正しい」いじめ自殺を隠蔽する学校は信用ならない

    森口朗(教育評論家)  道徳の教科化は学校関係者への不信任決議である。神戸市教育委員会が学校に対していじめ自殺事件の隠ぺいを示唆したというひどい事件が報道された。それを知って私は「道徳の教科化」がいかに正しい施策であったかを実感したところだ。 安倍政権の政治的リーダーシップと関係者の多大な尽力により、今年から道徳が教科になった。連合国軍総司令部(GHQ)により修身が廃止になって70年以上の歳月がたったことを思うと喜ばしいという思いとともに、この70年間、私たち日本人は何をやっていたのだろうと忸怩(じくじ)たるものがある。 道徳の教科化について大きな役割を果たした貝塚茂樹氏(武蔵野大学教授)によれば、GHQは敗戦時の修身を廃止はしたが、その後、大正デモクラシー時代に使っていたバージョンに近い教科書に戻して修身を復活させるつもりだったらしい。それを「公民」という新たな教科にして再出発しようとたくらんだのは文部科学省である。しかも、文科省の思いは結局実現せず、結果的にGHQの指導により元の修身とは似ても似つかぬ「社会科」になってしまった。 安倍政権が道徳の教科化を推進できた直接のきっかけは、滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒が2011年10月11日に自殺した事件だ。事件後に行われたアンケートによれば、男子生徒の手足を鉢巻きで縛り口を粘着テープでふさぐ、トイレや廊下での暴行、万引の強要、蜂の死骸を食べさせようとするなど、いじめの内容もひどいものだった。 さらに、被害者が自殺した後も加害者側の態度に反省が見られなかったことで、いじめ情報がインターネットで拡散され、社会的に大きな注目を集めた。しかし、残念なことではあるが、中学生の残虐ないじめ自殺事件はこれが初めてではない。過去には山形マット事件という「いじめ自殺」ならぬ「いじめ殺人」と言っても良いような事件が起きているのだ。 それでも、この事件が大きな反響を呼んだのは、既にインターネットが普及していたことに加えて、自殺事件発生後の教育委員会や学校関係者の対応があまりにひどかったからである。教育委員会の役人たちは学校と一丸となって「いじめ」隠しに奔走しただけでなく、報道により次々といじめの事実が明らかになっても、自殺原因が被害者家族にも問題があったからだと言い放った。さらには、行政のトップである市長が被害者の側に立っても、被害者とともに動こうとはしなかったのである。2018年6月、神戸市立の中3女子生徒の自殺問題で、聞き取り調査メモの隠蔽について、文科科学省の担当者らに謝罪する神戸市教委幹部ら その事件がきっかけになって「道徳の時間」が教科になったことは、何を意味しているのか。学校現場に道徳教育を任せておけないという事だ。道徳の教科化とは学校関係者への不信任決議に他ならない。 教科化される以前から、学校の時間割には「道徳の時間」なるものは存在した。だが、これは時間が確保されているだけで教科書さえ存在しなかった、いわば学校裁量、教師裁量でどうにでもなる時間だったのだ。パン屋と和菓子屋 多くの方々が「道徳の教科書」と考えていたものは、文科省の検定さえ入らない「道徳の副読本」にすぎなかったのである。それゆえ、教師によっては1年間に副読本を一度も読むことなく、慰安婦の強制連行という朝日新聞の虚偽報道を利用した反日教育をする者さえ存在した。彼らにしてみれば、今回の「道徳の教科化」は、腹立たしくて仕方ないだろう。なぜなら、「道徳の教科化」とは、道徳教育をどのように行うべきか、学校現場でしっかりと学習指導要領に沿った内容の教育が行われているかを国民が監視できる体制が整ったことを意味するからだ(もちろん、現段階はその一里塚にすぎないが)。 そこで教科化に反対する者たちには、この政策がどれほど醜悪であるか、というプロパガンダが必要になる。恐らくは、図らずもその先兵とされたのが、東京書籍小学1年の検定教科書を題材とした「パン屋、和菓子屋問題」だ。散歩中に友達の家の「パン屋」を見つけた話が、文科省の検定によりあたかも「和菓子屋」に書き換えさせられたがごとく報道されたのである。 あまりにバカバカしい。検定制度ではない。検定の中身でもない。もちろん道徳の教科化でもない。東京書籍の訂正方法と新聞等の報道の仕方が、である。文科省は、先に示された学習指導要領に沿って教科書を検定する責務がある。学習指導要領に「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」とあり、検定を受ける教科書にその記載がなければ指摘するのは当然だ。むしろ、指摘しなければならない。だが、東京書籍は歴史教科書などでも反日的記載の目立つ左派御用達の教科書会社である。 ここからは私の推測だが、その左派御用達の(それゆえシェアも大きい)東京書籍が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ことを子供たちに教えるために一項目増やすのは左派への裏切りに他ならない。「パン屋」を「和菓子屋」に替えてごまかしたのは、あえて「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ための項目を造らないためと考えるのが自然である。 もちろん、文科省の対応がいつも正しいとは限らない。そこで、提案だが、このような無駄な不信感を抱かせないためにも、検定結果だけでなく途中の検定意見もすべて情報公開してはいかがだろう。私たち国民は、とりわけ子を持つ親は、学校において子供にどんな教育がされるかを知る権利がある。現在は何冊中何冊が合格したという検定結果と、検定に通過した教科書を見ることが可能だが、一切の闇をなくし、文科省のどんな意見に対し、教科書会社がどんな修正をしてきたのか。それらをすべて晒(さら)して、その是非を国民に裁定してもらう。そんな制度改革を行ってもよいのではないだろうか。文部科学省の外観=東京・霞が関(宮崎瑞穂撮影) 元次官が未成年売春の巣窟に出入りしていたことが明らかになった文科省。いじめ自殺が起きたら隠ぺいを指示する教育委員会。それに唯々諾々と従う学校現場。元委員長の愛人の務める店に組織名の領収書を切らせていた日教組等々。われわれ国民の教育関係者の向ける目は、怒りと不信に満ちていることを、彼らは早く気づくべきである。 今年9月に新潮新書から拙著『誰が「道徳」を殺すのか』が発行された。道徳の教科化をめぐる問題について、より詳細な内容をお知りになりたい方はぜひ、ご一読ください。

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    義務感が強すぎる日本人だからこそ道徳教育は必要ない

    だ。実際、介護のために鬱(うつ)になったり、最悪、自殺する人も後を絶たない。こうした中で、拙速に道徳教育を科目化してまで行う必要がある国に思えないのだ。道徳の研究授業=2018年3月23日、兵庫県加東市(共同) もう一つは、認知科学、精神医学の立場から見ての危険性だ。最近の精神医学で注目されている認知療法では、心に悪い考え方を持つ人が鬱病になりやすく、鬱病になった際に治りにくいとされている。 その中で最も問題視されているのが、「かくあるべし思考」と「二分割思考」だ。「かくあるべし思考」が強い人は、自分がその理想像に達していないと不全感を抱き、それがひどくなると鬱状態になりやすい。鬱になってしまった際も、少しましになったと考えることができず、まだまだ理想像と遠いと思ってしまうので、改善も遅い。 介護のように延々と続く作業で「かくあるべし」にとらわれてしまうと、体力ももたないだけでなく、きちんと介護をしているのに「まだまだ」と考えて自責感が強くなってしまう。さらに他人にも「かくあるべし」を求めがちだ。道徳教育自体は必要 また、仕事の現場では、残業をしないで先に帰る人間が許せないなど、この手の上司がブラック企業の温床になる。時代の常識が変わった際も、自分にしみついた「かくあるべし」に拘泥(こうでい)されて、変化に対応できないことが多い。 一方、「二分割思考」は、人のことを敵か味方、正義か悪で分けてしまって、グレーゾーンが認められない思考パターンだ。こういう人は、自分の味方と思っていた人が自分の批判をすると、敵になったという認知をしてしまうために、鬱になるリスクが大きい。 要は、道徳教育というのは、よほどうまくやらないと、そうでなくても強い日本人の「かくあるべし思考」を強化してしまい、正義と悪の二分割思考につながる恐れがある。これに対して、文科省は考える道徳教育、多様な価値観を受け入れる道徳教育を打ち出しているのだが、このようなディスカッションを誘導できる教師の養成を十分に行わないまま、検定教科書を作った。しかも、テストを行うかどうかはともかくとして、評価の対象にまでしてしまった。 道徳教育というのが、「答えのある」一方向性のものになるとすれば、常識破りのフレキシブルな人づくりの阻害要因になり得るだけでなく、それ以上にメンタルヘルスへの悪影響が心配だ。 とはいえ、道徳教育自体、必要な時代になったと考えている。なぜなら、高度資本主義における新秩序や格差社会化への対応が必要だからだ。現在の日本が格差社会であるかどうかには議論があるだろうが、今後の格差拡大は、世界の流れを考える限り当然予想される。道徳教育について意見を述べる参加者=2018年8月、長野市(共同) 日本の場合は、高度成長期においても、累進課税が厳しく、また企業経営者も多額の報酬を求めず、終身雇用と年功序列で一般労働者の賃金も高かったため、長い間、格差が顕在化しなかった。 雇用の枠を外れる人も少なく、大金持ちもさほどいなかったので、政府が貧しい人をそれほど助ける必要もなく、金持ち層も寄付をするという習慣が根付かなかった。しかし、今は新事業が当たれば、上場で手に入る資産が1000億円ということが珍しくなくなった代わりに、雇用の枠組みから外れる人も多くなってきた。 要するに欧米型の社会になったのであれば、「ノブレスオブリージュ」(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)の精神が当たり前のものになる必要が生じてきた。自分が成功者になれば弱者を助けるのが当たり前という価値観の涵養(かんよう)は、宗教を持たない人の多い日本では道徳教育に負うところが大きい。 私は道徳というのは、人の「道」を教えるという一般の人向けへの規範のパートと、「徳」という形で上が範を示すというパートからなるものと考えている。前述のように、日本は「道」の部分はかなりしっかりしているが、階級社会でないという建前のために「徳」がないがしろにされてきた傾向が強い。良い忖度なら必要 例えば、海外の寄付文化がどういうものか、かつての日本の偉人がどうであったかなどを教えることで「徳」の教育をぜひ求めたい。 また、超高齢社会で高齢者が増えるだけでなく、85歳以上の長寿者が急増しているため、要介護高齢者や認知症患者が激増している。ただ、悲しいことに現在では、「寝たきりになってまで生きていたくない」「認知症になったら安楽死をさせてくれ」というような弱い高齢者は生きる価値がないといった言辞が当たり前に飛び交っている。 彼らとて、若い頃、あるいは現役時代は、日本のために尽くし、働いてきた人たちなのである。また、ほとんどの人は日本のために納税してきた人である。場合によっては戦地に赴(おもむ)いた人もいる。 そのことをきちんと教えて、今の姿だけで判断するのでなく、人には歴史があるということはきちんと道徳教育の中で教えてほしいというのが、高齢者専門の医師としての提言だ。 互助の精神、「弱ったときはお互い様」の精神がないと、高齢福祉は金がかかるだけの無駄という発想に陥ってしまう。体が弱った、脳が弱った人への労わりだけでなく、彼らにきちんと残存機能があり、また、人の情もあるということも知ってほしい。 これは、核家族化が進み、高齢者と触れ合ったことがないという要因も大きい。教科書を作るだけでなく、特別養護老人ホームなどで高齢者と触れ合う機会を作り、高齢者の昔話を聞いたり、逆に生きていく上で、どんなことが待ち受けているのかを教わる体験学習が、まさに道徳教育に必要なのではないだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 最後に主張したいのは、道徳教育を「上に従う人間」を作る教育にしてはいけないということだ。アメリカのAO入試(学力試験を課さない大学入試)においては、面接を教授が原則行わない。ハーバードなどの名門大学では、むしろ教授に議論をふっかけそうな人が好まれる。その方が学問の進歩を生み、学ぶ側も教える側も進歩していくという思想が根底にあるからだ。 昨年以降、「忖度」(そんたく)という言葉をよく耳にするが、他人の気持ちを推し量る、共感するという忖度そのものは悪いことではなく、望ましいことだ。ただ、それは上の意向を読み取り、それに従わないと出世できない、あるいは従うと出世できるなどという実利を求めるためのものでなく、「思いやり」の精神のはずだ。 日大アメフト部の危険タックル問題では、上の命令なら間違ったことでも逆らわないという体質が明らかにされた。命令に従わなければ試合に出られないという形で、逆らえない指導も問題になった。 要するに「忖度」にもよい忖度と悪い忖度があるということだ。悪い忖度が当たり前にある組織だと、上に嫌われないために不正が隠蔽(いんぺい)されたり、改竄(かいざん)される危険が高まる。さらにたちが悪いのは、そのような「悪い忖度」をする社員が出世などでメリットを享受できる風土だろう。 これは企業不祥事が起こる要因になり得る。上が間違っていると思っている際に、堂々と間違っていると言える人間を作ることも道徳教育の目標にしていいだろうし、少なくとも「良い忖度」と「悪い忖度」があることは子供に教えるべきことだろう。 忖度という言葉は、あの森友学園疑惑で注目されたが、悪い例として使われるようになったのは、国民が納得できるような説明がなされなかったためだ。道徳教育を進める以上、法を破っていなければいいのでなく、これが道徳教育の提唱者である以上、国民に範を示さなければいけないという矜持(きょうじ)を安倍晋三首相に求めたい。きちんとした徳がない社会では、学校で強制的に教えた道徳教育の有効性も半減してしまうからだ。

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    子供の学力 道徳論より「スマホ時間を限定」の方が効果あり

    関係をリサーチした結果、頭のいい子が育つ家庭で実践される “声かけ”が明らかになった。「褒めて伸ばす教育」が叫ばれて久しいが、調査結果によれば「努力の大切さを伝える」「いじめはいけないことだと家庭で話す」「最後までやり抜くことの大切さを伝える」という項目は9割以上の保護者が実践するも、子供の学力に大きな差は見られなかった。 一方、「テレビ・ビデオ・DVDを見たり、聞いたりする時間などのルールを決めている」「テレビゲームやスマホのゲームをする時間を限定している」という家庭ほど、子供の学力が高くなる傾向が顕著だった。“カリスマ国語講師”として多くの受験生を合格に導いてきた予備校講師の吉田裕子先生は、「小学生には時間の使い方を教えることが有効」と指摘する。※画像はイメージです(GettyImages)「『最後までやり抜く』『努力は大切』などの抽象的な道徳論は、自我が育っておらず判断力の未熟な小学生が聞いても具体的に何をしたらよいのかわかりにくいため、成果につながりづらい。それよりも、具体的な時間の使い方を教えてそれを習慣づけることが大切です」 菅原脳神経外科クリニックの菅原道仁院長も「効果的なのは“声かけ”よりも時間の管理」だと言う。「脳科学の視点から見ると、人間の“やる気”はいくら他人から声をかけられたとしても、自分で行動を起こさなければ絶対に出てこない。無理やりにでも手を動かし始めると、脳内から神経伝達物質のドーパミンが分泌されて、徐々に気持ちが乗ってきます。億劫だった掃除でもやり始めると熱中して、止まらなくなることを心理学用語で『作業興奮』といいますが、それと同じ原理です。だからスマホやゲームは、制限時間内で終わらせるというルールを作り、鉛筆を握らせて机に向かわせれば、最初は嫌々でも次第に熱中するはずです」関連記事■ 自宅の蔵書多いと子供の算数の成績が上がる、新聞も重要■ 雑然とした本棚はOK他、頭のいい子が育つ部屋の12のルール■ わが子の頭をよくする照明・ホワイトボードの活用法■ 頭のいい子を育てるための子供部屋&親の部屋のありかた■ 子供の学力、父親の学歴よりも母親の学歴が影響大

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    高須院長 「今こそ教育勅語をキチンと伝えるチャンス」

    いらっしゃいますか?高須:いつの時代も怪しげな学校はあるものだよ。私立の学校なんだから、多少は偏った教育をしていても仕方ない部分はあると思う。でも、国から格安で土地を売って貰うために、安倍首相を過剰に持ち上げてたというのなら、それはちょっとあまりにもケチな話だよ。昭恵夫人を名誉校長にすれば、首相も口利きをしてくれるだろう、「安倍首相がんばれ!」って園児に言わせれば、国がよくしてくれるはず…っていう考えだというのなら、本末転倒だね。 そもそも立派な教育理念を掲げてるのなら、絶対にズルをしてはいけないよ。教育者がズルをしていたら、子供たちもズルをするようになってしまう。どれだけ素晴らしい教育をしていても、不正を働いたら全部台無しになる。──保守派の中でも、森友学園に対しては反発する意見も多いようです。愛国心を教えるだけならまだしも、中国人や韓国人に対する差別的な考えを教えていたという意味では、保守派に対するイメージダウンに繋がる…ということのようです。高須:それはあるだろうね。正しい歴史を教えることと、差別をすることはまったく違うことだから。ただ単に「中国人や韓国人が嫌い」っていうスタンスで教育をするのは、ちょっとゆがんでるかな。 でも、教育勅語を毎日暗唱させてたっていうのはすごく素晴らしいことだとは思うよ。教育勅語っていうのは、軍国主義的だっていろいろ言われることもあるけど、その内容は本当に子供たちに教えていくべきものだからね。親孝行をしよう、兄弟仲良くしよう、友達を信じよう、勉学に励もう、社会のために働こう…っていうことを説いているものなんだよ。これこそ、日本国民が後世に受け継いでいくべき、素晴らしい教えだと思う。でも、だからこそそれが差別主義的な考えと混同されてしまうのは、本当に迷惑。教育勅語で言っていることは、差別なんてものとはまったく逆のものなんだから。 だからね、森友学園の件で、妙な形でスポットが当たってしまった今だからこそ、教育勅語の本当の意味を伝えていくべきなんじゃないかと思うよ。ちゃんと伝えていくことができたら、日本の未来は明るくなると思うけどなあ。高須クリニックの高須克弥院長=2017年8月4日、東京都港区(宮崎瑞穂撮影)──なるほど。教育勅語に対する誤解を解くことが、結果的に良い教育になる、と。高須:どうもね、全部をいっしょくたにして考えてしまう人が多いみたいだからね。「森友学園はけしからんから、教育勅語もけしからん!」ということではないんだよ。不正を働く人間と、教育の理念とはまったく別ものだからね。 ツイッターでも、「高須が右翼だから西原(理恵子)も右翼になってしまったのか!」って文句を言ってくる人がいるけど、本当にナンセンス。僕と西原はいっしょにいるけど、イデオロギーは別だからね。そうやって西原にいちゃもんをつけてくるのが本当に許せない。だから、そういうやつには「僕のところに文句を言え!」って言ってるんだけど、いざ議論になると逃げちゃうんだよ。本当に卑怯だね。──なんというか、考え方があまり柔軟ではない人が多いですよね。高須:そう。すべてを右か左かの二元論で考えたがる人が多い。本質はそうじゃないんだよ。右翼だからって中国人が嫌いなわけではない。もちろん嫌いな中国人もいるけど、好きな中国人だってたくさんいるんだよ。裏を返せば、親中の左翼の人々は、チベット民族に対する迫害はどう考えてるの?っていう話にもなる。人権派だったら、中国がチベットでやってることは絶対に許せないはず。結局、物事っていうのはいろんな側面があって、右か左かだけでは語れないんだよ。重要なのはしっかり筋と義理を通すということ。 筋も義理も通せない人ばかりだと、世の中はめちゃくちゃになっちゃうのは間違いない。だからこそ教育勅語をしっかり教えていくことが重要だと思う。なんとなくおかしな方向に行きかけている日本を軌道修正するには、いい機会な気がするなあ。* * * 森友学園の問題はさておき、今こそ教育勅語を広めていくべきだという高須院長。筋と義理を通せる日本人を育てるために、教育そのものを見直す時期なのかもしれない。【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)など。最新刊は『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)。関連記事■ 高須院長「プーチンは筋が通っている。今こそ仲良くすべき」■ 高須院長 南北首脳会談に不快感「今こそ日本は警戒すべき」■ 今こそパートに出るチャンス 老後考え50才までに開始したい■ 「論理学」こそ教育において最も重要な学問と大前研一氏力説■ 高須院長 チベットで亡命政府大統領に「高須平和賞」を授与

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    東京医大「差別入試」は必要悪?

