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    樺太とロシアの非道・残虐

    世界で日本人ほど領土に淡白な国民はいない。無法侵攻したソビエトロシアが樺太で行った非道な住民虐殺と洗脳工作。シナ、朝鮮、ロシアという世界でも特異な国家にわが国は隣り合っていることを忘れることはできない。

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    「樺太の生き証人」が語った 非道ソ連の虐殺と姑息な洗脳教育

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より金谷哲次郎(全国樺太連盟副会長)聞き手 『別冊正論』編集部あちこちで日本女性を集団強姦 ──もう七十年前のことですね。 金谷 昭和二十年八月、私は真岡中学二年、十四歳。樺太庁から強制疎開の通達が出て、真岡は十六日から。十四歳以上の男は残る。それ以外の婦女子は即ですね。おふくろと弟は船に乗り、父と私が残った。兄は東京の大学予科にいました。月末には婦女子は全員疎開できると思ったら、途中で滞ってしまった。そこで問題が起きたんですね、悲劇が。 ──強姦されたんですか? 金谷 そうです。わかるんですよ、露助が何人も囲んでるから。疎開できない私と親父は真岡から豊原まで逃げたんです。二週間くらいするとソ連軍から「元の場所へ帰れ」という命令が出たんで、また真岡に戻った。そこで目撃した。若妻が亭主の前で陵辱され、ことが済んでから二人で首を吊ったとも聞きました。「お母さん疎開できてよかったな」と親父、つくづく漏らしてましたよ。 ──真岡ではどのように? 金谷 もう家はない、焼けちゃって。頑丈な民家が残っていて数世帯と一緒に身を寄せた。十人ほどいたうち、女学生が一人、ご婦人が二、三人いた。しばらくは夜ごと露助が押しかけて「サケダワイ(出せ)」「ムスメダワイ」。僕ら中学生三人が覚えた片言のロシア語で防御しているうちに、地下壕とかあっちこっちに女はみんな隠した。 ──すぐ帰りましたか。 金谷 酔ってしつこく「出せ」と粘るから、ほかの皆が女を隠したのを見計らって中に入れると、その辺を探す。いないから腹立ちまぎれに自動小銃を撃ちまくる。天井や壁に。いやあ、恐かった。そして万年筆とか腕時計とか、日本製で質がいいですから、持ち去るんですよ。 ──盗んでいくわけですね。 金谷 彼らは「盗む」より「取り上げる」っていう感覚ね。ソ連軍の司令部は一応「日本人に危害を加えてはならない」という触れは出していたそうですけど、酒を飲むと二人以上で組んで来ましたね。 ──そういうソ連兵は元々囚人が多いんでしょう。 金谷 ええ、手の甲にね、四桁か五桁の数字が入ってる、刺青で。ふだんは陽気ですから、後で仲よくなって。「これ何?」って聞いたら、チョロマ(監獄)だって言うんです。凶暴なやつばかりじゃなくて、インテリ風のもいましたね。みんな傍若無人を働いた。勝ち戦で抵抗する人はいないんだから。 ──そうですよね。 金谷 あとでおふくろに聞いたら、北海道に疎開して樺太との音信が途絶え、いろんなデマが流れた。真岡はソ連軍の爆撃で全滅したなんて。「哲次郎を連れてくればよかった」と悔やんでいたそうです。勤労動員の〝ケガの功名〟 ──お父様のお仕事は。 金谷 福島から移住した祖父が、大泊の大きな金物問屋から暖簾分けしてもらい真岡に店を構えた。ところが昭和初頭の世界大恐慌で潰れちゃった。小樽高商(現小樽商科大)を出た親父は小学校の教員をしばらくやって、敷香(しすか)町にできた商業学校の初代校長になった。私が五歳の時。急成長した町なんですよ敷香は。王子製紙の東洋一の人絹パルプ(レーヨン用パルプ)工場ができて。 ──北の方ですよね。 金谷 とても大きな町で碁盤の目のようになってるんです。何たって王子製紙はね、樺太で九つ工場持って、昭和十六年統計では当時の日本のパルプ需要の四分の一を樺太でまかなってたんです。 ──お家はどのような? 金谷 そう、横綱大鵬の実家ボリシコ牧場の近くに住んでた。大鵬は生れてなかったけど、お父さんのボリシコさんは穏やかな人で、牛が二十頭くらいいて、牛乳やチーズ、バターやパンを作ってたんで、よくお使いに行った。お母さんは納谷さんっていって働き者だった。上のお兄さんは私より三つか四つ年上で、よく相撲取って遊びましたよ。 ──終戦時は真岡ですよね。 金谷 祖父が亡くなって昭和十八年に真岡に戻りました。親父は商工会議所で戦時下の経済統制の担当になりました。配給切符の裏に親父の判がありました。僕らは二年生から勤労動員されて真岡中学へはほとんど行かず、最後は内幌(ないほろ)炭坑で石炭運びです。そしたら八月十三日の夕方、トロッコに手を挟まれちゃった。不注意で。先生に「ひょう疽(そ)になったら大変だから真岡へ帰って治療しろ」と言われて帰ったのが十四日。治療を受けて翌日炭坑へ戻ろうと思ったら重大な放送があるって。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。親父が「もう内幌へ行かんでいい」と。これ、戻ってたら親父と離ればなれでしたね。 ──紙一重でしたね。 金谷 その後、町内にご婦人は疎開していないから、隣近所の男たちが集まって、当番で飯を準備した。不思議なことに、どこからともなく食糧が出てくるんですね。米、砂糖、醤油、で、牛肉まで。十八、十九の晩は続けてすき焼きです。大人は久しぶりに酒も飲んだ。そして二十日の朝六時頃、朝食の支度をしようと思ったら、ドーンと来たんです。大砲の艦砲射撃。ゲーム感覚で避難民を攻撃ゲーム感覚で避難民を攻撃 ──どうしました? 金谷 親父は「家の前の防空壕はよして、とにかく遠くへ逃げよう」と。幅二十㍍くらいある大通りを皆で匍匐(ほふく)前進です。もうボンボン来るし、上陸して機関銃もバンバン来る。と、気が付いたら両隣の人がいない。後ろで倒れて動かないんですよ。私と親父は何とか逃げて豊真山道へ出た。他の人たちと隊を組んで樺太庁のある豊原まで歩いた。百㌔近く。途中、機銃掃射に追いかけられて。追っかけてくるんです。樺太にも螺(ら)湾(わん)蕗(ぶき)のような二㍍以上ある蕗が自生してて、その下に身を潜める。戦闘機を見ると二十㍍ほどの低空飛行だから操縦士が見えるんですよ。ニヤついてるように見えました。人殺しゲームを楽しんでたんですよ。 ──腹立たしいですね。 金谷 何とか飛び去って蕗の下か皆出てくるでしょう。でも逃げ込む前より少ない。何人かやられてるんですね。一緒に逃げていた若い夫婦の亭主が腸をぶち抜かれて、奥さんが、身重なんですけど、狂ったように「どなたか出刃包丁かナイフを持っていませんか」と。苦しんでかわいそうだから、ひと思いにということなんですど、「ありますよ」なんて誰も貸せませんよ。気の毒でしたね。めったに当たるものじゃないけど、当たる人がいたんですよね。 ──極限状態でしたね。 金谷 生きるか死ぬか、みんな。途中の畑で大根とか人参とか、黙っていただいた。翌朝、豊原に着いたら役所の人が避難先を振り分けている。私たちは豊原高等女学校。校舎だと思ったら校庭の蛸壺(たこつぼ)防空壕。一人しか入れないのが二百くらいあった。がっかりしながらも疲れてたから、死んだように眠った。極限状態で避難した豊原高女。敷地内に掘られた無数の蛸壺防空壕で休息をとったが…(同) ──その、蛸壺の中で。 金谷 中で。翌日午前十時ころかな、戦闘機が二機で来て機銃掃射。私の蛸壺へ土砂がゴロゴロッと入ってくるんですよ。やっとこさ這い出ると、豊原駅の方が真っ赤なんですよ。二㌔足らずだから親父たちが止めるのを振り切って見に行った。駅前は爆撃され、焼夷弾もあって火の海でした。記録では邦人の死者百人とか二百人とかですが、あれはもっと多かった。北の方から避難してきてた人が大勢集まってましたから。そういう人たちは名前なんかわからないですよ。避難民は上から見ても非戦闘員とわかるのに、標的にされたんです。八月二十二日ですよ。多数の避難民が集まった豊原駅や周辺はソ連軍の攻撃で火の海となり、多数の犠牲者を出した(同)樺太でも地上戦、そして最後の空襲 ──非道ですね。 金谷 内地で地上戦が行われたのは沖縄と樺太、そして最後の空襲を受けたのは樺太の豊原なんですよ。 ──日本人でも知らない人が多いですよね。 金谷 終戦の玉音放送から一週間も経ってんのに…ゲームのように避難民を掃射する。いや、許すべきじゃないですよ。でも、官庁の担当者も知らないし、わかっていない。 ──頭がよくてもね、判っていない。「樺太っていうのは日露戦争で南半分をロシアから割譲されたんでしょう」って平気で言うんです。 金谷 ロシアにしても中国、韓国にしても、領土については厳しく教育する。他国から奪ったものでさえ固有の領土だと教える。少なくとも日本は歴史の事実を教えるべきなのにしない。敗戦ボケですね。これは。人々の笑いがあふれ活気だった真岡停車場。駅前には円タクや乗合馬車が停まっている(同) ──敗戦ボケの原因に、GHQやソ連・中共の思想工作があるようですが、終戦後に樺太に抑留されて洗脳を受けたのですか。 金谷 終戦から二年間、樺太に抑留されました。ソ連は占拠した樺太の復興に日本人の労働力が必要だったこと、そして洗脳するためだったと思いますね。というのはね、ソ連軍政下の真岡で学校が再開された、中学、商業、女学校、工業なんかを集めて。教師はかつての中学や女学校なんかの先生の他に、見たこともないような人がいた。そして、何をしたといえば社会主義教育です。 ──ソ連も素早いですね。 金谷 そこに中学で習っていた歴史の先生もいて、終戦前は皇国史観だったのに、第一回の授業から何と唯物史観で始まったんですよ。戦時中はおくびにも出さなかったけど、密かに勉強していたんでしょうね。ショックっていうか、世界が変わってしまったような感覚でした。 ──社会主義はすばらしいと。 金谷 とにかく社会主義のいいところしか言いませんから。みんな平等で、自由でって。僕も魅力的に思ったことがありましたよ。ちょうど、どこからともなく左翼の雑誌や本が出てくるんです。僕はレーニンの著作も貪るように読みんで、まだ子供でわからないなりに、言ってることは大まかにつかめました。そういうの、いっぱいいましたよ、我々の仲間に。それがきっかけで、そちらの世界に入ったのもいたそうです。占拠直後から思想工作徹底占拠直後から思想工作徹底 ──洗脳成功ですね。 金谷 とにかく帝国主義と資本主義と社会主義の違いのようなものを切々と説明したり、日本の天皇制は「悪だ」と言って「お前たち人民は、搾取されているんだ」とね。 ──今の日本にもいますね(笑)。 金谷 でもね、だんだん露助の狙いが透けて見えて「こんなとこで、冗談じゃねえ」と思うようになった。歴史の、つまり社会主義の時間にテストがあったけど、私は白紙で出した。そしたら担任と学校担当のソ連軍少佐に呼ばれました。少佐は「お前は非常に不謹慎である。こんな調子では日本行きが再開しても、お前は帰すわけにはいかん」とカンカン。びっくりして「これから反省して勉強します」と答えて許してもらった。 ──緒にいた日本人の担任はどうだんたんですか。金谷 「金谷君、そんなことじゃだめだよ。今の時世をわかっとるか」って。仕方なしに言ってましたね。 ──それで勉強したんですか。 金谷 日本に帰れなくなったら大変と思い、次のテストまでに社会主義の教科書を一生懸命読んで百点取ったら、少佐はご機嫌でした。でも、これがきっかけで「こんな学校行ってられるか」という思いが強くなり、ほとんど行かくなかった。そのうちに日本への船が出るようになった。今考えても、もう二度とああいう体験はしたくないですね。 ──ソ連の軍人は学校に何人くらいいたのですか。 金谷 ソ連人は軍人ばかりで結構いました。授業をするのではなく学校を管理するために。しかるべき部屋にたくさん。北海道に移る際、皆そこから在校証明をもらったって言うんですよ。僕はほとんど行かなくなってからもらわなかったけど、まだ旧制だった滝川中学に行ったら編入してくれましたよ。 ──ソ連管理下の学校ではスターリンの肖像画なんかも…。 金谷 描かせられました。 ──描く? 金谷 スターリンの肖像をね、よく。「描け」って言うんですよ。「スターリンの写真をよく見て、このように描きなさい」って。みんな、しょうがないから描いてましたよ。 ──各教室にあったんですか。 金谷 ありましたよ。各教室に掲げられていました。まあ、僕らね、年の割に大人でしたね。「こういう場はこうしなきゃならんのだ」と割り切って応じていました。ソ連に抑留されスターリンの肖像の前で洗脳教育を受ける日本人男性」。まだ若い。「同志スターリン指導の下に我が祖国は新なる発展に邁進せん」の標語 ──そういう思想教育を真に受けて「共産主義はすばらしい」となった子は身近にいましたか。 金谷 何人かいました。ただ、そういう子とは会話はしませんでした。やっぱり家族が皆殺されちゃったような子は、頼るところもないまま、そういうことに傾倒してしまったんじゃないでしょうか。 ──日本兵は捕虜収容所に送られましたけど、お父さんはじめ非戦闘員の男性は、抑留されてやはり思想工作、洗脳を受けたんでしょうね。 金谷 いましたよ。戦後しばらくして「日本共産党の誰々は終戦時は樺太の中学生だった」とも聞いたことがある。思想教育がきっかけで、のめり込んだんじゃないですか。だけど大人については、もっとシビアでした。私の母方の祖父は銃殺されとるんです。豊原の機関区長をして、皇太子だった昭和天皇が樺太に行幸された際に車掌を仰せつかった。任務を恙なく終えると恩賜の拳銃をもらったんですよ。大事に桐の箱に入ったのを見たことがあります。戦時中からスパイがソ連に情報 ──それはそれは…。 金谷 ところが戦時中からソ連に通じたスパイがいて「日本の戦争協力一覧」を作って渡していたんでしょうね。祖父も入ってたし、真岡町の重鎮の名前もずらっと入ってる。ソ連軍が侵攻してきたその日に全員呼び出され、海岸に並べて銃殺されたんですよ。近所の方に聞いたら、祖父は中風か何かでふらふらで、足も弱っていたから、よろよろしながら連れて行かれたそうです。 ──お父さんは大丈夫でしたか。 金谷 父も真岡に戻って少しした夜にGPU(ゲーペーウー=ソ連の秘密警察)連行された。町の経済統制を担当したでしょ。幸い三、四日して帰ってきたけど、黒かった髪が真っ白でした。何も語りませんでしたが、拳銃をちらつかせて厳しい尋問があったようです。戦後五十年の時、真岡で鎮魂の碑を除幕したんです。親父は亡くなっていたけど、家族代表のつもりで祖父がどこへ埋められたか探したんです。近所の人の話を手掛かりに。でも地形も変わってわからなかった。 ──そうですよね。 金谷 いやあ…真岡郵便局の電話交換手の九人の乙女が、毒をあおったでしょう。あれと同じころに、祖父が銃殺されとるんですよ。もう五月雨のように町の要人は連れて行かれて、随所でやられてましたね。中には殺されないまでも、シベリアに連行されて強制労働させられた人もいるらしいです。 ──樺太で強制労働は? 金谷 ありました。「対象者はこういうもんだ」って通達が来て、「何月何日どこどこへ集まれ」と。行きますとね、漁港に揚がってくるニシンをさばくとか。塩蔵にするとか、そういう作業に従事されました。ほんのわずか日当が出たと思います。労働力の確保という目的のほかに、血気盛んな若い男子に余計なことを考えさせない、つまり反ソ的な行為をする暇を与えないという意味もあったと思うんです。ニシン漁などでにぎわっていたころの真岡港(同) ──ソ連兵は怖かったですか。 金谷 矛盾してるようですけど、ソ連の兵隊っちゅうのは、立場が変わるって一個人になると気のいい男が多いですね。僕らとずいぶん仲よくなりました。それでも、必ず党員っているでしょ、階級とは別に。目つきでわかる。密告の世界ですからから、あちこちに置いてある。恐ろしい世界です。就寝中に「反日親ソ」ささやく放送就寝中に「反日親ソ」ささやく放送 ──お父さんはどうしていたのですか。 金谷 何かね、友人と一緒に何か仕事の手伝いをしてたらしいんですが、カネがたまると「何月何日、船で脱出するぞ」と言われたことが二度ある。でもポンポン蒸気みたいな船で、夜中に出て必死に進んだはずなのに、明るくなったら港のそばにいたというのを結構聞いていた。海流で戻されちゃうんです。すぐ捕まって場合によったら銃殺、殺されなくてもシベリア送り。だから私ははっきり断りました、親父に。戦後しばらくたって、親父は茶飲み友達に私を指して「俺は、こいつに、実は二度ほど助けられた」と言うんで、何のことか聞いたら、脱出船のことだと言ってました。 ──洗脳に話を戻しますと…。 金谷 いよいよ樺太を後にする段になると、収容所へ二週間くらい入れられて、いろいろと検査受けるんですよ。思想面がどうの、色合いがどうのと、全部調べられる。昼間だけじゃないんです、それが。蚕棚のようなベッドに寝てますとね、毎晩囁くような女性の声で洗脳が始まるんです。おもしろいですね。 ──放送ですか。 金谷 放送。声を低めて「日本帝国主義は人民を搾取してどうのこうの」「資本家だけ富を独占し、あなたたちは搾取され苦しんだんです」ってね。「それに対して社会主義の何とかは」「ソビエトでは人民が平等に…」と。寝てる間に聞かされると印象に残ると言われるじゃないですか。僕は耳ふさいでいましたけどね。 ──一晩中ですか。 金谷 いつも途中で寝てしまいましたから、一晩中かどうかはわからない。でも一定の時間はやってましたね。他にも「耳障りだ」という人はいたけど、耳栓してるのがわかると怒られたから、わからないようにそっとしてたんです。 ──二週間続くと苦痛ですね。 金谷 それよりも参ったのはね、一週間目くらいに中学の担任だった先生が一緒に入っていて、同じ船に乗る予定だったんですけど「おお金谷君、お前はここに入ってる中学生を代表して、党と」、党っていうのはソ連共産党ね、「党とスターリンに感謝文を書け」って言うの。「冗談じゃありませんよ」と断りました。先生は「そうか」って一旦は引き下がったんですけど、その日のうちにまた私のいる部屋に来て「さっきの続きだけどな、やっぱりお前に書いてもらわんとだめだ」と言う。「どうしてですか」と聞くと、「いやいや、ソ連の担当官から、どうしても誰かに書かせろって俺が責められてんだ」って。私じゃなくてもいいんだけど、先生は教え子の私に頼みやすいから「俺の顔を立ててくれ」と。 親父に一部始終話したら「まあしょうがねえな。書け。ただしわかってるな、本心がわかるようなことは書いちゃいかんよ」と言うので、「書きますよ」と返事したら、先生は原稿用紙まで持ってきたんですよ。真岡「九人の乙女」は顔見知り ──何と書いたんですか。 金谷 おべんちゃらですよね。「おかげさまで、この約二年間、私が今まで体験したことのない世界を見せてもらいました。いろいろと教えてもらいました。大変感謝しています。日本へ帰ったら、天皇制を打破し、社会主義国家建設のために働くことを誓います」なんて調子でしたね。最後に署名して。 ──「おかげさまで」の前は「誰」を入れたのですか。 金谷 もちろん「ソビエト共産党、スターリン閣下」です(笑)。自分で書きながら、いやで仕方なかったんですけどね。しかし書かないと…。 ──船に乗せてもらえない。 金谷 そう、乗せてくれないか、先生が窮地に立たされるか。だから「ここまで来たら目をつぶれ」と自分に言い聞かせた。そこに船いるんですから。そしたら、収容所の掲示板に原稿を貼られちゃって参った。苦し紛れに書いたのをわかってる人もいたけど、やっぱり変な目で見る人もいて、ずいぶん尾を引きました。 ──船は大泊から? 金谷 いえいえ真岡から函館。ずいぶんかかりました。揺れるし。赤十字だから乗ってすぐおにぎり出してくれ、食べたかったけど船酔いで戻しちゃうから我慢した。函館に上陸したらケロッと治って無性に腹減って、食べましたよ。何とも言えない、あんなうまい握り飯はなかった。 ──そうでしょうね。 金谷 母親と弟が迎えに来てました、迎えにね。でも船から降りたのはまるで浮浪者の団体。まずヤンキーがね、米兵が全部検閲する。皆シラミだらけだから、収容所で。頭から背中からDDT(殺虫剤)ぶっかけられてね。でも、見るとスマートなんですね、米兵は。着てる服装もいいし。パン屋の旦那みたいな帽子かぶって。新鮮に見えました。 ──ソ連兵とは違いますか。 金谷 ソ連兵は野暮ったいったらありゃしない。 ──体格も貧弱なんですか。 金谷 いや、ソ連の方が頑丈でした。ボディ自体は。すごいですよ。やっぱりスラブの民族ですな。だけど身に着けてるものは粗末でした。靴下っちゅうものを持ってないんですよ。ご存じ? ──へえ。 金谷 戦時中で靴下なんか作ってる暇なかったんでしょう。彼ら長靴(ちようか)履いてるから、足を時々きれいにするのに脱ぐんです。すると足の周りを布で巻いてるの。合理的ですよ。前も後ろもないんだもん。風呂敷を巻き付けるようなもん。「なるほどな」と、僕らも参考にしました。暖かいし、汚れりゃ前も後ろもない。 ──話が戻りますが、真岡で郵便局の九人の電話交換手が自決しました。あのお姉さんたちと話ししたことなどはありますか。 金谷 ええ、知ってますよ。特に親しいわけじゃないけど、郵便局へ用事で行った時お目にかかって、たわいのない会話をした覚えはあります。僕らより五つ、六つ上でしたかね。おふくろは、その一人が知り合いの娘さんでよく知ってると言ってましたね。日本人が忘れてはならない真岡郵便局㊤で起きた電話交換手㊦の集団自決事件。交換手の9人の乙女はソ連軍が目前に迫っても邦人避難の通信確保のため任務を続け、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と通信して青酸カリを呑んだ。ブレスト(交換手用ヘッドホン)と回線のプラグを握りしめた姿の遺体で発見された(稚内市の北方記念館所蔵)7人道連れに自決した教練の教官7人道連れに自決した教練の教官 ──ソ連の無法な侵攻の中で、避難のための通信網を最後まで守り、青酸カリを飲んで… 金谷 ひどかったですな。かわいそうに。豊原から戻った時に、そういう話が広まってました。信じられなかった、そういう光景はね。どんな思いで毒を口にしたのか…。 ──むごいですね。 金谷 むごいといえばね、痛烈な記憶は、中学に軍事教練の教官の将校がいて、五十代かな。息子が同級生で。よく教練の時に「シベリア出兵では敵の赤軍ゲリラを何人も斬った」と話していたけど、優しい人でとてもそんな風に見えないから「またほら吹いてる」って、僕ら本気にしなかった。ところが、八月二十日ね、真岡にソ連の艦砲射撃がドンと来た日。教官の家族は隣近所と一緒にこの日疎開する予定で、早朝から隣の奥さんが小さい娘を連れて相談に来てた。爆弾の音を聞いた教官はキッとなって、「奥さん、出ちゃいかん」と仏間か何かの部屋に閉じ込めちゃった。そして軍刀でバサッとやったんです、首を。それから自分の子供四人、小さい順に。奥さんもやって、最後に自分は腹掻(か)っ捌(さば)いてから頸動脈を斬ったって。 ──古式に則ったんですね。 金谷 そう、古式どおり。家に踏み込んだ露助のソ連兵もびっくりしたらしい。「これはサムライ、ハラキリだ」とね。八つの遺体を手厚く葬ったといいます。それを聞いて教官のシベリア出兵の話は本当だったんだと思いました。辱めを受ける前に自ら処したんですね。 ──いにしえの軍人ですね。 金谷 それから、八十歳を過ぎた今でも夢に見ることがあります。先ほども話したように、真岡に最初にドンと来た時、私が「防空壕入ろう」と言ったら、親父が「やめとけ」と言ったでしょ。とにかく防空壕じゃ危険だと。案の定、上陸したソ連兵は非戦闘員かどうかも確認せず、片っ端から防空壕に手榴弾(しゆりゆうだん)を投げ込んだんです。豊原から真岡に戻って、焼け跡整理が始まった。自宅前の防空壕を崩していったら中に死体が四つ。樺太といえども八月で日にちも経って腐乱してる。ものすごい異臭。顔は崩れてるけど「ああ、◯◯さんだ」ってわかりましよ。そんな防空壕をいくつも掘り起こしましたよ。 それを、家の前にいくつもありましたから。それ、みんなでやりました。今も夢に見る腐乱死体の片付け  ──遺体を運び出すのは?  金谷 私たちで運び出した。持つと崩れるんだけど、もう、マスクなんかないから口と鼻に手拭いを巻いて…。床下をコンクリートの地下壕にしている家があった。建屋は燃えちゃって、地下壕の入り口を引っ張り上げると異臭がバーッと来た。階段を下りると何人か死体があった。全部蒸し焼きですよ、上から。壁に引っ掻いた跡があり、死体は爪がない、取れてるの。もがいたんでしょうな。しかし、始末しなきゃいかんから持ち上げると崩れる。でも素手でやった。ソ連軍の命令だから。服は臭いでだめになった。十四歳の子供もやらされたんです。金谷さんたちより10年も遅れて樺太から避難した人たち。両手に子供を連れ、荷物がほとんどない人が多い=昭和32年8月1日、京都・舞鶴港 ──大変なことでしたね。 金谷 かと思うと地上でね、消防団の制服着て片付け作業をしてるおじさんがいた。これがナチの軍服に似てるってんですって。通りかかったソ連兵が、そのおじさんつかまえて、「シュラ(歩け)」って。おじさん何のことかわからず歩き出したら、後ろから「バン」と射殺。見ていた僕らに「片付けろ」ですよ。 ──へええ……。 金谷 まあ、条理、常識の世界じゃないですね。 ──ソ連がいかに非道なことをしたか日本人も知らされていない…。 金谷 そうです。樺太(南樺太)は帰属未定だから、国際機関で正当に協議して日本固有の領土として返還へ導こうという返還期成同盟も尻切れになり、樺太のことになるとソ連の非道を隠して「日露友好」ばかり言う。とも、国際法無視の非道行為はしっかり非難しなくちゃいかん。やっぱり、外務省ね、腰抜けなんです。真岡郵便局の九人の乙女を題材にした映画『氷雪の門』の上映中止の件も、ソ連の圧力に加えて、「ソ連を刺激したらいけない」っていう官民の過剰な遠慮があった。 ──そう、言論弾圧でしたね。 金谷 まあ、とにかく政府は樺太について無策すぎる。かすかな希望を次世代にかすかな希望を次世代に ──全国樺太連盟は平成三十二年度めどの解散を決めていますね。 金谷 樺太という存在を後世につなごうと我々やってきました。でも政府は何もしないし、一生懸命やっても届かない、僕ら元住民の声がね。そのうち皆年を取って、どんどん亡くなっている。今も真岡に残る王子製紙真岡工場の廃墟。南樺太が日本の領土であり、そこに暮らした人々の暮らし、活発な産業の様子を物語っている ──ソ連不法占拠から七十年。 金谷 今の事務所のすぐ近くに「樺太会館」というビルがあったのを売って何とか法人活動を続けていますが、それがなくなれば終わり。昔は寄附してくれた人や企業もいたけど、悲しいことに今は全然です。 ──日本遺族会も同じ状況ですね。 金谷 そうなんです。あまりに政府が何もしないし、国民にも「サハリンはロシアのもの」みたいに誤解が広まって、元住民の二世、三世ですら振り向かなくなりつつある。だってNHKがね、稚内から「はるかサハリンが見えます。中心地ユジノサハリンスクは…」ですから。「樺太」「豊原」と一言も言わない。領事館開設も影響も大きいですよ。 ──絶望的ですか? 金谷 いや、こんな中でも、たとえかすかでも、希望は捨てません。志のある次の世代がいる限り。 かなや・てつじろう 昭和六年樺太・真岡町生まれ。旧制真岡中学二年生で終戦を迎え、現地に二年近く現地に抑留される。終戦直後に北海道に疎開していた母や弟と再会。滝川町の旧制滝川中学(現滝川工業高校)三年に編入し、新制高校として卒業。三十一年横浜市立大学商学部卒業と同時に野村證券入社。三十四年同證券などが設立の東洋信託銀行に転籍し、六支店の支店長を歴任。六十一年定年退職で系列企業役員を経て、平成五年から三年間日本住宅金融の監査役を務めた。全国樺太連盟には昭和五十一年に入会し、千葉県支部長を経て平成十四年理事、二十二年から副会長。息子は病死し、娘に大学生の孫二人。「今は二つ下の妻と〝老老介護〟ですよ(笑)」。数少なくなった「樺太の生き証人」として講演やインタビューなどに積極的に応じている。

