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    北方領土は返さない! ロシア「反日アイヌ民族」の正体

    中村逸郎(筑波大学教授) 「クリル諸島(千島列島と北方領土)は、私たちのものだ。ずっと住み続けよう」 これは北方領土に住むロシア人の声だが、プーチン政権は北方領土を支配する正当性を躍起になって主張している。ラブロフ外相は2019年1月17日の年頭会見の席で、「日本が第2次世界大戦の結果を受け入れる」ように強く求めた。さらに「北方領土」という名称を使用することに不快感をあらわにした。このように北方領土に対するロシアの主権をなりふり構わず打ち立てようとしている。 ラブロフ外相が繰りだす強硬発言に先立つ昨年12月17日、私はロシア国内で報じられたニュースに驚いた。プーチン大統領が「アイヌ民族をロシアの先住少数民族に指定することに賛成した」というのである。プーチン大統領の発言を引き出したのは、ロシア大統領府に設置されている「市民社会と人権擁護評議会」の1人、アンドレイ・バブシキン氏だ。プーチン大統領と面会の際、彼はこう訴えた。 「ロシア国内に住んでいるすべての民族の権利が認められているわけではありません。クリル諸島と極東のアムール川流域にかつて住んでいたアイヌ民族は、ロシア政府が作成している先住少数民族リストに記載されていません。いまアイヌ民族が暮らすカムチャツカ地方知事に、彼らをリストに追加するように要請してください」 こうして北方領土交渉でロシア政府が日本への強硬姿勢を崩さないなかで、最近、これまで知られることがなかったロシア国内のアイヌ民族が注目を浴びるようになったのだ。北方領土引き渡しに反対する集会が開かれ、参加者は「島はロシアの領土だ」などと訴えた=2019年1月20日、露モスクワ(小野田雄一撮影) 補足しておくならば、先住少数民族に認定されると、さまざまな政治的、経済的な権利が付与される。例えば一定の割合で、自分たちの代表者を連邦機関や自治体に選出できる。民族文化や伝統儀式を守るための支援金がロシア政府から支出される上に、居住圏の天然資源を取得する特権も認められる。プーチン政権の思惑は、優遇措置を講じることで先住民族がロシア人に抱く疎外感を払拭(ふっしょく)し、彼らの存在を政治利用することにあるようだ。 話を元に戻すと、千島列島と北方領土(日本政府の公式見解にそって北方領土は千島列島に含まれない)のアイヌ民族が知られるようになったのは、17世紀にさかのぼる。当時は千島列島や北方領土だけではなく、北海道、樺太、アムール川下流域にいたる広範囲に住んでいた。北方領土をめぐって日露は互いに領有権を主張しているが、もともと北方領土と千島列島の先住民族はアイヌ民族であり、ラッコの毛皮や海産物などを日本人やロシア人などと交易していた。ロシアの「アイヌ」が日本批判 でも2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」  ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。 歴史をさかのぼると、江戸時代の松前藩は歯舞諸島から色丹島、国後島、択捉島まで本格的に進出し、先住民族のアイヌ民族と接触した。ただナカムラ氏が声を荒げるほどに、日本人によるアイヌ民族への迫害があったのかどうか、真偽のほどは不明な点が多いが、当初、北方領土に約2000人のアイヌ民族が住んでいた。 いずれにしてもアイヌ民族は、北方領土をめぐる激動の歴史に翻弄された。1855年の日露和親条約で、択捉島と得撫島(ウルップ島)の間に初めて国境線が引かれた。この結果、北方領土のアイヌ民族は日本、得撫島以北のアイヌ民族はロシアの支配権に入った。アイヌ民族博物館では民族伝承の踊りを披露する=2017年3月7日(川端信廣撮影) 1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。ただ、樺太がロシア領土に編入された際に、樺太に住む多くのアイヌ民族が北海道に移住した。 1905年のポーツマス条約で千島列島に加えて樺太の南部が日本領土になり、北海道に渡ったアイヌ民族の一部は故郷の樺太に帰還できた。でも、第2次世界大戦で侵略してきたソ連軍から逃れるために、ほとんどのアイヌ民族が日本人といっしょに北方領土と樺太から北海道に避難した。このようにアイヌ民族は日露の攻防のなかで居住地の変更を余儀なくされたが、彼らの日本への帰属性は強いのは間違いない。プーチンの算段 他方で、第2次世界大戦の直後に少数のアイヌ民族は侵攻してきたソ連側につき、カムチャツカ半島に移り住んだ。だが、戦後のソ連社会で不遇の時代を迎えることになった。彼らは「ソ連人」に統合され、1953年にはソ連の刊行物からアイヌの民族名が消されてしまった。日本に移住した多くのアイヌ民族はソ連を裏切ったと見なされることが多く、ソ連国内にとどまったアイヌ民族はほかの少数民族と結婚するケースが相次いだ。アイヌ民族を名乗る人は減少し、すでに紹介したように109人ほどにすぎない。 ロシアの市民団体「アイヌ」は北方領土返還を求める日本政府への不信感を強めており、日本国内のアイヌ団体との交流はないようだ。  私が強調したいのは、アイヌ民族をロシアの先住少数民族に加えるプーチン政権の動きは日本政府との北方領土交渉のなかで浮上してきた点にある。ロシア政府の狙いは、領土交渉をより複雑化することにあるのは確かだ。 ロシア政府は、北方領土に進出した日本人がロシアのアイヌ民族を虐待したと言い立て、ロシア世論を領土返還反対の方向により強硬に誘導したいのだろう。外交的には日本政府が唱える「わが国固有の領土」の見解に対抗するために、ロシアのアイヌ民族を北方領土の先住民族に仕立てようとするもくろみも感じられる。 だが本来、北方領土は国家主権にかかわる問題であり、日本外務省の指摘するように「今日に至るまでソ連、ロシアによる法的根拠のない占拠が続いている」といえる。領土主権の問題は、プーチン政権が提起する「北方領土の先住民族」のテーマとは根本的に次元が異なる。日本政府は、「北方領土の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という従来の方針(2001年、森喜朗首相とプーチン大統領が合意したイルクーツク声明)を変更する必要はない。ウラジーミル・プーチン露大統領=2018年10月24日、露モスクワ(タス=共同) 先住民族と国家主権の問題を絡めて議論すれば、世界各地で主権の獲得にむけて民族紛争が噴出し、収拾のつかない、まさに「パンドラの箱」を開けることになる。 日本政府はアイヌ民族を先住民族と明記する「アイヌ法案」を成立させた。これにより「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を目指すことになる。これを契機にアイヌ民族に対する日本世論の関心が高まるだろう。これをテコに、アイヌ民族と元島民が共同して「日本の国家主権」を回復させる北方領土返還運動をより促進すべきである。■首相は正気か、北方四島「固有の領土」となぜ言えないのか■北方領土はトランプ・プーチン・習近平「裏サークル」の出方次第■「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ

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    醜態よりも救いがたい丸山穂高に抜けている「基礎知識」

    舛添要一(前東京都知事) 北方領土へのビザなし交流訪問団に参加した丸山穂高衆院議員が5月11日に、酒に酔って元島民の大塚小弥太団長に「戦争でこの島を取り返すこと」の賛否について質問したことが問題になっている。 所属する日本維新の会は、丸山議員の除名を決め、松井一郎代表(大阪市長)も「外交上も非常に大きい問題だ。議員を辞めるべきだ」と述べている。そして、立憲民主党など野党に呼びかけて、17日、共同で議員辞職勧告案を提出した。 これに対して、丸山議員は議員辞職を否定し、20日にも記者団に対して、「言論の府が自ら首を絞めかねない行為だ。絶対に辞めるわけにはいかない」と述べた。そして、「可決されようがされまいが任期を全うする」とツイートしている。 まず問題なのが酒癖の悪さである。確かに、アルコール飲料が入るとすっかり性格が変わったようになり、非常識な行動に出る人はいる。中でも、饒舌(じょうぜつ)になる者が多い。自分のことを振り返っても、若いころは暴飲暴食し、素面(しらふ)になったときに恥ずかしい思いをしたことがある。 その後、フランスで生活して教えられたのは、自分で自分をコントロールできなくなるまでに飲んではならないということであった。当時フランスでは、お昼ご飯のときにもワインを水のような感じで飲んでいたし、飲酒運転の取り締まりなどもなかった。あくまで半世紀前の話で、今では日本と同様に厳しく規制されるようになっているが、お酒の飲み方について社会でルールが確立されていたから、そのようなおおらかな対応が可能だったように思う。 丸山議員は2015年末にも飲酒で不祥事を起こし、「公職にいる間は断酒する」と宣言していたはずである。それが、北方領土に関する発言のみならず、大声で「女性のいる店で飲ませろ」などと語り、禁止されている宿舎からの外出を試み、玄関先で政府関係者に羽交い締めにされて止められたわけである。2019年5月12日、国後島の宿舎で、前夜酒に酔い騒いだことについて謝罪する丸山穂高衆院議員(右端、同行記者団撮影) 何より断酒の約束を違えたことは問題であるし、酒癖の悪いことを自覚しているのであれば、もっと慎重であるべきであった。国会議員であれば、正月をはじめ、さまざまな酒席に参加しなければならないが、「酒が飲めない」と断れば、それでも強要するような有権者は、今はいない。 第二の問題は、その軍事知識の乏しさである。国会議員は、安全保障について基礎的な知識を備えていなければならない。戦後日本を象徴する存在 戦後の日本で教育を受けた私は、欧州や米国で研究をしたり学会に出たりしたときに、自らの軍事知識の欠如に愕然(がくぜん)としたものである。そこで研さんを積んで、帰国して東京大で教鞭(きょうべん)をとったときに、できるだけ安全保障の講義を行ったものである。 30年前の話であるが、論壇や学会では、当時でも左翼の「進歩的文化人」の力が強く、軍事を教えるとひんしゅくを買い、「保守反動・右翼」と批判されたものである。丸山議員が東大に入学したときには、西部邁(すすむ)さんらとともに、私は既にキャンパスを去っていたので、彼がどのような国際政治の講義を聴いたのかは分からない。しかし、大学の授業に頼らずとも軍事の勉強はできるはずだ。 「戦争をしないとどうしようもなくないですか」などという発言は、現在のロシアと日本の軍事力を比較してみれば荒唐無稽である。ロシアは米国と対峙(たいじ)する核大国である。単独でロシアに戦争を挑んで勝利し、北方領土を奪還するのは軍事的に不可能である。同盟国のアメリカとともにロシアと戦えば、勝ち目はあるが、人類を滅亡させる核戦争の引き金を引くことにもなりかねない。 国民の選良である国会議員が、そのような基本的な軍事知識を欠いていることは論外である。最新兵器を駆使して戦う現代の戦争は、神風が吹けば勝てるようなものではない。彼我の国力、軍事力の冷静な比較分析なしに太平洋戦争に突進した旧日本軍の愚を繰り返してはならないのである。 もし、国会議員への立候補に資格試験を導入するとしたら、私は、いの一番に基礎的な軍事知識を問うてみたいと思う。海外の国会議員と議論するときなど、軍事的知識の欠如は致命的なものとなる。 最近の例だと、イランがミサイルを艦船に移動しているとの情報を前提に、アメリカが空母「エイブラハム・リンカーン」を中心とする空母打撃群と爆撃機を中東に派遣したが、軍事知識がなければ、このことの意味が理解できないであろう。まさに、丸山議員は、平和ボケして軍事をタブーとしてきた戦後日本を象徴する存在なのである。衆院決算行政監視委を終え、記者団の質問に答える丸山穂高議員=2019年5月20日(春名中撮影) 第三に、日本とロシアは、平和条約の締結と北方領土返還交渉を行っている。あくまでも話し合いで問題の解決を目指しているのである。 2014年3月、ロシアはクリミアをウクライナから分離させ、自国に併合した。ロシアは住民投票の結果だと主張するが、それは形式的なものであり、実際には軍事力を投入して奪い取ったと言ってもよい。ロシアにはロシアの言い分があり、旧ソ連時代も含めての歴史的経緯を見ると理解できないわけでもない。しかし、武力によって他国から領土を奪い取るのは、第2次世界大戦後の国際社会のルールに違反している。 丸山議員の言うように「軍事力で北方領土を取り返す」というのは、まさにロシアと同様の行動をするということである。ロシアに言わせれば、「戦争の結果手に入れた領土を戻してもらいたければ、戦争で取り返してごらん」ということになり、対話による交渉など行うに値しないことになる。ツイートするぐらいなら… これは、現に進行している日露交渉を無意味にするものである。つまり、日本政府の立場を弱めることになる。国益という観点からは許しがたい。 第四は参院選が近いからか、日本維新の会をはじめ、各党がポピュリズム(大衆迎合主義)に走りすぎている。非常識な発言を理由に、安易に議員辞職を勧告してはならない。 維新にしてみれば、傷口を早くふさぐために大衆受けのする手段を採ったのであろう。しかも、維新の幹部がロシア大使館に謝罪に行っているが、通常の外交常識だと、こういう行動はありえない。ほとんど自虐趣味で、国内世論向けのパフォーマンスであり、日本人をねじ伏せるのは容易だとロシア側に思わせるだけだ。 そして、自民党も公明党も、何にもせずに有権者の反発を買うことを恐れて、けん責決議案を提出した。これも前代未聞で、全てが選挙対策であり、政策や憲法規範など考慮すらされない選挙至上主義である。 もし、目の前に参院選が控えてなければ、もう少し違った対応ができたであろう。大阪で、公明党が豹変して都構想賛成に回ったのも参院選対策であり、それ以外の何物でもない。いつまで大衆迎合の愚民政治を続けていくのであろうか。 最後に指摘したいのが国会、特に議院運営委員会の対応の甘さである。言うまでもなく、国会は「国権の最高機関」であり、議運委は国会運営で大きな役割を果たす常任委員会の一つだけに、国会として自浄作用を働かせる重要な機会だったはずだ。衆院本会議を欠席し、倒れたままの丸山穂高氏の氏名標=2019年5月21日 ところが、「2カ月の休養が必要」という診断書を提出した丸山議員に、衆院議運委理事会は事情聴取を拒否されてしまった。裁判でも病気などの場合では出張尋問を行えるわけだから、本人が意識不明など重篤な状態ならともかく、議運も病室に出張して聴取する可能性を探れなかったのだろうか。 また、丸山議員にしても、ツイッターで主張するのも結構だが、議員である以上、一番ふさわしい反論の場は、やはり国会である。病状について私が知りようもないが、自身への辞職勧告決議案について「言論府が自らの首を絞める」とツイートするぐらいなら、むしろ、言論府たる国会で「やっと反論できる絶好の機会を得た」とばかりに、議運の聴取に積極的に応じるべきだったのではないか。診断書1枚で逃げおおせるという印象を有権者に与えかねないからである。■ 「超傲慢エリート」元官僚議員はなぜ量産されるのか■ 安倍政権に朗報! こうすれば「モンスター議員」はいなくなる■ 派閥議員スキャンダル連発でも二階氏が「安倍政権の要」たる理由

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    プーチン大統領が不当要求なら安倍首相は「4島返還」に戻れ

     北方領土が戻ってくるかもしれない──。そんな期待がメディアから漂う。だが、今はむしろ交渉するには最悪のタイミングだと、ロシア事情に詳しい名越健郎氏(拓殖大学海外事情研究所教授)は指摘する。 日露平和条約締結を悲願とする安倍晋三首相は遂に、歯舞、色丹の2島引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言を基礎に決着させることを決め、ロシア側との本格交渉に入る。 平和条約を結ぶ切迫性もないのに、なぜ急ぐのか。面積で4島全体の93%を占める国後、択捉を放棄していいのか。平和条約締結は政権のレガシー(遺産)狙いではないのか。突っ込みどころは満載なのだが、首相はプーチン大統領と交渉の枠組みを決め、2019年6月の大統領訪日時に平和条約基本合意を目指す意向という。3年を切った自らの任期から逆算して、このタイミングしかないと踏み切ったのだろう。 だが、安倍首相は任期中の締結を急ぐあまり、交渉をめぐる内外の環境を十分勘案していない。日露交渉を本格化させるには、ロシアを取り巻く環境は最悪である。特に、欧米が対露非難を強める中、日本の融和姿勢が突出している。 2018年11月末に起きたロシアによるウクライナ艦船拿捕事件も、欧米とロシアの対立を激化させた。 日本を含むG7(主要7カ国)外相は艦船拿捕に「深刻な懸念」を表明し、ロシアによるクリミア併合を改めて非難した。北大西洋条約機構(NATO)はクリミア周辺への偵察飛行を開始、黒海への海軍プレゼンスを拡大している。ウクライナ東部では数カ月前から、ロシアが支援する親露派武装勢力とウクライナ政府軍の武力衝突が続いており、ウクライナ危機が再燃する気配だ。 拿捕事件を受け、トランプ大統領はアルゼンチンでのプーチン大統領との首脳会談をキャンセルした。米国の中間選挙で下院を制した民主党は、ロシアへの新たな大型経済制裁を準備中だ。米議会は超党派で親露派・トランプ大統領の対露制裁緩和権限を奪い、ロシアを封じ込めている。2019年1月22日、共同記者発表を終え、引き揚げる安倍首相(左)とロシアのプーチン大統領(共同) 米露関係がますます悪化する中、プーチン大統領は返還後の2島に米軍基地を設置しない確約を要求している。しかし、歯舞、色丹を日米安保条約の除外地域とすれば、日米地位協定の改定が必要になり、米政府や国防総省は対日不信を強めよう。尖閣には適用し、北方領土には適用しないという都合のいい構想を米側は受け入れないだろう。「日米離間」が常套手段 日米同盟を危惧するロシアは交渉で、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の配備中止や、クリミア併合に伴う日本政府の対露制裁撤廃を要求するかもしれない。「日米離間」は、ソ連時代からロシアの常套手段だ。プーチン大統領が日米同盟弱体化を狙う要求を貫くなら、安倍首相は交渉を打ち切り、「4島返還」の原則に戻るべきだろう。 ロシアが秋以降、ウクライナだけでなく、世界的に冒険主義路線を取っていることも、交渉のタイミングとしては良くない。ロシアは駐留するシリアでも、11月から反政府勢力支配地区への空爆を再開した。 10月以降、内戦の続くリビアやイエメン、中央アフリカにも数十人から100人の義勇軍や軍事顧問団を派遣し、一方の側を支援している。 ウクライナ東部とシリアで「2つの戦争」を抱えるプーチン政権はここへきて、中東・アフリカで広範に対外冒険活動を展開し始めた。年金問題や経済失速で政権支持率が低下する中、外敵との対決姿勢をアピールし、求心力を回復させようとする思惑が垣間見える。 政権延命を重視するプーチン政権は、領土割譲のような不人気な政策を回避したいところだ。ロシア人たちのブログでは、「プーチンが3月の大統領選で公約しなかった年金改革や日本への領土割譲を行うのは裏切り行為だ」「神聖なる領土は1センチたりとも渡すべきでない」といった勇ましい書き込みが目立つ。 「日本のように国際的評価が高い国と平和条約を結ぶことは、ロシアの孤立回避につながる」といった賛成論もあるが、少数派だ。プーチン大統領が自ら高揚させた戦勝神話と民族愛国主義が、返還の障害となって跳ね返っている。【PROFILE】なごし・けんろう/1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語学科を卒業。時事通信社ワシントン支局長、モスクワ支局長、外信部長、仙台支社長などを歴任後、2011年退社。2012年より現職。著書に『北方領土の謎』(海竜社)などがある。■自民党「北方領土解散」で7月衆参ダブル選挙のシナリオも検討■「北方領土は2島で」 安倍首相は歴史に名を残したいだけか■サカナとヤクザ 司忍組長は水産高校卒業後、漁船に乗った■安倍首相の後継「岸破義信」が争う間に極右台頭の土壌も■羽生結弦や田中圭を抑えて売上1位 プーチンカレンダーの謎

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    北方領土「日本固有」となぜ言えないのか

    北方四島はわが国固有の領土である。にもかかわらず、最近の安倍首相は「不法占拠」された事実を意図的に封印し、ロシア側に一方的に配慮する。交渉事とはいえ、ロシアの言い分を丸呑みして大丈夫なのか。小バカにしながら、ほくそ笑むプーチンの顔が目に浮かびそうである。

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    首相は正気か、北方四島「固有の領土」となぜ言えないのか

    木村汎(北海道大学名誉教授) 毎年2月7日には、北方領土の返還を求める全国大会が催される。今年は、重大な変化が起きた。同大会を主催する官民団体が採択する大会アピールから、なんと「北方四島が不法に占拠されている」という事実を述べた文章が削除されたのである。同大会で最重要の安倍首相のスピーチにも「日本固有の領土」という言葉がなかった。 これは現在進行中の日露平和条約交渉に対する影響を考慮しての決断と推測される。もしそうだとしたら、しかしながら、とんでもない思い違いである。逆効果だろう。それは、ロシア側に向かって誤解を招く誤ったメッセージを送るばかりか、日本側にとっても致命的な外交行為にさえなりかねない。説明しよう。 現プーチン政権は、国境線の決定問題に関して「戦争結果不動論」の立場を取っている。すなわち、国家間の国境線は国際法でなく、武力闘争の結果として決まる。現日露間の国境も第2次世界大戦でソ連が日本に対して勝利し、北方四島の軍事占拠に成功したことによって決定した。プーチン大統領は、2005年にこう宣言し、忠実な部下、ラブロフ外相はとりわけ昨年来両国間で平和条約交渉が本格化して以来、口を開くと必ず「もし交渉を進めたいのであれば、日本側は第2次大戦の結果を認めることが何よりの先決事項」と説く。 上記のロシア指導部の主張は、事実を歪曲(わいきょく)した完全な誤りである。改めて説くまでもなかろうが、この際要旨を記しておく。 戦争が国境線を決める。これは、野蛮、危険かつ間違った考えである。もし万一そのことを認めるならば、永久に戦争は終わらず、国際社会は闇の世界となろう。国境線を決めるのは、戦闘行為でなく、あくまで国際法であるべきだ。さもないと、際限なく戦争が起こるのを防止し得なくなる。東方経済フォーラムの全体会合で、演説に向かうロシアのプーチン大統領(左)に拍手する安倍晋三首相=2018年9月、ロシア・ウラジオストク(古厩正樹撮影) そのような戦争の「負の連鎖」に終止符を打とうとして、第2次大戦終結前後に、連合国は領土不拡大の原則に同意した。「大西洋憲章」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「国連憲章」の条文がそうである。もとより、スターリン下のソ連も、これら全ての条約、協定、申し合わせに同意し、署名した。米国はこの原則を守り、軍事占領した沖縄を日本へ戻した。 以上の協定を唯一順守しなかった国が、スターリン下のソ連だった。ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏宣言し、武力放棄した後にも対日武力攻撃を一向に止めなかった。しかも、ソ連と日本は「日ソ中立条約」を結んでいたので、ソ連の対日攻撃は明らかに同条約の違反行為に他ならなかった。なぜならば、同条約は一方が破棄を宣言しても、その後1年間は有効と定めていたからである。「ロシア式」を分かってない 要するにスターリン下のソ連は、国際法、その他あらゆる諸条約に違反して、北方領土を軍事占領した。だが、他国領土の軍事的占領は、その領域に対する主権の取得を意味しない。米国、日本、全ての諸国は、このことを承知している。ところが、である。旧ソ連/現ロシアだけが北方領土の軍事占領=同地域の主権の入手とみなす。これが法律上通用しないことは、占有権と所有権が異なる二つの概念であることからも自明の理であろう。念のために、例を引いて説明しよう。 ある者が火事場のどさくさを利用して、他人の財産をそのまま己のポケットに入れても、占有権こそ発生するかもしれないが、合法的な所有権は発生しない。そのような不法行為を犯した者は、同財産を可及的速やかに持ち主の手に戻す義務がある。そして、物理的な引き渡しを受けた瞬間に、元の持ち主が完全な所有権を手にすることを、改めて述べるまでもない。泥棒は、所有権は依然として己の手に残るとの屁(へ)理屈を主張し得ない。 ロシアは、戦後70年以上にもわたって日本の「固有の領土」「北方四島」を「不法占拠中」である。これは、客観的に物事を眺める者ならば、100%認めざるを得ない厳然たる事実である。現ロシア指導部がいささかでも、法律が何たるかを理解しているならば、日本政府に対してその不法行為を詫び、70余年間分の賃貸料さえ付けて直ちに返済すべき筋合いのはずである。ところが、プーチン大統領も、ラブロフ外相も、同領土が「第2次大戦の結果、ロシアの主権下に移った」と強弁する。 もし万一彼らの主張を、たとえ一部でも間接的にでも認めるならば、どうであろう。それは日本側にとって取り返しのつかない致命的な誤りになろう。なぜならば、日本政府は、ロシアの主権下の領土を、ロシア政府の特別の好意によって日本へ引き渡してもらうことになる。 同領土の主権は依然としてロシアに残り、日本側に引き渡すのは施政権だけである。また、そのような引き渡しすら即時ではない。周辺の排他的経済水域(EEZ)すら、日本へ引き渡すとは限らない。ましてや、同地域に米軍基地を設置するなど問題外。ロシア側はこのように主張するかもしれない。ロシアへ出発する安倍晋三首相。右は昭恵夫人=2017年4月27日、羽田空港(納冨康撮影) 北方四島がロシアによって不法に占拠されている。これは、誰一人否定しがたい客観的事実に他ならない。にもかかわらず、その言葉を北方領土返還全国大会のスローガンから外した。これは「第2次大戦の結果として四島がロシアの主権下に移った」とのロシア側の主張を認めるに等しいだろう。 おそらく安倍政権はロシアを刺激して平和交渉を停滞させることを危惧しているのだろう。交渉のABC、とりわけロシア式思考や行動様式に無知と評さざるを得ない。ロシア人は、席を憤然と蹴って交渉会場を後にする毅然(きぜん)とした相手との間に初めて真剣な話し合いを行う。「己とプーチン氏の間で必ずや平和条約を結ぶ」と交渉のデッドライン(期限)を設け、実際次から次へと一方的な譲歩を行う。そのような人物とは決して真剣に交渉しようとは思わないのがロシア外交の本質である。■「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ■北方領土引き渡し「主権は譲らない」がプーチンの真意■どうなる北方領土交渉 「2島−α」に終わる可能性も

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    北方領土はトランプ・プーチン・習近平「裏サークル」の出方次第

    斎藤満(エコノミスト)  北方領土交渉で、安倍総理の「弱腰」が懸念されています。先月末の衆参両院本会議で、北方四島について、従来の政府公式見解である「日本固有の領土」という表現を使わず、代わりに「わが国が主権を有する島々」と述べました。ロシア政府が、日本で北方領土を日本固有の領土と表記したり、そもそも「北方領土」と呼ぶこと自体を快く思わず、注文を付けられたことが背景にあった模様です。 安倍総理はプーチン大統領と日ロ首脳会談を25回も行い、信頼関係が築かれているので、日本に理解の深いプーチン大統領の下で、なんとか平和条約締結にこぎつけ、安倍政権の金字塔を打ち立てたいと考えています。 1956年の日ソ共同宣言には平和条約締結の後に、歯舞(はぼまい)群島と色丹島(しこたんとう)を日本に引き渡す、との文言があり、これにすがって少なくとも北方四島のうち、2島だけでも返還してもらえれば、安倍政権の「偉業」として夏の参院選を有利に展開できると期待しました。 その点、プーチン大統領もひところはこの1956年の日ソ共同宣言を基礎として交渉すると言っていました。ところが、ラブロフ外相以下、モスクワの政府要人はこぞって北方領土問題には強硬論を唱え、北方領土は第二次大戦後にソ連の領土となったと主張、肝心のプーチン大統領の発言も微妙に変わりました。共同宣言では「領土の返還」とは書いていないと述べるなど、突然風向きが変わった感があります。 この問題は、もともと国際法上明確な判断が難しい状況にありました。ロシアは1945年2月のヤルタ会談、同年7月のポツダム会談を盾にし、日本に参戦すれば南樺太(みなみからふと)と千島列島をソ連に引き渡す、との欧米認識に依存し、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で南樺太と千島列島を放棄しました。当初政府は千島列島に国後(くなしり)、択捉(えとろふ)が含まれると言いましたが、56年にこれを否定し、北方四島は依然として日本固有の領土としています。 もっとも、その後米国はヤルタ会談、ポツダム会談を無効とし、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していません。それだけに、国際法的に白黒をつけるのが難しい面があり、当事国間の信頼関係が重要になり、その点56年の日ソ共同宣言は大きな礎となると見られていました。ロシアのラブロフ外相(左)、ショイグ国防相(右)と会談するプーチン大統領=2019年2月2日、モスクワ(タス=共同) しかし、北方領土問題はこれまでも米国の立場に大きく左右されてきました。日ロ間で2島返還で話がまとまりそうになると、米国から「四島一括返還でなければ沖縄の返還はない」(ダレス元国務長官)と脅され、米国の横やりでまとまる話もまとまらなかった経緯があります。従って、北方領土問題においては、米国の立場が常にカギを握ってきました。 つまり、日本とロシアの関係だけでなく、日本と米国の信頼関係も大きなカギとなります。その点、表向きは米国とロシアは米中関係と同様に対立している印象を与えますが、裏ではトランプ政権の背後にいるキッシンジャー元国務長官を軸に、トランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、そして中国の習近平国家主席は、「裏のトライアングル」を形成し、連携しています。安倍首相は仲間に入れるか 表面的には米ロが対立しているようで、裏ではプーチン大統領はトランプ氏を支持し、これを利用しようとしています。ロシアでの不動産ビジネスを進めているころから、クレムリン(ロシアの大統領府)とトランプ氏は密接なつながりがあると指摘され、一部にはトランプ氏がロシア特有の「ハニー・トラップ」にはまり、ロシアの言いなりとの見方もあるくらいです。それはともかく、米富豪ロックフェラー家の銀行家、デービッド・ロックフェラー氏が存命のころからプーチン氏は裏で米国と協働していたと言われます。 従って、トランプ・プーチン両名の近い関係から、北方領土を日本に返還する意思があるなら、米国は北方領土に米軍を置かないことは、プーチン氏に伝えているはずで、プーチン大統領が安倍総理に「北方領土に米軍を展開させないと米国を説得できるのか」と質していたのは茶番と見られます。トランプ氏からはとうにその点の情報は伝えられているはずです。 要するに、何より重要なことは、安倍総理がこの「トランプ・プーチン・習近平のサークル」に入れてもらえているのかどうか、にかかっています。このインナー・サークルに入っていれば、トランプ大統領から横やりが入ることもなく、むしろ米軍を北方領土に展開しないから話を進めるよう、後押しがあってもよいくらいです。プーチン大統領もその前提で話を進められます。 その場合、モスクワで領土返還阻止行動が起きても、閣僚が反対しても、プーチン大統領のリーダーシップでこれを説得し、あるいは押さえつけることも可能です。 しかし、日本が勝手に両国との「厚い信頼関係」と思い込んでも、当のトランプ大統領、プーチン大統領が安倍総理を仲間と見なさなければ、話は別です。ロシア国民の7割以上が反対する北方領土返還は、プーチン大統領と言えども容易ではありません。 従って、この交渉がうまく進むかどうかは、安倍総理と米ロ両首脳との真の信頼関係が築かれているのか、安倍総理がこのインナーサークルに入れてもらえているのかどうかの「リトマス試験紙」にもなります。最近のロシア側の出方から見ると、25回の首脳会談にもかかわらず、安倍総理に対するロシアの信頼は必ずしも醸成されていないように見られます。今になって、交渉が進むよう日ロの信頼関係構築が急務と言っている始末です。会談前にロシアのプーチン大統領(右)と握手する安倍晋三首相=2018年12月1日、 ブエノスアイレス(共同) その流れからすると、日本が立場を曲げて「2島プラスアルファ」を目指しても、今のロシアからは歯舞色丹の領土返還もなく、元島民の利用権は認める程度の「ゼロ島プラスアルファ」となる懸念も高まっています。それでも安倍政権が長期政権化のために平和条約締結を優先すれば、領土が確定して領土交渉の道は断たれる上に、さらなる経済協力は日本の持ち出しになります。 それでは日本国民は納得しません。これまでトランプ政権、プーチン大統領との信頼を構築するためにどれだけの資金と時間を投じたのか。北方領土問題の返還が果たせないとなれば、「毎月勤労統計不正」以上に安倍政権の存立基盤が大きく揺らぎます。安倍総理はいよいよ正念場を迎えました。■ 「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ■ 「21世紀最凶の殺戮者」プーチンがもたらす憎悪の世界■ プーチンからの柔道の誘いを断った安倍首相の甘さ

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    北方領土交渉「忖度ジャパン」の論理がロシアに通じるはずがない

    山田順(ジャーナリスト) 安倍晋三首相という人は本当に人がよく、ロシアのプーチン大統領が大好きなのだろう。この6年ほどの首相在任中に、プーチン大統領と25回も首脳会談を行っている。なんと、年4回以上のペースである。同盟国でもない国の首脳とこんなに会うのは、どう見ても異例中の異例だ。 首脳会談をやれば、それなりにおカネがかかる。もちろん国民の税金だ。誰か、これまでどれくらい税金がつぎ込まれたか教えてほしいと切に思う。  安倍首相といえば、米国のトランプ大統領も大好きである。就任前から手土産持参でニューヨークに飛んでいき、「固い握手」をしてもらって大喜びだった。そんな安倍首相を見て、「アメリカのポチ」と言う人がいた。 となると、安倍首相は、さしずめ「ロシアのポチ」なのだろうか。いや、それ以上の「何か」と言った方がいいかもしれない。なにしろ、トランプ大統領との首脳会談は年3回ほどにすぎないからだ。電話会談はこれまで26回もしているという反論があるかもしれないが、これはトランプ大統領からの「電話連絡」の間違いだろう。 で、安倍首相はそんなに何回もプーチン大統領と会って、何を話しているのか。「北方領土」を返してほしいと懇願しているのだという。何とかロシアとの間で「平和条約」を結びたいと、一生懸命プーチン大統領のご機嫌を取っているのだという。確かに、これまで安倍首相は「北方領土の返還は私たちの悲願であり、私たちの世代で解決していく決意だ」と述べ続けてきた。 そこで問題になっているのが、最近の安倍首相の言動だ。昨年11月、24回目となる日露首脳会談で「平和条約交渉の加速でプーチン大統領と合意した」と発表されて以降、「北方領土」「北方四島」といった表現を避け、「領土問題」とだけ言うようになったからだ。 今年1月30日の衆議院本会議の代表質問では、立憲民主党の枝野幸男代表からこの点を突っ込まれた。すると、安倍首相は「北方領土はわが国が主権を有する島々だ」とやっと口にし、平和条約交渉についても、これまでの「対象は四島の帰属の問題であるとの一貫した立場だ」と答弁したのである。2019年1月、衆院本会議に臨む安倍首相(右)と麻生財務相。手前は代表質問に立つ立憲民主党の枝野代表 ところが、2月4日、共同通信が衝撃的なニュースを伝えた。それは、7日の「北方領土の日」に開かれる北方領土返還要求全国大会で、主催する官民の団体が採択する大会アピールをめぐり、「『北方四島が不法に占拠されている』との表現を使わない方向で調整していることが分かった。昨年を含め従来、盛り込まれていた文言。複数の関係者が3日、明らかにした」というものだった。 北方領土がロシア(当時はソ連)によって不法に占拠されたものでないとしたら、そもそも領土返還交渉も平和条約交渉も有り得なくなる。「不法占拠」、つまり「わが国固有の領土」という表現を使わないということは、「北方領土はロシアのもの」と認めたことになるからだ。いったい、なぜこんなことになったのだろうか。 共同通信の記事では、「安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領による平和条約締結交渉に影響を与えないよう配慮した可能性がある」と書かかれていた。ということは、今大流行の「忖度(そんたく)」が行われたことになるのだろうか。では、いったい誰に「忖度」したのだろうか。「忖度ジャパン」は通用しない 当該記事には「複数の関係者」とあるが、それは外務省関係者でほぼ間違いないだろう。彼らが安倍首相の立場を「忖度」し、そして安倍首相がロシアとプーチン大統領の立場を「忖度」するという、前代未聞の「ダブル忖度」が行われたと見ていいのではないだろうか。 そこで思い出されるのが、昨年9月12日、ウラジオストクで行われた東方経済フォーラム全体会合でのプーチン大統領の発言だ。プーチン大統領は「年末までに(平和条約を)無条件で締結しよう」と言って、安倍首相を「無言フリーズ」状態に陥れた。さらに、今年1月の25回目の首脳会談を前にして、ロシアのラブロフ外相はこう述べた。 「第2次大戦の結果、南クリール諸島がロシア領になったことを日本が認めない限り、領土交渉の進展は期待できない」 「日本の国内法で『北方領土』と規定されるのは受け入れられない」 どうだろうか。これらの発言と、「不法占拠」という表現を使わないということは、ピッタリ一致していないだろうか。 「忖度」というのは、やり方によっては日本人の美徳とされる「思いやり」に通じるものがある。それが通じると、物事が上手くいくことがある。しかし、最近の「忖度」は全く国民のためになっていない。それは「忖度される人」と「忖度する人」の利益にしかなっていないからだ。 それなのに、これを外国人に対して行って、どうするというのだろうか。そもそもロシア語に「忖度」などという言葉があるのだろうか。誰か教えてほしい。いずれにせよ「忖度ジャパン」の論理など、ロシア人には理解できないだろう。  では、ここからは、ロシアが日本のことなど全く「忖度」せず(するわけがない)、主張していることを歴史的な視点から見てみよう。 まず、プーチン発言の「(平和条約を)無条件で締結しよう」だが、これは「120%トンデモ発言」である。なぜなら、平和条約とはそもそも領土を確定してから結ぶものだからだ。さらに、戦争を正式に終結させるための条約であり、日本は先の大戦においてソ連とは「戦争」していないので、そんなものを結ぶ必要などないのだ。しかも、1956年の日ソ共同宣言で国交は回復している。ならば、それでいいとするほかない。2018年9月、共同記者発表後に握手する安倍晋三首相(左)とロシアのプーチン大統領(古厩正樹撮影) なぜだろうか。それは、領土というのは実効支配されてしまった以上、交渉では取り戻せないからだ。「力」で奪われたものは「力」でしか取り戻せない。 国内の土地紛争なら裁判所に訴えれば、法の執行によって取り戻せる可能性はある。しかし、国家間の紛争を裁定する裁判所はあっても、それを実行する国家を超えた力は存在しない。 だから、プーチン大統領は安倍首相に「(現状を)素直に諦めれば」というメッセージを暗に込めたのだ。これが「無条件」の本当の意味だ。ラブロフ発言の「欺瞞」 次に、ラブロフ発言については、これは他国も同じだが、歴史をいつも自分に都合のいいように解釈するロシアの一貫した主張だ。したがって、これも180度間違っている。 まず、北方四島は、近代史を見ればロシア側も認めた日本固有の領土であることは明白だ。その根拠は、1855年に江戸幕府とロシア帝国が結んだ日露和親条約にある。 ここで、両国は国境線を画定し、その国境線を択捉(えとろふ)島と得撫(ウルップ)島の間としたからだ。北方四島とは、歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉島の四つの島を指すが、この時点から正式な日本領となったわけだ。 その後、1875年に明治政府がロシア帝国と結んだ樺太千島交換条約、日露戦争後の1905年のポーツマス条約と、両国間に領土の変更はあったが、北方四島は一貫して日本領だった。 それが、ソ連のものになったのは、先の大戦後のことだ。しかし、その経緯はラブロフ外相が言うような結果ではない。スターリンとフランクリン・ルーズベルトがヤルタ会談において「密約」を結んだからである。 ルーズベルトは、なぜかチャーチルよりスターリンを気に入っていて、「対日参戦するなら、満州と南樺太、千島をもらう」というスターリンの要求を二つ返事でOKしてしまった。これにより、ソ連は日ソ中立条約の不延長を一方的に通告し、中立条約の有効期間である1945年8月9日、日本の領土に対して軍事侵略を開始した。 そうして、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した8月15日以降も侵略を続け、9月5日までに北方四島を占領したのである。ソ連以外の連合国は、15日には即座に軍事行動を停止したのに、ソ連だけが勝手に戦争を続け、既に武器を放棄した日本軍と民間人に対して殺戮、暴行、乱暴、略奪を繰り返した。当時、満州にいた私の父は、それによりソ連軍に捕まり、シベリア行きの列車に乗せられた。 したがって、どう見てもこれは「火事場泥棒」であり、「不法占拠」以外の何物でもない。根室市の納沙布岬から7キロの位置にある北方領土歯舞群島の一つ、水晶島(鈴木健児撮影) ヤルタ会談で米ソが決めたのだから仕方ないではないかという見方もあるが、これはルーズベルトとスターリンの勝手な取り決めだ。国際的に通用する協定ではない。 なぜなら、ルーズベルトはヤルタでこの取り決めをすることを議会に諮らずに進め、なおかつその後、議会に破棄されているからだ。したがって、ソ連の千島獲得は、先の大戦の結果ではなく、ロシアが勝手に大戦の「延長戦」と思い込んでいるだけだ。 さらに、大戦後の領土不拡大をうたった大西洋憲章にしても、ポツダム宣言にしても、各国固有の領土の保全を認めている。「火事場泥棒」への処方箋 大戦の終結を最終的に決めたのは、1951年のサンフランシスコ平和条約だが、この条約にソ連は調印せず、中国も参加しなかった。日本はこの条約によって、南樺太と千島列島を放棄させられた。しかし、それらをソ連に与えるとはどこにも書かれていない。  多くの人が歴史認識を誤っているのは、ソ連が大戦の「戦勝国」だと思っていることだ。スターリンは、ルーズベルトの援助がなければ、あの独ソ戦には勝てなかった。もし、米国が武器貸与法に基づいて援助しなければ、ソ連はとっくに崩壊していただろう。 それなのに、戦後は東欧を支配し、ブルガリアとルーマニアを真っ先に手に入れた。1945年12月、ソ連は米国との外交交渉で、日本占領に関して米国の優越的地位を認める代わりに、この2カ国を支配する権利を得た。これも「密約」だが、北方四島はこの時点で、もう戻ってこないと確定したと言っていい。 さらに付け加えると、現在の中国も戦勝国ではない。毛沢東が率いた「八路軍」(中国共産党軍)は中国奥地を逃げ回っていただけで、日本軍と真正面に戦って、勝ったわけではない。  このように見てくれば、ソ連は国際条約を守らない国であり「侵略国家」である。現在のロシアがソ連の継承国家だとするなら、一度奪ったものを返すわけがない。したがって、平和条約など結ぶ意味がないという結論に達する。 むしろ、日本は「不法占拠」を続ける「火事場泥棒」に向かって、「不法占拠を続けるなら、その分の地代を払え」と言い続けなければならない。この主張の影響ではないだろうが、これまで「経済援助をすれば2島だけは帰ってくる」という話が盛んに言われてきた。 どうやら、人がいい安倍首相は、この話に乗っかってきた節がある。しかし、税金を無駄にする「忖度ジャパン」は、もういい加減終わりにしてもらいたいものだ。 最後に、もっと歴史をさかのぼれば、違った風景が見えてくることを忘れてはならない。北方四島は「日本固有の領土」などと言っているが、本当はアイヌ民族の領土である。クナシリやエトロフなどの地名は、そもそも日本語ではなく、アイヌの言葉である。もともと千島列島には、アイヌ民族のほかに、ウィルタ、ニヴフ、イテリメンなどと呼ばれる北方少数民族が進出していて、そこには一つの生活文化圏ができていた。北方領土返還を祈念した納沙布岬の「四島のかけ橋」と「祈りの火」から望む歯舞群島 それを1700年代半ばごろから、ロシア人や日本人が進出し、交易を始めるとともに、彼らを奴隷化して土地を略奪したのである。北米大陸に進出した欧州人が、ネイティブアメリカンにやったことと同じことを、ロシア人も日本人もやったのだ。 土地は結局、そこに住む人間のものではないだろうか。現在、北方四島に日本人は一人も住んでいない。ロシア人が約1万7千人住んでいるだけだ。歯舞群島は誰も住んでいない。 共同通信の世論調査(2月2、3日実施)では、「安倍首相の在職中に北方領土問題が解決すると思いますか」との問いに、「解決するとは思わない」が88・2%に上っている。当然ではないだろうか。国民の方が、首相よりよっぽど賢い。■ 「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ■ 「21世紀最凶の殺戮者」プーチンがもたらす憎悪の世界■ プーチンからの柔道の誘いを断った安倍首相の甘さ

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    北方領土交渉、韓国に劣る安倍外交はここが危ない

    下條正男(拓殖大教授) 今も「アベ政治を許さない」といったスローガンを目にすることがある。正直なところ、安倍政治のどこが問題で、何を許さないのか、はっきりしない。だが、竹島や尖閣諸島といった領土問題に関心を持つ者としては、安倍政権によって民主党政権の失政に終止符が打たれ、多少なりともモノが言える日本になったことは評価している。 領土問題に関する民主党の失政といえば、政権を取った2009年9月からおよそ3カ月後、当時の小沢一郎幹事長らが中国に渡り、帰路に韓国で李明博(イ・ミョンバク)大統領と会談したときのことが象徴的だ。小沢氏は会談で「自分が首相になれば竹島の領有権を放棄する」と語ったとされ、12年8月に李明博大統領が竹島に上陸すると、韓国のテレビ局「チャンネルA」は、小沢氏の発言を紹介してその背景を伝え、現在のような状況になっている。 そもそも、領土問題は国民感情を刺激するだけに、政治家も容易に近づかないが、安倍首相は今、その難問の一つである北方領土問題に挑戦しようとしている。だが、領土問題に取り組むには、戦略的な思考とタイミングがあることを忘れてはならない。 その点で見ると、北方領土問題に臨む安倍政権の外交姿勢には危うさがある。そう感じたのは、昨年の「北方領土返還要求全国大会」だ。安倍首相と河野太郎外相の2人は、北方領土問題を父祖の遺業ととらえ、その遺志を継ぐとしていたからだ。 国会議員は、国民の付託を受けた一個人であって、その政治活動は父祖の遺業とは関係がない。それに個人的な感情で領土交渉に臨めば、任期中に解決しようと前のめりになる。短兵急な交渉は、交渉相手からも足元を見られてしまう。 領土問題で交渉する際は、自国に有利になる国際環境を醸成しておくことが前提となる。だが、安倍首相には、プーチン大統領との関係に信を置き、トップ会談で解決しようとの思いが強いのではないだろうか。実際、安倍首相はプーチン大統領に気を使っているのか、最近の国会論戦で、「不法占拠」「日本固有の領土」との表現を避けている。共同記者発表を終え、退席する安倍晋三首相とプーチン大統領=2018年9月、ロシア・ウラジオストク(古厩正樹撮影) 安倍政権になって領土問題はかなり言及されるようになったとはいえ、日本外交の稚拙さは相変わらずだ。竹島と尖閣諸島は、歴史的事実においても国際法上も日本の領土であるにもかかわらず、いまだに解決のメドが立っていない。 竹島問題に関しては、1994年に国連海洋法条約が発効した際、日本には解決するチャンスがあった。しかし、日韓が結んだ新「日韓漁業協定」では、日本海の好漁場である「大和堆(やまとたい)」を日韓の「共同管理水域」として、大幅な譲歩をしてしまった。 そのため、大和堆で韓国漁船が違法漁労をしても、日本側にはそれを取り締まる権限がなかったばかりか、竹島問題も解決できなかった。その大和堆には近年、北朝鮮漁船が入り込んでいる。解決のカギは国際世論 島根県議会が「竹島の日」条例を制定し、「竹島の領土権確立」を求めたのは、日本海が乱獲の海と化したからである。だが、日本の外相と外務省高官は、「竹島の日」条例の制定を自粛するよう島根県に求めた。 これと対照的だったのが韓国政府だ。当時の盧武絃(ノ・ムヒョン)大統領は「竹島の日」条例が成立する直前、「歴史・独島問題を長期的・総合的・体系的に取り扱う専担機関の設置」を指示し、その後「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」を発足させ、2006年には、政策提言機関としての「東北アジア歴史財団」に改組した。 この「東北アジア歴史財団」では、不法占拠中の独島(竹島)を死守するため、慰安婦問題や日本海呼称問題を使い、国際社会を舞台に、日本批判を繰り広げたのである。その中には、韓国系米国人が多く住む地域に慰安婦像を建て、「東海併記法案」(日本海呼称問題)では、韓人会とともにバージニア州議会の議員の協力を得て、成立させたものもある。 日本では、米国内やフィリピンなどで慰安婦像が建つと、にわかに抗議をしてみるが、それは逆効果である。「東海併記法案」の成立を阻止するため、日本政府は巨額のロビー費を議会工作に使ったとされるが、このロビー活動がひんしゅくを買って、逆に「東海併記法案」の成立を早めたという。 このように日本の外交は、戦略なき戦術の域を出ていない。これは尖閣諸島問題も同じである。尖閣諸島の近海には中国の公船が出没し、中国漁船による不法漁労が行われている。日本政府は、その中国を牽制するため、「日台漁業取り決め」を結んだが、新「日韓漁業協定」同様、日本漁船が締め出されてしまった。これが日本外交の現実である。 これを戦略的な韓国側と比較してみると、決定的な違いがある。韓国には、先に記したが、政策提言をする「東北アジア歴史財団」があり、その理事長は閣僚級で、歴代、歴史研究者が就いている。その補佐役の事務総長には、外交経験のある人士が選ばれ、次官級である。一方、日本には沖縄北方担当大臣がいて、「領土・主権対策企画調整室」があるが、政府の施策を業者か外部の研究機関に委託し、研究者がその下請けで作業をしている。これでは戦略的な対応は、無理である。 北方領土問題の発端は1945年8月9日、「日ソ不可侵条約」を一方的に破ったソ連(現ロシア)が南樺太に侵攻し、千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸するのは、日本が「ポツダム宣言」を受諾した後である。ソ連が北方領土を奪ったのは9月5日。日本が主張しなければならないのは、北方領土の帰属だけではない。 敗戦国の日本は戦後、東京裁判で裁かれた。だが、日本を裁いた「極東国際軍事裁判所条例」では、「平和に対する罪即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は遂行、若は右諸行為の何れかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加」と規定している。(ゲッティ・イメージズ) ソ連の参戦は、米国のルーズベルト大統領とスターリンの間で密約がなされ、「ヤルタ会談」で決められた。「平和に対する罪」は、敗戦国ばかりが問われるべきものではない。日本がまずすべきことは、ソ連参戦の歴史的事実を明らかにし、国際社会に周知することである。 領土問題は決して拙速にするものではなく、たとえ100年、200年かかろうが、持続的に研究を続け、交渉に臨める国際世論を味方につけてからでも遅くはない。■ 「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ■ 韓国に竹島を売った元日本人「保坂祐二」なる人物を知っているか■ 韓国の実効支配はどこまで進んだか、私が撮影した「竹島の近影」

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    安倍首相 北や中国には毅然と対応も露には柔軟姿勢目立つ

