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    コロナ「長期休校」で痛感した教育の真髄

    型コロナウイルスはようやく終息に向かい、休校となっていた学校も再開しつつある。しかし、休校の長期化は教育現場に混乱をもたらすとともに、自宅学習の難しさも露呈した。その反面、日常では見えなかった課題が浮き彫りになったとの声もある。コロナ禍という逆境でこそ見えた捨て去るべき教育の絶対的価値観とは?

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    コロナ休校の逆境で見えた、捨て去るべき教育の絶対的価値観とは?

    誰もが納得できる方法」を明確にルール化することができないからです。 しかしここで改めて、今なお日本の教育の中心にある「正しい答え」を求めようとする価値観が、こうした問題への対応を難しくしていると私は強く感じています。 例えば、最近よく耳にするようになった「自粛警察」がそれにあたります。自粛を過度に主張するあまり、事情を問わず従わない人々を激しく非難し、自らが考える正義を絶対的なものとする人々が現れたことも、「正しい答え」を求めようとする価値観の弊害の一つといえるかもしれません。 新型コロナ問題が浮上する以前から、教育改革の必要性は常に問われてきました。コロナ禍の現状を前向きにとらえるならば、これまでにはない状況だからこそ、出てくる知恵があるはずです。教育に関わる全ての人々が、それぞれの立場から何を考えどう動くか。その姿勢が、今後の教育の在り方を大きく変えていくかもしれません。 私自身の身近なところでは、この4月に子供が小学校に入学し、緊急事態宣言を受けてすぐに休校となりました。まさに今、自宅学習のために配布された課題を子供に取り組ませることに試行錯誤しています。私は教育の専門家ではありませんが、このタイミングで子供が就学児童となったことは、改めて教育について深く考える契機をもたらすこととなりました。 外出自粛によって、教育の場の中心が一時的に学校から家庭へと移ったことは、普段つい学校任せにしてしまう親が子供の学習に向き合うよい機会なのかもしれません。自宅で執筆活動をしている私にとって、この状況は現実的には大きな負担ですが、ここはまず探究心を持って子供の学習に関わってみようと気持ちを切り替えることにしました。 まず改めて気づくのは、教育カリキュラム自体はその内容が時代と共に変化していることです。文部科学省の学習指導要領では、平成元年の改訂で「生活科」が新設されました。そして平成10年改訂では、自分で学び考える「『生きる力』の育成」という文言が記載されたことはよく知られています。アクティブラーニングを取り入れた検定に合格した教科書=2020年3月、東京・霞が関(佐藤徳昭撮影) 直近の平成29年改訂で提示された「主体的・対話的で深い学び」という視点は「いかに学ぶか」を追求するもので、まさに本年度から適用となった内容です。 現行の小学校1年生の教科書にも「考えてみよう」という問いが散見され、単なる答え探しではなく子供が主体的に学ぶことを促していることが分かります。しかし、自宅学習で痛感したことは、「限られた学習時間内で、こうした問いに取り組むのがいかに難しいか」ということです。アクティブな学び 保育園や幼稚園とは異なり、小学校からは学習プリントや教科書の指定ページを課題として提示されます。しかし、子供は親の前で、当然のごとく文句が出たり好きなことをやり出したりします。学習を通して日々何かしら考えてもらおうとしても、すぐに行き詰まってしまい、課題をこなすことで精いっぱいです。 決められた学習の枠組みの中で、子供に知識を伝達する以上のことをしようと思えば「これは相当の工夫が必要だ」と、自分が学習に関わってみてよく分かりました。改めて、現場の先生方のご苦労には頭が下がると同時に、家庭だけではできない「学校という場」が生み出す学びの価値を実感します。 知識だけならインターネットでいくらでも手に入るこの時代、いろいろな個性を持つ先生方や共に学ぶ仲間がいる学校の価値は、より貴重なものとなります。例えば、学習指導要領の改定に伴って、より注目されるようになった「協同学習」や「学び合い」などの方法では、知識は一方的に伝達されるのではなく、グループでの課題達成といった実践的な関わりの中で創造的に学んでいくと考えられています。「こうした学び」こそが、学校教育の価値となりうるでしょう。 ところが、多くの先生がさまざまな工夫を試みている一方で、学びを生徒任せにしてしまう先生もいることで、こうした学習方法がむしろ批判の対象になってしまう事態も起こっています。その背景には、学習計画の厳しさだけでなく「子供が学ぶ内容には、誰が教えても変わらない『正しい答え』がある」という考え方が心のどこかにあるように思えてなりません。 学びに関わる人がこうした考えを持っている限り、学びを「創造する」ことは難しくなります。子供が主体的に考えることを促すためには、どこかにある「正しい答え」を探すことではなく、教員も含めて一人ひとりが自分自身と目の前で起こっていることに真摯(しんし)に向き合う必要があります。 最近では、生徒の主体的な学習を促す「アクティブ・ラーニング」という表現がさらによく聞かれますが、「アクティブ」となるのは多くの場合生徒であると理解されています。しかし、学校を「学びを創造する場」へと変革するならば、生徒だけでなく教員もまた自らがどう「学び」に関わるべきかを「アクティブ」に学ぶ主体になるべきではないでしょうか。 例えば、「先生自身が『学び合い』にどう参加すればいいか」ということを生徒たちに投げかけ、意見を募るということも考えられます。つまり、「教員はいつでも答えを知っており、『正しい答え』がある」という考えこそ問い直すべきであり、そこに参加している全員が対話を通してみんなでその場で「答え」を作っていくのです。こうした経験こそが、生徒たちに考える力をつけるのではないでしょうか。スマートフォンの使い方について議論する府立京都すばる高校の生徒と宇治市立槇島小学校の児童ら=2018年11月30日、京都府宇治市の宇治市立槇島小学校(桑村大撮影) さらに言うならば、学校だけでなく家庭や地域社会もまた「アクティブ」な学びの主体のはずです。子供たちの学びのプロセスをいかに作っていくかをそれぞれの立場で考え、互いにいかに関わり合っていくのかを模索することが求められます。それは大人たち全ての責任であり、責任を押し付け合うことは全く意味のないことなのです。 学びのプロセスそれ自体にも、あらゆる文脈に当てはまる「正しい答え」などありません。互いの境界をなくし、短期間で「答え」を出すのではなく長期的に考え、対話を続けながら試行錯誤することで、初めてそれぞれの文脈の中でベストな方法にたどりつくはずです。 何より、大人たちが主体性を持って学びのプロセスに関わっていく姿勢を見せることこそが、将来的に子供たちが自ら考える力をつけるための最大のきっかけになるのではないでしょうか。衆知の大切さ コロナ禍では、周知のようにより大きな教育制度問題への対応が迫られています。ですが、私はここでも「正しい答え」を追求することで、解決の糸口が見えなくなっていると考えています。 今年の3月初旬に突然「全国一斉休校」を発表した安倍晋三首相は、恐らく必要な措置だったにもかかわらず大きな批判を受け、各方面からその是非を問う議論が巻き起こりました。しかし、未曾有の事態で求められるのは、その時点で正しいと評価される決定ではなく、まだ明らかにはなっていない事態に対応するための体制作りなのではないでしょうか。 政府はたとえ一刻を争う状況でも、衆知を集めて暫定的な対応方法を発信し、対策の稼働後に露呈した問題について方策を考える体制を作ることは可能だったはずです。政府側が知識や情報の不足を率直に公表し、現状を把握するために教育現場からの報告ツールをしっかりと設ければ、より信頼と協力を得られたことでしょう。 報告ツールさえあれば、速やかに教育現場と問題を共有することができます。現場からも問題だけでなく、それに対していかなる工夫と努力が可能かを発信することで、政府側は利用可能なリソースを即時的に検討でき、より実現可能な知恵が生まれてくるのです。 政府が対応を丸投げしたり、それに対して現場が決定の責任を追及したりしてしまうのは、結局どこかに「正しい答え」があると考えるからです。答えありきの考え方を捨て、目の前で起こっている問題状況を共有してそれぞれが主体的に考え、対話することで初めてベストな「答え」にたどりつくのだと思います。子供たちの学習の遅れという問題に長期的な対応が求められる今後は、よりこうした意識が問われます。 来年度の導入見送りが濃厚となった9月入学に関しても、現状で「正しい答え」を求めるより、多様な方面から議論すること自体に大きな意味があります。今教育に関わる全ての人が主体性を持って発信し、そこに耳を傾けて各機関が対話を続けることで、現時点では思考の及ばない「答え」にたどりつく可能性が広がります。 教育に限らず、これまで日本では十分な知識や情報がないながらも権限だけを与えられた政府の判断によって、重要な決定が重ねられてきました。そして問題状況や知恵が共有されずに責任の所在だけが問われてきた結果、さまざまな問題が解決されることなく山積みとなっていきました。 新型コロナウイルスという大きな災いが引き起こした数々の不幸を不幸で終わらせないためにも、この機会を無駄にすべきではありません。情報不足の中で「正しい答え」を求めるのではなく、異なる知識や経験を持つ一人ひとりが主体的に考えて発信し、その「知恵を結集する」ことができれば、決定の質は今後確実に上がります。※写真はイメージ(Getty Images) 衆知とそれに伴う決定こそが、これまでの教育を、そして日本を変えると思います。 誰もが当事者であるこの新型コロナ問題で、今一人ひとりが自分の置かれている状況について問い直し、互いに発信し合い対話することは、これまでにはなかった衆知を生み出すことでしょう。わが家にも6月からの段階的な学校再開が通知されていますが、微力ながら私自身も親として自宅学習に協力し、気付いたことを先生にお伝えして、お互いの知恵と工夫を共有したいと思います。

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    「9月入学」なんてトンデモない⁉

    ている。国際標準とはいえ、子供だけなく、教職員や保護者らの不安は計り知れない。「国家百年の計」である教育制度の大改革ともいえる「9月入学」の是非を考えたい。

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    「コロナあったから秋入学」霞が関任せで拙速な安倍政権の愚

    森口朗(教育評論家) 新型コロナウイルスによる死者数が、欧米諸国と比較して2桁も少ないのに、欧米を模倣して緊急事態宣言を出したことで、安倍内閣は日本の不況をつくり出しました。さらに、日本をつぶすことが目的と化したのか、政府が学校制度を9月入学に移行しようと言い出しました。本稿では、安倍内閣が行おうとしている教育制度改革が、いかに愚かであるかを考察します。 その前に説明しておきたいのですが、大前提として、私は中長期的に考えたとき、日本も学校を9月スタートにすべきだと考えています。その理由は、日本も学校教育のスタートとゴールを他の先進国にあわせた方がグローバル化による人材の国際化に対応しやすいからです。 ご存じの方も多いと思いますが、米国、英国、フランス、ドイツといった欧米などの先進国では、学校を9月からスタートさせます。これに対してアジアでは、シンガポールは1月、韓国が3月、日本は4月、タイが5月、フィリピンは6月というようにバラバラです。 かつて「欧米諸国と日本で学校の年度区切りが異なるから困る」と言っていたのは、国家公務員や大企業社員で家族を連れてその国に転勤する、いわゆる「エリート」だけでした。しかしグローバル化の進展によって、もはや海外で生活する人はエリートだけではなくなりました。 今のところ、日本は中堅企業でも海外転勤が多くなった程度で済んでいます。しかし、消費増税と緊急事態宣言のために発生した巨大な不景気のせいで、経済力が戦前レベルまで落ち込み、中堅企業の正社員になれないレベルの人が、アルバイト時給の高い欧米諸国に出稼ぎに行く日が来ないとも限りません。 日本のビジネスパーソンの平均賃金は、アルバイトの時給以上に欧米先進国と差があるので、既に超優秀な人材は最初から欧米諸国の企業に採用されることを目指し始めました。 このように考えると、日本の学校教育のスタートとゴールを欧米諸国に併せて9月から8月までにするのは、優秀な人からそうでない人まで都合がいいのではないでしょうか。では、なぜその改革を今すべきではないのか、理由が三つあります。 まずは、教育スタートの遅れがあります。学校が再開し登校する三重県桑名市立明正中の生徒たち=20205月18日 緊急事態宣言のせいで入学タイミングが遅れたことをきっかけに、学校を9月スタートにするなら、誕生日が早い子供の義務教育開始は7歳になります。それでは遅すぎます。 小学校受験が活発になった20世紀末、左派系の教育学者や教育評論家たちは「お受験」と名付けて早期教育の害悪を振りまきました。しかし今では、幼稚園や保育園はもちろん、習い事や小学校受験塾も含む小学校以前の教育の重要性は、教育学の常識になっています。集団教育への遅速さ 早期教育の議論が高まったきっかけは、米シカゴの貧困黒人層の子供たちを対象にした実験でした。123人の子供をほぼ半分に分けて、58人に読み書きと歌を教え、残りの65人には何もしませんでした。彼らにはすぐに知能指数(IQ)に差が出ましたが、8歳になる頃にはこのIQ差が無くなります。実は、これが20世紀末のお受験批判の根拠でもありました。 ところが、この実験を行ったシカゴ大の研究者たちは幼児の人生を追い続けます。そして40歳になったときに、収入も持ち家率も犯罪率も、全ての点で幼児教育を受けた子供の方が優秀であることを明らかにしたのです。 IQのような計れる能力、つまり「認知スキル」ではなく、コミュニケーション力のような測定しづらい「非認知スキル」に差が出るため、教育スタートは早い方がよいと考えるのが現代の世界標準なのです。 それゆえ、今では米国のほとんどの州で、キンダーガーデン(米国の幼稚園)が義務教育になりました。欧州も国によって制度は異なりますが、多くの子が5歳から集団教育を受け始めます。 5歳から義務教育を受け始める欧米人と、7歳まで義務教育を受けられない日本人というのが現状です。安倍内閣は日本経済を大不況にしただけでなく、日本人を今以上に非認知スキルの低い「愚人」にするつもりでしょうか。 ですから、私は少なくとも5~6歳の9月、できれば4~5歳の9月から義務教育にすべきだと考えます。卒園後の4月から8月に学年を設ける移行案が報じられましたが、いずれは6〜7歳の9月になるだけで、安倍政権の提案に断固反対するのは当然です。 今すぐ改革すべきでない理由の二つ目は、就職活動との関係性にあります。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、マスク姿で合同会社説明会の会場に向かう就職活動の学生ら=2020年3月1日、東京都港区 教育問題を論じる私の立場からすると、集団教育の開始が遅すぎるのが日本における最大の問題です。これと比較すると小さな問題かもしれませんが、学校の出口である就職活動との関係も課題になるでしょう。 新型コロナ禍でブレーキがかかっていますが、長い目で見れば、人材のグローバル化は大きな流れでしょう。とはいえ、日本人が学校を終えて最初に就職する先は、圧倒的に日本企業が多いのが現実です。関係各所との調整 日本の会社は、高卒・大卒を一気に採用して「同期を創る」のが基本でした。その後も途中まで同期同列で昇進し、取締役や部長、課長止まりだった人も定年まで勤める終身雇用が古き良き時代のありようでした。 同期同列や終身雇用はどんどん崩れていくのでしょうが、一気に大勢を採用して「同期をつくる」という人事システムは今のところ、ほとんどの日本会社が有する風習です。 ところが、9月スタートにするとゴールも8月になりますから、先輩とは1年ではなく1年半入社が遅い後輩が誕生します。新入社員をどのように教育するかについて、企業によってさまざまな伝統があり、急に4月入社から1年半遅れの9月入社になっても困る企業は多いのではないでしょうか。 安倍内閣は霞が関に課題を考えさせて、あとは政治判断だと思っているようですが、少なくとも大企業や中小企業の代表者と調整すべきでしょう。 最後になりましたが、三つ目の理由は予算と教職員の定年の関係です。 国公立の学校は税金で運営されており、そこに勤める人々は公務員か、準公務員なので、新年度が4月からスタートする官公庁と各学校のやりとりは極めて重要です。そのため次のような調整が必要になってきます。・令和2年度は18カ月になるのか?・二つの年度にまたがることになる予算をどうするか?・令和3年3月に定年になるはずだった教員をどのように扱うか?・教員の採用はどうするか? ただこうした調整は役人の得意分野ですから、既に省庁間で議論は済んでいる可能性が高いです。むしろこの程度の調整が済んだだけで、「基本的な問題は解決しました」と霞が関と永田町の住人たちが考えていることこそが問題なのです。 日本はいつまで発展途上国でいるつもりなのでしょうか。役人ごときに国家の重要事項を考察させてはいけません。彼らの本来の仕事は、先に政治的に決定された事項を無事に推進することです。39県の緊急事態宣言解除を表明する安倍晋三首相=2020年5月14日、首相官邸(春名中撮影) 空気だけで緊急事態宣言を出し、空気だけで延長してしまう今の安倍内閣ごときが急に判断して実行するほど、「何歳から義務教育を始めるか」は小さな事項ではありません。少なくとも、次の国政選挙の争点の一つにすべき事柄でしょう。 ということで、将来的な9月入学には賛成しつつも、「緊急事態宣言で入学が遅くなった学校が多いから、学校は9月からということにしませんか」という低レベルな提案には、断固反対していくつもりです。

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    9月入学の決断でこれだけ増える「未来への投資」

    資格の試験など多くの日程は4月を起点とする会計年度に基づいており、明星大の樋口修資(のぶもと)教授(教育行政学)は「9月入学制は教育改革ではなく社会改革だ」と指摘する。産経新聞「9月入学 渦巻く賛否」2020.05.12 こうした論調は産経新聞だけでなく、朝日新聞や読売新聞など他のメディアでもほぼ変わらない。それでは、日程を変えることが難しいかといえば、私はそうは思わない。どちらも解決可能だと考える。 そこで、就職と医師や薬剤師、管理栄養士などの国家試験に分けて解説したい。 まずは就職から考えてみたい。現行の就活ルールでは、大学3年生の3月1日に広報解禁、4年生の6月1日に選考解禁、同10月1日が内定日となっている。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、マスク姿で合同会社説明会の会場に向かう就職活動の学生ら=2020年3月1日、東京都港区 このスケジュールからすれば、卒業が7月下旬だった場合、2カ月間の空白期間を生むことになる。その間、就職が決まっている学生であっても無職になるのか、という問題が出てくるであろう。 ただ、あくまでも現行の就活ルールを当てはめれば、という話であり、実際には机上の空論に過ぎない。というのも、現行の就活ルールは政府主導によるものではあるが、法的な拘束力があるわけではない。「9月入社」企業の対応は? 付言すれば、政府主導となる前には経団連が取りまとめていたが、こちらも法的拘束力は特になかった。もっと言えば、大学生の就職活動が定着した大正時代(1920年代)から昭和、平成、令和と年号が変わる中、何度となく就職時期が議論された。しかし、1928年にできた日本初の就職協定も含め、全て法律で定義されたことは一度もない。 理由は簡単で、企業からすれば採用活動になるが、就職活動を法律で規制することは、集会、結社の自由を制限するかどうか、という話にもなり、相当難しいからだ。前述の通り、1928年の就職協定から約90年間、就職時期を公式に定めても、法制化されたことは一度もない。法的な拘束力がない以上、順守する企業は少数派であり、多くの企業が守るわけがない。 令和となった現在も全く同じだ。リクルートキャリア・就職みらい研究所の「就職白書2020」によると、選考解禁より前の4年生5月以前に内々定を出した企業は66・5%にものぼる。 これは学生も同じだ。広報解禁より前の3年生2月に就職活動を始めた学生は65・7%であり、企業側とそう変わらない。6割強の企業・学生が就職ルールを前倒ししており、9月入学に合わせて9月入社に変更しても十分に対応できる。 ただ、「いくら、4年生5月以前の内々定通知が6割強と言っても、内定者研修などは数カ月から半年はかかる」「9月入学と9月入社を同時に実施するのは無理」という意見もあるだろう。 そもそも、企業側は9月入学について肯定的だ。経団連は2011年に東京大学が秋入学を議論した際も、支持している。今回の9月入学についても、経団連の中西宏明会長は支持を表明している。 経団連の中西宏明会長は11日の記者会見で、「海外との連携を考えると、9月入学はごく自然なこと」と歓迎する見解を示した。産経新聞「経団連歓迎『自然なこと』」2020.05.12経団連の中西宏明会長 それに、就職時期は過去30年間で6回も変更されている。1996年以前 広報時期:4年生4~5月 / 選考時期:4年生8月ごろ1997~2004年(自由化) 広報時期:3年生10月前後 / 選考時期:3年生3月~4年生4月2005~2011年 広報解禁:3年生10月1日 / 選考解禁:4年生4月1日2012~2014年 広報解禁:3年生12月1日 / 選考解禁:4年生4月1日2015年 広報解禁:3年生3月1日 / 選考解禁:4年生8月1日2016年~現在 広報解禁:3年生3月1日 / 選考解禁:4年生6月1日※卒業年次ではなく実施年の表記 時期変更が議論されるたびに、内定者研修の短期化などが指摘されたが、結果的に企業側は対応できている。今回の9月入学についても、合わせる形で9月入社となった場合、企業側は十分に対応できるのではないだろうか。「国家試験」大学の不都合な事実 次に国家試験について解説したい。国家試験のうち、医師、看護師、理学療法士などの医療職関連の資格と、管理栄養士は、いずれも2月から3月上旬に集中している。 当然ながら、関連の大学・短大・専門学校は、いずれもこの国家試験の受験日に合わせてカリキュラムを編成している。こちらは就職活動と異なり、対応は難しそうだ。 ただ、管理栄養士は2011年、東日本大震災で被災した東北地方の受験生に対して、特例扱いで7月31日に東京などでの受験を認めている。特例扱いではあるが、過去にこうした事例があるため、対応が無理ということもないだろう。 それと、医療関連の国家試験や管理栄養士試験については、大学が合格率の高さをアピールしようとするあまり、受験を制限する事件・騒動が過去に起きている。 成績が悪く合格しそうにない学生を受験させなければ、その分見かけの合格率を上げることができる。それを受験生に対してアピールする材料としているのだ。こうした問題も、国家試験の日程を後ろ倒しにすることで解決できる。 9月入学に合わせて、すぐに受験日を7月前後に変更するのは確かに難しい。変更初年度の学生が大きな不利益を受けるからだ。・現行の3月に加えて7月の2回受験日を設けて、両方受験可能とする。・国家試験合格・卒業から入職までの日程が空く場合は、国がインターンシップを実施し、給料を出す。こうすれば、病院などに派遣することで人手不足にも対応できる。・奨学金を利用している学生は移行期間中、卒業扱いとせず、返済を猶予する。 変更初年度もしくは数年間、特例扱いでこのような方策が必要となるであろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 以上、就職と国家試験については、条件付きながら9月入学について対応可能であることがご理解いただけただろう。留学生には関係ない? 最後にもう一点、留学についても指摘しておきたい。9月入学に移行すると、グローバルスタンダードに対応できると支持する論調が強い。一方、このグローバルスタンダードについて「留学するのはごく少数だ」と反対する向きも多い。 確かに、日本人留学生も海外からの留学生も現状では少ないことは事実だ。日本学生支援機構の調査によると、外国人留学生は31万2214人(2019年度)、日本人留学生は11万5146人(2018年度)にとどまっている。 大学生数は約290万人であるから、外国人留学生と日本人留学生を合わせても全体の約15%に過ぎない。このデータだけ見れば「15%の学生だけしか、9月入学は関係ない」と論じることもできる。 しかし、日本人留学生が約11・5万人にとどまっているのには理由がある。長期間の留学で留年することにもなりかねず、就職活動にも不利になると懸念したり、そもそも長期間の留学を終えてから就職活動を始めても、既に出遅れていると危惧したりする学生や保護者が多いからだ。 実際には、長期留学して留年しても、就職活動にはほとんど影響しない。例えば、グローバル系大学として有名な国際教養大(秋田県)は2018年卒業者のうち、4年で卒業した割合は58・2%にとどまっている。 これは長期留学者の多い他大学も同様で、東京外国語大28・6%、大阪大外国語学部(旧大阪外国語大)33・7%、神戸市外国語大39・4%、宇都宮大国際学部50・5%などとなっている。では、こうした大学の就職実績が悪いかと言えば、むしろいいのである。「鳥取城北日本語学校」で授業を受ける留学生と見学する事業所の関係者ら=2020年2月13日 就職活動も、長期留学者の多い大学・学部であれば、対象を限定した学内説明会兼選考会を実施している。つまり、就職活動が留学によって出遅れるとするのは、大いなる誤解に過ぎない。それに、こうした問題も9月入学によって解消される。 現在の留学生数は確かに少ない。しかし、それは留年に対する誤解や4月入学による弊害などによるものである。 現状の対象者が少ないと言っても、それも9月入学によって大きく引き上げられる可能性は極めて高い。むしろ未来への投資と考えても、9月入学、そして9月入社への変更は理にかなっているのである。

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    「9月入学」は理想、それでも二の足を踏んでしまう現場の切実な声

    律に仕切り直しすることができ、このような問題を解消できるかもしれない。また、留学がしやすくなるとして教育などのグローバル化を進め、日本の国際化の進展を期待する声も大きい。 「国家百年の計」である教育は、国民の生き方や幸せに直結し、国家や社会の発展の基礎を築く最重要項目であり、政治が主導して改革を推し進めていくべきとの声もある。しかし、教育改革が学校現場を置き去りにしてしまえば、子供たちや先生たちを路頭に迷わせることになる。 そこで、筆者は初等中等教育教員への緊急インタビューを試みた。その結果、小学校より中学校、中学校より高校の先生の方が、「9月入学」への移行に強い不安を抱いていることが分かった。 なぜなら、入学試験をはじめとする出口指導(進路指導)が高度化するからである。高校では大学へ向けての入学試験と企業就職へ向けての就職活動への指導が並行して行われている。 前者は1月中旬のセンター試験(2021年1月実施試験から共通テストへ移行予定)はいつ実施になるのか、各私立大学の入学試験は統一的な時期ややり方で実施してくれるのかなどの不安である。 後者は就職説明会、内定通知、入社式といった採用スケジュールなどがどうなっていくのかという不安である。加えて、先生たち以上の不安感に襲われるのが、学校に通う子供たちであることを忘れてはならない。休校で生徒のいない中学校の教室=2020年5月、大津市 センター試験に代わる共通テストにおいて、記述式問題の導入が中止されたことを思い出していただきたい。高校生自身が「これ以上、高校生を混乱させないでほしい」と文部科学省で抗議する姿は、筆者の目に焼き付いている。単純に春に卒業して次のステップに進もうと考えていたところに、「あと半年先の秋に卒業することになるよ!」と言われれば混乱することは目に見えている。懸念は社会システムとの関係 仮に「9月入学」が実現した場合のことを考えてみたい。昨今の学校現場では労働組合活動が停滞してから、教員からのボトムアップ型ではなく、校長からのトップダウン型で学校運営が進められている。 そのため、長時間議論で白熱する職員会議は鳴りを潜め、校長からの通達、連絡事項だけで先生たちは校務分掌を進め、子供たちの育成に努めている。例えば、情報通信技術(ICT)の導入については、これらに慣れないベテラン教員を中心に反対意見が少なくなかったが、トップダウンによって導入を進め、悩みながら個々人の努力でスムーズな学校運営や学級経営が保たれている。 今では、ICTがなければ学級経営に困ってしまうと感じている先生が多くいるくらいである。学校現場だけでなく、新しいことを始めようとすると変化を好まない抵抗勢力が必ず存在するが、現在の学校現場では微々たる問題と言ってよい。 以上から、「9月入学」がもたらす学校内における混乱は、先生たちの努力により比較的短時間で解決することが期待できる。早々に学校行事を組み直し、子供たちと保護者が安心できる年間指導計画が築き上げられていくに違いない。 しかしである。社会全体、社会システムが追い付いていけるのであろうか。ここに大きな懸念を抱かざるを得なく、二の足を踏んでしまうところである。 例えば、人事制度。教育公務員だけ、例外的な9月異動にする必要があろう。これまでの4月異動であれば、学級担任や教科担任が任期途中で交代となり、あまりに非現実的である。 この点については、都道府県知事の権限で解決できそうである。だが、予算編成についてはどうだろうか。文科省が財務省を中心にすべての官庁が関係しながら折衝する4月新年度予算を9月新年度予算に変更することは、首相の強力なリーダーシップだけで実現できるのであろうか。文部科学省=2018年9月、東京都千代田区(飯田英男撮影) また、就職採用システムはどうか。かつて東大が秋入学を検討したものの、新卒一括採用制度を採る経済界からの反対の声は小さくなかったため、懸念が払拭しきれない。最後のチャンスかも 日本の若者の内向き化が指摘されてから久しく、海外へ飛び立つ学生が増えず、日本の国際化の遅れが指摘されている。2013年からスタートした官民一体となって若者の留学を支援する「トビタテ!留学JAPAN」の理念は、若者たちの活躍の舞台を世界にするとしており、「9月入学」は起爆剤になろう。 日本の成長を支えるグローバル人材の育成は社会総がかりで取り組む必要があることは言うまでもない。社会の多方面から「9月入学」を支持する姿勢が現れたのは、日本が成熟してきた証であろう。 「9月入学」を実現するのであれば、最初で最後のチャンスかもしれず、タイミングとしては今しかない。筆者もやるなら、ここでしかないと思っている。 しかしながら、学校現場内から大きな「9月入学」待望論が上がってこない限り、実現は難しいに違いない。筆者はインタビューとは別に、グーグルフォームを活用して、「9月入学」の賛否について緊急アンケートも敢行した。 その結果、公立高校教員(97人)は賛成32人、反対46人、どちらとも言えないは19人となっており、反対が多くなった。昨年度の共通テストの記述式問題導入だけでなく、英語の民間試験導入さえも見送りに追い込まれた混乱を想起すれば、この結果は理解しやすい。 新型コロナ禍の中で、強引に突貫工事を突き進めていけば、不都合なほころびが増え、数年内、今の子供たちに大きな影響を与えることになる。大学入試センター試験に臨む受験生ら=2020年1月18日、東京都文京区の東大(萩原悠久人撮影) しかしながら、実施に踏み切れば10年後、20年後、将来の子供たちは「9月入学」システムが落ち着きを取り戻し、整った環境下で幸せを享受することができるようになるであろう。どの点に重きを置いて、どのように誰が決断をするかを慎重に見極める必要がある。

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    コロナが変える学習環境、秋季入学より優先すべき課題は山ほどある