    東京医科大が女子や3浪以上の受験者の得点を一律減点し、合格者数を抑制していたことが明らかになった。受験者の属性による「差別入試」の背景には、女性医師の高い離職率などがあったようだが、それを必要悪と短絡的に受け止めてもいいのか。議論の核心を読む。

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    医学界に蔓延する女性差別、現役女医が明かした「男社会」の現実

    の高い私立男子校が大阪や京都、神戸、奈良に何校もある。一方で、女子校や共学は少なかったからだ。中高の教育レベルが、医学部の合格者数に比例するのだろうと勝手に思っていた。女子差別の実態があると知っていたら、それでも私は医師を目指していたのだろうか。「退職」ではなく「転職」 医学生の頃は、憧れを抱いたままだった。医学部5年時の病院実習(「ポリクリ」と呼ばれていた)は、あくまで見学であり、実際に働く訳ではない。ある外科を研修していると、女性医師が「女を捨てた」と言っているのを聞き、外科系は出産や子育てなどができない、と学生ながら感じることもあれば、別の科ではオンオフがはっきりしているから「女性も働きやすいよ」としつこく言われた。 だが、初期研修医になると、医師としてさまざまな診療科を回り、各診療科の仕事内容やハードさを、身をもって体験する。仕事も続けたいが、いつかは出産も育児もしたい。だから、緊急手術や夜間の呼び出しの有無、身体的・精神的に耐えられるかどうかなど、女性として働くことが可能かどうかを考え、初期研修を終えるまでに診療科を選ばなければならなかった。いや、むしろ診療科を切り捨てて行った、という方が正しいのかもしれない。 東京医大の言い分が正しいのかというと、当然ながら正しくない。一般に、女性の労働力は、結婚や出産期に当たる年代にいったん減少し、育児が落ち着いた頃に再び上昇することが知られている。これを「M字カーブ」というが、女性医師も例外ではない。 平成18年度厚生労働科学研究「日本の医師需給の実証的調査研究」によると、女性医師の就業率は、医学部卒業後減少傾向を認め、卒後11年目(36歳)で76%まで落ち込んだ後、再び回復している。結婚や出産を機に医師を辞める選択をする女性医師がいることも事実だが、ベビーシッターを雇いながら勤務を続ける医師もいれば、出産後すぐに復帰して第一線で働く医師もいる。 さらに、多くの女性医師は職場や働き方を変えながら、医師を続けている。東京医大の経営者にしてみれば「退職」と同じだが、当事者の女医からみれば「転職」だ。東京医大の経営者は、自分のところで働く医師にしか関心がないのかもしれない。 実は、この点こそが今回の問題の本質である。医学部の入学試験は、単なる大学入試ではない。大学医局への就職試験という側面もある。大学経営者にとっては、卒業後医師として自らが経営する大学病院や系列病院で働いてくれる人を選ぶ「採用試験」でもある。だから、出産や子育てを理由に辞めてしまう、あるいは男性に比べて戦力にならない女性医師はいらない、ということになる。東京医科大学正門前=2018年7月4日、東京都新宿区(萩原悠久人撮影) 一律減点や裏口入学は、実は医大経営者の本音を表しているのだ。だが、医学部は教育機関であるにもかかわらず、医学部合否の基準に卒後の働き方が入っていることを誰もおかしいと感じない。このことが、問題の根深さを象徴している。 実は、これは入試に限った話ではない。医局の勧誘や専門医制度も、医師や医局員不足対策として「囲い込み」をしているにすぎないのだ。 大学5年の時、病院実習として各科をローテーションした。その度に、医局説明会や歓迎会に誘われた。それはまるで部活の歓迎会のようだった。県内に残ることを説得され、「女医は医局に入らないと仕事を続けられないよ」と毎回脅された。 研修医2年目の秋ごろだったと思う。母校の産婦人科教授が、はるばる当時私が勤めていた福島県南相馬市までやって来た。産婦人科を志望していた私に会うためだった。その後、「母校に帰って来なさい。専門医を取得しないと将来の可能性を狭める。母校の産婦人科プログラムは入局を求めているが、個人を縛るものではない。あなたのことが心底心配だ」と何通もメールが来た。それほどに医局員を欲しているのかと驚くほどだった。3年目の医師になり、教授からのメールはパタリと来なくなった。「男社会は仕方ない」 本来、教師は生徒の味方だ。だからこそ、多くの人が社会に出てからも、何か困ったことがあったときに恩師に相談する。ところが、医学部は違う。教授は医局の「経営者」でもある。一人でも多くの若手を囲い込みたい。いろんな理屈をつけて、縛り付ける。それが分かっているから、在校生の時も、もちろん卒業してからも、教授に相談したことは一切ない。 その典型が専門医制度だ。この制度では、若手に「専門医」という肩書をチラつかせ、医局員として働かせている。それにしても「専門医」とは何なのだろう。専門性とは一生かけて取得していくものではないのか。たった数年で取得できるはずがない。まして、学会費を支払い、学会に参加し、決まった症例数と決まった年数をクリアすれば取得できるなんて、どう考えてもおかしな話だ。 ただ、これは医学部教授から見れば有り難い。最も働いてくれる30代前半までの医師を囲い込み、後期研修を終えれば、「雇い止め」することができるからだ。そして、新たな若手を「教育」という名の下で縛り付ける。普通の職業なら、こんな有期雇用は認められない。 裏口入学は、世間でいう「コネ入社」と同じだ。医師になるための切符をくれた大学には一生頭が上がらない。医局員として一生働き続ける。大学の経営者にしてみれば、裏口入学を認めた代わりに、ずっと働いてくれる医局員を確保できる。お安い御用なのだろう。 某私大の皮膚科医局に所属している友人によれば、医局スタッフの約8割を占めている女性医師が、産休や育休を理由に医局を辞めるケースが後を絶たず、特に入れ替わりが激しいという。しかも、女性医師が多いために時短制度を導入できず、フルで勤務せざるを得なくなり、途中でリタイアしてしまう女性が多いそうだ。だから、教授も女性の入局希望者を採用したがっておらず、医局スタッフでさえ男性の入局希望者を優先させたがっているらしい。 この状況は、大学経営者や教授にとっては「女は使えない」ことに等しいが、われわれ女性からみれば「男社会は仕方ない」ことになる。教授や系列病院の部長を目指し、滅私奉公することを私は求めない。 ある病院の産婦人科で研修をした大学6年の時のこと。定時(9時〜17時)で働いている女性医師が患者の急変に気がつかなかったようで、フルタイムで勤務している女性医師が彼女を責め立てていたことがあった。「急変時に対応できないなら、勤務しない方がマシだ。結局フルで働く私たちにしわ寄せがくるんだ」と。定時で帰ってしまう医師をフォローし合うという意識が全く感じられなかったことは、学生ながら残念に思った。 私が医師を目指したのは、大学教授のような「肩書」が欲しいからではない。患者さんを診察して治療し、患者さんに寄り添っていく中で、医療と医学の両方を学びたいからだ。私は、大学医局には属さず、新専門医制度にも登録しなかった。福島県と東京都で臨床医として働きながら、臨床研究にも取り組んでいる。画像:Getty Images 女子受験生を一律減点し、恣意(しい)的に合格者数を抑制していたことは、女子差別であるとしか言いようがない。だが、根底に隠れている問題は、医学教育という名の下、大学において入試や専門医の名を語った医師の囲い込みや就職活動が行われているという現状があることである。そこは典型的な「男社会」だ。私はそのような人生を送りたくない。おそらく同様に感じている女性医師も多いだろう。 こうした現状を打破するには、医学部と大学病院を分ける、といった対応が必要だろう。今こそ「女性差別」という問題だけで終わらせることなく、その裏に隠された医学教育という名の下の体制や慣習にメスを入れる時なのではないだろうか。

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    「男と女どちらが優秀?」差別入試、この議論をしても意味がない

    立の話である。 みんな、それが当たり前だと思っていた。男子と女子では生き方が違うのだから「女子に高等教育はいらない」という時代だったのである。今、同じことを全国屈指の名門、筑波大付属駒場高がやれば、きっと大きな問題になるだろう。 社会学者で横浜国立大の江原由美子教授は、『女性解放という思想』(1985年、勁草書房)で次のように述べている。 「『不平等』を『不平等』として認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるをえない。しかし、『不平等』が『不平等』として認識されない社会においては一般に差別者と被差別者のカテゴリーが別であるということが『常識』となっている」東京医科大の正門=2018年7月(萩原悠久人撮影) 今、東京医大の不正が問題になっているのは、入学試験を受ける者が全員、論理的には同一カテゴリーに属するにもかかわらず、女子(と3浪以上の男子)だけが明らかな不利益を被っていたからに他ならない。一方、不正を行った大学関係者や、この処置を「問題ない」と主張する人たちにとって、女子と浪人生は「男子とは別のカテゴリー」であることが「常識」となっている。フェミニズムの「関門」 その「常識」は、「女性医師の多くが出産で離職するので、男性医師と比べて頼りにならない」という現場の意見に支えられている。労働環境が特に厳しい外科では「女3人で男1人分」との言い草もあるという。もはや、男女は別のカテゴリーとして捉えられているようである。男と女はライフコースが違うので、入試の処遇で差をつけるのは当たり前、不平等な差別とまでは言えないというわけだ。 彼らのロジックを批判しようとするとき、社会の側は「男女の能力に差はないはずなのに、差別は不当だ」と、「差異の平等」を訴えなければならない。そもそも、男女を同じカテゴリーに入れて考えてもらわないと、「男女には差異があるので処遇の差は当然」と主張する人たちを説得できないからである。 しかし、ここでフェミニズムが誤解されやすい、というより一度は通過しなくてはならなかった関門がある。実際には「差異」がない、もしくはそれほどの差異が認められないのに差別されることに対して不平等を訴えても、「そうですか、男女に差はないと言うのですね」と短絡的に解釈されかねないからである。 次に行われるのは、果たして男性医師と女性医師の能力に差はあるのか、仮にあるとしたらどんな差なのか、という議論である。これでは問題の焦点がどんどんぼやけ、差別を訴える側はひたすら男女の差を検証していく作業へと巻き込まれていく。 男女の能力差の検証がまったく無意味だとは言わないが、それだけでは差別問題の本質は見抜けない。それどころか「差異の検証」に終始することは、差別の正当化を暗黙に容認する結果すら導いてしまうだろう。「医療現場を調べたところ、男性医師は女性医師より出産による離職率が低いので女性より優秀であることが実証された。よって優秀な男子を入試で優遇することは正当化され、差別ではない」といった結論が出てしまいかねない。もしくは、極端かもしれないが、「女性医師の出産による離職が問題なので、女性医師の産休、育休を認めない」とか、「一定数の女性を強制的に外科や救急に配属し、出産を制限する」などの不当な処遇が「男女平等」の未来予想図にされてしまう可能性もある。2018年8月、東京医科大前で「#女だからというだけで」と書かれたプラカードを掲げ、抗議活動する女性 私たちは今一度、何をどうすれば「平等」だと言えるのか、そのイメージを明確にしなければならない。求めるものは何なのか。性別による差異があることは前提として、その差異をどう扱えばより社会的な理想に近づけるのか。 男性医師と女性医師の差異をあげつらって「どちらが優秀か」などと泥仕合をしている場合ではない。また、ある分野で特に男性医師の労働力が求められているからといって、そこへ全員の医師が照準を合わせなくてはならない前提を疑ってかかることも必要だろう。 本件をきっかけに、私たちは男女平等のあり方と医療現場の現状を考えるべきである。しつこいようだが繰り返したい。何をどうすれば「平等」だと言えるのか、はっきりしたイメージがないままに男女差を検証するだけの不毛な議論は、もう終わりにしたい。

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    教授に媚び製薬会社にたかる「白い巨塔」が差別を生んだ

    えない」と思い込んでいる。だからこそ、女子受験者を一律減点し、入学を制限しようとしたのである。 大学教育とは一体何なのか。むろん学生を育てることである。それは医学部だろうが、他学部だろうが関係ない。ところが、東京医大は学生を自らが経営する大学病院の「労働者」としてしか見ていない。 この問題を解決するには、情報公開を徹底するしかない。さらに、大学病院を医学部から分離する、あるいは卒業生の入局を制限するなどの対応が必要だろう。 これは学生にとってはプラスである。進学校から医学部に進み、そのまま入局して、一生母校の医局にいたら、まともな人間になるはずがない。不正に関与した東京医大の幹部はまさに反面教師である。 近年、大学医学部で不祥事が続発している。今こそ、学生教育という本来の目的に立ち返り、徹底的に議論し改革を促すべきだ。

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    東京医大「差別入試」 気になる違法性はここが分かれ目

    かし、入試や学校運営に関して、性別を考慮要素とすることは必ずしも違法というわけではない。 まず、学校教育に関しては、現在一般的になっている「男女共学」の逆である「男女別学」も認められている。公立の男子校や女子校もいまだに存在しているし、現在の日本の状況では、「男女の性別を分けることが教育上全く無意味である」という考え方にはなっていない状況にある。 このため、性別を理由に、性別ごとに別の対応を行うことが、教育機関として絶対に違法ということではない。 少数者に対する差別的な扱いを解消するための差別解消措置「アファーマティブ・アクション」という制度がある。こういった制度自体は、かつて女性の社会進出が困難であったことを背景に、多様な人々が活躍できる社会を目指すために作られた。 このアファーマティブ・アクションは、学校が、例えば男性に比べ女性を優遇することで、多様な学生によって構成される学校を目指すことを認める考え方である。こうした考え方から、何か理由があって、性別を理由に加減点要素を認めるなどの取り組みも許されると考えられている。  また、裁判所は試験の評価に関して、試験実施機関の評価や判断に広範な裁量を認めている。裁判所は、その試験で判断しようとしている目的とは明らかに関係のない理由で合否判断をしていない限り、試験実施機関の判断に介入しないとしているのだ。これは、裁判所は法律のプロであって、試験のプロではないから、分からないことには出しゃばらないということであろう。(ゲッティイメージズ) 一方で過去の裁判例をみると、裁判所が介入するケースもある。例えば司法試験の合否判断について、司法試験委員会が「年齢、性別、社会的身分、出身大学、出身地、受験回数等」によって差別を行ったとする。その場合、司法試験の目的である「学識・応用能力の有無」とは直接関係のない事柄によって合否の判定が左右されたことになる。いわゆる「他事考慮」だ。この他事考慮に該当する場合には、裁判所が合否の判断に介入すると判断したことがある。 司法試験では、裁判官や検察官や弁護士といった仕事に就く人を選別するのだから、男性女性ということを考慮すべきとは思えない、ということから、性別での判断はしてはいけない「他事考慮」に該当するといえるのだ。 このように考えると、単に性別を理由にした取り扱いが問題なのではなく、今回の試験の目的と、性別がどのように関わるか、それとも関わらないのかが、違法性判断の重要な要素になることが分かる。 また、一部報道によると、東京医大は「女性医師は出産や子育てで離職することが多く、系列病院では男性医師が現場を支えているのが実情」という考えの下、今回のような対応を取っていたようだ。性別評価は事前説明が必要 本来的に、こうした性別で一律評価を行うことは、前時代的かつ働き方や資格制度の在り方といった問題の本質から目を背けている。 確かに大学病院は、地域医療に多大な貢献を行い、それぞれの医師が寝る間も惜しんで医療サービスを提供している実情があること、その職場環境が非常に厳しいものであることは理解できる。 しかし、試験の結果は当然、知識力や思考力や判断力、さらにそういった能力を培うための、本人の継続的な努力によって形成されたものである。今回の東京医大の対応は、「試験時点」の「能力で勝る女性医師の卵」と「能力で劣る男性医師の卵」を比べ、後者の方を優先させるという判断をしたものだ。しかし、上記したような能力で劣るものを優先して、本当に医療サービスの確保を目的としているといえるだろうか。 少なくとも、「医療サービスの確保」を理由に正当化するのであれば、その理由についての明確な根拠が必要であろう。 東京医大レベルの医学部入試のためには、多くの受験生が高額な費用を予備校に払い、浪人も厭(いと)わずに受験に臨む。さらに入試にはその学校独自の特性もあることを考えると、この学校に入りたいと思って受験している学生の中には、受験前にこうした事情を知っていれば、「そもそもこんな大学は候補に入れない」という受験生も多くいたことだろう。 仮に大学が本気で男性を優先的に合格させたいのであれば、それを明言すればよかった。しかし、そのような対処をすると大学としての評判を下げ、結果的に人気校と言えなくなることや、女性の進出に否定的な大学といった風聞が立つ。そうなれば自身のブランディングに影を落とすことを気にしたのだろう。 こうした受験生の状況も考えると、性別の評価要素は説明が必要な重要事項であろう。事前の告知が一切受験生にされていないということが重要な問題点だ。そして説明をしなかった以上は、後から「性別が実は大事な要素だ」というのは不合理な主張と考えられる。(ゲッティイメージズ) 今回の試験について、仮に性別を考慮することが他事考慮といえる場合、女性受験生が法律上できると考えられるのは、慰謝料請求、損害賠償の請求と、試験に合格したとして東京医大の学生としての身分の確認請求を行うことだ。 本来合格だった者が、不合格を言い渡されることは、その者に精神的苦痛を与えるものであり、さらには知っていれば受けなかった受験生らの無駄になった受験料なども損害といえ、慰謝料請求や損害賠償の請求が可能であると考えられる。 さらに、性別による評価が他事考慮であるとすれば、その点数分はいわば「採点ミス」である。このような「採点ミス」の結果不合格になった者を再度評価し、合格点を超えていれば、その学生には東京医大での学生の地位が与えられる可能性がある。 もちろん、その地位を「当該女性が望むのであれば」ということにはなるが。

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    東京医科大の入試得点操作 公民権運動や人種差別と同悪?