     北方領土返還の期待が漂うが、米露関係が悪化する中、プーチン大統領は返還後の2島に米軍基地を設置しない確約を要求している。ロシア事情に詳しい名越健郎氏(拓殖大学海外事情研究所教授)は、日本政府はあくまで強気に交渉へ臨むべきだと指摘する。* * * 交渉の場外戦も始まっているが、プーチン大統領は、「2島の主権を渡すとは56年宣言(日ソ共同宣言)には書いていない。すべては交渉対象だ」と自動的な引き渡しではないことを強調した。最終的には引き渡すにしても、経済協力や安全保障、島民への補償で執拗な条件闘争を挑む可能性がある。 仮にロシアが2島の主権を渡さず、施政権のみ移管と主張するなら、日本側は譲歩せず、本来の「4島」に戻るべきだろう。 交渉では逆に、主権のみ日本に渡し、ロシア人約3000人が居住する色丹島の施政権はロシアが保有し続ける形も考えられる。しかし、ロシア側が50年、100年といった長期の施政権に固執するなら、返還の意味がなく、交渉を打ち切るべきだろう。 対日強硬派として知られるラブロフ外相は会見で、第二次大戦の結果容認が交渉の前提だと強調した。平和条約でソ連の北方領土領有を「合法」「正当」などと規定するなら、ソ連による中立条約違反の対日参戦、シベリア抑留、旧満州での邦人迫害など終戦前後の「火事場泥棒」が一気に「無罪」となりかねない。ロシアが4島占領を合法と平和条約に盛り込むよう要求するなら、安易にそれを受け入れてはならない。 安倍首相は北朝鮮や中国には毅然と対応しながら、ロシアには揉み手の柔軟姿勢が目立つ。国家主権のかかわる交渉では毅然とした姿勢を貫くべきだ。ロシアとの交渉では、強硬姿勢が相手方の譲歩につながるケースがしばしばある。2018年9月、会談で握手する中国の習近平国家主席(右)と安倍首相(共同) 交渉の前途は厳しく、難航し、決裂する可能性もある。その場合日本は、北方領土問題をハーグの国際司法裁判所に提訴し、判断を委ねてもいいかもしれない。「交渉打ち切りカード」と「国際司法裁判カード」が、ロシアにはプレッシャーとなろう。【PROFILE】なごし・けんろう/1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語学科を卒業。時事通信社ワシントン支局長、モスクワ支局長、外信部長、仙台支社長などを歴任後、2011年退社。2012年より現職。著書に『北方領土の謎』(海竜社)などがある。関連記事■ プーチン大統領が不当要求なら安倍首相は「4島返還」に戻れ■ ラブロフ露外相の北方領土呼称発言 交渉まとめるシグナルか■ 羽生結弦や田中圭を抑えて売上1位 プーチンカレンダーの謎■ 「北方領土は2島で」 安倍首相は歴史に名を残したいだけか■ 北方領土に留まらない、拉致・改憲の目標下方修正する首相

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    北方領土に留まらない、拉致・改憲の目標下方修正する首相

     総裁選3選を果たした安倍晋三・首相の在職日数は、このままいけば来年のうちに吉田茂・元首相や佐藤栄作・元首相を抜いて歴代1位となる。だが、過去の長期政権が打ち立てた「サンフランシスコ平和条約(1951年、吉田茂内閣)」や「沖縄返還(1972年、佐藤栄作内閣)」といった、日本史の教科書に記されるほどの“偉業”が、この政権にはない。 そこで“残り任期のうちに”とギアを上げたのが北方領土の返還交渉なのだが、4島一括返還ではなく「2島返還でもいい」とロシアのプーチン大統領に申し入れた。妥協とはいえ、在任中に北方領土が返還される道筋をつくった。 安倍首相は、北方領土返還を含む「日ロ平和条約の締結」「拉致問題の解決」「最終的に『国防軍』創設の憲法改正」という3大公約のうち、残る2つの「拉致問題解決」と「憲法改正」についても在任中の実現を国民に約束した。「私の内閣のうちに拉致被害者全員を帰国させる」「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍首相にとって、旧ソ連に不法占拠されたままの北方領土も、北朝鮮工作員によって国民が国内から連れ去られた拉致問題も、根っこは同じ。真の「独立の回復」がなされていないからだという。〈日本国民の生命と財産及び日本の領土は、日本国政府が自らの手で守るという明確な意識のないまま、問題を先送りにし、経済的豊かさを享受してきたツケではないでしょうか〉(著書『新しい国へ』) それを脱却するには〈憲法の改正こそが、『独立の回復』の象徴であり、具体的な手立て〉(前掲書)という改憲論に結びついている。2018年9月、国連総会の一般討論演説を行う安倍晋三首相(共同) だが、憲法改正も「合格ライン」がどんどん下げられている。首相は、現憲法は占領下にGHQに押し付けられたものだという「押し付け憲法論」に立ち、新憲法制定=抜本改正論を唱えてきた。 ところが、昨年5月に読売新聞紙上で発表した首相の改憲私案は、憲法9条を残し、「自衛隊」の保有を盛り込んだ条文を追加するという、いわゆる加憲案だった。自民党改憲派からは「9条改正に慎重な公明党の賛成を取り付けやすくするために大胆な妥協を図った」と受け止められている。金正恩が首を縦に振るなら…金正恩が首を縦に振るなら… 拉致問題でも、「被害者全員帰国」という安倍首相のスタンスに変化があった。北朝鮮問題に詳しい伊豆見元・東京国際大学教授が指摘する。「安倍首相は今国会の所信表明演説の中で、『拉致、核ミサイル問題を包括的に解決し、不幸な過去を清算して国交正常化をめざす』と語った。“不幸な過去の清算”というのは経済支援のことで、北にすれば非常に魅力的な発言ですが、安倍首相はこの言葉をずっと使わなかった」 北朝鮮側は日本政府にひそかに「拉致被害者2人の存在」を伝えている。今年3月に共同通信が2014年の日朝交渉の際、北朝鮮側から政府認定拉致被害者の田中実さんと特定失踪者の金田龍光さんが「入国していた」との情報が伝えられたことを、実名をあげて報じた。 北朝鮮側は米朝首脳会談(6月12日)前後に行なわれた日朝の接触で、その2人以外に「新たな入国者はいない」との説明を変えていないと報じられている(7月21日付、共同通信47NEWS)。北は「帰国させるとしても2人で終わり」という姿勢なのだ。 それにもかかわらず、安倍首相が所信表明で「不幸な過去の清算」に言及したのはなぜか。金正恩との首脳会談に乗り遅れた安倍首相が、拉致被害者「全員帰国」の目標を、とりあえず「2人帰国」から始めるという外交的妥協に傾いたからではないか。 それは「4島返還」がとりあえず「2島返還」になった北方領土交渉と同じ構図に見える。歴史に名を残すことを焦るあまり、「合格ライン」を下げていくことは、国家を大きな危険に晒す。「安倍首相に残された任期は、“もう3年を切った”と考えなくてはならない。国内外の問題・論争を解決して、ロシアと平和条約を結ぶためには、長いとはいえない時間だ。日中国交正常化合意から平和条約締結までは6年かかったし、北朝鮮との国交正常化交渉開始が盛り込まれた平壌宣言からは16年が過ぎたが、交渉の道筋すら見えない。本来、『国交回復』にはそれだけの時間がかかる。日本側にだけ“タイムリミット”がある状態で交渉すれば、相手に足下を見られてしまう」(自民党長老議員) 国家の根幹をなす「領土」を巡って妥協する姿勢を見せれば、竹島を不法占拠する韓国や尖閣諸島への野心を隠さない中国にまで“日本は与しやすい”という印象を植え付ける。そうなれば、将来の日本にとって悪影響になりかねない。「歴代最長の安倍政権は“負のレガシー”(政治的遺産)しか残さなかった」という歴史の刻まれ方をする危険も孕みつつ、任期は日々少なくなっている。関連記事■ 「北方領土は2島で」 安倍首相は歴史に名を残したいだけか■ 安倍首相の後継「岸破義信」が争う間に極右台頭の土壌も■ 北方領土問題に大前研一氏「3島返還になる可能性が高い」■ 北方領土問題 安倍首相に近いNHK女性記者の気になる動向■ 暴力団がらみの北方領土密漁 カニからナマコへシフト

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    北方領土「2島返還」日露首脳の思惑

    安倍首相は、G20サミットに合わせ、ロシアのプーチン大統領との首脳会談に臨んだ。むろん、焦点は北方領土である。先の会談では、日ソ共同宣言に基づく平和条約交渉の加速化で合意したが、これを機に「2島先行返還」論がにわかに注目を集めた。日露首脳の思惑、交渉の行方を読む。

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    鈴木宗男手記「北方領土交渉、安倍総理を1000%信頼する」

    小泉純一郎総理になると、「四島一括返還が日本の国是だ」とたびたび言われ、田中真紀子外相に至っては、「日露関係の原点は1973年の田中(角栄)-ブレジネフ会談だ」として、領土問題は存在しないとソ連が主張した時代に、時計の針を28年も前に戻してしまった。 そして02年、田中外相が更迭され、後を継いだ川口順子(よりこ)外相は森前総理の並行協議を取り下げてしまった。プーチン大統領が「日本の方から断ってきた」と主張する所以(ゆえん)である。そして、日露関係は「空白の10年」に入ってしまった。 2012年3月、当時首相だったプーチン大統領が、2度目の大統領に復帰する選挙の直前、内外の主要メディアの代表者との懇談で、北方領土交渉について「引き分け」「はじめ」と表現した。 この懇談の中で、プーチン大統領が「外交はお互い負けなかったといえる外交が良い」と述べたところ、元朝日新聞主筆の若宮啓文氏が「引き分けだと日本は納得しない。二島対二島だ」と話した。これに対し、プーチン大統領は「俺はまだ大統領になっていない。こうしよう、私が大統領になったらロシア外務省を位置につかせる。日本は日本で外務省を位置につかせ、そこで『はじめ』と声を掛けよう」と言われたという。 そして同年12月、日本では安倍総理がカムバックした。そこから新しい日露関係がスタートしたのだ。 さらに、13年2月には、安倍総理の特使としてプーチン大統領と面会した森元総理は「引き分け」「はじめ」の意味を問いただした。この時、プーチン大統領は白い紙に柔道場を書き「今、日本とロシアは柔道場の端、場外すれすれのところで組み合っている。すぐ場外と注意される。それを真ん中に持ってきて中央でしっかり組ませよう」と述べた。これは、2島は返還する用意があり、残りの2島もお互い英知を出そうという考えである。 安倍総理は16年、共同経済活動を織り交ぜた8つの「新しいアプローチ」を提案し、12月に行われた長門会談では北方四島での共同経済活動を提案し、プーチン大統領も呼応した。外交には相手があり、「100対ゼロ」はない。この流れの中で行われた今年11月14日のシンガポール会談で、安倍総理は元島民の思いを受け、大きく踏み出した。日露首脳会談 会談を前にロシアのプーチン大統領(右)と握手する安倍晋三首相=2018年11月14日、シンガポール(共同) 元島民の最大公約数は、下記の3つである。1、自由に島に行きたい 2、一つでも二つでも島を返してもらえるなら返してほしい 3、国後島周辺の海を使わせてほしい 安倍総理は、北方領土問題の解決には元島民の思いを大事にしたいと常に語っている。元島民の平均年齢は83歳で、人生が限られている。人道的な点からも、安倍総理は決断したのである。二島先行返還は間違い そもそも「四島一括返還」を述べる人は、正しい歴史の事実を知ることが大事だ。ロシアの世論は、9割以上が「戦後、国際的諸手続きにより正式に手に入れたわれわれの領土で、一島たりとも還す必要はない」と考えている。にもかかわらず、プーチン大統領は2000年の大統領就任以降「日ソ共同宣言は日本の国会もソ連の最高会議(現在のロシア国会)でも批准し、法的拘束力のある義務だ」と認識しており、全くブレていない。このプーチン大統領の「勇気」を私は高く、かつ敬意を持って受け止めている。 「2島先行返還」と表現するメディアもあるが、これは間違っている。2島を解決し、「さらに2島を」と言えば、ロシアはテーブルに着かない。そうすると今のままで「ゼロ」で終わってしまう。「ゼロ」でいいのかと言いたい。 「2島も返ってこないのでは」という声もあるが、それは過去の経緯をよく分かっていない推論に過ぎない。 ヤルタ協定でのクリル諸島(北方四島と千島列島に対するロシア側の呼称)の「引き渡し」に主権が含まれていることは自明だ。55~56年の日ソ共同宣言に至る松本俊一全権代表の交渉記録からして、「引き渡し」には当然の前提とされていることが読み取れる。領土問題を解決し、国境を画定してからの平和条約締結であることは当然のことである。 島の面積を言う人がいるが、これも現実を分かっていない。北方四島は海が大事である。海の面積が国益にかなうのだ。この点もよく考えてほしい。 私は現実的方策として、歯舞群島と色丹島を日本の主権と認めてもらい、国後、択捉島はロシアの主権と認め、その上で自由往来や共同経済活動における特別の仕組みを合わせた、「特例プラスアルファ」で解決するのが最善であり、この方法しかないと考える。 安倍総理とプーチン大統領、この2人の強いリーダーでしか北方領土問題の解決と、平和条約の締結は成し遂げられない。このチャンスを逃したら未来永劫解決はないのである。 安倍総理は先祖の墓を残し、かけがえのない故郷を離れざるを得なかった元島民の思いと、そして91年4月のゴルバチョフ大統領の来日時、歓迎式典に病身にもかかわらず出席し、その1カ月後に亡くなられた父、晋太郎先生の姿をいつも胸に刻み、領土問題解決と平和条約締結に心血を注いできているその姿に、私は頭の下がる思いだ。嘉納治五郎杯国際大会で日本対ロシア戦を観戦する安倍晋三首相(右)とロシアのプーチン大統領=2018年9月12日、ロシア・ウラジオストク(古厩正樹撮影) 戦争で失った領土は戦争で取り返すしかない。これが歴史的事実である。それにもかかわらず、一滴の血も流さずに話し合いで平和裏に解決したとするなら、安倍総理もプーチン大統領もノーベル平和賞ものである。 私は安倍総理に全幅の信頼を寄せ、必ずやってくれるものと確信している。安倍総理にしか歴史は作れない。

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    「プーチンは一島も返さない」最悪シナリオは中国への北方領土売却だ

    る。ロシア経済は2014年以降の経済制裁で衰退しており、財政破綻寸前の状況だという説もある。 ここで日露関係を振り返ってみよう。ロシア極東(きょくとう)の経済拠点ウラジオストク市で2018年9月に開催された東方経済フォーラムでの出来事だ。プーチン氏は突然、こう切り出した。   「日露間は70年間係争問題について議論してきたが、安倍総理から従来のアプローチを変えようという提案があった。これを踏まえて、さらに突っ込んだ話をしたい。そしていま、思いついたことがある。日露間で平和条約を締結しよう。ただ、この場ではなく、年末までに。いかなる条件を付けずにやろう」  思いつきで日露関係を牛耳ろうとするプーチン氏の対応に、私は驚愕(きょうがく)した。それにしても条件抜きの平和条約とは、どんな内容になるのだろうか。1993年の「東京宣言」以降の日本政府の基本方針は、「四島の帰属の問題を解決」することを前提に、平和条約を締結することだった。逆にいえば、平和条約というのは戦後処理のことであり、国境線を確定することは最重要課題のはずだ。2018年11月、会談する安倍首相(左)とロシアのプーチン大統領=シンガポール(共同) 条件抜きの平和条約を提案したプーチン氏は2018年11月14日、シンガポールでの日露首脳会談に臨んだ。だがその翌日、こんな変化球を投げ込んできた。 「安倍総理から日ソ共同宣言を基礎にした協議する用意があると言ってきた。原則として共同宣言には2島を引き渡すと用意があると書かれているが、その条件や主権がどちらに属するのか記されていない」 1956年の日ソ共同宣言には両国間の正常な外交関係が回復した後、平和条約の締結に関する交渉を続けることで合意。ソ連は日本の要望と利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を引き渡すことに合意したと記されている。確かに、平和条約締結後にどのくらいの期限内に引き渡すとは記されていないが、2島を「引き渡す」というのは主権を意味していることに間違いない。北方領土が中国に売られる ロシアの有力なニュースサイト誌「ブズグリャード」(2018年11月15日付)には、プーチン氏の真意を見事に解説している。 「プーチン大統領が日ソ共同宣言にある『引き渡し』という言葉の意味を決めるのは、ロシアだと言っているのだ。『引き渡し』という言葉が意味するのは『土地のレンタル』なのかもしれない」 色丹島には3000人のロシア人が定住しているが、歯舞群島には民間人は住んでいない。いわば空き地となっており、北海道の納沙布岬に隣接する島々の借地権を日本に認めて、土地代を巻き上げようというのがプーチン氏の魂胆のようだ。私たちが目指す北方領土返還の本来の姿とは大きく異なる。 実は択捉島、国後島、色丹島には2011年以降、中国、韓国の水産関連企業が進出しており、新しい水産工場が続々と建設されている。2018年3月には色丹島にアメリカの「キャタピラー社」が二つのディーゼル発電所の建設に着手。そして9月には中国の通信機器大手「ファーウェイ」がサハリンと3島を結ぶ光ファイバー回線の海底敷設工事を完了した。このように北方領土はロシアの主権のもとで外国企業が進出し、既得権を確立している。 このような状況下で日本が領土交渉すると、中国、韓国、アメリカが横ヤリを入れてくるかもしれない。でも、私が最も危惧するのは、シリアやウクライナへの軍事介入、さらには経済制裁で財政難のロシアが、最終的に北方領土を中国に売却する最悪のシナリオだ。実際、ネット上では200兆円という数字が飛び交っており、日本のGDPの4割ほどの額である。 ロシアは1853年から3年間に及ぶクリミア戦争で経済的に疲弊し、アラスカをアメリカに売却した。ロシアは領土拡張に固執する一方で、経済危機に直面すると、平気で国土を切り売りして難を逃れる。2018年9月、ロシア風クレープ「ブリヌイ」を焼くプーチン大統領(右から2人目)と中国の習近平国家主席=ロシア・ウラジオストク(タス=共同) ロシアのことわざに「必要となれば、法律なんてどうでもよいことだ」がある。ロシア政治家の中には、いざとなれば国連の決議や国際法、さらには条約を反故(ほご)にしてもよいと考える人たちがいる。プーチン氏を相手に、平和条約を締結し、領土が返還されるという楽観的な見通しは危険だ。ここは、ロシアのことわざ「オオカミと暮らすならば、オオカミのように吠えろ」で巻き返していこう。日本はプーチン政権に、もっと声高に要求を突き付けてよいと思う。

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    北方領土引き渡し「主権は譲らない」がプーチンの真意

    小泉悠(軍事アナリスト、未来工学研究所特別研究員) 今年11月14日、シンガポールでロシアのプーチン大統領との会談を終えた安倍晋三首相が、「日ソ共同宣言に基づいて、北方領土交渉を加速させる」と述べたことが、大きな波紋を広げている。これが、いわゆる「2島先行返還」論へのシフトを意味するのではないかという観測が強まったためだ。 日ソ共同宣言は1956年、日本の鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相が合意し、日ソ両国の議会が批准したものであり、平和条約を締結した後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すとしていた。 一方、1993年に日本の細川護煕首相とロシアのエリツィン大統領が合意した東京宣言では、北方四島(国後、択捉、歯舞、色丹)の名を具体的に挙げ、これらの帰属問題を解決した後に平和条約を締結するということになっており、その後、日露間で結ばれたさまざまな合意もこうした立て付けを継承している。 にもかかわらず、安倍首相があえて日ソ共同宣言を基礎とすると言明するのは、国後・択捉両島についての交渉を放棄ないし棚上げするものではないか、という疑念が浮かぶのは当然であろう。 実際、森喜朗政権下で「2島先行返還」論が浮上してきた際には、このような警戒論が強まったし、筆者もその公算は大であると考える。「継続協議」ないし「並行協議」といった体裁を取るにしても、実態としては「棚上げ」が落とし所となろう。 筆者はそのような選択を全く否定するものではない。北方四島すべてを返還すべきであるという日本政府の主張を今後も掲げるならば、北方領土問題はこれからも長期にわたって解決しない可能性が高い。 ソ連が侵略の結果として北方四島を併合した以上、日本側は「筋論」としてあくまでも四島返還を訴えていくという立場は、それとして首肯できるものではある。だが、見通し得る将来において現実的な解決を図るのであれば「2島返還」で妥協するしかない、という立場にも理はある。 要は、解決が望み難いことは覚悟の上で「4」を主張し続けるか、現実を見て「2」で妥結するかが日本の取り得る選択肢であり、どちらを取っても何がしかの不満は残るだろう。それでも民主的に選ばれたリーダーが選択した結果であるならば、どちらであっても構わないというのが筆者の立場である。1993年10月、「東京宣言」に署名し、細川護煕首相(右)と握手するロシアのエリツィン大統領 ただし、それは「2島先行返還」が文字通りの「返還」であれば、の話だ。筆者が危惧するのは、「2島先行返還」から「返還」が抜け落ちてしまうのではないという点である。 既に広く知られているように、ロシア側は日ソ共同宣言を素直に履行する意思を示してはいない。安倍首相の発言後、プーチン大統領は「日ソ共同宣言ではソ連が歯舞・色丹を引き渡す用意があると述べているだけで、その根拠や主権については触れていない」と述べている。「一本背負い」を決めさせない シェイクスピアの『ベニスの商人』で用いられた、「肉を引き渡すとは書いてあるが、血については触れていない」論法よろしく、「引き渡すとは言ったが主権まで渡すとは言っていない」という論法である。日本人としては「一休さん」を想起したくなる。 プーチン大統領は今後、日ソ共同宣言の履行方法について「真剣な検討」が必要であるとも述べており、「引き渡し」の中身について厳しい条件闘争に打って出てくる可能性が高い。そこで、ロシアが具体的にどのような条件を突き付けてくるのかを考えてみよう。 前述のように、ロシアは、日ソ共同宣言でいう「引き渡し」には主権が含まれていないという主張を前面に出してくる可能性が高い。この場合、日本には北方領土やその周辺における施政権だけを認め、主権はロシアが保持するという落とし所を提示してくるだろう。 例えば、歯舞・色丹に日本人が渡航したり、島内および周辺海域で経済活動(現状では大きな制約を受けている漁業など)を行うことは認めるが、そこではロシア法が適用され、日米安保条約の対象とすることは認めない、といったことが考えられる。 また、「引き渡し」が時間を掛けて、段階的に行われる可能性もある。「経済協力だけを引き出されて島が帰ってこないのではないか」という「食い逃げ」警戒論が日本にあるように、ロシア側では「島を渡せば経済協力を反故(ほご)にされるのではないか」という「逆食い逃げ」警戒論が存在する。したがって、ロシア側の論理では、問題の解決になるべく時間をかけることで、日本からより多くの見返りを期待できるということになる。 しかも、北方領土をロシア側が支配している以上、時間はロシアの味方である。時間の経過に従って北方領土の「ロシア化」は今後も進行し、島の返還を待ち望む元島民は寿命によって減少していく。実際、かつて約1万7千人を数えた元島民の数は現在までに6千人ほどになってしまっており、存命の元島民も平均寿命が83歳に達している。 厚生労働省の発表によれば、2017年の日本人の平均寿命は男性で81・09歳、女性でも87・26歳。あと10年もすれば、日本政府は元島民がほとんど居ない状態で北方領土交渉を戦わねばならなくなる。ロシア側の狙いは、まさにこのような状況が訪れるまで粘ることであろう。 筆者は高校の体育で柔道をやったが、恐ろしく弱く、毎度面白いほどに投げられた。ただ、投げられているうちになんとなく分かってきたのは、柔道が相手の勢いを利用する武術であるということだ。こちらが必死に向かっていくほどに、相手はその勢いを利用してきれいに技を決めてくる。 柔道家として知られるプーチン大統領もまた、残された時間の少なさに焦る日本の勢いを存分に利用しようとするだろう。安倍政権の任期が残り3年を切り、元島民が高齢化する一方という状況下で、日本が「日ソ共同宣言を基に交渉を加速」させようとする現状は、技を掛ける格好の好機と言える。2018年11月14日、会談前にロシアのプーチン大統領(右)と握手する安倍首相=シンガポール(共同) もちろん、交渉である以上、ロシア側が島の「値段」を最大限につり上げてくるのは当然のことだ。日本としてはあくまで粘り腰に徹し、主権込みでの返還という一線を守るために総力を結集する必要がある。 あるいは、ロシアがあくまでも主権については譲らないというのであれば、それは日本にとっての「解決」とは言えず、受け入れるべきではない。日本国民としては、このような覚悟の下に交渉の行方を見守りたい。

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    どうなる北方領土交渉 「2島−α」に終わる可能性も

    名越健郎(拓殖大海外事情研究所教授) 日露首脳が1956年の「日ソ共同宣言」を基礎にした平和条約交渉の加速化を決めたことで、今後の焦点は宣言が明記した歯舞、色丹2島の引き渡し問題に移る。だが、ロシア側は自動的な引き渡しを否定しており、厳しい交渉になりそうだ。 この交渉によって、2島が上限となることで、「2島プラスアルファ」どころか、「2島マイナスアルファ」に終わる可能性もある。ロシアが主権を譲らない場合、日本は交渉を打ち切るなど毅然(きぜん)と対応すべきだ。 プーチン大統領は11月14日の合意後の会見で、「主権がどちらの国のものになるか書かれていない。真剣な検討の対象になる」と指摘。菅義偉(すが・よしひで)官房長官は「返還されれば、日本の主権も確認される」と述べ、早くも鞘(さや)当てが行われた。 ゆえに、日露の平和条約協議機関では、2島引き渡し問題が最大の争点になろう。ロシアが四島領有の根拠の一つとしている1945年2月のヤルタ密約は、ソ連の対日参戦条件として、「千島諸島はソ連に引き渡される」とし、英語では『hand over』、 ロシア語では『ピリダーチャ』が使われている。56年宣言の表記も「引き渡し」(ロシア語はピリダーチャの動詞)だ。 ソ連はヤルタ合意に沿って千島の主権、水域などすべてを奪ったわけで、それに従えば、ロシアは歯舞、色丹の主権、水域をすべて返還しなければならない。日本側は交渉でこの点を衝(つ)くべきだ。 そもそも、ソ連時代のフルシチョフ政権は56年宣言調印後、歯舞、色丹に入植した島民を国後島などに移住させ、返還準備に着手していた。60年の日米安保条約改定に反発し、「全外国軍隊の撤退」を引き渡しの条件にしたが、一時は2島をすぐにも返還する構えだった。 歯舞諸島はその後も無人島だが、色丹には島民が戻り、ソ連時代は水産加工の有力拠点だった。現在も3000人近い島民が住む。 プーチン政権は07年に開始した「千島社会経済発展計画」で国後、択捉へのインフラ整備を強化し、島の景観は様変わりしたが、色丹の整備は遅れ、島民の不満が強かった。しかし、このところ色丹開発が急テンポで進みつつある。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領=(タス=共同) 筆者が購読している国後島の新聞『国境で』によれば、色丹では3つの水産加工場の近代化計画が進み、中国の技術者が10月に島を視察した。25年まで延長された同計画に沿って、今後5年間に色丹で飛行場や体育館、ゴミ処理施設を建設し、島民の生活改善を図るとしている。 国後、択捉と違って色丹にはロシア軍は駐留しないが、国境警備隊の大型基地があり、数百人の部隊が展開するといわれる。色丹の警備隊はロシア海軍の太平洋への出口となる国後、択捉間の国後水道の警備が任務に含まれるもようだ。米露関係悪化でオホーツク海の戦略的重要性が高まる折から、ロシアにとって色丹の国境警備隊は重要になる。 国境警備隊は連邦保安局(FSB)に統合されており、軍やFSBなど実力組織が島の割譲に抵抗するだろう。複雑な難交渉は必至 交渉では、主権を日本に渡し、施政権は当分の間ロシアが管轄する方式も考えられる。その場合、本土復帰前の沖縄方式となるが、ロシアの施政権が長期に及ぶようでは返還の意味がない。 プーチン大統領は返還後の島に米軍基地を設置しないことを日米首脳が文書で確約するよう要求したとの情報もある。これも日米地位協定と絡んで難題となろう。 ロシア側は引き渡しに際して、経済協力、安全保障、島民への補償など多くの条件闘争を挑むとみられ、複雑な難交渉となりそうだ。 そもそも支持率が低下しているプーチン大統領にとって、領土割譲はリスクがある。大統領が自ら高揚させた民族愛国主義が、引き渡しの障害になりかねない。保守派のロシア人歴史学者、アナトリー・コシキン氏は「2島返還の時機は逸し、現実的に不可能だ」とコメントした。 ロシアのネット上では、「プーチンが大統領選で公約していない年金受給年齢引き上げや日本への領土割譲を実行するのは不当だ」「1センチでも領土を譲るのは裏切り行為だ」といった返還反対の書き込みが目立つ。 「日本と平和条約を結ぶことは、孤立脱却につながる」といった意見は少数派だ。こうした中で、90年代初期に対日政策を担当したゲオルギー・クナーゼ元外務次官は、ラジオ局「モスクワのこだま」の座談会で、「日本の四島返還論には相当の根拠があり、ロシアは歯舞、色丹を返還し、国後、択捉の帰属協議に応じるべきだ」と発言した。墓地に設けた祭壇に手を合わせる元島民 =2017年9月、択捉島の紗那墓地 (代表撮影) クナーゼ氏は在任中の92年3月、外相とともに同様の提案を打診したが、日本側は「四島返還ではない」として却下した。クナーゼ提案に沿って交渉していれば、当時の日露の圧倒的な国力格差から見て国後を含む「3島プラスアルファ」の解決が十分可能だったろう。 政府・外務省は当時の外交失敗が今日の状況につながったことを念頭に、2島の主権確保に全力を挙げるべきだ。

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    「北方領土は2島で」 安倍首相は歴史に名を残したいだけか

     歴史上、戦争で領土を拡大した君主や政治家は数多いが、敗戦で奪われた領土を武力によらずに奪還した政治家はほとんどいない。それほど領土交渉は難しい。「領土問題を解決して平和条約を締結する。私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つ」 日露首脳会談後の記者会見で、安倍首相は突然、「今後3年以内の平和条約締結」を表明。在任中に北方領土返還を実現させることができれば、歴史に名を残すことができるだろう。そのために持論を曲げる道を選んだ。「北方領土問題は4島一括返還が基本的な考え方。残念ながらロシア側に法的根拠に基づかない形で支配されている」 安倍首相は政権に返り咲いた直後(2012年12月30日)、TBSの報道番組でそう言明していた。 ところが、首相がプーチン大統領との交渉の基礎とするとした日ソ共同宣言(1956年)は、「平和条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡しする」という合意で、いわゆる「2島返還」が前提となる。安全保障研究者で笹川平和財団上席研究員の渡部恒雄氏が語る。「ロシアは歴史的に東方への領土拡大を続けてきた。手に入れた領土は手放そうとしない。プーチン政権の後はロシアの政治が混乱すると見られているから、安倍首相はプーチンが大統領のうちが領土返還交渉をまとめる最後のチャンスと判断したのでしょうが、難しいのはむしろ日本の国内世論をまとめることです。無理して平和条約を結んでも、2島返還には世論の激しい反発が予想されます」プーチン大統領と安倍晋三首相=2018年9月(共同) なぜ、方針を転換してまで平和条約締結を急ぐのか。浮かび上がるのが「安倍ノート」の存在だ。 安倍氏は自民党が下野していた時代に内政や外交の取り組み方の反省や“どうすればよかったか”を大学ノート数冊に綴った。そして、2012年に首相に再登板すると、ノートの反省をもとに側近やブレーンの意見を取り入れて長期政権に向けた政治目標、外交課題をどんな順番でどのように進めていくかの「政権工程表」を練り上げた──永田町ではよく知られるエピソードである。安倍首相は妥協したのか吉田茂氏や佐藤栄作氏と並ぶ業績こそが… その重要な柱のひとつが「北方領土返還」だった。「日露平和条約の締結、拉致問題の解決、最終的には『国防軍』創設の憲法改正までを2期6年で道筋をつけるという目標が政権構想の3つの最重要事項だった」(安倍ブレーン) 実現すれば、講和条約で米軍による日本占領を終わらせた吉田茂・元首相や沖縄返還を成し遂げた大叔父の佐藤栄作・元首相らと肩を並べることができる。 北方領土返還は、安倍首相の祖父の岸信介・元首相、父の安倍晋太郎・元外相ら安倍家の“悲願”でもある。晋太郎氏が領袖だった時代の清和会担当記者を長く務めた政治ジャーナリストの野上忠興氏が語る。「日ソ関係は岸内閣時代にこじれた。岸首相が日米安保条約を改定して米軍基地を残したことにソ連が反発し、長い間、領土交渉は暗礁に乗り上げた。晋太郎さんは中曽根内閣の外相に就任すると『義父が残した外交課題をなんとしてもやりたい』と交渉再開に力を尽くした。病の身でソ連を訪問し、ゴルバチョフ大統領と会談して来日を実現させたときの様子は鬼気迫るものがありましたが、その1か月後に領土交渉の進展をみることなく膵臓がんで亡くなった。 秘書として訪ソにも同行した晋三氏は父の無念を間近で見てきただけに、日露平和条約を自分の手で締結して安倍家3代の課題に終止符を打つとともに、歴史に残るレガシー(政治的遺産)としたいという思いが非常に強い」深い霧の中、歯舞群島秋勇留島のオタモイ墓地では慰霊祭が行われた=2014年8月、北方領土歯舞群島秋勇留島(鈴木健児撮影) しかし、安倍首相は苦汁を味わってきた。第1次内閣時代は、何もできないまま退陣に追い込まれた。首相に再登板してからは、プーチン大統領と20回を超える首脳会談を重ねるも、進展はなかった。 自民党総裁任期の2期6年では実現できなかったのである。そこで、党則改正で総裁任期を「3期9年」まで延長したうえで3選されると、「4島一括返還」から「2島でもいい」とプーチン氏に申し入れた。 尻に火が付いた首相が残り任期の3年で領土返還というレガシーをつくるための“妥協”ではなかったか。関連記事■ 北方領土問題 安倍首相に近いNHK女性記者の気になる動向■ 北方領土問題に大前研一氏「3島返還になる可能性が高い」■ 北方領土交渉で失敗した真の理由とは■ 暴力団がらみの北方領土密漁 カニからナマコへシフト■ 北方領土問題 プーチンに「決断」させた安倍官邸ペーパー

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    久間章生氏「北方四島先送りでも平和条約締結を優先すべき」

     「今の自民党は、もはや国民のために在る政党ではない」──と語るのは、党総務会長、防衛大臣を歴任した久間章生氏(76)だ。自民党はどこへ向かえばいいのか。久間氏の提言だ。* * * 憲法改正については、国民投票まではやれるかもしれないが、国民が改憲を選ぶか疑問がある。安倍総理は、改憲よりも日ロ平和条約の締結で戦後が終わったという区切りをつけるほうにエネルギーを投じた方がいいと思います。 北朝鮮を除けば、日本が平和条約を結んでいない最後の国がロシアです。ロシア側にしても、アジアで自由に行き来できない国は日本くらいでしょう。 来年にはロシアで大統領選があり、プーチンが再選される。日本でも安倍総理が三選されれば、そのタイミングで北方領土交渉が再開されるかもしれない。 ロシアとの国交は、北方四島の返還よりも、両国の行き来を自由化することが先。「領土問題で妥協するな」との声もあるようですが、戦争で取られたものだから、返ってくるにこしたことはないが、返ってこなくても仕方ない。久間章生氏=2009年8月18日、長崎県(林俊志撮影) 竹島ですら、返ってくる可能性は低いでしょう。沖縄はむしろ特殊な例だと思います。だから、北方四島問題を先送りしても、平和条約締結を優先したほうがいい。 日ロ国交回復すれば、経済交流も進み、人的交流も進み、両国とも幸せになれると思う。だから、安倍総理には、改憲より、日ロの平和条約締結に力を入れていただきたい。関連記事■ 久間章生元防衛相 もしハイジャック機が皇居に向かったら?■ 安保法案 島村宜伸氏、久間章生氏ら賛成派政界重鎮の見解■ 中台首脳会談で平和条約名目の密約成立か 日本への影響は?■ 日ロ平和条約で日本が中ロ関係に楔を打てるとの考えは早計■ 田中角栄 北方四島交渉でソ連に「イエスかノーか?」と強気

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    【鈴木宗男特別寄稿】安倍総理、現実的解決は「2島+α」しかない

    鈴木宗男(新党大地代表) 北方領土問題について現実的解決を目指す安倍総理の対ロ外交は賢明なやり方だ。外交には相手があり日本100点、ロシア0点、逆にロシア100点、日本0点もない。国境画定、領土問題解決はトップリーダーの判断しかない。安倍総理の支持率は60%、一方プーチン大統領は80%を超えている。この強いリーダーの下でしか北方領土問題は解決できない。 戦後の国際社会の枠組みは戦勝国(連合国)、敗戦国(枢軸国)とで区別され、今日に至っている。国連憲章でもいまだ、日本は敵国条項に入っている。1951年にサンフランシスコ講和条約で吉田茂全権は全千島を放棄している。国後島・択捉島は南千島である。この事実を国民はどれほど知っているのだろうか。首脳会談を前にプーチン大統領の出迎えを受ける 安倍晋三首相=5月6日、ロシア・ソチ 1956年の日ソ共同宣言で平和条約締結の後、歯舞群島・色丹島についてはソ連の善意で日本に引き渡すとなっていたが、1960年に日米安保条約が改訂されるとソ連側は、外国軍隊が駐留する国には領土は引き渡さない。1956年宣言も反古(ほご)にすると言ってきた。領土問題はなしとなったのである。そこで日本は四島一括返還、その上即時と強く主張した。 しかし1991年、共産主義ソ連が崩壊し、ロシア連邦共和国が誕生しエリツィン大統領が登場した。エリツィン大統領は「戦勝国、敗戦国の枠組みにとらわれず法と正義に基づいて話し合いで解決しよう」と述べ、日本政府もロシアの変化、柔軟性にかんがみ「四島の帰属の問題を解決して平和条約」と方針転換した。この事実を国民に周知徹底しなかったがゆえに今でも「四島一括」と言う言葉が一人歩きし、北方領土問題解決の足かせになって来た。 外交は積み重ねであり、信頼醸成が一番である。原理原則を一億回唱えても問題解決には繋がらない。歴史の事実、流れを正確に把握し、現実的解決しか方法はない。現在、北方四島はロシアが実効支配し、当然主権もロシアにある。これはアメリカ・イギリスがヤルタ協定以後認めた戦後の国際的諸手続きによってなされてきた。戦争で取られた領土は戦争で取り返すのがこれまでの歴史である。それを一滴の血も流さずに話し合いで平和的に解決しようと努力している安倍総理の外交は世界の手本であり、歴史に残ることだと確信している。 プーチン大統領は、1956年宣言は日本の国会も批准し、現在のロシアの国会にあたる当時の最高会議も批准している法的拘束力のあるものだと認めている。この1956年宣言をスタート台にして北方領土問題を解決するしかない。今回の首脳会談で1956年宣言に基づき、2島返還への具体的協議に入ることで合意できれば満点、大成功だと考えるが、そこまで行くことができるかどうかがまさにポイントではないか。経済協力「食い逃げ論」は誤り 私は「2+α」が現実的解決に繋がる唯一の方法だと考えている。ロシアも良かった、日本も良かったという形にすることで平和条約の締結に繋がる。 プーチン大統領も安倍首相も日本とロシアの間に平和条約がないのは異常なことだと言っている。3日の日露外相会談後の共同記者会見でラブロフ外相は1956年の日ソ共同宣言に関連し「その第一歩は平和条約の締結だ」と述べている。この発言は2島を日本に引き渡すというシグナル、メッセージと受け止めてよいのではないか。 その実現のためには経済協力、北方四島での共同経済活動、自由往来、海の活用等、さまざまなことが考えられる。経済協力についてよく「食い逃げ論」が言われるが、経済協力は国民の税金を使うのではなく、民間が出て行く話である。民間企業は将来性、採算性を十分考えて判断する。日露首脳会談 プーチン露大統領を表敬訪問する鈴木宗男議員 =2000年9月4日、東京都迎賓館  この経済協力について何かしら国がお金を出すように受け止める向きもあるが正しくない。日本の一番のウィークポイントはエネルギー資源のないことである。ロシアは石油、ガスの世界トップレベルのエネルギー資源大国である。これを供給してもらう事だけでも日本のエネルギーの安定供給に繋がり、経済協力することは重要である。北方四島での共同経済活動は経済協力と全く別物である。 元島民の皆さんは「1島でも2島でも還していただけるものは還してほしい。あとは自由に行けるようにしてほしい。国後島周辺の海を使わせてほしい」という思いである。 誰よりも元島民とこれまで向き合ってきた私である。この元島民は平均年齢81.3歳になる。人道的見地からも叶えてあげなくてはいけないのである。 安倍総理も「北方領土問題は何よりも元島民の理解、思いをしっかり受け止めて解決に向けて努力したい」と言っている。安倍総理は乾坤一擲(けんこんいってき)の首脳会談をして、必ず道筋を付けて下さると確信している。 平成3年4月、ゴルバチョフ大統領が来日した際、議長公邸での歓迎式典に安倍晋太郎先生が車椅子で来られた。ゴルバチョフ大統領が歩み寄るとすっくと立ち上がり、正対で握手をされた。大変痩せておられ、お身体が心配されたが、側でしっかりと支えておられたのが当時秘書をなされていた現安倍総理である。その一カ月後に安倍晋太郎先生は亡くなられた。当時、外務政務次官としてその場にいた者として今も鮮明に想い出される光景であり、政治家としての情熱、責任感、魂を知らしめてくれた尊いお姿であった。 その父上、安倍晋太郎先生の思いも持って首脳会談に臨む安倍総理に天国からの晋太郎先生の力強い支えもあるものと信じてやまない。

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    北方領土解決のカギは「主権」 米国依存の日本をプーチンは認めない

    小泉悠(軍事アナリスト、未来工学研究所客員研究員) 本稿では、「主権」をキーワードとして日露関係の今後について考えてみたい。 ロシア政府首脳、たとえばプーチン大統領は、しばしばこの「主権」という言葉に言及する。ただし、その意味するところは、我々のイメージするものとはやや異なっているようだ。2015年9月、米ニューヨークの国連本部でロシアのプーチン大統領(右)と握手する安倍首相(共同) 教科書的に言えば、現在の世界に存在する国家はいずれも等しく主権を持っていることになっている。現在、国際連合には193の加盟国があるが、したがって少なくとも193の主権が存在することになる。 しかし、ロシアのいう「主権」はもう少し狭い。すなわち、自国の在りようを自国で決められる国が「主権国家」なのであり、強大な政治・経済・軍事力を持つ大国だけが本当の意味でこれに該当するという考え方である。 したがって、こうした力を持たず、大国に依存する国家をロシアは完全な主権国家とは認めない。ロシア側の言論において「ウクライナにはどこまで主権が認められるか」という一見極めて傲慢な議論が出てくるのは、こうした考え方を背景としているためである。 このような考え方に基づくならば、ロシアにとっての日本とは完全な主権国家ではない。政治・経済・安全保障などあらゆる面における密接な日米関係を、日本は「パートナーシップの深化」という形で肯定的に捉えるが、ロシアにしてみれば日本は米国に主権を制限された国と映る。 たとえば今月、プーチン大統領は日本メディアの独占インタビューに応じたが、この中で次のように述べた。「日本はロシアへの制裁に加わった。制裁を受けたまま、どうやって経済関係を新しいより高いレベルに発展させるのか?日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか」(『読売新聞』電子版、2016年12月13日付) つまり、ロシアは日露関係を純粋な2国間関係とは見ておらず、常に日本の背後にある米国を意識している、と言える。ロシアにおける日本のイメージは決して悪いものではなく、プーチン大統領も日本の文化や武道に強い敬意を払っていることはよく知られているが、これは全く別の話である(ちなみにプーチン氏は、日本への関心は「外国趣味の一つ」とも述べている)。 このようなロシアの「主権」観や日本観は、領土交渉にも大きく影響している。「米国の同盟国」に領土を渡す不信感 日本は8項目の経済協力を柱とする経済面での交流を領土交渉の梃子と位置付けている。一方、ロシア側は、経済協力自体については大いに歓迎しているものの(ロシア全体の経済発展にとっても、衰退の止まらない極東の振興にとってもアジアからの投資は不可欠である)、それでは十分ではないとも見ている。米国の同盟国である日本に領土を引き渡すことへの、安全保障上の不信感が抜きがたく存在するためだ。 たとえば北方領土の国後島及び択捉島を含む千島列島について見てみよう。両島は戦略原潜のパトロール海域であるオホーツク海の出入り口を扼す天然の防衛線であり、2014年以降、カムチャッカ半島に新鋭ミサイル原潜が配備され始めてから、その戦略的価値はさらに高まっている。現在、ロシアは旧式ミサイル原潜3隻と新鋭ミサイル原潜2隻をカムチャッカ半島に配備しているが、今後も装備更新を進め、最終的には新鋭ミサイル原潜4隻体制とする計画である。 その外側に位置する色丹島及び歯舞群島については、島自体の小ささとも相まって戦略的価値は低い(両島の合計面積は北方領土全体の7%に過ぎない)。だが、それでも、そこに米軍や自衛隊が展開してくることの懸念はぬぐえないだろう。大部隊の配備には向かないとしても、電子情報収集システムや信号情報システムの配備拠点となる可能性もあるためである。 ロシアが北方領土を日米安全保障条約の適用除外とするよう日本に求めてきたとの未確認報道もあるが、以上のような戦略的意義を考えるならば、ロシアがその程度の安全保障上の要求を行ってくることは十分に考えられる事態と言える。 もちろん、ロシアは何が何でも領土を譲らない国だというわけではない。2004年に中露が4000kmに渡る国境を画定したことはその好例である。 ただ、プーチン大統領は今年10月、中露には40年に及ぶ信頼関係の積み重ねがあってこそ領土問題を解決できたのだと指摘して日本側をけん制している。また、前述のインタビューでも同じ言葉が繰り返された。 たしかに中露は国境紛争を経験し、その後も長く軍事的に対立してきたし、ソ連は中国に対する核攻撃さえ真剣に検討したことがある。その一方、中国はロシア的な意味での「主権国家」であり、困難な交渉相手ではあっても、両国間の合意は「主権国家同士の合意」である。そして冷戦後は、両国は国境における兵力の引き離しや演習の事前通告、合同軍事演習などを通じて安全保障上の関係を深化させてきた。 ロシアにしてみれば、こうした積み重ねのない日本が安易に中露のような国境画定を期待してもらっては困る、ということになろう。領土問題解決に「50年」の覚悟はあるか ロシアの著名な国際政治学者ドミトリー・トレーニンは、日露間で50年かけて信頼関係を積み重ね、北方領土問題を解決するという遠大なプランを発表したことがある。この構想は日本でも大きく紹介されたが、米国の同盟国である日本に領土を引き渡すというのはそれだけの覚悟が必要なことである、とも言える。歯舞群島・水晶島のボッキゼンベ墓地(旧日本人墓地)に墓参する元島民ら=北方領土・歯舞群島(鈴木健児撮影) また、もしも日本との交渉が難航すれば、ロシアは「北方領土は第二次世界大戦の正当な結果としてソ連(ロシア)の領土になった」という原則論に立ち戻るであろうし(現在はほぼそうなりつつある)、領土問題を棚上げにしたまま日本からの経済協力を引き出すために様々なけん制を繰り出してくるだろう。北方領土におけるさらなる軍事力強化はそのひとつであるし、最悪の場合には尖閣諸島と北方領土の領有を中露が相互に承認する(あるいはそれを示唆する)など、中国ファクターを用いた恫喝に出てくる可能性も考慮しなければならない。 安倍政権としては、ロシアとの関係強化を中国の膨張に対する一種のけん制とする思惑があるとされるが、ロシア側としてもそうした意図は当然、見抜いた上で行動に出てくると想定しておく必要がある。 このようなロシア側の出方を踏まえた上で求められるのは、経済協力と並行してロシアとの安全保障協力を進めることであろう。 もちろん、日本は今後とも日米同盟を安全保障の基軸とし続けるであろうし、それゆえにロシアとの安全保障協力には限界がある。 ただ、ウクライナ危機以前の日露は2プラス2(外務・防衛閣僚協議)や合同SAREX(海上捜索・救難共同訓練)のような形で安全保障協力を行ってきたし、欧米諸国はさらに踏み込んだ協力(たとえば対テロ・対海賊・対ハイジャック訓練、ミサイル防衛、機雷掃海など)を実施してきた。今後、ロシアとの間でこうした協力枠組みを再開・深化させることは一つの方法であろう。特にソマリア沖の海賊問題については、日露はともに同じ海域に艦艇を派遣しており、こうした事態を想定してSAREX以上の合同訓練を行うことは可能かもしれない。 あるいは、欧州や中国との間でロシアが行っているように、互いの国境付近における兵力配備の制限、兵力の移動や演習の事前通告といった信頼醸成措置を実施することも考えられよう。

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    北方領土返還は必ず実現できる

    ロシアのプーチン大統領が来日し、日露首脳会談が行われる。半世紀以上進展がない北方領土交渉をめぐり、両首脳の政治決断に注目が集まるが、直前になってロシア側の消極姿勢が伝わり、国内には悲観論も広がる。「私の世代で終止符を打つ」。会談を前に語った安倍首相の言葉を今こそ信じたい。

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    「4島返還」を狙う安倍首相、プーチン会談に仕掛ける落としどころ