    習環境を改善する特効薬にはならない。 まず大前提として、「新型コロナウイルス感染症が存在する環境で、教育機会を確保する」という議論をすべきだ。 そもそも、なぜ秋季入学の議論になったかといえば、新型コロナウイルスの感染は「人との接触」によって生じるところがあり、これを避けるために「外出自粛生活」があり、これを子供たちに当てはめると「休校措置」ということだった。 大人たちの仕事に関しては、休業やテレワークなどによる「出社自粛」が求められている。実際に、これによって多くの企業が、うまくいっているかどうかは別にして、できる限り休業やテレワークに変更している。そして出社人数を少なくし、可能な限り人との接触数を減少させる業務形態に変容させているのが、現在の状況だ。 新型コロナウイルス感染症については、今後さらに第2波、第3波の流行が予想される。ゆえにその都度、自粛要請といった社会活動の制限によって防疫を行うとすれば、今後も自粛の子供版である休校措置も繰り返される可能性がある。 だからこそ、秋季入学への変更がどれほど説得的なことかといえば、残念ながら本質からずれていることになる。秋季入学の措置をとったとしても、休校措置が繰り返しとられるのであれば、結果的に学習の機会は損なわれていくからだ。 あくまで学習の機会を確保するということであれば、むしろ行うべきは、少しでもリモートでの教育環境を確保し、新たな生活様式を教育制度に取り込むことだ。 仮にそれでも秋季入学を実施しようとしても、学校を再開する上で、現場は問題を抱えている。  学校は子供たちを引き受ける以上、法律上でも安全配慮義務を負う。安全確保は最優先事項であり、法的義務でもある。コロナ禍での安全な生活には、感染拡大を防止する生活を視野に入れる必要があり、生活様式の変更が求められている。しかし、学校はとかくこういったものを取り入れるのが苦手だ。再開した長崎市立桜町小学校に登校する児童ら=2020年5月11日 今後われわれの生活において、しばらく感染防止のために大人も子供もマスクを着用することになるが、そのマスクについてもかなり混乱するだろう。 既に学校現場で起きたのが、マスクを白色のみに指定した学校が出てきたことだ。概要としては、マスクが手に入りづらいだけではなく、マスクの材料である白色ガーゼなども手に入りづらい中で、一部の学校において校内の風紀の将来的な乱れを気にして持ち込むマスクの色を白のみとしたいうものだった。学校の自主判断の危うさ 未知のコロナウイルスの恐怖に加え、マスクが高額転売されるニュースが騒がれていたような時期に、保護者による子供の安全を願う気持ちやマスク調達の苦労に思い至らずに、白色指定してしまう学校の無神経さには驚嘆する。 だが、こういった対応が普通に起きるのが学校なのだ。 マスク着用の登校は、再流行が懸念されているため、今後当たり前になりそうである。さらにはマスクの不足や値段の高騰が少しは落ち着いただろうと、「マスクは白色指定」という校則も復活するかもしれない。 新型コロナウイルスの感染拡大の状況次第で、マスクの調達が困難になり得るし、白色は本来汚れがかなり目立つため、使い回すことが難しいといったようなことも起きるだろう。 結果として、着用マスクのことで悩む子供や保護者も現れると思うが、こうした子供や保護者の声は存外学校には届かない。だからこそ、そうした情報を早期に教育委員会なり文部科学省が吸い上げ、随時是正を図る必要がある。 継続的な情報の吸い上げと安全対応策の検討、場合によっては全国的な実施と徹底をかなりの速さで行っていくためには、学校現場にかなりの余力を残しておく方がいい。 またマスクについては、さらに気になる報道がある。中国ではマスクをして運動していた子供の死亡事故が起き、運動中はマスクは使わないという話が出ている。私も外出時には医師に伝授された着用方法でしっかりとマスクをしているが、かなり息苦しい。階段をいつも通り登ると、思わず立ちくらむことがある。 子供たちの中には、自ら気をつけることがまだできない既往症のある子もいる。学校内でマスクを常時着用するような新しい生活方法との組み合わせには、かなり気を使わなければならない。 年中マスクをつけるだけでなく、エアコンをつけても換気のために窓を開けるため、熱中症の危険も増えそうだ。分散登校で学校を再開した鳥取県立鳥取湖陵高校=2020年5月7日、鳥取市 マスクの色指定がそうだったように、過去の例がどうだとか言っている場合ではなく、学校の運営状況は現状に合わせて次々に変更する必要がある。学校ごとの自主判断に任せると、現場の判断は不合理極まるものが出るだろう。 マスクだけでもこのような問題が起きる以上、他のポイントでも素早く、かつ全国的に変更できるだけの余力をむしろ生み出す必要がある。ゆえに、そこへ秋季入学の話を加えることは、この余力を奪うことになりかねない。教育格差は減らせない また、秋季入学が話題になった際に一部で言われていた「一斉入学にすることで教育格差を埋める」というのは、不可能だと私は思う。秋季入学に移行したところで、休校措置中の時間は取り戻せない。 年度の長さが伸びれば、学習機会が損なわれていない人は伸びた年度分だけ勉強ができるので、アドバンテージが生じる。その差を教育格差とするならば、格差は残念ながら消えない。 このコロナ禍での学習環境の格差は、リモート授業が可能な学校、学校再開の早い地域の学校、感染者数が減少しづらい大都市圏の学校という順で生じるということになるだろう。この点で教育機会の確保が厳しくなるのは、感染者数が多い各大都市圏かつ、リモート授業が行われない学校に通う世帯が中心になると考えられる。 今後も感染爆発の危険を回避しつつ、コロナ禍での教育機会の確保をするのであれば、まずは大都市圏の学校で、現在までにリモート授業ができていない世帯に対し、リモート授業が実施できるように環境整備を進めるべきであろう。 また、しばしばニュースで取り上げられるのがリモート授業の困難性だ。もともと、大手予備校の中でもリモート授業を実施しているところがあり、携帯アプリで授業を配信する企業があるなど、リモート授業には一定の教育効果が期待できることは間違いない。 しかし、特に小学校低学年の子供たちにリモート授業を実施するとなると、海外では、授業中に子供が通信を切ってしまい、席を立っていなくなる事例があるという。教育番組ほどに素晴らしく作り込まれた授業内容であれば別かもしれないが、小学校低学年の子供たちは画面を1時間、2時間も見てはくれない。 実際に家庭学習で宿題を大量に渡され、これに四苦八苦しながら取り組んでいる家庭の方ならば、より想像がつくだろう。このように、子供たちの指導を30人に向けて同時に画面越しで授業を行うというのは、かなりの困難が予想される。 とは言いつつも、現状のコロナ禍において当面の学習機会を確保するには、リモート授業を行うしかない。これを早急に、かつ実のある形で進めるためにも、現場にリソースがあるならば、学習環境の整備に振り分けるべきだと思う。  リモート授業の開始だけでも、学校制度自体に多大な変化が求められる。また、休校を再開するにあたっても、かなりの慎重さと迅速な対応が必要になる。遠隔授業実施のため、ビデオ会議システム「Zoom」の使い方を研修する県立隠岐島前高の教員ら=2020年4月、島根県海士町(同高提供) 仮に学習機会の確保を最優先に物事を考えるならば、今はできる限りの力で大都市圏の学校では早期にリモート授業の実施環境を整え、再開可能性のある地域では新たな生活様式を学校生活に反映させるべきだろう。 以上の点を実施するだけでも、今の教育現場の環境からすれば想像を絶する努力がいる。これに加えて秋季入学までも実施するというのは、ついでにやるというには少々重すぎる気がしてならない。

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    祖父母が熱狂する「ランドセル商戦」 9月入学ならいつに?

    全廃に英語導入■小学校卒業式の「袴スタイル」 親のインスタ映え競争が激化■中学受験で子どもをツブす「教育虐待パパ」の共通点

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    9月入学で発生する大混乱 「1学年の人数が増える」問題とは

    人数を増やす』という施策が必要になってくる」──そう話すのは、名古屋大学大学院発達科学研究科准教授で教育評論家の内田良氏だ。 なぜそうしなければならないのか。内田氏が続ける。「学校は9月から始まるにもかかわらず、『新一年生になるのは4月1日時点で満6歳の子供』というように、5か月のギャップが生じてしまうからです。 これを解消するために、年齢の基準も『9月1日時点で満6歳』と揃える必要があります。今年はもう間に合いませんから、来年から揃えるとすると、『2021年4月1日時点で満6歳』の子供たちに加えて、2021年4月2日~9月1日までの5か月間に6歳になった子供も追加で入学することになってしまい、学校がパンクしてしまうのです」 そうなると事態は深刻だ。教育ジャーナリストの木村誠氏がこう話す。「教育現場では、とくに大変なのが小学1年生です。幼稚園で英語まで勉強してきている子もいる一方で、大半は先生の話を真面目におとなしく聞くという学習態度もできていない子たち。その様々な1年生が増えた時の現場の混乱は、想像を絶するものがあります」 これを解消する手段として検討されているのが、“ちょっとずつ増やす”というものだ。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ)「具体的には、来年の9月に入学するのは、2020年4月2日~2021年5月1日までの13か月間に6歳の誕生日を迎える子、再来年は2021年5月2日~2022年6月1日に6歳になる子……といった具合でいけば、2026年9月には帳尻が合う。5年で解消できる計算になります」(内田氏) そうなれば、年齢が違う「4月生まれ」でも今年4月に6歳になった子供と、来年4月に6歳になる子供(現在5歳)が同学年になる、という奇妙なことも起こってしまう。 教員や教室が足りなくなるといったトラブルを回避するためにはやむをえないかもしれないが、とにかくややこしい。関連記事■9月入学論が浮上、なぜ日本は「4月新年度」が続いてきたか■【写真あり】萩生田文科相 宴会で「俺は一斉休校には反対だった」■中学受験で子どもをツブす「教育虐待パパ」の共通点■1台27万円? 小中学校に「PCを1人1台」で膨れ上がる予算■小学校卒業式の「袴スタイル」 親のインスタ映え競争が激化

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    小西寛子の緊急提言「批判やまない『新道徳教育』かくありたい」

    授業を公開している。ワークショップなどを通じて意見交換を行い、学校・家庭・地域社会が一体となった道徳教育の充実を図るために、東京都教育委員会が平成10年度から実施している取り組みだ。 道徳の教科化については批判的な意見も多い中、小学校では平成30年度から、中学校では31年度から「特別の教科 道徳」として始まった。深刻なモラル崩壊に歯止めがかかる様子もなく「不寛容社会」と嘆かれる現代、目まぐるしく変化する予測不可能な社会の中で、子供たちにどのような教育が望まれ、どのような未来が託されているのだろうか。 冒頭の設問だが、みなさんはどれを選んだだろうか? 筆者は、どれも言い分としてアリだよなぁ〜と思いつつ、どれか1つ選べと言われたら、⑤の「みんなで等分」を選んだ。ワークショップの結果は、一番多かったのが⑤。数人が①、③が1人だった。その理由は以下の通りだ。【一番多かった⑤と回答した理由】・平等でよい・経験上、子供たちが一番納得する(学校教諭の意見)・みんなで分けたらおいしい・みんな同じ気持ちで行動したから、みんなで分かちあう【①と回答した理由】・働いた人に相応の評価をすることで社会の仕組みが理解できる・労働の大きさに応じて差をつけて評価すべき・一番よく働いたA君にはもらう権利がある【②と回答した理由】・自分たちだけでなく、他の人のことも考えていてよい どれも理由として、なるほどぉ〜と思う。もちろん、どれが正解というものはない。およそ40年前にこれらの道徳性を調査したのが、道徳性発達理論の提唱者で心理学者のローレンス・コールバーグで、興味深いことに、国によって選択傾向が違うという。 ①を最も多く選ぶ国はアメリカ、②は韓国、⑤は北欧などの福祉国家だそうだ。なるほど、これまた概ね納得できる傾向である。アメリカは成果主義、韓国は儒教の影響、福祉国家はみんなで分け合う。うーむ、筆者はこの時点で、道徳教育の多難さにうなだれてしまった。 1975年生まれの筆者の時代の道徳といえば、善悪の判断や思いやりの心を育てるような物語を読んで、登場人物の気持ちを考えるという感じの授業だったと記憶している。では、「特別の教科」という冠がつけられた道徳科は、いったい今までの道徳と何が違うのだろうか。文部科学省の教材「私たちの道徳」 公開授業を参観してみると、テーマとしては、人への思いやりや困難を乗り越える大切さなど、筆者の時代とは変わらない定番の内容だったが、低学年クラスでは、ちょっと変わった作業をしていた。 生徒に1枚ずつ紙が配られ、感想を書かせるのかと思いきや、紙には空白の吹き出しの付いたイラストが印刷されていて、登場人物になったつもりで気持ちをセリフにして書き出し、子供たちは活発に発表していた。高学年のクラスを覗いてみると、テーマにまつわるストーリーを自分たちの社会に置き換え、グループで議論し、出し合った意見をパネルにまとめ発表するという作業を目にした。根強い反対論 これが、新しい学習指導要領から実践されている「考え、議論する道徳」なのだ。そこには正解も不正解もない。「自己を見つめ、物事を広い視野から多面的・多角的に考え、人間としての生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」(小学校学習指導要領解説より)ことを目標としている。 道徳科の成績評価については、達成度などの段階評価は行わず、教諭は、良いところを褒(ほ)める、励ますなどの文章で評価する。これら道徳科における新しい教育プログラムの理念は、他の教科やあらゆる教育活動においても妥当で、学校生活全般を通して各々の活動を補い、深め合い、育成されることが望まれている。 では、なぜ道徳を学ぶのか? 自分自身を見つめるというプロセスの重要性は従来から変わりないが、道徳が「教科化」された背景には時代の趨勢(すうせい)があるようだ。 一つは、グローバリズムという世界的な流れだ。国内外問わず異文化の理解や多種多様な他者との関わり方、グローバルなコミュニケーション能力の育成は極めて重要で、子供たちが自らと向き合い多様な価値観に触れることで、時代に即した「多様性に対する多角的なものの考え方」を身につけることが期待されている。 もう一つは、深刻な「いじめ問題」がある。2012年に発覚した大津市の中学2年の生徒が犠牲となった痛ましい事件は記憶に新しい。翌年、いじめ防止対策推進法が施行されたものの、今もなお悲痛ないじめ問題は後を絶たない。 この事件を端に、これまで教育課程上の「領域」であったがゆえに、他の教科に振り替えられ道徳の時間が削られるといった問題を含んでいた道徳の「教科化」という動きが一気に加速した。 これらの背景から、新しい道徳教育というものが急務の課題として検討されたことは十分理解できるが、道徳の教科化については根強い反対意見が多いのも特徴である。 その理由としては、戦前の教育勅語体制下の「修身」の復活につながるだとか、議論によってむしろ一つの正解へと導き一定の価値観を植え付ける、違う意見を持つことで教室に居づらくなる、いじめを助長するなどの指摘がなされている。 筆者は知らなかったが、NHKの番組『クローズアップ現代』でも新しい道徳教育を取り上げた内容に大きな反響があったと聞く。新しい道徳教育はそれほどまでに危険なのだろうか。教育出版の道徳教科書の教材「下町ボブスレー」に掲載された安倍晋三首相の写真 確かに、授業の進め方によっては、多数によって形成される価値観だけが切り取られて、結局は排他的、一方的な道徳感や価値観の押しつけになってしまうといった状況は容易に想像できるし、多様性に対応する能力の育成でありながら、人と違う価値観を孤立させる結果を生じないとまでは言えない。  しかし、筆者が目にした教育現場において、「考え、議論する道徳」自体にそれほど悪い印象はなかった。むしろ、受け身の学習ばかり経験してきた筆者からしてみれば、そういった議論を通じてコミュニケーション能力を育むチャンスが与えられる今の小学生たちをうらやましいとさえ思えた。教職員の養成も急務 ただ、一方で、指導プログラムのノウハウが未熟で手探りの状態という印象は否めなかった。新しい道徳教育に対応する教職員の育成もまた急務だろう。 とにかく、子供たちのメンタルを扱う分野なだけに、風当たりも強いのは当然といえば当然だろうが、残業を重ねて真剣に取り組む現場の教職員の方たちの姿にも目を向けてほしいと思う。 『クローズアップ現代』で露呈された道徳教育の問題点については、取り扱う教材の質(現実感や妥当性など)と議論のプロセスにおけるモラルが問われるべきで、決して「考え、議論する道徳」を否定するものではないと筆者は考える。 議論というプロセスにおいては、時に衝突、苦悩、葛藤、誤解などがあって当然だと思うし、そういった過程の中で得られた道徳観や異なる価値観の気づきなどは、むしろ人生の宝物となるべく経験に転化して考えていくべきではないだろうか。 道徳に限らず教育とは常に手探りであり、楽観的で言い方は悪いかもしれないが、試験的な試みを積み重ねていく必要があるのではないかと思う。 そして、「考え、議論する道徳」に不可欠な要素となるのは言葉の教育だ。人の心は読めない。言葉で表現しなければ、心の中で考えたり感じたりしたことは人には伝わらないものである。 小学校学習指導要領では「言語活動の充実」を掲げている。その目的は「話し合いなどによって自分の心の中を言葉で表現し、文章に書き出すなどして、友達の考えを聞き、自分の考えを伝えるというプロセスを通じて、多様な感じ方・考え方に触れ、考えを深める」といった、言葉を活かした学習の充実だ。 人は自分の知っている言葉でしか表現できない。例えば、何かを手に入れたいときに、幼稚園の頃は「これほしい」とか「これちょうだい」くらいの表現しかできないが、小学生になると「○○ください」とか「○○はありませんか?」と人に尋ねたり、「△△だから○○を買ってほしい」と理由をつけて要求したりすることもできるようになる。 つまり、伝えたい気持ちがあっても、表現する言葉をたくさん知っている人と、あまり知らない人では、コミュニケーションに大きな差が出てくる。 また、すでに筆者が学生の頃から嘆かれ続けてきた「日本語の乱れ」の問題がある。当時はもっぱら「若者の言葉遣い」が批判の対象だったが、その若者たちが大人になり、子育てをし、いつしか家族そろって乱れた言葉を日常的に、時・所を選ばず使用している。声優でミュージシャンの小西寛子氏 どのような場面でどのような言葉遣いを用いるのが適切か不適切かという判断はおろか、善悪の分別すら未熟な発達途上にある子供たちの耳に入る場所で、そういった粗雑な言葉遣いが交わされていることについて、筆者は「当時の若者」の一人として、保護者に反省と改善を促したい。保護者はもっと関心を なぜ、きれいな言葉を使うべきか、というと、同じ意味の言葉でも、言葉遣いによって受け取る側に温度差が生じるからだ。きれいな言葉、丁寧な言葉というのは、日本人にとっていわば「共通言語」であり、自分の気持ちや考えを伝える上でより正確に、豊かな表現ができる。 悪態をつきたい、悪ぶってみたいという子供たちの気持ちはよく分かるし、言葉遣いが悪い人でも人情味ある礼儀正しい人だってたくさんいる。 だから百歩譲って、きれいな言葉遣いではないと理解した上で、「限定した場面で、故意に、あえて選択して使用する悪態」についてはスパイス的な要素として許容し、きれいな言葉を基本とし、乱れた言葉を日常的に使わないなどの緩やかなルールを家庭内で設けて、言葉を使い分けてみてはどうだろうか。言語活動を充実させるには、単純に学習によって語彙を増やすという作業と共に、家庭や地域社会、そしてマスコミの役割も大きい。 いずれにせよ、道徳教育は一筋縄ではいかない。批判的な立場から見れば危うさばかりが目に付くかもしれない。しかし、人は誰しも失敗の中から学ぶことがたくさんある。そんな簡単に物事は順調に進まないものだ。 大切なのは、試みの中で生じた齟齬(そご)にいち早く気づき、それに対応すること。特に子供たちの心の動きには細心の注意と配慮、ケアがあってほしいし、いじめにつながるような事態は絶対にあってはならないと切に願う。 また、保護者らにももっと道徳教育に関心を持ってほしい。今回、筆者がお邪魔した公開講座は、土曜日ということもあり授業を参観する父親の姿や夫婦での来校も多かったが、ワークショップに参加した人の数は全児童数の5%にも満たない。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 新しい道徳がどのような理念と目的で実践され、どういった教育論で行われているのかを把握、理解することで、家庭における親(保護者)としての役割がより具体的に見えてくるのではないだろうか。ぜひとも、この「考え、議論する道徳」を意義あるものにしてほしい。

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    「ゲームは1日60分」親だって素直にウンと言えない理由

    は反していないこと、子供が睡眠時間を確保し、規則正しい生活習慣を身に着けることが目的ということ、IT教育の重要性は理解していることなどを述べたものとなっている。子供がインターネットなどの依存症になるのを防ぐ条例の制定に向け議論する香川県議会の検討委員会=2019年11月、高松市 「平日は60分まで」という具体的な制限時間にも反発が多かったようだ。これは、国立病院機構久里浜医療センター(神奈川県横須賀市)による2019年11月の調査や、香川県教育委員会が2018年度に実施した調査結果を踏まえた基準値だという。学業成績の低下が顕著になる平日のゲーム使用時間と、児童生徒の平均正答率が低い傾向が出るスマートフォンなどの使用時間がともに1時間超だったからだ。 ただ、あくまで基準として規定されたものというが、60分を越えるとネガティブな影響が出るためということであれば、利用時間を短くしたいという意図が強く表れていると言えそうだ。「ゲーム漬け」解消させたい親の戸惑い ネット上では反対の意見が多いようだ。しかし、小学生以下の子供がいる保護者を対象としたウィズリープの「子供のゲーム規制に関する意識調査」(2020年1月)によると、条例について「良いと思う」は27・6%、「どちらかと言えば良いと思う」は22・2%と、約半数が賛成している。条例案に対して賛成している保護者は、確かにいるのだ。 なお、この調査では、子供のゲームのプレイ時間についてもアンケートしている。「プレイ時間を制限すべきだと思いますか?」という質問に対しては、83・45%の保護者が「制限すべき」と答えている。また、「プレイ時間は1日何時間にすべきだと思いますか?」と聞いたところ、平均は1・183時間となり、条例案が提示する時間とほぼ同じとなっていた。 筆者の周辺でも、小学生のいる家庭の多くが、子供が使うアプリやゲームなどの利用を制限する「ペアレンタルコントロール」機能などを利用している。「休日のみゲームができる」「1日1時間のみゲームができる」など、何らかの利用時間制限を掛けている家庭がほとんどで、全く制限がない家庭は少数派だ。 筆者は年間数十校以上の学校で講演しているが、一番多く寄せられる相談が「子供がゲームをやめろと言ってもやめない」ことだ。特に中学校の場合、各校に1人以上は、学業不振や学友との不和などの理由からゲーム依存状態に陥り、不登校となった生徒がいる状態となっていた。 中には、ゲームを長時間利用することで昼夜が逆転し、不登校状態となった生徒もいた。そこまで行かなくても、予備軍とみられる生徒は複数いる状態だった。 「大学生の息子がゲーム依存状態で学校も行かず、就職活動もしないがどうすればいいか」という相談も受けたことがある。少なくとも、筆者に相談をしてきた保護者や教員の多くは、子供がゲーム漬けの状態から解消される方法を真剣に求めている。 「県が決めて効果があるのか」という意見は多数あった。押し付けであり、子供たち自身の「守りたい」という気持ちが元となったわけではないため、確かに効果は乏しいかもしれない。そこで、代わりに筆者が考えるやり方は、次のようなものだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 既に多くの学校で実施しているのが、児童・生徒の間で話し合わせて、ルールを決めさせる方法だ。自分たちの悩みや困りごとを元に、自分たちでルールを決めていくため、実効性が高まるのだ。自分の使い方を見直したり、問題について考えるきっかけとなるので、他の家庭や学校などでも検討してみてほしい。 条例案が出た背景は理解できる反面、行政に決められたくはないと思うのは当たり前だし、反対意見が出るのも当然だ。まだまだ議論の余地がありそうなので、今後も行方を見守っていきたいと考えている。

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    パワハラ指導を防ぐ文句も言い合える関係とは?

    矢沢彰悟  日本に帰ってきて数ヶ月が経った。この間担当させてもらっているチームを指導してきたのだが、スペインにいた時とは指導の仕方は当然変わっている。具体的には選手との接し方や声かけの方法を意識的に変えている。なぜなら日本の選手たちはスペインの選手たちとは違うからだ。 今のところの感覚だが、日本の選手たちは“自分を表現する”ことが苦手。もっと言えば、自分の意見や考え、感じていることを主張してくる姿勢が弱い。そしてそのような姿勢は自分の持っている能力をチームのために最大限まで表現しなければならないサッカーにおいては、決して望ましいこととは言えない。 J1湘南ベルマーレの曺貴裁(チョウ・キジェ)監督による選手とスタッフへのパワハラ疑惑の報道が出た。真偽のほどや詳細は現在のところわからないし、この件についての是非をここで論じるつもりはない。 私がこの件から考えているのは、言われた側と言った側の関係性はどのようなものだったのだろうか?ということだ。 もし言葉の受け手側が言われたことに納得しているならば、それは真摯に受け止めなければならないだろう。だがもし異論や反論があるならば、その場でも後にでも何か言い返すことはできなかったのだろうか?もしできなかったのなら、その両者の関係性には改善の余地はあったのだろうと個人的には思っている。 仮にこれがスペインだったらと考えると、おそらくこのような問題が起こることはそもそもなかったと思う。なぜなら選手もスタッフも納得できないことや意見があったら何の遠慮もなく互いの立場など関係なく主張するし、議論になることから逃げず恐れず、主張をぶつけ合うからだ。 決して「言われた側の人間が精神的に弱くて反論しなかったのが悪い」などと言っているのではない。むしろその逆で、“目上”である監督がチームの誰もが自分に意見しやすい雰囲気を作るべきなのだ。 日本では立場が上の者を敬う文化が根強いため、どうしても“目下”の者が“目上”の者に意見しにくいという空気がある。そのため特に育成年代のスポーツにおいては選手が指導者に対して自分の意見を言うことができる雰囲気作りと相性が悪いのは確かだ。 だが「選手が自分に意見や主張することが許される空気」というのはスポーツのチーム作りにおいては必要不可欠なものであり、指導者の非常に大事な仕事の一つでもある。 スペインを含む欧州ではそれが当然のこととして指導者の仕事になっている。例えばマンチェスター・シティを率いるグアルディオラ監督もピッチ脇で選手やスタッフと互いの意見をぶつけ合いながら激論することなどよく見る光景だ。私もスペインで監督をしていた時はほぼ毎回の練習や試合で、ある日はチームの戦術について、ある日は選手のポジションや起用法について、ある日は練習方法について、他にも挙げればきりがないほど、選手と喧々諤々の意見や主張のぶつけ合いをした。 その中には正直選手からの文句に近いものもある。もちろん受け入れがたいことや腹が立つこともある。 だがスポーツにおいては選手も指導者も、まずは互いの主張やそこから議論になることを逃げてはならない。かつて現地でU-12のチームの監督をしていた時、クラブの上司に言われたことがある。 「文句も意見の一つだ。(選手の)保護者が何か言ってきたときは聞き流すか自分(その上司)に回せばいい。だが選手が言ってきたことは例えそれが文句だったとしてもまずは聞け。そうでないとその選手は不満を抱えたまま自分を抑えてしまう。その姿勢はチームの雰囲気に悪影響を及ぼすから、選手の表現には制限はかけるな。その上でどう対応するかは監督であるお前が決めればいい」 言うまでもないが、選手の文句やわがままを全てそのまま受け入れろというのではない。選手が感じていること、思っていること、考えをまずは理解した上で解決策を探れ、と言っているのだ。 もし何か腑に落ちないことや感じていることがあるなら、選手も指導者も互いに遠慮せずに言い合う。その中でお互いに納得できる着地点を探るのが、スポーツにおける本来のコミュニケーションなのだ。 ただし勘違いしてはならないことが2点ある。それはその意見のぶつけ合いは決して自分だけのためではなく、あくまでチームがよくなるため、という視点を原点にしたものでなければならないということ。また最終的な決断はあくまで監督や指導者がするものである、ということだ。 監督や指導者の最も重要な仕事は“決断する”こととそれを選手に“要求”すること。決断を下すまでのプロセスは選手も指導者も互いにチームを良くするため、互いの意見をぶつけ合って築いていくものだが、最後に決めるのはチームの責任者である指導者だ。 例えば試合に臨むにあたってどのようなメンバーで、どのような戦い方で、誰をどのポジションに起用するのか、最後はその全てが指導者による決断だ。そしてチームが勝利するためにそれを選手たちに要求する。選手もその決断はリスペクトしなければならない。もしどうしても納得できないのであれば、チームを移籍するなど他の居場所を探す他ない。選手にはその権利がある。 だからこそ、“決断して”“要求した”からには、望み通りの結果が出なかった時に責任を取るのは指導者だ。選手ではない。2019年08月07日】【湘南ベルマーレ対アトレティコ・パラナエンセ】湘南の曺貴裁監督(撮影・蔵賢斗) 指導者の仕事は日常的に“決断”と“要求”の連続だが、決断するまでのプロセスにおいて指導者の意見がもっとも強いわけではないし、偉いわけでもない。あくまで指導者はチームの決断に対しての最後のスイッチを持っているだけであり、そのスイッチを持つことに対する責任を負うことが仕事である。 そしてその決断を導き出すためには、チームに属しているメンバー全員が自らの意見や主張を自由に言い合うことができなければならない。選手は指導者の決断に対して、指導者は選手の考えに対して、互いのリスペクトが必要不可欠なのだ。 選手と指導者の間にもし何か言えない空気があるなら、そのチームのパフォーマンスは最大まで発揮できているとは言い難いだろう。やざわ・しょうご 大学卒業後、スポーツカメラマンやライターとして活動するも、学生時代から携わっていたサッカー指導者としての道を本気で志すため2015年、スペインのバルセロナに。現地の監督養成学校にて監督ライセンスを取得し、現地の少年から大人までの監督、 コーチを歴任する。 スペイン監督最高ライセンスを取得し、現在は国内クラブの育成年代を指導する。

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    大人たちの「完璧主義」がニッポンの子供を追い詰める