     作家の甘糟りり子氏が、現代の「ハラスメント社会」について考察する。今回は東京医科大で行われていた女子と多浪受験生に対する入試得点の不正操作について。* * * 東京医科大学の件を知った時、ノー天気にも、もしやフェイクニュースなのかと思った。だって、受験の際に女子学生が一律に得点を不正操作され、意図的に合格率を下げられているなんて、まともな国のまともな学校のすることとは考えられないから。日本は文明国ではなかったっけ? しかし、同大学では、実際に2006年頃から受験者にはなんの説明もなく、女子というだけで不利な扱いをされていたというのである。それどころか、各ニュース番組やワイドショーによれば、東京医科大学に限ったことではなく、さまざまな大学の医学部の入試で女子に対して採点の操作が行われているというではないか。 成績順に合格させると女子の比率が高まる(成績順だと医学部のほとんどは女子大になってしまうという人もいるらしい)。女子の比率が高まると、医師になってから、結婚や出産、育児で離職率が高く、勤務形態を維持できないという理由からだ。 パソコンの前で一人、思わず声をあげてしまった。女子受験生たちの無念を思うと、怒りで心も身体もわなわなと震えそうだ。これを差別といわずになんというのだろうか。 去年、ハリウッドでの女優の告発をきっかけに起こったいわゆる「#me too」の流れを、現代の公民権運動という人もいる。1950年代~60年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人が公民権の行使と人種差別を訴えた運動だ。当時、ローザ・パークスという女性の活動家がバスに乗った際、白人専用の席で白人に席を譲らなかったため、人種分離法違反で逮捕された。十代の頃、このエピソードを何かで読んだ時、あまりの理不尽さに内容を理解するまで少し時間がかかった。そして、理解はできても、白人でも黒人でもない私はこの理不尽さを「実感」はできていないのではないかと思い悩んだりもした。 しかし、今ならよくわかる。私たちは、あちこちで、女子もしくは女性だからというだけで、能力がない、当てにならない、感情的で理論的ではないと決めつけられるのだ。無教養な男性に。そして、同じような思考回路の女性に。 黒人が白人に席を譲らなければならない理由は一つもない。ただ黒人というだけで席を譲らなければならない理不尽さは、女子だから減点されるのと同じように私の目には映る。入試得点不正操作の罪の深さを考察 女性の医師の離職の理由に、結婚、出産、育児があげられているが、出産を除けば、男性も経験することだ。結婚するしないは個人の自由だけれど、親となったなら育児は「すべき」ことである。出産は、今の医学では女性しかできないが、そもそも女性が出産をしなければ、男性は世の中に存在できないのだ。当たり前だけれど。出産をしたから離職しなければならないのは、世の中の制度や意識が低いからだ。これも当たり前だけれど。 今、家族が癌の闘病で入院中である。開腹の大きな手術をした。男性の執刀医の他、担当の外科の先生が3人いて、毎日、回診に来てくれる。心細い時期だから、先生と短い会話をするだけで安心する。うち1人が女性。細かい質問でも明解で穏やかに答えてくれる。 考えてみれば、これまでに家族や親族の大きな手術の付き添いを7回ほど経験したが、外科の女性医師は初めてだ。もし仮に、彼女が明日からでも「産休」をとるとしても、私は心から応援したい。関連記事■ 「おっさん」は褒め言葉かハラスメントか、その基準とは?■ 中国の洗剤CM 人種差別と批判され「中国に人種差別ない」■ 落合信彦氏 ネットで政治話題活発化も人種差別的主張は残念■ 松山英樹 全英OPで「人種差別的ペナルティ」の指摘も出た■ 白鵬が相撲協会の人種差別匂わせる発言 単なる舌禍で済まず

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    このままでは国立大学がヤバい

    「もうノーベル賞はとれなくなる」。わが国の歴代ノーベル賞受賞者たちがこう警鐘を鳴らすのも無理はない。科学技術立国を支えた国立大学の研究予算が財政難を理由に大幅に減額され、いま若手研究者が腰を据えて研究できる環境が崩壊しつつあるという。このままではニッポンの国立大学がヤバい。

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    土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち

    仏、中、韓の主要国が04年比でその総数を大きく伸ばしている一方で、日本のみ減っている。イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education」の「THE世界大学ランキング」04年版では東大は12位、京大は29位、東工大、大阪大学、東北大学、名古屋大学が200位以内にランクインしていたが、最新の18年版では東大は46位、京大は74位に後退し、他の大学は200位以内から転落している。 日本は00年以降、自然科学分野で15人のノーベル賞受賞者を輩出し、科学技術大国とされてきた。しかしそれらの受賞の多くは研究者が20代後半から40代前半の若手のころにに行われた研究が後年になって評価されたものだ。次世代のノーベル賞を生む土壌は既に崩壊し始めている。梶田教授は「このままでは日本からノーベル賞受賞者は生まれなくなる」と危機感を隠さない。 ではどうするべきか。安井名誉教授は「すぐに成果が出る研究は民間がやる。先進国として、あくまで科学技術立国を目指すのならば、運営費交付金を増やすべきだ」と語る。梶田教授や16年にノーベル医学・生理学賞を受賞した東工大教授の大隅良典氏など、運営費交付金増額を求める声は大きい。科学技術・学術政策研究所資料を基にウェッジ作成 しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。川口教授は現状のジレンマをこう分析する。 「運営費交付金を戻すのはセカンドベスト(次善の策)だ。いったん戻すべきだという危機意識は正しいが、財政難という時代の中で誰にもファーストベスト(最善の策)がわからない。そうこうしているうちにこのままでは大学が崩壊するというところまで来てしまった」 国の財源なき中で、有望な若手研究者にいかに資金を回し、科学技術立国の基盤である国立大学を再興させればいいのか。次章以降でそのヒントを探っていく。

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    経営難の私大に「名誉ある撤退」を促せ

    田中敬文 (東京学芸大学教育学部准教授) 日本の18歳人口は、ピークだった1994年の205万人から次第に減少し、近年は120万人程度を維持していた。ところが、2018年から再び減少に転じ、31年には99万人と100万人をも下回る見通しである。さらに大学、短期大学、専門学校、高等専門学校4年目の合計の進学率は約81%(17年度)と頭打ちである。他方、私立大学・短大数は932校にも及び、定員割れの学校数も229校と約39%にも達する(下記グラフ参照)。また学校法人の17%が経営難に陥っている。 大学・短大進学率を15年と同率と仮定した推計によれば、31年の入学者数は約56万人と、15年の約68万人に比べて約12万人も少なくなる。仮に進学率が高まるとしても、定員を満たすことのできない大学がより一層増えることが予想される。こうして大学の淘汰(とうた)が本格化することを大学の「2018年問題」と呼ぶ。 この「2018年問題」は的確な人口予測に基づくものであり、以前から顕在化していたことである。にもかかわらず、文部科学省は大学全体のグランドデザインを描くことなく、私大の新設を認めてきた。大学と短大を設置している文科省管轄の学校法人数の推移を見ると、05年の660に対して17年には664と微増している(この間、法人の合併による減少は12、解散による減少は15であり、逆に31増加している)。 筆者が開学間もないある地方私大へ出かけた際、定員を大きく下回る学生数に驚いたことがある。経営を持続できるのか心配になり、経営者に話を聞くと、幼稚園や高等学校の長年の経営で蓄えた資金で何とか切り盛りしているとのことだった。こうした事例は氷山の一角である。 日本では大学数でも学生数でもその約7割は私大が占めているが、特に問題となるのが、進学者のパイそのものが小さくなっていく中、定員割れが深刻化していく地方の私大である。今後こうした経営基盤の弱い私大の処遇が問題となる。文部科学省資料などを基にウェッジ作成 一方で地方自治体にとっては、域内の大学の存続は人口維持にも関わってくる。そこで、公費を投入してでも私大を存続させようと手を打つ例が目立ってきている。山口東京理科大学は16年度に地元の山口県山陽小野田市により公立化され、学費が下がったことにより倍率が数倍に跳ね上がった。他にも17年度までにすでに6大学が公立大学となり、18年度には、新たに石川県の公立小松大学と長野県の公立諏訪東京理科大学が誕生した。地元としては設立時に土地や資金などで支援し、若者の流出を何とか防ぎたいとの思惑がある。 だが、欧米とは異なり社会人をターゲットとしない日本の大学にとって、減り続ける18歳人口のみが実質的な市場だ。大学を存続させたとしても、その前途が多難であることに変わりはない。また公立化による学費引き下げは、一見すると家計負担の軽減につながるようではある。しかし大学への公費投入は、やがては地域住民の負担増加という形でツケが回ってくる。加えて公費投入は周辺地域の私大の経営努力のモチベーションを失わせる諸刃(もろは)の剣でもある。 これらを許容し公立化をするに際しても、既存の地方国立大や公立大との住み分けが不可欠だ。16年度以降、86ある国立大は3種類に分別され、そのうち「地域貢献」に分類され地域に根ざすとされている国立大は55に上る。地方の新興私大が実績ある地元の国立大と伍(ご)するのは並大抵ではない。大学がその地域の産業に役立つ学びの場となるようにし、卒業生がその地域で就職できるようにグランドデザインを描いて大学を地域に組み込まなければ、公立化も一時的な延命措置で終わってしまう。求められる経営の透明化 また目下、政府により「一億総活躍社会」の実現に向けた「リカレント教育」や、「地域創生」のための「産官学の連携」の必要性、さらには「大学のグローバル化」のための「外国人留学生の受け入れ増」が叫ばれているが、これが本来の趣旨から逸脱し、経営難の私大の延命のために公費を投入する言い訳に利用されるようなことがあってはならない。 大学は時代に応じて参入を認められてきたのならば、「構造不況」である今こそ、時代に応じてその数を減らしていくときである。経営に行き詰まった地方私大に残された道は「撤退」、「他大学との統合」、「学部の切り売り」となる。しかし、統合先にメリットがある有望な私大や価値のある個性的な学部を有している私大は、そもそも経営難に陥るのはもっと後になるはずだ。つまり、すでに経営難に陥っている大半の私大に残された道はもはや「撤退」しかない。 私立学校法により国は私大に対し直接介入することはできない。そのため国は私大に対し、自分の意思で「名誉ある撤退」を行えるよう政策誘導する必要がある。文科省は1月、「定員割れ」「5年程度の連続赤字」「教育の質が低評価」といった条件に該当した場合に私学助成金を減額する方針を示した。こうした方策は撤退を促すには有効かもしれない。 また文科省管轄の特殊法人である日本私立学校振興・共済事業団は私大に対し経営指導などを行っている。こうした専門機関が「撤退」に向けアドバイスしていくことも重要だ。 というのも、私大の設立に時間と資金が必要であるのと同様、撤退にも手間を要するからだ。学生や教員の処遇だけではなく、特に地方は土地を無償提供されたりするなど自治体との結びつきが強い場合が多く、地元の経済界から援助を受けているケースもある。こうした関係者との調整には多大な時間を要するため、数年前から準備を始めなければならない。時間と準備が足りないと、突発的な破綻という、学生にとって最悪の事態さえ起こりうる。 私大の突発的な閉鎖が危惧されるようになれば、学生・保護者が自己防衛できるように、国は経営情報の開示をより積極的に求めるべきだろう。20年前と比べると今日の大学の経営情報は開示されつつある。しかし問題は学校法人会計が独特の仕組みや表記のため、学生・保護者がすぐには理解できないことにある。企業会計の専門家でさえ、学校法人会計はわかりにくいという。※写真はイメージ(iStock) また、定員割れによる収入減を人件費凍結などによりどうにかやりくりしている大学もあるから、経営状況は経常収支の継続的な赤字を一層厳しくチェックすべきである。一方で、大学の他に高校や幼稚園など複数の学校を経営する法人も珍しくなく、大学の赤字を他の黒字で賄うことも可能である点には留意が必要だ。 いずれにせよ、学生保護の観点から、経営情報の分かりやすい開示を怠っている大学は学生に選ばれないような環境整備が必要である。志願者数や入学者数・在籍学生数の実員という「入口」情報や、学生が身につけた教育成果や地域への貢献といった「出口」情報の開示のない大学にも、撤退を促すことも考えるべきであろう。 「2018年問題」は以前から予測できた問題でありながら、18年に突入した現在にあっても具体的な政策を施行できていない現状は遅すぎると言わざるを得ない。私大の突発的な破綻により路頭に迷う学生が出ないよう、私大の「名誉ある撤退」に向けた施策が急がれる。

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    梶田隆章が警告! このまま放置すればノーベル賞はとれない

    事情が厳しいのは重々理解するが、資源のないこの国には科学と技術が絶対に必要だ。人口減少を見据えて高等教育から先んじて縮小させることは全く理解ができない。国は科学技術立国を目指すといいながら、国立大学の研究環境を悪化させ、すでに日本の研究力が大きく落ちている。本末転倒と言わざるをえない。次代を担う若者が、日本は科学技術の国だ、研究がやりやすい国だと思えるような方向に大きく方針転換をする必要がある。 かじた・たかあき 東大宇宙線研究所長。1959年、埼玉県東松山市生まれ。埼玉大理学部卒業後、東大大学院で物理学を専攻。東大宇宙線研究所助手、助教授を経て1999年に教授。2008年から現職。15年、ニュートリノ振動の発見によりノーベル物理学賞を受賞。東大卓越教授。

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    文系学部廃止の議論は終わりにしよう

    力などは欠くことができない」と主張していきました。この主張自体は、その通りなのですが、文系学部と教養教育は同じではありません。 つまり、昨年の騒動は人文社会系の学問に関する認識不足や、この20年間に文系に起きてきた変化についての認識不足を露呈することとなりました。 ーーそもそも前提とする認識が間違っていたと。他にも気になった議論はありましたか? 吉見 それが、この本の中の一番重要なポイントです。去年の議論の中で私が違和感を持ったのは、「文系の知は役に立たないけれど価値がある。だからこそ廃止すべきではない」という反論です。しかし、「文系は役に立たない」と言ってしまった瞬間に、廃止するという議論に根本的には対抗できなくなってしまう。 特に考察すべきなのは、「理系は役に立つけれども、文系は役に立たない」という認識が、国民一般に暗黙裡に浸透している状況です。これこそが問題で、極端に言えば90年代末以降の日本の凋落のひとつの大きな要因だとも言えるのです。 私は「文系は役に立つ」と確信しています。だから、文系学部はどのように役に立つのか、その「役に立つ」とはどういう概念なのかをこの本で論じました。吉見俊哉・東大大学院教授=2017年2月22日(栗井裕美子撮影) ーーそれでは役に立つとはどういうことでしょうか? 吉見 「役に立つ」には2つの意味があります。1つ目は、すでに与えられた目的に対して手段として役に立つこと、手段的有用性です。例えば、大阪まで最も早く確実に行くのは新幹線です。だから、新幹線の技術は素晴らしいし、それを作ったのは日本の理系の技術力である。だから理系は役に立つ、そういう有用性です。確かに、目的に速く到達するにはそうかもしれませんが、その場合には、目的が所与です。つまり、何らかの所与の目的に対して手段として役に立つことは、目的やそれを支える価値が変わってしまえば役に立たなくなるのです。 しかし、そもそも社会にとって何が重要な目的であるかは人々の価値観や社会の価値軸によって決まるのです。そしてその価値軸は、数十年単位で必ず変化する。ですから、そうした歴史の流れの中で、現在、多くの人が当たり前と思っている目的や価値を批判し、新しい目的や価値を創造する価値創造的な有用性があります。これが、2つ目の「役に立つ」です。これこそが文系の知の本質なのです。ソニーはなぜアップルになれなかったのか ーーなるほど、先程の90年代以降の日本の凋落とつながってくるわけですね。 吉見 この新しい価値軸や目的を打ち出していくことを「イノベーション」や「クリエイティビティ」と言いますが、日本はなぜこれが出来なかったのか。それはこれまであまりにも目的に対する役立ちばかりを追求し、長い時間の中で価値軸そのものが変わるということをきちんと理解してこなかったからだと思います。 高度経済成長の頃に私たちが当然だと思っていた価値と、現在の私たちが向かっている価値は違います。こうした変化は、歴史の中で常に起こっていて、19世紀初頭の人々と20世紀後半の人々が抱いている価値は全然違うわけですね。3年~5年では価値軸は変化しないかもしれませんが、30年~50年の単位で考えれば価値軸は必ず変化します。この変化は、絶対に理系だけでは認識できません。理系は「技術革新」を追求しますが、その根本の「概念の革新」は想像できないのです。 ーーこの価値軸の変化を捉えるためにはどういうことが必要なのでしょうか? 吉見 新しい価値軸を創りだすためには、現在人々が当たり前だと思っている価値軸を内側から批判出来ないといけない。当たり前にどっぷりと浸かっていたら、その自明性を超えることは出来ません。 「当たり前」を内側から批判し、超えていくためには、本当は世界はこんなに広くて多様で、多元的であるということを認識できる知、つまり文系の知が必要なのです。たとえば政治学、経済学、社会学、人類学をはじめとする人文社会科学は、全て人々が当たり前だと思っていることに対し、長い歴史や様々な文化、様々な社会的価値の変化を見ることで、他の価値軸があることを教えてくれます。 そう考えると人文社会系の知は、どちらかというと長期的に、理工系の知は文系に比べると短期的に役に立つ知であると言えます。画像はイメージです(iStock) その例が、ソニーがなぜアップルになれなかったのかという問題です。技術的には、ソニーはアイフォンを作れたはずです。しかし、ソニーが作ったウォークマンはステレオの概念を取っ払い、モバイルなステレオを創り出しました。イノベーティブでしたが、そこで終わった。一方のアップルが創り出したアイフォンが革新的だったのは、電話の概念そのものを変えたことです。その差は長期的な価値軸の変化を捉える文系的な知が、文理横断的にあったかどうかだと思います。経団連は誤解している ーー先程のお話で経団連が文系学部と教養教育を混同していると、もう少し具体的に聞かせてもらえますか? 吉見 経団連の文科省批判は「国立大学文系学部の廃止は、経団連からの要請によるものだと世間では騒がれているがそんなことはない。私たちは教養教育をとても大切にしている」という主旨でした。つまり、経団連は文系と教養教育を一致したものと見ている。しかし、これは概念の混同で、当然ながら人文社会系の学と教養教育は同じではありません。たとえば人類学や経済学、歴史学を思い浮かべてください。それぞれの学問は専門知で、決して教養知ではありません。理系でも数学や物理学などの一部には教養的な要素が強い知もあります。つまり、専門と教養、文系と理系という区別は別の軸なのです。 また、特に混同されているのがリベラルアーツと教養教育です。リベラルアーツ教育は遅くとも中世には確立し、文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、そして音楽の7つの分野から成り立っています。最初の3つは言葉に関する学ですから、どちらかというと文系、次の3つは数に関するもので理系です。最後の音楽は芸術系なので、文系3つ、理系3つ、芸術系1つがリベラルアーツを構成していたことになります。決して文系だけで成り立っていたのではありません。 ーー今で言う文理融合というイメージですね。 吉見 このリベラルアーツは16~17世紀になると哲学になっていきます。有名な哲学者のデカルトはデカルト数学を生み出し、ライプニッツは数学の微分積分を生み出しました。つまり哲学者であると同時に数学者でもあったわけです。 ではいつ頃から理系と文系の区別が生じていったのか。私は18世紀末から19世紀にかけてだと考えています。それには2つの理由があります。1つは国民国家の誕生。国民国家は、近代的なナショナリズムの伝統の起源を発明する必要がありました。この起源こそが「文化=教養」の知において追究されていくわけです。 たとえばドイツではカントやフィヒテ、ヘーゲルの哲学、ゲーテやシラーの文学などが教養的規範として確立していく。イギリスの場合はシェイクスピアです。そういったナショナルな「古典」が成立し、国民国家の規範として機能していくのが教養です。教養とは近代の産物なのですね。画像はイメージです(iStock) その後、19世紀にヨーロッパの大発展を産業革命が支え、そうした中で文系的な知と理系的な知の区別が生じてくる。産業革命と表裏をなして新しい科学技術が発展していくと、土木工学、機械工学が確立し、さらに産業が発展し資本主義がまわりだすと、物理学や化学、電気工学も重要になってくる。 つまり、理系的な知の自立と大発展、近代の物理学、化学、電磁気学から原子力工学までを含めた様々な知の凄まじい発展は、近代の産業社会の発展と表裏の関係であり、19世紀~20世紀にかけての近代産業技術社会の発展の中で理系的な知はさらにメジャーになっていく。この時、「文系とは何か、人文社会科学とはどのような価値を持つのか」という問いを人文社会科学者が真剣に考え始めることになります。あらゆる呪縛から解放されるために ーー人文社会科学者の中ではどんな人達が、どんなことを考えていくのでしょうか? 吉見 ドイツの新カント派がこの問題を焦点化していきますが、その代表的な人物がマックス・ウェーバーです。彼は社会科学にとって最も重要な概念が「価値」であると考えました。また、価値に注目した彼は、合理性には2つあると考えました。それは目的合理性と価値合理性です。彼の古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、ピューリタンにとって勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではない、つまり、これは価値合理性ですね。 しかし、ピューリタンは贅沢や豪遊を良としないのでお金は貯まり、それを投資に使っていきます。投資が重なることで経済が発展し、資本主義を拡げていく。そして資本主義がシステムとしてまわりはじめると「価値合理性」が見失われ、目的に対して手段と追求しつづける「目的合理性」が社会を覆っていきます。 20世紀の人文社会科学ではこの種の議論は批判もされていきます。ウェバーは価値を強調しましたが、それに対してマルクス主義は階級のほうが重要だと主張しましたし、フーコーを始めとする構造主義では構造が重要だという議論をします。こうして人文社会科学が考えてきたことは多様ですが、自然科学的な合理性に対し、自明な価値を批判し、新しい複数の価値軸を考える点では一貫しているのです。 つまり、目的は自明ではないし、階級も、構造も、私たちを無意識のレベルから呪縛している。しかし、その自明性の呪縛から解き放たれるには、創造力を培うことが必要で、それには価値に照準した文系的な知が必要だということはウェバー以来繰り返し論じられてきたことです。決してそれは、ここ2年~3年、あるいは国立大学法人化以降の議論ではないのです。こうした長いスパンの歴史的なビジョンが去年の夏の文系学部論争では著しく欠けていたと思います。 ーー翻って、現状では理系も含め大学を取り巻く状況は厳しいです。現状をどうお考えですか?画像はイメージです(iStock) 吉見 日本は大学の数を増やしすぎてしまいました。終戦直後の1945年には48校しかなかったのが、今では800校近くあります。80年代後半には18歳人口は減り始めたにも関わらず、規制緩和の流れで増やし続けたことは致命的でした。 さらに悪いことに、志願者を獲得しようとした各大学は手を変え品を変え、新商品にラベルを貼るように学部名称をコロコロと変えていった。90年頃まで学部名称の数は97種類だったのが、現在では464種類、まさにカンブリア的大爆発です。 この2つに加え、大学院重点化政策のために大学院生の定員を増やした。しかし、社会は変化していないわけですから、大学院生の数だけ増やし、学生が修士号や博士号を取得してもその後のキャリアパスが開けません。そうした先輩たちを見ていた後輩世代は、優秀な学生ほど大学院へ進学しなくなります。しかし、大学院は定員を充足させようとしますから、さらに入学しやすくなる。そうなると、学部の4年生より、大学院の1年生のほうが学力が低いといった現象も生じます。ますます日本の大学院は世界で評価されなくなりますし、学部も含めた大学全体の質が劣化していったのがここ15年の状況です。人生で3回大学に行く ーーこうした状況に対し、吉見先生は今後大学をどう変革していくべきだと考えていますか? 吉見 この本の後半では、まさにそのビジョンを示しました。まず、1人の学生が1つの学部に所属する仕組みを止め、1人の学生は基本的に2つの専門分野を学ぶダブルメジャーを採用すべきです。これは、アメリカの大学では当たり前で、主専攻と副専攻を必ず取ります。たとえば、ある学生は法学部と工学部、文学部と農学部に所属するといったように。そうした仕組みが当たり前にならないとイノベーティブな知は生まれてきません。 これは前半にお話した役に立つ、立たないと関係していて、文系が役に立つと主張しましたが、理系が役に立たないとは一言も言っていません。文系、理系にそれぞれの役立ち方があり、それを組み合わせれば強力なわけです。たとえば、コンピュータサイエンスを専攻している学生が、副専攻で法学部の知的財産権についての勉強をする。あるいは、医学を主専攻にしている学生が、副専攻で哲学や倫理について勉強し、人間とは何であるかを知れば良い。しかしこれは理系的な知と教養知を学ぶということではなく、大学の仕組みとして理系的な知と文系的な知を有機的に組み合わせる仕組みを日本の大学に作るということです。 ーー他にも考えていることはありますか? 吉見 人生で3回大学に行く。日本では大学に進学した場合、小中高校、大学、そして就職があります。高校と大学の間には入試という壁があり、大学から社会人の間にも就活という2つの壁があります。若い人が入試や就活のことだけを考えて若い時代を送るのは貧しいと思うのですよ。今の仕組みでは大学は通過儀礼のようになっていて、入試と就活の壁を越えれば大学在学中はどうでもいいとなってしまっている。それでは大学の意味がなくなってしまうので、2つの壁を低くし、大学へいつでも入れるようにし、学んだことがキャリアの転換点となるようにする。画像はイメージです(iStock) そのことを可能にするにはまず成績を厳密な基準のもとにコントロールし、単位取得を難しくすべきです。そうなると一つひとつの科目がハードになりますから、学生が取得しなければならない科目数を大幅に減らす。また科目と科目をどう組み合わせれば学生が得たい能力に結びつくかを大学側がサポートする仕組みも必要です。こうしたことが出来るようになると、学生が大学でどんなことを学び、どんな評価を得たかが可視化され、社会と大学の関係も変わってきます。 やがて、大学はただの通過儀礼ではなくなりますから、人生でいつ大学に入っても良くなる。たとえば、1回目は18歳で、社会に出て色々と経験し30代前半で2回目の入学をする。そして3回目は60前後。定年が見えてくる頃に、何か事を成したい人に大学で再び必死に学んでもう一花咲かせるチャンスを与える。 日本では欧米の大学に比べ社会人学生の数が圧倒的に少ないし、そうやって3回大学に入るのが一般化すれば、800校は救えないかもしれませんが、多くの大学の経営的な支えになります。なにより、社会が大学での学びを評価するようになると思いますね。