    を示唆していた。だが、その後の同外相の強硬発言からみて、ロシア側からの新提案は期待できそうもない。 日露関係筋によれば、プーチン大統領訪日では、10-20の経済協力案件の文書調印が予定されるが、共同声明の発表は予定されていないという。その場合、北方領土交渉の成果が文書に盛り込まれないことになり、経済協力の「食い逃げ」となってしまう。ようやく実現した大統領訪日で、領土問題の成果が全くない場合、安倍外交への風当たりが強まりかねない。 安倍政権はおそらく、山口会談を本格交渉の「出発点」と位置付け、首相の側から叩き台となる何らかの新提案を提示するかもしれない。 日本側の発表によれば、プーチン大統領は15日午後、特別機で山口入りし、山口県長門市の温泉ホテルで首脳会談とワーキングディナーを行う。両首脳は16日に東京に移動し、首相官邸で昼食を交えた首脳会談と、共同記者会見を行い、大統領は同日夕には帰国の途に就く。安倍首相は今年に入って、5月のソチ、9月のウラジオストク、11月のリマと、二人だけの密室会談を続けており、長門での温泉会談はその延長線上となる。 過去の日露首脳交渉で、山口会談に似た形態の首脳会談があるとすれば、1998年4月の川奈会談だろう。橋本龍太郎首相は個人的親交を深めたエリツィン大統領を伊豆半島の川奈ホテルに招いて1泊2日で会談。非公式協議の位置付けとなり、橋本首相は席上、「両国の国境線を択捉島とウルップ島の間に敷くなら、ロシアの施政を合法的なものと認め、4島の現状を今のまま継続する」との国境線画定提案を行った。「2島返還」まで譲歩できない北方領土問題 エリツィン大統領は身を乗り出して強い関心を示したものの、側近のアドバイスで持ち帰って検討すると答えた。その後、同大統領は健康悪化や支持率低下に陥り、政権担当能力が低下。ロシア側は結局受け入れなかった。後任のプーチン大統領は川奈提案について、「よく考えられた勇気ある提案だが、ロシアとしては受け入れられない」と正式に拒否した。 川奈提案は事実上の4島返還案だったが、プーチン政権は56年の日ソ共同宣言に沿った歯舞、色丹2島の引き渡しには含みを残しながら、国後、択捉の帰属協議に応じる意思を示したことは一度もない。仮に、安倍首相が長門市で行われる会談で、「長門提案」を行う場合、川奈提案よりも要求を下げた内容にならざるを得ない。 選択肢としては、中露両国が国境問題を最終決着させた面積折半方式や、日本が国後、色丹、歯舞の3島を獲得する「3島返還論」も考えられる。だが、プーチン大統領は11月に米ブルーンバーグ通信との会見で、中露と日露の領土問題を比較し、「2つの問題には根本的な違いがある。日本との問題は大戦の結果生じており、国際的取り決めで規定されている。中国との問題は大戦と一切関係がなかった」と一蹴している。 自ら高揚させた戦勝神話と民族愛国主義が国内に広がる中、リスクの多い「国後割譲」には踏み込めないだろう。日本側が「3島返還」を切り出す場合、日本の主張は直ちに「4島返還」から「3島」に歴史的に転換するというリスクがある。北方領土・歯舞諸島 こう見てくると、「相互に受け入れ可能な解決策」の模索は至難の業だが、一定の合意を目指す場合、「長門提案」はたとえば、①ロシアによる戦後の領有を容認する②56年共同宣言に沿って、平和条約締結後の歯舞、色丹引き渡し交渉を進める③国後、択捉の帰属は将来の問題として残す-といったトーンになるかもしれない。 しかし、ロシアの現状から見て、この提案も受け入れそうにない。ロシアでは「歯舞、色丹を引き渡した後、国後、択捉の帰属を協議することはあり得ない」(ロシア外務省当局者)との主張が圧倒的であり、最終的には「2島決着」が最大限の譲歩となる。 安倍首相はこれまで「4島の帰属問題を決着させて平和条約を結ぶ」と強調しており、公の場で「4島返還」に言及したことはない。とはいえ、戦後の自民党政権が「4島一括返還」を主張してきた手前、安倍首相が「2島決着」まで要求を下げることはできないだろう。山口会談は落としどころが難しい会談になる。 山口会談でサプライズが飛び出す可能性に期待したいが、日本としてはこの際、プーチン体制下での国後、択捉返還が困難であることを覚悟しておくべきだろう。不可能を承知で今後も「4島」を要求し続けるのか、屈辱的な「2島」で幕引きを図るのか-。北方領土問題は次第に国内問題となり、日本はいずれ、不愉快な選択に直面するかもしれない。

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    今こそ、北方領土四島一括返還最後のチャンスだ

    【山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~】中村繁夫 (アドバンスト マテリアル ジャパン社長) 初めて会ったロシア人から「中村さんですね」と言われて驚いた。続けて「私の妻は『馬場真一』の娘です」と聞いてもっと驚いた。世界最大のニッケル生産企業の「ノリリスク・ニッケル」調査部長のDenis Sharypinさんから2月に初対面の挨拶をされたときの話だ。馬場君のお葬式の時にミニスカートにルーズソックスを穿いていたあの高校生の娘さんがデニスさんと結ばれたのだから「縁は異なもの味なもの」である。 馬場真一君とは私の前職(蝶理時代)の同僚である。彼は旧ソ連・ロシア貿易の蝶理のスーパースターで次々と新しいビジネスを開拓したが1998年に志半ばで帰らぬ人となった。彼は物資や化学品の輸出を担当し、モスクワにも10年間以上の駐在をして次のロシア貿易を背負って立つ人材であった。日本の傘や雑貨や水耕栽培プラントの輸出を成功させたのも彼の功績である。モスクワ市内の様子。奥に見える建物がモスクワのターミナル駅の一つであるベラルースキー駅(SHIGEO NAKAMURA) 馬場君の発想はユニークで、当時のガスプロム(世界一の天然ガス国営企業)のキーパーソンとの大口取引に注力していた。ロシアの天然ガスのパイプラインは、あまりメンテナンスはしないから馬場君はそこに目を付けた。日本の塗料を塗れば錆止めになるばかりではなく長持ちするので、そこが馬場君の売込みのツボであった。天然ガスのパイプに使う塗料の大口商談が成立するあと一歩という所で病魔に侵されて他界したのである。 神戸外大時代は野球選手でスポーツ万能だった。癌が進行しているにもかかわらず毎月のようにゴルフに行っていた。「肩の力が抜けて良いスコアが出た」と屈託のない笑顔を見て心強く思っていた矢先の突然の知らせであった。困った時に助ける事こそ真の友好だ困った時に助ける事こそ真の友好だ さて、現在のロシア経済は多重苦に喘いでいる。多重苦とは通貨の暴落と金利の高騰と原油安に加えて欧米(G7)からの経済制裁である。通貨の暴落は昨年モスクワに来た時には1ドルが約30ルーブルだったのが現在は約60ルーブルだからルーブルの価値が約半分になった。私のモスクワの定宿が一年前は300ドルだったのが今回は120ドルになっていた。金利の変化は一般企業への貸出し金利は一年前が10%前後だったのが現在は25%前後まで高騰しているから企業は資金ショートのために正常な生産に支障をきたし始めている。去年の8月に100ドルだった原油価格が今や50ドルを切るところまで来ている。新興5カ国(BRICS)首脳会議で、頬に手を当てるウラジーミル・プーチン露大統領(ロイター) 今回のロシア訪問で面白い話を聞いた。生活が困窮しているにもかかわらずトヨタの高級車レクサスが飛ぶように売れているというのだ。インフレに対抗するために高級車を買い占める発想がロシア人らしい。しかも経済制裁を受けているドイツからの輸入は控えているのである。日本人は北方領土問題の為にロシア人を過剰に誤解しているが、ロシア人は日本人が大好きである。昨年のウクライナ紛争の影響から欧米の経済制裁のためにロシア経済の先行きは益々不透明になっている。 馬場君は「日本とロシアの協力関係は将来、必ず大きく実を結ぶ時が来る」と何時も言っていた。彼ほどロシア貿易に信念と使命感を持っていた商社マンは居なかった。我々のロシアビジネスが飛躍的に発展した時期は過去に3回あった。1回目は旧ソ連の崩壊の時期である。2回目は98年の金融危機の時期で、3回目がリーマンショックの直後であった。 私は資源大国ロシアが多重苦に喘いでいる今こそ、友好国として手を差し伸べ、日露の協力関係を築き上げる時だと思う。それこそ、北方領土四島一括返還の最後のチャンスだ。

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    3カ月限定復活 宗谷海峡に「プーチン航路」

    【WEDGE REPORT】吉村慎司 (フリージャーナリスト・北海道国際交流・協力総合センター研究員) 日本とロシアを直に結ぶ唯一の旅客定期航路、稚内―サハリン航路の運航が今週復活した。同区間では1999年以来夏季のフェリー運航が毎年続いてきたが、昨秋、運営主体だった日本のフェリー会社が不採算を理由に撤退。今季の運航が絶望視されていたところにサハリン州政府から協力の申し出があり、新体制での再開に至った。ロシア側は船会社をあっせんするほか、運航経費の一部を負担するなど異例の協力ぶり。背景には、極東振興に取り組むウラジーミル・プーチン大統領の影響力が見て取れる。サハリンからの乗客サハリンからの乗客稚内-サハリン航路 8月1日の昼過ぎ。青空の下、80人乗りの双胴船「ペンギン33」(270トン)が稚内沖に姿を現した。ロシア・サハリン州のコルサコフ港を出発してから約4時間半。穏やかな海面を順調に進み、13時前に無事稚内港に着岸した。新体制による稚内―サハリン航路の第一便である。船から降り立ったロシア人客が報道陣のカメラに笑顔で手を振る。岸壁で出迎えた数十人の地元関係者に、一様に安堵の表情が浮かんだ。 運航するのは日本の会社ではなく、ロシアのサハリン海洋汽船(SASCO=サスコ)だ。サスコがシンガポールの船会社から船員ごとレンタルした船を使う。定員80人で貨物の扱いはなし。昨年まで乗客200人強、車両50台程度を運べるフェリーだったのに比べれば小規模だが、小型化することで運航コストを抑える狙いだ。 「春の時点では、今年の運航はないと誰もが思っていた」と稚内の行政関係者が話す。航路はこれまでビジネスや観光だけでなく、若者の交流事業、旧樺太出身者の墓参など、少ないながらも多様な利用者を運んできた。季節航路を16年維持したハートランドフェリー(本社:札幌市)が昨秋に運航を終えるのと前後して、稚内市と地元経済界はハートランドからの船の買い取り、新たな運航会社の確保などを画策してきた。だが諸条件が折り合わず昨年末までに計画は断念。打開策がないまま今年4月に第三セクター「北海道サハリン航路」を発足し、当面2017年までに航路を再開することを目標に掲げていた。 風向きが変わったのは5月下旬だった。サハリン州政府から稚内市に、資金を含めた協力の申し出が入った。航路は99年のスタート以来黒字化せず、市が補助金で支えてきたが、その間ロシア側からの資金支援は一度もなかったため、関係者に驚きが広がった。支援はオレグ・コジェミャコ州知事の判断だった。 コジェミャコは州外から昨春やってきた、新しい知事である。ロシアの知事は形式上は地元住民による投票で選ばれるものの、実態は大統領による任命制だ。コジェミャコの場合は、前の州知事が昨年3月に汚職容疑で逮捕された際、クレムリンの命を受けて知事代行として州外から赴任した。選挙を経た正式な知事就任は昨年9月。サハリンの前には別の地方の知事を務めており、サハリンの慣習やしがらみにとらわれずに地域を発展させることを中央から期待されている。プーチン、安倍会談プーチン、安倍会談 航路支援申し出の約3週間前、日ロ間では大きな出来事が起こっている。ロシアのソチで5月6日に行われた、プーチン大統領と安倍晋三首相の会談だ。9月に開かれるロシア極東での経済フォーラムに安倍首相が参加する見通しとなり、経済協力の機運は高まっていた。 プーチン政権にとって、人口が少なく経済が立ち後れている極東地域のテコ入れは大きな課題だ。極東の看板都市は9月のフォーラム会場にもなるウラジオストクだが、ほかの地方にも種々の特区を設置するなど極東全体の経済振興に力を入れるのが政権のスタンスだ。その分、各知事は実績づくりのプレッシャーにさらされている。ロシア国内で最も日本に近いサハリン州においては、両国間の交通インフラ整備は格好のアピール材料の一つとなる。 しかしコジェミャコ知事はサハリンに来てからまだ1年強しかたたず、航路について詳しいわけではない。そこで同知事は稚内市に対して5月下旬、航路の現状・課題についての説明を求めた。州政府を尋ねた現地駐在の稚内市職員からレクチャーを受け、支援を即決する。コジェミャコ知事と高橋知事 知事のトップダウンにより、部下も浮き足だった。6月3日、コジェミャコの決定から数日後に開かれた北海道―サハリン官民定期会合で、州政府幹部が「航路を7月15日に再開する」と明言。実はまだ日程はおろか事業スキームも話し合っていない時点のフライング発言だがロシア側メディアでそのまま報じられた。「寝耳に水。いったい何のことを言っているのか」。稚内市や北海道庁などに混乱が広がった。実際には2週間強遅れて8月1日の初運航となる。 関係者間で事業計画が正式にまとまり、調印したのは7月4日。運航経費をロシア側と日本側で折半する内容だ。ただ日本側には船の安全性に疑問を抱く声も多く、また、運航主体があくまでロシア企業であって日本側のコントロールが及ばないことを不安視する向きもある。日本側の三セクの社長を務める藤田幸洋・藤建設社長は、「航路再開に向けては、ロシア側が支援すると言っている今が千載一遇のチャンス。今できることをやらなければ来年や再来年にどうなるかわからない」と語る。 船は週2往復で、9月16日までに計14往復を運航予定。乗客数は1000人を目標とする。「あまり利用者が少ないようだとロシア側が協力をやめる懸念もある」(地元行政関係者)。実質的にわずか2カ月程度で就航したためPRが後回しになっており、関係者は乗客確保に躍起になっている。 復活した稚内サハリン航路は、日ロ地域間経済協力のモデルケースとなるのか、短期間で破綻して失敗事例の一つに加わるのか、予断を許さない。

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    国力回復狙うロシアの次なる一手は?

    【世界潮流を読む 岡崎研究所論評集】岡崎研究所 カーネギー国際平和財団モスクワ・センターのドミトリー・トレーニン所長が、Foreign Affairs誌5-6月号に掲載された論文で、ロシア軍の来し方、行く末を論じ、ロシア軍に限界はあるが、これからも、ロシアがシリア爆撃のように海外で軍事力を行使する可能性はある、と結論付けています。要旨は次の通り。iStockソ連崩壊で地に落ちたロシア軍 ソ連崩壊後、軍は「朽ち果てた」。1988年は500万を数えた兵員が、94年には100万となり、国防予算は2460億ドルが140億ドルに縮小した。海外からは70万の兵力を引き揚げた。軍人は将官級でも200ドル程度の月給しかもらえず、その社会的地位は地に落ちた。 91年~08年にかけては、ロシア軍は旧ソ連域内の紛争対処にのみ用いられた。NATOとの協力に期待がかけられ、96年にはボスニア・ヘルツェゴビナでのPKOに加わった。その期待が裏切られ、NATOが東方に拡大を始め、99年には(ロシアの友好国)セルビアが爆撃され、03年には米国がイラクに侵入した。ロシアは激しく抗議はしたものの、止める力はなく、核兵器に自身の安全確保の最後の望みをかけるのみであった。世界における地位回復狙うプーチン世界における地位回復狙うプーチン 08年のグルジア戦争でロシアは勝利はしたものの、装備の旧式化が露わとなり、その前後からプーチンは軍改革と装備近代化に乗り出した。2020年までに7000億ドルを費やすことが予定されている。その結果、ロシアはクリミア併合、東ウクライナへの介入、シリアでの爆撃を首尾よく行うことができ、ユーラシアに本格的な軍勢力として復帰したのである。また07年には、NATO周縁での偵察飛行を再開した。14年(クリミア併合、東ウクライナ紛争)はこうして、欧州に東西間の軍事対立が復活した年と言える。 シリア爆撃は、ロシア軍が旧ソ連域外に乗り出した初めてのケースである。ロシアの目的は、シリア、イラン、イラク、クルド地域等における地歩・利権を守ることにある。それは、ロシアを国として保持し、世界における正当な地位を回復せんとするプーチンの野望の一環である。そうやって、ロシアは、この25年間失っていた中東における地歩を見事に回復した。 ロシアは次にどこで軍事力を行使するだろうか? 北極圏での資源獲得競争が云々され、ロシア軍は同地域の基地を再開したが、フィンランド、スウェーデンがNATOに加盟する等の急変がなければ、武力紛争は起るまい。もっと可能性が高いのはロシアの南辺、つまり中央アジア方面である。アフガニスタンについてはアフガン戦争敗北のトラウマがあるので、直接介入はしないだろうが、中央アジアはロシアにとって緩衝地帯であるので、ここにISISがアフガニスタン方面から侵入してくれば、ロシアは例えば集団安全保障条約機構(NATOのロシア版)の枠で介入するだろう。 シリア介入で失敗するとか、経済混乱に陥らない限り、ロシアは中国、米国に並ぶ大国だと言い立てて、海外での軍事力行使を続けるかもしれない。 ロシアは、NATO加盟国を攻撃することはない。核戦争につながりかねないからである。しかしバルト諸国、ポーランドはロシアを恐れ、NATOの対応強化を実現した。ロシアはこれに応えて、西部方面での軍編成を変えている。にらみ合いが続くことになろう。兵力不足に悩むロシア ロシアは世界支配の野望は持たない。そして冷戦時代の軍拡競争が経済を弱化させた教訓も覚えている。加えて、軍需産業はこの20年間で弱体化しているし、今後もGDPの4.2%(15年)にも上る大きな国防予算を維持することは難しい。国民は、軍のおかげでロシアの国際的地位が上がったのを歓迎しつつも、それが自分たちの生活に響くとなれば、黙ってはいないだろう。ロシアは専制主義国家だが、国民の支持があればこそ権力を維持していられる。出典:Dmitri Trenin,‘The Revival of the Russian Military’(Foreign Affairs, May/June, 2016)https://www.foreignaffairs.com/articles/russia-fsu/2016-04-18/revival-russian-military*   *   *兵力不足に悩むロシア この論文は、論点を尽くし、米ロ双方の主張の間でのバランスを維持しており、賛成できます。あえて、日本にとって意味のある諸点を指摘すれば、次のようなことが言えるでしょう。 ロシアでも若年人口は減っており、ロシア軍は徴兵制を取っているにもかかわらず、兵力不足に悩んでいます。徴兵は1年しか就役しないため実戦には使えません。従ってシリア等での実戦では、契約に基づく「職業兵」が使われています。しかし、その数も限られているので、ロシアは長期戦、二正面作戦はできません。 この論文が指摘しているように、ソ連崩壊後の20年間に軍需企業からエンジニアが多数去った後遺症は、今でも残っています。T-14戦車、S-400対空ミサイル、極超音速弾頭等優れた兵器も開発されている反面、米国が進めようとしている「軍の無人化」では後れをとっていくことでしょう。 極東方面で問題となり得るのは、(1)シリアで「実験した」新型中距離巡航ミサイルX-101(射程5500km)が核弾頭付きで極東に配備される場合、(2)太平洋艦隊が大幅に増強され、中国艦隊と連携して動く場合、が考えられます。 それでも、安全保障面でのロシアの注意は西方、南方に向けられており、上記①②がなければ、極東におけるロシア軍は、カムラン湾へのロシア艦寄港等、日本にとってはマイナーな意味しか持ちません。日本にとっての脅威は、そうしたことより、中国が建設中の空母2隻のほうがよほど重大です。

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    北方領土返還で強化される「対中シフト」

     12月に行われる日ロ首脳会談で話題にのぼる可能性が指摘されている北方領土返還で、極東の軍事バランスはどのように変わるのか。ジャーナリストの惠谷治氏は日本とロシアの新しい対中国シフトの可能性を指摘する。* * * 平和条約締結によって歯舞・色丹の2島が返還されることは疑いないが、残る国後・択捉がどうなるかを考える上で、留意すべきはロシア側の行政区分である。ソ連軍が占領した千島列島(大クリル列島)は3分割され、歯舞・色丹と国後は「南クリル地区」、択捉から新知(シムシル)までが「クリル地区」、その北方は「北クリル地区」となった。交流船「えとぴりか号」から見た択捉島(鈴木健児撮影) つまり、ロシアには日本が主張する「北方四島」という概念はなく、択捉島は国後島と分離されている。北方領土に駐留しているロシア陸軍第18機関銃・砲兵師団の司令部は、択捉の旧天寧に近いガリャーチエ・クリュチに置かれている。 地図を見れば分かるように、択捉は千島列島の最大の島であり、軍事・行政の中心地である。ロシアは千島列島の西に広がるオホーツク海を内海として、核戦略を構築している。 2013年12月、最新鋭の戦略原潜ボレイ級K550が、太平洋艦隊に配備された。それまでの旧式原潜のミサイルの射程は6500kmだったが、8000kmに延伸され、オホーツク海から米本土のほぼ全域を射程に収めるようになり、オホーツク海の戦略的重要性はさらに高まっている。 ロシア軍は昨年から千島列島の幌筵(パラムシル)島と松輪(マツワ)島に海軍施設を建設し、今年に入り、対艦ミサイルのKh35バールやP800バスチオン、自走式短距離対空ミサイル「トールM2U」などを配備し、千島列島の軍事化に取り組んでいる。北方領土の兵力は、ソ連時代の1万名から3500名に大幅縮小されたが、近年になって軍備増強をしているのは、米国や日本に対するものではなく、別の理由が考えられる。 中国は、1999年から調査船「雪龍」をオホーツク海に進出させるようになり、2012年にはカムチャトカ半島南端を通過し、太平洋から大西洋までの北極海航路を往復した。北極海航路は地球温暖化の影響で北極の氷が減少し、近年、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路として注目されている。 しかし、中国にとって千島列島は、東シナ海の南西諸島と同様、地政学的なチョークポイント(隘路、あいろ)となっている。この点でオホーツク海を完全に聖域化しようとしているロシアと我が国は、共通の利害関係にあるといってもいいだろう。 ロシアが択捉を手放すことが困難なら、先ずは国後を加えた「3島返還」で平和条約を結べば、北海道の陸自兵力を九州・沖縄に移動させ、空自の戦闘機を沖縄に振り向けることができる。また、ロシアも日本との関係が改善すれば、氷結状況で不安定な北極海航路よりも確実な「欧亜連絡鉄道」というランドブリッジを構築できるだろう。 オホーツク海に潜むロシアの戦略原潜は、米国だけではなく、中国向けでもあり、日露は平和条約締結によって、対中シフトを強化することが可能となるのである。●えや・おさむ/1949年生まれ。早稲田大学法学部卒業。民族紛争・軍事情報に精通するジャーナリストとして活躍。早稲田大学アジア研究所招聘研究員。監修として『空母いぶき』、著書に『世界テロ戦争』(ともに小学館刊)など多数。関連記事■ 共産党だけが北方4島ではなく全千島列島返還を主張中■ 佐藤優氏が読み解く北方領土 2島返還も択捉・国後は困難■ 米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ 佐藤優氏「1854年にロシアは北方四島は日本領と認めていた」

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    カネも人も大量流入、北方領土は「中国領」と化している

     日本人が知らない北方領土の現実。実は、現地には中国資本が大規模に浸透し、多数の中国人が住みついているのだ。ロシア政治に詳しい政治学者・中村逸郎氏が警鐘を鳴らす。* * *「国後島を多くの外国人が平然と歩いていて驚いた。とくに目立ったのは中国人で“なぜ、彼らがここにいるのか”と訝しかった」北方領土・色丹島の穴澗で、集落を貫く通りを歩くロシア人家族=10月23日(共同) 今年8月、ビザなし交流で北方領土を訪れた日本人のナマの感想である。 12月のプーチン大統領訪日を控え「北方領土がついに返ってくる」との気運が増すが、多くの日本人は「真実」を知らない。実は現在、日本の領土であるはずの国後と色丹に「中国の影」が多分にチラついているのだ。 転換期は2010年11月だった。この時、ロシアのメドベージェフ大統領(当時)が旧ソ連時代も含めて、ロシアの国家指導者として初めて国後を視察。大騒ぎする日本政府やマスコミを尻目に訪問前後から、ロシアは北方4島へ海外資本を呼び込む動きを本格化させた。各国に向かって「投資を歓迎する」と表明し始めたのだ。 続く2011年3月には、北方4島を管轄するロシア・サハリン州政府の代表団が中国・北京を訪問した。一行は北方4島周辺のクルーズ観光やナマコの養殖施設の建設など、20項目近い投資案件をプレゼンして、サハリンや南クリル諸島(国後、色丹、択捉)の大規模な開発と投資を呼びかけた。 以降、単なる民間ビジネスでなく、ロシア政府や州政府が絡む一大プロジェクトとして、中国資本の導入が進むことになる。 2012年には、国後にある2つの水産加工工場に中国資本が漁業や養殖のため5000万ドル(約50億円)を投資した。うち一つの工場は、中国の漁船が水揚げした魚介類を缶詰にして、バルト三国やドイツ、ポーランドや中国、北朝鮮などに輸出する。輸出高1億4300万ドル(約143億円。2014年)は全ロシアの水産企業中4位という高売上を誇る。 外資ばかりではない。冒頭の日本人訪問者が「体感」した通り、サハリン州政府のプレゼン後、国後、色丹に外国人が急増している。 工場や建設現場で働く季節労働者が多く、実数は見えにくいが、サハリン在住の知人は、「国後と色丹合わせて最大で500~600人の外国人がいる」という。北方4島に潜む闇は中朝だけじゃない 際立つのは中国資本と共に押し寄せる中国人である。直近では2014年3月のクリミア侵攻後、国際社会の経済制裁を受けたプーチンはアジア重視政策に舵を切り、極東ロシアに大量の中国人労働者が流入した。 もともと産業が少ない極東ロシアの人口は最盛期より150万人も減少し、現在は620万人ほど。うち20%を中国人が占め、その一部が国後、色丹に流入していると見られる。 北朝鮮との関係も密接だ。2013年に北朝鮮の羅津港とロシア極東のハサンが鉄道でつながれ、毎年2万~3万人の北朝鮮の労働力がビザなしで極東ロシアを行き来する。公式記録でサハリン州全体に2000人の北朝鮮人が常住し、その一部が北方4島に流れている。 前述の国後・色丹の外国人600人という数は少ないと思われるかもしれないが、両地域を合わせた総人口は約8000人足らず。外国人が人口の1割近くというのは相当な比率である。北方4島に潜む闇は中国と北朝鮮だけではない。 今年4月下旬、プーチン大統領と国民との直接対話で、色丹にある水産加工工場「オストロブノイ」の従業員が、約1000万円の給料未払いを訴えた。激怒したプーチン大統領は当局に捜査を命じ、姿を消した創業者が国際指名手配された。 一連の報道は、北方4島の水産加工業を中心とした経済がマフィアに牛耳られ、腐敗汚職の温床と化していることを示唆する。北方領土返還交渉を経て、日本企業が下手に共同開発などの甘言に乗れば、大切な資産を根こそぎ奪われるだろう。●なかむら・いつろう/1956年島根県生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業。モスクワ国立大学およびロシア科学アカデミー国家と法研究所に留学。筑波大学人文社会系教授(国際総合学類)。東京大学総合文化研究科非常勤講師。著書に『シベリア最深紀行─知られざる大地への七つの旅』(岩波書店刊)など。関連記事■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ 北朝鮮が結婚ビジネス進出 美女を100万ドルで外国人に斡旋■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」■ 尖閣、沖ノ鳥島、北方領土、竹島に本籍を置く日本人が増加中■ ロシア語に「奴は中国人百人分くらい狡い」という言葉がある

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    強欲ロシアと扶助する日本

    東漸に続き南下を狙うロシアと戦った日本。そのロシアの強欲さと、敵兵でも親身に助ける日本の人の好さは今も変わらない。盗人猛々しいプーチン王朝の本質を見誤ってはいけない。

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    黒鉄ヒロシが教えたいシベリアの孤児を救った日本の美徳

    別冊正論27『「美しい日本」ものがたり』 (日工ムック) より黒鉄ヒロシ(漫画家)「恥」に拘りもつ日本人 何事やらん、善行を施した武士が立ち去ろうとするを押し留めた婦人が「せめて、お名前を――」と縋(すが)るに、「名乗る程の者ではござらぬ」といなして「タビのコロモはスズカケのォ~」などと謡(うた)いながら闇に溶けていく。 時代劇映画に於いては頻繁に出喰わすシチュエーションで、鼻垂れ小僧の分際にも「カッコイイ!」と感じ入るシーンであった。 身に付いたかはさて措(お)き、アレは日本人的美徳の、教育の一環であったやも知れぬ。 美徳とは、ある価値観に支えられた、西欧なら〝ダンディズム〟、日本なら〝武士(もののふ)の心〟という辺りに落ち着くのであろうが、これに無反応、無関心などころか、先の婦人と武士の係わりに重ねれば、「名乗らなきゃ意味がなく、お礼だって貰(もら)えないじゃないか――!」というお国柄もある。「名乗る程の――」の幼児教育が功を奏したものか、先輩達の他国民に成した善行を、日本人の多くが知らない。 更には、学校教育でも触れないし、家庭に於いても話題に上ることもなかった。 全ての因(もと)を「名乗る程の――」の科白(せりふ)に吸収させては安易に過ぎよう。 かくも善行に対し沈黙するは、日本人の美徳と云えばそれ迄(まで)だが、自己宣伝はともかく、ある程度の自己検証なくば、ことあらば嘘のレッテルを貼ろうと手ぐすね引いている国まである昨今である。 原因のひとつは、日本人の「恥」に関しての拘(こだわ)り方にあるのではないか。 一口に恥と云っても、そのカタチは一様ではない。 恥への助走は、スタート以前に既に用意されていて、行動しなかったことに対する恥、したことに対する恥、結果に対する恥――と、ここまでは真っ当な歴史を有する国なら文化として定着していよう。「真っ当な歴史」とは、その良し悪(あ)しや好悪の判断はさて措き、人類の発展の通過儀礼の如くに、封建制度の経験の有る無しに掛かるようである。 更に恥は細分化されて国柄の一翼を担う。 行動の結果、人救けとなって成功であった場合にも、日本ではその後の対処にも恥は付き纒(まと)う。「名乗る程の――」の禁を解いて、抜け抜けと書きつければ、善行の点に於いて、他国に比べ、我国の圧倒的な数の多さは何の所為(せい)に因を求めればよいか。 いざ、具体例に転じて検証せん。トルコが邦人救出してくれたワケトルコが邦人救出してくれたワケ 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。  ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。  その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。日本人の多くが知らぬ先人の善行日本人の多くが知らぬ先人の善行 味方見苦し――にならぬように、贔屓(ひいき)の引き倒し――とそしられぬように、慎重の上にも慎重に構えてみても、日本人の他国民への善行の多さの理由が知りたい。 同時に、以下に並べる事柄の多くも、つい最近までは日本人の多くは知らなかったという不思議。「美しいか、美しくないか」 ダンディズムの定義には詳しくないが、この判断こそ「武士(もののふ)の心」が完成までの過程で揉(も)みに揉まれ、血で血を洗い、その血文字をもって記したヒトの生き方の奥儀であったのだ。 尊敬の念を抱きつつ、杉原千畝(ちうね)の功績に想いを馳せる時、前段のあったことに思い至る。 杉原が、かの「命のビザ」を発給した頃を遡(さかのぼ)ること二年余、日本政府は「迫害ユダヤ人を排斥せず、平等に扱う」ことを国是としていたのだ。 この原型となる理念が世界の舞台で示されるのが、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いてであった。「人種差別撤廃提案」である。 国際会議に於いて「人種差別問題」を俎上(そじよう)にのぼせたのは世界史上日本が初の国である。 提案の顛末(てんまつ)は、議長を務めた当時のアメリカ大統領ウィルソンによって、「全会一致ではない為、提案は不成立」なる苦し紛れの言い逃れにより不採択になったことはご承知のとおり。 イギリスのアーサー・バルフォア外相の如きは「ある特定の国に於いて、人々の平等というものはあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。 余談になるが、このバルフォア、第一次世界大戦中にユダヤ人の経済的支援を取り付ける為に、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人の「民族的郷土(ナシヨナルホーム)」建設を支持する〝バルフォア宣言〟を発した人物である。 比較するに、古来日本の国柄は人類皆平等であり、有言だけでなく実行もされた。 昭和十二年、関東軍によるユダヤ人擁護に対するドイツの抗議を突っぱねたのは、当時中将で関東軍参謀長の東條英機であった。 翌十三年、ソ満国境に於いて大量のユダヤ難民を関東軍と満鉄が救援した際にもドイツの抗議があったが、東條は毅然としてこれも撥(は)ねつけ、日本政府は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として明文化し、「我国は他国民を差別せず」を国家的性格とした。 これを背骨(バツクボーン)としての、杉原の「命のビザ」は為ったのだ。 英国のバルフォア外相の主張など、今となっては信じられないが、当時のアングロサクソン、総じての白人の意見の大勢を占めていたと思われる。杉原千畝とシンドラーは〝別物〟杉原千畝とシンドラーは〝別物〟 時代と都合によって変化する正義、不正義の定義など頼り無いものであるが、普遍的な行動を測る物差しはある。 美しいか、美しくないか。 物差しは、「平時」と「非常時」の二種の目盛りについても迫る。「国を想う」道にも美しさはあろうが、「人を想う」に比べれば、その面積は当然に狭くなる。 美しい人々の棲む、美しい国の、美しい国益――という文字の並びは、一見すると結構のようではあるが、「人々」の持つ様々な感懐を一纒めに括らざるを得ない乱暴さが潜んでいる。 杉原は〈武士の心〉を頼りとして決断した。 外務省やソ連からの退去命令を無視しながら、杉原はビザ発給を続行する。 杉原の勇気によって命を救われた六千人は三世代を経て、三万二千人を数えた。 人道主義が国益に重なるのは、美しい行いに牽引された時に限る。 カウナス駅でベルリン行きの列車に乗り込んでからも窓から身を乗り出して発車間際まで杉原は許可証を書き続ける。 やがて列車が動き始めた時、ホームに残ったユダヤの人々に頭を垂れて次のように言う。「許して下さい、皆さんのご無事を祈っています」 武人が祈るとは泣くことであり、許せとは死ぬことである。 涙の理由を識(し)るからこそ、日本人による善行の数は後が絶えず、度重なる災害を前にしても強いのだ。 ヨーロッパ人も奇天烈で、杉原をして〈東洋のシンドラー〉とは、何を云うか。 日本人の美徳として、他者の勘違いをことさらに言い募りたくはないが、杉原は救けたユダヤ人を後に訪問し、何がしかの援助を受けたことなど断じてない。 如何なるセンスで〈東洋の――〉或いは〈日本の――〉なんぞとスケールを小さくし優位性を保とうとするか。 白人名物、有色人種差別の遺伝子が衣の下から覗くヨロイのように転び出もしたか。 いや、つい感情的になり、日本人として恥ずかしや、平に謝す、許されよ。怨を慈悲に―三十八度線のマリア怨を慈悲に―三十八度線のマリア 平伏した眼を、そのまま朝鮮半島に転じよう。 昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争勃発。 ソウルに攻め入った北朝鮮軍兵士が乳飲み児を抱いた韓国人女性を射殺。投げ出されて泣き続ける以外に 術なき赤児を、救い上げる女性の両の手があった。 手の主は、日本人女性望月カズ、二十三歳。 東京杉並は高円寺の生まれ。父の他界後、母に従い四歳で満洲に渡る。  満洲での母の商いは軌道に乗るが、二年後の母の病死を境にカズの境遇は急変する。 売られた先の家で、カズは日本語を使うことを禁じられたというから、無論その農民は日本人ではない。 売った使用人もまた日本人ではなかろう。 ようやく関東軍に救い出されたカズは、身柄を預かった軍隊内に於いて読み書きその他を教育されたのち独立。 終戦後、一旦は日本に戻るが、そこには親戚も知人の一人も居ず、まるでカズの心地は浦島太郎。 恋しさ募り、他に当て無しのカズは母の墓地を目指すも、既に満洲は政情不安で踏み入る能(あた)わず、朝鮮半島はソウル、かつての京城(けいじよう)に足留め。 そこで先の話へと繋がる。 赤児を抱いて、カズはソウルを逃れて釜山(プサン)に向かうが、途中、瀕死の幼い姉弟二人も救っている。 見ゆるカタチは母子四人連れだが、血の繋がりどころか、縁もゆかりもない。 釜山に辿(たど)り着いたカズはバラックを建て、埠頭で荷下ろしなど手伝い、その日銭で三人を養う。 自分を売り飛ばし、こき使った他民族を恨みもせず、カズが育てた韓国人孤児は百三十三人を数えた。 やがてカズの存在は韓国人社会にも知られるところとなり、孤児達を育て始めた朝鮮動乱にちなみ、「三十八度線のマリア」と呼ばれるようになる。 昭和四十年(一九六五)六月、日韓条約が締結され、両国の国交回復。 六年後、韓国政府は長年の功績を称え、カズを「国民勲章・冬柏章(トンペクチヤン)」に叙した。 韓国側の贈呈者は、当時の大統領、朴(パク)正煕(チヨンヒ)。娘の槿惠(クネ)さんも、未だ疑問符の付く話に拘(こだ)わり続けるより、父君と三十八度線のマリアを偲ぶ方が余程に精神衛生には良いと思うが。戦場で敵兵救助した帝国海軍戦場で敵兵救助した帝国海軍 屈託は半島に残し、次なる〈雷〉と〈電〉を中心とする奇跡の検証の為に昭和十七年(一九四二)二月二十七日から三月一日のスマトラ島とジャワ島の間、スンダ海峡へと飛ぶ。 発端を、マレー沖海戦の日本軍航空部隊の雷撃によって、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の水兵達が次々に海中に飛び込んだところに据えよう。 海原に浮かぶ英水兵を日本機は狙い撃ちすることなく、その上空を旋回。 英駆逐艦が海上の生存者を救出し、シンガポールへと退却するを確認しただけで、一発の機銃も撃たず見送っている。 この時、海上に漂っていた英海軍大尉、グレム・アレンは上空の日本機を見上げながら確信する。「日本軍は、一旦戦さ終われば敵味方勝者敗者の別なく、互いの健闘を讃えるのみで、過剰な追撃は加えない――」 場面を、マレー沖からスラバヤ沖へと転じる。 先に〈雷〉と〈電〉の奇跡と書き始めたが、もちろんあの力士ではなく、第三艦隊所属の駆逐艦〈雷(いかずち)〉と〈電(いなずま)〉のことである。 両艦製造の為の鉄は、善行の多さの秘密を解く鍵を溶かして用いたのではないかと思う程である。 さて、〈電〉の酸素魚雷によって傾斜した英重巡「エクセター」に向かい、艦長竹内一は総員を甲板に整列させ、「沈みゆく敵艦に対し敬礼」と令しながら、今まさに海上に展開する奇妙な光景を見た。 飛び込んだ英水兵達が〈電〉めがけて泳ぎ来(きた)るではないか。 先に「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗っていたグレム・アレンは、今は士官として〈エクセター〉に配属されていたのだ。 アレンは退艦するに際して水兵達に告げていた。「飛び込んだあとは、日本艦艇に向かって泳げ。必ずや救助してくれる」 日本海軍の敵兵救出はこの二例に留(とどま)らない。 昭和十七年時の日本海軍の快進撃は驚異的だが、以下に続けるも世界戦史の奇跡の一頁であって、連戦連勝から生じた余裕などというものではけしてなく、特質を越えた日本人の体質であった。 海戦史上にも異例と思える程の長期に亙(わた)ったスラバヤ沖海戦では同様の景色が随所に見られたのだ。 漂流する敵兵に対し、「全員救助」と下令したのは重巡洋艦「羽黒」の森友一大佐で、敵旗艦「デ・ロイヤル」の生存者二十名救出に始まる。〈雷電〉の〈雷〉の方も、日本人乗組員は黙して一人として語る者は無かったが、元海軍中尉、サミュエル・フォール卿なる英国人が自伝を著(あらわ)したことから世に知られることとなった。 自伝をものした敵国のフォール卿をして「ありえないことだ」と言わしめたこととは。 フォール中尉が乗る英駆逐艦「エンカウンター」はスンダ海峡に於いて〈雷〉によって撃沈された。 真夜中の海へと投げ出された〈エンカウンター〉の乗組員達の運命は絶望的である。 フォール卿の記した「ありえないこと」が起きる。 撃沈した〈雷〉工藤俊作艦長は救難中を示す国際信号旗をマストに掲げさせたのち、海上の「敵兵救出」を命じる。 救助された英兵、実に四百二十二名。 工藤艦長以下〈雷〉乗組員は命を救(たす)けたばかりか、重油まみれの英兵の身体を貴重な真水で洗い流し、アルコール消毒した上で、南国の強い日差しを遮(さえぎ)る為の天幕まで張り、衣服、靴も支給し、牛乳、ビスケット、ビールなども供した。 英兵にとっては全てが意外で、感動に頬を涙で濡らしながらも深意を計りかねた。 奇跡と呼ぶには余りに多く、今やスラバヤ沖海戦の至るところでそれは起きた。 駆逐艦〈江風(かわかぜ)〉は蘭軽巡洋艦〈ジャワ〉の生存者三十七名救助。駆逐艦〈山風〉が〈エクセター〉の生存者の一部の六十七名救助。〈雷〉が英大尉グレム・アレンを含む〈エクセター〉の残りの生存者三百七十六名救助。「神宿る」といわれた、あの「幸運艦」、駆逐艦〈雪風〉も蘭軽巡〈デ・ロイテル〉の約二十名救助。 バタビア沖でも米重巡〈ヒューストン〉乗組員三百六十八名救助。豪軽巡〈パース〉の三百二十九名救助。 一部とはいえ、戦争を美しいとは無神経な物云いと承知はするものの、言語に頼る以上、この景色に想いを馳せれば、他の表現は思い浮かばない。 美しさには、戦さでの劣敗や、救けた救けられたのプライドも関係がない。シベリアのポーランド孤児救援シベリアのポーランド孤児救援 善行にも優劣などあろう筈もないが、日本人が他国民に為した中から、まとめとしてシベリアのポーランド孤児七百六十五人救出の事例を選ぶ。 選ぶことが出来る程に数多きことに、我々は日本という国と文化に感謝と誇りを持つべきだろう。 事例に踏み込む前に、先のエルトゥルル号のトルコ同様、多くの日本人のポーランドに対する知識は心許(こころもと)無いのではないか。 出身者として、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人などが思い浮かぶなら上等だろう。 人名以外に、長く消滅していた国、カティンの森の悲劇などが加わると、にわかに不吉な気配が立ち籠めて、シベリアのポーランド孤児を包み込む。 不吉な気配に眼を凝らせば、先のピアノの詩人と呼ばれたショパン(一八一〇~四九)も、亡命後定住したパリで亡命ポーランド人を中心とした貴族社交界の寵児であったことを思い出すし、キュリー夫人(一八六七~一九三四)が生まれたのも帝政ロシアに併合されて既に国は国家の体を成していない時代であった。 地の利に恵まれたとはよくいうが、ポーランドを中心にまわりの国に眼をやると、地の損というか、全くに心安らかになる余地のない位置にあることが判る。 三方からポーランドを囲むのは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアの三強国。 元より白人の身勝手な思い込みに過ぎないが、弱肉強食の論理が領土にも及んで、拡大と縮小の繰り返しが常なる時代。 囲む三国の勢力争いにまき込まれたポーランドは、一七七二年、一七九三年、一七九五年と分割は続き、遂には国家自体が消滅するに至るのである。 その後、ウィーン条約によって独立は果たすものの、君主はロシア皇帝が兼任するという上辺(うわべ)だけのもので、実情はロシア語教育やロシア正教会への帰順と、強制的なロシア化を迫られ、十一月蜂起(一八三〇―三一)や一月蜂起(一八六三―六四)など、何度も立ち上がった自由の為の抵抗は全て鎮圧される。 蜂起は更なる不幸をポーランドに強いることとなる。侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。 そんな折、ロシアの権力者が変わる。 一九一七年に勃発したロシア革命である。 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。 ここにシベリア出兵が実現する。 日本はどうであったか。 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。 理由はひとつ、大義が無い。 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。 ポーランド人はどうであったか。 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。孤児への欧米の薄情、日本の厚情孤児への欧米の薄情、日本の厚情 全ての救いから見放された彼等は、食料もなく、医薬品もなく、暴徒より身を守る術もなく、次の四つ、虐殺、病死、凍死、餓死の中から選ぶ他ない生き地獄へと追い詰められた。 一九一九年、同胞の惨状を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人達によって、ようやく「ポーランド救済委員会」が発足。 しかし、シベリアに出兵している英仏米伊に対する委員会からの窮状救済の懇願はことごとく不調。 各国の、この薄情振りは今日の難民問題処理に重なる。 最後に頼られた日本は、多大なる労力と巨額の費用もものかは、わずか十七日間で救済を決定する。 当時の日本人のフットワークの軽さ、すなわち決断の早さは、武士道に支えられた日頃からの覚悟が背骨にあるように思う。 陸軍の支援のもと、救済活動の根幹を成したのは日本赤十字社で、大正九年(一九二〇)の三百七十五名が東京へ、同十一年の三百九十名の二度に亙るポーランド孤児救出は成った。 孤児達の体調は当然に良好ではなく栄養失調の上に伝染病に冒(おか)され、看護する日本側にも死亡者を出している。 覚悟は途中での自己犠牲も伴うが、日本人は朝野をあげて善意を発揮する。 東京に於いても、大阪に於いても、日本全土からの慰問品や見舞金はひきも切らず、孤児達の為の慰安会も頻繁に催された。 ヒトとしての逆境の限界と云えるシベリアに生まれ落ちて以来、初めて触れる人の温かさに孤児達は精神と体調を回復し、ポーランドへの帰国となる。 言語や習俗習慣が違っても、ヒトとしての善なるものが分母にありさえすれば幼児であっても、意は通じる。 親味に世話してくれた日本人看護婦や保母達との別れを悲しみ、泣いて乗船を拒む孤児も多かったという。 孤児達の心境にはもちろん、看護に当った日本側にも、善意を寄せた当時の全国の日本人にも、今は蒸発しかけたと感じるヒトとしての格を見る。 成したる方、成されたる方を並記すれば、避けたかった〈味方見苦し〉の気配が首を擡(もた)げてしまう。 シベリアから日本を経て、祖国ポーランドへと帰った元孤児の方々も、寿命を迎えて全て亡くなった今、善意の墓標と墓守としての語部(かたりべ)だけが残された。もののふの覚悟の先のDNAもののふの覚悟の先のDNA 数が他国を圧倒するとしても、もちろん善行は日本人の専売などではなく、世界中の歴史に記録され語り継がれているが、ほとんどが平時に多いように感じる。 善行のエッセンスを儒学に探せば、孔子の説く「恕(じよ)」(我事として他人を思いやる)と、孟子の「四端説(したんせつ)」に行き着く。 孟子は、人には先天的に「惻隠(そくいん)(あわれむ心)」「羞悪(しゆうお)(恥じる心)」「辞譲(じじよう)(譲り合う心)」「是非(善悪を判断する心)」の四つの感情が内在すると説く。 孟子の、「惻隠の心は仁の端(たん)なり」の「心」の部分は、『大学』に於いては、「惻隠之情(じよう)」となり、「絜矩(けつく)の道(他人の心を推し量り、相手の好むことをしてやる心情、態度)」と、孔子同様の「恕」の思想を載せる。平時に於いてはこれで結構だろうが、ここに引いた例は、更なる厳しい状況下に於ける判断が求められたのではなかろうか。「義を見てせざるは勇無きなり」は、これまた「論語」であるが、不足の分のエネルギーを日本人は〈武士道〉の覚悟で埋めた。 孟子の、「人の性は本来善なり」と説く「性善説」が正しければ、今少し世界に於ける善行は各人種に散らばっても良さそうではないか。 孔子と孟子に対し浅慮で舌足らずであった。 両先生は、人の素質、素材に就いて云うのである。 玉磨かざれば光なし。 人なる玉の原石を、日本人は〈武士道〉によって磨いた。 トルコの人々も、ユダヤの人々も、ポーランドの人々も、磨いた心を持っての返礼があった。〈武士道〉で押し通す愚説に面喰らった御人もおられようから、他の要素も加えて不足を埋めて、この駄文を閉じようと思う。 不足といっても、遠い先祖に辿り着くような遺伝子にまで至ってはどうかとは思うが、戦さには強かったが、その明け暮れに嫌気(いやけ)がさした一団が日本列島に逃れて土着したとする説がある。 日頃は極めて平和的でありながら、一旦ことあらば負けると判っている戦さでも、素早く覚悟を整えた上で突撃する性癖(せいへき)のような特性は古代より続いている。 土着の逆に、漂流民となっても、ジョン万次郎、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、大黒屋光太夫(こうだゆう)など、卓越した学習能力を発揮した確率は異様に高い。 異様な程の優秀性が先の説を支える。 土着したのち、万世一系の天皇制の元、列島に住む者が入れ子状の家族の〝カタチ〟となった。 時代は下って、その生活の窮乏著しい戦国に於いても天皇家が存続し、けして消滅しなかった、或いは消滅させられなかった奇跡のような理由も説明が付く。 日本人の本家と云える天皇家を、分家である武士が滅ぼすなど、考えようも無い訳である。 この、王族を取り捲く関係の質に於いても、対処に於いても、他民族には例を見ない不思議。 宗教面にも顕著に証拠を残している。 神道(しんとう)と仏教の関係、更にキリスト教が加わっても〈八百万(やおよろず)の神〉とタフに構え、一緒に祀(まつ)り続けた。 これまた他民族には例のない不思議。 次に、今日では日本人までが誤解しているようだが、この列島に人種的差別など無かった。 白色と有色の差を問わず、尊敬の念を持って歓迎した。 白色が有色と差別するを見ても、「ならばお主は無色か?」とは言い返さず、近年での「名誉白人」なる無礼な呼称も腹も立てなかったのは、拘る意識すら無いからである。 これらの素質を分母に、覚悟の点を〈武士道〉で磨きに磨いて、典型的な〈日本人像〉が成った。「奇跡」を護って進まん「奇跡」を護って進まん「八絋一宇(はつこういちう)」の意味についても、GHQ(連合国軍総司令部)による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP=戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付ける為の宣伝計画)」が功を奏してか、日本人まで「侵略戦争を正当化した言葉」と思い込んでいるようだ。 そも、神武天皇の言葉で、「八絋(あらゆる方角=世界)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん」の謂(いい)であり、大東亜戦争時の日独同盟の際、ユダヤ人迫害政策を迫るドイツに対し、時の陸軍大臣、板垣征四郎が「神武天皇の御言葉に反する」と、これを退けている。 日本の国是として先に述べた「猶太人対策要綱」があり、杉原の功績がそれに続いた。 この要綱は、関東軍の安江仙弘(のりひろ)大佐らのユダヤ人擁護を東條英機参謀長が是認して軍の要領としたことが原動力とも言え、ソ満国境のユダヤ難民救援を経て、板垣征四郎が中心となり国策になったものである。 これら、日本人の決断と行動を善とするなら、当時の西洋諸国の思考は悪となる。 東條、板垣、安江、そしてユダヤ人に救いを差しのべた外国人として『ゴールデン・ブック』にその名を載せる〝ジェネラル・ヒグチ〟コト樋口季一郎もいる。〈ユダヤ人救援〉を支えた軍人の名と、その世界唯一の善なる国策は小さくされ、或いは消そうとされ、杉原一人の個人的善行に矮小化せんとの企てあるやに感じるは何故か、何の所為か。 特に、この世界唯一といえる善なる国策から東條英機の名を引き剥がさんとする衝動の源は何処(いずこ)で、何人(なんぴと)の都合に因るものか。 日本がユダヤ人を救っている時、無慈悲にその扉を閉じたアメリカ、イギリス、西洋諸国は、今、何を思うか。 これらの国が日本に歩調を合わせ、ユダヤ難民を受け入れてさえいれば、後のナチスによる数百万人のユダヤ人虐殺は避けられたのではなかったか。紙幅の関係上、名前を挙げるに留めるが、総領事代理、根井三郎、ユダヤ研究者、小辻節三など、「人種平等の思想」を背骨に、西洋の差別主義と闘った日本人は多い。 かくも差別なき国の存在は、珍しかろう。 末尾に慌しく、その特性を並べたが、手前味噌ではなく、如何に日本人が不思議で、特異な存在であるかはご理解戴けると思う。 云わば、人類の理想型といえる。 他国もまた、理想に到達してくれていれば、善意の応酬によってこの世界から貧、愚、悪などは姿を消す筈なのに未だ果たせないのは何故か。 グローバリズムの未来は新たな軋轢を生み、価値観の再構築の為の大混乱が待ち受けるというに、ヒトは止めようとしない。 他国頼みは無理であり、無駄である。 日本人による「天皇制」と「武士道」の獲得は人類史の奇跡と云える。 先輩達から受け継いだ、この奇跡を回復し、維持し、釈迦の申す犀(さい)の角の如く、一人進むの他はない。くろがね・ひろし 昭和二十年高知県生まれ。三十九年武蔵野美術大学中退。四十三年『山賊の唄が聞こえる』で漫画家デビュー。平成九年『新選組』(PHP研究所)で第四十三回文藝春秋漫画賞、十年『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞、十四年『赤兵衛』で第四十七回小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。ギャンブル好きで競馬ファンとしても知られるが、政治や国際関係の見識は高く、民主党政権「失われた三年間」のデタラメ政治を痛烈に批判。中韓露の反日プロパガンダに対しても事実を挙げながら、漫画家らしい皮肉たっぷりの反論を展開している。著書に『千思万考』シリーズ、『GOLFという病に効く薬はない』(ともに幻冬舎)、『韓中衰栄と武士道』(角川学芸出版)、『新・信長記』『本能寺の変の変』(ともにPHP研究所)。近著に『刀譚剣記』(同)。

