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    神戸いじめ教師と教育委員会が逃げ込んだ「いつもの世界」

    (木下未希撮影) この出来事だけでも十分酷いことで、あってはならないことです。しかし、その後の学校や教育委員会の対応にも疑問の声が上がっています。 まず、加害者は被害者に対して謝罪することが何よりも必要なはずですが、加害教師ら本人の謝罪の声が聞こえません。神戸市教育委が謝罪の言葉を公表していますが、被害者当人よりも家族に謝罪している加害教員もいます。 あまりにトンチンカンな内容に、インターネット上で謝罪文を添削する「赤ペン先生」が全国で続出するありさまです。私も文章を読ませてもらいましたが、被害者へのおわびの気持ちが伝わらない印象はぬぐえませんでした。「カレー」「家庭科室」対策のナゼ また、ツイッターでは「教師たちの反省文じゃないからです。教育委員会が、事情聴取で聞いた言葉を拾って作りました(中略)」という指摘もあります。この指摘が本当であれば、加害教員らは何の反省もしていないのかもしれません。 被害者は被害教師だけにとどまりません。ショックで不登校になった児童もいると報じられています。 また、登校している児童も、学校と教師に不信感を抱いている可能性は十分にあるわけで、心中穏やかでないことでしょう。学校に行かせている保護者も心配のことと思われます。 そのような中で、校長が涙の謝罪会見を行ったのは救いです。ただ、カレーが暴行に使われたということで、市教委が打ち出した「給食のカレーを休止する」「家庭科室を改装する」などといった対応策は、児童や保護者の心中をどこまで考えているのか、疑問に思ってしまいます。 では、なぜこのような事態に陥ってしまったのでしょうか。私がスクールカウンセラーを務めていて、まず気づいたのは教師の構造的な忙しさです。 2018年調査の経済協力開発機構(OECD)国際教員指導環境調査(TALIS)によると、世界で最も勤務時間が長いのは日本の教師で、小学校で1週間あたり54・4時間、中学校では56・0時間にも上りました。世界平均では38・3時間なので、ダントツに長いことが分かります。授業時間そのものは世界平均の水準なのですが、特に課外活動の指導や事務業務、授業の計画や準備の時間が長いのが特徴です。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 私は教育委に勤務していたこともありますが、教師と同じく極めて多忙です。統計や国際比較のデータはありませんが、学校現場と同様に業務に忙殺されていることと思われます。 このような忙しさの中では、「いつも通り」物事をこなすのが精いっぱいになってしまいます。今回のような問題が起こったとしても、真剣に事態と向き合って考える余裕もないことでしょう。女性教師の謝罪に見た「錯覚」 また、多忙は、考えると苦しくなる問題から目をそらして否認する「道具」にもなり得ます。「強迫性障害」という異常心理がありますが、これは気にしなくてもよいことを気にしてしまって、無意味な行動を繰り返したり、本当に必要な行動が取れなくなる状態を言います。 強迫性障害の全ての人に当てはまるわけではないですが、何かを気にして心を忙しくすることで「本当にヤバいこと」を考えないように逃げていることが知られています。 実際、いじめの「首謀者」とされる女性教師の謝罪の言葉に、「子供たちを精いっぱい愛してきたつもりですが…」という件(くだり)があります。被害者と向き合うのではなく、教師としての自分の仕事に向き合おうとする姿勢がうかがえます。これでは、加害者としての自分から逃げているかのように感じられてしまいます。 心理学では、このように「いつも通り」に逃げ込んで、問題と向き合わない現象を「恒常性錯覚」と呼びます。この錯覚は、防災などの危機管理を考える際のキーワードとしてよく使われます。危機的な状況でこの錯覚に陥ると、危機がさらに拡大するからです。全ての人とは言いませんが、加害教師らも市教委も恒常性錯覚に陥っているのかもしれません。 錯覚にはまる要因は、先に指摘した多忙さだけではありません。日本の学校には、100年以上も脈々と受け継がれた文化と伝統があります。神戸市立東須磨小で同僚をいじめていた加害教諭4人の休職を発表し、謝罪する市教育委員会の幹部ら=2019年10月31日、神戸市役所 また、義務教育は日本国憲法で定められた国民の三大義務であり、決して無くなりません。実は、このような特徴にも恒常性錯覚を起こしやすい背景があると言えるでしょう。 今回の教師いじめは一種の集団暴行であり、学校教育は大きな危機を迎えたといっても過言ではありません。その中で恒常性錯覚に陥ったままに対応を誤ると、学校教育への信頼がますます揺らぐことでしょう。 恒常性錯覚は、心理学者としての私が指摘した懸念ではありますが、これが本当に懸念にすぎないことを祈っています。日本の学校教育に育ててもらった一人として、国民に広く信頼される学校教育であってほしいと思うばかりです。

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    日本人がノーベル賞をとれなくなる日

    旭化成の吉野彰名誉フェローがノーベル化学賞を受賞した。日本出身の受賞者は27人となる快挙だが、国を挙げて科学技術研究に取り組む中国に比べると、日本の研究支援はあまりにもお粗末だ。人文系も含め学問熱が冷めつつある日本。ノーベル賞受賞が途絶えるだけでなく、真の政治指導者も生まれない事態にならないか。

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    日本の研究力低下、このまま中国に後れをとってもよいのか

    が、1947~49年生まれの団塊の世代が当事者であった70年安保闘争である。左翼学生運動が大学の研究教育活動を妨害し、施設を破壊したことの後遺症が、この知の空白を生んだと考えられる。2013年の平和安全法制制定時も、主に文系の大学教員とごく一部の学生に、大学を拠点に反対運動を盛り上げようとする動きがあったが、そういう政治的動きが大学で過激化、暴徒化することが、研究力の維持に対する最大の脅威の一つであることが分かる。電池の模型を手に笑顔の旭化成の吉野彰名誉フェロー=2019年10月10日、東京都千代田区(古厩正樹撮影) また、当然ながら、これまでのノーベル賞受賞者は、全て1990年代の大学院重点化より前に学生時代を過ごしている。博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難といった問題は、大学院重点化で大学院の定員を増やしたゆえに起きている現象である。大学院進学者が少なかった時代に多くのノーベル賞受賞者を生んでいること、さらに博士課程に進学していないノーベル賞受賞者も多数輩出されていることを考えると、博士号取得者が計画通り増えないからといって、今後ノーベル賞級の研究ができなくなるという結論にはならない。日本が後れをとる分野 著者の専門分野に話を移そう。情報系、工学系では、日本の優位がまだ残っている分野と、日本が完全に後れてしまっている分野がある。まだアドバンテージがあるのはハードウエア分野である。もちろん、ここでも日本の優位性は小さくなっているのは事実である。筆者の専門分野の一つである電子ディスプレイについても、10年前までは日本企業に存在感があったが、民主党政権が超円高政策で日本の製造業に致命的なダメージを与えて以降、産業の中心は韓国、台湾、中国にとって代わられた。 しかし、研究については日本もまだある程度勝負できている。最大の理由は、国内に優良な部品を作れる中小企業がたくさんあることだ。これが、新しい実験装置や試作機を作るのに非常に役立つ。筆者自身、国際会議などで「お前の使っているこの部品はどこで購入できるのか?」と聞かれることがよくある。ハードウエア分野の研究力を維持する上で、日本の国内の中小製造業がもつ技術やノウハウは、今後も大事に守っていく必要がある。 一方、ソフトウエアについては、日本は完全に後れをとっている。今流行の人工知能分野でも、米国勢や中国勢が先行しており、日本は全くついていけていない。筆者の専門分野の一つに人工知能を使った医療画像自動診断があるが、同分野のトップカンファレンスである「MICCAI」でも、昨年の会議における中国、韓国からの参加者数が全体の4位、5位を占める一方、日本はトップ10にも入っていない。 発表件数も全体で300件以上ある中、日本からの発表は筆者を含めて1桁にとどまっている。今年開催された腎臓がんの自動検出の国際コンペにおいても、106の参加チーム中、中国からの参加が半数以上を占めた。トップはドイツチームだったものの、中国チームも多数上位に食い込んでいた。筆者を含む研究グループは、日本からの参加チームの中ではトップだったが、中国の上位勢には及ばない状況である。 今の中国は、人工知能以外でも、宇宙、エネルギー、計算機など、軍事的優位を築くことに資する研究分野に重点的に投資をしている。これまでの米国の戦略と同じである。一方、日本はというと、ご存じの通り、日本学術会議の声明の影響で、多くの主要大学で防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度に学内の教員が応募できない状態である。中国のIT企業が展示した人工知能による顔認証技術=2018年11月、中国浙江省烏鎮(共同) 今関心を集めている自動車の自動運転技術も、米国では米国防高等研究計画局(DARPA)のグランド・チャレンジで、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)などの名門大学が技術を磨いてきた歴史がある。そうした軍事技術の積み上げは、当然民生への応用を考える場合も大きなアドバンテージになる。防衛関係の研究を大学が禁じる日本が、軍事研究に力を注ぐ米国や中国に太刀打ちできないのは当然である。中国研究者のモラル違反 さらに、中国勢には、もう一つ大きな武器がある。それは、ペナルティーがないなら平気でモラル違反をすることである。例えば、学会では予稿集に論文を投稿しておきながら、学会で発表に来ない「No Show」と呼ばれる行為がある。予稿集が学会後に出版される場合は、No Showの論文は削除されるが、同時出版の場合は削除されずに実績となる。 中国の研究者は、このNo Showを行う確率が非常に高い。また、ポスター発表で、ポスターを貼っただけで何の説明もしない「貼り逃げ」行為もしばしば見られる。実際、私が参加した学会で貼り逃げ行為をカウントしてみたところ、中国の研究グループがその7割を占めた。その学会の中国からのポスターは約35%であったことを考えると、中国の研究グループは他国のグループに比べ、貼り逃げをする確率が非常に高いことが分かる。最近、中国が論文数を増やしていることがしばしば取り上げられるが、彼らがこうした手段で数を稼いでいることは割り引いて考える必要がある。 中国勢との競争を考える上で、最大の懸念事項は知的財産権の軽視である。筆者が研究室内で企業との共同研究を学会発表する話をしていたとき、ある中国人学生に「この研究は商品化を考えていないのですか?」と質問されたことがある。私が驚いて「商品化を考えないなら企業は研究しない」と答えると、「学会発表してしまったら、盗まれるじゃないですか」と言われた。私が学会発表の前には特許出願をすると説明したが、中国では特許をとっても誰もそれを尊重しないので、企業は学会発表しないというのが彼から聞いた話であった。 もちろん、学会で中国企業の発表を見かけることはある。しかし、その発表内容は結果を自慢する種のものが多く、その技術的詳細に触れるものはほとんどない。われわれ自由主義国の研究者とは、学会発表の捉え方が全く違うことが分かる。 もし、こうした違いがそのまま放置されると、自由主義国からは中国に細かな技術情報が全て開示される一方、中国からは自由主義国に技術情報は伝わらないという非対称な関係が続くことになる。そうした状況下では、技術開発において今後中国がさらなる優位を築くことは間違いない。20カ国・地域(G20)首脳会議(大阪サミット)デジタル経済に関する首脳特別イベントであいさつする安倍晋三首相(中央)。左から2人目はトランプ米大統領、右から2人目は中国の習近平国家主席=2019年6月28日、大阪市住之江区(代表撮影) 米ソ冷戦では自由主義国が独裁国に勝利したが、そのときは人、モノ、金、情報の往来に制限があった。今、自由主義国と独裁国中国の間では、人、モノ、金が自由に行き交う。そして、情報については自由主義国から中国への一方通行に近い状況である。これでは、独裁国側が圧倒的に有利である。中国の軍事的脅威が現実的なものになる中、米国はトランプ政権になってこの非対称なゲームのルール是正に乗り出した。多くの日本人は、この危機的状況においても鈍感なままだが、米中対立が露見しているこの機会に、自分たちの置かれている立ち位置を考え直してみる必要があるだろう。

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    聞かれなくなった「末は博士か」に立ちはだかる3つの傷心

    石渡嶺司(大学ジャーナリスト) 1963年、フランキー堺主演による作家、菊池寛の立志伝映画が公開された。タイトルは『末は博士か大臣か』。封切り当時、大学院の博士課程進学者は少なく、65年の学校基本調査では3551人だった。 博士課程に進学すれば、研究職としてのキャリアを歩むことになる。そして、映画のタイトルにまでなる、ということは進学者の希少さと立身出世物語にもなるほど確かなキャリアを示していた、と言えよう。この博士課程進学者は2005年に1万7553人まで増加する。 1991年、当時の文部省は大学院生の在籍者数を10年間で倍増する計画を打ち出した。専門性の高い知識を備えた人材を輩出することで研究力を上げることが狙いだった。 実際に、博士課程在籍者数は91年度の3万人近くから19年現在は約7万4千人にまで増えている。在籍者数を増やす、という計画そのものは成功した。 一方で、進学者数は2003年をピークとして緩やかに減少し、18年は約1万5千人程度となっている。1965年時点に比べれば約4倍の増加だが、55年前と比較すること自体、無理があろう。 では、海外と比較した場合はどうだろうか。文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)が2019年8月、米国や英国、韓国など研究開発費の多い7カ国の比較調査を発表した。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) これによると、日本は2000年度に人口100万人当たり127人だったのが、16年度には118人に減少している。これに対し、米国は2000年度の141人から15年度258人、韓国は2000年度の131人から17年度には278人と、それぞれ増加している。 日本では、大学生や大学院生(修士課程)を取材しても「博士課程には行きたくない」と敬遠する学生が多い。いったい、なぜ博士課程への進学は嫌われてしまったのだろうか。嫌われた三つの理由 減少理由として考えられるのが、「在籍中の学費負担と劣等感」「大学教員への不信感」、そして卒業後の就職難を含む「博士課程のキャリアの不明瞭さ」の3点である。 まず、「在籍中の学費負担と劣等感」から分析してみよう。言うまでもなく、博士課程に進学して、在籍もしていれば、その分学費がかかる。 そのうえ研究も、となるとアルバイトする時間もままならない。そうなると、奨学金に頼るしかなく、学部時代から通算9年(学部4年、修士2年、博士3年)受け取ると、1千万円を軽く超えてしまう。 会社員であれば、数千万円の住宅ローンを利用しても「家族のために」というモチベーションがあるだろう。それに社会人経験があれば、「在籍経験が転職市場でも評価されるはず」という見通しも立てられる。 その点、博士課程に奨学金を利用して進学した場合はどうか。後述するが、就職難の中で返済できるかどうか、はっきりした見通しが持てない。そうした中で、数百万円から1千万円強の奨学金の返済残高を残しても平静でいられる学生はそう多くないだろう。 仮に奨学金を利用しなかったとしても、就職できるかどうか不安感が残るのは否定できない。さらに、見逃せないのが劣等感である。 博士課程を修了するのは20代後半から30代前半の年代だ。この年代は民間企業だと主任・係長から課長クラスにまで昇進し、大手企業であれば年収が1千万円を超えていることもある。ノーベル賞化学賞を受賞した吉野彰氏が出身の京都大学=2019年10月9日(永田直也撮影) その間、博士課程の在籍者はどれほど稼いだとしても、数百万円程度にすぎない。事実、大学院生を取材すると、同年齢の友人や知人に対する劣等感が強いことが明らかだ。「実家に帰ると、父親がプロ野球を見ながら『●●は高卒であんなに活躍して稼いでいる。お前は10年も大学に行きながら、ろくに稼がないで』とぼやかれる。居場所がないから、実家に帰るのをやめた」「30歳のとき、高校の同窓会に出たら、民間企業の就職者は『車を買った』『時計を買った』『今度結婚する』などと、うらやましい話ばかり。どこそこの塾はいいとか悪いで盛り上がっているグループもあった。その点、自分は何もなくて、辛かった。しかも、2次会、安い居酒屋に行こうとしたら『えー、せっかく久々に会ったのだから、ちょっといいところ行こうよ』と言われて高い店へ。あわてて用ができた、と帰ってきた」「教授が何を言っても聞かない」 2点目は大学教員への不信感である。博士課程の在籍者や修了者に取材すると、研究室の教員から雑用を押し付けられたという話をよく聞く。それが大学院博士課程ならどこでもある、とまでは言い切らないまでも、そうした話が多いのは確かだ。 研究室の担当教員からすれば、自身の研究が忙しく、任せられる人員が博士課程在籍者しかおらず、致し方ないという事情もあるだろう。しかし、在籍者からすれば、自身の研究より研究室の担当教員に押し付けられた雑務処理が優先となってしまう。そうした状況を見ていれば、博士課程への進学意欲が湧く学部生が増えるとは思えない。 また、学生の不信感を助長しているのが、博士課程への進学を強調する教員の存在だ。学部生や大学院生(修士)に対して、博士課程への進学を強く勧める教員はどの大学にもいるが、その強引さが今はあだとなっている。 特に生物系学科では、博士課程に進学しても、結局は「ピペットを洗浄する雑用要員」となり果てる。「ピペットを洗浄する奴隷」を略した「ピペド」というスラング(俗語)まで登場するほどだ。 「学部生のときは『修士に行くのが当たり前』と言われ、修士に進学すると『研究を放り投げるなんて』と脅され、博士課程に進学する。そのせいで、就職できなかった先輩は多い。今では、教授が何を言っても聞かないようにしている」。学生に聞くと、このような答えが返ってきた。 大学教員が学生に修士・博士課程を勧めるのはほかでもない。大学院(研究科)の在籍者数をちゃんと増やさなければ、存亡が危うくなるからだ。定員充足率が低いと、国からの運営交付金が減らされる可能性も生じる。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そのため、大学側は院生集めに必死にならざるを得ず、ホームページ上では4月に入ってもなお博士課程の募集を続ける大学が少なくない。昨年に引き続き追加募集を行った神戸大では、今月8日から願書受け付けを始めた。「【水平垂直】博士離れ深刻 就職難…修士に需要」、産経新聞 2008.04.13 今から10年も前の記事だが、事情は現在も全く変わっていない。大学教員の立場からすれば、致し方ないとも言える。だが、学生にとっては「雑用の多さや就職のリスクを隠すなんて」と不信感が募るばかりで、博士課程への進学を抑制する一因となっている。 ところで、博士課程は研究を順調に進められれば、3年で修了となる。だが、そう順調に進む学生は多くない。これが博士課程進学者を抑制する要因の3点目「キャリアの不明瞭さ」である。企業から彼らを遠ざける 実際には、研究の途中で断念してしまい中退するか、3年以上の在籍を余儀なくされるか、いずれかを選ぶことになる。 研究はそれだけ不確定要素が大きく、時間軸で区切れるものではない、と言われればその通りだ。しかし、このキャリアの不明瞭さが博士課程進学を抑制していることは否定できない。 そして、キャリアの不明瞭さに直結するのが、やはり就職難であろう。劣等感でも指摘した通り、20代後半から30代前半に修了する博士課程の学生は、民間企業であれば主任・係長から課長に昇進している世代だ。役職がなかったとしても、5年から10年近いキャリアを積み、後輩社員を指導する立場になっている。 だが、博士課程修了者は年齢が高くても、キャリア面では指導される後輩社員と変わらない。専門分野に対する知見が深くても、社会人経験の無さが企業から彼らを遠ざけることになる。こちらも10年前だが、行き場を失ったポスドク(博士研究員)に関して、記事でこう指摘されている。 「国の施策は10年先を見据えてやったとは思えない」。こう厳しく批判したのは、バイオサイエンス研究の権威、新名惇彦(しんみょうあつひこ)・奈良先端科学技術大学院大学名誉教授。 新名さんは昨年、「ポスドクとバイオ系企業との連携」と題した事例研究を行い、バイオポスドクの現状を分析したが、そこからは、行き場を失ったバイオポスドクの悲哀がかいま見える。(中略) 新名さんは「技術力の高い中小企業やベンチャーには人材のニーズがあるのだが、ポスドクは(採用枠の狭い)上場企業研究職を希望したがる」とし、マッチングの差異を指摘する。 また、新名さんとともに調査にかかわったシンクタンク「ダン計画研究所」常務取締役の宮尾展子さんは、「(ポスドクは)インターンシップなどを使って積極的に企業へアプローチすることも必要なはずだが、現状では参加するポスドクは数%」と語った。そこからはポスドクの研究者としてのプライド意識が、問題の悪循環を招いている実態もうかがいしれる。 実際、「企業のポスドクに対するイメージが、あまりにも悪いことに驚いた」と宮尾さん。調査では複数のベンチャー企業にアンケートを実施したが、「(ポスドクは)協調性がなさそう」「使いづらい」などというマイナスイメージが多数を占めたという。「博士の割り切れない数式 バラ色の研究人生のはずが…受け皿なく就職もできず」産経新聞 2008.06.29 この状況も、10年経過して変わったかと言えば、それほどではない。しかも、2013年ごろから、学部卒の就職では売り手市場が続く。学部卒であれば、企業を強気で選べる立場になるのである。 大学院でも修士課程であれば、何とかその恩恵に与れる。しかし、博士課程はそうもいかない。この状況を学生が目の当たりにして、わざわざ博士課程に進学したいとはならないのが自然ではないだろうか。 ノーベル賞を日本人が受賞するたびに、日本の研究力の低下が話題となる。受賞者によっては、首相や文科相と面会する際に苦言を呈する方もいる。その苦言は全くその通りだ。2018年10月、柴山文科相(左)を訪問し、記念撮影に応じるノーベル医学生理学賞に決まった京都大学の本庶佑特別教授 ただ、単に博士課程進学者を増やすだけではなく、在学中の負担感・劣等感を取り除く工夫や、修了後の就職環境を整備するといった必要がある。これらを国が大学や企業と一体となって進めない限り、博士課程の進学者は今後も緩やかに減少していくだろう。それが日本の研究力を落としていくことは言うまでもない。

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    幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか

    から日本人は頭が悪くなったのか。私は二つの答えを用意している。ただ、答えの前に、わが国近代史における教育を振り返りたいと思う。 日本が“ノンキ”でいられなくなった時点は、特定できる。1756~63年の七年戦争のときだ。七年戦争とは、ヨーロッパの五大国が世界の大国になった戦争である。発端はオーストリアとプロイセンの領土紛争であり、フランスとロシアがオーストリアと結び、イギリスはプロイセンを支援した。五大国の抗争は世界中に飛び火し、1762年9月にイギリスはマニラを占領した。当時のフィリピンはスペインの植民地であり、イギリスはフランスに味方したスペインとも抗争した結果、アジアにも大戦は飛び火したのだった。※ゲッティイメージズ さて、これが日本にとって意味するところは何か。いわゆる「鎖国」が不可能になったということである。17世紀、日本はポルトガルとスペインを締め出し、オランダを長崎の出島に閉じ込めた。彼らヨーロッパの大国は、日本の前になすすべがなかった。日本の軍事力が彼らのそれに上回っていたからだ。 当時のスペイン・ポルトガルとオランダは、三十年戦争で抗争していた。いわば江戸幕府は、三十年戦争にオランダ寄りの中立を示したこととなる。中立を可能にするのは武力である。「鎖国」とは、江戸幕府による武装中立なのである。真のエリートとは? 1762年のマニラ陥落とは、その武装中立が不可能になったことを意味する。ポルトガルを追い出してから100年以上、江戸幕府は泰平を貪(むさぼ)っていた。軍事力は放棄されたに等しい。それに対してヨーロッパは絶え間なく戦乱を続け、今やアジアにまで進出している。仮にヨーロッパ人が日本に来なかったとしても、タマタマに過ぎない。 現に1808年、フェートン号事件が発生した。ナポレオン戦争の最中、イギリス船がオランダ船を追い回し、長崎を荒らしまわった。これに対し江戸幕府は、水と薪を与えてお引き取り願うばかりだった。 時の将軍は徳川家斉。50年にも及ぶ長期政権を築く。その治世は、1787~1841年に及ぶ。その間、経済は発展した。しかし、国防努力は何一つなされなかった。「祖法」である「鎖国」にしがみつき、何もしなかったのだ。もはや「鎖国」など不可能であるのはフェートン号事件の一事で明らかだが、幕府の指導者たちは改革を恐れた。平和な時代に国防努力など、敵を作るに決まっている。ならば、国際情勢の現実から目をそらし、安逸を貪る方が安泰だ。経済は絶好調だし、外国から直接侵略されるわけでもない。 1841年、家斉死去の年に改革が始まった。水野忠邦の天保の改革である。隣国の清は、アヘン戦争によりイギリスになぶり者にされていた。一応、江戸幕府の指導者もバカではない。清の次は日本の番だと理解していた。改革、すなわち富国強兵の必要性を自覚していた。そして家斉の死を待った。代替わりの際に権力を握り、その上でできることからやろうとしたのだ。 結果、見事に失敗した。しょせん、水野は官僚である。出自は大名だが、心性は木っ端役人である。既に権力を握っている連中に気を遣い、できること“だけ”やろうとする。日本人基準の「できること」など侵略者には関係ないことを、こういった連中には理解できないのだ。日本を侵略から防ぐのに必要なことをやらねば、殺されるか奴隷にされるだけだ。富国強兵、強い政府を作って税金を集め国の軍隊を作る。ところが、それをやろうとしたら、既得権益層の反発を招く。大名たちは、勝手に年貢をとって自分の軍隊を持ちたい。それを取り上げられるのは真っ平ごめんだ。「それでは日本が滅びる」などという説得だけで、この絶大な既得権益を取り上げられるわけがない。幕府は、そうした大名の上に君臨している。さらに既得権の塊(かたまり)だ。 1853年、ペリーが来るまで何の改革も進まなかった。それどころか、ペリーが来てからも改革は進まなかった。天保の改革、嘉永の改革、安政の改革、文久の改革、慶応の改革…。かけ声はかかるが、本質的には何一つ進まない。延々と議論がされるのが、「参勤交代を緩和すべきだ」「神戸を外国に開国すべきかどうか」だ。いずれも、幕府が滅び、明治政府が外国との交際を始めてみれば、忘れ去られるような話である。ところが、幕末の政治家たちは、「日本を守る」という本質と全く関係のない、これら些末な争点で大真面目に政局を動かしていた。ただ動かしていただけだったが。 ここまで江戸幕府が愚鈍でも、なぜ日本は救われたか。最終的には、正論を押し通す人たちがいたからである。 元治元年12月15日(1865年1月)、長州の功山寺で高杉晋作は決起した。たった1人で、3千人の敵に立ち向かう覚悟だった。功山寺決起に、後の元勲たちが駆けつけた。クーデターは成功し、大村益次郎の天才的用兵もあって、長州は幕府との四境戦争(第二次長州征討)を撃退する。 これを見た薩摩の大久保利通は薩長同盟に踏み切り、討幕をやり遂げる。そして、大久保の手によって、富国強兵は成し遂げられた。大久保利通 徳川幕閣や旗本八万旗など、幕末維新の危機に何の役にも立たなかった。数百年前の栄光に溺れ、単なる特権階級と化していたからだ。真のエリートではない。真のエリートとは、「己の命よりも責任が重い」と自覚している者である。高杉や大村、そして大久保こそが、真の国を救った真のエリートだった。彼らの受けた教育に注目すべきだろう。盛んだった江戸期の学問熱 高杉は、吉田松陰の松下村塾の筆頭である。高杉は藩校の「偏差値エリートコース」を捨て、松陰の門を叩いた。松陰の教えは「自分が日本を救うつもりで勉強しろ!」だった。記録に残された松陰を見ると、自分が征夷大将軍になったつもりで勉強し、教え子にも教育している。農民に等しい下級武士の伊藤博文や、足軽の子供の山県有朋に対し、「自分がトップに立ったつもりで勉強しろ!」と説いているのである。そして、自ら実践する。 大村益次郎は、緒方洪庵の適塾の出身である。適塾は医者を養成する私塾だが、原書で西洋の知識を追い求める若者が集まっていた。医学に限らず、あらゆる知識を吸い込み、議論した。住み込みの全寮制。実験と観察、一次資料の考察。ゼミと討論による完全実力制が、適塾の特徴だった。イギリスのイートン校からオックスブリッジのエリート教育と同じことをしていた。 大久保利通は若い頃は郷中教育を受けた。年長者が年少者を指導し、軍事規律のように結束する。大久保は青年期には西郷隆盛らと“自主ゼミ”を開き、いつの日か日本の役に立てる自分になるべく、学びを続けていた。 幕末の最終局面で、高杉が時代を動かし、大久保が正論を通した。それができた土壌は、当時の日本人の少なからずの人たちが「何が正解かを分かっていた」ことがある。 松下村塾や適塾は極端な成功例だが、江戸時代を通じて学問熱は盛んだ。京都には一定数の知識人が常に集まっていた。手紙を通じて、知識人たちは情報をやり取りしていた。負けた側の幕府とて、全員が愚かだったわけではない。幕府や水戸藩は限られた情報(information)から、必死に知見(intelligence)を導き出していた。自分の頭でモノを考えていたのだ。 何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100%である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。 さて、明治になってどう変わったか。 初等教育(今の小中学校)は整備された。それまで寺子屋で教えていたことを、国が責任を持って文盲を作らない制度にした。義務教育である。大日本帝国の義務教育を受けた日本人は、よほどの例外を除き、読み・書き・計算・愛国心を身に付けていた。※ゲッティイメージズ 一方、高等教育は大失敗した。 勘違いしてはならないのは、日露戦争までの栄光は、江戸の教育を受けた人たちが国を指導した賜物である。その人たちですら、日露戦争の勝利で「平和ボケ」した。日本人の頭が悪くなったのは、明治40(1907)年である。日露戦争勝利の2年後である。なぜ、この年か。特色を失った大学 日露戦争の講和であるポーツマス条約が結ばれた時点で、日本はロシアの復讐を恐れていた。こちらは2年の大戦争で弾薬が切れ、国力のすべてを使い果たした。裏切って攻めてきたら、幕末維新以来の努力は水泡に帰す。外交でなんとか時間を稼いだ。 そして、1907年。立て続けに協商が結ばれた。日仏協商、日露協商、英露協商である。日英と露仏は同盟国であり、英仏は既に協商を結んでいる。すなわち、この4カ国が事実上の同盟国となったのだ。仮想敵はドイツ。第一次大戦まで、三国協商はドイツとにらみ合いを続ける。日本だけが安全地帯となった。 ここに緊張の糸が切れた。筆頭元老の2人、伊藤博文と山県有朋が本気の大喧嘩を始めた。伊藤は、デモクラシーの必要性を説く。日清日露戦争に勝つまでは、元老とその傘下の官僚・軍人による指導が必要であった。だが、その課題を達成した以上、民権に移行していくべきであると考え、シビリアンコントロールに着手していく。 それに対して山県は、現実の政党政治家の見識の欠落、特に軍事に対する無知を理由に、むしろ軍や官僚機構の特権を守る方向に走る。これが後の悪名高い、統帥権の独立となる。大正時代は、民権を求める政治家と、特権を守ろうとする官僚の抗争で推移した。それで許された。既に、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強大な国となっていたのだから。官僚が特権を貪ろうが、国民は民権を謳歌する時代だった。 文官は東京帝国大学法学部出身者が大半であり、陸海軍の将官は陸軍大学校・海軍大学校を卒業した学歴秀才が占めることとなる。学歴秀才とは、採点者が求める正解を答える能力に秀でた者のことである。「一高~東大」「三高~京大」のように、ナンバーズスクールから帝国大学に進む者が自動的にエリートと目されるようになり、同じように陸軍士官学校や海軍兵学校も閉鎖的な世界となった。 自分の頭で考える江戸のインテリジェンスは失われていたが、それでも高校教育における教養と、大学の独自性は存在した。ナンバーズスクールは全寮制であり、共同生活を送るうえで自分の専門外の教養に触れることができた。憲法専攻の学生が文学や工学に最低限の知識があるのは珍しいことではないし、逆もまた然り。 大学も、特色があった。早稲田大は東京専門学校で出発し、政治家とジャーナリストを養成する学校。慶応義塾は、財界人を送り出した。中央大は英吉利法律学校、法政大は東京仏学校が前身である。一橋大や神戸大は、商学部が看板だった。国公立(官学と言われた)でも、北海道大の前身はクラーク博士で有名な札幌農学校であり、農学部が看板大学である。いずれも別に、最初から大学ではない。ただ、やがて大正中期までに、すべて「大学」の看板を掲げ、特色をなくしていく。羊ヶ丘展望台にあるクラーク像=札幌市豊平区(松永渉平撮影) 昭和初期の愚かな国策については、贅言(ぜいげん)を要すまい。鼻につくエリート意識の高級官僚や陸海軍の軍人たちは、大日本帝国を滅ぼした。ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間にアメリカへ喧嘩を売るような真似をしない限り、滅びないはずの国だったのに。遥かに困難な状況で、明治維新や日露戦争はやり遂げられた。江戸幕府の腐敗した官僚は駆逐された。ところが昭和期になると、政府と軍の無能な官僚主義によって、国を滅ぼしてしまった。 では、いつの間に無能な官僚が跋扈(ばっこ)したのか。時計の針を、1871(明治4)年に巻き戻す。この年、岩倉具視を団長とする、岩倉遣欧使節団が派遣された。使節は2年に渡り欧米を遊覧し、多額の国費を浪費しながら、何の成果も出せなかった。一方、留守政府は着実に改革を進めて結果を出している。帰国後、完全に主導権を留守政府に奪われた大久保利通は、留守政府の首班である西郷隆盛と抗争し、権力を奪還する。今の日本はどうか 大久保ら留守政府は、当然のごとく強い風当たりを跳ね返さねばならない。そこに、留学帰りの面々が取り入り、派閥を形成する。自然と、「岩倉使節団の成果は有為の人材が欧米の学問を修めて帰ってきたことにある」と喧伝されるようになる。 最初、東大法学部卒業生は、無試験で高級官僚に任用された。驚くべき特権である。また、大学に残り助教授に昇進した者は、国費で欧米に留学できた。 では、彼らに江戸の若者たちのような知性があったであろうか。たかが1年や2年で帰ってきた岩倉使節団の連中に何ができるか。特に批判すべきは、津田梅子である。5歳でアメリカに留学し、20歳で帰国したときには日本語を忘れていた。何のための留学か。岩倉使節団には5人の女子がいた。年長の二人は早々にホームシックになって帰国。残り3人も、日本の男に飽き足らなくなっていた。ちなみに、津田梅子は生涯独身である。 明治以後、「ではのかみ」が幅を利かせるようになった。学会では、「ドイツでは」「イギリスでは」と、外国の文献の紹介が学問として扱われた。医学のような技術主体の学問は、まだよい。当時は、最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。 しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。 地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。 政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。 明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。  その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。岩倉具視 これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。 幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。