    通事故に気をつけるよりも大事であるような雰囲気があると、ある小学校の教師から聞いたことがある。そんな教育環境で育った子供が大人になって、日本の社会を築いていくのだ。 私の住むノルウェー西部ベルゲン市のある高校では、日本の高校と姉妹校になっており、年に一度学校を相互訪問している。ある年、日本から来た高校生がこちらの高校を訪問し、日本の学校などの紹介をする際に、メモを見ながら発表していた。 ところが暗記せずに臨んだことで、その生徒は日本側の教師から怒鳴られたそうだ。その光景を目の当たりにしたベルゲンの高校生はショックを受けてしまった。 怒鳴られた理由も全く理解できなかったし、メモを見ながら発表することがなぜいけないのか、全く腑に落ちなかった。また、日本の高校生たちは常に教師の目を気にしており、不安な様子を見せていたという。 ノルウェーの学校でも、メモなどを見ずに発表することを生徒に要求する教師がいることは確かだ。特に試験の際には、メモを見ながらであれば成績に響く、ということは生徒自身も理解している。虐待で亡くなった小4女児の自宅前に手向けられた花束=2019年2月、千葉県野田市 だからといって、国際交流の場でメモを見ながら発表して、注意されることはまずない。もし注意しなければならない場合でも、外国からの招待生徒の目の前では決してなく、後で当の生徒と2人きりの場所で、穏やかに行うのが普通だ。 そもそも、日常の学校内で教師が生徒を叱りつけることはしない。常に穏やかな調子で生徒を指導しているため、生徒たちが教師の目を気にして始終怯えることはあり得ない。社会に出ても叱られる 日本では前述した通り、目上の者に従順で、また完全な行為をすることを良しとする教育環境で育っていく。だから、親や教師の叱責は日常茶飯事である。 大人になると今度は上司や客などから叱責を受け、社会に出ても叱られる環境から抜け出すことができない。私もノルウェーで日本人観光客のガイドをしていたときに、小さなミスを犯したことで添乗員から叱責され、非常に不愉快な思いをしたことがある。 人間は不完全であり、多少の間違いを犯すことは普通であるはずだ。それなのに、日本人がなぜこれほどまでに完全さを求めるのか、不思議でならない。 運動会などの組体操が事故多発で問題になっているのも、完全を求める日本人の意識が背後にあることが一因ではないだろうか。組体操が立派に成功すれば、保護者をはじめ、教育関係者などから多くの支持や称賛を受けられる。だが、子供たちに対する危険な行為の強制は続き、事故のリスクも一向に減らないだろう。 ノルウェーでは、完全さを要求するのではなく、不完全さを受け入れられる土台がある。そのおかげで子供たちはゆとりを持ち、お互いの不完全さを受容しながら健やかに育っていくことができる。同時に、18歳未満の子供たちの人権を保障する国際児童基金(ユニセフ)の「子どもの権利条約」を重視するため、児童や生徒たちに対して、学校が危険な行為を強制することはない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) ノルウェーでの例をいくつか挙げてみよう。ある小学校の教師に日本の道徳教材の話をしたところ、興味を持ってくれたので、同じ内容の教材をノルウェー語に訳して、ノルウェーの子供がどのように答えるか試してみることになった。教材に使った物語の概要は次の通りだ(子供の名前は仮に付けている)。 小学校の児童2人が、買い物をしにバスで街に向かった。下車の際に子供の1人、「宏くん」がお金を忘れたことに気付く。友だちの「亮くん」に貸してと頼んだが、母親に貸してはいけないと言われているために、貸してもらえなかった。ところが運転手は、誰かに借りて絶対に支払わなければいけないといい、宏くんはパニックになって泣き出した。すると乗客の1人が近づき、忘れ物をした宏くんに怒りながらも支払いをしてくれた。バスを降りると、宏くんのポケットにお金が入っているのが見つかった。不完全を受け入れられる「土台」 この話を使って日本の学校では、責任を問う。研究のために訪問した学校のある小学6年生のクラスでは、1人を除いてクラス全員がお金を忘れた宏くんに責任があり、亮くんも2人の大人も悪くないという結果になった。 もちろん、授業の進め方はノルウェーでも各人によるが、ある教師に話を聞くと、教師としての個人意見を述べるよりも、児童たちに自由に話し合いをさせたり問題提起したりすることで、児童たちが深く考える機会を作らせることに心を砕くだろうということだった。話し合いをさせているうちに、教師がなるほどと気づくこともあるかもしれないし、同時に児童たちが他の人の意見も聞くということを学べるだろうという理由からだった。 そうして出したノルウェーの子供たちの答えは、同じ小6であっても、日本の児童と大きな違いがあった。忘れ物はいけないし、宏くんはポケットをよく調べるべきだったが、他の3人にも責任があるというのが圧倒的多数を占めたのだ。 亮くんは友達なのに冷たいし、運転手も融通がきかないという感想だった。その上で、支払いをした乗客と同じく、相手は子供であることを考慮すべきだったと指摘したのだ。 教師の対応も、まず公平にそれぞれの子供たちの意見を聞くことに努めている。たとえ日本の子供のように「宏くんが一番悪い」といった多数派と違った意見であっても、あえてそれを直そうとはせず、そのまま受け入れていくのである。 不完全さを受け入れられる「土台」は、何も教育だけにある話ではない。ベルゲン市内で、子供向けの手作り人形劇をボランティアで続けている知人がいる。手作りだけあって、劇が行われる幼稚園や地域の集会所では、子供から大人まで誰もが人形作りに参加できる。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 彼の作る人形も決して高度な技術を使うこともないので、多少のゆがみも左右非対称も気にしない。材料にしても、古新聞やトイレットペーパーの芯なども使い、素朴で温かみがある。舞台装置も大きな段ボールを切り抜いて作ったものだ。 劇を披露する段になれば、舞台を裏から支える役回りを、見学者が名乗り出て引き受けてくれる。こうして、人形劇の場から、高齢者から子供までお茶を飲みながら楽しく談話でき、子供連れの家族もゆったりと日曜日の午後を過ごす土壌が生まれるのである。完璧を求める大人たち ノルウェーでも専門家が素晴らしい人形劇を各地で行っているが、なぜ彼の作るような素朴な劇も受け入れられるのだろうか。それは、子供たちが自分にも作れるという自信が湧き、想像力を働かせて、発達過程における子供自身の成長と教育に役立つからだそうだ。材料も家庭で普段使うものだから、さほど苦労もせずに見つけることができる。 クリスマスが近づくと、欧米ではジンジャー・ブレッド(生姜入り菓子)を焼いて、それで家を作って盛り上げるのが定番だ。ベルゲンでもクリスマスの1カ月前から、毎年恒例のジンジャー・ブレッドでできたベルゲンの街が展示されるが、開催前に市民の作ったジンジャー・ブレッドの家を公募している。 選ばれた中には本格的で立派な家もあるが、私と幼少期だった息子と作ったささやかな家も展示されたこともあった。こうして、個人から幼稚園、学校など誰でも自由に作った作品が街に飾られるのである。 他にも多くの例がある。公共交通機関で遅れが出ても、多少のロスは誰も気にしないし、横断歩道などは日本のように完璧な白線を引いてあるとは限らない。多くのノルウェー人にとっては、線が何を示しているか分かれば十分であり、多少の歪みがあっても問題はないのだ。 ところが日本では、あらゆる場面で完璧を求められる。日本の鉄道では、運転手がトイレに行く時間もなく、乗務員は常に時間厳守を強いられている。懲罰的な運転士教育や過密ダイヤが問題視された2005年の尼崎JR脱線事故を覚えている人も多いだろう。 学校でも、子供たちの行為が一点の曇りもないように指導し、一般教師はおろか、学校教育に携わるリーダーたちも子供の権利に関する知識に乏しく、かえって強制行為を正当化していることは先述した通りだ。ノルウェー・ベルゲンのクリスマス風景(ゲッティイメージズ) このように、日本人は学校や職場では、教師や上司から叱責や処罰を受けないように、完全を目指して最大限の努力を払う。ただ、自宅に戻れば、逆に憂さ晴らしができるようになっている。 このような環境では、不幸な事件が連続するだけである。多少の間違いは大目に見ること、また多少の「乱れ」も受け入れることが、日本に真のゆとりある社会を形成するにあたり、重要ではないだろうか。

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    神戸いじめ教師と教育委員会が逃げ込んだ「いつもの世界」

    (木下未希撮影) この出来事だけでも十分酷いことで、あってはならないことです。しかし、その後の学校や教育委員会の対応にも疑問の声が上がっています。 まず、加害者は被害者に対して謝罪することが何よりも必要なはずですが、加害教師ら本人の謝罪の声が聞こえません。神戸市教育委が謝罪の言葉を公表していますが、被害者当人よりも家族に謝罪している加害教員もいます。 あまりにトンチンカンな内容に、インターネット上で謝罪文を添削する「赤ペン先生」が全国で続出するありさまです。私も文章を読ませてもらいましたが、被害者へのおわびの気持ちが伝わらない印象はぬぐえませんでした。「カレー」「家庭科室」対策のナゼ また、ツイッターでは「教師たちの反省文じゃないからです。教育委員会が、事情聴取で聞いた言葉を拾って作りました(中略)」という指摘もあります。この指摘が本当であれば、加害教員らは何の反省もしていないのかもしれません。 被害者は被害教師だけにとどまりません。ショックで不登校になった児童もいると報じられています。 また、登校している児童も、学校と教師に不信感を抱いている可能性は十分にあるわけで、心中穏やかでないことでしょう。学校に行かせている保護者も心配のことと思われます。 そのような中で、校長が涙の謝罪会見を行ったのは救いです。ただ、カレーが暴行に使われたということで、市教委が打ち出した「給食のカレーを休止する」「家庭科室を改装する」などといった対応策は、児童や保護者の心中をどこまで考えているのか、疑問に思ってしまいます。 では、なぜこのような事態に陥ってしまったのでしょうか。私がスクールカウンセラーを務めていて、まず気づいたのは教師の構造的な忙しさです。 2018年調査の経済協力開発機構(OECD)国際教員指導環境調査(TALIS)によると、世界で最も勤務時間が長いのは日本の教師で、小学校で1週間あたり54・4時間、中学校では56・0時間にも上りました。世界平均では38・3時間なので、ダントツに長いことが分かります。授業時間そのものは世界平均の水準なのですが、特に課外活動の指導や事務業務、授業の計画や準備の時間が長いのが特徴です。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 私は教育委に勤務していたこともありますが、教師と同じく極めて多忙です。統計や国際比較のデータはありませんが、学校現場と同様に業務に忙殺されていることと思われます。 このような忙しさの中では、「いつも通り」物事をこなすのが精いっぱいになってしまいます。今回のような問題が起こったとしても、真剣に事態と向き合って考える余裕もないことでしょう。女性教師の謝罪に見た「錯覚」 また、多忙は、考えると苦しくなる問題から目をそらして否認する「道具」にもなり得ます。「強迫性障害」という異常心理がありますが、これは気にしなくてもよいことを気にしてしまって、無意味な行動を繰り返したり、本当に必要な行動が取れなくなる状態を言います。 強迫性障害の全ての人に当てはまるわけではないですが、何かを気にして心を忙しくすることで「本当にヤバいこと」を考えないように逃げていることが知られています。 実際、いじめの「首謀者」とされる女性教師の謝罪の言葉に、「子供たちを精いっぱい愛してきたつもりですが…」という件(くだり)があります。被害者と向き合うのではなく、教師としての自分の仕事に向き合おうとする姿勢がうかがえます。これでは、加害者としての自分から逃げているかのように感じられてしまいます。 心理学では、このように「いつも通り」に逃げ込んで、問題と向き合わない現象を「恒常性錯覚」と呼びます。この錯覚は、防災などの危機管理を考える際のキーワードとしてよく使われます。危機的な状況でこの錯覚に陥ると、危機がさらに拡大するからです。全ての人とは言いませんが、加害教師らも市教委も恒常性錯覚に陥っているのかもしれません。 錯覚にはまる要因は、先に指摘した多忙さだけではありません。日本の学校には、100年以上も脈々と受け継がれた文化と伝統があります。神戸市立東須磨小で同僚をいじめていた加害教諭4人の休職を発表し、謝罪する市教育委員会の幹部ら=2019年10月31日、神戸市役所 また、義務教育は日本国憲法で定められた国民の三大義務であり、決して無くなりません。実は、このような特徴にも恒常性錯覚を起こしやすい背景があると言えるでしょう。 今回の教師いじめは一種の集団暴行であり、学校教育は大きな危機を迎えたといっても過言ではありません。その中で恒常性錯覚に陥ったままに対応を誤ると、学校教育への信頼がますます揺らぐことでしょう。 恒常性錯覚は、心理学者としての私が指摘した懸念ではありますが、これが本当に懸念にすぎないことを祈っています。日本の学校教育に育ててもらった一人として、国民に広く信頼される学校教育であってほしいと思うばかりです。

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    日本人がノーベル賞をとれなくなる日

    旭化成の吉野彰名誉フェローがノーベル化学賞を受賞した。日本出身の受賞者は27人となる快挙だが、国を挙げて科学技術研究に取り組む中国に比べると、日本の研究支援はあまりにもお粗末だ。人文系も含め学問熱が冷めつつある日本。ノーベル賞受賞が途絶えるだけでなく、真の政治指導者も生まれない事態にならないか。

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    日本の研究力低下、このまま中国に後れをとってもよいのか

    が、1947~49年生まれの団塊の世代が当事者であった70年安保闘争である。左翼学生運動が大学の研究教育活動を妨害し、施設を破壊したことの後遺症が、この知の空白を生んだと考えられる。2013年の平和安全法制制定時も、主に文系の大学教員とごく一部の学生に、大学を拠点に反対運動を盛り上げようとする動きがあったが、そういう政治的動きが大学で過激化、暴徒化することが、研究力の維持に対する最大の脅威の一つであることが分かる。電池の模型を手に笑顔の旭化成の吉野彰名誉フェロー=2019年10月10日、東京都千代田区(古厩正樹撮影) また、当然ながら、これまでのノーベル賞受賞者は、全て1990年代の大学院重点化より前に学生時代を過ごしている。博士課程の定員割れ、博士号取得者の雇用難といった問題は、大学院重点化で大学院の定員を増やしたゆえに起きている現象である。大学院進学者が少なかった時代に多くのノーベル賞受賞者を生んでいること、さらに博士課程に進学していないノーベル賞受賞者も多数輩出されていることを考えると、博士号取得者が計画通り増えないからといって、今後ノーベル賞級の研究ができなくなるという結論にはならない。日本が後れをとる分野 著者の専門分野に話を移そう。情報系、工学系では、日本の優位がまだ残っている分野と、日本が完全に後れてしまっている分野がある。まだアドバンテージがあるのはハードウエア分野である。もちろん、ここでも日本の優位性は小さくなっているのは事実である。筆者の専門分野の一つである電子ディスプレイについても、10年前までは日本企業に存在感があったが、民主党政権が超円高政策で日本の製造業に致命的なダメージを与えて以降、産業の中心は韓国、台湾、中国にとって代わられた。 しかし、研究については日本もまだある程度勝負できている。最大の理由は、国内に優良な部品を作れる中小企業がたくさんあることだ。これが、新しい実験装置や試作機を作るのに非常に役立つ。筆者自身、国際会議などで「お前の使っているこの部品はどこで購入できるのか?」と聞かれることがよくある。ハードウエア分野の研究力を維持する上で、日本の国内の中小製造業がもつ技術やノウハウは、今後も大事に守っていく必要がある。 一方、ソフトウエアについては、日本は完全に後れをとっている。今流行の人工知能分野でも、米国勢や中国勢が先行しており、日本は全くついていけていない。筆者の専門分野の一つに人工知能を使った医療画像自動診断があるが、同分野のトップカンファレンスである「MICCAI」でも、昨年の会議における中国、韓国からの参加者数が全体の4位、5位を占める一方、日本はトップ10にも入っていない。 発表件数も全体で300件以上ある中、日本からの発表は筆者を含めて1桁にとどまっている。今年開催された腎臓がんの自動検出の国際コンペにおいても、106の参加チーム中、中国からの参加が半数以上を占めた。トップはドイツチームだったものの、中国チームも多数上位に食い込んでいた。筆者を含む研究グループは、日本からの参加チームの中ではトップだったが、中国の上位勢には及ばない状況である。 今の中国は、人工知能以外でも、宇宙、エネルギー、計算機など、軍事的優位を築くことに資する研究分野に重点的に投資をしている。これまでの米国の戦略と同じである。一方、日本はというと、ご存じの通り、日本学術会議の声明の影響で、多くの主要大学で防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度に学内の教員が応募できない状態である。中国のIT企業が展示した人工知能による顔認証技術=2018年11月、中国浙江省烏鎮(共同) 今関心を集めている自動車の自動運転技術も、米国では米国防高等研究計画局(DARPA)のグランド・チャレンジで、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)などの名門大学が技術を磨いてきた歴史がある。そうした軍事技術の積み上げは、当然民生への応用を考える場合も大きなアドバンテージになる。防衛関係の研究を大学が禁じる日本が、軍事研究に力を注ぐ米国や中国に太刀打ちできないのは当然である。中国研究者のモラル違反 さらに、中国勢には、もう一つ大きな武器がある。それは、ペナルティーがないなら平気でモラル違反をすることである。例えば、学会では予稿集に論文を投稿しておきながら、学会で発表に来ない「No Show」と呼ばれる行為がある。予稿集が学会後に出版される場合は、No Showの論文は削除されるが、同時出版の場合は削除されずに実績となる。 中国の研究者は、このNo Showを行う確率が非常に高い。また、ポスター発表で、ポスターを貼っただけで何の説明もしない「貼り逃げ」行為もしばしば見られる。実際、私が参加した学会で貼り逃げ行為をカウントしてみたところ、中国の研究グループがその7割を占めた。その学会の中国からのポスターは約35%であったことを考えると、中国の研究グループは他国のグループに比べ、貼り逃げをする確率が非常に高いことが分かる。最近、中国が論文数を増やしていることがしばしば取り上げられるが、彼らがこうした手段で数を稼いでいることは割り引いて考える必要がある。 中国勢との競争を考える上で、最大の懸念事項は知的財産権の軽視である。筆者が研究室内で企業との共同研究を学会発表する話をしていたとき、ある中国人学生に「この研究は商品化を考えていないのですか?」と質問されたことがある。私が驚いて「商品化を考えないなら企業は研究しない」と答えると、「学会発表してしまったら、盗まれるじゃないですか」と言われた。私が学会発表の前には特許出願をすると説明したが、中国では特許をとっても誰もそれを尊重しないので、企業は学会発表しないというのが彼から聞いた話であった。 もちろん、学会で中国企業の発表を見かけることはある。しかし、その発表内容は結果を自慢する種のものが多く、その技術的詳細に触れるものはほとんどない。われわれ自由主義国の研究者とは、学会発表の捉え方が全く違うことが分かる。 もし、こうした違いがそのまま放置されると、自由主義国からは中国に細かな技術情報が全て開示される一方、中国からは自由主義国に技術情報は伝わらないという非対称な関係が続くことになる。そうした状況下では、技術開発において今後中国がさらなる優位を築くことは間違いない。20カ国・地域(G20)首脳会議(大阪サミット)デジタル経済に関する首脳特別イベントであいさつする安倍晋三首相(中央)。左から2人目はトランプ米大統領、右から2人目は中国の習近平国家主席=2019年6月28日、大阪市住之江区(代表撮影) 米ソ冷戦では自由主義国が独裁国に勝利したが、そのときは人、モノ、金、情報の往来に制限があった。今、自由主義国と独裁国中国の間では、人、モノ、金が自由に行き交う。そして、情報については自由主義国から中国への一方通行に近い状況である。これでは、独裁国側が圧倒的に有利である。中国の軍事的脅威が現実的なものになる中、米国はトランプ政権になってこの非対称なゲームのルール是正に乗り出した。多くの日本人は、この危機的状況においても鈍感なままだが、米中対立が露見しているこの機会に、自分たちの置かれている立ち位置を考え直してみる必要があるだろう。

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    聞かれなくなった「末は博士か」に立ちはだかる3つの傷心

    石渡嶺司(大学ジャーナリスト) 1963年、フランキー堺主演による作家、菊池寛の立志伝映画が公開された。タイトルは『末は博士か大臣か』。封切り当時、大学院の博士課程進学者は少なく、65年の学校基本調査では3551人だった。 博士課程に進学すれば、研究職としてのキャリアを歩むことになる。そして、映画のタイトルにまでなる、ということは進学者の希少さと立身出世物語にもなるほど確かなキャリアを示していた、と言えよう。この博士課程進学者は2005年に1万7553人まで増加する。 1991年、当時の文部省は大学院生の在籍者数を10年間で倍増する計画を打ち出した。専門性の高い知識を備えた人材を輩出することで研究力を上げることが狙いだった。 実際に、博士課程在籍者数は91年度の3万人近くから19年現在は約7万4千人にまで増えている。在籍者数を増やす、という計画そのものは成功した。 一方で、進学者数は2003年をピークとして緩やかに減少し、18年は約1万5千人程度となっている。1965年時点に比べれば約4倍の増加だが、55年前と比較すること自体、無理があろう。 では、海外と比較した場合はどうだろうか。文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)が2019年8月、米国や英国、韓国など研究開発費の多い7カ国の比較調査を発表した。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) これによると、日本は2000年度に人口100万人当たり127人だったのが、16年度には118人に減少している。これに対し、米国は2000年度の141人から15年度258人、韓国は2000年度の131人から17年度には278人と、それぞれ増加している。 日本では、大学生や大学院生(修士課程)を取材しても「博士課程には行きたくない」と敬遠する学生が多い。いったい、なぜ博士課程への進学は嫌われてしまったのだろうか。嫌われた三つの理由 減少理由として考えられるのが、「在籍中の学費負担と劣等感」「大学教員への不信感」、そして卒業後の就職難を含む「博士課程のキャリアの不明瞭さ」の3点である。 まず、「在籍中の学費負担と劣等感」から分析してみよう。言うまでもなく、博士課程に進学して、在籍もしていれば、その分学費がかかる。 そのうえ研究も、となるとアルバイトする時間もままならない。そうなると、奨学金に頼るしかなく、学部時代から通算9年(学部4年、修士2年、博士3年)受け取ると、1千万円を軽く超えてしまう。 会社員であれば、数千万円の住宅ローンを利用しても「家族のために」というモチベーションがあるだろう。それに社会人経験があれば、「在籍経験が転職市場でも評価されるはず」という見通しも立てられる。 その点、博士課程に奨学金を利用して進学した場合はどうか。後述するが、就職難の中で返済できるかどうか、はっきりした見通しが持てない。そうした中で、数百万円から1千万円強の奨学金の返済残高を残しても平静でいられる学生はそう多くないだろう。 仮に奨学金を利用しなかったとしても、就職できるかどうか不安感が残るのは否定できない。さらに、見逃せないのが劣等感である。 博士課程を修了するのは20代後半から30代前半の年代だ。この年代は民間企業だと主任・係長から課長クラスにまで昇進し、大手企業であれば年収が1千万円を超えていることもある。ノーベル賞化学賞を受賞した吉野彰氏が出身の京都大学=2019年10月9日(永田直也撮影) その間、博士課程の在籍者はどれほど稼いだとしても、数百万円程度にすぎない。事実、大学院生を取材すると、同年齢の友人や知人に対する劣等感が強いことが明らかだ。「実家に帰ると、父親がプロ野球を見ながら『●●は高卒であんなに活躍して稼いでいる。お前は10年も大学に行きながら、ろくに稼がないで』とぼやかれる。居場所がないから、実家に帰るのをやめた」「30歳のとき、高校の同窓会に出たら、民間企業の就職者は『車を買った』『時計を買った』『今度結婚する』などと、うらやましい話ばかり。どこそこの塾はいいとか悪いで盛り上がっているグループもあった。その点、自分は何もなくて、辛かった。しかも、2次会、安い居酒屋に行こうとしたら『えー、せっかく久々に会ったのだから、ちょっといいところ行こうよ』と言われて高い店へ。あわてて用ができた、と帰ってきた」「教授が何を言っても聞かない」 2点目は大学教員への不信感である。博士課程の在籍者や修了者に取材すると、研究室の教員から雑用を押し付けられたという話をよく聞く。それが大学院博士課程ならどこでもある、とまでは言い切らないまでも、そうした話が多いのは確かだ。 研究室の担当教員からすれば、自身の研究が忙しく、任せられる人員が博士課程在籍者しかおらず、致し方ないという事情もあるだろう。しかし、在籍者からすれば、自身の研究より研究室の担当教員に押し付けられた雑務処理が優先となってしまう。そうした状況を見ていれば、博士課程への進学意欲が湧く学部生が増えるとは思えない。 また、学生の不信感を助長しているのが、博士課程への進学を強調する教員の存在だ。学部生や大学院生(修士)に対して、博士課程への進学を強く勧める教員はどの大学にもいるが、その強引さが今はあだとなっている。 特に生物系学科では、博士課程に進学しても、結局は「ピペットを洗浄する雑用要員」となり果てる。「ピペットを洗浄する奴隷」を略した「ピペド」というスラング(俗語)まで登場するほどだ。 「学部生のときは『修士に行くのが当たり前』と言われ、修士に進学すると『研究を放り投げるなんて』と脅され、博士課程に進学する。そのせいで、就職できなかった先輩は多い。今では、教授が何を言っても聞かないようにしている」。学生に聞くと、このような答えが返ってきた。 大学教員が学生に修士・博士課程を勧めるのはほかでもない。大学院(研究科)の在籍者数をちゃんと増やさなければ、存亡が危うくなるからだ。定員充足率が低いと、国からの運営交付金が減らされる可能性も生じる。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そのため、大学側は院生集めに必死にならざるを得ず、ホームページ上では4月に入ってもなお博士課程の募集を続ける大学が少なくない。昨年に引き続き追加募集を行った神戸大では、今月8日から願書受け付けを始めた。「【水平垂直】博士離れ深刻 就職難…修士に需要」、産経新聞 2008.04.13 今から10年も前の記事だが、事情は現在も全く変わっていない。大学教員の立場からすれば、致し方ないとも言える。だが、学生にとっては「雑用の多さや就職のリスクを隠すなんて」と不信感が募るばかりで、博士課程への進学を抑制する一因となっている。 ところで、博士課程は研究を順調に進められれば、3年で修了となる。だが、そう順調に進む学生は多くない。これが博士課程進学者を抑制する要因の3点目「キャリアの不明瞭さ」である。企業から彼らを遠ざける 実際には、研究の途中で断念してしまい中退するか、3年以上の在籍を余儀なくされるか、いずれかを選ぶことになる。 研究はそれだけ不確定要素が大きく、時間軸で区切れるものではない、と言われればその通りだ。しかし、このキャリアの不明瞭さが博士課程進学を抑制していることは否定できない。 そして、キャリアの不明瞭さに直結するのが、やはり就職難であろう。劣等感でも指摘した通り、20代後半から30代前半に修了する博士課程の学生は、民間企業であれば主任・係長から課長に昇進している世代だ。役職がなかったとしても、5年から10年近いキャリアを積み、後輩社員を指導する立場になっている。 だが、博士課程修了者は年齢が高くても、キャリア面では指導される後輩社員と変わらない。専門分野に対する知見が深くても、社会人経験の無さが企業から彼らを遠ざけることになる。こちらも10年前だが、行き場を失ったポスドク(博士研究員)に関して、記事でこう指摘されている。 「国の施策は10年先を見据えてやったとは思えない」。こう厳しく批判したのは、バイオサイエンス研究の権威、新名惇彦(しんみょうあつひこ)・奈良先端科学技術大学院大学名誉教授。 新名さんは昨年、「ポスドクとバイオ系企業との連携」と題した事例研究を行い、バイオポスドクの現状を分析したが、そこからは、行き場を失ったバイオポスドクの悲哀がかいま見える。(中略) 新名さんは「技術力の高い中小企業やベンチャーには人材のニーズがあるのだが、ポスドクは(採用枠の狭い)上場企業研究職を希望したがる」とし、マッチングの差異を指摘する。 また、新名さんとともに調査にかかわったシンクタンク「ダン計画研究所」常務取締役の宮尾展子さんは、「(ポスドクは)インターンシップなどを使って積極的に企業へアプローチすることも必要なはずだが、現状では参加するポスドクは数%」と語った。そこからはポスドクの研究者としてのプライド意識が、問題の悪循環を招いている実態もうかがいしれる。 実際、「企業のポスドクに対するイメージが、あまりにも悪いことに驚いた」と宮尾さん。調査では複数のベンチャー企業にアンケートを実施したが、「(ポスドクは)協調性がなさそう」「使いづらい」などというマイナスイメージが多数を占めたという。「博士の割り切れない数式 バラ色の研究人生のはずが…受け皿なく就職もできず」産経新聞 2008.06.29 この状況も、10年経過して変わったかと言えば、それほどではない。しかも、2013年ごろから、学部卒の就職では売り手市場が続く。学部卒であれば、企業を強気で選べる立場になるのである。 大学院でも修士課程であれば、何とかその恩恵に与れる。しかし、博士課程はそうもいかない。この状況を学生が目の当たりにして、わざわざ博士課程に進学したいとはならないのが自然ではないだろうか。 ノーベル賞を日本人が受賞するたびに、日本の研究力の低下が話題となる。受賞者によっては、首相や文科相と面会する際に苦言を呈する方もいる。その苦言は全くその通りだ。2018年10月、柴山文科相(左)を訪問し、記念撮影に応じるノーベル医学生理学賞に決まった京都大学の本庶佑特別教授 ただ、単に博士課程進学者を増やすだけではなく、在学中の負担感・劣等感を取り除く工夫や、修了後の就職環境を整備するといった必要がある。これらを国が大学や企業と一体となって進めない限り、博士課程の進学者は今後も緩やかに減少していくだろう。それが日本の研究力を落としていくことは言うまでもない。

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    幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか