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    ドーピングと北方領土、「勝てば官軍」が露の本質

    いう、秩序のための基本的精神が欠如しているのだ。約束を反故にするロシアに笑顔と揉み手で歩み寄る日本 日露関係に関しても日本の指導者や政府はこの面で幻想を抱かず、冷静な目でロシアの行動・論理を直視して対応を考え直すべきだ。最近も、日露間で経済協力の合意が幾つか打ち出された。5月6日のソチでの日露首脳会談でも、日本側から8項目のロシア極東発展に向けた協力提案がなされてロシア側は歓迎し、9月初めウラジオストクで予定されている安倍・プーチン首脳会談で、それらが更に具体化される予定だ。 しかし私が理解に苦しむことがある。それは、領土交渉と平和条約に関するロシアの態度は近年ますます強硬になっており、これに関して両国首脳が過去に署名した諸合意は、歪曲され反故にされている。それにも拘らず、日本政府はプーチンやロシア側に笑顔と揉み手で歩み寄り、経済協力推進などの要望に懸命に応えていることだ。北方領土の歯舞群島。手前は納沙布岬 対等な国家間の外交関係としては異例だが、日本の首相が一方的に数回続けて訪露している。しかもソチでは、「カタール外相との会談」が理由で、遠路訪問の安倍首相をプーチンは1時間も待たせた。もちろん、どちらが会談を懇願しているか、どちらが格上かを示す意図的演出だ。 昨年9月、国連総会の際の日露首脳会談で、遅れそうになった首相が大統領に走り寄り笑顔を振りまく場面がロシアテレビで幾度も放映されたが、これも同じ意図だ。 ソチで安倍首相はこれまでの発想にとらわれない「新アプローチ」を提案したとされる。昨年4月、首相訪米の際、オバマ大統領はG7が対露制裁で協力している状況下での年内のプーチン招待を考え直すよう説得しようとした。しかし首相はオバマ大統領に最後まで言わせずに断固それを拒否し、同席したライス大統領補佐官も首相の剣幕に絶句したという。「ヒキワケ」発言はまやかし また、今年2月、オバマ大統領が電話で首相に、ソチ訪問につき時期を考えるよう再考を促したが、これも強く拒否した。「ヒキワケ」発言はまやかし プーチンに決断の意思はない では、ここまでして強行したソチ会談後、ロシア側の態度は変化したか。会談前の4月14日、プーチンは記者会見で、平和条約問題の「妥協策を見出すためには、継続的に絶えることのない対話を行う必要がある」と述べた。彼は12年3月に柔道用語の「ヒキワケ」「ハジメ」を使い、両国外務省に話し合いの「ハジメ」の指令を出そうと述べ、次官級会議も設けられた。しかし領土交渉は、クリミア事件前の日露最友好期も含めて、1センチメートルも進んでいないどころか大幅に後退している。ロシアが反故にする北方領土に関する取り決め (出所)各種資料をもとにウェッジ作成  両外務省はこれまで数十年、議論すべき事はし尽くした。残るは、両首脳、特に大統領としてのプーチンの政治決断のみだ。しかし彼の提案は、ひと事のように「絶えることのない対話」だけだ。彼には政治決断の意思もその力もない。 プーチンは05年9月に「第2次大戦の結果南クリル(北方4島)はロシア領となり、国際法的にも認められている」と述べた。これを受けロシア外相も「第2次大戦の結果」を認めないと平和条約交渉は一歩も進まない、との強硬論をソチ会談前もその後も繰り返している。6月に訪日したナルイシキン下院議長も同じだ。ラブロフは今年1月、平和条約締結と領土問題解決は同義ではない、とこれまでの両国の交渉を全否定する発言もした。 プーチンは、ソチ会談後の5月20日の記者会見で、経済協力と領土問題の切り離しに成功したのか、との質問に、「一方を他方と結びつけない」と2回も強調した。つまり、領土交渉と関係なく、経済協力のみを発展させるという意味であり、両者を共に進展させるという日本の立場を真正面から否定するものだ。安倍首相の想いとは裏腹に遠ざかる北方領土 01年のイルクーツク声明や03年の日露行動計画などプーチンが大統領として署名し幾度も認めた「択捉、国後、色丹、歯舞群島の4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との東京宣言を、プーチンは完全に反故にしようとしている。この合意は領土問題を認め、それを解決することを謳ったもので、けっして強硬論ではなく中立的な立場の合意だ。 日本政府は対露政策の基本として、両国の合意をロシアが一方的に反故にするのであれば、経済その他の面での協力には自ずと限界があるという意思を、明確に示すべきである。 安倍首相が北方領土問題すなわち国家主権侵害問題の解決を対露政策の最重要課題としているのは、主権国家の首長として正しい。毅然たる姿勢を示すことは、わが国の対外政策、安全保障政策全般にとって重要だ。焦らず長期的な視点から対応すべきである。

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    日本はロシアを甘く見ることなかれ

    【世界潮流を読む 岡崎研究所論評集】岡崎研究所 フィナンシャル・タイムズ紙が「日本はロシアに注意深く対応しなければならない。短期的リスクが長期的な戦略論理を相殺する」との社説を11月8日付で掲載、日本がG7の団結を乱しているのは深刻な誤りではないかと論じています。社説の論旨、次の通り。 安倍総理はプーチンと不思議な外交的ダンスをしている。ウクライナとシリアでの出来事がロシアの政府と日本の同盟国の米・EUとの距離が広がる中で、彼のタイミングは理解困難に見える。しかし、安倍氏は、長期的でグローバルな論理に反応している。問題は、深刻な短期的リスクと戦略的理由づけをどうバランスさせるかである。 日ロ両首脳は意義のある成果の達成に投資している。安倍氏は北方四島をめぐる領土紛争の行き詰りを打開することに公にコミットしている。この紛争が日露平和条約の署名を妨げてきた。 安倍氏にとり島は重要な成果になる。安倍氏はロシアへのより大きな影響力がより深い中露同盟の形成を抑止すると希望している。ロシアへの接近は日本の対中戦略の一部でもある。東シナ海では尖閣紛争、中国のガス田開発が日中の緊張を高めている。安倍氏はロシアを引きつけることで中露間にスペースを作ることを希望している。 基礎作りのために日本はロシアとの経済関係を拡大しようとしている。プーチンはこのアプローチを好んでいる。彼は特にシベリアにおけるエネルギー・プロジェクトへの外国投資を切望している。彼は紛争中の島について交渉する意欲を示し、日本では希望が出て来ている。ロシアのプーチン大統領(タス=共同) 世界は中国の自己主張に直面し、安定的な力のバランスの維持に焦点を合わせている。日本のアプローチはその面で有益でありうる。ロシアが権威主義ブロックの中の「ジュニア・パートナー」になり、中国の影響下に永久的に入ってしまうチャンスを減らすことになる。しかし、そういう結果がでるためには数十年必要であろう。 中期的には、プーチンへの日本のアプローチはG7の調整を弱め、モスクワに対する制裁を掘り崩す。 日本の国益へのリスクもある。多くの専門家は、日本は1956年の共同宣言で平和条約調印時に返すとされた歯舞、色丹の2島しか得られないだろうという。これは全体の7%であり、経済的、安全保障上の意味はほとんどない。この小さな利得のために、日本は米あるいはEUを疎外するリスクを冒せない。 また中国とのライバル関係で、平和条約調印後でさえロシアが意味のある支持をすると期待すべきではない。ロシアは中国に対し警戒心を持つが、特にガスを東に送るパイプラインについて中国との強い経済関係を望む気持ちはそれ以上に強い。 日本が長期にわたる紛争を片付け、中国の地域での増大する力を相殺する道を捜そうとするのは理解できるが、それをG7の分裂というコストを払ってすることは深刻な誤りであろう。出典:‘Japan must proceed cautiously with Russia’(Financial Times, November 8, 2016)https://www.ft.com/content/65b55402-a501-11e6-8b69-02899e8bd9d1日本は制裁破りを避けるべき この社説は安倍首相のプーチンへの接近を批判したものです。北方領土問題という日本の主権にかかわる問題を打開しようとすることには、欧米、特に米国の有識者もそれなりに理解しているでしょうが、同時に、彼らは、対露制裁を日本が掘り崩すことにならないか、日米関係にくさびを打つというロシアの狡猾な外交に騙されないかとの懸念も持っているように思われます。北方領土・歯舞諸島日本は制裁破りを避けるべき この社説が提起しているG7の団結については、日本は制裁破りを避けた方が良いと思いますが、ドイツもウクライナを迂回するガス・パイプラインのノルド・ストリーム2をポーランドなどの東欧諸国、イタリアの反対にもかかわらず推進しており、制裁破りの指摘を受けずにできる事はあると思われます。またトランプ大統領の選出は米国自身の対露姿勢の変更にもつながりうるので、情勢を注意深く見つつも、G7の団結維持をそれほど気にする必要がなくなる可能性もあります。 しかし、もし政府が対露関係改善で中露離間を図るということを考えているのであれば、それは無理な願望ではないでしょうか。 たとえばガスについては、2018年から30年間、年間380億立方メートルをロシアが中国に供給するという40兆円規模の協定ができています。政治的には中露間には準同盟条約とも言える中露善隣友好協力条約があります。 ロシア人は中国に警戒心を持っていますが、「ジュニア・パートナー」としてでも対米関係上、協力していくしかないと判断していると思われます。長大な国境を共にし、中国北東部には1億以上の人口があり、ロシア極東には600万くらいしかいない中、またGDPで中国の約10分の1しかない中、そういう選択をするのが当然でしょう。ちなみにロシアのGDPは2015年のIMF統計では韓国以下です。 北方領土問題については、4島は日本の領土であるとの正当な立場を堅持したまま(固有の領土であるいかなる島も放棄することなく)2島が先行返還されるということであれば、それは成果と言えるでしょう。

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    敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ

    別冊正論27『「美しい日本」ものがたり』 (日工ムック) より岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)古今随一の陸の名将 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。正装した乃木希典 国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。花も実もある真の武人花も実もある真の武人―水師営の会見― 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11) このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」 ステッセルは愕然として言った。「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。敵将の不遇知り救済の手尽くす敵将の不遇知り救済の手尽くす ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。第三軍招魂祭で弔文を読み上げる乃木希典 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』) 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。学習院長―教えのおやとして 学習院長―教えのおやとして   明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』) 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。 そうしてこう言った。「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。廃兵へのいつくしみ廃兵へのいつくしみ 東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う将帥(しようすい)が乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。時折、天皇からの御下賜品があると真先に分け渡した。 廃兵たちは時をおかずやって来る乃木の厚い情に感泣し、来院を何より喜んだ。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵院は歩ける者は葬列に加え、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着かせた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。ただ一言の〝講演〟 戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりでいたが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。 ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、やがて双頬(そうきよう)に涙を流し、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。 長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。日露戦争の最大貢献者、国民的英雄の話を聞けると瞳をこらして待つ純真な生徒を前にして、乃木は万感胸に迫り、この言葉を発したのである。この「たった一言の講演」はその後この地で、感動をもって長く言い伝えられた。街角の孝行少年へのいたわり街角の孝行少年へのいたわり 靖國神社近くの街角で夜ごと辻(つじ)占(うら)売りする十一、二歳の少年がいた。辻占とは占いのみくじ。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たままの生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の面倒を見る評判の孝行息子であった。 陸軍記念日の三月十日夕、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。泣くがごとく猶予を訴える母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。涙を流し畳に額を擦り付けて礼を述べる母子に「礼には及ばん。松(しよう)樹(じゆ)山(ざん)に名誉の戦死をなされたあなたの夫は私の部下だった。夫を殺したのはこの乃木だと、さぞ恨んだことだろう」と打ち明け、「仏前に」と二十円、「孝行するんだよ」と少年に五円を渡した―。乃木神社の旧乃木邸にある「乃木大将と辻占売り少年像」 これは、乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった。 乃木が少将だった日清戦争前の明治二十四年、所用で金沢を訪れ、街角で辻占売りをする八歳の今越清三郎少年に出会った。夜も働いて家族を支える姿に心動かされた乃木は持ち合わせた二円を渡して励ました。今越少年は乃木の激励を心に刻み、金箔師として精進し、滋賀県無形文化財に指定された。昭和四十九年に九十一歳で亡くなるまで、その恩を各地で語り伝えていた。 乃木は学習院長になっても、陸軍大将と軍事参議官を兼ねていたから多額の俸給があったが、その大半を戦歿者遺族への弔慰、遺族・旧部下の困窮者への支援、傷病者への医薬費、廃兵の慰問、その他公共事業への寄付等に使った。殉死―みあとしたいて殉死―みあとしたいて 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)                           臣希典上(たてまつる)神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる                                 臣希典上うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。一世の哀悼―沿道を埋める人々一世の哀悼―沿道を埋める人々 九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭をたれ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。葬列に加わったある軍人はこう伝えている。「青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は無慮(およそ)二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を拝した群衆は敬虔な態度を以て迎え、厳粛なる気持に粛として声なく、霊柩を見送る眼には稀代の忠臣とその遺体に対して最後の別れを致さんとする姿が反映しており、筆者の胸を打った最も尊き感激であった。乃木夫妻の葬列。立錐の余地もないほど沿道を埋めた人々の前を今、夫妻の霊柩が過ぎようとしている(『回顧乃木将軍』) しかるに次いで来れる夫人の柩、その間約三十歩、その柩を見た瞬間に群衆の態(たい)姿(し)は一変し、敬慕、愛惜、ことごとくが涙であった。合掌礼拝するもの、感極って嗚咽するもの、眼に涙を拭うもの、土下座せる老(ろう)媼(おう)(老婆)は地に顔を摺(す)りつけ慟(どう)哭(こく)する有様、沿道のすべてがそれであった。棺側にあってこの光景を見つつ筆者は一つ一つ胸に迫る衝動に、抑えんとして抑え兼ぬる涙が次から次へとこみあげてくる。ようやく堪えてこの場を通りすぎると、また新たなる同じ感激の場面に遭遇する。ついに我慢しきれず涙は頬に伝わって落ちてくる」 乃木と静子夫人の殉死に日本人がいかに魂を搖さぶられたかが、この記述からよくわかる。また、夫妻の殉死は英米はじめ各国主要紙にも大々的に報じられた。 乃木は近代日本を代表する国民的英雄であった。乃木は「自分の身体はひびが入っている」と言っていた。西南の役で明治天皇から賜った連隊旗を奪われるという過ちを犯した痛切な罪の自覚が、乃木希典という稀有なる人物を玉成させた。 そして「忠君愛国の至誠、献身犠牲の大(たい)節(せつ)を万古(ばんこ)不易(ふえき)(遠い昔より不変)の大信念に貫き、一死以て君国に殉ずるのが日本国体の精華」という一大信念を、身を以て実践した。 乃木希典こそ、東郷平八郎とともに日本人の誉れであり、世界に誇るべき日本人の一典型であった。おかだ・みきひこ 昭和二十一年北海道生まれ。國學院大学中退。在学中から日本の歴史上の人物の研究を続け、日本政策研究センター発行の月刊誌『明日への選択』に多くの人物伝を連載している。平成二十一、二十二年産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載。全国各地で行う人物講演は年間百数十回に上る。著書に『乃木希典―高貴なる明治』『東郷平八郎―近代日本を起こした明治の気概』『小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂』(いずれも展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り一〇三人』(光明思想社)、『二宮尊徳』『維新の先駆者』(日本政策研究センター)など。

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    日ソ共同宣言から「領土問題をも含む」8文字が消えた理由

     北方領土返還交渉の裏では、ロシア側も多くの見返りを求めている。ジャーナリスの櫻井よしこ氏が、ロシア・ソ連のしたたかさを示すエピソードを紹介する。* * * テレビをはじめとするメディアで、「2島が戻ってくるとしたら、それだけでも十分な成果である」といった声が報じられています。日本の国内世論が妥協を是とするなら、プーチン大統領はその点を見逃さないはずです。仮に「歯舞、色丹の2島返還」「残る2島については将来的に解決する」といった形で平和条約を結べば、国後と択捉は返ってこないでしょう。1956年12月、日ソ共同宣言の批准書を交換する重光葵外相(右)とフェドレンコ・ソ連外務次官=外務省 2島が返還されるとしても、残る2島の「返還期日」や「返還プロセス」を盛り込むことで、「4島は日本の領土」という原点を押さえておくことが大事です。ロシア側のしたたかさを示すエピソードがあります。 1956年の日ソ共同宣言が出される20日前、日本側の松本俊一・全権代表とソ連のグロムイコ第一外務次官の間で「松本・グロムイコ書簡」が交わされました。 そこには歯舞、色丹両島を日本に引き渡したうえで、日ソ両国が〈正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続することに合意する〉と明記されていました。 ところが、日ソ共同宣言では、平和条約締結後の「歯舞、色丹両島の日本への引き渡し」は明記されたものの、〈領土問題をも含む〉の8文字は削除されました。 日本側はソ連に「我々の案を飲まないのなら共同宣言を出さなくてもいい」と恫喝されて妥協したのです。当時は当時の厳しい事情があったとはいえ、このことが北方領土問題における日本の立場を後退させました。 ロシアは、少なくとも歴史を振り返れば、約束を平気で踏みにじってきました。日本は法治国家、中国は人治国家と言いますが、ロシアは「力治国家」です。強い力で統治する。外交も強い国の主張には耳を傾けるけれど、そうでない国の主張は聞き入れられないということです。 日本には日本なりの実力と強さがありますが、安全保障面で自立できない弱さもあります。 そうした中、安倍首相は繰り返し「北方4島の帰属問題」と発言していますから、ロシアの手法を十分承知だと思います。「原点」を胆に銘じてプーチン氏との厳しい外交交渉に臨んでほしいと思います。関連記事■ 日本と中国・韓国・ロシア 領土問題の真実をひもといた本■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 大前研一氏 北方領土問題を解決する「3つの提案」とは■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」

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    プーチンと習近平、彼らはなぜ攻撃的外交という「夢」を見るのか

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 中国は南シナ海・スプラトリー(南沙)諸島に岩礁を埋め立てて建設した人工島の軍事拠点化を進めている。それに対し、日本、米国、南アジア諸国は中国側に航行の自由の原則を守り、国際法を順守するように強く要求している。 中国側は人工島から12カイリ(約22キロ)内を領海と主張しているが、同人工島は満潮時には水没する岩礁を埋め立てて建設したのもので、国連海洋法条約ではその周辺を領海とは認めていない。中国側はなぜここにきて米国と対立する危険性を冒してまで人工島の軍事化を急ぐのだろうか。北京で会談し握手するロシアのプーチン大統領(左)と中国の習近平国家主席=9月3日(タス=共同) 目を欧州に向ける。プーチン大統領が率いるロシアはウクライナのクリミア半島を編入する一方、北欧領域に潜水艦を派遣するなど軍事的プレゼンスを強めている。クリミア半島の併合宣言は欧米諸国の強い反発を呼び、対ロ制裁が実施中だ。にもかかわらず、プーチン大統領はクリミア半島から撤退する考えはないばかりか、ウクライナ東部の親ロ派勢力への影響力を強めている。 プーチン大統領は、クリミアが伝統的にロシア領土だったと主張し、国境線の不変更という原則を破ったことに対する国際社会の批判に対し一歩も引きさがる様子を見せていない。 ここで問題とすべき点は、なぜプーチン大統領は国民経済への悪影響も恐れずにクリミアの併合に乗り出したのか。なぜ中国の習近平国家主席は米国の反発を知りながら、人工島の軍事化に乗り出しているのかだ。厳密にいえば、なぜ「今」、両国は超大国・米国の反発を知りながら、国際法を無視してまで拡大政策、攻撃的外交を展開させるのか、という点だ。 冷戦時代のソ連共産党の外交を想起すれば、その疑問に答えを見つけることができる。ズバリ、敵が弱い時には強硬政策を貫徹する一方、敵が強いと分かれば、一歩後退し静観する政策だ。相手国が弱いと分かった時、ソ連共産党政権の攻撃性、野蛮性は特出していた。相手国の抵抗を容赦なく力で抑えた。なぜならば、相手が弱いからだ。一方、相手が自分より強いと分かれば、正面衝突を避け、一歩後退する。キューバ危機(1962年)を想起すれば理解できるだろう。 最近では、ソ連の解体は米国が軍事力、経済力で圧倒的に上回っていると理解したゴルバチョフ大統領(当時)がレーガン米政権の力の外交の前に屈服した例だ。レーガン米政権は最後まで力の外交(例・スターウォーズ計画)を緩めることなく、経済的に裨益していたソ連を圧迫したのだ。 それでは、ソ連解体の悪夢に悩んできたプーチン大統領がクリミア半島を併合し、シリア紛争でも米国側の反発を恐れず、反アサド政権派勢力に空爆を繰り返すのはなぜか。答えは、相手(米国)が弱いと分かったからだ。もう少し厳密にいえば、オバマ大統領を指導力のない大統領と判断したからだ。 同じことが言える。大国の地位の確立を願う習近平主席は、米国の力が弱ってきていることを知っているはずだ。だから、米国と正面衝突を回避しながらも、その拡大を慎重に進めているのだ。プーチン大統領も習近平主席も、オバマ大統領が平和を愛し、戦争を回避する大統領ということを知っている。 米国民の最大の関心は次期大統領選に移っている。オバマ大統領にはこの期間、次期大統領に負担となるような外交決定を下しにくいという事情もあるだろう。 プーチン大統領も習近平主席も「夢」を見る指導者だ。プーチン氏は解体した大国・ソ連を再び復興させたいという夢を、習近平主席は中国の大国化という「中国の夢」を見ている。 「夢」(野心)を待つ指導者の登場が世界の平和に幸福をもたらすか、それとも紛争と混乱を誘発させるだろうか。 いずれにしても、世界は「夢」を持つ露・中国指導者の登場に不安な眼差しを向けている。なぜならば、彼らの「夢」がマーティン・ルーサー・キング牧師の「夢」(I have a Dream)とは全く異質のものと感じているからだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2015年11月10日分を転載)

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    まやかしの霧が覆う樺太の歴史

    ロシアの武力威嚇によって掠め盗られた樺太。日露戦争で回復した南半は大東亜戦争後にロシアが不法占拠し続けるが、左翼勢力はこれを是とし、侵略された歴史を何が何でも隠そうとする。改めて日本の北方領域・樺太の歴史を振り返る。

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    「樺太って何?」 16世紀からの日本領も現在は死語!?

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より高橋是清(樺太研究者)「樺太」を知っていますか? こんな質問をすると「当たり前でしょう」という人がいる一方、「何それ?」と答える人が近年急速に増えている。 数年前、私はどうしても、「樺太」という地名が未だ一般的に使われているのか否か知りたくなった。何故ならば、一般社会では「樺太」という地名が通じないように思えたからだ。特に若者や子供たちには、「樺太」という地名を認識しない傾向が強いように思えた。 そこで平成十九年、私は全国八百四十の小中学校に対しアンケートを実施し、十六校より回答をいただいた。アンケートの質問内容は、小中学生が樺太という地名を知っているか否かの一点に絞り、各校の教頭に次の趣旨の手紙を送った。(イ)在籍児童・生徒の何人が「樺太」という地名を知っているか調べていただけるでしょうか。(ロ)可能なら、回答用葉書に分母・分子を記入していただきたい。(ハ)つまり、二十人に質問し、八人が知っていると答えた場合、二十分の八と記入していただきたい。 回答は十六校にとどまったが、突然のアンケート依頼に対応いただいた先生方に深く感謝する。各校からの回答を集計すると、樺太を知っている比率の平均は四割四分八厘にとどまった=表①。 それでも、回答を得た小中学校の多くは、樺太と何らかの関係を持つ地域にあったため、「はい(知っている)」の割合は、全国的により大規模に調査を行った場合に比べ、高くなっているものと推定される。 この結果は、どのように受け止めるべきであろうか。樺太と深い関係がある北海道に於いてさえ、「はい」は六割四分四厘である。これは、もう全国的には、「樺太」という地名は死語になりつつあると考えるのが妥当ではないのか。広辞苑にも「樺太」死語化の波 国語辞典としてよく知られる『広辞苑』(岩波書店)の第二版補訂版(昭和五十一年十二月刊)で「からふと」と引くと、このように載っている。「からふと【樺太】東はオホーツク海、西は間宮海峡の間にある細長い島。明治八年ロシアと協約して全島を千島と交換、明治三十八年日露講和条約により北緯五○度以南は日本領となったが、第二次大戦後ソ連領土に編入。サハリン」 私としては、この記述には抵抗感がある。その理由は後述するし、「樺太」についてちょっとでも調べたことがあれば「自分もこのような記述には抵抗を感じる」という方が少なからず存在するものと確信する。 百科事典の性質も帯びた『広辞苑』は膨大な情報を扱うから「この記述は誤差の許容範囲内」と済ませていいものだろうか。 とはいえ、疑問符が付くこの記述さえ過去のものである。平成十年刊の第五版では「からふと【樺太】サハリンの日本語名。唐太」となる。 この第五版の記述に、私としては、抵抗感のようなものは抱けない。記載が少な過ぎる。ただただ「樺太」という地名が死語になったと感じてしまいそうになる。「感じてしまう」のではなく「感じてしまいそうになる」のだ。それは、私の意識の中で「『樺太』という地名が死語になった」と納得する寸前に、「『樺太』という地名は意図的に使われなくなったのではないのか」という疑義が生ずるからである。 この一例を挙げよう。気象庁ウェブサイト上には「『樺太』は用いない」という備考がある。何故、わざわざ、このような備考を設けているのであろうか。「北海道の北に位置する細長い島」を日本語名で「樺太」と呼ぶことに何か不都合があるのだろうか。あるとすれば、誰にどのような差し障りがあるのだろうか。 いや、この気象庁の件は、不都合や差し障りという類の話ではないのかも知れない。戦後に於いて、我が国が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策による、当然の帰結と考えることはできないであろうか。少し論じてみたい。 私は、昭和五十年代に小学校に通ったのだが、この時は、社会科の時間帯に皆で地図帳を広げる機会が度々あって、「北海道の北に位置する細長い島」が「樺太」と呼ばれていた記憶がある。 また昭和の終わり頃に、道行く外国人に世界地図を見せ「日本の範囲をマジックで括ってください」とお願いするテレビ番組があった。外国人の一人が、日本の範囲の中に樺太をも含む状態で我が国を括ったのだが、私は、それを見た進行役の関口宏が「樺太も含まれるのだ」という意味の発言をしたことを覚えている。  つまりは、昭和の終わり頃までは、「樺太」という地名は普通に使われていたものと推測される。ここ三十年の間に、「樺太」という地名を消し去ってしまう程の一大事はあったのであろうか。「大東亜戦争に於ける我が国の敗北」に匹敵するほどの大きな出来事はなかったように思える。 では、戦後、日本政府が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策が、ある種の社会現象を引き起こし、その現象が「樺太」を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)という仮説を立て、話を進める。「日本は悪い」が「樺太」追いやる「日本は悪い」が「樺太」追いやる 戦後、我が国に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)が行った言論統制は、「改革」という名の下で、戦勝国側に都合の悪いことは報道及び掲載を規制し、日本国民の脳裏には、学校教育などの場を通して「日本は悪い国であった」という一方的な考えが刷り込まれた。 もちろん、戦時下で過ちを犯してしまった先人もいるだろう。だからと言って、国民がそのような過ちの部分のみに焦点を当て、祖先の偉業を必要以上に否定してしまえば、結局のところ、後世に事実は伝わらない。歴史の歪曲が起こる。 このようなGHQの占領政策よって醸成されたのが、国民自身による「偏った歴史の見方」である。特に、ソ連が樺太を再併合し、ほかの戦勝国がそれを容認するうえで、日本国民が「日本は悪い国であった」と「偏った歴史の見方」をしていてくれることは、大変都合がよかった。 戦勝国側は、我が国によるアジア諸国に対する「植民地支配」を断罪する過程で、敗戦当時は歴とした日本本土であった樺太までも「植民地」と見なし、事実上、これをソ連に引き渡したのだ。 日本政府は、敗戦からサンフランシスコ講和条約に至るまでの間に幾度も、戦勝国側に対し「我が国が樺太を放棄させられることは不当である」という旨を伝えている。これは「植民地ではない日本本土たる樺太まで何故放棄させられなくてはいけないのか」という抗議と解していい。 同条約により、「日本本土」であった「樺太」は無理やり我が国から切り離された。とは言え、この条約は、樺太が最終的にどの国に組み込まれるか規定していない。尚且つソ連は、我が国の樺太放棄を定めたこの条約への署名を拒否した。ソ連は、サンフランシスコ講和条約への署名を拒否したにも関わらず、当時既に占拠し終えていた樺太の実効支配は継続したのである。 平成二十七年現在、ソ連の継承国たるロシア連邦が、何らの国際法にも基づかず樺太の不法占拠を継続している。樺太は今なお、国際法上「帰属未定地」なのである。樺太の北緯50度以南と得撫島以北の千島列島が帰属未定であることを示す地図(全国樺太連盟) 戦後発生した「日本は悪い国であった」という「偏った歴史の見方」は、いわば日本人の歴史に対する思考停止である。この「思考停止」が「樺太は『日露戦争で日本に収奪された土地』であるが、大東亜戦争敗戦による『日本帝国主義の終焉』に伴い、元々の持ち主であったソ連・ロシアに還された」という誤った認識も生み出した。 この誤認が、日本国民の樺太史に対する思考停止をも生み出し、結果として「樺太」という地名を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)と考えることができる。「樺太」を死語にさせる別要因 樺太の歴史は、世間一般であまり語られることがない。それには、いろいろな原因があるだろう。前述した様な誤認などもあれば、「樺太史はややこしい」ということも一因と考えられる。樺太の歴史は、それを要約する(考える)時に多少骨が折れ、結果として、世間一般はそれを考えなくなった(なってきている)のではないか。 物事とは、ほんの少し骨が折れる限り、よほど関心の強い人たち以外は、それからドンドン遠ざかっていく。樺太史も例外ではない。樺太史は骨が折れるので、世間一般は敬遠するようになり、こうした現象が樺太史を埋没(風化)させ、結果として「樺太」を死語化させた(させている)別要因と言えるのではないか。 学者たちの多くは、このような側面には触れようとしないが、学習人口が減りつつある(と推定される)樺太史を考察するうえでは、こうした現実も、正面から見据えることが欠かせないと思われる。「樺太」の回復と風化の抑制「樺太」の回復と風化の抑制 「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制は可能であろうか。不可能ではないと私は考える。ただし、それには若年層に樺太への関心を持ってもらう必要がある。とはいえ、それは容易ならざることである。 樺太について一定の知識をもつ人々が、若年層に伝える必要があるが、その際、伝えられる側の立場(理解力などさまざまな要素)を推し量ってやらないと、現実問題としてほとんど何も伝わらない可能性がある。 〝伝える側〟〝伝えられる側〟相互の努力・作用によって樺太という地名の回復とその死語化の抑制を図れるはずだ。表について多少補足すれば、「伝えられる側」は経験もなく、教育も受けていない若年層ということ。「樺太を直接知らない大人たち」は、「樺太について一定の知識を有する人々」と「若年層」のどちらにも属すと見なした。つまり、自身より樺太を知っている元樺太在住者などと接する時は「伝えられる側」となり、自身より知らない「小中学生以下」などと接する時は「伝える側」となり得るからだ。 長々と定義や補足を書いたが、一言で言い換えるならば、「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制には「国民的な関心」が必要であるということになる。樺太の「事実」を列記してみる 私を含む「大人たち」をみても、樺太についての知識は、それぞれの経歴や立場によって千差万別なはずである。そこで、樺太について幾つかの事柄を列記してみる。なるべくわかりやすく書いてみるので、これらの中から樺太について何らかの話題性を見出し、若年層との話の種にしていただければと思う。■横線(北緯五十度線)の意味「北海道の北に位置する細長い島」の日本語名は「樺太」である。何種類もの地図や地図帳で、この島を詳しく見てみると、それらの中には、「樺太」の真ん中に「同島を南北で二分する様な横線」を入れているものが見受けられる。日本語で発行された世界地図には、この線が入ったものが比較的多い。ロシアとの「友好」「協力」ばかりで全樺太がまるで正当なロシア領のように表記する地図(北海道庁) この「樺太を南北に二分するような横線」を一般的には「(樺太上の)北緯五十度線」または「(樺太)国境」と呼ぶ。ご老人や幾分歴史を学んだ学生・生徒には、「北緯五十度線」と聞いた瞬間に、この「樺太上の北緯五十度線」を思い浮かべる人も少なからずいるはずである。■横線(北緯五十度線)の経緯 明治初期、当時のロシア帝国はヨーロッパ列強の一角を占め、強力な領土拡張政策を推し進めており、我が国の統治下にあった樺太も自国に併合しようと目論んでいた。 我が国は、樺太防衛のために手を尽くしはしたものの、強大な軍事力の前に力及ばず、結果として、同国に「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力で樺太を併合されてしまった。 当時のロシア帝国は、明治後期になると、今度は日本全体をも植民地として吸収することを企て始め、(国力で劣る)我が国は、これを同国との対話によって防ごうと試みた。しかしながら、当時のロシア帝国の野心は収まることを知らず、明治三十七(一九〇四)年、緊張は極限に達し、日露戦争が勃発した。 ロシア帝国は、我が国を打ち負かせると確信していたようではあるが、現実には陸海とも我が国に叩き潰され、翌明治三十八年には、我が国との間に講和条約を結ばざるを得なくなったのである。日露戦争緒戦で大勝した帝国海軍連合艦隊(『日露海戦回顧写真帖』昭和10) この時の和平条件の一つが「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」ことであった。この結果、樺太には、「日本に割譲する南半分」と「ロシア帝国が統治し続ける北半分」を明確に区別するため、北緯五十度線に沿って国境線を引くことが決せられた。 樺太の北緯五十度線地帯は当時、密林状態にあったので、日露両国は森林を十㍍幅で伐採して空間を造り、その空間を国境線としたのである。これが、地図上で「樺太を南北に二分するような横線(北緯五十度線)」が入った経緯である。■「割譲」ではなく「返還」 さて、前段で「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」という一文がある。「割譲」という言葉に違和感を覚える方もいるはずである。何故ならば、日露講和に於けるこの「割譲」とは、実質的(歴史的)には「返還」「回復」に相当するからである。これは、我々日本人が明確に認識しておかねばならないことではなかろうか。 日露講和の際、我が国はロシア帝国に対し、事実として何を申し伝え、同国からどのような返答を得たのだろうか。わかりやすく端的に表現するならば、次のようになる。 我が国がロシア帝国との和睦に際し、同国に申し伝えた事実上の内容は「貴国が明治初期に我が国から実質的に武力で奪取した樺太を還していただけないだろうか」ということである。 この申し入れに、ロシア帝国は紆余曲折の結果「樺太の南半部だけを譲る(還す)」と応じてきたのである。 補足となるが、日露の役は、我々の先人方が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。先にも書いたように、ロシア帝国は明治後期に我が国を植民地にしようと企て、樺太を奪ったばかりか、満洲、朝鮮と南下を続け、我が国に迫っていた。ところが、自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、かつて我が国から武力で奪い取った樺太のうち、南半分だけは還さざるを得なくなっただけの話である。「樺太回復期」と「樺太関連呼称」「樺太回復期」と「樺太関連呼称」 元樺太在住者などの樺太関係者の間では「北緯五十度線以南の樺太」が日本領として復帰していた明治三十八(一九〇五)年から昭和二十年(一九四五)年の四十年間を「樺太回復期」と呼ぶことがある。日露戦末期の明治38年7月9日朝、日本軍が樺太・九春古丹(大泊)に上陸した時、ロシアは街を焼き払って退却していた(『日露戦役海軍写真帖』明治39) 前述のとおり、実質的(歴史的)に考えた場合、樺太は日露講和により、その南半分のみが我が国に「割譲」ではなく「返還」された。これによって、樺太は北緯五十度線を以って、「日 本領」と「ロシア帝国領」に分けられたわけである。 その後、北緯五十度線以南を「南樺太」、以北を「北樺樺太」と呼ぶようになった。元樺太在住者の中には、「南樺太」とは五十度線以南の樺太の俗称であり、五十度線以南のみを指す場合でも、単に「樺太」と呼称するのが正しいとする指摘も根強い。 この樺太回復期に、北緯五十度線以北を以南と区別して呼ぶ必要があった場合、これを「薩哈嗹(サガレン)」とも呼称した。「樺太」については、呼び方一つを取っても、難しい側面があると思うので、簡潔に整理してみたい=表②。 樺太=「北海道の北に位置する細長い島」を意味する場合もあれば、状況などにより「北緯五十度線以南の樺太」のみを意味する場合もある。 南樺太=「北緯五十度線以南の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 北樺太=「北緯五十度線以北の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 薩哈嗹(サガレン)=樺太回復期  に北樺太を南樺太と特に区別して呼ぶ必要があった場合に用いた。一部文献では樺太全体を指すのに用いているが、樺太回復期に限れば「北樺太」と同義と考えていい。 多くの学者、特に史学者が樺太について述べる際、この様な呼称の違いを理解して自然に使い分けていると思うが、樺太を知らない人々、特に若年層にとっては、同島の呼び方一つを取ってみても、難解な面がある。学者方は、若年層に樺太を語る際、こうした点もぜひ踏まえていただきたい。■樺太呼称と露国号の変遷 樺太と北海道以南の日本との関わりは、出土品等から、七世紀前後に始まったものと推測されている。この長い歴史の中で、樺太の呼称は、江戸時代以降に限っても、幾度か変遷を遂げてきた。また、樺太から我が同胞を二度に渡り締め出し同島を併呑したロシアも、江戸時代以降に限ってもたびたび国号を変えてきた。 これらの史実も、世間一般には樺太史を難解にしている一因かも知れない。そこで樺太呼称とロシア国号の変遷もざっと整理してみたい。 尚、ロシアに先んじて樺太に進出したのは、我が国(松前藩)である。これは重要な史実なので後述もする。また、ロシアが十九世紀に入り突如として樺太の領有権を主張し始め、事実上武力併合したことも、我々日本人が留意すべき史実と思われる。 まず樺太の呼称変遷=表③=で、一口に「蝦夷地」と言っても、その範囲は時代と共に変化してきた。大和の朝廷の統治外にあった東国(東日本)が、蝦夷地と呼ばれていた。私が知る限り、厳格な時系列で蝦夷地の範囲を明確に示している文献は存在しない。よって、ここでは「蝦夷地」とは基本的に江戸時代の「北海道本島」と考えるが、場合により樺太と千島も含まれた。 江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね南半分と千島」を「東蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の太平洋側と千島を東蝦夷地と呼称した」としている。 また江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね北半分」と「樺太」を「西蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の日本海側と樺太を西蝦夷地と呼称した」としている。 江戸時代に樺太だけを指す際、蝦夷地の一部として「唐太(カラフト)」などと呼ばれていたが、幕府は文化六(一八〇九)年に正式名称を「北蝦夷地」に決した。元禄13(1700)年に松前志摩守矩広が江戸幕府に納めた藩領図(写本)。北海道の上方に小さく記載しているのが樺太。測量技術が未発達なため形状はあいまい 明治二(一八六九)年、探検家の松浦武四郎の考案で、明治政府は「蝦夷地」と「北蝦夷地」を、それぞれ「北海道」と「樺太」に改称した。 ロシアの国号の変遷をみる。江戸時代から大正中期までの国号は、細かくみればいろいろあるが、ここでは基本的に「ロシア帝国」に統一する。ソ連の前身国家である同帝国は、大正中期に共産革命により滅亡した。 大正中期から平成初期までの国号は、同じくここでは基本的に「ソ連」に統一する。正式には、「ソビエト社会主義共和国連邦」と邦訳される。ロシア帝国の継承国家であるが、平成初期に民主化によって崩壊した。これ以降の国号を、ここでは基本的に「ロシア連邦」とする。 ロシア帝国(及びその前身国家)は元来、欧州にあるウラル山脈西部で発祥した国家である。十七世紀以降、次々と北アジアを征服し、十七世紀後半には「東進」とも呼ばれる領土拡張の中で、清朝の勢力圏にも入り込むが撃退された。この後、清の勢力圏を避けるようにして、カムチャツカ半島や千島列島北部を併合。十八世紀終盤から十九世紀初頭には遂に、我が国の統治下にあった北海道や樺太に到達し、これらを併呑する兆しを見せ始めた。樺太の概略史樺太の概略史■我が国の「樺太経営」 前述のとおり、「樺太」と「北海道以南(の日本)」との関わりは、出土品などから、七世紀前後に始まったものと推測される。我が国(松前藩)は、樺太にその南部方面から最初に接触した国家であるが、松前藩及び松前氏の先祖がいつ頃から「樺太」の経営(進出)を始めたのかは不明な点も多い。これは、同藩がアイヌ貿易などで得られる利益を独占するため、樺太を含む蝦夷地に関する多くの事柄を外部(時の政権など)に隠していた事が一因と考えられる。しかしながら、遅くとも十六世紀終盤には、松前氏の先祖である蠣崎(かきざき)氏が、豊臣秀吉より、樺太を含む蝦夷地の支配権を付与されている。松前藩は十七世紀前半には、樺太と他の蝦夷地を内包した国絵領図(十五㌻参照)を作成し、これを江戸幕府に提出している。よって、我が国が、最も早く本格的に樺太に進出した国家である事に変わりはない=表④。■シナ王朝と先住民族の関係 周・秦から漢代までの編纂とされる地理書『山海経(せんかいきよう)』には「北倭起于黒龍江口=北倭(倭北部)ハ黒龍江口(河口)ニ起コル」、また一四七一年に朝鮮の領議政(首相)がまとめた『海東諸国記』にも「日本疆域起黒龍江北=日本ノ疆域(領域)ハ黒龍江ノ北ニ起コル」とあり、いずれも黒龍江(河口)より北、つまり樺太北端からが「日本(倭)である」としている。 シナ歴代王朝は、基本的に樺太の直接統治(本格進出)はしなかったが、元王朝だけは例外的に「樺太進撃」を行い、樺太の様子を史上初めて比較的詳しく記録した。十三―十四世に樺太先住民族を朝貢させるために武力で屈服させ、その進撃過程などで樺太について比較的詳しく書き記したのであった。元以降も樺太先住民は、明及び清王朝への朝貢や、大陸沿岸民族との交易などは、途中途切れながらも、十九世紀後半まで続けたが、それは主に樺太北部での北部での出来事であった。 こうしたシナ歴代王朝と樺太先住民の関係は、中華思想の華夷秩序に基づく「周辺の蛮族はみな皇帝に服する」といった程度のもので、直接的な支配や統治はなかった。■領有権を主張し始めたロシア 十九世紀半ば、シナ清王朝は英国との戦争に敗れ、弱体化の一途を辿(たど)る。これに目を付けたのがロシア帝国で、一八五八年に璦琿(アイグン)条約を結ばせた。武力で威嚇した不平等条約で、清国領だった黒龍江左岸を併合した。同時に樺太対岸地域から朝鮮にまで接する外満洲を清露の共同管理地とさせて実効支配を強めた=表⑤。 清朝は「全権使節が勝手に結んだ」として璦琿条約を認めなかったが、ロシア帝国は一八六〇年、同じく不平等条約の北京条約で外満洲を沿海州として併合したのである。樺太対岸地域がロシア領となり、シナと樺太先住民族の関係も途絶えた。 そしてロシア帝国は我が国に対しても、樺太は(清から奪った)樺太対岸地域の属領であるので「我がロシア帝国のものである」と滅茶苦茶なことを言い出したのである。■間宮林蔵の大陸渡航 松前藩は、前述のとおり対アイヌ貿易などの権益は、極力独占しておきたかったので、早い段階からロシア帝国の蝦夷地への南下には気付いていても、江戸幕府への報告を怠っていた。このため、幕府は松前藩の樺太を含む蝦夷地統治能力に疑問をもつようになる。幕府直轄で樺太調査に着手し、文化四(一八〇七)年には、同藩より蝦夷地の統治権を取り上げてしまった。正装して松前藩を訪れる領内のアイヌ酋長一家。従者に土産の干し鮭など担がせている(伝松前藩絵師小玉貞良) 松前藩が十七世紀前半に幕府に提出した地図に、樺太は島として描かれたが、世界的には大陸と地続きの半島という説が広まっていた。幕府は真相を明らかにするため、文化五年に松田伝十郎と間宮林蔵を樺太に派遣した。二人はいったん北海道の宗谷に戻り、間宮が単身で樺太に再渡航。越年して最終的に樺太北部と対岸の大陸の間を船で往復した。高橋是清 この踏査・渡航により、文化六年に樺太が島である事を明確に突き止めた。この功績により、間宮林蔵は歴史に名が刻まれ、海峡名にもなったのである。樺太を平和的に取り戻す■日露和親条約 ロシア帝国は、樺太や千島への武力攻撃を繰り返すなどしたうえで嘉永六(一八五三)年と翌年、日露国境画定などを目的として、我が国にエフィム・プチャーチン提督を派遣した。江戸幕府は、川路(かわじ)聖謨(としあきら)らを交渉役に任じ、長崎と下田で談判を行ったのである。 幕府は、樺太全島及び千島全島が領地であると認識していたが、実際は樺太全島及び南千島までの主張に留めた。樺太について川路は、条約本文の付録に「日本人並蝦夷アイヌ居住したる地は日本所領たるべし」と盛り込むことを主張。「蝦夷島」ではなく「蝦夷」としたことで、蝦夷地(北海道)ではなく「アイヌが住む樺太全島」の意を含み入れたのである。プチャーチンは一旦同意したが、まもなく日本側の意図に気付いて修正・削除を強硬に求めた。 その結果、安政元(一八五五)年に日露和親条約が調印され、樺太・千島の国境画定について次の取り決めがなされた。その内容は、樺太に関して「これまでの仕来りどおり」(これまでどおり樺太は少なくとも北部のラッカ岬辺りまでは日本領であり、そこに境を設けることはしない)とし、千島は「択捉島以南が日本領であり、得撫島以北がロシア領である」とされた。江戸幕府の基本的な主張は、近年樺太にやってきたロシア帝国には、樺太の領有権は全くないというものであった。 ところがロシア帝国は、前述のとおり、清からの黒龍江左岸・外満洲奪取に合わせ、早くも日露和親条約を反故にする兆しを見せる。安政六(一八五九)年には、軍艦数隻を率いたニコライ・ムラヴィヨフ総督を派遣して、樺太は「樺太対岸地域」の属領だから「我が帝国のもの」だと主張したが、幕府はこれを一蹴し、ムラヴィヨフ総督は退散した。■樺太島仮規則と樺太千島交換条約 我が国はムラヴィヨフ総督を駆逐したものの、ロシア帝国の樺太奪取の目論みは続く。慶応三(一八六七)年には、軍事力を背景として樺太島仮規則という仮条約を押し付けてきたのである。内容は「樺太は日露両国の共同管理地(雑居)である」というものであった。ロシア帝国は、仮規則を根拠として樺太を自国の流刑地と見なし、次々と囚人らを送り込んできた。 我が国が明治維新などによる動乱の前後も、樺太領有を巡る交渉を粘り強く続けたため、ロシア帝国は一時「樺太放棄」を考えたが、我が国の高官の中にも樺太放棄論者が存在することに気付くと態度を硬化させ、「樺太奪取に勝算あり」と踏むようになってしまった。我が国は、金銭を支払うので樺太から撤退してほしい旨をロシア帝国に伝えるなど、最後まで抵抗したが不調に終わった。 万策尽きた我が国は、明治八(一八七五)年、樺太千島交換条約を押し付けられ、樺太は「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力でロシア帝国に奪われ、併合されてしまったのである。■日露戦争と日露講和条約 これも前述したが、日露の役とは、我が先人が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。ロシア帝国は樺太奪取後に続き、我が国を植民地にしようと企てたことで自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、実質的に武力で奪い取った樺太の南半分だけは我が国に還さざるを得なくなっただけの話である。日露講和条約は、明治三十八(一九〇五)年に締結され、北緯五十度以南が我が国の領土に復帰した。■樺太回復期 我が国の領土に復帰した時期、樺太は「地獄の島(ロシア帝国の流刑地)」から「宝の島(我が国の開拓地)」に生まれ変わった。紙幅の関係でその詳細には触れないが、日本統治下 の樺太は、漁業や製紙業などにより目覚ましい発展を見せた。最盛期には人口が四十万人を大きく超え、島都豊原(とよはら)は市制を遂げた。第二の都市恵須取(えすとる)も市制施行寸前であったが、終戦直前にソ連が中立条約を無視して樺太に侵攻、不法占領したため、市制施行は幻に終わった。■国際法無視の不法占拠 大東亜戦争敗北により、樺太は無理やり我が国から切り離されたが、同島は歴史的に日本領である。然るべき国際機関で帰属が決められないまま、ロシアが不法占拠している事実を、我々日本人は忘れてはならない。国際法に則り正当に帰属が検討されれば、樺太が我が国に返還される可能性がないわけではない。 ならば我々は、樺太を平和的に取り戻す努力をする必要があるのではないか。現実的な手段として買収なども考えられるが、先ずは国民の合意が必要であり、そのために我々自身が樺太を思い出す必要がある。 ソ連を引き継いだロシア連邦は、北方領土問題について樺太・千島どころか四島ですら「領土問題は存在しない」と、ソ連時代以上に強硬になっている。その背景にはどんな狙いがあるのか、我々は警戒を怠ってはならない。たかはし・これきよ 昭和四十六年東京都生まれ。米国の高校、大学及び大学院に通い、主に数学研究科に在籍。帰国後の平成十三年から東京のコンサルティング会社で電子機器市場の分析を担当。幼少時から樺太に関心が強く、十八年に社団法人全国樺太連盟入会、二十五年から同連盟の樺太史広報を担当。著書に『絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道』(太陽出版)及び『大正時代の庁府県―樺太から沖縄に置かれた都道府県の前身』(同)など。「樺太は、その歴史を知れば日本であることが分かる。百年、二百年かけても平和的に回復すべきであり、それにはまず日本国民への樺太史の広報啓発が不可欠」が持論。東京で沖縄の八重山日報を定期購読し、国境の島々の情勢にも日々目を配る。プロ野球東京ヤクルト・スワローズの熱狂的ファン。趣味は貼り絵作成と神社仏閣巡り。「お授けいただいた御朱印を見ると幸せな気分になる」