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    京大変人教授の代表格 ユニークすぎる研究の手法とは

     官僚的なイメージが伴う東大に対し、全国から“奇人”が集うユニークさで知られる京大。生徒以上に個性的なのが教授陣だ。研究に懸ける異常な情熱は、時に世間から“非常識”と見られてしまうことも──。『京大変人講座』(三笠書房)が累計2万5000部のベストセラーになっているが、知れば知るほどオモロイその生態をレポートする。「最も京大らしい京大教授」「京大変人教授の代表格」を自任するのが、人間・環境学研究科の酒井敏・教授だ。 酒井氏の専門は地球流体力学。2006年に開発した「フラクタル日よけ」で知られている。森の木の葉を再現し、日光を遮りながらも自らは赤外線を発しない日よけで、今や各地の都市計画で引っ張りだことなっている製品だ。 酒井氏は、発想もさることながら、研究の手法もユニークだ。「研究が新しすぎて、そのために必要な部品や観測装置は世の中に存在しない。かといって予算はない。だから自分で作る以外ないのです。 だから私はまずホームセンターの店員以上にホームセンターを詳しく調べ上げた。接着剤が着かない代表的な素材であるポリプロピレンにも使える接着剤を見つけ出し、そのポリプロピレンの棒を太い木に取り付けるのに最適な『しめしめ45』という結束バンドを発見しました。 これがなければ私の研究は結実しませんでした。また、日よけに使うプラスチックシートの成型には、家庭のホットプレートを使っています」(酒井氏)京都大学人間・環境学研究科の酒井敏・教授 あまりの熱の入りように、記者は言葉を失ってしまった。 研究に打ち込むあまり、時に“変人”とまで呼ばれてしまう。そんな京大の学者たちの魅力を、山極寿一総長はこう語った。「常識的に考え、振る舞っているとこれまでとは違う発想はできません。昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑さんも、これまでの学問の常識を疑ってきたから画期的な免疫細胞研究に結びついた。これからの研究者は自ら発想し、仮説を立てることが重要。そんな“変人”を育む土壌が、京大にはあるのです」連記事■京大のおもしろ研究 高級寿司店に監視カメラを設置して調査■「変人」が誉め言葉の京都大学 山極総長はゴリラ世界に留学■A、B、O、AB…血液型別「かかりやすい病気」が明らかに■京大のユニーク研究 不便だからこそ得られる「不便益」とは■【写真8枚】ウオーキング中の山口達也、路上に座り込む衝撃姿

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    ハンガリーの医学部が人気、日本人大学生が100人入学する

    より社会と接続した、論理的思考力や表現力、判断力などが問われるようになるのだ。 こうした日本における教育の変化を受けて、「自分に合う学校」を模索した末、海外に飛び出す若者も増えている。教育評論家のおおたとしまささんが言う。「実は今、東欧の大学の医学部で学んで医師免許を取得しようとする日本人学生が増えているのです。なかでもハンガリーの人気が高く、日本事務局が開く説明会には年間500~600人の日本人が参加します。そのうち約200人が実際に出願して、100人ほどが入学するそうです」 医学教育に詳しい医療ガバナンス研究所理事長の上昌広医師が解説する。「東欧の医学部は6年間の学費が650万~1200万円ほど。そのうえ物価や生活費も安い。にもかかわらず文化レベルは高く、医学生として学べる内容は日本の医学部と遜色ないのに、入学試験のハードルはそれほど高くありません。その分、入学した後はハードな勉強が求められます。 進級し、卒業するには相当の努力を要するため、医師としての基礎能力は日本の医学部よりも鍛えられるかもしれない。そのうえ、医師資格試験に合格すれば、EU内のどこでも医師として勤務できます」 卒業後に日本で働きたい場合は、日本の医師国家試験に合格する必要がある。日本における「進学」にまつわる推移データ「実際にハンガリーに留学している日本人学生によれば、2013年以降にハンガリーの医学部を卒業して日本の医師国家試験を受験したのは56人で、うち41人が合格したそうです。 合格率は73%ですが、日本の医学部の合格率は88.7%。東欧勢の大健闘といえるでしょう。海外では、いわゆる“受験エリート”や裕福な家庭出身でなくても、語学のハンデさえ乗り越えて一生懸命頑張れば、医師になれる可能性が高い。お金はなくても、バイタリティーのある学生にはもってこいの環境なんです」(上さん)日本で激化する「イス取りゲーム」ブランドよりも「手に職」 上さんが指摘するとおり、日本における医学部受験で合格を手にする学生のほとんどが、塾に通い続け、進学校に籍を置く“受験エリート”だ。おおたさんは現状をこう述べる。「長引く不況と先行き不透明な世の中を嫌い、『大学ブランドよりも手に職』という志向が高まりました。その最たるものが医学部を目指す若者の増加です。今では“東大より医学部”といわれるほど。 かつては東大の理系学部に進学していた受験生が、地方国公立大の医学部を目指すようになり、“イス取りゲーム”は激化を極めている。つまりどれだけ医師になりたいという気持ちが強くても、偏差値が高くなければ国公立の医学部には入れなくなりました。そのうえ、私大医学部は6年間で2000万~4500万円の学費がかかるとされ、一般的なサラリーマン家庭ではとうてい子供を通わせることはできません」 海外の大学入試が完全に実力勝負であり、どこの大学を出たか、その名前によってヒエラルキーが決まる“学校歴”の格差がないという点も今の若者に評判がいい。「折しも東京医科大の入試で“女子切り”が発覚するなど、日本の医学部入試は不公平であることに学生は気づきました。それならば実力勝負ができて、女性の医師も多い東欧に渡って医師を目指そうという若者は、今後さらに増えるはずです」(上さん) 医学部に限った話ではない。 近著に『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書』(小学館)があり、大学准教授、メディアアーティストなど多方面で活躍する落合陽一さん(31才)も「この先、日本の学歴社会は崩壊する」と予言する。ドナウ川沿いにあるブダペスト工科経済大学(ゲッティイメージズ)「日本では、最も難しい入学試験を突破した東大卒の人が、学歴のヒエラルキーにおいてトップに立つイメージがありますが、国際的には東大の学士卒の人よりも明治大学卒で博士号を取得している人の方が国際社会での研究ブランディング的には評価されます。 学歴的には最終学歴が高い後者の方が上なのは当然のことでしょう。これまで日本では勘違いされがちでしたが、最近の風潮を見ても、こうした誤解はおそらくこの十数年に是正されると思います」関連記事■4人に1人がお受験する東京23区、公立は2極化進む■新大学入試テスト、国語の問題文が「契約書」「地図」の賛否■山崎アナの熱愛に見る、変わりつつある女子アナ恋愛事情■「大学入試英語改革」で文科省は何がやりたいのか■京大と大阪大の出題ミスを見抜いた予備校講師、その人物像

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    東京福祉大「消えた留学生」の波紋

    東京福祉大で発覚した留学生大量失踪の波紋が広がっている。学生数減による苦境に対し、定員のない非正規留学生の大量受け入れが発端だった今回の問題。運営側の特異性も要因だが、留学生に関する法整備や少子化時代の私大のあり方といった課題が改めて浮き彫りになった。深刻さを増す「消えた留学生」問題の真相に迫る。

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    元教授手記、東京福祉大「消えた留学生」の元凶を暴く

    えられます。 東京福祉大は、今年2月6日付で文部科学省に対し、中島恒雄元総長(以下、中島氏)の経営や教育への関与の有無などについての回答書を提出しています。回答書の「外国人留学生における在籍管理について」の項目によると、2016年度の所在不明者259人と17年度の所在不明者484人を合わせて、2年間で計743人が所在不明のため除籍になったことを、大学側が認めています。このような大量の所在不明は、多くの不法就労や不法残留の温床になる可能性があるとされています。  また、この回答書の大きな問題は、事実とは違うと思われる記述が随所にある点です。例えば、回答書の「ファカルティ・ディベロップメント(大学の授業改革、以下FD)専門部会からの要請に基づく、教員研修会への出席、授業見学について」には、以下のような記述があります。 「(中島氏による)助言は、あくまでも中島氏に同行するFD部会員をはじめとした教職員に向けてだけであり、授業をしている教員や学生に対し、直接講義したり、指導したりするなどは行っておりませんでした。この授業見学について学生から本学への苦情は一切ありませんでした」 「全学生が希望する教員や公務員に全員合格できるように、キャリア支援授業を更に充実させていますので、学生や保護者から感謝の声は沢山ありますが、苦情は一切ありません」   「(中島氏は)FD関係者の依頼を受けたため、遠慮しながら間接的なアドバイスをしただけ」 回答書には「苦情は一切ありません」などと記載されていますが、実際には、多くの学生から労働組合(交通ユニオン)事務所に苦情のメールが来ています。 中島氏も臨席して行われた公務員試験対策授業を受けていた学生からのメールには、「対策授業をしている先生に対して、自分(中島氏)が気に入らない教え方であれば注意し、あることないことで文句を言ってきます。また、授業中にもかかわらず、中島氏は隣に座る特任教授と名乗る人と普通の(大きさの)声でしゃべり、携帯電話はマナーモードにしておらず、携帯電話が鳴ると電話に出て普通の声で話しているのは迷惑極まりないだけでなく、かなり常識に欠けている人だと思いました。最近の研究生のことがニュースになり、行政から立ち入り調査が入ったので、もう二度と関わらなくなるだろうとは思いましたが、このカリキュラムを見る限り、今年も中島氏が対策授業に来るとなれば恐怖を覚えます。このカリキュラムには私を含め、クラスのほとんどの人が不満を言っております」との証言があり、回答書の記述が事実ではないことが明らかです。 以下、研究生大量所在不明の原因として、研究生への管理体制が整っていないことに加え、巨額の金もうけ主義が、背景にあることを明らかにします。  記者会見する東京福祉大元教授の田嶋清一さん(右)=2019年4月10日、文科省 2008年1月に、刑事事件を起こした罪で懲役2年の実刑判決を受けた中島氏は、同年10月の控訴審で判決が確定し収監されました。しかし、中島氏は10年7月の出所後まもなく、2年間の収監を経ても大学内における権力が低下していないことを、教職員に対して誇示しようとしました。この行為は大きく二つあります。  一つは、人事権の誇示です。中島氏は出所後すぐに、当時東京福祉大の理事長だった実母の名義を使い、幹部教職員への解職降格人事を次々と断行し、いわば恐怖政治による裏支配体制を敷いたのです。実刑判決確定や理事長辞任によって法的に権限はなくなっても、実際の「権力の所在」が自分にあることを知らしめるために、理事長、学長、事務局長などの重要ポストを解職降格させ、その代わり、自分が「意のままに操れる人物」を就任させていきました。それはまさに今日に至るまで続いている、中島氏による裏支配体制です。432億円の荒稼ぎプラン もう一つは、経営能力の誇示です。研究生をターゲットにした、432億円(その内訳は、大学が4年間累計2万人で240億円、専門学校で192億円)の荒稼ぎプランを、中島氏が、2011年9月21日の会議で次のように語っています。 「研究生は10万円、レギュラーコースは20万円入学金払ってくれれば…、仮合格証を出しますよと、よそ受かったら…入学金預かったのは返しますと、留学生から見ると…、行くとこが決まって、ビザ心配しなくていい、受験して全部落ちたら、ビザ心配せなあかんだろ。ビザは安心ですよ、それからお金は返しますよ、というと、いっぱい来るんですよ。だから、これ、パンフレットに載っけるなっつってんだよ、まねするから…、よその大学が。おれのところだけがやるから、これは稼げるわけだよ。何でかって言ったら、定員がないからいくらでも入れられる。(事務局長:8千人っていうのが。いや、一応、460人となっているんですけども、それは関係ないですね)8千人まで入れていいんか。(事務局長:8千人まで、8千人以下)合計してみていくらになる?(財務担当課長:192たす240。432ですね。432億。)432億円の大きな学校になりますよ。おれ、経理わかんないけど、こんな風にしてこうやったら、こんだけ銭がもうかる」 このように、中島氏は、自身の権力が低下していないことを、教職員に対して誇示する必要上から、研究生への管理体制をほとんど考えないまま、巨額の金もうけ主義を先行させたのです。そのことが、研究生大量所在不明問題に繋がっていることは明らかです。 そもそも中島氏は実刑判決確定以降、文科省の行政指導によって「大学の経営と教育に関与してはならない」とされています。ゆえに「法的に権限のない中島氏が、なぜ出所後も、大学の経営と教育に関して影響力を行使できるのでしょうか?」と、最近この質問が記者からの取材を受ける中で最も多いのです。 この質問への答えは明白です。教職員に大学のやり方(つまり中島氏のやり方)への批判を禁止して、自由にものを言わせない組織をつくってきたから行使できるということです。自由にものを言う人格を否定する構造があらかじめできているのが現状です。中島氏の長年の口癖は「(教職員の)代わりはいくらでもいる」であり、これで教職員を抑えつけているのです。 具体的には、中島氏に対するイエスマン以外、1年雇用の契約とさせられていること、全ての教職員に対する研修会での威圧、及び中島氏による幹部教職員への個人的恫喝です。その結果、大学の前身の専門学校時代以来、辞める教職員が多く、教職員の中で密かに「回転の速い学校」と言われています。 しかしその一方で、諸般の事情で辞めなかった教職員の中には、自由にものを言えない雰囲気の中で萎縮して、何をしてもどうせ駄目だと思い、無力感に陥り、体調を崩して鬱々とする状態が少なからず見られます。これは心理学用語で「学習性無力状態」と呼ばれ、まさにこうした状況です。東京福祉大学王子キャンパス=2019年3月14日、東京都北区(市岡豊大撮影) また、2015年11月12日に、私は大学を被告として損害賠償請求訴訟を起こしましたが、直接学長室で同月25日に聴取した限りでは、東京福祉大の学長は、そのことについて、ほとんど知らされていませんでした。大学の現状及び、あり方について、計3回にわたって私が聴取した際の学長の口癖は、「私は無力ですから」というものでした。 そんな彼らを、法的に権限のない中島氏が、大学の経営と教育に関して、裏支配し影響力を行使するのは難しくないのです。ただ、水面下で力を蓄えて大学の「民主化」を志す方々がいらっしゃるはずです。彼らの今後に期待したいと思います。学生からの抗議メール ところで、研究生大量所在不明問題への対処としては、多すぎる研究生(非正規留学生)について、勉学環境に見合った定員を設けるべきです。  なぜなら、第一に、現在の状況では、まず勉学に希望をもって来日した研究生に対する教育機関としての責任が果たせないからです。報道されていたように、銭湯の2階で授業をするなど、研究生が多すぎて失踪せざるを得ない環境をつくっているのは大学側で、これは重大な問題です。 第二に、研究生の教育は、教職員への負担が大きい点が挙げられます。担当教員によれば、辞書を引く習慣がある者はほとんどいない、よって全部説明する必要があります。また、研究生の勉学意欲に個人差が大きく、意欲の低い学生はテキストを買わないし、予習復習の習慣が身についていないのです。なお、日本で就職したいなら、日本語能力試験1級(N1)に合格して、報告書が書けるレベルに達する必要があるようです。よって、研究生の教育は、教職員への負担が大きいことからも、勉学環境に見合った定員を設けるべきです。  こうした現状を踏まえ、多くの学生たちからも、中島氏の強引なやり方に反対する抗議メールが来ています。先に記載した学生たちの苦情メールをもう少し記しておきます。 「私は今年の春に4年生になりましたが、4年生の春のカリキュラムが明らかにおかしいと思いました。(中略)そして、対策授業の最初に大学のビデオを見させられました。内容としましては、①大学のこと(ほとんどが中島氏がどれほどすごい人なのか)②各試験の合格率と合格した人の声(公務員試験対策授業に参加したという声)③卒業式について。大まかに分けると以上の3つです。ビデオを見る限り、明らかに中島氏を大々的に持ち上げるような内容でした。(中略)この対策授業は、中島氏が関与しています。(中略)このカリキュラムには私を含め、クラスのほとんどの人が不満を抱いております。授業で抗議する人もいました。そして、それを受け持つ先生方にも負担がかかっています。もはや、独裁政治そのものです。(以下略)」 また、別の学生からは以下のようなメールもありました。 「心理学部に在籍しながら社会福祉士の資格を取得できるため、この大学に入学することを決めました。 当時の大学の売りは、文系私立大学就職率第3位であることと、福祉や教育系の資格取得ができることでした。しかし、昨年突然、『公務員』を全面的に推し進める方針へと変わりました。当初は予定してなかった公務員試験対策のための『キャリア1』という科目が心理学部の必修科目となりました。しかし、教員免許や社会福祉士資格取得のための科目を受講している生徒は、『キャリア1』を受けることができないカリキュラムになっていました。(中略)日本は職業を選択する自由が保証されているにもかかわらず、半強制的に公務員試験を受験させる大学を絶対に許せません。就職活動にも支障が出る時間割です。学生のことを考えているとはとても思えません(以下略)」 他にも、昨年10月に行われた東京福祉大への抗議を訴える「東京総行動」のチラシを見た学生(教育学部3年生ら)から、交通ユニオンの事務所に、中島氏の勝手なカリキュラム変更に困惑し怒っている、とするメールが数通届いています。また、東京総行動当日、池袋キャンパス9号館前での街宣行動の際に、勝手なカリキュラム変更に困っている、という学生の声を数人から直接に聞いています。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 東京福祉大(及び同グループの専門学校)では、他にも、中島氏による教職員へのパワハラ(複数の教職員への恫喝)、出所後の中島氏による女子留学生へのセクハラ(200万円の示談金支払い済み)といった問題が起きています。また、過去の監督官庁(入管センター、文科省、法務省、東京都庁)から特任教授、事務局長、理事としての天下り、警察・検察OBの天下り、第三者大学認証評価機関(日本高等教育評価機構)との癒着及び同機構による内部告発情報の大学への漏洩、大学と中島氏から各メディアや国会議員へ(過去の大学敗訴の判決を無視し、かつ私を精神異常者だと誹謗中傷する)複数文書が送付されたといった問題もありますが、これらについては別の機会に詳しく説明したいと思います。■「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ■青林堂社長にこれだけは言いたい 「パワハラに右も左も関係ない」■256万人の「移民予備軍」に口ごもる自民党の矛盾

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    まるで「人身売買」偽装留学生ビジネスの実態

    石橋通宏(参議院議員) 3月7日の参議院予算委員会で、大学などの教育機関における偽装留学生問題を取り上げたところ、内外から想像以上の大きな反響があった。特に、質問を終えたとき、与党・自民党席から大きな拍手喝采を受けたのは、野党議員である私にとって初めての体験であった。 その後続けて、文教科学委員会や予算委員会において「東京福祉大学」の問題に焦点を当ててこの問題を追及。厚生労働委員会でも、留学生の就労問題に焦点を当てた追及を行っている。結果、メディアでもこの問題が大きく取り上げられ、国民の関心を喚起するきっかけになったことはうれしく思っているし、所管官庁である文部科学省および法務省から、この偽装留学生問題の実態調査と具体的対策に向けた検討を速やかに行っていくという答弁を得たことも、大きな収穫であった。 ただ大事なのは、政府や世間が、この問題を単に一教育機関における特異な問題として捉えるのではなく、過去10年以上にわたって政府の肝いりで展開されてきた留学生拡大施策の構造的問題として捉えて、その実態に踏み込んだ検証と改革ができるか否かである。その問題意識を踏まえ、以下、そもそも私がこの問題を委員会で取り上げるに至った経緯と、その裏側にある構造的な問題について詳述してみたい。 私が偽装留学生問題に注目し始めたのは、遅くとも5年くらい前のことである。当時、特に外国人技能実習生の人権侵害などの問題がクローズアップされていて、私も技能実習制度に代わる新しい就労制度の構築について議論をスタートしていた頃であった。そのときすでに、留学生制度が本来の学業目的ではなく、就業目的で使われているのではないかという疑念が私たちの中でも認知されていたのである。 しかし、その頃、政府が「外国人技能実習法案」の検討に着手したこともあって、留学生に関わる問題は後回しになっていた。その後、2016年に「外国人技能実習法」が成立し(17年11月施行)、甚だ不十分ながらも技能実習制度の規制、監視強化が図られたことで、より規制の緩い留学生制度に悪徳ブローカーの魔の手が向かうのではないかという危惧が生まれ、そのときから改めて留学生問題にも目を向け始めた。参院予算委で質問する石橋通宏参議院議員 そして昨年、安倍総理の鶴の一声で「人手不足の解消」策として外国人労働者の受け入れ拡大が政治課題となり、入管法改正案が具体的な中身のないままに秋の臨時国会に提出され、ごく短時間の審議で成立(今年4月1日から施行)したことは皆さんもご承知の通りである。実は、この一連の政府の動きを受け、私たちも具体的な対案づくりに着手し、①多文化共生社会基本法の制定②外国人一般労働者のための新しい雇用制度の創出③外国人技能実習制度の段階的な移行・廃止などに加え④留学生制度(留学ビザ)の抜本的見直しによる規制強化、を掲げて関係者や有識者らからのヒアリングや情報収集を続けていた。こうした中で、突然浮上してきたのが、東京福祉大問題だったのである。信じられない「タレコミ」 実は昨年の段階から、いくつかの大学や専門学校、日本語教育機関が留学生制度を悪用している実態があるとの情報をつかんでいた。しかし、それらはあくまで外部情報であり、具体的な物証は得られなかった。そんな時に、あるルートを通じて、東京福祉大で信じられないような偽装留学生の実態があるという情報が私の元にもたらされた。 しかし、最初に話を聞いたときは、正直、にわかには信じられなかった。この3年間で、多くの留学生が「除籍」扱いになっており、そのほとんどが所在不明だというのだが、その数が1千人以上に上るという話だったからだ。しかも、それが大学の創設者である前理事長によって、学生数減少を補う「金もうけ」のために意図して行われていることだというのだから、慎重にならざるを得なかったのである。 ところが、実際に東京福祉大の関係者に話を聞く機会を得、証拠となる資料なども見せてもらったところ、それが事実であることが確認できたのである。内部資料には、過去3年間、月ごとに退学ないしは除籍となった留学生のリストと、その理由が明記されていたが、ほとんどが「所在不明による」と記されていたからだ。 現場で懸命に頑張っておられる東京福祉大の教職員や関係者の名誉のためにあえて申し上げておくが、東京福祉大もかつては福祉分野において実績のある、評判のよい大学で、就職率も良かったし志願者も多かった。いまなお、学生たちのために本来あるべき教育を提供しようと頑張っている方々がおられる。だからこそ、今のような状況を続けさせてはいけないと、その実態を告発するに至ったわけだ。 結局、東京福祉大においては、ある時期から志願者が減りはじめ、定員の維持が難しくなった。実は、先に述べた前理事長は、2008年に刑事事件による罪で懲役2年の実刑判決を受けている。以降、大学経営には関わらないという約束を文科省に対してもさせられたが、いまだに大学運営の実権を握っているとされている。その前理事長が起こした事件が学生数の減少にどれだけ影響があったのか、直接の因果関係は分からない。ただ、学生数が減少し、経営に影響が出るようになった頃から、前理事長らが外国人留学生に目を付け始めたようである。東京福祉大学正門(寺井融撮影) 2011年頃、東京福祉大内部の運営会議で、前理事長が留学生をうまく使うことで「120億の金が入るわけだよ…何でそれをやらんの」などと発言していたことが報道されている。私もその議事録を読んだが、衝撃的なやり取りが行われていて、そして確かにその後から、東京福祉大における留学生が急増していったのだ。東京福祉大の実態 調べてみると、次々と驚くべき事実が明らかになった。まず、東京福祉大における留学生の数は、348人(2013年度)から5133人(2018年度)にまで増大していた。これだけ短期間に留学生数がなんと15倍に膨れあがったというのは、他に例を見ない。いや、あり得ないし、あってはならない。お分かりだと思うが、これでまともな教育などできるわけがないからだ。事実、東京福祉大では教室が足りなくなり、あちらこちらに間借りをしていて、その一つが銭湯の2階だったという笑えない話は、報道されていた通りである。 さらに、その留学生の8割以上、約4千人が「研究生」という名の非正規だったことも明らかになった。正規の学生は、受け入れ可能な上限枠が決められている。しかし、非正規留学生には数の制限がなく、事実上、青天井になっている。しかも、研究生なので、志願する方にも敷居は低いため、双方にとってメリットある手法だったわけだ。 なお、その4千人の研究生は全員が、国内の日本語教育機関からの受け入れだったことも明らかになっている。当初私たちは、東京福祉大が直接、海外からブローカーなどを使って留学生をかき集めていたのではないかと思っていたのだが、そうではなく、国内の日本語学校から卒業生をかき集めていたのだ。 この点が、自分たちは「日本語教育機関を修了・卒業した留学生の受け皿」であり、「なくてはならない存在なのだ」と東京福祉大が主張している根拠になっている。これはまさにその通りで、「大学進学率〇〇%!」という宣伝文句を出すために進学実績を確保したい日本語学校にとっては、東京福祉大のような存在は言ってみれば救世主だろう。 そしてまた、東京福祉大の研究生の多くが、その後、今度は専門学校などに移っていく実態もあった。東京福祉大はグループ内に関連の専門学校を持っていて、そこに簡単に移っていける仕組みであり、グループ内で留学生を環流させながら、学生数と授業料収入を確保しているシステムだと思われる。「適正校」の認定を取り消された東京福祉大の系列専門学校=2019年6月12日午後、名古屋市中区(共同) つまり、今回、東京福祉大の問題で明らかになったのは、まさに留学制度を悪用した金もうけのための「ビジネスモデル」が構築されている実態だったと言える。いや、これは単なる授業料収入のためだけではない。同時に、各地で不足する労働力を外国人留学生で補い、経済やサービスを回して金を稼ぐというビジネスモデルにもなっているのだろう。東京福祉大だけでなく、全国で多くの教育機関が、このモデルに知ってか知らずか、関わっているということになる。留学生30万人改革の裏 最初の予算委員会の質問で、2017年の1年間だけで、留学生の不法在留者、いわゆるオーバーステイが新たに発生した全国の教育機関が570機関、1852人に上っていたことや、全国の教育機関から法務省に報告があっただけで、退学、除籍、失踪者などの数字が、なんと5千人に近くに上っていたことを指摘して、政府の姿勢を追及した。 これらの数字は、今回新たに法務省と文科省へ提供を求め、明らかになった数字なのだが、当初、両省ともなかなか数字を出してこなかったことも記しておきたい。 2017年だけでこれだけ多くの不法在留や除籍者が出ていたのに、なぜ両省はその問題を放置していたのだろうか? 実は、昨年6月の段階で、東京福祉大の有志教職員が文部科学省に告発に行っている。しかし、文科省は「門前払い」を食らわせたのだそうだ(※文科省はそうではないと否定しているが)。 恐らく、この種の内部情報の提供は、東京福祉大からだけではなかったはずで、そのことは両省の関係者も暗に認めている。つまり、偽装留学生の問題は、以前から各種データや情報提供などで明らかになっていたにもかかわらず、法務省も文科省もなんら具体的な対応を行ってこなかった、というのが実態なのだ。 ではなぜ、両省とも迅速に動かなかったのだろうか? 皆さんも、「留学生30万人計画」はご存じだろう。2008年に、当時の福田康夫総理が所信表明演説で「留学生30万人計画」をぶち上げたところから、国策として留学生の受け入れ拡大が始まった。余談だが、実はその前年、07年に発足した第1次安倍政権時の「骨太の方針」において、すでに留学生の受け入れ拡大が政策の一つに掲げられていた。この点は、そもそも何の目的で留学生30万人計画が始められたのかを考える上で、重要なポイントの一つだと思う。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 当然だが、日本でレベルの高い教育を受けたいと願う外国人留学生が増えて、それが日本人学生にもよい影響を及ぼして教育の質が高まり、次代を担う人材の育成につながるのであれば私も大いに歓迎する。留学生30万人計画も、少なくとも当初はそのような崇高な目標の下に始められたと信じたいし、よもや、最初から労働力確保策の一環として捉えていたとは思いたくないが、結果としてそうなってしまったのは動かしがたい事実だ。政府ぐるみの「悪用」 いったい何が起こったのか? この「30万人」という数値目標を達成するために、次々と規制が緩和されたのである。例えば、専門学校における留学生の受け入れ上限が撤廃されたり、かつての就学ビザが留学ビザに統合されるなど、留学ビザの要件が緩和をされていた事実も明らかになった。 つまり、以前に比して簡単に留学生の受け入れができ、かつ留学ビザの取得も容易になったことで、需要と供給のバランスが成り立ったわけだ。そこに目を付けた人間たちが、留学ビザを就労目的で悪用、乱用するビジネスモデルを構築していったのであろう。 許してはならないのは、多くの外国人留学生がその犠牲になっていることだ。この間に増大した留学生の多くは、アジアの途上国、しかも地方の貧しい地域からやってきている若者たちが多い。現地でブローカーが「日本に行けば働いてたっぷり稼げる」と言って若者を勧誘し、「日本で稼げばあっという間に返済して、貯金や仕送りもできる」と言って費用を借金で工面させ、日本に送り込むのだ。 本来、留学ビザ申請の審査が適切に行われていれば、財政負担能力の証明などが必要なので、そんなに簡単にビザは下りないはずだ。それが簡単に下りている。審査がずさんだからではないか。そもそも、日本に来るだけで少なくとも百数十万円の費用がかかるし、学費に加えて日本での生活費もかかる。途上国の、しかも地方に住む貧しい家庭出身の若者たちに、そんな負担能力があろうはずがない。そんなことを法務省入管局や外務省の大使館が知らないはずはなかろう。 つまり、「留学生30万人計画」を達成するために、政府を挙げて取り組んできたというのが、この偽装留学生問題の実相ではないだろうか。そしてその裏には、当初からか途中からそうなったのかはさておいて、留学生を「人手不足を補うための労働力」として使うという意図があったのではないかと疑わざるを得ない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そのようなシステムに乗せられ、多額の借金を抱えて日本に来た留学生は、働かなかったら借金が返せないので、ひたすら働くことになる。週28時間の就労時間制限を守っていたら借金が返せないし、生活の維持もできない。必然的に、勉強より仕事に精を出すことになるわけだ。 結局のところ、構造的かつ組織的に、人手不足の穴埋めとして留学生制度が悪用され、途上国の貧しい地域の若者たちが食い物にされているのがこの偽装留学生問題の真相なのだとすれば、国際的にみれば「人身売買」との批判すら受けかねないこのような悪弊を許しておくわけにはいかない。今後は、現状の問題点や課題をさらに深く掘り下げた上で、真に日本で学びたい、活躍したいと思ってくてくれる留学生が安心して日本に来て、学ぶことのできる留学制度の構築に向け、努力を傾注していきたいと考えている。■256万人の「移民予備軍」に口ごもる自民党の矛盾■「外国人労働者は移民ではない」日本はドイツの失敗を直視せよ■「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ

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    東京福祉大「留学生」悪用で生じた二つの偏見を正す

    れなどするはずがない」という性善説に立った研究生制度にメスを入れることだ。大量受け入れの際の罰則や、教育内容の事前確認など制度改革を進めることが、国や文科省には求められる。単に東京福祉大を罰するだけでは、他の大学などで同じ事件が起こるに違いないからだ。 今回の東京福祉大の問題では、大学教育における質の低下や、経営状態の悪さを指摘する意見もあった。「大学が多すぎる」イメージ 確かに、留学生を大量に受け入れることにより、教育収入は増える。しかも、東京福祉大のケースでは、正規留学生ではなく非正規となる研究生なので、国が交付する補助金には影響がない。とはいえ、大量に受け入れたことによって教育収入増に成功したわけである。 さらに、東京福祉大は研究生受け入れにあたって「中国籍か否か」によって学費の差をつけた。国籍によって学費に差をつけるのは人種差別以外の何物でもない。 日本は1918年、第1次世界大戦後のパリ講和会議において、世界で初めて人種差別撤廃を提案した。その国の大学が、中国籍を持つ留学生に人種差別的な学費格差を設けるのは国辱もの、とすら思える。  話を大学経営に戻そう。ところで、東京福祉大以外でも、留学生の大量受け入れによって経営改善を図った大学が過去にもある。 ここで想起されるのが、定員割れを起こす大学が増加した、という報道だ。これに学生の学力低下を報じるニュースなども合わせると、分かりやすい構図ができる。「大学は定員割れ大学が増えている」→「学力が不足している学生も受け入れるほどだ」→「留学生を不正に大量に受け入れてもいる」→「いずれ、経営難の大学がさらに増え、潰れていく」→「不正犯罪の温床にもなりかねない」→「ダメな大学はどんどん潰して行くべきだ」 実に分かりやすい構図だ。 2012年には大学が増えすぎ、との認識もあって、当時の田中真紀子文科相が「量より質が重要」(2012年11月3日産経新聞朝刊)として新設3校を認めない、と発言し大騒動となった(その後撤回し、3校は予定通り開校した)。2012年11月、3大学の新設不認可問題について会見する田中真紀子文科相(野村成次撮影) この騒動を受けて、産経新聞がオピニオン面で「大学は多すぎるか」をテーマにしたところ、「大学は多すぎると思うか」は92%、「定員割れ大学の淘汰を進めるべきか」は89%、「大学新設に歯止めをかけるべきか」は74%がそれぞれYESと回答した(2013年1月4日)。 この印象は7年たった現在もほぼ同じであろう。だからこそ、東京福祉大の事件発覚後に、分かりやすい構図をもって論じる人が出てくるのだ。「定員割れ」大学への誤解 しかし、個別論で当てはまることがあるにしても、構図全体として考えれば、実は相関関係が強いとは言いがたい。 まず、大学の数は1989年に499校だったものが、2019年現在は782校と、283校も増加している。それでいて、廃校した大学は統合例を除けば、わずか15校しかない。 先述の通り、大学は国・文科省の設置認可事業であるが、その中には大学が経営難に陥っても、教育が円滑に運営されるように、「安全装置」が二重三重に働く制度設計が施されている。それもあって、廃校に追い込まれる大学は世間一般が考える以上に少ない。 定員割れの大学が多いことは事実だが、これもよく誤解される。定員割れということは、それだけ教育収入も不足することを意味する。 民間企業であれば、経営収支の赤字状態が続くと遠からず倒産に追い込まれる。大学だって同じことだ、と誤解する人が実に多い。とあるビジネス週刊誌も、この誤解に基づき、そう簡単には廃校するわけがない国際基督教大(ICU)や創価大、玉川大などを「危ない私大」リストに入れ、関係者の怒りと失笑を買った。 定員割れ大学は日本私立学校振興・共済事業団「私立大学・短期大学等入学志願動向」によると、2018年度で私立大学の582校中210校、つまり36・1%もある。 産経新聞で定員割れ問題を論じた初めての記事は1993年3月24日朝刊「大学淘汰の時代が始まった」である。同年、定員割れ大学は385校中19校、全体の4・9%だった。 増えてはいるが、「一時期に増加して、現在は減少傾向にある」が正しい。私大の定員割れがピークだったのは2014年で578校中265校、45・8%と実に5割近くを占めていた。4年には約36%なので、約10ポイントも低下したことになる。 さらに注目したいのが、極端にひどい定員割れ状態だ。2019年、高等教育無償化法が可決され、来年からの実施が既に決まっている。経営状態の悪い大学は対象外となり、その基準の一つが「定員充足率80%未満が3年以上」というものである。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そこで、定員充足率80%未満の大学校数と比率について調べると、ピークは2014年で122校、21・1%だった。それが、2015年以降は114校、19・7%、117校、20・3%、90校、15・5%と減っていき、2018年は39校、6・7%にまで低下している。 背景には、地方私大を中心に大学改革が進んでいること、四年制大学の進学率の上昇、地方での地元志向の高まりなどが挙げられる。大学よりも危険な学校 いずれにしても、極端にひどい定員割れ状態の大学は減少傾向にあり、東京福祉大の事件をもって、大学経営の是非を論じるのは牽強付会もいいところ、と考える。 大学の是非を論じるのであれば、むしろ危険性が高いのは専門学校の方だと、私は指摘したい。4月25日に文科省は「私立専門学校における留学生の受入れ状況の把握に関する都道府県の取組についての調査結果とそれを踏まえた一層の取組について」を公表した。 この調査によると、私立の専門学校2610校中、留学生を受け入れている専門学校は871校ある。そのうち、「留学生が半数を占める」195校、「90%以上を占める」101校、「全生徒が留学生」でも45校と衝撃的な数字が並んだ。 専門学校は大学や短大と違い、経営状態の公表義務がない。それだけにブラックボックスの部分が多くある。 定員割れ大学について、留学生不正受け入れの温床、と非難するのであればいかがであろうか。大学以上に専門学校についても、厳しく見るべきであろう。 2018年、政府は外国人労働者の受け入れ拡大を方針として決定した。事実上の「移民政策の転換(緩和)」と見ている。 いくら、「移民政策を厳しくしろ」と言ったところでどうだろうか。現実は、東京や大阪などの大都市部だけでなく、地方でもコンビニや居酒屋、ファミリーレストランなどでは、外国人店員がいないと成立しない業態ばかりだ。2019年6月、「適正校」の認定を取り消された名古屋市中区にある東京福祉大の系列専門学校 もちろん、急速な移民の受け入れ拡大は、米国や欧州諸国のように国家の分断を招きかねない。しかし、少子化が進み、労働力人口自体が減少している以上、移民政策の転換(政府が言うところの、外国人労働者の受け入れ拡大)は必須である。 今後も何段階かに分けて、移民政策は進めていく必要があるだろう。その際に改善すべきは、東京福祉大が今回悪用した研究生(非正規留学生)の制度だけではない。大学や短大だけでなく、専門学校も含め、留学生の制度もさらに改善する必要がある。具体的には、就労目的の留学生であっても、学業と就労が並立できるようにすること、日本語教育とその認定を厳格化すること、違反した大学や短大、専門学校への罰則を強化することなどだ。 現状のままでは、学校が「不法就労の温床」という状態が続くだけだ。この曖昧な状態を悪用する海外の不法就労斡旋業者や一部の学校経営者にとっては好都合だろうが、日本全体としては、未来を損なうだけに過ぎない。 東京福祉大の事件を機に、外国人労働者の受け入れ拡大策と合わせて、留学生制度のさらなる改善を国と文科省には求めたい。■ 「外国人労働者は移民ではない」日本はドイツの失敗を直視せよ■ 大移民時代に突入した「亡国のニッポン」を憂う■ 矛盾だらけの外国人労働者受け入れで浮かぶ「日本沈没」シナリオ

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    「外国人留学生増加で授業の質低下、日本人さらに減る」現実

     大阪の専門学校で起きた「外国人留学生300人超退学事件」。なぜ、大量の留学生が「退学」させられたのか。長年、日本における外国人留学生問題を取材するジャーナリストの出井康博氏は、この一件の背後にある「深い闇」の存在を指摘する。* * * 今年9月、大阪市の専門学校「日中文化芸術専門学校」で300人以上の留学生が退学となっていたことが発覚し、新聞などで大きく報じられた。同校は定員を大幅に超える留学生を受け入れた後、管轄の大阪府などから是正を求められ、一部の留学生を退学にしていた。退学となった留学生のうち7人のベトナム人は、同校理事長らに損害賠償を求める訴えを起こしている。 なぜ、「日中」を名乗る専門学校に多くのベトナム人留学生が在籍し、定員超過の末に退学という事態が起きたのか。実は今回の一件の背後には、急増著しい留学生の受け入れをめぐる深い「闇」が存在している。 独立行政法人「日本学生支援機構」によれば、専門学校に在籍する留学生の数は2017年度には5万8711人と、5年間で3万人以上も増えている。そして『読売新聞』の調査(10月8日朝刊掲載)で、留学生の割合が9割以上という専門学校が全国で少なくとも72校、学生全員が留学生という学校も35校あることが判明した。日中文化芸術専門学校も9割以上が留学生だった。首都圏の日本語学校経営者はこう話す。「日本人の学生が集まらない専門学校が、経営維持のため留学生の受け入れに走っているのです。うちの日本語学校にも(生徒の卒業後の進路として)全国の専門学校から“営業”がある。日本語が全くできなくても留学生を入学させる専門学校はいくらでもあります」 かつて文部科学省は、専門学校における留学生の割合を学生全体の50%以下にするよう定めていた。だが、その規制は2010年に撤廃された。政府が2008年に「留学生30万人計画」を定め、留学生を増やし始めた影響だ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 留学生が50%を超える学校に対しては、今も所轄の都道府県から指導は入る。しかし、「日本人学生を集める努力をしている」と言えば、それ以上は咎められない。結果、留学生頼みの学校が増え続けている。留学生が学生全体の9割以上を占める関西地方の専門学校幹部が言う。「今回問題になった(日中文化芸術専門)学校は、営利目的で大幅な定員超過をやっていました。それはさすがに行政も見逃さなかった。しかし、留学生を大量に受け入れている学校の実態は、うちも含めどこも似たようなもの。留学生が増えれば授業の質は落ち、日本人の学生はさらに減る。学校にとって留学生は“禁断の果実”ですが、経営のためには仕方ない」【PROFILE】いでい・やすひろ/1965年岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙「ザ・ニッケイ・ウィークリー」記者、米シンクタンクの研究員等を経てフリーに。著書に、日本の外国人労働者の現実を取材した『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社刊)などがある。関連記事■ベトナム人留学生の犯罪が増加 なぜ彼らは犯罪に走るのか■コンビニで外国人店員急増 留学生がバイトに精を出す理由■コンビニ店員20人に1人が外国人 大手3社だけで4万人超■検挙件数が中国人抜き1位、在日ベトナム人「犯罪SNS」潜入■千葉女児殺害・ベトナムのリンちゃん一家はなぜ日本に?

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    すでに「移民国家・日本」、どこへ向かうのか

    、当然工場の外での日常生活があります。そうなると住まいや病院、買い物、銀行での本国への送金、子どもの教育などさまざまな課題が出てくる。こうした生活面での困りごとに関しては、いわゆる集住地域を中心に自治体が手厚くサポートしているケースもあれば、派遣会社などが通訳を通じて生活環境を整えている場合もあります。地域のNPOやボランティアの方による支援も大きいです。しかし、国という視点で見ると、あくまで労働力として受け入れている側面が強いため、生活面での支援は不十分であるというのが現状です。外国人の生活保護――生活面での支援で特に課題だと考えているのはどういった面でしょうか?望月:それぞれの状況によって困っていることは千差万別だとは思うのですが、個人的には言葉の課題が大きいと考えています。日本語を学習する機会が制度として保障されていないため、自ら勉強しなければなりません。子どもに関しては、公立学校での受け入れを通じてそれなりのサポートを受けられる可能性もあります。ただ、学校によって対応力に差があるのも事実です。 一方、大人の場合はそうした制度的な基盤が基本的に存在しません。ボランティアの方々が休日に公民館で教えるといった形でなんとか対応されている地域もありますが、週一回のレッスンだけでは日本語能力の伸びにはどうしても限界があります。さらに、外国人がそれほど多くないいわゆる散在地域ではこうしたインフラもない場合がもちろんあります。 言葉の問題は、仕事面ではキャリアアップ上の制約となり、生活においても様々な局面で大きな制約になります。子どもがいる家庭では、子どもの方が日本語の上達が早く、同時に親の母語の習得がうまくいかずに、親子間でコミュニケーションが難しくなるケースもあります。日本語と母語の両方が不十分な発達にとどまってしまう子どもたちもいます。――子どもたちに就学義務はないのでしょうか?望月:日本国憲法には、親が子どもに義務教育を受けさせる就学義務がありますが、その対象はあくまで「国民」であるとされているため、外国人の親や子どもにはその義務が無いことになっています。しかし、日本は子どもの権利条約を批准していることもあり、義務教育相当の公立学校では外国人の子どもを無償で受け入れています。ただ、義務ではないため、就学状況の調査が不十分であるなど、通学しなくても仕方ないというスタンスを許容しているように見えます。結果として不就学の子どもの割合が高いというのが現実です。――外国人労働者は社会保障を受けることができるのでしょうか?望月:日本はベトナムなどからの難民・ボートピープルを受け入れましたが、1981年に難民条約に加盟したこともあり、社会保障に関する内外人平等の原則へと徐々に移行していきました。在日コリアンの方たちなど、制度の対象外とされてきた人々による分厚い社会運動の歴史も非常に重要です。 時折「生活保護を外国人に支給するのは違法だ」という記事が拡散していますが誤りです。現在、外国人は生活保護の対象外とされているのは事実ですが、実際には永住者や定住者など特定の在留資格をもつ外国人に関して、厚労省からの通知にもとづき生活保護の準用が行われています。移民政策の新展開――昨年の入管法改正により、「特定技能」を持つ外国人の受け入れが決定しました。日本の移民政策は新しい段階に入っていくのでしょうか?望月:今回の新制度導入で、政府は2019年からの5年間で最大34.5万人の外国人を新たに受け入れるとしています。「大きな転換点」だという声もありますが、すべてが新しいわけではなく、以前の政策から引き継がれている部分も多く残っていることに注意が必要です。すでにお話した通り、外国人を低賃金の労働者として活用していく構造は少なくとも30年以上続いています。これまでの「いわゆる単純労働者」は、技能実習生や留学生など表向きは「労働者」ではなかった。新たな「特定技能」は就労目的の在留資格なわけですが、技能実習からの移行を前提とするなど古い制度との関係性に目を向ける必要があります。――たとえばどのような「移民政策」をお考えですか?望月:方向性としては労働面と生活面の大きく2つにわかれます。まず労働面ですが、人権侵害が度々指摘されている建前と現実の乖離した「事実上の外国人労働者」の受け入れの構造を変える必要があります。技能実習生や留学生の中には日本に渡航する費用を多額の借金で賄っている方も少なくないために、仮に約束より低い賃金での重労働や様々なハラスメントに直面してもなかなか逃げ出すことができない。最悪の場合は人身売買にも接近するリスクのあるこうした構造を解消しなければなりません。そのためには、労働者を労働者として受け入れる人権に配慮した制度をしっかり整備し、それ以外の受け入れ口を畳んでいくことが必要です。 次に生活面ですが、すでに日本で暮らす数多くの外国人について、これまで国として本格的に取り組んでこなかった日本語に関する支援など、社会的に包摂するための仕組みの構築が急務です。これまではNPOや自治体に丸投げされてきた部分について、国としても本腰を入れて取り組んでいく必要があります。 この2つを実行するとなれば予算も含めて大変なこともたくさんあるでしょう。しかし、新たな外国人労働者の受け入れを議論する際にはこれらの点を含めて議論する必要がありますし、そもそもこれから受け入れるかどうかということではなくてすでにこの国で暮らしている300万人近い外国人の存在を忘れてはいけません。『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(望月優大、講談社)――出版後、さまざまなメディアに出ていますが、反響はいかがですか?望月:新聞やテレビなどの報道では「留学生が所在不明」「技能実習生の失踪」などそれぞれバラバラのトピックスとして出てくることが多いので、日本の移民問題や外国人労働者に関する情報の全体像はなかなかわかりづらいと感じていた方は多いと思います。そうした方から「はじめてこの問題の見取り図を得ることができた」といった感想をいただけるのは嬉しいですね。ほんだ・かつひろ 1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    留学生1400人失踪の東京福祉大 「10万円払えば合格」発言録

    があって、その中でA氏が留学生募集を強化する案を大学関係者に話したことはあるようですが、本学の経営や教育には関与していません」 発言の記録まで“失踪”させてはならない。関連記事■中国人が接待で「女体盛り」を要求、要した費用は32万円■日本人女性との偽装結婚を検討した中国人不法就労者の告白■急増する日本語学校 教師養成講座で日本人がトラブルも■留学生受け入れは「親日」育てる目的なのに“嫌日”が急増中■中国富豪男の夢「蒼井そらを1晩300万円でセッティングしろ」

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    不登校ユーチューバー「ゆたぼん」外国人はどう思う?

    不登校の小学生ユーチューバー「ゆたぼん」をめぐり、賛否が渦巻いている。 ホームスクーリング(家庭教育)が法的に認められている外国の人や、逆に義務教育を法律上受けなければならない外国の人は、今回の騒動をどう見るのか。■関連テーマはこちら

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    「不登校ユーチューバー」父親の本音

    不登校の小学生ユーチューバー「ゆたぼん」をめぐり、賛否が渦巻いている。ネットやワイドショーで批判が相次ぎ、親の姿勢を疑問視する声も少なくない。こうした「炎上」に対して、ゆたぼんの父親である中村幸也氏がiRONNAに手記を寄せた。10歳の息子が誹謗中傷を受けた今、本音を吐露する。(写真は中村氏提供)

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    【ゆたぼん父手記】わが子を批判する「学校へ行った大人たち」へ

    ■ 「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか■ なぜ「ゆとり」はバカにされるのか メディアの印象操作が生んだ悲劇

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    不登校ユーチューバー「普通の子供」を担ぎあげる大人の身勝手さ

    から」も飛び出してしまっているわけだ。 今回のゆたぼんもそうだが、本来は不登校で失う可能性のある義務教育制度や学校教育の持つ価値を無視することはできない。 端的に義務教育とは何かについて説明すると、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」という憲法26条2項に記載のあるように、義務教育を受けることが無償であることと、保護者は子供に教育を受ける機会を用意する義務があることを指すものだ。子供の意思は大人が考えるもの もっとも、子供にすれば登校は義務ではないから、保護者も学校も、子供が登校を望まない場合、不登校になっている場合に、子供を強制して登校させることはできない。今回の件とは離れるが、特にいじめに苦しむ子供たちに、登校を無理強いさせることは非常に大きな負担を課すことになるため、登校の無理強いはさせるべきではないと私は強く思う。 しかし、義務教育を受けないこと自体は本来損だと思う。公立小学校の生徒1人当たりの教育費として年間で約90万円がかけられている。当然義務教育だから、この費用は各家庭にはかからない一方で、各家庭で小学校で行う教育水準を確保することにはかなりの負担になる。 「子供の意思だから尊重する」は、使う大人がよく考える必要がある。 先に記載したように、子供自身が日々大きく発達していく中にいる。これを「人格形成」の途中という。逆にいえば、今の彼らの意見が、本当に彼らの一貫した意思と呼んでいいのか、判断が非常に難しい。大人でも意見がコロコロ変わる人がいるが、大人が気分で意見を変えるのと違い、子供は、いわばその基礎になる人間自体が変わる。法も、子供本人の判断に責任を取らせないような工夫をしている。 さらには、子供は自分の発言をしているように見えて、周囲の大人の顔を見て発言していることがあるだけに、さらに難しい。 それは、ゆたぼんも発言しているような無理して学校に行く子の特徴だ。「学校に行ってほしい保護者の期待」に従って、いじめなどを受けている子が自分を押し殺して学校に行くのだ。 もっとも、その「逆もある」ことに気を付けなければならない。 というのも、不登校児の中には、保護者が学校との間に紛争を抱えていて、それを理由に学校に行けない子供がいる。また、影響力のある保護者が子供に、学校を否定的に伝えれば、子供は「学校を嫌い」というようになる。保護者の「学校に行ってほしくない期待」に子供が従っていくのだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) よく聞く似た事例では、夫婦でも他方の悪口を子供に吹き込み続けると、結果的に子供は、他方の親に対し異常な敵意を持ち、話しを(離婚後は面会交流を)全くしなくなるというものがある。子供の未来予測は大人の役目 このような子供の心のあり方を分かっている保護者が多いからこそ、今の子供たちも、多くの昔の子供たち、つまりは今の大人たちも、保護者に叱咤(しった)激励されながら学校に通ってきたのだろうと思う。 ゆたぼんの言っていることは、内容自体は普通のことだと思う。宿題をやりたくない子供がよく言うことであったり、学校を嫌だと言う子供も同じような発言もする。やりたいことについても、発言内容に子供らしい夢はあっても、真新しいようなことではないだろう。あえてゆたぼん自身の行動で今回注目され、目立つ理由があるとすると、発言の場がユーチューブであることぐらいではないか。 これと同時に、特徴になるのが、ネット上を含む周囲の大人の反応だ。 今回の件では、賛成派というか応援派の方々がかなりの数いる。もちろんこの中には、自分の子供のことじゃないから、軽い気持ちで応援しているという方も多いのだろうが、同時にこの方々はある意味「学校に行っても仕方がない」「大した価値がない」とどこかで思っているのではないだろうか。こうした賛成派の人々が多くいること自体が、この国の教育制度への評価であり、既存の教育制度の存在価値が問われている現状を浮き彫りにもしている。 以上のように私自身は、ゆたぼんの発言の内容ではなく、それを取り巻く大人たちの判断や、「『子供の意思』の考え方」に疑問を感じる。どう悪く見ても、ゆたぼん自身は、ちょっと生意気で、まだまだ可愛らしい10歳の子供で、先生に暴力を振るわれたのならそれは許せないことだ。しかし、その子供が、ユーチューブで名前と顔を出して語り、学校に行かないことを自分で選んだと話している。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) また、彼の夢は、「子供」を中心に話されている。しかし、彼は知らないかもしれないが、子供は、時間が経てば勝手に大人と呼ばれるようになる。彼の夢に出てくる「子供」たちがたくさんいて、自由時間になれば自由に遊べて、大人になったら二度と行くことができない小学校に彼は行かず、日々大人になっていく。 今の彼の意思に基づいて不登校になることは、いつかの未来の彼の意思に反するような、何か取り返しのつかないものにならないのか。子供の意思の尊重のためには、本人の今の声を聞くだけではなく、未来を予測しながら大人が一緒に考える必要がある。それはできているのだろうかと心配になるのだ。■なぜ「ゆとり」はバカにされるのか メディアの印象操作が生んだ悲劇■幻想は捨てよ! 「金八先生」のいない学校を生きるしかない■「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み

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    なぜ大人たちは「不登校ユーチューバー」に熱くなるのか