    から日本人は頭が悪くなったのか。私は二つの答えを用意している。ただ、答えの前に、わが国近代史における教育を振り返りたいと思う。 日本が“ノンキ”でいられなくなった時点は、特定できる。1756~63年の七年戦争のときだ。七年戦争とは、ヨーロッパの五大国が世界の大国になった戦争である。発端はオーストリアとプロイセンの領土紛争であり、フランスとロシアがオーストリアと結び、イギリスはプロイセンを支援した。五大国の抗争は世界中に飛び火し、1762年9月にイギリスはマニラを占領した。当時のフィリピンはスペインの植民地であり、イギリスはフランスに味方したスペインとも抗争した結果、アジアにも大戦は飛び火したのだった。※ゲッティイメージズ さて、これが日本にとって意味するところは何か。いわゆる「鎖国」が不可能になったということである。17世紀、日本はポルトガルとスペインを締め出し、オランダを長崎の出島に閉じ込めた。彼らヨーロッパの大国は、日本の前になすすべがなかった。日本の軍事力が彼らのそれに上回っていたからだ。 当時のスペイン・ポルトガルとオランダは、三十年戦争で抗争していた。いわば江戸幕府は、三十年戦争にオランダ寄りの中立を示したこととなる。中立を可能にするのは武力である。「鎖国」とは、江戸幕府による武装中立なのである。真のエリートとは? 1762年のマニラ陥落とは、その武装中立が不可能になったことを意味する。ポルトガルを追い出してから100年以上、江戸幕府は泰平を貪(むさぼ)っていた。軍事力は放棄されたに等しい。それに対してヨーロッパは絶え間なく戦乱を続け、今やアジアにまで進出している。仮にヨーロッパ人が日本に来なかったとしても、タマタマに過ぎない。 現に1808年、フェートン号事件が発生した。ナポレオン戦争の最中、イギリス船がオランダ船を追い回し、長崎を荒らしまわった。これに対し江戸幕府は、水と薪を与えてお引き取り願うばかりだった。 時の将軍は徳川家斉。50年にも及ぶ長期政権を築く。その治世は、1787~1841年に及ぶ。その間、経済は発展した。しかし、国防努力は何一つなされなかった。「祖法」である「鎖国」にしがみつき、何もしなかったのだ。もはや「鎖国」など不可能であるのはフェートン号事件の一事で明らかだが、幕府の指導者たちは改革を恐れた。平和な時代に国防努力など、敵を作るに決まっている。ならば、国際情勢の現実から目をそらし、安逸を貪る方が安泰だ。経済は絶好調だし、外国から直接侵略されるわけでもない。 1841年、家斉死去の年に改革が始まった。水野忠邦の天保の改革である。隣国の清は、アヘン戦争によりイギリスになぶり者にされていた。一応、江戸幕府の指導者もバカではない。清の次は日本の番だと理解していた。改革、すなわち富国強兵の必要性を自覚していた。そして家斉の死を待った。代替わりの際に権力を握り、その上でできることからやろうとしたのだ。 結果、見事に失敗した。しょせん、水野は官僚である。出自は大名だが、心性は木っ端役人である。既に権力を握っている連中に気を遣い、できること“だけ”やろうとする。日本人基準の「できること」など侵略者には関係ないことを、こういった連中には理解できないのだ。日本を侵略から防ぐのに必要なことをやらねば、殺されるか奴隷にされるだけだ。富国強兵、強い政府を作って税金を集め国の軍隊を作る。ところが、それをやろうとしたら、既得権益層の反発を招く。大名たちは、勝手に年貢をとって自分の軍隊を持ちたい。それを取り上げられるのは真っ平ごめんだ。「それでは日本が滅びる」などという説得だけで、この絶大な既得権益を取り上げられるわけがない。幕府は、そうした大名の上に君臨している。さらに既得権の塊(かたまり)だ。 1853年、ペリーが来るまで何の改革も進まなかった。それどころか、ペリーが来てからも改革は進まなかった。天保の改革、嘉永の改革、安政の改革、文久の改革、慶応の改革…。かけ声はかかるが、本質的には何一つ進まない。延々と議論がされるのが、「参勤交代を緩和すべきだ」「神戸を外国に開国すべきかどうか」だ。いずれも、幕府が滅び、明治政府が外国との交際を始めてみれば、忘れ去られるような話である。ところが、幕末の政治家たちは、「日本を守る」という本質と全く関係のない、これら些末な争点で大真面目に政局を動かしていた。ただ動かしていただけだったが。 ここまで江戸幕府が愚鈍でも、なぜ日本は救われたか。最終的には、正論を押し通す人たちがいたからである。 元治元年12月15日(1865年1月)、長州の功山寺で高杉晋作は決起した。たった1人で、3千人の敵に立ち向かう覚悟だった。功山寺決起に、後の元勲たちが駆けつけた。クーデターは成功し、大村益次郎の天才的用兵もあって、長州は幕府との四境戦争(第二次長州征討)を撃退する。 これを見た薩摩の大久保利通は薩長同盟に踏み切り、討幕をやり遂げる。そして、大久保の手によって、富国強兵は成し遂げられた。大久保利通 徳川幕閣や旗本八万旗など、幕末維新の危機に何の役にも立たなかった。数百年前の栄光に溺れ、単なる特権階級と化していたからだ。真のエリートではない。真のエリートとは、「己の命よりも責任が重い」と自覚している者である。高杉や大村、そして大久保こそが、真の国を救った真のエリートだった。彼らの受けた教育に注目すべきだろう。盛んだった江戸期の学問熱 高杉は、吉田松陰の松下村塾の筆頭である。高杉は藩校の「偏差値エリートコース」を捨て、松陰の門を叩いた。松陰の教えは「自分が日本を救うつもりで勉強しろ!」だった。記録に残された松陰を見ると、自分が征夷大将軍になったつもりで勉強し、教え子にも教育している。農民に等しい下級武士の伊藤博文や、足軽の子供の山県有朋に対し、「自分がトップに立ったつもりで勉強しろ!」と説いているのである。そして、自ら実践する。 大村益次郎は、緒方洪庵の適塾の出身である。適塾は医者を養成する私塾だが、原書で西洋の知識を追い求める若者が集まっていた。医学に限らず、あらゆる知識を吸い込み、議論した。住み込みの全寮制。実験と観察、一次資料の考察。ゼミと討論による完全実力制が、適塾の特徴だった。イギリスのイートン校からオックスブリッジのエリート教育と同じことをしていた。 大久保利通は若い頃は郷中教育を受けた。年長者が年少者を指導し、軍事規律のように結束する。大久保は青年期には西郷隆盛らと“自主ゼミ”を開き、いつの日か日本の役に立てる自分になるべく、学びを続けていた。 幕末の最終局面で、高杉が時代を動かし、大久保が正論を通した。それができた土壌は、当時の日本人の少なからずの人たちが「何が正解かを分かっていた」ことがある。 松下村塾や適塾は極端な成功例だが、江戸時代を通じて学問熱は盛んだ。京都には一定数の知識人が常に集まっていた。手紙を通じて、知識人たちは情報をやり取りしていた。負けた側の幕府とて、全員が愚かだったわけではない。幕府や水戸藩は限られた情報(information)から、必死に知見(intelligence)を導き出していた。自分の頭でモノを考えていたのだ。 何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100%である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。 さて、明治になってどう変わったか。 初等教育(今の小中学校)は整備された。それまで寺子屋で教えていたことを、国が責任を持って文盲を作らない制度にした。義務教育である。大日本帝国の義務教育を受けた日本人は、よほどの例外を除き、読み・書き・計算・愛国心を身に付けていた。※ゲッティイメージズ 一方、高等教育は大失敗した。 勘違いしてはならないのは、日露戦争までの栄光は、江戸の教育を受けた人たちが国を指導した賜物である。その人たちですら、日露戦争の勝利で「平和ボケ」した。日本人の頭が悪くなったのは、明治40(1907)年である。日露戦争勝利の2年後である。なぜ、この年か。特色を失った大学 日露戦争の講和であるポーツマス条約が結ばれた時点で、日本はロシアの復讐を恐れていた。こちらは2年の大戦争で弾薬が切れ、国力のすべてを使い果たした。裏切って攻めてきたら、幕末維新以来の努力は水泡に帰す。外交でなんとか時間を稼いだ。 そして、1907年。立て続けに協商が結ばれた。日仏協商、日露協商、英露協商である。日英と露仏は同盟国であり、英仏は既に協商を結んでいる。すなわち、この4カ国が事実上の同盟国となったのだ。仮想敵はドイツ。第一次大戦まで、三国協商はドイツとにらみ合いを続ける。日本だけが安全地帯となった。 ここに緊張の糸が切れた。筆頭元老の2人、伊藤博文と山県有朋が本気の大喧嘩を始めた。伊藤は、デモクラシーの必要性を説く。日清日露戦争に勝つまでは、元老とその傘下の官僚・軍人による指導が必要であった。だが、その課題を達成した以上、民権に移行していくべきであると考え、シビリアンコントロールに着手していく。 それに対して山県は、現実の政党政治家の見識の欠落、特に軍事に対する無知を理由に、むしろ軍や官僚機構の特権を守る方向に走る。これが後の悪名高い、統帥権の独立となる。大正時代は、民権を求める政治家と、特権を守ろうとする官僚の抗争で推移した。それで許された。既に、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強大な国となっていたのだから。官僚が特権を貪ろうが、国民は民権を謳歌する時代だった。 文官は東京帝国大学法学部出身者が大半であり、陸海軍の将官は陸軍大学校・海軍大学校を卒業した学歴秀才が占めることとなる。学歴秀才とは、採点者が求める正解を答える能力に秀でた者のことである。「一高~東大」「三高~京大」のように、ナンバーズスクールから帝国大学に進む者が自動的にエリートと目されるようになり、同じように陸軍士官学校や海軍兵学校も閉鎖的な世界となった。 自分の頭で考える江戸のインテリジェンスは失われていたが、それでも高校教育における教養と、大学の独自性は存在した。ナンバーズスクールは全寮制であり、共同生活を送るうえで自分の専門外の教養に触れることができた。憲法専攻の学生が文学や工学に最低限の知識があるのは珍しいことではないし、逆もまた然り。 大学も、特色があった。早稲田大は東京専門学校で出発し、政治家とジャーナリストを養成する学校。慶応義塾は、財界人を送り出した。中央大は英吉利法律学校、法政大は東京仏学校が前身である。一橋大や神戸大は、商学部が看板だった。国公立(官学と言われた)でも、北海道大の前身はクラーク博士で有名な札幌農学校であり、農学部が看板大学である。いずれも別に、最初から大学ではない。ただ、やがて大正中期までに、すべて「大学」の看板を掲げ、特色をなくしていく。羊ヶ丘展望台にあるクラーク像=札幌市豊平区(松永渉平撮影) 昭和初期の愚かな国策については、贅言(ぜいげん)を要すまい。鼻につくエリート意識の高級官僚や陸海軍の軍人たちは、大日本帝国を滅ぼした。ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間にアメリカへ喧嘩を売るような真似をしない限り、滅びないはずの国だったのに。遥かに困難な状況で、明治維新や日露戦争はやり遂げられた。江戸幕府の腐敗した官僚は駆逐された。ところが昭和期になると、政府と軍の無能な官僚主義によって、国を滅ぼしてしまった。 では、いつの間に無能な官僚が跋扈(ばっこ)したのか。時計の針を、1871(明治4)年に巻き戻す。この年、岩倉具視を団長とする、岩倉遣欧使節団が派遣された。使節は2年に渡り欧米を遊覧し、多額の国費を浪費しながら、何の成果も出せなかった。一方、留守政府は着実に改革を進めて結果を出している。帰国後、完全に主導権を留守政府に奪われた大久保利通は、留守政府の首班である西郷隆盛と抗争し、権力を奪還する。今の日本はどうか 大久保ら留守政府は、当然のごとく強い風当たりを跳ね返さねばならない。そこに、留学帰りの面々が取り入り、派閥を形成する。自然と、「岩倉使節団の成果は有為の人材が欧米の学問を修めて帰ってきたことにある」と喧伝されるようになる。 最初、東大法学部卒業生は、無試験で高級官僚に任用された。驚くべき特権である。また、大学に残り助教授に昇進した者は、国費で欧米に留学できた。 では、彼らに江戸の若者たちのような知性があったであろうか。たかが1年や2年で帰ってきた岩倉使節団の連中に何ができるか。特に批判すべきは、津田梅子である。5歳でアメリカに留学し、20歳で帰国したときには日本語を忘れていた。何のための留学か。岩倉使節団には5人の女子がいた。年長の二人は早々にホームシックになって帰国。残り3人も、日本の男に飽き足らなくなっていた。ちなみに、津田梅子は生涯独身である。 明治以後、「ではのかみ」が幅を利かせるようになった。学会では、「ドイツでは」「イギリスでは」と、外国の文献の紹介が学問として扱われた。医学のような技術主体の学問は、まだよい。当時は、最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。 しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。 地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。 政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。 明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。  その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。岩倉具視 これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。 幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。

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    ハンガリーの医学部が人気、日本人大学生が100人入学する

    より社会と接続した、論理的思考力や表現力、判断力などが問われるようになるのだ。 こうした日本における教育の変化を受けて、「自分に合う学校」を模索した末、海外に飛び出す若者も増えている。教育評論家のおおたとしまささんが言う。「実は今、東欧の大学の医学部で学んで医師免許を取得しようとする日本人学生が増えているのです。なかでもハンガリーの人気が高く、日本事務局が開く説明会には年間500~600人の日本人が参加します。そのうち約200人が実際に出願して、100人ほどが入学するそうです」 医学教育に詳しい医療ガバナンス研究所理事長の上昌広医師が解説する。「東欧の医学部は6年間の学費が650万~1200万円ほど。そのうえ物価や生活費も安い。にもかかわらず文化レベルは高く、医学生として学べる内容は日本の医学部と遜色ないのに、入学試験のハードルはそれほど高くありません。その分、入学した後はハードな勉強が求められます。 進級し、卒業するには相当の努力を要するため、医師としての基礎能力は日本の医学部よりも鍛えられるかもしれない。そのうえ、医師資格試験に合格すれば、EU内のどこでも医師として勤務できます」 卒業後に日本で働きたい場合は、日本の医師国家試験に合格する必要がある。日本における「進学」にまつわる推移データ「実際にハンガリーに留学している日本人学生によれば、2013年以降にハンガリーの医学部を卒業して日本の医師国家試験を受験したのは56人で、うち41人が合格したそうです。 合格率は73%ですが、日本の医学部の合格率は88.7%。東欧勢の大健闘といえるでしょう。海外では、いわゆる“受験エリート”や裕福な家庭出身でなくても、語学のハンデさえ乗り越えて一生懸命頑張れば、医師になれる可能性が高い。お金はなくても、バイタリティーのある学生にはもってこいの環境なんです」(上さん)日本で激化する「イス取りゲーム」ブランドよりも「手に職」 上さんが指摘するとおり、日本における医学部受験で合格を手にする学生のほとんどが、塾に通い続け、進学校に籍を置く“受験エリート”だ。おおたさんは現状をこう述べる。「長引く不況と先行き不透明な世の中を嫌い、『大学ブランドよりも手に職』という志向が高まりました。その最たるものが医学部を目指す若者の増加です。今では“東大より医学部”といわれるほど。 かつては東大の理系学部に進学していた受験生が、地方国公立大の医学部を目指すようになり、“イス取りゲーム”は激化を極めている。つまりどれだけ医師になりたいという気持ちが強くても、偏差値が高くなければ国公立の医学部には入れなくなりました。そのうえ、私大医学部は6年間で2000万~4500万円の学費がかかるとされ、一般的なサラリーマン家庭ではとうてい子供を通わせることはできません」 海外の大学入試が完全に実力勝負であり、どこの大学を出たか、その名前によってヒエラルキーが決まる“学校歴”の格差がないという点も今の若者に評判がいい。「折しも東京医科大の入試で“女子切り”が発覚するなど、日本の医学部入試は不公平であることに学生は気づきました。それならば実力勝負ができて、女性の医師も多い東欧に渡って医師を目指そうという若者は、今後さらに増えるはずです」(上さん) 医学部に限った話ではない。 近著に『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書』(小学館)があり、大学准教授、メディアアーティストなど多方面で活躍する落合陽一さん(31才)も「この先、日本の学歴社会は崩壊する」と予言する。ドナウ川沿いにあるブダペスト工科経済大学(ゲッティイメージズ)「日本では、最も難しい入学試験を突破した東大卒の人が、学歴のヒエラルキーにおいてトップに立つイメージがありますが、国際的には東大の学士卒の人よりも明治大学卒で博士号を取得している人の方が国際社会での研究ブランディング的には評価されます。 学歴的には最終学歴が高い後者の方が上なのは当然のことでしょう。これまで日本では勘違いされがちでしたが、最近の風潮を見ても、こうした誤解はおそらくこの十数年に是正されると思います」関連記事■4人に1人がお受験する東京23区、公立は2極化進む■新大学入試テスト、国語の問題文が「契約書」「地図」の賛否■山崎アナの熱愛に見る、変わりつつある女子アナ恋愛事情■「大学入試英語改革」で文科省は何がやりたいのか■京大と大阪大の出題ミスを見抜いた予備校講師、その人物像

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    京大変人教授の代表格 ユニークすぎる研究の手法とは

     官僚的なイメージが伴う東大に対し、全国から“奇人”が集うユニークさで知られる京大。生徒以上に個性的なのが教授陣だ。研究に懸ける異常な情熱は、時に世間から“非常識”と見られてしまうことも──。『京大変人講座』(三笠書房)が累計2万5000部のベストセラーになっているが、知れば知るほどオモロイその生態をレポートする。「最も京大らしい京大教授」「京大変人教授の代表格」を自任するのが、人間・環境学研究科の酒井敏・教授だ。 酒井氏の専門は地球流体力学。2006年に開発した「フラクタル日よけ」で知られている。森の木の葉を再現し、日光を遮りながらも自らは赤外線を発しない日よけで、今や各地の都市計画で引っ張りだことなっている製品だ。 酒井氏は、発想もさることながら、研究の手法もユニークだ。「研究が新しすぎて、そのために必要な部品や観測装置は世の中に存在しない。かといって予算はない。だから自分で作る以外ないのです。 だから私はまずホームセンターの店員以上にホームセンターを詳しく調べ上げた。接着剤が着かない代表的な素材であるポリプロピレンにも使える接着剤を見つけ出し、そのポリプロピレンの棒を太い木に取り付けるのに最適な『しめしめ45』という結束バンドを発見しました。 これがなければ私の研究は結実しませんでした。また、日よけに使うプラスチックシートの成型には、家庭のホットプレートを使っています」(酒井氏)京都大学人間・環境学研究科の酒井敏・教授 あまりの熱の入りように、記者は言葉を失ってしまった。 研究に打ち込むあまり、時に“変人”とまで呼ばれてしまう。そんな京大の学者たちの魅力を、山極寿一総長はこう語った。「常識的に考え、振る舞っているとこれまでとは違う発想はできません。昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑さんも、これまでの学問の常識を疑ってきたから画期的な免疫細胞研究に結びついた。これからの研究者は自ら発想し、仮説を立てることが重要。そんな“変人”を育む土壌が、京大にはあるのです」連記事■京大のおもしろ研究 高級寿司店に監視カメラを設置して調査■「変人」が誉め言葉の京都大学 山極総長はゴリラ世界に留学■A、B、O、AB…血液型別「かかりやすい病気」が明らかに■京大のユニーク研究 不便だからこそ得られる「不便益」とは■【写真8枚】ウオーキング中の山口達也、路上に座り込む衝撃姿

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    元教授手記、東京福祉大「消えた留学生」の元凶を暴く

    えられます。 東京福祉大は、今年2月6日付で文部科学省に対し、中島恒雄元総長(以下、中島氏)の経営や教育への関与の有無などについての回答書を提出しています。回答書の「外国人留学生における在籍管理について」の項目によると、2016年度の所在不明者259人と17年度の所在不明者484人を合わせて、2年間で計743人が所在不明のため除籍になったことを、大学側が認めています。このような大量の所在不明は、多くの不法就労や不法残留の温床になる可能性があるとされています。  また、この回答書の大きな問題は、事実とは違うと思われる記述が随所にある点です。例えば、回答書の「ファカルティ・ディベロップメント(大学の授業改革、以下FD)専門部会からの要請に基づく、教員研修会への出席、授業見学について」には、以下のような記述があります。 「(中島氏による)助言は、あくまでも中島氏に同行するFD部会員をはじめとした教職員に向けてだけであり、授業をしている教員や学生に対し、直接講義したり、指導したりするなどは行っておりませんでした。この授業見学について学生から本学への苦情は一切ありませんでした」 「全学生が希望する教員や公務員に全員合格できるように、キャリア支援授業を更に充実させていますので、学生や保護者から感謝の声は沢山ありますが、苦情は一切ありません」   「(中島氏は)FD関係者の依頼を受けたため、遠慮しながら間接的なアドバイスをしただけ」 回答書には「苦情は一切ありません」などと記載されていますが、実際には、多くの学生から労働組合(交通ユニオン)事務所に苦情のメールが来ています。 中島氏も臨席して行われた公務員試験対策授業を受けていた学生からのメールには、「対策授業をしている先生に対して、自分(中島氏)が気に入らない教え方であれば注意し、あることないことで文句を言ってきます。また、授業中にもかかわらず、中島氏は隣に座る特任教授と名乗る人と普通の(大きさの)声でしゃべり、携帯電話はマナーモードにしておらず、携帯電話が鳴ると電話に出て普通の声で話しているのは迷惑極まりないだけでなく、かなり常識に欠けている人だと思いました。最近の研究生のことがニュースになり、行政から立ち入り調査が入ったので、もう二度と関わらなくなるだろうとは思いましたが、このカリキュラムを見る限り、今年も中島氏が対策授業に来るとなれば恐怖を覚えます。このカリキュラムには私を含め、クラスのほとんどの人が不満を言っております」との証言があり、回答書の記述が事実ではないことが明らかです。 以下、研究生大量所在不明の原因として、研究生への管理体制が整っていないことに加え、巨額の金もうけ主義が、背景にあることを明らかにします。  記者会見する東京福祉大元教授の田嶋清一さん(右)=2019年4月10日、文科省 2008年1月に、刑事事件を起こした罪で懲役2年の実刑判決を受けた中島氏は、同年10月の控訴審で判決が確定し収監されました。しかし、中島氏は10年7月の出所後まもなく、2年間の収監を経ても大学内における権力が低下していないことを、教職員に対して誇示しようとしました。この行為は大きく二つあります。  一つは、人事権の誇示です。中島氏は出所後すぐに、当時東京福祉大の理事長だった実母の名義を使い、幹部教職員への解職降格人事を次々と断行し、いわば恐怖政治による裏支配体制を敷いたのです。実刑判決確定や理事長辞任によって法的に権限はなくなっても、実際の「権力の所在」が自分にあることを知らしめるために、理事長、学長、事務局長などの重要ポストを解職降格させ、その代わり、自分が「意のままに操れる人物」を就任させていきました。それはまさに今日に至るまで続いている、中島氏による裏支配体制です。432億円の荒稼ぎプラン もう一つは、経営能力の誇示です。研究生をターゲットにした、432億円(その内訳は、大学が4年間累計2万人で240億円、専門学校で192億円)の荒稼ぎプランを、中島氏が、2011年9月21日の会議で次のように語っています。 「研究生は10万円、レギュラーコースは20万円入学金払ってくれれば…、仮合格証を出しますよと、よそ受かったら…入学金預かったのは返しますと、留学生から見ると…、行くとこが決まって、ビザ心配しなくていい、受験して全部落ちたら、ビザ心配せなあかんだろ。ビザは安心ですよ、それからお金は返しますよ、というと、いっぱい来るんですよ。だから、これ、パンフレットに載っけるなっつってんだよ、まねするから…、よその大学が。おれのところだけがやるから、これは稼げるわけだよ。何でかって言ったら、定員がないからいくらでも入れられる。(事務局長:8千人っていうのが。いや、一応、460人となっているんですけども、それは関係ないですね)8千人まで入れていいんか。(事務局長:8千人まで、8千人以下)合計してみていくらになる?(財務担当課長:192たす240。432ですね。432億。)432億円の大きな学校になりますよ。おれ、経理わかんないけど、こんな風にしてこうやったら、こんだけ銭がもうかる」 このように、中島氏は、自身の権力が低下していないことを、教職員に対して誇示する必要上から、研究生への管理体制をほとんど考えないまま、巨額の金もうけ主義を先行させたのです。そのことが、研究生大量所在不明問題に繋がっていることは明らかです。 そもそも中島氏は実刑判決確定以降、文科省の行政指導によって「大学の経営と教育に関与してはならない」とされています。ゆえに「法的に権限のない中島氏が、なぜ出所後も、大学の経営と教育に関して影響力を行使できるのでしょうか?」と、最近この質問が記者からの取材を受ける中で最も多いのです。 この質問への答えは明白です。教職員に大学のやり方(つまり中島氏のやり方)への批判を禁止して、自由にものを言わせない組織をつくってきたから行使できるということです。自由にものを言う人格を否定する構造があらかじめできているのが現状です。中島氏の長年の口癖は「(教職員の)代わりはいくらでもいる」であり、これで教職員を抑えつけているのです。 具体的には、中島氏に対するイエスマン以外、1年雇用の契約とさせられていること、全ての教職員に対する研修会での威圧、及び中島氏による幹部教職員への個人的恫喝です。その結果、大学の前身の専門学校時代以来、辞める教職員が多く、教職員の中で密かに「回転の速い学校」と言われています。 しかしその一方で、諸般の事情で辞めなかった教職員の中には、自由にものを言えない雰囲気の中で萎縮して、何をしてもどうせ駄目だと思い、無力感に陥り、体調を崩して鬱々とする状態が少なからず見られます。これは心理学用語で「学習性無力状態」と呼ばれ、まさにこうした状況です。東京福祉大学王子キャンパス=2019年3月14日、東京都北区(市岡豊大撮影) また、2015年11月12日に、私は大学を被告として損害賠償請求訴訟を起こしましたが、直接学長室で同月25日に聴取した限りでは、東京福祉大の学長は、そのことについて、ほとんど知らされていませんでした。大学の現状及び、あり方について、計3回にわたって私が聴取した際の学長の口癖は、「私は無力ですから」というものでした。 そんな彼らを、法的に権限のない中島氏が、大学の経営と教育に関して、裏支配し影響力を行使するのは難しくないのです。ただ、水面下で力を蓄えて大学の「民主化」を志す方々がいらっしゃるはずです。彼らの今後に期待したいと思います。学生からの抗議メール ところで、研究生大量所在不明問題への対処としては、多すぎる研究生(非正規留学生)について、勉学環境に見合った定員を設けるべきです。  なぜなら、第一に、現在の状況では、まず勉学に希望をもって来日した研究生に対する教育機関としての責任が果たせないからです。報道されていたように、銭湯の2階で授業をするなど、研究生が多すぎて失踪せざるを得ない環境をつくっているのは大学側で、これは重大な問題です。 第二に、研究生の教育は、教職員への負担が大きい点が挙げられます。担当教員によれば、辞書を引く習慣がある者はほとんどいない、よって全部説明する必要があります。また、研究生の勉学意欲に個人差が大きく、意欲の低い学生はテキストを買わないし、予習復習の習慣が身についていないのです。なお、日本で就職したいなら、日本語能力試験1級(N1)に合格して、報告書が書けるレベルに達する必要があるようです。よって、研究生の教育は、教職員への負担が大きいことからも、勉学環境に見合った定員を設けるべきです。  こうした現状を踏まえ、多くの学生たちからも、中島氏の強引なやり方に反対する抗議メールが来ています。先に記載した学生たちの苦情メールをもう少し記しておきます。 「私は今年の春に4年生になりましたが、4年生の春のカリキュラムが明らかにおかしいと思いました。(中略)そして、対策授業の最初に大学のビデオを見させられました。内容としましては、①大学のこと(ほとんどが中島氏がどれほどすごい人なのか)②各試験の合格率と合格した人の声(公務員試験対策授業に参加したという声)③卒業式について。大まかに分けると以上の3つです。ビデオを見る限り、明らかに中島氏を大々的に持ち上げるような内容でした。(中略)この対策授業は、中島氏が関与しています。(中略)このカリキュラムには私を含め、クラスのほとんどの人が不満を抱いております。授業で抗議する人もいました。そして、それを受け持つ先生方にも負担がかかっています。もはや、独裁政治そのものです。(以下略)」 また、別の学生からは以下のようなメールもありました。 「心理学部に在籍しながら社会福祉士の資格を取得できるため、この大学に入学することを決めました。 当時の大学の売りは、文系私立大学就職率第3位であることと、福祉や教育系の資格取得ができることでした。しかし、昨年突然、『公務員』を全面的に推し進める方針へと変わりました。当初は予定してなかった公務員試験対策のための『キャリア1』という科目が心理学部の必修科目となりました。しかし、教員免許や社会福祉士資格取得のための科目を受講している生徒は、『キャリア1』を受けることができないカリキュラムになっていました。(中略)日本は職業を選択する自由が保証されているにもかかわらず、半強制的に公務員試験を受験させる大学を絶対に許せません。就職活動にも支障が出る時間割です。学生のことを考えているとはとても思えません(以下略)」 他にも、昨年10月に行われた東京福祉大への抗議を訴える「東京総行動」のチラシを見た学生(教育学部3年生ら)から、交通ユニオンの事務所に、中島氏の勝手なカリキュラム変更に困惑し怒っている、とするメールが数通届いています。また、東京総行動当日、池袋キャンパス9号館前での街宣行動の際に、勝手なカリキュラム変更に困っている、という学生の声を数人から直接に聞いています。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 東京福祉大(及び同グループの専門学校)では、他にも、中島氏による教職員へのパワハラ(複数の教職員への恫喝)、出所後の中島氏による女子留学生へのセクハラ(200万円の示談金支払い済み)といった問題が起きています。また、過去の監督官庁(入管センター、文科省、法務省、東京都庁)から特任教授、事務局長、理事としての天下り、警察・検察OBの天下り、第三者大学認証評価機関(日本高等教育評価機構)との癒着及び同機構による内部告発情報の大学への漏洩、大学と中島氏から各メディアや国会議員へ(過去の大学敗訴の判決を無視し、かつ私を精神異常者だと誹謗中傷する)複数文書が送付されたといった問題もありますが、これらについては別の機会に詳しく説明したいと思います。■「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ■青林堂社長にこれだけは言いたい 「パワハラに右も左も関係ない」■256万人の「移民予備軍」に口ごもる自民党の矛盾

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    東京福祉大「消えた留学生」の波紋

    東京福祉大で発覚した留学生大量失踪の波紋が広がっている。学生数減による苦境に対し、定員のない非正規留学生の大量受け入れが発端だった今回の問題。運営側の特異性も要因だが、留学生に関する法整備や少子化時代の私大のあり方といった課題が改めて浮き彫りになった。深刻さを増す「消えた留学生」問題の真相に迫る。