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    樺太はこうして掠め盗られた!日本が受けた列強の領土侵奪

    たが、国後島沖でロシア側に拉致された高田屋嘉兵衛との人質交換が文化十(一八一三)年に成立し、これ以後日露関係はしばらくの間平穏となった。 かくて文政四(一八二一)年、幕府は蝦夷地を松前藩に還付することとし、それに伴って松前奉行を廃止、南部・津軽両藩にも蝦夷地から藩兵を撤収させた。旧領に復帰した松前藩は、蝦夷地の各地に十四基の台場と十一カ所の勤番所を設け、警備体制を整えて行った。 寛政年間(一七九〇年代)以降、千島方面におけるロシアの南下政策は日本側に阻まれ、得撫島以北の島嶼征服というラインに留まっていた。ロシアの東方進出を企てる皇帝ニコライ一世は、その矛先を日本の施政下にあった樺太へと転じ、同地域の占拠を露米会社に命じた。 東シベリア総督ムラヴィヨフを通じてこの指令を受けたバイカル号艦長ネヴェリスキーは、嘉永六(一八五三)年七月に樺太へ来航し、フスナイ河口に守備兵を駐屯させた。また陸軍少佐ブッセも、亜庭(あにわ)湾の久春古丹に上陸して駐兵を強行した。こうして樺太への足がかりを得たロシアは、従来からの要求であった通商の開始と、新たな要求となった樺太における国境画定という二つの課題を掲げて、日本に対する三度目のアプローチを試みることとなる。樺太全島領有の「前提」にスキ樺太全島領有の「前提」にスキ ニコライ一世はロシアの樺太進出を企てる一方で、アメリカが日本開国のため艦隊派遣を計画しているとの情報を得ると、海軍中将プチャーチンをロシア極東艦隊司令長官兼遣日大使に任命し、遣日艦隊の編成を急いだ。プチャーチンは、ロシアの首相ネッセリロ―デから老中に宛てた国書を携え、軍艦四隻を率いて嘉永六年七月に長崎へ来航した。 長崎奉行大沢定宅は、老中阿部正弘の指示を仰いで穏便に国書を受け取り、ロシア艦隊の速やかな退去を促したが、プチャーチンは六十日以内の幕府からの返書と、幕閣との接見を要求し、長崎からの退帆に応じなかった。 幕府は筒井政憲・川路聖謨(としあきら)らを露使応接掛に任命し、プチャーチンと交渉させるべく長崎に派遣した。長崎における日露間の会談は、嘉永六年十二月に五回にわたって行われたが、通商や国境画定をめぐる双方の主張には大きな隔たりがあり、容易に決着を見なかった。日露談判に当たった一人、川路聖謨 特に国境問題に関して、日本側は「択捉島ハ元来我所属タルコト分明ニシテ議論ノ余地ナク、樺太ハ各其所有ヲ糺シテ国境ヲ画定スヘク、『アニワ』湾駐屯ノ露国軍隊ハ我地ヲ奪ハントスルニ非スシテ外寇ニ備フルモノナリトノコトニ付境界確定アル上ハ之ヲ撤退セシムルヲ要ス」と主張したのに対し、ロシア側は「日本領ノ界ハ北ハ択捉島及樺太南部『アニワ』湾トス、樺太島上ノ分界ハ遅滞ナク両国官員会同シテ其所在地分ヲ画定」するとの姿勢を示し、結論は先送りとなった(「ロシア使節プーチャーチンと幕府大目付筒井肥前守政憲・勘定奉行川路聖謨との長崎日露交渉に関する文書(要旨)」)。 その要締は、千島における国境は択捉島と得撫島の間に画定することでほぼ合意したが、樺太については北緯五十度以南を自国領とする日本側の主張と、南端のアニワ湾を除く全島が自国領だとするロシア側の主張が対立したため、両国が官員を派遣して実地見分を行ったうえで画定する、ということになったのである。 その後、日露交渉の場は伊豆の下田へと移され、安政元(一八五四)年十一月に九カ条から成る「日露和親条約」が締結されることとなった。この条約によって、日本はロシアに対し箱館・下田・長崎を開港する(第三条)こととなり、あわせて日露双方が領事裁判権をもつこと(第八条)も規定された。 他方、領土問題(特に樺太における国境線画定)について、幕府は樺太全島が日本所領と認識しており、老中阿部正弘はその旨主張すべしとする訓令を川路らに発していた。そのため日露間での最終的な妥結に至らぬまま、次のような暫定的取り決めがなされることとなった。 第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は露西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし こうした弥縫(びほう)的な対応の背景には、松前藩に任されていた広大な蝦夷地の防衛が不十分で、ロシアのパワー・ポリティクスに対抗できるだけの態勢が日本側に整っていなかった、という現実的問題が存在していたことは否めない。 さらに長崎における日露会談に際し、ロシア側が示した「境界確定幷ニ露船ノ為二港ノ開港ヲ延期スルニ於テハ日本政府ニ容易ナラサルコト多カルヘシ」との外交的圧力もあいまって、結果的に日本側が一定の妥協を強いられたものともいえる。沿海州同様「雑居」で乗っ取り沿海州同様「雑居」で乗っ取りこのように日露和親条約の締結に際して樺太に国境を画定せず、「是迄仕来の通」という名目で未決着のまま先送りしたことは、その後の日露両国人の雑居という曖昧な状況をつくり出し、ロシア側へ樺太進出の口実を与えるものとなった。 この条約を締結した後、幕府は蝦夷地警備を強化する必要から、安政二年に再び松前藩から松前と江差の周辺を除いた東西蝦夷地の上知を行い、南部藩・津軽藩・久保田藩・仙台藩に蝦夷地警備のための派兵を命じた。このうち仙台藩が択捉島・国後島の警備を担当し、当時「北蝦夷」と呼ばれた樺太の警備は久保田藩が受け持つこととなった。 択捉・国後両島に派遣された仙台藩士達は、同地で越冬するにあたり多大の辛苦を舐め、寒冷地の孤島に所定の兵力を常駐させて継続的な警備を行うことの難しさを、朝野に示した。また樺太については、同地の日本人の多くが出稼ぎ漁民だったことから、久保田藩の兵力派遣は島に出漁者が渡航する夏季のみとし、冬季は留守の番人を置いて引き上げるという、従来の遣り方を踏襲した。 一方ロシア側は、安政四年に少数の兵力を樺太の久春内(くしゆんない)と真縫(まぬい)に送り込んで駐屯させ、日露両国人雑居の既成事実化に着手しはじめた。安政五(一八五八)年に「日露修好通商条約」が締結されると、幕府は蝦夷地警備のさらなる強化を図るため、それまでの五藩に会津藩と庄内藩を加えて七藩体制とし、それぞれの藩に蝦夷地を分与して警衛地を区分した。プチャーチンはこの条約を締結する際にも来日して幕府の応接掛と交渉したが、席上日本側が樺太の国境画定について提起すると、プチャーチンはそれに関する全権を委任されていないという理由で、樺太問題の協議に応じなかった。北方領域をめぐり強引な要求を押しつけたエフィム・プチャーチン 翌安政六年、東シベリア総督のムラヴィヨフは、樺太をロシアの領有とすべく、七隻の軍艦を率いて品川沖に来航した。幕府は若年寄の遠藤胤統(たねのり)以下、外国奉行堀利凞(としひろ)・村垣範正らを露使応接掛に任命し、対応にあたらせた。ロシア側は「条約既定(すでにさだむ)ル而(しかし)テ彊界(きようかい)(国境)ノ大事未タ決セス、頃日(けいじつ)我国支那ト約シ黒龍江ノ地ヲ割(さ)キ我ニ属ス(一八五八年璦琿(アイグン)条約)、薩哈連(さがれん)(サハリン)ハ則(すなわち)黒龍江ト同義ナリ宜(よろし)ク露国ニ属スヘシ、請(こ)フ宗谷海峡ヲ以テ両国の彊界ヲ為」すと樺太全島の領有を主張した。強圧的な欧米列強の艦隊への守りとなった台場の一つ品川台場 ロシアの強硬な態度に、日本側は「海峡ヲ以テ界ト為スハ我カ聞ク所ニ非ス…太賴加(たらいか)、幌古丹若(もし)クハ楠内以南ノ我属地タル事明ケシ請フ断然之ヲ以テ界ヲ定ン」と自らの領有を南部だけにすると譲歩しつつも「ロシアの全島領有」には反論して譲らなかった(『北海道志』巻之十七)。 日露双方の主張はここでも平行線を辿ることとなり、結果的にムラヴィヨフは目的を達することなく退帆した。ここにおいて幕府は、樺太の警備を久保田藩だけに任せる従来のやり方を見直し、文久元(一八六一)年には仙台藩・会津藩・庄内藩をこれに加えて、四藩が二年毎に年番で警備に就く体制とした。仮規則を盾に武力で実効支配仮規則を盾に武力で実効支配 文久元(一八六一)年、老中安藤信正は、正使竹内保徳・副使松平康直・監察京極高明以下十八人から成る使節を、開市開港延期交渉のためヨーロッパに派遣した。一行は翌文久二年、ロシアの首都ペテルスブルクにおいて、ロシア外務省アジア局長のイグナチェフと樺太の国境問題解決に向けた交渉を行った。ここでも日本側は、樺太の北緯五十度ラインに国境を設定することを主張したが、全島領有を図るロシア側は、宗谷海峡に国境を設けることを提案してこれを受け入れず、結局「各吏ヲ遣(や)リ島ニ会シテ議決スルヲ約シテ」交渉は打ち切りとなった。 続く文久三年には、ロシア側から樺太の国境画定問題について協議するための使節派遣を要請してきたが、「尊王攘夷」運動への対処という政治問題を抱える幕府側にその余裕がなく、「多事ヲ以テ遷延シテ果サス」という結果に終わった。 こうして樺太問題が先送りされる中、箱館奉行小出秀実(ほずみ)は、「露人唐太(からふと)ニ在リ米人ト互(たがいに)市ス速ニ彊界ヲ定メスンハ我之ヲ詰ルニ由ナシ…仮令(たとい)数歩ヲ譲リ境ヲ縮ルモ速ニ之ヲ決スルノ弊ナキニ若(し)カサルナリ」との建議を幕府に提出した。 これを重く見た幕府は、小出秀実と目付石川謙三郎を慶応二(一八六六)年にロシアへ派遣し、樺太の国境画定問題に関する交渉を行わせた。同年十二月、ペテルスブルクに到着した遣露使節一行はロシア皇帝に謁見し、翌慶応三年一月~二月にかけて外務省アジア局長のスツレモウホフと八回にわたる会談を行った。外国奉行竹内保徳(左から2人目)ら幕府遣欧使節団主要人員 この席上、日本側はそれまでの北緯五十度線に国境を定めるという主張から譲歩し、「山河ノ形勢ヲ点検シテ以テ議ヲ定(さだめ)ン」ことを提案したが、ロシア側は全島領有を主張してこれを拒否し、合意に達しなかった。 結局この交渉においては、両国の間で調印された「樺太島仮規則」にもとづき、樺太を日露両国人の雑居地として再確認するにとどまった。その内容は、第一条で「『カラフト』全島を魯西亜の所領とすへ」きことが示されながらも、第四条で日本側が「承諾難致節は『カラフト』島は是迄の通り両国の所領と致し置く」ものとされ、「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟(か)総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物勝手たるへし」との仮議定が付け加えられた。 そしてロシアは、この仮規則を利用して樺太全島を実効支配するため、兵力の派遣と駐留を開始した。しかし日本側は、折からの明治維新に伴う政権交代の中で、こうしたロシア側の動きに対して有効な手立てを講ずる余裕がなかった。 かくて樺太における国境画定問題は、日本国内の政治的混乱に乗じて実効支配を強めたロシア側が一歩リードした形となり、誕生したばかりの明治政府は苦しい対応を迫られることになった。北海道防衛で無念の樺太放棄北海道防衛で無念の樺太放棄 新生の明治政府は樺太問題について、旧幕府がロシアとの間に締結した「樺太島仮規則」にもとづき、同地を日露両属とする立場を継承した。前記したようにロシア側は、「樺太島仮条約」を利用して兵力の駐留・罪人の流刑・開拓移民の奨励など、樺太の実効支配を強化する政策を進めており、明治初期には現地の日本人との間でさまざまな軋轢や衝突を生じるようになっていた(詳細は秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題―」参照)。樺太千島交換条約の締結交渉に当たった榎本武揚。幕末から欧州軍事事情などを見聞しただけにロシアの脅威を身に染みて感じていたか… ロシアの南下を警戒する日本政府は、明治二(一八六九)年に「蝦夷地」の名称を「北海道」と改めたのに続き、翌明治三年には「樺太開拓使」を設置してこれに備える方針を示したが、十分な対策を実施できる状況になかった。そのため日本政府は、樺太に駐在する官吏から再三にわたって軍隊の出動を要請されたにもかかわらず、武力衝突回避の視点から出兵を見合わせていた。 当時日本側は、樺太問題への対応を誤ればロシアの脅威が北海道にも及ぶとの懸念を有しており、「唐太ハ露人雑居ノ地須(すべか)ラク専(もつぱ)ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シテ事ニ従フヘシ卒爾(そつじ)軽挙シ以テ曲ヲ我ニ取ル可ラス或(あるいは)彼(かれの)非理(りあらざる)暴慢ヲ以テ加フル有ルモ必ス一人ノ意ヲ以テ挙動ス可カラス」という姿勢でこれに臨んでいたのである。 樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は、日本側による樺太経営の現実と限界を踏まえて、明治四年に「樺太に対する建白書」を政府に提出し、「彼地中外雑居ノ形勢ヲ見ルニ、永ク其親睦ヲ全スル能ハス」との観点から樺太放棄論を示すに至った。 黒田はこの建白書で、明治初年から開始した樺太開拓の成果が挙がっていない現状を指摘し、「之ヲ棄ルヲ上策ト為ス、便利ヲ争ヒ、紛擾(ふんじよう)ヲ到サンヨリ一著を譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居ヲ止ムルヲ中策トス、雑居ノ約ヲ維持シ、百方之ヲ嘗試(しようし)シ、左(さ)支右吾(しゆうご)遂ニ為ス可ラサルニ至テ、之ヲ棄ルヲ下策ト為ス」とし、「樺太ノ如キハ姑(しばら)ク之ヲ棄テ、彼ニ用ル力ヲ移シテ遠ニ北海道を経理スル」ことを提案したのである。 日本政府もこうした黒田の意見を容れ、明治八(一八七五)年にロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。これにより、「樺太全島ハ悉ク魯西亜帝国ニ属シ『ラペルーズ』(宗谷)海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることと、十八島から成る「『クリル』全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加(カムサッカ)地方『ラパツカ』岬と『シユムシユ』島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることが定められた。 この条約に関しては当時においても、得撫島(うるっぷとう)以北の千島諸島を代償に、広大な樺太南部を割譲することへの異議が存在していた。しかし明治初期の日本には、樺太の実効支配を「力」で推し進めるロシアを排除し得るだけの国力が備わっておらず、幕末以来の「北門鎖鑰(ほくもんさやく=北方の守り)」という課題に、一定の譲歩を伴いつつ外交的手段で決着をつけざるを得なかったことは、ある意味必然であったといえよう。軍事圧力で領土侵奪した事実軍事圧力で領土侵奪した事実 十八世紀にはじまるロシアの北方領域での南下政策は、当時すでに日本の施政下にあった千島列島・樺太に対する、武力を背景とした外交的侵食という形で進められた。こうしたロシアからの圧力に、徳川幕府はくり返し外交努力を以て対応したが、「日露和親条約」や「樺太島仮規則」の締結を経て、結果的に択捉島以北の千島列島を手放し、樺太についても著しい主権侵害を蒙ることとなった。列強による不平等条約の一つ「樺太千島交換条約」の批准書              さらにロシアは、成立したばかりで政権基盤の固まっていない明治政府に対し、北海道さえ呑み込む勢いで樺太の全島領有化を迫り、「日露和親条約」で自国領とした千島列島を、元々の主権者だった日本側に引き渡すという、強圧的な交換条件を以てその要求を貫徹した。 アジアをめぐる近現代史のなかで、日本はシャム(タイ)と並ぶ、欧米列強からの侵略を受けなかった数少ない国の一つである、と言われることが多い。しかし北方領域における幕末・維新期の日露関係を仔細に見て行くと、この評価は必ずしも正鵠を射たものでないことが知られる。 すなわち、国家としての変革期で財政力・軍事力とも不安定だった当時の日本が、強権的なロシアの領土要求に対して外交的譲歩を強いられるなか、千島・樺太における主権と領土をロシアに侵食されて行った事実を、看過することはできないのである。  このような北方領域における日露関係の歴史を振り返り、その帰属をめぐって両国間で繰り広げられた、外交的攻防の史実を発信することが何より重要である。主要参考文▽献鈴木良彦『日露領土問題総鑑』(平成十)▽開拓使編『北海道志 上・下』(昭和四十八年)▽鹿島守之助『日本外交史 第一巻 幕末外交』(四十五年)▽同『日本外交史 第三巻 近隣諸国及び領土問題』(同)▽原剛『幕末海防史の研究』(六十三年)▽大熊良一『幕末北方関係史攷』(四十七年)▽秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題」(平成五年)あさかわ・みちお 昭和三十五年東京生まれ。五十九年日本大学国際関係学部卒業、平成二年同大学院法学研究科博士後期課程満期退学。十七年「江戸湾内海の防衛と品川台場」で軍事史学会「阿南・高橋学術研究奨励賞」受賞、二十年「品川台場にみる西洋築城術の影響」で博士号取得、同年軍事史学会理事、二十二年日本大学国際関係学部教授。幕末から明治維新までを中心とした政治・軍事・国際関係史が専門で、江戸の「海上の守り」であった品川台場も研究。著書に『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社)、『江戸湾海防史』(同)、『明治維新と陸軍創設』(同)。共著に『日英交流史三 軍事』(東京大学出版会)、『ビジュアル・ワイド 明治時代館』(小学館)など。論文に「幕末の洋式調練と帯刀風俗」「辛未徴兵に関する一研究」「幕末・維新期における近代陸軍建設と英式兵学」など。

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    北方領土問題 ロシアをどうやって位置づけるか

    保立道久(東京大学名誉教授) 外交にとって最低の必要条件は、国際法上の不法をただすことであって、それがないような外交は外交といわないが、歴史学からいわせると、日本外交はつねにそういう種類の外交であった。それを論じて、最後には徳川幕府が結んだ1855年(安政元年)の日魯通好条約と、明治国家が結んだ1875年(明治8年)樺太・千島交換条約の評価に及びたい。 さて、現在、国際法上、どのような立場からしても不法であることが明瞭なのは、ロシアによる北方領土の占領である(アメリカによる沖縄の基地占領については最後に述べる)。これに対する国際法的な法理を正面にすえた異議をとなえない日本の外務省は決定的な職責違反を行っている。また私見では法学界、国際法学界も、この問題についてよるべき十分な仕事をし、必要な主張をしていないように思える。モスクワで開かれた対ドイツ戦勝70周年の記念式典で演説するロシアのプーチン大統領=2015年5月(ロイター=共同) 私は、以下の国際法的な事実は、歴史学界共通の見解である以上、小学校・中学校・高等学校で、社会科学・歴史学のカリキュラムのなかで、順次、学ぶべきものであると考えるが、それができないのは、それをやると外務省の行動が職責を果たしていないことが明々白々になるからであろうか。 まず第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成する1943年の「カイロ宣言」には"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expans"、つまり「三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するため、今次の戦争を行っている。同盟国は自国のために利得をむさぼろうとするものではなく、また領土拡張の念も有しない」という「領土不拡張」原則が記されている。そして続けて、" It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914"(以下は中国との関係、省略), つまり、「同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪する」という形で日本の領土をどの範囲に限定するかを明らかにした。 しかし、アメリカ、イギリス、ソ連3国の首脳、ようするにルーズヴェルト・チャーチル・スターリンは、1945年2月、ソ連のヤルタで会談を開き、そこでスターリンがソ連の対日参戦の条件として千島列島の引き渡しを要求し、ルーズヴェルト・チャーチルがこれを認めて、ヤルタ秘密協定に盛り込まれた。そこには「三大国の指導者は、ドイツが降伏し、かつヨーロッパの戦争が終結して二・三ヶ月後、ソ連が左の条件にしたがい、連合国に与して日本に対する戦争に参加することについて合意した」として、(1)外蒙古の現状の維持、(2)1904年の日本の裏切りの攻撃(the treacherous attack)によって侵害されたロシア国の旧権利(樺太南部など)をあげ、さらに「(3)千島列島はソ連に引き渡される(shall be handed over)」という項目を付け加えた。ポーツマス条約における樺太の獲得 第二項目はポーツマス条約(日露講和条約、1905年)における樺太の獲得にふれたものである。それはカイロ宣言における「1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる島嶼」という条項と異なるが、樺太は日露戦争の敗戦処理のなかでの領土獲得という側面をもつために、国際法上、一定の根拠をもつことになる(ただし、ポーツマス条約の問題性については後述)。 しかし、千島についての第三項目は、明らかにカイロ宣言に対する違反である。このヤルタ協定は密約として日本国には伝えられていない以上、これを降伏条件として日本国に要求することはできない。もちろん、日本の戦争が侵略戦争であったことは明らかであるが、しかし、その責任を問うことと、戦後処理が降伏条件との関係で法的な正当性をもつかどうかは別問題であって、このような秘密協定を潜り込ませたスターリン、そしてそれを容認したルーズベルト、チャーチルの行動は不当なものである。勝った側、さらに戦争において大局的な正当性をもったものが何をやってもよいということではないのである。ルーズヴェルトは原爆投下に消極的であったといわれ、ルーズヴェルトの死が原爆投下の促進要件になったといわれる。それは事実であろうが、ルーズヴェルトをむやみに誉めることはできない。彼にとってもアメリカの狭い国益が第一であったことはいうまでもない。ヤルタ密約に同意したルーズヴェルトの判断自体から問題にされなければならないことも明らかであろう(参照、武田清子『天皇観の相剋』)。 「カイロ宣言」が第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成するというのは、ポツダム宣言において"The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine"、つまり「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と確認されているからである。もちろん、明らかなように、この条文の後半は実質上、ヤルタ秘密協定をうけた側面がある。わざわざ「本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島」という用語をいれたことはスターリンの主張に対する曖昧な妥協であった。ポツダム宣言に「(アメリカ・イギリス・中国の)巨大な陸海空軍は西方より(中略)数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加へる態勢を整えた」とあるのは、ソ連の参戦を前提にしたものであるから、ルーズヴェルトとチャーチルはさかんにスターリンに媚びを売ったのである。 藤村信は「ヤルタ体制を結晶させたものは、あいまいな妥協であり、いかようにも解釈できる不明瞭な協定の文字である」と述べているが、ポツダム宣言の上記の条項は、その曖昧さを継承していたということになる(藤村信『ヤルター戦後史の起点』)。たしかに日本はポツダム宣言を受諾したが、右の曖昧な条文によって、カイロ宣言の領土不拡大原則と国際法上の原則をこえて、千島を放棄させられたことは容認すべきことではない。ドイツ・ポツダムでの首脳会議の合間に、スターリン・ソ連首相(左)の宿舎を訪問したトルーマン米大統領=1945年7月24日(AP) このヤルタ密約が前提となってサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)が締結されたのはいうまでもない。その第二章 領域、第二条、(c)項に「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある通りである。ヤルタ密約とそれを追認したサンフランシスコ条約の該当部分は、国際法上の不法行為であって、これの見直し・訂正を求めることは敗戦国とはいっても、日本国民の国際法上の権利であることは明瞭であろう。 もちろん、外務省は、北方四島の返還を要求はするが、それをヤルタ協定が国際法に反するという形では主張しない。ようするに、彼らには、ヤルタ→ポツダム→サンフランシスコという国際密約・協定などの全体を問い直そうという、外交官ならば当然にあるべき覇気と専門職としての自覚がないのである。 ポツダム宣言は原稿用紙4枚ほどにすぎない。それをその歴史的背景をふくめて「つまびらかに」読むことが国家理性の中枢にいる人間の最低の知的レヴェルというべきものであることはいうまでもない。昨年、本当に驚愕したのは「ポツダム宣言の内容をつまびらかにしない」という人を国家中枢にもっていることが明らかになったことであった。そして、最近、「歯舞、これ何だっけ」という人物が沖縄北方担当相であるという、悲しいあきらめをもったが、これらの発言は、職責的知識の欠如が中枢に存在することを示すのみでなく、そのような欠如が、政治的な立場の如何をとわず、きわめて一般的であることを期せずして明らかにしたといえるのかもしれない。 こういう現状を前提とすると、上記のような外務官僚への要求は過大なものということになるのかも知れないが、しかし、さすがに20年前まではいくら対米従属といってもそんなことはなかったのだから、外務官僚が職務怠慢の責めを受けることはやはり否定できないだろう。 これがアメリカによる沖縄の基地占領が国際法上の不法行為であるという問題提起をしないことと共通する問題であることはいうまでもない。戦争行為を直接に無法な土地占取・基地設置に連続させ居住者を追い出す、という沖縄におけるような行為は、国際法上認められていない。沖縄の基地は、サンフランシスコ条約第三条に根拠があることはいうまでもないが、これも違法なものでり、その違法性は沖縄の施政権返還協定によっても完全に解消された訳ではない。 サ条約の改定は、締結諸国全体との外交交渉を必要とし、それは日本側のアジア太平洋戦争に対する総括をふくめて全面的で根本的な態度を必要とする。その方向をとる決意なしには、サ条約第二条の千島放棄の規定の再検討はありえない。そもそも当時の自民党佐藤政府とアメリカがサ条約の改訂という道を取らなかったのは基地を確保するとともに、安保条約を日本全土に拡張するためであった。決定的な誤りを犯した明治政府 たとえば荒井信一氏の仕事が示すように、これらは歴史学においては周知の問題であって、いわずもがなのことであるが、最後に二点を述べたい。 第一に、沖縄の状況であるが、戦後に続いてきたすべての政権がサ条約の不法性を主張せず、それを容認し、沖縄を日本の国家意思として「引き渡し(handed over)」続けてきた。しかし、ともかくも施政権の返還によって、沖縄における不法行為は、国際法上の違反の形式をもつのは基地の占拠に極限されるに至ったということができよう。不法に占拠された基地までも法的な基礎をもつという形式をとっているのは不適法であることはいうまでもないが、しかし、日本の沖縄に対する国家意思が変わらないままでは、国際法上の異議提起は現実には成立しえない状況であり、その意味で施政権の返還の意味は重い。ここで国際法上の不法性が縮減されたことは否定できない。 これに対して、千島のソ連・ロシアによる奪取は、戦後処理のドサクサにおける奪取であって、これについては、日本の国民意思を代表すべき政治は、左翼であろうと右翼であろうと、保守であろうと革新であろうと、「敗戦国」としての正当な戦後処理を受ける国際法上の権利の問題として、サンフランシスコ条約の該当条項の削除を要求すべきものである。日本の戦後における政府は、それができない、それをする意思がない政府であり続けたのである。千島列島・占守島で行われたロシアの調査団による調査(関係者提供・共同) そのなかで、第二次大戦については、「せいぜい」、内向きの発言をするか、韓国・中国の歴史認識に異議をいうだけという姿勢である。「歯舞、これなんだっけ」という閣僚の発言は、そのなかでもたらされたものである。こういう口の裏まで透けて見えるということでは、領土問題に関する外交的な発言に説得力をもたせるのは無理というほかない。 むしろ千島の返還のためには、韓国と日本の関係はきわめて重大であって、しばしばいわれるように、両国を核として東アジア共同体を形成し、さらに中国・アメリカの賛同をえて、それらをバックとしてロシアに対して戦後処理の不法性を主張することこそが、日本外交にとっての本来の正道である。ロシアが北朝鮮の背後にいて利害優先の態度をとっていることも明瞭な事実であって、日本にとってロシア批判は、国内的な立場を越えて優先的な問題なのである。現在のプーチンのロシアが世界とユーラシアの平和にとってきわめて危険な存在であることはいうまでもない。ロシア批判を第一にせずに、中国・韓国の対日態度を論ずるというのは、少なくとも当面の外交上、国益上、真の実効のないことである。 第二の問題は、千島、そして樺太は、本来、日本民族ではない諸民族の領土であったという問題である。日本の「領土」問題において、北方においても、「琉球処分」と同じ種類の問題の検討が必要であることを示している。これは私の専攻する日本の前近代の歴史にも関わってくる。 まず千島については、最近の考古学的な研究によって、ウルップ島より北の北千島には「コロホウンクル(コロポックル)」と呼ばれた北海道アイヌとは言語を異にする民族が分布していた可能性が指摘され、それに対して択捉島以南は北海道アイヌのテリトリーのなかにあったといわれる(瀬川拓郎『アイヌ学入門』、講談社現代新書)。また樺太については、ギリヤーク(オホーツク人)の人びとの強い地であり、そこに北海道アイヌの人びとも古くから進出していたことは以前から明らかになっている。ユーカラが12世紀頃以降のアイヌとギリヤークの戦いを反映しているという金田一京助の盟友、知里真志保の説は有名であって、最近では支持者が多い(榎森進『アイヌ民族の歴史』、草風館。本書については保立『日本史学』人文書院を参照)。 私は、その意味で、徳川幕府が幕末・1855年(安政元年)に結んだ日魯通好条約は、北海道地方における実情を正確に反映していた可能性が高いと考える。つまり同条約は、択捉(えとろふ)島以南を日本領とし、また、カムチャッカ半島につらなる得撫(うるっぷ)島以北をロシア領としたこと、また樺太(サハリン)を民族混住の地とした。これは実情をふまえた賢い判断であった可能性が高い。 これに対して決定的な誤りを犯したのが、明治政府であって、明治政府は、せっかくの日魯通好条約を、北海道開発をロシアとの矛盾なく展開することを主目的として改訂し、1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結んだ。これによって樺太全体がロシア領となり、ロシア領だった得撫島以北の千島が日本領となったのである。これは結果からいって、北海道開発による初期利益という衝動に動かされた愚策であったことは明らかである。明治国家は巨額の戦費を費やして日露戦争に「勝利」し、ポーツマス条約(日露講和条約、1905年)によって樺太を獲得したが、前記のように、これは戦争による領土獲得であると判断され、ヤルタ→ポツダムの経過のなかで、樺太南半部を放棄させられ、さらに全千島を、本来、北海道アイヌ民族のテリトリーとして北海道の一部であった、エトロフ・クナシリ・シコタン・歯舞(はぼまい)までをふくめて奪取されることになったのである。 これはようするに国家の資本主義化のなかで、アイヌ民族の大地(アイヌ・モシリ)を奪い、明治国家の中央集権化・軍事化の資金としようという動きであって、この乱暴な政策が、結局、この列島の北への視野と活動を大きく狭める結果となったのである。他民族を抑圧するものは、いつかしっぺ返しを受けることの好例である。この明治国家のアイヌ民族に対する罪過は、さまざまな意味で、つぐないきれない種類の罪過であったと思う。 以上は、サンダースの外交政策がどうなっていくかということを考えるなかで、世界戦略上、ロシアをどう位置づけるかがキーになるというところから、従来の知見をいちおう整理してみたものであるが、歴史学の側から「領土問題」、北方領土問題を考える基本はここにあることになる。この種の問題は、本源的に、単純な自民族中心のナショナリズムではすまないのである。(2016年2月18日「保立道久の研究雑記」より転載)

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    ロシアの海洋戦略と北方領土問題  日本は「上から目線」で向き合え

    どのような国益を得るのかという視点が欠けているように思える。あるいは、台頭する中国を牽制するためには日露関係の強化が必要という考えもあるが、ロシアも日中それぞれとの関係をバランスさせるだろう。 安易な妥協は日本の国益を損なう可能性がある一方、中国との関係を有利にする保証はどこにもない。そこで、今回は北方領土問題の本質がロシアの海洋戦略に関連していることを確認し、今後の日露関係について考えてみたい。「暖かい海」を目指してきたロシア 日本は北方領土を江戸時代から自国領としてきた。1855年の日露通好条約、1875年の樺太千島交換条約、1905年のポーツマス条約を通じて、ロシアは北方四島が千島列島の一部ではなく、日本固有の領土であることを確認してきた。実際に、1945年8月まで4島には1万人以上の日本人が居住していた。 ソ連は、第二次世界大戦終結直前に日ソ中立条約を一方的に破棄して北方四島を軍事占領した。その根拠として、ヤルタ協定の中の「千島列島はソ連に引き渡されること」という記述を挙げ、日本がポツダム宣言に基づいて降伏文書に調印するまでに行った占領は合法だと主張している。 これに対し、日本は北方領土がロシアによって「不法占拠」されていると主張している。まず、米ソ英の共通の戦争目標を列挙したに過ぎないヤルタ協定に法的拘束力はない。旧ソ連による北方領土の軍事占領は、日本の主権が「本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等<連合国>の決定する諸小島」と規定するカイロ宣言とポツダム宣言によっても正当化されない。加えて、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した南樺太及び千島列島をロシアが領有する法的根拠もない。 旧ソ連が国際法の裏づけを欠いてまで北方領土を軍事占領した主な理由は、軍事的なものだと考えられる。オホーツク海の出入り口に当たる北方四島周辺海域は、数世紀にわたって「暖かい海(不凍港)」を目指して南下を続けてきたロシア海軍が太平洋に出るために、極めて重要だからだ。国後水道の重要性と2島返還論国後水道の重要性と2島返還論 スターリン死後の「雪解け」を背景として、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹両島の返還が明記されたが、平和条約も在日米軍の撤退を条件とするなどソ連の軍事的な意図は明らかであった。その後も、冷戦の激化をうけて領土問題の存在を否定するなどソ連は強硬姿勢を続けた。 特に、ソ連は冷戦後期になってオホーツク海の「聖域化」を図るようになり、戦略ミサイル原子力潜水艦の通り道として北方領土周辺海域の重要性が高まった。70年代までに米ソの核戦力はパリティ(均衡)に達していたが、ソ連は地上配備の大陸間弾道ミサイル(ICBM)がアメリカの先制攻撃に対して脆弱なため、戦略原潜をオホーツク海(および欧州戦域ではバレンツ海)に常時配備し、長距離ミサイルでアメリカ本土を核攻撃できる態勢を整えた。そして、オホーツク海の戦略原潜を守るため、北方四島の要塞化とウラジオストックを母港とする太平洋艦隊の増強が進められた。 その中で、択捉島と国後島の間にある国後水道は十分な深さがあり流氷の影響も受けにくいため、大型の戦略原潜がオホーツク海と太平洋の間を移動するために重要な航路となった。ロシアが歯舞・色丹の2島返還を基本的な立場としているのは、これら2島を返還しても、国後水道の通航には影響がないからであろう。チャンスは90年代にあった 一方、冷戦が終わると、ロシアの態度に変化が見られ、1993年の東京宣言を経てロシア側から北方領土問題の解決に前向きな姿勢が見られるようになった。 その背景には、冷戦終結で北方四島の軍事的価値が低下し、一方で国力の低下を抑えるために、日本の経済支援を必要としたことが考えられる。おそらく、日本が最も有利な立場で領土交渉を進める余地があったのは90年代だろう。しかし、2000年代に入ってロシアの経済力が回復すると、領土問題で安易な妥協を拒む声が国内で強まり、北方領土の「ロシア化」を進めて、日本との交渉力を強化しようという動きが見られるようになった。 現在、ロシアはこれまで放置してきた北方領土の経済開発に力を入れ始めており、実効支配を強化している。2010年にはメドベージェフ大統領がロシアの大統領として初めて国後島を訪問し、その後も政治指導者による訪問が続いている。昨年7月には大規模な海軍演習を初めて択捉島で実施し、フランスから購入するミストラル級大型強襲揚陸艦2隻に加えて、対艦ミサイルを北方領土に配備する計画もある。そのような中で、ロシアは中韓にも北方領土の共同開発を呼びかける一方、日本との経済協力も模索している。 ロシアが北方領土の実効支配を強化する背景には、中国の存在がある。極東ロシアの人口は少ないが、隣の中国から労働力が流入しつつある。これにともなって、ロシアでは極東地域における中国の影響力の拡大に懸念が高まっている。 加えて、中国の北方海域での海洋進出にも警戒感が高まっている。2000年5月に中国海軍の情報収集監(砕氷艦)が津軽海峡を2日間かけて1往復半し、太平洋に抜けるという事例があった。2008年10月には、4隻の中国艦船が津軽海峡を通過して日本海から太平洋に抜けている。ロシア海軍はこの動きに衝撃を受けたと伝えられている。 地球温暖化の影響で北極海の海氷が溶けていることも見逃せない要素である。北極海の海氷は急速に縮小しており、新たな航路の開通と莫大な海底資源の開発が期待されているため、ロシアは北極海における存在感を強化している。北極海を担当しているのはロシア北方艦隊であるが、今後は太平洋艦隊にも北極海のパトロールを支援することが求められるであろう。実際、すでに北極海航路を通航する中国船の数が増え始めている。その際、北方領土周辺海域はやはりロシア海軍にとって重要な航路となる。(北極海については別稿も参照されたい)アジアにおける存在感の維持が課題アジアにおける存在感の維持が課題 他方、ロシアは老いゆく巨人である。原油価格の高騰により冷戦後に破綻状況にあった経済を立て直したが、それは産業競争力に裏づけられたものではない。ロシアは、BRICS諸国の中で2008年の国際金融危機から立ち直るのが最も遅かった。国民の平均寿命も短く、高齢化も進み、国力は今後も低下していくだろう。ロシアにとっては、国力が低下する中で、経済の成長センターとなったアジアにおける存在感を維持することが戦略上の最大の課題であろう。 ロシアがアジアでの影響力を維持するためには、ソ連崩壊後の財政難でスクラップ状態にある太平洋艦隊を再建しなければならない。ロシアは2010年に6780億米ドル相当の防衛支出計画を発表したが、その4分の1が太平洋艦隊の再建に充てられる。2020年までにロシアは新型の攻撃原潜、弾道ミサイル原潜、フリゲート艦、空母等を20隻導入する予定である。 しかし、ロシアの海軍力の近代化には大きな障害が残っている。ロシアの軍事産業は300万人を雇用しているが、軍事関連企業の25%は破綻状態にあり、保有する技術もソ連時代のものである。とても最新鋭の装備を生産することはできない。ロシアがミストラル級揚陸艦をフランスから購入するのは、ロシアにその建造能力がないからである。今後10年で20隻もの新鋭艦を国内で建造することも難しいだろう。 ロシアは日本との間に領有権問題が存在することを認めており、何らかの解決を望んでいることは間違いない。だが、圧倒的な通常戦力を誇るアメリカに対してロシアが大国の地位にしがみつくには、核戦力に依存せざるを得ず、オホーツク海は依然としてロシアの戦略的要衝であり続ける。他方、中国の海洋進出への警戒から、再び北方四島の軍事的価値を再確認しているだろう。 北方領土の戦略的重要性が高まる中で、ロシアが4島全面返還に同意することはまずないだろう。国後水道の戦略的重要性を考えれば、「面積二等分」や「3島返還」も現実的とは思えない。安易な妥協による解決は目指すべきでない とどのつまり、ロシア側は従来通り2島返還による決着を落としどころとすることに変わりはないはずだ。プーチン大統領のいう「引き分け」も2島返還とみて間違いない。日本がロシア側の動きに惑わされて妥協の姿勢を見せれば、それを逆手に取られ、一方的な経済支援だけをさせられてしまう公算が高い。日露関係の強化によって中国を牽制するとしても、1000億ドルに及ぶ中露の貿易額に比べて日露のそれは半分に満たず、中露の経済関係にくさびを打つことは容易ではない。 日本としては、あくまで不法に占拠されたすべての領土の返還を迫っていくべきだ。北方領土に関しては、4島の日本帰属をまずロシアに認めさせ、実際の返還の方法は柔軟に対応するという政府方針を維持すべきである。そうすることによって、同じく不法に竹島を占拠している竹島の問題も、尖閣諸島に対して国際法の裏づけのない主張を続ける中国に対しても日本の正当性が強化される。日本は国際法に基づいた領土問題の平和的解決を原則とし、これを揺るがすべきではない。 一方、ロシアの態度が戦略環境の変化によって大きく変化することも確かだ。資源輸出に大きく依存するロシアの経済にはいずれ限界が来る。そうなれば、北方領土の軍事的価値よりも、日本からの経済支援の方がロシアにとってより重要となるだろう。不法占拠状態が70年近くも続いてしまったが、今の段階で安易な妥協によって早急な解決を目指すことはない。「上から目線」でロシアと向き合うべきである。