    か。ゆたぼんに会ってその映像が流れたこともあって、多くの方が私にもご意見をお寄せくださった。 「義務教育なんだから、行くのが当たり前」、「不登校をネタに商売をしている」、「学校に行って勉強しないとまともな大人になれない」など、ゆたぼんのことを心配しつつも、強い調子で批判するようなものも多かった。 不登校については、これまでさまざまな方々と意見交換をしたり、また実際に学校に通っていない子供たちとも話してきたけれども、「行かない」のではなくて「行けない」ということがほとんどで、つまりは心理的、身体的にきつくて学校に行くのが無理なのである。 ゆたぼんの場合もそうだと思うけれども、不登校の「理由」をあれこれと詮索することも意味がないことが多い。学校に行けない、行かない理由は複合的なもので、本人にも家族にもはっきりとは分からないことがしばしばである。分かったとしても、それを「解決」すればまた学校に行くと期待すること自体が間違っていることもある。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) ゆたぼんが、ユーチューバーとして活躍していることも、過大に気にする方が多いのも印象的である。ユーチューバーは小学生にとって憧れの職業の一つになったようだけれども、いつまでそのような職業形態が持続可能か分からない。私自身も一応「ユーチューバー」なので分かるけれども、よほどのアクセスが集まらない限り、生活できるような収入があるわけでもない。 やはり、ゆたぼんに関して言えば、そこに一人の、元気で利発で好奇心に満ちた、学校に行っていない男の子がいるということがほとんど全てであって、それ以外の「ユーチューバー」であるとか、「少年革命家」であると言ったことは、あまり本質的なことではない。そのあたりを勘違いしてしまっている方が多いように感じた。ネットの虚像 今はネットとリアルの関係、相対的な比重が見えにくくなってきているのかもしれない。実像とは離れたネット上の虚像を人々が勝手に作り、炎上させて叩く。攻撃の対象は次から次へと変わり、テレビのワイドショーが後追いする。 しかし、冷静になって考えてみれば、ネット上のそのような虚像とは関係なく、現実の生活があり生身の人間がいる。それを忘れてしまったら何かが間違っている。 もちろん、ネット上の虚像を必要以上にふくらませて何かをしようとする方々もいるかもしれないが、少なくとも私が見たゆたぼんやお父さんは、そのような方々ではなかった。 ゆたぼん騒動は、ネットの虚像が生み出した炎上が自分自身の燃料になって再び炎上するという、自己完結的な回路だったという印象が強い。熱くなっている方々は、一度冷静になって、全体を眺めてみればよいのではないか。 学びのあり方は多様化しており、アメリカでは100万人単位でホームスクーリングをしてる子供たちがいる。学校に行かないで自分で勉強しているのである。そのような子供たちの学力は比較的高く、有名大学に進学するケースも多い。 ゆたぼん騒動から私が感じたのは、日本の相変わらずの学校信仰のようなものである。学校にまかせておけば大丈夫という考えでは、かえって、現代の学びの進化の行方、広がっている機会を見落としてしまうのではないかと思う。 ゆたぼんは、不登校の子供たちを応援したいという気持ちも強いようだ。ゆたぼんが元気で学び、発信している姿を見て勇気づけられている子供も多いだろう。 学校に行かないという選択をしているゆたぼん。家での時間を、自分が興味を持っていることを学ぶことに大いに使ってほしいし、学校で使っている教科書も、参考にして勉強してほしい。また、学校に行きたくなったら、行けばよい。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 学校を絶対視することも、全否定することもおかしい。学びのあり方は一人ひとりの子供の個性によっていろいろあるわけで、ゆたぼんは、その元気で利発な姿を通して、学びの自由な楽しさを十分に伝えていると思う。■「ゆとり教育」などもってのほか! 子供に過度な人権はいらない■「いじめ」と言えば誰でも被害者 釈然としない日本のイジメ認定■「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    不登校10年の起業家が思う「義務教育をガマンしろ」の不思議

    いいのですが、自分の怒りをぶつけているような批判も多く見受けられました。 その代表となるのが、「義務教育は国民の義務だから行かなければならない」という意見ですが、本当にそうなのでしょうか。義務教育に関する法律の条文を見てみましょう。第4条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。文部科学省ホームページ この条文には、保護者や行政に対して教育を受けさせる義務はありますが、子供への義務は明記されていません。もう一つ論点になるのは、2017年に施行された教育機会確保法です。 教育機会確保法は、学校復帰を大前提としていた従来の不登校対策を転換し、学校外での「多様で適切な学習活動」の重要性を指摘。不登校児童・生徒の無理な通学はかえって状況を悪化させる懸念があるため、子供たちの「休養の必要性」を認めた。こうしたことを踏まえ、国や自治体が子供の状況を継続的に把握し、子供とその親には学校外施設などさまざまな情報を提供するよう求めている。「教育機会確保法」コトバンク文部科学省が入る中央合同庁舎第7号館=2016年11月、東京・霞が関 この法律と合わせて紹介しておきたいのが、文部科学省による全ての学校に対するこの通知です。 不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を「問題行動」と判断してはならない。不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つことが、児童生徒の自己肯定感を高めるためにも重要であり、周囲の大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながり、結果として児童生徒の社会的自立につながることが期待される。「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」文部科学省 文科省が示したこの姿勢から解釈できるのは、子供からすれば義務はなく、権利ではないかということです。 保護者には、子供が望めば教育を受けさせる義務はあるものの、親子で相談した結果であれば義務違反にはあたらないと考えます。では、なぜこのような批判が出るのでしょうか。義務教育の条文を正しく理解していない人が多いということもあると思いますが、僕の意見はこうです。なぜ「我慢しろ」なのか 批判する人の中で「みんな我慢して学校に行っていた。だからお前も我慢しろ」という言葉があります。もし、みんなにとっての学校がいい思い出だったのであれば、こうはならないはずですよね。むしろ、学校はこんないい経験ができる場所なのに、そこに行けないってかわいそうだね、といったコメントが集まるはずです。 しかし、現実は我慢しろという批判が集まっている。ここに学校教育の「闇」があるのではないでしょうか。 「みんな行ってるから」「親が行けというから学校に行っている」。明確な動機付けができず、どう役に立ったかがわからない。みんながこれまで溜め込んでいた負の感情が、一気に爆発したのが今回の件だと思います。 僕自身も不登校で、義務教育をほとんど受けていません。ですが、今は自分の会社を起して仕事をし、人生を楽しく生きています。 僕は不登校になってからの方が、友達は多いです。学校は楽しくなかったけど、不登校になったあと、学校の外に友達がたくさんできました。勉強は独学とゲーム、それに漫画で覚えました。正直なところ、学校に行ってないことによる苦労をあまり感じたことがありません。 確かに、インターネットがなかった時代は学校の役割はとても大きかったでしょう。勉強するにしても調べることが大変だったし、SNS(会員制交流サイト)で友達を作ることもできません。 インターネットが発達した現代において、学校の役割はどんどん無くなっています。そもそも、生き方が多様になり、働き方の選択肢も広がってきました。画一的な教育では限界があるでしょう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) しかし、学校が変わっていくには、たくさんの障害があります。学校がダメなのではなく、多様性を広げるほど効率化が難しくなります。 学校は社会のインフラとして、誰でも安く教育を受けられる環境を維持しなければなりません。先生の労働環境はただでさえ過酷で、一番のブラック企業は学校とも言われています。 年号も変わり、時代も変わっていきます。そんな時、ゆたぼんくんはいい問題提起をしてくれました。「10歳の戯言(たわごと)」と切り捨てず、これからの学校の役割についてみんなで考えていく必要があるのではないでしょうか。■ 「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み■ 「脱ゆとり」でも変わらない 子供の基礎学力が消えていく■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    不登校の小学生YouTuber炎上騒動 琉球新報の責任は重大だ

    た。* * * 一人の子供が不登校をしているというだけの話に、わざわざ飛びつきなさんなよ。たとえ義務教育期間の小学生でも、本人がどうしても嫌だと言うのなら学校に行かなくても構わないだろうし、学校の外で学べることもたくさんあるもんだし。 ……と私は一般論として思う。そう思う人々も大勢いるはずである。 だが、実際は、10歳の不登校児に多くの日本人が連日苛立っている。その少年がユーチューブの動画に登場するたび、何千何万人もが低評価ボタンをクリック、コメント欄を荒らさずにはいられなくなる。私だってスルーできなくて、こうして彼を取り上げている。 そして、あっという間に、彼は日本有数の有名小学生となった。ご存知ない方のために琉球新報の記事から引用すると、〈「俺が自由な世界をつくる」。自由を求めて学校に通わない選択をした中村逞珂(ゆたか)さん(10)=宜野湾市=が「少年革命家 ゆたぼん」と名乗り、ユーチューバーとして活動している。大阪生まれ、沖縄在住のゆたぼんは「ハイサイまいど!」で始まる楽しい動画を提供しつつ、いじめや不登校に悩む子や親に「不登校は不幸じゃない」と強いメッセージを発信している〉とのことである。 革命だメッセージだとずいぶん勢いのある言葉が並ぶが、「少年革命家ゆたぼんチャンネル」と題する動画自体はなんていうことない。少年やその3人の妹たちなどが、たわいのない「~をやってみた」式のお遊びをしたり、歌をうたったりする程度の内容ばかりだ。 琉球新報の記事には〈パワフルに熱唱する姿は、父親の幸也さん(39)の影響で好きになったブルーハーツをほうふつとさせる〉とあるが、これも幼さゆえにまだ音程コントロールも覚束ない児童が黄色い声を張り上げている程度。選曲がブルーハーツや長渕剛やフィンガー5のものなのは、親の影響というより親のリクエストだろう。歌詞の意味も分からないだろうに歌わされて痛々しい、と私は感じる。不登校をめぐる「メッセージ」も、カメラ横のカンペをつっかえながら読みあげているようで、やらされているな、むごいなという印象を抱く。 なぜ不登校になったのか。琉球新報には〈ゆたぼんが学校に通わなくなったのは小学校3年生の時。宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。現在も「学校は行きたい時に行く」というスタイルを貫いている〉とある。 対して、多くのネット民たちは、「ロボットはこの少年だ」と指摘している。本人のほうが父親にすべてを操作されているロボットで、これは一種の児童虐待だと批判する声もたくさんある。スマホで気軽に発信したことが後々大きな禍根を残すこともある さらにネット民たちは、父親こそに問題があると、その経歴をすぐさま掘り起こした。『あきらめる勇気』という自己啓発の本を出版しているので比較的容易に分るのだが、父はかつて暴走族の副総長で、恐喝、窃盗、傷害、シンナー、麻薬、覚醒剤など数限りない悪行を重ねて来たとか。職を転々とした後に、日本メンタルヘルス協会の衛藤信之氏という怪しげな心理カウンセラーと出会い、自らもその職に就くのだが、これまでに『たったの21日で禁煙を成功させる方法』という情報商材を販売していた過去もあるようだ。息子との親子講演会をけっこうなチケット料をとって開催、息子を編集者の箕輪厚介氏や茂木健一郎氏といった有名人に引き合わせて話題作りを狙うなど、なかなか商魂たくましい。 最新のユーチューブでは、「不登校のゆたぼんがアメリカンビレッジでフリーハグ」と題する動画を流していた。大炎上中にまた燃料投下するようなことしている、このチャンネルは新手の炎上商法か、と疑いたくなる。子供は自分の親を選べない ただ、執筆現時点でこの動画に対する高評価は541、低評価は5680。もっとも再生回数の多かった5月5日公開の「【新聞載った!】ゴールデンウィーク終わっても学校行くな」に至っては、高評価4202に対し、低評価は6.6万だ。コメント欄には33200の書き込みがあり、荒れに荒れて、商売どころじゃない状態となっている。 困った話だが、父親はもともとそういう人なのかもしれない。自己啓発の入った元ヤンキーで何でもありなネット商売で生きる人。減りつつあると言っても日本の人口は1億2千万。それだけいれば、こういう人も混じって当たり前。そう突き放すのがもっとも正しい外野の態度のようにも思える。 しかし、これは虐待だという声が多いように、まだ10歳の息子当人が気になる。これからどんな青年、どんな大人に育つのかは彼や彼の家族の勝手だが、私が気になるのはこの大炎上を本人がどう感じているか、だ。動画のコメント欄やツイッターの関連ツイートなどを、どう読んでいるのだろう。親が「アンチはロボットと同じだからな」と言い聞かせているかもしれない。だとしても、実名顔出しでここまで世間から袋叩きされた事実は、きっと深いところで傷となる。傷にもならないのならそれはそれで精神構造がおかしすぎる。 具体的に何があって何を思ったのかは知らないが、学校が辛かったなら、転校すればいい。しばらく休んで、クラス替えを機に再登校するでもいいのである。要は、学校は選べるのだ。だが、子供は自分の親を選べない。このような父親のもとに生まれ育ったことは変えられない。その理不尽な現実を動画の画面が表しているようで、痛々しく、この騒動を見ていて私は辛い。 ひとつ確認しておきたいのは、そんな父子の合作である「少年革命家ゆたぼんチャンネル」も、今年の5月5日が来る前までは、ひっそりとした辺境チャンネルの一つにすぎなかったことだ。登録者数は数百で、動画の閲覧数も内輪が見ているプラスα程度だったようだ。 それが5月5日に、先に引用した琉球新報の記事で変わった。オンラインでも流され、大拡散した。記事のタイトルは〈「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に配信「ハイサイまいど!〉である。沖縄に天才現る!とでも言いたいかのような、完全持ち上げ記事だ。 マスコミの力が弱くなったといわれるが、発信力はまだまだ健在なのである。オンライン配信もされるようになり、一地方紙の記事でも、こうしてバズることが増えている。そのぶん、新聞社と新聞記者には、重い報道責任がある。炎上の火付け役として、どうケジメをつけるか。 この記事で大炎上となった5日後、琉球新報はまた少年を取り上げた。こんどのタイトルは、〈ダルビッシュさん「自分の好きなように生きればいい」不登校10歳ユーチューバ―への中傷に著名人が反論 茂木健一郎さんも「活動を応援したい」〉であった。 なぜ大炎上したのかを考察、分析するのではない。著名人の関連ツイートを引用しながらの少年擁護というもっとも安易な形をとった。いや、安易な自己弁護の記事だったと言わせてもらおう。火に油をそそぐようなやり方でもあり、現に大炎上は止まず、少年のツイッターアカウントが乗っ取られるなどの事態もおきているのだが、記事の担当記者としてはそれが最善の策だとでも考えたのだろうか。浅はかだ。 一度、ケチのついたユーチューブチャンネルは、主催者がよほど上手な説明責任を果たさない限り、良くも悪くもしつこい一部のネット民たちが火を放ち続ける。父親が自分の失敗に気づき、チャンネルをなるべく早く閉鎖するのが一番だと思うが、そうした反省は期待できないであろう。だったら、儲からないから止める、でいい。少年の傷をより深めないために早期撤退してほしい。 琉球新報については、私は、この騒動の最大責任者だと考えている。言論の自由の前に、言論の責任が存在することを自覚してもらいたい。関連記事■藤原紀香が頻繁に「炎上」するようになった流れとは?■貧困女子高生の炎上 「算数力の劣化が一因」と数学者■仏映画祭で過激演出した映画監督 「早く炎上させてくれ」■アリババのジャック・マー会長 長時間労働支持発言が炎上■千原兄弟、好感度はせいじが上?ジュニアが“炎上”するワケ

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    世田谷の校則ゼロ公立中、授業中に廊下で自習してもOK

    ジくん、文字を書くのが苦手で、タブレットを利用してノートを取りながら授業を受けている。プログラミング教育も積極的に採り入れる同校では、廊下にはペッパーの姿も(撮影/浅野剛) 「機械やコンピューターが好きで、タブレットを使ってもいいと言われてから、学校に来るのが楽しくなりました。この学校はぼくみたいな子どもも伸ばしてくれるんだなって。先生との壁? それはない。先生はぼくにとって頼れる存在です」(エイジくん) 彼は自分の居場所を学校で見つけた。 エイジくんに限らず、タブレットやスマホは、どの生徒にも解禁されている。ところが、読み書きに不自由のない生徒は持ってこなくなった。不思議と、SNS関連のトラブルも減った。西郷校長が言う。人と違うことに寛容になる 「生徒は授業がつまらなければ、はっきり“つまらない”と言っていい。これまで日本の教育では、他人と同じように振る舞えない子どもたちに対して、“みんなと一緒にしなさい”とか“振り返って反省しなさい”という指導ばかりしてきました。 ですがこれからの時代、子どもたちに身につけてほしいのは、誰にも負けない自分の才能の尖った部分、つまり“エッジ”を見つけて磨くこと。人に取って代わってAIが単純作業を担うようになるであろう今後、他人とは違う“変なやつ”であることこそが、自分自身を輝かせるはずです」 確かに、アップル社の創業者のスティーブ・ジョブズは身なりを気にせず、裸足で資金提供者と交渉したというし、テスラ社のCEO・イーロン・マスクは、会社のいたるところで地べたに寝転がって仮眠するそうだ。こうした、世間の規範からはみ出した“変わり者”の彼らは、エッジを磨き、世界を驚かせる発明や事業をやってのけた。 2020年には知識や学力のみを問う大学入試センター試験が廃止され、表現力や思考力、判断力が重視される新テストが導入される。「自分がどの分野に向いているか」を判断し、「自分のやりたいこと」を見つけてその力を活用しようとすることは、まさに新時代を先取りしている。人と違うことに寛容になる 桜丘中は、障害がある生徒や、もともと不登校だった生徒も積極的に受け入れている。そもそも社会にはいろいろな人がいて、人はそれぞれ違うということが当たり前だとわかれば、自分と違う他人に寛容になれるという考えがあるからだ。だが、その取り組みも、最初からすんなりスタートできたわけではない。 4年前、インクルーシブ教育(障害のある人とない人が同じ場所で学ぶのみならず、誰もが自由な社会に効果的に参加できる社会の実現をめざす教育)を導入しようとしたところ、「そんなことしたら、勉強ができなくなる」と保護者から猛反対されたことがあった。ならば、学校全体の成績をあげて納得させようと考えた西郷校長は、わかりやすく実践的な授業を次々、導入していく。そして冒頭で説明したとおり、今や同校は区でもトップクラスの成績を収めている。 英語教育には特に力をいれ、すべてを英語だけで他の教科の勉強をしたり、作業をするCLIL(Content and Language Integrated Learning、内容言語統合型学習の略。教科やトピックなどの『内容』と『言語』を融合して学ぶ教育方法。1つのテーマをさまざまな角度で扱いながら、互いが意見などを交換し合い、言語を身につけていくこと)を導入している。 「英語なんて、実はしゃべれなくても社会ではどうにでもなるよね」と笑いながらも、「でもね」と西郷校長はこう続けた。 「海外から翻訳されて日本で発信される出来事やニュースは、発信する側のバイアスがかかっていることもあれば、すべてでもない。英語がわかるようになると、本当は世界のあちこちでそのニュースがどう発信されているのか、自分で判断できるようになる。その意味で英語を身につけてもらいたいのです」関連記事■校則全廃の公立中、名門高校に続々進学 校長の思い■「謎の進学校麻布」ほぼ満杯の学校説明会を実況中継してみた■加藤綾子はコスプレ女王 三田友梨佳は校則違反的ミニスカも■宝塚音楽学校の泥沼いじめ裁判 コンビニ万引騒動が引き金に■不登校児ゼロ小学校の初代校長「今の学校はスーツケース」

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    「モンスター生徒」それでも守るべき?

    今年1月、東京都立高校で起きた生徒への体罰動画がネットで拡散し、物議を醸した。体罰は厳禁とはいえ、繰り返し挑発した生徒の問題行動も浮き彫りとなり、キレた教師への同情も広がったが、学校側は最後まで「教諭に非がある」と生徒をかばった。「モンスター生徒」はそれでも守られるべきなのか。

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    元都立高教諭手記「ニッポンの教師は絶望の未来しかないのか」

    高橋勝也(元都立高教諭、名古屋経済大准教授) 学校教育法は、決して体罰を認めていない。そして刑法は、暴行を許さない。東京都立町田総合高校で今年1月、50代の男性教師が校則違反を指摘した男子生徒に挑発的な暴言を浴びせられ、殴るなどした暴行問題は、どちらにも該当することであり、絶対に許されるものではない。 だが、今回のケースは、これからの日本の教育がどうあるべきなのか、国民的議論を積み重ね、社会全体で合意形成を導くべき事案であると強く訴えたい。自分の子供、そして、これから生まれてくる子供たちに直結する大問題であり、誰一人、他人事ではないのである。 私は、鹿児島県や都立の中学、高校教諭を経て、現在大学で教師の卵である学生の養成に携わっている。子供たちが大好きな学生たちは、希望に満ちあふれ、勉学にいそしんでいる。私の25年間にわたる中学、高校の現場で得た知識と経験を、余すことなく彼らに授けている。子供たちは国家の宝であり、愛(いと)しく、かけがえのない存在であることを、彼らの誰一人も疑ってはいない。しかし、私は子供たちが時に凶器と化すことも教えている。 私の教師経験は、一般的には信じられないような生活指導事案と向き合うことでもあった。かつて、こんな出来事があった。校則で禁じられた学校に携帯電話を持ち込み、授業中に使用した男子生徒に対し、教師である私は携帯電話を取り上げた。その携帯電話は、翌日、保護者が受け取りに来ないと返却されないルールもあった。 どうしても、今すぐに友人と連絡を取りたがった男子生徒は、強い口調で返すよう訴えたが、そのルールを侵して、見逃してはならないと判断した。日ごろから問題行動を重ねる男子生徒に、今こそ厳しい指導が必要だと思ったからだ。 これに対し、男子生徒は「てめえ(私)をブン殴って、手に持っているその携帯、取り返すぞ!」と興奮しながらこう暴言を吐いた。 町田総合高校で起きた動画を見た私は、そのシーンを瞬時に思い起こした。私も一人の人間である。状況によっては、私も同じことをしてしまったかもしれない。だが、その時は生徒という大観衆の視線がある中、ゆるぎない毅然とした対応が必要だった。 「もういっぺん、言ってみろ!(男子生徒の反応はなく、下を向いた)もういっぺん、言ってみろ!(まずい言い方だったと感じたのだろう。後ろを向き、逃げようとした)」。最終的には、厳しい指導を素直に受けた男子生徒は心から反省し、「あの時は本気で叱ってくれてありがとうございました」という言葉を添え、笑顔で卒業式を迎えたことを覚えている。 教師に対してこれほどの暴言を吐く生徒がいるとは想像できない人も多いだろうが、これは作り話ではなく事実だ。他にも走馬灯のように、思い出される。 電動車イスに興味を抱いた生徒が「それ、面白そうだから貸せ!」と障害者を引きずり降ろして遊び回った揚げ句、その障害者を放置したこともあった。「そんな生徒、ブン殴ってやらないと、まともな人間にできない」と本気で考えたこともある。これらはほんの一例だ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) どんな非行をしても、教師にとって子供たちはかわいい存在に違いないが、時に恐ろしい存在になり得るのが現実なのだ。 町田総合高校の教師が暴力を振るったことは許されないが、考え方は私自身と大差はないと感じている。彼は「この子たちを、どのようにして、正しく社会に送り出すか」と考え続けた教師であることに間違いはなく、そうでなければ彼を守ろうとした生徒は一人もいなかったはずだ。 実際、彼を擁護する生徒たちは少なくなかったと聞いている。彼から温かい愛情のこもった指導を受けたことがあるからだろう。ならば、今回の問題を一人の「暴力教師」として教育委員会が処分し、管理職の教師をマスコミの前で謝罪させるような「お決まりごと」で終わらせてはならない。一個人に責任を押し付けても、問題の根本解決にはつながらない。社会全体で考えていかなければならないのである。低下する教師の質 また、今回の問題は、学校現場の教師たちがどのように捉えるかを早急に分析する必要がある。日ごろから、問題行動を起こす生徒を相手にしない教師は、やはり、自分の判断は間違っていないと感じたかもしれない。 一方、日常的に悪態をついてくる生徒と堂々と向き合ってきた教師は「明日はわが身」とこれからは見て見ぬふりをしようと決意したかもしれない。多くの現場教師は、誰にも本音を漏らすことができず、悩んでいたり、苦しんでいたりして、中には絶望した教師もいるだろう。 現に私の後輩教師や教職志望学生の中に絶望した者がいる。社会はこの現実を重視し、「子供たちの将来を心底憂うなら、思い切り向き合ってあげてください」というメッセージを発信していかなければならない。そうしなければ、教師に見放される子供が増えるだけだ。 こうした荒廃した現実を避けるためなのか、日本全国の教員採用試験の倍率が低下している。これは大きな課題であり、「名前が書ければ、小学校教員採用試験に合格できる時代がくる」と揶揄(やゆ)されているようだ。 現場教師の質の低下が始まっていることは想像に難くなく、日本の教育の根幹にかかわっていると、社会全体で受け止める必要がある。一教師に責任を押し付けることで解決するのであれば、そうすればいい。私は絶対に日本にとってマイナスであると断言する。 私は現場の教師として経験を積んだだけに、仮に子供たちが教師を絶望させたとしても、教師は子供たちを心の底から許すことができる存在だと断言できる。「大人だって、間違いを起こす。だから、子供が間違いを起こすなんて当たり前だ」と必ず考えているのである。 仮に町田総合高校で教師から暴行を受けた生徒が謝罪したとしたら、あの教師は絶対に許すはずであり、「教師である、大人である先生が殴ってしまって、申し訳ない」と生徒以上に心の底からの謝罪が伝わるよう努力するだろう。※写真と本文は関係ありません(ゲッティイメージズ) 「キレ」やすい教師が増加している理由は、雑務を増やす社会構造かもしれないし、子供を完全な善ととらえる社会の目かもしれない。子供を過保護に育てて、調子に乗らせている保護者はどこにでもいる。学校では生身の人間が触れ合っているため、あらゆる問題が起きている。 だが、教師が生徒に謝ったり、逆に生徒が教師に謝ったりすることで、さらに深い絆を築き上げている。だからこそ、卒業式では涙がこぼれるのだ。 子供たちは国家の宝であると前述したが、子供たちを育成する教師たちも国家の宝と扱わなければならない。本気で子供たちのことを考えている教師を社会全体で守っていかなければ、日本の教育は崩壊してしまうだろう。■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか■ 「ブラック部活顧問」問題から考える、教師ってナンだ?■ おバカが集まる「底辺高校」まで授業料をタダにする道理はない

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    モンスター生徒への「いびつな懲戒制度」が教師を狂わせる

    周囲では話題になった。 教員による懲戒としての体罰は、日本では法律によって完全に禁止されている(学校教育法11条但書)。このため、体罰に至った理由は何であれ、本件の教諭に関して、何らかの処分が下されることになるだろう。一方で、教諭が手を出すまでの生徒とのやりとりを見ていると、教諭は意図的にあおられ、手を出したところを撮影することが目的になっているようにも見える。教諭側への同情の声も聞かれるゆえんである。 しかし、この事件は、単に学校教員が生徒を体罰した短気な点や、あおった生徒のずるさといった問題以上に、現実に合わない懲戒制度で対応せざるを得ない教員と生徒の力関係の複雑さや歪(いびつ)さを映し出しているように見える。 禁止されている体罰は、いわゆる直接的な暴力と「被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの」がこれに当たる。例えば、「別室指導のため給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない」指導なども体罰に該当することになる。※写真はイメージです(GettyImages) 実際に、教員が生徒に体罰を行った場合には、教員として免職処分など厳しい処分が行われることもある。また、刑事処分としても、暴行罪や傷害罪が成立する可能性があり、生徒の所持品などを壊せば器物損壊罪に該当する可能性もある。 以上のように、体罰を行った教員側には刑事処分を含め、厳しい対応が行われる。 一方、日本において、生徒に対する懲戒は基本的に、訓告、停学、退学処分である。また、学校によっては「停学ではない」自宅謹慎や、別室授業として保健室のような場所で学校内謹慎を行わせることや、放課後の居残りをさせたり、宿題を厚くしたりすることも懲戒制度としては認められている。ただし、小学校や中学校では、義務教育課程のため、公立私立を問わず教育の機会を奪う停学処分は行うことができず、公立学校では退学処分を行うことができない。アメリカの「体罰」 以上のように、体罰が禁止されているといっても、日本にも懲戒制度はある。しかし、体罰をすることが厳しく禁止された学校の中で「生徒が暴れているのを止められない」「生徒が凶器になる工具を持ってふらふらと歩いているのを放置する」といった現状について、各現場の教員から相談を受けることがある。 危険だと言ってモノを取り上げようとするものなら「体罰だ」(厳密には安全確保のための正当行為であって体罰には当たらない)と言われ、保護者からもクレームが入りと、大騒ぎになることがあるのだ。さらには、居残り授業なども、本人がボイコットして帰ってしまえば、事実上強制的に従わせるようなことはできず、親が非協力的であれば、その子は指導を受ける機会を失う。 今回の事件の舞台は高校のため、暴言や校則違反を理由に、退学処分はともかくとしても停学処分や訓告処分にすることはできた可能性があるが、公立の小中学校では、停学や退学といった強力な処分を持たず、不服を述べる保護者を止める術がない。結果、周りの生徒や保護者や教員に我慢をさせて、卒業まで当該生徒の行動と向き合うこともなく、ただやり過ごすことになる。 これは、単に「体罰がないからコントロールが効かなくなった」というものではないだろうが、学校が厳しい態度で生徒や保護者に接することが難しいがゆえの影響と言える。 また、私立の学校や公立の高校では、停学などの懲戒処分ができるといっても、停学処分や退学処分は、結果的に生徒の「学校での学びの機会」を失わせるだけで、実際には生徒の反省の機会に結びつかないということが指摘される。 例えば、アメリカでは生徒に対する懲戒制度は州ごとに特色があり、州によっては一定の手続きの下に、体罰を行うことができると規定されている。※写真はイメージです(GettyImages) その制度自体は、ハンドブックで規則とそれに違反した場合の懲戒手段(体罰の有無)を事前に示し、事前に体罰を了承する旨の文書を保護者から得て、校長のみが体罰を行使し、定められたパドル(paddle)と呼ばれる木の板で3~5回打つ。また校長以外に証人が見届け、事後は記録し保護者や教育委員会に報告する、といったような手続きに基づいて体罰を行うことができるとするものである。 体罰といっても決してヒステリックに生徒を叩くことを認めたものではないが、一方で体罰による教育効果を前提としている。 懲戒制度について、特に退学処分や停学処分といった懲戒だけでは、結果的に生徒に低い自己評価しか与えられず、生徒が法制度に触れる行為に走る危険性を高めてしまうことが指摘されている。教育の機会を失った生徒たちのドロップアウトが加速し、学校生活のみならず社会生活の障害にもつながりかねない。国という単位でみても損失を招きかねない重大な問題と把握されている。 その一つの回答として、停学や退学で教育の機会を失わせるよりも、体罰で短時間的に解消することの方が生徒の「教育の機会喪失」を少なく済ませられるという見方をしているようだ。体罰以外の方法がある また、体罰以外の懲戒制度自体も細かく規定が定められており、例えば懲戒制度の流れも、生徒への注意、保護者面接、課外活動などへの参加禁止、教室から隔離し校内の別の場所で課題を行うこと、一定期間の停学というように、懲戒制度の運用が厳密に規定されている。小さい問題のうちに、厳正に対処することが心がけられているのだ。 以上のように海外でも学校運営の課題に対し、さまざまな工夫をしながら懲戒制度を定めている。現状の日本では、小中学校で懲戒制度が事実上機能しがたく、かといって高校や私学で実施できる懲戒制度でも、停学処分や退学処分といった懲戒だけでは、生徒に無目的な休みを与え、教育チャンスを失わせるばかりで、発展的な解決につながりづらい。 これでは、真の意味で教育を必要とする生徒たちほど、そのチャンスを欠いたまま、大人になることになる。 ただし、体罰自体が持っている生徒への悪影響が科学的に指摘されて久しいことから、体罰を用いた教育が今後、日本の教育で用いられるべきかといえば、私は反対だ。 私は弁護士として、いじめ問題の改善のために学校に行くことが多いが、いじめっ子たちから「あいつは空気が読めないから叩かれて仕方がない」などと彼らなりの正論をよく聞く。まさに、体罰による教育を子供が、子供なりに、子供に向かって行っているのだ。 一方で、学校教員が生徒に対し、しっかりと指導できないならば、明確な事前の手続きを踏まえた上での、感情的な攻撃ではない、体罰以外の懲戒制度を持つ必要もあるだろう。そのためには、例えば一定期間社会奉仕活動への従事を義務付けることなど、今よりも広い懲戒制度の在り方も考えられると思う。※写真はイメージです(GettyImages) また、懲戒はあくまでも、はっきりとした目的を生徒たちと共有することで成り立つ。そういった意味では、懲戒制度を教育制度の一環にするためには、明確な手続きの設定と最低でも教員が一人一人の生徒と向き合って話せる環境を作る必要がある。特に生徒の特性を理解するために、発達心理学などの専門的知識による分析があるべきだと思う。 今回の事件は、現在の日本の教育制度、特に懲戒制度の課題にもつながる。「単なる体罰の是非」ではなく、教員と生徒の在り方や、学校が行うことができる懲戒とそれを受けた生徒たちが何を感じるのか。また、こうした事件が起きるまでの間にあったはずの小学校や中学校での教育では、他にもっと何かできなかったのか。具体的に検討されるべきだろう。■ 義務感が強すぎる日本人だからこそ道徳教育は必要ない■ 「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    「Twitterで炎上させようぜ」この手の私的制裁を止める方法はある