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    まるで「人身売買」偽装留学生ビジネスの実態

    石橋通宏(参議院議員) 3月7日の参議院予算委員会で、大学などの教育機関における偽装留学生問題を取り上げたところ、内外から想像以上の大きな反響があった。特に、質問を終えたとき、与党・自民党席から大きな拍手喝采を受けたのは、野党議員である私にとって初めての体験であった。 その後続けて、文教科学委員会や予算委員会において「東京福祉大学」の問題に焦点を当ててこの問題を追及。厚生労働委員会でも、留学生の就労問題に焦点を当てた追及を行っている。結果、メディアでもこの問題が大きく取り上げられ、国民の関心を喚起するきっかけになったことはうれしく思っているし、所管官庁である文部科学省および法務省から、この偽装留学生問題の実態調査と具体的対策に向けた検討を速やかに行っていくという答弁を得たことも、大きな収穫であった。 ただ大事なのは、政府や世間が、この問題を単に一教育機関における特異な問題として捉えるのではなく、過去10年以上にわたって政府の肝いりで展開されてきた留学生拡大施策の構造的問題として捉えて、その実態に踏み込んだ検証と改革ができるか否かである。その問題意識を踏まえ、以下、そもそも私がこの問題を委員会で取り上げるに至った経緯と、その裏側にある構造的な問題について詳述してみたい。 私が偽装留学生問題に注目し始めたのは、遅くとも5年くらい前のことである。当時、特に外国人技能実習生の人権侵害などの問題がクローズアップされていて、私も技能実習制度に代わる新しい就労制度の構築について議論をスタートしていた頃であった。そのときすでに、留学生制度が本来の学業目的ではなく、就業目的で使われているのではないかという疑念が私たちの中でも認知されていたのである。 しかし、その頃、政府が「外国人技能実習法案」の検討に着手したこともあって、留学生に関わる問題は後回しになっていた。その後、2016年に「外国人技能実習法」が成立し(17年11月施行)、甚だ不十分ながらも技能実習制度の規制、監視強化が図られたことで、より規制の緩い留学生制度に悪徳ブローカーの魔の手が向かうのではないかという危惧が生まれ、そのときから改めて留学生問題にも目を向け始めた。参院予算委で質問する石橋通宏参議院議員 そして昨年、安倍総理の鶴の一声で「人手不足の解消」策として外国人労働者の受け入れ拡大が政治課題となり、入管法改正案が具体的な中身のないままに秋の臨時国会に提出され、ごく短時間の審議で成立(今年4月1日から施行)したことは皆さんもご承知の通りである。実は、この一連の政府の動きを受け、私たちも具体的な対案づくりに着手し、①多文化共生社会基本法の制定②外国人一般労働者のための新しい雇用制度の創出③外国人技能実習制度の段階的な移行・廃止などに加え④留学生制度(留学ビザ)の抜本的見直しによる規制強化、を掲げて関係者や有識者らからのヒアリングや情報収集を続けていた。こうした中で、突然浮上してきたのが、東京福祉大問題だったのである。信じられない「タレコミ」 実は昨年の段階から、いくつかの大学や専門学校、日本語教育機関が留学生制度を悪用している実態があるとの情報をつかんでいた。しかし、それらはあくまで外部情報であり、具体的な物証は得られなかった。そんな時に、あるルートを通じて、東京福祉大で信じられないような偽装留学生の実態があるという情報が私の元にもたらされた。 しかし、最初に話を聞いたときは、正直、にわかには信じられなかった。この3年間で、多くの留学生が「除籍」扱いになっており、そのほとんどが所在不明だというのだが、その数が1千人以上に上るという話だったからだ。しかも、それが大学の創設者である前理事長によって、学生数減少を補う「金もうけ」のために意図して行われていることだというのだから、慎重にならざるを得なかったのである。 ところが、実際に東京福祉大の関係者に話を聞く機会を得、証拠となる資料なども見せてもらったところ、それが事実であることが確認できたのである。内部資料には、過去3年間、月ごとに退学ないしは除籍となった留学生のリストと、その理由が明記されていたが、ほとんどが「所在不明による」と記されていたからだ。 現場で懸命に頑張っておられる東京福祉大の教職員や関係者の名誉のためにあえて申し上げておくが、東京福祉大もかつては福祉分野において実績のある、評判のよい大学で、就職率も良かったし志願者も多かった。いまなお、学生たちのために本来あるべき教育を提供しようと頑張っている方々がおられる。だからこそ、今のような状況を続けさせてはいけないと、その実態を告発するに至ったわけだ。 結局、東京福祉大においては、ある時期から志願者が減りはじめ、定員の維持が難しくなった。実は、先に述べた前理事長は、2008年に刑事事件による罪で懲役2年の実刑判決を受けている。以降、大学経営には関わらないという約束を文科省に対してもさせられたが、いまだに大学運営の実権を握っているとされている。その前理事長が起こした事件が学生数の減少にどれだけ影響があったのか、直接の因果関係は分からない。ただ、学生数が減少し、経営に影響が出るようになった頃から、前理事長らが外国人留学生に目を付け始めたようである。東京福祉大学正門(寺井融撮影) 2011年頃、東京福祉大内部の運営会議で、前理事長が留学生をうまく使うことで「120億の金が入るわけだよ…何でそれをやらんの」などと発言していたことが報道されている。私もその議事録を読んだが、衝撃的なやり取りが行われていて、そして確かにその後から、東京福祉大における留学生が急増していったのだ。東京福祉大の実態 調べてみると、次々と驚くべき事実が明らかになった。まず、東京福祉大における留学生の数は、348人(2013年度)から5133人(2018年度)にまで増大していた。これだけ短期間に留学生数がなんと15倍に膨れあがったというのは、他に例を見ない。いや、あり得ないし、あってはならない。お分かりだと思うが、これでまともな教育などできるわけがないからだ。事実、東京福祉大では教室が足りなくなり、あちらこちらに間借りをしていて、その一つが銭湯の2階だったという笑えない話は、報道されていた通りである。 さらに、その留学生の8割以上、約4千人が「研究生」という名の非正規だったことも明らかになった。正規の学生は、受け入れ可能な上限枠が決められている。しかし、非正規留学生には数の制限がなく、事実上、青天井になっている。しかも、研究生なので、志願する方にも敷居は低いため、双方にとってメリットある手法だったわけだ。 なお、その4千人の研究生は全員が、国内の日本語教育機関からの受け入れだったことも明らかになっている。当初私たちは、東京福祉大が直接、海外からブローカーなどを使って留学生をかき集めていたのではないかと思っていたのだが、そうではなく、国内の日本語学校から卒業生をかき集めていたのだ。 この点が、自分たちは「日本語教育機関を修了・卒業した留学生の受け皿」であり、「なくてはならない存在なのだ」と東京福祉大が主張している根拠になっている。これはまさにその通りで、「大学進学率〇〇%!」という宣伝文句を出すために進学実績を確保したい日本語学校にとっては、東京福祉大のような存在は言ってみれば救世主だろう。 そしてまた、東京福祉大の研究生の多くが、その後、今度は専門学校などに移っていく実態もあった。東京福祉大はグループ内に関連の専門学校を持っていて、そこに簡単に移っていける仕組みであり、グループ内で留学生を環流させながら、学生数と授業料収入を確保しているシステムだと思われる。「適正校」の認定を取り消された東京福祉大の系列専門学校=2019年6月12日午後、名古屋市中区(共同) つまり、今回、東京福祉大の問題で明らかになったのは、まさに留学制度を悪用した金もうけのための「ビジネスモデル」が構築されている実態だったと言える。いや、これは単なる授業料収入のためだけではない。同時に、各地で不足する労働力を外国人留学生で補い、経済やサービスを回して金を稼ぐというビジネスモデルにもなっているのだろう。東京福祉大だけでなく、全国で多くの教育機関が、このモデルに知ってか知らずか、関わっているということになる。留学生30万人改革の裏 最初の予算委員会の質問で、2017年の1年間だけで、留学生の不法在留者、いわゆるオーバーステイが新たに発生した全国の教育機関が570機関、1852人に上っていたことや、全国の教育機関から法務省に報告があっただけで、退学、除籍、失踪者などの数字が、なんと5千人に近くに上っていたことを指摘して、政府の姿勢を追及した。 これらの数字は、今回新たに法務省と文科省へ提供を求め、明らかになった数字なのだが、当初、両省ともなかなか数字を出してこなかったことも記しておきたい。 2017年だけでこれだけ多くの不法在留や除籍者が出ていたのに、なぜ両省はその問題を放置していたのだろうか? 実は、昨年6月の段階で、東京福祉大の有志教職員が文部科学省に告発に行っている。しかし、文科省は「門前払い」を食らわせたのだそうだ(※文科省はそうではないと否定しているが)。 恐らく、この種の内部情報の提供は、東京福祉大からだけではなかったはずで、そのことは両省の関係者も暗に認めている。つまり、偽装留学生の問題は、以前から各種データや情報提供などで明らかになっていたにもかかわらず、法務省も文科省もなんら具体的な対応を行ってこなかった、というのが実態なのだ。 ではなぜ、両省とも迅速に動かなかったのだろうか? 皆さんも、「留学生30万人計画」はご存じだろう。2008年に、当時の福田康夫総理が所信表明演説で「留学生30万人計画」をぶち上げたところから、国策として留学生の受け入れ拡大が始まった。余談だが、実はその前年、07年に発足した第1次安倍政権時の「骨太の方針」において、すでに留学生の受け入れ拡大が政策の一つに掲げられていた。この点は、そもそも何の目的で留学生30万人計画が始められたのかを考える上で、重要なポイントの一つだと思う。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 当然だが、日本でレベルの高い教育を受けたいと願う外国人留学生が増えて、それが日本人学生にもよい影響を及ぼして教育の質が高まり、次代を担う人材の育成につながるのであれば私も大いに歓迎する。留学生30万人計画も、少なくとも当初はそのような崇高な目標の下に始められたと信じたいし、よもや、最初から労働力確保策の一環として捉えていたとは思いたくないが、結果としてそうなってしまったのは動かしがたい事実だ。政府ぐるみの「悪用」 いったい何が起こったのか? この「30万人」という数値目標を達成するために、次々と規制が緩和されたのである。例えば、専門学校における留学生の受け入れ上限が撤廃されたり、かつての就学ビザが留学ビザに統合されるなど、留学ビザの要件が緩和をされていた事実も明らかになった。 つまり、以前に比して簡単に留学生の受け入れができ、かつ留学ビザの取得も容易になったことで、需要と供給のバランスが成り立ったわけだ。そこに目を付けた人間たちが、留学ビザを就労目的で悪用、乱用するビジネスモデルを構築していったのであろう。 許してはならないのは、多くの外国人留学生がその犠牲になっていることだ。この間に増大した留学生の多くは、アジアの途上国、しかも地方の貧しい地域からやってきている若者たちが多い。現地でブローカーが「日本に行けば働いてたっぷり稼げる」と言って若者を勧誘し、「日本で稼げばあっという間に返済して、貯金や仕送りもできる」と言って費用を借金で工面させ、日本に送り込むのだ。 本来、留学ビザ申請の審査が適切に行われていれば、財政負担能力の証明などが必要なので、そんなに簡単にビザは下りないはずだ。それが簡単に下りている。審査がずさんだからではないか。そもそも、日本に来るだけで少なくとも百数十万円の費用がかかるし、学費に加えて日本での生活費もかかる。途上国の、しかも地方に住む貧しい家庭出身の若者たちに、そんな負担能力があろうはずがない。そんなことを法務省入管局や外務省の大使館が知らないはずはなかろう。 つまり、「留学生30万人計画」を達成するために、政府を挙げて取り組んできたというのが、この偽装留学生問題の実相ではないだろうか。そしてその裏には、当初からか途中からそうなったのかはさておいて、留学生を「人手不足を補うための労働力」として使うという意図があったのではないかと疑わざるを得ない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そのようなシステムに乗せられ、多額の借金を抱えて日本に来た留学生は、働かなかったら借金が返せないので、ひたすら働くことになる。週28時間の就労時間制限を守っていたら借金が返せないし、生活の維持もできない。必然的に、勉強より仕事に精を出すことになるわけだ。 結局のところ、構造的かつ組織的に、人手不足の穴埋めとして留学生制度が悪用され、途上国の貧しい地域の若者たちが食い物にされているのがこの偽装留学生問題の真相なのだとすれば、国際的にみれば「人身売買」との批判すら受けかねないこのような悪弊を許しておくわけにはいかない。今後は、現状の問題点や課題をさらに深く掘り下げた上で、真に日本で学びたい、活躍したいと思ってくてくれる留学生が安心して日本に来て、学ぶことのできる留学制度の構築に向け、努力を傾注していきたいと考えている。■256万人の「移民予備軍」に口ごもる自民党の矛盾■「外国人労働者は移民ではない」日本はドイツの失敗を直視せよ■「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ

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    東京福祉大「留学生」悪用で生じた二つの偏見を正す

    れなどするはずがない」という性善説に立った研究生制度にメスを入れることだ。大量受け入れの際の罰則や、教育内容の事前確認など制度改革を進めることが、国や文科省には求められる。単に東京福祉大を罰するだけでは、他の大学などで同じ事件が起こるに違いないからだ。 今回の東京福祉大の問題では、大学教育における質の低下や、経営状態の悪さを指摘する意見もあった。「大学が多すぎる」イメージ 確かに、留学生を大量に受け入れることにより、教育収入は増える。しかも、東京福祉大のケースでは、正規留学生ではなく非正規となる研究生なので、国が交付する補助金には影響がない。とはいえ、大量に受け入れたことによって教育収入増に成功したわけである。 さらに、東京福祉大は研究生受け入れにあたって「中国籍か否か」によって学費の差をつけた。国籍によって学費に差をつけるのは人種差別以外の何物でもない。 日本は1918年、第1次世界大戦後のパリ講和会議において、世界で初めて人種差別撤廃を提案した。その国の大学が、中国籍を持つ留学生に人種差別的な学費格差を設けるのは国辱もの、とすら思える。  話を大学経営に戻そう。ところで、東京福祉大以外でも、留学生の大量受け入れによって経営改善を図った大学が過去にもある。 ここで想起されるのが、定員割れを起こす大学が増加した、という報道だ。これに学生の学力低下を報じるニュースなども合わせると、分かりやすい構図ができる。「大学は定員割れ大学が増えている」→「学力が不足している学生も受け入れるほどだ」→「留学生を不正に大量に受け入れてもいる」→「いずれ、経営難の大学がさらに増え、潰れていく」→「不正犯罪の温床にもなりかねない」→「ダメな大学はどんどん潰して行くべきだ」 実に分かりやすい構図だ。 2012年には大学が増えすぎ、との認識もあって、当時の田中真紀子文科相が「量より質が重要」(2012年11月3日産経新聞朝刊)として新設3校を認めない、と発言し大騒動となった(その後撤回し、3校は予定通り開校した)。2012年11月、3大学の新設不認可問題について会見する田中真紀子文科相(野村成次撮影) この騒動を受けて、産経新聞がオピニオン面で「大学は多すぎるか」をテーマにしたところ、「大学は多すぎると思うか」は92%、「定員割れ大学の淘汰を進めるべきか」は89%、「大学新設に歯止めをかけるべきか」は74%がそれぞれYESと回答した(2013年1月4日)。 この印象は7年たった現在もほぼ同じであろう。だからこそ、東京福祉大の事件発覚後に、分かりやすい構図をもって論じる人が出てくるのだ。「定員割れ」大学への誤解 しかし、個別論で当てはまることがあるにしても、構図全体として考えれば、実は相関関係が強いとは言いがたい。 まず、大学の数は1989年に499校だったものが、2019年現在は782校と、283校も増加している。それでいて、廃校した大学は統合例を除けば、わずか15校しかない。 先述の通り、大学は国・文科省の設置認可事業であるが、その中には大学が経営難に陥っても、教育が円滑に運営されるように、「安全装置」が二重三重に働く制度設計が施されている。それもあって、廃校に追い込まれる大学は世間一般が考える以上に少ない。 定員割れの大学が多いことは事実だが、これもよく誤解される。定員割れということは、それだけ教育収入も不足することを意味する。 民間企業であれば、経営収支の赤字状態が続くと遠からず倒産に追い込まれる。大学だって同じことだ、と誤解する人が実に多い。とあるビジネス週刊誌も、この誤解に基づき、そう簡単には廃校するわけがない国際基督教大(ICU)や創価大、玉川大などを「危ない私大」リストに入れ、関係者の怒りと失笑を買った。 定員割れ大学は日本私立学校振興・共済事業団「私立大学・短期大学等入学志願動向」によると、2018年度で私立大学の582校中210校、つまり36・1%もある。 産経新聞で定員割れ問題を論じた初めての記事は1993年3月24日朝刊「大学淘汰の時代が始まった」である。同年、定員割れ大学は385校中19校、全体の4・9%だった。 増えてはいるが、「一時期に増加して、現在は減少傾向にある」が正しい。私大の定員割れがピークだったのは2014年で578校中265校、45・8%と実に5割近くを占めていた。4年には約36%なので、約10ポイントも低下したことになる。 さらに注目したいのが、極端にひどい定員割れ状態だ。2019年、高等教育無償化法が可決され、来年からの実施が既に決まっている。経営状態の悪い大学は対象外となり、その基準の一つが「定員充足率80%未満が3年以上」というものである。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そこで、定員充足率80%未満の大学校数と比率について調べると、ピークは2014年で122校、21・1%だった。それが、2015年以降は114校、19・7%、117校、20・3%、90校、15・5%と減っていき、2018年は39校、6・7%にまで低下している。 背景には、地方私大を中心に大学改革が進んでいること、四年制大学の進学率の上昇、地方での地元志向の高まりなどが挙げられる。大学よりも危険な学校 いずれにしても、極端にひどい定員割れ状態の大学は減少傾向にあり、東京福祉大の事件をもって、大学経営の是非を論じるのは牽強付会もいいところ、と考える。 大学の是非を論じるのであれば、むしろ危険性が高いのは専門学校の方だと、私は指摘したい。4月25日に文科省は「私立専門学校における留学生の受入れ状況の把握に関する都道府県の取組についての調査結果とそれを踏まえた一層の取組について」を公表した。 この調査によると、私立の専門学校2610校中、留学生を受け入れている専門学校は871校ある。そのうち、「留学生が半数を占める」195校、「90%以上を占める」101校、「全生徒が留学生」でも45校と衝撃的な数字が並んだ。 専門学校は大学や短大と違い、経営状態の公表義務がない。それだけにブラックボックスの部分が多くある。 定員割れ大学について、留学生不正受け入れの温床、と非難するのであればいかがであろうか。大学以上に専門学校についても、厳しく見るべきであろう。 2018年、政府は外国人労働者の受け入れ拡大を方針として決定した。事実上の「移民政策の転換(緩和)」と見ている。 いくら、「移民政策を厳しくしろ」と言ったところでどうだろうか。現実は、東京や大阪などの大都市部だけでなく、地方でもコンビニや居酒屋、ファミリーレストランなどでは、外国人店員がいないと成立しない業態ばかりだ。2019年6月、「適正校」の認定を取り消された名古屋市中区にある東京福祉大の系列専門学校 もちろん、急速な移民の受け入れ拡大は、米国や欧州諸国のように国家の分断を招きかねない。しかし、少子化が進み、労働力人口自体が減少している以上、移民政策の転換(政府が言うところの、外国人労働者の受け入れ拡大)は必須である。 今後も何段階かに分けて、移民政策は進めていく必要があるだろう。その際に改善すべきは、東京福祉大が今回悪用した研究生(非正規留学生)の制度だけではない。大学や短大だけでなく、専門学校も含め、留学生の制度もさらに改善する必要がある。具体的には、就労目的の留学生であっても、学業と就労が並立できるようにすること、日本語教育とその認定を厳格化すること、違反した大学や短大、専門学校への罰則を強化することなどだ。 現状のままでは、学校が「不法就労の温床」という状態が続くだけだ。この曖昧な状態を悪用する海外の不法就労斡旋業者や一部の学校経営者にとっては好都合だろうが、日本全体としては、未来を損なうだけに過ぎない。 東京福祉大の事件を機に、外国人労働者の受け入れ拡大策と合わせて、留学生制度のさらなる改善を国と文科省には求めたい。■ 「外国人労働者は移民ではない」日本はドイツの失敗を直視せよ■ 大移民時代に突入した「亡国のニッポン」を憂う■ 矛盾だらけの外国人労働者受け入れで浮かぶ「日本沈没」シナリオ

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    すでに「移民国家・日本」、どこへ向かうのか

    、当然工場の外での日常生活があります。そうなると住まいや病院、買い物、銀行での本国への送金、子どもの教育などさまざまな課題が出てくる。こうした生活面での困りごとに関しては、いわゆる集住地域を中心に自治体が手厚くサポートしているケースもあれば、派遣会社などが通訳を通じて生活環境を整えている場合もあります。地域のNPOやボランティアの方による支援も大きいです。しかし、国という視点で見ると、あくまで労働力として受け入れている側面が強いため、生活面での支援は不十分であるというのが現状です。外国人の生活保護――生活面での支援で特に課題だと考えているのはどういった面でしょうか?望月:それぞれの状況によって困っていることは千差万別だとは思うのですが、個人的には言葉の課題が大きいと考えています。日本語を学習する機会が制度として保障されていないため、自ら勉強しなければなりません。子どもに関しては、公立学校での受け入れを通じてそれなりのサポートを受けられる可能性もあります。ただ、学校によって対応力に差があるのも事実です。 一方、大人の場合はそうした制度的な基盤が基本的に存在しません。ボランティアの方々が休日に公民館で教えるといった形でなんとか対応されている地域もありますが、週一回のレッスンだけでは日本語能力の伸びにはどうしても限界があります。さらに、外国人がそれほど多くないいわゆる散在地域ではこうしたインフラもない場合がもちろんあります。 言葉の問題は、仕事面ではキャリアアップ上の制約となり、生活においても様々な局面で大きな制約になります。子どもがいる家庭では、子どもの方が日本語の上達が早く、同時に親の母語の習得がうまくいかずに、親子間でコミュニケーションが難しくなるケースもあります。日本語と母語の両方が不十分な発達にとどまってしまう子どもたちもいます。――子どもたちに就学義務はないのでしょうか?望月:日本国憲法には、親が子どもに義務教育を受けさせる就学義務がありますが、その対象はあくまで「国民」であるとされているため、外国人の親や子どもにはその義務が無いことになっています。しかし、日本は子どもの権利条約を批准していることもあり、義務教育相当の公立学校では外国人の子どもを無償で受け入れています。ただ、義務ではないため、就学状況の調査が不十分であるなど、通学しなくても仕方ないというスタンスを許容しているように見えます。結果として不就学の子どもの割合が高いというのが現実です。――外国人労働者は社会保障を受けることができるのでしょうか?望月:日本はベトナムなどからの難民・ボートピープルを受け入れましたが、1981年に難民条約に加盟したこともあり、社会保障に関する内外人平等の原則へと徐々に移行していきました。在日コリアンの方たちなど、制度の対象外とされてきた人々による分厚い社会運動の歴史も非常に重要です。 時折「生活保護を外国人に支給するのは違法だ」という記事が拡散していますが誤りです。現在、外国人は生活保護の対象外とされているのは事実ですが、実際には永住者や定住者など特定の在留資格をもつ外国人に関して、厚労省からの通知にもとづき生活保護の準用が行われています。移民政策の新展開――昨年の入管法改正により、「特定技能」を持つ外国人の受け入れが決定しました。日本の移民政策は新しい段階に入っていくのでしょうか?望月:今回の新制度導入で、政府は2019年からの5年間で最大34.5万人の外国人を新たに受け入れるとしています。「大きな転換点」だという声もありますが、すべてが新しいわけではなく、以前の政策から引き継がれている部分も多く残っていることに注意が必要です。すでにお話した通り、外国人を低賃金の労働者として活用していく構造は少なくとも30年以上続いています。これまでの「いわゆる単純労働者」は、技能実習生や留学生など表向きは「労働者」ではなかった。新たな「特定技能」は就労目的の在留資格なわけですが、技能実習からの移行を前提とするなど古い制度との関係性に目を向ける必要があります。――たとえばどのような「移民政策」をお考えですか?望月:方向性としては労働面と生活面の大きく2つにわかれます。まず労働面ですが、人権侵害が度々指摘されている建前と現実の乖離した「事実上の外国人労働者」の受け入れの構造を変える必要があります。技能実習生や留学生の中には日本に渡航する費用を多額の借金で賄っている方も少なくないために、仮に約束より低い賃金での重労働や様々なハラスメントに直面してもなかなか逃げ出すことができない。最悪の場合は人身売買にも接近するリスクのあるこうした構造を解消しなければなりません。そのためには、労働者を労働者として受け入れる人権に配慮した制度をしっかり整備し、それ以外の受け入れ口を畳んでいくことが必要です。 次に生活面ですが、すでに日本で暮らす数多くの外国人について、これまで国として本格的に取り組んでこなかった日本語に関する支援など、社会的に包摂するための仕組みの構築が急務です。これまではNPOや自治体に丸投げされてきた部分について、国としても本腰を入れて取り組んでいく必要があります。 この2つを実行するとなれば予算も含めて大変なこともたくさんあるでしょう。しかし、新たな外国人労働者の受け入れを議論する際にはこれらの点を含めて議論する必要がありますし、そもそもこれから受け入れるかどうかということではなくてすでにこの国で暮らしている300万人近い外国人の存在を忘れてはいけません。『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(望月優大、講談社)――出版後、さまざまなメディアに出ていますが、反響はいかがですか?望月:新聞やテレビなどの報道では「留学生が所在不明」「技能実習生の失踪」などそれぞれバラバラのトピックスとして出てくることが多いので、日本の移民問題や外国人労働者に関する情報の全体像はなかなかわかりづらいと感じていた方は多いと思います。そうした方から「はじめてこの問題の見取り図を得ることができた」といった感想をいただけるのは嬉しいですね。ほんだ・かつひろ 1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    「外国人留学生増加で授業の質低下、日本人さらに減る」現実

     大阪の専門学校で起きた「外国人留学生300人超退学事件」。なぜ、大量の留学生が「退学」させられたのか。長年、日本における外国人留学生問題を取材するジャーナリストの出井康博氏は、この一件の背後にある「深い闇」の存在を指摘する。* * * 今年9月、大阪市の専門学校「日中文化芸術専門学校」で300人以上の留学生が退学となっていたことが発覚し、新聞などで大きく報じられた。同校は定員を大幅に超える留学生を受け入れた後、管轄の大阪府などから是正を求められ、一部の留学生を退学にしていた。退学となった留学生のうち7人のベトナム人は、同校理事長らに損害賠償を求める訴えを起こしている。 なぜ、「日中」を名乗る専門学校に多くのベトナム人留学生が在籍し、定員超過の末に退学という事態が起きたのか。実は今回の一件の背後には、急増著しい留学生の受け入れをめぐる深い「闇」が存在している。 独立行政法人「日本学生支援機構」によれば、専門学校に在籍する留学生の数は2017年度には5万8711人と、5年間で3万人以上も増えている。そして『読売新聞』の調査(10月8日朝刊掲載)で、留学生の割合が9割以上という専門学校が全国で少なくとも72校、学生全員が留学生という学校も35校あることが判明した。日中文化芸術専門学校も9割以上が留学生だった。首都圏の日本語学校経営者はこう話す。「日本人の学生が集まらない専門学校が、経営維持のため留学生の受け入れに走っているのです。うちの日本語学校にも(生徒の卒業後の進路として)全国の専門学校から“営業”がある。日本語が全くできなくても留学生を入学させる専門学校はいくらでもあります」 かつて文部科学省は、専門学校における留学生の割合を学生全体の50%以下にするよう定めていた。だが、その規制は2010年に撤廃された。政府が2008年に「留学生30万人計画」を定め、留学生を増やし始めた影響だ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 留学生が50%を超える学校に対しては、今も所轄の都道府県から指導は入る。しかし、「日本人学生を集める努力をしている」と言えば、それ以上は咎められない。結果、留学生頼みの学校が増え続けている。留学生が学生全体の9割以上を占める関西地方の専門学校幹部が言う。「今回問題になった(日中文化芸術専門)学校は、営利目的で大幅な定員超過をやっていました。それはさすがに行政も見逃さなかった。しかし、留学生を大量に受け入れている学校の実態は、うちも含めどこも似たようなもの。留学生が増えれば授業の質は落ち、日本人の学生はさらに減る。学校にとって留学生は“禁断の果実”ですが、経営のためには仕方ない」【PROFILE】いでい・やすひろ/1965年岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙「ザ・ニッケイ・ウィークリー」記者、米シンクタンクの研究員等を経てフリーに。著書に、日本の外国人労働者の現実を取材した『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社刊)などがある。関連記事■ベトナム人留学生の犯罪が増加 なぜ彼らは犯罪に走るのか■コンビニで外国人店員急増 留学生がバイトに精を出す理由■コンビニ店員20人に1人が外国人 大手3社だけで4万人超■検挙件数が中国人抜き1位、在日ベトナム人「犯罪SNS」潜入■千葉女児殺害・ベトナムのリンちゃん一家はなぜ日本に?

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    留学生1400人失踪の東京福祉大 「10万円払えば合格」発言録

    があって、その中でA氏が留学生募集を強化する案を大学関係者に話したことはあるようですが、本学の経営や教育には関与していません」 発言の記録まで“失踪”させてはならない。関連記事■中国人が接待で「女体盛り」を要求、要した費用は32万円■日本人女性との偽装結婚を検討した中国人不法就労者の告白■急増する日本語学校 教師養成講座で日本人がトラブルも■留学生受け入れは「親日」育てる目的なのに“嫌日”が急増中■中国富豪男の夢「蒼井そらを1晩300万円でセッティングしろ」

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    不登校ユーチューバー「ゆたぼん」外国人はどう思う?