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    東大常連校にもくじ引き入試か 筑駒出身男優「僕は反対」

    の「筑駒」こと筑波大附属駒場など、進学校が少なくない。入試は最難関だが、「エリート校化して国立大学の教育研究に寄与する本来の機能を失っている」という趣旨で改革が提言された。実行に移されれば、影響は甚大だという。教育ジャーナリスト・松本肇氏が解説する。「慶應、早稲田などの一流大学がAO入試など学力に依らない選抜方法を導入した結果、ブランド低下を招きました。国立大学付属校で抽選による選抜が導入されれば、同様のことが起きる。OBからは強い反発があるのではないか」 筑駒OBには黒田東彦・日銀総裁らが名を連ねるが、本誌読者にお馴染みなのは、筑駒出身で高学歴AV男優の森林原人氏だろう。率直な感想を聞いてみた。「僕は反対です。偏差値エリートを養成しているように見えるかも知れませんが、筑駒は生徒の自主性を重んじる校風で、ほとんどの卒業生が中高時代を楽しかったと思っている。母校に誇りを持っているから、様々な世界でOBが活躍できているのだと思います。官僚の友人は『霞が関では東大、京大は当たり前。だから“東大筑駒”のつながりが大切』と話していました」 と真面目な答え。ただ、AV男優に学歴は関係ないのでは、と聞くとこう続けた。(画像:istock)「そりゃ、偏差値で女の子がイってくれるわけじゃないですから(笑い)。でも、先輩たちが作ってくれた母校のブランドで、周りから一目置かれることはある。そういう伝統がなくなるのは、やっぱり寂しい」 文部科学省の担当者は「あくまで報告書は抽選での選考も検討されるべきとしているだけ」(大学振興課)と火消しに回っているが、省内に多数いるであろうOBからも、反対の声があがっているのだろうか。関連記事■ 東大理IIIに3人の息子合格させた母 東大AO入試を語る■ 甲子園常連校はユニフォームの着こなしも勝利に結びつける?■ 甲子園常連校 関西から留学受け入れでチームが関西弁になる■ 甲子園出場常連校で窓のない“しごき部屋”でケツバット体罰■ 遠征・用具・応援団バス… 「甲子園貧乏」に陥る常連校も

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    広島大学 「10年間で世界トップ100位入り」への秘策

    か秘策があるのか。もしあるとすれば、それはどんな具体性、実現性を持っているのか?  そもそも、国立の教育機関がそうした生々しいランキング争いに参戦する意味とは、何なのだろうか。『広島大学は世界トップ100に入れるのか』(PHP新書)の著者、山下柚実氏に聞いた。──地方の国立大学である広島大学がなぜ、世界ランキングトップをめぐる戦いに参加する宣言をしたのでしょうか。 山下:「今後10年で世界大学ランキングトップ100に10校ランクインを目指します」と口火を切ったのは、実は安倍晋三首相でした。2013年5月、「成長戦略第2弾スピーチ」の中で「世界に勝てる大学改革」という方針を掲げ、国は積極的な改革を進めてきました。日本の大学が世界ランキングを意識する風潮もこのあたりからぐんと高まってきたと思います。 すでに2004年に国立大学は法人化され、自ら特徴を活かし強い点を伸ばし、外部資金を稼いで自立することが求められています。そうした流れの中、世界ランキングによる評価によって一層入学志願者を増やし、企業との共同研究を増やして外部資金や補助金を得ようといった、「大学経営」への意識が高まっているわけです。──しかし、そうした流れとは裏腹に、日本の大学のランキングは思うようには伸びていない、いやむしろ低下傾向にあるとも聞きますが。山下:THE世界大学ランキングの最新版(2015年9月30日)が発表された際は、大きな話題を集めました。というのも、前年まで「アジア首位」だった東京大学が順位を落とし、トップの座をシンガポール国立大学にもっていかれたからです。中国の大学も上昇傾向にあります。それに対して日本は、東大が前年23位から43位へ、京都大学も前年59位が88位へと下落しました。この2つの大学の他に上位200校以内に日本の大学は見あたらなかった。前年は東京工業大学、大阪大学、東北大学の5校が入っていたのですが。 最新版は毎年9月末頃に発表されるので今年も注目を集めると思いますが、このランキングを見る限りたしかに日本の大学の順位は低下傾向にある、と言えるでしょう。 ──日本の大学のランクが上がっていかない理由とは、何なのでしょうか?山下:シンガポールや中国の大学が順位を上げている理由には、教育機関への投資を国が増加して世界各国から優秀な人材を募る戦略が効いているようです。対して、日本の大学への公的な投資は削減傾向にあり、外部からの資金も諸外国に比べて少ない。国際化にも遅れをとっている等、いくつもの問題点が指摘されています。──影響力を持つTHE「世界大学ランキング」ですが、そもそもどんなものさしで順位を決めているのですか?山下:インターナショナルな講師・留学生の在籍数、論文被引用数、教育環境、他国の研究者との共同研究等といった13の項目がものさしになっています。例えば、論文の引用数はランキングを決める要素の一つですが、対象は英語論文。つまり、英語圏の大学が有利というわけでさまざまな矛盾も含んでいる。でも一方で、グローバル化の中で競争しようとすれば英語を中心としたコミュニケーションを無視してはいられない現実もあるわけですね。 たとえば留学を考えている外国の学生がTHEのランキングを見て大学を選択するかもしれないし、企業や研究所が共同研究の相手を選ぶ時の一助にランキングを参照することもありうるでしょう。だからランキングには問題点もあるけれど、実際上の影響力も持っている、ということですね。広島大学旧理学部1号館──つまり、非英語圏の大学は不利だと。山下:たしかにそうした側面はあると思います。そもそも世界ランキングが大学の価値を測定しうる指標なのか、単純な順位を大学の価値のように鵜呑みにしていいのか、といった批判的な意見も、実はたくさん聞かれます。 実際、私自身も取材時に「特定の世界ランキングなんかで右往左往、一喜一憂していてもしょうがない」という言葉を、広大前大学経営企画室室長・相田美砂子氏から直接耳にしました。しかし同時に「だからといって、ランキングを無視していればいいのでしょうか。何もしないで放っておいて、今大学が抱えている問題を解決することはできるのでしょうか」と相田氏は語っています。ランキングに振り回されるより「大学が活性化し変わるためのチャンス」と捉え、道具として上手に使ってしまうおう、というタフさのようなものを広大に感じました。実際、「トップ100入り」という明快な目標を掲げていることもあってか広大の順位は上昇傾向にあり、6月に発表されたアジア地域限定のTHE大学ランキングの順位も上がってきています。 ──広島大学は「世界トップ100」に入るために、具体的にどんな戦術を用意しているのでしょうか?山下:独自に編み出した指標「A-KPI(アチーブメントモチベーテッド・キー・パフォーマンス・インジケータ)というものを見せてもらいました。世界トップ100の大学になるためにこなすべき課題を洗い出し数値化し「見える化」したものです。詳細は本書に記しましたが、簡単にいえば、この数値目標をこなせば100位以内は達成される、という具体的な道筋です。進むべき行程は見えた。しかし、本当に目的地に達するかどうかはまだわからない。 広大の越智学長は「妙に背伸びをしたり、実力以上に見せようと虚勢を張っているわけではないんです。今持っている力をきちんと自覚し、戦略に沿って現状を伸ばし、その数値を学外からはっきり見えるようにすれば世界100位に入ることは決して夢物語ではありません」と語っていました。──大学をめぐる問題は、グローバル化だけではなく少子化など深刻です。山下:横ばいだった18歳人口は2018年以降減少局面に入り、入学志願者はますます奪い合いになります。教育産業だけの問題ではないのです。例えば自動車産業。東京五輪が開催される2020年、国内で販売される台数が今より約2割減る、という試算もあります。つまり、今必死になって改革に取り組み競争力を付けようとしている教育産業は「さきがけ」であって、いずれは日本の企業や自治体、さまざまな組織が、このシビアな問題に直面する。だから今、大学が積極的に繰り出している挑戦と試行錯誤の中に、明日の日本の課題と解決のヒントが詰まっている、そんなつもりで本書を執筆しました。関連記事■ ブリヂストン 実は太陽電池用接着封止材で世界トップ争い■ 「日本の地ビールは世界トップ5に入る」とビール五輪審査員■ 世界トップランクの欧州年金ファンド 日本株比率引き上げへ■ すみれが手つなぎデート 新恋人は「世界トップ50」のモデル■ 2ケタ成長続く中国飲食業界だが業界トップは天敵・米国企業

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    あのヤクザ監督の直言 「ビンタが試合を変えることがある」

    教育の場」と位置づけられる甲子園で、その敗戦の弁は、物議を醸した。「負けたのは末代までの恥」「腹を切りたい」。6年前のセンバツ一回戦、21世紀枠の格下校に負けた島根・開星高校監督(当時)の野々村直通氏の一言。翌日の謝罪会見には、ど派手な服装で現れ、火に油を注ぐ。2日後、退任。 連日、「ヤクザ監督」と叩かれた野々村氏だが、監督復帰を望む8000人の嘆願書とともに翌年、現場復帰を果たすなど、教え子の支持は厚い。現在は教育評論家として活躍する野々村氏は、萎縮する一方の指導者に大きな違和感を覚えるという。* * * 昔は甲子園に出てくるような高校では、当たり前のように体罰は行われていましたよ。そりゃあ、ビンタぐらいしてるぜ、って。今でも、やってる高校はけっこうあるでしょう。強豪校はどこもギリギリのところで戦っていますから。 ただ、2012年12月の桜宮高校の男子バスケット部のキャプテンが自殺した事件で、潮目が大きく変わったことは確かです。自殺の原因は、監督の体罰にあったとされましたから。「体罰=悪」で、教師は生徒に触れてもいけないってぐらいの状況になった。 文科省もビビったね。事件翌年3月に〈執拗かつ過度に肉体的・精神的負荷を与える指導は教育的指導とは言えない〉という通知を出した。僕に言わせれば、「過度」だから伸びるんですよ。子どもなんて、簡単に満足しちゃいますからね。そこで追い込んで、初めて成長するんです。第82回選抜高校野球 開星・野々村直道監督=2010年3月22日(澤野貴信撮影) リオ五輪で結果を残した選手たちは、体罰があったかどうかは別として、想像を絶する練習をこなしてきているはずですよ。でなきゃ、あんなに人に感動を与えられるもんじゃない。 教育現場は今、歪んでます。ちょっとでも手をあげようものなら、当事者ではなく、第三者がタレ込むようになった。2014年秋にこんな事件があったんです。今治西高校(愛媛)は四国大会の準決勝で、高知の明徳義塾とぶつかった。勝てば、春の甲子園が当確になるという大一番です。 試合中、大野(康哉)監督は、ある選手に「気合入れてください!」と言われ、「よし、わかった!」と3発ビンタをした。それで明徳義塾を逆転して、甲子園の切符をつかんだんです。でも、たまたまそのシーンがテレビカメラに映っていて、視聴者が電話で抗議をした。試合後、高野連は大野監督と当該選手に確認したらしいのですが、選手の方は泣きながら「僕がお願いしたんです! 暴力じゃありません!」と訴えたそうです。でも、高野連は世論を恐れたんでしょうね、大野監督を謹慎処分にし、そのせいで甲子園で指揮を執ることができなかった。 これが体罰ですか? アスリートが気合を入れようとして自分で自分の頬っぺたを叩くことがよくありますよね。それを監督にしてもらっただけのことじゃないですか。 私も試合中、あがって頭が真っ白になっている子に、「勝負してこんかい!」と頬を張ったこともあります。1発のビンタが試合を変えることもある。 がんばれば負けたっていいなんて、教育でも何でもないですから。僕は試合に負けたら練習試合でも怒りまくってましたよ。ずいぶん前ですけど、試合に負けると、センターからホームまで、手だけで這わせた。下半身はぶらんとさせてるから匍匐前進よりしんどい。腕力が弱い選手はたどり着けない。見ていてかわいそうになるんだけど、負ける惨めさを覚え込ませるためにも心を鬼にしてやらせた。 うちの選手は、負けたら俺に殺されるんじゃないかぐらいに思っていましたよ。 今の子どもたちは、簡単に自分で自分を見切っちゃう。俺は無理だって。でも、これだけ追い込んでやれば甲子園に出られるんだというのを示せば、しんどくてもついてきますよ。【PROFILE】野々村直通(ののむら・なおみち)/1951年、島根県生まれ。広島大学教育学部卒。島根県の開星高校野球部を監督として9回、甲子園に導く。美術教師を務めていたことから「山陰のピカソ」の異名を持つ。2012年に定年退職。著書に『やくざ監督と呼ばれて』など。●取材・構成 /中村計(ノンフィクションライター)関連記事■ あのヤクザ監督 「『GTO』みたいな生徒ばかりだったら楽」■ ヤクザ100人調査 生まれ変わってもヤクザになりたい率判明■ 韓国で政治ヤクザ衰退もインテリヤクザと半グレが増加■ 昭和初期のヤクザ 親分が子分引き連れ戦地に赴くことも■ 紳助 旧国鉄職員の真面目な父に反発し伝説のヤクザに憧れる

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    「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?

    を詳細に分析しました。すると調査を進めるうちに、さまざまな問題が明らかになり、いじめ防止対策推進法は教育現場でほとんど機能しないばかりか、ますますいじめ問題をこじらせてしまう可能性があるという結論に達しました。2018年3月、東京都葛飾区役所で報告書を青木克徳区長(右)に手渡す、第三者委の委員長を務めた平尾潔弁護士 ここでは大きな問題点を二つだけ指摘しておきます。一点目は、報告や申告があったものだけで年間32万件(平成28年度)も発生し、そもそも人間の本質にかかわるいじめを防止、根絶するための法律を作ってしまったことです。そしてニ点目は、この第三者委員会の報告書の中でも述べられている「いじめの定義」です。このいじめ防止対策推進法と定義の問題点をもう少し詳しくまとめますと、おおよそ以下に集約できると思います。 いじめの定義は一度明文化された後、より被害者救済の観点に立つように「継続的」という文言などが削られ、次のように改定されました。(定義)第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人間関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。被害者と加害者の感情的な対立 いじめは物理的被害にも増して精神的被害が大きなウエートを占めるといわれています。ところが、被害を受けた児童生徒の性格や環境、力関係など個人差は相当に幅があるため、同じいじめ的言動(特に軽度と思われる冷やかし、無視、からかい、はたきなど)であっても受け止め方はさまざまです。定義では、行為を受けた児童等が心身の苦痛を感じれば、行為の重さや大きさに関係なく「いじめ」になりますから、現実問題として、全く同じ言動がいじめになったり、いじめにならなかったりすることが頻繁に起こるようになるわけです。 関連して、特に小中学校では、子供たちは日常習慣のごとくお互いにからかい、冷やかし、いたずら、言い合いなどを、よくゲームや遊び感覚で行います。実際、私も学校内でそのような場面を何度も目にしています。やる側の子供はいじめをするつもりではなく、無意識のうちにこれらの行為に及んでいることが多いのです。また、やられる側の子供も全く苦痛ではなく楽しんでいる場合もあって、教師が一見していじめと判断するのが難しい行為が日常的に発生しているのが学校なのです。 上記のように、子供の行為が実際に「いじめ」に該当するのかどうか、被害者側、加害者側、学校間で見解の相違が生じやすいわけです。ところが、文科省(国)がいじめを法律で定義し明文化してしまったために、被害者本人以上に保護者にとっては「いじめ」と認定されるかどうかは、謝罪や賠償の面からも大きなカギとななるので、納得できずこじれて事が大きくなりがちなのです。 いじめに限らず「自殺」の原因を特定することは、大人、子供を問わず真実を知る本人から聞き取りができないだけに極めて難しいのが現実です。今回のように不幸にも児童生徒が自殺した場合には、いじめが自殺の原因であったかどうか確かめたくても、いじめの定義は「受けた行為により子供自身が心身の苦痛を感じたかどうか」です。ゆえに本人がこの世にいなければその心情を直接聞くこともできず、残された文章や周りの証言から推定するしかなく、人の命が絡んでいるだけにますます被害者側と加害者側で感情的な対立が起こりやすいのです。 いじめが法律で防止(禁止)されたことで、大きないじめ被害が起こるたびにマスコミが過熱報道を繰り返し、正義感の塊のような市民がそれに同調する傾向があります。中にはいじめの有無や行為そのものの有無があいまいなケースまで、加害者とされた子供と保護者を会員制交流サイト(SNS)などで犯罪者扱いし糾弾するような傾向もあり、彼らも自殺に追い込まれはしないか危惧されます。 そういった事態が頻繁に起きるようになれば、マスメディアの自殺報道に影響されて自殺が増える「ウェルテル効果」により同情、後追い自殺する若者や、現在陰湿ないじめを受けている児童生徒たちが、「自分が死ねば家族や世間が加害者に復讐してくれる」といった仕返し手段として「自殺」を選んでしまうという悪循環に陥る危険があります。 これらは、感情を持つ人間の本質的な言動であり、根絶できないいじめを文科省が「いじめ防止対策推進法」という、まさに法の論理で定義まで決めて防止(根絶)しようと躍起になる一方で、「隠ぺいするな!」と各教育委員会や学校にいじめの報告が増えるように徹底させるという矛盾した施策を続けていけば、最も疲弊するのは当事者である子供たちであり、保護者や先生です。(iStock) 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。