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    「南樺太返還期成同盟」という運動が存在した

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より渡辺国武(南樺太復帰同盟会長)御挨拶 この度、平成十二年四月を迎えて社団法人「全国樺太連盟」は機関紙「樺連情報」六百号記念として、昭和二十三年十二月十五日刊行の第一号復刻版を「折り込み資料」として配布してくれました。 私はこれを見て、連盟の別動隊である「南樺太復帰同盟」も、その成り立ちから折にふれての対外活動など、南樺太問題が解決されるまでは樺太引揚者の子孫にも、語り継がれるべきではないかと考えるようになってきたのであります。 幸いにも、二十年前「日中友好協会」会長故岡崎嘉平太氏の主宰されていた「国際問題研究会」の依頼を受け、講演した時のことを思い出しました。ここに、その講演記録と関係資料の集録を発表することとした次第であります。平成十二年六月 九十六翁 渡辺国武樺太返還問題と国際関係南樺太返還期成同盟総本部長           渡辺国武   (南樺太復帰同盟会長と改称) ただいまご紹介にあずかりました南樺太返還期成同盟の総本部長の渡辺国武でございます。 まず、私と樺太の関係を申しあげて、なぜ七十八歳にもなる老人の私が現在そういうことをやっているかということをおわかりいただくために、私と樺太のつながりについて申しあげます。私は明治四十四年、七歳のときに母につれられて樺太にまいりました。私の父は明治三十八年、樺太が日本に帰ってくると同時に北海道から樺太に行っております。その後小学校二年のときに、私は母につれられて樺太にまいりまして、当時、樺太に一つしかなかった樺太庁中学校に大正五年入学、大正十年に卒業しました。その後、樺太の各地に中学校ができたために、その町の名前を入れて、大泊とか真岡という名前を入れましたが、私がはいったときは樺太庁中学校でございました。 卒業と同時に家庭の事情ですぐに王子製紙に入社し、ひきつづき王子製紙が樺太の電気事業を手掛けることになり、そちらの会社に出向を命じられ、昭和二年の秋にそちらの方にまいりまして、そこに終戦までおりました。その当時は樺太電気といっておりましたが、戦時法令として昭和十八年に配電会社法ができ、現在の東京電力が関東配電、東北電力が東北配電というようになったときに樺太電気も樺太配電というようになりました。それは国策会社であり、王子製紙の子会社という形ではないので、そのときに王子製紙を退職して樺太配電の役員として最後は総務部長をおおせつかってやっておりました。 ですから昭和二十二年に引揚げてくるまで、仕事の関係その他で日本内地にはきておりますが、七歳のときから終戦の四十一歳までの間、樺太で過ごしました。したがって樺太で結婚し、子供も樺太で生れました。しかも、中学校を卒業してから王子製紙の関係で終始してきました。 引揚げてきましても、このような樺太との深い結び付きがやはり私の血となり肉となっているのでございましょうか、いまでも樺太は返してもらわねばならないというような情熱をもってやっている次第でございます。全国樺太連盟の設立 終戦後、南樺太在住の日本人の緊急疎開者と昭和二十一年後半より正式の引揚者が多く定住している北海道で、樺太引揚者団体連合会結成の準備がすすみ、その後昭和二十二年十一月にシベリアに抑留されていた樺太における指導者の一人である樺太庁第一経済部長の白井八州雄氏がソ連のエラブガ収容所から帰ってきました。それを機会に全国樺太連盟が設立されることになり、昭和二十三年四月十九日に設立の発起人会を開き、二十三日に創立総会が開かれました。八月一日に社団法人全国樺太連盟設立の許可の申請をしております。そして昭和二十四年九月十五日、当時の林譲治厚生大臣から設立の許可を得ております。全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟(南樺太復帰同盟に改称)の本部が入り、元住民らの心のよりどころだった「樺太会館」。平成25年3月に売却され、樺太連盟は近隣ビルに入居した。写真は昭和40年4月の竣工時 本部は、港区麻布飯倉片町十二番地、現在は番地が変更になり麻布台三丁目一番二号樺太会館ビル内にあります。設立の目的は①樺太引揚者同胞を援護し更正せしめ福利をはかること。②残留同胞の引揚促進を運動すること。③樺太に関係あるもの、および他の団体との連絡協調をはかること。④樺太関係者の育英に関すること。⑤その他。というようなことでございます。南樺太返還期成同盟創立当時の状況南樺太返還期成同盟創立当時の状況 昭和二十五年三月、対日講和条約案作成の情報を知ったわれわれ樺太引揚者は、会員の総意をもって、米国トルーマン大統領、マッカーサー連合軍総司令官、シーボルト対日理事会議長に対して南樺太返還の懇願書を提出しました。 昭和二十九年六月二十日、札幌グランドホテルで南樺太返還要求の第一声を樺太連盟北海道大会の名において上げております。同年十二月に、第一次鳩山内閣誕生とともに日ソ復交の動きが高まった情勢をふまえ、全国樺太連盟は抑留同胞の即時帰還と北方領土問題の解決を条件にソ連との復交を進めるべきであるとして、全国樺太関係者に檄をとばし、南樺太返還期成運動を展開しました。南樺太の返還期成大会を報じる機関紙「樺連情報」昭和30年5月号 昭和三十年三月二十三日、南樺太返還期成同盟を創立、本部は全国樺太連盟の中に置いております。初代の総本部長は大津敏男氏で、終戦当時の樺太庁長官です。副本部長は佐々木時造氏です。 南樺太返還期成同盟の目的は、①南樺太の日本復帰を実現するため、樺太人および本同盟の目的に賛同する者を結集し、南樺太の返還を期成する国民運動を展開すること。②南樺太その他の北方領土問題に関して政府その他の関係筋に陳情、献言、激励を行うこと。③南樺太その他の北方領土に対する国民の正しい認識を確立し、これを深めるための啓蒙宣伝を推進すること。④北方領土関係の諸団体と連絡協調すること、というようなことでございます。 次に、返還期成同盟を創立した当時の状況ですが、昭和三十年四月二十四日に南樺太返還要求の貫徹東京大会を現樺太会館ビルにて開催し、宣言文を作成し、すみやかに南樺太の日本返還を期し、あえて全世界にこれを訴えていく宣言をしました。 その参集者は全国各地から五百名くらいありました。このときの主な来賓の国会議員の中に、浅沼稲次郎さん(社会党)が出席しております。社会党は、いまは北方領土、とくに樺太返還の問題については反対の意思を表明しておりますが、現在の社会党と当時の社会党とがこうもちがってきたのかということをとくにご認識していただきたいと思います。 特に今浅沼さんのことを申しましたが、浅沼さんのこの時のあいさつを要約しますと、浅沼さんは小笠原島出身者ですが、小笠原諸島に対する浅沼さんならびに島民の烈々たる思慕の情を例を引いてお話しになられ、「お互いに民族の叫びとして領土返還に邁進すべきであり、南樺太返還同盟の運動には大いに協力する」というふうに述べておられます。なお、当時私は新潟県におりましたが、新潟県の引揚者代表として演壇に立ってお話をさせていただきました。 昭和三十年の六月から八月にかけて、私共は全国各地で南樺太返還要求に関する署名獲得運動を展開し、約二十万名の署名が集り、翌三十一年一月五日に大きな行李三個に収納した署名簿を外務省に持参し、折からロンドン交渉から帰朝中の松本俊一全権に手渡しております。 昭和三十年八月十六日、海軍大将であった野村吉三郎さん、樺太返還期成同盟の総本部長の大津敏男さん、副本部長の佐々木時造さんなどの主催で、大手町の産経ホールにおいて領土問題国民大会を開いております。このときの出席者の中には芦田均さん、西尾末広さんがおられました。 昭和三十三年十一月、大津総本部長が愛知用水の副総裁に就任され、佐々木時造さんが総本部長に就任しました。これまでは樺太連盟の会長が返還期成同盟の総本部長を兼任しておりましたが、この機会に樺太連盟と返還期成同盟とは性格を異にする団体であることを明らかにして、従来、いささか荒削りであった運動を見直し、国内の事情も変化しておりましたので、じっくりと腰をおちつけて宣伝活動をしていこうという形に変ってまいりました。そういうふうにして返還期成同盟の運動が、これを機会に展開していくことになったのでございます。 このときの決議文、すなわち昭和三十年四月二十四日に決議をした中に、現在の私ども返還期成同盟が動いていることと、ちょっとちがったニュアンスがあります。そのときの決議文の第三として「われらが南樺太の日本返還を期し、日ソ両国政府がすみやかにその協定を結ぶことを要求する」という條文がはいっておりますが、これはいま考えるとちょっとまちがった考え方ではなかったかと私は思っておりまして、現在日本はサンフランシスコ条約締結の際南樺太、クリルアイランズを白紙放棄させられて調印しているのですから、アメリカを中心とした条約加盟国に対して新たな国際会議を開いて、その帰属を決定してほしいという方向が正しいものとして運動しております。主な返還運動の経過について主な返還運動の経過について 昭和三十年代の後半になりますと、沖縄や小笠原諸島の返還要求の動きがあり、北方領土に関する活動は表面的には自粛の時期で、この時期には、やはり沖縄や小笠原が帰ってくるということにわれわれとしても協力しなければならないと考えまして、いろいろな印刷物とか、「樺太終戦史」とか「樺太沿革・行政史」とか、後世に樺太では日本はこれだけのことをやったのだというものを、われわれが死んでからでも残るような形で、そういう印刷物をつくるために、その資料の蒐集に全力をそそぎましたので、対外的な活動についてはちょっと自粛した時代でございます。 昭和四十二年十月三十日、自民党内に「北方領土問題特別委員会(委員長・北沢直吉代議士)」が設けられた機会を好機として、私どもも、いままでは遠慮していましたが、この機会に北方領土は四島だけではなく、北方領土の問題の中には南樺太の回復と樺太引揚者の援護のことを含めてもらいたいということを前面に出して、この時期からまた対外的に活発な運動をはじめました。しかし北方領土問題は現在もそうですが、北方四島の問題であるという考え方が主流を占めておりましたので、われわれ樺太引揚者は独自の方向をめざすべきであるという結論に達し、アメリカを中心とした国際世論に、サンフランシスコ条約の未解決の問題として訴えていくという方向に、われわれの運動を徐々に展開していったわけでございます。 樺太返還運動は、そういうようなことでどのような形でやっていったらいいだろうかということになり、全国樺太連盟とも打合せまして、第一に、南樺太返還運動は、われわれ樺太引揚者が存命中に理念を確立しておこうということ、私自身七十八歳にもなろうとしておりますので、生きている間にこの理念を達成しようということで、だいたいこの問題は確立したつもりでございます。 (資料1「南樺太回復のために」参照) 第二に、他力本願ではだめだということです。われわれが今日まで運動してきておりますのは、全国樺太連盟が港区の飯倉片町の、ソ連大使館のすぐ近くの四つ角の場所に地下二階地上六階のビルをもっており、連盟はその六階に事務局を置いておりますが、それ以外は全部貸ビルとして、そこからあがる費用で全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟をまかなっております。 他力本願ではだめだということは、ほかから援助を受けますと、われわれが動きたいときに動けないということと、現に北方領土四島の問題が国民運動ではなく、国営運動ではないかとソ連からひやかされているというようなことからいっても、私どもは昨年アメリカヘ行ったり、また返還期成同盟のいろいろな印刷費についても、全部われわれの手弁当でやっております。ですから返還期成同盟ができてから政府の補助を一銭も受けないで現在まできているし、今後もそういう姿でやっていこうということでございます。 余談ですが、一時右翼団体が北方領土返還の名のもとに駅頭などで寄附を集めたことがありました。北連協の会合がありました時、私は北方領土返還の声を出してもらうのはありがたいが、駅頭で寄附を集めることは樺太・千島引揚者が誤解を受けてはいけないので、北連協としてやめさせるように強く抗議をしてほしいと提案し、たまたま右翼団体もこれを聞いてくれ、半年後ぐらいしたらやらなくなりました。 このことは私どもの、この他力本願ではいけないとの考え方、北方領土の問題は民族の問題だという考え方でやってきたことが実を結んだ結果ではないかと思っております。 ところが最近また、ある団体で在外財産の補償ということが叫ばれ、引揚者から五千円とか一万円を集め、もし金を出さない者には、政府が補償する際に恩典にあずかれないということで金を集めていると聞きましたので、全国樺太連盟はそういう団体には入らず、在外財産の補償の問題については独自でやるとの方針をかためた次第です。 第三には、文書活動ならびに関係者の協力を得て記念碑などを建てておくということです。いわゆる北方領土問題については現在の日本政府、大部分の国会議員もそうですが、まだ樺太の問題については理解していただいていないようであります。 でありますので、文書活動をすると同時に関係市町村の協力を得たりして、樺太に関係する記念碑をたくさん建てようではないかという考え方でやっており、そのことが国民の眼を樺太に向けさせるということでございます。 昭和四十八年八月二十三日、樺太開拓記念碑を北海道神宮の境内に建立し、全国樺太連盟主催で毎年八月二十三日に北海道神宮の例祭として樺太に思いを致しております。それから稚内の公園に氷雪の門・九人の乙女の像がありますが、昭和三十八年八月二十日に第一回のお祭りをして今日までつづいております。(註・「氷雪の門」とは慰霊の意味に併せて、いつの日にか樺太が帰って来るようにとの思いがこめられておるのです)大会を前に南樺太返還期成同盟発足を伝える樺連情報昭和30年4月号 それから、樺太引揚三船遭難者慰霊之碑を昭和三十七年八月二十一日に留萌市の千望台に建立いたしました。これは終戦後間もない昭和二十年八月二十二日、樺太における婦女子の日本送還を樺太庁長官の命令でやっていたときに、小笠原丸と第二新興丸と泰東丸がへさきを並べて留萌の沿岸近くにさしかかったときに、国籍不明の潜水艦(後にソ連潜水艦の攻撃と判明した)に撃沈され、三船に乗っていた五千八十二名のうち千七百八名が遭難して死亡しました。これも毎年八月二十一日にお祭りをしております。 また、それと同じものとして、昭和五十年八月二十二日からお祭りをやっておりますが、留萌の少し北の小平町の鬼鹿海岸、同じく苫前町夕陽丘、それから小笠原丸の殉難者の碑が増毛町役場の敷地に建っております。これは千七百八名の遭難者のうち、海流の関係で死体が流れついた地域の人が、この死体を収容して、関係者が引き取りにくるだろうからということで町の墓地に土葬をしていたわけです。 ところが終戦後、相当の日数がたち一部は引き取りにくる人もないので、これらの死体を一括火葬し、昭和五十年にこの碑を建てたわけです。なぜ、わかれているかというと、この土地の市長、町長、土地の有力者の言葉によりますと、緑があって白分たちの海岸に流れついてきたんだから、留萌までいってお祭りをしないで、私たちの町にきた仏は私たちの町でお祭りをさせてもらいたいという形で、熱心にやって下さっている方が今日もまだおられます。このことについて私は感謝申しあげ、ご報告申しあげる次第でございます。対日平和条約調印主要国への働きかけで駐日ニュージーランド大使館を訪問した渡辺氏(左から2人目)ら=昭和56年7月 それから函館に樺太四十万島民のうち約三十二万は、正式の引揚命令が出てから引揚船で函館に上陸しましたが、樺太引揚者上陸記念碑を、函館市の了解を得て市役所の前に建てております。毎年九月十二日に函館市でお祭りをやっております。 文書活動としては。全国樺太連盟の機関紙「樺連情報」があります。昭和二十三年十二月の創刊で、以後毎月発行しております。この費用もはじめは手弁当で、最近は貸ビルからあがる費用でまかなっております。 それから「南樺太を忘れるな」というパンフレットを作成したり、「日本と北方領土」という本を刊行しております。また、「樺太終戦史」「樺太沿革・行政史」という本を刊行しております。これは町村金五さんが北海道知事のとき、北海道資料室で、樺太引揚者のみなさんも大変だろうから北海道庁も手伝いましょうということで手伝っていただきました。 「樺太終戦史」を昭和四十八年に刊行しました。この本を早く先に出したのは、時間が経過すると記憶がうすれるということもあり、生々しい記憶があるうちに作っておこうという形でやりました。「樺太沿革・行政史」の方は、樺太庁作成の資料が比較的ありましたので、少し時間がたってからでもいいだろうということで、これは昭和五十三年六月に刊行しました。これは日本国内の大学の図書館、主な図書館、アメリカの国務省ならびに国会図書館、日本語講座のある大学、ならびにアメリカで日本に理解のある学説をたてている学者などに寄贈しております。 先ほど申しましたように、昭和十八年に配電会社法により樺太電気が樺太配電になりましたが、王子製紙が樺太電気を経営していた十五年間の「樺太電気株式会社十五年史」を、私、引揚げの際に資料を持ってまいりましたので、自費を投じてこの本を作りました。副題は「電気事業より見たる旧王子製紙株式会社樺太開拓史」となっております。 このことについてはのちほど、ソ連の樺太経営批判の項で申しあげたいと思いますが、こういう本をつくり、日本の国会図書館はじめ主な図書館、それからアメリカへも寄贈しております。国会図書館からは、この本を永久保存書として取り扱うという通知がありました。 樺太の開拓、産業の開発について日本が総力を挙げてやったということについて、後々まで国会図書館に残しておこうという表れではないかというふうに考えて、私も喜んでおる次第でございます。平沢発言について…平沢発言について… フオーリンアフェアーズ誌の一九七五年十月号(九月十八日発行)に平沢発言が掲載されていて、北方領土を今世紀の末まで棚上げさせようではないかという主旨だったのです。日本の新聞紙上にも大々的に載ったことはご承知のことと思います。 われわれ南樺太返還期成同盟としては、この問題を取り上げ、昭和五十年十一月四日に「平沢論文に対する公開質問状」を南樺太返還期成同盟と社団法人全国樺太連盟の名で印刷物を作り、平沢さんに発送しました(資料2「平沢論文に対する公開質問」参照)。 また、当時の植木総務長官、外務省の松永条約局長、東欧第一課長に面会し、善処方を申し入れました。さらに植木総務長官に陳情書を出した後、国会内で記者会見をしたのですが、これはわれわれに力がないためか新聞には載りませんでしたが、われわれの主張を述べ、平沢論文に対して大いに論難をしました。併せて衆参両院の全議員にこれを発送し、平沢発言に惑わされることなく、われわれの主張を支持してもらうよう働きかけをいたしました。 この平沢発言に対する反論を英訳するに当たり、日本人が訳したものを外国人が見た場合よくわからないといわれることがありましたので、日本文をまず日本人が英訳し、その英訳と日本文の原文を添えて、英訳をアメリカのしかるべき人にお願いして作成したものを、昭和五十一年三月八日、航空便でフォーリンアフェアーズ誌の編集長宛に送りました。 これに対して同誌から三月十六日付で丁重なお断り状がきました。それには、せっかく立派なご意見をいただいたけれども、誌上に掲載した論文に関しては、その翌月号か翌々月号ならば考えられるけれども、半年も経過しているので、南樺太返還期成同盟の要請は立派であるけれども掲載はできないのでお許しいただきたい、という返書が編集局長名で届きました。 私はこの返書を読んで、われわれのやったことに対しては、ある程度の反響があったのだというふうに考えております。そしてこのことは、ただ国内で樺太を返せと叫んでいて、北方領土四島返還運動の足を引っぱっているというように私どもを批判する人もありますが、他の団体ではここまではまだやっておりません。そういうように、われわれは情熱をもってやっているということを、手前みそですが申しあげたかった次第です(資料2参照)。アメリカの国務省ならびに国連代表部へ行く 昭和五十五年四月十五日にアメリカの国務省へ、四月十八日にアメリカの国連代表部へ行きました。このときに陳情した骨子は、一九五六年九月七日付のアメリカ政府より日本政府への覚書によれば、新たなる国際会議を開催し、南樺太・千島の帰属を決定するという条項があるのです。もう終戦後三十数年もたっているのだから、この機会に新たな国際会議を開催していただけないか、ということなのです。 これについては、実は北方領土四島の返還運動との絡みもあり、外務省にも遠慮いたしまして、昭和五十四年秋に在日アメリカ大使館へ直接行き陳情しました。ところがアメリカ大使館の方では「あなた方が陳情においでになったからといって、すぐにアメリカ本国の方に云々という具合にはいかないよ」という返事でしたので、「私は七十五歳になります。あと生きて運動するとしても四、五年くらいしかありません。樺太引揚者である私たちが運動をしなかったら誰もする人はいません。恥かしいけれども樺太で生れた私の子供でさえも情熱を入れてやっておりません。せめて国際会議開催の陳情に行くだけでも行かせてもらえませんか」と申しましたところ、私のことを六十五、六歳に見たのでしょうか、私の年齢を聞いてアメリカ大使館の人がびっくりして、「わかりました。で、いつごろ行きたいのですか」というので、「できたら来年の四月か五月に行けるようにしていただければありがたい」と申しましたら、「わかりました。いずれ外務省を通して返事をします」ということで、帰って参りました。期成同盟は対日平和条約非調印ながら影響力の大きい中国を昭和57年6、7月に訪問し、各機関に南樺太復帰運動を説明。写真は中日友好協会を訪れた渡辺氏(左) 在日アメリカ大使館では、私らが行ったときにはただ儀礼的に話を聞いておけばよいと思っていたのが、私の年とか樺太引揚者でなければこの運動はやれないのだという熱意に打たれたのか、一週間ほどしましたら外務省の東欧一踝から連絡がありました。そして、渡辺さんがアメリカヘ陳情へ行かれるということを聞いたが、日程など関係資料を至急外務省まで持ってきてくれ、といってきました。その結果、正式に許可を得てアメリカでは国務省と国連代表部へ行きました。国連代表部ではピートリーアメリカ大使が直接会ってくれました。そして、いろいろと話をした結果、「北方領土四島のことでやってきた人はあるけれども、樺太の問題で国際会議を開いてくれといってきたのは、渡辺さんと尾形さん、二人がはじめてですよ」といっておられました。 通訳も先方には頼まずにわれわれの方で雇った通訳を連れて国務省へも国連へも行きました。ピートリー大使とは公式には通訳を通して話を進めましたが、大使は幸いに子供のころ日本で育った方とかで、日本語が非常に達者だということがわかりましたので、私が大使に単刀直入に「これから私が日本語で本当のことをお願いしますから聞いて下さいますか」と申しましたら、通訳がいう前に「どうぞ、どうぞ」という返事がありました。 やはり通訳を通して話すのと、直接に日本語で日本語のわかる人と話をするのでは非常に違いますね(資料3「アメリカ政府に対する私どもの訴え」参照)。在日の各国大使館を歴訪 このようにいい効果を上げて帰国できた、と私どもは自負しております。さらに私どもは、国連の各国大使館へ行ってアメリカ側に出した資料と同じものを持って回りたいとお願いしました。 それに対してピートリー大使は、アメリカとソ連との国際関係があるし、アメリカだけが「はい、わかりました。国際会議をやりましよう」というわけにはいかない。なお、国連にきている各国の大使館というものは、渡辺さんがいわれるような仕事をするためにきている大使ではなく、国連の仕事をするためにきている大使です。一方、日本在住の各国大使館は日本と仲良くしようということで派遣されているのだから、日本に帰ってから在日大使館へ行って、陳情されたらいかがですか。そして各国の主な国からアメリカに向かって、もうそろそろ新たな国際会議を開いて、白紙で放棄させた樺太および千島の帰属を決定するようにというような提案があれば、そのときにはアメリカとしても考えることもあるだろう、という返事がありました。 このようなことで、私は現在、在日の各大使館を回っております。四十八力国の大使館を全部回るわけにはいきませんので、主なところを回っておりますが、また、もう一つアドバイスをいただいたことがあります。 大使は大平前首相が環太平洋圈ということをいわれています。イギリスやフランスは日本から見ると遠い国であり、日本にもっとも近い国、たとえばカナダやオーストラリアという国があるというのです。それからサンフランシスコ条約には調印して加盟していないが、日本の近くには日本と同じような条件下にある中国があるではありませんか、そういうところを回ったらいかがですか、ということです。 ピートリー大使が言われるのは、いわゆる環太平洋圏の国をまず回り、その次のイギリス、フランス、オランダという国を回ったらいかがですか、ということであり、私たちは現在、そのように動いております。 また、昨年アメリカへ行ったときに頼んだ通訳はアメリカ人の奥さんで、土光さんがアメリカへ行かれたときに通訳をした人とのことでした。この人のご主人のアドバイスがありました。 それは、国務省とか国連は日本でいえば事務当局であり、アメリカは世論の国だから会議などにも働きかけるようにしたらいかがですか、ということでした。このことが私の頭にありましたので、帰国後、アメリカ大使館へあいさつに行った際に、来年、アメリカ上院の外交委員会に、昨年アメリカヘ持参したのと同じもので陳情したいので、マンスフィールド大使が会ってくれなくても、その下の公使クラスの人が会ってくれるのではないかと、こういうことで来春か、あるいは来年中にはアメリカへ行きたいと思っております。 場合によっては、大統領府の補佐官のいるところに陳情しなさい、というアドバイスもありますので、心臓を強くして上院外交委員会および大統領府の、いわゆるレーガン大統領のスタッフのところにも行かせてもらいたい、とお願いしようかと考えております(註・後日、マンスフィールド大使に御目にかかり、直接上院外交委員長宛の陳情書を御渡しして、大使より丁重な御手紙をいただいております)。ソ連の樺太経営についてソ連の樺太経営について 樺太は、一八七五年後のロシアの時代には、単に流刑の島という形でしたが、明治三十八(一九〇五)年再び日本に帰属してからは、樺太の産業が大いに推進されました。 例えば、私の勤めておりました王子製紙が、時の政府から樺太の森林活用について、当時の藤原銀次郎社長に話があり、樺太にある針葉樹がスウェーデンやノルウェーにもあるということで、王子製紙の技術者をスウェーデンとノルウェーに派遣し調査の結果、樺太にあるエゾマツ、トドマツと同じようなもので紙を作っておりましたので、まず紙の工場を造ろうということになり、大正三年大泊にテストエ場を造りました。 第一次欧州大戦の時には、樺太でパルプができたために外国から買わなくてもよくなり、日本の製紙産業が発展していったといういきさつがあります。そういうことで徐々に大泊工場のほかに豊原、落合、知取、敷香、真岡、野田、泊居、恵須取という地域に工場がつくられました。 ところが終戦後になると、まったく様変りになりました。私、実は日本の朝日、毎日という新聞については克明に見て、こと樺太に関する記事はみんな切り抜いておりますが、たまたま昭和五十二年七月二十三日の朝日新聞、その他の新聞にも掲載されたのですが、ソ連が樺太の旧王子製紙九工場の改修を打診してきたという記事であります。それはソ連の代表が来日し、政府を通して王子製紙グループに申し入れ、王子製紙が視察団を派遣した、という記事です。大正11年のころの王子製紙豊原工場(王子製紙株式会社案内) ところが、五年後の今年の三月二十四日の朝日と毎日に出た小さな記事ですが、朝日新聞は非常にソ連寄りの考え方をもっていて、私としてはどういうことなのかわかりませんが、見出しなども非常にソ連寄りなのです。〝シベリアにだきこめ、ソ連攻勢活発化、米の圧力をはねつけて西側が色目を出している〟という記事があり、昭和五十二年にソ連が頼んできたけれども、日本から色よい返事がないので、逆にソ連から断ってきた、というふうになっておるのです。 ところで私は過去において王子の社員であったし、現在でも王子製紙関係の役員にもよく会っておりますので、このことについて聞いてみました。実際には、九工場のうち稼働しているのは四工場くらいであるけれども、相当のカネがかかるということです。ところがソ連はカネがないので、できた製品で返すから、とりあえずその工場を直してくれということです。 結局、樺太を昭和二十年に取っておきながら、王子製紙が残した九工場に改良を加えて、もっと設備のいいものにして能力を上げているのなら、私はソ連の経営批判はいたしません。不可侵条約を破って取った九工場をスクラップにし、四工場くらいをヨタヨタにして動かしているのにNHKは、そんな所はカットして一部分のみをニュースとして流しているのです。 現在、日本の製紙業界はご承知のようにカルテルを結んでもらって四苦八苦しております。大昭和製紙などは会社の財産の一部を処分して会社経営をやっていこうというくらい、日本の製紙業界は苦労しております。 紙は余っているのに、樺太の工場でできた紙を、これから五年か十年先になるのかわからないのを、製品で返しますといっても、どんなに馬鹿な日本人でも、日ソ親善だといっても、「はい、そうですか」とは日本政府といえどもいえないと思います。 ですから返事をしぶり、表面は王子製紙から断り、政府から難しいということをいっているのをふまえて、ソ連は逆に五カ年計画を変更したから依頼してきたことは延期する、という返事だということが朝日新聞と毎日新聞に載っておりますが、これがソ連寄りの記事になっているのです。 こういうことからいっても、ソ連はわれわれから樺太を取っておきながら何もできない、いわゆる樺太経営の能力がないのではないかということが言えると思うのです。 炭坑でいえば、王子、三井、三菱という日本の大手が、昭和二十年には樺太の国境近くにたくさん開発稼働していました。それから、石炭乾溜といって樺太に石炭から石油を作る工場(人造石油工場)が二つありました。この二つの工場もソ連が取っておりますが。これも多分、動いていないのではないでしょうか。炭坑については日本が近代的な坑道をつくって機械化したけれども、多分、機械が老朽化して思うように石炭が出ていないのではないでしょうか。 というようなことからいえば、私に言わせれば、いま地球の資源は人類のためにあるものであり、それを立派に活用する国が経営してこそ世界人類の幸福に貢献するのではないでしょうか。それを活用できず、スクラップにするような国が兵隊だけを置いて頑張っていて、世界の人々が許してくれないでしょう。そういうことからソ連には樺太を経営する能力はないというふうに私は断定しようという考え方でおるのです。 こういうことで樺太は、われわれのいた頃と比べればかなり駄目になっております。樺太で初の市となった豊原市の市政施行記念祝賀行列。大勢の市民が見物する中で、豊原駅前の目抜き通りを練り歩いた。写真は赤穂浪士討ち入りのいでたちで進む一団=昭和12年7月1日 電気でいえば、明治四十一年に初めて樺太の守備隊の中に電灯がついたのが、樺太に電灯がついた始まりです。日露戦争で日本に返ってくる前までは、ソ連は電灯もつけておりません。電灯は日本の軍隊が行って明治四十一年十月一日に初めてつけました。 こういういきさつで、樺太の電気事業は遅れましたけれども、終戦時には樺太全島に送電線を張り巡らせました。樺太はご承知のように寒いところですから、火力発電以外にはできないわけです。王子製紙の工場で使う電気のほかに、その町へ送るだけの余力の電気の設備を、例えば五万㌔㍗を使う町には十万㌔㍗が発生する発電設備をして工場を動かし、余力の電気を町に供給しておりました。それを樺太電気会社がやっていたということです。 全島に張り巡らした送電線により、どこの工場に故障が発生しても、他の工場から回すということで文明の利器を利用することができ、産業発達に大いに寄与する、ということをやってきたのです。 ところが、その電力でも、われわれがいた時とほとんど変りのないような状況で活用されているとは考えられません。このように、ソ連には樺太経営の能力がないということを申したいのであります。四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場 北方領土四島返還の問題で、一時期は反発したことがありましたが、南樺太返還期成同盟創立当時の目的を達成するためにわれわれはいろいろなことをやりました。 平沢発言などに対しては、強力に反応して対策を立てました。それから、期成同盟創立二十六周年を迎えて、今年の六月十二日に総理府総務長官と外務大臣に陳情書を出しました。この陳情書は、樺太ならびに得撫島以北の千島帰属決定手段としての国際会議開催を、アメリカその他の国へ申し入れることを建議したものです。これはアメリカヘ参りました時に、もう日本の外務省も遠慮しているときではなく、そろそろサンフランシスコ条約の覚書条項を発動するようにという考え方で動いてもいいのではないか、と思われるようなニュアンスでしたので、この陳情書を出したわけです(資料4「外務大臣、総理府総務長官宛の陳情書」参照)。 それから、昭和五十六年二月四日にプラウダが、日本の学者でも北方領土は日本のものでなくロシアのものだと書いている、と新聞で報じておりましたので、これに対し、北方領土研究家西鶴定嘉氏の見解を得まして、反駁文を出しております。 要約しますと、松平定信が「ネムロは日本地にあらざれば」と言った意味は、ネムロはエゾ地(北海道)のうちで、日本地(本州島)と違って、天皇や将軍が住んでいる土地とは違うから、外国人を追い払うほど酷な扱いをしない、もし何かあったら長崎へ回しなさい、という命令が幕府から出ている、ということを鹿児島大の郡山教授が誤った見解を発表したのに対し、これに便乗し幕府自体もそういうことを言っていると、プラウダがとらえて報道したものを、日本の一部の新聞が発表したのです。これは重大な誤りなので、敢えて史実を解明して発表する事にした次第です。 また私どもとして一番のポイントは、昭和三十年六月から八月にかけて街頭署名運動をやりましたが、近年北方領土四島返還街頭署名運動が行われている時に、私どもが樺太返還の著名の街頭運動をするとすれば、北方領土四島返還の署名運動にブレーキがかかり、また邪魔になってはいけないということで、われわれは自重しておりまして、昭和三十六年六月以来、一度も街頭に立っておりません。 しかし、もう北方領土四島の返還運動とわれわれの樺太回復の国際会議開催の要請ということは別個の問題ではなく、並行して動くべき時期にきているのではないかということを私は申し上げたいのです。 私が今日敢えて遠慮せずに、心臓を強くしてこの席に参りましたのは、いわゆる樺太人の会以外で、この問題について話をさせていただくのは今日が初めての試みであり、誠に有意義であると考えたからであります。今日、このような機会を与えていただいたことは、私の一生の記念に残るものと、厚く感謝申しあげます。(※渡辺氏が昭和五十六年九月に東京・学士会館で行った講演録として平成十二年に改刷されたものを一部語句修正して全編収録した)(資料1)南樺太回復のために(資料1)南樺太回復のために■背景樺太は日本の真北に位置し、アジアの東北沿岸に併行する約六百㍄のやや細めの島です。今、ソ連邦に支配されているサハリンとは、中国名でサガレンのことで、日本では樺太と言われている。北海道に極めて近いこの島に日本は探検、交易、居住、開発の歴史を持っている。 帝政ロシアは東漸してシベリア沿岸地域の踏査を思いだし、十九世紀の初期に樺太に関心を持ち始めたが、一八四九年にはネヴエリースキーがこの地がアムール河口に横たわる島であること、それが戦略上重要であることを知るに至った。 これより先一八〇五年ロシアの探検家クルーゼン・シュテルンが樺太を海上から調査し、日本からこの地を奪い取ることを政府に進言している。一度極東に関心を持ち、樺太の重要性を知ったロシアは、これを掌中に入れるべく、日本に対して着々と圧力をかけてきた。 こうして一八七五年、サンクトペテルブルクで千島列島と引換えに日本は樺太島をロシアに譲渡してしまった。しかし降って一九〇五年の日露戦争におけるロシアの敗北後、日本は樺太の南半を回復した。この部分が樺太であって、先の第二次世界大戦でソ連に占拠されるまで、日本の完全な領土であった。豊原北方の落合町は樺太東線の敷香方面と栄浜支線の分岐駅で、目抜き通りは賑やかだ。雑誌「キング」や眼鏡店、用品店などが見える■樺太の意義 記憶は長く続かないが、南樺太の面積は関東七県と山梨県とを合せた面積とほぼ同じの千四百平方哩近くあったことを、日本人自身が想起しなければならない。 現在、事実上ソ連邦の軍隊に占領されているに過ぎないこの民族遺産をあきらめてよいものか。他国によって一国の領土が掠奪されたまま、うやむやになってしまうとしたら世界は闇である。 なるほど、先のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太と千島列島の放棄を宣言したことは事実であるが、数世紀にわたる辛苦の結実を失うことは耐えられないことである。しかもこの放棄はソ連邦の手にあっさり引き渡したものではない。対日平和(サンフランシスコ)条約第二十五条も、日本はソ連のために何物も失なうものでなく、またソ連邦は日本領土のいかなる所も与えられるものでないことを明らかにし、この条約ではその帰属を決めなかった。 ソ連邦は南樺太を占領する、何らの権利も持っていないのである。■ヤルタ協定(極東密約) 以上のように問い詰めめられるとソ連は、一九四五年二月のヤルタ協定を持ち出す。ヤルタ協定とは、米国と英国の首脳がソ連邦に対して、対日戦争に参加することを受け入れるならば、日本が敗北した後、南樺太と千島列島を引き渡すことなどを取り決めたものであるが、これは日本の預かり知らない、第三国同士の密約である。 ある一国の領土がこのような方法で奪い取られるとしたら、世界の秩序は夜盗の跋扈に委せられたも同然である。果たせるかな、この協定の指導的当事者である米国は一九五六年九月七日の公式声明で、ヤルタ協定は当時の指導者たちが共通の目標を示した文書に過ぎず、領土移転のいかなる法律的効力をも持つものでないことを宣言している。 何人(なんぴと)もソ連の厚顔無法な行為には、ただただ義憤を感ずるであるだろう。■樺太千島交換条約 南樺太は元ロシアの領分であったのに、日本は戦争を仕かけてロシアから勝ち取ったのだというような、間違った考えを持っている者が少なくないが、これは全く事実に反するものである。むしろ反対に、樺太は元々日本の一部族であるアイヌ人の住んでいた所であります。アイヌに関する記録は一四八五年からある。 十七世紀の後半ロシアは東部シベリアおよびその沿岸を探索した結果、樺太に関心を持ち始めたが、その頃にはもうアイヌ人だけでなく、日本の内地人も住んでいた。 十八世紀の後半になると、ロシアはカムチャッカから千島に南進してきたが、樺太を直接に狙ってきたのは十九世紀に入ってからである。すなわち一八〇六年と一八〇七年の二回、ロシアの海軍将校らが日本人部落を襲撃した。この襲撃が帝政ロシア政府に公認されたものではなかったにせよ、ロシアの野心はもうはっきりしていた。 十九世紀の中頃からロシア政府は海軍力を動員して日本政府に着々と圧力をかけてきた。その頃、日本は政情が不安であり、一八六八年に王政復古となったが、維新に随伴するいろいろな問題を背負って危なっかしい状態にあった。 これより先、すなわち一八五五年に下田において日魯和親(通好)条約が結ばれ、千島の境界その他のことが決められたが、続いて一八六七年にペテルブルクで樺太島仮規則が取り交わされた。 この交渉の中で、ロシアは日本との境を自然の境界としての宗谷海峡にしようと提案したが、この点については日本の合意が得られず失敗した。しかしこの取り決めで、樺太は従来どおり日魯の境を定めず両国の雑居と決められた。 一八七五年、内外の諸問題で手一杯であった明治の新政府は、ペテルブルクで樺太千島交換条約を締結。この条約で日本は米粒ほどの十八島から成る千島列島と引き換えに広大な樺太全体をロシアに引き渡した。 このようなやり取りは、日本がこれ以上にロシアから武力圧力を受け、国を一層深刻な危険に陥れまいとする方針によるものであった。当時日本は他の諸問題に直面し、そのような危難に対する備えはなかった。結局日本は樺太島をあっさり(愚かにも)とロシアに引き渡してしまった。■日露戦争 それにもかかわらずロシアは飽くことを知らなかった。ロシアは一八五八年と一八六〇年における支那との条約で広大な沿海州を獲得し、その国境を朝鮮にまで南進させ、ついに朝鮮の内政にも干渉してきました。このような危機は、日本がたとえ微力であったにせよ、到底黙視することはできないものであった。 かくて一九〇四年、日本はやむなくロシアと対決することとなった。幸に日本は高価な犠牲を払いはしたが、大勝を博した。日露戦争の結果、日本は全樺太を占領してそこに軍政を敷き、間もなく民政を開いた。サンフランシスコ平和条約締結を記念して国会正門前にクスノキを植える吉田茂総理大臣。世は講和と主権回復に浮かれたが、樺太・千島と北方四島の問題は未解決のままだ=昭和26年11月 しかしポーツマス平和条約の談判において日本は、強硬なロシアとアメリカの圧力によって戦争を再開することもできず北緯五十度線以北を放棄することを余儀なくされた。この譲歩(損失)は、戦勝に酔っていた国民には到底納得できないことで、大衆の怒りは暴動と化し、東京では焼打事件を起したので戒厳令を施いて辛うじて鎮圧した。 ポーツマス条約はこのような状態で治まり、樺太は概ね一八七五年の樺太千島交換条約以前の状態に戻された。そして一九〇五年のポーツマス条約の取り決めは、革命後も全面的に効力を有することを一九二五年の日本とソヴィエトとの間の基本条約でソ連政府が承認している。■現状 日中平和条約が成立したと見る間に、米中が握手した。国際社会の流動は、今日をもって明日を卜(ぼく)することはできない。同様に今日、かつての日本領土の上にのしかかっている不法な力が決して恒久であり得ないことを信じる。 武力ではなく、信義と友情こそが、自主独立・同権互尊・共生共栄の秩序ある世界の絆である。このような世界が到来するとき、吾々の旧領土は必ず吾々の手に戻ってくる。しかしこのための、内外の世論をまとめるには、一世紀も二世紀もの歳月がいるかも知れない。それにもかかわらず吾々は日本民族の一環を担うものとして、民族の宿命を自覚し、南樺太回復のために撓ゆまない努力を続けるべきである。 昭和五十四年十一月 南樺太返還期成同盟、社団法人全国樺太連盟(資料2)平沢論文への公開質問(資料2)平沢論文への公開質問 米国の国際誌フォーリン・アフェアーズ秋季号に発表された平沢論文中「日本は国後・択捉島の問題を今世紀末まで凍結したまま残し、まずはソ連と平和友好条約を結ぶべきである」とする論旨は、わが北方領土回復に関する政府の統一方針に反し、これに結集されつつある国論を攪乱して日ソ外交の進展に重大な障碍をもたらすものと思う。 北方領土回復に関する国の方針は去る四十八年九月田中訪ソに先立ち、衆参両院においてそれぞれ超党一致で採決されたところで、その内容は周知のとおり歯舞・色丹・国後・択捉の一括回復を基礎として、日ソ平和条約を結ぶべきことであった。 この決議文が北方領土回復に関する全体を尽くしているとは言えないが、領土回復の最小不可譲の線がそこにあることは日本共産党も確認したところで、当時ソ連側が同党を非難したことも記憶されている。 この決議によって日ソ平和条約と北方領土との位置付けが固定され、領土回復の要求は全国民の叫びであって、ソ連側がいう一部復讐主義者の感情論でないことが明らかとなった。したがってソ連も「領土問題は解決済み」と言えなくなり、同年十月の日ソ共同声明の中に「…第二次大戦の時から未解決の諸問題…」といい代えられ、それについて四十九年中に話し合うことになっていた。豊原の北方100㌔余、樺太東線白浦駅にある機関区で樺太庁鉄道(昭和18年からは鉄道省)の職員 ところがソ連は都合にかこつけてわが要請に応ぜず、今日まで引き延ばし、その間、領土棚上げ諭を持ち出して四十八年の共同声明を反古にしようとする態度を示してきた。ソ連の対日不信は、日ソ中立条約の一方的破棄、条約無視の北方領土侵略にみられたが、またしても国家間取決めの信義を踏みにじろうとする。 そのときに当たって、場を外国誌に求めて、ソ連の代弁と受け取れる平沢論文が公にされた。平沢氏は日本政府がグロムイコ外相の訪日を促しそれを今年中に期待していたことを知っている。さらに国家の方針がどういういきさつでどう決まったか、そして一国の外交問題はまず内側から意見を統一し、それが確乎不動のものとなったら外部に展開すべきだということも熟知のはずである。 ところが平沢氏は敢えてこれらを顧慮することなく、ソ連(イズベスチャ)が得たりと歓迎する諭文を発表した。コラムニストに載ったグロムイコの領土問題を逆戻りさせようとする論文が、平沢凍結論に力を得たものでないといい切れないタイミングにあることは、まことに残念である。以下「凍結論」の流れにしたがい数点を指摘して論者におたずねし、併せて世論に訴えるものである。一、ヤルタ協定を生かしていること ヤルタ協定こそソ連の金科玉条とするところであるが、同協定は「当時の首脳が共同の目標を陳述した文書に過ぎないものと認め、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また領土移転のいかなる法律的効果をも持つものでない」ことは米政府の公式見解(一九五六)のとおり。況んや協定の局外にある日本の領土主権に法的効力を及ぼし得るものでないことは明白である。二、「二十の島から成る千島列島」という把握の仕方について これは論者の初めて用いる手法であるが、重大なことである。千島列島(クリルーアイランズ)とは明治八年(一八七五)の樺太千島交換条約の時から日露両国間で確認し合った、第一しゅむしゅ島……第十八うるっぷ島共計十八島のこと(条約第二款)であり、しかもそのことは安政元年(一八五五)の日魯通好条約(第二条)による「今より後、日本国と魯西亜国と境「エトロフ」島と「ウルップ」島との間に在るべし。「エトロフ」島全島は日本に属し「ウルップ」島、それより北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す…」という取り決めを承けている。 以来今日まで百二十年、この概念は国内的にも国際的(条約上)にも変改されていない。論者はこれら日本のための史実を無視し。ソ連にくみする「…二十島」という概念を独断している。三、放棄の範囲について定義しなかったということについて 対日平和会議で吉田代表が初め千島の範囲を定義することなく放棄し、西村条約局長が国会で択捉・国後も含むと発言したことを今さらに引き合いに出すが、吉田代表は「会議」の第八回全体会議で「択捉・国後両島が日本固有の領土であることについては帝政ロシアも何ら異議をさしはしなかった」と述べて放棄の範囲を明かにしているし、西村発言については重光外相、下田条約局長が明快に択捉・国後は含まれないことを闡明(せんめい)し、認識の錯誤による西村発言を抹殺している(西村元局長も誤りを認めている)。四、国後・択捉が固有領土でないと認識されていること(実業の日本誌十一月号インタビュー)について 本来固有領土とは、一国が原始的にその版図として施政して来たところであろう。この意味から択捉・国後両島はいささかの疑問も容れない固有の領土である。この点については先の吉田演説もあり、国際問題として紛議の生じたことは未だかつてない島である。これを固有領土でないとすることは、二十島千島論と併せてその真意を訝(いぶか)らざるを得ない。五、四島一括返還ということは外務省?が考えるほど甘くないという論 外務省の考えということ自体、個人的な対立感を響かせるが、領土問題はとても難しい問題であることを、日本人は相手がソ連であるだけにみな知っている。しかしだから捨てよということは完全な敗北主義、少なくとも独立国家としての立場を忘れた事大主義と思われる。捨てよとは言わず二十五年凍結せよと言ったとの仰せなら、二十五年後にさらっと戻すという見通しは甘くないのか。六、現代の国際信義の大原則は領土不拡大方針である この大原則は大西洋憲章から流れてカイロ宜言(第一)に入り、さらにポツダム宣言(第八)に生かされている。この原則を無視して、独りソ連は西でも東でも領土の拡張を図っているが、これに対して極めて寛容な諭旨(地政学に基くソ連の堅い姿勢と規定してこれを尊重)と、やがて軍備もなくなり、資源平等の宇宙船時代に入る、だから国後・択捉などにこだわるな、という論者のいい分は右の大原則とどんな関係に立つのであろう。日ソ中立条約の調印前に笑顔で握手する松岡洋右外務大臣㊨とソ連のスターリン首相=昭和16年4月13日結び(返還同盟の主張) そもそも北方領土とは一九四五年八月の終戦まで日本の領土・領海であったところで、同年八月九日以来ソ連軍によって不法に占拠されている領域全体のことである。その中に択捉・国後等四諸島が入っていることはもちろん、南樺太とクリル・アイランズも含まれている。そして北方領土問題とはこれらの北方領土を、独立国家の生存権のひとつとしてその回復を図る政治課題のことである。 国後・択捉等四諸島の回復と並んで忘れてならないのは南樺太の回復である。南樺太の固有領土性は別添「南樺太を忘れるな」(詳しくは『日本と北方領土』によって立証している。この島に対する帝政ロシアの飽くことを知らない侵攻によって両国間に、約百年間紛議が続いたが、一九〇五年、ポーツマス条約によって、ついにその南半が原始開拓者である日本の手に戻されたのである。 以来四十年日露(ソ)の友好が続き、一九四一年(昭一六)には日ソ中立条約を結んで第二次世界大戦中も「相互不可侵」を誓い合っていた。 しかるに一九四五年八月八日ソ連はこの条約を一方的に破棄し、翌九日その軍隊は国境を越えてわが領土を侵略してきた。わが南面の戦局はいよいよ切迫し、樺太の防備は手薄になっていたので南樺太全域はたちまちにして占領された。 島民は累代の産を棄てて裸同然の姿で逐い散らされた。奥地から逃れ去る老幼婦女子の惨害は名状すべくもなく、白旗を掲げた軍使さえも銃殺されるという非道が各所で見られた。真岡郵便局の九人の乙女が崇高な殉職を遂げ、塔路太平炭礦病院の看護婦が逃れる途中、集団自決したのをはじめ、いたいけなわが子を道連れに死をもって日本人の誇りを守り抜いた日本婦人の多くの悲話は、この間に起ったのであった。 平和条約は戦争の結末を付けるものであるが、元々日本はソ連を相手とした戦争はしていない。仮にソ連軍の不法な侵攻を戦争とするならば、それの始末は 「戦」時占領の解除が真っ先である。領土その他に関することは、その上での外交交渉に俟(ま)つべきである。しかるにソ連は「戦」時占領を解かないばかりでなく、何の話し合いもなく国内法で日本領土の一部を自国領に編入した。力の暴挙というべきである。 われわれはこの原点に立って、対日平和条約諸国に訴えて「別の国際裁判」を誘起し、これを通じて南樺太を回復する方途を考慮しながら、択捉・国後等四諸島を早急に回復すべきであると主張するものである。 北方領土問題が一両年、五年十年で片づく問題ではあるまいが、目先の経済利益に押しやられる、論者のいう「小さな小さな」問題ではなくて、そこにこそ国家として民族としての長い長い命がかかっている、とわれわれは思っている。 以上、意を尽くさないところもあるが、本論に対する論者の明快な説明を期待し、併せてわれわれの主張を江湖に訴えるものである。 昭和五十年十一月四日(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ わが南樺太返還期成同盟は、南樺太から引き揚げた四十万人の代表者によって一九四八年に組織された全国樺太連盟の、領土回復運動を受け持つ別動隊として一九五五年に発足し、今年で満二十五年になります。 第二次世界大戦に敗れた日本が、国際的に厳しく処理されたことはやむを得ないことでありました。しかしその処理とはかかわりなく、ソ連邦が日本の広汎な領域を戦時占領のまま一方的に自国領土に編入してしまったことは全く不法なことで、われわれの絶対に承服できないところであり、対日平和条約(二十五条)によっても否認されております。 このことは、ロンドンで日ソ交渉が行われていた一九五五年七月、日本からの照会に応じて寄せられた貴国の、次のご見解によって明らかにされております。すなわち、①(省略)②ヤルタ協定は、それに参加した連合国指導者の共同の目的を述べたものであって、それ自体最終的効力を有するものではない③ポツダム宣言は、日本の領土の最終決定は、宣言参加国の後日の考慮によるべきことを明示しているから、ソ連邦が単独かつ一方的に決定することはできない④連合国司令官一般命令第一号、連合国司令部訓令第六七七号、対日平和条約第二条は、いずれも領土の最終帰属を決定したものではない⑤南樺太および千島(クリルアイランズ)の最終的処分は決定されなかったので、これは国際協定によって決定される問題である―。 さらに日本が再照会したときも上記と同じご見解に立たれ「ヤルタ協定は領土の譲渡を目的としたものでないし、(領土移転の)効力を持つものでもない」「将来の国際協定こそ、南樺太と千島(クリルアイランズ)の究極的処理となるであろう」と断言されています。 これらの経過と国際法の理論を踏まえ、私どもは次のように主張し、南樺太回復運動の先頭に立っているのであります。 ①択捉島以南の領域は昔も今も完全な日本領土であるから、その領域の島々の一括返還が実現されることを条件としてのみ日ソ平和条約を締結すること。 ②南樺太と千島(クリルアイランズ)は対日平和条約で日本が放棄させられたものであるが、その帰属はまだ決まっていないから、正しい帰属決定が行われる国際会議開催を米・英等に訴えていく。 しかしこのことは現在の国際情勢から見て容易ならぬ課題で、貴国としても軽々に取り上げることはできないだろうし、私どもも短期間の運動で目的が達成されるとは考えていません。けれども、一国の領土が国際法の正しい方法によることなく、移動することは絶対にあり得ません。どの国の領土も民族のかけがえのない遣産であります。いずれの民族を問わず、領土を保全し、それが不法な横奪に遭ったら全民族の力を結集して回復に立ち向うはずであります。どんな方法をとるか、何年かかるかは国際情勢に左右されようが、衰亡する民族でないかぎり世紀を重ねても必ずや初志貫徹すべく頑張っているのであります。 現実の問題として樺太は遠くなり、その地名さえも知らない若者もあるのです。しかしそれだからこそ、樺太開拓の陣列に伍して樺太をつぶさに知っており、既に高齢ながら樺太回復運動に努力している私どもが、次代の国民に日本と樺太の関係と、本来樺太は国際法上いかにあるべきかを次代の国民に知らせるため、樺太生れの若い人々を中心とする樺太回復運動の国際的な土台を、われわれが活動力を有するうちに据えなければならないと思うのであります。 どうぞ私どもの訴えを全日本民族の声としてお受けとり下さいまして、何分のご支援を賜わりたいのであります。尚、日本と樺太の歴史的経済的関係については別紙リーフレットに概説しました。メッセージ手交後、口頭にて補足説明した資料の記録 この度、南樺太(千島十八島も同じこと)の帰属決定に関する問題について参上いたしました。今差し上げた書面にありますとおり、この問題には次の五つのポイントがあるのですが、基本的には対日平和条約第二条C項に関する結末を付けるべき国際会議を開かなければならないということが、四十八の連合条約国の課題として残っていることをご認識いただきたいのであります。樺太西線を北上した泊居の公立杜門小学校の校舎前に並んだ児童や教員ら   ①南樺太と十八の千島は日本が四十八の条約国に対しその領土権を放棄したものであるから、条約加盟国でないソ連邦によって支配されるいわれはない。旧日本領土に対するソ連の支配は力による掠奪に外ならない。そこに国際法上の権利原因は何もないから領土主権の移転という法律行為は存在しないと思うのです。 ②日本の旧北方領域の領土主権の移転に関する国際法は、対日平和条約唯一つでそれ以外には何もないのです。ソ連はヤルタ会談を理由とするが、世界のどのような権威といえども、一国の領土権をその宗主国の参加しない話し合いで動かすことは、絶対にできないはずです。 ③以上のことは貴国が一九五五年と一九五六年において、日本に与えた書面の中に明かにされておりますが、法律論としても、事実の経過から見ても完全に正しいのでありますから、今後ともそのご見解を堅持せられ、これを変更しないことはもちろん、ソ連が何らかの方法で現在の不法な支配を合理化しようとする兆候があるときは、一九五六年九月の声明と同趣旨の声明を出すなど、適切な措置をとられ対日平和条約締結のリーダーとしての権威を発褌していただきたい。 ④私どもの期待する国際会議の開催は、現在の国際情勢では困難としても、その課題の存在を銘記していただきたい。 ⑤南樺太と十八の千島(エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンは日本が放棄した領域外で法律上完全な日本領土)は、歴史的に見ても、民族の平等と公平の原理から見ても、日本に帰属するのが国際的に最も正しいと信じます―。 以上の点を踏まえ、条約加盟四十八カ国に私どもはこの御願書コピーを理解していただくために何等かの方法で通達願えるか、その御考えを御伺いしたい。                    昭和五十五年(一九八〇)四月十五日(渡辺・尾形)(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書外務大臣    園田直殿総理府総務長官 中山太郎殿南樺太返還期成同盟総本部長 渡辺国武 内外多端の折貴大臣には益々ご健勝に日夜ご精励の御事心から慶祝し、且敬意を表する次第であります。当同盟は昭和三十年三月二十三日われらの郷土南樺太の日本復帰を宿題として結成され、ここに創立二十六周年を迎えたのでありますが、その間貴省(府)のご懇篤なご指導をいただきつつ、主として出版物により国の内外に亘り目的達成のための宣伝活動を行っているものであります。 申し上げるまでもなく、南樺太は千島とともに、先の対日平和条約締結のとき連合国に対して放棄したところでありますがその事後処理、つまり帰属先などのことは未決であり、しかも同条約は連合国でない(ソ連などの)いかなる国にも、何ものをも与えるものでないという規定(二十五条)をもっていることに照せば、同島は国際法上日本に帰属し得る状態に置かれているのであります。 私どもの主張と運動はまさにこの観点に立脚しているのでありまして、独り樺太引揚者のみならず、全日本人否全世界の人々の共鳴を得られる活動であると確信しているのであります。この点につきましては昨春私どもは、アメリカの国務省と同じく国連代表部を訪問し、運動の趣旨を訴えるとともに、対日平和条約二条C項や第二十五条の規定、および同国国務省の一九五六年九月七日声明に関する米国の現在の考え方を訊(ただ)しましたところ、国務省日本担当官は「アメリカの考え方は条約当時および声明当時と少しも変わっていない。あなたの考え方と一致している。この問題については日本の政府としても取り上げて然るべきものと思うし、アメリカ以外の連合国にも働きかけられ、成果が挙がってくることを期待する」というのでありました。 私どもはこの期待に応えて、カナダ、英国などの在日大使館を訪問して運動の趣旨を訴えて共鳴を求める段取りを進めているところでございますが、日本の政府としてもこの問題に一層のご理解と、日本民族を代表する代々の政府に、わが旧北方圈回復の責任がかかっているというご認識を深められますよう懇請します。蘭泊で満開となった桜。極寒の樺太にも春は訪れ、日本人の心を寄せる花は大地を彩る(『樺太写真帖』樺太庁編、昭和11) とは申しながらこの問題はわが国外交の基本に係るもので、俄(にわ)かに政府課題として取り上げることは四島回復と絡んで難しいことと存じます。しかしこの問題に関する国民運動が育つか育たないかは国家の重大な関心事でなくてはなりません。四島回復は絶対であり、当面この成功に努力すべきことは諭を俟(ま)たないところ、私どもも多年その運動の中心的な団体として活動して参りました。けれども南樺太はどうでもよいという態度・考え方は民族の重大な潜在権益を放棄するものであります。 この点、貴大臣をはじめ心ある日本人はすでに十分ご認識のところでありますが、わが南樺太の歴史と法的地位に対する理解と見識を欠く者も少くありません。 つきましては私どもの運動が深く根を下ろし、やがて全国民を動かすに足る民族運動体に成長し得るようご指導ご援助を蒙りたく、当面次の諸項について特段のご配慮を賜わりたく陳情致します。 ①樺太の正確な歴史的記録の保存と普及に努めること。巷間樺太についての浅薄・慾意な書きものが流布され、国民を誤らせるからである。 ②わが旧北方圈の歴史的、法的地位を国民教育の中に組み入れること。 ③旧日本領土の主権に変動を与えたものは、対日平和条約唯一つであって、それ以外のものによる領土権の異動はすべて不法なものであるということをすべての外交の基礎として置くこと。 ④政府首脳は、対日平和条約第二十五条後段の文書と一九五六年九月七日の米国務省の公式声明(日ソ交渉に対する米国覚書)の存在を常に念頭に置かれ、機会を見て、国務省声明中段に述べられてあるわが旧領土の帰属解決手段としての国際会議開催を、米国に申入れること。 昭和五十六年六月十二日わたなべ・くにたけ 明治三十七―平成十七。新潟県生まれ。父親が樺太で漁業関係の事業を始め七歳で大泊へ。大正十年旧制樺太庁(大泊)中学卒業と同時に王子製紙入社。昭和三年王子系列樺太電気設立と同時に出向。豊原の本社で営業部長の時に終戦。知人の機転で職場にスターリンの写真を掛けたことで北樺太・シベリア送りを免れた。邦人の疎開を手助けしながら自らも二十一年末新潟に疎開。東京で事業を興し、三十年全国樺太連盟傘下での南樺太返還期成同盟(五十年代後半に南樺太復帰同盟と改称)発足に参加。七十歳を過ぎて会長に就任し「樺太の帰属は平和条約調印国による国際協議で確定すべく米国に働きかけるのが筋」として、自費で米国など主要国を回るなど精力的に活動を展開した。晩年は仙台市の娘夫婦宅に身を寄せた。南樺太復帰同盟は現在休眠状態。

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    米大統領欺き北方四島をソ連に投げ与えた伝説的スパイの手法