    不登校の小学生ユーチューバー「ゆたぼん」をめぐり、賛否が渦巻いている。 ホームスクーリング(家庭教育)が法的に認められている外国の人や、逆に義務教育を法律上受けなければならない外国の人は、今回の騒動をどう見るのか。■関連テーマはこちら

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    「不登校ユーチューバー」父親の本音

    不登校の小学生ユーチューバー「ゆたぼん」をめぐり、賛否が渦巻いている。ネットやワイドショーで批判が相次ぎ、親の姿勢を疑問視する声も少なくない。こうした「炎上」に対して、ゆたぼんの父親である中村幸也氏がiRONNAに手記を寄せた。10歳の息子が誹謗中傷を受けた今、本音を吐露する。(写真は中村氏提供)

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    【ゆたぼん父手記】わが子を批判する「学校へ行った大人たち」へ

    ■ 「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか■ なぜ「ゆとり」はバカにされるのか メディアの印象操作が生んだ悲劇

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    不登校ユーチューバー「普通の子供」を担ぎあげる大人の身勝手さ

    から」も飛び出してしまっているわけだ。 今回のゆたぼんもそうだが、本来は不登校で失う可能性のある義務教育制度や学校教育の持つ価値を無視することはできない。 端的に義務教育とは何かについて説明すると、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」という憲法26条2項に記載のあるように、義務教育を受けることが無償であることと、保護者は子供に教育を受ける機会を用意する義務があることを指すものだ。子供の意思は大人が考えるもの もっとも、子供にすれば登校は義務ではないから、保護者も学校も、子供が登校を望まない場合、不登校になっている場合に、子供を強制して登校させることはできない。今回の件とは離れるが、特にいじめに苦しむ子供たちに、登校を無理強いさせることは非常に大きな負担を課すことになるため、登校の無理強いはさせるべきではないと私は強く思う。 しかし、義務教育を受けないこと自体は本来損だと思う。公立小学校の生徒1人当たりの教育費として年間で約90万円がかけられている。当然義務教育だから、この費用は各家庭にはかからない一方で、各家庭で小学校で行う教育水準を確保することにはかなりの負担になる。 「子供の意思だから尊重する」は、使う大人がよく考える必要がある。 先に記載したように、子供自身が日々大きく発達していく中にいる。これを「人格形成」の途中という。逆にいえば、今の彼らの意見が、本当に彼らの一貫した意思と呼んでいいのか、判断が非常に難しい。大人でも意見がコロコロ変わる人がいるが、大人が気分で意見を変えるのと違い、子供は、いわばその基礎になる人間自体が変わる。法も、子供本人の判断に責任を取らせないような工夫をしている。 さらには、子供は自分の発言をしているように見えて、周囲の大人の顔を見て発言していることがあるだけに、さらに難しい。 それは、ゆたぼんも発言しているような無理して学校に行く子の特徴だ。「学校に行ってほしい保護者の期待」に従って、いじめなどを受けている子が自分を押し殺して学校に行くのだ。 もっとも、その「逆もある」ことに気を付けなければならない。 というのも、不登校児の中には、保護者が学校との間に紛争を抱えていて、それを理由に学校に行けない子供がいる。また、影響力のある保護者が子供に、学校を否定的に伝えれば、子供は「学校を嫌い」というようになる。保護者の「学校に行ってほしくない期待」に子供が従っていくのだ。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) よく聞く似た事例では、夫婦でも他方の悪口を子供に吹き込み続けると、結果的に子供は、他方の親に対し異常な敵意を持ち、話しを(離婚後は面会交流を)全くしなくなるというものがある。子供の未来予測は大人の役目 このような子供の心のあり方を分かっている保護者が多いからこそ、今の子供たちも、多くの昔の子供たち、つまりは今の大人たちも、保護者に叱咤(しった)激励されながら学校に通ってきたのだろうと思う。 ゆたぼんの言っていることは、内容自体は普通のことだと思う。宿題をやりたくない子供がよく言うことであったり、学校を嫌だと言う子供も同じような発言もする。やりたいことについても、発言内容に子供らしい夢はあっても、真新しいようなことではないだろう。あえてゆたぼん自身の行動で今回注目され、目立つ理由があるとすると、発言の場がユーチューブであることぐらいではないか。 これと同時に、特徴になるのが、ネット上を含む周囲の大人の反応だ。 今回の件では、賛成派というか応援派の方々がかなりの数いる。もちろんこの中には、自分の子供のことじゃないから、軽い気持ちで応援しているという方も多いのだろうが、同時にこの方々はある意味「学校に行っても仕方がない」「大した価値がない」とどこかで思っているのではないだろうか。こうした賛成派の人々が多くいること自体が、この国の教育制度への評価であり、既存の教育制度の存在価値が問われている現状を浮き彫りにもしている。 以上のように私自身は、ゆたぼんの発言の内容ではなく、それを取り巻く大人たちの判断や、「『子供の意思』の考え方」に疑問を感じる。どう悪く見ても、ゆたぼん自身は、ちょっと生意気で、まだまだ可愛らしい10歳の子供で、先生に暴力を振るわれたのならそれは許せないことだ。しかし、その子供が、ユーチューブで名前と顔を出して語り、学校に行かないことを自分で選んだと話している。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) また、彼の夢は、「子供」を中心に話されている。しかし、彼は知らないかもしれないが、子供は、時間が経てば勝手に大人と呼ばれるようになる。彼の夢に出てくる「子供」たちがたくさんいて、自由時間になれば自由に遊べて、大人になったら二度と行くことができない小学校に彼は行かず、日々大人になっていく。 今の彼の意思に基づいて不登校になることは、いつかの未来の彼の意思に反するような、何か取り返しのつかないものにならないのか。子供の意思の尊重のためには、本人の今の声を聞くだけではなく、未来を予測しながら大人が一緒に考える必要がある。それはできているのだろうかと心配になるのだ。■なぜ「ゆとり」はバカにされるのか メディアの印象操作が生んだ悲劇■幻想は捨てよ! 「金八先生」のいない学校を生きるしかない■「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み

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    なぜ大人たちは「不登校ユーチューバー」に熱くなるのか

    か。ゆたぼんに会ってその映像が流れたこともあって、多くの方が私にもご意見をお寄せくださった。 「義務教育なんだから、行くのが当たり前」、「不登校をネタに商売をしている」、「学校に行って勉強しないとまともな大人になれない」など、ゆたぼんのことを心配しつつも、強い調子で批判するようなものも多かった。 不登校については、これまでさまざまな方々と意見交換をしたり、また実際に学校に通っていない子供たちとも話してきたけれども、「行かない」のではなくて「行けない」ということがほとんどで、つまりは心理的、身体的にきつくて学校に行くのが無理なのである。 ゆたぼんの場合もそうだと思うけれども、不登校の「理由」をあれこれと詮索することも意味がないことが多い。学校に行けない、行かない理由は複合的なもので、本人にも家族にもはっきりとは分からないことがしばしばである。分かったとしても、それを「解決」すればまた学校に行くと期待すること自体が間違っていることもある。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) ゆたぼんが、ユーチューバーとして活躍していることも、過大に気にする方が多いのも印象的である。ユーチューバーは小学生にとって憧れの職業の一つになったようだけれども、いつまでそのような職業形態が持続可能か分からない。私自身も一応「ユーチューバー」なので分かるけれども、よほどのアクセスが集まらない限り、生活できるような収入があるわけでもない。 やはり、ゆたぼんに関して言えば、そこに一人の、元気で利発で好奇心に満ちた、学校に行っていない男の子がいるということがほとんど全てであって、それ以外の「ユーチューバー」であるとか、「少年革命家」であると言ったことは、あまり本質的なことではない。そのあたりを勘違いしてしまっている方が多いように感じた。ネットの虚像 今はネットとリアルの関係、相対的な比重が見えにくくなってきているのかもしれない。実像とは離れたネット上の虚像を人々が勝手に作り、炎上させて叩く。攻撃の対象は次から次へと変わり、テレビのワイドショーが後追いする。 しかし、冷静になって考えてみれば、ネット上のそのような虚像とは関係なく、現実の生活があり生身の人間がいる。それを忘れてしまったら何かが間違っている。 もちろん、ネット上の虚像を必要以上にふくらませて何かをしようとする方々もいるかもしれないが、少なくとも私が見たゆたぼんやお父さんは、そのような方々ではなかった。 ゆたぼん騒動は、ネットの虚像が生み出した炎上が自分自身の燃料になって再び炎上するという、自己完結的な回路だったという印象が強い。熱くなっている方々は、一度冷静になって、全体を眺めてみればよいのではないか。 学びのあり方は多様化しており、アメリカでは100万人単位でホームスクーリングをしてる子供たちがいる。学校に行かないで自分で勉強しているのである。そのような子供たちの学力は比較的高く、有名大学に進学するケースも多い。 ゆたぼん騒動から私が感じたのは、日本の相変わらずの学校信仰のようなものである。学校にまかせておけば大丈夫という考えでは、かえって、現代の学びの進化の行方、広がっている機会を見落としてしまうのではないかと思う。 ゆたぼんは、不登校の子供たちを応援したいという気持ちも強いようだ。ゆたぼんが元気で学び、発信している姿を見て勇気づけられている子供も多いだろう。 学校に行かないという選択をしているゆたぼん。家での時間を、自分が興味を持っていることを学ぶことに大いに使ってほしいし、学校で使っている教科書も、参考にして勉強してほしい。また、学校に行きたくなったら、行けばよい。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 学校を絶対視することも、全否定することもおかしい。学びのあり方は一人ひとりの子供の個性によっていろいろあるわけで、ゆたぼんは、その元気で利発な姿を通して、学びの自由な楽しさを十分に伝えていると思う。■「ゆとり教育」などもってのほか! 子供に過度な人権はいらない■「いじめ」と言えば誰でも被害者 釈然としない日本のイジメ認定■「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    不登校10年の起業家が思う「義務教育をガマンしろ」の不思議

    いいのですが、自分の怒りをぶつけているような批判も多く見受けられました。 その代表となるのが、「義務教育は国民の義務だから行かなければならない」という意見ですが、本当にそうなのでしょうか。義務教育に関する法律の条文を見てみましょう。第4条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。文部科学省ホームページ この条文には、保護者や行政に対して教育を受けさせる義務はありますが、子供への義務は明記されていません。もう一つ論点になるのは、2017年に施行された教育機会確保法です。 教育機会確保法は、学校復帰を大前提としていた従来の不登校対策を転換し、学校外での「多様で適切な学習活動」の重要性を指摘。不登校児童・生徒の無理な通学はかえって状況を悪化させる懸念があるため、子供たちの「休養の必要性」を認めた。こうしたことを踏まえ、国や自治体が子供の状況を継続的に把握し、子供とその親には学校外施設などさまざまな情報を提供するよう求めている。「教育機会確保法」コトバンク文部科学省が入る中央合同庁舎第7号館=2016年11月、東京・霞が関 この法律と合わせて紹介しておきたいのが、文部科学省による全ての学校に対するこの通知です。 不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を「問題行動」と判断してはならない。不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つことが、児童生徒の自己肯定感を高めるためにも重要であり、周囲の大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながり、結果として児童生徒の社会的自立につながることが期待される。「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」文部科学省 文科省が示したこの姿勢から解釈できるのは、子供からすれば義務はなく、権利ではないかということです。 保護者には、子供が望めば教育を受けさせる義務はあるものの、親子で相談した結果であれば義務違反にはあたらないと考えます。では、なぜこのような批判が出るのでしょうか。義務教育の条文を正しく理解していない人が多いということもあると思いますが、僕の意見はこうです。なぜ「我慢しろ」なのか 批判する人の中で「みんな我慢して学校に行っていた。だからお前も我慢しろ」という言葉があります。もし、みんなにとっての学校がいい思い出だったのであれば、こうはならないはずですよね。むしろ、学校はこんないい経験ができる場所なのに、そこに行けないってかわいそうだね、といったコメントが集まるはずです。 しかし、現実は我慢しろという批判が集まっている。ここに学校教育の「闇」があるのではないでしょうか。 「みんな行ってるから」「親が行けというから学校に行っている」。明確な動機付けができず、どう役に立ったかがわからない。みんながこれまで溜め込んでいた負の感情が、一気に爆発したのが今回の件だと思います。 僕自身も不登校で、義務教育をほとんど受けていません。ですが、今は自分の会社を起して仕事をし、人生を楽しく生きています。 僕は不登校になってからの方が、友達は多いです。学校は楽しくなかったけど、不登校になったあと、学校の外に友達がたくさんできました。勉強は独学とゲーム、それに漫画で覚えました。正直なところ、学校に行ってないことによる苦労をあまり感じたことがありません。 確かに、インターネットがなかった時代は学校の役割はとても大きかったでしょう。勉強するにしても調べることが大変だったし、SNS(会員制交流サイト)で友達を作ることもできません。 インターネットが発達した現代において、学校の役割はどんどん無くなっています。そもそも、生き方が多様になり、働き方の選択肢も広がってきました。画一的な教育では限界があるでしょう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) しかし、学校が変わっていくには、たくさんの障害があります。学校がダメなのではなく、多様性を広げるほど効率化が難しくなります。 学校は社会のインフラとして、誰でも安く教育を受けられる環境を維持しなければなりません。先生の労働環境はただでさえ過酷で、一番のブラック企業は学校とも言われています。 年号も変わり、時代も変わっていきます。そんな時、ゆたぼんくんはいい問題提起をしてくれました。「10歳の戯言(たわごと)」と切り捨てず、これからの学校の役割についてみんなで考えていく必要があるのではないでしょうか。■ 「学級」という閉鎖空間をなくせ いじめは大人社会の排除の仕組み■ 「脱ゆとり」でも変わらない 子供の基礎学力が消えていく■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    不登校の小学生YouTuber炎上騒動 琉球新報の責任は重大だ

    た。* * * 一人の子供が不登校をしているというだけの話に、わざわざ飛びつきなさんなよ。たとえ義務教育期間の小学生でも、本人がどうしても嫌だと言うのなら学校に行かなくても構わないだろうし、学校の外で学べることもたくさんあるもんだし。 ……と私は一般論として思う。そう思う人々も大勢いるはずである。 だが、実際は、10歳の不登校児に多くの日本人が連日苛立っている。その少年がユーチューブの動画に登場するたび、何千何万人もが低評価ボタンをクリック、コメント欄を荒らさずにはいられなくなる。私だってスルーできなくて、こうして彼を取り上げている。 そして、あっという間に、彼は日本有数の有名小学生となった。ご存知ない方のために琉球新報の記事から引用すると、〈「俺が自由な世界をつくる」。自由を求めて学校に通わない選択をした中村逞珂(ゆたか)さん(10)=宜野湾市=が「少年革命家 ゆたぼん」と名乗り、ユーチューバーとして活動している。大阪生まれ、沖縄在住のゆたぼんは「ハイサイまいど!」で始まる楽しい動画を提供しつつ、いじめや不登校に悩む子や親に「不登校は不幸じゃない」と強いメッセージを発信している〉とのことである。 革命だメッセージだとずいぶん勢いのある言葉が並ぶが、「少年革命家ゆたぼんチャンネル」と題する動画自体はなんていうことない。少年やその3人の妹たちなどが、たわいのない「~をやってみた」式のお遊びをしたり、歌をうたったりする程度の内容ばかりだ。 琉球新報の記事には〈パワフルに熱唱する姿は、父親の幸也さん(39)の影響で好きになったブルーハーツをほうふつとさせる〉とあるが、これも幼さゆえにまだ音程コントロールも覚束ない児童が黄色い声を張り上げている程度。選曲がブルーハーツや長渕剛やフィンガー5のものなのは、親の影響というより親のリクエストだろう。歌詞の意味も分からないだろうに歌わされて痛々しい、と私は感じる。不登校をめぐる「メッセージ」も、カメラ横のカンペをつっかえながら読みあげているようで、やらされているな、むごいなという印象を抱く。 なぜ不登校になったのか。琉球新報には〈ゆたぼんが学校に通わなくなったのは小学校3年生の時。宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え「俺までロボットになってしまう」と、学校に通わないことを決意した。現在も「学校は行きたい時に行く」というスタイルを貫いている〉とある。 対して、多くのネット民たちは、「ロボットはこの少年だ」と指摘している。本人のほうが父親にすべてを操作されているロボットで、これは一種の児童虐待だと批判する声もたくさんある。スマホで気軽に発信したことが後々大きな禍根を残すこともある さらにネット民たちは、父親こそに問題があると、その経歴をすぐさま掘り起こした。『あきらめる勇気』という自己啓発の本を出版しているので比較的容易に分るのだが、父はかつて暴走族の副総長で、恐喝、窃盗、傷害、シンナー、麻薬、覚醒剤など数限りない悪行を重ねて来たとか。職を転々とした後に、日本メンタルヘルス協会の衛藤信之氏という怪しげな心理カウンセラーと出会い、自らもその職に就くのだが、これまでに『たったの21日で禁煙を成功させる方法』という情報商材を販売していた過去もあるようだ。息子との親子講演会をけっこうなチケット料をとって開催、息子を編集者の箕輪厚介氏や茂木健一郎氏といった有名人に引き合わせて話題作りを狙うなど、なかなか商魂たくましい。 最新のユーチューブでは、「不登校のゆたぼんがアメリカンビレッジでフリーハグ」と題する動画を流していた。大炎上中にまた燃料投下するようなことしている、このチャンネルは新手の炎上商法か、と疑いたくなる。子供は自分の親を選べない ただ、執筆現時点でこの動画に対する高評価は541、低評価は5680。もっとも再生回数の多かった5月5日公開の「【新聞載った!】ゴールデンウィーク終わっても学校行くな」に至っては、高評価4202に対し、低評価は6.6万だ。コメント欄には33200の書き込みがあり、荒れに荒れて、商売どころじゃない状態となっている。 困った話だが、父親はもともとそういう人なのかもしれない。自己啓発の入った元ヤンキーで何でもありなネット商売で生きる人。減りつつあると言っても日本の人口は1億2千万。それだけいれば、こういう人も混じって当たり前。そう突き放すのがもっとも正しい外野の態度のようにも思える。 しかし、これは虐待だという声が多いように、まだ10歳の息子当人が気になる。これからどんな青年、どんな大人に育つのかは彼や彼の家族の勝手だが、私が気になるのはこの大炎上を本人がどう感じているか、だ。動画のコメント欄やツイッターの関連ツイートなどを、どう読んでいるのだろう。親が「アンチはロボットと同じだからな」と言い聞かせているかもしれない。だとしても、実名顔出しでここまで世間から袋叩きされた事実は、きっと深いところで傷となる。傷にもならないのならそれはそれで精神構造がおかしすぎる。 具体的に何があって何を思ったのかは知らないが、学校が辛かったなら、転校すればいい。しばらく休んで、クラス替えを機に再登校するでもいいのである。要は、学校は選べるのだ。だが、子供は自分の親を選べない。このような父親のもとに生まれ育ったことは変えられない。その理不尽な現実を動画の画面が表しているようで、痛々しく、この騒動を見ていて私は辛い。 ひとつ確認しておきたいのは、そんな父子の合作である「少年革命家ゆたぼんチャンネル」も、今年の5月5日が来る前までは、ひっそりとした辺境チャンネルの一つにすぎなかったことだ。登録者数は数百で、動画の閲覧数も内輪が見ているプラスα程度だったようだ。 それが5月5日に、先に引用した琉球新報の記事で変わった。オンラインでも流され、大拡散した。記事のタイトルは〈「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に配信「ハイサイまいど!〉である。沖縄に天才現る!とでも言いたいかのような、完全持ち上げ記事だ。 マスコミの力が弱くなったといわれるが、発信力はまだまだ健在なのである。オンライン配信もされるようになり、一地方紙の記事でも、こうしてバズることが増えている。そのぶん、新聞社と新聞記者には、重い報道責任がある。炎上の火付け役として、どうケジメをつけるか。 この記事で大炎上となった5日後、琉球新報はまた少年を取り上げた。こんどのタイトルは、〈ダルビッシュさん「自分の好きなように生きればいい」不登校10歳ユーチューバ―への中傷に著名人が反論 茂木健一郎さんも「活動を応援したい」〉であった。 なぜ大炎上したのかを考察、分析するのではない。著名人の関連ツイートを引用しながらの少年擁護というもっとも安易な形をとった。いや、安易な自己弁護の記事だったと言わせてもらおう。火に油をそそぐようなやり方でもあり、現に大炎上は止まず、少年のツイッターアカウントが乗っ取られるなどの事態もおきているのだが、記事の担当記者としてはそれが最善の策だとでも考えたのだろうか。浅はかだ。 一度、ケチのついたユーチューブチャンネルは、主催者がよほど上手な説明責任を果たさない限り、良くも悪くもしつこい一部のネット民たちが火を放ち続ける。父親が自分の失敗に気づき、チャンネルをなるべく早く閉鎖するのが一番だと思うが、そうした反省は期待できないであろう。だったら、儲からないから止める、でいい。少年の傷をより深めないために早期撤退してほしい。 琉球新報については、私は、この騒動の最大責任者だと考えている。言論の自由の前に、言論の責任が存在することを自覚してもらいたい。関連記事■藤原紀香が頻繁に「炎上」するようになった流れとは?■貧困女子高生の炎上 「算数力の劣化が一因」と数学者■仏映画祭で過激演出した映画監督 「早く炎上させてくれ」■アリババのジャック・マー会長 長時間労働支持発言が炎上■千原兄弟、好感度はせいじが上?ジュニアが“炎上”するワケ

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    世田谷の校則ゼロ公立中、授業中に廊下で自習してもOK

    ジくん、文字を書くのが苦手で、タブレットを利用してノートを取りながら授業を受けている。プログラミング教育も積極的に採り入れる同校では、廊下にはペッパーの姿も(撮影/浅野剛) 「機械やコンピューターが好きで、タブレットを使ってもいいと言われてから、学校に来るのが楽しくなりました。この学校はぼくみたいな子どもも伸ばしてくれるんだなって。先生との壁? それはない。先生はぼくにとって頼れる存在です」(エイジくん) 彼は自分の居場所を学校で見つけた。 エイジくんに限らず、タブレットやスマホは、どの生徒にも解禁されている。ところが、読み書きに不自由のない生徒は持ってこなくなった。不思議と、SNS関連のトラブルも減った。西郷校長が言う。人と違うことに寛容になる 「生徒は授業がつまらなければ、はっきり“つまらない”と言っていい。これまで日本の教育では、他人と同じように振る舞えない子どもたちに対して、“みんなと一緒にしなさい”とか“振り返って反省しなさい”という指導ばかりしてきました。 ですがこれからの時代、子どもたちに身につけてほしいのは、誰にも負けない自分の才能の尖った部分、つまり“エッジ”を見つけて磨くこと。人に取って代わってAIが単純作業を担うようになるであろう今後、他人とは違う“変なやつ”であることこそが、自分自身を輝かせるはずです」 確かに、アップル社の創業者のスティーブ・ジョブズは身なりを気にせず、裸足で資金提供者と交渉したというし、テスラ社のCEO・イーロン・マスクは、会社のいたるところで地べたに寝転がって仮眠するそうだ。こうした、世間の規範からはみ出した“変わり者”の彼らは、エッジを磨き、世界を驚かせる発明や事業をやってのけた。 2020年には知識や学力のみを問う大学入試センター試験が廃止され、表現力や思考力、判断力が重視される新テストが導入される。「自分がどの分野に向いているか」を判断し、「自分のやりたいこと」を見つけてその力を活用しようとすることは、まさに新時代を先取りしている。人と違うことに寛容になる 桜丘中は、障害がある生徒や、もともと不登校だった生徒も積極的に受け入れている。そもそも社会にはいろいろな人がいて、人はそれぞれ違うということが当たり前だとわかれば、自分と違う他人に寛容になれるという考えがあるからだ。だが、その取り組みも、最初からすんなりスタートできたわけではない。 4年前、インクルーシブ教育(障害のある人とない人が同じ場所で学ぶのみならず、誰もが自由な社会に効果的に参加できる社会の実現をめざす教育)を導入しようとしたところ、「そんなことしたら、勉強ができなくなる」と保護者から猛反対されたことがあった。ならば、学校全体の成績をあげて納得させようと考えた西郷校長は、わかりやすく実践的な授業を次々、導入していく。そして冒頭で説明したとおり、今や同校は区でもトップクラスの成績を収めている。 英語教育には特に力をいれ、すべてを英語だけで他の教科の勉強をしたり、作業をするCLIL(Content and Language Integrated Learning、内容言語統合型学習の略。教科やトピックなどの『内容』と『言語』を融合して学ぶ教育方法。1つのテーマをさまざまな角度で扱いながら、互いが意見などを交換し合い、言語を身につけていくこと)を導入している。 「英語なんて、実はしゃべれなくても社会ではどうにでもなるよね」と笑いながらも、「でもね」と西郷校長はこう続けた。 「海外から翻訳されて日本で発信される出来事やニュースは、発信する側のバイアスがかかっていることもあれば、すべてでもない。英語がわかるようになると、本当は世界のあちこちでそのニュースがどう発信されているのか、自分で判断できるようになる。その意味で英語を身につけてもらいたいのです」関連記事■校則全廃の公立中、名門高校に続々進学 校長の思い■「謎の進学校麻布」ほぼ満杯の学校説明会を実況中継してみた■加藤綾子はコスプレ女王 三田友梨佳は校則違反的ミニスカも■宝塚音楽学校の泥沼いじめ裁判 コンビニ万引騒動が引き金に■不登校児ゼロ小学校の初代校長「今の学校はスーツケース」

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    「モンスター生徒」それでも守るべき?

    今年1月、東京都立高校で起きた生徒への体罰動画がネットで拡散し、物議を醸した。体罰は厳禁とはいえ、繰り返し挑発した生徒の問題行動も浮き彫りとなり、キレた教師への同情も広がったが、学校側は最後まで「教諭に非がある」と生徒をかばった。「モンスター生徒」はそれでも守られるべきなのか。

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    元都立高教諭手記「ニッポンの教師は絶望の未来しかないのか」

    高橋勝也(元都立高教諭、名古屋経済大准教授) 学校教育法は、決して体罰を認めていない。そして刑法は、暴行を許さない。東京都立町田総合高校で今年1月、50代の男性教師が校則違反を指摘した男子生徒に挑発的な暴言を浴びせられ、殴るなどした暴行問題は、どちらにも該当することであり、絶対に許されるものではない。 だが、今回のケースは、これからの日本の教育がどうあるべきなのか、国民的議論を積み重ね、社会全体で合意形成を導くべき事案であると強く訴えたい。自分の子供、そして、これから生まれてくる子供たちに直結する大問題であり、誰一人、他人事ではないのである。 私は、鹿児島県や都立の中学、高校教諭を経て、現在大学で教師の卵である学生の養成に携わっている。子供たちが大好きな学生たちは、希望に満ちあふれ、勉学にいそしんでいる。私の25年間にわたる中学、高校の現場で得た知識と経験を、余すことなく彼らに授けている。子供たちは国家の宝であり、愛(いと)しく、かけがえのない存在であることを、彼らの誰一人も疑ってはいない。しかし、私は子供たちが時に凶器と化すことも教えている。 私の教師経験は、一般的には信じられないような生活指導事案と向き合うことでもあった。かつて、こんな出来事があった。校則で禁じられた学校に携帯電話を持ち込み、授業中に使用した男子生徒に対し、教師である私は携帯電話を取り上げた。その携帯電話は、翌日、保護者が受け取りに来ないと返却されないルールもあった。 どうしても、今すぐに友人と連絡を取りたがった男子生徒は、強い口調で返すよう訴えたが、そのルールを侵して、見逃してはならないと判断した。日ごろから問題行動を重ねる男子生徒に、今こそ厳しい指導が必要だと思ったからだ。 これに対し、男子生徒は「てめえ(私)をブン殴って、手に持っているその携帯、取り返すぞ!」と興奮しながらこう暴言を吐いた。 町田総合高校で起きた動画を見た私は、そのシーンを瞬時に思い起こした。私も一人の人間である。状況によっては、私も同じことをしてしまったかもしれない。だが、その時は生徒という大観衆の視線がある中、ゆるぎない毅然とした対応が必要だった。 「もういっぺん、言ってみろ!(男子生徒の反応はなく、下を向いた)もういっぺん、言ってみろ!(まずい言い方だったと感じたのだろう。後ろを向き、逃げようとした)」。最終的には、厳しい指導を素直に受けた男子生徒は心から反省し、「あの時は本気で叱ってくれてありがとうございました」という言葉を添え、笑顔で卒業式を迎えたことを覚えている。 教師に対してこれほどの暴言を吐く生徒がいるとは想像できない人も多いだろうが、これは作り話ではなく事実だ。他にも走馬灯のように、思い出される。 電動車イスに興味を抱いた生徒が「それ、面白そうだから貸せ!」と障害者を引きずり降ろして遊び回った揚げ句、その障害者を放置したこともあった。「そんな生徒、ブン殴ってやらないと、まともな人間にできない」と本気で考えたこともある。これらはほんの一例だ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) どんな非行をしても、教師にとって子供たちはかわいい存在に違いないが、時に恐ろしい存在になり得るのが現実なのだ。 町田総合高校の教師が暴力を振るったことは許されないが、考え方は私自身と大差はないと感じている。彼は「この子たちを、どのようにして、正しく社会に送り出すか」と考え続けた教師であることに間違いはなく、そうでなければ彼を守ろうとした生徒は一人もいなかったはずだ。 実際、彼を擁護する生徒たちは少なくなかったと聞いている。彼から温かい愛情のこもった指導を受けたことがあるからだろう。ならば、今回の問題を一人の「暴力教師」として教育委員会が処分し、管理職の教師をマスコミの前で謝罪させるような「お決まりごと」で終わらせてはならない。一個人に責任を押し付けても、問題の根本解決にはつながらない。社会全体で考えていかなければならないのである。低下する教師の質 また、今回の問題は、学校現場の教師たちがどのように捉えるかを早急に分析する必要がある。日ごろから、問題行動を起こす生徒を相手にしない教師は、やはり、自分の判断は間違っていないと感じたかもしれない。 一方、日常的に悪態をついてくる生徒と堂々と向き合ってきた教師は「明日はわが身」とこれからは見て見ぬふりをしようと決意したかもしれない。多くの現場教師は、誰にも本音を漏らすことができず、悩んでいたり、苦しんでいたりして、中には絶望した教師もいるだろう。 現に私の後輩教師や教職志望学生の中に絶望した者がいる。社会はこの現実を重視し、「子供たちの将来を心底憂うなら、思い切り向き合ってあげてください」というメッセージを発信していかなければならない。そうしなければ、教師に見放される子供が増えるだけだ。 こうした荒廃した現実を避けるためなのか、日本全国の教員採用試験の倍率が低下している。これは大きな課題であり、「名前が書ければ、小学校教員採用試験に合格できる時代がくる」と揶揄(やゆ)されているようだ。 現場教師の質の低下が始まっていることは想像に難くなく、日本の教育の根幹にかかわっていると、社会全体で受け止める必要がある。一教師に責任を押し付けることで解決するのであれば、そうすればいい。私は絶対に日本にとってマイナスであると断言する。 私は現場の教師として経験を積んだだけに、仮に子供たちが教師を絶望させたとしても、教師は子供たちを心の底から許すことができる存在だと断言できる。「大人だって、間違いを起こす。だから、子供が間違いを起こすなんて当たり前だ」と必ず考えているのである。 仮に町田総合高校で教師から暴行を受けた生徒が謝罪したとしたら、あの教師は絶対に許すはずであり、「教師である、大人である先生が殴ってしまって、申し訳ない」と生徒以上に心の底からの謝罪が伝わるよう努力するだろう。※写真と本文は関係ありません(ゲッティイメージズ) 「キレ」やすい教師が増加している理由は、雑務を増やす社会構造かもしれないし、子供を完全な善ととらえる社会の目かもしれない。子供を過保護に育てて、調子に乗らせている保護者はどこにでもいる。学校では生身の人間が触れ合っているため、あらゆる問題が起きている。 だが、教師が生徒に謝ったり、逆に生徒が教師に謝ったりすることで、さらに深い絆を築き上げている。だからこそ、卒業式では涙がこぼれるのだ。 子供たちは国家の宝であると前述したが、子供たちを育成する教師たちも国家の宝と扱わなければならない。本気で子供たちのことを考えている教師を社会全体で守っていかなければ、日本の教育は崩壊してしまうだろう。■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか■ 「ブラック部活顧問」問題から考える、教師ってナンだ?■ おバカが集まる「底辺高校」まで授業料をタダにする道理はない