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    このままではヤバい「2020大学入試改革」

    2020年、日本の教育はターニングポイントを迎える。教育改革という旗印の下、大学入試センター試験に代わって、「大学入学共通テスト」の導入が決まったからである。知識を詰め込むだけの受験勉強では乗り切れなくなるとのことだが、あの看板倒れに終わった「ゆとり教育」と同じ轍を踏むことにならないか。

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    日本の入試はなぜ「知識偏重」から抜け出せないのか

    、ゆとり世代の大卒生が初めて入社するということで、私たちはさまざまなレッテルを貼られました。「ゆとり教育=悪」の空気に端を発した、荒唐無稽なゆとり批判を経験した私は、いかに日本の教育政策が空気に左右され、支離滅裂であるかを痛感しました。そして、その支離滅裂な状況は、2020年度から実施される大学入試改革も例外ではありません。 2020年の大学入試改革の目的を簡単にまとめると、「受け身から主体性の教育への転換」といえます。変化の激しい時代に求められる人材は、既存の知識を詰め込んだだけの「学校秀才」ではなく、未知の課題に対して自分の頭で考え行動できる主体性を持った人材だと考えたわけです。 入試改革を検討するにあたり、特に問題視されたのは大学入試センター試験のマークシートでした。受け身の姿勢で暗記をすれば攻略できてしまうからです。そこで、マークシートの試験に加え、記述試験を導入することにしました。記述試験は単純な暗記だけでは解けないと考えたのでしょう。知識偏重の入試から、思考力・判断力・表現力・主体性といった、さまざまな能力が必要となる入試を目指したわけです。従来のマークシート試験に記述試験を加えたセンター試験は、「大学入学共通テスト」と名称を改め、2020年度から段階的に実施される予定となっています。大学入試センター試験の会場で配布されたマークシートの解答用紙=2018年1月13日、東京・文京区の東京大学(川口良介撮影) しかし、これは少し調べれば分かることですが、センター試験の前身である共通一次試験が導入される前から、日本の大学入試は知識偏重だと批判され続けてきました。後述するように、暗記科目からほど遠いように思われる数学の記述試験でさえ、知識とテクニックを頭に詰め込めば攻略できるのです。だから、センター試験のマークシートは、日本の大学入試を知識偏重にしている原因ではありません。いま記述試験を導入するため、膨大な時間と労力をかけているわけですが、なぜここまで記述試験の導入にこだわるのか、率直に言って理解に苦しみます。 このような首をかしげざるを得ない現象の原因として、二つのことが考えられます。ひとつは教育問題の語られやすさです。誰もが教育を受け、そして多くの人は誰かを教育したことがあるのですから、皆がこだわりのある教育理念を持っています。しかも、この教育理念は各人の経験に基づいているので、皆が自信をもって意見を表明できます。一方、語られやすいがゆえに、今回の改革のようにきちんとした検証を踏まえず、政治家や有識者の思い込みが政策に反映されやすいわけです。「PISAショック」のウソ もうひとつの原因が「社会の空気」です。山本七平は、著書『空気の研究』で日本は空気に支配されていると看破しましたが、教育政策でも特に空気が強い力を持つようです。ここでは、荒唐無稽なゆとり教育批判を簡単に振り返ることで、いかに日本の教育政策が空気に左右されるかを見ていきたいと思います。 まずは教育政策に大きな影響を与えた「PISAショック」を振り返ります。PISAショックとは、経済協力開発機構(OECD)が世界の15歳を対象に実施した学習到達度調査(PISA)の順位が、2003年に大きく低下した現象を指します。2003年はゆとり教育が始まって間もないこともあり、ゆとり教育のせいで学力が低下したとする論調が支配的になりました。また、「脱ゆとり」の方針を鮮明にした後に実施した2012年度の調査結果が好転した際に、文部科学省が脱ゆとりの成果であると強調し、改めてゆとり教育が学力低下をもたらしたとする印象を社会に広めました。 しかし、ジャーナリストの池上彰氏も主張しているように、この結果からゆとり教育を批判するのは無理があります。ゆとり教育の象徴とも言える総合学習が段階的に導入されたのは2000年度からであり、教科書の内容が3割削減されたのが2002年度からです。つまり、PISAショックが起きた2003年の調査に参加した子供たちは、ほぼゆとり教育を受けていません。 また、結果が好転したとされる2012年にPISAを受けた世代は、小学校ではすべてゆとり教育を受け、中学校では脱ゆとり教育への移行期間中でした。移行期間では数学・理科の一部前倒しなどの変化があったものの、中学校の総授業時間はゆとり教育の時と全く同じなので、ほぼゆとり教育しか受けていない世代となります。脱ゆとりの成果などと、どうやっても言えないはずです。東京・霞が関の合同庁舎に掲げられた文部科学省の看板=2017年1月撮影 確かに、統計学のような専門的な知識を使って検証しているわけではありません。でも、ゆとり教育と脱ゆとり教育の導入時期を知っていれば、ごく簡単に理解できることです。しかし、国民のみならず、教育政策のエキスパートであるはずの文科省でさえ「ゆとり教育のせいで学力が低下した」とする空気に従ってしまったのです。なぜ入試は知識偏重になってしまうのか社会学者の小室直樹氏 その一方で、文科省はPISAショックに対し、順位が低下したとはいえないとする見解を表明しています。文科省のホームページにも掲載されている「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2003年調査国際結果の要約」によれば、数学的リテラシーと科学的リテラシーについては、2000年と2003年ともに1位と有意差のない得点(1位グループ)です。また、読解力に関しても、両年ともに1位と有意差のある二位グループだとしています。つまり、統計学的な見地からは順位変動が認められないと発表しているわけです。 しかし、「ゆとり教育=悪」の空気が形成されるや否や、先述のとおり文科省は脱ゆとりの旗印を鮮明にし、当時の馳浩文科相が「ゆとり教育との決別」を発表するに至りました。文科省の言い分を振り返ると「ゆとり教育によって学力が低下したとはいえないけど、ゆとり教育は悪いからやめる」という話になり、あまりにも支離滅裂です。これほど非論理的な振る舞いをしてしまえば、日本の教育政策は論理ではなく空気で動いているといわれても仕方ないでしょう。非論理的としか言いようのない安易な教育改革が繰り返されるのも、空気に従っていると考えれば納得できます。 今回の入試改革も、マークシートではなく記述試験ならよいだろうという、非常に安直な発想からスタートしています。もし、受け身の姿勢で攻略できてしまう知識偏重の入試を改善したければ、なぜ入試は知識偏重になってしまうかを徹底的に検証しなくてはならないはずです。でも、そうした作業は不十分なまま改革の議論は始まり、今日に至ってしまいました。 では、なぜ入試は知識偏重になってしまうのでしょうか。まずは知る人ぞ知る在野の天才、社会学者の小室直樹氏の入試分析を紹介し、知識偏重になってしまう理由を考えていきます。 だが、この種の難問は、とうてい一般向きの入試用には役立ち得まい。初等幾何(筆者注:図形問題)の難問に取り組んだことがある人なら、だれでも思い出すように、その解決のためには、実に、ただ一本の補助線を思いつくかどうかが決定的となって、短期間の試験においては、あまりにも大きな偶然に左右されやすいからである。 このような本格的難問が入試には不向きであるため、入試のためには、「平易な難問」が人工的に用意されなければならないことになる。「平易な難問」とは、きわめて平易な事項が複雑にからみ合って合成されて出来てくる問題のことをいう。このような問題を解くためには、インスピレーションによってすばらしい補助線を思いつくといったような、発見的な頭脳活動は少しも要求されない。そのかわりに要求されるのは、平易な事項を多く暗記して、条件反射的にこれらを組み合わせる能力である。このような理由から、入試に出題される「平易な難問」を解くためには、数学的訓練とはほとんど無関係な訓練――暗記と特定の形式の盲目的適応――が要求されるようにならざるを得ない。『週刊朝日』1978年6月2日号入試分析でのキーワードとは? 「平易な難問」こそ入試を分析するうえでのキーワードです。そこで、もう少し具体的に説明を加えるため、多くの人が挫折してしまう高校数学ではなく、女優の芦田愛菜さんが合格したことでも話題になった慶応義塾中等部の入試問題を題材とし、平易な難問を解説したいと思います。2017年2月3日実施、慶応義塾中等部【7】をもとに筆者作成 この問題は、足し算と掛け算の筆算さえ理解していれば解けるので、内容そのものは平易です。しかし、いざ解こうとすると厄介な問題であることに気づきます。また、この2問に使える時間はせいぜい10分しかありませんが、じっくり考えれば解けるはずの大人でも、この2問を10分以内に解くのは容易ではありません。内容そのものは平易であるにもかかわらず、小細工と制限時間が加わることで「平易な難問」に変わってしまうわけです。 (1)の問題について、簡単に解法を紹介します。最も小さいABCDを求める問題なので、まずはAに1を入れてみます。Aに1が入れば、Bは2と考えるのが自然です。同じようにCには4、Dには8が入りそうです。しかし、Dに8が入るとおかしなことが起きます。一の位で繰り上がりが発生するため、十の位の答えは8ではなく9になってしまい、うまくいきません。そこで、試しにDを9として計算してみます。すると、先ほどの繰り上がりの問題もうまくクリアできることが分かります。正解は1249です。 Dに9を入れるという作業は、一見豊かな発想力が要求されているように思えます。しかし、繰り上がりのせいで、Dに当てはまる数字はひとつに限らないというコツさえ知っていれば、それほどてこずることなく解答できるでしょう。頻出問題をすべて解けるよう繰り返し練習したうえで、解くためのテクニックやコツを理解し、使いこなせるレベルに到達することで、「平易な難問」を攻略できるわけです。 大学入試も基本的に平易な難問です。特に学力上位の受験生は、高校で習う内容を簡単に理解してしまうため、普通に出題すると平均点が非常に高くなってしまいます。その結果、受験生の間で点数の差がつかず、適切な選抜ができません。だから、素直な問題ではなく、慶応義塾中等部の問題のように小細工を加え、適切な平均点となるよう難度を調整しなくてはなりません。 こうして、内容そのものは初歩的な確率や微分積分といった平易なレベルなのに、受験専用のトレーニングをしないと数学の専門家でさえ解答困難という摩訶(まか)不思議な問題ができあがるわけです。今年のセンター試験で話題になったムーミンの問題のように、あの手この手で小細工を加えなければならない事情が浮かび上がってきます。平易な難問を避ける三つの方法 このような平易な難問は、センター試験の国語においても見られます。センター試験は資格試験ではなく選抜試験であるため、適切な平均点が求められます。しかし、センター試験はさまざまな学力を持つ高校生が受験するため、難解な文章は基本的に出題できません。そこで、文章そのものではなく、選択肢をややこしくすることで難度を調整することになります。その結果、正答として疑わしいと評されるような、質の悪い選択肢が再三出題されてしまいました。例えば、次のような専門家の指摘があります。 問5 問題文の全体を通した設問であり、また「地球儀」という題名からもここを問うのは妥当だが、1の「ふがいない自分」や「息子」にかかわる記述は正答として疑わしい。誤答の選択肢も凝りすぎており、問題としての質を下げた。大学入試センター『平成25年度大学入試センター試験問題評価委員会報告書』2013年ムーミンを取り上げた2017年度のセンター試験地理Bの問題 こうして、問題文は平易なので読解できても、選択肢が凝り過ぎているため正解できないという平易な難問が完成します。そして、この受験専用に作られた平易な難問に対し、受験産業は頻出問題を網羅した問題集やさまざまなテクニックを開発します。当然ながら、少しでも偏差値の高い大学に合格しようとする受験生は、こうした受験専用の知識・テクニックを頭に詰め込むので、特別な策を講じない限り、受験は知識偏重の入試に行き着いてしまいます。より正確に言えば、受験しか使えない知識偏重の入試のせいで、受験生は不毛な努力を強いられることになるのです。 それでは、次に平易な難問を避けるための方法を示します。各教科によって具体的な方法に違いはあるでしょうが、おおよそ次の三つが考えられます。 まずは、各大学が自由に試験範囲を設定することが必要です。特に数学や物理については、学力上位の受験生にとって出題範囲が簡単すぎるため、平易な難問にならざるを得ません。だから、もっと難しい範囲まで広げて、素直な作問でも選抜試験として機能するように工夫すればよいわけです。「平易な難問」から「難解な基本問題」への転換です。引き続き、知識偏重の試験にはなってしまいますが、大学受験しか使えない平易な難問を攻略するための知識より、格段に有益なことを学べます。一方、試験範囲を各大学が自由に設定してしまうと、学校の教科書だけでは入試を突破できないという批判もあるでしょう。でも、それは現行の入試でも全く同じことが言えますので、新たに起こる問題ではありません。 次に、大幅な試験時間の延長と専門職員(アドミッションオフィサー)の養成が必要になります。問題数が少ない数学の試験でさえ、1問あたりに与えられた時間は10分程度です。これでは、本格的な難問は出題できず、やはり平易な難問になってしまうからです。また、これらに対応できる専門職員も足りません。 何より資格試験にすればいいのではないでしょうか。資格試験は、必要な能力を習得しているかどうかを判定するための試験ですので、平均点の調整が不要です。したがって、素直に作問すればいいわけで、平易な難問とは似ても似つかない問題になります。共通テストでも続く平易な難問 2020年度から実施される大学入学共通テストでは、試験結果はABCDといった具合にランク分けされて評価される見通しです。一見資格試験のようですが、受験生は少しでも偏差値の高い大学に合格するため、より高いランクに入ろうと努力しますので、その性質は選抜試験と同じです。1問でも多く正解するため、今までのようにさまつな知識・テクニックを詰め込むことになります。もちろん、適切な平均点が求められますので、またしても平易な難問ができあがるでしょう。 最後に、2017年5月に公開された国語の例題を簡単に紹介しながら、平易な難問が今後も続くことを改めて示したいと思います。この例題では、景観ガイドラインに関する広報文書と、その文書に関する父と娘の会話文が登場しました。広報文書と会話文なので、センター試験で出題されている評論文や小説よりも平易な文章です。したがって、適切な平均点にするためには、センター試験と同様に問い方や選択肢といった部分で難度を調整せざるを得ず、平易な難問となってしまいます。大手予備校でも、試験の作問方法に対して疑問を呈しています。 本問では、「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、この場合街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という文言が含まれているが、「街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という条件付けは、本来なら平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える。ここはもっとシンプルに「会話文中の傍線部『一石二鳥』とは、どういうことか」と問えば、生徒はそこで自ら思考力を働かせるはずであり、逆にこのような条件付けをすることでかえって自然な思考力の発露が妨げられてしまうのではないかと考える。ハピラル・テストソリューションズ『「大学入学共通テスト(仮称)」モデル問題例への当社コメント』2018年1月14日2018年2月、「大学入学共通テスト」の試行調査で、英語の試験に臨む高校生=東京・練馬区の都立井草高校 「平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える」とありますが、まさにこれは平易な難問の特徴そのものです。思考力・判断力・表現力・主体性といったものを評価するためには、記述試験や実用的な場面を想定した問題を課せばよいと安易に考えているため、平易な難問を克服できないわけです。残念ながら、大学入試は受験にしか使えない知識偏重の入試であり続けます。 今回の改革では、その他にもアクティブ・ラーニングや、面接・プレゼンテーション・エッセーなどによる多面的な評価が導入される予定ですが、これらについても問題が山積みです。一度仕切りなおしたうえで、きちんとした議論を新たに始めるべきではないでしょうか。いい加減な教育政策と世論によってあらぬレッテルを貼られる世代は、私たちで最後にしてほしいと切に願います。

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    2020年大学入試改革は「ゆとり教育」の二の舞にはならない

    石川一郎(香里ヌヴェール学院学院長) 「ゆとり教育の二の舞になるのでは?」2020年度からの大学入試改革について、多くの教育現場で講演をする機会を今日いただいておりますが、「ゆとりの時も変わらなかったのに、今回は本当に変わるのですか」という質問を現場の先生方からされることがあります。そんな時は、「今回の教育改革は社会的要請です」とお話をします。 社会的要請とは何か。ゆとり教育の議論から約20年間の社会の変化を考えてみると、主に3つの変化が挙げられると思います。①グローバル化が加速をつけて進んでおり、日本国内で生活を続けていく上でも海外との関係を無視することはできない状況となっている②インターネットの普及によって情報に対するアクセス方法が変化するとともに、情報の活用という新しい産業が生まれてきている(IOT)③人工知能(AI)が今後飛躍的に進化することが予想されており、2045年にはAIが人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、「シンギュラリティ」に到達すると予想されている これからの20年から30年で社会は大きく変化し、産業や働き方も今までと全く異なったものになることが予想されているのです。となると、未来社会で求められるコンピテンシー(資質)は、現在求められているものから大きく変化することは間違いありません。(iStock) ゆとり教育は、1990年代以前からもあった「落ちこぼれ」や「不登校」の問題が深刻化する中で、21世紀の教育はかくあるべき、という話からスタートしたのではないかと思います。社会的には、反対ではないものの、そこまで大きな変化を教育には求めていなかったのではないでしょうか。 1996年の中央教育審議会の答申には、教育の考え方について「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し・・・」とあります。今回の教育改革の狙いである「主体的、対話的で深い学び」は、ゆとり教育が目指すものの延長線上にあると言ってもいいと思います。 そして、ゆとり教育と並行して教育現場で行われた施策は、学校週5日制でした。5日制を実施するにあたり、授業時間は当然削減しなければなりません。そこで文部科学省は、授業時間が減って学力低下が起きないように、教育の中身の「質的転換」を目指したのです。その目玉となったのが総合学習の導入でした。「量的転換」と「質的転換」セットの改革であり、5日制を導入することで教員の働き方改革も狙いとしては当然あったと思います。ゆとり教育が上手くいかない理由 そんなゆとり教育は、なぜは進まなかったのか。最も大きな原因は、大学入試改革を行わなかったことだと思います。大学入試の内容の「質的転換」がないまま、小中高の現場で扱う知識量が減ることで、「ゆとり」カリキュラムでは大学入試に対応できず、学力低下が起きるという議論が巻き起こったのです。 また、「質的転換」の目玉である総合学習も中身は現場に丸投げされ、現場は大混乱に陥ったのです。この時に、総合学習の内容が評価方法も含めて具体的に現場に提示され、それに沿って現場が教えるだけであれば、ずいぶん違ったのではないかと思います。 ゆとり教育の話題が出てきた当時は、現状の教育に行き詰まりを感じていた教師も多く、教育改革に夢を持ったものでした。しかし、思ったような方向に教育が変わっていくことがなく徒労感に襲われたことも事実です。 では2020年の大学入試改革はどのようなものか。例えば、「もし、地球が東から西に自転していたとしたら、世界は現状とどのように異なっていたと考えられるか、いくつかの観点から考察せよ」(2014年度東京大学理科Ⅰ類「外国学校卒業生特別選考」といった大学入試問題があります。実は、この問題は海外の学校教育を受けたいわゆる帰国子女や留学生を対象にした問題であり、2020年に向け文科省が実現を目指す教育改革の中で、生徒に身につけさせようとしている力を問う問題なのです。大学入試センター試験で配られたリスニング機器=2018年1月13日、東京都(代表撮影) 今回の教育改革で文科省が特に意識しているのは、教育のグローバル化です。発表されている文章を読むと、認知心理学、教育心理学の研究者である米国のベンジャミン・ブルームのタキソノミー(思考レベルの分類)の学習理論が背景にあると強く感じます。ブルームのタキソノミーは6段階でさまざまな解釈がありますが、私は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」「批判的思考」「創造的思考」に分類されると理解しております。前述した東大の問題は「批判的・創造的」思考を問う問題です。 この6段階で考えると、従来の日本の教育は「知識」「理解」「応用」「論理的思考」を、欧米の教育は「批判的・創造的思考」を重視してきたのではないかと思います。前述した東大の問題は、「批判的・創造的思考」を問う問題なのです。 激変する未来は、今までとは全く違う価値観が求められると思います。そんな時必要な力は何か。「もし、あなただったら地球温暖化をどのように阻止しますか?」といった問題に立ち向かう若者を育成するためには、今回の改革をやらないといけないのです。