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    北方領土にシベリア抑留 「対日戦勝者」ロシアの正当化

    廣瀬陽子 (慶應義塾大学総合政策学部准教授) 2011年8月15日、日本は66回目の終戦記念日を迎えた。第二次世界大戦の体験者も年々減ってきている。日本の歴史において、第二次世界大戦が持つ意味は極めて重く、甚大な人命の喪失と敗戦国として背負った代償の大きさは筆舌に尽くし難い。 他方、当時のソ連、そしてロシアを中心とするその継承国にとっても、第二次世界大戦(旧ソ連諸国では、「大祖国戦争」と呼ばれる。以後そのように記載する)の意味は非常に大きく、人命の喪失も甚だしかったとはいえ、戦勝国として大きな自信を得て、そこからいわゆる西側陣営との冷戦に突き進んでいった点で、その持つ「意味」は日本と大きく異なると言える。旧ソ連諸国にとっての大祖国戦争の意味と「勝利記念日」 ソ連にとっての大祖国戦争は、「独ソ戦」が主たるものだと言える。人類の敵であるナチス・ドイツによる「独ソ不可侵条約」を犯しての奇襲による熾烈な戦いに勝利したことは、生まれたばかりのソ連にとっては極めて大きな誇りとなった。しかも、ロシア人の60%が、ロシアは同盟国の支援がなくても単独でドイツに勝利できたと考えているという(ユーリー・レヴァダ分析センターが実施した世論調査による)。 そのため、各地に大祖国戦争を記念する記念碑やモニュメントが建設され(ただし、最近、エストニアやグルジアなど反ロシア的な諸国が、大祖国戦争のモニュメントを移動したり、破壊したりしており、それに対し、ロシアは激しく反発している)、現在でも毎年、ドイツに勝利した5月9日の「戦勝記念日」にはロシアはじめ、旧ソ連の数か国で独ソ戦勝利記念軍事パレードが華々しく行われる。また、ドイツが攻撃を仕掛けてきた1941年6月22日を記念し、ロシアはこの日を「記憶と悲しみの日」に制定している。このように、大祖国戦争は、ソ連が解体しても、ソ連諸国をつなぐ共通の誇らしい歴史の記憶であったと言える。 実際、バルト三国(反ロシア的なスタンスで知られる旧ソ連諸国。現在はEU加盟国である)も、ソ連の独ソ戦での活躍については高い評価をしているようだ。すなわち、ナチス・ドイツから欧州を解放したのはソ連であるという見方である。ただ、その直後のソ連の行動により、評価は短期間に一転するのであるが…。 このように、旧ソ連諸国では、大祖国戦争はドイツに対する勝利というイメージが強く持たれているが、ソ連時代には、もう一つの「戦勝記念日」があった。それは、9月3日の「対日本軍国主義戦勝記念日」(以後、「対日戦勝記念日」)である。一般的に「対日戦勝記念日」は、日本がソ連を含む戦勝国に対して降伏文書に調印した1945年9月2日にちなんで設定されることが多いが、ソ連や中国などは9月3日を対日戦勝記念日としていた。ソ連の場合は、降伏文書調印の翌日9月3日に戦勝記念式典を開いたことにその起源がある。 だが、「対日戦勝記念日」を祝う慣習はソ連解体後にはなくなっていた。このことは、旧ソ連諸国にとっては「対日戦」の意味はあまり重くなかったことの証左と言えるだろう。ロシアにとっての対日戦の意味の変化? しかし、2010年には「対日戦勝記念日」を復活させる議案がロシア連邦議会に提出された。ただし、事実上は「対日戦勝記念日」であるが、「第2次世界大戦が終結した日」としてその議論は進められた。そして10年7月14日に、9月2日を「第2次世界大戦が終結した日」とする法案を連邦議会が可決し、同月25日にメドヴェージェフ大統領が署名して、同法改正案は成立した。 実は、「対日戦勝記念日」の復活の動きは10年以上前からあり、ロシア連邦議会でもそのような動きが出たことがあったが、これまでは政府がそれを抑制してきた。しかし、昨年は、大統領府の会議で高い支持が得られたということで、大統領府が支援者となり、これまでとは異なる様相が見られるようになったのである。モスクワでの軍事パレード後、軍人らと握手するロシアのプーチン大統領(AP=共同) そして、昨年9月には、中露が第二次世界大戦での「対日戦勝65周年に関する共同声明」を出すに至る。メドヴェージェフ大統領は、9月26日から3日間の訪中を行い、1904~05年の激戦地だった大連・旅順口を訪問し、日ロ戦争および第二次世界大戦におけるソ連軍・ロシア人の犠牲者追悼行事に参加、北京で首脳会談を行なって共同声明を発表した。その共同声明は、ロシア(当時はソ連)と中国は軍国主義の日本およびファシズム政権のドイツに対して共闘した同盟国であり、対日戦勝の65周年をともに祝すという趣旨となるが、とくに、中露両国が第二次世界大戦の結果を同様に受け止め、その見直しはあり得ないことを盛り込み、両国が言うところの歴史の真実を共に守っていくことが重視されている。*注1 そのため、11月にはロシアのメドヴェージェフ大統領がソ連・ロシアの最高指導者としては初の北方領土訪問を行うに至り、以後、多くのロシアの重鎮たちが北方領土を訪問するようになった。 さらに、ラブロフ外相は今年の2月15日に、「日本が世界大戦の結果を正確に認めない限り、平和条約交渉は無意味だ」と対日牽制を行っている。ロシアは、北方領土がロシア領になったのは、第二次世界大戦の結果、つまり日本の敗戦によるものだという主張を従来からしており、改めて、日本に対して北方領土の返還主張をやめるよう示唆してきたと言える。 このような経緯から、去年よりロシアの対日姿勢が急に硬化したことが感じられるのである。 ただし、9月2日が「対日」という言葉を含まずに「第2次世界大戦が終結した日」と命名されたことには、日本への一定の配慮が感じられる。それは、2011年3月11日に、9月3日を「日本帝国主義者に対する勝利の日」と定める法案が提出された際に、圧倒的与党である「統一ロシア」が反対し、否決されていることからも明らかであるソ連は本当に戦勝者か? しかし、ここでソ連は本当に戦勝者であったのかという疑問が生じる。「対日戦」はソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、*注2 つまり国際条約に違反した形で、長い戦争で疲弊したところに原爆というとどめを刺されて死に体となった日本に対して、8月8日に宣戦布告。広島に続き、長崎に2発目の原発攻撃を受けた8月9日から、大規模な攻撃を開始し、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧・占領。幸いに実現はしなかったが、日本敗戦の折には北海道の占領権まで主張するに至ったという、いわば火事場泥棒的な戦争であった。そして、そのことは、ロシア人も認めるところであり、実際「第2次世界大戦が終結した日」への支援の声はそれほど大きくないようだ。以下に、同記念日の制定に対するロシア世論の一部を紹介しよう。・日ソ戦争は、日本ではなくソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。・日本の敗戦によってソ連は南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争(1904~05年)で失ったものではない。・日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。・対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火をつけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中にこれを記念しようという声は沸き起こっていない。(以上、コンスタン・サルキソフ「「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は?」、JP Press 2010年4月8日)(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179)より引用)*注1:拙稿「尖閣諸島問題は北方領土問題に影響するか?」ASAHI WEB RONZAシノドスジャーナル(http://webronza.asahi.com/synodos/2010092800001.html)を参照されたい。*注2:ソ連にとっては、ナチス・ドイツとその同盟国である日本からの東西両面からの攻撃を避けるため、日本にとっては北方の安全保障を確保するという相互の思惑のもと、1941年4月13日にソ連の首都・モスクワで調印されたもの。日ソ両国の相互不可侵及び、一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等が取り決められていた。しかし、41年6月22日に、ナチス・ドイツがソ連に対して「独ソ不可侵条約」を破棄して奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)をかけ、独ソ戦が開始されたとき、日本も対ソ連攻撃の準備をしたが、踏みとどまった経緯がある。だが、45年2月4日に、米・英・ソの首脳がヤルタ会談を行い、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約である「ヤルタ秘密協定」を締結した。そして、それに従って、ソ連は対日参戦をするに至るが、ここで、ソ連は「日ソ中立条約」への違反を犯すことになる。実は「日ソ中立条約」の有効期限は5年間であり、その破棄には満期1年前の不延長通告を必要とするとの取り決めがあったが、その満期日は46年4月だった。だが、日本の敗戦の可能性が高まってきたのを受け、ソ連は45年4月5日に条約の不延長、すなわち条約が満期を迎える46年4月での破棄を通告してきたのである。確かに、条約を延長しない旨の通告はあったが、条約失効まで約8ヶ月を残す段階で、ソ連は対日宣戦布告をしたわけであり、それは間違いなく条約違反であった。ロシア側の「正当化」の論理 この背景には、ロシア首脳陣や一部のロシア人の、対日戦におけるソ連のスタンスの「正当化」の論理があるといえるだろう。 たとえば、ロシアのイタル・タス通信のゴロブニン東京支局長は、日本とロシアの第二次世界大戦の終わりごろについての解釈は大きく異なるという。彼は、「ロシアでは社会の多数の人々は、日本が当時、帝国でナチス・ドイツとの同盟国であり、旧ソ連を脅かしていたと考えている。だから、1945年8、9月の(旧ソ連の)作戦に対しても、この大枠で捉えている。つまり、日本が領土を失ったのは、正当な罰だという考え方だ。」(『産経新聞』2011年5月4日)と述べるが、この見解が日本の見方と大きく異なることは明白である。 また、同氏の主張が、上述のサルキソフ氏が述べるロシア人の世論と大きく異なっていることも興味深い。この違いの理由は何だろうか? イタル・タス通信は、ロシアの国営通信社であるので、もしかしたら、イタル・タス通信側が、政府の意をくんで、世論を創出しようとしているのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか?シベリア抑留問題 他方で、第二次世界大戦の結果の如何にかかわらず、日本がロシアに対して強く主張し続けるべき問題がある。シベリア抑留問題である。 シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後に、ソ連が多くの日本人を、日本に復員させることなくシベリアや中央アジアなどソ連各地に抑留して、非人道的な強制労働を行わせたものである。日本人抑留者のほとんどは、旧日本軍の軍人(主に関東軍だが、北朝鮮・樺太・千島などソ連が侵攻した地に展開していた陸海軍部隊も含まれる)だったが、民間人も含まれていたという。日本政府の推計によれば、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)のうち、全ての抑留者の帰還が終わる1956年までに約5万3千人(約6万9千人という説もある)が死亡したという(日本政府が推計する抑留者や抑留死者数は、帰還者や家族の聞き取りを基にしたもので、少なすぎるという見解が多く出されている。なお、これまでロシアから返還された遺骨は2万柱である)。これは、氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で満足な食事も与えられず、森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたためである。本稿では、その内容の詳細について述べる紙幅の余裕がないが、シベリア抑留については多くの著書があるので、それを参考にしていただきたい。 なお、日本人の旧ソ連での労働の質は極めて高かったとされている。たとえばウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は日本人抑留者が建設したものであるが、大地震の際に、ナヴォイ劇場だけが無傷で残ったとして、日本人の仕事の質の高さが今でも言い伝えられている。*注3ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影) このようなソ連の抑留や、捕虜の速やかな送還を明記した「ハーグ陸戦規則」にも、武装を解除した日本軍兵士の帰宅を定めた「ポツダム宣言」にも反するものだが、ソ連は長らく本問題に口を閉ざしてきた。だが、ソ連の最後の大統領だったゴルバチョフが初めて「哀悼」の意を表明し、ロシアの初代大統領エリツィンが初めて93年10月に正式に「ソ連全体主義の犯罪」だとして、正式に「謝罪」した(東京宣言)。だが、その後のプーチン、メドヴェージェフは言及を避けている。*注3:拙著『強権と不安の超大国・ロシア』光文社新書、2008年 を参照されたい。 そのような中で、戦後70年を迎える2015年を前に、シベリア抑留問題への対応が急務となっている。具体的には、抑留者や死亡者の身元確認を中心とした抑留の全体像の究明と抑留者への賃金未払い問題と補償問題である。 2009年7月にモスクワのロシア国立軍司公文書館でシベリア抑留に関する新資料が最大で76万人分が発見された。このカードには、抑留者の名前、生年、収容所異動歴などが記載されていた。全抑留者を網羅する規模の資料発見は初めてで、抑留者や死者の総数確定などに寄与すると期待された。上述の数字より抑留者の数が多い理由は、抑留者の多くが収容所を転々とさせられていたため、移動の際に複数の記録が生まれたことにあると見られている。そして、政府も8月5日には、「シベリア特措法」に基づく、基本方針を閣議決定し、対応が強化されている。 だが、今年の8月現在で、このロシア側の資料と日本側の資料の照合により、身元が確認されたのは2097人に過ぎず、身元は判明したが、埋葬地などが不明な抑留者の数も多いという。厚労省は、作業の迅速化のため、「照合ソフト」も開発し、なるべく早く埋葬地まで明らかにし、遺骨の収集まで進めていきたい意向を示している。やはり重要なのは当時の情報となるが、抑留者の中に生存者が少なくなっていることや、埋葬地の上に建設が行われていたりと、作業は思うように進まないという。今後、厚労省は、資料を誰でも閲覧できるように、死亡者名簿を国立公文書館に移すなど、情報収集に力を入れていくとのことだ。 また、近年、抑留者の「未払い賃金」問題の解決が急務となってきている。当時のソ連政府は抑留者に対して労働証明書を発行しなかったため、日本政府も彼らに賃金を支払わないままで現在に至っているのだ。本問題も、上述の抑留者の身元確認が前提となる。ロシアに補償金を支払わせろという声も一部で高まっている。続く戦後 このように、日本とロシア・旧ソ連諸国では、第二次世界大戦の受け止め方は全く異なる。それは単に結果としての「敗戦国」、「戦勝国」の違いだけではなく、日本が喪失したもの、つまり抑留者や領土に対する考え方にも大きく反映している。それらに対して、「戦勝国」であるロシアは、自分たちの振る舞いがまるで当たり前であるかのような態度を示す一方、日本人にとっては「戦後」がまだ続いていると言って良い。今後のロシアとの関係には、常にこの「第二次世界大戦」の理解の齟齬が絡み合ってくるが、当時のソ連が条約や国際法への違反行為を行ったのも事実だ。日本は、ロシアと歴史認識の違いの溝を埋めながら、真の「戦後」を終わらせるべく、辛抱強い調査や交渉を続けていくことが求められるだろう。