    唐澤貴洋(弁護士) 東京都立町田総合高校の「教師暴行動画」がツイッターに投稿されたことに端を発して、インターネット上の「私的制裁」にまで発展し、問題となっている。本稿では、今回の炎上や私的制裁の是非について見解を述べたい。 炎上の経緯を簡単に説明すると、同高の教師が廊下で男子生徒の顔を一発殴り、倒れ込んだところを引きずる様子を撮影した動画がツイッターに掲載され、テレビでも取り上げられて大きな反響が集まった。その後、「Twitterで炎上させようぜ」という声の入った同様の長い動画が改めて拡散されたことから、撮影者や暴行を受けた生徒が全て仕組んだことであるかのような言説が流布し、大炎上した。 その間、暴行を受けた生徒や撮影者の名前、住所、電話番号だけでなく、家族の名前や勤務先と見られる情報が流出。写真投稿サイトのアカウントを特定されたことで、未成年である生徒の顔写真も拡散してしまった。さらには、関係生徒に対して「犯罪者」といった誹謗(ひぼう)中傷だけでなく、「退学させよう」「どう落とし前をつけるのか」「家族の勤務先に電話をしよう」などと私的制裁の「呼びかけ」まで連日ネット上で行われた。 また、炎上が発生する過程では、まとめサイトにこの話題に関するスレッドが「乱立」した。まとめサイトでは、ユーザーが大手アドネットワークによるアフィリエイト(成果報酬型広告)を利用した収益を目指し、国内の大手ホスティング(レンタルサーバー)サービスを利用し運営されている。こうして、現在も続く炎上現象により、誹謗中傷及びプライバシー侵害の権利侵害が繰り返されたのである。 まず、動画が掲載された経緯について、事実を確認した人はいるのか。実際に学校関係者に取材し、取材内容を精査した上でネット上に記事投稿した人がどれだけいるのか。 上述の通り、暴行問題に対して、世間では「教師を炎上させようと、生徒側が全て仕組んだこと」という言説が、あたかも事実であるかのように受け取られている。炎上の原動力も、倫理感から来る反発やある種の正義感に基づいている。しかし、問われなければいけないのは、記事を投稿する側が動機とするものが果たして本当に真実なのかどうかであろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 何よりも、生徒らの個人情報を流布すること自体、プライバシー侵害に当たり、法的責任を問われる行為である。生徒の顔写真を投稿する行為は、肖像権の侵害に当たる可能性がある。 もちろん、生徒の家族の勤務先など個人情報の投稿もプライバシー侵害にあたる。さらに、私的制裁としてネットユーザーが行う勤務先へのいたずら電話行為は、威力業務妨害罪の成立の可能性がある。このように、炎上という現象の中では、違法行為が憂いなく行われているのである。 炎上に加わっている側には、ある種の正義感に基づき、過激な行為に走ることに高揚感を覚えている側面はないか。しかし過激がゆえに、違法行為として法的責任を問われる可能性がある。違法行為が憂いなく高揚感をもって行われていることに、私は危機感を覚えずにはいられない。原則は「個人責任」 確かに、今回の事象に何らかの意見を持つことは自由である。だが、その意見の表明方法が、いつの間にか違法行為にまで踏み込んでいるとしたらどうだろうか。しかも、そのことが後々違法と問擬(もんぎ)される事態になったとしたら、それは投稿する側も本来望んでいないであろう。 やはり、自らが今一度、炎上に関わることの意味や影響を冷静に捉え直す必要があるように思う。事実、私が過去に会った加害者は炎上に加担したことを後悔していた。 炎上の過程の中では、当事者のみならず、その家族や関係者に対してまで権利侵害が行われる。その家族や関係者は、本来何ら関係がない。しかし、家族や関係者に関して調べ上げられ、関連するさまざまな情報が投稿されている現状を考えると、「一族郎党にも累が及ぶ」中世的な発想の持ち主か、とさえ思う。 日本の法制度において、家族や関係者であることのみを理由として法的責任を問う法律は存在しない。法律で問われるのは、行為者に対する「個人責任」が原則である。監督責任を果たしていない場合や選挙犯罪における連座制など、行為者ではない者も法的責任が問われる場合もあるが、あくまで例外的だ。 そもそも、今回の事象では、生徒らに対して民事上でも刑事上でも法的責任が問われているわけではない。であれば、「家族や関係者にも責任がある」といった言説は、あくまで心情面から発生する責任論でしかなく、家族や関係者に対する権利侵害を正当化するものではないのである。 今回の炎上では、コンプライアンス(法令順守)に基づく経営が求められるはずの会員制交流サイト(SNS)やホスティングサービス、アドネットワークといった大手企業のサービスが利用され、生徒や関係者の権利侵害情報が流通している。権利侵害情報を投稿する人間が、最も悪質であることは言うまでもない。だからといって、さらにここで問われなければいかないのは、大手IT企業のサービスを利用して権利が侵害され続けている事実だ。 今回の事件がネット上で炎上しているという事実を、ネットに毎日触れる者であれば知らない者はいない。むしろ、IT企業であるがゆえに、内部でこの問題について知っている者も当然いることであろう。現在進行形で権利侵害情報が流通していることを認識しているのであれば、各企業は広告停止や送信防止といった対応を、法的な検討に基づき行うべきではないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) だいたい広告主にしても、権利侵害情報に対して広告費用を支払いたい企業などいないであろう。インターネット広告費が1兆円を超え、多くの企業がインターネット広告費を支出している中、企業の側にもネット広告の出稿先に対する厳格なチェックが求められている。 過去には、ユーチューブ上で人種差別動画が投稿され、その動画で大手企業の広告が表示されている実態を英タイムズ紙が報じたことから、一部企業がユーチューブからの広告を引き上げたことがあった。日本では、まだ、この問題についてきちんと論じられていないところがある。今後企業におけるコンプライアンスの内容として、適正な広告出稿先かどうか精査することが求められていくと、私は考えている。■ 「歪んだネット社会の正義」不謹慎狩りをなくす3つの処方箋■ 15歳の少女はなぜ命を絶ったのか ネット検索で救われなかった人■ DeNA「サイト炎上」MERY、iemoの原罪とカラクリ

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    パワハラ加害者断罪でよいのか 思わぬ弊害もたらす危険性も

    なぜならダメなやつは切り捨てられるだけだから。ダメな人間を何とか引き上げ、叱ってでも矯正しようという教育的動機は薄い〉(10月12日付「日本経済新聞」より) ドライなブラジルと違って、わが国では切り捨てる前に選手を救ってやろうとする。それがパワハラや圧力と受け取られる場合もあるということだ。 心配なことに、日本でも世の中がだんだんとそちらの方向に近づいているように見える。 会社では、以前だとペナルティを与える前に注意してくれたのに、いまはいきなりペナルティを受けるようになったという声を聞く。中学校の教師は、以前は生徒が少しでもよい高校に入れるよう厳しく指導していたが、最近はそこまで指導しないと語っていた。トラブルが起きるのを恐れ、運動部の責任者になることを渋る教員が増えているともいわれる。地域でも危険な遊びをしたり、他人に迷惑をかけたりする子を見かけても、注意する大人はいなくなった。告発された側にも弁明の機会を与えよ「告発されたら終わり」という感覚が蔓延すると、「触らぬ神に祟りなし」と考える人が増えてくるのは当然だろう。さらに、その延長上にはもっと深刻な問題が待ち受けている。 以前、複数の医師から次のような話を聞いたことがある。患者のためにはリスクがあっても思い切った治療を施したほうがよいケースがあるが、失敗したときや、期待するような結果がでなかったときのことを考えて控える場合があると。事が命にかかわるだけに聞き捨てならない問題だ。それでも医師の立場を考えたら、自己防衛に走るのを止めることはできないだろう。 とくに医師と患者のように、一方だけが専門的な知識をもっている場合(「情報の非対称性」という)、かりに医師が患者の利益より自己防衛を優先しても、それを事実として認定することさえ難しい。最終的にはプロとしての良心と見識に頼らなければならないのだ。 そして程度の差はあるにしても、監督・コーチと選手、教師と生徒、上司と部下といった関係にも同じことがいえる。「触らぬ神に……」や慇懃無礼は、やろうとすればできてしまうのである。要するに、パワハラにしても圧力にしても、相手に有無をいわせず力ずくで改めさせようとすると、思わぬ弊害をもたらす危険性があるということだ。※写真はイメージです(GettyImages) もちろん、だからといってパワハラや不当な圧力を受けてもやむをえないというわけではない。被害者が泣き寝入りせず、声をあげるようになったのは確かに一歩前進である。 一方で、加害者とされた側の弁明にも耳を傾けるべきである。マスコミも大衆受けしそうな声にすり寄ったり、都合のよいコメンテーターばかり集めて話を盛り上げたりするのではなく、立場や見解が異なる人も交えて議論を深めるよう努力するのが社会的責任の果たし方ではなかろうか。関連記事■ 自殺した地方アイドルが苦悩していた「家庭でのトラブル」■ 東洋大パワハラ暴力問題 箱根駅伝の優勝争いにも影響か■ 「3分おきに『起きてます』LINE」注目パワハラ訴訟の中身■ スポーツ界の「ドン」「女帝」生まれる要因の2パターン■ パワハラまがいの熱血監督や鬼上司が通用しなくなった理由

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    教師の体罰をスマホ撮影する「告発動画」が相次ぐワケ

    れている、ということだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 文部科学省は2009年、都道府県教育委員会に対して、携帯電話は学校の教育活動に直接必要がないとして、小・中学生に対して学校への持ち込みを原則禁止した。また、高校生にも授業中の使用を禁止したり、学校内での使用を一律に禁止するなど、実情に合わせて携帯電話の使用を制限すべき、と通知している。 しかし、現実には、学校への持ち込みを認める学校が増えている。相次ぐ動画「告発」 情報端末専門の調査会社、MMD研究所が18年4月に実施した「中高生の学校のIT利用状況調査」によると、学校へのスマホ持ち込み許可は条件付きを含め、中学生は21・6%で、高校生は84・3%に達した。許可されていると回答した中高生のうち、持ち込みで決められているルールとして、中学生で最も多いのは「学校や先生に携帯所持の許可申請をする」で49・6%と約半数に上っている。ただし、高校生は約15%弱で、本人の自由意思に任されている言えよう。 一方、高校生の持ち込みルールでは「授業中は電源を切ってカバンやロッカーにしまう」がトップで69・2%。約4割(37・4%)の中学生を含め、基本的には生徒が自主的に保管することが前提となっている。「登下校のみ使用可能」という中学生は40・0%、高校生も30・0%にとどまり、校内でのスマホ所持や使用が進んでいる現状が明らかになった。 筆者が東日本大震災の取材をして改めて感じたが、生徒が携帯やスマホを所持することは、非常事態の家族間の連絡手段として欠かせないのである。学校にいるときだけではなく、登下校中の確認には必須アイテムであり、安心安全以外でも役に立つことになり得るからである。実際、大阪府は大阪北部地震の発生後、災害や不審者対策を念頭に、校内での携帯電話使用に関するガイドラインを作成し、19年度にも持ち込みを解禁する方針だ。 このような中で、町田総合高以外でも動画による「告発」が相次いでいる。最近では、選抜高校野球大会の出場を決めた私立松山聖陵高(松山市)の野球部監督が、部員に体罰を行う動画が公開されていることが明らかになった。 選抜出場が決まった当夜に野球部の生徒によって「これが甲子園に出場するチームを導く監督のあるべき姿でしょうか? #拡散希望」とのコメントつきで、ツイッターに投稿されたとみられている。校長は「暴力ではなく、指導の一環」と体罰を否定した。 18年11月には、名古屋経済大高蔵高(名古屋市瑞穂区)の野球部で起きた体罰動画が投稿された。練習後に監督が、1、2年の複数部員に対して殴る蹴るの暴行を加え、うち3人の顔が腫れるなどのけがを負ったという。学校側の説明では「野球部で定めている携帯電話の使用ルールが徹底されていない」というのが理由だったらしい。2019年2月、部員への暴力で謹慎する監督の代わりに、選抜大会で指揮を執る松山聖陵の中本恭平コーチ 17年5月には、大阪府立今宮工科高(大阪市西成区)で男子バレーボール部の顧問の男性教諭が部員の生徒に繰り返しボールを当てる動画がネットに投稿され、体罰ではないかと物議を醸した。「私の指導力不足や焦り」と教諭は語り、「生徒の態度が今までに見たことがないくらい悪かった」とボールを当てた理由を明らかにした。 このように、スマホの校内持ち込みを認めた段階でいつ誰がどんな動画や音声を残しているか、分からない状態が当たり前になっているのである。裏を返せば、教師がどんな発言や態度を取っても、常に「見られている」ということに他ならない。生徒の側に立てば、不適切な指導や体罰は簡単に告発できるツールとなり得るわけだ。 動画や音声の存在で、何が「不適切」で何が「体罰」なのか。具体的に議論できる素地(そじ)が出来上がっていることを、学校側や教諭はもちろんのことだが、生徒たちも忘れてはならない。■ 「道徳の教科化は正しい」いじめ自殺を隠蔽する学校は信用ならない■ 「体罰禁止で指導者が去勢される」ヤクザ先生が憂う教育の危機■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    不良生徒の胸ぐら掴んで叱った教師 全校生徒の前で謝罪する

    って(やったが)、行きすぎたことになってしまいました」 あくまで“愛の鉄拳”であったことを強調した。教育界でも暴力騒動は存在する「暴行事件」は教育界でも発生した。2017年11月下旬、秋田県立能代工業高校の男性教師が修学旅行中の羽田空港で、弁当配布に遅刻した男子生徒1人を平手打ちし、別の2人に腕立て伏せやスクワットを命じた。後にこの教師には戒告処分が下された。 この件にも「体罰は指導とはいえない」「あってはならないこと」との世論があがった。実際、昨今は指導者が手を上げることは、いかなる理由であっても許されないという風潮がある。都内在住の女子高生が言う。 「うちの学校でも、手のつけられない不良生徒が先生の言うことを聞かず、始業式の最中にずっと騒いでいたんです。見かねた先生が胸ぐらをつかんで叱ったのですが、それを知った保護者から批判が寄せられたそうで、後から、その先生は『あの行為は体罰に違いなく、あってはならないことだった』と全校生徒の前で謝罪しました。先生が全員の前で謝るくらい、やっぱり体罰はいけないことなのだと思いました」 先生だけでなく、親たちも子供に体罰をすることは少なくなった。都内在住の60代女性はこう語る。 「私が子供の頃は、先生だけでなく父も母も厳格でした。とくに礼儀や挨拶は厳しく指導され、言葉遣いが悪いとすぐに素手で叩かれました。今のお母さんたちは口で注意することはしても、手を上げることはまずありませんよね。私の娘もそんな母親のひとりです。孫が悪さをしても、手を上げるどころか、叱りもしない。そのせいで孫は『ごめんなさい』と言えない。それどころか、私が孫を注意すると娘に『お母さん、やめて』と怒られる。時代が変わったのだなあ、とつくづく思います」※写真はイメージです(GettyImages) 親が子供に手を上げると周囲から虐待を疑われてしまうことも理由の1つだろう。 2016年6月に北海道の山中で、人や車に向かって小石を投げた7才男児が父親に置き去りにされ、100人以上が捜索した末に自衛隊の施設内で発見された。この「北海道置き去り事件」でも、「しつけの範囲を超えている」「児童虐待だ」と議論百出となり、父親が大バッシングを浴びた。関連記事■ 教え子と交際した教師「免職取り消し」となった裁判の中身■ 大阪府立高教師 給料同じなら底辺高で不良ド突き回す方が楽■ 壮絶いじめ 女子の同級生が共犯になり集団レイプで動画撮影も■ 地下アイドルの「いじめ体験率」はなぜ一般人の約5倍なのか■ 夫の不倫発覚 正義感の強い人ほど暴力的に怒りやすい

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    箱根駅伝「完全生中継」から見えてくる日テレの功罪

    飯田豊(立命館大産業社会学部准教授) 箱根駅伝の成り立ちは大正時代までさかのぼるが、「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としてテレビで楽しまれるようになったのは、それほど昔のことではない。「マスメディアに媒介されたイベント」として箱根駅伝を捉えるならば、目まぐるしい変化の積み重ねによって、革新が伝統を創造してきたと言っても過言ではない状況が見えてくる。 大会の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。報知新聞社が主催する「四大校対抗駅伝競走」として1920年に始まっているので、およそ100年の歴史がある。今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公で、日本マラソンの祖とされる金栗四三たちが、欧米の選手と肩を並べて活躍できる長距離ランナーの育成を目的に、東京箱根間の大学対抗駅伝の開催を思い立ち、報知新聞社に企画を持ちかけた。 1920年の第1回大会は、往路が2月14日、復路が15日という日程で、選手は午前中に大学の授業を受けた後、13時にスタートした。箱根の山中を走る頃には日が暮れるので、地元青年団がたいまつをかざして選手を誘導したという有名な余話がある。 駅伝は日本発祥の陸上競技種目であり、江戸時代に交通や通信の手段として整備された「宿駅伝馬制度」に由来する。読売新聞社の協賛記念事業として1917年、京都から東京まで23区間をリレーする「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されたのが、駅伝の始まりとされる。 朝日新聞社が主催する「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」の前身にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開かれたのが1915年のことだ。このような大会を新聞社が主導してきたのは日本独特のことであり、各社が新聞読者を獲得するための事業戦略のせめぎ合いから、箱根駅伝は生まれたとも言える。 そして戦時下、言論統制を目的とする新聞統合(一県一紙制度)によって報知新聞社と読売新聞社が合併し、箱根駅伝は戦後、読売新聞社が関東学生陸上競技連盟と共催する事業として発展することになる。 それに対して、日本テレビによる完全生中継が始まったのは1987年のことであり、実は全国的な注目を集めるようになってから30年余りに過ぎないのである。第63回箱根駅伝=1987年1月2日 箱根駅伝は戦後まで、ラジオで中継を聞くこともできなかった。NHKがラジオ放送に乗り出したのは1953年1月のことだが、現在は文化放送とアール・エフ・ラジオ日本もラジオ中継を行っている。 1979年から1986年までは、テレビ東京(1981年まで東京12チャンネル)がダイジェスト番組を放送し、最終10区のみを生中継していた。NHKは年末年始恒例の中継番組が立て込んでいたので、放送機材を箱根駅伝のために集めるのが難しかった上に、箱根駅伝そのものが関東のローカル大会であったことも重なり、全国放送を躊躇(ちゅうちょ)させたのである。日テレは乗り気じゃなかった また、読売新聞との関係を踏まえれば、日本テレビが放送するのは自然な流れだったが、当時は乗り気ではなかったという(杉山茂「「ラジオ・スポーツ」から「テレビの華」へ ―放送技術を結集させた箱根駅伝」『箱根駅伝の正体を探る』創文企画、2016年)。 というのも、箱根の山岳中継は過酷を極めるためだ。日本テレビは80年代、全区間生放送に備えて中継が可能な場所を徹底的に調査し、中継車の大改造も行ったという。長年にわたって箱根駅伝を手掛けた日本テレビの黒岩直樹氏によれば、第一回の中継では、踏切で1号車が先頭ランナーに抜かれてしまったり、箱根での宿泊や食事の手配が間に合わなかったりと、ハプニングが続出したらしい。 それでもお笑い中心の「おせち番組」(=年末に撮りだめして、新年に放送される番組)に飽きていた視聴者には支持され、予想を上回る平均18%の視聴率を記録した(黒岩直樹「わたし流番組論49 たすきの瞬間のドラマ ―箱根駅伝を撮る」『月間民放』2000年3月号)。 そして1989年に初めて、全区間の完全生中継が可能になった。その一方で、日本テレビは事前収録したVTRを効果的に挟んで、注目選手やその人間ドラマを丁寧に紹介した。黒岩氏によれば、箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではなく、「スポーツ・ドキュメンタリー生中継」を基本コンセプトとしてきたという(同上)。 1988年には箱根を全国大会にする提案も持ち上がったが、初代プロデューサーの坂田信久氏は、テレビ中継を行うことで箱根駅伝を変えてはいけないという考えから、これを断ったという。長年の番組スポンサーも、企業名を露出することよりも、大会を共催して支えようという考えの方が強いらしい(『週刊東洋経済』2008年1月26日号)。第95回箱根駅伝、2区の川澄(右)へたすきをつなぎ、倒れ込む大東大1区走者の新井康平=2019年1月2日、横浜市・鶴見中継所(斎藤浩一撮影) 日本においては、マスメディア企業体が主催し、自ら積極的に報道する「メディア・イベント」は枚挙にいとまがないが、複数の新聞社や放送局によって今日まで育まれてきたところに、箱根駅伝の特異性がある。 それでも、日本テレビによる中継が始まったことで、箱根駅伝を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、従来は1月中旬に開催されていた「全日本大学駅伝対校選手権大会」が88年度から11月に変更され、全国大会が地区大会の前哨戦に位置づけられるという「逆転」が生じた。 また90年代に入ると、箱根駅伝で上位に入った大学は全国的に知名度が高まり、受験志願者が増える傾向がみられるようになった。これに大学経営陣も敏感に反応した。テレビ中継の開始後に選手育成を強化し、優勝を経験した大学も少なくない(生島淳「大学全入時代がもたらした箱根駅伝の「経済戦争」」『エコノミスト』2010年1月5日号)。テレビ中継の功罪 その結果、才能のある高校生が強豪校から熱心に勧誘され、優れた選手が関東に遍在するという事態が一層進んだ。さらに、優秀な選手が箱根駅伝を区切りに競技生活を終える「箱根駅伝燃え尽き症候群」も、ますます問題視されるようになった。 これらの問題に対しては、まったく異なる見方もできる。スポーツ人類学に取り組む瀬戸邦弘氏は箱根駅伝を、国際スポーツの価値体系とは必ずしも折り合いがつかない、地域独自の文脈に根差した固有の価値体系を有する「エスニック・スポーツ」として捉えている。 瀬戸氏の指摘で興味深いのは、日本テレビが当初、箱根山中の電波状態が脆弱(ぜいじゃく)であることを踏まえて、生中継が中断したときの予備映像、いわば「つなぎ」のコンテンツとして制作した「箱根駅伝今昔物語」が、思わぬ形で果たした役割である。 箱根駅伝を支えてきた人々に焦点を当て、そのライフヒストリーを紹介しながら、大会の歴史を伝える名物コーナーだが、瀬戸氏はこれによって「箱根駅伝という番組自体が90年を超える時空間を自由に行き来する歴史的でありながら、共時的なバーチャル空間として成立することになった」という。 要するに、各大学の競走部(陸上部)の中で集団の記憶として受け継がれていた伝統重視の価値観が、番組を通じてクリアに可視化され、視聴者との間で広く共有されることになったのである。 明治期以降に成立した体育会運動部文化の延長線上にあると捉えれば、箱根駅伝の創設理念には反するが、オリンピックを頂点とする国際スポーツ文化の価値体系とは容易に馴染(なじ)まない。「箱根駅伝燃え尽き症候群」を嘆くのは、あくまで国際スポーツ文化の価値体系に基づく見方である(瀬戸邦弘『エスニック・スポーツとしての「箱根駅伝」』『文化人類学研究』14巻、2013年)。第94回東京箱根間往復大学駅伝、転倒する国学院大9区・熊耳智貴さん=2018年1月、神奈川県横浜市(撮影・斎藤浩一) 箱根駅伝で活躍した選手に対して、次は国際的な大舞台で結果を残すことに期待をかけるのも、逆に体育会運動部の伝統的な価値観を再生産しているのも、いずれもマスメディアに他ならない。この乖離を調停することは、箱根駅伝に関わる新聞社や放送局の使命ではないだろうか。 そしてこの議論こそが、選手に対する安全配慮のあり方を反省的に見直すことにも直結するだろう。持久力をつけるために長距離をひたすら走り込むという練習法によって、国際的な舞台で活躍できるスピードが身につかないという「箱根駅伝有害論」は戦前から指摘されていた(1938年には早稲田大と慶應義塾大が出場を辞退している)が、それどころか選手生命に関わる故障につながりかねないリスクを伴っていることも、現在では広く知られている。 テレビ放送の高視聴率、すなわち「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としての定着が、次なる変革に対する足止めになるのは望ましいことではない。冒頭で述べたように、箱根駅伝の伝統を裏打ちしているのは、メディア・イベントとしての革新に他ならないのだから。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    奨学金制度は何が問題か

    大学進学などで利用した奨学金の返済が行き詰まる「奨学金破産」が増えているという。「奨学金というシロアリが社会を食い荒らす」。制度へのこうした批判が相次ぐ中、日本学生支援機構(JASSO)の遠藤勝裕理事長がiRONNAに反論手記を寄せた。ニッポンの奨学金制度は何が問題なのか。

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    JASSO理事長手記「奨学金シロアリ報道に反論する」