     日本の戦後史はスパイによって作られた歴史でもあった──終戦から70年以上を経て、貴重な歴史資料が次々に「秘密解除」となっている。そこから衝撃の事実が浮かび上がってきた。戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載から、今回は北方領土をソ連(ロシア)に売り渡した男を綴る。 * * * 去年の5月19日、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は、「北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」と発言した。もちろん、これは純然たるプロパガンダだ。ソ連は、先の戦争のあとに、一方的に北方領土(南樺太、北方四島を含む千島列島)を不法占拠したが、それができたのは、ハリー・S・トルーマン米大統領が傍観したからだ。アルジャー・ヒス(Reuters/AFLO) なぜ米国がそうしたのか。大きな要因は米国務省内のソ連のスパイの一人アルジャー・ヒスの工作が功を奏したことにある。簡単にいうなら、ヒスが前代のフランクリン・ルーズヴェルト大統領を欺いて、北方四島(アメリカ側の呼称は南千島)をソ連に投げ与えさせたのだ。 以下では、そもそもヒスとはどんなスパイだったのか、北方四島を巡る米ソ間の密約においてどのような役割を果たしたのかを明らかにしよう。 1950年に米国で吹き荒れたマッカーシズム(*注)のなかで国務省の高官ヒスはソ連のスパイとしてやり玉に挙げられた。彼は「非米活動調査委員会」に喚問され、そこで共産主義のスパイだったことを否定したことに対する偽証の罪で懲役5年の刑を受けたが、実際にスパイだったかどうかは疑問視されていた。【*注:米国で起きた反共産主義運動。共産主義者とみなされた者に対し攻撃・追放が行われた】 ところが、1990年代にソ連側の機密文書などに基づきKGBなどの研究が進められた結果、実際にヒスは1930年代にソ連側にリクルートされたスパイだったことが分かった。いまでは機密文書の公開によってヒスをはじめとして多数のソ連のスパイが米政府官僚として働いていたことが立証されつつある。 米メリーランド州ボルチモアで生まれたヒスはハーヴァード大学法科大学院出身の弁護士だった。やがてヒスは、共産思想に傾倒しソビエト連邦軍(赤軍)参謀第四部のボリス・バザロフからスパイにリクルートされる。1933年、ソ連に流すための米政府の情報を得るため、それまで高給を得ていた弁護士の職を離れる。いくつかの公社勤務を経たのち、さらなる情報を得ようと1936年に国務省に入った。 ヒスは国務省内で順調に出世し、1944年には国務省特殊政治問題局長になり、翌年の2月に開催されたヤルタ会議の準備を担当した。米国はよりにもよってソ連のスパイに戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切らせてしまったのだ。◆大統領に届かなかった勧告書 ヒスは北方四島にかかわる密約の協議においてなにをしたのだろうか。「ヤルタ極東密約」、つまり、対日参戦と引き換えにソ連に南樺太、千島列島、満州での利権を与える約束は、会議前年の1944年の12月14日にモスクワでヨシフ・スターリンと駐ソ米国大使アヴェレル・ハリマンの間で協議され、翌日に文書化されていた。 これに対し米国務省内部から、「北方四島は歴史的にも住民の居住実態からも北海道の一部とみなし、ソ連に引き渡す範囲から除くべき」とする異論が出された。それは12月28日にルーズヴェルト大統領に対する勧告書としてまとめられた。 ところが、上院外交委員会の有力者、カール・マント上院議員のチームが1955年に外交記録を調査したところ、ヤルタ会議中およびそれ以前に、ルーズヴェルト大統領がこの勧告書を読んだ形跡を見つけることができなかった。 事実、「ヤルタ会議文書」に入っている文書すべてに目を通してみても、国務省の件の勧告書およびその内容に関する言及は見られない。にもかかわらず、『米国外交文書集』のなかには、この勧告書はヤルタ会議前に行われた会議の文書の一つとして収められている。 つまり、この勧告書は、事前ないしはヤルタ会議の場で参照されるべき文書の中に含まれていなかったために、ルーズヴェルトの目に触れることなく、葬り去られてしまったのだ。  こうして、米国務省が「北海道の一部である」と結論づけた北方四島は、ソ連に引き渡す範囲に含まれてしまった。ルーズヴェルトの後を引き継いだトルーマンは、日本を降伏に追い込もうと原爆を投下したが、ソ連は予定を切り上げて日本の降伏前に参戦を果たした。 戦争が終わったばかりの時にソ連とことを構えたくなかったトルーマンは、ソ連が北方領土を火事場泥棒的に奪うのを傍観した。その後、ヤルタ極東密約は51年に米議会で破棄されソ連の北方領土に対する主張は根拠を失った。 北方領土は、戦争の結果ではなく、ヒスの工作によってかすめ取られたのだ。ソ連側の機密文書から明らかになったヒスの工作と不当性をラブロフ、およびロシアが認識していないはずはない。にもかかわらず、彼らは強欲にも北方四島を手放そうとしない。【Profile】■アルジャー・ヒス/1904年生まれ。米国の弁護士・元政府高官。米国務省職員として外交政策に携わり1945年のヤルタ会議を取り仕切った。1996年11月15日死去。■ありま・てつお/戦後史家。早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。著書に『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)など。関連記事■ 米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去■ 米企業 東日本大震災30兆円巨大復興事業に大きな関心抱く■ 大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた■ 「スパイの世界に美男美女はほとんどいない」とスパイ事情通■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    日本人はやはりロシア人が嫌いだ

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 「日本人はロシア人に対して不信感を捨てられないのだね」 ワシントンDCに拠点を置くシンクタンク、ピュー研究所(Pew Research Center)がロシアとプーチン大統領への好感度と信頼度に対する調査を実施したが、それによると、日本は調査対象国40カ国の中で4番目にロシアに対する「好感度が低い」という結果が出た。友人はそれを聞いて、先述のコメントとなったわけだ。 ピュー研究所は今年5月24日から27日の間、40カ国、4万5435人を対象にロシアとプーチン大統領への好感度、信頼度調査を実施した。その結果、ロシアへの嫌悪感が好感度より多い国は26カ国で、平均値は非好感度52%、好感度30%。プーチン大統領に対しては24%が「信頼する」一方、58%が「信頼できない」と答えている。 ロシアに対して最悪のイメージを持っている国はポーランドとヨルダンの両国で80%だ。そしてイスラエルの74%。その次に日本が73%と続いている。ドイツとフランス両国は共に70%で第5位だ。参考までに、ロシアに対する好感度が最も良い国はベトナムで75%でトップ、そしてガーナ56%、中国51%と続く。 ポーランドの場合、長い歴史の中でロシアから弾圧され、過去、プロイセン、ロシア、オーストリアに領土を分割され、国を失った悲惨な経験を味わっている。冷戦時代にはソ連の支配下に置かれ、弾圧された歴史もあるから、国民がロシアに対していいイメージを持てないのは理解できる。ヨルダンの場合、隣国シリアに対するロシアのアサド政権支持に対して、国民の反発が強い。シリアからの大量難民がヨルダンに殺到していることもロシアのイメージ・ダウンにつながっている。第2次大戦終結70周年の記念式典で披露された劇の一場面。ソ連兵が日本兵に銃を向けていた=2015年8月29日、ロシア・ハバロフスク(共同) 日本の場合、73%がロシアに対し悪いイメージをもち、好感をもっているのは21%に過ぎない。ポーランドと同様、日本も歴史的な理由を無視できない。ソ連が日ソ中立条約を反故して日本に侵入し、日本固有の領土である北方四島を不法占拠した。その一方、約60万の旧日本軍人や民間人をシベリアに抑留し強制労働に従事させ、6万人以上の抑留者が命を落とした。ソ連の後継国ロシアに対し、一般の日本国民が警戒心を解けず、批判的なのは当然だろう。 ちなみに、読売新聞電子版によると、ロシア政府は10日、「クリル発展計画」を発表したが、それによると、北方領土を含む千島列島の社会基盤の整備と産業振興のため来年から25年まで10年間、約700億ルーブル(約1500億円)を投資するという。また、メドヴェージェフ首相が近日中に北方領土の訪問を予定しているという。ロシアは不法占領地の既成事実化を急いでいるわけだ。 一方、プーチン大統領に対して、39カ国中、ベトナム(70%)と中国(54%)の2カ国だけが「信頼している」が過半数を超えた。平均は「信頼できない」が58%で、「信頼する」24%を大きく引き離している。特に、ウクライナのクリミア半島のロシア併合もあって、欧州のプーチン嫌いが突出している。例えば、スペイン92%、ポーランド87%、フランス85%、英国80%、イタリア77%、ドイツ76%と、いずれもプーチン大統領に対して「信頼できない」と答えている。日本はアジア地域ではオーストラリア(81%)に次いで、プーチン氏への不信感が強く、71%だ。 プーチン大統領の年内訪日が囁かれているが、不法占領の北方領土に対して、同大統領は「4島に対するロシアの主権は第2次世界大戦の結果」と主張し、返還する意思のないことを明らかにしている。それだけに、同大統領が日本を訪問したとしても、どれだけの成果が期待できるかは不明だ。8月は北方領土返還運動全国強調月間だ。 いずれにしても、戦後70周年を迎えたが、日本国民のロシアとプーチン大統領への不信感は想像以上に強いことが今回のピュー研究所の世論調査結果で明らかになったわけだ。(2015年08月13日「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より転載)

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    米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去

     今年5月19日にロシアのラブロフ外相は、北方領土(択捉、国後、歯舞、色丹などの南千島)の返還を求める日本に対し、「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」と、これを批判した。ロシアとの北方領土返還交渉が一向に進まぬ背景には、70年間影を落とし続ける「ヤルタ極東密約」の存在がある。米ソの思惑によって結ばれた密約を、社会学者の有馬哲夫氏が解き明かす。そして、その責任は当時の米・ルーズウヴェルト大統領にあると有馬氏は指摘する。  * * * なぜ北方領土がいまに至るまで不法占拠されているのだろうか。それは秘密・個人外交に走ったルーズヴェルトの責任だといえる。 1944年の米大統領選挙で再選を狙ったルーズヴェルトは、戦争終結のための巨頭会談を選挙戦の目玉にしたかった。そこで、いろいろ贈り物を用意してソ連のヨシフ・スターリンに会談をもちかけた。その一つが日本固有の領土である千島列島のソ連への引き渡しだった。ルーズベルト米大統領(左)とコーデル・ハル国務長官=「昭和」(講談社) しかし、米国務省は、南千島(北方四島)は住民の居住実態からして北海道の一部で、切り離すことができないという報告書をルーズヴェルトに提出していた。ところが大統領がこれを読んだ形跡はなく、千島全島をソ連に引き渡すという極東密約を、米国議会にはからずヤルタ会議で無断で結んでしまった。 この会議で、文書を用意し、管理する役割を担ったのは国務省特殊政治問題局長のアルジャー・ヒスだが、この国務省の高官はソ連のスパイであることが1950年の米国議会による調査で分かった。つまり、南千島はスパイによって奪われたのだ。 ルーズヴェルトが1945年4月12日に死去すると、急遽大統領職を引き継いだトルーマンは、前大統領が秘密・個人外交をしていたために、複雑な事情がわからず、とにかく前大統領の路線を引き継ぐと言明した。だから、米国はソ連が対日参戦したあと、千島列島全体を占拠するのを黙認した。 1951年になって、ようやく米国の議会や国民がこの密約の存在を知ることになって、自分のものでもない領土をソ連に与えるこの恥ずべき密約は、当然ながら破棄された。だが、ルーズヴェルトが勝手にしたこととはいえ、約束をたがえたうしろめたさから、この後も米国政府は、日本の立場を支持しつつも、ソ連を強く非難できない。 そして70年もの時が流れて、現在に至っている。しかし、極東密約が無効であり、日本が主権を放棄していない以上、北方領土を日本が要求するのは当然であり、すぐに返還されるべきなのだ。

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    北方領域へのロシア侵略と売国の徒

    北方領土四島だけでなく、帰属未定の樺太・北千島の不法占拠を続けるロシア。数年来の強硬姿勢は「これが戦後秩序だ」とする主張に、実は国際法上の根拠がないことの〝裏返し〟だという。そして日本にはロシアを利する勢力がある。

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    盗るだけ盗ったソ連の無法 ロシアの四島占拠に根拠なし

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より有馬哲夫(早稲田大学教授)ことごとく根拠失う露首脳 平成二十七年八月二十二日、ロシアのドミトリー・メドヴェージェフ首相が択捉島を訪問し、これに対して日本政府が抗議した時、彼はこう述べた。「日本とは友好関係を望むが、ロシアの領土と関係づけてはならない」。彼が「ロシア領土」と強調しているのは、日本の北方領土(国後、択捉、色丹、歯舞)のことである。 同五月二十三日にもセルゲイ・ラブロフ外相が北方領土の返還を求める日本を次のように批判した。「日本は第二次世界大戦の結果に疑いを差し挟む唯一の国である。北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった。敗戦国の日本には返還を求める権利はない」北方領土について強硬発言を続けるドミトリー・メドベージェフ露首相=平成27年8月22日、択捉島の水産加工場 歴史的事実に照らして、メドヴェージェフやロシアの外務省関係者が言っていることは、まったくでたらめである。彼ら自身それを認識していることは、「第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」という抽象的な言い方をしているところに表れている。はっきりした根拠があるのなら、どの国際協定、あるいは二国間協定にもとづいて、そういえるのかはっきり言えばいいだろう。だが、ロシア側は、以下で詳しく述べていく理由によって、かえって窮地に陥るのでそれができないのだ。 「第二次世界大戦の結果」という言い方にも注目する必要がある。というのも、ここにもロシアの弱みが隠されているからだ。つまり、「第二次世界大戦によって」といえば、ソ連の対日戦争は、領土や利権目的の侵略戦争だったと認めることになる。事実、いわゆるヤルタ極東密約といわれるものによって、南樺太の「返還」、千島列島の引き渡し、満洲の利権獲得とひきかえに、日ソ中立条約に違反して、一方的に日本に戦争をしかけてきたのだから、まさに侵略戦争だったのだ。日本人にとって、ソ連による満洲侵攻ほど侵略戦争のイメージにぴったりなものはない。  ロシア側は、「アメリカとの約束」、つまりヤルタ極東密約に基づいて行ったものだと反論するかも知れないが、これもまたあとで詳しく述べる理由で、そうとはいえない。ここではっきりさせておくが、そもそもこの密約はフランクリン・ルーズヴェルト大統領がアメリカ議会に諮ることなく、秘密裡に結んだもので、「アメリカの約束」ではなく、「ルーズヴェルトの約束」でしかない。アメリカの政治制度を知っているソ連にその認識がないわけがない。そして、ソ連が恐れていた通りに、この「ルーズヴェルトの約束」は、アメリカ議会に破棄されて「アメリカの約束」になることはなかった。ロシアの侵略気付かせぬ占領政策ロシアの侵略気付かせぬ占領政策 そもそも、ソ連を含む連合国は、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で、日本の戦争を非難し、日本がこの手段によって奪った地域は返還させる、あるいは剥奪すると決議した。これと同じ論理で、一度も他国の領土だったことがない南千島を含む千島列島を得ることを目的としたソ連の対日戦争は侵略であり、それによって得た千島列島は日本に返さなければならないことになる。 こんな明白な歴史的事実に日本人が気付かないとすれば、あるいは気付きながらも「いまさら言っても仕方ない」と思っているとすれば、それはアメリカの占領軍が日本人に行った心理戦によって、日本は無条件降伏したのだという「無条件降伏史観」から抜け出せないからだろう。 中国、韓国の政府首脳は、歴史的事実を捻じ曲げる反日プロパガンダを行っているが、彼らが最大限に利用しようとしているのが、この「無条件降伏史観」、つまり「日本は無条件降伏したのだから、いまさらいっても仕方がない」という歴史観だ。「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」というラブロフの言葉もまさにこれを突いたものだ。ヤルタ会談が行われたリバディア宮殿で並んで座る左からチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリン・ソ連首相。「樺太・千島獲得」の極東密約でスターリンはほくそえむような表情だ 私たちが歴史の教科書で学んだように、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。だが、戦後教育がしっかり教えてこなかったのは、ポツダム宣言の正式名称は「日本の降伏の条件を定めた公告」で、日本はこれに定めた条件のもとに降伏したのであって、無条件降伏したのではないということだ。さらに、この公告が求めた無条件降伏は、日本軍に対してであって、日本政府でも日本国民でもなかった。したがって、日本軍が武装解除されたあとは、日本政府も国民も、ポツダム宣言の条件のなかで認められた権利を戦勝国に対して主張する権利を持っている。それらの権利とは、政体選択の自由(ポツダム宣言第一二条)、貿易の自由(第一一条)、領土保全(第八条)だ。敗戦日本にも適用の「領土保全」敗戦日本にも適用の「領土保全」 昭和天皇も東郷茂徳(当時外務大臣)ら重臣も、アメリカ側のスポークスマンである戦時情報局のエリス・ザカライアス大佐(本属は海軍)と国務長官代理のジョゼフ・グルーがラジオ放送を通じて大西洋憲章(いかなる国も前述の基本的権利を侵害されないとした)に言及しつつ次のように述べているのを何度か確認している。「日本が降伏しても、大西洋憲章にうたわれた権利は日本に保証される」。そこで、天皇と重臣たちは、ポツダム宣言を受諾しても国体護持が可能だと確信して、降伏に踏み切った。なにもかもあきらめて、すべてをなげだして、無条件降伏したのではない。 とくに最後の領土保全は、他国から取ったのではない本来の領土は、たとえ戦争に負けても奪われることはないということをいったものだ。したがって、ポツダム宣言の条件にしたがえば、「第二次世界大戦の結果」がどうあれ、ロシアは日本固有の領土である北方領土を奪うことはできない。日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。スターリン(右)も同席していた=昭和16年4月13日 戦後七十年もたったのだから、わたしたちはもう「無条件降伏史観」から抜け出さなければならない。そうすれば、ラブロフにつけ入られることなく、北方領土問題に対する意識がより高まり、ロシアが未だに北方領土を占拠していること、しかもロシアの領土として開発しようとしていることが、いかに許しがたいことかより強く認識するようになるだろう。 以下では、ロシアが「無条件降伏史観」を悪用してどのような詐術を行ってきたか、それらは歴史的事実とどのように違っていたのかを明らかにしたい。それによって、ロシアの嘘とごまかしを暴き、北方領土を「ロシアの領土」と呼ぶことがいかに不当であるかを証明したい。 これまでソ連・ロシアは「無条件降伏史観」を利用して、次の四つを理由としてあげて北方領土が「ロシアの領土」になったと日本人に思いこませようとしてきた。 ①ポツダム宣言(正式名称「日本の降伏を定めた公告」)を受諾し、降伏した。 ②一九四五年九月二日に戦艦ミズーリ号上で連合国と終戦協定を結んでいる。 ③サンフランシスコ平和(講和)条約を結び、南樺太および千島列島を放棄した。 ④日本が国連憲章第一〇七条敵国条項に当てはまる国である。 最初にこれら四つが北方領土を「ロシアの領土」とする根拠になり得ない理由を短く説明しよう。そのあとで、詳しい説明を加えていくことにする。ポツダム宣言が日本に履行を求めた「カイロ宣言」「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借(かしやく)ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼(とうしよ)ヲ剥奪(はくだつ)スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島(ほうことう)ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又暴力及貪慾(どんよく)ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」※台湾では①中華民国が台湾の主権を有するという解釈②カイロ宣言自体の国際法上の有効性―に議論がある。ソ連はポツダム宣言主体から排除 まず①だが、ポツダム宣言の第八条は、降伏後の日本の領土を「本州、九州、四国、北海道および、われわれが決めた島々」としている。だが、ソ連代表ヨシフ・スターリンはこのポツダム宣言に署名していない。よってソ連は「われわれに」は含まれておらず、本州四島以外の島々について決める権利をもっていない。 よくソ連がポツダム宣言に署名しなかったのは、日本に参戦の意図を悟られないようにするためだったとまことしやかにいわれるが、これは誤りである。事実は、ソ連側もポツダム宣言の案を持ってきたのだが、トルーマンはこれに一瞥もくれずに、さっさと自分たちが用意したポツダム宣言を発表してしまったというものだ。参戦の意図を悟られないようにもなにも、米ソは袖を分かっていたのだ。 ポツダム会議の前の一九四五年七月十六日に原爆実験の成功の知らせを受けたトルーマンは、この悪魔の兵器を使えば、ソ連の参戦なしに日本を降伏させられると考え、原爆投下を決断すると同時にソ連を「われわれ」から排除した。したがって、ソ連はアメリカとの合意に基づいて対日戦争に入ったのではなく、勝手にそうしたのだ。降伏調印後も攻撃して領土侵奪降伏調印後も攻撃して領土侵奪 次に②だが、たしかに日本が同年九月二日にミズーリ号上で調印した降伏文書には、他の連合国と同様にソ連も調印している。だが、これは、連合国に対する日本軍の降伏などを布告しただけだ。引き続き発出された連合国最高司令官の一般命令第一号で、各地の日本軍の降伏先が定められ、このなかで交戦状態にあった樺太・千島などではソ連軍に降伏するよう命じた。しかし終戦協定としての同艦上での手続きは、領土について定めたものではない。これによって日本が認めたと見なせるのはせいぜい一時的占領だ。東京湾のミズーリ艦上で日本降伏の文書に署名したマッカーサー連合国軍最高司令官。続いて後方のデレヴィヤンコ・ソ連代表ら連合国各代表も署名した=昭和20年9月2日 そもそもソ連は他の戦勝国とは大きく違う点がある。それは日ソ中立条約に違反して、一方的に攻撃してきたという点だ。不法に戦争に加わったソ連を他の連合国と同じく戦勝国と呼んでいいのだろうか。事後に批准された国連憲章で合法と認められたという馬鹿げた記述を見かけるが、これが信じられるとすれば「無条件降伏史観」のなせる業だろう。罪を犯したあとで、それを無罪とする法律を事後に無理やり作っても、さかのぼってその罪を無罪にはできない。 また、ソ連は日本の降伏通告をほぼ無視して、軍事行動を取り続けた。日本はポツダム宣言を受諾する旨の通知を八月十四日にスウェーデン政府経由でソ連に送っているが、ソ連はこの通知を受け取ったあとも日本の軍民、とりわけ民間人に殺戮、暴行、強姦、略奪を大規模かつ組織的に執拗に行いつづけた。これは八月十五日以降軍事行動を即座に停止したほかの連合国と際立った対照を見せている。樺太・千島への南下侵攻を続けるソ連軍は8月29日に択捉島に上陸して日本側を攻撃。この後さらに南下を続けた さらに、ソ連は降伏文書に調印したあとでさえ、軍事行動をやめなかった。ソ連軍が歯舞群島に達したのは九月三日であり、千島列島全体を占拠したのは、九月五日だ。つまり、ソ連は日本の降伏文書に自ら調印したあとも、ほぼ無抵抗の日本の軍民に対して軍事行動を取り続け、千島列島全体の占領を完了させたのだ。 もっと根源的で私たち日本人が絶対忘れてはならないことは、日本が終戦を決意して仲介を依頼したとき、ソ連はのらりくらりと、時間稼ぎをして戦争準備を整え、矢尽き刀折れて落ち武者同然になった日本を、だまし討ちにしたということだ。降伏するもなにも、そもそも日本はソ連と戦う気などなかったのだ。ヤルタ密約は相手の米国が破棄 次に③だが、ソ連は、中国(共産党中国)と韓国とともにサンフランシスコ平和条約の締結国となっていない。日本はこの条約によって、南樺太と千島列島を放棄させられたが、それらの帰属は未定とされていて、ソ連に与えるとされていない。つまり、①②で見たように、やはりアメリカは、ソ連を自分と同等の戦勝国として認めておらず、したがって、千島列島どころか南樺太まで、ソ連の主権を認めていないのだ。現在でも正式な地図では、南樺太および千島列島は、ロシア領とは別の色になっていて、ロシアの領土とはされていない。 決定的なのは、一九五二(昭和二十七)年にサンフランシスコ平和条約をアメリカ上院が批准する際に、ヤルタ極東密約を破棄するとした付帯決議がなされていることだ。アメリカでは大統領が密約を結んでも、議会が承認しなければ無効なので、ヤルタ極東密約は「ルーズヴェルトの約束」のまま破棄されたことになる。したがって、サンフランシスコ平和条約の時点で、南樺太および千島の帰属が未定になったというより、もう一歩踏み込んで、ソ連の領土とする根拠が消えたのだ。 最後の④だが、ソ連・ロシアにとって最後の砦となっているのがこの国連憲章(第一七章)第一〇七条だが、その内容は「憲章のいかなる規定も、敵であった国の行動について責任を有する政府が戦争の結果としてとり又は許可したもの(休戦・降伏・占領などの戦後措置)を無効にし、又は排除するものではない」というものである。 読んで明らかなように、大戦末期の混乱で生まれた敗戦国(敵国)に不利な状態を国際連合が成立したあとも追認させようという戦勝国のエゴまるだしの取り決めだ。こんな取り決めでさえソ連の北方領土の不法占拠を正当化できない。 北方領土の場合、該当するのは、「占領」だが、ソ連は前に述べた経緯から「旧敵国の行動について責任を有する政府」とはいえない。事実、ソ連は日本が降伏したあと、日本の占領に加わることを要求したが、トルーマン大統領はこれを拒否し、かわりにイギリスに増派を求めた。 また、占領できる期限は、ポツダム宣言に明記されているように、占領目的が果たされるまでであって、そのあとは撤退しなければならない。事実、アメリカは占領目的である「軍国主義の排除と民主化」が実現できたとして昭和二十七年をもって占領を終結させている。したがって、ソ連もとっくの昔に北方領土から撤退していなければならなかった。 占領ではなく、領有だというなら、繰り返しになるが、ソ連は侵略国家だということになり、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で決議されたように、奪った領土は、奪われた国に返さなければならない。つまり、どっちにせよ、最小限でも北方領土は日本に返さなければならない。原爆実験成功でソ連参戦不要に原爆実験成功でソ連参戦不要に さらに詳しい説明を加えよう。なぜトルーマンはスターリンにポツダム宣言に署名させなかったかだが、それはトルーマンが大統領に昇格して以後の、とりわけポツダム会議中の状況の変化によるものだ。 一九四五年四月一二日にルーズヴェルトの死を受けて大統領職を引き継いだトルーマンは、当初前任者の方針をそのまま引き継ぐと内外に表明した。つまり、ソ連と結んだ協定(極東密約を含む)と無条件降伏方針を変更しないということだ。しかし、ドイツの降伏後、この二つの方針を見直すよう国務長官代理のジョゼフ・グルーが新大統領に強力に働きかけた。 陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、多大の犠牲が予想される本土上陸作戦を避けるためにも、無条件降伏ではなく、天皇制存置を認めた条件付き降伏を日本に求めるべきだと主張を始めた。スティムソンの場合は、ヤルタ極東密約をそれほど問題視していなかった。約束なしでも、いずれソ連はそれらを手に入れると思っていたからだ。ホワイトハウスでトルーマン大統領と打ち合わせるスティムソン陸軍長官=1945年8月(AP) このような閣僚の動きを受けて、ポツダム会議に臨んだときのトルーマンの選択肢は、次のようになっていた。一つは、ソ連に対日参戦を求めて日本を無条件降伏させ、ヤルタ極東密約を守ること。もう一つは、ソ連に対日参戦を求めず、日本に皇室維持の条件付きで降伏を認めて早期に講和を結び、ヤルタ極東密約を無効にすること。 これに原爆実験の結果が絡んできて、選択肢が変化した。七月十六日にアラモゴードで原爆実験が成功したあとトルーマンが実際に選択したのは、ソ連の参戦前に原爆投下によって日本を無条件降伏に追い込み、ヤルタ極東密約を無効にすることだった。だから、ポツダム宣言から天皇制存置条項を削除したうえでソ連を「われわれ」から除外したのだ。 トルーマンの計算違いは、日本が降伏する前にソ連がアメリカに無断で満洲侵攻を始めてしまったことだ。奇妙なことに、ソ連は日本がポツダム宣言を「拒否」したことを満洲侵攻の理由としている。トルーマンは苦笑いしたことだろう。わざわざ仲間はずれにしたのに、ソ連側はそれを知りながら仲間だと主張しているのだ。これによってソ連はヤルタ極東密約の要件を満たし、その利権を要求できると思っていた。アメリカ議会が密約を批准すれば、そうなっただろうが、前にも述べた通りこれは否決された。仲間外れで盗るだけ盗ったソ連 思いがけないソ連の参戦によってトルーマンが陥ったジレンマが②に反映されている。アメリカは前述の経緯にもかかわらず、ソ連をミズーリ号上の調印式に加えた。ポツダム宣言のときは署名させないようにしたが、その後ソ連が日本と戦争を始めてしまった以上、降伏調印なのだから加えないわけにはいかない。また、トルーマンはソ連が千島列島全体を占領するのを黙ってみていた。彼からみて、せっかく戦争が終わろうとしているときに、敗戦国のちっぽけな島々のことでソ連とことを構えるのは賢明ではないからだ。だが、スターリンの北北海道の占領の要求は、断固撥ねつけ、その後も日本の占領にソ連軍を加えなかった。 スターリンもトルーマンのポツダムでの仕打ちが何を意味するかよく知っていた。だから、日本のポツダム宣言受諾による降伏の通告も、降伏文書調印も、一切無視して、できるだけ多くのものを日本から奪うことに専念した。トルーマンが約束をたがえようとしているのだから、力によってできるだけ多くの領土、資産、人員を日本から奪って、既成事実化しておこうということだ。満洲ハルビンに侵攻するソ連軍戦車。日本の降伏前にソ連が勝手に満洲に侵攻したのはトルーマン米大統領の計算違いだった… 当然ながら、アメリカ主導のサンフランシスコ平和条約にソ連は加わらなかった。それでなくともヤルタ極東密約は空文化していたのだが、この会議でアメリカがはっきりと破棄しにかかることが予想された。事実、一九五二年三月二〇日の上院で、次の付帯決議によってはっきりとヤルタ極東密約を無効とした。 「上院の助言と決議として、上院はこの条約(サンフランシスコ平和条約)の中には、日本と条約に定める連合国が南樺太やその周辺の島々、千島列島、歯舞、色丹、その他日本が一九四一年一二月七日まで領有していた領土に関する権利や名称や利益をソ連に有利に思われるように減少させたり、誤解させたり、権利や名称や利益がソ連のものであることに合意したとみなされるものはまったくないことを明言する。また、この条約やそれについての上院の助言と同意には、一九四五年二月十一日付の日本に関するいわゆるヤルタ合意に含まれるソ連に有利な条項をアメリカ合衆国が承認したと示唆するものはなにもない」 これによって、ヤルタ極東密約とソ連の領土的野心はとどめをさされた。さらにいえば、千島列島どころか、南樺太の占拠すら不法とされた。帰属を正当協議なら日本返還も 帰属を正当協議なら日本返還も  そもそも間宮林蔵の探検以後、江戸幕府が積極的に移民を送り込んだこともあり、住民の居住実態からしても、樺太はロシア固有の領土とはいえない。日露戦争は公平にみて防衛戦争だったし、南樺太も、得たというより「回復」したと考えることもできる。 たしかに日本は、サンフランシスコ平和条約でこの地域を放棄することに同意したが、ソ連にこの地域を引き渡すとはしていない。 したがって、この地域は、ロシア以外の国が委任統治したり、関係国との話し合いで、望ましいということになれば、再び日本の施政下に置いたりすることもありえる。 それにしても。なぜアメリカ議会がこんなにあとになってこのような決議をしたのかといえば、日本人には驚きなのだが、トルーマン政権がこの密約のことを隠していたからだ。アメリカは外交文書を「アメリカ外交文書」という本にまとめて公表しているが、ポツダム会議の巻が出版されたのは一九五二年だ。それまでルーズヴェルトもトルーマンも、自分がどんな外交をしたのか議会と国民に隠してきた。1945年2月、ヤルタ会談開始前にルーズベルト米大統領(右)の宿舎を訪ねたスターリン・ソ連首相。米議会は2人の「汚い密約」を認めなかった それで思い当たるのは、ポツダム会議でヴャチェスラフ・モロトフ外相から、日ソ中立条約を破って対日戦争に入るよう連合軍がソ連に要請する文書をもらいたいといわれたときの国務長官ジェイムズ・バーンズの対応だ。彼は「モスクワ宣言第五項と国連憲章第一〇三条、第一〇六条で正当化できるので、その必要はない」と答えた。笑えるのは、ソ連側がこの回答をもって対日戦争を正当化する根拠としていることだ。 バーンズおよびトルーマンの真意は、おそらくソ連の参戦はないのだから、日ソ間の協定を知りながら、ソ連に侵略戦争をすることを求める文書などに署名したくないということだ。これを残せば、アメリカ議会の追及を受けるのは必至だし、いずれ公文書として公開されて、孫子の代までアメリカ国民から後ろ指をさされることになる。一般のアメリカ人は、このような政治家や弁護士の「汚い取引」を最も忌み嫌う。 この二人とちがってモラルも良識もあるアメリカ議会は、やはりこの「汚い取引」をよしとしなかった。それどころか、とくに共和党議員は、ルーズヴェルトの秘密・個人外交を断罪し、返す刀でそれを引き継ぎ、隠したトルーマンも非難した。ここがアメリカの懐の深さで、ソ連、中国、韓国とちがうところだ。どうもアメリカ側でまともでなかったのは、政府首脳だけだったようだ。 現在のロシアにもまがりなりにも議会があるのだから、自らの権力強化のために、数千万人の自国民を処刑したり、収容所送りにしたりした独裁者スターリンを断罪したのなら、彼の個人・秘密外交も非難し、こんな密約を結んだことを恥じ、日本から奪ったものを返すと決議したらどうか。戦後処理と関係ない中共・韓国 ちなみに、中国と韓国の厚顔無恥な歴史捏造が目立つのでとくにいっておきたいのは、中国(共産党)と韓国も日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ平和条約の加盟国となっていないということだ。 中国共産党は、日本と戦いはしたが、日本軍に追われて、延安周辺をさまよっていて国家の体をなしてなかった。また、この平和条約が締結されたときは、朝鮮半島でアメリカと戦っていた。ポツダム宣言の署名国で、サンフランシスコ条約の署名国となったのは、中華民国、つまり我々が台湾と呼んでいる国である。 韓国にいたっては日本と戦争すらしていない。だから、この国が主張するような戦勝国であるはずがない。現在の韓国人、北朝鮮人および在日朝鮮人は、明治四十三(一九一〇)年の日韓併合から終戦まで日本人だった。だから、ついでにいうが、戦時中彼らは日本人として動員されたのであって、世界産業遺産だろうがどこだろうが、朝鮮人として「強制労働」させられたのではない。 たしかに李承晩ら上海周辺にいた抗日グループは反日運動を行っていたが、これは「抵抗運動」とはいえても彼らが主張しているような「戦争」とは呼べない。サンフランシスコ平和条約をまとめたジョン・フォスター・ダレスもそう判断して、サンフランシスコ会議に戦勝国として参加したいという李承晩の要求をはねつけた。その前には、アメリカ国務省が竹島は韓国の領土だとする主張を根拠がないとして退けていた。  このようなアメリカに対する腹いせとして、海上自衛隊が発足を目前に控えた昭和二十七年一月一八日に国際法を無視して李承晩ラインを引き、竹島をその内側にとりこんだ。韓国は「われわれ」にもサンフランシスコ平和条約署名国にも入っていないのだから、これも侵略であり、不法占拠だ。中韓ほど歴史捏造しない露中韓ほど歴史捏造しない露 ここまでロシアの言い分をつぶしてくれば、なぜロシアが④など持ちだすのかわかる。ほかに出せるものがないからだ。そもそも、日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ会議に参加して、はっきりとした協定を結んでいれば、④など持ちだす必要がなかったはずだ。協定を結ばなかった以上、ソ連には日本の戦後処理に関して、自らの権利を主張することはできない。実際、この平和条約では、南樺太と千島列島をソ連のものとはしなかった。権利を放棄したのだから、わざわざ与える必要はないということだ。 この敵国条項にしても、当該二国間で話し合い、合意に達すれば、返還を実行するうえで妨げになるわけではない。ロシアがこの条項をあげるのは、ようするに、日本の要求に応じたくないということだ。つまり、この条項があるから北方領土を返さないのではなく、返したくないからこの条項を盾にしているのだ。 もちろん、日本が敗戦国になったことを思い出させ、心理的ダメージを与えるという意図も含まれている。メドヴェージェフ首相がいうように、ソ連・ロシアが本気で日本と友好的関係を結びたいと思っていたなら、「敵国条項」などというおどろおどろしい名称の遺物を持ちだしたりしなかっただろう。北方領土をめぐり強硬発言を繰り返す露のプーチン大統領㊧とメドベージェフ首相。泥棒こそが自らの盗みの手口を知っている(AP) ただ、一つだけ救いを見つけるとすれば、ロシアは中国や韓国のように歴史の捏造に熱心ではないことだ。ラブロフらにしても、以前のほどにはヤルタ極東密約やポツダム宣言やサンフランシスコ平和条約や敵国条項のことはいわなくなった。それらをもって正当化できないという歴史認識を持っているからだろう。もともとソ連・ロシアの歴史学者は、もちろん研究者にもよるが、中国や韓国の同業者のような歴史とプロパガンダの露骨な混同はやらない。占拠の不法性を自ら認識 政治家にしても、確かにメドヴェージェフの北方領土視察は許しがたいが、このようなことをするようになったのは、ついこの数年のことだ。それまでは、これまでの歴史的経緯も踏まえて(彼らにとってそれどころでなかったことも加わるが)、あの傍若無人なソ連およびロシアが、それなりに自粛していた。これも、歴史とプロパガンダが混然一体となっている中国と韓国には認められない点だ。これら両国は歴史改竄を繰り返すので、要求がどんどんエスカレートし、話せば話すほど距離が開いていく。ロシアはこの点では、彼らよりましだと感じられる。 メドヴェージェフやラブロフの発言は、彼らの歴史認識というよりは、政治的意図が先に立ったものだろう。前述のように、本心では北方領土を占拠する根拠がないということを認識しているようだ。ただ、日本側がかならず食いついてくるので、日本を釣る外交カードとして使っている。今のところ、ロシアは他に有効なカードをもっていないので、これからも使ってくるだろう。ゆえに、このカードを手放すつもりはないだろう。 実際問題として、武力によって奪い取られたものを、平和的手段によって取り戻すことは至難の業だ。はっきりしていることは、奪われたものを取り戻すことは、日本単独ではできないということだ。何らかの形で、日本が他の複数の国と連携してロシアに圧力をかけられる国にならなければ、悲願は達成できないだろう。それまでは臥薪嘗胆するしかない。ありま・てつお 昭和二十八年青森県生まれ。五十二年早稲田大学第一文学部英文科卒業、五十九年東北大学大学院英文学専攻博士後期課程単位取得満期退学。同大教養部講師、助教授などを経て平成九年早大社会科学部(メディア研究)助教授、十一年から同教授。アメリカの占領政策と日本のマスメディアの関係を明らかにする研究に取り組む。また「メディアはすべて広告メディアである」という事実を踏まえ、広告が大衆文化の形成とどのようにかかわっていたのか、それにどのような今日的性格を与えたのかを歴史的に研究する。著書に『原爆と原発「日・米・英」核武装の暗闘』(文藝春秋)、『1949年の大東亜共栄圏―自主防衛への終わらざる戦い』(新潮社)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作:ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(同)、『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)など。

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    功名心で国家を大きく損ねる 父祖の代から続く「鳩山・河野」コンビ

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より『別冊正論』編集部 大東亜戦争末期に日ソ中立条約を無視して対日侵攻し、樺太など北方領域を占拠し、七十万といわれる日本人捕虜を抑留使役したソビエトロシア。その国交回復を「命題」にした鳩山一郎と河野一郎が昭和三十一年十月に調印した日ソ共同宣言。双方のやり取りやソ連側の対応の変化について産経新聞は平成八年七月、独自入手した秘密資料などから具体的に報じた。そこでW一郎が、領土や七十万人への補償要求を切り捨てて、自らの命題を解決したことが改めて浮かぶ。 このため六十年経った今も、ロシアは北方領土や北洋漁業をめぐる強硬姿勢を崩さず、シベリア抑留の真相究明も進まない。さらにW一郎の手柄の一つとして加盟できた国連(連合国)は、今も日本を旧敵国としている。功名心に駆られた〝政治屋〟はいかに国や国民の利益を損じるか、の言い見本だ。 W一郎の孫や息子は今、公的な肩書を悪用して「尖閣は日本が盗んだ」「日本官憲の慰安婦の強制連行はあった」などと吹聴し続ける。この鳩山・河野コンビは今に始まったものではなく、六十年前から続く「売国の血筋」であることも教えている。 「旧ソ連対日交渉秘密文書を入手 『二島返還論』の真相 国後・択捉継続協議覆す」などと題した記事を再掲(一部修正)する。◇    ◇日本の政争につけこむ 昭和三十一年十月、ソ連との国交回復をうたった日ソ共同宣言の締結をめぐる首脳会談議事録やソ連共産党の指令書など秘密文書を産経新聞は入手した。ソ連側が歯舞(はぼまい)と色丹(しこたん)の返還を決定した経緯や、領土問題継続交渉を明記した草案をソ連側が強引に撤回したやり取りが判明した。 日ソ国交回復交渉は、自由党の吉田茂内閣の後を受けて二十九年十二月、日本民主党の鳩山一郎総裁が内閣を率いてから動き出した。 明らかになった秘密文書は、①三十一年六月に始まったロンドン交渉に関する文書②同九月の鳩山首相とブルガーニン首相との交換書簡③モスクワ交渉での河野一郎農相とフルシチョフ・ソ連共産党第一書記との四回に及ぶ会談議事録④同じく鳩山首相、河野農相と、ブルガーニン首相、ミコヤン副首相の会談議事録―など十四点。この中では、ロンドン交渉の前に、ソ連共産党幹部会の決定として「領土問題は解決済み」としていたソ連側が、交渉途中で歯舞、色丹の返還を打ち出した経緯が初めてわかった。日ソ共同宣言に署名する鳩山一郎㊧とブルガーニン㊨。鳩山は領土とシベリア抑留補償を切り捨てた=昭和31年10月19日、モスクワ 交渉では日本側全権で元駐英大使の松本俊一代議士が歯舞と色丹の返還をとくに強調したことなどから、ソ連側全権のマリク駐英大使は「日本側は歯舞と色丹を除いて国後、択捉両島の返還はあきらめている」との認識を持つに至った。 この報告を受けたソ連共産党幹部会は当初の決定を急いで変更し、歯舞、色丹の二島を返還することで日本との平和条約が締結されるとの強い期待を抱いた。言い換えれば、国後、択捉の返還をあくまで拒否しても日本側は譲歩する、と判断していたことがうかがえる。 しかし、三十年十一月の保守合同で誕生した自由民主党が四島返還を党議決定し、交渉は行き詰まった。翌三十一年五月、漁業交渉で訪ソした河野はブルガーニンとの会談を受けて、「二島返還、残りは継続協議」で党内の取りまとめに動く。 これに吉田派が強く反発し、米国も「北海道の一部である歯舞、色丹とともに、国後、択捉も日本固有の領土」との国務省の覚書を発表して牽制したことから、鳩山内閣としては二島返還による日ソ平和条約の締結がしにくくなった。 このため、鳩山は今回明らかになった同九月十一日付のブルガーニンあての書簡で、平和条約締結をあきらめ、「領土問題の交渉は継続協議」を条件に共同宣言の形で国交回復だけを図る方針に転換。だが、これを阻止しようとする反対派の主導で「二島返還、残りは継続協議」を国交回復の条件とする新党議を決定して勝手な交渉に枠をはめた。 領土問題を後回しにして国交回復を優先させる道を閉ざされた鳩山は、十月十二日にモスクワを訪問した。鳩山に代わってフルシチョフと会談を重ねた河野は、交渉が成功しなければソ連との国交回復に反対する吉田派ら反対勢力によって鳩山内閣が窮地に陥る、と懸命に訴えていたことが議事録でわかる。 河野はブルガーニンが五月の会談で「二島返還、残りは継続協議」を容認したとし、いわゆる〝密約〟をにおわせて迫ったが、フルシチョフは「解釈が違う」と拒否。ブルガーニンも「国後、択捉については話にさえならない」と継続協議を否定した。文書では明確な〝密約〟は見当たらないが、これをあてにしていた河野の期待は覆された形となった。 「歯舞、色丹の返還で領土問題は決着」との堅い姿勢を崩さないソ連側は、その返還時期を米国による沖縄返還と絡める揺さぶりを日本側にかけさえした。さらに、フルシチョフ自ら党幹部会に提案した共同宣言案の「領土問題を含む平和条約締結の継続協議」から「領土問題を含む」の撤回・削除を強硬に主張した。 この部分は日本にとって国後、択捉の継続協議を意味する一筋の光明だっただけに、河野は「すでに東京の了解を取ってしまった」と懸命に抵抗する。だが、それを文章化した自らの誤りと、日本側の意図に気付いたフルシチョフは「解釈をめぐる戦争の危険」という脅し文句まで使って押し切っていた。「政府に相談せず署名する」と河野「政府に相談せず署名する」と河野 河野 貴殿の考えはよく理解したので、領土問題で次の案を提起する。 「日本の希望に応じ、日本国の利益を考慮するソ連は、日本に歯舞群島と色丹島を引き渡す。ソ連と日本は両国間の国交回復後にも平和条約の締結交渉を継続し、戦争状態の結果、両国間で生じた諸問題の全面的な正常化を保証する」 島の引き渡しの時期については、今合意しなくともいい。 フルシチョフ 前半の歯舞と色丹の部分は、あまりよくできていない。ひどく明確すぎる形で述べられており、我々が即時返還しなければ、日本の世論はソ連政府が約束を破ったと見なしてしまう。 河野 受け入れられないのなら、貴殿の文案を提示してほしい。 フルシチョフ 我々の案は沖縄などの返還をめざす闘争の実質的、法的権利を日本に与えるものだ。大事なのは、我々の案による問題解決の結果、日本が米国に強い圧力をかけることができることだ。 河野 貴殿が提案するあらゆる案を検討する用意がある。鳩山と私は自分の政府に相談せず、文書に署名することにした。 フルシチョフ 我々は米国の管理下にある日本領土の返還をめざす闘争の展開のための好ましい政治環境を作ることしか望まない。我々はすでに歯舞と色丹を返還することにしたので、それに対する関心を失った。今の話は引き渡しそのものが日本のためになるというだけのものだ。 一九五六(昭和三十一)年十月十七日付のフルシチョフの党中央委幹部会あて報告書にはこうある。 「十六日に日本の農相河野と会談した。会談全部が領土問題に費やされた。議事録を送付する。終わりに、もう一度、本日十七日に会うよう申し入れがあり会談が行われた。河野は領土問題の文書草案を提出し、我々にも草案を出すよう要望した。 共同宣言草案に入れる領土問題の文書草案を諸君に提起する。同時に、共同宣言には書き込まず、口頭で日本側に伝えるテキストの草案も提起する。同志諸君がこの草案に同意すれば河野に渡す」 フルシチョフが言う共同宣言草案は次のとおり。 「ソビエト社会主義共和国連邦と日本国は、両国間に正常な国交関係が回復した後、領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。同時に、ソ連は日本の要望にこたえ、日本の利益を考慮して歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島はソ連と日本との間の平和条約が締結され、米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島が日本に返還された後に実際に引き渡されるものとする」 さらに、文書化せず口頭で日本側に伝える文言案は「ソ連は米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島の解放を待たず、歯舞群島および色丹島をソ連と日本との間の平和条約が締結された後、実際に引き渡すことに同意する」だった。「意に反して領土提起」と鳩山 「意に反して領土提起」と鳩山  鳩山、河野、ブルガーニン、それにソ連副首相のミコヤンの会談は昭和三十一年十月十七日に行われた。 鳩山 私は政治的権限の公職追放が終わった二十六(一九五一)年九月からソ連との関係正常化を絶えず主張し、日本の世論が関係正常化を理解したという意味で成功した。今モスクワにいて、長年の主張を自分で実現できるのは大きな喜びだ。一年以上続く交渉が最終段階に入ったことも私の喜びだ。次の質問をしたい。 領土問題は最も困難で、双方が一番論議した問題である。我々は領土問題なしに関係正常化ができると考えていたが、我が党の中には我々の立場に激しく反対する吉田が率いるかなり大きなグループがある。このため、我々はモスクワに来てから、歯舞・色丹返還問題の再提起を余儀なくされた。繰り返すが我々はこの問題を意に反して提起している。 日本の国連加盟について。形式的なものはいらない。私は文言に力を見ておらず、実際面しか関心がない。ソ連政府が関係正常化の後、他国の加盟問題と関連させず、日本の加盟申請を支持するよう望む。貴殿がこの問題で日本に対して寛容で、国連の家族の一員になりたい希望を支持してくれると確信する。日ソ共同宣言調印を終えて帰国し、書斎でブルガーニンからの土産を孫に見せる鳩山一郎(左)。中央が上の孫、由紀夫=昭和31年10月、「音羽御殿」と言われた東京都文京区の豪邸 抑留者について。提示された名簿に含まれない日本人を捜すため、フルシチョフ氏は調査を続ける項目を入れることに同意した。そこで私は共同宣言草案に次の一項を要望する。消息不明の日本人に関しては、ソ連が領内にその日本人がいるかどうか調べるための措置をとる。 核兵器禁止と国際問題については、今交渉で我々は国交樹立に関係する問題しか討議していないので、こうした問題は正常な外交関係樹立後に討議、解決した方が有意義だと思う。 ブルガーニン 両国の異常な関係終結をめざす貴殿の努力を高く評価する。五一年以来、貴殿の活動を注視し、成功を祈ってきた。貴殿と会い、交渉に踏み出したことに大変満足している。貴殿のモスクワ訪問はソ日関係の歴史に残ると考える。河野氏の精力的な活動も高く評価する。これは外交辞令ではなく、閣僚全員が心から分かち合っている。 領土問題では多くの会談や会議を行った。平和条約締結時に歯舞・色丹を日本に返還してもいい、とすでに我々は主張した。この決定を下した時に我々は大変な決断をし、世論に大きな責任を負った。我々は平和条約の締結で両国関係を正常化したいという希望に導かれていた。 残念ながら日本側は平和条約は締結できないと表明した。日本には大きな選択肢がある。つまり平和条約草案、首相同士の交換書簡、グロムイコ同志と松本氏との交換書簡、フルシチョフ同志が述べた解決案を指針にできる。それらには、われわれの立場が詳しく述べられている。この問題ではいかなる譲歩もできないし、しない。 ソ連政府は、フルシチョフ同志と河野氏との会談に基づく次の二案を提起する…。 〈議事録の注釈・テキストが読み上げられる間、鳩山は再三、ソ連は平和条約締結時に歯舞と色丹を返還するのか、あるいは米国による沖縄などの返還も条件なのか、と聞いた〉 鳩山 この文書に米国の話が出ると、我々の立場が苦しくなる。それを避けたい。 ミコヤン 我々は今読み上げた案によって、米国の管理下にある(日本)領土の返還の闘いが容易になると考えた。鳩山・河野コンビの足元を見透かしながら交渉をロシア主導に進めたニキータ・フルシチョフ 河野 日本の課題を本当に容易にさせるのは、ソ連が国後と択捉(えとろふ)を返還してくれることだ。 ブルガーニン それについては話にさえならない。 ミコヤン 私はその島に行ったことがある。そこが純粋なロシア領であることがわかった。その引き渡しの考えは誰にもなじまない。 ブルガーニン 領土問題に関してはこれがすべてだ。われわれの立場は最終的で揺るがない。 日本の国連加盟について、正常な関係を回復した後に我々は約束、つまり日本の国連加盟を支持する。 抑留者について、処罰された捕虜を含め、抑留日本人を引き渡すための措置をとる。名簿にない日本人を捜すという日本の要請を追加することにも同意する。 国際問題と原水爆兵器禁止の問題では、関係正常化の際に両国政府がこれを確認すれば、この決定は全人類のためになると思うが、この項目を受け入れられないと考えるなら、我々は削除に反対はしない。 河野 我々代表団はこの項目に反対はしないし大きな意義があると考える。ただ、私たちは首相が述べたように別の時期、関係正常化後に扱いたいと思う。 鳩山 我々が関係正常化の結果、国際緊張を幾分かでも緩和させ、新たな戦争の勃発を阻止できれば、全人類の前に最大で最高の義務を果たすことになると考える。 ブルガーニン 同感だ。ソ日の関係正常化は国際関係の緊張緩和に大きく貢献し、我が国民だけでなく全世界の諸国民のためになる。我々の外交の基礎をなすのは、平和と友好への闘いである。 ミコヤン 日本にとって我々との交渉を終えたらすぐ中国とも関係正常化することは意味があると思う。足元見られた「お涙ちょうだい」足元見られた「お涙ちょうだい」  議事録でブルガーニンに述べているように、鳩山にとって日ソ国交回復は悲願でもあった。米国との関係構築を最優先した吉田茂総裁の自由党に対抗し、日本民主党を率いる鳩山は自主外交路線の一環としてソ連、中国との国交回復を主張。官僚派と党人派の対立でもあったが、それは保守合同後も変わらなかった。 スターリン死後、ソ連の最高指導者となったフルシチョフが進めた平和共存路線が、鳩山の期待を一層強めた。だが、米ソ間には一時的な緊張緩和の兆しが見えたとはいえ、ダレス国務長官のもとで対共産圏封じ込め外交を基本とする米国もまた、日本のソ連接近を警戒した。 このため、鳩山は平和条約締結をあきらめ、領土問題をすべて継続協議にして共同宣言で国交回復をめざすが、訪ソ直前になって政権与党の自由民主党は国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、残る二島は継続協議」の党議決定で手足をしばる。 これについて鳩山はブルガーニンとの会談で「交渉に激しく反対する吉田派」によって、いったんはソ連側に提案した領土棚上げの主張を変更せざるを得なくなったと嘆き、それは自らの「意に反して」いるのだとして理解を求める。 議事録はソ連の作成だが、一国の首相が国家の名の下になされた公式提案を、自分の考えとは異なると告白するのは極めて異常だ。 病身の鳩山に代わって交渉を取り仕切った河野もフルシチョフに「日本の内政がそれを強いている」と、党内で厳しい立場に置かれた事情に配慮するよう繰り返している。窮状を訴え、同情を引こうとしたのだろうが、冷徹な外交交渉でのこうした態度は危険でさえある。フルシチョフのペーパーナイフを「北方領土の代わり」として鳩山一郎に贈った河野一郎 鳩山が国交回復を達成したかった背景には党内事情ばかりでなく、①当時まだ多くの日本人抑留者が未帰還②日本の国連加盟にソ連が拒否権を発動している③大量の漁船拿捕など北方漁業の緊張―などがあった。 だが、ソ連側は鳩山内閣の弱い立場に同情するどころか、逆に足元を見透かして強気に出る。国家利益が掛かる外交ではこれが普通だ。この結果、ソ連側は自ら提案した草案の「領土問題を含む平和条約の締結交渉の継続」部分から「領土問題を含む」の削除を日本側に認めさせる。 「国交回復」を命題に掲げた鳩山らにとって、決裂覚悟の厳しい交渉などできるはずはなかった。この削除の見返りとしてソ連側は「提出した(抑留者)名簿以外に拘束している日本人はいない」という前日までの見解を、舌の根も乾かぬうちに撤回し、名簿以外にもいることを突然認めた。これがソ連外交であった。◇ 明らかになった交渉内容について記事の中で木村汎国際日本文化研究センター教授(現名誉教授)は「なぜフルシチョフによる『領土問題を含む』の文言削除申し出を拒絶しなかったのか。これを口実にソ連側は案の定、日ソ共同宣言は二島返還論にほかならないと主張するようになった」と指摘。W一郎の対応を「千載の悔いを残す行為」と批判する。さらに河野が鳩山内閣の苦境を伝え、鳩山の早期帰国のため調印式を一日早めることさえ求めたことを「我が方に締切時間があるという弱味を見せる稚拙な交渉。お涙ちょうだいの浪花節が通じることを前提とする姑息な交渉法」と切り捨てている。◇    ◇ 河野は、領土が懸かる重大な場で、こんなことまでしている。 豊田穣『鳩山一郎』などによるとフルシチョフとさしの会談で「そのペーパーナイフは大きくて美しく実に見事だ。それをくれないか」と言った。フルシチョフは驚いたような表情を見せたが「ダー、ハラショー」とナイフを渡した。会談後、河野は鳩山に「奴さんがこれを振り回すのでヤバくて仕方がないから分捕ってきましたよ。どうです、レーニンの写真が入っているでしょ。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう」と鳩山に差し出した。鳩山はそれをそのまま受け取っている。 驚くことに翌日の会談で河野は「昨日もらったペーパーナイフは鳩山総理に進呈したので、僕のを記念にもらいたい」と頼み、フルシチョフからもう一本もらったという。 河野は、交渉に絡めてソ連が北洋水域から日本のサケ・マス漁業を締め出そうした際のブルガーニンらとの会談に、日本側通訳も付けず一人で臨み「漁業を認めてくれれば、代わりに国後・択捉返還要求は取り下げる」とした密約が取り沙汰される。 結局、ソ連は共同宣言から四年後の三十五年、日米安保条約が改定されると、歯舞・色丹の返還すら「日本領土から全外国軍隊の撤退を条件とする」と通告。共同宣言を日本の承諾なしに一方的に変更したのだ。 幕末・明治初頭の北方領域侵奪、日ソ中立条約を無視した対日侵攻と北方領域再侵奪に続く、国交回復交渉でのこの対応。ロシアがロシアなら、日本も日本だった。目先の利益と己の功名心、そして浅はかな独善と、領土もペーパーナイフもいっしょくたにする感性の持ち主が、交渉の代表だった。W一郎の交渉とすら言えない交渉の結果が、今なお日本国民を苦しめている。その孫や息子の言動とともに。