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    ロシア国家犯罪を検証せよ シベリア抑留は70万人、死者10万人だった

    別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より長勢了治(抑留問題研究者・翻訳家) 独裁者スターリンの非道 敗戦から七十年となった平成二十七年、ロシアは五年前に「第二次世界大戦終結記念日」と定めた事実上の対日戦勝記念日である九月二日に樺太と北方領土で記念式典や軍事パレードを行い、プーチン大統領は中国の習近平国家主席が主催する「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利七十周年」記念式典に向かう途次、東シベリアのチタ市で「戦争犠牲者」の記念碑に献花した。 樺太と千島列島および北方領土を不法に占領した事実を覆い隠し、力による領土拡大を「大戦の結果」として合理化するとともに実効支配を誇示する狙いであろう。ロシアも中国同様、日本に歴史戦を挑んでいる。 ソ連軍は終戦直前の昭和二十年八月九日午前零時、日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻した。北朝鮮にも同日、北部沿岸に爆撃を始めた。樺太には八月十一日から北部国境方面にソ連軍が侵入した。千島列島への侵攻は遅く、終戦後の八月十八日に占守島(しゆむしゆとう)へソ連軍が上陸し、日本軍との間で大規模な戦闘となった。 日本が降伏した八月十五日以降もソ連が攻撃の手を緩めなかったのは満洲、北朝鮮、樺太、千島列島を完全に制圧することを狙っていたからだ。歯舞諸島の占領をもって北方領土の占領を完了したのは九月五日だったから、九月二日を対日戦勝記念日とするのも欺瞞であろう。 スターリンはルーズベルト、チャーチルとの昭和二十年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後二、三カ月で対日戦に参戦し、見返りに樺太、千島列島、東清鉄道、大連、旅順を貢ぐよう約束させた。スターリンはこの密約どおり実行したわけである。 ヤルタ会談ではドイツに関して「国民資産の撤去」「ドイツの労働力の使用」を賠償として明記したことは周知である。スターリンが日本についても同様に考えたであろうことは容易に想像できる。ただし、日本は一方的に侵攻された側なので「賠償」を取られるいわれはない。東シベリア・チタでの戦勝70年行事で記念碑に献花するロシアのウラジミール・プーチン大統領=2015年9月2日(タス=共同) スターリンはすでにドイツ人を始め枢軸国側の捕虜を三百万人以上、国内に連行して使役し味をしめていたから、満洲侵攻後の八月二十三日、有名な「秘密指令九八九八号」を出して五十万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた。同時に満洲、北朝鮮の施設と物資を「戦利品」として大量に掠奪し国内へ移送した。 八月末から翌春にかけて六十万人以上の日本の軍民がソ連とモンゴルに移送され、長期間抑留された。いわゆる「シベリア抑留」である。連行先は、北は極北のノリリスクから南はトルクメニスタンまで、東はカムチャツカから西はウクライナまでほぼソ連の全土に及び、一部はモンゴルにも移送されたから地域的には「ソ連モンゴル抑留」がふさわしい。 ソ連占領地ではソ連軍による居留民に対する残虐行為が多発した。掠奪、暴行、強姦により居留民は塗炭の苦しみを味わった。とりわけ悲惨だったのは開拓民で、根こそぎ動員で男手のない老人と婦女子の集団がソ連軍や現地民に襲われ、陰惨極まりない逃避行を余儀なくされたのだ。 ソ連とモンゴルに連行、抑留された軍民にも悲惨きわまりない運命が待ち受けていた。日本兵はソ連軍が指定した四十四カ所の集結地収容所に集められ、順次列車や徒歩でソ連領へ移送された。満洲は九月ともなれば寒くなる。行軍中に斃(たお)れる者が出るし、列車から脱走する者も出たがソ連軍は容赦なく射殺した。 こうしてソ連への移送途中で、早くも数万人ともいわれる日本人が死亡したが実態は不明である。 ソ連兵は移送の時いつも「トウキョウ・ダモイ(帰国)」と嘘をついて日本人の逃走や反抗を防ごうとした。お人好しの日本人は「トウキョウ・ダモイ」を信じようとし、手もなくだまされた。ダモイの嘘はソ連に対する根深い不信感を日本人に残した。 こうして日本人は約二千カ所ともいわれる収容所に入れられた。シベリアや沿海州を中心として中央アジアやウクライナ、そしてモンゴルへ配置されたのである。収容所で日本人を待ち受けていたのが「シベリア三重苦」といわれる飢餓、重労働、酷寒(マロース)だった。飢餓、重労働、酷寒の三重苦飢餓、重労働、酷寒の三重苦 捕虜収容所に送られた日本人はまず住むところを確保することから生活が始まった。既存の施設を利用できたところもあるが、自分の手でバラックや半地下小屋(ゼムリヤンカ)を建てたり、幕舎(テント)でしのいだところも多かった。劣悪な住環境だった。 ソ連は官僚社会なので様々な基準や規則が定められており、捕虜用の給食基準もあった。帝国陸軍の基準と比べると品目により一割から三割ほど少なかったが、それでも基準どおり支給されれば、栄養失調という名の餓死でバタバタ斃れることはなかっただろう。 問題は当初、実際の給食がこの少ない基準の半分にも満たなかったことである。黒パン三百㌘に雑穀の粥(カーシヤ)、中身のない塩水のようなスープが一日の食事だった。ソ連は独ソ戦で農地が荒廃し、飢饉もあってソ連国民自身が飢えていたのだから仕方ないというが、それならポツダム宣言どおり日本へ直ちに送還すべきだっただろう。スターリンは捕虜の労働力がどうしても必要だったから、飢えさせてでも酷使し続けたのである。 スターリンが日本兵を抑留したのは戦争で荒廃した国民経済を復興するための労働力として使役するのが目的だったことは明らかである。日本人をシベリアと中央アジアに多く配置したのは、そこの労働力が不足していたからだ。 日本人はあらゆる作業に従事させられたが、主な作業は伐採と鉱山労働と建設(建物、道路、鉄道)だった。とりわけ伐採と鉱山労働が重労働で危険な作業でもあった。各作業に厳しいノルマが課され、達成できないと超過労働が強いられたり、減食されたりした。給食は基準(ノルマ)以下なのに労働はノルマの達成を強要された。それでいて賃金はほとんど支払われなかったから、まさしく「奴隷労働」にほかならなかった。 シベリアとカザフスタン、モンゴル高原は温暖な日本の気候とは比べられないほど寒い地域だ。ロシア人は寒冷な気候に慣れていたが、日本人はこの酷寒(マロース)に悩まされた。多くの人が凍傷にかかり凍死した人もいた。関東軍の軍装はシベリアでは役に立たなかったが、ソ連側から支給された毛皮外套(シューバ)、フェルト製防寒靴(ワーレンキ)の保温力は優れていた。 作業停止となる限界気温は収容所長の裁量に任されていたから日本人には耐え難いマイナス三十度から四十度くらいに設定された。時には限界気温以下でも作業出動させられた。日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件 これがシベリア三重苦である。この三重苦に耐えられずに多くの人が犠牲になった。ただ、抑留者によってはこの三重苦よりも、後述するシベリア「民主運動」による吊し上げなどの同調圧力の方が苦しかったという。また、抑留者にとって最大の関心事は帰国(ダモイ)だったが、その見通しが立たないことも三重苦に匹敵するほどの不安と苦しみを与えた。 シベリアでは三重苦で一〇%を超える日本人が亡くなった。そのうえ、死者を鞭打つような屍体の扱いや埋葬方法が横行した。死体は死体置き場に運ばれるとすぐにカチカチに凍った。それを墓地に運び裸のまま埋葬する。ただでさえ凍土に穴を掘るのは並々ならぬ作業だったから、死者が増えると十人、二十人とまとめて埋葬することになる。深くは掘れないから薄く盛土すると狼や野犬が食い荒らした。 国際法が定める「丁寧に」「尊敬されるように」とはかけ離れた杜撰(ずさん)で冒涜(ぼうとく)的な埋葬である。ここにも共産主義が現れている。宗教を阿片だとして否定する無神論からすると屍体はただのモノにすぎないし、悼み弔う宗教的儀式も必要ないのである。共産党独裁国家の悪行 共産党独裁国家の悪行  なぜシベリア抑留がかくも苛酷なものとなったのか。それは抑留国がソ連とモンゴルという共産主義国家だったことが大きな要因である。 二十世紀は革命と戦争の世紀といわれ、共産主義が一世を風靡した。マルクス、エンゲルスが唱えた共産主義つまりマルクス主義は「階級のない完全に平等な社会」「個人の自由な発展」という永遠の理想を追求した。その実現のために階級闘争史観、暴力革命論、プロレタリア独裁論、唯物史観といったイデオロギーで武装した。 ロシアで世界初の共産主義革命としてのロシア革命が一九一七年に起きてソヴィエト連邦が成立し、ソ連の後押しで二番目の共産主義国家がモンゴルで誕生した。ソ連では革命直後から反対派を弾圧する「全ロシア非常委員会(チェーカー)」がつくられて血の弾圧(赤色テロル)を実行した。この組織は内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)、国家保安委員会(KGB)などと名前を変えながら人民弾圧機関として一貫してソ連体制の維持を担った。ソ連復興の労働力として使役するため日本兵を抑留したスターリン=クレムリンの執務室 ソ連は理想を目指すとしながら、実態は一切の批判、異論を許さない共産党一党独裁国家だった。反対派、異論派は容赦なく弾圧され全国に設置された囚人収容所(グラーグ)に入れられ多大な犠牲者を出した。収容所群島の出現である。 西欧ではナチスドイツのホロコーストが絶対悪として糾弾され続けるが、それより遥かに多いおよそ一億人もの犠牲者を主にアジアで生み出した共産主義の巨悪にはなぜか寛容である。共産党独裁による悪行を過去のことと葬り去るのではなく、ホロコースト同様、世界史に残る残虐な事実としてさらに深く解明し、歴史に刻む必要があるだろう。その悪行のひとつがシベリア抑留である。 ソ連では捕虜収容所の管理を弾圧機関であるNKVD/MVDのグプヴィ(捕虜抑留者管理総局)が行った。グラーグとグプヴィは双子の兄弟のようなものだった。囚人管理の手法がそのまま捕虜管理に応用されたのである。このように共産主義と弾圧機関の組み合わせがシベリア抑留を非常に苛酷なものにしたのだ。 ソ連は労働力確保のためできるだけ抑留者のダモイを遅らせようとした。ポツダム宣言は「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と定めていたが、ソ連はこれを無視してダモイを遅らせた。満洲侵攻後、降伏した日本軍の武装解除を監視するソ連兵=昭和20年8月28日 それでも日本国内の帰還促進・支援活動の高まりを受けてGHQとソ連代表との交渉が始まり引揚に関する米ソ協定が結ばれたのは、抑留開始から一年四カ月経った昭和二十一年十二月。満洲などからソ連へ移送するのはわずか四カ月ほどで済んだのに、日本への送還は三年以上も時間をかけたのだ。昭和二十五年春までに四十七万人が帰国した。「囚人」として長期抑留「囚人」として長期抑留 しかし、ソ連には抑留者がまだ残されていた。「戦犯」とされて牢獄につながれた長期抑留者である。日本では東京裁判やBC級裁判のせいで戦犯というだけで非常に悪いイメージがつくられていた。だからシベリア抑留者のうち「戦犯」とされた人も同じ目で見られたが、これは大いなる誤解だった。この誤解や偏見がどれほどであったかは、シベリア抑留の研究書でありながら「戦犯」をまったく取り上げない本すら存在することが示している。 しかし、真実は「戦犯」とされた長期抑留者は無実の囚人であり、シベリア抑留の最大の犠牲者だった。 ソ連は「前職者」、すなわち警察官、憲兵、特務機関員、高級将校、司法関係者、満洲国協和会員、政府高官、ロシア語通訳というだけで「戦犯」容疑者と見なした。実際の犯罪行為ではなく平時の職務行為を犯罪と見なし、主にロシア共和国刑法第五十八条の「反革命罪」で有罪を宣告した。第五十八条はソ連の政治犯を裁いた有名な条項である。 罪状はスパイ行為や破壊行為、国際ブルジョアジー幇助などが多かった。取調べから判決まで一応裁判の形式は取ったが、実態はとうていまともな裁判に値するものではなかった。そもそも罪状からして本来の戦争犯罪ではなく「反革命罪」だったから、濡れ衣というほかないものだ。 有罪を宣告されれば、曲がりなりにも国際法で保護される「捕虜」からただの「囚人」待遇に転落し、監獄(チュリマー)か囚人収容所(ラーゲリ)へ送られる。つまりグプヴィからグラーグへの移動だ。昭和27年公開の映画「私はシベリアの捕虜だった」で再現されたソ連兵にムチ打たれて強制労働させられる日本兵捕虜の様子(川喜多記念映画文化財団提供) 長い苛酷な拘禁と労働を経て長期抑留者の帰国が始まったのは赤十字社協定により昭和二十八年十二月からであり、最後の長期抑留者がダモイしたのは日ソ共同宣言により昭和三十一年十二月二十六日のことだった。十一年に及ぶ苛酷な長期抑留だった。長期抑留者の総数は二千六百七十九人だった。 鳩山一郎首相と河野一郎農相がモスクワに乗り込んで署名したこの日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を返還するとして北方領土問題を先送りしただけでなく、第六条で「すべての請求権を、相互に、放棄する」ことに同意したことで、スターリンの大罪であるシベリア抑留に対する補償の請求権すら放棄してしまったことは外交的失策であろう。現地抑留や一般抑留もあった 以上は、いわゆる「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」のことで、法律上は「戦後強制抑留者」と定義された人たちのことである。しかし、これ以外にもシベリア抑留者に含めるべき人たちがいた。 平成二十七年四月二日、読売新聞は北朝鮮の興南にソ連軍が設置した第五十三送還収容所で死亡した日本人抑留者八百六十九人のソ連側の名簿を報じた。その後も興南第五十三収容所以外に元山第五十一収容所、大連第十四収容所、真岡第三百七十九収容所における抑留死亡者の名簿が報道された。 これらの収容所は日本人を送還するためソ連本国送還全権局が設置した送還収容所である。本国送還のため一時的に滞在する収容所だったので公式には「通過収容所」と命名された。厚労省もこの報道に押されるように所蔵する死亡者名簿を公表した。その数は二千百人以上に上る。 これはソ連とモンゴルに連行された抑留者以外の抑留日本人の存在に光を当てるもので、「抑留者」の再定義を迫るものといえた。 私はかねてソ連関係の「抑留者」を三分類すべきだと指摘してきた。 ①強制抑留者 ②現地抑留者 ③一般抑留者 ①の強制抑留者とは「ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)からソ連本土とモンゴルに連行・抑留された軍民」のことで、法律上は戦後強制抑留者と呼ばれる。「平和祈念事業特別基金等に関する法律」(昭和六十三年五月二十四日施行)および「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」(平成二十二年六月十六日施行)では「昭和二十年八月九日以来の戦争の結果、同年九月二日以降ソヴィエト社会主義共和国連邦又はモンゴル人民共和国の地域において強制抑留された者をいう」と定義されている。 強制抑留者だけが慰労金や特別給付金の交付対象となった。また、政府が公式数字として掲げる「シベリア抑留者五十七万五千人、死亡者五万五千人」は、この強制抑留者だけを意味している。 ②の現地抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)でソ連軍が管理する収容所や病院に収容された軍民のことである。真岡、大連、元山、咸興(興南)の送還収容所を含み、今回、報道・公表された死亡者はまさしく現地抑留者である。現地抑留者の総数や死亡者数はまだほとんど未解明で実態は不明なままである。 ③の一般抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区)でソ連軍が管理する収容所や病院には収容されなかったものの、ソ連軍によって国境を封鎖され一定期間(九カ月~四年)出国を事実上阻止され抑留された民間人である。  ・満洲=昭和二十一年五月から米軍と国府軍の協定で葫蘆島(ころとう)から帰国・北朝鮮=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・樺太=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・千島=昭和二十二年四月から米ソ引揚げ協定で帰国・旅大地区=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国 いずれの地区も協定帰国の前に命がけで脱出した人が多数おり、残った人も生きるため大変な苦労をした。非道な政策検証に法改正必要非道な政策検証に法改正必要 私は強制抑留者と現地抑留者を合わせて「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」と規定し、抑留者数約七十万人、死亡者数約十万人と推定した。公式数字と大きく異なるのは定義が違うことも一因である。 ここで重要なことは現地抑留者も強制抑留者と同じく、ソ連軍の侵攻によって捕えられソ連軍またはソ連内務省が管理する収容所(病院)に入れられて苛酷な扱いを受け多数の死者を出したことである。 どちらもスターリンの非道な政策の犠牲者なのだ。 厚労省が興南などの送還収容所での死亡者をつとに把握しながら公表しなかったのは、これらの現地抑留者が法律の対象になっていなかったからであろう。そうであれば、法律を改正して現地抑留者を含めるようにすべきである。 たとえば「ソ連軍が侵攻した昭和二十年八月九日から満洲から撤退した昭和二十一年四月十五日ころまでの間に、ソ連軍支配地域であった満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区において、ソ連軍とモンゴル軍により日本軍の捕虜または犯罪容疑者として拘束され、ソ連領及びモンゴル領並びにソ連軍支配地域内においてソ連軍またはソ連内務省またはモンゴル政府が管理する捕虜収容施設に強制抑留された日本人及び一部外国人」のように改正すればよい。 実はヴィクトル・カルポフは十八年前の先駆的な研究書『スターリンの捕虜たち』で現地抑留者を含めた死亡者数として通説の六万人を大きく上回る九万二千五十三人と公表していた。ソ連・モンゴルが六万六百七十人、ソ連支配地域三万千三百八十三人である。 このソ連支配地域こそ現地抑留者がいたところだ。改めてカルポフの歴史を見る眼の確かさを確認する想いである。ソ連兵監視の下で木材運搬の強制労働に追われる日本兵捕虜。写真は靖國神社に寄贈された シベリア特措法は特別給付金のほかに重要な項目として第十三条で「強制抑留の実態調査等」について定めている。具体的には次の三項目を基本方針に定めるとした。① 強制抑留中の死亡者についての調査② 強制抑留中死亡者の遺骨と遺留品の収集と送還③ 強制抑留の実態の解明に資するための調査 いずれもきわめて大事なことだが、この調査対象に強制抑留者だけでなく現地抑留者を含めるためにも法律の改正が必要である。未解明部分多い逆送者と現地抑留者 強制抑留者と現地抑留者の双方にまたがるのが一旦シベリアへ移送されながら、ソ連により病弱者として満洲と北朝鮮に逆送され厄介払いされた「逆送者」である。厚生省の『引揚げと援護三十年の歩み』によれば四万七千人いたとされる。 北朝鮮へ逆送された日本人は日ソの資料で約二万七千人と確定できるが、満洲への逆送者は確たる数字がまだ不明である。同書は、入ソ当初から昭和二十一年にかけて延吉、敦化、牡丹江、黒河に一万五千五百人が移送され、途中および到着後に多数の死傷者が出たと記している。 現地抑留者数およびその死亡者数については強制抑留者数と死亡者数以上に裏づける資料がきわめて少ないので今後の大きな課題である。現地抑留者を把握することが困難なのは前記分類③の「一般抑留者」と区別するのが難しいことにもよる。 同書はまた昭和二十一年四月時点で、逆送者一万五千五百人を含む七万五百人がソ連管理下の満洲の収容所と病院に残されていたと記し、その後の運命を次のように推定する。 ▽死亡者二万八千五百人▽昭和二十一年四月以降にソ連へ移送一万千三百人▽中共(中国共産党)軍に移管三万七百人 北朝鮮の現地抑留者については、昭和二十一年九月一日時点のソ連側資料で北朝鮮の収容所には三万千五百八十四人(うちソ連からの逆送者は二万六千七百二十三人)いた。逆送者以外に四千八百人余が元山、興南などのソ連軍収容所に残されたことになる。同じく遼東半島の旅大地区のソ連軍収容所には一万三千五百五十三人いた。 南樺太と千島には、約一万三千人が現地のソ連軍作業大隊に残され使役されたと厚生省の『満洲・北朝鮮:樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』は記している。 資料の出所が違うが、単純に合算すると現地抑留者は十三万人近くになる。逆送者を除いても八万人以上である。 別のソ連側資料にも現地抑留者を示すと思われる数字がある。グプヴィの昭和二十一年四月一日時点の極東三軍管区における日本軍捕虜に関する調査資料では全部で約十万人が軍管区にいた。これはソ連軍が満洲から撤退する直前の数字である。 ◎ザバイカル・アムール軍管区(旧ザバイカル方面軍)▽チチハル第二収容所九十四人▽長春(新京)第三収容所千七百五十人▽チチハル第六SPL千八百五人▽佳木斯(ジャムス)第十五収容所三百五十一人▽ハルビンKA1収容所二百五十二人=計四千二百五十二人 ◎極東軍管区(旧第二極東方面軍)▽作業大隊九千百十七人▽南樺太三百八十五人▽千島列島二千七十九人=計一万千五百八十一人 ◎沿海軍管区(旧第一極東方面軍)▽軍収容所五万二千五百二十九人▽軍病院(収容所の)七千百四十七人▽前線作業現場二万四千四百五十三人=計八万四千百二十九人 【三軍管区合計】九万九千九百六十二人 地名が明示された数字は現地抑留者と判定できるが、その他も現地抑留者である可能性は高いであろう。 このうち、何人がソ連へ移送され、何人が現地で死亡し、何人が中共軍に引き渡されたのか。 現地抑留者はソ連軍が管理していた以上、国防省の公文書として詳細な資料が残されている可能性が高いので今後の新資料の発掘が望まれる。共産主義の独善が人権踏みにじる共産主義の独善が人権踏みにじる シベリア抑留が苛酷だったのは抑留国が共産党独裁国家だったことが大きな要因であったことは先に述べた。そのことを最もよく表すのがシベリア「民主運動」である。 共産主義はそもそも絶対的に正しいイデオロギーとして大衆に宣伝し、教化し、世界中に広めるという本質を持つ。ソ連は捕虜収容所にいる外国人捕虜にも思想教育し、共産主義イデオロギーを広めようとした。 シベリアの「民主運動」とはソ連当局およびアクチーヴ(活動家)が意図的に用いた用語であり、欧米の民主主義とは異質な共産主義的民主主義(プロレタリア民主主義)を意味した。共産主義国家はすべて共産党一党独裁で言論の自由のない全体主義国家だったから、本来の自由とか民主主義とは無縁である。 ソ連軍政治部はまず日本兵向けの宣伝紙「日本新聞」を発行して政治工作を始めた。編集長はコワレンコで、ソ連側スタッフに加えて浅原正基や相川春喜のような左翼運動経験者などが編集に携わった。強制収容所の重労働と栄養失調で疲労困憊になって休む日本兵捕虜たち 紙上で「日本新聞」友の会の結成を呼びかけて輪読会が組織された。そのうち「民主グループ」が生まれ壁新聞が発行された。リーダーは当初、知識人や左翼運動経験者が多かったし将校クラスもいた。 やがて「民主グループ」を地方で横断的に組織し、リーダーからインテリや将校が追放され出した。一方で政治学校や講習会が開かれてリーダーたるアクチーヴを養成した。 昭和二十三年になると当局は「反ファシスト委員会」の結成を呼びかけた。リーダーには若い労働者、農民層が選ばれ、将校は「反動」として追放。次第に運動が過激化し「批判会」や「吊し上げ」が横行した。反抗はもちろん傍観すら許されず、すべての人が運動に参加するよう強要され、収容所が同胞相食む陰惨な状況に陥った。この「民主運動」の同調圧力はシベリア三重苦より辛かったと述懐する人がいるほどだった。 ドイツ人捕虜の間でも政治工作が行われ「反ファシスト運動(アンチーファ)」が起きたが、同胞に強要することはなかったとされる。 しかし、この「民主運動」の同調圧力に最後まで妥協せず自己の信念を貫いた人が少数ながらいたことは特筆しておかねばならない。草地貞吾大佐や津森藤吉中佐、上村幹男中将などのサムライたちである。GHQの洗脳との共通性 私は自著でこのシベリア「民主運動」とGHQによる思想教育が同根であることを仮説として提示した。この二つを結びつけることに唐突な印象を持たれたかもしれないが、調べるほどに私には同時代の現象として共通性があると確信した。 産経新聞は平成二十七年六月八日付で「GHQ工作 贖罪意識植え付け」「中共の日本捕虜『洗脳』が原点」と報じた。GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だったジョン・エマーソンが戦争末期の昭和十九年十一月に中国の延安を戦時情報局(OWI)要員として訪問し、中国共産党が野坂参三元日本共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)を聞いて、その手法をGHQの対日政策に取り入れたという。 この対日政策とは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」のことである。戦争罪悪感扶植計画――今日までマスコミ、教育界、政官界を拘束し続けている自虐的な歴史観の源泉である。 このWGIPについては二十七年に関通夫『日本人を狂わせた洗脳工作』(自由社)、ケント・ギルバート『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、水間政徳『ひと目でわかるGHQの日本人洗脳計画の真実』(同)と相次いで刊行され、とみに関心が高まっている。 産経報道は、シベリア「民主運動」とGHQのWGIPが中共を介して結びついたことを明らかにし、私の仮説が裏づけられた。 中共の洗脳工作といっても、元々は共産主義特有の政治工作であり、共産主義の本家であるソ連に由来するものである。ソ連共産党は自国民を共産主義思想で教育、洗脳し、コミンテルンを通じて世界中に共産主義を広めようとしたのだ。 野坂参三は昭和六年にソ連に密入国してすぐにコミンテルンの仕事を始め、四年後にはコミンテルンの常任執行委員にまでなった。その裏で野坂が同志の山本懸蔵らを密告して粛清に追いやったことはよく知られている。野坂は『亡命十六年』で「私はモスクワで養成した日本人共産主義者を日本に相当数送ることができた」と語っており、コミンテルン流の洗脳工作に自信をみせている。中共の思想工作でデタラメ証言中共の思想工作でデタラメ証言 野坂は昭和十五年に中国に渡って延安で中共に合流し、毛沢東の支持のもと「日本労農学校」や「第二学校」で日本人捕虜の思想(洗脳)教育を始めた。これはシベリア「民主運動」に先行する日本人捕虜の思想教育である。思想改造された捕虜は昭和一九年二月に野坂が結成した「日本人民解放連盟」に入れて日本軍への宣伝、宣撫工作をやらせた。 中共と野坂参三は天皇制批判を「日本軍国主義者」批判に置き換え、君民一体の日本人を「悪い軍国主義者(軍閥、財閥)」と「だまされた日本人民」に分断し対立させた。この二分法を中共はその後一貫して日本批判に使っている。それだけではない。GHQも同じ二分法を利用して日本人を洗脳した。日本兵捕虜が抑留されたウクライナ東部ハリコフに残る第415収容所。現在は倉庫になっている 延安では軍国主義批判と共産主義思想の注入が続いた。洗脳の手法として自己批判と集団批判が重視された(シベリアと同じである)。こうして日本人捕虜に侵略者としての罪悪感、贖罪意識を植えつけて反戦兵士に仕上げた。やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだったという。 昭和二十五年七月、スターリンは毛沢東との合意に基づきシベリア抑留者の中から中国に対する「戦犯」として九百六十九人を中国に引き渡した。彼らは撫順戦犯管理所に入れられ、ソ連とは違って衣食住で好待遇を受け、寛大に接遇されるなか巧妙で執拗な思想改造(洗脳)が行われた。日本人が他人の好意に弱いことを見抜いたうえでの好待遇である。これはもちろん延安での日本兵洗脳方法をさらに徹底したものだった。 「罪を認めれば寛大な処置を受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」という露骨な圧力のもとで自白(認罪)を迫られた。ソ連ですでに五年の苛酷な抑留を強いられた後のさらなる抑留であり精神的負担は非常に重い。こうした状況下での自白が任意のものとは到底いえない。 中共帰りの「戦犯」はほぼ半数が「中国帰還者連絡会(中帰連)」を組織して熱心な日中友好運動と日本軍の「悪行」の暴露を行った。中帰連が暴露した「三光作戦」や「中国人強制連行」などの日本軍「悪行」証言は虚偽であると検証されている(田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」』)。それでも中国に対する贖罪感、罪悪感は根強く日本社会に残る。洗脳の成果としてのリベラル派 エマーソンは日本に三度滞在経験のある日本専門家である。エマーソンらOWIのスタッフは延安での見聞を「延安リポート」として報告している。その主な内容は中共の八路軍による日本兵捕虜の扱いや野坂参三主導の日本人反戦捕虜による日本軍民への宣伝・宣撫工作であった。 産経報道によると、エマーソンは昭和三十二年三月に米上院国内治安小委員会で証言し「岡野(野坂)と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と述べた。こうして野坂の延安での洗脳工作の手法はGHQの対日思想工作に取り入れられた。それがWGIPである。 GHQにはアメリカの戦略情報局(OSS、CIAの前身)にいたヘルベルト・マルクーゼやハーバート・ノーマンらの共産主義者やシンパが加わっていてGHQの占領政策に影響を与えたが、こうした共産主義者の人脈以外に、エマーソンを介して中共の洗脳方法が取りいれられるという二重の意味で共産主義が影響力を及ぼしていたわけである。 野坂参三は昭和二十一年一月には帰国しており、ノーマンの尽力で釈放されていた日本共産党の幹部徳田球一らとともにGHQを「解放軍」と位置づけて協力していくのである。 WGIPが日本人に広く定着して行った背景に共産主義者がいたことは重要な歴史的事実であろう。日本の左翼リベラルが最もよくWGIPに染まり、戦後思想をリードしたのも理由があったといえよう。昭和二十七年四月にGHQの占領が終わったあとは、日本人がみずからの手でWGIPを引き継いで完成していく。シベリア抑留の〝地獄〟の中で日本兵たちの命を支えた陸軍の防寒靴=東京・西新宿の平和祈念展示資料館 戦後の日本人は戦勝国からシベリアで、中国で、そして日本本土で共産主義的な思想教育(洗脳)を受けるという敗戦国民として痛苦な体験を余儀なくされた。シベリアではおおむね失敗し、延安と撫順では成功、日本本土では大成功だった。 戦後七十年、もう自らの手でWGIPの呪縛を解くべきであろう。◇ 本稿を脱稿したあとの平成二十七年十月十日、舞鶴引揚記念館が所蔵するシベリア抑留関係の資料五百七十点が「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された。喜ばしいことで、これを機にシベリア抑留に関する理解が一層深まることを期待したい。遠隔地の人もこの資料を見られるよう主要都市での巡回展なども工夫すべきだろう。一方で、ロシアのユネスコ委員会オルジョニキーゼ書記が「政治利用だ」として登録申請の取り下げを求めたというが、申請資料の信憑性に大きな問題のある「南京事件」とは違って、シベリア抑留はロシア側でも広く研究されて事実関係が明らかになっている史実であり、しかもエリツィン大統領が来日時に謝罪もしている。日本政府は毅然とした対応をすべきである。ながせ・りょうじ 昭和二十四年北海道生まれ。昭和四十七年北海道大学法学部卒業後、三菱ガス化学入社。体調を崩して帰郷後の平成七年、四十五歳でロシア極東国立大学(現極東連邦総合大学)函館校でロシア語を学ぶ。シベリア抑留を研究するきっかけは、北大の恩師に翻訳第一弾としてロシア側の抑留資料を薦められたこと。さらに日露の膨大な資料に当り実態に迫った六百ページ余の大作『シベリア抑留全史』(原書房)を二十五年に刊行。近著に『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』(新潮社)。訳書に『二つの独裁の犠牲者』(P・ポリャーン著、原書房)、『スターリンの捕虜たち』(V・カルポフ著、北海道新聞社)、『ウクライナに抑留された日本人』(O・ポトィリチャクら著、東洋書店)など。事実を基に日本軍民抑留というロシア国家犯罪の追及と、抑留の検証・再定義に取り組んでいる。