    スではあるが、制度の現状と課題について申し上げたい。 そもそも、JASSOの奨学金は、憲法第26条と教育基本法第4条に定められた「教育の機会均等」を実現するための国の制度である。制度の発足は古く、昭和18年10月まで遡(さかのぼ)るが、以来支援した学生数は1288万人に上り、その若者たちが戦後復興から経済発展の担い手となり、70有余年に亘り日本社会を支えてきたと言えよう。そして現在は高等教育機関に学ぶ学生のほぼ3人に1人をJASSOの奨学金が支援しており、社会を支える重要インフラとして機能している。決して「シロアリ」などではない。 平成29年度の貸与人員は約130万人、貸与金額は1兆円に上り、わが国全体の奨学金事業のほぼ9割を占めている。貸与人員の8割強は大学、大学院などであるが、特徴的なのは専修学校の学生も22万人近くに上っているほか、放送大学等通信制で学ぶ人たちも支援していることである。 このため、貸与学生の在籍学校数は3647校を数え、うち専修学校は2485校と7割近くを占めている。JASSOの奨学金は専門的技術・技能の習得に向けて学ぶ学生を支えており、この面でも社会の重要インフラとして機能している。 貸与奨学金には無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、ここ数年は奨学生の負担軽減のため、無利子のウェイトを高めている。ちなみに平成25年度の25%に対して29年度には33%、約3分の1が無利子となっている。 なお、有利子の金利について、「3%という高利を貪っている」と誤解され、あるいは歪曲され喧伝されることがあるが、3%は法令上定められた上限金利である。実際にはJASSOが国から借入れる財政融資資金の金利と同一に設定され、現在は0・01%(変動の場合)、そしてこれはそのまま国に償還しており、JASSOが民間金融機関の様に「利鞘(りざや)を稼いでいる」ことは全くない。 ところで年間1兆円にも上る巨額の貸与原資をJASSOはどう調達しているのであろうか。ちなみに平成30年度予算では、8割強(81・9%)が返還金となっており、これは返還者が稼いだ金が後輩たちへの貸与資金となっていることを意味しており、この流れは「健全な日本社会の象徴」と私は自負している。日本学生支援機構の遠藤勝裕理事長(同機構提供) なお、残り2割は財政資金のサポートを受けているが、有利子奨学生については、在学中は金利負担を猶予しているため、この間は規則により財政資金が借りられず、債券発行や借入により、民間の金融市場から調達している。余談ながらJASSOが発行する債券は、国際資本市場協会(ICMA)が定める社会的課題解決のために発行される社会貢献度の高い債券、いわゆる「ESG債」と認定されており、JASSOは国際的にも「社会貢献度の高い組織」と位置づけられている。 さて、こう記してくると、「貸与原資となっている返還金の元は何なのか」との疑問がわいてこないであろうか。そもそも制度スタートの時に資金がなければならないからである。昭和18年10月に「大日本育英会」(JASSOの前身)としてスタートした際、まず国は財政資金100万円(当時)を投じているが、翌昭和19年4月、昭和天皇自らが御手許(おてもと)金100万円を拠出され、あわせて200万円(当時)でJASSOの事業が始まっている。 この200万円を原資として、以後連綿として「貸与、返還、貸与」の好循環が繰り返され、現在の資金規模となっている。元を正せば天皇陛下の拠出金を含め全て公的資金である。返還率は上昇 前述の通り、貸与原資の8割が返還金であり、これが大きく滞れば制度が成り立たなくなるか、あるいは公的資金(税金)の追加投入を余儀なくされることになろう。時に「JASSOは高利貸のように取り立に狂弄(きょうほん)している」と非難されるが、返還にこだわるのはまさに「次世代への貸与原資」を確保しなければならないからだ。 ちなみにJASSOが日本育英会から事業を引き継いだ平成16年度末の3カ月以上の延滞者数は18万3千人で、返還者数の9・9%にも上っていたが、29年度末は15万7千人、同3・7%にまで低下している。返還率で言えば90・1%から96・3%にまで上昇している。仮に16年度の10%近くの延滞率が続いていたとすれば、制度の存続について大きな議論になったのではないかと推測される。 この延滞率の低下、返還率の上昇は、基本的には日本の若者たちの生真面目さによるものと思われるが、この間にJASSOが制度存続のために尽くした様々な努力、例えば延滞者への地道な働きかけ、債権回収会社(サービサー)への回収委託、個人信用情報機関への登録などの成果と言えよう。 こうした中、400万人にも上る返還者の中には様々な事情(病気、失業など)により返還したくても返還できない人も存在している。このため、減額返還、返還期限猶予、返還免除などの救済制度(セーフティネット)を設けており、近年は返還者の実情に応じ、制度の充実に努めている。同時にこれらの周知徹底にも取組んでいるが、残念ながら制度を知らずに延滞に陥る方々も存在している。返還が困難な状況になった場合には悩まずに、遠慮なくJASSOにご相談いただきたい。 冒頭にも触れたように、奨学金破産や保証人問題が大きく報道され、あたかも奨学金制度自体を否定する様な論調も見受けられる。これはまさに「木を見て森を見ざる」の議論と思われる。従ってこれらについての事実を申し上げ、奨学金により大学や専修学校への進学を考えている若者たちが、奨学金制度を安心して利用できる一助としたい。 まず「奨学金破産」について申し上げたい。奨学金返還者のうち平成28年度に新たに自己破産に陥ったのは2009件、返還者全体の0・05%である。これが多いのか少ないのか、立場によって議論も分かれるところであるが、わが国全体の自己破産割合(20歳以上の人口1・1億人に対し、6万3727件の自己破産)は0・06%であることが一つの目安となろう。 ただ、JASSOの立場からは「奨学金破産」という造語自体に違和感を抱いている。それは、自己破産の債務内訳を知り得る限り調べると奨学金のウェイトは平均して2割前後であり、中には億単位の債務のうち50万円が奨学金といったケースも「奨学金破産」とされている。さらに破産者の31%は破産時に奨学金は延滞していない事実もある。大学入試センター試験に臨む受験生ら=2017年1月、東京都文京区の東大 (福島範和撮影) 昨今、奨学金の延滞者に対し「自己破産を勧めている人たちがいる」との報道もあるが、JASSOの立場からは極力法的措置、裁判所の判断に委ねることとしている。理由は2点、すなわち自己破産はJASSOの債権が損なわれ、これは公的資金(国民の税金)のロスにつながること、そして自己破産は返還者本人の経済的な再起を難しくすること、などである。 次に、保証人問題について申し上げておきたい。最近大きく報道されており、世の中的には奨学金制度上の大問題のように受け止められているが、制度全体の極く一部の事象として捉えている。なぜならば、報道では「分別の利益がある保証人に対し全額請求」としているが、対象者は29年度中に167人、22~29年度累計で825人程であり、その比率は、返還者全体の0・02%、人的保証選択者の0・04%と極めて低いためである。 そしてJASSOの「法的には問題ない」との姿勢が誤りとする見解も見受けられるが、改めてJASSOに差入れられている保証人の保証文面を見ると「保証人は本人が負担する一切の債務につき債務履行の責を負う」と明記されている。ただ、法的な議論はさておき、奨学金絡みで一人でも問題を抱えている人がいるとすれば、JASSOは問題解決に向け、前向きに対応しているので積極的に相談窓口に連絡していただきたい。「給付型」は理想論 私は平成23年7月に理事長に就任して以来7年有余、様々な課題に直面しながら関係者、とり分けJASSOの職員と共に走り続けてきた。解決できたこと、まだまだ途上にあるもの、さらには新たな課題も発生しているが、それらは大きく入口、真中、出口と三つの時間軸に存在する。 これは奨学金の申込者への対応に課題が集約される。手続きが煩瑣(はんさ)、分かりにくい、説明書の字が小さいなど、ここでは本人、保護者らに対する親切な説明と同時に高校らの先生方の協力も不可欠と認識している。このため、29年度から日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協力の下、スカラシップアドバイザー制度を創設、約3千人のアドバイザーを高校などへ派遣して丁寧な説明に務めている。 要望があれば大学などのオープンキャンパスに出向くこととしている。ただ、毎年のように奨学金制度の変更や新設があり、とりわけ学校現場からの苦情、要望が多いのが実情だ。これらにいかに親切に対応していくか、大きな課題と認識している。 そして、まず第一の課題は在学中の適格認定の問題で、すなわち奨学生としてふさわしい状態にあるかについて、大学などにしっかり把握してもらう必要がある。現在の制度が形骸化しない工夫も必要と考えている。第二は貸与学生の金融リテラシー向上のサポート。現在新入生の段階で、「本当に必要な金額?借り過ぎに注意!」と啓蒙しているが、在学生に対しても同様のアピールをすると同時に、減額や貸与辞退も可能と呼びかけている。第一、第二の課題は奨学金と勉学とを学生たちにどうリンクして意識づけるか、ということであり、この面での学校サイドの理解とJASSOとの連携強化も大きな課題である。 JASSOの貸与奨学金は通常、卒業してから半年後の10月に返還が始まる。前述の様にこの返還率は新規返還者で97%、全体でも96%と極めて高い。しかしながら、母集団が大きいため人数的には、全体で15万7千人が3カ月以上の延滞者となっている。確かに16万人近くが延滞しているが、逆に410万人は通常通り返還しているのは誇るべきことである。 しかし、JASSOとしては、延滞状況に陥った返還者への対応、すなわち前述のセーフティネットのさらなる充実が大きな課題である。そして、自己破産や保証人問題が指摘される中、保証人制度の抜本的改革も基本的な課題として視野に入れるべきであろう。すなわち、奨学金の人的保証制度を廃止し、機関保証制度に一本化するということである。もちろんこの実現のためには、保証機関、保証料率の水準と徴収方法、既往返還者への対応など検討を要する事項も少なくないが、フィージビリティスタディ(実行可能性調査)を開始すべき時期にきているのではなかろうか。学生らに胴上げされる東大合格者ら=2011年3月、東京都文京区の東大(三尾郁恵撮影) 奨学金制度改革の理想は全て返還負担のない給付型にすることであろう。しかし、全て給付型の先進国では、財源としての消費税率は20~30%と高く、わが国の実情からはなかなか難しい。従って今後の現実的な対応としては、貸与型に給付型をミックスし、貸与型をより返還者の立場に立って改善していくことである。 幸い現在法的にも給付型が可能となり平成30年度から本格的にスタートしているのは、その一つの足掛りとなろう。また、29年度から全て機関保証を条件とし、所得に応じ返還額が変動する新たな所得連動返還制度も始まっている。こうしたことの拡充により「日本型」の奨学金制度がより進化していくことを願って止まない。

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    奨学金取り立てが「サラ金と同じ」でどうする

    べる現状からすればマイナスの変化にもなりかねません。 奨学金の制度は、本来は子供が高校や大学等の高等教育を受ける際に経済的負担が大きくなるものの、その後就職して経済的に充実していくという流れを前提に、一時的にお金が不足する期間のある学生に、お金を貸し、卒業後の経済活動で返済していくことをモデルとしているものと考えられます。しかし、現在学生たちが置かれている経済状況を前提にすると、就職難、ワーキングプア、非正規雇用など、実際にはモデルのように生きることが難しい現実があります。 奨学金に関して、学生側が意識的に検討すべき内容として、教育機関で得られるものとそれにいくらお金を払うかということを冷静に見るべきでしょう。大学に行く目的、そこにかける費用は「みんなが行くから行こう」と思って行くには、随分と高くつくようになっていると思います。 もちろん、奨学金は、学生が無金利または低い金利でかなりの金額を借りることができる非常に有り難い制度であって、さらには返済の際に返済期間の猶予制度などもあり、適切に制度を利用すれば奨学金制度は好ましいものでしょう。 しかし、今回の問題でも明らかになったように、日本学生支援機構は、返済の際には普通の金融機関と同じように、厳しい請求をします。だからこそ、奨学金を借りる時には、なぜ借りるのか、なぜお金を借りても学ぶのかを吟味する必要があるでしょう。※画像はイメージです(GettyImages) また一方で、仮に酷に思える回収をせずに、日本学生支援機構が貸与した奨学金を返せる人から回収できていないとなれば、次の世代への貸し付けをする原資がなくなり、奨学金として貸したお金を無駄にしてしまうという別の問題になりえます。 学生の経済的困窮を教育期間中に軽減することが奨学金の目的であり、保証人からの回収というのは、そもそも借りた学生本人とその連帯保証人の親が返済できなかったことを意味しています。その意味は、単に日本学生支援機構の取り立てが公正性を欠くということ以上に、この国の若年層の経済事情と教育制度のあり方についての課題を提示していると考えられます。

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    「奨学金は借りたくない」キャバ嬢学生の思いは本当に甘えなのか

    ので、学力が足りなければ公立や私立へ進学するしかない。 さらに、学力は、幼少期からの塾通いなど多額の教育投資ができる富裕層ほど高くなる。東大生の親は約6割が年収1千万円以上だ。国立教育政策研究所の濱中義隆総括研究官によるデータ解析では、国立大生の親の方が、公立や私立よりも「年収1050万円以上」「850~1050万円」の割合が高いという。皮肉というべきか、授業料の安い国立大に通うためのチケットは、富裕層ほど安く手に入るのだ。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) 以上のことから、もはや高い学費を払って国立以外の大学に通う学生は多数派であるといえる。親の収入状況で進学先が左右される以上、借金してまで大学に通う学生を「本人の甘え」とか「努力が足りない」などと非難するのは早計だ。 ある女子学生は、学費と生活費を補うため、ファストフード店でアルバイトを始めた。時給800円。授業の後に1日3時間働いて週4日、1日2400円、1カ月で4万円にもならず、毎月12万円かかる生活費が払えない。利益と搾取に「絶望」 ある日、繁華街で配られているポケットティッシュに「誰でも簡単、高収入」の文字を見つけた。「お酒が飲めなくてもOK」「週1日~時給4千円以上、1万円も可」と書いてある。ファストフード店と比べておそろしく魅力的な条件だった。そう、キャバクラである。 拙著『キャバ嬢の社会学』でも述べたが、キャバクラやガールズバーの多くは、水商売の初心者でも「気軽に」働けることをウリにしている。「飲酒なしでOK」「ノルマなし」「未経験者歓迎」など、若い女性ならほとんど誰でも良いというようなキャッチコピーで人を集めるのだ。 彼女は勇気を出して面接へ行った。ニコニコしたおじさんが出てきてシステムの説明をされ、身分証を提示したら、その日から働くことができた。夜中の12時まで4時間働き、1万6千円を手にした。ファストフード店の5倍。親への罪悪感はあったが、学費を払うために四の五の言う暇はなかった。 そこからは、週3回キャバクラ勤務の日々が始まった。毎月12万円の生活費、年間100万円の授業料は払ったが、寝ずに授業へ行く日が続き、ノルマのために深酒するようになった。2年以上、キャバクラ嬢として売り上げを上げ続けたが、ある日、色恋に狂った客からレイプされそうになり、店のスタッフがそれを止めなかったことで、全てが嫌になった。自分が若さや女を売りにして利益を得ることが、搾取されることと表裏一体であることに絶望したのだ。 「ものすごく傷ついたし、学費を払うためにどうしてこんなに苦労しなきゃいけないのか、最悪だと思った。でも、いろいろ大事な経験をしたと思う」と、彼女は静かに語った。 これは私の肌感覚だが、2008年のリーマン・ショック後に、キャバクラ嬢として働く女子大生が急激に増えた。理由はほとんどが「親の仕送りがなくなったから」。一見するとキャバクラで勤務しているようには見えない、というと語弊があるが、世間が思う派手なキャバクラ嬢とは違う、「真面目そうな普通の女子大生」が夜の店で働くようになった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 時を同じくして、ガールズバーやラウンジなど、キャバクラよりもさらに「ゆるい」形態の水商売が盛り上がりを見せた。飲酒しなくてよい、私服でよい、髪の毛をセットしなくてよい。接客はカウンター越しで、セクハラの心配も少ない(ということになっている)。夜の仕事のハードルはどんどん下がり、親の仕送りに頼れない学生や、生活費にゆとりが欲しい学生の一部がそこへ流れていった。 「大学のユニバーサル化」は同時に、「水商売に従事する大学生のユニバーサル化」も進めた。男子学生さえ、例外ではなかった。「やっぱり病みますよ」 「奨学金とか高いじゃないですか。借金するくらいなら、自分で稼いだ方が全然いいと思ったんで」 ある男子学生は、親が無理して通わせてくれた理系学部の授業料、年間200万円を工面しようと、新宿の歌舞伎町でスカウトマンの仕事を始めた。街で女性に声をかけ、風俗産業へと斡旋(あっせん)する。別の大学の友人は、週1日の出勤で月収30万円を稼いでいた。「完全自由出勤」「完全歩合制でノルマなし」という条件に引かれた。これなら授業と両立できる。 面接は雑居ビルの一室で、スーツを着たコワモテのお兄さんたちに囲まれて怖かった。「とにかく女の子に声をかけて、キャバクラか風俗店に連れて行って」と言われ、新宿へ通う日々が始まった。 女性と話すのは好きだったので、ナンパのようなノリで声をかけ続けるのも、それほどつらくはなかった。大学の同級生からは「女性にモテる」「コミュ力が高い」と褒められるようになった。 キャバクラ嬢を新しい店に紹介できれば、店から一件あたりいくらかの収入が手に入る。性風俗店なら、その女性が勤務し続ける限り、女性の給料の10%が彼の懐に入り続ける。月収は30万円を超えた。だが、本音は「やっぱり病みますよ」。 「女の子の愚痴や色恋の管理とか、あとは罪悪感。ヤバい人たちとの絡みもたまにありますし。でもこれ以上稼げる仕事はないです。やりがいもあるし。でもそろそろ単位が危なくなってきたので、ちょっとキツいですね」 信じられない人もいるだろうが、多くの学生にとって夜の世界は、奨学金に頼らず学生生活を送るための手段になっている。学費のためにキャバクラやクラブ、性風俗店などで働く大学生のほとんどは、奨学金を借りていない。そして、たいてい私立大に通っている。彼、彼女らは「自立」するために、大人の社会に依存する。いずれも「親に甘えずに」大学へ通おうとした結果である。 ある女性は、学費のために銀座のクラブで働いたが、その目的は「クラブに来る客の中から、自分を経済的に支えてくれる人を探すためだった」という。20歳の彼女が見つけたのは59歳の会社役員。学費を払ってもらう代わりに、体の関係を提供している。 深夜まで勤務するホステスやクラブは学業と両立できないので、「スポンサー」ができたらすぐにやめるつもりだった。還暦間近の男性とホテルで会うたびに虚しさが募ったが、最近は慣れてきたという。大学を無事に卒業し、無借金で社会に出ることが彼女にとっては何より大切だからだ。「貸与型」では限界 友人にも似たようなパターンの女子大生は多いという。昨今流行りの「パパ活」も、一部は学費を捻出するために行われているのかもしれない。 彼女たちにとって、学生生活を送ることはお金を稼ぐこととほとんど同じである。それでも大学へ行きたい。親には頼れない。でも奨学金は借りたくない。だから大人の社会を利用し、また利用されてお金を稼ぐのである。それでもまだ、「甘えるな」と言う資格が私たちにあるだろうか。 「そこまでして大学へ行く必要があるのか」という問いには、こう答えよう。高等教育の充実は社会的な善であり、よほどの代替案がない限り、大学進学率の上昇は歓迎されるべきことだ、と。やみくもに「大学へ行くな」という権利など誰にもない。 学生を借金漬けにする、もしくは学業に支障をきたすほどのアルバイトを強いる。言うまでもなく、これほど高額な授業料がそもそも問題なのだ。対処するには、全大学の8割を占める私立大が、貸与型ではなく給付型の奨学金制度を増やさなければならないだろう。授業料の減免制度を設けている私大は多いが、個別の大学ごとの格差が大きい上、学生の授業料負担を平均して下げる効果があるとまでは言えない。 だからこそ、私大同士が垣根を越えて資金を出し合い、給付型の奨学金制度を新たに作ることが望ましい。まずは生活費負担が相対的に重い、都市部の私大から連携を始めてはどうか。 こうした大学のうち、特に難易度が中程度から高程度のマンモス校は、地方からも多くの学生が集まる。地方から都市部へと、若年人口を吸い上げる代わりに、給付型の奨学金で彼らの生活費負担を少しでも下げることはできないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 資本の論理でいけば、こうした提案は利潤追求に反するかもしれない。が、若者に「甘えるな」と自己責任論を押し付け、やたらと高額な学費を吸い上げる高等教育機関など、無責任以外のなにものでもない。 大学とは経営主体である前に、教育理念を持った社会的存在であるべきだ。2人に1人が進学する時代だからこそ、「大学の社会的責任」を、学費負担という観点からも検討すべきではないだろうか。

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    「学歴」が分断する現代日本社会

    な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。 ―学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) ―トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。学歴による高い同質性 ―日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013~14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。 ―半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか? 吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。 ―吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。 吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社) 彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。 ―なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。 吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。なぜ切り離されているのか ―なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか? 吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。 ―彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか? 吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。 ―多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。 吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。ほんだ・かつひろ ライター。1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    奨学金に絡む自己破産者は15000人以上 増加傾向にあり

     「まさか大学に行ったことが、人生の“枷”になるとは、予想だにしていませんでした」。都心の飲食チェーン店でアルバイトをして暮らすA子さん(28才)は、ガックリとうなだれる。 東京の有名私立大学を卒業後、念願のアパレル業界に入社。しかし残業は毎月70時間を超え、給与は雀の涙。完全にブラック企業だった。人間関係にも悩み、わずか2年間で退職。以降、派遣やバイトなど非正規で働く日々を送っている。そんな彼女に今、重くのしかかるものがある。「学生時代の奨学金です。合計300万円超。まだ半分も返済できていません。社会人になったら毎月2万円ずつ返す予定だったのですが、延滞し続けていて…。現在、アルバイトの給与が月に手取り11万円で、家賃が5万円。生活費の5万円を引くと、どうしても払うことができないんです」 そう話すA子さんは最近、真剣に自己破産を検討しているという。 「奨学金を借りた日本学生支援機構(JASSO)からは催促の通知が絶えません。ただ、自己破産しても連帯保証人である親に支払い義務が行ってしまうので、それも申しわけなくて。もう、どうしたらいいのか…。完全に袋小路に追い詰められています」(A子さん) 彼女のケースは氷山の一角だ。昨今、学生時代の奨学金の返済ができずに破産する人が激増している。JASSOによれば、返済の滞納が3か月以上続く人は、16万人(2016年度末時点)。「今後決められた月額を返還できる」と回答した人は3割強しかいなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 奨学金に絡む自己破産者は、2016年までの5年間で1万5338人。内訳は本人が8108人、保証人が計7230人。2016年度は過去最高の3451人が破産した。「年収300万円以下など低所得者を対象にした奨学金の返済猶予制度の猶予期限は10年。期限切れによる自己破産者は今後さらに増える見込みです」(全国紙記者) なぜこんな事態になったのか。『ブラック奨学金』(文春新書)の著者でNPO法人『POSSE』代表の今野晴貴氏が語る。「根本的な原因は学費の高騰です。国立大の授業料は2017年時点で年間約53万円。過去40年で15倍近く上がっている。私立はさらに高い。入学金も含め、4年間支払うのは家計に大きな負担がかかります。結果、奨学金に頼る学生が急増しました」 現在、奨学金の受給者数は130万人にのぼり、20年前の46万人から3倍近く増加した。学生の2人に1人がなんらかの形で奨学金を借りている状態である。ここに、就職難とブラック企業問題が重なった。「MARCH(明治、青学、立教、中央、法政)を出ても非正規労働者がゴロゴロしている時代です。正社員でも過重労働で超低賃金というブラック企業も多い。体調を崩して休職したり、辞めてしまったりすると、奨学金の返済は至難になります」(今野氏)関連記事■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 早稲田vs慶應 奨学金の延滞人数は早大が慶大の3倍■ 奨学金受給率と入試難易度に相関関係 難関大ほど受給率低い

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    「高等教育の無償化」が救うのは学生でなく倒産危機の大学

     安倍政権が打ち出した「高等教育無償化」は、“奨学金を借りる学生を減らす政策”に見える。だが、本当にそうか──。 過当競争で私大の4割が定員割れを起こしているのに加えて、今年から18歳人口が急激に減少に向かい、奨学生が払う学費では大学経営が維持できなくなってくる。安倍政権の掲げる「大学無償化」からは、“奨学金でこれ以上、大学生を増やせないのなら、授業料を国が払って18歳全員が大学に行けるようにしよう。そうすれば大学は生き残れる”という発想が透けて見える。元文部科学省審議官の寺脇研・京都造形芸術大学教授が指摘する。「無償化がすべての大学を対象にするなら、三流大学は大喜びですよ。タダなら大学行こうとみんな入学してくれる。例えば総理の友人が経営する加計学園グループは岡山理科大学以外は定員割れ。そうした大学の救済措置と言われても仕方がない」 日本学生支援機構のデータから加計グループ3大学の奨学金受給率を見ると、岡山理科大(50.7%)、倉敷芸術科学大(57.0%)、千葉科学大(51.7%)と奨学生によって経営を支えられていることがわかる。その中でも安倍側近の萩生田光一・自民党幹事長代行が客員教授を務めていた千葉科学大の奨学金延滞率は2.1%と全大学平均(1.3%)より高い。 安倍政権の大学無償化の最大の問題は、大学の生き残りが優先され、「大学生に国が投資し、国に利益が還元されるか」という重要な視点が抜けていることだ。卒業生に借りた奨学金を返済するための「生活力」を持たせられない大学の授業料を無償化して学生を通わせても、国は税金投入に見合うリターンを得ることができるはずがない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 安倍内閣の大臣には、大学経営の経験者がいる。奨学金延滞者数ランキングでワースト3位の近畿大学元理事長である世耕弘成・経産相だ。近大卒業生の延滞をどう考えるのかぶつけると、事務所を通じてこう回答した。「経営から離れて5年以上経過していることもあり、ご質問に答えることは差し控えさせていただきます」 大学無償化の本当の狙いは、奨学生が背負いきれなくなった私大経営の支援を、納税者に肩代わりさせることではないのか。そうなる前に、卒業生の「生活力」を基準に大学を評価する“目”を受験生とその親が、そして全国民が持つことも必要になってくる。●取材協力/峯亮佑(フリーライター)関連記事■ 女子大生風俗嬢を生み出す「奨学金制度」の弊害■ 私大トップクラスの「奨学金返済能力」を誇る大学は?■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋

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    「泣き虫先生」は時代錯誤なのか

    ラグビーファンならずとも、「泣き虫先生」と呼ばれた元日本代表、山口良治監督を知っている人は多いと思う。伏見工の不良生徒たちを率いて全国制覇したサクセスストーリーは、ドラマ『スクール☆ウォーズ』でも描かれた。とはいえ、昨今のスポーツ界はパワハラ問題が吹き荒れる。熱血指導はもう時代錯誤なのか。

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    泣き虫先生独白「愛のムチなしに本当の指導ができますか」

    山口良治(元伏見工業高校ラグビー部監督) 最近、アマチュアスポーツ界で「パワハラ」と騒がれることが多いですが、思うことはたくさんあります。 なんでも「言ったもん勝ち」という風潮で、これでは指導者が何もしないことが正解のように感じてしまいます。しかし、「手を触れあう」ことなしに、本当に指導が行き届くのか、疑問に思ってしまうのです。 私はかつて伏見工業高校(現京都工学院・京都市伏見区)のラグビー部で監督をしていました。いわゆる「不良」が多い学校でしたが、顔が一人一人違うように、育った環境やしつけられ方がそれぞれ違います。両親が不仲だったり、逆に甘やかしすぎだったりね。 お母さんが早くに亡くなって、いつもお弁当を持ってきていない生徒もいました。その生徒にはおにぎりを渡したりしましたよ。思い出すだけで涙が出てきます。一人一人の人生の背景を思うと、たまらなかった。私は生徒のその先の人生まで考えて、本気で向き合って接していました。 当時、学校内でラグビー部は「山口収容所」なんて呼ばれていましたが、多い時で120人ぐらい部員がいました。指導した生徒は、みんなラグビーの試合中に大きなけがや事故なく、指導生活を終えられたことを、私は誇りに思っているんです。 学校の中には悩みを抱える生徒を見て見ぬふりする教員もいて、「なんでほっとくんだ」っていう憤りが強かった。もちろん、そういう気持ちを正当化してくださいと今言うつもりもないですがね。本当は、知らん顔をしている先生のほうが「賢い」んでしょうけど、私はほっとけなかった。 私は、その生徒がもし自分の息子や弟だったらと考え、本気で愛情を持って接するからこそ、親の前で泣きながら生徒に手を上げたこともありました。本当に一生懸命やっていればわいてきます、涙なんてものは。ほっとけなくて、伝えるために手を上げる、その判断は非常に難しいものでした。レギュラー一人一人にジャージを渡す山口良治・伏見工総監督(右)=2008年1月、奈良県(吉澤良太撮影) とはいえ、スポーツを指導することは、大変難しいことです。特にラグビーというスポーツは、恐怖に打ち勝ち相手にぶつかっていかなくてはいけません。体操の宮川紗江選手が体罰を受けていたと報道され話題になりましたが、体操も同じでしょう。あんな高い鉄棒で技を決めたり、平行棒から飛び降りたり、命の危険もありますし、怖いはずです。つらいこともたくさんあるでしょう。 ただ、指導する側はその恐怖を代わってあげることができないだけでなく、怖いことをやらせなくてはいけません。その恐怖に打ち勝てるようにするための指導を、パワハラや体罰だと選手が感じないようにと考えながら、また周囲の目を気にしながらするなんて、果たしてできるのでしょうか。 宮川選手はコーチの意図が分かっていたんだと思いますよ。命がかかった練習の時、コーチの一言で救われたことは多々あったでしょう。そんな関係性を知らない人たちが外から騒ぎ立ててニュースになっていく今の世の中は、なんだかおかしな方向にいってしまうのではないかと危惧しています。日大アメフト問題の本質 日大のアメフトの問題も、監督をしていたら、「相手を狙え、やっつけろ」なんて当然言いますよ。あれは言った言わないの問題ではなく、実際にラフプレーをした選手のスポーツマンシップが問題だと思います。 アメフトという危険なスポーツをやるにあたって、敵味方関係なくスポーツマンシップにのっとって信頼関係を築くのは当然です。もちろん、監督とのコミュニケーションの問題もあるでしょうが、やった選手はレギュラーになりたいとか、試合に出たいという気持ちから故意にあのような行為に至ったものなら、私には理解しがたいですね。 一連の体罰やパワハラの問題は、親子関係にも通ずると思います。このところ、若者の残念なニュースも多い。最近、バイクの事故で若者が複数亡くなりましたね。誰か間違っていることを教えてあげられる大人はいなかったのかと、歯がゆい思いを抱くことが多いです。 愛に飢えている子供たちがほっとかれているんじゃないでしょうか。今は親が手を上げても「体罰だ」と言われます。でも、親のしつけがしっかりしているのが本来の日本でしょう。 親には子供の命を守る責任があります。それにもかかわらず、言わなくてはならないことを言わない親が多い。「言ったもん勝ち」のハラスメントで、親子のしつけすら揺らいでいるわけですから、スポーツの指導はさらに難しくなるのではないでしょうか。 今の「言ったもん勝ち」のハラスメントが加速すれば、ますます「何もしない大人」が増えるでしょう。私も75歳になり、本当は表に出ず何も言わない方が楽だったのですが、元指導者として気になるニュースですし、誰かが言わなければならないだろうという気持ちがあったからこそ、インタビューを引き受けたわけです。日本一を決め感極まり、スタンドでガッツポーズをする伏見工の山口良治監督(中央)=1993年1月7日、東大阪市の花園ラグビー場 私がお伝えしたいことは、単純に「体罰を容認せよ」ということではありません。指導者と選手の間にあるものを言葉にするのが非常に難しいですが、一番大事な問題の本質は、「愛情を伝えられているか」ということだと思うのです。技術は伝えることができるかもしれませんが、目に見えないものを伝えるには愛情が必要なんです。選手に「勇気」を奮い立たせてほしい時、言葉で説明して伝えるなんてできますか。 時代は変わったと思います。しかし元指導者としてどうしても「言ったもん勝ち」の風潮と、今の若者たちが心配です。本当に大事なことは「愛」なんだと、そして「愛」を本気で伝えるにはどうしたらいいかを、世の皆さまに今一度考えてほしいと思います。(聞き手/iRONNA編集部、中田真弥) やまぐち・よしはる 京都市立伏見工業(現・京都工学院)高校ラグビー部総監督。昭和18年、福井県生まれ。日本体育大卒。元ラグビー日本代表。50年に伏見工業高校ラグビー部監督に就任、後に総監督を務める。全国的に無名だったチームを育てあげ、また情に熱い指導が多くの反響を呼び、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公、滝沢賢治のモデルとなった。