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    モンスター生徒への「いびつな懲戒制度」が教師を狂わせる

    周囲では話題になった。 教員による懲戒としての体罰は、日本では法律によって完全に禁止されている(学校教育法11条但書)。このため、体罰に至った理由は何であれ、本件の教諭に関して、何らかの処分が下されることになるだろう。一方で、教諭が手を出すまでの生徒とのやりとりを見ていると、教諭は意図的にあおられ、手を出したところを撮影することが目的になっているようにも見える。教諭側への同情の声も聞かれるゆえんである。 しかし、この事件は、単に学校教員が生徒を体罰した短気な点や、あおった生徒のずるさといった問題以上に、現実に合わない懲戒制度で対応せざるを得ない教員と生徒の力関係の複雑さや歪(いびつ)さを映し出しているように見える。 禁止されている体罰は、いわゆる直接的な暴力と「被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの」がこれに当たる。例えば、「別室指導のため給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない」指導なども体罰に該当することになる。※写真はイメージです(GettyImages) 実際に、教員が生徒に体罰を行った場合には、教員として免職処分など厳しい処分が行われることもある。また、刑事処分としても、暴行罪や傷害罪が成立する可能性があり、生徒の所持品などを壊せば器物損壊罪に該当する可能性もある。 以上のように、体罰を行った教員側には刑事処分を含め、厳しい対応が行われる。 一方、日本において、生徒に対する懲戒は基本的に、訓告、停学、退学処分である。また、学校によっては「停学ではない」自宅謹慎や、別室授業として保健室のような場所で学校内謹慎を行わせることや、放課後の居残りをさせたり、宿題を厚くしたりすることも懲戒制度としては認められている。ただし、小学校や中学校では、義務教育課程のため、公立私立を問わず教育の機会を奪う停学処分は行うことができず、公立学校では退学処分を行うことができない。アメリカの「体罰」 以上のように、体罰が禁止されているといっても、日本にも懲戒制度はある。しかし、体罰をすることが厳しく禁止された学校の中で「生徒が暴れているのを止められない」「生徒が凶器になる工具を持ってふらふらと歩いているのを放置する」といった現状について、各現場の教員から相談を受けることがある。 危険だと言ってモノを取り上げようとするものなら「体罰だ」(厳密には安全確保のための正当行為であって体罰には当たらない)と言われ、保護者からもクレームが入りと、大騒ぎになることがあるのだ。さらには、居残り授業なども、本人がボイコットして帰ってしまえば、事実上強制的に従わせるようなことはできず、親が非協力的であれば、その子は指導を受ける機会を失う。 今回の事件の舞台は高校のため、暴言や校則違反を理由に、退学処分はともかくとしても停学処分や訓告処分にすることはできた可能性があるが、公立の小中学校では、停学や退学といった強力な処分を持たず、不服を述べる保護者を止める術がない。結果、周りの生徒や保護者や教員に我慢をさせて、卒業まで当該生徒の行動と向き合うこともなく、ただやり過ごすことになる。 これは、単に「体罰がないからコントロールが効かなくなった」というものではないだろうが、学校が厳しい態度で生徒や保護者に接することが難しいがゆえの影響と言える。 また、私立の学校や公立の高校では、停学などの懲戒処分ができるといっても、停学処分や退学処分は、結果的に生徒の「学校での学びの機会」を失わせるだけで、実際には生徒の反省の機会に結びつかないということが指摘される。 例えば、アメリカでは生徒に対する懲戒制度は州ごとに特色があり、州によっては一定の手続きの下に、体罰を行うことができると規定されている。※写真はイメージです(GettyImages) その制度自体は、ハンドブックで規則とそれに違反した場合の懲戒手段(体罰の有無)を事前に示し、事前に体罰を了承する旨の文書を保護者から得て、校長のみが体罰を行使し、定められたパドル(paddle)と呼ばれる木の板で3~5回打つ。また校長以外に証人が見届け、事後は記録し保護者や教育委員会に報告する、といったような手続きに基づいて体罰を行うことができるとするものである。 体罰といっても決してヒステリックに生徒を叩くことを認めたものではないが、一方で体罰による教育効果を前提としている。 懲戒制度について、特に退学処分や停学処分といった懲戒だけでは、結果的に生徒に低い自己評価しか与えられず、生徒が法制度に触れる行為に走る危険性を高めてしまうことが指摘されている。教育の機会を失った生徒たちのドロップアウトが加速し、学校生活のみならず社会生活の障害にもつながりかねない。国という単位でみても損失を招きかねない重大な問題と把握されている。 その一つの回答として、停学や退学で教育の機会を失わせるよりも、体罰で短時間的に解消することの方が生徒の「教育の機会喪失」を少なく済ませられるという見方をしているようだ。体罰以外の方法がある また、体罰以外の懲戒制度自体も細かく規定が定められており、例えば懲戒制度の流れも、生徒への注意、保護者面接、課外活動などへの参加禁止、教室から隔離し校内の別の場所で課題を行うこと、一定期間の停学というように、懲戒制度の運用が厳密に規定されている。小さい問題のうちに、厳正に対処することが心がけられているのだ。 以上のように海外でも学校運営の課題に対し、さまざまな工夫をしながら懲戒制度を定めている。現状の日本では、小中学校で懲戒制度が事実上機能しがたく、かといって高校や私学で実施できる懲戒制度でも、停学処分や退学処分といった懲戒だけでは、生徒に無目的な休みを与え、教育チャンスを失わせるばかりで、発展的な解決につながりづらい。 これでは、真の意味で教育を必要とする生徒たちほど、そのチャンスを欠いたまま、大人になることになる。 ただし、体罰自体が持っている生徒への悪影響が科学的に指摘されて久しいことから、体罰を用いた教育が今後、日本の教育で用いられるべきかといえば、私は反対だ。 私は弁護士として、いじめ問題の改善のために学校に行くことが多いが、いじめっ子たちから「あいつは空気が読めないから叩かれて仕方がない」などと彼らなりの正論をよく聞く。まさに、体罰による教育を子供が、子供なりに、子供に向かって行っているのだ。 一方で、学校教員が生徒に対し、しっかりと指導できないならば、明確な事前の手続きを踏まえた上での、感情的な攻撃ではない、体罰以外の懲戒制度を持つ必要もあるだろう。そのためには、例えば一定期間社会奉仕活動への従事を義務付けることなど、今よりも広い懲戒制度の在り方も考えられると思う。※写真はイメージです(GettyImages) また、懲戒はあくまでも、はっきりとした目的を生徒たちと共有することで成り立つ。そういった意味では、懲戒制度を教育制度の一環にするためには、明確な手続きの設定と最低でも教員が一人一人の生徒と向き合って話せる環境を作る必要がある。特に生徒の特性を理解するために、発達心理学などの専門的知識による分析があるべきだと思う。 今回の事件は、現在の日本の教育制度、特に懲戒制度の課題にもつながる。「単なる体罰の是非」ではなく、教員と生徒の在り方や、学校が行うことができる懲戒とそれを受けた生徒たちが何を感じるのか。また、こうした事件が起きるまでの間にあったはずの小学校や中学校での教育では、他にもっと何かできなかったのか。具体的に検討されるべきだろう。■ 義務感が強すぎる日本人だからこそ道徳教育は必要ない■ 「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    「Twitterで炎上させようぜ」この手の私的制裁を止める方法はある

    唐澤貴洋(弁護士) 東京都立町田総合高校の「教師暴行動画」がツイッターに投稿されたことに端を発して、インターネット上の「私的制裁」にまで発展し、問題となっている。本稿では、今回の炎上や私的制裁の是非について見解を述べたい。 炎上の経緯を簡単に説明すると、同高の教師が廊下で男子生徒の顔を一発殴り、倒れ込んだところを引きずる様子を撮影した動画がツイッターに掲載され、テレビでも取り上げられて大きな反響が集まった。その後、「Twitterで炎上させようぜ」という声の入った同様の長い動画が改めて拡散されたことから、撮影者や暴行を受けた生徒が全て仕組んだことであるかのような言説が流布し、大炎上した。 その間、暴行を受けた生徒や撮影者の名前、住所、電話番号だけでなく、家族の名前や勤務先と見られる情報が流出。写真投稿サイトのアカウントを特定されたことで、未成年である生徒の顔写真も拡散してしまった。さらには、関係生徒に対して「犯罪者」といった誹謗(ひぼう)中傷だけでなく、「退学させよう」「どう落とし前をつけるのか」「家族の勤務先に電話をしよう」などと私的制裁の「呼びかけ」まで連日ネット上で行われた。 また、炎上が発生する過程では、まとめサイトにこの話題に関するスレッドが「乱立」した。まとめサイトでは、ユーザーが大手アドネットワークによるアフィリエイト(成果報酬型広告)を利用した収益を目指し、国内の大手ホスティング(レンタルサーバー)サービスを利用し運営されている。こうして、現在も続く炎上現象により、誹謗中傷及びプライバシー侵害の権利侵害が繰り返されたのである。 まず、動画が掲載された経緯について、事実を確認した人はいるのか。実際に学校関係者に取材し、取材内容を精査した上でネット上に記事投稿した人がどれだけいるのか。 上述の通り、暴行問題に対して、世間では「教師を炎上させようと、生徒側が全て仕組んだこと」という言説が、あたかも事実であるかのように受け取られている。炎上の原動力も、倫理感から来る反発やある種の正義感に基づいている。しかし、問われなければいけないのは、記事を投稿する側が動機とするものが果たして本当に真実なのかどうかであろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 何よりも、生徒らの個人情報を流布すること自体、プライバシー侵害に当たり、法的責任を問われる行為である。生徒の顔写真を投稿する行為は、肖像権の侵害に当たる可能性がある。 もちろん、生徒の家族の勤務先など個人情報の投稿もプライバシー侵害にあたる。さらに、私的制裁としてネットユーザーが行う勤務先へのいたずら電話行為は、威力業務妨害罪の成立の可能性がある。このように、炎上という現象の中では、違法行為が憂いなく行われているのである。 炎上に加わっている側には、ある種の正義感に基づき、過激な行為に走ることに高揚感を覚えている側面はないか。しかし過激がゆえに、違法行為として法的責任を問われる可能性がある。違法行為が憂いなく高揚感をもって行われていることに、私は危機感を覚えずにはいられない。原則は「個人責任」 確かに、今回の事象に何らかの意見を持つことは自由である。だが、その意見の表明方法が、いつの間にか違法行為にまで踏み込んでいるとしたらどうだろうか。しかも、そのことが後々違法と問擬(もんぎ)される事態になったとしたら、それは投稿する側も本来望んでいないであろう。 やはり、自らが今一度、炎上に関わることの意味や影響を冷静に捉え直す必要があるように思う。事実、私が過去に会った加害者は炎上に加担したことを後悔していた。 炎上の過程の中では、当事者のみならず、その家族や関係者に対してまで権利侵害が行われる。その家族や関係者は、本来何ら関係がない。しかし、家族や関係者に関して調べ上げられ、関連するさまざまな情報が投稿されている現状を考えると、「一族郎党にも累が及ぶ」中世的な発想の持ち主か、とさえ思う。 日本の法制度において、家族や関係者であることのみを理由として法的責任を問う法律は存在しない。法律で問われるのは、行為者に対する「個人責任」が原則である。監督責任を果たしていない場合や選挙犯罪における連座制など、行為者ではない者も法的責任が問われる場合もあるが、あくまで例外的だ。 そもそも、今回の事象では、生徒らに対して民事上でも刑事上でも法的責任が問われているわけではない。であれば、「家族や関係者にも責任がある」といった言説は、あくまで心情面から発生する責任論でしかなく、家族や関係者に対する権利侵害を正当化するものではないのである。 今回の炎上では、コンプライアンス(法令順守)に基づく経営が求められるはずの会員制交流サイト(SNS)やホスティングサービス、アドネットワークといった大手企業のサービスが利用され、生徒や関係者の権利侵害情報が流通している。権利侵害情報を投稿する人間が、最も悪質であることは言うまでもない。だからといって、さらにここで問われなければいかないのは、大手IT企業のサービスを利用して権利が侵害され続けている事実だ。 今回の事件がネット上で炎上しているという事実を、ネットに毎日触れる者であれば知らない者はいない。むしろ、IT企業であるがゆえに、内部でこの問題について知っている者も当然いることであろう。現在進行形で権利侵害情報が流通していることを認識しているのであれば、各企業は広告停止や送信防止といった対応を、法的な検討に基づき行うべきではないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) だいたい広告主にしても、権利侵害情報に対して広告費用を支払いたい企業などいないであろう。インターネット広告費が1兆円を超え、多くの企業がインターネット広告費を支出している中、企業の側にもネット広告の出稿先に対する厳格なチェックが求められている。 過去には、ユーチューブ上で人種差別動画が投稿され、その動画で大手企業の広告が表示されている実態を英タイムズ紙が報じたことから、一部企業がユーチューブからの広告を引き上げたことがあった。日本では、まだ、この問題についてきちんと論じられていないところがある。今後企業におけるコンプライアンスの内容として、適正な広告出稿先かどうか精査することが求められていくと、私は考えている。■ 「歪んだネット社会の正義」不謹慎狩りをなくす3つの処方箋■ 15歳の少女はなぜ命を絶ったのか ネット検索で救われなかった人■ DeNA「サイト炎上」MERY、iemoの原罪とカラクリ

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    教師の体罰をスマホ撮影する「告発動画」が相次ぐワケ

    れている、ということだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 文部科学省は2009年、都道府県教育委員会に対して、携帯電話は学校の教育活動に直接必要がないとして、小・中学生に対して学校への持ち込みを原則禁止した。また、高校生にも授業中の使用を禁止したり、学校内での使用を一律に禁止するなど、実情に合わせて携帯電話の使用を制限すべき、と通知している。 しかし、現実には、学校への持ち込みを認める学校が増えている。相次ぐ動画「告発」 情報端末専門の調査会社、MMD研究所が18年4月に実施した「中高生の学校のIT利用状況調査」によると、学校へのスマホ持ち込み許可は条件付きを含め、中学生は21・6%で、高校生は84・3%に達した。許可されていると回答した中高生のうち、持ち込みで決められているルールとして、中学生で最も多いのは「学校や先生に携帯所持の許可申請をする」で49・6%と約半数に上っている。ただし、高校生は約15%弱で、本人の自由意思に任されている言えよう。 一方、高校生の持ち込みルールでは「授業中は電源を切ってカバンやロッカーにしまう」がトップで69・2%。約4割(37・4%)の中学生を含め、基本的には生徒が自主的に保管することが前提となっている。「登下校のみ使用可能」という中学生は40・0%、高校生も30・0%にとどまり、校内でのスマホ所持や使用が進んでいる現状が明らかになった。 筆者が東日本大震災の取材をして改めて感じたが、生徒が携帯やスマホを所持することは、非常事態の家族間の連絡手段として欠かせないのである。学校にいるときだけではなく、登下校中の確認には必須アイテムであり、安心安全以外でも役に立つことになり得るからである。実際、大阪府は大阪北部地震の発生後、災害や不審者対策を念頭に、校内での携帯電話使用に関するガイドラインを作成し、19年度にも持ち込みを解禁する方針だ。 このような中で、町田総合高以外でも動画による「告発」が相次いでいる。最近では、選抜高校野球大会の出場を決めた私立松山聖陵高(松山市)の野球部監督が、部員に体罰を行う動画が公開されていることが明らかになった。 選抜出場が決まった当夜に野球部の生徒によって「これが甲子園に出場するチームを導く監督のあるべき姿でしょうか? #拡散希望」とのコメントつきで、ツイッターに投稿されたとみられている。校長は「暴力ではなく、指導の一環」と体罰を否定した。 18年11月には、名古屋経済大高蔵高(名古屋市瑞穂区)の野球部で起きた体罰動画が投稿された。練習後に監督が、1、2年の複数部員に対して殴る蹴るの暴行を加え、うち3人の顔が腫れるなどのけがを負ったという。学校側の説明では「野球部で定めている携帯電話の使用ルールが徹底されていない」というのが理由だったらしい。2019年2月、部員への暴力で謹慎する監督の代わりに、選抜大会で指揮を執る松山聖陵の中本恭平コーチ 17年5月には、大阪府立今宮工科高(大阪市西成区)で男子バレーボール部の顧問の男性教諭が部員の生徒に繰り返しボールを当てる動画がネットに投稿され、体罰ではないかと物議を醸した。「私の指導力不足や焦り」と教諭は語り、「生徒の態度が今までに見たことがないくらい悪かった」とボールを当てた理由を明らかにした。 このように、スマホの校内持ち込みを認めた段階でいつ誰がどんな動画や音声を残しているか、分からない状態が当たり前になっているのである。裏を返せば、教師がどんな発言や態度を取っても、常に「見られている」ということに他ならない。生徒の側に立てば、不適切な指導や体罰は簡単に告発できるツールとなり得るわけだ。 動画や音声の存在で、何が「不適切」で何が「体罰」なのか。具体的に議論できる素地(そじ)が出来上がっていることを、学校側や教諭はもちろんのことだが、生徒たちも忘れてはならない。■ 「道徳の教科化は正しい」いじめ自殺を隠蔽する学校は信用ならない■ 「体罰禁止で指導者が去勢される」ヤクザ先生が憂う教育の危機■ 「金八先生」のいないニッポンの教育現場でいま何が起きているのか

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    パワハラ加害者断罪でよいのか 思わぬ弊害もたらす危険性も

    なぜならダメなやつは切り捨てられるだけだから。ダメな人間を何とか引き上げ、叱ってでも矯正しようという教育的動機は薄い〉(10月12日付「日本経済新聞」より) ドライなブラジルと違って、わが国では切り捨てる前に選手を救ってやろうとする。それがパワハラや圧力と受け取られる場合もあるということだ。 心配なことに、日本でも世の中がだんだんとそちらの方向に近づいているように見える。 会社では、以前だとペナルティを与える前に注意してくれたのに、いまはいきなりペナルティを受けるようになったという声を聞く。中学校の教師は、以前は生徒が少しでもよい高校に入れるよう厳しく指導していたが、最近はそこまで指導しないと語っていた。トラブルが起きるのを恐れ、運動部の責任者になることを渋る教員が増えているともいわれる。地域でも危険な遊びをしたり、他人に迷惑をかけたりする子を見かけても、注意する大人はいなくなった。告発された側にも弁明の機会を与えよ「告発されたら終わり」という感覚が蔓延すると、「触らぬ神に祟りなし」と考える人が増えてくるのは当然だろう。さらに、その延長上にはもっと深刻な問題が待ち受けている。 以前、複数の医師から次のような話を聞いたことがある。患者のためにはリスクがあっても思い切った治療を施したほうがよいケースがあるが、失敗したときや、期待するような結果がでなかったときのことを考えて控える場合があると。事が命にかかわるだけに聞き捨てならない問題だ。それでも医師の立場を考えたら、自己防衛に走るのを止めることはできないだろう。 とくに医師と患者のように、一方だけが専門的な知識をもっている場合(「情報の非対称性」という)、かりに医師が患者の利益より自己防衛を優先しても、それを事実として認定することさえ難しい。最終的にはプロとしての良心と見識に頼らなければならないのだ。 そして程度の差はあるにしても、監督・コーチと選手、教師と生徒、上司と部下といった関係にも同じことがいえる。「触らぬ神に……」や慇懃無礼は、やろうとすればできてしまうのである。要するに、パワハラにしても圧力にしても、相手に有無をいわせず力ずくで改めさせようとすると、思わぬ弊害をもたらす危険性があるということだ。※写真はイメージです(GettyImages) もちろん、だからといってパワハラや不当な圧力を受けてもやむをえないというわけではない。被害者が泣き寝入りせず、声をあげるようになったのは確かに一歩前進である。 一方で、加害者とされた側の弁明にも耳を傾けるべきである。マスコミも大衆受けしそうな声にすり寄ったり、都合のよいコメンテーターばかり集めて話を盛り上げたりするのではなく、立場や見解が異なる人も交えて議論を深めるよう努力するのが社会的責任の果たし方ではなかろうか。関連記事■ 自殺した地方アイドルが苦悩していた「家庭でのトラブル」■ 東洋大パワハラ暴力問題 箱根駅伝の優勝争いにも影響か■ 「3分おきに『起きてます』LINE」注目パワハラ訴訟の中身■ スポーツ界の「ドン」「女帝」生まれる要因の2パターン■ パワハラまがいの熱血監督や鬼上司が通用しなくなった理由

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    不良生徒の胸ぐら掴んで叱った教師 全校生徒の前で謝罪する

    って(やったが)、行きすぎたことになってしまいました」 あくまで“愛の鉄拳”であったことを強調した。教育界でも暴力騒動は存在する「暴行事件」は教育界でも発生した。2017年11月下旬、秋田県立能代工業高校の男性教師が修学旅行中の羽田空港で、弁当配布に遅刻した男子生徒1人を平手打ちし、別の2人に腕立て伏せやスクワットを命じた。後にこの教師には戒告処分が下された。 この件にも「体罰は指導とはいえない」「あってはならないこと」との世論があがった。実際、昨今は指導者が手を上げることは、いかなる理由であっても許されないという風潮がある。都内在住の女子高生が言う。 「うちの学校でも、手のつけられない不良生徒が先生の言うことを聞かず、始業式の最中にずっと騒いでいたんです。見かねた先生が胸ぐらをつかんで叱ったのですが、それを知った保護者から批判が寄せられたそうで、後から、その先生は『あの行為は体罰に違いなく、あってはならないことだった』と全校生徒の前で謝罪しました。先生が全員の前で謝るくらい、やっぱり体罰はいけないことなのだと思いました」 先生だけでなく、親たちも子供に体罰をすることは少なくなった。都内在住の60代女性はこう語る。 「私が子供の頃は、先生だけでなく父も母も厳格でした。とくに礼儀や挨拶は厳しく指導され、言葉遣いが悪いとすぐに素手で叩かれました。今のお母さんたちは口で注意することはしても、手を上げることはまずありませんよね。私の娘もそんな母親のひとりです。孫が悪さをしても、手を上げるどころか、叱りもしない。そのせいで孫は『ごめんなさい』と言えない。それどころか、私が孫を注意すると娘に『お母さん、やめて』と怒られる。時代が変わったのだなあ、とつくづく思います」※写真はイメージです(GettyImages) 親が子供に手を上げると周囲から虐待を疑われてしまうことも理由の1つだろう。 2016年6月に北海道の山中で、人や車に向かって小石を投げた7才男児が父親に置き去りにされ、100人以上が捜索した末に自衛隊の施設内で発見された。この「北海道置き去り事件」でも、「しつけの範囲を超えている」「児童虐待だ」と議論百出となり、父親が大バッシングを浴びた。関連記事■ 教え子と交際した教師「免職取り消し」となった裁判の中身■ 大阪府立高教師 給料同じなら底辺高で不良ド突き回す方が楽■ 壮絶いじめ 女子の同級生が共犯になり集団レイプで動画撮影も■ 地下アイドルの「いじめ体験率」はなぜ一般人の約5倍なのか■ 夫の不倫発覚 正義感の強い人ほど暴力的に怒りやすい

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    箱根駅伝「完全生中継」から見えてくる日テレの功罪

    飯田豊(立命館大産業社会学部准教授) 箱根駅伝の成り立ちは大正時代までさかのぼるが、「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としてテレビで楽しまれるようになったのは、それほど昔のことではない。「マスメディアに媒介されたイベント」として箱根駅伝を捉えるならば、目まぐるしい変化の積み重ねによって、革新が伝統を創造してきたと言っても過言ではない状況が見えてくる。 大会の正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。報知新聞社が主催する「四大校対抗駅伝競走」として1920年に始まっているので、およそ100年の歴史がある。今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公で、日本マラソンの祖とされる金栗四三たちが、欧米の選手と肩を並べて活躍できる長距離ランナーの育成を目的に、東京箱根間の大学対抗駅伝の開催を思い立ち、報知新聞社に企画を持ちかけた。 1920年の第1回大会は、往路が2月14日、復路が15日という日程で、選手は午前中に大学の授業を受けた後、13時にスタートした。箱根の山中を走る頃には日が暮れるので、地元青年団がたいまつをかざして選手を誘導したという有名な余話がある。 駅伝は日本発祥の陸上競技種目であり、江戸時代に交通や通信の手段として整備された「宿駅伝馬制度」に由来する。読売新聞社の協賛記念事業として1917年、京都から東京まで23区間をリレーする「東京奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されたのが、駅伝の始まりとされる。 朝日新聞社が主催する「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」の前身にあたる「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開かれたのが1915年のことだ。このような大会を新聞社が主導してきたのは日本独特のことであり、各社が新聞読者を獲得するための事業戦略のせめぎ合いから、箱根駅伝は生まれたとも言える。 そして戦時下、言論統制を目的とする新聞統合(一県一紙制度)によって報知新聞社と読売新聞社が合併し、箱根駅伝は戦後、読売新聞社が関東学生陸上競技連盟と共催する事業として発展することになる。 それに対して、日本テレビによる完全生中継が始まったのは1987年のことであり、実は全国的な注目を集めるようになってから30年余りに過ぎないのである。第63回箱根駅伝=1987年1月2日 箱根駅伝は戦後まで、ラジオで中継を聞くこともできなかった。NHKがラジオ放送に乗り出したのは1953年1月のことだが、現在は文化放送とアール・エフ・ラジオ日本もラジオ中継を行っている。 1979年から1986年までは、テレビ東京(1981年まで東京12チャンネル)がダイジェスト番組を放送し、最終10区のみを生中継していた。NHKは年末年始恒例の中継番組が立て込んでいたので、放送機材を箱根駅伝のために集めるのが難しかった上に、箱根駅伝そのものが関東のローカル大会であったことも重なり、全国放送を躊躇(ちゅうちょ)させたのである。日テレは乗り気じゃなかった また、読売新聞との関係を踏まえれば、日本テレビが放送するのは自然な流れだったが、当時は乗り気ではなかったという(杉山茂「「ラジオ・スポーツ」から「テレビの華」へ ―放送技術を結集させた箱根駅伝」『箱根駅伝の正体を探る』創文企画、2016年)。 というのも、箱根の山岳中継は過酷を極めるためだ。日本テレビは80年代、全区間生放送に備えて中継が可能な場所を徹底的に調査し、中継車の大改造も行ったという。長年にわたって箱根駅伝を手掛けた日本テレビの黒岩直樹氏によれば、第一回の中継では、踏切で1号車が先頭ランナーに抜かれてしまったり、箱根での宿泊や食事の手配が間に合わなかったりと、ハプニングが続出したらしい。 それでもお笑い中心の「おせち番組」(=年末に撮りだめして、新年に放送される番組)に飽きていた視聴者には支持され、予想を上回る平均18%の視聴率を記録した(黒岩直樹「わたし流番組論49 たすきの瞬間のドラマ ―箱根駅伝を撮る」『月間民放』2000年3月号)。 そして1989年に初めて、全区間の完全生中継が可能になった。その一方で、日本テレビは事前収録したVTRを効果的に挟んで、注目選手やその人間ドラマを丁寧に紹介した。黒岩氏によれば、箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではなく、「スポーツ・ドキュメンタリー生中継」を基本コンセプトとしてきたという(同上)。 1988年には箱根を全国大会にする提案も持ち上がったが、初代プロデューサーの坂田信久氏は、テレビ中継を行うことで箱根駅伝を変えてはいけないという考えから、これを断ったという。長年の番組スポンサーも、企業名を露出することよりも、大会を共催して支えようという考えの方が強いらしい(『週刊東洋経済』2008年1月26日号)。第95回箱根駅伝、2区の川澄(右)へたすきをつなぎ、倒れ込む大東大1区走者の新井康平=2019年1月2日、横浜市・鶴見中継所(斎藤浩一撮影) 日本においては、マスメディア企業体が主催し、自ら積極的に報道する「メディア・イベント」は枚挙にいとまがないが、複数の新聞社や放送局によって今日まで育まれてきたところに、箱根駅伝の特異性がある。 それでも、日本テレビによる中継が始まったことで、箱根駅伝を取り巻く環境は大きく変化した。例えば、従来は1月中旬に開催されていた「全日本大学駅伝対校選手権大会」が88年度から11月に変更され、全国大会が地区大会の前哨戦に位置づけられるという「逆転」が生じた。 また90年代に入ると、箱根駅伝で上位に入った大学は全国的に知名度が高まり、受験志願者が増える傾向がみられるようになった。これに大学経営陣も敏感に反応した。テレビ中継の開始後に選手育成を強化し、優勝を経験した大学も少なくない(生島淳「大学全入時代がもたらした箱根駅伝の「経済戦争」」『エコノミスト』2010年1月5日号)。テレビ中継の功罪 その結果、才能のある高校生が強豪校から熱心に勧誘され、優れた選手が関東に遍在するという事態が一層進んだ。さらに、優秀な選手が箱根駅伝を区切りに競技生活を終える「箱根駅伝燃え尽き症候群」も、ますます問題視されるようになった。 これらの問題に対しては、まったく異なる見方もできる。スポーツ人類学に取り組む瀬戸邦弘氏は箱根駅伝を、国際スポーツの価値体系とは必ずしも折り合いがつかない、地域独自の文脈に根差した固有の価値体系を有する「エスニック・スポーツ」として捉えている。 瀬戸氏の指摘で興味深いのは、日本テレビが当初、箱根山中の電波状態が脆弱(ぜいじゃく)であることを踏まえて、生中継が中断したときの予備映像、いわば「つなぎ」のコンテンツとして制作した「箱根駅伝今昔物語」が、思わぬ形で果たした役割である。 箱根駅伝を支えてきた人々に焦点を当て、そのライフヒストリーを紹介しながら、大会の歴史を伝える名物コーナーだが、瀬戸氏はこれによって「箱根駅伝という番組自体が90年を超える時空間を自由に行き来する歴史的でありながら、共時的なバーチャル空間として成立することになった」という。 要するに、各大学の競走部(陸上部)の中で集団の記憶として受け継がれていた伝統重視の価値観が、番組を通じてクリアに可視化され、視聴者との間で広く共有されることになったのである。 明治期以降に成立した体育会運動部文化の延長線上にあると捉えれば、箱根駅伝の創設理念には反するが、オリンピックを頂点とする国際スポーツ文化の価値体系とは容易に馴染(なじ)まない。「箱根駅伝燃え尽き症候群」を嘆くのは、あくまで国際スポーツ文化の価値体系に基づく見方である(瀬戸邦弘『エスニック・スポーツとしての「箱根駅伝」』『文化人類学研究』14巻、2013年)。第94回東京箱根間往復大学駅伝、転倒する国学院大9区・熊耳智貴さん=2018年1月、神奈川県横浜市(撮影・斎藤浩一) 箱根駅伝で活躍した選手に対して、次は国際的な大舞台で結果を残すことに期待をかけるのも、逆に体育会運動部の伝統的な価値観を再生産しているのも、いずれもマスメディアに他ならない。この乖離を調停することは、箱根駅伝に関わる新聞社や放送局の使命ではないだろうか。 そしてこの議論こそが、選手に対する安全配慮のあり方を反省的に見直すことにも直結するだろう。持久力をつけるために長距離をひたすら走り込むという練習法によって、国際的な舞台で活躍できるスピードが身につかないという「箱根駅伝有害論」は戦前から指摘されていた(1938年には早稲田大と慶應義塾大が出場を辞退している)が、それどころか選手生命に関わる故障につながりかねないリスクを伴っていることも、現在では広く知られている。 テレビ放送の高視聴率、すなわち「国民的行事」あるいは「正月の風物詩」としての定着が、次なる変革に対する足止めになるのは望ましいことではない。冒頭で述べたように、箱根駅伝の伝統を裏打ちしているのは、メディア・イベントとしての革新に他ならないのだから。■「窃盗症と拒食の心理」元マラソン女王が陥ったアスリート魂の限界■駅伝「四つんばい」を美談に仕立てたテレビ中継に異議あり!■ボストンマラソン3位の大迫傑は瀬古利彦を越えられるか