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    わかりやすい北方領土と我が国主権のお話

    小名木善行(「日本の心をつたえる会」代表) 北方領土は、日本の領土です。 歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島のことを言っているのではありません。 樺太の南半分と、千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部が、日本の領土です。 ということは南樺太から千島列島にかけてのオホーツク海と、千島列島から南東に張り出した太平洋の広大な海域が、日本の領海です。 そういうと「ああ、戦前の話か」と思う方もおいでになるかもしれません。 いいえ違います。 すくなくとも「ほんの6年前まで」、樺太の南半分と千島列島全部は、日本の課税台帳に記述があったのです。 課税台帳に記述があったということは、日本政府が「ほんの数年前まで」そこを「領土」として認識していた、ということです。 ところが数年前、そこが領土から「消えて」しまいました。 すこし詳しく述べます。 平成22(2010)年3月31日まで、日本は札幌国税局根室税務署の課税台帳には、樺太の南半分と千島列島全部について、日本の領土としての記述がありました。つまり日本は、そこを日本の領土として認識していたということです。(ロシアは一方的に占領支配していただけです。) ところが、2009年夏、民主党が政権与党となり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。 鳩山内閣は国民に何も知らせないまま、「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」「財務省組織規則の一部を改正する省令」を改正し、南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除してしまったのです。 ですから平成22(2010)年4月1日からは、この広大なエリアは、日本国民が知らない間に、ロシアが占領し軍事的に実効支配する無主地となってしまいました。ひどい話です。 領土に関する話です。 本来なら国会審議が必要なことでしょう。 けれど当時の民主党鳩山総理は、国会審議を要しない「省令」レベルで、北方領土を勝手に日本の領土から外してしまったのです。 こんなことが許されるのなら、たとえば竹島にしても韓国が実効支配し、日本が課税台帳から削除すれば、国民が誰もしらないまま、竹島とその周辺海域は日本の領土から消えてなくなります。 そこで今日は、領土についてすこし詳しく見て行きたいと思います。このことを考えると、実はいろいろなことがはっきりと見えてきます。千島列島の夏 まず千島列島は、北海道の東側にある知床半島、根室半島の先から、ユーラシア大陸のカムチャッカ半島まで伸びている列島です。 一番北側の島々が北千島、まんなかあたりが中部千島、北海道寄りの歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、南千島です。 「北方領土」というと、多くの方がイメージしているのは、このうちの南千島(歯舞群島、色丹、国後、択捉)です。 けれど本当は、千島列島の「全部」が日本の領土です。 それだけではありません。樺太も南半分は日本の領土です。 そして、そこに日本の領土があるということは、その周辺の広大な海域が日本の領海である、ということです。 近年、その領海の海底には、豊富な海底資源(メタンハイドレード、レアアース)が眠っていることが明らかになりました。 従ってその広大な海域は、豊富な漁場としての値打ちを持つだけでなく、これからの日本や世界の資源エネルギーを語る上でもとても大切なエリアとなっています。北方領土はロシアが軍事占領しているだけ さて、南千島だけでなく樺太や北千島までと書くと、 「そんなことはない。昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島と樺太の南半分を放棄したではないのか」とおっしゃる方もおいでになるかもしれません。 なるほどサンフランシスコ講和条約で、日本はこのエリアに関する「すべての権利、権原及び請求権を放棄」しました。講和条約の第二条Cには、次のように記載されています。日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 「権利、権原及び請求権を放棄する」というのは、日本が当該エリアの領主としての権利、日本がその権利を得ることになった原因となった権利、および、そのエリアに関する租税等の請求権を放棄する、ということです。 このことは、ものすごく簡単に詰めていうと、領土としての「処分権」を放棄した、ということです。ちなみに「処分権を放棄」することは、「主権を放棄」することと、まったく意味が異なります。 わかりやすくたとえていうと、Aさんが自分が所有している(主権を持っている)携帯電話の処分を、Bさんに委ねたとします。 そのとき携帯電話は、 Aさん=所有者 Bさん=処分権者です。 Bさんが処分先をCさんと決めれば、Aさんは約束通りCさんに携帯電話の所有権移転の契約を締結し、携帯電話はCさんのものとなります。 領土の場合は、これを「割譲」といい、「割譲」には割譲するための「条約の締結」が必要です。 条約によって、晴れてその領土はCさんのものとなるわけです。 たとえば日清戦争のあとの下関条約で日本が台湾の割譲を受けたといったように、です。 ところが携帯電話の処分をBさんに委ねたものの、Bさんがその後、何もしなかったら、その携帯は誰のものでしょうか。 当然に携帯電話は、もとの所有者であるAさんのままです。 北方領土についてみると、日本は連合国に北方領土の処分権を委ねましたが、いまだ連合国は北方領土の処分先を決めていません。 決めたという条約もありません。 一方ロシアは、北方領土を実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にロシアははいっていません。 ということは北方領土は、単にロシアが軍事占領しているだけであって、条約に基づく本来の所有者(=主権者)は、日本のままということになります。 なにも欲張って言っているのではありません。 国際条約や法を大事にするという考え方でいけば、そういう結論にしかならないということなのです。 日本は、千島、樺太の処分権を、サンフランシスコ講和条約の相手国である連合国に提供しました。 けれど日本が処分権を放棄した後、千島、樺太が、どこの国のものになるのかは、サンフランシスコ講和条約には明記されていません。 加えて、いま千島・樺太を占拠しているロシアは、サンフランシスコ講和条約に参加していません。 つまり講和条約に基いて領土を受け取る当事者としての資格がありません。 ソ連は、千島、樺太を「軍事占領」していますが、日本とソ連(あるいは現ロシア)との間で、千島樺太に関する領土割譲の条約の締結はありません。 連合国側が、ソ連に対して千島樺太を売却もしくは譲渡したという記録もありません。(ヤルタ協定で密約があったと一時ソ連は主張していましたが、最終的にその主張をひっこめています。) つまり千島も樺太もいまだに日本の領土であり、当該領域の主権者は、実は「日本が保有したまま」ということになります。軍事占領は、主権の剥奪を意味しない もうひとつ申し上げると、ロシアが千島・樺太を軍事占領しても、領有権はそれだけでは移転しません。このことは、「イラクを米軍が軍事占領しても、イラクの領土が米国領になるわけではない」ことを見れば、簡単にご理解いただけようかと思います。 イラクのフセイン政権は、米国と戦争しました。イラクは破れ、フセイン政権も倒れ、米国はイラクを軍事占領しました。 しかし「米軍がイラクを占領した」という事実は、イラクが米国の領地になった、つまりイラクの主権者が米国になったということを意味しません。 世界中の誰も、そんなふうに思ってもいません。 「軍事占領」するということと、「領土の主権を得る」こととは、まったく異なることだからです。 ついでに申し上げると、同じことは大東亜戦争の終期においてもいえます。日本は連合国(代表は米国)が軍事占領しました。 けれど米軍は、日本を領有したわけではありません。あくまでも連合国軍の総司令部(GHQ)として、一時的な軍事占領をしただけです。 つまり日本の主権は日本にあります。ですから日本の軍事占領にあたって、GHQは、日本の主権は日本人にある、と宣言しています。 これが日本国憲法における「主権在民」の意味です。 つまり日本国憲法における「主権在民」は、連合国が日本を軍事占領するに際して、それが日本の領有を意図したものでなく、あくまでも一時的な軍事占領にすぎないことを宣言した文言、ということになります。 軍事占領は、主権の剥奪を意味しませんから(イラクの例に明らかです)、日本の主権は日本にあります。 そして日本に新たな独立政権が誕生する、もしくは元の大日本帝国に戻るとき、日本の主権は当該政権が担うことになる、そういう意味です。 従って「主権在民」は、「軍事占領」とセットの概念です。 主権在民(もしくは国民主権)を、軍事占領と切り離して考えると、非常におかしなことになります。 主権というのは、領土に関する排他的な絶対権だからです。 当然に交戦権をも含みます。 ということは、日本人のひとりひとりが日本の最高主権者ということになります。 日本人のひとりひとりが日本国の領土領海全部のオーナーです。 ということは、いまこれを読んでいるあなたのお隣のお宅は、あなたのものということです。 お隣さんがそれを認めないなら、あなたには交戦権があります(笑)。 要するに主権在民というのは、イラクを連合国が軍事占領して一時的に統治するけれど、あくまでイラクの主権者はイラクの民衆にありますよ、ということと同じ意味でしかないということです。 同様に日本国憲法というのは、日本が占領統治された期間における、「連合国占領統治領日本」のための一時的な軍事占領下における統治憲法であり、主権はあなたがた日本人にあるのですから、いずれ占領が解けた時点では、あなたがたの主権者となる政府もしくは君主とともに、その後の主権者や憲法を確定しなさいという意味のものでしかない、ということになります。 イラクの主権は、イラク国民が持っています。主権在民です。 占領統治下にあっても、日本の主権は日本国民がもっています。主権在民です。 なぜなら軍事占領と領土主権は意味が違うからです。 日本は戦後、GHQによる占領統治を受けましたが、日本は占領統治を受けただけで、日本が連合国の領土になったわけではありません。 そのことは昭和27年のサンフランシスコ講和条約の第一条に明確に書かれています。 そのサンフランシスコ講和条約には、「日本と連合国との戦争状態の終了」がうたわれています。 つまり、サンフランシスコ講和条約の発効の日まで、日本と連合国は「戦争状態」にあったのです。 そして「戦争状態が継続」していたから、講和条約で、日本と連合国は「戦争を終わらせた」と、これはそういう意味の言葉です。 すこし余計なことを書くと、では戦争をしていた当事者は誰なのか、という問題があります。 一方の当事者は米国に代表される連合国(United Nations)です。 そして戦争は、交戦相手があって、はじめて行われるものです。 連合国の相手国である戦争当事者は、間違いなく日本です。 そして戦争をしていたのは、江戸幕府の徳川政権でもなければ、豊臣秀吉政権でもありません。 さらにいえば、軍事占領下にあって占領憲法である日本国憲法を持つ「連合国軍統治領日本」の政権でもありません。 戦争をしていたのは、大日本帝国政権です。左はひまわり7号、右は8号が北海道や樺太付近を撮影した画像(気象庁提供) ということは、戦争をしたのも講和をしたのも、その戦争当事者は大日本帝国です。ですからサンフランシスコ講和条約に「全権」として調印文書に署名した吉田茂全権は、占領統治下の日本国憲法が規定する内閣総理大臣としてではなく、大日本帝国の君主である天皇の名代として署名しています。だから「全権」です。 そして日本がこの条約によって、あらためて独立国として主権を回復したということは、その時点で占領統治憲法は効力を失い、日本は大日本帝国憲法下の日本に戻ったということができます。なぜなら戦争は、占領統治日本としてではなく、大日本帝国として戦争していたからです。 講和条約を、占領統治下日本が締結したというのは、理屈が成り立ちません。占領統治下日本は、連合国の下部組織であり、そうなると双方代理にしかならないからです。日本国憲法が「占領統治憲法」としては有効でも、サンフランシスコ講和条約施行後は無効であるとする議論の根拠もここにあります。 ちなみに、朝鮮半島の場合は、サンフランシスコ講和条約の第二条Aで、日本は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。とあります。日本は、朝鮮の独立を承認し朝鮮半島を領有する権原を放棄したのです。すなわち朝鮮半島は、独立した朝鮮のものです。 連合国が朝鮮半島の独立政権として認めたのは、大韓民国、つまり韓国です。従って国際法的には、北朝鮮は国家でなく「金一族という軍閥が実効支配するエリア」であるということになります。一方、台湾については、千島樺太と同じで、サンフランシスコ条約で、日本は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 とあります。つまり、台湾は日本の九州、四国、沖縄同様、日本一部でしたが、その処分権を連合国に委ねたわけです。 けれど台湾も、北方領土と同様、処分先が明記されていません。そしていまだに連合国も日本も、台湾の日本領土からの割譲条約を、どこの国とも締結していません。 台湾は、終戦直後に、蒋介石率いる支那国民党が軍事占領しましたが、いまなお軍事占領のままです。台湾の割譲条約は、日本と、いま台湾にいる蒋介石政権との間に結ばれていませんし、連合国が蒋介石政権を台湾政府として領土を割譲するという条約を締結した事実もありません。 台湾の場合は、戦後、蒋介石率いる国民党が、いわば進駐軍として台湾に入り込みました。そしていまなお、国民党は台湾に居座っています。これが何を意味するかというと、亡命政権である、ということです。 亡命政権としては、いまインドに亡命しているチベットのダライ・ラマ14世の政権があります。ダライ・ラマ14世は、中共政府の人民解放軍がチベットを軍事制圧後、インド北部のダラムサラに亡命して、チベット亡命政府を作っています。しかし、だからとって、インドのダラムサラが、ダライ・ラマ14世を主権者とするチベットの領土になったわけではありません。 同様に台湾には、いまもともと蒋介石が作った中華民国政権が居ますが、それは亡命政権であって、台湾が中華民国になったわけではありません。では、台湾の国際法上の領土主権者は、今現在どこにあるかといえば、答えは日本です。公式な千島、樺太の領有権者は日本 だいぶ話が脱線しました。北方領土に話を戻します。 そもそも日本が千島列島を領土としたのは、たいへん古い話です。江戸時代の元禄13(1700)年(赤穂浪士討入りの1年前)、この年松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ました。 その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、安政元(1855)年、日本とロシアとの間で「日露和親条約」が締結されました。この条約によって、南千島を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。要するに日本が南千島四島を領有する権原が確定したのです。 ところが日露和親条約で「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、安政3(1856)年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。この問題は、日本国内の政権が明治新政府に移ってからも尾をひきました。 そこで明治7(1874)年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、 (1) 日本は樺太を放棄する。 (2) 代わりに千島列島の全部を日本領とする。 という2点を要点とする「樺太千島交換条約」をロシアとの間で締結しています。明治8(1875)年5月7日のことです。 この条約は、両国が署名した地名をとって、サンクトペテルブルグ条約とも呼んでいます。 その後日本とロシアとの間には、明治37(1904)年に日露戦争が勃発しました。この戦後処理を行う条約が、明治38(1905)年9月5日に締結されました。これが、サンフランシスコ講和条約に記載されたポーツマス条約です。この条約によって、日本は樺太について、北緯50度以南を日本の領土としてロシアから割譲を受けています。(千島列島の全島は明治7年の時点ですでに日本領です)。前出のサンフランシスコ講和条約をもう一度掲載すると、日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 となっています。日本は、千島列島と、樺太の南半分の「処分権」を、ここで放棄したわけです。サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首相=1951年9月8日(共同) このサンフランシスコ講和の時点で、すでに千島と樺太は、ソ連が軍事的に実効支配していました。 これは軍事占領しているだけで、いまだ日本との間で領土の割譲条約が締結されていません。 また、サンフランシスコ講和条約にソ連は名を連ねていません。では「公式な千島、樺太の領有権者は誰なのですか?」といえば、答えは「日本だ」という答えにしかならないのです。 ですから平成17(2005)年には、欧州(EU)連盟の議会でさえも、日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択しています。 そうでなければ理屈がなりたたないからです。 サンフランシスコ講和条約締結後、60年も経ち、いまやソ連さえもなくなったにも関わらず、ロシアが樺太、千島を占領し続ける法的根拠はどこにもないからです。 加えて日本国政府は、この問題を軟着陸されるために、もともとの日本領である南千島のみだけでも、日本に返還するようにと、ソ連、そして現代ロシアに対して求め続けています。 そして麻生内閣の時代、麻生総理はロシアのプーチンとの対談し、この北方領土返還については、「我々の目の黒いうちに最終決着をしましょう」とまで、話を煮詰めてきていたのです。 ところが日本の国政が、民主党政権になるやいなや、鳩山民主党政権は、国民からまったくみえないところで、日本の税金台帳から、北方領土の記述を消してしまったわけです。 これこそ実にとんでもない、売国行為です。 とくに千島列島沖合は、北方漁業の大産地であり、我が国の食に書かせない領域です。 魚貝類は日本人にとっての貴重なタンパク源です。 最近では、韓国産の魚貝類が大量に日本にはいってきていますが、韓国産の海産物は大便によって汚染され、大腸菌等が基準値を大幅に上回ることから、いまや世界中、中国でさえも、いまや輸入規制品です。 要するに、本来なら海産物は日本産がいちばん安全なのです。 しかも千島列島産の海産物は、非常においしくて、量も豊富です。 だから終戦まで、千島列島最北端の占守島に、ニチロの海産物缶詰工場があったのです。 そこで作られた魚介類の缶詰が、遠く南方戦線にまで送られていたのです。 そういう我が国にとって大切な領土問題について、私達はもっと大切に考えて行かなければならないのではないか思います。 (「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」2016年1月30日分を転載)

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    殉職した9人の乙女 北方の悲劇とまやかしの解放史観

    平川祐弘(比較文化史家、東京大学名誉教授) 使わずにすんだ青酸カリ「そうだ、あんなものは片付けんといかんな」 と父が言ったのは昭和20年9月、台風一過の晴れた日であった。「あんなもの」とは青酸カリで、親子は照れたように、その用途にふれなかったが、本土決戦になれば自決せねばならぬ事態もあろうかと思って、父はそんな小壜を床のコンクリートの下に隠しておいたのである。昭和天皇の終戦の詔勅の放送によって平和を回復した内地の平川家では、「あんなもの」に手をつけずにすんだ。 8月15日、日本は降伏した。だがソ連軍は戦争をやめない。ソ連の戦車は今はサハリンと呼ばれる樺太で国境線を突破、南下して日本の将兵のみか婦女子も多数殺(さつ)戮(りく)した。死亡者は、引揚船が撃沈されたこともあり、四千数百人にのぼる。ソ連が樺太全域の占領を目指したからで、終戦5日後の8月20日、南の真(ま)岡(おか)にソ連海軍は艦砲射撃を加え上陸した。そのソ連軍のもとへ停戦交渉に赴いた日本側軍使一行は白旗を掲げていたが、射殺された。次の軍使も射殺された。街には火災が発生する。 真岡の名は日本の辞書にはもうないが、世界地図にはホルムスクと出ている。戦争中は人口2万、全人口が40万の南樺太では大都会だった。その真岡郵便局に踏みとどまって最後まで勤務した9人の電話交換手の少女たちは、ソ連軍が迫るや、「皆さん、これが最後です、さようなら」の通信を豊原に送って青酸カリで自決した。当時の私とさして年も違わぬ少女たちである。殉職した9人の乙女 宗谷海峡を見おろす北海道稚内の丘の「氷雪の門」のそばに、受話器を耳にした「殉職九人の乙女の碑」が建っている。ソ連が昭和20年8月9日、日本に対して「解放戦争」をしかけた挙げ句の悲劇であった。 そのロシアは本年、事実上の対日戦勝記念日を制定し、そのサハリンで軍事パレードを行い、「勝利を祝うことは戦争の結果の見直しを許さないという警告である」と述べ、北方領土返還拒否の意思表明をした。そして中国とともに共同声明を発表し解放戦争史観を肯定した。 張作霖の爆殺など政府を無視して独走した日本の軍部に大陸の戦争についての重大な責任はある。しかし肝心の点は、だからといってソ連の対日戦を解放戦争と呼んでいいのか、という疑問である。わが国にも敗戦後、ソ連中国の解放戦争史観を尊重する人がいた。今もいる。 そうした人たちが裏で手をまわしたのだろうか、『氷雪の門』と題された樺太真岡で自決した9人の電話交換手を描いた映画は、昭和49年に製作されたにもかかわらず、「反ソ映画である」として上映を差し止め、「幻の名画」になってしまった。なぜ『氷雪の門』は封印されたのか。ソ連大使館と呼応して映画の上映さえストップできるほど外圧に弱い日本ならば、北方四島も南方の諸島も、力ずくで奪取できると専制国家の軍部や外交部が思いこむのはけだし当然だろう。映画やビデオはきちんと公開せねばならない。ソ連の南樺太(サハリン)侵攻を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の一場面。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。最後の1本の電話プラグを引き抜き、電話交換手の女性9人は命を絶った (ⓒ「氷雪の門」上映委員会)ソ連軍でなくて良かった 敗戦後、私の代々木の家は占領軍に接収された。誰も同情しない。級友の3分の2は空襲で家を焼かれた。米国将校に目をつけられるような邸に住んでいたこと自体が贅沢と思われたからである。父は秋田に嫁いだ姉を呼び戻し妊婦がいるからと接収の先延ばしに成功した。しかし、甥が生まれ姉が秋田に帰ると家は接収された。それでも父は「アメリカに占領されてよかったな。ソ連に占領されたら即刻立ち退きだ」といったが、私も同感した。 東ドイツでは共産党指導者は「ドイツをヒトラーから解放したのはソ連軍のおかげだ」と解放戦争史観を宣伝したが、西ドイツの人は「アメリカに占領されてよかった」と思っている。敗戦直後のソ連軍の略奪やレイプがあまりにすさまじかったからである。「悪人の友をふり捨てて、善人の敵を招け」とは謡曲の詞だが、私は日本が自由主義陣営にとどまったことを良かったと思っている。 戦前戦後の歴史を通観して考える。わが国を暴走させた軍部の責任はまことに重大だ。だが、ヒトラー、スターリン、毛沢東などの独裁専制がなかっただけ、日本はまだしもよかった。私たちの国には強制収容所も粛清も吊し上げもなかった。その史実を率直に認めたい。 私は解放戦争史観に媚びる人が嫌いだ。真岡の電話交換手は義務感から職場に最後まで踏みとどまった。彼女らは工務の技術官に頼んで薬をもらった由だが、私の父が工面して入手したのと同じだ。万一に備えたのである。 碑文には「日本軍の命ずるままに青酸カリを飲んだ」とあるが、戦後日本にはこんなさかしらを書く人が多い。本当に軍に強制されたのか。こんな書き方は死者への冒瀆ではないか。人は国を守り、操を守るためには死を覚悟することもある。 (ひらかわ すけひろ)  

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    「昭和の参謀」瀬島龍三氏 日本兵シベリア売り渡し説の真偽