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    「体罰禁止で指導者が去勢される」ヤクザ先生が憂う教育の危機

    野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家) 人間が人間を教育(指導)する世界はロゴス(理論)ではなくカオス(混沌)である。論理で成立するのであればコンピューター教育や人工知能(AI)で事足りる。なぜ人から人なのか。ここを正しく認識せずして「人間教育」は語れない。女子体操の宮川紗江選手の訴えはその原点を炙(あぶ)り出して見せた。18歳のいたいけな少女は都内で記者会見し、練習中に暴力があったことを認めた上で処分の軽減を求め、速見佑斗コーチの指導継続を訴えた。  「1年以上前までたたかれたり、髪を引っ張られたりした」と暴力を認めた上で「暴力は許されずコーチも反省している」とし、「処分が重すぎる。速水コーチと東京五輪で金メダルを目指したい」と述べた。 彼女にとっては「暴力」と受け止めたことはなく、命やケガの危険性がある場合に厳しく指導されており、本人も家族も納得していたという。その一方で、塚原千恵子強化本部長らからパワハラを受けていたとも主張。「五輪に出られなくなる」などと圧力をかけられたほか、海外派遣選手の恣意(しい)的な選考があったと訴えたのは記憶に新しい。 この事件は二つの要素を含んでいる。「暴力」と呼ばれる速見コーチの体罰と塚原夫婦の「権力」を使ったパワハラである。連日、テレビのワイドショーは大騒ぎした。その中で特に気になったのは、速見コーチの一連の行為が疑いもなく、暴力という代名詞で報道されたことである。しかし、これは指導過程における「体罰」なのである。暴力は傷害であり、犯罪である。 むろん、体罰は行き過ぎれば暴力であるが、あくまでもこれは指導過程の一貫である。そのことを彼女も理解しているので、暴力を受けたという自覚がないのである。 体操は誠に危険をはらんだ競技である。競技中の事故で半身不随になったり、亡くなった人もいると聞く。彼女によれば、コーチからは集中力を欠いたり、遊び半分のように練習したときに叩かれたことがあったという。 速水コーチの行為はどうあれ、その方向性(ベクトル)は宮川選手をより伸ばすために用いられている。一方、塚原千恵子氏のパワハラは、宮川選手の思いから見れば、選手生命を閉ざし、意欲をなくす方向へと向けられている。どちらが正義に近いのか、一目瞭然であろう。 しかし、そのことに触れるコメントを一切聞くことはなかった。宮川選手から見ればコーチの行為は「善行」、塚原氏の行為は「悪行」である。私は、ワイドショーなるテレビ番組が「私刑(リンチ)ショー」であると感じている。一つの悪者を決めつけるとあらゆる人たちが徹底的に叩く。スタジオにはMC(司会者)に賛同する者たちが呼ばれ、台本に沿って悪者を締め上げる。その悪者の代表は体罰である。 「体罰=暴力=悪」であるという金科玉条(きんかぎょくじょう)の印籠を振りかざし、大衆はそれにひれ伏すという図柄である。世界的トランペッター、日野皓正(てるまさ)氏の体罰事件のときもワイドショーは大々的に扱ったが、そのビンタ事件のときは動画が流れた。すると叩かれた生徒の態度の一部始終が放映されるや、形勢は一気に逆転。ついには有名芸能人が「俺でもあんなやつはビンタくらいする」という発言が出た。男子中学生への体罰について会見するジャズトランペット奏者・日野皓正氏=2017年9月1日、羽田空港(撮影・佐藤徳昭) 決定的だったのは、空港でマスコミに取り囲まれ、すかさず詰め寄られると日野氏はこう言い放った。「君らのようなマスコミが日本文化を駄目にしてきたんだ!」と。「現場の関係も分からぬ者たちが論理だけで言うな。本当の師弟のぶつかり合いを前時代的な遺物として葬るな!」「モノづくりや真剣な教育はそんな単純なものではない!」などと言いたかったに違いない、と私は拝察する。これはあくまで私見であるが…。 その後、日野氏に同調する世論を敏感に読み取ると、この事件は何事もなかったかのように報道されなくなったのである。追い込むことは選手に必須 そもそも朝日生命体操クラブという私的な指導者が夫婦で体操協会の幹部であり、絶大な権限を持っていることも歪(いびつ)である。過去において、正式な競技会で自クラブの選手に不可思議な採点方法で高得点を与え、他チームから大会をボイコットされた前歴を持つ指導者である。ボクシング協会による審判不正「奈良判定」に匹敵する不祥事であるが、その責任を取って一度は役職を引いた人間が再び重要ポストに返り咲いたことも、面妖なことである。 塚原光男副会長と親交のある人物は彼のことをこう証言する。「さっぱりしていて男気で、よく若い者を食事に連れて行ったりする優しい人です」と。しかし、パワハラとこの人物像とは何の関係性もない。「巧言令色 (こうげんれいしょく) 鮮(すくな)し仁」である。何よりも悪いのは、守りたい組織と自分が経営するクラブが等価値となっており、そんな夫婦が協会の上層部で権力を振るっていることである。 組織の長に登り詰めた人間が「権力」の魔力に陥って、「公」と「私」の使い分けができなくなった典型とも言える。彼らは私(自分)を優先したパワハラを行った。18歳の少女を権力が集中している夫婦の通称「千恵子部屋」という部屋に一人呼ぶことの意味と、その恐怖が彼らには理解できないのだろう。彼らは「私」を行使したが、私は「公」(選手)を育てる過程での体罰、パワハラは必要であるという信念を持っている。 技術(理論)を超える精神論が結果を導くために不可欠であることは、衆目の一致するところだろう。どんなに立派な技術や体力を保持しても最後は「心が体を動かす」のであり、メダリストや一流アスリートは結局のところメンタル(精神)を語る。「根性論」は過去の悪癖の代名詞だが、どんなに科学的、理論的といえどもその実践は根性論からなる精神の昂(たか)まりである。強い精神力を作るためにも本人を鍛錬して“追い込む”ことは必須である。開星高校の野々村直通監督(当時)= 2011年8月14日、甲子園球場(恵守乾撮影) その追い込みの過程でパワハラ扱いされ、指導者が追放されていいのか。情熱ある指導者がその熱を削がれ、去勢され、優しいだけの指導者になっていいのか。日本は、すべてが中庸で、ナチュラルで、ニュートラルな中性的民族に向かっているようで強い危機感を覚えている。 「暴力」は犯罪である。しかし、「体罰」はそもそも教育における指導の手段の一つであり、「学校教育法」で禁止されている現状があるというだけのことである。体罰は本当に「絶対悪」なのか。どんな状況においても絶対に行使してはならないものだろうか。今こそ真剣な論議が待たれるところだが、今の軟弱な日本では遥かに望むべくもないことであろう。

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    戸塚宏手記「『体罰は悪』の論理を誰がつくったか」

    戸塚宏(戸塚ヨットスクール校長) 私は工学部出身である。それなのに図らずも文科系の教育分野に入り込んでしまった。そこでまず、感じたのが「何という非科学性、非論理性」である。科学の定義は「再現性」である。その理論、法則に従って行動すれば、必ず所期の成果が出る。 厚生労働省などによると、大学を卒業した若者のおよそ3割がニート(就学も仕事もしていない若者)だという。また、ニートにならず、会社で働き続けている者も仕事の能力は下がっているようだ。これは日本がやがてつぶれるということであり、私は全て教育の失敗によるものだと考えている。 そもそも、教育教育論により行われる。教育が失敗するのはその教育論が間違っているからだ。つまり、非科学であるということだ。正しくかつ科学的教育論で行えば、教育は荒廃しないし、ニートなどできはしないはずだ。 それなのに文部科学省は今の教育論にしがみつき、変えようとしない。「偏差値秀才」という教育の失敗者の多くが官僚やマスコミ人となったからだ。偏差値秀才は自分が偉いと思わないと生きていけないので前言にしがみつく。そして反省する能力がない。 「君子、豹変(ひょうへん)す」とは、大物は間違っていると分かればサッと正すことができるということである。前言にしがみつくのは偏差値秀才が小物である証拠だ。おかげで何百万という若者の人生が無駄なものになっている。誰がその責任を取るのか。 また、教育論は精神論からつくられる。今の教育論をつくる精神論は欧米のラショナリズム(理性主義)だ。ラショナリズムは科学ではない。宗教と哲学が融合したもので創造論である。科学と呼べる代物ではない。戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長 それに比べて「大和魂」(日本民族固有の精神)はラショナリズムとは真逆であり、最も科学的な精神論だ。それゆえ、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が精神のクーデターを起こし、大和魂をラショナリズムに替えさせた。 そして日本の官僚やマスコミは偏差値秀才だからマッカーサーの「ポチ」となり、それをありがたがった。大和魂を身につけていればそんなことはしないのだが、偏差値秀才は思考力、人間性、行動において劣るため、大和魂は身につけられない。だからアメリカの思うままに操られてしまった。 そこで「体罰は悪」は科学かどうか考えてみよう。「体罰は悪」という意見を持っている人にぜひ問いたい。体罰の定義は?  善悪の定義は?  この二つが科学的に定義でき、しかもそれがシミュレートできるなら「体罰は悪」は科学だ。だが、一体これを誰ができるのか。体罰の目的は進歩 そもそも「体罰は悪」をふりまき、日本中の意見を統一してしまったのはマスコミだ。マスコミに逆らうと人生を破滅させられてしまうので、みんな同じ意見になってしまった。 本来、体罰の定義は「進歩を目的とした、有形力の行使」である。体罰を受ける側の利益を目的としているのだから当然、「善」である。与える側にはなんの利益もない。見かけはよく似ていても暴力は与える側の利益のために行われる。要は、体罰と暴力は目的が逆なのだ。 だから、われわれの子供の頃は体罰を受けると心の底から「ありがとうございました」と言えた。体罰を生かす能力があったからだ。今はその能力がないからすぐに「教育委員会に訴えるぞ」となる。 善悪は性善説で判断するものだ。「天の命ずる、これを性という」(儒教の基本思想を示した経典の四書の一つ「中庸」より)。われわれの精神の中で、天の命じたものは本能である。性善説とは、本能は善ということなのだ。 ラショナリズムは「理性が善、本能が悪」なのだから性悪説だ。それなのに彼らはラショナリズムを性善説と言いくるめる。この自分たちに都合のいい精神論を正しいとして、欧米人は「世界征服」を繰り返してきたではないか。 先にも述べたが、世界一正しく善である精神論「大和魂」を悪のラショナリズムに替えたのはマッカーサーの命令ではあったが、それを忠実に守る「ポチ」の官僚とマスコミの罪である。双方とも文科系の偏差値秀才の成れの果てである。思考能力がないゆえに南蛮渡来の精神論に飛びつき、しがみつく。 そして、「日本人は愚かだが、私は優れている」と言い出す。現場に出ると自分のダメさ加減がばれるので上から目線で現場を見る。大和魂はこれを許さない。大和魂は「心身一如」(肉体と精神は一体)であり「知行合一」(知識と行為は一体)だからだ。知っているということは、それをできるということなのだ。 だから大和魂では、本来ジャーナリストも批評家もできない。それができるのは、悪の精神論であるラショナリズムを正しいとしているためだ。正しいと確信していなくても都合がいいと知っているからだ。 誤報で人を傷つけても「表現の自由」「報道の自由」で逃げられるので平気で悪いことをする。そのくせ「自由」とは何かは知らない。「権利」もそうだ。「子供の権利を守れ!」とヒステリックに叫ぶが、権利とは何かを知らない。言われた現場はどうすればいいのか。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) テレビは私を生では出演させない。録画して都合の悪い部分はカットする。自分たちの自由は主張するが、私の自由は認めない。これこそ象徴的な例だろう。 繰り返すが、ラショナリズムは悪の精神論だ。その一形態であるリベラルや左翼はもっと悪だと思う。そのリベラルを信奉するマスコミや官僚は当然、悪である。指導者たちがこれでは日本は滅びる。救う道は大和魂を復活させることしかない。

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    体罰が「ケースバイケース」で許されてはいけない理由

    ものだが、今やテレビの前で悪態をついているおっさんと変わらない。 何か事件があるたびに議論されるのが教育現場でのいじめや体罰問題。10~20年前にはそれこそ、「いじめられる方にも問題がある」「体罰にも愛がある」なんて言説がまかり通ってきたが、さすがにここ最近は、いじめや体罰は悪である、という認識が広まりつつあるように見えた。ようやく。 しかし、ジャズトランペット奏者の日野皓正が壇上で男子中学生の髪をつかみ、往復ビンタしたと報じられている件では、「体罰は絶対に許されないことなのか」という議論が再燃している。男子生徒がコンサート中に身勝手な演奏を続けたため、仕方のない処置だったという論調もある。 もしこれが、会社の中で上司から部下へ行われたことであればパワハラであり、暴行罪もしくは傷害罪に問われる事件になりかねない。たとえ部下が仕事上で暴走したとしても、それを暴力で罰していいという話にはならない。それなのになぜ、指導者から子どもに対して体罰が行われるときだけ、「アリかナシか」の議論になるのか。 それは、「子どもは言葉で言ってもわからない存在だ」「だから体で教えてもいい」という認識を一部の大人が持っているからではないか。自覚的にしろ、無自覚にしろ。 確かに大人に比べて子どもは判断能力に欠けるところがあるだろうし、自分の欲望を理性で止められない部分もあるだろう。「子どもには言葉で言ってもわからない」は、実際に子どもを育てたり指導したりしたことのある人の多くが抱える実感かもしれない。 しかし、「だから体で教えていい」は、おかしいだろう。なぜ大人から子どもに対してだけ、暴力が条件付きで容認されるのか。それは大人側の論理ではないのか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) この件について、ダウンタウンの松本人志が、レギュラーコメンテーターとして出演する「ワイドナショー」で、「わりとシンプルに、この中学生の彼が叩かれたことを『クソ!』と思ったとしたら、指導として間違えていたんじゃないですか? 反省を本当にしたのであれば指導として正しかったんじゃないかなと思うから、中学生の心の中が答えだと思うんですよね」と発言した。 これはかなり問題のある発言だ。体罰を受ける側の反応によって体罰がアリかナシかが決まるのであれば、体罰を行う側はいつでも「こいつと俺の関係ならアリのはず」という見切り発車で暴力を行っていいことになる。「なぜ今はダメ」答えは簡単 実際、日野は事件後の取材に対して、男子中学生が自分の楽屋に謝罪に訪れたことなどを挙げ、「俺と彼との間には親子関係に近いものがあり、問題はない」とも語っている。 また、体罰を「ケースバイケース」で、「許される場合もある」と大人が口にすることの危険性を、松本や松本の意見の賛同者は気付いていないのだろうか。体罰がケースバイケースで容認される世の中であれば、図々しい加害者ほど「自分は体罰をしてもいい」と思い込むだろう。子どもを虐待死させてしまった親が「しつけのつもりだった」と弁解することはよく知られている。 スタンフォード監獄実験の例を挙げるまでもないが、人は与えられた権限によって増長する。しかも教育現場は「密室」の状態になりやすい。 いったん暴力の権限が与えられたとき、それを行使せずにいられる人の方が少ないだろう。教育現場での指導者と被指導者の関係の危うさ、構造の中での強弱関係を認識していない人だけが、したり顔で「ケースバイケース」を口にする。 人間というのはときとして感情的になるものだから、言うことをきかない子どもに暴力を行使したくなる衝動を理性で止められないこともあるだろう。普段、「いい先生」と認識されている人が「ついカッとなる」ことはあると思う。 しかし、それを行ってしまった大人がやるべきことは、「正当性のある暴力もある」と主張することではなく、素直に「手段として暴力を選んだことを謝罪する」ではないのだろうか。 さらに松本は、「我々世代の人はすごく体罰を受けたけれど、今の時代ではそんなものありえへんってみんなよく言うじゃないですか? でも、なぜ今の時代にありえないのか、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ」「なぜ今はダメで、昔はよかったのか、明確な理由が分からないんですよ」とも語っている。 なぜ今はダメで、昔はよかったのか。こんな問いの答えは簡単だ。昔は今のように子どもの人権が守られていなかったから、体罰を辞めてほしい側の意見が通らなかったのだ。 国連で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、日本が批准したのは1994年。松本の子ども時代には、「子どもの権利」の概念がそもそも広まっていなかったのだ。子どもの権利なんて昔だって守られていたと主張するのであれば、それは不勉強が過ぎるだろう。 松本は続けて「体罰を受けて育った僕らは今、変な大人になってないじゃないですか? なんなら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか?」とも語っている。絶句である。 体罰について「今はダメでなぜ昔はよかったのか」程度の問いについて、周囲の誰からも回答をもらえない(もしくは、遠回しに諭されていても気付かない)大人が、常識があってまともなのだろうか。かつて若者から絶大的に支持されていた芸人がただの老害となっていく瞬間を、私たちは目撃している。

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    事前に親に体罰の許可をもらう「合理的スパルタ塾」の高実績

    が指摘する。「本人、親、第三者の誰が見ても悪いことについて体罰を含めた指導を行うのが『合理的スパルタ教育』。たとえば宿題を忘れる、人に迷惑をかける、友達をいじめる、授業を妨害する。こうしたことはすべて体罰の対象になります。本人も自分が悪いとわかっているから『体罰されて当然』と思っているし、保護者からの苦情もありません。むしろ『ここまでやってくださってありがたい』と感激されるかたもいらっしゃる」 集賢舎には現在、小学5年生から高校3年生まで約100人の塾生が在籍する。2017年夏に実施された愛知全県模擬試験では各学年で平均を大きく上回り、特に中学3年生は国語、英語、数学が全県下第1位。またその3教科全て満点で、全県下1位の生徒を出すなどの好成績を収めている。中3の娘をこの塾に通わせている母親は「体罰肯定派」だ。「ホームページを見て、体罰を含む指導と知ったうえで娘を入塾させました。私自身、学生時代に体罰のある厳しい塾に通っていろいろ学んだので、“愛のムチ”は時に必要と考えています。女の子なのでシッペまでにしましたが、男の子だったらビンタを選んでいたでしょうね」 この母親が振り返るように、かつての日本では子供に手を上げる岡田塾長のような先生は、決して珍しい存在ではなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)「この道40年になりますが、開塾当時、体罰は社会的にも当たり前だったし、うちももっと激しかった。たとえば『アメリカの五大湖周辺の重大産業は?』という質問の答えを次回までに覚えてこなかったら、即ビンタでした。保護者から『先生、もっと叩いてくださいよ』と言われることもありました」(岡田塾長) しかし、時代は様変わりしている。関連記事■ やむなく親が子供に体罰を施すときの「正しい体罰のルール」■ 長嶋監督はスパルタ方式 体罰も辞さず江川卓氏「怖かった」■ 子が私立中狙う親にとっては宿題代行を利用するのが合理的か■ 63才婚阿川佐和子 愛に加えコスパ的合理的発想あったか■ 警察官は車を買う時・休日の長距離運転に上司の許可が必要

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    パワハラまがいの熱血監督や鬼上司が通用しなくなった理由

    太田肇氏だ。* * * 次々と表沙汰になるスポーツ界のパワハラ問題だが、高校以下の学校における部活や教育現場でも、教師による生徒への体罰が後を絶たない。 残念なのは、問題を起こしたリーダーの多くが教育や指導に情熱を燃やし、それを生きがいにしてきた人だということである。情熱をもって打ち込んでいるからこそ、選手や生徒が期待どおりの成績を残せなかったり、やる気のない言動をしたりすると許せないのである。 かつてなら少々の行き過ぎがあっても、熱血指導者として評価されてきたかもしれないが、いまではいくら実績があったとしても許されなくなった。そのことがまだ自覚できていないのだ。 職場でパワハラを起こすのも、たいていが古いタイプの管理者像、上司像から抜け出せない人たちである。やたら元気で威勢がよく、人前で自分の存在感を見せつけたがり、自分がこれだけがんばっているのだから部下も同じようにがんばるのが当然だと考える。そして、部下がちょっとでも思い通りにならないと相手の人格を否定するような物言いをしたり、怒鳴ったりしてしまう。チーム力を高めるのは、一歩引いたリーダー 冷静に考えてみたらわかるように、リーダーとフォロワーは立場が違うのだから、リーダーが自分と同じ「熱さ」をフォロワーに求めるのは無理がある。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) しかもリーダーがフォロワーにぶつける情熱と、フォロワーの情熱とは連動しないばかりか、反比例することが多い。リーダーが熱くなるほど、フォロワーは冷めてしまい、「どうぞ勝手にやってください」という気分になる。リーダーはむしろ一歩引いたほうがフォロワーに自発性が生まれ、成果もあがるケースが多い。熱血が通用する時代は終わった アマチュアスポーツの世界には、それを裏づけるようなエピソードがたくさんある。 高校野球の強豪、智弁和歌山高校の高嶋仁監督(8月下旬に引退を表明)は、前任の智弁学園高校時代には鬼監督として恐れられ、あまりの厳しさから選手に練習をボイコットされた経験もある。 それを機にスパルタ式の指導をあらため、春夏合わせて3度の全国優勝という実績を手に入れた。ラグビーの大学選手権で9連覇を達成した帝京大学ラグビー部の岩出雅之監督や、正月恒例の箱根駅伝で4連覇中の青山学院大学陸上競技部の原晋監督も、従来の体育会型指導を選手主体に切り替えてからチーム力が上がり、偉業に結びついたという。 岩出監督はいう。「上意下達のチームでは、ある程度の実績は残せても、それ以上の実績は出せない」と。熱血が通用する時代は終わった スポーツ界にかぎった話ではない。 精神科医の原田正文氏は、いまの日本では親が子どもを管理し支配する傾向が強くなっていることをデータによって示すとともに、それが思春期に行き詰まる子を増やしているのではないかと指摘している(『完璧主義が子どもをつぶす(ちくま新書)』より)。 大学で学生を見ていても、中学・高校時代にスパルタ教育を受けてきた学生は、おしなべて知識の量は豊富なものの、自分の頭で考えたり、自分から行動したりすることができない傾向がある。 仕事になると、それはいっそう深刻な問題だ。これからのリーダー像とは 部下はいつも強制や命令をされていると、最低限の仕事しかしなくなる。しかもIT化やアウトソーシングによって、そのような仕事の大半が消えつつある。残った仕事の多くは自分の頭で考え、自分の意思で行動しなければ成果があがらない性質のものである。実際、世界を席巻しているIT・ソフト系の企業や、優れた人材が殺到している優良企業では、ハラスメントはもちろん、熱血指導やマイクロマネジメント(重箱の隅をつつくような細かい管理)とも無縁だ。 要するにスポーツや教育においても、仕事でも、求められるレベルが上がったいま、従来のような熱血監督や熱血教師、鬼上司は通用しなくなったのである。それは、「リーダーシップ」のあり方が、いま根本的な転換を迫られていることを意味している。これからのリーダー像とは では、これから目指すべきリーダー像とはどのようなものか。 1つ目のタイプは、プロフェッショナルとしてのリーダーである。彼らは組織行動論、すなわち心理学や行動科学などの専門知識を応用し、フォロワーの潜在能力を引き出すとともに、それを組織力、チーム力に結びつける。スポーツ界、教育界、産業界を問わず、欧米のマネジャーにはこのタイプが多い。 2つ目のタイプは、つねに選手のため、生徒のため、部下やチームのためを考え、徹底的に尽くすリーダーである。最近はやりの名称を使うと「サーバント・リーダー」ということになる。企業では、顧客に近いところにいる現場の社員が最も偉いというメッセージを込めて、逆ピラミッドの組織図を描く人もいるくらいだ。 3つ目のタイプは、最低限の役割だけを果たし、あとはフォロワー個々人に、あるいはチームに任せるリーダーである。「委任型リーダー」と呼ぶことができる。フォロワーが自立していて、必要な知識や技術も備えている場合には、このタイプがベストである。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) それぞれタイプは異なるが、共通するのは「フォロワー・ファースト」の姿勢である。自分が目立ちたい人、主役になりたい人はこれからのリーダーには向いていないといえよう。関連記事■ テレビ朝日内部資料「女性社員の56%がセクハラ被害」の衝撃■ 日本体操協会・塚原副会長が語っていた「夢は武道館ライブ」■ 「多すぎるサービス残業」「上司のひどいパワハラ」との戦い方■ アジア大会で金0の女子レスリング 栄和人氏復帰はあるか■ セクハラ、パワハラの温床になる組織にメス入れる3つの方法

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    道徳教育とはなんぞや

    柴山昌彦文科相が戦前の教育勅語について「現代風にアレンジして道徳などに使える」などと発言し、物議を醸した。今春から小学校で必修化され、戦後初めて「教科」となった道徳。「価値観の押し付け」「愛国教育の始まり」などと批判的な意見も根強いが、そもそも道徳教育とは何なのか。