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    大改革なんてモノじゃない、大迷惑ばかりの「大学新テスト」

    おおたとしまさ(育児・教育ジャーナリスト) 大学入試改革の本丸は個別の大学の入学者選抜の方法である。ペーパーテストだけに頼らず、面接・論文・高校時代の活動の記録を評価するなど、多様な方法で入学者を選抜することを当初の目的とした。改革のもう一つの目玉がセンター試験の見直し。高校で学ぶべき事柄の達成度を見る「基礎レベル」のテストと大学で学ぶための素養が身に付いているかをたしかめる「発展レベル」のテストの2種類の「達成度テスト」に分けるとした。 個別の大学入試選抜方法についてはまだ不透明な部分が多い。基礎レベルの達成度テストについては本格実施を2023年度以降に先送りすることが決まっている。2020年度以降実質的にセンター試験の後継テストになる発展レベルの達成度テストは現在「大学入学共通テスト(新テスト)」と呼ばれており、現時点ではこのテストの行方に注目が集まっているので、今回ここでは、新テストについて中心的に述べる。 新テストについて2013年の時点では、「年複数回の実施」「1点刻みではなく段階別の結果」「外部検定試験の活用」などのビジョンが示されていた。しかし具体的な検討に入ると途端にトーンダウンした。年複数回実施するということは現状1月に実施されているセンター試験よりも早いタイミングでの受験が可能になるということ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」というのが高校の現場からの声だった。年複数回実施は当面見送られることになった。(画像:istock) そのような声が上がることは十分に予測できた。それでも「一発勝負の大学入試文化」を改めるために、やるのか。そこに今回の改革の本気度が表れると思って議論の行方を見守っていた。しかし変わらなかった。結局「新テスト」とは、共通一次試験以来の「国を挙げての壮大な一発勝負」の概念を改めるものではなくなり、現行のセンター試験に多肢選択問題・記述式問題を含めるだけのいわば「アップデート版」になってしまった。ここに今回の大学入試改革全体のスケール感が規定されてしまったような気がしている。要するに、それほど変わらない。 文部科学省の担当者が悪いわけではないだろう。もともと広げられた大風呂敷が、どだい無理筋だったのだ。「それでは教科書の履修範囲を終えられない」という声が現場から上がるのは、日本の大学入試が学習指導要領と検定教科書にがんじがらめにされているからだ。入試問題と学習指導要領と検定教科書が三つどもえになっている限り、高校の授業の進度と内容に入試が縛られるのは宿命である。教科書絶対主義から離れられない アメリカの大学を受験するときに必要になる標準学力テストSATは、年複数回実施されている。学習指導要領も検定教科書もないので、高校の授業の進度はバラバラという大前提。SATで早くいいスコアを取りたければ、自分で勉強しなさいということだ。 学習指導要領と検定教科書を入試から切り離す。そこまで腹をくくらなければ、年複数回実施などできるわけがない。そうでもしなければ、学習指導要領に定められた検定教科書の内容を「試験範囲」とする「教科書絶対主義」「知識偏重型教育」からいつまでたっても離れられないと私は思う。そこまでやるつもりなのかと、2013年当初は期待したが、そうはならなかった。現実的には非常に難しいことはわかっていたが、それでも一縷(いちる)の望みが消えたときにはがっかりした。 念のため付け加えるが、学習指導要領や検定教科書の内容が悪いといっているわけではない。その影響が強すぎることが大学入試改革のネックになっているという指摘だ。 2017年12月、数学と国語について、新テストの試行テストが公開された。地方の公立進学校の教員に評価を聞くと、「今回はかなり頑張ってつくった良問だと思う」「例えば数学は、単なる計算力では太刀打ちできないようになっている」と、おおむね好評だった。ただし「問題のレベルが、一部の上位層にはちょうどいいが、それ以外の高校生には難しすぎるのではないか」という声も聞いた。関西の私立中高一貫校の校長も「うちの生徒にはいいが、一般論としたら難しすぎるのではないか」と懸念を示した。さらに国語の問題については「あれが国語の読解力なんですかね」とも。思想の練り込まれた長文を立体的に読む力というよりは、雑多な文字情報の中から必要な情報だけをパッとすくい取る能力を試すような問題が目立つからだ。大学入試センター試験に臨む受験生ら =2018年1月13日、東京都文京区の東京大学 今回の試行テストと従来のセンター試験を比べたとき、見た目上の一番の違いは、問題文や課題文の体裁である。従来のテストであればほんの数行で終わっていたはずの問題文が、何行にもおよぶ会話文になっていたりする。日常生活や実社会を意識させるために、会話文や図表などを多用し、ストレートに問いを投げかけてはこないのである。その手法は、公立中高一貫校の適性検査にそっくりだ。 まわりくどい問題文をわざわざ読ませることには課題発見能力も測るという意図があるのだとは思うが、問題文が長く婉曲(えんきょく)的になればなるほど、文章を速く正確に読み取るのが得意な受験生に有利になる。要するに読解力あるいは速読力の勝負になり、教科そのものの能力が見えづらくなる。例えば驚異的な数学センスをもっている受験生でも、読解でつまずいてしまうかもしれない。それは教科のテストとしてはいかがなものか。テストの体裁を変えることを目的化して、本来測るべき能力が正確に測れなくなるようなことのないように、今後の調整を行ってほしい。「お色直し」程度の改革 さらに先の校長はこんなことも懸念していた。「記述式の採点は専門の業者が行うというが、いくら専門の業者でも、50万人分の答案を採点できるほど専門の職員がいるとは思えない。実際は大量のアルバイトに採点させることになるのではないか」。結局は素人に機械的に採点させるのなら、記述式問題を出す意味があるのかという、もっともな疑問だ。 また「日本テスト学会」は試行テストに見られた「5つの選択肢の中から適当なものをすべて選べ」というような多肢選択問題について、実際は選択肢ごとにそれが適切か否かの二者択一をしているにすぎず、「より深い思考力」を求めていることにはならないと指摘する。さらに「テスト理論」の観点から、5問正答のみを正答とし4問以下の正答は0問正解と同じとみなしてしまうことについて、「貴重な個人差情報を捨てる」と批判的な声明を出している。 以上を総合すると「だったら記述式問題も多肢選択問題もなしにして、現行のセンター試験のままでいいじゃないか」という結論になりかねない。 報道によると、テスト理論の専門家がすでに再三にわたって問題点を指摘したにもかかわらず、軌道修正がされないまま今回の試行テストが実施されたとのこと。だとすると、今回の試行テストは「見せ球」の可能性が高い。「このままではGOできない」とわかっているが、一見していままでとは明らかに違う案を見せておいて、公に批判を浴びる中で現実的な案に収斂(しゅうれん)していくのが文部科学省の作戦なのかもしれない。無理筋な改革を押しつけられたときにとるべきプロセスとしては間違ってはいない。ただしそれは、最終的な着地点が現行のセンター試験を「お色直し」した程度のものになることを見越しているからこその作戦だと言えなくもない。 英語の試行テストについても始まり、全国の158高校で順次実施される。英語に関しては民間資格・検定試験の活用も同時に検討されており、それとの兼ね合いも論点になる。現時点で英検やGTEC、TEAPなどが名乗りを上げており、審査の結果が3月に発表される。 改革によって得られるものと、生じる混乱のどちらが大きいか。 新テストの実施まで、すでに3年を切っている。早めに混乱を回避する十分な策がとられなければ、新テストを回避しようとする思惑が、受験生の志望校選びに影響を与えかねない。

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    大学入試改革で失われる「受験学力」というニッポンの強み

    1年春施行)から大学の大胆な入試改革を断行する方向性が事実上決定している。 14年12月22日に中央教育審議会から出された高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」(以下「答申」)が出され、さらに16年3月31日に、この答申を具体的にどういう形で実現するかについての文部科学省の諮問会議である「高大接続システム改革会議」が最終報告(以下「最終報告」)を公表した。 ただ、センター試験を記述式にすることにせよ、大学の二次試験に面接や小論文、そして高校時代の調査書などを加味することや、総合的な判断を経た入試を勧めるなど、一見、美辞麗句(びじれいく)が並ぶ。そのためなのか、これについては反対する声が少ないどころか、私がゆとり教育反対運動をやっていた時と比べ物にならないぐらい、その対策に追われる教育産業の人たちを除くと、世間の反響が驚くほど少ない。 実は、私はこの危険性を説くために『受験学力』(集英社新書)という本を書いた。出足は好調だったが、その後は、残念ながらヒットと言える状態ではなかった。ということで、今回は、この改革がいかに日本の受験生の学力とメンタルヘルスに危険な影響を与えかねないことを改めて知らしめたく、ペンを取らせていただいた。 今回の入試改革は、旧来型の知識の詰め込みを否定し、もっと思考力や判断力や表現力を鍛え、それを反映するような入試に変えていこうという趣旨のものである。ただ、これは世界のトレンドに反している。世界の教育の基本的なトレンドは、初等中等教育では、基礎学力のレベルを上げることである。 そこでは公文式のような形で、計算のトレーニングをしっかりするとか、これまで以上に多くのことを覚えさせる、日本で「詰め込み教育」と批判されるような形のものが主流となっている。アメリカやイギリス、そして東南アジア諸国でも、初等中等教育改革の手本は日本だったのだ。 その背景にあるのは、1960~80年代の自由化教育の失敗がある。アメリカの哲学者、ジョン・デューイなどの「子ども中心主義」や、ハリー・ハーローなどの教育心理学者による内発的動機論(アメとムチでなく、自発性を重視する教育論)、あるいはベトナム反戦やヒッピー文化のような自由を重んじる気風を背景に、強制力を極力排し、生徒のやりたいことをやらせる教育が一世を風靡(ふうび)した。 もちろん、この世代の教育を受けた人たちの中からかなりの数のITオタクが生まれ、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような起業家が生まれたのだが、一方で、一般学生については深刻な学力低下が生じた。ビル・ゲイツ氏 アメリカでは、81年にロナルド・レーガン氏が大統領に就任した際、全国の学校で学力調査が行われた。結果は惨憺(さんたん)たるもので、「17才のアメリカ人の約13%が機能的に文盲 (まともに読み書きができない)であることがわかった」、「17才のアメリカ人の40%近くは文章題からの推論ができない(要するに文章題を数式にできない)し、説得力のある論文の書けるのは五分の一にすぎない」といったものだった。 この報告書は83年に『危機に立つ国家』というタイトルで刊行され、3500万部も売れたという。また、この時期に欧米諸国で、生徒の自殺も2~3倍に急増、その一方で、当時受験競争が厳しかった日本だけ自殺が減ったのだ。 以降、アメリカはアメとムチを重視し、また日本に見習った「詰め込み教育」を奨励する(アメリカの場合、教育政策は地方自治に任されている)方向になり、同様に深刻な学力低下に見舞われていたイギリスでも当時の国際学力調査が一位で、高度成長を成し遂げていた日本を手本にした教育改革が行われた。この方向性は今もって変わっていない。「低学歴」なニッポン 一方で、大学や大学院のような高等教育については、教育期間の延長が国際的なトレンドとなっている。現に大学進学率が先進諸国では50~70%になっている近年では、大卒はエリートとみなされない。日本では学歴というと出身大学のことを指すことが多いが、これは正確には学校歴という。学歴というのは、中卒、高卒、大卒、院卒、そして博士ということになる。 そういう意味では、日本は先進国の中で最低レベルの低学歴社会となっている。官僚の出席する国際会議で院卒でも博士でもない、ただの大卒の人間が出るのは日本くらいなのだ。要するに今回の入試改革で求められるような力は大学で身につけさせ、専門教育は大学院レベルで行うのが世界のトレンドである。 ゆとり教育の撤回で、PISA(学習到達度調査)などの学力は多少回復傾向にあるが、少子化と大学の定員増などで、大学生の基礎学力不足が問題になっている。こうした中で、大学入試で基礎学力プラスアルファを求めると、さらなる基礎学力の低下は十分に懸念される。センター試験に臨む受験生ら=2018年1月、大阪府吹田市の大阪大学吹田キャンパス(渡辺恭晃撮影) そして、本当は大学、とくに教養課程で求められる能力を、高校生までに押し付けて、大学に入ってからも詰め込み教育を続けるようだと、日本の大学教育は企業からも評価されない(海外では高等教育の就学期間が長いほど優遇されるのに、日本では院卒や博士が評価されない)し、アジアなどの優秀な留学生が日本の大学をパスする現状は改善されないだろう。 いい加減、この手の教育関係の審議会で務める委員を、世界や日本の企業からバカにされている大学の教授ではなく、世界から評価を受けている初等中等教育の優秀な教師たちに変えることができないのだろうか。 本題に戻るが、今回の改革では、センター試験は廃止され「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が導入される。これについては、「答申」と「最終報告」で多少の変更点があったが、基本的な方向性はマークシート方式だけでなく、記述式も導入される。 現行の解答だけを出して、思考過程を問わないテストには、批判が多かったが、長年精神科医をやることで私はむしろ答えだけを求める試験も悪くないと思えるようになった。 要するに、大量の受験生を処理しないといけない試験で記述式解答を求めてしまうと、模範解答的なものばかりが求められて、ユニークな解答が排除される可能性があるからだ。二次試験であれば、受験者数が限られるうえ、たとえば東大の数学なら数学のプロが見るので、相当ユニークな解法でも認められることがあるが、それが可能かが疑問である。 そうでなくても、日本人は、結果よりプロセスにこだわるところがあり、それがメンタルヘルスを害している。 たとえば、ゴールが大学受験だったり、社会的な成功であるはずなのに、プロセスの中学受験で失敗すると絶望するというようなパターンである。顔が赤いのを気にする赤面恐怖の人も、人に好かれるというのが目的なのに、プロセスである赤面を治さないと、人前に出られないようなことが起こる。目的がはっきりしていれば顔が赤いのを治さなくても話術を磨く、笑顔を絶やさないなどで人に好かれることは十分可能だ。リスクヘッジのない入試改革 それ以上に問題なのは、すべての大学の二次試験の評価を変えろということである。具体的には、面接や小論文、志望動機書、学校の調査書などを加味しろというものだ。要するに人物像などを重視したAO(アドミッションズ・オフィス)入試を行えというものである。 私が最も危惧するところは、「答申」や「最終報告」を見る限り、例外を認めないという姿勢である。国に、各大学のアドミッション・ポリシー(求める学生像)を作成するような法令を作れというと同時に、財政的措置を明言している。 現在、日本には昔のような国立大学は存在しない。国立大学法人という独立法人なので、国からの補助金が出ないと、教職員の給与も払えないなどということが生じてしまう。文面上は入試を工夫した大学に財政的措置を講じるということになっているが、大学予算が増えないのであれば、逆に従来型学力偏重の入試を行わなければ予算が減らされることになる。おそらくほとんどの大学がAO入試化されることだろう。 しかし、このような入試改革が成功すればいいが、むしろ学力低下やそのほかの問題が生じた際のリスクヘッジがない。 「ゆとり教育」の際は塾通いや中学受験をする人がむしろ増えることで、その弊害を受けない人も相当数いた(その代わり一般の公立学校に通う生徒たちと学力格差が生じたが)。しかし、今回の改革では「従来型」の学力は高いが、表現力、面接力などに劣る生徒の逃げ場がないのだ。 さて、今回の入試改革の基本的な哲学は、これまでの受け身の学びから、主体的な学びを重視しようというものであるが、これは、「ゆとり」派の巻き返しであると私は見ている。 実は、2002年度に始まったゆとり教育は、カリキュラムの削減だけを行ったものではなかった。総合的な学習の時間の導入で、教科学習より科目横断的な授業を重視する方向に舵をきっているし、またそれまでも続いている観点別評価を強化する形で、ペーパーテストによる評価の比重を下げた。受験生に問題と解答用紙を配る担当者=2018年1月、大阪府吹田市の大阪大学吹田キャンパス(柿平博文博文) この観点別評価というのは、02年のゆとり教育の前の学習指導要領(92-94年施行)から本格的に採用されたものだ。これは、成績を評価する際に、ペーパーテスト学力(これが概ね「知識・理解」という観点にあたる)だけでなく、「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」などの観点から多面的に行うというものである。 そのため、中間試験や期末試験で常に満点をとっても、授業中に意欲がないとか態度が悪いとみなされたり、宿題などの書き方や図示の方法が悪かったり、実験室での技能がまずいとみなされると5段階評価で3程度しか得られないことがあり得るようになった。 これは、メンタルヘルスに悪いようだ。授業中に常に教師の目を気にしないといけないのが大きなストレスになっているようで、この観点別評価が採用された93年ごろから、生徒間暴力も、学校内暴力も、不登校も激増している。しかも、小学校や高校ではそれほど増えていないのに、内申書が重視される中学校で顕著に増えているのだ。 さらにいうと、入試の公平性も犠牲にされる。もちろん、改革会議の安西祐一郎座長が言うように、すでに大学入試を受ける前に家庭の所得格差が学歴格差の要因になっているのだから、公平性は多少犠牲になっていいという考え方もあるだろう。 ただ、大学入試レベルの面接や小論文であれば、対策塾のようなものに行ったほうが圧倒的に有利で、カリキュラムが早く終わる6年一貫校のほうが対策に時間を取りやすい。要は、社会的階層による学歴格差や地方と都会の学歴格差が現在以上に広がる危険は小さくない。 こうした様々な危険性があるにもかかわらず、リスクヘッジもないまま、すべての大学に適応されるような実験的入試改革を、このままの形で進めていいとはとても思えないのだ。

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    中学受験「難関私大附属中」の倍率が軒並み上昇している理由