     戦後、繊維商社だった伊藤忠商事の会長に就き、同社を世界規模の総合商社に発展させた瀬島龍三氏は昭和を代表する実業家として知られている。中曽根康弘・元首相のブレーンとして政財界に大きな影響力を持ち「昭和の参謀」とも呼ばれた人物だ。 明治44年(1911)生まれの瀬島氏は陸軍士官学校を首席で卒業後、関東軍参謀本部で太平洋戦争の指揮にかかわり、無数の日本兵が餓死したガダルカナル島の撤退作戦では立案主任を務めた。 戦後は11年間にわたりシベリアに抑留されたが、その瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる“シベリア抑留密約説”だ。 瀬島氏は終戦直後の1945年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである。東京・新宿の平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 戦後、作家の保阪正康氏や「全国戦後強制抑留補償要求推進協議会」などは、日本側がソ連に示したとされる『対ソ和平交渉の要綱(案)』に「賠償として一部の労力を提供することには同意す」との文言があったことなどを根拠に、密約があったのではないかと疑問を呈した。 瀬島氏はこの密約説を「根拠のない虚構」と一蹴したが、彼を“隠れ共産主義者”と目する向きは少なくなかった。瀬島氏の帰国後、警視庁外事課ソ連欧米担当第一係長を務めていた佐々淳行氏が振り返る。「瀬島氏は抑留中、KGBに最後まで屈服しなかった大本営参謀と評されたが、我々は違う見方をしていた。帰国後、瀬島氏がソ連大使館員と神社仏閣などで接触していた事実を外事課は確認していた」 後に、「シベリア抑留中の瀬島が日本人抑留者を前に『天皇制打倒! 日本共産党万歳!』と拳を突き上げ絶叫していた」というソ連の元対日工作員の証言や「瀬島らはウランバートルで特殊工作員として訓練された」とするソ連の元書記官が現れたことも疑惑を深める一因となった。 関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡したシベリアの悲劇について、瀬島氏は多くを語ることなく2007年にこの世を去った。関連記事■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 明治から昭和を馬と共に生き競馬界の礎となった者たちの物語■ 片岡愛之助 水野晴郎『シベリア超特急』最新作出演計画浮上■ 15万円防犯犬 人になつき過ぎ不審者から頭なでなでされる■ 森喜朗氏 父母眠るロシアに骨埋めると宣言しロシア聴衆感銘

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    大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた

     プーチン氏が大統領に返り咲いたロシアと日本の間には、遅々として進まない北方領土問題が横たわる。大前研一氏はこの北方領土について、日本人の間に「2つの誤解」が存在するという。以下、大前氏の解説である。 * * * 1つは、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告なしに北方領土に侵攻して占領した、というものだ。 たしかにソ連は1945年8月8日に日ソ中立条約の破棄を宣言したが、同条約に破棄や失効に関する規定はなかった。宣戦布告は「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として条約破棄と同時に在モスクワの日本大使館に行なったと主張している。 そしてソ連軍は8月9日午前零時に戦闘を開始、11日には日露戦争で日本が奪った南サハリン(南樺太)に攻め込んだ。しかし、千島列島(クリル諸島)の択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島を占領したのは、日本が無条件降伏して大本営が正当防衛以外の即時停戦命令を出した15日以降のことである。 しかも、ソ連がドイツ降伏後3か月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する見返りに、サハリン南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことは、1945年2月に行なわれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン書記長によるヤルタ会談の協定(ヤルタ秘密協定)で決まっていた。 それに従ってソ連は、ドイツが無条件降伏した5月8日の約3か月後、日本に宣戦布告したのである。 また、終戦直後にスターリンは、ルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領に、北海道を南北に分割して北半分をよこせと要求している。しかし、日本をドイツのようにしたくないと思っていたトルーマンはこれを拒否した。 つまり、北方4島はソ連が侵略したのではなく、アメリカが“戦利品”としてソ連に与えたわけで、日本は4島を失った引き換えに北海道の南北分割を避けられたとも言える。これは当時のアメリカの公文書に残っている明確な事実だ。 もう1つの誤解、というか日本国民があまり知らない事実は、日本政府が「4島一括返還」を要求することになったいきさつである。実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。関連記事■ 北方領土問題はなぜ解決しないのか 佐藤優氏がその背景解説■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 元外交官が「米国にとってネットは言論操作の場所」と説く書■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    鈴木宗男が説く 北方領土、まず二つ還してもらうのが現実的だ

     今年は、戦後70年の節目の年だ。年内に北方領土解決の道筋をつけなくてはならない。 北方領土で、一つの島も日本に帰ってこないということに、私はつくづく「政治がない」と思います。これにはマスコミの皆さんが勉強不足だった責任もあるのではないでしょうか。13年前のあの鈴木宗男事件のとき、私を国賊扱いしていましたが、私は政府の方針通りに北方領土問題に取り組みました。 「四島一括返還」という言葉はないんです。未だに政治家でもマスコミの方でもそう言ってますが、確かにソ連時代にはそう言い、その上に「即時」とまでつけていた。なぜなら、ソ連自らが「領土問題はない」と言っていたんです。だから日本は強く出たのです。 しかし平成3年、ソ連は自由と民主のロシアに変わりました。それから日本が段階的な解決論に方針転換したんです。つまり、四島の帰属が認められれば返還時期は差があってもいいと。そのことも勉強しないで、鈴木宗男は二島先行返還だとか二島ポッキリだとか国賊だとか言われました。 少なくとも鈴木宗男がやっていたときは、一番、島が近づいたんです。それが、私がいなくなってから島は離れてしまいました。特に小泉政権です。小泉さんは日ロ関係について過去の経緯も知らない。田中眞紀子外務大臣はもっと知らない。その結果、空白の日ロ関係10年になったわけです。本当に外交というのは積み重ねなんです。私の考えを実践していれば、もう四島は還ってきたと思います。ロシアのプーチン大統領(右)と会談する森喜朗首相=2001年3月25日(タス=共同) 私は、森総理時代の平成13年3月25日、イルクーツクでの森・プーチン会談、あのときが一番、島が近づいたときだと思っています。しかし、小泉政権になって、逆に島は離れていってしまった。そして今、安倍さんが解決へ意欲を見せていて、これに期待するしかないと思っています。 交渉を前進させるためにはどうすればいいか。やはり国家主権に関わる問題はトップの判断しかないんです。プーチン大統領は85%の世論支持があります。ロシアは大統領がこうだと判断すればそれで決まりです。あとは日本です。安倍さんのやる気と強い世論支持のあるプーチン大統領の力を生かすしかないと思っています。 やはり物事には順番があります。先に四島を還せと言ったら話し合いになりません。プーチン大統領もラブロフ外務大臣も、平和条約締結の後は日本に還すとした1956年の日ソ共同宣言は、日本の国会も批准し、ソ連の最高会議も認めた法的拘束力のある約束で、同時に平和条約がなくても日本に還すと公に話されております。ロシアの最高首脳がそう言っているわけですから、日本はこれに乗るべきです。 まず二つ還してもらう。残り二島については日本に帰属するかロシアに帰属するかを話し合う。これが現実的な判断だと思っています。要は、安倍さんがどういうカードを切るかにかかっていると思うんです。 そのためにも日本が、ウクライナ問題で欧米の考えに乗る必要はないのです。停戦合意ができた以上、もうロシアの経済制裁などしないと日本が言うべきなんです。 6月のG7首脳会議でも、本来、日本が経済制裁をやめようと口火を切るべきでした。そうする事によって、ロシアとの信頼関係が出来るのです。 安倍首相は「北方領土問題は国民全体の問題であり、ロシアとの交渉を進展させるためには、政府と国民とが一丸となって取り組む事が重要だ」と述べていますが、領土問題はお互いにギリギリのところで決断を下さなければ解決できない。その「ギリギリ」を理解したうえで、交渉を見守ることが大切です。そうして初めて政府と国民は一丸となって北方領土問題に取り組む事が出来るのです。 領土問題、なかんずく国家主権に関わる問題は、トップリーダー・最高首脳の判断でしかありません。 安倍首相も過半数の世論支持を得ており、プーチン大統領は85%近い世論支持があります。この強い二人のリーダーによる決断しか北方領土問題の解決はないと思います。 外交は積み重ねであり、相手があります。日本の主張だけが通り、ロシアの主張は通らない、これでは外交ではありません。 外交はお互いの名誉と尊厳がかかっております。国益の観点に立ち、お互い良かったと言える外交が、良い外交だと私は考えます。 安倍首相は、父上であった安倍晋太郎先生が政治家として、最後まで日ソ関係をダイナミックに進展させたいという、まさに体の張った情熱を一番そばで見てきたと思います。 是非とも、その安倍晋太郎先生の思いを安倍首相には、実現して欲しいと願ってやみません。

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    対露外交で得点狙う安倍首相に不安

    佐藤優(作家、元外務省主任分析官) 水面下で日露関係が動き始めている。きっかけは、6月24日夜、安倍晋三首相がロシアのプーチン大統領にかけた電話だ。約30分の電話会談で、安倍首相は、<プーチン氏が年内に来日する方針を確認した。ウクライナ情勢に関して欧米と歩調をあわせる安倍首相は、ロシアが平和的、外交的な解決に向け、停戦合意の完全履行など建設的な役割を果たすよう要請した>(6月24日「産経ニュース」) 7月になって、クレムリン(ロシア大統領府)から、興味深い情報が流れてきた。ポイントは4点になる。 (1)プーチン氏は、安倍首相が電話をかけてきたことを、日露関係正常化に向けたステップとして高く評価している。安倍首相に対するプーチン氏の個人的信頼感は一層強化された。 (2)会談後、プーチン氏は訪日準備を行うとの方針を確定し、ロシア外務省に対して「日本外務省と協議せよ」と指示した。 (3)クレムリンでも訪日の時期とテーマに関する協議が始まった。関係省庁に対する資料要求も行われている。クレムリンは10月末から11月初頭のプーチン氏訪日を考えているが、具体的日程については日本側の提案を待っている。 (4)訪日では合意文書を作成しなくてはならない。経済的、政治的成果として何が達成されるか、またクリル諸島(北方領土)をめぐる交渉でどのような展望を見いだせるかが、現時点ではまったく明らかになっていない。プーチン氏訪日の狙い会談を前にロシアのウラジーミル・プーチン大統領(右)と握手を交わす安倍晋三首相=2014年11月9日、北京(共同) 今回の日露首脳電話会談を踏まえ、日本外務省もプーチン氏の訪日に向けた準備を始めている。もっとも、外務官僚は安倍首相の強いイニシアチブがあるから仕事をしているのであって、内心では「プーチン氏訪日が実現すると日米関係に悪影響が及ぶのではないか」ということを真剣に心配している。 事実、米国はホワイトハウスも国務省も日露接近を歓迎していない。むしろプーチン氏は、このあたりの事情をわかった上で、日米間にクサビを打ち込もうとしている。プーチン氏の狙いは、G7(先進7カ国)によるウクライナ問題をめぐるロシアへの制裁を解除させることだ。その上で、安倍首相のイニシアチブで、来年の伊勢志摩サミットにプーチン氏が出席し、G8への復帰を果たすことを狙っているのではないかと筆者はみている。 プーチン氏の訪日準備に踏み込むことによって、日本は米国との関係において、かなり面倒なリスクを負うことになる。 日本外務省は内部にさまざまな見解の相違があっても、首相官邸が明確な方針を定めれば、その方向に向けて動く。しかし、ロシア外務省の事情は異なる。ロシアの外交官は、日本との関係を前進させるためには、北方領土問題でロシア側が譲歩しなくてはならないと認識している。しかし、譲歩した場合にロシア外務省が負わなくてはならないリスクが大きすぎる。従って、ラブロフ外相を含め、上から下まで、北方領土問題については強硬姿勢を崩していない。ロビー活動が不可欠 北方領土問題で日本がクレムリンに直接アプローチして、パトルシェフ安全保障会議書記やセルゲイ・イワノフ大統領府長官ら、ロシア外務省の意思を覆すことができるプーチン氏側近を通じた権力中枢へのロビー活動が不可欠になる。NSC(国家安全保障会議)谷内正太郎事務局長には、その役割が期待されているのであろう。 歴代の日本政権をみていると、権力基盤が弱体化し始めると、外交で得点を稼ごうと考える。そのとき選ばれるのが北朝鮮かロシアだ。安倍政権の支持率も下がり始めている。日朝関係が劇的に改善する可能性は低い。このような状況で、安倍政権には、対ロシア外交での得点の可能性が実態よりも大きく見えているのかもしれない。不安を覚える。

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    北方領土問題、解決の糸口

    戦後70年が経っても、不法占拠されたままの北方領土。島の状況を把握することは、将来の返還後の対応を考える上で必要不可欠だが、日本には情報がほとんど入ってこない。

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    佐藤優が分析 ロシアの核恫喝外交は北方領土交渉にも影響する

    佐藤優(作家、元外務省主任分析官) ロシアが外交の手段として核兵器を使い始めた。これは危険な挑発だ。デンマークのコペンハーゲン発のロイター通信は22日、こう伝えた。<駐デンマークのワニン・ロシア大使は、デンマークが北大西洋条約機構(NATO)のミサイル防衛(MD)計画に参加すればロシアの核ミサイルの標的になると述べた。デンマーク紙ユランズ・ポステンがインタビューを掲載した。 デンマークは昨年8月、ミサイル防衛計画に高性能なレーダーを搭載した艦船を派遣する方針を明らかにした。ロシア政府はMD構想に反対していた。 ワニン大使は計画への参加がもたらす結果をデンマーク側が完全に理解していないと指摘。「参加すれば、デンマーク艦船がロシアの核ミサイルの標的になる」と述べた。 これに対してデンマークのリデゴー外相は受け入れられない発言だと強く反発、「NATOのMD構想がロシアを標的とするものではないことをロシア側は十分承知しているはず」と述べた。一方、NATOは平和に貢献しないと批判した>デンマーク艦船を「標的」に ワニン大使の発言は、大使の独断ではなく、ロシア本国の訓令に基づくものと見るのが常識だ。しかし、ロシア当局は常識に反する情報操作工作を展開している。<大使の発言はデンマーク政府の反発を呼んでいるが、ロシアのラジオ局「モスクワのこだま」は「大使はこうした大きな声明を行う権利を付与されていない」とする政権幹部の声を紹介。この幹部は、大事には至らず、大使の独断的な見解だとの見方を示した>(3月22日「産経ニュース」) ワニン大使の寄稿に対して、デンマーク政府の反発が予想を超える激しさだったので、ロシアとしては、とりあえず「現場の暴走」ということで、事態を沈静化したいのであろう。しかし、このような手法自体がシニカル(冷笑的)で不誠実だ。 15日にロシア全土で放映されたテレビ番組「クリミア、祖国への道」で、プーチン大統領が「ロシアはクリミア情勢が思わしくない方向に推移した場合に備えており、核戦力に臨戦体制を取らせることも検討していた。しかし、それは起こらないだろう、とは考えていた」(3月15日露国営ラジオ「ロシアの声」)と述べた。 ワニン大使の寄稿は、プーチン大統領の発言がロシアの新しい核戦略に基づいていることを裏書きするものだ。すなわち、ロシアが自国にとって死活的に重要と考える事項に関しては、核カードを用いてでもロシアの国益を実現するという方針だ。恫喝外交そのものである。対露外交戦略の見直し必要 日本にとって米国は唯一の同盟国だ。中国、北朝鮮からの弾道ミサイル攻撃の脅威に対抗するために米国のMD計画に日本が参加する可能性がある。米国のMD計画に日本が参加する場合、ロシアが「海上自衛隊のイージス艦と在日米軍基地を核攻撃の対象とする」と言い出しかねない。もちろんロシアがそのようなことを言ってきても、日本ははね付ける。そうなると北方領土交渉のハードルをロシアは上げてくるだろう。ビザ(査証)なし交流を一方的に取りやめ、北方領土への日本人の入域に際して日本のパスポートとロシアのビザを要求するようになるかもしれない。 ロシアの核戦略の変更が日本外交にどのような影響を与えるかについて、外務省ロシア課とモスクワの日本大使館はどのような分析をしているのだろうか。ロシアが一方的に外交のゲームのルールを変更している状況で、年内にプーチン大統領の公式訪日を実現することが、日本の国益と国際社会の利益にかなうのであろうか。北方領土交渉の方法を含め、日本政府は対露外交戦略の全面的な見直しをする時期に至っていると筆者は考える。 関連記事■ 日本は今後ロシアとどう付き合うべきか■ 歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」■ ケント・ギルバートが説く 日本がサンドバッグから脱するとき