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    奨学金制度は何が問題か

    大学進学などで利用した奨学金の返済が行き詰まる「奨学金破産」が増えているという。「奨学金というシロアリが社会を食い荒らす」。制度へのこうした批判が相次ぐ中、日本学生支援機構(JASSO)の遠藤勝裕理事長がiRONNAに反論手記を寄せた。ニッポンの奨学金制度は何が問題なのか。

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    JASSO理事長手記「奨学金シロアリ報道に反論する」

    スではあるが、制度の現状と課題について申し上げたい。 そもそも、JASSOの奨学金は、憲法第26条と教育基本法第4条に定められた「教育の機会均等」を実現するための国の制度である。制度の発足は古く、昭和18年10月まで遡(さかのぼ)るが、以来支援した学生数は1288万人に上り、その若者たちが戦後復興から経済発展の担い手となり、70有余年に亘り日本社会を支えてきたと言えよう。そして現在は高等教育機関に学ぶ学生のほぼ3人に1人をJASSOの奨学金が支援しており、社会を支える重要インフラとして機能している。決して「シロアリ」などではない。 平成29年度の貸与人員は約130万人、貸与金額は1兆円に上り、わが国全体の奨学金事業のほぼ9割を占めている。貸与人員の8割強は大学、大学院などであるが、特徴的なのは専修学校の学生も22万人近くに上っているほか、放送大学等通信制で学ぶ人たちも支援していることである。 このため、貸与学生の在籍学校数は3647校を数え、うち専修学校は2485校と7割近くを占めている。JASSOの奨学金は専門的技術・技能の習得に向けて学ぶ学生を支えており、この面でも社会の重要インフラとして機能している。 貸与奨学金には無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、ここ数年は奨学生の負担軽減のため、無利子のウェイトを高めている。ちなみに平成25年度の25%に対して29年度には33%、約3分の1が無利子となっている。 なお、有利子の金利について、「3%という高利を貪っている」と誤解され、あるいは歪曲され喧伝されることがあるが、3%は法令上定められた上限金利である。実際にはJASSOが国から借入れる財政融資資金の金利と同一に設定され、現在は0・01%(変動の場合)、そしてこれはそのまま国に償還しており、JASSOが民間金融機関の様に「利鞘(りざや)を稼いでいる」ことは全くない。 ところで年間1兆円にも上る巨額の貸与原資をJASSOはどう調達しているのであろうか。ちなみに平成30年度予算では、8割強(81・9%)が返還金となっており、これは返還者が稼いだ金が後輩たちへの貸与資金となっていることを意味しており、この流れは「健全な日本社会の象徴」と私は自負している。日本学生支援機構の遠藤勝裕理事長(同機構提供) なお、残り2割は財政資金のサポートを受けているが、有利子奨学生については、在学中は金利負担を猶予しているため、この間は規則により財政資金が借りられず、債券発行や借入により、民間の金融市場から調達している。余談ながらJASSOが発行する債券は、国際資本市場協会(ICMA)が定める社会的課題解決のために発行される社会貢献度の高い債券、いわゆる「ESG債」と認定されており、JASSOは国際的にも「社会貢献度の高い組織」と位置づけられている。 さて、こう記してくると、「貸与原資となっている返還金の元は何なのか」との疑問がわいてこないであろうか。そもそも制度スタートの時に資金がなければならないからである。昭和18年10月に「大日本育英会」(JASSOの前身)としてスタートした際、まず国は財政資金100万円(当時)を投じているが、翌昭和19年4月、昭和天皇自らが御手許(おてもと)金100万円を拠出され、あわせて200万円(当時)でJASSOの事業が始まっている。 この200万円を原資として、以後連綿として「貸与、返還、貸与」の好循環が繰り返され、現在の資金規模となっている。元を正せば天皇陛下の拠出金を含め全て公的資金である。返還率は上昇 前述の通り、貸与原資の8割が返還金であり、これが大きく滞れば制度が成り立たなくなるか、あるいは公的資金(税金)の追加投入を余儀なくされることになろう。時に「JASSOは高利貸のように取り立に狂弄(きょうほん)している」と非難されるが、返還にこだわるのはまさに「次世代への貸与原資」を確保しなければならないからだ。 ちなみにJASSOが日本育英会から事業を引き継いだ平成16年度末の3カ月以上の延滞者数は18万3千人で、返還者数の9・9%にも上っていたが、29年度末は15万7千人、同3・7%にまで低下している。返還率で言えば90・1%から96・3%にまで上昇している。仮に16年度の10%近くの延滞率が続いていたとすれば、制度の存続について大きな議論になったのではないかと推測される。 この延滞率の低下、返還率の上昇は、基本的には日本の若者たちの生真面目さによるものと思われるが、この間にJASSOが制度存続のために尽くした様々な努力、例えば延滞者への地道な働きかけ、債権回収会社(サービサー)への回収委託、個人信用情報機関への登録などの成果と言えよう。 こうした中、400万人にも上る返還者の中には様々な事情(病気、失業など)により返還したくても返還できない人も存在している。このため、減額返還、返還期限猶予、返還免除などの救済制度(セーフティネット)を設けており、近年は返還者の実情に応じ、制度の充実に努めている。同時にこれらの周知徹底にも取組んでいるが、残念ながら制度を知らずに延滞に陥る方々も存在している。返還が困難な状況になった場合には悩まずに、遠慮なくJASSOにご相談いただきたい。 冒頭にも触れたように、奨学金破産や保証人問題が大きく報道され、あたかも奨学金制度自体を否定する様な論調も見受けられる。これはまさに「木を見て森を見ざる」の議論と思われる。従ってこれらについての事実を申し上げ、奨学金により大学や専修学校への進学を考えている若者たちが、奨学金制度を安心して利用できる一助としたい。 まず「奨学金破産」について申し上げたい。奨学金返還者のうち平成28年度に新たに自己破産に陥ったのは2009件、返還者全体の0・05%である。これが多いのか少ないのか、立場によって議論も分かれるところであるが、わが国全体の自己破産割合(20歳以上の人口1・1億人に対し、6万3727件の自己破産)は0・06%であることが一つの目安となろう。 ただ、JASSOの立場からは「奨学金破産」という造語自体に違和感を抱いている。それは、自己破産の債務内訳を知り得る限り調べると奨学金のウェイトは平均して2割前後であり、中には億単位の債務のうち50万円が奨学金といったケースも「奨学金破産」とされている。さらに破産者の31%は破産時に奨学金は延滞していない事実もある。大学入試センター試験に臨む受験生ら=2017年1月、東京都文京区の東大 (福島範和撮影) 昨今、奨学金の延滞者に対し「自己破産を勧めている人たちがいる」との報道もあるが、JASSOの立場からは極力法的措置、裁判所の判断に委ねることとしている。理由は2点、すなわち自己破産はJASSOの債権が損なわれ、これは公的資金(国民の税金)のロスにつながること、そして自己破産は返還者本人の経済的な再起を難しくすること、などである。 次に、保証人問題について申し上げておきたい。最近大きく報道されており、世の中的には奨学金制度上の大問題のように受け止められているが、制度全体の極く一部の事象として捉えている。なぜならば、報道では「分別の利益がある保証人に対し全額請求」としているが、対象者は29年度中に167人、22~29年度累計で825人程であり、その比率は、返還者全体の0・02%、人的保証選択者の0・04%と極めて低いためである。 そしてJASSOの「法的には問題ない」との姿勢が誤りとする見解も見受けられるが、改めてJASSOに差入れられている保証人の保証文面を見ると「保証人は本人が負担する一切の債務につき債務履行の責を負う」と明記されている。ただ、法的な議論はさておき、奨学金絡みで一人でも問題を抱えている人がいるとすれば、JASSOは問題解決に向け、前向きに対応しているので積極的に相談窓口に連絡していただきたい。「給付型」は理想論 私は平成23年7月に理事長に就任して以来7年有余、様々な課題に直面しながら関係者、とり分けJASSOの職員と共に走り続けてきた。解決できたこと、まだまだ途上にあるもの、さらには新たな課題も発生しているが、それらは大きく入口、真中、出口と三つの時間軸に存在する。 これは奨学金の申込者への対応に課題が集約される。手続きが煩瑣(はんさ)、分かりにくい、説明書の字が小さいなど、ここでは本人、保護者らに対する親切な説明と同時に高校らの先生方の協力も不可欠と認識している。このため、29年度から日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協力の下、スカラシップアドバイザー制度を創設、約3千人のアドバイザーを高校などへ派遣して丁寧な説明に務めている。 要望があれば大学などのオープンキャンパスに出向くこととしている。ただ、毎年のように奨学金制度の変更や新設があり、とりわけ学校現場からの苦情、要望が多いのが実情だ。これらにいかに親切に対応していくか、大きな課題と認識している。 そして、まず第一の課題は在学中の適格認定の問題で、すなわち奨学生としてふさわしい状態にあるかについて、大学などにしっかり把握してもらう必要がある。現在の制度が形骸化しない工夫も必要と考えている。第二は貸与学生の金融リテラシー向上のサポート。現在新入生の段階で、「本当に必要な金額?借り過ぎに注意!」と啓蒙しているが、在学生に対しても同様のアピールをすると同時に、減額や貸与辞退も可能と呼びかけている。第一、第二の課題は奨学金と勉学とを学生たちにどうリンクして意識づけるか、ということであり、この面での学校サイドの理解とJASSOとの連携強化も大きな課題である。 JASSOの貸与奨学金は通常、卒業してから半年後の10月に返還が始まる。前述の様にこの返還率は新規返還者で97%、全体でも96%と極めて高い。しかしながら、母集団が大きいため人数的には、全体で15万7千人が3カ月以上の延滞者となっている。確かに16万人近くが延滞しているが、逆に410万人は通常通り返還しているのは誇るべきことである。 しかし、JASSOとしては、延滞状況に陥った返還者への対応、すなわち前述のセーフティネットのさらなる充実が大きな課題である。そして、自己破産や保証人問題が指摘される中、保証人制度の抜本的改革も基本的な課題として視野に入れるべきであろう。すなわち、奨学金の人的保証制度を廃止し、機関保証制度に一本化するということである。もちろんこの実現のためには、保証機関、保証料率の水準と徴収方法、既往返還者への対応など検討を要する事項も少なくないが、フィージビリティスタディ(実行可能性調査)を開始すべき時期にきているのではなかろうか。学生らに胴上げされる東大合格者ら=2011年3月、東京都文京区の東大(三尾郁恵撮影) 奨学金制度改革の理想は全て返還負担のない給付型にすることであろう。しかし、全て給付型の先進国では、財源としての消費税率は20~30%と高く、わが国の実情からはなかなか難しい。従って今後の現実的な対応としては、貸与型に給付型をミックスし、貸与型をより返還者の立場に立って改善していくことである。 幸い現在法的にも給付型が可能となり平成30年度から本格的にスタートしているのは、その一つの足掛りとなろう。また、29年度から全て機関保証を条件とし、所得に応じ返還額が変動する新たな所得連動返還制度も始まっている。こうしたことの拡充により「日本型」の奨学金制度がより進化していくことを願って止まない。

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    奨学金取り立てが「サラ金と同じ」でどうする

    べる現状からすればマイナスの変化にもなりかねません。 奨学金の制度は、本来は子供が高校や大学等の高等教育を受ける際に経済的負担が大きくなるものの、その後就職して経済的に充実していくという流れを前提に、一時的にお金が不足する期間のある学生に、お金を貸し、卒業後の経済活動で返済していくことをモデルとしているものと考えられます。しかし、現在学生たちが置かれている経済状況を前提にすると、就職難、ワーキングプア、非正規雇用など、実際にはモデルのように生きることが難しい現実があります。 奨学金に関して、学生側が意識的に検討すべき内容として、教育機関で得られるものとそれにいくらお金を払うかということを冷静に見るべきでしょう。大学に行く目的、そこにかける費用は「みんなが行くから行こう」と思って行くには、随分と高くつくようになっていると思います。 もちろん、奨学金は、学生が無金利または低い金利でかなりの金額を借りることができる非常に有り難い制度であって、さらには返済の際に返済期間の猶予制度などもあり、適切に制度を利用すれば奨学金制度は好ましいものでしょう。 しかし、今回の問題でも明らかになったように、日本学生支援機構は、返済の際には普通の金融機関と同じように、厳しい請求をします。だからこそ、奨学金を借りる時には、なぜ借りるのか、なぜお金を借りても学ぶのかを吟味する必要があるでしょう。※画像はイメージです(GettyImages) また一方で、仮に酷に思える回収をせずに、日本学生支援機構が貸与した奨学金を返せる人から回収できていないとなれば、次の世代への貸し付けをする原資がなくなり、奨学金として貸したお金を無駄にしてしまうという別の問題になりえます。 学生の経済的困窮を教育期間中に軽減することが奨学金の目的であり、保証人からの回収というのは、そもそも借りた学生本人とその連帯保証人の親が返済できなかったことを意味しています。その意味は、単に日本学生支援機構の取り立てが公正性を欠くということ以上に、この国の若年層の経済事情と教育制度のあり方についての課題を提示していると考えられます。

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    「奨学金は借りたくない」キャバ嬢学生の思いは本当に甘えなのか

    ので、学力が足りなければ公立や私立へ進学するしかない。 さらに、学力は、幼少期からの塾通いなど多額の教育投資ができる富裕層ほど高くなる。東大生の親は約6割が年収1千万円以上だ。国立教育政策研究所の濱中義隆総括研究官によるデータ解析では、国立大生の親の方が、公立や私立よりも「年収1050万円以上」「850~1050万円」の割合が高いという。皮肉というべきか、授業料の安い国立大に通うためのチケットは、富裕層ほど安く手に入るのだ。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) 以上のことから、もはや高い学費を払って国立以外の大学に通う学生は多数派であるといえる。親の収入状況で進学先が左右される以上、借金してまで大学に通う学生を「本人の甘え」とか「努力が足りない」などと非難するのは早計だ。 ある女子学生は、学費と生活費を補うため、ファストフード店でアルバイトを始めた。時給800円。授業の後に1日3時間働いて週4日、1日2400円、1カ月で4万円にもならず、毎月12万円かかる生活費が払えない。利益と搾取に「絶望」 ある日、繁華街で配られているポケットティッシュに「誰でも簡単、高収入」の文字を見つけた。「お酒が飲めなくてもOK」「週1日~時給4千円以上、1万円も可」と書いてある。ファストフード店と比べておそろしく魅力的な条件だった。そう、キャバクラである。 拙著『キャバ嬢の社会学』でも述べたが、キャバクラやガールズバーの多くは、水商売の初心者でも「気軽に」働けることをウリにしている。「飲酒なしでOK」「ノルマなし」「未経験者歓迎」など、若い女性ならほとんど誰でも良いというようなキャッチコピーで人を集めるのだ。 彼女は勇気を出して面接へ行った。ニコニコしたおじさんが出てきてシステムの説明をされ、身分証を提示したら、その日から働くことができた。夜中の12時まで4時間働き、1万6千円を手にした。ファストフード店の5倍。親への罪悪感はあったが、学費を払うために四の五の言う暇はなかった。 そこからは、週3回キャバクラ勤務の日々が始まった。毎月12万円の生活費、年間100万円の授業料は払ったが、寝ずに授業へ行く日が続き、ノルマのために深酒するようになった。2年以上、キャバクラ嬢として売り上げを上げ続けたが、ある日、色恋に狂った客からレイプされそうになり、店のスタッフがそれを止めなかったことで、全てが嫌になった。自分が若さや女を売りにして利益を得ることが、搾取されることと表裏一体であることに絶望したのだ。 「ものすごく傷ついたし、学費を払うためにどうしてこんなに苦労しなきゃいけないのか、最悪だと思った。でも、いろいろ大事な経験をしたと思う」と、彼女は静かに語った。 これは私の肌感覚だが、2008年のリーマン・ショック後に、キャバクラ嬢として働く女子大生が急激に増えた。理由はほとんどが「親の仕送りがなくなったから」。一見するとキャバクラで勤務しているようには見えない、というと語弊があるが、世間が思う派手なキャバクラ嬢とは違う、「真面目そうな普通の女子大生」が夜の店で働くようになった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 時を同じくして、ガールズバーやラウンジなど、キャバクラよりもさらに「ゆるい」形態の水商売が盛り上がりを見せた。飲酒しなくてよい、私服でよい、髪の毛をセットしなくてよい。接客はカウンター越しで、セクハラの心配も少ない(ということになっている)。夜の仕事のハードルはどんどん下がり、親の仕送りに頼れない学生や、生活費にゆとりが欲しい学生の一部がそこへ流れていった。 「大学のユニバーサル化」は同時に、「水商売に従事する大学生のユニバーサル化」も進めた。男子学生さえ、例外ではなかった。「やっぱり病みますよ」 「奨学金とか高いじゃないですか。借金するくらいなら、自分で稼いだ方が全然いいと思ったんで」 ある男子学生は、親が無理して通わせてくれた理系学部の授業料、年間200万円を工面しようと、新宿の歌舞伎町でスカウトマンの仕事を始めた。街で女性に声をかけ、風俗産業へと斡旋(あっせん)する。別の大学の友人は、週1日の出勤で月収30万円を稼いでいた。「完全自由出勤」「完全歩合制でノルマなし」という条件に引かれた。これなら授業と両立できる。 面接は雑居ビルの一室で、スーツを着たコワモテのお兄さんたちに囲まれて怖かった。「とにかく女の子に声をかけて、キャバクラか風俗店に連れて行って」と言われ、新宿へ通う日々が始まった。 女性と話すのは好きだったので、ナンパのようなノリで声をかけ続けるのも、それほどつらくはなかった。大学の同級生からは「女性にモテる」「コミュ力が高い」と褒められるようになった。 キャバクラ嬢を新しい店に紹介できれば、店から一件あたりいくらかの収入が手に入る。性風俗店なら、その女性が勤務し続ける限り、女性の給料の10%が彼の懐に入り続ける。月収は30万円を超えた。だが、本音は「やっぱり病みますよ」。 「女の子の愚痴や色恋の管理とか、あとは罪悪感。ヤバい人たちとの絡みもたまにありますし。でもこれ以上稼げる仕事はないです。やりがいもあるし。でもそろそろ単位が危なくなってきたので、ちょっとキツいですね」 信じられない人もいるだろうが、多くの学生にとって夜の世界は、奨学金に頼らず学生生活を送るための手段になっている。学費のためにキャバクラやクラブ、性風俗店などで働く大学生のほとんどは、奨学金を借りていない。そして、たいてい私立大に通っている。彼、彼女らは「自立」するために、大人の社会に依存する。いずれも「親に甘えずに」大学へ通おうとした結果である。 ある女性は、学費のために銀座のクラブで働いたが、その目的は「クラブに来る客の中から、自分を経済的に支えてくれる人を探すためだった」という。20歳の彼女が見つけたのは59歳の会社役員。学費を払ってもらう代わりに、体の関係を提供している。 深夜まで勤務するホステスやクラブは学業と両立できないので、「スポンサー」ができたらすぐにやめるつもりだった。還暦間近の男性とホテルで会うたびに虚しさが募ったが、最近は慣れてきたという。大学を無事に卒業し、無借金で社会に出ることが彼女にとっては何より大切だからだ。「貸与型」では限界 友人にも似たようなパターンの女子大生は多いという。昨今流行りの「パパ活」も、一部は学費を捻出するために行われているのかもしれない。 彼女たちにとって、学生生活を送ることはお金を稼ぐこととほとんど同じである。それでも大学へ行きたい。親には頼れない。でも奨学金は借りたくない。だから大人の社会を利用し、また利用されてお金を稼ぐのである。それでもまだ、「甘えるな」と言う資格が私たちにあるだろうか。 「そこまでして大学へ行く必要があるのか」という問いには、こう答えよう。高等教育の充実は社会的な善であり、よほどの代替案がない限り、大学進学率の上昇は歓迎されるべきことだ、と。やみくもに「大学へ行くな」という権利など誰にもない。 学生を借金漬けにする、もしくは学業に支障をきたすほどのアルバイトを強いる。言うまでもなく、これほど高額な授業料がそもそも問題なのだ。対処するには、全大学の8割を占める私立大が、貸与型ではなく給付型の奨学金制度を増やさなければならないだろう。授業料の減免制度を設けている私大は多いが、個別の大学ごとの格差が大きい上、学生の授業料負担を平均して下げる効果があるとまでは言えない。 だからこそ、私大同士が垣根を越えて資金を出し合い、給付型の奨学金制度を新たに作ることが望ましい。まずは生活費負担が相対的に重い、都市部の私大から連携を始めてはどうか。 こうした大学のうち、特に難易度が中程度から高程度のマンモス校は、地方からも多くの学生が集まる。地方から都市部へと、若年人口を吸い上げる代わりに、給付型の奨学金で彼らの生活費負担を少しでも下げることはできないか。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 資本の論理でいけば、こうした提案は利潤追求に反するかもしれない。が、若者に「甘えるな」と自己責任論を押し付け、やたらと高額な学費を吸い上げる高等教育機関など、無責任以外のなにものでもない。 大学とは経営主体である前に、教育理念を持った社会的存在であるべきだ。2人に1人が進学する時代だからこそ、「大学の社会的責任」を、学費負担という観点からも検討すべきではないだろうか。

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    「学歴」が分断する現代日本社会

    な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。 ―学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) ―トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。学歴による高い同質性 ―日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013~14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。 ―半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか? 吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。 ―吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。 吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社) 彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。 ―なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。 吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。なぜ切り離されているのか ―なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか? 吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。 ―彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか? 吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。 ―多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。 吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。ほんだ・かつひろ ライター。1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    奨学金に絡む自己破産者は15000人以上 増加傾向にあり

     「まさか大学に行ったことが、人生の“枷”になるとは、予想だにしていませんでした」。都心の飲食チェーン店でアルバイトをして暮らすA子さん(28才)は、ガックリとうなだれる。 東京の有名私立大学を卒業後、念願のアパレル業界に入社。しかし残業は毎月70時間を超え、給与は雀の涙。完全にブラック企業だった。人間関係にも悩み、わずか2年間で退職。以降、派遣やバイトなど非正規で働く日々を送っている。そんな彼女に今、重くのしかかるものがある。「学生時代の奨学金です。合計300万円超。まだ半分も返済できていません。社会人になったら毎月2万円ずつ返す予定だったのですが、延滞し続けていて…。現在、アルバイトの給与が月に手取り11万円で、家賃が5万円。生活費の5万円を引くと、どうしても払うことができないんです」 そう話すA子さんは最近、真剣に自己破産を検討しているという。 「奨学金を借りた日本学生支援機構(JASSO)からは催促の通知が絶えません。ただ、自己破産しても連帯保証人である親に支払い義務が行ってしまうので、それも申しわけなくて。もう、どうしたらいいのか…。完全に袋小路に追い詰められています」(A子さん) 彼女のケースは氷山の一角だ。昨今、学生時代の奨学金の返済ができずに破産する人が激増している。JASSOによれば、返済の滞納が3か月以上続く人は、16万人(2016年度末時点)。「今後決められた月額を返還できる」と回答した人は3割強しかいなかった。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 奨学金に絡む自己破産者は、2016年までの5年間で1万5338人。内訳は本人が8108人、保証人が計7230人。2016年度は過去最高の3451人が破産した。「年収300万円以下など低所得者を対象にした奨学金の返済猶予制度の猶予期限は10年。期限切れによる自己破産者は今後さらに増える見込みです」(全国紙記者) なぜこんな事態になったのか。『ブラック奨学金』(文春新書)の著者でNPO法人『POSSE』代表の今野晴貴氏が語る。「根本的な原因は学費の高騰です。国立大の授業料は2017年時点で年間約53万円。過去40年で15倍近く上がっている。私立はさらに高い。入学金も含め、4年間支払うのは家計に大きな負担がかかります。結果、奨学金に頼る学生が急増しました」 現在、奨学金の受給者数は130万人にのぼり、20年前の46万人から3倍近く増加した。学生の2人に1人がなんらかの形で奨学金を借りている状態である。ここに、就職難とブラック企業問題が重なった。「MARCH(明治、青学、立教、中央、法政)を出ても非正規労働者がゴロゴロしている時代です。正社員でも過重労働で超低賃金というブラック企業も多い。体調を崩して休職したり、辞めてしまったりすると、奨学金の返済は至難になります」(今野氏)関連記事■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 早稲田vs慶應 奨学金の延滞人数は早大が慶大の3倍■ 奨学金受給率と入試難易度に相関関係 難関大ほど受給率低い

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    「高等教育の無償化」が救うのは学生でなく倒産危機の大学

     安倍政権が打ち出した「高等教育無償化」は、“奨学金を借りる学生を減らす政策”に見える。だが、本当にそうか──。 過当競争で私大の4割が定員割れを起こしているのに加えて、今年から18歳人口が急激に減少に向かい、奨学生が払う学費では大学経営が維持できなくなってくる。安倍政権の掲げる「大学無償化」からは、“奨学金でこれ以上、大学生を増やせないのなら、授業料を国が払って18歳全員が大学に行けるようにしよう。そうすれば大学は生き残れる”という発想が透けて見える。元文部科学省審議官の寺脇研・京都造形芸術大学教授が指摘する。「無償化がすべての大学を対象にするなら、三流大学は大喜びですよ。タダなら大学行こうとみんな入学してくれる。例えば総理の友人が経営する加計学園グループは岡山理科大学以外は定員割れ。そうした大学の救済措置と言われても仕方がない」 日本学生支援機構のデータから加計グループ3大学の奨学金受給率を見ると、岡山理科大(50.7%)、倉敷芸術科学大(57.0%)、千葉科学大(51.7%)と奨学生によって経営を支えられていることがわかる。その中でも安倍側近の萩生田光一・自民党幹事長代行が客員教授を務めていた千葉科学大の奨学金延滞率は2.1%と全大学平均(1.3%)より高い。 安倍政権の大学無償化の最大の問題は、大学の生き残りが優先され、「大学生に国が投資し、国に利益が還元されるか」という重要な視点が抜けていることだ。卒業生に借りた奨学金を返済するための「生活力」を持たせられない大学の授業料を無償化して学生を通わせても、国は税金投入に見合うリターンを得ることができるはずがない。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 安倍内閣の大臣には、大学経営の経験者がいる。奨学金延滞者数ランキングでワースト3位の近畿大学元理事長である世耕弘成・経産相だ。近大卒業生の延滞をどう考えるのかぶつけると、事務所を通じてこう回答した。「経営から離れて5年以上経過していることもあり、ご質問に答えることは差し控えさせていただきます」 大学無償化の本当の狙いは、奨学生が背負いきれなくなった私大経営の支援を、納税者に肩代わりさせることではないのか。そうなる前に、卒業生の「生活力」を基準に大学を評価する“目”を受験生とその親が、そして全国民が持つことも必要になってくる。●取材協力/峯亮佑(フリーライター)関連記事■ 女子大生風俗嬢を生み出す「奨学金制度」の弊害■ 私大トップクラスの「奨学金返済能力」を誇る大学は?■ 奨学金の「延滞率」 ワースト大学は10人に1人が延滞■ 奨学金「延滞者数」が多い大学 ワースト10■ 国立有名大学の奨学金延滞率 トップは名大、ワーストは一橋