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    「星野君の二塁打」に隠された道徳教育のホンネ

    校でも始まる。そのための教科書も検定を通過し、各地で採択のための展示会も開かれている。道徳科は、戦後教育のあり方を大きく変えるものである。そこにはどんな背景があり、どんな問題があるのだろうか。 そもそも道徳科とは何か、それは今まで週1回行われてきた「道徳の時間」と何が違うのだろうか。取りあえず、教科になることによって変わった点は大きく三つある。 一つは、教科書があり、その使用が義務付けられることだ。二つ目は、学習の達成度を測る評価が求められる。そして、教科書をベースにした年間指導計画が強い縛りを持つことである。さらに、各学校では「道徳教育推進教員を置き、校長の方針の下に全教師が協力して道徳教育を展開すること」(学習指導要領)になっている。 それまでの「道徳の時間」は1958年に特設されたものだが、十分な議論を経ず、教育現場から反対の声が上がる中で実施された。日本国憲法と教育基本法の下において、国家が道徳に直接関わることに対する強い抵抗感が国民にはあったのである。 よって、戦前の修身は全ての教科の筆頭に置かれ、優・良・可などの成績も付けられていたが、「道徳の時間」はそうした形にはならず、教科外活動(領域)という位置づけにされた。 この時間は、学校や教師によって差があったが、クラスで起きたケンカやいじめなどの諸問題の解決のための話し合いや、合唱コンクールや体育祭などの行事に使われることも多かった。また、授業内容も副読本やそれに基づく年間計画はあるものの、個々の教師の裁量にある程度は任されており、良くも悪くも自由度が高いものであった。 そこには、戦前の道徳(修身)が押し付けであり、軍国主義教育の支柱になっていたことへの反省から、「子供たちに道徳を押し付けない」という教師たちの思いが底流にあったのである。そして、「道徳性は学校の教育活動全体を通して行う」(文部科学省)という指針に従っていたからだということもできる。『尋常小学修身書』(復刻版)。修身教科書は教育勅語を中心に編集された しかし、教科に格上げされる以上、そうはいかない。有り体にいえば、「高い自由度を認めない、させない」という狙いで、道徳科の設置が決まったのである。 ところで「教科」とは何だろう。算数、国語、理科などに加えて、体育や音楽などを思い浮かべる人が多いと思う。 例えば理科は「地学・生物学・物理学・化学」などの分野から構成され、それを子供たちの発達段階に合わせて、分かりやすくかみ砕いた形で教えられる。「地学・生物学・物理学・化学」は、それぞれさらに細かい分野別の科学的研究の上に構築されたものであり、学問的な根拠を持っている。体育や音楽も同様である。国語・算数と道徳の違い 社会科では、鎌倉幕府の成立はかつて「1192年(イイクニツクロウ)」と暗記された方が多いと思うが、昨今の研究をもとに、その記述は変化している。各教科は学問的根拠をベースにしているために、その研究の進展によって記述内容が変わることがあるわけだ。 しかし道徳科はどうであろうか。本来ならば、その性質から考えれば学問的根拠は「哲学、倫理学」などがベースになるべきものだと思うが、文科省の学習指導要領のどこにもそうしたことは書かれていない。 つまり、道徳科は教科となる学問的根拠を持っていないことから、いわゆる教科とは言うことはできないのである。文科省はそうした矛盾を「解決」するために「特別の教科 道徳」という立てつけをした。学習指導要領は以下のような6章構成になっており、道徳科が「第2章 各教科」の欄にないことからも、その苦しさが表れている。第1章 総則第2章 各教科(国語・社会・算数・理科・生活・音楽・図画工作・家庭体育)第3章 特別の教科 道徳第4章 外国語活動第5章 総合的な学習の時間第6章 特別活動 道徳科推進派である昭和女子大の押谷由夫教授は「要としての役割」や「本来の教科の概念を超えて成り立つものであることから、特別の教科(スーパー教科)となる」と説明する。そして「道徳は教科とのかかわりだけではなく、特別活動や総合的な学習にかかわる。その意味でも特別の教科(スーパー教科)なのである」と強調している。 しかし、どんな言辞を持っても、「第2章 各教科」に格上げすることには無理がある。その最大の理由は、すでに述べたように、道徳科が学際的研究成果と科学的根拠を持たないことにある。また、ベースになる基礎的な学問がないため、大学において(現時点では)道徳科の専門免許状を発効することはできない。 学問的バックグラウンドを持たないということは「文科省が指定した内容が道徳である」ということであり、すなわち「道徳の内実は国家が決める」ということになる。根本的な問題がここにある。国家が道徳をコントロールした典型事例は戦前の修身である。修身が教育勅語とリンクし、軍国主義を下支えする役割を持ったことは論を俟(ま)たない。道徳の教科化に戸惑いの声が聞かれた日教組の第67回教育研究全国集会=2018年2月、静岡市 また、教科になれば評価が伴う。人の心の内面を評価することに対する疑問や戸惑いの声が、教師たちからたくさん上がっているが、それは当然のことだろう。 そもそも、現場教員の大半は道徳の教科化に反対している。2015年に行われた全国の公立小中高教員計9720人を対象に実施した調査(愛知教育大)によれば、道徳科に反対という意見は「小学校79%、中学校76%」と圧倒的である。にもかかわらず、なぜ「道徳科」が設置されたのだろうか。 安倍政権下で発足した教育再生実行会議の提言には「今日多発化する青少年の問題行動の根幹に道徳性の低下がある」と書かれている。こうした主張を教育課程審議会などが引き継ぐ形で道徳科の設置が決まっていった。道徳でいじめは止められない そういう流れの中で、文科省が道徳科設置の主な理由としたのは、「いじめ問題」の深刻化であり、青少年の問題行動の多発、子供を取り巻く地域や家庭の変化(家庭の教育力、社会的モラルの低下)である。その他に、諸外国に比べて低い高校生の自己肯定感や社会参画への意識が低さ、グローバル化の進展などが道徳的に解決すべき課題として挙げられている。 確かに、いじめの認知件数は高止まり傾向にあり、待ったなしで解決すべき事案であることは間違いない。その他にも学校にはさまざまな問題が噴出している。 しかしながら、法務省のデータにあたってみると、少年犯罪は年々低下傾向にあるため、青少年の問題行動の多発という意見には根拠がない。そもそも、モラルが低下していると批判されなければならないのは、むしろ大人と社会の方ではないのか。 では、道徳を教科として格上げすれば、いじめ問題が解決に向かうのだろうか。 道徳科設置の直接的契機となったのは、2011年の「大津いじめ自殺事件」だ。あまり知られていないが、実は、事件の起きた大津市立皇子山中学校は、文科省指定の「道徳教育実践研究事業」の推進校(2009~2010年度)だったのである。 ところが、いじめ自殺事件は指定後の2011年10月11日に起きている。皇子山中の学校評価表では、道徳性の伸長について高い評価が掲載されている。もちろん、外向けの報告書を額面通りに受け取ることはできないし、この事件の真相や根本原因をここで論じることもできない。 だが、少なくとも文科省の肝いりで学校を挙げて行われた道徳の指定研究が、この事件を防ぐ有効な力になり得なかったということは言えるだろう。道徳を教科にしなければ、「いじめは防げない」と言わんばかりの文科省の主張には首をかしげざるを得ない。2013年8月、文科省の前川喜平初等中等教育局長に意見書を提出する大津市の越直美市長 それでは、なぜこのような性急な形で道徳科が推進されたのだろうか。第一次安倍政権の下では、教育基本法が「改正」され、いわゆる「愛国心条項」が追記された。 第二次安倍政権では「教育再生」を重要な政策課題に掲げ、第一次政権での教育再生会議を教育再生実行会議としてバージョンアップさせ、充実を図ってきた。当時の下村博文文科相は「6年前にも教科化は提言されたが、残念ながら頓挫した。今回は必ず教科化に資する議論をしてもらいたい」と強調し、第一次政権下で教科化を果たせなかったリベンジだということを公言している。 こうした経緯から考えれば、道徳の教科化は、教育問題というよりも政治的課題として浮上してきたものであるといえよう。その背景には復古主義を唱え、改憲を目指す日本会議など特定の政治勢力の影響がある。主な主張は「自虐史観、偏向教育の見直し」であり、「戦後レジームからの脱却のための教育再生」を課題とした安倍政権の意図とマッチしている。道徳科設置の「裏の顔」 こうした流れに位置づけられた道徳科の真の狙い、いわば「裏の顔」とするところは何だろうか。一つは「個人は国家のためにある」という道徳観の徹底である。次に、国家(政策)に疑問を持たない従順な国民の育成である。そして三つ目は、新自由主義政策が進行する中で、社会的格差が拡大し、生きづらさを感じている人々の心象にコミットすることである。 新自由主義は、ルールなき資本主義体制を基盤とし優勝劣敗をその魂とする。「成功も失敗もすべて個人の問題」という自己責任論を生み出し、敗者は自己の能力と資質の問題として、現時点での生活の責任を個人的かつ全面的に負うことを求められる。政治的には、公助よりも共助が強調されてきており、安倍首相も次のように述べている。 「私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を持たない限り、私たちの未来は開けません」(第183回国会、施政方針演説) 道徳科は「どんな社会の中においても、それに順応し個人の責任として生きていくこと」を要請する「21世紀型修身」の役割を持つものではないだろうか。 とはいえ、道徳教育が必要ないというわけではない。「異なる他者とともに生きる術を学び、よりよい社会をつくるための素地(そじ)となる道徳性」を育てることは教育現場で大切にされなければならない課題だ。 文科省も「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳教育への転換により児童生徒の道徳性を育む」と言う。大いに結構なことではないか。 しかし、検定教科書や現場で使用されている指導プランを確認する限り、「考え、議論する」と言っても、大半は教師の設定した枠内であり、教材も特定の価値項目、つまり「徳目」に誘導する構成になっている。 日大アメフト部の問題が社会的な注目を集めた今年だからか、「星野君の二塁打」という道徳教材を思い出す。監督の「バント」という指示に従わず、自分の判断でヒットを打ち試合の殊勲者になった星野君が、翌日監督に呼ばれて次からの試合の出場停止を告げられるというお話である。教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真 監督は言う。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」 この教材の主題は「約束や規則の尊重」である。チームプレーを是とする野球において、監督の指示を守ることは必要なことだ。しかし、このお話を「約束や規則の尊重」という徳目に結びつけていいものだろうか。 後半部分では「監督の話に最初は不満そうな選手たちも最後は監督の口調に熱がこもるにつれて、星野君の顔から血の気がひいて、他の選手たちもみんな頭を深くたれてしまった」と書かれている。結局のところ、「選手(子供)は監督(大人)の言うことを聞け、そうしなければ罰を与えるぞ」というメッセージになっている。それは強い力(権力)には従順であれ、というヒドゥン・カリキュラム(隠れている教え)に他ならない。「教材がいじめを誘発する」 こうした「道徳」教育は疑いを持たずに、上(権力)の命令に服従し、従属的な人間を結果としてつくり出すことにつながる。監督の指示に従わなかった星野君を、集団のルールや秩序を乱す存在として扱うのではない。決まりとは何なのか、ルールは誰のためにあるのか。監督(上の立場の人)の命令は絶対なのか、それが間違うことはないのか、間違いだと感じたらどうすればいいのか。徳目に誘導せずに、話し合えればいいのに、と思う。 低学年向けの「るっぺどうしたの」という教材は、おさるのるっぺが主人公だ。「わがまま」で言うことを聞かないキャラクターである。「朝一人で起きられない」「靴のかかとをふみながら登校する」。それを友だちに注意されると、留め具を止めていなかったランドセルから文房具を路上に落としてしまう、砂場の砂をクラスメートに投げてしまう。 授業では「るっぺの困ったところをみんなで話し合ってみよう」「るっぺのようにならないようにするために、自分はどうすればよいか、みんなで話し合ってみましょう」といった点が主要な発問になる。 しかし、これを読んだある母親は「るっぺは(発達障害を持つ)うちの子にそっくりだ」と言う。この母親は「教材通りに教えてしまっては、周囲と同じように規則正しく行動できない子が、一方的に追い詰められてしまわないか」と、心配が募る一方である。その上で「教材がいじめを誘発する内容になってしまっている。互いの違いを認めて助け合うことを学ぶことこそが大事なのではないか」と主張するのである。(神奈川新聞「カナロコ」2017年) 母親の指摘は鋭い。規則や集団の秩序に従うことが優先的課題にされてしまえば、道徳教育が「排除の教育」になってしまう。それでは本末転倒ではないか。残念ながら、現場で進行している実践の多くは「答えが一つではない課題に子供たちが道徳的に向き合い、考え、議論する道徳」ではなく、特定の徳目に答えを誘導するものになっているのである。 それでは一体どうすべきだろうか。まずは「学校の教育活動全体を通して、道徳性を育む」ということを大切にしたい。 子供たちの社会、つまり教室ではさまざまなトラブルや問題が起きる。そうしたことを、丁寧に話し合いながら解決していくことが求められる。そうした営みの中で、子供たちは異なる他者とともに生きる術を獲得する。それは他者への信頼と自分への肯定的感情を育むものだ。 そして、道徳性が子供の内面にだけ向けられているベクトルを、大人や社会との双方向のものに転換することだ。道徳性のベクトルは、むしろ私たち大人と社会に向けられるべきものである。2018年9月、立憲民主党の枝野代表(右)と米ワシントンで会談するサンダース米上院議員(立憲民主党提供・共同) 例えば、現実社会で起きているさまざまな問題を子供たちと話し合い、その解決に向けて学び合う。それは検定教科書を使ってもそうした学びを展開することは可能だと思う。根幹にあるのは、日本国憲法に示された国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三大原則であり、具体的には平和教育であり、人権教育ではないだろうか。 道徳性のベクトルは「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的指向に関係なく生まれたときから約束されている(バーニー・サンダース米上院議員)」人権の実現に向けられるものである。そして、社会の公正・公平を毀損(きそん)するものと戦うことが、その中には含まれている。それは社会(国家)の従属物としての「私」ではなく、権利主体としての「私」が世界に登場することでもある。

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    道徳の理念とかけ離れた「修身科=悪玉論」の実体

    、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。 では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。「道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない」「教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだか印象に残るものになっていない」「他教科に比べて軽んじられ、実際には他の教科に振り替えられていることもある」などの課題がこれまでも繰り返し指摘されてきた。 道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。 こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。中学道徳など中学・高校で使われる教科書を川崎市教委が審議した=2018年8月26日、川崎市(外崎晃彦撮影) ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。 これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。愛国心を教えたらどうなるか もっとも、こうした思考停止は、教科化の積極的な「推進派」にあっても同じである。彼らは、修身科が過去の「遺産」であるというが、はたして何が「遺産」なのか答えられない。中には、道徳の「教科化」さえ実現すれば、いじめや不登校、自殺などの教育問題が魔法のように解決するといった楽観論も少なくない。 こうした主張は根拠に乏しく、「感情的」であるという点で、「修身科=悪玉論」の主張と表裏を成している。しかも、両者に共通しているのは、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という道徳教育への素朴な「信頼」である。 しかし、道徳教育はそれほど簡単でも単純でもない。誠実や親切という価値を教えれば、子供たちが誠実になり、親切になるわけではない。愛国心を教えれば、すぐさま子供が愛国心を身につけるわけでもなければ、戦前の「少国民」に変貌するわけでもない。 それにもかかわらず、戦後日本は道徳教育を「賛成か反対か」という感情的なレベルの政治論に押し込め、あるべき道徳教育の理念、内容、方法といった本質的な課題の検討は妨げられてきた。「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論は、結局は政治的なイデオロギー論にたやすく回収され、教育論としての議論を希薄にした。こうした状況から生み出されたのが「道徳教育アレルギー」である。 歴史を創造するためには、決して過去を切り離して考えることはできない。真の創造を実現するためには、過去を厳しく批判し、過去を否定的に媒介することが必要である。たとえ誤った過去を持ち、悲しい歴史を担うにせよ、こうした過去を否定的に吟味し、検証することで初めて真の創造が達成されるはずである。教育勅語(安藤慶太撮影) その意味で、戦後の道徳教育は、戦前の修身科を否定的に媒介することに明らかに失敗した。戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。それが「修身科=悪玉論」の実体である。 しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。「賛成か反対か」不毛な議論 今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。 以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。 「特別の教科 道徳」の設置によって、私たちは子供の道徳性に正面から向き合うことが可能となり、その教育として当然の関わりは、必然的に政治的イデオロギーの入り込む余地を格段に減少させるからである。 実際、「特別の教科 道徳」の設置によって、これまで繰り返されてきた「賛成か反対か」の議論は明らかに後退し、教科書、指導法、評価のあり方といった授業の本質に関心が注がれ始めたことは間違いない。ここにこそ、道徳の「教科化」の歴史的な意義が認められる。 ところで、2014年10月の中央教育審議会答申は、今後の道徳教育のあり方について、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」とした上で、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」と明記した。教科化に伴い初めて検定申請された小学校道徳の教科書(寺河内美奈撮影) ここに至ってもなお、道徳の「教科化」が「修身科の復活」「価値の押し付け」であり、「いつか来た道」に至ると批判するのは自由である。しかし、それならば、せめてこの答申の言う道徳教育のあり方に言及して具体的に批判すべきである。そのことで初めて議論は成立する。 「賛成か反対か」の二項対立の議論は不毛であり、何より道徳的ではないことにそろそろ気づくべきではないか。感情的な議論に時間を空費する余裕は、今の教育にはない。

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    「道徳の教科化は正しい」いじめ自殺を隠蔽する学校は信用ならない

    森口朗(教育評論家)  道徳の教科化は学校関係者への不信任決議である。神戸市教育委員会が学校に対していじめ自殺事件の隠ぺいを示唆したというひどい事件が報道された。それを知って私は「道徳の教科化」がいかに正しい施策であったかを実感したところだ。 安倍政権の政治的リーダーシップと関係者の多大な尽力により、今年から道徳が教科になった。連合国軍総司令部(GHQ)により修身が廃止になって70年以上の歳月がたったことを思うと喜ばしいという思いとともに、この70年間、私たち日本人は何をやっていたのだろうと忸怩(じくじ)たるものがある。 道徳の教科化について大きな役割を果たした貝塚茂樹氏(武蔵野大学教授)によれば、GHQは敗戦時の修身を廃止はしたが、その後、大正デモクラシー時代に使っていたバージョンに近い教科書に戻して修身を復活させるつもりだったらしい。それを「公民」という新たな教科にして再出発しようとたくらんだのは文部科学省である。しかも、文科省の思いは結局実現せず、結果的にGHQの指導により元の修身とは似ても似つかぬ「社会科」になってしまった。 安倍政権が道徳の教科化を推進できた直接のきっかけは、滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒が2011年10月11日に自殺した事件だ。事件後に行われたアンケートによれば、男子生徒の手足を鉢巻きで縛り口を粘着テープでふさぐ、トイレや廊下での暴行、万引の強要、蜂の死骸を食べさせようとするなど、いじめの内容もひどいものだった。 さらに、被害者が自殺した後も加害者側の態度に反省が見られなかったことで、いじめ情報がインターネットで拡散され、社会的に大きな注目を集めた。しかし、残念なことではあるが、中学生の残虐ないじめ自殺事件はこれが初めてではない。過去には山形マット事件という「いじめ自殺」ならぬ「いじめ殺人」と言っても良いような事件が起きているのだ。 それでも、この事件が大きな反響を呼んだのは、既にインターネットが普及していたことに加えて、自殺事件発生後の教育委員会や学校関係者の対応があまりにひどかったからである。教育委員会の役人たちは学校と一丸となって「いじめ」隠しに奔走しただけでなく、報道により次々といじめの事実が明らかになっても、自殺原因が被害者家族にも問題があったからだと言い放った。さらには、行政のトップである市長が被害者の側に立っても、被害者とともに動こうとはしなかったのである。2018年6月、神戸市立の中3女子生徒の自殺問題で、聞き取り調査メモの隠蔽について、文科科学省の担当者らに謝罪する神戸市教委幹部ら その事件がきっかけになって「道徳の時間」が教科になったことは、何を意味しているのか。学校現場に道徳教育を任せておけないという事だ。道徳の教科化とは学校関係者への不信任決議に他ならない。 教科化される以前から、学校の時間割には「道徳の時間」なるものは存在した。だが、これは時間が確保されているだけで教科書さえ存在しなかった、いわば学校裁量、教師裁量でどうにでもなる時間だったのだ。パン屋と和菓子屋 多くの方々が「道徳の教科書」と考えていたものは、文科省の検定さえ入らない「道徳の副読本」にすぎなかったのである。それゆえ、教師によっては1年間に副読本を一度も読むことなく、慰安婦の強制連行という朝日新聞の虚偽報道を利用した反日教育をする者さえ存在した。彼らにしてみれば、今回の「道徳の教科化」は、腹立たしくて仕方ないだろう。なぜなら、「道徳の教科化」とは、道徳教育をどのように行うべきか、学校現場でしっかりと学習指導要領に沿った内容の教育が行われているかを国民が監視できる体制が整ったことを意味するからだ(もちろん、現段階はその一里塚にすぎないが)。 そこで教科化に反対する者たちには、この政策がどれほど醜悪であるか、というプロパガンダが必要になる。恐らくは、図らずもその先兵とされたのが、東京書籍小学1年の検定教科書を題材とした「パン屋、和菓子屋問題」だ。散歩中に友達の家の「パン屋」を見つけた話が、文科省の検定によりあたかも「和菓子屋」に書き換えさせられたがごとく報道されたのである。 あまりにバカバカしい。検定制度ではない。検定の中身でもない。もちろん道徳の教科化でもない。東京書籍の訂正方法と新聞等の報道の仕方が、である。文科省は、先に示された学習指導要領に沿って教科書を検定する責務がある。学習指導要領に「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」とあり、検定を受ける教科書にその記載がなければ指摘するのは当然だ。むしろ、指摘しなければならない。だが、東京書籍は歴史教科書などでも反日的記載の目立つ左派御用達の教科書会社である。 ここからは私の推測だが、その左派御用達の(それゆえシェアも大きい)東京書籍が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ことを子供たちに教えるために一項目増やすのは左派への裏切りに他ならない。「パン屋」を「和菓子屋」に替えてごまかしたのは、あえて「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ための項目を造らないためと考えるのが自然である。 もちろん、文科省の対応がいつも正しいとは限らない。そこで、提案だが、このような無駄な不信感を抱かせないためにも、検定結果だけでなく途中の検定意見もすべて情報公開してはいかがだろう。私たち国民は、とりわけ子を持つ親は、学校において子供にどんな教育がされるかを知る権利がある。現在は何冊中何冊が合格したという検定結果と、検定に通過した教科書を見ることが可能だが、一切の闇をなくし、文科省のどんな意見に対し、教科書会社がどんな修正をしてきたのか。それらをすべて晒(さら)して、その是非を国民に裁定してもらう。そんな制度改革を行ってもよいのではないだろうか。文部科学省の外観=東京・霞が関(宮崎瑞穂撮影) 元次官が未成年売春の巣窟に出入りしていたことが明らかになった文科省。いじめ自殺が起きたら隠ぺいを指示する教育委員会。それに唯々諾々と従う学校現場。元委員長の愛人の務める店に組織名の領収書を切らせていた日教組等々。われわれ国民の教育関係者の向ける目は、怒りと不信に満ちていることを、彼らは早く気づくべきである。 今年9月に新潮新書から拙著『誰が「道徳」を殺すのか』が発行された。道徳の教科化をめぐる問題について、より詳細な内容をお知りになりたい方はぜひ、ご一読ください。

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    義務感が強すぎる日本人だからこそ道徳教育は必要ない

    だ。実際、介護のために鬱(うつ)になったり、最悪、自殺する人も後を絶たない。こうした中で、拙速に道徳教育を科目化してまで行う必要がある国に思えないのだ。道徳の研究授業=2018年3月23日、兵庫県加東市(共同) もう一つは、認知科学、精神医学の立場から見ての危険性だ。最近の精神医学で注目されている認知療法では、心に悪い考え方を持つ人が鬱病になりやすく、鬱病になった際に治りにくいとされている。 その中で最も問題視されているのが、「かくあるべし思考」と「二分割思考」だ。「かくあるべし思考」が強い人は、自分がその理想像に達していないと不全感を抱き、それがひどくなると鬱状態になりやすい。鬱になってしまった際も、少しましになったと考えることができず、まだまだ理想像と遠いと思ってしまうので、改善も遅い。 介護のように延々と続く作業で「かくあるべし」にとらわれてしまうと、体力ももたないだけでなく、きちんと介護をしているのに「まだまだ」と考えて自責感が強くなってしまう。さらに他人にも「かくあるべし」を求めがちだ。道徳教育自体は必要 また、仕事の現場では、残業をしないで先に帰る人間が許せないなど、この手の上司がブラック企業の温床になる。時代の常識が変わった際も、自分にしみついた「かくあるべし」に拘泥(こうでい)されて、変化に対応できないことが多い。 一方、「二分割思考」は、人のことを敵か味方、正義か悪で分けてしまって、グレーゾーンが認められない思考パターンだ。こういう人は、自分の味方と思っていた人が自分の批判をすると、敵になったという認知をしてしまうために、鬱になるリスクが大きい。 要は、道徳教育というのは、よほどうまくやらないと、そうでなくても強い日本人の「かくあるべし思考」を強化してしまい、正義と悪の二分割思考につながる恐れがある。これに対して、文科省は考える道徳教育、多様な価値観を受け入れる道徳教育を打ち出しているのだが、このようなディスカッションを誘導できる教師の養成を十分に行わないまま、検定教科書を作った。しかも、テストを行うかどうかはともかくとして、評価の対象にまでしてしまった。 道徳教育というのが、「答えのある」一方向性のものになるとすれば、常識破りのフレキシブルな人づくりの阻害要因になり得るだけでなく、それ以上にメンタルヘルスへの悪影響が心配だ。 とはいえ、道徳教育自体、必要な時代になったと考えている。なぜなら、高度資本主義における新秩序や格差社会化への対応が必要だからだ。現在の日本が格差社会であるかどうかには議論があるだろうが、今後の格差拡大は、世界の流れを考える限り当然予想される。道徳教育について意見を述べる参加者=2018年8月、長野市(共同) 日本の場合は、高度成長期においても、累進課税が厳しく、また企業経営者も多額の報酬を求めず、終身雇用と年功序列で一般労働者の賃金も高かったため、長い間、格差が顕在化しなかった。 雇用の枠を外れる人も少なく、大金持ちもさほどいなかったので、政府が貧しい人をそれほど助ける必要もなく、金持ち層も寄付をするという習慣が根付かなかった。しかし、今は新事業が当たれば、上場で手に入る資産が1000億円ということが珍しくなくなった代わりに、雇用の枠組みから外れる人も多くなってきた。 要するに欧米型の社会になったのであれば、「ノブレスオブリージュ」(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)の精神が当たり前のものになる必要が生じてきた。自分が成功者になれば弱者を助けるのが当たり前という価値観の涵養(かんよう)は、宗教を持たない人の多い日本では道徳教育に負うところが大きい。 私は道徳というのは、人の「道」を教えるという一般の人向けへの規範のパートと、「徳」という形で上が範を示すというパートからなるものと考えている。前述のように、日本は「道」の部分はかなりしっかりしているが、階級社会でないという建前のために「徳」がないがしろにされてきた傾向が強い。良い忖度なら必要 例えば、海外の寄付文化がどういうものか、かつての日本の偉人がどうであったかなどを教えることで「徳」の教育をぜひ求めたい。 また、超高齢社会で高齢者が増えるだけでなく、85歳以上の長寿者が急増しているため、要介護高齢者や認知症患者が激増している。ただ、悲しいことに現在では、「寝たきりになってまで生きていたくない」「認知症になったら安楽死をさせてくれ」というような弱い高齢者は生きる価値がないといった言辞が当たり前に飛び交っている。 彼らとて、若い頃、あるいは現役時代は、日本のために尽くし、働いてきた人たちなのである。また、ほとんどの人は日本のために納税してきた人である。場合によっては戦地に赴(おもむ)いた人もいる。 そのことをきちんと教えて、今の姿だけで判断するのでなく、人には歴史があるということはきちんと道徳教育の中で教えてほしいというのが、高齢者専門の医師としての提言だ。 互助の精神、「弱ったときはお互い様」の精神がないと、高齢福祉は金がかかるだけの無駄という発想に陥ってしまう。体が弱った、脳が弱った人への労わりだけでなく、彼らにきちんと残存機能があり、また、人の情もあるということも知ってほしい。 これは、核家族化が進み、高齢者と触れ合ったことがないという要因も大きい。教科書を作るだけでなく、特別養護老人ホームなどで高齢者と触れ合う機会を作り、高齢者の昔話を聞いたり、逆に生きていく上で、どんなことが待ち受けているのかを教わる体験学習が、まさに道徳教育に必要なのではないだろうか。※画像はイメージです(GettyImages) 最後に主張したいのは、道徳教育を「上に従う人間」を作る教育にしてはいけないということだ。アメリカのAO入試(学力試験を課さない大学入試)においては、面接を教授が原則行わない。ハーバードなどの名門大学では、むしろ教授に議論をふっかけそうな人が好まれる。その方が学問の進歩を生み、学ぶ側も教える側も進歩していくという思想が根底にあるからだ。 昨年以降、「忖度」(そんたく)という言葉をよく耳にするが、他人の気持ちを推し量る、共感するという忖度そのものは悪いことではなく、望ましいことだ。ただ、それは上の意向を読み取り、それに従わないと出世できない、あるいは従うと出世できるなどという実利を求めるためのものでなく、「思いやり」の精神のはずだ。 日大アメフト部の危険タックル問題では、上の命令なら間違ったことでも逆らわないという体質が明らかにされた。命令に従わなければ試合に出られないという形で、逆らえない指導も問題になった。 要するに「忖度」にもよい忖度と悪い忖度があるということだ。悪い忖度が当たり前にある組織だと、上に嫌われないために不正が隠蔽(いんぺい)されたり、改竄(かいざん)される危険が高まる。さらにたちが悪いのは、そのような「悪い忖度」をする社員が出世などでメリットを享受できる風土だろう。 これは企業不祥事が起こる要因になり得る。上が間違っていると思っている際に、堂々と間違っていると言える人間を作ることも道徳教育の目標にしていいだろうし、少なくとも「良い忖度」と「悪い忖度」があることは子供に教えるべきことだろう。 忖度という言葉は、あの森友学園疑惑で注目されたが、悪い例として使われるようになったのは、国民が納得できるような説明がなされなかったためだ。道徳教育を進める以上、法を破っていなければいいのでなく、これが道徳教育の提唱者である以上、国民に範を示さなければいけないという矜持(きょうじ)を安倍晋三首相に求めたい。きちんとした徳がない社会では、学校で強制的に教えた道徳教育の有効性も半減してしまうからだ。

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    子供の学力 道徳論より「スマホ時間を限定」の方が効果あり

    関係をリサーチした結果、頭のいい子が育つ家庭で実践される “声かけ”が明らかになった。「褒めて伸ばす教育」が叫ばれて久しいが、調査結果によれば「努力の大切さを伝える」「いじめはいけないことだと家庭で話す」「最後までやり抜くことの大切さを伝える」という項目は9割以上の保護者が実践するも、子供の学力に大きな差は見られなかった。 一方、「テレビ・ビデオ・DVDを見たり、聞いたりする時間などのルールを決めている」「テレビゲームやスマホのゲームをする時間を限定している」という家庭ほど、子供の学力が高くなる傾向が顕著だった。“カリスマ国語講師”として多くの受験生を合格に導いてきた予備校講師の吉田裕子先生は、「小学生には時間の使い方を教えることが有効」と指摘する。※画像はイメージです(GettyImages)「『最後までやり抜く』『努力は大切』などの抽象的な道徳論は、自我が育っておらず判断力の未熟な小学生が聞いても具体的に何をしたらよいのかわかりにくいため、成果につながりづらい。それよりも、具体的な時間の使い方を教えてそれを習慣づけることが大切です」 菅原脳神経外科クリニックの菅原道仁院長も「効果的なのは“声かけ”よりも時間の管理」だと言う。「脳科学の視点から見ると、人間の“やる気”はいくら他人から声をかけられたとしても、自分で行動を起こさなければ絶対に出てこない。無理やりにでも手を動かし始めると、脳内から神経伝達物質のドーパミンが分泌されて、徐々に気持ちが乗ってきます。億劫だった掃除でもやり始めると熱中して、止まらなくなることを心理学用語で『作業興奮』といいますが、それと同じ原理です。だからスマホやゲームは、制限時間内で終わらせるというルールを作り、鉛筆を握らせて机に向かわせれば、最初は嫌々でも次第に熱中するはずです」関連記事■ 自宅の蔵書多いと子供の算数の成績が上がる、新聞も重要■ 雑然とした本棚はOK他、頭のいい子が育つ部屋の12のルール■ わが子の頭をよくする照明・ホワイトボードの活用法■ 頭のいい子を育てるための子供部屋&親の部屋のありかた■ 子供の学力、父親の学歴よりも母親の学歴が影響大