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    ロシアの極東ターゲットは北海道だ

    日高義樹(ハドソン研究所首席研究員)日本は軍事演習に驚いたが… ウクライナの領土であるクリミア半島を、軍事力であっという間に制圧し占領したロシア陸軍の機動部隊の威力は、世界の国々にとって新たな軍事的脅威になっているが、日本はいまだにその脅威に気がついていないようである。 2014年8月、ロシア海軍はこれまでにない大規模な訓練を実施し、日本周辺の極東太平洋地域で敵前上陸作戦を含む軍事訓練を展開した。ロシアがこのような大規模な軍事行動を行うことは、この数年来、中国についで軍事費を増やし軍事力を強化していることから予想されたことであった。 「日本政府は日本の北方領土の周辺で突然、ロシアが大がかりな軍事行動を展開したことに驚いているようだが、ロシアが軍事力を強化し続けていることにまったく気がつかなかったのだろうか」 アメリカ海軍の首脳がこう述べているが、ソビエトつまり現在のロシアというのは非常に分かりにくいだけでなく、時にはあっという間に変化してしまう国なのである。ロシア極東ウラジオストクの沖合に浮かぶルースキー島の山腹に設置された砲台。日本が仮想敵国だった。いまは博物館となり開放されている 「ソビエトはあと少なくとも50年は続くだろうと考えていた。これほど早くしかも突然、崩壊するとは思ってもみなかった」 世界的な戦略家であるヘンリー・キッシンジャー博士が私の番組に出演してこう述べたことがあるが、冷戦で敗れたソビエトがロシアとして大きく甦っていることに、アメリカのオバマ大統領とその側近も注意をはらってこなかった。 「アメリカがウクライナから、ロシア寄りの指導者を追放しようとした時、オバマ大統領はプーチン大統領が力で反抗してくるとは、予想もしていなかった」 チェイニー前副大統領がワシントンの記者団にこう言ってオバマ大統領を批判したが、たしかにロシアの変わり身の早さに気がついていないのは、日本だけではなかった。 こうしたロシアの軍事的な復活を目にして私が思い出すのは、ハドソン研究所で一緒に軍事問題を研究したアメリカのウイリアム・オドム陸軍中将のことである。オドム中将はカーター大統領の軍事顧問や、アメリカのスパイ組織の大元締めであるNSA国家安全保障局の長官をつとめ、陸軍士官学校、コロンビア大学、イエール大学でも教鞭をとった軍事問題の権威だった。冷戦時代にはソビエトとのタンク戦争の戦術的研究者として世界にその名を知られていた。 「ロシアは強力な軍事力を持ち軍事的に強い。これに比べて中国は軍事的に弱い。もっと言えば軍事的に強いロシアは経済が弱く、軍事的に弱い中国は経済が強い」 これはオドム中将がハドソン研究所の研究会の席上で言った言葉だが、軍事的に強いというロシアの基本的な性格を考えれば、プーチン大統領が軍事費を増やし軍事訓練を強化している今の状況は、ロシアの隣に位置する日本にとって脅威そのものと言える。大国として甦るロシア プーチン大統領は、冷戦後の混乱のなか、議会にたてこもった共産主義者たちや、酔いどれで汚職まみれの大統領エリツインに代わって新しいロシアを建設するために、ロシアのエリートが将来の繁栄を託して擁立した政治家である。 ロシアのエリート、そして国民の期待を担ってプーチン大統領が登場した2000年以来、ロシア経済は順調に拡大して来た。2000年のロシアの国民1人当たりの生産高は1771ドルだったが現在は1万4千ドル、およそ8倍になった。プーチン大統領は、日本はじめアメリカ、ヨーロッパ諸国との関係を良好に保って資本の流入に力を入れ、石油と天然ガスの生産高をサウジアラビア並みに増やしてロシアを資源大国にしたのである。 しかしながら2012年頃からプーチン大統領の弾圧的な国内政治姿勢を嫌って資本がロシアの外に流失し始めた。ちなみに2014年には、前半の6ヶ月だけで750億ドルの資本が逃げ出している。資本の流失はロシア経済の停滞をまねき、プーチン大統領の政治的な危機が、大統領の側近の間からも囁かれるようになった。 「プーチン大統領が軍事力強化に乗り出し、力でロシアの存在を世界に示そうと決意した理由は、国内経済の停滞からロシア国民の目をそらすことにあった」 ハドソン研究所のロシア問題専門家がこう言っているが、プーチン大統領はロシアの国営通信社であるイタルタスの記者に次のように述べている。「ロシアはこれから北極石油の開発に力を入れ、世界の資源国家としての立場を確立することによって、アメリカ、中国、日本に次ぐ経済大国の立場を確立するつもりである」 プーチン大統領はロシア国営のインターネット放送でも「ロシアの経済的立場を確立するために軍事力強化政策をとる」と述べているが、プーチン大統領が、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国との対立をいとわず軍事力を強化し続けているのは、これまでのやり方ではロシア経済の拡大が先細りになるだけでなく、自らの政権の維持が困難になると懸念しているからである。 プーチン大統領は2000年に就任した当時は、外国から資本を取り入れるためにいわゆる微笑外交政策をとり、日本に対しても北方領土を返すという姿勢をちらつかせながら、森総理など歴代の首相を操って来た。だがロシアは、日本政府が気づかない間に変化をとげ、ついに日本周辺で敵前上陸をふくむ訓練というキナ臭い行動をとるところまで来た。 隣の大国ロシアは、昔から日本にとって脅威だったが、ソビエトが冷戦に敗れてその脅威は一時的に消滅した。ところがオドム中将が言う軍事的に強いロシアが大国として甦り、日本の脅威になりつつある。何よりも日本にとって危険なのは、外務省はじめ日本政府がその脅威についてまったく気がついていないことである。エネルギー戦略で軍事力強化エネルギー戦略で軍事力強化 プーチン大統領がウクライナを侵略したのは、ソビエト帝国の再建を夢みてのことだという見方が一般には有力で、アメリカの雑誌『タイム』は、「冷戦第二幕の始まり」などという特集記事も掲載している。ウクライナに対する軍事行動が、かつてソビエト連邦の有力国家であったウクライナを取り戻すためであったというのは、確かに分かりやすい解釈である。だがハドソン研究所の専門家たちは少し違う解釈をしている。 「プーチンがクリミアにある海軍基地を占領したのは、ロシアの黒海艦隊がその基地を自由に使えるようにするためだ。この基地を経由すれば、ロシア南部で生産される天然資源を、黒海から地中海への海上輸送路を使って、自由に運ぶことが出来る。狙いはウクライナの領土ではない」ロシア・黒海艦隊 ハドソン研究所の専門家は私にこう言ったが、ウクライナ制圧がプーチン大統領のエネルギー戦略を達成するためのものだったにしろ、ロシア軍特殊部隊の軍事行動は完璧だった。プーチン大統領は、特殊部隊に民間人の服装をさせ隠密行動をとらせたが、さらに巧妙だったのは、アメリカの誇る、衛星による監視体制を完全に騙しおおせたことである。 「ロシア軍がウクライナ侵略に動くという情報があったが、アメリカ軍はロシア軍の動きを探知することが出来なかった」 国防総省関係者がこう述べているが、後になって漏れてきた情報によると、世界中を監視しているコロラドの宇宙防衛司令部は、ロシア軍がどこにいるかまったく分からず、文字通り悲鳴をあげたという。当時プーチン大統領が陽動作戦として、ロシア軍にウクライナ国境付近で訓練を行わせていたため、アメリカの監視衛星は完全にめくらまされてしまったのだ。 大規模な軍隊を秘密裏に行動させるには厳しい訓練をしなければならない。アメリカの衛星が探知できない通信体制を維持することも必要である。ウクライナ侵攻にあたってプーチン大統領は、2万以上の大軍を動員したといわれるが、ロシア特殊部隊は完全な隠密行動をとることに成功した。 ウクライナのクリミア半島を軍事占拠する前の2013年1月、プーチン大統領は地中海でロシア海軍による大規模な軍事訓練をおこなった。主力になったのは空母「アドミラルクズネツォフ」を中心とする新鋭の機動艦隊で、ロシアがシリアに維持しているタルトス基地などから進出して来た艦艇と、ボスポラス海峡を越えて来た艦艇あわせて50隻以上が、冷戦時代にも見られなかったような大がかりな訓練を展開した。 私は冷戦の最中、「赤い潜水艦を追う」というNHKの特集番組を制作するためソビエトの潜水艦を世界中追い回したことがある。地中海ではナポリのアメリカ海軍基地から空母に同乗し、海底に潜むソビエト潜水艦を見つけたが、今やアメリカの艦隊は姿を消し、代わってロシアの強力な海上艦隊が地中海を制圧し始めている。 アメリカ軍の記録によるとロシア海軍は、2013年1月の大訓練の後も17回にわたって大がかりな訓練を展開した。プーチン大統領のエネルギー戦略にとって何よりも肝要なのは、黒海から地中海へかけての海上航路を制圧し、石油や天然ガスの新しい輸送ルートを確立することなのである。 ロシアから輸出される石油や天然ガスはその大半がドイツに運ばれている。私もテレビ番組のために詳しく取材したことがあるが、バルト海を越えてドイツに運び込まれたロシアの石油や天然ガスが、ヨーロッパの国々に売られている。このバルト海のルートは北方ルートとよばれている。ロシアはウクライナからポーランドを経由する南ルートを作ってはいるものの地理的に制約されている。プーチン大統領は、独自の石油天然ガス輸送ルートを黒海から地中海に確立してロシアの世界的な戦略的、経済的地位を確保しようとしているのである。やがてはアメリカと肩を並べる海上輸送体制を確保する野望を抱いている。 プーチン大統領のエネルギー戦略にとってもう一つ大切になってきたのは、北極の天然資源である。アメリカのエネルギー省のデータによっても、温暖化で北極の氷が溶け始めるとともに、地下にある石油や天然ガスなどの資源を開発する動きが活発になっている。世界の石油と天然ガスの30パーセント近くが北極海の底に眠っていると報告する資料もある。 そうした新しい天然資源地図のなかで、最も有利な立場にいるのがロシアである。地理的にもロシア領土の一部が北極圏にある。この地域には多くの油田が存在しているといわれる。その最大のものは、北極圏ぞいのシベリア西地方、さらに、東西のバレンツ海地方などのほか、サハリンにも広大な石油資源が眠っている。 アメリカエネルギー協会の情報によればロシアは、こうした大きな6つの石油天然ガス地帯の開発についてきわめて有利な立場にある。プーチン大統領は既に新鋭の砕氷船二隻を建造して北極圏に送り込んでいるほか、周辺の海上基地を強化しロシア艦隊を増強している。 プーチン大統領が2013年に地中海で、冷戦時代にもなかったような大規模な海軍訓練を展開したのにつづいて2014年8月、極東太平洋で上陸作戦をふくむ大がかりな演習を行ったのは、北極からの石油や天然ガスを輸送するための安定した航路を確立するためであった。 「北極からベーリング海を通り、日本列島ぞいに東南アジアに至るシーレーンはロシア経済を拡張するための、なくてはならないルートである。今後この海域のロシア太平洋艦隊を強化する」 プーチン大統領は、2014年はじめ、ロシアのテレビでこう述べたが、ロシア海軍は33隻の新しい艦艇を建造し、ウラジオストクを中心に太平洋艦隊を急速に強化する。 「プーチンによる太平洋艦隊強化の表れが、今度の極東太平洋における前例のない大規模な軍事訓練だ」 アメリカ海軍の首脳はこのように指摘している。プーチンは北方領土を返さないプーチンは北方領土を返さない ロシアがアジア極東の海軍力を増強し、日本とアメリカにとって新たな脅威になっていると懸念するアメリカ海軍の首脳が増えている。ラフェッド前海軍総司令官は、2011年3月、アメリカ上院歳出委員会の軍事小委員会でロシア海軍の脅威について警告した。この小委員会の内容は秘密になっている部分もあり全てが明らかではないが、私がよく知るラフェッド前総司令官周辺の専門家が次のように指摘している。 「プーチン大統領はアジア極東戦略を強化する重要な要素として日本との対決を明確にしているだけでなく、北方領土を日本に奪われないために海軍力を強化していると、アメリカ海軍関係者にもらしている」 アメリカ海軍専門家によると、プーチン大統領は今後、最新の原子力空母や潜水艦、戦車上陸用舟艇などを増強しウラジオストクに集結させる。またフランスから最新鋭のミストラル型強襲上陸用空母を4隻購入する計画をたて、そのうちの二隻をウラジオストクに配備することをすでに決めた。さらに、このミストラル型強襲上陸用空母に乗り込ませる海兵隊つまり、ロシアの海軍歩兵部隊の訓練をフランスに依頼している。 プーチン大統領はウラジオストクだけでなく、かつて日本領であった南樺太のユジノサハリンスクの海軍と空軍基地を増強している。さらに北方の千島列島先端にも太平洋艦隊のための海軍基地と空軍基地を作っているだけでなく、後方支援基地としてロシア本土沿岸地域に、数カ所の海軍基地と空軍基地を建造していることをアメリカ軍が確認している。 ウラジオストクから樺太、千島列島さらには、ベーリング海峡、ロシアの沿岸のロシア太平洋艦隊の基地が強化されたり、新たに作られたりすれば、日本にとって大きな脅威になる。とりわけ注目されるのはウラジオストクに配備される、ミストラル型空母を中心とする上陸用集団の強化である。アメリカ海軍の専門家はこう述べている。 「ロシアがウラジオストクを中心としてロシア太平洋艦隊を強化しているのは、軍事的に見るとアメリカの力の後退によって生じる力の真空をうめようとしているからである。この動きの背後には中国の軍事力拡大に対する警戒があるが、基本的には日本を敵視し、北方領土を返さないという決意の表明である」 ラフェッド前海軍総司令官の周辺にいる大佐クラスのなかには、次のような意見も出ている。 「ウラジオストクと樺太、千島の基地を自由に使うためには、ロシア太平洋艦隊が、津軽海峡や宗谷海峡をきままに行動することが必要だ。プーチンはロシアの歴史的な戦略構想に基づいて、北海道の占領も考えている」 ロシアの歴史的な戦略構想とは、第二次大戦後、北海道をソビエト領にしようとした当時のスターリン首相の野望をさしている。プーチン大統領は軍事力を増強してロシア拡大を敢行した独裁者ピョトール大帝や、失敗はしたものの世界的大艦隊を構想したソビエトのブレジネフ最高指導者も手本にしているといわれる。 1990年代、日本から資本を取り込むためにロシア政府の首脳が日本に積極的に近づき、北方領土返還をエサに日本との友好関係を作ろうとした時代は終わりを告げた。プーチン大統領が政治的立場を維持するために始めた軍事力拡大、太平洋から引くという弱気なオバマ大統領の政策から生じた力の真空、そしてアメリカにとって代わろうという中国の野望などがうずまき、極東太平洋における日本の安全は、いまや大きく脅かされている。 ソビエト帝国が崩壊した当時、ロシアは大混乱に陥った。そのロシアが資源大国となり、その資源を売って得た資本によって軍事力を拡大し、極東太平洋でエネルギー戦略を推し進めることになるとは、誰にも想像できなかったことである。 私はロシア専門家ではないが、テレビの番組を制作するにあたって国際情勢全般の動きを取材するため、ソビエト崩壊後のモスクワやウラジオストク、サンクトペテルブルクなどを取材したことがある。いまも印象に残っているのは、ロシアのヒトラーになるといわれたタカ派政治家ウラジミール・ジリノフスキーの言葉である。 「資源のない岩だらけの日本を侵略しようという気はまったくない」 それ以前、NHKの海外放送の責任者であった頃、私はモスクワ支局を通じてロシア政府に当時NHKの新技術であったハイビジョンを紹介し、ロシアの実力者であったアフロメーエフ陸軍参謀長に単独会見もしたが、当時の混乱したロシアと経済大国であった日本の間には、ある意味でたしかに蜜月時代が存在した。しかしながらロシアはすでに述べたように大きな変化をとげ、プーチン大統領は政治的に強硬姿勢をとらざるを得なくなっている。 いま日本の人々が留意すべきは、こうした状況のもとで西太平洋から後退しつつあるアメリカが、再びアジアに関心を持ち本当の意味での抑止力を行使するようになるには20年、30年の長い歳月が必要であるということである。フランクリン・ルーズベルト大統領から始まった、アメリカのアジアへの勢力拡大のサイクルはとりあえず終結期に入った。 そのアメリカの後を襲うべく、経済力をつけた中国が軍事力を拡大しているが、資源を中心とするロシア経済と軍事力の拡大は、中国のそれを上回る勢いである。しかもオドム中将が指摘したように、ロシアはもともと軍事的に強い国なのである。 中国は旧ソビエトが建造した古い空母を買い入れ、アメリカの技術を盗んでステルス戦闘機を作ったりレーダーを開発したりしているが一部、衛星技術で成功しているだけで、アメリカの専門家は中国の軍事力を高くは評価していない。 しかし、日本の国際戦略、外務省の外交、国民の憲法論争などを見ていると、その殆どが、いわば「張り子の虎」である中国の軍事的脅威に関心を奪われている。集団的自衛権構想にしても、中国の脅威とそれに対応する東南アジアの動きに呼応するものに過ぎないようだ。真に日本の安全を図ろうとするならば、もう一つの強力な敵、プーチン大統領のロシアがもたらす危機に対処する戦略を、ただちに構築しなければならない。ひだか・よしき 昭和10(1935)年生まれ。東京大学文学部英文科卒、東京大学新聞研究所を経て34年、NHK入局。ワシントン支局長、理事待遇アメリカ総局長、審議委員を経て退職。ハーバード大学客員教授、同大タウブマンセンター審議委員を経て現職。全米商工会議所会長顧問。テレビ東京で「日高義樹のワシントンレポート」を17年間製作。著書に『アメリカを知らない日本人』(講談社)、『オバマの嘘を知らない日本人』(PHP)など多数。関連記事■ 韓国の論理「日本にある物はすべて略奪された」 ■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ クリミアと尖閣は表裏一体 日米同盟の緊密化が世界秩序を維持する

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    知られざる島の実態 北方領土でいま何が起きているのか