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    “宇宙人”鳩山元首相のクリミア訪問を最大限利用するロシア

     [Inside Russia] 欧米発の情報で「日本人は洗脳されている」関屋泉美 「いよいよ宇宙人になった」――。弟邦夫氏にそう酷評された兄の鳩山由紀夫元首相のクリミア半島訪問は、連日、ロシア主要メディアがトップニュース扱いで伝えた。昨年3月のプーチン政権による併合以来、世界の主要国で首脳経験を持つ大物政治家が現地を訪れたのは今回が初めて。新右翼政治団体「一水会」のリーダー、木村三浩氏やジャーナリストの高野猛氏らが加わった代表団を率いた元首相は行く先々で手厚い歓迎を受け、滞在中、日本国内での批判が伝えられると、クリミアへの移住の可能性まで口にした。 欧米が国際法違反と指摘し、ウクライナの領土一体性を侵害する発端となった昨年3月の住民投票について、元首相が「民主的な手続きだ」と評価してその正当性を認めたことは、日本と領土問題を抱えるプーチン政権へ誤ったシグナルを与えかねない。クリミアを訪問した鳩山由紀夫元首相(写真:ロイター/アフロ)一行を国賓級扱いで迎え入れ 鳩山サイドは用意周到にクリミア訪問を準備したようだ。露有力紙コメルサントによると、鳩山氏は昨年8月に訪問の希望を表明、クリミアの地元政府に手紙を送り、正式な招待を受け取った。3月の訪問となったのは、この時期に併合1年の記念行事が行われるため、「現地の人々と交流したい」と強く希望する鳩山氏自身が選択したのだという。 クリミアとの仲介役を果たしたのは、一水会の木村氏とみられる。木村氏は数回、現地入りを果たし、プーチン大統領と関係を持つ地元の政治リーダーたちと交流を深めていた。日本の政府要人や有識者とも関係を持つ木村氏は、日本きっての親露派として、ロシアの外交当局もその行動力を認めている。今回の鳩山氏のクリミア訪問実現について、木村氏は現地メディアに「歴史的な意義がある」と打ち明け、「日本の外交政策に影響を与え、変更するチャンスを与えるものだ」と自賛した。 クリミア地元政府のある幹部は「(鳩山元首相のような)高いレベルの政治家は大きな政治的重みを持つ。国際社会がその意見や立場を注視する」と言い、今回の招待を歓迎した。コメルサント紙は、訪問日程がロシア外務省の現地支部のもとで綿密に作成され、鳩山氏一行を国賓級扱いで迎え入れたことも伝えた。「美しすぎる検事総長」との面会も話題に「美しすぎる検事総長」との面会も話題に ロシアが孤立を深める中で、主要7カ国(G7)の首脳経験者の訪問効果を高めるために最善の策が錬られたのは、日本で知名度の高いナタリヤ・ポクロンスカヤ女史が代表団と面会する日程が組まれたことを見ても明らかだ。クリミア検事総長 ナタリヤ・ポクロンスカヤ氏(写真:Newscom/アフロ) 34歳の若さでクリミア共和国高等検察庁検事長の肩書きを持つポクロンスカヤ氏はその端正な容姿から日本でも「美しすぎる検事総長」として似顔絵や写真がネット上で紹介されている。ロシアでもクリミアの有名人の1人として注目を集め、髪型を変えただけでもメディアの話題に上る。ポクロンスカヤ氏は欧州連合(EU)の制裁対象リストに含まれているが、日本で人気を博していることは、クリミアでも広く知られていた。 ポクロンスカヤ氏は一行の滞在2日目、クリミア共和国指導部との会談の場に現われた。ポクロンスカヤ氏の同席は日本側のたっての希望で実現したのだという。現地通信社「クリムインフォルム」が会話のやりとりを事細やかに伝えている。 この会談の前に報道陣に「その美貌のファンだ」と答えた鳩山氏はポクロンスカヤ氏を前にこう述べた。 「あなたやあなたの活動について伝え聞いている。我々の代表団の中でも、あなたと会いたがっていた者が何人もいる。私も含めてだ。あなたがこの場にいてくれて私たちは幸せだ」 するとポクロンスカヤ氏はこう返答したという。 「あなた方が、(昨年3月にロシア編入の可否を問うた)住民投票がウクライナの法律と国際法に基づき行われたと指摘してくれたことは私にとって光栄なことだ。検事は常に法律の側に立つ。ところがキエフではそうではなかった。ウクライナで女性や子供たちが銃撃された際に国際社会が反応しなかったことは私を驚かせた」 席上では露日友好団体の地元支部のトップにポクロンスカヤ氏が就くことも提案された。鳩山氏は「もしポクロンスカヤさんがロシア側にいるのなら、日本では誰もが賛成するだろう」と持ち上げた。沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼?沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼? 高まる一方の鳩山非難をよそに、ツイッターやネット掲示板で盛り上がる日本国内の反応を見る限り、ポクロンスカヤ氏に焦点を当てた宣伝作戦は成功しているように思える。 ロシアではいま、対露制裁を科す欧米諸国内でも、ロシア寄りの政治家や有名人の発言は大きく取り上げられる状況にある。ロシアが経済的な苦境を極める中で、その傾向はますます顕著になっている。欧米に賛同者がいることを示すことで、プーチン政権の失態をうやむやにし、不満を抱くロシア国民の溜飲を下げる意味合いがある。 プーチン政権が統制下に置く主要メディアが取捨選択して、今回の鳩山氏の言動をどう報じたかを見れば、ロシアがいま何を欲し、外国からどう見られたいのかがわかる。いくつか紹介したい。「自分の目で見る。日本の元首相、クリミアへ到着」「日本の元首相:西側のメディアはクリミアについて一方的な情報しか与えない」(露国営紙ラシースカヤ・ガゼータ)「日本の元首相、クリミアの人々の暮らしぶりについての真実を日本国民に伝えるのを約束する」(全国放送NTV)「鳩山元首相『クリミアの人々は自分たちをロシアの一部と認識』」(ラジオ局ロシアの声)「日本の元首相:クリミアの住民投票は住民の現実の意思を反映している」(ロシア・トゥデイ)「日本の元首相は、クリミアの通りで戦車も貧困な人たちも目撃していないと言った」(タス通信)「日本はクリミアの発展に大きな貢献をすることができる-鳩山由紀夫」(露誌論拠と事実) 特に、ロシアと敵対する米国を批判する論評は強調されるきらいがある。鳩山氏は今回、クリミアで行われた記者会見で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について「米国政府の強い影響下にある」安倍政権が沖縄県に圧力をかけて強引に実現しようとしていることを強く批判してみせた。元首相クリミア訪問の関連記事で、一時的に菅直人氏の写真を「鳩山由紀夫氏」と伝えたロシアの国営通信社・タス通信。見分けがつかなかった? 鳩山氏は会見で「沖縄にこれ以上、米軍基地を作らせないようクリミアの方々にも協力して欲しい」と語ったが、この発言が辺野古移設問題になじみがないクリミアで報じられるのは異例なことだ。鳩山氏が米国の政策に反発する日本の政治家の1人であることがこうした報道の背景にある。 ロシア社会に影響力を持つロシア国営放送は鳩山一家とロシアのつながりをクローズアップし、鳩山由紀夫氏のことを「日本社会に迎合しない自立した政治家」と紹介して見せた。「宇宙人」とは真逆の肯定的な見方としては、確かに言い得て妙だ。 鳩山氏は訪問の最後で、「多くの国民は、間違った情報のもとに洗脳されてしまっている。洗脳された意見というものを変えることは簡単ではない」と語り、自分の目で見たクリミアの真実を語ることを誓ったが、実の弟に「兄は少なくとも日本人ではなくなった」と言われてしまっては元も子もない。 果たして、ロシアから帰国した後、鳩山氏は何を語るのだろうか?

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    ロシアが北方領土返還を拒むのはなぜか オホーツク海の戦略原潜が障害物だ

    榊原智(産経新聞 論説委員) 安倍晋三首相は、ロシアのプーチン大統領とのトップ会談を通じ、日本固有の領土である北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)の返還を実現したい考えだ。しかし、安倍首相は執念を燃やしているのとは裏腹に、プーチン氏には応じる気配はみられない。  9月28日に国連本部で開かれた日露首脳会談は、平和条約締結に向けた対話の継続で合意した。だが、この会談の席上、プーチン氏から領土問題についての言及はなかった。10月8日にモスクワで再開された次官級協議でも議論は平行線をたどった。ロシアのラブロフ外相は折に触れて、領土交渉を拒否すると強調している。とりつくしまがないとはこのことだ。  ロシアはなぜ、北方領土の返還を拒むのか。領土に強欲な国家だからであることは歴史的に明らかだが、理由はそれに止まらない。1940年にスターリンによって併合されたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のソ連からの離脱、再独立がソ連崩壊(91年)へ影響を及ぼした例もある。  日本は、ロシアがかたくなに北方領土返還を拒む理由を理解し、それを突き崩していかなければならないのだが、その理由の筆頭に、軍事的理由を挙げることができる。  ロシアの核戦略上、北方領土が接するオホーツク海が極めて重要な位置を占めているのだ。これが、北方領土返還を嫌がる隠された理由である。  オホーツク海に潜むロシア太平洋艦隊所属の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)は、米本土を核攻撃できる。ロシアにしてみれば、北方領土、とりわけ、オホーツク海に面する択捉島、国後島の2島を日本に返還することは、ロシアの戦略原潜の安全にとってマイナスになってしまうのだ。ソ連崩壊後初めて建造中の新世代の原子力潜水艦ユーリー・ドルゴルーキー(タス=共同)  これが北方領土問題をややこしくしている。  まずは、冷戦期に遡らなければならない。  陸上自衛隊の幕僚としてアメリカのシンクタンク、ランド研究所に留学し、冷戦末期の日本の対ソ防衛戦略を編み出したのが西村繁樹元防衛大教授である。その西村氏の著書『防衛戦略とは何か』(PHP新書)から引用したい。 「SSBNは、潜水艦の特性から海面下に潜むことができ、核戦争の最後まで生き残りを図ることができる。 このゆえ、米ソ戦の決をつけるべく最終的な核攻撃を行うか、この残存を梃子に戦争終結交渉に持ち込むか、最後の切り札の役割を担うのである。 ソ連の海軍戦略は、このSSBNの安全確保を最重要の柱として組み立てられた。この作戦構想は、その区域には何ものも入れない、いわゆる『聖域化(たとえばオホーツク海の聖域化)』であり、専門用語では『海洋要塞戦略』と呼ばれた。(略) 極東においても『海洋要塞戦略』の登場により、オホーツク海およびその周辺海域が、核戦略上の中核地域となるに至った」(38~39頁)  「地上戦に敗れるようなことがあっても、SSBNの安全が確保されるかぎり、第二次大戦のドイツや日本のように無条件降伏を押し付けられることもない。そのような要求には『相互自殺』の脅しをもって応えることができるからである」(44~45頁)アメリカへの「最後の切り札」  ソ連のアメリカに対する核戦略上の「最後の切り札」が、オホーツク海に潜む戦略原潜(SSBN)だった。そして、ソ連が崩壊してロシアになった今でも、この構図は基本的に変わらない。  『平成27年版防衛白書』は次のように指摘する。ロシアの核戦力の中で「SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を搭載したデルタⅢ級SSBNがオホーツク海を中心とした海域に配備されている。これら戦略核部隊については、即応態勢がおおむね維持されている模様」であり、2013年10月と14年5月の演習では、「デルタⅢ級SSBNがオホーツク海でSLBMを実射」している。  このとき、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜はオホーツク海からロシア北西部のネネツ自治管区へ、ヨーロッパ方面の北方艦隊の戦略原潜はバレンツ海からカムチャッカ半島へ、それぞれSLBMを打ち込んだ。ネネツ自治管区はバレンツ海に面し、カムチャッカ半島はオホーツク海に面している。核戦争への対応能力をはかる大規模演習だ。いずれのときも日本政府は騒がず、大きく報道もされてこなかったことから、日本人は隣国ロシアがオホーツク海をこのように利用していることに気づいていない。  ロシアがオホーツク海に潜ませている戦略原潜は、ロシアにとっては、核大国である米国や中国と軍事的に対峙し、国家の存続をはかるための切り札である。もし、米国から全面的な先制核攻撃を受けても、オホーツク海の戦略原潜さえ生き残れば、米本土の大都市に報復の核の雨を降らせることができる。  このような核攻撃能力(第2撃能力)を持っている限り、ロシアは米国からの先制核攻撃を抑止することが期待できる。最悪の場合でも、無条件降伏せず、停戦交渉に臨むことができる。自国への核攻撃を防ぐとともに、ロシアは、自国を米国ともにらみあうことのできる「大国」とみなし続けられるのだ。  プーチン氏を含めロシア人は、日本人が想像する以上に、軍事優先の発想に立つ人々であって、オホーツク海の戦略原潜の意義はロシア軍部はもとより、ロシア政府の中枢にも認識されているに違いない。  ロシアにとって、核戦力は冷戦期に勝るとも劣らない重要性を持っているわけはもう1つある。ロシアの経済的弱体化、人口減によって、ロシア軍の通常戦力(非核戦力)がソ連軍当時と比べ格段に弱体化しているのだ。  たしかにプーチン氏は、ロシア軍特殊部隊を使って、きわめて巧妙にクリミアを手に入れ、ウクライナ東部を攪乱している。カスピ海に浮かぶ艦船からシリア国内へ巡航ミサイル攻撃をしてみせた。シリアへは陸海空軍を展開して、アサド政権に敵対する勢力に航空攻撃を行っている。鮮やかな手並みだが、あくまで限定的な新しいタイプの戦いを遂行しているだけともいえる。今のロシアに、米軍やNATO軍と正面きって戦う通常戦力はない。  だから、プーチン氏が、ウクライナ情勢をめぐり核攻撃の恫喝を行って世界から顰蹙をかったのだ。核の恫喝は、ロシアが米軍の介入自体や、米国製兵器のウクライナへの供与を恐れているからこその発言だった。日本人からすれば、米軍やNATO軍がロシア軍と戦うなど、それこそ想定外の話で、それはオバマ米大統領にとってもそうだろう。けれども、米軍やNATOから圧迫されていると感じているロシアは言葉による「核口撃」の1つもしたくなる精神状態にあるのだと思われる。それに比べ、強大な通常戦力を誇ったソ連の指導者は、プーチン氏のような核に依存する、露骨な言動をする必要はなかった。  ロシアが北方領土、とくにオホーツク海に面し航空基地もある国後島、択捉島を日本に返還すれば、自衛隊や米軍が潜水艦狩りに乗り出してきた場合、それを防ぐのに大きなマイナスがもたらされる。ことは虎の子の戦略原潜の安全にかかわるのだ。  共同通信は4月2日、「大演習で核先制使用想定 3月にロシア軍 抑止力高める狙いか 北方領土でも『戦闘』」との見出しのモスクワ電を配信した。それによると、「ロシア軍が3月中旬に実施した大規模演習の際、NATO軍や米軍とみられる仮想敵が、北極圏の島や北方領土を含む千島列島を攻撃し戦闘が起きた事態を仮定、核兵器の限定的先制使用の可能性を想定していたことが1日、分かった。(略)仮想戦場となった千島列島は、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜が活動するオホーツク海を守る位置にあり、軍事的価値が増している」とある。  「北極圏」はバレンツ海を含むため、NATO軍が登場してもおかしくないが、オホーツク海方面は、米軍に加えて自衛隊も仮想敵視されていたことは容易に想像できる。  これは、冷戦時代ではなく、今年の話である。軍事優先のロシア人がやすやすと北方領土を手放すはずがないことがわかる。10月の日露次官級協議で、ロシアは北方領土を支配する歴史的正当性を唱えたようだ。日本は国際法や歴史的経緯に照らしても、北方領土は日本固有の領土だと主張している。ロシアの理屈は誤っており、日本の主張が真っ当であるのはもちろんだ。  北方領土は、終戦後のどさくさに、ソ連によって無法にも軍事占領された日本固有の島々であり、4島すべての返還を実現しなければならない。  そのために、オホーツク海を戦略原潜にとっての聖域としたいロシアの思惑をどう突き崩すのか。安倍首相や外務省は、このようなロシアの軍事戦略を把握した上で、北方領土を取り戻す算段をしているのだろうか。返還実現後の北方領土をめぐる軍事的取扱いはどうなるのか。オホーツク海をめぐるロシアの核戦略が、主として米国を向いていることから、米国にとっては自国防衛に関わる話となる。軍事の要素がからむ北方領土問題は複雑な上にも複雑なのだ。  深い思慮がないまま交渉を進めても、オホーツク海に面していない、択捉、国後と比べはるかに小さい色丹島、歯舞諸島をめぐる話に限られてしまいかねない。焦ってそのようなことで満足しては、私たちの世代は先達や子孫に顔向けできなくなる。  外交交渉によって、プーチン氏を翻意させ、4島返還につながっていくのが望ましいことは言うまでもない。ただ、本稿で指摘したように複雑な話であるのも事実だ。  それではどうするか。知恵を絞らなければならないが、返還実現のカギは、科学技術かもしれない。科学技術の進展で、戦略環境を激変させる方法だ。たとえばレーザー兵器である。将来技術が進み、レーザー兵器によって、発射され飛翔するSLBMなど核兵器の投射手段を容易に破壊できるようになれば、世界情勢自体が激変する。そのとき、ロシアにとって、オホーツク海ひいては北方領土の軍事的価値は大きく減ずることになる。これは夢想とまでは言えない。米軍の艦船などには一部、初歩的なものながらレーザー兵器の搭載が始まっている。北方領土の全面返還や、核の脅威の排除に向けて、日本も一肌脱いだらどうだろう。※「先見創意の会」コラムより転載。

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    党略で樺太を投げ棄てた日本共産党  ロシアを利するおかしな領土解釈

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) 返還要求を「広さ」で競う? もう三十年くらい前だ。私が駆け出しの「職業革命家」(日本共産党の専従職員を指す党内用語)だったとき、衆議院議員候補者の秘書をさせられ、党中央委員会の幹部でもあった候補者の会話をごく間近で聞くことができた。中選挙区制度下での解散・総選挙を受けて選挙区内を朝から晩まで共に駆け回り、様々な階層の人たちを集めた小集会や演説会を日に何件もこなしていた。 ソ連邦が崩壊するより何年も前で、「ソ連に奪われた北方領土の返還にどう道筋をつけるか」という問題について、集会に出席した人からよく質問が出た。そんなとき、党機関紙「赤旗」の外信部記者として海外駐在経験もある候補者氏はうれしそうにこう説明したものだ。「ソ連から戦争で奪われた領土を取り返すことでは、日本共産党が主張しているやり方が一番筋の通ったものです。『北方領土』の四島返還だけではなく、全千島の返還を主張しています。これは歯舞、色丹、択捉、国後などの四島以外の放棄を決めたサンフランシスコ条約第二条C項の廃棄を通告すれば可能です」「日本共産党は、日露戦争でロシアから賠償として奪った南サハリン(樺太)を除き、日露間の正常な交渉で平和的に画定した領土である全千島列島の返還を求めます。どの政党よりも一番広い範囲の返還をソ連に求めていることになるのですよ」 質問者は「へえ、それはすごいね。共産党だからソ連の仲間だと思ったのに、そこまでものをいうんだね」「そんなに大きな広さの返還を求めているなんて、知らなかった」などと驚いていたように思う。 すると、候補者氏、さらに喜んでこう付け加えたものだ。「日本共産党は自主独立の党で、ソ連でもアメリカでも中国でも、どんな大国に対してもきっぱりものを言ってきましたから」 平成初頭までの党最高権力者、宮本顕治が打ち出していた「自主独立路線」と結びつけて、ソ連からの領土返還論を日本共産党は語っていたのだ。この「自主独立」は、不破哲三など党最高指導者が懐柔され、中国共産党政権の海洋覇権追求のような対外膨張主義にも一切もの申さなくなった最近の日本共産党が、口にしなくなって久しい。 私が候補者氏から「要求面積が最も広い返還」論を聞いた昭和六十年前後から、日本共産党は「四島返還を求める立場にも柔軟に対応する」と称し、毎年二月七日の「北方領土の日」の「北方領土返還要求全国大会」に参加するようになった。 その一方で、相変わらず「日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、一九五一(昭和二十六)年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、五六年になって『国後、択捉は千島に含まれない』との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ『北方領土』として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因」(平成二十二年一月二十七日付赤旗「千島問題をなぜ『北方領土問題』と呼ぶ?」)など、「全千島返還」論を唱える自党のみの正しさを言い続けている。選挙目当てのご都合主義選挙目当てのご都合主義 当時、若さゆえに党の路線と「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義の言い換え)に頭をしばられていた私は、こうした日本共産党のやり方に疑問は持たなかった。しかしその後、国会論戦や政策準備のため、政府側のレクチャー(担当省庁職員による説明)聴取や資料調査を長期にわたって経験し、さらに党から離れるに至る中で見方が変わった。 自分なりの判断として「全千島返還」論など日本共産党の領土問題への主張と対応は「選挙目当てのご都合主義」にすぎないもの、と考えるようになったのである。 理由の第一は、平和条約締結へ向けたソ連・ロシアとの領土返還交渉の経過と到達点を全く無視した、非現実的な議論であることだ。宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長(左) ソ連時代、さらにソ連崩壊後はロシアのエリツィン、プーチン政権との交渉で、ともかくも昭和三十一年の日ソ共同宣言を出発点に領土返還交渉を行うという認識が、日露両国で共有されたのが到達点である。平和条約締結に向けて歯舞、色丹の「二島返還」は最低ラインで、後の問題は協議していくというものだ。 日本共産党の「全千島返還」論は、この到達点を帳消しにして一から交渉し直せというものに等しい。現段階では北方四島を含め全千島、南樺太を不法占拠ながら実効支配するロシアがこんな議論に応じることは、現実的にまったく考えられない。 日本政府が旧島民を含む国民世論を背景に交渉してきた到達点(不十分なものにせよ)に冷水をぶっかける議論が「全千島返還」論だ。こんな乱暴な主張は、政治的にどちらの国を利するものか明白である。 理由の第二は、日露間の領土形成の歴史的事実を覆い隠し歪めた議論が「全千島返還」論の底流にあることだ。まず、「南サハリン(樺太)は戦争でロシアから奪ったもの」とする解釈が、樺太をめぐる我が国とロシアの歴史の事実をまったく無視したデタラメである。 さらに「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」(同)という説明は、幕末―明治初期の日露の力関係や帝政ロシアの帝国主義的ふるまいに目をつぶったもので不正確きわまりない。これらについては、後述する。北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ 結局、日本共産党の「全千島返還」論は、歴史の事実の中から選挙目当ての自己宣伝に都合のよいものを拾って、単純な理屈になるようつなぎ合わせたものとしかいいようがない。不勉強な候補者や議員でも有権者に説明しやすく加工した子供だましの「日露外交」論なのだ。 まあ、共産党員の身内で何を信じようが勝手だが、これをデマゴギーよろしく有権者の間へ広範に流布し、国政に影響を与えることは日露交渉に有害な影響を与えかねないし、現実にそうだったのではないかと、私は危惧している。樺太の開拓に先んじた日本樺太の開拓に先んじた日本 樺太という名前は、かつて東北地方から北海道、千島列島、樺太全域、カムチャツカ半島に至るまで分布・居住していたアイヌ民族の言葉でこの地を呼んだ「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(神が河口部に作った島)の中の「カラ・プト」が起源だ。 一方、ロシア側が現在用いている地名「サハリン」は、同地を清王朝時代にツングース系の満洲語で呼んだ「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」(黒龍江河口の対岸の島)の最初の部分から来ている。これは、十八世紀に清朝がイエズス会修道士に命じて黒龍江沿岸を測地測量させた際に命名されたもので、「黒龍江(アムール川)河口にある島」という意味では、アイヌ語と共通だ。 南北約千㌔にわたり面積は北海道より小さい樺太は、もともと周辺国(大陸や半島の歴代王朝)には地形的つらなりから「倭・日本の一部」として認識されていた。日本による同地の活動で最も古くは、飛鳥時代に斉明天皇(五九四―六六一)が阿倍比羅夫(あべのひらふ)に行わせた蝦夷征伐に続く粛慎(しゆくしん)(黒龍江沿岸から樺太周辺にかけて生活していたツングース系狩猟民族)討伐とする説がある。「正保御国絵図」には樺太(上)や千島(右)などが書き込まれている 十三世紀は、モンゴル帝国(元)と樺太の原住民、それに日本(鎌倉幕府が蝦夷(えぞ)管領(かんれい)を配置し対応)が同地を軸に覇権を争った。一二六四年に元が樺太に軍勢を派遣し、彼らが「骨嵬(クギ)」と呼ぶ現地民を征服したが、八四年には「骨嵬」側が反乱。九七年には蝦夷代官(管領)の安藤氏が樺太原住民(アイヌ民族など)に加勢し、彼らを率いて大陸の黒龍江沿岸まで攻め入って元軍と交戦した。 結局、十四世紀になって「骨嵬」が元に朝貢するようになったが、その後も蝦夷地(北海道)を経由して日本との交流が継続された。 ロシアでの統一帝国(ロマノフ朝)成立が一六一三年であり、樺太周辺での日本の活動の起点を粛慎討伐に置くなら、これより千年近く先んじている。ロシア帝国がその勢力圏を黒龍江河口周辺に届かせ始めたのは一六四四年、同地に辺境討伐のコサック先遣隊が到達してからだ。 江戸時代に入っていたこの時期、松前藩が樺太について幕府に蝦夷地の北にある大きな島として地図を提出。これを含め各藩から提出された地図を基に幕府がまとめた日本全図「正保御国絵図」に樺太は描き込まれていた。 以後、松前藩を軸とした開拓の拠点づくりが進み、一七五二年には樺太での商取引から租税徴収を行う樺太場所(場所請負制度=米を作れない蝦夷地特有の租税徴収システム)が設けられた。一方、北海道太平洋岸と千島は、幕府直轄領とされたので、樺太は松前藩の領地経営の上で、重要な位置づけのものとなった。 以上の経過を見るなら、ロシアはもとより、周辺国よりも先駆けて日本は樺太の開拓に着手していたことがわかる。間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力 ロシア帝国が樺太に対して領土的野心を示し始めたのは、十九世紀に入ってからだ。十八世紀後半にはヨーロッパの大国に数えられるに至ったロシア帝国は、シベリア開発に本腰を入れると共に太平洋岸への進出を図った。 その中で、鎖国政策をとっていた日本に開国と通商を求めるようになったが、文化三(一八〇六)年から四年にかけて、外交官ニコライ・レザノフ(一七六四―一八〇七)配下のロシア海軍艦船と将兵は、通商を日本から拒絶された報復として幕府直轄領の択捉島や松前藩領内の礼文島、樺太の留加多(るうたか)を武力攻撃した。 これを受けて、幕府は蝦夷地や千島、樺太(北蝦夷地)全体を直轄領とし(その後、文政四=一八二一=年に一旦すべてを松前藩に返還)、その防備のために秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩への出兵を命じた。 一八〇八~〇九年には、ロシア海軍の礼文島襲撃の際に同地に幕吏として赴任していた間宮林蔵(一七八〇―一八四四)が樺太全域と黒龍江下流域の探検調査を実施。伊能忠敬(一七四五―一八一八)から測量技術を伝授された間宮は、享和三(一八〇三)年から伊能と共に蝦夷の測量・地図作製に参画した。その経験を生かして樺太の探検に取り組み現地の地勢を正確に把握するとともに、最北端までの全域踏破により樺太が完全な島であることを確認した。 この探検の際、間宮らは樺太最西端のラッカ岬に「大日本国国境」と刻んだ国標を設置している。これらは、本来、樺太に関する日本の領土的主張の歴史的根拠として不足のない事績であり、間宮の歴史的功績というべきものだ。 また、文化元(一八〇四)年以降、幕府は北蝦夷地のアイヌの住民数を把握(同年で二千百人)。以後明治八年まで、住民数は幕府・明治政府が掌握するに至っている。 幕末期が近づく十九世紀半ばには、東アジア進出へのロシア帝国の野心がいっそう強まり、引き続き江戸幕府への開国要求の機会を狙うとともに東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(一八〇九―八一)は、海軍に樺太調査を命じ、一八四八年に初めて艦船によるタタール海峡(間宮海峡)の通航を実施。ムラヴィヨフは、樺太領有をめざす対日強硬論者で、その後も軍事力をちらつかせながら日本側に譲歩を迫り続けた。ニコライ・ムラヴィヨフ 安政元(一八五五)年末に日露和親条約が下田で締結された。千島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、樺太については「界を分かたず是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)」とした。幕府は「これまでどおり日本領であり、国境を設けるようなことはしない」という認識で、ロシア人の居留も黙認した。このため安政六(一八五九)年にムラヴィヨフ自ら七隻の海軍艦隊を率いて江戸・品川に来航し、幕府との交渉で樺太はロシア領であると強硬に主張した。 以上のように、ロシア帝国は十九世紀の初めから後半にかけて執拗に日本側に軍事力を背景にした圧力をかけ続け、樺太をわがものとし、さらにそこを足場に日本本体にも進出する野心をあらわにしていた。 江戸まで押し掛けたムラヴィヨフの横柄な要求を、幕府は退けた。しかしながら、ロシア以外にも中国大陸や東南アジアに西欧列強(英、米、仏など)が帝国主義的に進出し、日本にも開国を迫る中、長い治世を鎖国状態で推移した江戸幕府は、あまりに非力であった。 こうした圧力下、樺太ではロシアの武力による支配が着実に広がり、日本側との摩擦が強まったので、慶応三(一八六七)年に幕府が国境画定交渉をロシアにもちかけるが、逆にロシアの新規進出を認めてしまう内容の「仮規則」を結ばされてしまう。これでロシアの支配が一層強まり、明治八(一八七五)年、樺太・千島交換条約で日本は樺太を放棄せざるを得なかったのである。日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠 当時の日本としては、自分のものである大きな島を、元々は自分のものだった小さな島と引き換えに泣く泣く手放したという感が強かったとされる。明治政府内も「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」とする黒田清隆(開拓次官)らの「樺太放棄・北海道防衛」論と「日露が住み分ける国境を樺太に画定すべし」という副島種臣外務卿(外相)らの「住み分け」論に割れていた。加えて「征韓論」を主張する重鎮たちが下野するなど、新政府として基盤が安定しておらず、大国ロシアに屈せざるを得なかった。 これが、日本共産党の言うところの「戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」した樺太や千島に関する日露両国の経過だ。「平和的な交渉」が大国ロシアの軍事恫喝を背景にしていたことは、歴史の事実をたどれば誰にでもわかる。「南樺太割譲」は過小な失地回復「南樺太割譲」は過小な失地回復 樺太、千島をめぐる日露間の領土、国境変更がなされる次の機会は、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争終結にともなうポーツマス講和条約だ。日本はロシアより北緯五十度を境に樺太南部の引き渡しを受けた。 日本勝利が確実となった同年六―七月にかけて陸軍第十三師団が樺太全域を占領した。これが八月からアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠で開始された講和会議で日本側有利をもたらす力のひとつとなった。それは元々日本が開拓した土地を取り戻したとして、日本史上初の近代戦に疲弊した国民を一面で喜ばせた。 ところが、同九月五日に調印された講和条約では「朝鮮での日本の優越権の承認」「ロシアが保有する東清鉄道の南満州支線及び租借地・炭鉱の日本引き渡し」「ロシアが清より与えられた関東州(遼東半島南部、旅順・大連など)の租借権の日本引き継ぎ」「日本による沿海州漁業権獲得」が南樺太回復以外の成果すべてであった。「戦争に勝ったというのに賠償金もとれず、元々日本のものであった土地の一部を返されただけだ」と、多くの日本国民が失望。「日比谷焼き討ち事件」の暴動にも発展した。覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ) 講和による日本の獲得要件が、国民の希望とかけ離れていたのは、陸軍の奉天会戦や旅順攻囲戦、海軍の日本海大海戦など劇的な勝利とは裏腹に、武器弾薬確保や戦費調達に汲々として、これ以上の継戦は難しいというタイミングだったからだ。強気で要求を百%ロシアに呑ませられる状況ではなかった。 こうした中で樺太回復が南部にとどまったことが、国民に相当なマイナス意識を抱かせたことは、樺太千島交換条約から三十年の時点では間違いないだろう。歴史歪曲は国民的議論で克服を歴史歪曲は国民的議論で克服を 日露戦争の終結と講和まで俯瞰すれば、日本が「樺太の一部をロシアから戦争で奪った」といえる実態がないことは自然な歴史的理解だといえる。日本共産党の言い分は、樺太をめぐる日本とロシアの歴史に目をつぶるデタラメきわまるものだ。 その後、第二次世界大戦末期にソ連軍が「火事場泥棒」的に南樺太、全千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事侵攻して占領した昭和二十年までを見ても、南樺太の 領有が日本と帝政ロシア・ソ連との国家関係を阻害したことは一度もない。一九一七(大正六)年の社会主義革命でソヴィエト・ロシア共和国が成立し、日本は米英仏などと軍事干渉してシベリアに出兵したが、ソ連邦成立後の一九二二年までに撤兵。尼港(虐殺)事件の賠償保障で占領した樺太北部からも大正十四年の日ソ国交樹立に伴い撤退した。 以後、日本は昭和十年から満洲や朝鮮においてソ連やその衛星国(モンゴル人民共和国)が絡んだ国境紛争に何度か関与したが、樺太国境で武力紛争は生じなかった。それどころか、尼港事件の賠償として日ソ基本条約で取り決めた北樺太石油利権獲得で、日本はオハなど油田開発に資金をつぎ込んで事業を展開した。 日独伊三国同盟成立時にソ連側サボタージュで石油の積み出しが妨害されるなど紆余曲折があったものの、昭和十六(一九四一)年の日ソ中立条約締結を機に、油田と附帯施設すべてをソ連側に譲渡した。 以後、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告が誤解に基づくと判明しながら、その有効期限内の昭和二十年八月九日に条約違反の対日宣戦を行ったことが決定的だった。日本が降伏条件を定めたポツダム宣言を受諾し、米戦艦ミズーリ号上で日本とソ連を含む連合国の各国代表が降伏文書に調印(九月二日)後も、ソ連は九月五日まで、最高指導者スターリンが宣言した「日露戦争の報復」を掲げた南樺太、千島列島、歯舞・色丹への軍事侵攻を停止しなかった。 結果として、樺太での真岡郵便通信局での九人の女性交換手自決や三船殉難事件(樺太からの婦女子避難船三隻がソ連潜水艦の攻撃で沈没)などをはじめ、南樺太で生活を営んできたアイヌ民族を含む日本国民は多くの死傷者を出した上に故郷を追い立てられたのである。 以後、樺太はソ連によってサハリン州とされた。日本政府は、公式にはソ連を引き継ぐロシア連邦との平和条約締結がされない限り、北方四島は日本固有の領土であり、樺太南部や千島列島(北千島)は帰属が画定していない地域としている。ただ、千島列島と南樺太はサンフランシスコ条約で放棄したとして、昭和三十一年の日ソ共同宣言以降、ソ連・ロシアとの返還交渉の対象にしたことはない。 しかし「南樺太は日本がロシアから戦争で奪った」とする日本共産党の言い分は、樺太開拓に命をかけた先人の事績に泥を塗り、存命者のある南樺太出身者(多くは北海道各地に避難し、再出発した)の心を傷つけるものだ。こんな虚偽の前提に立つ「全千島返還」論は、国民的議論の中で克服されなくてはならない。 歴史の事実の中での樺太をめぐる経緯、国民生活史の中での位置づけを明確にしてこそ、仮に返還交渉の焦点が北方四島であったにしろ、日本の歴史的主張の正当性を、ロシアを含め国際的に広く知らしめ交渉妥結へ進める道が拓かれるはずだ。しのはら・じょういちろう 昭和三十五年東京生まれ。五十九年立教大学文学部卒業。臨時教員などを経て六十年日本共産党職員に。平成七年党中央委員会に移り、党政策委員長で参院議員だった筆坂秀世氏ら三人の国会議員公設秘書を務める。KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件や国後島「ムネオハウス」事件、川辺川ダムなど公共事業問題、沖縄の米軍射撃演習問題などの調査、論戦準備に従事した。十六年に党の査問を受けて除籍された後、政治評論や共産党批判を展開。主な著作に『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(徳間書店)など。ソ連、中国その他旧社会主義国の政治外交・軍事史や共産主義理論の研究・批判も続けながら国会・地方議員のアドバイザー、海外事業コンサルタントとしても活動している。

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    プーチンは対日関係改善の意欲喪失 北方領土交渉進展絶望的

     北方領土交渉が、1991年12月の新生ロシア成立後、最大の危機を迎えている。9月2日には、北方領土交渉を担当する責任者(日本側のカウンターパートは杉山晋輔外務審議官)であるモルグロフ外務次官が「私たちは日本側といかなる交渉も行わない。この問題は70年前に解決された」と発言した。今後の北方領土交渉の進展について、作家・元外務省主任分析官の佐藤優氏が解説する。* * * モルグロフは、「根室半島と歯舞群島の間に国境線を画定する、すなわち北方四島がロシア領であることを日本が認めるならば平和条約を締結してもよい」という交渉スタンスを示している。この発言は、過去の日露間の合意を完全に無視するものだ。 まず、1956年10月の日ソ共同宣言で、ソ連は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島の日本への引き渡しを約束している。日ソ共同宣言は両国議会が批准した法的拘束力を持つ国際約束だ。 次に1993年10月の東京宣言で、日露両国は、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することに合意している。 さらに、2001年3月のイルクーツク声明で、プーチン大統領が、日ソ共同宣言と東京宣言を明示的に再確認している。東京宣言とイルクーツク声明は、法的拘束力を持っていないが、重要な政治的合意だ。今回のモルグロフ次官の発言は、ロシア外務省がロシア国家とプーチン大統領が過去に日本に対して行った約束を反故にすると宣言した深刻な事態だ。トルコ・アンタルヤでロシアのプーチン大統領(右)と会談する安倍首相(共同) メドベージェフ首相並びにロシア外務省の北方領土交渉に関する消極的姿勢を突破する力はプーチン大統領にしかない。首相官邸の一部にプーチン大統領の政治決断で北方領土問題が進捗するという希望的観測があるが、客観的に見た場合、プーチン大統領に期待はできない。 2010年、ロシア政府は9月2日を「第二次世界大戦終結の日」に定め、毎年、シベリアや極東の各地で記念式典を開いている。これまでプーチンがこの記念行事に参加したことはなかった。今回、日本のシベリア出兵の舞台となったチタで、軍事パレードの観閲に欠席したとはいえ対日戦争記念行事に参加することで、プーチンは第二次世界大戦をめぐる歴史認識についてスターリン主義に回帰した。ソ連のスターリン首相は、東京湾の米戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に署名した1945年9月2日に行ったラジオ演説で、〈1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。 そして、ここにその日はおとずれた。きょう、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した。/このことは、南樺太と千島列島がソ連邦にうつり、そして今後はこれがソ連邦を大洋から切りはなす手段、わが極東にたいする日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を大洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになるということを意味している〉(独立行政法人北方領土問題対策協会HP)と述べた。 チタでのプーチンの立ち居振る舞いはスターリン演説の延長線上にある。この事実は、プーチンは対日関係改善の意欲をなくしつつあることを示すものだ。近未来に北方領土交渉が進展する可能性は皆無だ。日本政府は、ロシアと提携して中国を牽制するという外交カードを失った。関連記事■ 皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける■ ロシア通記者が露大統領再登板のプーチンの実像を記した本■ 佐藤優氏「日本はロシアとウクライナの諍いに深入りするな」■ 北方領土問題はなぜ解決しないのか 佐藤優氏がその背景解説■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」

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    最大の過ちだったヤルタ協定 歴史修正しているのは誰なのか

    袴田茂樹(新潟県立大学教授) 最近、ロシアの専門家たちとウクライナ問題で何回か議論し、次のような批判も受けた。「日本は遠いウクライナとは政治・経済関係もほとんどないのに、なぜ対露制裁に加わるのか。単なる先進7カ国(G7)への同調あるいは米国の圧力故ではないか」 私は次のように答えた。「そのことを否定するつもりはないが、別の側面もある。それはG7で日本だけが、ロシアに主権と領土保全を侵されているという意味で、ウクライナと共通の問題を抱えている。従って日本が最も主権侵害を批判する権利を有し、また義務もある。中国との間の尖閣紛争をエスカレートさせないためにも、わが国は主権侵害に毅然(きぜん)とした態度を取らざるを得ないのだ」最大の過ちだったヤルタ協定 岸田文雄外相はベルギーで1月20日に「ウクライナで起きていることも北方領土問題も力による現状変更だ」と指摘した。これに対し露外務省はこう批判した。 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに、世界支配を目指して、第二次世界大戦前の“現状”を力で破壊し、多くの国を占領した。岸田発言は、その本質において歴史を転倒させ、大戦の原因と結果に対する一般に認められた理解を修正しようとしている」 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は同22日の記者会見で、歴史の歪曲(わいきょく)だとの批判は当たらないと述べ、日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾し、その後旧ソ連軍に占領されたと説明した。露側は9月2日を終戦日と主張するが、しかしソ連は、戦勝国の領土不拡大を謳(うた)い国連憲章の基礎にもなった大西洋憲章(41年)を支持した。またヤルタ協定(45年)でソ連は千島等の領有を認められたと主張するが、同協定に日本は参加せず、国際条約でもなく、戦勝国による力による領土変更だった。ブッシュ米大統領は2005年に同協定を「歴史上最大の過ち」としている。自らの行動を否定する論理 日本政府は、次の点もしっかり指摘して、歴史を修正しているのは露側だと反論すべきであろう。 露外務省が「大戦の結果に対する一般に認められた理解」と言う場合、北方四島が露領だという意味も含まれている。実は日露の平和条約交渉に関連して露政権が「北方四島に対するロシアの主権は、第二次大戦の結果だ」と主張したのは、プーチン大統領が05年9月27日に国営テレビで述べたのが初めてだ。米英ソ首脳が会談を行ったヤルタのリバディア宮殿 それまで日露両政府は1993年の東京宣言における「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との合意を前提に交渉していた。つまり4島の主権問題は未解決だということが共通の公式認識だった。ちなみにプーチン大統領は東京宣言を認めた2001年のイルクーツク声明(「平和条約交渉を東京宣言…に基づいて行う」)、03年の日露行動計画(「両国間の精力的な交渉の結果…東京宣言…を含む重要な諸合意が達成された」)に署名している。 このようにプーチン大統領自身が、4島の帰属問題が未解決だと認めていた。また、日露は1998年に「国境画定委員会」を創設しているが、当然、国境の未画定が前提だ。だからこそ今日まで平和条約交渉が行われてきたのだ。 最近ロシア側は、「南クリル(北方四島)が露領であるのは、第二次大戦の結果」と強調するが、ではなぜ北方四島の帰属をめぐる平和条約交渉を続けてきたのか。今日の露政府の論理は、自らのこれまでの行動を否定するものに他ならない。つまり、歴史を転倒させ修正しているのは、露側でありプーチン大統領自身である。日本批判の「戦勝記念日」 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに…」の露外務省発言に関して付言しておきたい。日本はドイツと1940年に同盟を結んだ。にも拘(かかわ)らず41年に日ソ中立条約を締結して、独ソ戦の間も含め、それを守っていた。ソ連が対独戦に勝利した背景には、日本が中立条約を守っていたという要因があり、今日ではロシアの専門家たちも認める歴史的事実だ。 その中立条約を破って日本を攻撃し、日本の領土を獲得したのはソ連である。ここでも歴史を転倒させているのはロシア側である。 中露は共同で、戦勝70周年を祝おうとしている。両国の共通認識は、「歴史の修正は許さない」というものだ。もちろんこれは、日本批判でもある。しかし、ここに述べたようなロシア側の転倒した歴史認識を基に「歴史の修正を許さない」としてロシアが中国と歩調を合わせることは、日本としては到底、容認できない。 プーチン大統領は5月の戦勝記念日に中国の習近平国家主席とともに、安倍晋三首相を招待している。黙って招待を受けるとすれば、このようなロシアの歴史認識を日本は認めることになる。昨今ウクライナ情勢はさらに悪化しており、G7は対露制裁を緩和できる状況にない。招待にどう対応すべきか、おのずと明らかだろう。(はかまだ しげき)