    ている。文科省は次世代の日本人に求められる力を「自ら課題を見出し問題を解決する力」とし、高校・大学の教育課程を全面的に見直す。その一環として、現行のマークシート主体のセンター試験が廃止され、新たに「大学入試共通テスト」が導入される。これまでにはなかった記述式のテストが国数で導入され、英語に関しては「聞く」「読む」に加え「話す」「書く」の4技能評価となり、試験の外部委託も予定されている。 2年後に迫ったこの改革にあたって今、“中学受験”に注目が集まっている。中高一貫校、なかでも難関私大の附属中学校の受験倍率はここ数年、全体的に大きく上昇している。NHKおはよう日本でも取り上げられた中学受験塾を舞台にした漫画作品『二月の勝者-絶対合格の教室-』(小学館ビッグコミックスピリッツ連載)の作者で漫画家の高瀬志帆氏にその理由を聞いた。* * *2017年、慶応義塾中等部に合格した女優の芦田愛菜──中学受験がひと際、熱を帯びてきているように見えます。高瀬:「大学受験」と聞くと遠い未来に感じるかも知れませんが、現小6生はこの新テスト導入後の世代。決して遠い未来の話ではないのです。既に新テストの記述式問題のモデル問題が公開されており、公立高校でプレテストを実施したところ、ある生徒は「今の学校の授業だけではこの問題は解けない」と。 高校の3年間だけで、果たしてこの新テストに対策がしきれるのか、という不安に対して、すでに多くの私立中学は、中高一貫の6年間でこの新テストに準備することを表明しています。変革への不安と、一貫教育への期待から、注目が高まっているのではないでしょうか。──中高一貫校は増加の一途です。高瀬:ただ、高校募集をやめた学校が増加しています。いわゆる“御三家”も、高校から入れるのは男女6校中開成の1校のみです。私立だけでなく、公立の中高一貫校も増加しており、首都圏に22校あります。親が高校から通っていた母校が、今は中高一貫になっていて高校受験できない、というケースは意外と多いんじゃないでしょうか。親の世代が受験した時代と較べて、選択肢は減っていると思います。──難関私大の附属中学校の倍率が大きく上昇しています。平均すると4倍から7倍の狭き門と言われています。高瀬:2015年、文科省は定員を上回る私大への補助金カットの方針を打ち出しました。首都圏に学生が集中している状況を打開するためのものです。2016年から段階的に定員超過数が厳格化されてきており、特に難関私立大学の合格者数はすでに大幅に削減されています。 早稲田・明治・青学に至っては一昨年(2016年)と前年(2017年)で各2000人超の削減。難関私大全体で1万人超の削減となっています。この合格者数減を受け、大学受験を避け、附属中から入る動きが加速し、その結果難関私学附属校は軒並み倍率が上昇しています。実際に、厳格化が開始された2016年と較べて今年2018年の倍率は、慶應義塾中等部は6.5倍から7.3倍に上昇。明治大学付属中野八王子中学に至っては2.3倍から4.3倍に急上昇しています。難関私大附属中学全体で、平均して1ポイントから1.5ポイント上昇しているのです。──『二月の勝者』の舞台は中学受験塾ですね。高瀬:中学受験は、義務教育だけで合格するのはかなり困難です。ほとんどの子どもは4年生から、遅くとも6年生の春から中学受験塾に通います。本書で中学受験塾を舞台にしたのは、中学受験を親子のドラマとしてだけ描くのではなく、それを主に支える塾業界、その職業にスポットを当てたかったからです。 親が子どもの将来を真剣に考えた結果として中学受験を選んだ事情。そして子どもにとっても自分ごとになってからの真剣な気持ちや努力。それを支える塾。世間一般のイメージとは違い、大人のエゴだけではない、“二月の勝者”となるためのそれぞれの真剣な闘いがそこにあります。最近の中学受験塾の実態──最近の中学受験塾の実態とは?高瀬:本書は、大手受験塾を辞め、中堅受験塾の校長として赴任した黒木蔵人が、「親はスポンサー」「金脈」と受験のタブーを次々と露わにしていきます。一方で、<受験当日に公式を忘れた他校の生徒><偏差値40の子供><塾を辞めたい生徒>などを結果的に救い、「全員第一志望合格」を公約します。東京都千代田区にある明治大学駿河台キャンパスのリバティタワー。附属中学は大学の合格者数削減の影響を大きく受けている(春名中撮影) エンターテインメントとして所々に過激な表現はありますが、子どもを“二月の勝者”とするために塾では何が行われているのか。例えば、作品の冒頭で受験当日の早朝に、塾講師たちが志望校の門前に集合し、雪をかぶって塾生を応援するシーンがあります。一見やり過ぎで馬鹿馬鹿しく見えるかも知れませんが、実際に塾生達に話を聞くと、応援が嬉しかったり、緊張がほぐれて平常心を取り戻せたりと、明確な効果が出ているんですね。 必ずしもいわゆるガリ勉タイプだけが受験向きという訳でもありません。サッカーなどチームスポーツを続けてきた子どもは、競争意識や、目的に向かってやるべきことを組み立てる経験値が高く、これは中学受験に生かせることがあります。ピアノをずっとやっていた子どもは、長時間椅子に座って集中する習慣が身についています。こういった子どもの個性は、受験勉強の進め方や、モチベーションのスイッチが入るタイミングに大きく影響します。受験を切っ掛けにあらためて子どもと向き合うことになる親はとても多いです。 また、中学受験塾の授業というと、異常な緊張感の中で黙々と、画一的な詰め込み勉強をしている印象があるかもしれませんが、トップクラスの講師の授業ほど、授業中に笑いが起きたり、活発に生徒が発言していたりします。義務教育と違って塾講師は評価によって待遇が変わります。彼らは小学生を集中して学ばせることに関して、プロなのです。『二月の勝者』には長期にわたって塾や講師、保護者等に取材してわかったこういった実態が沢山詰まっています。──今後、中学受験は更に加熱していくのでしょうか。高瀬:本書の裏テーマは「教育格差」です。大学受験改革を筆頭に、今、子どもたちは変革の波の真っ只中にいます。一方で、中学受験というチャンスを持った子ども、そうではない子ども、かなり格差があります。果たして、子どもを取り巻く環境はこれでいいのか? 世の中はこれでいいのか? 今の子どもたちの未来は? 今の子どもを取り巻く環境や事情、それを更に取り巻く大人たちの事情をリアルに描くことで、読んだ後に少し立ち止まって考えるきっかけになれば嬉しいです。関連記事■ 複数の漢字を組み合わせて二字熟語を導く名門中学受験の難問■ 漢字の成り立ちや書き順を問うパズルのような中学入試の難問■ 二字熟語は中学受験で最も出題が多い そんな問題を解いて!■ 校舎7割閉鎖の代ゼミ SAPIXを傘下に収めて少数精鋭路線に■ 中学受験激化の背景には「ゆとり教育」の導入があった

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    センター試験 国語の問題を直木賞著者が解いた結果…

    「私の小説がセンター試験に使われたというので解いてみたのですが、やっぱり難しかったですね……」 そう語るのは、直木賞作家の井上荒野氏だ。1月13日に行なわれた大学入試センター試験・国語の問題で、井上氏の小説『キュウリいろいろ』が採用されたので、井上氏自ら「解いてみた」というのだ。井上氏が続ける。「どうにか全問正解だったので良かったです(笑い)。小説の読解に正解はないと考えていますが、今回の問題は間違いの選択肢に『明らかにこんなことは書かれていない』という記述が含まれていて、消去法で選べるようになっていた気がします。 ただ、『問6』の小説のテクニックについての設問では、たぶん多くの小説家が無意識にやっていることの理由を厳密に問うていました。受験生には相当難しかったのではないかと思います」 各大学・高校の入試も含めれば、毎年、数多くの文学作品が出題文に採用されるが、なかには作品の著者でさえ“正解”に辿り着けないケースもある。大学入試センター試験で、受験番号と照らし合わせて会場の教室を確認する受験生=2018年1月13日、東京・本郷の東京大学 日本身体文化研究所代表理事で、武蔵野美術大学講師の矢田部英正氏は、「毎年3~5校の問題に採用されていますが、6割くらいしか正解できなかったことがあった」と笑う。「東大や早稲田・慶應ではなくて、高校入試の問題が意外と難しい。“筆者の意図”を問う選択問題で、僕の意図とは全く違うことが“正解”になっていることもある。僕の文章は日本文化に関するテーマがよく入試に採用されます。『日本の歴史上こういうことがありました』という事実を淡々と書いた文章が、『だから日本文化は素晴らしい』という趣旨の解答になっていると、それは“出題者の解釈”であって“筆者の意図”ではない。 学生時代はテストが苦手だったから、そういう問題に出くわすと、“出題者がそう思っただけなんだ”と、少し安心したりもします(笑い)」 受験生が必死で辿り着こうとする“正解”は、必ずしも正しいとは限らない。関連記事■ 山本美月 『PRウーマン』初日舞台挨拶で見せたスラリとした脚■ 日本の男女がどんな場所で「営み」を行なってきたかを調べた書■ ディーン・フジオカが萬田久子から詐欺の才能を認められる■ 結婚してさらに色香を増した井上和香をスペシャル撮りおろし■ 琵琶湖はなぜ10個の市に分割された? 霞ヶ浦は9個

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    「バカ量産」の教育無償化は必要か

    安倍政権が選挙公約に掲げた教育無償化の議論がスタートした。高等教育に加え、幼児教育の無償化も議論の対象となったが、聞こえのよいバラマキ政策には賛否が渦巻く。向学心のある学生ならともかく、誰もがタダで大学まで行ける制度など本当に必要なのか。「バカ量産」につながりかねない制度の是非を問う。

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    【特別寄稿】高等教育の無償化は「天下の愚策」である

    集散が大きな話題を集め、政策論争はいつの間にか忘れ去られてしまいました。衆院の解散を表明した会見で、教育の無償化に言及する安倍晋三首相=2017年9月、首相官邸(宮崎瑞穂撮影) しかし、そもそもの解散の理由が消費税増税分の教育目的への転換とされ、自民党が公約に「保育・教育の無償化」を掲げた上、ここにきて安倍総理が私立高校の無償化の検討を表明しました。また、その他の政党も軒並み教育を重視する姿勢を見せており、教育の無償化は本来、今回の総選挙でも大きな論点であったはずです。今回はその是非について論じたいと思います。 まず、極めて当然のことですが、仮に何のコストを払うことなく教育を無償化できるなら、それに反対する人はいません。しかし、そんな魔法のような話はないわけで、教育無償化に限らず、「〇〇無償化」は、無償化といいながらも、もちろんそのコストは、税金から支払われます。 したがって「教育無償化」の是非は、教育費を無償にすべきかどうかというよりはむしろ、教育費を、教育を受ける本人ではなく、「税金」という形で社会全体が負担すべきか否かで決せられるということになります。 現在、日本においては、義務教育である公立の小学校、中学校は無償化されています。日本人の誰もが共通の基本的な教育を受けることで、教育を受けた本人の能力が高まって利益を受けるだけでなく、国民全体の能力が高まって社会全体が利益を受けることになるので、これに異論のある人はほとんどいないものと思います。 一方で、例えば私が、ロシアのすてきな方とお話しするために始めたロシア語の勉強も、先生に教わっている以上教育と言えなくはないのですが、これによって利益を受けるのは恐らく私1人であります。私が奇跡的に上達したロシア語を駆使してロシアの地方政府とよほど大きな話をまとめでもしない限り、その費用は私が負担すべきだということに異論がある人もまたほとんどいないものと思います。 つまり、教育といってもそれを受ける時期、対象、内容がさまざまにあるわけで、教育の無償化は、義務教育から個人的な語学教育までのさまざまな教育について、どの範囲でどう無償化するべきかを考えなければならないことになります。無償化すべき教育とは? そこで、議論を整理するために、少々勝手に、教育を分類してみます。 まず、主に時期を中心として、下記のように分けることは、ご了承いただけるのではないかと思います(通常(4)(5)をまとめて高等教育としますが、議論のために分けました)。(1)幼児教育 (2)義務教育 (3)高校教育 (4)大学教育 (5)大学院以上の教育 (6)社会人教育  対象については、ざっと、大部分の人(全員)が受ける教育と、一部の人しか受けない教育に分類します。 内容については、分類が難しいので、これも非常にざっと、公的教育と私的教育に分けさせていただこうと思います。公的教育はその教育主体がどうあれ、内容の主要な部分が公定されているもの、私的教育はその教育主体がどうあれ、民間が自由に内容を決めているもの、という分類です。 これを図示すると、以下のようになります。  先ほど述べた通り、義務教育のように(1)全員が受けるもの、(2)内容が公的に決まっているものであり、かつそれによって(3)社会全体が利益を得るもの、については、無償であること、すなわち社会全体でその費用を負担することに大きな問題はないものと思われます。 したがって、教育の無償化を進めるのであれば基本的には、義務教育から始まって順次(1)一部の人が受けるもの、(2)内容が私的に決まっているもの、にその範囲を広げることになり、おおむね図の①、②、③、④、⑤の線の順に議論がなされることになるのだろうと思います。もちろんそれぞれの丸の位置や順番については別の意見もありうると思います。 また、①~⑤の順番は、上記の(1)全員が受けるもの、(2)内容が公的に決まっているもの、という基準に依拠していますが、当然その過程では(3)社会全体が利益を得るものという基準が満たされているか否かも問題になりますし、例えば大学院教育などについては、(1)(2)の基準では優先順位が低いけれど、技術革新の時代において社会全体に与える利益が大きいから優先的に無償化する等の議論はありうるものと思います。 ところでここまでは、教育の無償化を順次進めるという前提で議論してきましたが、そもそも無償化を進めるべきか否かを考えるにあたって、非常に重要な問題である、財源についての議論を避けることはできません。 上述の通り、教育無償化というのは結局税金を徴収することによって社会全体でその費用を負担するということです。日本の税収(国税)は毎年ほぼ50兆円で変わらず増える見込みはありませんから、教育を無償化するには、(1)他の用途に使われていた税金を教育無償化に使う、(2)増税する、の二つに一つしかありません。例えば、自民党で「こども保険」を創設するという議論がありますが、これは実質的に増税と同じです。結局誰が負担するのか (1)の選択肢を選んだ場合は、「他の用途」が医療・福祉の社会保障なのか、公共事業なのか、公債費、つまり財政健全化のための費用なのか、はたまた防衛費なのかはそれぞれでしょうが、いずれにせよ教育無償化を行うことによってこれらの用途にお金を使うことはできなくなります。(iStock) したがって本当にその教育無償化が、他の用途にお金を使うよりも社会全体に利益をもたらすのか、上記の①~⑤の無償化の段階ごとに、議論が必要だということになります。 (2)の選択肢を選んだ場合は、すでに税金が使われていた他の用途が削られることはありませんが、増税されなければ民間の個人もしくは企業がそれぞれに使っていたお金を教育無償化に使うわけですので、その教育の無償化は、民間でそれぞれにお金を使うよりも社会全体に利益をもたらすのか、やはり上記の①~⑤の無償化の段階ごとに、議論が必要だということになります。 さらに教育無償化には、もう一つ忘れてはならない問題があります。それは無償化をすることそれ自体によって、上述の議論の前提がすべて変わってしまう可能性があるということです。 かつて日本には、「教育無償化」ならぬ「老人医療費無料」という政策がありました。1973年~1983年、高度成長によって毎年伸びる税収を背景に、当時の田中角栄内閣が70歳以上の医療費を無料にしたのです。もちろん、「経済的事情に関わらず、高齢者は必要な医療を全て無償で受けられる」ということそれ自体は良いことで、誰も文句はありませんでした。 しかし、「無償」の効果は絶大でした。何せ「ただ」です。70歳以上の高齢者は、それこそ擦り傷一つ、咳(せき)一つどころか、「日々の健康診断」という感覚で病院を受診しました。病院が高齢者のサロンとなり、高齢者同士で「〇〇さん今日病院に来ないね、どうしたんだい?」「ああ、今日は風邪をひいて家で寝てるんだ」という会話が交わされているという冗談が、リアリティーを持って語られました。そして医師もまた、相手にとって負担がないということでどんどん検査をし、薬を処方し、新しい診療所や病院を開設して増え続ける高齢者の需要に応えました。 結果は、高齢者医療費の急激な増大とそれによる保険財政の圧迫であり、これに耐えられなくなることを危惧した大蔵省(現財務省)が主導して、老人医療費無料という政策は、わずか10年で幕を閉じることとなったのです。無償化が引き起こすもの つまり、老人医療費無料、教育の無償化に限らず、「〇〇無償化」という政策は、それ自体によって、それまで存在していなかった需要、しかも本来なら必要とは言えなかった需要を引き起こしてしまう可能性があるのです。 主に日本維新の会が提唱している高等教育(大学)無償化を例にとって考えましょう。現在日本の大学進学率は54%で、その無償化に必要な額は4兆円程と言われています。(iStock) しかし、無償となれば、この大学進学率が80%近くまで跳ね上がることは容易に予想されます。その過程で現在の大学のみならず、さまざまな事業者が高等教育に参入し、現在大学に行っていない学生たちのニーズに応えようとするでしょう。大学進学率54%の現在でさえ、率直に言って、九九やアルファベットを授業で教えている大学は存在します。高等教育無償化によって雨後のたけのこのように出てくる学校の相応の割合が、「高等教育」とは名ばかりのモラトリアム享受機関になることもまた、相当程度の確率で予想されます。 大学教育の無償化は、それらのさまざまな事象を引き起こすことによって、当初の(1)全員が受けるものか、(2)内容が公的に決まっているものか、(3)社会全体が利益を得るものか、という議論を、全く変えてしまいかねないのです。そして、これらの変化によって、大学教育無償化の費用は、最終的には当初の4兆円を大きく超え、10兆円近くに跳ね上がるだろうと、すでにいくつかの試算で予想されています。 以上教育の無償化は、下記のような困難な多元方程式を解かなければならない、極めて複雑な問題だといえます。A 幼児教育、高校教育、大学教育、大学院教育、社会人教育のどの教育を無償化するのかB その教育の無償化は(1)全員が受けるものか(2)内容が公的に決まっているものか(3)社会全体が利益を得るものかC その教育の無償化の財源はどうやって確保するのか、その財源を「他の用途」に使うよりも、その教育無償化は、より多くの利益を社会にもたらすのかD 仮にA~Cがクリアされたとしても、教育の無償化それ自体によって、議論の前提が変わってしまうのではないか 教育無償化の議論の土台ということで、結論ではなく、論点の抽出・整理を行いましたが、各党においてはぜひ、漠然と聞こえがよい「教育無償化」を打ち出すのではなく(それだけなら誰にとってもよく聞こえるのは当然です)、きちんと、詳細に、上記のような議論をしていただきたいと思います。 それこそが、教育無償化という政策を行うそもそもの理由である「次世代のために適切な政策をする」ということであるのですから。

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    「奨学金の返済地獄」をなくすために必要な議論は何か

    佐藤智(教育ライター) 先の総選挙で自民党が勝利した。自民・公明両党は、幼児教育の無償化とともに私立高校の授業料無償化を実現したいと掲げ、注目が集まっている。消費税増税の文脈と一緒に語られることも多いため、「財源の確保はどうするのか」という問題に目が行きがちになってしまい、本質的な教育無償化の議論にまで至らないことも少なくない。 そこで今回は、「高校の授業料無償化」がどんな意味を持つのかに焦点を当てて考えたい。(iStock) まずは、一時期騒がれていた高校無償化が、現在ではどのような制度になっているのか、少しおさらいをしてみよう。 高校無償化は、2014年から「高等学校等就学支援金制度」という新制度となった。この制度は、「高校の授業料に充てるための就学支援金を支給することにより、高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の実質的な機会均等に寄与することを目的」としている。 現在は、国公私立問わず一定の収入額未満(市町村民税所得割額)が30万4200円(年収約910万円未満)の世帯の生徒に対して、授業料を支援している。具体的には、世帯収入590万~910万円未満の世帯には年11万8800円(月9900円分)とし、250万円未満世帯で私立高校に通う生徒にはその2・5倍(年29万7000円)を支援するなど、所得に応じて支給額を決定しているのだ。 受給額の年額11万8800円は、公立高校の授業料全額分が免除されている金額だ。つまり、私立学校に通う生徒に対しても低所得世帯・中間所得世帯に対しては公立高校と同額のサポートがなされており、それを上回る分を家庭から支出することとなっている。 私立学校の授業料には学校によって大きなひらきがある上に、施設費や制服費用、修学旅行の旅行積み立て費用なども高額なことが少なくない。また、これは私立学校、公立学校を問わないが、生徒が主体的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」型の授業の導入が進み、情報通信技術(ICT)関連の購入費用などプラスの負荷が家庭にかかることも増えている。 高校進学率のさらなる上昇や、金銭面を理由とする高校中退者の減少がみられた点で、施策は一定の効果があったと考えられるものの、学校教育費の家庭負担が一切なくなったわけではないのだ。地域による機会不均衡 国のサポートだけでは、私立学校の授業料を賄うことができない世帯も少なくないだろう。例えば、年間25万円の授業料の場合には、11万8800円を差し引いた13万1200円は家庭から支出することになるからだ。 そこで、各都道府県でも私立学校の授業料無償化が検討されている。 例えば、東京都では、小池百合子知事が教育機会均等化の実現に向けて、私立高校授業料の実質無償化を掲げている。この方針を受け、2017年度から都内在住の私立高校生を対象に実質無償化が進められている。衆院選で第一声を行う、希望の党の小池百合子代表=2017年9月、東京都豊島区(宮崎瑞穂撮影) しかしながら、これは東京都の施策であるため、東京都の私立高校に通っていたとしても都内在住でなければ支給はされない。東京都の私立高校へは神奈川県や千葉県、埼玉県など近隣の都道府県に住む生徒も通っている。そのため、住まいがどこかで授業料への支援が異なってくる。 また、この東京都の制度においても所得制限が設けられており、世帯年収760万円未満を対象とするとされている。対象となるのは、約5万1000人。国の高等学校等就学支援金制度が年額11万8800円であるのに対して、東京都の制度では年間私立授業料の平均額44万2000円を上限に支援すると定めている。 地域の人材育成は、各自治体において最重要事項の一つだ。その意味で、各地域が課題意識を持ち、それぞれの教育的施策を講じることは意義深いといえる。一方で、税収が少ない自治体と多い自治体とで、格差が大きくなるという見方もできるだろう。子供の教育環境を考える上で、保護者が自治体情報をつぶさに収集することが求められる時代へと進んでいくと言えそうだ。 私立学校も含めた高校の授業料無償化が整備され、すべての子供が平等に教育の機会を得られる社会になりつつあると感じている。最近では、高卒者の就職率もある程度持ち直してきており、高校教育を保証することである程度の水準を満たすことはできるのではないかと思う。 しかし、大多数の大企業の新卒採用では、大卒者がターゲットとされている。さらに、多くの場合、専門職となるためには大学に進学することが必要となる。現在の大学進学率は、男子が52・1%、女子が56・9%である(総務省統計局「日本の統計2017」)。半数以上の子供たちが大学に進学する時代において、「高校の授業料さえ保証すれば十分」といえるだろうか。支援の多様化も必要 政府は、2020年までの重点項目として「理工系人材育成戦略」を挙げるなど、大学などの高等教育機関が人材育成において果たすべき役割がますます大きくなると予測している。(iStock) つまり、大学進学への道をいかにサポートするのか、今後さらに議論を深めていく必要がある。 「奨学金制度があるではないか」という指摘もあるかもしれない。しかし、テレビのニュース番組でもたびたび取り上げられるが、既存の制度だけでは卒業後に「奨学金の返済地獄」に陥る人も少なからずいる。大学に行きたい一心で奨学金を借り、社会人になり返済に困窮する。 現状から考えると、大学などの高等教育機関も高校の授業料無償化と地続きで変革を進めていくことが求められるのではないだろうか。 もちろん、現行の制度でも、返済の必要がない奨学金や支援制度が存在している。独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)が行う「予約採用奨学金」が世帯収入の基準を満たし、成績ボーダーを超える子には給付型の奨学金を用意している。また、民間団体や公的機関が用意する給付型奨学金支援制度もある。こうした奨学金を複数活用することで、学費・生活費を完全にまかなえる場合もある。さらに、給費生・特待生・奨学生入試を整備している大学もある。 ある一定の学力を収めており、研究・学習意欲があることが大前提とはなるが、子供たちにこうした大学への切符を準備していくことは今後さらに重要だ。 国の支援だけを期待するのではなく、「優秀な人材は地域で作る」というコンセプトを掲げて都道府県の育成事業を推進してもよいだろうし、企業としてインターン経験を積ませながら大学の学費を支援するところが出てきてもよいだろう。支援は必ずしも一元化する必要はなく、あらゆる側面から子供の可能性を伸ばせる社会になっていくことが求められる。 また、保護者や学校の先生はこうした多様な制度を知ることで、子供に選択肢を提供していくことも役割の一つになるだろう。たとえ今、何らかの理由で金銭的な弱者であったとしても、情報弱者にならなければ道は拓ける、そんな未来に期待して、教育の無償化への歩みを見守っていきたい。