    名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授)北方領土は人口増 筆者は2年前、北方領土のビザなし交流に参加して国後、択捉両島を訪れた際、両島で発行されている地元紙の記者と接触し、新聞を添付ファイルのメールで送付するよう依頼した。その後、両紙編集部から有料で毎号届けてもらっている。 国後島で発行されている地元紙は「ナ・ルベジェー(国境で)」、択捉島の地元紙は「クラスヌイ・マヤーク(赤い灯台)」といい、発行部数は国後紙が715部、択捉紙が562部。いずれも週2回発行のタブロイド版4ページ。北方領土に住むロシア人は約1万6000人強で小さな社会ながら、両紙は地元行政府や議会の決定から島で起きたニュースや話題、住民の一口広告まで掲載し、島の生活に寄り添うコミュニティーペーパーだ。 北方四島の面積は千葉県に匹敵し、竹島の2万倍、尖閣諸島の2000倍である。今年で旧ソ連軍による不法占拠から70年となるが、そこでは経済活動や社会生活が営まれ、犯罪もあれば汚職・腐敗も多発する、ロシア社会の縮図だ。近年は、ロシア政府のクリル(千島)社会経済発展計画(2007─15年)に沿ってインフラ整備が進んでいる。 ロシア人がサハリンやウラジオストクでどう生活しようと勝手だが、わが国固有の領土である北方四島に居座る島民の生活は注視せざるを得ない。自宅の庭の一角が武器を持った隣人に不当に奪われて居座り続ける状況では、奪われた庭がいまどうなっているのか、誰もが関心を持つだろう。島の状況を知ることは、将来の返還後の対応を検討するうえで不可欠となる。 ビザなし渡航も近年はロシア側の規制が強く、毎回、同じ場所を案内されて同じ人と交流するだけで、情報収集に限界がある。2つの地元紙を読むことが、北方領土の現状を知る最も有効な手段だろう。本稿では過去2年の紙面から、印象的な記事を紹介しながら四島の実態に迫った。 両紙の刊行は古く、いずれも1947年に創刊された。47年といえば、対日参戦したソ連軍が千島全島を武力制圧してまだ2年。国後の新聞「国境で」は12年11月、創刊65周年記念号を出し、同紙の歴史を紹介した。 それによれば、「遠隔地で地区の新聞を発行することが急務だ」とのスターリンの指示に沿って、国後、色丹、歯舞三島からなるサハリン州南クリル地区の共産党委員会・行政府の機関紙として発行が決定された。国後島の中心地、古釜布(ロシア名・ユジノクリリスク)に小さな新聞社が設置され、輪転機が持ち込まれた。択捉島の「赤い灯台」も、クリル地区機関紙としてスタートした。ロシア国旗がたなびく択捉島・内岡(なよか)港。ロシア国境警備隊が拿捕した日本の漁船(右端から4隻)が、まるで“戦利品”のように並べられていた=2008年8月3日(酒井充撮影) 「国境で」は当初、週3回発行で編集部が15人、印刷部門は10人を擁したという。70年代の発行部数は3500部で、国後、色丹で配布された。過去65年の歴代編集長は15人、取材に携わった記者は300人に上るという。 ソ連時代は「親方赤旗」として安住できたが、ソ連崩壊で市場経済が始まるとスポンサーを失い、経済苦境のなかで必死の経営努力を強いられた。記者を3人に減らして週2回発行とし、発行部数も縮小した。商店や島民の広告も掲載して広告費も稼ぐようになった。択捉島の「赤い灯台」も状況は同様らしい。 90年代のロシア民主化時代、「赤い灯台」は択捉島幹部の汚職・腐敗を追及するキャンペーンを展開するなど過激な論調を掲げ、島民の北方領土返還論も載せたという。しかしプーチン体制による情報統制下、両紙には政府や地元行政府の批判はほとんど載らない。論評自体が少なく、紙面がつまらなくなった点ではロシア本土の新聞と共通する。 それでも、両紙は島の現状を知る貴重な情報源だ。両紙が伝えた行政府の統計によれば、13年末時点の人口は、国後が7355人、色丹が2913人。歯舞諸島には居住者はいないが、南クリル地区への入植者は13年1551人、退去者が988人で563人の純増となった。 13年、誕生した新生児が109人に対して死亡者は68人で、人口増が顕著だ。択捉島でもやはり出生数が死亡者数を上回った。ロシア極東やサハリン州は人口減や少子化が顕著なのに、北方領土は人口増という意外な現象がみられる。 ただし、択捉島の人口は6006人で離島者が多く、前年比で452人減少したという。択捉にはサハリン州最大規模の水産加工企業ギドロストロイの工場があり、産業基盤は国後、色丹より充実しているが、離島者が多い理由は新聞には載っていない。 国後・択捉では13年、結婚が87組に対して離婚は52組で、ロシア本土と同様に離婚率が高い。「国境で」は、「国後、色丹には30の民族が住む」と伝えている。終戦直後、ウクライナなど他の旧ソ連構成共和国の住民が入植した名残だが、島の人口分布は多民族国家・ソ連の雰囲気を残している。 12年の統計では、国後・色丹両島の労働者の平均所得は3万3700ルーブル(約10万円)で、ロシア全体の平均所得2万3000ルーブル(約7万円)よりかなり高い。公務員らに遠隔地手当が加算されるのに加え、高級魚の宝庫という漁業資源の恩恵とみられる。島民にとって、給与が高くなければ辺境の地に暮らす意味がない。 島の経済の生命線は漁業、特にサケ・マス漁だが、昨年は記録的な不作という。「赤い灯台」は9月、「これは漁ではなく破局だ」との見出しで、択捉でのカラフトマスの漁穫はまだ当初予想(2万7000トン)の10%程度にすぎないと伝えた。 「マスが故郷の川に戻ってこなくなった。気候変動などで帰るべき川を間違えているようだ」 「71年から択捉で漁をしているが、こんな不漁は初めて」 との談話も紹介した。択捉経済は苦境に追い込まれている。700人の外国人労働者が700人の外国人労働者が 「赤い灯台」は昨年9月24日、「私たちの記念日」という見出しで、択捉新空港がオープンして開港式が行われたことを写真12枚付きで大々的に報じた。新空港はクリル発展計画の目玉プロジェクトで、07年から中心地の紗那(クリリスク)郊外に建設が進んでいた。中型機の離発着が可能で、当面、オーロラ航空が択捉とサハリンの州都、ユジノサハリンスク間を運航するという。 同紙は、「ロシア全土で新空港がオープンしたのはソ連邦崩壊後初めて」とし、七九年のテレビ中継開始、2011年のアスファルト道路完成、13年の埠頭拡張に続き、新たな歴史が刻まれたと伝えた。建設中の択捉島の新空港。8月1日オープン予定だというが、工事が進んでいるようには見えなかった。結局2カ月遅れの9月下旬に開港した=2014年6月29日(鈴木健児撮影) それまで択捉島では、旧日本軍が建設した太平洋岸の天寧飛行場を改修して軍民両用で使用していたが、霧が多発し、小型機しか離着陸できないことから新空港建設の要望が強かった。 開港2日後には、プーチン大統領側近のイワノフ大統領府長官が択捉新空港に降り立った。同長官は住民に、「すべてはクリル発展計画に沿って実現した。次の段階として、快適な生活条件を目指し、住宅や社会インフラ、文化・スポーツ施設を建設して他の地域に劣らないようにする」と約束した。 クリル発展計画とは、プーチン政権が他地域より生活環境が劣悪な北方領土など千島の開発を図るため、06年の閣議で策定。15年までに総額280億ルーブル(約840億円)を投じて道路・港湾整備、空港、住宅、病院、幼稚園など社会インフラを建設し、漁業や観光業、鉱業の発展を目指すものだ。「潜在力を持つクリルの産業振興を図り、アジア太平洋地域の経済体制と統合させる」としている。 両紙では発展計画が大きなテーマで、「択捉島の別飛(レイドボ)付近の湖岸に温泉施設を備えた総合観光施設が着工」「色丹島の病院建設、完成間近」「国後島で金鉱探査に着手」「国後島の文化宮殿が近くオープン」といった威勢のいい記事が目立つ。 気になるのは、今年で期限切れとなる発展計画が25年まで延長される見通しであることだ。「国境で」(7月24日)は、極東発展省とサハリン州政府が策定した新計画案の内容を伝え、10年間の投資総額は684億ルーブル(2052億円)で、現行計画の3倍近くに膨れ上がると報じた。 連邦政府と州政府がほぼ同額ずつ出資し、最初の5年で大陸を結ぶ貨物・客船航路の整備、輸送・エネルギーインフラの整備、文化・スポーツ施設建設を行う。第二段階の5年間で漁業を総合的に発展させ、ロシアやアジア太平洋諸国の市場に水産加工製品の輸出を図り、「アジア太平洋諸国向けに経済特区を設置する」としている。 これが実現すれば、ロシアは少なくとも25年までは北方領土返還を想定していないことになる。 ただし、ロシア経済はウクライナ問題に伴う欧米諸国の制裁や石油価格下落で危機に直面し、予算規模が縮小されつつある。新計画も承認されておらず、曲折がありそうだ。 同紙によれば、発展計画に伴う人手不足で外国人労働者を誘致しており、国後・色丹では12年時点で、中国や北朝鮮、中央アジアなどからの700人の外国人労働者が働いているという。 北方領土は連邦資金の流入でミニバブルの様相だが、これはあくまで公共投資の効果であり、自律的な経済発展にはほど遠い。資金流入は社会的格差を拡大し、ロシア特有の汚職・腐敗も派生する。気候条件が劣悪で、食糧自給もできない遠隔の北方領土が自立発展できるとは思えない。やがてモスクワからの資金が途絶えた時、疲弊していくだろう。 北方領土を切り売り 両紙には毎号、読者の一行広告が掲載されており、住宅やクルマの売却提案が多い。 「グネチコ通り、2部屋住宅、200万ルーブル(約600万円)」 「修復済み三部屋住宅、230万ルーブル(690万円)」 「35平米、1部屋、150万ルーブル(約450万円)」 択捉紙には、 「中心地から13キロ先の二階建てダーチャ(別荘)、土地私有、委細談」 「修復済みの1部屋、140万ルーブル(420万円)」 などと毎号、数件の住宅売却広告が連絡先の携帯番号とともに記載されている。島では人の出入りが多く、離島者は早急に住宅を売却したいのだろう。原始的な住宅市場が誕生し、ミニ住宅バブルと言える。 クルマの一行広告は、日本製中古車ばかりだ。「トヨタ・ビスタ、95年型」「スズキ・ジムニー、97年型」などと・大古車・も売買されている。タクシーや自動車修理、家屋修理のビジネス広告もあり、隙間産業が生まれているようだ。 一行広告で気になるのは、北方領土で住宅の私有化が進んでいることだ。ソ連時代は土地、住宅はすべて国有・公有だったが、市場経済移行後、住宅の民営化が認められ、ロシア全土ではすでに7割以上の住宅が私有化された。北方領土でも、60%以上の住宅が私有化されたという。 私有化によって住宅の売却、賃貸、遺産相続が可能となる。北方領土が切り売りされていることを意味し、返還時には島民への補償問題が発生しそうだ。 両紙を読むと、島民にとって最も切迫した問題は住宅老朽化であることが分かる。サハリン州のストロガノフ第一副知事は「国境で」との会見で、「南クリル地区で何年も切迫しているのが住宅問題だ。老朽化して危険な住宅は全体の34%、そのうち18%は倒れかけている。これはサハリン州で最も高い数字だ。新住宅が建設されているが、満足にはほど遠い。民間の力も借りる必要がある」と述べた。ロシア全土でも集合住宅の老朽化が深刻化しているが、北方領土は地震多発地域だけに、島民には脅威だ。 「国境で」は昨年2月、色丹島で24部屋の新しい集合住宅が完成し、新住民に住宅の鍵を渡す贈呈式が行われたと報じた。新住宅には、94年の北海道東方沖地震で家を失い、仮設住宅に住んでいた住民が優先的に入るという。クリル発展計画の一環で、国後、色丹でさらに3棟の集合住宅が建設されるらしい。 同紙は、昨年11月に科学アカデミー極東支部が出版した94年10月の地震報告書の要旨を掲載している。それによれば、震度6以上を記録した地震は北方領土に大きな被害をもたらし、四島で計11人が死亡、32人が重傷を負い、400近い住宅が全壊・半壊した。津波が200─300メートルにわたって沿岸部を襲った。産業基盤の多くも破壊されて離島者が急増。震災前の2万2千人の人口規模は、いまだに回復できていないという。 殺人、横領、麻薬……殺人、横領、麻薬…… 火山地帯に位置し、地震や津波、噴火が起こる北方領土の自然条件は過酷だ。「赤い灯台」によれば、オホーツク沿岸の散布山で昨年8月、火山活動の活発化で「異例の強力な噴火」があり、周辺の住宅に被害があったほか、児童を恐怖に陥れたという。同紙は「火山と地震活動が活動期に入った」と警告した。 島は天候も急変し、日照時間が短く、強風が吹く。昨年の正月前後は暴風雪が続き、国後島では恒例の新年祝賀祭が延期された。2月には秒速35メートルの暴風と豪雪で非常事態が宣言された。これに伴って変電所が閉鎖され、停電が起きた。 悪天候に伴う事故も少なくない。2月には、国後島沖500メートルで拘束された外国船舶の検査に向かっていた国境警備隊のゴムボートが高波で転覆し、隊員ら5人が死亡、5人が行方不明となった。13年末にも、国後沖でゴムボートに乗っていた男性2人が行方不明となった。 北方領土では火災も多い。12年12月、32戸の2階建て集合住宅の入り口付近で火災があり、2階の一部が消失。年金生活者ら2人が死亡し、1人が重傷となった。電気のショートが原因で、強風のために消火作業は難航したという。国後島の古釜布でも同時期に集合住宅で火災があり、4戸が焼けた。犠牲者はなかったが、焼け出された住民は日本が建てた「友好の家」で一時的に過ごしたという。箱庭の様だと形容される色丹島の住宅。斜古丹地区にもカラフルな集合住宅が多いが、よく見ると壊れかけた木造で、道路も土舗装のまま。厳しい住環境が伺えた=2012年9月26日(鈴木健児撮影) 「国境で」は、今年も色丹島で火災が頻発しており、6月には建設中の集合住宅が深夜、火災で全焼し、入居予定者にショックを与えたと伝えている。 両紙は、島で起きた事件や犯罪も報道する。12年11月、択捉のロシア軍基地で兵士が同僚をスコップで殴り殺す事件があった。徴兵で配属されたばかりの新兵が、近く退役する兵士と口論になってスコップで何度も殴りつけて殺害し、軍検察官に拘束されたという。 択捉島の太平洋岸・天寧にあるロシア軍基地には冷戦時代、1万人以上の師団が駐留していたが、現在は3000人程度。「赤い灯台」は「基地の将兵はいつも酒に酔っ払っている」との地元住民の話を伝えたが、冷戦も終わり、部隊は暇を持て余しているようだ。 9月には、択捉島のクリルカ川中流でサケの密漁を監視していた警備組織スタッフが猟銃で撃たれて負傷し、紗那の病院に運ばれた。警察は3人の容疑者を拘束。3人は容疑を認めたという。 殺人、脅迫、酔っ払いの喧嘩、交通違反、住居不法侵入、強盗といった事件も報道されている。択捉島では、麻薬吸引者が増加していることも分かった。両紙は「島の犯罪発生率はロシア平均より低い」としているが、治安がいいとは言えない。 択捉島の最高指導者、アベニャン地区長が13年6月、公金横領のため、裁判所によって解任されたことも分かった。実際に存在しない建物の取り壊しに入札を公示し、1000万ルーブル(約3000万円)を着服していたという。 国後島でも水道・衛生事業で、本土の請負企業が飲料水貯蔵施設を実際には建設せずに700万ルーブル(約2100万円)を横領していたことが発覚した。国後島の軍駐屯部隊では、食堂の主任をしていた女性が架空の職員に給与を払い込み、8万ルーブル(約24万円)を着服したとして摘発された。これらは氷山の一角とみられ、膨大な開発予算が幹部の汚職・腐敗に消えている可能性がある。 島にはエンタテイメントが少ないが、13年、国後島では空手クラブが設立され、男女児童45人がロシア人コーチの指導で練習している。10月にサハリンで行われた極東連邦管区の空手大会には18人が参加し、各部門別で計6個のメダルを獲得したという。島のグリークラブ、本土からたまに来る歌手のミニコンサートも数少ない娯楽のようだ。 両紙がキャンペーン的に訴えているのが環境問題だ。あちこちにできたゴミの山の写真が再三掲載され、「ゴミが美しい景観を台無しにする」と批判する。ゴミ処理施設がないため、粗大ゴミが町外れに放置されてしまう。 「国境で」は、国後島の古釜布に設置された津波避難階段兼展望台が空き缶や空き瓶でゴミだらけになっている写真を掲載した。ロシア人は公共衛生意識が希薄だが、他人の島という意識もあるかもしれない。国後、択捉では軍の演習も定期的に実施されて環境破壊に繋がる。返還後はまず、汚された島の環境整備から始める必要がありそうだ。曲がり角のビザなし交流 両紙には海外やロシア本土の情報はほとんど載らないが、昨春のウクライナ情勢は通信社の報道をしばしば転載した。3月17日には、国後島古釜布の中央広場で「クリミアとウクライナ東部のロシア系住民支援集会」が行われ、「南クリル住民はプーチン大統領の政策を支持する」との決議を採択した。同様の官製集会はロシア各地で開かれているが、島でも民族愛国主義が高まった模様だ。 国際問題では、隣国・日本に絡む記事が圧倒的に多い。「国境で」によれば9月2日、第二次世界大戦終結69周年祝賀式典が古釜布の戦勝記念碑前で盛大に行われ、ソロムコ地区長や国後島駐留軍らが参加した。式典は択捉、色丹両島でも行われた。四島にとって「対日戦勝」は自らの存在意義であり、島を挙げての祝賀となるのだろう。 同紙は関連原稿で、千島列島がソ連軍によって占領された経緯を紹介し、「ソ連軍上陸部隊は9月1日に国後に到着。同日、色丹も占領した。2日から歯舞諸島の占領に着手し、4日に完了した」などと伝えた。慎重に読めば、歯舞占領作戦は2日の降伏文書調印後も継続され、国際法違反であることが分かる。 毎夏恒例となったビザなし渡航も必ず報道される。日本側は近年、ファッションショーや着物ショーを島で実施して島民の人気を呼んでおり、各イベントは毎回、写真入りで紹介される。交流の一環として、日本人医師団が無料で行う島民の診療も報じられる。しかし、「赤い灯台」が「日本側医師団はクリル地区側のすぐれた配慮に感謝した」などと、日本側がへりくだったように報じているのが気になった。 「国境で」は、島民が10月に長崎を訪れたことを写真入りで報道、その際に高齢の日本人が突然、島の代表団に北方領土即時返還を要求するハプニングがあったことを指摘し、「この人には島に来てもらい、ロシア国籍を取って一緒に住んでもらおう」と皮肉った。 92年に始まったビザなし渡航では、日本人延べ2万950人が四島を訪問、ロシア人延べ9340人が日本を訪れ、経費はすべて日本政府が負担した。当初、領土問題解決への環境整備と位置づけられたビザなし渡航だが、22年を経てロシア側は「夏の風物詩」と冷ややかに見ている。ビザなし渡航も見直しと新機軸が必要だろう。なごし・けんろう 1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学卒。時事通信社でモスクワ、ワシントン支局、外信部長、仙台支社長などを経て現職。国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授。著書に『独裁者プーチン』など。関連記事■ 読者が知らない共同通信の強大な影響力■ 歴史で解き明かす中国とロシアの「正体」■ ケント・ギルバートが説く 日本がサンドバッグから脱するとき

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    「主権侵害」全く理解できず 看過できない日本の政治家の国際感覚

    袴田茂樹(新潟県立大学教授) 3月初めにロシアで、日露の専門家や政治家がウクライナ問題や日露関係をめぐる非公開の会議を行った。私の最大の関心は、本欄で先月私が書いた見解(編集部注:産経新聞『正論』2015.02.06)に対するロシア人の率直な意見を聴くことだった。「日露の歴史を修正しているのはロシア側」という論だが、以下が私の見解の要点である。「歴史修正」認めたロシア高官 (1)プーチン大統領も含めロシア政府は、北方領土の帰属問題が未決と認めて領土交渉を続けてきたのに、2005年以来「第二次大戦の結果ロシア領と決まった」と主張し始めた(2)ロシアは軍国主義日本がナチスドイツと同盟を組んで、ソ連が被害者になったかの如(ごと)く非難するが、日本は独ソ戦の間も含め「日ソ中立条約」を最後まで守り、それが独ソ戦でのソ連勝利の一因だった。条約を破って日本を攻撃し大西洋憲章の精神に反して領土を拡大したのはソ連だ。 この私の見解に対しては、エリツィン時代にロシア政府高官として日本との領土交渉に直接携わり、交渉経緯を知悉(ちしつ)している人物が、私の見解に完全に同意すると述べた。私は、真実を知っている者は、ロシア人でも私の見解を否定できないと密(ひそ)かな確信を抱いていたので、彼の言葉に得心した。 3月10日にモスクワの国際大学で講演をした。その時もやはり、本欄で書いた見解に対するロシア人学生や教授たちの反応を知るのが私の主たる目的だった。 「日本は政治・経済的にあまり関係のないウクライナ問題で対露制裁に加わっているが、これは単にG7への同調、米国の圧力故ではないか。日本はもっと主体的な対露政策を遂行すべし」との対日批判をまず紹介すると、100人余りの聴衆の殆(ほとん)どがこの見解に賛成した。次いで私は、クリミアとスコットランドの住民投票が、ロシア軍の軍事介入がなかったとしても本質的に異なり、クリミアのロシアへの併合は国際法的に認められないことを、世界各地の「チャイナタウンでの住民投票」を例に出して説明した。その国の政府が認めない「自決権」は国際法的に無効という見解だ。ロシア軍介入下での併合はもちろん論外だ。鳩山元首相への痛烈な質問3月11日、ロシアがウクライナから一方的に編入したクリミア半島の中心都市シンフェロポリで記者会見する鳩山由紀夫元首相(共同) 「日本とウクライナは今やロシアに主権、領土保全を侵されているという共通問題を抱えている。従ってG7の中では日本は他国以上にロシアの主権侵害を批判する権利と義務を有する」との私見を述べた。そして「領土問題ではロシアに別の見解があることは承知だが、日本の立場からするとロシアの対ウクライナ政策を厳しく批判せざるを得ない。それはG7への配慮故だけではない」として、緊張する尖閣問題も説明した。 この説明のあと聴衆の意見を求めた。驚いたことに、直前に紹介した対日批判に賛成した者の殆どが、今度は私の見解は理解できると挙手したのである。 私がモスクワの講演で最も強調したのは、21世紀のグローバル化の時代になっても世界の秩序は主権国家間の関係で辛うじて維持されており、国民国家とか主権・領土という観念は過去のものになるというポストモダニズムの政治論はあまりに楽観的で、安定した主権国家の存在と他国の主権尊重が最も重要、という点である。 この私の見解に対して、痛烈な質問が出された。聴衆の一人が、「日本がロシアによるクリミア併合をウクライナの主権侵害と批判するのは理解できた。では、鳩山由紀夫元首相が本日クリミアを訪問して住民投票によるロシアへの併合を認めたことをマスコミは広く報じている。これをどう理解すべきか」と質問したのだ。ロシア査証でクリミアを訪問した彼の行動は、私自身絶句する事態で心底から赤面した。あらかじめこの質問は予想していたのだが、次のように答えざるを得なかった。安倍政権とは真逆の見解 鳩山氏はわが国でも国家主権や安全保障の問題が全く理解できない「宇宙人」と呼ばれている。しかし、そのような首相や政党を選んだのは日本国民であり、日本人の私自身、赤面している、と。 昨年9月には、自民党の森喜朗元首相が安倍晋三首相のプーチン大統領宛て親書を携えてモスクワを訪問し、「ノーベル平和賞を受けた欧州連合がウクライナを巻き込んでロシア叩(たた)きを考えている。それではノーベル平和賞が泣く。われわれはウクライナ問題に関わる資格はない」とまで述べた。安倍政権や欧米とは真逆の見解で、強い懸念を抱かざるを得ない。 ロシア政府の大使も務めたあるロシア人でさえウクライナ問題で「ロシアは最初から、国際法や自国の評判、さらには自らの良識さえも完全に無視して、力の論理に従って行動してきた」と自国政府を厳しく批判しているのである。 クリミア併合を批判してきた改革派ネムツォフ元副首相の暗殺に対して、モスクワでは数万人の抗議デモが行われた。日本の政治家の国際政治に対する音痴ぶりは、鳩山氏は民主党だから、とは言っておれない深刻な事態である。そして、これは日本国民自身の深刻な問題でもある。関連記事■ クリミアと尖閣は表裏一体 日米同盟の緊密化が世界秩序を維持する■ なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか■ 「成熟民主国家」へ国策の共有を

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    日本は今後ロシアとどう付き合うべきか

    登板のプーチンの実像を記した本 ・池上彰氏 メドベージェフ氏の国後島訪問に隠れた意図を解説 ・良好な日露関係が中国への「牽制」になる、と鈴木宗男氏指摘 ・皮肉好き外務官僚 前原氏に「お子様ランチ」のあだ名つける ・訪露の森喜朗元首相 銅像に献花しプーチン氏の琴線に触れた