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    おバカが集まる「底辺高校」まで授業料をタダにする道理はない

    森口朗(教育評論家) 先の総選挙で大勝した安倍政権は、消費税を10%に上げて教育の無償化を実施するという政策を打ち出している。消費税増税については、リーマンショック級の経済的打撃がないことが条件とされており、緊迫する北朝鮮情勢を勘案すれば、いまだに不透明である。そこで、本稿では財源問題とは一応分離して「教育の無償化」の是非を考えたい。 憲法は義務教育の無償化をうたっており、現在、小中学校教育が義務教育とされているので「教育の無償化」政策のターゲットは、幼児教育、高校教育および大学(大学院)教育であるが、それぞれにまったく異なる問題をはらんでおり、これらを一律に論じるのは乱暴に過ぎる。そこで、3つの無償化について順に、解決すべき問題点と是非を考察したい。 まず、幼児教育の無償化については、原則的には推進すべきである。なぜなら、世界の各国が6~7歳から義務教育と定めた近代以降の教育学の進展により、早期教育を社会の構成メンバー全員に施すことは、その社会の知的水準を上げるだけでなく、治安維持効果も持つことが分かっているからだ。すなわち適切な幼児教育を受けた者は成人した後、経済的成功を獲得する確率が高いだけでなく、犯罪者になる確率が低いことが実験で明らかになっているのだ。グローバル化が進む中で、世界一ともいえるわが国の治安を維持することは、全ての日本国民にとって有益である。また、高等教育と異なり、幼児教育に適さない者は存在しないだろうから、無償化の恩恵を世代全員が受けることが可能である。その点でも、幼児教育の無償化は、推進すべき政策と言えるだろう。 しかし、その政策を推進するためには、幼児教育が、文部科学省が管轄する幼稚園と、厚生労働省が管轄する保育園に分断されているという問題を解決する必要がある。両者は、入園できる年齢も異なれば、幼児を預かる時間帯も異なる。そのために、一人当たりにかかる費用も異なるし、第一、保育園の機能は、実態はともかく、一次的には乳幼児を預かるという点であって、教育は二次的なものに位置づけられている(だから、厚生労働省の所管なのだが)。さらには、幼稚園教諭免許と保育士免許が別という問題も無視はできないだろう。そういった点を解決せずに、幼児教育の無償化を推進すれば、現場に無用な混乱をもたらし、森友学園事件のような公金の不正受給問題の温床となるだろう。(iStock) 次に高校の無償化について考察する。これは、既に日本維新の会が牛耳る大阪で実施済みの政策なので、政府がそれを全国に広げ、推進しても混乱は少ないだろう。しかし、高校教育を無償化すべきか否かについては大いに疑問がある。これは大学教育の無償化についても同様、あるいはそれ以上に深刻な問題であるが、中等教育や高等教育を無償化する際には、経済的弱者から集めた税金を経済的強者に配布するという側面があることを忘れてはならない。中卒で働く者と高校に進学する者を比較した場合、通常、前者の方が経済的に恵まれていない。高卒で働く者と大学に進学する者を比較した場合も同様である。弱者の税金を強者に分配する愚 これは、財源を消費税に求めても、教育国債に求めても、小泉進次郎氏が主張した「子ども保険」なるものに求めても、まったく変わらない。所得の再分配は政府機能の一部として認められているが、経済的弱者の税金を経済的強者に分配するのであれば、尋常ではない正当性が必要だ。私は、これを正当化するのは「日本経済全体の向上に資する」以外にはないと考えている。2017年3月、子育て支援などの財源を確保する「こども保険」の創設の提言を発表する、自民党の小泉進次郎衆院議員(中央)ら 読者諸賢は、現在の高校教育、とりわけ底辺高校の教育水準をご存じだろうか? 少なくとも数学や英語については、中学校の教育をマスターできなかった者に対して、問題をよりシンプルにして解かせている。つまり、中学校課題の再教育がその実態なのだ。このような教育を中卒で働く者が納めた税金を費やしてまで無償にする必要があるのか? 断じて「否」である。 ただし、高校教育については「義務教育にする」という手法が残されている。それならば、経済的弱者の税金を経済的強者に投入する不正義の問題はおきない。前期中等教育(中学)だけでなく、後期中等教育(高校)までを義務教育期間にするのは世界的潮流であるし、IT化が進み訓練された労働者を必要とする現代社会にとっても適合する。ただ、高校を義務教育にする場合には、左派の論者たちが、高校入試の廃止や、誰でも望む高校に進学できるように制度改正を求めてくることは必至だ。万一、その声に負けて、中学の延長線のような高校を多数派にしたら、日本人の知的水準は地に落ちてしまうだろう。事実、共産党に牛耳られた京都府において、これに類する政策を実施して、京都の府立高校のレベルが急落した歴史がある。 高校の無償化は、①高校教育を義務教育化し、かつ②現在同様の学力に応じた学校に進学するシステムを維持した場合にだけ、肯定できる政策だろう。 このように考えていくと、大学、あるいは大学院も含めた無償化は決して認めてはならない政策だ。実のところ、底辺大学の教育も先に紹介した底辺高校の教育と大差ないことになっている。事実上の無試験で入学できる大学も、全国に山のようにある。この現実をそのままに、大学教育を無償化したら、「高い授業料を払っているのだから勉強しよう」という、最後のインセンティブまで吹き飛ぶだろう。 安倍総理が言う「どのような家庭に育っても、自分が希望する進路に進める」社会を構築することは極めて重要である。しかし、そのための政策は、現在、政府・文部科学省が着手しはじめた給付型奨学金(返済不要の奨学金)制度を、学力優秀な者に限定して一層拡充することであって、大学教育を受けるに値しない低学力の者の4年間の居場所を、経済的弱者から集めた税金で提供する「大学教育の無償化」ではないのである。

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    「分数もできない」大学生をまだ増やすつもりなのか

    党の選挙公約として目立った。政権与党である自民党は、人づくり革命の一環として、増税した消費税の大半を教育無償化に充てるという方針を打ち出した。基本的には3~5歳児の幼児教育(保育園・幼稚園)の費用を無償化する、所得が低い層での高等教育の無償化を行うとしている。 これに対応するかのように各党も選挙公約に教育無償化を打ち出した。野党第一党に躍り出た立憲民主党は、「児童手当、高校等授業料無償化、所得制限の廃止」を打ち出している。希望の党は、「幼児保育・教育の無償化、大学における給付型奨学金の大幅拡充により、格差の連鎖を断ち切る」と宣言。維新の会は、橋下徹氏が大学など高等教育まですべて無償化を掲げ、現在もこの政策を強調している。 確かに、ヨーロッパ諸国は消費税が高い代わりに高等教育を含め、教育無償が原則だ。そして、私の聞く範囲でも、格差が広がり、とくに地方では、貧困のために大学進学をあきらめるということは現実にあるようだ。知人の地方新聞の社長に聞いた話だが、世帯年収300万円くらいでも、親と同居していると、日本はアメリカと違って、公的医療保険が充実しているし、デフレ経済もあいまって、それほど生活に困らないどころか、軽自動車とはいえ、夫婦で自動車を2台所有などということは当たり前にある。 ところが、子供が大学に行きたいという段になって初めて、貧困を自覚する。地元の国立大学の授業料でも、今は負担が重い。4年で授業料と入学金だけで240万円以上かかるのだ。ましてや私立となると一層の負担増になる。国立であったとしても東京の大学など夢の夢という世帯も多いそうだ。※iStock 私の知り合いのお金持ちが、ある九州の名門高校で講演をした際に、生徒たちの真摯な聞きぶりに感激して、学校に寄付を申し出たそうだ。すると、校長は「この高校からも東大を狙える子なのに、東京で受験する旅費がないために泣く泣く九州大学に進学する子が毎年何人もいます。その子たちの旅費を何年分か寄付していただけませんか」という話を聞いて驚いたそうだ。その使途で使ってもらうために500万円寄付したそうだ。 授業料の無償化は貧困世帯にとって福音になるのは確かだが、地方の人にとっては、受験の旅費のような、都会の人には想像できないような出費も大きいのである。格差の連鎖を断ち切るという点では、少子化なのに、むしろ定員を増やしてきた大学の場合、実質、無試験状態という学校が当たり前にある。 金沢工業大学のように大学に入ってから徹底的に鍛えるということで、「偏差値30台から(今はこの評判のためにすっかり上がってしまったそうだが)正社員就職率99%」というような例外的な大学を除けば、この手の低学力大学から正社員入社、その後に能力を高めて社会で成功者になるという道は決して開けているとは言えない。 2020年度の入試改革で見送られた大学入学資格試験のようなものを作らないと、分数ができない、まともに読み書きのできない大学生が大量に出現している。 こういう学生に対して、中学校や高校の初期に教えるような内容を教えなおす「リメディアル教育」というものが行われる大学も増えているようだが、大学教育(これまでは教育者というより研究者が教授になる傾向が強かった、いや今でも強い)を抜本的に変えるか、GRE(アメリカやカナダの大学院へ進学するのに必要な共通試験)のような大学卒業時の学力テストを導入するか、あるいは高校教育の充実のため(今は落第や留年をさせる高校はほとんどない)大学入学資格試験を作るなどを検討しないと、教育無償化が実現しても大学卒の肩書が得られるだけで、格差の連鎖が打ち切られる効果は、さほど期待できないだろう。教育バウチャーが有効 貧困層が高等教育機会に恵まれない理由は、アメリカのように一流大学の授業料が高いこと以上に、公教育でエリート教育をするのがおかしいという左翼的な教育批判のために名門公立高校の多くが解体され、一流大学に入るためのエリート教育が名門の私立中高一貫校や塾や予備校などの民間教育(東京ではその両方に通わないと東大に入れないとさえ言われる)に依存してきたことがあるだろう。名門中高一貫校に入るためには、小学校4年生くらいからの塾通いが必要だから貧困層どころか共稼ぎ世帯すら排除されることが多い。東京などで公立学校が復活してきたことは望ましいことだが、やはり塾や予備校通いの率は高いという。 貧困層でも塾に通えるような教育バウチャー(教育に使用目的を限定したクーポン券)のようなものを用意しないと、格差の連鎖の是正には役立たない可能性は高い。エリートとか医師になるという問題以外に、ゆとり教育だけでなく、少子化による高校入試の実質無試験化や、高等学校における落第・留年を行わない方針などのために低学力者の増加の問題もある。※iStock これらの子供を救っているのも、ほとんどの場合、民間の学習塾なので、それに行く経済的余裕がない家庭は、AI(人工知能)やロボット化で単純労働力の需要が激減が予想される中、再貧困にあえぐ可能性は小さくない。教育バウチャーの実行が難しいなら、せめて低学力児童対象の少人数学級の実施は重要な課題だろう。 経済協力開発機構(OECD)の調査で学力世界トップレベルを続けているフィンランドに視察に行ったことがあるが、クラスの人数は18人という少人数クラスと、学力がそれでも足りなければ、義務教育が終わる年に補習を行い1年留年させるという。それによって学力が低いまま社会に出すことがないようにしているとのことだった。 私自身、福島県のいわき地区で初めての中高一貫校磐城緑陰中学高校のスーパーバイザーを行っているが、公立優位の文化の中で、大学進学実績は悪くないのに、生徒が集まらないため、期せずして1学年18人以下という教育の効果を実感することになった。 東京の私立中学の受験予備校で小学校5年生の子が受けるようなテストで合格者の最低点は400点満点で100点レベル(東京なら偏差値30台だろう)の生徒を引き受けながら、下から二番の子が国立大学に合格した年もあるし、卒業生の4人に1人が慶応大学に現役合格し、慶大現役合格率が首都圏以外でトップになったこともある。それ以上に教師の目が行き届くためか、いじめやメンタルの問題がほとんど起こらない。 無償化以上に金をかけてほしいのは、クラスの小人数化である。格差社会というのは富裕層は昔と比べてはるかに収入が多い、資産が多い社会でもあるということだ。そういう点では、自民党の所得制限の考え方のほうが現実的だ。一方で、給付型奨学金の大幅拡充という希望の党の公約は自民党も検討してほしい。これは塾にも使えるだろうし、私立大学の医学部や法科大学院など授業料が高いためにあきらめる人を減らす効果が大きいからだ。机上の空論ばかりではダメ さて、幼児教育の無償化の問題だが、これも格差社会においては、所得制限を設けたほうがいいと私は考える。基本的に幼児教育の世界で問題になっているのは、保育園の待機児童の問題だろう。無償化もありがたいが、とにかく入れるようにしてくれというのが本音の人が多いだろうし、保育園に入れた人は無償化なのに、入れないための認可を受けていないような保育園に入れなかった人は、負担はこれまで通りというのなら踏んだり蹴ったりだ。 一つの方法としては、幼児教育バウチャーという手もあるだろう。所得制限は設けるものの、幼児に対してバウチャーを設ければ、親の負担が減り、民間の保育業者が増えるだろう。サービスの競争も起こりえる。※iStock 実は、私は本年度から、女医さんを対象にして、中学受験や大学受験に有利な学力をつける保育園型の幼児教育の総合監修を務めている。子供というのはこの時期に、きちんと読み書きや計算を教えるとびっくりするくらい伸びることを実感したが、高めの授業料の設定もあって、保育士さんの給料を高めに設定すると、優秀な保育士さんが簡単に集まることも実感した。 保育士の給与水準を上げれば、保育士が容易に集まり、それによって保育園不足も解消されるなら、無償化以上に、保育園の予算を増やして、スタッフの給与水準を上げるほうが有効だというのが私の実感だ(もちろん、貧困層の人には無償化すべきだろうが)。 日本の教育の質の低下や格差問題の解決はタダにすれば済むものではない。机上の空論ばかり述べる大学教授でなく現場の声を聴いて、きちんとした対策をしてほしい。それによって、税金を有効活用してもらうことで、本当の意味の人づくり革命を期待する。

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    理念も定義もない「教育無償化」は大衆迎合した世紀の愚策

    スト」のかけ声のもと、有権者のあいだで話題になりそうな施策を次々と打ち出している。そのうちのひとつ「教育無償化」について、経営コンサルタントの大前研一氏は異論があるようだ。* * * 東京都の小池百合子知事は、都内外の私立高校に通う都内在住の生徒の授業料を、世帯年収760万円未満の家庭を対象に実質無償化する方針だ。国の制度に加えて都独自の特別奨学金を拡充し、都内の私立高校の平均授業料に相当する年44万2000円を支給するもので、対象となるのは私立高校に通う都内在住の生徒16万7000人の3割にあたる5万1000人。この新制度による上乗せ分として2017年度予算案に事務費を含め80億円を盛り込むという。2017年3月、東京都議会の予算特別委員会に臨む小池百合子都知事(酒巻俊介撮影) だが、これはあまりにもバカげている。なぜなら、国や地方自治体がやらねばならないのは、中学校までの「義務教育」について公平を担保するための経済的援助に限られると思うからだ。高校、ましてや私立高校は個人の選択の結果であり、それに対して都民の税金から特別奨学金を拠出して無償化するというのは、どう考えてもおかしい。 しかも、神奈川県・埼玉県・千葉県から都内の私立高校に通っている生徒に都の特別奨学金は支給されないので、投票資格のある人だけに補助金をバラ撒こう、という露骨さが垣間見える。近隣県も黙っていないだろうから、今後は周辺自治体とのサービス合戦になりかねない。優位性が揺らぐ都立高校への影響も避けられないだろう。 また、世帯年収760万円以上でも、子供2人が私立高校に通っていたらどうなるのか? その場合、世帯年収1520万円未満としなければ理屈に合わないのではないか? そういう矛盾だらけの政策である。 さらに、もし公的なお金(都民の税金)を小池知事の私的な目的(7月の東京都議会議員選挙対策など)のために使うのであれば、犯罪に等しいと思う。 そもそも日本国憲法は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」(第26条第2項)と定めている。義務教育ではない高校を無償にするとは書いてない。すでに公立高校は年収910万円未満の世帯を対象に無償化されているが、憲法を厳密に解釈すれば、高校無償化は憲法違反という見方もできるだろう。 このため日本維新の会は「憲法改正による教育無償化」を提唱し、自民党は大学などの教育に関する財政支援に必要な財源を確保するための「教育国債」を検討している。民進党も教育・子育て政策の財源として「子ども国債」の発行を提案している。与野党そろって教育無償化の大合唱だが、全国の大学・短大の授業料は総額3.1兆円に上り、幼児教育からすべて国が負担すれば5兆円規模に膨らむという試算もある。 つまり教育無償化はそう簡単に財源が確保できる政策ではなく、それを唱えるなら確たる理念が必要だ。それもなしに無償化するのは単なる大衆迎合にほかならない。 政治家や官僚は、そもそも何のための教育なのか、義務教育とは何なのか、ということを全く理解していないと思う。その最大の原因は、義務教育がきちんと定義されていないことである。教育基本法第4条に「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」「国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない」と書いてあるだけだ。 学校教育法も「6歳から15歳まで」という年齢以外に具体的なことは定めていない。日本の場合、なぜ6・3・3・4制なのか、公立と私立はどうあるべきか、といったことがさっぱりわからないのだ。 私は、義務教育とは「社会人として独り立ちし、日本国民としての責任を果たせるようにするための教育」だと思う。とすれば、義務教育は小学校・中学校の9年ではなく、高校を卒業する18歳までの12年に延ばし、中学教育と高校教育は重複も多いから6・5制(小学校6年と中高一貫5年)にする。そして残り1年は、お金の借り方・返し方や家庭の持ち方、運転免許など社会人に不可欠な常識をきっちり教え、晴れて18歳で「成人」になる。そこまでを義務教育にして無償化すべきだと思うのである。関連記事■ 高校授業料無償化と拉致問題「罪は朝鮮学校に」と李英和氏■ 「朝鮮学校の授業料無償化に反対は当然」と櫻井よしこ氏■ 「洗脳教育」進める朝鮮学校授業料をタダにする文科省の異常■ 小池都知事が進めた私立高校の無償化 救われるのは誰か■ 保育園義務教育化を提唱する古市憲寿氏「国が悪者になるべき」